バレンタインは社交辞令!?


 

1部分:第一章


第一章

                 バレンタインは社交辞令!?
 今年もこの日がやって来た。バレンタインである。
「つまりあれだよ」 
 サラリーマンの三橋浩太は休憩中のオフィスで同僚達と話していた。髪がさらさらとした細面の若者であった。身体も痩せていて青めのスーツがよく似合っている。
「お茶菓子が唯で配られる日だ」
「その通りだな」
 同僚達も彼の言葉に笑って返す。
「この歳になったらな」
「もうチョコレートの一個や二個でなあ」
「うかれないからな」
「そうなんだよな」
 浩太は自分の席で左手にペンを持って言う。彼は左利きである。
「学生の時はともかくな」
「そうそう」
「社会に出たら急に社交辞令になっちまうよな、バレンタインって」
「どっちかっていうと女の子が一方的に損だよな」
「あら、それはどうでしょう」
 だがそれには眼鏡をかけたOLが反論してきた。丁度浩太の向かい側の席にいる。
「女の子ばかり損とは限りませんよ」
「そうか?」
「そうですよ。だって」
 彼女はここでにこりと笑って言ってきた。
「お返しがあるじゃないですか」
「ああ、マシュマロとか飴とか」
「はい」
 彼女はそれに答えて笑ってきた。
「それですよ」
「岩田さんマシュマロ好きだからねえ」
「やっぱりそれか」
「ギブアンドテイクですよ」
 その眼鏡をかけた岩田さんはにこりと笑ってきた。そのうえで言う。
「こういうのは。いえ、世の中自体が」
「何か現金だねえ」
「全く」
 皆その言葉に対して笑っている。どうやらここにいる全ての者がバレンタインというものの対して特に何も思っていないようであった。
「皆お茶菓子目当てか」
「まあチョコレートだしね」
 男達は言う。
「家に持って帰ってウイスキーと一緒にとか」
「紅茶じゃないのかよ」
「やっぱり酒だろ」
 太った男が笑いながら言う。
「冬だし寒いしな」
「御前そう言っていつも飲んでるじゃないか」
「夏は夏でビールで身体を冷やすとか言ってな」
「それはそれこれはこれだよ」
 太った男はこう言ってそれを特に意識もしない。
「夏には夏の理由があるし冬には冬の理由があるんだよ」
「そうなのかよ」
「ああ、そうさ」
 彼は平然として述べる。
「だから別にいいじゃないか」
「しかしウイスキーとチョコレートか」
 浩太はそれを聞いて何かを思ったようであった。目をパチクリとさせている。
「何か面白い組み合わせだな」
「あれ、三橋さんて」
 それを聞いた岩田さんが彼に声をかけてきた。
「ウイスキー駄目なんじゃ」
「まあね」
 その言葉に答える。これは事実だ。
「アルコール度が強いと駄目なんだ」
「そうでしたよね」
「どういうわけか自分でもよくわからないけれど」
 彼はアルコール度の強い酒は飲めないのだ。日本酒やワインまでならいけるのだがそれより上となると身体が受け付けない。自分でもわからないのだがそういう体質なのである。
「ちょっとね」
「そうでしたよね」
「何だよ、相変わらずかよ」
 太った男がそれを聞いて笑って浩太に声をかけてきた。
「御前そんなんだからな」
「おい坂下」
 浩太はここで彼の名前を呼んできた。
「それでも飲む量は御前と変わらないだろうが」
「あれっ、そうだったか」
「そうだよ。大体酒を飲む量なんか比べること事態間違いだろ」
「じゃあ仕事か?」
「そっちも何か一緒だしな」
 浩太もこの坂下卓も仕事は同じようなものだ。だからそちらでも張り合う程のものではないのだ。それはそれでライバル関係を持てそうなものだが生憎彼等はそうした感情は持ってはいないのだ。
「じゃあチョコレートの量だな」
「だからそれはもうよ」
 彼はまた話を戻した。
「皆義理チョコだろ。だったら意味ないだろ」
「それもそうか」
 卓はそれを聞いて納得したような顔を見せてきた。
「そうだよ。本命とかそんなのはないだろうが」
「せちがらいね、どうも」
「そもそも御前そんなにもてるのかよ」
 彼はそれを卓に言ってきた。
「もてるんだったらいいけれどよ」
「これでも大学時代はジゴロだったんだぜ」
「嘘つけ」
 それはすぐに頭から否定した。
「そんな体格でジゴロかよ。柔道部に入っていたって聞いたぞ」
 女の子にもてない部活の最右翼の一つである。他には相撲部等が候補であるとされている。
「柔道部でも俺は特別だったんだよ」
「何だ?特別持てなかったのか?」
「御前ねえ」
 そのあまりにもきつい言葉に卓もちょっとむっとしてきた。
「幾ら同期でも言っていいことと悪いことがあるぞ」
「じゃあ一度手合わせするか?」
 浩太は言ってきた。
「何なら」
「そっちも勝負にならないだろ」
 だが卓は彼に対してこう返してきた。
「俺は柔道だし御前は合気道だし」
「まあな」
「仕掛けて来なけりゃ何の意味もないじゃないか。俺だって下手には仕掛けたりはしないぜ」
 合気道は相手が仕掛けてくるのを応用して技をかける。だからこうした勝負は成り立たないのである。卓はそれを踏まえたうえで言ったのである。
「だからそれもなしな」
「わかったよ」
「それだからチョコレートだ」
「義理チョコの数でも競う合うか?」
「それでどうだ?」
 卓は提案してきた。
 

