刎頸の交わり


 

第一章

                刎頸の交わり
 趙の藺相如は隣国であり強大となっている秦との交渉で功を挙げそれが認められた結果趙の宰相となった、席次にして一位となった。
 それは武勲を挙げてきて趙の大将軍となった廉頗よりも上であった、廉頗はそのことに対して常にこう言った。
「藺相如が何をしたというのだ」
「それでどうして宰相となったか」
「そう言われるのですね」
「そうだ、わしは多くの戦に出て勝ってきた」
 これまでの武勲を親しい者達に言うのだった、もう老齢であるが引き締まった顔に逞しい身体をしている。
「それで今の地位になった、しかしだ」
「藺相如殿はどうか」
「そのことですね」
「まさに」
「それは」
「口先だけのことではないのか」
 彼のことも言った、それも強く批判する声で。
「それでどうして宰相、わしの上になる」
「ですが王が決められたことですし」
「このことはです」
「将軍のお気持ちもわかりますが」
「不満を述べられても」
「それはわかっておるわ」
 廉頗にしてもというのだ。
「それで言う、あの者は説客に過ぎぬ」
「言葉で生きる者」
「それだけだと」
「学問とな、しかしそれが何の役に立つ」
 この国にというのだ。
「戦で勝つ、これ以上のものがあるか」
「国にとって」
「そうだというのですね」
「そうだ、説客風情がわしの上に立つなぞ言語道断だ」
 廉頗はここまで言いそしてだった、親しい者達に決意を以て言い切った。
「藺相如が宮中に出たら目にもの見せてやるわ」
「将軍、それはです」
「どうかご自重を」
「相手は宰相殿になっているのです」
「ですから」
 周りはその廉頗を必死に宥める、だが廉頗の怒りは収まらなかった。そしてこのことはすぐに藺相如自身の耳にも入り。
 彼は自身の屋敷でだ、整った知性が感じられる顔でこう言った。
「では暫くだ」
「暫く?」
「暫くといいますと」
「参内は控えよう」
 宮中へのそれはというのだ。 
「暫くな」
「そうされるのですか」
「将軍と対されず」
「そうされますか」
「そうだ」
 こう言って実際にだ、藺相如は参内を避けて外にもあまり出なくなった。病と称してだが廉頗を避けたのは明らかだった。
 だがある日それでもどうしても外に出なくてはならない事情が出来てだ、藺相如は外に出たがここでだった。
 廉頗の一団と会いそうになった、すると彼は乗っている車から慌てて供の者達に言った。
「道を変えよ」
「行く道をですか」
「そうせよというのですか」
「そうだ」
 こう供の者達に言った。
「よいな」
「ですがそれでは」
「かなり遠回りになりますが」
「それでもですか」
「そうせよ」
 こう命じてだった。
 藺相如は自分の車も供の者達も全て別の道にやった、そうして廉頗と彼の供の者達をやり過ごしたのだが。
 すぐにだ、供の者達は怒って主に言った。
「何故ここまでされます」
「ご主人様は宰相ですぞ」
「その誇りはないのですか」
「何故そこまで廉頗様を避けられます」
「意地はおありでないのですか」
「それでも士大夫ですか」
 こう口々に言うのだった。 

 

