短編集


 

風になりたい

 
前書き
とある港の病院の、ちょっと高い階にある病室。そこで、毎日を過ごす少女のお話。
夏の終わり、病室から望む俯瞰を心に焼き付けて。

THE BOOM「風になりたい」を聞きながら考えついたお話。題名もそのままお借りしました。 

 
 誰かが、私のことを呼んだ気がする。

                ◇

 この病院で過ごすようになってもう一年が経つ。そんなことを不図考えた。いつも通りの、建設的では全くない思考の一環。どうせ病院からでることも滅多に無いのだ。非生産的であってもバチは当たるまい。病院内っていうものは、まぁ、周知のことだろうけど、暇。だからちょっとでもそれが潰せそうなことを思いついたら、それを真剣に考え出してしまう癖がついてしまっていた。
 私がこのベッドで過ごすようになって、一年。まだ成人を迎えていない私にとって、一年は非常に長い。そう考えればこのベッドも、この天井も慣れ親しんだものだった。床も、そして、この窓から覗く港にも。窓の外を眺める。あの日以降、壊れてしまった港は日々着実に修復されていっている。ここから望む、ある意味退屈と言っても過言でないその風景に戻っていく様は、何故か心の中が落ち着いた。
 もうふた月も切っていない髪の毛を、左手で一房、くるりと巻いた。そろそろ切らないといけない。一応、私だって女なのだ。綺麗な髪でいたいのは、おかしいことじゃない。
「はぁ……」
 ため息を吐いて、ベッドに腰掛けた。もう、彼とは何日も会っていない。病院から一歩も出なくなってから、もう随分と経つのか、なんて、一寸思い返した。
 窓から覗く風景は、蒼い空を映し出していた。近くに見える入道雲、そうして、白い点に今は見える海猫。外に出ればつくつく法師の声も聞こえるだろう。もう、夏も終わる。激動の初夏を終え、夏に入り、そうして次の季節へ。
 いや、違う。夏は過ぎ去るのだ。人は前に進む。もう夏は過ぎる。進む先には秋がある。
 そこでまた不図思う。夏は、何かに似ている。ちょっと考えて、それをすぐに理解した。
「嗚呼、そうか」
 私だ。いつだって蚊帳の外の私。置いてけぼりの私。そうして、時間に置いていかれる夏。そう思うと、夏という季節に親近感が湧いた。
 暫し、無言の時間を過ごす。耳に入る音は、空調の僅かなモーター音だけだった。


 そのまま、半刻程が経っただろうか。思考は未だに、非生産的で無意味なことを考えていた。例えばそう、一体この暮らしはいつまで続くのかとか、彼に私は負担にしかなっていないんじゃないかとか、ここから望む、“俯瞰の先の、遠い彼と彼女”に、私の手は届くことはあるのかと。
「あ」
 “魅入られた"
 頭の隅っこで理解する。発想がころりと変わる瞬間。ある節目を、超えては行けないラインを跨いでしまった感覚。恐らくは人生に一度、あるかないかの体験。
 生物としての最大の禁忌、それを今私は、現状からの逃亡ではなく、前向きな選択肢として受け入れていた。これを、他の人達は“魅入られた”と言うのだろう。
 胸が高鳴った。先ほどまでの陰鬱な気持ちは、もう微塵足りとも残っていなかった。やりたいことが、見つかったのだ。この無風の病院で、やりたいことを。スリッパを履きなおして立ち上がる。窓際に歩いて行って、外をもう一度眺めた。蒼海、蒼穹、入道雲、海猫、強い太陽。なんてお誂え向き!
「~~♪」
 自然と鼻歌が出てきた。何年も前のヒット曲で、私はこの曲のサビが好きだったのだ。
 数少ない私物から、ヘヤピンと手鏡を取り出した。長くなって少しばかり鬱陶しい前髪を、ヘアピンを使い右で抑える。そうして小さな手鏡できちんと整える。肌は、夏だというのに日に焼けていないからいいけど、もうちょっと唇に紅が欲しい。だが、生憎口紅は手持ちになかったので諦めた。手鏡で自分の姿を確認すると、黒く長い髪の毛と、病的に白い肌が際立った、モノクロの人になってしまっていた。これはいけないと思い、窓際に置かれていた花瓶から枯れかけた花を一輪失敬しヘアピンと一緒につけた。もう一度手鏡で確認。うん、中々いい。
 お気に入りの服とか色々考えたけど、やめた。やっぱりこういうのは、下手に飾りすぎないのがいいと思うのだ。あくまで自然に。そうして、髪につけた一輪の花がアクセントになればいい。
 病室のドアを開け放った、いつもはこの白い廊下に嫌気が指すけれど、今はこの何者にも染められない白が心地良く感じた。一年を過ごした病院、構造はわかっていたから、階段を直ぐ様見つけて登りはじめた。だが、そこでちょっとした誤算。屋上に続くドアが閉まっていたのだ。まぁ、考えてみれば当然か。
 だがしかし、この程度で諦められるほど、胸の高鳴りは小さくはなかった。登ってきた階段を降りて、一階へ。
 受付の女性に軽く挨拶をして、玄関から外に出た。受付の彼女は、私が散歩に行くと思っているらしい。けど、違うのだ。風に、風になりたいのだ。
 玄関を出て裏手に回り、フェンスを乗り越えて外付けの非常階段に入り込んだ。病院内からでも入れるけれど、人目が多いので、見られたりしたら大変だ。
 早速非常階段を登り始める。先ほどの階段の昇り降りから連続してなので、鈍りに鈍った私の体はすぐにへこたれる。それに、院内と違って蒸し暑く、そうして予想していたとおりにつくつく法師の声がした。―――嗚呼、なんて素晴らしい!―――夏が、私を祝福してくれるようだ。置いてけぼりにされるモノ同士、仲良くしよう。
 なんとか非常階段を登り切って、またフェンスを超える。ここは、病院の屋上。そうして、私の目的地だった。屋上には白い洗濯物が沢山干されていた。その中に歩み入る。その瞬間、一陣の風が私を包み、駆け抜けて、洗濯物を揺らした。髪を荒れぬように抑える。最高に、この風が気持ちいい。
 フェンスまで駆け寄って、それにより抱るように空を仰ぎ見た。フェンスを掴もうと思ったが、ペンキの剥がれたフェンスは、太陽光で暖められていて熱く、直ぐ様離した。
 西に見える積乱雲は、風があるし、一時間もせぬ内にこの地で雨を降り注ぐだろう。