 

2部分:第二章


第二章

「いいことはいいだろうが」
「そうは思わないけれどな」
 浩太は冷めた声と目で言う。
「けれどそれしかないだろ」
「そうか?」
 卓に言われてもどうにもそうは思えない。いぶかしんでいると横から声がかかってきた。
「いいんじゃない、それで」 
 岩田さんだった。卓はそれを聞いてさらに元気になってきて浩太に言ってきた。
「それでいこうぜ」
「結局それか?」
「平和でいいだろ」
 卓はまだいぶかる浩太にこう述べた。
「どうだよ」
「まあな」
 確かにそうだ。武道で勝負したりするよりもアルコールで勝負するよりも実害等はない。せいぜい食べ過ぎて太るか虫歯になる位だ。糖尿病もあるがそれはまだ考えなくていい歳だった。
「じゃあそれでな」
「結局やるのか」
「ここまで来て逃げるとか言うなよ」
 卓は笑って声をかけてきた。
「チョコレートなんだしな」
「まあな」
 別に怖くとも何ともない。それを受けることにした。20
「勝負の日は」
「それを一番言う必要がないだろうが」
 浩太はこう卓に突っ込みを入れた。
「バレンタインデーだろ?」
「ああ、それで行こうぜ」
「わかったよ。それで負けたらどうするんだ?」
「負けた方が大吟醸一本だ」
「高くないか?」
「そうか?」
 だが卓はそうは考えていないようだ。平気な顔であった。
「そんなものだろう」
「そうかな。まあいいか」
 自分で自分に納得させることにした。強引だがそうするしかなかったからだ。
「じゃあバレンタインにな」
「ああ」
 こうして卓とチョコレートの数で勝負することになった。だがどうにも癪に落ちないままであった。
 それは会社から帰る時も同じであった。どうにも納得できないといった顔で首を捻りながら自分のアパートへと帰っていた。その時であった。
「どうしたのよ、そんなに難しい顔して」
「んっ!?」
 横から声がかかったので振り向くとそこには岩田さんがいた。私服のジーンズに着替えてそこにいた。
「岩田さんか」
「そうよ。どうしたのよ」
「どうしたもこうしたもさ」
 彼は岩田さんの言葉を受けて言う。
「さっきのあいつとの話だけれど」
「バレンタインのこと?」
「それだよ。どう思う?」
「別にいいじゃない」
「ああ、そう」
 それを聞いたところで思い出した。この流れを決めたのは彼女だったのだ。それを思い出して何か話を聞いたのが馬鹿みたいに思えた。
「そうなんだ」
「チョコレート食べられるわよ」
「そうだね」
 返事がぶっきらぼうなものになっていた。
「確かにね」
「それに義理チョコだけじゃないかも」
「いや、それはないだろうね」
 その言葉はあっさりと否定した。
「中学生や高校生じゃないんだからさ」
「またそれ?」
「だってそうじゃない」
 彼は答える。
「実際にそんな歳じゃないじゃない。好きな女の子からチョコレートを貰ったり好きな男の子にあげたりするみたいな。そうじゃない?」
「夢がないわね」
 そのえくぼを少し歪めさせて岩田さんは言ってきた。
「そんなんだと面白くないわよ」
「別に面白いことを言うつもりもないしさ」
 浩太はそのえくぼに対して言葉を返す。
「本当じゃない。そういうことは何時でもできるし」
「それを言ったらバレンタインだってそうよ」
 岩田さんは浩太のその言葉にこう返してきた。
「そうじゃないの?」
「それはそうだけれど」
 何か浩太の方が劣勢になっていた。彼もそれを感じていた。
「けれど」
「私はね」
「うん」
 ここで岩田さんが話を出してきた。
「こういうことは幾つになっても同じだと思うわよ」
「そうかな」
「そうよ」
 お決まりの言葉が返ってきた。
「少なくとも女の子はね。そうよ」
「女の子、ねえ」
 ちらりと岩田さんを見る。実は浩太と彼女は同期で同じ歳である。結果として卓を入れて三人は同期になるのである。
「女の子は幾つになっても女の子よ」
 岩田さんはそう説明する。
「そういうものなのよ」
「そうなんだ」
「だからよ」
 そしてまた言う。
「幾つになってもね。やっぱり」
「好きな人にあげたいの?」
「それは人それぞれだけれどね」
 浩太の言葉にははぐらかしで応えてきた。浩太はそれがどうしてかまではここでは考えはしなかった。
「まあそうかもね」
 こう述べただけであった。それですぐに忘れてしまうようなものであった。
「だからね」
 しかし岩田さんはまだ言う。浩太の思惑を越えて。
「ひょっとしたらよ」
「ひょっとしたらだね」
「誰かがチョコレートの本命を入れていて」
「それであいつに勝つってこと?」
「勿論向こうにもそういう可能性はあるけれど」
「どうだろうね」
 浩太はこの言葉には苦笑いを浮かべて首を捻ってきた。二重に懐疑的な仕草を示してきた。
「まあ可能性はゼロじゃないか」
「わかったかしら」
「期待はしていないよ」
 それでも彼の言葉は変わりはしない。変えるつもりもなかった。
「どうせ引き分けに決まってるさ」
「夢がないわね」
「こんなことで夢を見てもね」
 苦笑いを浮かべたまま言った。
「あまり何もないし」
「じゃあ何に夢を持つのよ」
 岩田さんもその声をむっとさせて彼に尋ねてきた。暗い夜道に二人の声が響く。擦れ違う人の多くが赤い顔をしている。それを見ていると何かバレンタイン前とは思えないいつもの日常であった。

