樹界の王


 

プロローグ

 かんかんかん。
 すぐそばから踏み切りの警報が鳴っている。
 ボクは見知らぬ線路の前で呆然と立ち尽くしていた。
 かんかんかん。
 出て行け、と警告されている気がした。
 ボクは踵を返して、走り出す。
 かんかんかん。
 知らない場所だった、どこかの田舎道。
 どうしてここにいるのか、わからない。ずっとキャンプをしていたはずだった。けれど、さっきまでいたキャンプ場は、どこにも見当たらない。
 赤く染まった空。木々の向こうに見える鉄塔。全て、見覚えがない。
 かんかんかん。
 振り返ると、遮断機が下りるのが見えた。
 そうだ。踏切が閉まったということは電車がくるということ。人がいるはず。ボクは足を止めて、線路を見つめる。
 赤く染まった世界の向こう。電車の光が見えた。
 がたんがたん。
 電車の近づいてくる音に紛れて、カラスの鳴き声が頭上から響いた。
 轟、と強い風音が耳朶を叩き、電車がボクの目の前を通り過ぎる。
 踏み切りの横で、赤いランプがひっきりなしに明滅していた。それは恐らく警告で、でもぼくは通り過ぎる電車を呆然と見つめたまま動けなかった。
 電車には、人が乗っていなかった。車掌さんも、お客さんも、誰もいないまま、ボクの前を通り過ぎていく。
 幽霊電車。そんな単語がボクの頭に浮かんだ。
 電車が通り過ぎて、遮断機がゆっくりと上がる。そして後にはボクだけが取り残された。
 怖くなって、辺りを見渡す。どこまでも続く山道。民家はどこにも見当たらない。
「由香?」
 一緒にキャンプに来ていた少女の名前を呼ぶ。こっそりと抜け出し、一緒に辺りの散策に出かけた少女。
 さっきまで川沿いの道を由香と一緒に歩いていたはずだった。それが、いつの間にか踏み切りの前に立っていて、由香の姿は煙のように消えている。
 状況が、よくわからない。
 ついさっきまで、すぐ隣に由香がいたはずだった。そう、川沿いを確かに歩いていた。踏み切りなんてどこにもなかった。電車が走るような場所ではなかった。
 漠然とした焦燥感が胸の奥から湧き出し、ボクはいてもたってもいられなくなって駆け出した。
 開いたばかりの踏み切りを抜けて、見知らぬ道を走る。
 かんかんかん。
 後ろで再び踏み切りの警報が鳴る。
 かんかんかん。
 ボクを引き止めるように、警告するように。
 かんかんかん。
 警報が不自然なほどの速さで遠のいていく。
 警報だけではない。全ての音が遠ざかっていく。
 ぐうん、と全てが間延びするような感覚。
 視界も、聴覚も、全てが停滞するように静かに失われていく。
 目眩がした。世界中がおもちゃ箱をひっくり返したように逆さまになる。
 地面が上に、空が下に。
 そしてボクは空の中へどこまで落ちていく。
 かんかんかん。
 どこかで警報が鳴っている。どんどん遠ざかって、あそこにはもう戻れないことが何となくわかった。
 空に向かって落ちていく中、深い緑の森のようなものが見えた気がした。 

 

1話 ハガキノキ

 初めに感じたのは、匂いだった。
 深い森の香り。
 目を開けると、風に揺れる青い葉々が見えた。
 ゆっくりと立ち上がる。頭が重い。どれくらい眠っていたのだろうか。
 周囲を見渡すと高い樹々が広がっていた。見慣れない樹だった。
 重い身体を引きずって、近くの木に近づく。十メートルはありそうな巨大な樹木。キャンプ場の近くにこんな木はないはずだ。
 じっと周囲を見渡す。風によって揺れる樹々の音。人影はどこにも見られない。
 携帯を取り出すと、圏外の文字が飛び込んできた。途端に不安になり、ボクはもう一度周囲を見渡した。
「由香?」
 一緒にキャンプに来ていた幼馴染。その姿はどこにもない。
 慎重に森の中を進む。知らない植物ばかりが広がっていた。
 嫌な汗が額に滲む。
 遭難。
 そんな単語が頭に浮かんだ。
 それならば、下るのは危険だ。頂上を目指して山道を探しながら進むべきだ。
 バックパックを下ろし、荷物を確認する。透明なスーパーの袋に入ったままのガム。そして未開封のペットボトル。その他ナイフが一本に雑多品。食料はない。
 山道に出るまでにどれくらいかかるか分からない。漠然とした不安感が沸き起こり、そしてある光景がフラッシュバックする。
 赤色の空。そびえたつ鉄塔。うるさい警報。無人の電車。
 ここで目を覚ます前に見た光景。あれは、何だったのだろう。夢、だったのだろうか。
 それよりも、ボクは何故こんなところにいるのだろう。
 疑問は尽きる事がない。しかし、今は動くべきだった。日が落ちる前に山道に出て、人を見つけたい。
 道のない森の中を、慎重に進む。
 しかし、高低差が分からない。
 広がる森に起伏はなく、どの方向が頂上なのか見当もつかない。
 本格的にまずい、と判断する。当てもなく歩き回るのは遭難者の得意技だ。そしてボクはその得意技を修得するつもりがなかった。
 目印が必要だ。
 太陽の位置を確認しようと空を見上げる。そこで奇妙な事に気づく。太陽が二つに見えた。
 幻の類だろうか。あるいは、何らかの理由、例えば光の屈折により二つに見えるのだろうか。目を細めて頭上をよく観察するが、確かに二つ太陽があるように見える。
 ボクは少し迷った後、手頃な植物の茎を折って、それを地面に向けてぶら下げた。影は、二つできた。
 目眩のようなものを感じ、ボクはその場に立ち尽くす事しかできなかった。
 これが幻覚か、あるいは別の現象によるものかは問題ではない。ボクは方向を確認する術を失っていた。それはすなわち、完全なる遭難を意味する。
 この地点は、キャンプ場からさほど離れていないはずだ。由香とも合流できる可能性が高い。無闇に動き回るよりは、月が出てから方向を決めて動くほうが遥かに合理的なはずだ。
 しかし、夜を待つのは怖かった。夜の森は危険だ。足元が見えず、転落する危険性もある。何より、水の心配があった。ペットボトル一本分。今日一日しか手持ちの水は持たない。
 分岐点だった。ここで道を誤れば、死に至る可能性もある。
 長期的に考えれば、昼間はここを動かずに夜に動く方が確実だ。短期的に考えるならば、水があり視界が確保出来るうちに山道に出なければ生命の危険がある。
 熟考している間に、樹々の間から降り注ぐ太陽光によって身体中の水分が奪われていくのがわかった。
 間違いなく、近いうちに水が底を尽く。
 その事実がボクを突き動かした。
 第一に水の確保だ。夜まで待つ場合も、このまま闇雲に動く場合も、必ず水の問題にぶつかってしまう。
 バックパックに入っていた透明なスーパーの袋。それを取り出して、周囲の手頃な植物に近づき、手をかざす。
 目を閉じると、穏やかな波が感じられた。この植物に敵対心は感じられない。有効な毒は持ち得ない。
 ボクは、植物の心を読む事ができる。もちろん、植物に中枢神経系は存在しない。そこに高度な知的活動は存在しえない。それでも、ボクは感情に近いものを読み取る事ができた。
 青々とした葉をスーパーの袋に入れ、固定する。
 葉温、と呼ばれるものがある。人間の体温に相当するもので、葉温が上昇すると一部の蛋白質が変質するため、人が汗をかいて熱を下げるように、植物も体内の水を放出して葉温が上昇しないようにする。蒸散と呼ばれる働きだ。
 この蒸散によって放出される水の量は無視できるものではない。放っておけば袋内に水が貯まり、緊急時の飲水として利用できる。一日に必要な水の量には到底足りないが、完全に水を失う自体は避けられる。
 次に周囲の植物から出来るだけ大きな葉を探し出すと、それをちぎって裏面に枝で傷をつける。同様にいくつかの植物から手頃な大きさの葉をちぎり、葉裏を傷つけていく。
 ハガキノキ、と呼ばれる木が存在する。正式名称はタラヨウ。日本郵便がシンボル・ツリーに指定している木で、葉に傷をいれると傷つけた箇所が黒く浮かび上がる性質がある。この性質を利用してハガキに利用する事ができ、定形外の120円切手を貼れば実際にハガキとして使う事もできる。
 この性質はハガキノキのみが持つものではなく、様々な植物に見られる。
 ボクが傷つけた葉の一部が黒ずんでいく。これは、人間のかさぶたのようなものだ。傷口から病原菌が侵入することを防ぐ事を目的としている。しかし、今は紙として利用させてもらう。
 ボクが目を覚ました地点。その付近の樹々に根本に0の印を描いた葉を小石で固定し、それから5メートルほど真っ直ぐ歩いた地点に1と描いた葉を置く。目印だ。
 この葉がどれほどの間、小石によって固定されるかは分からないが、森の中は強い風が吹かない。当分は大丈夫だろう。
 五メートル間隔で目印の葉をおきながら、ボクは森の中を進んでいく。面倒だったが、完全に道を見失うよりはずっといい。
 そして、ボクはたった一人のサバイバルを開始した。 

 

2話 ヒガンバナ

「何故、要(かなめ)は花に触れないんだ?」
 幼稚園の時だっただろうか。庭に咲いた大きな花を見てはしゃぐ同年代の友人と、遠くからそれを見つけるボクを見て、植物学者である父が不思議そうに言った。
「触ると、花が嫌がるから」
「どうして花が嫌がると思うんだい?」
「だって、花が嫌だって言ってるんだもん。人と違って、花は撫でられても喜ばないよ」
「なるほど。要は植物の言葉がわかるのか。今度、あの花達が好きな音楽を教えてくれないか」
 父が面白そうに言う。それに対してボクはただ、感じたことをそのまま告げた。
「お父さん、植物は音楽を聞かないよ。だって、耳がないもの。あの子たちにボクたちの声は届かない。人と違う生き物なのに、どうして皆はそうやって人と同じように扱おうとするの?」
 父は驚いたようにボクを見下ろしたまま固まっていた。
 その頃からだろうか。植物の心がわかるのが、ボクだけの特別な力だと知ったのは。
 ボクが十分に成長して、植物に対する感応能力があることを客観的事実として認めた父はこう評した。
「もしかしたら要は植物の放出する何かを感情として理解する能力があるのかもしれないな。例えば、植物には嗅覚に該当するものが存在する。一つの葉が虫に食われれば、全体を守る為に危険信号としてある匂いを発する。他の葉はそれを受信すると、防御手段を講じて身を守ろうとする。その微細な物質を要は植物の感情として知覚しているのかもしれない」
 父のその仮説を実証する術は存在しない。今でもボクの感応能力が本物なのか、どういった手段で実行されるのかは分からない。
 それでも、この感応能力は役立つ。
 例えば、防御態勢に入った植物は強烈な嫌悪感のような感情を放つ。反対に、毒のない果実からは淡い友好的な感情を受けることがある。
 だから、ボクは真っ先にその敵対心を感応能力で感じ取った。
 葉と茎に鋭いトゲを持つ植物が目の前に群生していた。それも、ずっと横に広がっている。さながら城壁のようだった。
 とても通れそうにない。諦めて、トゲの城壁に沿うように歩く。植物のトゲには毒を持つものも多い。中には大型の四足動物を死に至らしめるものも存在する。積極的に関わりあいたいものではない。
 歩きながら、考える。辺りは見たこともない植物ばかりだ。
 父が植物学者である都合上、幼い頃から植物と触れ合って育ってきた。感応能力も相まって、ボク自身も植物に強い興味があり、相応の知識は有していると自負している。
 それでも、と周囲を見渡す。知っている植物が一つもない。まるで知らない国に来たみたいだった。
 五メートルごとに葉の裏に印をつけたものを置きながら歩いている為、遅々として進まない。起伏も見られず、頂上がどの方向なのか未だにわからない。
 城壁のように続くトゲを持った植物は未だに続き、ボクの行動範囲を狭めている。目印の為に葉裏に描いた数字は二〇〇を超えた。正確に五メートルごとに目印を置いてきたならば、一キロメートルは進んだ事になる。
 ボクは一度足を止めると、トゲに満ちた城壁を見つめた。この群生するトゲトゲの植物はこれまで途切れる事なく真っ直ぐと続いている。まるで、人工物のようだった。
 ヒガンバナ、という花が頭によぎる。墓地によく生えている植物だ。正確には、人によって墓地に植えられた植物。毒があるため、土葬していた時代にモグラなどを寄せ付けない為に植えられたものだ。植物は古来から天然の防御壁としても利用されてきた。この真っ直ぐと続く城壁のようなトゲトゲ植物も、誰かが土地を獣から守るために植えたものかもしれない、と思った。
 この先に、人がいる可能性がある。ならば、どうにかしてこの城壁を越えなければならない。そっとトゲトゲ植物に近づいて手をかざす。
 強い敵対心を持っているのがわかった。しかし毒を持つ植物特有の突き刺さるような熱い感情は感じられない。
 確実にこの先に人がいるならば無理にでも通るべきかもしれない。しかし、もしも人がいなければ、不用意に傷口を作るのは危険だ。今の状態で感染症にかかれば、確実に命を落とす事になる。
「誰かいませんか!」
 城壁の向こうに大声で問いかける。静かな森の中で、ボクの声は一際大きく聞こえた。
「道に迷ってしまって。誰かいたら返事してください」
 返事はない。そよ風に揺れる木立の音だけが木霊する。
 だめか、と諦めかけた時、不意に目の前のトゲトゲ植物が大きく揺れた。そして道を作るように大きく左右に分かれる。同時に、トゲトゲ植物が放っていた敵対心のような感情が霧散した。
「……通れ、ということ?」
 ボクの独り言に呼応するように、肯定的な感情が目の前のトゲトゲ植物から発せられる。
 ありえない、と頭の奥で理性が叫んでいた。
 植物は視覚、触覚、嗅覚に類する能力を保持している。しかし、聴覚に類する能力を有するという研究結果は出ていない。少なくとも、科学的に、数量的にそれを示すまともな論文は存在していない。
 しかし、目の前の植物はどうやら人間の声を、音を拾っているらしい。確かに、既知の植物以外であれば、そうした固有能力を獲得するに至ったものが存在しても不思議ではない。しかし、それはボクの持つ常識から大きく外れていた。
 ボクが通るのを待つように道を開けるトゲトゲ植物。ゆっくりと、慎重にその道を通る。服にトゲが引っかかって、一部が破れてしまう。
 無事に通り抜けると、役目を終えたようにトゲトゲ植物は元に位置に戻り、何事もなかったかのように道を塞いだ。
「……ありがとう」
 お礼の言葉を投げかけると、トゲトゲ植物がそれに応えるように揺れた気がした。
 植物にお礼を言ったことなど、今まで一度もなかった。植物は言葉を解さないし、感謝を欲している訳ではない。植物と人間は根本的に違う。植物の心がわかる故に、ボクは一般的に植物好きな人たちが行う対話というものをした事がなかった。植物を擬人化するという行為は、人間の傲慢さがもたらすものだ。決して褒められるものではない。ずっと、そう思っていた。
 しかし、目の前のトゲトゲの植物は、確かにボクの言葉に応えていた。
 ボクはじっとトゲトゲの城壁を見つめた後、そっと周囲の植物の葉をちぎった。
「ごめんね」
 謝って、葉裏に目印の数字を描いて、閉じたトゲトゲ植物の前に置く。
 今はとりあえず、進まなければならなかった。 

 

3話 マカダミア

 トゲトゲ植物が封鎖していた内部へ進むと、先ほどまでの景色とは打ってかわり、巨大な樹木が点在していた。
 頭上で大きく広がる葉を見上げると、黒い大きな実のようなものが見えた。一つだけ根本に落ちていた実を拾うと、硬い外皮に包まれていてとても食べられそうになかった。世界一硬い木の実と言われるマカダミアナッツなどは特殊な器具を用いなければ食べる事ができないほど硬い。それを数倍大きくしたかのようなこの実が落下してきて頭にぶつかれば笑い事ではすまないため、自然とこの巨大な樹木たちを避けるように進む事になる。
 そして、ボクはそれと対峙する事になる。
 ボクは初め、木立の間に見えるそれを人だと思った。
 人型の体躯。しかし、それは体長が二メートルを超えていた。そして、豚のような顔に、知性のない双眸。そして、太い腕の先に握られた斧。
 その姿形を認識した時、ボクの頭に浮かんだのは学校で流行っているゲームのモンスターだった。人でも獣でもない、異形の存在。
 咄嗟に逃げ出しそうになりながらもボクがその場に踏みとどまったのは、多くの獣は人を積極的に襲わない、という事実からだった。それが獣なのかは定かではなかったが、真っ先に逃げるべきではないと理性が訴えていた。逃亡は、向こうの加虐心を刺激する。
「……こちらに、敵意はありません」
 自然と、そんな言葉が口から飛び出した。幸い、声は震えなかった。ボクは自分自身の冷静な対応に驚きながら、ゆっくりと後退する。
 豚の頭をした何かは、ボクを見つめたまま動かない。ボクも向こうの目を見たまま視線を離さなかった。
 しかし、膠着状態は長くは続かなかった。遅々とした後退を続けていた時、土に足を取られてボクはその場で尻もちをついた。それを合図に、豚顔の巨大な何かは古びた斧を構えてボクめがけて飛び出す。
 声にならない悲鳴が喉から飛び出した。咄嗟に身を起こして、反転する。
 まずい、追いつかれる。
 背後から迫る豚男を見て、心臓が早鐘のように打つ。
 人間のものではない、興奮した呼吸音。それが背後から届き、背筋が凍る。
 なんだ、あれは。
 豚の死骸を乾かし、その皮を被った原住民か何かか。
 逃げ切れるのか、あの体格に恵まれた何かから。
 思考が津波のようになだれ、生存に繋がる方法を高速で検索しはじめる。
 武器。バックパックにライターがある。火。だめだ。燃えるものがない。
 ナイフ、そう、ナイフがある。
 しかし、バックパックからナイフを取り出す余裕なんてない。豚男はどんどん距離を詰めてくる。
 だめだ。捕まる。
 結論に達した時、背後から嫌な音が響いた。鈍くて、生々しい音。
 振り返ると、豚男が倒れていた。頭部が割れ、赤いものが溢れている。近くには黒い実が転がっていた。見上げると、空を覆うように広がる青々とした葉に混じって黒い実がぽつぽつと見える。
 助かった。
 力が抜けて、自然とその場にへたりこむ。
 落ち着くと、周囲の植物が怒っているのが分かった。
 ふと、この実を落としたであろう巨大な樹木を見上げる。
「……助けてくれたの?」
 返答は、ない。植物に発話機構は存在しない。
 しかし、肯定するように穏やかな感情が伝わってきた。
「……ありがとう」
 理屈は分からないが、ここの植物たちには意思のようなものがあるらしい。
 立ち上がり、倒れたままの豚男へゆっくりと近づく。豚男が動く様子はない。割れた頭部から溢れ続ける血。放っておけば死んでしまうだろう。
 近づくと、悪臭がした。腐臭のような、独特の臭い。顔を覗き込むと、どう見ても仮面を被っているようには見えなかった。本物の肌だ。そして、この豚男が握ったままの斧。随分と使い古されている。
 ボクは黒い実を落として助けてくれた樹木と、目の前の豚男を交互に見つめた。それから、青空に輝く二つの太陽を見上げる。
 得体のしれない恐怖感が、胸の奥で渦巻いた。
 携帯を取り出し、画面を確認する。変わらない圏外の文字。
 バッテリーを節約するため、電源を落とす。
 嫌な汗が額に滲む。
 ボクは最後に一度豚男を一瞥すると、斧をその手から奪い取った。それから、歩き出す。
 水が、必要だ。
 食料も。
 山道の散策は中止。今すぐ使えるものの散策を行うべきだ。
 目印は、もう置かない。そんな余裕は、もうどこにもない。
 日没が迫っている。夜に備えなければならない。
 そして、この遭難が長期間に渡るならば、蛋白源を確保する必要がある。
 夜まで、それほどの時間は残されていない。
 漠然とした恐怖感に突き動かされるように、ボクは本格的に動き出す。歩き回ればいつかはキャンプ場に戻れるだろう、という甘い認識はこの時、跡形もなく砕け散った。 

