ルヴァフォース・エトランゼ 魔術の国の異邦人


 

魔術の国の異邦人 1

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』10巻は今月17日。今週の金曜日に発売。
 いつもの富士見ファンタジア文庫の発売日とは異なるので注意です。 

 
 魔術と科学が共に発展した世界、ルヴァフォース。
 魔導大国であるアルザーノ帝国の南部、ヨクシャー地方の都市フェジテ。
 この街にあるアルザーノ帝国魔術学院は、この世界で最先端の魔術を学べる最高峰の学び舎。
 およそ四〇〇年の歴史を有するこの学院は魔術の道を志す全ての者の憧れであり、学院の講師や学生たちも自身がその学徒であることに誇りを抱いている。
 この由緒正しき学院に突如として赴任して来た非常勤講師、グレン=レーダス。彼ひとりを除いて。





 華やかな紋様が描かれた絨毯、壁には銀の燭台、よく磨かれた樫の椅子や机など、高価で華やかな調度品の数々が置かれている。
 そんな、いかにも上流階級の人の住まいと思われる屋敷に少女の怒号が響く。

「あのロクでなし講師! もう我慢の限界ですわッ!」

 ツインテールを振り乱し、ウェンディ=ナーブレスが怒りもあらわに分厚い本を机に叩きつけるように置いた。

「ひゃあッ!」

 そのあまりの剣幕にお付きのメイドが小さな悲鳴をあげて首をすくめる。

「授業初日から遅刻、自習。すぐに居眠り。やっとまともに教壇に立ったと思ったら教科書を黒板に釘打ちして『勝手に見ろ』ですって!? 書物をあのようにあつかうだなんて、魔術師の風上にも置けませんわ。非常識にも程がありますっ! システィーナもシスティーナですわよ。せっかく辞表を書かせる好機でしたのに『本当に講師を辞めたいなら意味がない』ですって。理解に苦しみますわ」
「…………」

 かわいらしい丸眼鏡が良く似合う、ウェンディお付きのメイド。ミーアは亀のように首をすくめたまま怒りの荒らしが静まるのを黙って待った。下手に口を出してとばっちりを受けてはたまらない。
 最近講師になったグレン=レーダスについての悪評はミーアの耳にも入っている。というかウェンディの口から散々聞かされている。
 教科書の内容を黒板に丸写しして居眠り。やがてチョークで書き写すのも面倒になって、教科書をちぎって黒板に貼りつける。果てはそれすらもおっくうになったのか、黒板に教科書を釘で直接打ちつけるという暴挙に出たところでクラスのまとめ役であるフィーベル家の令嬢システィーナに決闘を申し込まれた。
 結果はグレンの惨敗、システィーナの圧勝であったのだが、退職するという言質を取らなかったのでグレンはいまだやる気のない、のんべんだらりとした授業を続けている。

「わたくしがおなじ方法で辞めさせることもできますけど……」

 クラスのリーダー的存在であるシスティーナが不承不承とはいえ結果を受け入れている以上、これ以上騒ぎ立てるのは気が引けた。勝敗の見えている決闘なぞ白けるだけだし、なによりも二番煎じというのがウェンディには気に入らない。

「いっそのこと、暗殺!」
「お、お嬢様。それだけはいけません!」
「冗談ですわ。でもリアルキルとはいかないまでも、社会的に死ぬような目に遭ってどこか遠い塀の中にでも引きこもってくれないものかしら。たとえば――ハッ! あのとき更衣室で仕留めておけば……、わたくしとしたことが、しくじりましたわ」
 
 このロクでなし講師。仕事初日に男子と女子の更衣室を間違えて入るという、最近帝都で流行りの青少年向け小説にありがちなラッキースケベ的なイベントを再現したらしい。

「そう、更衣室……」

 ふいになにかを思いついたかのような表情を浮かべたウェンディは、かしこまっているミーアの後ろにまわった。

「え? お、お嬢様? なにを……ひゃんっ」

 背後からいきなり胸を鷲掴みにされて、おもわず嬌声が漏れる。

「今日、更衣室で女子のみんなでハグハグし合ったんですけど、女の子の身体って癒されますわ~。はぁ~ん、こうすると溜飲が下がる気がしますわ」
「はにゃん! はひっ、ひゃんっ! や、やっ! やめて、やめてください、あっ、だめ! お、お嬢様っ、そこは、そこは、ダメ……」
「うふふ、ミーアのここって柔らかくて暖かくて、まるで猫さんをモフモフしているみたいですわ」

 胸といわず、お腹や腰。お尻や太ももまで愛撫する。

(ああ、お嬢様の高貴なお胸が……)

 後ろからのしかかるようにピッタリと密着して体重をあずけているため、背中にふたつのふくらみの感触を感じる。それがなんとも心地良い。むしろこちらが大きな猫にじゃれつかれているようだ。
 従順なメイド少女は踏み込んではいけない禁断の領域へと導かれようとするおのれの意識を必死にこらえる。

「ふふふ、わたくしテレサさんみたいなボン! キュッ! ボン! よりもミーアのようなプルン! プルッ! プルプルン! のほうが好きでしてよ。うふ、うふふふ、にょほほほほほ!」
「ああ、お嬢様! 『にょほほほ』は、『にょほほほ』だけはいけません!」
「……あら?」

 いまにも押し倒そうとしていたウェンディの視界に、机の上、ついさっき怒りにまかせて叩きつけた書物のタイトルが映る。召喚魔法について書かれた魔導書だ。

「ニヤリ、ですわ」
「お、お嬢様。いまなにか良くないことを思いつきましたよね? ですよね? やめてください」
「うふふ、アルザーノ帝国魔術学院では魔術的な事件や事故は日常茶飯事。だれかの召喚した野良悪魔に襲われて怖い思いをすることだって多々ありますわ。嗚呼、不幸!」
「あ、悪魔!? お嬢様、それはダメです! 悪魔の召喚だなんて危険すぎます!」

 悪魔。
 人類の深層意識下で広く認知されている多くの概念、人の持つ様々な感情が具現化した存在。人の意識の向こう側にある『ここではない、どこでもない場所(ネバー・ランド)』のひとつ『魔界』に住むとされる。

「おだまりなさい。それよりもミーア、これからわたくしの言う物をそろえて地下室に運んでちょうだい。……安心なさい、呼び出すのは一番低級のものにしておきますわ。【ショック・ボルト】の一節詠唱もできないおバカさん相手には、その程度でじゅうぶんですわ」
「ううう……」

 お嬢様の命令には逆らえない。ミーアは観念してウェンディの言葉に従った。





 ワイン製造で財を成したナーブレス公爵家のフェジテ邸は広大だ。
 民家の敷地並の広さのある地下室の床に召喚用の魔方陣を描いたウェンディはミーアの用意した供物を確認し終えると、剣を手にして呪文を唱えた。

「アタル・バタル・ノーテ・ヨラム・アセイ・セメタイ・プレガス・ペネメ・フルオラ・ヘアン・アラルナ・アビラ・アエルナ・アイラ。五の目、天宮、双魚の四角。われ汝に乞い願う。天と地とすべての物を創りたまいし大いなる救世主の名において、汝がわれを煩わせず傷つけず即刻あらわれ、わが命令に応えんことを。アギオス並びにイスキロス、エジェルアセルの名において、われここに乞い願う。エロヒムよ、エサイムよ、わが呼び声を聞け」

 特定の、名のある悪魔を召喚・使役するような魔術ではなく、汎用の召喚呪文だ。それももっとも低レベルな、翼の生えた猫や大ヒキガエルといった悪魔のなかでも最下層に位置する雑多な存在を召喚するよう術式を調整してある。
 たとえ制御に失敗して魔方陣の外へ出られたとしても、アルザーノ帝国魔術学院2学年次2組でも一二を争う実力者である自分なら対処できる。
 ウェンディはそう信じていた。

「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、エロイムエッサイム!」

 魔方陣内の空間が異音を立てて歪み、なにものかが現れる。

(え、人間? 男の人……?)

 硫黄の臭いとともに醜い怪物が現れると思い込んでいたウェンディの前に出現したのはひとりの青年だった。
 東方の武闘僧のように剃りあげた頭、身にまとった黒衣の士官服のような服はどこか鴉を思わせる。
年齢はウェンディとおなじか、少し年上に見えた。

(ううん、見た目に惑わされたりなんて、しませんことよ!)

