すれ違い
第一章
第一章
すれ違い
その壮麗という言葉すらおこがましい白く巨大な宮殿を思わせる外観こそがこの建物の特徴であった。市民達の誇りの一つと言ってもいい。
白く幾重にも重なったかの様な建物の前はアーチ状に彩られてそれが横に連なっている門がある。ギリシアの宮殿とロココの様式を重ね合わせたかの如きその門の前に今一人の男がいた。
ぴんと張った口髭を生やしている。背は一七〇を超えている。やけに鋭い光を放つ青い目に黒い髪をしている。髭がなければ随分と険しい顔だ。質素な服を着てキャンバスの前に座っている。
そうしてそこで絵を描いているのだった。見ればその絵はその宮殿の如き建物のものだ。それを描きながらどうにも難しい顔をしているのだった。
その彼のところに誰か来た。そうして声をかけるのだった。
「なあヒトラー」
「何だい?」
ヒトラーと呼ばれた彼はその声の主の若い男に顔を向けた。それと共にその異様に鋭い眼光もだ。
「調子はどうだい?」
「調子はいいよ」
彼はその若い男の言葉に静かに応えた。静かだったが憮然としていた。
「それはね」
「それはって随分と引っ掛かる物言いだね」
「まあね。面白くないからね」
人々が行き交うその前に座ったまま述べるヒトラーだった。彼は描き続けているがその表情は浮かないままであった。
「どうもね」
「大好きな絵を描いているのにかい」
「そうさ、オスカー」
彼をこう呼んだのだった。
「どうにもね。僕は今かなり不機嫌なんだ」
「どうしてなんだい?君が気難しいのは知っているけれど」
「美大にも落ちたし」
ヒトラーは苦虫を噛み潰した顔でこのことを言った。
「それに」
「それに?」
「何だ、この街は」
このウィーンに対する不満も口にするのだった。
「この街は何なんだ」
「何なんだって何処かおかしいのかい?ウィーンが」
「好きじゃない」
忌々しげな口調での言葉だった。
「ドイツ的なものがないじゃないか」
「ドイツじゃないって。当たり前じゃないか」
それを言われたオスカーは目をしばたかせて素っ頓狂なものになった顔で彼に返した。
「ここはオーストリアだよ」
「そう、オーストリアだ」
「わかってるじゃないか。ドイツじゃないんだよ」
「けれどゲルマンだ」
彼は今度は民族を話に出した。
「そうだろう?オーストリアもゲルマンじゃないか」
「それはその通りだけれどね」
「同じゲルマンの筈なのに何でこんなに違うんだ」
「ややこしいことを言うね。ドイツはドイツ、オーストリアはオーストリアじゃないか」
オスカーはヒトラーの横に来てまた言った。
「あのドイツ皇帝がオーストリアを外したからじゃないか。だからドイツ帝国があるんじゃないか」
「ドイツはいい」
ヒトラーの言葉がふと何かしら母親を語る様なものになった。
「ドイツは美しい。それに母なる国だ」
「母だっていうのかい」
「そうさ、母だよ」
ドイツに対する言葉は何処までも温かいものだった。彼の今の言葉には一方的ではないかとさえ思える愛情がそこには確かに存在していた。
そしてその言葉でさらに語るのだった。
「僕にとってはね」
「君はオーストリア生まれなのにかい」
「オーストリアを愛したことなんて一度もない」
言葉は一転して忌々しげなものに戻った。筆の動きもそれに合わせてか微妙に荒いものになった。絵を見るその顔も同じである。
「一度もね」
「それでドイツなのかい」
「そうさ、ドイツさ」
そしてドイツに対しては温かいのだった。
「ドイツこそ僕の国なんだ」
「おかしなことを言うね。相変わらず」
オスカーは言った。それはいつものことだと。
「そこまでドイツが好きだなんて」
「好きじゃないさ、愛しているんだよ」
彼のその言葉を訂正させるヒトラーだった。
第二章
第二章
「ドイツをね」
「愛しているね」
「芸術はドイツにあるんだ」
彼は言った。
「君も知っているだろう?ワーグナーを」
「ああ、勿論ね」
「あのローエングリン」
そのワーグナーの作品の一つである。白銀の騎士が姫の苦境を救う、そうしたロマンシズムに満ちた作品である。彼は今度はそれを話に出してきたのだ。
「あれこそが芸術なんだよ」
「ローエングリンかい、また」
「そうさ。僕はあれを十一歳で観た」
まさに子供の頃である。
「あの時程感動したことはないよ」
「そして今もかい」
「あれこそが芸術なんだ」
まさにそうだというのだった。
「ドイツなんだよ」
「ドイツなんだね、ワーグナーが」
「そうさ。ドイツ的なものがなんだ」
「ニュルンベルグのマイスタージンガーかな、今度は」
オスカーが今度言ったのもワーグナーの作品である。これはワーグナー自身を投影したと言われるドイツの詩人ハンス=ザックスが主人公である。なおこのハンス=ザックスという人物は実在人物である。
「ドイツ的なものというと」
「オーストリアにはそれがない」
苦い声での断言だった。
「何一つとしてね」
「そこまで言うのかい」