 

4話 オオオニバス

 よくよく周囲を見渡せば、この森を形成する樹木の枝葉は大きく、平らで薄い事が分かった。
 葉の形を決定付ける因子はとても多く、局所的な環境の変化の影響を大きく受け、同じ樹木でも多用な形を見せる為、一概に葉の形からその意味を解釈する事は専門家でも難しい。しかし、ある程度の一般論において、葉の形から推察できる事がある。
 まず葉が大きいと言うことは、太陽光をまともに受ける分、水損失が多いということだ。更に大きな葉には、葉上に停滞した空気の層ができあがる。これを境界層といい、この空気の層が熱を閉じ込めて周囲の気温を最大で10℃も上昇させる事すらある。光合成の効率をあげるとはいえ、葉が大きければ境界層の影響によって水の損失は増大し、葉灼けを起こす事になる。故に、こうした大きく平らな葉というものは湿潤な日陰地に大きく見られ、通常は熱を直接受ける暑い地域では葉が小さくなる傾向がある。世界一巨大な葉を持つオオオニバスは三メートルを超える大きな葉を持つが、これは水面に浮かんでいる為に葉温の上昇を常に一定以下に抑えられるからそこまで大きくなれるのだ。葉、というものは光合成の為に大きければ有利、というわけではない。
 しかし、周囲の巨大な樹木は巨大な枝葉によって葉灼けを起こす事もなく、二つの太陽が発するエネルギーを堂々と受け止めている。熱に対する何らかの防御手段を保持しているのだろう。そして、その光を元に多量のエネルギーを作り出す事に成功している。それが恐らくは、ボクが知る植物よりも知的活動を行っているように見える原因なのだろう。
 ボクが知る植物と、これらの植物は似て非なるものだ、と確信する。
 そもそも大多数の植物は日中の太陽光の三分の一しか有効活用できないのだ。光合成を行う為の二酸化炭素は大気中に0.03%しか存在しない。十分な量の二酸化炭素が存在して初めて太陽光の全てを有効活用できるのであって、必要以上の太陽光は活性酸素となって、植物の生存を危険に晒す。だからこそ植物たちは太陽の熱から身を守る為に敢えて葉を小さくしたり、切れ込みを入れたりする。太陽は植物にとって必要不可欠なものであると同時に、最も驚異的な外敵でもある。
 そして、ボクにとっても頭上の太陽は脅威だった。頭上を覆う巨大な葉の天井が太陽光を遮断していたが、木漏れ日によって地表は十分すぎるほど熱せられている。直接太陽光を浴びている樹木たちは境界層によって更に高い熱を受けているはずだ。恐らくは、光合成に用いられる酵素が破壊されるほどの高熱。蒸散に加えて別の対抗手段が存在するのか、あるいは熱自体を遮断する防御手段を保持するのかは定かではないが、これらの樹木が持つ生存能力は信じがたいものだ。
 スーパーの袋に入れていた葉を見る。蒸散によって多量の水が溜まっていた。熱に対抗する為か、一般的に確認される水の量よりも遥かに多い量が蒸散している。蒸散能力が優れているということは、それだけの水を貯蓄する能力があり、加えて一帯が豊かな土地である事を示している。必ずどこかに水源があるはずだった。
 スーパーの袋に貯まった水を舐める。味に問題は見られない。少しだけ飲んだ後、ペットボトルを開けて、続けてこちらからも水を摂取する。蒸散した水の安全性が確認できない以上、出来るだけ希釈するべきだった。どれだけ効果があるかはわからないが、慎重になるに越した事はない。
 水源を求めて歩きまわる内に、二つの太陽が傾いていく。それぞれが別々の方向に沈んでいくようだった。まるで、絵本の世界のようだ。
 ふと、神隠し、という単語が頭に浮かんだ。
 突然人が姿を消した人たちは、どこへ消えるのだろう。神隠しの伝承を初めて聞いた時はそんな事を考えたものだが、目の前に広がるこの世界がその答えなのかもしれない、と思った。
 この奇妙な森は、恐らくは日本と地理的に繋がっていない。どうしてボクがこの森に迷い込んだのかが分からない以上、帰る方法も明確ではない。楽観的に物事を考える事は危険だ。長期的な遭難になると考えて、動かなければならない。
 日没までに水源を見つける事ができないと判断すると、探索の目的を寝床の選定に変更する。この辺りに植生する黒い実の高木は、その自重によって幹が捻れているものが多い。身体が収まるスペースを探すと、すぐにそれは見つかった。周囲には虫の跡もない。腰を下ろすと、疲れがどっと出た。
 豚男から奪った斧を立てかけて、バックパックからナイフを取り出す。念のための護身用だ。夜になれば、何が起こるか分からない。
 それから、スーパーの袋に溜まっていた水を全て飲み干す。一日に必要な量には達しないが、想像以上の水を蒸散作用から得る事ができた。これに加えて朝露と溢水を利用すれば、最低限の水が確保できる見込みになる。安堵感が胸に広がる。
 当面の水の問題はクリアした。後は食料だ。
 体力の消耗を抑える為にねじ曲がった幹に隠れるようにして寝転び、目を瞑る。柔らかい草地。それらからは穏やかな感情が感じられ、自然とボクの心も平穏を取り戻した。
 重くなる瞼に身を任せ、まどろみの中に落ちていく。
 目を覚ませばキャンプ場が広がっていて、すぐそばに幼馴染の由香がいることを願いながら。 

 

5話 アレチウリ

「植物を毎日優しく撫でれば、人間と同じように喜んで太く育ち、早く花を咲かせます」
 そう言ったのは、小学校の担任の教諭だった。中年の女性教師で、普段からヒステリックなところがあった。
 時期は五年生の理科の授業だっただろうか。あるいは、課外学習として花壇に花を植えて育てる授業だっただろうか。
 事情について詳しくは覚えていないが、その時のやりとりはよく覚えている。
「先生、それは違います。その植物は撫でられて喜んでいるのではなく、その接触を外的な脅威だと判断し、生存能力を高める為に養分を太くする事に注いだだけです。早く花を咲かせたのも外的脅威によって生存が危ういと判断し、開花を早めただけに過ぎません」
 咄嗟に、ボクはそう反論した。先生の主張は、あまりにも身勝手なものだった。植物の植物性を無視した傲慢な人間主体の考え方。それが、許せなかった。
 先生はボクの反論に驚いたような顔をしながらも、おかしそうに笑う。
「そういう説もありますね。どっちが正しいかは、植物にしかわかりません。けれど、植物も人間と同じように生きています。愛情を持って接すればすくすくと育ちます。けれど、痛い思いをさせれば悲しんで、枯れてしまうかもしれません」
「先生。植物は痛みを感じません。触覚と痛覚は別ものです。葉をちぎればそれを察知して脅威に対抗しようとしますが、痛みを感じる脳はどこにもありません。そして、葉をちぎった時と、優しく撫でた時の違いは植物にとって大差なく、どちらも外的な脅威に変わりありません。植物は苦しみに悶える事もなく、対抗措置を淡々と展開するだけです。例え全ての葉をこの場でむしりとっても、この植物は一切の痛みを感じません」
 恐らく、この先生は植物を通して倫理的な教育がしたかったのだろう。けれど、その例え話がボクにとっては許せなかった。人間を主体としたその考えが、おぞましいもののように思えた。
 ボクのこの反論によって、父が学校に呼ばれる事になった。他の生命に対して残忍性があるとして、家庭での教育方針について問いただされ、父は申し訳無さそうに頭を下げていた。
 何故父が謝るのか、当時は理解できなかった。ボクにこの事を教えてくれたのは植物学者である父だった。父は植物を擬人化する事は一度もなく、人間とは全く別の存在として説明してくれていた。ボクは幅広い知識を持つ父を尊敬していたし、父のようになりたいとも願っていた。
 その父が、目の前で頭を下げ続けていた。
 そんな姿は、見たくなかった。
「カナメ、だめだよ、それじゃ」
 後日、意気消沈していたボクに幼馴染の由香は冷たい光を瞳に浮かべて言った。
「人は狡い生き物なんだよ。人間性の教育の為に、他の存在の在り方を否定しようとする。そうして獲得した人間性は、一体どれほどの正しさがあって、どれほどの必要性があるんだろう。ねえ、カナメ。そんなものは、初めから必要ないんだよ」
 由香はそう言って、右手に持った鶏の死骸を見つめる。
「どれだけ取り繕ったって、世界は弱肉強食なんだ。カナメ、君は正しいよ。でも、それは隠すべきなんだ。大多数は、幻に囚われた弱者であるべきだ。その方が都合が良い。そうだろう、カナメ」
 そして、由香は鶏の死骸を投げ捨てて、十一歳とは思えない冷酷な笑みを浮かべる。そこにあるのは、捕食者としての瞳だった。

 跳ね起きると同時に、夢を見ていた事に気づく。
 辺りはまだ暗い。枝葉の間からは満天の星が見えた。
 息をついて、再び寝転がる。
 由香。ボクの幼馴染。
 彼女は、どうなったのだろう。
 キャンプ場から抜けだして、一緒に川沿いを散策していたボクと彼女。気がつけば、ボクだけがこの奇妙な森に迷い込んでいた。
 由香はまだ、あの川沿いにいるのだろうか。突然いなくなったボクを心配して、警察に捜索願いを出しているかもしれない。
 あるいは、ボクと同じようにこの森の中に迷い込んでいるのかもしれない、と思った。
 もし彼女がこの森に迷い込んでいるのならば、ボクよりもずっと上手くやっているだろう。彼女の自然界に対する知識は深く、ボクよりも決断力や判断力に長けているし、何より何事にも動じない冷静さを持っている。
 そこまで考えて、無駄な事を考えている、と自覚する。彼女と合流することは、きっと叶わない。下らない空想に耽るほど余裕のある状況ではない。今すべき事は、この森を理解する事だ。
 ふと、上を見る。頭上を覆う枝葉によって、途切れた星空しか見えない。月らしいものは、ボクの位置からは見えなかった。めぼしい星座を探してみるが、枝葉が邪魔になって特定することは困難だった。夜空に頼る事は諦めるしかない。
 寝返りを打つと、暗い森が見えた。動くものは何もない。神聖さを感じるほどの静謐な森林が、そこにあった。
 ボクは目の前の雑草を見つめると、深い考えもなくそれをむしり取った。途端に警戒の感情が発露する。しかし、苦痛に喘ぐ事は決してない。やはり、植物は痛みを感じない。
 痛みとは、単なる信号を超えた主観的なものだ。主観は、中枢神経系が作り出す幻に過ぎない。その幻を持ち得ない植物は痛みを覚えない。しかし、その触覚は、人のそれよりも遥かに感度が高い。
 人は一般的に二グラム未満の繊維を持っても、それに気がつかない。これに対し、アレチウリのツルは0.25グラムの微細な繊維にも反応を示す。痛みを覚える事は決してないが、植物の知覚能力は人のそれを遥かに凌駕する。にも関わらず、植物は過度な刺激を苦痛とは感じない。何故か。痛みと触覚は生物学的に別の現象だからだ。
 例えば視覚を構成する光受容体があるように、触覚にもそれに相当するものがある。機械的受容器と呼ばれるものだ。これに対し、痛みを司るものは侵害受容器であり、これらはルーツからして根本的に別の現象として経験される。だからボクたちが利用する一般的な鎮痛剤は機械的受容器の信号には関与せず、侵害受容器の信号のみに影響を及ぼす為、痛みと同時に触覚が麻痺することはない。そして、植物は痛みを覚える受容器そのものを持たない。植物は痛みを感じるルーツ、そして痛みを経験する主観の両方を持たない為に、痛みという現象そのものを理解できない。そして、これは植物が進化の過程で得た戦略の結果の一つであって、その植物性は擬人化によって軽んじるべきものではない。人に優しく撫でられる事、理不尽に葉っぱを千切られる事、その二つは植物にとって大差のない脅威でしかない。
 夢に出てきた幼き頃のボクの見解は間違っていないと今でも思う。誤っていたのは、その表現の方法。植物は痛みを覚えない。それは事実だったが、ボクの言い方はまるで植物が生命ではないかのような誤解を与える結果になった。あの頃のボクは植物の心を読み取れる故に植物に対して誰よりも深い理解を示していたが、反対に心の動きが全く読めない人間という同族を理解できずにいた。ボクにとっては、心を直接読み取れる植物の方が、同族である人よりも身近に感じられていたのだ。
 由香以外と人並みの交友関係を築き始めたのは、中学に入ってからだった。園芸部に入り、植物を介して人とも繋がるようになった。このようにボクの生活の中心には、いつも植物がいた。
 そして、今。目の前には植物のみが広がり、人の姿はどこにもない。けれど、奇妙な安堵感があった。生まれた街に帰ってきたかのような、不思議な感覚。この不思議な感覚はなんなのだろう。
 ぼんやりとしているうちに、寝転がっていた雑草たちが濡れ始める。溢水だ。夜間に植物が貯めこんだ水分が早朝に溢れ出す現象。朝に草花が濡れているのは露の影響もあるが、この溢水によるものも多い。
 この時間帯は水源がなくても植物から多量の水を確保できる。朝日が出る前にボクは行動を開始した。そして、ゆっくりと空が白ばんでいく。 

 

6話 ムシトリスミレ

 朝に貯められるだけの水分を確保すると、ボクはすぐに移動を開始した。当面の水不足は解消したが、食料の問題は解決できていない。
 手頃な食料としてすぐに頭に浮かんだのは、虫だ。もちろん、積極的に食べるつもりはない。植物は好きだが、虫はどちらかと言えば苦手な部類に入る。しかし、必要があれば食べるつもりでいた。
 樹幹や草の間の注意深く見つめながら進むが、虫の姿はどこにも見当たらない。そして、今まで一度も虫の姿を見ていない事に気づく。ここに植生する植物たちは強力な抗虫成分でも持っているのだろうか。一般的に多くの植物は虫媒に頼る。人里離れた湿潤な地帯の森林では樹木の90%が虫によって受粉されている、という統計的事実も存在する。ここまで虫の姿が認められないのは珍しい。虫の数が少なければ、それを捕食する鳥類、コウモリも殆ど存在しないと推測できる。受粉は自然と風に頼る事になり、食料となるような果実を実らせる樹種はとても稀少なものだと予想できた。 
 虫、果実が見つからない。鳥類もいない。
 ならば植物そのものを食べるしかない、ということか。しかし、殆どの植物が虫に食べられていないと言うことは、抵抗する何らかの成分を保持している、ということ。積極的に敵を排除する毒を持っていれば感応能力によってある程度の判別は可能だが、毒がないとしてもそれを食べられるかどうかを判断する事がボクにはできない。
 あるいは仮に食用可能な植物を見つけたとしても、そこから蛋白質を得る事はできない。食べられるか分からないものを食べる、というリスクを負うならば、今後の蛋白源になりうる虫や鳥類に挑戦した方がましだ。
 考えながら、道のない森林の中を進んでいく。ボクはこの時、油断していた。一晩過ごした事によって冷静さを取り戻し、蒸散と溢水によって最低限の水を得られる事が分かっていたため、気が緩んでいた。故に、それに気が付かなかった。
 周囲に植生する植物の種類が、徐々に変わっていた。そして、足元に広がる雑草たちの種類も。
 いつの間にか足元を支配していたその植物を踏み、次に足をあげようとした瞬間、ボクは盛大にバランスを崩して転倒した。咄嗟に前方に手をつく。そして起き上がろうとした時、手が地面から離れない事にようやく気づいた。足も地面から離れず、完全に四肢の動きが拘束される。
 ムシトリスミレ、という植物が真っ先に頭をよぎった。葉面に粘液を分泌し、捕まえた虫を食べる食虫植物。そう、食べるのだ。食物連鎖における最下層であるはずの植物が、本来は捕食者であるはずの虫を。
 逃亡することができないまま、周囲の雑草たちから強烈な敵対心のようなものが放出される。獲物の捕獲を周囲に伝える為に、何らかの臭い物質が放出された、と見るべきだ。この雑草たちと共生関係にある別の存在から追撃を受ける恐れがある。
 ボクは無防備な四つん這いから、無理やり右手を引き抜こうと力を入れた。途端、皮膚が千切れるのではないかと思うほどの激しい痛みに襲われる。予想を超える粘着力。雑草たちはボクの手に吸着して離れない。
 周囲の雑草たちが怒っている。そこには明確な攻撃意思があった。その感情を直接ぶつけられ、一時的に身が竦む。植物からこれほどの敵対心を感じる経験は初めてだった。
 咄嗟に右手を握り、そのまま手をひねる。雑草の根本が千切れ、右手が自由になる。手のひらに雑草がくっついたままだったが、拘束を破る事には成功した。同様に左手も手のひらに粘着した雑草をそのまま握るようにしてそのまま千切る。後は足だけだ。安堵した時、視界の隅で何かが動くのが見えた。咄嗟に上半身を起こし、それを避ける。
 目の前を、大きな葉が横切った。大きく切れ込みが入り、鋭利なトゲを持つ巨大な葉。それは断頭台のように振り下ろされ、先程までボクが倒れていたところ目指して叩きつけられる。
 ボクは目の前で起きた事態を呆然と見つめていた。断頭台のように葉を振り下ろした植物は、ボクの1メートルほど先に植生し、攻撃的な感情を爆発させている。
 危なかった。あの勢いでこの鋭いトゲを持つ葉が垂直に振り下ろされれば、冗談では済まない外傷を負っていたかもしれない。
 自然と息が荒くなり、ボクは油断するように周囲の植物を見つめた。粘着性を持つ雑草に紛れるようにして至るところにこの断頭台のような植物が点在している。まるで、外敵を倒す為に寄り添っているかのような植生の仕方。
 そっと、足元の雑草を握る。手のひらにへばりついた雑草の上に更に雑草が絡みつく。ボクは右足を上げると、その根本の雑草を引きちぎった。それから慎重に後ろに右足を戻し、残りの左にひっつく雑草を千切った。
 拘束が外れ、後退する。ここに群生する植物たちは危険だ。ボクの有する知識と常識を超える動きを見せ、積極的に獲物を狩ろうとする。
 両手を見る。ひっついたまま離れない葉。無理に離そうとすると皮膚ごと剥離しそうだった。この粘着性であれば、四足動物をも捉える事ができるだろう。獣害から身を守る為に、この植物たちはここまで進化を遂げたのだろうか。それならば、認識を改めなければならない。
 虫も鳥類も見つからなくて当然だ。ここの植物たちは食物連鎖における最低辺の単なる餌ではない。虫や鳥類と対等に戦う事ができる、あるいはそれ以上の競争能力を持つ生物だった。
 昨日見た豚男。あれを一撃で仕留めた高木。ボクをそれを見たはずなのに、今までの常識から、この森の植物たちの能力を過小評価していたのだと理解する。あの光景をそのまま評価するならば、二足で歩き回り武器を扱う事が出来るあの豚男よりも、ここの植物たちは更なる高位の存在なのだと考えるべきだったのだ。
 得体のしれない感情が胸の奥で疼く。
 未知のものに対する畏怖か、遙か高位の存在に対する畏敬か。あるいは、両方か。ボク自身よくわからない感情が、胸の奥で渦巻いて収まらない。