 悪魔が召喚者を油断させるよう、美男美女の姿を装って顕現する。そのような話はよく聞く。

「悪魔よ、まずわたしを傷つけないと誓いなさい!」
「……ヘソ」
「なんですって?」
「その服、ヘソが丸見えなんだが……」
「お、おヘソは関係ありませんわっ!」

 思わず両手でガード。

「いや、隠すくらいならそんな服着るなよ……」

それが、ウェンディ=ナーブレスと賀茂秋芳との最初のやり取りであった。 

 

魔術の国の異邦人 2

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』10巻はいよいよ明日発売。
 いつもの富士見ファンタジア文庫の発売日とは異なるので注意。 

 
 気がつけば地下室のような場所に立っていた。
 床には魔方陣が描かれ、自分はその中心にいる。まるで何者かの呪法によって召喚でもされたかのような状況。事実魔方陣には召喚用の術式が込められている。

(結界か……)

 召喚だけではない。魔方陣内にいる任意の存在を外に出さないよう結界も張られていた。

(だが、雑だな)
 
 目の前で悪魔だなんだと、意味不明なことを騒ぎ立てるヘソ丸出しのツインテール少女を無視して周囲を注視する。
 結界による拘束はあくまで地上部分のみ。しかも自分ひとりにしか作用していない。これならば土行術で床面に潜ったり、穴を開けて外へ出られる。

「なぁ、ここから出してくれないか」
「ならその前にわたくしを傷つけないと誓いなさい!」
「…………」

 少女の言葉に呪術的拘束力は感じられない。甲種言霊でこちらの行動を制御される可能性はないようだが、即答ははばかられた。
 呪術者にとって口約束もまた呪なのだ。めったなことは口にできない。
 一見無害な少女のように見えるが、とんでもない極悪人ということもありえる。その場合はそれなりの対応をすることになるのだが、ひとたび口にした言葉をたがえるのは後味が悪い。

「そっちにそのつもりがないのなら、勝手に出るさ」
「な、なんですって!?」

 石床に手をついて呪を唱える。

「命土行遁、移动。疾く!」

 土行に命じて遁ず、移れ。いわゆる土遁の術だ。結界の下を潜って外に出るつもりだったのだが、術は効果を発揮しなかった。

「なに!?」

 術をしくじったわけではない。たしかに成功した。それにもかかわらず発動しないのだ。

「命土行遁、移动。疾く! 疾く! 疾く!」

 おなじ術を二度三度と試みるも、結果は変わらず。

「ふふん、なにやらあやしげな術を使おうとしているようですけど、無駄ですわよ。わたくしの作った魔方陣にわずかな瑕疵もございませんわ!」

 得意気に胸を反らすウェンディ。だがそんなことはない。封印系の術式など組み込まれていないと、秋芳の見鬼は視ていた。

「ならば――」

 その場で奇妙な足踏みをする。帝国式陰陽道に伝わる禹歩。霊脈を通って別の場所に瞬間移動する呪術だ。
 むき出しの土がある場所と異なり、整地された石畳の上からでは長距離移動は不可能だが、この結界の外に出る、ほんの数メートル程度の移動なら造作もない。

「…………」

 だが禹歩もまた効果を発揮しなかった。たしかに発動した手応えはあるにもかかわらず――。

「ちょっと、なに奇妙な躍りなんてしていますの。ダンスをなさりなさいなんて命じてなんていませんわよ」
「ええい! タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」

 魔方陣はごく普通の白墨。チョークによって描かれている。水天の真言で水流を発射して洗い流すつもりだったが、これまた不発に終わった。

「禁術則不能現、疾く!」

 術を禁ずれば、すなわち現れることあたわず。

 力業で強引に解呪しようとする。だが自家薬籠中の持禁の術すら発動しない。

「どういうことだ……」

 術を封じられたわけではないのに術が使えない。今まで例のなかった出来事に呆然とする。

「なにやら悪魔の邪法をこころみているようですが、このウェンディ=ナーブレスの魔方陣は完璧、完全。無駄な抵抗はあきらめたらいかがかしら」
「ウェンディ=ナーブレスというのが君の名前か?」
「そうですわ――ハッ!!」

 真の名を知ることで対象を束縛する。
 悪魔や魔術に長けた存在に安易に名前を教えてはいけない。
 そのような言い伝えがある。
 手持ちの召喚呪文書にもそんな記述があったはずだ。
 そのことに名乗ってから気づいたウェンディが思わず口を押さえる。

「ウェンディ=ナーブレス。俺をこの魔方陣の中から出せ」

 甲種言霊。
 呪力が乗せられた言葉によって相手の精神に干渉し、言葉の内容を強制させる呪。
 幻術系とならんで秋芳の不得意とする呪だが、相手の霊力ははるかに格下。さらに名前を知っていることによる有利な条件によってやすやすと術中におちいるはずだったのだが――。

「こ、答えはNOですわ!」

 これまた不発に終わった。

「なんてこった、いったいなにがどうなっているんだか……」

「次はわたくしが質問する番ですわ。悪魔よ、あなたの真の名を教えなさい!」

 どうやら相手に名が知られても問題はないようだ。では逆の場合はどうか? 真の名を知って召喚モンスターを支配する。いかにもサモナーらしいではないか。
 ウェンディは期待を込めて訊ねる。

「俺の名は……」

 真の名など、大層なものは持ち合わせていない。忌み名という考えがあるが、いくつもの名を名乗ったところで『その名前は自分を指している』と認識した時点ですべての名はおなじものとなる。
 これがこんにちの呪術界の定説だ。
 素直に名乗ろうとしたが、言葉につまる。
 思い出せないのだ、自分の名を。
 寝起きの、頭に靄がかかったような茫洋とした感覚。


(俺の名は……名前は……)

「……賀茂秋芳」

 たっぷり十秒ほどの時間をかけてなんとか自分の名前を思い出すことができた。

「はぁぁ!? カモ・アキヨシだなんておかしな名前ですこと。……カモ・アキヨシよ、このわたくしウェンディ=ナーブレスを絶対に傷つけないと誓いなさい!」
「いや、それは約束できないな」
「なんですって!」

 どうやら悪魔を「名前で縛る」方法は使えないらしい。

「まったく、なんなんですの。きちんと呼び出したのに言うことを聞かないし、この本に書いてあることって信用できませんわ」

 いぶかしげに手にした本のページをパラパラとめくって、内容を確認しだす。
 表紙には英語でも日本語でもない――強いていえば英語に似ている、見なれぬ文字が書かれている。

 『初心者必読! ゼロからはじめる召喚魔法』

 秋芳の知識にはない文字にもかかわらず、そう書かれているのが読めた。

(なぜだ、なんであんな文字が読める? いや、そもそもさっきからこの娘は何語でしゃべっているんだ!?)

 あまりにも自然に聞き取れていたので疑問に思うこともなかった。耳に入る言葉は聞きなれない旋律の異国の言語として耳に入るのだが、頭には日本語として伝わってくるのだ。

(あれ? なんか前にもこんな珍妙な二か国語放送を経験したような……)

「カエルの目玉、コウモリの羽、君影草の花、人の魂だとごまかすための雌鳥十羽、etc、etc ……。必要な触媒はきちんと用意してありますのに、おかしいですわね」

(あのときは……、あのときって、いつだ? いや、というかそもそも俺はだれだ? 『賀茂秋芳』という俺はだれなんだ!?)

 呪禁の血筋――葛城山――賀茂家の養子――京都――数多の裏働き――百鬼夜行――陰陽塾――。
やはり、記憶が混濁している。
 プロフィール欄に書かれているような、過去のことを断片的に思い出すことはできるが直近のこととなると思い出せない。
 鮮明だったにもかかわらず、見終わった後にボヤけてしまう夢の内容のように。

「まったくだれですの、この本の著者は。出版元に問い合わせをして謝罪を要求させましょうかしら」

 おたがいに自分の考えに没頭していると、息急き切ってミーアが駆けつけてきた。

「す、す、すみません! すみません、お嬢様~。材料、まちがえちゃいました~」
「なんですって!?」
「お塩だと思ったらお砂糖。バタタ芋じゃなくてタロ芋でした~」
「んまぁ! 触媒に誤りがあればまともに起動できなくてよ」
「塩はともかく芋って、肉じゃがでも作るつもりか。どんな悪魔召喚だよ」
「種から育たず、芽に毒のある芋類は大昔に聖エリサレス教会教皇庁が異端認定したことがありますし、悪魔召喚の儀式に使われても違和感ありませんわ」
「そうか~? て、ちょっと待て。ここはヨーロッパか?」
「ここは栄えあるアルザーノ帝国はフェジテにあるわたくしの家。ヨーロッパなんて国も街も、存じませんことよ」
「……いまは、西暦何年だ?」
「聖歴一八五X年ですわ」

 西暦。AD(アンノドミニ)ではなく聖暦。
 
「……新聞は、あるか?」
「ありますけど、それがなにか」
「もってきてくれ」
「あなたに指図される謂れはなくってよ」
「いいから早く!」
「わ。わかりましたわ。しょうがないですわね……」

 妙な迫力に負けてミーアに新聞をもってこさせる。
新聞にはかつて高い税金がかけられており、富裕層にしか読まれないものだったが、今世紀に税金が廃止されたことと印刷機の発達によって低価格で手に入るようになり、大衆新聞も広がった。
 ミーアがもってきたのも使用人たちが読んでいる大衆紙だ。

 『オルザーノ~フェジテ間の鉄道整備。実用化はまだ先か』『シーホーク、堤防の老朽化問題』『サイネリア島リゾート開発進む』

 英字に酷似した文字でそのような記事が書かれているのが、秋芳にはなぜか読めた。そしてウェンディの言ったとおり記載された日付は西暦でも平成でもない、聖歴というのが使われている。

