外伝 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)


 

彼はNO.1

■帝国暦481年   帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー

 今日も一日また書類が待っている。私は机の上におかれた書類をみて溜息をついた。兵站統括部第三局第一課はイゼルローン方面の補給を管轄する部署。言葉では格好良いが、やってる仕事は書類を見て数字があっているか、何時までに送るのか、どの輸送船に積み込むのかの調整でしかない。

出来るだけ無駄なく輸送しなければならない。幾つかの物資要求と合わせて送るのだけどその調整が難しい。希望納品日と船舶の輸送計画がなかなか一致しない。輸送を担当する兵站統括部第二局は予定を変更されるのを極端に嫌がる。

必要なときに船がなくなるというのだ。“計画は守ってください”それが彼らの口癖だ。計画よりも納期を守ってよ、あんた達。

私の名はアデーレ・ビエラー伍長。年は二十歳、帝国女性下士官養成学校を二年前に卒業した。卒業以来、この二年間失望の日々を送ってきたといっていい……。理由は簡単、私の周りには良い男が全くといっていい程いない。なんて悲しい事だろう。

帝国は今、反乱軍との間に慢性的な戦争状態にある。男性は皆軍に取られ、街中には若い男性は極端に少ない。若い男性が多く居るのは軍隊なのだ。私が帝国女性下士官養成学校に入ったのも男性との出会いを求めてよ。

不純と言われても構わない。一会戦あたり最低でも二十万、多いときは百万単位で若い男が死んでいく。結婚できない女性が増え続けている。私のように平民出身で特に家が裕福でもない人間は軍に入って積極的に男性との出会いを求めていかなくてはならない。

それなのに、私が配属されたのは、よりによって兵站統括部だった。此処は決してエリートが集まる部署ではない。将来性など皆無の男たちか、貴族の次男、三男坊で戦場になど出たくないというロクデナシどもばかり……。なんてかわいそうなんだろう。

「どうしたの、アデーレ。溜息なんて吐いちゃって」
「コルネリア先輩……、毎日が虚しくて」
声をかけてきたのはコルネリア・アダー伍長、帝国女性下士官養成学校の一年先輩だ。

ブルネットの髪と蒼い瞳が綺麗な先輩には恋人が居る。何と軍務省の人事部にいるのだ。軍官僚として将来を保障されていると言っていい。うらやましい限りだ。たまたま軍務省に資料を届けに行った時、知り合ったらしい。私にもそんな出会いが欲しい……。

「何言ってるの。今年の新人たちの希望配属先が出たでしょう。もう見た?」
「いえ、見ていません」
「どうして?」
「見ても仕方有りませんから」

希望配属先、卒業一ヶ月前のこの時期になると卒業予定の士官候補生が希望配属先を出す。軍のホームページに掲載され、私たちはそれを見ることが出来るのだ。しかし、見ても仕方ない。どうせ碌でもないのばかりで、軍務省配属希望者や統帥本部配属希望者と見比べるだけで嫌になる。

「そんな事言っていいの? 今年のNO.1はダントツでウチよ」
「はあ?」
何を言っているんだろう。

NO.1…… その年配属される新人の中から将来性、ルックス、成績、性格等で各配属先(軍務省、統帥本部、宇宙艦隊、憲兵隊等)が競い合う。自分のところに配属された少尉がNO.1だ、と自慢しあうのだ。新人配属から3ヵ月後、密かに各配属先から女たちが集まりNO.1を決める。言ってみれば彼氏自慢、息子自慢のようなものかもしれない……。

「冗談は止めて下さい。ウチがNO.1なんてありえません」
そう、絶対ありえない、出るだけ無駄。去年私も集会に出たけど泣きたくなるくらい辛かった。あまりにレベルが違いすぎる。今年は絶対に行かない。

「あらあら、騙されたと思って見てみるのね、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン候補生。ポケットに入れたくなるような男の子よ」
「?」
コルネリア先輩は艶やかに微笑むと立ち去っていった。

ポケットに入れたくなる? 男の子? 私は軍のホームページを開き希望配属先リストのデータベースを開いた。兵站統括部を選択し、配属希望者を確認する。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、これね。確かに兵站統括を希望しているわ。騙されたと思って詳細を確認してみよう。

彼の詳細データが出た。黒髪、黒目、優しげな顔立ちの写真が出た。カワイイ、本当に男の子? 女の子じゃないの? それにちょっと幼い感じがするけど……、嘘、この子十六歳なの? 本当ならこれから士官学校入学じゃない。

成績は……評価はSA! 嘘、この子SAなの、信じられない。
成績欄を見ればおおまかな成績はわかる。これまでの中間、期末試験の順位の平均を基に評価してあるのだ。

SAは平均で十番以内だ。Aは百番以内、Bは千番以内、Cは二千番以内、それ以外はDランク。ヴァレンシュタイン候補生は十番以内に入っている。凄い、なにこれ、なんでウチに来るの。どう見ても軍務省か、統帥本部か、宇宙艦隊よ。間違ってもウチに来る子じゃない。

「嘘!」
思わず叫んでしまい、周囲から睨まれる。拙い、つい興奮しちゃった。でも信じられない。この子の資格取得欄が凄い。“帝国文官試験”、通称“帝文”に合格してる。

そういえばそんな話を聞いた気がする。確か士官学校始まって以来だとか。どうせウチには来ないと興味なかったけど……。それに物流技術管理士、船舶運行管理者、星間物流管理士……兵站のプロじゃない。何者なの。

昼休み、私はコルネリア先輩と食事を取った。兵站統括部の食堂でAランチを取りながら話す。
「先輩、なんなんです、あの子」

「ヴァレンシュタイン候補生?」
おっとりとコルネリア先輩は話す。この辺が私とは違うんだな。ちょっと羨ましい。いけない今はヴァレンシュタインよ。

「ええ、あんなのおかしいです。ウチに来る子じゃありませんよ」
「でも、うちに来るのよね」
困ったように先輩が答える。そう、ウチに来る……。

「なんかの間違いじゃないんですか」
「うーん、でもハインツに聞いたんだけど、四年間兵站を専攻したらしいわ」
「はあ」

ハインツというのは人事部に居る恋人の名前だ、ハインツ・ブリューマー。私もそんな風に名前で呼べる彼が欲しい……。ハインツの言う事が本当なら、彼は筋金入りの兵站希望者という事になるけど……。

結局食事が終わるまで私たちはヴァレンシュタイン候補生の事を話し続けた。
ランチの味はよくわからなかった。私の頭を占めていたのはあの坊やの事だった。

食事を終えて部屋に戻ると、兵站統括部第三局はヴァレンシュタイン候補生のことで持ち切りだった。

“凄い” 同感。
“カワイイ” それも判る、あの子はカワイイ。
“食べちゃいたい” それも判るけど、食べちゃ駄目!
兵站統括部の女性下士官たちは彼に夢中だった。

二週間経った。彼の人気は全然衰えなかった。むしろヒートアップする一方だった。
理由は一つ。彼を誘惑する雌狐どもが現れたのだ。軍務省の官房局、法務局の女性下士官たちが彼に希望配属先を変えさせようとしたのだ。薄汚い奴め!

「帝文」に合格しながら兵站統括部と言うのは何かの間違いではないかと何度も上司を通して彼を説得したらしい。でも、正邪を見分ける清い心を持ったエーリッヒ・ヴァレンシュタインは微塵も揺るがなかった。

“兵站統括部が駄目なら任官しない”とまで言って雌狐どもを拒絶してくれた。その話が兵站統括部に届いたとき、私たちは思わず泣いて喜んだ。なんてカワイイんだろう。見掛けだけじゃない、心までカワイイ。

そして、待ちに待った新任少尉配属の日、ヴァレンシュタイン少尉が配属されたのは兵站統括部第三局第一課、私達のところだった。ディーケン少将に連れられて来たヴァレンシュタイン少尉は柔らかく温かみを帯びた声で少し恥ずかしそうに挨拶をした。

「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少尉です。本日付で兵站統括部第三局第一課への配属を命じられました。よろしくお願いします」
そう、待っていたのよ。少尉。私たちはみんな貴方を待っていた。彼を拍手で迎えながら私はそう思った。

三ヵ月後、帝都内の小さなカフェで恒例のNO.1を決める集会が有った。私も参加した。当然だけどNO.1はヴァレンシュタイン少尉だった。仕事も出来るし、性格もいい、弁護士資格も持っているし、官僚にもなれる。それに何と言っても笑顔が素敵。

はにかんだ顔も優しく微笑む顔も私たちを癒してくれる。甘党でココアが大好きなのも全部素敵。

軍務省と統帥本部の女性下士官たちが悔しそうにしている。どう見ても本来なら軍務省か統帥本部に行く人材なのにと思っているのに違いない。可哀想な彼女たちにヴァレンシュタイン少尉の写真を進呈した。私たちと一緒に美味しそうにケーキを食べている写真だ。見ているだけで幸せになれる、そんな一枚。そして彼女たちに一言告げる。

「そのケーキは少尉の手作りなの。宇宙で一つしかないケーキなのよ。とっても美味しいの。食べられなくて残念ね。写真で我慢してね」
とうとう彼女たちが泣き出した。ちょっと可哀想かと思ったけど、彼女たちの周りには良い男が一杯居るんだから。このくらいはいいじゃない。





 

 

巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その1)

 
前書き
この作品は本編で書かれていない帝国暦484年1月から十月までの巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令時代を書いています。
 

 
帝国暦484年 1月20日 オーディン 軍務省尚書室  グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー


「例の戦闘詳報だが、司令長官は見たかな」
「うむ」
「あの小僧、どうやら戦争も出来るらしい。イゼルローンで並行追撃作戦を指摘したのはまぐれではなかったようだ」

小僧という言葉と忌々しげな口調から軍務尚書の内心が見える。もっとも私も全く同じ思いだ。あの小僧には忌々しさしか出てこない。

例の戦闘詳報、アルレスハイム星域の会戦の戦闘詳報だが、作成者メルカッツ中将はある士官を絶賛していた。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少佐。私達が小僧と呼ぶまだ十八歳の若者だ。

この若者の立てた作戦により帝国軍は昨年十二月にアルレスハイム星域において自軍より五割増の反乱軍に快勝したのだ。反乱軍に与えた損害は損傷率、約五割を超える。戦闘の規模は決して大きくは無いが希に見る大勝であったことは間違いない。

昨年、帝国暦483年は帝国は彼一人に振り回されたといって良いだろう。例のサイオキシン麻薬密売事件だ。私も軍務尚書もその被害者だといって良い。

もっとも結果から見れば帝国は良い方向に向かっていると言える。軍内部に留まらず、帝国全体でサイオキシン麻薬密売の摘発が続いている。サイオキシン麻薬の汚染は確実に一掃されつつある。

ヴァレンシュタイン少佐がサイオキシン麻薬密売に気付かなかったら帝国軍は反乱軍にではなくサイオキシン麻薬で内部崩壊しただろう。

さらに私も軍務尚書もこの件で利益を得ていると言って良い。一応公式にはサイオキシン麻薬の摘発は私と軍務尚書の指示で行なわれた事になっているのだ。但し、一年間の俸給返上と引換えだが……。

「軍務尚書、彼を昇進させるのかな?」
「もちろんだ。彼を昇進させずに誰を昇進させるのだ」
私の問いに軍務尚書は面白くなさそうに答えた。

「ヴァレンシュタイン中佐か、早いな、一年前はヴァレンシュタイン中尉だったのだが」
「……」
軍務尚書は顔を顰めたままだ。口も利きたくないらしい。

「それで、次の任務はどうされるのかな?」
「本人は兵站統括部に戻りたいらしい、兵站統括部もそれを望んでいる。それから憲兵隊も彼の配属を希望しているな」

「憲兵隊か……」
思わず口調が苦くなった。サイオキシン麻薬密売事件では憲兵隊と中佐に好きなようにしてやられた。

「やらんぞ、憲兵隊にも兵站統括にも小僧はやらん」
「では何処に」
軍務尚書の口調に思わず笑いが出た。軍務尚書は軽く私を睨む。

「巡察部隊だ」
「あれか」
「そうだ、彼には相応しいだろう」

そう言うと軍務尚書は如何にも可笑しそうに笑い出した。確かに彼には相応しいだろう。思わず私も軍務尚書と声を合わせて笑っていた。


帝国暦484年 1月25日 オーディン 軍務省人事局受付  エディット・ダールベルク


今日はとっても楽しみ。ヴァレンシュタイン中佐が来る。あの時の中尉さんが僅か一年で中佐。中尉なのにハウプト人事局長に呼ばれるなんて凄いと思ったけど、まさかミュッケンベルガー元帥の密命を受けていたなんて。

今日もハウプト人事局長が自ら会うなんて凄い。噂では今回の人事も軍務尚書の意向が入っているらしいけど、だとしたらエリート中のエリートよ。やっぱり№1だわ。その他大勢とは全然違う。

外見も可愛いけど将来性もバッチリ。年下っていうのもいいかもしれない。今日はメイクもびしっと決めてきたし、ちょっと話しちゃおうかな。先ずはスマイル、スマイル。


帝国暦484年 1月25日 オーディン 軍務省人事局受付  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


人事局の受付で出頭を告げると、やたらと愛想の良い受付嬢が応対してくれた。この人、前も見たな。でも今日はちょっと化粧濃くないか。結構歳行ってるのかな。そんな風には見えないけれど。

「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐です。人事局より出頭命令を受けました」
「ヴァレンシュタイン中佐ですね。人事局長ハウプト中将閣下がお会いになります。局長室は三階の奥に有ります」

また人事局長か……。警戒されているようだがまあ無理も無いな。俺は礼を言って人事局長室に向かった。新しい任務は何になるのか?

メルカッツ提督は上層部に俺が兵站統括部に戻りたがっていると伝えてくれたらしい。良い人だよな、本当に。まあ艦隊勤務中に何度か体調不良で休んでいるからな。それもあるのかもしれない。

頭にくるのはシュターデンだ。虚弱だとか柔弱だとかわざと聞こえるように言いやがる。特に会戦の後が酷かった。そんな事で軍人が務まるか、とか皆の前でわざわざ言う。あの理屈倒れが! お前は脳味噌が虚弱だろう、いや、貧弱か。

ビューローもベルゲングリューンも最後までよそよそしかった。二人だと良く話すのに俺が居ると全然話さない。最後は俺も二人と話すのは諦めて仏頂面して座っていた。寂しいよな。

俺と話すのはクレメンツ大佐、いや准将くらいのものだった。メルカッツ提督は必要な事以外は喋らない人だからな。あのまま第359遊撃部隊にいたら無口で無表情なヴァレンシュタインになっていたな。

多分、今度は兵站統括部に戻れるだろう。あそこはエリート部署じゃないからな。大体あそこに行きたがる人間なんてまず居ない。俺は目立たない所でこつこつ仕事をするのが好きなんだ。おまけにあそこは雰囲気も良い。

軍務尚書も宇宙艦隊司令長官も俺を出世なんかさせたくないだろう。俺も出世なんか興味ない。目出度く皆の意見が一致したって事だ。兵站統括部万歳! 出来れば第三課が良い。

局長室に行くと部屋の中へ案内された。局長は例の奥の個室で面会中だ。部屋の中には中将と少将が一人居てソファーに並んで座っている。敬礼をすると俺の方を見て慌てて答礼してきた。中佐に敬礼されたからってそんなに慌てるなよ。変な奴らだ。

俺は少しはなれて壁際に立つことにした。ソファーは空いているが将官と一緒に座るなんて気詰まりだ。それほど待つことも無いだろう。

奥の個室から将官が出てきた。中年の少将閣下だ。また敬礼だ。こいつも俺の方を見て慌てて答礼してきた。最近は挨拶にうるさくなっているのか? オーディンに居ないとどうもその辺の情報に疎くなるな。

ソファーに座っていた中将が立ち上がる。ようやく俺の番だといった表情がある。前は確かここで俺の名前が呼ばれたな。今回は無いだろう……。良かった、今回は無かった。結局俺がハウプト中将に呼ばれるまで三十分程かかった。 



「中佐、元気そうだね」
「有難うございます。閣下も御健勝そうでなによりです」
嘘だ、頬がこけてるし、疲れきった表情をしている。
「そう見えるかね。毎日死にそうな思いをしているのだが」

「……」
「例のサイオキシン麻薬密売事件の所為でね。人事が滅茶苦茶だ。人事案を作っても直ぐ意味のないものになる。何故か判るかね?」
「小官には良く分かりません」

いや、判らないことは無い。しかし此処は分からないと答えたほうが無難だろう。なんとなくそんな感じだ。
「ほう、分からないかね、それは残念だな。一人を動かすのに後任者を含めれば何十人という人間が動く事になる」

その通りだ。一人の人間を動かせばその後任者、更にその後任者の後任者を選ばなくてはならない。どうやら俺は拙い所に来たらしい。此処は我慢して嫌味の一つも聞かねばなるまい。

「しかし、その途中の異動候補者が退職願を出してきたり、逮捕されたりするのだよ」
「……」

「卿の責任ではないことは分かっている。卿は正しい事をした。しかしね、その結果がこの有様だ」
「……」

頼むからそんな恨めしそうな顔で見ないでくれるか。確かに死にそうな思いをしているのかもしれない。しかし俺は実際に殺されかかったんだ。それに比べればましだろう。

とはいっても俺は一年で中尉から中佐。ハウプト中将は中将のままだ。不公平感はあるかもしれない……。頼むから恨まないで欲しいな。

「ところで卿の新しい任務だが……」
「はい」
ハウプト中将は溜息を一つ吐くとようやく俺の新しい任務の話を始めた。兵站統括部第三課、さあ来い。

「巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令、ということになる」
「はあ」
思わず間抜けな声が出た。艦長? 巡察部隊司令? 何だそれは? 聞いた事が無い、兵站統括部第三課はどうした?

「閣下、その何かの間違いでは有りませんか? 小官は司令部勤務は有りますが艦船乗組の経験も知識もありませんが」
「そんな事は分かっている」
「?」

困惑する俺に、何処か面白そうな表情でハウプト中将は俺に下された任務の内容を話し始めた。

巡察部隊、俺が聞いたことが無いのも無理は無い。今回新しく作られた部隊だ。任務は帝国内での警備業務(艦船、船舶を使った犯罪に対する捜査)らしい。まあ船舶ならば警察にも捜査権があるから主として艦船なのだろう。

これもサイオキシン麻薬密売事件の影響だった。軍の首脳部は皇帝フリードリヒ四世から二度とこんな不祥事を起こすなと言われたようだ。そこで密輸を取り締まる部隊を作ります、という事で出来たのが巡察部隊だ。

俺が何で巡察部隊の司令になったかだが、サイオキシン麻薬密売事件の摘発者を巡察部隊の司令にすることで軍首脳部は本気だという事をアピールしたいらしい。

つまり、俺に適性があるかどうかはこの際問題ではない。あくまでポーズなのだろう。軍首脳部の本気というのも大変怪しいとしか言いようが無い。

「巡察部隊は第一から第二十まで作られている。卿はその栄えある第一巡察部隊の司令に任じられたわけだな」
「……」

「第一巡察部隊は巡航艦ツェルプストの他、駆逐艦二隻、護衛空母一隻で編制される。卿は巡航艦ツェルプスト艦長兼第一巡察部隊司令というわけだ」
「……」

「安心したまえ。副長に卿を補佐する経験豊富な人物を当てる」
「……」
「アウグスト・ザムエル・ワーレン少佐だ」
「!」

アウグスト・ザムエル・ワーレン! 何で俺の部下なんだ。いや、そんな奴俺の部下にして良いのか? 俺ってそんなに出世してるのか?

パニクってたらいつの間にかハウプト中将の話は終わっていた。俺の手には紙袋がある。第一巡察部隊の資料が入っているのだろう。いつの間に受け取った? いや、その前にいつの間に人事局長室を出た?











 

 

巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その2)

帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


「先行する駆逐艦ラウエンより入電。異常無しとの事です」
「うむ、了解と伝えろ」
ワーレン少佐とオペレータの遣り取りを聞きながら、暇だなと俺は考えた。

「ヴァレンシュタイン司令、異常無しとのことです」
「分かりました」
そして暇なのは良い事なのだと考えた。第一巡察部隊が任務について以来、特に問題も無く暇な日常が続いている。

暇なのも無理は無い。第一巡察部隊が巡察するのは、ヴァルハラ、カストロプ、マリーンドルフ、マールバッハ、ブラウンシュバイク、フレイアの帝国の中心部だ。辺境に比べればはるかに治安はいい。

第一巡察部隊は四隻の艦で編成されている。巡航艦ツェルプスト、駆逐艦ラウエン、同じく駆逐艦オレンボー、軽空母ファーレン。いずれも新鋭艦ではないし新造艦でもない。艦齢二十五年以上の老嬢達だ。

帝国は慢性的に自由惑星同盟と戦争状態にある。年に二回は戦争をしているのだ。その中で艦齢二十五年はたいしたものだ。戦艦のように頑丈な艦ならともかく駆逐艦や軽空母など良く生き残ったと言って良い。

艦齢二十五年以上の老嬢達で編制された第一巡察部隊。軍上層部の期待度が分かるというものだ。前線で使えなくなった艦を集めて厄介な士官をまとめて乗せた、そんなところだろう。

おまけに俺の巡察担当範囲を思えば、上層部の考えはもっとはっきりする。昇進に値する武勲など与えない。ずっと巡察をしていろ、そんなところだろう。俺としても何の不満も無い。艦長兼司令、つまり一番上でのんびりできるのだ。有難くて涙が出る。

平和の無為に耐えうる者だけが、最終的な勝者たりうる。ヤンの言葉だったな、俺は十分に勝者になれそうだ。これだけ暇でも全然苦にならない。暇をもてあますという事もない。有難いことに事務処理だけは艦長になっても適度にある。

十年このままでも全然大丈夫だ。もしかすると俺はこの仕事のために生まれてきたのかもしれない、そんなことを最近良く考える。つくづく俺は地道にこつこつ仕事をするのが性に合っているらしい。戦場なんかでドンパチするのはごめんだ。

ラインハルトが元帥になるまであと三年、リップシュタット戦役までは四年だ。奴さんが元帥府を開いたら雇ってもらってバーミリオンの前に退役する。バーミリオンから先の戦いはろくでもない戦いばかりだからな。退役するときは大体少将くらいか。

その後は、官僚に転進だろう。だが気をつけなければいけないのはロイエンタールの反乱が終わるまでは新領土に行かないことだな。軍人に復帰しろなどと言われて妙な巻き込まれ方をすると反乱に与したなんてことになりかねない。

そう考えると先ずは弁護士で二、三年ほどやり過ごすというのも一つの手だ。うん、弁護士をしてラインハルトが死んだ後に官僚になる。そっちのほうが安全か。その頃なら新領土に行っても問題ないだろう。とにかくロイエンタールに近づくのは危険だ。

先日、妙な夢を見た。どういうわけか俺がロイエンタールの参謀長になっていた。本当ならベルゲングリューンが参謀長のはずなのだが、俺がガイエスブルクで起きたキルヒアイス暗殺事件を防いだらしい。

その所為でベルゲングリューンはキルヒアイスの幕僚のままで代わりに俺が陰謀を防いだ功績で昇進してロイエンタールの参謀長になっているという夢だった。

ひどい夢だった。二月おきに女との別れ話の後始末を俺に付けさせるのだ。原作だとロイエンタールは漁色家の割には恨まれなかったと書いてあったから、女とは綺麗に別れたのかと思った。

だが、とんでもなかった。漁色家の割には恨まれなかっただけで、一般人から見れば修羅場のオンパレードだった。手首を切るだの、ロイエンタールをつけ回すだの、妊娠したと嘘を吐くなどその度に俺が呼ばれ後始末をつける羽目になった。

おまけにロイエンタールは素直に礼を言うようなヤツじゃないから黙りこくっているし、俺もいい加減頭にきてムッとしている。ロイエンタール艦隊の司令部の人間は沈黙する司令官と不機嫌な参謀長の前で震え上がっていた。バルトハウザーは緊張の余り俺の前で右手と右足を一緒に出して歩いていたほどだ。

新領土での反乱も酷かった。あれはどう見ても自分で自分を反乱に追い込んでいる、自業自得の行為なのだがあの野郎、俺に向かって一緒に死んでくれとか言いやがる。

俺は退役して官僚になるんだ、お前の反乱なんかに付き合えるかボケ、と言ったら、奴は逆上して俺を捨てるのかとか訳の分からんことを言ってブラスターで俺を撃ちやがった。

撃たれたところで眼が覚めた。体中汗でぐっしょりだった。その日は具合が悪いといってワーレンに全てを任せて艦長室で一日寝ていた。ろくでもない一日だった。

ロイエンタールには悪いが、反乱を食い止めようとか、反乱を成功させようとか、そんな事を考えるほど俺は酔狂じゃない。自分のことだけで精一杯なのだ。まあ自分の事は自分で片付けてくれ。間違っても他人に女の後始末とか、子供とか押し付けるなよ。ホトトギスじゃないんだから。

第一巡察部隊が任務に就いたのは二月十日だった。最初の二ヶ月はワーレンについて艦長任務を学んだ。ワーレンは艦船乗組みの経験が豊富な男だ。色々と艦長として注意しなければならないことを教えてくれた。

俺は出来るだけ真面目に取り組んだ。乗り込む前は全部ワーレンに任せて昼寝でもするかと考えていたが、良く考えればワーレンは「獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥」になるのだ。俺の副長として何時までもいるわけはないし、閣下と呼ばれて俺よりはるかに出世するに違いない。

後々睨まれないように、何かの間違いで出世してしまったが、真面目な士官だったと言われるようにしないといかん。部隊運用については余り苦労はしなかった。部隊と言ってもたった四隻なのだ。ワーレンと相談しながら無難にこなしていた。

ワーレンは何時まで此処にいるのだろう。ヘーシュリッヒ・エンチェンの同盟領単艦潜入の件でラインハルトは誕生日に昇進したはずだ。ワーレンもそれに伴い中佐に昇進するだろう。同じ艦に中佐が二人と言うのも妙だ。昇進に伴い異動だろうな。

寂しくなるな。ワーレンはなんと言っても頼りがいがあるし、性格も温厚で一緒にいるのが苦にならない。副長とか副司令官とかが確かに向いているだろう。もっとも重厚な所は司令官に相応しい雰囲気を持っている。何の事は無い、何でも出来るということか。やっぱり偉くなるヤツは何処か違うんだな。



帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト  アウグスト・ザムエル・ワーレン


部隊はマールバッハからマリーンドルフに向かっている。特に問題は無い。無さ過ぎるほどだ。時々何時までこの巡察部隊にいるのか、このまま巡察部隊で一生を終えるんじゃないかと思うと不安になる。

波乱の一生などというのを望むつもりは無い。しかしこのまま平穏無事というのもつまらない。それなりに武勲を挙げ昇進したいものだ。それだけの実力はあるつもりだ。

俺は艦長席に座る少年を見た。青年というよりは未だ少年と言って良い若者だ。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐、エリート中のエリートだ。俺よりもずっと若いのにもう中佐だ。

このまま行けば後二年もすれば閣下と呼ばれる身分になるだろう。こんな暇な任務について不満だとは思うのだが、微塵もそんなそぶりを見せない。
日々真面目に任務をこなしている。

妙な男だ。俺はこの男を全く知らないわけではない。士官学校で俺が四年生のとき編入生として士官学校に入学してきた。確か十二歳という異様に若い士官候補生だったはずだ。

毎日のように図書室で本を読んでいた。容貌が容貌で余りに大人しいので女なのではないかという噂も立ったことも有る。成績も良かったはずだ。なんと言っても編入生なのだ。出来が悪いはずが無い。

ミューゼル中佐、いやもう大佐か、彼のように覇気が有りすぎるのも疲れるが、ヴァレンシュタイン中佐のように無さ過ぎるのも張り合いが無い。足して二で割ればちょうどいいのだが。

俺もそろそろ昇進だろう。次は何処へ行くのだろう、それともこのままだろうか。今帝国軍は例のサイオキシン麻薬の影響で再編、訓練の真っ最中だ。出来る事なら俺もそこに加わり、次の出兵に参加したいと思っている。

しかしな、異動先でまた何処かの若造の子守じゃないだろうな。だったらこのままで良い。少なくともヴァレンシュタインは手のかかる小僧じゃない。一緒にいても苦にならない上官だ。

「駆逐艦ラウエンより入電、レーダーに感有り」
さっき異常無しと報告があったばかりだが……。
「位相は」
「八一七宙域を九一三宙域に向かって移動中との事です」

俺がヴァレンシュタイン司令を見ると微かに頷き命令を出した。
「全艦に命令、直ちに宙域八一七に向かう。軽空母ファーレンに命令。ワルキューレを出し偵察行動をさせるように」
「はっ」

最近ではヴァレンシュタイン司令もスムーズに命令を出せるようになってきた。最初はどうして良いか分からず、俺が殆ど命令を出していたが。根が真面目なのだろう。一生懸命俺に教わっていたからな。健気なもんだ。

レーダーに反応したのは交易船だった。巡察部隊が臨検するのは軍艦だけではない。民間の交易船、輸送船も含まれる。とはいっても本来ならこちらは警察の管轄にあるものだ。軍が臨検するのは警察も民間も嫌がる。

例のサイオキシン麻薬事件以来、軍と内務省の警察権力を巡る争いは過熱する一方だ。今のところ軍が優位に立っているようだが、内務省も諦めてはいない、あきらめるはずも無い。今回の臨検でもさぞかし苦情が来るだろう。




「どういうことだ、何故積荷の確認が出来ない?」
「はっ、それが、船長が反対しているのです」
「こちらは公務だぞ、何を考えている」

駆逐艦ラウエンが民間の交易船パラウド号に積荷の臨検を通知したのは一時間ほど前の事だった。兵を派遣したのだが、船長が臨検に反対しているらしい。

公務なのだから押し切ればよいのだが、どういうわけか手間取っている。巡察部隊など精鋭の来る場所じゃない。その所為で手際が悪いのだろう。

そう思っていたが、どうやら事件らしい。何故公務の邪魔をするのか? 簡単だ、こちらに知られると拙い荷を積んでいるからだろう。サイオキシン麻薬だろうか。軍の輸送船では拙いと考え民間船を使用したか?

「ワーレン少佐、厄介ごとのようですね」
「そのようです。ヴァレンシュタイン司令」
穏やかな口調だった。表情にも笑みがある。

この若者は怒った口調や慌てた口調を周囲に見せた事が無い。表情も同じだ。いつも穏やかな笑みを浮かべている。よっぽど育ちがいいのか、胆力に溢れているのか俺には未だに判断できずにいる。

「此処にいても埒が明きませんね。現場に行ってみましょう」
「ご自身で行くのですか?」
「ええ、兵を二十名ほど用意してください」
そう言うとヴァレンシュタイン中佐は艦長席を立って歩き始めた。



本当なら艦長が外に出る以上副長の俺は艦に残るのが当然なのだが、彼は未だ若い。何処で失敗するか分からない、心配だからついていくことにした。彼もそれが分かったのだろう。俺に対し“心配をかけますね”と済まなそうに言ってきた。この辺がミューゼル大佐とは違う所だ。彼なら余計なお世話だと不満を持つだろう。

ヴァレンシュタイン中佐と俺が交易船パラウドの倉庫に着いたとき、倉庫の中では交易船パラウドの船長らしい人物が仁王立ちになって駆逐艦ラウエンから来た兵を威嚇している所だった。

「どういうことだ。何故臨検をしない」
「はっ、それが」
近くにいた兵士に聞くと、困ったように船長らしき人物のほうを見た。

「何度も言うがこの船の積荷に臨検など必要ない。この船の積荷はさるお方からの依頼によるものだ。臨検などして後で叱られるのはお前らだぞ。辺境警備に回されるなどと思うなよ、戦死することになると思え」

なるほど、そう言う事か。この船の荷物は貴族の依頼によるものらしい。あるいはそう装っているだけか。しかし貴族を怒らせることの怖さは皆が身に染みて知っている。その事が臨検をすることを躊躇わせている。厄介な事だ。あるいはこの手で他の巡察部隊の臨検をやり過ごしたか。

「ワーレン少佐、楽しい事になりそうですね」
軽く笑いを含んだ声が耳に聞こえた。ぎょっとして隣を見ると嬉しそうな表情をしたヴァレンシュタイン中佐がいる。

「失礼ですが、貴方が船長ですか」
「そうだ、船長のアンゼルム・バルツァーだ」
「小官は第一巡察部隊司令のエーリッヒ・ヴァレンシュタイン中佐です」

ヴァレンシュタイン中佐が名乗るとバルツァー船長はいかにも馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。無理も無い、中佐はいささか若すぎる、未だ二十歳に満たない年齢なのだ。

「ヴァレンシュタイン中佐。もう一度言うがこの船の積荷に臨検など必要ない。この船の積荷はさるお方からの依頼によるものだ」
「そうですか、臨検に協力して貰えないということですね」
「そうだ」

嘲笑交じりの倣岸な態度だ。こちらが何も出来ないと侮っているのだろう。ヴァレンシュタイン中佐は穏やかに微笑みながら答えた。

「残念ですね、協力していただけないのは……。仕方がありません、バルツァー船長を逮捕してください。罪状は公務執行妨害です」
ツェルプストから同行した兵が一瞬俺を見た。俺は必死に表情を押し隠し彼らに頷く。彼らはバルツァーの身柄を拘束するべく動いた。

「おい、ちょっと待て」
「それと乗組員を全員ここに集めてください。抵抗する人間はこれも公務執行妨害で逮捕してください。それから、ここでは一切私語を許しません。一言でも喋ったらこれも逮捕です」

唖然としている俺に向かって中佐は嬉しそうに微笑みかけた。
「ワーレン少佐、私達は積荷の確認をしましょうか。何が出てくるか、楽しみですね。サイオキシン麻薬か、それとも他の何かか」

そう言うと“ちょっと待て”と喚きまくるバルツァー船長を後にヴァレンシュタイン中佐は積荷の方向へ歩き出した。俺は慌てて五人ほど兵を連れ中佐の後を追った。いやな予感がする。中佐の嬉しそうな表情を思い出しながら、そう思った。















 

 

巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その3)

帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト  アウグスト・ザムエル・ワーレン



積荷は四つのコンテナに格納されていた。ヴァレンシュタイン中佐は積荷のリスト(輸出申告書と言うらしい)をパラウド号の倉庫にあるコンピュータから出力すると積荷との突合せをするように指示を出した。本人は積荷の確認には立ち会わず、コンピュータを使って何かを確認している。

四つのコンテナの内、三つまでは問題は無かった。ヴァレンシュタイン中佐が出力したリストとの間に食い違いは無かったのだ。だが残りの一つのコンテナに問題が有った。リストに無い積荷が有った。

大型のジェラルミンのトランク、縦一メートル、横二メートル、高さが一メートル程だろうか、リストには無い積荷だ。バルツァー船長が隠そうとしたのはこれだろうか。とにかく、先ずはヴァレンシュタイン中佐に知らせなければならんだろう。



「これですか?」
「はい、司令がいらっしゃる前に爆発物、生体反応は確認しました。どちらも問題ありません」
ヴァレンシュタイン中佐は頷きながら、トランクを見ている。

「トランクを開けられますか?」
「いえ、ロックされています。虹彩認証システムを使用しているようです」
「なるほど、登録者はおそらくバルツァー船長でしょう。開けるには壊すしかありませんか……」

俺は無言で頷いた。虹彩とは、目で色のついた部分のことだ。人間の場合、虹彩の模様が個体によって違うことが知られており、このことを利用して個人認証に使用するシステムを虹彩認証システムという。

虹彩認証システムの利点は虹彩パターンが長期間にわたって安定している事だ。虹彩パターンは生後約1年程度で固定され、その後は外傷性障害や特別な疾病変化、あるいは眼科手術などを除けば変化は無い。一旦登録すれば再登録の必要はほとんど無いと言って良い。

バルツァー船長が登録者の場合素直に協力するとは思えない。彼が眼を閉じていればそれだけでトランクは開かない。ヴァレンシュタイン中佐が言ったように壊すしかないだろう。

しかし、本当に壊していいのか? 壊して何も出なかったらどうなる? あるいはとんでもないものが出てきたら? 今なら多少外聞は悪いが問題無しとして後戻りは出来る。だが壊せば戻る事は出来なくなる。どうするのか? ヴァレンシュタイン中佐は小首を傾げながら考えている……。

「仕方ありません。ワーレン少佐、壊してください」
「よろしいのですか?」
「構いません。壊してください」

ヴァレンシュタイン中佐は気負った様子も無く決断を下した。見かけによらず、肝は太いらしい。俺が兵達にトランクを壊すように指示を出すと速やかに兵たちが動き始める、どうやらバーナーで鍵を焼き切るようだ。

三十分ほどかかったがトランクを開けることが出来た。トランクの中には包装紙に包まれた黒い動物の毛皮が入っていた。かなり大きい動物の毛皮だ。思わず皆、顔を見合わせることになった。

「中佐、これは……」
「……」
「何か動物の毛皮のようですが……」

俺は困惑とともにヴァレンシュタイン中佐を見た。兵達も皆困惑している。しかし中佐は珍しく厳しい表情で毛皮を睨んでいた。どういうことだ、この毛皮に心当たりが有るのだろうか?

「ワーレン少佐、少し暗くしてもらえますか」
暗く? 不審に思いながらもトランクのふたを閉めるようにして光を遮る。

「こ、これは!」
「光っている!」
口々に皆が騒ぐ。毛皮は微かに青い燐光を放っていた。

「やはり、トラウンシュタイン産のバッファローでしたか」
溜息交じりのヴァレンシュタイン中佐の声が流れた。
「ヴァレンシュタイン司令、トラウンシュタイン産のバッファローと言えば」
思わず声が掠れ気味になった。

「ええ、御禁制品です。とんでもないものが出てきましたね、ワーレン少佐」
にこやかに微笑む中佐を見ながら、それどころじゃないだろう、と俺は内心で毒づいた。



帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


トラウンシュタイン産のバッファローか、こりゃまたとんでもないものが出てきたな、御禁制品だ。周囲を見渡すと皆怯えたような顔をしている。ワーレンも何処か引き攣ったような表情だ。俺も似たようなものかもしれない。

フェザーンの傍にアイゼンヘルツという星系がある。銀河連邦時代にはこの星系は見つかっていない。銀河帝国になってから発見され開発された。惑星トラウンシュタインはアイゼンヘルツ星系にある惑星だ。

酸素は有るのだが酷く寒冷で人が住むには適さない。そのため発見当初から入植して開発するという選択肢は放棄された惑星だ。しかし人が住めなくてもトラウンシュタインには鉱物資源がある可能性が有った。

トラウンシュタイン独特の風土病を調べるため、それを理由に寒さに強い動物がトラウンシュタインに放たれた。人間ではなく牛や馬でそんな事が分かるのかと俺は思うのだが、牛や馬が住めないような惑星では人が住めるわけが無いというのが当時の帝国上層部の考えだった。大胆というか大雑把というか判断に悩む所だが、これがトラウンシュタイン産のバッファローという珍種を生み出す事になる。

放たれた動物は牛、馬、狐、兎、熊、狼などだが、その中にバッファローもいた。惑星トラウンシュタインの調査期間は五年、途中三年目で調査員達は奇妙な事に気がついた。

バッファローの一部に青く光る固体が見つかったことだった。何らかの病気かと調査員達は考えたのだが詳しく調べていくうちに分かったのは青く光るのは夜間、そして雄の成獣だけが発光するということが分かった。

原因はバッファローが食べていた草にあるらしい。名前は忘れたがトラウンシュタイン独特の草で夜になると微かに青く光る。つまり発光成分を含んでいるのだ。なぜ雄の成獣だけが発光するのかはホルモンの関係らしい。生殖可能な状態になると発光する、確かそんな事が昔読んだ動物図鑑に出ていたような気がする。

何故、バッファローだけが青く光るのかだが、それはこの草の匂いがきつく他の動物達は食べないからだ。おまけにこの草、他の星では育たない、ごく稀に育つ事があっても発光成分を持たず、トラウンシュタインの草とは別物になってしまう。

つまり青く光るバッファローは惑星トラウンシュタインにしかいない。惑星トラウンシュタインは皇帝の直轄領となり、たとえ皇太子といえども皇帝の許しなく立ち入る事は禁じられることになった……。


さて、どう片を付けるかだな。真っ正直にバルツァー船長に当たっても無駄だろう。おそらくこの船からは雇い主に対して定時連絡が行っているはずだ。あるいは臨検を通告した時点で連絡が行ったかもしれない。

バルツァー船長は雇い主の救いを頼みに沈黙するだけだろう。雇い主も彼を救うためになりふりかまわないはずだ。事が公になれば身の破滅なのだ、何が何でも助けようとするに違いない。

面倒だな、いっそ無かった事にするか? 少々手荒いが、このままだとこっちの命が危ない。雇い主が誰かは知らないが、トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮を見られたとなれば身の破滅だという事は百も承知だろう。身を護るために手段は選ばないはずだ。しかし後味が悪いな、他に手が無いものか……。


帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド  アウグスト・ザムエル・ワーレン


コンテナを離れ、バルツァー船長達の元に戻った。バルツァー船長はまだ兵たちの前で“いずれ、思い知らせてやる”、“こんな事をしてただで済むと思うな”等と傲慢と言って良い態度で振舞っている。その一方で集められた乗組員達、十五人程は不安そうな表情で佇んでいる。

「バルツァー船長、コンテナから妙な物を見つけましたよ。御禁制のトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮十枚。あれは一体どなたからの依頼ですか、教えていただけると助かるのですが」

ヴァレンシュタイン中佐の声にバルツァー船長は押し黙った、乗組員たちもだ。どうやら乗組員は積荷が何か知っていたらしい。兵士達は顔を見合わせているが不安そうな表情だ。変わらないのはヴァレンシュタイン中佐だけだ。穏やかな何処か楽しそうな表情をしている。

「知らんな、そんなものを積んだ覚えは無い。輸出申告書にも無い筈だ」
「ええ、有りませんでした。おかしな話ですね、無い物が有る」
仏頂面のバルツァー船長とは対照的に可笑しそうにヴァレンシュタイン中佐は話す。バルツァー船長は不愉快そうに顔を歪めた。

「言いがかりは止めてもらおう、無い物が有るはずが無い。見間違いだろう。それより我々を解放しろ、今なら未だ間に合う」

バルツァー船長は胸を反らして言い放った。バッファローの毛皮十枚が見つかっても少しも慌てる様子が無い。むしろ嘲笑の色合いが強くなっている。“今なら未だ間に合う”か、こちらには手に負えないだろうというのだろう。

「残念ですがそうは行きません。バルツァー船長、協力していただけないのなら貴方達には全員ここで死んでもらいます」
「!」

穏やかな声とは裏腹な物騒な内容に、船長も兵士も乗組員も皆がギョッとした表情になった。バルツァー船長が顔を真っ赤にしてヴァレンシュタイン中佐を怒鳴りつける。

「何を馬鹿なことを言っている。我々を全員殺すとはどういうことだ?」
ヴァレンシュタイン中佐は穏やかに微笑みながらバルツァー船長を見ている。ヴァレンシュタイン中佐、一体何を考えている?

「交易船パラウド号は海賊に襲われ、乗組員は全員死亡、積荷も奪われ、船は海賊の攻撃により跡形も無く爆発、そういうことです」
海賊? 海賊に罪を着せこの船を乗組員ごと抹殺しようというのか。

「馬鹿な、何を言っている。お前達が臨検しているという事はオーディンに知らせたのだぞ」
バルツァー船長も乗組員も皆顔を見合わせている。ヴァレンシュタイン中佐がどこまで本気か図りかねているのかもしれない。

「なるほど雇い主はオーディンですか、まあもうどうでも良い事ですが……。海賊は第一巡察部隊の名を騙ったのですよ、バルツァー船長。臨検と称してパラウド号に乗り込み貴方達を皆殺しにして積荷を奪った。本物の第一巡察部隊が来たときには海賊は既に立ち去りパラウド号の残骸しか残っていなかった。大変残念です」
「……ざ、残念だと」

「貴方の依頼主が誰かは知りません。しかし私達にあれを見られて黙っているほど御人好しだとも思えません。ですから貴方達には海賊に襲われた事にして死んでもらいます。貴方達の雇い主も海賊相手では仕方がないと諦めてくれるでしょう」

「待て、待ってくれ」
バルツァー船長が顔を青褪めさせ、幾分声を震えさせながら抗議した。そんな船長をヴァレンシュタイン中佐は微笑を浮かべて見ている。上手いものだ、脅しならもう十分だろう。

「ヴァレンシュタイン司令、いくらなんでもそれはやりすぎです。もう彼らも分かったでしょう。こちらの取調べに協力するはずです」
上手く押さえ役を出来ただろう、これで彼らも取り調べに協力するはずだ、そう思ったがヴァレンシュタイン中佐は冷笑を浮かべている。

「甘いですね、ワーレン少佐」
甘い、俺が甘いというのか? 確かにさっきの脅しはお見事だが、お前さん程甘くないはずだよ、中佐殿。

「あれは御禁制品なんです。皇帝陛下から下賜される以外貴族達があれを手に入れる手段はありません」
「それは分かりますが?」

「毛皮は十枚有りました。どんな有力貴族でもあの毛皮はせいぜい二、三枚しか所持していません。自分一人で十枚も持てば密猟がばれ、取り潰されますよ」
「……」
いつの間にかヴァレンシュタイン中佐の顔から冷笑は消えていた。

「あれは賄賂のためです。贈り物として用意したか、あるいは要求されたか……」
「要求された……」

「雇い主はあれを賄賂として使う必要が有る有力貴族です。閣僚か、それとも軍人、あるいは官僚としてのポストを欲しがっているのでしょう。賄賂の送り先はポストを用意できるだけの実力者のはずです……」
中佐が眼で俺に問いかけて来る。分かっているのか、危険なのがと。

「……」
「それにこの件は宮内省も絡んでいますよ、ワーレン少佐」
「宮内省ですか?」
近づきつつ小声で話しかけてくる中佐に俺も思わず声が小さくなった。

「惑星トラウンシュタインは皇帝陛下の直轄領です。つまり管理しているのは宮内省。宮内省の許可無しには密猟どころかトラウンシュタインに近づくことさえ出来ません。宮内省でもかなり上の人物が絡んでいます」
「……」

ヴァレンシュタイン中佐がチラリとバルツァー船長を見た。俺も釣られて船長を見る。船長は顔を引き攣らせ、俺と視線を合わせそうになると慌てて逸らした。中佐との話の内容が聞こえたのだろうか?

「この事件、何処まで根が広がっているか見当も付きません。彼らは何が何でもこの事件を握り潰そうとするでしょう、事が公になれば破滅するのは彼らなんです。この船の乗組員はそれを知っている、だから喋りません」
「……」

「もしかするとあの毛皮の送り先の有力者には帝国軍三長官も含まれているかもしれませんよ、ワーレン少佐。となると事件を揉み消すのはさして難しくない、それどころか事件を摘発した我々は政府、軍、貴族、その全てを敵に回すことになります」
「まさか、そんな事が」

否定しようとした俺に対しヴァレンシュタイン中佐は首を振りながら反論した。
「軍人がサイオキシン麻薬の製造から密売までやる時代です。何が有ったって不思議じゃありません。私達は出世どころか命も危ない、海賊の所為にして全部まとめて始末したほうが安全です」
「しかし……」

しかし、いくらなんでも乗組員全員を殺す事など許されることだろうか? 確かに彼らは犯罪者だ。しかもかなりの有力者が後ろについているとなれば、このまま逮捕しても誰も何も喋らないだろう。事件は有耶無耶のままに終わるに違いない。

そして我々は危険な立場に追いやられるかもしれない。自分だけなら迷う事は無い、しかし、部下たちがいる。彼らを危険に晒してよいのだろうか? 中佐の言う事が正しいのだろうか? 海賊の仕業にして全員を殺してしまうべきなのだろうか?