「ねえ、カナメ。どれだけ綺麗な言葉で飾っても、世界の本質は変わらないんだよ。私達はね、より多くの人が食べられるはずだった穀物を大量に浪費して作り上げた極僅かの肉を嬉々として食べるんだ。食事の在り方には、弱者と強者が浮き彫りになる。そして誰もがそれを疑問に思わない。でも、社会的、あるいは文化的には弱肉強食を認める事をタブーとする流れがある。この差異は一体どこからやってくるかわかるかい?」

 いつか、幼馴染の由香はそう言った。

「それは、支配としての形態だからだよ。弱者を弱者のままコントロールする為の詭弁だ。全ては支配の為の幻なんだよ、カナメ。実につまらないと思わないか」

 由香は全てを見下すかのような冷たい瞳でそう言っていた。そして、その瞳には憎悪にも似た激しい炎が宿っていた。
 彼女の言う幻は消え去り、目の前には単純な力によって成り立つ原始的な世界が広がっている。
 奇妙な高揚感があった。
 全てがとてもクリアに見えた。
 そして、気づく。ボクはこの森に深く魅入られているのだと。 

 

7話 アルラウネ

 粘着性の葉を持つ草たち、そしてギロチンのような葉を持つ植物。これらが群生する地域を避けて大きく迂回する。
 今まで以上に慎重に周囲の植物を観察し、初めて見る植物があれば、その特性を捉える為に観察を行った。そしてやはり、虫や鳥類は発見できない。菌系も見られず、植物を捕食する存在が一向に見られない。空を見上げると、二つの太陽がある。この二つの太陽がもたらす熱と紫外線が、それらの生存を困難にしているのだろうか。恐らくは気温の下がる夜に活動するものが多いのだろう。
 お腹が減っていた。蒸散によって得た水を飲んで、空腹を紛らわす。もう丸一日何も食べていない。生存そのものにはまだ問題はないが、集中力、体力の低下は予想外の危機を招く恐れがある。ある程度のリスクを負ってでも、食べられそうなものを探すべきか。
 と言っても、果実らしきものはまだ一度も見ていない。食べるとしたら、柔らかい新芽などに限られてしまう。虫がいればある程度の指標になるが、それも見込めない。
 自然と焦りが生まれる。体力のあるうちに、とりあえず試してみるべきか。しかし、取り返しがつかない事になる可能性もある。明確な答えが見つからない。
 考えながらも、周囲、特に足元の警戒を怠らない。今のところは無害と思われる植物だけが続いている。そして、ボクはそれを超えて前へと探索を続けていく。
 ふと足を止める。先に何かが見えた。木。とても大きい。そして、人影が見えた。
 とくん、と心臓が跳ねた。
 足元への警戒を怠らないままに、ゆっくりと足を進める。
 進めば進むほど、その木の大きさが判明していく。
 異常な大きさ。
 世界一大きいとされるシャーマン将軍の木。高さは八十四メートルにもなり、その直径は十一メートルに達する。その大きさに匹敵、あるいは超えるほどの巨大な木だった。見上げても、林冠を突き抜けていて、周囲の枝葉が邪魔になり頂上が確認できない。そして、その巨大な根本に女の姿があった。ぐったりとした様子で、吊るされたような格好。木があまりにも大きいため、女の姿が酷く小さく見えた。
 女の姿がはっきりと見える距離になり、何の衣類も纏っていない事に気づく。肌は植物に同化するように緑がかっていて、その髪も深い緑色になっている。
 ボクはそこで、足を止めた。吊り下げられるような女の姿と、その色合いが危機感を抱かせたからだ。まるで、その大樹が女を捉えて捕食しているように見えた。
 周囲の林床は大樹によって一帯の養分が吸い取られているせいか、他所よりも雑草が少なく空き地のように開けている。ボクは警戒しながらも、その大樹に近づいた。女はぐったりとしたまま動かない。
「……生きていますか?」
 意を決して声をかける。
 しかし、女は動かない。
 更に足を踏み出し、女の生存を確認しようと顔がはっきりと確認できる距離まで接近する。
 綺麗な女の人だった。すらりとした体躯。鼻筋の整った人形じみた顔。
 そして、気がつく。肌が人のそれではない。女の姿をしているが、まるで木質化したような見た目。そして、膝下が大樹と同化し、まるでそこから生えるように存在している。
 アルラウネ、と呼ばれる怪物が真っ先に頭に浮かんだ。ゲームで見たことがある、植物性の怪物。伝承上の怪物から徐々に外れた架空の存在。
 まさか、という思いと、どこか納得するような感覚が綯い交ぜになった。
 この森林における今までの植物たちを思い返せば、こんなものが奥地にいたとしても不思議ではないように思えた。
「……聞こえますか?」
 もう一度問いかけると、女の顔が僅かに動いた。声の主であるボクを特定しようとするかのように、その瞳がゆっくりと持ち上がる。
 吸い込まれるような瞳だった。若竹色の、透明な双眸。それがボクに向けられる。
 驚きの感情が伝わってくる。そこに敵対心は見られない。
 それから、苦痛の感情。この女の形をした何か、仮にアルラウネと名付けるそれは、何かに苦しんでいるようだった。
 ふと、大樹を見上げる。その巨大な大樹全体を締め付けるように蔦が絡まっていた。
 ――シメコロシノキ。
 全ての植物が、土の中で発芽するわけではない。鳥類によってばら撒かれる種は、土に届かず樹木の枝や幹の割れ目に入る事も多い。このシメコロシノキは別の植物の幹の割れ目などに入るとそのまま発芽し、地面目指して素早く根を伸ばすと、それから宿主(しゅくしゅ)の幹に絡みついて、幹全体を包み込んでいく。そのまま宿主の成長を抑えつけ、周囲一帯の養分を奪い、そして宿主に絡みついて上へ伸びる事によって宿主の樹冠、つまり葉がなる部分を覆うようにして自身の葉を茂らせ、光を独占する。こうしてあらゆる栄養分を奪われた宿主が死に至る事例も存在する。
 目の前のアルラウネに絡みつくそれは、シメコロシノキに酷似していた。それに加えて、アルラウネの樹幹に花が点在しているのが見えた。ネナシカズラか。
 ネナシカズラ。名前の通り、根が存在しない。葉も退化して葉緑素がない為に自分自身で光合成をすることができない。根によって水分を取り込む事も、光合成によってエネルギーを作り出す事もできない植物。ならば、どうやってそれは成長するのか。答えは簡単で、他の植物から奪うのだ。寄生根と呼ばれる突起を他植物の維管束の中に突き刺し、そこから養分を直接奪う寄生植物の一つだ。このネナシカズラは奪った養分で花を咲かせ、同時に宿所を死に至らせる事も多々ある。樹幹に見られる花は、そのネナシカズラと同系統の寄生植物に見える。通常は高木に寄生することはないが、この森特有の進化を遂げているのだろう。
 シメコロシ植物と寄生植物。その二つの存在がこのアルラウネの巨大な樹木から養分を奪い、弱らせているようだった。
 そして、寄生植物が存在するその上方。樹冠に果実が見えた。膨大な数の果実。
「他の植物に養分を奪われているようだけど、排除してもいいかな?」
 大樹としてアルラウネの中で本体に属する、あるいは何らかの擬態装置としてセンサーが豊富であろうと思われる女に向かって問いかけると、女は弱々しい肯定の感情を放った。
 バックパックからナイフを取り出し、周囲を覆うシメコロシノキの根を切っていく。樹があまりにも大きい為に、その周囲の長さは三十メートルは超えているだろう。下手をすれば現存で確認されている記録を超え、四十メートルはあるかもしれない。その周囲に絡みつくシメコロシノキの大きさも相当なものとなり、その全てを断ち切っていくのは骨が折れる。流れる汗を拭いながら、一つ一つの根を確実に切り取っていく。
 全て取り除くまで長い時間がかかりそうだった。 

 

8話 シメコロシノキ

 外周上のシメコロシノキの根を全て断った時には既に日が傾き始めていた。寄生植物に至っては寄生場所が高い為、処理が難しい。それにこうした寄生植物は往々にして生命力が高い。例えちぎったとしても、その一部が残ってしまえばそこから再生してしまう。故に処理は諦めるしかなかった。シメコロシノキに至っても恐らくは早い内に地面を目指して根を伸ばし始めるだろう。それまでに切断を続け、完全に死滅するのを待つしかない。
「一応の処理は終わりました。一帯の養分を全て奪われる事はこれでないはずです」
 ぐったりとしたままのアルラウネに報告すると、彼女はゆっくりとボクを見つめてから、微かに笑った気がした。そして、彼女の腕がゆっくりと上へ向けられる。釣られるようにして頭上を見上げると、黄色い果実が降ってくるところだった。すぐ隣に落下し、実の一部が潰れる。拾うと、甘い香りがした。
「えっと、食べていいんですか?」
 一応尋ねると、肯定するように彼女は頷いた。手の中の果実を見つめた後、割れた部分を少しだけ舐めてみる。甘い。途端に空腹感が刺激され、ボクは皮を剥くとそのまま勢いよく頬張った。丸一日何も食べていなかったせいか、果汁が口の中であふれた瞬間、まさに頬が落ちるような感覚に陥った。
 あっという間に食べつくし、一息つく。桃のような甘さだった。品種改良されていない野生の味でこれだけ人間が食べやすいのは珍しい。
「美味しかったです。ありがとう」
 お礼の言葉を述べると、アルラウネはそのまま目を閉じてぐったりとした様子を見せる。日没が近い為、休眠状態に入ったのだろうか。
 植物の多くは、昼と夜を正しく理解している場合が多い。アイリスなどは赤色光によって昼であることを理解し、夕陽の遠赤色光によって夜の訪れを知り、花を閉じる。光を知覚するための光受容体を保持しているのだ。このアルラウネもそれと同様にエネルギーを節約するために恐らくは夜間活動に切り替えるのだろう。
 空が暗くなっていく。ボクはアルラウネの大きな樹木の下に寄り添うと、身体を丸めて横になった。そして、ぐったりとした様子のアルラウネを見上げる。
 何故、この樹木、アルラウネは人型の擬態をしているのだろう。あるいは、人が樹木のように進化して、こうなったのだろうか。人と同様に聴覚や視覚を持ち、その身体も動く事ができるようだった。まるで、人そのもののように。
 動く植物、というものは意外と多い。例えばオジギソウ。触ればお辞儀するように素早く葉を閉じてしまう。これは虫などの食害から身を守る為だ。この特性については遥か昔から研究がなされ、筋肉がないにも関わらずどうやって機敏な動きを可能とするのかが長い間謎だった。その答えはシンプルで、電気刺激によって触れた事を知らせると、葉の中の水圧をコントロールして動かすのだ。このように内部の水圧を利用して一時的な瞬発力を見せる植物、というものはかなりの数が存在する。
 しかし、このアルラウネの動きは、水圧を利用したものではなさそうだった。筋肉に似た独自の組織を保持し、それを維持する方法があるのだろう。
 人に近い能力を保持しているとなれば、おのずとコミュニケーションもとりやすくなる。知能に近いものもあるかもしれない。この森についての情報を得られる可能性だってある。友好的な関係を築けば、あの果実を貰う事もできるだろう。
 当面は唯一の食料があるここを拠点にして、周囲の探索を続けながら水源を探していくべきか。
 星が空に見え始めるに従い、うとうとと眠気が襲ってくる。疲労が溜まっているようだった。森の香りが心を落ち着かせ、眠りに誘う。

「カナメ。君はまるで自然の寵愛を受けているようだ。その感応能力と、植物学者の父。そして、その真っ直ぐな感性。正しい理解を深めるに相応しい状況が整っている。そんな君が、人間に対して嫌悪感を抱くのは分かるよ。全てが不自然に見えるんだろう。まるで、人間が異物のように感じられる。私自身も幼少期からずっとそう思っていた。人の思考というものは複雑で、奇怪で、読みづらい。そして見えない力を必要以上に恐れる。本当に、異物のようで、同じ種族とは思えない」

 いつか、由香が言った言葉。
 その通りかもしれない。
 人の世界に、ボクは嫌悪感に似た何かを抱いていた。
 心を読めない人間という種族が、ずっと遠くのもののように感じていた。
 人のいないこの森は、とても落ち着く。
 それでも、待っている人がいる。由香が、いる。
 徐々に探索範囲を広げ、帰り道を見つけなければならない。
 眠気で、思考が鈍っていく。
 考えるのが億劫になり、ボクは呆気無く意識を手放した。 

 

9話 ラウネシア

 朝が来る。
 夜明け前に朝露と溢水を集める為に、アルラウネの周辺を散策する。斧は邪魔になるため、そのまま置いてきた。
 アルラウネを中心とするような空き地。そしてその周りに点在する粘着性のある植物とギロチンのような葉を持つ植物。
 水源と食料は見当たらず、土壌生物さえも発見できない。
 スーパーの袋とペットボトルが満杯になるほどの水が貯まる頃には朝日が昇り、徐々に気温も上がり始めた。
 アルラウネの元に戻ると、彼女は既に目を覚ましていた。僕の姿を認めると、微笑むように笑った。そこに敵意は感じられない。
「おはよう。昨日よりはちょっと元気みたいで良かったです」
 話しかけると、頷くようにアルラウネは頭を下げる。ボクは彼女の前に腰を下ろすと、彼女に向かって手をかざした。淡い好意のようなものが感じられる。
「……お願いがあるんですが、構いませんか?」
 問いに、アルラウネの瞳が真っ直ぐとボクを射抜く。若竹色の透き通るような切れ長の瞳が美しかった。
「果実を、分けて頂けませんか。食べるものがなくて」
 正直に言うと、アルラウネはにこりと微笑んで、右腕を上げて頭上を指さした。見上げると、昨日のように果実が降ってくる。がさ、と周囲に三つの果実が落ちた。
「助かります」
 割れた果実を拾って、皮を剥いていく。果肉が多く、種が見当たらない。食用の為に品種改良を施したかのような果実だった。口に含むと甘みが広がり、自然と頬が緩む。
「あの、それと。ボクと同じような人間を見たことがありませんか?」
 躊躇しながら、結局ボクは食べながらその質問を投げかけた。植物には人間と同様に光受容体がある。つまり、視覚がある。
 人は明暗をロドプシンという光受容体で知覚する。そして赤、青、緑の光を知覚するフォトプシン。この四種類の光受容体に加え、クリプトクロムという光受容体が体内時計を調整する。植物もこれに類似する光受容体を保持していて、例えばシロイヌナズナは少なくとも十一の光受容体を持つ事がわかっている。光というものは植物にとっては食料そのものであり、それを感知する術は人間よりもよほど優れている。しかし、その光を像として理解する術を植物は持たない。近くに何かがいることを植物は理解し、それが赤色のTシャツを着ている事も理解できる。しかし、それが少女であるのか、おじさんであるのか、という理解を植物はしない。そこに像という概念は存在しない。
 だから、普通に考えればこのアルラウネに過去に人間を見たか、という質問をすることはとても馬鹿らしい事だ。それでも、今までの会話におけるアルラウネの目の動きから、人に近い視覚を有している可能性が推測できた。
 アルラウネはボクの質問の意図を理解したようで、ゆっくりと首を横に降った。
 やはり、このアルラウネは人の言葉を解し、人のそれに近い視覚も有していると見て間違いない。それに対応する知能を有している。コミュニケーションは十分に可能だ。
『私の森に入ったのは、貴方が初めてです』
 不意に、感応能力にはっきりとした意思が割り込んだ。アルラウネが発した感情だとすぐに理解できた。
 途端に、思わず後ずさってしまう。
 ボクには確かに植物の心を読み取る能力がある。しかし、ここまで明確に思考そのものを捉えたのは初めてだった。
 いや、そもそも植物に自己という明確な自我は存在しない。中枢神経系が存在しない以上、高度な知的活動は起こりえない。そこに思考は存在せず、感応能力で拾えるものは自ずと感情に似た大雑把な心の動きに限定される。
 しかし、このアルラウネには明確な自我が存在するのだろう。人間の中枢神経系に似た全体を調整、統括する部位が存在し、人と同じように言語によって思考を実現している。その結果、言語そのものをボクの感応能力が拾い上げたようだった。
「もしかして、喋れるんですか?」
『私は貴方のように音を発する器官を持ちません。しかし、貴方はこちらの意思を読み取る事ができる様子。それを喋る、と定めるのであれば私は喋る事が可能だと答えましょう』
 極めて明瞭な思考。
 アルラウネが薄い笑みを浮かべる。その見た目相応の、大人びた笑み。
 想像以上の知性を有していると見られるアルラウネに、思わず言葉を失う。これと敵対すれば、危険な存在にもなりうる。
「あの、名前はありますか?」
『ありません。この森に高度な情報交換ができる存在は他にいないからです。お好きにお呼びください』
 くす、とアルラウネは控えめに笑う。とても植物とは思えない仕草。
「……ラウネシア、と呼んでも構いませんか?」
『ええ。どうぞ。貴方には個を識別する名前があるのでしょうか?』
「……要(かなめ)です」
『カナメ。覚えました』
 そして、ラウネシアは優しく微笑む。
『食べ物に困っているのであれば、果実を提供する用意が私にはあります』
 その代わりと、とラウネシアの思考が続く。
『私に絡みつく植物を引き続き駆除して欲しいのです。いかがですか?』
 願ってもいない提案だった。安定した果実の供給が叶うならば、それくらいの仕事は歓迎する。
「……是非お願いします」
 ボクの言葉にラウネシアは笑みを絶やさず、大きく頷く。
『良かった。貴方とは良い関係を築けそうです』 

 

