銀河英雄伝説~美しい夢~


 

第一話 養子

■帝国暦486年7月10日   帝都オーディン ブラウンシュバイク公爵邸 オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク

 今日もよい天気だ。ここ数日、オーディンは好天に恵まれている。この天気は後三、四日は続くらしい。その後は台風が来ると予報では言っていたな。台風が来ると花は散ってしまう、惜しいことだ。サンルームに置かれたアームチェアに座りながらそんな事を考えた。

 ブラウンシュバイク公爵家にもやがて嵐が来るだろう。皇帝陛下崩御という嵐だ。そして花が散るようにブラウンシュバイク公爵家も散るに違いない。我らは迫り来る嵐を凌ぐ事はできぬだろう……。

陛下に万一のことが有れば、リヒテンラーデ侯はミュッケンベルガー元帥と組む可能性が高い。そうなればブラウンシュバイク一門はリッテンハイム一門と組んで戦う事になるだろう。貴族連合か……、兵力だけなら正規軍を上回るかもしれぬ。しかし、役には立たぬ。

クロプシュトック侯討伐で判った。あれは烏合の衆だ、正規軍には絶対勝てぬ。何より貴族どもが、戦争というものを知らぬ。兵はあっても兵の使い方を知らぬのだ。ミュッケンベルガー元帥もわかっているだろう、貴族連合など恐れるに足らぬと。

陛下崩御の折、リヒテンラーデ侯に服従する手もある。しかしいまさら降りる事を周囲が許すはずが無い。最悪の場合、わしを殺しエリザベートを盟主にするだろう。そして戦に負ければ、命惜しさに誰かがエリザベートを売るに違いない。惨めな最後だ……。それを思えば服従は出来ぬ、エリザベートを守るために服従は出来ぬ。わしが盾になるしかない。
思えばクロプシュトック侯は大したものだった。最後まで侯を裏切るものはいなかった。もっと早くあの男と胸襟を開いて話し合うべきだったのか。良い相談相手になってくれたかも知れぬ……。

「お父様」
「おお、エリザベートか」
娘が、わしの対面に座っていた、いつの間に来たのだろう。
「変なお父様。何度もお呼びしましたのに」
「はっはっは、そうか。いや少し考え事をしていたのでな、気付かなかった」
やれやれ、娘の呼びかけにも気付かなかったとは、困ったものだ。

「エリザベート、何歳になった?」
「十五ですわ、覚えていらっしゃいませんの?」
「う、いや、そんな事は無い、覚えているとも。そうか十五か」
美しくなった。柔らかな亜麻色の髪に、蒼い瞳。首筋の細さが目立つ。あと四、五年、いや二、三年もすれば艶やかな美しさを身にまとうだろう。早すぎる、死ぬのにはまだ早すぎるだろう。人を好きになったことさえ有るかどうか。まだまだこれからだ。

「エリザベート、お前は皇帝になりたいか?」
「……正直に答えてもよろしくて?」
「もちろんだとも、お前が正直な娘だという事をわしは知っておる」
「あまり、興味ありませんわ」
「……そうか、いや、そうだろうな」

「ごめんなさい、お父様」
「謝る事はない、エリザベート」
この娘には皇帝など無理だ。正直で嘘をつくことが出来ぬ、人を疑う事も出来ぬ娘だ。何故わしは皇帝など望んだのだ。しかも今になって無理だと気付くとは……。愚かな。

「お父様、ヴァレンシュタイン中将とはどのような方ですの?」
「なんだ、興味が有るのか」
そういう年頃になったか。
「フレーゲル男爵が死なずに済んだのは中将のおかげだと聞きましたから」
違ったか……。

「まあ、確かにそうだが、そのことは口外してはいかんぞ」
「はい」
「あの男は、敵に回せば恐ろしく、味方にすれば頼もしい男だ。それに他人の心の痛みがわかり、その痛みを無視できぬ男だ」

あの男が息子であればな。だれもあの男を皇帝として迎えるのに反対はすまい。たとえ皇帝にならずとも、次のブラウンシュバイク公として安心して全てを任せる事が出来ただろう。わしより良い当主となったに違いない。エリザベートの事も任せておけたはずだ……。いかんな、なにを馬鹿なことを考えている。あれは敵ではないか、それを息子だなどと……。息子か……、息子……、しかし……。

「お父様?」
「……」
「どうなさいましたの?」
死なせる事は出来ぬ。父親としてこの娘を守ってやらねばならぬ。娘一人守れぬようでなにが公爵か。
「エリザベート、ちょっと用事ができた」
「?」
わしは席を立つと足早に奥に向かった。
「アンスバッハ、アンスバッハはおらんか、シュトライト、フェルナーはどこにいる」


■帝国暦486年7月11日   新無憂宮 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン

なんだか知らんが、新無憂宮に来いと国務尚書から呼び出しがかかった。俺はあんたの部下じゃないんだけどな。文句をいっても始まらない、ヴァレリーと一緒に新無憂宮に向かうことにした。しかしなにが有った? まさかフリードリヒ四世がまたぶっ倒れたか。

ヴァレリーは蒼くなっているが、幸いミュッケンベルガー元帥がいるからあまり心配はいらないだろう。しかし、この時期の内乱は余り有り難くない。同盟に立ち直る機会を与えるようなものだ。厄介な事にならなければいいんだが。

宮内省の役人に案内されたのは東苑にある一室だった。東苑は先日の爆破事件から警備が厳しくなっている。部屋の前で警備兵が立っているが、はて、なにがある?
「遅くなりました。ヴァレンシュタインです」

中に入ると驚いたことに国務尚書のほか、帝国軍三長官、ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯がいる。何だこれは? 帝国屈指の実力者が集まってなにをする気だ? 大体なんで俺を呼んだ。妙な事はみんな表情が明るい事だ。少なくとも皇帝崩御は無い、となると何だろう?

「ヴァレンシュタイン中将、座るが良い」
「はっ」
国務尚書が席を勧めてくる。おかしいな、こいつらの笑顔は愛想笑いじゃない、なんか面白がっているような感じだ。何かやったか俺?

「ヴァレンシュタイン中将、今日は卿によい話があるのだ」
「良い話ですか」
司会進行役は国務尚書か。しかし良い話? この面子で良い話しと言われても怪しいもんだ。
「ブラウンシュバイク公がな、卿を養子に迎えたいといっておる」
「……は?」
何を言った、今? 俺は思わず周囲を見回した。皆面白そうに笑っている。

「ヴァレンシュタイン中将、卿にわしの息子になって欲しいのだ」
「……」
ブラウンシュバイク公が何か言っているな。息子? なんだそれ、さっぱりわからんぞ。わかるように説明しろ!

「申し訳ありません、小官にはよくわからないのですが、何かの冗談なのでしょうか?」
途端に皆爆笑した。なるほどやはり冗談か。安心した、俺も一緒に笑うとするか。
「冗談ではない。本当の話だ」
国務尚書、笑いながら言っても信憑性ゼロです。ふざけるな!

「ヴァレンシュタイン中将、わたしから説明しよう」
ミュッケンベルガー元帥が口を開いた。
「ブラウンシュバイク公が卿を養子に欲しいといっているのだ」
「……」
俺が門閥貴族の養子? 何考えている? 馬鹿たれが。

「もちろんフロイライン・ブラウンシュバイクと結婚する事になるが、フロイラインはまだ十五なのでな、結婚は二、三年後となろう。その間、卿はフロイラインの婚約者ではなく公爵閣下の養子としてブラウンシュバイク公家の人間となる」
「……」
「ブラウンシュバイク公は卿を養子に迎えた後、隠居する。卿は跡を継ぎ、新たなブラウンシュバイク公になる」
いい加減にしろ!俺は養子になどならん。大体隠居ってどういう事だ。何を考えている?

「どういうことなのです。何故小官を養子に」
俺はブラウンシュバイク公を見詰めて問いかけた。答える義務があるはずだ、ブラウンシュバイク公。
「内乱を防ぐためだ、中将」
「内乱を防ぐ……」
内乱を防ぐ? お前らを潰すなら内乱大いに結構だ。つまらん養子話など持ち出すな。

「このままでは、いずれ内乱になる。リヒテンラーデ・ミュッケンベルガー連合対ブラウンシュバイク・リッテンハイムの貴族連合だ、卿にもわかろう」
「はい」
お前らが負ける、間違いなくな。俺が叩き潰してやる。

「そうなれば、貴族連合は負ける事は間違いない。クロプシュトック侯討伐の有様を見れば明らかだ。だから、ブラウンシュバイク公爵家は皇位継承争いから降りる事とした。それには皆にわかる形で示す事が必要だ」
根性が無いのか、それとも賢いのか、こいつらは本当にわからん。

「それで小官を養子に?」
「そうだ、卿はミュッケンベルガー元帥の腹心だ。その卿を養子にするのだ。公爵家はリヒテンラーデ・ミュッケンベルガー連合に与するという事になる」
「では次の皇帝はどなたに」
「エルウィン・ヨーゼフ殿下だ。サビーネ・フォン・リッテンハイムが皇后になる」
「!」

リヒテンラーデ・ミュッケンベルガー・リッテンハイム・ブラウンシュバイクの四者連合か……。しかしよくわからんな、ブラウンシュバイク公になんのメリットが有る? 一人割りを食っていないか?
「新公爵となった卿は家門の格から上級大将に昇進する」
「!」
「新公爵の最初の任務は反乱軍の討伐という事になる。それに勝てば元帥に昇進し、宇宙艦隊副司令長官に就任する」
「!」
軍の重鎮、名より実を取ると言うことか。

「ヴァレンシュタイン中将」
リヒテンラーデ侯が俺に話しかけた。今度は笑っていない。
「この件は断る事は許されぬ」
「しかし、それは」

「内乱が起きれば何百万という人間の命が失われるじゃろう。卿はそれで良いのか? 卿が貴族に対して穏やかならぬ気持ちを持っていることは重々承知じゃ。だからといって己の感情で何百万という人間を見殺しに出来るのか? ブラウンシュバイク公とて隠居して全てを卿に委ねると言っておるのじゃ。よく考えよ」
「……」

「ずるい言い方をしていることは百も承知じゃ。だがこれで帝国は安全になるのじゃ。逃げる事は許されぬ。すでに勅許も得ておる」
「勅許……」
汚いぞ、おまえら本当に汚い。

「陛下の御血筋の方の婚姻なのだ、当然であろう」
「し、しかし、小官は平民出身です。身分が釣り合いますまい」
とりあえずこれで逃げることだ。勅許まで得ている、撤回は難しいかもしれんが先ずは此処を凌ぐ、対策は後で考えよう。
「問題は無い。卿は平民かもしれんが、リメス男爵の血を引いているそうではないか」
「!」

「陛下が御教え下された。グリンメルスハウゼン子爵から聞いたそうだ。喜んでお許し下されたぞ」
余計な事言いやがってあの爺、俺に恨みでも有るのか。汚いぞ、おまえら本当に汚い。よってたかって弱いものいじめしやがって。だから俺は貴族が嫌いなんだ。

 

 

 

第二話 託す者、託される者

■帝国暦486年7月11日   新無憂宮 ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ


部屋から人が出てきた。驚いたことに国務尚書リヒテンラーデ侯、軍務尚書エーレンベルク元帥、統帥本部長シュタインホフ元帥、宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥、ブラウンシュバイク公それにリッテンハイム侯がいる。

何よこれ? 帝国屈指の実力者が集まってなにしてたんだろ? 皇帝陛下に何か有ったのかと思ってゾッとしたけど、皆表情が明るい。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯もご機嫌よ、“いやー、良かった、良かった”とか“目出度い”とか言ってる。なんなのこれ? いや、それよりうちの中将閣下は、なんで部屋から出てこないんだろ?

おそるおそる部屋に入ると中将は椅子に座っていた。何やってんのよ、脅かさないでよ、と言おうとしたけど、表情が変。眉間にしわが寄ってジッと一点を睨んでいる。普段の穏やかさなんて何処にも無い。声をかけられなくて立ち竦んでいると、私に気付いたのだろう、視線を向けてきた。怖い、いつもの穏やかでやさしい視線じゃない。鋭い突き刺すような視線だ、こんな目もできるんだ。

「皇帝陛下に拝謁します」
無機質な冷たい声だった。
「はい」
「少佐は先に戻ってもらえますか」
質問を許さない声だ。
「はい」
「ブラウンシュバイク公に仕えるフェルナー中佐、いやフェルナー大佐、それとミュラー少将を呼んでもらえますか」
「はい」

それだけ言うと中将は立ち上がり、私のことなど一顧だにせず部屋を出て行った。部屋から出て行くのを見た直後、私は崩れ落ちるように手近にあった椅子に座り込んだ。何があったのだろう、あれは中将じゃない、もっと別な何かだ。震える体を両手で押さえつつ、私は泣き出しそうになるのを必死でこらえた。


■帝国暦486年7月11日   新無憂宮 バラ園 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


今日も皇帝は剪定ばさみを手にバラを見ている。俺は皇帝に近づきひざまずいた。
「来たか」
「はっ」
「予に訊きたい事が有るのではないか?」
「……何故、養子縁組をお許しになったのです?」
「ふむ、皆賛成だというのでな、予が反対するわけにもいかぬ」
「……」
ふざけるな、この野郎。

「フッフッフッ、そう怒るな」
皇帝は俺のほうを見ずに言った。もてあそばれているようで面白くない。
「……」
「帝国は滅びつつある」
「!」
俺は思わず皇帝の顔を見た。穏やかな表情だ、諦観? パチンと皇帝がバラの枝を切った。枝が地面に落ちる。

「グリンメルスハウゼンから予が放蕩した訳を聞いたか?」
「……」
「帝位継承争いを嫌ったというのもあるが、本心は違う、予には帝国が滅びるのをとめることが出来ぬと思うたからだ」
「……」
帝国が滅びる……。

「父、オトフリート五世の治世下、帝国はすでに崩壊への道を歩み始めておった。貴族たちが強大化し、政治は私物化されつつあった。帝国は緩やかに腐り始めておったのだ」
皇帝は穏やかな表情で話し続ける。相変わらず視線はバラに向けたままだ。俺が居る事に本当に気付いているのだろうか。それにしても表情と話しの内容になんと落差のあることか。
「……」

「予にはそれが判った。いずれ帝国は分裂し内乱状態になり、銀河帝国は存在しなくなると」
「なぜそれを止めないのです?」
皇帝はバラから視線をはずし、あらぬ方向を見た。相変わらず俺は無視だ。
「判るのと止めるのは別であろう。予には止めるだけの力は無い……」
「……だから帝位がまわらぬように放蕩をしたと」
「うむ」
「……」
皇帝の横顔には無力感が漂っている。この男の悲劇だ、誰よりも未来が見えたのにそれを変える力がなかった。皇帝という座につきながら出来なかったのだ。苦痛だったろう。

「しかし、皮肉な事に帝位は予に回ってきた。それからは滅びるのを先へ伸ばすのが予の仕事になった。何の楽しみも無い、滅亡を見据えながら生きる一生……、苦痛であった。素面ではできぬ事だ」
「……」
皇帝の声に苦い響きがある。日々酒を飲んだのはそのせいか……。皇帝が俺に顔を向けた。疲れきった老人の顔が有る。

「見るがよい、今の帝国を。門閥貴族は肥大化し、互いに勢力を張り合い始めた。国務尚書は何とか食い止めようとしているが果たしてどうなるかの」
たしかにその通りだ、原作では暴発した。
「内乱になってもミュッケンベルガー元帥がおられます。帝国は安泰でしょう」
気休めでしかない、それでも俺は言わざるを得ない。

「そうはなるまいな、内乱が終わればエリザベートもサビーネもこの世には居るまい。さすれば、皇族と言えるのはエルウィン・ヨーゼフ一人だけじゃ。そしてあれの資質は聡明とは言いがたい。いずれ混乱の中で帝国は自滅するだろう。そちはそれでも帝国は安泰だと言うかの」
「……」

皇帝の答えは明快で声は自嘲を含んでいた。そこまで読んでいたか……。
皇帝程、帝国の未来を見詰め続けた男はいないのではないだろうか。その結果は常に悲惨な未来しか見えなかっただろう。皇帝の放蕩を俺には責める事は出来ない……。実際、酒を飲むのも女を抱くのも楽しみからでは有るまい。絶望から逃げるためだろう。

「そんな時、あの者にあった、ラインハルト・フォン・ミューゼル。誰もが予に媚び、少しでも私腹を肥やそうとする中、あれはまっすぐに予に、そして貴族達に憎悪を向けてきた、心地よかったぞ。あの憎悪と覇気、才能。あれならばこの帝国を再生、いや新たに創生させるかも知れぬ、そう思ったのだ」
「……」
皇帝の声に喜びがある。ゴールデンバウム王朝の滅亡を悲しむより新たな帝国の誕生を望んだか……。皇帝はまたバラを見ている。楽しそうにバラを見ているが本当に見ているのはバラなのか? 美しく、そして棘の有るバラ。まるで誰かのようではないか。

「あれはゴールデンバウム王朝を滅ぼすであろう、しかし銀河帝国はあれの元で新しく生まれ変わるに違いない……。それからはあれが予に近づいてくるのが楽しみであった。ゴールデンバウム王朝が滅びるのは寂しいがそれも宿命ならばやむを得まい、せいぜい華麗に滅びればよい、そう思っておったのじゃ」
「……」
華麗に滅びるか……。たしかにゴールデンバウム王朝からローエングラム王朝への交替は華麗といって良いだろう。しかし流れた血の量も少なくなかった。そしてローエングラム王朝は成立した直後から地球教、自由惑星同盟、ヤン・ウェンリー、ロイエンタールとの流血に彩られる事になる……。

「そんな時よ、そちが現れたのは。誰もが無視できぬ力を持ち始めたそちを誰が味方にするのか、それによって帝国の未来が決まるだろうと思った。まあ、ミューゼルの元へ行くのだろうと思っておったがな。まさかブラウンシュバイク公がそちを養子に迎えたいと申すとは思わなんだ」
「……」

「驚いたが妙案だとも思った。言われてはじめて気付いたわ、帝国をゴールデンバウム王朝の元に再生させることができる唯一の策だと。新しい未来よな。久しぶりに興奮したわ。あの男がこんな策を考えるとは、伊達にブラウンシュバイク公として宮中で生きてきたわけではないと思うとおかしかったの。フッフッフッ、平坦な道ではない、混乱もあろう。しかし内乱よりは流れる血の量も少ないに違いない」
「……」
勝手な事を言うな。俺はコンラート・ヴァレンシュタインの息子だ。貴族になどなるつもりは無い。

「そちに帝国を預ける」
「!」
気が付くと皇帝は俺を見ていた。静かな落ち着いた眼だ。
「いい加減な気持ちで言うのではないぞ。予の寿命は持ってあと三年であろうな。遺言と思うて聞いてくれ」

「帝国を再生できるのはミューゼルかそちであろう。ミューゼルとそちは正反対よな。ミューゼルが火なら、そちは水よ。あれは全てを焼き尽くして新たな帝国を作るに違いない。犠牲は多かろう……。そちは違う、不要なものだけ洗い流して帝国を作り直すに違いない。時間はかかろうが犠牲は少なかろう。予はそちを選ぶ、皆がそちを選んだようにな」
「皆ですか?」
「そうだ。国務尚書、帝国軍三長官、ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、今はわからなくともいずれ気付く」
「……」

「エルウィン・ヨーゼフは決して聡明とは言いがたい。多くの者があれを皇帝にしたことを後悔するだろう。そうなれば、人々の人望はそちに集まる。そちとエリザベートが帝国を動かしてゆく事になるのだ。帝国を頼む。予はこの国の民を幸せにする事が出来なんだ。だがそちなら出来るかもしれぬ。頼むぞ」

皇帝はそれだけ告げると、俺に背を向けバラ園を去っていった。俺は託されたものの重さに呆然としつつ、去り行く皇帝の姿を見つめ続けた。

 

 

第三話 アントン・フェルナー

■帝国暦486年7月11日   帝都オーディン アントン・フェルナー


「判りました。それでは兵站統括部第三局へお伺いします」
やっぱり呼び出されたか……。怒ってるんだろうな、エーリッヒ。
「どうした、フェルナー大佐」
「アンスバッハ准将、エーリッヒに呼び出されましたよ」

「ほう、そうか。御祝いを述べるんだな、未来の公爵閣下に」
笑いながらうれしそうにアンスバッハ准将が言う。
「冗談は止めてください。殺されますよ、そんなことしたら」
アンスバッハ准将も酷い、判っていて言うんだからな。
「誰が殺されるのかな、フェルナー大佐」

「もちろん小官ですよ、シュトライト准将」
「卿が殺されてヴァレンシュタイン中将が納得するならそれも良いな、違うかな? アンスバッハ准将」
こっちはにこりともせずに怖い事を言う。

「確かにそうですが、出来れば生きて戻って欲しいものです。小官たちにとっても大切な玩具ですからな」
「なに、玩具ならもうすぐ新しいのが届くさ、そうだろう」

酷いもんだ。二人とも半分くらいは本気で言っているから始末が悪い。心の捻じ曲がった大人になっちゃいけないって事だな。
「言っておきますが、エーリッヒは怒らせると怖いですよ。玩具だなんてとんでもない」

「冗談だよ、大佐。それより中将にきちんと説明して納得してもらってくれ。不満を持ったまま来られてはエリザベート様がお気の毒だ」
「判っています。出来る限りのことはします。でも保障は出来ませんよ」

ブラウンシュバイク公邸から兵站統括部へは地乗車で約三十分ほどかかる。受付で来訪を告げると、すぐ女性が迎えに来た。なかなかの美人だ。エーリッヒの副官のフィッツシモンズ少佐だった。少佐は挨拶をすると兵站統括部第三局の応接室へ通してくれた。

「アントン、どうして此処に」
「!」
先客がいた。中にいたのはナイトハルトとギュンターだった。
「卿らこそ、どうして此処に」
「俺は呼び出されたんだ、ギュンターは何か用事が有るらしい」
ナイトハルトは未だ知らないな。ギュンターは知っているようだ。俺の方を妙な目で見ている。

「ギュンター、何故此処に?」
とぼけて訊いてみるか。
「憲兵総監から命を受けた。それで此処に来たんだ。卿だな、この一件を仕掛けたのは?」
憲兵総監? 軍務尚書が手を回したか。
「……なんの事かな、よくわからんが」
「とぼけるな。エーリッヒは怒ってるぞ、言っておくが俺は助けんからな」
「……」
「なんの話だ?」
ナイトハルト、卿も知ったら俺を責めるだろうな……。

ドアが開いてエーリッヒが入ってきた。表情が硬い。まずいな、明らかに怒っている。いや怒っているのは予想できたんだが、やはりまずい。俺たちを見てギュンターがいるのに驚いたようだ。ギュンターに話しかける。
「どうしてここに」

「憲兵総監から命を受けた。訳はアントンが知っているようだな」
「憲兵総監……そうか、そうだね、きっちりと聞かせてもらおう。ここじゃなんだから、場所を変えようか」
エーリッヒは引き攣ったような笑みを浮かべて俺を見る。
「それがいいだろうな」
ギュンターはにこりともしない。お前ら、そんなに俺にプレッシャーかけて楽しいか?

俺たちが案内されたのは兵站統括部の地下2階にある資料室だった。通称「物置部屋」と言うらしい。ナイトハルトは一度きたことが有るようだ。“懐かしい”と言っている。お前はいいよな、暢気で。俺は処刑場に引かれていく死刑囚の気分だ。フィッツシモンズ少佐も入るように言われてちょっと戸惑いながら入ってくる。怯えているのか?


■帝国暦486年7月11日   兵站統括部地下2階 資料室 ナイトハルト・ミュラー

どうも変だ。ギュンターもエーリッヒもにこりともしない、明らかに怒っている。フィッツシモンズ少佐はなにやら怖がっている感じだ。アントンは平静を装っているがこいつも緊張している。何があった?

「さて、アントンどうしてこうなったか、聞かせてもらおうか」
エーリッヒはいつもとは違う引き攣ったような笑みを浮かべている。アントン、一体何をやった?
「いや、まあ、その、怒ってるか、やっぱり」
「当たり前だ! この私が、ブラウンシュバイク公の養子とはどういうことだ」
「養子! ブラウンシュバイク公の」
思わず俺は声を上げ、フィッツシモンズ少佐と顔を見合わせた。彼女も驚きで混乱している。

「ちょっと待て、ブラウンシュバイク公の養子って何の話だ?」
何だそれ? おかしくないか?
「その通りの話さ。ブラウンシュバイク公が私を養子に欲しいそうだ」
エーリッヒはとげのある口調で答える。視線はアントンに向けたままだ。
「フロイライン・ブラウンシュバイクとはどうなるんだ?」
まさか結婚するのか、相手は皇帝の孫だぞ。
「結婚するらしいよ、私と」
「つまり婿養子か?」
「違う、養子が先で、結婚はあとだ」
よくわからんな。何処が違うんだ?

「しかし、そんな事出来るのか? 大体ブラウンシュバイク公はフロイラインを皇帝にしたかったんじゃないのか」
「諦めたんだろうね」
「諦めた?」
「ああ、そこにいるアントンが説得したんだろう、違うかな」
エーリッヒは好意の一欠けらも無い視線でアントンを見る。つられて俺もアントンを見た。

「ああ、少し違うな。最初にフロイラインの夫に卿をと言い出したのはブラウンシュバイク公だ」
こいつの悪いところは、どんな状況でも平然としている事だ。可愛げがまるで無い。
「だからって」
「落ち着け、最後まで話を聞け」
抗議しようとした俺をアントンは落ち着いた声で制し話しなじめた。

「先日のクロプシュトック侯反乱鎮圧からブラウンシュバイク公を始め、俺たちは危機感を持っていた」
「危機感?」
「絶望感といってもいいかな。このままでは内乱になったとき間違いなく負ける、そう判ったからだ。貴族連合なんて、何の役にもたたない。いやというほど思い知らされたよ」
アントンの声には苦味がある。余程のことがあったんだろう。
「……」

「どうしたらいいか毎日考えたよ。だが良い案がなかった。単純に皇位継承争いから降りるといっても周りが許さない。それなりの実利がないとな。家の存続がかかっているんだ、皆必死さ。まるで迷路の中を歩いているような気分だった。うんざりしたよ」
苦味は益々強まった。嘘はついていない、だがそれと養子話がどう結びつく?
「……」

「そんな時だ、ブラウンシュバイク公がエーリッヒとフロイラインを結婚させると言い出したのは。呆れたよ、気でも狂ったかと思った」
いまでも呆れてるんじゃないか、こいつ。
「……」
「しかし、公の話を聞いているうちに行けると思った。それからは大変だった、公とアンスバッハ准将、シュトライト准将、そして俺、四人で一日中考えた。考えれば考えるほど、上手くいくと思えた。興奮したよ、馬鹿みたいに騒いだ。俺たちは助かるってね」

「何故だ?」
「エーリッヒを養子にする。そして公は隠居し、エーリッヒが新当主になる。当然軍の階級もそれなりのものが用意されるだろう。ま、上級大将かな。飾り物の上級大将じゃない、実力のある上級大将だ。ナイトハルト、卿は戦争に行っていてわからんだろうが皇帝陛下不予の折オーディンを支配したのはエーリッヒだった。階級が低いから皆認めたがらないが実力で言えば帝国軍三長官に次ぐ実力者なんだ。その実力に相応しい階級をブラウンシュバイク公爵家が用意する」

眼が据わっている。いつもの茶化すような眼じゃない。アントンは本気だ。俺は思わずフィッツシモンズ少佐を見た。少佐は睨むような眼でアントンを見ている。
「……」
「ブラウンシュバイク公爵家は宮中での力と新たに軍での力を得るんだ。十分元がとれるさ」
確かにそうかもしれない。しかし……。
「しかし、そんな事を国務尚書が認めるのか」
「認めるさ」
アントンは、あっさりと断定した。
「!」

「皆内乱なんてしたくないんだ。リッテンハイム侯も内乱になれば負けるのはわかっている。リヒテンラーデ侯も国内が乱れるのは避けたい、軍も反乱軍を相手にしている現状で御家騒動なんて御免だと思っている。特にミュッケンベルガー元帥は深刻だ。内乱が何時起きるか判らない状況ではおちおち外征できない。皆内乱は避けたいんだ。ただ、どうしようもなくて此処まで来てしまった。きっかけさえあれば防げるんだ……」
「……」
そのきっかけがエーリッヒが養子になることか……。

「次の皇帝はエルウィン・ヨーゼフ殿下になる。皇后はサビーネ・フォン・リッテンハイムだ。皇帝をリヒテンラーデ侯が皇后をリッテンハイム侯が後見する。それをブラウンシュバイク公爵家が支える。皆丸く収まるさ」
何でも無いことのようにいうが……

「可能なのか、エーリッヒは貴族じゃないぞ」
「勅許を得たよ、問題ない。むしろ箔がついたようなもんだ。どんな貴族よりもフロイラインの結婚相手にふさわしいと皇帝が認めたんだからな。それにエーリッヒはリメス男爵の血を引いている。誰も文句は言えないさ」
「リメス男爵?」
エーリッヒはあのリメス男爵の血を引いているのか……。
「皆大喜びさ、完璧だってね。俺も同じ思いだ」
卿が喜ぶのは勝手だがな、目の前で卿を睨んでいるエーリッヒをどうにかしたほうがいいぞ。それとフィッツシモンズ少佐もだ。言っておくが俺もギュンターと一緒で、卿を助ける気は無い、頑張るんだな……。

 

 

第四話 想い

■帝国暦486年7月11日   兵站統括部地下2階 資料室 ナイトハルト・ミュラー

「それで私を売ったというのか、ブラウンシュバイク公に」
怒りを押し殺した声だった。俺には彼の気持ちがわかる、いやアントンも判っているだろう……。
「……」
「私の気持ちはわかっているはずだ、アントン」

「ああ、判っている。卿が門閥貴族を憎んでいる事、叩き潰してやりたいと思っていることもね」
静かな声だった。アントンは落ち着いている。表情も穏やかだ。
「なら、なんでこんなことを」
「卿のためだ」
「?」
「卿のためだと言ったんだ」
開き直ったような口調だった。何を言っているんだ、アントン。

「なぜ、フレーゲルを殺さなかった?」
フレーゲル? 急死したフレーゲル男爵か。あれにエーリッヒは絡んでいるのか。
「……」
エーリッヒはアントンを睨みつけたまま口を閉ざしたままだ。アントンもエーリッヒから視線をはずさない。
「なぜ、フレーゲルを殺さなかったと聞いているんだ?」
「……ブラウンシュバイク公が暴発するのを防ぐためだ」

「違うな、卿は情にほだされたんだ」
「違う!」
「違わない! フレーゲルが死んでも公は暴発しない。フロイラインを危うくするような事をするはずが無い。卿は情にほだされたんだ!」
「違う!」
怒鳴りあいに近いような言い合いだった。食い付きそうな眼でにらみ合っている。

「苦しんでいる公を見て、耐えられなくなった。違うか」
「……」
エーリッヒは蒼白になっている。それでもアントンを睨みつけた、痛々しいほどだ。
「気を失ったフレーゲルを運ぶとき、なぜ俺たちが卿に目礼したと思う。卿の気持ちが判ったからさ。感謝しているんだ」
「……」
エーリッヒが視線をはずした。アントンもう止めろ。卿の勝ちだ。

「内乱になれば大勢の犠牲者が出る。それでいいのか」
アントン、止せ。
「貴族どもが滅びるなら大歓迎だ」
エーリッヒも止めるんだ。

「貴族だけで戦うわけじゃないぞ、大勢の人間に犠牲が出るんだ、何百万、いや一千万近い人間にだ。それでいいのか、エーリッヒ」
「……」
エーリッヒは小刻みに震えている。怒りか、それとも苦しみか。耐えられなくなった。
「もう止せ、アントン、その辺にしておけ」

「駄目だ、ナイトハルト。これは大事なことなんだ。エーリッヒ、卿には無理だ、耐えられんだろう、ちがうか?」
「……出来るさ。ミューゼル大将がいる。彼は天才だ、彼は貴族たちを滅ぼし、皇帝を廃して自らが皇帝になるつもりだ。私は彼と共に闘う。そして貴族たちを叩き潰す!」

搾り出すような声だった。それにしてもミューゼル大将が? 確かに覇気の有る方だが……。
「……内乱を起してか?」
「そうだ」
もう止せエーリッヒ、どんな気持ちでその言葉を出した。

「内乱を起さなくても貴族たちを叩き潰せる、そう言ったらどうだ?」
内乱を起さない? 冗談かと思ったがアントンの表情はいたって真面目だ。どういうことだ?
「何を言っている?」
エーリッヒも意表を突かれたようだ、呆れたような顔をしている。
「ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯もリヒテンラーデ侯も卿の邪魔はしない、そういうことだ」
「?」

「俺が卿の気持ちを考えないとでも思ったか? ブラウンシュバイク公に卿の気持ちを伝えたさ。卿が貴族たちを憎んでいる、滅ぼしたがっているとね」
「……」
「一向に構わないと言ったよ。利己主義で愚かで役に立たない貴族など必要ないそうだ」
必要ない? 貴族が貴族を否定するのか?

「どういうことだ」
「ブラウンシュバイク公爵家は彼らのせいでもう少しで滅びかけたんだぞ、貴族たちに好意など欠片も有るものか。公はクロプシュトック侯の事を褒めていたよ」
「?」
クロプシュトック侯を褒める? 反逆者をか?

「領民たちが誰もクロプシュトック侯を裏切らなかったと。クロプシュトック侯は三十年間宮中への出入りを差し止められた。その間領内の統治しかすることは無かったんだろう。善政を敷いたようだ」
「……」
なるほど、そういうことか。

「役に立たない貴族より、平民のほうが信頼できる、そう言っていたよ」
「ブラウンシュバイク公だけだ、他は違う」
エーリッヒは何処か投げやりな口調で言った。
「リッテンハイム侯もリヒテンラーデ侯も同じだ。昨日話したんだ」
「昨日?」

「ああ、俺たちの間で話がまとまった後、すぐにリッテンハイム侯とリヒテンラーデ侯に相談したのさ、そのとき貴族たちを潰すという話も出た。二人とも異存は無かった」
「まさか」
エーリッヒが呆れたような声を出した。

「本当だ。理由は同じさ、貴族連合なんて何の役にもたたない。リッテンハイム侯はもう少しでオッペンハイマーに乗せられて反逆者になるところだった。彼の眼には貴族なんて役に立たない裏切り者にしか見えていないさ」
「……」

「リヒテンラーデ侯はもっと過激だった。あの老人にとって内乱は悪夢なんだ」
「違う、帝国の覇権を握る機会だ」
エーリッヒが皮肉そうな口調で言った。
「そうじゃない、そんな事は望んでいない。内乱になれば帝国は疲弊し混乱する。その復旧にどれだけの時間がかかると思う。あの老人はもう七十を越えているんだぞ。彼に内乱の後始末をする時間が有ると思うか? 片付ける前に過労死するさ」
「……」

「貴族とは皇室を守り帝国を守る藩屏であった。しかし昨今、貴族はその本分を忘れ私利私欲に走っている。その結果、帝国を危うくし皇統を危うくした。存続する価値が無い」
「……」
「平民が、クロプシュトック侯を守ったように皇帝を守るのであれば、今後皇帝の、帝国の藩屏たる役割を担うのは平民であろう、リヒテンラーデ侯の言った言葉だ」
「……ありえない」
呆然としている。俺も同感だ、リヒテンラーデ侯は貴族を否定している。侯でなければ反逆罪に問われてもおかしくない言葉だ。

「そうだな、ありえないことだ。でも滅びかけて、皆わかったのさ。今のままじゃいつか滅ぶと、今回のは一時凌ぎでしかないと」
「……」
「滅びたくなければ、変わるしかないんだ。それを卿に任せようといっている」
「……」

「卿の好きにやれば良い、皆協力する。内乱を起す必要は無いんだ」
アントンがやさしげな口調で話しかけた。エーリッヒの肩に手をかける。
「酷い奴だ、私を身動きできないようにして。だから私は卿が嫌いなんだ」
エーリッヒがそっぽを向いたまま、すねるような口調でアントンを非難した。

「判っている。嫌ってくれてもいい。でも、俺は卿と戦いたくない……」
アントンは苦笑しながら、非難を受け入れた。こいつらはいつもそうだ、喧嘩しても最後は誰よりも理解しあっている。
「……皆、私の命を狙ってくるぞ。不平貴族、自由惑星同盟、フェザーン、そしてミューゼル大将……私を殺す気か、アントン」

「死なせはしない。俺が盾になる、その覚悟は出来てる」
「アントン、それは俺の役目だ。憲兵総監から命令を受けた。卿はエーリッヒを引っ担いで逃げろ」
「エーリッヒがそんな事を望むと思うか、ギュンター」
「……」

「卿には俺の盾になってもらう」
「……わかった」
「有能な艦隊司令官が要るな、どうやら俺も役に立てそうだ」
「小官を帝国に亡命させたのは閣下です。何処までもついていきます」
「……馬鹿だ、卿らは皆馬鹿だ、私は馬鹿は嫌いだ、卿らが大嫌いだ」

泣き始めたエーリッヒを囲んで俺たちは皆笑い出した。幼ささえ感じさせるエーリッヒがどうにもいとおしかった。俺たちが歩むのは地獄だろう。でもそんな場所だからこそ、一人じゃないってのは大事なんだろうと思う。俺たちは大丈夫だ、きっと上手くいく。



 

 

第五話 バラ園にて

■ 帝国暦486年7月12日  オーディン リルベルク・シュトラーゼ  ジークフリード・キルヒアイス


ヴァレンシュタイン中将がミュラー少将と伴にラインハルト様を訪ねてきた。中将の表情は何処となく暗い翳りを帯びている。ミュラー少将は緊張気味だ。余り良い兆候とは言えない。他にも気になった事は中将には同行者が何人か居たことだ。中将は嫌そうな表情で護衛だと言っていたが中将に護衛など聞いた事がない。どういうことだろう。

ヴァレンシュタイン中将は部屋に入るとラインハルト様にケスラー少将、ロイエンタール少将、ミッターマイヤー少将を呼んで欲しいと頼んだ。皆に話さなければならない事が有ると。どうやら同行者のミュラー少将は既に知っているようだ。

ケスラー、ロイエンタール、ミッターマイヤー少将が来るまでの間、皆でお茶を飲んだ。フーバー未亡人が気を利かせてくれたのだが、用意されたのはコーヒーが四つだった。ヴァレンシュタイン中将は顔を顰めながらコーヒーを飲んで、いや舐めている。

ケスラー、ロイエンタール、ミッターマイヤー少将が来たのは十分以上経ってからの事だった。フーバー未亡人が改めてお茶を用意してくれた。今度は中将にはココアを用意してもらった。

「中将、それで話したい事とは何かな?」
ラインハルト様の問いかけに中将が大きく息を吐いた。ミュラー少将と顔を見合わせる。どうやら話し辛い事らしい。珍しい事だ、一体何が有るのか。ラインハルト様も訝しげな表情をしている。

「昨日、宮中に呼ばれました」
宮中に? 中将が宮中に呼ばれた? どういうことだろう、フレーゲル男爵の事が漏れたのだろうか?

「そこである決定事項を伝えられました」
「決定事項?」
中将はラインハルト様の問いかけに頷くと言葉を続けた。
「私がブラウンシュバイク公の養子になると言う事です」

「ブラウンシュバイク公の養子……」
ラインハルト様が唖然とした表情で呟いた。私も同感だ、中将がブラウンシュバイク公の養子? どういうことだ? 私の思いを口に出したのはロイエンタール少将だった。

「中将、閣下がブラウンシュバイク公の養子とはどういうことでしょう?」
「私がブラウンシュバイク公の養子となります。公は引退し私が新たなブラウンシュバイク公になる。軍の階級も多分上級大将になるでしょう。そしてフロイライン・ブラウンシュバイクと結婚する。そういうことです」

今度は皆が呆然とした。中将がブラウンシュバイク公の養子? 新たなブラウンシュバイク公? どういうことだ? 大体中将は平民だ、何の冗談だ?
「しかし、閣下は……」
「分かっています。私が平民だと言うのでしょう、ロイエンタール少将」
「ええ」

ロイエンタール少将が少し決まり悪げに頷いた。中将は溜息を吐くと困ったように話し始めた。
「実は私はリメス男爵の孫なのです」
「!」

「私の母が男爵の娘でした。母を産んだ祖母も平民で、私達は平民として生きてきた。私がリメス男爵を祖父だと知ったのは彼が死ぬ一週間前の事です。あのような事が無ければ一生知らずに済んだかもしれない」

中将がリメス男爵の孫……。中将の母親が男爵の娘……。皆がその事実に驚き顔を見合わせている。つまり中将は本来ならリメス男爵家を継ぐべき人間だったと言う事か。ならば公爵家の養子になっても不都合は無いのかもしれない……。しばらくの間沈黙が部屋を支配した。

「良く分からない。ブラウンシュバイク公は娘を女帝にするのを諦めたのか?」
ミッターマイヤー少将が呟くように言葉を吐いた。何人かが少将の言葉に頷く。私も同感だ、どうも良く分からない。ミッターマイヤー少将の言う通りだ。このままでは帝国はリッテンハイム侯の物になる。ブラウンシュバイク公はそれを認めるというのだろうか?

「次の皇帝はエルウィン・ヨーゼフ殿下になります。皇后はサビーネ・フォン・リッテンハイム……」
「!」
中将の言葉に皆が息を呑んだ。中将は幾分不愉快そうな表情をしている。

「リッテンハイム侯は娘を皇后にする事で勢威を維持します。リヒテンラーデ侯はこれからも国務尚書として政権を維持する。そしてブラウンシュバイク公爵家の新当主は軍の重鎮として彼らを助ける……」
「!」

つまりブラウンシュバイク公・リッテンハイム侯・リヒテンラーデ侯が組んだということか。そしてブラウンシュバイク公爵家の新当主……、ヴァレンシュタイン中将が軍の重鎮になって帝国を守る……。そう思っていると中将が幾分自嘲気味に笑いを漏らした。

「ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、そして軍……。彼らはこれまでバラバラで反目していました。しかし今回彼らは協力して進む事を選択したんです。その犠牲が私です」

中将にとっては望んだことではないのだろう。そう思うと思わず溜息が出た。
「断わる事は出来ないのですか? 中将」
ケスラー少将が中将を労わるように問いかけた。無理なのは分かっている。帝国の実力者達が決めたことなのだ。中将に断われるわけは無い。事実ケスラー少将の問いかけにヴァレンシュタイン中将は力なく首を横に振った。

「無理ですよ、ケスラー少将。この件では勅許がおりているんです」
「勅許?」
ケスラー少将が鸚鵡返しに問いかけた。皆驚いたような顔をしている。勅許までがおりている。そこまで相手は本気だと言うことだ。

「ええ、勅許です。フロイライン・ブラウンシュバイクは皇孫ですからね。既に典礼省にも申請が出ています。勅許がおりているのですから却下される事は無い。おそらく明日にも認められるでしょう。私はブラウンシュバイク公爵家の人間になる」

“私はブラウンシュバイク公爵家の人間になる”、その言葉が部屋の中に重く響いた。誰もが重苦しい表情をしている。

「皆内乱を恐れているんです。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯も内乱になれば負けると考えています。リヒテンラーデ侯も国内が乱れるのは避けたい、軍も内乱が何時起きるか判らない状況ではおちおち外征できない。皆内乱は避けたい、だから……」

だからヴァレンシュタイン中将を取り込み、事態の収拾を図った。ラインハルト様が私を見た。困惑したような表情をしている。これからどうなるのかが見えないのだろう。私も同感だ。中将がブラウンシュバイク公になる、そして貴族達が一つにまとまり始めた。貴族は怖くない、しかし貴族達には注意すべきだ。それが現実になりつつある。しかもこのままでは中将が敵になりかねない。これからどうなるのか……。

「ミューゼル提督、これから危険なのはミューゼル提督です」
「私?」
ヴァレンシュタイン中将の言葉にラインハルト様は訝しげに問い返した。中将が頷く。中将の表情は真剣だ、冗談で言っているわけではない。皆も驚いたような表情をして中将を見ている。

「貴族達はこれまで反目していました。だからミューゼル提督にもそれほど関心を払わなかった。しかしこれからは違います。一つにまとまれば当然他に敵を探す。最初に標的にされるのはミューゼル提督です」
「……」

中将は私と同じ事を考えている。これからのラインハルト様は非常に危険な立場に置かれる事になる。そして敵対する相手になるのはヴァレンシュタイン中将、いや新ブラウンシュバイク公だろう。公爵家の力、そして新公爵の力量、恐ろしい敵となるだろう。

「ミューゼル提督は陛下の寵姫の弟と言う事で周囲から反感を買っています。しかしそれ以上に貴族達は提督が何時か皇帝に反逆するのではないかと恐れているんです」
「!」
ヴァレンシュタイン中将の言葉に部屋の空気が緊迫した。皆がラインハルト様と中将を交互に見ている。

「私に協力していただけませんか、ミューゼル提督」
「……卿に協力?」
中将が妙な事を言い出した。協力? 一体何を協力しろと言うのだろう。

「国内を改革します。貴族達の権力を制限し平民達の権利を拡大する。一部の特権階級が弱者を踏みにじるような今の帝国を変えるんです」
皆が驚いて中将を見た。しかし中将は気にする事も無くラインハルト様を見ている。

「そんな事が」
「出来ます。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯もリヒテンラーデ侯も反対はしません。彼らは私が帝国を変えたがっている事を知っている。そこまで決めた上で私を養子にと言ってきたんです」
「……」

有り得ない話だ、さっきまで驚いていた皆が今度は呆然と中将を見ている。もしかすると中将は彼らを信じてはいないのかもしれない。だからラインハルト様に協力を求めてきた……。有り得ない話ではないだろう。

「伯爵夫人を奪った陛下が許せませんか?」
「……」
「陛下はミューゼル提督が陛下を憎んでいる事をご存知です、簒奪の意志がある事も。その上で提督を引き立ててきた……」
「馬鹿な……」
ラインハルト様が呆然としたように言葉を出したが中将は首を振って言葉を続けた。

「本当のことです。あの方は凡庸ではない、凡庸な振りをしてきただけです。このままでは帝国は立ち行かなくなる。そう思ったからミューゼル提督に帝国の再生を委託しようとした……」
「……」
誰も声が出せない。あの凡庸と言われる皇帝が実際には違う? そんな事があるのだろうか。

「一度お二人で会ってみては如何です」
「それは」
「会って見ても損は無いと思いますよ。本当の陛下を知っておくべきだと私は思います」

ヴァレンシュタイン中将が熱心にラインハルト様を説得する。ラインハルト様はしばらく迷っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……会ってみよう」


■ 帝国暦486年7月12日  オーディン 新無憂宮 バラ園  ラインハルト・フォン・ミューゼル


会ってみようとは言ったがその日のうちに皇帝に会う事になるとは思わなかった。ヴァレンシュタインは時間を無駄にしなかった。俺の同意を取り付けるとすぐさまリヒテンラーデ侯に連絡を取り、皇帝との面会を取り付けたのだ。しかも非公式と言うことでバラ園で会う事になっている。

バラ園に向かうと皇帝は既に俺を待っていた。驚いた事に姉上もいる。近付いて跪き、挨拶を言おうとすると皇帝がそれを押し留めた。
「挨拶は無用じゃ、立つが良い。此処では虚飾は無用の物よ」
「はっ」

どうすべきだろう、挨拶はいらないのだろうが立って良いのだろうか。それとも此処は跪いたままでいるべきか。迷ったが姉上を見ると微かに頷くのが見えた。思い切って立ち上がった。そんな俺を見て皇帝は満足そうに笑みを浮かべて頷いている。

「そちが予に会いたいとは珍しいの、予に何を聞きたい?」
「……ヴァレンシュタイン中将がブラウンシュバイク公の養子になるとのことですが……」
俺の言葉に皇帝は黙って頷いた。傍にいる姉上が驚いたような表情で俺と皇帝を見ている。

「あの男もやるものよな、もっとも手強い敵を味方に取り込むとは。流石にブラウンシュバイク公として宮中を凌いできただけの事は有る」
「……」
フリードリヒ四世は楽しそうだ。俺はどう答えてよいか分からず黙っていた。

「そちは残念よの」
「は?」
「もっとも頼りになる味方を敵に取られた」
もっとも頼りになる味方……。確かにそうだ、多少面白くないところはあっても頼りにはなる。彼が敵に回れば厄介な事になるのも確かだ。

「予はこの帝国を再生できる人間を探していた。そしてそちを見つけた。嬉しかったぞ、ラインハルト・フォン・ミューゼル。そちならこの帝国を新しく生まれ変わらせることが出来るだろうとな」
「……」

「そちはおそらくゴールデンバウム王朝を滅ぼすであろうの」
「陛下! 弟はそのようなこと……」
「良いのじゃ、アンネローゼ。此処はバラ園じゃ、我等のほかには誰もおらぬ……」
「陛下……」

俺は黙って皇帝と姉上の会話を聞いていた。否定することよりも、俺の野心を知られていたことのほうがショックだった。確かにこの男は凡庸などではない、俺は一体何を見てきたのだろう。

「それでも良いと思っていた。帝国が生き返るのであればの」
「陛下、陛下は帝国が滅ぶとお考えでしょうか?」
恐る恐る皇帝に問いかけた。どう考えても皇帝は帝国の滅亡を前提に話をしている。本気なのだろうか。

「滅ぶであろうの、そちはそう思わぬか」
「……」
答えようが無かった。確かに帝国は混乱している。大貴族が勢力を伸ばし勢力を張り合い始めた。いずれは内乱になる。俺が皇帝になるためにはその内乱が起きる前に確固たる地位を固めなければならない。

「そちには済まぬ事をしたと思うておる。そちを引き立てながら、此処に来てそちを切り捨てるようなことをした」
「切り捨てる……」

姉上が息を呑むのが分かった。だがそんなことよりも皇帝の言葉に興味があった。俺を切り捨てるとはどういう事だろう。考えていると皇帝は俺を見て笑った。
「そちは肝心な所でまだ甘いの」
「……」
俺が甘い? 思わず言い返したくなったが堪えた。今口を開けばとんでもないことを言いそうだ。

「ヴァレンシュタインはこの国を改革するつもりじゃ。そしてブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、そして軍もそれを支持している。分かるか、そち以外にも帝国を再生できる人間がいると言うことじゃ」
「……」

「帝国を再生出来るのはそちかヴァレンシュタインであろう。その方らは正反対よな。そちが火なら、ヴァレンシュタインは水よ。そちは全てを焼き尽くして新たな帝国を作るに違いない。犠牲は多かろう……。だから予はヴァレンシュタインを選ぶ……、皇帝として犠牲の少ない方法を選ぶ……、済まぬ」
「……」

俺はどう言えばいいのだろう。ふざけるなと怒鳴るべきなのだろうか? だが俺が皇帝の立場ならどうしただろう……。やはり犠牲の少ない方法を選ぶのではないだろうか……。

「ヴァレンシュタインから何か言われたか?」
「……自分に協力して欲しいと」
「そうか」
皇帝は俺の答えにゆっくりと頷いた。

「ラインハルト・フォン・ミューゼル、ヴァレンシュタインに協力するのじゃ、それがそちの命を救う事になる」
「!」
俺にあの男の下に付けというのか?

「アンネローゼの事を考えよ……。そちが滅ぶ時、アンネローゼも滅ぶ事になるぞ。それで良いのか?」
「……」
俺が滅ぶとき、姉上も滅ぶ……。

「そちにローエングラム伯爵家を継がせる話じゃが」
「はっ」
「あれは撤回する」
「!」

皇帝は俺を悲しそうな眼で見た。俺を侮辱しているわけではない、となれば……。
「そちを守るためにはむしろ爵位は不要じゃ。頼むぞ、ミューゼル大将。アンネローゼを守ってやってくれ。予の寿命は持ってあと三年、遺言と思うて聞いてくれよ……」
「はっ」

「久しぶりであろう、アンネローゼと話して行くが良い」
そう言うと皇帝は俺と姉上に背を向けバラ園を去っていった。俺は去り行く皇帝の姿を見つめた。自然と頭が下がっていた……。



 

 

第六話 ブラウンシュバイク公

■ 帝国暦486年7月12日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  エリザベート・フォン・ブラウンシュバイク


午後からお客様が来る。母の話ではお客様はエーリッヒ・ヴァレンシュタイン中将だとか。母は乳母に私の服装を整えるようにと言いつけたけど珍しい事だわ、これまでそんな事は無かったのに。

おかしな事は他にも有る。父とヴァレンシュタイン中将は決して仲が良いわけではないはずだけど、どうして招待したのかしら。中将も私達貴族の招待を受ける事は無いって聞いている。フレーゲル男爵の事があるから仲直りでもしたのかしら。

私自身はヴァレンシュタイン中将に会えるのはとても嬉しい。中将は優しくて笑顔の素敵な方だって聞いている。出来ればお話もしたいけど父は許してくれるかしら? ご招待するくらいだし、服装を整えろと言うくらいだから大丈夫だと思うのだけれど。

ヴァレンシュタイン中将がいらっしゃったのは午後二時を過ぎた頃だった。中将は私達に笑みを浮かべながら挨拶をしてきた。
「エーリッヒ・ヴァレンシュタインです。本日はお招きいただき有難うございます」

「おお、ヴァレンシュタイン中将、忙しいところを良く来てくれた。紹介しよう、妻のアマーリエ、娘のエリザベートだ」
「ヴァレンシュタイン中将、今日はゆっくりとなさってくださいね」
「有難うございます、奥様」

父と母が中将と挨拶を交わしている。私も何か話したかったけれど口を開けなかった。そんな時だった、父が私に話しかけてきた。
「エリザベート、お前も中将に挨拶をしなさい」

「エリザベートでございます」
「ヴァレンシュタインです。お目にかかれて光栄です」
私は名前を言うのが精一杯だったけど中将はそんな私を穏やかに見ていた。恥ずかしかったけど、嬉しかった。中将は噂どおり優しい人みたいだ。

挨拶が終わって応接室に移るとソファーに座った。私は中将の横に座るようにと父に言われた。お茶が運ばれてきた。コーヒーが三つ、ココアが一つ。ココアの甘い香りが広がったけど、これは私に用意したの?

「中将はココアが好きだと聞いたのでな、用意させた」
「有難うございます、ブラウンシュバイク公」
中将がココア? ちょっと可笑しかったけど中将は美味しそうに飲んでいる。

「卿が招待を受けてくれた事に感謝している。さぞかし怒っているかと思ったのだ」
父の言葉に中将が苦笑した。父は中将を怒らせたのだろうか。

「お父様、ヴァレンシュタイン中将に失礼な事をなさったの?」
「あ、いや、その」
父がちょっと慌てている。中将がクスクスと笑い声を上げた。

「そんな事は有りませんよ、フロイライン。公が私に対して失礼な事などはしてはいません。多少強引ではありましたが」
「まあ」
父を見ると困ったような笑顔を見せている。父がそんな表情をするなんて珍しいことだ。

「ですが、今日こうして招待していただけた事は感謝しています」
「そう思ってくれるか」
「はい」
父は中将をじっと見ていたが一つ頷いた。中将も父を見ている。そして私を見て柔らかな微笑みを浮かべた。


■帝国暦486年7月12日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸   オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク


お茶の時間が終わるとヴァレンシュタインは仕事に戻らなければならないと言って屋敷を辞去しようとした。悪いお茶会ではなかった、和やかで穏やかな時間だった。皆寛いで話をしていたと思う。ヴァレンシュタインが帰ると言った時には名残惜しいと思ったほどだ。

別れの挨拶をした後、ヴァレンシュタインはわしだけに分かるように“二人で話したい”と言ってきた。妻と娘に“少し中将に話がある”と言って場を外してもらった。

「ブラウンシュバイク公、フロイラインは未だ何も知らないのですね?」
「うむ、先入観無しで卿に見てもらいたかったのでな。娘をどう思った?」
「悪い方では無いと思います」
ひとまずほっとした。まあお茶会の雰囲気から悪い印象は持たなかったと思ったが……。

「上手くやっていけるかな?」
「そうしたいと思います」
「うむ、娘を頼む」
ヴァレンシュタインが頷いた。大丈夫だ、信頼して良いだろう。

「これからフロイラインに伝えるのですか?」
「そうだ」
「では大変ですね」
皮肉かと思ったがそうではなかった。ヴァレンシュタインは生真面目な表情でこちらを見ている。

「なに、あれは卿の事が気に入ったようだ。心配はいらん」
わしがそう言うとヴァレンシュタインは僅かに苦笑した。
「これから宜しく御願いします」
「こちらこそよろしく頼む」
「公爵夫人にも宜しくお伝えください」
「分かった」

ヴァレンシュタインが去った。さてこれから娘に話さなければならん。確かに心配はいらんが大変ではあるようだ。やれやれだな、いっそ妻に頼むか? こういうのは父親よりも母親の方が向いているかもしれん。


■ 帝国暦486年7月13日  オーディン 新無憂宮 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


典礼省から俺とブラウンシュバイク公爵家の養子縁組の許可が下りた。その際、俺がリメス男爵家の血を引く男子である事も合わせて典礼省にある家系図に登録された。リメス男爵家は領地も爵位も返上しているから登録されても俺には何も無い。

但しそれを請求すれば別だ。俺は今リメス男爵家の唯一の男子で爵位と領地を請求すれば許されるだろうという事らしい。典礼省の役人が恩着せがましく言いやがった。馬鹿馬鹿しい、そんな物要るか!

それにしても年寄りどもは仕事が速い。老い先短いから急ぐんだろう。俺を一日でも早くブラウンシュバイク公爵家に縛り付けたいらしい。この分で行くとエリザベートとの結婚も早まりそうだ。言っておくが俺はロリコンじゃない、胸を張って言うがどちらかと言えばマザコンだ。エリザベートに悪い印象は持たなかったが、結婚は大人になってからだ。

これから義父、ブラウンシュバイク公と供にフリードリヒ四世に拝謁する。なんだかな、どうしてこうなったんだか。俺にはいまだに良くわからない。フェルナーに、いやこの帝国の権力者どもに上手く操られているとしか思えない。

唯一の救いはラインハルトがこちらに敵対的ではないことだ。皇帝フリードリヒ四世に会ってどうやら多少は変わったらしい。少し考える時間が欲しいと言ってきた。悪い徴候じゃない。

拝謁するために廊下を歩いていると遠巻きに多くの貴族達が俺を見ているのが分かった。そしてヒソヒソと何か話している。見世物じゃない! 全く不愉快な連中だ。これからずっとこんな日々が続くのかと思うとうんざりする。

この場で逃げ出したらどうなるんだろう。いや、皇帝の前で養子は嫌ですと言ったら。……許されるわけ無いよな、それこそ同盟に亡命だよ。公爵位と皇族との結婚を嫌って亡命か……。

凄いな、今年の宇宙十大ニュースのトップは間違いない。おそらくフェザーンじゃ俺をモデルにした映画が作成されるだろう。おそらく公爵令嬢を振った俺の秘密の恋人は亡命者のヴァレリーになるに違いない。大ヒット間違い無しだ。

そんな事を考えていると向こう側からリッテンハイム侯がやってきた。
「ブラウンシュバイク公、これから陛下の下へ行かれるのかな?」
「うむ、養子を迎えたのでな、陛下に御報告をしに行くところだ」
頼む猿芝居は止めてくれ。

「ふむ、ヴァレンシュタイン中将、いやブラウンシュバイク中将か。良い跡取りが出来て羨ましい事だ」
「エリザベートも喜んでいる。サビーネが悔しがってはいないかな?」
「あれは未だ子供だ、それはない」
そう言うとリッテンハイム侯が大きな声で笑った。ブラウンシュバイク公もそれに合わせる。俺だけが沈黙している。

「中将」
「はっ」
「ブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家は共に帝室の藩屏として帝国を支えてきた。これからは中将、卿にも帝室の藩屏たることを期待してよいかな」

この陰険親父、碌でもないことを言いやがる。あの時、銃ぶっ放して脅した事を根に持ってるに違いない。
「はっ、期待に背かぬよう務めます」
「うむ、頼むぞ」
ブラウンシュバイク公とリッテンハイム侯が顔を見合わせて頷いた。こいつら最初から示し合わせていたな。根性悪どもが!

リッテンハイム侯と別れて先に進むとようやく謁見室に着いた。謁見室にはフリードリヒ四世のほかにリヒテンラーデ侯が居る。二人とも可笑しそうな表情をしている。ブラウンシュバイク公もだ。俺だけが楽しくない。

「ブラウンシュバイク公か……。今日は何の用かな」
「はっ、此度陛下のお許しを得て養子を迎えましたので御挨拶にと」
「おお、そうか」

ここでも猿芝居か。しかし俺もそれに付き合わねばならん。
「エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイクでございます」
「うむ、良い若者じゃな、ブラウンシュバイク公」
「はっ」

皇帝はブラウンシュバイク公に声をかけた後、今度は俺に視線を向けた
「エリザベートを頼むぞ、あれは予の孫だからの」
「はっ」
これで俺はブラウンシュバイク公爵家の婿養子が決定だ。

「陛下、臣はこれを機に家督をエーリッヒに譲りたいと考えています」
「ふむ、隠居するか」
「はっ、お許しを頂けましょうか」

ブラウンシュバイク公の言葉に皇帝は少し考え込んだ。はてね、義父の隠居は確定事項のはずだが……。
「家督を譲るのは構わぬが、隠居は許さぬ」

何だ、それ……。ブラウンシュバイク公も妙な顔をしている。芝居じゃないな。
「と言いますと」
「これからも宮中には出仕せよ。……そうじゃな、出仕しても爵位が無くては何と呼べば良いか困るの……。そちには大公の称号を与えよう。ブラウンシュバイク大公を名乗る事を許すぞ、もっとも大公領というのは無いから称号だけじゃの」

そう言うとフリードリヒ四世は可笑しそうに笑った。リヒテンラーデ侯も笑っている。まあ悪い話じゃない。屋敷で暇を持て余すよりはましだろう。リヒテンラーデ侯の考えかな、俺と公の関係を気遣ったか……。

「……恐れいりまする。これからも息子共々、相勤めまする」
ブラウンシュバイク公は感激した面持ちで礼を言うと頭を下げた。俺も頭を下げる。顔を上げると皇帝とリヒテンラーデ侯が満足そうな表情をしている。上手い手だよな。大公の称号だけでブラウンシュバイク公の心を取った。

謁見を終えると俺は義父と分かれた。紫水晶の間に行くとヴァレリーと護衛が待っていた。合流して軍務省に向かう。護衛はどいつも大男だ、見下ろされるのは良い気分じゃない、今日は不愉快なことばかりだ。


 

 

第七話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その1)

■ 帝国暦486年7月23日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク


俺がブラウンシュバイク公になってもう十日、ブラウンシュバイク公爵邸に住むようになって一週間が経った。はっきり言って慣れない生活に疲れた。一人暮らしを始めてもう八年、それに慣れていたのにいきなりブラウンシュバイク公爵だ。

俺がエーリッヒ・ヴァレンシュタインに戻れるのはこの屋敷で自室に一人で居るときだけだ。他の場所じゃ一人になれない、俺はブラウンシュバイク公だ。皆もそう扱う、フェルナーでさえ俺の事をブラウンシュバイク公と呼ぶ。寂しい事だ……。

救いは公爵邸の皆がこちらに好意的なことだ。ブラウンシュバイク大公がこちらに好意的な分かっていたが、大公夫人もこちらに好意的だ。義理とは言え息子が出来て嬉しいらしい。俺にココアを飲ませて楽しんでいる。男がココアを喜んで飲んでいるのが面白いらしい。

困ったのはエリザベートだ。時々俺と視線が合うと頬を染めるのは止めてくれ。俺がなんか悪い事をしてるみたいじゃないか。おまけにそれを見るとフェルナーを始め皆が意味ありげな表情をする、大公夫妻もだ。娘と義理の息子を見て笑っている親っていうのはどうなんだろう。ある種の虐待じゃないのか、これは。

今の俺はエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク公爵、軍での階級は上級大将、役職は軍務省高等参事官、宇宙艦隊最高幕僚会議常任委員となっている。非公式には次期遠征軍総司令官だ。

遠征軍の規模は二万隻という事になっている。二万隻、中途半端な数だよな。一個艦隊よりは大きいんだが、必ずしも大軍とは言えない。相手が二個艦隊以上動員すればそれだけで不利になる。総司令官である俺の能力が試されるわけだ。結構厳しい試験だよな。

参謀長にはメックリンガー少将を持ってきた。副司令官にはクレメンツ少将、分艦隊司令官はワーレン、ルッツ、アイゼナッハ、ビッテンフェルトだ。まあ、今の時点でミュラーやロイエンタール、ミッターマイヤーは引っこ抜けないからな。ベストメンバーに近いだろう。

司令部にはメックリンガーの他に、副参謀長にシュトライト准将、参謀にベルゲングリューン、ビューロー大佐が配属された。シュトライト准将が配属されたのはブラウンシュバイク大公の意向があった。俺の事が心配のようだ、直ぐ傍に自分の信頼できる人間を置いておきたいらしい。

皆、俺にどう対応して良いのか戸惑っている。貴族も軍人もだ。特に俺を敵視していた連中の困惑はかなりのものだ。まあ俺自身も戸惑っているのだから仕方が無い。平然としているのは帝国軍三長官やリヒテンラーデ侯、リッテンハイム侯等一部の連中だけだ。

トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「エーリッヒ様」
俺の名を呼びながら入ってきたのはエリザベートだった。ほんの少し頬が上気している。頼むよ、俺を困らせないでくれ。

「どうしたのかな?」
できるだけ穏やかに話しかけるとエリザベートは俺に近付きながら手に持っていた手紙を差し出した。
「?」
「エーリッヒ様にこれが届いてました」

エリザベートから手紙を受け取り開封する。一読して何が起きたか、起ころうとしているのかが分かった。やれやれだな、これが俺に来るか……。
「エリザベート、義父上は今何処に?」
「居間ですわ。お父様への手紙でしたの」
「いや、多分私だと思う。しかし義父上にもお見せしたほうが良いだろう」


■ 帝国暦486年7月23日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  ラインハルト・フォン・ミューゼル


ヴァレンシュタイン、いやブラウンシュバイク公より至急屋敷に来て欲しいと連絡が来た。これまでパーティなどで何度かこの屋敷に来た事はあるが、あくまで大勢の参加客の中の一人としてだった。今回のように当主から一人呼ばれるなどという事は無かった。

例の件については未だ回答をしていない。皇帝は凡庸ではなかった。キルヒアイスにも皇帝との会談の全てを話したが彼も驚き困惑していた。多分ブラウンシュバイク公に協力するのが正しいのだろう。

しかしこれまで皇帝になる事を目指してきたのだ。それを捨てられるだろうか……。しかし失敗すれば姉上にまで累は及ぶ。そして今の状況では俺が皇帝になるのはかなり難しい……。問題は次のブラウンシュバイク公の出兵だろう。どのような結果になるか、それ次第ではまだまだ分からない。

応接室に通されると其処にはブラウンシュバイク公と大公、そしてリッテンハイム侯が居た。ブラウンシュバイク公はにこやかに微笑みながらソファーから立ち上がり俺を迎え入れた。
「ミューゼル大将、忙しいところをお呼びだてしてすみません」

「いえ、お気になさらず」
「こちらへ、どうぞ」
「はっ、失礼します」
どうもやりづらい……。

ソファーに座り三人と対峙する。妙な感じだ、この四人がこんな感じで対するとは……。そう思っていると大公が話しかけてきた。
「ミューゼル大将、良く来てくれた。少々面倒な事が起きてな、卿にも関わりの有ることだ」

「面倒な事? 私に関わりがあることで?」
俺の問いかけに大公は重々しく頷いた。そしてヴァレンシュタイン、いやブラウンシュバイク公を見る。俺も釣られて公を見ると公は黙って封筒を差し出してきた。

封筒を受け取る、封はもう切られている。既に目の前の三人は見ているという事か、そして俺に関係があると判断した。しかし一体なんだ? 中の書簡にはごく短い文章が書かれていた。

“宮中のG夫人に対しB夫人が害意をいだくなり。心せられよ”
姉上? ベーネミュンデ侯爵夫人か……。
「これは?」
「先程エーリッヒに届いた。どう見る?」
「ベーネミュンデ侯爵夫人が姉を害そうとしている……」
「……多分そうだろうな」

「しかし、何故公にこの手紙が?」
「多分、この手紙の差出人はベーネミュンデ侯爵夫人を止めたいと思っているのでしょう。そして私がミューゼル大将と親しい事に注目した」
だから公に? 俺にではなく? 何となく面白くなかった。姉上の事なら俺に手紙が来るべきだ。

「それで公に手紙を?」
「ええ。ブラウンシュバイク公爵家なら宮中にも影響力を持つ。この問題は宮中の、しかも微妙な問題です。それで選んだのでしょうね」
なるほど、俺は宮中には影響力を持たない。それでか……。面白くは無かったが、理解は出来た。

「義父とリッテンハイム侯と話しました。この件については私のほうで動きましょう、大将は動かないでください」
「しかし」
「ミューゼル大将に取っては伯爵夫人を守るという理由があるかもしれません。しかし大将が動くと貴族達の中には大将が伯爵夫人を利用して宮中に介入してきたと考える人間が出るでしょう。それは大将にとって良い事では有りません。グリューネワルト伯爵夫人にとってもです」
「……」

公の言う事は分かる、もっともだとも思う。しかし公はともかく大公は、リッテンハイム侯はどう考えているのだろう。彼らにとっては姉上は目障りな存在ではないのだろうか。俺が黙っていると大公が口を開いた。

「不安かな、ミューゼル大将」
「いえ、そうでは」
「卿はどうやらわしが伯爵夫人に好意を持っていないと考えているようだな」
「……正直なところ不安は有ります」
その言葉に大公はリッテンハイム侯と顔を見合わせ苦笑した。

「確かにわしもリッテンハイム侯も好意は持っていない。しかし伯爵夫人の必要性は認めている」
「……」
妙な言葉だ。好意は持っていないが必要性は認める? つまり姉上を評価しているという事か? 大公が? リッテンハイム侯が?

俺が困惑しているとリッテンハイム侯が低い声で笑い出した。
「混乱しているようだな。良いかな、ミューゼル大将。本来陛下の傍に居る寵姫はその影響力から我等貴族にとっても政府、軍にとっても目障りな存在なのだ」
「……姉上も目障りだと」

「早とちりするな、ミューゼル大将。貴族、政府、軍は時に敵対しながらも協力して帝国を守ってきたが寵姫の存在はその調和を乱しかねない。しかし、伯爵夫人が陛下を利用して権勢を振るった事が有るかな? 政府を混乱させた事が有るか?」

「いえ、そんな事は有りません。姉はそのような人間ではありません」
大公とリッテンハイム侯はまた顔を見合わせた。そして大公が話し始めた。
「その通りだ。もし夫人を引き下ろせば別な誰かが寵姫になるだろう。その女性が権勢を振るわないと誰が言える? つまり伯爵夫人は我等にとって理想の寵姫なのだ。夫人を守ろうとするのはそのためだ」

なるほど、姉上が権勢を振るわない事が姉上の身を守っている。他のどんな寵姫よりも姉上の方が皆には都合が良いということか。あるいは大公達にとってはベーネミュンデ侯爵夫人の復権は好ましい事ではないのかもしれない。そうか、幻の皇后か、それが有ったか……。

「幻の皇后ですか……。ベーネミュンデ侯爵夫人が復権すればブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家にとっても厄介な事になる。ベーネミュンデ侯爵夫人を敵とすることで私達は協力できる、そういうことですね」
俺の言葉にブラウンシュバイク大公とリッテンハイム侯は顔を見合わせ苦笑した。

「誤解があるようだが、我等は侯爵夫人の子を殺してはいない」
「その通りです、ミューゼル大将。義父やリッテンハイム侯が侯爵夫人の子を殺すことなど有り得ない……」
「では本当に死産だったと?」

「……いや、それは無い。殺されたのは間違いないな」
大公もリッテンハイム侯も殺していない、しかし侯爵夫人の生んだ子は殺された。そしてブラウンシュバイク公は大公の無実を信じている。どういうことだ?

「? では……」
「わしもリッテンハイム侯も無関係だ。あの件は別に真犯人が居る」

分からない、別に真犯人が居る? ならば何故その犯人を捕まえない? 自分達に濡れ衣を着せた犯人を何故放置する。有り得ない、何かがおかしい。それとも俺が何かを見落としているのか? 一体何を俺は見落としている。混乱する俺にヴァレンシュタイン、いやブラウンシュバイク公が話しかけてきた。

「殺す理由が無いのですよ。生まれてきた男子を殺すという事は皇位に野心が有るという事になります。しかしこの事件が起きた時は皇太子ルードヴィヒ殿下が御存命でした。いくら生まれてきた子を殺しても皇位には届きません。ましてブラウンシュバイク、リッテンハイム両家に生まれていたのは女児、しかもまだ幼い……」
「……」

「これでは皇太子ルードヴィヒ殿下の競争相手にもなりません。義父もリッテンハイム侯もこの状態で一つ間違えれば大逆罪にもなりかねない殺人を犯すはずは有り得ぬ事です」
なるほど、確かに理屈は合う。
「では、一体誰が……」

俺の問いに大公達は顔を見合わせた。大公とリッテンハイム侯が頷く、それを見てからブラウンシュバイク公が話し始めた。
「若い側室が男子を産んだ場合、一番困るのは年老いた本妻との間に生まれた後継者です。そうではありませんか?」
「!」
つまり、皇太子ルードヴィヒが犯人だと言うのか。驚く俺に公の言葉が続く。

「男子が生まれれば必ず側室と組んで殿下を排斥しようとする人間が出たでしょう。ましてルードヴィヒ殿下の場合、母親である皇后陛下は既に亡くなっています。ベーネミュンデ侯爵夫人が皇后になれば一気にそういう動きが出ると判断した、だから……」
「生まれてきた赤子を殺した……」

応接室に沈黙が落ちた。ややあって大公が沈黙を払うかのように首を一つ振ると話し始めた。
「あの事件の後、わしとリッテンハイム侯は密かに会って話をした。わしが侯に卿がやったのかと聞くと侯は自分ではないと言った。そしてリッテンハイム侯はわしに公がやったのかと聞いてきた。わしもやっていないと言った」

「……」
大公の言葉にリッテンハイム侯がゆっくりと頷いた。昔を思い出しているのかもしれない。

「分かっていた。お互い相手がそのような事をする事など有り得ぬ事は分かっていたのだ。ただ念のために確認しただけだった」
「お互い天を仰いで溜息を漏らしたな、大公」
リッテンハイム侯の言葉に大公が頷いた。

「その罪をわしとリッテンハイム侯に擦り付けた。愚かな話だ、あの事で皆がルードヴィヒ殿下を見放した」
「それは何故です」
俺の問いかけに大公とリッテンハイム侯は哀れむように俺を見た。

「皆、犯人はルードヴィヒ殿下だと直ぐ分かったはずだ。その殿下がわしとリッテンハイム侯に罪を擦り付けた以上、もはや殿下は我等の協力は当てには出来ぬ。義理の兄弟としてもっとも信頼すべき存在である我等を敵に回したのだ。そのような皇太子に誰が付いて行く?」
「……」

そういうことか、この事件で貴族達は忠誠心を向ける存在を失った。だから彼らはその忠誠をむける存在をブラウンシュバイク大公、リッテンハイム侯に求めた。ルードヴィヒの死が両家の勢力拡大のきっかけになったのではない。それ以前からブラウンシュバイク、リッテンハイム両家の勢威は強大化していたのだ。皇太子の死はそれに拍車をかけたに過ぎない……。

皇帝は知っていたのだろうか? いや知っていただろう、皇帝は凡庸ではないのだ。知ったからこそ帝国が内部分裂すると考えた。子を殺された事が帝国崩壊の引き金を引く事になる、皇帝はそう考えたのだ……。そして帝国崩壊の流れは止められないと……。だから俺を引き立てた……、帝国を再生させるために。

憎んでいたはずだった、軽蔑していたはずだった。だが今はどうしようもなく皇帝が哀れだと思える、無念だったろうと思える。父親として、皇帝としてフリードリヒ四世は息子に裏切られたのだ。俺は一体皇帝に何を見てきたのだろう。そして姉上は皇帝の苦しみを傍で見続けてきたのだろうか……。会いたい、無性に姉上に会いたいと思った。皇帝の事を話すために……。

 

 

第八話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その2)

■ 帝国暦486年7月25日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  アントン・フェルナー



エーリッヒは居間で大公夫人、フロイライン・ブラウンシュバイクと供に三時のティータイムを楽しんでいた。今日は仕事は休みだ、エーリッヒは軍服ではなく私服を着ている。薄地の淡いブルーのワイシャツと白のスラックスだ。帝国の実力者というよりごく普通の穏やかな若者にしか見えない。

大公夫人もフロイラインも楽しそうに笑い声を上げている。あいつは女性受けが良いんだよな、穏やかで優しくてちょっと鈍感で不器用な所が有る。どういう訳か女達はそういうエーリッヒに弱いらしい。ほっとけなくなるんだな。そのくせ本人は女にはあまり関心を持たない。もったいない事だ。

さて、どうしたものか……。エーリッヒに対してベーネミュンデ侯爵夫人の不穏な動きを伝える手紙が届いた。エーリッヒは侯爵夫人の周辺に手紙を書いた人間がいると見て俺に調査を命じたが……。ティータイムが終わるのを待つか、それとも呼び出すか、考えていると大公夫人が俺に気付いた。

「フェルナー大佐、エーリッヒに用かしら?」
「はい、ご休息中申し訳ありませんが……」
俺と大公夫人の遣り取りにエーリッヒが静かにティーカップを下ろすのが見えた。

「頼んでおいた例の件かな」
「はい、御報告をと思いまして」
「分かった。アントン、私の部屋に行こう」
「恐れ入ります、公」

「申し訳ありません、義母上、エリザベート。急用が出来ました」
「残念だけど仕方ないわね、エリザベート」
「はい」

残念そうにする女性二人に謝罪をするとエーリッヒは席を立った。鈍感なんだよな、それとも仕事熱心なだけか、どちらも女性にとっては嬉しい事ではないだろう。エリザベート様も苦労するな。

居間を出てエーリッヒの書斎に向かう。殺風景な部屋だった。絵画や彫刻などは欠片も無い。本棚の他には執務用の机とソファーと通信装置、それと休息用の簡易ベッドが有るだけだ。おかげで部屋がやたらと広く感じるし唯一目を引く本は実用書ばかりで殺伐としている。

官能小説を置けとは言わないが恋愛小説とか詩集とか置けないものか……。どんな貧乏貴族でもこれよりはましな部屋に居るだろう。絵でも飾るようにするか、余り大きいのは駄目だな。適当な大きさの風景画ならエーリッヒも嫌とは言わないだろう。

ソファーに座るとエーリッヒが話しかけてきた。
「どうかな、何か分かったかい?」
「はっ、公爵閣下の……」
「アントン、その公爵閣下というのは止めてくれないか」

エーリッヒがうんざりしたような顔をした。
「人前では仕方ないが、二人だけのときは名前を呼んでくれ、これまでのように」
「……」
「私は私で有りたいんだ、公爵閣下と呼ばれて喜ぶような人間にはなりたくない。変な特権意識など持ちたくないんだよ、アントン」

思わず苦笑が漏れた。普通の奴なら喜ぶんだけどな。まあでも、こいつは普通じゃないか……。ブラウンシュバイク公爵家は妙な当主を持つことになったな。
「分かった、但し二人だけの時だけだ。俺も新当主の友人である事を故意にひけらかしている等とは周囲に思われたくない」

俺の言葉にエーリッヒは頷いた。
「仕方ないね、お互い窮屈になった。それでどうだった?」
「卿の睨んだ通りだ。グレーザーという宮廷医がベーネミュンデ侯爵夫人の下に時々出入りしていた。手紙を書いたのはグレーザーだ」
「彼と話は出来たのかな?」
「ああ、酷いもんだったよ、あれでは逃げ出したくなるのも良く分かる」

グレーザーの話ではベーネミュンデ侯爵夫人のグリューネワルト伯爵夫人、ミューゼル大将への敵意は尋常ではないのだと言う。ミューゼル大将へ何度か暗殺者を送った事もあるらしい。そして今度は伯爵夫人を身篭らせろと命じた、もちろん皇帝以外の人物とだ。そうすれば、ミューゼル大将も、伯爵夫人も一挙に始末できる。

「しかし、そんな事は不可能だろう?」
エーリッヒが呆れたような声を出した。
「もちろん宮中にいる限りそんな事は出来るわけが無い。だから……」
「だから?」

「伯爵夫人を宮中から追い出せと命じたらしい、それからなら出来るだろうと」
「やれやれだね」
エーリッヒがウンザリした様な口調で首を振った。俺も肩を竦める。

「常軌を逸しているよ、グレーザーは恐怖に駆られて手紙を出した。俺に話した後はホッとしていたよ」
「巻き添えは御免という事か」
「ああ、俺だって同じ事をしただろう」
「卿にそう言わせるとはよっぽどだな」
思わず二人で顔を見合わせ苦笑した。

「エーリッヒ、グレーザーがブラウンシュバイク公爵家の庇護を願っている」
「……」
「俺が思うにグレーザーは限界だな、こちらで保護した方が良いと思う」
エーリッヒは小首を傾げて俺を見ている。はてね、保護には反対か? こいつは弱者には結構甘いんだが……。

「それを決める前に確認したい事が有る。侯爵夫人を煽っている人間はいないかな、私の考えすぎかい、アントン」
なるほど、確かにまだ報告が途中だった。いかんな、これは友人への相談じゃない、主君への報告だ。気を引き締めろ、アントン・フェルナー!

「済まん、順序が逆になった。侯爵夫人を煽っている人間は確かに居る、流石だな」
俺の言葉にエーリッヒは顔を顰めた。
「おだてても何も出ない。……やはり居たか」
「ああ、煽っているのはコルプト子爵だ」
俺の言葉にエーリッヒの顔がますます渋くなった。

「……フレーゲル男爵が居なくなってコルプト子爵が後釜になったか……」
「卿、知っていたのか」
「……まあね」
俺の問いかけにエーリッヒは曖昧な表情で頷いた。

なるほど、既にブラウンシュバイク公爵家の事は調査済みだったか。おそらく親族であるフレーゲル男爵の事も調べたのだろう。その過程でベーネミュンデ侯爵夫人の事も調べた。となるとグレーザーの事も既に知っていた?

やれやれ、新公爵閣下は見かけによらず手強くなかなか喰えない。もっともそのくらいでないと仕えがいが無いのも確かだ。楽しくなりそうだな、思わず苦笑が漏れた。

「ミューゼル大将を誹謗していたそうだ、ミッターマイヤー少将のこともね」
「コルプト大尉の射殺を恨んでということだね」
「ああ、そうなる」
コルプト子爵は弟をミッターマイヤー少将に射殺された。非は軍規を乱したコルプト大尉にある。しかし子爵はそれを受け入れられないのだろう。

そしてミッターマイヤー少将はミューゼル大将の部下になった。ミッターマイヤー少将に復讐するにはミューゼル大将が邪魔だ。そこで子爵はミューゼル大将に敵意を持つベーネミュンデ侯爵夫人に目をつけた……。敢えて説明するまでもないだろう。

「どうする、エーリッヒ」
俺の問いかけにエーリッヒは視線を落とし伏し目がちになった。考え事をする時の癖だ。水が有れば飲んでいるところだな。

「グレーザー医師はブラウンシュバイク公爵家で庇護しよう。今回の一件の生き証人として使える」
「それで、コルプト子爵、ベーネミュンデ侯爵夫人は?」

「放置は出来ない、先ずはコルプト子爵を抑える必要があるだろうね。彼を抑えグレーザー医師がこちらに居るとなれば侯爵夫人も少しは大人しくなるだろう」
「いっその事ミューゼル大将、コルプト子爵、ベーネミュンデ侯爵夫人をまとめて始末するというのはどうだ」

冗談めかして提案したがエーリッヒは笑わなかった。少しの間俺を見ていたが俯くと考え込んだ。
「……」
「喉が渇いたな、水を持って来よう」
「うん」

生返事をするエーリッヒを部屋に残し水を取りに行く。本来なら誰か人を呼べばいいのだが今は一人にした方が良いだろう。やはりエーリッヒはミューゼル大将を恐れている。今のところ友好的ではあるが以前公爵になる前に言った通り、危険だという認識は変わっていない様だ。或いは払拭できずにいると言う事か……。

水を持って部屋の戻るとエーリッヒはまだ俯いていた。グラスを渡すと一口飲んでテーブルに戻す。
「で、どうする、やるか?」
問い掛けるとようやく顔を上げた。

「いや、それは駄目だ」
「……駄目か」
「うん、彼はこちらに協力的になっているし対同盟の事も有る」
エーリッヒの答えは自分を納得させようとしているかのようだった。かなり迷ったな。

「対同盟と言うと」
「手強い相手がいるからね。彼に勝てるのはミューゼル大将ぐらいのものだろう」
「そんな手強い相手がいたかな」
俺の見る限り、エーリッヒの軍人としての能力はかなりのものだ。ナイトハルトもやるがエーリッヒには及ばない。そのエーリッヒがそこまで恐れる? ミューゼル大将以外にか? 一体誰だ?

「……ヤン・ウェンリー」
「……エル・ファシルの英雄か」
俺の言葉にエーリッヒが頷いた。
「恐ろしい相手だ、戦術レベルではミューゼル大将でも勝つのは難しいだろう。良くて引き分けかな」

「卿とはどうだ」
「話にならない、負けないように戦うのが精一杯だ。それでも負けるだろう、長引かせるのが精々だよ」
「ふむ」
エーリッヒは渋い表情をしている。この手の判断でエーリッヒが誤まる事は滅多にない。しかし、それでも疑問が有る。

「まぐれじゃないのか、あれ以降はパッとしていないが」
俺の問いかけにエーリッヒはすっと視線を外した。
「いや、まぐれじゃない。用兵というのは結局のところ個人の能力と感性に負う部分が多い。同じような戦局でも指揮官が違えば戦闘推移も結果も違うのはその所為だ」

確かに、人によっては攻勢を執るだろうが別な人間なら守勢を執る……。エーリッヒが視線を上げた。そして俺に視線を当てた。
「つまり軍事的な才能と言うのは努力よりも持って生まれた資質の方に左右されるんだと思う。自由惑星同盟のビュコック提督は兵卒上がりだが同盟でも帝国でも名将と評価されている事を思えばどうしてもそう考えざるを得ない」

「なるほど、努力より才能か。非道徳的な学問だな、努力を虚仮にするとは」
俺の言葉にエーリッヒはニコリともせずに頷いた。冗談だったんだが面白くなかったか……・

「士官学校での教育は軍人として最低限の知識を与えるという事だと思う。そう考えると軍人としての能力、これは与えられた知識をどう活用できるかという事だろう」
「そして感性と言うのはどの知識を選択するかという事だな……」
エーリッヒが頷いた。水を一口飲んでから言葉を続ける。
「戦術シミュレーションはその選択肢を増やすという事だと思う」
「なるほど」

「エル・ファシルの一件は将に彼の能力が顕著に示されたケースだと思う。ああいう敵に包囲されてから民間人を連れて脱出なんてシミュレーションをやった事が有るかい?」

「いや、無いな。シミュレーションは殆どが艦隊決戦を前提としている」
「その通りだ、つまりヤン・ウェンリーは参考にすべき事例を持っていなかった。あの作戦は彼のオリジナルの作戦なんだ。怖いとは思わないか?」
「……」

「彼は民間人を押し付けられ、しかも味方から切り捨てられた。しかし自分が切り捨てられたことを的確に察知し、それを利用して奇跡を起こした。味方を囮にしてね。奇跡と言う言葉に惑わされがちだが冷徹だし非情と言って良い。能力、冷徹さ、非情さ、そのどれが欠けてもあの奇跡は無かった。極めて危険な相手だよ」

なるほど、まぐれではないか。ただ単に味方を利用したなどという事ではない、だとすれば恐るべき存在なのかもしれない。それにしても良くそこまで相手を見ているものだ。俺がヤンならエーリッヒこそ恐ろしいと言うだろう。ヤン、ミューゼル大将、そしてエーリッヒ……。一体これからどうなるのか……。

「手強いな」
「うん。今は未だ階級が低い、だから自由に動く事が出来ずにいる、力を発揮できずにいるんだと思う」
つまり、これから先階級が上がれば、自由裁量権が大きくなれば手強くなる……。

「ミューゼル大将は必要か……」
「彼がいなければ帝国軍の被害はかなりのものになる、私はそう思っている」
毒を以って毒を制す、そんなところだな。エーリッヒは冴えない表情をしている。内憂外患、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

「となると先ずはどうやってコルプト子爵を抑えるかだな」
俺の問いかけにエーリッヒは嬉しそうに微笑んだ。
「私はブラウンシュバイク公爵家の当主だからね。せいぜいそれを利用させてもらうさ。私を嵌めた連中にも協力してもらう」
また碌でもないことを考えているな、こいつ。最近皆の玩具にされてて鬱憤が溜まっている、哀れなコルプト子爵をいたぶって楽しむつもりだ。

「アントン、楽しくなりそうだね。卿はこういうのが好きだろう」
「まあ、嫌いじゃない。俺だけじゃないぞ、アンスバッハ准将もシュトライト准将も好きさ」
「じゃあ、さっそく始めようか」

にっこりと笑うエーリッヒにほんの少し悪戯がしたくなった。
「公爵閣下の御心のままに」
途端にエーリッヒが憮然とするのが見えた。


 

 

第九話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その3)

■ 帝国暦486年7月26日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  アントン・フェルナー



応接室にはコルプト子爵とシュトライト准将がいた。コルプト子爵はソファーに座りシュトライト准将は部屋の片隅で控えている。我々が部屋に入ると二人が視線を向けてきた。

「お待たせしました、コルプト子爵」
エーリッヒは応接室に入ると既に部屋に案内されていたコルプト子爵は立ちあがって挨拶した。
「いえ、それほどではありません」

確かにそれほど待たせたわけではない。せいぜい五分程度のものだ。しかしコルプト子爵がどう思ったか……。成り上がりの新公爵が小癪にも自分を待たせるとは、そう思ったかもしれない。子爵の表情が少し硬く見えるのは気のせいでは無いだろう。

エーリッヒはコルプト子爵に席に座るように勧めると自らも席に着いた。俺とアンスバッハ准将はエーリッヒとコルプト子爵見える位置に立っている。エーリッヒに呼ばれたとき直ぐ対応するためというのが表向きの理由だが真の理由は万一の場合の護衛役だ

エーリッヒはリメス男爵家の血を引いてはいるが平民の出身だ。そしてブラウンシュバイク公爵家に迎え入れられるまでは貴族達とは敵対関係に有った。当然だが貴族達の中にはエーリッヒに対して蔑みと強い反感をもつ者が多いのだ。

しかし今のエーリッヒはブラウンシュバイク公爵であり皇孫の婚約者でもある。どんな貴族でもエーリッヒには敬意を払わなければならない。そこにジレンマが生じる。ジレンマが酷くなれば暴発する者も出てくるだろう。エーリッヒは士官学校で白兵戦技を学んでいるが決して強いとは言えない。俺達はエーリッヒの身の安全に常に注意しなければならない……。

大公が当主であった時はそんな事は無かった。我々は護衛にかこつけて愚鈍な貴族達への応対に四苦八苦する大公を見てその滑稽さに密かに笑ったものだ。そしてそんな我々を見て憮然とする大公を見てさらに笑うことが出来た。コーヒータイムの格好の笑い話だったんだが……。

「ブラウンシュバイク公、お話とは一体何でしょう」
コルプト子爵が幾分緊張気味に声を出した。何となく“ブラウンシュバイク公”といった声が引き攣って聞えたのは気のせいか? エーリッヒはにこやかに笑みを浮かべた。

「これを見ていただけますか」
エーリッヒがコルプト子爵に手紙を差し出した。例のグレーザーが書いたものだ。手紙を読んだコルプト子爵の顔が強張った。

「困ったものだとは思いませんか」
言葉とは裏腹にエーリッヒの口調にも表情にも笑みが有った。コルプト子爵はエーリッヒに無言で手紙を返した。

「皇帝の寵姫が寵を競うだけでなく相手に危害を加えようとしている。そしてそれを煽っている人が居る」
「……何を言っているのか、私には……」
「無駄ですよ、グレーザー医師から全て聞きました」
「……」
穏やかな表情のエーリッヒ、そして対照的に引き攣った表情のコルプト子爵……。

「貴方は弟であるコルプト大尉をミッターマイヤー少将に射殺された。非は軍規を乱したコルプト大尉にあります。しかし貴方はそれを受け入れられないのでしょう。ミッターマイヤー少将に復讐しようとしたが彼は今ミューゼル大将の部下になっている」
「……」

「ミッターマイヤー少将に復讐するにはミューゼル大将が邪魔です。いや、それ以前に彼を庇おうとするミューゼル大将が許せなかった。そこで貴方はミューゼル大将に敵意を持つベーネミュンデ侯爵夫人に目をつけた……。違いますか」
「……」

「言っておきますが、ミッターマイヤー少将をミューゼル大将の元へ送ったのは私ですよ。既に知っているかもしれませんが……」
「この件についてはお口出しはお止め頂きたい」
強張った表情でコルプト子爵がエーリッヒを遮った。目は血走っている、大丈夫か、こいつ。

「復讐は貴き血の欲するところ、高貴なる者の持つ義務なのです。閣下はリメス男爵家の血を引いておいでです。その御身体には我ら同様高貴なる血が流れています。ですが残念な事に閣下は平民としてお育ちになられた。そのせいでしょう、どうも閣下はその辺りがお分かりではないようですな」

とんでもない奴だな、エーリッヒを相手に貴族について説教だと。おまけに高貴なる者の義務が復讐? 俺もいい加減貴族とは馬鹿揃いだと思っていたがこいつは極めつけの馬鹿だな。いや、こんな馬鹿だからベーネミュンデ侯爵夫人なんて頭のネジの緩んだヒス女を利用しようなんて考えたか。俺ならとてもそんな気にはなれん。

アンスバッハ准将に視線を向けた。無表情にエーリッヒを見ているが内心では何を考えているのやら。思わず溜息が出そうになったが堪えた。こんなところで溜息を吐いたらエーリッヒがどう思うか……。他人事みたいに溜息を吐くな! 誰の所為でこんなバカの相手をしていると思っている! 怒りまくるだろう。

「分からなくて結構。私が理解しているのはコルプト大尉が軍規に違反したという事です。軍規を正せと言うのは陛下の御意志でもありました。ミッターマイヤー少将がコルプト大尉を射殺したのは軍規を正したまでの事。陛下の御意志に沿ったまでの事です。それを復讐? 自分が何を言っているのか分かっているのですか?」

あーあ、怒ってるよ。口元には笑みが有るけど目は笑っていない。おまけに口調は丁寧だが微かに侮蔑が有る……。その内右手で左腕を叩き始めるぞ。そうなったら噴火五分前だ。エーリッヒ、頼むぞ、怒りはそいつだけに向けてくれ。俺達には間違っても向けるなよ。とばっちりはまっぴらだ。

「分かっておりますとも。軍規がなんだと言うのです。我らは貴族、我らこそ皇帝を守り帝国を守る選ばれた者達です。我らの意志こそ優先されるべき、そうではありませんか」
「……」

凄い、このわけの分からん自負はどこからくるんだ? 貴族だからと言う訳じゃないな、こいつが何処かおかしいんだ。エーリッヒも毒気を抜かれて唖然としているし俺だって目が点だ。アンスバッハ准将も妙な目でコルプト子爵を見ている。何か新種の生物、いや珍しい生き物でも見た様な表情だ。

「コルプト子爵家は賤しい平民に弟を殺されたのです。あの賤民を殺さなければ我が家に付けられた不名誉は拭えません。あの男だけでは無い、あの小僧、陛下の寵を良い事に増長するあの小僧にも償わせなければ……」

コルプト子爵はエーリッヒを見ていない。宙を見て何処かうっとりするような表情をしている。こいつ間違いなく危ない奴だな。友達にはなりたくないタイプだし友達も少ないだろう。何だってこんな馬鹿がコルプト子爵なんだ?

