いろいろ短編集


 

松実姉妹と過ごす平凡な一日

 
前書き
原作:咲-Saki-
オリ主が登場します。 

 


 季節は冬。
 ここ奈良県吉野では雪がちらほらと降り始め、寒さに身を震わせる日が増えてきた。

 吉野にある有名旅館――松実館で俺が仲居として働き始めて早二年。
 忙しい日々の連続ではあるが、旅館で働くことは昔からの夢だったので、仕事にはやりがいを感じている。

 この日はもう上がっていいと言われ、もう少し働きたい気持ちがありながらも仕事を切り上げた。

 松実館で働くにあたって、県外からやって来た俺には空き部屋を与えられ、住み込みで働かせてもらっている。
 貸し与えられた部屋に戻り、ラフながらも暖かい格好に着替える。

 そしてここの家族――松実家が生活している住宅、そのリビングへと向かう。

 仕事で早上がりを告げられたという事はつまり、松実家の二人娘――松実(ゆう)と松実(くろ)の相手をして欲しいという事だった。
 今までも早上がりの日には、宥と玄の相手をしてきた。歳が近いということもあり、宥と玄とはあっという間に親しくなった。

 姉の宥は極端な寒がりで、一年中マフラーを巻いたり厚着をしている不思議な子だ。
 妹の玄は“おもち”が大好きで、よくおもちおもちと言っている。こちらも不思議な子だ。

 扉を開け、リビングに入る。
 こたつが用意されたそこで、宥と玄はこたつに入って幸せそうに顔をほころばせていた。

「あっ、お兄ちゃーん!」

 みかんの皮を剥きながら、玄が俺に気付いて声を上げる。そしてみかんを一つ口にすると、おいしーと言って幸せそうな笑顔を見せた。

 初めて宥と玄に対面した時、自己紹介した際に冗談のつもりで『気軽に“お兄ちゃん”とでもよんでくれ』と言ってしまった。
 二人はそれを間に受けて、俺のことを“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。

 本当の兄妹でもないのにそう呼ばれることに最初はむず痒さみたいなものがあったが、今となってはすっかり慣れてしまった。

「お兄ちゃんも、一緒におこたに入ってあったかくなろ?」

 宥はそう言って手招きをする。その言葉に甘えて、俺はこたつに入った。

「はぁ〜あったかいなぁ〜」
「そうだね〜あったかいね〜」
「あぁ〜幸せ〜」

 俺と宥と玄、三人はだらしなく顔を緩ませる。
 一度こたつに入ってしまうと、もうそこから出たくなくなる。こたつにはそういう魔法がかかっている。

「お兄ちゃん、みかん食べる?」
「食べる」

 みかんを食べていた玄の言葉に、俺は即答する。
 こたつと言えばみかんであり、みかんと言えばこたつなのだ。

 玄はさっき皮を剥いたみかんを一つ手にとって、そのまま俺の口近くまで運んできた。

「はい、あーん」
「あーん」

 ぱくっ。

 玄の手で運ばれてきたみかんを、俺は顔を持っていってそのまま口に咥えた。
 その際に、玄の指先まで一緒に口に入ってしまった。

「きゃっ。もぅお兄ちゃん、玄の指を食べるのはダメなのです!」
「悪い悪い。でも美味しかったぞ」
「うぅ〜、お兄ちゃんのばかっ」

 顔を赤くして玄はそっぽ向いてしまう。

「玄ちゃーん、私もみかん食べたいな〜」
「お姉ちゃんっ! じゃあ私が食べさせてあげる!」

 おっとりとした口調で宥がそう言うと、玄はパアッと元気を取り戻して、みかんを一つ手に持つ。

「お姉ちゃん、あーん」
「あーんっ」

 妹から差し出されたみかんを咥える姉。
 玄と宥は本当に仲の良い姉妹で、こういう光景は見ていて微笑ましい。

 幸せそうにみかんを食べる宥を見ていると、俺の視線に気付いたのか、宥がきょとんと目を丸くして不思議そうに俺を見た。

「お兄ちゃん、まだみかん食べる?」
「食べる」

 今度は宥がみかんを一つ手にとって、

「はい、あーん」
「あーん」

 ぱくっ。

 玄の時と同じように、差し出されたみかんと一緒に指も咥えてしまう。

「きゃっ。もぅ……めっ」

 顔を赤くさせながら、宥はいたずらっ子を叱るようにそう言った。
 その姿が可愛らしくて、自然と頬が緩んでしまう。

「あー! お兄ちゃん、お姉ちゃんにみかん食べさせてもらってえっちな顔してるー!」
「玄、これは違うんだ。みかんが美味しくてだな」

 そう弁明するが玄はキャーキャーと騒ぎ立てる。そんな中、宥はずっと顔を真っ赤にして俯いていた。
 こたつがちょっと暑いのかな?


 数分かけて玄を落ち着かせると、再びまったりとした時間がやって来た。

「暇だな〜」
「そうだね〜」
「こたつあったかいね〜」

 こたつに入りながら、テレビのお笑い番組をだらだらと見る。そんな風に時間を持て余すことに、平和を感じずにはいられない。
 これから先もずっと、こんな時間が続けばいいのに。

「麻雀する〜?」

 お笑い番組に飽きたのか、玄が唐突に尋ねた。

「えー、三人しかいないじゃん。別にこのままだらだら過ごすのも悪くないし」
「それもそうだね〜」

 そう言って、玄は再びテレビに視線を向けた。

 夕飯に呼ばれるまで、俺と松実姉妹はずっとこたつでまったり過ごしていた。




 * * *




「はぁ〜、いい湯だな〜」

 夕飯を済ませると、俺は松実館の大浴場にやって来た。

 泊まり客の入浴時間はとっくのとうに終わっていて、住み込みで働いている俺はこうして浴場の営業時間外に入浴させてもらっている。

 若干熱めの湯が疲れた体に染み渡る。
 働いた後の風呂には、何度入っても癒される。

 そろそろ体を洗おうと、浴槽から出る。


 ――ガラガラ。


 浴場入口の戸が引かれた。

「お姉ちゃーん、早く早く!」
「ま、待ってよ玄ちゃーん」

 聞こえるのは玄と宥の声。
 なんだ、二人も風呂に入りに来たのか……

 ――玄と宥!?

「きゃぁぁっ!! な、なんでお兄ちゃんが女湯にいるのです!?」
「お、お兄ちゃん……女湯に入る趣味があったの?」

 姿を隠す暇もなく、体を洗っているところを玄と宥にあえなく見つかった。

 幸いなことに、二人とも体にタオルを巻いていて、大事なところは見えないようになっている。

「二人こそなんで入ってくるんだよ! ここ男湯だろ!?」

 そう。ここは男湯のはずだ。
 入る時にきちんと確認した。

「えぇっ!? 私達が入る時は女湯だったよ!」

 なんだよ、この良くあるテンプレ展開は。

「すまん。すぐ出るわ」

 タオルで大事なところを隠して、風呂から出るため立ち上がろうとする。

 ――ガシッ。

 肩を押さえつけられて、立てなかった。
 見ると、玄と宥がそれぞれ両手で俺の肩を押さえつけていた。

「……あの、そう押さえられると出れないんだけど……」

 頼むから、手を離してほしい。

「せっかくだから、お兄ちゃんと一緒にお風呂入りたいなぁ……なんて」
「お兄ちゃん、一緒にあったかくなろ?」

 縋るような視線を向けられる。
 くっ……そんな目をされたら断れないじゃないか。

「……わかったよ。先に体洗うから、それまで待っててくれ」

 はーいと言って玄と宥は湯槽に浸かりに行った。

 二人の楽しげな会話を聞きながら、俺は入念に体を洗っていく。これから玄と宥の二人と入浴すると思うと、いつもより丁寧に洗わざるを得なかった。

 体を洗い終えて腰にタオルを巻き、二人の待つ湯槽に向かう。

「お待たせ」
「お兄ちゃーん、早く入ろっ!」

 玄が急かす。

「あったかいよ〜」

 宥はそう言いながら、玄の隣から少し横にずれた。
 玄と宥、二人の間にスペースが空く。ちょうど、人が一人すっぽり入りそうな空間。

 まさかとは思うが――

「お兄ちゃん、ほら。玄ちゃんと私の間、空いてるよ?」

 やっぱりかぁぁぁぁ!!

「お兄ちゃん、早くするのです!」

 声を大きくする玄。
 いや、さすがに二人の間に入るのは無理があるんじゃないか。

 迷っている間にも、宥と玄はジーッと俺を見つめてくる。
 だから、その目は反則だって……。


 もう、覚悟を決めるしかなかった。


「それじゃあ……お邪魔します」

 ――ちゃぷん。
 湯槽に浸かる。

「はぁ~」
「お兄ちゃん、あったかい?」
「うんうん、あったかいなぁ~」
「ふふっ、私もあったかいよ~」

 本当、あったかい。あったかいぐらいしか考えられない位、あったかい。

 緊張して、もはや思考が停止していた。

「いい湯だね~」
「そうだな〜」
「あったか〜い」

 意味をなさない会話の応酬。

 湯槽に浸かりながら、幸せそうに顔を綻ばせる宥と玄を見ると、こっちまで幸せな気分になっていく。


 ああ、いい湯だなぁ。




 * * *




 風呂から上がって時間も経つと、いよいよ就寝時間がやってきた。

 旅館の朝は早い。
 次の日に仕事があると昼までぐうたらと寝ているなんて出来ないので、前日はこうして早く寝なければならない。

 ベッドに入ってそろそろ寝ようとしたその時。


 ――コン、コン。


 扉を叩く音がした。
 一体誰だ、こんな夜中に……。

「……はい」

 扉を開ける。
 そこにいたのは――

「……どうしたんだ、宥」

 松実宥。
 寝巻き姿の彼女は、ギュッと大切そうに枕を腕に抱え、その身を震わせていた。

「お兄ちゃん、あのね。寒くて眠れないから、その……一緒に寝てもいい?」

 震えた声で、宥は上目遣いで見つめてくる。
 暗くて表情がよく読み取れないが、その口調から本当に寒くて眠れないという事は十分に伝わった。

「あ、ああ。いいぞ」
「お兄ちゃん……ありがと」

 部屋に宥を招き入れる。
 宥は俺の服の裾をキュッと掴んで、俺のすぐ後ろをピッタリと歩いてくる。

 あれ? これってよく考えたら、夜中に女の子を部屋に連れ込んでる状況だよな。
 やばい、そう考えると途端に緊張してきた。心臓の鼓動が早くなる。

 でも、寒がっている宥をこのまま返すわけにはいかない。一緒に寝てもいいと言ったからには、一緒に寝るしかないのだ。

「……じゃあ、寝ようか」

 なるべく平静を装うように、声を抑えて言う。

「う、うん」

 宥も少し緊張しているのか、それともやっぱり寒いのか、声が震えていた。

 ベッドに視線を向ける。
 すると、明らかな違和感があった。

 布団がこんもりと盛り上がっていて、もぞもぞと動いている。

「お、お兄ちゃん。布団が動いてる……」

 宥の口調は緊張や寒さとは違う、明らかな恐怖で震えていた。

「ま、任せろ。宥は離れていてくれ」
「う、うん」

 宥がベッドから離れたのを確認して、俺は慎重な足取りでベッドに近づいていく。
 そして、布団に手をかけて――

 一気に捲った。

「ひゃっ」

 宥の声じゃない。
 聞こえたのは目の前、ベッドの上から。

 布団を捲り上げ、そこにいたのは――

「お、お兄ちゃん……お姉ちゃん」

 ――玄だった。

「……何してるんだ、玄」
「く、玄ちゃん……?」

 俺と宥に問いただされ、ベッドの上の玄は慌てたように弁明を始める。

「お、お兄ちゃんを驚かせようと思って、ベッドに忍び込んでいたのです!」
「いや、確かに驚いたけど……」

 俺の驚いたという言葉を聞いて、玄はしたり顔を浮かべた。ドヤァ。

「それで、お姉ちゃんはどうしてお兄ちゃんの部屋にいるのです? それも枕を持って」
「えっとね。寒くて眠れないから、お兄ちゃんと一緒に寝ようと思ったの」

 なんで正直に答える!?
 そんな事言ったら玄は――

「そうなんだ! じゃあ私も一緒に寝てあげるよ、お姉ちゃん!」

 ああ、やっぱり。こうなると思った。

「玄ちゃんも一緒だと、もっとあったかくなるねー」

 布団の中にいたのが玄で、宥はホッと安堵の息を吐いてベッドに入っていく。

「お兄ちゃん……寝よ?」
「お、おう」

 宥に言われるがまま、俺はベッドに入っていく。まさか自分のベッドに入るのに、こんなに緊張する事になるとは思ってもみなかった。

 玄が奥、宥が手前のスペースに寝転がっていて、真ん中にポッカリと一人分のスペースが空いている。
 なんか、さっき風呂場で見た光景だ。

 いつまでも立ったままでいるわけにもいかないので、覚悟を決めてベッドに入り、仰向けになって寝転がる。

「えへへ、お兄ちゃーん」

 左にいる玄が、嬉しそうに俺の左腕に自身の両腕を絡めてくる。

「お兄ちゃん……あったかい」

 反対側にいる宥も、玄と同じように両腕を俺の右腕に絡める。

「お、おい二人とも……」
「おやすみです、お兄ちゃん」
「あったかい……おやすみ、お兄ちゃん」

 玄と宥はそう言って目を閉じた。すると次の瞬間には左右から小さな寝息が聞こえた。
 ……寝るの早すぎるだろ。

 両腕を二人にがっちりと掴まれ、動こうにも動けない。下手に動かしてしまうと二人を起こしてしまう。

 それにさっきから、やたらと良い匂いが左右から漂っている。
 少し柑橘系の香りのする、柔らかい匂い。

 ……って、これじゃあまるで変態みたいじゃないか。違うからな、玄と宥が可愛いのがいけないんだ。

 そんな可愛い姉妹にサンドイッチされて、さっきから心臓がバクバク言っている。

 最初は宥が寒くて眠れないと言うから一緒に寝てあげようとしたんだ。するとベッドに何故か玄が侵入していて。

 本当……どうしてこうなった。

 玄と宥にサンドイッチされて嬉しい気持ちと、何故こんな状況になったのかという戸惑いが入り混じる。


「……今夜は眠れそうにないな」


 何にせよ、こんな状況では眠れそうにない。

 玄と宥――松実姉妹が目を覚ますまで、おもちの数でも数えていよう。

 
 

 

久遠の記憶、憧憬の景色。

 
前書き
原作:咲-Saki-
百合、久×憧です。 

 



 いよいよ、インターハイの決勝、その中堅戦が始まろうとしていた。


 いつもより早めに控え室を出て、私は誰もいない決勝卓で座っていた。


 これから始まる中堅戦。三年間の集大成。
 その戦いを想像して胸を躍らせながら、私にはもう一つ、楽しみがあった。


 昔に出会った、一人の少女。
 彼女と三年ぶりに、会えるのだ。


 テレビで何度も見てきたけど、その姿はあの頃とは見違えるほど可愛くなっていた。


 きっと彼女の方は、私のことなんて覚えていないだろう。


 だからこれは、私だけの楽しみ。




 目を閉じ、当時の記憶を呼び起こす。




 それは、私が中学三年生の時。




 初めて訪れた地で出会いを果たした。




 一人の少女との、記憶。




――――――


――――


――




 両親が離婚した。
 最後のインターミドル、県予選最中の出来事だった。

 以前から両親の夫婦仲は良好とは言えなかったが、あまりにも突然の事後報告に気が動転した。
 インターミドルどころではなかった。


 大会に行かず両親を説得したが、二人の答えは変わらなかった。


 私は最後にひとつ、ワガママを言った。



 ――最後に家族三人で旅行をしたい。



 両親は、私のワガママを渋々ながら承諾してくれた。


 お父さんは、有給をとってくれた。
 お母さんは、色々と計画を立ててくれた。


 そして、夏休みが明けたあとの平日。


 私は学校を休んで、家族旅行に出かけた。




***




 旅館に来ても、両親は飽きもせず口喧嘩をしていた。
 これで家族で過ごすのは、最後になるのかもしれないというのに。


 私は口論の板挟みとなって、居心地が悪かった。
 それでも、この家族旅行を楽しい思い出にしようと、私は二人の仲裁を図った。


 結果は、ダメだった。
 お前には関係ないと一喝され、完全に心が折れてしまった。


 もう私達は、家族ではないのだと。
 全く関係のない、赤の他人なのだと。


 そう言われているような気がして、私は喧嘩する両親のもとを去り、知らない土地をあてもなく駆け回った。


 一人になりたい。
 その一心で、人のいない方に向かってずっと走っていた。


 ようやく人っ子ひとりいない公園にたどり着き、そこの芝生でしばらく寝そべった。


 今はもう、何も考えたくない。
 ただボーッと、真っ青な空を眺めていた。


 空はこんなにも平和な色をしているのに、どうして両親は喧嘩ばかりするのだろう。


 気がつけば、あのどうしようもない両親のことを考えていた。
 あぁもう……嫌になる。


 考えるのをやめる。
 私はゆっくりと目を閉じ、意識を落とした。





 目を開けると、綺麗なオレンジ色が視界に飛び込んできた。
 いつの間にか寝ていたらしい。気がつけば夕方になっていた。


 立ち上がり、服についた芝を手で払う。
 グーっと背伸びをして、身体を覚醒させる。


 そろそろ、両親のところに帰らないと。
 喧嘩していた両親だけど、きっと今ごろ、いなくなった私を心配しているだろう。


 そう思い、旅館に帰ろうと一歩踏み出した。


 しかし、二歩目が踏み出せなかった。


「……ここどこ?」


 帰り道が、わからなくなっていた。


 何も考えずにここまでやって来たため、どっちに向かって歩けば帰れるのか、全くわからない。


 とりあえず周囲を見渡す。
 人っ子ひとりいない公園。当然だ、一人になりたくてここに来たのだから。


「そうだ、ケータイ!」


 ゴソゴソとポケットを漁るが、何の感触もなかった。
 サイフもケータイも持っていない。旅館に置いてきてしまった。


「やばい、どうしよう……」


 途方に暮れ、上を向く。
 空はオレンジ色に染まっていた。


 コツ、コツ。
 どこからか微かに、足音が聞こえた。


 耳を澄ませて、音に集中する。
 足音は、だんだんと大きくなってくる。


 やがて、その人物の姿を視界に捉えることができた。


 赤色の襟の、セーラー服。
 自分と同じ、女子中学生だろうか。


 公園の外にある歩道を歩く少女に、私は道を訪ねようと近づいて声をかけた。


「あのー」


 少女が振り向く。
 まだあどけない表情の少女だった。


 ツーサイドアップのように二箇所で結んでいる、クリーム色の短髪。
 活発そうで、どこか生意気そうな顔。
 セーラー服を着ているが、どちらかと言うとセーラー服に着られている感じのする、まだ幼い少女だった。


