剣闘士


 

1部分:第一章


第一章

                        剣闘士
 今日もコロシアムで歓声が響き渡っていた。
「そうだ、やれ!」
「そこで突くんだ!」
「いいぞ!」
 観客席から次々に声がかけられる。中央の闘技場では今大柄で白い肌を持つ男が猛獣と対峙していた。
 金髪碧眼であり彫の深い顔をしている。そのことから彼がゲルマン人であることがわかる。
 彼の名前はバーナムという。ローマで剣闘士をしている。今は斧を手に熊を相手にしていた。
 その彼にローマの市民達が声援を送っている。簡素な鎧を身に包んだ彼に注目している。
「いいぞ、バーナム!」
「いつもみたいにやれ!」
「熊を倒すんだ!」
 皇帝も列席し戦いを見守っている。その中で熊は四足になり唸っていた。
「グルルルルルルル・・・・・・」
 目を怒らせ餓えた声をあげている。凶暴にさせる為にあえて餓えさせているのだ。
 その熊が彼に襲い掛かって来た。だが彼はまだ動かない。
「!?大丈夫か?」
「やられる!?」
 しかしそうはならなかった。彼は斧を上から下に一閃させた。それで突進して来た熊の額に斧を深く打ち込んでみせたのである。
「悪く思うなよ」
 熊から身体をかわして呟くバーナムだった。
「さもないと俺がやられるからな」
「やった!今日もやったぞ!」
「バーナム、見事だ!」
「やっぱり御前は最高の剣闘士だ!」
 市民達はこう言って彼を褒め称える。彼はその歓声に手を掲げて応える。しかしその表情はない。まるで鉛の様な表情である。
 そして静かに控え室に戻る。その彼を仲間達が出迎える。
「御苦労さん」
「今日も一撃で終わらせたみたいだな」
「そうだ」
 その仲間達に静かに応える。石の部屋の中に入りながらの言葉だった。
 控え室はコロシアムの地下にある。灯りに照らされたその中に座った。そのうえで静かに鎧を脱ぎようやくくつろいだ顔になるのだった。
「今日も終わった」
「熊どうだったい?」
「やっぱり怖かったかい?」
「いや」
 今の仲間達の問いには首を横に振るのだった。
「特にな」
「そうか、それもいつも通りだな」
「やっぱりあんたには熊も適わないか」
「流石今一番の剣闘士だな」
 口々にこう言って彼を褒め称える。しかし彼の顔はそのままだった。
「今は、か」
「んっ、どうしたんだい?」
「また急に」
「そう言われた剣闘士は多いさ」
 彼はその岩を思わせる顔で言うのだった。
「けれどな。そいつはすぐに死んでいったな」
「まあそうだよな」
「それはな」
 仲間達は彼の今の言葉にありのまま応えた。
「だってな。それが俺達だからな」
「剣闘士だからな。どうしてもな」
「俺はなりたくてなった」
 彼はまた言った。
 ローマでは剣闘士は人気の職業だったのだ。市民達の歓声を一身に浴び栄誉もかなりのものだ。だから人気の職業であったのだ。
 だから彼もなった。ゲルマン人の奴隷だったが剣闘士になりそこから今に至る。しかし彼はその今に何か虚無的なものを感じていたのである。
「しかしな」
「しかしって」
「またどうしたんだよ」
「戦い歓声を受けて何時か死ぬ」
 こう言うのであった。
「それがいいのかどうか」
「いいのかって」
「それが俺達じゃないか」
「なあ」
 既にそれを受け入れているので平然としている彼等だった。
 

 