「陛下もようやく目を覚まされたようだ。あの小僧に爵位などキチガイ沙汰、世も末だと思っていたが、お取り止めになったのですからな」
エーリッヒが首を振り、一つ息を吐くと俺に視線を向けた。表情から怒りは消えている、呆れているのだろう。

「では復讐を止めるつもりは無いと」
「当然でしょう、これは我ら貴族の高貴なる義務なのです」
「そうですか……。では止むを得ませんね。好きにされたらいいでしょう」
エーリッヒがそう言うとコルプト子爵が満面の笑みを浮かべた。成り上がりの新公爵に貴族の義務を教える事が出来たと思っているのかもしれない。

「ようやく御理解していただけたのですな、喜ばしい事です。ブラウンシュバイク公爵家の御当主に我らの義務を御理解いただけぬことなどありえぬと思っていました。それでこそ我らの盟主、ブラウンシュバイク公です」
「……」
図星か……。良い気なもんだ。

「それでは私はこれで失礼させていただきます」
そう言うとコルプト子爵は席を立ち一礼して歩き出した。エーリッヒは見送ろうとはしない。無言で正面を見ている。通常客が退出する時、主人は客を見送るのが礼儀だ。それを行わない……。コルプト子爵にはその意味が分からないようだ、愚か者が。お前は新公爵を怒らせたのだ、これ以上ないほどに……。部屋を出る直前だった。エーリッヒがコルプト子爵を呼び止めた。

「コルプト子爵」
冷たい声だった。エーリッヒは正面を向いたままだ、彼の視線はコルプト子爵を無視している。
「何でしょうか」
「今後、ブラウンシュバイク公爵家はコルプト子爵家との関係を断たせて頂く。以後当屋敷への出入りを禁じます」

何を言われたのか分からなかったのだろう、コルプト子爵は呆然としている。
「寵姫の争いを煽る、軍規を正した士官を殺そうとする。陛下の御意志に背くかの如き行為をする、いわば反逆者をこの屋敷に入れる事は出来ません」

「な、何を言われる」
「シュトライト准将、その愚か者を叩き出しなさい」
「はっ」
シュトライト准将がコルプト子爵の腕を取る。嫌がるコルプト子爵にエーリッヒが追い打ちをかけた。

「アンスバッハ准将、リッテンハイム侯に伝えてください。ブラウンシュバイク公爵家はコルプト子爵家との関係を断つと」
「承知しました」
コルプト子爵が連れ出されるのを見届けてからアンスバッハ准将がエーリッヒに問いかけた。

「リッテンハイム侯にコルプト子爵家に対して当家と同様の処置を執られたいと申し入れますか」
エーリッヒがアンスバッハ准将を見た。冷たい視線だ、余程に怒っている。
「その必要は有りません」

「しかし」
エーリッヒの視線が強まった。
「私がブラウンシュバイク公爵家に入ったのはブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、政府、軍の妥協によるものです。リッテンハイム侯がそれを忘れ私よりもあのような愚物を選ぶと言うならそれも良いでしょう」
言い終えるころには笑みを浮かべていた。アンスバッハ准将も何も言えずに沈黙した。一礼して部屋を出ていく。

拙いな、部屋には俺とエーリッヒの二人だけだ。エーリッヒが怒っているのが嫌でも分かる。アンスバッハ准将も余計な事を言ってくれた。何も言わずに出て行ってくれた方がはるかに良かったんだ。後で文句の一つも言わないと割が合わん……。部屋の空気がピリピリしている、後でクリームを塗らないと肌荒れになるな。俺はこう見えても乾燥肌なのだ。

「アントン、座らないか」
「いや、俺は」
「遠慮しなくて良い、客は帰ったんだ」
逆らえん、観念してエーリッヒの前に座った。電気椅子にでも座った気分だ。

「アントン、卿らはあんな馬鹿の相手をさせるために私をブラウンシュバイク公にしたのか」
「……」
あ、いやそういうわけじゃないんだ。あれはちょっと酷いだけで他はもう少しましだ。だから頼むからその腕トントンは止めてくれないかな、俺達は友達だろう、親友じゃないか。

「何故黙っている」
「あ、いや、その」
だってあれはちょっと酷いだけですとは言えないだろう。それにああいう馬鹿の相手をするのがブラウンシュバイク公の仕事だとも言えないじゃないか。だったら沈黙してる方が疲れずに済む。卿だって嫌な思いをせずに済むだろう。

「あんな奴の盟主だって? まるで濡れ雑巾で顔を拭かれたような気分だ」
「それなら、き、気分転換にココアとかどうだろう」
「要らない」
にべもない返事だった。ココアは気分転換には良いんだけどな、甘いものを摂ると気分が落ち着く。これからは応接室には必ずケーキを用意させよう。それとキャンディだ。必需品だな。

部屋のドアが開いてアンスバッハ准将とシュトライト准将が入ってきた。恐る恐るといった感じだ。これで多少は怒りを分散できる。席を立とうとした所でエーリッヒに手で制された。やむを得ず席に座りなおした。

「二人とも座ってください」
エーリッヒの正面には座りたくない。席を譲ろうとした時だった。二人が俺を挟むように席に座る。ちょっとそれは酷いだろう。二人の顔を見たが二人とも知らぬ振りをしている。

多分二人とも適当に時間を潰してから来たに違いない。どう対応するかも検討してきたのだろう。俺に貧乏くじを引かせるつもりだ。
「コルプト子爵は帰りました。かなり慌てていたようです。おそらくはリッテンハイム侯の元へ向かうでしょう」
「リッテンハイム侯に連絡を取りました。分かったと言っておられました」

シュトライト、アンスバッハ両准将の報告にもエーリッヒは無言で頷くだけだ。准将達もそれ以上は何も言わず控えている。二人の准将が俺を挟んで顔を見合わせた。何考えてる、頼むから余計な事はしないでくれよ。

「ところで閣下、上級大将に昇進された事で陛下より閣下に艦が下賜される事になります。艦について希望が有るかと宮中より連絡が有りましたが……」
「ミューゼル提督にはブリュンヒルトという艦が下賜されるそうです。実験艦ですがなかなか良い艦だと聞いています。閣下がお望みなら同型艦を用意すると……」

シュトライト准将もアンスバッハ准将も最後まで言えない。気を逸らそうと言うのが見え見えだ。子供じゃないんだから艦を貰えば機嫌が直るなんて有るわけないだろう。返って機嫌を損ねるだけだ。頼むから子供扱いは止めてくれ、エーリッヒはその辺りは敏感なんだ。

「必要ありません」
ほらな、怒っているじゃないか。口元に笑みは有るが目は笑っていない。人食い虎みたいな笑顔だ。
「ブリュンヒルトなら知っています。コスト度外視で造った実験艦ですよ、あれは。実験艦は一隻で十分、二隻あっても無駄です」

その通りでございます、公爵閣下。馬鹿な二人の准将には後できつく言っておきますのでそろそろお許しください。
「適当な艦を選んでもらって結構です。条件は高速戦艦である事、通信設備が充実している事。その二つが満たされていればどんな艦でも構いません」

要するに戦える艦を持ってこいというわけだ、飾りは要らんと。ヴィルヘルミナ級は止めた方が良いだろうな。あれで良いなら最初から指名したはずだ。適当なのが有れば良いんだが……。

俺達が開放されたのはそれからすぐの事だった。大公夫人が現れエーリッヒをお茶に誘ったのだ。俺達も誘われたが当然遠慮した。家臣の分際で主君と同席など怖れ多くていかん、分をわきまえないと。

「酷いですよ、お二人とも。小官を矢面に立たせるとは」
「卿は公爵閣下の親友なのだ、当然だろう」
エーリッヒがいなくなった応接室で平然とアンスバッハ准将が言うともう一人の准将が当然と言ったように頷いた。性格悪いよな。

「お役に立てなくて申し訳ありません。ですがあんなに怒ってしまったらどうにもなりませんよ」
「コルプト子爵か、まああれは酷かったな。シュトライト准将」
「うむ、確かに酷かった」
二人ともまるで他人事だ。

「それとエーリッヒを子供扱いするのは止めてください。火に油を注ぐようなものです」
「おかしいな、普通戦艦を貰えるとなれば男の子なら喜ぶものだが」
「うむ、確かにおかしい」
男の子は無いだろう。一応二十歳は過ぎているんだぞ。

「まあ、大公夫人に頼んでおいて正解だな」
「全くだ。ここに居る親友は何の役にも立たん」
「……あれはお二人が頼んだのですか」

俺の問いかけにアンスバッハ准将がニヤリと笑った。
「保険を掛けるのは当然だろう」
「当然だ。まだまだ青いな、フェルナー大佐」
溜息が出た。怖い主君と喰えない僚友。俺は銀河で一番不幸だ……。







 

 

第十話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その4)

■ 帝国暦486年 8月 2日  オーディン リッテンハイム侯爵邸  ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム三世



妻と娘が着飾って出かけようとしていた。
「何処か行くのか」
「ええ、お姉様の所に」
「ブラウンシュバイク公の所か」
「そうよ、お姉様の自慢の息子を見に行くの、ねぇ」

妻が娘に同意を求めるとサビーネは嬉しそうに頷いた。はて、サビーネは出かけるのが嬉しいのか? それともあの男に会いに行くのが嬉しいのか? 気にし過ぎか……。サビーネは未だ十二歳だ。

「自慢の息子か」
「可愛いんですって。コーヒーが苦手でココアが大好き、美味しそうに飲むってお姉様が笑ってたわ。お姉様は新しい息子に夢中よ。ケーキ作りが得意でとても美味しいんですって。今日はそれを御馳走になりに行くの」

気楽なものだ、男の世界の葛藤など女達にとっては何の意味もない。美味しいケーキを御馳走になる? あの男がケーキ作り? 今このオーディンで何が起きているか分かっているのか? いや分かっていても行くのだろうな。女にとって美味しいケーキは麻薬と同じだ。分かっているが止められない。まるで別世界の話だ。

「最近は気兼ねなくお姉様の所に行けるし本当に楽しいわ。どうしてもっと早くこうならなかったのかしら」
「……」
「お土産貰ってくるわ、美味しいケーキをね」
屈託なくそう言うと妻は娘を連れて外に出て行った。

最近は気兼ねなくお姉様の所に行けるか……。昔、大公と張り合っていたころは妻も大公夫人と会う事を控えていた、というより控えざるを得なかった。気兼ねなく話せる相手を失う、TV電話で話すことは出来ても会うことは出来ない。寂しい思いをさせていたのかもしれん……。それにしてもお土産にケーキ? あの男が作ったやつか?

妻が出かけて一時間も経った頃、書斎でうたた寝をしていた私をリヒャルト・ブラウラー大佐が起こした。
「どうした、ブラウラー」

内心、起こされた事に腹立ちは有ったが抑えた。ブラウラーが詰まらない事で起こすような男ではないと分かっている。
「お客様がお見えです」

客? 来客の予定は無かったはずだ、何故私を起こした……。私の訝しげな表情を見たブラウラーが済まなさそうな表情で“急なお客様です”と言った。なるほど、ようやく頭が動いてきた。
「コルプト子爵か?」
「はい」

一週間ほど前、ブラウンシュバイク公がコルプト子爵との関係を断った。理由はコルプト子爵がベーネミュンデ侯爵夫人を唆しグリューネワルト伯爵夫人を陥れようとしたこと、それによって夫人の弟であるミューゼル大将の失脚、そして部下であるミッターマイヤー少将の殺害を図った事……。皇帝に叛くかのような行いをする愚か者とは関係を断つ、そういう事だった。

「コルプト子爵が来たのか、当家も付き合いは断った筈だぞ」
「いえ、そうでは有りません。ヒルデスハイム伯、シェッツラー子爵、ヘルダー子爵、ハイルマン子爵、ホージンガー男爵、それにカルナップ男爵です。コルプト子爵の一件でご相談が有ると。……失礼しました、ラートブルフ男爵を忘れていました」

やはりな。コルプト子爵が親しい貴族に泣きついていると言う話は聞いていたがそれだな。話がまとまってここに来たと言う訳か……。面倒な……、妻と一緒にケーキを食べに行けばよかった。
「忘れてくれて構わんぞ。どうせならあと二、三人忘れて欲しかったな」

ブラウラーが困ったような顔をした。無茶を言うと思ったのか、それとも誰を忘れれば良かったのか考えているのか。あるいは私に呆れているのか……、判断に悩むところだが、気晴らしにはなる。

それにしても妙な顔ぶれだ。当家に親しいものもいればブラウンシュバイク公爵家に親しい人間もいる。なるほど、新当主には話し辛いか。これまでの経緯を考えれば無理もない事ではある。あの小僧、余程敬遠されているらしい。結構な事だ、昼寝の邪魔をする馬鹿が居ないという事だからな。

「それで何を望んでいるのだ」
「コルプト子爵を受け入れて欲しいという事でしょう。その後でブラウンシュバイク公へのとりなしを頼むつもりかもしれません」
「……」

溜息が出た。そんな目で私を見るな、ブラウラー。全く話にならん、連中は何も分かっていない。リッテンハイム侯爵家はブラウンシュバイク公爵家と手を握ったのだ。その手は政府、軍とも結ばれている。

ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、政府、軍は内乱を防ぎそれぞれが繁栄するために四者連合を結んだ。この連合によりサビーネは皇后になりリッテンハイム侯爵家は帝国屈指の権門として繁栄する事が約束された。

何故コルプト子爵如きのためにその輝かしい未来を捨てねばならないのだ? コルプト子爵にそれだけの価値が有るか? ベーネミュンデ侯爵夫人を唆してグリューネワルト伯爵夫人を害す? 良くもそんな愚劣な事を考えたものだ。そんな馬鹿を助ける価値など何処にあるのだ。

もし当家がコルプト子爵を受け入れればどうなるか、当然だが我が家はブラウンシュバイク公爵家、政府、軍から敵対行為だと非難されるだろう。繋いだ手を離したとみられるのだ。そして当家が代わりに握ったのは役に立たないコルプト子爵の手だ。我が家の立場は恐ろしいほど不安定なものになる。

連中は何も分かっていない、いや分かろうとはしない、認めたくないという事なのかもしれん……。四者連合は彼らには何の関わりもない所で生まれた。その事が気に入らないという事は十二分に有り得る……。

「話にならんな」
「会えないと伝えますか」
「……いや、会おう。連中の蒙を開いてやろう。大広間に通しておいてくれ」
ブラウラー大佐が一礼して部屋を出ていく。全く、話にならん……。

大広間に入ると皆がこちらに視線を向けてきた。昔はこの連中に取り囲まれて喜んでいた。そう思うと自分が嫌になってきた。若気の過ち……、とは言えないな。何であんな馬鹿げたことをして喜んでいたのか……。おかげでもう少しで滅びかけた。

自分の愚劣さを見せつけられたような気がしてうんざりした。まるで粗相をした後のパンツを見せられたような気分だ。汚れたパンツは捨てるに限る。あの男はこの馬鹿どもを潰したがっているが大賛成だ。こんなにも汚れたパンツが有るなど人生の悪夢だ。もしかすると大公も同じような気持ちかもしれない。

「皆、何の用かな」
出来るだけ穏やかな声を出した。最初から喧嘩腰で行く必要は無い。
「今日は侯爵閣下にお願いが有ってきました」
先ずはヒルデスハイム伯が口火を切った。

「コルプト子爵の事です。出入りを禁じ一切の関係を断つとはいささか極端ではありますまいか。それに不当でもあります。子爵は侯にとっても近しい一族のはずです」
ヒルデスハイム伯の言葉に皆が頷いている。頷いていないのは私だけだ。

「コルプト子爵はベーネミュンデ侯爵夫人を煽り、グリューネワルト伯爵夫人を害そうとした。彼の行動は皇帝陛下に対する反逆行為であろう、そのような人物と繋がりを断つのは当然だ、卿らが何を騒ぐのか分からんな」
敢えて冷淡な口調で答えた。もっともそんな事で引っ込む連中ではないことも分かっている。

「コルプト子爵は弟の仇を取ろうとしただけです」
「反逆は許されん。いかなる理由が有ろうともな」
ヒルデスハイム伯達が顔を見合わせている。彼らの顔に有るのは困惑ではない、確信だ。何を考えた?

「コルプト子爵もその事については反省しています。自分の取った行動が反逆と取られるとは思っていなかったそうです。ただ弟の仇を取りたいと、その思いが先走ってしまったと」
ヒルデスハイム伯が神妙な表情をしている。もっともこの男の神妙な表情など当てにはならん。

「ヒルデスハイム伯、私がブラウンシュバイク公から聞いた話とは少し違うな。子爵は自分の行為が反逆だと理解していたと聞いているぞ。それとも卿は公が嘘をついていると言うのかな」
敢えて厳しい口調で言った。相手が乗ってくれば激高した振りをして叩き出す。だが伯はこちらの思惑には乗らなかった。落ち着いた口調で話してくる。

「そうでは有りません。子爵はブラウンシュバイク公の前では興奮してしまい愚かな事を口走ったと後悔しております。本心ではなかったと」
それが本当なら殊勝ではあるが、到底信じられんな。

「コルプト子爵の気持ちは理解できますし無視して良いものでもありますまい。誰だとて肉親が殺されれば平静な気持ちではいられません。まして我々貴族の血が平民によって流されたのです」
ヒルデスハイム伯を補うようにシェッツラー子爵が言葉を続けた。なるほど、こいつらの狙いはミッターマイヤー少将か。

「コルプト子爵は釈明の機会を与えて欲しいと言っております」
今度はカルナップ男爵だ。入れ代わり立ち代わり汚れたパンツが忙しい事だ。
「釈明だと」
「そうです。釈明の機会さえ頂ければ自分に反逆の意思が無かった事を証明できる。全てはベーネミュンデ侯爵夫人に罪が有るのだと言っております」

ミッターマイヤー少将を殺せれば、ベーネミュンデ侯爵夫人の事などどうでも良いという事か。コルプト子爵は侯爵夫人を徹底的に利用するつもりだ。彼女に全ての罪を着せそして自分は望みを叶えようとしている。哀れな女だな、侯爵夫人。そなたはミッターマイヤー少将の命と引き換えに今売られようとしている……。

「幻の皇后などと呼ばれて少し増長したようですな。侯爵閣下も不愉快では有りませんでしたか」
「……」
妙な目で皆がこちらを見ている。……なるほど、そういう事か……。

こいつらは私と取引をするつもりだ。侯爵夫人はブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家に対して敵意を隠さない。脅威ではないが目障りな存在だ。これを機に侯爵夫人を処断してはどうかと誘っている。そしてその代償がミッターマイヤー少将だ。

ブラウンシュバイク公の所ではなく私の所に来たのもそれが理由だ。ブラウンシュバイク公爵家は既に代替わりをし、しかも当主は養子だ。これでは取引は難しい。だがリッテンハイム侯爵家は違う。この連中は私なら取引が可能だと見た……。

「卿らはミッターマイヤー少将の命をコルプト子爵に委ねろと言うのだな。私にブラウンシュバイク公を説得しろと」
私の問いかけに誰も答えなかった。つまり反対者はいないという事だ。
「筋が違うな」
敢えて冷淡に答えた。こいつらと取引する必要などない。

「あの遠征の総司令官はブラウンシュバイク大公だった。大公はコルプト大尉を射殺したミッターマイヤー少将を咎めなかった。少将の行為は軍規を正しただけで問題は無いと判断したのだ。総司令官が判断した事を卿らがどうこう言う資格は無い」

「しかし」
抗議しようとするヒルデスハイム伯を手で制した。
「この件は私とブラウンシュバイク大公、ブラウンシュバイク公の間で話し合い、公が預かる事になっている。話が有るなら公の所に行くのだな。幸い今日は屋敷に居るはずだ。今の話を彼にするが良い、御苦労だった」
「……」
汚れたパンツよ、さようならだ。さてもう一眠りするか。



■ 帝国暦486年 8月 2日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「美味しいわね、サビーネ」
「はい、お母様」
リッテンハイム侯爵夫人が娘のサビーネとティラミスを食べている。二人ともニコニコ顔だ。こうして見ていると何処にでもいる母娘だな。というより何処にでもいる家族か。居間には俺の他にブラウンシュバイク大公夫妻、エリザベート、リッテンハイム侯爵夫人母娘が居る。和気あいあいだ。

「そうでしょう、エーリッヒはケーキ作りが得意なのよ。養子に迎えるよりパティシエとして迎えた方が良かったかも」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら大公夫人が言うと皆が笑った。笑えないのは俺だけだ。

「失敗だったかな、アマーリエ」
「どうかしら、まあケーキを作れる息子と言うのも悪くないわ」
「良かったな、エーリッヒ。息子として認めて貰えたようだ」
また笑い声が上がった。頼むよ、仲が良いのは分かるが俺で遊ぶのは止めてくれ。

「しかし義父上が甘いものが好きだとは思いませんでした」
「この人、お酒も好きだけど甘いものにも目が無いの。糖尿病が心配よ」
大公が夫人の言葉にちょっとバツが悪そうな表情をした。公爵とか大公とか言ったって女房には弱いか。まして相手は皇女だからな、頭が上がらんのだろう。

だとしたら俺はどうなるんだろう。小糠三合持ったら養子に行くなって言うよな、養子先は公爵家? 先が思いやられる……。エリザベートを見た、美味しそうにティラミスを食べている。大丈夫かな。

「この人が髭を生やさない理由を知ってるかしら?」
「おいおい、アマーリエ」
「良いじゃないの。リッテンハイム侯が髭を生やしているのにこの人が生やさない理由は……」
大公夫人は言葉を切ると悪戯っぽい表情で周りを見渡した。大公だけが困ったような顔をしている。

「お髭に生クリームが付くと威厳が無くなるから」
皆が笑い出した。悪いが俺も笑わせてもらった。大公も苦笑している。エリザベートが“本当なの、お父様”と訊くと大公は曖昧に頷いた。その有様に皆がまた笑った。

楽しい一時を終わらせたのはアントン・フェルナーの声だった。
「公爵閣下、御寛ぎの所を申し訳ありません」
「お客様かな」
「はい」
「例の方達かな」
「はい」

大公と顔を見合わせた。リッテンハイム侯より馬鹿どもがこの屋敷に来ることは聞いている。先程までの和気あいあいとした空気は消えていた。女性陣も沈黙を守っている。

「申し訳ありません、来客のようです」
「御苦労だな、エーリッヒ」
「いえ、それほどでは有りません」
「わしに遠慮はいらぬ、ブラウンシュバイク公爵家の当主はお前だ。好きにやるがよい」
「はい」

席を立ち軽く一礼してから離れる。フェルナーが先に立って歩き出した……。







 

 

第十一話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その5)

■ 帝国暦486年 8月 2日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



応接室に入ると数人の男達がこちらに視線を向けてきた。決して好意的な視線ではない。一人、二人、三人、全員で六人。おかしいな、確かリッテンハイム侯の屋敷に押し掛けたのは七人のはずだ。一人足りない。

ヒルデスハイム伯、ヘルダー子爵、シェッツラー子爵、ラートブルフ男爵、ホージンガー男爵、カルナップ男爵……、なるほどハイルマン子爵が消えている。俺には会い辛いという事か。リメス男爵家の一件が有るからな。リッテンハイム侯を通して俺を説得しようとしたのはそれも有るか……。

俺が席に座ると斜め後ろにフェルナーとアンスバッハ准将が立った。シュトライトは入り口付近に立っている。
「待たせたようですね、申し訳ない。今日はリッテンハイム侯爵夫人、侯爵家のフロイラインが遊びに来ていて、その御相手をしていたのです」

六人が微妙な表情をした。ブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家の親密さを再確認したのだろう。考えてみればこの連中にとってはブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家が親しいのは面白くない事態なのだ。敵対し反発しているからこそ自分達の価値が上がる。味方しますよ、と恩を押付ける事が出来る……。

何の用だとは聞かない。向こうから何か言い出すまで沈黙を守ることにした。居心地悪そうに六人が座っている、中には明らかに苛立っている奴もいる。成り上がりの新公爵は自分達の機嫌を取るべきだとでも思っているのか? 残念だな、俺はお前らと口なんか利きたくないのだ、阿呆。

咳払いをしてヒルデスハイム伯が口を開いた。
「ブラウンシュバイク公、コルプト子爵の事ですが……」
「あの謀反人が何か?」
敢えて突き放したように言うとヒルデスハイム伯が口籠った。そして六人が互いに顔を見合わせている。

こいつら一体此処へ何しに来た? さっきから顔を見合わせてばかりだが。
「あ、その大公閣下は……」
「大公はリッテンハイム侯爵夫人とお茶を楽しんでいます。ヒルデスハイム伯、それが何か?」

また顔を見合わせている。なるほど、俺じゃなく大公と話したいという事か。連中にとって俺は話し辛い存在なのだ。貴族として同じ価値観を持っていない。つまり馴れ合うことが出来ない、極めて異端な存在に思えるのだろう。交渉相手としては最悪な存在だ。

「コルプト子爵の件に関しては私が全てを委ねられています。ここに来る時も義父からは自分に遠慮はいらないと言われました。ヒルデスハイム伯、私では不満ですか」
「……」

沈黙かよ、ヒルデスハイム。他の五人に順に視線を向けるが皆視線を逸らした。お前ら失礼だろう、こんな奴らのために俺は楽しいお茶の時間を切り上げたのか? 段々腹が立ってきた、落ち着け、腕を叩いて落ち着くんだ……。



■ 帝国暦486年 8月 2日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  アントン・フェルナー



拙い、エーリッヒが腕トントンをやっている。本人はあれで怒りを抑えるなんて言ってるがあれがでたら三回に一回は爆発するんだ、全然抑えになってない。あれは噴火五分前の合図と見た方が良い。……いかんな段々腕を叩く速度がゆっくりになっていく、危険な兆候だ。

応接室は静まり返りエーリッヒの腕を叩く音だけが聞こえる。テーブルの上には甘いものを置いたんだがエーリッヒは見向きもしない。効果なしか……、新しい手を考えておかないといかん。それにしてもこいつら何しに来た? このまま黙りこくっている気か?

普段エーリッヒを成り上がりとか平民とか、ヴァレンシュタインとか陰で言っている癖に本人を目の前にするとこれか……。まあ色々有るからな、リッテンハイム侯爵邸の一件とか黒真珠の間の一件とか……。相手が誰だろうとエーリッヒは容赦しない。そういうのを見てれば確かに怖いのは分かる、分かるがあまりにも頼りにはならんな。エリザベート様の婿にエーリッヒを選んだのは正解だ。

異様な雰囲気に耐えかねたのか、ヒルデスハイム伯が恐る恐ると言った口調で話し始めた。
「コルプト子爵の事ですが出入りを禁じ一切の関係を断つとはいささか極端ではありますまいか。コルプト子爵家はブラウンシュバイク公爵家にとっても近しい一族のはずです。公の御一存で……」

最後まで伯は話すことが出来なかった。
「ヒルデスハイム伯」
「はっ」
エーリッヒが腕を叩くのを止めた。

「コルプト子爵は反逆と言って良い行いをしたのですよ。その事を伯はお分かりではない様だ」
冷たい声だ、そして厳しい視線だ。ヒルデスハイム伯はそれに耐えられないかのようにうなだれている。

コルプト子爵ではなくコルプト子爵家か……、そしてブラウンシュバイク公爵家。個人ではなく家の問題にすることで養子であるエーリッヒが勝手に決めて良いのかと言いたかったのだろうが……。姑息だな、話にならん。

「コ、コルプト子爵は本心ではなかったと言っています。つい興奮して愚かな事を言ってしまったと」
今度はホージンガー男爵だ。愚かな奴、もう少し考えてから口にしろ。

「私はグレーザー医師から全て聞いているのです。コルプト子爵の行動は弁解できるものではありません」
「しかし、卑しい医師の言う言葉など」
「口を慎みなさい! ホージンガー男爵。グレーザー医師は宮廷医ですよ、それを卑しい? 何を考えているのです」
厳しい叱責に今度はホージンガー男爵がうなだれた。駄目だな、話にならん、何も言わずにもう帰れ。

「どうもここにいる人達は状況が分かっていない様だ」
「……」
エーリッヒの言葉に皆が顔を見合わせた。彼らの顔には明らかに不安が浮かんでいる。

「コルプト子爵は反逆者と呼ばれても仕方のない行為をした。その所為でブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家から関係を断たれた。その事は皆が知っています。政府もです」
「……」

「ブラウンシュバイク公爵家がコルプト子爵を告発すればコルプト子爵は反逆者として処断される事は間違いありません。証人はグレーザー医師と私、充分すぎるほどの証人でしょう。それをしないのはコルプト子爵へのせめてもの情けです」

エーリッヒの言葉に皆が訝しそうな表情をしている。エーリッヒが何を言いたいのか、分からないのだろう。少しは頭を使えよな。
「当家が政府に訴え出る前にコルプト子爵は自首すべきだったのです。そして全てを話し慈悲を願うべきだった。そうであれば情状酌量の余地も有ったのに……」
「……」

エーリッヒが一つ溜息を吐いた。そして憐れむような表情で六人を見る。
「コルプト子爵は愚かにも徒党を組み反逆を推し進めようとした。先ず自分への嫌疑を逸らす為ブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家に関係を元に戻すようにと迫った」

ギョッとしたような表情で六人がエーリッヒを見ている。
「ブラウンシュバイク公、それは曲解です。我らはコルプト子爵の反逆に与してなどいません。ただ彼を哀れだと思い……」
慌てたようにヒルデスハイム伯が弁解した。他の五人も口々にヒルデスハイム伯にならって弁解する。

「残念ですね」
「……」
「貴方達が何を考えたかではありません。周りからどう見えたかです。私が思うに貴方達はコルプト子爵の一味ですよ。反逆者ですね」
「そんな」
情けない声を上げるなよ、ヘルダー子爵。

「先程言いましたが政府も既にコルプト子爵の事は知っている。そして関心を持って見ています。彼の、そして貴方達の行動が政府にどう見えたか」
「……」
「アンスバッハ准将」
「はっ」
「卿から見てこの六人はどう見えました? 正直に答えて下さい」
アンスバッハ准将が一瞬だけ六人を見た。皆縋りつく様な表情をしている。

「反逆者ではないのかもしれません。しかし……」
「しかし?」
「反逆者と取られても仕方ないと思います」
彼方此方で呻き声が起きた。上手いよな、アンスバッハ准将。一度希望を与えておいて次に絶望を与えるか……。流石は根性悪。この部下にしてこの主君ありか。

「貴方達が助かる方法は一つしかありません。直ぐにコルプト子爵を説得し自首させることです。それはコルプト子爵を救う事にもなるでしょう。急ぐのですね」
「……」
馬鹿が六人呆然として顔を見合わせている。残念だな、所詮お前らはエーリッヒの敵じゃない、素直に言う事を聞いてあの馬鹿を自首させろ。それがお前らのためだ。溜息が出た……。



■ 帝国暦486年 8月12日  オーディン 新無憂宮  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「御苦労じゃな、ブラウンシュバイク公」
国務尚書の執務室を訪ねるとリヒテンラーデ侯が笑みを浮かべて迎えてくれた。ソファーに座る事を進め、自ら飲み物を用意してくれる。紅茶だ。ココアでないのは残念だがコーヒーに比べれば遥かにましだ。しかしこの爺さんが笑みを浮かべると不気味だな。

「まさかあの連中だけではなく私まで調書を取られるとは思いませんでしたよ」
「そう言うな、リッテンハイム侯も調べに応じたのだ。もっとも侯は調書を取られるのは二度目か」
そう言うとリヒテンラーデ侯が声を上げて笑った。俺も笑わざるを得ない、その調書には俺も関わっている。

八月二日に行われた俺とヒルデスハイム伯達の会合の後、事態は急激に動いた。ヒルデスハイム伯達は自分の身が危ういと理解したのだろう、その後の行動は早かった。嫌がるコルプト子爵を説得し自首させた。

噂によるとヒルデスハイム伯達はブラスターをコルプト子爵の頭に突きつけて自首を迫ったらしい。コルプト子爵は泣きながら自首すると言ったと言われている。なかなか過激だな。

コルプト子爵の自首を受けた政府は慎重に調べ始めた。グレーザー医師、あの馬鹿貴族ども、リッテンハイム侯、そして俺……。但しベーネミュンデ侯爵夫人は取り調べを受けていない。

政府はこの事件の元凶が彼女だと認識している。彼女の不満がこの事件を引き起こした。しかし侯爵夫人は皇帝の寵を受けた女性であり、彼女の不満の源が皇帝の寵が失われた事であるとも認識している。不用意に彼女を調べれば皇帝の威信に傷が付きかねない。そこで周囲の取り調べを優先し証拠を十分に用意しようと考えている。彼女にはその証拠を突きつけ有無を言わせない。

今現在彼女の行動は制限されている。屋敷の周辺を警備と言う名目で警察が固め人の出入りは厳しく制限されているし、侯爵夫人その人は外出を許されていない。要するに謹慎、いや監禁に等しいだろう。

「捜査は終了ですか」
俺の言葉にリヒテンラーデ侯が頷いた。
「そろそろ終わりだ。皆取り調べに非常に協力的でな、誰かが酷く脅したらしい」
変な目で俺を見るな。侯の視線を無視して紅茶を一口飲んだ。

「問題はこの後ですが、処分をどのようにお考えです?」
俺が問いかけるとリヒテンラーデ侯は左手で顎を撫でまわした。
「うむ、それよ。陛下のお気持ちを考えると死罪と言うのは出来れば避けたい」
まあそうだな。今はともかくかつては子を儲けるほど愛した女性なのだ、死罪では寝覚めが悪いだろう。まして原因は皇帝が彼女を捨てたことに有るのだ。

「では爵位、領地の剥奪?」
リヒテンラーデ侯が顔を顰めた。
「それも無理だ。たちまち野垂れ死にだろう。それくらいなら賜死という形で名誉ある死を与えた方が良かろう」
「そうですね」

宮中でしか生きられないか……。貴族は力を持っているかもしれない。しかしひ弱で脆弱だ。貴族でなくなった瞬間から弱者に転落する。彼らが貴族であることを尊びそれに執着するのはその所為かもしれないな……。

「まあ証拠を突きつけ次は容赦せぬと釘を刺すしかないな。それと領地の一部召し上げ。今後、侯爵夫人は二十四時間監視下に置かれるだろう。陛下にもご理解いただく」
まあそんなところだろうな、消化不良になりそうな処分だな。
「ではコルプト子爵も死罪は有りませんか」
俺の言葉にリヒテンラーデ侯が頷いた。

「夫人を死罪に出来ぬ以上、子爵も死罪には出来ぬ。本来なら死罪だが本人が反省し自首してきたという事、捜査に協力したという事で罪を減じる。まあ謹慎の他、領地の一部召し上げ、その辺が落としどころだろう」

「ブラウンシュバイク公爵家はコルプト子爵家との付き合いを元に戻しませんよ」
俺の言葉にリヒテンラーデ侯が頷いた。
「なるほど、その方が良かろう。どんな処罰よりも厳しく感じるはずだ。卿、良い事を考えるな」
残念だな、御老人。あの馬鹿の顔を二度と見たくない、それが真の理由だ。

「陛下にお話しする前に我らの間で今の事を確認しておきたい。今宵、卿の屋敷で会合を持ちたいと思う。リッテンハイム侯に伝えておいてくれ」
「それは構いませんが……」
俺が言葉を濁すとリヒテンラーデ侯は訝しげな表情を見せた。

「ミューゼル大将はどうします」
「結果だけ伝えれば良かろう」
リヒテンラーデ侯が顔を顰めている。やはりこの老人、ラインハルトを好んでいない。

「出来れば彼を味方に取り込みたいのですが」
「ふむ」
「幸い名目は有ります。伯爵夫人に対する嫉妬が原因ですからね」
「なるほど……。良かろう、そうしよう」
そう言うとリヒテンラーデ侯は妙な目で俺を見た。

「卿、大公に似ておるな」
「はあ」
「敵になる人間を味方に取り込む。ブラウンシュバイク公爵家はなかなか強かだ。敵に回すと手強い」
侯が笑い出す。なるほど、そういう意味か。一瞬何の事だかさっぱり分からなかった。

「大公が感心しておったぞ。あの小煩い連中を見事に黙らせたと……。なかなかの息子振りじゃな、ヴァレンシュタイン」
余計な御世話だ、好きで養子になったわけじゃないぞ。俺を養子にしたのはお前らだろうが、この陰険ジジイ。




 

 

第十二話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その6)

帝国暦486年 8月12日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  ラインハルト・フォン・ミューゼル



「ラインハルト・フォン・ミューゼル大将です。公爵閣下に私が来た事をお伝えいただきたい」
「暫くお待ちください。主人を呼んでまいります」
来訪を告げると応対したのはまだ若いシャープな印象を与える大佐だった。確かフェルナーという名前だったはずだ。大佐はそのまま奥へと戻っていく。

どうも妙な気分だ。フェルナー大佐の言葉からすると公爵自ら俺を出迎えるという事らしい。確かに俺は帝国軍大将だが帝国きっての実力者になりつつあるブラウンシュバイク公にそこまで気遣って貰える立場でない事は自分自身が良く分かっている。公爵になったからといって友誼は変わったわけではないということだろうか。

隣に居るキルヒアイスと顔を見合わせた。キルヒアイスも妙な表情をしている。俺と同じ事を考えているのだろう。
「ラインハルト様、今の方はフェルナー大佐と言いますが大佐と公爵閣下は士官学校で同期生でした。親友だったとか」
「そうか……」
いわば腹心というわけか……。大佐が俺に丁重に応対するのは公の意思が強く働いているのは間違いないだろう。

直ぐにブラウンシュバイク公が現れた。後ろにはフェルナー大佐が付いている。ブラウンシュバイク公は常に変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「お待ちしていました、ミューゼル提督。さあ、こちらへ」
公は手を取らんばかりにして俺を案内しようとする。ちょっと困惑した。

「大将閣下、では私は地上車の方で待たせていただきます」
「その必要は有りませんよ、キルヒアイス中佐。中でお茶でも飲んで待っていてください」
「……」
キルヒアイスが言葉に詰まっている。どう判断して良いのか分からないのだろう。俺も同感だ、キルヒアイスの立場では外で待っていろと言われる事は有っても中でお茶でもというのは有りえない。

「遠慮はいりません。夜とはいえ外は暑いでしょう。アントン、奥でキルヒアイス中佐の相手をしてもらえないかな」
「承知しました」
「お茶に飽きたらシミュレーションでもして中佐をもてなして欲しい。中佐はかなりの腕前だ。私より上かな」
そう言うとブラウンシュバイク公は軽やかに笑い声を上げた。もしかすると俺達を困らせて喜んでいるのか? そんな思いがした。

フェルナー大佐が興味深そうにキルヒアイスを見ている。キルヒアイスがその視線を避ける様に俺を見た。
「ブラウンシュバイク公、キルヒアイス中佐は……」
止めようとした俺をブラウンシュバイク公が笑いながら遮った。
「ミューゼル提督、キルヒアイス中佐の実力はミューゼル提督が一番御存じでしょう。しかし周囲はそれを知りません。あまり良い事ではありませんね。中佐が昇進するにつれて風当たりが強くなる」

言葉が無かった。確かにブラウンシュバイク公の言う通りではある。今までは俺達を受け入れようとする人間はほとんどいなかった。しかし今は違う、ブラウンシュバイク公は俺達を積極的に受け入れようとしている。キルヒアイスもその能力を周囲に知らせておくべきかもしれない。幸いブラウンシュバイク公はこちらに好意的だ、ここでなら悪いようにはならないだろう……。
「キルヒアイス、せっかくの御好意だ。有難くお受けしよう」
「承知しました」

応接室に通されると既に先客がいた。ブラウンシュバイク大公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、どうやら若輩者の俺が最後らしい。一言言わねばならんだろう。
「遅くなりました、申し訳ありません」
俺の言葉に皆が無表情に頷く。それを見てから空いている席に着いた。席について改めて思った。皆、必ずしも俺に好意的ではない。その俺が何故ここに呼ばれたのかと……。やはりブラウンシュバイク公の好意だろう、どう見ても場違いだ。

ドアが開いて若い女性が入ってきた。おそらく使用人だろう、コーヒーを持ってきた様だ。俺の所に来ると一礼してコーヒーを置いた。至れり尽くせりだ、自然とこちらも頭を下げていた。どうも調子が出ない。これまで不当に扱われる事は有ってもここまで丁重に扱われた事は無い。悪い気持はしないのだが困惑してばかりだ。

「どうやら皆揃ったようだ。そろそろ始めてはどうかな、リヒテンラーデ侯」
女性が出て行くのを見届けてからブラウンシュバイク大公が口を開いた。リヒテンラーデ侯が“うむ”と頷く。俺達を見渡しながら口を開いた。
「ベーネミュンデ侯爵夫人、コルプト子爵の一件じゃが捜査はほぼ終了した。この一件のおおよその経緯と今後の事を関係者である卿らに話しておきたい」
低くしわがれた声だ。皆が頷いた。

「事の始まりは侯爵夫人が陛下の寵を失った事だ。侯爵夫人は当然だが新しい寵姫であるグリューネワルト伯爵夫人を憎んだ。そして失脚させたいと望んだ」
俺に刺客を送ったのも侯爵夫人だ。姉上だけではなく俺までも狙った。その所為で死にかけたこともある。おそらくは俺を殺す事で姉上を苦しめる事が目的だろう。

「コルプト子爵は弟をミッターマイヤー少将に殺された。その件はブラウンシュバイク大公により軍規を正したと判断され不問にされたが子爵はそれが我慢ならなかった。復讐したいと思ったのだがミッターマイヤー少将はミューゼル大将に庇護されていた。彼にとってはミューゼル大将が邪魔だった」
「それでコルプト子爵はベーネミュンデ侯爵夫人を利用する事を考えたか……」
リッテンハイム侯が呟くように言葉を出す。

「その通り。グリューネワルト伯爵夫人に陛下以外の男を近づけ姦通罪にて処断させようとベーネミュンデ侯爵夫人の耳元で囁いたのだ。伯爵夫人が失脚すれば侯爵夫人が寵姫として返り咲くとな。ベーネミュンデ侯爵夫人はそれを信じた。いや信じたかったのかもしれん、愚かな事よ……」
「……」
誰も何も言わない。黙ってリヒテンラーデ侯の言葉を聞いている。内心では皆侯と同じように愚かなと思っているのだろうか……。

「コルプト子爵にとってはベーネミュンデ侯爵夫人が復権するかどうかはどうでも良かった。彼にとって侯爵夫人はグリューネワルト伯爵夫人を失脚させる道具でしかなかった。伯爵夫人が姦通罪で処断されれば当然だがミューゼル大将もただでは済まぬ。コルプト子爵の狙いはそれだった」

皆が俺を見た。改めて自分が危うい立場に居た事が分かった。今回はブラウンシュバイク公がこちらの味方になってくれたから助かったがもし敵だったらどうなったか……。こちらの地位が高くなるにつれ敵も強力に、狡猾になっていく……。味方を作れと公に言われた事を思い出した。
「ミューゼル大将の庇護を失ったミッターマイヤー少将など殺すのは容易いとコルプト子爵は考えたのだ」

応接室にリヒテンラーデ侯の声だけが流れる。おおよその事は知っていた。噂が流れたし、こちらも出来る限り捜査状況を知ろうとした。ケスラーが憲兵隊に強いコネを持っていたのが役に立った。しかし、今こうして話を聞くと改めてそのおぞましさ、愚かしさに吐き気がする。そう思っているのは俺だけではあるまい、皆表情に嫌悪感が有る。

「コルプト子爵はベーネミュンデ侯爵夫人を愚かな女だと言っていたが子爵自身、愚かさでは侯爵夫人と変わらぬ。ブラウンシュバイク、リッテンハイム両家から断交されても子爵は復讐を諦めなかった。ヒルデスハイム伯達を利用して復讐をと考えたのだ。最後は彼らにも見捨てられ命の危険を感じて自首したが……」
リヒテンラーデ侯が顔を顰めている。なるほど、ヒルデスハイム伯達がブラスターをコルプト子爵の頭に突きつけたという噂は事実だったらしい。皆誰でも我が身が可愛い、道連れは御免というわけか……。

「今回の一件ではブラウンシュバイク公に感謝せねばならん。コルプト子爵だけでなくヒルデスハイム伯達からも調書を取ることが出来た。連中の首根っこを押さえたのだ。暫くは大人しくなるだろう」
皆が笑みを漏らす中、褒められたブラウンシュバイク公が口を開いた。

「リヒテンラーデ侯らしく有りませんね。連中がそんな殊勝な性格をしていると思うのですか? 首根っこを押さえられたどころかコルプト子爵を自首させたのは自分達だと言い張るでしょう」
「一本取られたな、リヒテンラーデ侯」
顔を顰めたリヒテンラーデ侯をブラウンシュバイク大公がからかった。リヒテンラーデ侯の顔がますます渋くなる。そんな侯を見て皆が笑った。ようやく笑う事が出来た。そう思ったのは俺だけではないはずだ。

一瞬だが部屋の空気が和んだ。誰も口を開かなかったのはその空気を楽しみたかったからかもしれない。それほどリヒテンラーデ侯が話した事件の概要は重かったしウンザリした。少しの沈黙の後、リヒテンラーデ侯が話を続けた。

「ベーネミュンデ侯爵夫人の処分だが陛下のお気持ちを考えると死罪と言うのは避けたい」
リヒテンラーデ侯が一人ずつ顔を見て行く。確認を取ろうというのだろう。ブラウンシュバイク大公、ブラウンシュバイク公、そしてリッテンハイム侯も首を横に振らなかった。俺の番になった、俺も首を横に振らなかった。言いたい事は有る、しかし俺以外の四人が既に死罪には反対という事で同意している。一番弱い立場の俺が一人反対しても意味は無いだろう。下手に反対して反感を買うのも考え物だ。

「それでどうする、何もせぬと言う訳には行くまい」
リッテンハイム侯が問いかけた。その通り、処罰が無いという事は有りえない、それを聞いてからでも反対は遅くない。
「侯爵夫人に証拠を突きつけ次は容赦せぬと釘を刺す、それと領地を一部召し上げることになるだろう。侯爵夫人の屋敷には政府の手の者を入れ、その言動は二十四時間監視下に置かれる。また外出は厳しく制限され屋敷への外部からの出入りも同様に制限されることになる」

リヒテンラーデ侯の提案に皆が顔を見合わせた。ブラウンシュバイク大公がリヒテンラーデ侯に念を押す。
「つまり事実上の監禁、そう見て良いのかな」
「そう見て良い」
ブラウンシュバイク大公が周囲を見た。リッテンハイム侯、ブラウンシュバイク公、そして俺……。視線で賛否を確認している。大公が一つ頷いた。

「良かろう、特に異議は無い」
「ではそうするとしよう」
今度はリヒテンラーデ侯が周囲を見渡す。本当に異議は無いのだなという念押しだろう。俺に向けた視線が少し厳しいように感じた、反対するとでも思ったか……。

あの女が無力化されるならそれで良い。事実上の監禁、あの女にとっては屈辱だろう、生きていること自体地獄のはずだ。それで十分だ……。それにあの女が今後問題を起こしてもここに居る男達が姉上の味方になってくれるだろう。その意味は大きい。今更ながらだが姉上が政治的な動きをしなかった事が大きかった。

「ところで、この件、陛下に御報告しなければならん。そしてベーネミュンデ侯爵夫人に処分を申し渡さなければならんのだが……」
リヒテンラーデ侯の言葉が途切れた。そして幾分躊躇いがちにブラウンシュバイク公に視線をむけた。
「ブラウンシュバイク公、公に私の介添えをお願いしたいのだが」
その言葉に公が顔を顰めた。

「私が、ですか?」
「うむ、政府、貴族の総意と言う形を取りたいのだ。大公とリッテンハイム侯は例の一件が有るからの、侯爵夫人が素直にならんかもしれん」
例の一件か……。ベーネミュンデ侯爵夫人の産んだ子が死産だったことだな。確かにブラウンシュバイク大公とリッテンハイム侯では侯爵夫人は興奮するだろう。修羅場になりかねない。

「まあ不本意では有ろうが乗りかかった船と言う奴だ。今少し手伝ってくれ」
「……止むを得ませんね」
溜息交じりの返答だったがリヒテンラーデ侯は嬉しそうに頷いた。もしかするとこの老人、ベーネミュンデ侯爵夫人が苦手なのかもしれない。そう思うと少し可笑しかった。それにしてもブラウンシュバイク公は若いだけに何かと厄介事を押し付けられるようだ。それも可笑しかった。

その後は少し雑談をした後散会することになった。リッテンハイム侯とリヒテンラーデ侯を置いて先に失礼する。応接室を出るとキルヒアイスがフェルナー大佐と共に奥から出てきた。二人とも笑みを浮かべているところを見ると楽しい時間を過ごせたらしい、結構な事だ。俺も出来ればそちらでシミュレーションでもしていたかった。

ブラウンシュバイク公が俺達を見送ってくれたのだが驚いたことに外にまで出て見送ってくれた。公が話しかけてきたのは地上車に乗り込む時だった。どうやらそれが目的だったらしい。
「とりあえずグリューネワルト伯爵夫人、ミッターマイヤー少将の身は安全なようです」
「感謝しております」

社交辞令ではなかった。今回の一件、俺は動かずに済んだ。貴族達も俺を危険視することは無いだろう。そして公が俺に好意的だという事も改めて貴族達は知ったはずだ。収穫は大きい。
「とりあえずです。今回は凌ぎましたが次は分からない。連中は私も、そしてミューゼル提督にも好意を持っていない。十分に気を付けてください」
その通りだ、ブラウンシュバイク公に礼を言って地上車に乗った。公は俺達の姿が見えなくなるまで外で見送ってくれた。



帝国暦486年 8月12日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



ラインハルトの乗る地上車が小さくなっていく。それを見ながらフェルナーに問いかけた。
「どうかな、アントン。キルヒアイス中佐は」
「出来るね、ただの幼馴染ではないという事か」
他に人が居ないせいだろう。口調が友達の口調だ。だがそれが嬉しかった。生臭い話も軽やかに話せる。

「あの二人、どっちが上かな」
「もちろん、ミューゼル提督さ」
俺の言葉にフェルナーが肩を竦めた。
「やれやれだな、キルヒアイス中佐の上にミューゼル提督か……。敵に回せば容易ではない。卿の気持ちが良く分かったよ」
「それが分からない連中も居る。侮っている奴らはいずれ酷い目に遭うだろう」

ラインハルトの地上車が視界から消えた。それを見届けてから踵を返す。
「侯爵夫人の一件はかたが付いた、そう思って良いのかな」
気楽な奴だ、そう思うと少し神経がささくれだった。
「まだだ、陛下への御報告と夫人への処分の言い渡しが残っている。私とリヒテンラーデ侯が行う事になった」
「それは……、御愁傷様としか言いようがないな」
馬鹿野郎、誰の所為でこうなったと思っている。養子になどならなければこんなことにはならなかったんだ。

戦場に出たい、ふとそう思った。そして馬鹿げていると自分を叱責した。しかしオーディンに居る限り自分はブラウンシュバイク公として権力の腐臭にまとわりつかれる事になるだろう。この腐臭を払い落すには宇宙に出るしかないと思った。原作のラインハルトも同じように思ったのかもしれない。潔癖なラインハルトではその思いは俺よりも強かっただろう。

改革を進めるべきだ。貴族達の特権を制限し、その権力を弱める。そうする事で腐臭も多少は弱まるだろう。帝国全体にというのは時期尚早だろうな。ブラウンシュバイク公領で行うのも反対が出るだろう。どこか、実験場が要る……。リメス男爵家を復活させるのも一つの手ではある……。それに、例の件も有るか……。

「エーリッヒ、どうした、立ち止まって」
「いや、なんでもない」
何時の間にか足を止めて考え込んでいたらしい。それとも屋敷に入りたくないと無意識に思ったか……。小糠三合持ったら養子に行くなか、上手い事を言ったものだ。

空を見上げた。オーディンの夏の夜空は満天の星に彩られていた。美しく穢れの無い世界。あそこでなら俺は自由になれるかもしれない。ブラウンシュバイク公の名前から開放されるかもしれない。腐臭とも無縁だろう……。あそこに行こう、もう一度思った。





 

 

第十三話 ベーネミュンデ侯爵夫人(その7)

帝国暦486年 8月14日  オーディン 新無憂宮  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「……如何します?」
「……処分は変えられん。哀れとは思うが……」
バラ園を出た俺とリヒテンラーデ侯の声には生気が無かった。疲れた様な徒労感だけが滲み出ている。気が付けば溜息が出ていた、侯だけじゃない、俺も一緒だ。

「なんとも気の重い仕事になったの」
「そうですね。屋敷に帰りたくなりましたよ」
「私もだ。卿がいてくれて助かる、一人なら逃げ出しておったわ」
「私は侯を恨んでいます。碌でもない仕事に巻き込んでくれた」
生気の無い声、重い足取り、今の俺とリヒテンラーデ侯は生ける屍だろう。まるでゾンビだ。

バラ園で皇帝フリードリヒ四世に会った。ベーネミュンデ侯爵夫人の一件の報告、そしてどのように処分するかの許可を得るはずだった。難しい事ではなかったはずだ。事実、皇帝フリードリヒ四世はこちらの提示内容に異議は唱えなかった。にもかかわらず俺とリヒテンラーデ侯は疲れている。

「哀れなものよ、侯爵夫人も」
「……そうですね……」
「どうしたものかの」
「処分は変えられません、哀れとは思いますが」
堂々巡りだ。さっきから同じ事を何度も話している。そして同じように溜息を吐く。

フリードリヒ四世と話をして分かった事が有る。ベーネミュンデ侯爵夫人はフリードリヒ四世の寵を失ったのではなかった。皇帝は彼女を嫌ったのではない、むしろ彼女を思うがゆえに側から離した。哀れな話だ……。

ベーネミュンデ侯爵夫人の生んだ皇子はルードヴィヒ皇太子に殺された。皇帝もそれを知っていた。ルードヴィヒが死ぬ間際にフリードリヒ四世に懺悔したのだという。ルードヴィヒの死因は罪悪感からの衰弱死だったようだ。かなり心が弱かったのだろう。弱いから廃嫡の恐怖にかられ赤子を殺した。弱いからその罪に耐えきれなかった……。皇太子などには向いていなかったのだと思う。その地位に相応しくない人間が就くとどうなるか、その見本みたいな人間だ。

その後、侯爵夫人は三度流産する。偶然ではなかった、流産するように仕向けられたのだ。仕向けたのはアスカン子爵家……、侯爵夫人の実家だった。侯爵夫人が男子を産めば、その男子が皇帝に即位すればアスカン子爵家は外戚として強大な権力を振るえただろう。野心の有る人間ならそう考えたはずだ。だが当時のアスカン子爵家はそうは考えなかった。

元々アスカン子爵家はベーネミュンデ侯爵夫人がフリードリヒ四世の後宮に入るまでは、その寵を得るまでは貴族とは名ばかりの貧しい家だった。彼らにとって必要なのはまず裕福な暮らしであって、権勢を振るうことではなかった……。アスカン子爵家は政治的な野心など皆無の家だった。

侯爵夫人がフリードリヒ四世の寵を受けるようになってアスカン子爵家の家運は上昇した。彼女はアスカン子爵家にとって金の卵を産む貴重な鶏だった。彼女が金の卵を産むたびに子爵家は荘園や利権を手に入れる事が出来た。貧しさは過去のものとなり、にわか成金と蔑まれても安定した収入が有る事にアスカン子爵家は十分に満足していたはずだ。

侯爵夫人が初めて懐妊した時、アスカン子爵家は喜んだだろう。男子が生まれれば彼女が皇后になるかもしれないと噂が流れた時は狂喜したかもしれない。外戚となれば強大な権力を持つ事が出来る。そしてアスカン子爵家は皇后を輩出した名家として後世まで大切にされるだろうと、にわか成金と蔑まれる事も無いだろうと……。彼らにとっては眩いほどの未来だったはずだ。

だが生まれた子が殺された事で全てが一変した。アスカン子爵家はようやく権力の持つ恐ろしさを実感したのだ。そして自分達の敵となるであろう存在を初めて認識したに違いない。ルードヴィヒ皇太子、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家……。いずれもアスカン子爵家にとっては強大すぎる存在だった。

アスカン子爵家は怯えた。元々政治的な野心など無かった家だ。外戚への夢など簡単に捨てたに違いない。今のままで十分、詰らぬ野心などで今の繁栄を失いたくないと……。だが彼らにとって不幸だったのはそんな彼らの決意とは無関係な所で事態が動いたことだった。すなわちフリードリヒ四世が侯爵夫人を愛した事だ。

愛していれば子供が出来るのは当たり前の事だ、それほど騒ぐ事ではない。むしろ一般家庭では子が出来ぬ方が問題になるはずだ。しかしアスカン子爵家にとっては侯爵夫人の再度の懐妊は悪夢だっただろう。自分達を滅ぼすのかと恐怖し運命を呪い、そして侯爵夫人を憎悪したに違いない。子爵家にとって金の卵を産む鶏は子爵家を滅ぼす猛毒を吐き出す蛇に変わっていた。

アスカン子爵家にとって侯爵夫人はただの寵姫で良かった。母になどなる必要は無かった。適当に寵を受け、時々アスカン子爵家に恩恵を与えてくれる存在で良かったのだ。そしてアスカン子爵家は侯爵夫人が母親になる事を阻んだ。侯爵夫人は三度にわたって流産する事になる。幻の皇后は幻のままで終わった。

アスカン子爵家にとっても苦しい決断だっただろう。事が表沙汰になれば当然だがアスカン子爵家は咎めを受ける。おそらくは全員賜死の上、家名断絶は免れなかったはずだ。アスカン子爵家は権力争いを生き残れる可能性と犯罪を隠し通せる可能性を天秤にかけた。そして彼らは決断した。シュザンナを流産させろ……。

ベーネミュンデ侯爵夫人がフリードリヒ四世から遠ざけられたのはそれが原因だった。おそらくフリードリヒ四世は流産が続いた事に不審を抱いたのだろう。そしてアスカン子爵家が侯爵夫人の懐妊を喜んでいないことを知った。最初の子がルードヴィヒ皇太子に殺された事を思えば何が起きたか辿り着くのは難しくなかったはずだ。皇帝は決して凡庸ではない。

全てを知った皇帝はベーネミュンデ侯爵夫人を遠ざけた。愛情が冷めたのではない、むしろ逆だった。自分が侯爵夫人を愛し続ける事は危険だと思ったのだ。これ以上流産が続けば彼女の心が持たないと思った。皇帝の話では彼女は誰が流産を仕組んだか知っていたらしい。“彼女にとって宮中は地獄だっただろう”、皇帝の言葉だ。

皇帝は言わなかったが彼女を遠ざけた理由はもう一つあるだろう。これまでは流産で済んだ、しかし次は流産ではなく夫人の命が奪われるかもしれない……。そう思ったのではないか。皇帝は彼女を愛する事よりも彼女の精神と生命の安全を図った。それ以来皇帝は彼女を近づけていない。

ベーネミュンデ侯爵夫人に代わって皇帝の寵を受けるようになったのはグリューネワルト伯爵夫人だった。彼女の肉親は酒浸りの父親と五歳年下の弟だけだ。彼女を利用して利益を得ようなどと言う貧乏貴族もいなければ権力を得ようとする野心家の一族もいない。それでも皇帝は彼女を愛しはしても子供を産ませようとはしていない……。

「嫌な仕事だがやらねばならんの」
「全くです。そろそろ行きますか」
「そうじゃの」
言葉とは裏腹に溜息が出た。侯も溜息を吐く。二人とも重い足取りでベーネミュンデ侯爵夫人邸に向かった。侯爵夫人邸は新無憂宮の一角にある。ここから遠くは無い、地上車を使えば直ぐに着くだろう。


八月十四日の午後、ベーネミュンデ侯爵夫人邸を俺とリヒテンラーデ侯が訪ねた。玄関は大理石造りだ、金かかってるよな。皇帝の寵姫ともなると屋敷も大したものだ。来訪を告げるとサロンに案内された。昔、彼女が皇帝の寵姫として寵愛を独占したころはこの屋敷には大勢の人間が通ったはずだ。いずれも皆帝国の重要人物だっただろう。今は皆無に近いはずだ。そして今日、俺とリヒテンラーデ侯がここに来た。

侯爵夫人が俺達をサロンで待っていた。美人と言っていいだろう、黒髪、碧い瞳、そして紅い唇、程よく調和されている。もっとも少し表情がきつい様な気がする。先入観の所為だろうか……。侯爵夫人が艶然と微笑んだ

「ようこそ国務尚書、お久しぶりですわね。お連れの方はどなたですの、ついぞ見かけた事が有りませんけど」
笑みは浮かべているが言葉には明らかに毒が有る。俺を知らないなどありえない。侮辱しようとでも言うのだろう。彼女にとってブラウンシュバイク公爵家は憎むべき存在だ。彼女の流産の原因はアスカン子爵家だが、彼らにそれを決断させたのはルードヴィヒ皇太子、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家だ。

リヒテンラーデ侯も彼女の毒に気付いたのだろう。生真面目な表情で答えた。
「侯爵夫人には御存じありませんでしたか、ブラウンシュバイク公爵家が代替わりをしましてな。彼はエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク、当代のブラウンシュバイク公です」

「そう言えば、そんな話を聞きましたわ。ブラウンシュバイク公が物好きにも平民を養子に迎えたとか……。そちらの方がそうですの」
嘲る様な笑みだ。面白い玩具でも見つけた様な表情だな。いたぶって鬱憤を晴らしたいのだろう。今回の一件で俺がラインハルトの側に立ったことは皆が知っている。いわば俺はグリューネワルト伯爵夫人の庇護者なのだ。侯爵夫人にとっては絶対に許せる相手ではないだろう。

「エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイクです」
「せいぜいお励みなさいましね。でも賤しい平民に貴族の務めが出来ますかしら」
艶やかに毒を込めて笑う。うんざりだな、十年以上男に顧みられないと女もこうなるのか……。寒気がしてきた。フリードリヒ四世の取った行動は止むを得ないものだとは思うがもう少し何とかならなかったか……。毒を吐きつけられるこっちの身にもなってくれと言いたい。先程まであった彼女への憐憫はあとかたもなく消えていた。

「そこまでになされよ、侯爵夫人。公爵は陛下がエリザベート様の婿にと認められた方ですぞ」
「……」
リヒテンラーデ侯が苦い顔をしている。おそらく俺と同じ気持ちなのだろう。
「今日ここに来たのは今回、侯爵夫人がコルプト子爵と伴に起こした騒動についての処分を申し渡す為です。陛下は次のように処分を決めました」
処分の言葉にベーネミュンデ侯爵夫人の顔が強張った。まさか不問に付されると思っていたのか?

「処分とはどういう事です、国務尚書。妾に何の罪が有ると」
「見苦しいですぞ、侯爵夫人。既にコルプト子爵は全てを自供しました。夫人がコルプト子爵と語らってグリューネワルト伯爵夫人を追い落とそうと策した事、ミューゼル大将を失脚させミッターマイヤー少将を殺害しようとした事は分かっているのですぞ」
「出鱈目じゃ! 命惜しさに妾に罪を押付けたのです!」

「グレーザー医師の証言も有ります。それらは全て調書に取られているのです。悪足掻きは止める事ですな」
「……」
侯爵夫人がギラギラした目でリヒテンラーデ侯を睨んでいる。碧という色がここまで禍々しく見える事は無いだろう、寒気がする様な目だ。リヒテンラーデ侯も辟易している。

「宜しいですかな? 一つ、以下の五か所の荘園を召し上げる。メードラー・パッサージュ、アルンスベルク、アルトナ、ハールブルク、ワンツベック」
「……」
五か所の荘園を奪われたがまだ侯爵夫人には同程度の荘園が残されている。皇帝が寵姫に与えた荘園なのだ、いずれも豊かさでは定評がある荘園だ。経済的に困窮するなどという事は無い。笑って許せるさ、その程度の計算は出来るだろう……。

「二つ、政府の許可なしには外出を禁じます。そして外部からの面会も同様です」
「……」
政府の許可が有れば問題ない。つまり政府の許可を面倒くさい、或いは侯爵夫人との接触を政府に知られたくない等と考える人間を排除しているだけだ。これも特に問題は無い筈だ。今日以降、侯爵夫人を利用しようという人間はいないだろうからな。むしろ嫌な客が来ても追っ払う口実に使えるだろう、“妾、政府から人と会ってはいけないと言われていますの、ホホホ”。

「三つ、現在、この屋敷に居る使用人は全て解雇。これ以後は政府が派遣した使用人が侯爵夫人のお世話をします」
所領が減ったのだ、政府が使用人を派遣してくれるとなればその分だけ経費が浮く。俺なら大喜びだ。何が高いと言って人件費ほど高いものは無い。ついでに使用人の食費は政府持ちにしろとか言ってやれ。リヒテンラーデ侯も嫌とは言わんさ。なんなら俺が説得してやる。

……顔色が変わっている。まさかとは思うが処分を受ける事は無いと思っていたのか? 一体何を考えている?
「陛下の御心がそのようなもので有るとすれば、なぜ妾がそれに逆らいましょう。一日の例外もなく陛下に忠実であった妾です。ですが、どうして陛下はご自分でその旨を妾にお話し下さらぬのか。妾はそれが無念でなりません。陛下もあまりに御無情でいらっしゃる」

ウンザリした。逆らわない? どうして自分で言わないのか? 会えば必ず自分は無罪だと言い立てて許しを得ようとするからに決まっているからだろう。それこそが自分が愛されているという証なのだ。目の前にいる女がその証を得るチャンスを逃すはずが無い……。

まさか、それが狙いなのか? だからこんな馬鹿げたことをした? フリードリヒ四世の関心を引くために、彼をここへ呼ぶために? だとしたら馬鹿げている。この女を哀れだとは思う、だが同情は出来ない、もう茶番はたくさんだ!

「陛下は御多忙なのです」
「御多忙?」
「そうです」
俺の言葉に侯爵夫人が嘲笑を浮かべた。

「ああ、さほどに御多忙でいらっしゃいますのか? 酒宴で? 狐狩りで? 賭博で? いえ何よりもあの女の元へお通いになるので御多忙なのでしょう」
「その通りです、良くお分かりですね。何と言っても心映え優しく美しい方です、陛下を羨んでいる者は多いと思いますよ」
リヒテンラーデ侯が俺を咎めるような目で見た。余計な事を、と思ったのだろう。その余計な事の所為で侯爵夫人の顔は明らかに変化していた。憎悪、狂気……。

「あの女……、あの女が猫を被って……、陛下のお心を盗んで、そして妾に優越感を誇示しようとしている! ああ、あの女、あの女のしたり顔を引き裂いて喰い破ってやりたい」
宙を睨みながら侯爵夫人が呻いた。人間の持つ負の感情が形になれば今の侯爵夫人になるだろう。こいつを人に戻すのは容易じゃないだろうな。

「無駄ですよ」
侯爵夫人が俺を見た。おぞましい狂気の目……。
「伯爵夫人を殺しても陛下が侯爵夫人の元に戻ることは無い」
「そのような事は……」
「何故なら、陛下が侯爵夫人を遠ざけたのは貴女を疎んじての事ではないからです。陛下は貴女を守りたいと思った……」
「……」
少し目が和んだか。

「貴女の産んだ子を殺したのは先代のブラウンシュバイク公でもリッテンハイム侯でもない、ルードヴィヒ皇太子です。そして貴女が三度流産したのは貴女の実家、アスカン子爵家の差し金だった。貴女はそれを御存じでしょう。陛下もそれをご存知です」
「……」

ベーネミュンデ侯爵夫人の顔に驚きが走った。彼女は皇帝が知らないと思っていたらしい。当然だ、もし皇帝がそれを知っていると彼女が知ったらどうなるだろう。とても顔向けなどできまい。皇帝は彼女を守るため知らぬ振りをするしかなかったのだ。

「陛下は貴女をこれ以上宮中に置くのは危険だと思った。それ以上に傷付く貴女を見たくないと思ったのだと思います。何と言っても元はと言えば陛下が侯爵夫人を愛した事が発端だった……」
「……妾は陛下のお傍に、ただそれだけを……」

リヒテンラーデ侯を見た。首を横に振っている。哀れな女だ、思わず溜息が出た。市井に生まれていればちょっと焼き餅焼の良い妻になれたかもしれない。だがフリードリヒ四世は皇帝だった。寵姫には常に政治が付きまとう。そして政治と言うのは残酷な現実でありハッピーエンドの御伽噺ではない。この女の不幸は政治を知らないという事だ。

「残念ですが陛下はそれをお許しにはなりません。もし、今侯爵夫人が宮中に戻れば、アスカン子爵家は必ず貴女を殺しますよ」
「……」
リヒテンラーデ侯は俺の言葉を否定しなかった。侯も同じ意見なのだろう。

「帝国の後継者は決まったのです、体制も決まった。次期皇帝はエルウィン・ヨーゼフ殿下、皇后にはサビーネ・フォン・リッテンハイム。ブラウンシュバイク公爵家は軍、貴族の重鎮として、そして皇帝に最も近しい一族として皇帝を助ける。リヒテンラーデ侯は政府首班として皇帝を輔弼する……。分かりますか? 政府、軍、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、この四者が協力体制を結んだんです。私がブラウンシュバイク公爵家に迎えられたのはそういう意味です」
「……」

「アスカン子爵も当然それは知っている。ここに貴女が入ってきて皇子を産んだらどうなると思います? 貴女が皇后になろうとしたらどうなるか? 折角まとまった体制にひびが入る事になる。そんな事を四者が許すはずが無い、アスカン子爵家は今度こそ潰される、そう考えるはずです。そしてそれを防ぐには侯爵夫人、貴女を殺すのが一番確実なんです」

先程までの狂気は無い、彼女は俯いている。彼女にとっては残酷な現実だろう。だが現実を見せない限り彼女は自分が危険だという事に気付かない。
「陛下がグリューネワルト伯爵夫人を愛するのは彼女にはアスカン子爵家のような親族がいないからです。それでも陛下は彼女との間に子供を作ろうとはしない。侯爵夫人、貴女のように傷付く姿を見たくないからです……」

侯爵夫人が呻きながら蹲った。リヒテンラーデ侯がそれを見て口を開いた。
「ここで静かに過ごされよ。ここなら安全に過ごすことが出来る。それこそが陛下の御意志です。……では我らはこれにて……」

屋敷を出ると自然と深呼吸していた。リヒテンラーデ侯も同じように深呼吸している。顔を見合わせて苦笑した。
「これで終わったかの」
「そう思いたいところです」
「良くやってくれた、卿に同行を頼んだのは正解だった」
「もうたくさんです。うんざりですよ、帰りましょう」
地上車に乗るとシートに奥深く腰掛けた。疲れた体に柔らかなシートが心地よかった……。



帝国暦486年 8月18日  オーディン  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



ベーネミュンデ侯爵夫人が死んだ。死んだのは二日前、八月十六日だった。昼を過ぎても侯爵夫人は起きてこなかった。そのことに不審を感じた使用人が寝室に入ると侯爵夫人がベッドで眠っていた。但し、ドレスアップをして呼吸をしていなかった。死因は遅行性の毒を使用した服毒自殺だった。

遺書が有った。フリードリヒ四世に宛てた遺書だった。遺書には愛しているという事、そして春の陽だまりのように忘れ去られるなら、厳しい冬のように覚えていてもらいたいと書いてあった。

リヒテンラーデ侯が皇帝にその事を報告するとフリードリヒ四世は“そうか”と言っただけだった。一体何を思ったのか……、俺には侯爵夫人の気持ちも分からないし、皇帝の想いも分からない。厄介な話だ。

葬儀はごく簡素に行われた。彼女が政府の監視下に置かれていたことは皆が知っている。参列者は少なかった。アスカン子爵、そしてブラウンシュバイク大公一家、リッテンハイム侯一家、リヒテンラーデ侯、ラインハルト……。

妙な話だ、アスカン子爵を除けば皇帝にもっとも近しい人間達が集まった。大公夫人もリッテンハイム侯爵夫人も彼女には悪い感情は持っていなかったらしい。むしろ彼女に罪悪感を感じていたようだ。ルードヴィヒ皇太子が彼女の子を殺さなければ彼女もこんな事にはならなかった、そう思っているのかもしれない。

葬儀が終わるとアスカン子爵はそそくさと立ち去った。関わり合いになりたくない、そんな気持ちがありありと出ていた。彼にとって侯爵夫人は重荷でしかなかったのだろう。噂では侯爵夫人の自殺を知った時、子爵は“これで呪縛から解放される”そう呟いて祝杯を上げたそうだ。気持ちは分かるが侯爵夫人が居なければアスカン子爵家は未だに貧乏貴族のままのはずだ。死者を悼むくらいの礼儀を示してもバチは当たらないだろう。碌な奴じゃない。

葬儀の間、誰も喋らなかった。葬儀が終わってもそれは変わらなかった。ラインハルトを除けば誰も積極的には彼女の死を願わなかったはずだ。それなのに彼女は死んだ。一体俺達は何をしたのか……。皆が沈黙したのもそれが理由だろう。一体俺達は何をしたのか……。

これからもこんな思いをするのだろうか、そう思うとやり切れなかった。しかし俺がブラウンシュバイク公である限り権力の芳香と腐臭を嗅ぎ続ける事になるのだろう。そしてこの思いからは一生逃れられないにちがいない……。



 
 

 
後書き
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美しい夢(その13) をアップしました。
ベーネミュンデ侯爵夫人編はこれで終了です。当初、ベーネミュンデ侯爵夫人を殺すつもりはありませんでした。でも話を書いているうちに生かしておくことに違和感が出てきて……。彼女が従順に生きているという姿が想像できない、それで彼女を自殺させることにしました。

色々と批判はあると思います。美しい夢らしくないという方もおられるでしょう。でもそれでもこう書かざるを得なかった。ご理解いただければと思います。 

 

第十四話 思惑

帝国暦486年 9月15日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸 アントン・フェルナー



「フェルナー大佐」
「はい、何でしょう」
「あの、その、……エーリッヒ様は大丈夫かしら」
ちょっと困った様な戸惑いを浮かべながらエリザベート様が話しかけてきた。婚約者を心配する幼い美少女か……、うーん、なかなか……。憎いぞ、エーリッヒ。

彼は今二万隻の艦隊を率いて訓練に出ている。遠征前の最終訓練というわけだ。訓練に出てから一週間が経つからな、寂しいのかもしれん。ここは一つ明るく励まして差し上げなければ。何と言っても未来の公爵夫人だしブラウンシュバイク公爵家のお嬢様だ。

「大丈夫ですよ、エリザベート様。公はこれまでにも戦場に出ていますから慣れています。それに今回は訓練です、心配はいらないでしょう」
「……」

出来るだけ笑顔で優しく答えたのだがエリザベート様はじっと俺の顔を見ると目を逸らして“ホーッ”と溜息を吐いた。何故だ、何故そんな事をする。それは男の鈍感さに呆れ果てた女のする行為だろう。“こいつ、何にも分かっていない、零点ね”。十五歳の少女にそれをされるなんて、しかも相手は主君筋、とほほ……。

「何か御心配事でもお有りですか?」
落ち着け、ここはスマイルだ。まだ挽回のチャンスは有る。まずは探りを入れるんだ。偵察行動を怠るな! 今度は失敗は許されない。エリザベート様がチラッとこちらを見ると呟く様に話しだした。

「最近エーリッヒ様は元気が無かったから……。ベーネミュンデ侯爵夫人の事がショックだったのかしら……」
なるほど、その件か……。確かに少し元気が無かった。ここは同じ心配をしているというアピールをして仲間意識を持たせる事が肝要だな。

「そうですね、小官もそれは気になっていました。ああいう結果になるとは誰も想像していなかったでしょう。公の責任ではありませんが、処分を言い渡したのは公です。他に方法が無かったかと考えているのかもしれません。公は優しい方ですからね」

エリザベート様が頷いている。“責任は無い”、“優しい”、ここがポイントだな。誰だって婚約者を責められれば面白くないし褒められれば嬉しい。よし、好感度アップ。針路そのまま。

「どうしたらいいのかしら……」
縋る様な口調だ。うむ、ここは下手に慰めを入れず大人の対応をするべきだ。それでこそフェルナー大佐は頼りになると思われるだろう。

「私達には何もできません」
「でも」
「いくら私達が公に責任が無いと言っても公は納得しないでしょう。言えば返って責任を感じてしまいます。公が自らの力で乗り越えなくては」

エリザベート様が“そんな”と言って唇を噛み締めた。うむ、良いぞ、ここでアドバイスだ。
「幸い公は今宇宙に居ます。艦隊訓練は決して簡単ではありません。忙しさがあの事件で思い悩むことを忘れさせてくれるでしょう。オーディンに戻って来るころには元の公に戻っていると思います」

「フェルナー大佐はそう思うの?」
「もちろんです」
「だと良いのだけれど……」
信じたい、信じられるのだろうか、そんな風情だな。よしよし、ここでもう一押しだ。

「それより手紙でも送られては如何です。エリザベート様から手紙が届けば公も喜ぶでしょう」
「そうかしら、喜んでくれるかしら」
少し不安そうだな。ここはにっこりスマイルだ。
「もちろんですとも」

俺の笑顔にエリザベート様も嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうよね、喜んでくれるわよね」
「ええ」
「有難う、フェルナー大佐」

そう言うとエリザベート様がパタパタと走り去っていった。これからビデオレター作りだろう、多分今日一日はかかるに違いない。幸せな気持ちで胸がいっぱいだろうな……。エーリッヒも婚約者からビデオレターを貰えば心が弾むはずだ。うん、俺って良い友達だな。



帝国暦486年 9月22日  フレイア星系 フォルセティ  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



俺が遠征に率いる予定の艦隊二万隻は現在フレイア星系で訓練中だ。既に訓練に入って二週間が経っている。訓練は順調過ぎるほど順調だと言って良い。出来る部下を持つと楽だよな。あと二週間もすれば訓練を終了出来るだろう。

少し離れた所で参謀長のメックリンガー少将がシュトライト准将、ベルゲングリューン、ビューロー大佐と訓練の打ち合わせをしている。明日から一週間の訓練内容についてだ。基本方針は艦隊を二つに分けての演習になる、彼らは今その詳細を詰めている。そして俺は指揮官席でそれを見ているという状況だ。

戦艦フォルセティ、フォルセティ級の一番艦で俺の乗艦だ。つまり遠征軍の旗艦ということになる。原作だとこの艦はケスラーの乗艦になるんだがこの世界では俺の旗艦になった。まあこの世界のケスラーはラインハルトの参謀長だし問題は無いだろう。

どうも帝国は帝国歴四百八十年代の後半から旗艦級戦艦は高速機能を有するべしという設計思想の元に艦を造っているようだ。フォルセティ級とほぼ同時期にベイオウルフ級、そしてブリュンヒルトやバルバロッサが建造されているがいずれも高速戦艦だ。

俺はこのフォルセティを結構気に入っている。この艦の全高は二百メートルに満たない、車で言えば車体が低いのだ。旗艦級戦艦で全高が二百メートル切るのは極めて少ない、このフォルセティとバルバロッサくらいだろう。それに機関部を後方に集中配置して装甲を強化しているから極めて打たれ強い艦になっている。生き残って指揮を執ると言う点では非常に優れた艦だ。

フォルセティの名前も良い。フォルセティは北欧神話に出てくる司法神だがアース神族の中でも最も賢明で雄弁な神様だ。そして平和を愛する優しい神様でもある。彼は大変尊崇されていたため、非常に厳粛な誓いを立てる際には、彼の名前を以て誓うこととされていたらしい。弁護士を目指した俺にとってはお手本みたいな神様だろう。実際に居るなら会ってみたいもんだ。

原作ではルッツの乗艦スキールニル、ワーレンの乗艦サラマンドルもフォルセティ級だ。確かスキールニルが二番艦でサラマンドルが三番艦だったかな。両艦ともラインハルトに従って戦場を駆け巡った。帝国でも屈指の武勲艦だろう。ちなみに今の両者はまだフォルセティ級を使っていない。

スキールニルやサラマンドルに比べるとフォルセティはあまり戦場で活躍していない。ケスラーが憲兵総監になり地上勤務になったためだ。撃沈はされなかったが武勲には恵まれなかった。この世界ではどうなるか……、出来る事なら原作世界同様撃沈されないで欲しいもんだ。

オーディンに戻るのは十月中旬だな。補給、艦隊の整備を行ってから出撃となるから出撃できるのは大体十一月の初旬といったところか。イゼルローン要塞には遅くとも十二月の中旬頃には着くだろう。イゼルローン要塞で最後の補給を行って出撃か……。

新年のお祝いは間違いなくフォルセティで行うことになるな。いや、問題はそれよりクリスマスだ。エリザベートが残念がるだろう、プレゼントだけでも用意しておくか。フェルナーに頼んで当日渡してもらう……。ケーキは作っておくわけにもいかん。そいつは来年だ。

帰ったらエリザベートが大変だろうな。昨日、オーディンから補給が届いたがその中に彼女からのビデオレターが有った。風邪をひいてないかとかちゃんと食事をしてるかとかピーマンとレバーを残しては駄目だとか色々言っていた。しかし俺って十五歳の女の子にそこまで心配されるほど頼りないかね、ヤン・ウェンリーと同等か? それはちょっと酷いだろう……。

誰かがエリザベートを唆したな。シュトライトは此処にいるからフェルナーか、アンスバッハか……。或いは大公夫妻かな、意外な所でリッテンハイム侯夫妻という線も有るだろう……。

あの髭親父、このあいだ家に来て俺が作った白桃ソースのブランマンジェを食べてたが、髭に白桃ソース付けて御機嫌だったからな。一口毎に“ムフ”、“ムフ”なんて言って喜んでいた。皆大笑いだったがムフムフちゃんを一番笑っていたのは侯爵夫人だった。あの日以来俺の心の中ではムフムフちゃんが奴の呼び名だ。

「閣下、御心配事でもお有りですか?」
「……」
「先程から何かお悩みのようですが……」
ヴァレリーが心配そうな顔で俺を見ている。拙いな、まさかエリザベートとムフムフちゃんの事を考えていたとは言えん。

「遠征の事を考えていました。結構厳しいでしょうね、難しい戦いになる」
「二万隻と言うのは決して少ない戦力とは思いませんが……」
「少なくは有りませんが大きくも有りません。極めて中途半端です、運用し辛い……」

俺の言葉にヴァレリーが困惑した様な表情を見せた。誤魔かそうとして適当な事を言っているつもりは無い、ここ最近の俺の悩みの種はこの二万隻という数字だ。どうにも中途半端としか言いようがない。説明した方が良いかなと考えているとメックリンガーが近づいてきた。ヴァレリーも彼に気付いて表情を改めている。

「閣下、明日からの訓練の詳細がまとまりました。確認をお願いします」
メックリンガーが差し出した資料を受け取り確認する。艦隊を青、赤に二分し青軍は俺が司令官で赤軍はクレメンツが司令官になる。

クレメンツの側には参謀としてシュトライトとビューロー、分艦隊司令官はアイゼナッハとビッテンフェルトが配属される。俺の方はメックリンガーとベルゲングリューン、ワーレン、ルッツか……。

演習内容は輸送部隊の護衛と襲撃。最初は俺が輸送船を護衛しクレメンツが襲撃を行う。終了したら立場を変えてもう一度か……。輸送ルートはフレイア星系からトラーバッハ星系への直線コースか……。航路は整備されていないから奇襲はし易いか。訓練としては良いだろうな。

メックリンガーの後方を見るとビューローとベルゲングリューンが心配そうにこっちを見ていたが俺と視線を合わせると慌てて逸らした。俺って避けられてる? ブラウンシュバイク公爵になったせいかな、ちょっと寂しいよな。今度明るく声をかけてみようかな、でもそれもおかしいよな……。

「問題は無いと思います。クレメンツ副司令官、各分艦隊司令官に通知してください」
「承知しました」
承知しましたと言ったのにメックリンガーは戻ろうとしない。はてね……、何か指示の出し忘れが有ったかな。

「何か?」
俺が問いかけるとメックリンガーが少し照れたような表情を見せた。結構可愛いじゃないか。
「いえ、先程閣下が少佐に運用し辛いとおっしゃっていたのを小耳にはさんだものですから……」

やれやれ、聞かれたか。視線を後方に向ければシュトライト、ビューロー、ベルゲングリューンもこちらを見ている。仕方ないな。
「フィッツシモンズ少佐、同盟軍の正規艦隊で一個艦隊と言えばどの程度の兵力です?」
「大体ですが一万二千隻から一万五千隻、そんなところでしょうか」

「こちらは二万隻、艦隊の規模としてはこちらが大きい。この場合、同盟軍はどう対応すると思います?」
俺の問いかけにヴァレリーはメックリンガーと視線を合わせた。そして俺に視線を戻してから答えた。

「……一個艦隊では劣勢です。ごく普通に考えれば二個艦隊、或いは三個艦隊を動員すると思います」
「その通り、小学生程度の算数が出来ればそうなる。となると二個艦隊なら最低二万四千隻から最大三万隻、三個艦隊なら三万六千隻から四万五千隻を敵は動員するという事です、我々は優勢な敵と戦わなければならない」

俺の言葉にヴァレリーとメックリンガーが頷いた。ヴァレリー、俺が何故憂鬱なのか分かっただろう。向こうは一個艦隊では兵力が劣勢だが全体ではこちらを上回る、そして任務部隊も多い。つまり作戦行動の選択肢はこちらよりも多いのだ。

「確かに閣下の仰る通りです。楽な遠征ではありませんな」
「そうですね、参謀長」
「反乱軍の宇宙艦隊司令長官はドーソン大将と言いましたか、聞いたことのない人物ですが……」
メックリンガーが俺とヴァレリーを交互に見ている。ヴァレリーは同盟に居たからな、情報を知りたいのだろうが俺から答えた方が良いだろう。

「用兵家としては前任者のロボス大将よりも劣るでしょうね。どちらかと言えば後方支援の方が向いていると思いますが、小学生程度の算数が出来ないわけではないでしょう。油断は出来ません」
俺の言葉に皆が笑い声を上げた。別にジョークじゃないんだけどね。

こちらの方針は限られてくるな。敵が味方よりも多い以上正面からの殴り合いなど自殺行為に等しい、取るべき手段は奇襲か各個撃破だ。しかし奇襲にしろ各個撃破にしろ相手の油断、隙を突かなければ難しい……。頭が痛いよ。

今考えてみると原作でラインハルトが二万隻率いて遠征したのはラインハルトの失敗を願っての事だったんだとよく分かる。一万五千隻程度の艦隊を率いさせると同盟側で一個艦隊で迎え撃てば十分だなどとロボス辺りがお馬鹿な事を考えたかもしれない。

その点二万隻ならどう見ても二個艦隊以上出すだろうからラインハルトが不利になるだろうと踏んだわけだ。何も出来ずに帰ってこい、皆で思いっきり笑ってやる、そう思ったんだろうな。実際にメルカッツを始め皆がラインハルトに対し撤退を進言している。

俺の場合は最終テストみたいなもんかな。ブラウンシュバイク公爵家を継ぐのだからこの程度はクリアして欲しいって事だろう。幸い司令部幕僚や分艦隊司令官ではこちらの要望を聞いてもらっているし、皆協力的だから原作のラインハルトよりはましか。

後は実際に現場に行ってからだな。敵が分散してくるなら各個撃破だが問題は一塊になって迎撃してきた時だ。さてどうするか……。



宇宙暦795年10月 5日  自由惑星同盟統合作戦本部 ヤン・ウェンリー



統合作戦本部の本部長室に入ると本部長が無言でソファーの方へ視線を向けた。そちらに座れという事だろう。本人はそのまま机の上に置いた文書に視線を向けている。何か決裁をしているようだ、ソファーに座って本部長を待つ。五分ほどすると本部長が席を立ってこちらにやってきた。

「済まんな、呼び立てておいて待たせてしまった」
「いえ、お気になさらないでください」
本部長がソファーに座る。あまり機嫌は良さそうではない、そのままこちらをじっと見ていたが一つ息を吐くと口を開いた。

「准将、どうかね、そちらの状況は」
「あまり良くありませんね」
宇宙艦隊司令部の状況は良くない、その事は既にキャゼルヌ先輩には何度か伝えている。本部長も承知しているだろう。機嫌が良くないのはその所為だ。

「新司令長官は体面を気にするあまり、笑う事を忘れたようです。ビュコック提督やウランフ、ボロディン提督等の実力、人望の有る提督達とも全然上手くいっていません。その一方でトリューニヒト委員長に近づきたい連中がドーソン司令長官に擦り寄っています」
「……」

「私も避けられています。ドーソン司令長官は私をシトレ本部長が差し向けたスパイだと思っているようです。多分、私が今ここに居る事も誰かが司令長官に教えているでしょう」
溜息を吐かないで欲しい。私が悪い事をしているような罪悪感を感じてしまう。誓って言うが私には非が無い、問題はドーソン大将に、そして彼を宇宙艦隊司令長官に選んだ政府に有る。

「厄介な事になったな」
「ええ、とんでもない事になりました」
シトレ本部長の言葉に私も同意した。全くとんでもない事態になった。まさかヴァレンシュタイン中将がブラウンシュバイク公になるとは……。

最初は何の事か分からなかった。だが事情が分かるにつれ顔が引き攣った事を覚えている。次期皇帝の座を巡って争っていたブラウンシュバイク公とリッテンハイム侯、そしてその両者を抑えていた政府、軍……。その四者が和解した。

ヴァレンシュタイン中将がブラウンシュバイク公爵家の養子となり、エリザベート・フォン・ブラウンシュバイクと結婚する事でブラウンシュバイク公爵家は後継者争いから降りた。次期皇帝はエルウィン・ヨーゼフ、皇后にザビーネ・フォン・リッテンハイム、そしてエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイクが重臣として皇帝を補佐する。

これまではフリードリヒ四世の後継者が決まっていなかった事が帝国の最大の弱点だった。皇帝に万一の事が有った場合、次期皇帝の座を巡って内乱が起きる……。前回のアスターテ会戦はその弱点のおかげで助かった。そうでなければ同盟軍はとんでもない損害を受けていたはずだ。しかしもうそれは期待できない……。

「政府のお偉方も頭を痛めているだろう。予測が外れたのだからな」
「そうですね、しかしこれで政府も状況の厳しさを理解したはずです」
「まあ、そうだな」

本来ならドーソン大将が宇宙艦隊司令長官になる事は無かった。彼がその地位に就けたのは帝国が内乱勃発の危機に有り積極的に外征には出られないと政府が判断したからだ。政府はその間に軍を宇宙艦隊を再建しようと考えた。そのためには用兵に自信のある戦意の高い軍人よりも戦争の下手な軍人の方が良いと考えたのだ。

もっとも私と本部長は別だった、危機だからこそ帝国は同盟に攻めかかってくる。内乱になった時、同盟に攻め込まれないように徹底的に同盟を叩きに来る、そう思っていた。そしてその事がドーソン大将への不安へとなっていた……。

「帝国軍は出兵の準備を着々と整えているようだが……」
帝国軍が年内にも軍事行動を起こすだろうという情報はフェザーン経由で同盟に伝わってきた。総兵力二万隻、遠征軍指揮官は帝国軍上級大将エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク公爵。

「宇宙艦隊司令部でもそれは認識しています。重要視していますよ」
シトレ本部長が微かに片眉を上げた。疑っているようだが嘘は吐いていない。宇宙艦隊は事態を認識している、但し本部長の認識とは温度差は有る。

「どの程度の兵力を動員するつもりだね」
そんな疑い深そうな声を出さないで欲しい。
「三個艦隊、ドーソン司令長官が指揮を執ります。司令長官の直卒部隊を含めれば総勢四万五千隻程になるでしょう。もうすぐ本部長にも連絡が来ると思いますが……」

シトレ本部長が目を見開いて驚いている。“ほう”と嘆声を上げた。
「宇宙艦隊司令部は、いえドーソン司令長官は張り切っていますよ」
「張り切っている?」
「ええ、相手は若造で艦隊司令官の経験もない素人、一つ手荒に歓迎してやろうと張り切っています」

シトレ本部長が目をパチパチしている。一瞬何を言われたのか分からなかったに違いない。そして本気かと言った表情でこちらを見た。多分本部長は呆れているのだろうがドーソン司令長官は本気だ。そして宇宙艦隊司令部にはそれに迎合している馬鹿参謀達が大勢居る。

「正気かね、ヴァレンシュタイン、いやブラウンシュバイク公はヴァンフリートでは実質一個艦隊を率いたのだろう、彼の所為でこちらは敗退した。それを素人……」
本部長は首を横に振っている。悪い冗談でも聞いた様な気分だろう。

「……皆知っているんです。ドーソン提督が司令長官に就任したのは実力を買われての事ではない、宇宙艦隊を再建するためだと。それが終われば当然ですが用済みになるだろうと。ドーソン司令長官も知っています、そして不満に思っている……」

本部長が顔を顰めた。
「つまり、ここで実績を上げて自分が司令長官に相応しい人間だとアピールしたいという事かね」
「その通りです。幸い敵は一個艦隊、二万隻です。叩くのは難しくないと司令長官は考えて居ます」
「……」

シトレ本部長がまた溜息を吐いた。こめかみのあたりを指でもんでいる。偉くなると悩みも深いか……。平凡が一番だな。
「考え方は間違っていません。大軍を以って少数を叩くのは用兵の常道です。後は集めた戦力をどれだけ有効に使えるかでしょう」

「つまり用兵家としてのセンスが問われるわけか……」
「はい」
そこが問題だろう。相手が相手だ、簡単に勝てるとは思えない。その時、的確な指示が出せるか、或いは参謀の意見を受け入れる事が出来るか……。

「なかなか、前途多難だな」
「まったくです、楽観できません」
その通りだ。溜息交じりの本部長の言葉にこちらも溜息が出た……。






 

 

第十五話 蠢動

帝国暦486年10月28日  オーディン 新無憂宮 黒真珠の間 エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「出撃は来月の五日ですか、間もなくですな。公の御武運を祈っておりますぞ」
「有難うございます」
誰だっけ、こいつ。やたらと愛想の良い髪の毛の薄い親父だが名前が思い出せん。どうやらブラウンシュバイク公爵家の一門らしい。顔は見覚えが有る、多分養子になった時にブラウンシュバイク公爵邸で行われた顔合わせで見たんだろう。えーと、そうだ、ハルツ、ハルツ子爵? だったかな。

「私もハルツ男爵同様、公の御武運を祈っております」
「それは有難いことです」
「公がお勝ちなされれば我らもブラウンシュバイク公爵家の一門として鼻が高い」
そうそうハルツ男爵だ。危ない危ない、もう少しでハルツ子爵と呼ぶところだった。しかし、こいつこんなに愛想良かったっけ? 仏頂面しか覚えが無いんだが……。

ところで今度話しかけてきた奴は誰だ? やたらとのっぽでひょろひょろしているがこいつには見覚えが無い。会話の内容からするとやはり公爵家の一門らしいがさっぱり分からん。顔合わせの時には居なかった? あるいは俺が覚えていないだけか……。

「エーリッヒ、責任重大だな」
「お父様、エーリッヒ様が困っていらっしゃるわ」
「おお、それはすまん」
大公とエリザベートが楽しそうに話しているが俺は引き攣った笑いを浮かべる事しか出来ない。皆、俺にプレッシャーをかけるのがそんなに楽しいか?