「未だ納得していただけないようですね、ならば一人だけならどうです?」
「一人だけ?」
悩んでいる俺にヴァレンシュタイン中佐が溜息交じりに提案してきた。

「ええ、ある人物に全てを押し付けるんです。取調べを行なったが何も喋らずに自殺した人間がいる。他の乗組員は何も知らない、どうやら自殺した人間が全てを知っていたようだと……」
「それは……」

「当然その人物はそれなりの地位にいる人物になりますね」
ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を見た。俺も釣られるように彼を見る。そこには不安そうに我々を見るバルツァー船長が居た。




 

 

巡航艦ツェルプスト艦長兼第1巡察部隊司令 (その4)

帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド  アウグスト・ザムエル・ワーレン


「当然その人物はそれなりの地位にいる人物になりますね」
ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を見た。俺も釣られるように彼を見る。そこには不安そうに我々を見るバルツァー船長が居た。

「何だ、一体、何故俺を見る? 俺をどうするつもりだ」
「いえ、ワーレン少佐が乗組員全員を殺すのは嫌だと言うのですよ。ですから誰か一人に全ての罪を背負って死んで貰おうと言っているんです」

微笑みながら話すヴァレンシュタイン中佐にバルツァー船長はぎょっとした表情になった。
「おい、それはまさか……」

「ええ、地位から言ってバルツァー船長、貴方になりますね。他の人では誰も納得しません」
「ちょっ、ちょっと待て」

「乗組員の人も口裏を合わせてくれますよね。バルツァー船長は臨検の最中に御禁制品が見つかったことで突然自殺した。その積荷はバルツァー船長がトラウンシュタインから持ってきたもので自分達は何も知らない。バルツァー船長は積荷に自分達が近づくことさえ許さなかったと」

バルツァー船長は慌てて乗組員の方を見たが、乗組員達は皆バルツァー船長と視線を合わせようとしない。
「おい、お前達、俺を裏切るのか」

「誰だって死にたくありませんからね、仕方ないでしょう。それより自殺の方法はどうしましょうか? 此処を血で汚したくありませんし、いきなりの事で防げなかったという事にしなければならない。バルツァー船長、どんな形で死にたいですか?」

「冗談は止めろ、そんな事が許されるのか」
引き攣ったような声でバルツァー船長が抗議したがヴァレンシュタイン中佐は少しも気にしなかった。

「貴方が自殺してくれれば、皆納得してくれるのですよ。貴方の雇い主もこちらが事件を真剣に調べるつもりが無いと判断するはずです。腹は立つかもしれないが、自分の身が安全だとは理解するでしょう。そうなればこちらに対しても必要以上に報復をしてくることも無い、そうでしょうワーレン少佐」

同意を求めないでくれ、大体俺は一人を犠牲にするという考えにも納得したわけじゃない。だがここで反対するのは得策じゃない、沈黙するしかないが、バルツァー船長からは同意しているように見えるだろう。中佐殿、確かに俺は甘いよ、認める、だがお前さんは悪辣だよ……。
「……」

「ふ、ふざけるな、そ、そんな事が、ゆ、許されると思っているのか」
完全に声が裏返っていた。そんなバルツァー船長をヴァレンシュタイン中佐は冷笑を浮かべながら見ている。

「許されますよ、バルツァー船長」
「!」
「軍隊という所は上意下達、上の命令は絶対なんです。第一巡察部隊の司令は私です。つまり私の命令が最優先で実行される」

バルツァー船長は口を魚のようにパクパクさせている。何か言いたいのだろうが、何を言って良いか分からないらしい。ヴァレンシュタイン中佐はそんなバルツァー船長の様子を見ながら、そばに居た兵士に声をかけた。まだ若い、年齢は十代後半ぐらいだろうか。

「貴官の名前は?」
「ヨ、ヨハン・マテウス二等兵です、ヴァレンシュタイン司令」
緊張するマテウス二等兵にヴァレンシュタイン中佐は柔らかく微笑みかけた。

「マテウス二等兵、私はバルツァー船長が嫌いなのですが、貴官はどう思います?」
「は、はい、小官も嫌いであります」
バルツァー船長の顔が歪むのが見えた。

「気が合いますね、マテウス二等兵。名前と顔はしっかりと覚えましたよ」
「はっ、有難う御座います」
「ところで、私はバルツァー船長は死ぬべきだと思っているのですが貴官はどう思います?」

バルツァー船長がギョッとした表情になった。飛び出さんばかりに眼を見開いてマテウス二等兵を見ている。マテウス二等兵は顔面蒼白で助けを求めるかのように俺を見た。

「ワーレン少佐が気になりますか、マテウス二等兵。大丈夫ですよ、ワーレン少佐はもう直ぐ昇進して異動です。遠慮せず、本当の事を言ってください」

ちょっと待て、どういう意味だ。まるで俺に遠慮して本音が言えないように聞こえるじゃないか。
「ヴァレンシュタイン司令」
少し冗談が過ぎます、そう言おうとした時、中佐が手を上げて俺を制止した。そして困ったような表情で話しかけてきた。

「何をそんなに怒るんです、ワーレン少佐。この宇宙から犯罪者が一人消え、我々の安全が確保される。少佐も安心してこの先過ごせる、そうじゃありませんか?」
「……」

確かにそうだ、この先安心して過ごせるだろう。だが安らかに過ごせるだろうか、罪悪感から無縁で居られるだろうか……。俺の葛藤を他所にヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長に話しかけた。

「貴方が死ななければならない理由はもう一つあるんです」
「もう一つ? 何だ、それは? 言ってみろ」
「もうひとつの理由は、先程も言いましたが貴方が嫌いな事です」

「はあ?」
間の抜けた声がバルツァー船長の口から漏れた。信じられないといった感じだ。

「私は貴族が嫌いなんです。特に自分のことしか考えない身勝手な貴族がね。それと貴方のように貴族の手先になって犯罪を犯すクズどもが虫唾が走るほどに嫌いなのですよ」

「馬鹿な、何を言っている、嫌いだから俺を殺すというのか?」
ヴァレンシュタイン中佐がブラスターを取り出した。無表情にバルツァー船長を見ている。普段の中佐からは考えられない冷たい表情だ。

「殺しません、麻痺させて船の外に放り出してあげます。臨検中にいきなりエアハッチを開けて外に飛び出した、覚悟の自殺です」
「ちょ、ちょっと待て、話す、全部話す、だから……」

「必要有りません」
「……」
“必要有りません”、その言葉にバルツァー船長は驚いたように中佐を見ている。その様子が可笑しかったのか、中佐は先程までの無表情を捨てクスクスと笑い始めた。

「迷惑なんですよ、今更話されても。私の楽しみを奪うんじゃない」
笑いながら話す中佐に周囲が凍りついた。

「止めろ、俺には家族が居るんだ、妻と娘が」
「直ぐ会えますよ、ヴァルハラで」
「!」

呆然として中佐を見詰めているバルツァー船長にヴァレンシュタイン中佐は笑いながら哀れむような視線を向けた。
「貴方の雇い主がヴァルハラで一人では寂しいだろうと直ぐ家族を送ってくれますよ、 心配要りません」

「そんな、馬鹿な」
「生き残った乗組員に対する警告にもなりますからね。失敗すればどうなるか……。納得しましたか? バルツァー船長」
嘲笑混じりに話す中佐にバルツァー船長は頭を抱えた。そして呻き声を上げながらその場に蹲る。

「頼む、助けてくれ。全部話す、だから殺さないでくれ、家族を助けてくれ、頼む」
顔を上げたバルツァー船長は泣いていた。縋るような表情でこちらを見てくる。

うんざりした。さっきまで傲岸に振舞っていた男が今は泣いて縋り付いてくる。ヴァレンシュタイン中佐も同感だったのだろう、呆れたような表情をしている。

「興が冷めました。ワーレン少佐、後はお任せします」
「よろしいのですか?」
「少佐はバルツァー船長を殺すのに反対なのでしょう。幸い全部話すと言っています。調書を取ってください」

その言葉にバルツァー船長が喜色を浮かべてこちらを見た。
「少佐、その男が供述を渋るような事があれば言ってください。いつでも自殺させて上げます。よろしいですね」
「はっ」

ヴァレンシュタイン中佐はバルツァー船長を一瞥すると、足早に倉庫を後にした。



帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン


交易船パラウド号からツェルプストの艦橋に戻ると直ぐにオーディンに居るケスラーに連絡を取った。この件は大事件になる、捜査は憲兵隊が引き継ぐ事になるだろうがしっかりした人物に引き継いでおかないと有耶無耶になりかねない。

俺はバルツァー船長の言葉を全面的に信じているわけではない。海千山千の犯罪者なのだ。彼らの強かさを甘く見るのは危険だ。殺されると思って芝居をした可能性が有る。今頃はワーレン相手に嘘をペラペラ喋っているかもしれない。

「やあ、ヴァレンシュタイン中佐、久しぶりだな」
「お久しぶりです、ケスラー大佐。お元気そうで何よりです」
「有難う、ところで何の用だ。挨拶が目的じゃないだろう」

穏やかな表情でケスラーが問いかけてきた。こういう実務優先の姿勢が俺は嫌いじゃない。ウルリッヒ・ケスラー、いい男だよな、頼りになるし。上司に持つならこんな男が良いだろう。

ロリコンだって欠点じゃない、俺は十分許容できる。間違ってもロイエンタールなんかは上司に持っちゃ駄目なタイプだ。部下を道連れにして破滅だぜ、酷い上司だよ。おまけに女の趣味も良くない。エルフリーデとか最悪だ。

「今、第一巡察部隊の司令をしています」
「知っている、とんだ貧乏くじだな。サイオキシンの呪いか」
全くだ。サイオキシンは祟る、俺の場合はイゼルローンの件も有るからな、祟りまくっている。

俺は地方のドサ回りなのにケスラーはオーディンの憲兵隊から動いていない。よっぽど政治力があるのだろう、うらやましい限りだ。まあ救いはドサ回りが嫌いじゃないことか……。

「良い御守りが有ったら教えてもらえますか? また妙な事件に巻き込まれました」
「妙な事件? 脅かすな、一体何が有った?」

「交易船パラウド号を臨検したのですが、トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮、十枚を発見しました」
「!」

一瞬だが沈黙があった。スクリーンからでもケスラーが息を呑んでいるのが分かる。やばい、地雷を踏んだかと思っていると、クスクスとケスラーが笑い始めた。

「また、とんでもないものを持ち込んできたな、中佐」
「御守り、教えてもらえますか?」
「諦めるんだな、卿の役に立つ御守りなど有るものか」
そう言うとケスラーは爆笑した。俺も釣られて笑い出す。笑い事じゃないんだが。

一頻り笑った後、ケスラーが問いかけてきた。
「裏に居るのは誰かな、十枚となると賄賂用だろう」
「今それを確認しています。問題は協力者です。何処まで広がっているか……」

「宮内省に協力者が居る事は間違いないだろう。他に何か情報は無いのか?」
話が早い、さすがは未来の憲兵総監だ。ワーレンじゃこうは行かない、彼は実戦指揮官だからな。

「パラウド号の航行記録を調べました。あの船はオーディンとフェザーンを往復しているのですが惑星トラウンシュタインには行きも帰りも寄っていません」
「……データを改竄した可能性は?」

「分かりません、こちらではそれ以上は確認できませんでした」
「……フェザーンが絡んでいると言いたいのか」
「元々フェザーンとトラウンシュタインの間で密輸をしていたのかもしれません。パラウド号の雇い主はそれを知り宮内省、フェザーンに話をつけ、パラウド号をフェザーンに出した」

「……」
「フェザーンは交易で成り立っています。当然ですが税関は厳しい。フェザーンで出港前に作成した輸出申請書には毛皮は載っていませんでした。もちろん御禁制品です。申請書に載せた時点で問題になったでしょう。しかしフェザーンで毛皮を入手したのだとすれば、税関のチェックをすり抜けた事になります。偶然か、それとも必然か」

「トラウンシュタインからフェザーン、フェザーンからオーディン。御禁制品を二度見逃したか。卿の言うとおり確かに怪しいな」
ケスラーが考え込みながら言葉を出す。

「ケスラー大佐、あの毛皮、反乱軍に売った場合、どのくらいの値がつくと思います?」
「想像もつかんよ。だが確かに帝国内で売るより反乱軍に売った方が安全だな」
「?」

「分からないか。帝国でこそ御禁制品だが、向こうではそうじゃないだろう。誰が持っていても問題は無い。それに帝国にはそれを確認する方法も処罰する方法も無い」

なるほど、確かにそうだ。あの毛皮を金儲けに利用しようとした人間は帝国内で売るのは危険だと考えた。そして安全な自由惑星同盟で売る事を思い付いたのだ。となればフェザーンが絡むのは必然という事だろう。

「ケスラー大佐、この件、御預かり願えますか?」
「嫌だと言ったら?」
「海賊に襲われたという事にして、船も乗組員も皆木っ端微塵にします」

ケスラーは一瞬俺の顔を見た後、大爆笑した。
「分かった、引き受けよう。卿なら本当にやりかねないからな」
「……」
冗談なんだけどね。まあ引き受けてくれたから良いか。


帝国暦484年 7月 5日 オーディン 軍務省尚書室  グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー



「軍務尚書、戻っておられたか」
「つい今しがたな」
「それで?」
「お褒めの言葉を頂いた」

お褒めの言葉を頂いた、その割には軍務尚書は余り嬉しそうではない。まあ、理由が理由だけに無理も無いのだが。

一月半ほど前、第一巡察部隊がある交易船を臨検した。その際、御禁制品であるトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮、十枚を発見、押収した。第一巡察部隊は憲兵隊に証拠品及び乗組員を引き渡し、それ以後の捜査は憲兵隊が行なう事になった。

皇帝の私財を盗もうとした人間が居る。憲兵隊は慎重に捜査を進め、その結果ビーレフェルト伯爵が捜査の線上に上がった。だが伯爵は取調べを受ける前に自殺した。

事件そのものもビーレフェルト伯爵が死んだ事で尻すぼみに終わろうとしている。彼が毛皮を誰に贈ろうとしたのか、毛皮を手に入れるために誰と交渉したのかが分からなくなったからだ。

惑星トラウンシュタインでは三人の宮内省職員が姿を消した。おそらく反乱軍に亡命したのだろうといわれているが、一方で殺されたのだという噂もある。真実は分からない。

オーディンではビーレフェルト伯爵は自殺に追い込まれた、あるいは何者かに謀殺されたとの噂が流れている。その謀殺した人間こそが毛皮を贈ろうとした人間、あるいは交渉した人間だとして様々な名前が囁かれているのだ。その中には我々の名前も挙がっている、不愉快な事だが。

だがもっと恐ろしい噂もある。ビーレフェルト伯爵を三人の宮内省職員を謀殺したのは皇帝の闇の左手だという噂だ。捜査が尻すぼみに終わろうとしているのも皇帝の密かな内意が憲兵隊に伝えられたからだとも……。

~皇帝はこの事件を大きくすることを望んではいない。ビーレフェルト伯爵を、三人の宮内省職員を誅殺したことで事件に関与したものに対して十分に警告を与えた。それで十分だと考えている~

本当かどうかは分からない。軍務尚書は憲兵隊に確認はしなかった。たとえ本当だとしても憲兵隊が事実だなどというはずが無い。確認するだけ無駄だ。
だが自分の知らないところで何かが動いている、そんな疑惑が軍務尚書を不機嫌にさせている。

「謁見室には私のほかに宮内尚書、内務尚書が呼ばれた」
「宮内尚書は分かるが内務尚書は何故?」
「警察もあの船を臨検していたのだがな、船長に脅され碌に調査もせずに引き下がったそうだ。取調べで船長が言ったらしい、警察は大した事が無かった、だからつい軍も甘く見てしまったと」

「なるほど、宮内尚書も内務尚書も御叱りを受けたという事か」
私の言葉に軍務尚書は頷いた。
「陛下は軍は良くやっている、それに比べてと仰られた」

「それは……」
思わず失笑した。それでは宮内尚書も内務尚書も立場が無い。
「笑い事ではないぞ、ミュッケンベルガー元帥。内務尚書は噛み付きそうな顔で私を睨んでいたのだ。サイオキシンに続いて二度目だからな、軍にしてやられるのは」

「軍の勢威が上がるのは良い事だと思うが?」
「必要以上に恨みを買う事は無い。巡察部隊など形だけのはずだったのだ。内務尚書もそれを知っていたからこそ不愉快には思っても反対はしなかった。そういう約束だったからな、それなのに、あの小僧めが」

愚痴をこぼすような軍務尚書の口調に私はまた失笑した。軍務尚書が私を睨むがこればかりは止められそうも無い。
「それで、彼をどうするのかな」
「昇進させる。当然だろう、陛下の財産を盗賊から守ったのだから」
「……」

「ミュッケンベルガー元帥、帝国軍三長官にはトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮が下賜される」
「バッファローの毛皮? それは」
「第一巡察部隊が押収した毛皮だ。今回の一件に対する陛下からの軍に対する褒賞だ。我々だけが褒賞を受ける事は出来ん」

面白くもなさそうな口調だった。本当ならバッファローの毛皮を頂くことは名誉な事なのだが素直に喜べないのだろう。もっともそれは私も同じ思いだ。全く厄介な小僧だ。

「ヴァレンシュタイン大佐か、それにしても昇進が早いな」
軍務尚書が少し眉を寄せながら答えた。
「うむ、少し早すぎる、本人のためにもなるまい。昇進は十月の人事異動に合わせて行なうつもりだ」

嫌がらせでは有るまい。ヴァレンシュタインは今年の初めに中佐になった。未だ半年も経っていない、いや去年の今頃は未だ大尉になったばかりだったはずだ。確かに本人のためにはならないだろう。

「それまでは?」
「このまま、第一巡察部隊に置いておく」
「よろしいのかな、そのままにして。また面倒を引き起こさんとも限らんが」

いっそ、兵站統括部にでも戻したほうが良くは無いか、そんな思いで軍務尚書に視線を向けたが、軍務尚書は冷笑を湛えたまま言い放った。

「今回の一件であの小僧が猛犬である事は皆が知った。オーディン周辺の番犬にはちょうど良かろう。それでも犯罪を犯すような阿呆はあの小僧に噛殺されれば良いのだ」

「なるほど、番犬か。軍務尚書も上手い事を言われる。となると飼い主は軍務尚書という事かな」
「あんな言う事を聞かぬ犬など私は知らん。冗談でも許さんぞ、ミュッケンベルガー元帥」

唇を捻じ曲げて抗議する軍務尚書に私は今日、三度目の失笑を漏らした。全く持って厄介な小僧だ。

 

 

御落胤 (その1)

帝国暦 487年9月 30日   オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ


最近、皇帝フリードリヒ四世陛下は謁見を精力的にこなしている。以前は二日酔いで午後から謁見を行なう事もあったが、最近では遅くとも朝九時には執務室に入り執務を行い、謁見をこなす。

謁見には真実大切な用件が有って来る者もいるが、ただ単に皇帝に顔を覚えてもらうために謁見室に来る者も居る。以前はその手の謁見者は余り居なかった。陛下が政治に無関心なため覚えてもらっても意味がないと考えたらしい。

しかし、最近ではその手の謁見者が増えてきた。陛下が精力的に執務をこなすため、顔を覚えてもらえばそれなりの旨味があると考える貴族増えたらしい。

謁見者が多いか少ないかは皇帝が名君か凡君かを測るバロメータになる。名君であれば謁見者は増えるし、凡君であれば誰も期待しないため謁見者は減る。陛下は徐々にではあるが凡君として侮ってよい存在ではないと貴族たちに思われているようだ。

謁見室には必ず尚書が二名、上級大将以上の武官が二名同席することが定められている。今日は文官は私とリヒテンラーデ侯、武官はクラーゼン元帥、ラムスドルフ上級大将が謁見に立ち会う。

その他に女官が五名、執務室で待機する。彼女たちは私達の飲み物、食事の用意、その他細々とした雑務を手伝う事が義務付けられている。

この謁見に立ち会うのは結構大変だ。陛下は椅子に座っているが、我々は立っていなくてはならない。若いならば良いが、年を取ってからは辛い。時折休憩を入れながら謁見をこなす事になる。

ようやく一人謁見が終了した。こいつは自領の川が増水で溢れたと言ってきた。政府に河川工事と見舞金をお願いしたいと……。

ふざけるな! 税金を取っていないのだから自分でやれ! お前みたいなクズが帝国を駄目にしたのだ。リヒテンラーデ侯も同感だったのだろう。彼の願いはにべも無く却下された。ざまーみろだ……。いかん、最近過激になってきた。

いや、それでもヴァレンシュタインに比べれば大人しいほうだ。違う! 彼と比べてどうする。あの男と比べればみな大人しく見えるだろう。

「次の謁見希望者は誰じゃな」
「はっ、ヒルデスハイム伯でございます」
「ふむ、珍しいの」

陛下とリヒテンラーデ侯が言葉を交わした。ヒルデスハイム伯か、確かに珍しい。だが珍しいからといって歓迎できる相手でもない。こいつもどうしようもないアホ貴族の一人だ。一体何の用だ?

「陛下におかれましてはご機嫌麗しく、ヒルデスハイム、心より……」
ヒルデスハイム伯はひざまづくや大袈裟にジェスチャーを入れて挨拶を始めた。陛下は苦笑しているし、リヒテンラーデ侯は苦虫を潰したような顔をしている。

クラーゼン、ラムスドルフは不機嫌そのものだ。ヒルデスハイム伯、空気を読んでさっさと本題に入れ。だがこいつの挨拶は無駄に長かった。アホ貴族ほどナルシストで空気を読むことが出来ない。困ったものだ。


「ヴァレンシュタイン元帥のことでございます」
「元帥がどうかしたかな」
「お叱りを覚悟でお尋ねいたしますが、元帥は陛下の御血を引いてはおりませんでしょうか?」

アホ貴族は挨拶をようやく終えたと思ったらとんでもない事を言ってきた。執務室に沈黙が落ちる。何を言った? 元帥が陛下の血を引いている? つまりなにか、陛下の隠し子? そういうことか。

陛下は苦笑し、リヒテンラーデ侯は溜息を吐いた。クラーゼン、ラムスドルフは冷たい眼でヒルデスハイム伯を見ている。要するにあれか、平民である元帥に対して陛下の御信頼が厚いから、本当は隠し子ではないかという事か……。際限の無いアホだな、だんだん疲れてきた。

「面白いの、元帥が予の息子という事か。予が外で作った子という事じゃな。自慢の息子じゃ、良くぞ作ったと言うところかの」
「陛下、御戯れはなりませんぞ。ヒルデスハイム伯、たわけた事を申すな、控えよ」

上機嫌な陛下とヒルデスハイム伯に対して、リヒテンラーデ侯が不機嫌さを押し殺した声で注意した。最近の陛下は闊達と言うか、臣下の突拍子も無い話を面白がる所がある。しかし、御血筋の問題となれば、皇位継承にも関わる。ふざけてよい話ではない。

「良いではないか。ヒルデスハイム伯、何ゆえそのような事を考えたのじゃ」
「はっ、元帥の母方の祖父がはっきりしませぬ。それゆえ或いはと愚考いたしました」

まさしく愚考だ。お前などヨルムンガンドに食われてしまえ。そのくらいしか役に立つまい。

「なるほど、予の息子ではなく孫か……。予も品行方正とは言えぬ、若い頃は無茶もした。孫の一人くらいおってもおかしくないの。で、元帥の祖母の名はなんと言うのじゃ、予の知っておる娘かの」

陛下は楽しそうにヒルデスハイム伯に問いかけた。リヒテンラーデ侯は仕方ないと言ったような表情でこちらを見てくる。確かに仕方が無い、こうなったら陛下のお遊びに付き合うしかない。

「されば、フレイア・ラウテンバッハと言う名に御憶えは御座いましょうか」
「……」
「?」

ヒルデスハイム伯の質問に対し陛下は沈黙している。先程までの上機嫌な表情は消え、何処と無く困惑したような表情がある。どういうことだ、まさか、本当に憶えがあるのか? 思わず、リヒテンラーデ侯を見た。侯は陛下の顔をじっと見ている。

「陛下、御戯れはなりませんぞ」
リヒテンラーデ侯が低い声で陛下に注意した。なるほど、陛下の御戯れか、それなら分かる。だが陛下はその声に注意を払うことなく躊躇いがちに声をかけた。

「ヒルデスハイム伯、フレイア・ラウテンバッハとは、テオドール・ラウテンバッハの娘か?」
「!」

執務室に緊張が走った。リヒテンラーデ侯、クラーゼン元帥、ラムスドルフ上級大将と顔を見合わせる。皆信じられないと言った表情だ。まさか本当に憶えがあるのか? 元帥は本当に陛下の血を引いているのだろうか?

フレイア・ラウテンバッハの名を聞いてから、陛下は何処と無く困惑した表情を隠そうとしない。どういうことだろう、憶えはあるが、納得はしていない、疑問が有る、そういうことだろうか。

「答えぬか、ヒルデスハイム伯」
「し、臣には、分かりかねます」
「そちは調べたのではないのか?」

陛下は先程までの困惑した表情を捨て、強い口調でヒルデスハイム伯を問い詰めた。

「も、申し訳御座いませぬ、其処まで詳しくは……」
「誰なら分かるのじゃ?」
「ブ、ブラウンシュバイク公なら、あるいは」
「呼べ! ブラウンシュバイク公を呼ぶのじゃ、ヴァレンシュタインも呼べ」

その声とともに転げ出るようにヒルデスハイム伯が執務室から逃げ出した。考え込んでいる陛下にリヒテンラーデ侯が戸惑いながらも声をかけた。
「陛下、その女性に心当たりが御有りなのですな?」

「似ておる、確かにフレイアに似ておる、じゃが流産したと聞いた、違うのか……」
リヒテンラーデ侯の問いにも答えず、陛下は呟いた。しかし、流産?
「あれは、予の孫なのか、エーリッヒ、エーリッヒか……、そうか、そういうことか、危ういと見たか……」

陛下は低く呟きながら、考え込んでいる。私は、いや、私以外の人間も全て、口を開く事が出来ず、ただ何度も顔を見合わせ、陛下を見つめ続けた。

足早に近づく音と、太い声が聞こえた。
「ブラウンシュバイク公だ、陛下のお召しと伺った」
「入るが良い、ブラウンシュバイク公」

陛下の声が発し終わると共に、ブラウンシュバイク公が執務室に入ってきた。少し息が切れている。急いできたのだろう。
「挨拶は無用じゃ、公に椅子を与えよ、水もじゃ」

陛下の声とともに、女官が椅子と水を用意した。ブラウンシュバイク公は水を飲み干すとグラスを女官に渡し、挨拶をしようとしたが、陛下に無用と苛立たしげに止められ椅子に座らせられた。

公が椅子に座るのも待ちきれぬように陛下が問いかけた。
「ブラウンシュバイク公、フレイア・ラウテンバッハを知っておるか?」
「はっ。存じておりまする、ヴァレンシュタイン元帥の母方の祖母に当たりまする」

陛下はブラウンシュバイク公の答えに大きく頷くと身を乗り出して公に問いかけた。
「フレイアの父の名はテオドールか」


「! 陛下には御存知であられますか」
「そうか、では間違いなくあのフレイアなのじゃな……。公よ、フレイアの娘は何時生まれた、四百四十一年ではないか?」

部屋の中に痛いほどの緊張が走った。もしそうなら、元帥は陛下の孫と言うことになる。しかし、本当にそうなのか?

「四百四十一年でございます」
「……。そうか、間違いない、予の娘じゃ」
その瞬間、部屋の中にざわめきが起きた。顔を見合わせるもの、小声で呟くものがいる。リヒテンラーデ侯は首をしきりに振っていた。

「恐れながら陛下、陛下は当時、御歳十七歳かと存じますが?」
「そうじゃ、予がフレイアと出会ったのは十六の時じゃった、それがどうかしたか、ブラウンシュバイク公よ」
その言葉を聞くとブラウンシュバイク公は言いづらそうに言葉を続けた。

「陛下、フレイア・ラウテンバッハの傍には40代の男が居たそうです。その娘は陛下の御息女ではなく、その男の……」
「グリンメルスハウゼンじゃ」
「!」 

「その男はグリンメルスハウゼンじゃ。あの男は予とフレイアの事を知っておった。予に頼まれてフレイアの様子を見ていたのじゃ」
「……」

ブラウンシュバイク公は陛下を見たまま絶句している。グリンメルスハウゼン、陛下の侍従武官として常に陛下の傍近くに居た男。その男が若い二人を見守っていた……。

「ブラウンシュバイク公、娘の名はヘレーネじゃな」
「はい」
「娘ならヘレーネ、男ならエーリッヒ、予が決めた名じゃ。そうか、孫につけたか……」

そう言うと陛下はじっと目を瞑った。かつての若い日々の事を思い出しているのだろうか。四十年以上前のことを。リヒテンラーデ侯が躊躇いがちに陛下に問いかけた。

「陛下、先程流産と聞きましたが、それは?」
「グリンメルスハウゼンが、フレイアが流産したと言ったのじゃ」
呟くように陛下が答えた。

「何故、そのようなことを」
ラムスドルフ上級大将の問いに陛下は哀れむような視線を向けた。
「そちも分からぬか……、当時の予もフレイアに夢中で分からなかった。今なら分かる、ようも予を騙しおった……」
「……」

「皇族が名も無い平民の娘を愛する。そのような事を父オトフリート五世が許すと思うか? 兄リヒャルト皇太子、弟のクレメンツが認めると思うか?」
「……」

「アンネローゼでさえ爵位も持たぬ下級貴族と蔑まれるのじゃ。平民のフレイアがどのように扱われるか、その方らも想像がつくであろう」 
「……」

「到底許されまい。母娘ともに殺されよう。あのまま予がフレイアを愛し続ければ、必ず何処かで皆に知られたじゃろう。今なら分かる、グリンメルスハウゼンはそれを恐れたのじゃ」

そう言うと陛下は遣る瀬無げに首を振った。確かに陛下の言うとおり、フレイア親子の命は無かっただろう。グリンメルスハウゼンが隠したから親子は生き延びた。

だがヘレーネは夫、コンラートと共にカストロプ公に殺されている。陛下はそのことをどうお考えなのだろう。それとも未だそこまで考えが行き着かないのか。

そしてヴァレンシュタインは自分が陛下の孫だと知っているのだろうか……。その上で改革を唱えているのだろうか……。もし、ヴァレンシュタインが陛下の孫だと正式に認められれば帝国の皇位継承はどうなるのだろう……。



 

 

御落胤 (その2)

帝国暦 487年9月 30日   オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ


「フレイア・ラウテンバッハは暮らしをどのようにして立てていたのでしょう? グリンメルスハウゼン子爵が援助していたのでしょうか」
私の問いに陛下が答えた。

「フレイアの父は交易船を使って相当な財産を持っておった。予とフレイアが出会った時は、既に死んでおったがフレイアが生活に困るような事は全く無かった」
「……」

ブラウンシュバイク公が陛下の言葉に頷く。陛下の言葉に嘘は無いようだ。
「国務尚書、ヘレーネは死んだのじゃな」
「……」
陛下の声にリヒテンラーデ侯は答えることが出来なかった。周りの人間も皆顔を伏せている。

リヒテンラーデ侯に答える事は出来ないだろう。ヴァレンシュタイン夫妻を殺したのはカストロプ公だった。だがそれを処罰せずにリヒテンラーデ侯は放置した、贄として育てるために。

本当ならもっと前にカストロプ公を処罰する事も出来ただろう。そうであればヴァレンシュタイン夫妻は死なずに済んだかもしれない。

リヒテンラーデ侯があの二人を殺したとは言わない、しかし責任の一端はリヒテンラーデ侯にもあり、カストロプ公のような人間を安定のために利用しなければならない帝国にもある。

「そちの所為ではない、気にするな」
「恐れ入りまする」
「ヘレーネはどのような娘であった? 誰か知る者はおらぬか?」

沈黙が落ちた。当たり前の話だが彼女を知る人間など此処にはいない。平民の司法書士などに関心を持つ人間は居ないだろう。

「誰も知らぬのか……。予はあれの髪の色、瞳の色、背丈、何一つ知ることも出来ぬのか……。皇帝など無力なものよな……」
陛下の声には自嘲の響きがある。久しく聞かなかった声だ。

「陛下、マリーンドルフ伯が知っておるやもしれませぬ」
「財務尚書、マリーンドルフ伯は謁見のために並んでおる。直ぐ呼んではどうかな」

私の言葉に、ブラウンシュバイク公が反応した。陛下を見ると、静かに頷き、その姿に女官が動き出す。

「あれは、知っておるのかの。予の孫だという事を」
「……」
「貴族にしようなどとあれにとっては笑止なことであろうな。予が皇族であるがゆえにヘレーネは認知されなかった。身分などに囚われる事がどれほど愚かしい事か……。それゆえ平民だと言い張ったか……」

陛下の呟くような言葉に誰も答えることが出来ない。いや、大体答えなど求めているとも思えない。しかし、本当にヴァレンシュタイン元帥が陛下の孫ならどうなるのだろう。

陛下の御子は全て皇女しか生存していない。しかも臣下に降嫁している。生まれた子は皆女子だ。男子で生きているのは皇孫エルウィン・ヨーゼフ殿下とヴァレンシュタイン元帥。

エルウィン・ヨーゼフ殿下には有力な後見はいない。おまけに未だ幼く政治など自分ではできない。後見に付くとすればリヒテンラーデ侯だが、それは外戚に政治を自由にさせることを恐れたためだった。

もしヴァレンシュタイン元帥が皇族と認められた場合、それでもエルウィン・ヨーゼフ殿下の後見につくだろうか? そうではあるまい、むしろ元帥とともに前へ進むのではないだろうか?

ブラウンシュバイク公も自分だけが椅子に座っている事に気が引けたのだろう。立ち上がり、椅子を女官に片付けるように指示を出した。

「マリーンドルフ伯、参りました」
「おお、伯か、そちに聞きたいことが有る」
足早に謁見室に入り、ひざまづいたマリーンドルフ伯に対し陛下が尋ねた。

「ヘレーネ・ヴァレンシュタインを知っておるな、どのような娘であった?」
「娘? 彼女はヴァレンシュタイン元帥の母親ですが……」
「似ておるのか?」

マリーンドルフ伯は陛下の問いに困惑しながら答えている。
「髪の色、眼の色は違いますが、それを除けばよく似ています」
「そうか、髪の色は金、眼は青じゃな」
「はい」

「ヘレーネはフレイアに似たのじゃな。一度でよい、この腕に抱き締めてやりたかった……」
陛下の言葉に女官たちの間ですすり泣く声が聞こえた。

「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、火急のお召しと聞きました」
「エーレンベルク軍務尚書だ、御免」
「シュタインホフ統帥本部総長、入るぞ」
「ラインハルト・フォン・ローエングラム、入ります」

帝国軍三長官が来た、それにローエングラム伯も。呼んだのはヴァレンシュタイン元帥だけのはずだ、例の改革の件でトラブルが起きたと勘違いしたか。陛下は入ってきた四人を見ると驚いたようだったが、直ぐヴァレンシュタイン元帥を手招きして呼び寄せた。

「おお、ヴァレンシュタイン、いや、エーリッヒ、ここへ」
「はっ」
陛下は不審そうな表情で近寄るヴァレンシュタイン元帥の傍によると両肩をつかみ元帥の顔をじっと見た。

「似ておる。やはりそちはフレイアに似ておる」
「?」
「苦労をかけたな、予がそちの祖父じゃ。そちの母、ヘレーナは予の娘じゃ」
「!」

軍務尚書、統帥本部総長、ローエングラム伯は驚いて顔を見合わせた。ヴァレンシュタイン元帥は状況が良く分からないのだろう、不思議そうな顔をして陛下を見ている。

「陛下、それは一体何の冗談です」
「冗談ではない。予はそちの祖父なのじゃ」
ヴァレンシュタイン元帥は少し困ったような表情をしてこちらを見た。

「大体何が有ったか想像がつきますが、リヒテンラーデ侯、まさか侯まで信じたのではないでしょうね」
「いや、まあ嘘じゃと思ったがの・・・・・・」

リヒテンラーデ侯も少し困ったような表情で答えた。ヴァレンシュタイン元帥は一つ溜息をつくとリヒテンラーデ侯に話しかけた。
「リヒテンラーデ侯、一体何が有ったか詳しく説明してもらえますか、帝国軍三長官、それにローエングラム伯まで此処に来ているんです」

リヒテンラーデ侯は渋々といった表情で事の顛末を話した。ヴァレンシュタイン元帥は呆れたような表情をし、エーレンベルク、シュタインホフの両元帥、ローエングラム伯は半信半疑な顔をしている。

「嘘なのですか、元帥」
「嘘ですよ、財務尚書。そんなことはありえません」
「しかし……」

「グリンメルスハウゼン子爵は今生きていれば七十八のはずです。母は四百四十一年に生まれました、今から四十六年前です。つまり子爵は当時は三十代前半、祖母の傍に居た四十代の男性とは明らかに別人です」

なるほど確かにそうだ、やはり嘘なのか、思わず陛下を見る。
「違うの、それはグリンメルスハウゼンじゃ、あれは歳より老けて見えたからの、三十代前半の頃は既に四十近くに見えた」

平然と陛下が言い放った。確かにグリンメルスハウゼン子爵は歳より老けて見えた。ではやはり本当なのだろうか。
「陛下、そろそろ止めませぬか。皆に御謝りください、冗談がすぎますぞ」

「リヒテンラーデ侯、ではやはり嘘なのか」
ブラウンシュバイク公が腑に落ちない表情で問いかけた。

「陛下の御戯れじゃ。グリンメルスハウゼン子爵は確かに歳より老けて見えたかもしれん。じゃが子爵は侍従武官の職にあった。そうそう簡単に陛下の元を離れ、元帥の祖母の元に行く事が出来たとは思えん。周囲の目に付いたという事はかなりの頻度で行ったということじゃ、ありえぬことよ」

なるほど、確かにそうだ。侍従武官が度々陛下の元を離れていては職務怠慢で咎めを受けよう。となるとやはり元帥は陛下とは血のつながりは無いのか。

「その通りです。私は陛下とは何の関わりも有りません」
「陛下、元帥の言うことに間違いありませぬな」
リヒテンラーデ侯が念を押す形で確認を取った。

「ヴァレンシュタインの言う通りで良い」
「? 陛下それは一体……」
「ヴァレンシュタインが孫だと言うなら孫よ、違うと言うなら違う、そういうことじゃ」

「陛下、それでは……」
「良いではないか、予は孫に甘い爺なのじゃ」
そう言うと陛下は大笑いした。

そんな陛下の姿を苦い表情で見ていたヴァレンシュタイン元帥が国務尚書に言葉をかけた。
「リヒテンラーデ侯、陛下がこんなにもひょうきんになってしまわれたのは侯の監督不行き届きのせいです。侯が陛下を甘やかすから・・・・・・」

その言葉にリヒテンラーデ侯がむっとして言い返した。
「私のせいだと言うか。大体陛下がひょうきんになられたのは卿の責任であろう」

「どういうことです。私のせいとは」
「ブルクハウゼン侯を嵌めるとき、台本まで作って陛下を指導したのは誰じゃ、卿ではないか。陛下がひょうきんになられたのは卿が妙な小芝居を教えたからじゃ」

リヒテンラーデ侯の言葉にヴァレンシュタイン元帥は憤然として答えた。
「確かに台本は作りました。演技も指導しました。しかし、黒真珠の間で大笑いしろなどとは書いていませんし、指導もしていません。仕事を楽しむのは結構ですが、楽しみすぎです!」

「わ、私だけではないぞ、軍務尚書も統帥本部総長も一緒だったのじゃ。何故私だけを責める。二人も同罪じゃろう」
「陛下のお傍に一番居るのはリヒテンラーデ侯です」
その言葉に軍務尚書も統帥本部総長が激しく頷く。

「とにかく、帝国軍三長官と副司令長官が呼び出されたのです。いずれ納得のいく説明をしてもらえるものと考えております。失礼させていただきます」

むっとして帰ろうとするヴァレンシュタイン元帥をリヒテンラーデ侯が呼び止めた。

「待て、まだ話は終わっておらん」
「?」
「卿の祖父は誰なのじゃ?」

「・・・・・・」
「知っておるなら言うが良い、このままだとまた陛下の孫だと噂が出るぞ。それとも言えぬ訳でもあるか」

リヒテンラーデ侯は何処か意地の悪そうな表情で元帥に問いかけた。元帥はしばらく黙って侯を睨んでいたが薄く笑うと侯に答えた。
「言っても宜しいですが、後悔なさいますぞ」

「なんじゃと」
「私の祖父の名前はクラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵、貴方です」
「!」

一瞬皆沈黙した。
「そうか、予ではなく国務尚書の孫か、良かったの、頼りになる孫で」
陛下の爆笑とともに出される言葉にリヒテンラーデ侯は体を震わせた。

「冗談ではありません。このような性格の悪い孫など持った憶えはありませぬ」
「そんなことはありません。私は侯に良く似ていると軍務尚書、統帥本部総長に言われました」

澄ました顔でヴァレンシュタイン元帥は言うと、軍務尚書、統帥本部総長を見た。それにつられ軍務尚書、統帥本部総長が口々に答える。
「確かに似ているとは思うが」
「うむ、似すぎるくらいにな」

軍務尚書、統帥本部総長の声にリヒテンラーデ侯は
「何処も、似とらんわ! 一体何処を見ておる」
と怒鳴りつけた。

「ご安心ください、お爺様。リヒテンラーデ侯爵家の家督が欲しいとか、養育費を払えとか、認知しろとか言いません」
「あ、当たり前じゃ! 何がお爺様じゃ、第一私は外で子供など作っておらんわ!」

「お爺様、自慢になりませんし、証人も居ません。私とお爺様が他人だと説明するのは難しそうですね。しかし、陛下の孫などと言われるよりはましでしょう」

その声に陛下がまた爆笑し、それがリヒテンラーデ侯を更に激昂させた。
「こ、この悪党め、何と言う嫌な奴じゃ。卿などヨルムンガンドに食われてしまえ!」

リヒテンラーデ侯の罵声を聞きながら、ヴァレンシュタイン元帥はにっこりと笑うと
「それでは皆さん、祖父をよろしくお願いします」
と告げ、マントを翻して謁見室を出て行った。

「ええい、何といやな奴じゃ。腹の立つ、これも、あのヒルデスハイムの阿呆のせいかと思うと更に腹が立つわい」
「閣下、少し落ち着きませんと」

「何を落ち着くのじゃ、ゲルラッハ子爵。陛下、本日の謁見は終わりにいたしますぞ」
「うむ、善きに計らえ」

「ゲルラッハ子爵、午後の閣議は卿が取り仕切れ。私は家に帰る」
「帰るのでありますか?」
「おお、そうじゃ。文句があるか、ゲルラッハ子爵。不貞寝じゃ、陛下とあの小僧のせいでの、とことん疲れたわい。宜しいですな、陛下」

「おお、たまにはゆっくり休むが良かろう。孫の事でも考えながらの」
「陛下!」
「そちが要らぬのなら予が貰うぞ」
「陛下!」

陛下はリヒテンラーデ侯の抗議を無視し大笑いをしながら謁見室を出て行った。残されたのは、怒り心頭に達しているリヒテンラーデ侯と必死に笑いを堪えている廷臣たちだった。



 

 

巡航艦ツェルプスト~ヨハン・マテウスの回想

帝国暦 487年 12月17日  巡航艦 ツェルプスト  ヨハン・マテウス


同僚のカール・ホルスト上等兵が話しかけてきた。
「おい、マテウス」
「何だい? カール」

「オーディンに侵攻していた貴族連合軍はヴァレンシュタイン司令長官によって撃破されたそうだ。流石だな、二倍の兵力を持つ敵を破るなんて」
「まあ、司令長官ならその程度はやるさ」

「ふーん、あの人ツェルプストの艦長もやってたんだよな」
「ああ、第一巡察部隊の司令と兼任してたよ」
もう四年になる。あの時の俺は二等兵だったが今では上等兵になっている。そしてあの人は中佐から元帥だ。あっという間だった。

「どんな人だったんだい、俺は今年の春に配属になったから知らないんだけど」
「そうだな。やっぱり他の人とはちょっと違ったよ。何処が違うかと言われても困るけど……」
「ふーん、そうか、やっぱり違うのか」

カールが何処と無く憧れるような表情をしている。どんな人か……。知らないほうが良いよ、カール。あの人は外見はどうしようもないほどお嬢で中身はとんでもない悪魔だった。黒い尻尾が生えていないのが不思議なくらいだったんだから……。



帝国暦484年 1月20日  オーディン  ヨハン・マテウス


巡航艦ツェルプストへの配属が決まった。軍専門学校を卒業して通信兵として最初に配属されたのは宇宙艦隊司令部だったのはまだ我慢できる。新人をいきなり最前線に出すのは危険だと思ったのだろう。だがもう一年が経っている、それなのに今度は第一巡察部隊か……。

巡航艦ツェルプストなんて艦齢二十五年を超える老朽艦だ。前線には出せないから国内でしか使えない艦。そんな艦に配属されても少しも嬉しくない。おまけに巡察部隊だなんて国内の巡視部隊じゃないか、俺は最前線で反乱軍と戦いたいんだ。それなのに……。

やりきれない思いを胸に抱いて家に帰ると姉のアティアが話しかけてきた。俺より四歳上の姉は軍務省の人事局に務めている。
「ヨハン、新しい辞令が出たんでしょう。あんた今度は何処なのよ、まさか最前線じゃないでしょうね」

姉は俺が最前線勤務を望んでいるのを知っているがそれには酷く反対している。姉にしてみれば最前線に行きたがる俺の行為が馬鹿げたものに見えるらしい。“あんたみたいに最前線に行きたがる男が多いから、私達が結婚できないんじゃない”。姉の口癖だ。

「違うよ、第一巡察部隊、巡航艦ツェルプストに配属が決まった」
幾分ぶっきらぼうに答えると姉が噛み付くように話しかけてきた。
「巡航艦ツェルプスト! あんた本当に巡航艦ツェルプストに配属になったの?」

何だ? 一体どうしたって言うんだ? 巡航艦ツェルプストってなにかやばいのか?
「そうだけど、それがどうかした?」
思わず恐る恐る尋ねると姉は興奮して俺にまくし立てた。

「何言ってるのよ、ヴァレンシュタイン中佐が艦長の艦じゃない」
「え? 艦長って決まってるの。俺が聞いた話じゃ、まだ決まってないってことだったけど」
「最新情報よ、軍務尚書、宇宙艦隊司令長官の推薦で中佐が艦長兼第一巡察部隊の司令になったの!」

ヴァレンシュタイン中佐? サイオキシン麻薬、アルレスハイム星域の会戦で有名になった、あのヴァレンシュタイン中佐か……。その中佐が艦長? しかも軍務尚書、宇宙艦隊司令長官の推薦? すげえな、俺とたいして歳も変わらないはずだけど……。

「あんた、中佐からサイン貰ってきてよ」
「はあ? サイン?」
「そうよ、サイン、後で色紙渡すから貰ってきてよ。あの山猫供にギャフンと言わせてやる」

姉は妙に力んでいる。何なんだ、一体。
「姉さん、山猫って何さ」
「山猫よ、兵站統括部の女どもよ」

俺が訝しげにしているのが不満だったのだろう、姉はさらにまくし立てた。
「いい、兵站統括部っていうのはね、碌な男が居ないの。分かる? 山奥で人が居ないところなのよ。そこに居る雌猫どもだから山猫なの!」

「随分酷い言い方をするんだね」
「何言ってるの、あいつらの肩を持つの、あんた」
「いや、そういうわけじゃないけど」
やばい、姉の目が吊り上がっている。よっぽど兵站統括部の女性兵に頭に来ているみたいだ。

「あいつら油断できないのよ、時々軍務省とか宇宙艦隊司令部に来て男をかっさらっていくんだから。分かる? あいつ等はほんとに手癖の悪い山猫なの!」
「……」

姉は以前、男に振られたと言ってたけど、まさか山猫に男を取られたのか? 気持は分かるけどこの荒れようは姉の方が山猫だ。
「おまけに中佐と一緒にケーキ食べてる写真なんて持ってるし、むかつくのよ! ヨハン! サイン必ず貰ってくるのよ!」

「ああ、分かったよ」
「それと、中佐の足を引っ張るんじゃないわよ、分かった!」
「もちろんだよ。そんなことするわけないじゃない」
とりあえず、此処は逆らわずにいよう。目を吊り上げてまくし立てる姉は間違いなく山猫だ。あの紅い爪で引っ掻かれたくない。



帝国暦484年 5月23日 巡航艦 ツェルプスト   ヨハン・マテウス


「駆逐艦ラウエンより入電、レーダーに感有り」
「位相は」
俺が駆逐艦ラウエンからの報告を伝えるとワーレン少佐は重厚な口調で問いかけてきた。いかにも頼りがいのある、指揮官の声だ。この艦を動かしているのはやっぱりワーレン少佐だ。俺は憧れを感じながら少佐に答えた。

「八一七宙域を九一三宙域に向かって移動中との事です」
俺の返答にワーレン少佐はヴァレンシュタイン中佐に視線を向ける。
「全艦に命令、直ちに宙域八一七に向かう。軽空母ファーレンに命令。ワルキューレを出し偵察行動をさせるように」

あー、ヴァレンシュタイン中佐が命令を出したが、声は少し高いし、それに全然威圧感が無い。これじゃあ、いまいちなんだよな、緊張感ゼロ、ヤル気でねえよ。

中佐は艦長席で御行儀良く座っている。小柄で華奢な中佐は遠目には女の子のようだ。ワーレン少佐と比べると余計にそう見える。サイオキシン麻薬、アルレスハイムの会戦では功績を挙げたと言われているけどとてもそうは思えない。

当初この艦に来た中佐は殆ど艦長としての職務も部隊の動かし方も分からなかった。ワーレン少佐が付きっ切りで教えていたがその様子はまるで何処かのお嬢様と使用人だった。あれじゃワーレン少佐が気の毒だと皆で思ったものだ。

まあ、それでも熱心に覚えていたから二月もすれば任務をこなせるようになっていたけど、飲み物はココア、ピーマンとレバーが嫌いって何だよ、まるで子供じゃないか、皆大笑いだった。俺達乗組員の中佐に対する評価は“お嬢”だ。姉さんには悪いけど馬鹿くさくってサインなんか貰えるもんか、冗談じゃない。姉さんから貰った色紙十枚は俺の部屋に放置したままだ。




「どういうことだ、何故積荷の確認が出来ない?」
「はっ、それが、船長が反対しているのです」
「こちらは公務だぞ、何を考えている」

ワーレン少佐が少し眉を寄せて呟いた。かっこいいぜ、なんとも言えない渋さだ。男はこうじゃなきゃ。俺も言ってみたいぜ”こちらは公務だぞ、何を考えている”。

駆逐艦ラウエンが民間の交易船パラウド号に積荷の臨検を通知してから一時間経ったけど、まだ臨検が終わらないようだ。兵を派遣したけれど、どうもパラウド号の船長が臨検に反対しているらしい。

埒が明かない、誰かが向こうに行って指揮を取り直すべきだ。そうは思ったけどヴァレンシュタイン中佐が交易船パラウドに自ら臨検に行くと言い出したときには何かの冗談だと思った。パラウド号では何かトラブルが起きているのは間違いない。お嬢に解決できるもんか。

お嬢、お嬢はツェルプストで大人しくしてればいいんだよ、所詮は飾り物なんだから。俺も同行者の二十名の中に選ばれた時には罰当たりだとは思ったけど心の中でオーディンを罵ったぜ。

俺も不安だったけどワーレン少佐はもっと心配だったんだろう、中佐に同行してくれた。正直ほっとしたね、少佐が一緒なら何とかなるからな。さて、パラウド号に向かうとするか。


帝国暦484年 5月23日 交易船 パラウド  ヨハン・マテウス


「バルツァー船長、コンテナから妙な物を見つけましたよ。御禁制のトラウンシュタイン産のバッファローの毛皮十枚。あれは一体どなたからの依頼ですか、教えていただけると助かるのですが」

やばいよ、やばいよ、やばいよ。トラウンシュタイン産のバッファローって何んだよ、それ。御禁制? なんでそんなのが有るんだよ。バルツァー船長も乗組員たちも黙ったままだ。みんな積荷が何か知っているぜ、あれは。確信犯だよ、絶対に。

仲間は皆不安そうな表情をしている、俺も多分同じだろう。変わらないのはお嬢だけだ。どういうわけか楽しそうな表情をしている、状況分かってんのか、こいつ。

俺が不安に思っているとお嬢とバルツァー船長がなにやら遣り合っている。“言いがかり”だとか“早く解放しろ”だとかだ。バルツァー船長は自信満々だ、多分貴族が後ろについてるんだろう。いけ好かない親父だが触らぬ貴族に祟り無しだ。さっさと帰ろうぜ、意地を張るなよ、お嬢。

「残念ですがそうは行きません。バルツァー船長、協力していただけないのなら貴方達には全員ここで死んでもらいます」
「!」

おいおい、何言ってんだよ、正気か、お嬢? ワーレン少佐もギョッとしているぜ、頭大丈夫か?
「何を馬鹿なことを言っている。我々を全員殺すとはどういうことだ?」
バルツァー船長が顔を真っ赤にしてヴァレンシュタイン中佐を怒鳴りつけた。全く同感だ、もっと言ってやれ。

お嬢は穏やかに微笑みながらバルツァー船長を見ている。やばいよ、これ。どっかおかしいんじゃねえの?
「交易船パラウド号は海賊に襲われ、乗組員は全員死亡、積荷も奪われ、船は海賊の攻撃により跡形も無く爆発、そういうことです」

「馬鹿な、何を言っている。お前達が臨検しているという事はオーディンに知らせたのだぞ」

「なるほど雇い主はオーディンですか、まあもうどうでも良い事ですが……。海賊は第一巡察部隊の名を騙ったのですよ、バルツァー船長。臨検と称してパラウド号に乗り込み貴方達を皆殺しにして積荷を奪った。本物の第一巡察部隊が来たときには海賊は既に立ち去りパラウド号の残骸しか残っていなかった。大変残念です」
「……ざ、残念だと」

残念じゃねえよ! 全員皆殺しって何だよそれ。笑いながら言う事か? 頭おかしいぞ、お嬢。バルツァー親父が顔を青褪めさせて抗議している。ワーレン少佐がお嬢を止めに入った。

「ヴァレンシュタイン司令、いくらなんでもそれはやりすぎです。もう彼らも分かったでしょう。こちらの取調べに協力するはずです」
そうだよ、その辺で勘弁してやれよ、お嬢にしては良くやった。それは認めるからさ。

「甘いですね、ワーレン少佐」
げっ、何言ってんだよお嬢。ワーレン少佐に“甘い”! 気でも狂ったか? 早く謝るんだ! ワーレン少佐もむっとしてるぞ、どうなってもしらねえぞ!

