牛鬼淵


 

第一章

                牛鬼淵
 徳川吉宗はその話を聞きすぐに言った。
「すぐにことを収めねばならん」
「はい、さもなければです」
「民が脅かされ続けます」
「そうなってしまいます」
 家臣達も吉宗の大柄で大きな耳が目立つ顔を見て言う。
「ですからここはです」
「一刻も早く手を打ちましょう」
「牛鬼を退治しましょう」
「是非な、しかしな」
 吉宗は難しい顔で言った。
「牛鬼は化けるそうであるな」
「はい」
 その通りだとだ、有馬氏倫が答えた。やや垂れ目で長方形に近い形の顔の生真面目な中に穏やかなものがある顔の男だ。
「これがです」
「それも美しいおなごにだな」
「そう聞いています」
「そしてそれに騙されてか」
「襲われて食われておるのです」
「誰でもおなごは気になるもの」
 吉宗はこのことは当然とした。
「一瞬でも目を奪われるな」
「そしてそこにです」
「隙が出来てだな」
「襲われてです」
「そういうことだな、まして化けておるとなるとな」 
 牛鬼がそうしていればというのだ。
「人と思いな」
「まさかと思い」
「襲われるな」
「この牛鬼、ただ獰猛なだけでなく」
 人を襲って食うだけでなくというのだ。
「それに加えてです」
「狡猾でもあるな」
「だから厄介かと」
 有馬は吉宗に述べた。
「どうしても」
「左様であるか、しかしな」
「はい、放ってはおけませぬな」
「民が襲われ食われておるのだ」
 それならとだ、吉宗は有馬に強い声で答えた。
「それを放っておける筈がない」
「左様でありますな」
「だからな」
「一刻も早くですな」
「成敗しよう、しかし」
 吉宗は今度はこう言った。
「問題はどうして成敗するかであるが」
「牛鬼を」
「その牛鬼は強いのであるな」
「顔は牛で身体は逞しい大男のもので」
 有馬は伝え聞く牛鬼の姿を話した。
「襲われてもかろうじて逃げた者の話だとだ。
「恐ろしく力が強くまた動きも速い」
「かなりの強さか」
「そしてです」
「人に化けておるな」
「美しいおなごに」
 今話した通りにというのだ。
「そうだとか」
「左様か、なら我が藩でも腕利きを送ろう」
 吉宗は袖の中で腕を組み考える顔になり述べた。
「それでも出来るなら何人かな、しかもな」
「しかもとは」
「今余は美しいおなごは誰でも目を奪われると言ったが」
「はい、それは」
「おなごの好みは人それぞれであるな」
 吉宗は有馬にこのことも話した。
「そうであるな」
「はい、それは」 
 その通りだとだ、有馬も吉宗に答えた。 

 

第二章

「確かに」
「ならだ」
「おなごの好みもですか」
「考えて人をやろう、また腕利きは何人でもよい」
 こう言ってだった。
 吉宗は牛鬼の成敗に紀州藩でも腕利きの者達を選びその者達を送ってそうしてであった。そのうえで。
 自身も編み笠を深く被り服も藩主のものでなく質素な武家のものにして彼等と共に牛鬼が出るという場所に向かった、そこで藩士の中で特に腕の立つ者達は吉宗に言った。
「あの、殿」
「殿もなのですか」
「行かれるのですか」
「そうされますか」
「余に考えがある」
 吉宗は藩士達に答えた、顔は隠しているが背の高さは目立っている。
「だからな」
「この度はですか」
「殿もですか」
「牛鬼退治に向かわれますか」
「余の剣術や柔術の上ではそなた達には及ばぬ」
 それはというのだ。
「しかしな」
「それでもですか」
「殿にお考えありですか」
「だからですか」
「行かせてもらう」
 こう言ってだ、吉宗はあえて彼等の後ろに隠れる様にして牛鬼が出るという場所に向かった、着いた場所は一見ただの淵であった。着いたのは昼であった。
 しかしその淵には誰もいない、吉宗はその淵と周りを見回して言った。
「誰もおらぬのは話が伝わっておるからだな」
「ここに牛鬼が出る」
「実際に何人も襲われ食われています」
「その話が伝わっていてです」
「それで、ですな」
「そうであるな、しかしここに美しいおなごが来れば」
 それでというのだ。
「確かにな」
「目を奪われますな」
「どうしても」
「そしてその隙にですな」
「牛鬼に襲われる」
「そして食われる、だが」
 吉宗は編み笠に隠した目に強い光を帯びさせて述べた。
「それはだ」
「どうか、ですね」
「殿のお考えでは」
「それは」
「うむ、では淵のところに行こう。水辺のところまでな」
 ここで吉宗は藩士達に告げた。
「まずはな」
「そこに行ってですか」
「そして、ですか」
「そのうえで、ですか」
「牛鬼が来るのを待とう」
 こう言ってだった、吉宗は藩士達と共に淵の水辺のところに向かった。そこで淵の魚達に餌をやる振りをしていると。 

 