訓練から戻ったのが昨日なのだが大公から“明日は新無憂宮で舞踏会だ”と言われた。なんでもフリードリヒ四世が久しぶりに舞踏会でもやるかと言ったらしい。勘弁して欲しいよ、訓練で疲れたわけじゃないが遠征の事を考えるととてもじゃないが舞踏会という気分じゃない。

大体俺はそういうのは苦手なんだ。ダンスなんかするくらいなら一人で本でも読んでいた方が良い。でもね、困った事に俺以外は皆ノリノリなんだな。大公夫妻もエリザベートも本当に嬉しそうだ。こういうのを目の当たりに見ると彼らは根っからの宮廷人なんだなと思う。やっぱり平民出身の俺とは何処か感覚が違うらしい。

まだ、定刻には間が有る、それに皇帝フリードリヒ四世も来ていないので舞踏会は始まっていないが、周囲を見ると結構人は居る。盛会と言って良いんだろう。もっとも皇帝主催の舞踏会だ、詰らない理由では欠席出来ない。おかげで俺もこうして参加している。

ハルツ男爵ともう一人がようやく離れた。さっきから妙に話しかけてくる奴が多い。ヒルデスハイム伯も来たしラートブルフ男爵も来た。皆楽しそうだったからこういう宮中行事が好きなんだろう。俺には理解しがたい精神だ。

「義父上、先程の背の高い方ですが、どなたです? どうも記憶にないのですが……」
ちょっと恥ずかしかったので小声で問いかけると大公も声を潜めた。もしかして大公も恥ずかしいのか?

「ヴォルフスブルク子爵だ。お前が知らぬのも無理は無い、顔合わせの席には居なかった。当日体調不良と言ってきてな、欠席した」
「そうでしたか」
俺が頷くと大公も頷く。目が悪戯っぽく笑っている。

「ハルツ男爵もヴォルフスブルク子爵もお前がブラウンシュバイク公になるのを喜んではいなかった。内心では認めていなかっただろうな。しかし先日お前がコルプト子爵達を抑えつけるのを見て怖くなったのだろう。一生懸命機嫌を取ろうとしている。もっともそれは彼らだけではないが……」
「……」

なるほど、道理でさっきから妙に御機嫌な奴が多いと思った。
「しかしまだ最終試験が残っていますが……」
「遠征が終わってからでは遅いと思ったのだろう。それだけ皆、お前を怖れている。ブラウンシュバイク公爵家の当主として認めたという事でもある」
「なるほど」

どうやら俺は流血帝アウグスト並みに怖れられているらしい。結構な事だ。つまり遠征で失敗は出来ない、そういう事だな。プレッシャーで胃が痛いよ。それにしてもさすがだと思ったのは大公夫人とエリザベートが沈黙を守っている事だ。普通なら会話に加わってくるところだが、何も言わずにニコニコしている。偉いもんだ。

フリードリヒ四世が現れたのは御機嫌な貴族達の相手を四人ほどしてからだった。お願いだからもっと早く来てくれ……、俺の忍耐にも限度というものが有る。下心アリアリの脂ぎった親父どもと化粧の濃いおばさんの相手はうんざりだ。

舞踏会が始まると先ずは皇帝陛下への挨拶だ。こういう場合、偉い順に挨拶する事になっている。これまではブラウンシュバイク公爵家とリッテンハイム侯爵家で交互に先陣を争っていたらしい。馬鹿馬鹿しい話だが両家にしてみれば面子の問題だ。

今回は両家一編に挨拶することになった。俺達は仲良しなんだぞ~という事を皆に見せつけるためらしい。というわけでブラウンシュバイク公爵家から四人、リッテンハイム侯爵家から三人が最初に皇帝に近づいた。皆がこちらを注目している。視線が痛いぜ。

「陛下におかれましては御機嫌うるわしく」
「うむ、そち達も仲が良さそうで何よりじゃ」
「はっ、恐れ入りまする」
大公とフリードリヒ四世が話している。みんな御機嫌だ。変に張り合う事も無くて気が楽なんだろう。先に年長者四人が挨拶する、俺を含めて若い三人はその後だ。

皇帝の半歩後ろにはグリューネワルト伯爵夫人が居る。髪を高く結い上げているけどやっぱり美人だわ。これじゃラインハルトがシスコンになるわけだよ。今二十四歳か、俺より三つ年上……、ちょっとでいいから話してみたいもんだ。声を聞いてみたい。

「ブラウンシュバイク公、そちは何時出征するのじゃな?」
お、いつの間にか俺の番か。
「何事も無ければ来月の五日には……」
「そうか、武勲を期待しておるぞ」
「はっ」

これで終わりかな、そう思った時だった。
「そうそう、アンネローゼがそちに礼を言いたいそうじゃ」
「……と言いますと」
「ラインハルトがそちに世話になっておるそうじゃの」
「いえ、そんな事は」

そんなことは無い、こっちにも思惑が有っての事だ。と思ったが伯爵夫人がヒタっと視線を俺に向けてきた。いや、そんな目で見られると困るんです、ドギマギするんですけど……。
「公、いつも弟の事を御配慮頂き有難うございます。これからもよろしくお願いします」

伯爵夫人が頭を下げた。軽くじゃない、かなり深くだ。おかげで胸の谷間が……。いや、そんな事はどうでもいい。皇帝の寵姫が頭を下げるとかちょっと勘弁して欲しいよ。 周りの視線がさらに痛い……。おまけにエリザベートがこっちを睨んでる。俺にやましい事は無いぞ、エリザベート。そんな目で俺を見るな。
「いえ、ミューゼル提督にはこちらこそ助けてもらわねばなりません。宜しくと頼むのはこちらの方です」

賢い人だわ。皇帝の前で俺から言質をとったか……。ラインハルトをブラウンシュバイク、リッテンハイム連合に結び付けようって事だな。他の貴族に比べればラインハルトの基盤は弱い、それを案じての事だろうが……、やるもんだ、女には惜しいな。

今日の舞踏会の話題はこれだな。まあラインハルトとの友好はこちらも望むところではある、問題は無い……。有るとすれば、エリザベート、俺を睨むな、公爵令嬢の品位に欠ける振る舞いだぞ。後でアップルパイを作ってやるからな、それとも頭を撫でた方が良いか。……クリスマスのプレゼントはちょっと奮発した方が良さそうだな……。今度は頭が痛くなってきた……。


帝国暦486年12月15日  イゼルローン要塞  エルネスト・メックリンガー



オーディンを十一月五日に出立しイゼルローン要塞に十二月十五日に到着。その間約四十日、まずまずの航海と言える。このイゼルローン要塞で補給及び修理、反乱軍の情報収集を行った後、彼らの勢力圏に対して出撃となる。将兵に対しての休息も含むからイゼルローン要塞に居るのは五日間と決めている。出撃は二十日だ。

ブラウンシュバイク公と司令部要員、そして分艦隊司令官が要塞に降りると二人の士官が出迎えに来ていた。それぞれに名乗ったがどうやら要塞司令部、艦隊司令部から迎えに行けと命じられたらしい。相変わらず張り合っているようだ。

二人の士官に案内されながら歩く。先頭をブラウンシュバイク公とフィッツシモンズ少佐、その後に私とシュトライト准将、そして分艦隊司令官が続く。暫く歩くとブラウンシュバイク公が話し始めた。

「イゼルローン要塞には良い思い出が有りません。ここに来ると憂欝になる」
冗談を言っている口調では無い、心底憂欝そうな口調だ。はて、隣を歩くシュトライト准将に視線を向けた。准将も心当たりが無さそうな顔をしている。

「体調が悪いのに無理をされるからです。あの身体で停戦交渉など……、どれだけ心配したか」
「心配? 私の事を叱り飛ばしていたじゃありませんか、この人は病人を労わるという事を知らないのだと思いましたよ、つくづく自分の運の無さを恨んだものです」
「心配したから注意したのです!」

憤然として抗議する少佐に公が笑い出した。なるほど、前回の戦いで公が停戦交渉に赴いたという事は聞いた事が有る。体調が悪かったという事もだ。どうやらその時の事らしい。公がこちらを振り返った。

「あの時はビッテンフェルト少将の乗艦で停戦交渉に行きましたが少将に呆れた様な顔をされた事を覚えています」
「あ、いや、そんな事は有りません。病身を押して行かれるので大変だと思ったのです」
慌てたように答えるビッテンフェルト少将にまた公が笑い声を上げた。意地の悪い声では無い、何処か楽しそうな明るい声だ。

「ビッテンフェルト少将、悪い事は出来んな」
「悪い事とは何だ、俺は何も悪いことなどしておらんぞ、ワーレン少将」
「その割には慌てているようだが」
ルッツ少将の突っ込みに皆が笑い声を上げた。アイゼナッハ少将も声を出さずに笑っている。ビッテンフェルト少将も諦めたように苦笑した。

案内された部屋にはゼークト駐留艦隊司令官、シュトックハウゼン要塞司令官の二人がいた。二人が敬礼し公もそれに応える。互いに礼を交換するとゼークト駐留艦隊司令官が口を開いた。

「公爵閣下におかれましては……」
「あ、いや」
「?」
「その、公爵というのは止めてください。私は軍人としてここに居るのですから」

ゼークト、シュトックハウゼン両大将が困惑した様な表情を見せた。我々も同じ事を言われている。公は自分がブラウンシュバイク公と呼ばれる事を好んでいない。というより公爵という事で敬意を払われる事を好んでいない。爵位よりも能力で評価して欲しいと思っているようだ。無能な貴族に対しての反感がそうさせているのかもしれない。

以前一緒に宮中の警備に就いた事が有るから分かっている。この人は無能で有りながら尊大な貴族に対して非常に厳しい。爵位で呼ぶなというのは連中と一緒にされてたまるか、そんな思いがあるのではないかと私は思っている。

面白い。帝国最大の貴族であるブラウンシュバイク公爵家の当主が実力主義の信奉者なのだ。実際に遠征軍の人事は公の意向によるものと言われているが集められたのは下級貴族と平民だ。門閥貴族など一人も居ない。

改めて挨拶が済むと補給及び修理の要請を公から二人に告げた。問題無く受け入れられた、既に連絡済みの事を改めて最高責任者から伝えただけだから当然ではある。その他に反乱軍の動静を確認したがイゼルローン回廊内では特に動きは無いらしい。動いているのか、動いていないのか……。後は索敵行動を行いつつ会戦の機を窺う事になるだろう……。



夜、私の部屋でクレメンツ、シュトライト准将とワインを飲んだ。出撃すればアルコールは控えなければならない。楽しめるのは今日を含めてあと五日だ。その後はどうなるか……。場合によっては二度と飲めないという事もあるだろう。そう思えば飲める機会を無駄にすべきではない。

「反乱軍の動きは分からんか……、ちょっと気になるな。こちらの動きに気付いていないとも思えんが……」
「イゼルローンだけではありません、オーディンも反乱軍の動きを掴めずにいます」

クレメンツ、シュトライト准将がワインを口に運びながら話している。表情は決して明るくない。オーディンからイゼルローン要塞への航海の間、何度か反乱軍の動向をオーディンに問い合わせたが、反乱軍の動向は不明という回答しか帰ってこなかった。

「閣下は反乱軍が迎撃に出てくる、あるいは既に出ていると考えているよ」
「ほう」
「その兵力は五万隻前後と見ているようだな」
「五万隻か、こちらの倍以上だな……。しかしそれだけの兵力が動けば何らかの情報が有っても良い筈だが……、本当に動いているのか? こちらの動きを知らないとも思えんが」
クレメンツが首を傾げた。

「フェザーンが故意に情報を遮断している、閣下はそう考えているようです」
「故意にか」
シュトライト准将の言葉にクレメンツが驚いている。確認するかのようにこちらを見るので黙って頷いた。クレメンツも納得したように頷く。

「ここ最近帝国が優勢に戦いを進めている。フェザーンとしては帝国、反乱軍の均衡を図りたい。この辺で帝国に負けて貰いたいと考えているのだ」
私の言葉にクレメンツが“有り得る話だな”と吐くとグラスを一息に呷った。そして空になったグラスにワインを注ぐ。トクトクという音が部屋に響いた。

「全てはフェザーンの掌の上か、面白くない」
クレメンツが呟くとシュトライト准将が頷いた。
「こちらとしても面白くありません。閣下の政治的立場を強化するには勝利が必要なのですから」

その言葉に皆が頷いた。内乱を防ぐためにブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家、軍、政府が協力体制を結んだ。今のところ協力体制は上手く機能している。しかし完全ではない、完全にするためにはこの戦いで誰もが認める勝利が必要だ。

「閣下はどうお考えなのかな? このままでは勝算はかなり低いが」
クレメンツが窺う様な口調で私とシュトライト准将を見た。
「無理はしないそうだ。出撃はするが勝てないと見れば撤退すると……」
「ほう、しかし良いのか?」

「無様に敗北するよりは良いだろう」
「それはそうだが……」
思わず溜息が出た。クレメンツも溜息をついている。思うようにいかない事に、勝てないという現実に苛立ちが募る。紛らわすかのようにワインを一口飲んだ、口中が苦い……。

溜息を吐いている私達にシュトライト准将が話しかけてきた。
「いずれ、フェザーンは今回の事を後悔しますよ」
「?」
「外見からは想像できませんが閣下は内に相当激しいものを持っています。その閣下を敵に回したのです、必ず後悔する。それに……」

「それに?」
問いかけたクレメンツにシュトライト准将が笑いかけた。
「閣下はここ最近頻繁に反乱軍の星系図をフイッツシモンズ少佐と確認しています。なにやら思うところが有りそうですな」

クレメンツが意表を突かれた様な顔をした。なるほど、まだ負けたと決まったわけではないか……。
「どうやら諦めるのはまだ早いようだな、クレメンツ」
「そのようだな、楽しませて貰えそうだ」
ワインを一口飲んだ、苦味は消えていた……。




 

 

第十六話 探り合い

帝国暦486年 12月31日  ヴァンフリート星系 フォルセティ  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



俺が率いる帝国軍遠征軍二万隻の艦隊はイゼルローン要塞を予定通り二十日に出発し現在はヴァンフリート星系に差し掛かっている。今のところ同盟軍の動きはこちらには見えない、敵情が皆目分からん状況だ。その所為で艦橋はピリピリしている。頭が痛いよ……。

今日は十二月三十一日、つまり大晦日だ。一年の終わりの日、そして明日は一年の最初の日だと言うのに俺は自由惑星同盟領に踏み込んで戦争しようとしている。全く年末年始を休む事も出来ないとは……、将兵達もぶつくさ言っているだろう、俺だって言いたい。何だってこんなことしてるのか……。

作戦目的は反乱軍兵力の撃破という事になっている。余り意味が有るとも思えん作戦目的だが俺を元帥にするための戦いみたいなもんだからな、仕方がない……。おかげでこちらは戦果を挙げるために敵を探すなどという本来有り得ない状況になっている。戦略よりも国内政治を優先して出兵したツケだ……。ますます頭が痛い。

索敵は念入りに行っている。後背を衝かれたらひとたまりもないからな。イゼルローン回廊を出た後、ティアマト、アルレスハイム方面から後背を衝かれないようにと念入りに確認を行った。今も後方にはかなりのワルキューレが哨戒活動を行っている。

その所為で艦隊の移動に時間がかかっている。イゼルローン要塞を出立して今日で十日。本当ならヴァンフリート星系などとっくに過ぎているはずだったのに……。ルビンスキーの野郎、余計な事をしやがって。いつかこの借りは十倍にして返してやる。

同盟軍が出てこないわけはない。帝国、同盟の共倒れを狙うルビンスキーにとって今回の俺は願ってもないターゲットなのだ。必ず同盟側には知らせたはずだ、それもかなり詳細に知らせただろう。そして同盟にとって俺の艦隊はかなり美味しい餌に見えるに違いない。一個艦隊、二万隻、叩き潰しがいが有るはずだ。

間違いなく同盟軍はこちらを叩き潰したがっている。撤退させるのが目的なら大軍を動員しているとこちらにも分かる形で誇示するだろう。原作のアスターテ会戦がそうだった。それをしないという事はこちらを引き寄せて決戦で打ち破るのが目的だ。そしてそれだけの兵力を動員している。

おそらく新司令長官ドーソン大将の意向も有るだろう、前任者ロボスが解任同然に首になった事でドーソンは目に見える戦果を欲しがっている……。なんかの間違いで司令長官になった男だからな。

出て来ているかな? 小心で臆病ではある、だが弱者を弄る事を楽しむ男でもある。そして何よりも体面を重んじる男だ。兵力差は圧倒的となれば安心して出てくる可能性は高い。そして武勲を挙げて周りを見返したいと思っているだろう。おそらく深く密かにこちらが近づくのを待ち受けているはずだ……。

ジャガイモじゃなくてアンコウみたいな奴だ。いや、それはアンコウに対して失礼だな。あいつは不細工だが極めて美味だ、おまけに捨てる所が無い。それに比べてドーソンは不細工で滑稽なだけだ、全く違う。ジャガイモも違うだろう、あれも美味だし使い道が豊富だ。ドーソンとは違う。

こっちも勝利が欲しいが向こうも勝利が欲しい。戦う以上勝利を欲するのは当然だがどちらがより勝利を強く求めるか、我慢できるかが戦局を左右するかもしれない。焦るな、焦るのはドーソンだ、お前じゃない。兵力が少ない以上焦りは危険だ。落ち着いてチャンスを狙え。一応策は有るんだ、そのために準備もした。場合によっては撤退すればよい、また出直せばいいんだ。

「前を行く索敵部隊から連絡です。ヴァンフリート星系に反乱軍を発見できずとのことです」
「分かりました」
オペレータが申し訳なさそうに報告してきた。この雰囲気じゃ報告しづらいよな、しかしお前の所為じゃない、気にするな。やはりヴァンフリートに敵はいないか……。あそこは敵を発見し辛いからもしかしたらと思ったが……、まあ想定通りではあるな。

「妙ですな、敵は一体どこに居るのか」
シュトライトが呟くとメックリンガーも頷いた。どうやらこの二人はヴァンフリートに敵がいると想定していたらしい。確かにヴァンフリートは艦隊を隠しやすい場所ではある。

「ティアマト、アルレスハイム方面には居なかった……、ここに居ないとなるとアスターテかな」
二人とも声が小さい、確信が持てず自信が無いのだろう。ビューロー、ベルゲングリューンの二人は黙ってそれを聞いている。

「閣下、このままですとアスターテ星域を目指す事になりますが、その後は如何しますか」
メックリンガーが躊躇いがちに問いかけてきた。

「その場合はエル・ファシルへ行きましょう。あそこは有人惑星が有ります。同盟軍も見捨てる事はしない筈です」
四人が頷くのが見えた。安心しろ、敵はおそらくアスターテでこちらを待ちうけているはずだ。

この四人は前回のアスターテ星域の会戦に参加していない、そしてドーソンの事も知らない。だから敵の狙い、心理状況についても今一つ理解できていない。だが、それで良いと俺は思っているから彼らに説明はしない。下手に説明して先入観を持たれたくはないのだ。

それにビューローもベルゲングリューンも俺に遠慮している。俺が何か言うとそれに拘りかねない。俺の考えはあくまで予測だからな、外れる可能性は十分に有る。そして現状では敵については何も分かっていない。白紙で良いのだ……。そのほうが様々な可能性を見落とさずに済むだろう。

敵はアスターテに居る、根拠は有る。前回の戦い、同盟軍は帝国の仕掛けた欺瞞作戦に引っかかり主戦場をティアマト星域と想定した。当然だが艦隊戦力もティアマトに展開した。だが実際には帝国軍はアルレスハイムからパランティアを抜けアスターテ星域を目指した。

慌てた同盟軍は艦隊をティアマトからアスターテへと引き戻したが強行軍の上、補給も摂れなければ休養も摂れない状態での戦いになった。前回の戦いで同盟軍が帝国に敗れた一因はそこに有る。前回の失敗は犯したくない、同盟軍はそう思っているはずだ。となると同盟軍が帝国を待ちうけるポイントは有る程度絞れてくる。

最初のポイントはイゼルローン回廊の出口付近だ。本来ならここが一番帝国軍を発見しやすいし迎撃しやすい。原作で同盟軍が帝国領侵攻を行った時、ミッターマイヤー、ビッテンフェルトがイゼルローン回廊の出口付近を迎撃ポイントに提案している事でも分かる。

しかし今回の場合イゼルローン要塞が帝国側に有る。つまり俺は何時でも駐留艦隊を呼ぶ事が出来るわけだ。或いはイゼルローン要塞まで撤退して要塞攻防戦に持ち込む事も出来る。そう考えるとこちらの撃破を考えているであろう同盟にとっては必ずしもベストなポイントとは言えない。

第二はティアマト、アルレスハイム方面に潜み帝国軍の後背を撃つという方法だ。これはティアマト、アルレスハイム方面をかなり索敵したし今も後背には哨戒部隊を置いている。現時点では可能性は低い。

そう考えていくと同盟軍は前方に居ると考えるべきだ。帝国軍がティアマト、ヴァンフリート、アルレスハイム、どの星系を通って来ても比較的短時間に捕捉できる位置に同盟軍は居る。つまりアスターテだ。あそこならティアマトからダゴン、アルレスハイムからパランティアに来る帝国軍にも対応しやすい。

問題が有るとすれば前回の戦いで敗れている事だろう。縁起が悪いとか騒ぐ奴がいるかもしれない。そう考えるとエルゴン星系という選択肢もあるが、そこだとエル・ファシルを見殺しにする事になりかねない。有人惑星を見殺しにする事は共和政民主主義国家の軍隊には出来ないはずだ。やはりアスターテ星域に同盟軍は居る、そう考えるのが妥当だろう。つまり遅くともあと一週間以内に同盟軍と接触するはずだ……。



宇宙暦796年 1月 4日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ヤン・ウェンリー



「まだ帝国軍の所在は分からんのか!」
「……残念ですが」
グリーンヒル参謀長の答えに指揮官席のドーソン司令長官は苛立たしげにフンと鼻を鳴らした。これで何度同じ会話を繰り返すのか……。

総旗艦ラクシュミの艦橋は司令長官の苛立ちも有りピリピリとした雰囲気と不安に包まれている。周囲に与える影響を思えば司令長官の態度は決して良い事ではない。その所為で皆難しい顔をしている。

もっとも司令長官の苛立つ気持ちが分からないではない。何と言っても帝国軍の動向がまだ掴めないのだ。イゼルローン要塞を先月二十日に出立したという事はハイネセンからの情報で分かっている。フェザーンからの情報だから信じて良いはずだが……。

二十日に出撃したという事はもう二週間以上経つ事になる。本来ならアスターテ、ダゴン、パランティアの各星系に敷いたいずれかの哨戒網に引っかかっても良いはずだ。しかし何処からも未だ帝国軍発見の報告は無い、何かがおかしい。

情報が間違っているのだろうか? しかしフェザーンは同盟に勝って貰いたがっているはずだ。ここ最近帝国が優勢に戦いを進めている事にフェザーンが危機感を抱いているのは間違いないのだ。いい加減な情報を送ってくるはずが無い。時に同盟政府よりもフェザーンの方が同盟の安全保障に関心が高いのではないかと思う事も有る。となると何らかの事情で帝国軍の動きは鈍い事になるが……。

「一体何をやっているのだ帝国軍は!」
またドーソン司令長官が苛立ちの声を上げた。小刻みに体を揺すっている。逸っている、勝てるという思いが司令長官を焦らせているのだろう。ここで大きく勝てば自分を危うんでいた人間達を見返すことが出来る。元帥への昇進も有り得る、そう思っているのかもしれない。そして勝てるだけの条件は揃っている。

フェザーンからの情報によれば帝国軍は二万隻、一方の同盟軍は四万六千隻を越える艦隊がアスターテ星系の手前に集結している。内訳は第二艦隊一万五千隻、第七艦隊一万四千隻、第九艦隊が一万二千隻、そして司令長官の直率部隊が五千隻。圧倒的に同盟が有利だ。同盟軍は帝国軍に対し二倍以上の兵力を持っている。余程の事が無い限り兵力差で帝国軍を圧倒できるだろう。

ここで帝国に対し勝てるのは大きい。敗北続きの同盟にとっては士気を上げる事も有るが少しでも時を稼げるはずだ。そして何よりも帝国の実力者になりつつあるブラウンシュバイク公を敗北させるのだ。場合によっては失脚させることが可能かもしれない……。

帝国軍がまだ確認できないのは公が周囲を警戒しつつゆっくり進撃しているからかもしれない。或いは増援を呼んだのだろうか? 艦隊はまだイゼルローン要塞でオーディンからの増援を待っている? だとすると帝国軍の兵力はもっと多い事になる。有り得ない事ではない、負けることが出来ないのはお互い同じなのだ。

「哨戒部隊より連絡、我、ワルキューレと接触セリ!」
オペレータの報告に皆が愁眉を開いた。艦橋にホッとした様な空気が流れる。ようやく見つけた、そんなところだろう。所々で頷いている者もいる。妙なものだ、敵を見つけて雰囲気が明るくなるとは……。

「どの方面だ?」
もどかしそうな口調でドーソン司令長官が訪ねた。
「前方、ヴァンフリート方面です」
その言葉に皆が意外そうな表情で顔を見合わせた。

イゼルローンからヴァンフリート、そしてアスターテ……。最短距離でこちらに向かっている、にも拘らず帝国軍の動きは遅い。そして接触したのは艦隊ではない、ワルキューレ……。明らかに索敵部隊だ、艦隊はさらに後方にいるだろう。

「妙、だな。動きが遅い……」
グリーンヒル参謀長の呟きに皆が頷いている。
「援軍を呼んだという可能性は無いでしょうか。それを待っていて動きが遅くなった」
私の言葉に皆がまた顔を見合わせた。

「増援だと?」
ドーソン司令長官がこちらを睨んだ。目が血走っているし頬がひくひくしている。いけ好かない部下が面白くない事を言った、そんなところだろう。意見具申など二度としたくなくなる対応だな。うんざりするがこれも給料分の仕事だ。全くなんで軍人なんかになったのか……。

私の指摘に答えたのはグリーンヒル参謀長だった。
「可能性は有るな。向こうにとっても負けられない戦いだ。……司令長官、スパルタニアンに索敵をさせましょう。先ずは敵の戦力を確定しないと」
「うむ」

ドーソン司令長官が苦虫を潰したような表情で許可をだした。面白くないのだろう、帝国軍に増援が有れば当然だが勝算は下がる。だからと言ってこちらを睨まないで欲しいものだ。私が増援を呼んだわけじゃない。大体増援がいるかどうかも分からない、私は可能性を指摘しただけだ。

グリーンヒル参謀長が指示を出しスパルタニアンが発進して行く。敵の存在が確認できた所為だろう、艦橋に活気が出てきた。



宇宙暦796年 1月10日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ドワイト・グリーンヒル



「帝国軍、こちらに向かっています」
オペレータの声が艦橋に響く。またか……。
「一体帝国軍は何を考えているのだ! 戦うのか、戦わないのか!」

ドーソン司令長官が指揮官席で頬を震わせながら怒鳴った。もう何度目だろう、参謀達は皆白けた表情で黙って聞いている。そしてその事が更に司令長官を苛立たせている。困ったものだ。

「落ち着いてください、閣下」
「落ち着けだと!」
ジロリとこちらを見た。まるで私が敵であるかのようだ。うんざりだが参謀長として言わねばならない。
「敵はこちらを挑発しているのです」
私の言葉にドーソン司令長官がフンと鼻を鳴らす。溜息が出そうになった。

帝国軍索敵部隊とこちらの哨戒部隊が接触した後、こちらもスパルタニアンを索敵部隊として出した。その結果帝国軍はアスターテ星系とヴァンフリート星系のほぼ中間に居る事が分かった。敵兵力は約二万隻、現れるのが遅い事を除けば情報通りだ。おそらく周囲を警戒していて遅くなったのだろう。

敵の存在が分かった事でドーソン司令長官は全軍に前進を命じた。敵の索敵部隊と接触するまでに出来るだけ帝国軍に近づかなくてはならない。戦力は圧倒的にこちらが優位なのだ。帝国軍がそれを知れば撤退する可能性は高い。

それでも一応は勝利と言える。しかし出来る事なら戦って敵にダメージを与えたうえで撤退させたい。ここ最近同盟軍は劣勢にある。そのイメージを払拭させたいと軍、政上層部は考えているのだ。

私もその考えに賛成だ。そして敵の司令官、ブラウンシュバイク公が極めて厄介な敵であることは分かっている。出来れば彼を敗北させたい。それによって彼の発言力を弱めたい、そう思っていたのだが……。

ブラウンシュバイク公か……。厄介な相手だ、油断は出来ない。ヴァンフリートでもイゼルローンでも彼にしてやられた。ドーソン司令長官は武勲を挙げる事に逸っているが非常に危険だ。最悪の場合は無傷で撤退させることで良しとせざるを得ない、そう考えていたのだが……。

同盟軍本隊がワルキューレによる接触を受けたのは一月五日になってからだった。向こうもこちらの戦力は把握したのだろう、イゼルローン要塞方面に向かって撤退を始めた。両軍の間の距離を考えれば追撃しても届かない事は分かっていたがドーソン司令長官は追撃を命じた。

敵を追ったという事実が欲しかったのだろう。報告には撤退する敵を追ったが逃げ足が速く捕捉出来なかったと書きたいに違いない。詰まらない見栄だが分からないでもない。本来ならそれで終わるはずだった。

問題は帝国軍が素直に撤退しなかった事だった。こちらが追えば逃げ、こちらが引き返せば追い慕ってくる。もう既に五日も遊んでいるかのような行動を取っている。両軍の距離はごく普通に接近すれば一日で至近となる距離だ。

「皆、どう思うか? 忌憚ない意見を言ってくれ」
私の言葉に参謀達が意見を述べ始めた。
「帝国軍は我々をこの場に引き留めようとしているのではないだろうか。或いは本国に増援を要請したのかもしれない。二個艦隊も呼べば十分に我々と戦える」
何人かが頷いている。一理あるだろう、帝国軍の動きは我々をこの場に引き留めようとしているように見えるのは確かだ。

「そうだとすると増援を呼んだのは何時だ? 我々と接触してから呼んだのであれば増援が来るのは最低でも四十日後ということになる」
「……」
「このまま追いかけっこを四十日も続けるのか? そしてその後で戦闘? 馬鹿げている、その内燃料切れで動けなくなるぞ。有り得ない、非合理だよ」
これも道理だ、何人かが顔を顰めた。

「……増援を呼んだのはもっと前の可能性も有るだろう」
「ならばイゼルローン要塞で合流すればよいではないか。我々と接触し各個撃破される危険を冒す必要は無い」
「……」

参謀達が押し黙って顔を見合わせている。あまりいい状態ではないな、方向を示す必要が有るだろう。
「つまり増援は無い、その可能性が高いという事か?」
私の確認に何人かが頷いた。積極的に、或いは不承不承、しかし反対する人間はいない。

「では増援が無いとすると敵の狙いは」
また参謀達が顔を見合わせた。今度はどの顔にも困惑が有る。
「……おそらくは挑発だと思いますが……」
戸惑うような口調だ、自信が無いのだろう。しかし私も同じ考えだ。

カタンと音がした。ドーソン司令長官が指揮官席から立ち上がり仁王立ちになっている。
「馬鹿か、貴官は! そんな事は少し考えれば誰でも分かる事だ! どうすれば敵を打ち破れるのかね、私が聞きたい事はそれだけだ!」
「……」
ドーソン司令長官が額に青筋を立てて怒鳴った。


 

 

第十七話 戦機、近づく

宇宙暦796年 1月10日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ドワイト・グリーンヒル



ぶち壊しだ、参謀達を落ち着かせ意識を合わせようとしたのに……、参謀達も私が何をしようとしているかは分かっていたはずだ。それなのに肝心の司令長官だけが何も分かっていない。

罵られた士官は顔を伏せ唇を噛み締めている。今後、彼がドーソン司令長官のために積極的に何かをする事は無いだろう。味方を減らし敵を増やしたわけだ。多くの参謀達が表情を消している。内心では呆れているだろう。自らの行為で評価を下げたわけだ。

ドーソン司令長官が忌々しそうに舌打ちして席に座った。
「もう一度聞く、どうすれば敵を打ち破れるのかね、君達はそれを考えるためにここに居るのだろう」
「……」
嫌味な言い方をする。それが原因で士官学校の教官時代、生徒に嫌われたと聞いているが本人は何も感じなかったらしい。

「一隊を迂回させて帝国軍の後方に回しては如何でしょう。後方を断たれるとなれば敵も撤退せざるを得ません。敵が気付かずに鬼ごっこを続けるのなら挟撃できます」
「うむ」

案を出したのはフォーク中佐だった。若手では俊秀と言われる士官だ。司令長官の傍に置いてある戦術コンピュータを操作して作戦案をモニターに表示し始めた。一隊が迂回して帝国軍の後方に出る動きを示し始める……。

ドーソン司令長官は頷いてはいるが必ずしも満足している様子ではない。敵を撃破出来るとは限らないことが不満なのだろう。ドーソン司令長官は焦っている。挑発されたため何が何でも敵を撃破したい、そう思っているようだ。

「それは止めた方が良いのではないでしょうか。敵の思う壺です」
フォーク中佐が案を否定され頬を歪めた。発言したのはヤン准将だった。ドーソン司令長官が准将に視線を向けたが決して好意的な視線ではない。准将はシトレ元帥と親しい、そのためドーソン司令長官はヤン准将を疎んじている。

「帝国軍がこちらに攻めかかって来ないのは我々に比べて兵力が少ないからです。挑発行動を繰り返すのも我々を苛立たせ兵力を分散し挟撃しようとするのを待っている可能性が有ります」
「……」
准将はドーソン司令長官の視線を気にした様子もなく言葉を続けた。見かけによらず神経が図太い。

「一個艦隊を別働隊にした場合、最大でも第二艦隊の一万五千隻です。帝国軍の二万隻には及びません。敵の後方に出る前に帝国軍に捕捉され各個撃破される危険が有ります」
「……」
ドーソン司令長官が顔を顰めた。忌々しそうに准将を見ている。

「敵の司令官、ブラウンシュバイク公は極めて有能で危険な用兵家です。その事はこれまでの戦いが証明しています。彼の兵力が少ないからと言って軽視するかのような作戦は取るべきではありません」
ヤン准将の意見に皆が押し黙った。准将の言う通りだ、私も彼には苦い思いをさせられた。

「ではどうする」
不機嫌そうな表情、そして押し殺した声だ。ここまで露骨に感情を出す司令長官も珍しいだろう。しかしヤン准将は気にする様子もなく続けた。

「アスターテ星域に戻る事を提案します。こちらが動かなければ敵には打つ手が有りません。いずれは帝国に戻らざるを得ないはずです」
ヤン准将が口を閉じると沈黙が落ちた。ドーソン司令長官が不機嫌そうに顔を顰めている。

ヤン准将の提案はフォーク中佐の挟撃案に比べれば消極的ではあるが無理のない安全な作戦だといえる。戦果は挙げられないが損失も無い。帝国軍が為す術もなく撤退すれば国土防衛という観点からは十分な戦果を挙げたと言える、しかし……。

「それで、帝国軍は何時撤退するのかね」
「それは何とも」
「一ヶ月後かね、それとも半年後かね。それまで我々はアスターテ星域で帝国軍が家に帰るまでじっと待っていろと貴官は言うのか、話にならん!」

ドーソン司令長官が頬を振るわせて怒鳴った。気に入らない部下が気に入らない提案をした、鬱憤晴らしに嫌味を言って怒鳴りつけた、そんなところだろう。とんでもない男が宇宙艦隊のトップになった……。

「では如何なさいます?」
私が問いかけた。別に意地悪をしたのではない。司令長官の案をベースに話した方が早いと思ったのだ。不備が有ればそれを指摘し最善のものにする、或いは断念させる。それにこれ以上口汚く罵る姿を周囲に見せるのは士気にも関わるだろう。

司令長官がこちらを睨んだ。話を振られた事が面白くないらしい。一瞬口籠った後唸るような口調で案を出した。
「別働隊を帝国軍の後方に回し挟撃だ!」
結局それか……。明確な形で帝国軍を撃退した、それが欲しいのに違いない。

ここから先は私が相手をした方が良いだろう。参謀達が意見を出すと罵倒しかねない。
「ヤン准将も言いましたがそれは危険です。これを御覧ください」
司令長官の傍により戦術コンピュータを操作した。モニターに本隊が後退し敵が近づいて来る状況が表示される。別働隊は迂回しつつ敵の後背に出ようとしている。

「挟撃を成功させるには本隊を後退させ敵を引き付ける必要が有ります。それを行いつつ別働隊を迂回させ敵の後背を突かせる。この場合問題なのは作戦が進むにつれ本隊と別働隊の距離が開く事です。その一方で別働隊と帝国軍の距離が縮まる……」
「……」

「我が軍の中で最大の兵力を持つ第二艦隊でさえ一万五千隻です。そして帝国軍は二万隻。別働隊は単独で優勢な敵に近づくことになるのです」
宇宙艦隊司令長官に説明する事ではないな。士官学校の学生に説明するような話だ。しかし戦果を挙げる事に夢中になっているドーソン司令長官にはこれが必要だ。コンピュータを操作した。帝国軍が進行方向を変え別働隊に近づく、もうすぐ攻撃をかけるはずだ。

「帝国軍がこちらの目論見に気付かなければ問題は有りません。しかしそれに気付けば、別働隊に対し帝国軍が攻撃をかけてくる可能性が有ります。別働隊は孤立した状況で優勢な敵と戦う事になるでしょう」
モニターでは帝国軍が別働隊を攻撃している。

「……そんな事は分かっている」
苦虫を潰したような表情だ。
「帝国軍がこちらの作戦に気付くとは限るまい」
そう言うとジロリと周囲を見渡した。

呆れた。まじまじと顔を見そうになって慌てて視線を逸らした。周囲を見れば何人かがやはり呆れたようにドーソン司令長官を見ている。希望的観測で作戦を立てると言うのか? 戦果を望むあまり願望と予測の区別もつかなくなっている。

「凡庸な指揮官ならそうかもしれません。しかしブラウンシュバイク公は非常に有能で危険です。彼が平民でありながら公爵家の養子に迎えられたことでもそれは明らかです。軽視すべきではありません。作戦は慎重さを要求されます」
私の発言に何人かの参謀が頷いたがドーソン司令長官には何の感銘も与えなかったらしい。フンと鼻を鳴らした。

「ではどうしろというのだね。貴官もアスターテ星域で待機しろというのかね、何もせずに!」
ドーソン司令長官は私に問いかけたが視線はヤン准将を見ている。なるほど、そういう事か……。

面白くないのだ、戦果を挙げられないという事もあるがシトレ元帥と親しいヤン准将の意見を受け入れるのが面白くないのだ。もしかすると自分に功績を立てさせないためではないかと疑っているのかもしれない、当初は楽に勝てると思っていたのだから……。アスターテ星域での待機をヤン准将以外の別な人間が言ったなら或いは素直に受け入れたのかもしれない……。

シトレ元帥が宇宙艦隊司令長官への就任を自ら望んだ事は皆が知っている。実現はしなかったが軍内部ではそれを残念に思っている人間は多い。私自身それを望まぬでもない。

その事がドーソン司令長官の心に棘となって刺さっている。皆が自分ではなくシトレ元帥を宇宙艦隊司令長官に望んでいるのではないかと、だから自分を心から補佐してくれないのではないか、武勲を立てさせようとしないのではないかと疑っている。

始末が悪いのはそれに事実が含まれているという事だ。皆が徐々に徐々にドーソン司令長官に対して不満を持ち始めている。誰の所為でもない、これまでのドーソン司令長官の言動によって補佐しがいが無いと感じ始めているのだ。敗北して早くクビになれば良いと考えている人間もいるだろう。

「本隊も敵に近づけてはどうでしょう。そうすれば挟撃は難しいかもしれませんが別働隊を必要以上に危険にさらさずに済みます。イゼルローン回廊に敵を押し込めるのです」
フォーク中佐が訂正案を出した。私と司令長官を交互に見ている。折衷案を出して機嫌を取ろうというつもりらしい。

「押し込んでどうする。我々が撤退すればまた出てくるだろう」
「その時はもう一度押し込むのです。帝国に対し好き勝手な行動はさせないと断固たる決意を示すのです。そうすれば帝国軍もこれ以上の挑発は無駄だと理解するでしょう」

「うむ、断固たる決意か」
とドーソン司令長官が唸った。考え込んでいる。どうやらフォーク中佐の訂正案が気に入ったらしい。あるいは気に入ったのは“断固たる決意”という言葉かもしれない。

どうする? 司令長官がフォーク中佐の訂正案を採用すると言った時賛成するか、それとも反対するか……。本来ならヤン准将の案の方がベターではある。しかしドーソン司令長官が受け入れるのを嫌がるだろう……。

「フォーク中佐の作戦案を執ろう」
「閣下……」
「これは決定だ! 別働隊は第二艦隊とする。直ちに第二艦隊に指示を出したまえ。第二艦隊には十分に注意するように伝えるのだ。それで良かろう」
「……」
「帝国に断固たる決意を見せるのだ! これ以上奴らの好きにはさせん」

分かっているのか? 第二艦隊は中央に配置されている。そして右翼に第七艦隊一万四千隻、左翼に第九艦隊が一万二千隻が配置されている。第二艦隊を迂回させるという事は艦隊の配置を再編するという事だ。全軍を前進させるなら別働隊は第二艦隊で有る必要性は無い。

さっき私は何を言おうとしたのだろう、気が付けば口を開いていた、そして言葉を封じられた。おそらく反対すると思われたに違いない。しかし本当にそうだろうか……。ドーソン司令長官は私と視線を合わせようとしない。これ以上話したくない、そういう事か、多分この戦闘の後で私は参謀長をクビだろう。寂しく思うのと同時にほっとしている自分がいた……。



帝国暦487年  1月10日  帝国軍旗艦フォルセティ  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



疲れた、ウンザリするほど疲れた、嫌になるほど疲れた。五日だ、もう五日も押したり退いたりの駆け引きを繰り返している。こんな事普通の奴なら二日もやれば何らかの対応策を考える。それなのに芸も無く五日もダラダラと続けるなんて……。ドーソンだな、こんな事をやるのはドーソンに違いない。例え違っていたとしてもドーソンだという事にしよう。

ドーソンの馬鹿野郎、グズ、マヌケ、トンマ。鈍感だから何も感じないんだろう、このアホったれの役立たず。こっちは二万隻で五万隻近いお前らを相手にしてるんだ。疲れるんだよ、油断して捕まったら一気に押し潰されかねないからな。それなのにお前は……、呑気にお茶でも飲んでるんだろう、このボケナス。

無理はしないと言ったよ、確かに言った。でもな、ただ敵の兵力が多いので引き揚げましたと言えるか? 少しは敵の様子を探らなかったのかとか言われるだろう。そうじゃなくても少数で多数を撃ち破らないと無能と考える素人が多いからな。

一生懸命挑発してるのに何も感じないんだろう、ドーソン、このグズが。アッテンボローの言う通りだ、地獄に落ちろ、役立たずのグズ。多分戦争が苦手で自信が無いんだろう、それで動かないんだ。まるで五丈原の戦いだな、俺が孔明でドーソンが仲達……。駄目だ、段々落ち込んできた。ドーソンに苛められている……。なんて可哀そうな俺、地獄に落ちたのは俺のほうだ……。

ラインハルトの時には三個艦隊が分散して各個撃破されている、それなのに俺の時は五万隻近い艦隊が纏まって行動してる、不公平だろう。それでもな、一応策は考えたんだ、一応な。挑発して敵を分散させるって。分散させて引き寄せて撃破するって。幾つか状況を想定して考えたんだ。それなのにドーソンの馬鹿が分散しないし、追ってきても途中で止めちゃうし、どうにもならない。

大体だ、俺の専門は補給なんだ。それなのに何で最前線で戦争してるんだ? どうせなら兵站統括部のトップにでもしてくれよ。おまけに何時の間にか公爵家に養子に出されて、結婚相手まで決められている……、不本意の極みだ。俺の人生を返せ!

公爵になったからって好き勝手が出来るわけじゃなかった、なんたって養子だからな、肩身が狭いよ。それなのに面倒事、厄介事は全部俺だ。馬鹿貴族どもの相手はさせられるわ、皇帝の女の後始末を着けさせられるわ、おまけに勝手に自殺するわ……、皆で俺を苛める……。

良いよな、大公とムフムフちゃんは。面倒事は全部俺に押し付けて自分達はケーキ食べて御満悦だ。おまけにエリザベートは俺がアンネローゼに見とれたとか言って怒るし……。しょうがないだろう、向こうがでかい乳を見せつけてくるんだから。男だったら誰だって目が行く。大公だってムフムフちゃんだって鼻の下が伸びてたぞ。俺を責めるのは不当だ!

メックリンガー達が俺を見ている。ずっとじゃないチラ、チラっと俺を見る。何時まで続けるんだ? 次は何時熱を出すんだ? そんなところだろう。分かった、分かった。俺には戦争は無理だって言うんだろう。これ以上ここに居ても無駄だって。分かってるよ、あと二日我慢してくれ。それで何もなければ帝国へ帰る。

連中の気持ちは良く分かるさ。誰も何も言わないが遠征軍の士気は多分下がりっぱなしだろう、急降下爆撃機を通り越して潜水艦だ、いや沈没船だな。敵は二倍以上、おまけに遠征軍司令官は若年で病弱、昨日も半日熱を出して指揮官席でくたばっていた。

ヴァレリーが一生懸命世話してくれたが、保護者同伴で戦争に行く司令官が居るかよ、前代未聞の珍事だ。この状況でまともに戦争しようなんて考える奴など絶対に居ない。馬鹿臭くってやってられんだろう。俺だったら尻に帆かけて逃げ出すところだ。

ワルキューレのパイロット達には負担をかけてるよな。本当に済まないと思ってる。もうずっと索敵活動で酷使しているからな。敵艦隊に接触するとスパルタニアンに追い払われロスト、そしてまた索敵し接触……。ずっとそれを繰り返している。一応ローテーションを組んで休息を取らせているし食事やタンクベッドの使用も最優先でとは言っているが……、疲れてるだろうな……。本当に済まない。

あと二日だ、二日待とう。それで駄目なら潔く帰るんだ。多分駄目だろう、ドーソンだからな。でも一応言い訳は出来る。挑発しましたけどそれに乗りませんでした。どうにもなりません、相手はやる気無しです……。ま、そんなところだな。



帝国暦487年  1月10日  帝国軍旗艦フォルセティ  エルネスト・メックリンガー



反乱軍は五万隻近い大軍を率いている。一方の我が軍は二万隻、半分に満たない兵力だ。正面から戦えば勝算は少ない、いや皆無に近いだろう。勝つためには不意を突くか、分断して各個に撃破するか、そのどちらかしかない。

当初ヴァンフリート星域に移動し反乱軍を引き摺りこむという案も出た。ヴァンフリート星域は索敵が難しく非常に戦い辛い場所だ。上手くいけば奇襲が出来るかもしれない、そこに賭けてみようと……。

しかし公はその案を採らなかった。“味方が劣勢である以上頼りになるのは目と耳でしかない、それを失う事は出来ない。そのような無理はすべきではない……”。つまり公が選んだのは分断しての各個撃破という事だった。但し、こちらが敵を分断する事は出来ない、相手が自らの意思で艦隊を分けるのを待つしかない。そう仕向けるための駆け引きがもう五日も続いている。

耐えている。ブラウンシュバイク公はじっと耐えている。戦況、と呼べるのかどうか分からないが両軍に目立った動きは無い。アスターテ星域とヴァンフリート星域の間を両軍は五日にわたって行き来しているだけだ。しかし兵力の少ない帝国軍にとっては決して楽ではない。相手は二倍以上の兵力を持っているのだ。駆け引きをするのは酷く疲れる。しかし公はじっと耐えている。

指揮官席に座る公に苛立ちは無い。昨日、熱を出して苦しんでいる時も苛立ちは無かった。幕僚である我々の方が苛立ち公に視線を向ける事がしばしばある。気付いているのか、気付いていないのか、公はただ無言で機を窺っている。まるで静かな湖のようだ、波紋一つ見えない。その姿を見て我々は苛立ちを抑えている。まだ大丈夫だ、まだ耐えられると……。

反乱軍はいつ焦れてこちらを挟撃しようとするのか……。辛抱強くそれを待つ公の姿は臆病で敏捷な獲物を狙う獅子のようでもある。一瞬の隙を突いて獲物を仕留める獅子……。そこに行くまでの辛抱は並大抵のものではあるまい……。

耐えるという事を知っている男……。その経歴の華やかさからは想像もつかないがエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイクの本質は才気よりも粘り強さ、我慢強さなのかもしれない。そして事においての果断さ。敵に回せば極めて厄介な相手だろう。

「索敵部隊より連絡です! 反乱軍に動きあり!」
オペレータが声を上げる! 反乱軍が動いた。皆が顔を見合わせ、艦橋が緊張感に包まれた。そして次の報告を待つ。期待に胸が高鳴った、音が皆に聞こえるのではないかと心配になったほどだ。

「反乱軍の兵力、約三万五千、残りは不明。艦隊は接近しつつあり」
反乱軍は艦隊を分散した! 主力はこちらに近づいている。
「ようやく動きましたな」
シュトライト准将が低く呟いた。獲物が動いた、隙を見せたのか……。皆が公に視線を向けると公が微かに頷いた。

「参謀長、艦隊を後退させてください」
「はっ」
「副司令官、それと分艦隊司令官をフォルセティに集めてください、作戦会議を開きます」
「はっ」

静かな声だった。公の声には興奮も喜びもなかった、表情にもそれは見えない。先程までと同じ静かな雰囲気を醸し出している。そうだ、まだ狩りは終わっていない、始まったばかりだ、湖はまだ静けさを保っていた……。






 

 

第十八話 陥穽

宇宙暦796年 1月18日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ドワイト・グリーンヒル



同盟軍はドーソン司令長官の指示のもと艦隊を二分すると帝国軍に向けて進撃を始めた。もっとも進撃はスムーズに行われたわけではない。艦隊の配置を無視して中央の第二艦隊を別働隊にしたのだ、当然だが多少混乱した。

ドーソン司令長官は第二艦隊に時計回りの方向に迂回行動をするようにと命じた。という事は第二艦隊は左翼の第九艦隊の目の前を突っ切って迂回行動をすることになる。突っ切れれば良いが一つ間違えると第二艦隊の横っ腹に第九艦隊が突っ込む事になりかねない。

第二艦隊を亭止させ、第七、第九艦隊を先行させるというやり方もある。両翼を先行させ合流させ第二艦隊はその背後から迂回行動を行う。その後司令長官の直率部隊は先行する第七、第九艦隊の後ろに着く……。或いは第二艦隊を先行させても良い、だがどちらを選択しても時間はかかるだろう。つまり帝国軍にそれだけ時間を与えてしまう。

それを避けるのであれば移動しつつ第二、第九艦隊のどちらかを上昇、或いは下降させるしかない。しかし左翼の第九艦隊と右翼の第七艦隊で本隊を組みなおすという作業もある。となれば当然だが第二艦隊を上下どちらかに移動させ第九、第七艦隊を中央に移動させた方が艦隊編成の効率が良い。そして司令長官の直率部隊を再編された本隊の後方に置く。

移動しながら行うとなれば各艦隊の速度、更に第二艦隊の上昇、或いは下降の角度の調整をしなければ衝突事故を起こしかねない。しかもその調整は指示を出した総司令部が行わざるを得ない。それに気付いた時のドーソン司令長官の苛立ちは酷いものだった。訳もなく周囲の人間に当たり散らした。

結局のところそんな面倒な事をするなら別働隊を第九艦隊に変更するか、全艦隊を一旦停止させ第二艦隊を先に移動させた方が良いとドーソン司令長官が判断した。実際には戦闘前に衝突事故を起こせば指示を総司令部が出した以上自分の責任問題になりかねないと思ったようだ。

艦隊行動の迅速さを優先するなら別働隊を第九艦隊にすべきだった。だが司令長官は別働隊を第二艦隊にする事にこだわった。万一帝国軍に攻撃されても第二艦隊ならある程度の時間は耐えられる、その間に本隊が救援できるという理由だった。

一理あるのは確かだが本心は一旦出した自分の命令を取り消したくなかったのだろう。沽券にかかわるとでも思ったのかもしれない。馬鹿げている、結局全艦隊を停止させ第二艦隊を先行させる事になった。一体何をやっているのか……。一連の騒ぎの中、司令部の参謀達は白けた様な無表情で怒鳴り散らすドーソン司令長官を見ていた……。

艦隊を二分して既に一週間が過ぎている。当初同盟軍の本隊はゆっくりと進撃し、別働隊である第二艦隊は速度を上げて進撃した。帝国軍が同盟軍本隊の移動速度に合わせて撤退するなら挟撃が可能、出来るものなら帝国軍を挟撃したいというドーソン司令長官の指示によるものだ。正直気が進まなかった。第二艦隊があまり先行し過ぎると帝国軍が各個撃破に出る危険性が生じる。

司令長官にはその事を改めて指摘したが第二艦隊には十分に注意するように指示してある。本隊も近づいているのだから救援は可能、心配はいらない。場合によっては第二艦隊を攻撃する帝国軍を挟撃できる可能性も発生するだろうと言って撥ね付けられた。

頬を震わせ甲高い声で自分の意見を押し通そうとする。正しさではなく権威で相手を押さえつけようとする。自由惑星同盟はとんでもない暴君を宇宙艦隊司令長官に持ってしまった。敵よりも厄介な相手だ。

ドーソン司令長官は戦果を欲しがっている。押し込むだけで良しとしながらもその本心は帝国軍の撃破に有る。嫌な感じがした、或いは第二艦隊を利用して帝国軍を誘引するつもりではないか、そんな疑いを持たざるを得なかった。

馬鹿げているとしか思えない、相手はそんな戦果欲しさに戦って良い様な生易しい相手ではないのだ。その事がまるで分かっていない。唯一の救いは帝国軍が後退を始めてくれた事だ。

同盟軍が前進を始めると帝国軍は後退を始めた。帝国軍のワルキューレが何度か索敵を目的としてこちらに接触している。その度にスパルタニアンに命じて追い払っているがそれでもワルキューレは接触してくる。

こちらも索敵を目的としてスパルタニアンを送り込んでいるが同じようにワルキューレに追い払われている。かなり妨害が激しい。兵力が劣る以上当然ではあるが帝国軍は神経質なほどにこちらを警戒している。ドーソン司令長官にもブラウンシュバイク公の用心深さを見習わせたいほどだ。

おかげで索敵部隊からは断片的にしか報告は入って来ない。それによれば帝国軍は五千隻ほどの艦隊に最後尾を任せ本隊は先行して撤退したようだ。帝国軍最後尾の部隊はこちらの索敵部隊を排除しつつ整然と撤退しているらしい、おそらくその五千隻は遠征軍の中でも精鋭中の精鋭のはずだ、油断はできない。或いはブラウンシュバイク公本人が率いている可能性もあるだろう。

先行する帝国軍本隊を巡ってまた議論が起きた。或いはヴァンフリート星系に潜み我々をやり過ごした後、後背から襲うのではないかと言うものだ。ヤン准将が指摘したのだが十分にあり得る事だった。ドーソン司令長官も渋々だがその危険性は認めざるを得なかった。

ヴァンフリート星系を通り過ぎる時は奇襲を恐れ艦隊はピリピリとした緊張感に包まれた。結果的に奇襲は無かったが念のためヴァンフリート星系には哨戒部隊を幾つか残している。敵を発見すれば直ぐに報せが届く。現時点で報せが無いという事は帝国軍本隊はイゼルローン回廊方面に急いでいるのだろう。

ブラウンシュバイク公はこちらの意図に気付いているようだ。後退を始めて一週間以上になるがこちらを挑発する様なそぶりは欠片も見せない。帝国軍は撤退に専念している。おかげで同盟軍本隊も進撃の速度を上げた。第二艦隊との距離も危険なほどには離れていない。その点に関してだけはホッとしている。

両軍の距離は帝国軍が撤退を留まればほぼ一日程度で追い付く距離だ。だが帝国軍はもう間もなくイゼルローン回廊の入り口に到着する、本隊は既に回廊内に入ったかもしれない。つまり同盟軍が帝国軍を補足する事は出来ない、当然だが挟撃も不可能だ、回廊内に押し込むので精一杯だろう。

ドーソン司令長官は不機嫌そうな表情で指揮官席に座っている。そして時折小刻みに身体を揺らす様な仕草をする。帝国軍を挟撃できない事が不満なのだろう。何度か大声で“帝国軍もだらしがない、逃げるだけか”と吐き捨てている。或いはそうやって自分を大きく見せようとしているのかもしれない。周囲はそんな敵以上に厄介な司令長官に出来るだけ関わらないようにしている……。



宇宙暦796年 1月19日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ドーソン



「帝国軍もだらしがない、逃げるだけではないか」
詰らん、誰も俺の言葉に反応しない。ただ黙って仕事をしている。追撃中なのだ、大した仕事など無い筈だ。それなのに誰も反応しない。だれも俺を宇宙艦隊司令長官とは思っていないのだろう。

思わず“フン”と鼻を鳴らしてしまった。一事が万事だ、皆が俺の事をどう思っているか、これほどはっきりと分かる事は無い。ドーソンは宇宙艦隊司令長官としては頼りない、適任に有らず、そう思っているのだ。そして直ぐ更迭されるだろうと見ている。だから誰も俺を親身に補佐しようとはしない。ただ黙って見ている……。

グリーンヒルもヤンも口を開けば慎重にとしか言わない。やたらと敵のブラウンシュバイク公を恐れ、戦うのを避けようとしている。戦争なのだ、勝たなければならない。そして今回は勝てる戦いのはずだ。味方は四万六千隻、帝国軍は二万隻、倍以上の戦力差が有る。正面から押し切って勝てるのだ、これで勝てなければおかしいだろう。それなのに戦いを避けようとしている。

分かっている、二人は俺に功績を立てさせないようにと考えているのだ。グリーンヒルもヤンもシトレ統合作戦本部長と親しい。本部長が宇宙艦隊司令長官になりたがっている事は俺も知っている。二人はシトレ本部長の意を受けてここにいるのだろう。

倍の兵力を持ちながら敵に対して何も出来なかった。そうなれば当然俺に対して非難が起きるに違いない。どれほど敵が危険だと言っても、どれほど参謀達がそれを勧めたと言っても軍人の仕事は敵に勝つことであり決断するのは指揮官である俺だ。俺の責任になるのだ。俺を更迭する事に誰も躊躇いを感じないはずだ。

今回の戦い、敵に打撃を与える事は出来ない。同盟全土で俺に対して非難が起きるだろう。だからこそ攻勢を執る必要が有る。こちらは敵との決戦を望んだ、だが敵がそれを望まず撤退した。損害を与えることは出来なかったが同盟軍は帝国軍を撤退に追い込みイゼルローン回廊まで追撃した……。そう言えるだけの実績が必要なのだ……。

それならば少なくとも無能だとは言われずに済むだろう。それなのに……、艦橋には白々とした雰囲気が流れている。グリーンヒルを始め参謀の殆どは俺と視線を合わせようとしない。そしてヤン・ウェンリーは居眠りをしている。そして誰もそれを注意しない。……味方の中にも敵がいるようなものだ。誰も信じられない。

「索敵部隊から報告です。帝国軍、イゼルローン回廊の入り口付近にて発見!」
オペレータが声を上げた。皆の視線がそちらに向く。ヤン・ウェンリーも目を覚ました、あるいは寝たふりをしていたのか……。グリーンヒルが緊張した面持ちでオペレータに問い掛けた。
「兵力はどの程度だ」
「約二万隻」

先行して撤退した部隊と最後尾を務めた部隊が合流したか。
「参謀長、あとどの程度でイゼルローン回廊に着く」
「約四時間といったところでしょうか」
四時間か……、グリーンヒルが俺を見ている。何処となく不安そうな表情をしている、失礼な奴だ。

「帝国軍の狙いは?」
少し間が開いたが俺の問いかけにフォーク中佐が自信に溢れた様子で答えた
「帝国軍が回廊の入り口付近にいる、考えられる事は二つあります。一つは駐留艦隊が援軍として来るのではないかという事です」

「しかし駐留艦隊が来援したとしても敵の総数は四万隻に満たない。我々が有利だ。そうではないか、フォーク中佐」
「その通りです、参謀長。となると駐留艦隊が増援として来る可能性は少ない。残る可能性は帝国軍が我々を回廊内に引き摺り込み、要塞攻略戦に持ち込もうとしているのではないかという事です。要塞攻略戦なら兵力の差をカバーできる、ブラウンシュバイク公がそう考えたとしてもおかしくは有りません」

なるほど、要塞攻略戦か……。中佐の言うとおり、要塞攻略戦なら多少の兵力差はカバーできる。ブラウンシュバイク公が勝とうと思えば確かにそれしかないだろう……。
「我が軍はどうすべきだと思うかね」

皆が顔を見合わせていたが、グリーンヒルが口を開いた。
「先ず早急に第二艦隊と合流する事を優先すべきと考えます。それとイゼルローン回廊内に入るのは得策とは言えません、現状では要塞攻略戦は避けるべきです。帝国軍は我々を挑発し回廊内へ後退するかもしれませんが我が軍は回廊の外で応戦すべきです」

やはりそうなるか……。要塞攻略戦は出来ない以上止むを得んが口惜しい事だ。ここまで帝国軍を押し込んだ、それで満足すべきだろう。それにしても不愉快だ、艦橋に居る参謀達全てが不安そうな表情をしている。グリーンヒルもだ、俺がこのまま要塞攻略戦に突入するとでも思ったらしい。俺は勝ちたいのだ、戦いたいのではない。何故負ける戦いをしなければならない……。

「良いだろう。帝国軍が攻撃してきてもこちらは回廊の入り口で応戦、回廊内には入らない事とする。第二艦隊との合流を急げ」
「はっ」
グリーンヒルが僅かにほっとした表情を見せた、失礼な奴だ……。



宇宙暦796年 1月19日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ヤン・ウェンリー



同盟軍と帝国軍がイゼルローン回廊の入り口で向かい合っている。同盟軍は第二艦隊が合流し兵力は四万六千隻に戻った。一方の帝国軍は二万隻と兵力に変わりは無い。当初、両軍は射程距離外で睨みあうだけだったが先に帝国軍が動いた。

僅かに射程距離内に入り攻撃を仕掛ける、そして素早く後退する。こちらが踏み込んで攻撃しようとするとさらに後退する。もう四時間近く続けているが明らかにこちらを回廊内に引き摺り込もうとしている。

ドーソン司令長官は苛立っているがそれでもイゼルローン回廊内への突入は踏み止まっている。回廊内に入ってしまえばどこで戦闘を打ち切るかが難しくなる。回廊の外で対峙するのが賢明だ。ブラウンシュバイク公もいつまでも対峙していられるわけではない。何時かは撤退する。

大兵力をもって持久戦で相手を撤退させる。いささか消極的だが明らかに見え見えな挑発に乗る必要は無い。このまま根競べで対応すれば良い。……妙だな、帝国軍の動きがおかしい、不自然だ。どういう事だ。……まさか……。

「司令長官閣下!」
「……何だね、ヤン准将」
ドーソン司令長官が私を不機嫌そうに見ている。私と話などしたくない、その想いが露骨に態度に出ている。うんざりしたが、それ以上に帝国軍が気にかかった。もしかするとしてやられたか……。

「帝国軍の動きが不自然です」
「不自然?」
「先程から我々を挑発するのは五千隻程度の艦隊でしかありません」
「だからなんだね」
ドーソン司令長官の表情を見て分かった。嫌がらせでは無い、本当に疑問に感じていないのだ。じれったい思いで言葉を続けた。

「我々を回廊内へ引き摺り込もうとするなら二万隻全てを使って行った方が効果的な筈です」
「……」
「にもかかわらず一部の艦隊しか挑発行動を行っていません。指揮系統が違う可能性が有ります」

グリーンヒル参謀長が慌てた様子でオペレータに何かを命じた。多分、艦艇の識別を命じたのだろう。フォーク中佐も顔を強張らせている。
「どういう事だ、指揮系統が違う? 一体何を言っている」
「あの動きの無い艦隊はイゼルローン要塞の駐留艦隊かもしれないと言っています」
「!」

ドーソン司令長官が愕然としている。そして艦橋内は参謀達の声でざわめいていた。気付くのが遅い! いや遅かったのは私も同じだ……。帝国軍が執拗に同盟軍を挑発したのは同盟軍をイゼルローン回廊に引き寄せるためだったのだろう。

考えてみれば公にとって同盟軍が艦隊を二分するか否かは分からなかった。つまり各個撃破が出来るかどうか分からなかったのだ。そんなあやふやな事を前提に作戦を立てるわけが無い……。

要塞攻略戦も同様だ。同盟側が攻略戦を行う可能性は低かった。回廊付近でこちらを挑発し続けたのは回廊内へ引きずり込むためじゃない、同盟軍の目を自分達に引き寄せるためだ。おそらくはその陰で帝国軍本隊が動く……。

ブラウンシュバイク公の狙いは要塞攻略戦ではない、イゼルローン駐留艦隊との挟撃だ……。同盟軍が挑発に乗り回廊内に入っても入らなくてもどちらでも良かった。回廊付近に引き寄せるだけで良かったのだ……。

「遠征軍の本隊は我々の後方にいる可能性が有ります。すぐさま撤退するべきです。これ以上ここに留まるのは危険です」
「……撤退しろと言うのか。しかし確証がないだろう」
ドーソン司令長官は何処か納得しかねる表情をしている。未だ状況が飲みこめずにいるのか……。

「では一個艦隊を前線から引き抜き後方を警戒させてください」
「……」
「閣下!」
駄目だ、納得していない……。それ以上に私を信用していない。信用が有れば多少の無理は聞いてもらえただろう。しかし、その信用が無い……。

「左後方に敵艦隊! 多数、一万隻を越えます!」
悲鳴のようなオペレータの声だ。そして別なオペレータが同じような声を上げた。微かに震えている。
「前方の艦隊に戦艦グルヴェイグを発見! あれは駐留艦隊旗艦です!」
艦橋の彼方此方で悲鳴のような声が上がった。皆顔を引き攣らせている。遅かった……、勝敗は決まった……。




 

 

第十九話 それぞれの戦後(その1)

帝国暦487年  1月19日  フォルセティ  エルネスト・メックリンガー



「どうやら我々に気付いたようですな」
「そのようですね、しかしもう遅い……」
公の言葉に頷いた、確かにもう遅い。戦術コンピュータのモニター、正面のスクリーンには何とかこの事態に対応しようとする反乱軍が映っている。

最後尾の小部隊、おそらくは反乱軍の総司令官が率いる部隊だと思うが懸命に陣形を変えこちらに向き直ろうとしている。少しでも敵を食い止め味方を撤退させようというのだろうがもう間に合わない、今からでは混乱に拍車をかけるだけだ。かえって事態を悪化させるだけだろう。

そして前方にいる三個艦隊は慌てて後退を始めようとしている。しかし前方からイゼルローン要塞駐留艦隊、ワーレン、ルッツ艦隊の攻撃を受け思うように後退できずこちらも混乱している。しかも後方には総司令官の部隊がいる、思うように後退も出来ない。

「妨害電波を出しますか?」
気付かれた以上、もう隠密行動は必要ない。それよりも敵の通信網を如何すべきか、奇襲は成功しているし、敵の別動隊が有るとも思えない。妨害電波は必要ないようにも見えるが……。

「その必要は有りません。我々はこのまま前進し一撃で最後尾の艦隊を撃破します、その後は前方の三個艦隊を後方より攻撃しつつ右へ移動してください。それで相手は潰走する筈です」
「了解しました」

後方は遮断しない。正しい判断だ。味方は一万五千、反乱軍は最後尾の艦隊を除いても四万隻以上あるだろう。下手に後方で退路を遮断すると潰走する敵艦隊に飲みこまれかねない。そうなれば艦隊としての行動など何も出来なくなるだろう。こちらも一緒に潰走という事になってしまう。右へ右へと移動し敵が敗走したら後方、或いは斜め後方から反乱軍を攻撃した方が良い。十分に損害を与えられるはずだ。

「反乱軍、射程距離内まであと十秒!」
オペレータが興奮した声を上げる。勝利が間近に有る事を確信しているのだろう。公に視線を向けると微かに頷いた。

「全艦、砲撃戦用意」
私の声とともに公が右手をゆっくりと上げる。その手が振り下ろされれば攻撃だ。艦橋の空気が緊迫した。一、二、三、……僅かな間が有ってオペレータが甲高い声を上げた。
「完全に射程距離内に入りました!」
その声が終わる前に公の右手が振り下ろされた……。



帝国暦487年  1月27日  オーディン 新無憂宮  オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク



エーリッヒが出征して既に二ヶ月が過ぎた。あと十日もすれば三か月だ。もう既に反乱軍と接触はしているだろう。ある程度の戦闘も行われたに違いない。一体どんな状況なのか、……もどかしい事だ。

アマーリエもエリザベートも最近では沈みがちだ。以前は食事の時にエーリッヒはどうしているかと話題になったがここ最近ではむしろ避けるようになっている。かなり心配している。

やれやれだ。軍人の夫など持たせるべきではないな。いや、まだ夫ではなかったか。何とか上手く切り抜けて欲しいものだが……。そんな事を考えながら新無憂宮の廊下を歩いていると声をかけられた。

「ブラウンシュバイク大公、如何されたかな、浮かぬ顔だが」
「おお、リヒテンラーデ侯か」
「察するところ、養子殿の事か」
目の前で国務尚書リヒテンラーデ侯がニヤニヤと笑っている。相変わらずの悪相だな。

「折角迎え入れた養子なのだ、心配するのが当然であろう」
「まあそうだな」
「国務尚書にも無関係とは言えないはずだが」
政府、軍部、ブラウンシュバイク、リッテンハイム、その四者協力の一環としてあの男が当家の養子になったのだ。ニヤニヤ笑う事ではあるまい。

「確かに、どうかな、私の執務室に寄って行かぬか。少々話したい事も有る」
「ふむ、分かった、寄らせてもらおう」
二人並んで新無憂宮の廊下を歩いていると貴族や宮中の職員が挨拶をしてきた。どういう訳かその連中の顔がこちらを笑っているように見えた。わしがエーリッヒを心配している事を笑っているのか……。馬鹿げている、気のせいだ……。

国務尚書の執務室に入るとリヒテンラーデ侯がグラスとワインを取り出した。
「良いのか、昼間から酒など」
「たまには良かろう、大公にはこれが必要なようだ」
「ふむ」
気遣ってくれているのか、珍しい事も有るものだ。

リヒテンラーデ侯がグラスにワインを注ぐとわしに手渡した。
「それに祝うべき事も有る」
「祝うべき事?」
「グリューネワルト伯爵夫人が懐妊した」
「まさか……」

伯爵夫人が懐妊した? 生まれてくる御子が女子なら良い。それが男なら……。考え込んでいると笑い声が聞こえた。リヒテンラーデ侯が可笑しそうに笑っている。

「?」
「許せ、伯爵夫人の懐妊は嘘だ」
「嘘?」
わしの問いかけにリヒテンラーデ侯が頷いた。嘘か……、とんでもない老人だな、わしを騙すとは。睨みつけたが侯は笑い続けている。

「祝うべき事は別にある。先程軍から報せが有った。遠征軍がイゼルローン要塞に戻った。大勝利を収めたそうだ」
「ほう、そうか」
「うむ、祝うべき事であろう」

確かに、祝うべき事だ。だがそれ以上にホッとした思いが有った。
「そうか、勝ったか……」
「エーレンベルク軍務尚書が大公の邸に連絡を入れたのだがな、こちらに来ていると言われたようだ。それで私に報告がてら大公に知らせて欲しいと頼まれた」

「そうか、それは手数をかけた」
「私もなかなか親切な男であろう?」
「確かにそのようだ」
侯が笑い出した。共に笑いながらグラスを口に含む。ふむ、なかなかの味だ、悪くない。

「ところでいささか気になる事が有る」
「……」
どうやら話したい事が有ると言うのはわしを誘う口実ではないらしい。国務尚書は難しい表情をしている。

「反乱軍は五万隻近い大軍を動かしたそうだ」
「五万隻……、良く勝てたものだ」
エーリッヒは二万隻しか率いていない。それで五万隻に勝った。喜びよりも溜息が出た。

「駐留艦隊と挟み撃ちにしたそうだ」
「なるほど……。しかしそれでも劣勢であろう、大したものだ」
「うむ。まあそれは良い。問題はフェザーンから反乱軍の動きについて何の報せも無かった事だ」
「……」

リヒテンラーデ侯がわしを見ている。
「これまで反乱軍が動けばこちらに連絡が有った。少なくとも大規模な出兵に関しては必ず有ったのだ」
「五万隻、少なくは無いな」
「うむ」

反乱軍が大規模な艦隊を動かした、にもかかわらずフェザーンから報せが無い、その意味するところは……。
「卿は偶然だと思うか、リヒテンラーデ侯」
「そうは思えん」
気が付けば身体を寄せ合い小声で話していた。

「となれば故意か……」
「うむ」
「帝国軍の敗北を狙ったという事だな。ここ最近帝国は有利に戦争を進めている。劣勢な反乱軍に力を貸し戦力の均衡を図った。そんなところであろう」

リヒテンラーデ侯が首を横に振った。
「それだけではあるまい。奴らが狙ったのは大公、卿の養子殿かもしれん」
「……」
わしが口を噤んでいるとリヒテンラーデ侯が言葉を続けた。

「連中、我らが手を組んだ事を危険だと思ったのではないかな。それで潰しに来た」
「その手始めがエーリッヒか」
「手始めと言うより、公が狙いだったのではないかと私は思っている」
「……」

「先日のコルプト子爵の一件、綺麗に片付けたからの。軍だけではなく宮中でも力を振るい始めた、そう思ったのかもしれん。このまま放置しておけば厄介な存在になるとな」
「それで故意に情報を流さなかった」
「うむ、戦場でならフェザーンは自らの手を汚さずに済む」

戦死ではなくとも敗北すれば政治的な地位は沈下する。それを狙った可能性も有るだろう。だがエーリッヒはその罠を見事に凌いだ。目論見を外されたフェザーンはどう出るか……。
「これからもフェザーンはエーリッヒを狙うであろうな」
「おそらくそうなるであろう」

やれやれだ。せっかく内乱の危機を防いだと思った。公爵家も滅びずに済むと思った。だが新しい敵が現れたか、狡猾で油断できない敵、フェザーン……。考え込んでいるとリヒテンラーデ侯がクスクスと笑い声を上げた。

「……出来の良すぎる息子を持つと大変だな、ブラウンシュバイク大公」
「からかうな」
「なに、心配はいらぬ。あれは敵に対しては容赦せん男だ。その内フェザーンは思い知るだろう、馬鹿な事をしたとな」
そう言うとリヒテンラーデ侯は大きな笑い声を上げた……。気楽なものだ。



宇宙暦796年 1月27日  同盟軍宇宙艦隊総旗艦ラクシュミ ヤン・ウェンリー



「如何ですか、司令長官は」
「うむ、大分良いようだ。ただ……」
グリーンヒル参謀長が困惑した様な声を出した。三角巾で左手を吊っている姿が痛々しい。もっとも私も頭部に包帯を巻いている。痛々しさは似た様なものか……。

「ただ?」
「……いくらか記憶の混乱が有るようだな。何が有ったか良く分かっていないようだ」
「説明されたのですか?」
参謀長が力なく首を横に振る。

「それは後で良いだろう。今は治療に専念してもらった方が良い。それに説明しても理解できるかどうか……」
「そうですね」
お互い語尾が重い。溜息を吐きながらの会話だ。

「今更言っても詮無い事だが貴官の言うとおり、アスターテ星域で帝国軍が撤退するのを待つべきだった」
「それは……」
確かに今更言ってもだ。溜息しか出ない。

同盟軍は敗れた。損失は全体の三割に近い。艦艇数一万五千隻、将兵百五十万人近くになるだろう。大敗と言って良い状況だ。後方から帝国軍が現れた時、司令長官の直率部隊は懸命に陣形を変更し新たな帝国軍に対応しようとした。前方で戦う艦隊は撤退しようとしていた。しかし、遅かった……。

我々の部隊は急進してきた帝国軍に粉砕された。戦力差が三倍あり不十分な態勢なまま先制されたのだ。持ち堪えることなど出来るわけがない。帝国軍はあっという間に我々を粉砕し前方に展開する三個艦隊に襲い掛かった。

右へ右へと移動しながら背後を攻撃する。後退しようとしていた第二、第七、第九の三個艦隊はあっという間に崩れた。潰走する同盟軍を帝国軍は後方、そして斜め後ろから追撃した。損害の多くはこの時に発生した。

帝国軍が追撃を早い段階で打ち切らなければ損害はもっと大きいものになっただろう。彼らが追撃を打ち切ったのはイゼルローン要塞駐留艦隊を追撃に使う事を躊躇ったからだろう。一時的にしろイゼルローン要塞を丸裸にする事の危険性を考慮したからに違いない。

ドーソン司令長官は戦闘の最初の段階で負傷により人事不省になった。総旗艦ラクシュミは帝国軍の攻撃を受け左舷に被弾、ラクシュミは烈しく振動した。その衝撃でドーソン司令長官は指揮官席から放り出された。

ドーソン司令長官だけではない、グリーンヒル参謀長も私も、いや艦橋に居たすべての人間が衝撃によって席から放り出されただろう。だが司令長官は運が悪かった。放り出された時、頭部を強くテーブルに打ちつけたらしい。そして床に倒れたドーソン司令長官の上に同じように椅子から放り出された士官が倒れ込んだ……。

倒れ込んだ士官によって激しく胸部を圧迫された司令長官は肋骨が二本骨折、そのうち一本の肋骨が肺に突き刺さった。他にも腕や足に損傷を生じている。幸いなのは頭部への打撃で意識が無かった事だ。痛みを感じる事も息苦しさを感じる事も無かっただろう。

「ブラウンシュバイク公か……、容易な相手ではないな」
「はい」
「政府も今回の敗戦でその辺りを理解してくれるといいのだが……。彼の相手をするのは簡単な事ではない」

グリーンヒル参謀長のいう事は分かる。次の司令長官の件だろう。今回の敗戦でドーソン司令長官が更迭されることは間違いない。理由は病気療養だろう、全治に三カ月はかかるだろうと軍医は診断している。政府としても更迭しやすいはずだ。

問題は次の司令長官が誰になるかだな……。出来ればシトレ元帥に司令長官になって貰えればとは思うがトリューニヒト国防委員長がどう思うか……。今回の一件で凡庸な指揮官を司令長官に据えるととんでもない事になると理解してくれるとよいのだが……。




 

 

第二十話 それぞれの戦後(その2)

帝国暦487年  1月27日  イゼルローン要塞  ゼーレーヴェ(海驢)  フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー



「乾杯だ、ベルゲングリューン」
「何に乾杯する」
「先ずは生きて帰れたことだな」
「そして勝利に」
「うむ」

お互いグラスを掲げ一息にワインを飲む。口中に柔らかな渋みが残った。ベルゲングリューンが満足そうな笑みを浮かべている。生きている、そんな思いがした。互いに空になった相手のグラスにワインを注ぎ合った。

イゼルローン要塞の高級士官クラブ、ゼーレーヴェ(海驢)は微かなざわめきに満ちている。戦いに勝った所為だろう、何処となく浮き立つような華やかな雰囲気だ。彼方此方で俺達と同じようにグラスを掲げ乾杯する姿が見える。やはり戦争は勝たなければならない。もし負けていれば誰かの弔いのためにグラスを掲げていただろう。切なく辛い乾杯だ。

「良く生きて帰れたと思うよ、まして勝ってここに戻って来られるとは……」
「同感だな、ビューロー。何しろ相手は五万隻の大軍だからな」
「ああ」

相手が五万隻と聞いた時には心臓が止まりそうな思いがした。同時に死ぬことは無いだろうとも思った。二倍以上の兵力を持つ敵なのだ、撤退しても誰も非難はしない。そんなことが出来るのは小学生レベルの算数が出来ない奴だけだ。馬鹿を相手にすることは無い。

ブラウンシュバイク公も無理はしないと言っていた、いざとなれば撤退すると……。だから素直に撤退するのではないかと思ったがそうではなかった。何度も何度も反乱軍を挑発し勝機を探った。反乱軍が耐えられなくなるまで我慢する、そして勝機を探る……。無理をしないと言うのは勝算のない戦いはしないという事だ。勝つための努力をしないという事ではない。

「それにしても駐留艦隊を利用するとは……」
「反乱軍はこちらが要塞攻防戦に持ち込むと思っていたのだろうな。俺だってそう思っただろう、要塞攻防戦なら多少の兵力差など意味が無い」
「うむ」
ベルゲングリューンが髭をしごきながら頷いている。どうやら御機嫌らしい。

公が撤退するのは公自身が勝機が無いと判断した時だけだ。それは兵力の多寡だけで決まるものではない。公は両軍の兵力差を縮め、相手を騙し、奇襲を成功させた。最終的には兵力差は殆ど意味の無いものになっていた。確かに公は無理をしていない。戦いが終わった後ならそう言えるだろう。だが、あそこまで勝利を追い求められるものなのか……。

公爵家の養子として勝たねばならない戦いだった。勝つ事を義務付けられた戦いだった事は分かっている。だからこそ公の才気よりもその執念に圧倒される思いだ。公爵家の当主に求められる物の大きさとはその執念無しには得る事が出来ないのだろう。俺には到底出来ない……。

公爵家の養子になった事を幸運だと言う人間もいるだろう。だが幸運だと言う人間はその求められる物の大きさを知らない。それを知れば幸運と言うよりも苦行だと言うに違いない。指揮官席でじっと勝機を探る姿は勝利を得るためにもがき苦しんでいるように思えた……。

「見事なものだ、何度考えてもそう思うよ。良くあの状況から勝利を見つけたと……」
「同感だな。俺には出来ん。卿なら出来るか、ベルゲングリューン」
「それが出来るならもっと出世しているさ」
違いない、今頃は一個艦隊でも率いているだろう。二人で顔を見合わせて笑った。俺達は声を上げて笑う事ができる、だが公には出来ないだろう、おそらくほろ苦く笑うに違いない……。

あの最後に開かれた作戦会議、そこでの公の言葉。今も鮮烈に覚えている。
“相手の予測通りに動いて勝てるのは戦略的に圧倒的な優位を築いた時だけです。そうでなければ勝つのは難しい、相手も馬鹿ではありませんからね。まして我々は戦力的に劣勢な状態にある。相手の予測通りに動いては勝てません。相手の予測通りに動いていると見せかけて意表を突く必要が有ります”

相手の別動隊を撃破する、或いは後退してイゼルローン要塞攻防戦に持ち込むべし、そう主張する参謀達に穏やかな表情でイゼルローン要塞駐留艦隊との挟撃案を提示した。そして一時的にワーレン、ルッツ両艦隊を分離し駐留艦隊に預ける事で反乱軍の目を欺いた。

反乱軍は我々が後背に現れるまで眼前の敵が駐留艦隊だとは思わなかっただろう。我々に後背を突かれた時は愕然としたはずだ。何故こうなったと……。戦いというのは心理戦という一面がある。相手の心理をいかに読んで戦うか……。今回の戦いはまさに心理戦の占める部分が大きかった。それによって帝国軍は兵力の劣勢をひっくり返した。

「これで元帥に昇進か……」
「そうだな、あの時のヴァレンシュタイン少佐がブラウンシュバイク公で元帥閣下だ。世の中、何がどうなるか分からんな」
「全くだ」
ベルゲングリューンが困惑したような表情をしている。気持ちは分かる、俺も同じ想いだ。ベルゲングリューンが声を潜めてきた。

「俺達を嫌っているのかと思ったがそうではない様だな、ビューロー」
「うむ、そんな感じだな」
「今思えば大人げない事をしたと思うが……」
「あの当時は余裕が無かった。特別扱いされる公に反発もしたのかもしれん」
「うむ」

顔を見合わせて苦笑した。昔の想い出だ、帝国歴四百八十三年の暮れ、第三百五十九遊撃部隊での出来事。あれから三年だ、時が経つのは早かったのか、それとも遅かったのか……。俺やベルゲングリューンにとっては決して早くは無かった。しかし公にとってはあっという間ではなかったか、それほどまでに変転が激しい。

「それより俺達も准将に昇進だ。閣下と呼ばれることになるぞ、ビューロー」
「ああ」
「その事にもう一度乾杯しよう」
「良いだろう」
互いにグラスを掲げた、そして一息に飲む。美味い、勝利と気の置けない友人、今日はとことん楽しめそうだ……。



帝国暦487年  1月27日  オーディン ブラウンシュバイク公爵邸     オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク



「今戻ったぞ」
「お帰りなさいませ、お父様」
「お帰りなさいませ」
宮中から屋敷に戻ると娘と妻が出迎えてくれた。それ自体は珍しい事ではないが二人とも浮き浮きとしている。ここ最近は無かった事だ。

居間に行きソファーに座ると早速二人が正面に座った。そして弾むような声で話しかけてくる。
「エーリッヒが勝ったのですって」
「お父様が宮中に行かれた後、エーレンベルク元帥から報せがあったのよ」
二人とも小さな子供のようだ、思わず笑いが漏れた。

「うむ、五万隻の反乱軍を破ったらしい。見事なものだ」
わしの言葉に二人は驚いたような顔をしている。
「何だ、聞いてはおらんのか」
「勝ったとしか……、ねぇ」
妻と娘が顔を見合わせて頷いた。どうやら軍務尚書は詳しい事を話さなかったらしい。

「反乱軍は五万隻の大軍だったそうだ」
「五万隻……」
「それでエーリッヒ様は」
「うむ、イゼルローン要塞の駐留艦隊と協力して挟み撃ちにしたそうだ。反乱軍は大きな損害を出して撤退した。大勝利だな」

“凄いわ”、“本当ね”、二人が喜びの声を上げている。随分と心配していたからな、その分だけ喜びも大きいのだろう。
「エーリッヒ様は何時頃お戻りになるのかしら」
「そうだな、イゼルローン要塞で補給や艦の修理をしなければならんだろうから……、ざっと二ヶ月後かな」

わしの言葉に娘ががっかりした表情を見せた。
「二ヶ月も先なの……」
「そんな顔をするな、エリザベート。戦争は終わったのだ、あとは帰って来るだけだからな」

いかんな、納得したような表情ではない。
「それより帰ってきたら忙しくなるぞ、エーリッヒは元帥に昇進だからな。元帥杖の授与式、戦勝式典も有るが、当家でも祝賀パーティをしなければなるまい」

「エーリッヒは嫌がりますわね」
「まあ、そうかもしれんな」
わしと妻の会話にエリザベートが笑い声を上げる、妻もわしも唱和するように笑った。

笑い終えると娘が妻に何事か囁いて席を立った。居間を出る直前に“お母様、お願いね”と言う。はて、今のは娘がわしに直接頼み辛い時にやる癖だが……、妻に視線を向ければ苦笑を浮かべている。

「何かわしに頼みごとか?」
「ええ、ちょっと」
「何だ、一体」
問い掛けると妻の苦笑が更に大きくなった。

「エーリッヒと正式に婚約したいんですって」
「婚約?」
「エーリッヒは養子であって婿養子ではないでしょう? 他の人に取られたくないそうよ」

妻は可笑しそうに笑みを浮かべている。
「冗談か?」
「いいえ、本当の事」
「焼き餅か?」
「ええ」

焼き餅? エリザベートはまだ十五だろう。それなのに焼き餅? わしが唖然としていると妻が話しかけてきた。
「あなた、エリザベートはもう十五よ。焼き餅だって焼きます」
「そうなのか? エリザベートはまだ子供だろう」

妻が笑った。呆れた様な顔をしている。どうせ女心が分からないとか言い出すのだろう。その通りだ、女子供の考える事はさっぱり分からん。
「先日の舞踏会ですけど、グリューネワルト伯爵夫人がエーリッヒと話をしていたでしょう。伯爵夫人はいつもは挨拶だけで殆ど喋らないのに」
「……」

グリューネワルト伯爵夫人か……。動きそうになる表情を必死で抑えた。あの時はつい胸元に目がいってしまい、妻に酷く怒られた。機嫌を取るのにルビーのネックレスが必要だった程だ。リッテンハイム侯も同じだと言っていたな、侯はサファイアのイアリングだったとか……。別に触ったわけでもないのに何故そんなに怒るのか、理不尽ではないか。もしかすると宝石を買わせる口実かもしれん……。

「それに、エーリッヒがミューゼル大将を何かと贔屓にするでしょう。貴族の令嬢達の間ではそれをグリューネワルト伯爵夫人と結びつける者がいるそうですわ。特に先日のコルプト子爵の一件からは……」
「くだらん」

馬鹿げている。エーリッヒがあの金髪の小僧を贔屓にするのは彼を味方に取り込もうとしての事だ。伯爵夫人の事など何の関係もない。伯爵夫人がエーリッヒに声をかけるのもエーリッヒにあの小僧の事を頼もうとしての事だろう。或いはコルプト子爵の一件での礼も有るかもしれない。そういう意味ではあの二人の関係は極めて親密だが、政治的な物だ、恋愛ではない。

むしろ驚きはグリューネワルト伯爵夫人がそのような政治的な動きをした事だ。エーリッヒの将来性を買ったのか、或いは信頼できると踏んだのか、どちらにしてもこれからは伯爵夫人の動きにも目を配る必要が有る。危険視するわけではないが注意は必要だろう。

「分かっていますわ、貴方が何を考えているか。でも皆が噂している事は事実ですし、エリザベートとエーリッヒが正式に婚約していないのも事実です」
「ふむ」
確かに婚約はしていない。皇帝陛下よりエーリッヒの養子を認めてもらった事で婚約の許可が下りた、そういう認識だった。あえて婚約の発表はしなかったが……。

「どうされました、貴方」
「いや、なんでもない。……良いだろう、婚約を発表しよう」
「……」
妻がわしの顔を見ている。予想外の反応だったか……、だが婚約を発表するなら今だ。今がその時だろう……。

「いささか厄介な敵が現れた」
「厄介な敵?」
「うむ、フェザーンという厄介な敵がな……。どうやらフェザーンはエーリッヒを邪魔だと思っているようだ」

訝しげな顔をしている妻に今回の戦いでフェザーンが反乱軍の情報を故意に帝国に報せなかったと話した。そしてリヒテンラーデ侯の推測、フェザーンは我々の結び付きを危険視している。そしてエーリッヒを危険視している……。話が進むにつれ妻の顔が険しくなっていった。

「エーリッヒを養子に迎えたのは内乱を防ぐためであった。間違っていたとは思わん。実際に帝国は以前より遥かに安定している。我らも滅亡に怯える事もない。しかし対外的に見ればどうであろう、これまで有利に戦争を進めていた帝国が国内の不安定要因を解消した、より強力になった、そう見えたとしてもおかしくは無い」
話し終わると妻が溜息を吐いた。疲れた様な表情をしている。

「帝国、反乱軍の勢力均衡を望むフェザーンにとっては面白くない事態だと言うのですね」
「そうだ」
「それで要であるエーリッヒの失墜を狙った」
「その通りだ」
また妻が溜息を吐いた。

「婚約を発表しようと言うのは、エーリッヒの立場をより強めようという事ですのね」
「そうだ、そしてエーリッヒを守ると言う我らの決意表明でもある」
「……確かに今がその時かもしれませんわね。エーリッヒは宮中でも軍でも力を示しましたもの」

エリザベートが望んでいる。表向きはそれが理由になる。だが真実はフェザーンに対しての宣言であり帝国内の貴族に対しての威圧だ。エーリッヒはブラウンシュバイク公爵家の当主であり帝国元帥であり皇孫の婚約者であると改めて宣言する。

「どうせなら思いっきり派手にやりませんこと?」
「派手とは」
「宮中で戦勝祝賀パーティが開かれますわ。どうせならそこで発表し陛下から祝いの言葉を頂くのです。参列している皆が祝ってくれるでしょう……」
唖然とした。そんなわしを妻が面白そうに見ている。

「なるほど、宮中の公式行事に組み込むか……。ブラウンシュバイク公爵家の慶事ではなく帝国の慶事にしろと言うのだな」
「ええ」
「良いだろう。明日、リヒテンラーデ侯に話してみよう」
思わず笑い声が出た。あの老人も目を剥くだろうな、そして笑い出すに違いない、今のわしと同じように……。



 
 

 
後書き
イゼルローン要塞の高級士官クラブですけど『ゼーレーヴェ(海驢)』としました。はっきりとした資料は無いんですけど要塞には高級士官クラブが有っただろうという前提で書きました。 

 

第二十一話 新人事(その1)

宇宙暦796年 2月28日  ハイネセン  統合作戦本部  ヤン・ウェンリー



「ご苦労だったな、ヤン准将」
「いえ、私は何の役にも立ちませんでした。本部長の期待に添えず、申し訳ありません」
「そんな事は無い。貴官は最善を尽くしてくれた。貴官の案が受け入れられなかったのは貴官の責任ではない」

シトレ本部長の執務室は総旗艦ラクシュミの艦橋とは違って居心地が良かった。だがその事が今の私には辛い。結局私は何の役にも立てなかった、本部長の期待には応えられなかったのだ。ソファーに相対して座りながら私は正面に座る本部長の顔を正視できずに俯いている。情けない限りだ。

「グリーンヒル参謀長も貴官を高く評価しているよ。貴官の意見が受け入れられなかったのは本当に残念だと言っていた」
「私はドーソン司令長官から信用されていませんでした。それが全てだと思っています。人間ですから好き嫌いは有ります。しかし指揮官と参謀の間には最低限の信頼関係が要る、そう思いました」

「それも貴官の所為では無い。今回は巡り合わせが悪かったのだ。自分を責めるのは止めたまえ」
「……」
本当にそうだろうか、私は比較的上の人間から好意を持たれない事が多い。それは参謀としては不適格という事では無いのだろうか。参謀は指揮官のスタッフなのだ……。

本部長が指揮官なら私の意見は受け入れて貰えただろう。同盟軍は勝利を得る事は難しかったかもしれないが敗北はせずに済んだはずだ。本部長が私を見ている。労わる様な視線だ。いや実際に労わられているのだろう、その事が辛い……。

今回の敗戦に対して軍に対する非難の声は非常に強い。本部長が指揮を執ったわけではない、だが軍のトップである以上責められるのは本部長だ。労わりが必要なのは本部長だろう、にも関わらず私の事を気遣ってくれる……。

同盟軍は全く良い所が無いままに敗れた。半数にも満たない敵に翻弄され最終的には遠征軍とイゼルローン要塞駐留艦隊を誤認するというとんでもないミスを冒している。結局それが原因で帝国軍に挟撃され敗退した。

味方は一万五千隻以上の艦艇を失ったが帝国軍はその十分の一も損害を受けていないだろう。そしてドーソン司令長官は戦闘開始早々に人事不詳におちいっている……。

今回の敗北で忸怩たる思いを抱いているのは本部長も同じだろう。おそらく私と同じ事を考えているはずだ。自分が指揮官で有れば敗北はせずに済んだ、百五十万もの将兵を死なせずに済んだと……。上手くいかない、同盟の人事は何処かちぐはぐだ。国家としての統治能力が低下しているとしか思えない……。

つらつらと考えていると本部長が話しかけてきた。
「ブラウンシュバイク公か、厄介な相手だ。いや恐るべき相手というべきだろうな。このところ統合作戦本部内でも彼を危険視する声が増えている。いささか遅いがな」
「痛い目に有ってようやく分かったという事ですか、これまでにも痛い目に遭っているのに」

私の言葉には皮肉が含まれていただろう、シトレ本部長が苦笑した。
「認めたくないのだよ、敵の有能さを。一度や二度ではたまたまだと思いたいのだ。今度の敗北でようやくブラウンシュバイク公の実力を認めた、そんなところだろう」

「やれやれですね」
「そうだ、やれやれだ」
本部長の苦笑が更に強くなった。私も笑うしかない。なんとも情けない話だ。人間とは何と愚かなのか……。

ややあって本部長が笑いを収めた。
「容易ならざる事態だな。ミュッケンベルガー元帥、ブラウンシュバイク公、そしてミューゼル大将か……。今一番危険なのはミューゼル大将だろう、ブラウンシュバイク公の陰に隠れているような形になっている、その所為で実力を正しく評価されていない……」
溜息交じりの口調だ。

「同感です、一つ間違うと今回の様な事になりかねません」
「全くだ、頭が痛いよ」
本部長が顔を顰めた。帝国は次から次へと人材が出てくる。勢いが有る証拠だろう。

「ドーソン司令長官が辞表を出したよ」
「そうですか……」
驚きはしなかった、予測された事でもある。止むを得ない事だろう、今回の敗戦には政府、軍部、そして市民からも厳しい批判が出ている。誰かが責任を取らなければならない。

「本人はもう一度チャンスをと国防委員長に訴えたらしい。しかし受け入れられなかった。この重大事に宇宙艦隊司令長官が入院しているというのでは国防に支障が生じる、そう言われたらしい」

シトレ本部長が首を横に振っている。往生際が悪いと思ったのか、それとも取って付けた様な理由だと思ったのか。
「なるほど、引導を渡されたという事ですか」
「うむ」

もう一度チャンスを、か……。気持は分かるが認める事は出来ない。人の命がかかっているのだ、その任に相応しい能力の無い人間を就ける事がどれだけ危険か……。今回の敗北がそれを証明している。

「国防委員長はドーソン大将を更迭したがっていたようだな」
「そうなのですか」
「うむ。帝国が攻勢をかけてくる事は無い、そう判断したから彼を司令長官にしたのだ。しかし帝国は国内の対立を解消した……。となれば攻勢をかけてくるのは自明の理だ。トリューニヒト氏はドーソン大将に不安を感じていたらしい」

口調に皮肉が有る。身勝手だと思っているのだろう。自分も同感だ。ドーソン大将を弁護するわけではないが彼も政治家達に翻弄された被害者だと言えるだろう。今は辞表だが退院すれば退役になるのは間違いない。宇宙艦隊司令長官まで務めたのだ。勝ったのならともかく負けたのでは次の職は無い……。

「次の司令長官はどなたに」
「まだ決まってはいない。国防委員長にはもう一度私の事も候補者として検討して欲しいと頼むつもりだ」
「……」
今度こそ正しい選択を行って欲しいものだ。シトレ本部長を、とは言わないがドーソン大将の様な人物は困る。さて、政府は誰を選ぶのか……。



宇宙暦796年 3月 5日  ハイネセン  ホテルシャングリラ ジョアン・レベロ



人目を避けるようにホテルに入り、階段で五階に向かった。エレベータでは誰に会うか分らない、階段の方が安全だ。ダイエットにもなる、肥満は良くない。有権者達からも動きが鈍いのではないかと思われる事は避けなければならない。誠実で行動力が有る、そんなイメージを保つのも決して楽ではない。

周囲を確認しつつ五百十三号室の前に立ち軽くドアをノックする。
「誰だ?」
「レベロ」
互いに押し殺した小さな声で確認し合う。ドアが開き、私は部屋に急いで入った。

部屋の主が先に立って歩く。
「いつもこの部屋だな。どうなっているんだ」
「このホテルのオーナーが私の友人でね、この部屋は余程の事がなければ使われる事は無い」

部屋の中央に有る椅子に腰を下ろした。
「つまり君専用の部屋というわけか、トリューニヒト」
「そう言う事になるな」
嬉しそうに自慢するな、不愉快だろう。

「この部屋は美人と密会用に使うとオーナーには伝えてある。あくまでプライベートで使うとね」
「大丈夫か」
「大丈夫だ、ここに来る美人は君だけだからな」

そういう意味じゃない、オーナーが信じられるかという意味で訊いたんだ。溜息を吐くとトリューニヒトが笑い出した。
「安心して良い、オーナーは信頼できる人物だ」
この野郎、私をからかったか……。このロクデナシめ。

「それで、用件はなんだ。司令長官の人事か」
トリューニヒトは一つ頷くと話し始めた。
「国防委員会で三人の名前が挙がった。統合作戦本部長シトレ元帥、第一艦隊司令官クブルスリー中将、第五艦隊司令官ビュコック中将だ」

なるほど、大体予想された名前が挙がっている。考える事は皆同じか。
「それで」
「ビュコック中将を押す人間は少なかった。彼は士官学校を出ていない。彼では宇宙艦隊の参謀達を使いこなせないのではと不安視する声が多い」
「エリートだからな、兵卒上がりに使われる事は嫌がるか……」
トリューニヒトが私の皮肉に頷いた。

「クブルスリー中将に決まった」
「ちょっと待て、シトレじゃないのか」
「だから君にここへ来て貰った」
「……」

少しの沈黙の後、トリューニヒトが溜息を吐いた。
「君の言いたい事は分かる。軍に対する国民の不満は酷い。そして帝国は国内の不安定要因を解消した。となればここは力量の有るシトレを配して国防の充実を図るべきだというのだろう。これ以上国内事情を優先する事は危険だと」
「そうだ、君も賛成したはずだぞ、トリューニヒト」

トリューニヒトがまた溜息を吐いた。
「分かっている。私はシトレを押したんだ。皆もそれに賛成した。決まったと思ったんだが国防委員の一人が反対した……」
「一人? それで変わったというのか」
トリューニヒトが頷いた。一人? 一体誰だ? 国防委員会におけるトリューニヒトの影響力は強い、それをたった一人が覆した?

