月の世界
第一章
第一章
月の世界
十八世紀ナポリ。その青い夜の下の街、ここに自称天文学者がいた。
耳を完全に隠したセンターで分けた茶色の髪にその髪とよく似たブラウンの瞳をしている。顔は白く一見すると女性にも見える整った顔立ちをしている。眉が細く実に形がいい。
服は白衣である。白い服の上にさらに白い上着を着ている。彼は今自分の家の屋上にいる。そこで腕を組んであれこれと歩き回りながら考えていた。
「そうだな。ここはどうしようか」
独り言を言いながら歩き回っているのであった。
「クラリーチェと結婚するには。ここは策で攻めるか」
そしてこうも考えるのであった。
「ブオナフェーデさんの好きそうな話でもでっちあげて」
どうもあまりよくない考えを持っているようである。
「だとすると。そうだな」
ここでふと自分の傍に置かれている望遠鏡を見た。一応外観は立派だ。本物ではある。しかし彼はあくまで自称でしかない天文学者である。
だがそれでもだった。彼の脳裏にあることが閃いた。そしてすぐにそれを実行に移すことにしたのだった。
「よし、これはよさそうだ。やってみるか」
にんまりと笑ったうえで意を決した顔になる。すると丁度下から彼を呼ぶ声がした。
「おおいエックリーティコ君」
「おや、ブオナフェーデさんですか」
「そうだよ、わしだよ」
下から彼に言ってきたのであった。下を見ると家の玄関のところに白い髭を生やして頭の禿げた太った老人がいた。丸い小さな眼鏡をかけていて赤い愛想のいい顔をしている。灰色の仕立てのいい服とタイという格好だ。その彼がエックリーティコに声をかけてきていた。
「今からそこに行っていいかい?」
「これは好都合だな」
エックリーティコは彼の姿を見て一人ほくそ笑んだ。
「よし、じゃあ早速仕掛けるか」
こう行ったうえで。実際に彼に声を返すのだった。
「ええ、どうぞ」
「そうか。じゃあ今から行くからな」
「はい」
こうしてブオナフェーデはエックリーティコのところに来た。そうしてそのうえで屋上で二人で話をすることになるのだった。
「いや、ブオナフェーデさん」
「どうしたんだい?」
「月がありますよね」
「うん、あれだね」
丁度上にある月を指差すブオナフェーデだった。それは見事な黄色い満月である。青い夜空の中にその満月だけが静かに浮かんでいる。
「あの月がどうしたんだい?」
「今その望遠鏡は修理に出していますが」
とりあえず嘘をはじめるのだった。嘘のはじまりは嘘からであった。
「その望遠鏡から面白いものが見えたのです」
「月の面白いものをかい?」
「はい、それは何だと思います?」
思わせぶりな顔で老人に問うのであった。
「それは一体」
「さて。何かな」
「月の世界ですよ」
ここでこう述べるエックリーティコであった。
「月の世界なのです」
「月にも世界があったのか」
「驚かれましたか?」
「勿論だよ」
実際に驚いた顔で答えるブオナフェーデであった。
「そうだったのか。月にも世界があったのか」
「しかもです」
エックリーティコのうそは続く。
「この社会は物凄い社会で」
「一体どんな社会なんだい?」
「まずは浮気した女はすぐに男に叩かれ」
「ふむ、それはいいな」
ブオナフェーデはとりあえず男である自分達のことを棚にあげて頷く。
「浮気した女なぞ許してはいけないからな」
「その通りです。その場合容赦なく叩かれます」
また述べるエックリーティコだった。
「そしてです」
「ほう、まだあるのか」
「老人が若い娘さんに物凄く優しくされるのです」
このことも話すエックリーティコだった。
「もういたせりつくせりで」
「まるで天国の様な世界だな」
「どうですか?行ってみたいですか?」
「月に行けるのかね?あそこに」
「実はですね」
エックリーティこの嘘はここでさらにエスカレートした。
第二章
第二章
「私は月の皇帝陛下と知り合いなのです」
「おお、それは凄い」
「いえいえ、大したことではありません」
嘘なので謙遜も容易にできた。
「そんなことは」
「とにかく月の世界の支配者と知り合いなのだね」
「そうです」
嘘は続く。
「ですから何時でも月に行くことができます」
「そんな凄い人だったとはな」
「宜しければ一緒に行かれますか?」
この嘘の最大のポイントだった。
「月の世界に」
「わしをか」
「はい。如何でしょうか」
「嘘みたいな話だ」
実際に嘘である。だが彼はそれに気付かない。
