White Clover


 

序章

少女は、しんと静まる森の奥深くにある小さな集落で生まれ育った。

赤き髪とエメラルドのように美しい緑の瞳を持ち、周囲を和ます愛嬌と野山を駆け回る快活さも持っていた。

小さく、洒落た物の一つもない集落だが、心優しき人々と豊かな自然に囲まれ不自由を感じることもなく幸せに過ごしていた。

ただひとつ、不満があるとするならば、それは刺激だった。

穏やかな毎日。

代わり映えのない毎日。

毎日のように、少女は集落の長へと問うた。

なぜ、集落の外、森のその先へと出てはならないのか、と。

長の答えは決まって同じだった。

森の外には危険しかない、と。

毎日のように問いかけても、それ以上も以下もなく、長はそれだけを少女へと言い聞かせていた。

危険とは、いったいどんな危険なのだろう――――。

言いつけは、長の思惑とは裏腹に少女の好奇心をいっそう駆り立てた。

少女は欲していた。
いまだ見たことのない大地を。
心踊るような刺激的な出来事を。

その欲求を満たすため、少女はついに禁忌の扉を開く。

集落の人々の目を掻い潜り、暗き森を進んで。

その途中、少女は祠を見つける。

森の中、ひっそりとただそこにあるだけの祠は、まるで他者を近づけんとしているかのように不気味な存在感を放っていた。

不気味に思いながらも、少女は祠の扉へと手を伸ばす。

少女の好奇心はそれほどに強かった。

危険なほどに。

何も知らぬ少女は危険を知らなかった。

静かに、緩やかに開かれた扉のそこには、一冊の書物が祭られていた。

ひどく損傷し劣化した祠とは裏腹に埃ひとつ付いていないその書物。

まともに教育など受けてはいない少女には、言葉は知っていても書くことも、ましてや読むことも出来はしない。

しかし、少女はその書物を開かずにはいられなかった。

まるで、書物が少女を誘うかのように。

一枚、また一枚と少女は頁数をめくる。

不思議な感覚だった。

読めない。

しかし―――。

理解できるのだ。

そこに記されているのは世界の始まり―――。

そして、終焉。

読み進めていくうちに、少女の中で初めて味わう感情が芽生える。

恐怖。

それでも頁数をめくる指は止まらない。

ついに、少女は最後のページへとたどり着く。

そこには、ただ一言記されていた。

『新たな継承者に祝福を』 

 

終焔の魔女Ⅰ

「なにをしているの?行きましょう」

女性の言葉にはっと我にかえる。

いつもの悪い癖だ。
花を見ると、つい物思いに耽ってしまう。

そんな私を、彼女は「能天気なものね」といつも罵る。

彼女の名前は『アーシェ』。
出会いは何年前になるだろうか…。

彼女とはとある小さな村の宿屋で知り合った。

今でもあのときの事ははっきりと思い出せる。

宿屋の食堂で、賑わう他の食卓を避けるかのようにポツンと隅の席で頬杖をつき、気だるそうに淡々と口元へスープを運ぶという作業を繰り返していた女性。

不思議だった。

普段なら目にも止めやしないのだが、なぜか彼女からは何か不思議な気配が漂っていたのだ。

美しくさらりと肩まで伸びた緋色の髪と、まるで宝石のような緑の瞳。

花に誘われる蜜蜂のように、気がつくと私は彼女の前へと立っていた。

「何か用?」

彼女は不機嫌そうに私へと問いかける。

焦った。

なにも用事などはありはしないのだから。

「変な人ね」

彼女はそう言うと、すっと席をたち宿屋を出た。

私と彼女の話はそこで終わり…。

そのはずだった。

だが、気がつくと私は彼女のあとを追っていたのだ。

目が離せなかった。

これが神の啓示というものなのだろうか?

後をつける私に気が付いているのか否か、彼女は気にもせず歩みを進める。

賑わう露店通りを抜け―――。

居住区を横切り―――。

路地裏を通り―――。

ついに街道へ出たところで、彼女は振り向き私を見据えた。

「本当に変わった人」

その瞳には軽蔑も蔑みもなく、ただその美しいままの瞳で私を真っ直ぐと見ていた。

戸惑いながらも、私は言葉を絞り出した。

どこへ行かれるのですか?

その言葉に、彼女は刹那目を見開くと、視線を下へと落とし思考を巡らせた。

「どこまでも。探し物を全て見つけるためにね」

その瞳には悲しみのような感情が見えてとれた。

よろしければ護衛を致しましょう―――。

彼女の目的も行く先も分からない。
しかし、彼女をほおる事は出来なかった。

剣の扱いには多少の覚えはある。
それに、強盗山賊の蔓延るこの地は丸腰ともいえる女性が一人で旅をするにはあまりにも危険だからだ。

「護衛を雇うほどのお金は持ち合わせていないの」

私は首を横にふった。

お金はいりません―――。

彼女はその言葉にふっと微笑むと、再び歩をすすめだした。

「お好きにどうぞ」

整地された街道を進み―――。

国境の橋を渡り―――。

次の目的地という村を目指し、山道へ差し掛かったところだった。

「本当についてくるつもりなの」

振り向きもせず、歩を進めながら彼女は問いかけてきた。

もちろん―――。

答えは決まりきっていた。

「あなたもどうせ、すぐにいなくなってしまうのでしょうけど」

あなたも―――。

どうやらこの申し出をしたのは私が初めてでは無いらしい。

「すぐに後悔すると思うわよ。私についてきたことを」

そう彼女が言った、その時だった。

左右の茂みがざわつき、一人、二人、三人―――。

小汚ない衣服を身に纏った屈強な男たちが次々と現れ、私達の行く手を遮った。

命がおしければ―――。

身ぐるみを―――。

金を―――。

常套句だ。
言うまでもない、山賊の集団。

当然だ。
こんな人気のない山道で何事もなく無事に通れるはずもない。

私は溜め息をつくと、腰の剣へと手をかける。

なんということもない。
たかだか山賊。
ろくに剣術もなにも知らない烏合の衆だ。

「見てて」

剣を抜こうとした私を彼女は止めた。

静かに、彼女は山賊へと歩み寄る。
その足取りには躊躇いも恐怖もない。

ただ、何事もないかのように。

その瞬間だった。

まばゆい閃光と熱風。

私は不意のそれに、思わず目を背ける。

「これでわかったでしょう」

その言葉に、眩んだ目で彼女を―――。
その先の山賊の群れを見ると。

居ないのだ。

山賊の姿はどこにもなく、そこに居るのは彼女をただ一人。

彼女の前方には、黒い焦げ跡のみ。

まさか―――。

私が口を開く前に、彼女は言いはなつ。

「私は魔女よ」

その一言で全てを悟った。

どうしてこんなにも彼女に惹かれたのか。

彼女の放つ不思議な雰囲気はなんだったのか。

そして―――。

私のするべき事を。


 

 

魔女の血を継ぐものⅠ

魔女―――。

私が生まれるずっと以前。
曾祖父の時代から、魔女あるいは魔術師と呼ばれる者達は存在していた。

森羅万象を操り、人へと災いをもたらす危険な存在。

時には民へと紛れ込み、時には国中枢の権力者へと紛れ込み国を混乱へと陥れてきた。

そう、伝えられている。

「どう、これでもまだついてくる気持ちはかわらないのかしら」

私に向けられていたのは静かで、氷のように冷ややかな視線だった。

気持ちは変わらない―――。

いや、むしろ魔女であるならば尚更のこと私は彼女から離れるわけにはいかない。

真偽を確かめねばいけない。

果たして本当に魔女は…いや、彼女はこの世界へと災いをもたらす者なのかを。

「なるほどね」

ふと彼女が微笑むと、まるで一瞬で極寒の地へと移動したかのように私の身体は寒気を感じ震え上がった。

見透かされているのか?

相手が魔女ならば、それも不思議な話ではない。

「別に、ここであなたと殺し合おうとは思っていないわ」

気がつくと私の手は剣を掴み、半分もの刃を鞘より抜き出していた。

「さぁ、行きましょう。臆病な護衛さん」

彼女はそう言い、くすくすと笑いながら再び道を歩み出す。

相手にもならない、とでも言われているかのようだった。
まるで警戒などしていないその背中。

実際、私が今斬りかかったところで命を落とすのはどちらなのか―――。

答えは明白だった。

私は剣を静かに納め彼女の跡を追った。

やがて、みえてきたのは小さな村。

露店の一つもなく、活気もない閑散とした村だった。

だが、それでもどれほど小さな村にも兵士はいる。

それほどに民は、王族貴族は魔女を恐れていた。

魔女魔術師と疑わしくば即処断せよ。

その言葉の通り、魔女や魔術師の烙印を押された者は弁明の余地もなく即殺害された。

万が一にもそのような疑いをかけられるのは避けなければいけない。

だが、不思議な話だ。

危険な旅路を女性一人続けていた彼女。
端から見れば、いかにも怪しい事だろう。
どのようにその疑惑の目を避けてきたのか。

その答えは、いかにも単純なものだった。
考えていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどに。

前を歩いていた彼女の周りから、ふわりと風が舞い上がる。

それとほぼ同時に、彼女の存在感は消えてしまった。
今、この瞬間まで共に歩いていた私が見失いそうになるほどにだ。

魔法。

そう、常識など通用しない。
森羅万象を操る存在に常識を当てはめるほど馬鹿げた話はないのだから。

貴女には驚かされてばかりだ―――。

そう彼女へ言うと―――。

「その言葉、そのまま返すわ」

彼女はくすりと笑い、そう呟いた。

村へ入ると、やはり兵士にあれやこれやと聞かれるのは私だけだった。

兵士どころか、大人も子供も誰も彼女の事など気にもとめはしない。

「今日の宿を探しましょう」

そういえば、もう日も落ち始め空も暗くなり始めていた。

村に一つの小さな宿屋。
やはりというべきか、部屋は駐屯する兵士にその殆どを使われ、残った部屋も運悪く旅の者でいっぱいだという。

「困ったわね」

本当に困っているのだろうか?
彼女の声色からは全くそのような感情は感じられない。

途方にくれた私達に声をかけたのは意外な人物だった。

「こんばんは、もしかして宿がなくてお困りですか?」

小さな身の丈に、この村には似つかわしくない、まるで貴族の子であるかのような金色の髪をもつ少女。

こんな時間に。

その疑問をかき消すかのように、少女は驚くべき事をしてのけた。

「お姉さん、どうしてそんなに驚いているの?」

少女には見えて…いや気付いていたのだ。
魔法でその存在感を極限まで薄め、普通ならば話し掛けられなければ気がつくはずもない彼女に。

「あなた、魔女ね」

少女を見下ろす彼女の瞳は殺気すら感じられるほどに冷ややかだった。

しかし、そんな視線も幼さ故かまるで気が付かないかのように少女は答える。

「まじょ?私はアリスっていうの。よろしくね」

屈託のない笑顔。
これほどまで幼くとも、このアリスと名乗った少女は世界へと災いをもたらす魔女なのだろうか?

「お家に行きましょう。遅くまでお外にいると、怖い怪物が私たちを拐っていくのよ」

私達二人の袖を引っ張り促すアリス。

仕方がない―――。

どうせ、宿もない。
それに、これほどに幼い魔女になにかできるとも思えない。

彼女も本意ではない、といった様子だがアリスに引かれるがまま、その家へと向かった。













 

 

魔女の血を継ぐものⅡ

アリスの家は、人里離れた場所ではなく他の村人と同じ場所にあった。

それもそうだろう。
他者と同じように生活し日々を過ごす。
それが、怪しまれずうまく溶け込むにはうってつけなのだから。

古びた家の扉をアリスが開くと、そこには生活に必要最小限の物のみが置かれた質素な室内。

そして、母親であろうか一人の女性が食事の用意された机を前に椅子へと腰かけていた。

「お帰りなさい。こんな遅くまで外にいるなんて危ないわよ」

優しい母の一言。
私達に気が付いている筈であるが、そのことについて驚く様子もアリスを咎める様子もない。

「ごめんなさいお母さん。あのね、この人たち、今日は泊まるところがないの。だから…」

娘の言葉を聞き終わる前に、わかっているというようににこりと微笑む母親。

「わかっているわ。あなたは優しい子ね」

母親はすっと立ち上がり、私たちへ家へと入るように促した。

「さあさあ、何もないですが多少のお食事と寝床はございます」

そんな母親に、私が懐から宿代を取り出そうとすると―――。

「お金は必要ございません。さあ、中へ」

無償の愛とでもいうのだろうか。
母親には悪いが、このような時代。
ましてや魔女の家では気味の悪いものでしかなかった。

それならば、と申し出を断り去ろうとする私を引き留めたのは意外にも彼女だった。

「別に、あなたがこのまま一人で何処かへ去るのは有難いことなのだけれど」

彼女は私の腕を引き、胸ぐらを掴んだ。

「あなたのように偏見で私達を気味悪がるのは腹立たしいの」

彼女はそのまま私を突き飛ばすように家の中へと押し入れた。

目の前には、瞳に涙を滲ませるアリスの姿。
そして、変わらず微笑む母親の姿があった。

「私たちを恐れるのは仕方のないことです。しかし、私達は私達の意思で無闇にあなた方を襲ったりは致しません」

母親はそっと床に這いつくばる私に手を差し伸べる。
掴んだその手は温かく、私達となんのかわりもないものだった。

「ごめんなさい、私のしたこと迷惑だったのかな」

今にも泣き出しそうなアリス。

すまない―――。

私はアリスと同じ視線まで腰をおとし、その一言しか言うことはできなかった。

「さあ、あなた方のお食事もご用意いたしますので暫く、くつろいでいてください」

そういって、食事の用意を始める母親。

私達はアリスに進められるがまま席へとついた。

「あなたが何故私についてくるなんて、知らないし知りたいとも思わない」

隣の彼女がアリスたちに聞こえるか聞こえないかの小さな声で囁く。

「でも、私と一緒に来るのならあんな態度は二度と取らないことね」

次は無い。
そういうことなのだろう。

支度を終え、机に並べられた食事はお世辞にも豪勢とは言い難かった。
スープに一つのパン。そしてこの村でとれたものであろう野菜のサラダがふるまわれた。

多少の談笑とアリス達の身の上話。
普通の食事と何らかわりのないものだった。

どうやら、母親は魔女であるもののアリスの父親は普通の人間であったらしい。
珍しい話ではない。
こうしていてもわかる通り、彼女達は普段は普通の人間とは何ら違いはないのだから。

食事をすませ、アリスの相手をしているとやがてうとうとと幼い彼女は静かに眠りに落ちた。

眠ったアリスを寝床に運び薄い布をかけたところで、母親が私へと言葉をかけてきた。

「アリスの相手までしていただきありがとうございます」

申し訳なさそうに母親は言葉を続ける。

「宿代の代わりといってはなんなのですが、暖炉の薪がなくなってしまったので裏から取ってきていただけないでしょうか」

先程の私の行動を気にしての事だろうか?