「……なんですか?」


 少女の声からは、警戒心が見てとれる。
 それもそうだ。見知らぬ人にいきなり声をかけられたら、誰だって警戒する。


「あ、えっと、怪しい者じゃないわよ?」
「……」


 少女は警戒心がいっそう強めたように、ジト目で私を見てくる。
 その視線で、私はさっきの発言が完全に失策だったことに気づいた。


 自分から怪しくないと言うなんて、どう考えても怪しいじゃないか。


「えっと、その、違うの」


 自分でも、何を言っているのかわからなくなる。
 なにが違うというのだ、なにが。


「警察呼ぶわよ?」
「違うから! 私、今道に迷っているだけなの! だから道を教えてほしくて!」
「それなら尚更、警察呼んだ方がよくない?」
「それは確かに……ってダメよ! 不審者だと思われちゃうじゃない!」
「不審者って自覚はあるんだね」


 少女はケラケラと無邪気に笑う。
 笑われるのは癪だけど、警戒心は和らいだようで安心する。


「えっと、私、本当に道に迷ってるんだけど……」
「その歳で迷子? おねーさん高校生だよね?」
「うるさいわねガキンチョ」


 バカにされ、ついつい頭に血がのぼってしまう。
 ガキンチョ呼ばわりが気に障ったのか、少女の方も反抗してきた。


「ガキンチョじゃない、中学生になったもん!」
「なったってことは、中学一年生?」
「な、なんで分かったの!?」
「バレバレよ。ちなみに私は中学三年生、まだ高校生じゃないわよ」


 会話の流れで、少女の学年を知ってしまう。
 だから私も、少女に自分の学年を打ち明けた。


 私の学年を聞いた少女は、目を大きくして驚いていた。


「へぇー、中三なんだ。なんだか大人っぽいね、おねーさん」
「そうよ。だから、目上の人には敬語で話さないとダメよ」
「えぇー敬語めんどくさい」


 敬語を使わない少女にそう注意するが、少女は不満気な表情だった。


「ダメよ、大人になったときに困るから」
「説教臭い……そんなこと言うおねーさんには道教えてあげないからね!」
「ごめんなさい私が悪かったです! お願いだから道を教えて!」


 道を教えてくれないと、本当に困る。
 こればかりは仕方ない。


 不本意ではあるが、年下相手に下に出る。


「どうしよっかなー? おねーさんがどうしてもって言うなら、教えてあげよっかなー?」
「お願いします! この通り!」


 口調から、からかっているのは承知なんだけど、それでも道を教えてもらうしかなかった。


 私は少女に頭を下げてお願いする。
 年下に頭を下げるなんて、普段の私ならありえない。


「じょ、冗談だって! 顔上げてよおねーさん!」


 やはり冗談だった。
 このガキ……後でとっちめてやる。


「それで、どこに行きたいの?」
「えぇっと、ミカンだったかな? そんな感じの旅館」


 少女の問いに答えると、少女はこれ以上ないほど呆れたような表情で私を見つめた。
 仕方ないじゃないか、旅館の名前なんて覚えていない。


 何か閃いたように、少女が顔をハッとさせた。


「ミカンって……あっ、もしかして松実館(まつみかん)?」
「そうそう、それよ! 松実館! 知ってるの!?」


 少女の言葉で思い出した。
 宿泊先に選んだ旅館は松実館だった。


「友達の家なんだ! おねーさん、もしかして旅行で来たの?」
「そうよ、家族旅行」


 もはや家族旅行と言っていいのかわからない位、ひどい有様ではあるけど。


「学校サボって?」
「まぁ、サボりで合ってるわね」


 今日は平日。通常なら学校がある。
 しかし、学校より家族の時間を大切にしたかったのだ。


「うわー、おねーさん不良ってやつだー」
「不良じゃないわよ! いいから早くその松実館までの道教えてよ!」


 いつまで経っても道を教えてくれない少女に吠える。


 すると少女はあっけからん顔で、こう言ってのけた。


「あぁ、松実館なら帰り道の途中にあるから、案内してあげる」
「本当!? ありがとう! えぇっと……」


 思わぬ幸運に、私は歓喜する。


 案内してくれるという少女にお礼を述べるが、続きの名前がわからない。



(あこ)だよ、新子(あたらし)憧。私の名前」



 言葉に詰まっていると、察してくれたのか、少女が自ら名乗ってくれた。


「憧ちゃんね、可愛い名前じゃない。私は――」


 名乗ろうとして、思い出す。


 既に両親の離婚は成立していて、私の親権は母親にあることを。
 名字が変わってしまったことを。


 でも、この家族旅行の間だけは――


「――私は、上埜久(うえのひさ)。よろしくね」


 旧姓を名乗ることを、許してほしい。


「じゃあ久、案内するからちゃんと付いて来てね! じゃないとまた迷子になるよ!」
「もう迷子にならないわよ! あっ、憧ちゃん待って! 置いていかないで!」
「久が遅いんだよ! 早く来ないと置いてっちゃうよ!」
「憧ちゃん、待ってー!」


 走って遠ざかっていく、ついさっき出会ったばかりの少女――憧ちゃんを、私は必死に走って付いていくのであった。




***




 昨日出会った少女――憧ちゃんに案内され、私は無事に両親の待つ松実館にたどり着いた。


 憧ちゃんにお礼を言って別れ、両親のもとへ戻ると、両親は帰ってきた私に無関心だった。


 何も話しかけてくれなかった。
 どこに行ってたんだ。心配してたんだぞ。
 そんな言葉すら、かけてくれなかった。




 起床する。
 旅館で目覚める朝というのも、なかなかに新鮮だ。


 しばらくすると両親も目を覚ました。
 支度をして、三人で朝食の用意されている広間へと向かった。


 朝食の席でも、両親は言い争っていた。
 目玉焼きに醤油かソースかなんて、どっちでもいいじゃないか。


 そんな下らないことですら、本気の喧嘩を繰り広げる両親。
 広間にいる他の宿泊客からの視線が、私に寄せられる。


 それは、同情の視線。
 両親の口論の間で板挟みになっている私への、哀れみの感情。


 その視線が、ものすごく嫌だった。


 私は早々に朝食を平らげ、未だ言い争っている両親を残し、広間をあとにした。




 その後、部屋に戻って着替え、外出の準備を済ませたら、私は松実館の外に出た。


 まだ朝の八時過ぎ。
 子供達が通学している姿が、チラホラと見受けられる。


 今日は、何をしようか。
 勢いに任せて旅館を出てきたけど、何も決まっていなかった。


 サイフとケータイは持っている。
 昨日のような失態はしない。


 さて、これからどうしようか。


「あれ、久?」


 予定を思案していると、声をかけられた。


 初めて訪れるこの地で、私の名前を知っているのは――


「憧ちゃん、おはよう」


 彼女、新子憧だけだ。


「おはよう。こんな朝早くから何してるの?」
「うーん……散歩?」
「うわー、年寄りくさー」


 この憧ちゃん。私より二つ年下なんだが、どうも私に対して遠慮がない。
 昨日初めて出会ったときも、こんな感じで人懐っこい子だった。


「悪かったわね。憧ちゃんは、これから学校?」
「うん。不良の久とは違って、私は真面目だから」


 えっへん、と聞こえそうな自慢気な表情をして、憧ちゃんは胸を張る。


「久は、これから観光?」
「……ええ、そのつもりよ」
「一人で? お父さんとお母さんは? 家族旅行なんでしょ?」


 一人でいる私に疑問を抱いたのか、憧ちゃんにそう尋ねられる。


「お父さんとお母さんは、疲れたちゃったみたいなの。だから一人で観光よ」
「ふーん、そうなんだ」


 ついつい、嘘をついてしまう。
 家庭の事情なんて、昨日出会ったばかりの彼女に話すことではないし。そもそも正直に話したところで、変な気を遣わせるだけだ。


「じゃあ、私が久の観光に付き合ってあげる!」


 何を思ったのか、憧ちゃんは唐突にそんな提案をした。


「いやいや、学校なんじゃないの?」
「サボる!」
「いや、私が言えることじゃないけど、ちゃんと学校には行かなきゃダメよ?」
「いいの! こう見えて私頭いいから、一日休んだって大丈夫なの!」


 そういう問題じゃないんだけど……。


「あぁもう! 私が付き合うって決めたからいいじゃん! 久には関係ないでしょ!」


 久には関係ない。
 そう言われて、胸がチクリと痛む。


 昨日、両親にも言われた言葉。
 そう言われてしまっては、私には何も反論することができない。


「……ふん、好きにすればいいじゃない」
「やったー! ねぇねぇ、どこ行くの!?」
「別に、どこでもいいわよ」


 半ば諦めたような私とは対照的に、あからさまに喜びを見せる憧ちゃん。
 学校をサボることが、そんなに嬉しいのか。


 そういえば、憧ちゃんは制服だった。
 さすがに、この姿のままで一緒に行動するのはマズい。


「まずは、その服をなんとかしないとね」
「服? あっ、制服のままだとマズいもんね」


 憧ちゃんはすぐに私の意図に気づく。
 瞬時に理解できるなんて、本当に頭が良い子なんだろう。


「そうね。だからまずは、憧ちゃんの服を買いに行きましょう」
「えっ、いいよそんな。家に帰って着替えてくるから」
「今から帰って、両親になんて説明するの? 学校サボって遊んできます?」
「うっ、たしかに……」


 私の指摘に、憧ちゃんはガックリと肩を落とした。
 頭が良いのか悪いのか、よくわからない。


「でしょ? だから服を買いに行くの」
「でも私、そんなにお金もってない……」
「いいわよ、久おねーさんが買ってあげる」
「本当!? ありがとう、久!」


 あえて自分のことを久おねーさんなんて言ってみたのに、目の前の少女はそう呼んではくれなかった。


 しかも、私が買ってあげると言うやいやな、すぐさま食いついてきた。
 まったく、現金な少女だ。


 自分から言いだした手前、買ってあげるつもりだけど。
 サイフの中にはそれなりに入っているし、大丈夫だろう。


「ほら久、早く行こうよ!」


 よっぽど楽しみなのか、憧ちゃんが先に歩いていく。
 洋服店の場所は知らないし、先導してくれるのはありがたいのだけれど。


「あぁもう、待ちなさい!」


 私を置いていくのは勘弁してほしい。
 でないと、昨日みたいにまた迷子になってしまう。


「久おそーい! 早く早く!」


 先を行く憧ちゃんを見失わないよう、私は必死に歩いて追いかけるのであった。




***




 昨日、公園で道を訪ねてきた、二つ年上のおねーさん――上埜久。


 今朝、通学途中でまたしても出会い、私は学校をサボって久の観光に付き合うことを決めた。


 久の印象を一言で言うと、カッコいいだった。


 おさげのように両肩あたりで結ばれた、長い赤色の髪の毛。
 私より頭ひとつほど高い背丈。
 そして何より、落ち着いた大人の雰囲気を漂わせる。そんな大人のおねーさんだった。


 昨日、久と公園で話をしてわかったことがある。
 久と会話をするのは、とても楽しい。


 敬語を使わない私に怒りもせず、自然と受け入れてくれる。
 だから私も、年上の久に対して自然なやり取りをすることができた。


 それが、なんだか心地良くて。


 気がつけば私は、久みたいな女性になりたいと、憧れすら抱いていた。


 だから今日、松実館の前で久を見つけた時も、ついつい声をかけた。
 そして、学校をサボってまで久と一緒にいることを選択した。


 久も学校をサボって旅行に来たのだから、彼女に近づくために私も同じようにしたまでだ。




 そうして、学校をサボった私は久と少し遠出をして、市街地の方までやって来た。


 そこにあるショッピングモールに入り、洋服店で服を選んでいる。
 久が買ってくれるというので、ありがたく買ってもらうことにしたのだ。


「ねー久、どれがいいと思う?」
「……安いのにしてよね」


 久はサイフの中身を確認しながら言う。
 もちろん、買ってもらう手前、それほど高いものには手を出さないつもりだ。


 私は今、制服の上に久の着ていたパーカーを羽織っている。
 これすると学校をサボっていると、見られないと、久が貸してくれたのだ。


「早く選んでよね、この格好恥ずかしいんだから」


 だから久は今、上はオシャレなTシャツ一枚だけという格好だった。
 けっこうピッタリめの服で、久のスタイルがクッキリと浮き彫りになっている。


 腰のくびれがハッキリと見てとれ、大きくはないが形のいい胸も衣服越しに目立っている。


 私は久みたいにスタイルがよくない。
 まだ中学一年生というのもあるが、久みたいなクッキリとしたくびれもなく、胸だって膨らんでいない。


 同い年でとてつもない胸をしている女の子を知っているだけに、子供体型の自分が悔しくなる。


 その子みたいになるのは、どう足掻いても無理だとわかる。
 だからいっそう、久のスタイルに私は憧れを抱いた。


「うーん……ねぇ、久が選んでよ」
「私が?」
「うん。久ってスタイルいいし、服もオシャレだし。私、久みたいになりたいな」


 そう言うと、久は困ったように眉をひそめた。


「私みたいになっても、良いことなんてないわよ?」
「いいの、私が久みたいになりたいって思ったんだから」


 すると久は、少し考えて、一着の服を手にとった。


「これなんか、憧ちゃんに似合うんじゃない?」


 久がとったのは、少し派手めな黒のTシャツだった。
 シンプルなものが好きな私だと、まず選ばないようなものだった。


「わかった、それにする」


 決断は早かった。
 これを着れば、少しだけ久に近づけるような気がしたから。


「あとは……その上にこのピンクのカーディガンなんてどうかしら? これから寒くなってくるから、制服の上からでも着られるわよ?」


 制服の上からでも着られる。
 久の小さな気遣いが、私は嬉しかった。


「うん、じゃあそれも買う」
「お金を出すのは私だけどね」


 ガックリと肩を落とす久だが、心底嫌がってるというわけではないと思う。
 ていうか、こんなに良くしてもらって、申し訳なくなってくる。


「あとは、それに合うようにスカートを選んで……これなんか良いんじゃない?」
「うん、それでいい」


 今のところ全てに頷いているけど、私はその全てが気に入っていた。


「……本当にこれでいいの?」
「うん、久が選んでくれたのなら、何でもいいよ」
「何でもって……人の意見にハイハイ頷くだけじゃダメよ? 少しは自分の意見も持たないと」