2部分:第二章


第二章

「絶対に死ぬんだしな」
「だったら今を楽しむのがな」
「そうだよな」
「そうだな」
 バーナムも一旦はそれに頷いた。
「それが俺達だな」
「そうだよ。今更何を言ってるんだよ」
「急にどうしたんだよ」
「いや、何でもない」
 今はこう返した彼だった。
「それでだ。これからだが」
「ああ、飲もうぜ」
「それでいいな」
「丁度近衛隊長から宴に呼ばれてるしな」
 皇帝の近衛隊長である。その地位はかなりのものである。
「楽しくやろうぜ」
「戦いの後にぱーーーーっとな」
「わかった。それじゃあ行くか」
「あんたも来るんだろ?」
「ああ」
 それは行くと応えるバーナムだった。
「そうさせてもらう」
「何か今日の宴は凄いらしいな」
「凄い御馳走が出るらしいな」
「酒だってな」
 剣闘士達は上機嫌で話を続けていく。
「だから行こうぜ」
「楽しみにな」
 そう言ってそれで行くのだった。そうして親衛隊長のその豪奢な屋敷に行くとすぐに宴の場に案内されてそこでクッションを与えられてその上に寝転がる。皆その前に置かれた御馳走を食べていく。周りにはギリシア風の柱が立ち並び白く奇麗な部屋の中で宴となった。
 御馳走は色々あった。鶯の舌を焼いたものやダチョウの脳味噌、それに孔雀の卵や駱駝の踵、それに鯉の内臓といったものが次々に出される。
 皆それを満面の笑顔で食べていく。しかしだっや・
「あれっ、バーナム」
「あんたは食べてるのか?」
「どうなんだ?」
「食べている」
 見れば食べてはいる。それもかなりだ。しかしそれでも彼の顔は喜んではいない。むしろかなり不機嫌そうな顔で食べているのであった。
 仲間達はそれを見てだ。また怪訝な顔で言うのだった。
「やっぱり何かあったのか?」
「だよな。全然面白そうじゃないしな」
「俺は奴隷だった」
 今言うことはこのことだった。
「奴隷だった」
「けれど今は違うじゃないか」
「そうだよな」
 そのことを言い合う彼等だった。
「報酬で金払ってそれで解放奴隷になったしな」
「今じゃチャンピオンじゃないか」
「ローマきっての剣闘士だろ」
 それを言うのだった。
「それで何を言ってるんだよ」
「文句ないじゃないか」
「そうだな」
 無愛想な顔で頷きはした。
「とりあえずはな」
「そうだよ。まあ何時死ぬかわからない世界だけれどな」
「それだけに楽しめばいいさ」
「そういうことだよ」
 他の剣闘士達は至って楽観的だった。
「今を楽しめばいいじゃないか」
「違うか?」
「だよな」
「そういうものか」
 それを聞いて静かに述べた彼だった。
「それは」
「そうそう」
「今は食おうぜ」
「それに飲んでな」
 仲間達は言いながらそれぞれ食べて飲んでいく。上等の葡萄酒はいい水で割られてそこに胡椒が入れられている。この時のローマで最高の飲み方だった。
 

 

3部分:第三章


第三章

「気持ちよくなればいいさ」
「後で風呂に入ろうか」
「風呂も用意してもらってるしな」
 これもローマの宴ではよくあることだった。
「そこですっきりもしてな」
「気持ちを切り替えていくか」
「しかしな」
 ここでまた言う彼だった。
「何だ」
「何だって?」
「どうしたんだよ、また」
「気持ちが晴れない」
 それだった。
「どうもな。それがどうしてかもわからない」
「ううん、こりゃ重症かな」
「みたいだな」
 仲間達は彼の今の言葉を聞いてまた言い合う。
「まあな。それでもな」
「明るく気持ちを切り替えていこうとすればいいからな」
「それでな」
 こう彼に話すのだった。
「後は女のところに行こう」
「いい店知ってるからな」
「そこにも繰り出そうや」
「女か」
 バーナムも女は嫌いではなかった。ローマきっての剣闘士とされるようになってからおンナにも全く不自由しなくなった。しかし今はそうではなかったのだ。
「女は今はいい」
「やれやれ、またか」
「全くだな」
 そんなやり取りをしながら彼の話を聞いていた。
 それが今の彼だった。そうした浮かない日々が続いた。戦いには勝ち報酬にも恵まれていた。だがそれでも彼の表情は浮かないままであった。
 この日はライオンを倒した。それでまた歓声を受けた。
「よし、ライオン殺し!」
「やったな!」
「見事だ!」
 コロシアムの観客達はまた彼を褒め称える。得意の獲物の斧で一撃を浴びせて倒したそのライオンを見下ろしながらだ。その言葉を受けていた。
 しかしその顔は晴れないままである。その顔で歓声を受けてそれで、であった。この日も彼は浮かない顔で控え室に戻る。そして沈黙のまま座り込むのだった。
 その彼に対して仲間達はまた言う。徐々に心配する顔になっていた。
「なあ、今の仕事に不満なのか?」
「まさかとは思うが」
「不満はない」
 その沈んだ顔で述べた彼だった。
「不満はだ。しかし」
「しかし?」
「どうしたんだ?」
「何かが違う」
 彼は言った。
「俺は確かに剣闘士になった」
「ああ、そうだよ」
「それはな」
「しかもチャンピオンになったじゃないか」
 仲間達はそれをいいじゃないかというのである。
「それで何が不満なんだよ」
「立派なものだよ」
「今まではそう思っていた」
 それを話す彼だった。
「今まではな。だが最近は」
「最近はって」
「じゃああれか?辞めるのかい?」
「だよな。何かそんな雰囲気だよな」
「ああ」
 ここで仲間達はさらに心配する顔になった。それで彼を見ながら話すのだった。
 その仲間達にだ。彼は話すのだった。
「辞めはしない」
「続けるんだな、剣闘士」
「そうするんだな」
「そうする。しかし」
 しかしであった。彼はその沈んだ顔で話すのだった。
「俺は剣闘士に何かを見ているかも知れない」
「何かって?」
「じゃあそれは何なんだ?」
「それもわからない」
 だがバーナムはこのことにはこう返すだけだった。
 