「まさか、そんな、タイムスリップどころか異世界じゃないか……パラレルワールド――十一次元――超弦理論――ユークリッド空間――いいや、カラビヤウ多様体とM理論が――ぶつぶつぶつぶつ――」

「は? なんですの?」

「永遠に循環する円環が存在し、もう一方には不可逆的一方的な時間の直線があり――前者をインド・ギリシア型時間といい時間に対する空間の優位を――直線的時間の概念はユダヤ・キリスト型時間とする――インド・ギリシア型時間概念は多神教に通じ、ユダヤ・キリスト型のそれは一神教に通じ――循環的時間の概念を――ぶつぶつぶつぶつ」

「お嬢様、この人はどなたですか? なんだか現実逃避しちゃってるみたいですけどぉ」
「……そっとしておきましょう、なにやら惑乱なさっているみたいですし」

 こちらの声は届きそうにない。時間を空けて、夜にでも様子を見に来ましょう。ウェンディはそう判断して地下室を後にした。

「『異次元騎士カズマ』って言葉が通じないから最初必死になって言語をおぼえたんだよな。その点俺は言葉の壁がないぞ、わーいわーい。異世界ものの元祖ってなんだろう? 高千穂遙の『異世界の勇士』か? いや、『異境備忘録』とか平田篤胤の『仙境異聞』なんてのもあったな。あれは今でいうラノベなのかな。『幻夢戦記レダ』って菊地秀行がノベライズしてたんだよなぁ。バローズの火星シリーズとか、『発狂した宇宙』とか『アーサー王宮廷のヤンキー』とか、異世界ものは古今東西枚挙にいとまがない、ひとつのジャンルともいえるのだから、飽きたとかいうやつは無理に読まず素直に別の作品を読めばいい。あ、そういえば『天空戦記シュラト』の小説版て完結してないよな――」

 あとに残された秋芳はうつろな目をしてぶつぶつと独り言をつぶやいていた。 

 

魔術の国の異邦人 3

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』10巻。
 本日発売! 

 
 ウェンディ=ナーブレス。
 不器用かつ少々どんくさく、肝心なところでドジを踏む――。
公爵家の令嬢を相手に面と向かってそのように評する人はいないが、実のところウェンディはドジっ娘だ。
 召喚した悪魔(?)が謎の放心状態になってしまったため、少し間を空けて夜にでも様子を見ようと決めていたのだが、夕食後に観に行ったオペラの余韻に浸っているうちにその日は就寝。
 次の日は商人ギルドの有力者を招いた晩餐会がいそがしく、自分が召喚した存在のことを思い出すこともなかった。
 次の日も、その次の日も勉学や雑務に追われたり趣味に没頭しているうちにすっかり忘れてしまった。
 彼女が地下室にいる被召喚者のことを思い出したのはミーアとの雑談中、 近ごろ帝都で流行している青少年向け小説について雑談している時だった。

「――そのツンデレ胸ぺったんの落ちこぼれ女の子が、使い魔として自分のパートナーを召喚する儀式で失敗してしまい、べつの世界から少年を召喚しちゃうんですよ」
「まぁ、悪魔や魔獣ではなく異世界から生身の人間を呼び出すだ、なん、て……」
「お嬢様?」
「あ」
「あ?」
「ああああ」
「ロトの血をひく勇者ですか?」
「ちがいますわ! あの地下室で呼び出したヘンテコな悪魔もどきのこと、わたくしとしたことがすっかり失念していましたわ」
「え? ええ~!? あれからもう一週間も経っていますよ、平気なんですかぁ?」
「ミーア。あなた、彼に食事とか用意してあげたりはしていませんの?」
「していませんよ~、そんなこと言われていませんし」
「あ、悪魔なら、悪魔ならなにも口にしなくても平気ですわ!」

 人間が飲まず食わずで生き延びられる限界は三日間だと、一般にはいわれている。
 口では悪魔と言うが、さすがにもう本物の悪魔だとは思っていない。大慌てで地下室へと急行する。
 干からびて死んではいないかと危惧していたウェンディの目に映ったのは浴槽に浸かりながらリンゴをかじり、読書をする秋芳の姿だった。

「遅い!」
「んまぁッ!?」
「遅い。糧食を絶って弱らせて言うことを聞かせようとでも考えていたのかも知れないが、遅すぎだ。死んでしまったら元も子もないぞ」
「誇り高きナーブレス家の人間はそのような卑劣なことはいたしません! あなたのことをきれいさっぱり忘れてしまっていただけですわ」
「いやぁ、それもっとたちが悪いぞ」
「そんなことよりも、いったいどこからこんなにたくさん持ってきたんですの?」

 なにもなかったはずの魔方陣の中には秋芳が浸かっている浴槽のほかにも大皿に盛られたパンやチーズ、葡萄酒の瓶。それに動物図鑑や植物図鑑などの百科事典類、旅行記や地図、偉人伝、歴史書、医学書、初歩の呪文書といった書物の類いが山と積まれていた。

「いったいどこからこんな……。まさか、アポート? あなた、悪魔ではなく魔神だったんですの?」

 ランプの魔神。ジンとも呼ばれ、封印されているランプを磨くことで現れ、呼び出した相手の望む物を魔法の力で取り寄せてくれるという。
 おどろきに目を見張るウェンディの視界に異様なものが映った。
 浴槽の影に毛のない猿のような生き物がじっとこちらを見つめている。

「インプ!」

 インプ。
 暗褐色の肌をした小型の妖魔で、体毛は無くコウモリのような翼とトカゲのような尻尾を生やしている。もっとも低級な悪魔の一種とされ、外道魔術師のなかには好んでこの奇怪な生物を使い魔にする者がいるという。最初にウェンディが呼び出そうとしていた悪魔こそ、このインプのような小悪魔だ。

「コール・ファミリア、で召喚したんですの……?」

 コール・ファミリア。
 あらかじめ契約をしている使い魔を召喚する呪文。使い魔の種類は術者次第で、ネズミや梟といった小動物や自己作成したゴーレムなども遠隔召喚することができる。

「コール・ファミリアってのは、ここに書いてあるやつか?」

 秋芳が手にした本のページをめくって指さす。本の題名は『初心者必読! ゼロからはじめる召喚魔法』。ウェンディが秋芳を召喚する参考にした、初心者向けの召喚魔法書だ。

「あ、あなた。それはわたくしのものですわよ!」

 秋芳に駆け寄り、その手から本を奪う。

「この本だけではありませんわ、ここにある物すべてわがナーブレス家じゃありませんこと? あなたインプを使って……」
「勝手に持ち出したのは悪かったな。だがこうでもしないと飢え死にするところだったんだ」

 そう言ってまたひとくちリンゴをかじる。

「このバスタブもそう。俺は戦後の日本、平成生まれの文明人なんでな。毎日風呂に入って身を清めないと、どうも落ち着かない。綺麗好きなんだよ」
「んまっ」
 
 相手が一糸まとわぬ姿であることに今さらながら思い当たり、赤面する。

「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半。なんて言葉があるが、閉じ込められて狭い空間で食事と排泄と入浴をするのは不便極まりない。こんな羽目になったのもそちらのせいだ。一方的に責められる筋合いは――」
「わかりましたわ! わかりましたからまずは身体を拭いてなにか羽織っていただけませんこと? お話は、それからですわ」
「服をもらえるか? 着ていたやつは洗濯してまだ乾いてないんだ」
「ええ、かまいませんわ」
「ありがたい。ではついでに新しい葡萄酒も一本つけてくれないか? これとおなじやつがいい。実に格別の味だ」
「とうぜんですわ。それはナーブレス家が製造している逸品ですもの」
「口にふくんだ瞬間広がるラズベリーのような芳香、凝縮された果実味。紅玉のような鮮やかな色とのど越しの良さが癖になりそうだ」
「おーっほっほっほっほ、そうでしょう。あなた、舌はたしかみたいね。なんでしたら別のものも差し上げてあげましてよ。おほほほほ」
「最初に名乗ったが俺の名前は賀茂秋芳。悪魔でも魔神でもない。ただ少々まじないの類が使える。いや、使えた。ここに、この世界に来るまでは」
「そのようみたいですわね、現にこうしてインプを召喚していますもの」
「ちがう」
「これはあなたのインプではなくて?」
「俺は別のものを呼び出そうとしたんだがな……」





 秋芳が混乱していた時間はそう長くはなかった。
 とりあえず現状を受け入れて、できることをしよう。
 落ち着きを取り戻したあと、あらためて魔方陣からの脱出を試みたのだが、ほとんどの術は不発に終わり、まったく効果を現さなかった。
 神道系、仏教系、道教系、修験道といった宗教系は全滅。木火土金水、いつつの元素を源にする五行術も同様。
 