 あまりにも素直すぎたのか、久が呆れた様子で私を見つめた。


「大丈夫。私、割と言いたいことはハッキリ言う方だから。久の選んでくれたものなら受け入れる、それが今の私の意見なの」


 まっすぐに久を見つめ、私はそう言った。
 それが今の私の、嘘偽りない本心だから。


「そう。じゃあ、試着してきなさい」
「はーい」


 久から服を受け取り、私は試着室へと入っていった。


 制服を脱ぎ、久に選んでもらった服に着替える。
 鏡を見て、変わった自分の姿を確認する。


 服はオシャレなんだけど、今の私には不釣り合いなように感じた。
 私自身が幼すぎて、服に負けているような気がする。


 カーテンを開け、久にも見てもらう。


「……どう?」
「うーん、やっぱり憧ちゃんにはまだ早すぎたかな。服に着られてる感じがするわね」


 やっぱり、久も同じような意見だった。


「髪型かな……今の髪型だと、少し子供っぽいのよね」
「ううっ……知ってるわよ」


 やはり今の短い髪は、子供っぽいのか。


「憧ちゃんの場合、髪を伸ばしたほうが似合うと思うわ。顔は可愛いほうなんだし、伸ばせばきっと似合うわね」
「わかった、髪伸ばす」


 久も髪が長いし、髪は女の命とも言う。


 私はこの時、髪を伸ばす決心をした。


「体型は、これから段々変わっていくから心配しなくても大丈夫よ。数年後にはきっとスタイルもよくなるわ」
「うん、頑張る」
「うんうん、憧ちゃんは素直でいい子ね」


 フワッと、温もりに包まれた。
 気がつくと久が、私の頭を撫でていた。


「な、撫でるなー! セクハラで訴えるぞ!」
「おぉ、怖い怖い」


 おどけるように怖がりながらも、久は私の頭を撫で続けた。


「うぅ……ふきゅ」


 やばい、変な声もれた。


 嫌だといいつつも、それほど嫌なわけではなかった。
 久の手は温かくて、撫でられていて心地良かった。


 やがて、久の手が頭から離れる。


「あっ……」
「なに? もっと撫でてほしかった?」
「べっ別に! そんなわけないし!」
「そう。じゃあ会計に行きましょう。約束通り、その服買ってあげるから」


 本当はもう少し撫でてほしかったけど、恥ずかしくてつい嘘を言ってしまった。


 それから試着室を出て、私は久に服を買ってもらった。




***




 気づけば昼過ぎとなり、私は久と昼食をとることになった。


 先ほど久に買ってもらった服に着替え、気分はとてもいい。


 久は私に貸していたパーカーを着て、さっきまでのTシャツ姿ではなくなった。
 もう少しさっきまでの久を見ていたかったけど、本人が恥ずかしがっていたので仕方ない。


 今はショッピングモール内のファミレスに入り、二人で昼食をとっている。


 ここでも私は、久にお金を出してもらうことになった。


 昼食を食べるお金ぐらいは持っているのだが、久は自分が払うと言って聞かなかった。


 私は素直に久の厚意に甘えることにした。


 メニューは、久と同じものを頼む。


 久は好きなものを食べていいのよ、なんて言ってきたけど、久と同じものが、今私が一番食べたいものだった。


「憧ちゃんって、部活とかしてるの?」


 パスタをフォークで巻きながら、久が尋ねてきた。


「麻雀部に入ってるよ」
「麻雀か。それじゃあ私と一緒ね」


 久がニッコリと笑う。
 私は、久と一緒という事実が、何だか嬉しかった。


 フォークに巻いたパスタを、久が口に運ぶ。


「久も麻雀部なんだ。強いの?」
「んー……強いんじゃない?」
「へぇー、どれくらい?」
「どれくらいって言われても……そんなのわからないわよ」


 パスタを咀嚼しながら、久は困ったようにそう答えた。


「プロより強い?」
「さすがにそこまで強くないわ。同学年の人と比べたら、そこそこ強いんじゃない?」
「ほぇー」


 そう語る久の表情は、自信に満ち溢れていた。


 その自信がどこから来ているのか、私は知りたいと思った。


 私には、自信がないから。


 一つ上には、ドラを独占する子がいる。
 同学年には綺麗なデジタル打ちをする子と、猪突猛進といった力強い麻雀をする子がいる。


 そんな人たちと比べて、私には何があるのだろうか。


 わからない。
 でも、久と麻雀を打つと、何か掴めるような気がする。


「ねぇ久、今から雀荘行かない? 私、久と麻雀したい」
「えぇー、今から?」
「お願い! この通り!」


 手を合わせ、頭を下げて久にお願いする。


「はぁ。いいわよ、一緒に打ってあげる」
「本当!? ありがとう、久!」
「いいのよ。……っとごめん憧ちゃん、ちょっと電話出るね」


 久のケータイが鳴って、久が電話にでる。


 電話で話している久の表情はとても嬉しそうで、声も弾んでいた。


 お父さんとお母さんという言葉が聞こえてきたから、きっと電話の相手は家族なんだろう。


 電話が終わり、久がケータイを閉じた。


 そして私を見て、久は申し訳なさそうな顔をした。


「ごめん、憧ちゃん! お父さんとお母さんが仲直りして、今から三人で観光しないかって。私今すぐ戻らないと!」


 久が頭を下げて、私に謝ってくる。


 仲直りって、久の両親は喧嘩でもしていたのだろうか。
 今朝、久から聞いたのは、疲れているってことだったのだけれど。


 何にせよ、久が家族との時間を大切にしたいってことは、十二分に伝わってきた。


「いいよ。じゃあ松実館に戻ろっか」
「本当にごめんなさい。またいつか、麻雀打ちましょう」
「わかった、約束だよ」
「うん、約束」


 久が右手の小指を立てて、私に近づける。
 それを見て私も、同じように右手の小指を立てて、久の小指に絡ませた。


『指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます! 指切った!』


 約束を交わす。


 自信をもって自分を強いと言う久。
 そんな彼女に並べるように、隣に立てるように、これから麻雀もオシャレも頑張っていく。


 昼食を食べ終え、店を出る。
 会計は、前言通り久が払ってくれた。


 今日は、何から何まで久にもらってばかりだった。
 お金がなかったので仕方ないけど、この恩はいつか何かの形で返さないといけない。


「憧ちゃん、ケータイもってる?」
「もってるけど、学校にもっていくのはダメだから、家に置いてる」
「そう。じゃあ、これあげるわ」


 久から一枚の紙切れを受け取る。
 そこには、アルファベットと数字が羅列して書かれてあった。


「私のメールアドレス。よかったら、いつでもメールしてきなさい」
「うん……! 家に帰ったらメールするね!」


 久のメールアドレスを手に入れた。
 出会ってから二日しか経っていないが、私の憧れた大人っぽいおねーさん。


「さ、戻りましょうか」


 ショッピングモールを出て、電車に乗って私たちは松実館に帰っていく。


 松実館に着くと、久の両親と思わしき二人が久を待っていた。
 久は両親のもとへと戻り、私たちは別れの挨拶をする。


「憧ちゃん、色々とありがとうね。楽しかったわ」
「私の方こそ、ありがとう。私も久と一緒に過ごした時間は、楽しかったよ!」


 久と過ごした時間は、本当に楽しかった。
 今日は、今まで経験したことのない経験をさせてもらった。


 やっぱり私は、久のようになりたい。


 これから麻雀も強くなって、オシャレになって。
 いつか胸を張って、久の隣に立つんだ。


「それじゃあ……またね」
「うん……またね」


 サヨナラとは言わない。
 また、どこかで会えることを信じて。


 家族で出かけていく久を見送る。
 その姿が見えなくなるまで、ずっと。


 やがて久の姿が見えなくなると、私は自分の家に帰っていった。




 その日の夜、久にもらったメールアドレスにメールを送ろうとしたが、なぜかメールが送信できなかった。


 たぶん、渡されたメールアドレスがどこか間違っていたのだろう。


 まったく、久はおっちょこちょいなんだから。




 メールは送れなかったが、寂しくなんてない。




 またどこかで、会えると信じているから。




――――――


――――


――




 長くなった自慢の髪を、櫛で梳く。


 いつものツーサイドアップの髪型に結び、手鏡で身だしなみを整える。


 今日はインターハイの決勝。
 その中堅戦がこれから、始まろうとしていた。


「なんか憧、いつもより気合い入ってるね」
「シズ……当然でしょ! 何たって決勝戦なんだから!」
「そうだね! やっと(のどか)と遊べるんだよね!」
「もち!」


 また和と遊ぶんだ。
 その一心で私は阿知賀に進学し、シズたちと麻雀部をつくり、ついにインターハイの決勝までやって来た。


 でも私には、もう一つの目的があった。


 シズたちには話していない。
 私だけの、大切な思い出。


 憧れたあの人に、久しぶりに会えるのだ。


「でも憧、いつもよりオシャレに気合い入ってない?」
(あらた)ちゃん、それはね。いつもよりテレビ映りを気にしてるんだよ!」
「ちょっと(くろ)、テキトーなこと言わないでよ」


 でも、いつもよりオシャレに気合いを入れているのは事実。


 あの人に会いにいくのに、中途半端な格好だけはしたくないから。


「うんうん、気合いが入ってるのはいいことだ。頼んだぞ、憧!」
「任せて晴絵(はるえ)! 思いっきりカマしてくるから!」
「憧ちゃん、あったかーい」
宥姉(ゆうねえ)……ありがと!」


 麻雀部の仲間から、激励を受ける。


 気合いも入った。
 準備もできた。


「それじゃあ、行ってくる!」


 仲間に見送られ、控え室を出る。


 あの人がいなくなってから、私は努力した。


 麻雀もオシャレも、あの人の隣に立てるように研鑽を重ねた。


 あの人は私のことを覚えているのだろうか。


 わからないけど、覚えてないなら思い出させるまでだ。


 そんな決意を胸に、私は決勝戦が行われるステージへと向かった。




***




 コツ、コツ。
 ローファーが床を踏む音がして、私は閉じていた目を開いた。


 思い出していたのは、三年前の記憶。


 家族旅行で訪れた奈良で出会った、一人の女の子。


 これからその子と、再会する。


 そういえば、初めて会ったときも、今みたいなローファーの音がキッカケだった。


 足音が、だんだんと大きくなる。


 この場には未だ私ひとりだけ。
 対戦相手の誰かが来たことは明らかだ。


 音の方向に目を向けなくても、私はその足音の持ち主が誰なのか、確信していた。


 音が最大限大きくなり、やがて聞こえなくなった。


「……久しぶり、久。私のこと覚えてる?」


 懐かしい声がして、目を向ける。


 あぁ、やっぱり彼女だ。


「久しぶり、憧ちゃん。大きくなったわね」


 久しぶりに目にした生身の憧ちゃんに、ふと目頭が熱くなる。


「よかった、覚えててくれたんだ」


 憧ちゃんは、若干涙声になりながらホッとしたように呟いた。


 そんなの、忘れるなんてあり得ない。


「もちろんよ。髪、伸びたわね」
「うん。久は、髪切ったんだね」


 憧ちゃんとの久しぶりの会話。
 なんだか、胸の奥が熱くなる。


「ほんとよく、私のこと覚えててくれたのね。名前変わっちゃったのに」


 出会ったとき、私は憧ちゃんに“上埜久”と名乗った。
 そのときにはもう竹井久だったのだけれど、私は上埜と旧姓のほうを名乗ったのだ。


「そんなの、顔を見ればわかるわよ」


 その言葉に、胸がジーンと熱くなる。


 あの時の記憶は、三年経った今でも色褪せずに強く、私のなかに残っている。


 憧ちゃんも同じだったのだと考えると、嬉しさがこみ上げてくる。


「ねぇ、あの時くれたメアド、間違ってたんだけど」
「嘘っ!? ごめんね! あぁ、それでいつまで経っても憧ちゃんからメール来なかったんだ」
「本当、しっかりしてよね」
「うん、ごめんね」


 出会った時の別れ際、私は憧ちゃんにメールアドレスを渡した。


 それからいつまで経っても憧ちゃんからメールが来なくて、私のことなんて忘れたのだと思っていたけど、まさかメールアドレスが間違っていたなんて。


「許さないわよ、久。罰として――」


 憧ちゃんはニヤリと口元を緩めて、少し顔を赤くして、言葉を続けた。


「あの時みたいに、頭撫でて……」


 そう言ったときには、憧ちゃんの顔はトマトのように真っ赤だった。


「ごめん、やっぱ今のなし――ふきゅ」


 なかったことにしようとする憧ちゃんの、頭を撫でる。
 あの時撫でたときと同じように、憧ちゃんから変な声がもれて懐かしくなる。


「ねぇ、私、可愛くなった?」
「うん、見違えるほど可愛くなったわ」
「このカーディガン、覚えてる?」
「もちろん覚えてるわよ、私が買ってあげたものよね」


 甘えてくるように質問を重ねる憧ちゃん。


 外見は見違えるほど可愛くなったけど、中身はあの時から変わっていない。


「あの時の約束、果たせてよかったわ」


 最後に交わした、憧ちゃんと一緒に麻雀する約束。


 あの時は両親との時間を優先してしまったが、こうして三年越しに果たすことができた。


「そうだね。私、強くなったから」
「知ってるわよ。憧ちゃんの試合、ずっと見てたから」
「……ありがとう」


 憧ちゃんがインターハイに出場してると知ったのは、阿知賀が注目された準決勝のときだった。


 それから憧ちゃんの前の試合を何度も見返したけど、かなりの実力をつけていた。


 きっと、相当な努力をしてきたのだろう。


 ギィっと扉が開く重たい音がして、他の対戦相手二人が入ってきた。


「さて、そろそろ始まるわね。負けないわよ、憧ちゃん!」
「私も、久には負けないから!」


 私と憧ちゃん、やって来た他の二人も卓につく。




『インターハイ決勝、中堅前半戦! スタートです!』




 約束の時間が、始まった。




 
 

 

キライ×キライ

 
前書き
原作:ラブライブ!
百合、ことえりです。 

 


第一印象は最悪だった。
毅然としていて、どこか高圧的で、何でも一人でこなしてしまいそうなアナタ。
わたしが持っていないものを、わたしが望んでやまないものを持っているアナタの事が嫌いになった。

わたし達の一度目の出会いを思い出す。
声をかけてきたのは、嫌いになったアナタからだった。


「ねえ、ちょっといい?」
「あっ、はい!」

昼休み、わたしは校庭の木の下で穂乃果ちゃんと海未ちゃんとお昼ご飯を食べていた。
そこに突然やって来たアナタ。
わたし達の時間を邪魔するアナタが嫌い。

「南さん。貴女確か、理事長の娘よね?」
「あ……はい」
「理事長、何か言ってなかった?」
「いえ、私も今日知ったので……」
「そう……ありがとう」

聞きたい事だけを聞いて去っていくアナタ。
そんなアナタが嫌い。



第一印象は最悪だった。
優しそうで、どこか優柔不断で、後ろをついていく事の出来る友達を持っていた貴女。
私が持っていないものを、私が望んでやまないものを持っている貴女の事が嫌いになった。

一度目の出会いから時間が流れたある日の、何度目かの出会いを思い出す。
それは嫌いな貴女が講堂でライブをした時だった。


「どうするつもり?」

貴女達に問いかけた。
今思うと、本当は嫌いな貴女だけに問いかけたのかもしれない。

「続けます!」

貴女の隣にいる友達が答える。
そうやって頼れる人の後ろに隠れている貴女が嫌い。

「何故? これ以上続けても意味があるとは思えないけど」
「やりたいからです!」

私にはやりたい事を自由にできない。
やりたい事を自由にできる貴女は、まるで翼で大空を自由に羽ばたく鳥のようで。
そんな貴女が嫌い。


そうやってわたし達の邪魔をするアナタが嫌い。
アナタもわたしと同じ、廃校を何とかしたい思いのはずなのに。

わたしと全く同じ気持ちを持つアナタ。
同じのはずなのに一人で何とかしようと頑張るアナタ
わたしには出来ない事を平然とやってのけるアナタが嫌い。




アナタがわたし達の仲間になった。
仲間に誘われた時、嬉しそうに泣いていた。
いつも一人で強い人だと思ってたのに、涙を見せるアナタが大嫌い。


私は貴女達の仲間になった。
今まで散々嫌な事を言ってきたのに、貴女は笑顔だった。
そうやって私にとっても素敵な笑顔を向ける貴女が大嫌い。




貴女が何か悩んでる様子だった。
仲間と訪れた秋葉原で偶然出会った貴女はメイド喫茶で働いていた。
私に隠し事をしていた貴女、やっぱり嫌い。

「自分を変えたいなって思って……」

変わる必要なんて無いのに。
そのままの貴女でいいのに変わろうとする貴女、やっぱり嫌い。

「私はただ、二人について行ってるだけだよ……」

自分の事を貴女はちゃんと理解していた。
ふわふわしている印象だったけど本当はしっかりしていた貴女、やっぱり嫌い。



わたし達は合宿に行く事になった。
みんなのまとめ役を自然とこなすアナタ、やっぱり嫌い。

「これからは先輩禁止よ」

みんなに気を遣ってアナタはそう打ち出した。
孤高でかっこいい人だと思ったらそういう気配りができるアナタ、やっぱり嫌い。

「二人とも可愛い~」
「流石にこね」

合宿の間、アナタは何故かわたしの隣にいる事が多かった。
隣にいてほしくないのに不思議とわたしを落ち着かせるアナタ、やっぱり嫌い。



わたしが海外に留学する事になった。
ライブの練習に夢中で私に気を掛けてくれないアナタ。
嫌い。

「ことりが留学する事になりました」
「行ったきり、戻って来ないのね?」

わたしに行かないでほしいと言ってくれないアナタ。
嫌い。



貴女が日本を発つ日になった。
仲間の後ろにいる事をやめ、夢に向かって羽ばたこうとする貴女。
嫌い。

「ことり!」

留学を取りやめ戻って来た貴女に、私はいの一番に声をかけていた。
天使のような笑顔を見せて、私をドキドキさせる貴女。
嫌い。





「ねえ、絵里ちゃん」
「ことり、どうしたの?」


アナタ/貴女と二人で歩く帰り道。

アナタ/貴女と固く繋がれた手が熱い。


「わたしの事、どう思ってる?」
「なに、今更それを言わせるの? そう言うことりはどうなのよ?」
「じゃあ一緒に言おっか」
「いいわね。せーので言うわよ」


わたし/私に無いものをもっているアナタ/貴女が。

わたし/私の世界に彩を与えてくれるアナタ/貴女が。



「「せーの!」」



わたし/私のことを大好きだと言うアナタ/貴女が。





「「――――」」




  

 

花咲く果実

 
前書き
原作:ラブライブ!
オリ主が登場します。 

 





 ――ずっと、その人のことが気になっていた。




 それは、私――高坂穂乃果(こうさかほのか)が中学三年生だった頃。


 四月のクラス替えで、その人とは初めてクラスメイトになった。


 しばらく時が経ち、クラスでのグループみたいなものが固まりつつあっても、その人はいつも一人だった。
 誰かと会話しているところを見た事が無い。いつも自分の席に座り、黙々と文庫本を読んでいた。


 見た目は悪くない。スラッとしていて、むしろカッコイイ方だったと思う。


 いつも一人でいるその人を、私は密かに目で追っていた。
 一度、海未ちゃんとことりちゃんに気付かれて取り乱した事もあったけど、それでも私はその人を横目で眺め続けていた。