 フェンスを越えるのには中々難儀し、階段がある場所の裏手の日に当たらないところから、なんとか超えることができた。フェンスの外側の、一尺程せり上がった縁に登って立つ。両手を広げて、バランスを崩さぬように縁を歩き始めた。
 時折吹く強めの風が体を大きく揺らし、それは直ぐ様諦めることになってしまった。空を見ると、思ったよりも積乱雲の足が速いらしく、もう少しで太陽が隠れそうになっていた。
 北側のフェンスの外に移動する。ここまで履いてきた靴を脱ぎ、裸足になる。あんまり形式張ったことは好きではないつもりだけど、靴を履いたままで格好がつかない気がする。
「~~~♪」
 お気に入りの曲を、最後に口ずさむ。
 縁に乗り上げる。真正面には、太陽。
 歌を、歌う。あの人に会えて幸せだったと。そうして歌は、いつか呟きに。頭に浮かぶは一人の人。私の、好きな人。
「風に」
 その瞬間、先ほどまで吹いていた風は、ピタリと止んだ。次に吹くのは他の何かの風じゃない。今度は、私が。
「風に、なりたい」
 太陽に向かって、駈け出した。無風の中、ただ一つの風になって。
 ただ、風に。風に。風に風に風に!
 終わりはすぐにやってくる。如何に私の足だろうが、病院の一辺の長さなんてたかが知れてる。
 駈け出した刹那、誰かが、私のことを呼んだ気がする。だが、それを置いてけぼりにして、足を緩めずただ前へ一歩目を踏み出す。二歩目、三歩目、駆けろ、駆けろ、駆け抜けろ!
 そうして、残り一歩。落下を恐れない、ただ前を見る。そう、この瞬間、私は、風に、風に!
 最期の一歩を踏み切った。浮遊感が体を包む。私の体と地面は二丈以上ある。だけどこの浮遊感が続くのは、一瞬。その一瞬に、人生全てを賭けた。目指すは太陽、その身を風に。落ちるは地面、血の吹雪と化すまで。
 嗚呼、でも、貴方の温もりを最期に感じていたかったな。 
 

 
後書き
思いつきでやってしまったシリーズ第一弾。
名前も細かい設定も全部飛ばして飛んでった話。一応決めてはあったけど。
少女が駆け抜けるって描写は結構好きなんですよね、はい。あと夏も。風になりたいを聞きながら、もう夏も終わったじゃないか、なんて思って題材を決めました。
ルピなし誤字多し駄文でごめんね。 

 

ありがとう、って。

 
前書き
毎日同じことを繰り返す大人の、ふとした瞬間に見つけた逃げ道。
偶にはテンプレートを抜けだして、そうしてずっと逃げていたい。

 

 
 ありがとうって言葉、最後に聞いたのいつだったっけ。


 電車の座席に腰を下ろして、意味もなく空中で視線を泳がせる。車窓からの景色は、もうとっくの昔に夜の帳が下りて何も見えず、かといって携帯を弄る気にもならないから、視線は電車内の広告に止まった。
 原下田神社祭
 地元の神社の祭りだ。規模はそんなに大きくはない。ローカル線らしい広告だった。そうしてこれは、日付を見るに、もう終わっていた。余計にローカル線らしい。
 左手につけた腕時計で時刻を確認する。十時半。我が家につくのは十一時程になるだろう。一時には寝て、翌日の六時に起きないといけない。
 視線を窓の外に向けた。田舎を通るこの路線は、都会のように街頭がひっきりなしに過ぎ去っていくということはなく、時々見える民家や信号の灯りが、ふと現れて後ろに過ぎ去るだけだった。
 明日も会社、明後日も会社、これまでそうして続いてきた私の生活は、これからもそうして続くだろう。考えなおすと、酷く憂鬱な気持ちになった。
 朝起きて、用意をして出社して、仕事をして、適度に残業をこなしながら帰宅して、寝る。これの繰り返し。既に私の中には所謂ルーチンワークしている動作だ。そうして、今の私の立場(ステイタス)でもある。これをこなさぬ私は、周りから見る私ではないし、そうしてその私は必要とされていない。
 機械のような毎日。楽であるように、効率的であるように徐々に徐々に進化して行った結果、無駄という生物らしさすら削れていったテンプレート。肉体の負荷は軽減されて、心のゆとりも漸減された毎日。成功の喜びですらかなぐり捨てて、只々行動するだけの日々。

 だから、いつからか利己的に考えて、他人を思うという余裕すらなくして、気づいていたら、それが当たり前になってしまっていて。だからふと、こんなことを考えてしまうのだ。
『ありがとうって言葉、最後に聞いたのいつだったっけ。』
 どうせ、電車にはあと十数分乗っているのだから暇つぶしにちょっと考えてみた。
 ここ最近はない。ただ会社と家を往復し、指示に従い結果を出すだけの毎日。
 では今年に入ってからは? もう十月を過ぎるが、中々思い出せない。
 嗚呼、そうだ。店で確か言われた気がする。唯それはテンプレート。店員の、そうである形だ。
 そうして、どんどん記憶を遡っていって、ほんの小さい時に言われただけなんじゃないかと思って悪寒が走った時、先ほどの広告がまた目に入った。
 原下田神社。そうだ、聞き覚えがある。小さい頃住んでいた家から、幾許(いくばく)か離れたところにある神社。そこで、確か言われた。あれはそう、高校生の時に。
 では、誰に?
 それが思い出せない。誰かに言われたんだ。ほんの小さなことをしてあげただけなのに、誰かは見ている方も釣られてしまうくらい気持ちがいい笑顔をして、ありがとう、と。
「……ふ」
 小さく息を吐く。過去と今との差が激しい。もう、こんな毎日を続けるのは嫌になってしまっていた。これを続けることが苦痛だ。続けられていけても、変わってしまった自分が恐ろしい。いっそのこと、明日から私がいなくなれば、こんなこと思わなくてもいいのに。
 そこまで思って、小さく笑う。会社を休んでどうするのだ。暮らしてはいけない。
 じゃ、生きなければ?
 それこそ失笑してしまう。生きるために苦行を犯し、逃げるために死を選ぶなんて……
「あれ?」
 なんて当たり前なことを?
 そうだ、生きるということには苦痛が付きまとう。では逆は?
 今まで何でも努力してきた自信はある。逆も、やってみようか。
 明日の会社は、無断欠勤だ。場所は、あの神社でいいだろう。