10話 ネナシカズラ

 ラウネシアに絡みつくシメコロシ植物の根は、やはり伸びていた。
 切れた補給線を取り戻そうとするように、長大なラウネシアの外周中から下へ下へ迷うことなく進軍している。ボクは躊躇なくその伸びた根を切り取って、兵糧攻めを実行する。
 大体の植物は、重力を感知する術を持っている。故に例えば苗を逆さまにしたとしても、根は即座に方向転換して下に向かう。反対に芽は重力に逆らうように方向転換し、上を目指し続ける。人が重力受容体を内耳に持つように、植物は平衡石と呼ばれる重力を感知する機構を保持しているためだ。故にこのシメコロシ植物たちは地面への接触を失っても、根を伸ばすべき方向をしっかりと理解している。放っておけば、すぐに地面に根を到達させて活気を取り戻してしまうだろう。当分は毎日この根を切り取っていくしかない。
 次にラウネシアの身体から生える寄生植物の駆除にとりかかる。観察してみると、やはりネナシカズラにしか見えない。親戚か何かだろうか。日本にも普通に生えていて、菜園などに繁殖してしまうと駆除が難しく、その存在は強く嫌悪されている。
 これの駆除は厄介だ。表面部分だけ引き抜いても、内部に残った残留体からすぐに復活を遂げる。ラウネシアの場合は高所にも寄生している為、完全な駆除は困難を極める。
 試しに低いところに寄生しているネナシカズラをむしりとり、切断口をライターで炙ってみる。恐らく効果はないだろう。一応、その推移を見るだけだ。そう思っていたが、火をつけた途端に勢い良く炎があがった。反射的に仰け反りそうにながら、すぐにバックパックを押し付けて鎮火する。火はすぐに消えたが、予想外の反応に心臓が暴れるように脈打っていた。
 迂闊だった。ネナシカズラに形も性質も似ている為、深い考えもなしに火で炙るという愚行を犯してしまった。ボクが知っている植物に似ていても、根本的に別の存在なのだと考えるべきだった。
 ネナシカズラもどきの駆除を諦め、ラウネシアに結果を報告する。 
「シメコロシ植物は毎日根を切断すればなんとか駆除できそうです。これだけの巨体ならば莫大な水分と太陽光を奪っていたはずなので、それなりに楽になると思います。樹体に直接寄生している植物は多分、完全に駆除することができません。一年生植物ならば、枯れた後に次の発芽時期に注意するしかなさそうです」
『この全身を締め付けられるような蔦が一部なくなるだけでも私は感謝しています。不快で仕方がありませんでした』
 ラウネシアは笑みを浮かべる。感応能力が拾う感情には、爽快感が混じっていた。よほど不快に感じていたのだろう。
『感謝の印です。お食べください』
 そして、ラウネシアは上を指さした。果実が二つ降ってくる。
 ボクはそれをありがたく受け取って、そのまま齧った。甘い果汁はあっさりとしていて、暫くは飽きそうになかった。
 ラウネシアとは予想以上の友好的な関係を築けている。感応能力が拾う彼女の感情は、大体が好感を伴っていた。
「では、ボクは少し離れます。食べ物を探さないと」
 いつまでもラウネシアの果実だけに頼るわけにはいかない。ちゃんとした水源を見つけ、魚などの蛋白源を確保すべきだ。
 ラウネシアから離れようとした時、それを呼び止める感情が背後から発せられた。
『お待ちください。森の中は危険です。亡蟲(ぼうちゅう)も出ます』
「ボウチュウ?」
 聞きなれない単語に、思わず振り返る。
『この森と敵対する生物群です。大した知能は有しませんが、機敏に動く事が可能です。その機動力と繁殖力を以って、この森の原型種たる私に向かって度重なる侵攻を繰り返しています。森の中に浸透していることも珍しくありません』
 森と対立する、生物群。 
 そして、もう一つ気になる言葉。この森の原型種。
「あの、ラウネシアはこの森の主のようなものなんですか?」
『肯定します。このラウネシアは森を指揮する立場にあり、現存する森の配置、移動、防衛計画は全て私が統帥しています』
 その時、どん、と低い音が木霊した。
 遠くから届く重低音。それが届いた瞬間、森の中がざわついた気がした。葉擦れの音が増大し、樹々が風もないのに強く揺れる。
『亡蟲の攻勢の合図です』
 太鼓のような音が遠くから次々に響き渡る。それに呼応するようにラウネシアから怒りの感情が立ち昇った。
 ボクは咄嗟に周囲を見た。木立の間には何も見えない。敵は、まだ接近していない。
『規模は少数。威力偵察の類型と判断します。私の下にいれば危険はありません。決して動かないでください』
 何が何だか分からないうちに、争いが始まろうとしていた。
 脳裏にこれまでに見てきた植物が走馬灯のように再生される。
 まるで城壁のように真っ直ぐと群生するトゲトゲの植物。硬い木の実を任意に落とす事が出来る大木。ブービートラップのように張り巡らされた粘着質の雑草とギロチンのような植物。
 全ては、この戦いの為に存在していたのだろう。
 一個体の統制の下に、戦闘を遂行する軍団。組織的な戦争形態が、そこにあった。そして恐らくは、そこに非戦闘員の取り扱いに関する条約というものは存在しない。
 ボクの身の安全はこのラウネシアの指揮に委ねられている。
 死の香りが、鼻腔をついた。 

 

11話 スギ

『亡蟲、航空部隊を展開しています。カナメ、広い場所には出ないようにしてください』
 航空部隊。想定外の単語。
 亡蟲と呼ばれるそれは、それほど高度な文明を築いているのだろうか。
『私に取り付いていた寄生植物たちも、元より敵の航空部隊がまき散らしたものです。その成果を確認する事が敵の戦術目標なのでしょう』
 遠くから響く太鼓の音は止む様子がない。この音によって指揮を執っているのだろうか。規則的な重低音が森を揺らす。
 不意に、太鼓の音とは違う破裂音のようなものが聞こえた。遠くから聞こえるそれは、徐々にこちらに近づいてくるように大きくなり、複数の音が重なり始める。
 頭上からだ。それに気づいた時、上方の林冠、枝葉が茂る周辺が次々と弾け、乾いた音が響く。
「ラウネシア! 上です! 攻撃されています!」
『いいえ、逆です。攻撃しているのです』
 ラウネシアは落ち着き払った様子で答える。
 よく見ると、攻撃を受けて樹冠が次々と弾けているわけではなかった。自発的に弾けた実が散弾となって上空に放たれていく。
 対空砲。
 迎撃を開始した植物たちに対向するように、上空から羽音が響いた。枝葉の間から、蜻蛉(とんぼ)のような生物が確認できた。 最低でも十を超える機影。そして、その蜻蛉の上には人型の何かが跨っている。以前に遭遇した豚男とそれは酷似していた。
「あれが、亡蟲……」
 次々と炸裂する散弾によって、直撃を受けた蜻蛉型の飛行生物が墜落していく。蜻蛉たちは数を減らしながらも、ラウネシアの上空を旋回し、接近を試みようと降下を繰り返す。
 不意に太鼓の音が止まった。散弾の雨を避けるように蜻蛉たちは次々と高度を上げて離脱していく。
『撤退命令が出たようですね』
 呆気ない。
 そう思ったが、あの亡蟲たちは初めからラウネシアの状態を偵察するのが目的だったのだから、既に目的は果たしたと考えるべきか。
 それに、ラウネシア上空での戦闘は短時間だったが、ここに来るまでに対空砲の影響を受けて、かなりの数を減らしていたはずだ。元々、深部まで到達できるようにそれなりの戦力を投じていたのだろう。向こうの損耗はボクが考えるよりも遥かに大きいものなのかもしれない。
 不意に、がさ、と音がした。木立の向こう。草むらの陰から豚男の姿が見えた。ボクが向こうを発見すると同時に、豚男もこちらに気づいたように足を止める。
 背筋が凍った。
 豚男の咆哮。
『カナメ!』
 危機感を伴ったラウネシアの感情波。
 豚男がボクめがけて突撃してくる。右足を負傷しているのか、足を引きずるような不格好な走り方。武器も持たず、愚直にぼくに向かって地を駆ける。
 無手とはいえ、向こうは二メートルの体格を持つ生物。ボクはすぐに身を翻すと、森の中を駆けた。
 この森が保持する攻撃手段。ボクが知るそれは、木の実を落として積極的に敵を排除する高木と、足をからめとってギロチンを振り下ろすトラップタイプの雑草だけだ。それに加えて先ほど見た対空砲。しかし、あれは恐らく地上に向かって放つ事はできないのだろう。対空能力を有する周囲の樹木たちは沈黙を貫いている。
 ボクは群生するギロチン植物を見つけるとそれを迂回して、豚男が追ってくるのを待った。豚男は足元に注意を払う事もなく、そのままボクめがけて突進を続ける。
 かかった。
 豚男が粘着性のある雑草に足をとらえ、転倒する。即座に揮発成分が発せられ、それを命令として受信したギロチンのような葉が明確な攻撃意思を発する。
 鋭利な葉が振り落とされ、その首を刈り取ろうとする。その寸前、豚男は叫び声をあげた。
 身の毛がよだつような咆哮。
 同時に豚男は粘着性のある葉を根からひきちぎって立ち上がる。そこにギロチンが振り下ろされ、豚男の肩口に大きく食い込んだ。
 傷口から血が噴出する。
 しかし、豚男は止まらない。
 ぶちぶち、と嫌な音が響いた。
 豚男が表皮を引き千切ながら、粘着性の雑草を超えてボク目掛けて動く。
 赤い鮮血をまき散らす豚男が肉薄する。
 考えるよりも先に身体が動いた。
 咄嗟にナイフを取り出し、その刃を豚男の頭部に向かって突き刺す。
 嫌な手応え。
 豚男の悲鳴じみた咆哮。
 頭の中は、恐ろしいほど冷めていた。
 痛みは、感じられない。
 植物の葉をちぎった時と同じように、目の前の生物からは痛みが感じられない。
 ボクの感応能力は、この生物の苦痛を拾わない。
 ナイフを引き抜き、防御態勢に移った豚男の腕をナイフで切り裂く。赤い血が目の前を舞った。
 血が赤い。人と同じように赤血球があるのだろうか、とどうでも良い事を考えられる程に、ボクは冷静さを保っていた。
 豚男が頭部を抑え、苦痛に喘ぎながら後退する。ボクは前方に体重を乗せ、更なる追撃に向かった。
 豚男は最早、戦闘継続能力を喪失している。頭部を突き刺された事により、強く動揺して戦闘意思を完全に失った。
 理性では、豚男の心の動きが手に取るようにわかる。しかし、植物が発するような警戒の感情のようなものなものはダイレクトに感じない。それはまるで映画の向こうの登場人物を見るかのようで、ボクの心は動かない。
 上半身は豚男の腕があるため、深く傷つけられない。懐に飛び込み、相手の股間に向けて右足を振り上げる。よろめく豚男。打撃は有効と判断。隙が大きくなったところに回し蹴りを叩き込む。そのまま振り抜いた右足に体重を乗せ、豚男との距離を一気に詰める。
 喉が、見えた。上半身のガードが一時的になくなっている。ボクは躊躇なくナイフで豚男の喉を切り裂いた。
 噴水のように血が飛び出した。スギ花粉のようだと思った。
 豚男の身体が崩れ落ち、その命の終わりを告げる。
 ボクは荒い息を吐きながら、目の前の豚男の亡骸を見下ろした。
 それから、自分の手を見る。血だらけだった。洗い落とさないといけない。水は貴重なのに。
 息を整えようと深呼吸する。
 安堵感があった。
 人型の生物をこの手で殺してしまったのに、罪悪感は沸かない。
 ボクの心は動かない。
 心の水面は波立つ事もなく、鏡面のような穏やかさを維持している。
 周囲には葉擦れの音が、静かに木霊していた。 

 

12話 タケ

「カナメ、君は可愛い容姿をしている割に中々喧嘩っ早いね」
 中学1年生の時だった。
 由香はボクの頬に出来た擦り傷を消毒しながら、どこか楽しそうに言った。
「全く、腫れたらその可憐な顔が台無しだよ。むさ苦しい筋肉質の男ならともかく、顔を資産として利用できる君はもっと身体を大事にすべきだ」
 園芸部の中で唯一男であったボクに、絡んできた人達がいた。数は三人。いずれも場慣れしていないにも関わらず、態度だけがでかい連中だった。
 ボクはその中で、リーダー格と思われる男を叩きのめした。全員を相手にする必要はない。容赦無い打撃と威圧的態度。それだけで向こうの戦意はすぐに折れた。後は息をするように簡単だった。
「一発目の右ストレート。容赦なく相手の顎を打っていた。一切の躊躇がない攻撃だった。人体の急所に対して中々できるものじゃないよ、あれは」
 そこで、由香は消毒を止めた。
「ねえ、カナメ。君は人間に対して一種のディスコミュニケーションを引き起こしている。植物の心を直接読み取れるという特性が、君と植物を近づけた。でも、人の心は読めない。その差異が、人に対しての共感能力を著しく低下させている」
 ボクは何も言わなかった。
「恐らくは、元々共感能力がなかったわけではない。むしろ君は植物に対しての強い共感能力を持っている。植物が嫌がるような、例えば撫でたりとか、そういう行為は一切しない。君はそれを禁忌としている。でも、ある特定のものに対して特別な感応能力があるが故に、他のものに対する共感意識が薄くなってしまっている」
 薄々気がついていた。
 人というものに、軽い嫌悪感を抱いていた。
「カナメ、別にそれは悪い事じゃない。逆に一般的な人の場合は、人に対する共感能力を他の生物にも押し付けてしまう。どちらがいい、という訳ではない。私は君の在り方を好ましいとすら思う」
 でも、と由香は言った。
「人との喧嘩は止めておくべきだ。自然淘汰。私達が属する社会性は、それを許容しない。下らないものだが、それを維持する装置は強大だ。私はこれに息苦しさすら感じるけれど、これを打倒しようとは考えない。カナメも、これに恭順を示すべきだ」

 豚男の死骸を眺めていると、三年前の由香との会話が脳裏に再生された。
 確かに、ボクの他者に対する共感能力は低下している。
 目の前に転がる死骸を見ても、何も思わない。自分の手で、自我が存在するであろう生命を殺したにも関わらず、心は動かない。
 そもそもこれは正当防衛だ。初めに襲ってきたのは向こうだった。
 そして、世界は弱肉強食だ。この豚男は襲う相手を間違えた。それだけだった。
 それが自然の摂理だ。一方的にやられることを許容する。それはあまりにも歪過ぎる。一度命を狙われたならば、反撃の一切の機会を摘む為に、その相手を殺さなければならない。ボクは当たり前の事をやっただけだ。罪悪感を感じる必要はない。だから、心は動かない。
 荒れていた息が整うと、ボクはラウネシアの方に向かって歩き出した。亡蟲について聞かなければならない。知るべき事が山ほどあった。
 不安そうな感情を立ち昇らせるラウネシアの前に辿り着くと、彼女は安心したように微笑んだ。
『無事だったのですね』
「墜落した亡蟲の生き残りだったようです。手負いだった為、一方的に打撃を与える事ができました」
 ラウネシアの双眸が、血だらけのボクの服に向けられる。
「ラウネシア。死骸はどうしますか? 放っておけば養分になりそうだけど」
『ええ、亡蟲の死骸はそのままで構いません。そのうち分解されていきます』
 ボクは迷った後、少しだけこの森に踏み込む。
「この辺りに川や湖はありませんか? 全身の血を落としたいんですが」
『水、ですか。この周囲に水源はありません。森全体が、土が水をよく吸収するためです。しかし、私自ら水を提供する事ができます』
 ラウネシアの右手が、そっと唇を指差す。妙に艶かしい仕草だった。
『土から吸い上げた水をろ過し、それを私の口から移す事ができます。よろしければ、どうぞ』
 予想外の言葉に、身体が止まる。
「……あの、ラウネシアはもしかして、そうやって人の生気を吸う訳じゃないですよね?」
『まさか。冗談です。私の右側の樹幹にコブがあるのが見えますか? そこに穴を開けてみてください。貯蓄している水が出ます。そこに貯まっている水は全て差し上げます』
 からかうように笑うラウネシア。どうやらユーモアの感覚があるらしい。
 中に水があるというのは、竹水のようなものなのだろうか。一般的にコブというのものは樹木の病気などの症状として挙がる為、あまりそこの水を飲む気にはならないのだけど。
「穴って、本当に良いんですか?」
『ええ。カナメ。私は貴方に好感を抱いているのですよ。貴方はその手でシメコロシ植物を駆除し、亡蟲の個体を打ち倒した。原型主たる私が創造したこの森において、私に味方する別の種、というのはいません。貴方は私にとって初めての協力者になった。食料と水は私が責任を持って提供しましょう』
 その代わり、とラウネシアの思考が続く。
『私の手入れを出来れば続けて欲しいのです。理性的な共生、というわけです。いかがですか?』
 ボクはその提案を、迷いなく受け入れた。
 食料、そして拠点の確保に成功する上に情報源にもなるラウネシア。
 断る要素が見つからなかった。  

 

移転のご連絡と暁での並行投稿について

移転先のWebサイトが一部完成致しましたので、こちらで報告させて頂きます。
http://yanderesite.web.fc2.com/main.html
過去の小説も準備が完了次第アップしていく予定です。
また、私のマシンの中でいくつかの情報が失われており完全な復旧には時間がかかる見通しです。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
また暁に投稿したこの樹界の王はバックアップの意味も兼ねて、Webサイトと並行して更新していきます。とりあえずは復旧を急ぎながら樹界の王の更新を平行して進めていくつもりです。 

 

13話

 
前書き
今話以降、Webサイト版準拠の為にサブタイトルをなくします 

 
「亡蟲って、一体なんなんですか」
 ラウネシアの樹体をゆっくりと眺めながら、亡蟲について尋ねる。
 樹体ごしにラウネシアの思考が響いた。
『敵、としか答えられません。彼らの目的は生存圏の拡大です。彼らの繁殖力は恐るべきもので、常に生存圏の拡大を図って軍事的行動に走っているのだと解釈しています』
「どれくらいの頻度で侵略を繰り返すんですか? またすぐに来る可能性もありますか?」
 しゃがみこみ、ラウネシアの根本に穴を掘りながら会話を続ける。
 穴を掘った先に見える太い根は、僅かに明るい赤褐色をしている。傷つけないように優しく撫でて、その状態を確認する。
 良い土だ。中に十分な酸素が取り込まれている。水はけも良く、柔らかい。ラウネシアの根は健康な状態を保っている。
『大体、十日と少しほどの間隔があります。三十日前に寄生植物の投下が行われ、十三日前に中規模の地上侵攻がありました。その時はまだ私に体力があった為に迎撃に成功したのですが、今回は寄生植物の成長具合を偵察しにきたようですね』
 三十日前。随分と、シメコロシ植物の成長速度が早い。攻撃用の兵器として改良されたものなのだろうか。
 ボクは根を観察を止めて、もう一度樹体を眺めた。縦割れや横割れが少ない。風の影響が少なく、長期に渡って栄養を失うような状態ではなかった、ということ。シメコロシ植物、寄生植物が投下されたのが一ヶ月前というのは間違いない。そして、それ以前にラウネシアが危機に陥った形跡は認められない。ラウネシアと亡蟲の紛争は、ラウネシアに致命的なダメージを与えるに至っていない。ラウネシアの保有する防衛能力は、亡蟲の攻勢能力を上回っていると推測できる。
「樹皮が綺麗です。コケが見られない。これだけ巨大な樹体を持っているのに、活力を失っていないようです」
『時間さえあれば、まだまだ成長できます。原型種としての私は、まだ若い部類に入りますから』
 ラウネシアが満更でもなさそうに言う。ボクはラウネシアの巨大な樹冠を見上げ、目を凝らした。
「原型種、というのは何ですか」
『私のような種族の事です。原型種が中心となり、森を治めます。この森のコントロール権は私が有しており、全てが私の支配下にあります』
「……この樹界の女王、というわけですね。環境をある程度自分でコントロールできるから長生きできる、ということですか」
『ええ。それに私達原型種は待つ種族です。悠久の時を防衛に費やし、そして待ち続けます』
 ラウネシアの樹冠に実る果実が、増えている気がした。膨大な数の果実が、空を覆い尽くしている。
「待つ? 何をですか?」
『人を、待っているんです。貴方のように、時折迷い込む人を待っているんです。私はこの地に根を巡らせて以来、亡蟲と闘いながらずっと貴方を待っていた』
 不意に、ラウネシアから発せられる感情が変わった。
 反射的に身構える。しかし、ラウネシアから発せられるそれは、敵対的なものではない。むしろ、友好的な感情。しかし、今まで植物から感じた事がない感情だった。
 果実のように甘く、炎のように熱く、酸素不足の根のようにとりとめもなく彷徨う、得体のしれない感情。
「ラウネシア?」
『カナメ。何故私が人の姿をしているか、わかりますか。生殖の為に、人と交わる必要があるからです。私達はそうやって、種を撒いてきた』
 脳裡に届くラウネシアの言葉に、ある植物の名前が自然に浮かび上がった。
 ハンマーオーキッド。ランの一種だが、花の形が蜂のメス姿をしているのだ。姿だけでなく、匂いも蜂のメスと酷似している為、オスはこの花に向かって抱きつき、交尾しようとする。結果的に哀れなオスは交尾に失敗し、花粉媒介に利用される形となる。
「……ラウネシアがいくら人間の女性の形をとったところで、動物的にメスであるわけではないです。ボクを媒介に花粉を受粉しようとしているならば――」
『私は、メスです。原型種には雌雄の区別が、あるのです。擬態の為に女の形をとっている、というわけではありません。そして、花粉受粉の為の擬態でもありません。文字通り、人の種を使って生殖を行うのです』
 雌雄異株、というわけか。多くの植物は雄しべと雌しべを同一の株に持ち、自己受粉して繁殖する。しかし、オスとメスで分かれている木も少数として存在する。典型的な例としてイチョウはメスしか銀杏を実らさない。
 ゆっくりとラウネシアの樹体を周り、彼女の前に立つ。ラウネシアの瞳には好意が浮かび、ボクに向かって真っ直ぐと注がれていた。
『カナメ、私はずっと待っていたのです。人が、あなたがこの森に迷い込んでくる事を』
「……よく、わかりません。人が迷い込む事を前提とした、その生殖戦略には穴があるのではないですか」
『いくつかの地点が結びつく場所が存在するのです。私達原型種は、そこに根を張り巡らせ、人が迷い込むのを待ち続けます。私はここに迷い人が来るのを予期し、根を巡らせました』
 時空の歪みのようなものがある、ということなのだろうか。原型種にはそれを知覚する術がある、と。
「でも、人が来るとは限らないんじゃないですか? 例えば、外敵が――」
 そこまで言って、気づく。ああ、そういうことなのか。
『ええ。だから、私達は外敵に備えてこのような森を築き上げるのです。亡蟲のように迷い込んだ外敵と戦う為に』
 いくつかの世界が交じり合う地点。ここはそういう所なのだろう。そして、ラウネシアは来訪者を選択できない。
 ボクが想像しているよりも危険な場所だ、と認識を改める。亡蟲を凌駕する脅威的な外敵が来訪すれば、この森は呆気無く滅びてしまうだろう。
 ラウネシアによって、当面の食料と水は確保できた。森の中での生存率は飛躍に上がった。ならば、次は森の外の脅威について早急に情報を集め、必要があれば排除しなければならない。この拠点を、守る必要がある。
『カナメ、私はずっと待っていたのです』
 ボクはラウネシアをじっと見つめると、これの利用価値について考えた。
 拠点としては、申し分ない。理性的な共生、とラウネシアは言ったか。悪くない。
 このラウネシアの思い通りに動くのも、当面の間は問題ないだろう。
「ラウネシア」
 柔らかい声質を意識して、笑いかける。
「植物同士のことはわかりませんが、人は生殖までに時間をかけるものなんです。ボクたち、互いの事をよく知りません。だから、互いのことをもっと理解してからにしましょう」
 ボクは、植物の心を読み取る事ができる。ラウネシアは十分にコントロール可能だと、この時のボクは考えていた。
 