 熱心に本を読むその姿は何だか神秘的で、人を寄せ付けない雰囲気があった。


 でも、どうしていつも一人なんだろうと私は疑問に思った。
 みんなで一緒にいる方が楽しいのに。


 でも私は、その人にそれを言おうとは思わなかった。いや、言えなかった。
 他人を寄せ付けない雰囲気の中、珍しく私は話しかける事を躊躇ってしまった。


 それに……不思議だけど、その人には一人でいる姿が似合っていた。


 みんなと一緒にいる方が楽しい私と、一人でいる姿が似合う彼。




 ――きっと私は彼と、仲良くなれないのだろう。




 結局、クラスメイトだった中学三年生の一年間。私と彼が会話する事はなかった。




 そして、私は高校二年生となった。




***




 μ’s(ミューズ)の練習が終わった後、私は実家の和菓子屋『穂むら』の仕事を手伝っていた。
 手伝うといっても、カウンターに座ってレジや接客をするだけの簡単な仕事だ。


 今日はあまり客が来ないまま、そろそろ閉店の時間になろうとしていた。


「……もうお客さん来ないだろうし、お店閉めちゃおっかな」


 少し早いけど、私は店のシャッターを閉めようとカウンターから出ようとした。


 その時だった。


 一人の男性客が、店に入って来た。


「いらっしゃませー!」


 まだ接客をしなければならない事に、私は少しだけ肩を落としたが、仕事は仕事。そこはきちんと接客をする。


 再びカウンターに戻り、暇だったので男性客に視線を向けた。


 近所の共学校の制服を着た、背の高いスラッとした男子高校生。
 そして端正なその顔立ちに、私はどこか既視感を覚えた。


「すいません、会計お願いします」


 その人がカウンターに商品を置き、私にそう言った。


 ただの店員と客のやり取り。
 けど、その声を聞いて、私は彼が誰だったか完全に思い出した。


「あれ? 高坂……だよな?」


 先に彼が私を見て、思い出したように口にする。


高槻(たかつき)君……だよね? 中3の時、クラスメイトだった」


 私も彼の顔を見てハッキリとそう言う。
 この時の私は、彼が高槻君だとほぼ確信していた。


「ああ、やっぱり高坂か。俺の事なんてよく覚えてたな」
「だって高槻君、目立ってたから」
「目立ってたか? 割と大人しくしてたと思うんだけど」
「いやぁ、大人しすぎて逆に目立ってたっていうか……よく分かんないけど、そんな感じ」
「ああ、そういう事か。納得」


 そう言って高槻君は笑った。
 彼の笑うところを始めて見て、私は少し得したような気分になる。


 高槻実弦(たかつきみつる)、それが彼の名前。


 中学三年生の一年間だけ、私たちはクラスメイトだった。
 その時、私は高槻君と会話した事なんて無かったから、今こうして自然と会話しているのが不思議だ。


「そういえば、高坂ってここで働いてるんだな。バイト?」
「ううん。ここ、穂乃果の家なんだ」
「へぇー、ここ高坂ん()だったんだ」
「うん! だから穂乃果、手伝わされてるの!」
「手伝わされてるって、嫌々やってるのかよ……」


 そう言って高槻君がまた笑った。それに釣られて私も笑ってしまう。
 高槻君との会話は、新鮮で楽しい。μ’sのみんなとの会話とはまた違った面白さがある。


 こんなに楽しいと知っていたら、中学の時に話しかければ良かった。
 ふと、そんな後悔の念が押し寄せる。


「そうだ、高坂ってどこ通ってるんだ?」


 高槻君が私に尋ねる。
 何だか、彼が私の事を知ろうとしてくれているみたいで嬉しい。


「音ノ木坂だよ! ことりちゃんと海未ちゃんも一緒なんだ!」
「ことり、海未……あぁ、いつも一緒にいたあの二人か」
「うん! それでね! 穂乃果、ことりちゃんと海未ちゃんと、音ノ木坂で出来た友達と一緒に、スクールアイドルやってるんだ!」


 久しぶりに高槻君に会えたからか、私は舞い上がってついついそんな事まで言ってしまう。
 高槻君に、もっと私の事を知ってほしい。そんな欲求が不思議と湧いてくる。


「アイドル……」


 すると高槻君は表情を曇らせ、思いつめたようにそう呟いた。
 けど、私はもっと自分の事を知ってほしくて更に話を続けた。


「そう、μ’s(ミューズ)っていうグループなんだ! 高槻君知ってる?」
「いや、知らない」


 さっきまでとは違い、どこか冷めた口調で答える高槻君。
 私は何とか彼に興味を持ってもらおうと、一つの提案をした。


「そうなんだ……あっ、じゃあ見る?」
「見るって、何を?」
「スクールアイドルの穂乃果! 映像があるんだ!」
「……いや、いい」


 当然食いついてくると思っていた私は、断るという高槻君の反応に驚いた。


「えぇー! 何でなのー!?」


 だから私は、その理由を聞き出そうとした。
 すると高槻君は――


「アイドル、興味ないし」


 本当に興味が無いと感じさせる冷たい口調でそう言った。


 でも、実際に見たら興味を持ってもらえるだろう。
 だからつい、子供のような駄々をこねてしまう。


「何でなのー! 穂乃果が歌って踊ってるところ見てよー!」
「いや、だから……ったく、分かったよ。見ればいいんだろ、見れば」
「本当っ! 見てくれるの、やったー! じゃあじゃあ、二階の穂乃果の部屋で待ってて! 穂乃果もお店を閉めたらすぐに行くから!」
「あ、あぁ。でもその前に、これ会計してくれると助かる」
「あっ……ゴメンね、今するから!」


 言われて私は、高槻君がカウンターに置いていた商品の会計がまだだった事に気付いた。


 急いで会計を済ませると、私は高槻君を自室に案内した。
 それから店の前に閉店の看板を出して、私は高槻君の待つ自室に向かった。




***




 部屋に戻った私はパソコンを開き、高槻君と並んでμ’sの動画を見た。


 動画を見てる途中、私は何度も横目で高槻君の表情を伺った。
 μ’sの動画を見る高槻君は、よく分からなかった。


 楽しそうに見ている訳ではなく、かと言ってつまらなそうという訳でもない。
 ただ普通に、動画を見ているように感じた。


「ねぇ、穂乃果どうだった!?」
「……さぁ、俺にはよく分からなかった」
「むぅ……なんかこう、可愛かったとかさ!」


 薄い反応をする高槻君に、私はムッと頬を膨らませた。


 すると高槻君は、一際鋭い目つきで私を見てきた。
 その視線が何だか怖くて、私は少し気圧されてしまう。


「なに、高坂。俺に可愛いって思われたいの?」
「……」


 意地悪な質問。
 私はそれに何と答えればいいのか分からず、言葉に詰まった。


「……可愛くないね」


 あまりにも容赦無く、高槻君は私に向けてハッキリとそう言った。


「っ! ちょっと酷いよ高槻君! 穂乃果の目の前で言わなくてもいいじゃん!」
「じゃあ陰口ならいいの?」
「そ、そういう事じゃなくて……とにかくダメなの!」


 さっきまで楽しかった会話が一転、喧嘩になってしまう。
 思いもよらない言葉を浴びせてくる高槻君に、何だか調子が狂う。


「ふーん……図星だったんだ?」


 冷めた視線で私を見る高槻君。


「とにかく、俺はアイドルには興味ない……いや、アイドルが嫌いだから」


 アイドルが嫌い。
 その言葉がグサリと胸を抉った。


 アイドルが嫌いな高槻君と、アイドルが大好きな私。


 ――やっぱり私と高槻君は、仲良くなれないのかな。


 高槻君は腰を上げ、私の部屋から出て行こうとする。
 このまま高槻君と別れてしまったら、私は彼とずっと仲良くなれないだろう。


 私は、高槻君と仲良くなりたい。


「……そうだね、高槻君の言う通りだと思う」


 自分ではよく分からないけど、きっと高槻君の言った通りなんだと思う。


 ドアノブに手をかけたところで、高槻君は私に背を向けて立ち止まっていた。
 その男の子特有の大きな背中に、更に言葉を投げかけていく。


「穂乃果は、高槻君に可愛いって思ってもらいたいのかも」


 そう、全部高槻君の言った通り。


 中学三年生の頃から持ち続けた願望。


 私は、高槻君と仲良くなりたい。
 高槻君の事を、もっと知りたい。




 私は、高槻のことが――




「今気づいたの。穂乃果は高槻君のこと……ずっと前から好きだったんだって」




 あぁ、やっと言えた。




***




 ――ずっと、その人のことが気になっていた。




 太陽のようにいつも明るくて元気な、中学三年生の時のクラスメイト。


 気が付けば、彼女の事を目で追っていた。
 本を読むフリをして、横目でその人の姿を見追いかけていた。


 いつも一人でいる俺とは違う。
 彼女の周りには自然と人が集まってくる。


 まるで太陽の光を求めるように、誰もが彼女に吸い込まれるように。


 いつも明るく元気で、笑顔が可愛い人だった。


 きっとこの感情は、恋なのだろう。
 俺はその人に、恋をした。


 何度も彼女に話しかけようとした。
 一歩でもいい、彼女に近づきたかった。


 でも、俺にそんな勇気は無かった。


 いつも一人でいる俺と、いつも周りに人がいる彼女。




 ――きっと俺は彼女と、仲良くなれないのだろう。




 結局俺は、一度も彼女に話しかけられないまま、中学を卒業した。




 そして、高校二年生のある日。


 とある動画サイトで、偶然その人と再会した。
 動画の中の彼女は可愛い衣装を着て、歌って踊っていた。


 スクールアイドル、μ’s(ミューズ)


 その人は、アイドルになっていた。


 みんなに笑顔を振り撒き、みんなに元気を与える偶像。
 それでも、彼女の笑顔は以前より眩い光を放っていて。


 そのあまりの眩しさに、俺は目を逸らしてしまった。




 ――アイドルなんて、嫌いだ。




 俺にはその姿が眩し過ぎて、目を開ける事すら出来ないから。


 つい先ほど彼女に向けて放ったその言葉に、彼女は悲しそうな表情になる。


 違う。俺が見たいのは、そんな悲しい顔じゃない。


 本当は分かっていた。
 この感情が、ただの嫉妬だという事を。


 以前は、そのあまりの眩しさに目を逸らしてしまった。


 今日もまた、一度は逸らしてしまった。


 でも、今度こそ逸らさない。




「今気づいたの。穂乃果は高槻君のこと……ずっと前から好きだったんだって」




 後ろを振り向き、彼女を直視する。


 これがきっと、俺が彼女に――高坂穂乃果に近づけるラストチャンス。




「俺も……高坂のこと、ずっと好きだった」




 あぁ、やっと言えた。




***




「えっ……?」


 高槻君は、胸の奥から絞り出すように言葉を紡いだ。
 その言葉を聞いて、胸の奥に熱い何かが流れ込んでくる。


「高槻君、今なんて……」


 もしかしたら、私の聞き間違いかもしれない。
 そう思って私は再度、高槻君の言葉を聞こうとした。


「だから……俺もずっと好きだったんだよ、高坂のことが」


 その言葉を聞いて、私はホッと胸を撫で下ろす。


 良かった、私の聞き間違いじゃ無かったんだ。


「えへへ、高槻君も穂乃果と同じだったんだね」
「……そうだよ、悪いかよ」


 バツが悪そうに……いや、恥ずかしそうに高槻君はポツリと漏らした。


 今なら分かる。
 さっきまでの意地悪な態度は、恥ずかしかったからなんだと。


 愛情の裏返し。
 好きの反対は無関心だって、どこかで聞いた事がある。


「ううん……穂乃果、嬉しいなぁ……」
「お、おい、泣くなよ高坂」
「えっ……?」


 高槻君がオロオロと慌てて、私に指摘する。
 言われて初めて、私は涙が頬を伝っている事に気が付いた。


「あはは、おかしいなぁ……穂乃果、何で泣いてるんだろう……」


 止めようと思っても、一度堰を切った涙は止めどなく溢れ出てくる。


「ちょっ高坂、さっきは嫌な事言って悪かった。だから泣くなって」


 温もりのある優しい声色で、高槻君は私を心配そうに見つめる。


「ううん、違うの。穂乃果、嬉しいの。嬉しくて、涙が止まらないの」
「高坂……」


 高槻君に――好きな人に“好き”と言われる事が、こんなにも嬉しいものなんだって、私は知らなかった。


「ねぇ……高坂じゃなくて、穂乃果って呼んで?」


 高槻君に名前で呼ばれると、きっともっと胸が温かくなるだろう。


「…………穂乃果」


 あぁ、やっぱり嬉しい。


「……うん! ありがとう、実弦(みつる)君!」


 だから私も、彼を名前で呼ぶ。


 好きな人を名前で呼ぶのは少しだけ恥ずかしいけど、私まで嬉しい気持ちになる。


「……名前、知ってくれてたんだな」


 驚いたように実弦君は口にする。
 そんなの、覚えているに決まってる。


「もちろん! だって、好きな人の名前だよ。中学三年生の時から、一度も忘れた事なんて無かった」
「……そっか」


 実弦君は優しく微笑んだ。
 その表情は、嬉しさを噛み締めているように映った。


「俺たち、ずっと両想いだったんだな」
「……そうだね。えへへっ」


 何だか、胸の奥がむず痒い。


「私たち、これから恋人同士ってことでいいのかな?」
「あぁ、そうだな……」


 実弦君は確かめるようにそう呟く。




 そして――




「――穂乃果、俺と付き合ってくれ」




 答えはもう、決まっていた。




「うん! よろしくね、実弦君!」




 これで私たちは、晴れて恋人同士となった。
 その事実が、たまらなく嬉しい。


 もっと、もっと。


 もっと、欲しくなる。




「ねぇ……キスしよ?」




 そう言って、私は目を閉じた。


 じわじわと実弦君が近付いてくるのが伝わる。


 温かい両手が、私の両頬に触れた。
 同時に実弦君の手が私の髪に触れて、くすぐったくなる。


 ゆっくりと実弦君の顔が近付いてきて、その息遣いが聞こえてくる。




 そして、唇と唇が触れ――――








「お姉ちゃーん! 漫画の続き貸してー……おおおお姉ちゃん!? 何してるの!?」


 バタンと大きな音を立てて、妹の雪穂(ゆきほ)が部屋に入ってきた。
 実弦君はバッと勢いよく私から距離をとって、恥ずかしそうに立っていた。


「ゆ、雪穂!? こ、これは違うの! いや違わないんだけど……あぁもう、雪穂のバカー!」


 雪穂の邪魔が入らなければ、あのまま実弦君とキスできたのに。
 なんて空気の読めない妹なんだろう。


「バッ、バカはお姉ちゃんの方でしょ!」
「ていうか早く出て行ってよ! 雪穂がいたら実弦君とさっきの続きできないでしょ!」
「続きとか、お姉ちゃんやらしー!」
「やらしくないもん! あぁもう、早く出てってよ!」
「分かったよ出てくよ!」


 そう言って雪穂は部屋から出て行った。


 さて、実弦君とさっきの続きを――


「お母さーん! お姉ちゃんが部屋に彼氏連れ込んでイチャイチャしてるー!」


 部屋の外から、雪穂が大声でお母さんに伝える声がする。


「ごめん実弦君、また今度しよっ! 今日はありがとう! 穂乃果嬉しかったよ!」
「あ、あぁ……」


 状況が上手く呑み込めないのか、ただただ困惑している様子の実弦君。
 でも悪いけど、今は喧しい妹を黙らせる方が先だ。


「あぁもう、雪穂のバカー!」


 私は部屋を飛び出し、未だギャーギャー騒ぎ立てる雪穂を黙らせに向かった。

  

 

桜の音色に包まれて

 
前書き
原作:ラブライブ!サンシャイン!!
百合、ようりこです。 

 


 その音を耳にした瞬間、自分でも嫌というほど分かってしまった。

 その淡い桜の音色を、私が聴き間違えるはずがない。

「曜ちゃん……?」
「梨子ちゃん……」

 あまりにも突然すぎて、心の準備すらできていなかった。

 私の初恋のひと。
 十年ぶりに会った彼女は、少し大人びて見える以外、なにひとつ変わっていなかった。

 彼女の音色、声、姿。
 その全てが、捨てたはずの初恋を蘇らせようとする。

 ――ああ……私はまだ、梨子ちゃんのことが好きだったんだ。

 捨てたと思い込んでいた私の初恋は、どうやら完全には捨て切れていなかったみたいだ。




 四月の中旬。その場所を訪れたのは、本当にただの偶然だった。

 企業に所属するプロ高飛び込み選手の私――渡辺曜。その日、会社の上司との付き合いで、私はそこを訪れたのだ。

 ――近所に良いピアノバーがあるの、行ってみない?