 翌朝、ベッドから起きると、もう日はかなり上っていた。七時八時ではもう既に無いだろう。床には、六時を指して止まってしまった目覚まし時計が、その白い筐体にヒビを入れて転がっていた。そういえば、今日は時間に縛られまいと思って、かけたままだった目覚まし時計を壁に投げつけたのだった。よもや壊れてしまうとは。
 起きてからは、はじめに朝食をとることにしていたが、今日は気分を変えてみようと思い、身支度をした。ゆっくりと一時間以上をそれにかけ、意気揚々と荷物を入れたバッグを肩に掛けて玄関に向かった。壁掛け時計は、既に十一時を指していた。
 駅に向かう途中、以前から気になっていたパン屋によって、美味しそうなパンを五つばかり買っていった。以前からと言ってももう一年以上も前からで、気にはなっていたけどテンプレートに従っていた毎日では買いに来ることもなかったのだ。
 駅について電車を待つ途中、一つを食べた。半月状のカレーパンで、辛味が少なく食べやすかった。
 今気づけば、朝起きてから携帯を確認していなかった。何気なく開いて、後悔。上司からの電話が何通か入っている。伝言なんて、何を言われるか決まっている。開かないに限った。

 家の最寄り駅から四つ程離れた駅に降り立つ。この駅の直ぐ傍に、原下田神社があるのだ。
 駅舎から出て、直ぐ前の道路を右に曲がり、次の交差点で左。時間にして、都合十分程で目的の神社についた。早速鳥居をくぐる。昔ここに来た際に、誰かに言われた真ん中を通ってはいけないという言葉を思いだして。
 長い石段を登る途中、気づけば前から女性が降りてきてた。歳は私とあまり変わらぬ年齢だろう。あまり長く見るのも悪いので、視線を外す。彼女は私の横を通り過ぎる時に、何故かちょっと吃驚して私を見た。だが彼女は何も言わず、そのまま過ぎ去る、かに思えた。
「すいません」
 後ろから声をかけられた。振り返ると、当たり前だが先ほどの女性。
「ここから駅までの道ってわかります?」
「ここの境内を抜けた先の道路を右に曲がって、更に次の交差点を右に曲がって暫くしたら見えますよ」
「そうですか」
 彼女は本当に小さく、多分をつけていいくらいの小ささで、笑ったと思う。
「ありがとうございます」
 そう言って、彼女は階段を降りていった。
「ありがとう、か」
 彼女がさった後独りごちる。いつかの記憶が重なる。嗚呼、これが最期に人と交わす言葉になるだろう。この偶然に無性に感謝したくなた。
 石段を登り切ると、神社の本殿がある。そこから少し右手に入ったところに黄色と黒のロープが張ってあった。ここは昔立入禁止区域だった。今もそうであって安心する。
 周りに人がいないことを確認してロープをくぐり、奥に移動していく。といっても、先は短い。百メートル程歩けば、この神社がある丘の頂上だ。ここは嘗て神社が会った場所で、本殿はもうこの下に移されている。崖の近くに歩み寄れば、駅も見えた。
 人が来てもなるべく見えにくい位置にある木を探して、手早く持ってきた布切れをかける。ロープなんてものを態々(わざわざ)買いに行く気も起きなかったからだ。
 なんとか苦労して布を木に括りつけると、不図持ってきていたバッグの事を思い出した。まだパンが四つ残っていた。最後の晩餐と洒落込もうと思って、本殿のところに戻ってパンを食べた。なんとか三個は食べれたが、残りの一個は食べきれなかった。
 本殿を見て、あることに気づく。そうだ、財布も持ってきていたのだ。バッグから財布を抜き出して、賽銭箱の近くまで歩む。二礼二拍手の動作を、幾分か適当に済まして、財布の中身を逆さにした。小銭が落ちる音がする。更に挟まっていた現金を落として、鈴を鳴らす。お願いごとも神様への挨拶もする気が起きなかったけど、先ほど私にありがとうと言葉をかけてくれた人に対する感謝は、したくなった。
 ひと通り済ませて、また丘の上に登る。手頃な石をなんとか拾って台にして、布切れと首の位置を合わせた。
 最期にこの丘からの景色を眺めて、踵を返し布切れの前に対峙する。
 さぁ動作はシンプルだ。さらば現し世、其処に住む人よ。私は先に逝ってくる。
 最期に足元の石の台を蹴り飛ばす瞬間は、ある意味晴れやかだったと言ってもいい。
 
 

 
後書き
思いつきでやってしまったシリーズ第二弾。
名前も細かい設定も全部飛ばして飛んでった話。性別すら決めてなかった。
前回とは打って変わって冬の初めの山。着想から一時間十分、書き始めてからは一時間で終わるという私にとっては速い執筆。その分かなりの部分で適当。というか十分でこんな感じでいいかなーと思って書いている内に考えついたこと書いただけ。
前回のは中々好きだったけど、今回は話の内容は微妙。ちょっと後悔。 

 