第三章

 ふとだ、そこにだった。
 一人の美しい女が来た、それはこの世のものではないとまで言える程だった。
 藩士達はその女を見て見惚れかけた、だが。
 吉宗はその女を一瞥しそのすぐ下の水面を見て藩士達に告げた。
「その女が牛鬼である、皆成敗せよ」
「はっ」
「それでは」
「これより」
「囲んで切り伏せよ」
 吉宗自身刀を抜いた、そして。
 女を忽ち取り囲むと一斉に切り掛かった、その動きに戸惑った女は慌てて牛鬼の姿に戻ろうとしたが。
 牛鬼の姿に戻ったところで一斉に切られ突かれた、それでだった。
 頭が牛、身体が大男のあやかしはどす黒い血の海の中で息絶えた、吉宗はその躯を見つつこう言った。
「これでじゃ」
「はい、牛鬼はですな」
「成敗しましたな」
「そうなりましたな」
「そうなった」
 こう藩士達に述べた。
「無事にな」
「はい、しかし」
「殿はすぐにおわかりになられましたな」
「それは何故ですか」
「そうなった訳は二つある」
 吉宗は藩士達に笑って答えた。
「まず化けものは化けてもじゃ」
「それでもですか」
「おわかりになられると」
「そうなのですか」
「影や水だの鏡に映った姿を見よ」
 吉宗は藩士達に話した。
「書で読んだ」
「そういえばそうした話がありますな」
「化けものは化けてもです」
「その正体は影や映った姿に出る」
「そうであると」
「だからな」
 それでというのだ。
「余もおなごの水面に映った姿を見れば」
「牛鬼だった」
「そうであったからですか」
「すぐに見破られてですな」
「我等に言われたのですな」
「そして牛鬼の正体を出す前にそなた達を攻めさせれたのだ」
 こう言うのだった。
「それでだ、そしてもう一つはな」
「はい、そのことはです」
「どうしてでしょうか」
「それは何でしょうか」
「一体」
「余は美しいおなごに興味はない」
 先程よりも笑っての言葉だった。
「だからよ」
「そうなのですか」
「殿は美しいおなごに興味はないのですか」
「左様でしたか」
「美しいおなごでもな」
 例えそうであってもというのだ。
「身体が丈夫でよき子を産めなくては意味がないな」
「そういうことですか」
「身体がどうか」
「それが大事ですか」
「殿にとっては」
「顔はどうでもよい」
 吉宗にとってはというのだ。 

 

第四章

「身体が大きくて丈夫そうな女がよい、それに余を見るのだ」
「殿のお身体ですか」
「そう言われるとです」
「確かに」
「この身体じゃ」 
 他の者よりも頭一つ高い大柄な身体だからだというのだ。
「その辺りのおなごでは小さ過ぎる」
「まさに子供ですな」
「だからですな」
「それ故に」
「殿は大きなおなごがお好きですか」
「左様、先程の牛鬼が化けたおなごが確かに美しかった」
 吉宗もそのことは認めた。
 だがそれでもとだ、彼はさらに言うのだった。
「しかし小さいし顔もじゃ、余にとってはどうでもよい」
「だからですな」
「お心も奪われず」
「すぐに我等に告げて頂けたのですな」
「そういうことじゃ、では一旦城に戻ろう」
 ことは終わったからだ、それでだった。
 吉宗は藩士達を連れて城に戻り有馬にことの全てを話した、すると有馬は吉宗に笑ってそのうえで述べた。
「化けものもですな」
「余のおなごの好みは知らなかった」
 吉宗も笑って話した。
「誰もが彼もが美しいおなごを好きとはな」
「限りませぬな」
「そうじゃ、そこは抜かったな」
「化けものにしても」
「うむ、しかしな」 
 吉宗は顔を真剣なものに戻して述べた。
「これで終わりかというとな」
「牛鬼を成敗して」
「そうでもない様じゃ」
「といいますと」
「牛鬼は大層執念深いという」
 牛鬼の気質の話もするのだった。
「これがな」
「そうなのですか」
「海に出た時は漁師を海からその家まで追いかけてくるという」
「それはまたしつこいですな」
「だからな」
 それ故にというのだ。
「死んでも怨霊となるやも知れぬ」
「あの様な化けものがそうなりますと」
「厄介じゃ、だからな」
 それ故にというのだ。
「牛鬼がおった淵はしかと牛鬼を祀ってな」
「その霊を鎮めますか」
「そうしようぞ」
 その霊が怨霊にならぬ為にというのだ。
「これよりはな」
「それでは」
「うむ、そうしてな」
 そのうえでというのだ。
「ことを終わらせようぞ」
「さすれば」
 有馬も頷いた、そしてだった。
 牛鬼は祀られその霊が鎮められた、これが牛鬼淵の話である。徳川吉宗にまつわる和歌山の話の一つである。将軍になる前の彼はこうしたこともしていたと思うと実に面白いと思いここに書き残した。一人でも多くの人が読んで頂けたら嬉しい限りである。


牛鬼淵   完


                 2020・4・14