 上司相手に断れるはずもなく、私はそのピアノバーを訪れた。

 中はランプの照らす仄かな明かりだけで薄暗く、全体的にオシャレな雰囲気の漂う内装。そんな高級感溢れる雰囲気をさらに引き立たせるように、店内にピアノの演奏が流れ始めた。

 カウンターで上司と飲みながら、私はその音色に耳を傾けていた。

 その音を聴いて、私はすぐに理解してしまった。グランドピアノを優雅に奏でているのが、誰なのかを。

 ピアノに隠れてその人の姿は見えないけど、その奥にいるのが誰なのか、私にはハッキリと分かる。

 どこか温もりを感じる桜色。それが、店内に響きわたる音色だった。私はその音色に懐かしさを覚えながら、演奏が終わるまで耳とグラスを傾けていた。

 やがてその音色が聴こえなくなると、店内にはパチパチと疎らな拍手が代わりに響いた。私は伴奏者に拍手を送りながら、十年前、まだ私が高校生だった頃を思い出していた。

 ――あの頃も彼女のピアノを聴き終わったあとは、こうして拍手していたっけな。

 観客たちの拍手に迎えられて、さっきまでピアノを弾いていた人物が立ち上がった。

 鮮やかなワインレッドのドレスに身を包んだ彼女は、久しぶりに会うことも加味してか、少し大人びた印象を受けた。

 彼女は拍手に応えるように、手を振りながら店内をぐるりと見渡す。

 そんな彼女の様子をまじまじと見続けていた私。やがて彼女が私のほうに視線を向けると、

「曜ちゃん……?」
「梨子ちゃん……」

 バッチリと目が合ってしまった。

 彼女の名は桜内梨子。高校の同級生で、青春を共に過ごした大切な仲間であり、親友。

 そして、私の初恋のひと。




 私にとって輝かしい高校生活。あれから十年が経ったが、その頃の記憶は今も色あせることなく、まばゆい輝きを放ち続けている。

 なかでも彼女が奏でるピアノの音色が好きで、毎日のように音楽室に足を運んでは、隠れながらこっそり聴いていたものだ。

 そうやって毎日聴いていた彼女のピアノの音色は、十年経った今でもその色を失っていなかったと、つい先ほど思い知らされた。

 音の色と書いて音色と言うように、音にはそれぞれ色があるのだと思う。

 彼女の音色は、淡い桜色だった。その優しい心と、彼女自身の清楚で綺麗な見た目を体現しているような、そんな桜色。

 毎日のようにその音色を聴いていた私の心は、いつしかその桜色に染まっていた。

 優しくて、純粋で、温かくて。
 そんな音色に包まれた私が、彼女に恋をするのは必然だった。

 だけど私は、その恋は叶わないものだと諦めた。女の子同士の恋愛なんて、上手くいくはずがない。告白なんてしたら、きっと彼女は困った顔を浮かべるだろうし、きっと私は距離を置かれるだろう。

 彼女とは友達のままでいい。会話をして、笑いあって。そんなふうに友達として同じ時間を共有できれば、それで十分幸せじゃないか。
 想いを告白して距離が離れるなら、その想いはそっと胸の内にしまって、鍵をかけておくべきだ。

 私の初恋は、そうして終わった。

 ――はずだったのに。

 大人になって、彼女の音色を聴いて、彼女の姿を見た瞬間、私はまだ彼女のことが好きなんだと思い知らされた。

 まるで彼女の奏でるピアノの音色が、厳重に閉じていた鍵をこじ開けたかのように。

 私に二度目の初恋が訪れた。




「梨子ちゃん、どうしてここに?」

 十年ぶりの対面。最初に口をついて出た言葉は、彼女がどうしてこのピアノバーでピアノを弾いていたのかという、そんな疑問だった。

 高校を卒業して違う大学に進学した私たち。しばらくは彼女とも連絡を取り合っていたけど、だんだんとやり取りは少なくなって、大学を卒業する頃には完全に連絡を取り合わなくなっていた。

 そんな彼女と、偶然訪れたピアノバーで再会するなんて、誰が予想できただろうか。

 少しロマンチックな言い方をするなら、神様がいたずらしたかのような、運命の巡り合わせ。
 運命だなんて言葉はあまり好きではないのだけれど、今日この場で再会したことは運命としか言いようがないような、そんな突拍子もない偶然だった。

「わたし、ここで働いてるの。今日みたいに毎晩ピアノ弾いたりして。昔は他のことも色々やったりしたけど……やっぱり私には、ピアノしかないんだって気づいたの」

 どこか申し訳なさそうに言いながら、梨子ちゃんはグラスを傾けた。

 ピアノを弾き終えた梨子ちゃんは、今はカウンターに私と隣り合って座り、カクテルを嗜んでいる。
 グラスを口に運ぶ仕草は妙にさまになっていて、高校生だった頃とはやっぱり変わっていて、あのときからの時間の経過というものをまざまざと痛感させられる。

「そういう曜ちゃんは、どうしてここに?」

 私がしたものと同じ問いが返ってくる。梨子ちゃんはいたずらに成功したような笑みを浮かべていて、彼女のそういう顔を見るのも久しぶりだなぁと、懐かしい気持ちになる。

「会社の上司との付き合いで、たまたま偶然。私と梨子ちゃんが知り合いだと知って、今は席を外してるけど」
「そうだったんだ。こんなところで会うなんて、ほんと偶然だよね。まるで運命みたい」

 どうやら梨子ちゃんも運命みたいだと思っていたみたいで、同じことを考えていた自分がなんだか嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが入り混じる。

 同じ思考をしていたなんて、彼女に知られたらなんて思われるのか、たまったもんじゃない。

 そんなことを思っていると、後ろからポンと肩を叩かれた。誰かと思って振り返ってみると、私をここに連れてきた上司だった。
 梨子ちゃんと再び会えることができたのはこの人のおかげなのだけれど、今は梨子ちゃんとの会話中。邪魔しないでもらいたい。

 ――渡辺、もう帰るぞ。

 そう言われ、私は梨子ちゃんの顔を伺う。

「私は毎日ここにいるから、よかったらまた来てね、曜ちゃん」

 そんなことを言われた。本当はもう少し話していたかったし、梨子ちゃんにもそう言ってほしかった。そう思ってしまう私は、自分勝手なんだと思う。

「うん、また来るね」

 本当に来るかどうかは定かではないが、私は梨子ちゃんの言葉にそう返した。すると梨子ちゃんはニッコリと微笑んだ。
 思えば彼女の笑う顔を見るのも、ずいぶんと久しぶりな気がする。十年ぶりに見た梨子ちゃんの笑顔は、昔と変わらず可愛くて。

 私はまだ彼女のことが好きなんだと、改めて強く実感したのだった。


***


「曜ちゃんって、今じゃ日本を代表する高飛び込みの選手じゃない?」

 カクテルの入ったグラスを傾けていると、唐突にそんな言葉を投げかけられた。

 梨子ちゃんと再会した翌日。仕事が終わった私は、梨子ちゃんの働くピアノバーに再び足を運んだのだった。

「そうだね。それがどうかしたの?」

 バーに行こうかどうか迷ったけれど、やっぱり今の私は梨子ちゃんに会いたいみたいだった。二度目の初恋を自覚したぶんだけ、その思いは強かった。

 実際バーを訪れて梨子ちゃんのピアノを聴いて、梨子ちゃんの顔を見ると、私の胸はドキリと高鳴ったのだから。

 高校生のとき、一度目の初恋をまだ捨て切る前の私が味わったあの感覚と同じ胸の高鳴りだった。

「テレビで曜ちゃんの活躍とか見るとね。なんだか曜ちゃんが遠い存在になったような気がしたの。だから昨日曜ちゃんに会って、お話すると昔と全然変わらなくて。やっぱり曜ちゃんは曜ちゃんのままなんだなって」

「なにそれ、なんか今日の梨子ちゃんヘンだよ」
「ふふっ、お酒飲んでるからかも」
「なんでもすぐお酒のせいにする、梨子ちゃんはダメな大人だ」

 他愛のないやりとり。そんな何でもない普通の時間が愛おしくて、まるで高校生の頃に戻ったような気分だ。
 でも私たちはもう大人になっていて。同じ時間を共有していた私たちは、それぞれ別の道を歩んでいる。今は離れ離れになった道が、偶然にも合流しただけ。
 梨子ちゃんと私を繋いでいるのは、このピアノバーという場所だけなのだから。

 今日の梨子ちゃんは淡い桃色のドレスを身に纏っている。ドレス姿がこのピアノバーでの正装なんだろうか、昨日も梨子ちゃんはワインレッドのドレスを着ていた。

 大人になってからの梨子ちゃんを、私は何も知らなかった。ピアノバーでピアノを弾いている事も、こんな綺麗なドレスに身を包んでいることも。
 他にもたくさん、私の知らない梨子ちゃんがいるのだろう。そう思うと、梨子ちゃんの全てを知りたくなってしまう。

「……そうだね。曜ちゃんに比べたら、私なんて……」
「いやいやゴメン! そういうつもりで言ったんじゃないから!」

 落ち込んだように言う梨子ちゃん。私は慌てて取り繕った。すると梨子ちゃんはふふっと笑みを零した。

「……ふふっ、冗談だよ。曜ちゃんは変わってないね。昔も今も、ずっと優しい」

 ――優しくなんてないよ。

 口から出かかった言葉を直前で飲み込む。
 私は梨子ちゃんの言うように優しいなんてことはない。むしろ自分勝手で傲慢な人間だと思う。

 高校生の頃、梨子ちゃんに恋をして、その恋を勝手に捨て去って。と思えば昨日梨子ちゃんと再会して、またあのときの恋が再燃してきて。
 どこまでも自分勝手な感情で、私自身も振り回されているのだから。

 結局私は、梨子ちゃんのその言葉に返事をすることができなかった。




 その次の日も、私は梨子ちゃんの働くピアノバーを訪れた。
 今はバーカウンターに腰を下ろしながら、梨子ちゃんの奏でるピアノの音色を、目を閉じてじっくりと堪能している。

 目を閉じて梨子ちゃんのピアノを聞くと、まぶたの裏側に風景が浮かんでくる。

 見えるのは、満開の桜。
 内浦の潮風に吹かれて宙を舞う桜の花びらが、まるで五線譜に並ぶ音符のようにポツリ、ポツリとアスファルトの上に舞い落ちる。

 桜と言えば春を連想するように、梨子ちゃんのピアノの音色はどこか温もりを感じる。

 春は出会いの季節とも言われるように、高校生の頃、梨子ちゃんが転校してきて私とであった季節は、春だった。
 そして十年後、このピアノバーで再び出会った季節もまた、春である。

 季節はやがて過ぎ去っていき、そしてまた巡り巡ってやってくる。梨子ちゃんの演奏が終わり、バーの客たちから拍手が響き渡った。
 立ち上がって一礼する梨子ちゃんに、私は拍手をしながら視線を送っていた。

 すると、梨子ちゃんとバッチリ目が合う。それがなんだか気恥ずかしくて、私は静かに目を逸らしてしまった。

「今日もきてくれたんだね、曜ちゃん」

 ピアノの演奏が終わって、梨子ちゃんは昨日と同じように私のところまでやってきて、バーカウンターの私の隣に腰を下ろしている。

「仕事終わりで、暇だったから」

 思わずそんな嘘をついてしまう。本当は梨子ちゃんに会いに来たのだけれど、本当のことを言う勇気が私にはまだ足りなかった。

 高校生の頃となにひとつ変わらない。私に勇気がなかったから、私は梨子ちゃんに告白することができなかったのだから。

「……そうなんだ。てっきり私に会いに来てくれているのだと思ったけど」
「そんな……」

 図星を突かれて、言葉を上手く発することができなかった。そんな自分がいたたまれなくて、私は視線を落としてしまう。

 高校生の頃からなにも変わっていない自分。捨て去ったと思っていたはずの初恋が再燃し、私はまた捨て去ろうとしている。

「ピアノを弾いているときね。曜ちゃんの視線、ずっと感じるんだもん」
「……そうだよ」

 このままじゃいけないと思った。情けない自分を変えないといけない。捨てるのは二度目の初恋ではなく、羞恥心にしよう。

「梨子ちゃんに会いに来たんだ」

 過去の自分と向き合い、今それを清算しようとしている。梨子ちゃんへの恋心を実らせたいとかじゃない。

 私はただ、どこまでも自分勝手な思いで、梨子ちゃんに向き合う。


***


 それは、よく晴れた休日の昼下がりの出来事だった。

「あれ、曜ちゃん?」

 お気に入りの漫画を買うために本屋に立ち寄ったところ、うしろから声をかけられた。聞き間違えるはずがない、私が恋したひとの声。

「梨子ちゃん……」

 振り向くと案の定、そこには梨子ちゃんが嬉しそうに笑いながら立っていた。なぜそんな笑顔を浮かべてるのか私にはよく分からないけど、梨子ちゃんの笑顔が見れたので深くは追求しない。

「こんなところで会うなんて偶然だね。曜ちゃんは、なにか買い物?」
「うん。ちょっと漫画を買いに」
「そうなんだ。私もね、漫画を買いにきたの。今日は仕事お休み貰ったから。一緒だね」
「そうだね」

 まさか梨子ちゃんも漫画を買いに来たとは驚きだ。私は千歌ちゃんに影響されて漫画をよく読むほうだけど、梨子ちゃんが漫画を読むというイメージが全く湧いてこない。

 梨子ちゃんといえばピアノというイメージが強すぎるのだろうか。私にとって梨子ちゃんが漫画を読むというのはかなり衝撃だった。

「せっかくだし、一緒に買い物しようよ」
「うん、いいよ」

 特に予定のない休日だったけれど、こうして梨子ちゃんと巡り会えたことは幸運だ。私たちは一緒に本屋の漫画コーナーへと向かう。

 目立つところに平積みされていた漫画を取ろうと手を伸ばす。すると、私の横からも白くてか細い手が伸びてきた。

「あれ? もしかして曜ちゃんもこの漫画買いに来たの?」
「うん。もしかして梨子ちゃんも?」
「うん。すごいね私たち、同じものを買いに来たなんて」

 本当に、なんという偶然だろうか。まるで最初にピアノバーを訪れたときに梨子ちゃんと再会したときのような、そんな運命じみたなにかを感じずにはいられない。

 同じ時間に同じ場所で、同じものを買いにきただなんて、まるで神様がそうさせたかのような、そんな見えない力でもあるんじゃないかって思ってしまう。

 そんなことを考えている自分が、なんだか善子ちゃんみたいだなぁと、ふと高校時代の中二病の後輩を思い出す。元気にしているだろうか。

 私と梨子ちゃんは同じ漫画を手に取り、レジに行って購入を済ませる。漫画を購入した梨子ちゃんちゃんの表情は、どこか満足気だった。

「まさか曜ちゃんも同じ漫画を読んでるなんて、思いもしなかったなぁ」
「私もだよ。梨子ちゃんって漫画読むイメージ全然なかったから、びっくりした」
「そうかな? 私、漫画とかすごく好きなの。あまり表には出さなかったけど、高校生の頃からずっとそうだよ」
「そうだったんだ」

 まさか高校生の頃から漫画が好きだったなんて、今初めて知らされた事実だった。

 梨子ちゃんに恋をしていた私にも、彼女の知らないところがあったんだと思うと、今日そのことを知れたのが、なんだか嬉しい。

 好きなひとの知らなかった一面を知ることは、案外楽しいものだと知った。




 それから、梨子ちゃんと近場のカフェに寄ることになった。今はお互いに注文したドリンクを時々口にしながら、黙々と先ほど買った漫画を読み進めている。

 もともと家に帰ってから読むつもりだったけど、梨子ちゃんからカフェでお茶しながら漫画を読もうと提案されて、私はそれに乗った。

 今、私たちはカフェで同じ席に座り、同じ漫画を読み、同じ時間を過ごしている。
 まるで高校生の頃に戻ったみたいで、ほんの少し頰が緩んでしまう。漫画に集中しようと視線を落としても、対面に座っている梨子ちゃんが気になって内容が頭に入ってこない。

 梨子ちゃんは漫画に集中している様子で、視線を一切漫画から逸らさない。私の視線は漫画と梨子ちゃんを行ったり来たりしているというのに。

 そんなふうに時々梨子ちゃんを見ていると、ふと視線を上げた梨子ちゃんとバッチリ目が合ってしまった。

「どうしたの、曜ちゃん?」
「ううん。なんでもない」
「そう?」

 梨子ちゃんは再び視線を漫画に落とした。かと思いきや、すぐにまた視線を上げて、私の顔を見つめてはニコリと微笑んだ。

「こうして曜ちゃんと過ごしてると、なんだか高校生の頃を思い出すね」
「そ…だね……」

 まさか自分がさっき思っていたことを梨子ちゃんに言われて、顔から火が出そうになるほどの恥ずかしさに襲われた。

 ――どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。

 梨子ちゃんも私と同じことを考えていたというその事実が、たまらなく嬉しい。このまま嬉しさで死んでしまいそうだ。

「どうしたの曜ちゃん? 顔赤いよ、大丈夫?」
「だ、大丈夫であります……」
「本当かな……ちょっと失礼」
「ふわぁっ!?」

 梨子ちゃんの手が私の額に置かれて、驚きのあまりヘンな声を出してしまう。急にそんなことをされて、私の体温はますます上がる一方だ。

「うーん……ちょっと熱っぽいかも?」
「だ、大丈夫だから! 本当、ほらこのとーり!」

 私は腕をせわしなく動かして、梨子ちゃんに元気だとアピールする。このまま熱があるからと家に帰らされるのだけは避けたかった。今は梨子ちゃんとの時間を、大切にしたい。

「そ、そうだ! このあと梨子ちゃんが働いてるピアノバーに行こうよ! 梨子ちゃんも従業員じゃなくて、お客さんとして。ねっ!」
「う、うん。私は構わないけど……曜ちゃん本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ! じゃあ決まりね、楽しみだなー!」

 もっと梨子ちゃんと一緒にいたい。そして私に熱はないんだと梨子ちゃんに分からせたい。そんな思いでピアノバーに行こうと提案してみたけど、思ったより梨子ちゃんに心配されているみたいだ。

 熱がないと言えば、嘘になるのかもしれない。風邪をひいたとき等の病気に使われる熱は全くない。だけど別の意味での熱はある。

 それは梨子ちゃんにお熱だと、恋をしているという意味で。

 恋を病だとするならば、私は現在進行形で病気にかかっている。だとするなら、私は大丈夫ではないのだろう。




 夜になって、私は梨子ちゃんとピアノバーにやって来た。

 私たちはバーカウンターのいつもの場所に並んで座り、それぞれマスターにカクテルを注文した。
 梨子ちゃんと再会してから何度も訪れているピアノバーだけど、今日は少しいつもと違う雰囲気だった。