相手は魔女といえど、人として罪悪感のあった私はそれを快く承諾した。

外は夜の冷たい空気に包まれ、村の明かりもポツポツと消え始めていた。

「そこの者、何をしている」

はっと振り向くと、そこには二人の兵士が立っていた。
鎧を身に纏い、その手には一振りの剣と槍。

面倒なことだ。
人間の私ですら迂闊に外に出ればこの有り様なのだから。

私は経緯を丁寧に分かりやすく、もちろん家の者が魔女ということは伏せ話した。

「それは失礼した。この村の者は世話好きでな。その身なり、都から来た者だろうが気味悪がらずにしてやってほしい」

どうやら、アリス達はうまくたち振る舞っているらしい。
特に疑われることもなかった。

「しかし、気を付けた方がいい。この周辺には危険な者が潜んでいてな…夜な夜な徘徊し我々のなかでも数人の死者が出ているのだ」

危険な者―――。
それは、もしやアリス達なのかと詳しく話を聞くことにした。

魔女は魔女。
すぐに信用などは出来なかった。

「正体はまだ掴めてはいないのだが、魔女か獣か…とにかく被害者は人とは思えぬ力で身体を引き裂かれていた」

思い出すだけでも、と連れの兵士は顔を青くし口を押さえる。

「とにかく朝までは大人しく家のなかに居ることだ」

そう言い残し去っていく兵士たち。

私は彼らの言葉を胸中で反芻させ家へと戻った。

「裏に薪を取りに行くだけで随分と時間がかかるのね」

入るや否や、飛び込んできたのは彼女の嫌みだった。

多少不快感を感じた私は、彼女へ兵士から聞いた事を説明した。

「で、それがなに?一日しか居ない私達には何の関係もない話よ」

冷たい反応だった。
まったく、魔女というものは力を持ちながら人のためにそれを使おうとはしない。
それも自分たちが危険視され迫害される理由でもあるというのに。

村の人間を助けたいとは思わないのか―――?

「あなたたちは、私達魔女を助けたいと思う?…そういうことよ」

分かってはいたが、話すだけ無駄だった。
彼女は早々に寝床へと入り眠りにつく。

まったく、本当に警戒心というものが無いようだ。

「この村へ来てから不愉快な思いをさせてばかりですが、どうか、この村のことは悪く思わないでください」

申し訳なさそうにする母親。
どうにもやりにくい。

魔女と分かっているが、どうしても話していると普通の人間と錯覚してしまう。

おかまいなく、と私も寝床へと入り瞳を閉じる。
無論、寝れるはずもない。

私の手にはしっかりと剣が握られていた。

 

 

魔女の血を継ぐものⅢ

風と微かな雨の音。

古びた家の壁は薄く、外の音を鮮明に伝える。

とても休めたものではなかった。
この家のなかでは私ただ一人が人間。

獣の群れの中で寝ているようなものだ。

床についてからどれくらいの時間が経っただろう。
アリスのほうを見ると、すやすやと寝息をたて魔女と言うことを忘れてしまいそうな穏やかで愛くるしい寝顔をしていた。

少しではあるが同情してしまう自分がいる。

魔女の子供でなければ普通に生きられたであろう。
アリスのこの先などとても明るいとは言い難い。

いずれは発覚する。

魔女であると―――。

どういう形であれ、この少女は天命を全うすることなく死を迎えてしまうのだろう。

考えてはいけない―――。

いたたまれない気持ちに背を向けるように私は寝返りをうった。

その時だ。

暗闇の中、むくりと起き上がる二つの影。

彼女と母親だ。

剣を握る手に力が入る。

しかし、私が眠りについていることに気が付いていないのか、二人は静かに立ち上がると外へと出ていった。

何処へ行くのだろう―――。

幼い少女を一人残すという不安を抱きながらも、私は剣を腰に付けあとを追うことにした。

扉を開くと、それまで壁に遮断されていた風と雨に身体を濡らされた。
それ以外に音のない世界。

周囲を見るが二人の姿はない。

いったい何処へ―――。

ちょうどその時だった。
先程の見回り兵士二人が歩いていた。

女性二人を見なかっただろうか―――?

しかし、兵士は二人とも顔を見合せ首を横にふる。

「こんな遅くに女性二人?」

「見かけたらさすがに連行している」

それもそうだ、とあまりに馬鹿馬鹿しい質問に我ながら笑ってしまいそうになる。
こんな夜更けに女性二人で出歩くなど怪しさ極まりない。

二人とも魔女なのだ。
どうせ、あの時の魔術で姿を隠しているのだろう。

すまなかった、自分で探すことにする―――。

その言葉に、兵士は顔をしかめた。

「こんな時間に女性二人出歩くなど普通じゃない。俺たちが探そう」

当然そうなる。

私はため息をつき、懐から一枚の紙を取りだし兵士へと見せた。

その紙を見たとたんに目を見開き驚きを隠せないまま敬礼をしてくる兵士。

「し、失礼いたしました。では、この件はお任せいたします」

まったく、面倒なことだ。
私は兵士を尻目に二人を探すために郊外へと足を伸ばす。

あれからそれなりに時間がたっている。
何かをするつもりであるなら、もうそれは終わっていてもおかしくはない。

なかば諦め探していると、左側…少し小高い丘に二つの人影を見つけた。

もしや、と私の足取りが早くなる。
近くまで行くと、二人は向かい合い何かを話しているようだった。

残念ながら、雨音でなにを話しているかまでは聞き取れない。

もう少し近付いてみよう。

一歩を踏み出したその時だった。

激しい雷鳴が鳴り響いたかと思うと、そこにいた人影は一つになっていた。

そう…人影は。

みるみる筋肉の膨張を始める片方の人影。
その影は人らしさを脱ぎ去り、異形へと姿を変える。

雷光に刹那写し出されるその姿。

鋭い爪と牙。
体格は人影と比べふたまわりは巨大化し、だらりとその両の腕をたらす。

人狼。

始めて見た。
文献や噂でしか見たことがない希少な生き物だった。

本当に実在していたとは―――。

ある種の感動を覚えたのも束の間。
私はすぐに我にかえり確認する。

まさか―――。

どちらだ―――。

それは、次の雷光で明らかになった。

あの母親だ。

対面する人影は彼女。
だとすれば、あの人狼はほぼ間違いなかった。

私は考えるよりも先に剣を引き抜き彼女の横へと立っていた。

「ついてくるだけじゃなく、首まで突っ込んでくるのね」

私のほうを見もせず彼女は言う。

しかしそれは私も同じだった。
目の前には化物。
視線をそらすわけにはいかない。

「退いてなさい。人間のあなたが相手をして良い存在ではないわ」

と、彼女がゆるりと人狼へと掌をかざすと、あのときと同じまばゆい閃光と熱風が私を襲う。

だが、あの時とは違う。
私はその正体をはっきりとこの目で確認した。

彼女の掌から人狼へと、真っ直ぐに放たれる炎の渦。
この雨のなかでも衰えはしない…いや、むしろ降り注ぐ雨をも蒸発させてしまうほどの高熱だった。

しかし、それでも人狼を焼くにはいたらず。
身にまとわりつく炎を腕で一払いし消し去ると、咆哮をあげ鋭い爪で私たちへと襲いかかってきた。

咄嗟に剣で受け止めようと身構える。

が、しかし―――。

脇腹に鉄球がぶつかったかのような重い衝撃を受け、私の体は吹き飛び地面を転がっていた。

彼女だ。

足で私を吹き飛ばし、自らは人狼の一撃をひらりとかわしていたのだ。

「本当に馬鹿な奴ね。ただの人間ごときが受け止められると思っているの?」

庇ってくれたのか―――?

剣を支えに身体を起こし、再び人狼に向かって剣を構え直す。

「残念だけど、今ここであなたに死なれては困るのよ」

どういう意味だろうか?
いや、今はそんな事はどうでも良い。

奴をどう倒すか、それが最優先だ。

作戦を整える暇もなく、人狼は二撃目、三撃目と攻撃を繰り出してくる。

受け止めることはできない。
しかし、避け続ける事も難しい。

ならば―――。

私は踏み込み、横凪ぎに人狼へと剣を振るう。

が、その一撃は避けられ虚しく空を斬るのみ。

うまく呼吸をあわせ、人狼が避けた先で彼女が炎を繰り出すも、奴はいともたやすく払い消してしまう。

どれくらいの攻防だろうか。
それほどの時間はたっていないだろう。

長期戦は好ましくない。
体力的にも精神的にもだ。

だが、私と彼女を相手に人狼は巧みに攻撃をかわし続ける。

らちがあかない。

このままでは殺られるのは私達。

いや、私か―――。

「困ったわね」

身軽に人狼の反撃をかわすと、困っているようには見えないが彼女はそう呟き、ため息をつく。

一瞬の隙。
しかし奴はそれを見逃さない。

目にもとまらぬ速さで彼女との距離を詰めると、人狼はその鋭利な爪で彼女を切り裂いた。

赤い血飛沫。
彼女の胴体と下半身が切り離され宙を舞う。

飛び散る臓物。

私は目を疑った。
こうもあっさりと決着はついてしまった。

この感覚は絶望なのだろうか―――。

いや、違う―――。

そうじゃない―――。

私が目を疑ったのは―――。

この感覚は―――。

私は見た。
胴体が切り離された瞬間、彼女は笑っていた。

私が感じたこの感覚は…恐怖。

胴体がぐしゃりと地面へ落ちる。

それと同時にだった。
場の雰囲気ががらりと変わる。

重く、重圧がのし掛かったかのような感覚。
足が思うように動かず、息をすることもままならない。

だが、それは奴も同じのようだ。

と、するならば。

「すぐに片付く予定だったのだけれど…余計な邪魔が入ったおかげで……」

これは、彼女の空間。

「ごめんなさいね。楽には殺せなくなってしまったわ…」

眩い閃光。

そして熱。

信じられない光景だった。

彼女は巨大な炎の翼に身を包まれ空中へ昇ってゆく。

上昇をピタリと止めると、ゆっくりと開かれていく翼。

私も、人狼も…ただそれを見ているだけしかできない。

悪魔―――。

いや、天使―――。

魔女だというのに、その姿は神々しくすら見えた。
やがて翼が開ききると、そこには切り離された下半身が何事もなかったかのように元通りになった彼女の身体があった。

「この力は…まだうまく使いこなせないから………」

彼女が言い終わると、人狼の周囲から赤い光のオーブが舞い上がり始める。

徐々に増す光の密度。

それはやがて一本の光の柱と形を変えてゆく。

助けを求めるように人狼は手を伸ばすが、無情にもそれは止まらない。

人狼は抵抗もできぬまま光の中へと飲み込まれていった。 

 

魔女の血を継ぐものⅣ

光の柱は雲を突き抜けると、やがてその形を透過していった。

目の前の現象を理解できないまま、やがてそれは姿を表す。

全身が焼けただれ、最早虫の息となったアリスの母親。

「……ありがとう……」

そう一言呟き、彼女は静かに瞳を閉じて二度と開くことはなかった。

炎の翼が消え地上へ降りると、彼女は母親へと歩み寄る。

その母親の屍を無表情で見下ろす彼女。

なぜ―――?

私の問いかけに彼女は振り向く。

「掟だから」

彼女は語った。

森羅万象を操れる者の代償。
それは、内なる魔力に蝕まれ、やがて魔物へと転化するというのだ。

そしてそうなった時、彼女達は死を選ばなければいけない。
それは、同胞による殺害。

「彼女は分かっていたのよ。自分がもう限界だってことに。だから私にお願いをしてきたの…終わりを」

娘一人残してか―――。

「殺せば姿は戻る。こうして殺せば彼女は誰かに殺された可哀想な母親となって、あの子は可哀想な孤児として孤児院に引き取られるわ」

馬鹿げてる―――。

私はその話を受け入れられなかった。
いや、受け入れたくなかった。

「なぜ、そんな顔をするの?あなた達には好都合でしょう?手を汚すのも死ぬのも私達なのだから」

そういうことではない―――。

私が掴みかかるより先に、彼女は私の胸ぐらを掴んだ。

「同情なんて必要ない。されたくもない…あなた…いや、あなた達、異端審問官にだけは」

気が付いていた。
驚きはしない。

始めから気が付いていたのだろう。
そして、あえて見せていたのだ。
自分達は何者であるのかを。

私は彼女の手を振りほどき、真っ直ぐと見据える。

「殺せるものなら殺せ。敵なら敵らしくしろ。同情なんて必要ない」

殺さない―――。

いや、闘ったとして殺されるのは私だろう。
しかし、あえて私は殺さないと言う。

まだ、私は彼女達の事を何も知らなかったのだから。

「本当に馬鹿な奴ね」

彼女の表情からは何の感情も読み取れなかった。

怒り、悲しみ―――。

いろんな感情が混ざりあいすぎて、もう彼女の感情は壊れてしまっているのかもしれない。

その時だった。
背後に気配を感じ、慌てて振り向く。

兵士に見つかったのか―――?

しかし、背後に立っていたのは兵士ではなくアリスだった。

母親の屍を目にして固まるアリス。
その表情は絶望だった。

「………どうして」

アリスの小さな身体が震える。

これは―――。

「だれがお母さんを殺したの………」

その目には以前のような愛くるしさも光もない。

アリス、君にはまだ理解できないかもしれないが―――。

「私が殺したの」

私の言葉を遮る彼女。

「馬鹿ね。私のような魔女を泊めるからこうなるのよ」

なぜそんな事をいうのだ。
私には理解できなかった。

幼い彼女に復讐心でも植え付けようとでもしているのか?