「そんなことができるとは」
「それでどうされますか?月の世界に行かれますか?」
「そうだな。できればな」
ここで遂に頷くブオナフェーデだった。
「わしも一緒にな」
「よし、では話は決まりです」
ブオナフェーデの言葉を受けて頷いてみせたエックリーティコだった。
「では今度」
「うむ、頼むぞ」
ブオナフェーデはエックリーティコの言葉を受けて満足した顔で頷く。そのうえで彼はエックリーティコの家を後にした。しかしそれで終わりではなかった。
「エックリーティコさん」
「宜しいですか?」
「おや、またお客さんか」
ブオナフェーデと入れ替わりの形でまた聞こえてきた声を聞いて声をあげる。二人共若い男の声であった。その声で応えるのだった。
「今夜はお客さんが多いな」
「よかったらそこに行くけれど」
「どうでしょうか」
「エルネストさんにチェッコ君か」
下を見ると赤い羽根帽子に洒落た袖が白いフリルとなった紅の服に白いマントの男と青い服の若者がいた。男は涼しげな顔立ちをしており黒い目は切れ長だ。黒い髪が帽子から見える。紅の服の中は白いフリルのあるシャツ、それと赤い紐のタイである。青い服の若者の袖にフリルはなくただの白いシャツと青い紐のタイである。彼は明るい目をしていて茶色の髪が癖のあるもじゃもじゃとしたものになっている。彼の顔には彫りがあった。
「よかったらこっちに来てくれないか」
「うん、それじゃあ」
「そちらに」
こうして今度は二人が来た。二人はそのまま屋上に来た。そうしてそのうえでエックリーティコに対してあることを告白するのであった。
「実はだね」
「僕達困ったことがありまして」
「おや、主従揃ってなのか」
エックリーティコは二人の話を聞いてまずはこう述べた。
「それはまた珍しい」
「若し僕だけだったらチェッコに相談して終わっていたよ」
「私もですよ。私だけだったら」
二人はそれぞれ話すのだった。
「もうそれでね」
「旦那様が相談に乗ってくれて解決しています」
「ところが二人揃ってだとか」
エックリーティコは二人の話を聞きながら述べた。
「しかも同じ問題です」
「困ったことにです」
「同じ問題というと」
エックリーティコは彼の話を聞きながら考える顔になった。そうしてそのうえで二人に対して問うのであった。
「一体それは何だい?」
「実はブオナフェーデさんのだね」
「二人いるけれど」
エックリーティコはこうエルネストに言い加えた。
第三章
第三章
「どっちだい?」
「妹さんの方だよ」
「というとフラミーニアかい」
「そうなんだ。彼女のことが好きでね、実は」
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
エックリーティコは彼のその言葉を聞いて納得する顔で頷いた。
「君が最近彼女を見る目はそんなふうだったからね」
「気付いていたのかい」
「何となくだけれど」
一応こう言いはする。
「気付いていたよ」
「そうだったのか」
「そしてだよ」
エックリーティコはさらに言う。今度はチェッコに対してだ。
「一つがわかればさらにもう一つのことがわかってくるものだけれど」
「はい」
「君はリゼッタさんにだね」
楽しげに笑って彼に問うのであった。
「彼女に御執心なんだね」
「おわかりですか」
「だから一つのことがわかればもう一つのことがわかってくるんだよ」
だからだというのである。
「それでね」
「実はその通りでして」
ばれているとわかってそれで照れ臭そうに笑って答えるチェッコだった。
「私はリゼッタが」
「いいねえ。いい女中だしね、彼女は」
「それでエックリーティコ」
「相談したいことは」
「ああ、それももうわかっているよ」
言うまでもないということだった。
「それもね。つまりあれだろう?」
「そうなんだ。恋の成就に」
「貴方の御力を」
「こちらとしても願ったり叶ったりだよ」
微笑んでこう返すエックリーティコだった。
「僕としてもね」
「というと君も」
「そういうことですか」
「僕はクラリーチェがね」
というのである。彼もまた照れ臭そうに笑って。
「だからできれば君達の力をね」
「そうだったのか。じゃあ三人力を合わせて」
「やりますか」
「実はもう策は動いているんだ」
このことも話す二人であった。
「既にね」
「そうだったのか。もうか」
「早いですね」
「そこに君達が来てくれたというわけなんだよ」