 

4部分:第四章


第四章

「それは」
「わからないって自分でもかい」
「何かな。それはな」
「わからない。しかし何かを見ている」
 このことをまた言った。
「何かをだ」
「戦って物凄い報酬と名声を手に入れる」
「下手したら死んでそれまで」
 仲間達はその剣闘士の生き様を話した。
「それでいいんじゃなくてか」
「まだあるのかい」
「あるかも知れない」
 彼はこう言うのだった。
「まだ何かが」
「何かって何だよ」
「一体」
「少なくとも戦いの中にある」
 それはおぼろげながら感じていることであった。
「それはな」
「何かよくわからないけれど戦いは続けてくれるんだな」
「剣闘士の仕事は」
 仲間達はそれを確かめずにはいられなかった。やはり仲間として意識しているからだ。それでこのことを再び確かめたのである。
「それならいいけれどな」
「それでな」
「ああ。明日も出る」
 彼は言った。
「そして戦う」
「あんた明日は鰐と戦うんだったかな」
「象だったか?」
 最近のコロシアムでは人間同士が戦うより野獣と戦う方が主になっている。彼も最近では野獣と戦う方が多くなっているのである。
「それとも豹だったか?」
「何だった?」
「確か若いのと組んで豹を相手にすることになっている」
 明日のことを思い出してから述べたバーナムだった。
「そうなる話だ」
「そうか。豹か」
「それも若いのと組んでか」
「まだ十六だったか」
 その若い剣闘士の年齢を思い出しながら仲間達に話した。
「確かな」
「十六!?じゃあ成り立てだよな」
「そうだな」
「そうだ。まだ正式に剣闘士になったばかりだ」
 まさにその通りだというのだった。
「やっとな」
「若いのか。じゃあ何かと教えてやらないとな」
「フォローとかしないとな」
「ああ、そうしないとな」
 頷きながらその剣闘士としての戦いのことを思うのだった。
 剣闘士は戦いの中に生きている。それはそのまま死と背中合わせということだ。彼はその生と死についても今ここで思うのだった。
「死ぬからな」
「俺達同士で戦うことはないにしてもな」
「それでも死なないに越したことはないからな」
 彼等の仲間はグループになっていてそのグループの中では戦うことにはなっていない。戦うのは別のグループということになっているのだ。
 しかしであった。それでも彼等は話をした。その若い剣闘士のことをだ。
「それでだよな」
「その若いのをできるだけ死なさない」
「その努力をしないとな」
「どうするかだな」
 彼は今度はこのことを考えていた。
「若いのはすぐに前に出る」
「考えずにな」
「自分のことも相手のことも」 
 そのこともよく知っているのだった。血気にはやって無謀な行動を取るということだ。
 バーナムはそのことを考えていた。そうして言うのだった。
「だからな。しっかりとしてな」
「フォローしていかないとな」
「そうだ。仲間が死ぬのは見たくない」
 何につけてもそう思うのだった。
 

 