馬鹿な―――。

なぜそんな事を―――。

「人間っていうのは愚かよね」

そういう事か―――。

アリスの背後から迫る幾つもの人影と、彼女の一言ですべてを理解した。

「お母さんは……違うっ」

殴りかかろうとするアリスを、彼女は平手で地面へと倒す。

「私を殺したければ生きなさい。どんな手を使っても…何を犠牲にしてでも」

地面から彼女を睨み付けるアリス。
その瞳には光が宿っていた。

復讐という禍々しい光が。

「また生きて会えたなら相手してあげるわ」

迫っていた人影はアリスを守るように前をふさぎ、私達の前に立ちふさがる。

兵士と村人たちだった。

アリス同様、母親の屍を見て、村人達は怒り、悲しみ、責め立てた。

悪魔め―――。

殺されてしまえ―――。

魔女が―――。

彼女のもくろみ通りとなったわけだ。
アリスは悪逆非道な魔女に母親を殺された、普通の、人間の女の子。

「ゴミどもに殺されてあげるほど安い命ではないの」

そういって、彼女は私達と村人達の間に一瞬で巨大な火柱の壁を作り上げた。

壁の向こうでは怒鳴り散らす村人達の声。

「殺すなら殺す。去るなら去りなさい」

そう、私を見る彼女。

しかし―――。

ついてゆく――――。

それが私の答えだ。

彼女はその答えに黙り混み、やがて口を開く。

「アーシェ。あなたが……いえ、あなたを殺す魔女の名前よ」

こうして、魔女と異端審問官―――。

私とアーシェの旅は始まった。

敵同士の奇妙な旅が。 

 

異端審問官Ⅰ

静寂に包まれた教会。

私の足元には、目を見開き苦悶の表情を浮かべ息絶えた死体が一つ。

握る剣の先から、ぽたぽたと血液が滴りその死体の顔を赤く染めてゆく。

私が殺し、地面に転がるそれは私と同じ異端審問官だった。

「終わったか」

不意に後ろから聞こえた声。

振り向くとそこには―――。

そこで、私ははっと意識を取り戻す。

いつもの夢か―――。

目に映るのは、幾つものシミがある宿の古ぼけた天井。

寝ぼけ眼をこすり、ベッドへ座り直す。

嫌というほど見た夢だ。

窓を見ると、眩しいほどの日差しに目が眩む。

最近は見ることも少なくなったのだが。
あの村の一件から、再び毎日夢を見る。

「起きてる?入るわよ」

ノックの一つもなく扉を開け放つアーシェ。

頭を抱え、項垂れている私を見るとわざと大きくため息をついた。

「だらしない異端審問官もいたものね」

余計なお世話だ―――。

そういうが、実際彼女のいう通りだ。
敵を前に弱味を見せるなど、異端審問官として…いや、剣を取り戦うものにとっては言語道断とも言える所業。

「あなたの体調不良なんかで旅に行き詰まるなんてごめんなの。…支度しなさい」

相変わらずの高圧的な態度だ。
ここ数日アーシェと共に旅をしてわかったこと―――。

傲慢。

協調性が欠如している。

口が悪い。

そんなところだろうか。
しかし、魔女として危険だと感じたのはあの村での恐るべき闘いの時だけだった。

人にも魔女や魔術師にも極力干渉せず、ただただ移動を繰り返す日々。

だが、それゆえにいまだに彼女の旅の目的はわからずにいた。
私を、共に旅へ連れる訳も。

私はすぐに支度を終えると、アーシェと共に再び旅路へつく。

道中、交わす会話も少ない。

魔女と異端審問官なのだから、それも当然なのだが。

「どうしてあなたみたいな奴が異端審問官になれたのかしらね」

意外だった。
彼女から話を振ってくるとは。

私の都合だ―――。

若干の喜びを感じてしまったが、敵同士ということもあり素っ気なく対応してしまう。

「あ、そう」

彼女も深入りしようとはしない。

いずれは殺し合う間柄なのだから。

異端審問官―――。

人ならざるものを見つけ殺害する。
ただそれだけが使命。

異端審問官の大元である七つの教会が定める掟。

人ならざるものとの和睦を禁ず。

人ならざるものへの協力を禁ず。

人ならざるものを発見した場合その存在の放置を禁ず。

私は、すでにその二つを破っていた。
知られれば粛清されてもおかしくはだろう。

粛清―――。

それはつまるところの死を意味する。

だが、それだけに腑に落ちない。

もちろん、奴等はその掟を知っている。
故に私達、異端審問官を見つければ逃げるか殺そうと襲い掛かってくるかのどちらかだ。

彼女は人からも奴等からも異端の存在であることは間違いない。

なぜ、私を旅につれていく―――?

私はこの機を使い、腹にかかえる疑問を投げ掛けた。

「利用できると思ったから。それ以上でもそれ以下でもないわ」

相変わらずの口振りだった。
彼女もまた、それ以上は何も語ろうとはしない。

「次の街が見えたわよ」

彼女が指差す先には、少しは活気のありそうな街が見えた。

しっかりと整地された敷地と、理にかなった建築物。
貴族等が住まっているには貧相な街。

中流階級の街といったところだろうか。

一層警戒しなければいけない。
これだけの街ならばもちろん兵士も多く、私と同じ異端審問官が駐留している可能性も高い。

慎重に街を探索すると、特に苦労する事もなく宿は見つかった。

さすがにその辺りの村とは違い一泊の料金は高額だ。

都合よく彼女は例の魔法で姿を消している。
私に二部屋分の金額を払わせる魂胆らしい。

後から連れが来る、としぶしぶ支払うのを確認すると、彼女は礼の一つもなく宿を出た。

利用とはこういうことか?

だとしたら私は近年稀に見る大馬鹿者であることは間違いない。

さて、どうするか―――。

宿を見つけたあとは別行動。
それは、二人のあいだの暗黙の掟だった。

敵同士旅をする私達が、終始一緒に居ることはお互いにとって不利益でしかないのだから。

暇を潰しに露店へと繰り出す。

なかなかどうして、露店には面白い物が売っていた。

艶やかな装飾品や、名のありそうな刀匠の武具。

所持金が少なくなり初め何も買えないが、こうして眺めているだけでも時間潰しには十分だった。

そんな時に―――。

「久しぶりだな」

背筋がぞくりとする。

聞きたくはない声だった。
こんな場所、こんな状況では。

足の感覚が麻痺していくようだ。

彼とだけは、絶対に会いたくはなかった。

私はゆっくりと声の方へと振り向く。

「一年ぶりになるな…同士よ」

黒い唾広帽子に黒い聖職衣。

腰に携えるは幾百もの異端者を殺してきた深紅の剣。

「なんだ、その顔は?久しぶりすぎて私の顔を忘れたか?」

肩まで伸びる白銀の長髪が風に揺れる。

お前は―――。

胸焼けがするほど不快なその笑い。

忘れるはずがない―――。

そう、私が同胞殺しとなった元凶。

六代目ベルモンド。

異端審問官の頂点に立つ男だった。 

 

異端審問官Ⅱ

街の片隅にある小さな酒場。

私とベルモンドは向かい合い座っていた。

教会には異端者に関する掟の他にも私生活における掟もある。

その一つが禁酒だ。

酒というものは意識を混濁させ時に人の道を踏み外させる。
大方そんなところだろう。

しかし、酒場で酒を頼まずただ座っている私達は、周りから見たらさぞ奇妙なことだろう。

「元気にやっているのか?」

奴の笑いは何度見ても気分が悪くなる。

「あの日からお前の功績が耳に入ってこないが、ちゃんと異端審問官として責務は全うしているんだろうな?」

つまらない話―――。
ましてやあの日の話しをするつもりなどもうとう無い。

何の用事だ―――。

つれないな、とベルモンドは懐から紙を取り出す。

これは―――。

その紙はいわば指名手配書のようなものだった。

この街に、教会が討伐対象とした異端者が身を隠しているという。

ロベール=アルベルト

六名もの異端審問官を殺害。
人間の殺害数はその何倍もの人数だった。

「お前に討伐してほしい」

なぜ私が―――?

瞬間、私は自分の言葉に後悔する。

言葉の選択を誤ってしまった。
ベルモンドの表情は、その言葉を待っていたといわんばかり。

「お前、魔女と旅をしているだろう」

やはりか―――。

「異端審問官としてあるまじき行為だ。だが、まだこれだけならば拘束と更正で済むのだがな」

奴は全てを知った上で私と接触してきた。

「しかも、その魔女はただの魔女ではない」

ベルモンドの懐から取り出されるもう一枚の紙。

そこには、彼女の…アーシェの名前と顔が載っていた。

最優先討伐対象。

それは、討伐対象のうちで私の知りうるかぎり最高峰のものだった。

詳細は書かれていないものの、そう教会に認定された時点で彼女の危険性は他の異端者とは比べ物にならなかった。

あの力が関係しての事だろうか?
確かに、あれほどの力を有していればその認定にも納得がゆく。

なにせ、化物を一瞬で葬り去る魔術。
彼女は今までの出会ってきた異端者とは格が違う。

「教会に知られれば、間違いなくお前は粛清対象となるだろうな」

あの日から、お前は何も変わらないな―――。

相変わらずの汚い手口だった。
目の前のベルモンドとはそういう男だ。

実力もさることながら、奴の恐ろしさはその情報収集能力と他者を利用する才能。

「断れば…分かるだろう?」

ぞわりと全身を駆け抜ける悪寒。
ベルモンドの顔は笑っているものの、その眼光は獲物を刈るそれへと変わっていた。

「私に剣を抜かせるなよ。…友を斬るのは流石に良い心地はしないからな」

従わざるおえなかった。
どう言い訳したところで、状況証拠は私が粛清対象だということは明白。

私は不本意ながら首を縦にふると、ベルモンドは満足げに笑う。

「物分かりが良くて助かる」

ベルモンドは席をたち、私に背を向ける。

「なんなら、その女も利用すれば良い。二人とも殺せれば、お前の株も上がるだろう」

俺はお前とは違う―――。

私は、何者も利用したりはしない―――。

私の言葉に、初めてベルモンドの表情が不愉快だと歪む。

「くれぐれも、あの愚か者とは違う道を歩むことを願う」

それ以上は何もなく、ベルモンドは酒場を去る。

利用―――。

私は、ベルモンドの言葉で悪しき考えが頭をよぎった。

彼女とベルモンドを闘わせればどうなる―――?

お互いに只では済まないだろう。
ベルモンドが生き残るにせよ、疲弊したところを襲い、殺してしまえば―――。

奴はアーシェとの闘いで命を落とした事にすれば―――。

そこまで考えたところで、私は自分のそんな思考に恐怖を感じた。

恐ろしい考えを振り払うように私は頭を振る。

とんでもない。

私はこの世で一番嫌悪するあの男と同じ思考になりかけていた。

私は…奴とは違うのだ―――。

そう、自分を叱咤すると席を立ち、日も落ちかけた街へと出る。

いまは、とにかくあの魔術師を殺す。

ベルモンドとはいずれ、必ず決着をつける。

それは、あの時に立てた私の誓いなのだから。 

 

異端審問官Ⅲ

ロベールの居場所を見つけ出すのは、そう苦労しなかった。

手配書と異端審問官の証。
その二つがあれば、同じ街のなかならば簡単に見つけ出せる。

異端者を殺す私達は異端者と同じか、それ以上に民に恐れられていたからだ。

異端審問官は合法的に殺人を認められている。
ただし、殺せるのは異端者の烙印を押された者のみだが。

しかし、その基準はあくまでも現場の異端審問官に一任されている。

つまり、異端者ではない普通の人間も異端審問官の気持ち一つで異端者として殺せると言うことだ。

そんな状況では、私達異端審問官の協力を拒む者などいるはずもなく。
知り得る事であるならば、簡単にその口を割る。

たとえ、討伐対象が自分の親しい者であったとしても。

皮肉なものだ。
民を護るための権力が、異端者以上に民に恐れられる要因になろうとは。

ロベールは、貧困街の片隅にひっそりと建つ廃墟に潜伏していた。

中は気配もなく静まり返っている。

ここに居るのは分かっている―――。

もちろん、そんな言葉で姿をあらわすはずも無いが。

挑発にはなる。

案の定だった、
不意に背後に感じる気配。

剣を引き抜き、背後を斬りつける。

「ほう…」

刃はロベールの額を僅かにかすめただけだった。

ボサボサの髪とひび割れた眼鏡。
衣服は所々破れもはや布切れといったほうが良い、汚ない姿。

もちろん、今の一撃で殺せるとは思ってはいない。
剣をロベールへと向ける。

「気配は消していた筈なんだがな…」

気味の悪い歪んだ笑い。
ロベールのそれはベルモンドに近いものがある。

ありがたい―――。

あの母親のような魔術師でなくて良かったと、心からそう思う。

ベルモンドと重ね合わせる事ができるような輩で本当に良かったと思う。

ためらうことなく、この男を殺せる。

「この魔術…他にも使えるやつに会った事があるんだな」

会った事があるどころではない。
その魔術を使う魔女と一緒に旅をしているのだから。

「まぁ、そんな事はどうでもいいがな」

ロベールの両腕に、周囲に微かに吹いていた風が集約されてゆく。

「次の瞬間にはミンチだ」

放たれる数多の風の刃。

殺傷能力に特化した良い魔術だと思う。
そこらに居る異端審問官に対しては、の話だが。

剣でその刃を斬り捨てると、ロベールは驚愕した。

「なんで斬れる…」

実態の無い風の刃。
斬りつけたところで、刃をすり抜け対象を切り刻む。

ただしそれは、普通の刃ならばだ。

洗礼武器―――。

そう、私の剣はベルモンドの赤い剣と同じ。
異端者を殺すためだけに鍛え上げられた異端者殺しの剣。

魔力を絶ち斬り無へと還す。

「今までの下っぱとは違うってわけかい」

それは面白い、と飛びかかってくるロベール。

無駄にいたぶるのは流儀じゃない―――。

剣の一閃は、ロベールの身体を縦に割り肉塊へと変える。

ずしゃりと地面に落ちる肉。
生命力は大したもので、まだ意識があるようだった。

半分になった口をぱくぱくと動かすが、声帯はすでに機能せず言葉を発っせていない。

相手の実力差を見極めるべきだった―――。

剣をもう一振るいし、両方の肉の首を斬り飛ばす。

そこまでして、ロベールはようやくその命を終えた。

それを確認し、剣をふるい刃についた血液を振り払って鞘へと納める。

「一応、能のある鷹だったって事かしら?」

廃墟の奥の暗闇から現れたアーシェ。

君が、この男の気配を消していたのか―――?