このことも話す彼であった。
「そして君達には」
「うん」
「助けてもらいたいと」
「その通り。僕達は一蓮托生だ」
まさに目的が同じなのだった。恋を成就させたいという。
「だからこそ仕掛けるよ、いいね」
「ブオナフェーデさんに」
「やりますか」
「いいかい?まずは」
エックリーティコは二人に対して話すのだった。実に楽しげな顔で笑いながら話すのであった。これから実行に移すその計画のことを。
ブオナフェーデの屋敷。オレンジの屋根と白い壁の家の中は白く華やかで明るい装飾に道実に美しい。二人の娘がその中で浮かない顔をしていた。
一人は黒い髪を少し伸ばしている。弓なりの眉に細い顔をしており表情は幾分か神経質そうだが大人の雰囲気を醸し出した顔をしている。服は黄色いドレスだ。黒い瞳の光が知的である。
もう一人は少し波がかった黒髪を長く伸ばし黒い瞳をしている。その瞳は実にはっきりとした二重で眉も長い。眉は横に一直線である。彼女は緑のドレスである。
「ねえクラリーチェお姉様」
「わかってるわ、フラミーニア」
黄色いドレスの少女が憂いのある顔で緑のドレスの少女に返した。
第四章
第四章
「本当にね」
「私エルネスト様のことが」
「私はエックリーティコさんが」
二人はそれぞれ言うのであった。
「好きだから」
「是非結ばれてね」
「この家から出たいわ」
「全くよ」
そしてこう話すのであった。
「御父様って私達を何時までも子供扱いして」
「もう大人なのに」
「だからもういい加減に家を出たいのだけれど」
「何かいい考えはないかしら」
困った顔で言うフラミーニアだった。
「本当に」
「そうね。こういう時エックリーティコさんはいつもいい知恵を出してくれるけれど」
「何があるかしら」
そんな話をしながら考えていた。するとそこにブオナフェーデが来た。小柄で黒い髪を後ろで束ねたアーモンド形の瞳の可愛らしい女の子にあれやこれやと話しかけている。女の子は黒と白のメイドの服を着ている。頭にはメイドの白い帽子がありそれで完全武装にまで至っていた。
「それでリゼッタよ」
「はい、旦那様」
「月の世界というのはじゃな」
「お年寄りに優しい世界なのですね」
「そうじゃ」
満面の笑顔で身振り手振りも交えてあれこれと話している。
「そこに行けばじゃな」
「それでですけれど」
ここでそのリゼッタが彼に言うのであった。
「一つお伝えすることがありまして」
「んっ、何じゃ?」
「今日はお客様が来られます」
「はて。客人とな」
「エックリーティコさんです」
彼だというのである。
「今日来られますけれど」
「おや、そうじゃったのか」
「どうされますか?」
こう彼に問うのであった。
「御会いになられますか?」
「勿論じゃ」
満面の笑顔で応えるブオナフェーデだった。
「ではすぐに呼んでくれ」
「わかりました。それでは」
リゼットは一礼してすぐにその場を後にした。ブオナフェーデは彼女の姿を見送る。そのうえで丁度そこにいた娘達に声をかけるのであった。
「おお、それでじゃ」
「はい」
「御父様、何でしょうか」
「御前達にプレゼントがある」
にこにこと笑って懐からあるものを取り出してきた。それは。
「さあ。二人仲良く食べるがいい」
「仲良くって」
「これって」
「飴じゃよ」
見れば確かにそうであった。飴そのものだった。それを二人の前に出してきたのだ。
「さあ、二人でのう」
「二人でって」
「あの、御父様」
「何時までも仲良くのう」
優しい笑みを浮かべて娘達に話すのだった。
「ずっとじゃ。何時までものう」
「それはわかっているけれど」
「それでも。飴だなんて」
「嫌いか?」
「好きよ」
「それでもよ」
口を尖らせて父に抗議するのであった。
第五章
第五章
「私達はもう子供じゃないのよ」
「もう結婚できるのに」
「何を言っておるのじゃ。御前達はわしの大切な娘達じゃ」
しかし彼は全くわかっていなかった。
「ずっとのう」
「ずっとって」
「だから私達は」
「そうじゃ、今度のフラミーニアの誕生日にはじゃ」
右手を拳にして左手の平をぽん、と叩いてみせる。
「特別に作らせたサファイアのブローチとケーキを用意しておくからのう」
「それはいいけれど」
「御父様、フラミーニアももう大人なのよ。レディーだから」
「ははは、わしにとっちゃずっと子供じゃよ」
だが彼はわかっていなかった。それも全くだ。
「だからいいじゃろ。それでのう」