 

14話

「ラウネシアの保有する防衛手段について知りたいんですが、構いませんか?」
 ラウネシアの安全保障に関わる問題。
 ボクは何気ない様子を努めて装って、そこに踏み込んだ。
 予想とは裏腹に、ラウネシアはあっさりとそれを明かした。
『私は三層に分けて防御陣地を構築しています。一つ目は外殻。火力を集中させ、森への侵入を困難なものへとしています。二つ目は外層。森の外側に位置する層です。侵入した外敵に対し、その機動力を奪う為の罠を張り巡らせています。そして、内層。バリケードの中に積極的に敵を排除する隷下部隊を配置し、外敵を全て殲滅します』
 ラウネシアのいる深部に辿り着くまでに見たトゲトゲの城壁のような植物を思い出す。あれが外層と内層を分けるバリケードだったのだろう。
 まるで人工的な森の構造。強固な要塞のようで、そこに自然らしさは感じられない。
「……ラウネシアは、隷下の植物をある程度好きに配置することができるのですか? あるいは、群生する植物を好きに書き換える事ができる、ということですか?」
『ある程度のコントロールを行う事ができます。急激な変化を加える事は不可能ですが、段階的に隷下の植物を変異させ、私が望むままの姿と機能を施す事が可能です』
 ラウネシアは統制を司ると同時に、工業能力をも司っているということなのだろう。
『一度見てみますか? 一時的に全ての罠を停止させます。好きに森を歩き回るといいでしょう』
 ボクは思わず、周囲の森を見渡した。右も左も分からない広大な森。
 ラウネシアの防衛能力をこの目で確認したかったが、リスクが高い。
「いえ、ここの地理はまだよくわかっていません。一度遠くまで行ってしまったら恐らく戻る事ができなくなります」
『大丈夫ですよ』
 ラウネシアは美しい笑みを浮かべると、そう言った。
『私は、この森に偏在します』


 ボクは深い森の中を進みながら、周囲の植物を注意深く見渡した。夜を超え、周囲は明るくなり始めている。
 バリケードの外。そこを、ボクはラウネシアの案内に従って散策していた。
『これ以降が外殻になります。上空、そして地上に対する長距離射程の攻撃手段を数多く保有しています』
 近くの樹木から、ラウネシアの思考が流れてくる。
 ラウネシアは森全体に地下根を共有した樹体を点在させているらしかった。この森全体がラウネシアの身体であり、それらは感覚器官のようなものなのだろう。そしてラウネシア本体は中枢神経系の役割を果たしている。ラウネシアは外敵に対して免疫能力を高め、それを排除しようとする。それは一個体としての働きそのものだった。
「ボクがこの森に迷い込んだ時、ラウネシアは既にそれを感知していたのですか?」
『それらしい気配は。ただし、当時の私は寄生植物、シメコロシ植物の攻撃を受け、他の点在樹の情報を正確に受け取る事ができませんでした。情報の交換、そして点在樹の維持には莫大なエネルギーを要するのです。常に全ての点在樹が稼働しているわけではありません』
 通信能力を有するが、その使用には制約が存在するらしい。
 ラウネシアは森の中枢神経系であり、森の女王ではあるが、森そのものではない。森に対する支配能力にはいくらかの制約と限界が存在し、それは彼女の弱点と言える。亡蟲の知能がどれほどのものかはわからないが、ラウネシアの死角とも言える支配能力の限界点を恐らくは突いてくる事になるだろう。
 森を進んでいると、見た事がない植物が増え始めた。樹冠に複数の小さな実が点在し、それらはいくつかが固まって群れをなしている。ラウネシア近辺に存在した対空砲と似ている。
「この樹は、上空を攻撃する為のものですか?」
『ええ。これによって基本的には亡蟲に航空優勢を与える事はありません。それに、彼らの持つ航空生物の繁殖力はとても低い。彼らの侵攻手段は殆どが地上に限定されています』
 頷きながら、更に森を進む。点在樹を中心に地面を這うようなツル性の植物が目立つようになる。
「これらのツルは、罠のような役割を果たすんですか?」
 ボクの問いに、ラウネシアは一瞬の間を置いて肯定した。
『ええ。侵入者に対して積極的な攻撃を行います』
 警戒の感情。ラウネシアの点在樹から放たれたその心に、ボクはそれ以上の言及を避けた。
 このツル性の植物たちには別の目的があるのだろう。そして、ラウネシアにはそれを明らかにするつもりがない。これ以上踏み込むのはまだ早い、と判断する。
 他の植物について、ラウネシアは隠すことなくその機能を説明してくれた。迎撃手段は多岐に渡り、この森を落とす事を困難にしている。
『そろそろ外殻の最端に辿り着きます』
 ラウネシア本体から歩いて一日近くが経過した。ラウネシアのナビゲートを受けて真っ直ぐと進んだせいか、意外と早く森の終わりに辿り着く。
 周囲には低い位置に実をならした樹木が多く存在し、隊列を組むように威圧的に並んでいる。幹に奇妙な穴が開いたものもあり、ラウネシアが最前線の樹体群に念入りな改良を施した事がわかった。
 不意に、森が途切れる。ある地点を境に樹々が消え、その先には荒廃した赤い大地が広がっていた。二つの太陽が地平線から上ったところで、強い風が赤い土を巻き上げた。轟々と風が唸り、赤い大地が削れていく。
「……亡蟲は、この大地に住んでいるんですか?」
『正確には、この先に存在する世界からです。先に霧のようなものが見えますか? 彼らはそこから侵攻してきます』
 目を凝らすと、風で巻き上げられた砂の先、随分と離れたところに霧のようなものが広がっていた。遠目からは雲のようにも見える。
『あの霧が、彼らの世界と私の世界を繋げているのです』
「……ボクがここに迷い込んだ時、霧のようなものはありませんでした。ただ、落ちるような感覚だけがあって、気がつけば森の中に倒れていました」
『ええ。カナメの場合はここに落ちたのでしょう。それもまた、珍しい事ではありません。世界が交差する方法には、いくつかのパターンがあります。あのような霧が長期間、二つの世界を繋ぐ事もあります。私にとって最も脅威的な繋がり方の一つです』
 ボクはじっと、亡蟲の世界に繋がる霧を見つめた。
 あの霧のようなものがあれば、ボクもまた同じ世界に帰還する事ができるのだろうか。
『帰りたいですか?』
 ボクの心を読み取ったように、ラウネシアが言う。
 少しだけ考えた後、いえ、と否定した。本心だった。不思議と帰還願望はなかった。あの中の人間関係にそれほどの執着はなかったし、物質に対する執着も湧かなかった。そして、どの道都合よく帰る手段もないのだろう、という思いもあった。
「ただ、一人だけ会いたい人がいます。言い残した事がありました。それだけが、心残りです」
 ラウネシアは何も言わなかった。
 ボクは赤い大地に足を踏み出すと、地平線に広がる霧を観察した。
「あの霧は、どこまで広がっているんですか? 亡蟲の侵攻可能なルートは、この方面だけですか?」
『霧はこの森の四方に広がっていますが、亡蟲が侵攻してくるのはこの方面だけです。他の方面は別の世界に繋がっているのだと私は推測しています。そして、それらの世界からの接触を未だに私は知覚していません。侵攻する意識がないか、そもそも生命体が存在しないのかもしれません』
「ラウネシアは、向こうの世界を偵察したりはしないのですか?」
 言ってから、馬鹿らしくなった。
 植物はそこに根を生やして生き残る事に特化した生物だ。動物と違い、自ら餌を探し求める必要はない。植物はそのように成長し、地球全体を覆い尽くすまでに繁殖した。彼らは動く必要がないように、調整されている。
 そして、ラウネシアの回答もまた、その通りのものだった。
『原型種は待つ種族です。私の目的は侵攻でもないし、交戦でもありません。私はただこの世界が交差する地点で、待ち続けていました。カナメのような人間が来訪することをずっと、待っていた。気の遠くなるような時の中、数多くの外敵からこの地を守り、あなたを待っていた』
 纏わりつくような、ラウネシアの感情が発露される。
 執着。それに近しいものが感じられた。
 ボクは適切な言葉を考えながら、赤い大地に目を向けた。その時、地平線の向こうに何かが見えた。
「ラウネシア」
 自然と、硬い声が出た。
「霧の向こうから、何かがきます」
 一人ではない。地平線を覆い尽くすまでの軍勢。
『まさか。侵攻からまだ日が経っていません。これほど短期間で亡蟲が侵攻を繰り返した事はありません』
 ラウネシアは、まだ敵を知覚していない。
 彼女の知覚能力は、森の外では人の目よりも精度が低いようだった。
 ボクは手近な樹に登り、地平線を再び確認した。見間違いではない。砂埃をあげ、軍勢が侵攻してきている。
 ここが地球と同じように球形の惑星で、惑星の直径が同じであると仮定するならば、地平線に現れた時点で敵との距離は三キロメートルを切っていると判断できる。
「ラウネシア! 外敵です。衝突まで、それほど時間がありません。戦闘準備を!」
『本当に亡蟲が?』
 半信半疑のラウネシア。異例の事なのだろう。
 ボクは木に登ったまま周囲の地形を見渡す。輸送に使える水路は見られない。略奪するような村も穀倉地帯も存在しない。機械化されていない軍ならば、その兵站能力に大きな負担を強いる事になる。加えて大型の兵器も持ち運びができない。
 地理的には、ラウネシアに大きな利がある。なるほど。ラウネシアが亡蟲の攻勢を退けてきた理由の一つがこれか。
『戦闘準備は既に完了しています』
 ラウネシアに動揺は見られない。彼女にとって、亡蟲の侵攻は日常的なものなのだろう。
『カナメ。心配ありません。私の外殻は、亡蟲の侵攻に合わせて最適に調整しています。簡単に破られる事はありません』
 ボクは何も言わず、遠くの軍勢を見つめた。
 簡単に破られる事はない。ラウネシアが言う通り、これまでラウネシアは多くの亡蟲の侵攻を退けてきたのだろう。しかしそれと同じく、ラウネシアもまた亡蟲の防衛線を打ち破った事はないに違いない。
 嫌な汗が、額に滲んだ。 

 

15話

「クラッキングにおいての攻撃側には、多大なアドバンテージがあるんだよ、カナメ。ほら、こんな風に」
 中学三年生の時だった。
 由香は自室のマシンを用いて、ボクの目の前で他人のサーバーに侵入を果たしてみせた。
「映画で天才ハッカーが強固なシステムに対して侵入を成功させるようなものがあるだろう。あれの中で一番凄いのは、セキュリティシステムを構築した防衛側の方だよ。攻撃というものは開発者の意図をずらすだけで簡単に行う事ができる。防御側は全てのスケールにおいて、あらゆる事態を想定し、その対応策を実装する必要がある。その工数は、攻撃側のアセスメントを遥かに上回る事になる」
 そして、由香は攻撃用のソフトウェアを落として遊びを中断した。
「だから、まだ義務教育中の私ですら管理の甘いサーバーに簡単に侵入できるわけだ。これは機密性の高いシステムにおいても同様だよ。防衛側の意図したスケールの外から攻撃すれば、格下の攻撃者が重要なセキュリティを突破する可能性は常にあり得るんだ。例えば、その辺りを無数に走る自動車。その内部装置が無線で繋がっている事は知っているかい? まず、大多数はその事実を知らない。そして、知らない、ということはそれだけセキュリティが甘い、ということなんだ。事前調査さえあれば、この内部装置を遠隔操作してコントロール権を奪う事もできる。カナメ、できるんだよ。汎用的に用いられている社会の中枢システムを簡単に壊す事が」
 この時のボクは、コンピューターサイエンスについて正しい理解を得ていなかった。由香の言う事には懐疑的で、その矛盾を探していた。
「それが事実なら、何故テロに利用されてないのかな」
「既存の多くのセキュリティ問題を引き起こしているハッカー気取りのお子様たちの多くが、ハードの専門的知識を有さないからだよ。体系的に知識を吸収した人間の周囲には、それ以上の技術者が常に存在している。だから正しい知識を有している技術者たちは自己承認欲を満たす為に、くだらないハッキングなどしない。そうした悪戯は、課題をこなすレベルでしかないからだ。でも、私みたいな存在は違うわけだよ。優れた技術者と接触する機会がない為に、その技術を試したくなる。だから、こうやって試験的に実践を重ねていく。そうしないと、自分の腕の位置を測れないからだ。その一部は自らの腕を過信して、犯罪に手を染めていく。そうした犯罪者の多くの知識というものは、あまり体系的なものではないし、ソフトレベルのみの狭い範囲しか学習していないことが多い。だから、世界中に存在するハード的なセキュリティ・ホールというものは攻撃されづらい。メーカーもそれを理解しているから、保守性の向上の為に無線を利用し続けている」
「プロなら、可能だということ?」
 ボクの問いに、由香は頷いた。
「もっと巨大なシステムもだよ、カナメ。実際に多くの重要なシステムというものは老朽化したものを無理やり稼働させているものも多い。継ぎ接ぎだらけで、運用側もその全てを理解していない場合が殆どだ。ネットワークセキュリティそのものが堅牢でも、それを管理する人間の脆弱性というのも多数存在する。スタンドアローンの重要なシステムだって、既にいくつもの攻撃事例が存在する。セキュリティというものは、工数さえかければ必ず攻略されるものなんだ。防衛側に出来る事は、突破に対する時間をいかに遅くするか、ということくらいだよ」
 その話は、当時のボクにとっては意外な事のように思えた。
「電子戦というのは、普通の戦争とは随分と様相が違うね。実際の戦争は防御側が有利じゃないか」
「それは違うよ、カナメ。互いがあるパラダイムの下に安定している時においてのみ、防御側が優勢を確保できるだけに過ぎない。防御側が想定しているスケールを超えた攻撃を加えれる事が可能なら、攻撃側が有利なのは実際の戦争でも同じだよ。少なくとも、史実ではそうなっている。パラダイムシフトが起きた時、防御側は一気に不利な状況に陥るものなんだ」
 ボクはその話を聞きながら、彼女の瞳をじっと見つめた。
「それで?」
 彼女の瞳が、微かに揺れる。
「何故、こんな話をボクに。そして由香は何故こんな遊びをしているのか、教えてくれないかな」
「カナメ。ただ私はこう言いたいんだ」
 彼女は言い訳をするように、曖昧な笑みを浮かべて言った。
「包丁が売られているのは、それが正当な目的で使われる事を前提にされているからだ。あらゆるシステムもまた、悪意を持った技術者がいないという技術者倫理に基づいて運用される。セキュリティというものは機能とは別に多大なコストがかかるものなんだ。そして日本において、その安全性に対して対策を怠ったとしても、それを処罰する法は存在しない。なら、辿り着く答えは一つしかない。これが日本を取り巻くセキュリティ問題の現状だよ。問題は動機であって、方法ではない。私はそれを証明するために、こんな火遊びを始めたんだ」
 ボクは息を止めた。
 由香の瞳孔がボクを呑み込むようにゆっくりと開く。
 平静を装っているが、彼女が興奮状態にあることがわかった。
 そしてボクもまた、すぐに言葉を返す事ができなかった。それはボクの犯したミスだった。
 由香の顔から、言い訳じみた笑みが消える。
 これ以上は危険だ、と思った。
 ボクは彼女の真意に気が付かなかった振りをして、呆れたように笑った。
「……由香、火遊びは一人でするものだ。他人に自慢するのは感心しないよ」
 これ以上、この話をするつもりはない。
 ボクの意図を汲み取った由香は、そうかもしれないね、と短く相槌を打った。 
 それ以降、由香の注意は電子空間から再び現実世界へ向けられる事になった。