「だとしたら、どうするの?」

くすくすと楽しそうにアーシェは笑う。

私は剣に再び手をかける。
返答次第では、斬らなければならない。

「できもしないくせに」

視界に捉えていた筈の彼女がふわりとその姿を消す。

そして、次の瞬間には私の目と鼻の近さにまで迫り、剣にかけていた手を押さえられた。

押さえられた手はピクリとも動かない。

「残念だけど、私は無関係よ」

そう耳元で囁き、アーシェは緩やかに後ろへと飛び退いた。

「そう沢山いる訳じゃないけど、あれくらいの魔術なら使える奴は居るわよ」

私をからかって遊んでいるのだろうか。
相変わらずの余裕だった。

「本当は私が殺そうと思っていたのだけど。手間が省けたわ」

お礼よ、とアーシェは不意に槍状の炎を私めがけて放った。

なっ―――!?

反応が遅れ、対象できない。

死が脳裏をよぎる。

しかし、その炎は軌道をかえ、私の横をすり抜ける。

後方で何かが弾け飛ぶ音。

驚きを拭いきれぬまま、背後を振り返ると―――。

「なるほど…殺さないのではなく殺せない、か」

背後には、アーシェの放った炎を素手で握り潰した奴が立っていた。

そう、ベルモンドが。 

 

異端審問官Ⅳ

「悪趣味な服装ね」

目の前にいるのが、異端審問官の頂点に君臨する男と知らないからか、彼女は余裕な態度を崩さない。

「面白い女だ」

ベルモンドはその深紅の剣を引き抜き、あの気味の悪い笑みを浮かべる。

ここで殺るつもりか―――。

ここが貧困街の片隅とはいえ、二人が激突すれば被害は街全体に及ぶことは容易に想像できる。

だが、情けない事に私には二人を止める力などない。

やめろ、民にも危害が及ぶ―――。

私にはこうして二人を言葉で説得する他に手段はない。

だが。

「残念だが…私達、異端審問官と異端者の殺し合いはお互いに出会ったときに始まる」

ゆらりと身体をしならせると、次の瞬間にはベルモンドの剣はすでに彼女へと降り下ろされていた。

「たとえ、幾千幾万の民の命が失われようとな」

しかし、ベルモンドの刃は彼女を捉えられずに終わる。

紙一重で、アーシェはその一撃を避けていたのだ。

宙にはらりと舞う赤い頭髪。

それが地面へと落ちる前に、ベルモンドは幾重もの斬撃を繰り出しアーシェを追い詰める。

しかし、彼女は一向に反撃しようとはしない。

いや、できないのか。

彼女の表情から余裕は消えている。

「この女、本気を出しているのか?この程度の魔女ならお前が殺せないとも思えないが?」

ベルモンドの挑発に、珍しくアーシェは苛立ちを見せた。

「調子にのり過ぎね」

彼女が手を一振りすると、ベルモンドの周りを余すところなく炎の槍が囲む。

それをどうこうする暇もなく襲いかかる炎の槍。

それはベルモンドの全身に突き刺さった。

かのように思えた。

現実には、炎の槍はベルモンドの衣服に触れた瞬間に先の方から霧散してゆく。

「その程度では防ぐまでもない」

懐より数枚の札を取りだし、ベルモンドはアーシェへとそれを飛ばした。

反応しきれず、左腕に貼り付く札。
その瞬間幾つもの鉛が取り付けられたかのように彼女はがくんと膝をつき、腕は地面に貼り付けられた。

彼女はそれを引き剥がそうとするが、剥がれる気配はない。

やがて、彼女は諦めたのかその行為をやめ、頭をだらんと下げた。

「無駄な時間だったな」

ベルモンドは剣を納め、その視線を私に移す。

「お前が始末しろ」

ベルモンドの鋭い眼光。

私を試しているのか?
私に彼女を殺すことができるのかを。

ここで拒否すれば、私は間違いなく粛清対象。

やるしかない。

こんな所で殺されるわけにはいかないのだ。
それにいずれは彼女を殺すことになる。

それが早まっただけだ。

私は剣に手をかけ、静かに引き抜く。

なぜ動かない?

彼女は抵抗する様子もなく、ただ頭をさげたまま。

不気味だった。

思えば、あの時の力を彼女は使っていない。

なにを考えているのだ。

それでも、私は止まることを許されない。

一歩、また一歩と彼女との距離を縮める。

その時だった。

アーシェが堪えていたのを押さえきれないかのように笑いだす。

「異端審問官っていうのは、本当に誰も彼も甘いのね」

アーシェの自由な右腕に纏われる炎の刃。
それを使い、彼女は拘束されていた左腕を何のためらいもなく焼き斬った。

「こんな間抜けばかりじゃ、異端審問官ももう終わりね」

切り口から炎が吹き出し、やがてそれは元の左腕へと形成される。

「魔女いうだけでなく、蜥蜴女とはな」

気持ち悪いものを見るかのようなベルモンドの表情に、アーシェは不気味に笑いかえす。

不思議と私はそんな彼女の姿に安堵しているようだった。

何故。

そんな思考も儘ならないまま、事態は進む。

「さて、じゃぁ二回戦目といきましょうか」

彼女の背中より現れる炎の翼。

あの時の魔術か―――。

化物を一撃で葬り去った恐るべき力。

狙う対象はベルモンドと知りながらも、本能的に身構えてしまう。

「ようやく本気というわけか」

ベルモンドはそう言いながらも、剣も抜かずただ彼女を見据えるのみ。

その翼が出ているだけで周囲の温度は異常なほどはねあがり、まるで皮膚がちりちりと焼かれるようだった。

しばらく見つめ合う二人。
重々しい空気が空間を支配する。

その静寂を破ったのはベルモンドの方だった。

「大した魔術だ。今まで見たこともない未知の魔術…」

懐へと手を伸ばすベルモンド。

それを見た彼女は手をかざし、奴の周りにあのオーブを出現させる。

「そう慌てるな」

ベルモンドが懐から取り出した物に、私は目を疑った。

免罪符。

それは、異端者を普通の人間と見なし討伐対象外とする、唯一の救済手段。

それが使われることなど、七つの教会が設立されてから、数えるほどしかない。

しかも、まさかそれを最優先討伐対象である彼女になど、前代未聞の行動だった。

「これが何かは分かるだろう?欲しくはないか?」

なにを考えている―――。

突きつけられた彼女も怪訝な表情をしていた。

「どういうつもりかしら?」

当然、そのようなものを出されて怪しまない筈はない。

「もちろん無条件ではない。その素晴らしい力を私のために使うのならば、見逃してやる、ということだ」

そういうことか。
奴の本当の目的はそれだったのだ。

私に厄介ごとを押し付けるためではなく、私を陥れるためでもなく。

彼女の力を手にいれるために私を利用したのだ。

「本当は、その力を使う所を見たかったのだが。こうして現れてくれただけで良しとしよう」

誘き出すために私を利用したのか―――。

「その通りだ。ただ、そこの魔術師をお前が倒してしまうのは予想外だったが」

見くびられたものだ。
私を餌に、彼女がロベールと闘いこの力を使う所を見たかったのだろう。

「あなた自身で力を試してみたら?」

アーシェの目が座り、オーブの光が増し始める。
どうやら、免罪符を受けとる気はさらさら無いようだ。

「この身で試すには危険すぎる力だ」

そう言って剣を抜くと、ベルモンドは周りのオーブを斬り払う。

「本気で殺しに来られたら、の話だがな」

あの魔術を破られた事に彼女が驚く様子はない。
どうやら、奴の言う通りアーシェ本気で殺そうとはしていなかったらしい。

剣を納め、背を向けるベルモンド。

見逃すつもりなのか―――?

「今は、な。お前がその女を…女がお前をどうするつもりなのかにも興味がある」

何を考えているかはわからない。
だが、命拾いしたことは確かだ。

彼女も、奴も。

そのまま立ち去ろうとするベルモンド。
しかし、彼女がそれを引き止めた。

「あなた、名前は?」

ぴたりと歩みを止め、振り向きもせず奴は答えた。

「ベルモンドだ」

背を向けたまま、手を振り今度こそ奴は立ち去った。 

 

魔女を愛した男Ⅰ

酷い一日だった―――。

私は宿の柔らかいベッドへと倒れ込んだ。

宿代を払わされ、この世で一番会いたくない人間に出会ってしまい、何度も死を間近に感じさせられ…。

これを酷い一日と言わずになんと言えば良いか、私にはわからない。

私の精神は限界に近かった。

このまま眠ってしまおう―――。

もはや、寝支度をする気力すら残されていない。

瞳を閉じると、目蓋の裏側の暗闇にまで浮かび上がるベルモンドの顔。
奴の顔を思い出すと、あの男の事も思い出してしまう。

寝たいのに眠れないというのはなかなか酷なものだ。

そんなときに、いつもの調子でノックもなくアーシェが扉を開け放つ。

「ちょっと、ベルモンドの事を教えなさい」

入るやいなや高圧的な態度だ。
礼儀というものを少しで良いから学んで欲しい。

敵に内情を教えるほど落ちぶれていない―――。

今は一人になりたい。
そんな気持ちもあり、私はその一言の後、彼女に出ていくように促した。

「命を助けた借りを返してくれても良いんじゃない?」

あの化物の時の話しか?

それとこれとは、と言いかけたところで私の口は彼女の人差し指で塞がれる。

「大事な事なの。教えて、先代のベルモンドの事を」

先代のベルモンド。
それを聞き、つい彼女に動揺を見せてしまう。

「彼の事、知っているのね」

知っていたとして、何故それを話す義理がある―――?

我ながら強気な態度だったと思う。
おそらく、彼女と旅をはじめてから今日まで、彼女の申し出をここまで拒否したのは初めてのことだ。

だが、それでも彼女は食い下がる。

「今日のあの男は私の知っているベルモンドじゃない。彼はどうしたの?…何があったのか教えて」

彼女の眼は、敵の情報を探ろうとしている者の眼ではなかった。
まるで、愛するものを心配するかのような、そんな眼だ。

それを聞いてどうする―――。

私の問いかけに、彼女は何かを考えるかのようにうつむくと、再び私を真っ直ぐ見据えた。

「分からない。でも、今はただ知りたいの…大事な…人だったから」

やはりか。
奇妙な話だ。殺し合う間柄である異端審問官が大事な人とは。

目の前の彼女は魔女としてではなく、一人の女性として話を聞きたがっている。

それならば、私は彼女に残酷な事実を告げなくてはならない。

先代ベルモンドと彼女とがどういった関係かなど知りはしないが…。
それは、彼女にとって受け入れがたいことに違いはないだろう。

しかし。

まず、始めに言っておく―――。

私は彼女に告げることにした。
異端審問官としてではなく、真実を知る一人の人間として。

先代ベルモンドはもう生きてはいない―――。

その一言に、彼女の顔から血の気が引き、真っ青に色を変える。

そして―――。

これを言ったとき、彼女はどんな反応をするのだろうか?
怒りか、悲しみか。

だが、彼の話をするならば、言わなければならない。

それを話したあと、私が殺されることになろうとも。

先代ベルモンドは―――。

彼女には、その権利が有るのだから。

私が殺した―――。 

 

魔女を愛した男Ⅱ

私が殺した。

その一言に場が沈黙する。

当然だ。
大事な人を殺した者が目の前にいる。
戸惑って当然だ。

「…続けて」

意外にも、彼女の声は落ち着いていた。
その声色には怒りも殺意もない。

わかった―――。

私は、事の発端を話す事にした。
今のベルモンドであるアルバ=ロウヴルと私と当時、私達の師であり歴代最強とまで言わしめられたベルモンドによる、異端者狩りの話を。

今でも鮮明に思い出せる、満月の夜。
山奥にひっそりとある小さな集落だった。

美しい虫の音と風に揺らめく草花のざわめき。
集落は穏やかにその時を過ごしていた。

襲撃の機を伺っていたのだ。
一人も逃がすわけにはいかない。

ベルモンドがその場にいるということは、そういう事だからだ。

「いこう、いつまでもここで見ていても異端者の数は減らないぞ」

当時、アルバの異端者狩りに向ける執着は異常なほどだった。
いや、正確には出世欲が異常だったと言うほうが正しいだろう。

「まて、まだだ。奴らが寝静まったその時を狙う」

対し、ベルモンドは思慮深い男だった。
良くも悪くも。

だが、その時のベルモンドの言葉はそうではなかった。
異端者を逃がさず殲滅するためにいったのではなかったのだ。

そして、暫しの時が経ちベルモンドはついに動き出す。

「いくぞ」

音もなく、私たちは集落へと駆け出す。

異端者は皆寝静まり、難なく殲滅は完了するはずだった。

突如、私たちは三人に降り注ぐ魔術の矢。
疑う余地もない。それは、異端者たちからの攻撃。

アルバと私は困惑した。

気付かれていたのか―――?

「こうなるなら早々に襲撃すればよかったのだ」

不満をたらしながらも、一人、また一人と異端者を斬り捨てる。
集落へ入ると、そこには私たちの襲撃を予知していたかのように異端者たちは見事な布陣をしていた。

四方を囲まれ、退路もない。

この状況下で、ベルモンドだけは冷静だった。

「殲滅するぞ」

引き抜かれる二本の剣。
それは、今私と奴の持つ異端者殺しの剣。

見事だった。

歴代最強の名は伊達ではなく、ベルモンドが一度剣を振るえば戦況は確実に此方へと傾く。

この状況下で、異端者を皆殺しにするのにそう時間は費やさなかった。

先ほどまでの激戦が嘘のように静まり返った集落を、私達は生き残りがいないか確認するため散策する。

この集落には違和感があった。

戦闘中には気づくよしもなかったが、この集落には居ないのだ。
女子供が。

おかしい―――。

女子供を逃がしたのか?

我々の襲撃を予知していた事といい、情報がもれていたのか。

まさか―――。

そんなことがあるはずがない。
いや、あってはならない。

まさかベルモンドが―――?