「全く。話を聞いてよ」
「少しだけ」
「聞いておるぞ。しっかりとな」
自分ではそのつもりなのだった。だが実際はこんな有様であった。そんな彼のところにリゼッタが戻って来た。そうしてクールに彼に告げてきた。
「旦那様」
「うむ。何じゃ?」
「エックリーティコさんが来られています」
こう言うのである。見れば確かに目の前にはエックリーティコがいた。にこりと笑ってそのうえでブオナフェーデの前にいるのだった。
「こんにちは」
「おお、こんにちは」
ブオナフェーデはその小さな目をにこりとさせて彼に応えた。その間さりげなくクラリーチェの方を見て右目でウィンクしてみせる。彼女も彼女で彼ににこやかな笑みを返してみせる。だが今ではこのことは内緒にしている、そんな二人なのであった。
「今日もお元気そうで何よりですのう」
「いやいや、朝早くはこたえますよ」
エックリーティコはにこやかに笑って彼に言葉を返した。
「何せ毎晩星を見ていますから」
「天文学者も大変ですな」
「ですがそうして星を見ているのがこれまた楽しいのです」
自分ではこう言うのであった。
「いや、これがですね」
「左様ですか」
「はい。それでですね」
ここでエックリーティコは懐から取り出した。見ればそれは。
「おや、それは」
「お薬です」
その小さな黒い瓶を見せての言葉である。
「これを飲まれますとです」
「どうなるのですか?」
「身体が軽くなって月の世界に行けるようになるのです」
「あの夢の世界にですか」
「そうです。今日は是非飲んで頂きたく参上したのです」
「わかりました。それでは早速」
エックリーティコの言葉を受けて早速薬を受け取るブオナフェーデが応えた。そうしてそのうえで早速薬を飲んでしまうのだった。
のむと早速彼の身体が軽くなったかというとそうではなかった。ばったりと倒れてそのうえで眠り込んでしまったのだった。
「これでよし」
「あの、エックリーティコさん」
「ちょっと」
娘達は倒れてしまった父を見てそっとエックリーティコに顔を向けた。
「御父様は一体」
「どうなったのですか?」
「寝ているだけだよ」
彼は穏やかに笑って怪訝な顔になる娘達に答えた。
「だから安心して」
「そうなの。寝ているだけなの」
「何だ、よかった」
「さて、ここからが本番で」
彼はにこやかな笑みで話すのだった。
「さあ、いいかな」
「いいって」
「私達が?」
「そうだよ。まずはクラリーチェ」
「ええ」
クラリーチェが彼の言葉に応える。
「君と僕のことだけれど」
「どうしたの?」
「これからで決まるよ」
こう彼女に話すのだった。
第六章
第六章
「これからでね」
「これからで決まるの」
「そうだよ。だから協力してくれるかな」
「そうね。恋の成就の為にはね」
「よし、じゃあこれで決まりだな」
まずはクラリーチェがそれで仲間に入ったのだった。
「それじゃあ次は」
「私ですよね」
「そう。ああ、そうそう」
まだそこにいたリゼッタにも声をかけるエックリーティコだった。
「君もだよ」
「私もですか」
「チェッコ君はいい男だよね」
「はいっ」
チェッコの名前が出ると満面の笑顔になるリゼッタだった。今回ばかりは非常にいい笑顔であった。その笑顔での返答なのだった。
「もうあの人が傍にいるだけで」
「じゃあずっと傍にいられる方法があったらどうするの?」
「安易でもします」
「これで決まりだね。これで君もね」
「はい、そうさせてもらいます」
これで二人だった。そして次はというとだった。
「フラミーニアもね」
「エルネスト様と」
「その為にはいいよね」
彼は言った。
「君の力も必要だけれど」
「エスネスト様と一緒になれるのですね」
「そうだよ。どうかな」
「では異存はありません」
意を決した顔で答えるフラミーニアだった。
「私もそれで」
「よし、これで話は決まりだ」
三人も仲間に引き入れにんまりと笑うフラミーニアだった。
「こっちは六人、もう勝利は決まったかな」
「いえ、駄目よエックリーティコ」
調子に乗ろうとする彼に対してそっとクラリーチェが囁く。
「油断したらね。そこを失敗するわよ」
「わかったよ。確かにね」
このことは気を引き締める二人であった。しかしそれでも彼はもう勝利を確信していた。そこに緩みが生じていることには気付かなかったのだ。
ブオナフェーデが目を覚ますとだった。そこはもう。
「おや、ここは」