 

 

3部分:第三章


第三章

「そうは言われても」
 そう言われてもかえって返事に困る。
「やっぱり野球とか」
「カープの優勝は当分なしよね」
「それはこっちだって同じだよ」 
 ぼやく岩田さんに対して言う。
「横浜だってさ」
「どっちかっていうと横浜の方が駄目っぽいわね」
「だから希望を持たないと」
 野球の話になると自然に熱が入ってきていた。
「この前優勝したじゃない」
「三十五年振りにね」
 今度は何時になるかと言われている。何処ぞの似非盟主球団と違い優勝しないだけであれこれ言われたりはしないのが救いであるがその弱さが笑いの種になるのはファンとしては悲しかったりする。
「それから今だけれど」
「本当に弱いわね」
「カープも最下位になったじゃないか」
「それでも横浜よりはずっと少ないわよ」
「まあそうだね」
 忌々しいがそれが現実であった。今の横浜はタイプこそ違うがあの暗黒時代の阪神と同じような立場にいる。もっともあの時の阪神のようにどんな見事な敗北でも華麗なまでに絵になるというわけではない。エラーも暴投もホームランを打たれるのも全て綺麗に絵になるのは阪神だけなのだ。それが阪神なのだからだ。理由はそこにはない。
「全く。因果なことだよ」
 浩太はそうぼやく。
「横浜ファンなんてさ」
「けれど楽しいでしょ」
「まあね」
 こくりと頷く。それでも楽しいものは楽しいのだ。
「巨人なんかを応援するよりはね」
「あんなとこ応援する価値もないわよ」
 岩田さんは熱狂的なアンチ巨人である。野球を愛する者として当然のことである。巨人は無様な負けと不祥事こそが最も似合う球団なのだ。巨人には無様なことがよく似合う。
「来年もギッタンギッタンにしてやるわ」
「昔の広島がそれ言うと絵になったそうだね」
「私が子供の頃よ」
 そう言うと身も蓋もない。
「はじめての日本一の時は確か生まれていなかったわ」
「そうなの」
「貴方だってそうでしょ?」
「横浜の優勝なんて三十年か四十年に一度だよ」
 こう返す。
「見ている筈ないじゃないか」
「それもそうね」
「それ考えたらチョコレートの勝負でまだよかったよ」
 彼はぼやき気味にこう言ってきた。
「あいつ阪神ファンだからね」
 卓はその名前に逆らうかのように阪神ファンである。巨人が負けた次の日は機嫌がいい。とりわけ阪神が巨人に勝った次の日は絶好調という非常にわかり易い御仁である。もっともその逆のパターンもあるが。しかしそれが実に楽しそうなのだ。阪神ファンというのはそういう生き物である。阪神を愛することこの上なくそれに人生を捧げているのだ。だから勝っても負けても楽しいのだ。阪神は本当に不思議な魅力を持つ球団である。
「今は分が悪いよ」
「それを言うと私もだけれどね」
「ちょっと前まで立場は全然逆だったのになあ」
 浩太はまたぼやく。
「あれだけ弱かったのに」
「ヤクルトに凄い負けてたわよね」
「そうだったね。巨人投手陣にも」
「私の子供の頃の阪神の試合ってね」
「うん」
 話は岩田さんの子供の頃に移る。
「いっつも阪神打線がカープのピッチャーに捻られていたのよ」
「こっちも。マシンガン打線にね」
 阪神の打線は打てなかった。絶望的なまでに打てなかった。そしてピッチャーは優勝チームの打線に打ち崩されていく。それが凄く絵になっていた。何故かヤクルトには毎年負けまくっていた。勝つ方がずっと少なかった。そうしたチームであったのだ。今は昔のことだが。
「それがねえ」
 岩田さんがぼやく。
「それを思うと本当にチョコレートでよかったじゃない」
「そうだね」
 浩太は彼女の言葉に頷く。
「本当にそう思うよ」
「そうでしょ?」
 今の季節は野球はない。しかし二人はそのことで話を盛り上がらせながら夜道を歩いている。あまりバレンタインの話はしないがそれでも言葉の中にはちゃんと出ていたのである。
「それで僕が勝てると思う?」
「どうかしらね」
 岩田さんは浩太のその問いには首を傾げてみせてきた。
「微妙ね」
「微妙なの」
「だって。義理チョコばかりなんでしょ」
「うん」
 浩太はその問いに答える。
「そうだよ」
「だったら絶対同じ数になるわよ」
 岩田さんは言う。
「義理チョコはあくまで義理なんだからまんべんなく配るものだし」
「そうだよね」
 浩太もその言葉に納得する。

 

 