『カナメ、知っていますか。戦闘というものは、攻めこむ側に多大な負担を強いるものなのですよ。動物というものは、動くことでしか食料を確保できません。動物は常に餌を探し求める必要がある。しかし、この大地において彼らの食料となりうるものは存在しない。彼らの侵攻には限界があるんです。そして、私は計算された防御陣地を以って、亡蟲を迎え撃つ事ができる。それほど心配することはありません』
 ラウネシアは亡蟲の軍勢を知覚しても、その余裕を崩そうとはしなかった。
 それがボクを心配させない為の気遣いなのかは定かではなかったが、その考えにボクは幾許かの危機感を抱いた。その分析は間違いではないが、それで終わってはいけない。過去に由香が言っていたように、防御側が有利なのは安定したパラダイムの下において限定されたものだ。
 ボクはラウネシアについての評価を改めなければならなかった。知能そのものに問題は見られないが、巨視的な知識が欠落している。演繹的に答えを導き出す事はできても、その限定された知識故に飛躍した思考をすることができない。ラウネシアは人のような多様性を持たず、また多くの歴史というものを知らない。そして彼女は常に防衛側であり、敗北を一度も知り得ない。それは、指揮官として致命的な欠点でもある。
 攻撃側は、有利である。そう断言した由香。
 攻撃側は、不利である。余裕を崩さなかったラウネシア。
 どちらが正しいのかは、後にわかることだ。
『攻撃を開始します。カナメ、伏せてください』
 亡蟲の軍勢との距離が、もう一キロメートルを切っていた。
 ボクが身を伏せると、ラウネシアの点在樹から凄まじい攻撃意思が立ち上った。それは憎悪にも似ていて、周囲の植物群もそれに応えるように攻撃意思を発した。
『攻撃を、開始せよ』
 ラウネシアの持つ柔和な雰囲気が霧散し、露わになった暴力性が森を支配する。
 感応能力が直接拾うその暴力的な感情の嵐に、思わず足が竦んだ。
 そして、大気が震えた。
 あまりにも巨大な音に、視界が一瞬波打った。
 暴力的な破裂音とともに、一斉に無数の黒い何かが森から撃ち出され、隊列をなして進軍する亡蟲の軍勢に襲いかかる。
 その光景に、ボクは目を疑った。
 それは最早、植物の攻撃手段ではなかった。
 圧倒的な火砲だった。
 森全体が砲となって、観測もなしに敵軍に対して一斉砲撃が始まる。
 一瞬にして、亡蟲の軍勢が乱れていく。
 遠目で見たところ、亡蟲は火砲は所持していない。その主要な武器は槍や斧のようだった。
 それは戦争ではなく、虐殺だった。
 ラウネシアの指揮によって、森中の植物が一斉に近代兵器に姿を変え、迫り来る原始的生物を無残に撃ち殺していく。
 亡蟲の肉が弾け、血が赤い大地を濡らしていく。
 森中から響き渡る砲声に紛れて、亡蟲の悲鳴のような咆哮が虚しく響き渡った。
『どうですか、カナメ。心配ないと言ったでしょう』
 自信に満ちたラウネシアの声。
『亡蟲の武器は、その繁殖力です。彼らの知能自体は大した事がない。私は外殻に砲術能力を持つ植物を集中させることによって、森に入る前に殲滅を図るようにしています。現時点における脅威は数少ない航空部隊だけです』
「……そうですね、ラウネシアの火力は予想以上です。これでは亡蟲は手出しできないでしょう」
 ボクはそう答えながら、薄い笑みを浮かべた。そして、思うのだ。
 やはり正しいのはラウネシアではなく、由香の方だった、と。 

 

16話

  音が戦場を支配していた。
  森全体から響き渡る砲声。亡蟲を指揮する太鼓の音。そして、断末魔にも似た咆哮。
 その音に耐性を持たないボクは、正常な思考能力と判断能力を徐々に削がれるのをぼんやりと感じていた。
 太鼓の音が、次々と変わっていく。
 亡蟲の横陣が更に広がり、ラウネシアの火力を分散させるようにその体積を伸ばしていく。
 やはり、亡蟲には知能が存在する。
 彼らは最低限度の戦闘教義を保持している。彼らは学習を繰り返し、それを改良していく事になるだろう。
 圧倒的火力によって、亡蟲が次々と吹き飛ばされていく。弾の役割を果たしているのは植物の実だろうか。現時点では、ラウネシアと亡蟲の戦力には大きな差がある。ラウネシアの持つ圧倒的火力は、亡蟲の些細な戦闘教義を無視して叩き潰す絶対的なものだ。それが亡蟲の学習を阻害しているのだろう。
 大気を震わせる轟音の中、亡蟲の軍勢はなおも広がっていく。止まる様子がない。軍勢の形は、崩れていく。
 はじめ、ボクはそれを瓦解だと判断した。圧倒的火力によって、亡蟲は最早隊列を無視して逃げまわっているようにも見えた。
 しかし、亡蟲の広がりは収まりを見せない。亡蟲との距離が縮まる中、彼らは固まりを作らず、個人的な突撃を始める。
 そこに、ボクは得体の知れないものを感じ取って思わずラウネシアの点在樹に目を向けた。
「ラウネシア。亡蟲の広がりはいつものことですか?」
『いえ、ここまで広がるところは見た事がありません』
 亡蟲は最早軍勢ではなく、個体としての攻撃を開始していた。軍勢としての突撃能力を失い、森全体に張り付くように大きく広がっていく。ラウネシアの砲撃の効果が弱まり、撃ち漏らした敵が次々と接近してくる。
『カナメ、下がってください』
 ボクは頷いて、森の中に向かって駆けた。
 亡蟲は、既に統率を失っている。それでも攻撃を止めないのは、敵の指揮官が部隊を生き残らせるつもりがないからだ。あれだけ広がってしまった部隊を無事に戻す事は不可能だ。
 敵はもう、勝利を放棄している。
 亡蟲の武器が繁殖力で、亡蟲の戦略目標が生存圏の拡大であるならば、既に敵の目的は戦術勝利ではなくなってしまっている。
 これは、口減らしだ。死に向かって、ただ亡蟲たちは行進させられている。
 悲鳴が聞こえた。亡蟲のものではない。ボクの感応能力が拾った植物のものだった。
 森に侵入した亡蟲たちが、外殻を構成する樹木を斬り倒していく。
 それを迎撃するように、更に内部の植物たちが戦闘態勢に移り、激しい攻撃意思が森全体に広がっていく。
 勝敗は、もう見えている。現時点で亡蟲に勝ち目は存在しない。それでも、亡蟲は退かない。
 戦争という言葉とはかけ離れた戦闘行為。原始的な生存競争そのもの。
 恐らく、この戦争において妥協点というものは存在しないに違いない。講和は存在せず、種そのものを殲滅するまで続くのだろう。
 森の中を駆ける中、背後から亡蟲の咆哮が響いた。振り返ると、樹々の向こうに亡蟲が立っていた。
 速い。筋骨構造が人と相当違うらしい。以前に格闘戦に勝てたのは相手が無手であることも大きいが、主要因は墜落による負傷で相当弱っていた為だろう。この亡蟲との格闘戦において、ボクが勝てる確率はとても小さい、と判断する。
 亡蟲がボクの存在を捕捉し、手にした斧を構えて咆哮する。
 ボクは咄嗟に周囲を見渡した。外殻に辿り着くまでにラウネシアが説明してくれた樹木の中から、迎撃に最適な樹木を見つけ出す。
 亡蟲が斧を構え、ボクに向かって地を蹴った。巨体が真っ直ぐと迫る中、ボクはある樹木に回りこんだ。亡蟲はそのまま距離を詰めてくる。
 敵意。目の前の樹木から明確な攻撃意思が立ち昇る。しかし、亡蟲は気づかない。感応能力を持つボクだけが、この樹木が攻撃準備を終えた事を理解していた。
 亡蟲が樹木ごとボクをなぎ倒そうと、斧を横薙ぎに振るう。その時、樹木が爆発するかのように燃え上がった。
 一般的に植物は火に弱いイメージがあるが、火に対する反応システムを保有する植物、というものが多数存在する。代表的な例はユーカリだ。山火事が起きやすい乾燥地帯に生息するユーカリは、山火事による刺激によって発芽し、成長してからも山火事に対抗する為、樹皮が燃えやすく、すぐに幹から剥がれ落ちる仕組みになっている。
 ラウネシアの眷属は、同様に火に対する反応システムを保有し、森全体が焼ける事を防いでいるらしい。しかし、例外が存在する。ラウネシアが罠の一つとして設置している火炎植物。これは外部刺激に対して発火し、爆発にも似た炎上を引き起こすのだ。
 一瞬にして燃え上がった炎が、亡蟲を巻き込んで轟々と燃え上がる。息をつく間もなく亡蟲の身体が炎に包まれ、悲鳴じみた咆哮をあげる。
 ボクはゆっくりと亡蟲から離れ、その最期を見つめた。燃え上がる炎に耐えかねて亡蟲の身体が崩れ落ちる。炎は収まらない。周囲の雑草が燃焼性の物質であるテルペンを放出し続けているのだ。亡蟲の動きが徐々に鈍くなっていく。
 肉が焼ける強い臭いが鼻をついた。ボクは燃え盛る亡蟲から目を離すと、ゆっくりとその場から離れた。
 森中を支配していた音が徐々に弱まっていくのが分かった。
 火炎植物を含めた多数の植物が、侵入を果たした亡蟲を次々と迎撃しているのだろう。いつの間にか、亡蟲を指揮していた太鼓の音も止んでいる。
『戦いは終息しつつあります。単独でこの外殻を抜けられるほど、私の防衛能力は甘くありません』
 ラウネシアの声。
 森の中を歩くボクの前に、数体の亡蟲の死体が現れる。ボクは死体の持つ斧を手に取り、それから他の斧と見比べた。
 作りが粗い。しかし、金属を加工する術を亡蟲は知っている。そして、その技術を伝えていく術も、亡蟲は保持しているのだろう。
 知能が存在するならば、支配制度が存在するはずだ。王の役割を果たす個体が必ず存在する。軍事的権限を持った将軍も存在する可能性が高い。官僚機構に似た組織も存在するかもしれない。
『これが私と亡蟲の力量の差です。カナメ、心配は無用です。私にはあなたを守る力がある』
 自然と、唇に笑みが浮かんだ。
 確かに、今の火力差では亡蟲たちに勝ち目はない。あれだけの投射量を誇るラウネシアの火力に対し、亡蟲には原始的な近接武器しか存在しない。このままでは勝負にならない。
 しかし、ボクは既に知っている。ラウネシアに王手をかける手段を、ボクは既に知っている。史上最悪の戦争形態を、ボクは知っている。
 ボクはゆっくりと森を見渡した。
 亡蟲は恐らく王と将軍をシステムとして切り離している。コミュニケーションが可能であるならば、亡蟲に与する事も可能だろう。ボクはこの戦争の勝ち方を既に知っている。不利な戦闘を強いられている亡蟲を率いて、ラウネシアの圧倒的な火力を無効化する事も不可能ではない、と思った。
 寝返り。
 頭の中に、そんな馬鹿馬鹿しい空想が渦巻いた。
 亡蟲の対話能力によっては、選択肢の一つになるだろう。
  しかし、ボクはラウネシアがどれほど不利な状況に陥っても、その選択肢を選ぶ事はない。
 目の前に、広がる大自然。
 幼い頃から、ずっと夢を見ていた。
 人がいない世界。
 植物だけが支配する世界。
 ボクと会話ができる植物がいる世界。
 幼少期に何度も夢見た世界。それが、目の前にある。
『カナメ。不安に思う事はありません。私はこの戦いに勝ちます』
 違う。ラウネシアは負けてしまう。
 肺腑の中まで森の空気を吸い込んで、それから広大な森を見上げるように息をついた。
 いい。生存確率はどうでもいい。ボクは、この植物だけの世界を守りたい。そのために動いてみせよう。
「ラウネシア。知っていますか。戦争には落とし所が必要なんです。戦術的勝利を重ねるだけではだめなんです」
 恐らく、ラウネシアにこの声は届かない。だからこそ、ボクは言わなければならなかった。それは、ボク自身に向けた確認の言葉。
「ラウネシアの落とし所は、どこにありますか」 

 

17話

 幼い頃のボクにとって、人の世界はとても残酷なものだった。
 機械的に、等間隔に植えられた街路樹。
 それを見てしまったボクは隣を歩く父の手を強く握って、助けを求めるように父の顔を仰いだ。
「お父さん。どうして、樹を磔にするの。あの樹、苦しんでる」
 街路樹たちは、通りに面した建築物から逃れ、太陽の光を浴びようと車道側へと傾いていた。しかし、その傾きに耐える為に本来伸ばすべき根が、狭い植桝によって阻まれ、その樹体は大きな負担を受け、悲鳴をあげていた。それはまるで、拷問のようだった。
「何故、と言われると中々答えられないけど、強いて言えば景観がいいからだよ」
 父は少し考えてから、そう言った。
 景観が、いい。その意味が、ボクにはわからなかった。
「ケイカン?」
「景色だよ。ああいう自然があれば、綺麗に見える。だから、ああやって車道の横に植えるんだ」
 ボクは、立ち並ぶ街路樹を呆然と見つめなおした。
 自然など、どこにもなかった。均等に並んだ街路樹は、全てが同じ個体であるように均一な姿に揃えられている。かなりの傷が樹体に見られ、人工的に成長を抑制されているのだとわかった。根そのものも大きなダメージを負っているに違いない。健康的な状態ではなく、とてもその樹木が成長できる環境ではなかった。
「お父さん、だって、あんなに、あの樹たちは苦しんでる。それを綺麗だと思うなんて、おかしい」
 父はボクをじっと見下ろした。探るような目だった。
「カナメ、植物に心はない。苦しい、と感じる知能は存在しない」
 どこか突き放すように、父は言った。この時の父は、まだボクの感応能力を空想の類だと解釈し、信じていなかった。
「……でも、ボクには苦しそうに見える。悲鳴はあげないし、泣いたりはしないけど、落ち着きが無い。生きる道を必死に探してる。体力も相当落ちて、もう、長く生きられない状態になってる。それは多分、苦しい事だと思う」
 父はじっとボクを見つめた後、ふう、と小さく息をついた。それから父はしゃがみこんで、ボクの頭をくしゃりと撫でた。
「カナメは随分と面白い言い回しをする。本当に植物の心が見えているんじゃないか、と思う時があるほどだ」
 なあ、と父はボクと同じ目線で、正面からボクを見つめた。
「カナメは、あの街路樹を助けたいと思うか。あれを植えた人間は、悪だと思うか」
 父の目があまりにも真剣だった為、ボクは慎重に言葉を選んだ。
「……ううん。だって、弱肉強食だから。強い種族が、弱い種族を支配する。それは、自然な事だと思うから。でも、磔にした樹を見て、景色がいい、と思う事はおかしいよ」
 ボクの言葉に、父は微笑んだ。
「カナメは評価と感情を区別する事ができているようだな。良いことだ。でも、そう思わない人も、いっぱいいるんだ」
 そして、父は立ち上がって、街路樹を見つめる。
「あの街路樹は、苦しそうに見えるかもしれない。実際、生存に適した環境ではなく、劣悪な生育環境だと私も思う。でも、植物は悲しいとか、苦しい、とは感じない。彼らは人とは違う理屈で生きていきて、私達と同じような感情を持つことはない、いいかい、カナメ、ここを間違えれば、植物の政治的利用というものが始まるんだ」
「政治利用?」
 唐突な話題に、ボクは首を傾げていた。父はどこか馬鹿馬鹿しいような笑みを浮かべて、自虐的に笑った。
「植物にクラシック音楽を聞かせればよく育つ、といった話を聞いたことがないか?」
 似たような話はいくつか聞いたことがあった。ボクが頷くと、父は疲れた笑みを浮かべた。
「古今東西に似た話が転がっている。クラシックは善で、ロックが悪だとか、そういう時代があったんだ。あのダーウィンも、植物と音楽の関係について調査したことがあった。最もダーウィンは後にそれをまぬけな実験と呼称しているが、そうではない人間も多くいた。つまり、クラシックの優位性を植物を以って証明しようという人間が数えきれない程いた。そうした方が都合がいいんだ。いい音楽、悪い音楽。それを科学的権威によって正当化しようという動きがあって、植物はその流れに飲み込まれた。杜撰な実験環境、方法、計画。そして、他の研究室での再現性のない科学的欠陥を持った実験だったが、そうした一連の動きが大衆に植物がまるで音楽を解する、という間違った理解を与えてしまった」
 父はそこで息をついて、コンクリートの間から生える雑草を見つめた。
「植物は身近な生物だ。しかし、主体的に意見を発する事がない。だからこそ、私達は勝手に植物の代弁をしてしまう傾向がある。水やりをした後に気持ちよさそうだね、と話しかけてしまうのは、その人間の価値観を反映したものだ。植物の価値観は反映されていない。暖かい太陽の下にいる植物を気持ちよさそうだと感じても、実際は二酸化炭素の不足から太陽光を有効活用できず、その紫外線によって身を危険に晒しているところかもしれない。私達の代弁というものは、往々にして植物の意思と無関係なところから発生し、植物の真意を無視してしまう。私達が持つ共感能力や感情移入は人間に合わせたものであって、その共感能力の対象として植物は適さないからだ」
 ボクは父の言葉を何とか理解しようと、じっと聞いていた。
「カナメは学者になりたい、と以前に言っていたね。それならば、これだけは覚えておいて欲しい。カナメが植物と近しい立場になればなるほど、奇妙な連中が近づいてくる事になるだろう。植物の価値観を無視し、それを自らの政治的価値観の為に利用しようとする連中だ。だから、これだけは覚えておくべきだ。植物は人による干渉を求めていない。人は生存率に影響を与える外的要因の一つでしかなく、そこにイデオロギーは存在しえない。善も悪も、人の持つ評価基準でしかない。そこを間違ってしまってはいけない。いいね。カナメ。思いやりとは、相手を理解するところから始まるんだ。理解した風に安易に擬人化すれば、目が曇ってしまう。それ以上の理解を妨げてしまう。ありのままの植物を受け入れなさい」




 目が、覚める。
 勢い良く身を起こすと、森の香りが鼻腔をくすぐった。
 辺りはまだ薄暗い。
 隣には、目を閉じたまま動かないラウネシアの姿があった。亡蟲の迎撃後、ここまで戻ってきてラウネシアから果実をもらい、そのまま眠った事を思い出す。
 ボクはラウネシアの樹体に背中を預けて、小さく息をついた。
 まだ父が元気な時の夢。
 懐かしい、と思った。あの時の言葉が、ボクと植物の関係を決定づけたと言っても良かった。あの時の父の言葉があったから、ボクは植物に対する理解を更に深める事ができた。感応能力による植物の感情というものが、一種の擬似的な物であることに気づいて、不必要な対話を行う事もなくなった。ボクにとって、父は偉大な植物学者だった。
 本当に植物の事が好きな人だった。恐らくは母よりも、植物を愛していたのだろう。だから、破綻した。両親が離婚したのは、ボクが十歳の時だった。
 ボクは父の言葉を反芻し、そして自虐的に笑った。
 ラウネシアは、きっとボクの手助けを必要としていないし、それを望んでもいないだろう。
 でも、ボクはこの戦争の行く末を、一つの結果を知っていた。
 亡蟲がその答えに気づかないのであれば、火力に優れたラウネシアは亡蟲の侵攻を最後まで退ける事ができるだろう。
 しかし、亡蟲がその答えに辿り着いた時、パラダイムシフトが起きた時、ラウネシアは敗北してしまう。
 この森が、死んでしまう。
 それは、ボクの望む未来ではない。
 幼少期から、友達らしい友達は由香しかいなかった。人の心は覗けない。それが、ボクと人との距離を遠ざけた。
 何度も何度も植物だけの世界を夢想した。お伽話のような空想を、ボクはずっとしてきた。そんなものが存在しないことを分かっていても、どこかで都合が良い世界を望んでいた。
 この森の生存を望むのは、ボクの為だ。ラウネシアの為ではない。
 ゆっくりと立ち上がって、背伸びをする。
 薄暗い中、ボクは使えそうな木の枝を拾い集め、罠を作り始めた。
 道具が限られている中、あの体格を持つ亡蟲を殺傷するには至らないだろうが、そんなものを作る必要はない。敵の機動力を削いで、大量に作れる簡易的な罠でいい。
 それから、亡蟲がある戦闘教義に辿り着く事を見越して、今から準備を進めるべきだ。ラウネシアに進言する必要がある。
 しかし、ラウネシアがボクの意見を受け入れるかは分からない。安全保障というデリケートな部分において、部外者の意見を聞き入れる可能性は低い。
 ラウネシアの火力を無効化する術を目の前で実演するべきか。しかし、下手に動けば危険分子とみなされるかもしれない。ラウネシアを破る方法がある、という点については暫くは伏せる方が無難に思えた。少なくとも、ラウネシアの性格をよく知らない段階で、そこに踏み込むべきではないだろう。
 ナイフで木の枝の先を削りながら、身の振り方を考える。
 このナイフも刃がこぼれてしまえば、もう使えなくなってしまう。あらゆる物資は有限で、貴重なものだ。あのトゲトゲの植物の一部をナイフとして加工することも検討しなければならなかった。
 当分は忙しくなりそうだった。 