気付けばそこは別世界だった。華やかに花が咲き誇り赤や青の美しい薄い服を着た可愛らしい妖精達が舞っていた。彼はその光景を見て言うのだった。
「そうか、ここが月の世界じゃな」
「あら、素敵なお爺様」
「ようこそこの世界に」
二人の要請がにこやかに笑って彼の左右についた。
「さあ、まずはこれを」
「これをどうぞ」
「おお、いきなりこれか」
二人の手でそっと差し出されたケーキを受け取ってもう御満悦といった顔だった。
「ケーキとな」
「コーヒーもありますよ」
「あとこれも」
「チョコレートもか。さらにいいのう」
受け取ったそのケーキにチョコレートを受け取ると早速口の中に入れて食べる。食べるとそれは地球のケーキやチョコレートよりもずっと美味かった。
「美味いのう。これが月のお菓子か」
「コーヒーはどうですか?」
「そちらは」
「うむ、これもいいのう」
コーヒーを飲んでも笑顔になるブオナフェーデだった。
「地球のものよりずっと美味いぞ」
「はい、それにお花です」
「どうぞ」
「紅の薔薇か。この薔薇は」
「これが月の薔薇です」
「如何でしょうか」
妖精達は二人のその薔薇を彼に差し出すと彼も受け取る。その薔薇を受け取っても満面の笑顔になる彼だった。その香りまで味わい。
「月の花とはこんなにもいいものじゃったか」
「見て下さい、周りにも」
「こんなに花々が」
「おお、見事なチューリップじゃ」
咲き誇るその満開の花を見てまた笑顔になるのであった。
第七章
第七章
「赤に黄色に白に」
「宜しいですね」
「チューリップも」
「わしはチューリップが大好きなのじゃ」
彼はそのチューリップを見てその小さな目をさらに細ませる。
「わしの庭にも随分咲かせておるのじゃよ」
「はい、では心ゆくまで御覧になって下さい」
「どうか」
「いいのう。本当にいいのう」
彼は妖精とお菓子、それに花に囲まれ満面の笑顔であった。しかしそんな彼を離れた場所で見ている面々がいた。その彼等は。
「上手くいっているね」
「うん」
エルネストとエックリーティコだった。二人は今妖精達と花々に囲まれているブオナフェーデを物陰から見ながら笑顔になっていた。
「ブオナフェーデさんいい具合に信じてるよ」
「本当はただの自分の家の庭なのにね」
「気付かないのかな」
ここでこう言ったのはチェッコだった。彼もそこにいるのである。
「自分の庭なのに」
「何、大丈夫だよ」
だがエックリーティコはにこやかに笑ってこう彼に返すのだった。
「それはね」
「大丈夫ですか」
「御覧よ、完全に信じてるじゃないか」
相変わらず御満悦な感じのブオナフェーデを指差しながらの言葉だった。
「今もね」
「そういえばそうですけれど」
「安心していいよ」
また言うのであった。
「このままね」
「だといいんですけれどね」
「さて、いい調子だ」
また言うエックリーティコだった。
「このままいけるよ」
「じゃあ僕も」
「うん、用意しておいてくれ」
今度はこう彼に告げた。
「そろそろ出番だからね」
「わかりました。それじゃあ」
チェッコは彼の言葉を受けてすぐに後ろに消えた。その間もブオナフェーデは妖精達の接待を笑顔で受けている。彼はその中で言うのだった。
「それにしてもじゃ」
「はい」
「どうしたのですか?」
「いや、娘達がのう」
ここで二人の娘のことを思い出したのである。
「わしだけがここにいてもよくないじゃろ」
「といいますと?」
「娘さん達がですか」
「ナポリに残してきたが大丈夫じゃろうか」
思い出せばそこから心配になっていくのであった。
「果たして」
「大丈夫ですよ」
「娘さん達でしたら」
妖精達はにこやかに笑って彼に応えるのだった。
「楽しくやっていますから」
「全然」
「だといいのじゃがな」
とりあえず安心する老人だったが妖精達はその彼と少し離れ顔を見合わせてひそひそ話をはじめた。
「御父様ったらここでもまた」
「私達のことを言うのね」
実は妖精達の正体は彼女達だった。それで顔を見合わせて話すのだった。
「折角月に出たのに」
「それでも言うなんて」
そのことに戸惑っているうちにやたらと派手な金と銀のみらびやかな服と帽子に身を包んだチェッコが出て来た。妖精達は彼が出て来ると早速かしづく演技をするのだった。
「そちらの人は」
「陛下です」
「月を治める皇帝陛下です」
「何と、皇帝陛下じゃと」
博士は今の妖精達の言葉を聞いてさらに驚いた。
「ではこの方こそが」