4部分:第四章


第四章

「じゃあ引き分けかな、やっぱり」
「彼にとってみればどうでもいいのよ」
 岩田さんは卓を差して言ってきた。
「チョコレートが貰えれば」
「それで一杯しようって考えてるんだろうね」
「そうでしょうね。だから乗り気なのよ」
「やれやれ」
 それを聞いてどうにもぼやいてしまう。
「何か妙なことになったな」
「けれど受けたのよね」
 岩田さんは今度は浩太に言う。
「勝負」
「まあね」
 それは認める。
「けれど。どうなるかな、本当に」
「まあ今更どうこう言わないことよ」
 岩田さんこう言ってきた。
「どんと構えていけばいいじゃない。引き分けでも負けでも」
「勝つとは思ってないんだね」
「そんなのやってみたいとわからないからね」
「けれど何で勝てるって言わないの?」
「じゃあ勝ちたいの?」
「そう言われると」
 首を捻ってしまうのも実はある。彼もそんなことは考えてはいないのだ。
「あまり」
「そうでしょ」
「まあね」
 自分でもそれを認める。
「勝ったら大吟醸だけれどね」
「じゃあ勝ちたい?」
「お酒がかかってるとやっぱり」
 そう答えはするがやはり言葉の歯切れは今一つである。彼もあまり勝ちたいとかそういうことは思っていなかったりするのが実情なのだ。
「勝とうかな」
「じゃあ勝ったら?」
 岩田さんは素っ気無い素振りで言ってきた。
「誰か女の子にでも頼んで」
「ううん」
 そう言われると今度は腕を組んで考えてきた。
「そうするのもなあ」
「煮え切らないわね」
 岩田さんはそんな彼を見てまた言ってきた。
「そんなことでどうするのよ」
「だってさ。確かに大吟醸は欲しいけれど」
 それを受けて述べる。
「そこまで極端にはね」
「けれど勝負事は勝負事よ」
「うん」
 その言葉には頷く。
「じゃあ勝ちたいのね」
 何故か岩田さんは話を強引に纏めにかかっているようであった。
「やっぱり」
「まあ強いて言うならね」
 浩太もそれに押される形で答えた。だがやはり強引な感じだったので彼は引き摺られる感じであった。しかしそれでも言ったのは事実である。
「まあ勝負なら」
「わかったわ」
「!?」
 岩田さんの言葉に眉を顰めさせる。
「そういうことならね」
「どういうこと?」
 何か話が全く見えなくなってきた。首を傾げながら尋ねる。
「それって」
「ああ、何でもないわ」
 けれどそれには答えようとはしない。
「何でもないから。気にしないで」
「いや、気にしないでって言われても」
 それに突っ込みを入れる。
「ここまで来てそれはちょっと」
「とにかくね」
 だが相手の方が一枚も二枚も上手であった。岩田さんはまた押し切ってきたのであった。
「バレンタインは頑張ってね」
「社交辞令だけれどね」
「思わぬトラブルがあるかもよ」
「だといいけれど」
 苦笑いというか冗談めかした笑いで返した。
「まあ期待しないで待ってるよ」
「期待してないのね」
「だからさ。社交辞令じゃない」
 それを強調する。
「それで期待するも何も」
「そこよ」 
 しかし岩田さんはそこを強調する。
「人間期待しないと駄目と。何でもね」
「こんなことでも?」
「そう、こんなことでも。たかがバレンタイン」
 何かお決まりの言葉を出してきた。続く言葉もである。
「されどバレンタインよ」
「じゃあ」
 彼はそれに応えた。そして言った。
「期待するよ」
「それがいいわ。それじゃあさ」
「うん」
「どっかで飲む?」
「どっかでって」
 話はそれで一旦終わり飲む話になった。実は岩田さんはかなりの酒豪でもあるのだ。
「何処で?」
「駅前の養老の滝か白木屋なんてどう?」
「悪くないね」
 何処にでもあるチェーン店であるが浩太も嫌いではない。実際に時間とお金があればちょくちょく入って飲んでいる程である。彼は煙草もギャンブルもやらないのでお金は結構持っているのである。
「じゃあ飲みましょう。丁度白木屋で面白いのやってるのよ」
「何、それ」
「焼き鳥よ。それとビールが凄く安いのよ」
 岩田さんはその言葉を待ってましたとばかりに言ってきた。焼き鳥にビールは確かに魅力的だ。浩太もそれを聞いて心を強く惹かれた。
「どう?」
「どうって言われると」
 無意識のうちに喉がゴクリ、と鳴った。

 

 