仮の空想

 
前書き
駅のホームでただ一人、誰かと会話を重ね、そうして電車に乗り込む。ぶっちゃけこれだけの話。


眠い。
書き始めてから結構経ったり適当に加筆したり夜中にやったりでどうしようもない。
話も支離滅裂だけど読みたい方はレッツ黙読。 

 
 見えないし、触れない。けど、それが僕の初めての友人だった。

                 ◇

 警笛が鳴る。そうして、僕の前で電車は走りだした。
 養護施設の帰り道、いつもより遅く施設を出てしまったせいで、電車にぎりぎり間に合わず、電車を一時間ほど待つことになってしまった。
 週に一度、僕はかつていた養護施設の手伝いをしていた。両親を小さい内になくした僕としては、あそこは我が家の様な場所で、バイトでなんとか食いつないでいる今でも、こうして時たま顔をだしている。
 がら空きのベンチに腰を下ろす。周りをきょろきょろ見回して、誰もいないことを確認した。予想通り、二十時を回ったホームは閑散としていて、誰の姿も見当たらなかった
「家に着くのは何時頃だろうね」
 いつも通り、彼に話しかける。内容に意味などなかった。ただ何かを喋りたかっただけ。けどそんな語りかけにも彼は律儀に返してくれた。
「『二十一時五十分くらいかな』」
 繰り返すが、このホームには僕以外には誰も居ない。だけれど彼の声は聞こえた。
「今日は九時から映画を見る予定だったけど、駄目か」
「『そうだね、帰ったらシャワーを浴びてのんびりすればいいと思うよ』」

 彼は、俗に言うイマジナリーフレンドだった。空想の友人。小さい頃に両親がなくって、引っ込み思案だった僕が正気を保つ為に作り上げた仮想の友達。それは十八を迎えた今でも僕と共にあった。

「……」
「『何か考え事?』」
「ああ。君のことでね、少し考えていた」
 もう僕も子供ではなかった。故に、いつまでも彼がいるという状況はまずいということはわかっていた。
「君はいつまで僕と一緒にいるんだろうね」
「『さぁ。君が僕を必要としなくなるまでだろうね』」
 確かにその通りだ。彼は、僕の心が孤独を耐えられなかった結果に生まれたのだから。僕が満たされれば消え失せる。いや違う。出てこなくなるのだ。
「君はそれについてどう思う?」
 彼自身と言葉を交わすことはなくなる。それは、彼にとってはいいのだろうか。
「『何が、とは言わないよ。僕はそれでも構わない。僕は消えるわけじゃないからね。君と僕はそもそも同一であるのだし』」
 そう、彼は消えるのではない。ともすれば最初から生まれてすらいないのだから。
「未だに理解できていないのが、君の思考だよ。君は僕と同一だと言うけれど、会話が成立する時点で僕と君は同一ではない」
「『そんなに難しく考えることもないよ。結局は同じだよ。ただ君は、色んな人と関わって、色んなことを感じていった。僕はそれとは違っただけで』」
「環境の違い?」
「『違う。同一の思考から生まれた現実と願望さ』」
「願望?」
 オウム返しをする。彼は僕の願望? いや、確かに仮想の友達にそのようなことはあるとは聞くけれども。
「『そう。君は普通の人間なんだよ。自我の崩壊を止める為に仮想の友達を作る程度にはね。だけれど君は過去の寂しさから自己の美化が苦手なんだ。人間誰しもが感じる無条件の自己への愛が薄いんだ。だからその分を、仮想の僕に投影した。』」
「つまり君が、僕が思う理想の自分なの?」
「『そうではないけど、それに近い。姿がないのもそのせいさ。君は美化された自分を空想できなかった。君は君自身を愛してはいないから自分を元にしたものは認められなかったんだろう。だから僕の形は不確定なんだ』」
「じゃあその性格も」
「『性格もそうだけど、存在そのものが、だよ。寂しさに敏感な君は、他者が寂しくなればすぐに出向いてあげたいと思っている。声をかけられればすぐ返答を返す僕のようにね』」
「そう、か」
 彼は僕の理想なのか。だが、考えてみれば確かにそうだ。寂しがり屋の僕は、独りの心細さを知っている。だから、そんな人を放っておけなくて、今でも養護施設に顔を出しているのだ。そうして自己の主張は最低限に、ただ優しく声をかけてあげられれば、それはなんて--。
「あれ?」
 僕は必要なのか?
「『必要だよ』」
 言葉に出すより早く、彼は強い口調で言った。
「何故? 君と僕とが逆になればいいんじゃない?」
「『……自己への愛が欠落しているからって、他者への思いやりだけでそんなことを言えるの?』」
「分からない。けどそうすればもっと誰かの寂しさを埋められるんじゃない?」
「『無理だ。言っただろう。現実と理想は異なるんだ。もし変わりに入れ替わったとしても、理想の僕は現実との摺り合わせを経てもこのままではいられない。今の君のようになるさ』」
「……」
 ゆっくりと息を吐く。今の提案は、ある種現実逃避であった。他人の幸せを願うという免罪符を経て、他人との関わりあいを他者に譲り渡すという。
「『冷えてきたね』」
「だね……」
 その後ろめたさからか、会話は弾まない。

                   ◇

 気づけば、次の電車が遠くに見えた。田舎のこの駅からは、周りが田んぼのおかげでずいぶん先まで視界が良かった。
「『これでお別れだね』」
 彼の言わんとする所は分かった。そう、考えればはじめから分かりきったことだったのだ。彼は僕自身にほかならないと。そうして其れを自覚したならば、もうこの関係は続けられなくなると。其処まで僕の心を強くすることだけが、彼が言葉を持った意味なのだから。
「ああ……」
 今まで僕と彼が居たのではない。僕と目線を変えた僕が常に居たのだ。だがそれも珍しいことではない。自己の客観性と現実はズレる。自己の理想像など誰しもが持ち合わせている。僕は偶々、それに言葉を持たせただけにすぎない。
 故に、彼は先ほど思っていたように出てこなくなるわけでも、ましてや消えることなどあるわけなかった。死ぬまで僕とともにある。
「寂しくなるね」
 ただ、言葉を無くすのだ。
 目の前に電車が滑りこむ。俗にいうワンマン運転の電車は、ドアの開閉はボタン式である。開と書かれたボタンを押し込む。僅かな機械音とともにそれは開いた。中から生暖かい風が出づる。僅かな緊張を孕むその一歩を電車内に踏み出した。妙な力みに、近くの席の男性が怪訝そうな顔をするが知ったことではない。
 全身を電車に入れるのに、四歩も必要ない。いつもは後ろ手に押す閉のボタンを、態々体を向きなおしてて押した。閉じる扉は一種の決別だ。僕は背中で語れる程強くはない。だから、電車が動き出すその時までただ寂れた駅のホームを眺めていたのだった。 
 