「彼は艦隊の再編等に主として関わっているんだが、シトレ本部長を動かしては困ると言うんだ」
「どういう事だ?」
嫌な予感がした、何か得体の知れないものを踏みつけた様な感じだ。足を上げて確かめるのを躊躇う様な感触に似ている。

「ここ近年、同盟軍は敗北続きだ。艦隊の損失も大きい。その再編にシトレが大きく関わっているらしい」
「……」
トリューニヒトは遣る瀬無さそうな表情をしている。嫌な予感がますます強まった。

「新編成の艦隊を編入するのか、それとも辺境警備の艦隊を編入するのか、或いは新兵が多いから辺境で経験を積ませ二、三年後に正規艦隊に組み込むのか……。それを押さえているのが」
「シトレだという事か……」
トリューニヒトが苦い表情で頷く。

「帝国が国内の不安要因を解消したのは分かった、ブラウンシュバイク公が恐るべき相手である事も分かった。今後軍内部には帝国を、公を軽視する人間は居ないだろう。ならば宇宙艦隊司令長官にはクブルスリー中将を当てるべきだ。そしてシトレ元帥にはこれまで通り統合作戦本部長として大局を見て貰った方が良い、軍の再編もスムーズに進む……」
「……」

「それで流れが変わった。確かに正論ではある。正規艦隊の再編は急務だ。今のままではまともに使える艦隊は半数も無い。首都警備にあたる第一、ようやく艦隊の再編が終了した第五、第十、第十一、第十二の五個艦隊だ。これからまた第二、第三、第四、第七、第八、第九の各艦隊を整えなければならん。皆が彼を支持したよ、私も反対は出来なかった」
言葉が無かった。まさかそんな事が起きたとは……。

「どうにもならんか」
「どうにもならん。次の宇宙艦隊司令長官はクブルスリーだ。来週には正式に発表されるだろう……」
悪い人事ではない、最善ではないが悪い人事ではない。いや、艦隊の再編の事を考えればこれが最善なのだ、そう自分に言い聞かせた……。



帝国暦487年  4月 4日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ラインハルト・フォン・ミューゼル



「本当は昨日伺おうかと思ったのですが……」
「どうやらお気遣い頂いたようですね」
「いえ、そういうわけでは……」
「確かに昨日は色々と有りました。今日来て頂いて良かったと思います」
公の言葉に皆が顔を見合わせた。ホッとした様な顔をしている。公も笑顔を浮かべている。

昨日、遠征軍がオーディンに戻ってきた。ケスラー、ロイエンタール、ミッターマイヤー、ミュラー、シュタインメッツ、そしてキルヒアイスと祝いに行こうという話になったが良く考えれば相手はブラウンシュバイク公だ。門閥貴族達が大勢屋敷には押しかけているに違いない。一日置いて訪ねようという事になった。

大勢で押しかけたにもかかわらず、公は少しも嫌がらず我々を応接室に案内してもてなしてくれている。皆にコーヒーが用意された。少し歓談した時だった、応接室の扉があいてブラウンシュバイク大公が入ってきた。皆慌てて立ち上がった。

「いやいや、それには及ばん、皆座ってくれ」
「……」
大公は闊達に声をかけてくるがとても座ることは出来ない。大体ブラウンシュバイク公も立っているのだ。その有様に大公が苦笑した。

「皆、よく来てくれたな。うむ、そこにいるのはミッターマイヤー少将か、息災かな」
「はっ。無事暮らしております」
ミッターマイヤーがガチガチになりながら答えると大公が笑みを浮かべながら頷いた。

「皆、これからも遠慮せず訪ねてくれ」
「はっ、有難うございます」
「うむ。ではわしはこれで失礼する。皆の邪魔をするつもりは無いのでな。ゆるりとしてゆくがよい」
「義父上、有難うございます」
公の感謝の言葉に大公は柔らかい笑みを浮かべ、応接室を出て行った。

大公が出て行くと皆が席について顔を見合わせた。
「驚いたな、まさか大公が俺達にわざわざ顔を見せるとは」
「特に卿は驚いたろう、ミッターマイヤー」
「ああ」
ミッターマイヤー、ロイエンタール、二人の会話に皆が頷いた。

「私に気を遣ってくれているのですよ」
「意外でした、こう言っては失礼ですがもっと傲慢な方かと思っていたのですが……」
「ケスラー少将、私も最初はそう思っていました。でもそう見えただけのようです」
公の言葉に皆が感心した様な、驚いた様な顔をした。

「ブラウンシュバイク公爵家の当主というのはごく普通に振舞っても傲慢に見えるときが有るのでしょうね」
「ですが、公はそうは見えませんが」
俺の言葉に公は苦笑を浮かべた。

「貴族達の中には私を酷く恐れている人もいます。彼らにとって私は傲慢極まりない存在に見えるのかもしれません」
「……」
言葉が無かった。

「昨日、貴族達が大勢来て勝利を祝ってくれました。ですが軍の事を知らない人達に祝って貰っても……。素直に喜べない私は確かに傲慢に見えるのかもしれません。好き嫌いは別として素直に喜ぶだけの余裕があれば……、情けない話です」
公が首を振っている。寂しそうな言葉と仕草だ。

胸を衝かれる様な思いになった。俺は公を傲慢だとは思わない。しかし公の言うように他の人間にとっては公は傲慢に見えるのかもしれない。一面だけ見ては人は分からないという事か……。話題を変えた方が良いかな、沈んだ表情をしている公を見てそう思った……。



 

 

第二十二話 新人事(その2)

帝国暦487年  4月 4日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ラインハルト・フォン・ミューゼル



「それにしても無事暮らしておりますは良かったな、ミッターマイヤー」
「俺はそんな事を言ったのか、ロイエンタール。緊張して何を言ったか良く分からなかった」
応接室に笑い声が上がり、ミッターマイヤーが照れている。話題を変えた方が良いと思ったのは俺だけではない様だ。

「ところでフェザーンからは反乱軍からの情報が入らなかったと聞きましたが……」
一頻りミッターマイヤーを冷やかした後、ケスラーが公に問いかけた。皆も笑いを収め二人を見ている。フェザーンの件は俺も訊きたかった事だ。

「普通はフェザーンから自由惑星同盟軍の情報が入ります。そして同盟軍には帝国軍の情報が行く。しかし今回は同盟軍の情報が入ってきませんでした。どうやらフェザーンは故意に情報を止めたようです」
公の答えに皆が顔を見合わせた。

「帝国の敗北を望んだ、そういう事ですか」
「そうです、ケスラー少将。ここ最近帝国軍は優勢に戦いを進めている。帝国と同盟の勢力均衡を望んでいるフェザーンとしてはこれ以上同盟が敗れると均衡が崩れかねない、危険だ、そう考えたのでしょう」

淡々とした口調、穏やかな表情だが内容は重大だ。皆厳しい顔をして考え込んでいる。そんな我々を見て公がクスッと笑った。
「勝つほどに勝つための条件は厳しくなっていく、そんなところでしょう。どんなゲームでもそうです。現実も同じですね」

皆が笑った。僅かだが部屋の空気がまた和んだ。公とミュラーが昔よくやったゲームの名前を出すとロイエンタール、ミッターマイヤーも“あれは楽しかった”と言い出した。ケスラーとシュタインメッツが頷いているところを見ると二人もやった事が有るのだろう。俺は無い、多分キルヒアイスも無いだろう、今度キルヒアイスと試してみるか……。

ゲームの話が終わるとシュタインメッツが公に問いかけた。
「今回の件、偶然という事は有りませんか」
「いや、それは有りませんね、シュタインメッツ大佐。今回の出兵は帝国側の事情で行われたものでした。特に出兵情報の秘匿もしていません。フェザーンは苦労することなく出兵情報を得、同盟軍に伝えたはずです。当然ですが同盟軍は我々を迎撃するために出兵する事になる。フェザーンがそれを知る事が出来なかったとは思えません。まして今回同盟は五万隻近い大軍を動かしています……」
皆が頷いている、俺も同感だ。

「一部の艦隊の動員を秘匿することは出来ても全てを隠蔽するのは無理です。明らかに故意、ですね」
公の言葉に何人かが“うーん”と唸り声を上げた。公の言う通り全てを隠蔽するなど無理だ。しかし、一部の兵力の隠蔽なら可能だろう、という事は……。

「フェザーンに抗議はしたのですか?」
「いや、していないよ、ナイトハルト。無駄だからね」
「無駄?」
「気付かなかった、同盟軍が密かに艦隊を動かした。言い訳は幾らでも有る」
公の言葉に皆が苦笑を浮かべた。

「これから先、正しい情報が送られてくることも有るでしょう。しかし帝国と同盟の均衡が崩れつつある、フェザーンがそう考えている限りフェザーンから送られてくる情報を信用する事は危険です。鵜呑みにすると何処かで痛い目を見る事になる。」
「……」

やはり公もそれを考えたか……。これから先、何度かは正しい情報が送られてくるだろう。そうやってこちらを油断させる。その上で一部の艦隊を故意に秘匿してこちらに情報を流す……。特に反乱軍が動員を伏せた場合が危険だ。その秘匿した艦隊が別働隊として現れ勝敗を決する事は十分に有り得る。

皆が口を噤んだがややあってケスラーが口を開いた。
「敵の戦力が分からない状況で戦う事を強いられるという事ですか……。結構厳しいですな」

ケスラーの声は深刻な響きを帯びている。そして皆が厳しい表情をしていた。多分俺も同じだろう。反乱軍はこちらの戦力を知っている。それに引き替えこちらは反乱軍の戦力を知らない。目隠しをされたまま戦うようなものだ。

「今回の戦い、ワルキューレにはかなり無理をさせました。しかしこれからはそういう戦いが増えるかもしれません。何らかの対策を考えないと……」
「なるほど。……索敵を専門とするワルキューレの部隊、軽空母が必要かもしれない、或いは機体そのものも索敵に特化するべきか……」
俺の言葉に皆が頷いている。

「ミューゼル提督の言うとおりですね。戦闘詳報には提督が言った事と同じ事を書きました。大公から聞いたのですが帝国軍三長官もこの件については非常に危険視しているようです。或いは既に何らかの手を打っているのかもしれません、確認してみましょう」

公がココアを一口飲んで顔を顰めた。どうやら冷めてきたらしい。俺のコーヒーも温くなっている。それにしても俺が言った事と同じ事を戦闘詳報に書いたか。考える事は皆同じだな。問題は上層部に受け入れられるかだが……。

「お会いになるのですか?」
「明日、会うことになっています」
多分、今後の体制についての相談だろう。元帥、宇宙艦隊副司令長官か……。ミュッケンベルガー元帥との分担はどうなるのか、気になるところだ。

索敵の件も話に出るだろうな。ブラウンシュバイク公からの提言ともなれば帝国軍三長官も無視は出来ないはずだ。索敵の件、軍の動きは結構速くなりそうだ。悪くない、軍事に明るい人物が宮中の実力者と言うのは悪くない。

「ところでフォルセティは如何ですか」
つらつらと考えているとミッターマイヤーが公に話しかけていた。公の旗艦についてだ。
「良い艦ですよ、なかなか使い心地が良い。これから使い慣れればもっと愛着がわくでしょうね」

公が嬉しそうにフォルセティについて語っている。物に拘らない公にしては珍しい事だ、少し可笑しかった。フォルセティか、新造艦ではあるが意外に地味な艦を選んだなと思った。派手な事を嫌う公らしいとは言えるだろう。確か同形艦が出来ていると聞いたが……。

「ミューゼル提督のブリュンヒルトは如何です」
「気に入っています、これ以上の艦は無いと思っています」
胸を張って言っていた。他人の事は言えないな。どうやら俺は既にブリュンヒルトに愛着を持っているらしい。言い終わってから苦笑していた。

「羨ましいですな、我々も早く乗艦を頂けるようになりたいものです」
ロイエンタールの言葉にミッターマイヤー、ミュラーが頷く。ケスラー、シュタインメッツも頷いている。艦隊司令官になって乗艦を貰う、軍人としての夢だな。

「直ぐに貰えますよ。どんな艦が来るか、楽しみですね」
直ぐに貰える、出兵も武勲を立てる場も有るという事だろう。公の言葉に皆が嬉しそうに頷いた。そしてそれぞれに艦の好みを言い出す。“速度の有る艦が良い”、“いや防御に優れた艦が良い”、“自分は攻撃力が大きい艦が好みだ”、楽しい時間だ。

「反乱軍の宇宙艦隊司令長官ですが……」
ロイエンタールが公に問いかけたのは、一頻り未来の乗艦の好みについて話した後だった。

「クブルスリーという人物が就任しましたが何かご存知ですか? あまり聞き覚えのない名前なのですが……」
そうなのだ、聞き覚えがない。反乱軍の指揮官で帝国まで知られている人物と言えばシトレ、ロボス、ビュコック、ボロディン、ウランフだろう。その内ロボスは既に第一線を退いている。

前任者のドーソンも知らなかったが今回のクブルスリーも馴染みが無い。一体どんな男なのか……。公も少し首を傾げ考えるそぶりをしている。この手の事は公が詳しいと言うのはミュラーの意見だったが……。
「……そう言えばあまり聞かない名前ですね」
「ええ、それで我々もちょっと困惑しているのですが……」

ケスラーの言葉に公も頷いている。
「たしか第一艦隊の司令官をしていたはずです。第一艦隊は首都警備、国内治安が任務ですからね、もっぱら海賊討伐と航路の安全確保を行っていたはずです。前線にはあまり出ることが無かったのはその所為でしょう」
「なるほど」
ケスラーが相槌を打ちながら俺に視線を向けてきたので頷いた。なるほど、前線指揮官として聞き覚えがないのはその所為か。

「無能ではないはずですよ、第一艦隊は首都警備をしているのですから。少なくとも前任者のドーソン大将よりは上のはずです。ただどういった用兵家なのか、癖などは分かりませんね。用心した方が良いでしょう」
そう言うと公はまたココアを一口飲んで顔を顰めた。



帝国暦487年  4月 5日  オーディン  軍務省 尚書室  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「御苦労だったな、ブラウンシュバイク公。悪条件にもかかわらず勝利を得た事は見事だ」
「有難うございます」
軍務尚書の労いに答えると帝国軍三長官が満足そうに頷いた。

尚書室には帝国軍三長官が揃っている。いや三人並ぶと迫力有るし威圧感もあるけど何と言ってもあくどさもパワーアップだわ。偉くなるにはそういう悪の部分も必要って事か。素直に感心した。俺みたいな素直で心優しい平凡な人間には無理だな。

「フェザーンは何か言ってきたのでしょうか」
「うむ、レムシャイド伯から連絡があったそうだ。今回の件はミスだったと言っているらしい。伝えたと思い込んでいたと」
ルビンスキーってやつは悪知恵だけじゃなくユーモアのセンスも有るな。ミュッケンベルガーの答えに思わず笑ってしまった。俺だけじゃない三長官も笑っている。ミュッケンベルガーが言葉を続けた。

「卿の事を褒めていたそうだ。流石はブラウンシュバイク公、情報が無いにもかかわらず勝利を得るとはお見事、とな」
今回は挨拶程度、次はもっと別な手で来る、そんなところだな、気を付けないと……。

もっとも気を付けるのはルビンスキー、お前も同様だ。喧嘩売ったのはそっちだという事を忘れるなよ、黒狐。何時か毛皮を剥いでマフラーにしてやる。フェザーン製の品は評判良いからな、エリザベートも喜ぶだろう。

「戦闘詳報は読ませてもらった」
「はっ」
そんな苦い表情をするなよ、シュタインホフ。この面子で戦闘詳報って言うと例のイゼルローン要塞の並行追撃を思い出すんだよな。多分シュタインホフも同感なんだろう。なんか嫌な感じだ、あの一件で俺の人生は狂ったからな。

「兵力が少ないという事もあったが大分索敵に苦労しているな」
「はい」
「フェザーンの情報が当てにならないとすれば現場にて情報収集せざるを得ん。索敵に力を入れざるを得ないという事は分かる。軍務尚書、司令長官も同意見だ」

シュタインホフの言葉にエーレンベルク、ミュッケンベルガーが頷いている。
「では」
「うむ、卿の提言を全面的に受け入れる方向で進めている。ただ、新型索敵機の開発には時間がかかるだろう。しばらくはワルキューレによる索敵部隊の編制、軽空母の建造で対応するしかない」

十分だ。俺だって今すぐ新型索敵機が開発されて配属されるなんて考えてはいない。軍が動き出したという事で問題は無い。次の戦いが何時になるか分からないがそれまでにはある程度の索敵用の部隊が編成されているだろう。それだけでも十分に違う。

エーレンベルクが咳払いをした、どうやら話が変わるらしい。俺が宇宙艦隊副司令長官になる件だな。ミュッケンベルガーとの分担をどうするか……。俺は文字通り副司令長官で良いんだけどな、艦隊を二つに分ける必要は無いと思うんだが……。

「ところで今回の勝利で卿は帝国元帥、宇宙艦隊司令長官に昇進する事になった」
「……失礼ですが副司令長官では有りませんか」
帝国軍三長官が顔を見合わせた。あれれ、だな。どうも間違いではないらしいが、俺は何も聞いていないぞ。何が起きた? ミュッケンベルガーはどうなるんだ?

「ヴァレンシュタイン、いや、ブラウンシュバイク公」
「はい」
「公は宇宙艦隊司令長官に就任する、間違いではない」
「……」
「実は私は心臓に異常が有る、狭心症だ」
「まさか……」

まさかだろ……、なんかの冗談だ。呆然としてミュッケンベルガーを、エーレンベルク、シュタインホフに視線を向けたが誰一人俺の視線に応えてくれない。ミュッケンベルガーは笑みを他の二人は沈痛な表情をしている。

「先日も発作を起こした。もはや最前線で指揮を執るのは不可能だ。あとは公に頼むしかない……」
「……」
「そんな顔をするな。私には公がいる、何の心配もなく辞める事が出来るのだ。喜ぶべき事だろう。ただ残念なのは副司令長官となった公と共に戦う事が出来なかった事だけだ」
「閣下……」

ミュッケンベルガーが笑みを浮かべている。戦う男の笑みじゃない、何処にも覇気が、威厳が無いのだ。優しくて穏やかでまるで春の陽だまりのような暖かさを湛えている。以前はこんな笑顔を浮かべる男じゃなかった……。

艦隊決戦を望んでいた、勝利を得る事は難しくなかった。実際にアスターテ星域の会戦ではフリードリヒ四世さえ倒れなければ同盟軍に止めをさせたのだ。そうなれば帝国史上最高の宇宙艦隊司令長官、そう呼ばれてもおかしくなかった。勝って、勝って、勝ち続けて、それでももう一歩、あともう一歩が届かなかった。実力が届かなかったのではない、運がこの男になびかなかった。勝ち運に恵まれなかった……。

無念だっただろう……。実力が無かったのなら諦めもつく、しかし実力以外の所で諦めなければならないとは……。運命を呪い絶望に喘いだに違いない、この笑顔を浮かべるまでにどれだけ苦しんだか……、俺にはとてもミュッケンベルガーを正面から見る事など出来ない、嗚咽が漏れた。泣くな、涙だけは零すんじゃない。

「後を頼むぞ、ブラウンシュバイク公」
「は、はい」
「内乱を防ぐためとはいえブラウンシュバイク公爵家の養子になったのは不本意な事であっただろう。そして本来なら公を助けるべき私が公に全てを押付け退くことになった……。済まぬ、公には苦労をかける……」

涙が零れそうになるのを懸命に堪えた。
「何を言われます、苦労をかけさせられるのは慣れております」
「そうか……、慣れているか……、確かにそうだな。公には苦労をかけてきた」
俺の憎まれ口にもミュッケンベルガーは優しく笑う。

ミュッケンベルガーが俺の方にゆっくりと近づいてきた。長身の元帥が両手で俺の肩を掴む。
「頼むぞ、ブラウンシュバイク公」
「はい」
涙が零れた……。


 

 

第二十三話 元帥杖授与式

帝国暦487年  4月 13日  オーディン  新無憂宮   黒真珠の間   エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「エーリッヒ、大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
俺の応えにフェルナーが苦笑した。分かっている、こいつは心配する振りをして面白がっているだけだ。そういう奴なんだ。長い付き合いだから嫌と言うほど分かっている。

帝国軍人アントン・フェルナーは宇宙で一番根性悪のロクデナシなのだ。こいつのおかげで士官学校時代はえらい目に遭った。いや、正確にはえらい目に遭ったのはお人好しのキスリングで面倒見の良い俺はその尻拭い役だった。全然割が合わん。俺の性格に歪みが有るとすればそれは間違いなくこいつの所為だ、他には有り得ない。

「良く似合っているぞ」
「似合っていない」
何処が似合っているんだ、このボケ! ニタニタ笑うんじゃない! お前の目は節穴か、それともビー玉でも入っているのか。俺は断じてこんな服は着たくなかったんだ!

「もうすぐだ、もうすぐ陛下が御出座される。その後式部官が卿の名前を呼ぶから、そうしたら行くんだぞ」
「分かった」
「逃げるなよ、皆このために集まったんだ」
「別に集まってくれとは頼んでいない」

嫌味な野郎だな、肩を竦めやがった。言っておくが誰も居なくたって全然構わないぞ、俺は。式典なんぞ、大っ嫌いだ。大事な事だからもう一度言ってやる、式典なんぞ、大っ嫌いだ! 元帥杖など宅急便で送ってもらっても全然構わない。伝票には受け取りサインをちゃんとしてやる!

「じゃあ俺は行くからな」
「……」
「そんな仏頂面するな」
「してない」
「にこやかにとは言わないから、普通にな、普通にだぞ」
「普通だ」

フェルナーが苦笑を浮かべたまま控室から出て行った。普通になんて出来るか、この馬鹿たれが。不本意だ、俺はとっても不本意だ。この一週間、俺は不本意の神に支配され熱愛されまくっていたと言って良い。まったく碌でもない一週間だった。

帝国元帥、宇宙艦隊司令長官……、責任重大だよな。有難い事にミュッケンベルガーは”正規艦隊の司令官達は自分の退役と共に司令官職を退く、司令官達は既に説得済みだ”と言ってくれた。新しい司令長官には新しい司令官を起用する、それがミュッケンベルガーの考えだった。

本当に頭が下がるよ。まあ司令官達の中には俺みたいな成り上がりの若造に従えるか、そのくらいなら辞めてやる、そんな気持ちの奴も居たのかもしれないが、それでもミュッケンベルガーが説得してくれなければ辞めさせるのに俺が苦労しただろう。簡単に出来る事じゃない、ミュッケンベルガーには本当に感謝している。

新しい艦隊司令官をどうするか、フェザーンへの対策をどうするか、そんなこんなで悩んでいるのに俺の周りは全く関係無しだ。大公夫妻、エリザベート、シュトライト、アンスバッハ、フェルナー……、皆お祭り騒ぎで沸き立っている。婚約発表って一体何なんだよ。俺は全然納得できんぞ。

一応理由としては俺の立場を強化するためらしい。リヒテンラーデ侯達の話ではフェザーンの狙いは俺ではないかという事だった。帝国を混乱させるためには俺は邪魔か、まあ有り得ない話ではないな。そこでエリザベートとの婚約を発表する事で俺の立場を強化する……。なんでそうなる、他に方法は無いのか? 考え付かないのか?

そりゃ何時かはエリザベートと結婚するのは分かっているし納得もしている。エリザベートはそんな性格の悪い女の子じゃないからな。ごく普通の女の子で悪くないと思っているよ、どちらかと言えば好感を持っている。今のところ彼女に対して不満はない。

俺はラインハルトとは違うんだ。結婚相手にヒルダみたいな切れる女を期待しているわけじゃない、ごく普通の女の子で良いんだ、って言うかヒルダの場合はあれはどう見ても恋愛音痴で情緒なんて欠片も無いタイプだろう。政略方面にだけ能力が偏っている。あんなのに二十四時間側にいられたら気の休まる暇がない、過労死だ。

……そうか、ラインハルトの死因だがもしかするとそれかな……、皇帝病って言っているけどその真の原因はヒルダが傍に居る事による肉体的、精神的過労。戦争に行きたがったのもヒルダの傍から離れるため……。うーん、新しい仮説だな、誰にも話せないのが残念だ。皆で盛り上がれたのに……。

まあヒルダは車で言えば普通乗用車じゃなくてフォーミュラカーとかワールドラリーカーみたいなもんだからな。だから乗り手も普通乗用車じゃ満足できない特殊な人間になる。車を見れば女のタイプも分かるかもしれない、どっちも乗り物だし金がかかるのも似ている……。気に入らなければ乗り換えるのもだ。

普通で結構、考えてみれば公爵家の令嬢で普通ってのは結構希少かもしれない。でもな、だからって十五歳の女の子と婚約なんかしたいと思うか? 新公爵はロリコンだ、戦争に勝った御褒美に十五歳の少女と婚約した、皆がそう言うだろう。これからの俺は“あのロリコン公爵、ロリコン元帥”と呼ばれ、その度に笑われるに違いない。

婚約の本当の理由は分かっているんだ、エリザベートの焼き餅だって事はな。俺がアンネローゼを密かに想っている、アンネローゼも俺に好意を持っている、そう勘繰っているらしい。何考えてるんだよ、何処の世界に皇帝の寵姫に懸想する阿呆がいる。禁断の恋とかそんな事が有るわけないだろう。

だが貴族の令嬢達の間では俺とアンネローゼは密かに想い合う仲なんだそうだ。ベーネミュンデ侯爵夫人に俺がアンネローゼの事をべた褒めしたと広まっているらしい。震源地はリヒテンラーデ侯だな、あの場に居たのは爺と俺だけだ。

俺がいくらそんな事は無いと言っても信用しないんだからな。××伯爵家の××ちゃんが言っていたとか、○○子爵家の○○ちゃんも言っていたとか、エリザベートは泣きそうな顔で言い募る。女ってのはどうしてそんな阿呆な話を信じるんだ? 頭が痛いよ、俺の方が泣きたくなった……。

あのクソ爺、余計な事を言いやがる。おかげでブラウンシュバイク公爵邸はマグニチュード九クラスの大地震だ。俺は公爵邸を出て何処かへ緊急避難したくなったよ。爺の前世はナマズだな、大ナマズだ。これからはナマズジジイと呼んでやる。諸悪の根源よりはましだろう。

おまけに俺が宇宙艦隊司令長官になると知った馬鹿貴族共が正規艦隊司令官になりたいと騒ぎだしやがった。ここ最近勝ち戦が続いているからな、戦争なんて簡単に勝てると勘違いしたらしい。何処まで馬鹿で阿呆なのか……、ドーソン以下だな。

お前らみたいな阿呆で無責任な屑どもに艦隊司令官なんぞ出来るわけないだろうが! 一兵卒にして最前線で弾よけになら使ってやる。おまえらなんかダース単位、いや師団単位で戦死したって痛くも痒くもない、なんなら俺の手で磨り潰してやる。

“こんなはずじゃなかったー”とかお前らが泣き叫んでいる姿を見て大笑いしてやるぜ。録画して平民達に売り出してやる、飛ぶように売れるだろう。記録的な大ヒット商品だ。平民達の不満も大分収まるだろうな、俺の鬱憤も半分くらいは晴れるに違いない、ざまあみろだ、ケケケ。

あー、ウンザリだ。元帥杖の授与式が終わったら宮中主催の祝勝会、それからブラウンシュバイク公爵邸での祝勝会兼婚約発表会。それが終わったら宇宙艦隊司令長官の就任式……。どれも主役は俺だからな、訓練とか仕事が忙しいとか言って抜け出す事も出来ん。地獄だ……、生まれ変わったら養子にだけはならん、絶対にだ。

それにしても気が重いよ、元帥になったからマントとサッシュを付ける事になったんだけど白のマントって何だよ一体。爺様達はグレーのマントを身に付けている、そんなところに若造の俺が白なんて付けて行けるか! 大体白はラインハルトの色だろう、俺は黒が良いんだ、黒が!

おまけにこのサッシュの色……、ピンクだぜ、見る度に溜息が出る……。まあ変なピンクじゃなくて上品な朱鷺色って言うのかな、そういう落ち着いた色なのが救いだけどこんなの恥ずかしくて付けられないよ。

大公夫人もエリザベートも俺の希望は無視だ。黒は縁起が悪いだの、皆から怖がられるだとか言って白のマントと朱鷺色のサッシュにしてしまった。養子って本当に立場が弱いよな、涙が出てくる。俺が正装するとカワイイとか言い出す始末だ。可愛くて悪かったな! 俺は母親似で女顔なんだ、気にしてるんだぞ、これでも。宇宙艦隊司令長官がカワイイとか一体何の冗談だ!

落ち着け、とりあえず一週間だ。一週間この白のマントとピンクのサッシュを付けよう。その後は汚れるからと言ってサッシュを黒系統の色に変える。そして時間をおいてマントも黒に変更だ。少しずつ、少しずつ既成事実を積み上げるんだ。この手の問題は焦っては駄目だ、まして女相手にはな……。

式部官が何か声を張り上げてるな、フリードリヒ四世が来やがったか。どうせなら二日酔いでアンネローゼの所でひっくり返っていれば良いのに……。しょうがない、そろそろ準備するか……。
「ブラウンシュバイク公、エーリッヒ殿!」
分かった、分かった、今行くよ……。



帝国暦487年  4月 13日  オーディン  新無憂宮   黒真珠の間   ナイトハルト・ミュラー



古風なラッパの音が黒真珠の間に響く。その音とともに参列者は皆姿勢を正した。もちろん俺もだ、こんなところで不敬罪などで捕まりたくはない。

「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護
者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下の御入来」
式部官が声を張り上げると帝国国歌の荘重な音楽が黒真珠の間に流れた。そして参列者は皆深々と頭を下げる……。

そろそろ良いかな? 頭を下げたまま周囲を窺う。皆まだ頭を下げたままだ、もう少しか……。周囲が頭を上げ始めた。ゆっくりと俺も頭を上げると皇帝フリードリヒ四世が遠目にも豪奢な椅子に座っていた。あれ、どんな座り心地なんだろう……。

黒真珠の間には大勢の人間が集まっていた。皇帝の玉座に近い場所ほど帝国の実力者と言われる大貴族、高級文官、武官がたたずんでいる。彼らは幅六メートルの赤を基調とした絨緞をはさんで文官と武官に分かれて列を作って並んでいた。

一方の列には文官が並ぶ。国務尚書リヒテンラーデ侯、カストロプ財務尚書、フレーゲル内務尚書、ルンプ司法尚書、ウィルへルミ科学尚書、ノイケルン宮内尚書、キールマンゼク内閣書記官長。

反対側の列には武官が並ぶ。エーレンベルク元帥、シュタインホフ元帥、クラーゼン元帥、オフレッサー上級大将、ラムスドルフ上級大将。

ブラウンシュバイク大公は名目だけとは言え元帥位を得ている事から武官の側に並んでいる。そして今日、ブラウンシュバイク公爵家からもう一人帝国元帥が誕生する。エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク公爵だ。

「ブラウンシュバイク公、エーリッヒ殿!」
式部官の朗々たる声がエーリッヒの名を呼んだ。その声とともに絨毯を踏んで粛々とエーリッヒが陛下に近づいてくる。

黒の軍服に身を包み、元帥に昇進することから肩章、マント、サッシュを身に纏っている。マントの色は白だ。そして薄い上品なピンクのサッシュと金の肩章をつけている……。結構お洒落だな、軍人というよりは何処かの貴族の若様といった風情だ。華奢で小柄だし顔立ちも優しげだから若い娘達が騒ぐだろう。

アントンの話では本人は黒のマントと黒のサッシュを望んだそうだがそれだとちょっと地味だよな。大公夫人とフロイラインが反対したそうだがその気持ちは分からないでもない。まあピンクのサッシュは少し可愛らしすぎるが白のマントは良く似合っている。本人は白のマントを嫌がるかも知れんが誠実そうに見えるし清新な感じだ。

皆、居心地悪そうな表情をしているな。大勢の貴族達にとっては嘗ては敵対していたエーリッヒが自分達のトップになっているわけだから確かに表情に困るよな。軍人たちも同様だな、二十歳を過ぎたばかりのエーリッヒが元帥、宇宙艦隊司令長官だ、実力が有るのは認めているだろうが戸惑いもあるだろう。

エーリッヒが玉座の前に立った。そして恭しく片膝をつく。皇帝は少しの間エーリッヒを見ていた。
「ブラウンシュバイク公、このたびの武勲、まことに見事であった」
「臣一人の功ではありません。イゼルローン要塞駐留艦隊司令官、ゼークト大将を始め皆の協力の賜物であります」

「そうか、そちは謙虚じゃの」
「恐れ入ります」
「珍しい色のサッシュじゃ、……ピンクか」
「……」

普通返事をしないと不敬罪とか言われるけど、これは仕方ないよな。答えろっていうのは酷だろう。
「アマーリエとエリザベートの言う通りじゃの。よう似合っているぞ、なんとも可愛らしい事じゃ」
「……恐れ入ります」

皆、顔を見合わせているな。中には笑いを噛み殺している人間も居る。多分エーリッヒの顔は引き攣っているだろう。可愛いって言われるのを極端に嫌がるからな、暫くは傍に寄らないようにしよう。からかうなんてもってのほかだ。

ブラウンシュバイク公、元帥、宇宙艦隊司令長官、そのどれか一つでも怒らせるのは危険なのに今のエーリッヒは三つを兼ねているんだからな。怒らせるなんて自殺行為だ。俺はまだ死にたくない。クワバラ、クワバラ。

皇帝陛下は上機嫌で笑うと、式部官から渡された辞令書を読み始めた。
「イゼルローン回廊における反乱軍討伐の功績により、汝、エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク公爵を帝国元帥に任ず。帝国暦四百八十七年四月十三日、銀河帝国皇帝フリードリヒ四世」

エーリッヒは立ち上がって階を上ると最敬礼とともに辞令書を受け取った。ついで陛下から元帥杖を受け取りそのままの姿勢で後ろ向きに階を降りる。気をつけろよ、転ぶんじゃないぞ。階を降り終わると皇帝フリードリヒ四世に対して最敬礼をした。

その後数歩後ずさり華奢な体を翻す。身に纏う白のマントが微かにはためき、ピンクのサッシュが現れた。そのまま、ほんの数秒の間、エーリッヒは黒真珠の間を見渡した。怒ってるよな、多分。皆顔を伏せてエーリッヒを見ないようにしているんだから。大体肩が震えている奴もいる。

皇帝フリードリヒ四世を背後に黒真珠の間の廷臣を見渡す。廷臣達は皆顔を伏せエーリッヒの威に恐懼しているように見える……。音楽が流れ始めた、勲功ある武官を讃える歌、ワルキューレは汝の勇気を愛せり。その音楽とともにエーリッヒは歩み始めた。近づくにつれ彼の頬が引き攣っているのが分かった、当分近づかない事にしよう……。




 

 

第二十四話 逆鱗

帝国暦487年  4月 16日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ



「エーリッヒは職場では日々どうしていますか」
「公は職務に精勤しておられます……」
「そうですか」

ブラウンシュバイク大公夫人が溜息を吐いた。フロイラインも神妙な顔をしている。私の隣に座るフェルナー大佐にちらりと視線を向けた。大佐も神妙な表情をしている。おそらく私も同様だろう。まるで四人で葬儀場にでもいるような雰囲気だ。

「今日は一体何を?」
「詳しい内容はお話できませんが、ブラウンシュバイク公が宇宙艦隊司令長官になった事で宇宙艦隊司令部は新たに編成されることになりました。公は今新体制をどうするか、検討しておいでです」

私の言葉に大公夫人とフロイラインが顔を見合わせた。二人とも悲しげな表情をしている。事情を知らない人間がこの二人を見たらブラウンシュバイク公の事をとんでもない悪人だと思うだろう。

しかし事情を知っている私には何とも言いようがない。ブラウンシュバイク公の事を根性悪だとは思うが今回の場合、公を責めてよいものかどうか……。今一つ判断が出来ずにいる。

私達四人、応接室に居るけれど部屋は微妙な空気に支配されていた。重いというよりは居辛いといった空気だ。眼の前のコーヒーに手をつけるのさえ私は躊躇っている、フェルナー大佐も同様だ。許されるものならば脱兎のごとくここから逃げ出したい気分だ。

「熱が有るのに? 無理をしているのではないかしら? 私達に、その、分かるでしょう?」
心配そうな、戸惑う様な大公夫人の口調だ。フロイラインは泣き出しそうな表情をしている。ブラウンシュバイク公は今日熱を出した。本来ならゆっくりベッドで休むべきなのだろうが公はメックリンガー中将、シュトライト少将と共に書斎で打ち合わせを行っている。私はどういうわけか大公夫人に捉まり応接室でお話だ。

「宇宙艦隊司令部の新体制をどうするかは現在帝国軍が抱える最優先課題です。反乱軍の宇宙艦隊も新体制になり今のところは積極的な動きは見せていませんがこれ以上の遅延は許される事ではありません、帝国の安全保障にも関わります。先日の一件とは何ら関係無いと小官は思います」
「……」

大公夫人もフロイラインも納得した表情では無い。無理も無いだろう、私も今日は休むべきだと公に忠告したのだ。確かに宇宙艦隊司令部の新体制をどうするかは最優先課題ではある。しかし病身を押してまで行う必要は無い筈だ、今日一日ゆっくりと休んで明日取りかかれば良い。だが公は受け入れなかった。

先日の一件を怒っているのかと聞いたけど公は苦笑してそれはもう済んだ事だと返した……。おそらく本心だろうとは思う。しかし影響が全く無いと言いきれるだろうか。

副官を務めて分かった事が有る。公は自分が虚弱な事にかなり強いコンプレックスを持っている、体格が華奢である事にも強い不満を持っている。もしあの一件が無ければ今日は素直に休んだのではないだろうか……。あれは間違いなく公の逆鱗に触れたのだ。

もしかするとフェルナー大佐も同じ事を考えているかもしれない。無表情に黙っている大佐を見て思った。でもそれをこの場で言う事は出来ない。そんな事をすれば大公夫人とフロイラインを益々悲しませる事になるだろう。貴女達は養子を、婚約者を激怒させたのです……、そんな事とても言えない。フロイラインは泣き出してしまうだろう。

「それに戦場では熱が出ても指揮を執らねばならない時が有ります。前回の戦いでも、イゼルローン要塞の攻防戦でも公は病身を押して指揮を執りました」
「……」
うーん、まだ納得はしていないか……、無理も無いことではある、私だって説得力の無い説明だと思っている。

「ここ近年、帝国は有利に戦争を進めていますが戦争で勝つと言う事は決して簡単な事ではありません。ブラウンシュバイク公は小官の知る限り帝国でも屈指の用兵家です。ですがその公ですら勝利を得るためには非情な苦労をされておいでです」
「……そうですか」
大公夫人がまた溜息を吐いた。そして許しを請う様な表情で話しだした。

「悪気は無かったのよ。私達には男の子が居なかったし、妹の所にも居なかった……。息子が出来て嬉しかったの。優秀で頼りがいが有るし、それにカワイイんですもの。ついつい構いたくなってしまって……」
「はあ」

ちらりとフェルナー大佐を見た。大佐は無表情にコーヒーを飲んでいる。なんとか言ってよ、貴方親友でしょ。大体コーヒー飲んでるってどういうこと? 結構余裕じゃないの。ふてぶてしいのは美徳じゃないわよ、大佐。

「それでついお父様にもカワイイって言ってしまったの……。まさかあんな事になるなんて……、あの子を困らせるつもりは全然無かったし侮辱するつもりも無かった……、ただちょっと構ってみたかったの、今考えれば馬鹿な事をしたと思うけど」
「……」

その気持ちはとっても良く分かる。何処の家でも母親なんて似た様なものだろう。息子が可愛ければ可愛いほど構いたくなる。ましてその息子が有能で無鉄砲なのに虚弱でカワイイとなればなおさら構いたくなるだろう。嫌がる顔を見る事さえ楽しいに違いない。

でも困った事に公爵閣下はカワイイと呼ばれるのが何より嫌いなのだ。公は母親似らしい、母親の事は慕っているようで顔には不満は無いらしいがその事でカワイイと言われるのには我慢出来ずにいる……。まあ私が言わなくてももう分かっていると思うけど……。

先日、十三日に行われた元帥杖授与式、あれは悲惨な結果に終わった。おそらく、あの式典に参列していた殆どの人間が公をカワイイと見ていたはずだ。だがそうは思っても口にはしなかった。何と言っても相手はブラウンシュバイク公で帝国元帥で宇宙艦隊司令長官なのだ。宮中、軍の実力者をカワイイ等とからかう事は出来ない。

しかしその制約にたった一人、囚われていない人物がいた。皇帝フリードリヒ四世だ、皇帝は公式の行事の中で公をカワイイと評してしまった。悪気は無かったのだろう。おそらく娘である大公夫人から聞いていたからなるほどと思ったに違いない。だが皇帝が公式の場でカワイイと言ったのだ。他の人間が公をカワイイと言っても不都合は無い事になる。

しかも聞くところによれば公が皇帝の元から下がる間、皆が顔を伏せ笑うのを必死に堪えていたのだと言う。そして公は怒りに震えながらその中を歩いていたとか……。私はフェルナー大佐と共に紫水晶の間で控えていたから知らなかったけど想像するだけで寒気がする。

式典が終了するとブラウンシュバイク公は直ぐに宇宙艦隊司令部に戻った。地上車の中での公は当たり前だけど機嫌が悪かった、声をかける事が出来なかったほどだ。司令部に着いて決裁文書にサインを始めても不機嫌な表情は変わらなかった。

驚いたことに最初の二、三枚は力を入れ過ぎてサインを書き損じたほどだ。こんな事今まで一度も無かった、思わず目が点になって公をまじまじと見詰めた事を覚えている。

フェルナー大佐が司令長官室に転がり込んできたのは三十分ほどしてからだったと思う。大佐は顔を引き攣らせながら公に話しかけた。多分私も聞いているうちに顔が引き攣ったと思う。公とフェルナー大佐と私、三人だけの司令長官室は凍りついていた。

“あ、その、公?”
“エーリッヒで良い”
“いや、しかし”
“エーリッヒで良いんだ、アントン”

低い地を這う様な声だった。公は不機嫌そうな表情で決裁文書に視線を落とし大佐の方へは一度も視線を向けなかった。そして乱暴なまでの勢いで文書にサインをすると顔を顰めた。サインが気に入らなかったらしい。フェルナー大佐が蒼白な顔で私を見たけどとてもじゃないけど口など出せない。黙って見ているのが精一杯だった。

“落ち着いてくれ、な、あれは悪気は無かったんだ”
“あれって言うのは何かな、アントン”
“いや、だから、その、陛下が、卿を、カワイイと言った事だ”
“……”

恐る恐ると言った口調だった。私はフェルナー大佐を呆然として見ていた事を覚えている、大佐が情けなさそうな表情で私を見返した事もだ。そして慌てて大佐から視線を逸らしたことも……。多分私は心の中で皇帝を罵っていただろう、口に出していたら不敬罪で捕まっていたに違いない。

“エーリッヒ?”
“……落ち着いているよ、卿こそ落ち着いたらどうだ”
“そ、そうだな、落ち着こう。……あれは悪気は無かったって理解してくれるよな?”

懇願する様な口調だった。額から汗が流れている。ブラウンシュバイク公は静かに笑い声を上げた。視線は文書に落としたままだ。嫌でも怒っているのが分かった。雷鳴近づく、そんな感じだった。

“理解しているとも。だからこうして仕事をしている。そうでなければクーデターの準備でもしているさ、満座の中で恥をかかされたんだからね。そうだろう、アントン・フェルナー”
“エーリッヒ!”
悲鳴のような大佐の声だった。

“エリザベートを傀儡の女帝として私が全てを牛耳る。幸い正規艦隊の司令官は未だ決まっていない。このオーディンで最強の武力集団を率いるのは私とミューゼル大将だ。話の持って行き方次第ではクーデターは可能だ、そうは思わないか”
“馬鹿な事を考えるな!”

その声に公はようやく視線を大佐に向けた。鋭い視線だ、とても冗談を言っているようには思えない。気が付けば身体が震えていた。

“そうかな、馬鹿な事かな。地上戦力ではリューネブルク中将の装甲擲弾兵第二十一師団がこっちの味方になるだろう。先手を打てばオーディンを占拠するのは難しくない。憲兵隊は、……憲兵隊は割れるだろうな、だがそれなら連中は動けない、クーデターは十分に可能だ”
“……おい、お前”

震えは益々酷くなった。フェルナー大佐と私が固まる中、公が笑い出した。楽しくて仕方がないといった感じの笑い声だ。

“後世の歴史家は何と言うかな。ブラウンシュバイク公が反逆したのはカワイイの一言が原因だった。世にこれほど馬鹿げた理由で反逆した人間は居ないだろう、かな。それともこれほど馬鹿げた行為で臣下を反逆させた皇帝はいないだろう、かな。どっちだと思う?”
“……エーリッヒ”

“決意の言葉は我慢ならん、かな。いっその事この時を待っていたにしてみるか……。いかにも反逆者らしい科白だ、歴史家達が喜ぶだろう。エーリッヒ・ヴァレンシュタインは用意周到に反逆の時を待っていた、皇帝はそれに口実を与えてしまった……”  
“……”

“安心していい、クーデターなどしないよ。私は権力なんか欲していないからね。それに今クーデターを起こしても不安定な政権が出来るだけだ、碌な事にはならない、それが分かる程度には私は落ち着いているよ。でも少しぐらい想像するのは良いだろう、私にも楽しみが有っても良い筈だ”
“俺をからかったのか”

フェルナー大佐の抗議に公が肩を竦めた。

“からかった? いいや、忠告だよ、これは。アントン、早くブラウンシュバイク公爵邸に戻るんだね。そして皆にブラウンシュバイク公は反逆しかねないほど怒っていると伝えた方が良いと思う”
“俺にそんな事を言えと言うのか”

“言ってもらう、卿は私の親友なんだ、私を一番知っている人間が伝えるべきだと思うよ、私を笑いものにするのは危険だと”
“……”
“早く行った方が良いと思うね、私が想像して楽しむだけじゃ物足りなくなって本心からクーデターを起こしたいと考える前に。クーデターは何時でも起こせるんだから……”

公の声には笑いの成分が有ったけど目は笑っていなかった。フェルナー大佐も冗談ではすまないと分かったのだろう、“早まるなよ”と言うと慌てて部屋を出て行った。公はそれを見送ると詰らなさそうに文書に視線を戻した。

公がフェルナー大佐を脅した効果は直ぐに出た。その日の夜、宮中で行われた戦勝祝賀パーティ、多くの出席者がチラチラとブラウンシュバイク公を見て笑いを堪える中、皇帝が最初に声をかけたのは公だった。

“昼間、公にかけた言葉は決して公を侮辱するものに有らず、不快な思いをさせたようだが許せよ”
“はっ”
“公は皇家の重臣、今後とも帝国の藩屏としての働きを期待して良いか?”
“はっ、御期待に添うように努めます”

“うむ、先ずは祝着。聞くところによればエリザベートと正式に婚約したと聞いた。重ね重ね祝着じゃ。公なれば我が孫娘を託せよう、これ以後は公は皇族に等しい身となる、宜しく頼むぞ”
“はっ”

皇帝フリードリヒ四世がブラウンシュバイク公に最初に声をかけた。昼間の一件を謝罪し、公を帝国の藩屏と認めた上でフロイラインとの婚約を祝福した。そして皇族に等しいと言ったのだ。その意味が分からない人間など帝国には居ないだろう。

皇帝といえどもブラウンシュバイク公の扱いには気を遣わざるを得ない、そう言う事だ。これまで何処かで平民上がり、所詮は養子と公を軽んじていた人間達も改めて公が帝国の最重要人物なのだと理解したはずだ……。


「あまりお気になさる事は無いと思います。結果的には良い方向に動きました。公の御立場は以前よりも遥かに強まったはずです」
「そうかしら、中佐の言う通りだと良いのだけれど……」
「……」

大公夫人は懐疑的だ。多分、その事に一番懐疑的なのがブラウンシュバイク公自身だろう。フェルナー大佐が溜息を吐いた。私も溜息が出そうになったけど慌てて堪えた。大佐、貴方はブラウンシュバイク公爵家の家臣失格よ。フロイラインも大公夫人も呆れたような表情で貴方を見てる、後でこってりと絞られなさい……。




 

 

第二十五話 イゼルローン方面軍

帝国暦487年  4月 16日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   エルネスト・メックリンガー



「なかなか決まりませんな」
「確かに」
私とシュトライト少将の言葉にブラウンシュバイク公が無言で頷いた。公の表情は決して明るくない、不機嫌とは言わないが鬱屈している様な感じだ。体調が思わしくない所為も有るだろう。出来るだけ早めに終わらせるようにしなければ……。

私とシュトライト少将は軍服だがブラウンシュバイク公はパジャマの上にガウンを羽織っている。公は最初軍服を着ようとしたようだがシュトライト少将がそれを止めたらしい。“本当は休んで欲しいがどうしてもと言うならせめて身体に負担をかけないようにして欲しい”と頼んだそうだ。

口にも出したが宇宙艦隊の陣容がなかなか決まらない。直ぐに決まったのは総参謀長に私、副参謀長にシュトライト少将、そして司令部参謀にベルゲングリューン、ビューローくらいのものだ。前回の遠征に参加した人間をそのまま用いたに過ぎない。

当然だが十分とは言えない。軍務省人事部に優秀な若手士官を配属させてほしいと頼んでハックシュタイン准将、レーリンガー大佐、フェルデベルト大佐の三名が司令部に配属される事になった。

ハックシュタインとレーリンガーは士官学校を首席卒業だ。もっとも公は首を傾げていたから必ずしも納得はしていないのかもしれない。ちなみにフェルデベルト大佐は公と士官学校では同期生だ、それなりに思うところが有るのだろう……。

後方支援を担当する人間もようやく決まった。リッチェル准将、グスマン大佐、シュルツ少佐の三名だ。後は彼らの下に事務を担当する女性下士官を配備すれば後方支援はひとまずは安心できるだろう。女性下士官は兵站統括部から選抜されるはずだ。

クレメンツ、ルッツ、ワーレン、アイゼナッハ、ビッテンフェルト、シュムーデ、ルックナー、リンテレン、ルーディッゲ……。現時点で艦隊司令官として決まったのは九名だ。ようやく十八個艦隊の半分が決まったが残り半分をどうするか……。

「他に適任と言われて思いつくのはミューゼル大将とメルカッツ大将、グライフス大将ぐらいですが……」
「しかし、その内最低でも一人はイゼルローン要塞に行かざるを得ないでしょう。他に適任者がいません。先ずはそちらを決めないと……」

私とシュトライト少将の遣り取りにブラウンシュバイク公が溜息を一つ吐いて頷いた。
「そうですね、それにグライフス大将は総参謀長を務めた方です。いまさら艦隊司令官にと言うのは難しいでしょうね……」

今回の戦勝に伴い何人かの異動が行われることになった。その中でも最も大きいのがミュッケンベルガー元帥の退任とブラウンシュバイク公の宇宙艦隊司令長官への就任だがそれに次ぐのが帝国の最前線、イゼルローン要塞司令官、駐留艦隊司令官の人事だ。

要塞司令官シュトックハウゼン大将、駐留艦隊司令官ゼークト上級大将が後任者が決まり次第異動する事になる。ゼークト駐留艦隊司令官は先日の戦勝で上級大将に昇進しているがシュトックハウゼン大将も異動と共に上級大将に昇進する。ちなみにゼークト上級大将は統帥本部次長、シュトックハウゼン大将は軍務次官に内定している。

二人とも約四年間最前線で帝国を守ってきた。平時の四年ではない、戦時の四年だ、交代の時期だろう。在任中の二人には特に大きな過失は無かった。第六次イゼルローン要塞攻防戦では反乱軍を撃退している。異動も昇進も妥当と言って良いだろう。

そしてその後任人事だが宇宙艦隊の司令官人事と合わせてブラウンシュバイク公に一任されている。もちろん公から軍務尚書には人事案として提出されるのだがその案が拒否されることは余程の事が無い限り無い。それだけに案を作る我々には責任が重く圧し掛かる。

「妥当なのは要塞司令官にグライフス大将、駐留艦隊司令官にメルカッツ大将ですが……」
「そうなると宇宙艦隊は若手ばかりになります。平均年齢は二十代後半ですよ、総参謀長」
「総参謀長は止めてくれ、シュトライト少将。私が総参謀長なのは人事案の中だけだ」
私の言葉に公とシュトライト少将が微かに笑い声をたてた。

「失礼しました。しかしイゼルローン方面軍の件も有ります。それを考えるとミューゼル大将はイゼルローン方面に送るべきではありませんか、その方が自然だと思うのですが……」
「まあ確かにそうだが……」

イゼルローン方面軍、公が新たに作ろうとしている軍の一つだ。現在帝国の最前線、イゼルローン要塞には二人の司令官が居る。要塞司令官と駐留艦隊司令官だが同格の司令官であるため張り合う事が多く統一した指揮が執れずにいる。そしてその事が往々にして帝国軍に不利に働いている。

第五次イゼルローン要塞攻防戦ではその弊害が顕著に出た。あの戦いでは反乱軍による並行追撃作戦により要塞攻防戦は混戦になった。混戦を利用して要塞へ侵入しようとする反乱軍を帝国軍は要塞主砲により味方もろとも消滅させることで何とか撃退した。

反乱軍を撃退はしたが味方もろとも吹き飛ばしての撃退だ、決して喜べる勝利ではなかった。ブラウンシュバイク公もこの戦いの時イゼルローン要塞に居たらしいが酷い戦いだったと言っている。公がイゼルローン要塞には良い思い出が無いと言うのはこの時の経験も有るようだ。

戦後、当然だが味方殺しが問題視され当時の要塞司令官クライスト大将、駐留艦隊司令官ヴァルテンベルク大将は更迭されている。彼ら二人は昇進することなく異動になったのだ、帝国軍上層部の二人に対する怒りは大きかったと言って良いだろう。

ブラウンシュバイク公はこの弊害を無くそうと考えている。イゼルローン方面軍はイゼルローン要塞及びイゼルローン駐留艦隊を統括する。それによって両者を統一的に運用しようと言うのが公の考えだ。既にイゼルローン方面軍の事は軍務尚書、統帥本部総長には相談済みらしい。今回ブラウンシュバイク公に人事案が一任されたのもイゼルローン方面軍の案も含めて検討しろという含みが有っての事だ。

「小官は要塞司令官にグライフス大将、駐留艦隊司令官にミューゼル大将を置くべきだと思います。そしてグライフス大将にイゼルローン方面軍司令官を兼任させる。メルカッツ大将には宇宙艦隊に入っていただき副将的な立場で公を補佐してもらえればと思うのですが……」
シュトライト少将の意見に公は首を横に振った。

「それは止めた方が良いでしょう。ミューゼル大将は他人に頭を下げるのが嫌いな人ですからね。返って統一的な指揮運用が難しくなるかもしれません。幕僚達がそれを利用する危険性も有ります。あそこは司令官よりも幕僚達の反発の方が酷いらしいですから……」

公が顔を顰めている。シュトライト少将と顔を見合わせた。少将も顔を顰めている、多分私も同様だろう。確かにブラウンシュバイク公の言うとおり、あそこの幕僚達の反発は並大抵のものではない。前回の遠征でも呆れる事が何度となく有った。

「なるほど、そうかもしれません。それにミューゼル大将はグリューネワルト伯爵夫人の弟です。大将閣下がそれを悪用することは無いと思いますが周囲がそれを意識する事は有るでしょう。確かに下に付けるには不向きかもしれませんな」
私の言葉にシュトライト少将も頷いた。少将はウンザリした様な表情をしている。

厄介な御仁だ、本来なら一番下に就くべき人間なのだが種々の要因がそれを難しくさせている。
「公はどうお考えなのです。もしやミューゼル大将をイゼルローン方面軍司令官にとお考えですか」

問い掛けながら有り得ない話ではない、と思った。公とミューゼル大将は極めて親しいのだ。ミューゼル大将の下に居るケスラー少将、ロイエンタール少将、ミッターマイヤー少将はいずれも公が配属を手配したものだ。そしてミュラー少将は公と士官学校で同期生だった。公とミューゼル大将の繋がりは極めて強い。

なるほど、グリューネワルト伯爵夫人だけではないな。ミューゼル大将の周囲に居る人間はブラウンシュバイク公の事も考えるかもしれない。ますます誰かの下に付けるのは向いていないか……。そんな事を考えていると公が私の問いかけに答えた。

「それは拙いでしょうね。能力は問題無いと思いますが気質がちょっと……」
そう言うと公が苦笑を漏らした。
「気質、ですか」
「ええ気質が防衛戦に向かない……」

困ったような公の口調だった。はて、どういう意味だろう、……まさかとは思うが公はあの事を危惧しているのだろうか。シュトライト少将の顔を見たが少将も困惑している。

「覇気が強すぎるのですよ、戦意が有りすぎる。……ミューゼル大将の用兵家としての力量は帝国随一、まず負ける事など無いでしょうが覇気の強さを利用されると危ない」
「……」
公はもう笑ってはいない。むしろ沈鬱な表情をしている。

「イゼルローン方面軍の任務は基本的に要塞を中心にした防衛戦になります、防衛戦の指揮官は戦意が低いくらいでちょうど良いんです。まあ低すぎても困りますが有り余っているのよりは良い。ミューゼル大将には向いているとは言えません」

なるほど、そういう意味か……。言われてみれば思い当たるフシは有る。となるとあの件は如何なのだろう。この際だ、訊いてしまうか。
「公、或いはイゼルローン要塞をミューゼル大将に預けること自体が危険だと公は考えていませんか?」

かつて公を敵視していた貴族達も公を野心家とは評さなかった。しかし宮中ではミューゼル大将の目を危険な野心家の目と評し危うんでいる人間も居る。いつか反逆するのではないかとみている人間も居るのだ。公はその辺りをどう考えているのか……。

ブラウンシュバイク公はじっと私を見詰めた。部屋の中の空気が強張る。シュトライト少将も顔を強張らせた。拙い質問をしたか……、しかし一度は訊かなければならない事だろう。それによってミューゼル大将への対応も考える必要が有る。

クスッと公が笑い声を上げた。それと共に部屋の空気が緩みシュトライト少将もホッとしたような表情を浮かべた。
「メックリンガー中将の心配は分かりますがミューゼル大将はグリューネワルト伯爵夫人の身を危険に曝す様な事はしないでしょう。安心して良いと思いますよ」

なるほど、伯爵夫人か。となると公がベーネミュンデ侯爵夫人の一件でグリューネワルト伯爵夫人を守る立場に立ったのもそれが理由の一因として有るのかもしれない。ある意味、伯爵夫人は人質か……。

「それにミューゼル大将がイゼルローン要塞に籠って反逆するならそれほど恐れる必要は有りません」
「と言いますと」
不思議な事を言う。要塞は難攻不落、帝国にとっては一大事のはずだが。

「イゼルローン要塞は動きません。そして要塞には艦隊の支援が必要です。つまり反逆した人間は要塞付近から動けない、反乱の規模はイゼルローン回廊内に限定されることになります」
「……」
なるほど、反乱は拡大しない、規模は小さいというわけか。帝国の大勢に影響はしないというわけだな。そういう見方が有るか……。

「しかしイゼルローン要塞は難攻不落です。反乱は長期にわたる可能性が有るでしょう。となれば極めて厄介だと思うのですが……」
シュトライト少将が問いかけた。困惑した表情をしている。イゼルローン要塞を過小評価しているのではないか、そう思っているのだろう。実は私もそう思っている。

「難攻では有りますが不落では有りません。イゼルローン要塞を攻略することはそれほど難しい事では有りません」
まじまじと公を見た。落ち着いた表情をしている。冗談を言っているのだろうか、それとも真面目な話なのだろうか……。シュトライト少将に視線を向けたが少将は呆然としている、判断がつかないのだろう。

「ミューゼル大将もその辺りは理解しているでしょう。ハードウェアに頼っての反乱など考えているとは思えません。あまり心配はいらないでしょうね」
「はあ」
我々の反応が可笑しかったのだろうか、ブラウンシュバイク公が声を上げて笑い声を立てた。

「実を言うとイゼルローン方面軍の構想を軍務尚書、統帥本部総長に話した時、最初は反対されました」
公が私を見ている。悪戯をしているような表情だ。私の反応を楽しんでいるのだろう。結構人の悪いところが有る。

「これまでイゼルローン要塞の指揮系統の統一は何度か討議されたそうですが全て却下されてきました。表向きの理由は指揮権が分かれていても支障が無いという事でしたが、裏では司令官職が一つ減るのは困るという理由のためだと言われてきました」

「小官もそのように聞いていますが」
私の隣でシュトライト少将も頷いている。それを見て公が可笑しそうに言葉を続けた。
「本当は反乱を起こされると困るからですよ。しかし反乱が怖いから指揮系統の統一は出来ないとは言えませんからね……」

「それで指揮権が分かれていても支障が無い、司令官職が一つ減るのは困るなどと言う理由で却下していたのですか」
「そうです」
思わず溜息を吐いた。そしてそんな私を見て公がまた笑い声を上げた。

つまり今回組織改革が行われ指揮系統が統一されるという事は反乱を恐れる必要が無くなったという事か。反乱を起こされても鎮圧できる、イゼルローン要塞を攻略できると軍務尚書、統帥本部総長も認めたということだ。“イゼルローン要塞を攻略することはそれほど難しい事では有りません”、その言葉は嘘ではない。

「イゼルローン要塞にはグライフス大将とメルカッツ大将に行ってもらいましょう。グライフス大将には方面軍司令官も兼任してもらいます」
「ではミューゼル大将は宇宙艦隊に」

私の言葉に公が頷いた。確かに公の下の方が安心かもしれない、他の人間では変な遠慮をしかねない。しかし、宇宙艦隊はなんとも若い人間ばかりになったものだ。私でさえ年長者に入るだろう。

「では残りの艦隊司令官を決めましょう。これ以上の遅延は許されません」
「はっ」
公の言うとおりだ、これ以上の遅延は許されない。しかし何とも頭の痛い事だ、一体誰を選べば良いのやら……。


 

 

第二十六話 待ち受ける者

帝国暦487年  4月 25日  オーディン  軍務省尚書室   ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ



昨日、軍務省尚書室に四月二十五日朝十時に来るようにと通達が有った。一週間程前から新しい人事の噂は聞いている。私の名が新たな人事に上がっている事もだ。おそらくはそれについての説明だろうという事は簡単に想像できた。定刻の五分前に尚書室に行くと少し待って欲しいと別室に通されたがそこには既に先客がいた。

「メルカッツ大将、卿も呼ばれたのか」
「うむ、此処に十時に来るようにと言われた。どうやら卿も同様のようだな、グライフス大将」
「うむ、同じようだ」

やはり居たか……、彼の名も噂に出ている、此処に居る事は想像のつかない事ではなかった。彼の隣に座り話をした、知らない仲ではないが格別親しいわけでもない。多少お互いの近況を話した後は今回の人事についての話をするしかなかった。

「イゼルローン方面軍か」
私が話を振るとグライフスは考え込むような表情で頷いた。
「イゼルローン要塞防衛の指揮を一元化するか……、これまで何度か検討されたが実現する事は無かった、それが実現するとは……」

「俄かには信じられない、そんなところかな」
「そんなところだな」
そう言うとグライフスはクスッと笑った。こちらもそれに釣られた、同じように笑う。

「ブラウンシュバイク公が熱心に進めたと聞いているが、卿、以前公とは一緒になった事が有ったと思うが」
「四百八十三年の暮れから八十四年の頭だ、第三百五十九遊撃部隊だった」
「アルレスハイム星域の会戦だな」
「うむ」

あれから三年か……。有能だがちょっと変わった所のある若者だと思った。その若者が今ではブラウンシュバイク公、元帥、宇宙艦隊司令長官になっている。この三年は私にとっては代わり映えのしない三年だった。だが彼の事を考えるとあっという間の三年だったと思える……。

「考えてみればとんでもない部下を持っていたのだな、卿は」
「言われてみれば確かに」
笑いながらグライフスが話しかけてくる。確かにとんでもない部下だった。私も声を合わせて笑った。

意外に気持ちの良い男だ。イゼルローンでは上手くやっていけるかもしれない。笑い合っていると軍務尚書の副官が私達二人を呼びに来た。副官は笑っている私達を見て僅かに眉を上げた。呆れていたのかもしれない、確かに此処で笑っている人間は珍しいだろう。時間は十時五分、私達は十分ほどここで話をしていたようだ。

副官に付いていくと私達を待っていたのはエーレンベルク軍務尚書だけではなかった。シュタインホフ統帥本部総長、ブラウンシュバイク宇宙艦隊司令長官、つまり帝国軍三長官が私達を待っていた。嫌でも身が引き締まった。

「セバスチャン・フォン・グライフス大将です。出頭致しました」
「ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ大将であります。同じく出頭致しました」
私達の言葉に軍務尚書が頷いた。

「うむ、ご苦労である。此度来て貰ったのは他でもない。今回イゼルローン方面の防衛体制に変更が入った。新たにイゼルローン方面軍を編成しイゼルローン要塞、駐留艦隊を一元的に指揮する事となった」
「はっ」
噂通りだ。となると方面軍司令官にグライフス、副司令官に私か。

「イゼルローン方面軍司令官にグライフス大将、副司令官にメルカッツ大将。グライフス大将は要塞司令官を、メルカッツ大将は駐留艦隊司令官を兼任してもらう」
「はっ」

確かに上手い手だ。これまで一元化について受け入れられなかったのは司令官職が一つ減るからだった。しかし上に統括する職を設けるなら司令官職が減ることは無い……。その上で兼任させることで要塞司令官と艦隊司令官の序列を付けるわけか……。

「方面軍司令部には参謀長の他、作戦、情報、後方支援担当の参謀をそれぞれ二名送る」
意外な言葉だ、思わずグライフスと顔を見合わせた。彼も驚いたような表情をしている。方面軍参謀は要塞司令部、駐留艦隊司令部が務めるのではないのか……。

私達の驚きが分かったのだろう、シュタインホフ統帥本部総長が低く笑い声を上げた。
「驚いているようだな。だが方面軍司令部を要塞司令部、駐留艦隊司令部が兼任するのでは彼らの不和が方面軍司令部に持ち込まれるだけだ、それでは指揮の一元化の意味がない」

「要塞司令部と駐留艦隊司令部はこれまで通り、同格の司令部として存在する。イゼルローン方面における防衛方針は方面軍司令部が決定し、要塞司令部と駐留艦隊司令部はその実行組織という事だ。それなら要塞司令部と駐留艦隊司令部の不和がイゼルローン要塞防衛に影響を与える事はかなり軽減できるだろう」

「……それはそうですが」
グライフスが困惑した声を出した、視線は私に向けている。グライフスの気持は分かる、実際に指揮を執る我々の立場は極めて微妙だ。むしろイゼルローン方面軍司令部は司令官、副司令官も別に選ぶべきではないのか……。

「卿らの不安は分かる。卿らは司令官職を兼任する事になる。何かと遣り辛い所はあろう。しかし卿らの後ろには我らが居る事を忘れないで欲しい。我らは何時でも卿らの力になるつもりだ」
我々の不安を拭うかのように軍務尚書が言葉を出した。叱咤するでもなく励ますでもない、訴えるかのような口調だ。

ここまで言われては抵抗は出来ない、そう思っているとグライフスが私に視線を向けた。眼がどうするかと問いかけている、或いは大丈夫かだろうか、無言で頷いた。グライフスも頷く、そして口を開いた。

「我ら両名、必ずや御期待に応えて見せます。決して反乱軍に好きにはさせません」
グライフスの答えに軍務尚書と統帥本部総長が満足げに頷いた。上手く乗せられたかと思ったが止むを得ない事だと思い直した。

「正式な辞令は五月一日に発令される。今日、此処で伝えるのは内示と受け取って貰いたい」
「承知致しました」
軍務尚書がブラウンシュバイク公を見た。公が頷いて話し始めた。

「帝国は今、非常に危うい状況にある。私達はそう考えています」
沈痛と言って良い口調だ。表情も決して明るくは無い、以前はもっと穏やかな表情をしていた。だがそれ以上に話しの内容に驚いた。危うい状況? 一体どういう事なのか……。

「前回の戦いでフェザーンは反乱軍の情報を帝国に通知しませんでした。明らかに故意と思われます。フェザーンは帝国と反乱軍の勢力関係が帝国側に大きく傾きつつあると考えているようです。そしてそれを好ましくないと考えている」
グライフスを見た。難しい顔をしている、彼も同意見という事だろう。

「劣勢にある反乱軍と帝国、同盟の勢力均衡を望むフェザーンが協力して帝国に対抗する、ブラウンシュバイク公はそうお考えでしょうか」
「メルカッツ提督、私だけではありません。軍務尚書も統帥本部総長もそう考えています。それ故の組織改正なのです」
軍務尚書、統帥本部総長が厳しい表情で頷いている。

「オーディン、イゼルローン要塞間は約四十日程かかります。フェザーンが反乱軍の軍事行動を帝国に知らせなければイゼルローン要塞は単独で四十日を切り抜けなければなりません。これまでのように仲間割れをしているような余裕は無いんです」

「ブラウンシュバイク公の言うとおりだ。これまでとは状況が変わった。フェザーンが信用できない以上油断は出来ん。あの要塞が落ちればとんでもない事になる」
公、そしてシュタインホフ統帥本部総長が危険性を訴えた。確かに、思っていた以上に状況は厳しい。

「卿らの力になると言ったのは嘘ではない。要塞司令部、駐留艦隊司令部の中で協力する事に不服を示す人間が居ればこちらに言って欲しい。直ぐに更迭する。最前線で仲間割れを起こす様な馬鹿は帝国軍には不要だ」
エーレンベルク軍務尚書の不機嫌そうな言葉にグライフスと顔を見合わせた。どうやら我々はこれまでのどの司令官達よりも厳しい状況に置かれる事になるらしい……。



帝国暦487年  4月 25日  オーディン  宇宙艦隊司令部   ヘルマン・フォン・リューネブルク



昼食を取り自室に戻るとオフレッサーから連絡が入った。相変わらずの悪人顔で食べた物の消化が悪くなりそうだ。俺を睨みながら唸るような口調で今すぐ宇宙艦隊司令部に行けと言う。ブラウンシュバイク公が俺に話が有るとの事だった。

司令部に行くと直ぐに司令長官室に通された。ブラウンシュバイク公が笑みを浮かべて俺を迎える。このあたりはヴァレンシュタインといった頃から少しも変わらない、嬉しい男だ。どうやらあまり他人には聞かれたくない話らしい、応接室へと誘われた。

公が白のマントを気にしながら席に着く。サッシュは淡いブルーだ。以前着けていたピンクのサッシュは皇帝にカワイイと言われてから止めたらしい。まあブルーも色が淡いから全体的に柔らかい雰囲気になっている。元々外見では鋭さなど感じさせない男だ、似合っているだろう。

「さて、小官を此処へ呼んだわけは? しかも至急と窺いましたが」
俺の問いかけに公は一つ頷いた。
「イゼルローン要塞に行って欲しいのですよ。装甲擲弾兵第二十一師団と共に」
「イゼルローン要塞……」
また公が頷いた。

ドアをノックする音と“失礼します”という声が聞こえヴァレリーが部屋の中に入ってきた。飲み物を持ってきた様だ。公にココアを俺にはコーヒーを置くと部屋を出て行った。俺も公もその間は無言だ。……イゼルローン要塞か……、どういう事なのか……。

コーヒーを一口飲む。美味いな、良い豆を使っているらしい。残念なのは香りだ、公がココアを飲んでいる所為でコーヒーの香りが今ひとつよく分からない、惜しい事だ。公は美味しそうにココアを飲んでいる。帝国屈指の実力者には見えんな……。さて、コーヒーを楽しんでいても仕方ない、話を続けるか……。

「行くのは構いませんが何をお考えなのか、教えて欲しいですな」
イゼルローン要塞への配備。悪い話では無い。妙な戦場に送って磨り潰そうというわけではないのだ。能力、信用、そのどちらかが欠けてもイゼルローン要塞配備は有りえない。

しかし公は俺がローゼンリッターと不必要に関わり合うのを怖れても居た。最前線ともなれば出会う可能性は大きい。公は冷徹ではあっても冷酷では無い。行けと言うからには何らかの狙いが有るはずだ。単純に要塞を守れという事ではないだろう。一体俺に何を期待するのか……。

「今度、イゼルローン方面軍が新しく編成されます」
「そのようですな。噂ではありますが聞いております」
「方面軍司令官にグライフス大将、副司令官にはメルカッツ大将が就きます。そしてグライフス大将は要塞司令官を、メルカッツ大将は駐留艦隊司令官を兼任する……」

なるほど、グライフス大将はどちらかと言えば参謀としての職務が長いと聞いている。一方のメルカッツ大将は実戦指揮官としては名のある人物だ。そして二人とも我の強い人物とは聞いていない。この二人なら協力できるだろうと見ているわけか。

「しかし困った事は方面軍司令部の下にイゼルローン要塞司令部、駐留艦隊司令部が来るわけですが、この両者、仲が非常に悪い」
公が苦笑している、俺も釣られて苦笑した。最前線に同格の司令部が二つ存在する。どちらが主導権を握るか、功績を立てるか、争いにならない方がおかしい。二つの司令部の仲の悪さは今では伝統であり伝説の様なものだ。

「場合によっては方面軍司令部の命令を軽視、或いは無視しようとする危険性も有りますな」
「そうですね。グライフス、メルカッツ両大将を無視しかねない。それを防いで欲しいのです」
「……」
先程までの苦笑はもう無い、公は厳しい表情をしている。

「装甲擲弾兵第二十一師団は方面軍司令部の直属部隊となります。要塞司令部、駐留艦隊司令部の参謀達、或いはその将兵が馬鹿な真似をした時は……」
「我々がその心得違いを窘めるという事ですか」
「ええ、手厳しく、二度と心得違いをしないように」
「なるほど」

要するに番犬役、あるいは用心棒役か……、いや監視役でもあるな。独自の軍事力を持たない方面軍司令部にとって装甲擲弾兵第二十一師団は唯一の武器という事になる。常に両司令部に圧力をかけ“協力を忘れるな”、と警告を発し続けるという事か……。コーヒーを一口飲んだ。釣られた様に公もココアに口をつける。

「それだけ、ですかな」
「……分かりますか」
「甘く見てもらっては困りますな」
半ば自分の読みが当たった事を喜びつつ出来るだけ平静な口調で言った。苦笑を浮かべる公に何となく満足感を覚える。そうだろう、そうでなくてはおかしい。それだけなら俺でなくとも良い筈だ、敢えて俺を此処に呼びつけるまでも無い……。

「自由惑星同盟軍は追い詰められています」
「そうですな」
確かに同盟軍は追い詰められている。ここ近年敗戦続きだ。特に前回の戦い、倍以上の兵力を用意しながら公の前に敗れた。焦燥に囚われているだろう。

「一気に挽回しようとイゼルローン要塞攻略を考える可能性が有ります」
「……」
「厄介なのはフェザーンが同盟に協力的な事です。同盟の軍事行動を故意に帝国に知らせない可能性が有る」

「なるほど、組織改正はそのためということですな」
公が頷いた。そして口を開く。
「同盟軍が正攻法で攻めてくるなら防げるだけの手は打ちました。協力さえ出来れば多少の兵力差は問題になりません。問題は同盟軍が奇策を使ってきた時でしょう」

「奇策、ですか」
「そう。味方の振りをして要塞を外からではなく内から攻める……」
「……内から……」
「潜入には帝国語が堪能な、そして勇敢な人間が選ばれるでしょうね。そして出来る事なら失われても惜しくない人間が……」

公が俺をじっと見ている。なるほど、そういう事か……。
「装甲擲弾兵第二十一師団をイゼルローン要塞に配備することは辞令には出しません。相手に知られたくない」
「……待ち伏せという事ですな、了解しました。期間はどれほどですか」
「長くても二年……、そう考えています」

二年か……。長くても二年の間に同盟軍がイゼルローン要塞攻略に動く、或いはそう仕向ける、そう言う事だな。シェーンコップ、どうやら貴様と再び会いまみえることになりそうだ……。


 

 

第二十七話 本分を尽くす



帝国暦487年   5月 3日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト



どうも居辛い、場違いな感じがする。周囲は着飾った貴婦人と貴族、軍人で溢れている。華やかさが息苦しい。そして彼らが時折俺を見るのが分かった。好意的な視線では無い、何故そんな視線で見られるかは分かっている。正直煩わしかった。

その煩わしさを振り払うかのようにワインを一口飲んだ。この屋敷で提供されるワインなのだ、上物の筈だが苦味しか感じない。一人溜息を吐いていると肩を叩かれた。穏やかな表情の男が俺を見ている。

「どうした、溜息など吐いて」
「ああ、卿か、ルッツ。いや、どうも慣れないところは緊張するな」
「ほう、卿が緊張とはな。珍しい事も有るものだ」
「からかうな、ルッツ」
俺が睨むとコルネリアス・ルッツは声を上げて笑った。

「皆が卿を待っているぞ」
「そうか」
「来いよ、こんなところに居ても詰らないだけだ」
そう言って俺の腕を取らんばかりにして歩きだす。

コルネリアス・ルッツ、士官学校の同期生。外柔内剛、誠実で誰からも信頼された。皆から参謀よりも指揮官に向いた男だと評価された。今では正規艦隊の司令官になっている。場所を得たという事だろう。

人と人の間を通り抜けルッツの後を付いて行くと一固まり軍人の集団が有った。俺達に気付いたのだろう、こちらを見ている。いや正確には俺を見ているのだと分かった。
「ファーレンハイト提督を連れてきたぞ」
ルッツの言葉に皆が名を名乗った。

メックリンガー、クレメンツ、ワーレン、ビッテンフェルト、シュムーデ、ルックナー、リンテレン、ルーディッゲ、アイゼナッハ……。アイゼナッハはニコニコしているだけで自らは名乗らなかった。教えてくれたのはルッツだ。その他にケンプ、レンネンカンプ……。

総参謀長に就任したメックリンガーを除けば今回新たに宇宙艦隊の正規艦隊司令官に任命された男達だ。そして俺も今回、正規艦隊司令官に任命されている。今後はこの男達と仕事をしていく事になる。

「どうも居心地が悪い、そう思っているんじゃないか」
ルッツが俺を見て笑っている。俺はそんなに感情が顔に出るのか……、思わず苦笑した。
「まあそうだ。ブラウンシュバイク公爵邸など初めてだからな。此処よりも新無憂宮の方がまだ慣れている」

俺の言葉に皆が笑い出した。
「確かにそれに関しては同感だ。おそらくブラウンシュバイク公も同じ思いでは無いかな。公はこの手のパーティが苦手だ」
総参謀長のメックリンガー中将だ。益々皆の笑いが大きくなった。クレメンツ提督が“卿は酷い事を言うな”と笑いながら咎めている。

今日、このブラウンシュバイク公邸では公が元帥に昇進し宇宙艦隊司令長官に就任した事を祝うパーティが開かれている。宮中、軍の重鎮が開くパーティだ、当然だが参加者は多い。正規艦隊司令官に新補された我々も出席は当然なのだが……。口に運ぶワインは苦いままだ。

「それにしても、こんな事は初めてだろう?」
俺が問いかけると皆が笑うのを止めて頷いた、互いに顔を見合わせている。今回新たに艦隊司令官に選抜された人間は皆下級貴族、平民だった。これまでこんな事は一度も無かった。周囲が俺達を遠巻きに見ているのもそれが理由だろう。

「戸惑いが有るかな」
太い声で話しかけてきたのはケンプ提督だった。俺が頷くとそのまま話を続けてきた。
「ファーレンハイト提督の気持ちは分かる。俺もレンネンカンプ提督も卿同様いきなり中将に昇進して艦隊司令官に新補されたからな。嬉しさよりも戸惑いの方が大きい、本当にいいのか、とな」