「はい、そうです」
「月の主であられます」
「その様な方が出られるとは」
ブオナフェーデはただただ驚くばかりであった。
第八章
第八章
「ううむ、何という僥倖じゃ」
「ようこそ、月の世界へ」
チェッコは皇帝になりきってブオナフェーデに告げた。威厳も何とか演じている。
そんな彼をエルネストは物陰から見ながら。こう言うのであった。
「いいな、中々演技力あるじゃないか」
「チェッコは頭がいいからね」
彼と同じく物陰から見守るエックリーティコがそれに応える。
「だから皇帝役に選んだんだ」
「それでだったんだね」
「うん、これはいいね」
自分の人選に満足している彼だった。
「この調子でいけるよ」
「頑張れよ、チェッコ」
そこから自分の従者に声援を送るエルネストだった。
「応援しているからな」
「それでは御老人」
チェッコは威厳を保ったままブオナフェーデに告げてみせる。
「何か願い事はありますか」
「願い事ですか」
「はい、宜しければ言って下さい」
優しい声で彼に告げるのであった。
「何でも」
「それではです」
彼はその言葉を受けて畏まった態度でこう述べるのであった。
「私の娘のクラリーチェとフラミーニアをですね」
「どうされると」
「こちらに呼んで下さい。これだけ楽しい世界は娘達にも見せてあげないと」
「ここでも私達なのね」
「本当ね」
その娘達は皇帝の側でこう囁き合う。
「何でもかんでも私達って」
「もう気にしなくてもいいのに」
こうは言っても悪い気はしていなかった。実のところは。だからこそにこやかに笑ってそのうえで皇帝を演じるチェッコの側にい続けていた。
「是非共です」
「娘さん達だけですか?」
「いえ、もう一人います」
ここで彼はさらに言うのだった。
「女中のリゼッタもです」
「その人もですね」
「あの娘にも見せてあげないと」
周りを目だけで見回しながら述べる。とりわけチューリップ達をである。
「これだけ美しいものは」
「ふむ。その人もですか」
「宜しいでしょうか」
「はい、勿論です」
まずは優しい笑みを浮かべて答えるチェッコであった。皇帝として。
「ですが」
「ですが?」
「一つだけ条件があります」
こう言うのである。
「実は私はずっと一人身でして」
「そうなのですか」
「それでです。そのリゼッタさんを私の妻に迎えたいのですが」
彼に提案という形での言葉であった。
「それは宜しいでしょうか」
「月の皇帝陛下の奥方といいますと」
「はい、皇后になります」
「私が皇后なんて」
今の言葉を聞いてエックリーティコがいる物陰で大喜びになるリゼッタだった。その両手の指を組み合わせてはしゃいでいる程であった。
「嘘みたいだわ」
「嘘じゃないよ。君は彼の奥さんになるんだからね」
エックリーティコはこう彼女に話すのだった。
「だからね」
「そうですね。嘘じゃないんですね」
「じゃあそれを現実のものにする為にね」
「わかりました。それじゃあ」
「行ってらっしゃい」
ここで彼女を行かせる。その間に妖精達はそっと姿を消す。そうして彼女達はすぐに自分達の場所に入って着替えて元の姿に戻るのであった。
第九章
第九章
「さて、後は」
「大詰めね」
こんなことを話しながら着替える。そのうえでまた動くのであった。
リゼッタが出て来るとだった。皇帝は彼女を見てうっとりとなって言うのであった。
「素晴らしい」
「可愛い娘ですよね」
ブオナフェーデも機嫌よく自分の女中を紹介する。
「しかも利発でよく気が利いてですね」
「そうなのですか」
「はい、いい娘ですよ」
こう言って勧めるのであった。
「是非ですね」
「わかりました。それではです」
「どうぞ陛下の皇后に」
「けれど私は」
リゼッタは彼等の話に畏まった顔になる。とはいってもチェッコと同じで芝居である。
「その様な栄誉には」
「いえ、貴女でなければです」
しかしチェッコはここで言うのであった。
「貴女でなければなりません」
「私でなければですか」
「どうか是非」
「御父様」
「こちらにいらしたのですね」
ここで娘達も出て来たのであった。見れば妖精の化粧が微かに残っているがブオナフェーデはそのことに全く気付いてはいなかった。
「ここは月の世界だっていうけれど」
「本当なの?それは」
「うむ、まことじゃ」
こう娘達に話すブオナフェーデだった。
「その月の世界じゃよ、ここは」
「お使いの人に呼ばれて来たけれど」
「ここがそうなのね」