「この魔方陣は俺にしか、内部にいる者にしか影響をおよばさない。外から破壊できないものか」

 手持ちの簡易式を作成したところ、なんと発動できた。ただし、不完全な形で。

「なんだこいつは!?」

 デフォルトで組み込まれている影法師の姿ではなく、悪魔じみた奇怪な外見の妖魔インプ。
 なんどやり直しても変わらない。
 しかも呪力の消耗がやたらと激しい。本来の一〇倍以上の消耗を感じる。
 さらに式の操作、感覚の共有も困難だった。
 自身の手足のように操り、見たもの聞いたものを知り得るはずが、かなり集中しないとそれがままならない。
 まるで呪術を覚えたての頃に戻ったかのようだ。
 それでも式が作成できたのはありがたい。さっそく魔方陣の破壊を試みたのだが、ごくごくわずかに込められている退魔の力に阻まれて破壊はできなかった。
 もどかしさに焦燥しつつも外部との接点が持てたので水と食料を確保。ライフラインの維持ができたら次は情報収集。
 この世界のことを少しでも多く知るために書棚から何冊か本を借りて読む。

火素(フレメア)水素(アクエス)土素(ソィレ)気素(エアル)、……これがこの世界を司る根源素(オリジン)。パラケルススの提唱した四大精霊とほぼおなじか。陰陽五行が世界の根本である俺の世界とは根本から違う。世界の法則が異なるから呪術が使えないのか」
「だが気を読むことはできる。見鬼の力はなぜ無くならない? 周囲に満ちる五気はなんだ? ……これは、錯覚か? 本来ならば気素であるところを、俺の脳が木気か金気のいずれかだと認識している」
「見鬼のように生来備わっている機能は損なわれないのか? ではなぜ式を作ることができたんだ、しかもこんな不完全な形で。互換性……、この世界でも再現できる異能はある程度は再現可能なのだろうか」

 ふたたび混乱しそうになる頭を落ち着かせ、書を漁る。
 公用語らしい英字もどきは読めるのだが、それ以外はさっぱりだった。

「……召喚された時点で俺はこの世界にある程度は受け入れられている。だからこそ基本的な読み書きは可能なの、か……?」
「エルフ語、ドワーフ語、ゴブリン語、マーマン語、ケンタウロス語、下位古代語にこれは……魔法語? ルーンだと! エッダ詩に記されているものと同様のものか。だが、数が多い。俺のいた世界のそれよりも種類が豊富じゃないか!」

 ルーン。
 アイスランドの神話であるエッダに書かれた物語によれば、知恵の神オーディンはさらなる知識を求めて自らを生贄にして儀式をおこなったという。
 おのれの身を槍で刺したうえにトネリコの枝で首をつったのだ。
 九日九晩、彼の意識は冥界へおもむき、そこで秘密の文字を得る。それこそが魔力を秘めた文字、ルーンだ。
 ルーンは梵字など、人間の作った文字とは異なり、神々の手による神秘文字なのだ。
 秋芳のいた世界、ヨーロッパで使われている文字はラテン語とキリル文字、ギリシア文字の三種であるが、古代では多数の民族がそれぞれ固有の文字を使っていた。
 しかしそれらの文字はほとんどラテン語に席巻されて消えてしまった。
 ルーン文字もそのひとつであり、このルーン文字は二四文字からなる。
 ヴァイキングが使用した第二のルーン文字は一六文字からなり、こちらは解読も容易におこなわれているが、こちらは魔術関連のものではなく、ルーンの魔力解明には至っていない。第一のルーンにこそ真の魔力が隠されているのだ。

「これが、この世界の呪術。いや魔法、魔術、呪文か……」
「実に興味深い。かつて土御門夜光は西洋魔術と東洋魔術の融合を考えていたというが、これは、これを習得すればセイズ魔術やガント魔術すらも……」

 呪術者としての純粋な好奇心がむくむくと鎌首をもたげる。

「せっかく呼び出されたんだ、こいつは習得して帰らなきゃ損だぜ」

 魔法、魔術、呪術――。
 これらは真の力のひとつであり、一般人が忌み嫌って敬遠したり、金持ちや政治家が楽しい娯楽としてあつかったりするものではない。
 世界を形作り、命の創造と破壊をおこなうことにはそれなりの敬意を払い、研究するべきだ。
なによりも好奇心。
 未知なるものに対する純粋な好奇心を妨げることはできない。

「――というわけで魔術を教えてくれ」
「なにが『というわけで』ですの!」
「いや、今の説明通りだよ」
「魔術の修行がお望みならわたくしの通うアルザーノ帝国魔術学院がもっともふさわしいと言えますわ」
「ああ、そのへそ出し制服の……」
「おへそはどうでもよくてよ! ……こほん、ですが入学するには適性があるかの診断を受けてもらう必要がありますし、それに合格しても座学と実技。ふたつの試験がありますわ。なによりも身元の確かな方しか入れませんし、庶民にとっては高額といえる入学金も必要になりますの」
「なら後見人になってくれ。金はなんとか稼いで用意する」
「な、なんでわたくしがそこまでしなければなりませんのっ」
「相手の意思を無視して勝手に呼び出したあげく、路頭に迷わせるつもりか。それがこの国の貴族のすることなのか? 官位や爵位のない平民は動物といっしょで、その日の気分で拾い、その日の気分で捨ててもなんとも思わないのか」
「そこまで言っていませんわ! ……そうですわね、まずは使用人の末席に入れてさしあげますから、住み込みで働かせてあげますわ。そこで貴方の価値を示してくださらない? 信用できると判断したら入学の件を考えてあげますわ」
「いいとも、薪割りでも荷物運びでも芋の皮剥きでも、10フィートの棒を持ってダンジョン探索でもなんでもするぞ。――新しい生活に乾杯だ。……この葡萄酒はさっきのとは別だな。エスプレッソやチョコレートを思わせる香りが完熟した葡萄を感じさせる。ほどよい渋味と余韻の長い軽やかな口あたりが肉料理に合いそうだ」
「まぁ! 奇遇ですわね、わたくしもおなじように思っていましたの。なんならもう一本べつのものもお飲みになるかしら」

 こうして、賀茂秋芳のルヴァフォースでの生活がはじまった。
 

 

ロクでなしども、出会う

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』10巻。
 本日発売!
 大切なことなので二度投稿しました。 

 
 清水義範という人の作品に、二一世紀初頭の東京で暮らす若者が時間をさかのぼって一九八〇年に迷い込むSF小説がある。
 テレビを消したりチャンネルを変えるには立ち上がってそこまでいかねばならない。缶ビールの蓋を開けると、蓋のつまみが取れて指にぶら下がる。ガラケーはおろかスマートフォンもない。インターネットで情報を得ることもできない。
 主人公は大いにとまどった。
 わずか半世紀にも満たない短い間だけでも、ここまで大きな違いがある。
まして蒸気機関やガス灯が普及しはじめたばかりという、元の世界よりも文化や文明の低い異世界に飛ばされてはどうだ。
 秋芳の飛ばされたのはそんな世界だ。
 電気もインターネットもコンビニもカップラーメンも水洗トイレもない(魔術関連や富裕層など一部の人たちの住まいにはある)。スマートフォンはただの金属の板切れと化す、そのような世界なのだ。
なじんだ世界との違いを克服するには、とにかくその世界で生活することだ。
 そして生活するというのは、働くことである。
 秋芳は働いた。
 薪割りや買い出しといった屋敷での雑用から、街中での路上清掃や下水処理。
 ウェンディからの個人的な依頼で、錬金術で使う素材を集めたりもしたし、貴族らの遊興のお相手や、狩猟の勢子も務めた。





「――一〇日で一〇万本の矢を用意できるかと言われた諸葛亮。しかし彼はなんと一〇日どころか三日で用意すると宣言したのです。軍中で戯言はご法度、前言を翻すことはできません。もし三日で一〇万本の矢を用意できなければ処断されることになりました。しかし諸葛亮、それから二日の間はなにもせず、期限の前夜に二〇艘の小船に藁の人形をならべて深い霧の立ち込める中を敵の陣へと向かいました」
「藁のゴーレムかしら? でもストローゴーレムなんて聞いたことありませんわ」
「もう夜も更けてきましたので今宵はこれまで。続きはまた明日の番に……」
「ちょっと、そういう焦らしはいらなくてよ!」

「侮辱を浴びせられたアンドレは思わず手にしていたショコラを投げつけ、一喝しました。『そのショコラが熱くなかったのをさいわいに思え!』と」
「アンドレ、なんて情熱的! でもなんでショコラは熱くなかったのかしら?」
「それは……、オスカル様はぬるめのショコラを好んでいたからです」
「あら、わたくしもぬるいショコラが飲みたくなりましたわ。ミーア、用意してちょうだい」
「はい、お嬢様」