そうなのだ、武勲も挙げていないのに中将に昇進し宇宙艦隊の正規艦隊司令官に新補された。その所為で周囲の視線を必要以上に感じざるを得ない。
「卿らだけではないさ。我々は皆多かれ少なかれ同じような気持ちは持っているよ、本当に良いのか、とね」
「総参謀長はそう言われるが……」

「貴族達の中にはブラウンシュバイク公に正規艦隊司令官にして欲しいと頼んだ者もいたようだ。最近勝ち戦続きだ、戦争とは楽に勝てるものだと思ったらしい。しかし公はそれを受け入れなかった。弾よけになら使えるが指揮官としては使えないと言ってな。もっとも本人達には言わなかったそうだが……」
総参謀長の言葉に皆が苦笑を浮かべた。弾よけとはまた酷い……。

「気になるなら直接公に訊いてみる事だ」
総参謀長が意味ありげに視線を逸らした。総参謀長の視線を追うとブラウンシュバイク公の姿が見えた。笑みを浮かべながらこちらに向かって来る。一人では無い、ミューゼル大将も一緒だ。

「どうですか、楽しんでいますか」
穏やかな口調で公が話しかけてきた。隣に居るミューゼル大将と見比べると全く正反対だ。黒と金、柔と鋭、ミューゼル提督は軍人らしさを醸し出しているが公からはそんなものは全く感じられない。この二人、仲が良いと聞いているが本当かと訊いてみたくなる。

皆が口ぐちに楽しんでいると言うと公はクスッと笑った。
「本当はこんなところよりも ゼーアドラー(海鷲)の方が寛げるのですけどね。そうではありませんか」
視線が飛び交った。皆困った様な表情をしている、実際には公の言う通りだとしても“こんなところ”と言われては返事に困るだろう。公だけがニコニコしている。

「まあ正直に言えばそう言う気分は有ります」
ビッテンフェルト提督が答えると公が笑い声を上げた。何人かが困ったように苦笑している。公とビッテンフェルト、二人とも困ったものだ。答え辛い質問をする上司とその質問に答えてしまう部下、周囲の方が困ってしまう……。

「どうしました、落ち着きませんか。ケンプ提督、レンネンカンプ提督、ファーレンハイト提督」
「……まあ、そうです」
俺が答えるとレンネンカンプ提督が後に続いた。
「我ら三名は武勲を挙げていません。正直選ばれた事に困惑しています」

「卑しい平民と食い詰め貴族が武勲を挙げてもいないのに昇進して艦隊司令官になった、ですか?」
公の言葉に顔が強張った。俺だけではない、皆が顔を強張らせている。その通りだ、心無い誹謗ではあるが否定できない。それを公が口にした。

「私が卿らを選んだ理由は一つ、戦場で安心して一軍を任せられる指揮官だと判断したからです」
「……」
安心して? 安心してとは何だろう? 能力が有るという事か? それとも信頼しているという事か? 謎めいた言葉だ、皆が顔を見合わせた。

「私は平民として生まれ公爵になりました。爵位などと言う物が戦場では何の役にも立たない事は私自身が一番よく知っています。そんなもので勝てる程戦場は甘くない、そうでしょう」
確かにそうだ。戦場では爵位など何の役にも立たない。

「馬鹿な指揮官を用いれば兵に不必要な犠牲を払わせることになります。私は宇宙艦隊司令長官です、戦場で無意味に兵が死んでいくのを間近で見る事になる。私はそんな理不尽には我慢できない。だから卿らを選びました」
公が厳しい目で俺達を見ている。先程までの柔和さなど欠片も感じられない。押し潰されそうな圧迫感を感じた。

「卿らは指揮官としての本分を尽くす事を考えなさい、出来るはずです」
「本分、ですか」
俺が問いかけると公が頷いた。
「そう、勝つことと部下を一人でも多く連れて帰ること」
「……」

「指揮官はそれ以外の事で悩む必要は有りません。兵の命以上に大切なものなど無い……」
そう言うと公は表情を和らげて“今日は好きなだけ楽しんでください”と言い残して傍を離れた。ミューゼル大将が後を追った。

「随分と厳しい事を言われたな」
ケンプ提督が呟くとメックリンガー総参謀長が答えた。
「歯痒かったのだろう」
「歯痒い?」
ケンプ提督の言葉にメックリンガー総参謀長が頷いた。

「公は平民からブラウンシュバイク公爵家の養子になった。帝国最大の貴族の当主になったのだ。風当たりは我々などよりずっと強かったはず、そうではないかな」
「なるほど、確かにそうだな」

皆が頷いている。平民や貧乏貴族が正規艦隊司令官になっただけでこの騒ぎだ。総参謀長の言う通りだろう、公の時はどれほどの騒ぎだったか……。この程度の詰まらぬ事に何を悩んでいるのか、公にしてみれば歯痒かったに違いない。

「我々は選ばれた、どうする?」
「……選ばれた以上、応えねばなるまいな」
総参謀長とケンプ提督が話している。話している二人を皆が見ていた。

「では我々が為すべき事は?」
「……迷わずに指揮官としての本分を尽くす事、だろう」
「迷わずにか……、ならば我々は前へ進まなければならない」
メックリンガー総参謀長が皆を見渡した。反対する人間はいなかった。



帝国暦487年   5月 3日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「随分と厳しい事を言われましたが、宜しかったのですか」
ラインハルトが気遣わしげに声をかけてきた。周囲の人間がこちらに目礼を送ってくる。それに応えながらラインハルトに答えた。
「私は非難が出るのを承知の上で彼らを選んだんです。彼らにも覚悟を持ってもらわなければ……」

ラインハルトが頷いた。
「意味が有りませんか」
「ええ」
「……厳しいですね、公は。昔、ヴァンフリートで怒られた事を思いだしました」

ヴァンフリートか……、個人の武勲を優先するなと言った事が有ったな。懐かしい話だ。俺が“そういうことも有りましたね”と言うとラインハルトが頷いた。二人で軽く笑った。周囲が俺達の方を見た。一々煩わしい事だ。

「フェザーンが信用できない以上、反乱軍の兵力の確定は難しい。となると索敵行動を多くする必要が発生します。遭遇戦が起きる可能性が高くなる……」
「そうですね、艦隊司令官の判断力が問われることになる。公の仰られた事は間違っていないと思います」
「ミューゼル提督にそう言って貰えると気が楽になりますよ」
ラインハルトが軽く笑みを浮かべている。妙な感じだ、ラインハルトに励まされるとは。

「ロイエンタール達の事、宜しかったのですか?」
「ええ、彼らの言う事はもっともですよ。ミューゼル提督には助けてもらったのですから。一度は恩返しをしないと」
「……分かりました、その時が楽しみです」
ラインハルトが笑みを浮かべて頷いた。

「手放したくなくなるかもしれませんね。何と言っても彼らは出来ます、そうでは有りませんか」
「そうですね」
ラインハルトが笑う、俺も声を合わせて笑った。

ロイエンタール、ミッターマイヤー、ミュラーの三人も艦隊司令官にと思った。しかし、三人が断ってきた。ロイエンタールとミッターマイヤーは一度もラインハルトと共に戦わないまま離れるのは納得がいかないと言ってきた。コルプト大尉の件ではラインハルトに助けてもらっている。またコルプト子爵の件でもアンネローゼに迷惑が掛かりそうになった。その借りは戦場で返したい、そう言ってきた。

すっきりさせた方が良いだろう。ミッターマイヤーのような男には心に引っかかりを残させないほうが良いからな。ミュラーも自分だけ昇進して異動するわけにはいかないと言ってきた。そうだよな、お前はそういう奴だ。だがおかげでトップクラスの三人がラインハルトの下のままだ。

まあ焦る必要は無い。軍は少しずつだが望むような形になってきている。これからは内政だな、国内を安定させる……。まずは貴族の横暴を押さえ平民の不満を解消する。そして財政状態を改善させ長期出兵に耐えられるだけの体力を作る。改革派と話をする必要が有るな。そろそろブラッケとリヒターを呼ぶか……。



宇宙暦796年  5月 5日  ハイネセン  統合作戦本部   ヤン・ウェンリー



統合作戦本部の本部長室に入ると本部長の他にキャゼルヌ先輩が居た。二人は既にソファーに向かい合って座っている。
「ご苦労だな、ヤン准将。キャゼルヌの隣に座ってくれ」
「はい」
話の内容は想像がついている。気の重い時間になりそうだと思いながらキャゼルヌ先輩の隣に座った。

「帝国軍の防衛体制に変更が入った、聞いているかね」
「五月一日付の辞令については宇宙艦隊司令部にも回ってきました」
シトレ本部長の問いに答えるとキャゼルヌ先輩が私にA四用紙のレポートを差し出した。レポートを受け取り目を通す。予想通り新体制の内容だ。私が見たものよりは多少詳しい。フェザーン経由で新たに情報が入ったか、或いは情報部が調べたか……。溜息が出そうになって慌てて堪えた。

「イゼルローン方面軍か、どう思うかね」
「あまり良くは有りませんね」
「良くないか」
「はい」
私が答えるとシトレ本部長が溜息を吐いて頷いた。

「イゼルローンは要塞司令官と駐留艦隊司令官の仲が悪い事で有名だった。帝国でも何度か指揮系統を一元化しようという話が有ったらしいが……」
「実現化した、そう言う事ですか」
「そう言う事だな」
本部長とキャゼルヌ先輩が話している。

「ヤン、実際問題としてどの程度影響が有ると思うんだ」
「そうですね。これまでは要塞と艦隊がそれぞれに同盟軍と戦うと言った要素が強かったと思います。協力は最小限のものだったでしょう、我々が付け込む隙もそこに有ったと思います。ですが今回の改編により指揮系統が統一されました。イゼルローン要塞と駐留艦隊の連携は以前に比べればかなり良くなるはずです。今後、大軍を率いて要塞を攻略するというのは不可能に近いかもしれません」

「それじゃあイゼルローン要塞は攻略不可能、そう言う事か……」
呟く様な口調だった。
「仮に帝国に気付かれずに要塞を囲む事に成功したとします。こちらの兵力は三個艦隊、約五万隻。しかし四十日後には帝国軍には援軍が到着します。我々は四十日以内に協力し合う艦隊を排除し要塞を落とさなければならない……」

「現実には帝国軍の増援はもっと早く来るだろう。不可能に近いな……、イゼルローン要塞は真実、難攻不落になった……。ヤン准将、宇宙艦隊司令部ではどう見ているかね」
「宇宙艦隊司令部でも攻略は難しいだろうと見ています。短期間で攻略するには大軍を用い力攻めで要塞を落すしかない、成功すれば良いですが失敗すれば……」

「徒に損害を被るだけか……」
キャゼルヌ先輩の言う通りだ。そして現状では同盟軍にそのような損害を受け入れる余裕は無い。敗戦続きで軍の回復が間に合わなくなりつつあるのだ。徐々に徐々にだが戦える艦隊が少なくなりつつある。艦隊に於いて数は満たしても新兵や実戦不足の兵の占める割合が増えつつある……。

「頭の痛い事だな」
シトレ元帥が苦い表情で呟く。無理もないと思う。ここ近年、同盟軍は帝国軍の前に敗退を重ねている。その事で政府、市民の軍に対する非難は募る一方だ。前回の戦い、同盟はブラウンシュバイク公に対して倍以上の兵力を用意した。公を恐れたと言う事よりも勝たなければならない戦いだったからだ。これ以上の敗北は軍への信頼の失墜につながる……、しかし軍は敗れた……。

それ以後、政府内部ではイゼルローン要塞攻略を軍に打診する声が上がった。声高にではない、密かにだ。軍上層部でもそれを検討し始めた。イゼルローン要塞を落せば帝国軍の攻勢を押さえられる。軍の再編にも余裕をもって取り掛かれる。今なら可能性が有るのではないか……。

しかし今回の組織改正によってその可能性も限りなく小さくなった。
「今回の組織改正、推し進めたのはブラウンシュバイク公だと聞きましたが」
「そのようだな、フェザーンからの報告書ではそう書いてある。手強い相手だ、こちらの打とうとする手を未然に潰してくる……」

シトレ元帥の言うとおりだ。手強いし厄介だと言える。前任者のミュッケンベルガー元帥は威圧感を感じさせる指揮官だった。だがブラウンシュバイク公からは息苦しさを感じる。喉を少しずつ絞め身動きを出来なくさせるような怖さが有る。

イゼルローン要塞攻略か……。可能ならばベストの選択だろう。しかし大軍を動かしても攻略が成功する可能性は低い、となれば……。
「ヤン、どうした」
気が付けばキャゼルヌ先輩とシトレ元帥が私を見ていた。

……話してみようか? 試してみたい作戦は有る……。
「いえ、何でもありません」
先ずは宇宙艦隊司令部で相談してみるべきだろう、クブルスリー司令長官は話の分からない人じゃない。それに宇宙艦隊司令部の中でもブラウンシュバイク公の手強さは皆が身に染みて理解している。先ずはそちらで検討してからだ。シトレ元帥に話せばそれが決定事項になりかねない。司令長官を飛び越して作戦本部長に直訴した形になる、それは避けるべきだ。先ずは宇宙艦隊司令部で相談してみよう……。


 

 

第二十八話 改革へ向けて



帝国暦487年  6月 8日  オーディン  リヒテンラーデ侯爵邸   エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



リヒテンラーデ侯の邸を訪ねると応接室に通された。それほど待つことも無くリヒテンラーデ侯が姿を現す。今日は休みのはずだがいつも宮中で見るようにきっちりとした格好をしている、このまま宮中に行けそうだ。いや国務尚書で有る以上休日に呼び出されることは結構多いのかもしれない、だから家でもラフな服装はしないという事か。偉くなるのも考え物ではあるな。

「御休みの所、申し訳ありません」
「いや、構わん。宮中では話せぬ内容だ」
侍女が飲み物を持ってきた。紅茶が二つ、前に宮中でも紅茶を御馳走になったな。この老人、紅茶が好きなのか……。

「国務尚書閣下は如何思われますか?」
俺の問いけにリヒテンラーデ侯が顔を顰めた。
「何とかしたいとは思っている。帝国の国情は必ずしも安定していない。何らかの改革は必要と思っているが……」
リヒテンラーデ侯が語尾を濁した。

先日、リヒテンラーデ侯に国内の改革について相談したいと話した。厳しい表情をしたが聞きたくないとは言わなかった。この老人、必ずしも貴族達の我儘に納得はしていない。むしろ何らかの枷が必要だと考えている。ただどんな枷をかければ良いかが難しい、そう考えているのだろう。老人が何より恐れているのは混乱だ。

「改革の必要性は認めるが改革によって国内が混乱するのは困る、そう言う事ですね」
「そうだ。平民達の間ではかなり不満が募っているようだ。それをなんとか解消したい、いやしなければなるまい。しかしそれにより国内に混乱が生じるのは困る、難しいな」
「なるほど」

いささか虫の良い話ではある。しかし国政の責任者としては国内の混乱は避けたいと思うのは当然だろう。戦争で有利な状況にある以上、それを無にするような混乱は困る、そうも思っているはずだ。俺自身、リヒターやブラッケと話すときにはそれを考えざるを得なかった……。

「極端な話をすれば貴族など半分は滅びても良いと思う時も有る、ああも身勝手な連中などな」
「私もそう思います。戦場に連れて行って弾除け代わりに使ってやろうかと思うくらいです」
俺の言葉にリヒテンラーデ侯は一瞬キョトンとしたが直ぐに笑い出した。そして“酷い男だな”と俺を評した。

帝国の国内治安情勢はかなり酷い。経済、財政が滅茶苦茶なのだ。帝国と同盟の人口だが帝国は二百五十億、同盟は百三十億という数字になる。にもかかわらず、帝国と同盟の国力比はある経済学者によると四十八対四十だ。人口が倍近いにもかかわらず国力比はほぼ同じ。いかに帝国が非効率的な国家運営を行っているかが分かる。

この状況で良く同盟相手に百五十年も戦争をやっているものだ。現状では帝国が有利に戦争を進めている。だから戦争そのものに対して平民達からは大きな不満は出ていない。しかしこの状況で同盟相手に負けが続けば革命騒ぎになるだろう。俺など一番最初に血祭だ。平民でありながら帝国最大の権門に婿入りだからな。平民達から見れば裏切り者第一号と言って良い。生き残るためにも改革は避けられない。

「ところで軍の方は如何なのかな」
「現在、宇宙艦隊は編成と訓練を行っています。艦隊が外征が可能になるまでにはあと二ヶ月はかかるでしょう。それまではミューゼル大将の艦隊が頼みです」
「ふむ、あと二ヶ月か……」

リヒテンラーデ侯は考え深そうな顔をしている。話を逸らしたのではあるまい。軍の司令官達は平民、下級貴族出身だ。当然だが改革に賛成するだろう。二ヶ月後には貴族達が騒いでもいざとなれば力で押さえつけられる、そう考えたはずだ。

「平民達の不満を取り除くとなればやはり税と裁判を何とかする必要が有ると思います。開発と発展はその次の段階でしょう」
「そうじゃの、しかし税と裁判、どちらも貴族達は嫌がるだろう」
老人が顔を顰めた。

「先ずは税です。貴族から税を取るとは言いません。しかし税を取るなとは言えませんか」
「税を取るな?」
リヒテンラーデ侯が妙な表情をした。言っている事が分からないか。

「はい、上限を設けてはと言っています」
「うーむ」
「間接税による収入も増えると思うのですが」
「……なるほど、そういう事か」

貴族達は領地を持ちその中で徴税権、司法権も持っている。言ってみれば帝国内に地方王国が有る様なものだ。貴族に与えられた徴税権は直接税だけだが税率は特に決められていない、そのため酷いところでは七十パーセントを越える直接税を取り立てているところも有る。

七十パーセントとってもそれを領内の発展のために使ってくれるのなら良い。病院を作った、宇宙港を新たに作って交易を盛んにしたとか言うならだ。だが現実には彼ら貴族の遊興と私設艦隊の維持費に消えてしまう。帝国の発展のためには何の役にも立っていない。連中を弾除けに使いたくなるのは俺だけではあるまい。

帝国政府は直轄領からの直接税、及び帝国全土からの間接税を徴収している。しかしだ、七十パーセントも税を取られたら物を買うような余裕が有るだろうか? とてもじゃないがそんな余裕は無い、消費は冷え込む一方だ。広く浅くが間接税の趣旨だが到底その趣旨が生きているとは思えない。結局頼るところは酒、たばこ、塩などを政府の専売として不足分を補っている。

酷いもんだ。貴族が領民のために金を使わない以上領民の暮らしは向上しない。農業、工業において生産性は落ちる一方だ。宇宙時代にも関わらず農業は中世と全く変わらないなんて馬鹿げた光景が発生する。そして帝国政府は戦争のため直轄領の発展など後回しにせざるを得ない。結局、帝国全土で生産性は低下している。同盟の人口が帝国の約半分にも拘わらず国力比で同等という状況がここから発生する。悪夢としか言いようがない。

貴族に対して直接税の上限を設ければ領民達にも消費をするだけの余力も生まれる。そうなれば間接税による税の徴収も増えるだろう。そして直轄領に対する直接税の率も下げる事が可能だ。税が軽減されればそれだけでも政府に対する不満は減ると思うのだが……。

「ブラウンシュバイク公、大公には話したのかな、リッテンハイム侯には」
「話しました。大筋で合意しておられます」
リヒテンラーデ侯が頷いた。大公もリッテンハイム侯も最初は首を傾げた。しかし現実問題として何らかの改革が必要だとは理解している。最終的には俺の考えに反対はしなかった。

「財務尚書に話してみるか……」
「カストロプ公ですか」
「うむ」
「賛成するでしょうか」
オイゲン・フォン・カストロプ公爵、悪名高い財務尚書だ。俺の両親を殺した男でもある。宮中でも碌に挨拶などしたことは無い、俺の方から避けている。もっともあの男と親しくしている人間など見たことが無いが……。

「しないだろうな。上限を設けるなど貴族達の反発を買うのは必至、するわけがない」
「……」
ジジイ、何を考えている。薄笑いして碌でもない事を考えているだろう。寒気がする。

「そろそろ時が来たようじゃ」
「……」
「カストロプ公を始末し平民達の不満を抑える。そして改革に反対すれば容赦はせぬ、そう貴族達に分からせる。力の誇示無くしては改革など上手くはいくまい……」
なるほど、そろそろ年貢の納め時か……。確かに改革には力が要る、そういう意味では時が来たのは間違いない。それにしても碌でもない事を考えつくものだ。

「となると、カストロプ公に話すのはもう少し後ですか」
「そうなるの、あと二ヶ月か」
「はい」
「待ち遠しいの、あの男の顔を見るのもいささか飽きたわ」
そう言うとリヒテンラーデ侯が声を上げて笑い出した……。



宇宙暦796  6月 10日  ハイネセン  統合作戦本部   ヤン・ウェンリー



「どうかね、作戦の準備は」
「順調、そう言って良いと思います」
「クブルスリー司令長官からもそう聞いている。問題は無い、そう思って良いのだね」
満足そうにシトレ元帥が頷いている。両肘を机につき手を組んでその上に顎を乗せる、お気に入りのポーズだ。

元帥が席を立った、そして私の方に歩いて来る。そして私と向かい合う形でソファーに座った。
「ハイネセンを出るのは十五日だったな」
「はい」
「イゼルローンに着くのは七月の十日前後、十五日には攻略の成否がはっきりするな」
「ええ」

元帥がクスっと笑った。
「不安かね、君が提案した作戦だが」
「正直不安はあります。出来る事ならイゼルローン方面軍が編成される前に実施するべき作戦でした。時機を失したのかもしれない……」
シトレ元帥が頷いた。

「確かに方面軍が編成される前のほうが成功率は高かっただろう。しかし現状でも成功率は決して低くない、私はそう思うが」
「……そうですね、力攻めよりは……」
シトレ元帥が今度は声を上げて笑った。私は笑うことが出来ない、逆に溜息が出た。

「一体何が不安だね」
「そうですね、動員する艦隊が多すぎると思います。第五、第十、第十二の三個艦隊です。この作戦は動員を秘匿した方が、敵の意表を突いた方が成功の確率が高いと思うのですが……」
「そうだな、出来ればフェザーンには知られたくない、帝国に通報されたくない、そういうことだな?」

シトレ元帥の問いかけに頷いた。そう、最初は一個艦隊での作戦のはずだった。少なくとも私はそう想定していた。しかし受け入れられなかった……。イゼルローン要塞に一個艦隊で向かう、その事自体が危険だとして受け入れられなかった。

「駐留艦隊を引き摺り出してその隙に攻略する、それがベストです。そのためにはこちらの動員兵力が分からない方が良い。しかし……」
「イゼルローン方面軍が出来た以上、帝国軍は艦隊を安易には動かさないかもしれない……」
「ええ」
シトレ元帥が頷いた。もう笑ってはいない。

「その場合はイゼルローン要塞内に人を送り込み、要塞主砲トール・ハンマーを押さえる。トール・ハンマーが無ければイゼルローン要塞の攻略は難しくない。要塞を外から強襲しその時点で出撃してくるであろう駐留艦隊を排除する……。となれば艦隊兵力はある程度必要だ……。私にはおかしな考えではないと思えるが……」

「ええ、そうですね。……考え過ぎなのかもそれません」
おかしな考えではない、しかし強襲が前提となっている作戦だ。いや前提とせざるを得ない作戦だ。一手遅れた、ブラウンシュバイク公に先手を打たれたという思いが何度も胸をよぎる。やはりイゼルローン方面軍が邪魔だ、作戦の実施時機を失したのかもしれない……、また溜息が出た。



帝国暦487年  7月 12日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   エリザベート・フォン・ブラウンシュバイク



今日も暑くなりそう、七月になってオーディンは日々暑くなってきている。エーリッヒ様は暑いのは苦手らしい、この時期だけは艦に乗っていた方が過ごしやすいと言っている。でも今日は珍しく庭に出ている。散歩ではないみたいだ。さっきから風通しの良い木陰で佇んでいる。私に見えるのは背中だけ……。

「エーリッヒ様」
思い切って声をかけるとエーリッヒ様が振り返った。そして私を見てニコッと笑みを浮かべる。邪魔ではなかったみたいだ、ホッとしてエーリッヒ様の傍に近づいた。

「何を考えていますの」
私の問いかけにエーリッヒ様が空を見上げた。
「宇宙の向こうの事を」
「宇宙の向こう? 反乱軍の事ですの」

エーリッヒ様が頷いた。戦争の事を考えているのだろうか、また戦場に行くの? 宇宙艦隊司令長官だから仕方ないのかもしれないけど出来れば戦場になど行って欲しくない。

「反乱軍ってどんな人達ですの」
私の問いかけにエーリッヒ様がクスッと笑った。
「普通の人達ですよ、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり……。私達と全然変わりません。フィッツシモンズ中佐を見れば分かるでしょう、彼女は向こう側で生まれ育った……」
中佐の事は知っている。良い人だとは思うけど、だから反乱軍に居られなくて帝国に来たんじゃないの?

「でも悪い人達なのだって聞きました。ルドルフ大帝に逆らった人達の子孫なのだって聞きましたけど」
エーリッヒ様がちょっと小首を傾げた。考えながら私に話しかける。
「……彼らはルドルフ大帝と違った考えを持っていたのです。大帝にはそれが許せなかった。そして彼らも大帝の考えが許せなかった……」

「悪い人達ではありませんの?」
「本当に悪い人達なら良かったのですけどね、犯罪者の類なら。彼らは帝国を脱出し新たな国を作り帝国と百五十年も戦っている。彼らの国は人口が百三十億人も居るんですよ。それほどの国を作るだけの力を持った人達なんです。悪いと言うよりは有能で危険な人達かな」

「褒めているように聞こえますけど」
私の言葉にエーリッヒ様は声を上げて笑った。
「褒めているように聞こえましたか。そうじゃありません、困っているんです。簡単に勝つ事の出来る相手じゃありませんからね。これからどうすればよいか、考えているんです」
「……」

エーリッヒ様は笑うのを止めると私を見た。
「帝国は今問題を抱えているんです」
「問題を?」
「ええ、反乱軍の事も有りますが他にも問題を抱えている。放置しておけばとんでもない事になる。でも大多数の人はそれに気付こうとしない、何とかしなければ……」
そう言うとエーリッヒ様は溜息を吐いた。

少しの間二人で黙って立っていた。エーリッヒ様は何かを考え私はエーリッヒ様を見ている。問題って何なのだろう、後でフェルナー大佐に訊いてみよう。大佐はエーリッヒ様と親しいから知っているかもしれない……。
「そろそろ屋敷に戻りましょうか」
そう言うとエーリッヒ様は私の手を握って歩き始めた……。


 

 

第二十九話 副将




帝国暦487年  7月 9日  オーディン 宇宙艦隊司令部  ラインハルト・フォン・ミューゼル



休暇中の所を急遽宇宙艦隊司令部に出頭するようにと呼び出しがかかった。呼び出しをかけてきたのは宇宙艦隊総参謀長メックリンガー中将だ。何事かが起きている、可能性として一番高いのは反乱軍がイゼルローン要塞に押し寄せてきた、二番目に考えられるのは何処かの馬鹿貴族が反乱を起こした、そんなところだろう。だとすると俺の役割はイゼルローン要塞への援軍か、あるいは反乱の鎮圧……。さて、一体どちらか……。

キルヒアイスと共に宇宙艦隊司令部に行くとそのまま司令長官室に直行させられた。途中、何人かの軍人に出会ったが皆敬礼を送ってくる。昔は気付かぬ振りや出会わぬように俺を避ける人間が多かったが最近はそんな事をする人間は少なくなった。軍人だけではない、貴族の中にも微かに目礼を送ってくる人間が居る。

ブラウンシュバイク公が何かと俺を気遣ってくれるため俺を無視するのは得策ではないと皆が思い始めたらしい。俺としては敬意を払われるのは嬉しいのだが急いでいる時には答礼するのが面倒で昔の方が良かったと思う時が有る。人間とは勝手なものだ、無視されれば腹が立ち敬意を払われれば面倒だと思う。最近はつくづくそう思う。ブラウンシュバイク公も同じような思いをしているのかもしれない。

司令長官室にはブラウンシュバイク公、メックリンガー総参謀長、シュトライト副参謀長が居た。皆厳しい視線を俺に向けてきたがブラウンシュバイク公だけは俺を見ると微かに笑みを浮かべたように見えた。
「ミューゼル大将、出頭しました」
「ミューゼル提督、御休みの所、申し訳ありません」

ブラウンシュバイク公が丁寧に休みに呼び出したことを詫びてきた。こういうのはちょっと遣り辛い。何か有った事はこっちも分かっている、遠慮しないで言って欲しいんだが公はそういうところは律儀だからな……。
「いえ、そのような事は。何事か起きたのでしょうか?」
「ええ、ちょっと……。もう少し待って貰えますか、後三人来るのです。一度に話した方が良いでしょう」

後三人? 艦隊司令官か……、だとすると馬鹿貴族の反乱ではないな。おそらくはイゼルローン要塞に反乱軍が押し寄せたのだろう……。五分と経たぬうちに、ケンプ、レンネンカンプ、ファーレンハイトの三人が司令長官室に飛び込んできた。大袈裟ではなく本当に飛び込むように部屋に入ってきた。どうやら走ってきたらしい、僅かに息を切らしている。

「揃ったようですね、では始めますか。実はフェザーンからちょっと困った連絡が有りました」
フェザーンから? ちょっと困った連絡? 思いがけない言葉だ、イゼルローン要塞に反乱軍が押し寄せたと言うのではないのか……。ケンプ、ファーレンハイト、レンネンカンプも訝しそうな表情をしている。

公が視線をメックリンガー総参謀長に向けた。メックリンガーが頷いて後を続ける。
「ここ二週間ほど前から反乱軍の艦隊で動向の掴めない艦隊が有ると、フェザーンの自治領主、アドリアン・ルビンスキーからレムシャイド伯爵に連絡が有ったそうです」
ケンプ、ファーレンハイト、レンネンカンプの顔から先程まで有った訝しそうな表情は消えた。三人とも緊張を見せている、おそらくは俺も同様だろう。訓練なら良いがそうでなければ反乱軍の艦隊はイゼルローン要塞に向かっている可能性が高い。

「二週間ですか、となると……」
「あと十日もすればイゼルローン要塞に辿り着くな」
ケンプ、レンネンカンプ、二人が呟くような口調で言葉を出す。確かに、報せが事実なら彼らの言う通りだろう。オーディンからイゼルローン要塞までは約四十日、一月ほどはイゼルローン要塞は単独での防衛戦を強いられることになる……。

「しかし、二週間とは……。フェザーンからこちらへの報告が随分と遅いと思いますが……」
俺が問いかけるとブラウンシュバイク公が笑い出した。
「フェザーンの言い分では確認をしていて手間取ったのだとか……、なかなかうまい言い訳ですね」
笑っているのは公だけだ。他は皆顔を顰めている。やはりフェザーンは帝国の敗北を望んでいるようだ。

「閣下、笑いごとではありますまい。レンネンカンプ提督の言う通り、あと十日もすれば反乱軍がイゼルローン要塞に押し寄せてきます」
ファーレンハイトがブラウンシュバイク公を窘めたが、公は気にした様子を見せなかった。

「もっと早いかもしれませんよ、ファーレンハイト提督。二週間と言うのはあくまでフェザーンの言い分です、明日イゼルローン要塞が反乱軍の大軍に囲まれても私は驚きません」
公の指摘にケンプが唸り声を上げた。なるほど楽観はしていない、公は危険を十分に認識しているようだ……。

一人上機嫌なブラウンシュバイク公にメックリンガー総参謀長が困ったような視線を向けて溜息を吐いた。
「元帥閣下、ファーレンハイト提督の言う通りです。笑いごとではありますまい」
「いや、フェザーンも知恵を絞るものだと思って感心したのですよ。なかなか楽しませてくれる」
また総参謀長が溜息を吐いた。そして俺達に視線を向けてきた。
「……既にイゼルローン要塞には警告を発しました。オーディンからも援軍を送ります」

「では我々が」
「ええ、ミューゼル提督には増援軍の総指揮官としてケンプ提督、レンネンカンプ提督、ファーレンハイト提督を率いてイゼルローン要塞へ行って貰うことになります」
メックリンガー総参謀長の言葉に身体の中に熱い物が溢れた。増援軍の総指揮官、四個艦隊の指揮権は俺に有る。これ程の大軍を率いるのは初めてだ。思わず手を握りしめた。

昂る気持ちをじっと噛み締めていると俺の耳にブラウンシュバイク公の声が聞こえた。
「ミューゼル提督、動向の掴めない反乱軍の艦隊ですが第五、第十、第十二の三個艦隊だそうです」
ブラウンシュバイク公の口調は何気ないものだったが司令長官室の空気は一気に硬いものになった。第五、第十、第十二……、いずれも反乱軍の精鋭部隊だ、油断は出来ない。

「反乱軍の中でも精鋭部隊と言って良いでしょう、油断は出来ません。それに他にも動員している艦隊が有るかもしれません。フェザーンは敢えて第五、第十、第十二の名前を出す事でこちらの注意を引きつけようとした可能性も有ります」
公はもう笑っていない。

「確かに」
「向こうに着いたらグライフス方面軍司令官と協力して反乱軍を撃退してください。留意すべきことはイゼルローン要塞の保持を第一とする事、むやみに戦線を拡大しない事の二点です、それ以外はミューゼル提督に一任します。質問は有りますか?」

「いえ、有りません」
俺の返事に公が頷いた、そして他の三人にも視線を向けた。誰も何も言わないのを確認するとブラウンシュバイク公はもう一度頷いた。
「ではミューゼル提督、後はお願いします。出立が何時になるか、決まったら教えてください」
「承知しました」

司令長官室を辞去し、ケンプ、レンネンカンプ、ファーレンハイトと一時間後にブリュンヒルトで打ち合わせをする事を決めた。それまでに彼らは自分の艦隊が出撃までどの程度の時間が必要か確認してくるだろう。俺も大体の所は分かっているが再確認しなくてはならない。

ブリュンヒルトではケスラー達が俺を待っていた。俺が司令長官に呼ばれた事はキルヒアイスが皆に伝えてくれていたから話は早かった。出撃を想定して準備に取り掛かっていたらしい。補給、さらに艦を離れている将兵を呼び戻すのに大体二十四時間必要だという。妥当と言って良いだろう。

司令長官室での事を皆に話すとブリュンヒルトの艦橋には興奮の声が湧き上がった。
「最低でもその三個艦隊が動いているのは事実でしょう。精鋭部隊ですな、反乱軍も余程の覚悟とみえます」
「油断は出来ません」
ロイエンタール、ミッターマイヤーの言葉に皆が頷いた。

「それにしても四個艦隊の指揮官ですか、ブラウンシュバイク公は閣下を信頼しておいでですな」
「……そう思うか、ケスラー」
俺が答えるとケスラーが妙な表情を見せた。ケスラーだけでは無い、皆が訝しげな表情をしている。

「何か有りましたか?」
「いや、司令長官室でイゼルローン要塞の保持を第一とする事、むやみに戦線を拡大するなと言われた。宇宙艦隊はまだ編成途上にある以上、当然ではある。だが私とてそのくらいは分かっている……」
俺は信用されていない、ブラウンシュバイク公に子供扱いされている、あの時そう思った。

いきなりケスラーが笑い出した。皆が驚いて見守る中一人ケスラーが笑う。子供じみているとでも思ったか、不快感が身を包んだ。
「何がおかしい!」
我ながら険しい声だった。ケスラーは笑うのは止めたがおかしそうな表情をしている。むっとして睨みつけた。

「申し訳ありません。ですがブラウンシュバイク公が心配したのはミューゼル提督の事ではないと小官は考えます」
「……」
「公が心配したのはその場に居た三人の提督方の事でしょう」
三人? ケンプ、レンネンカンプ、ファーレンハイト? 何か有ったか? 周囲を見ると皆が何処となく納得した様なそぶりを見せている、キルヒアイスもだ。彼らには思い当たる節が有ると言う事か……。

「どういう事だ?」
「ケンプ提督、レンネンカンプ提督、ファーレンハイト提督、三人とも公に抜擢され少将から中将に昇進して艦隊司令官になりました。その事を大分意識しているようです、訓練も他の提督達に比べるとかなり早く終わらせています。焦りが有るのかもしれません」

「あ……」
思わず声が出た。そういう事か、ケスラーが何を言いたいのか、皆が何を納得したのか、ようやく分かった。公はあの時、俺に方針を伝えた後三人に視線を向け確認していた。あれは……。

「お分かり頂けましたか」
「ああ、卿が何を言おうとしたのか分かる様な気がする」
ケスラーの笑みが大きくなったが俺の腹立ちは治まっていた。

「武勲を上げようと焦るあまり無茶をしかねない、ミューゼル提督の指揮にも素直に従わない可能性が有る、そう思われたのでしょう。それ故敢えてその場で基本方針を示されたのだと思います」
「小官も参謀長の仰る通りだと思います、現場で混乱するようでは反って反乱軍に付け込まれかねません」

「そうかもしれない……。しかし、私はそれほど頼りないと思われたか。彼らを押さえられないと思われるほど……」
ケスラー、ミュラーの言う事はもっともだ。だがそれでも不満は有る。やはり子供扱いされている、年が若いから軽く見られるのか……。腹立ちは治まったが不満は残った、公に、そして三人に。

「そうは思いません。ミューゼル提督の方が階級が上ですし最終的には彼らも提督の指示に従ったはずです。しかし反発はしたでしょうししこりが生じる可能性は有りました。後々の事を考えれば決して良い事とは言えません。多分ブラウンシュバイク公はそれを考慮したのでしょう」
「……」

ケスラーの言葉に皆が頷いている。言っている事は理解できる。公が俺の立場を慮ってくれた事もだ。だがそれでも不満は消えない。
「不満に思うというのは我儘なのだろうな」
俺の言葉に皆が苦笑を洩らした、キルヒアイスもだ。分かっている、子供じみた不満だ……。

「その通りです、我儘です」
「ケスラー……」
厳しい表情をしている。ケスラーは呆れているのだろう、度し難いとも思っているのかもしれない、内心忸怩たるものが有った。

少し気まずい空気が漂ったが、ケスラーは表情を変えることなく言葉を続けた。
「ブラウンシュバイク公を除けば宇宙艦隊における最上位者はミューゼル提督です。いわば公の副将と言う事になりますがミューゼル提督が若く経験が少ないという事で多くの者が提督にその役が務まるのかと疑念を持っているのが現実です」

「ケスラー参謀長!」
キルヒアイスが声を上げたが、ケスラーは手を上げてその先の発言を封じた。
「ブラウンシュバイク公も当然ですがその事は知っているでしょう。その上でミューゼル提督に四個艦隊を預け援軍の総指揮官に任命しました。提督を信頼していなければ出来る事ではありません。もし信頼していないのであれば公自ら艦隊を率いてイゼルローンに向かったはずです」

ロイエンタール、ミッターマイヤー、ミュラーが神妙な表情で聞いている。キルヒアイスでさえケスラーをもう止めようとはしない。
「ブラウンシュバイク公は四個艦隊をミューゼル提督に預ける事で提督が宇宙艦隊のナンバー・ツーであること、自分の副将として数個艦隊を率いる事が有る、それが出来る能力を持っているのだと周囲に示しているのです」
「……」

「そのために提督の立場を少しでも良くしようとしているのだと小官は考えています。決して提督を侮っての事ではありますまい、今後の軍の事を考えての事です。それを不満などと言えば、今度はミューゼル提督が周囲から副将としての資格なしと非難を受ける事になるでしょう」
「……」

厳しい言葉だ、だが胸に沁みた。ケスラーは俺を心配してくれている。昔は無視されることに慣れていた、その事で自分を奮い立たせた。だが今は受け入れられ、気遣われる事に慣れ、その事で新たな不満を持つようになっている。ケスラーの言う通り我儘以外の何物でもない。

「ケスラー参謀長、卿の言う通りだ、私の心得違いであった」
俺が詫びるとケスラーの表情が緩んだ。
「いえ、御理解頂けました事、嬉しく思います。また、いささか言葉が過ぎました事、お許しください」
「いや、卿の諫言、胸に沁みた、礼を言う。これからも私に過ちが有ったら遠慮なく正してくれ」
「はっ」

周囲にホッとした様な空気が流れた。皆安心したのだろう。
「昔を思い出した、ブラウンシュバイク公に随分と厳しい事を言われた事が有る。個人の武勲ではなく軍の勝利のために行動せよ。そうでなければ誰も付いて来ない、孤立し結局は何も出来ずに終わると……、今ケスラー参謀長に同じ事を言われている、進歩が無いな、私は……」

自嘲が漏れた。……俺は心の何処かで公に張り合おうとしていたのではないだろうか。軍の勝利のためではなく自分の勝利のため、それを優先しようとしなかっただろうか……。俺は未だにあの件について答えを出していない。これからも皇帝になる事を目指すのか、それとも諦めてブラウンシュバイク公に協力するのか……。俺もキルヒアイスもその問題から故意に目を逸らし先送りしている……。だから公の好意を素直に受け取る事が出来なかった、不満に思った……。

「……閣下はブラウンシュバイク公の言葉を覚えておいででした。今もケスラー参謀長の諫言を受け入れておいでです。進歩が無い等と卑下なさる事は有りますまい」
「ミュラー……」
ミュラーが俺を労わる様な目で見ている。

「ただ、気を付けなければなりません。地位が上がればその分だけ周囲の注目を浴びます。何気無い一言、他愛無い一言が大きな反響を呼ぶのです。閣下はもうそういう立場に居るのだと御理解下さい。ケスラー参謀長の諫言もそれが有るからだと小官は思います」

ケスラーを見た、ミュラーの言葉に頷いている。
「そうか……。ミュラー少将、良く分かった。以後は気を付けよう」
気を付けよう、そして答えを出そう。何時までも問題から目を背けるべきではない、今のままでは不安定なだけだ……。




 

 

第三十話 誘引




帝国暦487年  7月 12日  イゼルローン要塞 イゼルローン方面軍司令部  ヘルマン・フォン・リューネブルク



イゼルローン方面軍司令部は緊張感に満ちていた。二時間程前から要塞周辺の通信が酷く攪乱されている。どうやら自由惑星同盟からお客さんが来ているようだ。
「どう思うかな、副司令官」
「やはり反乱軍が近くに来ているようですな」
「うむ」

「しかし要塞からは見えません。どうやらこちらが出撃するのを待っているようです」
「挑発か、取り囲んで叩こうというのかな」
「そんなところでしょう」

グライフス、メルカッツ両大将の会話に皆が頷いた。イゼルローン方面軍司令部、新たに設立された最前線の司令部の要員皆がだ。
司令官:グライフス大将
副司令官:メルカッツ大将
参謀長:シュターデン中将
作戦参謀:ビュンシェ大佐、シュトラウス大佐
情報参謀:オーベルシュタイン大佐、ニードリヒ大佐
後方支援参謀:レフォルト大佐、イエーナー大佐
そして装甲擲弾兵第二十一師団長である俺、ヘルマン・フォン・リューネブルク中将。

「オーディンからは遅くとも十日程で反乱軍が現れる可能性が有ると言ってきたが……」
「連絡が有ってから三日か……」
ビュンシェ大佐、シュトラウス大佐の言葉に皆が顔を見合わせた。先日、オーディンの宇宙艦隊司令部は反乱軍がイゼルローン要塞へ襲来する可能性が有ると伝えてきた。そしてその指摘は現実になりつつある。

「予定より一週間早い、……やはりフェザーンは同盟寄りの政策をとっているようです」
抑揚の無い声でオーベルシュタイン大佐が指摘すると皆が渋い顔をした。パウル・フォン・オーベルシュタイン、顔色の悪い愛想のない男だがこの男だけは緊張を見せない、平素通りの雰囲気を保っている。ブラウンシュバイク公が司令部要員に選んだそうだが公も妙な男を選んだものだ。

「この司令部が出来たのもそれが理由としてある。何としてもイゼルローン要塞を守らなければならん」
グライフス司令官の言葉に皆が頷いた。司令部の要員全員がこの司令部が作られた理由を理解している。その必要性もだ。

「反乱軍は最低でも三個艦隊、第五、第十、第十二……。味方の増援部隊は四個艦隊がこちらに向かっていますがイゼルローンに着くまで約四十日はかかると見なければならないでしょう」
シュターデン参謀長の指摘にオーベルシュタイン大佐を除く皆が表情を硬くした。四十日間単独で耐えなければならない、しかも反乱軍は精鋭部隊を送り込んできている。その事が皆に緊張を強いている。

「駐留艦隊の様子はどうかな?」
「流石に出撃を主張する人間は居ませんな。容易な敵ではないと認識しております。方面軍司令部の指示待ちといったところです」
「昔なら面子で出撃をしかねないところだ、方面軍司令部の成果有り、そんなところだな」
グライフス司令官とメルカッツ副司令官の遣り取りに皆が顔を見合わせて苦笑を浮かべた。もっとも一人だけは相変わらずの無表情だ。

「とりあえずオーディン、それからミューゼル提督に連絡を入れよう。上手く届けば良いんだが……。それと駐留艦隊は何時でも出撃できるように準備を整えてくれ、頼む」
グライフス司令官の言葉に皆が頷いた。これでとりあえずは終わりかなと思った時だった、シュターデン参謀長が疑義を呈した。

「ミューゼル提督が増援軍の総司令官とのことですが大丈夫ですかな、まだ若いし大部隊を指揮した経験も少ないと思うのですが……」
司令部の要員が皆顔を見合わせている。無理もない、ラインハルト・フォン・ミューゼルはまだ二十歳にもならない大将なのだ。司令部の要員に不安を持つなというのは難しいだろう。

「心配はいらんでしょう。以前ブラウンシュバイク公がミューゼル提督を天才だと評しているのを聞いたことがあります。小官も一度実戦を共にしたことが有りますが極めて有能な人物だと思いました」
「……」

シュターデン中将は不満そうだ。理由は分かっている、おそらくは嫉妬だろう。自分よりも若い人間が自分より上位にいる、そのことが面白くないのだ。ミューゼル提督への嫉妬、そして公への嫉妬。前回のイゼルローン要塞攻防戦でも二人に対してかなり感情的に当たっている。

公がブラウンシュバイク公爵家の養子になったため公に対しては反感を向けることが出来ない、その分ミューゼル提督に対して敵意を示すのだろう。不思議なのはブラウンシュバイク公がそんな彼を閑職に回すでもなくイゼルローン方面軍司令部に参謀長として押し込んだことだ。オーベルシュタインといい、シュターデンといい公も妙な事をする。

「参謀長はブラウンシュバイク公とミューゼル提督が個人的に親しいのでそれでと思っておられるのでしょうが公が情実や縁故で人事を行ったことが有るとは小官は寡聞にして聞いたことがありません。心配はいらんでしょう」
俺の言葉にグライフス司令官が頷いた。

「リューネブルク中将の言うとおりだ。第一、そんなつまらぬ人物ならこの司令部を作ろうなどとは考えるまい。ミューゼル提督を信用しよう」
グライフス司令官の言葉にシュターデン中将が“失礼しました”と答えた。やれやれだな。どんな組織でも人間がいる以上軋轢は生じるか……。早く反乱軍に来てもらいたいものだ、詰まらない感情など反乱軍が吹き飛ばしてくれるだろう……。



宇宙暦796年  7月 14日  自由惑星同盟軍総旗艦 アエネアース  ヤン・ウェンリー



同盟軍総旗艦アエネアースの艦橋は沈鬱な空気に満ちていた。
「帝国軍は出てこないな。やはり方面軍司令部の所為か」
クブルスリー司令長官の発言に司令部要員がそれぞれの表情で頷いた。或る者はやはりという表情、そして或る者は忌々しそうな表情をしている。

これまでイゼルローン要塞駐留艦隊は非常に好戦的だった。要塞と協力するより功を競い合うため積極的に出撃してくるのが常だった。我々が通信妨害を始めたのは二日前、向こうにもイゼルローン回廊内のどこかに我々が居るという事は分かっているはずだ。にもかかわらず今回は出撃してこない。

そして今日になってから、駐留艦隊を引き摺りだす為に或る通信を発したがイゼルローン要塞からは艦隊の出撃は無い。クブルスリー司令長官の言う通りイゼルローン方面軍司令部の所為だろう。それが無ければ駐留艦隊は出撃してきたはずだ。

「如何します、駐留艦隊の出撃は無いものと判断して作戦を開始しますか?」
グリーンヒル参謀長が問いかけるとクブルスリー司令長官が少し迷うような表情を言見せた。
「……いや、もう少し待ってみよう。敵が迷っている可能性も有る。時間をおいて何度か通信を行ってくれ」
司令長官の答えに何人かが頷いた。

「どの程度待ちますか?」
「そうだな、六時間待とう。作戦の開始は六時間後とする、ローゼンリッター、巡航艦の準備を進めてくれ」
「承知しました」
六時間か……、まあ妥当だろう。それ以上待つと相手に不審を抱かれる。艦隊が出撃してくれた方が成功率は高いが止むを得ない。

……やはり時期を逸したのかもしれない、艦橋の沈鬱な空気に触れているとどうしてもその想いが胸に溢れてくる。イゼルローン方面軍司令部が無ければ駐留艦隊が出撃してくる可能性は高かった。作戦の実施はもっと容易だったはずだ。半年、いや三カ月早ければ……。周囲に知られぬようにそっと溜息を吐いた……。



帝国暦487年  7月 14日  イゼルローン要塞 イゼルローン方面軍司令部  ヘルマン・フォン・リューネブルク



奇妙な連絡が入ってきた。妨害が激しく途切れ途切れの通信だがオーディンから重要な連絡事項を携えてブレーメン級軽巡航艦一隻がイゼルローン要塞に派遣された、しかし回廊内において敵の攻撃を受け現在逃走中、イゼルローン要塞からの救援を望む……。

通信は罠だろうという結論は直ぐに出た。十日ほど前に増援軍を出すとオーディンから連絡が有ったのだ。オーディンは反乱軍が押し寄せてくる可能性大と判断していた。軽巡航艦を一隻派遣したのならその事について説明が有ったはずだ。この通信は駐留艦隊を引き摺り出し要塞と分断した上で叩こうとする反乱軍の策とみて間違いない。

運が良かったと言って良いだろう。フェザーンからの連絡が有った事で反乱軍の罠を見破る事が出来た。もしフェザーンからの連絡が無ければこちらも戸惑っていたはずだ。出撃案が出た可能性も十二分にある。味方を見殺しにすることぐらい士気を下げる事は無いのだ。

皆が出撃を誘う罠だと口々に言う中、俺はもう一つの可能性について考えていた。ブレーメン型軽巡航艦が実際に現れるかもしれないということだ。その時、司令部は混乱するだろう、自分達は判断を誤ったのではないか、もう少しで味方を見殺しにするところだったのではないか……。

司令部は逃げてきた軽巡航艦を迎え入れろと言う人間と罠だと言う人間で別れるだろうな。だが助けを求めてくれば迎え入れないわけにもいくまい。そしてブラウンシュバイク公の懸念が当たっているとすれば軽巡航艦の中に居るのはローゼンリッターのはずだ……。

当然だが連中の人数は少ない、という事は彼らの狙いは司令部中枢を押さえて帝国軍を麻痺させる事、その隙を突いて要塞を攻略する、そんなところだろう。おそらく小道具も用意しているだろうな。そろそろ俺も連中のもてなしの準備をしておくか。一度は肩を並べて戦った奴らだ、それなりに敬意を示してやろう……。



宇宙暦796年  7月 14日  イゼルローン要塞  ワルター・フォン・シェーンコップ



「艦長のフォン・ラーケン少佐だ! どういうつもりだ! 駐留艦隊は何故救援に来ない! 我々を見殺しにするつもりか!」
怒鳴り声を上げると出迎えに出た若い士官がもごもごと口籠った。こちらはメーキャップで負傷したように見せかけてある。相手は罪悪感でまともに視線を合わせられないようだ。良い調子だ、更に視線を強めると相手が怯えた様な表情を見せた。

「イゼルローン方面軍司令官にお会いしたい! 我々は帝都オーディンから重要な報せを持ってきたのだ。今回の不手際の件も有る、司令官閣下に是非とも会わねばならん!」
「わ、分かりました、こちらへ」
慌てて案内を始めた。おそらくは方面軍司令官に引き合わせて自分は解放されたいと考えているのだろう。迎えに出た事を後悔しているに違いない。

廊下を小走りに進む、俺の後をリンツ、ブルームハルト、クラフト、クローネカー達が続いた。此処までは順調に進んでいると言って良い。あちこちを損傷した巡航艦でイゼルローン要塞に逃げ込んだ。背後から迫る同盟軍の攻撃を受けながらだ。

砲撃が当たる事は無いと分かっていたがそれでもヒヤリとする時が何度か有った。イゼルローン方面軍司令部を押さえ外の同盟軍に連絡する。要塞主砲、トール・ハンマーを使えなくすれば一気に同盟軍が押し寄せるだろう。要塞攻略は不可能ではない。

正面にドアが見えてきた。結構大きいドアだ、当然だが中のフロアーも広いだろう。どうやらそこが司令部か……。案内をしてくれた士官が
「こちらへ、正面の部屋のさらに奥の部屋が司令部です」
と言いながらドアを開け中に入る、続いて部屋に入った。二十メートル四方ほどの部屋だ。正面にもう一つドアが有った、左右の壁にもドアが一つずつある。

案内役の士官が正面のドアに近付いて行く。リンツ、ブルームハルトに視線を向けると微かに頷いてきた。ここからが勝負、そう思った時だった。ドアの開く音と足音がした。驚いて音の方向に視線を向けると両脇のドアから帝国兵が溢れだしている! 不審を持たれたか?

案内役の士官に目を向けるとその男は一瞬の隙にドアを開け中に入っていった。如何する? 迷うな、進め! ここに留まるのは危険だ。
「リンツ、ブルームハルト、続け」
「はい」
先に入った士官の後を追って中に入った……。



帝国暦487年  7月 14日  イゼルローン要塞 イゼルローン方面軍司令部  ヘルマン・フォン・リューネブルク



シェーンコップ達が部屋に飛び込んできた。おそらく両脇のドアから帝国兵が現れたので慌てて俺が待ち受けるこちらの部屋に入ってきたのだろう。これで彼らは前後を塞がれた形になった。この部屋には四十名、そして向こうの部屋にも四十名の帝国兵が居る。

「こ、これは」
「久しぶりだな、シェーンコップ」
「貴様、リューネブルク! 何故ここに……」
愕然とした表情を浮かべるシェーンコップが可笑しかった、笑いが止まらない。

「貴様がここに来るだろうと予測した人が居てな、俺が迎えに来たのだ。嬉しいだろう? いや懐かしい、かな?」
「……」
シェーンコップが唇を噛み締めている。

「見ての通りこっちはブラスターとクロスボウを用意している、ゼッフル粒子は使えん。大人しく降伏しろ」
「……」
「無駄死にしろと教えた覚えは無いぞ、シェーンコップ。指揮官としての務めを果たせ」
おかしいな、どういうわけか懇願する様な口調になっている。その事に気付いて思わず苦笑が漏れた。シェーンコップも気付いたのだろう、奴も苦笑を浮かべている。

「分かった、降伏する。だが一つだけ頼みが有る」
「言ってみろ」
「残された連中の事だ。貴様なら分かるだろう、……いや、俺達を捨てた貴様には分からんか……」

嫌味かと思ったがそうではなかった。シェーンコップはこの男には珍しく沈鬱な表情をしている。残された部下達が肩身が狭い思いをするのではないかと心配している……、俺が亡命した時、余程に嫌な思いをしたのだろう。亡命した事を後悔はしていない、だからこそ胸が痛んだ。

「反乱軍には俺の方から連絡を入れよう。お前達が裏切ったのではなく俺に正体を見破られたのだとな、それで良いか」
「それで良い、裏切り者よりは正体を見破られた間抜けの方がましだ」
シェーンコップが自嘲を浮かべた。酷い例えだ、捕虜になって落ち込んでいるのだろう、少し力付けてやるか。

「それと貴様達の処遇だが安心して良いぞ。ブラウンシュバイク公から勇者に相応しい処遇をしろと言われている」
「ブラウンシュバイク公が……」
ちょっと驚いたようだな、シェーンコップ。リンツ、ブルームハルト達と顔を見合わせている。もう少し驚かしてやるか。

「公はお前達に好意を持っているようだな」
「……」
「嘘ではないぞ、本当の事だ」
「あの坊やがか?」
口の悪い奴だ、帝国きっての実力者であるブラウンシュバイク公を坊やとは……。少し懲らしめてやるか、俺はにこやかに笑みを浮かべた。

「能力は有るし信頼できる方なのだがちょっと変わった所が有ってな、何と言うかゲテモノ好き、いや悪趣味なのだ。良かったな、シェーンコップ、公に好意を持たれて」
シェーンコップが憮然としている、そして奴の部下達、俺の部下達が笑いを堪えていた。ザマアミロ、もっともこれも嘘ではないぞ、シェーンコップ。シュターデン、オーベルシュタインを抜擢するなどどう見ても趣味が悪いだろう。おかげで俺まで変な目で見られるのではないかと心配だ。後で注意をしておこう、公には上に立つものとして少し気を付けて貰わんといかん……。


 

 

第三十一話 第七次イゼルローン要塞攻防戦

宇宙暦796年  7月 14日  自由惑星同盟軍総旗艦 アエネアース  ヤン・ウェンリー



軽巡航艦がイゼルローン要塞に入った。同盟軍は要塞主砲トール・ハンマーの射程外で待つ。帝国軍からは軽巡航艦を撃沈し損ね未練がましく漂っているように見えるだろう。ここまでは予定通りと言って良い、総旗艦アエネアースの艦橋には期待に満ちた空気が溢れている。クブルスリー司令長官の表情も明るい。

帝国軍は艦隊を出さなかった。要塞内部には一万五千隻余りの駐留艦隊が存在する。場合によっては敵艦隊が出撃してくることも有るだろう。それを排除した上で要塞を攻略する。要塞主砲トール・ハンマーさえ押さえる事が出来れば決して不可能ではない。シェーンコップ大佐達、ローゼンリッターが何処までやってくれるか、要塞攻略はそれ次第だ。

「イゼルローン要塞から通信です!」
オペレータが弾んだ声を上げた。その声に艦橋が色めき立つ、彼方此方で席を立つ姿と弾んだ声が上がった。どうやら上手く行ったらしい。思わず手を握りしめていた。
「スクリーンに映してくれ」
グリーンヒル参謀長の指示にスクリーンに映像が映った、一人の帝国軍人が映ると彼方此方で驚きの声が起きる、この男は……。

『一年半ぶりですな、グリーンヒル参謀長』
「き、貴官は……」
絶句するグリーンヒル参謀長に男が笑いかけた。
「グリーンヒル参謀長、彼は」
皆が絶句する中、クブルスリー司令長官が不審そうな表情を浮かべた。

『クブルスリー司令長官ですな、小官は帝国軍装甲擲弾兵第二十一師団長ヘルマン・フォン・リューネブルク中将です』
「リューネブルク……」
司令長官が呟くとリューネブルク中将がニヤッと不敵に笑った。

『元は自由惑星同盟軍を称する反乱軍でローゼンリッター第十一代連隊長を務めさせていただきました』
「貴官、逆亡命者か……」
愕然とする司令長官にリューネブルク中将がふてぶてしい笑みを浮かべて頷く。
『残念ですがシェーンコップ達ローゼンリッターは正体を見破られてあえなくこちらの捕虜になりました。作戦は失敗ですな』
「……」

彼方此方で呻き声、溜息が聞こえた。この男がイゼルローン要塞にいたのでは失敗は止むを得ない。しかし何故ここに……。
『シェーンコップ達は貴方達を裏切ってはいませんぞ。そちらの作戦は既に見破られていたのです』
「どういう事だね、それは」
グリーンヒル参謀長が厳しい声で問いかけるとリューネブルク中将が大きな声で笑った。

『そろそろ追い詰められた反乱軍がイゼルローン要塞を外からではなく内から攻略する事を考えるだろうとブラウンシュバイク公が予測したのですよ。その時潜入してくるのは帝国語に堪能なローゼンリッターだろうと。それで公は小官に出迎えを命じたわけです。精一杯もてなしてやれとね』
「馬鹿な……」

彼方此方で呻き声が聞こえた、驚愕、失望。こちらの作戦は読まれていた……。遅かった、やはり遅かった。イゼルローン方面軍司令部の設立とリューネブルク中将の配備はセットで行われた。ブラウンシュバイク公はこちらがイゼルローン要塞攻略を実施する事も要塞内部に人を送るであろう事も予測していた……。

『嘘ではありませんぞ、イゼルローン方面軍司令部の人事発令に小官の名は無かったはずです。理由はもうお分かりでしょう、小官の名が有れば当然ですが作戦は実施されないでしょうからな。誘き寄せるために敢えて伏せたわけです』
「……」

『軽巡航艦が現れた時は余りに予測通りなので可笑しくなりましたよ。もう少しで噴き出すところでしたな』
リューネブルク中将が声を上げて笑う。また艦橋の彼方此方で呻き声が聞こえた。今度は屈辱、憤怒……。

「……愚弄するのか、我々を!」
押し殺した声に怒りが籠っていた。クブルスリー司令長官が屈辱に震えている。司令長官になって最初の軍事行動なのだ。作戦にも自信は有った、イゼルローン要塞を落せるのではないかと期待も有ったはずだ。それが失敗し嘲笑されている……。

『いや、感謝しているのです。楽しませてもらったと。ここは娯楽が少ないのですよ。御礼に一つ忠告しましょう。帝国軍の増援部隊、四個艦隊がイゼルローン要塞に向かっています。彼らが到着する前に撤退するのですな。伝えましたぞ、では失礼』
スクリーンの映像が切れた……。

皆が顔を見合わせている、艦橋には重苦しい空気が漂った。増援部隊四個艦隊がイゼルローン要塞に近付いている。おそらくは最低でも五万隻を超える大軍だろう。駐留艦隊と合流すれば六万隻を超える大軍になるはずだ、こちらは三個艦隊、司令長官の直率部隊を入れても五万隻……。

「はったりだ! 本当に増援部隊が近付いているのならむしろ伏せるはずだ。司令長官閣下、イゼルローン要塞を攻略しましょう」
フォーク中佐だ、頬が引き攣っている。フォーク中佐は同意を求めるかのように周囲を見たが誰も視線を合わせようとしない。

彼の言う通り、増援部隊が来るのがはったりなら良い。しかしもし増援が事実なら同盟軍は窮地に陥る事になる。
「敢えてこちらを留まらせるために言った可能性もあるだろう、増援部隊が近くまで来ている可能性は否定できない……」

苦渋に満ちた声で中佐を抑えたのはグリーンヒル参謀長だった。そうなのだ、確かにその可能性は有る、相手はこちらの動きを想定していた事を忘れてはならない。
「しかし、このままでは……」
「それに攻略と言っても単純な力攻めで落せるようなものではない。その事は皆が分かっているはずだ」

グリーンヒル参謀長がなおも要塞攻略を迫るフォーク中佐を窘めた。悔しそうに中佐が唇をかむ。クブルスリー司令長官は顔を強張らせている。本来なら撤退を宣言しても良い、それが出来ないのはやはり感情的に納得出来ないものが有るのだろう。参謀長が私に視線を向けた、やれやれだ、嫌な役目をしなくてはならない。

「撤退を進言します」
皆の視線が私を見た。睨むような厳しい視線の者、ホッとした様な視線の者、様々だ。
「イゼルローン要塞は外からの攻撃に対しては非常に堅牢です。攻略が成功する可能性は極めて小さいと言わざるを得ません。だからこそ、今回は内部から攻めようとした……。それが失敗した以上、残念ですが撤退するのが最善かと思います」
「……」

「今撤退すれば損害は殆どありません。しかし攻撃を実施すれば多大な損害を受ける事は必定です。要塞攻略が成功する見込みが立たない以上、損害は出来るだけ小さくすべきです」
嫌な役目だ、シェーンコップ大佐達を見殺しにしろと言っている。しかし戦闘を行えばその何千倍、何万倍の死傷者が出るだろう……。冷酷、非道と言われようと進言しなければならない。

「閣下、小官もヤン准将の意見に同意します。撤退するべきです」
グリーンヒル参謀長が私の意見に同意すると皆がクブルスリー司令長官を見た。司令長官が顔を強張らせた。集中する視線に圧迫感を感じているのだろう、艦橋の空気が嫌と言うほど緊迫した……。

「……撤退する」
絞り出す様な口調だった。不本意だったに違いない、だがクブルスリー司令長官は正しい選択をした。皆がそう思ったはずだ。艦橋の緊張はジワリと緩み彼方此方で息を吐く音が聞こえた。



帝国暦487年  7月 14日  ミューゼル艦隊旗艦 ブリュンヒルト  ラインハルト・フォン・ミューゼル



オーディンから通信が入った。オーディンを発って未だ四日目だがイゼルローン要塞で何か有ったのか。反乱軍が要塞付近に居るようだという通信が先日有ったばかりだが大規模な攻撃でもかけてきたか……。スクリーンにブラウンシュバイク公の姿が映った。互いに敬礼を交わすと公が話しかけてきた。

『反乱軍がイゼルローン要塞に攻め寄せてきましたが撤退したそうです。先程イゼルローン方面軍司令部より連絡が有りました』
「撤退?」
攻め寄せて来て撤退? どういう事だ? 訳が分からずケスラー、キルヒアイスに視線を向けたが彼らも訝しげな表情をしている。連中、一体何を考えている?

『今回、彼らはイゼルローン要塞を内部から攻略しようと考えたようです』
「内部から?」
『ええ、帝国軍人に偽装した人間を軽巡航艦で要塞に送りこんだのですがリューネブルク中将に正体を見破られました。彼らはローゼンリッターだったのですよ』

なるほど、そういう事か。リューネブルク中将は元々は反乱軍でローゼンリッターの指揮官だったと聞いている。その当時の部下が偽装した人間の中に居たという事か、それで正体がばれて捕まった……。
「では内部からの攻略が失敗したので反乱軍は撤退した、そういう事でしょうか?」

ブラウンシュバイク公が頷いた。
『おそらくそういう事でしょう、そのまま攻めかかってくれれば向こうを消耗させる事が出来たのですが大人しく引き下がったようです。……クブルスリー司令長官は中々手強い、油断は出来ません』
公が苦笑を浮かべている。確かに手強い、利が無いと見るやサッと退いた。簡単なようで簡単ではない。

しかし、そうなると我々はどうするのだろう、反乱軍が引き揚げた以上我々もオーディンへ引き返すのだろうか。残念だ、せっかく四個艦隊を指揮できる立場になったのに……。
『ミューゼル提督はそのまま四個艦隊を率いてイゼルローン要塞に赴いてください』
「はあ? 宜しいのですか?」

思わず間の抜けた声が出た。それを聞いて公がクスクス笑い出す。いかん、顔が赤らむのが自分でも分かった。
『失礼、理由は三つ有ります。先ず第一に軍首脳部はイゼルローン方面軍司令部を全面的に支えると約束しました。それを証明しなければなりません』
なるほど、今回は援軍が着く前に撃退した。しかし本来なら俺達が増援となって撃退するはずだった、それの証明か……。

『第二に今回の防衛戦でイゼルローン方面軍司令部に何か問題が無かったか、改善点が無かったか、私の代理としてそれを確認してください』
「承知しました。それで三つ目の理由とは?」
俺が問いかけるとブラウンシュバイク公が僅かだが表情を厳しくした。ハテ、急ぎ過ぎたか、気を悪くしたか……。

『来月の中旬頃になりますが帝国で政治改革が始まります』
「!」
さりげない口調だったが周囲を緊張させるのには十分な内容だった。政治改革……、何時かは始めるだろうと思っていたが……。

『場合によっては帝国内部で混乱が生じる可能性が無いとは言えません。そして反乱軍がその混乱に乗じようとする可能性も無いとは言えない……』
「……」
なるほど、三つ目の理由は我々の艦隊がそれを防ぐという事か。

『暫くの間、ミューゼル提督達にはイゼルローン要塞で待機していただくことになります』
「了解しました、どの程度の期間になるでしょう、ある程度の目安を知りたいのですが……」
『大体一ヶ月から二ヶ月と見ています』
「一ヶ月から二ヶ月……、了解しました。イゼルローン要塞で待機します」
ブラウンシュバイク公が頷いた。


「改革を行うのですか……、まさかこんな日が本当に来るとは……」
ケスラー参謀長が溜息交じりに呟いたのは通信が終わってしばらくしてからだった。同感だ、公が帝国を変えようとしているのは知っていたがまさか本当に始まるとは……。キルヒアイスも二度、三度と頷いている。

「改革の規模は大きくはなさそうですな」
「私もそう思います」
ケスラー、キルヒアイスの言葉に俺も同感だ。俺達がイゼルローンに居るのは一ヶ月から二ヶ月。混乱が起きるとしてもその程度で済むと公は考えている。少しずつ変えていく、そういう事だろう。

「こうなると反乱軍が大人しく退いたのが不気味ですな。公の危惧する通り、再度来襲する可能性は有ります」
「うむ」
ケスラーの言う通りだ、反乱軍が無理攻めを行い消耗してくれれば良かったのだが……。ここで叩いておけば改革によって混乱が生じても反乱軍は直ぐには動けないはずだった……。どうも上手く行かない、中途半端な形で終わってしまった。公の言う通り油断は出来ない。

「リューネブルク中将の事ですが、偶然でしょうか」
キルヒアイスが眉を寄せながら訪ねてきた。さて、如何だろう。答えられずにいるとさらに言葉を続けた。
「たまたまと言うにはいささか不自然な気がするのですが」
ケスラーも考え込んでいる。

「予測していた、キルヒアイスはそう思うのだな」
「はい」
ケスラーに視線を向けた。彼が太い息を吐く。
「おそらくその通りでしょう。確かイゼルローン方面軍司令部の人事発令にはリューネブルク中将の名前は無かったはずです。反乱軍を油断させ誘き寄せるためでしょう」

「公の狙いは反乱軍の攻略案を失敗させ、その上で無理攻めをさせて損害を大きくさせる。それによって改革の混乱に付け込ませない、そういう事か……」
俺の言葉にキルヒアイスとケスラーが頷いた。
「オーディンでブラウンシュバイク公に呼ばれた時、反乱軍が攻めてくる可能性が有るにも拘らず公は上機嫌だった。不思議だったがそういう事か……」

怖い男達だ。反乱軍の狙いを読み取りそれを逆手に取ろうとしたブラウンシュバイク公。それに乗ることなく大人しく退き上げ、機を窺う反乱軍。帝国が優勢に戦局を支配しているとはいえ決して油断は出来ない。一つミスを起こせばひっくり返してきそうな怖さがある、溜息が出た……。
「先ずは予定通り、イゼルローン要塞へ急ごう」







 

 

第三十二話 不安



帝国暦487年  7月 14日  オーディン  新無憂宮  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「では反乱軍は撤退したのか」
「はい、イゼルローン方面軍司令部よりそのように連絡が有りました」
「うむ、それは重畳」
俺の答えにリヒテンラーデ侯が満足そうに頷いた。爺さん御機嫌だな。頭の天辺からルンルンとか聞こえそうだ。

「反乱軍を撃退した、イゼルローン方面軍司令部は有効だと証明されたわけだな」
「要塞司令部も駐留艦隊司令部も今後は不満を言えまい」
エーレンベルク、シュタインホフの両元帥も満足そうだ。まあ問題が無いわけじゃないがな。国務尚書の執務室は和やかな空気が漂っている。

今回のイゼルローン要塞の攻防戦、方面軍司令部は要塞司令部と駐留艦隊司令部を抑えて十分に役目を果たした。統一した指揮系統の確立は有効であるという事が証明されたのだ。実際にはフェザーンからの通知で反乱軍が大軍で有る事は分かっていたから駐留艦隊も出る気は無かったようだが……。評価としてはイゼルローン方面軍司令部は有効だという事になる。

「それにしてもまさか本当に要塞内部に兵を送り込んでくるとは……。公の予想が当たったな」
「反乱軍も色々と要塞攻略に工夫をしてきています。そろそろ外からの攻略では無く内からの攻略を考えるのではないかと思ったのです」
リヒテンラーデ侯が妙な目で俺を見ている。うん、ちょっと苦しいかな。しかし他に言い様がない。

「危ないところでしたな、リューネブルク中将を配備しておいたから良かったもののそうでなければどうなっていたか……」
「反乱軍にしてやられたかもしれぬ」
そうそう、予想以上に同盟の動きは早かった、危ないところだった。大事なのはそっちだよ、爺さん。エーレンベルク、シュタインホフの言う通りだ。要塞が落ちないのが一番だ。

要塞を落させて相手を引き摺り込むっていうやり方も有るけどな。しかし向こうが攻め込んでくるかどうか分からんし、司令長官もロボスじゃない。じっくり構えられると厄介だ、改革を行うにも支障が有るだろう。やはりここは安全第一でゆっくりと改革だ。国の改革も車の運転も同じだな、焦らずゆっくり安全にだ。

リヒテンラーデ侯が用意してくれた紅茶を飲みながらゆったりしていると侯が視線を向けてきた。
「今回の一件、大体的に広めるつもりだ。ブラウンシュバイク公の立場を強める事になるからの」
「それは……」
無用だと言いかけたが止めた。

リヒテンラーデ侯の狙いが分からないわけではない。これから改革を進めるのだ、推進者の俺の名声、立場を出来るだけ強めておこうと言うのだろう。反乱軍の作戦を未然に防いだとなれば十分にインパクトは有る。貴族達も正面からは改革に反対し辛いはずだ。

「では武勲として評価せねばなりませんな。勲章の授与、それでよろしいですかな」
「うむ。双頭鷲武勲章の授与、そういう事になろう」
「となると実際に功を挙げたリューネブルク中将は大将に昇進……」
「当然であろう」
リヒテンラーデ侯とエーレンベルクが話している。

勲章か……、これで二度目だな、有難く頂こう。しかしそれよりもリューネブルクが大将に昇進というのは嬉しい。亡命者が功を挙げて昇進を重ねる、実力さえあれば誰であろうと昇進できるという事だ。彼も苦労してきたからな、喜んでくれるだろう。奴一人昇進では居辛いだろうな。ちょうどいい、こっちに呼び戻す口実に使える。後任者をオフレッサーに依頼するか……。

「改革を進めるには追い風と言って良いの。公の立場がより強まったのじゃから」
リヒテンラーデ侯の言葉にエーレンベルク、シュタインホフが頷いた。二人とも改革の件については既に承知している。改革の内容が穏健な物だった事も有り二人とも反対はしなかった。と言うより積極的に賛成したと言って良い。兵達の殆どが平民だ。彼らの不満を取り除かねば士気が上がらない事を二人は良く分かっている。

「ミューゼル大将がイゼルローン要塞に着いた時点で改革の宣言、実施、それで良いの……」
異議無し、三人の軍人が頷いた。



宇宙暦796年  7月 14日  ハイネセン 統合作戦本部 シドニー・シトレ



執務室のデスクの上にあるTV電話が受信音を発した。ディスプレイに番号が表示されている。アエネアースからだ、どうやら攻略作戦が終了したらしい。キャゼルヌが緊張した面持ちでこちらを見ている。キャゼルヌも結果が気になるのだろう、今日は受信音が鳴る度に緊張している。

受信するとクブルスリー司令長官の顔が映った。表情が暗い、どうやら失敗したか……。溜息が出そうになったが堪えた。
『本部長閣下、残念ですがイゼルローン要塞攻略戦は失敗しました』
「そうか……」
キャゼルヌが天を仰ぐのが見えた。それだけ期待が有ったのだろう。

「それで、失敗の原因は?」
『それが、……帝国軍はこちらの作戦を見破っていたのです』
「見破っていた? それはどういう事かね」
こちらの情報が漏れた? フェザーン経由で帝国に伝わったのか?

『イゼルローン要塞にはヘルマン・フォン・リューネブルク中将が居ました』
「リューネブルク……」
リューネブルク……、まさか、あのリューネブルクか……。愕然とする私にクブルスリー司令長官が苦い表情で言葉を続けた。
『元はローゼンリッターの第十一代連隊長を務めた人物です』
キャゼルヌの呻き声が聞こえた。

「馬鹿な、何故……」
『リューネブルクが言いました、そろそろ追い詰められた同盟軍がイゼルローン要塞を外からではなく内から攻略する事を考えるだろうとブラウンシュバイク公が予測したと……。その時潜入してくるのは帝国語に堪能なローゼンリッターだろうと。それで彼が極秘にイゼルローン要塞に配備されたそうです』
またキャゼルヌの呻き声が聞こえた。

「信じられん……」
信じられんとしか言いようがない。こちらの作戦をブラウンシュバイク公が見破ったと言うのか……。有り得ない、信じられない話だ。しかし現実にクブルスリーは私の目の前で悔しそうに顔を歪ませている。情報漏洩か、見破られたか、厄介な事になった……。

「艦隊に損害は……」
『有りません。損害は要塞内に送り込んだローゼンリッターだけです。我々は現在、ハイネセンに向かって帰投しております』
「そうか……。御苦労だった、司令長官。要塞攻略が失敗したのは残念だが艦隊に損害が無いのは何よりだ。気を落さず次の機会を待とう」
『はっ』

次の機会か……。そんなものが有るのだろうか……。何も映さなくなったTV電話を見ながら思った。期待が大きかっただけに失望も大きい。それにしてもどちらだろう……。通常なら情報漏洩を疑うところだ。しかしブラウンシュバイク公か……。これまでの事を考えれば彼がこちらの策を見破った可能性も否定できない。

「厄介な相手だな」
「……」
私の言葉にキャゼルヌが無言で頷いた。
「ヤン准将の言った通りかもしれない。我々はほんの僅かだが遅かった、ほんの僅かだが……」

もしブラウンシュバイク公が見破ったのなら、方面軍司令部が出来る前なら成功の可能性は有ったかもしれない。ほんの僅かだが遅かった。だが、そのほんの僅かが重いのだ。その重みはブラウンシュバイク公の重みでもある。溜息の出る重みだ……。

溜息を吐いてばかりもいられない。気を取り直してトリューニヒト国防委員長に通信を入れた。嫌な役目だ、最近では負け戦の報告しかしていない。
『やあ、シトレ本部長、一体何の用かな』
「残念な報告をしなければなりません」
トリューニヒト国防委員長の顔から笑みが消えた。何が起きたか分かったのだろう。

『イゼルローン要塞攻略戦は失敗したのだね』
「その通りです」
トリューニヒト国防委員長が何かに耐えるかのように目を閉じた。芝居がかった事をと思ったが半分くらいは本心からかとも思った。成功率は決して低くない、皆がそう思っていたはずだ。

『成功率は高いと思ったのだが……』
ノロノロとした生気の感じられない口調だ。
「イゼルローン要塞にリューネブルク中将が居たそうです」
『リューネブルク中将……。そうか、不運だな……』
力なく首を振った、トリューニヒト国防委員長はリューネブルクが要塞に居た事を偶然だと思っている。

「偶然ではありません」
『偶然ではない?』
「リューネブルク中将はこちらが要塞内に兵を入れる事を知っていたようです」
トリューニヒト国防委員長の視線が厳しくなった。そして小さな声で問いかけてきた。

『情報漏洩が有ったという事かな、本部長。事実としたら厄介な事だが』
「分かりません。向こうはブラウンシュバイク公がこちらの策を見破ったと言っているそうです」
『ブラウンシュバイク公……、しかし幾らなんでも……』
国防委員長が顔を顰めている。そう、本来なら有り得ない。しかし本当にそう言えるのか……。

「訝しい話ではあります。遠征軍が戻り次第、検証する必要が有るでしょう」
トリューニヒト国防委員長が頷いた。
「今回の作戦で艦隊に損害は有りませんでした。しかし暫くは軍事行動は控えざるを得ません」
軍内部にモグラが居るのなら放置はできない。国防委員長がまた頷いた。

『そうだな、今回の敗因を突きとめるまでは難しいだろう。帝国軍にはそれまで大人しくして欲しいものだ』
全く同感だ、現状で軍事行動を起こすのはリスクが大きすぎる。厄介な状況になった……。



帝国暦487年  7月 14日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   エリザベート・フォン・ブラウンシュバイク



「そうですか、彼らが来ましたか」
「うむ、皆がお前を褒めていたな。神算鬼謀、稀代の名将と」
お父様が嬉しそうに言うとエーリッヒ様はちょっと困ったように笑みを浮かべた。照れてるのかしら。

今日、イゼルローン要塞に押し寄せた反乱軍が撤退すると大勢の貴族達が屋敷に押し掛けてきた。ヒルデスハイム伯、ランズベルク伯、ヴォルフスブルク子爵、シェッツラー子爵、ヘルダー子爵、カルナップ男爵、ホージンガー男爵、ハルツ男爵、ラートブルフ男爵……。

彼らは皆口々にエーリッヒ様を褒め称えた。“神算鬼謀”、“稀代の名将”、“叛徒共も公の前には手も足も出ない”……。正直嬉しかった、エーリッヒ様は本当に凄い。ブラウンシュバイク公爵家の当主に相応しい人だし皆から頼りにされるのも当然だと思う。

「それにしても一体何時の間に知ったのでしょう。私達が知る前に彼らは此処に来たのですけど」
お母様が問いかけるとエーリッヒ様がまた笑みを浮かべた。今度は苦笑いかしら。
「宮中だと思います、リヒテンラーデ侯が大々的に広めると言っていました。軍から侯に報告したのですが、そのすぐ後に侯が皆に広めたのでしょう」

今日はエーリッヒ様の御帰りが早かったから皆で夕食を摂りながらお話し出来る。最初は慣れなくて緊張したけど最近ではエーリッヒ様が居ない夕食はちょっと寂しい。お父様もお母様も“一人増えるだけで随分と違う”と言っている。うん、ナスとトマトのチーズ焼きが美味しい。ベーコンがカリカリしてる。

「どうした、あまり嬉しくはなさそうだが」
「分かりますか?」
「まあそれが分かる程度にはお前を理解出来るようになった」
お父様が笑うとエーリッヒ様は困った様な表情をした。皆に褒められても嬉しくないのかしら。エーリッヒ様が水を一口飲んだ。

「義父上、私はリューネブルク中将にイゼルローン要塞には二年ほど居て貰う事になると頼んだのです」
「二年か……、となると予想よりも随分と早いな」
お父様がシュニッツェルを口に運んだ。エーリッヒ様もシュニッツェルを口に運ぶ。“美味いな”、“いけますね”と二人が話している。

「前回のイゼルローン回廊での戦いから半年です。敗戦後の混乱、体制の立て直し、作戦の準備期間、それを考えると義父上の仰る通り反乱軍の行動はかなり早い。準備はしていましたから慌てはしませんでしたがちょっと驚きました」
「うむ」

「危ない所だったと思います。間に有ったから良かったですがそうでなければ……」
「イゼルローン要塞は陥落していたか……」
「はい」
「うーむ、確かにそれでは喜んでばかりもいられんな」
お父様が唸っている。唸りながらシュニッツェルを食べた。

「この後、帝国内で混乱が起きるかもしれません」
「……」
混乱? 何の事だろう、お父様とお母様を見たけれど二人とも何も言わない。難しい顔をして黙っている。普通ならそんなことは有り得ないと言うはずだけど、二人とも思い当たるフシが有るのかしら……。

「混乱するとお前は思うのだな」
お父様が顔を顰めている。
「不満を持つ人間は少なからずいるはずです。それを煽る人間も居る」
「煽る……、なるほど、フェザーンか……。有り得る話だな、そうであれば帝国は混乱するやもしれん」

お父様がお母様に視線を向けるとお母様が同意するかのように頷いた。私も質問して良いのかしら? お母様を見たけどお母様は厳しい表情で首を振った。子供は口を挟むな、そういう事かしら。不満は有ったけど黙ってトマトを口に運んだ。美味しいけど、なんか美味しくない感じがする。

「反乱軍が黙ってそれを見ていると思いますか?」
エーリッヒ様とお父様が顔を見合わせている。
「……お前の懸念は分かる。しかし方面軍司令部は有効なのだろう。今回の戦いではかなり役に立ったと聞いているが……」
お父様の言葉にエーリッヒ様が首を横に振った。違うの? 役に立ってはいないのかしら……。

「戦闘に入るまでは問題ありません。ですが戦闘に入った時どうなるか……。要塞司令部と駐留艦隊司令部が指示に従って有機的に連動するか、今回は戦闘が起きなかったため確認はとれていません。不安要素が無いとは言えないのです……」
「うーむ」
お父様がまた唸った。

「念のためミューゼル提督に四個艦隊を預けてイゼルローン要塞に待機させますが……」
溜息を吐いたエーリッヒ様を見てお父様が微かに笑った。
「お前は心配性だな」

今度はエーリッヒ様が笑った。
「そうでなければ戦場では生き残れませんよ」
「戦場か、これからはオーディンも戦場になるかな……」
「おそらく、……油断は出来ません」
エーリッヒ様がお父様、お母様、そして私を見た。いつもの優しい眼じゃない、厳しい眼だった……。





 

 

第三十三話 疑惑



帝国暦487年  7月 20日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  フレーゲル内務尚書



「卿もここに呼ばれたのか、フレーゲル内務尚書」
「うむ、どうやら卿も同様らしいな」
ブラウンシュバイク公爵邸を訪れ応接室に通されると先客がいた。ルンプ司法尚書、内務尚書である私とは時に協力者であり時に敵対者でもある。

「政府閣僚を二人も呼び付けるとは、ブラウンシュバイク公の勢威も大したものだ」
ルンプの隣に座ると彼が面白くなさそうに小声で囁いてきた。全く同感だ、帝国軍三長官の一人とはいえ、宇宙艦隊司令長官は最も低い立場ではないか。それが我らを呼びつけるとは……。

「元は平民だ」
「一応男爵家の血は引いているぞ、フレーゲル内務尚書」
「……認められるのか?」
ルンプ司法尚書が太い息を吐いた。

「実力は有る。それは認めなければなるまい。今回も反乱軍の意図を未然に防いだのだからな」
「イゼルローン方面軍か……」
「うむ」
小声での会話が続く。我々だけでは無い、今もこのオーディンの何処かで似たような会話がされているだろう。

多くの貴族が不満を持っている。先日の宇宙艦隊の編成についても平民、下級貴族を中心に編成をしている。明らかに我ら貴族をないがしろにしているとしか思えない。しかし功を上げているのも確かだ。その所為で正面から不満を言う事も出来ずにいる。鬱屈する事ばかりだ。

面白くない、……成り上がりの平民、男爵家の血を引いているとはいえ平民風情が帝国元帥、ブラウンシュバイク公となり我らの上に立っている。不愉快極まりない事実だ。それにあの男には何度も煮え湯を飲まされた。サイオキシン麻薬、ビーレフェルト伯爵の一件……。

そしてもう一人、目障りな小僧が居る。ラインハルト・フォン・ミューゼル、皇帝の寵姫の弟……。あの小僧、ローエングラム伯爵家を継承する事が内定していたが白紙に戻った。目障りな小僧もこれで少しは大人しくなるかと思ったがブラウンシュバイク公と組むことで以前より宮中、軍内部に力を伸ばしている。最近は面白くない事ばかりだ。

ブラウンシュバイク公が応接室に入ってきた。大公は居ない、軍人が二人、公に付いている。確かアンスバッハ准将とフェルナー大佐だったな。大公の腹心だ、若い公爵の御守り役だろう。大公も平民の養子が心配だと見える。ブラウンシュバイク公はソファーに座りながらにこやかに話しかけてきた。

「お呼び立てして申し訳ありません。実は新無憂宮では聊か話し辛い事をお願いしなければならないものですから」
「ブラウンシュバイク大公は御同席されぬのですかな」
聊か意地の悪い質問をしたがブラウンシュバイク公は表情を変えなかった。
「ええ、義父は此処には出ません」

ルンプ司法尚書と顔を見合わせた。
「ではこの呼び出しは大公は知らぬ事なのでしょうか」
「いいえ、知っておりますよ、ルンプ司法尚書。義父は私に任せると言いました」
「……」

可愛げがない。少しは不愉快そうな表情でも見せれば良い物をまるで表情を変える事が無い。おそらくはルンプも同じ思いだろう。何処か詰らなさそうな表情をしている。少しぐらいあたふたして見せれば良いのだ。多少は溜飲が下がるだろう……。

「お話しに入っても宜しいですか」
「もちろんです、我らに一体どんな用が有るのでしょう」
私が答えるとブラウンシュバイク公がじっと我らを見た、そして微かに笑みを浮かべた。

「そろそろカストロプ公を処分しようと思います。内務省と司法省には彼の犯罪についての資料が有るでしょう。それの提供をお願いしたいのです」
「……」
思わず目を見張り、そしてルンプと顔を見合わせた。彼も驚いている。

オイゲン・フォン・カストロプ公爵、財務尚書の地位にあるが評判の悪い男だ。いや評判だけでは無い、実際にやっている事も碌なものではない。しかし処分? まさかとは思うがあの事を知っているのだろうか。それで今回報復しようとしている? まさかとは思うが……。

「カストロプ公は財務尚書として帝国政府を支える国家の重臣の一人です。いくらブラウンシュバイク公といえども彼を処分など軽々しく……」
「フレーゲル内務尚書、詰らない事は言わないでください」
「……」
ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。ルンプが立てた音だ。それを聞いてブラウンシュバイク公が低く笑った。

「お二人に話す以上、リヒテンラーデ侯の了承は得ています。その程度の配慮も出来ない愚か者と思われたとは……、心外ですね」
「そういうわけでは……」
語尾が小さくなった。ブラウンシュバイク公が冷たい目でこちらを見据えている。口元には笑みが有った。

「命じても良いのですよ、資料を出せと。ですが成り上がりの若造にそう言われたのでは屈辱でしょう」
囁くような声だ。背中に悪感が走った。口調は穏やかだが凍り付く様な冷やかさが有る。さっきの会話を聞かれていたのだろうか……。

愚かな事を口にした、生まれはどうあろうと相手はブラウンシュバイク公なのだ、そして軍の重鎮でもある、軽く見る事など許されない。そしてブラウンシュバイク、リッテンハイム、リヒテンラーデ、軍が協力体制を取っている以上、公の依頼は命令と同じ強制力を持つ。

「ブラウンシュバイク公、御冗談はお止め下さい、我らは」
不満になど思っていない、そう言おうとしたが公は取り合わなかった。
「それに内務尚書とは色々と有りましたからね。この辺りで関係を改善したい、そう思ったので協力をとお願いしているのですよ」
「……」

顔が引き攣った、汗も流れている、慌ててハンカチで頬を押さえた。断る事は出来ない、断れば当然だが報復が有るだろう。下手に出て関係改善を望んだにも関わらず顔を潰したとして……。一体どんな報復が有るか……。オッペンハイマーは死んだ、コルプトは逼塞しベーネミュンデは自ら死を選んだ。我々には……、ルンプはまだ良い、私は敵対者とみなされ徹底的に潰される事は間違いない。

「早速資料を用意致します」
「私も早急に……」
我らが協力を約束するとブラウンシュバイク公は穏やかな表情で頷いた。先程までの冷たさは欠片も感じられない。

「私の両親の事件についても資料が有るはずです。間違いなくそれも用意してください」
「そ、それは……」
「あの男の命令を受けた人間が殺した、そうでしょう?」
ルンプ司法尚書が困惑している。資料を出して良いのかという事の他に何故知っているのかという疑問があるだろう。付添いの軍人二人も知らなかったようだ、懸命に動揺を抑えている。

「御存じなのですか?」
私が問いかけるとブラウンシュバイク公が軽く頷いた。微かに笑みを浮かべている、何処か楽しそうな表情だ。
「昔、親切な人が教えてくれました。なかなか義理堅い人で……」
「それは……」
「皇帝の闇の左手だった人です」
「!」

ルンプと顔を見合わせた。以前にも公が闇の左手なのではないか、何処かで関係が有るのではないかという噂は有ったが事実だったのか……。
「資料の件、宜しくお願いします」
「必ず」
「それとこの件については内密にお願いします」

ルンプも私も無言で頷いた。それを見てブラウンシュバイク公がまた笑みを浮かべた。さっきの楽しそうな笑みでは無い、凍て付く様な笑みだった。もし洩らせばどうなるか……、その事を思わせる笑みだった。



宇宙暦796年  8月 15日  ハイネセン 統合作戦本部  ヤン・ウェンリー



本部長室に入ると直ぐに本部長が声をかけてきた。
「御苦労だったな、ヤン准将」
「いえ、労われる様な事は何も……」
私の答えにシトレ元帥が苦笑を洩らした。ソファーに座って本部長と顔を見合わせる。顔色が良くない、少し疲れているのかもしれない。

「今回の作戦、失敗の原因は何処に有ると君は思うかね」
「……」
「答え辛いか……、情報漏れが原因だと思うか?」
本部長がヒタっと視線を合わせてきた。
「さあ、それは……」
どう答えれば良いか、溜息が出た。

作戦失敗後、遠征軍の総司令部では失敗の原因について皆が疑心暗鬼にならざるを得なかった。リューネブルク中将はブラウンシュバイク公がこちらの作戦を見破ったと言っていたが本当にそうなのか、実際には情報が漏れていたのではないか……。時に密やかに、時に声高に、総司令部の彼方此方で深刻な討議が起きた。