5部分:第五章


第五章

「何があっても」
 そう思いはしたバーナムだった。彼は沈んだ中でそのことを思うのだった。彼の悩みは晴れず尽きない。その次の日彼はコロシアムの中にいた。
 すり鉢状のその中にだった。また観客達が集まっていた。
 上には青い空が見えている。それを上に置いて観客達の歓声が彼を包んでいた。
「バーナム、頑張れよ!」
「今日も頼むぞ!」
「猛獣殺し!」
 それが彼の仇名になっているのだった。
「そこの若いのも頑張れよ!」
「死ぬんじゃないぞ!」
 彼の横には彫りの深い顔の若者がいた。大柄で逞しい身体つきは如何にも剣闘士らしい。その彼がバーナムを一瞥して言ってきたのだった。
「あんたがバーナムさんだよな」
「そうだ」
 その己と同じ金髪碧眼の若者に対して答えた。
「俺がバーナムだ」
「俺はステンシウスっていうんだ」
 自分から名乗ってきた。名前はギリシア風であった。
「覚えておいてくれよ」
「ステンシウスか」
「あんたの次のチャンピオンさ」
 自信に満ちた笑みと共に出した言葉だった。
「それがこのステンシウス様さ」
「そうか」
「さあ、その新しいチャンピオンの最初の相手は」
 ここで前を見る。そこには門があった。今まさに相手が出されようとしている。
「豹だったな」
「強いぞ」
 バーナムは彼に静かに告げた。今彼は得意の獲物の斧を持ってはいなかった。右手に大きめの刀を持ち左手には楯ではなくネットを持っている。そして簡単な鎧を着けている。
 そのステンシウスは両手に巨大な斧を持っている。バーナムはその斧を見て告げた。
「豹相手にその斧はだ」
「何だっていうんだい?」
「危険だ」
 危ないというのである。
「あまりにもだ。危ない」
「危ないっていうのかよ」
「豹は素早い」
 この当たり前のことを話したのだった。
「獣の中で特にだ」
「けれど所詮は獣だろ」
 こう言って特に何とも思っていないのを見せるステンシウスだった。
「どうということはないさ」
「勝てるのだな」
「楽勝でな」
 こう余裕に満ちた笑みさえ見せて応えてきた。
「勝ってやるさ。俺の華々しいデビューにな」
「ではだ」
 それを聞いてまた述べたバーナムだった。
「生き残ることだ」
「生き残るっていうのかよ」
「豹は二匹だ」
 数も教えた。
「一匹ずつだ」
「それも頭に入れておけっていうのか?」
「そうだ。一匹は俺が倒す」
 このことをはっきりと言うのである。
「そしてもう一匹は御前だ」
「両方共倒してやるさ」
 それを聞いても勝気なのを変えない彼だった。
「まああんたはそこで見ているだけでいいさ」
「そうか」
 これ以上は言わない彼だった。やがて歓声と共に前の門が開かれる。そうしてそこから二匹の豹が出された。既に餓えた目をこちらに向けていた。
「さあ、出て来たぞ!」
「豹だ!」
「手強いからな!」
 二人を煽る様な歓声だった。
「注意して戦えよ!」
「生き残れよ!」
「死ぬなよ!」
「おいおい、俺が死ぬかよ」
 ステンシウスはここでも自信に満ちた笑みを浮かべるのだった。
 

 