 
後書き
三作目にして一番時間かかってんじゃねえのかってこと。
まぁ適当に書き出して(この場合の適当は悪い意味)ずっと放置して本日の夜に適当に加筆して上げる。
設定は三〇秒で決めた。がメモしてないので忘れた。その程度。
ルピは一個もないしろくに見返して(以下略)……だからごめんね。
とりあえず眠いんで寝る。 

 

春よ来い

 
前書き
山間部の廃れたスキー場で、ただ春を感じる。



1500文字程度で会話は一度も出ません。ルビ振りなしで見直しもほぼなしです。練習用。
尚、曲の「春よ、来い」から発想と題名を頂いております。ジャスラックには何も言ってません。 

 
 雪山に残ったスノーボード。酷く傷んだそれは、荒廃という寂しさよりも、時間の経過による印象の変化を伴って次の、そう、春の訪れを物語っていた。


 四月の初め、千五百米から二千米の山々が連なるこの地方では、道路や施設を除いて、まだ大分山間部は雪に覆われている。
 村と町を繋ぐ道路は、道路中央部から流れる温水によって、雪がやんで暫くすればチェーンを巻かない車でも通れるようになる。そんな道路を、私はクロスバイクで登っていた。
 視線を原生林に向けると、道路脇に広がる白樺は、まだその足元を白く隠し、時折その合間に人や獣の足跡を残すのみだった。
 半刻程であるスキー場についた。まだ斜面は雪で覆われているが、リフトは稼働せず、施設内も人の活気はなかった。
 この地方では山間部には何ヶ所かスキー場がある。今から三十年以上前に起きたスキーブームに便乗する形で、この何もなかった山々の斜面を開発し大量のスキー場を作り上げたのだ。だが、当たり前だがブームは過ぎる。過剰に作られたスキー場は人気のないものから淘汰されていった。場所によっては、シーズンオフにも山頂までのリフトを観光客向けに動かして収入を得て存続している場所もあるが、残念ながらここはそうはなれなかった場所だ。人気は、ここ数年ない。
 私はここが好きだった。人気がないこの場所は、人工物でありながらどこか自然らしかったからだ。人が織り成す営みは、時として季節や自然と同期しない。人がいないことで、時の流れが自然と同期になっているからなのかもしれなかった。
 クロスバイクを降りて近場を散策する。バッグに入れてあったミラーレスカメラを手に取って回りを写していった。偶には魚眼レンズをつけて、偶には望遠で、周りの景色を。雪に多くを覆われたこの場所で、数少ない春を探しながら。
 私は春が好きだった。幼い頃にスキーで怪我をして以来雪を使って遊ぶことから興味をなくし、かといって他の遊びができるでもない冬が嫌いになったから、冬から解放される季節である春を好まずにはいられなかった。であるから、私は冬になると願わずにはいられない。
 春よ、来い。と。

 半刻ほど周りを散策した頃、太陽が隠れた。
 山間部を流れる風は、時として水蒸気を寄越す。それがある程度の大きさを持てば、高さによって名前を変える。今いる高さなら霧、より高ければ、雲に。これは、後者だった。
 そうこうする内に、俄雨が顔を覆った。濡れることへの嫌悪より先に、頬を滴る水の温さに私は喜んだ。
 春と言えば何を思い浮かべるだろうか? 桜や沈丁花はこんな高所では見ない。否、そも、風景の要素であるとするならば、如何せん周りを覆う雪山は、花という要因を容易にその面積を持って覆い隠す。であるからに、そう、私は春と言えば、俄雨を想像する。僅かに咲いた野草の葉を艶やかに潤わせ、木々の淡い香りを匂い起たせる俄雨だ。
 だが、それは容易に人の体温を奪いさる。私は思考を切ってリフト乗り場の屋根の下に自転車と共に移動し、ベンチに腰を下ろして雨が通り過ぎるのを待った。
 リフトの傍の溝には、雪解け水が高低差故の音を立てながら下方へ流れ去っていた。雨が降る度、雪は早さを増して溶けていき、本格的な春が始まる。雨音だけでなく溝を流れる水の音も、春を構成する一つの要素なのだ。私は今正しく、初春に囲まれていた。
 雨が上がって暫くして、私は屋根の下を出た。その時ふと気づいた。動かないリフトの座席の一つに、一枚のスノーボードが置かれていた。うまい具合に手すりに嵌って、今の今まで落ちてこなかったのだろう。酷く傷んだそれは、荒廃という寂しさよりも、そう、春の訪れを物語っていた。
 私はそれを写真に収めるか逡巡した後きちんと写し、クロスバイクに跨ってその場を後にした。 
 

 
後書き
第四弾
友人に何か一言と訊ねたら「スノーボード」と返ってきたのでなんとかそれを使うようにしました。
ええなかったとしてもなんとかなりますねごめんなさい。
ついでに存命報告も兼ねてます。艦これのほうはまだあげられそうにありませんごめんなさい。亀より遅いって言ったけど一年以上だとかかりすぎだねうん。 

 