今回のイゼルローン要塞攻略戦、兵の動員そのものは秘匿しなかった。五万隻近い艦艇を動かすのだ、フェザーンの目を晦ますのは簡単ではないだろう。だから帝国も同盟の軍事行動を知る事は難しくは無かったはずだ。問題は作戦計画だ、何故ブラウンシュバイク公は知っていたのか……。

「もし情報漏洩が有ったとするとブラウンシュバイク公は遅くとも五月の中旬から末頃には情報を得ていた事になります。そうでなければリューネブルク中将が七月の上旬にイゼルローン要塞に居る事は出来ません。オーディンからイゼルローン要塞までは約四十日かかります」

「うむ、と言う事は五月の末の時点で誰が作戦の内容を知っていたかが問題になるわけだな」
「情報漏洩が有ったとすればです」
シトレ本部長が頷いた。

「私があの作戦の基となる作戦案を宇宙艦隊司令部に提示したのが五月の上旬です。そして作戦案が完成したのが五月の下旬に近かったと思います。ブラウンシュバイク公が情報を得たのが五月の中旬から下旬。この時点で作戦内容を知っていたのは宇宙艦隊司令部と統合作戦本部の一部です」

本部長の顔が歪んだ。そう、論理的に追っていけば情報漏洩者は身近にいるとしか思えない。そして本部長自身もその容疑者の一人という事になる。
「……ローゼンリッターが作戦内容を知ったのは何時だった?」
「作戦を説明したのは六月に入ってからです」
「六月か……」
本部長が考え込んでいる。やはり本部長もローゼンリッターを疑うのか……。

「もし彼らが情報漏洩者なら、リューネブルク中将は我々がイゼルローン要塞に到着する二、三日前に要塞に着いたことになります」
「不可能ではないが……」
本部長が呟いた。確かに不可能ではない。しかし余りにも時間に余裕が無さすぎる。現実にはとても可能だとは思えない。

遠征軍の総司令部でもローゼンリッターに疑いが向けられた。時間的に余裕が無い事を私が指摘すると皆口を噤むが納得はしていない。皆自分の周囲に情報漏洩者が居るとは考えたくは無いのだ。どうしても亡命者の子弟から成り立つローゼンリッターに疑いが向く。

「不可能ではありませんが難しいと思うのです。それにブラウンシュバイク公にしてみれば情報を得た時点でイゼルローン要塞に警報を発するだけで良い。リューネブルク中将をイゼルローンに送る必要は有りません」
シトレ本部長が私をじっと見た。
「……君は、ブラウンシュバイク公が見破った、そう思うのだね」
「……」

答えられない……。あの作戦は正攻法とは言えない、奇策だ。或る意味もっとも愚かしい作戦だと言える。だからこそ敵も意表を突かれると思った。だがそれをブラウンシュバイク公は見破っている。いや、見破っているとしか思えないのだがそんな事が有るのだろうか? どうにも信じられない……。

「それも確証はないか……」
「……申し訳ありません」
「厄介だな」
シトレ本部長が溜息を吐いた。そしてそのままじっと私の顔を見た。

「今回の作戦の成否については私だけではない、政治家達も関心を持っていた。それだけに失敗した事については酷く落胆している。そして彼らはブラウンシュバイク公が見破ったという事に疑問を抱いているのだ」
「……つまり真実は必要とされていない、生贄が必要とされていると……」
「……そうは言っていない、そうは言っていないが……」
本部長の歯切れが悪い。

ここ近年、同盟軍は敗北が続いている。それだけに今回の作戦に政治家達も期待していたのだろう。だがそれが失敗した。重なる敗戦に同盟市民の不満は高まっている、政治家も軍上層部も自分達に責任は無い、裏切り行為が有ったため同盟は敗れた、そう責任転嫁したい、同盟市民の不満を逸らしたいという事だろう。そしてその手の責任を押付けられるのは常に弱い立場の人間だ。

「この件が片付かない限り大規模な軍事行動は難しい……。トリューニヒト国防委員長はそう考えている。私も同感だ。君の言った通り、今回の敗因はブラウンシュバイク公が見破った事によるのかもしれない。しかし証拠が無い、今のままではどうにもならない……」
「……しかしだからと言って……」
「分かっている。厄介な事になった」
シトレ本部長が溜息を吐いた。

誰もがこの作戦の失敗を情報漏洩者の所為にしたがっている。たとえ真実はブラウンシュバイク公が見破ったとしてもだ。厄介な事になった、これから同盟軍内部で魔女狩りが始まるかもしれない……。





 

 

第三十四話 カストロプ公




帝国暦487年  8月 25日  イゼルローン要塞  ラインハルト・フォン・ミューゼル



「遠路、御苦労でした。ミューゼル提督」
方面軍司令部で到着の挨拶をするとグライフスイゼルローン方面軍司令官は穏やかな表情で俺達の到着を労ってくれた。
「いえ、反乱軍撃退に間に合わなかった事、申し訳なく思っております。それと我らの到着前に反乱軍を撃退された事、心から感服しております」

実際にはオーディンを出た直後に反乱軍は撤退していた。俺が遅延したわけではないから謝る必要はない。だがここはこう言っておくべきだろう。これから先二ヵ月程はイゼルローン要塞に厄介になるのだ。家主と喧嘩してギスギスした関係を作る事はない。

俺の言葉にグライフス方面軍司令官が首を横に振った。
「いやいや、全てはブラウンシュバイク公の御配慮のおかげだ。まさか反乱軍が要塞内部に兵を送り込んでくるとは思っていなかった。リューネブルク中将が居なかったらどうなっていたか……。寒気がする」

リューネブルク中将はグライフス方面軍司令官の後方で不敵な笑みを浮かべていた。相変わらずだ、昔から少しも変わっていない。そしてシュターデン中将が不機嫌そうな表情で俺を見ていた。これも変わっていない。何だか急に昔に戻った様な感じがした。司令部要員は全員そろっているようだが他に知っているのはメルカッツだけだ、彼はグライフス方面軍司令官の後ろで控えている。

「ブラウンシュバイク公からは二ヵ月程こちらに居ると聞いているが、何か有るのかな。詳しい話は聞いていないのだが」
「一つは今回の防衛戦でイゼルローン方面軍司令部において何か問題が生じなかったか、改善すべき点が見つからなかったかを確認するようにと言われています」
「なるほど」

グライフス方面軍司令官は頷いているがシュターデンの表情は厳しくなった。自分達の欠点を探りに来たとでも思っているのだろう、心の狭い男だ。
「次の戦いが近々起きる可能性が有ります。その前に改善できる所はしておきたい、そうお考えなのでしょう」

俺の言葉に方面軍司令部の要員が訝しげな表情を浮かべた。撤退したばかりで再度押し寄せる、普通ならちょっと有り得ない事だろう。グライフス方面軍司令官が一度司令部要員に視線を向けてから問いかけてきた。
「近々反乱軍が再度押し寄せると言うのか……、何か根拠が有るのかな、ミューゼル提督」
皆が視線を向けてきた。シュターデンの表情が厳しい、好い加減な事を言ったらとっちめてやるとでも思っているに違いない、分かり易い奴だな。

「ブラウンシュバイク公は国内の政治改革をしようとしているようです」
「政治改革?」
グライフス方面軍司令官が呟くと司令部の彼方此方で顔を見合わせる姿が見えた。思いがけない事を聞いた、皆がそんな表情をしている。

「今月の中旬には始めると言っておられました。おそらく我々がイゼルローン要塞に到着するのを待っているのでしょう。政治改革が始まれば場合によっては帝国内部で混乱が生じる可能性が無いとは言えません」
「なるほど、政治改革に反対する貴族が騒乱を起こす可能性が有るか」
グライフス方面軍司令官が呟くと彼方此方で頷く姿が見えた。

「そして反乱軍がその混乱に乗じようとする可能性が有ります。フェザーンがそれを唆すという可能性も有るでしょう、油断はできません」
俺が指摘すると今度は呻き声が聞こえた。皆、フェザーンが帝国の弱体化を望んでいる事を知っている。

「何故今改革を……」
「シュターデン参謀長!」
悔しげに呟くシュターデンをグライフス方面軍司令官が咎めた。
「しかし、せっかく有利に戦争を進めていると言うのに……」
シュターデンがなおも言い募った。

「シュターデン中将、今だから改革を行うのだと私は思う」
「……」
シュターデンが俺を睨んでいる。
「改革を行えば貴族が不満を持つだろう。それを押さえるには強い力が必要だ。今なら帝国はブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、そして軍が協力体制を取っている。不満を押さえる事が出来る」

俺の言葉にシュターデンが悔しそうに唇を噛んだ。それを見てグライフス方面軍司令官が俺に話しかけた。
「今だから出来るか……、確かにそうだな。反乱軍が押し寄せてくれば卿が四個艦隊を率いてそれを防ぐか……」
「方面軍司令部と協力して行うことになります」
グライフス方面軍司令官が頷いた。

「リューネブルク中将の件といい、卿の件といいブラウンシュバイク公の手配りの良さには感嘆するな」
「まことに」
俺が答えるとグライフス方面軍司令官が笑みを浮かべた。

「ではミューゼル提督、我らも為すべき事を為そう。先ずは今回の戦いで見えた方面軍司令部の問題点だな。そして反乱軍が押し寄せた時の我らの連携……、早速だが会議室に行こうか、あまり時間は無さそうだ」
「はっ」



帝国暦487年  8月 25日  オーディン  新無憂宮    フレーゲル内務尚書



黒真珠の間に貴族、軍人、官僚が集められた。彼らの殆どは今日何が行なわれるか知らない、政府から重大な発表が有ると言われて集まっているだけだ。皆不安そうに顔を見合わせながら何が有るのかと小声で話し合っている。そして内務尚書の私も司法尚書のルンプも発表の内容を知らない。

だが何の問題も無い様に黒真珠の間に居る。何も知らぬ事を周囲に知られるのは面白くない。頼りにならぬと皆に侮られるだけだ。問いかけてくる人間も居るが私もルンプも軽々しく教える事は出来ぬと言って追い払っている……。

皇帝の玉座に近い位置には帝国の実力者と言われる大貴族、高級文官、武官がたたずんでいる。ブラウンシュバイク大公、ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、エーレンベルク、シュタインホフ両元帥……。皆無言だ、しかし不安そうな表情は見せていない。おそらく彼らは発表の内容を知っているのだろう。

政府閣僚で有る我々の知らない政府発表が有る。だが不思議な事では無い、帝国には二つの政府が有るのだ。一つはリヒテンラーデ侯を首班とする政府、これは公式なもので私もルンプもその一員だ。そしてもう一つは帝国の実力者ブラウンシュバイク大公親子、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯達からなる非公式な政府だ。どうやら今回の政府発表はそちらの非公式な政府からの物らしい。

帝国で何かが起きようとしている。カストロプ公は未だ処分されていない、財務尚書のままだ。或いは今回の政府発表で処分が発表されるのかもしれないがそれだけではあるまい。皆を集めたのだ、それ以外に何かが有るはずだ。そしてそこにはブラウンシュバイク公の意向が強く反映されている……。

あの呼び出し以来、ブラウンシュバイク公を軽視するのは危険だと私もルンプも肝に銘じている。単なる軍人ではないという事を改めて認識した。ブラウンシュバイク公爵家の養子になったのも勢力バランスを保つためだけではあるまい。むしろブラウンシュバイク公爵家がその器量を見込んで受け入れたと見るべきだろう。公爵家の将来を彼に委ねたのだ。

「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下の御入来」
式部官の声と帝国国歌の荘重な音楽が流れる中、皇帝フリードリヒ四世が入来した。参列者は皆深々と頭を下げて陛下を待つ。ゆっくりと頭を上げると皇帝フリードリヒ四世が豪奢な椅子に座っていた。

陛下は黒真珠の間を見渡すとリヒテンラーデ侯に“始めよ”と命じた。リヒテンラーデ侯が陛下に一礼すると我々の方を見た。
「皆、ご苦労である。今日集まってもらったのは他でもない。この帝国がこの後も栄えていくため陛下はある決断をした。それを皆に伝えるためである」

リヒテンラーデ侯の言葉にざわめきが起きた。なるほど勅命というわけか、それなら政府閣僚も逆らえない。しかし一体何を行うのか……。
「貴族に与えられている徴税権に対しこれまで帝国は制限を設けてこなかった。しかし近年貴族の中には徒に税を貪り、帝国臣民を苦しめている輩がいる。よって帝国は臣民を守るため貴族の税の徴収権に対し制限を加える事にした。すなわち税率の上限を定める」

どよめきが起きた。貴族の税の徴収権に対して制限を加える、これまで一度も例の無かった事だ。もちろん苛政を極めた貴族に対しては叱責が入った事、或いは取り潰しを行った事は有る。だがあくまでそれは個々に対応した事だ、それを制度化するとは……。

「この制限を超えて税の徴収を行った場合、帝国臣民を徒に苦しめたとして重い罰が与えられるであろう。なお、同時に間接税の税率も引き下げる事とする」
間接税も引き下げる、つまり貴族だけでなく政府も税を軽減するという事か……。当然だが税収は減る、貴族だけに不利益を押し付けるわけではないと言う事だな。これでは政府に対して正面から不満を言うのは難しい。

政治改革、平民達の保護か……。ブラウンシュバイク公だな、これは公が主導している事だろう。確かに平民達の不満は高まっている、何処かでガス抜きが必要だったのは間違いない。それをガス抜きではなく根本的に解消するという事か。しかし貴族達が納得するだろうか……。

「お待ち頂きたい!財務尚書として承諾しかねます! 第一、私はそのような話は聞いておりませんぞ」
太い声が黒真珠の間に響いた。財務尚書カストロプ公が顔面を真っ赤にしている。職掌を侵された、そう思っているのだろう。大広間の人間は皆驚いたような表情でリヒテンラーデ侯とカストロプ公を見ている。

「愚かな……」
ルンプの呟く様な声が聞こえた。全く同感だ、これだけの大事だ、相談するのを忘れたなどという事は有りえない。故意に知らせなかったのだ。それに気付けば何故かと思わねばならない、そうであれば当然だが対応の仕方が有る。それなのに大声で異議を唱えるとは……。確かに愚物だ、処分するべきであろう。

リヒテンラーデ侯が興味なさそうな表情をしている。
「カストロプ公か……」
まるでそこに居たのかと言わんばかりの口調だ。
「間接税の軽減などすれば税収が減ります。それではやっていけません!」
憤然として異議を唱えるカストロプ公をリヒテンラーデ侯が憐れむ様な表情で見た。

「残念だが卿はもう財務尚書ではない」
「……」
どよめきが起きた。やはりここで処分するのか……。カストロプ公が何か口走ったようだが全く聞こえない。皆口々に何かを喋っている。リヒテンラーデ侯が右手を挙げると黒真珠の間がシンと静まった。

「卿はクビだ。新任の財務尚書はゲルラッハ子爵が務める。卿が心配することは無い」
「……馬鹿な、何故……」
「何故? カストロプ公爵家はこれまで犯した罪により廃絶となった」
リヒテンラーデ侯が冷笑を浮かべている。言葉の内容よりもその表情に驚いた。皆が口を開くことも出来ずに黙って見ている。

「罪とは、罪とは何です、リヒテンラーデ侯。一体私が何の罪を犯したと言うのか」
思わず失笑しかけた、ルンプも顔を歪めている。この男、自分の犯した罪が誰にも知られていないとでも思っているのか。いや、犯していないと言わざるを得ないのか。彼方此方で顔を見合わせ失笑する貴族、軍人の姿が見えた。

「卿の犯した罪は此処に記載されていますよ、カストロプ公」
「ブラウンシュバイク公……」
ブラウンシュバイク公が手に書類を持っている。リヒテンラーデ侯同様公も冷たい笑みを浮かべている。

「司法省、内務省に保管されていたものです」
カストロプ公がこちらを見た、彼だけではない、皆が私とルンプを見ている。上手いやり方だ、これでは我々が改革に積極的に賛成してカストロプ公を排除しようとしている、そう見えるだろう。

ブラウンシュバイク公も我々に視線を向けてきた。表情には笑みが有る。皆には公が我々に感謝しているように見えるはずだ。いや実際に感謝しているのかもしれない。だがそれだけでは有るまい、同時に我々がその感謝を受け取るか、それとも拒否するか、どちらを選ぶかを確認しようとしている……。

ルンプと顔を見合わせた、私が頷くと彼も頷く。今ここで逆らうなどキチガイ沙汰だ。笑みを浮かべて僅かに頭を下げた。ルンプも同じようにする。ブラウンシュバイク公の笑みが更に大きくなった。これで貴族達は我々がブラウンシュバイク公に密接に繋がっていると認識しただろう。そして私もルンプも今の地位に留まる事が出来る。この場にいる大勢の貴族達がその証人だ。

「資料の中には十年前、卿が人を使ってコンラート・ヴァレンシュタイン、ヘレーネ・ヴァレンシュタインを殺させた事も記載されています」
またどよめきが起きた。皆が二人の公爵を見比べている。ブラウンシュバイク公は冷たい笑みを浮かべカストロプ公は顔面を蒼白にして小刻みに震えている。

「あれは、リメス男爵家の……」
「無駄ですよ、キュンメル男爵家の横領を図った卿が男爵家の顧問弁護士をしていた父を殺した事は分かっているんです。その罪を他人に擦り付けて素知らぬ振りをしていた事もね」

ざわめきは止まらない。今度は皆がヴァルデック男爵、コルヴィッツ子爵、ハイルマン子爵を見ているが三人はその視線を無視してカストロプ公を睨んでいた。或いは周囲の視線に気付いていないのかもしれない。十年間濡れ衣を着せられたのだ。そしてここ最近はブラウンシュバイク公の報復に怯えていただろう。恨みは深いはずだ。

「復讐のつもりか、それでカストロプ公爵家を廃絶に追い込むのか、ブラウンシュバイク公」
カストロプ公の声が震えている。そしてブラウンシュバイク公が声を上げて笑った。

「復讐? 復讐するつもりなら昨年の陛下御不例時に殺していますよ。必要だから生かしておいた、そして今は処分する必要が生じた、そういう事です」
「どういう事だ、それは……。生かしておいた?」
訝しげなカストロプ公を見てブラウンシュバイク公がまた笑い声を上げた。公だけではないリヒテンラーデ侯も笑っている。明らかに嘲笑と分かる笑い声だ。

「近年平民達から税を取る事しか考えない馬鹿な貴族が多くなりましてね、平民達の不満が高まっているんです。下手をすると革命が起きかねない、だからそれを防ぐために卿を財務尚書にしたのですよ」
「……」
どういう事だろう、ブラウンシュバイク公の言葉に皆が顔を見合わせている。

「案の定卿は職権を不正に利用して私財を貯め始めた、周囲が顔を顰める程に。平民達は皆、卿のような男が財務尚書だから税の取り立てが厳しいのだと卿を恨む事になった……」
「……馬鹿な、誰が財務尚書をやっても同じだ」
カストロプ公が抗議するとブラウンシュバイク公がまた声を上げて笑った。

「その通り、誰がやっても同じです。それを変えるためには抜本的な改革を行わなければなりません。しかしそれを行えるだけの環境が整っていなかった。となれば平民達は帝国を恨むようになる。だからカストロプ公、卿を財務尚書にする必要が有ったのです」

戦慄が身体を走った。要するに帝国に対する恨みをカストロプ公に向けさせたという事か。だからこれまでカストロプ公はどれほど罪を犯そうと処罰されなかった。彼が処罰される時は平民達の不満が限界に達した時か、帝国が改革を実施する時……、そしてその時が今来ようとしている。なんという冷酷、なんという非情、皆蒼白になって凍り付いたように動けずにいる。

「わ、私を利用したのか、リヒテンラーデ侯!」
悲鳴のような声をカストロプ公が上げるとリヒテンラーデ侯は苦笑した。
「不満かな、カストロプ公。卿も随分と良い思いをしたのだ、そろそろその代償を払うべきであろう」
「……卑怯な」
呻く様な声にリヒテンラーデ侯の苦笑が益々大きくなった。

「卑怯? 気付かなかった卿が愚かよ。ブラウンシュバイク公は私が何も言わずとも気付いておったわ。公が言ったであろう、必要だから卿を生かしておいたと……」
ブラウンシュバイク公を見た。公は穏やかに笑みを浮かべている! 慌てて視線をカストロプ公に戻した、悲鳴を上げたくなるほどの恐ろしさだ。おそらく公を見た人間は皆そう思っただろう。

無言で立ち尽くすカストロプ公に対しリヒテンラーデ侯の表情が一変した。今度は嫌悪感を露わにしている。
「長かったわ、卿のような男が財務尚書の任にあるのかと思うと虫唾が走ったがようやく始末できる。改革が出来るだけの体制が整ったからの」

「改革が上手く行くと思うのか? 笑わせるな! 間接税の税率を引き下げれば税収は不足する。その不足分をどうするつもりだ。結局は増税しかあるまい!」
カストロプ公が悲鳴のような抗議の声を上げたがブラウンシュバイク公もリヒテンラーデ侯も微動だにしなかった。

「貴族が必要以上に税を取らなければ間接税の税率を下げても十分にやっていけます。それにカストロプ星系は帝国政府の直轄領になる、そこからも税収は期待できる」
「……」

反論出来ずにいるカストロプ公にブラウンシュバイク公が優しく微笑んだ。
「なによりカストロプ公爵家は廃絶となったのです。公爵家の私財は全て帝国政府に接収されます。随分と貯め込んでいるのでしょう? 税収の不足等という事は無いと思いますよ」
「……」

無言で立ち尽くすカストロプ公にリヒテンラーデ侯が追い打ちをかけた。
「御苦労だった、カストロプ公。卿が生きて果たす役目はもう無い。安らかにヴァルハラに行くがよい、それが卿が帝国に対して出来る唯一の善行だ」
皆が凍り付く中、カストロプ公が呻き声を上げて蹲った……。


 

 

第三十五話 反撃


帝国暦487年  8月 25日  オーディン  新無憂宮    フレーゲル内務尚書



蹲るカストロプ公をブラウンシュバイク公とリヒテンラーデ侯が見降ろしている。二人が顔を見合わせリヒテンラーデ侯が首を横に振るとブラウンシュバイク公が苦笑を浮かべた。衛兵が呼ばれカストロプ公が引き立てられる。カストロプ公は抵抗したが衛兵は情け容赦なく連れ去った。ちょっと前なら有り得ない光景だ、この場の全員がカストロプ公爵家は廃絶したのだと改めて認識しただろう。

「ゲルラッハ子爵」
「はっ」
「カストロプ公爵家の私財の接収に取り掛かってくれ。軍には話しを付けてある、艦隊を動かしてくれるはずだ」
「承知しました」

リヒテンラーデ侯とゲルラッハ子爵が話している。新財務尚書の最初の仕事は前任者の私財の接収か……。ゲルラッハ子爵もこれでは汚職に手を出す事など出来ないだろう。誘惑にかられる度にカストロプ公の惨めな姿を思い出すに違いない。

平民達はカストロプ公爵家の廃絶に喜び、税の軽減に喜ぶだろうな。今回の改革を諸手を上げて歓迎するに違いない。そして税収の不足分はカストロプ公の私財で埋め合わせをする、何とも辛辣な……。最後までカストロプ公を利用し尽くした。

「クレメンツ提督、ワーレン提督」
「はっ」
ブラウンシュバイク公の呼びかけに二人の軍人が応えた。
「聞いての通りです、軍は財務省の接収作業に協力する事になります。直ちに艦隊の出撃準備を整えてください」
「はっ」

「カストロプ公爵家は私設の軍を保持しています。当然ですが抵抗してくるでしょう。軍の役目はそれを鎮圧する事になります」
ブラウンシュバイク公の言葉に二人の軍人が顔を見合わせた。ややあって年長の士官が口を開いた。

「承知しました。他に留意すべき点は有りますでしょうか」
ブラウンシュバイク公がほんの少し考えるそぶりを見せた。
「……カストロプ公爵家の跡取り、マクシミリアン・フォン・カストロプは平均以上の軍事能力を持っていると聞いた事が有ります。油断しないように、二個艦隊を動かすのもその為です」
「はっ、では我らは準備に取り掛かります」

軍人二人が陛下に敬礼をすると足早に黒真珠の間を去ってゆく。なるほど、今の宇宙艦隊は下級貴族と平民達が指揮官だ。カストロプ公爵家に遠慮などはするまい。マクシミリアンが抵抗すれば容赦なく叩き潰されるだろう。二人が立去るのを見送ったブラウンシュバイク公が貴族達に視線を向けた。

皆が居心地の悪そうな表情をしている。無理もない、今カストロプ公が破滅したところを見たばかりなのだ。そんな彼らを見てブラウンシュバイク公が微かに笑みを浮かべた。
「税に制限を加える事を不満に思う方もいるかもしれません。しかしこれは卿らを守るためなのです」

不思議な事を言う、皆が訝しげな表情をした。
「政府が決めた範囲内での徴収であれば例え領内で暴動が起きても卿らは帝国が保障した権利を行使しただけの事。基本的にその事で咎められることは有りません。帝国貴族としての存続を帝国が保障します」
公の言葉に彼方此方で頷く姿が見えた。

「しかし政府の命に背いて制限を超えた税を徴収した場合は保障しません。場合によってはカストロプ公同様廃絶という事も有ります」
「……」
「この制限が気に入らぬと言うなら反乱を起こしても構いません。宇宙艦隊は何時でも鎮圧する用意が有る」

皆顔を見合わせている。顔色を窺い他人がどう考えているかを確認しようとしている。反乱に利が有れば反乱を起こそう、そう考えているだろう。税の制限など嬉しい事ではないのだ。その様子を見てブラウンシュバイク公が軽やかに笑い声を上げた。貴族達がギョッとしたような表情をする。愚かな……、どうしてそうも読まれ易いのか……。

「或いはフェザーンが反乱の援助を申し出てくるかもしれません。しかし……、気を付けるのですね」
「……」
公が意味有りげに笑みを浮かべている。

「彼らは卿らの勝利を望んでいるのでは有りません。帝国の混乱を望んでいるだけです。卿らが敗勢になれば用済みとして平然と切り捨てられますよ。何処かの誰かのように……」
ブラウンシュバイク公の言葉にリヒテンラーデ侯が低く笑い声を上げた。この二人、人を脅すために生まれてきたような男達だ。貴族達が顔を蒼白にしている。

「脅すのはその辺りにしてはどうかな、ブラウンシュバイク公。皆蒼褪めている」
リヒテンラーデ侯が含み笑いをしながら公を宥めると公は肩を竦めた。
「脅しじゃありません、忠告しているのです。フェザーンは他人を利用するのが上手ですからね、ついでに切り捨てるのも」
「なるほど、まあそうだの」

二人が声を上げて笑う、他人の事は言えんだろう、この二人も相当なものだ。しかしフェザーンか……。さてどうする、どうやら身辺がキナ臭くなってきたかもしれない。私だけではあるまい、この場に居る貴族の少なからぬ人間がフェザーンとは表に出せない関係を持っているはずだ。ここは思案のしどころだな……。

「改革はこれで終わりでは無い、これからも続く。だが無理はせぬ、卿らにも受け入れられるよう緩やかに進めるつもりだ。それ故卿らも愚かな事を考えぬ事だ。平民達の不満が爆発して革命が起きれば我らは全てを失う、改革に不満を持ち反乱をおこしても同様だ、分かるな」
リヒテンラーデ侯が諭す様な口調で皆に話しかけた。しかし蒼白になりながらも不満そうな表情、納得がいかないといった表情をしている人間が居る。果たしてどうなるか……。



帝国暦487年  8月 25日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   フレーゲル内務尚書



黒真珠の間で改革の発表が終わった後、私とルンプ司法尚書はブラウンシュバイク公爵邸に寄って欲しいと公から頼まれた。他の貴族達が見ている前でだ。協力に感謝している、ついては今後の事もあるので屋敷に寄って欲しいと……。断ることは出来ない、ルンプも私も有難く招待を受けた。

ブラウンシュバイク公爵邸の応接室には私達の他にも人が居た。リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵、エーレンベルク元帥、シュタインホフ元帥、そしてブラウンシュバイク大公、公の親子。どうやら私達は帝国のもう一つの政府に入る事を許されたらしい。

「それにしても随分と脅したな、皆顔を蒼白にさせていたが」
リッテンハイム侯がコーヒーを口に運びながら言うと皆が頷いた。
「ブラウンシュバイク公は中々過激でな。リッテンハイム侯には覚えが有るのではないかな」
「それを言うな、リヒテンラーデ侯」
リッテンハイム侯が顔を顰めると彼方此方でさざ波の様に苦笑が湧いた。

「連中、どう出るかな」
大公が皆に問いかけた、視線がブラウンシュバイク公に集中する。やはりブラウンシュバイク公の存在感は当初私が思っていたより大きいようだ。ルンプに視線を向けると彼も興味深げに座を見守っている。

「率先して反乱を起こす馬鹿はいないでしょう」
公の言葉に皆が失笑した。“酷い事を言う奴だな”と大公も笑う。
「しかし唆されれば話は別です。警告はしましたが何処まで理解したか……」
失笑が止んだ、皆苦い表情をしている。

「フェザーンか」
エーレンベルク元帥が低く問いかけると公が頷いた。
「フェザーンは不満を持つ貴族達の連携を図ろうとすると思います。連携する事で政府に圧力をかけ政策を変更させる。具体的には国務尚書、帝国軍三長官の交代を目指す、そんな説得をするでしょうね。そしていざとなれば何らかの工作をして暴発させる……」

「暗殺という事も有り得るの。成功すれば良し、失敗すればそれを契機に反乱を起こさせる」
「当然だがフェザーンは反乱軍も利用するだろう、……厄介だな」
リヒテンラーデ侯の言葉にシュタインホフ元帥が続く。応接室に沈黙が落ちた、皆が沈痛な表情をしている。

「フレーゲル内務尚書に動いてもらわねばなるまい。フェザーンの動き、貴族達の動きを調べて貰う必要があるだろう」
リヒテンラーデ侯の言葉に皆の視線が私に向けられた。拙い事になった、どうやら腹を括らねばならんか。果たして受け入れられるか、それとも……。

「実は私は内務尚書を辞任しようと思うのですが」
皆が私を見た、ルンプは驚いた表情を、他は皆厳しい表情をしている。ブラウンシュバイク大公が低い声で問い掛けてきた。
「改革に不満かな、フレーゲル内務尚書」
「そうでは有りませぬ。私も内務尚書を務めている身です、平民達の不満が高まっているのは分かっています」

皆が訝しげな表情で視線を交わしている。ややあって大公が問いかけてきた。
「では何が問題なのだ」
「お恥ずかしい話ですがフェザーンと聊か不適切な関係が有りまして……」
「……本当か?」
「直接では無いのですが……」
私の答えに大公が腕を組んで唸った。合点がいかぬ、そんな表情だ。

「今少し詳しく話してくれぬか、どういう事かな、直接では無いとは」
「三年前に起きたトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮の件ですが、あれに絡んでいるのですよ、リヒテンラーデ侯」
皆が驚いた表情をしている。誰かが“あの件か”と呟いた、エーレンベルク元帥だろう。

「実は或る人物に頼まれて警察の臨検を緩めるように指示したのです」
「なるほど、警察は大した事が無かった、あれですか」
ブラウンシュバイク公が二度、三度と頷いている。当事者だ、直ぐに分かったらしい。そしてこちらに視線を向けた。
「或る人物とはどなたです。おそらくは宮内省の高官ではありませんか」
皆の視線がまた厳しくなった。

「直接頼んできたのは宮内省侍従次長カルテナー子爵です。しかしノイケルン宮内尚書も絡んでいるのは分かっています。彼らはフェザーンと組んでバッファローの毛皮を密かに売買していたのです」
誰かが溜息を吐いた。よりにもよって宮内省の尚書が陛下の財産を盗もうとしたのだ。溜息も出るだろう。

「卿はバッファローの毛皮を運んでいると知っていたのか?」
リッテンハイム侯が躊躇いがちに問いかけてきた。
「知りませんでしたよ、今思えば間抜けな話ですがフェザーンからの戻りの船だと聞いていたので反乱軍の物を取り寄せたのかと思っていました」

私の言葉にブラウンシュバイク公を除く皆が顔を見合わせた。皆バツが悪そうな表情をしている。それを見てブラウンシュバイク公が訝しげな表情をした。
「義父上?」
「あ、うん」
問いかけられた大公が困った様な表情をしていたが仕方が無いと言った表情で話し始めた。

「まあ大っぴらには出来んが反乱軍から絵画や彫刻等の芸術品を取り寄せる事は珍しく無いのでな」
「芸術品? 民生品は向こうの方が質が良いと聞いていますが芸術品もですか……」
思いがけない事を聞いたと言った表情を公がすると大公が益々困った様な表情をした。

「それも有る、それと質が良いと言うよりも変わった物が有ると言う事かな。帝国では創られんような物、つまり取締りの対象になるような物が向こうには有るのだ。それだけに珍重されている」
「はあ、取り締まり……」
「まあルドルフ大帝が頽廃していると禁止した様なものだな」
大公の説明に公が呆然としている。

「ではこの屋敷にも?」
「幾つかある。買った物も有るし貰った物も有るな。お前はそちらの方には関心が無いから分からんだろうが」
「申し訳ありません」
ブラウンシュバイク公が頭を下げたが、どうも今一つ腑に落ちないといった表情だ。ちょっと可笑しくなった。この切れ者の青年が先程から困惑している。

「こちらに手心を加えてくれと言ってきたので余程に奇抜なものか、或いは向こうでも著名な芸術家の作品かと思ったのですが……」
「違ったという事ですか」
「はい」
私の答えにブラウンシュバイク公が考え込んでいる。さて、そろそろあれを言わないと……。

「ビーレフェルト伯爵ですが、彼は自殺ではありません。私が社会秩序維持局に命じ始末しました」
一気に応接室の空気が重くなった。皆の視線が痛い。しかし、あれは已むをえなかった……。
「彼は内務省がバッファローの密猟に加担し毛皮を得ていると思い込んでいたのです。私が内務省はそれには関係していないと言っても信じなかった。或いはそう思い込まされていたのかもしれませんが……」

あの当時内務省は不祥事続きだった。サイオキシン麻薬の捜査には携われず警察総局次長ハルテンベルク伯爵は故意にサイオキシン麻薬の密売組織を見逃した件で自殺していた。その上さらにトラウンシュタイン産のバッファローの密猟に絡んでいるとなったらとても持たない。一つ間違えば内務省は解体されていただろう、それでなくても内務省の権限が大きすぎる事には批判の目が有るのだ。

「何人か宮内省の職員が行方不明になっていますが……」
ゲルラッハ財務尚書がこちらを見ながら問いかけてきた。
「それは私ではない。おそらくはノイケルン宮内尚書達か、フェザーンが手を打ったのだと思う」

皆が顔を見合わせている。リヒテンラーデ侯が視線を向けてきた。
「卿が辞任したいと言うのはこのままではフェザーンに利用される、そう思っているのだな」
「ええ、彼らは私がビーレフェルト伯爵を始末した事を知っています。必ず接触してくるでしょう」

彼方此方で溜息を吐く音が聞こえた。或る者は天を、或る者は床を、そして目を閉じている者もいる。少しの間沈黙が落ちた。重苦しい、息苦しい雰囲気が身を包む。判決を待つ被告人のような気持ちになった。
「面白くないな、今卿に辞められては改革に反対しての事と勘違いする者が出るだろう」

「それも有る、それも有るがフェザーン、ノイケルン達がフレーゲル内務尚書を殺すという事は有り得んかな、リヒテンラーデ侯。内務尚書だから利用価値が有ると見て今は生かしておいている、そうでなければ厄介な秘密を知っている邪魔者でしかあるまい」

リッテンハイム侯が渋い表情をしている。そうなのだ、どちらにしても内務尚書を辞める事は極めて危険だ。しかしこの男達に隠し事をしたまま内務尚書を務めるのはもっと危険だろう。全てを打ち明ける、その上でこの男達がどう判断するか、それを見極めなければならない。私は今極めて難しい立場に居るのだ、間違いは許されない。

「口封じに動く、その罪を我らに擦り付けるか……、確かにリッテンハイム侯の言う通りかもしれん……。となると辞めさせることは得策とは言えんの?」
リヒテンラーデ侯が皆に問いかけると皆が頷いた。どうやら私の首は繋がったようだ。内心ホッとすると同時に判断は間違っていなかったという安堵も有る。ここで私をクビにするようではこの先期待できない。

「ではノイケルン、カルテナー達を始末するか。フェザーンに対する警告にもなるが」
「こちらに取り込むという手も有りましょう。向こうの手の内を読めますぞ」
ブラウンシュバイク大公、エーレンベルク元帥が提案した。

「ふむ、どうするかな。……ブラウンシュバイク公、卿はどう思う」
リヒテンラーデ侯の問い掛けにブラウンシュバイク公が笑みを浮かべた。どうする? 私なら取り込むが……。
「処断しましょう。その上でフェザーンに対する監視を強める、公然とです。貴族達もそれを見ればフェザーンと接触するのが危険だと理解するはずです。それでも接触する貴族は……、容赦なく潰す」

応接室がしんとなった。なるほど、敵対する者に容赦はしないか。内面にはかなり激しいものが有る。皆が押し黙る中リヒテンラーデ侯が低く笑い声を上げた。
「反撃に出るか」
「ええ、この際断固たる姿勢を見せるべきです。場合によってはフェザーンも攻撃の対象とする」

皆が驚きの表情を浮かべてブラウンシュバイク公を見ている。フェザーンを攻撃する? 本気なのか……。
「フェザーンには財力は有りますが軍事力は無い。正面から潰すと軍事力で脅した方がフェザーンを抑える効果が有るかもしれません。煽るものが居なければ貴族達も騒がないはずです」

なるほど、脅しか……。皆が納得したようだ、頷いている。
「もし、フェザーンが蠢動を止めなければ何とします」
私が問いかけると公が冷たい笑みを浮かべた。
「その時は本気でフェザーンを攻めます。おそらくフェザーンは反乱軍に救援を求めるでしょうからフェザーンでの決戦という事になる。改革の成否はその決戦の結果次第という事になります」
彼方此方で頷く姿が有った。



 

 

第三十六話 坂道




帝国暦487年  9月 7日  イゼルローン要塞 イゼルローン方面軍司令部  ヘルマン・フォン・リューネブルク



「昇進したのか」
「ああ、今回の戦功でな」
「そうか、まあ目出度いと言うべきなのだろうな」
シェーンコップが俺の軍服をしみじみと見ている。中将から大将に昇進した事で軍服が変わった。多少心得の有る人間なら直ぐ分る。

今回の戦いで捕虜になったのはローゼンリッターが三十五名、軽巡航艦を動かす為に用意された人間が三十名の計六十五名だった。イゼルローン要塞には空いている部屋が沢山ある。連中はその幾つかの部屋にそれぞれ五名程ずつ分散して監禁されている。もちろん部屋は離れ離れだ。たとえシェーンコップが逃げ出しても仲間を助けるのは難しい。

ローゼンリッターと軽巡航艦を動かす為の兵士は同室にはしていない。ローゼンリッターは同盟軍の兵士にはウケが悪い、一緒にするのはトラブルの元だろうと思ったので俺がグライフス方面軍司令官に別々にするように進言した。

俺は二日に一度は連中の元に行き無聊を慰めている。何と言っても元は同僚だったのだ、それくらいはしてやらないと……。差し入れをしてやる時も有る、酒は無理だがクッキーやアイス等の甘いものだ。結構喜ばれているのだがシェーンコップは甘いものを好まないから不満そうだ。ということで今日はナッツを用意してやった。少しは喜ぶだろう、帰りがけに渡してやるのを忘れないようにしないと。

「勲章でも貰って終わりかと思ったのだがな、事情が有って昇進になった様だ」
「事情?」
興味有り気だな、一緒に部屋に居るリンツやブルームハルトも興味深げにしている。娯楽が少ないからだろう、俺が来るのを結構楽しみにしているようでもある。

「イゼルローン方面軍の最初の武勲だ、そして俺をここに配置したのはブラウンシュバイク公だからな」
「なるほど、戦果を大きく評価して地盤固めか、ブラウンシュバイク公の地位は必ずしも盤石ではないようだな」
少し皮肉な口調だな、シェーンコップ。

「地盤固めか、それも有るだろうが主たる狙いは別なようだ」
俺の答えにシェーンコップが訝しげな表情をした。
「帝国政府は国政の改革を行おうとしている。まあ、貴族の専横を抑えて平民達の権利を拡大しようとしているわけだ。結構平民達の不満が溜まっているからな。しかしそうなると貴族達は面白くない、という事で反抗しても抑えつけるだけの武力が有るぞという恫喝のためだな」

シェーンコップが顔に驚きを浮かべている。
「改革を行うと言うのか……」
「まあそうだ。元々公は平民の出だ、昔から改革が必要だと思っていたようだな。……今ミューゼル提督が四個艦隊を率いてこの要塞に居る。改革が始まれば帝国は混乱するかもしれん、となれば同盟も動く可能性が有る……」
「それに対処するためか」
俺が頷くとシェーンコップが唸り声を上げている。

改革はもう始まっている。汚職政治家として評判の悪かったカストロプ公は処断されカストロプ公爵家は廃絶となった。カストロプ公の嫡男、マクシミリアンはカストロプ星系で抵抗しようとしたが討伐軍が接近すると部下達に叛かれ殺された。

ノイケルン宮内尚書、カルテナー侍従次長も御禁制のトラウンシュタイン産バッファローの密猟に関わったとして逮捕されている。処罰はまだ決まっていないが皇帝の財産を盗んだのだ、死罪は免れないだろう。改革の実施、相次ぐ高官の処罰にイゼルローン要塞の兵士達は好意的だ。彼らの殆どが平民、下級貴族だ。安全な場所で不正を働く貴族に対して強い不満を持っている。

「どうだ、シェーンコップ。お前も帝国に仕えんか、帝国はこれから良い方向に動くぞ。ブラウンシュバイク公はお前達を捕虜では無く旗下に迎えたいと言っている」
「……好意は感謝する。しかし、俺達が帝国に仕えれば同盟は俺達が裏切ったと思うだろう。それでは残された仲間達が辛い思いをする事になる」
シェーンコップの言葉にリンツやブルームハルトも沈んだ表情をしている。

どうやら俺が亡命した後、相当に苦労したようだ。あの亡命を後悔してはいない。けっして帝国から歓迎された亡命ではなかったが亡命しなければ同盟で鬱屈したまま腐っていっただろう。亡命を後悔した時も有ったがあの決断が有ったから今の俺がいるのだと思っている。帝国軍大将にまで出世した、信頼できる上司も居る。それだけに目の前で沈んだ表情をしている彼らを見ると内心忸怩たるものが有った……。

「しかしなあ、シェーンコップ。お前達が同盟に義理を通してもあいつらがどう思うか……。残された連中は結局は辛い思いをするかもしれんぞ」
「……」
シェーンコップ達の表情が曇った。

「分かっているだろう、俺達はどんな時でも貧乏籤を引かされた。今回だとて作戦の失敗はお前達が失敗したからだと言い立てるのではないかな。正直にブラウンシュバイク公に作戦を見破られた事を認めると思うか? 俺にはとてもそうは思えん」

そんな苦しそうな顔をするな、シェーンコップ。お前はふてぶてしいくらいの笑顔の方が似合うのだ。
「ブラウンシュバイク公がお前達に好意を持っているのは事実だ。公はなかなか愉快な方だぞ、それは俺が保証する。悪い事は言わん、意地を張らずに公の厚意を受けろ。お前が受けなければお前の部下も受けられんだろう」
「……」
僅かにシェーンコップの表情が動いた、だが無言だった。

「お前達はこれからオーディンに向かう事になる」
「貴様も一緒か」
「いや、俺が戻るのは交代の師団が来てからだ。まああと二週間は先の事だろう、お前達は遅くとも明後日には出発のはずだ」
「……そうか」
「時間は十分に有る、良く考えるのだな」
「……」

帰り際にナッツをシェーンコップに渡した。“クッキーか?”と訊いて来たので“ナッツだ”と答えるとふてぶてしい笑顔で“酒が欲しいな”と言ってきた。いずれ飲めるようになるさ、公の部下になればな。



帝国暦487年  9月 10日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸    エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「どうかな、状況は」
「まあこれまでの所、露骨な動きをする貴族はいないようです。フェザーンも表面上では大人しくしています」
「そうか」
ブラウンシュバイク大公が頷きながらワインを口に運んでいる。

食事が終わり皆好みの飲み物を持ってリビングに移動した。大公と大公夫人はワイン、俺はジンジャーエール、エリザベートはアップルサイダーだ。不思議なのはこの家ではエリザベートの前でもごく普通に政治の話が出る事だな。まあ彼女に訊くと十二歳になってからそうなったらしい。但し、外で話すのは厳禁だそうだ。

「マクシミリアン・フォン・カストロプが部下の手によって殺されました。下手に反乱を起こせば同じ運命になる、貴族達はそう思っているようです」
「ふむ、マクシミリアンもなかなか役に立ってくれたな」
「ええ」
義父が満足そうに笑みを浮かべている。義母も同様だ、怖い夫婦だな。

マクシミリアンの殺害は随分と酷いものだったらしい。遺体を確認したクレメンツからの報告では体中に刺傷が有ったそうだ。多分嬲り殺しに近かったのだろうと言っていたが俺もそう思う。日頃の恨みを存分にはらしたのだろう……。考えてみれば貴族とは酷く脆いものだと思わざるを得ない。彼らの特権は帝国が保障したものだ。平民達は貴族の後ろに帝国を見てひれ伏している。所詮は虎の威を借る狐なのだが貴族達はそうは思わない、自分が何をしても許される絶対の存在だと勘違いしてしまう。

しかし帝国の保障が無くなればどうなるか……。マクシミリアン・フォン・カストロプがそれを教えてくれる。あっという間に平民達に命を奪われてしまうのだ。おそらくマクシミリアンは自分が何故殺されるのか、死を迎える瞬間まで理解できなかっただろう。自分が虎では無く狐なのだという事を理解していれば帝国政府に抵抗などしない、大人しく降伏して命の保障を請うたはずだ。

「最近良く来るようだな」
「……ヴァルデック、コルヴィッツ、ハイルマンですか?」
俺が問い掛けると義父が頷いた。
「誤解が解けたと喜んでいます。しばしば来るのは私との関係が良好だと他の貴族に見せつけるためでしょう」

俺に殺される心配が無くなったとでも思って喜んでいるのだろう、お目出度い奴らだ。どうしてリメス男爵が爵位を返上しようとしたか、もう忘れたらしい。それどころか、真犯人を知っていたのならもっと早く教えて欲しかったと恨みがましく言ってくる始末だ。俺なら先にリメス男爵家の相続の件で謝るところだ、あれが無ければあの無残な事件は起きなかった……。

それに比べればマリーンドルフ伯はなかなかのものだ、あの黒真珠の間の一件の後、ルーゲ伯爵、ヴェストパーレ男爵夫人と共に正式に謝罪してきた。俺も素直に気にする事はないと言う事が出来た。彼らとの関係は良好なものになるだろう。

「カストロプ公爵家の財産だがどの程度になるのだ?」
「まだ整理が始まったばかりですのではっきりした事は分からないようですが……」
「?」
「ゲルラッハ財務尚書の話では四千億帝国マルクを下る事はないそうです」
俺の言葉に大公夫妻が顔を見合わせた、エリザベートは眼を丸くしている。

「随分と貯め込んだものだな、四千億か……」
「平民達が不満を持つ筈ですわね」
大公夫妻が溜息交じりの声を出した。帝国最高の権門であるブラウンシュバイク公爵家の人間が呆れている。十五年近く財務尚書の地位に有ったとはいえ異常と言って良い。仕事よりも蓄財に精を出していたのだろう。

「少しは平民達の不満も解消されたかな」
「改革がどう進むかでしょう。カストロプ公は氷山の一角でしか有りません。他にも似た様な不正を行っている貴族は沢山います。彼らが素直に改革に従ってくれれば良いのですがそうでなければ平民達の不満は爆発しますよ」
大公が唸り声を上げた。

希望が有る限り、人間は自暴自棄にはならない。なっても周囲の人間が止めてくれるだろうし同調する人間も少ないだろう。騒乱は小規模な物で済むはずだ。だから帝国政府は平民達に絶望では無く希望を持たせなければならない。平民達に政府は自分達の事を考えてくれていると思わせなければならないのだ。例えその本心が革命などで殺されたくないという利己的な物であったとしても……。

「不満が爆発すれば、そして収拾がつかなくなれば、その矛先は必ずブラウンシュバイク公である私に向かってきます。平民でありながらブラウンシュバイク公爵家の養子になり自分だけが良い思いをしていると……。他の貴族達よりも遥かに憎まれるでしょうね。エリザベートもその憎悪に飲み込まれる事になる」
「縁起でもない事を言うな」

不機嫌そうな表情だ、だが否定はしなかった。大公夫人も反論はしない。そしてエリザベートは怯えた表情で俺を見ている。哀れだと思った、ブラウンシュバイク公爵家の未来は決して明るいとは言えない……。義父が暗い空気を打ち払うかのように咳ばらいをした。

「それを防ぐためにも改革をせねばならん。次は裁判だったな」
「はい、平民達に控訴権を与える事、それと帝国政府の同意無しに帝国臣民を死刑にする事を禁じます。今司法省で準備を整えています」
「貴族達がそれを受け入れるのは難しかろうな」
大公が憂欝そうな表情をしている。貴族達の反発を思ったのだろう。

「反発は有ると思います。しかしこれはやらなければなりません。直接税を制限した以上、貴族達は賦役でそれを穴埋めしようとするはずです。当然ですが賦役は厳しいものになる。賦役を軽減させ平民達の生命を守るには平民達に控訴権を与え貴族達が恣意によって平民を処罰する事を制限しなくてはならないのです」

控訴は帝国政府に対して行わせる。それによって貴族の領内統治に介入する事が出来るようになる。貴族達は何が嫌だと言っても帝国政府に干渉される事を嫌うはずだ。当然だが干渉を避けようとすれば統治は穏健なものにせざるを得ない。変に隠蔽するなら強権を持って潰す、或いは領地を一部取り上げる……。

善政を布く貴族だけが生き残れるだろう。これまでの生き方から抜けられない貴族は緩やかにそして確実に没落していく事になる。帝国貴族に領地を与えたのは帝国の統治の一部を委任しただけで有り財産として与えたものではないと言う事を理解させねばならない。統治において悪政や不正が有れば領地は没収されるのだと言う事を理解させねば……。溜息が出そうだ。

「それでもこれは平民達に対しての救済でしか有りません。農奴は対象外です」
「農奴か……、どうするつもりだ、切り捨てるのか?」
義父が眉を寄せている。
「色々と考えてはいますが……、先ずは平民を優先させようと思っています」
「そうか……、農奴問題は厄介だぞ。注意せねばならん」
「はい」

農奴問題は厄介と言うのは大袈裟でも無ければ誇張でも無い。こいつの厄介さにはほとほと頭を痛めている。農奴は人間だ、何らかの原因により貴族の所有物になり帝国臣民ではなくなったところにその厄介さが有る。帝国臣民であれば平民であろうと法によって守る事が出来る。しかし農奴は帝国臣民ではない、あくまで所有者である貴族達の私有財産なのだ。

帝国はこれまで農奴を認めてきた、だから貴族達は私財として農奴を集めたのだ。農奴解放と言えば人道の観点からは聞こえは良いだろうが貴族達は私有財産の保護を無視するのかと反発するだろう。政府の政策には一貫性が無い、その所為で自分達が損害を受ける事は納得がいかないと言われればその通りだと言わざるを得ない。どう見ても理は貴族側にある。一つ間違うと改革そのものが否定されかねない。

ブラウンシュバイク公爵家にも農奴はいる。大体三十万人程居るらしい。もちろん帝国貴族の中では最大の保有数だ。彼らはブラウンシュバイク公爵家の重要な労働力になっている。義父の言う『厄介』の中にはそれも入っているだろう。彼らを失った時、それに代わる労働力をどうするのか、ウチだけじゃない、多くの貴族がこの問題に直面するはずだ。貴族など滅びてしまえと思わないでもないがそれが社会不安の一因になるのは困る。これも頭の痛い問題だ。

だが農奴の存続を認めれば貴族達は間違いなく農奴を増やそうとするだろう。これはこれで貴族と平民の間に新たな衝突を生み出す事になるはずだ。それに農奴と自由民でどちらが生産力が高いかと言われれば間違いなく自由民なのだ。政府としては農奴を無くして自由民を増やす方向で改革を進めなければならない。

やはり農奴は買い取る形で解放するしかないだろうな。そして新たに貴族が平民を農奴として買い取る事を禁止する。そういう形で農奴制を廃止に持って行くしかない。時間がかかるだろう、多くの人間が農奴のまま死んでいく事になる、酷い話だ、溜息が出た……。

「ところでカストロプをどうするつもりだ」
「……」
「財務省の接収が終わったら内政に関しては自分にまかせて欲しいと言っていたが」
考えに耽っていると義父が問い掛けてきた。

「開明派に任せてみようかと考えています」
「大丈夫か? 連中はかなり急進的だが」
義父が顔を顰めている。あいつら評判悪いんだな、改革の必要性を認める人間から見ると急ぎ過ぎている、机上の空論、そう見えるらしい。

「丸投げにはしません。私の管理下で行わせます。カストロプはオーディンから近い、あそこで開明派の統治が上手く行けば貴族達に与える影響は小さくありません。それに刺激を受けて自主的に領内統治を変えていく貴族が現れればと考えています」
「なるほど、ブラウンシュバイク公爵家の統治にも取り入れるか……」
「はい」
義父が頷きながらワインを口に運んだ。俺もジンジャーエールを口に運ぶ。炭酸の気が抜けて妙に甘ったるい飲み物になっていた。ま、嫌いじゃないがな。

急な坂道を自転車でブレーキを掛けながら下りるようなものだな。止まる事も出来ないし戻る事も出来ない。そしてブレーキをかけなければ自転車の制御が出来ず事故を起こすだろう。少しずつ少しずつ降りるしかない。厄介な事だ、また溜息が出た……。



 

 

第三十七話 救済




帝国暦487年  10月 25日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   ワルター・フォン・シェーンコップ



「どうでしょう、リューネブルク大将からも聞いていると思いますが帝国で仕官しませんか。フィッツシモンズ中佐もそれを望んでいると思いますが」
「その件についてはお受けできませんな。ハイネセンには小官を信じている部下達が居るのです。彼らを裏切ることは出来ません」

俺の答えにブラウンシュバイク公は特に不満そうな表情は見せなかった。俺がどう答えるかはリューネブルクから聞き出していたのだろう。それにしても妙な男だ、反乱軍の捕虜を自宅に招いて仕官を勧めるとは……。捕虜と言うより賓客の扱いだな。リューネブルクの話では公は俺を高く評価しているとの事だが嘘ではない様だ。その事に悪い気はしないが仕官は出来ん。

テーブルを挟んで向かい合わせに座っているが公の後ろには軍人が二人立っている、護衛の様だ。二人は緊張しているがブラウンシュバイク公は穏やかな雰囲気を身に纏っている。二人を信用しているのか、それとも俺を信用しているのか……。判断に迷うところだ。

「しかし同盟軍が敗北を認めると思いますか? 素直に認めるとは思えませんが」
「……」
ブラウンシュバイク公が首を傾げている。確かにそうかもしれない、リューネブルクもそれを案じていた。だが、だからと言って帝国に仕官すれば連中の主張が正しかったという事になってしまう。同盟に戻ったローゼンリッターは肩身の狭い思いをするだろう。

「まあだからと言って帝国に仕官と言うのも難しいかな」
「そうですな」
「心配でしょう、ハイネセンに残された仲間が」
「……」

揶揄するような口調ではなかった。
「一度、ハイネセンに戻りますか?」
「はあ、……戻ると言うと」
「戻りたいでしょう?」
「まあ、それは……」
俺の返事にブラウンシュバイク公が頷いた。

「フェザーン経由でハイネセンに戻っては如何です。もちろんあなた一人ですが」
「……」
どういう意味だ? 後ろの二人も妙な顔をしている。
「ハイネセンに戻って部下達の様子を見てはどうです。可能なら軍上層部に自分の無実を訴えても良い」

「……本気ですかな」
「ええ」
「戻って来ないかもしれませんぞ」
「捕虜になっている部下を見捨ててですか? まあそれも良いでしょう、出来るのならですが」
やれやれだな、こっちの事は御見通しか。思わず苦笑が漏れた。

「期間は半年という事にしましょう。往復に四カ月ほどはかかるでしょうからね」
「二カ月もハイネセンに居て良いのですか?」
「色々と会いたい人とか居るでしょう? 私はこれでも親切なのですよ」
「なるほど」
今度は揶揄が有った。見かけによらず人が悪い。苦笑が止まらない。

「大佐の事はフェザーン商人に頼みましょう。費用はこちらで持ちます。それと大佐がハイネセンで不自由しないようにその分のお金も用意します」
「それは有難いですな」
「言ったでしょう、私は親切なのです」

その後、大まかな段取りをした。ハイネセンへの航海はブラウンシュバイク公爵家に出入りのフェザーン商人に頼む事になった。俺の立場は捕虜では無くブラウンシュバイク公爵からの預かり人という事になるらしい。その商人がオーディンに来るまで一カ月ほど有るそうだ。ハイネセンで二カ月か、結構時間が有るな、リンツ、ブルームハルト達の家族にも会えるだけの時間は有る……。

さて、どうするかな。もし向こうで部下達が不当な待遇を受けているなら、俺が真実を告げても彼らの待遇が変わらないなら……。難しい選択を迫られることになるかもしれない……。



帝国暦487年  11月 15日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   アントン・フェルナー



ブラウンシュバイク公爵邸の応接室には四人の貴族が座っている。ブラウンシュバイク大公、ブラウンシュバイク公親子。髪の毛の薄いハルツ男爵、背の高い痩身のヴォルフスブルク子爵。そして俺とシュトライト少将、アンスバッハ准将が立ち会っているのだが応接室には何とも言えない空気が漂っている。

「それで私達に相談とは一体なんでしょう?」
エーリッヒが問い掛けたがハルツ男爵、ヴォルフスブルク子爵は頻りに額の汗を拭うばかりだ。その姿を見てエーリッヒが大公と顔を見合わせた。二人とも困惑と不審を顔に浮かべている。確かに妙だ、客人達はこの屋敷に来た時から異様に緊張している。

「ハルツ男爵、ヴォルフスブルク子爵、黙っていては分からぬ。相談が有るから此処に来たのであろう、何か困った事でもあるのかな、当家で力になれる事なら助力は惜しまぬが」
大公の言葉に二人が顔を見合わせた。そしておずおずとヴォルフスブルク子爵が話し始めた。

「実は先日発表された税の制限の事ですが……」
言葉が途切れた。そしてハルツ男爵と顔を見合す。今度はハルツ男爵が同じようにおずおずと話しだした。
「その制限を解除して頂く訳にはいきますまいか」

ブラウンシュバイク大公とエーリッヒが顔を見合わせると二人は慌てたように
「私もハルツ男爵も決して政府の意向に逆らうというわけではありません」
「ただ、暫くの間猶予を頂きたいと思います。御二方から政府にお願いして頂きたいのです」
と言った。話し終えて二人はおどおどと大公とエーリッヒを見ている。

それにしても税の制限の解除? 一体この二人は何を考えているのか。黒真珠の間で、皇帝御臨席の場で発表された事だぞ。それを待て? 自分達だけ特別扱いしろ? とても正気とは思えない。あの直後、カストロプ公、ノイケルン宮内尚書、カルテナー侍従次長が処分されている。正当な理由あっての事だが多くの貴族達は政府を怖れ始めているのだ。それなのに制限の解除? シュトライト少将もアンスバッハ准将も表情には出さないが呆れているのが分かった。

「まず理由を聞こうか。それなしでは良いとも悪いとも言い様が無い」
「……それは……」
「それは? 如何したのだ、ハルツ男爵、ヴォルフスブルク子爵」
ブラウンシュバイク大公が口籠った二人に先を促した。大体想像は付く、大公とエーリッヒも分かっているはずだ。

「借金が有るのです。お恥ずかしい限りですが今のままでは返済できません」
ハルツ男爵の返答に大公とエーリッヒが顔を見合わせた。二人の表情に驚きは無い、やはり想定内という事だろう。
「どれほどの金額なのです」
エーリッヒが質すと二人がバツの悪そうな表情をした。かなりの高額らしい。

「私は五千万帝国マルク程です。ヴォルフスブルク子爵は約一億帝国マルク……」
億を超える借金? 一体何をやった、こいつら。余程の事が無ければそこまではいかない。大公は平然としているがエーリッヒは間違いなく吃驚している。そうだよな、平民出身のエーリッヒには想像もつかないだろう。

「しかし、それでは猶予と言ってもかなりの長期になるのではありませんか」
「そうだな、……返済期限を延ばして貰い度々の支払い金額を減じて貰ってはどうだ。利息は増えるかもしれんがそれなら税に制限をかけても何とかなろう」
エーリッヒと大公が問い掛けると二人が項垂れた。
「もう、ずっと返済を滞らせているのです」

ヴォルフスブルク子爵の言葉に一瞬だが応接室に異様な沈黙が落ちた。大公の表情が厳しくなった。
「早急に支払う必要が有るという事か。……卿ら、借金は総額で幾ら有るのだ?」
二人が顔を見合わせた。そしてハルツ男爵が答えた。
「私は五億帝国マルク程です。ヴォルフスブルク子爵は約十億帝国マルク……」
エーリッヒが溜息を吐いた。気持ちは分かる、俺も溜息を吐きたい。平然としている大公の方が異常だ。

「それでは無理だな。税率を制限せずとも借金を返すのはかなり難しかろう」
「……」
同感だ、金額から考えてこの二人はかなり無理をして借金をしている。となれば借金の金利も低くはない筈だ。おそらく両家の内実は火の車だっただろう。大公が太い息を吐いた。

「あとは当家が借金を肩代わりするくらいしかあるまい」
ハルツ男爵とヴォルフスブルク子爵の顔に安堵の色が浮かんだ。この二人、最初からそれが狙いか。まあ一門の総帥としてはそうするしかないのも事実だ。そしてそれが可能なだけの財力がブラウンシュバイク公爵家にはある。この二人が心配したのはエーリッヒが自分達を切り捨てるのではないかという事だろう。

「どう思うかな、エーリッヒ」
「そうですね、頼られたのですから助けねばならないでしょう。ただ……」
「ただ?」
大公とエーリッヒの遣り取りに二人が不安そうな表情を見せた。エーリッヒは無条件に賛成していない。

「ハルツ男爵、ヴォルフスブルク子爵、借金で困っているのは御二人だけですか? 他にも居るのではありませんか?」
エーリッヒの問いかけに客人達が顔を見合わせ困惑した様な表情を浮かべた。
「おそらく居ると思います。税の制限は困ったという話は彼方此方で聞きますから……、そうであろう、ヴォルフスブルク子爵」
「多分」

その答えにまたエーリッヒが溜息を吐いた。
「義父上、この件ですがブラウンシュバイク公爵家の預かりではなく帝国政府の預かりとした方が宜しいでしょう」
「皆が当家に援助を求めればブラウンシュバイク公爵家といえども危ういか……」
大公が顔を顰めている。面白くないのだろう、だがエーリッヒの懸念はもっともだ、否定は出来ない。

「それも有りますがそれ以上に拙い事が有ります」
「拙い事?」
「ブラウンシュバイク公爵家が借金を肩代わりした場合、当家への返済は長期に亘ります。その期間は当家の勢威が今以上に強くなるという事です。心配される方が居るかもしれません」

なるほど、そちらか。大公が腕組みをして唸り声を上げている。ブラウンシュバイク公爵家が、リッテンハイム侯爵家が存続の危機に陥ったのもそれが理由だった。自家の勢力拡大に余りにも無神経に熱中し過ぎたのだ。ブラウンシュバイク公爵家が救済に乗り出せば理由は違うとはいえ行き着くところは同じになりかねない。ハルツ男爵とヴォルフスブルク子爵は心配そうな表情だ。

「今は政府、軍との協力は上手く行っているが……」
「十年後、十五年後は分かりません。油断は禁物でしょう」
「なるほど……、お前は慎重だな」
「貴族の中には税の制限を貴族に対する抑圧と取る者も居るでしょう。それを払拭するためにも政府が全面に立って救済するべきだと思います」

大公が頷いた。
「卿らはどう思うかな?」
「お任せ致します、どうか我らを助けてください」
ハルツ男爵が頭を下げるとヴォルフスブルク子爵もそれに続いた。



帝国暦487年  11月 15日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   フレーゲル内務尚書



「なるほど、借金が払えんか」
「うむ。二人の話では結構他にも厳しい貴族がいるのではないかという話だった」
「うーむ、ウチにも来るかな」
「かもしれんな」
リッテンハイム侯とブラウンシュバイク大公の会話を四人の男が聞いていた。ブラウンシュバイク公、リヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵、ルンプ司法尚書。私も入れれば五人になる。

「それで、ブラウンシュバイク公爵家はどうするのだ? 連中に援助するのかな?」
「それなのだがな、リヒテンラーデ侯。エーリッヒは帝国政府が貴族の救済を行った方が良いだろうと言うのだ」
「政府が? 借金を肩代わりしろと」

「政府が債権者から債権を買い取る、つまり政府が債権者になるわけだな。その上で政府への返済は無利子で行う事にすれば貴族達にとっても悪い条件ではないとエーリッヒは言うのだが」
大公と国務尚書の遣り取りに皆の視線がブラウンシュバイク公にと向かった。

「ブラウンシュバイク公爵家が肩代わりをすれば公爵家の勢威はこれまで以上に大きくなります。おそらくはリッテンハイム侯爵家も同様の状況になるでしょう。政府にとって望ましい事とは思えません、こちらも無用な疑いを受けたくない」
「なるほど、公は慎重だの」

大公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯が渋い表情をしている。両家が政府と対立していた頃を思い出したのだろう。公が養子になってから一年ちょっとしか経っていない。誰もが皆あの当時の緊迫した情勢を忘れてはいない。いつ内乱が起きるかと皆が怯えていた。

「それにここで政府が貴族達を救済しておけば平民達に控訴権を与えやすくなります。貴族達は反対するでしょうが帝国は改革によって平民達だけを優遇し貴族を押さえ付けようとしているのではない、貴族達もその恩恵に預かっているはずだと説得する事が出来ます」
「なるほどの」
リヒテンラーデ侯が相槌を打つと皆が頷いた。

「有難い話ですな。正直に言えば法は作っても施行が可能なのかどうか案じておりました。貴族達にとっては受け入れがたい法律の筈です。しかし、それならば貴族達も渋々ではあれ受け入れざるを得ないでしょう」
ホッとした様な声を出したのはルンプ司法尚書だ。その声にさざ波のように笑い声が起きた。


 

 

第三十八話 公的資金




帝国暦487年  11月 15日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



十一月になるとオーディンの夜は流石に冷えてくる。暖房は必要ないがそれでも温かい飲み物は必要だ。ブラウンシュバイク公爵家の応接室では七人の男がそれぞれ飲み物を口に運んでいる。俺がココアでリヒテンラーデ侯が紅茶、他は皆コーヒーを飲んでいる。

「しかし公なら領地経営も出来ぬような馬鹿な貴族など潰してしまえと言うと思ったが……」
リヒテンラーデ侯が俺を見て皮肉そうな表情を浮かべた。ジジイ、鋭いな。本当は馬鹿な貴族なんて潰したかったんだよ。公的資金の投入なんてやりたくなかった。

「貴族を潰し、その借金については債権者の自己責任とする。それをやれば帝国は崩壊しかねませんよ、リヒテンラーデ侯」
俺が答えると皆が訝しげな表情を見せた。財務尚書ゲルラッハ子爵も訝しそうな表情を見せている。駄目だな、どうやら説明しないととんでもない事になりそうだ。

「帝国貴族四千家、このうちフェザーンの金融機関、商人から融資を受けている貴族がどの程度いると思いますか? 直接の借金だけではなく貴族が経営している企業に対する融資等も含めてです」
皆が顔を見合わせた。

「半分、いや三分の二かな」
「もう少し多いだろう、八割を超えるのではないか?」
義父(おやじ)殿とリッテンハイム侯が同意を求めるように周囲を見回すと皆が曖昧な表情で頷いた。まあ大体そんなものだろう、どちらにしても半数は超える事は間違いない。

「では、一家当たりの金額は?」
皆が困惑した様な表情をした。視線がゲルラッハ子爵に向かったが彼も困惑したような表情をしている。
「平均すれば……、一億、いや二億程度でしょうか」
そんなものかな、あの馬鹿共の借金が五億、十億だ。もうちょっと有るかもしれない。

「仮にリッテンハイム侯の言う通り八割とすると三千家以上の貴族がフェザーンの金融機関、商人から融資を受けていることになります。一家当たり平均して二億帝国マルクとしても六千億帝国マルクのお金がフェザーンから帝国に流入していることになります」
「……」

皆の顔が強張っている。実際はもっと多いだろう、おそらくは一兆帝国マルクに近いのではないだろうか。そして貴族以外の企業、平民達に貸し付けた資金を加えればどの程度になるのか、とても想像がつかない。二兆か、それとも三兆帝国マルクか……。

帝国の統治の欠点だ。貴族に大きな裁量権を与えてしまったためそれが一種のブラックボックスになってしまっている。貴族領で何が起きているのかが見えないのだ。元の世界ならそんなことは無かった。何処の国から資金が流入しているかなんて事は分かったのだ。おそらく自由惑星同盟なら把握はしているだろう。

だが帝国では分からない、だから国務尚書リヒテンラーデ侯も財務尚書ゲルラッハ子爵もフェザーンからの資金がこの国の経済にどんな影響を与えるのかが分からない。金の恐ろしさが分からないのだ。だが元の世界で何が起きたかを思い出せばある程度の想定は出来る。

「借金を返済出来ない貴族がどれだけいるか分かりません。仮にこれを全体の五パーセントと見積もれば百五十家の貴族が該当します。一家当たり五億帝国マルクの借金としても七百五十億帝国マルクの不良債権が帝国には有るのです。これを潰せば当然ですがフェザーンの金融機関、商人は大打撃を受ける事になる」
「……確かに」
フレーゲル内務尚書が頷いた。

「これまではフェザーンの金融機関、商人にとって貴族というのはもっとも安心できる融資先でした。しかし帝国の現政権が貴族の保護をしないとなれば何が起きるか……」
「……なるほど、フェザーンは融資を引き揚げますな」
ゲルラッハ子爵が深刻な表情で呟く。他のメンバーも不安そうな表情だ。ようやく危険だと分かってきたらしい。

だが帝国で起きるのは融資の引き上げなどという生易しいものではないだろう。おそらくは貸し剥がしに近い状況が発生するはずだ。そうなれば領地経営が良好な貴族も苦境に陥らざるをえない。本来なら破綻せずに済む貴族も次々に破綻する事になる。そして貸し剥がしの次に起きるのが貸し渋りだろう。貴族への融資は危ないと見て融資を抑えにかかるはずだ。

そうなれば帝国の経済は混乱し麻痺し停滞する。そして貸し剥がし、貸し渋りは貴族だけではなく民間にも及ぶだろう。混乱と麻痺と停滞はさらに酷いものとなる……。俺がその事を説明すると皆の顔が蒼褪めた。当然だ、改革どころか革命が起きかねない状況だろう。俺達は皆、首が飛ぶ。

「元来お金というのは非常に貪欲な、そして臆病な生き物なのです。利益になると分かればそこに集まります。しかし危険だと分かればあっという間に逃げ出す……。今ここで負債を抱えた貴族を潰してしまえば、フェザーンの金融機関、商人達は帝国政府は貴族達を救済する事無く整理しようとしていると判断するでしょう。あっという間にフェザーンからの資金は帝国から逃げ出しますよ、とんでもない騒ぎになる」
俺が話し終わると暫くの間沈黙が落ちた。

「……だから救済すると言うのか」
声が掠れていた。それに気付いたのだろう、リヒテンラーデ侯が不機嫌そうな表情で紅茶を口に運んだ。
「潰す事が出来ない以上救済するしかありません。救済して借金を帝国に対して支払わせる。そして平民への権利拡大、フェザーン資金の監視、貴族達の抑制のために役立たせるのです……」
リヒテンラーデ侯が溜息を吐いた。俺も溜息を吐きたい気分だ。義父(おやじ)殿もリッテンハイム侯もそしてゲルラッハ、フレーゲル、ルンプの各尚書も憂鬱そうな表情をしている。

七百五十億の借金を清算するために公的資金を投入する。それを惜しめばその十倍、いや二十倍以上の資金が帝国から消えてしまうだろう。不良債権の整理は素早く大胆に行わなければ悲惨な事になるのだ、公的資金の投入はやむを得ない。幸いここは帝国だ、支持率だの世論だのそんな馬鹿げた感情論で左右されるものを気にする必要は無い。カストロプから没収した財産も有る、金は有るのだ、思い切ってやるべきだ。

「平民への権利拡大は分かるがフェザーン資金の監視、貴族達の抑制というのはどうするつもりだ?」
「貴族を一種の企業とみなしてその領地経営を監視する、その中で流入する資金を監視する。そういう方法しかないでしょう、義父上」
義父(おやじ)殿は不審そうな表情だ。いや他のメンバーも俺が何を言っているか分からないらしい。

「企業と同じように決算報告書を年に二回作成させ帝国政府に提出させるのです。それによって貴族達の領地経営状況、家の資産状況が分かります。同時にフェザーンからどの程度の資金が貴族に流れ込んでいるかも見えてくるでしょう」
「我々もかな、ブラウンシュバイク公」
「我々もです、リッテンハイム侯」
応接室に溜息が溢れた。不満か? しかしこれをやらなければ帝国という国家が見えてこない。

「貴族達の作る決算報告書と一般企業の作る決算報告書、それを合わせれば帝国全体にどの程度の資金が流れ込んでいるかも分かります。景気動向の予測も立て易くなる、そうでは有りませんか、ゲルラッハ子爵」
「確かにその通りですな」
ゲルラッハが答えると皆がまた唸った。

これまでがザルだったのだ。帝国創生当時は貴族も有能な人間が多かった。だから決算報告書の作成など必要なかったのだ。だが今は違う、貴族達の質は劣化し領地経営も満足に出来ない馬鹿共が多くなった。そうである以上監視体制を強化せざるを得ない。

「今回の一件を利用して全ての貴族に決算報告書の作成を義務付けましょう。帝国政府が貴族の不始末を救済するのは今回だけ、以後は救済しない。だから貴族は帝国政府に対してその経営状態を報告する。帝国政府はそれを監査し異常が有れば勧告、指導する。そうする事で領地経営の健全化と貴族の財政状態の健全化を図る……。それにこれを行えばフェザーンの影響を受けやすい貴族も分かります」
「なるほど」
リヒテンラーデ公が相槌を打つと皆が頷いた。

「では先ず貴族達に借金が払えない者は帝国政府に名乗り出るようにと通達するか。そして借金を清算した後で決算報告書の作成を貴族達に義務付ける。どうかな?」
リヒテンラーデ侯が皆に問いかけたが反対者は居なかった。賛成する声が聞こえなかったのはやはり決算報告書など書きたくないという思いが有るのだろう。丸裸にされる様なものだからな。理性では納得しても感情では不満が有るという事だ。しかし始めればそれなりに得る所も有ると分かるはずだ。自分自身の目で確認できるというのは大きい。

「貴族達に直接公的資金を投入するのではなく債務を帝国政府が引き受ける形を取りましょう。帝国政府が債権者と交渉し債務を支払うのです」
「それは大変ではありませんか、貴族達にある程度任せた方が良いと思うのですが」
フレーゲルの提案に皆が頷いた。その方が良いといった表情をしている。

「フレーゲル内務尚書、債務の中には法律で定められた金利を超える物も有るかもしれません」
「……」
「借金が多額になれば貸す方は渋ります、借りるには金利が高くても受け入れるしかない。貴族に任せればそのまま支払うでしょう、政府が全面に立ち不当に貪った分は返還させた方が良い」
ルンプ司法尚書が溜息を吐いた。俺も溜息を吐きたい。人間なんてやってることは何年、いや何世代経っても変わらない。この世界でも元の世界でも……。

「それと今回債務を肩代わりした貴族には監督官を派遣しましょう」
「監督官?」
「領地経営に失敗したのです。帝国政府から監督官を派遣し経営に関してはその同意を必要とさせる……。帝国政府に債務を返し終わるまで政府の監督下に置くのです」
リヒテンラーデ侯が苦笑を漏らした。

「厳しいの」
「税金を投入しているんですよ、当然でしょう。そうでなければ平民達が怒り出します、政府は貴族に甘いと」
「……」
爺さんが顔を顰めた。だが現実に影響が大きすぎて潰せないなど言ったら甘いと取られても仕方がないのだ。

「決算報告書の管轄は財務省でしょうが監督官は内務省の方が良いでしょう」
「互いに監視させるか」
「監視させるわけではありませんがチェック機関は多い方が良いと思います」
「どうかな、財務尚書、内務尚書」
二人とも頷いた、反対は無しだ。そして国務尚書は義父(おやじ)殿とリッテンハイム侯、そしてルンプ司法尚書に視線を向けた、こちらも反対はしない。つまりルンプは法制化に動くという事になる……。



客人達が帰った後、義父(おやじ)殿が話したい事が有ると言ってきた。表情が厳しい、良くない状況だ。そのまま応接室で二人で向き合った。
「エーリッヒ、先程の決算報告書だが……」
「はい」
「拙い事になるとは思わぬか?」
囁くような声だ。

「と言いますと?」
「当家やリッテンハイム侯爵家はその力を政府に知られれば削ぎ落そうという動きが出るとは思わぬか?」
「……なるほど」
なるほど、それを心配したか……。杞憂とは言えないな。

「お前が言ったな、今は良いが十年後、十五年後は分からぬと。この場合もそれが当て嵌まるとは思わぬか?」
「確かに難しいところです。改革が進めば平民の力が増大します。つまり改革を進めた政府の力が増大する事になるのですが……」
俺が口籠ると義父(おやじ)殿が頷いた。

「改革を進めたのはお前だ。平民達の支持はブラウンシュバイク公爵家やリッテンハイム侯爵家にも向かうだろう」
「……全体的に見れば貴族達の力は抑えられると思います。つまり相対的には政府の力が強まる事になる……」
義父(おやじ)殿が“うむ”と頷いた。

「当家だけを恐れるということは無いでしょう。恐れるとすれば当家が他の貴族と連合する事だと思います」
「リッテンハイム侯だな。或いは一門の連中か」
「はい」

単独なら恐れることは無いだろう。有るとすれば連合した時だ。問題はそれだけのことが出来るカリスマが居るかだな。例えば俺か……、無理だな、貴族を押さえようとしている俺を担ぐなど到底有り得ない事だ。その事を話すと大公も“そうだな”と頷いた。

「わしの杞憂かな?」
大公は首を傾げている、不安そうな表情だ。
「有るとすれば当家に強い敵意を持つ人間がこの国に現れた時でしょう。その人間がこの国の実権を握った時、理性では無く感情で動かれれば危険だと思います」

「なるほど、だとすると今のところは心配はいらぬか」
「そうですね、油断は出来ませんが……」
「うむ」
大公が安心したように頷いた。十年は大丈夫だろう、十五年も問題はないかもしれない。問題が有るとすればその後だろうな、エルウィン・ヨーゼフ、こいつがどう成長するか、それが問題だろう……。



 

 

第三十九話 次なる課題



帝国暦488年  1月 20日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「御苦労様でした」
「いえ、それほどの事では。何と言っても反乱軍との戦闘は有りませんでしたから……」
「それでも二カ月もイゼルローン要塞に居たのです。借家住まいでは色々と気苦労も有ったでしょう」
「恐れ入ります」
ブラウンシュバイク公爵家の応接室に男達の笑い声が上がった。

ラインハルト達が戻ってきた。律儀だよな、戻ってくるなりケンプ、レンネンカンプ、ファーレンハイトとやってくるんだから。明日、宇宙艦隊司令部での報告でも良かったんだ……。
「ケンプ提督、御家族には随分と寂しい想いをさせてしまいましたね」
「あ、いえ、そのような事は。これまでにも何度も有りましたから問題は有りません」

大きな身体を縮めてケンプが恐縮している。こいつ、撃墜王なんだけどワルキューレとかに身体が入ったのかな。あれ、結構操縦席は小さいんだ。まさか特注のワルキューレを使っていたとか……。いやワルキューレに入らなくなってパイロットを辞めたとか……。有りそうだな、訊く事は出来ないけど。

「しかしクリスマスも新年も一緒に祝えなかったでしょう。奥方はともかく御子息は寂しがっているのでは有りませんか?」
「はあ、それは」
「すこし休暇を取ってはどうです、暫くは戦争は無いでしょう」
「有難うございます、家族とも相談してみます」

照れるなよ、ケンプ。ちょっとこっちも恥ずかしいじゃないか。
「ケンプ提督だけではありません、皆さんも少し休息されては如何です」
“はあ”とか“まあ”とかいう言葉が上がった。
「遠慮はいりません、届を出してください。休息を取るのも大事です」
なんか皆困惑したように頭を下げた。こいつら休みを取るのに慣れていないんだな。いかんな、積極的に休みを取らせよう。そうじゃないと俺も休みを取れん。猛烈社員を持った上司の悲哀をこいつ等は分からんのだ。

「ミューゼル提督」
「はい」
「グリューネワルト伯爵夫人に面会されては如何です。陛下にはこちらからお願いしましょう」
「そうして頂けるのでしたら……」
「リヒテンラーデ侯に口添えをお願いしますよ」
「有難うございます」
シスコンラインハルトにはこれが一番だ。うん、俺って良い上司だな。ココアを一口飲んだ。皆もコーヒーカップを口に運ぶ。

「ところで後程報告書を出して頂きますがイゼルローン方面軍は如何でしたか?」
俺が問い掛けるとほのぼのした空気が消え代わって引きしまった空気が応接室に満ちた。四人の男達も表情を引き締めている。

「イゼルローン方面軍司令部が出来た事で外からは目立ちませんが要塞司令部と駐留艦隊司令部の関係に問題が有ると思います。直接ぶつかり合う事が無くなっただけに相手を無視する様子が見えるのです」
ラインハルトが発言すると他の三人が頷いた。

「やはりそうなりますか」
「はい。好き嫌いは別として最低限の信頼関係は必要だと思います。しかし現状ではそれが見えません。本来なら互いに意思の疎通を図るべく努力するべきなのですが……」
ラインハルトが言葉を濁した。

「そのような努力は見えない、そうですね?」
「はい、方面軍司令部が出来た事でむしろその努力を放棄しているようにも見えます」
ラインハルトの言葉に他の三人が頷いた。元々無きに等しいものが完全に無くなったわけだ。最悪だな。

「グライフス方面軍司令官は何と?」
「何とか両者を取り持とうとしているのですが……」
ラインハルトが沈痛な表情を浮かべて首を振った。妙だな、普通なら冷笑でも浮かべそうなんだが……。グライフスと親しくなったのかな。

「こちらにはそのような状況報告は来ていませんが?」
「上級司令部の責任者としては下級司令部の横の連携が無いとはなかなか言い辛いと思います。本来ならグライフス方面軍司令官の責任で解決する事ですから……」
「なるほど」
そうだろうな、部下が仲が悪いんです、何とかしてください、とは言い辛いよな。

「今回の攻防戦、反乱軍が交戦せずに退いてくれたのは幸いでした。もし戦闘状態に突入していれば……」
「していれば?」
ラインハルトが口籠った。方面軍司令部は俺の発案だ。実戦に問題ありとなれば暗に俺を非難する事になりかねない。ラインハルトも面と向かっては言い辛いのだろうな。

「遠慮はいりません、していれば?」
「要塞司令部と駐留艦隊司令部が相手の事等考えずに行動していたかもしれません。責任は全て方面軍司令部に押し被せてです」
言い終わってふっと息を吐いた。

「或いはそれを防ごうとして方面軍司令部に非常な負担をかける事になった。それが原因で重大な損害を被る可能性が有った、という事ですか……」
「はい」
やはりな、一朝一夕では解決できないか……。

駐留艦隊司令部、要塞司令部の人員を一新するしかないな。グライフスには最大限の協力をすると約束している、それを実行するべきだ。最前線で仲間割れを起こす様な馬鹿は要らん。全員更迭したうえで明らかに左遷と分かるポストに送る……。

最前線に配属された以上、周囲からはエリートと見られていた男達の筈だ。それを左遷した上で協力しなかったことが左遷の理由だという噂を流させよう。新たな司令部要員にとっては十分な警告になるはずだ。ラインハルトから報告書が出たらエーレンベルク、シュタインホフに相談してみよう。二人とも反対はしないはずだ。

「やはりミューゼル提督にイゼルローン要塞に行って貰って良かったと思います。おかげで向こうの状況が段々分かってきました」
俺が労うとラインハルトはホッとした様な表情を浮かべ“恐れ入ります”と答えた。他の三人もホッとしている。失礼だな、俺はそんな怖い上司じゃないぞ。話題を変えるか。

「イゼルローンでは今回の改革はどう受け取られていますか?」
俺が話しを振ると四人は明るい顔色になった。
「将兵からは好意的に受け取られています。何と言っても税が軽減されたのが大きい。それと領民達の控訴権も認められました」
「カストロプ公を始め不正を行っていた貴族達が処罰された事も将兵達は喜んでいます。最前線の兵士達は安全な場所で悪事に耽る様な者達を極度に嫌いますから」

ケンプ、レンネンカンプの答えも口調が弾んでいる。うん、良いね、最前線の兵士から評価されるというのは大事だ。何と言っても彼らは命をかけて国を守っているんだからな。彼らが高評価をしているという事は士気も上がるし今後の防衛戦でも十分に期待できると言う事だ。問題は要塞司令部、駐留艦隊司令部の不和だけだな。

「ですが税金を使って貴族を救済しようとしている事については多少不満が有るようです」
「……」
「政府からは救済しなければ帝国経済に混乱が生じると説明が有りましたから已むを得ないとは思っているようですが……」

やっぱりそうか、そうだよな、不満は有るよな。救済を求めてきた貴族は五百家を超え、救済金額は総額で二千億帝国マルクに上った。当初の予測の二倍以上だ。皆呆れ果て激怒していた。ゲルラッハ子爵なんか領地経営も出来ない馬鹿は全員銃殺刑にしてやりたいと言ったくらいだ。

俺も同感だ。カストロプ、ノイケルン、カルテナー等潰した家が有ったからそれの接収財産で賄ったがそうでもなければとんでもない騒ぎになっただろう。ノイケルン、カルテナー、両家ともカストロプ程じゃないがたんまり貯め込んでいた。接収財産は合わせて一千五百億帝国マルクを超えた。フェザーンからインサイダー情報を貰って株で儲けていたらしい。見返りが何だったのか、気になるところだ。

「確かにファーレンハイト提督の言う通り多少の不満は有るようです。しかしその分は政府に返済させますから政府に対する不満と言うよりは貴族に対する不満でしょう。我々と違って税を払っていないのに借金を作るとはどういう事だと」
「なるほど」
ラインハルトの言葉はまあ半分は俺に対する気遣いかな。だが無条件に救済しているんじゃないと言う事を理解してくれるのであれば十分だ。大事なのは政府が信頼できると思わせる事だからな。

「なにより貴族は監督官を受け入れなければなりません。あれは破産管財人の様なものだと将兵の間ではもっぱらです。自尊心の塊のような貴族にとっては屈辱でしょう、いい気味だと笑っています」
レンネンカンプの言葉に皆が失笑した。貴族って嫌われてるよな、俺も今じゃ貴族なんだけど。

まあ確かに嫌がった。でもね、金を借りてる立場というのは弱いのだよ。文句は言っても勢いが無い。それに不当に利子を取っていた金貸し共からその分を取り戻してやったからな、かなり借金は軽減された。それだって政府だから出来たわけで連中じゃ出来なかった。

連中は政府の命令を受け入れざるを得ないのだ。あんまりぐずぐず言う奴には潰すと脅した。借金を政府が金貸し共に返した以上、領地経営に失敗した貴族なんて潰しても経済危機は起こらない。ゲルラッハ子爵は銃殺刑だと語気荒く言った。馬鹿共は真っ青になって謝ってきたな。

「しかし将兵達が驚いたのは貴族に決算報告書の提出を義務付けた事です。あれは我々も驚きました」
ラインハルトの言葉に皆が頷いた。確かにこれまでなら有り得ない事だ。だが改革を行うとなればいずれは出た話だろう。

「反対が大きかったのではありませんか?」
「それはもう、……しかし意外な味方がいましたから」
「と言いますと」
「フェザーン商人ですよ」
俺とラインハルトの会話にファーレンハイトが“なるほど”と頷いた。他の二人、いやラインハルトも入れれば三人だがファーレンハイトは彼らに比べると経済に明るいようだ。

「改革を進める以上帝国政府は貴族に対して特別扱いはしなくなると彼らは想定しているのです。これまでは貴族という事で比較的危険が少ないと判断して取引を行ってきましたが今後はそうはいかなくなる。しかし取引相手としては貴族は非常に魅力的です。という事でリスクの有無を判断出来る材料が必要となる」
「なるほど、それが決算報告書ですか」
ラインハルトが頷いた。

「それと資産目録です。領地経営の状態と家の財政状態、それを開示しろ。そうでなければ貴族との取引は安心して出来ない、そう言ってきたのですよ。実際に今回救済した貴族達の借金の理由は殆どが遊興費です。領地経営の失敗が原因の借金はごく僅かです。彼らの要求は極めて妥当でしょう」

「フェザーン商人の要求を断れば商人は近付かなくなります。そうなれば自領の特産品の売買に影響が出かねない、財政状況にも悪影響が出る。そして政府を怒らせれば益々貴族達の先行きは危うくなる」
「家を潰すくらいなら、そういう事ですか」
「ええ、そういう事です、ケンプ提督」

決算報告書、資産目録の一件ではフェザーン商人の協力が大きかった。改めて思ったのはフェザーンの自治領主府とフェザーン商人は別だという事だ。自治領主府はどうしても政治的な動きを行うが商人にとっては経済活動が第一だ。帝国の改革は自治領主府にとっては面白くないだろうが商人にとっては必ずしも否定するべきものではない。

ルビンスキー対策の一つとしてフェザーン商人を味方に付けるというのが有るだろう。ルビンスキーが帝国に敵対し辛くするのだ。上手く行けばフェザーン内に反ルビンスキー、親帝国勢力を作ることが出来るかもしれない。そのためには今以上にフェザーン商人が活動しやすい経済環境、社会環境を作る必要が有る。すなわち、改革の継続だ。

「まあ決算報告書、資産目録の提出は今年度分からですが開示は来年度分からになります。流石にすっぴんでは出辛いでしょう、多少は化粧をして外に出られるようにしないと……」
俺の言葉に皆が笑った。貴族達の多くが資産状況の改善、領地経営の改善に取り組んでいる。今まで遊んできた罰だ、少しは汗をかくと良いさ。

決算報告書、資産目録の提出は作成に手間がかかるが貴族にとってもメリットは有る。自分の領地がどうなっているか、資産状況がどうなっているかが分かるんだからな。実際ブラウンシュバイク公爵家がそうだ。養子の俺だけじゃない、大公も大公夫人もなるほどと言って唸っている。

二人とも大まかには押さえていても詳細には把握していなかったのだ。ブラウンシュバイク公爵家の資産目録は作成途上だがその内容は結構凄い。カストロプ公爵家のそれを遥かに凌いでいる。帝国きっての実力者って評価が良く分かったよ……。

決算報告書、資産目録が開示されればフェザーン商人達は貴族達を選別するだろう。おそらくフェザーンの格付け会社は貴族の格付けを行うはずだ。つまり領地経営、資産状況が悪い貴族は自然と淘汰されることになる。それを避けたければ領内開発と資産状況の改善に励むしかない。

問題は辺境の貴族達だ、こいつらの資産状況、領地経営の状態は決して良くないはずだ。このままでは益々不利益を被る事になる。それを防ぐためには開発の援助を行うべきだな。幸い馬鹿な貴族達が毎年借金を政府に返してくれる。最低でも今後四十年間、毎年五十億帝国マルク程は返済されるはずだ。そいつを使って辺境を開発する、財源が確保されているのだ、フェザーン商人達も辺境は将来的には有望な市場になると認識するだろう。積極的に取引をしようとするはずだ。

貴族達の放埓の抑制は思ったより順調に進んでいる、そう考えていいだろう。問題は平民達の権利の拡大、社会的地位の向上だな。カストロプの状況を確認する必要が有るな、一度行ってみるか。リヒターやブラッケ達も関心を持たれているとなれば励みにもなるだろう……。その後は俺も領内統治に視線を向けないといかんだろう。忙しいな、全く忙しい。軍と政府とブラウンシュバイク公爵家か……。身体が幾つ有っても足りん……。


 

 

第四十話 独占慾


帝国暦488年  2月 5日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸   オットー・フォン・ブラウンシュバイク



「養子殿は如何したのかな? ブラウンシュバイク大公」
「朝早くカストロプに向かったよ、リッテンハイム侯」
「そうか、今日だったか」
リッテンハイム侯が残念そうな表情をした。口には出さないがエーリッヒの作るケーキを楽しみにしてきたのだろう。

妻と侯爵夫人、そしてサビーネが顔を見合わせて可笑しそうな表情を見せている。残念だな、しかしウチの使用人が作るケーキも中々の物だ。決してエーリッヒの作るケーキに劣ることは無い。もっともあれが作ったケーキだから楽しいという事は有る。

「……私も行きたかった」
「エリザベート、エーリッヒは仕事で行くのだ、我慢しなさい」
「それは分かっています。でも……」
娘が詰まらなさそうな声を出した。やれやれだな。

リッテンハイム侯がコーヒーを飲みながらどういう事だとでもいうような視線を向けてきた。
「カストロプに一緒に行きたいと駄々を捏ねたのだよ、リッテンハイム侯。オーディンから近いからな、十日程度の小旅行だ」
「駄々なんて捏ねていません」
エリザベートが口を尖らせた、まだまだ子供だ。

「そうかな、わしにはそういう風に見えたのだが」
「見間違いですわ、お父様」
わしと娘の遣り取りに皆が笑い出した。応接室に和やかな空気が漂う、ちょっと前までは考えられなかった事だ。

「なるほど、相手にされなかったか」
「そんな事は有りませんわ、叔父上。ただ仕事だから連れてはいけないと言われたのです」
「エリザベートは結構粘ったのだが上手く行かなかった。最後は大人の女性は男を困らせる事はしないものだ、そう言われてな、渋々だが引き下がらざるを得なかったのだ」
わしの言葉に皆が笑った。エリザベートだけが口惜しそうにしている。

「残念だったな、エリザベート。しかし公務だからな、我儘を言ってはいかん。公は忙しいのだから余り我儘を言うと嫌われてしまうぞ」
「分かっていますわ、叔父上」
「本当にそうだと良いのだがな、どうも最近他家の令嬢達がエーリッヒの事で騒ぐ所為で焦っているようなのだ」
わしの言葉にリッテンハイム侯が目をパチパチと瞬いた。

「なるほど、焼餅か、いや独占慾かな。子供だと思っていたがどうしてどうして、もう一人前だな」
リッテンハイム侯が声を上げて笑うとエリザベートが頬を染めて“叔父上!”と声を上げた。その様子に皆が笑い声を上げた。サビーネが“御姉様、焼餅なの?”と問い掛けエリザベートが“違います!”と答えると更に笑い声が上がった。

「カストロプといえば、あそこでは開明派と呼ばれる者達に統治を任せていると聞きましたが?」
「カストロプはオーディンに近い。統治の成果が出れば貴族達にも良い影響が出るのではないか、エーリッヒはそう考えているようだ。領民達から搾りとるだけではなく領地を開発して豊かにする事で税の増収を図る、皆にそう考えて欲しいのだろう」
わしがリッテンハイム侯爵夫人に答えると皆が頷いた。

「それにあそこが安定すればカストロプ、マリーンドルフとオーディンの後背地が安定する事になる。その辺りも考えているようだな」
「なるほど、安全保障か。確かにそれは有るな、軍人である公が熱心になるわけだ」
リッテンハイム侯がウンウンというように二度頷いた。

「残念だな、エリザベート。そういうわけだからエーリッヒもお前を連れては行けん。まあいずれ休暇を取る時も有るだろう。その時だな、何処かに連れて行ってもらう事だ。何時になるかは分からんが……」
「忙しいですものね」
わしとアマーリエの会話にエリザベートが寂しそうな表情をした。

「そう言えばエーリッヒは近々ブラウンシュバイクに行かなければと言っていたな、領地の状況を確認したいと言っていた。その時に一緒に行ってはどうかな?」
「構いませんの?」
娘が嬉しそうな表情を見せた。やれやれ、そんなに嬉しいか……。

「構わんだろう、自領に戻るのだからな。但し、邪魔かもしれんがわしとアマーリエも一緒だぞ」
娘がまた頬を染めて“お父様!”と言ってわしを睨んだ。また皆が笑った、妻が苦笑しながら“貴方、その辺で”とわしを窘めた。

一頻り笑った後、リッテンハイム侯が話しかけてきた。
「領地に戻るか、来年度からは財産目録と決算報告を出さねばならん、それのためかな?」
「うむ、まあそんなところだ。昔と違って領主というのも楽では無くなった。隠居したのは正解かな?」
「確かにそうかもしれん、羨ましい事だ」

二人で顔を見合わせて苦笑した。隠居を羨ましいとは、お互い権力欲が無くなったのかもしれん。それだけ世の中が落ち着いたという事も有るだろう。それとエーリッヒのお蔭かもしれんな、出来る息子がいると確かに安心だ。細かい所はあれに任せてこちらは大まかに押さえておけばいい。

コーヒーを飲んでいるとリッテンハイム侯が話しかけてきた。
「ところで、ここ最近美術品の値が下がっているそうだがブラウンシュバイク大公はご存知かな?」
「いや知らぬ。……もしかすると貴族達が買うのを渋っているのかな」
収入が減った以上支出を抑えねばならん、それの所為か? そう思ったがリッテンハイム侯が首を横に振った。外れたか……。

「それも有る、だがそれ以上に美術品が余っているそうだ」
「余っている?」
「売り払っているのだよ、貴族達が。少しでも現金を多くしておきたい、借金を減らしておきたい、そう思っているのだ。おかげで美術品が値崩れしているらしい」
「なるほど」

財産目録の所為か……。今年度は開示しないから来年度売るよりも今年度中に売って数字を良くしておきたい、来年度慌てて売って数字を良くしたと思われたくない、そういう事か……。その事を口に出すとリッテンハイム侯がその通りというように頷いた。女達は驚いている、アマーリエがホウっと大きく息を吐いた。

「本人が買いたがっても家族や執事が許さないらしい。借金が多くてはフェザーン商人達が寄り付かなくなる、そう言って止めるそうだ。ウチに出入りしている美術商が言っていた」
「では美術商も困っているだろう?」
「ところがそうでもないらしい」
はて、どういう事だ? お得意様の貴族達が買わぬのでは儲からぬと思うのだが……。しかしリッテンハイム侯が奇妙な笑みを浮かべている。

「向こう側に持って行くようだな」
「向こう側? 反乱軍か……」
リッテンハイム侯が“そうだ”と言うように頷いた。
「まあ実際にはフェザーンで売買する様だが帝国貴族の所有物という事でかなりの金額になるようだ。だが輸送費の問題も有るからな、持って行く時は或る程度纏まった数が揃ってからになるらしい」
思わず唸り声が出た。アマーリエとエリザベートは溜息を吐いている。なるほど商人とは抜け目のないものだ。帝国で安く買い叩いて反乱軍に高値で売り付けて儲けるか……。

「時々とんでもない物が売り出される事も有るようだな」
「とんでもない物?」
「うむ、大きな声では言えぬが……」
リッテンハイム侯が声を潜めた。はて、何だ?

「トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮……」
「まさか……」
思わずこちらも声を潜めた。リッテンハイム侯が事実だというように頷いた。皆驚きのあまり声も出せずにいる。

「あれは御下賜品であろう?」
「背に腹は代えられぬという事だな」
今度は溜息が出た。御下賜品を売る? トラウンシュタイン産のバッファローと言えば余程の事が無ければ下賜される品では無いのだが……。

「一体どれほどの値で取引されるのかな?」
問い掛けるとリッテンハイム侯が口髭をちょっと捻り上げる仕草をした。確証が無い時の仕草だ。
「さあて、……はっきりとは言わなかったが帝国内では少なくても十億は下らぬそうだ。反乱軍に持って行けばそれ以上にはなるという事だろう」
また溜息が出た。確かに背に腹は代えられぬとなれば売りたくなる品だ、十億帝国マルクを下らぬとは……。皆も目を点にしている。

「やれやれだな、貴族達が生き残るのも容易ではない。御下賜品まで売らねばならんとは」
溜息交じりに言葉を出すとリッテンハイム侯が後に続いた。
「全くだ、それだけこれまでは優遇されてきたという事なのだろうな」
「平民達の救済だけでは足りぬな、貴族達も救済せねばならんようだ」
わしの言葉に皆が頷いた。後でエーリッヒに話さねばなるまい……。



宇宙暦797年  2月 10日  ハイネセン  ワルター・フォン・シェーンコップ



「夜はホテルでは無くこちらに戻られた方が宜しいでしょう」
「この船に?」
「大佐は捕虜なのです。ホテルに泊まるのは構いませんが捕虜というのは偽りでブラウンシュバイク公のために同盟軍の様子を探りに来たのではないか、そう疑われますぞ」

ハイネセンに到着し出掛けようとした俺に真剣な表情で忠告してきたのはフェザーンの独立商人、アルバート・マスチフだった。俺が乗ってきた独立商船ブラッドシェッド号の船長でもある。マスチフは大型犬の名前だが眼の前の船長はどちらかと言えば小柄な三十代後半の男だ。もっとも独立商船の船長だけあって胆力は有りそうだ、危ない橋を渡った事も一度や二度では無いだろう。大体船の名前がブラッドシェッド(流血)だ、普通じゃない。

「逮捕されるかな?」
「かもしれません、しかし私ならそんな事はしませんな」
「ほう、では船長ならどうするかな」
「食事に遅行性の毒を盛って終わりですな。その上で大佐が寝返ってスパイ活動をしていたという噂を流す。皆不審死は当然と思うでしょう、面倒が無くて良い」
「なるほど」

平然としたものだ。もしかすると商売で邪魔になった奴を一人か二人、殺しているかもしれん。或いは襲ってきた海賊を返り討ちにして皆殺しにしたか。いや、この男の副業が海賊だという事も有り得るな。
「忠告に感謝する、夜はこちらに戻ろう」
「気を付けて下さいよ、ここは敵地だと思う事です」
やれやれ、女達と会うのは止めた方が良さそうだ……。

宇宙港を出てハイネセンの市街に出た。公衆TV電話を使ってローゼンリッターの駐屯所に連絡を入れる。直ぐに繋がってスクリーンに若い男が映った。俺を見て驚いている。
「騒ぐな」
『は、はい』
「連隊は今誰が率いている?」
『ブ、ブラウン連隊長代理です』
「代わってくれ、騒ぐなよ」
頷くと直ぐにスクリーンが風景の映像に変わった。保留ボタンを押したらしい、ブラウンを呼びに行ったようだ。

五分程でスクリーンにブラウンが映った。俺を見て驚愕している。
『大佐、どういう事です、これは。まさか本当に帝国に寝返ったんじゃ』
「それは無い、安心しろ」
『そう言われても……』
「何処かで会えないか、出来れば人目に付かないところが良いな。お前も聞きたい事が有るだろうが俺も聞きたい事が有る」

ブラウンがホテルコスモスの隣に有る喫茶店アイーシャで一時間後に会おうと提案してきた。ホテルコスモスはハイネセンの中心地からはちょっと離れたところに有るビジネスホテルだ。その所為であまり繁盛しているとは言えないが値段が安い所為でそこそこ利用客がいるらしい。

三十分程前にアイーシャに着いた。周囲を確認したが特におかしな点は無い。ブラウンが裏切る事は無いと思うが念の為だ、用心は欠かせない。十分程前になると地上車が二台到着しブラウンとウィンクラーが降りた。二人がそのまま喫茶店に入る、地上車もそのまま待機だ。

五分ほど経ってから地上車に近付き中を確認した。乗っていたのはロイシュナー、ゼフリン、ドルマン、それにハルバッハだった。一台に二人ずつ乗っている。どうやら問題は無さそうだ。いやここまでは無いと思うべきか。四人は俺を見て驚いていたがそのままにして喫茶店の中に入った。

ブラウンとウィンクラーは店の奥にあるテーブル席に居た。俺が近付くと信じられないものを見たような表情をしている。席に着いても変わらなかった。ブラウンとウィンクラーの前にはコーヒーが有ったが未だ手を付けていないらしい。俺の所にもウェイトレスが注文を取りに来たからコーヒーを注文した。

「隊長、隊長ですよね?」
「そうだ、幽霊じゃないぞ、ブラウン」
俺の言葉にブラウンとウィンクラーが顔を見合わせた。
「どういう事なんです、何故ここに隊長が……」

ブラウンの口調は恐る恐ると言った感じだ。二人とも俺が裏切ったと思っている、まあ無理もないか……。
「俺の身分は捕虜だ、まあこれを見ろ」
胸ポケットから書類を出してブラウンに渡した。

ブラウンとウィンクラーが書類に目を通した。書類には俺が帝国の捕虜である事、一時的に同盟に戻る事、オーディンには六月三十日までに戻る事が記されている。言ってみれば一時帰還の許可証と言って良い。そして許可証にはブラウンシュバイク公のサインが有る。

「分かったか、あくまで一時的に帰還を許されただけだ。お前達の様子を見て来てはどうかと言われてな、納得したか?」
「はい」
「では今度は俺の質問に答えろ、良いな?」
二人が頷いた。

「第七次イゼルローン要塞攻略戦の失敗だが原因は何になっている?」
二人の顔が歪んだ。
「……正式には何の発表も有りません。……ですが誰もがローゼンリッターが裏切ったからだと言っています」
「政府も軍もそれを否定する様な事は何も……」
ブラウンとウィンクラーの口調には力が無かった。ウェイトレスがコーヒーを持ってきた。一口飲む、意外に良い豆を使っているらしい、味は良かった。

「ローゼンリッターに対する処分は?」
「何も有りません。ですが解隊するんじゃないか、そんな噂が出ています」
ブラウンが答えるとウィンクラーが溜息を吐いた。解隊か、有り得ない話じゃない。原因を公表せず処分も無い、そして時間を置いて解隊……。第七次イゼルローン要塞攻略戦失敗の原因はローゼンリッターの裏切りにあるという事だ。だがそうなれば何処の部隊でも受け入れた旧ローゼンリッターの隊員は厄介者扱いだろう。こいつらが落ち込んでいるのもそれが分かっているからだ。

「軍中央に失敗は俺達の所為じゃないと言っている人間は居ないか?」
問い掛けたが二人とも困惑している。心当たりが無いか、そう思った時ウィンクラーが口を開いた。
「軍中央と言えるかどうか分かりませんが宇宙艦隊司令部のヤン准将が失敗は情報漏洩が原因とは限らない、十分に調査が必要だと言っているのを電子新聞で読んだ事が有ります。他の参謀は情報漏洩が有ったと決めつけている人間が殆どだったんで珍しいなと思いました……」
「……」

ヤン准将か、エル・ファシルの英雄だな。……会って見るか、他の連中なら信じないだろうが、彼なら俺達が裏切っていないと信じてくれるかもしれない。彼を通してクブルスリー司令長官、シトレ本部長に俺達が裏切っていないという事を伝えてもらえれば……、可能性は有る、試してみよう……。


 

 

第四十一話 次なる難題




宇宙暦797年  2月 10日  ハイネセン  ワルター・フォン・シェーンコップ



ブラウン達と相談してヤン・ウェンリー准将とはブラッドシェッド号で会う方が良いだろうという事になった。俺が直接彼に連絡を取るのは危険だ、ブラウンが連絡を取り彼をブラッドシェッド号に連れて来るという事にした。幸いにヤン准将は暇な男らしい、段取りを付けた当日に彼を捕まえることが出来た。ブラッドシェッド号に有る会議室で俺、ヤン准将、ブラウン、ウィンクラーの四人で会った。

「まさか貴官がここにいるとは……」
ヤン准将が首を横に振っている。この男とは初対面ではない、あの作戦を最初に俺の所に持ってきたのはこの男だった。
「最初に言っておきます、我々は同盟を裏切ってはいない。小官は帝国の捕虜です。もっともブラウンシュバイク公からは仕官を勧められていますが」
「では何故ここに?」
「ブラウンシュバイク公が様子を見て来ては如何だと言ってくれたのですよ」
「様子を……」
困惑している、正直な男らしい。

「同盟は我々が裏切った事で作戦が失敗したと思っているのではないかと、無実を訴えてきては如何かと。なかなか親切な御仁だ」
「……」
「軍上層部はどう考えているんです?」
表情が渋い、つまり裏切ったと見ているという事か
「……」
「では貴方は?」
ヤン准将は溜息を吐いた。

「貴官が帝国に通じたとする、しかしリューネブルク中将をイゼルローン要塞に配備するには時間が無い、不可能とは言わないがかなり厳しいだろう。リューネブルク中将はイゼルローン方面軍が編成された時点で要塞に配備された、そう見るべきだと私は考えている。理由は貴官達を知っているからだ、だから彼の人事発令は伏せられた。待ち伏せされたのだと思う」
「つまり、我々は裏切っていない」
ヤン准将が俺の言葉に頷いた。

「上層部はそれを理解していないのですか」
「いや、皆分かっている。上層部だけではなく参謀達もね」
ブラウン、ウィンクラーが訝しげな表情をした。
「では何故我々が裏切ったと?」
「信じられないのだと思う」
「我々が?」

ヤン准将が首を横に振った。
「無いとは言えない、しかしより大きいのはブラウンシュバイク公がこちらの作戦を見破ったという事が信じられないのだと思う」
「……」
ヤン准将が俺を見た。

「シェーンコップ大佐、貴官はリューネブルク中将を見た時、何を考えた?」
「……何故この男がここに、そう思いましたな。それと彼はもう中将ではない、大将に昇進しましたよ」
俺の答えに准将は“大将に昇進”と呟いた。“信用されていますな”と俺が言うと准将は大きく息を吐いて頷いた。

「貴官が信じられなかったように我々も信じられなかった。何故この男がここに、そう思ったよ。作戦失敗も止むを得ない、運が無かったと思った。直ぐに運ではないと教えられたがね」
「……」
ヤン准将が顔を顰めた。

「偶然なら問題は無かった、だが貴官達が要塞内に潜入すると向こうは、いやブラウンシュバイク公は見破っていたようだ。そこが信じられない。あの作戦は奇策だ、正攻法ではない。なぜそれを予測することが出来たのか、そしてリューネブルク大将をイゼルローン要塞へ配備、余りにもタイミングが良すぎる……」
「確かに……」
ブラウン、ウィンクラーも頷いている。

「ブラウンシュバイク公を甘く見るつもりは無い、彼の恐ろしさは良く分かっている。しかしそれでも思わざるを得ない、そんな事が可能なのかとね。もしそれが真実なら我々は人間以外の何か、化け物を相手にしているようなものだろう」
「つまりそれが我々への疑いになる……」
俺が確認するとヤン准将が頷いた。

「そういう事だと思う、皆恐れているんだ、ブラウンシュバイク公が見破ったと認める事を、何かの間違いだと思いたがっている」
「……」
「貴官が裏切ったと確信している人間は少数だろう、大多数が確信を持てずにいるはずだ。だがブラウンシュバイク公が見破ったと信じる事も出来ない、だから消去法で貴官達に疑いが行く」

亡命者だからといって疑われたわけではないという事か……。状況はむしろ深刻だな。
「シェーコップ大佐、貴官は自分の無実を示す物証を持っているかな?」
「いや、そういう物は有りませんな」
俺が答えるとヤン准将は頷いた。

「ブラウンシュバイク公が見破ったと言うのもリューネブルク大将の言葉だけだ、何の物証も無い。どちらか物証が有れば真実が明らかになる。しかし現状では真実を示す物は何もない、その事が事態をより複雑で厄介な物にしている」
真実が見えない、疑心暗鬼になっている、そういう事か……。

「シトレ元帥、或いはクブルスリー大将に会うことは出来ますか?」
「貴官自ら自分の無実を訴えたいという事かな? 説得したいと」
「そうです」
ヤン准将が首を横に振った。
「無駄だろう、事は軍だけの問題では無くなっている」

どういう事だ、思わずブラウン、ウィンクラーと顔を見合わせた。二人も准将の言葉に驚いている。軍だけの問題では無い? まさか……。
「ここ近年、同盟軍は敗北続きだ。当然だが敗北は政権の支持率にも影響を与える。今回の作戦には政治家達もかなり関心を持っていたらしい。そしてブラウンシュバイク公が見破ったという事に疑問を抱いている……」
「……」

「クブルスリー司令長官は分からないがシトレ本部長は貴官達が裏切ったとは思っていない。しかし先程言ったように貴官らの潔白を証明する証拠は何もない。政治家達にそれを言われればどうにもならない」
「だから証拠が有るかと聞いたのか……」
思わず唇をかんだ、そんな俺を准将が辛そうな表情で見ている。

「貴官は帝国に戻った方が良い」
准将を見た、辛そうな表情は変わっていない。
「ここに居るのは危険だ。捕虜がここに居るなど本来有り得ない、ブラウンシュバイク公がどういう意図を持ったのかは知らないが現状では貴官がブラウンシュバイク公の意を受けたスパイだと周囲には取られかねない。作戦の失敗は貴官の裏切りによるものだという証拠になってしまう」

「弁明の機会さえ小官には許されぬと」
自嘲が漏れた。
「シトレ元帥に貴官と会った事を話す、貴官が裏切っていないと言っていたこともだ」
「それを信じろと?」
「……貴官を騙すつもりなら危険だとは言わない。統合作戦本部に連れて行って捕えさせて終わりだ」

已むを得ない、予想以上に状況は悪い、同盟に留まるのは危険だろう。
「ローゼンリッターの処遇は?」
「分からない、上層部も決めかねているのだと思う。貴官は裏切ったのではないかと疑われてはいるが裏切ったと断定されたわけではない。だからこそ、此処でローゼンリッターの隊員に会うのは危険だ」
なるほど、俺だけではない、ローゼンリッターも危険だという事か……。

「出来る事なら貴官は帝国で仕官した方が良いだろう」
ブラウンとウィンクラーが驚愕を浮かべて准将を見ている。
「……小官に本当の裏切り者になれと?」
「そうだ、今のままではローゼンリッターは何も出来ない。貴官が帝国で仕官したとなればローゼンリッターは貴官を非難する事が出来るだろう」

ブラウンとウィンクラーが一瞬唖然とした後、そんな事はする必要が無いと口々に言った。そしてヤン准将に食ってかかろうとする。落ち着けと言って宥めた。
「小官一人で決められる事ではない、向こうには俺と共に捕虜になった仲間がいる。彼らの意見も聞かなければ……」
「酷い事を言っているとは思う、しかし考えてみてくれ」

ヤン准将が帰った後、ブラウンとウィンクラーが残ったが気まずい沈黙が落ちた。
「お前達も帰れ、俺もオーディンに戻る」
「ですが隊長、どうするのです?」
「ここでは答えられんな、ブラウン。リンツやブルームハルト達と相談してからになるだろう」

「もし隊長が帝国に仕官するようになれば……」
「戦場で出会うかもしれんな」
「……」
「その時は遠慮するな、お前達も俺もそんな事は許される立場じゃない」
「……」

あの男は、ブラウンシュバイク公は何処まで知っていたのかなと思った。状況は俺が想像していたより遥かに悪い。彼が俺に示したのは好意では無かったのかもしれない、現実を見ろという忠告だったのか……。いや、それも好意の一つなのだろう、現実を知ることが出来たのだから……。



帝国暦488年  2月 17日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  エリザベート・フォン・ブラウンシュバイク



「どうでしたの、カストロプは」
夕食が終わった後、何時ものように皆でお茶を飲んでいたけどエーリッヒ様はちょっと元気がない。私が問い掛けるとエーリッヒ様は困ったような表情をした。訊いてはいけなかったのかしら?
「思いの外に状況は良くなかったようだな」
お父様の言葉にエーリッヒ様が“ええ”と答えた。

「酷いものです、カストロプ公は領主としての責任をまるで果たしていませんでした。あれでは領民達が可哀想ですよ。ブラッケもリヒターも怒っていますし呆れてもいます。私欲を貪る人でしたから領地は結構発展させているのかと思いましたがそうでは有りませんでした。無責任なだけだったのでしょう」
溜息交じりの声、少し疲れているのかもしれない。顔色もあまり良くないし……。

「カストロプはまるで中世ですよ、機械など何も使っていません。全部人の力で作業をしています。おかげで耕作可能な土地が手付かずで残っている。いえ耕作地がほんの少ししかない、そう言うべきでしょうね」
「……」

「おまけに土地が酷く痩せているそうです。だから小麦の収穫高も少ない。ブラッケとリヒターは農業の専門家ではありませんがその彼らの目にも酷いと見えたようです。今土壌管理の専門家を呼んで対策を考えてもらっています。それと農業機械を購入しました。カストロプに届くにはもう少し時間が掛かるそうです」
「やれやれだな」
お父様が呆れた様に言うとエーリッヒ様が頷いた。二人ともウンザリしている。

「でも何故カストロプ公は何もしなかったのかしら」
思い切って訊いてみた、良かったお父様もお母様も何も言わない。
「必要ない、そう思ったのだろうね。領内を発展させることにはあまり興味が無かったようだ。それよりは政府閣僚になった方が効率よく稼げる、そう思ったのだと思う」
エーリッヒ様の答えにお父様が溜息を吐いた。

「四千億帝国マルクだったな、カストロプ公の私財は」
「最終的には五千億帝国マルクを超えました」
「領地経営など馬鹿馬鹿しくてやっていられないでしょうね」
今度はお母様が溜息を吐いた。お父様もエーリッヒ様も同じ思いなのだろう、表情が沈んでいる。

「無理もありません。機械を使えば耕作地は増えますが帝国製の農業機械は品質が悪く故障が多いそうです。修理には時間もかかるし費用もかかります。かなり扱いは面倒なのでしょう。それに作物に多少の余剰が出来ても輸出は難しい」
「何故ですの?」
私が質問するとエーリッヒ様が困った様に笑みを浮かべた。お父様、お母様も同じような笑みを浮かべている。

「利益が出ないんだ。多少の量では輸送コストが高くなり利益が出ない。フェザーン商人もそれが分かるから買おうとはしない。利益を出そうとすれば薄利多売、利幅は少なくても量を多く売る事で利益を出すしかない。だがそのためには耕作地を増やす、つまり機械化を徹底的に図る必要が有る。それと大型輸送船を持つ商人の協力が必要だ」
「……」
エーリッヒ様が首を横に振っている、実現するのは難しい事なのだろう。

「小麦は保存が可能だ、それに主食でもある。それでさえ輸出が難しいとなれば他の生鮮野菜はもっと厳しい。領内で加工するか、或いは鮮度を保てる輸送船を用意するか……、どちらにしろコストが嵩む……。だからどうしても農業には力を入れなくなる。力を入れるのは鉱山などの利幅の大きい産物になってしまう」
そうなんだ、そんな事になってしまうんだ。驚いたけどきちんとエーリッヒ様が話してくれたことが嬉しかった。

「カストロプはオーディンから近い。本来なら大消費地であるオーディンに近いのだから位置的には優位な筈だが……」
「義父上、その優位を生かし切れない、それが帝国の現実です。人口が減少しつつあることも良くありません。食料を必要とする人間が減っているのですから」
エーリッヒ様の言葉にお父様もお母様も黙ってしまった。

「このまま人口が減り続ければ有人惑星の放棄という事も有り得るでしょう。行き着くところは……」
お父様とエーリッヒ様がお互いに顔を見合っている。二人ともとっても怖い顔、お母様を見たけどお母様も怖い顔をしている。

「それ以上は言うな、エーリッヒ。言ってはならぬ」
「口を噤めと言われますか、しかし十年後、二十年後は分かりませんが五十年後には皆が口に出すようになります。その時ではもう遅いという事も有り得るでしょう」
お父様が大きく息を吐いた。

「お前は先が見え過ぎる、そしてそれを口にしてしまう、困った奴だ。人口減少が続けば帝国が崩壊すると言うのだろう、歯止めをかけるには戦争を止めるしかないと……。しかしお前は帝国軍三長官の一人、宇宙艦隊司令長官だ。お前が言ってはならぬ」
「……」

「今は改革を進める事が第一だ。改革で実績を上げてからの方が良い。あれもこれもでは全てが失敗に終わる可能性も有る。最悪なのはそれだろう」
お父様の言葉にエーリッヒ様が頷いた。
「そうかもしれません、しかしこの問題を放置する事は出来ません。改革と同じくらい重大問題です」
今度はお父様が頷いた。

「そうだな、しかし一つ間違えば反逆者と言われかねん危険が有る。バルトバッフェル侯爵の事を知らぬわけではあるまい」
「……」
「彼は皇族でありながら慎重論を唱えただけで排斥された。お前が例外だとは限らない」
お母様が頷いた。

「戦争を無くす方法は和平だけとは限らないでしょう」
「……エーリッヒ」
「いずれは、と考えていました。しかし帝国の現状は予想以上に酷い。本気で統一を考える時が来たのかもしれません」
お父様が目を見張った。
「出来るのか? 百五十年戦争しているのだぞ」
「……」
エーリッヒ様は答えなかった。でも口元は引き締まっている、本気なんだと思った。


 

 

第四十二話 密談




帝国暦488年  3月 1日  オーディン  ゲルラッハ子爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



ゲルラッハ子爵から内密に相談したいことが有ると言われた、他聞を憚ると。嫌な予感がしたが断ることは出来ない、目立たない平服を着て夜遅く、九時を過ぎた時間にゲルラッハ子爵の屋敷をこっそり訪ねた、裏口からだ。護衛はフェルナー一人、地上車は屋敷から離れた場所に待たせた。

子爵邸の使用人は俺とフェルナーをある部屋に案内すると無言で出て行った。応接室ではないし居間でもない、ソファーとテーブル、そしてアンティークのガラスキャビネットが有るが他には何もない、おそらくは密談用の部屋だろう。貴族の屋敷にはこういう部屋が必ず有る。ブラウンシュバイク公爵邸にも有る。

ソファーに座るとフェルナーが俺の後ろに立った。隣に座れとは言わないしフェルナーもそれを望まない。もうすぐゲルラッハ子爵が来るだろう、けじめをつけられない男だと思われてはならない。偉くなるのも善し悪しだ、不自由な事ばかり多くなる。

ドアが開いてゲルラッハ子爵が入ってきた。フェルナーが一礼すると部屋を出て行った、外で警備をするのだろう。子爵は何も言わずにガラスキャビネットからグラスと飲み物を取り出した。
「私は飲めませんが」
「御安心を、これは水です」
「お気遣い、感謝します」
「いえ、そうでは有りません。酒を飲んで話せる内容では無いのです、お気になさらないでください」

ゲルラッハ子爵が俺の正面に座った。グラスを置くと水を注ぐ。
「夜分に御足労を願いまして申し訳ありません。本来なら私が伺わなければならないのですが……」
こういうのって面倒だよな。役職から言えばゲルラッハ子爵の方が上だ。しかし俺は皇帝の孫の婚約者で公爵だ。宮中序列では俺の方が上になる。
「それこそ気になさらないでください、内密との事、私がこちらに来た方がいいでしょう。あの屋敷は見張られている可能性が有ります」

見張っている人間は色々だ。フェザーンもあるだろうが門閥貴族の手の者、そして独立商人も最近では俺の動きを探ろうとしている。俺は改革の旗振り役と認識されているのだ。
「それで、お話とは?」

俺が尋ねるとゲルラッハ子爵が一冊のファイルを差し出した。読めという事か、それほど分厚いものではないが時間をかけてゆっくりと読んだ。ゲルラッハ子爵が苦みを帯びた表情で俺を見ている。気持ちは分かる、この問題が有ったな、溜息が出そうだ。

言葉を出す前に水を飲んだ、ゲルラッハ子爵も水を飲む。
「このような事は言いたくありませんが、貴族というのは何を考えているのです? 領民に対する義務と責任は欠片も無いらしいですね」
ゲルラッハ子爵の表情が歪んだ。平民出身の俺に言われるのは屈辱だろう、しかし俺の言葉を否定はしなかった。否定出来るのなら俺をここに呼んだりはしない。

ファイルは貴族専用の金融機関、特殊銀行、信用金庫から融資を受けている貴族の一覧だった。そして使い道も記載してある。原作ではラインハルトが改革を始めると真っ先に潰された制度だ。この融資は無利子、無担保、無期限というふざけた融資内容になっている。

元々は惑星開発には金がかかるからという事で作られた金融機関なのだが現状では資料を見る限り領地経営に使われてはいない。フェザーンの投資機関に預けたり、場合によっては自分で金融機関を営む事に利用している。それで得た利益が遊興費や私兵の維持に使われるわけだ。そして融資額は年々増加している。

「帝国が財政難になるわけですよ、領地経営もせずに帝国から金を借りて遊びまくっている貴族がいるのですから」
「その通りです。財政再建にはこれを何とかしなければどうにもならないと思います」
前財務尚書カストロプ公は何もしなかったのだろう。自分が不正をしていたから何も言えなかったに違いない。いや、それ以前に自分の蓄財以外には関心が無かったか。皆で仲良く甘い汁を吸っていたわけだ。

「リヒテンラーデ侯は何と?」
「ブラウンシュバイク公に相談せよと、国務尚書閣下も以前からこの問題では頭を痛めていたようです」
頭を痛めているって、それで俺にぶん投げるかよ。あのジジイ、究極奥義丸投げを使うのは止めて貰いたいものだ。俺の方が頭が痛くなってきた、どうしたものか……。
「これを強制的に回収すればどうなると財務尚書は見ていますか?」
俺が問い掛けるとゲルラッハ子爵は力無く首を横に振った。

「帝国は大きな混乱に見舞われると思われます。金融機関を営んでいる貴族は資金不足に陥る可能性が有ります。そうなれば信用不安が発生します。最悪の場合帝国政府が公的資金の投入に踏み込まなければならなくなるでしょう。回収は混乱を起こしただけで意味のないものになる可能性が有る。それが財務省の見解です、何とかしようと思ってもどうにも出来ない、ズルズルと今日まで来てしまいました……」

「フェザーンも同様でしょうね。貴族が資金を回収すれば投資機関は資金不足に陥る可能性が高い。彼らは不足した資金を何処からか補わなければなりません。最初に行うのが帝国からの資金の回収……」
「はい、財務省も公と同じ見解です」

今度は本当に溜息が出た。同じ見解と言われても少しも嬉しくない、頭痛が酷くなるだけだ。どうにもならん、楽に稼げる道が有る以上、貴族達は面倒な領地経営には消極的になる。使い道が違う以上融資を引き揚げるべきなのだがそれをやれば帝国は混乱する……。もう一口水を飲んだ。

「とりあえず新規融資は止められませんか? 用途を確認し領地経営以外には使わせない……。当主が死んで代替わりすれば一度融資は返済されるはずです。それを機に少しずつ整理する……」
俺が提案するとゲルラッハ子爵が首を横に振った。

「それを行えば政府が融資の引き締めを行い始めたと皆が理解します。それだけで混乱が生じかねません」
なるほど、貴族が経営している金融機関は預金の流出が起きるか……、深刻な資金不足が発生するな……。
「しかしこのまま放置すれば一年後には問題になりますよ、そうではありませんか?」
「公の仰る通りです、間違いなく問題になるでしょう。それで頭を痛めております」

もう一度ファイルを見た。貴族達が借りている金額はかなりのものだ。ゲルラッハ子爵が俺を上目使いで見た。
「少しずつ返済させるしかないと思いますが……」
「現時点で既に借金まみれの貴族も居ます。全てを返済までにどれだけの時間がかかるか……」

ゲルラッハ子爵が顔を顰めた。融資を受けている貴族の中には例のフェザーンからの借金を帝国政府に肩代わりしてもらっている貴族も居る、それもかなりの人数だ。フェザーンに金を預けて資産運用を行い利益を得る。それでも足りずにフェザーンから金を借りて遊びまくる。貴族ってのはホント何考えてるんだ? 俺にはさっぱり分からん。

結局結論は出なかった。ゲルラッハ子爵は俺に相談してほっとしたような表情をしていたが俺にとってはまた一つ重荷を背負わされたようなものだ、地上車で帰る時も対応策を考えたがどうにも良い案が出ない。これじゃ宇宙統一なんて何時の事になるのか……。内政改革だけで一生を終えそうな気がしてきた。

「エーリッヒ」
「うん?」
「大丈夫か? 顔色が良くないが……」
フェルナーが俺の顔を覗き込むように見ていた。

「難問続出だ、頭が痛いよ」
「俺に話してみたらどうだ。ゲルラッハ子爵が絡んでいるとなると財政の事だろう。経済や財政の事は分からんが話すことで何か良い考えが浮かぶかもしれない」
心配そうな表情だ、どうやら俺は表情が直ぐ顔に出る悪い主人らしい。

「そうだな、屋敷に戻ったら聞いてもらおうか」
俺が答えるとフェルナーが頷いた。俺をブラウンシュバイク公にしたのはこいつを含めた公爵家の人間だ、もしかするとフェルナーは俺に対して罪悪感でも感じているのかもしれない。

「……アントン、私はブラウンシュバイク公としてはどんなものかな」
「……良くやっていると思うよ。俺だけじゃない、アンスバッハ准将、シュトライト少将もそう言っている。帝国の文武の重臣として良くやっているさ」
「……」
「ただ、不運だと思うよ」

「不運?」
冗談かと思って俺が問い返すとフェルナーが真顔で頷いた。
「あと百年早く生まれてブラウンシュバイク公になっていればこんな苦労はしなくて済んだのにな」
「百年前なら誰も改革など必要としなかったさ」

思わず笑ってしまった。しかしフェルナーが哀しそうな表情をしていたので直ぐ止めた。時代が人を必要とするのであれば原作世界では貴族達の政治が限界に達したからラインハルトが登場したのだと俺は思う。だとすれば俺がこの時代に生まれたのも偶然では無く必然なのだろう。

フリードリヒ四世が言うように全てを焼き尽くすか、不要な物を流し去るか、その担い手を必要とする時代が来たのだと思う。もっとも俺がその不要な物を流し去る担い手に選ばれた事は不本意の極みだが……。

屋敷に戻ると俺とフェルナーは密談用の部屋に入った。俺がそれを望んだ。話している最中に貴族に対して罵声が出そうだ。大公や大公夫人に聞かれたくは無い、エリザベートにもだ。改革の必要性は認めているだろうが貴族に対する批判を聞くのは辛いことも有るだろう。

フェルナーにゲルラッハ子爵との話しを説明した。話しが進むにつれてフェルナーの表情も厳しくなる。終わった時には大きな溜息を吐いた。
「難問だな、しかし一年後に問題になるというのはどういう事だ?」
「決算報告書と資産目録が公表される。連中が領地開発のために借りた金を資産運用に転用している事が公になる。領民達は大騒ぎだろうな」
フェルナーがまた溜息を吐いた。

「対策が難しいのなら決算報告書と資産目録の公表は延ばした方が良いんじゃないか?」
「無理だよ、公表は平民達もフェザーンの商人も心待ちにしている。延ばせば何か不都合が有ると感付くだろう。無責任な噂が出かねない、そちらの方が危険だよ」
それくらいなら正直に公表した方が良い。貴族、政府に対する不満は出るだろうが訳の分からない信用不安は起きずに済む。

「年内に何らかの手を打つ必要が有る、そういう事だな?」
「そういう事だ、だがその打つ手が見つからない……」
今度は俺が溜息を吐いた。
「……卿は反対のようだが少しずつでも返済させるしかないんじゃないか?」
「……平民達が納得すると思うか?」
俺が反問するとフェルナーは顔を顰めた。

「領内開発に使うべき資金を他の目的に使っていた。そこから出る利益を領内開発に回すならともかく遊興費と私兵の維持に使っていたとなれば領民達が納得するとは到底思えない。おまけに返済するとなれば領内開発に回す資金は僅かなものになるだろう……」
「ではその利益を領内開発に回すというのはどうだ? 改革の成果として領民達には受け取られるはずだ」

「融資を受けた貴族の中には例のフェザーン商人から借りた借金を政府に肩代わりしてもらった貴族がかなり含まれているんだ。その連中は政府に五十年近く借金の返済をし続ける事になる、しかも無利子でだよ、アントン。さっきも言ったが返済を続ければ領内開発に向けられる資金はごく僅かになる。本格的に領内開発が行われるのは五十年後だろう。彼らの統治を受ける領民達が納得すると思うか?」
「……無理だろうな」
フェルナーが力無く首を横に振った。

「何らかの形で貴族に罰を与えなければならない、目に見える形でだ。そして帝国の財政を好転させる必要が有る。先日の貴族の救済だが平民達は決して快く思ってはいない。帝国が混乱するよりはましという事で仕方なく納得しているだけだ。今また融資を引き揚げれば混乱すると言ってそれを認めれば如何なる? 平民達は政府は貴族に甘い、自分達にその分の皺寄せが来ると不満を持つだろう。そして貴族達は改革など掛け声だけだ、自分達は何をやっても許されるのだと思いかねない」

フェルナーの表情が暗い、俺も同様だろう。俺もフェルナーも平民に生まれた。そして俺達は士官学校に入り士官になった、それなりに昇進もした。平民としては十分に恵まれた方だろう。だが帝国には俺達よりもはるかに劣悪な状況にある平民が居るのだ。彼らの統治者に対する不信感を甘く見るのは危険だ。

少しの間、沈黙が落ちたがフェルナーが“喉が渇いたな、水を持ってくる”、そう言って席を立った。広い屋敷だ、戻るまでに十分はかかるだろう。本当なら対策を考えなければならないのだがどうにも考える気になれない。馬鹿で無責任な貴族が不始末をしでかし平民の俺が後始末を付けるために苦しんでいる。馬鹿げている、フェルナーが戻って来るまで溜息ばかりが出た。

「いっそ貴族達から領地を取り上げたらどうだ」
戻ってきたフェルナーが水の入ったグラスを俺に渡しながら言った。冗談かと思ったが目が笑っていない。
「本気で言っているのか? 随分乱暴な意見だが」
「乱暴かもしれないが問題の本質は突いているだろう。領主としての責任感と義務感の無い連中が領地を持っている事が問題なんだ。それを解消すれば良い」
「なるほど」

確かにそうだ、問題は貴族に有るのではない。正確には領主として不適当な人間がその地位に有る事が問題なのだ。
「連中から領地を取り上げれば領民だって納得するさ」
「帝国の直轄領にするという事か」
「ああ」

悪い考えではない、直轄領にするという事は税の増収が見込めるという事だ。しかも一時的なものではなく恒久的に見込める。開発も政府主導で行えるのだ、領民達も納得するだろう。そして貴族達の力が弱まり政府の力が強くなる。原作に近い考え方だな、貴族達が消え去り領地が帝国の直轄領になった。問題は貴族達が納得するかどうかだ。当然反発するだろう、混乱を最小限にするにはその反発を減らす必要が有る……。

「もう一捻り要るな、アントン。貴族達の反発を少なくする何かが」
フェルナーの顔を見た。
「そこは卿が考えてくれ、俺にはこれが精一杯だ」
「……」
また溜息が出た。こいつ、肝心なところで役に立たん……。しかし領地を取り上げるか、可能ならベストだが……。




 

 

第四十三話 踏み絵




帝国暦488年  4月 10日  オーディン  ブラウンシュバイク邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



ブラウンシュバイク公爵邸にある密談用に部屋に三人の男が集まった。オットー・フォン・ブラウンシュバイク大公、ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム侯爵、そしてエーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク公爵。帝国貴族四千家の中でも頂点に立つ実力者の筈だが俺にとってブラウンシュバイク公というのは厄介事ばかり持ち込まれる何かの罰ゲームじゃないかとしか思えない。

「わざわざ此処で話すという事は余程の厄介事のようだな」
「一体何が起きたのかな、ブラウンシュバイク公」
ソファーに並んで座る義父殿とリッテンハイム侯の表情は硬い。幾分緊張しているのだろう。俺も多少の緊張は有る。

「自分は平民として生まれ育ちました。ですので自分が考えている事が貴族にとってどのような意味を持つのか、判断出来ないところが有ります」
「それをわしとリッテンハイム侯に判断しろと言うのか」
「はい」
義父殿とリッテンハイム侯が顔を見合わせ、そして俺を見た。表情は厳しい、そして警戒の色は有るが拒否の色は無かった。

「これをご覧ください」
一冊のファイルを差し出した。ゲルラッハ子爵から借りた資料、貴族専用の金融機関、特殊銀行、信用金庫から融資を受けている貴族の一覧だ。義父がファイルを受け取り読み始めた。読み進むうちに義父殿の表情が渋くなり口元が歪む。読み終わると大きく息を吐いてファイルをリッテンハイム侯に渡した。

「ゲルラッハ子爵か」
「はい、リヒテンラーデ侯が私に相談しろと言ったそうです」
「また面倒な物を……」
義父がぼやく。そして隣でファイルを読むリッテンハイム侯の表情も苦虫を潰したような表情になった。確かに面倒だ、持ち込まれた俺は増々貴族が嫌いになった。

「帝国が財政難に喘ぐはずだな。これを見ると良く分かる」
「どの程度の家が借りているのだ、エーリッヒ」
「帝国貴族四千家、その内ざっと三千家は借りています。借りていないのは余程に裕福で借りる必要が無いか、逆に貧乏で貸し出しを渋られたか、或いは力が無いかです」
二人が疲れた様な表情を見せた。俺の苦労が少しは分かってくれたかな。

リッテンハイム侯が俺にファイルを返そうとしたが断りもう一冊のファイルを渡した。
「これは?」
「フェザーン商人から借金をしていた貴族です。現在では政府が肩代わりしています」
リッテンハイム侯が義父殿に視線を向けてからファイルを読み始めた。直ぐに溜息を吐いて義父殿にファイルを渡した。義父殿も同じだった、読み始めて直ぐに溜息を吐いた。

「同じ名前が載っているな、公」
「はい、肩代わりをした殆どの貴族、五百人程ですが彼らは金融機関から融資を受け更にフェザーン商人から借金をしていました」
そんな不機嫌そうな顔をしないでくれ。借金をしたのは俺じゃないんだから。何で俺がこんな思いをしなけりゃならないんだろう……。

「金融機関から受けた融資はフェザーンの投資会社に預けられ運用されるか、或いは貴族自身が企業を営む事に利用されます。そこから得た収益が貴族達の遊興費になるわけです。投資会社も決して貴族達に損はさせません。損をさせれば貴族達は二度と金を預けなくなりますからね、信用にも関わります。フェザーン商人が彼らに融資するわけですよ、返済の当てが有るのですから」
目の前の二人は黙ったままだ。面白くない話だからな、怒鳴り出さないだけましか。

「来年から決算報告書と資産目録の作成と公表が義務付けられます。そうなればこれらの事が平民達の知るところになる。その時、何が起こるか……」
「暴動が起きかねんな」
義父殿が言うとリッテンハイム侯が頷いた。その通りだ、本来なら領地開発に使うべき資金を遊興費を稼ぐために使っていたのだから。それでも足りずに借金までする阿呆もいる。せめて利益を領内開発に使ってくれれば……。無理だよな、平民なんて貴族にとっては虫けらだ。

「それで公はこの事態、如何すべきだと考えているのだ?」
「……何もしないというのも一つの選択肢として有ると考えています」
「……」
二人が顔を見合わせている。

「現状では資金の回収は出来ません。強制的に回収すれば帝国は大きな混乱に見舞われるでしょう。これは財務省も同意見です。おそらくフェザーンも混乱するでしょうし、その混乱は同盟にまで及ぶ筈です。そうなれば銀河系全体に混乱が及ぶ事になる」
どうにもならない。帝国から資金をフェザーンに預けフェザーンがそれを運用するという金融システムが出来てしまっている。止めればフェザーンはとんでもない資金不足に陥るだろう。

「だから何もせず暴動が起きるのをただ待つというのか」
「……」
「公、何を考えている?」
リッテンハイム侯の声には咎めるような色が有った。怒っても無駄だよ、俺も怒ってるんだ。

「暴動が起きた時点で政府が介入します。そして状況を調査し“施政宜しからず”と判断して取り潰す」
“馬鹿な”、“何を考えている”と二人が呆れた様な声を出した。声だけじゃない、視線もだ。まるで気でも狂ったかとでも言いそうな目だ。

「取り潰した貴族の財産は全て帝国政府の物になります。貴族の経営する企業、投資した資金全てがです。事実上回収したと言えるでしょう」
「それは……」
俺が何を考えたか分かったのだろう、二人の顔が強張った。
「領地も接収されますから直接税も増収となりますし領地経営が出来ない貴族達を淘汰する事にもなります。財政再建と貴族階級の質の劣化の防止、一挙両得ですね」

フェルナー、お前の言う通りだ。領地経営の出来ない貴族が領地を持つから、貴族は帝国の藩屏、守るべき存在なんて考えるからおかしくなるのだ。むしろ取り潰すべき対象と考えた方が良い。そうすれば貴族も甘えなくなる。モデルは江戸幕府だ。どんな些細な事であれ大名に非が有れば容赦なく取り潰して領地を接収した。おかげでどの藩も領内統治には力を入れた。一揆なんかが起こったら幕府に取り潰しの口実を与えかねない。

「エーリッヒ、暴動が起き取り潰される貴族はどの程度になるとお前は見ているのだ?」
「最低でも五百は下回ることは無いでしょう。上は……、二千を超えるかもしれませんね。一つ暴動が起きればあとに続くのは難しくありません。不満なんて嫌になるほど有るんですから」

義父殿が溜息を吐きそして俺をじっと見た。
「お前は怒っているのか」
「怒っています」
「……」
「貴族は帝国の藩屏? 冗談じゃありません、これを見れば分かりますがどう見ても帝国を食い荒らす害虫ですよ。馬鹿げたことに帝国はこれまでその害虫共を保護してきた。おかげで帝国は酷い虫食い状態です。このままでは帝国は害虫どもに齧り倒されてしまうでしょう」
義父殿が首を横に振った。

「混乱するぞ、連中が大人しく取り潰されるとは思えん。お前が貴族達を潰したがっていると知れば連中は協力して反乱を起こすだろう。大きな内乱になりかねん」
「大公の言う通りだ。公の気持ちは分からんでもない。しかし他に方法は無いのか? 取り潰すなとは言わんがそれは最後の手段にすべきだろう。最初から取り潰しが狙いでは生き死にを賭けた戦争になりかねん。帝国は混乱する、反乱軍がそれに付け込む可能性も有る」

やっぱり反対か、まあ或る程度は予測出来たけどな。義父殿もリッテンハイム侯も改革の必要性は認めている。ある程度の貴族の抑制も必要だと認めている。しかし混乱は望んでいない。この二人が望んでいるのはソフトランディングだ。原作でラインハルトが行ったようなドラステックなハードランディングは望んでいない。

結局は体制内での改革という事になる。この二人だけじゃない、リヒテンラーデ侯も同じ考えだろう。ラインハルトのような体制そのものを変える改革にはならない、望まない。その分だけ改革は徹底したものにはならないだろう。中途半端で対処療法に近い政策の継続になる。消化不良になりそうだな……、しかしやり過ぎると俺自身が排除されかねん。さりげなく、無理なく改革を進めなければならない。婿養子は辛いよ、立場弱いわ……。クーデターを起こしたくなるな。

「では、次善の案としてですが金融機関から借りているだけでなく政府からも借金をしている貴族ですがこれは借金を全て棒引きとします」
「棒引き?」
「はい。但し領地は取り上げます、領地経営をするだけの能力を認められませんから」
二人が唸り声を上げた。

「悪くない取引だと思います。面倒な領地経営はしなくても良いし借金も無くなります。おまけに融資した資金はそのまま財産として認められる。財政状況は一気に改善するでしょう。領地を失う事に抵抗は有るかもしれませんが爵位はそのまま認めます。よくよく考えれば得をしたと理解出来る筈です」
「……」

「政府は直轄領が増えますしそこから直接税の税収が見込めます。短期的には赤字でも長期的に見れば元は取れる」
「……」
「それと領地経営をしない以上、税の免除は認められません。今後は税を納めて貰います」
また唸り声が聞こえた。

「領地を失い税を払うか……、厳しいな」
「うむ、厳しい。……公、もしこれを受け入れなければ如何なる」
「何もしません。但し暴動が起きれば……」
「取り潰すか」
「はい、彼らが望んだ事です。容赦はしません。私としてはその方が有り難いですね。これ以上あの連中の面倒をみるのは御免です」
二人が顔を顰めて大きく息を吐いた。不満か?

「これ以上は譲れません。借金を棒引きの上に融資も呉れてやると言っているのです、甘すぎるくらいですよ。平民達も簡単には納得しないでしょう、余程に丁寧に説明する必要が有ります。彼らに不満を持たせればその不満は政府に向かうのですから」
義父殿が大きく息を吐いた、何度目だ?

「已むを得んな。それで、エーリッヒ、他の連中は如何する。借金はしていないが融資を受けている連中だが」
「融資を回収するのは無理です。となれば融資を使って得ている収益の一部を領内開発に回す事で現状を認めるしかありません」
「なるほど、具体的には如何する」
「融資から得た収益の十パーセントを政府に収めさせます。そして三十パーセントを領内開発に投資させます。これは法律で義務付け違反すれば罰を与えます。基本的には罰金ですが違反の度合いが酷い場合には領地の取り上げも有ります。決算報告書と資産目録が作成されれば法の執行は難しくは有りません」

収益の全てを領内開発に投資しろと言えば貴族達は反発するだろう。しかし半分以上を自由に使って良いと言っているのだ。我慢して貰わなければ困る。平民達も不満は有るだろうが領内への投資金額を確保した。それに融資期間が長期になれば領内開発への投資金額は最終的には融資金額を超える可能性も有る。こっちも我慢してもらう。政府も定期的に収入を得ることが出来る。長期的には元が取れる筈だ。

「如何思うかな、リッテンハイム侯」
「領地取り上げ、税の支払いはいささか厳しいが已むを得まい。暴動が起きれば取り潰されても文句は言えぬのだ。それを考えれば優遇と言っても良いだろう。公の言う通り、甘過ぎる処置と非難が出かねんくらいだ」
義父殿が“そうだな”と頷いた。

まあ上手く行ったか。最初から領地取り上げ、税の支払いを提案すれば厳しいと難色を示しただろう。敢えて取り潰しという極端な強硬案を出したのは領地取り上げ、税の支払いを受け入れさせるためだ。これでリヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵にも義父殿とリッテンハイム侯は賛成していると説明出来る。あの二人も渋々ではあれ受け入れるだろう。



帝国暦488年  4月 10日  オーディン  ブラウンシュバイク邸  アントン・フェルナー



エーリッヒに書斎に来るように言われた。ここ最近エーリッヒは機嫌が良くない。シュトライト少将、アンスバッハ准将と共に急いで書斎に向かった。書斎に入るとエーリッヒにソファーに座るようにと勧められた。両端にシュトライト少将とアンスバッハ准将、真ん中に俺、またこの配置だ。勘弁して欲しいよ……。

「お話は御済になったのですか」
アンスバッハ准将が話しかけるとエーリッヒが頷いた。
「大公、リッテンハイム侯は私の考えに賛成してくれました」
思わず息を吐いた。俺だけじゃない、両脇の二人も息を吐いている。エーリッヒから相談を受けていたがあの二人が受け入れてくれるかどうか疑問だった。領地を取り上げる事に、貴族に税を払わせる事に同意したか……。

「この後はリヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵に説明する事になります。多少は揉めるでしょうが大公とリッテンハイム侯が賛成しているとなれば反対はしないでしょう」
帝国は変わる、貴族が税を払うのだ、平民達も帝国が変わったと実感するだろう。

「シュトライト少将、領地を失う貴族達ですが私兵を有している筈です。領地を失えば不要になるでしょう、軍の方に組み入れたいと思います。どの程度の兵力になるか、調べて貰えますか。出来れば練度も分かれば有り難い」
「承知しました、早急に調べます」
なるほど、下手に放置すると海賊になりかねん。軍への編入が必要だな。五百家ともなるとかなりの兵力だろう、五万隻ぐらいになるかな、いや借金をしているからもっと少ないか……。

「それとアンスバッハ准将」
「はっ」
「彼らが保有している農奴の数を調べてください」
「農奴、ですか」
准将が問い返すとエーリッヒが“そうです”と頷いた。

「領地が無くなる以上農奴は不要になる。私有財産ですから政府が買い取る方向で進める必要が有るでしょう。貴族達の間で取引をすると安く叩かれる可能性が有る。政府が妥当な値段で買い取れば喜んでくれるでしょう。多少はサービスをしないと」
「なるほど、分かりました。直ぐ調べます」

「金がかかりますな」
俺が指摘するとエーリッヒがジロリと俺を見た。そんな怖い眼をしなくても良いだろう。
「そのための財源は用意した。貴族達から収益の十パーセントを徴収するし取り上げた領地からは直接税も入る。問題は無い」
不機嫌そのものだ。と思ったらエーリッヒが微かに笑みを浮かべた。

「いずれ直接税の収入はもっと増える」
えっと思った。俺だけじゃない、シュトライト少将、アンスバッハ准将も訝しそうにしている。それを見てエーリッヒが更に笑みを大きくした。だが目は冷たい、明らかに冷笑だ。

「収益の四十パーセントを奪われる貴族達がそれに我慢出来ると思うか、アントン」
「……」
「無理だ。殆どの貴族は投資会社にもっと利益を出せと要求するだろう。より大きいリターンを求めるためによりハイリスクな商品に手を出す事になる。いずれ失敗して損失を出す事になるだろう、取り返しのつかないほどにね」

「損失が出れば当然だが領内開発に回す資金は無くなる。領民達は納得しないだろうな。政府も納得はしない、収益を出し領内開発に金を出すから投資会社に融資を預けるのを認めていたのだから」
「……どうなるのです」
シュトライト少将が掠れた声で問い掛けた。

「領地は取り上げる」
「それは……」
絶句するシュトライト少将をエーリッヒが冷たい眼で見た。
「領内開発が出来ない以上領主としての資格は無い。私の予測では十年も経たないうちに帝国貴族四千家の内半分以上は領地を持たない貴族になると思っています」

アンスバッハ准将がゴクッと喉を鳴らした。
「その事は大公閣下、リッテンハイム侯は……」
「知りません。これはあくまで私の予想です。外れる可能性も有りますからね、言いませんでした」
嘘だ、言えば反対すると思ったのだ。エーリッヒの真の狙いは貴族の無力化だろう。そうする事で改革を進めようとしている。だがそれを表に出せば大公とリッテンハイム侯は反対すると見た、だから表向きは貴族を優遇する様な政策を出して説得した……。

「義父に伝えますか?」
さりげなく出たエーリッヒの言葉に両脇の二人が身体を強張らせた、俺もだ。試されている、改革を支持するのか否か、自分を支持するのか否か……。エーリッヒが笑みを浮かべて俺達を見ている。空気が凍った、震え上がる程の恐怖を感じた。

「シュトライト少将、アンスバッハ准将、先程頼んだ事、早急に調べてください」
「はっ」
空気が緩んだ。
「アントン、ゲルラッハ子爵に連絡を取ってくれ。例の件で相談したいと」
「分かりました」

それを機に書斎を辞した。部屋を出ると三人皆太い息を吐いた。
「如何する、シュトライト少将」
「さて、卿は如何する、アンスバッハ准将」
「如何するかな、……フェルナー大佐、卿は如何する」
「……さあ、小官には何とも」
結局誰も答えを出さなかった。顔を見合わせ、そして歩き出した。


 

 

第四十四話 仕官




帝国暦488年  4月 12日  オーディン  リヒテンラーデ侯爵邸  ライナー・フォン・ゲルラッハ



リヒテンラーデ侯爵邸の書斎、私と侯はソファーに座って対座していた。侯は紅茶を飲みながら何かを考えている。
「如何思われますか、国務尚書閣下」
私が問い掛けるとリヒテンラーデ侯は“フム”と鼻を鳴らした。機嫌は必ずしも良くは無いようだ。侯がティーカップをテーブルに置くとジロリと私を見た。

「ゲルラッハ子爵、卿は如何思うのだ」
「多少強引かと思いますが已むを得ないとも思います。実際私には解決策が見いだせませんでしたし貴族を優遇しているのは事実です。貴族達も受け入れると思います」
リヒテンラーデ侯がまた“フム”と鼻を鳴らした。

昨日、ブラウンシュバイク公が我が家に来た。貴族達が借り入れている貴族専用の金融機関、特殊銀行、信用金庫からの融資について如何するか、その対策案についてだった。そして今、私がリヒテンラーデ侯に説明している。採用するべきだと思うのだが侯の反応は今一つ思わしくない。

「大公とリッテンハイム侯は承知なのだな」
「既に説明して了承を得ていると公は言っておいででした」
リヒテンラーデ侯が三度“フム”と鼻を鳴らした。
「余程に腹を立てているようじゃの」
「は?」
腹を立てている? どういうことだ?

「ブラウンシュバイク公の事よ。余程に腹を立てておる。とんでもない爆弾を仕込みおったわ」
「爆弾、と言いますと?」
問い返すと侯は私を憐れむかのように笑った
「卿もブラウンシュバイク大公もリッテンハイム侯も気付かなかったようだの。公の提案を受け入れれば数年後には貴族達の大半が没落しておろうな」
「なんと……」
絶句する私にリヒテンラーデ侯が苦笑を漏らした。

「収益の四十パーセントも奪われて貴族達が我慢出来ると考えているのか?」
「それは……」
「ゲルラッハ子爵、私はこれまで内務、宮内、財務尚書を歴任してきた。それで分かった事が有る。貴族の貪欲さには際限が無い、法を無視する、咎めても徒党を組んで圧力をかけてくる、やりたい放題だ。その連中が収益の四十パーセントも奪われて我慢出来ると卿は考えているのか?」

「……ではこの案に反対すると?」
私が問い掛けると侯が首を横に振った。
「反対は出来まい、一応優遇しているからな。だが納得はするまいよ」
「領内開発を行わない、或いは収益を誤魔化すと御考えですか?」
「それも有るな。だが一番有りそうなのは収益をもっと上げろとせっつく事だろう」
なるほど、確かに有りうる事だ。

「無理をすればリスクが高まる。続ければいずれは破綻する事になる」
「破綻……、損失を被るという事ですか」
「うむ、それも致命的なまでにだ」
リヒテンラーデ侯が紅茶を飲んだ。だが表情は苦い。

「損失を被るという事は政府に納める十パーセントの金が出せないという事になります」
「領地の開発資金も出せぬ」
「という事は」
恐る恐る問い掛けるとリヒテンラーデ侯が厳しい目で私を見た。
「領地経営に失敗したという事よ」

やはりそうなるか……、だとすると……。
「取り潰しですか」
「まあ少なくとも領地の取り上げは避けられまい。今政府に金を借りている連中と同じ扱いになるのではないかな。取り潰しでは反発が大きかろう」
「なるほど」

政府から金を借りている連中から領地を取り上げるのはその所為か。前例が有る以上貴族達も反対は出来ない。そして政府は領地を接収し直接税の増収により財政を健全化させていく。政府の力も強くなるはずだ。しかし貴族達が大人しく従うだろうか、混乱が生じかねん。ブラウンシュバイク公はその辺りを如何考えているのか……。

「もっとも条件はかなり悪い」
「と言いますと」
「運用に失敗したのだ、資金はかなり減っておろう。貧乏貴族と言われかねんな」
「なるほど」
領地を失った上に金も無いか、貴族達の影響力はかなり減る。

「如何なさいます」
「……」
「そのまま受け入れられますか。混乱が生じかねませんが」
私が問い掛けるとリヒテンラーデ侯が苦笑を浮かべた。
「代案が有るかな」
「……」
「代案が無ければ受け入れるしかあるまい」
「それはそうですが……」

「それにこれを拒否すればブラウンシュバイク公はこの問題から手を引くぞ」
「この問題を放置すると?」
リヒテンラーデ侯が含み笑いを漏らした。
「領民達が暴動を起こした時点で取り潰せと言うだろうよ。或いは領地の取り上げを主張するか、そちらの方が混乱するだろう。もっとも公の性格なら本当に遣りたかったのはそれかもしれん」
「しかし国務尚書閣下の御指摘にも有りましたが帝国は混乱します」
リヒテンラーデ侯が紅茶を一口飲んだ。

「貴族達が反乱を起こせばそれこそブラウンシュバイク公の思う壺だ。宇宙艦隊を使って反乱を潰すに違いない。そして領地も財産も全て接収する。今の宇宙艦隊の指揮官は下級貴族と平民だ。貴族達に遠慮はするまい、多少の時間はかかるだろうが財政難など一気に解決だな。カストロプ公の私財がどれ程であったか、卿も知っておろう」
「……」
リヒテンラーデ侯が低い笑い声を上げた。

「元は平民であったからの、何故自分が貴族達の不始末の尻拭いをせねばならんのかという不満が有るようじゃ。その思いを無視は出来ぬ。不満が募ればいずれは厄介な事になるからの」
「危険ですか」
「その思いを無視すればな」
リヒテンラーデ侯が頷いた。

外見は穏やかだが内面には激しいものが有るとは認識していた。貴族に対して強い不満が有る事も認識していた。しかし自分に説明していた時は穏やかで誠実そうな表情をしていた。まさかそのような事を考えていたとは……、自分は公の説明をそのままに受け取っていた。

「ブラウンシュバイク大公とリッテンハイム侯は公の提案の真の狙いを理解しているのでしょうか」
「おるまいな。卿同様理解してはおるまい」
「では公の目論み通りになれば……」
諍いが起きるのではないか、そう思ったがリヒテンラーデ侯は首を横に振った。

「誰も公を責められまい。公からの提案は良く出来ておる。貴族達がまともなら没落する貴族は居ない。居ても少数の筈だ。そして政府は財政を健全化し平民達も開発の恩恵を受けられる。貴族達が予想以上に愚劣で貪欲であった場合にだけその全てが無に帰す。それでも公を責められるか?」
「……」
答えられなかった。確かに責める事は出来ないだろう、自業自得だ。

「それに公自身白を切るであろうよ。こんな事になるとは思わなかったと言ってな。或いは開き直るかな、それがどうしたとでも言って。まあ私の考え過ぎという可能性も有る」
リヒテンラーデ侯が苦笑を浮かべた。

「では公からの提案は」
「受け入れる」
リヒテンラーデ侯がきっぱりと断言した。
「どれだけ馬鹿が多いか、皆が認識する良い機会よ。それに何処かで貴族は抑えなければならなかったのだ。少々手荒いが理はこちらに有る。躊躇うべきでは有るまい。この問題は先延ばしには出来んのだ。何より、公をこれ以上怒らせるのは危険だからの」
リヒテンラーデ侯がほろ苦い表情で笑った。



帝国暦488年  4月 30日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ワルター・フォン・シェーンコップ



「どうした、緊張しているのか」
「そんなことは無い」
「そうか、なら良いんだが……」
リューネブルクがちょっと心配するような口調で話しかけてきた。或いは本当に心配しているのか。ハイネセンからオーディンに戻った。そして俺はブラウンシュバイク公爵邸の応接室で公を待っている。同席者はリューネブルク、なんでこいつと並んで座らなければならんのか……。

ガチャっと音がしてドアが開いた。ブラウンシュバイク公が部下を三人連れて入って来た。リューネブルクと俺は立ち上がって敬礼した。公が答礼する。礼の交換が終ると三人で席に座った。三人の部下は公の背後に立った。護衛だろう。
「お待たせしたようですね」
「いえ、それほどでもありません。ワルター・フォン・シェーンコップ、帰還しましたので御挨拶をと思いお邪魔しました」
ブラウンシュバイク公が頷いた。

「如何でしたか、ハイネセンは」
「あまり思わしくは有りませんでした」
公が困ったような表情をした。
「いえ、そうではなく懐かしい人、大切な人とは会えたのかと訊いたつもりなのですが」
なるほど、そういう意味か。自分の勘違いに可笑しくて笑ってしまった。久しぶりに笑った気がする。
「会ったのはローゼンリッターの隊員と他に一人だけです。ハイネセンは小官には危険でした」

ブラウンシュバイク公が“そうですか”と言って大きく息を吐いた。
「裏切ったと疑われているのですね」
「そうです」
今度はリューネブルクが小さく息を吐いた。多分自分が同盟から逆亡命したことが影響していると思ったのだろう。確かにそれは有るだろう、しかし根本的な問題は同盟政府が目の前の人物の恐ろしさを認める事が出来ない事に有る。俺達は同盟を裏切ってはいない、だからこそ目の前の男の恐ろしさが分かる。第七次イゼルローン要塞攻略戦はこの男の所為で敗れた……。

「辛い事ですね」
ぽつんと言った公の言葉に思いがけず胸が痛んだ。リューネブルクも切なそうな顔をしている。妙な事だ、同盟人よりも帝国人の方が俺を、俺達を理解し憐れんでいる。リューネブルクは俺達を裏切ったというのに……。後ろに控える三人の顔にも俺への同情が有った。

「それで、如何します? あくまで同盟に対して節義を貫きますか、それとも帝国で新たな人生を歩みますか。どちらを選んでも大佐を非難する人間は居ないと思いますが」
「お言葉に甘えまして帝国で新たな人生を歩みたいと思います」
「それは大佐だけですか、他の隊員も?」
「捕虜になった三十五名、全員の意思です」

ブラウンシュバイク公が頷き、そしてちょっと心配そうな表情をした。
「ハイネセンのローゼンリッターとはこの事を話したのですか?」
「帝国で仕官するかもしれないとは伝えました。彼らも理解してくれています。そうするべきだと或る人物に勧められたのです」
公が“或る人物”と呟き訝しげな表情をした。

「ヤン・ウェンリー准将です」
「……」
公の表情が幾分厳しくなった。なるほど、エル・ファシルの英雄はブラウンシュバイク公といえども無視出来ないか。となると事情を詳しく話した方が良いだろう。

「我々が帝国で仕官すればハイネセンのローゼンリッターは我々を非難出来る、旗幟を鮮明に出来ると言うのです。今のまま、裏切ったのか裏切っていないのか、はっきりしないまま疑われているのではどうにもならないと言われました」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね。しかし非情では有る、大佐達もハイネセンのローゼンリッターも辛い思いをする事になります」
ブラウンシュバイク公が俺を気遣うような目で見ていた。思わず視線を伏せてしまった。この男は俺達の、亡命者の苦しみを理解している。

「我々の仕官、認めて頂けましょうか」
「もちろんです、歓迎しますよ、シェーンコップ大佐」
“閣下”と公の後ろから声がかかった。黒髪の士官だ。
「宜しいのですか?」
心配そうな声だった。俺達を信用出来ないと見ている。ここでも疑われるのか、いや経緯を知ればそれも当然か……。そう思った時、ブラウンシュバイク公が軽やかに笑い声を上げた。

「大丈夫ですよ、アンスバッハ准将。彼らは卑怯、卑劣といった言葉とは無縁な男達です、心配は要りません。それにとても勇敢で有能だ」
確かにそうだ、自負はある。だが随分と俺達を高く評価してくれる。リューネブルクが嬉しそうにしているのが見えた。お前への評価じゃないぞ、俺達への評価だ、勘違いするな。

「ではシェーンコップ大佐達の処遇ですが小官の所で預かるという事で宜しいでしょうか」
リューネブルクの配下か。まあ妥当だが少々不満だな。
「ウーン、そうなりますかね。しかし三十五人というのは中途半端でしょう。大将も扱いが難しいんじゃありませんか」
公がそう言うとリューネブルクも“まあ、多少は”と言葉を濁した。

その通りだな、いきなり俺に連隊を率いさせる事は出来まい。せいぜい良くてリューネブルクの副官、或いは幕僚、そんなところか。しかしそうなるとリンツ達は如何するか……。
「私の所で預かりましょうか」
“え”っと思った。公が預かる? リューネブルクも驚いている。いやリューネブルクだけじゃない、部屋にいる全員が驚いている。驚いていないのは公だけだ。

「ブラウンシュバイク公爵家で預かると仰られますか」
「本籍は軍です。そこから出向という形で公爵家に来てもらう。如何です?」
「しかし、それは……」
「平時は屋敷の警備ですね。私が戦争に行く時は総旗艦フォルセティに詰めて貰います。大佐には幕僚として仕事をして貰い他の隊員には艦内の保安任務に就いて貰います」
リューネブルクが“ウーン”と唸った。

「いずれはローゼンリッターを連隊ごと引き取りましょう」
また“え”っと思った。そんな事が出来るのか?
「家族の問題も有りますしね、バラバラというのは良くない、そうでは有りませんか?」
まあそうだ。今回捕虜になった三十五名の中にも家族が同盟に居る人間が居る。

「しかしそんな事が出来ますか? 難しいと思いますが……」
リューネブルクが俺を見ながら公に問い掛けた。安請け合いはするなと忠告している。或いは俺に本気にするなと言っているのか。
「これは私だけの考えですが近々帝国、同盟がそれぞれ抱える捕虜の交換を政府、軍上層部に提案しようかと思っています」
三度“え”っと思った。今日は驚かされてばかりだ、目の前の青年は奇襲作戦が得意らしい。

「その際、ローゼンリッターを帝国に譲って欲しいと同盟に頼んでみましょう。向こうも持て余しているのであれば譲ってくれる可能性は有ると思います。もちろん隊員本人達の同意が必要ですが」
なるほど、と思った。確かに持て余してはいるだろう、帝国に譲る可能性は有る。というより譲らせるように交渉するのだろう。

面白い事を考える男だ、信じて良いのかな、そう思った。目の前の男は俺達が亡命者だというだけで疑うような事は無いらしい。だとすれば後は俺達の働き次第か、リューネブルクも亡命者でありながら大将にまで昇進している。帝国での人生も悪くないかもしれない……。






 

 

第四十五話 帝国の実力者




帝国暦488年  4月 30日  オーディン   ワルター・フォン・シェーンコップ



監視役の情報部員二名と共にブラウンシュバイク公爵邸を出た。隊員達の居る宿舎に戻ろうと地上車に乗り込むとリューネブルクも乗り込んできた。情報部員が驚く。
「リューネブルク閣下?」
「良いから出してくれ。こいつとその仲間に話す事が有る」

監視役が顔を見合わせたが何も言わずに地上車を発進させた。
「何だ、話とは」
「……」
情報部員がまた驚いている。捕虜が大将にタメ口では無理もないか。俺達の関係を知らんのだろう。いや、情報部だ、知っているかもしれん。それでも驚くか、驚くだろうな。

「俺に話しておけば連中には俺から話す」
「……」
リューネブルクは腕を組み無言で眼を閉じている。ここでは話せない、或いは話す気は無い、そういう事か。二人の情報部員も無言だ。車内の空気が微かに強張った。

宿舎には十五分ほどで着いた。情報部員が露骨にホッとしたような表情になったのが笑えた。この宿舎は情報部が捕虜を尋問する時に使う施設らしい。俺達は一部屋に二人づつ入れられている。もっともブラウンシュバイク公が俺達をスカウトしたがっているという事で露骨な捕虜扱いはされていない。宿舎外には出られないが宿舎内なら行動は自由だ。

会議室に全員を集めると皆がリューネブルクを見て困惑したような表情になった。話があると言ったがリューネブルクは無言だ。つまり俺が先に話してその後でリューネブルクが話すという事か。
「ブラウンシュバイク公と話してきた。喜べ、俺達は帝国軍人になる事が決まった」
会議室がしーんとした。帝国軍人になる、望んだ事、覚悟していた事だが意外な程に重みが有った。

「決定なのですね」
「決定だ、リンツ。ブラウンシュバイク公は既にエーレンベルグ軍務尚書とも調整している。明日にも辞令が発令されるだろうとの事だ」
今度はざわめきが起きた。早いと思ったのかもしれない。俺自身そういう思いは有る。

「リューネブルク閣下の配下、そういう事でしょうか?」
クローネカーがリューネブルクをチラッと見ながら質問してきた。他の連中もリューネブルクを見ている。一度は連隊長として仰いだ、その後はヴァンフリート、イゼルローンで敵と認識して戦った。複雑な思いが有るのだろう。公が俺達を自分の下に引き取ると言ったのはその辺りを考慮したのかもしれない。

「違う、俺達は帝国軍に正式に迎え入れられた後、ブラウンシュバイク公の預かりとなる。任務は平時においてはブラウンシュバイク公爵邸の警備、これは俺達だけじゃない、これまで警備を担当していた人間達と協力して行う事になる。そして戦時は総旗艦フォルセティに詰める。俺は幕僚として、貴様らは艦内の保安任務に就く」

ざわめきが起きた、興奮している。“凄いな”、“信じられない”といった声が彼方此方から聞こえた。総旗艦フォルセティに詰めるという事が驚きなのだろう。実際捕虜に対しては信じられない程の厚遇といって良い。その時だった、リューネブルクが“浮かれるな!”と皆を一喝した。

「浮かれるんじゃない。貴様らはブラウンシュバイク公爵邸を警備するという事の意味、総旗艦フォルセティに詰めるという事の意味が分かっているのか? 分かっていて浮かれているのか?」
「……」
「分かっていないのなら浮かれるな」
リューネブルクは苦虫を潰したような渋面をしている。

「シェーンコップ、貴様は分かるか?」
「優遇されているとは思うが?」
リューネブルクが舌打ちした。
「馬鹿か、貴様は。そんな事は子供でも分かる。俺が言っているのは貴様らがブラウンシュバイク公爵邸を警備するという事の政治的な意味だ」
政治的な意味か……。

「帝国屈指の実力者、名門貴族を警備する事になるな。それなりの信頼を得ている、そういう事だと思うが……」
「零点だな、シェーンコップ。呆れたぞ」
「……」
喧嘩を売っているのかと思ったがそうではなかった。リューネブルクは冷たい視線で俺を見ている。呆れたと言うのは悔しいが事実だろう。

「良いか、ここは同盟ではない、帝国だ。同盟のように人は皆平等などという甘ったれた概念は無い。帝国は皇帝を頂点としたピラミッド型の階級社会なのだ、そこを胆に銘じろ」
「……なるほど」
「この帝国で実力者と呼ばれるためには皇帝と極めて親密な関係を築く事が必要不可欠だ」
皆がリューネブルクの言葉に頷いている。

「政治的、軍事的な能力に対する信頼。血縁、姻戚関係による信頼。愛情による信頼……。この国で皇帝の寵姫が権力を振るう事が有るのもそのためだ、同盟なら最高評議会議長の愛人が権力を振るうなど決して有り得ない。良いか、しっかりと肝に銘じろ。帝国程人間関係が、それによる力関係が重視される世界は無い」
重みのある言葉だ。リューネブルクが逆亡命者でありながら帝国軍大将にまで昇進したのはブラウンシュバイク公との親密な関係が大きく影響したのだろう。

「ブラウンシュバイク公爵家は帝国屈指の大貴族だ。だがそれだけでは公は帝国屈指の実力者には必ずしもなれん。ブラウンシュバイク公爵家は先代の大公が皇帝フリードリヒ四世陛下の皇女アマーリエ様と結婚した。お二人の間には御息女エリザベート様がおられる。当代のブラウンシュバイク公の婚約者だ」
リューネブルクが“分かるか”と俺達に問いかけた。相変らず視線は冷たい。

「ブラウンシュバイク公は皇帝と姻戚関係に有る、極めて親密な関係に有る、そういう事だな」
俺が答えるとリューネブルクは頷いた。
「そうだ、公は平民の出だが皇帝陛下にとっては義理とはいえ孫になる。軍では元帥、帝国軍三長官の一人として宇宙艦隊を預かる身だ。そして今、帝国では皇族は少ない。当然だがその配偶者の存在は非常に大きいのだ」

なるほど、と思った。大貴族、皇孫との姻戚関係、そして宇宙艦隊司令長官。どれ一つとっても皇帝との関係は近しいものになるだろう。それを全て備えている。若いが帝国屈指の実力者というのはそういう事か、軍人としての評価だけではないのだ。同盟に居ては見えない事実だな。

「ではシェーンコップ、もう一度お前に訊こう。お前達がブラウンシュバイク公爵邸を警備するという事の政治的な意味は何だ?」
皆の視線が俺に集まった。リューネブルクは相変わらず冷たい目で俺を見ている。俺が何処までこの帝国を理解しているか、試しているらしい。下手な答えは出来ん。

「皇族二人を含むもっとも皇帝陛下に近しい方々が住む屋敷を警備する事になった。帝国で最も高貴な方々を守れるだけの能力が有り信頼出来ると評価していただいた。そういう事か」
“フン”とリューネブルクが鼻を鳴らした。
「五十点だな、見所が有ると思っていたが予想外に出来の悪い奴だ」
皆が苦笑するのが分かった。からかっていると思ったのだろう。

「随分と点が辛いではないか」
「点が辛い? 馬鹿を言え、甘いくらいだ」
ふむ、リューネブルクの視線は相変わらず冷たい。からかっているわけでは無いな。隊員達も気付いたのだろう、皆の顔から苦笑が消えた。

「俺は何か見落としているか?」
「ああ、見落としている。言ったはずだぞ、帝国程人間関係が、それによる力関係が重視される世界は無いと」
「……」
確かにそんな事を言ったな。人間関係、力関係か……。リューネブルクは何を俺に伝えようとしているのだ? リューネブルクが一歩俺に近付いた。そしてニヤッと笑った。

「お前は公とお前達の関係を理解した。ならばそれを一歩進めて見ろ。お前達とお前達以外の人間関係、力関係に」
囁くような声だった。だが俺には雷鳴の様に響いた。
「……そうか、そういう事か」
俺が溜息を吐くとリューネブルクが“ようやく分かったか”と満足そうに頷いた。

「ブラウンシュバイク公はお前達を預かりお前達に対して絶対的な信頼を示した。お前達は公の後ろ盾を得たのだ。その事は貴族、政治家、軍人、平民、皆が理解する筈だ。誰もお前達を侮辱する事は有るまい、そんな事をすれば公を敵に回す事になる。オフレッサー装甲擲弾兵総監もお前達を見て顔は顰めてもそれ以上の事は出来ん。そんな事をすればオフレッサーといえども首が飛ぶ、それが帝国だ」
それが帝国か……。役職や地位では無く人と人との結び付きが大きな意味を持つ。

「だから浮かれるな」
リューネブルクがまた厳しい声を出した。皆を睨み据えている。
「本来ならお前達はピラミッドの底辺に居る筈の人間なのだ。嘘では無いぞ、俺が良い例だ。亡命して三年、ただの一度も戦場に出る事も無く飼い殺しにされた。ようやく戦場に出られると思えばどうしようもないお荷物艦隊に配属された。その後も露骨に切り捨てられそうになった事が有る、何度絶望した事か……。幸い生き延びて此処まで来たが今思えば信じられない程に幸運だったと言える。公と出会っていなければ間違いなく俺は亡命した事を後悔しながら不本意な一生を終えていた筈だ、この帝国の、底辺でな」

やはりそうか、あのイゼルローンでの一件で分かっていた事だがリューネブルクとブラウンシュバイク公の繋がりは非常に強い。何が二人を結びつけたかは分からない。どう見ても接点など感じられない二人だ。だが戦場で助け合う事で深め合った絆なのだろう。

「帝国は今政治改革を進めている。平民の権利を拡大し貴族の放埓を抑えようとしているのだ。推進者はブラウンシュバイク公だ。当然だが貴族達はその事を面白く思っておらん。お前達がドジを踏めば貴族達はここぞとばかりに公を責めるだろう。一つ間違えば改革が頓挫しかねん、帝国の未来を左右しかねんのだ」
彼方此方で呻き声が聞こえた。皆の顔が強張っている、おそらくは俺も強張っているだろう。

「リューネブルク、つまり俺達は帝国の政争に巻き込まれるという事か」
俺が問い掛けるとリューネブルクは首を横に振った。
「そうではない、もう捲き込まれているのだ、シェーンコップ。お前達が公に引き取られた時からな。公はそのリスクを承知の上でお前達を迎え入れた。そうでなければお前達の立場は惨めなものになる、そう思ったのだろう。お前達もそのリスクを理解しなければならん」

再び呻き声が聞こえた。俺も呻きたい、思った以上に俺達は厄介な立場に居る。ブラウンシュバイク公が俺達に好意を示したのは事実だ。だがそれだけで済む話では無かった。俺達は右も左も碌に分からぬ状況でブラウンシュバイク公の与党だと皆から認定されたというわけだ。

「だから浮かれるな、ドジを踏むなと言っている」
「……」
「公の足手纏いになる事は俺が許さん。もし、そうなるようであればその時は……」
「俺達を殺すか?」
リューネブルクが俺の答えに冷笑を浮かべた。

「甘いな、シェーンコップ。俺に殺して貰える等と思うな、俺はそれほど優しくは無い、自分で始末をつけろ」
「……」
「帝国屈指の実力者の期待を裏切った以上、お前達に未来は無い。この帝国の底辺で惨めに朽ち果てるか、或いは戦場で無惨に切り捨てられるかだ。その場で死んだ方がマシだろうよ、それだけは保証してやる」
そう言うとリューネブルクは背を向けて会議室を出て行った。



帝国暦488年  5月 12日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  フレーゲル内務尚書



「ようやく終わりましたな」
財務尚書ゲルラッハ子爵が感慨深げに言うとブラウンシュバイク大公、公の親子、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、ルンプ司法尚書、エーレンベルク元帥、シュタインホフ元帥、そして私の八人が頷いた。

「此度の事ではブラウンシュバイク公に大分御骨折り頂きました。感謝しております」
ゲルラッハ財務尚書が頭を下げるとブラウンシュバイク公が柔らかい笑みを浮かべた。
「お気になさらないで下さい、ゲルラッハ財務尚書こそ御疲れでしょう」
「畏れ入ります。しかし私などよりはるかに公の方がお疲れの筈、御自愛下さい」
ゲルラッハ財務尚書がブラウンシュバイク公を気遣うと公は“有難うございます”と言って微笑んだ。

ゲルラッハ財務尚書が公に感謝するのも無理は無い。膨大なまでに膨らんだ貴族専用の金融機関、特殊銀行、信用金庫からの貴族への融資、そしてその不正利用、そこにようやくメスが入り融資資金回収の目処が立った。ブラウンシュバイク公が法案を作成し財務省が法制化した。そして今日、それが黒真珠の間で発表された。政府の財政再建にも大きな意味を持つ筈だ。

「領地を失う貴族達ですが以外に大人しかったですな、もう少し反発が有るかと思ったのですが……」
ルンプが首を傾げるとリヒテンラーデ侯が微かに笑った。
「公が事前に根回しをしたからの。領地は無くなるが借金は無くなる、融資資金はそのまま貰える、おまけに内務省から派遣されている監督官から解放されるとな。連中、余程監督官が目障りだったらしい、意外にすんなりと受け入れたようだ。フレーゲル内務尚書、お手柄じゃの」

応接室に笑い声が満ちた。私も苦笑せざるを得ない。
「彼ら自身分かっているのですよ、領地経営はこれから難しくなると。お金もかかりますが領民達の不満を理解しそれを解消する方向で統治しなければならない。結構面倒です。それよりは気儘に金儲け出来る立場の方が楽だ、そう思ったのでしょう」
公の言葉にまた笑い声が上がった。

「無責任な奴、と非難したいところですが彼らのおかげで他の貴族達も大人しく受け入れてくれました。領地を失う連中が受け入れたのですからね、領地を持つ事が許された連中は文句を言えません」
上機嫌なゲルラッハ財務尚書の言葉に皆が頷いた。厄介事が片付いた所為だろう、皆も表情が明るい。

「無責任というのも悪くは無いようですな」
「ごく希にだがそういう事も有るらしい、いつもでは困るが」
シュタインホフ統帥本部総長とエーレンベルク軍務尚書の遣り取りに彼方此方で噴き出す音が聞こえた。耐えきれないように大公が笑い出す、皆がそれに続いた。

一頻り笑った後、リヒテンラーデ侯が口を開いた。
「この後は平民達への説明だが……」
「一難去ってまた一難ですな。ここで失敗しては元も子もない」
私が続けると皆が頷いた。今回発令された法は貴族にとって決して不利とは言えない内容になっている。平民達にとっては納得しかねる部分も有るだろう。だが平民達に暴動などを起こされては今度は貴族達が硬化しかねない。一旦受け入れた連中も撤回を言い出しかねないのだ。詰めを誤ることは出来ない。

「此処はブラウンシュバイク公に説明して貰いたいのだが」
リヒテンラーデ侯が幾分遠慮気味に発言すると皆が公を見た。已むを得ない事だ、平民達は公が平民階級出身である事、改革の担い手である事を良く理解している。そして少しずつではあれ貴族達の横暴を抑え平民達の権利を拡大している事もだ。公が広域通信で説明すれば平民達は多少の不満は有っても仕方無いと納得はしてくれるだろう。もちろん、公にとっては不本意で面倒な仕事では有る。公は政府閣僚ではなく軍人なのだ、担当外という思いも有る筈だ。リヒテンラーデ侯が気遣うのもその辺りの事を思っての事だろう。

「分かりました、私の方で説明します」
公は不機嫌になるでもなくごく普通に答えた。ホッとしたような空気が応接室に流れる。
「その代わりと言っては何ですが一つお願いが有ります」
皆が公に注目した。やはり簡単には終わらない。
「捕虜の交換を実施して頂きたいのです」
捕虜の交換? 皆が顔を見合わせた。



 

 

第四十六話 真意



帝国暦488年  5月 12日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  フレーゲル内務尚書



我々が困惑しているのが分かったのだろう。ブラウンシュバイク公が話し始めた。
「現在帝国、反乱軍はそれぞれ二百万人程の捕虜を抱えているのです。それを交換して頂きたい、そうお願いしています」
「二百万? そんなに居るのか」
リッテンハイム侯が呆れた様な声を出した。皆も驚いている、二百万と言えばかなりの人数だ。それより人口の少ない有人惑星も少なからず存在する。

「毎年戦争をしているのだ、そのくらいにはなるかもしれんな」
「むしろ少ないでしょう。宇宙空間では酸素が有りませんから人は簡単に死にます。一会戦で数百万の人間が戦う事を考えるとそれほど多いとは言えません」
ルンプの呟きにシュタインホフ統帥本部総長が答えた。なるほど、一会戦で十万として年二回戦争が有れば一年で二十万の捕虜が発生する。十年で二百万だ、となると一会戦あたりの捕虜はもっと少ないという事か……。

「その殆どが下級貴族と平民です」
ブラウンシュバイク公の言葉に皆が押し黙った。
「……捕虜を交換する事で平民達を宥めようというわけか」
「それも有ります。それも有りますが義父上、政府が自分達を見捨てる事は無いと理解すれば兵の士気の向上にも繋がります」
皆が頷いた。リヒテンラーデ侯が“なるほど”と呟いている。

「良かろう、公の説得だけでは平民達も納得しがたい部分が有るやもしれん。捕虜交換を行う事でそれが解消するならやる価値は有る。どうかな、軍務尚書、統帥本部総長」
リヒテンラーデ侯が二人の元帥に視線を向けると二人が“同意します”、“異議は有りません”と答えた。侯が他の参加者に視線を向けた。

「財務尚書としては積極的に賛成します。捕虜交換に多少の費用は発生するでしょう。しかし捕虜を交換して貰えば二百万人の納税者、消費者、生産者として期待できます。捕虜のままでは何の役にも立ちませんからな」
ゲルラッハ子爵の言葉に応接室に微かな笑い声が起きた。正直過ぎると思ったのかもしれない。しかし事実では有る。

「では軍の方で……」
「お待ちください」
リヒテンラーデ侯の言葉をブラウンシュバイク公が遮った。公の顔からは表情が消えている。応接室に微かな緊張が起こった。
「捕虜交換は軍主導ではなく政府主導でお願いします。押し付けるつもりは有りません。実務は軍で結構です。しかしあくまで政府主導という形でお願いします」

はて、如何いう事だ? 捕虜交換、軍主導ではなく政府主導? 公は嫌がっているわけではない、実務は軍でやると言っている。私だけではない、皆が困惑を顔に浮かべた。
「如何いう事だ、エーリッヒ。何かあるのか?」
大公が問い掛けると公は軽く息を吐いた。沈痛な表情をしている。

「義父上、捕虜交換を軍主導で行えば平民達はこれが私の発案だと考えるとは思いませんか」
「そうだろうな、それがどうかしたか?」
大公は訝しげな顔をしている。何を当たり前のことを、そんな感情が有るのかもしれない。

「このままでは平民達の支持が政府ではなく私に集中しかねません。それがどれ程危険な事か……。この帝国には二百四十億の人間が居ますがその大部分は平民なのです」
ブラウンシュバイク公の思い詰めたような口調に皆が息を呑んだ。口調だけではない、表情も厳しくなっている。

「今は未だ目立ちません。しかしいずれは誰もが気付きます。先ず改革に反対する貴族達が騒ぎ始めるでしょう。ブラウンシュバイク公は平民達を甘やかし支持を集め帝位簒奪を狙っていると。改革を中断させるにはもっとも効果的な中傷、誹謗です」
彼方此方で呻き声が起こった。

「そして私に対する中傷、誹謗が強くなればなるほど平民達は改革の継続を望み私を守ろうと団結する。そうなれば貴族達の思う壺です、連中は平民達を危険分子として弾圧し改革の中止を求めるでしょう。簒奪を防ぐためという大義名分を掲げてです」

皆が固まったまま動かない。有り得ない話ではない、いやそれ以前に平民を軽視し過ぎていたようだ。彼らが一つに纏まり一個人を崇拝するような事になれば確かに危険だ。ルドルフ大帝が銀河帝国を成立させたのも当時の連邦市民の支持が有ればこそだった。

今までは誰もが平民を無視していたから気付かなかった。だが彼らが一つに纏まれば、それを可能にする人物が現れれば……、ブラウンシュバイク公を見た。反逆を起こしそうな覇気や野心は見えない。しかし公ならば可能だろう、宇宙艦隊は公の配下にあるのだ。そして能力も有る。

「確かにブラウンシュバイク公の言う通りだな。リヒテンラーデ侯、ここは政府主導で行くしかあるまい」
「それは良いが政府主導と言っても何をすれば良いのかな、実務を軍が行うとなれば……」
リッテンハイム侯の言葉にリヒテンラーデ侯が困惑したようにブラウンシュバイク公を見た。

「主として平民へのアナウンスです。先ず、多くの兵が捕虜となり残された家族を苦しめている事に言及し政府もそれを憂いている事、捕虜を見捨てたわけではない事を伝え捕虜交換を反乱軍に提案すると発表をします」
「うむ、それで」
「次に反乱軍が捕虜交換を了承した時点でその事を発表し、家族に対しもう少しの辛抱だと伝えます」
「うむ」
ブラウンシュバイク公の言葉にリヒテンラーデ侯が頷く。

「捕虜交換が始まった時点で捕虜に対して捕虜交換が遅れ苦しめた事を謝罪し一時金、一時休暇の支給と一階級昇進を約束します。その後、退役するか軍に復帰するかを決めるようにと伝えるのです」
「なるほどの、随分と手厚いの。しかし平民達を宥めるためにはそのくらいは必要か」
リヒテンラーデ侯の言葉は皮肉ではないだろう、確かに手厚い。皆も同意するかのように頷いている。

「これらの政府発表をリヒテンラーデ侯にお願いしたいのです」
「私にか、広報官ではいかぬのか」
リヒテンラーデ侯が驚いている。それを見てブラウンシュバイク公が“侯でなければ駄目なのです”ときっぱりと答えた。皆がまた顔を見合わせた、未だ何かが有る。公は何を考えているのか……。

「平民達は不安に思っています、政府が何処まで改革に本気なのかと。その理由の一つが政府首班であるリヒテンラーデ侯の声が聞こえてこないという事なのです」
皆が息を飲みリヒテンラーデ侯が不愉快そうに顔を顰め“どういう事だ?”と問い掛けた。

「侯はこれまで宮内尚書、内務尚書、財務尚書を歴任して国務尚書になられました。しかし改革をしてきたわけでは有りません。改革を実施出来る状態ではありませんでしたから已むを得ぬ事でした。我々にはその辺りの事は分かります、しかし平民達にはそれは分かりません」
「なるほど、だから平民達の支持が政府では無くブラウンシュバイク公に向かうと言うのだな」
リッテンハイム侯の言葉に“そうです”と公が頷いた。

「此処でリヒテンラーデ侯に平民達に話しかけて貰えば平民達も侯が自分達の事を考えてくれていると安心するでしょう。侯だけでは有りません、他の政府閣僚も積極的に平民達に話しかけるべきです。その事が平民達から政府への信頼に繋がります。その分だけ改革はやり易くなる」
公が口を噤むと皆が顔を見合わせた。リヒテンラーデ侯が大きく息を吐いた。

「やれやれだの。大勢に話しかけるのは苦手だがやらざるを得んか」
リヒテンラーデ侯がぼやいた。その有様に皆が失笑した。侯が“笑うとは酷い奴らじゃ、他人事ではないのだぞ”とまたぼやいた。確かに私にも降りかかってくる。しかし、いかん、失笑が止まらない。
「宜しくお願いします」
ブラウンシュバイク公が生真面目な表情でリヒテンラーデ侯に頭を下げた。

少しの間応接室を静寂が支配した。皆がそれぞれの表情で沈黙している。安堵している者、沈思している者、眠たそうな表情をしている者……。
「取り敢えず一段落、そう見て良いのかな」
ブラウンシュバイク大公が皆を見渡した。誰も答えない。一段落、そう思いたいが不安は有る。貴族達を信じられない、平民達を信じられない、そんなところだ。皆が口を噤むのも同じ思いからではないだろうか。
「これで何とか来年からの決算報告書と資産目録は無事に乗り越えられると思うのだが……」

ブラウンシュバイク公が何かを言いかけ口を噤んだ。
「如何した、何か有るのか、エーリッヒ」
大公の問い掛けに公が沈痛な表情で息を吐いた。
「義父上、残念ですが本当の混乱は来年からです。場合によっては軍を動かす事にもなるでしょう」
応接室から音が消えた。皆が押し黙ってブラウンシュバイク公を見ている。

「如何いう事だ、何が有る」
大公が押し殺した声で義理の息子に問い掛けた。公がまた息を吐いた。
「貴族達が大人しく収益の四十パーセントを手放すと思いますか? 黒真珠の間で連中の顔を見ましたが皆、不満そうでした。念のためアンスバッハ准将にそれとなく探らせましたが政府を欺く、今以上に収益を上げる、等と話していたそうです」

大公が“なんと”と呻き声を上げリッテンハイム侯が“馬鹿な”と言って大きな音を立てて腿を叩いた。苛立っている。
「収益など簡単に上げられるわけが有りません。おそらくは無理をして失敗し膨大な損失を出すでしょう。当然ですが政府への十パーセントの支払い、領地開発への資金も出せなくなる。つまり領地経営に失敗したという事になります」
彼方此方で呻き声が聞こえた。ルンプ司法尚書が“馬鹿共が! 折角の温情を無駄にする気か!”と吐き捨てた。

「領地経営を失敗か……、取り上げだな」
「はい」
「抵抗すれば反乱として取り潰すか」
「はい」
大公と公の会話は淡々としていた。それだけに重く響いた。

「……どの程度の貴族が生き残るとお前は見ているのだ」
「帝国貴族四千家の内、領主として生き残るのは半分もいないと思います。それ以上は……、何とも言えません」
ブラウンシュバイク大公が大きく息を吐いた。

「お前は予めそれを想定していたのか?」
「……あの法は領主としての能力、自覚、責任を持っている貴族を対象にしているのです。当然ですがそれらが無い貴族はあの法の主旨が理解出来ない。排除される事になるでしょう」
公の答えは肯定だった。皆の視線がブラウンシュバイク公に向かった。だが公は怯むことなく平然とそれを受け止めた。

「誤解しないでください。貴族が嫌いだからあの法を作成したわけではありません。宇宙から戦争を無くすためです、そのためにはあの法が必要でした」
今何と言った? 戦争を無くす? 聞き間違いか? 慌てて皆の顔を見回した。皆驚いている、聞き間違いではない。公は確かに戦争を無くすと言った。ブラウンシュバイク大公は呆然と義理の息子を見詰めていた。

「そうか、この宇宙から戦争を無くすか、そのためにはあの者共が邪魔か。だから排除するというのか……」
「……」
「そうか、捕虜交換も平民達を慰撫するだけではないという事か。気付かなかった、何と愚かな事か……」
ブラウンシュバイク大公が目を閉じて大きく息を吐いた。
「分かった、わしは止めぬ、いや止められぬ。エーリッヒ、お前の好きに遣るが良い」
ブラウンシュバイク大公の言葉にリッテンハイム侯が“大公!”と叫んだ。だが大公は首を横に振った。

「リッテンハイム侯、皆も聞いて欲しい」
「……」
「このままでは帝国は崩壊する」
思いがけない言葉だ。皆が息を呑んだ。
「……それは改革をしてもですか?」
「改革をしてもだ、フレーゲル内務尚書。少し前にエーリッヒからそれを指摘された。わしは否定出来なかった。気になって調べた。確かにこのままでは帝国は崩壊するだろう。状況はわしが思っていたよりはるかに悪い。まさかこんな危機が潜んでいるとは思わなかった、認識が甘かった……」

皆が固まった。大公は酷く疲れた様な表情をしている。崩壊の理由は分からない、しかし事態は深刻だという事だ。
「如何いう事です、ブラウンシュバイク大公。改革を進めているのに何故帝国が崩壊すると?」
「人口の減少だ、軍務尚書。このままではいずれ帝国は国を保てなくなる」
思いがけない事を聞いた、人口の減少?