 一番受けが良かったのがこのような語り聞かせだ。芝居や小説はあっても映画やテレビ、ラジオもない世界で物語ものは貴重な娯楽なのだ。
 さらにフェジテの南西にある港町シーホークまで足を延ばし、港湾労働者たちにまざっての荷運び作業など、秋芳はよく働いた。
 労働もまた知識を得るための手段だ。
 知識を得る、すなわち魔術を習得する修行のひとつだ。
 この世界についてのことを少しでも多く知るよう、秋芳は様々な仕事に手を出した。
 秋芳は、働いて、働いて、働きまくった。
そして学んだ。
 一般常識や基礎教養、神話や伝説、歴史や地理、芸術や文化――。
 この世界のことはなにも知らない。生まれたばかりの赤子にひとしいほど無知なのだから、必死になって学んだ。
 陰陽師にとって知識の有無、多寡は命の次に大事なことなので、それはもう寝る間も惜しんで学んだ。
 そう、文字通り寝ている間にも学習した。
 出神の法をもちいたのだ。
 出神の法。いわゆる幽体離脱だ。
人の魂は魂と魄、ふたつの霊体からなり、魂は精神を支える気にして陽に属す陽神。魄は肉体を支える気にして陰に属す陰神。このふたつを合せて魂魄と呼び、これこそが魂である。
 陽神のみの幽体離脱では意識はあっても肉体がないため物をつかんだり人に触れたりはできず、陰神のみでは疑似的な肉体こそあるものの本人の意識がなく、ただの肉人形に等しい。
 陰と陽。魂と魄を合わせて体外に出すことではじめて半体半霊の分身を作り出すことができる。
 他の陰陽術同様に使用不可能にならなかったのは僥倖だった。見鬼とおなじく自身の気を直接もちいるような術はある程度は再現可能。融通が利くらしい。
 あるいは式神作成がコール・ファミリアになったように、このような魔術がこの世界にも存在しているからだろうか――。
 もっともこれも不完全な発現であった。
 まず脆い。
 わずかな衝撃で霧散してしまうし、駆けたり殴ったりといった激しい運動もできない。
 少しでも大きい、重いものを持ち上げようとするとすり抜けてしまう。
 具現化できる気の総量が薄いのだ。
 また本人の身体からあまり離れることもできない、せいぜい目の届く範囲にしか飛ばせない。
元いた世界であれば簡易式の強化版として戦闘やおとりにつかえたが、これでは心もとない。
 それでも本を読む程度のことはできる。だから秋芳は肉体が睡眠をとっている間にも書物を漁り、知識を得た。
 寝ている間にも勉強ができる。まことに便利な術だが、欠点と言えばきちんと寝た気がしないことだろうか。とうぜん夢を観ることもない。
 酒や女とおなじくらい惰眠を貪ることを好む秋芳にとってはあまり好ましくない術ではあるが、いまは知識欲のほうが勝っていた。





 ナーブレス邸厨房。

「いま帰りました、料理長」
「おお、おかえり。シーホークはどうだった?」
「潮風が気持ち良かったですよ」
「そうだろう、そうだろう」
「はじめてフェジテの外に出ましたが、このあたりの街道は立派ですね。きちんと舗装されていて馬車がほとんど揺れなかった」
「とうぜんさ、なにせアルザーノ帝国魔術学院のある都市だからね。みすぼらしい道なんて恥ずかしくて造れないよ。すべての道はフェジテに通ず、さ」
「異世界ファンタジーだから、ちょっと道を歩いているだけで熊やサーベルキャットに襲われて骨折熱や知減病になったり、街中でもドラゴンや吸血鬼が平気で襲撃してくるかもと思ってヒヤヒヤしていました」
「アキヨシ、きみはたまに変なことを言うね」
「むこうでいくつか酒を買ってきたので、よかったらみなさんでどうぞ」
「おお、気が利くじゃないか。ナーブレス邸で働いていると良いワインが安く飲めるんだが、葡萄酒ばかりってのも飽きるからね。きみもいっしょに飲みなよ」

 屋敷や庭の規模にくらべると、使用人の数は少ない。これは魔法で呼び出したお手伝い妖精ブラウニーがほとんどの仕事をこなしているからだ。
極端な話、ブラウニーを使役できる魔法使い(この場合ウェンディ)がひとりいれば家事全般は彼らに一任してもいい。
 ただ公爵家であるナーブレス家には世間体や見栄というものがあるし、生身の人間にしか頼めないデリケートな仕事というのもある。
 そのためにある程度の人数の使用人を雇う。
 秋芳はそう多くない人数の使用人たちとはすっかり打ち解けていた。

「っかーッ! さすがオーガ殺し。効くぜぇ」
「無理せずにゴブリン殺しあたりにしとけよ」
「おいおい、あんなの酒のうちに入らないぜ」
 
 同僚の使用人たちが秋芳の手土産を飲んでは酒精の混ざった息を吐く。
 この国ではアルコール度数の高さを○○殺しと表現するのが流行っているらしい。
 アルコール度数ひとけたのものはコボルト殺し。
 一〇度以上はゴブリン殺し。
 ニ〇度以上はオーク殺し。
 三〇度以上はケンタウロス殺し。
 四〇度以上はオーガ殺し。
 五〇度以上はトロール殺し。
 六〇度以上はワイバーン殺し。
 七〇度以上はジャイアント殺し。
 八〇度以上はドラゴン殺しといったぐあいで、九〇度以上のものはドワーフ殺しという。
 この世界のドワーフも酒には滅法強いらしい。

「あまり強い酒を生のまま飲むと胃に穴が開きますよ。ライムやミント、トニックウォーターもあることだし、なんぞカクテルでも作りますか」
「カクテルってなんだい?」
「カクテルですよ、カクテル」

 ? ? ? ? ?

 みんなの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

「いや、カクテルというのは、えーと――ベースとなる酒に他の酒やジュース。果物とかを混ぜて作るアルコール飲料のことで」

 あたりまえのことを改めて説明するのはむずかしい。思わずウィキペディアのコピペみたいな説明になってしまった。

「せっかくの酒に混ぜ物をするなんてもったいない!」
「酒を薄めるなんて邪道だぜ」
「果物やジュースを入れるなんて女子供の飲み物じゃないか」

 どうもカクテル文化には馴染みがないようだ。
 それなら直にお見せしようとジンにライムの搾り汁、シロッテの樹液を入れてギムレットもどきを作ってみせる。
 秋芳が作るカクテルをゲテモノ料理を見るような目つきでながめる料理人達。
 氷がないので入れられず、ミキシング・グラスやシェイカーもなしで作るのははじめてだが、できたものをスプーンでひとくちすすって味見すると、悪くはない。

「うん、美味い。メジャー・カップがないんで目分量たが、上手くできた。だまされたと思って飲んでみてくれ」

 恐る恐る口にする料理人達。

「こ、これは!?」
「どうだ、悪くないだろう?」
「う」
「う?」
「うー、まー、いー、ぞぉぉぉぉっっっッッッ!」
「いや、そんなミスター味っ子みたいなリアクションするほどじゃ……」
「あんた、すげえな! こんな革命的な飲み方知らなかったぜ」
「そんな大げさな……ハッ! これはあれか? 異世界ものによくあるアレなのか? 肉を両面焼きしたり金貨を一〇枚まとめて数えたり、椅子と机に座って食事しただけで天才呼ばわりされる、アレなイベントか!? なんてこった、俺はカクテルでそれをやっちまったのか……」

 嬉しいやら恥ずかしいやら、赤面して変な汗が浮いてくる。

(いやまあ、考えすぎか。酒になにかをくわえる飲み方なんて紀元前からあるんだし、たまたまここの人たちに酒を混ぜて飲む習慣がなくて『カクテル』という言葉を知らなかっただけにすぎない)

 カクテルの歴史は古く、紀元前のエジプトではビールに蜂蜜や生姜を入れて飲んだり、ローマではワインに海水を入れて飲んでいた。唐の時代の中国でもワインに馬乳を加えた乳酸飲料が飲まれていたと伝えられている。
 江戸時代の日本にも柳蔭(やなぎかげ)という、焼酎と味醂のカクテルが存在する。
 人は古くから酒になにかを入れて味わっていたのだ。

「なに突っ伏してるんだアキヨシ。なぁ、他にもなにか作ってくれよ」
「ああ……、それじゃあ次はモヒートでも作るか」
「美味い! もう一杯!」
 
 あるもので作れるだけのカクテルを作っているうちに興が乗り、もはやカクテルなのかチャンポンなのかわからない代物をみんなでがぶ飲みして夜が更けていった。





 魔術学院を擁するフェジテは他の都市にくらべて文化的な気風がある。
 それでも荒っぽい連中はいるし、いかがわしい店が軒を連ねる場所もある。
 どんな街にも表の顔と裏の顔。光と影があり、いま秋芳が歩いている下町の裏通りはフェジテの暗部。そんな場所だ。

「さあさあ、お立ちあい。御用とお急ぎでなかったら見ていっておくれ。手前ここに取り出だしましたるはトロールの脂肪。これを塗ればどんな傷もあっという間に治ってしまうという――」
「綺麗な安物と光り輝く宝石があるよ」
「ちょいと兄さん、いい子がそろってますよ。一休みしてかないかい?」