6部分:第六章


第六章

「これから楽勝で勝つんだからな」
「では行くぞ」
 その彼に対してバーナムは顔を岩の様にさせたままだった。
「いいな」
「あんた意外と面白くない奴だな」
 彼のその無愛想な様子を見ての今度の言葉だった。
「岩石みたいっていうかそんなのだな」
「そうか」
「まあいいさ。とにかく俺はやるんだ」
「それではだ」
「来たぜ」
 早速だった。その豹達が来た。一直線に二人に向かって来る。
「俺は右のをやるからな」
「では俺は左だ」
 この決定はほぼ瞬時に決めてしまった。そのうえで豹達に向かうのだった。
「よし、戦え!」
「勝てよ!」
 居間は観客の声は耳には入らない。それよりも目の前の猛獣達だった。バーナムは刀を右手に持ちあいてのその隙を窺っていた。
 それに対してステンシウスは一気に襲い掛かった。その両手持ちにしている斧を大きく振り被りそのうえでその頭を唐竹割りにしようというのだ。
「死ね!」
 振り下ろしながら叫ぶのだった。 
 それで頭を一気に叩き割る。筈だった。
 しかし豹の動きは素早かった。その攻撃を何なくかわしてしまったのだった。
 そして右に跳ぶとそこから彼に襲い掛かって来たのだった。
「くっ!?」
 爪の一撃は何とかかわした。しかし彼は豹のその素早さに対して驚きを隠せなかった。
「何て速さだ、こいつ」
「豹の素早さには気をつけろ」
 バーナムは自分が相手にするその豹を見据えながら彼に告げた。
「ライオンよりも素早いからな」
「ちっ、それにしても何て速さなんだ」
「豹は強い」
 そのことを確かに言うのだった。
「それはわかっておけ」
「くっ、所詮は獣じゃないかよ」
 だが彼はまだわかっていなかった。それがそのまま言葉に出てしまっていた。
「この俺の相手じゃねえよ」
「そう思っているのならいいがな」
 彼は今はそれ以上は言わなかった。それよりも目の前の相手だった。僅かでも注意を逸らせばそれで命を失うからだ。それを誰よりもよくわかっていたのだ。
 だからこそ居間も隙を窺う。じり、と半歩前に出た。するとだった。
 豹はそこに危険を感じたのか跳んできた。そうしてその牙と爪で襲い掛かって来たのだった。
「来たな」
 それを見てすぐにだった。左手に持っているそのネットを猛獣に向かって投げた。
 するとだった。豹はその中に捉えられた。そうして牙と爪を封じられた獣をそのまま右手の刀で切ったのだった。跳んだままのその相手を一瞬で倒したのだった。
「おお!」
「やったな!」
「見事だ!」
 観客達はそれを見て歓声をあげた。
「流石だ、バーナム!」
「やってくれた!」
 彼へ歓声がかけられる。しかし彼はにこりともせずすぐに左に向かう。見ればステンシウスはその右手に深い傷を負ってしまっていた。
 明らかに豹にやられた傷だった。それでもう斧を両手で持つことができなくなっていた。
 左手で何とか持っている。しかし最早劣勢は否めなかった。
「ちっ、こんなに強いのかよ」
 右手にから鮮血を流している彼は腹立たしげに呟いていた。
「獣の癖によ」
「大丈夫か」
 バーナムはその彼の横に来て声をかけた。
 

 

7部分:第七章


第七章

「右手は大丈夫か」
「ああ、引っ掻かれただけさ」 
 見れば肘のうえ辺りから鮮血を流している。しかし指は動いていた。血に塗れながらもそれは何とか満足に動いているのであった。
「けれど今は斧は持てない」
「そうか」
「この斧は左手だけじゃ振れねえ」
「いいか」
 ここでバーナムは額に脂汗を流し追い詰められた顔になっている彼に告げた。
「俺がネットを投げる」
「ネットをかよ」
「こんなこともあろうかともう一つ持って来ていた」
 言いながら腰に巻いてあったそれを左手で外した。そうしてそれを左手に持つのだった。
「これをだ」
「それでネットで捕まえるのか」
「動けなくする」
 そうするというのである。
「いいな、それでだ」
「それで?」
「投げろ」
 こう告げるのだった。
「振れなくても何とか投げることはできるな」
「ああ、それはな」
 できると返した彼だった。
「できそうだ」
「それじゃあ投げろ」
 また彼に告げた。
「それで一撃で決めろ。いいな」
「一撃かよ」
「戦いは一撃で決まるものだ」
 だからだというのである。
「わかったな。それでだ」
「その言葉信じていいんだな」
 ステンシウスはまだ追い詰められた顔だった。冷静な面持ちのバーナムとは正反対だった。その顔で彼に対して問うてきたのである。
「それで」
「信じたくなければそれでいい」 
 そのステンシウスに素っ気無く返したバーナムだった。
「だが。生き残りたいな」
「ああ」
「勝ちたいな」
「勿論だ」
 ステンシウスの返答は決まっていた。
「剣闘士だからな」
「ではそうするようにすることだ」
 これが彼の言いたいことだった。
「わかったな」
「ああ、わかった」
 彼のその言葉に頷いたステンシウスだった。
「じゃあ。信じさせてもらうぜ」
「やるぞ」
 彼の言葉を受けてすぐだった。
 バーナムは左手で持っているネットを豹に向かって投げた。それで獣の動きを封じた。
 それに動きを合わせてステンシウスも斧を投げた。左手で斜め上から思いきりであった。
 斧は激しく回転し豹に襲い掛かる。そうしてその眉間に深く突き刺さったのだった。
「若いの、助かったな!」
「危ないところだったな!」
「しかしよくやった!」
 彼にも歓声が送られた。
「今も見事だったなバーナム!」
「いい助けだったぞ!」
「やっぱりあんたが一番だ!」
 バーナムにも歓声が送られる。彼はそれを静かに聞いていた。ステンシウスはその彼に顔を向けてそのうえで声をかけるのだった。
「なあ」
「どうした」
「悪いな」
 こう言って礼を述べてきたのである。
「助かった。あんたのおかげでな」
「困った時はお互い様だ」
 だがバーナムはこう返しただけだった。そしてあらためて彼に告げてきたのだった。
 