まっしろ男とまっくろ女

 
前書き
小説家になろうで同名タイトルで投稿済み 

 
 駆け足で改札を抜ける。階段を急ぎ足で下りホームへ踊りだしたその瞬間に、上り列車の扉は閉ざされた。私は駆ける足を緩め、ゆっくりとホームで歩き出す。乗りたかった電車は過ぎ去った。次を待たなければならない。ならば、ゆっくりベンチに座って待とう。
 そうしてホームに意識を向けた時、私はその人物に気がついた。七分丈のデニムとサンダル、薄手の上着を羽織った少女。齢は十五ほどだろう。あどけなさが幾らか残る顔立ち。その視線は、先過ぎ去って行った電車を未だ遠くに見ていた。
 私は僅かに「ほう」と息をついた。少女の顔立ち感嘆したのではない。その姿におかしさを見たから。今は十月の暮れ。比較的温暖なこの街でも、少女の格好は寒いに違いなかった。ただ、私は少女をおかしな人間だとは思わなかった。彼女の周りだけ季節は夏、そんな幻想を抱かせる程に彼女に違和感はなかったのだから。
「もし」
 それが私に向けられた言葉と気づいたのは、話しかけられて何秒を空けてからだったか。
「なんでしょう」
「次の列車はいつになりますか?」
 暫しお待ちをと答えて、私は財布から時刻表を取り出した。それには次の列車は今から一刻の後とあった。
「今から約一刻、十七時二十六分にありますよ」
「下りは、どうですか?」
 その発言に違和感を抱きつつも私は時刻表で確認する。今から五分もせぬ内にそれはやってくるようだ。
「後五分でここを発ちます。来るのはもうすぐでしょう」
 その返答に満足したのか、少女は私に礼を行って近くのベンチに腰を落とした。私は少し悩んだ挙句、少女のそばのベンチへと移動し腰を落とした。今から一刻も立っているのは酷である。
「お暇ですか?」
 少女の言葉に、今度はすぐに言葉を返した。
「ええ。後一刻もありますから」
「暫しお話をしませんか?」
「喜んで」
 私の言葉を受け取って、少女は一人僅かに笑みを浮かべた。盗み見たその顔にあどけなさはなく、ただ悲痛なものが垣間見えた。
「私、夏が好きなんですよ」
 そんなものは見ればわかる、そう呟こうとした口を閉じて、彼女の続きの言葉を待つ。
「今は秋でしょう? それに、もう日が暮れる」
 少女はそこで一旦言葉を切った。その無言の隙間を埋めるように、遠く列車の音がした。間もなく到着するのだろう。
 そうして幾らか間を空けて、列車が線路を踏む音が少しずつ大きくなる中、少女の口からその言葉は紡がれた。
「そういう、事なんです」
 そうして少女は立ち上がる。その目は今ホームに進入してくる列車を強く見つめていた。想見していた。私はこうなるだろうことを。故に驚きはしなかった。だからこそ、間に合った。
「え」
 少女は驚きの声を上げる。線路へと駆け出そうとしたその手を、私が無理矢理に掴んだから。全力を持って彼女を引き寄せる。体勢を崩した彼女の後ろを、列車が駆け抜けていった。

                ◇

「旦那様、お食事が出来ました」
 夢から、少女の声で起こされる。懐かしい夢を見ていた。
「今食べるよ。毎日ありがとう」
 寝ぼけ眼を擦りながら、私の部屋から去りゆく彼女に礼を投げる。彼女は礼には及びませんと私に返して、私の部屋の襖を閉めた。そうしてそれと同時に、じりりと目覚まし時計が鳴る。この音がするという事は時刻はもう八時になったのだろう。少し、寝過ぎたか。私はすぐに朝食へと向かった。
 自殺しようとした少女を匿ってから早八ヶ月。あれから彼女に一度もその理由を尋ねた事はないし、彼女もまた私に話すことはなかった。ただ、帰る場所を尋ねた私に対して彼女はそんなものはないと応えた。なら泊まっていくと良い、何て半ば冗談で言うたのだが、少女は真に受け家政婦として働かせてくれなんて言い出した。結局それを了承してしまった私は今でもこうして、件の彼女と二人でアパートで暮らしている。

「膳を下げに参りました」
 布団に腰掛けて窓の外を眺めていた際に、彼女は現れた。私は白い景色へ視線を向けたまま、彼女に言葉をかける。
「美味しかったよ。ありがとう」
「ありがとうございます。ですが住まう家と賃金さえ頂いているのです。より旦那様に気に入って頂ける食事を作れるよう精進致します」
 生真面目にそう応えてすぐ、食器の音がした。盆を持ち上げたのだろう。
「そういえば、旦那様」
 なんだい、そう答えながら私は顔を床へと向けた。
「……いえ、何でもありません」
 そう言って食器が僅かに揺れる音を立てながら彼女は去っていく。彼女が言いたいことは、なんとなく分かる。こんな奇妙な同棲をはじめて、ついひと月前までは共に食事を摂っていたのだ。急に私が一人で食べると言ってから、彼女と顔を合わせる機会は激減した。その以前から私は自身の部屋の掃除を自分ですると言って彼女を立ち入らせず、金は蓄えがあるから気にしなくてもいいという事もあり、自身の部屋から出ることが殆どなくなった。そんな私を心配でもしているのだろう。
 けど、それで良い。今更外へ出てもどうしようもない。この生活が続く限り私はこれを続けていこう。