「そうじゃ。いい場所じゃろう?」
優しい顔で娘達に述べるのであった。
「ここはのう」
「ええ、確かに」
「何て奇麗な」
「さて、貴女は私の妻です」
皇帝として再びリゼッタに話す。
「そしてです。貴女達は」
「私達はといいますと」
「どうされたのですか?」
「これこれ、礼儀正しくのう」
ブオナフェーデはここで娘達に話した。
「この方はこの月の世界の皇帝陛下じゃからのう」
「えっ、そうなのですか」
「その様に尊い方だったのですか」
「そうなのじゃよ」
娘達の驚いた様な演技にも気付かないのであった。
「実はのう」
「何てことなの」
「その様な方が私達の前に」
「だから礼儀正しくのう」
しっかりとしているが優しい声であった。目も同じだ。
「よいな」
「はい、わかりました」
「はじめまして、陛下」
「クラリーチェです」
「フラミーニアです」
「ようこそ月の世界に」
チェッコは相変わらず皇帝になりきっている。そのうえで自分の前で一礼した二人に応える。
「そしてです」
「そして?」
「何かあるのですか?」
「私は今妻を得て幸福の中にあります」
さりげなくリゼッタを己の横に置いている。もう完全に夫婦になったつもりの二人だった。
「そしてです。貴女達もです」
「私達もといいますと」
「まさか」
「そうです。貴女達も幸せになって下さい」
こう二人に話すのだった。
第十章
第十章
「是非共」
「ではその相手は」
「誰なのでしょうか」
「まずクラリーチェさんですが」
最初に名前を呼んだのは彼女だった。
「貴女はですね」
「はい」
「エックリーティコさんと結婚されて下さい」
「わかりました」
「はて」
横で話を聞いていたブオナフェーデはここで不思議に思うことがあった。
「どうして陛下があの人を御存知なのじゃろう」
「そしてフラミーニアさんは」
その間にも芝居は続く。ブオナフェーデだけが知らない芝居が。
「エルネストさんがいいでしょう」
「有り難うございます」
「何故あの人まで知っておるのじゃ?」
ブオナフェーデは話を聞いて首を傾げるばかりであった。
「不思議な陛下じゃな」
「さあ、御二人もこちらへ」
「陛下、お招きに応じて参上致しました」
「はじめまして」
早速この世界に出て来た二人だった。あくまで皇帝としてチェッコに応じている。
「貴方達もそれで宜しいですね」
「有り難うございます」
「身に余る光栄です」
「これで全ては幸福になりました」
チェッコは満面の笑みで一同に告げるのだった。
「さあ、皆でこの紙にサインをしましょう」
「はい、それでは喜んで」
「サインを」
まず皇帝であるチェッコも入れて六人が結婚証明書にそれぞれサインをする。それが終わると三枚のその証明書がブオナフェーデの前に出されるのだった。
「貴方も御願いします」
「父親としてですか」
「その通りです」
チェッコはここでも演じていた。
「ですから。どうぞ」
「わかりました」
そのまま素直に応えるブオナフェーデだった。ペンをエックリーティコから渡されるとそのうえでサインをするのであった。
サインはすぐに終わった。するとであった。
「さて、後はです」
「結婚式ですね、陛下」
「私達の」
「はい、それです」
笑顔で五人に応える皇帝であった。
「式はを挙げましょう」
「ですが陛下」
ここでエックリーティコはつい言ってしまったのだった。
「持参金ですが」
「おお、それですね」
ここで彼の言葉に頷いてみせた皇帝だった。
「それです、持参金です」
「それのことですが」
「ブオナフェーデさん」
ここでまた彼に声をかける皇帝だった。
「一つ宜しいでしょうか」
「わしにですか」
「娘さん達が結婚しますので」
まずはこう前置きする。
「だからですね」
「だから?」
「金庫の鍵を私達に」
「何っ、金庫の鍵!?」
ここでふと気付いた彼だった。
「金庫の鍵というのですか」
「ええ。いつも持っていますよね」
「あの、何故それを御存知なのですか!?」
流石にこれは彼もおかしいと気付いたのだった。
第十一章
第十一章
「わしがいつも金庫の鍵を持っていることに」
「たまたまです」
「いえ、たまたまではないでしょう」
すぐに突っ込みを入れたブオナフェーデだった。そして一つのことに疑問を抱けばそれは他のことにも飛び火するのはよくあることである。それは今もであった。
「そういえば陛下のお顔は」
「私の顔がどうかしましたか?」