「かつてこの銀河には三千億を超える人間が存在した。しかし今では帝国、反乱軍、フェザーンを合わせても四百億に満たぬ人間しか居らぬ。長期に亘る戦争と混乱により人類は約十分の一にまで減少した」
十分の一、その言葉が耳に響いた。そんなにも減ったのか。

「更に拙いのは成人男子が酷く減少している事だ。男が少な過ぎる、男女の均衡がとれぬのだ」
悲鳴のような口調だった。
「結婚出来ぬ女、子供の産めぬ女、家庭を持つ事の出来ぬ女が増えている。我ら貴族は街に出ぬ故分からなかったが帝国領内では男子が圧倒的に少ないのだ。これは大きな社会問題になりつつある」
大公の声は苦渋に満ちていた。

「このまま戦争が続けば戦死する成人男子と子供の産めぬ女が増えるだけだ。つまり新たに生まれてくる人間は減り続け人口の減少には歯止めが効かぬ状況が続く。エーリッヒが捕虜交換を言い出したのもそれを考えての事だろう。二百万人の成人男子が戻ってくる。しかし気休めにしかなるまい、おそらく五十年後には人口の減少は深刻な社会問題になっている。百年後には帝国を崩壊させかねぬ事態にまで深刻化しているだろう。百五十年後には……」
大公が首を横に振った。確実に帝国は崩壊するという事か……。暗澹としているとブラウンシュバイク公が“その後は私が話しましょう”と言った。

「帝国が崩壊すれば人類は惑星単位で生活水準を維持する事になります。つまり場所によっては中世に近いような生活を強いられるという事です。簡単な病気で人が死ぬでしょう、伝染病が起きれば無人惑星になるかもしれない。特に辺境星域は酷い事になる筈です。帝国では人類は比較的発展していた帝国中心部に細々と生存する事になると思います」
思わず溜息が出た。私だけではない、他にも溜息を吐いている人間が居る。表情は皆一様に暗かった。

「これを食い止めるには戦争を終わらせるしかありません。方法は二つ、和平か、統一かです。直ぐ可能なのは和平です、人口減少は帝国だけの問題では有りません、反乱軍も同じ状況の筈です。人口が少ない分だけ向こうの方がより状況は厳しいでしょう。話の持って行きようでは和平、或いは休戦は可能だと思います。しかし……」

「貴族達が邪魔か」
リヒテンラーデ侯の言葉にブラウンシュバイク公が頷いた。
「連中は反乱軍と交渉した事を非難してくるはずです。彼らにとっては千載一遇の機会です。我々を失脚させ改革を無かったものにしようとするでしょう。そしてフェザーンはそんな彼らを煽り帝国を混乱させようとする筈です」
公の言葉に呻き声が起きた。確かにその通りだ。和平などフェザーンにとっては許せる事ではない、必ず貴族達を唆す筈だ。

「なるほどの、それであの法を作ったか。……正直に言えば公からの提案をゲルラッハ子爵から聞いた時、公の狙いは分かった。貴族達を排除しようとしているとな。余程に怒っていると思ったがそうではなかったか……。人口の減少か、気付いてはいたが……。鈍ったの、歳は取りたくないものよ」
驚いた、リヒテンラーデ侯は気付いていたのか。鈍った? ならば気付かなかった私は如何なのだ? 侯が国務尚書の地位にあるのは当然という事か、改めてリヒテンラーデ侯の凄みをひしひしと感じた。ブラウンシュバイク公の凄みも。

「では連中を排除した後に和平を?」
シュタインホフ統帥本部総長が問うとブラウンシュバイク公は首を横に振った。
「和平は一時的なものになる可能性が有ります。それでは人口の減少を根本的に止める事は出来ません。戦争を無くすのであれば統一をと考えています」
軍務尚書と統帥本部総長が大きく頷いた。二人は軍人だ、和平というのは受け入れ辛いのだろう。公にも同じ気持ちが有るのかもしれない。

「この場合も連中が邪魔になります。反乱軍を降伏させるとなれば大規模な軍事行動が必要です。当然ですが帝国領内の軍事力は手薄になる。その時、連中が何を考えるか」
「クーデター、ですか」
私が問い掛けると公が頷いた。

「反乱軍を下し、宇宙を統一すれば連中はもう何も言えなくなる。その前にクーデターを起こし宇宙艦隊を孤立させる。艦隊司令官はいずれも下級貴族か平民です。補給を断って見殺しにするくらいやりかねません」
また呻き声が起きた。そうなればどれだけの兵が失われるのか。人口の減少は拍車がかかるだろう。

「それに大規模な軍事行動を起こすとなればそれを支えるだけの財政面での裏付けが必要です」
公の言葉にゲルラッハ子爵が頷いた。
「如何なさいます、それ無しでは統一は不可能ですが」
「貴族達を排除しその領地を帝国直轄領とする事で可能になります。そうでは有りませんか、ゲルラッハ子爵」
ゲルラッハ子爵が“それは”と呻くように言った後、蒼白になって頷いた。子爵だけではない、皆が蒼白になっている。ブラウンシュバイク公は全てを考えてあの法を作っていた。

「そうか、そこまで考えての事か。いずれ連中も気付くだろう、嵌められたとな。お前は彼らには恨まれるぞ、それも覚悟の上か」
「はい」
「……可哀想な奴だ、お前は先が見え過ぎる、そして見過ごす事が出来ぬ」
「申し訳ありません、義父上」
大公が首を横に振った。哀しそうな表情をしている。

「責めているのではない、哀れんでいるのだ。お前を養子にしたのは間違ってはいなかった。帝国は安定した、繁栄もするだろう。ブラウンシュバイク公爵家も滅びずに済む筈だ、感謝している。人類は何時かお前に感謝するかもしれん。だが……、お前個人は幸せとは言えまい。……お前に重荷を背負わせてしまった。済まぬ、許せ」
大公は俯き公も俯いている。二人とも泣いているのかもしれない。二人から視線を逸らした、とても見てはいられない。

「不幸では有りません。重荷を背負ったとも思っていません。私はこの国を変えたいと思った、誰もが安心して暮らせる国にしたいと望んだのです。……だから義父上、謝らないでください。私は不幸ではないのです、この道は私自らが選んだ道ですから」
絞り出すような声だった。




 

 

第四十七話 闇の攻防



帝国暦488年  5月 14日  オーディン  リッテンハイム侯爵邸  オットー・フォン・ブラウンシュバイク



「人口問題か」
「うむ」
「宇宙の統一か」
「そうだ」
わしとリッテンハイム侯の会話を妻達が無言で聞いていた。リッテンハイム侯爵邸の応接室には沈鬱な空気が漂っていた。テーブルの上にはコーヒーカップが四つあるが誰も手を付けようとはしない。

「何も気付いていなかった、我らは、いや帝国が滅びかけていたとは……。愚かな事よ」
侯の言葉には自嘲が有った。
「気付かなかったのは我らだけではない。それに今は問題の深刻さに気付いている、そして対処しようとしている。その事が大事だ、そうであろう」
リッテンハイム侯が“うむ”と言って頷いた。

「そんなに酷い事になっているとは思いませんでした。改革を行い、平民達の不満を取り除けば、そして貴族達の専横を抑えれば何とかなると思っていましたのに……」
「私もですわ、お姉様」
アマーリエの言葉にリッテンハイム侯爵夫人が頷いた。普段は勝気な彼女も精彩が無い、余程に衝撃を受けているのであろう。

「クリスティーネ、大公の話を聞いて私も調べてみた。直ぐに分かった、確かに人口は減少し続けている、成人男子の数が減っているのも事実だった、平民の女達は男を巡って争いを起こす事も有るようだ。貴族達なら単なる色恋沙汰だろうが彼らは違う、結婚出来るか出来ないかの瀬戸際だ。場合によっては争いは殺人にまで発展する事も有る。それほどまでに彼女達は追い詰められている」

アマーリエと侯爵夫人が大きく息を吐いた。エリザベートとザビーネを応接室に入れなかったのは正解だな。あの二人にはいささか厳しすぎる話だ。
「何時頃からブラウンシュバイク公は気付いていたのです」
「わしとアマーリエが最初にそれを聞いたのは今年の二月の事だ、侯爵夫人。あれがカストロプへの視察に行った後だった。もっとも人口減少の問題は以前から気付いてはいたようだ。視察に行って予想以上に深刻だと考えたらしい」
侯爵夫人がアマーリエに視線を向けた、アマーリエが頷いた。また侯爵夫人が息を吐いた。

「あの時、戦争を止める必要が有るとエーリッヒが言った。和平を考えているのなら危険だと止めた、バルトバッフェル侯の故事も有る。だがあれは和平では無く統一を最初から考えていたようだ」
「しかし可能なのか? 百五十年も戦ってきたのだが」
リッテンハイム侯が首を傾げている。確かにそうだ、わしにも多少の不安は有る。

「和平は難しいと言うのですよ、リッテンハイム侯」
アマーリエが答えたがリッテンハイム侯は納得しなかった。
「貴族の大部分が力を失っても?」
「ええ」
侯がわしを見た。目で確認をしている。答えねばなるまい。

「先日の話し合いの後、少しエーリッヒと話をした。両国の面子がそれを許さぬだろうとあれは言っている」
「面子?」
侯が訝しげな声を出した。侯爵夫人も訝しげな表情だ。
「和平条約を結ぶとなれば相手を反乱軍とは呼べぬ。自由惑星同盟という国家として認めねばなるまい、出来るかな」

リッテンハイム侯が“なるほど”と言って頷いた。侯爵夫人も頷いている。納得したようだ。
「負けているならともかく現状では帝国が優位に戦いを進めている。この状況でそれを平民、貴族の区別なく帝国人が受け入れられるか、その辺りが予測が付かぬと言うのだ」
「確かにそれは有るな」

「それに劣悪遺伝子排除法の事が有る」
リッテンハイム侯の表情が厳しくなった。
「どういう事かな、あれは今では有名無実化されているが」
「確かにそうだ、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世陛下により劣悪遺伝子排除法は有名無実化された。だがあの法から全てが始まったのも事実。あの法に反対した者達が帝国を逃げ出し反乱軍となった。和平を結ぶとなれば廃法にしろと要求してくるだろうな」
リッテンハイム侯が唸り声を上げた。妻達は息を凝らしてわしと侯の話を聞いている。

「有名無実化されていてもか?」
「有名無実化されているのなら廃法にし易かろう、そう言うとは思わぬか?」
「なるほど」
「反乱軍にはルドルフ大帝が制定したという重みが理解出来ぬのではないかとエーリッヒは考えている。マクシミリアン・ヨーゼフ二世陛下でさえあの法を有名無実化するのが精一杯で廃法には出来なかった。その辺りの機微は説明しても理解出来ぬだろうと。むしろ意地になって廃法にする事を要求しかねぬと」
リッテンハイム侯が大きく溜息を吐いた。気持ちは分かる、わしもエーリッヒから聞いた時は溜息しか出なかった。

「確かに和平は難しいな。一時的には結べても恒久的なものにはならぬか……」
「理は反乱軍にあろう、名を捨て実を取れと説得してもいずれは破綻するとエーリッヒは想定している。五年持つかどうか……。その場合両国の感情の齟齬は酷いものになるだろう。それくらいなら最初から統一を考えた方が妙なしこりは残らぬ、そう考えている」

リッテンハイム侯がまた溜息を吐いた。全く気の滅入る話だ。聞くだけで気が滅入る、ならばそれをどうすべきか考えているエーリッヒの心労は……。気が付けばわしも溜息を吐いていた。
「いずれは平民達の人権の尊重を守る法を皇帝の勅令として発布する必要が有るとエーリッヒは言っていましたわ」
アマーリエが話し出した。わしが疲れたとでも思ったか……。

「反乱軍を打ち破り統一した後は彼らを安心させなければならない、そのためにはどうしてもそれが要ると。それなしでは新領土の統治は上手く行かないと。劣悪遺伝子排除法は有名無実化されている。新たに人権の尊重を守る法を発布する事で劣悪遺伝子排除法を事実上廃法にする。そのためには勅令という形で法に重みを付ける必要が有ると言っていました」
「……」
「エーリッヒにとって改革は国内問題の解消だけでは無かったようです。反乱軍を下し宇宙を統一するための下準備だったのでしょう」

リッテンハイム侯が項垂れている。気持ちは分かる、無力感を感じているのだろう。ブラウンシュバイク公爵家はとんでもない当主を持った。
「侯、コーヒーが冷める、飲まぬか」
「……そうだな、頂こうか」
四人でコーヒーを飲んだ。苦い、それに冷めている。なんとも拙いコーヒーだ。それでもコーヒーを飲むことで少しは気分も入れ替わった。

「しかし統一は可能なのか? 簡単ではないと思うのだが」
リッテンハイム侯の言葉に侯爵夫人が頷いた。
「いざとなればイゼルローン要塞を反乱軍に呉れてやるそうだ」
リッテンハイム侯と侯爵夫人が信じられない物でも見た様な顔をしている。可笑しかった、笑った、久方ぶりに笑った様な気がする。

「笑い事では有るまい、大公」
「わしもエーリッヒにそう言った。笑い事では有るまい、何を考えていると」
「……」
「イゼルローン要塞陥落後、謀略を仕掛け反乱軍に大規模出兵をさせるそうだ。兵力は最低でも八個艦隊程かな。それを帝国領奥深くに誘い込み殲滅する」
侯が信じられないといった表情をしている。また笑ってしまった。そう言えばエーリッヒも笑っていた。どうやらわしも侯と同じような表情をしていたのだろう。

「百五十年、一方的に攻め込まれていたのだ。立場が逆転したとなれば連中、さぞや逸るだろうな」
「……」
「そこを唆すのだ、帝国は混乱しているとでも言ってな。不可能では有るまい」
「……」
何時の間にか囁くような声になっていた。侯が驚愕に眼を見開いている。

「一度大きな損害を受ければ簡単には回復出来ぬ。人口の減少も有るが財政の問題も有る筈だ」
「しかしイゼルローンは如何する。あれが反乱軍に有っては簡単には攻め込めぬ」
リッテンハイム侯が額の汗を拭きコーヒーを一口飲んだ。声が掠れている事に気付いたようだ。

「イゼルローン要塞は攻略可能だ」
「まさか……」
侯も侯爵夫人も驚愕している。
「その事は軍務尚書も統帥本部総長も知っている。攻略案を考えたのはエーリッヒだ」
「……全て想定済み、そういう事か」
「……」

そういう事だ。呆然としているリッテンハイム侯、侯爵夫人を見ながら思った。エーリッヒは全てを想定している。いずれは国内を改革し反乱軍を征服して新たな銀河帝国を創り出すだろう。人類史上最大の帝国、平和と繁栄を享受する帝国。そしてエーリッヒの作った帝国は最盛期を迎えるに違いない。だがそれを生み出した人間は……、溜息が出た。



帝国暦488年  5月 16日  オーディン  ワルター・フォン・シェーンコップ



フェルナー大佐に案内された店はなんとも雑然とした店だった。ガラの良くなさそうな客が大勢いる。
「ここは?」
「主として平民達が利用する店だ。昼間は食事だが夜は酒を飲みに客が来る。飲んで愚痴を零し憂さを晴らす」
「なるほど、だから俺達もこんな服装を?」
「そういう事だ」

俺もフェルナー大佐も軍服ではない。ごく目立たない、決して上等とは言えない私服だ。用意したのはフェルナー大佐、これを着て出かける用意をしてくれと言われたが、さて……。出入り口の近くに有る適当な席に座りビールとカトフェルプッファー、リンダー・ルラーデンをフェルナー大佐が頼んだ。メニューも見ずに頼んだから何度か来ているのだろう。

「ここに来たわけが分かるかな、シェーンコップ大佐」
フェルナー大佐が顔を寄せて小声で話しかけてきた。
「公は改革を進めている。察するところ、平民達の反応を知りに来た、そんなところか。出入り口に座ったのは逃げやすい様に、入って来た奴を確認するためだろう」
同じように小声で答えるとニヤリと大佐が笑った。合格かな。

「俺の事はアントンと呼んでくれ、俺もあんたをワルターと呼ぶ」
「分かった」
合格だ。
「ここに来るのはもう一つ理由が有る」
「ほう、それは」
「ここのリンダー・ルラーデンは美味いんだ。あんたも一度食べてみれば分かる。病み付きになる」
「そいつは楽しみだ」

何となく楽しくなってきた。ビールと料理が運ばれてきた。乾杯をしてからリンダー・ルラーデンを一口食べた。
「なるほど美味いな」
フェルナー大佐が笑った。
「そうだろう、もう一度乾杯だ」
もう一度乾杯してからまた一口食べた。美味い、確かに病み付きになりそうだ。

“しかし何だな、今回の改革だがありゃ何なのかね。貴族を優遇しているようにも見えるがそうじゃねえようにも見える。はっきりしねえんだが”
“領地は取り上げたぜ”
“しかし借金は棒引きだし融資も呉れてやったんだろう? 丸儲けじゃねえのか”

早速始まったか。中央の方に男が二人、若い男と中年の男が話している。周囲にも頷いている人間が何人かいた。若い方が不満を言っているな。フェルナー大佐に視線を向けると彼が頷いた。今度はカトフェルプッファーを食べてみた、こいつもいける。店が雑然としている割に繁盛しているのは料理が美味いからだろう。まあ女連れで来る店ではないが男同士なら問題は無い店だ。今度リンツ達を連れて来てやろう。

“税金を払うんだ、軍隊も無くなったし農奴も無くなった。貴族と言ったって金持ちとどう違うんだ? 爵位が有るだけだろうが”
“まあそう言われればそうだが……、どうも釈然としねえな!”
若いのがビールをぐっと飲むとドンと音を立ててジョッキをテーブルに置いた。彼方此方から賛同する声が上がった。

“落ち着けよ、領民達は喜んでるだろうぜ。貴族の借金返済のために働かされる事はもうねえんだ。連中のふざけた裁判で泣く事もねえ。こいつは天と地の違いだぜ、そうだろうが”
“うん、まあそうかな”
若い男が不承不承に頷いた。周囲も同様だ、頷いている人間が居る。

「結構関心を持っているな」
「当然だ。ブラウンシュバイク公は平民出身だ。彼らにとっては公ならば自分達の暮らしを良くしてくれるという思いが有る」
「不満が有るようだが」
「一つ間違えると帝国の経済が滅茶苦茶になる。それらを避けながら改革をしているんだ、簡単には行かないさ」
苦しそうな表情だった。改革の内容は俺も聞いてはいる、確かに簡単にはいかない、苦労しているようだ。

“それより領地の開発に収益の三十パーセントが使われる事になったんだ。そっちの方が大きいぜ。これまでは領地の開発なんてしてこなかったんだからな”
“どうせなら五十パーセントにして欲しかったよ。三十パーセントだなんて中途半端だ”
若い男がぼやくと彼方此方から賛同する声が聞こえた。

“五十パーセントと言って貴族達が受け入れるか? 受け入れなかったらゼロだぞ。ゼロよりは三十パーセントの方がマシだろうが”
“まあ、そうだけど”
“少しずつでも良くなってるんだ、あんまり文句を言うんじゃねえ。公爵閣下だって苦労してるんだからな”
“分かってるよ、そんな事は”
拗ねた様な口調だ。甘えているのだろう、中年の男は職場の先輩か、余程に信頼しているのかもしれない。

「職場の上司と部下かな」
「……ま、そんなところかな」
「もう一杯行くか、アントン」
「そうだな、それとマウルタッシェンを頼もう。こいつも美味いんだ」
「楽しみだ」

“改革も大事だが捕虜交換も上手く行って欲しいぜ。知り合いに捕虜になった奴が居るんだ”
“俺、リヒテンラーデ侯の声って初めて聞いたよ。台詞は棒読みだったな、もうちょっと心を込めてくれると信頼出来るんだけど”
若い奴の言葉に中年の男が笑い出した。

“失礼な事を言うんじゃねえ、ああやって広域通信で宣言したんだ。やるって事じゃねえか。まあ反乱軍がどう対応するかもあるがな”
“まあそうだけど”
“政府も俺達に関心を持ってくれたって事だ、良い事じゃねえか”
“もっと早く持って欲しかったよ”
また中年の男が笑った。



ビールを飲み、出された料理を全て平らげてからブラウンシュバイク公爵邸に戻るとフェルナー大佐は直ぐに公の私室に向かった。今日の結果報告だ、私室では公が軍服を着たまま待っていた。
「二人とも御苦労様、それで」
「まあ、今のところは問題は無いかと。改革の意図をきちんと理解してくれているようです」

フェルナー大佐の報告に公が満足そうに頷いた。
「フレーゲル内務尚書に感謝しないと。良くやってくれている」
「そうですね」
「……」
妙な事を言う、どういう事だ。公とフェルナー大佐が俺を見て意味有りげに笑った。何だ、何が有る?

「シェーンコップ大佐、店で話している二人組の男が居ただろう。中年の男と若い男だ」
「ああ、……まさかとは思うが」
「そのまさかだ。あの二人は帝国内務省、悪名高き社会秩序維持局の職員だ。帝国中の彼方此方で内務省の職員が同じような事をしている。あそこは大所帯なのでね、人手に困ることは無い」
社会秩序維持局! 俺が絶句していると公が楽しそうに笑い出した。

「世論の操作、誘導ですか」
公が首を横に振った。
「そう見えるかもしれませんが私としては改革の内容を知らせるのが目的です。彼らに改革の内容を誤って理解して欲しくないのですよ」
「……」
「改革の意図を捻じ曲げて平民達に伝えられては困るのです」

意図を捻じ曲げて? 世論の操作、誘導をしているのは公ではないのか。
「そういう事をする人間達が居るのですな、それを防ごうとしていると」
「そうです、居てもおかしくは無いでしょう」
改革に反対する者だな、という事は……。フェルナー大佐が面白そうに俺を見ている。また試されている。

「門閥貴族達、ですか」
「それも有りますね」
それも有る? 他にも有るという事か、一体誰だ?
「分かりませんか?」
「……」
「門閥貴族と密接に繋がっているもの。彼らから大きな利益を得ているもの」

密接に繋がっている、大きな利益……、利益! そうか、そういう事か。
「フェザーンですな」
公とフェルナー大佐が満足そうな表情をしている。どうやら合格か、帝国に来てから試されてばかりだな。

「より正確にはフェザーンの自治領主府、大企業ですね。自治領主府は帝国が強大になる事を望んでいません。そして大企業にとって門閥貴族は大事な顧客です。彼らが弱体化すれば利益が減ります、場合によっては死活問題になる」
「……」
当然だが連中にとっては目の前の青年は目の上のたんこぶだろう。

「比較的好意的なのは独立商人を中心とした零細企業です。彼らは改革によって商機が増えるのを期待しています」
「なるほど」
俺が答えるとブラウンシュバイク公が笑みを浮かべた。

「ようこそ、シェーンコップ大佐、これが帝国です。政府、貴族、軍人、平民、フェザーンが入り混じって争っている。この他にも外には自由惑星同盟という敵が居ます」
「……」
同盟にとっても目の前の青年は目障りな筈だ。何とも敵の多い御仁だ。皆が彼を殺したがっている。

「そしてブラウンシュバイク公爵家はその渦中に居る。これから改革が進めばブラウンシュバイク公爵家を取り巻く環境は今以上に厳しくなるでしょう。その事を理解してください」
「承知しました」
俺が答えるとブラウンシュバイク公は笑みを浮かべて頷いた。

リューネブルクの言った通りだな、ドジを踏めばとんでもない事になる。それにしても周りは敵ばかりというのに怯えた様子も嘆く様子も見せる事は無い。外見とは裏腹にかなり豪胆なようだ。いや、敵の総旗艦に乗り込んでくるのだ、臆病の筈がないか。楽しくなってきたな、目の前の青年が何処まで行くのか見たくなってきた。同盟では味わえない楽しみだ。仕官した甲斐が有ったというものだ。




 

 

第四十八話 薔薇の騎士




宇宙暦797年  5月 16日  ハイネセン  統合作戦本部  ヤン・ウェンリー



本部長室に入るとシトレ元帥が執務机から立ち上がってにこやかに出迎えてくれた。さて何の用件だろう?
「かけたまえ、ヤン准将」
「はっ」
本部長がソファーに座る様にと勧めてくれた。遠慮せずに座ると本部長が対面に座った。

「帝国が捕虜交換を持ちかけてきた」
「はい」
頷くとシトレ本部長も頷いた。同盟政府は前向きに検討していると聞いている。何と言っても二百万の捕虜が還れば捕虜だけでは無くその家族も喜ぶ。世論も捕虜交換に好意的だ。最近軍事面で失敗続きだ、支持率も芳しくない。この辺りでポイントを上げたいと考えている政府にとっては願っても無いイベントだろう。

「政府は基本的に捕虜交換を受け入れるつもりだ。今日正式に国防委員会から軍に連絡が有った」
「基本的に、ですか」
条件付き? 諸手を上げてというわけでは無い。如何いう事だ? 訊き返すとシトレ元帥が“ウム”と頷いた。

「この話はフェザーン駐在の帝国高等弁務官、レムシャイド伯爵から来た話なのだが伯爵が非公式に或る打診をしてきた」
「非公式? つまり捕虜交換には公表されていない部分が有るという事ですか?」
本部長が“その通りだ”と頷いた。

「それで打診とは何を? あ、いや小官が伺っても宜しいのですか?」
私が問うと本部長が軽く笑い声を上げた。
「構わんよ、君にも関係の有る事だからな」
「私にも、ですか」
シトレ本部長が笑い声を収めた。真面目な表情をしている。
「ヤン准将、帝国はローゼンリッターを帝国に譲って欲しいと言ってきたのだ」
咄嗟には声が出なかった。まさか、ローゼンリッターを譲れとは……。シェーンコップ大佐から情報を得たか。

「帝国は同盟がローゼンリッターを持て余している、扱いかねている事を知った上で言ってきたのですね?」
確かめると本部長が頷いた。
「その通りだ。宇宙空間では陸戦部隊の果たす役割は大きくない。ローゼンリッターの戦闘力は高いが兵力も少なく戦闘の帰趨を決する程ではない。彼らを手放した方が同盟にとっては負担が減るのではないか、そう言ったらしい」
「なるほど」

確かにそういう面は有る。代々の連隊長は十三人、そのうち四人が戦闘中に死亡、二名が将官に出世した後退役、六名が帝国に逆亡命した。そして十三代目連隊長シェーンコップ大佐は第七次イゼルローン要塞攻略戦において捕虜。その後はブラウン中佐が連隊長代理として隊を率いている。連隊長の約半分が寝返っているのだ。ローゼンリッターは極めて扱い辛い部隊としか言いようがない。軍が彼らに信頼を置かず使い潰そうとする傾向が有るのも無理は無いとも言える。

失敗だったな……。帝国語に堪能で戦闘力の高い軍人、イゼルローン要塞に送り込むには適任だと思ったが本当は一番向かない任務だったのかもしれない。失敗した時のリスクを軽視した。第七次イゼルローン要塞攻略戦の失敗、そしてその後の混乱はリスクを軽視した私に有ると言えるだろう。

「勿論帝国は無条件に引き渡せと要求しているわけでは無い。帝国に戻るか否かは本人達の意思に任せると言っている。帝国が同盟に要求したのは帰国の意思の有無の確認、そして帰国の意思が有る場合にはそれを妨げるなという事だ。帝国は本人だけでは無く家族も受け入れると言っている」
「なるほど」
無条件にと言えば同盟政府も反発するだろう。だが自分達に選ばせろと言われれば反発はし辛い。ましてローゼンリッターは優遇されていないのだ。

「捕虜交換は帝国政府からの正式な打診だが実際には軍が大きく絡んでいるのは間違いない」
「ブラウンシュバイク公ですか」
「そうだろうな。シェーンコップ大佐は貴官の助言に従って帝国で仕官したそうだ。ブラウンシュバイク公の側近と言って良い立場に居るらしい」
「大胆な……」

溜息が出た。帝国で仕官した方が良いと言ったのは私だがまさかブラウンシュバイク公の側近とは……。
「ローゼンリッターにとっては戻り易い環境が整った訳だ。連隊長だったシェーンコップ大佐はブラウンシュバイク公の側近。リューネブルク大将も帝国内でそれなりの地位に有る」
「そうですね。それで政府は何と?」
シトレ本部長が少し言い淀んだ。

「政府からはローゼンリッターの隊員を出来るだけ説得するようにと言われている」
「同盟に留まれとですか?」
私が問うとシトレ本部長が首を横に振った。
「違う、出来るだけ多くの隊員を帝国へ還すために説得しろという事だ」
「還すため?」
愕然としてシトレ本部長の顔を見た。本部長は無表情に私を見ている。

「出来るだけ多くの隊員を帝国に戻す。そうなればローゼンリッターは連隊としての保持は不可能。解隊して残った隊員は他の陸戦部隊に転属させる」
「……ではローゼンリッターの解隊が目的ですか」
「そうだ。連隊が保持出来ないとなれば解隊はおかしくは無い。残った隊員は帝国よりも同盟を選択したのだ。他の隊に配属されても誰からも裏切り者と蔑まれる事は無いだろう」
「……」
理屈はそうだろうが……。

「元々ローゼンリッターは亡命者からの希望で半世紀ほど前に作られた部隊だ。そこには同盟軍内部で自分達の働きを認めさせその立場を少しでも良くしたいという考えが有った。だが現状ではローゼンリッターは亡命者の立場の向上に役に立っているとは言い難い。ならば解隊するべきだろう」
「それが政府の考えですか、本部長は如何お考えなのです?」
「……」
本当は本部長の考えではないのか、そう思ったが本部長は無言だった。



帝国暦488年  5月 24日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ジークフリード・キルヒアイス



「まさかここで姉上と面会する事になるとは思いませんでした」
「そうね、私も思わなかったわ」
ラインハルト様とアンネローゼ様の会話に私も頷いた。確かにお二人の言う通りだ、このブラウンシュバイク公爵邸でアンネローゼ様と面会する事になるとは思わなかった。

ブラウンシュバイク公爵邸のサンルームは窓が開けてあるせいだろう、五月の穏やかな日差しと柔らかな風が入ってきた。公爵家に相応しい上品な白のテーブルと椅子、私達三人は寛ぎながらコーヒーを楽しんでいる。何とも不思議な気分だ。

「ヴェストパーレ男爵夫人が急に都合が悪くなって困っていたのです。シャフハウゼン子爵夫人に御願いしようかと思ったのですが宮内省がすんなり許可を出すかどうか不安でした。それを知った公が自分の所へと……。ブラウンシュバイク公爵邸なら宮内省も否とは言えませんからね」
「そうね」
ラインハルト様の言葉にアンネローゼ様が頷いた。

皇帝の寵姫であるアンネローゼ様の外出には政府の許可が要る、例えそれが弟であるラインハルト様との面会でもだ。当然だが外出先にも制限が有る。宮内省がその場所を不適当と判断すれば外出は許されない。それを考えれば新無憂宮のアンネローゼ様の部屋で会うのが簡単なのだがそこだと色々と窮屈なのだ。

またアンネローゼ様のお住まいになる南苑は皇帝の生活の場所でもある。ラインハルト様はともかく私は入れない。それにアンネローゼ様に仕える宮女達も必ずしもアンネローゼ様の味方だとは言えない。安心して会話をする事など到底不可能だ。これまではヴェストパーレ男爵夫人が場所を提供しれくれたのだが……。

ざわめきが起きた。視線を向けるとブラウンシュバイク大公夫妻が側近を連れてサンルームに近付いて来るところだった。サンルームには大公夫妻だけが入って来た。三人で立ち上がって出迎えた。
「本日は色々と御配慮いただき有難うございます」
ラインハルト様が頭を下げる、私とアンネローゼ様も頭を下げた。
「ああ、堅苦しい挨拶は止めてくれぬかな、ミューゼル大将。そういうのは昔から苦手なのだ。さ、遠慮せず座ってくれ。伯爵夫人も、それと卿、確かキルヒアイス中佐だったな、座ってくれ。我らも座らせてもらう」

五人で座ったが居心地が悪かった。平民で軍での階級も低い私が同席していて良いのか、そう思った。しかも大公は私の名前を知っていた、ちょっと驚きが有った。ラインハルト様も意外そうな顔をしている。
「ミューゼル大将、男爵夫人は急用が出来たとの事だが領地に戻られたのかな?」
「そのようです」
「なるほど、となると決算報告書か資産目録の関係かな。如何思う、アマーリエ」
「多分そうでしょうね」
大公夫妻がウンウンと頷いていたがラインハルト様が訝しそうにしているとそれに気付いた御二人が笑い声を上げた。

「昔と違って今の貴族には決算報告書と資産目録を作成する義務が有ってな。あまり酷いものを作ると領内の統治にも影響が出る。常日頃から気を付けねばならんのだ、楽は出来ん。伯爵夫人も苦労しているのではないかな?」
大公が問い掛けるとアンネローゼ様が小さく笑みを浮かべた。
「私はそれほど大きな所領を持っておりません。それに陛下が良い財務顧問を付けてくださいましたので」
「なるほど、陛下が。それは羨ましい事だ」

「大公閣下こそ御苦労をされているのではありませんか。ブラウンシュバイク公爵家は大家ですから」
「なに、当家には頼りになる息子がいるからな。あれは几帳面だから家令達を使って上手くやっているようだ」
大公がまた笑い声を上げるとアンネローゼ様、アマーリエ様も笑みを浮かべた。

「姉上、もしかして姉上も決算報告書と資産目録を作っているのですか?」
「勿論よ、ラインハルト。陛下から幾つか領地を頂いているのですもの。作る義務が有るわ。知らなかったの?」
「ええ、知りませんでした」
私も知らなかった。だが唖然としているラインハルト様と私を見て三人が可笑しそうにしている。

「まあ決算報告書と資産目録の事はエーリッヒが詳しい。あれが居れば面白い話が聞けたのだが生憎急な呼び出しがかかってしまった、残念な事だ。そうそう、卿らに宜しく伝えてくれとの事だった」
「あ、いえ、こちらこそ御配慮頂き感謝しておりますと御伝えください」
呼び出し? ブラウンシュバイク公を呼び出すとなればそれなりの人物、用件の筈だ。何が起きたのだろう? ラインハルト様も訝しんでいる。

「呼び出しと言いますと軍の方で何か有ったのでしょうか?」
ラインハルト様の問い掛けに大公が首を横に振った。
「いや、財務省と内務省の方だ。最近では軍よりもそちらで忙しくしている。あれには随分と苦労をかけさせてしまった」
大公の表情は沈痛と言って良かった。夫人も沈んだ表情だ。普通なら軍以外にも影響力を持ち始めたと自慢しそうなものだが……。

「さて余り長居をしてはいかんな、邪魔をする事になる。アマーリエ、我等はこれで失礼しよう。ゆっくりしていってくれ」
「ゆっくりしていってくださいね」
私達が“お気遣い有難うございます”と言うと大公は“うむ”と頷いて夫人とともにサンルームから去って行った。ホッとする気持ちともう少し話が聞きたいという変な感情が残った。以前は大公を嫌っていたが今では悪い方ではないと思える自分がいる。私だけではない、ラインハルト様も同じ様な事を感じているらしい。妙なものだ。

「財務省と内務省か、一体何が起きているのかな。キルヒアイス、如何思う」
「分かりません。改革に関係しているとは思いますが……」
「多分、辺境星域の事だと思うわ」
驚いてアンネローゼ様を見た。私だけじゃない、ラインハルト様もアンネローゼ様を見ている。アンネローゼ様は視線を受けて困った様な笑みを浮かべられた。

「何か御存じなのですか、姉上」
「ええ、少し。辺境は貧しいでしょう。このまま決算報告書と資産目録を来年から公表すれば辺境の貴族達はどうしても不利益を被りかねない。それで辺境、これは貴族だけではなく政府の直轄領も含むのだけど何らかの形で援助をと検討しているらしいの」
「なるほど、そういう事ですか。しかし何故ブラウンシュバイク公が?」
「提案者はブラウンシュバイク公よ」

辺境の貴族……。公はやはり貴族達を優遇しているのだろうか。気になってその事をアンネローゼ様に尋ねてみたがアンネローゼ様は首を横に振った。綺麗な金髪がサラサラと揺れる。
「そうじゃないわ、ジーク。辺境の貴族が潰れれば辺境の統治は政府が行う事になるでしょう。でもそれは政府にとって大きな負担になるらしいの。それよりは今辺境を治めている貴族を利用した方が効率が良いとブラウンシュバイク公は考えているみたいよ。そして財務省、内務省も同じ考えを持っている」

「なるほど、使えるものは何でも使え、そういう事ですか」
ラインハルト様がウンウンと頷くとアンネローゼ様が笑い出した。
「酷い事を言うのね、ラインハルト」
「でもそうでしょう?」
今度は皆で笑った。確かにラインハルト様の言うとおりだ。そして使えなければ潰すのだろう。大公の言うとおり、貴族も楽ではないなと思った。

「ですがアンネローゼ様、何故それ程お詳しいのです?」
またアンネローゼ様が困った様な表情をされた。
「私の資産管理をしている財務顧問は財務省の官僚なの。その人が教えてくれたのよ」
「そうですか」
ラインハルト様が心配そうな表情をした。信じられるのか、そう思ったのかもしれない。

「大丈夫よ、ラインハルト。信じても良いわ。内務省も財務省も改革を支持している。そして改革を推し進めているのがブラウンシュバイク公だということを理解している。分かるでしょう? 公と貴方が親しいから私を騙すようなことはしない」
「それなら良いのですが……」
ラインハルト様はまだ不安そうだ。それを見てアンネローゼ様が柔らかく笑みを浮かべた。

「今は政府、軍、ブラウンシュバイク公爵家、リッテンハイム侯爵家が一つにまとまっている。そして公は私達に好意的だから安全よ。私を利用するのはむしろ危険、意味は無いわ」
「確かにそうですね。ベーネミュンデ侯爵夫人の時も姉上の身に危険が迫ることは有りませんでした」
その通りだ。あの件はブラウンシュバイク公が動いたが私とラインハルト様は何もする必要がなかった。今更だが公爵家と公の力の大きさが分かる。

「今日の事もそう。普通こういう時は実家に宿下がりする事で家族や親しい人と会うの。でも私達には家が無い」
「……」
アンネローゼ様もラインハルト様も寂しそうだ。御二人とも名ばかりの貴族の家に生まれた。例え頼りになる家族がいても後ろ盾になるのは難しいだろう。それでも精神的な支えにはなれたかもしれない。

「だからこれまではヴェストパーレ男爵夫人かシャフハウゼン子爵夫人が家族の代わりをしてくれた」
「ええ、そうですね」
他には誰もアンネローゼ様と関わろうとはしなかった。アンネローゼ様は孤立し不安定だった。これまでは……。

「でも今日はブラウンシュバイク公爵家が私達に場所を提供してくれた。これは公爵家が私達の家族の代わりをしてくれたという事よ。ブラウンシュバイク公は外出してしまったけど大公夫妻が私達をもてなしてくれた。私達への好意は公一人の気紛れじゃない、ブラウンシュバイク公爵家の意思。その事を今日の事で皆が知る事になるわ」
「……」
噛みしめる様な口調だった。もしかするとアンネローゼ様も改めて認識しているのかもしれない。


 

 

第四十九話 辺境星域



帝国暦488年  5月 24日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ジークフリード・キルヒアイス



「ラインハルト、ブラウンシュバイク公とは良い関係を維持してね」
「勿論です、姉上。公が私の事を色々と気遣ってくれている事は分かっています。それを無にするような事はしません」
嘘ではない。ラインハルト様は皇帝になるという野心を封じた。アンネローゼ様を奪ったフリードリヒ四世を許したわけではない。だが皇帝が暗愚ではなく酷く不幸な人だという事は理解している。そして皇帝がアンネローゼ様を、そしてラインハルト様の将来を案じている事も……。単純に憎める相手ではなくなっている。

「なら良いけど。……ブラウンシュバイク公は、……不思議な人だわ」
少し言い淀んだ。不思議とは如何いう事だろう、ラインハルト様も訝しそうな顔をしている。
「貴方達と色々と拘わりの有る方だからずっと見てきたけど私は公がとても不思議な人だと思うの」
また不思議と仰られた。

「アンネローゼ様、不思議とは一体……」
アンネローゼ様が私を見てちょっと困った様な表情をされた。
「最初は有能な軍人だと思っていたの。でも違ったわ、ブラウンシュバイク公になられてから不思議な人だと思ったの」
アンネローゼ様が仰りたいのは不思議なほど運が良いという事だろうか?

「姉上の仰りたい事は運が良いという事ですか?」
「いいえ、そうじゃないの」
アンネローゼ様がもどかしそうに首を横に振った。運では無い?
「それも有るかもしれないけど……。自然なのよ、自然にブラウンシュバイク公を、宮中の重臣という役割を果たしている。普通なら戸惑いや失敗が有る筈なのにそれが無いわ。違和感が無いの」
なるほど、と思った。ラインハルト様も頷いている。確かに違和感が無い。もう十年もブラウンシュバイク公をやっていると言われても不思議には思わないだろう。

「元帥、宇宙艦隊司令長官も普通にこなしている。そして今は国政の改革も……。自然なのよ、全てが……」
「……」
「未だ若いのだから気負いや覇気が有ってもおかしくはないのだけれど……」
「アンネローゼ様にはそれが見えないのですね?」
「ええ」
アンネローゼ様が頷いた。

「不思議でしょう?」
ラインハルト様が“言われてみればそうですね”と頷いた。
「何と言うか、その時その時に必要とされる役割を演じているように見えるの。だから誰も不思議に思わない、自然と受け入れている……」
ラインハルト様が私を見た。問い掛けるような目だ。ラインハルト様も何かを感じている。

「傍に居てはその不思議に気付かないと思うの。だから注意してね」
「注意ですか?」
「気付いた時には愕然とした、そんな事が無いようにして欲しいの。そして公の傍に居て。これから帝国は変わるわ、ブラウンシュバイク公が変える。だから、ね?」
「……分かりました」
ラインハルト様が約束するとアンネローゼ様がホッとした様子を見せた。

確かに私もラインハルト様も気付いていなかった。自然だから変化に気付かない。だがアンネローゼ様に言われてみれば何時の間にか帝国の重臣として国政の中心にいる。アンネローゼ様が注意というのはそれを受け入れろという事だろう。ブラウンシュバイク公は既に軍人だけの存在ではない。国家の重臣、国政の中心に居るのだという事を……。



帝国暦488年  5月 30日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



「それで辺境の件は如何なっているのだ? 開発を進めると聞いているが」
「簡単にはいきません。なかなか面倒ですよ、義父上」
俺が答えると義父殿が“簡単にはいかぬか”と嘆息した。そして周囲にいる人間も頷いた。大公夫人、エリザベート、シュトライト、アンスバッハ、フェルナー、シェーンコップ。俺とエリザベートはココア、他はコーヒを楽しんでいる。

ブラウンシュバイク公爵家では俺が養子になってから最低でも半月に一度はこうしてリビングで近況報告のようなものを行っている。俺にブラウンシュバイク公爵家に早く慣れて貰おうと大公が提案した事がきっかけだ。それまではこういう話し合いの場がなかった事もあって結構評判は良い。特に大公夫人はエリザベートの教育にもなると御満悦だ。報告会の形式はフリートーキング、時間は最大二時間。それ以上になるときは一度休息を入れて行うと決めている。

最近ではリッテンハイム侯爵家でも同じ事を行っているらしい。大公夫人と侯爵夫人は姉妹だからな、そこから話が伝わったようだ。そのうち一度合同でという話も出ている。シェーンコップは今回で二回目だ。彼にとっては帝国の事を知る良い機会になっている、と思う。前回も面白そうに聞いていたから。

「しかし内務省、財務省は貴族の支援については積極的と聞いていますが」
「それはちょっと違います。内務省も財務省も積極的とは言えません。むしろ渋々と言った方が良いでしょう」
俺がアンスバッハの問いに答えると皆が訝しげな表情をした。どうやら皆の耳には政府が積極的に辺境星域の開発を行おうとしていると届いているらしい。

「貴族領、直轄領に拘らず一旦辺境星域の開発を始めればとんでもない費用が発生します。財務省、内務省の本音を言えばそんな事はしたくないんです。ですがこのまま放置すれば辺境の貴族はジリ貧でいずれは潰れるでしょう。そうなれば帝国政府が全てを背負う事になる。財務省、内務省はそれを恐れています。それくらいなら貴族達を何らかの形で援助した方が良い。それが本音です」

彼方此方から“ホウ”という嘆息が聞こえた。もう一つ嫌な現実を見せておくか。
「最近ですが辺境星域の貴族達からは領地替えの要望が出ています」
「領地替え?」
アンスバッハが訝しそうな声を出して周囲を見た。分かる人間が居るか確認したのだろう。残念だが皆も訝しんでいる。まあ最近の話だ、知っている人間は殆どいない。

「辺境では先が無いとみて領地替えを願っているのです。幸い領地を返上した貴族達がいる。その後任者にして欲しいと。自分達なら上手く治められると言っています……」
「政府はそれを受け入れるのですか」
「それは無かろう。それでは政府が一方的に損をする事になる。領地の返上は借金の棒引き、融資返済の放棄の対価になっているのだ」

義父殿がシュトライトの発言を否定した。その通りだ、政府は拒否した。返上された領地と辺境では人口も生産力も違う。国政改革で税を軽減した以上税収の不足が生じる。それを直轄領の増加、貴族達の借金の返済、融資資金の運用で得た利益の十分の一を徴収する事で補おうとしているのだ。そして開発を待ち望んでいるのは辺境だけではない。税収の低下を招く様な領地替えを受け入れる事は出来ない。

「なるほど、美味い肉の奪い合い、不味い肉の押し付け合いですか」
相変らず皮肉なもの言いだな、シェーンコップ。皆が顔を顰めているぞ。エリザベートも含めてな。
「それで政府は如何すると? 無視は出来ない、深入りもしたくないでは中途半端になるのではありませんか?」
コーヒーを飲みながらしれっと言うな、フェルナー。だがお前さんの言う通りだ、中途半端ではある。しかしこの場合大事なのは辺境の開発そのものよりも帝国が辺境の貴族達を切り捨てることは無いとフェザーンに示す事、そして貴族達に示す事だ。

「辺境を四つの宙域に区切り一年単位で順番に開発して行く事を考えています。つまり四年に一度の割合で政府が領地開発を援助する事になる。それを政府方針として発表するのです。七月には発表され即時に実施に入ります」
「なるほど、常に辺境の何処かを政府が援助しているという事ですか」
大公夫人が頷いている。その通りだ。政府は大規模ではないが継続して辺境を開発し続ける事になる。そして貴族領の開発は貴族が主体であり政府はあくまで支援だ。

「気持ちは分かりますが確かにフェルナー大佐の言う通り中途半端、思い切りが良くないですな」
アンスバッハが不機嫌そうに言うとシェーンコップがニヤリと笑った。まあこれじゃ危険視されても仕方ないか。裏切ったと疑われるのも半分以上は自業自得だろう。不徳の至り、だな。うん、ココアが美味い。

原作と違いこの世界では貴族達が滅んでいない。つまり帝国の財政は改善されていないのだ。大規模な開発は現時点では不可能だ。だが二、三年もすれば状況は劇的に変わる。
「四年後、一巡りした時点で計画の見直しをするつもりです」
「なるほど、四年後か」
義父殿が夫人と顔を見合わせて頷いている。気付いたか。

「援助の内容ですがどのようなものになるのです?」
「耕作機械の大量供与、灌漑施設の増設等ですよ、シュトライト少将。先ずは辺境星域の食料生産量を上げようと考えています」
というかそのくらいしか出来ない。発電所の建設や宇宙港の拡大には資金が足りないのだ。それでも食料の生産量が上がれば辺境の人間も喜ぶはずだ。飢える心配がなくなれば子作りにも励める。人口の増加にも役立つだろう。インフラ整備、医療や教育はその後だ。

「実は財務省、内務省の高級官僚達からブラウンシュバイク公爵家に辺境開発に参加して欲しいと内々に要望が出ています」
皆の視線が俺に集まった。不審、疑惑、疑義、拒絶、否定的な感情のこもった視線だ。気持ちは分かるけどね、もうちょっと柔らかい視線が欲しいな。コーヒーでも飲んで落ち着こうよ。

「如何いう事だ、エーリッヒ」
「大貴族にも開発に参加して欲しいという事です。政府だけでは辺境星域の信用を得られない。大貴族が開発に参加していれば辺境も安心するだろうと。いずれリッテンハイム侯爵家にも同じ話が有ると思います」
「……」
余り好意的な沈黙じゃないな。

「フレーゲルやゲルラッハは知っているのか、その話を」
「多分、知らないでしょう。現状では官僚達の間で出ている話だと思います、公にされている話では有りません。ですが内々にしろ打診してくるのです。官僚達の間ではそれなりに検討されている話なのでしょう」
義父殿が唸った。余り好意的な響きは無い。好き勝手な事を言うと思ったのだろう。ま、官僚達も相手が俺だから言ったのだと思う。相手が義父殿なら口を閉じただろう。

「具体的には辺境の貴族と協力してインフラの整備を行うか、或いは無人の惑星を当家だけで開発するか、そんなところでしょう。いずれにせよ何らかの形で辺境の開発に関与して欲しい、財務省も内務省もそう考えているようです」
義父殿が首を横に振りながら溜息を吐いた。皆も呆れた様な表情だ。フェルナーが“虫の良い話だ”と呟いた。

「それで、お前は如何したいと考えているのだ」
「入植可能な惑星を最低でも一つ、星系ごと頂こうかと考えています」
「本気か!」
義父殿が眼を剥いた。“閣下”、“公”、という声が上がった。諌める、いや咎める声だ。正気かと思っているのだろう。だが義父殿が手を上げて抑えた。

「お前はブラウンシュバイク公爵家の当主だ。お前が決めたと言うなら反対はせん。だが無人惑星を開発するとなれば容易ではないぞ。人の移住も含めて一から全てをやらねばならん。分かっているのか?」
「分かっています」
「それでもやるか」
「はい」
リビングの空気が重くなった。皆が俺を見ている。ブラウンシュバイク公爵家にとんでもない損害をもたらす奴、そんな視線だな。

「誤解しないで欲しいのですが義務感だけで行うのではありません。ブラウンシュバイク公爵家のためになりますし利益が有ると思ったからです。辺境星域を皆が御荷物と思っていますが私はそうは思いません。あれは宝の山ですよ。皆気付かないだけです」
「……」
無言だ、誰も喋らない。信じられないんだろうな。辺境って貧乏だし人もいない、僻地だからな。だが利益が有ると言ったのは事実だしブラウンシュバイク公爵家のためになるのも事実だ。そして宝の山という事も。

「義父上、私は帝国の手で宇宙を統一しようと考えています。遠征を支えるだけの財政基盤を整えるのに最短でも五年、長引けば十年はかかるでしょう。その後、五年を目処に自由惑星同盟を、フェザーンを征服します」
「……」
「そうなった時、辺境は辺境では無くなりますよ」
皆が顔を見合わせた。

「如何いう事だ、エーリッヒ」
義父殿が低い声で問い掛けてきた。猜疑心一杯だな。
「旧同盟領から大勢の商人が辺境にやってきます。新たな商機を求めて」
リビングに唸り声が溢れた。
「帝国の人口は二百億を超えます。国境が無くなる事で彼らにとっては新しい市場が目の前に現れる事になる。利益を求めて先を争ってやって来るでしょう。元々民生品は向こうの方が品質は良い。その民生品がイゼルローン回廊、フェザーン回廊を超えて大量にやって来るんです。位置的に見てその恩恵を最初に受け取るのが辺境です。辺境は良質の民生品で溢れかえる事になる」

「なるほど、そういう事か……」
アンスバッハが呻くとシュトライトが唸った。義父殿も唸っている。シェーンコップとフェルナーが顔を見合わせてニヤリと笑った。どうして根性の悪い奴って直ぐ仲が良くなるのかな、不思議だ。普通は反発すると思うんだが……。大公夫人とエリザベートは素直に感心している。でもな、エリザベート。頼むから頬を上気させてうっとりと俺を見るのは止めなさい。そういうのは苦手なんだ。

「帝国の商人も同様です。彼らも旧同盟領を目指して交易船を出すでしょう、辺境を横断してです。これまでは来なかった交易船が常に辺境に来る事になります。そうなれば当然ですが交易が発生する。辺境は宇宙で最も多くの交易船が行き来する場所になる筈です」
まるでシルクロードだ。キャラバンを編成して行く先々で交易を行う。同じ事が宇宙で起こるだろう。

「それともう一つ重要な事が有ります」
「何だ、それは」
うん、今度の義父殿の声には興味有り気な響きが有る。良い傾向だ。
「宇宙を統一すれば帝国の領域は今よりずっと広くなります」
「そうだが」
「オーディンは帝国の奥深くに有ります。拡大した帝国を統治するにはいささか不便です」
「……」
またリビングに沈黙が落ちた。だが嫌な沈黙じゃない。皆が目で探り合っている。

「統一した暁にはフェザーンに遷都をと考えています」
「……」
あれ、唸り声かどよめきが起きると思ったんだけど……。
「フェザーンに遷れば軍事的にはフェザーン回廊を直接押さえる事が出来ます。帝国領、旧同盟領のどちらにも兵を出し易い。そして経済の中心であるフェザーンを直接押さえるのです。フェザーンに腰を据え帝国領、旧同盟領を統治する。これ以上新たな帝国の都として相応しい場所は有りません。私が考えなくても他の誰かが同じ事を考えるでしょう」
あ、義父殿が大きく息を吐いた。溜息? それとも酸素不足か?

「そこまでで良い、良く分かった。オーディンが帝都で無くなればブラウンシュバイク星系は地の利を失う。それよりも辺境星域の方が得だ、そういう事だな」
「はい、当初は貧しいでしょうがいずれは辺境の方がブラウンシュバイク星系よりも発展しているでしょう」

リッテンハイム侯、そして政府閣僚にもこの話をする。そうすれば皆が辺境星域に拠点を持ちたがるはずだ。そうなれば辺境の貴族達は政府が本気で辺境を開発するつもりだと思うだろう。そして政府閣僚も辺境星域の開発に本腰を入れる。今は無理でも財政状況が好転すれば必ず力を入れる筈だ。後はどうやって同盟を、フェザーンを征服するかだ。

財政の健全化まで五年から十年か。ラインハルトの病気の問題が有るな。その辺りを気を付けないと……。出来るだけストレスを溜めさせない事だ。アンネローゼとも頻繁に会わせた方が良いだろうし戦争にも適当に行かせよう。捕虜交換が終ったら遠征軍の総司令官にして出兵させるか。まあ互角以上に戦って来る筈だ。

そうなれば宇宙艦隊の副将としての立場も強化されるしロイエンタール、ミッターマイヤー、ミュラーを正規艦隊司令官に抜擢出来る。ケスラーはそのまま参謀長にしておこう。ラインハルトの抑え役として必要だしラインハルトに別働隊を指揮させる時はそのまま別働隊の参謀長の役割を任せよう。ケスラーなら問題無くこなせる筈だ。少しずつだが形が整ってきたようだ。



 

 

第五十話 焦り


帝国暦488年  5月 30日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  エーリッヒ・フォン・ブラウンシュバイク



疲れたな。リビングでのフリートーキングの時間も終わり書斎に戻るとドッと疲れを感じた。少し休もうか? 二時間ほど仮眠を摂るのも良いだろう。三つ折りの簡易ベッドを広げて毛布一枚を用意してから横になった。フリートーキングの最終的な結論は辺境星域の開発はリッテンハイム侯や政府閣僚とも話してからとなった。ブラウンシュバイク公爵家だけが参加するのは避けた方が良いというわけだ。まあ分からないでもない。

しかしどうも違和感が有るな。いや、意識のズレと言うべきか。原作知識の所為かもしれないが俺には宇宙は統一されてしかるべきものという意識が有る。だが他の皆にはそういう意識は希薄だ。帝国、同盟、フェザーンの三国鼎立が自然という意識が有る。だから統一後はどうなるかという発想が出てこない。

辺境開発は積極的にやるべきなんだ。本当はブラウンシュバイク公になった時にやりたかったが養子だからな、なかなか言い出せなかった。それに辺境にも勢力を伸ばそうとしているなんて痛くも無い腹を探られるのも嫌だし……。本心を言えば今回の打診は願ったり叶ったりなんだよ。このままじゃブラウンシュバイク公爵家は少しずつ力を失っていく事になる。

原作においてマリーンドルフ家は皇妃ヒルダの実家だがラインハルト死後はどうなったかを想像してみれば分かる。帝都はオーディンからフェザーンに遷っている。軍、政府の各機関も移動しただろう。人の移動は何千万? 或いは億を超えたかもしれない。家族を入れれば数億といったレベルだろう。

そして人口の減少は一時的なものではなかった筈だ。オーディンが政治の中心で有る事で潤っていた人々、商人や企業もそれに続いた筈だ。それだけの人間が減れば消費、生産力はかなり減少する。マリーンドルフ伯爵家はその影響をもろに受けただろう。ローエングラム王朝初代皇妃ヒルダを輩出したマリーンドルフ伯爵家は二百年も経った頃には辺境の一伯爵家になっていたと思う。その頃には辺境星域でくすぶっていたクラインゲルト子爵家の方が羽振りは良くなっていたかもしれない。

なかなか楽しい想像だ。疲れているのに眠れない、もうちょっと想像を楽しもうか。辺境の貴族達、平民達はラインハルトの焦土作戦のおかげでローエングラム王朝には決して好意的では無かった筈だ。ヒルダの後継者を中心とした帝国政府は遣り辛かったんじゃないかな。力を付けてきた新興勢力が政府に対して反抗的なのだ。どんな政策を実施するにしても先ず考えたのは辺境の反応と新領土の反応だろう。否定的な反応を想像して顔を顰めたかもしれない。

考えてみればローエングラム王朝っていうのは不思議な王朝だな。政権基盤が何処に有るのか今一つはっきりしない。まず貴族階級には無い。リップシュタット戦役で門閥貴族を潰したからじゃない。戦後ラインハルトが自分に味方した貴族達を政治的にも経済的にも優遇しなかったからだ。ヒルダはともかく他のラインハルトに味方した貴族達は当てが外れたと思ったんじゃないかと思う。不満も持っただろう。彼らはリップシュタット戦役が権力闘争だけでは無く階級闘争でも有る事を軽視した、或いは認識していなかったと思う。

では平民階級に政権基盤が有ったか? こいつも疑問だ。確かに内乱以降、平民階級の政治的な地位は向上している。平民達はラインハルトの施政を支持しただろう。だが信頼しただろうか? 焦土作戦を行い辺境に苦痛を与えたのがラインハルトならヴェスターラントで住民二百万を見殺しにしたのもラインハルトなのだ。支持はしても何処かに不安は有ったと思う。何時自分達に牙をむくかと不信感を持っていただろう。

そういう不信感を増大させたのがヒルダとの結婚だと思う。彼女との結婚は皇帝ラインハルトが幾つか犯した政治的失策の一つではないかと俺は考えている。確かにヒルダには皇妃として適切な資質が有ったと思う。だからラインハルトの周囲からはヒルダとの結婚に対して反対の声は上がっていない。精々オーベルシュタインがマリーンドルフ伯に外戚として権力を振るうなと釘を刺したくらいだ。

だが皇妃としての資格は有っただろうか? 無い、としか言いようがない。ヒルダが伯爵家の娘である、その一点で資質は有っても資格は無かったと俺は判断している。彼女が皇妃になると知った平民達はまた貴族が外戚として権力を振るう時代が来るのではないかと不安になっただろう。そしてラインハルトに対しては貴族階級の復権を許すのかと不信感を抱いたと思う。皇妃は平民か下級貴族から選ぶべきだった。そうであれば平民達も不信感を抱かずに済んだ筈だ。平民でも皇妃になれるとなれば平民階級はラインハルトを無条件に支持しただろう。本当の意味でルドルフを否定したと感じて。

オーベルシュタインは平民階級の不安を分かっていたと思う。彼がマリーンドルフ伯爵にヒルダを皇妃にする事を考えているのかと警告した事がそれを示している。しかし現実にはオーベルシュタインが望まなかった事が起きた。ヒルダの妊娠と結婚、皇妃ヒルダの誕生だ。舌打ちしたい思いだっただろう。だが不思議なのはその事に対してオーベルシュタインが反対していない事だ。後継者が必要だから堕胎しろとは言わなかっただろうが政治的なリスクを訴えて側室に留めろと進言する事も出来た筈だ。だがオーベルシュタインは沈黙を保っている。一体何故か?

出来てしまったものは仕方がないと諦めたか? それともラインハルトが受け入れないと思ったからか? そうではないだろう。オーベルシュタインには反対出来ない理由が有ったとみるべきだ。即ち彼はラインハルトの健康問題を重視したのではないかと俺は思っている。オーベルシュタインはラインハルトの寿命が長くない、いや極端に短い可能性があると予測したのだと思う。

後継者がいなければ帝国は混乱する。オーベルシュタインはそれを恐れたのだ。そして皇帝が幼ければ親身になって幼帝を補佐する人間が必要だ。ヒルダは母親でもあり政治的な才能も有る、適任だと言える。となれば政権基盤が脆弱である以上彼女の政治的地位と生まれてくる後継者の政治的地位を強固なものにする必要が有ると考えただろう。

だから皇妃ヒルダの誕生と嫡出子の誕生に異を唱えなかったのだと思う。側室と非嫡出子では政治的な立場が弱いと見たのだ。少しでも政治的な立場を強くするには皇位継承に関して正統性を確立する必要が有った。平民階級の不安はリスクとしてあったが帝国の混乱よりはましだと思ったのだろう。マリーンドルフ伯が権力欲のない人物だという事も判断材料としてあったかもしれない。苦渋の選択だろう……。

トントンとドアを叩く音がした。やれやれ、休む事も出来ないか……。もっとも休んでいないから文句も言えんな。
「どうぞ」
身体を起こして声をかけるとドアが開いてフェルナーが入って来た。一人だ。俺が簡易ベッドに腰掛けている姿を見て“出直そうか”と済まなさそうにしたが“気にしなくて良い”と言って止めた。

「用か?」
「いや、少し話したいと思って」
おどおどするな、お前らしくない。
「分かった、適当に座ってくれ」
フェルナーが椅子を俺の傍に持ってきて“済まんな”と言いながら座った。昔みたいだな、俺はベッドに腰掛けフェルナーは椅子に前かがみに坐っている。

「さっきの話だが」
「反対か?」
「いや、そうじゃないんだ。言っている事は良く分かる。宇宙が統一されれば辺境は発展するだろう。遷都が実行されればブラウンシュバイク星域が地の利を失う事も間違いない。だが気になる点もある。それを確認したいんだ」
フェルナーが俺をじっと見た。

「人は如何する? 一から始めるとなれば人の移住から始めなければならんぞ」
「最初はブラウンシュバイク公爵家の各領地から少しずつ移住させるしかないと思う」
フェルナーが首を横に振った。
「それでは駄目だ。発展するのに時間がかかり過ぎる。最低でも最初の五年で百万程度の人間は移住させ発展の基盤を作る必要があるだろう」

「他にも手はある。今回貴族達が借金の棒引きと引き換えに領地を返上したがそこで何が起きているか、知っているか?」
「いや、知らない。何か有るのか?」
「有る、ちょっと困った事になっているんだ」
フェルナーが不思議そうな顔をした。いかんな、ブラウンシュバイク公爵家の中でタスクチーム、或いはシャドウキャビネットのようなものを作らなければならん。

問題は農奴だ。領地返上に伴い政府が農奴を買い取った。貴族達には良い収入になっただろう。政府はその農奴を解放し正民として扱う事に決めた。人権を尊重したわけじゃない。その方が生産力は間違いなく向上するからだ。だがその所為で元々いた領民達との間で対立が生じている。

領民達にとって農奴は一段下の階級だった。だがそれが解放され自分達と同じ階級になった。その事が不満らしい。人間、自分より下が有ると思えば優越感に浸れる。だがその下だと思っていた存在が自分と肩を並べるようになった。面白くない、生意気だというわけだ。ラインハルトがローエングラム伯爵家を継承した時にも似たような事が有ったんだろう。俺だってブラウンシュバイク公になった時は反発が大変だった。俺が説明するとフェルナーがウンウンと頷いた。

「なるほど、有りそうな事だな」
「もう分かるだろう?」
「ああ、その解放農奴を連れてくるという事だな?」
「その通りだ。このまま放置すれば対立が激化する。騒乱になりかねない。それじゃ生産力は上がらない」
フェルナーが“そうだな”と頷いた。

生産力だけじゃない、地方自治を統括する内務省にも負担がかかるだろう。場合によっては軍の出動なんて事態にもなりかねない。この問題を放置は出来ないのだ。
「だとするとブラウンシュバイク公爵家から出すのも解放農奴か」
「基本的にはそうなるね」
「どのくらい出すつもりだ? まさかとは思うが三十万全部か?」
「それは無い。義父上とも相談して適当な人数を出すよ」

フェルナーがホッとしたような表情を見せた。こいつ、最近俺と義父殿が衝突するんじゃないかと心配している気配が有る。こいつだけじゃないのかもしれないが……。もしかするとここに来たのは義父殿の差し金かな。フェルナーを使って疑問点を確認している? 可能性は有るな。

「それに来年以降は没落する貴族が続出する。彼らが抱えていた農奴を積極的に受け入れていく。人口百万人は軽く超えるだろう」
一千家も潰れれば一貴族一万人の農奴を抱えていたとしても一千万の解放農奴が出現する事になる。辺境開発のための人口資源は比較的容易に確保出来るだろうと俺は見ている。

門閥貴族なんて全滅したって全然構わないが俺が養子になったからブラウンシュバイク公爵家が傾いたなんて歴史書に書かれるのは御免だ。俺の代で繁栄の礎が築かれた、そう書かれるようにしてみせる。そうなればブラウンシュバイク公爵家以外の家も平民から養子を迎え入れるようになるかもしれない。つまり血統では無く実力の尊重だ。階級間の交流も少しずつ広がるだろう。

「分かった。疑念が晴れたよ。疲れているところを済まん。ゆっくり休んでくれ」
「待て、丁度良い、少し話したい事が有る」
立とうとしたフェルナーを押し留めた。
「何か有るのか? エーリッヒ」
有るんだ。フェルナーをジッと見た。奴が姿勢を正した。容易ならん事を聞かされると思ったのだろう。その通りだ、これから話すことは容易ならん事だ。

「政治改革により帝国では地殻変動が起きようとしている。分かるな?」
「ああ、分かっている。貴族階級で没落する貴族が続出する。相対的に平民階級の地位が向上するだろう」
「その地殻変動はフェザーンにまで及ぼうとしている、いや既に及んでいる」
「フェザーンにか?」
「ああ」
そう、フェザーンだ。そう不思議そうな顔をするな、フェルナー。帝国、フェザーン、同盟は密接に繋がっているんだ。不思議な事じゃない。

「領地を失った貴族達だが彼らはフェザーン商人と密接に繋がっていた。金だけじゃない、物流も含めてだ」
「……」
「だが貴族達が領地を手放した事で金はともかく物流はこれまでのように一手に扱う事が出来なくなった」
「なるほど、既得権益を失いそこに独立商人が食い込んできたんだな」
「そうだ」

物流を扱っていた商人達は既得権益を奪われ独立商人、或いは同じように既得権益を奪われた商人達と凄まじい争いをしているらしい。フェザーンで発行されている電子新聞によると経営が傾きかけている企業もある一方で業績を伸ばしている企業もある。要するに下剋上、戦国時代に入ったわけだ。そして潰れる貴族はこれから多くなる。それが一体フェザーンにどういう影響をもたらすのか……。フェルナーも渋い表情をして考えている。

「このあたりで物流関係の企業を持とうと思う。フェザーンで経営の傾いた企業が有れば買い取りたいと考えている」
「商船なら今でも有るだろう」
「駄目だ、今の商船ではフェザーン回廊を超えられない」
「……」
フェルナーが口を噤んだ。ブラウンシュバイク公爵家が所有する商船、輸送会社は有る。だがそれは帝国領内でしか活動が出来ない。理由は帝国国籍の商船、輸送会社だからだ。

「辺境を開発しようとすれば同盟製の民生品が有った方が良い、そう思わないか? 人口百万は軽く達成出来る。問題は百万人の生活を維持向上させるインフラ整備、耕作機器、民生品だ」
フェルナーの顔を覗き込んだ。幾分身を引くようなそぶりを見せた。
「それは分かるが……」
「公爵家が所有する商船は帝国領内で活動させる。そしてフェザーン国籍の商船は辺境開発のために利用する」
「……」
考えている、フェルナーは考えている。

「フェザーンがそれを許すと思うか?」
「まず許さないだろうな。買収は認めても商船を向こうに出す事は認めない。フェザーンが交易の独占を崩す様な事は許す筈が無い」
「だったら意味が無いだろう」
そんな呆れた様な声を出すな。俺が傷付くとは思わないのか?

「そうでもない。例え同盟領に商船を出せなくても辺境の開発はフェザーンに起点が有った方が効率が良い。フェザーン方面からと帝国中央部からの二方向から開発を行う。それにフェザーンが無くなれば同盟領に商船を出せる」
「……」
「それに商船を出せないなら同盟からフェザーンに来させるという手も有る。荷を買い取って辺境に運ぶさ」

「止せ! それは危険だ。フェザーンは卿を完全に敵と見做すぞ」
「今でも敵と見てるよ」
俺が笑うと“駄目だ!”と言ってフェルナーが激しく首を振った。
「敵とは言っても今は卿の邪魔をするくらいだ。だがそれをやればフェザーンは卿を潰しに来る」
「……私を殺しに来るという事か?」
「卿とは限らない、エリザベート様を殺すかもしれない。それだけで卿の地位を揺るがす事は可能だ」
なるほど、可能性は有るな。

不意に膝を揺す振られた。フェルナーが真剣な眼で俺を見ている。
「エーリッヒ、焦るな。卿らしくないぞ」
「……焦っているように見えるのか?」
「ああ、俺にはそう見える。気持ちは分かる。難題はみんな卿の所に行く。その殆どが貴族達の尻拭いだ。不本意だろうし不愉快だろう。だが焦るな、卿には似合わんぞ」
また膝を揺す振られた。

「卿にもしもの事が有れば改革が頓挫しかねん、自重してくれ。卿は不満かもしれないが帝国は間違いなく良い方向に進んでいるんだ。そしてその流れは徐々に大きくなっている」
「……分かった。買収の件は撤回する。だがフェザーンの動向には注意をしてくれ」
「了解した。チームを作って対応させる」
フェルナーがホッとした様な表情をしていた。

「話しを変える。アントン、捕虜交換が終ったらブラウンシュバイク公爵家の領地を視察しようと思うんだが」
「ずっと延び延びになっていたな。行った方が良いと思う。大公閣下御夫妻、エリザベート様も一緒の方が良いだろう」
「遊びじゃない、仕事だ」
「ああ、仕事だ。領民達に家族の親密さを見せるのもな」
なるほど、そういう事か。

“分かった”と言うとフェルナーが大きく息を吐いた。
「少しでも休んでくれ。卿には休息が必要だ」
「そうするよ。……アントン、私は焦っているか?」
「ああ、俺にはそう見えたよ」
「そうか、……有難う、止めてくれて」
「気にするな」
そう言うとフェルナーは立ち上がって椅子を戻して部屋を出て行った。焦りか……、そんなつもりは無かったが……。




 

 

第五十一話 当主



帝国暦488年  6月 3日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ワルター・フォン・シェーンコップ



「フェルナー大佐、公爵閣下からフェザーンの動向を確認してくれと言われたそうだが?」
「その事で少し困っています。チームを作ろうと思っているのですが適当な人間が見つかりません」
アンスバッハ准将の問い掛けにアントンが顔を顰めながら答えた。それを見てアンスバッハ准将、シュトライト少将も顔を顰めた。

「屋敷の人間では駄目なのか?」
俺が訊くとアントンは首を横に振った。駄目か、この屋敷には二百人以上の使用人が居る。屋敷の維持運営のための使用人も居るがそれなりの訓練、教育を受け公爵家を支えるために存在する人間も居るのだが……。

「帝国で改革が始まった事によりフェザーンでは地殻変動が起きている。これまでの有力商人、有力企業の幾つかが地位を低下させ代わって独立商人、中小企業が力を延ばし始めた。改革が進めばその動きは更に大きくなるだろう。とんでもない変化がフェザーンで起きると公は見ている」
フェザーンか、公にとって決して心許せる存在ではない。その動向に注意を払うのは当然だが……。

「俺も同感だ、おそらくはルビンスキーの動向にも影響を与えるだろう。そして帝国にも影響が出る。その動き、流れを逸早く押さえるにはフェザーンの経済界、政界に精通した人間が必要だ。残念だがそれが出来る人間はこの屋敷には居ない」
アントンの答えにアンスバッハ准将、シュトライト少将の渋面がさらに酷くなった。

「となるとフェザーン人だな。当家に繋がりの有るフェザーン人を利用するほかあるまい」
「だが何処まで信用出来るかという問題が有るぞ、アンスバッハ准将。ルビンスキーの意を受け公爵家の中に入って攪乱されては堪らん」
シュトライト少将の言葉にアンスバッハ准将が“うーむ”と頷いた。相変らず渋面のままだ。いやさらに酷くなったな。

ブラウンシュバイク公爵邸に有るアントンの部屋に俺を含めて四人の男が集まった。それぞれに適当な場所に座っている。シュトライト少将、アンスバッハ准将、フェルナー大佐、この三人はブラウンシュバイク公爵家の中枢に居る男達だ。三人ともブラウンシュバイク大公、公の信頼が厚い。だが俺にも見えてきた事が有る。シュトライト少将は大公が公に付けた軍事面での補佐役だ。宇宙艦隊に席を置いている。アンスバッハ准将は大公の側近という色合いが強い。

そしてアントン・フェルナー、彼はブラウンシュバイク公の親友だ、大公と公のいずれかに偏る事無く誠実に補佐している。彼にとっての悪夢は大公と公の関係が決裂する事だろう。養子か、ブラウンシュバイク公も苦労するな。この家には一人で来た。つまり何かをしようとすれば公爵家の人間を使わねばならないという事だ。不自由を感じる事も多いだろう、ヴァレリーは公がブラウンシュバイク公爵をさりげなく務めていると言っていたが……。

「私もフェザーン人を利用する事を考えましたがやはり難しいと言わざるを得ません。ですがあの方なら如何でしょう?」
アントンの言葉に二人が訝しげな顔をした。あの方? 誰だ?
「あの方? ……まさか、卿」
アンスバッハ准将が顔色を変えた。シュトライト少将も愕然としている。
「ならんぞ! フェルナー大佐。大体あの方を帝国内に入れる事は危険だ」
「帝国内に入れる事は考えていません。ですが情報だけでも……」
「駄目だ!」
シュトライト少将が憤然と遮った。

「あの方とはどなたなのです?」
俺が口を挿むと三人が俺を見た。幾分バツの悪そうな表情を見せたが直ぐに視線を逸らした。
「教えては頂けぬのですかな」
また三人がこちらを見たが今度は迷惑そうな顔をした。面白くなってきた、どうやら地雷を踏んだか。

「死人だ」
さて次はどうしたものかと思っているとアンスバッハ准将がボソッと答えた。相変らず視線は逸らしたままだ。それにしても死人? アントンを見たが無言だ、シュトライト少将も無言だ。そして二人とも俺と視線を合わせようとしない。死人か、妙な話だ、どうやら帝国には死人を使う技が有るらしい。或いは暗号名か、だとしたら洒落ているが。

「シェーンコップ大佐、これ以上詮索はするな」
「小官は知る必要は無いという事ですか、アンスバッハ准将」
幾分皮肉が入ったかもしれない。しかし准将は視線を逸らしたまま何の反応も見せなかった。
「そうだ、知らぬ方が良い。或いはいつか卿も思い当たる事が有るかもしれない。しかし死者を甦らす様な事はするな。大公も公もそんな事は望まぬ筈だ」
大公も公も? 二人も知っているという事か。だとすると余程の事だな。

「分かりました。詮索はしません」
俺が答えると三人が明らかに緊張を解いた。ま、詮索せずともいずれは分かるだろう。
「済まんな、シェーンコップ大佐。だが口に出来る事ではないのだ。これが表に漏れればとんでもないことになるのでな」
アンスバッハ准将の言葉に他の二人は無反応だ。否定ではないな、これ以上は触れたくないという事か。少しの沈黙の後、シュトライト少将が口を開いた。

「財務省はどうか?」
「財務省? 役人をブラウンシュバイク公爵家に出向させるのですか?」
アントンが問うとシュトライト少将が首を横に振った。
「いや、それなら閣下が直接ゲルラッハ子爵に頼んだ筈だ。フェルナー大佐に命じたという事は内密にという事だろう」
「では?」
「退官した人間を利用出来ないかと言っている」
アントンが“なるほど”と頷いた。

「しかし適当な人物がいますかな?」
俺が問い掛けると三人が心許なさそうな顔をした。
「公の要求を満たすには税や予算を扱った人間では駄目でしょう。流通、金融、経済政策等の分野での見識が必要ですが……」
アントンが大きく息を吐いた。

「何とか捜すさ。……フェザーンに人を送ります。情報源が必要です、情報が無ければ分析出来ません」
前半は俺に、後半はシュトライト少将、アンスバッハ准将への言葉だった。死人が使えないから代わりの人をフェザーンに入れるという事だろう。二人も頷く事でアントンの提案を認めた。

「それと公の領内視察ですが……」
「捕虜交換後に行う、御家族で視察していただく、だったな」
シュトライト少将の言葉にアントンが困った様な表情を見せた。シュトライト少将、アンスバッハ准将が訝しそうな表情を見せた。そして少将が“何か有るのか”と窺うような表情でアントンに問い掛けた。

「最初にカストロプに行くそうです」
「カストロプ?」
皆で顔を見合わせた。カストロプは公爵領ではない、帝国の直轄領だ。だがブラウンシュバイク公が統治を任せられている。確か改革派、開明派といわれる人間達が統治にあたっている筈だ。公爵家の領地ではないが統治に責任は有るから視察はおかしな話しでは無いが……。

「改めて公に予定を伺ったのですがカストロプの状況を確認し、改革派の人間達を連れて領内視察に向かう事を考えておられます。カストロプ、ラパート、ブラウンシュバイク、ヴェスターラント、フォッケンハウゼン、ディーツェンバッハ……」

アントンが地名を並べると二人の顔が強張った。俺がカストロプの他に知っているのはフォッケンハウゼンだけだ。ラパート、ヴェスターラント、ディーツェンバッハは知らない。アントンに尋ねるとラパートはカストロプ星系にある有人惑星でこれもブラウンシュバイク公が統治を委任されているらしい。ヴェスターラント、ディーツェンバッハはフォッケンハウゼン同様ブラウンシュバイク公爵家が有する有人惑星との事だった。要するに公はブラウンシュバイク公爵家が責任を持つ有人惑星を全て視察しようしているらしい。

「領民達への単なる顔見せではないという事か。領地を自分の目で確かめたい、足りない部分を改革派と確認したいという事だな。一カ所につき五日滞在としても一カ月、移動も入れれば最低でも二カ月はかかる、滞在が延びれば事によっては三カ月はかかるな」
アンスバッハ准将が唸り声を挙げた。気持ちは分かる、帝国きっての重要人物が三カ月も帝都オーディンから居なくなる。

「捕虜交換が始まるのが七月頃、大体九月までかかるはずだ。となると視察は十月から年内一杯か……」
シュトライト少将が溜息を吐いた。
「年末には戻っていただかねばなりません。年明けには陛下への新年の御挨拶が有りますし貴族達からの挨拶も有ります」
「厳しいな、一つか二つ減らす事は出来んかな」

「無理です、公は来年は今以上に忙しくなると見ています。大規模な視察が出来るのは今しかないだろうと」
アントンが拒否すると二人が溜息を吐いた。
「確かにその通りだ。已むを得んな、アンスバッハ准将」
「ああ、確かに来年は今以上に忙しくなる筈だ。已むを得ん」
「視察を楽しむ暇など有りませんな。エリザベート様も落胆なさるでしょう、楽しみにしていましたから」
アントンの言葉にシュトライト少将が首を横に振った。

「我慢して貰わなければならん。今回だけではないぞ、これからもだ。そうでなければ公の妻は務まらん」
アンスバッハ准将とアントンが頷いた。
「不思議ですな、公爵家の姫君に我慢しろと言うのですか。エリザベート様は皇孫でもあられるのに」
ちょっと意地の悪い質問だったか? だが三人は怒らなかった。

「シェーンコップ大佐、勘違いするな。大公閣下は既に隠居され公爵家の当主ではない。ブラウンシュバイク公爵家の当主は公爵閣下だ。そして公は帝国の軍、政、宮中においてなくてはならない御方、エリザベート様もその点についてはわきまえて頂かなくては……」
俺に説明すると言うよりは自らに言い聞かせるような口調だった。

「シュトライト少将の言う通りだ。公は養子、なればこそ我らは公を盛り立てなければならん。いかなる意味でも公の立場を揺るがす様な事は許されんのだ。エリザベート様でさえ公には遠慮なされる、周囲にはそう思われなければならん」
「なるほど」
シュトライト少将、アンスバッハ准将の言葉を聞いてリューネブルクの言った事を思い出した。この国では人間関係が重視される、皇孫が遠慮する、その意味は大きい。

「まあ多少は公もエリザベート様を気遣ってくれればと思うが……」
「難しいと思いますよ、そっちの方は不得手ですから期待は出来ません」
シュトライト少将の希望をアントンが無慈悲に打ち砕いた。皆が切なさそうな顔をしている。どうやら俺の出番か。多少は公にアドバイス出来るだろう。楽しみが出来たな。



帝国暦488年  6月 8日  オーディン  ブラウンシュバイク公爵邸  ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム三世



「如何思うかな、リッテンハイム侯」
「いや、言っている事は分かる。しかしなんと言うか……、実感が湧かん」
「そうだろうな、わしも初めて聞いた時は同じだった。言っている事は分かるのだが実感が湧かん。想像が出来んのだな」
ブラウンシュバイク大公が私と同じ言葉を発した。

大公夫人とエリザベートは頷きクリスティーネとサビーネは呆然としている。ブラウンシュバイク公爵家の応接室で大公夫妻、エリザベート、私とクリスティーネ、サビーネでお茶を飲んでいるのだが話の奇抜さにお茶の味がよく分からん。少し落ち着かねば……。コーヒーを一口飲んだ。

「確かに宇宙が統一されればオーディンでは統治に不便かもしれん。フェザーンに遷都という話も出るであろうな」
「そうなればわしも侯も地の利を失う」
「うむ」
その通りだ。我らが力を持っているのも妻が皇族という事、群を抜いた財力、武力の他に本拠地がオーディンに近いという事が有る。地の利を失えば徐々に衰退するだろう。帝都に近い方が繁栄はし易いのだ。影響力も発揮し易い。

「統一は何時頃と公は考えているのです?」
「内政に十年、その後五年で宇宙を統一すると言っていたな」
「では十五年後ですか……」
「先の事は分からんが、まあ一つの目安と思えば良かろう。早くなる可能性もある」
大公と話していた妻が溜息を吐いた。十五年か、となると遷都は遅くとも二十年以内には実現するだろう。但し、統一されればだ。

「ではブラウンシュバイク公爵家は辺境の開発に乗り出すのかな?」
「おそらくそういう事になるだろう。侯は如何する?」
皆の視線が私に集まった。妻と娘も私を見ている。
「……難しいな。惑星を一から開発するとなれば膨大な費用と年月がかかるだろう。上手く行くかという不安が有る。かといってこのままでは宇宙が統一された時、当家が徐々に衰退するのも確かだ。判断がつかん」
私が答えると大公はもっともだという様に何度か頷いた。

「今すぐ答えを出す必要は無いだろう、政府から正式に打診が来たわけでもないからな」
「うむ」
「一度エーリッヒと話してみては如何かな。あれはそれなりに成算が有るようだ」
「そうだな、話してみるか」
開発の事だけではなく内政の事、統一の事、この際突っ込んで話してみるのも悪くないだろう。

「ところで捕虜交換が済んだらブラウンシュバイク公爵家は皆で領地の視察に向かうつもりだ」
「ほう」
「カストロプ、ラパート、ブラウンシュバイク、ヴェスターラント、フォッケンハウゼン、ディーツェンバッハ、……十月に出発しオーディンに戻るのは年末になるだろう」
驚いた。大公は悪戯っぽい笑顔を見せている。大公だけではない、大公夫人、エリザベートも同じような笑みを浮かべていた。

「それは本当か?」
「本当だ」
思わず唸り声が出た。クリスティーネ、サビーネも目を丸くしている。
「エーリッヒは単なる顔見せで終わらせるつもりは無いらしい。自分なりに領地を把握したいようだ」
「なるほど」
身体が丈夫ではないと聞いたが随分と精力的だな。しかし三月もオーディンを留守にするのか。

「わしもカストロプ、ラパートがどうなったか興味が有る。改革派の目指す統治がどのようなものか……。当家にとっても参考になる部分が有るやもしれんからな」
そうか、改革派か、それが有ったな。確かに気になる。貴族も改革が始まってからは以前のように安閑としてはいられなくなった。領地の施政を改善し領民達を満足させねばならん。それはリッテンハイム侯爵家も同じだ。

「ブラウンシュバイク大公、我らもその視察に同行させてはもらえぬかな。私もカストロプ、ラパートの様子を知りたくなった。如何かな、クリスティーネ、サビーネ」
私が声をかけると妻と娘が自分達も行きたいと声を出した。遊びではないのだが分かっているのかな、そう思わせるほど明るい声だった。