第二章

「若しご主人様が向かわれるなら我等も向かいます」
「ご主人様がどういった方なのか知ってお仕えしているつもりですから」
「だからこそ今のご主人様は残念でした」
「秦にも堂々と向かわれたではないですか」
「それで何故廉頗将軍を避けられます」
「向かって下さらないのですか」
 こう言って主の弱気な態度に怒りを見せた、しかしだった。
 藺相如は冷静にだった、彼等に問うた。
「では聞く」
「はい、何でしょうか」
「一体」
「廉頗将軍はこの趙の武の柱だな」
 こう問うたのだった。
「そうだな」
「その通りです」
「あの方はまさに天下の名将です」
「武では秦も寄せ付けません」
「それも断じて」
「そうだな、そして私は文の柱だ」
 今度は自分自身のことを言ったのだった。
「この趙の、ここで私が将軍に向かえばどうなる」
「趙の文の柱と武の柱が」
「そうなれば」
「そうだ、どうなる」
 そうなってしまえばというのだ。
「趙はどちらの柱も傷付くかどちらかが倒れるかだ」
「最悪両方が倒れる」
「そうなってしまいますか」
「それで得をするのは秦だ」
 他ならぬこの国だというのだ。
「だから私は将軍を避けているのだ」
「ご自身に向かわれようとする将軍を」
「そうでしたか」
「そうだ、我々は争ってはならない」
 断じてというのだ。
「それがわかっているからこそなのだ、今のことも」
「左様でしたか」
「そこまでお考えだったとは」 
 供の者達は藺相如の深慮に感嘆した、それで以後このことで主に怒り責めることはしなくなった。だが話はこれで終わりではなかった。
 この話から数日後のことだ、急にだった。
 他ならぬ廉頗が藺相如の屋敷の前に一人馬で来た、それを見た者達は怪訝な顔になってそのうえでひそひそと話をした。
「廉頗将軍が宰相殿の御屋敷の前に来られたぞ」
「将軍は宰相殿を嫌っておられる」
「遂に何かされるか」
「大変なことになりそうだぞ」
 怪訝な顔になって話す、だが。
 廉頗は屋敷の前に来て馬から降りるとだった、自身の上着を脱いで上半身裸となった。そうして鞭を両手に持ち藺相如の屋敷に対してそれを掲げこうさ検んだ。
「宰相殿、まことに申し訳ありませんでした!」
「なっ、どういうことだ!?」
「将軍が宰相殿に謝罪されたぞ!」
「お嫌いではなかったのか!?」
「目にもの見せてくれるとか言っておられたぞ」
「その筈ではないのか!?」
 それを見た誰もが驚いた。 

 

第三章

「一体どういうことだ」
「何がどうなっている」
「将軍が宰相殿に謝罪されるなぞ」
「信じられないことだ」
「私めは宰相殿の深慮に気付かず浅はかな行いをしてしまいました」
 これまでの自身の行いを恥じる言葉だった。
「どうかこの愚か者を気が済むまで仕置きして下さい」
「何ということだ」
「嫌っておられる宰相殿にそう言われるとは」
「あの誇り高い将軍が」
「とても信じられない」 
 誰もがこのことに驚いた、そして屋敷の中で廉頗の言葉を聞いた藺相如も驚いて屋敷から出て廉頗の前に出て言った。
「将軍、これは一体」
「今申し上げた通りです」
「これまでのことを謝罪されてですか」
「はい」 
 そのうえでというのだ。
「そうです、どうか仕置きを」
「それはしません」
 藺相如は廉頗に強い声で返した。
「決して」
「それは何故でしょうか」
「私が将軍と同じお立場ならそう思ったからです」
 廉頗と同じことをというのだ。
「だからです」
「そうなのですか」
「はい、ですから」
「私をですか」
「仕置きなぞしません、それに将軍が傷付かれては趙に害が及びます」
「そのこともあって」
「はい、仕置きなぞとんでもない」
 藺相如は廉頗に必死に話した。
「どうか服を着て下さい」
「そうして宜しいのですか」
「どうか」
「かたじけない、私は宰相殿を誤解していました」
 その深慮も人柄も知らなかったというのだ。
「まことに。これからは趙と宰相殿にこの命捧げましょう」
「では私もです」 
 藺相如も微笑み廉頗に応えて言った。
「趙、そして将軍にこの命捧げましょう」
「そう言って頂けますか」
「はい、ではこれより誓いを結びましょう」
 藺相如の言葉からだった、二人は互いに終生の友となる誓いを立てた。これを見た趙の者達は一斉に喝采を浴びせた。
 この話は史記にある、二人があるうちは秦も容易に趙を攻めることは出来なかった。趙の柱である二人が友である間は秦に対して劣勢な趙も国を守ることが出来た。そのことを考えると友情、人と人の結びつきも決して馬鹿には出来ないということであろうか。


刎頸の交わり   完


                  2017・9・22