あの襲撃を遅らせていたのが女子供を逃がすためだったとしたならばと、私の頭を疑惑がよぎる。

そのすべてを教えたのは散策も終わりを迎える間近の時だった。

「生き残りがいたぞ」

アルバが、異端者の娘と母親を引きずってきたのだ。

逃げ遅れたのだろう。

娘は泣き叫び、母は娘だけはと命乞いをしている。

「他の奴らがどこへ逃げたか白状させる」

母と娘を地面へ頬り打ち付けると、アルバは容赦なく娘を蹴りつけた。

「生き残りはどこへ逃げた」

しかし、娘は相も変わらず泣き叫び、母親はアルバの行為を咎め罵るのみ。

「喚くな。苛立って今にも斬り捨てたくなる」

アルバが剣へと手を伸ばすと、母親がアルバへと叫んだ。

地獄へ堕ちろ、と。

だが、それが最悪の方向へと向かった。

話にならないと、アルバは剣を振り上げ手始めに娘を殺そうとする。

娘の死が眼前に迫り、集落中に響き渡る母親の絶叫。

だが、娘の身体から鮮血が吹き出すことはなかった。

むしろ、地面に倒れたのはアルバの方。

私は目を疑った。

アルバを止めたのは、ベルモンドだったのだ。

背後から的確な一撃でアルバを気絶させていた。

どうして―――。

苦い顔をし、ベルモンドは言った。

「我々の正義とはなんなのだ」

その言葉が全てを物語っていた。

ベルモンドは教会を裏切っていたのだ。 

 

魔女を愛した男Ⅲ

どうして―――。

私の問いかけに、ベルモンドは答えない。
ただ娘の無事に泣き、抱きしめる母親をじっと見つめるのみ。

何を考えているのだ。
異端者に情報を漏らし、故意に逃亡の猶予を与えるのなどこれは明らかに反逆行為だ。

やがて、重々しく口を開くが、それは私に対してではなかった。

「…行け。こいつが目を醒ます前に」

逃がすと言うのか。
異端者を目の前にして。

私を目の前にして。

駄目だ―――。

私は剣を抜き放ち、親子へとその切っ先を向けた。

分かっているのですか、目の前のそれは異端者。危険な存在だ―――。

私の怒号と、剣を向けられている恐怖で、母親は悲鳴をあげ娘をさらに強く抱きしめる。

「お前こそ、わかっているのか。我々が行っているこれは、名誉ある闘いでもなんでもない。…虐殺だ」

ベルモンドが私の前へと立ちふさがる。

剣こそ抜いてはいないものの、その眼光は私を貫きこの体を硬直させた。

「早く行け。手出しはさせない」

母親はその言葉に娘の手を引き走り出す。

追おうにも、ベルモンドの眼光がそれを許さない。

やがて、親子の姿は闇に消え見えなくなった。

なんということを―――。

私は失望した。
その力に憧れ、その名声に憧れた男は、目の前で完全に反逆者となってしまったのだから。

「お前に問いたい。目の前にいたあの親子は、本当に危険な存在だったのか?」

答えるまでもない。

答えたくもない。

相手は異端者。
危険な存在以外のなにものでもあるわけがない。

じっと睨み付けるだけの私に、ベルモンドは自らの剣を地面へと頬り投げて見せた。

「粛清するがいい。私が間違っていると思うのならば」

潔いものだ。
言われずともと、私は剣をベルモンドへと向ける。

ベルモンドは抵抗する様子もなく、その身を任せ瞳を閉じている。

剣を一振りし、ベルモンドを斬り捨てるだけ。
ただそれだけだった。

だが、できない。

私には、ベルモンドに剣を降り下ろす事ができなかった。

何故かと言われても分からない。
だが私の剣を持つ手は振るえるのみ。

「斬れないのはお前の中に疑念があるからだ」

見透かしたかのように、ベルモンドは私に言う。

「今までお前が斬ってきた中にもいたはず……いや、ほとんどがそうであった筈だ」

ベルモンドは私の剣を掴み、剣先を下へとさげる。
その手からは、血が滴っていた。

「親を…子を…親しい誰かを……あの親子のように、いたわる普通の人間だったのではないか」

ベルモンドは私の…いや、私たちが異端者を狩るにあたり蓋をしていたその疑惑をこじ開けようとしている。

「真実から目を背けるな」

ベルモンドの手の力が増し、さらに血が滴り地面を赤く染めて行く。
私はその鬼気迫る表情と、衝撃的な告白に何もできなかった。

「お前の考え、感じた真実で私を裁け。私が間違っているならば、この手を切り裂き私を切り裂け」

私は―――。

私は絞り出すように声を出す。
受け入れてはならない。

受け入れるわけにはいかないのだ。
彼を肯定してしまえば、私は―――。

異端者と共存などできる筈がない―――。

私は剣を手放し、地面に打ち捨てられていたベルモンドの剣を取り、高々とそれを振り上げる。

私は異端審問官だ―――。

一直線に降り下ろす剣。

ベルモンドの顔は、笑っていた。

全てをわかっていたかのように。

私は、それが悔しかった。

何故―――。

剣はベルモンドを切り裂くことなく、彼の肩に薄く切り傷をつけただけに終わる。

なのに、何故私はあなたを斬れない―――。

気が付くと、私の頬には一滴の涙がつたっていた。 

 

魔女を愛した男Ⅳ

あの集落の一件は、幸いにもアルバが自分を襲ったのがベルモンドと認識できていなかったことから、真相は私とベルモンドのみが知り得る事となった。

あの日から、私はアルバの不在を狙い幾度もベルモンドと対話し、あの時私が殺せなかったのは本当に正しかったのかと自問し続けた。

その対話の中で、ベルモンドには愛した異端者の女性がおり、その女性はとある集落で今もベルモンドを待ち続けている事を聞いた。

その女性が異端者狩りに疑問を感じさせた要因なのかと聞くと、彼はそれだけではないと否定した。
しかし、その女性が理由の中でもとりわけ大きな要因であったのは間違いないだろう。

女は男を狂わせる、とはよくいったものだ。

それから数日たったある日、私はアルバに呼び出された。

街の中でも、人気の少ない貧困街の安い酒場が私とアルバの密会場所だった。
周囲の人間に紛れ込むため、いつものようにいくつかの食べ物と酒を注文する。

もちろん、食べも飲みもしないのだが。

それらが揃うと、私はアルバにわざわざ呼び出した理由を尋ねる。

「これは、まだごく一部にしか知られていない極秘事項でな…」

ギラギラと輝くアルバの瞳。
私はこの目を知っている。

野心の目。

アルバが上へのしあがる機会を見つけたときは、必ずこの目をしているのだ。

私はよく奴の出世の手伝いをさせられていた。
アルバは私に出世欲のないことを良く知っているからだ。

また手伝えと―――?

だが、アルバの情報は不確かで骨折り損になる場合が多く、正直私はうんざりしていた。

そんな私の反応に気付いてか、アルバは早々に本題を切り出した。

「ベルモンドと奴の女を討つ」

私は耳を疑った。

何故それを知っているのだ。
ベルモンドの反逆も、彼の愛した女性の事も、私しか知り得ない筈。

「おまえは、礼を言うために呼んだ。時期ベルモンドになるための足掛かりをありがとう、とな」

聞かれていたのか。
私は動揺を隠しきれなかった。

「今、例の異端者の女がいる集落へと既に討伐隊が出発している」

にやにやと、気味悪い笑みを見せるアルバ。

「この事はベルモンドは知らない。今回はあの時のように逃がす暇もないぞ」

己の欲の為に師を売ったかアルバ―――。

「その師は下らん愛の為に我々を売った」

私はその瞬間、我を忘れ酒場を飛び出していた。

一秒でも早く。
私はベルモンドの元へと向かった。

私は愚かだった。
あんな不自然な状況で、アルバが探りをいれないはずが無かったのだ。

私は泳がされていた。
確信を、確かな証拠を掴むために。

ベルモンドの邸宅の扉を開け放ち、一心不乱に館をかけ上がる。

ベルモンドッ―――。

部屋には誰もいなかった。

そこにあったのはおびただしい血痕と、数名の異端者の遺体のみ。

もしやと思い、私は館を飛び出す。
向かう先はそう、かの魔女の集落。

ベルモンドはそこに向かったに違いない。
魔女を助ける気なのだ。

あの時とは違い、自ら正真正銘に教会の、民の敵となって。

間に合うか―――。

馬を拝借し、できるうるかぎりに速度を上げ草原を駆けた。

私を待っているのは、最悪の結末だというのに。 

 

魔女を愛した男Ⅴ

集落が近づくにつれ、嫌な予感は現実味を帯びてくる。

焼けた草木と肉の匂い。
風下に向かいそれは私の鼻を嫌というほど刺激する。

やがて、道端には異端審問官と異端者の骸が入り乱れ始め、悲惨な光景が広がった。

阿鼻叫喚。

まだ戦いは続いている。

私は馬を乗り捨て、集落へと走った。

あの時とは違う。
戦えるものもそうではないものも、皆等しく大地へとその身を伏せて逝く。

ベルモンドッ―――。

私は彼の名前を叫びながら集落を駆け回る。

襲い来る異端者を斬り捨て、骸の山を越えて。

やがて、たどり着いたのは集落の一番奥にある、簡易的に作られた教会だった。

息を切らせながら、ゆっくりとその扉を開く。

神の家は鮮血に染まっていた。

その一番奥には、鮮血にまみれ地獄の鬼とも言える姿をしたベルモンドの姿。

ベルモンド―――。

私と認識し、ベルモンドは剣を構えぬままゆらりゆらりと近付く。

その左腕には深い傷痕が刻まれていた。

「なぜここへ来た…」

息も絶え絶えに、私の体を杖とするようにこの身に手を置く。

魔女はどうなった―――。

私は心配だった。
無論、魔女の事ではなく、ベルモンドが支えを失い真の鬼と化していないかが。

「彼女は逃がした…」

それを聞き、私は良かったと胸を撫で下ろすとベルモンドへ逃げるように促す。

だが。

「それは出来ない…」

ベルモンドは私を突き放し、教会を出ようとする。

何故だ―――。

満身創痍のその身体。
それは外にいる異端審問官全員を相手にするには余りにも無謀。

「私は…もう誰も見捨てぬ。約束したのだ…」

約束?そんなもので命を散らすと言うのかっ―――。

だが、ベルモンドは言う。

約束だからこの身を散らすのだ、と。

「罪はもうぬぐいきれない。だから、この身を散らして、一人でも多くの罪なき者の命を救って贖罪としなければならないのだ」

馬鹿な―――。

そんなそんな贖罪があるものかと、私はベルモンドの肩を掴み力付くで引き寄せる。

「邪魔をするなッ」

ベルモンドの鋭い一閃。

私はかろうじてそれを剣で受け止めるが、満身創痍の男の一撃とは思えぬ重圧な一太刀にこの身がよろける。

「私は…もはや異端審問官ではない……」

止めたければ、そういってベルモンドは私に剣を向ける。

やめろ、私は敵ではない。

「情けは…無用だ」

私の声などもう届かないと、そう言われた気がした。

最強の男の…かつての師の一撃は重く、まともに受けることをゆるされない。

私はすべての神経をただ彼の一撃に集中させ、一閃一閃を刃に滑らせ受け流す。

左腕の深傷はやがて、彼の攻撃を止めさせる。
それを待つしかないのだ。

なぜ生きる道を選ばないっ―――。

逃がした魔女の為にも生き延びようとは思わないのか―――。

彼の隙を縫い、左手に持つ剣を弾き飛ばす。

だが、彼の目からは戦意は消えない。

「見捨てておめおめと逃げ延びた罪人を誰が受け入れるっ」

不覚だった。
たった一本彼の剣を弾き飛ばした油断か、私は彼の一撃に武器を折られ地面へとつき倒される。

「この身はこの地で幕を閉じる…一人でも多く道連れにして……」

剣を高々と振り上げるベルモンド。

死ぬのか。

そう直感した瞬間だった。
私の手の届くそこには、弾き飛ばした異端者殺しの剣。

「出来るならば…お前にベルモンドを継がせたかった」

降り下ろされる刃。

ベルモンドッ―――。

生存本能から、私はその剣を手に取り真っ直ぐと突きだしていた。

「ぬ…ぐ……」

その刃はベルモンドの腹部を貫き、彼の口から、腹部から、おびただしい血を地面へと落とす。

すまない―――。

私は剣を放し、よろりと立ち上がる。

対し、力なく一歩二歩と後退るベルモンド。

彼は、渾身の力で自らに突き刺さった剣を引き抜くと、それを私へと差し出した。

「とどめを刺してくれ…」

もはや、立っているのも不思議なその身体で、ベルモンドはしっかりと大地を踏みしめ私に懇願する。

「粛清も…お前にされるならば本望だ……」

私は、彼の差し出すその剣をそっと手に取る。

はじめからそのつもりか―――。

私の言葉に首を降ると、吐血しながらも言葉を絞り出す。

「幸運だった。お前が来てくれたのは…本当に」

がくんと膝をつくベルモンド。
もう、彼の限界は近かった。

「こんな罪人にも…神は救済を施してくれるものなのだな」

私は無言で剣を振り上げる。
これは、彼の忌の願い。

「彼女に会ったならば伝えてほしい…君のお陰で……愚かな人生にも救いがあった……と」

わかった―――。

私はその一言の後、剣を降り下ろした。

飛び散る鮮血。

そして、異端者殺しの剣で斬り裂かれたベルモンドはその激痛に苦しみ、息耐えた。

洗礼武器は、その犯した罪だけ斬られた者の苦しみを増す。
数えきれない異端者を殺し、数えきれない異端審問官を粛清してきた彼の痛みは想像を絶するものであっただろう。

私はそっと、見開かれたベルモンドの瞳を閉じた。

「終わったか」

それは、アルバの声だった。

アルバは笑みを浮かべながら、ベルモンドの死体を蹴ると、その傍らの異端者殺しの剣を奪う。

貴様―――。

「私も弟子だったのだから、もらう権利はあるだろう?次期ベルモンドの継承祝いとしてもな」

私は今にもアルバを斬り捨てたかった。

師を売った、師から奪ったこの男を。

「悪いが、この男を殺したのは私ということにさせてもらう。…困るだろう?この男と共謀して反逆者になっていたなどと告げ口されては?」

アルバにはまだ駒として私が必要だったのだろう。
熱望していたベルモンドの地位を手にいれ、まだ高みを望むというのだろうか。

好きにしろ、と私はその場を去る。
私は、まだ殺されるわけにはいかなかった。

ベルモンドとの約束。

彼の愛した魔女に彼の忌の言葉を伝えるまでは。

そして、アルバを確実に殺すまでは。 

 

真実の後に

私の語る過去に、ベルモンドの最後に、アーシェは終始黙り、不気味なほどに大人しく耳を傾けていた。

この話しを聞き彼女は何を思うのだろうか。
彼女こそがベルモンドの愛した魔女なのだろうか。

様々な思考が私の頭を廻っていた。

「話してくれてありがとう…」

彼女は、そう言って部屋を後にしようとする。

それだけか―――。

余りにもあっさりとした彼女の態度に思わず呼び止めてしまう。

「えぇ、私が聞きたかったのはそれだけ」

私はなにも聞けていない。
彼女は一体ベルモンドのなんであったのか。
この話を聞いて、彼女はどうしたかったのかを。

私にも聞かせてはくれないのか―――。

君の知るベルモンドを―――。

君は、私を殺したいのではないのか―――。

だが、彼女は何も答えない。

君が彼の愛した魔女だったならば、君には私を殺す権利がある―――。

その言葉に、彼女はようやくその口を開いた。

「あなたは私に殺されることを望むの?」

彼女の一言に、私は何も答えられなかった。

「誰かを殺す権利なんて誰にもないわ。私が殺すのは望まれたときと、そうする必要があるときだけ…」

私にはその必要はないと―――?