お嬢とワーレン少佐が話をしている。段々ワーレン少佐の顔が強張ってきた。おいおいワーレン少佐が負けてるよ、嘘だろ。二人が近づいて小声で話している。ワーレン少佐の顔が青褪めてきた。

やばいよ、ワーレン少佐が青褪めるって一体どんな話だよ。俺は隣に居る奴の顔を見た。こいつも青褪めている。いや、全員不安そうにしている中で、お嬢だけが笑みを浮かべている。おかしい、どっかおかしいぜ、これ。

「何だ、一体、何故俺を見る? 俺をどうするつもりだ」
「いえ、ワーレン少佐が乗組員全員を殺すのは嫌だと言うのですよ。ですから誰か一人に全ての罪を背負って死んで貰おうと言っているんです」

今度はバルツァー船長に全ての罪を擦り付けて終わりにしようとお嬢が言い出した。
“冗談は止めろ、そんな事が許されるのか”
“ふ、ふざけるな、そ、そんな事が、ゆ、許されると思っているのか”

バルツァー親父は抗議しているけど誰も彼を助けようとはしない、ワーレン少佐も沈黙したままだ。そんなバルツァー船長をお嬢は冷笑を浮かべながら見ている。怖いよ、こいつ、マジで怖い。

「貴官の名前は?」
え、俺? いきなり何? 勘弁してくれよ。
「ヨ、ヨハン・マテウス二等兵です、ヴァレンシュタイン司令」

「マテウス二等兵、私はバルツァー船長が嫌いなのですが、貴官はどう思います?」
「は、はい、小官も嫌いであります」
もちろん嫌いだよ、お嬢が嫌いな物は俺も嫌いだ。ピーマンもレバーも嫌いだし、好きなものはココアと甘いものだ。俺はお子様でいい。

「気が合いますね、マテウス二等兵。名前と顔はしっかりと覚えましたよ」
「はっ、有難う御座います」
覚えなくて良いから、御願いだから覚えないでくれ。それとニコニコ笑うのは止めてくれよ、怖いんだよ、あんたの笑顔。マジで怖いんだ、小便チビリそうだよ。

「ところで、私はバルツァー船長は死ぬべきだと思っているのですが貴官はどう思います?」
バルツァー船長がギョッとした表情になって俺を見ている。何てこと訊くんだよ、勘弁してくれよ。俺が自分も同感ですって言ったらどうなんだよ? この人殺されちゃうの? 一生俺トラウマになるぜ。ワーレン少佐、助けてくださいよ。

「ワーレン少佐が気になりますか、マテウス二等兵。大丈夫ですよ、ワーレン少佐はもう直ぐ昇進して異動です。遠慮せず、本当の事を言ってください」

お嬢が優しい声で話しかけてくる。怖いよ、何だよそれ、俺達の事怒ってるの? お嬢って呼んで馬鹿にしてるって……。ワーレン少佐が居なくなったらどうなるか分かってるのか、そう言う事? 今自分に味方すれば許してやるがどうする? そう訊いてんの? 勘弁してくれよ。

「ヴァレンシュタイン司令」
ワーレン少佐が止めに入ってくれた。助かった、有難うございます、ワーレン少佐。少佐は命の恩人です。マジで感謝です。

そこから先はお嬢がバルツァー船長を脅しまくって終わった。軍人よりも犯罪者のほうが似合いそうな脅し文句だった。バルツァー船長は最後は泣きながら許してくれと懇願して、中佐は“興が冷めました”と言ってバルツァー船長をいたぶるのを止めた。つまらなさそうだった。

多分、お嬢の本当の狙いはバルツァー船長じゃない。お嬢を見くびっていた俺達乗組員を脅し上げることだ。自分を見くびるとどうなるか、バルツァー船長を見てよく覚えておけ、そう言いたかったんだと思う。実際パラウド号に行った連中は皆お嬢に怯えていたからな。きっとそうに違いない。


帝国暦484年 7月15日  オーディン  ヨハン・マテウス


「やったじゃない、昇進ね、ヨハン」
「うん」
オーディンに帰ってくると、俺達を待っていたのは昇進だった。何といっても皇帝陛下の財産を不届きな盗賊から守ったんだ。当然と言える。俺は二等兵から一等兵に昇進した。姉も喜んでくれた。

「ねえ、サイン貰えないの」
「無理だよ、姉さん。前にも言ったけどヴァレンシュタイン中佐は艦長兼司令で忙しいんだ。サインくださいなんて言えないよ。仕事の邪魔しちゃいけないだろう?」
「うーん、残念」

残念そうな姉の表情を見ると胸が痛んだ。ごめん、姉さん。でも中佐のサインなんか貰っちゃ駄目だ。呪われるぜ、絶対祟りがある。一生結婚できないとか、三代先まで早死にするとか。中佐は山猫にくれてやれよ、その方が絶対幸せになれるから。

「ねえ、俺達中佐を除いて全員昇進したけどさ、中佐はどうなるの。勲章貰ったみたいだけど」
「中佐の昇進は十月よ、人事異動に合わせて昇進するの」
「?」

「昇進が早すぎるから本人のためにならないって言う事。凄いわよね、昇進が早すぎるなんて」
「へー」
確かに凄い。俺も一度で良いからそういう扱いを受けてみたいもんだ。

「多分異動もあるんじゃないかな、何時までも巡察部隊にはいないわね」
「そうなの」
「そうよ。今年はサイオキシン麻薬の後始末で外征はなかったけど来年は有るわ。多分中佐も出征するんじゃないかしら」
「……」

「あんた、まだ前線に出たいの?」
「いや、俺は巡察部隊で良いよ。前線は中佐みたいな人に任せるさ」
「そうね、あんたみたいな凡人はそれが一番よ。今の世の中、生き残るのは大変なんだから」

そう言うと姉はクスクス笑い出した。正直面白くはなかったけど、姉の言う事が幾分か分かるような気がした。あんな化け物みたいな人間の居るところには近づきたくない。命が幾つあっても足りはしないからな。中佐が異動になるなら俺は巡察部隊でいい。平穏なのが一番だ……。


 

 

NO.1、再び(1)



帝国暦485年12月28日  帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー



「はーっ」
溜息が出た。私の目の前には山積みになった書類が有る。第六次イゼルローン要塞攻防戦で消費した物資、要塞補修のための物資の要求だ。この書類を今日中に片付けなければならないと思うとウンザリする。

今年もあと少しで終わるというのに仕事は少しも減らない。多分明日にはまた同じような物資の要求書が山積みになっているだろう。それを思うとどうにも気が滅入ってしまう。私の心はどんよりとした今日の天気のようだ。明るくなる兆候など何処にもない。

こんな事じゃいけないのは分かっている。幸い兵站統括部第三局第一課長のディーケン少将は朝から軍務省へ出かけているから咎められる事は無い。彼以外にもここには士官がいるが皆私達下士官におんぶに抱っこのボンクラ士官だ。私達に注意など出来るはずもない。

それを良い事に私は眼の前の書類をただ眺めている、しかし気合いを入れて仕事に取り掛からなければいずれ書類は増え続け収拾がつかなくなるのも分かっている。分かってはいるのだが……。

私達兵站統括部第三局第一課の職員にとってはイゼルローン要塞攻防戦は悪夢だ。例え勝っても、いや勝つのが当たり前なのだがそれでも悪夢だ。皆が勝利に浮かれている時に私達だけが書類に埋もれ悲鳴を上げている。出来る事なら戦争は反乱軍の勢力内に踏み込んでやってほしい。

視線を少しずらすと写真立てに彼が映っていた。優しい笑顔でケーキを食べている。少し心が和んだ。私の心の安定剤……。彼がいなくなってからもう三年が経つ。あの時もイゼルローン要塞攻防戦の後始末で忙しい時だった……。要塞攻防戦は悪夢だ。少しも良い思い出が無い。また溜息が出た。

「どうしたの、アデーレ。溜息なんて吐いちゃって」
振り返ると私の後ろにはコルネリア先輩が立っていた。
「コルネリア先輩……、毎日が虚しくて」
コルネリア先輩に虚しさを訴えると先輩は蒼い瞳は優しく和ませた。

「困ったわね、貴女ももう軍曹になったのだから少しは立場を自覚してもらわないと。貴女の背中を見ている部下もいるのよ」
「それは分かっていますけど……」

私もコルネリア先輩も軍曹に昇進している。先輩は二年前、私は今年だった。何人かの部下も付けられ指導しなければならない立場だとは分かっている、でも……。また溜息が出た。

「あらあら、また溜息。そんな調子じゃヴァレンシュタイン准将(ぼうや)に笑われるわよ」
苦笑交じりにからかわれても私の心は全然浮き立たなかった。
「笑われても良いです。ここに居てくれるなら……」

本当にそう思う、准将がここに居てくれたらどんなに楽しいだろう。つらい仕事も喜々として片付けられるに違いない。兵站統括部、五年前までここは不毛な砂漠地帯だった。でもヴァレンシュタイン少尉が配属され青く潤いに満ちたオアシスになった。誰もが皆彼がいる事を喜び、彼と仕事が一緒に出来る事を楽しんだ。でもその黄金の日々も二年と続かなかった……。

今の彼は宇宙艦隊司令部の作戦参謀として軍主流を歩むエリートだ。今回のイゼルローン要塞攻防戦でも大活躍をしたと聞く。おそらく少将に昇進するのは間違いないだろう。このまま作戦参謀として司令部に居るのか、或いは何処かの艦隊の参謀長、分艦隊司令官になるのか、彼の目の前には眩い未来が待っている。

ヴァレンシュタイン准将が落ちこぼれの兵站統括部に戻って来ることは間違ってもない。准将、お願いですから宇宙艦隊司令部の牝犬どもに騙されないで……。あの牝犬どもは殆どが宇宙艦隊に恋人を持っているんです。そして出兵の度に寂しいと言って彼氏に内緒で浮気している、最低の尻軽の軽薄女なんです。 私は准将の貞操が心配です。

「しょうがないわねぇ。……そう言えば今度ここに異動してくる士官がいるみたいよ」
「異動? ここにですか?」
「ええ、ハインツがそう言っていたわ。もっとも誰が異動になるのかは教えてくれなかったけど」

先輩が少しでも私の心を浮き立たせようとしているのが分かった。有難い事だ。
先輩の恋人は人事局に勤めている、その言葉に間違いは無いだろう。でも良いのかな、そんな事言っちゃって。 個人を特定したわけじゃないから良いのかな。それにしてもこの時期に兵站統括部に異動? どうも腑に落ちない。

「ディーケン課長、最近軍務省に行く事が多いでしょう、どうもそれの件らしいわよ」
「でもこの時期に異動ってどういう事でしょう」
私が問いかけるとコルネリア先輩が“ああ、ごめんなさい”と笑顔で答えた。

「今回のイゼルローン要塞攻防戦の論功行賞よ」
「論功行賞? まだ艦隊は戻ってきていませんけど……」
艦隊が戻るまで後四、五日はかかるはずだ。
「急いでいるみたいね」
「急ぐ?」

私の言葉に先輩が頷いた。生真面目な顔だ、いつものにこやかな先輩の顔じゃない。
「軍は次の戦いを考えているらしいわ。最近勝ち戦が続いているからたたみ掛けようというのね。艦隊が帰還すると同時に新しい人事が発令されるみたい」
「そして戦争準備ですか……、ますます忙しくなりそう」

また溜息が出た。イゼルローン要塞への物資の補給、次期出兵に伴う補給、どちらも楽じゃない。その上新しく配属される士官の世話……。勝ち戦なのにここに異動してくるのだ。余程のドジを踏んで使えないと判断されたのだろう。そんなのが来ても足手まといになるだけだ。

「まあ嘆いていても仕方ないわ、ぐずぐずしてると書類に埋もれるわよ」
「そうですね。今日も残業かな」
「頑張りましょう、お互いにね」
そう言うと先輩は笑みを浮かべて私の肩を叩いた。先輩って癒し系、有難うございます……。



帝国暦486年 1月 2日  帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー



「アデーレ、アデーレ」
「どうしたんです、コルネリア先輩」
お昼休み、食事を終えまったりとしている私のところにコルネリア先輩が血相を変えてやって来た。どうしたんだろう、こんな先輩は見た事が無い。

「何落ち着いてるの、貴女。人事発令、見た?」
「いいえ、見てません」
「何やってるの、ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が戻って来るわよ」
「えーっ」

私だけじゃなかった、彼方此方で驚きの声が上がる。慌てて軍のホームページから人事発令を確認する。マウスのキーの動きが遅い! なんて苛立たしいの! 兵站統括部は発令リストの中でも一番最後だ。それだけで軍内部での兵站統括部の位置が分かる。ずっと探していくと……、有った!

エーリッヒ・ヴァレンシュタイン少将 現職:宇宙艦隊司令部作戦参謀 新職:兵站統括部第三局第一課長補佐。

戻ってくる、私達のナンバー・ワンが戻ってくる! でも課長補佐?
「先輩、課長補佐ってどういう事でしょう?」
「さあ、どういう事かしら」
私が首を傾げると先輩も首を傾げた。

役職の階級から言えば課長の下は係長、その下が主任になる。課長補佐という役職が無いわけではない、本来は課長と係長の間に有り、課長の職務を補佐するのが役目だ。もっともかなり中途半端な地位で課長昇進までの一時的なポスト、或いは定年間近の人が箔付けのために就いたという。現在では長い戦争による人員不足から置かれていない。

「一時的なポストでしょうか、先輩」
「それともずっとそこに置くのかしら……」
一時的なポストなら兵站統括部に置く必要は無いはず、だとするとずっとここに置くのだろうか? つまり左遷? でも今回の戦いでは大功を挙げたと聞いているけど……。戸惑いながら先輩に視線を向けると先輩も困った様な表情をしている。

「分からないですね」
「そうね、分からないわね。課長なら知っていると思うけど……」
そう言って先輩はディーケン少将の席を見た。少将は席に居ない。多分外に食事に行っているのだろう。

ディーケン少将が部屋に戻ってきたのはお昼休みが終了する直前だった。そして私達が尋ねるより早く課員を集めるとヴァレンシュタイン少将が第一課に戻ってくる事を話しだした。もしかすると外に食事に出たのは昼休み中に詮索されることを嫌ってのことかもしれない。

「既に人事発令を見て知っているかもしれないが、今度ヴァレンシュタイン少将が兵站統括部第三局第一課に配属されることになる。此処には五日から出仕する筈だ。役職は課長補佐、私の補佐をしてもらう」
課長の言葉に皆が顔を見合わせた。やはり補佐というのが皆引っかかっている。

「アダー軍曹、ヴァレンシュタイン少将と副官、フィッツシモンズ大尉の机と椅子を用意して欲しい」
「はい、分かりました」
「以上だ、皆仕事に戻ってくれ」

そう言うとディーケン少将は机に戻り書類を見始めた。食えない人だ、私達が何を知りたがっているかなど百も承知だろう。それなのに素知らぬふりで仕事をしている。もっとも人事の裏事情など簡単に話せるものではないだろうし、聞くことも出来ない。

「さてと、机と椅子を用意しないと……。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)の机は課長の隣ね、副官の大尉の机は少し離れたとこに置かないと」
コルネリア先輩が指で場所をさしながら呟いている、ぼうやか……、先輩は少将を何時もぼうや呼ばわりして困らせていたっけ……、またあんな日が来るんだ……。でも今度はお邪魔虫の副官が居る。

ヴァレンシュタイン少将は将官になった時、副官を採用している。ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ中尉、いや昇進しているから大尉か……。名前で分かるけど帝国人じゃない、ヴァンフリート星域の会戦で反乱軍から亡命してきた女性士官だ。

少将よりも年上でかなりの美人らしい。二人が並んでいるととても目立つと聞いたことが有る。フィッツシモンズ大尉は亡命者だから帝国の事はよく分からない、そのため少将が何かと世話を焼いているという話も聞いたことが有る。面白くは無いが少将は優しいし、副官を気遣うのは止むを得ないと思う。だからそれは我慢できる、我慢できないのはその女が戦場にまで付いていくことよ!

反乱軍では帝国軍と違い女性も士官学校に入学し士官として前線に出て戦っている。彼女もそんな女性士官の一人だ。今回の戦いでも最前線まで付いて行ったと聞いた時には眩暈がした。なんて羨ましいんだろう、最前線で少将と一緒に戦うなんて。戦っている少将を一目でいいから見たい、どんな活躍をするのか知りたい、ずっとそう思ってきたのに彼女はいつも一緒なのだ!

どんな女性なのか確認しなくては……。少将の足手まといになる様な女性ならいかなる手段を取っても排除する。でもその前に、この人事の裏事情を確認する事が必要だわ。まさかと思うけど彼女がこの人事に絡んでいる可能性もないとは言えないのだから……。




「どうもシュターデン少将と上手くいってなかったようね」
「シュターデン少将?」
私の問いかけにコルネリア先輩が頷いた。そしてクッキーを一つ口に入れると満足そうに頬を綻ばせた。確かにここのクッキーは美味しい。

私と先輩は今兵站統括部の近くに有る喫茶店に居る。ここで先輩の恋人と待ち合わせだ。彼から今回の人事異動の経緯を教えてもらおうと言うのだけれど……、先輩、情報収集が早いです。何時の間にか今回の異動に関する噂を調べてる。

「宇宙艦隊司令部では結構力を持っているようね。ブラウンシュバイク公と繋がりが有るらしいわ」
「じゃあ軍では有力者なんですね」
先輩が頷いた。
「まだ階級は低いけどね、無視できる存在ではない、そんなところかしら」

ブラウンシュバイク公か……、平民出身の少将を左遷する事なんて簡単だろうな、可哀そうに……。ブラウンシュバイク公に睨まれた以上この先の出世は有りえない……。これからはずっと兵站統括部か……、傷付いてるだろうな、落ち込んでるかもしれない。傷心の少将を私が慰めてあげなきゃ……、ちょっと嬉しいかも。だとするとやっぱりあの副官は邪魔よ!

「宇宙艦隊司令部に知り合いがいるんだけれど随分酷かったらしいわよ」
「酷いって言うと?」
「出兵計画を練る時も何かにつけてネチネチ嫌味を言ったらしいわ。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)は相手にしなかったらしいけど……」

上等じゃないの、シュターデン。バックにブラウンシュバイク公が付いてるからって良くも少将を苛めてくれたわね。あんたは私を、兵站統括部を敵に回したわ、あんたの補給要請は最大限後回しにしてあげる。私が飲んでるこのコーヒーみたいに不味くてどす黒い気分にしてあげる。

「何故そこまで嫌うのでしょう? ヴァレンシュタイン少将が平民だから、ですか?」
「うーん、ジェラシーじゃないかしら。ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が宇宙艦隊司令部に行ったのはミュッケンベルガー元帥が要請したからだっていう話だし、元から司令部にいた人間にとっては面白くないわよね」
「なるほど、そうですね」

ヴァレンシュタイン少将には後ろ盾が無い。司令部に呼ばれたのは純粋に実力を買われての事だろう。元から居た参謀達にとっては、特に縁故を利用して司令部に居る人間には面白くないに違いない。辛かっただろうな、この国では平民が有能だと言うのは決して本人のためにはならない。むしろ凡庸な方が安楽な一生を終える事が出来る……。

ドアが開く音がして視線を向けるとコートを着た男性がこちらに歩いて来るのが見えた。長身、明るい茶色の髪、整った顔には感じの良い笑みが浮かんでいる。ハインツ・ブリューマー少佐、先輩の恋人だ。

「待たせてしまったかな」
「大丈夫よ、今日はアデーレが居てくれたから」
「それは良かった」
ブリューマー少佐がにっこりと私に微笑んできた。私も笑顔を返したけど正直複雑だった。どうして良い男って恋人がいるんだろう。

ブリューマー少佐がコートを脱ぐと先輩の隣に座りコーヒーを頼んだ。
「それで、俺に話しと言うのは何かな?」
先輩がチラっと私を見てから少佐に話しかけた。
「ヴァレンシュタイン少将(ぼうや)だけど課長補佐っておかしくないかしら?」
「少将閣下に対してぼうやは止せよ、上官侮辱罪で罰せられるぞ」
顔は顰めているが笑いを含んだ言葉に先輩が肩を竦めた。凄い、ぼうやで話が通じるんだ。二人だけの時はそう呼んでいるのかもしれない。

「左遷ですか?」
私が問いかけるとブリューマー少佐が笑い出した。
「まさか! どうしてそんな事を考えるんだ」
「違うの、ハインツ」
「もちろんだよ」
お願いです、私の前でイチャつかないで下さい。ムカつくよりも悲しくなる。

「今回の異動はヴァレンシュタイン少将の希望によるものなんだ。それを受けてミュッケンベルガー元帥からエーレンベルク元帥へ、そしてハウプト人事局長に少将の席を兵站統括部に用意するようにと指示が有った」
意外な言葉だ、先輩も目を丸くしている。少佐がそんな先輩を可笑しそうに見ている。

「少将は元々あまり体が丈夫じゃない。それなのにヴァンフリート以来かなり無理をしているからね。今回の戦いでも体調を崩したことが有ったようだ」
「それで兵站統括部に異動を希望したんですか」
少佐が頷く。

「少将はずっと兵站統括部にという思いなのかもしれないがミュッケンベルガー元帥はそうは考えていない。あくまで一時的なものと捉えている。だから人事も課長補佐という中途半端なものになったんだ。もし本当に兵站統括部に戻すなら何処かの課長にしているよ」

なるほど、そういう事か……。ミュッケンベルガー元帥は少将を宇宙艦隊司令部に戻すつもりでいる。兵站統括部に居るのはあくまで一時療養ということ、だから役職も課長補佐にした、いつでも異動できるように……。ヴァレンシュタイン少将は左遷されたわけではない。ほっとしたけど少し寂しい、また宇宙艦隊司令部に行ってしまう……。

「ではシュターデン少将と仲が悪くて追い出されたんじゃないの? シュターデン少将は宇宙艦隊司令部では力が有るんでしょう?」
先輩が納得がいかないという口調で尋ねたが少佐は苦笑を浮かべた。

「そんな事は有り得ないよ、コルネリア。ヴァレンシュタイン少将はヴァンフリートでもイゼルローンでも大功を立てた。勝つことが出来る用兵家であることを証明したんだ。それを左遷なんて事をしたらミュッケンベルガー元帥は周囲から不信を買うだろう」
「……」

「それに今回シュターデン少将は昇進しなかった」
「……」
思わず先輩と顔を見合したが先輩も驚いている。この大勝利で司令部要員が昇進しない? 有り得ない、どういう事? 少佐に視線を戻すと少佐が軽く頷いた。

「ちょっと問題が有ったようだね、ミュッケンベルガー元帥の不興を買ったようだ。シュターデン少将のミュッケンベルガー元帥に対する影響力は大きくは無い、人事に介入なんて無理だよ。せいぜい出来ても嫌がらせ程度だ」
少佐は笑っているけど笑いごとじゃありません。嫌がらせでも十分にムカつきます。

「今回、ヴァレンシュタイン少将は兵站統括部に異動はしたが次期出兵計画の立案には携わる事になっている」
「そうなんですか?」
そんな事、ディーケン課長は一言も言わなかった。あの狸爺い。

「それに今回の人事でミューゼル少将が中将に昇進した。率いる艦隊も一万隻を越えるし参謀長にはケスラー准将が配属された。次の遠征にも参加することが内定している」

「ミューゼル少将、いえ中将ってグリューネワルト伯爵夫人の弟でしょう?」
先輩の言葉に少佐が頷いた。グリューネワルト伯爵夫人の弟、皇帝の寵姫の弟。まだ二十歳になっていないのに、碌に功績もあげていないのに中将……。話を聞くだけでムカつくわね!

「ミューゼル中将を次の遠征にとミュッケンベルガー元帥に推薦したのがヴァレンシュタイン少将だ。ケスラー准将を参謀長に推薦したのもね」
先輩が目を丸くして驚いている。多分私も同じような表情だろう。少佐の言う事が事実ならヴァレンシュタイン少将はミュッケンベルガー元帥に強い影響力を持っていることになる。なんて凄いんだろう!

「まあそういう訳だから、少将への心配なら無用だよ。いずれは宇宙艦隊司令部に呼び戻されるだろうからね。帝国でもっとも期待される若手士官だね」
帝国でもっとも期待される若手士官……、誇らしいんだけど少し寂しい。さっきまでは左遷じゃないかと心配したけど今では何時かは兵站統括部からまた去ってしまうと落ち込んでいる。私、本当はどうしたいんだろう……。



 

 

NO.1、再び(2)

帝国暦486年 1月 5日  帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー



今日はいつもより早く職場に出仕した。何と言っても今日はヴァレンシュタイン少将が初出仕する日なのだ。出仕してくる少将を出迎える形で今日を迎えたい。そう思って早く出仕したのだけれどそう考えたのは私だけじゃなかったようだ。私以外にも多くの女性下士官が妙に早く出仕している。

少将が出仕したのは就業開始十分前だった。後ろに背の高い赤毛の女性を連れている。女の私から見ても結構美人だ。おそらくはフイッツシモンズ大尉だろう。一緒に来るなんて、なんて嫌な奴! 少将は部屋に入ると“お早うございます”と挨拶をしてきた。フイッツシモンズ大尉も同じように挨拶してきた。私達も“お早うございます”と挨拶を返す。ちょっと不本意、何であんな女にまで……。

ヴァレンシュタイン少将は課長席に歩を進めるとディーケン少将に話しかけた。着任のあいさつだろう、“宜しくお願いします”と言っている。三年前まで部下だった人間が同じ階級になって戻ってきた。ディーケン少将はどう思っているのだろう。

もしかすると面白くは思っていないのかもしれない。でもヴァレンシュタイン少将はいずれは宇宙艦隊司令部に戻りさらに上に向かうだろう。それを思えば邪険には出来ない、そう考えているかもしれない。或いはここで結びつきを強めておけば後々自分の利益にもなる、そう考えているのか……。

二言、三言話してからディーケン少将がヴァレンシュタイン少将の席とフィッツシモンズ大尉の席を指し示した。ヴァレンシュタイン少将とフィッツシモンズ大尉が席に向かう。

以前より少し背が伸びたかな、でも男性にしてはやはり小柄。カワイイ所は少しも変わっていない。顔立ちは優しいままだしさっき聞いた声も昔のまま変わっていなかった。柔らかく温かみのある声……。嬉しくて涙が出そうになるくらい何も変わっていない。

ヴァレンシュタイン少将がコートを脱いだ。襟に蔓が一つ、肩に線が一つ入っている。帝国軍少将を表す軍服だ。変わったのは軍服だけ……、本当に三年で大尉から少将になったんだ。気が付けば溜息を吐いていた。

「大きくはならなかったけど、偉くはなったわね」
いつの間にか先輩が私の後ろに居た。
「そうですね、本当に立派になっちゃって」
なんでだろう、ちょっと声が湿ってる。さっきまでは変わってないと思ったのに今では凄く変わったような気がする。

「母親みたいな台詞ね、アデーレ。嫁いびりをしちゃ駄目よ、お母さん」
「酷いです、先輩、母親だなんて。それに嫁いびりって一体なんですか?」
「分からないの? フィッツシモンズ大尉に意地悪をしちゃ駄目よって言ってるの。彼女はヴァレンシュタイン少将(ぼうや)が選んだ副官なんだから、少将に嫌われるわよ」
「……そんな事、しません」

釘を刺されてしまった……。分かってます、我慢します。あの副官は好きになれそうにないけどヴァレンシュタイン少将に嫌われたくは無い。そのためならどんな我慢だって出来ますとも……、多分……、きっと……、我慢しなくちゃ。また溜息が……。以前の溜息は虚しさが溢れたけど今日は切なさが胸に溢れる。



帝国暦486年 1月12日  帝都オーディン 兵站統括部第三局第一課 アデーレ・ビエラー



兵站統括部第三局第一課に四人の士官が入ってきた。皆若い、二十歳前後が二人、二十代半ばが一人、一番年長らしい一人も三十代前半だ。二十歳前後の一人は金髪の凄い美男子だけどちょっと冷たそうな感じがする。

あれはミューゼル中将ね、となるともう一人の赤毛の若いのはいつもくっいているという噂の副官か。あとの二人、二十代半ばの士官は長身で優しそう、三十代の男性も誠実な感じで好感が持てる。あまり軍人ぽくないな。どうして他の部署には良い男が居るんだろう、兵站統括部にも少しは資源を分けて欲しいわ。

「エーリッヒ」
背の高い士官がヴァレンシュタイン少将に声をかけた。名前を呼んでいる、顔には笑みが有るし明るい声だ。その声を聞いた少将も嬉しそうに声を上げた

「ナイトハルト」
少将が席を立って彼のほうに行く。歩く速度が速い、そして少将の顔にも笑みが有る。余程親しいらしい。 ナイトハルトと呼ばれた士官の階級は准将だ。二十代半ばで准将! 少将程じゃないけどこの人も出世が早い! 好青年で能力も有るなんて最高!

「どうしたんだい。こんなところへ」
「卿に頼みたいことがあってね」
「そちらも一緒かな?」
「ああ」
少将と准将が笑みを浮かべながら話をしている。映えるなあ、第三課の女子課員達は皆五人を見ている。

「応接室が空いている。そこで聞こうか」
「有難う、エーリッヒ」
「久しぶりだね、ナイトハルト。准将に昇進か。おめでとう」
少将達が歩き始めた。少将とナイトハルトと呼ばれた准将は楽しそうに話している。士官学校で同期生なのだろう、年恰好からしてそんな感じだ。

「有難う、エーリッヒ。卿も少将に昇進だ。おめでとう」
「ああ、有難う。ところで何処に配属になったんだい」
「ミューゼル閣下のところだ。もっとも二百隻ほどの小部隊だが」
「これからさ、まだ最初の一歩だろう」
「そうだといいね」

准将で二百隻、若いけど艦隊指揮官として将来を期待されているという事かな。ミューゼル中将の配下ということは次の戦いにも参加するということよね。勝てば少将に昇進か。いいなあ、出来る若手士官か……。

応接室に入ったのは少将とミューゼル中将、それからナイトハルトと呼ばれた士官と三十代の士官だった。赤毛の副官は応接室に入らなかった。フイッツシモンズ大尉が相手をしている。楽しそうだな、羨ましい、というかズルい。

なんで彼女ばかり良い男が傍にいるのよ。やっぱり偉い人、将来有望な人の傍にいないと駄目なんだ。傍に居ればその人の友人とか知り合いと親しくなるチャンスが有るんだから。少将、お願いです、私も傍においてください。

少将達の話し合いは三十分程で終わった。ミューゼル中将達が帰った後、少将とフイッツシモンズ大尉が話をしていた。少将は軽く苦笑を浮かべていたけど大尉は釈然としない様子だった。一体何を話してたんだろう。

少将が兵站統括部に来てから一週間が経っていた。兵站統括部第三局第一課はこれまでになく活気に満ちている。イゼルローン要塞への補給物資の手配などで忙しいのだが、皆それを苦にすることなく業務に励んでいる。やっぱり職場に華が有ると違うわよね。見てるだけで心が洗われる気分よ。それに少将のおかげで今はとても仕事がし易くなっている。

ヴァレンシュタイン少将の仕事は二つある。一つはディーケン課長の下へ行く書類の事前審査だ。私達が作成した書類は先ずヴァレンシュタイン少将の下に行く。少将は書類を審査し三つに分類している。一つ目は何の問題も無い書類。二つ目は少将では判断できない物、これにはその理由を記したメモを添えてある。三つ目は明らかにミスが有る物……。

一つ目と二つ目はディーケン課長の下に行く。一つ目については課長がサインをして終了。二つ目については課長が判断理由をヴァレンシュタイン少将に説明する。問題無ければサインをしてくれるがそうでなければディーケン課長は書類を私達につき返してくる。三つ目についてはヴァレンシュタイン少将がおかしな点をメモに記して私達に返却する。

フィッツシモンズ大尉は審査の過程で少将が疑問に感じた点の確認をしている。過去、どのように処理しているか? 本来であればどのように処理すべきなのか? 軍の規程などを調べ少将に報告している。書類の量が多いから結構大変そうだ。補給業務に精通させるとともに管理する能力を付けさせようとしているのだろうと皆で噂している。ただのお飾りにするつもりは無いらしい、当然よね。

少将のもう一つの仕事はクレーム対応だ。兵站統括部第三局第一課は補給業務を扱う部署だけど時折その補給業務についてクレームをつけてくる人間がいる。“補給が遅い”、“こちらが要請した物と違う”、“数量が合っていない”等……。大体が向こうの発注ミスなのだ、こちらの責任ではない。

それでも連中はこちらに責任を押し付けようとする。何と言っても兵站統括部は落ちこぼれの集まりだし立場が弱い。そして実戦経験が無いから相手はそれを責めてくる。“所詮後方で仕事をしている人間には実戦の厳しさは分からないだろう、ぐだぐだ言わないでさっさとやれ。こっちは忙しいんだ、書類ごっこに付き合ってられるか”。

直接ここに乗り込んでくる人間もいればTV電話で文句を付けてくる人間も居る。どいつもこいつも居丈高になってこちらを責める。そして私達は何時も泣寝入りだった。悪くもないのに謝って改めて補給の手配をする……。

でもヴァレンシュタイン少将がここに来てからは変わりつつある。クレームには少将が直接対応してくれるようになった。きっかけは出仕二日目に有ったイゼルローン要塞駐留艦隊からの通信だった。

レーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの数量を間違ったのだが自らのミスを認めず口汚く女性下士官を罵る声にヴァレンシュタイン少将が見かねて代わったのだ。本当ならディーケン課長が代わるのだが課長は席を外していた。ヴァレンシュタイン少将は以前ここに居たから状況は理解している。相手は駐留艦隊の補給担当士官、階級は少将だった。


「こちらは補給の申請書通りに送っていますが」
『そんな事はどうでもいいんだ! レーザー水爆ミサイルを直ぐ送れと言っている。大体おかしいとは思わないのか、囮ミサイルの数が多すぎ、レーザー水爆ミサイルの数が少なすぎるだろう!』

相手は自分のミスを認めることなく少将を責めてきた。どうやら相手は少将の事を知らないらしい。あるいはヴァレンシュタイン少将が兵站統括部に異動になったという事を知らないのかもしれない。

担当の女性下士官は少将が責められているのでおろおろしている。私の席は彼女の斜め後ろに有るから振り返れば状況は直ぐ分る。多分後で皆に責められるんじゃないかと心配なのだろう。去年配属されたばかりの新人だ、マリーネ・エックハルト伍長、ヴァレンシュタイン少将の事は噂でしか知らない。

「そうですね、発注時点で気付きそうなものです。それに発注ミスは今回が初めてと言う訳ではないようですね。見直しはしなかったのですか?」
『なんだと!』
ヴァレンシュタイン少将のいう通りよ、この男は発注ミスの常習犯なのだ。痛いところを突かれたと思ったのだろう、スクリーンに映る男は顔を真っ赤にしている。

TV電話に映る相手は居丈高だったけどヴァレンシュタイン少将は気にした様子は無かった。平然というかおっとりした口調で対応している。もっとも内容はちょっと辛辣。一体どんな表情をしているのか、私からは少将の顔は良く見えない、残念! そして少将の後ろにはフィッツシモンズ大尉が……、あんた邪魔よ、私は少将だけを見たいの! 視界に入らないで!

穏やかに話す少将に苛立ったのか、相手はさらに嵩にかかって少将を責めたてた。そして第一課の課員は皆心配そうに少将を見ている。
「改めて申請書を出してください」
『そんな暇は無い! こっちは最前線で忙しいんだ! 一々書類なんぞ作ってられるか! そっちで何とかしろ』

「出来ませんね、そんな事は」
『実戦も知らない奴が生意気を言うな!』
あー、言っちゃった、それは拙いんじゃない。そう思っているとヴァレンシュタイン少将がクスクスと笑い声を上げ始めた。その姿にさらに相手は激高した。

『何が可笑しい!』
「実戦なら知ってますよ、先日の戦いではアイアースにまで行きましたからね」
『アイアース?』
「まだ名前を言っていませんでしたね、小官はエーリッヒ・ヴァレンシュタイン少将です。先日まで宇宙艦隊司令部に居ましたが今は兵站統括部第三局第一課長補佐を務めています」
『……ヴァレンシュタイン……、貴官……』

スクリーンに映る相手の顔が強張った。
「申請書を出してください」
『いや、それは、しかし……』
「分かりました、後はこちらでやります」
『そ、そうか、分かってくれるか』
相手はほっとした表情を浮かべている。マリーネもほっとした顔をしている。これで終わりかな、相手も次からはちゃんとするかな。

「ええ、貴官とこれ以上話をしても無駄だという事が分かりました。後はゼークト提督と話します。ご苦労様でした」
『ゼークト提督? おい、ちょっと……』
抗議する相手を無視してヴァレンシュタイン少将は通信を切った。そして何処かを呼び出し始めた。本当にゼークト提督を呼び出すの? 私は周囲を見たけど皆目を点にして少将を見ている。マリーネはオドオドして泣き出しそうだ。フィッツシモンズ大尉が溜息を吐くのが分かった。

繋がった……、厳めしい、不機嫌そうな顔をした初老の男性がスクリーンに映っている。帝国軍大将だ、軍服の襟には蔓が一つ、肩には線が三つ入っている。イゼルローン要塞駐留艦隊司令官ゼークト大将? 本当に呼びだしたの?

互いに敬礼をすると大将閣下が低い声で話し始めた。
『ゼークトだ』
ゲッ、やはりゼークト提督だ。どうするんだろう。
「兵站統括部第三局第一課長補佐、ヴァレンシュタイン少将です」
『うむ、先の戦いではご苦労だった。で、何の用かな、ヴァレンシュタイン少将』

う、凄い。この不機嫌そうな顔をした提督が少将を労っている。少将が立てた功績はかなりのものなんだ。
「先日、駐留艦隊よりレーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの補給の要請が有りました」
『うむ』

私の目の前のTV電話が着信音を立てた。受信スイッチを押下すると例の少将の顔が映った。
『ヴァレンシュタイン少将を出してくれ』
えっと、どうしよう。そう思っているとヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。

「今ゼークト提督とお話しています。そのまま待たせてください」
「はい」
スクリーンに映る少将の顔が真っ青になった。“ちょっと待て”、“ヴァレンシュタイン”とか喚いている。うるさいな、少将は今ゼークト提督と御話し中なんだから大人しく待ちなさいよ。礼儀知らずは怒られるわよ、受話音量を下げてあげるわ。口をパクパクさせている少将をみて思った、私ってホントに気がきく良い女よね。なんで恋人が居ないのかしら?

声が聞こえなくなったので不審に思ったのだろう、フィッツシモンズ大尉がこちらを振り返った。口をパクパクさせている少将を見て憐れむような表情をしている。そして私を見て一つ溜息を吐いた。何なのよ、それは! 本当に嫌な女ね!

「申請書通り物資を手配したのですが補給担当士官よりレーザー水爆ミサイルと囮ミサイルの数量が間違っていると叱責されました。早急に物資を送りなおせと」
『送りなおせばよかろう』
ゼークト提督は訝しげな表情をしている。多分何でそんなことで連絡してくるんだと思っているのだろう。

「こちらは申請書通り物資を送っています。間違っていたのは申請書そのものなのです。申請書を改めて提出して欲しいと言ったのですが忙しい、そちらでやれの一点張りです。レーザー水爆ミサイルの数が少ないと思わないのかと叱責され、無能扱いされました。しかし申請書にはゼークト提督のサインも有ります。それを疑えと言われましても……」
『……』

ゼークト提督は苦虫を潰した様な表情をしている。まあ無理もないわよね。補給の申請書は補給担当士官が起案し、艦隊司令官が決裁してから兵站統括部に送られてくる。おそらくゼークト提督は碌に内容を確認せずに申請書にサインしたのだろう。

ヴァレンシュタイン少将の言葉はそれを指摘している。カワイイ顔して意外に辛辣なんだから。ゼークト提督が渋い表情をしているのも半分はバツが悪いからだろう。数が少ないと思わないのかという非難はそのままゼークト提督にも跳ね返るのだ。

口パクちゃんが申請書を書きたがらないのも司令官の決裁が必要だからだ。補給の申請書が短期間に二回も来ればゼークト提督も妙だと思うだろう。前回発注ミスが有ったと分かれば当然叱責される。誰だって怒られたくは無い、だからこちらに責任を被せようとする。

私の目の前のスクリーンでは口パクが酷くなった。酸素不足の魚みたいだ。“もう少しお待ちくださいね”とにっこり笑って小声で囁く。ああ、なんて快感なのかしら。こんな快感、エッチしたって味わえない。ヴァレンシュタイン少将、少将は最高です。貴方以上の男性はいません。私を最高の気分にさせてくれる。

「それに申請書の誤りは今回が初めてではないようです。頻繁に誤っているようですし、閣下に知られないようにその責めを常にこちらに押し付けています」
『……分かった、申請書は出しなおさせる。早急に輸送の手配を頼む』

不機嫌そうな表情、面倒くさそうな口調、早く終わらせたい気持ちが見え見えだ。多分補給担当者を呼びつけて叱りつけて終わりだろう。口パクちゃんは顔を強張らせている。可哀想に、こってり絞られるわね……。でもこれも日頃の行いが悪いせいよ、これからは心を入れ替えて頑張るのね……。

これで終わりかな、これからは少しは変わるのかな、そう思った時だった。ヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。ちょっと不本意そうな声だ。
「どうも閣下は小官の懸念がお分かりではないようです」

『なんだと、何が分かっていないと言うのだ』
不機嫌そうなゼークト提督の顔に訝しげな表情が浮かんだ。提督だけじゃない、皆が不審そうな表情をしている。口パクちゃんもだ。一体何が分かっていないのだろう。

「先程も言いましたが申請書のミスはこれが最初ではありません、頻繁に起きています。補給担当士官が自分の任務である補給を満足にこなせない、おかしいとは思いませんか?」
『……』
確かにそうなのよね、粗忽にしてはちょっと多すぎる。

「しかも責任は兵站統括部に負わせることで駐留艦隊司令官の知らないところで補給がなされている。何故自ら申請書を起案しゼークト提督に決裁を取らないのでしょう」
『……何が言いたい』
低い声だ。もしかすると怒ってる? 口パクちゃんは? 口パクちゃんはキョトキョトして落ち着きが無い。何で?

「駐留艦隊に誤って送られた物資ですが、こちらには戻されていません。そちらできちんと保管されているのでしょうか? まさかとは思いますが横流し等の不正が行われているという事は……」
『馬鹿な、そんな事は……』

有り得ない、そう言いたかったんだと思うけど提督は口籠ってしまった。第三課の課員は皆顔を見合わせているし所々で頷く姿も有る。私も有り得る話だと思う。口パクちゃんは真っ青になっていた。あんた、その顔色は有罪よ!

「有ってはならないことだと小官も思います。しかし戦闘中に消費した事にすれば物資の数量を誤魔化すのはそれほど難しくは有りません」
提督が唸り声を上げて考え込んでいる。そしてヴァレンシュタイン少将が気遣うような口調で話しかけた。

「監察が入る前に一度提督の手で調査されたほうがよろしいでしょう。放置して監察が入った場合、不正が無ければ問題ありませんが、そうでなければ提督も責任を問われる事は間違いありません」
『部下の監督不行き届きか……』

忌々しそうな口調だった。口パクちゃんの運命は決まった、例え不正が無くてもイゼルローン駐留艦隊からは追放ね。スクリーンに映った口パクちゃんは首でも吊りそうな顔をしている。次は何処に行くのやら……、此処だったら精一杯可愛がってあげる。ヒールでガシガシ蹴りを入れてあげるわ、楽しみ。いまからヒールの先を磨いておかなきゃ。

「いえ、それだけではありません」
楽しい想像にうっとりしているとヴァレンシュタイン少将の声が聞こえた。言い辛そうな口調でゼークト提督と話しかけている。ゼークト提督が少将を見詰めた。

「申請書は提督が決裁されております。その誤りを見抜けなかったとなれば過失を問われるでしょう。最悪の場合、提督御自身が不正に関与していた、故意に見過ごしたと取られかねません」
『馬鹿な! そんな事は有りえん!』

提督が顔を震わせて否定した。屈辱を感じているのかもしれない。でも少将は首を振って話を続けた。
「小官は提督を信じております。しかし監察がその可能性を無視するとは思えません。先程も申し上げましたが早急に提督の手で調査をされるべきかと思います」

少将は提督を気遣っている。この間の戦争で親しくなったのかな? ゼークト提督が大きな溜息を吐いた。
『……卿の言うとおりだな、直ちに調査を行うとしよう。それと今後の事だが駐留艦隊への補給は私の決裁の有る申請書のみ対応してくれ』
「承知しました」
『うむ、卿の心遣いに感謝する』

互いに敬礼を交わし通信が切れると少将がこちらに身体を向けた。スクリーンに向かうと柔らかく笑みを浮かべた。口パクちゃんは真っ青になってブルブル震えている。分かるわ、多分首の周りが寒いのね。

「聞いての通りです。補給に関してはゼークト提督と調整しました。御苦労様でした」
そう言うと少将は一方的に通信を切った。本当に御苦労様、口パクちゃん。もっとも大変なのはこれからだろうけど。

「フィッツシモンズ大尉、全員に通知してください。今後、駐留艦隊への補給はゼークト提督の決裁を必ず必要とする事。それから理不尽と思われる苦情に対しては私に回すようにと」
「はい」

いいなあ、直接指示を貰えるなんて。そう思っていると大尉が少将に話しかけた。
「先程の少将閣下ですが本当に不正を働いているのでしょうか」
ちょっと納得がいかないと言う口調だ。あんたね、ヴァレンシュタイン少将の対応に文句有るの! 副官でしょ、あんたは!