「エルネストさんの従者のチェッコ君にそっくりじゃないですか」
「あれ、そうでしょうか」
「そっくりなんてものじゃない。声まで同じだ」
このことにも気付いたのだった。
「おまけに仕草まで。こんなことってあるのか?」
「あるんじゃないですか」
「偶然ですよ」
ここでエックリーティコとエルンストが突っ込みを入れる。
「それはただの」
「その通りです」
「そうですよ。御父様」
「ねえ」
娘達もここで言うのだった。必死の顔である。
「他人の空似です」
「よくあることです」
「なあ、チェッコ君」
そしてここで、であった。エックリーティコはミスを犯してしまった。ついつい。
「そうだよな」
「はい、その通りです」
「待て、今何と言った!?」
ブオナフェーデもそれを見逃さなかった。
「チェッコ君と言ったな、確かに」
「あっ、しまった」
「これは」
皆このことに唖然とした。だが言ってしまったことは戻らない。
「いや、これはですね」
「今ブオナフェーデさんが彼の名前を出したから」
「そうですよ。それでです」
「ついつい」
「いいや、もう騙されんぞ」
彼もここで遂にわかったのだった。最早騙されることはなかった。
「わしを騙したな。そうだな」
「しまった、これは」
エックリーティコも作戦の失敗を認めるしかなかった。ことここに至っては。
ブオナフェーデは顔を真っ赤にして怒っている。怒り心頭であった。
「参ったな、あと少しだったのに」
「折角結婚できたのにな」
エルンストもぼやくしかなかった。
「ここまで来て」
「さあ、どう責任を取るつもりだ」
その怒り心頭のブオナフェーデが皆に対して詰め寄る。
「わしを騙した責任はどうしてくれるのだ」
「それは一つしかないですわ」
「そうです」
その彼に対して娘達が話した。
「私達が幸せになることで」
「それで」
「幸せにだと」
娘達の言葉に顔を向けるのだった。顔を少しそちらに向けて。
「御前達が幸せになるのか」
「はい、そうです」
「ですから」
二人はさらに必死に父に話すのだった。
「ここはどうか落ち着かれて」
「それで」
「むう」
娘達に言われるとだった。彼はここで表情を少し変えた。そのうえで幾分か落ち着いたのであった。ようやくといった感じではあるが。
「わしとしては御前達が幸せになることが一番の望みだ」
「そうですね」
「それでは」
「もうサインをしたしのう」
彼は結婚のことにも考えを及ばせた。
「じゃから結婚のことは」
「はい、それは」
「それももう」
二人はまた父に対して告げる。
第十二章
第十二章
「幸せになります」
「それで」
「それにです」
「僕達も誓います」
ここでエックリーティコとエルンストも彼に言うのだった。
「娘さんを幸せにすることを」
「是非」
「君達のことは知っておるが」
確かに今は騙されたがそれでもその本質は知っているブオナフェーデであった。それならば答えももう自然と彼の中で出ていた。
「それも幼い頃じゃし」
「ではどうなのでしょうか」
「娘さんは」
「君達ならば大丈夫じゃろ」
こう言うブオナフェーデであった。
「よし、わかった」
「それでは」
「僕達に」
「よし、それでは」
ここで頷くのだった。彼も。
「いいだろう。チェッコ君もな」
「僕達もですか」
「許して下さるのですか」
「君達のこともサインをした」
こうチェッコとリゼッタに対して述べる。
「それに君達のことも知っておるし」
「では宜しいのですね」
「それで」
「いいじゃろう。持参金もそれでいい」
このことも許す彼だった。
「幸せになるのならな」
「有り難き御言葉」
「それでは」
「幸せになればそれでいい」
彼はまた言った。
「金も幸せの為にあるのじゃからな」
「それでは御父様も」
「幸せになる為に」
「祝おう」
ここでまた娘達の言葉に対して頷いてみせた。
「御前達の結婚を。あらためてのう」
「それではどうぞ」
「この杯を」
エックリーティコとエルンストが紅のワインを並々と注いだその杯を差し出す。
「御飲み下さい」
「そして幸せに」
「そして皆で後は」
「心ゆくまで」
「うむ」
チェッコとリゼッタの言葉にも満面の笑顔で応える。
「楽しもうぞ。これからの幸せの為にのう」
「はい!」
六人も満面の笑顔で彼の言葉に応える。騒動はあったがこれからの幸せの為に。祝いの杯を掲げる彼等であった。ブオナフェーデを囲んで。
月の世界 完
2009・9・9