 その日の夜の事。膳を運んできた彼女は、すぐには私の部屋を去らなかった。私は朝のように視線を窓へと向けながら、彼女が口を開くことを待った。
「旦那様。ご迷惑でなければ共に食事を摂っても宜しいですか?」
「駄目だ」
 そう、少し強く彼女に言う。この生活を続ける上で、それだけは守らなければならないことだ。
「すいません、出すぎた真似を。では、私はこれで失礼します」
 そんな彼女のしょぼくれた声を聞いて、私はやっと、彼女が寂しかったのだとわかった。だから、私は問う事した。この関係の終わりの事を。寂しさの次にある事を。
「なぁ、お前はいつまでここにいるんだ?」
 私の言葉はともすれば拒絶と取れる。だから私は言葉を重ねた。これは選択ではない。一つの可能性の質問だと彼女にわかってもらうために。
「今すぐ出て行けとか、お前に不満があるとかじゃない。お前が望む限りお前はここに居ていい。だが、例えば今から十年二十年先までこうしていることはできないだろう?」
 十年二十年先にまでは、確実に雇用主と家政婦という関係は破綻してしまっているのだから。
 少女は口を閉ざす。そんなところまで考えが至っていなかったのか、それとも思っていることを口に出すことが憚られるのかはわからない。
「お前はいつかはここを出て普通に暮らすべきだ」
「分かっています。近い将来、私は貴方の元を離れます。ですがそれまでは自身の責務を全うします」
 そう口にして、彼女は私の部屋を出る際にいつもより強めに襖を閉めた。


 朝、一人目が覚める。私は立ち上がり布団の側に置いてある百日紅ひゃくじつこうでできた長さ四尺程の棒を握って部屋を出た。
「あら、旦那様どうされました」
 流しのほうから彼女の声がする。今は朝食を作っているのだろうか。
「散歩。すぐに戻るよ」
「その棒は一体」
「サルスベリの棒。最近物騒な噂をよく聞くからね。護身用だよ」
 私の言葉に彼女は小さな笑い声を上げた。
「旦那様が捕まってしまいますよ」
 私は苦笑いを浮かべて、玄関から外へ出た。そうしてアパートの階段へと向かい、踊り場でぼぅっと立って時が過ぎるのを待った。風は乾燥していて、時たま鶯の声が聞こえた。今日一日はとても天気が良いことだろう。私はまた自宅を目指して玄関を通り、自室に戻って彼女が朝食を運んでくることを待った。

 そうして、その日の昼間、事件は起こった。

「旦那様、お願いです。今日の昼間だけでいいです。一緒に食事を取らせてもらえないでしょうか」
 そう懇願する彼女に私は首をふる。彼女の前で私が何かをすることはできない。
「私はとてもゆっくり食事を摂るし、例え家政婦と言っても女性だからね。あんまり男性にそういう事を言うものではないよ」
「気持ちのよい日です。窓を開けてのんびり食べませんか? 以前はそうしていたではありませんか。今日、今日だけでいいのです。お願いします」
 何故、今日に拘るのだろうか。今日は、確か六月の……二十二日、夏至だったか。それもよく晴れたいい天気の。私にとっては最悪の天気の。
「今日は、駄目だ」
 もし彼女と共に食事を摂るとしてもとしても、今日は特に駄目だ。
 彼女は私の部屋を駆け足で出て行った。彼女を何がそんなに急かすのか、それはわからない。ただそれでも、私は彼女の前では何もできない。

 彼女の去った自室で、昼食を摂る。ゆっくりと慎重にそれらを口に運んでいく中、一つのものを食べた時、無意識にその言葉を呟いた。
「苦い」
 水分がないような舌触り。間違いない、炭化している。焦がしてしまったのだろう。彼女にしては珍しい失敗。
 私が呟くとほぼ同時、部屋の入口で、何か音がした。
「誰かいるのか」
 問いかけるとその瞬間、その人物は駆け出した。足音で分かる、我が家政婦だ。彼女の足音は離れていき、そうして玄関が開けられ、閉じられた音がした。
 恐らく彼女は私の膳を下げに来たのだろう。そうして私が苦いと呟くのを耳にした。だが、何故逃げていったのか。こんな失敗なんて気にすることではないのに。
 もしや、私の秘密がばれてしまったのか。何にせよ追わなければならない。私は立ち上がって、また百日紅の棒を握って玄関の外を出た。階段まで小走りで近づく。まだ彼女は近くにいるらしい。僅かに聞こえた彼女の足音は、上の階からだった。
 階段を駆け上がる。踊り場までは十段、踊り場から次の階までは十一段を数えながら手摺を握り、上へ、上へと。この半年で怠けた足は上手く動かないが、それでもただ彼女の元へ向かう為に階段を上った。そうして、屋上に出てきた時、唐突に手摺は消えた。油断していたから、体勢を崩した。
「旦那様!」
 そんな私を心配してか、遠くから彼女の声が聞こえた。やっぱり屋上に彼女はいたか。
「どうした、そんな遠くにいて。こっちに来いよ」
 天頂には太陽が輝いている。屋上は強い日差しに当てられていた。彼女の元へと向かうのは絶望的とすら思えた。だから彼女を呼んだ、呼び寄せようとした。
「いえ、駄目です。旦那様、最期ですから聞いてください」
 断られてしまった。だから、私は言葉を投げる彼女の元へ向かう。ゆっくりと、慎重に。持ってきた百日紅を肩に担いで。
「私は、旦那様に拾っていただき幸せでした。ですが、私はもう貴方の下で仕えることはできません」
 それは、私の秘密を知ってしまったからか。それを受け入れる勇気がないというのか。けど、私はそれを責める気はない。彼女の人生を私で潰したくはない。
「そういう、事なんです」
 いつぞやの、列車に飛び込もうとした彼女の言葉を、今一度聞いた。今この場所はホームではない。だが、アパートの屋上。
「待て! 何でそんなに思い悩む」
 あの日のように、すぐには彼女に手が届かないから言葉をかける。慎重に彼女に近づきなから言葉を紡ぐ。
「それにお前の責任はない」
「何だ、旦那様も気づいていらっしゃったじゃないですか」
 その言葉に疑問を抱く。私も、気づいていた? 
「旦那様が苦いと呟くのを偶々耳にして、その時ようやく料理の失敗に気づきました。こんな木偶な私はもう旦那様の側に居れません。こんな、緑内障の家政婦なんて」
 心臓が、止まるかと思った。それ程に彼女の言葉は私に対して強い意味を持っていた。
「こんな晴れた日に失敗してしまうのです。もう以前のように仕えることはできません。日々狭くなる視野の中、叶えられる事があるとすれば、もう一度旦那様の顔が見たい、それだけです」
 緑内障は視界が周りからだんだんと暗くなっていく。彼女が進行していっているならば、何かを見るのに一年で一番天頂に太陽がある今日、この晴れた日以外に絶好の日はないだろう。
「ですがそれも叶いませんでした。私は、もう駄目なんです。これでさよならです」
 彼女の言いたいことは痛いほど分かる。今から彼女は屋上から身を投げるつもりなのだ。
「待て、待ってくれ。少しでいい。全て話すから」
 彼女と言葉を交わす内、随分と彼女に近づけた。後ほんの一、二間だ。今の私はあの日のように強引に彼女の手を掴むことはできない。けど、彼女の肩を叩いて労う事や、私の秘密を教えることはできる。だから、やらないと。仕えてくれた彼女に。
 右腕を伸ばす。そう、直ぐ側に彼女がいる。もうすぐ彼女に手が触れる。あと少し、あと少し。
 そうして伸ばされた私の指が触れたのは、彼女の髪でも肩でもなく、冷たい金網だった。