5部分:第五章


第五章

「そんなの聞いたらさ、やっぱり」
「決まりね」
「うん」
 ここでも岩田さんの言われるがままであった。どうにも彼女は浩太の操り方を知っているようである。これはこれで怖いことではあるが。
「それじゃあ白木屋にね」
「わかったよ。じゃあ」
「割り勘で」
「割り勘かあ」
 しかしその言葉には苦い顔を見せてきた。
「それはちょっとなあ」
「嫌なの?」
「いや、そうじゃないけれどさ」
 それに対して述べる。
「岩田さん飲むの凄いんだもん」
 酒豪は伊達ではない。彼もそれを知っているのだ。
「大丈夫よ、それは」
「何で?」
 不安げな顔でそれに尋ねる。
「だって殆ど飲み放題だから」
「そうなんだ」
「そうよ。だから目をつけてたのよ」
 そういうところは実にしっかりしている。言うこともない。
「行きましょう。それだったらいいでしょ」
「うん、それだったらね」
 彼等はそのまま酒場に向かった。そして焼き鳥とビールを心ゆくまで楽しんだ。何時の間にかバレンタインとは全く別の世界に入っていたが時は必ず移る。遂にその日になったのであった。
「よお」
 卓は入社するとまずは不敵な笑みを浩太にかけてきた。
「今日だな」
「ああ」
 彼はまずは卓に言葉を返した。
「そうだな」
「大吟醸の用意はいいか?」
「もうかよ」
 彼の言葉と自信満々な様子に思わず少し吹き出してしまった。口が妙なまでに尖る。
「俺が勝つに決まってるからな」
「結局義理チョコばかりだろ?お互い」
「それでも俺が勝つのさ」
 何か根拠のないことを言う。それを見る周りの人間はやれやれといった感じで彼の話を冗談半分で聞いている。あまり真面目に受け取っていないのは明らかであった。
「何があってもな」
「また大きく出たな」
「当然だろ」
 彼はさらに大きく出て来た。
「俺が勝つんだからな」
「じゃあ俺が勝ったらどうするんだ?」
「その時は決まってるだろ」
 何だかんだ言って実に潔い感じであった。そこは中々好感が持てるものであった。
「俺が大吟醸を御前にやるぜ」
「やるぜってもう持ってるのかよ」
「二本な」
 彼は言ってきた。
「もう持ってるぜ」
「そうだったのか」
 それを聞いて何故彼がここまで大吟醸にこだわっていたのかがわかった。最初から持っているからである。
「御前もう持ってたのかよ」
「実はな」
 自分でもそれを認めてきた。
「一升でな」
「またそれは飲みがいがあるな」
「御前が勝ったらやるぜ」
「じゃあもらうか」
 言葉のやり取りが戦いめいてきていた。何だかんだでお互い結構乗ってきていた。
「大吟醸」
「あと引き分けならチャラな」
 それもはっきりさせてきた。
「それでいいな」
「それが一番可能性ありそうだな」
「甘いな、それは」