「言うさ、何度でもね」
そして彼は実際に言っていた。筆はドイツを語ると穏やかになりオーストリアを語ると荒くなっている。彼の感情がそのまま出ていた。
「ゲルマン的なものはここには何一つとしてないんだ」
「ではここにあるのは何だい?」
「堕落さ」
またしても忌々しげな言葉だった。それで言い切ったのである。
「このオーストリアにあるのはね」
「じゃあ今描いている帝国歌劇場は何だっていうんだい?」
「まさにその象徴だね」
こう言い捨てたのだった。
「それ以外の何者でもないよ」
「そうか。堕落か」
「堕落だよ。ドイツは堕落しない」
何度もドイツへの想いを口にする彼だった。
「まあいいさ。今日はこれで終わるよ」
「もう描かないのかい」
「気が乗らなくなった。何処かに行こう」
「そうかい。じゃあ何処に行くんだい?」
「チョコレートでも飲みに行かないか?」
ヒトラーはこう提案したのだった。
「それでもね」
「チョコレートか。相変わらず好きだね」
オスカーは彼の今の言葉を聞いて思わず述べた。
「お酒も煙草もやらないのにチョコレートは好きだね」
「そうさ。あれが一番いい」
いいとさえ言うのだった。
「甘くて苦くてね」
「わかったよ。じゃあそれを飲みに行こう」
「今からね」
こんな話をしてから絵をなおしてその場を後にするヒトラーとオスカーだった。そしてこの頃街のある場所では一人の男が喫茶店で色々と話をしていた。
如何にもウィーンといった内装だった。装飾もある洒落た白いテーブルとソファーにはあちこちにアラベスク模様を思わせる穴が開けられている。そして天井にはシャングリラまである。店員の服もメイドを思わせるもので中にいるだけで高級な気分にさせる。そんな店だった。
その店の中に今みすぼらしいコートを着た小柄な男がいた。顔にはあばたがあり濃い口髭を生やしている。その目は鋭く黒い髪を後ろに撫で付けている。そんな男だった。
その彼が同じくみすぼらしい身なりの男と色々話をしている。それは。
「そうか、いよいよか」
「ペテルブルグはきな臭くなっている」
そのみすぼらしい身なりの男が口髭の男に話をしていた。
第三章
第三章
「遂にな」
「戦争は近いか」
「何かあればすぐに起こる」
彼は言った。
「いいか、同志スターリン」
「うむ、同志アターナフ」
ここでお互いの名前を言い合うのだった。
「そろそろ君もこの街を去る時かも知れない」
「そしてペテルブルグでか」
「この街でやるべきことはもう終わったのではないのか?」
「そうだな」
そのスターリンと呼ばれた男はアターナフの言葉に頷いた。
「資金調達も上手くいったしな」
「それについて同志の右に出る男はいないな」
「そうしたことなら任せてくれ」
スターリンはこう言ってにやりと笑ってみせたのだった。まるでそれこそが自分の専門分野だと言わんばかりの笑みであった。
「馬車を狙うのにはコツがあるからな」
「コツがか」
「そうさ。もっともそれを覚えるのは楽じゃない」
言いながらココアを飲む。それを飲みながら言うのであった。
「少しやり方があるんだよ」
「そうなのか」
「そうさ。ところで」
ここで話を変えてきたスターリンだった。
「この店はどれも美味いな。ロシアにいた頃はこんな美味いものを味わったことがなかった」
「そうだな。そういえば君の生まれは」
「ああ、グルジアだ」
そこだというのである。
「このウィーンとは比べ物にならない。貧しい場所さ」
「そうだったな。あそこは特に」
「それが今ではウィーンでこんな美味いものを飲んでいる。人はわからないものだ」
スターリンの言葉はしみじみとしたものになった。
「そして神学校を中退して今は革命家か、私も」
「そうさ、我々は革命家だ」
アターナフもこのことは誇っていた。
「その我々がロシアを革命の聖地とするのだ」
「そうだな。そして世界を共産主義で覆い尽くす」
スターリンも彼に応えた。そうして不敵に笑ってこうも言ったのだった。
「そして私は」
「君は?」
「いや、何でもない」
ここでは己の言葉を引っ込めたのだった。
「何でもない。それでだ」
「行くか」
アターナフは彼に店を出ることを勧めた。
「ウィーンに集まっている同志達との会合の時間だ」
「そうだな。行くとしよう」
その言葉に頷くスターリンだった。そうして彼等は店を出る。そのままウィーンの街を歩くのだった。
ヒトラーとオスカーも同じだった。彼等は今そのチョコレートが美味い店に向かっていた。青いドナウ川が流れるこの街は四角く窓が並列して設けられている白や赤の建物、それに神々の像や金の装飾があちこちにある。しかしヒトラーはその全てにいいものを感じていなかった。その不機嫌で気難しい顔で見ながら言うのであった。
「ベルリンに行きたいものだ」
「ベルリンにかい」
「そしてバイロイトに」
ワーグナーの作品が上演される場所である。彼はそこも口にするのだった。
「行きたいものだ」
「バイロイトにかい」