 まず、梨子ちゃんの演奏するピアノが流れていないこと。今日の梨子ちゃんは休みを貰って、客としてここに来ているのだから、当然といえば当然だ。

 そしていつもと一番違うのが、梨子ちゃんの服装だった。バーでピアノを演奏するときの梨子ちゃんは、きまってドレスを身にまとっている。だけど、今日の梨子ちゃんは私服姿。

 思えば、再会してから目にする梨子ちゃんは、いつもドレス姿だった。だから今日目にしている私服姿は、新鮮さを感じながらも、高校時代に遊んだときのような懐かしさを覚えてしまう。

「お客さんとして曜ちゃんとここに来るなんて、思ってもみなかったなぁ。なんだか不思議な気分」
「私も、自分から誘っておいてなんだけど、すごく不思議」

 今この時間がとても愛おしい。
 今日は本屋で梨子ちゃんと偶然会って、そのあとカフェで漫画を読んで。そして今、梨子ちゃんの働くピアノバーに客として来ている。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 そう願わずにはいられない。本当に高校時代に戻ったような感覚。今過ごしている時間は間違いなく、輝いていることだろう。

「ねえ、曜ちゃん」

 梨子ちゃんを見ると、なにやら思いつめたような表情で床に視線を落としていた。なにか言いたいことでもあるのだろうか。

 すると梨子ちゃんは、勢いよく顔をあげた。私たちの視線が重なる。


「曜ちゃんって今……す、好きなひとって、いるの?」


 ――梨子ちゃんだよ。

 とは正直に言えなかった。
 過去と向き合うとは決めたけれど、その想いを告白するまでの勇気を、私はまだ持ち合わせていなかった。

 言葉に詰まる。梨子ちゃんが私の返事を待っているのが分かるだけに、できるだけ早く答えてあげたい。
 必要なのは、勇気だけ。ほんの少しの勇気さえあれば、梨子ちゃんに伝えられるのに……。

 ふと、梨子ちゃんに再会するまでの時間を思い出した。
 高校時代、梨子ちゃんに想いを告げずに捨て去った私。梨子ちゃんのことを忘れるように、無我夢中で高飛び込みに取り組んで、気がつけば日本代表にまでなっていた。

 完全に忘れたと思っていた。
 だけど偶然訪れたピアノバーで梨子ちゃんの姿を見て、梨子ちゃんのピアノを聴いた途端、私の初恋はいとも簡単によみがえってきたのだった。

 その偶然さえなければ、私は捨てたと思い込んでいた初恋に気づくことすらできなかっただろう。気づけたこと、再び出会えたこと自体が、奇跡のような出来事なのだ。

 だから、ここは勇気を出そう。
 巡り会えた奇跡に、背中を押してもらおう。


「いるよ、好きなひと」


 言った、言ってしまった。
 心臓がバクバクする。身体が熱くなっているのは、恋に熱せられたせいだろう。

「そう、なんだ……」

 だけど、私の答えを聞いた梨子ちゃんは、どこか辛そうな表情を浮かべて私から視線を逸らした。

「……そうだよね! 高校生の頃とは違って、もう十年も経ってるんだし! 曜ちゃんにも好きなひとぐらいできるよね……!」

 なぜか取り繕うように言っては、梨子ちゃんは笑ってみせた。ぎこちない、明らかに無理している笑顔。

「ごめんね、曜ちゃん……」

 そして、謝る。どうして梨子ちゃんが謝る必要があるのだろうか。

「私ね、高校生の頃から、ずっと曜ちゃんのこと好きだったの。だけど伝える勇気がなくて、そのまま卒業しちゃって」

 待って、もしかしてこれ、梨子ちゃん勘違いしてるんじゃ……。

「でも、曜ちゃんがバーに来てくれて、また曜ちゃんのこと好きになっちゃったの。だから今、想いだけでも伝えられて……良かった」

 ――良くないよ。

 勘違いしたまま終わらせるなんて、絶対に良くない。

「梨子ちゃんだよ」
「えっ」

 梨子ちゃんもずっと、私と同じだったんだ。
 高校時代、お互いに恋をして。でも想いは伝えられなくて。バーで再会して、また恋をして。

 今、勇気を振り絞って、想いを伝えて。


「私もずっと、梨子ちゃんのこと好きだった。高校生のときから、今もずっと」


 私たちはずっと、同じ想いをしてきたのかもしれない。

 すれ違って、離れて。
 近づいて、またすれ違って。

 だけど最後には、想いを伝え合って。


「梨子ちゃん、私と付き合ってください」

「……はい」


 必要なのは、ほんの少しの勇気だけだった。それだけで、私たちは結ばれたのだから。





 お互いに想いを伝え合って、見事結ばれた私と梨子ちゃん。だけど今、私の隣に梨子ちゃんはいない。

 ――今の気持ちをピアノで奏でたい。曜ちゃんに聞いてもらいたいの。

 そう言った梨子ちゃんは、マスターにピアノを弾かせてもらえるよう頼んだ。梨子ちゃんの頼みは快諾され、今梨子ちゃんは裏でドレスに着替えているのだとか。

 バーカウンターに座って梨子ちゃんの登場を待つ。するとほどなくして、ドレスに身を包んだ梨子ちゃんが現れた。今日はいつもの暖色系のドレスではなく、淡い水色のドレス姿だった。

 ピアノの前で梨子ちゃんが客に一礼すると、温かい拍手がバーに響きわたる。

 そして梨子ちゃんはピアノの前に座り、曲を演奏し始めた。

 その音色は、淡い桜色。

 目を閉じて音を聴く。目に浮かぶ風景は、満開の桜と、広大な海だった。岸に打ちつける波の音に乗って、桜の花びらが運ばれてくる。
 
 まるで私への愛を奏でるようなその音に、少し恥ずかしさを覚えながらも、私はこの上ない幸福感で満たされていた。

 温かな梨子ちゃんのピアノ。

 その音は、私を優しく包み込んでくれているようで。


 桜の音色に包まれて、私は愛するひとと幸せな時間を手にした。


 それは私の手に余るほどの大きさで。
 零れ落ちないように、両手をギュッと握りしめるのだった。 

 

恋色シャイニー

 
前書き
原作:ラブライブ!サンシャイン!!
オリ主が登場します。 

 


 僕たちの出会いは、夏休みが明けて、二学期が始まったときだった。

 留学生がやって来るという噂が流れていて、その日の教室は賑やかだった。

 可愛い女の子だとか。
 ニッポンからの留学生だとか。
 いや違うイギリスの女の子だとか。

 そんな噂で浮き足立つクラスメイトの様子を、僕は頬杖をつきながら、ぼんやりひとりで眺めていた。
 クラスで浮いている僕には、あまり関係のない出来事のように思えたからだ。

 やがて教室に先生が入ってくる。
 そして、このクラスに留学生が新たに加わる旨を伝えると、教室は歓声に包まれた。

 騒ぐ生徒たちに静かにするよう先生が注意すると、教室がシンと静まり返った。
 そうして先生は、廊下にいる留学生を教室に入ってくるよう呼びつけた。

 ガラッと扉が音を立てて、噂の留学生が姿を見せる。

 歩くたびにふわりと靡く綺麗な金髪。
 モデルみたいに抜群のプロポーション。
 少しトロンとしたタレ目が印象的な、可愛らしい女の子だった。

 ずっと前からクラスにいるように馴染んだ容姿をしている彼女は、欧州系の顔立ちをしている。

 留学生で日本人という噂も立っていたから、少し期待していたのだけれど、どうやら期待外れだったみたいだ。
 日本人でないなら、僕は彼女と仲良くなれないだろう。
 物静かな僕の性格は、アメリカ人とはあまりそりが合わないみたいだから。

 黒板の前に留学生が立つ。
 そして先生に促され、彼女は自己紹介を始めた。


「My name is Ohara Mari.
 I'm from Japan. I'm Japanese.
 nice to meet you!」


 オハラマリ。
 マリは自分のことを日本から来た日本人だと言った。

 噂通り、留学生は日本人だった。
 その見た目は、欧州系のそれだけれど……ハーフなのだろうか。

 前言撤回、僕は彼女に興味を抱いた。
 日本人なら、仲良くなれそうな気がする。

 放課後にでも、話しかけてみよう。
 このとき僕は密かにそう思ったのであった。


 それが、僕と彼女の出会いだった。






『恋色シャイニー』






 僕が高校生になってすぐのこと。
 父がアメリカに仕事場を移すこととなり、僕と母もそれについていくことになった。
 生まれ育った日本を離れるのは寂しかったけど、そのときの僕は仕方がないと割り切ったのだ。

 そうしてアメリカでスタートした高校生活だったが、僕は早くも挫折を味わっていた。

 拙い英語しか話せない僕は、クラスメイトたちとコミュニケーションをとることができなかったのだ。
 ヒアリングはなんとか出来るから授業はかろうじて理解できるものの、話すほうが壊滅的にダメだった。

 やがて僕はクラスメイトとの会話を放棄するようになり、僕はクラスで浮いた存在になっていた。

 そんな状態にも慣れてきた、夏休みが終わってすぐの出来事だった。
 マリが留学生としてやって来たのは。


「こんにちは」


 放課後、クラスメイトに囲まれて質問を受けていたマリが解放され、一人になった。
 僕は勇気を振り絞って、マリに話しかけてみたのだ。


「こんにちは。アナタ日本人?」

「うん。高校からこっちに住むことになって」

「それは大変ね! 英語は喋れるの?」

「もう全然ダメ。おかげでクラスではいつも一人。だから、オハラさんが来てくれて少し嬉しいんだ」

「私も、アナタみたいな日本人がいて少しホッとしたわ。あ、私のことはマリーって呼んで」

「わかった。じゃあ……マリー」

「Good!」


 それが、僕とマリーの最初に交わした会話。

 それから僕とマリーは友達になった。

 昼食を一緒に食べるようになって。
 放課後には一緒に遊ぶこともあって。
 好きなアーティストのCDの貸し借りをして。

 いつもクラスで一人だった僕にとって、マリーは学校で唯一の話し相手だった。

 何もすることがなく、ただ来ているだけの学校が、マリーがいることで少しずつ楽しくなってきたのだ。
 モノクロだった僕の日常が、鮮やかに色づき始めた。




「マリーって僕の他にも友達多いけど、どうして僕と一緒にいることが多いの? もしかして同情してる?」


 中庭のベンチに座って一緒に弁当を食べているとき、僕は以前から気になっていたことをマリーに聞いてみた。


「同情なんてしてないわよ。確かに私は他の人とも仲良いわよ?」

「なら、どうして」


 クラスで浮いている僕と一緒にいることは、マリーにとってメリットがひとつもない。
 もし憐れみや同情の気持ちで僕と一緒にいるのなら、それはマリーに悪いことをしているような気がしたのだ。

 だけどマリーは、同情なんてしていないと言う。
 そう話すマリーの表情は、ごく自然なものだった。


「だって英語で話すのって疲れるんだもの。日本語で会話できるアナタといるときが、一番気楽で落ち着くのよ」


 マリーは笑う。
 まるで天使のような笑みだった。

 僕と一緒にいると気楽で落ち着く。
 英語で話すのが疲れるというのは理解できるので、マリーの話した理由に僕は大いに納得してしまった。


「僕も、マリーといる時が一番落ち着く、かな」

「そりゃあアナタ、私以外に話し相手いないものね!」

「それは……そうだけど……」


 いたずらが成功したようにマリーは笑った。
 マリーのその笑う顔を見て、僕はようやくからかわれたことに気づいた。


「だから……これからもよろしくね!」


 そして今度は、とびっきりキラキラした笑顔で、マリーは僕に向かってそう言ったのだ。

 その笑顔に僕は見惚れてしまい、曖昧な返事をすることしかできなかった。



 それからも僕とマリーは一緒にいた。

 他愛のない話をして笑い合って。
 マリーが僕にイタズラを仕掛けてきたりして。
 互いの家で遊んだりもして。
 メールのやり取りをして。
 夜遅くまで長電話をして。

 そんな時間を過ごしていくうちに、僕はマリーに惹かれていった。
 いつしか彼女のことを好きになっていた。

 マリーと一緒にいる時間は楽しくて。
 彼女の笑顔を見ると、幸せな気分になる。

 僕は完全にマリーに惚れていた。

 だけど、僕はマリーにこの想いを伝えようとは思わなかった。

 もし好きだと伝えて、マリーに嫌われてしまったら。
 今続いている幸せな時間がなくなってしまったら。

 そう思うと、怖くて想いを告げることなんて、とてもできなかった。

 好きだと伝えてなくていい。
 この時間が続くのなら、それだけで僕は幸せなのだから。

 それからも僕は想いを伝えることなく、マリーとの何気ない日常を送った。

 秋も冬も、二年生になった春も夏も、僕はマリーとの日々を大切に過ごしてきた。

 そして二年生の夏休みが終わり、僕たちが出会って一年が経った。

 そんなある日のこと。
 マリーと一緒に昼食を食べようと思ったけど、教室にマリーの姿が見当たらなかった。

 マリーを探して校内を練り歩いていると、中庭の一角でマリーの姿を見つけた。


「マ――」


 名前を呼びかけて、僕はその言葉を途中で飲み込んだ。

 その光景に、僕は見惚れてしまったのだ。

 華麗にステップを踏み、鮮やかにマリーは踊っていた。
 まるで日本のアイドルのように、マリーのその姿はただただ綺麗だった。

 僕はマリーのダンスが終わるまで、その様子を黙って見守ることにした。

 やがてダンスを終えたマリー。
 僕は思わず手を叩いて拍手を送っていた。
 拍手の音に気がついたマリーが振り返って、僕の姿を捉える。


「なんだアナタかぁ……いつから見てたの?」

「五分ぐらい前かな。一緒に弁当を食べようと探してたら、ここで踊ってるのを見つけて」

「もう、それなら声をかけてくれればよかったのに」

「邪魔したくなかったから。踊っているときのマリー、綺麗だったし」

「綺麗って、もう冗談言わないでってば!」

「本当だって! マリーは可愛いし、まるでアイドルみたいだったよ!」

「かわっ!? もう、からかわないでよ……バカっ!」

「ちょっ、マリー!? ごめん、悪かった。怒らないで!」


 マリーはポカポカと、僕の胸を優しく叩きだした。
 急にそんな行動をとりだしたマリーに、僕はどうすればいいのかわからなかった。
 なにかマズいことを言ってしまったのかと思い、ただ謝るだけだった。


「もうっ! アナタなんて知らない!」


 そう言い残して、マリーは校舎の方へと走り去っていった。

 そのときのマリーはなんだか様子が変だったけど、僕にそのことを尋ねる勇気はなかった。
 マリーに深く踏み込みすぎて、嫌われたくなかったから。

 この一年間過ごしてきた日常を続けていれば、僕はそれでよかったのだ。

 だけど僕はこのときにはもう、マリーとの日常を失ってしまっていたのだった。



 その翌日から、マリーは僕が話しかけると、わざとらしく逃げるようにどこかに行くようになった。
 まるでマリーが僕のことを避けているようだった。

 マリーは女の子の友達といることが増え、僕がマリーに話しかけることも減った。

 一人でいるときを狙って話しかけたりしてみたけど、マリーはあからさまに僕を避けるような態度をとっていた。

 あのとき、中庭でマリーのダンスを見たとき、なにか悪いことでも言ってしまったのだろうか。

 もしそうなら、マリーに謝りたい。
 きちんと謝って、またマリーと話したい。

 だけどマリーは僕を避けていて、会話をしようとしてくれない。
 もう完全に嫌われてしまったのだろうか。

 そう思った途端、マリーに話しかける回数も自然と減っていった。

 やがて僕からもマリーに話しかけないようになり、僕のまたクラスで一人ぼっちになった。
 マリーが留学してくる前までずっと一人だったはずなのに、僕はそれまで以上に寂しさを感じていた。