               ◇

「待て、待ってくれ。少しでいい。全て話すから」
 そう言いながら旦那様は私へ歩み寄ってくる。階段を駆け上がったからだろうか、彼の足取りは少し覚束なかった。
 私の視界はもう、薄暗かった。もうしばらくできっと、本当の真っ暗闇になってしまうだろう。けどその前に旦那様が私の元へ来てくれた。あの日、視界が暗くなっていくことに耐えられなかった私の手を握ってくれたように。
 このひと月、失敗が怖くて得意な料理しか作らずにごめんなさい。薄暗い部屋のお掃除が上手く行かなくてごめんなさい。顔が見たいとわがままを言ってごめんなさい。そう、心のなかで謝り続ける
 そうして、旦那様は腕を伸ばした。その意味が、分からなかった。だって、屋上の端に立つ私と旦那様の間には、安全のための金網があるんだから。金網に触れて掴む動作をした旦那様を見て、もしかして、登ってきてくれるんだろうか、何て思った矢先、彼の持っていた棒が、床に落ちた。旦那様は左腕も使って目の前の金網に手を触れる。まるで、それが何かわからないというように。
「あ……」
 驚いたように目を見開く旦那様。その瞳は、白かった。
「はく、ない、しょう」
 私の口から漏れた言葉を聞いて、すぐに旦那様は目を閉じた。白内障、水晶体が白色に濁る事によって視界が白濁する病気。明るいところだと特に、水晶体の中で光が散乱してしまい視界が真っ白になってしまうもの。
 そうだ、何故気づかなかったのか。視界が悪い私は、いつだって失敗してきた。料理だってきっと、胡瓜を切る間隔がぶれてきたり、彩りが悪かったりしてきたはずなのだ。けど、旦那様が気にする様子はなかった。頑張って隠し通していると思っていた。けどそんなことはなかったのだ。お互いが目が見えてないことを隠そうと躍起になっていたから、相手が見えていないなんて考えることなんてできなかっただけ。
「旦那様。今直ぐそちらに向かいます!」
「来るな!」
 旦那様は叫ぶ。それは拒絶。嗚呼、だから彼は昨日、いつまでここにいるのかと私に問うたのだ。完全に視界を閉ざしてしまう自分の元に、私を残さぬように。
 私は金網をよじ登る。今はまだ、彼より私のほうが見える。なら、私が本当に何もできなくなるまでは、彼を助けないと。
 金網を登る音に気がついたのか、旦那様は落ちた棒を手探りで拾い上げて走りだした。棒? 否、あれは杖だったのだ。何故、朝気が付かなかったのか。
「待ってください!」
 彼を追う。白内障の彼はこの晴天の中、何も見えていない。追わないと。私が側にいると伝えないと。
 彼は走る。屋上の階段へと。そうしてその事がわかった時に、私は走りながら人生で一番大きな声を出した。
「止まってぇ!」
 彼は止まらない。階段の側には手摺もなく、フェンスもないのに。だから、私は旦那様を追う。彼が落ちないように、何とかして追いかないと。
 あと一間、もうすぐで届くという時に、旦那様はとうとう階段の側に辿り着いた。けど止まらない。だって、見えていないんだから。彼は屋上の端、僅か一尺程の高さの縁に蹴躓いて屋上から姿を消した。
「ああ」
 間に合わなかった。けど、見ないと。彼が下で、どうなったのか。
 小走りで縁に近づく。大丈夫、私は見えているんだからゆっくりと下を覗けば……
 縁の直ぐ側、僅かな影になっている部分に踏み出した右足は、何故か止まらず前へと滑り、縁へと思い切りぶつかった。そのせいで、走っていた勢いはそのまま回転運動となり私の体を空中へと送り出す。私は浮遊感に包まれながら、木の棒がコンクリートを跳ねる音を聞いた。 
 

 
後書き
文中にある通り、題名は互いの視界の事でした。

補足を入れるならば、男がずっと顔を合わせなかったのは瞳が白いことを知られたくはないから。少女が顔を合わせたかったのは最後にその顔を見たかったからです。男が明るいところを嫌っていたのも、少女が窓を開ける等提案していたのも、全部光度を気にしての事でした。

途中で男が百日紅の杖を握って部屋を出たのはトイレに行くためにです(室内でも視界が悪いので杖があったほうが安心できるので)。ですが少女に見つかってしまいました。この時男は少女の事が見えていませんが少女からは見えていました(視界と明るさの違いで)。なので咄嗟に散歩と嘘をついて家を抜け出し、踊り場で時間を潰していました。

男が屋上に上がった際、少女が逃げようとしていたのにも関わらず声をはりあげたのは、手摺が消えたところがフェンスのないところだったからです。男にとっては少しバランスを崩しただけでしたが、少女にとっては縁の近くで大事な人がふらついていたわけです。

最後少女が落ちた原因は、男が杖としていた百日紅、もといサルスベリです。少女は影(=暗いところ)に男が落としていったそれに気づかずすべります。