「ああ、あそこに毎年行ければそれで幸せだ」
それだけでいいというのだった。
「僕は別にお金には興味はないしね」
「そういえば君は無欲だね」
オスカーは彼のその特性を知っていた。
「本は好きだけれど」
「別に必要ないじゃないか。そんなものは心の前には何の意味もない」
こう言うのである。
「芸術の前にはそんなものは何の意味もないさ」
「だからかい」
「そうさ。それでだけれど」
友人に顔を向けてさらに話すヒトラーだった。ウィーンのその石畳の上を歩きながら。
「そろそろその店だったね」
「ああ、そうだね」
「さて、楽しみだね」
チョコレートを前に微笑む彼だった。
第四章
第四章
「ウィーンは嫌いだけれどチョコレートはいい」
「それはいいんだな」
「いいさ。じゃあ急ごう」
足を速めさえするのだった。そしてその頃スターリンもまた。
「この街にまた我々が来ることはあるかな」
「さてな」
アターニフはこうスターリンに返していた。
「それはわからない。だが」
「だが?」
「そうなるように努力しよう」
こう彼に言うのだった。その石畳の上を歩きながら。
「ここも解放してな」
「そうだな。それを目指すか」
スターリンはこう言って同志の言葉に頷いたのだった。
「我々がな」
「この街はブルジョワ階級の巣窟だ」
アターニフは忌々しげに言い捨てた。
「まさにその象徴だ」
「そしてそのブルジョワ階級を打倒し」
「我等ポルシェビキの世界を作り上げるのだ」
周りに警官達がいないのを見てからの言葉だった。共産主義者はウィーンにおいても危険分子もみなされていたからである。
「それを目指すとしよう」
「うむ」
「その場所はまずロシアになるか」
ここでアターニフはあることをわざと忘れていた。
それはマルクスの言葉だ。彼は共産主義は高度に発達した資本主義から発すると説いていたのだ。だがロシアはそこまで至っていない。それを都合よく忘れていたのである。
「ではその為にだ」
「ロシアに戻るとしよう」
スターリンもその言葉に頷いた。そのうえでさらに前に進む。そうしてだった。
一人の男とすれ違った。彼と同じ口髭を生やした若い男にだ。その男は彼よりも十センチは高く青い目をしている男であった。画家の道具を持っている。
そしてヒトラーもだ。口髭を生やしたみすぼらしい服の男にである。彼とすれ違ったのだ。
「んっ!?」
「おや!?」
ヒトラーとスターリンはお互いを振り返った。しかしその時にはもうすれ違った後だった。お互いの背中を見ただけに終わってしまったのだった。
オスカーはその彼を見てだ。問うたのであった。
「どうしたんだい?」
「いや、さっきの男は」
その男のことを思い出しながらの言葉だ。
「何かまた会う気がするな」
「また会う?」
「アジア系か」
そのこともすぐにわかった彼だった。
「あの男は」
「そりゃウィーンだ。アジア人もいるだろう」
こうヒトラーに返すオスカーだった。
「色々な人間が集まる街だからな」
「そうじゃない。何ていうか」
「何だい?」
「僕とあの男は将来何かある」
ヒトラーは真剣に考える顔で言うのだった。
「きっとな。やがて何かある気がする」
「何かかい」
「その何かはわからないけれど」
このことについては首を捻る彼だった。
「何かな、一体」
「それはわからないのかい」
「ちょっとね。けれど何かがあるね」
それは勘で感じ取っていたのであった。
「これからね」
こう言うのだった。そしてそのまま喫茶店に向かった。
スターリンもだった。彼の背中が消えていくのを目で見てからだ。言うのだった。
「あの画家は」
「どうしたんだい?同志」
「いや、何かあるな」
鋭い目での言葉だった。
「いづれは」
「いづれはかい」
「あの男と私は同じなのかも知れない」
こんなことも言うのだった。
「同じだから将来何かがある」
「同じっていうと共産主義者かい?」
アターニフはそれかと思ったのだった。
「それなのかい?ひょっとして」
「いや、この街にいる同志達は全員知っている」
スターリンの記憶は確かだった。それこそ相当なものである。ありとあらゆることも細部まで何時までも覚えている程であるのだ。
「しかしああした人間はいないな」
「じゃあ誰なのだ?」
「それはわからない」
そこまではスターリンにもわからなかった。
「だが」
「だが?」
「あの男と私は同じだ」
また言うスターリンだった。
「やがて何かが起こる」
「そうなのか」
「さて、同志よ」
アターニフへの言葉だった。
「行くとしよう」
「そうだな。同志達が待っている」
「革命の為に」
こう言って街中に消えるスターリンだった。
これは公にはされていないがヒトラーとスターリンは同時期にウィーンにいた。若しかすると両者はすれ違っていたのかも知れない。二人の独裁者が互いの顔をお互いが知らないうちに見ていたのかも知れない、これもまた歴史の神の悪戯であろうか。
すれ違い 完
2009・11・29