 それだけ、マリーと一緒にいる時間が楽しかったのだ。

 だけど、もうマリーには嫌われてしまった。
 

 それからマリーとは一度も話すことがないまま秋が過ぎ去り、冬を越え――春になった。

 僕たちは三年生になった。
 マリーと話せないまま迎えた高校三年生。

 僕はこの春に、マリーと仲直りをしたいと密かに思っていた。
 半年間マリーのいない日々を過ごしたけれど、とても僕には耐えられなかった。

 またマリーと友達に戻りたい。
 一緒に話して、昼食をとって、遊んで、笑いあって。
 そんな日常を取り戻したい。

 僕はそんな思いを胸に抱いて、三年生の春を迎えていた。

 だけど、僕のそんな願いをあざ笑うかのように、事態は思わぬ方向へと向かっていく。




 先生からマリーが明日、日本に帰国するという話を聞いたのは、まだ高校三年生になって一月も経たない日のことだった。




 そのことを知らせれてた翌日。
 マリーが日本に帰国する日。

 僕はいつものように学校に来ていた。
 当然そこに、マリーの姿はない。

 今頃マリーは空港にいるのだろう。
 もしかしたら、もう飛行機に乗ってアメリカを発っているのかもしれない。

 結局、マリーと仲直りできないまま、別れることになってきまった。

 マリーに想いを告げられぬまま。

 授業を受けている間、僕はずっとうわの空だった。
 ただボーッと窓の外を眺めながら、時間が過ぎ去っていく。


 そんなとき、ケータイが震えた。

 今は授業中。
 バレないようにこっそりケータイを開くと、一通のメールが届いていた。


 差出人はマリー。

 内容は。


『ごめんね、さよなら』



 それを見た瞬間、僕は立ち上がって教室を飛び出した。


 授業を抜け出して、学校を出た僕は全力で走った。

 目指すのは、ここから一番近い空港。


 このままマリーとお別れなんて……そんなの嫌だ。

 まだマリーと仲直りできていない。



 マリーに僕の気持ちを、伝えてられていない。



 せめて……せめて最後に仲直りをして、僕の想いを彼女に伝えたい。



 駅に着いて電車に乗り、三十分ほどで空港にたどり着く。


「どこだ……どこにいるんだマリー!」


 日本行きの便を掲示板で探す。

 三十分後に出発する便を見つけ、僕はその搭乗口に向かって走り出した。


 走る。

 ただ走る。

 全力で走る。


 間に合うかどうか分からない。

 前の便でとっくに出発しているかもしれない。

 そもそもこの空港じゃないかもしれない。


 そんな思いが駆け巡るが、僕はただ全力で走る。


 そこにマリーがいる可能性に賭けて。



「はぁ……はぁ……」



 たどり着いた日本行きの搭乗口。


 慌ててゲートの方を見ると、そこに見慣れた後ろ姿を見つけた。

 マリーだ、見間違えるはずがない。


 マリーは今まさに、搭乗ゲートをくぐろうとしている。




「――マリー!!」



 呼ぶと、マリーが振り返る。



「アナタ……」




 マリーに駆け寄る。




「マリー、ごめん! 去年キミのダンスを見たとき、僕が変なことを言ってキミを傷つけてしまった……ごめん!」


「違うの、私が悪いの! あのときアナタにヒドい態度をとってしまった……それ以来、顔を合わせるのが怖かったの。話しかけられても、なにを話せばいいのか分からなくて……だから私が悪いの! アナタはなにも悪くない!」



「違う! 悪いのは僕だ!」


「いいえ! 悪いのは私よ!」


「僕だ!」

「私よ!」

「僕!」

「私!」


 終わらない議論。

 互いにムキになっていて、思わず笑みが溢れ出てしまう。

 それはマリーも同じなようで。



「「ぷっ……くくっ……あははははっ!!」」



 僕たちは盛大に笑い合った。



 こうして笑い合うのも久しぶりだ。


 マリーの笑顔を見るのも久しぶりだ。




 やっぱり僕は、この時間が大好きだ。


 マリーの笑顔が大好きだ。



 ――マリーが大好きだ。





「マリー、僕はキミが好きだ」





 想いを告げる。


 嫌われてしまうのが嫌で、ずっと逃げていた。


 だけど、伝えないまま別れるのはもっと嫌だ。




 マリーの顔が赤くなる。


 恥ずかしそうに下を向いて、マリーは言う。






「私も、アナタのことが好きよ」








「僕たち、両想いだったんだね」



「そうだったみたいね。だけど……もうお別れみたい」






「もっと早く、好きだって伝えておけばよかった」



「もっと早く、アナタに好きだと言えばよかった」







「さようなら、マリー。元気でね」



「さようなら、アナタ。元気で」








 僕たちは互いに近づいていく。






 そうして距離がゼロになり。







 ――僕たちは、別れのキスをした。










***





 それからマリーのいない半年の高校生活を終え、僕は大学生になった。

 マリーのいない半年間、僕は必死に勉強をして、大学に合格することができた。


 それも、日本の大学に。


 親に頭を下げ、日本の大学に一人暮らしをしながら通うことが許されたのだ。


 迎えた春。
 大学の入学式。


 しばらく前から始めている一人暮らしにはまだ慣れないが、これから新しい生活が始まる。


 大学の構内。

 僕はそこである人を待っていた。



 去年の春に別れてから、メールや電話でやり取りは続けている僕の彼女。


 だけど、実際に会うのは一年ぶりだ。



 ふわりと、春風が舞う。

 桜の花びらがひらひらと落ちていくなか、その向こうに人影が見えた。




「久しぶりね、アナタ」


「久しぶり、マリー」




 僕たちは再会する。



 嬉しそうに笑う彼女が愛おしい。



 その笑顔が近づいてくる。





 僕も彼女に顔を近づけ。









 ――僕たちは、再会のキスをする。






 
 

 

アナタと寄り添うミライ

 
前書き
原作:ラブライブ!サンシャイン!!
百合、ダイまるです。 

 


 桜が咲き誇る、まるで私の門出を祝うかのように。
 だけど一方で、ひらひらと舞い落ちる花びらが、必然と別れを連想させる。
 彼女とも、今日を境に会えなくなってしまうのだろうか。
 可愛くて、真面目で、誰よりも他人を思いやる貴女。
 そんな貴女に私が抱いた感情を、結局私は知らないまま今日を迎えた。
 これで良かったのかも知れない。
 会えなくなって、それで終わり。
 春は別れの季節だと言う。私たちが離れるのは、必然だったのかもしれない。
 だけどそう考えれば考えるほど、胸がキュッと締め付けられる。
 どうしてだろう。自分でもわからない感情。もうわけがわからない。

「続きまして、卒業生答辞。黒澤ダイヤさん」

 よくわからない感情に振り回されわけがわからなく夏わていたら、名前を呼ばれて私は少しだけ落ち着いた。
 だけど結局私はその感情を理解できないまま、卒業生代表として壇上に立つ。
 講堂に集まった数多くの生徒や保護者。皆私たちの卒業式のため、わざわざ足を運んでくれたに違いない。
 だけど私の目が真っ先に捉えたのは、妹でも両親でもなく、彼女だった。
 栗色の長い髪。色は違うけど私と同じその髪型が、なぜか自分のことのように誇らしかった。
 淡いたまご色のカーディガン。彼女は夏以外はずっとそれを身に着けていた。寒がりなのだろうか。
 用意していた答辞を読み進めながら、私はひたすら彼女に視線を向けていた。彼女のほうは私の視線に気づいているのだろうか。気づいていたとしたら、恥ずかしいけど嬉しいかもしれない。

 今日でお別れなのだから、その姿を目に焼き付けておかなくては。
 そんな思いで私は彼女を見つめていたのだと思う。
 答辞を読みながら思い出すのは、彼女と過ごした日々。
 その数々の思い出は、鮮明に脳裏に焼き付いている。
 出会ったのはいつだったか。確か妹が家に遊びに連れて来たのだったか。
 最初は、ただ妹の友達というだけの認識だった。
 それがいつしか変わって、意識するようになった。
 ハッキリと彼女のことを意識するようになった日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 そう――あれは蝉時雨が降り注ぐ、暑い夏の日。
 いつも私ひとりの生徒会室に、彼女が初めてひとり訪れたのだった。


***


 なんの前触れもなく、彼女は私のもとを訪れた。
 夏休みが終わり、溜まっていた生徒会の仕事を私はひとり冷房の効いた生徒会室で行なっていた。
 窓から高く昇った日差しと蝉時雨が入りこんで、冷房をつけている生徒会室は想像以上に暑い。
 額ににじむ汗を拭いながら、私はただ黙々と溜まった雑務をこなしていた。

 そんなときだった。ふいに生徒会室のドアを開けられ、彼女がやって来たのは。
 Aqoursで取り決めた生徒会を手伝うという取り決めがあったにしても、練習に忙しくてそんな余裕がなかったものだから、彼女が来たのは意外だった。
 私はきっと目を丸くして、生徒会室の扉を開けて立つ彼女を見つめていたことだろう。

「だってダイヤさん、生徒会大変そうだから。マルにもなにか手伝わせてほしいずら」

 笑顔を見せる花丸さん。
 そこには邪な考えなどなく、ただ単純に私を手伝ってくれる思いが伝わってきた。

「いいのですか? 生徒会の手伝いをするより、なにか他のことをしていた方が有意義だと思いますわよ?」
「ううん。マルはダイヤさんのお手伝いがしたいずら」

 最初は遠慮したが、そう言われると私はもう何も言い返せなった。
 ひとりで抱えていた雑務をいくつか、私は花丸さんに割り振った。正直猫の手も借りたい仕事量だったので、花丸さんが手伝うと言ってくれたのはありがたかった。今は花丸さんに存分に甘えるとしよう。

 それから私と花丸さんは、会話もそこそこに雑務をこなしていった。あった会話といっても、花丸さんからの仕事に関する質問がほとんどだから、私たちの間に会話は無かったに等しいだろう。
 互いにただ黙々と雑務をこなしていくだけ。それだけで時間はあっという間に過ぎ去っていく。
 気がつけば高かった太陽はすっかり傾いていて、淡いオレンジ色が窓から差し込んでいた。
 そのことに先に気がついたのは私だった。花丸さんはまだ黙々と懸命に雑務をこなしている。
 彼女をこんな時間まで手伝わせたことに若干申し訳なさを感じる。私はたった今時間に気がついたフリをした。

「あら、もうこんな時間ですわ。今日はもう終わりにしましょうか」
「あ、本当ずら。でもまだ仕事が……」
「それはまた明日、私がやりますわ」

 私ひとりでやると、そう言ったつもりだった。
 だけど花丸さんはそうは捉えなかったらしい。花丸さんはにっこりと天使のように微笑んで、

「わかりました。また明日も手伝うずら」

 ごく当たり前のことのように、ケロッとそう言ってのけた。
 このときの私は、きっと目を丸くしていただろう。まさか花丸さんが明日も手伝ってくれるとは、思ってもみなかった。

「いや、花丸さん? なにも明日も手伝えと言ってるわけではありませんのよ? 花丸さんにもなにか予定があるでしょうし……」
「予定ならあるずら」

 あるのに手伝うと言っているのか。思わず呆れかえってしまう。
 だけど次の瞬間、花丸さんは平然とそう言ってのけるのだ。

「ダイヤさんのお手伝い。それがマルの予定ずら」

 満面の笑顔。邪心などを一切捨てた屈託のない笑み。
 花丸さんは本気で私のことを手伝うと言っているのだろう。

「いえ、それは悪いですわ。今日手伝ってくれただけでも十分助かりましたわ。明日からは私ひとりで」
「ダイヤさん。まだお仕事たくさん残ってますよね?」
「いえ、そんなことはありませんわ」

 嘘、本当は花丸さんの言う通りまだ多くの雑務が残っている。

「ダイヤさん、マルの目をよく見てほしいずら」

 言われた通りに花丸さんの瞳をよく見る。
 くっきりと丸くて少し垂れた、はちみつ色の大きな瞳。
 私はツリ目だからその瞳を少しだけ羨ましいと思いながら、花丸さんの瞳をジッと見つめる。

「ダイヤさん、本当にお仕事残ってないずら?」
「の、残ってないですわ」
「本当に、本当の本当にずら」
「ほ、本当の本当ですわ」

 ジッと見つめあう私たち。
 それがだんだん気恥ずかしくなってきて、私は花丸さんから視線を逸らした。

「あ、目を逸らしたずら。ダイヤさん、嘘ついてる。本当はお仕事たくさん残ってるずらね?」
「どうしてそうなるのですか!?」

 ただ目を逸らしただけで、花丸さんにそう断言されてしまった。どうやら彼女のなかでは、目を逸らすと嘘をついていることになるみたいだ。
 本当は見つめ合うのが恥ずかしくなって目を逸らしたのだけれど、それを弁明として口に出すのはもっと恥ずかしい気がする。
 これは私の根負けだろうか。
 ふぅっとため息をひとつ吐いて、花丸さんに向き直る。

「えぇ……花丸さんの言う通り、まだ仕事は残っていますわ」
「やっぱりずら。じゃあ明日も、マル手伝いに来るずら」
「えぇ、よろしくお願いしますわ」

 そう主張を曲げない花丸さんに私が折れた。
 明日もまた、花丸さんが生徒会室にやって来る。



 翌日の放課後になると、花丸さんは生徒会室にやって来た。
 花丸さんは昨日から、私の生徒会の仕事を手伝ってくれている。
 今日もまた、昨日と同じように花丸さんに雑務を任せる。
 私たちの間に会話はほとんどなく、ただ黙々と雑務をしていくだけの時間。
 そんな時間だけど、不思議と居心地がいい。
 花丸さんのもつ柔らかさというのだろうか。
 私の勝手な想像だけれど、花丸さんは全てを許容して包み込むような優しさ、柔らかさをもっていると思う。
 そんな花丸さんと一緒だからか、会話がなくとも落ち着いた時間を過ごせている。
 これで手伝ってくれているのが花丸さん以外のAqoursメンバーだったら、きっと私はうるさく小言を言いながら雑務をしていただろう。
 まだかろうじて落ち着けるのはルビィと梨子さんぐらいだろうか。だけどルビィは仕事が間違っていないか不安で仕方ないし、梨子さんとは付き合いも短いのできっと気まずくなるに違いない。
 そう思うと、手伝ってくれているのが花丸さんで良かったとすら思う。

「ダイヤさん、これは……」
「ああ、それなら右端の棚の三段目にお願いしますわ」
「わかったずら」

 わからないところを花丸さんは積極的に聞いてくる。
 私たちの間に存在する会話はこのぐらいで、あとはほとんど会話をしない。
 その時間が心地良くもあるのだけれど、私はどうにも花丸さんのことが気がかりで仕方がなかった。

「花丸さん」
「はい、なんですか?」

 雑務の手を止めて、花丸さんがこちらを向く。
 こういったところも私の話を聞く姿勢を示していて、しっかりしている子だ。少しはルビィにも見習ってほしいところである。

「貴女、他に用事などございませんの?」
「用事ずら?」
「ええ。例えば……ルビィと遊んだりとか」

 花丸さんと私の妹のルビィは仲が良く、よく一緒に遊んだりしている。
 もしかしたら他の用事を蹴って私の手伝いをしてくれているのだと思うと、それは心苦しい。
 なにより花丸さんの時間を私の手伝いなどに使わせていいのだろうか。

「ダイヤさん。マル昨日も言ったずら」
「昨日?」
「ずら。マルはダイヤさんのお手伝いがしたいから、こうして今日も生徒会室に来たんです。ルビィちゃんや善子ちゃんと遊ぶ約束があったら、マルもさすがにそっちを優先するずら」
「……そうですか。つかぬことをお聞きしました」
「いえ、分かってくれたなら良かったずら」

 どうやら花丸さんに他の予定はなく、花丸さん自らの意思で私の仕事を手伝ってくれているということなのだろう。
 最後にニッコリと花丸さんの笑顔。
 その屈託のない微笑みは、本当に自身の時間を割いてまで、私の手伝いをしたいという思いが現れているような気がした。
 本当に、花丸さんは良い子だ。

 一生懸命に仕事をしている花丸さんの姿は、どこか小動物を起想させる。ぴょこぴょこと子犬みたいで微笑ましい。
 上の棚にファイルを整理したいのか、ぐーっと背伸びをしている。しかしなかなか手が届かない。
 その可愛らしい様子を眺めているのも良かったけれど、花丸さんが苦い表情をして困りだした。
 見かねて私は、花丸さんの隣へと近づく。

「届かないずらぁ……」
「任せてください」
「あっ……」

 花丸さんの手から書類を整理したファイルを取り上げ、上の棚へと仕舞う。
 私の行動が予想外だったのか、花丸さんは驚きのあまり目を丸くさせて私のほうを見つめていた。
 下から見上げられるような花丸さんの視線が、私のそれとぶつかる。そこに私は背徳的な行為を感じてしまい、そっと視線を逸らした。

「あっ、ありがとうずら」
「こ、これからは上の棚は私が担当しますわ。花丸さんは下の方をお願いします」
「了解ずら」

 花丸さんは背が低い。
 ルビィよりも小さいのだから、当然上の棚にまで手が届くはずがない。そのことをすっかり失念していた。
 これからの仕事を割り振り直して、私たちは雑務を再開する。
 花丸さんは膝を折って屈み込み、下の方の棚の整理を。
 私はぐっと爪先立ちになって、上の方の棚の整理を。

 しっかりと役割分担をしてからの仕事は、それまで以上に捗った。
 気がつけばすっかり太陽は傾いており、夕日が私たちを染め上げる。オレンジ色を合図に、私は今日も仕事を切り上げることにした。

「花丸さん、今日もありがとうございました」
「いえいえ。また明日も手伝いに来ますね」
「分かりましたわ」

 また明日も来るという花丸さんを、私はなんの躊躇いもなく受け入れた。
 断ってもどうせ来ると言って聞かないのは昨日の時点で分かったし、何より花丸さんの仕事ぶりは大変頼りになる。
 また明日も存分に花丸さんを頼ることにしよう。




「そういえばダイヤさん、もうすぐ生徒会の任期が終わりずらね」

 それから一週間が経ったある日、花丸さんは思い出したようにそう呟いた。

「ええ、そうですわね」

 花丸さんの言う通り、私の生徒会長の任期はあと一週間ほどで終わりを迎える。私から生徒会長という肩書きが外れるのだ。

「なんだか寂しいずら。あと少しでダイヤさんのお手伝いできなくなっちゃうの」

 その言葉を花丸さんはどういった意味で言ったのか、私にはわからないし、聞く勇気すらなかった。
 この一週間、花丸さんはずっと生徒会室にやって来ては、私の仕事を手伝ってくれた。
 花丸さんの仕事ぶりは本当に大したもので、山のように積み上がっていた雑務がこの一週間で半分ほど片付いた。
 この調子で進めれば退任までに全ての仕事を片付けられるだろう。これも全て花丸さんのおかげだ。