 あやしげな口上の物売りやら、昼間から客を引くポン引きが声をかけてくる。
 油断をすれば懐の物をすられてしまいそうだ。

「さあさあ、はったはった!! はって悪いは親父の頭、はらなきゃ進まぬ帆掛け船」

 広場のそこかしこでカードやダイスを使った遊技がおこなわれており、積んである貨幣が賭け事であることを示していた。

「賭場か」

 普段の秋芳なら軽く無視して通りすぎるところだろう。彼はギャンブルが嫌いだった。
 まずシステムがいただけない。ギャンブルというものは必ず胴元がもうかる、客が損をする仕組みになっている。一度や二度のまぐれ当たりでアブク銭を手にすることはあっても、長い目で見れば必ず損をする。
 そんな遊びに手を出す輩は阿呆だ。
 公営ギャンブルなどもってのほかだ。競馬もパチンコも江戸時代にヤクザが仕切っていた賭場よりも高い寺銭を取っている。
 ただでさえ高い税金を徴収されているのに、さらに金を出すなど愚者の所業だ。
 ギャンブルだと認識している人は少ないが、 宝くじも似たようなものである。
 宝くじの寺銭(配当率)はおおよそ四八パーセント。これは仮に宝くじを一人で買い占めても半分は損するという計算になる。
 当選金が増えただの高額になっただの言うが、この数字が変動しない限り意味はない。
 そしてギャンブルで勝って得た金は負けた人の金だということ。
 お金というのは労働の対価、みずから働いてはじめて手にするものであり、だれかの不幸の上に成り立つ稼ぎなど盗んで手にした金にひとしい。そんな汚れた金はいらない。
 秋芳はそう考えている。

「あまり気は進まないが、先立つものが必要だしなぁ」

 アルザーノ帝国魔術学院の入学金は高く、入れたとしてもこれまた高額な学費を払い続けなくてはならない。今は少しでも多くの金が欲しい。
 秋芳は広場に入り、ひとつひとつの賭け事を見て回った。
 もっとも注目するのはゲームの内容やイカサマの有無ではなく、客だ。
ついている客とついていない客を探す。
 運が良い、悪いという意味のついてる、ついてないという言葉は本来ならば「憑く」と書く。憑依の憑く、だ。
 ギャンブルで大勝ちしたときに「今日はついている」と言う。負けたときは「ついてなかった」と言う。呪術にうとい一般人は意識していないだろうが、これらは「憑いてる」「憑いていない」と書かれるべきなのだ。
 すなわち超自然的な「何か」が作用した結果、ギャンブルに勝てたのである。逆に「何か」が作用しない。あるいは反対の方向に作用してしまったので負けるのだ。
 「何か」とはなにか?
 それは気。運気である。
 通常の見鬼で視える類の気ではない。だが一流の陰陽師は見鬼にたよらずとも気を読む術に長ける。
 秋芳は一時間ほど賭けに参加せず様子を見ていると大勝ちするような強運の持ち主はいないが、ずっと負け続きの男を発見した。

(今日こいつは憑いていない。だからわざとこいつの逆目に賭ける!)

「さぁ、黒出るか白出るか。どっちだどっち!」
「ええい、黒や!」
「なら俺は白で」

 男が二沢の片方に賭けたらその逆に秋芳が賭ける。
 男ははずれ、秋芳は当たる。
 
「く、くそーっ! こ、今度こそ……、白だ!」
「じゃあ黒」

 男ははずれ、秋芳は当たる。

「や、やっぱり黒!」
「白だ」

 男ははずれ、秋芳は当たる。
 これの繰り返しだ。
 逆に運気のある者がいたなら、その者の選択に乗っからせてもらい勝ちを拾う。
 陰陽師流のギャンブル必勝法だ。

「おまえ、さっきからなに人の逆目にばかりはってやがるんだ!」

 などと因縁をつけられる前に身を引くのがコツである。
 あまり大勝ちして周囲の気を引くのも厳禁だ。自身が大勢の人の運気の渦中にあっては気の流れを読むのがむずかしくなる。
 目立たず騒がず、地味に勝ち続けて確実に手元の金を増やしていく。
 
(そろそろ潮時かな)

「おい、こいつでいくらか貸してくれ」

 黒髪黒眼で長身痩躯の青年が着ていたローブを胴元に差し出して金をせびっている。

「お客人、うちは質屋じゃねえんだ。金の貸し借りもやってないし、いつもニコニコ現金払いが信条なんだよ。金がないならおとなしく帰ってくれ」
「そう堅いこと言うなって、こいつは上物だぜ。なにせ魔術学院のローブだからな」

(なに?)

 青年の言葉通り、ローブには学院の正式な講師職の証である梟の紋章が入っている。

「おいおい、いいのかい?」
「俺には重すぎなんだよ、こんなの。それよりも金だ金!」

 学院のローブには防御魔法がかけられていて見た目よりも丈夫だ。さらに暑さ寒さを和らげる種の魔法も付与されており、これを身につけていれば一年中快適に過ごせる優れものだ。こんな場所で叩き売っていい代物ではないのだが、賭け事に熱を上げ、頭に血がのぼっている青年には目先の賭け事のことしか頭にないようだった。

(もったいない。あれ、どうにか手には入らないかな。いや、それよりもあの男、学院の関係者か? ならいくらか貸して、ここでよしみを通じてみようか)

 そんなことを考えていると、見るからに堅気ではない風体の男たちが人ごみを乱暴にかき分けて出てきて秋芳を囲み、リーダー格とおぼしき巨漢が声をかける。

「ずいぶんと楽しそうじゃないか、オレとサシで遊ばないかい」

 喧噪に満ちていた広場が、水を打ったように静まり返った。

「あの兄さんついてないなぁ、ゴンザレスのやつに目をつけられちまった」
「見ない顔だが、ゴンザレス相手にバカな真似はしないでくれよ。とばっちりはごめんだ」

 そこかしこからひそひそと、そんなささやきが聞こえる。どうもこの男、ゴンザレスというヤクザ者らしい。
 街の用心棒気取りで横暴な額のみかじめ料を取り立てているチンピラ。秋芳はそう直感した。

「兄さんここらじゃ見ない顔だけど、ずいぶん稼いだなぁ。どうだい、ここらでもうひと勝負して運試ししようじゃないか。その有り金賭けて。もちろんオレもおなじだけ賭けるよ。兄さんツイてるから勝てばもうけは倍だ。なぁ」
 
 どうも一足遅かったらしい。勝ち逃げはゆるさないつもりだ。

「カードやダイスなんかじゃ物足りないだろう、ここはひとつフェジテ名物競鶏といこうや。勝負は簡単。あの木の下に餌を置くから、先にあの餌に食らいつくのはこの大きなほうか小さなほうか、どっちだ! 先に選びな、好きなほうを選ばせてやる」

「ゴンザレスのやつ、またなにかイカサマするつもりだぞ」
「あの兄さん、今からでも遅くないから早く詫び入れたほうが……」

「じゃあ、小さいほう」
「いいだろう、ならオレは大きいほうだ」

 ざわ……ざわ…ざわざわ……ざわ…ざわ……。

「そうこなくっちゃなぁ、さぁ今日一番の大勝負だ。いくぞぉ!」

 広場の端に二羽の鶏を置いてけしかける。
 けたたましい鳴き声をあげながら疾走する大小の鶏。

「おおっ、せっかくの大勝負だ。近くで見るぞ!」

 大金のかかった本日一番の勝負に、広場にいる全員が注目する。もし小さいほうが勝てばかなりの大金が手に入る。だがロドリゲスがおとなしく金を出すとは思えない。さらなる難癖をつけて血を見ることになるかもしれない。
 とばっちりは御免だが他人のトラブルには興味がある。どうなることやらと注視する人々の視線の先には大きな鶏を引き離して駆ける小さな鶏の姿があった。

「小さいほうが優勢だぞ!」

 小さいぶん体重が軽くて速いのだろうか、秋芳の賭けた小さな鶏がどんどん加速していく。

「こりゃあ小さいほうのぶっちぎりだ、勝ちにまちがいない!」

 ゴールである餌に食らいつく寸前。

「ワンッ!」
「コケェーッ!」

 突然飛び出してきた犬が先を走る小さな鶏に噛みついた。

「コケェッ! コケッ、コケェェェ……」

 憐れ犬の顎に囚われの身となった小さな鶏は抗議の鳴き声をあげてばたつくが、犬はそれを無視してゴンザレスの足下に近寄るとお座りをした。
 その間に大きな鶏が餌にたどり着く。

「なんてこった、ひどすぎる……」
「こんなイカサマありかよ……」

 この犬の行動はあきらかにゴンザレスの命令を受けてのものだ。
 周囲からささやかれる非難の声を軽く無視してゴンザレスが勝利を宣言する。

「ぐはははは! でかいほうの勝ち~、残念だったなぁ、でも勝負ごとに多少の事故はつきものだしな。そうだろ、兄さん。オレの勝――」

 秋芳の姿が見あたらない。

「んなな!? どこに行きやがったあの野郎!」

 広場にいた全員が全員、競鶏に夢中になっている間に消えてしまった。
 そして消えたのは秋芳だけではなく――。

「ご、ゴンザレスさん。金が、金も……、あいつも金も消えちまった」
「な、な、なぁにィィィッッッ!!」

 おたがいの賭け金まるごとごっそり、ついでに黒髪黒眼の青年が質草にした学院のローブもなくなっていた。あきらかに秋芳の仕業だ。
 こんなにも堂々とした盗みがあっただろうか。
 こんなにも間抜けな盗まれかたがあっただろうか。