「わからない。ただ、今は生きなさい。私は、あの人が望んだ死であなたを咎めるつもりはない」

彼女は静かに扉を閉めた。

彼女は恐らくベルモンドの愛した女性だったのだろう。
だが、それだけに私は苦しかった。

あの男を殺すため、あの日私がベルモンドを粛清できなかった理由を知るために死ねないと誓いながらも、私は彼女に裁かれ殺されることを望んでいたのかもしれない。

殺されていた方がずっと楽だった―――。

もしや、生かすことが彼女にとって私への罰なのかもしれない。

だとすれば、それは私にとって何よりも重い罰だった。

夜はふけ、日は昇り、朝は再びやって来る。

いまだ、私の罪を残したまま。

一睡も出来ぬまま、私は日の出と共に宿を出た。

当初、彼女の危険性を見極め、必要であれば殺すことも考えていたが、私にはその権利がない。

いや、彼女の言うとおり誰にもないのだろう。
誰かが誰かを殺す権利など。

思えば、それが答えなのだ。

心の奥底。

私達が蓋をしていたのはそれだったのかもしれない。

だからこそ、私はベルモンドを粛清できなかった。

私は、アーシェと別れを告げる事にした。
これ以上、彼女といるのは辛かった。

それに、私と一緒にいれば彼女も奴に利用され殺されるかもしれない。

私は一人、街を出る。

はずだった。

街道へ出たところで朝霧の中に見える人影。

彼女だった。

「随分と早いのね。私はまだ寝ていたかったのだけれど?」

私がこうする事を知っていたのか。
しかし、何故私を引き留めるというのか。

あんなに鬱陶しく思っていたではないか。

私は、君の大事な人を殺めたではないか。

「全てを知った上で…あなたは許せない」

つかつかと、彼女は歩みより私に言う。

「でも、私には殺す権利がないから…死になさい」

自ら死ねということか?

だが、それを彼女が望むのならば…。

私が剣に手をかけると、彼女はそれを押さえた。

「勘違いしないで。私の為に働いて死になさい。…罪を償う気があるのなら、私の為に生きて、私の為に死になさい」

私に、異端審問官を辞めろというのか―――。

その言葉に、彼女は悪戯に笑う。

「あなたはもう、彼を手にかけたその日から異端審問官じゃなかったんでしょう?」

彼女は全て見抜いていた。
私以上に私の事を。

ベルモンドが彼女に惹かれた理由が分かった気がした。

私は剣から手をはなし、懐から異端審問官の証を取り出すと、細かく破り空へと散らす。

散らしたその紙切れは風に流れ去ってゆく。

私はこの時この瞬間に、ベルモンドと同じ反逆者となり…。

彼女の、アーシェの相棒となった。 

 

座して微笑う串刺し公Ⅰ

私達は予定していた道を外れ、薄暗くしんと不気味なほどに静まりかえった樹海を進んでいた。

教会を離反した私を異端審問官が見逃すはずもなかった。
あの日から毎日のように奴らの襲撃を受け、ゆっくりと身体を休める暇もない。

そんな中、打開案を出したのはアーシェだった。

それは、彼女たち異端者の中ではそれなりに名の通った魔術師ヴラド=ツェペシュに匿ってもらうというものだった。

彼の住まう城はこの樹海の奥深くに建てられ、異端者の隠れ家のような場所となっているらしい。

しかし、どれほど進んでも城はおろか小屋の一つもない有り様。

本当に道はあっているのか―――。

疲れがたまっていたせいか、旅の道をそれてまで案内してくれたアーシェについ悪態をついてしまう。

言った後にしまったと後悔するが、後の祭りだろう。
怒っているに違いないと、恐る恐る彼女の表情を確認するが、意外にも彼女はそれを気にしている様子はなかった。

「そう易々見つかる場所に隠れ家を構える馬鹿は居ないでしょう」

そう言った、彼女の額から一筋の汗が流れ落ちる。
疲労が貯まっているのは彼女も同じなのだ。

すまない―――。

私は謝罪をするが、特に返事もなく彼女は歩き続ける。

謝っている暇があるなら歩けと、そういうことらしい。

それからさらに奥、生い茂る木々で一層闇の深まった森の中で、ついに幾つかの小さな光が見えた。

それは、樹齢にして数千年かという大木に打ち付けられぶら下がる幾つものランタンの灯火だった。

「やっと休めるわね…」

そう言って彼女の見つめる先には、こんな樹海の中で蔦も絡まることなく、苔の処理も綺麗に施された城壁が姿を表す。

彼女の話では、その城は周囲の樹木よりずっと昔に建てられたものらしいが、損傷という損傷は特に見受けられず、古城というには些か綺麗すぎる城だった。

それゆえに、周囲とは雰囲気を違え、神秘的にも見える佇まい。

そんな城の門を、彼女は荒々しく叩く。

「ヴラドッ。開けなさいよ」

先ほど暴言を吐いた私が言えた義理ではないが、彼女には本当に礼儀も素養も無いようだ。

しかし、そんな彼女の無礼な態度にも門は重々しく開き招き入れる。

「これはこれはアーシェ様。お久しぶりにございます。半世紀ぶりになりますかな」

私達を出迎えたのは、老紳士という言葉がよく合う、紳士服を着こなした物腰の柔らかく高貴な雰囲気を醸し出す白髪の老人だった。

「久しぶりねアルバート。ヴラドは相も変わらず奥で腰の折れそうなほどふんぞり返っているのかしら」

彼女の悪態にも慣れているようで、アルバートと呼ばれた彼は優しく微笑むと、かわりませんな、と私達を招き入れてくれた。

幾つもの大部屋や小部屋に幾重にも別れた廊下や回廊。
城内には多くの異端者がおり、皆外界とは違い不安も恐怖もなく、ただこの時を笑顔で過ごしている。

「本当に無駄に広い城ね。せめて、もうちょっと近いところにヴラドの部屋を作りなさいよ」

「ご存じでしょう、ヴラド様は特別がお好きなのですよ」

そんな会話をしながらも長い廊下を進み、ほどなくして大きな扉の前へと辿り着く。
黄金と様々な宝石に彩られた豪華な扉。

こういってはなんだが、悪趣味だった。

アルバートがその扉を開くと、そこには今までのどの部屋とも比べられない巨大な室内。
王の謁見室のようであった。

左右の壁際には空想の生物が模された石像がずらりと並び、中央には奥の玉座まで続く赤い絨毯。

そしてその玉座には、年端もいかない黒髪の少年が一人、玉座に肘をつき足を組んで、悪戯な笑顔を此方へと向けていた。

まさか、とは思うが―――。

できるだけ声を絞り、私は彼女に耳打ちをする。

「そう、彼がヴラド=ツェペシュ。この城の主よ」 

 

座して微笑う串刺し公Ⅱ

「まぁ、そう畏まらず近う寄れ」

「畏まってるんじゃなくて、あなたのふてぶてしい態度に唖然としてるのよ」

そうかそうか、とヴラドは笑う。

その態度は余りにも軽く、威厳を感じさせない。
アーシェに聞いてもなお、目の前の少年がこの城の主であるヴラド=ツェペシュとはとても信じがたい。

「しかし珍しい事もあるものだのう。まさか、主が自ら儂の下へ出向くとは…それも男同伴でとは」

「好きで来た訳じゃないわ。それに、私が誰と来ようとあなたに関係ないでしょう」

「いやいやいや、儂には主の保護者として伴侶を見極める責務があるのでな。どんな男か知る権利はある」

「いつからあなたが私の保護者になったのよ。それに伴侶ってなに?あなた、私に殺されたいの?」

「まてまて、殺すと言いながらも殺しはしないのだろう?脅すのならばもっと信憑性のある脅しをするようにと、儂の有難い教えを忘れたのか?相も変わらず足らん記憶力をしておるな」

まさに言葉の攻防といった様子だった。
いつまでたってもここへ来た本題が始まらない。

「あなたも相変わらずうるさい餓鬼ね。いい加減大人の落ち着きと威厳を持った方がいいんじゃないのかしら?あなたが城の主じゃ、この城を建てた人間も浮かばれないわね」

「餓鬼に餓鬼といわれとうないがな。主こそ無駄に身体を成長させおって。…あぁ、そうか、主はかの集落のなかでも随一実力が無かったものな。成人の筋肉量に頼らなければ身を守る事の一つも出来ぬというわけか」

「本当によく動く口ね。一回と言わずむこう千年黙らせてあげましょうか」

「ほほう、それができれば大したものじゃ。ほれ、やってみせよ。ほれほれ、儂の口はまだ元気に動いておるぞ」

まさに子供の喧嘩だ。
私は見かねて、目的を思い出せと肘で彼女の横腹を突く。

「なによ。わかっているわよ」

彼女は咳払いを一つ、やっと本題を喋りだした。

「今日はあなたと不毛な言い争いをしに来た訳じゃないの。ちょっとこの城のに隠れさせてちょうだい」

「ほう、儂の城に匿ってほしいとそういうことか?」

アーシェの申し出に、ぎらりとヴラドの瞳が輝く。
己の優位性を感じたのだろう。

面白いもので、種族を越えても感情というのは容易に読み取れるものだ。

「主が匿ってほしいと言うことは、余程面倒な相手なのだろうな。……その者が関係していると見て間違いないのかのう」

ヴラドの視線が私へと向く。
赤く血の色のように赤い瞳。

その瞳は私を見定めるかのように頭の先から爪の先まで舐めるように、視線を動かす。

「ふむ、人…しかも異端審問官といったところか」

「得意気になってるところ悪いけど、元異端審問官だけどね」

彼女の稚拙な指摘はさておき、ヴラドの見定めは大したものだった。
異端審問官は普段、証以外にそれを証明するものを持ち合わせていない。

私の立ち姿を見ただけで、それも一瞬で見抜くとは只者ではない。

「驚いておるな。まぁ、当然。なんといっても儂は…」

「どうせコイツの剣を見て言っただけでしょう」

ヴラドの言葉を遮り指摘するアーシェに彼はがっくりと肩を落とす。

「客人の前で恥をかかせてくれる。主はもう少し敬いの心を持ってはどうなのじゃ」

どうやら図星だったようだ。
このような者の所へ身を隠していて本当に大丈夫なのかと不安になる。

「まぁ良かろう。結論から言えばこの城に身を隠してもらうのはいっこうに構わぬ。この場所は同胞の隠れ家…来る同胞とその連れの者を拒む理由は無い」

「でしょうね」

だが、とヴラドは彼女の言葉を遮る。

「条件はある」

ここまできて、やっとヴラドはその重い腰を上げ私達へと近付く。

「追われている理由と追っている相手の事は話して貰おう。儂とて数百の同胞の命を預かる身なのでな…この城に降りかかる火の粉があるというならば、それを消し去る構えは用意せねばならんのじゃ」

全くもって正論だ。
いかに無能に見せてもさすがは一城の主というわけか。

「大方、後者は予想がつく。しかし、問題は前者じゃ…主、何をした?」

ヴラドの向けた眼差しは先ほどのものとは違う、鋭い眼差し。

私はその眼光に、背中がぞくりとしたのを感じた。

教会を離反しました―――。

ありのままに、そして慎重に言葉を選びながら私はここへと至った経緯を語る。
アーシェとの出会いと、教会を離反した理由を。

全てを聞いたヴラドは何かを考えているかのようだった。
そんな彼に痺れを切らしアーシェが口を開く。

「もう良いでしょう?私達は休みたいの。早く部屋と食事を用意してちょうだい」

「まぁ、まて」

ヴラドはそう言って、アルバートを呼びつけると彼の耳元で指示を出すと再びこちらを見る。

「部屋は用意しよう。勿論食事もだ…しかし」

ヴラドは私を指差して…。

「その男を少し貸して貰おう」 

 

座して微笑う串刺し公Ⅲ

城内の装飾や設備の自慢話を聞かされながら、私はヴラドに連れられ城の中央部に位置する中庭へとたどり着いた。

光もささぬ、松明のみの光源のなかで草花がそよそよと風に吹かれ踊っている。
その幻想的な場所に彼が立つと、その表情からは先程までのおどけていた少年の顔は消え、威厳ある城の主とも言えるものへと変わる。

「すまんのう。主には少し聞かねばならぬ事があった」

真剣な表情のヴラドに、私の姿勢も引き締まる。

どのような事でしょうか―――。

「主は、あの小娘の旅の目的を知っておるのか?」

旅の目的。
私は相棒となって尚、いまだに彼女の旅の目的を聞かされてはいなかった。

聞く機会が無かった訳ではない。
だが、私には聞く必要がなかった。

もはや、私は異端審問官ではない。
ベルモンドへの、彼女への贖罪へとその目的を変えていたのだから。

「ふむ、その様子ではなにも知らずにといったところか。奇妙な話よ…人である主が人ならざるものと目的もわからぬ旅路を共にするとは」

目的を知ることが重要なのでしょうか―――?