「そうですわね。私も少し寂しいですわ」

 きっと花丸さんがいなければ、仕事は今の半分しか片付いていないだろう。
 単純に二倍、一人よりも二人でやった方が捗るのは事実で、最初は手伝わせることに後ろめたさがあったけれど、今は花丸さんがいてくれて助かっている。
 彼女の仕事ぶりは大したもので、効率よくテキパキと雑務をこなしている。
 まるで以前からこうして二人で生徒会の仕事をしていたような感覚が芽生えてくるが、それはここ最近はほとんど花丸さんが手伝ってくれている故の錯覚だろう。

 今思えば、私はこのときには既に花丸さんに好意を抱いていたのだろう。
 ライクではなく、ラブのほう。

「あっ」

 花丸さんが声をあげる。見ると、手に抱えていた書類が床に散らばっていた。どうやら落としてしまったらしい。

「手伝いますわ」

 腰を下ろして書類を拾う花丸さん。そのすぐ前に私も屈んで、一緒に落ちた書類を拾っていく。
 今までほぼ完ぺきに仕事をこなしてきた花丸さんでも、こういったミスをするのだと思うと、なんだかそれが微笑ましい。思わず口元がニヤケてしまう。
 そんな気持ちになるのは不純なことだと思い、私は手元をよく見ずに書類を拾おうとした。
 それがいけなかった。

 ピトッ。
 手に温かいなにかが触れる。視線を向けると、私と花丸さんの手が触れあっていた。

「あっ……ご、ごめんなさいずら」
「花丸さん」

 慌てて引っ込めようとする花丸さんの手を、私はさっきまで触れていた手で思わず掴んでいた。
 自分でもなぜそうしたのかわからない。
 花丸さんの手の温もりを、もっと感じていたかったのかもしれない。

「ダイヤさん……?」

 怪訝そうな目で花丸さんがわたしを見つめる。吸い込まれそうな琥珀色の瞳は、手を掴まれたことによる単純な疑問を映し出していた。
 そんな花丸さんをよそに、私は彼女をジッと観察する。
 艶やかな栗色の髪。
 くりっとした可愛らしい睫毛。
 健康的できめ細やかな白い肌。
 ほんの少し朱に染まった頬。
 ぷりっとして柔らかそうな桜色の唇。

 窓から差し込む夕日が私たちを影にして、彼女の輪郭を曖昧にする。
 そんな中その存在を強く主張する柔らかそうな唇に、私は吸い込まれそうになって。
 顔を近づけていくと、その唇がだんだん大きくなっていく。
 気がつけば私は花丸さんの唇を、私のそれで塞いでいた。

 数秒、ほんの数秒間触れあった唇。
 それを離した瞬間、花丸さんの顔が目に飛び込んできた。
 驚いた表情、朱に染まった頬、潤んだ瞳。
 そんな花丸さんの顔を見て、私は自分がなにをしでかしたのか、ようやく気づいた。

「その……ごめんなさい」

 ポツリと私の口をついて出た言葉は、謝罪だった。
 無意識とはいえ、花丸さんの唇を奪ってしまった罪悪感。それから逃れるように、私は謝罪の言葉を口にした。

「……っ!!」
「花丸さんっ!!」

 花丸さんは立ち上がり、踵を返して生徒会室から走って出ていく。
 その背中に声をかけたが、花丸さんは振りかえることなく私の前から姿を消した。

 それ以来、花丸さんが生徒会室を訪れる日はやって来なかった。
 それは私が生徒会長の任期を終えるまで、ずっとだった。



 花丸さんとキスをして、彼女が逃げるように去って行ったあの日から一週間が経った。
 結局あの出来事があって以来、花丸さんは生徒会室にやって来ず、私は任期が終わるまでひとりで雑務をすることになった。
 花丸さんがいなくなったことで作業効率は極端に落ち込んだ。ひとりで雑務をしていると、花丸さんの存在がどれだけ有り難かったかよくわかる。
 私は彼女になんてことをしてしまったのだろう。

 生徒会長と肩書がなくなった私は、ひとり昼休みの廊下を歩いていた。
 職員室で先生と少し話をして、教室に戻っている途中だった。
 歩きながら考えるのは、花丸さんのこと。
 今なにをしているのだろう。私のことをどう思っているのだろう。
 あんなことをしたのだ、きっと嫌われているに違いない。

 そんなマイナス思考に陥っていても、思い出すのはあの時の感触。
 私はそっと手を唇にやった。
 柔らかいその感触を思い出して、罪悪感が降って湧いてくる。
 あの日の自分を殴ってやりたい気分だ。

 そんなことを思いながら廊下を歩いていると、前から二人組の生徒が歩いてくるのが見えた。そのどちらも私の知ってる人。
 その中には、花丸さんの存在もある。

「あ、お姉ちゃん!」

 私に気づいた妹のルビィが、嬉しそうにこちらにやって来る。
 花丸さんはというと、ルビィの後ろに控えめに立っていた。

「あらルビィ、花丸さんも。ごきげんよう」
「こんにちはずら」

 一応、挨拶は交わしてくれるみたいだ。
 だけど花丸さんは依然とルビィの後ろにいて、表情は少しばかり陰っている。

「あのねお姉ちゃん聞いて! 今日の英語の授業でね――」

 ルビィが楽しげに今日あった出来事を話している。
 そんな妹の話は、あまり耳に入ってこなかった。
 そうしても、ルビィの後ろにいる花丸さんの存在が気になってしょうがないのだ。
 あの時のことをもう一度謝りたい。そして、できるならもう一度同じ時間を過ごしたい。
 だけどルビィの前でそのことを切り出すのは、私にとってとても勇気のいることだった。

「ねえお姉ちゃん、ちゃんと聞いてる!?」
「安心なさい、聞いてますわよ」
「よかった……それでね! そのあと――」

 ルビィには申し訳ないが、私は二つ返事で嘘をついた。
 視線はどうしても、花丸さんに向いてしまう。
 すると、花丸さんとバッチリ目が合ってしまった。
 驚いたように目を大きくする花丸さん。そして、次の瞬間には気まずそうに目を逸らされた。
 ああ……やっぱり、私のことが嫌いになってしまったのか。
 あれだけのことをしたのだ、嫌われて当然だ。

 キュッと、胸が締めつけられる。
 どうしてだろう、気持ちがモヤモヤする。
 花丸さんを見ているとドキドキする。こんな感情、生まれて初めてだ。
 初めてだから、私はこの感情の正体を掴めなかった。
 キラキラして、ドキドキする。
 私にわかるのはたったそれだけ。
 名前の知らない感情は、少しずつ膨らんで大きくなっていく。
 やがて胸いっぱいに満たされると、得体の知れない感情ではち切れそうになる。

「あ、もうすぐ昼休み終わっちゃう! お姉ちゃんまたね!」
「ええ、また」

 ルビィと花丸さんが私を横切って去っていく。
 私は振りかえって、小さくなっていく花丸さんの背中を視線で追った。

「花丸さん……」

 誰にも聞こえないほどの小さな声で、私はポツリと呟いた。
 彼女の名を口にすると、胸がキュッと締めつけられる。
 締めつけられた胸は、苦しく、そして痛い。
 だけど不思議と、幸福感が混じっているのだった。




 それから時間が過ぎゆくのは早かった。
 紅葉が色づき、そして枯れ落ち、肌寒い季節がやって来た。
 身を震わす寒さのなか、花丸さんのことを考えると心がポカポカ温かくなる。
 痛くて苦しい。だけど温かい幸福感がある。
 そんな矛盾を孕んだ感情を、私は未だに抱え続けていた。

「はぁ……」

 机に頬杖をついて、窓の外を見ながらため息をつく。
 以前廊下で花丸さんと出会って以来、彼女の姿を見ていない。
 それだけ……たったそれだけで、私の心には大きな穴が空いたような気分だ。
 あれから何ヶ月と経っているのに、花丸さんと合えないことが私を悩ませていた。
 花丸さんに会いたい、会ってもう一度話をしたい。そう思うのは欲張りだろうか。
 ならいっそのこと話はできなくてもいい。ただ同じ空間で、同じ時間を花丸さん過ごしたい。

「はぁ……」

 また無意識にため息が出る。
 教室の中だというのに、吐く息が少し白くなったような気がした。
 花丸さんも今ごろ、教室で寒さに身を震わせているのだろうか。
 ……だめだ。なにをしても花丸さんのことを考えてしまう。
 私はいったいどうなってしまったのだろう。

「はぁ……」

 また自然とため息が出る。
 ため息をした数だけ幸せが逃げるとはよく言うけれど、本当なのだろうか。
 花丸さんのことを考えると幸せで満たされる。だけどその幸せも、ため息の数だけ逃げていってしまうのだろうか。
 花丸さんと会えなくて、私はため息の数が増えた。
 この胸にある小さな幸せも、ため息をするたびに少しずつ消えて、やがては無くなってしまうのかもしれない。
 そう考えると途端に寒気が押し寄せてきて、ぶるっと身を震えた。
 ほんの少しの幸せが逃げないように、私は震えた身体を自らの手で抱きしめた。

 そうやって悪寒に身を震わせていると、そんな私のもとに近づいてくる人たちがいた。
 同じクラスの鞠莉さんと果南さんだ。

「どうしたのダイヤ? 元気ないわね?」

 鞠莉さんにそう問われるほど、傍から見た私は元気がないのだろう。
 実際のところ自分でも、元気がないのは分かっている。

「何か悩みごと? 相談乗るよ?」

 果南さんが相談に乗ると言ってくれたけど、花丸さんとあったことを二人に直接的に話すのは避けたいところだ。
 私が恥ずかしいというのもあるが、なにより花丸さんが誰かに言いふらされるのは嫌がるだろう。
 だけど花丸さんとのことを、どうすればいいのか私にはわからない。正直誰かに相談したい気分だった。

「今から話すのは、私の友人のことですわ。それでも聞いてくださいます?」

 そう問うと、二人は黙って頷いてくれた。
 ありきたりな文言にも何も追及してこない二人に感謝しつつ、私は花丸さんの名前を伏せて、彼女とあった出来事を、そして今の私の気持ちを二人に話した。

 一緒にいると落ち着くこと。
 話していると楽しいこと。
 今は会えなくてモヤモヤすること。
 その人に会いたいということ。

 私はほとんどの出来事を鞠莉さんと果南さんに話した。
 キスのことは私が恥ずかしいのと花丸さんの名誉のため、言わずにいたけれど。
 私のその話を聞いた二人は、揃ってこう言ってのけた。

「それは、恋だね」
「恋……ですか?」
「イエス! 恋よ、ダイヤ!」
「わ、私の友人の話ですわ!」

 鞠莉さんにからかわれるが、今の話は私の友人のことという体裁を貫き通す。

 恋……か。
 鞠莉さんと果南さんは口を揃えてそう言ったけど、それは違うだろう。
 花丸さんは、ルビィの友達だ。
 妹の友達に私が恋をするなんてこと、あるはずがない。

 だから、この感情は恋じゃない。
 相談に乗ってくれた二人には感謝しつつ、このときの私はそう結論づけた。
 だけど彼女の名前を口にすると、心が温もりで包まれるのは事実。
 私は心の二人には聞かれないよう、心の中で彼女の名をポツリと呟いた――。


***


「――花丸さん……」

 スピーカーからその声が反響してきて、しまったと思ったが遅かった。
 卒業式で答辞を読みながら、花丸さんとの思い出を振り返っていたら、ポツリと呟いたものがマイクに拾われてしまった。
 私の答辞が終わり、拍手が鳴り響いていた講堂がシンと静まり返る。
 まずい……やってしまった……。
 慌てて頭が真っ白になった私は、考えるよりも先に口が動いていた。

「は、花丸さん! あとで生徒会室に来るように!」

 そう言って、壇上から降りる。
 講堂にはパチパチと疎らな拍手が鳴り、異様な雰囲気が漂っている。
 恥ずかしさで顔を真っ赤にした私は、急ぎ足で自分の椅子へと戻っていく。

 私が着席してからの卒業式は滞りなく進んだ。
 私の失言があって無事とは言えないけれど、私たちの卒業式は終わりを迎えた。



 卒業式が終わって、私は生徒会室を訪れた。
 生徒会室は現生徒会長も不在で、正真正銘私ひとりだけだった。
 およそ半年ぶりに訪れたけど、あの時から何も変わっていない。
 花丸さんと一緒に整理した書類もそのままの位置にあって、なんだか懐かしく感じる。
 長年使っていた机を撫でる。
 たくさんの思い出が詰まった生徒会室、そして浦の星女学院。
 ここにいられるのも今日で最後。
 花丸さんと一緒にいられるのも、今日で最後なのだ。

 ガラガラと、扉が開く音がする。
 視線を向けるとそこには、花丸さんが気まずそうな表情で立っていた。

「花丸さん……」

 久しぶりに見る彼女の姿。なぜだか分からないけど涙が出そうになり、私はそれを必死で堪える。

「ダイヤさん、どうして急にマルを……?」

 少し遠慮しながらも、花丸さんは生徒会室に入り私のもとへと向かってくる。
 彼女の声も、その口癖も、耳にするのは随分と久しぶりだった。

「その、花丸さんに謝りたくて……」
「謝る? ダイヤさんがマルに?」
「ええ、そうですわ」

 本当は呼び出したことに理由などなかった。
 ただ無意識に出た花丸さんの名前で止まった卒業式を、どうにかしようと気がつけば花丸さんに来るよう言ってしまったのだ。
 だけど、実際にこうして花丸さんが来てくれた。
 それなら前から謝りたいと思っていたことを、ここで言うことにしよう。
 花丸さんとこうして学校で会えるのも、今日で最後なのだから。

「その……あの時のことはごめんなさい」
「あの時……?」
「えっと、その……半年前、私がここで花丸さんに、その……き、キスをしたことですわ」
「あっ……」

 私の言わんとしていることを理解した様子の花丸さんが、途端に顔を赤くする。
 いきなり私にキスをされて、花丸さんも嫌な気持ちになったのだろう。
 あの時、花丸さんは私にキスをされて、その直後に逃げるように去って行った。
 その時のことを、半年も経ってしまったけど今からきちんと謝ろう。

「あの時は、いきなりキスをしてしまい申し訳ございません。花丸さんも嫌だったでしょう? だから……ごめんなさい」

 半年ぶりの謝罪。
 とてもじゃないけど花丸さんの顔を直視できなくて、私はずっと頭を下げ続けた。
 花丸さんはきっと憤っているだろう。今になって謝られたのだから。
 しかし次の瞬間、花丸さんから投げかけられた言葉は意外なものだった。

「嫌じゃ、なかったずら……」
「えっ」

 思わず顔を上げる。
 花丸さんは顔を真っ赤に染め、恥ずかしげに視線を床に落としていた。

「嫌じゃなかったずら、ダイヤさんとのキス……」

 聞き間違いじゃなかったその言葉。
 嫌じゃなかった……? 私とのキスが……?

「で、ではなぜあの時、すぐに逃げ出したのですか?」

 思わずそう問いかける。
 嫌じゃなかったなら、逃げ出した理由がよく分からなかった。
 それに対して花丸さんは、

「それは……その、恥ずかしくて……」

 なんだ……恥ずかしかっただけなのか。
 そうだと知っていたなら、今日まであれほど悩まなくて済んだのに。
 じゃあ廊下で会ったあの時も、顔を合わせてくれなかったのは、ただ単に恥ずかしかっただけなのだろうか。
 そう思った途端、目の前の花丸さんが愛おしくて仕方がなかった。

「あの……ダイヤさん」
「は、はい」
「もう一回、してもらえますか? ……キス」
「はい?」

 耳を疑う。
 花丸さんを見ると、今まで以上に顔が赤くなっていた。

「あ、今のやっぱり無かっ――――んっ……」

 花丸さんが何か言いかけたが、私はその言葉を待たずに彼女の唇を塞いだ。
 キスしてほしいと言われて、私にももう一度キスしたいという気持ちが強く湧きあがった。
 だから考えるよりも先に、行動に移してしまった。

「んっ……ふぅっ……んんっ……」

 長いキス。
 半年前の触れるだけのキスとは違って、たっぷりと花丸さんを味わう。
 疎遠になっていた時間を取り戻すかのように、私たちは長い時間をかけてキスをする。

「……んっ……ぷはぁっ、はぁ……ダイヤさん……」
「花丸さん……」

 花丸さんと見つめ合う。
 すると自然と、その言葉が口から出てきた。

「好きです」

 その言葉は自分でも驚くほど、ストンと胸の中に落ちてきた。
 私はずっと、花丸さんが好きだったんだ。
 以前、鞠莉さんと果南さんに言われたときは否定した。
 だけど私はあのときにはもう、花丸さんに恋をしていたのだ。
 ただ自覚がなかっただけ。その感情を知らなかっただけ。

「私も……ダイヤさんが好きです」

 花丸さんからの言葉。
 それだけで、涙が溢れ出そうになる。
 今まで胸の中にあった痛みや苦しみが消え去って、喜びと幸せで満たされている。
 花丸さんのことを考えて胸がキュッと締めつけられたとき、あのとき存在していた僅かな幸福感の正体は、恋だったのだ。

 恋が実って、幸せで満たされる。
 この瞬間、私は世界で一番の幸せ者だろう。
 いや違う。
 花丸さんも私と同じだけ、幸せを感じているに違いない。

「花丸さん」
「ダイヤさん」

 目と目が合う。
 顔が近づいていく。
 これから私は、幸せになるのだろう。
 その隣には、花丸さんがいる。
 互いの幸せを分かち合い、ともに幸せになっていく。
 そんな誓いの意味を込めて、私たちはキスをした。

 これからも、彼女と一緒に歩んでゆく。
 私たちに待っている未来を、いつまでも、永遠に。