「あの野郎、なんてふてぇやつだ!」
「ふてぇのはてめぇだ、イカサマ野郎!」
「あえひゃ!」

 ローブを質草にした青年の拳がゴンザレスの顔面にヒット。張り倒す。

「そ、そうだそうだ」
「よくも今まで薄汚いイカサマしやがったな」
「うるせー、バレなきゃイカサマじゃねえんだよ!」
「なんだとコンチクショー!」
「あ痛ッ!? やりやがったな!」
「真のアルザーノ人は退かない!」
「勝利かヴァルハラかだ!」
「もういいだろ!」
「殺さないでくれ~!」

 今までたまりにたまった鬱憤が、青年の一撃をきっかけにぶちまけられた。
 広場のあちこちで乱闘がはじまり、大混乱と化す。

「スタァァァップ! 女王陛下の名に置いて止まれ、さもないと全員逮捕するぞ!」

 衛兵が駆けつけてきてようやく沈静化したが、一〇人以上ものけが人や逮捕者を出す大騒ぎになってしまった。





「っきしょー、ついてねえぜ」

 黒髪黒眼で長身痩躯の青年――グレン=レーダスが毒づく。

「あのイカサマ野郎ども、俺がちょーっと引きこもってるうちに、あんなやつらがのさばるとか、世も末だぜ……」

 財布の中にはセルト銅貨が数枚。これでは明日の食事はおろか、今夜の食事もままならない。

「腹減ったぁ、ダメだ。今なにか食わないと死ぬ。学園のシロッテはあらかた食っちまったし、どうしよう……」

 空腹でふらふらとした足取りになって家路につくと、一軒のパン屋が目に留まった。
 できたての香ばしい香りこそしないが、パン特有の匂いは食欲をそそる。
 グレンはたまらず店に入った。

「……大きいのが4セルト、小さいのが2セルトか。小さいのをくれ」
「まいどありー」
「なあ店長、ものは相談なんだが、これ1セルトにまからんか?」
「いやぁ、悪いですけどうちは値引きはしない方針なんです」
「まあそう言うなって、もうすぐ店じまいの時間だろ。売れ残ったやつをまた明日並べるわけにはいかないんだし、それなら1セルトばかし安くして俺に売った方が得だとは思わないか?」
「それはそうだけど……」
「今日はもうお客がこないかもしれない。そしたら俺に売れば1セルトの損じゃなくて1セルトの得になるんだ」
「ものは考えようか……わかりました。1セルトでいいです」
「それじゃ、ほい。1セルトな」
「まいどあり~」

 グレンは入り口の前でくるりと振り返った。

「あー、考えたんだが、やっぱり大きいパンにするわ。いくらだっけ?」
「小さい方の倍の値段です……ん? ……お客さん、買い物が上手ですね」
「2セルトだな」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 1セルトならまけてもいいけど2セルトは!」
「さぁ、そこが商売だ。ここで2セルトまけてくれれば、毎日買いに来てやるぜ。たった2セルトのサービスでお得意がひとり増えるんだ。悪い話じゃないだろう?」
「まいったなー! お客さんには負けましたよ。2セルトでいいです」
「そうこなくちゃ。となると小さい方はいらなくなるから2セルトで引き取ってくれるな?」
「いいですよ」
「このパンが2セルトと、それにさっき渡した1セルトがあるからそれで3セルトだ。1セルトのお釣りだな」
「はい、確かに」
「邪魔したな」
「ほんとに毎日買いにきてくださいよー」
「ああ、ついでに知り合いにもこの店のこと宣伝しとくぜー」

 1セルトと大きなパンを手に入れて帰路につく。

「ぐへへへへ、もうかったぜ」

 ゲス顔でほくそえむグレン。みごとなロクでなしである。
 そんなロクでなしに声をかけてくる人がいた。

「もし、そこのひと」
「ん?」
「これ、忘れ物ですよ」

 学院のローブを手渡されたグレンはいぶかしげな目で相手を観察する。
質素だが清潔な服装に短身痩躯で東方の武闘僧(モンク)のように剃り上げた頭。このあたりではちょっと見かけない髪型だが、危険なにおいは感じられない。比較的治安の良いフェジテの住人らしく、身に寸鉄も帯びず丸腰に見えた。
 瞳や肌の色といい、本当に東方の武闘僧なのかもしれない。

「……あんた、だれ?」
「俺も昼間の騒動に巻き込まれたくちでしてね、その時にたまたまあなたがローブを担保に金を借りているのを見て、どさくさにまぎれて取り返しておきました。あ、俺はナーブレス家で働いている賀茂秋芳というものです」
「カモ・アキヨシ? 東方の人間だな。すると名字(ラストネーム)がカモで名前(ファーストネーム)がアキヨシか」
「そうです。そのローブ、あなたひょっとして魔術学院の関係者ですか?」
「まあな」
「俺の生まれはここから遥かに遠い辺境にありましてね、魔術なんて存在しないんです。だからこの国の魔術に興味があって、色々と聞きたいことが――」
「あっそう、じゃあね」

 すたすたと歩き去ろうとするグレン。

「パン屋でのやり取り見てましたが、商売上手ですね。夕食がまだならご一緒にどうです。おごりますよ」
「……あー、どうしよっかなぁ。あんまショボいとことか行きたくないしなー」
「『空の骨休め亭』なんてどうです」

 それなりのものをそれなりの値段で提供する、冒険者の店だ。

「ちっ、しょうがないなー。行ってやるよ」

 ただ飯にありつける。グレンはふたつ返事で了承した。 

 

ロクでなし魔術講師、買収される

 とりあえずエール。
 大地のもたらす芳醇な麦の雫で喉を潤す。
 そして料理が運ばれてくる前に秋芳は軽く自己紹介を済ます。

「――グレン=レーダスさん、ですね。俺の生まれはここから遥かに遠い辺境にあると、さっきは言いましたが」
「あ?」
「あれは言葉の綾でして」
「んー?」
「単刀直入にお聞きします。もし俺が異世界から来た人間だと言ったら信じてくれますか?」
「エール一杯でもう酔っぱらっちまったのか」
「信じられないのも無理はありませんが本当です。センス・ライを使ってもかまいませんよ」
「そんなマイナーな呪文、よく知ってるな」
「多少は勉強しました」

 センス・ライ。
 噓か否かを判別する呪文。対象が嘘偽りを口にすると、術者は嘘だと知ることができる。

「だがセンス・ライで知ることができるのは『相手が嘘をついているかどうか』だけだ。偽りの情報を心底信じこんでいる場合は意味がない」

 だがだまされて信じている偽りを述べても嘘だと判定されない。これは真偽を判断する術ではないのだ。当人が真実だと思いこんでいれば、それは嘘をついているとはみなされない。また対象は発言するたびに抵抗可能だが、成否に関わらず抵抗したことは術者に知られてしまう。

「それと、狂人の妄想も、な……」
「俺の頭がおかしいと思っているなら、サニティをかけてくれてもかまわない」
「あれは一時的な混乱や恐慌状態を回復させるもので、精神に深く根づいた妄想や狂気を取り除くことはできない」
「それは知らなかった、勉強になります」
「…………」
 
 なにか誘導尋問にかかっているような気がしてきた。グレンは改めて相手をよく見る。
 なにかよからぬことをたくらんでいるようには見えない。
 悪意や狂気とも無縁に思えた。
 しかし――。

(こういうやつを、俺は知っている)
 
 かつてグレンが所属していた帝国宮廷魔導師団特務分室。
そこには任務のためなら心のうちを表に出さず、眉ひとつ動かずに汚れ仕事に手を染める者たちがいた。
 それはグレン自身もおなじこと。そしてグレンが処理してきた標的のなかには人を騙し、傷つけ、殺めることになんの抵抗も感じないほど壊れた者もいた。
 殺気とは、殺すという強烈な意思があってはじめて生じる気配だ。
 卵の殻を割るのとおなじくらいの感覚で人を殺すほど壊れた人間からは殺気は放たれない。
 自身のおこないを正義や善だと信じて疑わない人間からは悪意も害意も感じられない。

「センス・イービルやセンス・エネミー。あるいはマインド・リーディングで心を読んでもかまわない。とにかく嘘はついてない、信じてくれ」

 前菜がはこばれてきた。オーブンで焼いたカマンベールチーズからは湯気が上がり、かぐわしい匂いが胃袋を刺激する。
 グレンはつけあわせの野菜スティックでチーズをからめとり口にした。

「まぁ、とにかく飯だ、飯。こまかい話は食ってからな」



 豚肉の腸詰め、牛のキドニーパイ、鴨肉のロースト、鮭の香草焼き、兎とキャベツのスープ。ライ麦パン 、野菜の盛り合わせ、揚げ芋――。
 テーブルの上に広がる料理を葡萄酒で流し込むように食べる。グレンは痩せの大食いというやつで、ほとんどひとりでたいらげていく。