 また不敵な言葉を返してきた。妙に乗っているのが本当にわかる。
「一番可能性があるのはな」
「御前が勝つってことか?」
「その通りだ」
 不敵な笑みがまたしてもその顔に浮かぶ。何か完全に一昔前の東映の特撮ものの悪役になってきていた。今でも戦隊ものではいそうな顔であった。
「どうだ、驚いたか」
「ああ、何か呆れたぜ」
 心からそう思って述べた。
「今の言葉にはな」
「負け惜しみはいいぜ」
「そう取るか?」
 これには浩太だけでなく他の皆も呆れてしまった。
「そのうち悔し涙に変わるからな」
「おい坂下」
 浩太は卓の名を呼んだ。
「御前最近DVD買っただろ」
「何でわかったんだ?」
 図星であった。卓はそれを言われて顔をキョトンとさせてきた。
「わかるさ。その言葉使いからな」
「そうなのか」
「それで東映かビープロの特撮もの集めてるだろ」
「ああ」
 これまた図星であった。道理で言葉使いがそうなる筈であった。実にわかりやすい話であった。もっとも特撮ものや時代劇といったものはあえて印象的な台詞を使うのですぐにわかるのである。実際にもっと凄いのは現実にそうした特撮ものや時代劇の悪役そのままの悪党が世の中にいるということである。ショッカーや死ね死ね団のモデルはとあるテロ支援国家であるとまことしやかに囁かれているがこれは真実であろう。
「わかったか」
「ああ。それじゃあ俺はあれか」
 彼は言ってきた。
「正義の味方か?科学戦隊の」
「そう取ってもらってもいいぞ」
「何だ、悪役でいいのかよ」
 浩太は卓の言葉を聞いて意外に思った。
「それで」
「それがいいんだよ」
 どうやら彼は悪役マニアであるらしい。そう返してきた。
「悪役がいないと盛り上がらないだろうが」
「まあな」
 その通りである。そもそも悪役に華がなくては作品は盛り上がらないのである。最近のある作品は主役同士の葛藤や対立を描くがこれはこれでいいのである。その作品の原作が同族同士の争いや人の負の感情、異形の者を描いてきているからである。だからいいのだ。
「だからだよ」
 卓はそれを述べる。
「俺は悪役でいいんだ」
「じゃあ負けるんだな」
 浩太は今度はこう言い返した。
「悪役らしく」
「いや、勝つ」
 本当に悪役らしくニヤリと口の片端を歪めて笑ってきた。太ってはいるがその顔が見事なまでに悪役のそれになっていた。
「今度は悪が勝つんだ」
「そうか、じゃあそうしな」
 浩太も乗っている。それならそれでいいと思った。
「じゃあ賭けるのは」
「地球ではなく大吟醸で」
 何か賭けるものはやけにせこいがそれでもよかった。元々遊びであるからだ。
「勝負はじめだな」
「よし、いいな」
「ああ」
 二人は言い合う。そして仕事開始と同時に勝負も開始されたのであった。

 

 