私の言葉に、ヴラドは腕を組み首をかしげる。

「まことに奇妙な奴じゃ。必要でなければ、このような質問はせぬのだがな。まぁ、良い」

それはどういう―――。

「次に聞きたいのは、小娘と共に行動をし、この儂に助けを乞いに来たということは…主は人を捨てたのか、という事じゃが」

ヴラドは私の質問を許さない、というかのように私の言葉を遮る。

私が捨てたのはあくまでも異端審問官という立場のみです―――。

「ふむ、ならば…例えの話し、小娘の目的の末、主ら人類に壊滅的な被害が出ると知った際はあの小娘を斬る覚悟はあるということかのう」

ヴラドのその質問に、私は答えを返す事は出来なかった。

つまり、それは異端審問官としてではなく、人として同胞の為に彼女を殺せるかとそういう事なのだ。

わからなかった。

彼女に対し、恋愛など特別な感情は持ち合わせていない。
私個人の贖罪の為に共に旅をしているだけのこの関係。

ならば、その時になれば迷いなく彼女を斬る事ができるのだろうか。

しかし、ヴラドの質問に対し答えられない自分がいる。

「この二択に迷うとは、正直驚いたぞ」

彼は一体何を知りたいというのか、私には理解できなかった。

「なれば、小娘の行動を是か非かどう思う?」

どう思うか…。

今のところは良くもなく悪くもなく―――。

必要の無い殺生をしていないだけ、彼女には正義はあるのではないかと―――。

「是か…ふむ。やはり、というべきか…目的を知らぬだけに是非の点においてズレがあるようだのう」

では、彼女の行動は悪だと―――?

「そうだな、目的を知る儂からすればそうとれる」

さて、とヴラドは咲いていた花を一輪むしると私へと差し出した。

「なにも知らぬ主に答えを教える訳にはいかぬが、ささやかな手助けはできる」

ヴラドの差し出したそれは、先がほんのりと桃色に染まった白い花弁をもち素朴な綺麗さあるが、他の花と比べお世辞にも華やかとはいえないものだった。

これは―――?

「ホワイトクローバーという。まぁ、ヒントといったところじゃ」

正直、植物に興味の無い私にとってこのような物を渡されてもその意味は全く分からなかった。

しかし、私がそれを返そうとすると彼は持っておけと突き返す。

「主は、中々に危うい存在のようだ。今の主には己というものが無く、扱いやいすがそれ故に主の本分である人の道を誤ったとしても流され最悪の事態を招く結果となりえる」

ヴラドは私に忠告しているのだろうか?
異端者であるその身で、人間であるこの私に。

「思考を怠るな。常に己の是非を考えよ。あの小娘が間違った道を行こうとしたときは、場合によっては斬る覚悟を持つことじゃ」

そういう可能性があるということですか―――。

「いかなる者も間違いは犯す。たとえ正しい道を歩むように見えても、それは最悪の結末へと続く道へのほんの一部かもしれぬからのう」

分からなかった。
彼は彼女の目的も、恐らくはその先にある未来すら見えているのだろう。

ならば、それを自分で止めることもできるはず。

それなのに、なぜ彼は私へとそれを託すのか。

彼らと比べ、力の無い人間の私に。

「時間をとらせたな。今は休み、身体を癒すが良い」

しかし、彼はその言葉の後、それ以上はなにも語ることは無かった。 

 

座して微笑う串刺し公Ⅳ

数日がたち、私はこの異端者の城での生活にも慣れ始めていた。

彼らは異端審問官であった私を迫害することはなく、むしろ好意的に、まるで家族のように接してくれた。

無理をしているのだろう。

今まで自分達の仲間を殺してきた私を許せるはずなど無いのだから。

しかし、だからといい私を迫害してしまえば彼らも私たちと同じとなってしまう。

それは、彼らにとって何よりも忌むべきことだからだ。

だから、私は彼らと必要以上に接する事はなかった。
ここに居座らせてもらっている故の、私なりのせめてもの気遣いだ。

「もとからだったけれど、ここに来て随分と大人しいわね」

そんな私の気遣いにやはりというべきか、彼女は気付いてはいない。

当然だ―――。

素っ気ない私の態度に彼女は顔をしかめた。

「奴らから守ってあげているのだから、もう少し態度よくしてくれてもいいじゃない」

たしかに、私をこの場所へ連れて来てくれた恩はある。

この城は、本来私の居て良い場所ではないからだ―――。

その言葉に、よく意味が分からないというように彼女は首を傾げる。

「それは、あなたが異端者ではないからかしら?」

そういう事だ―――。

「そう…。いつまでもこの場所に留まっては居られないし…そろそろ頃合いも良いかもしれないわね」

この城を出るということなのだろうか。
審問官達が私の捜索を止める筈もなく、彼らから身を守る手立てもまだ定まっていないというのに。

時期尚早なのではないか―――。

私のその言葉に、彼女は再び顔をしかめた。

「ここに居づらいとか、出るのは早いとか…ちょっと我儘ね」

我儘はお互い様だ、と言いたい所だが今回の件に関しては確かに私の我儘。
私は喉まででかかったそれを飲み込んだ。

「言ったでしょ。良い頃合いだって」

なにか考えがあるのだろうか?
私は彼女に連れられるまま、城の奥へと足を進めた。

居住区を過ぎ、人がまばらになり始めた更に奥。
ろくに掃除もされていないのだろう、埃の目立つ通路の奥に古ぼけた木製扉の部屋が見えた。

いつもの調子で、言うよりも早く彼女はその扉を開け放つ。

「入るわよ」

あいた扉の先には様々な書物の陳列された棚と、中央の床には巨大な魔方陣。
他には怪しげな光を放つ様々な小瓶や、布で何かを被った寝床。

何かの儀式にでも使っているのだろうか。

その部屋には、私と彼女以外に二つの人影。

ヴラドとアルバート。

「入る、ではなく入ったであろう。相も変わらぬ無礼者じゃ」

「細かい事をいちいち五月蝿いわね」

今にも口論を始めそうな二人の間に割って入ったのはアルバートだった。

「ヴラド様、城主らしく振る舞われるようお願い申し上げている筈ですが。アーシェ様も、ヴラド様と口論の為に入らしたわけではないでしょう」

アルバートに諌められ、二人は釈然としないながらもその口論の口を閉じる。

「今日にでもここを発ちたいの。お願いしていたものは出来ているのかしら」

彼女の言う、あれというものが審問官から身を守る何かなのだろうか。

アルバートはにこりと微笑み頷くと、近くの寝床に被せてあった布を取り払う。

なんだ、これは―――。

そこには、横たわる成人男性の身体。

「ホムンクルスというものでございます。ヴラド様とアーシェ様の細胞を素に作られた特別優秀なものですよ」

これをどうすると―――。

私の脳裏に嫌な予感が走る。

私の疑問と不安に、アルバートは説明を続けた。

「転魂の儀でございます。これよりあなた様はその生涯を捨て、新たな生涯を紡いで頂きます」


 

 

異端審問官との決別Ⅰ

アルバートの言葉に、私は予想は出来ていたものの困惑を隠すことは出来なかった。

突拍子もない話だ。

今から私は私で無くなるというのだから。

「抵抗があるのは承知しているが、これが最善の策ではないかと儂は思うがのう」

ヴラドは私の肩に手を置くと、にやりと笑みをこぼす。

「儂とそこの女の能力を秘めた素体じゃ。そこらの同胞からみたら喉から手が出るほど欲しいものじゃ。これを幸運と言わずになんと言うのか」

「あなたの細胞は劣性遺伝子でしょうけどね」

悪態をつくアーシェをヴラドは睨むも、アルバートの厳しい眼光に彼は押し黙る。

異端者となることに抵抗はない―――。

しかし、なぜ私にここまでするのだ―――。

「なに、戯れじゃ。主を信用したとかそのような綺麗な理由などない」

ヴラドはホムンクルスへと近づき、その顔を見下ろす。

「何百と年を越え、混沌へと向かうこの世界に主とこの身体を送り込んだとき、世界はどのように変革し、どのような結末を迎えるか見てみたいのじゃよ」

玩具を見るかのようなヴラドに、嫌悪感を隠すこと無くアーシェは侮蔑の目を向ける。

「あなたの暇潰しに付き合う気は無いわ。私は…私達は私達の目的のためにこれを使うのよ」

「無論、好きに使うが良い。儂は傍観者じゃ」

「随分と余裕なのね。この身体があなたを殺すかもしれないわよ」

アーシェの言葉にヴラドは笑う。

「それも一興じゃ。儂を殺せる者ができるとは願ってもないことじゃからのう」

絶対的な自信があるのだろう。

おそらく、この身体では彼を殺すことは出来ない。
それはアーシェの表情から容易に読み取れた。

口論にすらならない。
彼女は悔しさからか唇を噛み締めていた。

それで、私はどうすればいいのだ―――。

覚悟は決まっている。
私は人のままだろうと、どのようになろうと最早異端者と代わりないのだから。

「主は本当に…。いや、つまらん小言はやめようかの」

ヴラドはアルバートに指示し、魔方陣へと何かを施させる。

鮮やかな光を放ち出す魔方陣。

それを確認すると、ヴラドは私を真っ直ぐと見据えた。

「さて、説明しておこうかの。まず、この魔方陣は身体より抜け出た魂を無理やり現世へと留まらせる結界じゃ」

話しながらヴラドはその華奢な身体で軽々と寝床のホムンクルスを抱き抱え、魔方陣の中央へと置くと説明を続けた。

「この結界のなかで転魂の儀を行い主の魂を素体へと移し変える。簡単な作業であろう?」

「重要な所が抜けているけれど」

アーシェの指摘に鼻で笑うヴラド。

「忘れていた訳ではないわ。ついてこい」

ヴラドは私の脇を抜け部屋を出る。

彼について行くと、たどり着いたのは殺風景な大部屋だった。
装飾はおろか、家具の一つもない。

「説明するのにこんな場所に連れてくる必要はあるのかしら」

不快感を露にするアーシェ。

その理由は、聞かずともヴラドが語り始める。

「この部屋の壁は反魔術鉱石で出来た特殊なものでのう。つまり、この部屋ではいくら暴れようとも城には傷一つつかぬというわけじゃ」

ここで私はどうすればいいのだ―――。

「主も答えを急くのう。生き急いで何になると言うのか」

ヴラドはやれやれと首を降る。

「さて、先ほど主に言い忘…言わなかったことじゃが」

その瞬間、部屋の空気が一気に変わる。

身を刺すかのような鋭い殺意と、動悸するほどの重々しい空気。

それが襲い掛かったのはもちろん私だけではなく、後ろのアーシェとアルバートも同じく。
アーシェの頬には一滴の汗がつたい、アルバートは驚愕とでもいうかのような表情を浮かべている。

「どういうことよ…ヴラドッ」

「ヴラド様…戯れが過ぎますぞ」

二人は理解したのだろう。
これから何が行われるかを。

そして、それは不測の事態であることを。

「主には一度死んでもらう」 

 

異端審問官との決別Ⅱ

膨大に膨れ上がり続ける魔力。

その魔力を目の当たりにしてか、私の瞳にはヴラドの笑みが邪悪に、醜悪に映る。

「一興ついでじゃ。主の人としての力を見せてみよ」

そんなヴラドの前へと立ちふさがるアーシェ。
すでに炎の翼を出し、表情に余裕は無い。

「魂ごと消し去るつもりなの?あなたに頼った私が馬鹿だったわ」

「退け。邪魔だ」

ヴラドが軽く腕を一降りすると、強烈な魔力の衝撃波が彼女を襲う。

「ヴラドッ」

炎の翼でそれを防ぐも、その翼の炎の羽は吹き飛ばされその大きさを失う。

「本気で殺すわよ」

アーシェの額に血管が浮かび上がる。

本気だった。
彼女は本気でヴラドを殺そうとしている。

「いけません、アーシェ様ッ」

アルバートが大声をあげるが、それだけ。
この重圧にアルバートは身動き一つとれない。

「面白い。余興というわけだな」

いつの間にか、ヴラドの口調からはふざけた態度が消えていた。

ヴラドへと手をかざすアーシェ。

刹那、巨大な炎の渦が彼を襲う。
その炎熱はいままで見て、感じてきたどれよりも比べ物にならない。

放っただけで魔術を遮断するはずの壁がみしりと悲鳴を上げる。

炎に包まれるヴラド。
しかし、触れただけで、いや…眼前に迫っただけで塵へと帰すであろうその炎の中で、彼はゆるゆると歩を進める。

「未熟」

ヴラドの言葉は冷たく。
少年の風貌でありながらも、その存在感は絶望を与える。

「主はオーラムの使い方を分かっていない。それではそこらの同胞と何らかわりはない」

そう言い捨て、ヴラドが腕を薙ぐと炎は一瞬にして霧散する。

「もう一度言う。退け…儂とその男の戯れだ」

ヴラドの背後より這い出る無数の触手。
その先端は鋭利な槍と形作っている。

「昔から…あなたの魔術は気持ち悪いのよッ」

アーシェへと襲いかかる触手。
しかし、彼女は炎の剣を形成しそれを切り払って行く。

「聞き分けのない女だ」

触手はその数を増して攻撃の手を一層激しくする。

やがてその圧倒的な数に押され始め、彼女の身体には少しずつ傷が刻まれて行く。

「止めるのですヴラド様ッ。無意味に力を振るってはいけませぬッ」

アルバートの言葉はヴラドに届かない。

彼は狂喜の笑みを浮かべ、確実にアーシェを追い込んで行く。

「どうした小娘?この程度の魔術を対処できぬとは…その様で目的を果たすつもりでいたのか?」

「なめるんじゃないわよ」

凄まじい眼光と同時に、彼女の翼は再び燃え盛り周囲の触手を焼き払う。

「いつまでも子供の私と甘く見て…馬鹿にして…それが気にくわないのよ」

膨れ上がるアーシェの魔力がヴラドの魔力とぶつかり合い、ついに部屋全体が震え始め天井よりばらばらと塵が降り始める。

「変わらんよ。いつまでも主は小娘のままだ。物事の理解せず、ただ直情的にそうして向かうところもな」

焼き払われた触手が再び形作られ、彼女へと襲いかかる。
きりがなかった。

切り裂いても、焼き払っても、無限にわきだす触手。

彼女は彼を殺すどころか、近づくことすら出来ない。

「理解せよ。その力を…主の目的の先には待つものを」

触手を相手するアーシェの両脇に出現する魔方陣。
青白く発光したかと思った次の瞬間、漆黒の光が彼女へと向かい両方から同時に放たれる。

「反応が…ッ」

一瞬の反応の遅れだった。
彼女の身体が光に飲み込まれる。

アーシェッ―――。

私の身体は重圧から解き放たれていた。
駆け出し、倒れこむ彼女へと駆け寄る。

「くっそ………」

瀕死とまではいかないがかなりの重症だった。

身体中から血が流れ、痛みに顔を歪めている。

これは、必要な事なのか―――。

「必要ではない。いっただろう…戯れだ、と」

ヴラドの言葉に、私の中で何かが切れ、弾けたのを感じた。

悪戯に傷つけるなど―――。

貴様も奴等と同じだ、ヴラド―――。

私は剣を抜いた。
異端者殺しの剣を。

抜き放ち、ヴラドへと真っ直ぐに向ける。

相手しよう―――。

「そうこなくてはな。主の力を…終末へ向かう世界を救うだけの器か見せてみろ」 

 