「さあどうでしょう、何とも言えませんね。ただ今後は補給業務に携わる事は無いでしょうし、駐留艦隊からこちらに無茶な依頼も無くなる事は確実です。それで十分ではありませんか」
少将がクスッと笑うとフィッツシモンズ大尉が呆れた様な表情をした。本当に嫌な女ね。

その後、ヴァレンシュタイン少将の言ったとおりイゼルローン駐留艦隊の補給担当士官は交代した。新しい担当者は妙に低姿勢でヴァレンシュタイン少将に“宜しくお願いします”とか言ってきた。口パクちゃんはどうやら本当に不正をしていたらしい。逮捕されて軍法会議にかけられるそうだ。軍籍の剥奪は免れないだろう。

今回の一件では皆が驚いている。ヴァレンシュタイン少将は駆け引きがかなり上手だ。ゼークト提督を上手く操って駐留艦隊を押さえつけてしまった。何時の間にそんな駆け引きを覚えたのだろう。三年の間に信じられないくらい立派になっちゃって……。本当に母親みたいになってきた、どうしよう……。










 

 

後日談 今日は


帝国暦 489年 2月 27日  オーディン  ゼーアドラー(海鷲)   ハンス・エドアルド・ベルゲングリューン



「なあ、ベルゲングリューン、司令長官は“今日は”と言われたんだ、“今日は”とな」
「そうか」

俺が答えるとビューローは“そうだ”と言ってグラスのワインをぐっと呷った。そしてフーッと息を吐く。酒臭い息だな、かなり酔っているのが分かる。

「その後、ヴァレンシュタイン司令長官は“何でもありません”と言ったんだ」
「そうか」
もう三回目だ。ビューローは大分酔っている。そろそろ引き揚げるとするか、明日も仕事なのだ、深酒は良くない。

「ビューロー、そろそろ帰るか」
「いや、もう少し、もう少し付き合ってくれ、あと一杯だ、な、あと一杯」
「……」

完全な酔っぱらいだ。……仕方無いな、もう少し付き合うか。ワインボトルを持ってビューローのグラスに注いだ。二本目だ、いつもより一本多い。これで最後にしなければ……。

「これが最後だぞ」
「うむ、これが最後だ」
いかん、呂律が怪しくなっている。いや、そう聞こえただけかもしれん……。しかしビューローは酷く酔っている。よっぽど今日は辛かったらしい。

「卿は良いよな、良い上官を持って……。いや、俺はミッターマイヤー提督が悪い上官だと言っているわけじゃないんだ。そういうつもりは全くない!」
「……」
これは二回目だ……、しゃっくりをした……。

「故意に忘れたわけじゃないし、直ぐに研修の申請書を作ってくれたんだからな」
「当然だろう。ミッターマイヤー提督はそんな酷い事をする方じゃない」
「そうだ、そんな方じゃない。それに戦場での指揮は的確だ。まだお若いが間違いなく名将だと俺は思っている」

ビューローが力強く頷いている。気持ちは分かる、だがな、ビューロー、空になったワインの瓶を握りしめながら力説するのは止めろ。その内振り回し始めるぞ、危ないだろう……。口に出して注意した方が良いかな……。

ビューローの言うとおり、ミッターマイヤー提督は名将と言って良い。俺の上官であるロイエンタール提督とは親友なのだが二人の性格は大分違う。ミッターマイヤー提督は天然だがロイエンタール提督は怜悧。よく気が合うなと思う事がしばしばある。

今回の研修の申請書の一件もいかにもロイエンタール提督とミッターマイヤー提督らしい出来事だ。ミッターマイヤー提督はロイエンタール提督に“どうして自分に一言言ってくれなかったんだ”と抗議していたがロイエンタール提督は“当たり前の事で卿に教える事でもないと思った”と平然としたものだった。

もっともミッターマイヤー提督が引き上げた後で苦笑していたから内心では困った奴、とでも思ったのかもしれない。とにかくクールだ。ロイエンタール提督のクールな所は何処となくヴァレンシュタイン司令長官に似ているような気もする。

「でもなあ、ベルゲングリューン。ミッターマイヤー提督はこう言われるのだ、“やっぱり司令長官は卿の事を気にしているのだな、羨ましい事だ”と……、何処が羨ましいのだ? 俺は少しも喜べん、卿なら喜べるか?」
「いいや、俺が卿の立場でも喜べんな」

五年半前、第359遊撃部隊に三人の少佐が居た。ヴァレンシュタイン少佐、ビューロー少佐、そして俺ベルゲングリューン少佐……。ヴァレンシュタイン少佐はミュッケンベルガー元帥、エーレンベルク元帥の秘蔵っ子だった。

俺達はそんなヴァレンシュタイン少佐に反感を持った。能力が有る事は分かったが彼を受け入れる事が出来なかったのだ。変に話しかけて取り入ろうとしているんじゃないかと思われても詰まらんし、司令長官から元帥達に妙な士官が居ると言われるのも御免だった。俺達は碌に話すこともなく過ごした。当然ヴァレンシュタイン少佐も俺達に良い感情は持たなかっただろう。

そして今、ヴァレンシュタイン少佐は宇宙艦隊司令長官ヴァレンシュタイン元帥になり、俺とビューローは正規艦隊の司令部幕僚を務めている。俺はロイエンタール提督、ビューローはミッターマイヤー提督。しかもヴァレンシュタイン司令長官の抜擢によって幕僚になった……。

出世コースなんだよな、どう見ても俺とビューローは出世コースを歩いているとしか思えない。しかし俺達はそれを素直に喜べずにいる。ヴァレンシュタイン司令長官は俺達を嫌っているはずだ。それなのに旗下の正規艦隊の司令部幕僚に抜擢した……。どういう訳だろう、本当に何の意味もないのだろうか……。

「ベルゲングリューン、ヴァレンシュタイン司令長官はな、難しい顔をして書類を見ていたのだ」
ビューロー、お前の方が難しい顔をしているぞ。

「うむ、偉くなるにつれて抱える問題も大きくなるのさ。おかしな話ではないぞ」
出来るだけ気楽に言ったつもりだったがビューローの表情は変わらなかった。

「しかしな、俺が申請書を持って行くと直ぐにサインをしてくれたのだ」
卿、俺の話を聞いているか?
「なるほど、司令長官はサインをしたのだな」
「そうだ、そして“今日は”と言われたんだ」
……四回目だ。

「その後、“何でもありません”と言ったんだよな」
俺が先回りして言うとビューローはちょっと傷ついたような表情をした。いかんな、ビューローを傷つけてしまったか……。しかし、そろそろ切り上げないと……。

「そうだ、“何でもありません”と言ったんだ。本当は何を言いたかったんだと思う?」
俺に聞くな、分かるわけがないだろう。それにビューロー、そんな縋る様な目をするんじゃない。近所で飼っているポメラニアンを思い出すじゃないか。

「さあ、よく分からん」
「お前なんか大っ嫌いだ、顔も見たくない……。そう言いたかったのかな?」
「それは無いだろう」
本当は卿がそう思っているんじゃないか……。

「気分が良くない? 笑わせてもらった? かな……。直属の司令官にも忘れられている哀れな奴……。笑えるよな?」
「そんな事は無い、笑えないさ」
俺が否定するとビューローは生真面目な表情で頷いた。

「そうだよな、笑えないよな」
「……ビューロー」
「大爆笑してしまうもんな、大笑いだ」
そう言うとビューローは大声で笑い出した。いかん、ビューローはかなり自虐的になっている。

「そんな事は無いだろう、考え過ぎだ」
敢えて軽い調子で言ってみたが、ビューローには通じない。笑いを収めると目を据えて問いかけてきた。
「じゃあ、厄日か?」
「それも考え過ぎだ」
「……」

ビューローが唸り声をあげてグラスを睨んでいる。今度はブルドックだな……。
「なあ、ビューロー」
「うむ」
「俺達はちゃんと昇進しているし何処かに左遷されたわけでもない、そうだよな」
俺の言葉にビューローはちょっと間をおいてから頷いた。

「何か他の連中と比べてあからさまに差別されたわけでもない、そうだろう」
「うむ」
「俺達は公平に扱われていると思う。そんなに心配する事は無いんじゃないか」

ビューローは小首を傾げて考えこんでいる。まあ考え込むのも無理もないな、俺も納得していると言うよりはそう思いたがっている部分が強いのだ。司令長官を畏れるのは俺やビューローだけではない。若くして高い階級に有る人間の中にはヴァレンシュタイン司令長官を畏れる者が少なくない。

軍人としての資質に対してだけではなく自分以上に昇進の早い司令長官に不可思議なものを感じるのだろう。自分に自信が有る者ほどそういう傾向が有る。

司令長官の傍近くに居るワルトハイム達もその点では変わらない。普段側に居るからか彼らは司令長官の事を良く知っている。彼らは司令長官を尊敬しているし敬愛してもいるのだがその彼らでも時折畏れを抱くようだ……。

「……そうかもしれん、確かに差別はされていないだろう。……しかし俺達は疎まれているんじゃないかな」
いかんな、また元に戻った。

「バイエルラインだって補給基地には飛ばされなかったし、旧ローエングラム伯の艦隊も新たにシュトックハウゼン提督を司令官に迎えている、艦隊は解体されなかった」
「……」

バイエルラインはともかく旧ローエングラム伯の艦隊が解体されなかった事は皆が驚いた。司令官が反逆者として処断されたのだ。本来なら麾下の高級士官達は何らかの処分を受けてもおかしくは無かったと思う。俺だけでは無い、皆がそう思っていたはずだ。

例え処分が無くとも多少ポストで割を食ってもおかしくは無かった。実際に艦隊は正規艦隊からは外れる事になった。しかし全員昇進したし異動も無かった。司令長官は艦隊には全く手をつけなかったのだ。

今では新司令官としてシュトックハウゼン上級大将が司令官となりいずれはイゼルローン要塞を攻略する事になるらしい。司令長官配下の艦隊としての扱いは全く変わっていない……。

「司令長官は鷹揚な方でそんな根に持つ方ではないのかもしれんぞ。俺達が感じ過ぎなだけなのかもしれん」
「そう思うか」
だからな、ビューロー。その縋る様な目は止めろ。つい頭を撫でたくなるじゃないか。

「少なくとも司令長官は公平な方だし陰険な方でもない。悪い方じゃないだろう」
「……そうだな」
「そうさ、俺達にとってはそれで十分じゃないか」
「……そうだな」
ビューローが幾分困惑した様な表情で頷いた……。

これで一ヶ月位は持つかな。来月の末ぐらいにはまた酒を飲みながら愚痴を零すだろう。今度はどっちかな、最近はビューローが多いから今度は俺かもしれん……。それにしてもあの時の第359遊撃部隊がいまだに祟るとは……、人間どんなところで躓くか分からんな。

五年半前、帝国を揺るがした事件が発生した。サイオキシン麻薬事件だ。一年間、軍が外征を取り止めるほどの大事件だった。軍の一部に辺境の基地でサイオキシン麻薬を密造。軍、そして民間に流す事で利益を上げていた連中が居た。

サイオキシン麻薬が非常に危険な事は皆が分かっていた。警察はサイオキシン麻薬の撲滅に力を入れていたが結果を出せずにいた。当然だろう、事が事だ、誰も軍人がそんな事をしているとは思っていなかったのだ。サイオキシン麻薬の被害は確実に帝国を蝕んでいた。

その事件の摘発のきっかけを作ったのがヴァレンシュタイン大尉だった。大尉は少佐に昇進しそれ以後エーレンベルク、ミュッケンベルガー両元帥の信任を得ることになった。苦い思い出だな、あの頃の事は……。

気が付けばビューローがテーブルに突っ伏していた。
「おい、ビューロー、寝るな、寝るんじゃない」
「……お許しを、お許しを……」
ビューローは突っ伏したまま誰かに謝っている。どんな夢を見ているのかと思うと溜息が出た。また俺がこいつを背負って帰るのか……。酔っ払いって重いんだよな……。

二人で司令長官に謝ってしまおうか。しかし、俺達の気の所為だったらそれこそ笑い話だろう。いや、笑い話なら良い。司令長官に軽蔑されたら……。

“卿らは私の事をそんなつまらない人間だと思っていたのですか”

冷たい視線で見据えられる光景が目に浮かぶ。はーっ、厄介な人だ。怖いし嫌われてるかもしれないから近づきたくは無いんだが、軽蔑はされたくない、どうしたもんだろう……。

もう一度あのころに戻れたら……。



 

 

追憶  ~ オフレッサー ~

 
前書き
少し短めです。 

 



帝国暦 488年 6月17日  オーディン  ヘルマン・フォン・リューネブルク



まだ昼には早い時間だがドアを開けて店の中に入った。あれからもう半年以上が経つが店の中は少しも変わっていなかった。客はそれほど多くない、むしろ空席が目立つ。この店が混むのは後一時間程後の事だろう。店の主人、いや親父だな、彼が俺を見て微かに頭を下げた。ほんの少し、申し訳程度だ。

適当な席に座ると親父がやってきた。相変わらず無愛想なオヤジだ、むっつりとしている。客商売など到底出来そうな男には見えない。オーディンで料理を作るより辺境で樵(きこり)でもやっている方が似合いそうな男だ。
「お待ちしておりました。いつもの奴で構いませんか?」
待っていた? 低くどすの利いた声だった。まじまじと親父を見たがまるで表情を変えない。無言で俺の答えを待っている。

「……ああ、いつもの奴を頼む」
親父は軽く頭を下げると戻って行った。妙な感じだ。いつもの奴か、俺はここに来るのは二度目だ。しかも前回から半年以上が経っている。それなのに親父は俺を常連客の様に扱い俺もそれを受け入れている……。覚えているのだろうか、俺を。……俺とオフレッサーを。

ここに来るのは正直迷った、行くべきだとも思ったし、行くべきではないとも思った。大体俺はここに何をするために来たのだろう? 食事をするためだろうか? あの男の事を思い出すためだろうか? 良く分からない、だが俺は今此処に居る……。

暫くして料理が運ばれてきた。親父が出してきた料理はアイスバインを使ったシュラハトプラットだった。白ワインが一本添えられている。あの時と同じだ、間違いなく親父は俺を覚えている。親父が俺のグラスにワインを注いだ。一口飲む、冷えた液体が喉を潤した。爽やかな酸味と芳醇な香りが口の中に広がる。
「美味いな」

素直に美味いと言えた。かなりの上物だろう、この店には似合わない代物だ。美味いと言った事が嬉しいらしい、無愛想な親父が微かに笑みを浮かべた。
「あの後、オフレッサー閣下がいらっしゃいました。私にこれを預けておくと言われまして……」
「……」
オフレッサーが預けた……。

「もう直ぐ内乱が始まる。先日飯を食ったあの男と闘うことになる。俺が勝つか、あの男が勝つか……。勝った方がこの店に来るだろう、その時、このワインを出してくれと……」
「そうか……」

もう一口飲んだ、やはり美味い。来て良かった、オフレッサーの配慮を無にせずに済んだのだ、間違いでは無かったと思えた。勝者に相応しい、いや勇者に相応しい飲み物と言えるだろう。出来る事ならあの男にも飲んで欲しかった……。

“馬鹿を言え、卿が俺の立場なら降伏するか? 敗者を侮辱するな、勇者として扱え”
“我等の前に勇者無く、我等の後に勇者無し。さらばだ、リューネブルク”
いや、あそこで散ったからこそ飲んで欲しかったと思うのだろう。人は無理な事ほど叶えたいと願うものだ……。あの男が捕虜に甘んじる事など有り得ない。

「オフレッサー閣下と一騎打ちをなされたそうで」
「ああ」
親父がゆっくりと頷いた。
「二、三年前からあの方は嘆いておられました。装甲擲弾兵としての自分は少しずつ衰えていると」
「衰えている?」

「はい、そして願っておられました。自分がヴィクトール・フォン・オフレッサーとして闘える間に思う存分闘える相手と出会いたいものだと。……御辛かったのでしょうなあ、ただ老いていくという事が……」
「……」
親父は遠くを見ている。無愛想な親父の詠歎する様な口調が心に残った。力有る男がその力を発揮する事無く老いていく、その事に苦しんでいる。傍で見ているのは辛かっただろう。親父が俺を見た、穏やかな目をしている。

「喜んでおいででしたよ、オフレッサー閣下は。ぎりぎりで間に有ったと、ヴィクトール・フォン・オフレッサーとして闘えると……。このまま朽ちて行くのかと思ったが大神オーディンは最後に俺の望みを叶えてくれたようだとおっしゃっていました……」
「そうか……」
俺は間に有ったのか……。

“卿とは闘えぬのかと思った。だが大神オーディンは俺を哀れんでくれた。卿が来てくれた時、一騎打ちを望んだ時、俺は嬉しかった。感謝するぞ、リューネブルク。良く此処へ来てくれた”
あの言葉に偽りは無かった。オフレッサーは本当に喜んでいた。しかし、衰えていた? それが事実なら俺が勝てたのは僥倖としか言いようがない。

親父がゆっくりしていってくれと言って厨房に戻った。運が無かったな、オフレッサー。衰えていなければ勝利を収めたのは卿だっただろう。いや、衰えていたからこそ俺と戦いたがったのかもしれない。そうでなければ俺との戦いなど望む事は無かったはずだ。歯牙にもかけなかったに違いない。

食事は美味かった。絶品と言って良いシュラハトプラットと美味い白ワイン。十分に堪能できた。勘定を済ませる時、親父にまた来てくれと言われたが素直に頷く事が出来た。妙なものだ、来るときに有った拘りは綺麗に消えていた。

“このシュラハトプラットを食べて戦場に出る、このシュラハトプラットを食べるために戦場から戻る、その繰り返しだ。人間など大したものではないな、いや、それとも大したことがないのは俺か……”

その通りだ、オフレッサー。人間など大したものではない。詰らぬ事でくよくよ悩み、美味いものを食べれば悩みも消える、そして何を悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しく感じる、その程度の生き物だ。だがそれでも何かに拘る、拘らずにはいられない、それも人間だ……。

卿が俺との一騎打ちに拘ったのもそれだろう。卿は信頼できる上官に出会う事が出来なかった。貴族達からもその血生臭さを疎まれ受け入れられる事は無かった。孤独だったはずだ、だからこそ装甲擲弾兵としての力量に、戦士としての誇りに拘った……。ただ生きて行くのなら不要なものだ、だが人として死んでいくには不可欠なものだったろう。

気が付けば宇宙艦隊司令部に来ていた。司令長官室は今日も喧騒に包まれている。昼休みの筈だがここは静寂とは無縁だ。執務机で決済をするヴァレンシュタインに近付くと彼が俺をチラッと見た、そしてまた決裁に戻る。

「相変わらず此処は賑やかですな」
「ええ、内乱の後始末も有りますが艦隊司令官達が治安維持のために出撃しています。色々と大変です」
大変です、と言いながらも声は明るい。戦争よりも国内の発展に力を尽くせることが嬉しいらしい。妙な男だ、軍人なのに。

「装甲擲弾兵はどうです、掌握出来ていますか?」
「徐々に努めてはおります」
「徐々にですか……。頼みますよ、総監。直ぐに戦争が始まる事は無いと思いますが油断はして欲しくありません。私はこの宇宙から戦争を無くしたいんです」
ヴァレンシュタインが俺を見た。笑みは浮かべているが目は笑っていない。

ヴァレンシュタインの推薦により逆亡命者である俺は装甲擲弾兵の総監に就任した。異例の事だ、帝国始まって以来の事だろう。彼は俺を信頼し、俺を評価し、俺の事を心配もしてくれる。ヴァンフリートで、イゼルローンで、そしてオフレッサーと戦ったレンテンベルクでその事は分かっている。俺は良い上司を持つ事が出来た。

「分かっております、小官も三十年後の宇宙を見てみたいと思っているのです。閣下との約束ですからな」
「そうですね」
ヴァレンシュタインが頷いた。

そう、俺には夢が有る。三十年後の宇宙をヴァレンシュタインと共に見るという夢が。俺だけでは無い、他にも同じ夢を見ている人間が大勢いる。だから俺は孤独ではない、老いて行く事を怖れる事も無い。俺は一人の人間として希望と夢を持ってこれからの人生を生きていけるだろう、三十年後の宇宙を見るために……。





 

 

追憶  ~ 士官学校 ~




帝国暦 489年 6月 15日  オーディン  ナイトハルト・ミュラー



「ここに来るのは久しぶりだ」
「六年ぶり、そんなところかな」
「そうか、そんなになるか。……早いものだな」
地上車を降りたエーリッヒが感慨深げに士官学校を見た。口調は長閑、表情は懐かしげだがエーリッヒの周囲には憲兵隊から派遣された護衛が厳しい表情で周りを警戒している。物々しいと言ってよい雰囲気だ。地球教の騒動が有ったばかりだ、油断はしていない。

今日は士官学校でエーリッヒが講話を行う。この講話だが士官候補生や幼年学校の生徒からは極めて好評だ。これまでは経験豊富なミュッケンベルガー退役元帥、メルカッツ元帥が講話を担当していたがそろそろ若手士官の話を聞きたいという声が学生から上がった。そして俺とエーリッヒが士官学校に来た。

候補生達が気付いたようだ、教室の窓から身を乗り出して俺達を見ている。エーリッヒはマントを羽織っている、誰が来たのかは分かっただろう。少々ざわめいている様だ。授業の妨げになってはいけない、エーリッヒを促して校門をくぐった。校舎に入る前に数人の士官が出迎えに現れた、校長と教官だ。焦っているに違いない、講話の時間より一時間は早く来たのだ。何故? と思っているだろうな。

校長はノイラート中将ではなかった。俺達が卒業した直後に大将に昇進して交代している。考えてみればノイラート校長の時代に今の宇宙艦隊の指揮官の多くが士官候補生として入学した。今の宇宙艦隊を生み出したと言っても良い。もう退役したはずだが俺達の事を如何思っている事か……。

今の校長はノイラート大将と交代した人物だ。コール中将、六十代半ばの士官だがおそらくは士官学校校長を最後に大将に昇進して退役だろう。挨拶を受けるとコール校長から未だ時間が有るから応接室へと誘われたがエーリッヒは行きたい所が有る、校内は良く知っているから案内は不要だと言って断った。

エーリッヒが構内を歩く、懐かしい廊下だ。何処に行こうとしているのか、直ぐ分かった、図書室だ。図書室に入るとエーリッヒは真っ直ぐに或る視聴覚用ブースに向かった。ブースに懐かしそうに触れると椅子に座る。士官候補生時代はいつもこの席に座っていた。

「変わらないな」
「ああ、変わらない。あの頃と同じだ、懐かしいよ」
相変わらずエーリッヒはブースを撫でている。
「そうじゃない、そうしていると卿はあの頃と少しも変わらない」
エーリッヒが“そうかな”と言って小首を傾げた。ああ、少しも変わらないよ、卿は……。

初めてエーリッヒを見たのはこの図書室だった。士官学校に入って半年、ようやく士官学校での生活に慣れた頃だっただろう。随分と小柄な生徒が居るな、と思った事を覚えている。編入生だという事は直ぐ分かった、見た事のない顔だったし十二歳の子供が入って来ると聞いていたから。それにしても予想以上に幼かった。

いつも図書室に居た、そして本を読んでいた。不思議だったな、普通は親しくなる人間が出来るはずだがそんな気配は無かった。特に編入生は後から入って来る事でハンデが有る。その分纏まりが良いんだがエーリッヒはいつも一人だった。年齢が低かったから編入生からも避けられたのかもしれない。

当然だがシミュレーションをする友人も居なかった。士官候補生はシミュレーションゲームをしながら相手を認め親しくなっていく。エーリッヒにはそれが無かった。時折シミュレーションをしていたが対戦相手はコンピューターだった。今思えばかなり妙な生徒だった、完全に孤立していた。

「どうした? 随分と楽しそうだけど」
エーリッヒが俺を見ている。
「楽しそうかな?」
「ああ、さっきからニヤニヤしている。上級大将の顔じゃない、悪戯を思い付いた士官候補生の顔だよ」
いかんな、思い出し笑いをしていたようだ。思わず苦笑が漏れた。エーリッヒも笑った。

「昔の事を思い出していたよ」
「昔の事?」
「ああ、昔の事だ。卿と親しくなる前の事だな」
「なるほど、それは平和な時代の事だな。卿らと知り合ってから碌な事が無かった」
おいおい、真顔で言うなよ。でも確かに卿が来てから退屈はしなくなった。最初の出来事は……。



「哨戒任務中、反乱軍の艦隊と遭遇した。反乱軍の兵力は一万二千隻、帝国軍は七千隻。君達が帝国軍の指揮官だとして、この場合どう対応すべきかを考えなさい」
シュターデン教官がしかめっ面をしている。もう少し普通の顔が出来ないのかな、この人。この人の顔を見ていると気が重くなる。戦術論概説の授業なんだからもう少し面白い授業にしてくれ。まあ設問はシミュレーション演習を想定したものだけど……。クレメンツ教官を見習って欲しいよ。あの人の授業は本当に面白いし分かり易い。

「君、どうかね?」
シュターデン教官が指示棒で候補生の一人を指名した。アドルフ・バーテルスだったな。成績は必ずしも良くない。指名されたバーテルスが顔を紅潮させて起立するのが見えた。
「機先を制して反乱軍を攻撃します」
バーテルスの答えにシュターデン教官が顔を顰めた。望ましい答えでは無かったようだ。

「ふむ、機先を制すると言うがそんな事は反乱軍も考えているだろう。君が機先を制するとは限るまい、私の言っている事は間違っているかね?」
言っている事は間違っていない。でも意地の悪い口調だからな、素直には受け取れない。バーテルスも顔が歪んでいる、屈辱だろう。“席に座りたまえ”と言われてバーテルスがのろのろと座った。この人、大佐だよな。まだ若いし士官学校教官って事はそれなりにエリートなんだろうけどこの人には上官になって欲しくないや。何かにつけて嫌味を言われるだろう、うんざりだ。

「では君は?」
今度指名されたのはリヒャルト・エンメルマンだった。時々話す事が有るが悪い男じゃない。エンメルマンが立ち上がった。上手く答えろよ。
「後退しつつ縦深陣を構築します。反乱軍が攻め寄せてくれば引き摺り込んで攻撃します」
うん、なかなかじゃないのかな。シュターデン教官も頷いている。

「まあそんなところだろう。反乱軍の兵力が多い以上、こちらから積極的に動く事は控えるべきだ。最善は味方に来援を要請し自分は反乱軍を引き止める。味方の来援後、協力して反乱軍を叩く。そんなところだろうな。時間を稼ぐ以上受け身に徹するのが望ましい」
なるほど、確かにそうだ。性格は悪いけど流石は士官学校教官だな。素直に感心した、彼方此方で頷いている人間も居る。

シュターデン教官が満足そうにしている。皆が教官を尊敬の目で見ているのが嬉しいのかな。教室内を見回していたシュターデン教官が視線を一点で止めた。満足そうな表情が消えている。俺もシュターデン教官の見ている方向に視線を向けた。一人の士官候補生が詰まらなさそうにしている。明らかに気の無い表情だ。直ぐに分かった、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン、最年少の士官候補生だ。そしてあの有名な事件の遺族でもある。

「ヴァレンシュタイン候補生、君はどう思うかね」
シュターデン教官の指名にヴァレンシュタインが起立した。表情は無い。
「撤退します」
「撤退?」
撤退? シュターデン教官が驚いている。教室内でざわめきが起きた。皆が驚いていた、俺も吃驚だ。教室の中でヴァレンシュタインだけが平静な表情をしていた。なんでそんな事が言えるんだ? 戦意が足りないと叩かれるぞ。

「哨戒任務中の遭遇戦です、こちらが不利なら無理せず撤退するべきだと思います」
シュターデン教官が不機嫌そうな表情をしている。面白く無い回答を得た、そんなところだな。戦意不足、そう思ったのだろう。戦争だから勝たなければならない、戦意不足は一番忌み嫌われる要素だ。軍人なら、いや士官候補生、幼年学校生でもその事は知っている。当然ヴァレンシュタインも知っている筈だ。

「君は自分の戦術能力を以て反乱軍に勝利を得ようとは考えないのかね? 戦術とは何かを理解しているのかな?」
シュターデン教官が皮肉の溢れた口調で問い掛けるとヴァレンシュタインが微かに笑った。苦笑か? それとも鼻で笑った? おいおい、教官相手にそれは無いだろう。お前、まだ十二歳だぞ。案の定だ、シュターデン教官がムッとしていた。馬鹿にされたと思ったのだろう。

「反乱軍の指揮官の戦術能力が自分より低いという確証は有りません。それに多少の優劣は戦力差が埋めてしまいます。つまり兵力の多い反乱軍が圧倒的に優位というわけです。自分の戦術能力を証明するなどという馬鹿げた自己満足のために戦闘を行って部下を死なせる事は出来ません。無意味な損害を避けるという意味において撤退はおかしな選択ではないと考えます」

教室内がシーンとした。いや、言ってる事は分かる、確かにそうかもしれないが教官に喧嘩売っているに等しいぞ。シュターデン教官がヴァレンシュタインを不機嫌そうに睨み付けた。どうなるんだ、これ。皆凍り付いてる、息する事も出来ない感じだ。誰かが喉を鳴らした。音がやたらと大きく響いた。

「残念な事に君は幾分戦意が不足している様だな」
戦意不足と言われてもヴァレンシュタインはまるで動じなかった。教官の顔がひくついた。不機嫌、いや怒りだな。
「君は戦意不足と言われて恥ずかしくないのかね、ヴァレンシュタイン候補生。私には耐えられんな、自分の教え子に臆病者が居るなどと言われるのは」

ネチネチとシュターデン教官が嫌味を言い出した。勘弁してくれよ、相手は十二歳の子供だぞ、大人げないだろう。
「無意味な戦死者を出す事以上に恥ずべき事が有るとは思いません。戦意過多、戦略過少と言われるよりはましです。シュターデン教官は自分の教え子がそのように評価される事を御望みですか?」

え? 何を言った? 戦意過多? 戦略過少? それってやる気だけ有る馬鹿って事か? おいおい、しれっとした顔でとんでもない事を言うなよ。シュターデン教官の顔面が紅潮している、怒り心頭だ。今だけでいい、耳が聞こえなくなってくれ。それが駄目なら窒息死だ。呼吸を止めて、一、二、三、……無理だ……。

「君は戦術の重要性を理解していないようだな、戦場では戦術能力の優劣が勝敗を決するという事を覚えておくことだ。……席に座りたまえ」
不機嫌が人間になれば多分シュターデン教官が出来上がるに違いない、そう思った。しかしヴァレンシュタインは何も感じていないかのように席に座った。こいつ、教官を怒らせても何も感じていないらしい。

授業が終わった後、ギュンター、アントンの二人と一緒になった。
「あれ、凄かったな」
「ああ、凄かった。俺、眼が点だったよ。あいつ、本当に士官候補生か?」
「俺も仰天したよ、でも間違ってはいないだろう。大きな声では言えないが」
結構声が大きいぞ、アントン。ギュンターもそう思ったのだろう、呆れた様な顔でアントンを見ている。

「おい、前を見ろよ」
アントンの声に前を見た。廊下を歩くヴァレンシュタインが居た。一人だ、彼が歩くと自然に前が空いていく。皆、彼と関わるのを畏れているのだろう。だがヴァレンシュタインは気にした様子も無く歩いている。無神経なのか、それとも図太いのか……。



その後、暫くするとシュターデン教官が一部の士官候補生に不快そうな態度を取る事が分かった。そしてそれがシミュレーションの授業の後に多い事も分かった。皆不思議がったが理由が分からなかった。だが、ある時俺にはその理由が分かった……。

「アントン、ギュンター、シュターデン教官に嫌味を言われたぞ。最近弛んでいるんじゃないかとな。それと何故教官に嫌味を言われたかも分かった」
二人が顔を見合わせた。
「シミュレーションで負けたからだ」
「はあ?」
二人とも不思議そうな顔をしている。

「負ける奴なんて幾らでもいるだろう」
「アントンの言う通りだ。理由にならないな」
「いや、理由になる。負けた相手が悪かったよ、対戦相手はヴァレンシュタインだったんだ」
二人が驚いている。“本当か?”とギュンターが訊ねてきた。

「間違いない。対戦データを調べた。俺の相手はヴァレンシュタインだった。多分俺の他にもシュターデン教官に嫌味を言われた奴はヴァレンシュタインに負けたんだと思う」
アントンが太い息を吐いた。ギュンターは首を振っている。

「それ、拙くないか。教官が対戦相手を教えているとも受け取れるぞ」
「そうだな、俺もそう思う。アントンの言う通りだ」
士官候補生にシミュレーションの対戦相手を教える事は禁じられている。破れば軍籍を剥奪されるだろう。アントンもギュンターも囁くような声になっていた。

「どうする?」
「どうするって……」
「困ったな」
三人で考えたが解決策が見つからない。結局クレメンツ教官に相談した方が良いだろうという事になった。あの人なら上手く治めてくれるだろう、というより厄介事は他人に押し付けよう、そんな気持ちだった。それに俺にはもっと大事な事が有った。

「俺、ヴァレンシュタインと話してみようと思うんだが……」
俺が話しかけると二人が顔を見合わせた。誰もが彼を避けている、正気じゃない、そう思ったのだろう。
「彼は凄いよ、シミュレーションで俺は全く相手にならなかった。コテンパンにされたよ。彼と親しくなりたい、そしてもう一度シミュレーションをしたいんだ」
また二人が顔を見合わせた。
「本気か?」
「本気だ。データを見るか」
「ああ、是非とも」



それがきっかけだった。俺とアントン、ギュンターはエーリッヒと親しくなった。そして今が有る。もし、そうでなければ俺達三人、いや四人の未来はもっと違ったものになっただろう。
「なあエーリッヒ、もう一度士官候補生に戻ったとして俺やアントン、ギュンターと友達になろうと思うか?」
エーリッヒが俺を見た。

「そうだな、卿とギュンターはともかくアントンはちょっと……。彼の所為で随分と酷い目にあったからね」
本心ではない、眼が笑っている。
「それは近親憎悪だろう。俺には卿とアントンは良く似ているように見える。どっちも人騒がせで悪戯好き、おまけに性格も悪い、違うかな」
エーリッヒが顔を顰めた。護衛は困ったような顔をしている。

「時々思うんだが卿はとても良い男で信頼出来る人物だが人を見る目だけは無いと思う」
「確かにそうだな、おかげで悪い友人ばかり持つ事になった。……士官候補生に戻ったらやっぱり卿と友達になろうと思うよ。人を見る目が無いからね」
俺が笑い出すとエーリッヒも苦笑を浮かべた。

「今度四人で飲まないか?」
「そうだね、久しぶりに飲もうか」
多分、士官候補生時代の話に花が咲くだろう。楽しい時間が過ごせるはずだ。



 

 

X・Y・Z


帝国暦 487年10月 5日   オーディン  ゼーアドラー(海鷲)  コルネリアス・ルッツ



「とうとう仕掛けてきたな」
「いや以前から仕掛けてきているよ、ワーレン提督。一週間ほど前の事だが妙な噂が流れただろう、覚えていないか?」
ファーレンハイトが意味有り気にワーレンを見てそして俺を見た。思い当たる事は有る。

「ブラウンシュバイク公の所の人間がローエングラム伯の参謀に接触したというあれか」
俺が答えるとファーレンハイトが頷いた。
「このゼーアドラー(海鷲)で接触したらしいな。それを考えると落ち着いて酒を飲むことも出来ん」

不愉快そうに言うとファーレンハイトがワインを飲んだ。確かにそうだ、最近では誰もが周囲を窺うようにしている。それはこのゼーアドラー(海鷲)でも同じだ。今も俺達の他にも客が居るが多くが深刻そうな表情をしている。何処か空気が重苦しい、寛げないのだ。

カラになったファーレンハイトのグラスにワインを注いだ。トクトクと軽やかな音を立てて透明な液体がグラスに流れる。それを見ながらファーレンハイトがつまみに手を伸ばした。クラッカーの上にチーズが乗っている物だ。ファーレンハイトはフレッシュチーズが乗っているクラッカーを選んだ。

「パウル・フォン・オーベルシュタイン准将だったな。切れるようだがどうにも薄気味悪い男だ。見ていて楽しい男ではないな」
「ケスラー提督とは士官学校で同期生だったと聞いた。自らローエングラム伯の幕僚になりたいと押しかけたらしい」

ファーレンハイトとワーレンはオーベルシュタインに関心が有るようだ。まあ俺もそれなりに奴には関心が有る。何故奴は司令長官の所に来なかったのか、何故ローエングラム伯を選んだのか、そして人材招聘に貪欲と言ってよい司令長官は何故あの男を旗下に招かなかったか……。奇妙な男だ、何かが他の人間と違うような気がする。一口ワインを飲んだ。上物の筈だが口中に苦みを感じた。今一つ美味しいと思えない。クラッカーを口に運んだ、乗っていたのはブルーチーズだ、これは美味い。

「接触したのはアントン・フェルナー准将。こいつも一筋縄ではいかない男の様だ。ミュラー提督とは士官学校で同期生らしいな」
「では司令長官とも?」
「親友らしい」

ファーレンハイトの言葉に思わず息を吐いた。ワーレンは何とも言えないような複雑な表情をしている。親しい間柄でも敵味方に分かれる、内乱というのはそういうものだと理解していたが現実になるとは……。俺もワーレンと同じような表情をしているのかもしれない。

「それにしてもブラウンシュバイク公が自分の娘を道具に使うとはな、話を聞いた時は驚いたよ」
「それだけ相手も必死、追い込まれているという事だろう。厄介な事だ、油断は出来ん」
ファーレンハイトとワーレンが顔を曇らせている。確かに厄介な事になったと俺も思う。一つ間違うと軍内部に亀裂が入りかねない。

昨日、ブラウンシュバイク公爵邸で親睦パーティが開かれた。俺、ファーレンハイト、ワーレンは参加していない。万一の時のために宇宙艦隊司令部に待機していた。パーティに出席したのはヴァレンシュタイン司令長官、ローエングラム伯、メックリンガー提督、アイゼナッハ提督、ロイエンタール提督、ミッターマイヤー提督、ビッテンフェルト提督、ミュラー提督。

パーティでは貴族達は露骨にローエングラム伯を贔屓にし他のメンバーを無視した。同じ貴族としてローエングラム伯爵家の当主を歓待したともいえるが元々は成り上がり、小僧と蔑視していたのだ。ローエングラム伯が軍内部で孤立しがちな事、現状に不満を持っているであろうことを察して軍内部に楔を打ち込もうとした、そんなところだろう。

「まあ今回は司令長官が上手く捌いたが」
「しかししこりは残った、皆が不安に思っている」
俺もワーレンもファーレンハイトの言葉に頷かざるを得ない。確かにしこりは残った。皆がローエングラム伯の去就に不安を感じている。ワーレンがクイッとグラスを空けた。ボトルはもう残り少なくなっている。ワーレンのグラスにワインを注ぎもう一本ワインを頼んだ。

「能力は有るのだがな」
ワーレンが呟くように言った。確かにその通りだ、ローエングラム伯の能力に疑問は無い。しかしそれだけに始末が悪い。いっそ能力が無ければ貴族達を笑い飛ばせただろう。人を見る目が無いと。

「司令長官は如何御考えかな?」
俺が問い掛けるとファーレンハイト、ワーレンの二人が俺に視線を向けてきた。
「分からんな。俺は今日司令長官に決裁を頂いたのだが特に変わったところは無かった」
「気にしていない、そういう事かな。ローエングラム伯を信じている……」
ファーレンハイトと俺の遣り取りにワーレンが“いや、それは無いと思う”と言った。眉を寄せている、ワーレンは何かを考えている。

「未だ将官になる前、佐官時代の頃だが司令長官の下に就いた事が有る。あの頃から司令長官は周囲に心の内を読ませる事は滅多になかった。部下達は皆司令長官の心の内を慮ってピリピリしていたよ、俺も含めてね」
ワーレンが微かに笑みを浮かべた。不思議な笑みだ、自嘲だろうか。

ワーレンが口にしているのは巡察部隊の事だろう。トラウンシュタイン産のバッファローの密猟、密輸事件を司令長官が暴いた。ワーレンは副長として司令長官を補佐する立場に有ったと聞いている。不思議なのはワーレンはその当時の事を話したがらない事だ。皆に訊かれても言を左右にして話そうとはしない。そしてその事件に関わったケスラーも話したがらない。どうやらあの事件は単純な密猟、密輸事件では無かったのではないかと皆が感じている。貴族が絡んでいただけではないようだ。

「何を考えているのかは分からなかったが分かった事も有る。それは司令長官は多寡を括る事が無いという事だ。閣下を甘く見ていると酷い目に遭うぞ、俺はこの目でそれを見たからな」
「……」
「気にしていないのではない、今すぐ動く必要は無いと判断しているのだと思う」
三人で顔を見合わせた。ワーレンは口を結びファーレンハイトは何かを言いたそうにしている。

「俺には司令長官はローエングラム伯にかなり遠慮をしているように見えるが……」
俺が言うとファーレンハイトが頷いた。遠慮しているから動かないのではないか? 二人でワーレンを見たがワーレンは答えない。“卿は如何思う?”と答えを促した。俺達の中で司令長官をもっともよく知っているのはミュラーだろう。そしてその次にクレメンツ、ケスラー、ワーレンと続く。ワーレンが息を吐いた。

「俺は遠慮ではなく配慮なのではないかと思っている」
「配慮?」
ファーレンハイトが問い掛けるとワーレンが頷いた。
「司令長官は年長者、上位者との関係を作るのが下手ではない、むしろ上手だろう。周囲に対してそれなりの気遣い、配慮の出来る方だ」
なるほど、俺達が特に不満を持つ事も無く下に居られるのもその配慮の御蔭か。ファーレンハイトも頷いている。

「しかしローエングラム伯はちょっと違う。年下だし元々は伯の方が階級は上だった。一時期はかなり親しかったと聞いているが今のローエングラム伯は宇宙艦隊司令長官の座に戻りたがっている。伯にとって司令長官は邪魔な存在だろう。そしてローエングラム伯はそれを隠そうとしない。今の状況は司令長官にとってはちょっとやり辛いのではないかな。それと俺が気になるのはローエングラム伯がその辺りの事をまるで感じていないように見える事だ。そちらの方が危ういと思う」

「つまり貴族達からみればそれが付け入る隙に見えたというわけか」
俺の言葉にワーレンが頷いた。
「そういう事だ。ローエングラム伯が司令長官の配慮を感じ取ってくれれば例え野心が有ってももう少し二人の関係は滑らかなものになったはずだ。今回のような事は無かったと思う。だがその気遣いが伯には出来ない」
「……」
ワーレンは溜息を吐いている。彼の言う通りだ。年が若いから、というのは理由になるまい。同年代の司令長官はそれが出来るのだ。

「俺は伯の下にも就いたことが有るから良く分かるんだがあの二人はまるで正反対だ。周囲への配慮が出来る司令長官とそれが出来ない伯。今のままでは司令長官の配慮は空回りするだけだろう、一番良くない組み合わせだな。司令長官も感じているんじゃないかと思うが……」
なるほど、面白い意見だ。遠慮ではなく配慮か、だがその配慮がまるで通じない相手が居る、配慮が遠慮に見えてしまう……。

「司令長官とメルカッツ提督は違うな」
「その通りだ、ファーレンハイト提督。メルカッツ提督は元々は司令長官の上官であった。ローエングラム伯と似たような関係だな。しかし二人の関係を危ぶむ人間はいない。司令長官はメルカッツ提督を軍の宿将として遇しメルカッツ提督もそれに応えている。極めて円滑だ」
ワーレンがフッと息を吐くとワインを一口飲んだ。俺とファーレンハイトも後に続く。重苦しい話だ、飲まずにはいられない。

「何時まで我慢出来るかな?」
俺が問い掛けると二人とも難しい顔をした。質問を変えた方が良いようだ。
「このままの体制で行くと思うか?」
一瞬の間をおいてワーレンが首を横に振りファーレンハイトが“分からんな”と言って太い息を吐いた。

「もうすぐ内乱が起きるはずだ。司令長官がローエングラム伯にどの様な役割を与えるか、それが鍵だろうな」
「明日の作戦会議か、ファーレンハイト提督」
「うむ、そこで分かるのではないかと思っているよ、ワーレン提督」
ファーレンハイトが一口ワインを飲んだ。

「早期に切り捨てるのなら一艦隊司令官として扱う、そうでないなら何らかの地位を与える……」
地位を与えるとすれば一隊を与える、そんなところだろう。“別働隊の指揮官、そんなところかな”と続けると二人が頷いた。

「切り捨てるときはメルカッツ提督が別働隊の指揮官になると思う。ローエングラム伯は司令長官の副将という形にして実権は与えずに一艦隊司令官という立場に留め置く。功績を立てさせずに適当な時期、多分内乱終結後だと思うが排除するだろう」
「そうかな、ファーレンハイト提督」
俺が疑問を投げかけるとファーレンハイトは訝しげな表情をした。

「ローエングラム伯がそれに気付かないと思うか? 俺にはそうは思えん。伯が気付かなくとも伯の周囲は気付くだろう。大人しく排除されるのを待っているとも思えん」
「では……」
「うむ、その時にはローエングラム伯は暴発すると思う」
俺の言葉にファーレンハイトとワーレンが唸り声を上げた。

「おそらく司令長官はそれも読んでいる筈だ。その上でローエングラム伯の処遇を如何するか、考えているだろう。場合によってはローエングラム伯を排除するのは内乱の最中、いやもしかすると内乱が起こる前かもしれんな」
「……」

二人とも無言だ。内乱を前にしてローエングラム伯の排除など正気の沙汰では有るまい。だが二人とも否定は出来ないと考えている筈だ。司令長官は外見は穏やかだが必要とあればどんな無茶でもやる人だ。その事を俺達は誰よりも良く分かっている。ワーレンが息を吐いて“厄介だな”と言った。

「暴発となれば単独では有るまい、味方を募ろうとするだろう」
「……ロイエンタール、ミッターマイヤーか」
「うむ、あの二人はローエングラム伯と繋がりが深い。伯は頼りにするのではないかな」

繋がりが有るのはワーレンも同様だ。俺とファーレンハイトの会話を憂鬱そうな表情で聞いている。そしてケスラー……、ケスラーとローエングラム伯は例の指揮権の一件以来関係は疎遠だ。彼がこの危機に気付いているなら内心ではホッとしているかもしれない。

「といって簡単に味方するとも思えん。あの二人は司令長官とも関係は悪くない」
「うむ、厳しい選択を迫られるかもしれん。今一番神経を尖らせているのはあの二人だろうな」
ファーレンハイト、ワーレンの会話を聞きながら思った。たとえローエングラム伯が別働隊の指揮官に任じられても危機は続く。指揮下に配属された人間は心理的な緊張を常に強いられる事になる。思わず溜息が出た。

「如何したのだ、ルッツ提督」
「いや、ローエングラム伯が別働隊を指揮する事になってもその配下にはなりたくないと思ったのだ。戦闘よりもそれ以外の事で神経を使いそうだ」
俺がファーレンハイトに答えると今度はファーレンハイトとワーレンが溜息を吐いた……。



帝国暦 487年10月 6日   オーディン  ゼーアドラー(海鷲)  コルネリアス・ルッツ



「まあこうなると思ったんだ、五人選べと言われた時からな」
ミッターマイヤーがぼやくと他の四人が同意の声を上げた。ロイエンタール、ワーレン、ミュラー、そして俺。ローエングラム伯より別働隊の指揮官に選ばれたメンバーだ。誰が音頭を取ったわけでは無いが気が付けば皆でここに来ていた。

皆、憂鬱そうな表情をしている。実際憂鬱だろう、テーブルはまるで葬儀の席のようだった。そのくせ皆、グラスを空けるペースは速かった。俺もX・Y・Zをもう五杯飲んでいる。何時もはX・Y・Zなど飲まないのだが今日はどうにもこれが飲みたかった。

「物は考えようさ。辺境星域の制圧、反乱軍の抑え、暇を持て余す事は無い筈だ。武勲を上げる機会は多いだろう」
「ロイエンタール提督、俺はそんな事より安心して戦いたいよ」
ロイエンタールとワーレンの遣り取りに皆が溜息を吐いた。ここまで疎ましい任務も無いだろう。

「まあ余り心配はいらんさ、ローエングラム伯は別働隊の指揮官に任じられたんだ。司令長官はローエングラム伯を信じている、そうだろう?」
暗に今すぐにローエングラム伯が排除されることは無い、そう言うと皆が頷いた。いや、ミュラーだけが頷いていない。深刻な表情をしている。

「どうかしたか、ミュラー提督」
声をかけるとミュラーが太い息を吐いて“怒っていますよ”と言った。
「怒っている?」
ロイエンタールの問い掛けにミュラーが頷いた。そして“これです”と言って右手で左腕を叩き始めた。

ミュラーの仕草に皆が顔を見合わせた。
「ミュラー提督、それは司令長官か?」
ミッターマイヤーが小声で問い掛けるとミュラーが頷いた。
「あれは怒りを抑えるためと本人は言っていますがあれが出たら三回に一回は爆発します。特に腕を叩く速度が段々ゆっくりになったら最悪です」
ミュラーも小声になっている。

「何が気に入らなかったのかは分かりませんが例の捕虜交換の何かが気に障ったのでしょう。もう少しで爆発するんじゃないかとヒヤヒヤしましたよ。余程に憤懣が溜まっている」
皆が顔を見合わせた。“勘弁してくれ”とワーレンが打ちひしがれた声を出した。俺も泣きたくなった。

X・Y・Zを一気に飲み干しウェイターを呼んだ。こうなったら思いっきり飲んだくれてやる。
「X・Y・Zを頼む、レモンジュースを大目にな」
俺が頼むと皆が同じ物を頼んだ。どうやら皆同じ想いらしい、俺達にはもう後が無いのだ。

一時間後、司令長官がゼーアドラー(海鷲)に姿を現した時、俺達は見事なまでに酔っ払いになっていた。X・Y・Zだ……。



 

 

追憶  ~ 帝国歴486年(前篇) ~



帝国暦 489年 8月 6日  オーディン 新無憂宮 シュタインホフ元帥



「ええい、何故それを早く言わぬ!」
「小官も昨日思い至りましたので。それでこうして御相談しております」
「卿らしくないではないか」
「申し訳ありません」

国務尚書の執務室に老人の苛立たしげな声とそれを落ち着かせようとしている若い声が上がった。目の前でリヒテンラーデ侯がヴァレンシュタインを叱責しヴァレンシュタインが侯を宥めているのだがどう見ても国家の重臣同士の会話というよりは口煩い祖父と出来の良い孫の会話のような雰囲気だ。祖父が孫の久々の失態に癇癪を起した、そんなところか。となると同席している私とエーレンベルク元帥はどうなるのだろう。癇癪持ちの老人の茶飲み友達? 余り嬉しい設定とは言えない。

「それで、どうするのじゃ」
「……」
「見殺しにして開戦のきっかけにするのか?」
リヒテンラーデ侯が帝国軍三長官に視線を向けてきた。視線は冷たい、こちらを試す様な視線だ。見殺しにしても非情とは言えまい、もしレムシャイド伯が殺されれば反乱軍は一切言い訳は出来ない。そして帝国はこれ以上無いと言って良い開戦の大義名分を得る事が出来るのだ。

「司令長官は将来的には下策であろうと言っております」
エーレンベルク元帥が答えるとリヒテンラーデ侯がフンと鼻を鳴らした。
「フェザーン方面軍総司令官はメルカッツです。政治面での配慮は決して得手では有りません。レムシャイド伯にはフェザーン方面軍に同行してもらい助言をしてもらってはどうかと。私も統帥本部総長も同意見です」

「フェザーン占領後は行政の責任者にするべきかと思います。長年フェザーンに居たのです。適任でしょう」
私が後を続けるとリヒテンラーデ侯がジロリとこちらを見た。相変らず目に威圧感の有る方だ。

「フェザーン征服後の後始末とフェザーン遷都の下準備をさせるというのじゃな。ふむ、人使いが荒いの、……まあ良しとするか」
「……」
「レムシャイド伯には帰還命令を出す。卿らもそろそろ出兵の準備にかかれ」
「はっ」
「抜かるなよ、陛下もフェザーン遷都を楽しみにしておいでだ」
「承知しました、必ずや陛下の御意に沿いまする」
軍務尚書が軍を代表して答えるとリヒテンラーデ侯が満足そうに頷いた。

執務室を出るとそれぞれの副官が直ぐに近寄り少し離れて後に付く。しばらく歩くと軍務尚書が“そろそろかな”と話しかけてきた。大きい声ではない、副官達には聞こえないだろう。
「統帥本部と宇宙艦隊で遠征計画の摺合せを行うべきだと思うが」
「そうですな、フェザーン方面は統帥本部が担当していますがイゼルローン方面は宇宙艦隊が担当しています。フェザーンで動乱が起こる前に早急に行うべきだと思います」
ヴァレンシュタインに視線を向けると頷いた。

「同意します。遠征期間は約一年に及ぶでしょう。作戦だけでなく補給、そして出兵後の国内の警備体制も含めて検討するべきだと思います」
「そうだな、だが先ずは」
「はい、小官と元帥閣下の所で」
「その後で兵站統括部、憲兵隊、そして政府か」
「最終的には陛下に御臨席をいただき御裁可を」
私とヴァレンシュタインの打ち合わせを軍務尚書は黙って聞いていたが陛下の御裁可の所で大きく頷いた。

「では先ず卿らで話を纏めてくれ、私は先に失礼する」
何時の間にか出口近くにまで来ていた。軍務尚書が出口に向かうと軍務尚書の副官が後を追った。同時には出られない、テロの被害を出来るだけ小さくするために五分後に出る。もっとも一番狙われるのは隣にいるヴァレンシュタインだろう。この男が最後に出る。その分だけ私と軍務尚書の身は安全だ。

妙な男だ。何度かこの五分間を共にしたが会話らしい会話をした覚えがない。こちらに含むところが有っての事では無い。話す事が無い、或いは何を話して良いのか分からない、そんなところだろう。無駄話の出来ない男なのだ。我々よりも副官の方が居心地の悪そうな顔をしている。五分経った、微かに頷くとヴァレンシュタインも頷き返した。それを見てから出口に向かった。副官がホッとした様な表情で付いて来た。

邪魔な男だった。危険な男だとも思った。何度も排除するべきだとも思った。だが気が付けばもっとも頼りになる男になっている。何時からだろう、あの男を敵ではないと思い始めたのは……。あれはベーネミュンデ侯爵夫人が死んだ年、四百八十六年の八月か、今は四百八十九の八月、もう三年になるのか。月日が流れるのは早いものだ……。



「先日起きましたヴァレンシュタイン中将襲撃事件ですが新たに判明した事実が有ります。御報告に上がりました」
執務室で報告書に目を通していると情報部長のロルフ・フォン・ヘルトリング中将が来た。まだ若い士官を連れている。どうせ報告はこの男にやらせるのだろう。ソファーに座らせず執務机の前に立たせた。無駄話をせずに終わらせるにはこれが一番だ。

ヘルトリングが自ら報告したのは最初の一度だけだ。良く内容を理解もせずに報告してきたのでこっぴどく叱りつけたら次からは部下に説明させるようになった。慎重なのか臆病なのかは分からんが次の人事異動で補給基地か哨戒部隊の司令官にでも転出させた方が良いかもしれない。情報部長にはいささか不適任だ。しかし後任がこいつ以上の馬鹿だったら……、なんとも頭の痛い事だ。頭の良い奴に限って前線に出て死んでしまうのだろう、最近では使えない馬鹿が増えているような気がする。

「それで、何が分かった」
「シュミードリン少佐、元帥閣下に報告し給え」
ヘルトリングの言葉に若い士官が姿勢を正した。そんなに緊張するな。
「はっ。元帥閣下も御存じかと思いますが先日のヴァレンシュタイン中将襲撃事件、その直前にベーネミュンデ侯爵夫人に関して或る噂が流れました」
「うむ」

~ベーネミュンデ侯爵夫人とコルプト子爵が密かに情を通じている。事態を重視した皇帝は「皇帝の闇の左手」であるヴァレンシュタイン中将を使って事実関係を確認するだろう。貴族に対して非好意的な中将がどのような結論を出すかは言うまでもない。二人の運命は決まった~

「そんな噂だったな」
確認すると少佐が頷いた。
「はい、ですが元々はベーネミュンデ侯爵夫人とコルプト子爵が密かに情を通じている、それだけの噂でした」
「……」

「その噂を流したのはリヒテンラーデ侯とヴァレンシュタイン中将だと思われます。おそらくはベーネミュンデ侯爵夫人とコルプト子爵を押さえつけるためでしょう。グレーザー宮廷医からの手紙でその必要があると御二方は判断したのだと思います」
「……」

あの二人、陛下御不例より密接に繋がっている。襲撃されたヴァレンシュタインを救出したのがリヒテンラーデ侯だった、少佐の言う事は十分に可能性が有る。おそらくは妙に噂が捻じ曲がったのでその善後策を検討した、そんなところか。だが侯爵夫人達にとっては自分達を始末するための打ち合わせ、そう見えたのだろう。それで襲いかかった。

「しかし噂は膨らんだな。尾ひれはひれが付いた、そういう事かな、少佐」
「いえ、偶然ではなく何者かが故意にヴァレンシュタイン中将を結びつけた、そしてそこに皇帝の闇の左手を付け加える事でベーネミュンデ侯爵夫人とコルプト子爵を追い詰め暴発させたのではないか。情報部ではその可能性を探りました。少々鮮やか過ぎます」

「うむ、あの二人を暴発させるために仕組んだ、そういう事か」
「或いはヴァレンシュタイン中将を謀殺するために故意に噂を捻じ曲げたかです」
「なるほど、有り得る話だな。あの男も敵が多い」
情報部というが気付いたのはこの若者かもしれん。自分の名前を出すとヘルトリングが嫉妬すると思ったか。だとすればなかなか使えそうな男だ。

「噂の出所を追いますと一人の人物に行きつきました。オスカー・フォン・ロイエンタール少将です」
「ロイエンタール? ……待て、少佐。その名前は……」
私が問い掛けると少佐が頷いた。

「はい、ロイエンタール少将はヴァレンシュタイン中将の推薦でミューゼル大将閣下の下に配属され分艦隊司令官を務めています」
「そうだ、確かミッターマイヤー少将を助けるためにヴァレンシュタインに助けを求めた、そうだったな」
「はい、その通りです」

思わず唸り声が出た。ヘルトリングが得意げな表情をしたのが不愉快だったがそれ以上に驚きが有った。そんな事が有るのか、事実ならあの事件の真の狙いはヴァレンシュタインの謀殺、侯爵夫人とコルプト子爵は利用されただけとなるが……。
「間違いないのか」
「間違いありません」
その言葉にもう一度唸り声が出た。思わず“信じられん”と声に出していた。

「その噂だがミューゼル大将の指示によるものと思うか、それともロイエンタール少将の独断だと思うか、卿らは如何考えている」
もう少しで卿と少佐に問い掛けるところだった。多少はヘルトリングの面子も立ててやらんと。それにシュミードリン少佐の立場もある、上官の顔を潰しては後々やり辛かろう。……なんで私がそんな事を心配しなければならんのだ! やはりヘルトリングは異動だ。上官に不自由な思いをさせる、その一点だけでも正当な異動の理由になる!