6部分:第六章


第六章

 チョコレートがどんどん二人に運ばれてくる。だがそれは予想通りどれも義理チョコであった。
「はい、これ」
「今年もね」
「うん、有り難う」
 浩太は笑顔でOL達からのチョコレートを受け取る。どれもその課全体での義理チョコであった。それもまた見事なまでに予想通りであった。
 卓のところも同じであった。やはり義理チョコが置かれる。二人は互いの机を見て笑みを浮かべ合っていた。
「おいおい、少ないんじゃないかい?」
「待てよ。数は同じだぜ」
 浩太は倣岸なふうにした笑みを浮かべて卓に言う。
「違うかい?」
「ちっ、そうだな」
 数えてみればその通りであった。
「まだ勝負ははじまったばかりだしな。こんなものだろ」
「既に勝負はついているのかもな」
 浩太はさらに言う。
「こっからどんどん女の子がやって来てな」
「どうだか」
 しかし卓はその言葉を一笑に伏した。負けてはいない。
「まあそれは終わってからだな」
「勝負がな」
「全く」
 そんな二人を見て彼等の直接の上司である課長がぼやく。見ればごく普通の眼鏡をかけた中年のおじさんであった。温厚そうな顔をしている。
「今日はどうにかならないのかね」
「だってバレンタインですから」
 岩田さんがそれに答える。
「仕方ないですよ」
「私なんか妻と娘だけからしかもらえないんだがね」
 課長の言葉は実に寂しいものであった。
「若いというのはいいものだぜ」
「もらえるだけいいんじゃないですか?」
「まあそうだね」
 すぐに入ってきた岩田さんの声にも頷くしかなかった。
「娘からもらえるのが一番美味しいかな」
「奥さんのは?」
「同じ位かな」
 何だかんだで彼ものろけていた。皆バレンタインをそれなりに意識しているのであった。二人だけではないにしろだ。
 チョコレート勝負は続く。そしてそのまま時間が過ぎ遂には終業時間となった。
「よし」
 まずは卓が声をあげた。
「時間だな」
「ああ」
 浩太は彼を見据えたままそれに応える。
「さて、どっちかがだよな」
「勝ったのは」
 二人は互いに言い合う。
「まあ俺に決まっている」
 例によって卓が勝ち誇った声で述べる。
「確実にな」
「それはどうだろうな」
 それには様式美であるかのように浩太が返した。
「数えてみなくちゃわからないぜ」
「もう数えなくてもわかっていると思うがな」
 不敵に根拠のない言葉を出してきた。
「そう思うだろ」
「俺が勝ってるってことだな」
 浩太はまた様式美で言葉を返した。
「ということはだ」
「何か二昔前の特撮だな」
「そうかもな。じゃあ」
 ここで言う。
「数えるか」
「よし」
 こうして勝負の結果が調べられることになった。その結果がはっきりしたのはそれからすぐ後のことであった。
「何てこった」
「ふふふ」
 両者はそれぞれ違う顔を見せてきていた。
「負けかよ」
「一個の差だったな」
 勝っていたのは浩太であった。卓はチョコレートの山を前に苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
「けれど勝ちは勝ちだな」
「ちぇっ」
 舌打ちするが勝敗が決したのは明らかであった。彼も従うしかなかった。こうして浩太は大吟醸を手に入れてそれと共に多くのチョコレートも勝ち得た。実に大きな勝利であった。
「しかし」
 彼はふと思った。彼の勝利を決めたそのチョコレートが誰のものなのか気になって仕方がないのであった。
 その一個は誰か。考える。だがここで何か予定事項のように出て来た人がいた。
「よかったじゃない」
 岩田さんであった。にこやかに笑って浩太の席にやって来た。
「大吟醸おめでとう」
「うん」
 それに答えはする。しかし何か妙なものを感じていた。
 それで彼女に問う。やはり彼女こそが気になる存在になっていたからだった。
「あのさ」
「とりあえずチョコレートよね」
 しかし岩田さんは彼が言う前に言ってきた。
「持って帰らないとね」
「あっそうか」
 言われてそれに気付いた。というよりは言われるまで気付かなかった。
「そうだったね。これ」
「どうする?会社でこつこつ食べていく?」
「いや、それはやっぱり」
 苦笑いを浮かべてそれは否定した。
「味気ないから」
「そうよね。じゃあお家でよね」
「うん、そうするよ」
 彼は答えた。そのうえでこう言った。
「これで暫くはお菓子にもお酒のつまみにも困らないだろうね」
「そうね。それもよかったじゃない」
 岩田さんはその言葉にも笑ってきた。こうして落ち着いて見てみればかなりの量であった。一人で持って帰るのはちょっと辛そうであった。
 そこでであった。岩田さんが提案してきた。

 

 