異端審問官との決別Ⅲ

奇妙に揺らめくヴラドの触手。

好きに斬りかかってこいと言わんばかりにヴラドは腕を組み、余裕の表情を浮かべている。

「どうした。そうしているうちに儂が自然と倒せるとでも思っているのか?」

その様なことを思う筈もなく、しかし彼の挑発に乗る気もない。

絶対的な物量。
まともに相手をしたところで結果は目に見えている。

そう、まともに相手をしたならば。

私は駆け出した。
ヴラドへと向かい真っ直ぐと。

「ほう」

私の動きに反応し一斉に攻撃を開始する触手。

無駄に相手をする必要はない。

剣を一振り二振り。
危険な一撃のみ切り払い、他は避け、ただヴラドへと突き進む。

そう、あくまでも触手は彼の魔術。

全てを殲滅する必要などないのだ。

狙うは、ヴラドただ一人。

「死地は越えてきているようだ」

ついに、ヴラドへと刃の届く位置へと詰め寄る。

振り下ろす斬撃。

だが、目前まで刃が迫ろうと彼は余裕の表情のまま笑みを止めない。

「だが、遅い」

重く鈍い衝撃と腕のしびれ。

剣は側面よりの触手の一撃で吹き飛ばされ床を滑って行く。

「人の限界だ」

ブラドの手のひらが腹部に押し当てられたかと思ったと同時に、私の身体は一気に彼から遠ざかる。

何が起きたのか理解できなかった。

彼は再び腕を組み、私へと余裕の笑みを見せている。

「経験、小細工、意思。その様なものが通じるのはあくまでも主と同格の存在にのみだ」

ヴラドの言葉と共に消え去る触手。

代わりに、彼の背後に漆黒の翼が現れる。

「圧倒的な力を前に人は無力。いかに優れた知識も剣術も等しく無価値」

ばさりと翼が羽ばたかれると、無数の羽毛が宙へと舞う。

「ヴラド=ツェペシュと儂を呼ぶものがいる」

両腕を広げるヴラド。

「しかし、それは儂の名前ではない。ツェペシュ…それは串刺し公」

ヴラドの腕に従うかのように、一斉に羽毛は私へとその照準を定めた。

「なぜ、そう呼ばれるか…その身をもって教えてやろう」

羽毛がそれぞれ一本の槍へと形を変え、私へと一直線に襲いかかる。

紙一重、それらを避けるもそれでは終わらない。

狙いを外した槍は私を追撃し避けた先へと次々と追撃を行う。

まずい―――。

避けきれるはずもなかった。

彼のいう通りだ。
人間には限界がある。

全てを常に正確に、判断できる能力は持ち合わせていない。

しかし、それが異端者との戦いでは命取りになるのだ。

そう実感したのは、私の脇腹と腕を槍が貫き、吹き飛ばされた右腕を目にした瞬間だった。

ぐっ―――。

想像を絶する痛み。
ぼとりと床へと落ちる私の腕。

まるで悪夢を見ているかのようだった。

「馬鹿だとは思わぬか。腕を失い、命まで奪われようとしている」

膝をつく私にヴラドがゆっくりと歩み寄る。

「その様な目にあってまで、その小娘に尽くす理由はなんだ…贖罪か?馬鹿らしいことだ…そのような自己満は主の人生を棒に降るに相応しい理由だったのか?」

そう言った瞬間、ヴラドは自らの手で私のもう片方の腕を切り飛ばす。

断末魔が響き渡った。

私のだ。

人とはこれほどの声が出るものなのかというほどの、激しい断末魔。

最早出血で意識が飛びかけていた。

「答えよ」

「ヴラド様ッ、もう十分でしょう。このような事が何になるというのですかッ」

私を守るかのように立ちふさがるアルバート。

「何にもならぬ。この様な、不明確な覚悟の一人の人間に優秀な身体を与え同胞としたところで世界の何にもならぬのだ」

「ヴラド様…」

「故に答えよ。何故、小娘に付き従う。その小娘の行動で世界が滅びんとするそのとき本当に主は斬れるのか」

遠退く意識のなか、絞り出すように声を放つ。

私は、私が守れなかった大切な人間の大切だった彼女を守りたい―――。

だが…本当にその時が来たならば斬ろう―――。

しかし、わかりもしない未来の為に無意味に殺したりはしない―――。

それは、何になろうとも私は人間であり続けたいからだ―――。

「そうか」

冷ややかに見下ろすヴラドの深紅の瞳。
それが私の見た最後の光景だった。 

 

異端審問官との決別Ⅳ

「起きて…」

暗黒に染められた私の視界の中、聞こえたのは女性の声だった。

「早く起きなさい……」

声の主は誰なのだろうか。
それはアーシェのものとは違う、私の知り得ぬ声。

声の主は誰なのか、ゆっくりと目蓋を開く。

まばゆい陽射しにに目がくらみ、女性の顔がぼやける。

「またこんなところで寝て…風邪をひくわよ」

陽射しに目が慣れ始めると、その姿が徐々に露になってゆく。

光を反射し美しく風に靡く、長くさらりと伸びた黒い長髪。
落ち着き大人びた言葉使いとは反対に、その顔は幼く蒼い…まるでサファイアのようなその美しい瞳に心が奪われそうになる。

この感覚はいつか体験した。

そう、アーシェと初めて出会ったあの日と同じ感覚だ。

「やっと起きたわね」

上体を起こし周囲を見渡すと、そこに広がっていたのは小さな村。

ここは何処だ―――。

状況が理解できず、ぽつりと疑問の言葉がこぼれる。

女性…いや、少女はそんな私を不思議そうに見つめくすりと微笑みを浮かべた。

「何を言っているの、私達の集落じゃない」

私達?

そんなはずはなかった。
目の前の少女もこの場所も、私の知らないもの。

いまだ状況を理解できぬ私を見て、少女の微笑みは消え心配するかのような表情へと変わる。

「本当にどうしたの?記憶喪失…ではないわよね?」

少女は私の頬に優しく手を触れ、目と鼻の先までその顔を寄せた。

その行為に、一瞬私の胸が高鳴る。

私より歳が十は離れているであろう少女にだ。

何を考えているのだ、と私は自分を戒め少女の手を離そうと掴む。

その瞬間だった。

私は、その掴んだ私の手に驚愕した。

そんな馬鹿な―――。

その手は自分のものでもあのホムンクルスのものでもない女性の手。

儀式は失敗してしまったのだろうか。

いや、そもそもヴラドが初めからそう仕組んでいた事なのか。

混乱する私に追い討ちをかけたのは、少女の一言だった。

「顔色が悪いわ大丈夫、アーシェ?」

アーシェ…だと―――。

耳を疑った。

私の魂はアーシェへと移ってしまったということなのか。

その瞬間、強烈な頭痛が襲う。

いままで受けたことのない、耐えがたいほどの痛み。

私は頭を抱え、地面へと這いつくばる。

再びぼやける視界。
遠退く意識のなか、少女が何かを叫んでいるが、この痛みの最中では何をいっているかなどわかるはずもなく。

そのまま、視界は再び暗転した。

やがて、痛みは徐々に和らぎ薄く開いた目蓋に再び光が刺す。

目を開くと、そこは見知った天井。

ヴラドの城だ。

「ふむ、なんとか成功したようじゃのう」

声の方を向くと、そこには満足げに頷くヴラドと疲弊しきった面持ちのアルバートの姿。

「まったく、ひやひやしましたぞ。ヴラド様、こういったことは事前にお話しくだされ」

僅かながら、その光景に私は安堵した。

自分の手を見ると、それは私のものでは無いながらも確かにあのホムンクルスの手。

「戸惑うのも無理はない。この瞬間から主は異端者となったのだからのう」

どうやら、彼は私がこの身体となった事に戸惑っていると勘違いをしているらしい。

いや、大丈夫だ―――。

私はゆっくりと上体を起こし、周囲を確認する。

アーシェは何処に―――。

先程見たもののせいか、彼女を確認しなければこの不安を拭いきれなかった。

「小娘なら別室で眠っておる。儂と殺り合おうとしたのじゃから当然の結果じゃな」

そうか、と胸を撫で下ろす。
やはりあれは夢であったのだろう。

そんな私を見て、ヴラドは顔をしかめた。

「てっきり小娘の具合を確かめると思っておったのじゃが」

それもそうだ。
以前胴体が千切れても尚、無事であった彼女が回復していないとは確かにおかしい。

「眠っている間になにか見たか?」

その言葉に驚くが、それもすぐに納得できた。
この儀式も初めてでは無いはず。
以前同じようなことがあり、あの夢のことを彼は予測していたのだろう。

私は彼らに見たものをありのままに話した。

「ふむ、それは記憶の追体験じゃな」

やはり、と言うべきか彼はその現象を知っているようだった。

「儂と小娘の細胞をもって作られている故、そのようなものを見たのであろう。…しかし、黒髪の少女か……ふむ」

そう言うと、彼は何かを考えるように黙り混む。

その、少女を知っているのですか―――。

私の問いかけに、ヴラドだけではなくアルバートの表情までも曇る。

私が聞いて良いことではなかったのだろうか。
確かに、彼女の事を彼らに聞いてしまうのも無粋な話かもしれない。

「ヴラド様、あの者の事は話しておいて良いのではないですか」

「ふむ…些か乗り気には慣れぬが……」

その口ぶりからすると、少女の事自体が彼にとって…いや、彼らにとっては良くないことのようだった。

ヴラドは不本意ながらもといった様子で、少女の事を語りだした。 

 

災厄の烙印Ⅰ

「その身体を手にいれたとはいえ、依然主は術もろくに使えぬヒヨッ子同然」

不意に、ヴラドの手に黒い靄が纏われ、それはやがて一冊の書物へと形を変える。

今にも崩れだしそうな程の劣化した古書。

「今の主には関わってはならぬものがあることは理解させておかねばならんしのう」

それは―――。

この身体となったからであろうか、今までは漠然としか感じることのできなかった感覚が鮮明に分かる。

その物…魔力を宿した物の危険さだ。

人から見ればなんということもないその古書だが、それが露になったその瞬間背筋にぞくりとした不快な感覚が走り、本能的が逃げろと信号を発する。

「世界の終焉を予言し導く禁書…黙示録。そう儂らは呼んでおる」

ヴラドが本を開くと、部屋は一瞬にして闇におおわれ別の風景を映し出す。

あの村だ。

私の眼前にはあの少女と出会った村が広がっていた。

「この黙示録はこの世に四冊存在しておる。儂と小娘の他に二冊じゃ」

彼女もその本を―――。

「うむ。そして、この黙示録には手にした者へそれぞれ特有の力を与える」

ヴラドの語る黙示録を手にした者へ与えられる力。
それは何れもが神の如くとも言える力であった。

無より存在し得ないものを含め万物を創造する能力、オーラム=ブリアー。

現世に存在する全ての物質と魔術を完璧と言える程に模造し己の意思で形成する能力、オーラム=イェツェーラー。

肉体と魔術へ全ての生命体の頂点に君臨しうる頑強と破壊力を与える能力、オーラム=アッシャー。

全ての力を無へと帰す能力、オーラム=アツィルト。

「この四冊の黙示録を所有する者とは関わることはお勧めできん。関わったものの大半は悲惨な末路を辿ることになるからのう」

では、あなたとアーシェには関わるべきではなかったと―――。

「そうじゃな。それ故に主は自らの立場も身体も失ってしまったわけじゃから」

確かにそうだ。
あのまま彼女と関わらなければ私は異端審問官として人のまま生涯を終えたであろう。

しかし、彼女と出会わなければ私はいずれ流され、他の異端審問官と同じく殺戮を繰り返していただろう。

私は現状を悲惨とは思ってはいません―――。

私の言葉にヴラドは驚きに目を見開き、それは直ぐに愉快とでも言うかのように笑いへと変わった。

「まぁ、それは主が出会ったのが儂や小娘であったからかも知れぬがのう」

風景が乱れ、村の景色は一転し室内へと変わる。

そこには幼い少女が二人。

アーシェと黒髪の少女だった。

「じゃが、あの黒髪の女の顔はよく覚えておくことじゃ」

そのヴラドの顔からは笑いが消え、厳しい表情へと変わる。

「この村を一瞬にして文字通り無へと帰した災厄の魔女じゃ」

あの黒髪の少女が―――。

にわかに信じがたい話であった。
目の前の少女はアーシェと楽しげに話し、それほどに恐ろしい所業をするようには見えない。

「物事に重要なのは外見ではない。その内に秘めた悪魔じゃ」

ヴラドが冗談を言っているようには見えなかった。

この少女の名前は―――。

「イデア。儂の知るどの者どもよりも魔力の強く四冊の中でも最悪の黙示録アツィルトを持つ災厄の魔女じゃ」