大正帝の蕎麦
第一章
大正帝の蕎麦
明治帝は太子のことで日々悩んでおられた、そうして周りの者に言われていた。
「太子は帝に相応しいか」
「そう言われますと」
「あの、それは」
「何といいますか」
「朕は常に思っている」
その厳めしい龍顔を深刻なものにされて言われるのだった。
「太子は相応しくないのではとは」
「いえ、ご心配には及びません」
ここで元老の首座にあり枢密院議長でもある伊藤博文が言って来た。
「臣もかつては東宮殿下については不安がありましたが」
「そなたが太子への教育の在り方を定めたな」
「東宮様は真面目であられ」
そうしてというのだ。
「決して暗愚な方ではありませぬ」
「身体が弱いだけか」
「そのことも次第にです」
「よくなっているか」
「ですから」
それでというのだ。
「決してです」
「太子が朕の跡を継いでもだな」
「問題はありませぬ」
「そなたがそう言うならな」
これまで日本の舵取りを担って来てご自身の信任も篤い伊藤ならとだ、帝もそれではと頷かれた。そのうえで言われた。
「問題はないな」
「そう言って頂けますか」
「ではな」
「はい、東宮様については」
「次の帝にだ」
「そのままですね」
「担ってもらおう」
こう言ってだった。
帝は伊東の言葉を信じて太子に心配を抱かぬ様にして帝王学次の日本の天皇に相応しい方になって頂くことにされた。
太子はその中で日々学問に励まれた、お身体が弱かったがそれでも励まれていった。そのある日のことだった。
太子の周りの宮内省の者達が不意に騒がしくなった、侍従の一人がその只ならぬ様子に対して尋ねた。
「どうしたのだ」
「はい、東宮様がです」
「突如ふらりと歩かれ」
「蕎麦屋に入られました」
「そうされたのです」
「何っ、まことか」
その話を聞いてだ、侍従は驚きの声をあげた。
「殿下がか」
「左様です」
「今しがたです」
「まsないふらりとです」
「その様に」
「何を考えておられるのか」
侍従は唖然としてこうも言った。
「一体」
「まさかです」
武官の一人が言って来た。
「この出雲で軍の演習をしていて」
「そしてだな」
「はい、その中で」
「不意にな」
「店に入られるなぞ」
それもふらりとだ。
「まさかです」
「思いも寄らなかったな」
「はい、ですがしっかりと警護の者はついていますので」
その兵達がというのだ。
第二章
「殿下のご身辺はです」
「大丈夫だな」
「はい、ですが」
「うむ、流石に店に入られるなぞな」
「入る予定がないというのに」
「ふらりとそうするなぞな」
それこそというのだ。
「ないのでな」
「驚くべきことです」
「全くだ。だからな」
それでというのだ。
「我々も店に行こう」
「そうしますか」
「だが表から入るとな」
そうすればというのだ。
「殿下に気付かれるしな」
「大勢でお店に入りますと」
若い官吏が不安そうに言ってきた。
「お店にもです」
「迷惑をかける、だから裏からな」
「お店の人にお話をして」
「そしてだ」
そのうえでというのだ。
「こっそりとな」
「お店の中に入って」
「殿下を見させて頂こう」
「それではな」
こう話してだった。
侍従達は店の裏に回ってそこで店の者を呼んで事情を話した。
「実はそうした理由でだ」
「お店の中にですか」
「入れて欲しいのだが」
侍従が代表して話した。
「いいだろうか」
「はい、それでは」
「それではな」
こうした話をしてだった。
宮内省のお付きの者達は裏から店に入れてもらった、そして太子に気付かれない様に店の中を伺うと。
太子は席に座ってざるそばを召し上がられていた、後ろに立っている警護の兵達も控えている店の者達も緊張しているが。
太子はくつろがれてだ、周りに言われていた。
「いや、別にだ」
「くつろいでいいですか」
「そうなのですか」
「そうだ、そなた達もだ」
店の他の客達にも言われた、当然彼等も緊張している。そのあまり誰もが彫刻の様になっている。
「くつろいでいいぞ」
「そう、そうですか」
「そうしていいですか」
「我々も」
「殿下のお傍ですか」
「よい、この店はそうした店だな」
ざるそばを召し上がれながら笑って言われるのだった。
「だからな」
「それで、ですか」
「くつろいで、ですか」
「そしてですか」
「この店にいていいですか」