 

18話

 ボクは数種類の罠をつくり上げると、それの実験を始めた。
 ある地点を踏んだ時、足にロープが絡まる簡易的なものだ。ロープが無い為、ツル性の植物で代用した。強度に不安が残るが、良いロープを使ったとしても亡蟲のような体格と知能を持つ生物相手では短時間の拘束しかできないだろう。罠がある、という事を相手に知らせ、その機動力を削げればいい。
 昔、何度か由香とこうした罠を作った事があった。もちろん、ボクたちは罠猟の資格を持っていない。違法なものだ。人間が引っかかる可能性もある為に、それほど危険な罠は作らなかったし、実際に人間が引っかかった事もなかった。それは火遊びのようなもので、ボクたちは野生の猪を捕まえようと何度も罠を作っては、それを改良していった。その当時の記憶を掘り起こしながら、試験的に罠を設置していく。
 罠の設置と動作確認には時間がかかった。いつの間にか昼を過ぎ、ラウネシアの点在樹が昼食を知らせた。
『カナメ。休憩を入れたらどうですか。果実を用意します』
 ボクはその提案に甘えて、殆どの動作確認を終えた罠を置いて、ラウネシアの本体の元へ向かった。
 この森は、基本的に不便だ。水は蒸散作用を利用してその辺りの植物から摂取する事ができるが、食料はラウネシア本体の果実しか今のところ発見できていない。食事の度にラウネシアの元へ戻る必要があり、ボクの行動範囲は自然と制限されることになる。
『今日は随分と熱心に何かをしていましたね』
 ラウネシアの元に戻った途端、彼女が探りを入れてくる。
 行動範囲が自然と制限されるだけでなく、点在樹によってボクの行動はラウネシアに筒抜けになっている。そのことに、少しだけ息苦しさを覚えた。
「罠を作っていたんです。ボクも何か手伝えないかと思って」
 ボクは控えめに言って、ラウネシアが落とす果実を受け取った。
『不必要です。亡蟲の迎撃は私だけで可能です。カナメの手を煩わせる事はありません』
 果実を囓りながら、ラウネシアの思考を探る。
 やはり、戦闘においてラウネシアはプライドのようなものを保持している、と考えるべきか。少なくとも、ボクの介入をラウネシアは望んでいないようだ。
 それを理解しながら、徐々に踏み込んでいく。
「ラウネシアは自在に周囲の樹木を変容させられるんですよね。例えば、果実を投げれば中身が四方に炸裂し、周囲の生物を殺傷するようなものは作れますか?」
『試した事はあります。しかし、砲撃時の衝撃において炸裂する可能性が高く、実用段階までは進みませんでした』
「では、砲撃ではなく人が投げる事を仮定すれば、それは実用可能ですか?」
 一瞬の間があった。
『カナメ。言ったはずです。私はあなたを積極的にこの戦いに巻き込むつもりはありません。その必要もない』
 どこか突き放すような感情を、ボクの感応能力が拾い上げる。
「はい、理解しています。でも、自衛の為に、そうした武器があったらいいな、と思って。以前みたいに墜落した亡蟲と出会う可能性もあるじゃないですか」
 正面から意見が対立することを避けながら、ラウネシアが納得しやすいように、あくまで自衛の為である事を強調する。
 ラウネシアはじっとボクを見つめてから、そうですね、と短く同意の言葉を発した。
『……時間がかかりますが、一部の樹体に改良を施します』
「ありがとうございます」
 小さくを頭を下げてから、ボクはニコニコとラウネシアを見つめた。
「ラウネシアは、やさしいですね」
 一瞬、ラウネシアは何を言われたのか分からない様子で、ぱちぱちと瞬いた。
 その様子が少しだけおかしかった。
 残った果実を口に放り込む。甘い果汁が口の中を満たした。
『カナメは、人としてはまだ若いですよね』
 不意に、ラウネシアが言う。
 ボクは少しだけ迷った後、ええ、と頷いた。その真意がよくわからなかった。
『相手が、いたのですか。つまり、つがいが』
「……いえ、いません」
 僅かな躊躇の後、正直に言った。
『そうですか』
 露骨な安堵の感情が、ラウネシアから溢れる。
 このラウネシアは、ボクを生殖対象として見ている。それは、明らかだ。
 ボクの安全には、相応の注意を払うだろう。
 それを利用すれば、ある程度までのコントロールは可能と思われた。
『人は、一生のうちを一体のつがいと添い遂げる、と聞きました』
「そういう人種も、そうではない人種も存在します。個体によって大きな差があります」
 ボクはそれだけ言うと、立ち上がった。
「少し、辺りを見まわってきます」
 逃げるように、ラウネシアから離れる。
 あれ以上、話を長引かせたくなかった。
 現時点で食料を依存してしまっているラウネシアから、ストレートな愛情表現を受け取る事は避けるべきだ。
 ラウネシアから離れ、トゲトゲ植物のバリケードを目指して進む。
 途中、周囲に注意を払いながら進んだが、鳥類はやはり確認できない。
 果実意外の食料になりうるものが見つからない。
 それどころか、土壌生物も見当たらない。この森は独立した生存能力を保有しているのだろうか。
 ふと、足を止める。弱った樹木があった。何らかの病気でダメージを負ったのか、根本が欠け、自重によって大きく疲労している。
 日本なら、外科手術が行われていてもおかしくない状態だ。一般的に樹木の外科手術、というと多くの人が怪訝そうな顔をするが、樹木に対する手術や医療といった技術が存在し、実際に行われている。栄養剤を注射で中に送り込む事だってある。
 簡単な処置を行おうか迷った時、森中がどっと震えた。
 感じたのは、攻撃意思。
 反射的に身を伏せ、周囲を素早く見渡す。
 異常は、ない。そこでようやく、この攻撃意思がボクに向けられたものではないことに気づいた。
 亡蟲。
 森の外へ向かって、駆け出す。
 ある程度の地形は、頭の中に入っていた。
 前よりもずっと早く、バリケードを超えて亡蟲が侵攻するであろう方面に走る。
 遠くで太鼓の音がした。
 間違いない。亡蟲だ。
 ラウネシアの話と食い違っている。亡蟲の侵攻には十日ほどのスパンがあるはずだった。
 活発な動きを見せる亡蟲に、何らかの意図があるのは明白だ。
 長期間に渡って戦闘を続けたラウネシアなら、その真意を汲み取れるかもしれない。しかし、ラウネシアに全てを依存するつもりはなかった。
 この目で、亡蟲の行動様式を確認するため、ボクは深い森の中を駆け抜けた。 

 

19話

 ボクの荒い息が、森の中にこだました。
 乱れた息遣いを打ち消すように、強烈な破裂音と太鼓の音が前方から届いた。
 既に戦闘が始まっていた。
 森の最果てまで辿り着いた時、そこには亡蟲の死体が広がっていた。しかし、戦いはまだ終わってはいなかった。
 亡蟲は部隊を複数に分けて、波状攻撃を行っているようだった。遥か前方から隊列の整った集団が進軍してくるのが見えた。
 敵は、縦列を敷いている。ラウネシアの森に対して、直進せずに迂回するように斜めに進行している。
 投射能力の低い領域を探る為、進行方向を変更したということか。しかし、森までの距離が伸びる為、その被害は増大していく。
 完全な捨て駒、と判断する。やはり、敵の司令官は冷徹だ。
 敵の部隊が半壊していく。それでも瓦解はしない。強烈な帰属意識、あるいは暴力的統制が要因か。
 不意に、敵の部隊が停止する。そして、次の瞬間、全ての亡蟲が一斉に横へ向きを変えた。縦列が一瞬にして横列になる。
 その瞬間、ボクの背筋を冷たいものが走った。
 かつて、プロイセン軍が用いた兵法。
 ボクは、それを知っていた。かつて、由香から聞いたことがあった。由香は軍事学にも興味を抱いていて、いくつかの事例をボクに聞かせてみせたことがあった。

「ほら、カナメ。こうすることで隊形移動に要する時間が一瞬にしてゼロになった。つまり、機動能力と戦闘能力の交換に対してのコストがゼロになったということ。プロイセン軍はこれを用いてオーストリア軍と戦った。機動能力と戦闘能力の交換は、これを以ってますます複雑に変化していくことになる」

 ラウネシアが保有するこの投射量に対して、その兵法はマッチしていない。
 走破すべき距離が伸びた事により、砲撃を受ける時間が伸びている。あの部隊は、森まで辿りつけない。
 敵のとったこの戦術は、この戦場に合っていない。
 それが、ボクに甚大な恐怖心を与えた。
 この戦場には、まるで合わない戦術。
 何故、そこに辿り着いた。
 あるいは、何故、それを知っていた?
 はたまた、こう言うべきなのか。何故、それを選択した?
 溢れ出すボクの思考を押し流すように、敵の部隊が壊滅に向かう。
 そして、その部隊を殲滅する前に、遥か後方に控えていた敵の部隊が新たに動き出す。
 縦列ではない。いや、縦列を組み合わせた集団。
 それは、直進しなかった。
 一見するとランダムな方向転換を行い、複雑なルートを辿って迫ってくる。
 縦陣の柔軟性を試しているように見えた。
 ただ縦陣と横陣の使い分けを試しているだけか、と考えた時、敵の損耗があまりにも少ない事に気づいて、敵のルートを見直す。
 稜線だ。
 砂漠のように緩やかな起伏が存在するこの赤い大地の中、地形的に砲撃が届きづらいルートを選択している。
 ただルートを選ぶだけではその転換に多大な時間を要するはずだ。しかし、先ほど見せた縦陣と横陣の交換を効果的に行い、本来受けるべきだったルート選択時の損害を大きく回避している。
 これは――
 思考が追いつく前に、更に敵の後方に控えていた最後の部隊が動き出す。
 単純な縦陣。
 別ルートから、本陣と思われるそれが壮烈な太鼓の音と共に迫る。
 対抗するように、余力を残していたのか、ラウネシアの砲撃が加速する。
 砲撃によって、次々と大地がめくれ上がる中、砂塵の中から亡蟲の咆哮が響き渡った。
 敵の総数は、前回の進軍と比べれば少ない。部隊を分け、前半を無駄に消耗した為、最後のこの突撃での敵の数自体は恐れるものではない。
 しかし、前回に匹敵するほどの突撃能力。あるいは、それを凌駕する勢いで、亡蟲の軍勢が迫る。
 そして、ボクの頭の中にはある疑問が渦巻いていた。
 敵の手札は、後いくつある?
 亡蟲は、まだ森に達しない。達するまで、時間に余裕はある。
 しかし、ボクは自らのその予想を確信できなかった。
 気がつけば、ボクは踵を返していた。防御陣地の中、戦闘能力の高い樹木の集団を見つけると、その中で比較的無害な樹木の上に急いで登る。
 林冠は、高い。頂上まで登れるような樹木ではない。ある程度の高さまで登ると、ボクは上空を注視した。敵の航空部隊の姿は見られない。
 それを確認してようやく、これ以上敵が食い込む事が無いことを確信できた。
 森の寸前まで食い込んだ亡蟲は、壊滅といっていい程に頭数を減らしている。
 自然と、力が抜けた。
 しかし、呆けている場合ではない。
「ラウネシア」
 どこかの点在樹に届くことを願って、叫ぶ。
 恐らくは、間違いない。
「侵攻に関する猶予期間の急激な変化。そして、戦術の急速な変化。敵の指揮官、あるいは将軍、王に匹敵する何かが交代したと思われます」
『そうかもしれません』
 近くに点在樹があったらしい。ラウネシアの返答が届く。
 ボクは少し迷った後、言葉を続けた。
「ラウネシアの圧倒的火砲に対して、見合わない戦闘教義への到達。それは実験的な運用にも見えました。そして、予め用意されていた飛躍した応用手法。これは、何十世代によって改良されていくべき兵法であって、本来はありえない最適化です。この最適化は、予めその流れを知っている者でしか不可能です。そして、ボクはこれらの流れと、その先を知っています」
 ラウネシアは、何も言わなかった。
 多分、ラウネシアはこの先の言葉を既に予想しているだろう。しかし、それが意味する本当のところを想像することが出来ないに違いない。
「敵の指揮官、あるいは将軍、王、そしてそれに助言する何か。それは、ボクと同様の別世界の迷い人の可能性が極めて高いです」
 そして、その世界の住人は、ボクが知っている二十世紀最悪の戦争形態を既に経験し、知識として保有している可能性が高い。
 ラウネシアの持つ圧倒的投射量は、その最悪の戦争形態に於いて、無力化されてしまうことも、ラウネシアは想像できないに違いない。
 敵は恐らくはもう、この紛争に対する答えに達してしまったと考えるべきだ。
 そして、何より恐ろしいのは、敵の指揮官に相当する別世界の何かの実行能力。
 ボクは知識として、それらの戦闘教義、戦闘形態を知っていた。しかし、敵は実際にこの手で運用してみせた。恐ろしいほどまでに最適化してみせた。
 その違いは、あまりにも大きい。 
『迷い人。結構。しかし、亡蟲というものは、食う生き物なのですよ。あの大地がある以上、亡蟲は地平線の彼方から進軍し、私の砲撃に耐える必要があります。戦術といった小手先の技術でこれを突破する術はありません』
 ラウネシアはまだ、この戦争の概念を誤解している。
 戦争は日々進化し、やがて手に負えない化け物になることをラウネシアは知らない。彼女は敗北を知らない指揮官だった。 
 

 
後書き
更新間隔が開いて申し訳ありません。
Webサイトにて、狂愛のリメイク版移転を行っております。 

 

20話

「由香、一体どこまで」
 山の中を、軽装でずんずんと進む由香をボクは追っていた。
「面白いものが見れる」
 由香は妖しい笑みを浮かべて、それ以上の説明はしなかった。
 不意に、由香が立ち止まる。彼女がその場で屈みこむと、ほら、と地面を指さした。
「猪の糞だ。新しい」
 近づくと、確かに猪らしい糞があった。鹿の小さく硬い糞と違い、猪の糞は区別がつきやすい。
 ボクは警戒するように周囲を見渡した。
「大人の猪だ」
 由香は立ち上がって再び山の中を進み始めた。
「もうすぐだ」
「ここはボク達の領域じゃない。不用意に立ち入るべきじゃない」
 ボクが警告すると、彼女は嗤った。
「先客がいるんだ。ここ最近、違法猟をやっている奴がいる」
 由香が何を考えているのか、ボクには分からなかった。
 樹々の間を抜けると、物音がした。反射的に足を止める。
 ボクは由香をちらりと見てから、独断で声をあげた。
「人が通ります」
 獣と間違えて撃たれたら堪らない。
 ボクの心配を打ち消すように、由香が軽い言葉で言う。
「大丈夫だよ」
 由香はそう言って、更に奥へ足を踏み入れた。
 つん、と獣の臭いが鼻をついた。
 同時に、視界に猪が飛び込んできた。
 ボクたちに向かって真っ直ぐと飛び込んでくる。
「由香!」
 反射的に由香の身体を引っ張って、地面に倒れ込む。
 受け身を取ると同時に、眼前まで迫っていた猪は動きを止めていた。
「カナメ、今のは良い動きだった。しかし、早とちりだよ。注意が足りていない」
 ボクの腕の中で由香がおかしそうに笑って、それから立ち上がって土を叩いた。
「あの猪はあそこから動けない。罠を踏んだ可哀想な子羊だよ」
 由香の言う通り、猪の足にはロープが絡まっていた。しかし、罠の可動範囲ならば自由に動く事ができる。猪は警戒するように一度距離をとって、こちらを威嚇していた。
「……猟期は、まだだよね」
「ああ、違法猟だよ。前々からこの山を巡回してる奴がいるんだ。腕は良いね。私達みたいな遊びでやってるわけじゃない、プロの猟師だ」
 ボクは猪の動きに注意を払いながら、それで、と由香に問いを投げかけた。
「どうするの? 散弾銃はおろか、空気銃もない。まさか、逃がすわけじゃないよね」
 由香はクスクスと笑って、バックパックを地面に下ろした。そして、空き缶を取り出した。
「カナメ、知っているかい」
 彼女は、それに刺さっていた胴板を抜き取る。
「私達が普段、何気なくコーヒーに入れる砂糖」
 銅板を抜いた後、空き缶から不可解な音が響いた。
「それは、こんなにも恐ろしいものになりうるんだ」
 ひゅ、と彼女は鮮やかなサイドスローでそれを猪に向かって放り投げた。
 次の瞬間、激しい轟音とともに、空き缶が炸裂した。
 閃光。平衡感覚が失われる。
 咄嗟の事に身が竦み、防御行動に遅延が生じる。
 呆然とするボクの耳に、猪の悲鳴じみた鳴き声が轟いた。
 全ては一瞬だった。
 由香が放った空き缶は爆発を起こし、猪の半身を吹き飛ばしていた。
「ねえ、カナメ。資格や申請が煩わしい散弾銃なんていらないんだよ。身近なものと、ちょっとした知識。それだけで、格上の生物を殺す事ができる」
 焼けた臭いが、鼻をついた。
 赤色の肉片が、緑色の自然と対照的なコントラストを描いていた。
「必要なのは、ちょっとした倫理能力の欠如。それだけで全てが変わる。必要なのは、本当にそれだけだ。システムは強大で、あるいは、とても脆い。そして、カナメ。システムが巨大化するほど、そのセキュリティは困難になる。私の言っている意味が、わかるよね、カナメ」
 周囲にへばりついた肉片を背景に、由香は目を輝かせる。その双眸の向こうには、得体のしれない衝動が蠢いていた。
 義務教育中の、最後の秋。
 彼女は、とても美しく成長していた。



『カナメ?』
 ラウネシアの思考を、ボクの感応能力が拾う。
 思考の海から急速に浮上したボクは、反射的にラウネシアを見上げた。
「何ですか?」
『何を、考えているのですか』
「少し、昔の事を思い出していました」
 そう言って、立ち上がる。
 森中の樹々が、穏やかに光合成をしている。
 戦争があったとは思えない程、穏やかな空間。
 ここはとても、落ち着く。
 食糧問題に関して、ボクは殆ど諦め始めていた。
 ラウネシアの原型種という特性を考えれば、人間の食料となるものはラウネシアが独占していると考えても不自然ではない。
 この森に、ラウネシアの果実以外の食料は存在しない。そう結論づけたボクは、無駄な散策を放棄していた。
 そうなれば、自然とラウネシアの元で過ごす時間が増える。
 ボクは特にやることもなく、ただ時間を過ごしていた。
 亡蟲は、そのうち洗練されたドクトリンに辿り着くだろう。平行して航空部隊の有効活用もされ、ラウネシアの軍勢は不利な対面を強いられる。
 その時に備え、ボクは既にラウネシアに一部の樹木の改良を頼んでいる。もう、ボクに出来る事は殆どない。
 人間一人に戦争の行方を左右できるほどの力はない。ボクが目指すのは、戦術的勝利ではない。勝機はないに等しいけれど、相手の勝ち筋を崩す事だけを考えてなければ、どちみち勝利はありえない。
『カナメ』
 ラウネシアが、ボクに語りかけてくる。
『敵の指揮官に相当する何かは、迷い人だと推測しましたね。カナメはもし、敵が同郷の人間であったとしても、私を裏切りませんか?』
 偽りを許さないように、ラウネシアの双眸が真っ直ぐとボクを捉えていた。
 ボクは一拍置いてから、ええ、と頷いた。
「ラウネシア。人は、人に対して慈しみ、愛し合う力があると言われています。でも、ボクはその力を持って生まれなかった。どこかに置き去りにしてしまった」