シュミードリン少佐がヘルトリングに視線を向けた。ヘルトリングの立場を慮っての事か。多少は話に参加させないと拙いという事だな。
「ミューゼル大将の指示によるものと判断しています」
「情報部長、卿がそう判断した理由は」
多少声を厳しくした。如何する? 少佐に振るか、それとも自分で答えるか。

「噂が流れる前ですがヴァレンシュタイン中将がミューゼル大将の司令部を訪ねているそうです」
「それで?」
自分で答えたか、少しはまともな所も有るようだな、褒めてやろう。だが後を続けられるかな?

「事はグリューネワルト伯爵夫人の安全に関わりますから突き詰めればミューゼル大将の将来にも関わります。おそらくは事前に噂を流す事の了承を取ろうとした、そういう事では有りますまいか。或いはこの一件は自分とリヒテンラーデ侯で片付ける、だから関わるなと釘を刺したとも取れます。変に介入され混乱するのを恐れた……」

そんなところだろうな、合格点をやるか。いや、待て。
「なるほど、それで」
「もしミューゼル大将がそれに同意したとするとロイエンタール少将はミューゼル大将、ヴァレンシュタイン中将の二人を敵に回す事になります。貴族達がロイエンタール少将、ミッターマイヤー少将に面白く無い感情を持っている今、そのような事をするでしょうか?」
取り敢えず次の人事異動での転出は無しとしよう、もう少し様子を見るか。

「すれば味方が居なくなるな、一少将の身では生き残れん。となるとミューゼルは一旦ヴァレンシュタインの要請を受け入れた後、それを反故にした。ロイエンタールに噂を捻じ曲げるように命じた、そんなところか」
「おそらくは」
ヘルトリングが重々しく頷いた。少し演技過剰だ、上司の前ではもう少し控えめにしろ。シュミードリンは小さく頷くだけだったぞ。

「ヴァレンシュタインはその事を知っていると思うか?」
此処が一番肝心なところだ、何処まで調べた?
「シュミードリン少佐の調べによればヴァレンシュタイン中将は知っているとの事です。そうだな、少佐」
ヘルトリングの問い掛けに少佐は“はい”と答えた。

「事件後ですがヴァレンシュタイン中将はミューゼル艦隊の司令部を訪ねています。但し、ミューゼル提督が居ない時を見計らってです」
「……それは、意味深だな」
「はい、そして中将は参謀長のケスラー少将、そしてロイエンタール少将と会っています」
「なるほど、益々意味深だ」
事実確認をした、少佐はそう判断している。同感だな、となると問題は今後の動きだな。

「他に報告は?」
「いえ、現状では特に有りません」
「……」
「この後の御指示を頂きたいと思います」
当たり前の事を聞くな! こいつは状況が分かっておらん! やはり転出させるか。

「ヴァレンシュタイン、ミューゼルの二人から目を離すな。どんな些細な事でも動きが有れば報告しろ、以上だ」
二人が“はっ”と答え敬礼して部屋を出て行った。全く、あの阿呆、使えそうで使えん。苛々する。

ヘルトリングは何も分かっておらん。分かっていれば指示を頂きたい等という事は有り得ない。おそらくは私がヴァレンシュタインに不快感を抱いている、ミューゼルに不快感を抱いている、その程度の認識なのだろう。個人レベルの嫌悪、そう思っているに違いない。確かにあの二人には面白くない感情は有る。特にヴァレンシュタイン、あれには手酷く顔を潰された。

だがそれだけであの二人を敵視しているのではないのだ。ミューゼルは危険だ、ヴァレンシュタインも危険だ。それ以上に両者の連携は危険だ。いずれ簒奪を目指すのではないかと思われる野心家とそれを支える政戦両略に有能な参謀。これが危険でなくて何が危険だと言うのだ? ヘルトリングはそれが分かっていない。

そして帝国はかつてない危機的な状況にある。皇帝フリードリヒ四世陛下の健康状態は良くなく後継者問題で帝国は揺れている。ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、三者が三竦みの状態で睨み合う中で当然だが軍の存在、影響力は極めて大きいものになった。その特殊な状況下であの小僧が軍内に力を伸ばしてきた。そして誰もがそれを認めざるを得ない状況になっている。ミューゼルに宇宙艦隊を掌握させれば簒奪への道筋を作るのは必ずしも難しくは有るまい。武勲を上げさせれば良いだけだ。そして認めたくない事だがミューゼルにはそれを為すだけの器量が有るようだ。

あの小僧、そのためにミューゼルをミュッケンベルガーに推薦しケスラー達有能な男達(特に彼らが下級貴族、平民というところが重要だ。彼らは既得権力階級ではない、簒奪に容易に賛成するだろう)を配下に押し込んだと見ていたが……。どうやら両者の間には溝が有るようだな。最初から殺すつもりだったとは思えん。階級は下でも実力は同等以上、その事にミューゼルが反発したのだろう。その溝が思いもかけぬ事件を引き起こした。

さてヴァレンシュタインはどう動く。真相を知ったようだが知らぬ振りで通すかな。それとも切り捨てにかかるか。外見は穏やかだが内面にはかなり激しいものが有るようだ。このままで済ますとも思えん。となれば何らかの動きをするはずだが……。そしてミューゼル、奴はどう動く。ヴァレンシュタインに頭を下げる事が出来るのか、関係修復を図れるのか……。







 

 

追憶  ~ 帝国歴486年(中篇) ~



帝国暦 489年 8月 6日  オーディン  新無憂宮  シュタインホフ元帥



地上車に乗り込むと副官に問い掛けてみた。
「卿はヴァレンシュタイン司令長官が苦手か?」
「と、とんでも有りません! 苦手だなどと! 小官は司令長官閣下とは言葉を交わした事も無いのです!」
座席シートから飛び上がるかのような勢いで否定した。まるで尻尾を踏まれた猫だな。これからは猫と呼ぶことにしよう。

「ふむ、そうか」
猫が露骨に安堵の表情を浮かべている。全く、最近の若い奴は胆力も無ければ芝居も出来んのか! この程度の男が統帥本部長の副官とは、いやこの程度の男だから副官が務まるのかもしれん。胆力、知力に優れていれば副官に甘んじはすまい。独立独歩、己の旗を掲げようとする筈だ。

「しかし先程司令長官と別れた時、卿はホッとした様な表情をしていたが」
「そ、それは、……少なからず畏怖は有ります」
「……」
表情が青褪めて強張っている、嘘では無いな。

「しかし、それは小官だけの事では有りません。多くの士官達が同じような畏怖を司令長官閣下に対して抱いております」
「なるほどな、畏怖か……」
畏怖か……、分からんでもないな。ローエングラム伯があのような事をしたのもヴァレンシュタインに対して畏怖の念を抱いたのが原因かもしれん……。いやそれはヴァレンシュタインも同じか。共に非凡な二人なればこそ互いに相手に畏怖を覚えた。それが二人の決裂に繋がった。外から見ていては分からなかったがあの二人は互いに葛藤を抱えていたのかもしれない……。



「閣下、ヴァレンシュタイン中将に動きが有りましたので御報告に上がりました」
情報部長、ヘルドリング中将がシュミードリン少佐を連れて私の執務室に現れたのは襲撃事件から三週間ほど経ってからの事だった。遅い! 動きが無い筈は無いとイライラしながら待った三週間だ。当然こちらの機嫌は良くない。

この二人の所為ではない、遅いのはヴァレンシュタインが悪いのだ。一体何を愚図愚図しているのか! 二人をソファーに座らせず執務机の前に立たせた。八つ当たりだとは分かっている。だが甘んじて受けて貰おう。それに無駄なお喋りは嫌いだからな、それの予防策でもある。安心しろ、二人とも。私が出来る個人的な嫌がらせはこの程度のものだ。上に立つ者は最低限公私の区別は付けなければならない。

「宇宙艦隊で次の出征のために新たに二個艦隊を編成する事は御存じかと思います」
「うむ、聞いている」
無駄な事をするものだ、新たに二個艦隊を編成するなど、そう思った。艦隊を編成するとなれば人員の異動、配置を含め大規模な作業になるのだ。そんな事をするより現有戦力で出兵した方が効率は良いと思ったが……、ヴァレンシュタインが絡んでいるのか。

「その二個艦隊編成の責任者がヴァレンシュタイン中将です」
「……」
「新艦隊を編成するにあたって九人の少将が宇宙艦隊司令部に呼ばれました。集めたのはヴァレンシュタイン中将、彼らは新編成二個艦隊の中核を占める男達です」
二個艦隊、九人の少将か、まさかとは思うが……。

「如何いう男達だ?」
私が問い掛けるとヘルトリングが“シュミードリン少佐”と声をかけた。少佐がブリーフケースから書類を取り出す。それを受け取りながら“要点を言え”と促した。最近の若い奴は紙さえ出せば良いと考えている。そして“お読みになりませんでしたか?”等と言うのだ、阿呆共が。書類には重要な部分とそうではない部分が有る。重要な部分は口頭でも報告するのが常識だろう! シュミードリン少佐が口を開いた。

「個々の名前、経歴は資料をご確認ください。幾つか気になった点が有ります。その九人ですが何れも下級貴族、平民階級の出身です。そして年齢は二十代から三十代」
「二十代から三十代? 若いな」
「はい」
二十代から三十代、下級貴族、平民階級出身、少将……、あの男が選んだという事は貴族の後ろ盾など有るまい。若いが武勲を上げて昇進したという事か、間違いなく能力は有る筈だ。

「何れも実戦指揮官、或いは参謀として高く評価されている将官達です。但し、その評価の割に恵まれた立場にいるとは言えません」
「うむ」
不遇を囲っている、やはり有力者の後ろ盾は無い。実力の有る男達なら現状に不満を持っている筈だ。そこにあの男が手を伸ばした。

「四人で一個艦隊を編成します。一人が司令官、もう一人が副司令官、残り二人が分艦隊司令官です」
「八人で二個艦隊か……、待て少佐、集められたのは九人だったな」
確認するとシュミードリン少佐が頷いた。
「はい、残りの一人、メックリンガー少将は総司令部に作戦参謀として迎えられます」
メックリンガーか、資料を確認した。“幅広い戦略眼を持ち参謀として得難い資質も持っている”、そんな評価が書かれていた。

「その九人とヴァレンシュタインの関係は?」
ヘルトリングとシュミードリンが視線を交わした。少し間をおいてヘルトリングが話し始めた。こいつが部下を連れて来るのは部下で私の反応を確認しているのかもしれない。私が関心を示せば自分が話す、そうでなければ部下に任せる、或いは言い辛い事は部下に言わせる、そんな気がした。姑息では有るが隠し事をするよりはましだろう。用心深いと評価する事も出来る、好意は持てないが。

「九人の内三人が何らかの関わりが有ります。メックリンガー少将、クレメンツ少将、ワーレン少将です。しかし残りの六人には接点は有りません」
「……」
接点は無い、つまり選んだというわけだ。あの事件から三週間、しかし新規に二個艦隊を編成すると決めたのは最近だ。となるとかなり以前から目を付けていた可能性が有る。

いや、目を付けていたと見るべきだ。ケスラー、ミッターマイヤー、ロイエンタール、ミュラーもそうだ。ミッターマイヤー、ロイエンタールはコルプト大尉の件でヴァレンシュタインと繋がりを持った。だがそれ以前からヴァレンシュタインは二人に関心を持っていた、コルプト大尉の一件はあの男にとっては渡りに船だった、そう考えるべきだ。

「うーむ」
「閣下?」
ヘルトリングが声をかけてきたが睨みつけて黙らせた。ヴァレンシュタインはかなり前からある男達を選抜していた。能力が有り貴族階級出身ではなく現状に満足していない男達、このままでは軍主流を歩めない男達……。ヘルトリングを見た、怯えた様な表情をしている。この馬鹿が! 訳も分からずに怯えた様な表情をするな、それとも私の危惧を察知して怯えているのか?

「ヘルトリング情報部長、卿はこの件を如何思うか?」
「好意的に考えればヴァレンシュタイン中将は実力のある人材を活用しようとしている、そう考えられますが……」
恐る恐ると言った感じでヘルトリングがこちらを窺っている。何が“が”だ、思った事をはっきりと言え!

「好意的に考えなければ如何なる?」
「閥を作ろうとしている、そう受け取れます」
「なるほどな、閥か。閥を作ろうとするなら目的が有る筈だ。その閥は何を目的とした閥だ?」
ヘルトリング、卿はただの権勢欲からヴァレンシュタインが閥を作ろうとしている、そう思っているのか?

「先日のベーネミュンデ侯爵夫人の事件が引き金になっている、そう考えますと……」
「……」
一々私の顔色を窺うな! 鬱陶しい!
「ミューゼル大将を抑えにかかった。或いは彼ら九人の働き次第ではミューゼル大将の排除にかかった、そういう事では有りますまいか」
「……」
全く見えていないわけではないか。

「年が明ければミューゼル大将はローエングラム伯爵家を継承する事になります。もし次の戦いで大きな武勲を挙げれば彼の影響力は一層強まるでしょう。それを避けようとしているのだと思います」
「まあそんなところか」

ヘルトリングが嬉しそうな表情をした。阿呆! そんなところと言うのはお前への評価だ。見えているようで見えていない、点数を付ければ五十点は超えるが八十点には届かない、そんなところだ。もどかしいにも程が有る、消化不良を起こしそうな男だ。全く、腹が立つ!

「ミューゼル大将に動きは」
「有りません。出兵の準備に余念がないようです」
「ヴァレンシュタインの動きに何も気付いてはいないのだな?」
「はい」
ミューゼルはヘルトリング以上に周囲が見えていない。或いは武勲を挙げて昇進すれば何とかなる、そう思っているのか……。二人に引き続きヴァレンシュタインとミューゼル、そして選ばれた九人の動きを追うように指示を与えて執務室から追い出した。少し考えなければならん。

ヘルトリング、ヴァレンシュタインはミューゼルを抑えようとしているのではない、排除しようとしているのだ。艦隊を動かす八人の男達は明らかにミューゼルの代わりだ。そして総司令部に配備されたメックリンガーは自分の代理人だろう。あの九人がミュッケンベルガーを助けて軍を動かす、であるならばミューゼルはもう不要なのだ。

おそらく、ミューゼルとの関係が壊れなければミューゼルが宇宙艦隊司令長官に就任した時点であの九人は宇宙艦隊に呼ばれる筈だった。彼らは軍を掌握し帝国を制覇し新たな王朝の成立を目指しただろう。ミューゼルの狙いは簒奪だ、ヴァレンシュタインはそれに協力する事で自らの望みを果たそうとした。 

あの男は両親を貴族に殺されている。貴族を嫌い憎んでいるのは確かだが国務尚書との関係を見れば全ての貴族を憎んでいるというわけではない。エーレンベルクやミュッケンベルガーとの関係も良好だ。となれば真に憎んでいるのは貴族を優遇する帝国の体制そのものかもしれん。あの男の狙いは新王朝樹立による体制の変革、そんなところだろうな。簒奪も改革も力が無ければ出来ない、そして両方とも旧勢力の排除を必要とする。だからあの二人は結びついた、そうだったはずだが……。

ヘルトリングがそこまで洞察出来ないのは軍の階級に縛られているからかもしれん。ミューゼルは大将、ヴァレンシュタインは中将、階級で判断すればミューゼルの方が上ではある。ヴァレンシュタインがミューゼルの足を引っ張ろうとした、そう思ったようだ。ヘルトリングは実よりも名に拘るのかもしれない。報告にも影響が出るとすれば注意が必要だな。

ヘルトリング、情報部長なら名ではなく実を見るのだ。軍内部での影響力でいえばミューゼルは一個艦隊の司令官でしかない。しかも寵姫の弟だから出世したという中傷も有る。必ずしも実力は評価されていない。だがヴァレンシュタインは兵站統括部、憲兵隊、宇宙艦隊に影響力を及ぼしている。そしてその実力を疑う者は居ない。軍だけではない、政界、宮中でもそれは同じだ。

ミューゼルがローエングラム伯爵家を継ぐ等と言っていたがそれに何の意味が有る? 伯爵家を継げば貴族達がミューゼルを受け入れるとでも思うのか? 否だ、貴族達は新しい伯爵を成り上がりと見て蔑むだろう。そして軍内部でもその蔑みは同じように広まるに違いない。唯一味方しそうな男達はヴァレンシュタインが手を差し伸べた。要するにミューゼルは孤立し味方は居ないという事だ。そんな相手をヴァレンシュタインが恐れるわけがない。ミューゼルを担いで何かをしようとした。しかし信用出来ないと判断して担ぐのを止め切り捨てにかかったのだ。

いや、待てよ、ヘルトリングはミューゼルの野心に気付いているのかな。鈍そうな男だから気付いていないと判断していたが気付いた上で言っているのだとすれば奴の意見はなかなかに含蓄が有る。奴の口からはミューゼルが簒奪を考えているとは言い辛いか。相手は皇帝の寵姫の弟だ、正面から敵に回すには厄介な存在では有る。そして間接的にヴァレンシュタインもそれに関与していたとなりかねない。ふむ、鈍いのは私か? ええい、腹が立つ! ヘルトリング、なんで卿はそう面倒なのだ!

頭を切り替えよう、ヘルトリングの事はまた後で考えれば良い。もうしばらくは情報部長にしておいてやる。先ずはヴァレンシュタインとミューゼル、あの二人の事だ。次に動きが有るのは遠征後だろう。私の予測が正しければヴァレンシュタインは遠征後、ミューゼルを切り捨てる筈だ。ベーネミュンデ侯爵夫人、コルプト子爵によるヴァレンシュタイン襲撃事件の真相をリヒテンラーデ侯、エーレンベルク軍務尚書、ミュッケンベルガー司令長官に話すに違いない。どうなるかな、ミュッケンベルガーはミューゼルをそれなりに評価しているようだがリヒテンラーデ侯、エーレンベルク軍務尚書はミューゼルを評価してはいないだろう。むしろ危険視している節が有る。これ幸いとばかりに排除する方向で動く可能性は高い。

ヴァレンシュタインは陛下に万一の事が有った場合は国内の治安維持を担当する男だ、それを襲撃させたなどとなればそれなりの罰は与えられる。ローエングラム伯爵家継承の話は白紙撤回だな。あの九人が次の戦いで活躍すれば実戦指揮官にも不足は無い、となれば軍からも追放は免れん。グリューネワルト伯爵夫人も或いは宮中を下がる事になるだろう。皇帝の寵姫の弟だからといって全てが許されるわけではないのだ。それでも命を取られるところまでは行くまい。

陛下に縋ろうとしてもヴァレンシュタインは陛下の命の恩人でもある、その事は陛下も無視は出来ない筈だ。やはりミューゼルの処罰は免れない。ふむ、考えてみるとヴァレンシュタインと陛下の関係は思ったよりも深いな、何度かバラ園でも会っている。となると簒奪が嫌になった可能性も有る、簒奪せずとも体制の改革が出来るのではないかと考えた……。一度陛下とお会いしてみるか、拝謁ではなくバラ園で。その辺り、何か分かるかもしれん。もしそうならミューゼルとの決別は必然か。あの襲撃事件は迷っているヴァレンシュタインの背を押しただけだったという事も有り得る。

いやミューゼルもその辺りを察して噂を流した、後々邪魔になると判断してヴァレンシュタインを謀殺しようとした、その可能性も有りそうだな。いやいや、早まるな。それならばミューゼルにはもっと動きが有って良い筈だ。それが無いという事はやはりミューゼルにとっては思いがけない事件、そういう事だろう。但し、本人は気付いていないようだがもう取り返しは付かない状況になりつつある。

ヴァレンシュタインと国務尚書との関係を重視すべきだな。ブラウンシュバイク、リッテンハイムの二大外戚の抑制と体制の改革、それを結びつければリヒテンラーデ侯を動かせるとヴァレンシュタインは判断したか……。或いは国務尚書、軍務尚書の二人がミューゼルとヴァレンシュタインを分断し取り込みを図っている、その可能性も有る。

うーむ、ミューゼルを無力化しつつ外戚を牽制する。有りそうな話だ、国務尚書と軍務尚書、二人とも喰えない事では定評がある。一番厄介な男を味方にする事で自分達の影響力を高めようとしているのかもしれん。そして現状はそのようになりつつある。ヘルトリングに国務尚書、軍務尚書の動きを探らせるか。主としてヴァレンシュタインの動きとどう連動するかという観点からだが……。

徐々にだが情勢は煮詰まってきたな。ミューゼル、ヴァレンシュタインの一件では私も意見を求められる筈だ。さて、どう動くべきか……。ミューゼルの排除、これは問題ない。問題はヴァレンシュタインだ。この男をどう扱うか……。いささか力を付け過ぎたようだ。力を削いでおとなしくさせる、そして帝国の役に立てる、そういう形に持っていくのが上策だろう。しかしこちらの制御を嫌うようであれば、その時は……。


 

 

追憶  ~ 帝国歴486年(後篇) ~



帝国暦 489年 8月 6日  オーディン  統帥本部 シュタインホフ元帥



統帥本部に着くと副官と共に執務室へと真っ直ぐに向かった。統帥本部の庁舎の内地上に建てられている部分は殆どがテロ等の攻撃で粉砕されても統帥本部の機能には影響を及ぼさない。その多くは倉庫や備品室、売店、一般事務員の控室に使用されている。主だった部署は皆地下だ。私の執務室も地下五階にある。階段を下りて執務室に向かう。

途中、何人かの職員に出会った。皆、脇に避け敬礼をして私が通り過ぎるのを待つ。それに答礼しながら階段を下りた。緊急時以外にエレベータを使わないのは表向きは健康のためと言っているが本当は周囲に気を使わせないためだ。エレベータで一緒に乗り込んだ職員の気まずそうな顔は見ていて楽しいものではない。乗り込むのを躊躇われるのも同様だ。階段を下りるのは問題ないが上るのは辛いかなと思う時がたまに有る。息が切れて立ち止まるようになったら引退だろう。軍務尚書も同じような事を言っている。年は取りたくないものだ。

ミュッケンベルガーも同じ事を言っていたな。あれは何時頃だろう、ヴァンフリートの前だったか。だとすれば心臓に異常が出る前という事になる。この男ならあと三十年は階段を上り下りしそうだと思ったが……。人の運命など分からぬものだ。まさかあんな事が起こるとは思わなかった。そして全てが変わった、人も国家も全てが……。あの時は分からなかったが今なら分かる。歴史に転換点が有るとすればまさにあれが転換点だったのだろう……。



ヘルトリングが困惑した表情で執務室に入って来た。そして入れ替わりに私の副官が部屋を出ていく。情報部長が報告に来た時は必ず余人を交えない、それが統帥本部の決まり事だ。それだけ情報の扱いには注意が要る。妙だな、ヘルトリングは自信無さげであるのに部下が付いていない。いや、そう言えばTV電話で御耳に入れたい事が有ると言ってきた時も妙な顔をしていた。ん? 何だ? ヘルトリングは入り口で躊躇っている。何故近付いてこない? 何を躊躇っているのだ? 待て、御耳に入れたい事が有ると言っていたな? 正式な報告ではないという事か?

席を立ってソファーに向かった。ソファーに座りヘルトリングに視線を向けた。対座する席を指差す、ヘルトリングがおずおずと近寄ってきた。そして躊躇いながらソファーに座った。だがそのままだ、ソファーの方が話し易いかと思ったのだがヘルトリングは何も言おうとしない。
「如何した、ヘルトリング情報部長」
「……」

落ち着け! 世話の焼ける奴だが怒鳴ってはいかん。ヘルトリングは明らかに困惑している、そしてここに来た事を後悔している。怒鳴れば物音に驚いた鳥のように飛び立ってしまうだろう。大事なのはこいつがどんな話を仕入れて来たかだ。少なくとも一度は私の耳に入れた方が良いと判断させた話だ、聞かなければならない。
「私に報せたい事が有ったのだろう、何を聞いた?」
ゆっくりと囁くように話しかけた。この方がヘルトリングの緊張もほぐれる筈だ。

「……昨日の第三次ティアマト会戦ですが、妙な話を聞きました」
「うむ、どんな話だ。教えてくれ」
「戦闘の最中に、……ミュッケンベルガー元帥が人事不省に陥ったと。指揮を執れなくなったと。そのような噂が遠征軍に流れているそうです」
まじまじとヘルトリングの顔を見た。怒鳴られると思ったのか、ヘルトリングが身体を竦ませた。

「本当か?」
いかんな、声が少し掠れ気味だ。だがヘルトリングは怒鳴られなかった事でホッとした様な表情を見せた。
「噂の真偽については分かりません。しかし遠征軍にはそういう噂が流れているとこちらの情報源の一人が報せてきました」
思わず太い息を吐いた。どういう事だ?

「戦闘中負傷したという事か?」
「いえ、それが……」
「それが?」
問い掛けるとヘルトリングが困惑している。
「病気だと言うのです」
「病気?」
「はい」
熱でも出たのか? 高熱で人事不省? どうもよく分からんな。

「少し体調を崩した、一時的に指揮権を委ねた、それが大袈裟に広まっているのではないか?」
「……そうかもしれません。しかし遠征軍将兵はかなり混乱しているようです。情報源が言っていました」
「混乱している? 遠征軍内部で混乱が生じている、そういう事か」
だとすれば状況は深刻と言って良い。一体何が起きているのだ? ヘルトリングに視線を向けたがヘルトリングは困ったような表情で首を横に振った。

「分かりません。彼もかなり困惑をしていました。躊躇いながら小官に報せてきたのです。何かが起きた様だが何が起きたかが良く分からない、ただ何かが起きたと」
何かが起きた……。どうもはっきりせんな、普通なら報告はもっとはっきりしろと怒鳴り付ける所だが……。

待てよ、これは報告なのか? むしろ警告と受け取るべきではないのか? 警告なら何かが起きたと言うのは十分に意味が有る、調査をしろという事だ。ヘルトリングも報告とは言っていない、耳に入れたい事が有ると言っていた。つまりヘルトリングも警告と受け取ったのではないか? だから曖昧な内容でも報せに来た。思わず唸り声が出た。

「ヘルトリング、第三次ティアマト会戦は帝国軍の大勝利に終わった、そうだな?」
ヘルトリングが頷いた。
「はい、反乱軍に二万隻近い損失を与えました、止めこそ刺せませんでしたが大勝利と言えます」
「ミュッケンベルガー元帥が人事不省になったにも拘らずか? そんな事が可能かな、ヘルトリング」
私が問い掛けるとヘルトリングは考え込むような表情を見せた。

「……やはりただの無責任な噂なのでしょうか?」
「……分からんな、だが……」
「……」
「ミュッケンベルガー元帥が人事不省になったにも拘らず大勝利を収めたのだとしたら……」
「……だとしたら?」
「何かが起きたのだろう」
今度はヘルトリングが唸り声を出した。

総司令官が人事不省になった。事実なら軍は混乱する。とてもではないが大勝利を収める事など不可能なはずだ。良くて引き分けだろう。だが現実には遠征軍は大勝利を収めた。辻褄が合わない、何かがおかしい、不可解なのだ。報告者を含めた遠征軍将兵が混乱しているのもそれが理由だろう。私もヘルトリングも混乱している。

やはりミュッケンベルガーが人事不省というのはデマなのかもしれん。しかし総司令官の健康に関してデマが流れるなど有るだろうか? 有っても直ぐに打ち消されるだろう。そうすれば混乱は収束する筈だ。それが無いという事はやはりミュッケンベルガーは何らかの理由で人事不省になった。そう見るべきではないだろうか。

「ヘルトリング、ミュッケンベルガー元帥が人事不省になったとすれば誰かが代わりに指揮を執ったはずだ。誰が指揮を執った?」
「それが、はっきりしないのです。総司令部が指揮を執ったようですが……」
「総司令部? それも妙な話だな」
ヘルトリングが“はい”と頷いた。参謀達が合議で指揮を執ったと言うのか? それで大勝利? 有り得ん話だ、空中分解して大敗北という方が未だ有り得る。どうも何かがおかしい。

「ちぐはぐだな、何一つ整合性が取れん」
呟くとヘルトリングがこちらをじっと見た。
「如何した?」
「しかし御味方は大勝利を得ております」
また唸り声が出た。そうなのだ、どうして勝てるのだ? 勝てる要素がまるで見えてこない。

「ヘルトリング、ミュッケンベルガー元帥が人事不省になったとして本来なら誰が指揮権を継承する筈だった?」
「……序列から言いますとミューゼル大将です」
「……」
それを早く言え! ミューゼルか、いきなりキナ臭くなってきたな。考えているとヘルトリングが“閣下?”と声をかけてきた。ヘルトリングはこちらを窺うような表情をしている。

「引っかかるな」
「はい、例の件が有りますからどうにも引っかかります」
「そうだな、……ヴァレンシュタインに動きは」
「特に目立ったものは有りません」
無関係か? しかし気になる。ヘルトリングがここに来たのはミューゼル、ヴァレンシュタインが絡んでいると思ったからかもしれない。だが遠征軍はティアマト、ヴァレンシュタインはオーディン、関係が有る? そうは思えん。

「もう少し噂を追え、どうも気になる。ひょっとするととんでもない裏が有るかもしれん」
「承知しました」
ヘルトリングがゆっくりと頷いた。ヘルトリングの表情には先程までの困惑は無い、私も何かがおかしいと感じた事で安心したのだろう。ふむ、この男、自信が無いだけである程度の能力は有るのかもしれない。だとすれば情報部長には適任かもしれんな。多寡を括るような奴には情報部長は務まらん。

「それと、第三次ティアマト会戦の戦闘推移が知りたい、そこから何かが分かるかもしれん」
「総司令部に直接要求しましょう、閣下のお名前をお借りしますが」
「それで良い、変にコソコソすれば向こうを刺激するだろうからな」
「はい」
それを機にヘルトリングは席を立った。

どうも妙だ、何かがおかしい。得体のしれない何かを踏みつけた様な気がする。踏んだのが汚物なら良い、腹は立つが時間が経てば忘れるだろう。だが踏んだのがそれ以外の物なら一つ間違うととんでもない事になる、そんな感じがした。気が付くと何時の間にか副官が部屋に戻っていた。妙な顔で私を見ている。ふむ、ソファーに座ったままだったか……。やれやれだ、ゆっくり考える事も出来ん。


全てが明らかになったのは三日後、十二月七日の事だった。
「つまり、全てはヴァレンシュタインが脚本を書きあの九人がその通りに動いたという事か」
「そういう事になります」
ヘルトリングが執務机の前に立っている。今日はシュミードリン少佐も一緒だ。正式な報告、そういう事なのだろう。

ミュッケンベルガーが戦闘指揮を執れない状態になったのは事実だった。但し、人事不省ではなく心臓発作によるショック状態になったらしい。ミュッケンベルガーは心臓に疾患が有ったのだがそれを隠して出兵していた。ショック状態になったミュッケンベルガーに代わって遠征軍の指揮を執ったのはメックリンガー少将だった。

新参の少将に他の参謀達が自ら指揮権を委ねるわけがない。メックリンガーが指揮権を得る事が出来たのにはヴァレンシュタインの工作が有ったらしい。但し、その工作は非合法なものであったようだ。ヴァレンシュタインは責任を取って軍を辞めたいとミュッケンベルガーに書状を送っている。もっともミュッケンベルガーはそれに対して反対の様だ。そしてミュッケンベルガーも退役を宣言している。

「ミュッケンベルガー元帥が退役されるとなると宇宙艦隊司令長官はどなたが就任されるのでしょう」
ヘルトリングの発言は質問と言うよりも呟きに近かった。おそらく後任者が思いつかない、そんなところだろう。
「さて、何とも言えんな。第一退役が許されるかどうかも分からん。ミュッケンベルガー元帥は陛下の御信任も厚い、或いは慰撫されてその地位に留まるという事も有り得る」
エーレンベルク元帥、リヒテンラーデ侯もミュッケンベルガーの留任を望む可能性は低くない。

「しかし戦場には……」
「出られんだろうな、代わりに戦場に出る人間を副司令長官に任命しミュッケンベルガーの下で経験を積ませる、落としどころはその辺だろう」
ヘルトリングが“なるほど”と頷くとシュミードリン少佐も頷いた。
「では、どなたを副司令長官に?」
「さて、それが難しい」
私が答えると二人も考え込んでいる。名将ミュッケンベルガーの後継者選びだ、なかなか難しいものがある。

「卿らは如何思うか?」
私が問い掛けると二人は顔を見合わせた。“遠慮は要らん、思った事を言え”と促すとヘルトリングがメルカッツをシュミードリン少佐がミューゼルの名前を出した。
「情報部長がメルカッツの名を出したのは実績を買っての事だろう。少佐はミューゼル大将の名を出したようだが」
私が視線を向けるとシュミードリン少佐が僅かに姿勢を正した。

「ミューゼル大将は今回の勝利で上級大将に昇進するでしょう。それにローエングラム伯爵家も継ぐ事が決まっています。用兵家としても有能である事は間違いありません。まだお若いですが陛下の御覚えも目出度く御内意が有れば宇宙艦隊副司令長官、或いは司令長官も有り得るのではないでしょうか」

少佐の言葉にヘルトリングは少々面白くなさそうだ。なるほど、自分より若いミューゼルが恵まれすぎているのが気に入らんか。ヘルトリングはもう五十を過ぎたが未だ中将だ、まあこの先は大将で退役だろう、気持ちは分からんでもない。しかし、これからのミューゼルは決して楽では無い。ヘルトリングだけではない、シュミードリン少佐も知っていた方が良かろう。

「かもしれんな。だがミューゼルは決して楽しめんぞ。例え宇宙艦隊司令長官になってもな。むしろ地獄だろう」
「……」
「今回の会戦でミューゼルは武勲は上げたかもしれんが評価はされておらん、分かるか?」
二人が顔を見合わせた。そしてヘルトリングが“どういう事でしょうか?”と質問してきた。シュミードリン少佐も訝しげな顔をしている。

「遠征軍に於いてミューゼルは次席指揮官の筈だった。だが会戦を通してミューゼルは前線で戦う一指揮官でしかなかった。代わって全軍の指揮を執ったのはメックリンガーだ。この事を軽く考えてはならん。メックリンガーを総司令部に入れたのはヴァレンシュタインなのだからな」
二人が愕然としている、ようやく理解出来た様だ。今回の一件、脚本を書いたのはヴァレンシュタインだった。ならばどういう意図を持って脚本を書いたのか、それを理解しなければならない。

「あの小僧、ミューゼルを排除にかかると思ったが潰しにかかったわ。怖い事を考えるものよ」
「……」
「ミューゼルに指揮権を渡さなかった。つまりミューゼルには大軍を指揮する資質無し、帝国軍将兵六百万の前で盛大に宣言しおった。これ程までに派手な不信任の表明も有るまい、前代未聞だな」
ヘルトリング、シュミードリン少佐の二人が顔を強張らせている。中将とはいえ軍の実力者であるヴァレンシュタインが不信任を表明する、その影響を考えたのだろう。

「皆が思うであろうな。ミューゼルが頼りにならぬから新たに二個艦隊を編成した。ミューゼルが頼りにならぬから総司令部にメックリンガーを入れたと」
「……」
「そしてミューゼルが頼りにならぬからヴァレンシュタインは非合法な手段を取らざるを得なかった。その所為で軍から追放されようとしていると」
二人の顔は蒼白だ。多分、私も同様だろう。以前から容赦の無い男だとは思っていたがここまで冷酷になれるのか、そういう思いが有る。

メックリンガーの指揮が拙ければ責められるのはヴァレンシュタインだった。だがメックリンガーは十分過ぎる程に戦果を挙げた。誰もメックリンガーを、ヴァレンシュタインを責める事は出来ない。そしてミューゼルでは同じことは出来なかったに違いないと思う筈だ。

ミューゼルは厳しい視線に晒されるだろう。これまでも孤立していたがこれまで以上にあの男は孤立する筈だ。だがそれに耐えて実力を養い機会を待たなければならない。そして誰もが認めるだけの武勲を上げる……、それが出来て初めて皆から認められるだろう。出来るかな? かなりの忍耐が必要とされるが。

おそらくヴァレンシュタインは出来ないと見ている。そしてミューゼルは焦りから自滅すると見ている。私も同じ思いだ、ミューゼルは自滅する。ヴァレンシュタインはただ黙ってそれを見ているのだろう。私も黙って見ている。ミューゼルよ、簒奪を目指すならヴァレンシュタインの陥穽から這い上がって見せろ。それが出来たら多少は認めてやろう。







 
 

 
後書き
外伝  「追憶  ~ 帝国歴486年(後編) ~」 をアップしました。
シュタインホフによる「追憶  ~ 帝国歴486年 ~」はこれで終了です。この後の部分は「追憶  ~ 帝国歴487年 ~」で書きたいと思います。多分回想者はエーレンベルクかリヒテンラーデ侯になると思います。
 

 

追憶  ~ 帝国歴487年(一) ~




帝国暦 489年 9月 15日  オーディン  軍務省  エーレンベルク元帥



ドアを開けてレムシャイド伯が入って来た。ふむ、元気そうだ、少しも変わっていない。ソファーに相対して座ると従卒がコーヒーをテーブルに置いて下がった。
「久しぶりですな、レムシャイド伯」
「真に、久し振りですな、軍務尚書」
二人で顔を見合わせて笑った。

「フェザーンに行かれたのはつい昨日のような気がするが……。月日が経つのは早いものですな」
「早いものです、気が付けば八年が過ぎていました。オーディンは随分と変わりましたな」
感慨深そうな口調だ。確かにオーディン、いや帝国は変わった。八年ぶりではまるで別世界だろう。

「フェザーンでは色々と難しい交渉をしていただきました事、感謝しております。御手数をおかけしました」
頭を下げるとレムシャイド伯が止めてくれという様に手を振った。
「いやいや、多少なりともお役に立てた事を嬉しく思っております」

「伯にはまた面倒な御役目をお願いする事になりますが」
「分かっております。フェザーン制圧後、フェザーンを安定させる事ですな。出来る限りの事はします」
「有難うございます、軍からも出来る限り協力させていただきます」

少し雑談をした後だった。レムシャイド伯が“今更ですが”と切り出した。
「オーディンは本当に変わりましたな。人の心も変わったと思います」
「人の心、ですか」
「ええ、先程国務尚書閣下にお会いしましたが随分と変わられたような気がしました」
「なるほど」
人の心、国務尚書か、変わったかもしれない。

「以前お会いした時はもっと表情が厳しかったというか、暗かったと覚えています。今はそれが有りません、明るい感じがします」
「レムシャイド伯がお会いした頃は帝国は様々な問題を抱えていました。今も問題は無いとは言えませんが帝国は間違いなく良い方向に向かっております。その所為でしょうな」
レムシャイド伯が二度、三度頷いた。

多くの貴族が没落して宮中内での争いが無くなったという事も有るだろう。心に余裕が出来たのかもしれない。宮中だけではないな、軍内部も争いが無くなった。以前は帝国軍三長官が協力するなど稀な事だったが今ではそれがごく自然な事になっている。国務尚書だけではないな、人の心も変わった。

目標が出来たからかもしれん、宇宙統一という新たな目標。考えてみれば以前は何の目標も持たずにダラダラと戦争するだけだった。何処かで嫌気がさしていたのかもしれない、それが人の心を荒ませたのかも……。変わったな、確かに変わった。今考えればあの時の選択が始まりだったのかもしれない。あれは四百八十七年の初めだった……。



ドアを開けシュタインホフ統帥本部総長が執務室に入って来た。
「新年早々お呼び立てして申し訳ない、休暇中だったかな」
「いや、お気になされるな。所用が有って統帥本部に行こうと思っていたところだ」
「そうか、そう言っていただけると助かる。こちらへ」
ソファーに座ると従卒がコーヒーをテーブルに置いて下がった。人払いは既に命じてある、部屋には私とシュタインホフ元帥の二人だけだ。なんとも気まずい空気が漂った。日頃仲が良くないというのも考え物だ。

「折り入って相談したい事が有るとの事だが何用かな、軍務尚書」
「困った事態になった。統帥本部総長の力を借りたい」
「……」
「ミュッケンベルガー元帥が本日、陛下に辞表を捧呈された」
「……受理されたのかな」
「いや、まだ受理はされていない。保留と考えて欲しい」
シュタインホフ元帥が一口コーヒーを飲んだ。驚いた様子は無い、相談される事を想定していたか。可愛げの無い男だ。一口コーヒーを飲んだ、苦みが舌に残った。

「理由は病気の事かな、心臓に異常が有るとの事だが」
「そうだ、狭心症との事だった」
「陛下から慰留は」
「慰留されたのだが司令長官の辞意が固い」
“そうか”とシュタインホフ元帥が頷いた。

「戦場には出られずとも国内で後方から支援するという役割も有ると思うが」
「その事は陛下からも御言葉が有った。そういう形で現役に留まる事は出来ぬかと。だが司令長官は前回の戦いで人事不省になった事を酷く愧じている」
「ミュッケンベルガー元帥ならさもあろう」
しんみりとした空気が流れた。潔くは有るが惜しいという感情は当然有るだろう。ここ近年の宇宙艦隊の働きは誰もが認めるものだ。

「しかし保留とはどういう事かな? 軍務尚書」
「陛下から至急ミュッケンベルガー元帥の後任人事案を提出せよとの御言葉が有った。納得出来るものであれば司令長官の辞職を認めるとの事だ。後任者を選ぶのは難しいと御考えなのかもしれん。ミュッケンベルガー元帥の後任だからな。納得出来る人事案を持って来なければ辞表を受理出来ぬという事だろう」
“なるほど”とシュタインホフ元帥が頷いた。

「至急後任者を決めねばならん。それで卿を呼んだのだ」
「ミュッケンベルガー元帥が加わらなくて良いのかな?」
「司令長官から我ら二人で決めてくれとの事だ。それとヴァレンシュタイン少将の処遇も決めねばならん。陛下から早めに処遇を決めるようにと御言葉が有った」
「陛下から……」
シュタインホフ元帥が驚いたような声を出した。

陛下から御言葉を聞いた時は自分も驚いた。ヴァレンシュタインは軍の実力者になりつつあるがそれでも若手士官の一人に過ぎぬ。陛下が気遣う様な立場にはないのだ。異例の事といって良いだろう。だがこれでヴァレンシュタインを中央に置いておくことが出来る。或いはリヒテンラーデ侯の口添えが有ったのかもしれん。内乱を防ぐにはあの若者の力が必要だ。となると宇宙艦隊司令長官の人事はその辺りも考慮せねばならん。

「現時点では一階級降格、一カ月の謹慎処分にしてある。謹慎処分の期限が切れるまでに決めねばならん」
「ミュッケンベルガー元帥の後任人事も含めて、そういう事だな」
シュタインホフ元帥が探るような視線を向けてきた。私と同じ事を考えたのだろう。“そういう事だ”と答えて頷いた。

「軍務尚書、陛下とヴァレンシュタイン少将は親密なのかな?」
シュタインホフ元帥が首を傾げた。
「妙な若者でな、陛下の御命を御救いした事が有る。卿も知っていよう」
「それは知っているが」
「他にも何かと関わりが有るようだ」
トラウンシュタイン産のバッファローの毛皮の一件、御不例の一件、ベーネミュンデ侯爵夫人の一件、そしてグリンメルスハウゼン子爵の一件……。

「グリンメルスハウゼン子爵?」
「子爵はヴァンフリートで功を上げ大将へと昇進した。あの時参謀長として子爵を補佐したのがヴァレンシュタインだった」
「なるほど、そんな事も有ったな」
シュタインホフ元帥が頷いた。グリンメルスハウゼン子爵、誰もが認める凡庸な老人だった。だが陛下の侍従武官を務めた事で陛下の御信頼は厚かった。

当然あの老人から陛下にヴァレンシュタインの事が伝えられただろう。妙な若者だ、平民であるのにどういうわけか陛下と関わりがある。それも一つではなく複数回に亘ってだ。だが陛下と特別に親密な関係を維持しているわけではない。彼の出世は縁故ではなく実力によるものだ。

ヴァレンシュタインと陛下、非常に見えにくい関係だな。表向きには無いに等しい。だが今回の御言葉を考えれば陛下もヴァレンシュタインに対して思うところが有るのかもしれない。となれば見えないだけで繋がりは深いともいえる、無視は出来ない。シュタインホフ元帥が気にするのもその所為だろう。コーヒーを飲みながら二度、三度と頷いている。

「ところでシュタインホフ元帥、次の司令長官には誰が相応しいと思われる? 時が無い、忌憚ない意見が聞きたい」
問い掛けるとシュタインホフ元帥が首を横に振った。
「……難しいな、私には思い付かぬ。軍務尚書の御考えは?」
「メルカッツ大将は如何であろう」
「さて、……一個艦隊の指揮官なら問題は無いと思う。しかしあの男に宇宙艦隊司令長官が務まろうか? 私も軍務尚書も元帥と呼ばれる地位に昇ったが宇宙艦隊司令長官には名前が上がらなかった。メルカッツも我らと同様ではないかな」

侮辱とは思わなかった。それほどまでに宇宙艦隊司令長官という職は務めるのが難しい。何百万、いや一千万以上の将兵を命令一つで死地に送るのだ、それだけの覚悟も要れば躊躇わずに命令を受け入れられるだけの信頼も必要だ。ミュッケンベルガーもメルカッツは難しいだろうと言っていた。私も同意見だ、そしてシュタインホフ元帥も同じ考えを持っている。やはりメルカッツは不適格か……。

「ではグライフス大将は」
「同じであろう」
「ゼークト、……シュトックハウゼン、……クライスト、……ヴァルテンベルク」
シュタインホフ元帥が次々と首を横に振った。
「ミューゼル」
「……」
シュタインホフ元帥は難しい顔をしている。やはりここで立ち止まるか……。

「ミューゼル大将、如何思われる」
敢えてもう一度問い掛けた。
「正直に言えば先日の戦いまではその目も有るかと考えていた。しかし今は……」
「難しいと御考えかな」
シュタインホフ元帥が頷いた。

「ここから先は腹を割って話そう」
「承知した。私も卿に話さねばならん事が有る」
「そうか……、私が反対する理由は二つある」
「……」
「一つは先日の戦いだ。あの戦いでミューゼル大将はヴァレンシュタイン少将によって不信任を表明された、将兵達の信頼を失ったと思うのだ。信頼を回復するまでは司令長官を務めるのは難しいと思う」
やはりそれか。

「もう一つの理由は?」
「信用出来ぬ。能力が有るのは認める、しかしあの者に宇宙艦隊を預けるのは危険ではないかと私は考えている。軍務尚書はそうは思われぬか?」
「同意する。確かに能力は有るようだ。ミュッケンベルガー元帥はミューゼル大将を勝てる指揮官だと評価し後継者にと考えていた。だが抑え役が必要だとも言っていた、扱いが難しいと」
シュタインホフ元帥が大きく頷いた。

「なるほど、ミュッケンベルガー元帥もミューゼル大将を危険だと認識していたか」
「国務尚書閣下からも警告されている。強大な武力と強烈な野心、その融合は避けなければならんと」
「国務尚書が……、では国務尚書閣下も同じ懸念を抱いていたという事か」
シュタインホフ元帥が呟いた。

ミュッケンベルガー元帥もシュタインホフ元帥も国務尚書も同じ事を言っている。指揮官としての能力は評価しているが帝国軍人として無条件に信用は出来ない……。そして私もそれに同意している。口には出さないが簒奪の恐れが有ると見ているのだ。

「ヴァレンシュタイン少将の不信任も突き詰めればミューゼル大将に対する不信感だろう。ミュッケンベルガー元帥は今回のヴァレンシュタイン少将の不信任について過小評価していたと言っていた」
「ミュッケンベルガー元帥はそれに気付いていたのか」
少しい意外そうな表情だ。喉が渇いている事に気付いてコーヒーを一口飲んだ。カップを戻す時カチャッと音がした。