 

8部分:第八章


第八章

「それよりも傷だが」
「ああ、これか」
「早く手当てをしておけ」
 このことを言うのだった。
「わかったな」
「ああ、そうだな」
 ステンシウスも今は素直であった。静かに彼の言葉に頷いたのである。
「わかった。それじゃあな」
「水でよく洗って布を巻いておけ」
 具体的に細かく話すのだった。
「わかったな」
「そうさせてもらう。とにかく俺は生き残ったんだな」
「最初の戦いが一番危ない」
 このことを言うのも忘れないバーナムだった。
「しかし御前は生き残った」
「そうだな。何とかってやつだな」
「そして」
 そうして、であった。バーナムは呟いていた。
「俺もわかった」
「わかった!?」
「そうだ。わかった」
 こう呟くのだった。
「これからのことがな」
「一体何のことなんだ?そりゃ」
「俺のことだ」
 そのことは彼には言わないのだった。今は自分の中に留めるだけであった。
「それはだ」
「あんたのことって?」
「決まった」
 今度はこうステンシウスに述べたのだった。
「これからのことがな」
「これからのことがかい」
「そうだ、決まった」
 また言うのだった。
「これでだ」
「何かわからないけれど決めたんだな」
 まだ剣闘士になったばかりのステンシウスは彼のことをまだよく知らなかった。それで彼が今どうしてそんなことを言ったのか理解できなかったのである。
 それで軽く彼に言ったのだった。
「あんたは」
「すぐにはじめる」
 そしてまた言うバーナムだった。
「すぐにだ」
「まあ何かわからないけれど」
 ステンシウスの言葉はここでも深く見ているものではなかった。
「頑張るんだな」
「そうさせてもらう」
 こうしてこの場は終わった。しかし次の日には早速だった。コロシアムに近い場所にあるバーナムの邸宅のすぐ隣にだ。いきなり武闘の場を思わせる建物を造りはじめたのだ。
 皆それを見て怪訝に思った。何を造っているのかをだ。
「なあバーナム」
「これは何だ?」
「何なんだい?」
 仲間の剣闘士達はそれを造っているのを見て怪訝な顔になって彼に問うた。
「闘いの場みたいだけれど」
「これは一体」
「ここで育てる」
 それだというのだった。まずは。
「人をだ」
「人を!?」
「人っていうと」
「剣闘士をだ」
 それを育てるというのだった。
「それを育てる為だ」
「剣闘士をかい」
「俺達みたいな」
「そうだ。俺は今まで考えていた」
 ここでこれまで何故悩んでいたのかも話したのだった。
「何をするべきなのかをな。剣闘士としてだ」
「それを考えていたっていうのか」
「そして答えが出た」
 彼はまた言った。
「俺は人を育てる。少しでもいい剣闘士が出て彼等が無駄に傷付かず死なない為にな」
「人が死ぬのが剣闘士なのにかい?」
「それでもかい」
「そうだ。それでもだ」
 今造られはじめている建物を見ながらの言葉は確かなものだった。
「少しでも無駄に傷付かず死なない為にだ」
「成程、それでか」
「それでなのか」
「そうだ。それに医者も置く」
 それもだというのである。
「傷を癒す為にもな」
「剣闘士の為のだよな、それも」
「その為の医者なんだよな」
「その通りだ。俺はやる」
 また言葉を出す彼だった。
「俺の為すべきことをな」
「そうか、何か俺達よりずっと先を見ていたんだな」
「上を」
 ここでこのことを知った仲間の剣闘士達だった。
「あんたはそこまでか」
「見ていたんだな」
「俺は見つけた。ならそれに達するだけだ」
 バーナムの今の言葉には迷いはなかった。
 そうしてその言葉で。彼は言うのだった。
「そこにな」
 そう言いながら造られているものを見ているのだった。彼が見つけ目指すと決めたものをだ。


剣闘士   完


                2009・11・27