 脳裡に、由香の言葉がリフレインする。
「ねえ、カナメ。君は人間に対して一種のディスコミュニケーションを引き起こしている。植物の心を直接読み取れるという特性が、君と植物を近づけた。でも、人の心は読めない。その差異が、人に対しての共感能力を著しく低下させている」



「その代わり、ボクは植物の心を読み取る事ができました。同じ人を異物のように感じて、植物だけの世界を夢想してきました」
 だから、と自然に言葉が繋がった。
「帰還願望もありません。あの世界は、ボクがいるべき世界ではなかったのだと思います。同族に対して特別な感情はありません。ラウネシアに最後まで付き合うつもりです」
 ラウネシアは僅かに、意外そうな顔を浮かべた。
『カナメは、自分を人ではなく植物に近しい存在と定儀づけているわけですか』
 その問いには、すぐに答える事ができなかった。
 ただ、頷いた。
「そうかもしれません」 

 

21話

 人と植物の差異は、何なのだろう。あるいは、動物と植物の差異、と考えるべきか。
 細胞壁の有無? 葉緑体の有無?
 あるいは総体としての死、という概念の違い?
 過去に何度も考え、そして、結論が出なかった問い。
 種族とか、分類とか、それにどれだけの意味があって、そこからどれだけの価値が生じうるのか。
 ここから先の分類は食べても構いません。ここから先は遠慮して必要がある時だけ食べてください。ここから先は殺人罪や死体損壊罪に問われるから気をつけてください。
 馬鹿馬鹿しい。
 タンパク質の動的平衡が維持され、ATPサイクルが正常に機能し、総体として生きている状態にある。それ以上に、どういった判定が必要なのだろう。
 ボクたちが生物に抱く感情というものは、多くのものが錯誤によって形成される。
 原生動物が引き起こす走性は自由意志とは何ら関係ない、むしろ無機的なロボット的な反応だし、一見して生きている樹の大半は死滅している状態にあることもある。生と感じるものが、死に近い現象である事は非常に多く、ボクたちの他生物に対する認識というものは非常に誤りやすい。それはボク達の共感能力が同族である人間に合わせたものであって、他生物に対して徹底的に無理解であることを示している。
 更に言うならば、フォーカスが当たった人間に対しても、理解は難しい。そして、人は無理解に対して、錯誤を引き起こした共感能力そのものではなく、共感能力から離れた対象の人間を非人間的であるとして糾弾するのだ。
「先輩は、本当に植物が好きなんですね」
 中学三年生の夏。園芸部の後輩の女子から、そんな言葉をかけられた。
 花壇以外の花に水をやっていたボクは、不意の言葉に思わず振り返った。
「先輩は、花壇とか野草とか、そういう事を全く意識してませんよね」
 ボクは手を止めると、じっと後輩の顔を見つめた。
「きみは、花壇に生えているからという理由で花に水をやるの?」
「え、いえ、あの、それ以外までは責任を持てないな、と思って」
 責任。奇妙な話だ、と思った。
 それを望む声が聞こえるからやっているだけだ。植物に責任を求められて、花壇の世話をしているわけではない。彼らは人よりも光受容体が発達していようと、像として人間の個体を識別できないし、それを判断する中枢神経系を持たない。
 ただ、猛暑によって水分が不足し、葉温が上昇している。タンパク質で構成される以上、熱は毒になる。ボクの感応能力は、そうした悲鳴を拾い上げてしまう。
「あの、先輩は、どの高校を受験されるんですか?」
 緊張した様子で、後輩が言う。
「第一志望は東かな。一番経済的だしね」
「……意外です。先輩は、もっと上を目指すんだと思っていました」
「それは、買いかぶりすぎじゃないかな」
 水やりを再開する。猛暑の中、水しぶきが気持ち良い。
「先輩は、そこでも園芸を続けられるおつもりですか?」
「どうかな。学内の活動にこだわるつもりはないし、家の庭でも出来る事だからね」
「お父さんが、植物学者なんですよね。すごいです」
「うん。その影響が強いかもしれない」
 ボクは雑談を続けながら、順番に水をやっていく。後輩は、ボクの後を追いながら話を続けた。
「珍しい植物とか、お庭にあるんですか?」
「国内では珍しいものも多いよ。管理が難しいみたいだけど、父がよく見てるから」
「あの、先輩」
 不意に、どこか力が入った声で後輩が言う。
「私、あの、今度、先輩のお庭を見せてもらってもいいですか?」
 意外な言葉に、ボクは水やりをしていた手を止めた。
 水をやっていた野草から目を離し、後輩の方を見る。その時、彼女の後ろにもう一つの影があった。
「カナメ、後輩に手を出すのは感心しないよ」
 由香だった。後輩の背後から現れた彼女は、後輩の肩を軽く叩くと、にこやかに言った。
「ちょっと外してもらっていいかな? カナメと話があるんだ」
「え、あ、はい」
 突然現れた上級生に、後輩は頭を下げるとすぐにその場を離れていった。
 怪訝な顔をするボクに、由香が困ったように言う。
「カナメは、東を受験するのか」
「今のところは。由香はもう決めた?」
 ボクの問いに、由香は少し悩むような素振りを見せた後、悪戯っぽく笑った。
「そうだね。カナメと同じところ、という風に答えておこう」
「……県外には行かないんだ」
「最終学歴以外はどうでもいいし、環境に左右されるほど脆弱ではないつもりだよ」
「ある程度の、コネ作りにはなる」
「どうでもいいよ。学閥なんて今時流行らない。それに、そんなものが必要な環境に入るつもりもない」
 それから、由香は面白そうに笑った。
「私はね、今一番、カナメが気に入っているんだ。特異だよ、君は。お受験用の勉強が出来る奴なんていくらでもいる。でも、君はそういう分類からは一線を画している」
 だから、と由香は言葉を続ける。
「私は当分、キミと遊ぶ時間が欲しいと思っている」
「例えば、違法猟で捕まっている猪を実験に使う遊びとか?」
 水やりを止めて、嫌味を言う。ただ、由香に嫌味は通じないらしい。彼女は面白そうに笑うだけで、反省する様子は微塵もない。
「そうだよ。キミ以外では、あんな遊び出来ないからね」
「あまり趣味の良い遊びじゃない」
「カナメ、キミはそうやって忠告する振りをするけど、本気で嫌がったり、嫌悪感を覚えている訳ではない。そうだろう? そうするのが普通だと思ったから、身につけた常識に従って普通に振舞っているだけだ。心の中では、全てがどうでもいいと思っている。違うかな」
 ボクは何も答えなかった。由香を相手に嘘をつく必要もなかったし、かと言って肯定する必要もないように思えた。
「まあいい。後、一つ、確認だ。カナメはあの後輩と仲が良いのかい?」
「特には。園芸部員として以外は、交流もないよ」
 由香は、そう、とだけ言うと、踵を返して背を向けた。
 気まぐれに話しかけてきて、気まぐれに帰る。由香には良くあることで、ボクも特に気に留めず、水やりを再開した。
 その後日、後輩が階段から転落して入院したと顧問から聞いた。
 ボクの心は。当然のように何も動かなかった。

『カナメは、自分を人ではなく植物に近しい存在と定儀づけているわけですか』
 ラウネシアの問いは、何度も自問したものだった。
 ボクは、一体何なのだろう、と。
「そうかもしれません」
 植物が水不足を訴えていれば、水をやるくらいの利他的な部分はあると自負している。
 それでも、同族である人、それも見知った個体の事故に対しては何も感じない。
 幼少期から続くこの状態は、今でも変わらない。
 ボクはラウネシアを破る方法を知っている。敵の迷い人も同様にそれを解し、ラウネシアの敗北をボクは予想している。それでも、ラウネシアに肩入れすることを止めないのは、感情が見えてしまう故の情けだ。
『カナメは、私の事をどう思っていますか』
 不意に、ラウネシアが核心に触れる。
 今までも好意を隠そうとしてこなかったラウネシアだが、直接こういった確認はしてこなかった。ボク自身も、ラウネシアのそうした動きはもっと先だと考えていた。
 予想外の問いかけに、反応が遅れる。
 食料を依存している以上、下手な返答は出来ない。
「……今まで、植物に対しての感応能力は一方的なものでした。植物の心は読めても、植物がボクの言葉を理解することはありませんでした。ラウネシアは、ボクが初めて双方向的なコミュニケーションを可能とする植物で、特別な存在です。だから、ボクはラウネシアに肩入れする事を決めました。相手の迷い人の思考、考え方。それに対する対抗手段を、ボクは惜しみなくラウネシアに提供するつもりです」
 質問の意図を理解しながらも、真っ向から答える事なく、協力関係であることを強調し、それ以外の感情についての言及は避ける。 
 ボクの言葉に、ラウネシアは一瞬の空白を空けて、それから告げた。
『カナメ。貴方のそれが本心であることはわかります。確かに貴方は、人間と植物という種族の間に立ち、自己同一性に対して疑問を抱いている。そして、私は貴方の考える植物と人のどちらにも属さず、貴方と同じように二つの種族の境界に立った存在であり、貴方は私を特別視している。しかし、それ以上に踏み込もうとはしない。私の好意に対し、貴方は一線を引き続けている。私がそれに気がついていないとでも思っていましたか?』
 背筋を嫌な汗が伝った。
 対応を誤った。偽りでも、向こうの望む答えを返すべきだったか。あるいは、ラウネシアの問いは、初めから答えが決まった確認作業でしかなかったのかもしれない。
 しかし、ボクの思考に反して、ラウネシアは想定外の言葉を続けた。
『貴方が私に対し、一線を引く理由はなんですか? 種族が違うからですか? しかし、貴方は種族というものに対して懐疑的になっていたはずです。そして、自分と同じように曖昧な存在を求めていた。違いますか?』
 何故。
 そう問われて、ボクは答えに詰まった。
 種族の違い。そんなもの、どうでもいいとさえ思う。反対に、ボクは普通の人よりも、植物としてのラウネシアに対して好意的でさえある。
 何故ボクは、昔から夢見た双方向的なコミュニケーションが可能な植物体に対して、距離を置こうとしているのだろう。
『私は、魅力的ではありませんか?』
 ラウネシアの手が、ゆっくりとボクに向かって伸びる。
 改めてラウネシアを見ると、その整った容貌が目を引いた。
 樹体から突き出るような上半身は、一糸纏わない木質化した綺麗な裸体を晒し、長い髪に隠れるように、若草色の透明な瞳が不安そうに揺れていた。
 彼女の手が、ボクの頬を撫でる。体温のない、冷たくて硬い手だった。
『何故ですか? カナメ自身も、わからないのですか?』
 困惑の感情が、ラウネシアから伝わる。
 人に対して感じてきた異物感。理解できないという感情。それとは裏腹に、ラウネシアの感情は手に取るように分かる。まるで、同族のように。
 そんな彼女に対して、ボクは何故、必要以上に警戒し、距離を置いているのだろう。
 根源的な問いに、ボクは答えられない。
『拒否は、しないのですか?』
 彼女の腕が、ボクの身体に絡みつく。
 獲物を捕らえる食虫植物のように、彼女はゆっくりとボクを取り込み始める。
 間近で、彼女の唇が湿っている事に気づく。
 そういえば、植物も性的興奮状態にあれば、粘液を出す事もあったな、とどうでもいい事を思い出す。
 そして、気がついた時、ボクはラウネシアに強引に引き寄せられ、彼女の硬い唇と接触していた。
 間近に、彼女の瞳があった。恐ろしく人間味のある、濡れた瞳がボクを捕らえるようにじっと開いていた。
『私は、貴方に好意を抱いています。激しい好意です。ずっと、何十年も、何百年も、ずっと、待っていた』
 互いの口が塞がっていても、感応能力が彼女の心を拾い上げる。
『貴方の生存を確約します。私は、貴方の全てを肯定しましょう。私は、人間が生きる環境を整える種族的な能力を保有しています。その全てを、貴方の為に使いましょう。その代わり、貴方はその命が尽きるまで、私を愛してください。そして、二人の種を残すのです』
 口の中に、彼女の舌が侵入する。ラウネシアに舌という機構が存在することに驚き、同時に納得する。彼女は人と生殖するために進化した種で、その模倣は完全らしい。
 背中に回された彼女の腕が痛いほどに強く絡みつき、瞬きすらせず間近でボクを見つめ続ける透明な双眸に、ボクは身動き出来ず、捕食行為にも似た彼女の愛情表現に為す術もなく蹂躙されるしかなかった。 

 

22話

 ラウネシアは迷い込んだ人から遺伝子を取り込み、子孫を残す種族だ。
 彼女は人の生存に必要な食料を創りだし、そして、人を模倣する能力に長けている。
 ラウネシアの樹体は植物そのものでも、樹体から生えるラウネシアそのものは人間と呼んでも差支えが無いほどに完成されている。
 そして、その愛情表現も、人間のそれそのものだった。
 彼女の唇は人のように柔らかいものではなかったけれど、人と同じように愛情を表現する彼女にボクは内心驚いていた。
 反射的にラウネシアを突き飛ばそうとするも、理性がそれを制止した。
 ラウネシアを拒絶することは、不利益に繋がるだろう。いや、そもそも拒絶する必要があるのだろうか。何故、ボクはラウネシアを拒絶しようとしているのだろう。
 何故、という自問に、由香の顔が頭に浮かんだ。

「カナメは、本当に花が好きなんだね」
 夕暮れの中、花壇の前で屈みこんでいたボクに、由香が声をかけてくる。
 中学の卒業式を間近に控えた冬。
 ぱらぱらと降る雪を払うように、ボクは立ち上がって彼女を見る。
「そうだ。知っているかい、カナメ。実は私にも花が咲いてるんだ。下半身の、ちょうど股の辺りなんだが」
「真面目な顔で下ネタ言うのやめない?」
 呆れて言うと、彼女は肩を竦めて、それから薄暗くなった空を見上げた。
「まあ、つまり、何が言いたいかというと」
 珍しく歯切れが悪く、由香は躊躇するように言った。
「その、私たち、付き合ってみないか」
 ボクは由香を見つめたまま、予想外の言葉に息を止めた。
 彼女は、夕暮れの空を無意味に見上げたままで、ボクの答えを待っていた。
「付き合う……」
 小さく反芻すると、彼女はバツが悪そうにボクを見て、それから視線を彷徨わせた。
「そう、つまり、別に、難しく感じる必要はない。あー、だから、男女の意味合いを将来的に含めるという意味で、今すぐに、という話でもなく、私はただ、いや、カナメ、君が、私に対して、少しでもそういう意味を持てるならば、私はそれだけで良いんだ」
 動揺した様子を見せる由香の姿があまりにも見慣れないもので、ボクは小さく笑った。
「……少しだけ、時間をくれないかな。ちゃんと考えてから、返事を出したいから。多分、良い返事を出せる。でも、その前に一度、自分の中でしっかりと整理したい」
 ボクの言葉に、由香は安堵の表情を見せる。
「……わかった。いつまでも待つ。どういう答えでも、受け止めるから」
 答えは、すぐに出すつもりでいた。由香を待たせるつもりはなかった。でも、結果的に、そうはならなかった。
 由香から告白を受けた直後、父が倒れたと連絡が入った。脳梗塞だった。発見が遅れて、父はそのまま帰らぬ人になってしまった。
 残されたボクは、父と離婚していた母に引き取られる事になった。母は既に県外に住居を移していて、ボクは予定していた高校とは別の学校に通う事になった。
 唯一尊敬していた父の死はボクに多大な絶望を与え、卒業式を含めたそれらの予定を全て欠席した。暫くは、植物以外の何かとは対話をしたくなかった。由香との関係は、そこで切れた。正式な答えを返す機会は、失われた。
 彼女と再開したのは、新しい高校に入ってから数ヶ月経過した時だった。母を介して電話があり、久しぶりに会わないか、と言われた。彼女の家族を含め、一緒にキャンプに行こうという話になり、ボクたちはそこで再会した。
 束の間の再会だった。ボクたちは二人でキャンプ場を抜け出して、彼女と川沿いを歩いていたはずだったのに、気がつけばこんな森に迷い込んでいた。
 結局、しっかりとした返事を出す事はできなかった。

 それでも、帰還願望はない。
 人間で溢れている人間社会。そこにボクがいたこと自体が間違いだったのだと、今は思う。
 ただ、由香に返事を出す機会が失われてしまったのが、唯一の心残りだった。
 由香への返事が出せなかった事が、罪悪感のようにボクの心の中に堆積し、ラウネシアを無意識に拒否していたのだろうか。
 ラウネシアの強い抱擁を受けながら、ぼんやりと、ボクは彼女との関係について考えを巡らせていた。
『カナメ。貴方は、私を拒絶しますか?』
 ラウネシアの思考が、ボクの思考を押し流す。
 拒絶。
 何故。
 もう、由香はいない。
 ラウネシアは、今まで出会った中で唯一、感応能力を双方向的に利用できる植物体だ。ボクが心のどこかで望み続けていた存在そのもの。
 この森におけるボクの生存に於いて、彼女の存在は必要不可欠なものだ。そして、ボクは彼女の闘争において、それを有利に進めうる知識を保有していた。
 実体のない、漠然とした拒絶を続けるのはもう、止める時期なのだろう。
 ボクは目の前のラウネシアを、そっと抱き返した。
 途端に、ラウネシアの歓喜の感情が周囲に広がった。
『ああ……私を、受け入れてくれるのですね』
 森が、ざわめいた気がした。
 ラウネシアを中心に、森全体に歓喜の色が広がっていく。
 森そのものが一つの生命体のように、一つの感情に支配されていく。
 感応能力がそれら全てを捉え、どこまでも広がる彼女の感情がボクの心を侵略するのではないか、と危惧する程の感情の波。
 その変化に、ボクは恐怖にも似た何かを覚え、身体を小さく震わせた。
 あまりにも巨大な、感情の渦。
 感応能力によって、これだけ巨大な感情を拾い上げるのは初めてだった。
 森全体が、揺れていた。
 感応能力の許容能力を超えたように、ボクと彼女の境界が崩れていく気がした。
 ボクの感情と、彼女の感情の境が、なくなっていく。
 感情は行動原理を決定づける原始的な種で、その喪失は自己の喪失を意味する。
 曖昧になる自己認識の中、漠然とした危機感がボクを突き動かした。
「ラウネシア!」
 叫ぶ。
 途端に、ラウネシアの感情に変化が訪れ、森中に広がっていた一つの巨大な感情が霧散した。
 全身の力が抜け、ボクはラウネシアにもたれかかるように倒れこんだ。
『カナメ?』
 ラウネシアが動揺するのが、感応能力でわかった。
 自然と、息が荒くなる。気がつけば、全身が汗がぐっしょりと濡れていた。
 感応能力でこれだけの感情を拾い上げるのは、初めてだった。
「……あまりにも強い感情を向けられると、感応能力の許容を超えるようです」
『ごめんなさい。カナメ。あまりにも嬉しくて、私は……』
 ラウネシアの動揺が大きくなる。先ほどの歓喜の感情ほどではないにしろ、全身を呑み込むような感情だった。
 感情の振れ幅が、異常に大きい。
『ああ、カナメ……』
 ラウネシアが、再び身体をすり寄せてくる。
 それに伴い、甘い香りがした。
 甘ったるい香りと、ラウネシアの腕がボクに絡みつく。
 食虫植物に捕食された、ハエの姿が脳裡をよぎった。
 今のボクはきっと、それと大差がないに違いがないと思った。 

 

活動拠点の移行について

とりあえずの避難所として暁に投稿いたしましたが、オリジナル小説の投稿が少ないことなどから、活動拠点をハーメルンに移しました。
現在、暁に投稿していたものの修正版+最新話をハーメルンに公開しております。
今後、暁に投稿することはございません。