「そのようだな。ミュッケンベルガー元帥の考えではヴァレンシュタイン少将をミューゼル大将の抑え役にしようとしていたようだ。不信感が有れば抑え役としては適任だと思ったようだが……」
「思い通りにはいかぬか」
シュタインホフ元帥が渋い顔をした。

厄介な事だ。宇宙艦隊司令長官は軍の最高位では無い。序列では第三位、実戦部隊の最高責任者でしかない。言わば現場の最高責任者だ。だが野心の有る人間が就けば非常に危険なポストでも有る。帝国最大の武力集団、宇宙艦隊を自分の野心のために使うだろう。野心が大きければ大きい程危険度は増す。ミューゼルには任せられない。

シュタインホフ元帥が私をじっと見ていた。
「軍務尚書、適任者が居ないな」
「いや、もう一人いる」
「もう一人? それは?」
「……ヴァレンシュタイン少将」
「!」
シュタインホフ元帥が眼を見開き“本気か”と囁くように問い掛けてきた。

「ミュッケンベルガー元帥の意見だ。少将なら適任だろうと」
唸り声が聞こえた。シュタインホフ元帥が唸っている。私も聞いた時には唸っていたな。
「艦隊司令官としての実績は無いが?」
「確かに無い。だがオーディンをブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯の内乱から守った。それに今回の会戦、勝てたのは少将の力による。勝てる男というのがミュッケンベルガー元帥の評価だ」
「なるほど」
またシュタインホフ元帥が唸った。

「しかし階級が低い、それに平民であろう」
「そうだな、惜しい事だ」
階級も身分も、宇宙艦隊司令長官には届かない。
「軍務尚書、こうなると陛下がミュッケンベルガー元帥の辞任を保留扱いにした事を重く見なければなるまい」
「うむ、ミュッケンベルガー元帥を司令長官に留め置き副司令長官に戦場を任せる、そういう事だな」
「そういう事だ」

何の事は無い、ヴァレンシュタインの提案の通りか。思わず笑い声が出た。シュタインホフ元帥が訝しげな表情をしている。
「済まぬ、つい笑ってしまった」
「……」
「統帥本部総長、卿はヴァレンシュタイン少将がミュッケンベルガー元帥に手紙を書いた事は御存じかな」

「責任を取りたいという例の書状かな。軍から追放してくれと書いてあったと聞いているが」
「その書状には自分の追放後はミュッケンベルガー元帥にオーディンを守って欲しいと書いてあったそうだ」
シュタインホフ元帥が眼を瞠った、そして笑い出す、私も笑った。

「やれやれだな。こうなる事を予測済みか」
「そのようだ、少将の目にも今の帝国には司令長官に相応しい人物は居ないらしい」
「どうも可愛げが無いな、軍務尚書」
「ああ、可愛げが無い」
また二人で笑った。妙な事だ、私とシュタインホフが声を上げて笑っている。状況は決して良くないのだが。

「となると問題は副司令長官を誰にするかだが……」
「今後、遠征軍の規模は縮小する。副司令官はメルカッツ、グライフス、ゼークト、シュトックハウゼン、その辺りから選ばねばなるまい」
「これまでのように攻勢は取れぬ、守勢を取るという事だな、軍務尚書」
「そういう事だ。残念だが已むを得ぬ」
敢えてクライスト、ヴァルテンベルクの名は入れなかったがシュタインホフ元帥は問題視しなかった。まあ当然だな。あの連中の顔など見たくないのは私も同じだ。

それにしても惜しい事だ、せっかくここまで反乱軍を追い詰めながら守勢を取らざるを得ないとは……。嘆いても仕方ないな。保留とはなっているがミュッケンベルガー元帥の辞表を万が一にも受理されては困る。念のため国務尚書に話しておくか。
「シュタインホフ元帥、国務尚書閣下にミュッケンベルガー元帥を留任させる方向で検討していると報告したい。卿にも同道願えるかな」
「承知した」
ヴァレンシュタインの処遇は副司令長官人事をある程度固めた後だな。

 

 

追憶  ~ 帝国歴487年(二) ~




帝国暦 487年 1月 7日  オーディン  リヒテンラーデ侯爵邸  エーレンベルク元帥



国務尚書リヒテンラーデ侯が部屋に入って来た。急いで立ち上がり頭を下げた。
「夜分、御自宅にまで押しかけ申し訳ありません」
「気にする事は無い。卿らも忙しい身、内密にとなればこのような形を取らざるを得ぬ。それで用件は何かな? 軍務尚書、統帥本部総長」
侯がソファーに座る、それを待って私とシュタインホフ元帥も座った。

国務尚書の服は普段着でも部屋着でもない、今からでも出仕出来るような正装だ。戻って来たばかりなのか、それともこれも公務と考えて衣装を整えたのか。ドアが開き若い女性が紅茶を持って入って来た。テーブルに紅茶を置くと一礼して部屋を出て行った。角砂糖を一つ入れスプーンでかき回す、シュタインホフ元帥はレモンのみを入れ、リヒテンラーデ侯はスプーンでかき回してからミルクを入れた。目でマーブルの模様を楽しんでいる。

「宇宙艦隊司令長官の人事ですがミュッケンベルガー元帥をその地位に留めたいと思います」
私が切り出すと“フム”と頷いた。視線はまだカップに落としたままだ。
「ミュッケンベルガー元帥は戦場で指揮を執れるのかな、それが出来ぬと見て辞任を申し出た筈だが」
「いえ、戦場には出ません。国内に在って内乱の勃発を抑えます。副司令長官を新たに任命しその者を戦場に送りたいと考えております」
視線を上げ“なるほど”とリヒテンラーデ侯が頷いた。

「そういう事ですのでミュッケンベルガー元帥の辞表の受理は……」
「絶対に認めるな、そういう事か」
「はい」
リヒテンラーデ侯が大きく息を吐いた。はて、どうも気に入らぬようだ。シュタインホフ元帥に視線を向けた、彼はリヒテンラーデ侯を窺うように見ている。どうやら私と同じ感触を得たらしい。

「良いのかな」
「と言いますと」
「ミュッケンベルガー元帥が心臓に異常が有るのは貴族達も知っていよう。あの連中、故意に元帥の心臓に負担をかけ元帥を潰しに来るやもしれんぞ。それが無くても事が起きた時、発作で倒れたらどうする。混乱に拍車がかかるだけではないかな?」
「……」

リヒテンラーデ侯は反対か。確かにその可能性は有るが抑止力としては十分ではないのか……。
「どうも卿らは分かっておらぬようだ」
侯が嘆息を漏らした。分かっていない? 何をだ? シュタインホフ元帥に視線を向けた、彼も困惑している。
「今大事なのは帝国を混乱させぬ事、内乱を防ぐ事であろう。司令長官の人事など二の次で良いわ」

「失礼ですが我らも内乱を防ぐ事が大事と理解しております。確かにミュッケンベルガー元帥の病を軽視したかもしれません。しかし内乱を防ぐためにミュッケンベルガー元帥を司令長官に留任させてはと思ったのです」
シュタインホフが反論した。司令長官の人事を二の次と言われた事が面白くなかったのだろう、多少ムッとしている。だがリヒテンラーデ侯が冷たい笑みを浮かべた。

「勘違いしてはおらぬか、前回帝国が内乱を回避出来たのはミュッケンベルガー元帥の力ではない。ヴァレンシュタイン少将の働きよ、違うかな?」
「……」
「内乱を防ぐと言うのなら先ずはヴァレンシュタイン少将の処遇を決めるのが先決であろう。降級させたままでは貴族達が勘違いしかねん。それでは内乱を誘発させるようなものだ」

国務尚書は実績のあるヴァレンシュタイン少将を国内治安の担当者にすべきだと考えている。ミュッケンベルガー元帥は未知数であり健康にも不安が有ると見たか。ミュッケンベルガー元帥の補佐という形で使えば良いと思ったが……。リヒテンラーデ侯が紅茶を一口飲んだ。

「極端な事を言えば軍はイゼルローン回廊から向こうには出ずとも良いのだ。勝てずとも負けなければ帝国は滅びぬ。だが一旦内乱が生じれば帝国を二分、三分する争いとなろう。反乱軍もここぞとばかり攻め寄せて来る筈だ。そうなれば国が傾きかねぬ、卿らとて無事では済むまい」

否定は出来ない。勝てないなら負けないようにするのも用兵家としての力量だ。そして内乱が起きればとんでもない混乱が生じるのも事実、反乱軍が付け込むのも間違いは無い。優先順位を間違えたか……、いや間違えては居ない。問題は司令長官を任せられる適任者が居ない事だ。だからミュッケンベルガー元帥にとなってしまった。だから国内の治安を任せろとなってしまった。切り離さなさければなるまい。紅茶を一口飲んだ、もう一つ砂糖を入れれば良かった。

「国務尚書閣下はヴァレンシュタイン少将を中将に戻すべきと御考えですか?」
シュタインホフ元帥が問うと国務尚書が“さて”と言葉を発した。
「私には軍人の世界は良く分からんのだが今回の戦い、ヴァレンシュタイン少将の果たした役割というのは大きいのかな。色々と問題を起こしたとは聞いているが」

「大きいと思います。彼の働き無しでは帝国軍の勝利は難しかったでしょう。場合によってはとんでもない大敗を喫した可能性も有ります。それは万人が認めるところです。しかし軍の統制を乱したのも事実。それ故一階級降級させ謹慎させております」
私が言うとシュタインホフ元帥が大きく頷いた。そしてリヒテンラーデ侯が“フム”と頷いた。

「軍の統制を乱した故、罰は下した。ならば功を上げた以上賞を与えねばなるまい。問題はその賞の与え方よな。少将の立場を強める与え方でなければならぬ」
「……」
「ミュッケンベルガー元帥が退役すればヴァレンシュタイン少将は後ろ盾を失う、少なくとも貴族達はそう思うであろう。その辺りを良く考えるのじゃな」
なるほど、中将に戻すだけでは足りないという事か。立場を強めるとなるとポストも考慮する必要がある。兵站統括部ではいささか軽過ぎるな。

「国務尚書閣下、閣下はヴァレンシュタイン少将をどのように見ているのです。その、言い辛い事では有りますが彼を危険だと思われた事は有りませんか」
考えているとシュタインホフ元帥の声が聞こえた。シュタインホフ元帥がリヒテンラーデ侯に問い掛けている。侯は目を細めてシュタインホフ元帥を見た。

「シュタインホフ元帥、卿は例の一件をまだ引き摺っているのかな?」
私が問うとシュタインホフ元帥が首を横に振った。
「そうではない。それは私個人の不快、そうでは無く帝国にとってあの若者が危険と思った事の有無を訊ねている。閣下はミューゼル大将を危険だと考えておられる、ならばヴァレンシュタイン少将については如何御考えか」
「……」
リヒテンラーデ侯は無言だ。それを見てシュタインホフ元帥が言葉を続けた。

「不思議では有りませんか。ミューゼル大将とヴァレンシュタイン少将、あの二人は若くして高い地位に就きました。ミューゼル大将には伯爵夫人の後ろ盾が有りましたがヴァレンシュタイン少将にはそのような物は無かった、実力のみで昇進しました。普通こういう場合実力だけで昇進した者はそうでない者に対して反発するものです。だがヴァレンシュタイン少将にはそれが無かった」
「……」

「それどころか好意的だった、何かと便宜を図りミューゼル大将を押し上げようとしていた。何故だろうと思いました。最初は出世のためにミューゼル大将に近付いたのかと思いましたがあの男には出世欲が無かった、いや私には見えなかった。では何故野心家のミューゼル大将に近付くのか、野心の無い人間が野心家に近付くとはどういう事なのか……」
「……」
シュタインホフ元帥が私をじっと見た。

「卿は考えた事は無いか、軍務尚書」
「……」
「国務尚書閣下、如何思われます」
「……」
「その辺りの見極めがつかねば昇進させ地位を与える事は危険な事になりかねません」
部屋に重苦しい空気が満ちた。

「いささか考え過ぎではないか、シュタインホフ元帥。確かにあの二人、以前は親密だった。だが今回の一件でヴァレンシュタイン少将は無条件にミューゼル大将を信任しているわけではない事は明白だ。むしろあの二人は決裂したと私は見る」
「どういう事かな、軍務尚書」
リヒテンラーデ侯が訝しげな表情をしたので指揮権の一件を説明した。侯は何度も頷いた。

「なるほどな、やはり決裂したか」
「と言いますと」
「あの二人が親しいのは知っていたがどうにも肌合いが違い過ぎる。上手く行くのが不思議だった……。それにしても怖い男だ、ビロードに包まれた鋼鉄の手か」
リヒテンラーデ侯が大きく息を吐いた。

「国務尚書閣下、その言葉は」
シュタインホフ元帥が問うとリヒテンラーデ侯が軽く笑い声を上げた。
「ヴァレンシュタインを評した言葉よ。あの男の副官が言ったと聞いた。そうであったな、軍務尚書」
「はい」
シュタインホフ元帥が“ビロードに包まれた鋼鉄の手”と呟いた。言い得て妙だと思う。普段穏やかな若者だが事においては果断、冷徹になれる男だ。

「シュタインホフ統帥本部総長はミューゼル大将が尋常ならざる野心を持っている、そう考えているのかな?」
「はい」
「簒奪か」
「その懼れ無しとは言えますまい」
国務尚書とシュタインホフ元帥がじっと見詰め合った。

「確かにその懼れは有る。あの男の陛下を見る目には憎悪が有る。陛下の御厚情により出世したにも拘らず姉が後宮に入れられたのが気に入らぬらしい。ふざけた男よ! それほどまでに気に入らぬのなら陛下の御厚情を受けねば良かろうに。敢えて気に入らぬ相手からの厚情を受ける。その真意は碌なものでは有るまい」
吐き捨てるような口調だ。リヒテンラーデ侯のミューゼル大将への感情が見えた様な気がした。

「ではヴァレンシュタイン少将は?」
「フム、陛下に対する敵意は無いな。どちらかと言えば好意に近いものが有ると私は見ている。如何かな、軍務尚書」
「私もそのように思います。陛下に対する敵意は見えません」
「ミューゼルが簒奪を望んでも同意しないのではないかな」
今度はシュタインホフ元帥が“フム”と頷いた。

「他にも違うところは有る。ミューゼルは野心の塊、己の利にならぬ事では動かぬ。逆に言えば己の利になると見れば必ず動く。だがヴァレンシュタイン、あれは違う」
「違いますか?」
「違うな、利では動かぬところが有る。そういう意味では可愛げが有る男じゃ」
「……」
私とシュタインホフ元帥が黙っていると侯が笑い声を上げた。

「面白かろう、何を与えれば動くのか、楽しませてくれるからの」
「……」
「陛下御不例時には内乱になれば大勢の人間が死ぬ。それを避けるために動いた。他にも試したが意外と情に脆いところが有る。あれは己の野心のために人を殺す事は出来まい。人を殺すより人を助けたがる男だ。根本的な所でミューゼルとは合わぬ、簒奪には乗らぬだろうというのもそこにある」
確かにそういうところは有る、サイオキシン麻薬の一件でも我らに求めたのは一年間の俸給の返上だった。それを中毒患者の治療費に充てる事を望んだ。

「では閣下はヴァレンシュタイン少将について心配は無いと御考えなのですな」
「そうだ、シュタインホフ統帥本部総長は不安かな?」
「いえ、小官もミューゼル大将とは違う、あの二人は決裂しただろうと見ています」
「……」
「ですが小官は少将とそれほど親しくありません。ですのでここで御両所に確認させていただきました」
シュタインホフ元帥が軽く一礼した。面倒な男だ、しかし慎重ではあるな。

「では統帥本部総長は少将を引き上げる事に異論はないのだな」
「有りません」
「ならば今一度二人で相談してみては如何かな? 先ず少将の処遇を決めた後に宇宙艦隊司令長官の後任を決めるという事で」
リヒテンラーデ侯の提案にシュタインホフ元帥と顔を見合わせた。異論はないようだ、侯に“そういたします”と答えた。



帝国暦 487年 1月 10日  オーディン  ミュッケンベルガー邸  エーレンベルク元帥



応接室に入って来たミュッケンベルガー元帥が近付きながら話しかけてきた。
「難航しているのかな」
「少々難航している」
「迷惑をかけてしまったようだ」
「気にする事は無い。それより相談したい事が有る」
ソファーに座ったミュッケンベルガー元帥にリヒテンラーデ侯爵邸での話の内容を説明すると所々で頷いた。

「なるほど、ヴァレンシュタイン少将の処遇か」
「そうだ、厄介な事に少将が降級処分を受けた事で将兵達が騒いでいる」
「と言うと?」
「処分が不当だと抗議が届いているのだ。軍務省、統帥本部、そして宇宙艦隊司令部にな。抗議は日に日に増えていく。卿は屋敷に居るから知らなかっただろう」
ミュッケンベルガー元帥が溜息を吐いた、そして笑い出した。

「厄介な小僧だな、軍務尚書」
「全くだ」
今度は二人で笑った。笑い事ではないのだが笑うしかない、そんな気分だ。
「そこでだ、ヴァレンシュタイン少将の事だがあの男に国内を任せるとしてどのような地位に就ければ良いと思うか。卿の後ろ盾が無い状況でだ」
「そうだな……、地上部隊への影響力、宇宙艦隊への影響力を保持させる必要があるだろう」
ミュッケンベルガー元帥がゆっくりと考えながら答えた。

「非常時には帝都防衛司令官に任命する。憲兵隊、近衛、装甲敵弾兵は少将の指揮を受ける、地上部隊は問題無いと思う」
「問題は宇宙艦隊だな。宇宙艦隊司令長官に誰を持ってくるかで違ってくる」
「……」
ミュッケンベルガー元帥が私の顔を覗き込むように見ている。いかんな、堂々巡りだ。

「実力が有りヴァレンシュタインと親しい人物を持ってくるなら、つまりヴァレンシュタインを使いこなせる司令長官なら何処でも問題は無いな。そうでない場合は宇宙艦隊で然るべき地位に就ける必要があると思う」
「やはりそうなるか」
「うむ、但しそうなった場合は司令長官とヴァレンシュタインの関係は難しいものになる」

思わず溜息が出た。結局のところヴァレンシュタインの人事は宇宙艦隊司令長官の人事と連動せざるを得ない。どちらか一方だけを決めて済む問題ではないという事が浮き彫りになった。
「誰をヴァレンシュタインと組ませれば良いと思う?」
「……」
問い掛けてもミュッケンベルガー元帥は目を伏せて沈黙したままだ。

「ミュッケンベルガー元帥?」
目を上げた。
「……組ませるのであればミューゼル大将が最善だと思う」
「……ミューゼル」
「外に強いミューゼル大将と内に強いヴァレンシュタイン少将。そしてヴァレンシュタインにミューゼルの抑えをさせる」
また難しい事を……。

「ミューゼル大将に務まるかな。先日の戦いで将兵の信頼を失ったのではないか? それにあの男を宇宙艦隊司令長官に就けるのは危険だと思うが」
「そうかな? むしろ好都合ではないかな、軍務尚書。弱い司令長官に簒奪は出来ん」
「なるほど」
そういう見方も有るか。

「ミューゼル大将が将兵の信望を得るにはかなりの時間を必要とするだろう。まして簒奪となれば狂信とも言える程の信望が必要だ。現状ではなかなか難しいだろうな」
「その上でヴァレンシュタイン少将に抑えをさせるか」
「うむ」
一理有る。無理をして失敗すればミューゼルは終わりだ。

「メルカッツ大将は?」
「メルカッツか……、弱いな。メルカッツではヴァレンシュタイン少将に押されてしまうと思う。二人の関係は悪くあるまいがメルカッツにはヴァレンシュタインを使いこなせないと思う。いささか歪な形になる、余り勧められん」
ミュッケンベルガー元帥が首を横に振った。

「卿はミューゼルとヴァレンシュタインを勧めるのだな?」
「そうだ」
「となるとヴァレンシュタインの地位は?」
「宇宙艦隊内にて司令長官に次ぐ地位が必要だ。各艦隊司令官から、司令長官から一目置かれる地位だな」
「なるほど、となると……、用意出来るポストは限られてくるな」
「ああ、限られてくる」
私の言葉にミュッケンベルガー元帥が大きく頷いた。







 

 

追憶  ~ 帝国歴487年(三) ~




帝国暦 487年 1月 20日  オーディン  軍務省  エーレンベルク元帥



「そろそろかな?」
「そろそろだろう」
私とミュッケンベルガー元帥が話しているとトントンとドアを叩く音が聞こえた。どうやら待ち人が来たらしい。ミュッケンベルガー元帥がクスッと笑った。悪い奴だ、楽しむ気だな。

「ローエングラム大将、入ります」
ドアを開けて一人の若者が執務室に入って来た。ローエングラム伯か、十九歳、確か三月になれば二十歳だったな。若いと思った。自分が二十歳の時は未だ士官学校を卒業したばかりの新米士官だった。ローエングラム伯、大将か……。正直不愉快ではあった。

ローエングラム伯が近付いて来た。黒の軍服と豪奢な金髪が良く映える若者だ。目の前で立ち止り敬礼をしてきた、こちらも答礼する。
「ローエングラム伯爵家を継がれたか。先ずは目出度い、お慶び申し上げる」
「お慶び申し上げる」
私が寿ぐとミュッケンベルガー元帥も祝いの言葉をかけた。
「有難うございます、名誉ある伯爵家の名を辱めぬように努めます」
僅かだが頬が紅潮している。余程に嬉しいらしい。

「ローエングラム伯、昨年の勝利により卿は上級大将に昇進する事になった」
「はっ、有難うございます」
「それとこの度、ミュッケンベルガー元帥が退役する事になった」
「退役? 真ですか?」
驚いている、まあ信じられないだろう。陛下が慰留する、そう思ったはずだ。

「真だ。私は退役する。陛下の御許しも得ている」
ミュッケンベルガー元帥が答えると驚きから微かに期待へと表情が変わった。自分が宇宙艦隊司令長官に就任する可能性が有ると思ったのだろう。あまり見ていて楽しいものではない。ミュッケンベルガー元帥も同様だろう。しかし、ここで喜ぶとは……。本人は前回の戦いで何が起きたのか分かっていないのかもしれない。分かっていれば喜びよりも不安を表しただろう、それとも余程の自信家なのか、そちらかな。

「後任の宇宙艦隊司令長官だがローエングラム伯、卿にやってもらう事になった。既に陛下の御了承も得ている」
「はっ、精一杯務めさせていただきます」
「重ね重ね目出度い事だな、ローエングラム伯」
「有難うございます」
頬が目に見える程に紅潮している。人生最良の日、そんな想いだろう。

「それとヴァレンシュタイン少将が宇宙艦隊副司令長官に就任する」
「!」
愕然としている。ローエングラム伯から先程までの高揚は綺麗に消えていた。心の何処かに嘲笑する気持ちが有る。我らを甘く見るな、ローエングラム伯。簡単に簒奪などさせぬし許すつもりもない。

「しかし、彼は未だ少将ですが……」
「今月末に謹慎処分が解ける。それと同時に大将に昇進し宇宙艦隊副司令長官へ就任する」
「大将に昇進……」
唇を噛み締めている。不満か?

「おかしな話ではあるまい。既に軍の統制を乱した事に付いては一階級降級、一年間俸給の減給、一ヶ月の停職処分にした。処分を下した以上、後は前回の戦いで上げた功績を評価せねばならん。少将の力無くしては勝てなかったのだからな」
「……」
「ヴァレンシュタイン少将の功を認めぬとなればあの戦場で戦った将兵達が納得するまい」

分かったか? 卿は奮戦したかもしれん、しかし卿の力で勝ったのではないという事を忘れるな。勝てたのはヴァレンシュタインの手配りによるものだ。ローエングラム伯が唇を噛み締めている。屈辱であろう、ヴァレンシュタインの力量を認められない、いや違うな、認めても受け入れられないといったところか。これでは協力など無理だな。

「それに彼には国内を抑えて貰わなければならん。卿とて外征中に国内で騒乱など起こって欲しくは有るまい。ミュッケンベルガー元帥がアスターテで勝ちながらも兵を退かざるを得なかった時には卿もその場に居た筈だ、違うかな?」
「はい」
ローエングラム伯、ミュッケンベルガー元帥が頷いた。前者は渋々、後者は大きく。

本来ならローエングラム伯自身が国内の抑えを誰に任せるのかと尋ねなければならない筈だ。だがそれが無い。宇宙艦隊司令長官になった事を喜ぶ前にその事を考えて欲しいものだ。或いはヴァレンシュタインを副司令長官にする事でその事に気付くべきだろう……。どうも物足りない。

ミュッケンベルガー元帥とローエングラム伯が引き継ぎの事を話し出した。辞令交付は二月一日だがその前に済ませておく事で合意した。
「忙しいところ、御苦労だった、ローエングラム伯。人事の件は内密にしてくれ。ヴァレンシュタイン少将は謹慎中なのでな」
「少将は知らないのですか?」
「知らぬ。謹慎が明けてから話す事になる」

ローエングラム伯が部屋を出ていくとミュッケンベルガー元帥が苦笑を浮かべた。
「面白くなさそうだ、信用されていないと思ったのだろう」
「信用するわけが無かろう」
私が吐き捨てるとミュッケンベルガー元帥が今度は声を上げて笑った。

「いや、そうではない、能力についてだ。低く評価されたと思ったようだな」
「なるほど、そちらか。不信任について分かっておらぬようだ。余程自分に自信が有るらしい」
「そのようだ」
二人で顔を見合わせて苦笑した。才能を畏れられたのではなく危ぶまれた、不安視されたと思ったか。確かに屈辱だろう。畏れられたと思えば少しは違っただろうか。

「しかし現実問題として一人で宇宙艦隊を纏められるのかな」
「さて、少々難しいかもしれん」
「やれやれだな」
私の言葉にミュッケンベルガー元帥が頷いた。当分攻勢をとるのは難しいだろう。それとも無理に出撃するだろうか……。

「取り敢えず半分は説得が終わったわけだ」
「問題はあとの半分だろう、軍務尚書」
「ごねるかな?」
「ごねるだろうな」
また二人で顔を見合わせて苦笑した。ローエングラム伯の下で働くなど真っ平だと言うに違いない。何かと理由を付けて逃げようとするのは見えている。

「まあそれでも頼み込めば何とか引き受けてくれるだろう。将兵達からの嘆願も有る事だ、なんとかなる筈だ」
「頼まれると嫌とは言えぬ性格だからな」
「だからついつい面倒を押付けたくなる」
ミュッケンベルガー元帥が人の悪い笑顔を見せた。楽しんでいるな、これは。

ミュッケンベルガー元帥が帰るとシューマッハ大佐を執務室に呼んだ。
「大佐、卿に新たな任務を命じる」
「はっ」
「宇宙艦隊司令長官の人事が決まった。近日中にローエングラム伯が司令長官に就任する。そしてヴァレンシュタイン少将が大将に昇進し宇宙艦隊副司令長官に就任する」
「それは……」
大佐が絶句している。冷静沈着な男だが驚いたようだ。愉快ではある。もっとも何に驚いたのかという疑問付きだが。

「大佐、ヴァレンシュタイン少将を副司令長官にする理由が分かるかな?」
「内乱に備えるため、と思います」
「表向きはそれで良い」
「と言いますと?」
シューマッハ大佐が眉を顰めた。

「ローエングラム伯が妙な事を考えぬようにという抑え役だ、意味は分かるな?」
シューマッハ大佐の顔が強張った。
「……はい。それで小官の役割は」
「表向きは乱が起こった時の私との連絡役だ。卿はヴァレンシュタイン少将とは一度ともに仕事をしている。問題は有るまい」
「有りません。……表に出せない理由は何でしょう」

「ローエングラム伯の動向、新たな副司令長官が抑え役として機能しているかどうかの確認だ」
「お二人を監視せよと」
「そうだ。内乱だけでも頭が痛いのに簒奪など許せる事ではないからな。宇宙艦隊司令部の内情を逐一知らせて欲しい」
「……分かりました」
顔だけではない、声も強張っている。

「人手が必要か?」
「いえ、一人の方が怪しまれず宜しいかと。ローエングラム伯は分かりませんがヴァレンシュタイン少将は油断出来ません」
「分かった。では異動の準備を進めてくれ」
「はっ」



帝国暦 487年 2月 27日  オーディン  軍務省  エーレンベルク元帥



「それで、ローエングラム伯の様子は如何かな? シューマッハ大佐」
『悪戦苦闘、と言ったところです。司令長官の椅子は思ったよりも座り心地は良くないでしょう』
「困るな、それは。司令長官の交代による混乱は最小限にしてもらわねば」
ローエングラム伯を疎んじながら混乱は避けたいか……、我ながら勝手な事を言っていると思った。

『問題が起きているのはローエングラム伯の艦隊だけです。他の司令官は既に艦隊の編成を終了し訓練中です。司令長官もようやく編成が終了し艦隊の訓練に入りました』
スクリーンに映るシューマッハ大佐は多少苦笑気味だ。

「如何いう事かな、大佐。何故ローエングラム伯の艦隊編成が遅いのだ?」
『各艦隊の編成はヴァレンシュタイン副司令長官が手伝う事で速やかに終わったそうです』
「ローエングラム伯の手助けはしなかったのか?」
『自分の手助けを嫌がるだろうと。それで何もしていません』
そうかもしれんが……。

「まさかとは思うが口も利かんのではあるまいな」
大佐がまた苦笑を浮かべた。
『それは有りません。副司令長官は毎朝司令長官室に入り打ち合わせをしております』
「そうか」
むしろ深刻だな。毎朝出入りしながら編成について話をしない。ローエングラム伯はヴァレンシュタインに弱みを見せたくないと思っているのだろう。ヴァレンシュタインもそれを放置したままだ。御手並み拝見、そんなところだろうか。

「伯は遠征を計画しているが大丈夫なのか? その調子で」
『その事で多少揉めています』
「ローエングラム伯とヴァレンシュタインがか?」
『はい。分艦隊司令官が不安だと副司令長官は見ているようです。今回だけ正規艦隊司令官から選ぶか、一個艦隊での出征は危ないから出征の規模を大きくするかを進言しています』
大佐はもう笑っていない。大佐も不安が有ると見ているのかもしれん。分艦隊司令官は確かフォーゲル中将、エルラッハ少将だったと思ったが……。

「分艦隊司令官は誰かな?」
『フォーゲル中将、エルラッハ少将です』
うむ、記憶力は衰えていない、大丈夫だ。二人とも特別悪い評価は聞かないが出来るという評価も聞かない。平凡と言ったところか。考えているとシューマッハ大佐が言葉を続けた。

『副司令長官は次の戦い、反乱軍は精鋭部隊が出てくる可能性が高いと見ています。小官もそれについては同感です』
「なるほど」
確かに危ういかもしれん。ヴァレンシュタインが危惧するのも無理は無い。
『それにフォーゲル中将、エルラッハ少将のお二人は司令長官に対して良い感情を持っておられません。その辺りも副司令長官は危惧しています』
思わず溜息が出た。敵だらけだな、何をやっているのか。本当に簒奪を考えているのか? 疑問に思えてきた。

『閣下、現状ではローエングラム伯が妙な事を考えても正規艦隊司令官達は誰も付いて行かないでしょう。司令官達は自らの艦隊編成に頭を痛めているローエングラム伯よりも自分達の艦隊編成を手伝ったヴァレンシュタイン副司令長官に心服しています』
「……」

『艦隊編成もいささか鮮やか過ぎます。司令官達は喜んでいますが小官はむしろ恐怖を感じました。抜擢された士官達の殆どが副司令長官とは面識が有りません、何時の間にあれだけの人間を調べたのか。彼らも喜び以上に驚きが有るようです。それが畏怖と心服に繋がっています』
「……メルカッツもかな?」
『メルカッツ提督も副司令長官に心服しています』
「……」

『現状ではローエングラム伯よりもヴァレンシュタイン副司令長官が妙な事を考えるのではないかと心配する方が妥当です。副司令長官はあっという間に宇宙艦隊を掌握してしまいました』
気が付けば溜息が出ていた。最近は厄介な小僧が多すぎる。

『司令長官は抜身の剣のようなところが有りますが副司令長官は……』
「ビロードに包まれた鋼鉄の手か」
『はい。肌触りは滑らかですが中には鋭い爪が有ります。ビロードを取り払えば……』
シューマッハ大佐が神妙な表情をしている。“ビロードに包まれた鋼鉄の手”、この言葉を私に伝えたのが目の前の男だった。日に日に重みを増す言葉だ。

「大佐、その可能性は有ると思うか?」
『可能性だけなら有ります。しかし実現性は……』
「無いと? 確実にそう言えるのか?」
シューマッハ大佐が首を横に振った。

『いえ、分かりません。野心は無さそうに見えますが簡単に心の内を明かす様な人では有りません。副官に亡命者を、女性を用いているのも副官から情報が漏れるのを恐れているからともとれます』
「女性なら漏れやすいのではないか?」
私が問うと大佐が軽く苦笑を浮かべた。面白く無い、女を知らないと言われている様な気分だ。人生経験では私の方が上だ。

『亡命者です、非常に用心深い。彼女に近付く人間は下心有っての接近かと敬遠されています。近付けるのはリューネブルク中将ぐらいのものです』
「なるほど、亡命者なら親しい人間は皆無に近いか」
『はい』
それにしてもリューネブルク中将か、彼も亡命者だったな。彼にも周囲には近しい人間は居ない筈だ。そしてヴァレンシュタインに心服している。その事は陛下御不例の時を思えば分かる。

ローエングラム伯を抑えるためにヴァレンシュタインを引き上げたつもりだった。だが虎に翼を与えてしまったのだろうか。翼を得た虎がこれまで望まなかった野心を夢見るという事も有り得よう。厄介な事になった、どうして最近の若い奴はこうも面倒なのか、溜息が出そうになって慌てて堪えた……。



 

 

もしも ~ 其処に有る危機(1)

 
前書き
本編では帝国歴487年に主人公が宇宙艦隊副司令長官になっていますがもしもそうなっていなかったらというIFストーリーです。
 

 


帝国暦 487年 1月 29日  オーディン  軍務省尚書室  エーレンベルク元帥



「済まぬ、遅くなった」
統帥本部総長シュタインホフ元帥が部屋に入って来た。“こちらへ”と招くと私達を見て訝しそうな表情を見せた。
「ミュッケンベルガー元帥もおられるのか? 何か厄介事かな?」
「少々、いやかなり厄介な事になっている」

ミュッケンベルガー元帥が答えると“フム”と言ってシュタインホフ元帥がソファーの空いている場所に座った。ミュッケンベルガー元帥の隣だ。そして私とミュッケンベルガー元帥を交互に見た。
「それで何が起きたのかな? 人事の事か?」

ミュッケンベルガー元帥と顔を見合わせた。ここは軍務尚書である私から話すべきか……。
「ヴァレンシュタインが宇宙艦隊副司令長官への人事を断った。大将昇進も受けられぬと言っている」
シュタインホフ元帥が眉を寄せて顔を顰めた。

「無理に引き受けさせれば良い話ではないかな、今更変更は出来まい」
ミュッケンベルガー元帥が首を横に振って否定した。
「そうはいかぬ。ヴァレンシュタインは軍規を犯した者を昇進させ栄転させては軍内に結果さえよければ何をやっても良いという風潮が生まれかねぬと危惧しているのだ」
シュタインホフ元帥が唸り声を上げた。

「理はヴァレンシュタインに有る。ローエングラム伯の下で副司令長官など御免だという感情も有るのだろうがそれだけではないな。軍の統制が滅茶苦茶になると本心から危惧している。無理強いすれば軍を辞めるとまで言っている。無視は出来ぬ」
ヴァレンシュタインは実際にそれが原因で滅茶苦茶になった軍隊が有ると私とミュッケンベルガー元帥に過去の例を挙げて説明した。そして私もミュッケンベルガー元帥もそれを否定出来なかった……。

「ヴァレンシュタインには野心が感じられない、その所為で我らはこの問題を軽く考えたのかもしれぬ。ここで対応を間違えると軍内部にヴァレンシュタインが危惧する様な風潮が生まれかねぬ。皆、出世したいのだからな」
私とミュッケンベルガー元帥が事情を説明するとシュタインホフ元帥が腕組みをしてまた唸り声を挙げた。

「なるほど、確かにそうだな。一度許してしまえば次からは咎める事は出来ぬ。軍規など有って無いような物になるか……」
シュタインホフ元帥の口調には力が無かった。その通りだ。おそらくは収拾がつかなくなる。統制の取れない軍など軍とは言えない。酷い敗北を喫する事になるだろう。それこそ帝国の屋台骨を揺るがしかねない程の敗北だ。軍が力を失えば相対的に貴族の力が強くなる。内乱が起き易くなるという事だ。私がその事を言うとミュッケンベルガー元帥、シュタインホフ元帥が顔を歪めた。

五分程無言の時間が過ぎた。シュタインホフ元帥が腕組みを解いた。
「已むを得ぬな。ヴァレンシュタインの大将昇進、宇宙艦隊副司令長官就任の人事は白紙に戻さねばなるまい」
やはりそうなるか……。シュタインホフ元帥が来るまでの間、ミュッケンベルガー元帥と二人で話した。白紙に戻さざるを得ないという意見で我々も一致した。という事は……。

「つまりローエングラム伯の宇宙艦隊司令長官も白紙に戻すという事だな、シュタインホフ元帥」
私が確認するとシュタインホフ元帥が“そういう事になるな”と渋い表情で答えミュッケンベルガー元帥が溜息を吐いた。私も溜息を吐きたい気分だ。

ローエングラム伯は不満と屈辱に塗れるだろう。だが我らもザマアミロ等と喜ぶ事はとても出来そうにない。三人の意見が一致したが我々は混乱して右往左往しているのだ、情けない程に……。
「ミュッケンベルガー元帥、やはり卿に司令長官に留まって頂くしかあるまい。その下にローエングラム伯を持ってこよう」
「私も軍務尚書の意見に賛成だ。国務尚書には事情を説明して納得して頂く」
「……已むを得ぬか。気が重い事だ」
ミュッケンベルガー元帥がまた溜息を吐いた。退役を決意したのに現役に留まる事になった。本人にとっては納得し難い部分が有るのだろう。

「後はヴァレンシュタインだな。彼の処遇を如何するかだが……」
シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥、両元帥が顔を顰めた。問題はこちらなのだ、私とミュッケンベルガー元帥の間ではどうにも良い意見が出なかった。陛下からもヴァレンシュタインの処遇については急げと御言葉が有った。ここはシュタインホフ元帥に期待したいところだが……。

「本人は何らかの形で処罰したという事を周囲に明らかにする必要が有ると言っている」
「少将のままでは?」
「それが出来れば苦労はせぬ。ティアマトで戦った将兵達が納得するまい。暴動が起きかねぬ」
何とも面倒な事だ。ティアマトで戦った六百万の将兵を納得させねばならんのだ。ミュッケンベルガー元帥とシュタインホフ元帥の遣り取りを聞いて思った。

「シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥。ヴァレンシュタインの階級は中将に戻しポストで処罰した事を示す、そういう形で収めるほかあるまい。具体的には兵站統括部から転出させる。本人もそれを強く望んでいる」
「しかし軍務尚書、何処に異動させる? ポストと言っても……」
「……」
シュタインホフ元帥が困惑気味に問い掛けてきたが答えを返せない。兵站統括部は決してエリートコースとは言えない部署だ。何処に異動させたら罰を与えた事になるのだ? ミュッケンベルガー元帥に視線を向けた。彼も口を閉じたままだ。

「それにオーディンの外には出せまい」
「うむ、万一の場合は私を助けて貰わねばならん」
「人の多い職場という制限も有るな。貴族達が妙な事を考えんように」
益々条件が厳しくなった。人が多くて閑職? 兵站統括部以外にこのオーディンにそんなポストが有るのか? 頭が痛くなってきた……。



帝国暦 487年 2月 7日  オーディン  士官学校校長室 ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ



鐘が鳴った。ジリジリと単調な音だ。おそらく何処の講堂でもこの音を聞いているだろう。
「閣下、中間試験が終わりましたね」
私が話しかけるとヴァレンシュタイン中将が穏やかな笑みを見せ“そうですね”と頷いた。今回中将は二月一日付で兵站統括部から士官学校校長に異動した。異例の人事で帝国では大きな話題になっている。

銀河帝国では同盟と違って士官学校校長は閑職らしい。退役前の年寄り、但し人格者が就く仕事なのだとか。年齢、才能、性格の悪さ、如何見てもヴァレンシュタイン中将が就くポストじゃないんだけど異動になった。その理由は昨年の第三次ティアマト会戦に有る。あの会戦は帝国を激震させた。

第三次ティアマト会戦は帝国軍の勝利で終わったがその勝ち方が問題だった。宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥が戦闘中に倒れ指揮を執れない状況になってしまったのだ。本当ならとんでもない混乱が生じて大敗を喫していてもおかしくは無かったけどヴァレンシュタイン中将が万一の時のために用意しておいた手配りの御蔭で勝つ事が出来た。

でもその手配りが問題なのよね。いささか非合法でどう見ても軍紀に違反している。という事で少将に一階級降格、一年間俸給の減給、一ヶ月の停職という処分が下された。処分については妥当、いやむしろ緩いと思うからその事に不満は無い。私が不満に思ったのは中将が私に何の相談もせずにそんな危ない事をした事よ! 私は副官なのよ、副官! 私の事は考えているとか、捲き込みたくなかったとか言っているけど一言有ってしかるべきでしょうが! 情けなくって仕方が無いわ。もうちょっと私を信じて欲しいし頼って欲しい。

「幸い違法行為をする生徒はいなかったようですね、結構、結構」
「いつもは居るのでしょうか?」
私が問うと中将はちょっと小首を傾げるそぶりを見せた。
「さあ、如何でしょう。私が士官候補生の時は毎回では有りませんが毎年不祥事が有りましたね。処分を受けている候補生が居ましたよ」
処分か、つまり退学よね。まあ同盟も似た様なものかな。成績不振で退学は不名誉だからイチかバチかで不正行為を行う生徒がいる。大体見つかって退学になるけど。

停職が明けるとヴァレンシュタイン少将には大将への二階級昇進と宇宙艦隊副司令長官のポストが用意されていた。ミュッケンベルガー元帥が退役しローエングラム伯が宇宙艦隊司令長官になるのでヴァレンシュタイン中将を副司令長官にして国内治安を担当させようという事だったらしい。

平民階級の軍人が宇宙艦隊副司令長官に就任するのは帝国では初めての事だって聞いた。実力を評価されての事、私だったら喜んで受けるけど中将は断った。理由は軍の統制を乱す、将来に禍根を残す、だった。凄いわ、断った事も凄いけどエーレンベルク軍務尚書とミュッケンベルガー司令長官を説得し押し切ったんだから凄い。

その後はとんでもない騒ぎになった。内示まで出ていたミュッケンベルガー元帥の退役とローエングラム伯の宇宙艦隊司令長官就任は急遽白紙撤回された。帝国軍三長官は大慌てでリヒテンラーデ侯と皇帝フリードリヒ四世に事情を説明して御許しを頂いたのだとか。宇宙艦隊司令長官職は親補職だから皇帝への説明が要る。帝国軍三長官は大分汗をかいたらしい。

そしてローエングラム伯は副司令長官への異動と格下げになった。噂ではローエングラム伯は面子を潰されたと怒り狂ったって聞いている。気持ちは分かるわ、でもね、その若さで副司令長官って十分凄いじゃない。これから上に行くチャンスは幾らでも有るんだし。そんなに怒る事は……、溜息が出そう。

そしてエーレンベルク軍務尚書から改めて中将に提示されたのが士官学校校長のポストと少将から中将への昇進だった。中将は少将のままで良い、校長じゃなくて教官で良いって言ったんだけどティアマトで戦った将兵達が納得しないから受けてくれと懇願されたんだとか。なんか軍務尚書が凄く可哀想。とんでもない部下を持っちゃったわよね。普通昇進を嫌がるとか有り得ないし。でも将兵達からは凄い人気。無私無欲の人、清廉潔白の人なんて言われている。

異動して一週間、ヴァレンシュタイン中将は毎日上機嫌だ、今日も楽しそうに書類を見ている。何でそんなに上機嫌なんだろう。妙な人だ、信頼しているし付いていこうという気持ちは変わらないが私にはこの人がもう一つ掴みきれない。宇宙艦隊副司令長官から士官学校校長、大将へ二階級昇進の筈が中将への復帰。何でそんなに喜べるの? 出世欲が無いのは分かるんだけど仕事が嫌いなわけじゃない。宇宙艦隊副司令長官の方が士官学校校長よりもやりがいのある仕事だと思うんだけど……。



帝国暦 487年 2月 7日  オーディン  士官学校校長室 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン



ヴァレリーがこちらを見ている。何かを探る様な、訝しむ様な目だ。最近そんな目をする事が多い。多分、俺が仕事を楽しんでいるのが疑問なのだろう。気付かない振り、気付かない振り。その通りだ、俺は士官学校校長という仕事を楽しんでいる。敵を殺す事を考えなくても良いし補給で頭を悩ませる必要も無い。ラインハルトの下で副司令長官なんて罰ゲームに等しいポストに比べれば薔薇色に輝くポストだ。仕事は楽しくやらなくては。

それに俺を優遇するなんて事は有ってはいかんのだ。軍というのは暴力装置だ、それだけに扱いが難しい。間違っても制御が出来ないなんて状況にしてはならない。特に今は戦争が常態化しているからな、危険なんだ。俺を副司令長官にするなんて軍内部に爆弾を抱え込むに等しい。昭和の日本陸軍を見ろ、満州事変で完全に統制を失った。

俺は事変の首謀者、石原莞爾を全く評価しない。石原には私利私欲は無かっただろう。だが奴が満州事変を起こした事で、陸軍が奴を処罰しなかった事で日本は陸軍への統制を失い陸軍は軍への統制を失った。統制を失った軍などならず者の集団でしかない。そのならず者達が日本を破滅させた、そう思っている。石原がどれ程崇高な理想を持とうとも現実にやった事は日本を潰す爆弾を作っただけだ。同じ事をするわけにはいかん。

TV電話が受信音を鳴らしている。番号は……、ミュラーだな。受信ボタンを押すとスクリーンにミュラーの顔が映った。ナイトハルト・ミュラー、相変らず感じの良い男だ。何でこいつに恋人がいないのかさっぱり分からん。ルックス、人間性、地位、将来性、全部揃っている。俺が女なら放って置かないんだが。

『やあ、エーリッヒ。元気か?』
「ああ元気だよ」
『退屈してるんじゃないのか? 士官学校の校長なんて卿には物足りないだろう。皆心配している』
「残念だが忙しいんだ。軍の将来を担う人材を育てているんだからね。いずれ私の教え子から帝国軍三長官が出るだろう、楽しみだ」

ミュラーが困った様な表情をしている。強がりだとでも思ったか? 忙しいと言ったのは本当だぞ。シミュレーション偏重の教育を見直したいし軍事だけじゃなく政治、経済にも関心を持たせたい。特に同盟、フェザーンとの関係も理解させたい。戦争しか分かりませんなんて軍人じゃ困るんだ。

それにリヒテンラーデ侯、帝国軍三長官の爺様達にレポートを提出しろと言われている。内容は? と聞いたんだが何でもいいそうだ。役に立つなら使うという事らしい。好い加減だよな、もっとも爺様達は俺に自分達の下に居るんだと意識付けをしたいのかもしれない。犬と同じだな、飼い主を忘れるなという事だ。まあ色々と無理を聞いてもらったから無碍には断れん。レポートは提出するよ、役に立つかは分からんけど。

『楽しみか、好い気なもんだ。こっちの苦労なんて何も分かっていないんだな』
「何か有ったかな?」
大体想像は付く。だけどここはあえて無邪気に、そして能天気に行こう。帝国軍三長官からも大人しくしていろと言われている。世は全て事も無し、天下泰平、宇宙には愛が溢れている。あらら、ミュラーが溜息を吐いている。
『分かっているだろう、ローエングラム伯の機嫌は最悪だよ。毎日険しい表情をしている』

「ほう、変だね。ローエングラム伯爵家を継いで上級大将に昇進、宇宙艦隊副司令長官に就任した。本当は毎日が楽しくて仕方ないんじゃないかな。機嫌が悪いのは多分照れ隠しだろう、気にする事は無いさ」
あれ、今度はミュラーだけじゃなくてヴァレリーも一緒に溜息を吐いている。なんで二人ともそんな恨めしそうな目で俺を見るんだ。

『本気で言っているわけじゃないよな?』
「いいや本気で言っている。気にする事は無いよ。例えローエングラム伯の機嫌が本当に悪くても卿の所為じゃないからね」
『……』
ついでに言うと俺の所為でもない。
「不満が有るなら帝国軍三長官に言えば良いんだ。あの人達が決めたんだから」
『……伯はそうは思っていないぞ。卿が仕組んだと思っている』
「被害妄想だな、私は関係ない」

被害妄想だ。悪いのは帝国軍三長官とリヒテンラーデ侯で俺じゃない。俺は人事に介入する程偉くは無いんだ、ただ自分の昇進は受けられないと言っただけだ。ラインハルトを陥れようとした事など無い、結果的にそうなったとしてもな。だからミュラー、ヴァレリー、そんな目で俺を見るんじゃない。俺は詐欺師でもペテン師でもない。俺には疾しい事は無い。

「それで、何の用だ。正規艦隊司令官になってそっちこそ忙しいんじゃないか。私に愚痴を零している暇は無いだろう。まあ愚痴を聞いてくれと言うなら聞くけど」
『いや、そうじゃない。ちょっと困った事が有ってね、相談に乗って欲しいんだ』
「私で力になれるならね」
『艦隊の編成が上手く行かないんだ。中央に伝手が無いからな、司令部は何とかなったんだが分艦隊司令官が足りない。誰か良い人間がいないかな?』
弱り切った表情だ。なるほどなあ、非主流派だから人集めは苦手か。心当たりは有るが……。

「良いのか、私なんかに相談して。ローエングラム伯が嫌がるぞ。先ずは伯に相談したらどうだ?」
『駄目だよ、ローエングラム伯にそんな余裕は無い。伯自身艦隊の編成が終わっていないんだ。俺達が抜けたからね、その後任者が未だ見つからない。総参謀長も決まっていないし宇宙艦隊司令部は半身不随の状態だ』
ミュラーが肩を竦めた。お手上げ、そんな感じだな。

「酷いな、ミュッケンベルガー元帥は?」
『艦隊編成は好きにやれと言って静観しているよ。御手並み拝見、そんなところかな』
「……分かった。心当たりは有る。少し時間をくれないか」
『頼む』
「それとこの件は内密に頼む。ローエングラム伯を必要以上に刺激する事は無いからね」
『勿論だ』

通信を切った。ヴァレリーが心配そうな顔をしているのが分かったが敢えて無視をした。安請け合いして大丈夫なのかと思っているのだろう。大丈夫だ、俺には原作知識という強い味方が有る。ヴァルヒ、シュナーベル、ハウシルド、だったな。こいつらが何処にいるのか確認しないと。

それにしても宇宙艦隊の状況は酷いようだな。宇宙艦隊が半身不随なのにミュッケンベルガーは動こうとしない。おそらくラインハルトに対して何らかの不満が有るんだろう。この場合はラインハルトが頭を下げて力を貸してくださいと言えれば良いんだが……、あの性格だ、難しいよな。もしかするとラインハルトは疑心暗鬼になっているのかもしれない。それでミュッケンベルガーとも上手く行かない……。

副司令長官なんだ、ミュッケンベルガーと張り合う必要は無い。むしろミュッケンベルガーをおだてながら上手く利用する、そう思えればかなり楽になるんだが……。無い物ねだりに等しいな。まあ当分宇宙艦隊司令部は鬼門だ、近付かないようにしよう。さて、仕事にかかるか。レポートを書かないとな。先ずは二月中に一つ提出、その後は五月で良いだろう。




 

 

もしも ~ 其処に有る危機(2)



帝国暦 487年 2月 14日  オーディン  士官学校  ミヒャエル・ニヒェルマン



まいったなあ。中間試験の結果は予想よりも悪かった。千百十五番、Cランク。これじゃ期末試験はよっぽど頑張らないと戦史科は無理だ。あと五十点多く取れてれば千番以内に入れた、Bランクだったのに……。次の期末試験でドジを踏まなければ戦史科に行けたなあ。情報分析と機関工学でヤマが外れた、それに他の科目も思ったより点数が取れなかった。散々だ。戦史科が駄目だったら三年次の専攻は何処にしようか?