7部分:第七章


第七章

「ねえ」
「何?」
「私も手伝おうかしら」
 浩太を横目で見て言ってきた。
「手伝うって。何を?」
「だから。これ持って帰らないといけないでしょ」
 岩田さんはそれを言う。
「そうでしょ」
「そうか」
「そうよ」
 ここで何を言っているのといった顔を見せてきた。悪戯っぽい笑みと共に。
「じゃあいいわね。半分持つわ」
「いや、そんなにはいいよ」
 それは浩太が断った。しかし彼は言った。
「けど・・・・・・有り難うね」
「いいわよ」
 こうして二人はこの日も並んで帰ることになった。その手にはやはりチョコレートが山程入った袋がある。色々な種類のチョコレートがありかなりのバリエーションがあった。
「とにかく勝ててよかったよ」
 浩太は夜道を歩きながら岩田さんに言った。あの暗い会社の帰り道を今二人並んで歩いている。
「負けたらやっぱりね。悔しいし」
「そうよね」
 岩田さんもそれに応えて頷いてきた。
「負けるより勝つ方がいいに決まってるからね」
「そういうこと」
 彼はそれに頷いた。本当にそう思う。
「それで勝ったけれどさ」
「うん」
「何か引っ掛かるんだよ」
 会社の中で言いそびれたことを今述べる。
「何で勝ったのかって」
「それ?」
「そう、どうして僕が勝てたのかって」
 それをまた述べる。述べながら岩田さんの方へ顔を向ける。
「あのチョコレートは何だったのかなって」
 彼の勝利を決めた一個のチョコレート、それがどうしても気になる。それをあえて言ってきたのだ。
「心当たりある?」
 正直岩田さんが怪しいのではと思っていた。だからかまをかけてきたのだ。
「そこんとこどうなの?」
「気になって仕方ないんだ」
 岩田さんはそれを聞いて言う。
「やっぱり」
「気にならないわけないじゃない」
 浩太はそう言葉を返す。
「だってさ。それで勝てたんだから」
「じゃあさ、まさか」
 岩田さんも言葉を返してきた。
「勝てたのは誰かのおかげだって思ってるのね」
「そうだよ」
 それを素直に述べてきた。
「誰なのかわかる?」
「ふうん。それじゃあ」
 また思わせぶりに笑ってきて浩太に顔を向けてきた。そして言ってきた。
「あるって言えばどうするの?」
「どうするかって?」
 この言葉は想定していた。だから浩太も驚いてはおらず冷静に返した。
「そう。どうするの?」
「まずはその女の人が誰か知りたいね」
 彼は計算通りの言葉を出してきた。
「まずはそれから」
「そう」
「それ誰かな。知ってる」
「悪いけれど」
 浩太はそれを聞いておや、と思った。てっきりここで岩田さんが名乗ると思っていたからだ。
「誰なのかしらね」
「知らないんだ」
「名乗らなかったんでしょ?」
 岩田さんは浩太にまた問うてきた。
「その人」
「だから気になってるんだよ」
 浩太は岩田さんを探りながら言ってきた。
「誰なんだろって」
「そうね。じゃあ探してみたら」
 勘繰ると何か白々しい言葉に聞こえる。しかし岩田さんはそれも見せはしない。
「じっくりとね」
「じゃあそうしようかな」
 一旦間合いを離すことにした。武道の要領だ。
「それじゃあ」
「そうね。それで探して見つかったら」
「うん」
「その人に告白してみせたらいいわ」
 岩田さんは空を見上げて言う。わざと浩太と目を合わせないようにしているようであった。
「どう、それで」
「面白いね」
 浩太もそれを聞いて笑みを浮かべた。悪い気はしない。
「じゃあそれでいかせてもらうよ」
「そうしたらいいわ。それにしても」
「何だい?」
 彼女が言葉の調子を変えてきたのに気付いた。
「楽しかった?今年のバレンタイン」
「それはね」
 勝負のおかげで随分楽しかった。それも事実だった。
「かなりよかったよ」
 にこりと笑って答える。本当にそう思える。
「おかげさまでね」
「そう。よかったわ」
 二人はここではわかっていた。だがあえてわからないふりをしてやり取りをしているのであった。これもまた駆け引きの一つであった。
「それでも次は」
「次は?」
「このチョコレートをくれた人に堂々と渡してもらいたいね」
「そう。だったら見つけないとね」
「今度の勝負はそれかな」
 浩太はぽつりと呟いた。
「次のバレンタインにまではね」
「頑張ってね」
「うん」
 顔を見合わせて言い合う。こうして次のバレンタインまでの勝負が今はじまったのであった。二人は今その戦いを楽しもうとしていた。


バレンタインは社交辞令!?   完


                   2007・1・1