「うむ、存分にな」
微笑んで言われた、そしてだった。
第三章
警護の兵や店の者達も客達もくつろがせた、そしてだった。
ざるそばを召し上がられ店の者にこう言われた。
「これがざるそばというものだな」
「左様です」
言われてもやはり緊張してだ、店の者の一人が答えた。
「当店の」
「これまで食べたことがなかったが」
それでもと言われるのだった。
「実に美味いな」
「そう言って頂けますか」
「うむ、ただ食べ方だが」
太子はこちらのことも話された。
「つゆに漬けて食べるのは面白い」
「食べ方ですか」
「それを聞いても面白かった、だからな」
だからだと言われるのだった。
「実にな」
「満足されていますか」
「うむ、よいぞ」
こう言われて蕎麦をすすられる、侍従は店の奥からそうされている太子を見て店長に対して囁いた。
「何もなくて何より」
「はい、私達もです」
「そうだな、しかしだ」
侍従は太子を見て言われた。
「殿下が随分とくつろいでおられてな」
「満足して頂いていますね」
「何よりだ、だからな」
それでというのだ。
「我々も何も言うことはない」
「左様でありますか」
「うむ、だが殿下は周りにお優しい方だが」
普段からだ、侍従はこのことを常に太子のお傍にいるだけあってよく知っていた。
「誰にもとはな」
「左様ですね」
宮内省の周りの者達にも話した。
「民達にも」
「臣だけでなくな」
「民にもとは」
「気兼ねなく気さくにな」
その様にというのだ。
「対しておられる」
「お顔も目も穏やかで」
「実にいい、若しやだ」
侍従は気付いた顔になって言った。
「太子は非常に優れた君主の資質を備えておられるのやもな」
「そうですね、これは」
「陛下とはあり方が違いますが」
「それでもです」
「非常に穏やかで和やかで」
「我等も落ち着けます」
「そうだな、ではな」
侍従は最初の驚きの顔ではなくなっていた、非常に落ち着いた穏やかな笑顔になってそれを自覚して言っていた。
「今はこうしてな」
「見守りますか」
「太子を」
「そうしよう」
こう言ってだった。
太子が召し上がり終えられるのを見届けて店の外にでた、そしてこの時は何もなかったかの様にしてだった。
東京に戻り帝にお話すると帝はその龍顔をまずは顰められた、だが。
すぐに真面目なお顔になられこう言われた。
第四章
「君主の在り方は一つではない」
「それぞれですね」
「よい君主もそれぞれだ」
「それぞれの在り方がありますね」
「英吉利等を見てもわかる」
こういった国の王達をというのだ。
「まさにな」
「それぞれで」
「太子の様な在り方もな」
それもというのだ。
「またな」
「よいですか」
「朕は好きではないし出来ぬが」
ご自身はというのだ。
「しかしな」
「それでもですか」
「太子は太子でよい、では朕の後はな」
「太子がですね」
「次の天皇だ、あの者に任せよう」
こう言われて以後は太子にこれと言って言われることはなかった。やがて太子は即位されその後でその後を継がれた昭和帝にこの様に言われた。
「非常にお優しくな」
「立派な方でしたね」
「陛下から見られても」
「立派な方であられた、朕にとってはお祖父様と共に手本だ」
そうなられているというのだ。
「まことにな、何かという者もいる様だが」
「その実はですね」
「違いますね」
「あの方は」
「立派な方だ、そしてだ」
帝はさらに言われた。
「父上が召し上がられた蕎麦だが」
「それはですね」
「陛下も召し上がられていますね」
「ざるそばを」
「そして皇室の者もな」
その方々もというのだ。
「出雲に行ったなら」
「あの店に入り」
「そしてですね」
「そのうえで、ですね」
「食べることをだ」
このことをというのだ。
「いいとする、お父様の様にな」
「そうですか、あの方はそうした方でしたね」
「非常にお優しく立派な方だった」
「そしてあの方が召し上がられた蕎麦は」
「これまらもですね」
「皇室で食べていくのだ」
こう言われてだった、昭和帝は年越し蕎麦を召し上がられることを楽しみとされた。そして出雲のこの店には度々皇室の方が訪れて蕎麦を召し上がられているという。その店は今現在もあるという。出雲に行かれた方は一度足を運ぶといいかも知れない。
大正帝の蕎麦 完
2023・6・15