士官学校の廊下を歩きながらどんよりとした気分になった。声をかけて来る奴は皆試験が終わった事で明るい表情をしている。成績もそれなりだったんだろうな、羨ましいよ。あー落ち込む、誰にも会いたくないし話したくない。話しかけられるのも嫌だ。部屋に戻ってもエッティンガーが居る。あいつ煩いからな、今は一緒に居たくない。同居者って面倒な存在だよ。人の少ないところに向かった。

如何しようかな、専攻は。……空戦科、空飛ぶ棺桶なんかに乗りたくない。陸戦科、筋肉馬鹿は嫌いだ。技術科、講義を聞いていると頭が痛くなる。兵站科、落ちこぼれは嫌だ。情報科、性格悪くなりそう。航海科、気が進まない。……行くとこが無いな、消去法で航海科か。出来れば将来は作戦参謀になりたいんだけどな。このままで行くと危ない。僕はギリギリの所に居る。

目的地に着いた。ここなら大丈夫だろう、比較的人は少ない筈だ。試験前ならともかく試験後に図書館なんかに来る奴はそれほど多くない。適当な所に座って本を読んでる振りでもしよう。本は電子よりも紙が良いな、適当にパラパラめくっていれば声をかけて来る奴はいない筈だ、いても無視すればいい。

本を探していると人影が見えた。候補生じゃないな、教官? でも見覚えの無い後ろ姿だ。まだ若い感じだけど誰だろう。後を追うと教官がこっちを見た。襟蔓が一つ、肩線が二本。中将? 中将ってヴァレンシュタイン中将! 校長閣下だ。閣下がこっちに近付いて来た。やばい、如何しよう、身体が動かないよ。

「中間試験が終わったばかりなのに調べものかな? 頑張っているね、名前は?」
「ミ、ミヒャエル・ニヒェルマン候補生、二回生です」
慌てて答えたけど声が裏返りそうになった。校長閣下が声をかけて来るなんて吃驚だよ。それにしても閣下は若い。二十歳を超えている筈だけど僕らと殆ど変らない。背も小柄だから余計に若く見える。

「何を探しているのかな? ニヒェルマン候補生」
「あ、その、ツィーグラーの戦略の分析要約を探しています」
中間試験の勉強で使った本だ。良かった、上手く答えられた。……あれ? 閣下が変な顔をしている。何か間違った? ツィーグラーじゃなかったっけ。

「……ツァーベルじゃないかな、それは。ツィーグラーなら戦略戦術の一般原則についての論考が有名だよ。君が捜しているのはどちらかな?」
「あ、済みません、ツァーベルです。ツァーベルの戦略の分析要約を探しています。勘違いしました」
慌てて答えたら間違えてた。凄いや、分かっちゃうんだ。校長閣下が頷いている。

良かったよ、著者を間違えるなんて怒られるかと思ったけど閣下は何も言わなかった。外見は穏やかで優しそうだ、性格も優しいのかな。そう言えば声も柔らかい感じだった。でもこの人幾つもの戦場で武勲を挙げているんだよな。それに本当なら宇宙艦隊副司令長官だったのに軍規を乱すからと言って断っちゃった。士官学校の校長って閑職だけど不満ないのかな? うーん、そんな風には見えないな。外柔内剛って言われているけど本当にそんな感じだ。

「閣下は何をお探しですか?」
「孫子を探している。久し振りに読みたくなってね」
「孫子ですか……」
珍しい本を読むんだな。
「意外かな?」
「あ、いえ、その」
如何答えて良いか分からずあたふたすると閣下は軽く笑い声を上げた。なんか楽しそうだ。
「教官達は孫子を使わないからね、興味が無いか」

そう、教官達は授業で孫子を使わない。だから僕達も孫子という軍事理論書が有る事、かなり古い時代に書かれた本である事は知っているけど読んだ事は無い。
「良い本なのだけどね」
「そうなのですか?」
校長閣下が頷いた。
「戦争の事だけでは無く国家運営と戦争の関係を重視している。視野の広い軍人を育てるには適した本だと思う」
へー、凄いな。孫子ってそんな本なんだ。一度読んでみようかな。



帝国暦 487年 2月 27日  オーディン  軍務省尚書室  エーレンベルク元帥



「内密に話したいとの事だったがTV電話ではいかぬのかな?」
「他聞を憚る内容なのだ。TV電話では話せぬ。ミュッケンベルガー元帥が来るまで座って待ってくれ」
尚書室に入るなり文句を言ったシュタインホフ元帥をソファーに座らせた。まったく、そう露骨に不機嫌な顔をする事も有るまい。もっともこれから話す内容を知れば顔が歪むだろう。その時は思いっ切り腹の中で笑って……、笑えるわけがないな、溜息が出そうだ……。

直ぐにミュッケンベルガー元帥が尚書室に入って来た。“遅くなった、済まぬ”と言ってシュタインホフ元帥の隣に座った。副官に人払いを命じこちらから呼ぶまで誰も入れるなと言って部屋から追い払った。副官がコーヒーを、と言いかけたが要らぬと追い出した。どうせ味わう余裕などないのだ。無用だ。
「ヴァレンシュタインからレポートが届いた。見て貰いたい」
レポートを二人に差し出すと二人が戸惑いを見せた。

「これは原本だ。コピーは無い、複写出来る物ではないのでな」
二人が今度は訝しげな表情をした。そしてレポートを見、私を見た、そしてまたレポートに視線を移す。二人が顔を見合わせたが上位者であるシュタインホフ元帥がレポートを受け取り読み始めた。シュタインホフ元帥の表情が厳しくなった。チラッとまた私を見てレポートに視線を戻した。精々驚け、内容は今後反乱軍が採るであろうイゼルローン要塞攻略作戦案についての予想、だ。

ヴァレンシュタインは士官学校校長の地位に有る。オーディンで閑職と言えばそのくらいしかなかった。それに士官学校校長なら少しは奴も大人しくなるだろうという読みも有った。ポストが見つかったのは良かったがそこでのんびりされても困る。あくまでそれは一時的な退避なのだ。こちらの見積もりでは二、三年で中央に戻すつもりだった。という事で常に繋がりを維持する、その観点からレポートの提出を命じた。まあレポートが何か役に立つ事も有るだろうとは思ったがそれほど重視したわけでは無い。それなのにあの馬鹿、とんでもない事をする。

「うーむ」
シュタインホフ元帥が唸り声を挙げた。気になるのだろう、ミュッケンベルガー元帥がシュタインホフ元帥へ視線を向けた。シュタインホフ元帥は気付かない、夢中でレポートを読んでいる。ページをめくる、二枚目、三枚目、ずっと下まで視線を送ってからホウッと息を吐いた。

「驚いている様だが続きを読んでくれ、そちらが卿らを呼んだ本題だ」
「本題?」
訝しそうな声を出したがシュタインホフ元帥はページをめくって四ページ目を読みだした。読み出すにつれ表情が厳しくなった。
「馬鹿な、何を考えている、気でも狂ったか」
吐き捨てた。気持ちは分かる、正気を疑いたくなる内容だ。私も同じ事を言った。ミュッケンベルガー元帥が驚いている。大丈夫だ、卿にも読んでもらう。

「エーレンベルク元帥」
「統帥本部総長、読み終わったのなら司令長官に渡してくれ。話は司令長官が読み終わってからだ」
話しかけてきたが遮った。忌々しそうな表情をしたがシュタインホフ元帥はレポートをミュッケンベルガー元帥に渡した。

ミュッケンベルガー元帥も同じ反応を示した。三枚目を読み終わって息を吐く。そして私とシュタインホフ元帥を見てから四枚目を読み出した。反応は同じだ、“馬鹿な”、“何を考えている”、“正気とは思えん”、と吐き捨てた。
「読み終わったのならレポートを返して貰おう」
ミュッケンベルガー元帥が不機嫌も露わにレポートを私に差し出した。頼むから二人とも私に不機嫌そうな顔を見せるな、不機嫌なのは私も同じなのだ。

「さて卿らの意見を聞きたい。先ずは最初の作戦案についてだ。如何思われる」
「最初の作戦案と言われるか、反乱軍が帝国軍に偽装してイゼルローン要塞に潜入、内部から要塞占拠を目論むという奴だな」
「その通りだ、シュタインホフ元帥」
「十分有り得ると思う、司令長官は如何思われる」
シュタインホフ元帥が話を振るとミュッケンベルガー元帥が重々しく頷いた。
「私も統帥本部総長と同意見だ。外から攻めて駄目となればいずれは内から攻めてみようと考えるだろう。今この時にも考えているやもしれぬ。それにイゼルローンは駐留艦隊と要塞は指揮系統が統一されていない。付け込む隙は有ると言える。成功の可能性も十分に有るだろう」

指揮系統が統一されていないという部分で二人の顔が不機嫌そうに歪んだ。多分、クライストとヴァルテンベルクの事を考えたのだろう。
「では帝国軍三長官からの警告としてイゼルローン要塞司令官、駐留艦隊司令官に対してこの作戦案を伝える事としたい」
二人が頷いた。

「更に駐留艦隊司令官に対しては反乱軍の姿が見えぬうちはむやみに出撃せぬ事を注意し要塞司令官に対しては例え帝国軍艦船、帝国軍将校に見えても外部からの入港者に対しては油断するなと注意したい」
また二人が頷いた。取り敢えずこれで簡単な方は片付いた。ここからが今日の本題だ。

「ではヴァレンシュタインが提起したもう一つの作戦案について意見を聞きたい。シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥、卿らは如何思われる」
「正気とは思えぬ」
シュタインホフ元帥が吐き捨てミュッケンベルガー元帥が頷いた。

「そんな事は分かっている」
「……」
「大将昇進、宇宙艦隊副司令長官への異動を断ったのだからな。正気では有るまい、違うかな?」
二人が渋々頷いた。
「私が卿らに問いたいのは反乱軍が要塞をもってイゼルローン要塞を破壊しようとした時、この馬鹿げた作戦案を実施した時、帝国軍にそれを防ぐ方法が有るかという事だ」

二人が沈黙した。ややあってミュッケンベルガー元帥が大きく息を吐いた。
「分からぬ。……だがこれは可能なのか? イゼルローン要塞と同規模の要塞を運ぶなど」
「理論上は可能だろう、ワープ航法は既に確立された技術だ。要塞を運ぶなど突拍子もない案だが運ぶ物が大きくなっただけとも言える。不可能とは言えまい」
私が答えると二人がまた沈黙した。

「念のためシャフト技術大将に要塞を運ぶ事が可能か訊いてみた、雑談としてな」
「それでシャフトは何と?」
シュタインホフ元帥が問いミュッケンベルガー元帥が身を乗り出した。
「同じだ、理論上は可能だと言った」
「理論上は可能でも現実に可能なのか?」
今度はシュタインホフ元帥も身を乗り出してきた。

「多分可能だろうと言っている」
「多分?」
「もし不可能だとしてもそれは現時点での科学技術で解決出来ぬ問題が有るというにすぎぬ。今後科学技術が発展すれば解消されるだろうという事だ」
「……」
「つまり今は不可能でも十年後、二十年後、いや、一年後には可能となるかもしれぬ」
二人がげっそりとした様な表情を見せた。駄目だな、二人とも衝撃が大きくて立ち直れずにいる。まあ無理もないか、私とて二人に相談するまでレポートを受け取ってから三日かかっている。

「如何かな、防ぐ方法だが」
「……分からぬとしか言いようがないな。……ヴァレンシュタインは何と? この案を考えたのだ、防ぐ方法も考えたのではないか? 軍務尚書は聞いておらぬのか?」
「制宙権が有れば可能だと言っているな、司令長官」
「制宙権……」
シュタインホフ元帥が呟いた。訝しそうな表情だ。

「要塞を移動させるためには要塞の重心を中心として左右対称に複数のエンジンを取り付けなければならん。そうでなければ推力に不整合が生じ要塞は真っ直ぐに動かなくなる。つまりそのエンジンの一つを破壊すれば要塞は進路を保てなくなる。駐留艦隊が艦砲の一斉砲撃を行えば破壊出来るだろう」
“なるほど”、“道理だ”と二人が言った。二人とも表情が明るい。次が楽しみだ。

「だが現実には不可能だろうともヴァレンシュタインは言っている」
「……何故だ?」
シュタインホフ元帥の声が掠れている。コーヒーを用意した方が良かったか、そんな事を考えた。埒も無い……。何処か自分が壊れている様な気がした。壊したのは士官学校の校長だな。

「反乱軍が要塞のみを送り込んでくるなど有り得ぬ、そうではないか」
「……」
「おそらく二、三個艦隊は随伴してくる筈だ、となれば駐留艦隊だけでは制宙権は確保出来ぬ、防げぬという事だ、要塞は破壊される。要塞内に待機していた駐留艦隊、そして約五百万の将兵の殆どが失われるだろう」
二人が呻き声を上げた。

「士官学校に送れば少しは大人しくなるかと思ったが……」
「無理だな、シュタインホフ元帥。卿らは知らぬだろうがあの男は既に宇宙艦隊を自分の影響下に置いている」
「どういう事だ、司令長官」
私が問うとミュッケンベルガー元帥が力無く笑った。

「正規艦隊の司令官に選ばれたのはヴァレンシュタインが選んだ男達だった。彼らは実力は有ったが中央に伝手が無かった。その所為で司令部要員、分艦隊司令官の人選に苦労していた……」
「ローエングラム伯に相談しなかったのか? 」
私が問うとミュッケンベルガー元帥が首を横に振った。

「伯自身艦隊編成で悩んでいた。到底力にはなれぬ」
「それで如何したのだ?」
「決まっているだろう、統帥本部総長。彼らはヴァレンシュタインに相談した。あっという間に艦隊編成は終了したよ。今は訓練中だ。まあローエングラム伯も刺激されたのかようやく編成が終わって訓練に入っている。祝着至極だ」
溜息が出た。私だけじゃない、シュタインホフ元帥も溜息を吐いている。

「つまり、宇宙艦隊は司令官も司令部要員もあの男の紐付きか……」
「そういう事になるな」
「ローエングラム伯は気付いていないのか?」
「薄々は気付いているようだ。もっとも伯も彼らの力になれなかったという弱みが有るからな、非難は出来ん。誰もその事には触れぬよ。言ってみれば公然の秘密という奴だな」

私の問いに答えるミュッケンベルガー元帥は何処か他人事の様だった。シュタインホフ元帥も何処か気の抜けた様な顔をしている。多分私も似た様なものだろう。
「ローエングラム伯は三月の半ばには出征する。兵力は一個艦隊、自分の力量を周囲に示したいらしい」
つまり勝つ事で艦隊司令官達の心を掴もうとしているのか……。ローエングラム伯か、簒奪など当分無理だな。

「話しを戻そう、反乱軍には天体型の要塞は無い。現時点でこの作戦案が実行される事は無い」
「気休めにはなるな」
投げやりな口調が聞こえた。
「気休めにもならぬよ、シュタインホフ元帥。今後我らは反乱軍が何時要塞を造り始めるかと怯えながら過ごす事になるのだからな。何も知らぬ奴らが羨ましいわ」
二人ともそんな恨めしそうな目で私を見るな。私が考えたのではないぞ。それに卿らに知らせぬわけにもいくまい。

「この件はリヒテンラーデ侯に報告する。卿らも同行して貰いたい」
「……」
「イゼルローン要塞は難攻不落では無くなった。国政の責任者に知らせる必要が有ると思う。それにレポートはフェザーンに付いても触れている」
「フェザーンが反乱軍よりの姿勢を示すという事か」
「その通りだ、司令長官。フェザーンから情報が届かぬとなればイゼルローンはさらに危うい」
二人が“分かった”と言って頷いた。リヒテンラーデ侯も眠れぬ夜を過ごす事になるだろう。早死せねば良いが……。

「フェザーンの駐在武官に反乱軍が要塞を造る様子が無いか調べさせる。出兵の有無についてもだ」
「それが良いだろう、情報部でも調べさせる」
「それは助かる。何か有ったら直ぐ知らせて欲しい」
「了解した。この件は帝国の重大事だ。隠す事無くお知らせする」
シュタインホフ元帥が協力を約束した。流石に彼も事の重大さにいがみ合っている余裕は無いと考えた様だ。もしかするとこの件がきっかけで関係が改善されるかもしれない。結構な事だ。

「当然の事だがこの件を知る者は我らとリヒテンラーデ侯、ヴァレンシュタイン限りとしなければならぬ。他言は無用、宜しいな」
二人が頷いた。
「ヴァレンシュタインには憲兵隊の監視を付ける。情報漏れを防ぐと共に身の安全を確保するためだ。奴を奪われれば帝国の安全保障は危機的状況を迎えかねぬ。貴族の馬鹿共がこれを知ればどんな取引に使おうとするか……。場合によってはフェザーンに金で売りかねん」
シュタインホフ元帥とミュッケンベルガー元帥が顔を見合わせ“同意する”と頷いた。

「情報部にも監視させよう」
「そうして貰えると助かる。だが縄張り争いによる足の引っ張り合いは避けたい。その点については留意して頂きたい」
「分かった。そちらの邪魔はせぬ。むしろ協力させる方向で行きたい」
「分かった。憲兵隊にもその件は伝える」

ミュッケンベルガー元帥が大きく息を吐いた。
「まるでフェンリルだな。野放しには出来ぬ、どうやって奴を捕縛するかと神々も苦労しただろう」
上手い事を言う、全く同感だ。問題は神々にはグレイプニルが有ったが我々には無い事だ。何とかしてアレを制御せねばならん。陛下に万一の事が有った場合にはあの男の力が必要になるのだから……。


 

 

もしも ~ 其処に有る危機(3)




帝国暦 487年 3月 15日  オーディン  情報部員A



監視対象者が士官学校から出て来た。隣りにいるBが本部に連絡を入れた。
「Bより本部、Bより本部」
『こちら本部』
「1730、監視対象者が士官学校から出て来た。副官も一緒だ。これより尾行する」
『了解、気付かれるな』
溜息が出た。Bもウンザリしている。

「気付かれるなと言われてもなあ」
「ああ、如何する。前回は俺が後を追ったが今回は卿が追うか? 俺が追うなら席を交換する事になるが」
「いや、俺が行くよ。向こうに不自然な動きは見せたくない、鋭いからな。卿は地上車でゆっくり付いてきてくれ」
「分かった」
Bが帽子を被り顎に付け髭を付けてから地上車を降りた。カメラは上着のボタンに仕込んである。二人からかなり距離をおいて後を追い始めた。俺もヘッドセットを付けた。

監視対象者、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中将。俺とBが受けている命令は彼の士官学校の外での行動を逐一報告する事。士官学校内は別に協力者がいるらしい、俺達の任務の範囲外だ。そして彼の安全を確保する事。つまり監視対象者であり警護対象者なわけだ。但しあくまで極秘に、相手に気付かれぬようにと言われている。そして憲兵隊も同じ事をしているが決してその邪魔をしない事……。

監視の他に護衛も入るとなればもっと人数が必要だが憲兵隊も同じ事をしているという訳で今任務にあたっているのは俺とBの二人だけだ。情報部と憲兵隊は犬猿の仲の筈なんだがこの件では協力するようにと命じられている。というわけでBの後をさりげなく歩いている奴、あいつは憲兵隊だと分かっているが邪魔はしない。憲兵隊の地上車も近くに有るがこっちも無視だ。向こうもこっちの邪魔をすることは無い。どうも上で不可侵の協定が出来ている様だ。

それにしても遣り辛い監視対象者だ。帝国軍中将なら移動は地上車で良い筈だ。だがヴァレンシュタイン中将は士官学校校長の官舎まで二十分程の距離を徒歩で移動する。地上車で移動してくれれば後を地上車で追えば良いが徒歩ではそれが出来ない。どうしても徒歩で後を追う事になる訳だがそうなるとこちらの姿を曝す事になる。こいつが厄介なのだ。相手に記憶されかねない。服装、眼鏡、帽子、マフラー、姿勢、歩き方で変化を付けているが非常に疲れる。この間は杖をついて後を追ったが精神的にも肉体的にも疲れた。それに途中で地上車を使われてはかなわない。必ず地上車でも後を追っている。

おまけに相手は移動ルートを頻繁に変える。以前ベーネミュンデ侯爵夫人に襲われた事が有る所為で酷く用心深い。特にあの女副官、同盟からの亡命者なのだがかなり鋭い。一度尾行がばれ掛けた事が有る。という事で俺達は四チームが交代で任務に就いている。中には女子だけのチームも有る。憲兵隊も似た様なものだろう。

『A、聞こえるか』
ヘッドセットのイヤホンからBの声が聞こえた。
「聞こえるぞ、B。状況は?」
『いつもと同じだ。変化無し。二人でいちゃ付くわけでもなく普通に歩いているよ。これ、本当に監視する必要が有るのか?』
「文句を言うな、俺達は命令を受けたんだ」
『しかしなあ、相手はヴァレンシュタイン中将だぞ』
イヤホンからは溜息混じりの声が聞こえた。
「B、任務を続行しろ。こちらも後を追う、距離は百だ」
『了解』

Bの気持ちは良く分かる。エーリッヒ・ヴァレンシュタイン中将、宇宙艦隊副司令長官のポストを蹴って士官学校校長になった男だ。能力は有るが野心が有るようには見えない。実際日々の行動でも不審な点は見えない、交友関係も装甲擲弾兵のリューネブルク中将と時々会うくらいのもので極めて綺麗だ。今士官学校は春休みだが中将は毎日学校に来ている。士官学校校長など閑職なのだ、多少サボっても問題無い筈だが律儀に就業時間は学校に居る。

百メートル離れた、そろそろと地上車を動かす。ヘルトリング部長が何を考えて俺達に中将を監視させているのかさっぱり分からない。或いはヴァレンシュタイン中将本人よりも中将に接触しようとする人間を押さえ様としているのかとも思うのだが……。一度別なチームが中将が若い女性と食事をする場を目撃した。動きが有ったと意気込んで本部に写真を送ったのだが本部からの回答は相手の女性は宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥の養女との事だった……。笑い話にもならん。それにしても俺だったらどんなに美人でもあの元帥の娘なんかと食事をするのは御免だな。

『A、見えているか?』
「見えている、中将は自宅に入ったようだな」
『ああ、副官は自宅に向かったようだ』
「分かった、地上車を止める。戻ってこい」
『了解』
地上車を中将の官舎から五十メートル程の距離に止めた。Bが少しずつ近付いて来る、そして助手席に座った。俺もヘッドセットを外した。

「こちらA、本部、応答願います」
『こちら本部』
「1755、監視対象者は家に戻った。このまま監視を続ける」
『了解』
Bに視線を向けると肩を竦める仕草をした。今日はこのまま明日の五時まで待機だろう。それまでに食事を摂りBと交代で睡眠を取る事になる。詰まらない一日だ。

三十分程経った時、中将の官舎の前に地上車が止まった。車内の空気が強張る。地上車からは誰も出てこない。Bが単眼鏡を構えた。
「B、中に人が乗っているか」
「いや、見えない。スモークガラスを使っているな」
Bの声が昂っている。ただの平民、下級貴族がスモークガラスを使用した地上車に乗る事は許されない。中に乗っている人間が居るとすればそれなりの地位を持つ人物だ。貴族、将官、高級官僚、或いは中将が地上車を呼んだのか……。

ヴァレンシュタイン中将が官舎から出て来た。軍服を着ている。
「出て来たぞ、B」
「ああ、出て来た」
地上車に乗り込んだ、発進する。こちらも後を追った。見失ってはいけないが気付かれてもいけない。近付き過ぎず離れ過ぎずだ。

「Bより本部、Bより本部」
『こちら本部』
「1830、監視対象者が動いた。地上車で移動中、後を追う」
『了解、応援は要るか?』
「現状では必要ないが念のため準備は頼む」
『了解した』
Bも昂っているが本部も昂っていた。ようやく動きが出た、そう思ったのだろう。一体何処に行くのか。

中将の乗った地上車が向かったのは海鷲(ゼーアドラー)だった。
「どうする、A」
「中で誰と接触するのか、確認する必要が有るな」
「で、どっちが入る」
Bの顔が嬉しそうだ、俺は酒が飲めない、しょうがない奴だ。

「行けよ、俺は此処で待機している」
「分かった」
そう言うとBが後部座席に移り軍服に着替え始めた。
「Aより本部、応答願います」
『こちら本部』
「1845、監視対象者は海鷲(ゼーアドラー)に入った。Bが中に入り対象者を監視する」
『了解、応援が要るか?』
声が笑っている。Bが必要ないという様に手を振った。

「その必要は無い、Bだけで十分だ」
『残念だな、応援が必要な時は何時でも言ってくれ』
「了解した」
やれやれだ。皆仕事だという事を理解しているのか時々疑問になる。Bにも釘を刺しておかないと。

「B、言っておくが任務だぞ。飲み代は経費で落としても良いが飲み過ぎるなよ」
「ああ、分かってる」
本当に分かっているのか?
「一時間毎に俺に報告を入れる事を忘れるな」
「勿論だ」
Bは着替えると弾むような足取りで海鷲(ゼーアドラー)に入って行った。こんな時だけはやる気になるんだな。

『A、対象者を確認した』
Bから直ぐに連絡が来た。早い、中将を直ぐに見つけたらしい。
「状況は」
『十人以上で酒を飲んでいる。豪華な顔ぶれだ。ロイエンタール中将、ミッターマイヤー中将、ケスラー中将、……宇宙艦隊の司令官達だ。殆ど揃っている』

なるほど、ローエングラム伯が今日出撃したな。煩い上司が居なくなってヴァレンシュタイン中将と旧交を交わしているという事か。どうやらローエングラム伯とヴァレンシュタイン中将の間は思いの外に険悪らしい。そして各艦隊司令官はヴァレンシュタイン中将寄りだ。本部に報告する必要が有るな。

「B、そのまま監視を続けろ」
『了解、楽しみながら監視させてもらう』
「出来る事なら会話も録音しろ」
『分かった、難しいがやってみよう』
「それと領収書を忘れるな、自腹になるぞ」
『了解』



帝国暦487年 4月 24日 オーディン 新無憂宮  エーレンベルク元帥



南苑に有るこの部屋はいかにも密談向きの部屋だ。陰鬱で微かに黴臭く薄暗い、そして空気が重苦しい。ここでの会話が弾んだ事はない。必要な事を話しそそくさと帰る、そんな気分にさせる。
「待たせたか、帝国軍三長官が内密で会いたいとの事だが何用かな」
部屋に入ってきた国務尚書リヒテンラーデ侯の機嫌は必ずしも良くはなかった。執務を中断された事への不快感が有るのかもしれない。

シュタインホフ、ミュッケンベルガー両元帥は無言だ。帝国軍三長官筆頭の私から話せという事だろう。
「イゼルローン要塞に反乱軍が押し寄せました」
リヒテンラーデ侯が微かに眉を上げた。
「それで」
「反乱軍は要塞内に兵を送り込もうとしたようです」
シンとした。リヒテンラーデ侯がじっと私を見ている。部屋の空気が一段と重くなったような気がした。

「防いだのだな」
押し殺すような低い声だ。
「はい。要塞内に入ったところで取り押さえました。作戦の失敗により反乱軍は撤退しています」
こちらの声も同じように低くなった。
「レポートの通りか」
「はい」
「フェザーンからは反乱軍の動きを知らせてこなかったな……」
「それもレポートの通りです」
リヒテンラーデ侯が大きく息を吐いた。緊張が緩んだ。

「危ないところでした、あのレポートが無ければ……」
「イゼルローン要塞は落とされていたか」
シュタインホフ元帥の言葉の後をリヒテンラーデ侯が補った。
「ローエングラム伯の事も有ります。最悪の場合、敵に占領された要塞に何も知らずに近付く事になりました。大変な損害を受けたでしょう」

ミュッケンベルガー元帥が最悪の想定をするとリヒテンラーデ侯はフンと鼻を鳴らした。ローエングラム伯など如何でも良い、そんな感情が滲み出ている。反乱軍がイゼルローン要塞を攻略しようとした事は要塞間近に迫っていたローエングラム伯にも伝えられた。ローエングラム伯は今反乱軍を追っている。逸っている事だろう。

「ヴァレンシュタインとは話したのか、軍務尚書」
「はい、……あらあらと言っておりましたな」
「あらあら? 何だそれは?」
不機嫌そうな声だ。顔を顰めている。
「本人にとっても予想外だったようです。実行するにしてももう少し後だろうと思っていたとか」
またリヒテンラーデ侯がフンと鼻を鳴らした。

「良くない状況です。我々が思っている以上に反乱軍は追い詰められているのかもしれません。その事はフェザーンが今回の一件を知らせてこなかった事からも判断出来ます」
「ミュッケンベルガー元帥の言う通りです。こうなりますと反乱軍が次に何を考えるか……」
シュタインホフ元帥の発言にリヒテンラーデ侯がまた顔を顰めた。
「要塞を造り出すというのだな、卿らは」
「いずれそういう時が来るかもしれません」
リヒテンラーデ侯が私を睨んだが何も言わなかった。侯も同じ事を考えたのかもしれない。

リヒテンラーデ侯が恐れているのは反乱軍が辺境星域に侵入する事だ。帝国の辺境は長い戦乱の所為で放置されたままになっていて極めて貧しい。その所為で中央に対して強い反感を持っている。もし要塞が失われ反乱軍が辺境星域に侵入する事になったらどうなるか……。辺境星域は反乱軍に同調するかもしれない。イゼルローン要塞陥落は軍人だけではない、政治家にとっても悪夢なのだ。

「それで、ヴァレンシュタインは如何するのだ? 昇進させるのか?」
「士官学校校長になって未だ三カ月も経ちません。昇進、異動は避けるべきだと思います。統帥本部総長、司令長官も同意見です」
リヒテンラーデ侯がジロリとシュタインホフ、ミュッケンベルガー元帥に視線を向けた。
「軍務尚書、では勲章だな」
「はい、双頭鷲武勲章を」
「まあそんなところだな」
三度リヒテンラーデ侯が鼻を鳴らした。



帝国暦 487年 4月 26日  オーディン  士官学校校長室  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン



『そういう訳で卿には双頭鷲武勲章を授与する事になった』
「はあ」
『なんだ、勲章では不満か?』
「いえ、そうでは有りません。そのようにお気遣い頂かなくてもと思いましたので……」
そんな不機嫌そうな表情で言われても素直には喜べません。と言いたかったがこれも宮仕えの悲しさだ。正直には言えない。

『そうはいかん。信賞必罰は軍のよって立つところだ。功を挙げた以上、それを賞するのは当然の事であろう』
「はあ」
だったらもっと嬉しそうに言ってくれ。だいたい俺みたいな若造が双頭鷲武勲章なんて貰っても誰も喜ばないのは分かっている。
『来月三日に授与式を宮中黒真珠の間で行う。後で典礼省より連絡が有る筈だ』
「……分かりました」
面倒だな、そういうのが一番嫌いなんだけど……。

「閣下、小官の監視は何時まで続くのでしょうか」
あ、表情が渋くなった。でもね、不自由な想いをしているのは俺だぞ。
『監視だけではない、護衛も兼ねている』
「……そうは言われましても」
どうみてもメインは監視だろ。俺を監視してどうすんだよ、意味ないぞ。心の中で毒づいてみた。少しは気が晴れた。

『今回の件で卿の重要性はより高まった。護衛はこれからも続ける』
「……」
立場弱いよ、皆と酒飲むのも駄目って言われたからな。もっともそれで監視されてるって分かったけど。ヴァレリーはその前から妙な感じがすると言っていたが俺は気付かなかった。鈍い奴って何処にでもいると思ったよ。但しそれが自分だと判明した時は面白くなかったけど。

『次のレポートは何時出来上がるのだ?』
「五月の期末試験が終わりましたら提出させていただきます」
『良かろう』
まあ前回がイゼルローン要塞だから今度はアルテミスの首飾りで行こう。ハイネセンまで行ったら役に立つ情報だ。もしかするとカストロプでも使うかもしれない。宇宙艦隊も気張るだろう。

「ところで一つお願いが有るのですが……」
『何だ?』
そんな警戒心丸出しな表情をしなくても良いだろう。俺は結構役に立っていると思うよ。もっとにこやかにしてくれても……。
「五月末に卒業式が有ります。来賓として軍務尚書閣下にご臨席を賜りたいのですが……」
『……卒業式か、考えておこう』

それを最後に通信が切れた。出てくれるかな? 迷惑そうな顔をしていた、期待薄だな。レポートを提出したらもう一度エーレンベルクをプッシュしてみるか。或いは別な手段を考えるか……。まあ手が無いわけでもないな……。ここ最近卒業式に出るのは軍務次官の仕事になっている。俺の卒業式も軍務次官だった。帝国軍三長官クラスが出席してくれれば卒業生達も喜ぶだろう。俺って良い校長先生だな。そのうちTVドラマの主人公にでもなるかもしれない。



 

 

もしも ~ 其処に有る危機(4)



帝国暦 487年 4月 28日  オーディン  士官学校  ミヒャエル・ニヒェルマン



ヴァレンシュタイン校長閣下の背中が見えた。書棚から本を抜き取って表紙を見ている。皆で顔を見合わせ頷いた。そして驚かさないようにゆっくり近づく。閣下は気付かない。手に取った本をめくり始めた。閣下は良くこの図書室に来て本を読んでいる。時々僕達と話す事も有る。気さくな人だ。

あと三メートルまで迫った。そろそろかな? 皆に確認を取ると頷いた。せーので声を合わせようと思ったら閣下が振り向いた。僕達を見てニコニコしている。
「如何したのかな?」
「あ、その、えーと、……せーの」
「おめでとうございます」

皆で声を合わせて“おめでとうございます”というと閣下が不思議そうな表情をした。
「何かあったかな?」
「あの双頭鷲武勲章を授与されるって聞きました」
「ああ、あれか」
あれ? あんまり嬉しそうじゃない。双頭鷲武勲章なんだけど……。皆も不思議そうな顔をしている。

反乱軍がイゼルローン要塞を攻略しようとした。要塞内に帝国軍兵士に扮した反乱軍兵士を潜入させようとした。でも帝国軍はその策略に引っかからなかった。潜入した反乱軍兵士は捕えられ反乱軍の艦隊は撤退した。危ないところだった。反乱軍の策略を防げたのはヴァレンシュタイン校長がイゼルローン要塞を反乱軍が騙し討ちで攻略しようとする可能性が有るって帝国軍三長官に警告したからだ。そして帝国軍三長官はその警告をイゼルローン要塞に伝えた。凄い話だよ。反乱軍の作戦を見破ったのも凄いけど帝国軍三長官に警告したって言うのも凄い。校長閣下は帝国軍三長官と密接に繋がっている実力者なんだ。

今回の攻略戦において校長閣下の功績は大きい。閣下が警告を発しなければイゼルローン要塞は反乱軍によって攻略されていたかもしれない。その功によって双頭鷲武勲章を貰う事になったって聞いているけど……。
「気遣いしないで欲しいと頼んだのだけれどね」
気遣い? 誰に頼んだのだろう? 軍務尚書かな。

困ったな。本当はワッと盛り上がって皆で作戦の事を聞こうと思っていたんだけどちょっと聞き辛い。如何しようと思っていたら“ヴァレンシュタイン中将”と呼びかける声がした。三十代半ば、銀灰色の髪を持つ長身の男性だった。この人も帝国軍中将だ。三十代半ばで中将なら校長閣下には及ばないけど十分に出世は速い。

「リューネブルク中将、珍しいですね、如何したのです」
リューネブルク中将? この人装甲擲弾兵のリューネブルク中将だ。有能だって言われているけど逆亡命者だから上層部から危険視もされているって聞いている。ヴァレンシュタイン校長閣下と親しいと聞いていたけど本当なんだ。皆も吃驚している。良いのかな、そんな人と親しくて。

「相談に乗って欲しい事が有るのです。校長室に行ったら図書室だろうとフィッツシモンズ少佐に言われましたのでね」
校長閣下がニコニコしている。嬉しいのかな。
「迎えに来てくれたのですか」
「ええ」
「分かりました」
それを機に閣下は僕達に“じゃあ”と言って図書室を出て行ってしまった。残念、作戦の事を色々聞きたかったのに……。それにしてもリューネブルク中将が危険だなんて全然気にしていないんだな。



帝国暦 487年 4月 28日  オーディン  士官学校  エーリッヒ・ヴァレンシュタイン



リューネブルクと共に校長室に戻るとヴァレリーがお茶の準備をして待っていた。応接用のソファーに坐ると俺にはココア、リューネブルクにはコーヒーを出してくれた。
「双頭鷲武勲章を授与されるそうですな、おめでとうございます」
「有難うございます。それで頼みとは」

お互い暇じゃない、それに俺と会うと憲兵隊や情報部にチェックされる。会っている時間は短い方が良いだろう。挨拶も早々にここに来た理由を促した。リューネブルクも分かっている、一つ頷くと話し始めた。
「反乱軍のイゼルローン要塞攻略は失敗しました」
「ええ」

ちょっと驚いたよな、この時期にイゼルローン要塞攻略なんて。思ったより同盟は追い詰められているようだ。それに動員したのは半個艦隊じゃない、三個艦隊は有ったと聞く。ラインハルトは危なかった、一つ間違えば同盟の物になったイゼルローン要塞に突っ込むところだった。かなりの損害を受けただろう。

「要塞内に兵を送り込んだそうですが捕虜になった」
「そのようです」
なるほど、なんとなく分かった。
「その捕虜を助ける事は出来ませんか、捕虜はローゼンリッターなのです」
「……シェーンコップ大佐ですか」
「はい」
常に不遜さを漂わせているリューネブルクが切実さを出している。らしくないが人間的には可愛げが有る。ヴァレリーを見たが彼女も同様だ。心配なのだろう。

「難しい事は分かっています。反乱軍の兵士、まして亡命者を助けるなど通常なら不可能。しかしヴァレンシュタイン中将なら……」
「……」
ローゼンリッターでは反逆者、裏切者として処刑される事も有り得るだろう。運良く捕虜収容所に入ってもあそこは劣悪な環境だ。ローゼンリッターは帝国だけではなく同盟でも受けが悪い、生きていくのは至難だろう。

「軍上層部に掛け合って頂けませんか。彼らを帝国軍に迎え入れると。フィッツシモンズ少佐の例もあります」
「説得するというのですか?」
「はい。味方になれば心強い男達です」
「中将の気持ちは分かりますがシェーンコップ大佐達がそれを受け入れると思いますか? 彼らは男ですよ?」
ヴァレリーの場合は性的な部分で危険が有った。だから彼女も亡命を受け入れた。しかしシェーンコップ達は男だ。命が危険だからと言って亡命を受け入れるとは思えない。リューネブルクも分かっているのだろう、苦しそうな表情をしている。

「……難しいとお考えですか?」
そんな縋る様な目をするな、リューネブルク。少し苛めたくなるじゃないか。
「難しいでしょう。彼らを説得するのも軍上層部を説得するのもです。彼らは既に一度亡命しています。自らの意志で逆亡命するのならともかく中将に説得されてでは軍上層部を納得させる事は難しいと思います」
「……」
返事が無い。リューネブルクもその事は分かっているだろう。自発的に逆亡命してさえ三年間戦場に出る事は無かったのだ。それほどまでに亡命者というのは信用されない。何処かで疑いを持たれる。

「帝国に受け入れる事を考えるのではなく向こうへ還す事を考えた方が良いと思いますね」
「しかし、そんな事が可能でしょうか? 捕虜を還すなど」
リューネブルクとヴァレリーが顔を見合わせた。二人とも訝しげな表情をしている。
「ローゼンリッターだけを助けるというのは難しいでしょう。特別扱いは出来ない」
「……と言いますと?」
とうとうヴァレリーが参戦した。

「捕虜全員を還すのです」
「捕虜全員……、交換、ですか」
その通りだ、リューネブルク。なかなか鋭いじゃないか。
「期末試験が終わったら帝国軍三長官にレポートを出す事になっています。そこで捕虜交換を提案してみましょう」
アルテミスの首飾りはその次のレポート提出にお預けだ。リューネブルクがウンウンという様に頷いていたが俺に視線を向けてきた。

「上手く受け入れられるでしょうか?」
「それは分かりません。ですがシェーンコップ大佐達を説得するよりは良いと思います。軍上層部も受け入れやすいでしょうしシェーンコップ大佐達が負い目を持つ事も無い」
「そうかもしれませんな」
リューネブルクが頷いた。恩着せがましくするのはリューネブルクも望むところではないだろう。

「帝国は約二百万の捕虜を抱えています。反乱軍も同様でしょう。それが戻って来るとなれば軍の編成にも余裕が出ます。それに捕虜交換が実現すれば政府に対する平民の不満も軽減出来る、その辺りを指摘すれば……」
「なるほど」
リューネブルクがウンウンと頷いていたが俺を見て不敵に笑った。らしくなって来たじゃないか。可愛げが消えたぞ。

「リヒテンラーデ侯を捲き込むのですな」
「その方が良いでしょう。軍としても動き易い筈です。授与式で陛下にお願いするという手も有りますがそれをやると陛下を利用して政治、軍事を動かしていると周囲の反発を招きかねない」
リューネブルクとヴァレリーが顔を見合わせ頷いた。
「宜しくお願いします」
二人が頭を下げた。用件が済むとリューネブルクは直ぐに帰った。寂しい話だが已むを得ない。危険と思われているのは俺だけじゃない、リューネブルクも同様なのだ。

ラインハルトは敵を追っている様だが如何なるかな。武勲を上げる事が出来れば元帥に昇進も可能だ、原作に近い流れになるだろう。帝国はラインハルトの手で改革され宇宙は統一されるかもしれない。だが武勲を上げられない様だとちょっと厳しい。ラインハルトは皇帝には成れないかもしれん。だとすると帝国はこのままか?

面白く無いな。これ以上門閥貴族の横暴など見たくないし宇宙が地球教とフェザーンの物になるのも御免だ。警告を出す必要が有る。だが今じゃない、少しずつタイミングを見計らってだ。その時はリヒテンラーデ侯は発狂するかもしれない、或いは発作でも起こすか、楽しみだな。だが先ずは軽くジャブの一発も叩き込んでおくか。



帝国暦487年 5月 3日 オーディン 新無憂宮  黒真珠の間  フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト



広大な黒真珠の間には大勢の人間が集まっていた。大貴族、高級文官、武官が幅六メートルの赤を基調とした絨緞をはさんで整然と列を作って並んでいる。俺もその一人だ、正規艦隊司令官フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト中将。かつては遥か下座で参列していたが今ではかなり上座に並ぶ事となった。俺の年齢からすれば異例といって良いかもしれない。

古風なラッパの音が黒真珠の間に響いた。その音とともに参列者が姿勢を正す。俺も姿勢を正した。
「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下の御入来」
式部官の声と帝国国歌の荘重な音楽が響いた。そして参列者は頭を深々と下げる。

国家が流れ終ってから頭をゆっくりと上げた。皇帝フリードリヒ四世陛下が豪奢な椅子に座っていた。顔色が良くない、皇帝は何処か疲れた様な表情をしていた。
「士官学校校長、エーリッヒ・ヴァレンシュタイン殿」
式部官の朗々たる声がヴァレンシュタイン中将の名を呼んだ。その声とともに絨毯を踏んで中将が陛下に近づいてくる。

気に入らん、どうして中将なのだ。本来なら大将、宇宙艦隊副司令長官だった筈だ。それが中将で士官学校校長? 馬鹿げている! それに今回の武勲で何故昇進しないのだ。ヴァレンシュタイン中将が居なければイゼルローン要塞は反乱軍の物になっていたかもしれんのだ。そうなれば帝国の安全保障は重大な危機に曝されていただろう。

ヴァレンシュタイン中将の武勲は他者の追随を許さぬ。俺達も艦隊編成では随分と世話になっている。言葉では言い尽くせぬ程だ。それを考えれば勲章だけで済ますなどおかしいではないか。納得がいかん! 軍上層部は中将に出世欲が無い事を良い事に中将を不当に扱っている、俺にはそうとしか思えない。

ヴァレンシュタイン中将が陛下の前で膝を着いて頭を下げた。
「ヴァレンシュタイン中将、今度の武勲、まことに見事であった」
「恐れ入ります」
「そちは今士官学校の校長だそうだな」
「はっ」
「ふむ、妙な所に居るな。そちには詰まらぬのではないか?」
当然だろう、そんな事は!

「そのような事は有りません。生徒達と毎日を楽しく過ごしております」
「そうか……。立つが良い」
陛下が立つ事を命じたにも拘わらず中将は起立しなかった。
「如何した? ヴァレンシュタイン」
「恐れながら、勲章の授与は辞退いたします」
黒真珠の間にざわめきが起きた。皆が顔を見合わせている。ロイエンタール、ミッターマイヤー、皆訝しんでいる。

「その代わりと言っては何ですが陛下にお願いがございます」
リヒテンラーデ侯が“控えよ! ヴァレンシュタイン”と叱責したが陛下が“よい、言うてみよ”と中将に発言を許した。
「今月二十五日に士官学校で卒業式が有ります。陛下の御臨席を賜りとうございます」
またざわめきが起きた。中将の事だから私利私欲の願いではないと思っていたが卒業式か。

「予に卒業式に臨席せよと申すか……」
「陛下の御臨席を賜れば卒業生達も感激致しましょう。そして誇りを持って戦場に赴くでしょう」
「ふむ、そちは無欲よの。……良かろう、その願い聞き届けた。卒業式には出席しよう」
「はっ、有り難き幸せ」

陛下が何を思ったか笑い声を上げた。そして笑うのを止めると中将を覗き込むように身を乗り出した。
「そちはなかなか駆け引きが上手いの。皆の前で予に約束させるとは。これでは破れぬの」
「そのような事は……」
「無いと申すか?」
陛下がまた笑い声を上げた。

陛下の御臨席か、羨ましい事だ。俺の時には軍務次官が来て終わりだった。卒業し任官する事への嬉しさは有ったが感動の様なものは無かったな。……そうか、陛下が御臨席されるとなれば帝国軍三長官も無視は出来ん。いや、三長官だけじゃない、ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯も出席するかもしれない。盛大な卒業式になるな。俺も行ってみるか、正規艦隊司令官なのだ、出席してもおかしくは無い……。



帝国暦487年 5月 10日 オーディン 新無憂宮   エーレンベルク元帥



レポートを読んでいたリヒテンラーデ侯がジロリと私達を見た。好意等欠片も感じられない。新無憂宮南苑にある陰鬱な部屋には似合いの表情だ。
「相変わらず落ち着きのない男だ……。今度は捕虜交換か……」
リヒテンラーデ侯が渋い表情で呟いた。唯一の救いはその非好意的な感情が我々に向けられたものではない事だろう。

「それで卿らはどう思うのだ」
リヒテンラーデ侯が私、シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥を見た。
「捕虜が戻ってくるとなれば軍としては大いに助かります。新兵を一人前にするのは容易ではありません」
私が答えるとあとの二人が頷いた。軍務尚書というのは不利だ。どうしてもこういう時は返事をする立場になる。輪番制にしてみるか。

「閣下は如何お考えですか?」
考え込んでいるリヒテンラーデ侯に思い切って問い掛けるとまたジロリと睨まれた。
「悪い案ではないな。政府としても何らかの形で平民達の不満を解消したいと考えていたところだ。捕虜が還ってくるとなれば平民達も喜ぼう。一石二鳥、悪い案ではない」
悪い案ではない、二度繰り返した。だが表情は緩まない。

「しかし政府主導というのが気に入らぬ」
やはりそこか。帝国は自由惑星同盟を国家として認めていない。政府主導で捕虜交換を進めれば政府が自由惑星同盟を国家として認める事に繋がるのではないか、貴族達に非難されるのではないかと懸念している。侯が三度我々をジロリと睨んだ。

「軍主導ではいかぬのか?」
「政府主導の方が効果は有ります。国家的行事として大体的に行った方が平民達も喜びましょう。ヴァレンシュタインもそう言っております」
「……」
面白くなさそうな表情だ。しかし軍には軍の懸念が有る。交渉すれば軍だとて反乱軍を対等に扱った等と非難されかねない。後々あれは軍が勝手にやった事などと言われては堪らぬ。もう一押しするか。

「それに軍主導となればローエングラム伯が張り切るでしょうな」
「……捕虜交換を機に平民達の心を掴もうとする、そういう事だな」
「はい。点数を稼がせる事は有りますまい」
「それもあれが言っているのか?」
「いえ、これは小官達の意見です」
シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥が頷いた。リヒテンラーデ侯の渋面が益々酷くなった。

「良かろう、捕虜交換は政府主導で行う。但し軍からの起案によりだ。それをもって陛下の御許しを得る」
「分かりました、早急に起案書を出させて頂きます」
つまり責任は折半という事か。まあ悪くないな。シューマッハに起案書を書かせるか。



 

 

もしも ~ 其処に有る危機(5)



帝国暦487年 5月 25日 オーディン 士官学校  ミヒャエル・ニヒェルマン



「凄いな、ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯が来ているよ。御夫人方も一緒だ」
「国務尚書リヒテンラーデ侯も居る」
「帝国軍三長官、それに幕僚総監のクラーゼン元帥も居るよ。オフレッサー上級大将、ラムスドルフ上級大将、それに正規艦隊の司令官達も揃っている。宇宙艦隊で居ないのはローエングラム伯だけだ」
「仕方ないよ、伯は今帰還途中だからね」

ローエングラム伯は艦隊を率いて反乱軍討伐に向かったんだけどその途中で反乱軍がイゼルローン要塞攻略に失敗した事を知った。伯は急いで反乱軍を追ったんだけど反乱軍は三個艦隊以上の大軍だったらしい。ローエングラム伯は兵力差がどうにもならなくて撤退した。今オーディンへ帰還途中だ。

「凄い顔ぶれだな、やっぱり陛下が御臨席下さるからかな」
「そりゃそうさ。士官学校の卒業式なんだぜ。陛下が御臨席下さるのに帝国軍三長官が欠席なんて出来るわけないだろう。国務尚書閣下だって来てるんだ」
「そうそう、去年は軍務次官だけだからね、軍のお偉いさんは」

士官学校の食堂には大勢の候補生が集まっていた。スクリーンの前に陣取り大講堂で始まる予定の卒業式を興奮しながら待っている。ここだけじゃ無い、おそらく士官学校の多くの施設で同じように候補生がスクリーンを見ている筈だ。そして興奮しているだろう。でも一番興奮しているのは大講堂にいる候補生達に違いない。今年の卒業生五千三百十二人、そして在校生代表一名が大講堂で卒業式が始まるのを待っている。次に興奮しているのは父兄の筈だ。父兄専用の控室で固唾を飲んで見守っているだろう。今年は七千人程来ているらしい。例年の倍以上だと聞いた。

スクリーンに映る雛壇には来賓の方々のための貴賓席が用意してあった。中央には一際豪奢な黄金張りの椅子が有る。陛下がお座りになる椅子だ。そしてその左には国務尚書リヒテンラーデ侯、帝国軍三長官。クラーゼン元帥、ラムスドルフ上級大将、オフレッサー上級大将。右にはブラウンシュバイク公夫妻、リッテンハイム侯夫妻が座っていた。そしてその後ろに宇宙艦隊の司令官達が前列の方達を守るかのように二列になって座っていた。そして校長閣下も居る。目が眩むほど豪華な顔ぶれだ。

「宇宙艦隊の司令官って恰好良いよな。若くて颯爽としていていかにも宇宙を駆ける勇将達、そんな感じがする」
皆が頷いた。宇宙艦隊の司令官、士官候補生の憧れの的だ。
「今回司令官閣下達が御臨席下さるのは校長閣下と親しいかららしいよ。なかでもミュラー提督は閣下と士官学校で同期生だった、親友だって聞いている」
ヒューと口笛を吹く音が聞こえた。確かに校長閣下の隣はミュラー提督だ。今も二人は何か話をしている。

「皇帝陛下の御臨席は御当代フリードリヒ四世陛下の御代では初めての事だってさ。前回は五十年以上前、先帝オトフリート五世陛下の御代になるらしい」
誰かがまた口笛を吹いた。不敬罪になるのかもしれないけど誰も咎めなかった。
「それもヴァレンシュタイン校長閣下が双頭鷲武勲章と引き換えにお願いしたから実現したんだ。それ無しでは無理だったよ」
「凄いよな、双頭鷲武勲章を断っちゃうなんて。双頭鷲武勲章だぜ? 俺には無理だな」
彼方此方から“俺も無理”、“俺も”という声が上がった。誰かが“俺なんて貰う事も出来ないよ”というとドッと笑い声が上がった。確かにそうだ、そんな簡単に貰える勲章じゃない。

「知ってるか? 今回決まった捕虜交換も元々は校長閣下の発案らしいぞ」
「本当か、それ」
「ああ、兄貴が言ってたよ。俺の兄貴は軍務省の官房勤務なんだ。間違いないね。時々閣下は帝国軍三長官にレポートを提出しているらしいよ。捕虜交換はそれを基に軍務省で起案して政府に提出したんだってさ」
彼方此方から“スゲー”って嘆声が上がった。本当に校長閣下は凄い、僕なんか溜息しか出ないよ。

先日、帝国政府から反乱軍との間で捕虜交換を行う事を決定したと放送が有った。既に反乱軍とはフェザーン回廊を使って捕虜を交換する事が決まっているらしい。これから捕虜交換の準備にかかるのだとか。皆がその事を喜んでいる。僕の同期生にも親族が捕虜になっている人が居る。早く実現して欲しいよ。

「良いよな、今年の卒業生は。こんな風に祝って貰えるなんて。俺達の時はどうなるのかな」
皆が顔を見合わせた。困惑している。
「ヴァレンシュタイン校長閣下に期待しよう」
誰かが言うと何人かが“そうだね”と曖昧に頷いた。分かっているんだ、今年が特別だって事は。校長閣下が無理をして実現してくれた。来年以降は例年通り軍務次官の臨席だけで終わりだろう。確定ではないけどその可能性が高い、そして残念に思っている。寂しいよ。

「幼年学校は明日か」
「うん、明日だ。幼年学校は得したよね」
皆が同意の声を上げた。士官学校の卒業式に陛下が御臨席されると決まって幼年学校側も自分達の卒業式にもと陛下に頼み込んだらしい。卒業生の父兄からかなり突き上げられたようだ。陛下は士官学校だけを優遇する事が出来ず幼年学校にも御臨席される事になった。ヴァレンシュタイン校長は双頭鷲武勲章を辞退して士官学校卒業式への御臨席を得たのに幼年学校は何の代価も払っていない。皆が得をしたと言っている。

古風なラッパの音が大講堂に流れた。
『全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下の御入来』
始まった! 式部官の声と帝国国歌の荘重な音楽が響いた。大講堂では全員が起立して頭を下げている。僕達も慌てて姿勢を正して深々と頭を下げた。例え大講堂に居なくても不敬は許されない。僕達は皇帝に忠誠を誓う帝国軍人なんだ。未だ任官していなくても。

国歌が流れ終わり頭を上げると中央の椅子に陛下が座っていた。初めてだよ、陛下を拝見するのなんて。いつもは宮中奥深くにいらっしゃるから僕らとは全く無縁の方だ。その陛下をスクリーン越しとはいえ拝見出来るなんて……。良いよなあ、卒業生は。本当に陛下を自分の目で見ているんだ。これから毎年陛下のご臨席が有れば……。

『定刻になりましたので式を始めます。開会の辞』
あ、多分これシュミット教官の声だ。ちょっと緊張してるな。開会の辞はボッシュ教官か。大丈夫かな、歩き方がちょっと変、がちがちに緊張してるみたいだ。あの人、講義でも緊張するからな、失敗しなければ良いけど。ボッシュ教官が陛下に挨拶をしてブラウンシュバイク公達に挨拶した。そして帝国軍三長官達に、司令官達にも挨拶だ。それから中央の壇に向かった。

『これより第四百八十七回帝国軍士官学校卒業式を行います』
ボッシュ教官の声もちょっと震え気味だ。まあこんな卒業式は初めてだから仕方ないのかな。ボッシュ教官が皆に挨拶をして下がった。
『続きまして国歌斉唱。皆様、御起立を願います』
全員が起立した。僕達も起立して姿勢を正した。音楽が流れる、それに合わせて国歌を歌った。やっぱりいつもと違う、陛下と一緒に歌っているんだ、厳かな感じがした。歌い終わるとシュミット教官が“御着席ください”と言った。

「卒業証書授与式及び御下賜品拝受式」
卒業式で一番の見せ場だ。卒業証書授与、恩賜品授与。卒業証書は成績優秀者二名だけがこの場で陛下から受け取る事が出来る。残りは皆教室に戻って教官から受け取る。そしてこの場で卒業証書を貰った二人は陛下から褒賞品を貰う、恩賜の品だ。

成績優秀者の名前が呼ばれた。アルフォンス・ネッツァー、ゲラルト・フォン・オルブリヒト。首席卒業はアルフォンス・ネッツァーだ。聞くところによると統帥本部作戦二課に配属されるらしい。二人が雛壇に上がった。既に陛下は席を立ち二人を待っている。陛下の斜め後ろには校長閣下が卒業証書と恩賜品を賞状盆に入れて待機していた。

「今年は短剣か」
「去年は時計だったね、その前は万年筆だった」
「俺だったら短剣よりも時計か万年筆の方が良いな、実用的だ」
「冗談よせよ、恩賜の品は飾りだろう。失くしたらどうするんだ」
“そうだ、そうだ”と同意の声が上がった。恩賜の品を紛失したらとんでもないことになる。ということで実際に持ち歩く事はない。大体は家に置いておく事になる。それを見て楽しむのが家族の仕事だ。

「ヴァレンシュタイン校長の配属は兵站統括部だったよね? 成績は悪かったのかな?」
「そんな事は無いよ、五番で卒業だからね」
「五番? それで兵站統括部に行ったの? 信じられないな」
「大騒ぎだったらしいよ。なんかの間違いじゃないかって」
そうだよな、僕だったら絶対宇宙艦隊か統帥本部、軍務省を選んでる。なんで閣下は兵站統括部なんかに行ったんだろう。

『アルフォンス・ネッツァー殿、貴官は帝国軍士官学校教則の課程を履修し定規の考試を経て正に其の業を卒えたり。茲に之を證す』
陛下の声が流れてきた。陛下ってこんな声なんだ。アルフォンス・ネッツァーが賞状を受け取ると陛下が“おめでとう”と声をかけネッツァーが“有難うございます”と答えた。そして短剣を受け取った。顔が紅潮している。人生最良の日だろうな。多分家族も来ている筈だ、喜んでいるに違いない。

卒業証書授与式及び御下賜品拝受式が終わると陛下、ヴァレンシュタイン校長、成績優秀者二名が席に戻った。凄いな、雛壇の来賓の方達、陛下がお戻りになられる時に深々と頭を下げている。そういえばさっき陛下が席を立つときもお辞儀してたっけ。
「次は校長式辞だ」
「どんな事を言うのかな」
うん、楽しみだ。

『校長式辞、ヴァレンシュタイン校長、式辞をお願いします』
シュミット教官が式辞をお願いするとヴァレンシュタイン校長が席を立った。あ、ミュラー提督が閣下ににこやかに話しかけている。もしかして冷やかしてるのかな、本当に仲が良いんだ。閣下が来賓の方達にお辞儀をしてそしてマイクに向かった。

『卒業おめでとう』
いつも通りの柔らかい声だった。緊張していない、凄いや。
『諸君にとって今日は本当に記念すべき日です。これからの未来に大きな希望を抱いていると思う。そこで私が諸君の未来を占ってみようと思う』
未来か、ちょっと楽しみ。皆も顔を見合わせているけど興味深々、そんな感じだ。

『帝国軍三長官に就く人間がいるか? 運が良ければ一人くらいはいるかもしれない。しかし私の教え子から帝国軍三長官が出なくても私は悲しまないし諸君も恥じる事は無い。何故なら帝国軍三長官とは才能、識見、運だけではなれないから。その他に性格の悪さというもの必要だ。これは生まれつきのものであって学校教育によって身に付くものではない』
笑い声が上がった。卒業生達だけじゃない、僕達も笑っているし雛壇の来賓の方々も笑っている。帝国軍三長官もだ。多分苦笑いかな。校長閣下は結構毒舌だ。

『次に正規艦隊司令官、これは最大で三人くらい出るかもしれない。今日この場に居られるロイエンタール提督、ワーレン提督、ビッテンフェルト提督は士官学校では同期生だった。提督達は未だ三十歳に達していない。早ければ十年後には諸君の中から正規艦隊司令官が誕生する事になる』
大講堂がざわめいた。少し興奮している。
「十年か、年に一度の割合で昇進すれば可能かな」
「言うのは簡単だけど実際には難しいよ」
僕もそう思う。多分同じ事を卒業生も話しているだろう。

『十年後に起きる事をもう一つ予測しよう。両隣りを見なさい』
卒業生達が左右を見ている。何だろう?
『自分自身を含めて三人の中の一人は戦死している可能性が有る。少尉任官後、十年後の生存率は七十パーセントを超えるが八十パーセントには満たない。これまでの統計がそれを示している』
大講堂がざわめいた。貴賓席もざわめいている。軍務尚書が“ヴァレンシュタイン!”と校長閣下を叱責したけど校長閣下は右手を上げただけだった。ざわめきが静まった。

『諸君らは士官学校に入った時点で下士官待遇の軍人になった。この四年間に戦死者は一人もいない。白兵戦技で敗れても射撃でミスをしても諸君が死ぬ事は無かった。シミュレーションで艦隊が全滅しても諸君が死ぬ事は無かったし兵が死ぬ事も無かった。犠牲は無かったのだ。しかし今日からは違う。ほんの小さなミス、些細な誤認が諸君をヴァルハラへと誘うだろう。諸君の部下達も、場合によっては友軍もだ。膨大な犠牲が発生する。その事を忘れてはならない』
誰かがゴクッと喉を鳴らした。皆顔が強張っている

『現在帝国は有利に戦いを進めている。その事は諸君も知る事実だ。しかし同時に長年の戦争により帝国臣民が疲弊している、その事に不満を抱いているという目を背けがちな現実が有る事も認識しなければならない。即ち成人男子の減少、戦費の増大による増税等である』
薄々は気付いていたけど……。良いのかな、そんな事言っちゃって。皆も心配そうにしている。

『今回行われる捕虜交換もそれを考慮しての事だ。少しでも帝国臣民の負担を軽減し不満を解消しようとしての事、それを理解して欲しい。帝国に余力は無い。つまり諸君らに武勲欲しさの無駄な戦いをさせるような余裕は無いのだ。その事を肝に銘ぜよ』
そうだったんだ、校長閣下はそんな事を考えていたんだ。僕は何も知らなかった。ただ捕虜が帰って来るって事を単純に喜んでいただけだった。

『帝国が諸君に望む事、当然だがそれは勝つ事だ。勝つ事が難しいのであれば躊躇わずに退く勇気を持つ事である。そして諸君は士官である以上一人でも多くの部下達を生きて帝国に連れ帰る義務が有る。そこには野心や虚飾は必要ない、常に誠実である事だけが要求される』
校長閣下が大講堂を見回した。

『常に誠実であれ。野心、虚飾、名声、富、権威、権力に惑わされる事無く誠実であれ。それこそが諸君をして帝国軍人の模範たり得る背骨となるだろう』
閣下が敬礼をした。卒業生達が慌てて立ち上がって答礼している。
『諸君の幸運を祈る』
閣下が敬礼を解く。貴賓席に礼をしてから自分の席に戻った。卒業生達も礼を解き席に座った。何となく分かった。閣下が何故軍規に違反するような事をしたのか、そして宇宙艦隊副司令長官になるのを辞退したのか。常に誠実である事、それだったんだ。



帝国暦 487年 5月 27日  オーディン  軍務省尚書室  エーレンベルク元帥



「では次のイゼルローン要塞司令官はグライフス大将、駐留艦隊司令官はメルカッツ大将で宜しいな」
私が問い掛けるとシュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥が頷いた。
「シュトックハウゼン大将とゼークト大将は上級大将に昇進させ軍事参議官にする」
二人が“問題無い”、“同意する”と言った。

イゼルローン要塞に四年いたのだ。オーディンの状況など何も分かるまい、最低でも半年は軍事参議官においておく必要が有るだろう。いずれ二人には時期を見て新たな仕事を与える。今の所軍務次官、統帥本部次長が有力だが確定ではない。二人の適性を見極めその時の状況に応じて決める事になるだろう。

「ローエングラム伯は競争相手が現れたとでも思うかな?」
「それは有るまい、統帥本部総長。自信家だからな」
「しかし司令長官、此度の事ではその自信とやらも大分損なわれたのではないか?」
「大分というのは同意しかねる。多少というなら同意するが」
私が噴き出すとシュタインホフ、ミュッケンベルガー両元帥が顔を見合わせて笑い出した。最近はシュタインホフ元帥との関係もかなり良くなった。

ローエングラム伯はオーディンへ帰還の途に有る。六月の半ばにはオーディンに戻るだろう。伯はイゼルローン要塞攻略に失敗した反乱軍を追ったが危うくその反乱軍に包囲されかけた。ローエングラム伯を救ったのはゼークト提督率いる駐留艦隊だ。損害は殆ど無かったが屈辱には違いない。イゼルローン要塞をヴァレンシュタインが救った事も有る。二重に屈辱だろう。その事を言うと二人はもっともだという様に頷いた。

「卒業式での式辞の内容を知れば当てつけかと怒り狂うだろう。そうは思われぬか、軍務尚書、司令長官」
「怒り狂っても如何にもならぬよ、統帥本部総長。あの式辞は厳しさと慈愛に溢れた式辞だと陛下がお褒めになられたものだ。如何にもならぬ」
ミュッケンベルガー元帥の言う通りだ。如何にもならぬ。実際あの件での苦情は何処からも無い。

校長式辞の後は軍務尚書訓示だった。事前に訓示は用意してあったがあの式辞の後では如何して良いのか正直判断がつかなかった。だが戸惑う私を陛下が呼び寄せ“良い式辞であった。厳しさと慈愛に溢れておる。卒業生達は良い軍人になるであろう”と仰られた。それで決まった。卒業生達に“厳しさと慈愛に溢れた式辞であると陛下の仰せである。ヴァレンシュタイン校長の教えを胸に軍務に励め“と言う事が出来た。

「陛下は如何お考えなのかな。ヴァレンシュタインの式辞をもっともだと思われたのか、それともヴァレンシュタインの立場を守ろうとされたのか」
シュタインホフ元帥が窺うように私とミュッケンベルガー元帥を見ている。以前からシュタインホフ元帥は陛下とヴァレンシュタインの関係を気にしていた。帝国の政治、軍事に影響を及ぼし始めたと見たか……。

「分からぬな。だが結果は悪くなかった。陛下があの式辞をお褒めになった事で帝国が疲弊しているという事が事実となったのだ。リヒテンラーデ侯はこれを機に国政の改革に手を付けるつもりだ。軍も協力せよと言われた。もっとも国政改革は簡単では有るまいが……」
シュタインホフ元帥、ミュッケンベルガー元帥が頷いた。

「軍も協力せよか。軍事費の削減だな」
ミュッケンベルガー元帥が私を見ている。予算は軍務省の受け持ちだ、心配している様だ。
「出征が無ければそれほど痛くは無い筈だ」
「つまり攻勢から守勢への転換だな。ローエングラム伯もむやみに出征したいとは言い辛かろう。それも悪くない」
ミュッケンベルガー元帥の言葉に私もシュタインホフ元帥も頷いた。武勲を立てられなければ簒奪を恐れる事も無い。それに捕虜も戻って来るのだ、軍の編成は無理をせずに行えるだろう。新たに徴兵を行う事も無い。

常に誠実であれか……。悪くない言葉だ。あの式辞は後世まで残るかもしれない。だがヴァレンシュタインは何に対して誠実なのだろう。野心が無いのは分かるのだが……。


 

 

もしも ~ 其処に有る危機(6)


帝国暦487年 7月 25日 オーディン 士官学校   エーリッヒ・ヴァレンシュタイン



五月の末に卒業式が有って六月の末に入学式が有った。何時もは軍務次官の仕事なのだが今年は帝国軍三長官が来賓として参列した。別に要請したわけでは無いんだが卒業式の評判が良かったからだろう、三長官も積極的に士官学校の式典に参加してくれた。ついでに言うと国務尚書リヒテンラーデ侯も参加した。式典に参加する事で政府のイメージアップを図ろうとしている様だ。

そして新学期が始まってもう一ヶ月だ。月日が流れるのは早い、新入生も学生生活に慣れただろう。八月になれば夏季休暇だ。そして俺はまたレポートを出さなければならん。段々ウンザリしてきたな。今度はアルテミスの首飾りの攻略法でも書くか、反響は小さいだろう。……六月一日付で人事異動が発表された。イゼルローン要塞司令官シュトックハウゼン大将、駐留艦隊司令官ゼークト大将が上級大将に昇進、軍事参議官になった。後任は要塞司令官にグライフス大将、駐留艦隊司令官にメルカッツ大将だ。なかなか良い人事だと軍の内外で好評らしい。

ラインハルトがオーディンに戻って来た。今回の遠征では良いところが無かった。イゼルローン要塞攻略に失敗した同盟軍を追ったのだが逆に同盟軍によって包囲されかかった。原作のように各個撃破とはいかなかったという事だ。まあ出張って来たのがビュコック、ウランフ、ボロディン、ヤンだったらしい。ボンクラのパエッタ、パストーレ、ムーアとはレベルが違う。大怪我する前にゼークトの艦隊が救出したようだ。

本人は残念かもしれない。悔しいだろうが同盟軍はイゼルローン要塞攻略に失敗している。敵の攻撃を挫いたんだ、ラインハルトの敗退はそれほど大きな失態とは見られていない。だが本人はかなり気にしているらしい。オーディンに戻ってからブチブチ愚痴っている様だ。帝国が守勢を取るというのも気に入らないらしい。俺の悪口でも言っているのかもしれないな。焦る事は無い、落ち着いてじっくりと次の機会を待てば良いんだ。誰かそう言って頭を撫でてやる人間が居れば良いんだが……。

捕虜交換は七月から始まる事になった。既に多くの捕虜がフェザーンに向かっている。帝国政府は捕虜返還後にそれを祝って酒、煙草を始めとして一部間接税の税率を今年一年間に限って軽減すると発表した。俺がリヒテンラーデ侯に提案した。入学式の後、帰還した捕虜に何らかの恩恵を与えたいが何か良い考えが有るかと侯に訊かれたからな。

あの爺さん、恩恵は施したいが政府の金は出来るだけ使いたくないと考えていた。虫の良い話だよ。でもまあ分からないでもない、帝国は慢性的に税収不足だ。爺さんは俺の案を財務省に検討させて税率を下げても捕虜の帰還祝いでかなり消費が増えむしろ増収になると判断したらしい。……大丈夫かな?

まあ期間限定の減税、あと四カ月だ。失敗しても来年には元に戻る。この件で俺は財務省の役人から好意的に見られているらしい。それに帝文をとっているからな、連中にとっては半分仲間、兄弟とは言えないが又従弟ぐらいには感じている様だ。軍に飽きたらそっちに進むのも有りだな。その頃にはカストロプ公爵家も断絶しているだろう。

「閣下、如何されたのですか。先程から楽しそうですが」
「いえ、良い季節になったと思ったのです」
ヴァレリーが胡散臭そうに俺を見ている。あのなあ、君は俺の副官なのだよ。なんでそんなに俺を疑いの眼で見るんだ? もうちょっと信頼の眼で見ても良いと思うんだけど。上官と部下、信頼関係が有って当然だろう。もう長い付き合いなんだから。でも七月末だとちょっと暑い。良い季節はおかしかったか。

「授業の内容も変わりましたしね、どんな影響が出るか、楽しみなのです」
うん、少しは視線が和らいだか。シミュレーション対戦を少し変えた。これまでは士官候補生同士の対戦が主だったが新学期からはコンピュータとの対戦を一週間に一度は義務付けている。但し、コンピュータとの対戦は士官候補生側に不利な条件に設定されている。

勝つための戦いでは無く出来るだけ損害を少なくして撤退するための戦闘を学ばせるためだ。教官達が反対するかと思ったが意外にもすんなりと賛成してくれた。シミュレーションならともかく現実では互角の条件での戦闘などそれほど多くない。上手に負ける事も大事、或いは逃げる事も大事だと教える必要が有ると教官達も思っていたようだ。

シュターデンみたいな戦術至上主義のアホが居なくて良かったわ。あいつ、今は二千隻程度の哨戒艦隊の司令官をしているらしい。ラインハルトが宇宙艦隊副司令長官になった時に司令部から追い出されたようだ。ま、良いんじゃないかな。変な作戦を計画されるよりずっとましだ。それに今の宇宙艦隊の正規艦隊司令官は皆シュターデンを嫌っている。宇宙艦隊司令部に居場所は無かっただろう。

生徒達からも反発の声は聞こえない。卒業式で十年間で二割から三割の戦死者が出ると教えたからな。生き残るのは大変だと理解したらしい。実際全ての新米士官が戦場に出るわけじゃない、一生デスクワークに従事する士官もいる。それを考えれば本当の戦死率は格段に跳ね上がるだろう。考えてみれば俺も良く生き残ったよ、原作知識が無かったら死んでいたかもしれない。

シミュレーションの他にも戦略と補給の大切さを理解させたいと思って時々兵站の授業を受け持っている。校長のやる事じゃないという意見も有るがどうしても候補生はシミュレーションでの勝ち負けに拘るからな、シミュレーションの授業に変化を付けた今が一番候補生にインパクトを与える筈だ。戦争の基本が戦略と補給だと認識出来れば候補生達にとって戦術的勝利の持つ比重が小さくなるだろう。戦術的勝利に拘らなければその分だけ不必要な犠牲を強いる事も無いし長生き出来る確率が増える。

候補生達には軍事だけじゃなく政治、経済についても教えないと。特に自由惑星同盟とはどういう国なのか、その辺りを理解させたい。単純に反乱軍という認識じゃ困るんだ。それに戦争が経済に、国家に及ぼす影響も考えて貰わないと……。如何したものかな、一度俺が全校生徒を対象に講話という形で教えるのも良いかもしれない。大勢の前で話すのは苦手だが授業に取り込むというのはちょっと難しいからな。候補生にまずは関心を持たせる事から始めよう。夏休み明けにでもやってみようか。



帝国暦487年 7月 25日 オーディン 士官学校   ミヒャエル・ニヒェルマン



うん、今日の夕食はなかなかいける、当たりかな。一緒に食べている六人も美味しそうに食べている。士官学校の寄宿舎で出す食事は量は多いんだけど味が……。昨日のシチューは牛肉が嫌になるほど硬かった。消化不良を起こしそうだったし顎も疲れた。きっと皆の顎を鍛えるためにあの肉を使ったんだろう。白兵戦技の訓練の一環に違いない。

「今日のシミュレーションはきつかったよ」
「え、なに、相手が大軍だったの」
「いや違うよ、こっちの五割増し。戦うか退くか、本当に迷った」
“そうだな”、“俺も前回がそうだった”と声が上がった。おいおい、口に物が入っている間は喋るなよ。飲み込んでから言え、行儀が悪いぞ。

「で、如何したの? ハルトマン」
僕が質問するとクラウス・ハルトマン、五割増の相手とシミュレーションした奴は困った様な顔をした。
「二倍なら退いたけど五割増しだからな。戦ったよ。負けてもシミュレーションだから……」
「勝ったのか?」
「いや、負けた。あれなら最初から撤退した方が良かったな。撤退戦の勉強になった」
皆、沈黙だ。ちょっと声がかけ辛い。ハルトマンは沈んだ表情をしている。

新学期が始まってから授業の内容が少し変わった。特に変わったのはシミュレーションでコンピュータ相手に結構不利な条件で戦わされる事が時々ある。学校側の説明ではこの対戦は成績には直接関係しないらしい。つまり逃げても負けても構わない、生徒の判断に任せるというのだけれどそれだけにどう判断するかが難しい。いつものように単純に勝てと言われる方が楽なんだけどそれじゃ実戦に即していないという事のようだ。

「二倍なら簡単に撤退を決められるけど……」
「うん、五割増しだと戦意不足って取られかねないからな」
皆が頷いた。ハルトマンも頷いている。そうなんだよね、誰だって臆病者とは思われたくない。なかなか簡単には撤退する決断は出来ない。自分だって撤退の判断は下せないかもしれない。
「でも負けたら意味が無い。あれが実戦だったらと思うとぞっとするよ。俺の判断で五十万人が戦死したんだから」
ハルトマンがぼやく。げんなりだ、気が滅入るよ。

「シミュレーションだけど凄く迷ったよ。あれが実戦だったら如何なんだろう。やっぱり迷うのかな、でも迷ってる時間なんて有るのかな。その場で決断を求められたら……」
「……」
「ほんの小さなミス、些細な誤認でとんでもない犠牲が出る……、校長閣下の言う通りだと思ったよ」
ハルトマンが首を振りながら溜息を吐いた。
「無能と蔑まれるか、臆病者と蔑まれるか、厳しいよね」
ますます気が滅入った。今日も消化不良だ。話題を変えよう。

「もう直ぐ夏休みだけど如何するの?」
三人は帰省するって答えた。一人はマリーンドルフに居る親戚の家に行く。そして僕を含めてハルトマンとエッティンガーの三人は寄宿舎に残る。家に帰りたいけど遠いからな、片道だけで二十日以上かかるから帰るのは到底無理だ。期末試験で盛り返して何とか三年次の専攻は戦史科に進む事が出来たから会えば喜んで貰えると思うけど……、会えるのは卒業式だな。

夏休みは如何しようか? 前から読みたいと思っていた孫子でも読んでみようかな? 九月になったら直ぐに中間試験だから勉強もしないといけない。校長閣下を始め教官達も居るから勉強を教わろうかな。話を聞くのも良いかもしれない。色々と為になりそうだ。実は士官候補生ってオーディン在住の生徒よりも地方出身者の方が全般的に成績が良いって言われている。

その理由の一つが年に三回有る長期休暇、夏季休暇、年越し休暇、春期休暇の過ごし方に有るらしい。僕ら地方出身者は寄宿舎にいるからね、士官学校でついついシミュレーションで遊んでしまったり図書室で本を読んだりする。熱心に勉強するとは言えないけどそれなりに勉強してしまうんだ。それが成績に影響するって言われている。夏季休暇まであと一週間、もう一踏ん張りだ。



帝国暦487年 8月 15日 オーディン 士官学校   ミヒャエル・ニヒェルマン



お昼を食べてからハルトマン、エッティンガーと図書室に行くと校長閣下が副官のフィッツシモンズ少佐と一緒に本を探していた。エッティンガーが“少佐だ”と小声で呟く。こいつ、少佐に興味有るんだ。背がすらっとして美人だからな。それに赤褐色の髪と瞳が凄く印象的だ。エッティンガーだけじゃなく他にも少佐に憧れている候補生は結構いる。少佐は反乱軍からの亡命者だけど反乱軍って帝国と違って女性でも前線に出るんだよね。当然だけど少佐は士官教育を受けている。反乱軍は士官学校も共学らしい。帝国じゃ信じられない事だ。

「ライムント・シーフェルデッカー、これですか?」
「ああ、そうです、これです」
「戦争における非戦闘部隊の役割……、補給関係の本のようですが」
「ええ、戦闘部隊が効率的に戦闘を行うにはどれだけの後方支援が必要か。それが書かれています。実際には軍には補給だけでは無く人事や経理、総務なども有りますから膨大な非戦闘部隊が存在する事になります。軽視されがちですけどね」

ヴァレンシュタイン校長閣下とフィッツシモンズ少佐が一冊の本を見ながら話している。シーフェルデッカー? 聞いた事が無いな。一体誰なんだろう? 戦争における非戦闘部隊の役割って本も知らない。ハルトマン、エッティンガーに視線を向けたけど二人とも首を横に振った。後で僕も読んでみよう。孫子を読んでみたけど面白かった。ハルトマン、エッティンガーも面白かったって言っている。でも訊きたい事も有るんだよな。あ、少佐が僕達に気付いた。校長閣下も僕達を見ている。訊いてみようかな? 如何しよう。

「精が出るね、勉強かな、それとも調べもの?」
迷っていると校長閣下が近付いてきてニコニコしながら声をかけてきた。閣下っていつもニコニコしていて近所の優しいお兄さんみたいだ。
「はい、ツィーグラーの戦略戦術の一般原則を読みたいと思って来ました」
ハルトマンが答えると閣下がウンウンって頷いた。

「あの、孫子を読みました。凄く面白かったです」
「自分もニヒェルマンに薦められて読みました」
「自分もです、面白かったです」
閣下が“それは良かった”と嬉しそうに言ってくれた。

「でもあれは偉い人が読む本なんじゃないですか」
僕が問い掛けるとハルトマンが頷きエッティンガーも頷いた。孫子って読んでいると君主とか将軍とかいう言葉が出てきてその立場の人は如何すべきかって事が書かれている。士官候補生の僕なんかが読んで良いのかな? そう思ったんだけど。

「そういうところは確かにあるね。孫子は孫武という人が書いたのだけど彼が生きていた時代は占いで戦うかどうかを決める事が多かった。まだ用兵学が確立していない時代だったんだ」
占いで決める? 思わず“えーっ”と声を上げてしまった。僕だけじゃない、ハルトマン、エッティンガーも声を上げて驚いている。少佐も目が点だ。そんな僕達を見て閣下が“本当だよ、亀の甲羅を焼いて占ったという話もある”と言って可笑しそうに笑い声をあげた。占い? 亀の甲羅? そんな昔の人なの、孫武って。

「孫武はその事に疑問を持って戦争を科学的に分析し戦争とは何なのか、戦争とは如何行うべきかを書いた。それが孫子なんだ。国家指導者、軍の指導者、指揮官向けの軍事指南書と言えるね」
「じゃあ自分達が読んで意味が有るんでしょうか? 面白かったとは思いますけど」
ハルトマンが自信無さそうに訊ねた。

「勿論、意味は有るよ」
校長閣下が優しそうな笑みを浮かべている。癒されるなあ、ホッとする。
「君達が国家指導者、軍の指導者、指揮官になれば必要とされる知識だ。仮になれなくてもその視点を持つ事は必要だと私は思う。上層部が何を考えてどういう方向に進もうとしているかを理解する。そうする事で今行われる戦いが如何いう意味を持つか、自分の行動が如何いう意味を持つかも理解出来る筈だ。そうでなければ君達は単なる戦争の道具になってしまう、使い捨てのね。私は君達にそうなって欲しくない」

胸がジーンとした。閣下は本当に僕達の事を考えてくれるんだ。ハルトマン、エッティンガーも頬が紅潮している。二人も僕と同じ気持ちに違いない。ハルトマンが一歩閣下に近付いた。
「閣下、自分は授業で五割増しの敵と戦うシミュレーションを行いました。そして負けました。実戦なら五十万人が戦死しています。僕は、いえ自分は臆病と言われるのが怖くて撤退出来なかったんです。自分は、自分は軍人に向いていないんでしょうか?」

ハルトマン……、俯いている。時々落ち込んでいたけどずっと悩んでいたのかな。エッティンガーも心配そうにハルトマンを見ている。さっきまで笑顔だったフィッツシモンズ少佐も笑みを消している。閣下はじっとハルトマンを見ていたけどフッと息を吐いた。
「シミュレーションは勝つ必要は無いんだ。負けても良いんだよ」
「でも」
「大事なのは状況を想定する事、その中で最善を尽くす事だ」

状況を想定? 最善? どういう事だろう、ハルトマンも顔を上げ訝しんでいる。閣下は僕達が納得していないと気付いたようだ、苦笑を浮かべている。
「例えばだが同じ兵力差でも退いて良い場合と戦わなければならない場合が有る。哨戒任務中の遭遇なら退いても構わない。しかし補給船団の護衛任務中で物資が届かなければ味方が大敗北を喫するとなれば物資を守るために不利を承知で戦わなければならない。例え自分の艦隊が敗北しても補給物資を守りそれによって味方が勝利を収められるならそれは意味の有る敗北だ。そうじゃないかな?」

ハルトマンが“はい”と答えると閣下が頷いた。
「状況を想定する事、その中で自分に何が求められているか、自分に何が出来るかをシミュレーションで確認する。それがシミュレーションの持つ意味だ。勝つ事ではないんだよ、ハルトマン候補生。シミュレーションの勝敗に拘らないと言っているのはその状況を想定して最善の行動が何なのかを確認しなさいという事なんだ」
「はい!」
ハルトマンが力強く頷いた。僕もエッティンガーも頷いた。校長閣下が僕達を見て優しく笑みを浮かべてくれた。



帝国暦487年 8月 15日 オーディン 士官学校   ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ



ヴァレンシュタイン中将は楽しそうに候補生達と話している。そして候補生達は中将を尊敬の眼差しで見ていた。溜息が出そう、外面だけは良いんだから……。あの卒業式以来ヴァレンシュタイン中将は近年稀に見る名校長って言われているらしいけど少年達、騙されちゃ駄目よ。目の前の中将閣下はとんでもない人なんだから。

今日もエーレンベルク軍務尚書閣下から中将にTV電話が有った。偶々私が出たんだけど唸る様な声で“ヴァレンシュタインは何処だ”って睨まれたわ。直ぐに中将に代わって席を外したから話の内容は知らないけど想像は付く。多分また碌でもないレポートを出したんだと思う。中将がアレを出す度に何かが起きる。まあ捕虜交換の件では助けて貰っているから感謝はしているけど……。

「閣下は逃げ、あ、撤退した事は有るのですか?」
「馬鹿、そんな事有るわけないだろ」
「そんな事は無い、逃げた事は有るよ」
候補生達が“えーっ”と声を上げる。私が副官になってからは無いからその前だろう。ニコニコしているから余り大した事は無いのだと思う。

「本当ですか?」
「本当だよ。ヴァンフリート4=2ではもう少しで負けそうになって逃げた。もっとも上層部は逃げたとは思わなかっただろうけどね」
ヴァンフリート4=2? 帝国軍の大勝利だった。それに中将が居た艦隊は最大の武勲を上げた艦隊の筈だけど……。訝しんでいると中将が私を見て“本当ですよ”と言った。

「地上基地を攻略中に反乱軍の艦隊が近付いてきたんです。来るのは想定していましたが予想よりも早かったので慌てました。まあ相手を騙して逃げましたが内心ヒヤヒヤでしたよ」
中将が肩を竦めると候補生達が感心したような声を出した。私もちょっと驚いた。そんな事が有ったんだ。

「退く事を懼れてはいけないよ。必要が有れば躊躇わずに退く。そのためにも逃げる方法を覚えておくんだ。命は一つしかないし大事に使えば長持ちするんだからね。粗末に扱ってはいけないよ」
「はい!」
候補生達が大きな声で答えるとヴァレンシュタイン中将が嬉しそうに頷いた。そして候補生達は頬を紅潮させている。なんか一番校長にしてはいけない人が校長になっている様な気がした。……多分、気のせいよね。



 

 

ささやかな願い ~ ユスティーナ ~

帝国暦 489年 3月 17日  オーディン    ユスティーナ・ヴァレンシュタイン



夫が窓を開け外を見ている。三月とはいえフロイデンは未だ寒い。オーディンに比べれば二カ月は前に戻ったような気候だ。外からは早朝の冷たい空気が山荘に入って来た。夫も私もセーターを着ている、とはいえ外気は思ったよりも冷たかった。夫は決して頑健ではない、風邪を引いてはいけない。

「寒くありませんの?」
「うん、少し寒いかな」
夫の吐く息が白く凍った。でも夫は窓を閉めなかった。開け放った窓から外を見続けている。
「風邪をひきますわ」
「そうだね」
夫は窓を閉めようとしない。傍によって私が窓を閉めた。しかし夫は外を見るのを止めようとしなかった。

心ここに在らず、そんな表情で外を見ている。何を考えているのだろう? 仕事の事だろうか? 新婚旅行の二日目、残してきた仕事の事が気になるのかもしれない。やはりオーディンに戻った方が良いのだろうか? でもそれを言えば夫はそんな必要は無いと言うだろう。どうすればいいのか……。

「お仕事が気になりますの?」
思い切って問い掛けると夫はちょっと驚いたような表情を浮かべた。
「何故そんな事を?」
「先程から外を見ていますから……、オーディンの事が気になるのかと思って……」

夫が首を横に振って
「気にならないと言えば嘘になるだろうね、でも私が居なくてもオーディンは大丈夫だよ」
と言った。本当だろうか。私が信じていないと思ったのだろう。夫が柔らかい笑みを浮かべた。穏やかな夫に良く似合う笑み、いつもは好きだけど今は不安になる。

「雪を見ていた」
「……雪を?」
夫が頷いた。また外を、多分雪を見ている。雪が朝日を受けて白銀に輝いていた。眩い程の美しさだ。
「ここの雪は綺麗だ、純白で穢れが無い。清冽で汚れる事を拒んでいるようにも見える。……そう思っていたらローエングラム伯を思い出した。彼に良く似ている」

ローエングラム伯……。思いがけない言葉だった。
「忙しさにかまけて忘れていたが三月十五日はローエングラム伯の誕生日だった。生きていれば二十二歳か……」
「……」
三月十五日はローエングラム伯の誕生日だった。その日は私達の結婚記念日でもある……。

「因縁だな。私と彼は何処までも繋がっているらしい」
自嘲では無かった、嫌悪でもない、面白がってもいなかった。ただ淡々としていた。そして雪を見ている。雪を見ながら夫はローエングラム伯の事を考えているようだ。もしかすると偲んでいるのだろうか。

ローエングラム伯ラインハルト。美しい容姿をした男性だった。遠目になら女性にも見えただろう。しかし彼の持つ硬質な雰囲気と鋭い眼は紛れも無く男性の物だった。初めて彼を見た時は彼の持つ覇気に圧倒される様な想いを抱いた事を覚えている。穏やかな雰囲気を身に纏っていた夫とはまるで違っていた。夫が鞘に収まった短剣なら彼は抜身の短剣のように見えた。

一度は養父が後継者に選んだ人物だったが敗戦により宇宙艦隊副司令長官に降格した。そして昨年の内乱で反逆罪に問われ死んだ。ローエングラム伯自身は反逆には直接は関わっていなかったらしい。彼の周囲が彼を皇帝にしようと企てたのだという。彼の姉、グリューネワルト伯爵夫人もその陰謀に加担していた。皇帝を暗殺するために毒薬を所持していた……。

その陰謀の所為で夫はもう少しで命を落とすところだった。ローエングラム伯を皇帝にするには夫の存在が邪魔だとローエングラム伯の周囲は判断したようだ。実際陰謀を暴いたのは夫とリヒテンラーデ侯だった。彼らの判断は正しかったのだろう。

「伺っても宜しいですか?」
「何かな」
「以前から気になっていたのです。貴方はローエングラム伯を憎んではいませんの? 恨んではいませんの?」
夫が私を見た。困惑をしている。やはり夫にとっては予想外の質問だったらしい。

二人の関係が微妙だった事は私も聞いている。ローエングラム伯の所為で夫は殺されかかったが最終的には夫がローエングラム伯を死に追いやった。巷で言われる様な権力闘争というよりも生死を賭けた戦いをしていたのだと思う。でもローエングラム伯が死んだ時、夫は酷く落ち込んでいた。養父が慰めていたのを覚えている。

「憎んではいなかったと思う。恨んではいたけれどね」
「……」
「どうして自分に協力してくれないのか、どうして自分の配下で満足してくれないのかと恨んだよ。そして何時か伯を排除しなければならない日が来ると恐れた。そんな日が来ない事を願っていた……」
夫はまた外を見た。

「馬鹿げているな、伯が私の配下で満足するなどそんな事は有り得ないのに」
「……」
首を横に振っている。口調には自嘲するかのような響きが有った。
「彼は覇者なんだ。覇者は一人、そして並び立つ者を許さない。だからこそ覇者なのに……。協力などするわけがないのに……」
覇者、確かにそうだった。そう思わせる覇気が有った。
「……伯を好きでしたの?」
夫が私を見た。哀しそうな目だった。

「そうかもしれない。いやそうだったのだと思う。彼の持つ傲慢さや稚気、純粋さや不器用な優しさ、そして溢れんばかりの覇気、子供っぽさ……、そのどれもが好きだったのだと思う」
「……」
「憧れていたのかもしれない、私には無いものだからね」
また外を見た。

「いや、それだけじゃないな」
夫が私を見た。昏い笑みが有った。初めて夫が見せる笑み……。
「憎んでいたのかもしれない。彼の無神経さ、鈍感さ、一人よがりなところを。……君の言う通りだ、私は何処かで彼を憎んでいた。あの雪を穢したいと思っていたんだと思う」
夫がまた首を横に振った。目を逸らし続けてきた事をついに見てしまった、そう思ったのかもしれない。夫の口調には力が無かった、自分を責めている。夫はローエングラム伯への罪の意識に囚われている、そう思った。

「一度は彼と共に帝国を変えたいと思ったのにね。場合によっては共に反逆者になることも覚悟していたのに」
「貴方……」
夫は哀しそうな表情で笑みを浮かべていた。本当にそんな事を? そう思わせる笑みだ。でも夫は“本当だよ、私はローエングラム伯同様危険な考えを持っていたんだ”と言った。

「だが或る時から私達の間に亀裂が入った。それは修復不可能なまでに広がり私達は別々の道を歩むことになった」
「……」
「まだ中将の頃だったが彼を排除しようと考えた事も有る」
「……でもそうなりませんでしたわ、本当ですの?」
夫が軽く苦笑を漏らした。

「義父上の病気を知ってしまった。そして義父上にローエングラム伯を援けてくれと言われたからね。私にはそれを断る事は出来なかった」
「貴方……」
養父の病気を夫に知らせたのは私だった。夫以外に頼れる人が居なかった。でも夫にとっては不本意な事態をもたらした事だったのかもしれない。私を恨めしく思った事も有ったのではないだろうか。

「あの頃が一番辛かった。自分の進む道が全く見えなかった。だからかな、あんな事をしたのは。あれは一種の逃避だったのだと思う」
何の事だろう、もしかすると指揮権強奪の一件だろうか。聞きたかったが聞けなかった。それが事実なら私が引き起こした事だ、訪ねるのは無神経に過ぎると思った。

「あのイゼルローン要塞陥落で全てが変わった。私とローエングラム伯の立場は逆転し伯は宇宙艦隊副司令長官として私の部下になった。自由惑星同盟軍に勝つために私がそれを望んだ。そうでなければ伯は軍を追放されるか閑職に回されていただろう。……だが後の事を考えればその方が良かったかもしれない」
最後は哀しそうな、消えそうな口調だった。慙愧、悔恨……、伯を殺さずに済んだ、夫はそう思っている。

「私が彼を追い詰めた。気付かないうちに追い詰めていた。副司令長官として遇しつつもそれ以上は許さなかった。そして私は内政改革を始め新たな帝国を創り始めた。自らが銀河帝国皇帝になる事を望んだ伯にとっては拷問の様な扱いだったのかもしれない」
「……」

「ジークフリード・キルヒアイスは私を憎んでいた。彼が私にブラスターを向けるとは思わなかった。それだけ私はローエングラム伯を弄っていたのだろう。そんなつもりは無かったけど……」
ジークフリード・キルヒアイス? 私の疑問を感じ取ったのだろう、ローエングラム伯の副官で幼馴染だと夫が教えてくれた。

「覇者ラインハルト・フォン・ローエングラム。人類史上最大の征服者、神聖不可侵なる銀河帝国皇帝、獅子帝ラインハルト。……見たかったな、覇者となった彼を見たかった……。そして共に歩みたかった」
詠嘆するような口調だった。切なさが私にも伝わってくる。
「……もう一度人生をやり直せたら、そう思っていらっしゃいますの?」

夫がほんの少し私を見つめ首を横に振った。
「そんな事は思っていないよ。もしやり直しても私は何処かでローエングラム伯に付いていけなくなったと思う。彼の流す血の量に耐えられなくなった筈だ。私には彼のように戦いを楽しむ事は出来ない。流れる血の量に無関心ではいられない」
「……」

「多分彼の元を離れたか、或いは耐え切れずに反逆を起こしたか。一番可能性が高いのは彼の側近によって反逆者に仕立て上げられ殺される事だろう」
不思議だった。夫はまるで実際にそれが起きた事であるかのように話をしていた。そういう夢でも見たのだろうか。

「何故分かりますの?」
私が問い掛けると夫は私を見て“分かるよ”と言った。笑みを浮かべている、悲しそうな笑み……。
「彼は英雄で私は凡人だから」
凡人? 夫が? 夫が私を見ておかしそうに笑い声を上げた。多分私は間抜けな顔をしていたのだろう。

「酷いですわ、私をからかったの?」
夫は猶も笑いながら“違うよ”と言った。
「本当の事だ。彼は英雄で大勢の人間が死ぬ事、苦しむ事を平然と受け入れる事が出来た。私には無理だ、そんな事は出来ない」
夫はもう笑っていない。

「非難しているんじゃない。そういう種類の人間が必要とされる時も有る。世の中が混乱し不満が満ち溢れている時、そういう人間が現れ多くの犠牲を払って世の中を変える。普通の人間なら何処かで怯み挫折してしまうだろう。それを躊躇う事無く出来る、英雄と言われるわけだ」
皮肉かと思ったが違った。夫はまた雪を見ている。確かに夫は英雄ではないのかもしれない。夫には人の死を平然とは受け入れられない。例えそれが反乱軍の兵士の死だとしても。シャンタウ星域の会戦の後、夫は苦しみながらも前に進むと言っていた。

「孤独だったと思う」
「ローエングラム伯ですか?」
“うん”と夫が頷いた。
「誰も彼を理解する事が出来なかったと思う。いや、理解は出来ても共感は出来なかった。それが出来た唯一の存在がジークフリード・キルヒアイスだった」
「……」
私に話していると認識しているだろうか? 何処か一人語りをしているように感じた。

「皆遠くから見ているだけだ、まるで峻厳で人が立ち入る事を拒む山を仰ぎ見るようにね。もっとも伯は自分が孤独だという事を分からなかったかもしれない。多くの人間が平凡である事を理解する事も受け入れる事も出来ない人だった。彼が好み受け入れたのは非凡な人間だ」
また夫とは違うと思った。聞けば聞くほど違いを感じる。陛下が夫の事を非凡だが平凡でありたいと願っていると言っていた。夫が自らを凡人というのはその所為だろうか? 孤独になるのを恐れているのだろうか?

「貴方は孤独では有りませんの?」
夫が驚いたように私を見た。そんなに思いがけない質問だったのだろうか。重圧に苦しんでいるのではないのだろうか。
「……孤独ではないと思う」
ゆっくりとした、しっかりとした口調だった。嘘は吐いていない。

「仕事を重い、苦しいと思う時が無いとは言わない。だが私は一人じゃない。相談出来る人もいれば協力してくれる人もいる」
夫が不意にクスクスと笑い出した。
「食えない人もいるけどね」
「食えない人? どなたですの?」
夫が悪戯っぽい笑みを浮かべている。少しは気分が上向いたのだろうか。

「陛下とリヒテンラーデ侯かな、他にも居るけどあの御二人は酷い」
「まあ」
私が驚くと夫は声を上げて笑った。
「特に陛下は酷い、三十年以上凡庸な振りをしていたのだからね。皆を騙してきた」
「そんな事を仰って、不敬罪になりますわ」
夫は私を抱き寄せると“君が言わなければ大丈夫だ”と耳元で囁いた。頬が熱い、夫だって相当に人が悪いと思った。陛下やリヒテンラーデ侯の事を言えないだろう。

“非凡だが平凡でありたいと願っている”。……夫にはずっとそのままでいて欲しいと思う。夫が平凡でありたいと願っている限り、私は夫の傍に居る事が出来ると思う。夫が自ら非凡である事を、英雄である事を望めばそれはもう私の知っている夫ではない。そうなった時夫の傍に私の居場所は無い。いつか夫は英雄である事を望むのだろうか? そんな日が来るのだろうか? 夫の傍に居たいと思うのは大それた望みなのだろうか?

「大丈夫だよ、ユスティーナ。私は孤独じゃない」
夫が気遣うように話しかけてきた。私が夫の事を心配していると誤解したようだ。夫が私を見て頷いた。
「本当だよ。私生活でも君や義父上がいる。私は孤独じゃない。その事に感謝している」
そう言うとまた夫は窓の外を見た。先程までの外を見ていた表情とは違う、穏やかな表情をしている。大丈夫、夫は変わらない。何故かそう思えた。