「――というわけでナーブレス家のお世話になっているのですが、故郷に帰るため、そして後学のためにもぜひ魔術を習いたいのです。ですが学院に入るのも大変でして――」
「ふんもっぐ、うまうま。はん、そう。くびっぐびっ、ぷはぁー。もぐもぐ、んまんま」
「――お金と信頼は一朝一夕には得られません。日々の務めを果たしつつ独学でルーン言語をおぼえたのですが、その次の段階に進むのがむずかしくて――」
「ガプがぷガプがぷガッ、むしゃむしゃモグモググァツもりもり、グビグビ、ぷはぁーっ!」

 繰り返すがグレンは痩せの大食いである。よく食べること食べること……。
 秋芳のほうは料理にはほとんど手をつけず、ドライフルーツとラルゴ羊のチーズをつまみに蜂蜜酒で喉を湿らせつつ、自身の境遇の説明を続ける。
 メインディッシュを胃袋に収め、食後のデザートをたのんで一息入れたところでようやくグレンは咀嚼音以外の言葉を口にした。

「……いや~、アキヨシさんだっけ。あんたが嘘をついているようには思えないし、頭がイカれているようにも見えないけどさぁ。けど正直、異世界云々て話は信じられないんだよなぁ」
「では呪術を、むこうの世界の力を見せましょう」

 全身の気を巡らし、もうひとりの自分をイメージする。すると秋芳の身体から魂魄が抜け出し、かりそめの肉体を生成した。
 出神の法だ。
 半透明の秋芳の魂魄体がテーブルの上のボトルを手に取りグレンのグラスに酒を注ぐ。

「レイス・フォーム……! それも無詠唱で……、しかも物をつかめる、だと!?」
「「ああ、やはり似たような魔術が存在しましたか」」

 周りに気づかれて騒ぎになる前に魂魄を引っ込める。

「どうもこの世界に存在する魔術と似たような効果を発揮する呪術は多少なりとも再現できるようなのですが、それでもできるものとできないものがあり、実にもどかしい限りです」
「……いまみたいなの、人前で使わないほうがいいぜ。魔術どころか〝異能〟だと認識されて追われることになる」

 異能。
 ごくまれに人が先天的に持って生まれる特殊な超能力。それを指す言葉。
 魔術に依らない特殊な能力で、それを持つ者を異能者と呼ぶ。
 基本的に学べばだれでもあつかえるようになる魔術とは異なり、異能は生まれついての異能者でなければ行使することはできない。
 魔術と異能。そのどちらにも縁のない一般人から見ればどちらもおなじ『不思議な力』だが、アルザーノ帝国では悪魔の力だと忌み嫌われている。
 魔術は畏怖の対象であり、異能は嫌悪の対象なのだ。前者は強固な社会的地位を確立する後ろ盾となりえるが、後者は差別と迫害の対象なのだ。
 辺境の精霊信仰や土着信仰において、異能者は信仰や崇拝の対象になることもあるが、ここアルザーノの文化圏において、それは禁忌の力以外のなんでもない。

「ご忠告感謝します。しかしよそ者の俺がこの国の風潮に物申すのもなんですが、異能も魔術も似たようなものなのにおかしな話ですね」
「あんたは、そういうふうに考えるのか」
「どちらも便利な力なのに、いっぽうを尊び、いっぽうを蔑むなんてアホらしいですね」
「その考えは、この国では異端だな」

 異能のなかには現代の魔術では再現できない様々な効果を持つものが多い。
 そのため自身ではけっして持ちえない卓越した力に対する羨望や嫉妬のため、異能嫌いの魔術師は少なくない。

「よそ者の放言ですが……、学究の徒たる魔術師とは思えない反応ですね。未知なるものや脅威に対しては拒絶や排除ではなく、分析と理解によってみずからの力として取り込む。それこそが知恵というもの。賢者たる魔術師の取るべき行動でしょうに」
「あ~、おまえさんがオンミョウジとかいう、むこうの魔術師(俺ら)だって、なんとなく納得だわ」

 秋芳の感想はグレンの知る魔術師のなかでも学者肌の連中の好みそうな考え、発言だった。

「だが魔術が便利って考えにゃ、諸手を挙げて賛成はできないな」
「なぜです」
「便利ってのは人の役に立ってはじめて便利っていうもんだろ、魔術は役に立たないから便利とは言えない。なぁ、たとえば医術は病から人を救うよな? 冶金技術は人に鉄をもたらした。農耕技術がなけりゃ人は飢えて死んでいただろうし、建築技術のおかげで人は快適に暮らせる。この世界で術と名づけられたものは大抵人の役に立つが、魔術だけは人の役に立たない」

 魔術を使うことができ、魔術の恩恵を受けられるのは魔術師だけだ。魔術師でない者は魔術を使えないし、魔術の恩恵は受けられない。だから魔術は人の、人々の役に立てないと、グレンはそう言っている。

「いや、単純に考えて白魔術とか錬金術とか、むっちゃ医療に貢献しそうなんですが」
「ああ、貢献してるぜ。あくまで帝国軍内、魔術師たちの間だけでな。魔術の恩恵が一般人に還元することはない」

 魔導大国であるアルザーノ帝国では魔術=軍事技術。国家機密であり、その研究成果が一般国民に還元されることを頑として妨げている。そのため今でも魔術は多くの人々にとっては不気味で恐ろしい悪魔の力であり、普通に生きていくぶんには見ることも触れることもない代物だ。

(なるほど、この世界ではまだ一部の人間による技術や知識の独占がおこなわれているわけか)

 古代から中世まで、民衆は支配者層によって意図的に文盲状態のままにされ、いいように支配されてきた。
 貴族や聖職者などの特権階級層が権力と支配を存続させるために、自分たちだけが高い教育を受け、最新の技術や知識を独占してきた。
 自分たちだけが優秀であるために。

(だが長い目で見れば技術も知識もより多くの人々に開放し、みんなで共有して高めていったほうが国家の益になる。さらに大局的な視野で見れば人類全体の利益になる。独占して野中の一本杉として栄えるより、大きな森となって発展したほうが良い)

「あ~、そういやあったわ。魔術が軍人や一般人問わずに貢献している、魔術がすっげえ役に立っている分野が」
「それはどんな分野です?」
「人殺しさ」

 軽薄な笑みが酷薄な冷笑に変わった。

「魔術ほど人殺しに優れた術は他にないんだぜ、異世界人さん。剣術がひとり殺している間に魔術は何十人も殺せる。戦術で統制された一個師団を魔導士の一個小隊は戦術ごと焼き尽くす。どうだい、役に立っていると思わないか? このアルザーノ帝国は魔導大国なんて呼ばれていて、帝国宮廷魔導士団なんていう物騒な連中に毎年、莫大な国家予算がつぎ込まれている。これがどういう意味かわかるよな? 少し前に起きた戦争じゃ多くの若者が――いや、年寄りも女も子どもも魔術の犠牲になった。平和な今の時代でさえ魔術を使ったおぞましい凶悪犯罪が後を絶たない。今も昔も魔術と人殺しは切っても切れない腐れ縁だ。魔術ってのは人を殺すことで進化・発展してきたロクでもない技術だからな!」

(うわぁ、なにこの人。自衛隊と陰陽師は人殺し集団とか言っちゃう系?)

 グレンのあまりの極論にドン引きする秋芳。
 先の戦争の遺産である陰陽術に対する世間の風当たりは強く、呪術関係者はよく糾弾される。
 特に偏った思想の人々からは目の敵にされ、なにかにつけて難癖をつけられ、批難をあびせられ、心底辟易しているのだ。
 だが内心の動揺をさとられまいと、つとめて冷静に返す。

「ものごとには必ず陰と陽、ふたつの側面があります。あなたが先ほど言った数々の技術にも、良い部分と悪い部分があります。医術は薬とともに毒も生み出し、冶金技術の発達で生み出された鉄は青銅器や石器以上に人を殺傷しました。農耕技術の進歩には自然破壊の一面があり、建築術により築かれた城塞は戦争を長引かせ、より多くの兵士たちの命を奪ったことでしょう。優れた鍛冶屋はヒゲソリを打たず刀剣を打ち、秀でた大工は長屋を建てず砦を築きます。悲しいかな技術の最先端とは得てして戦いのなかにあるもの。だからといって戦争が必要悪だとか、戦争のおかげで人類は進歩できるなどとは言いません。俺の祖国はもう三四半世紀近く戦争をしていませんが、呪術もそれ以外の技術も絶えず進歩しています」

 いささか嘘がまじる。呪術に関しては原則として霊災修祓か、呪術がらみの犯罪に対してのみ使用が認められるという陰陽法の縛りにより、他分野への転用ができず思うように研究を進められないというのが現状だ。
 だが〝嘘〟こそ呪術の真髄であり、秋芳は呪術師だ。さらに舌を動かす。

「かつては戦争の道具として使われていた呪術が、平和利用されているのです。この国の魔術も使い方次第でいくらでも人々の役に立つことになるのでは」
「ふん、力は使う人次第だの、剣が人を殺すんじゃない、人が人を殺すんだとかいうありきたりな理屈か?」
「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり」
「……なんの呪文だ、そりゃ」

 中国の古典『荘子』に出てくる言葉。
 あるとき孔子とその一行が井戸で水を汲んでいる老人に会った。
 老人は井戸から水を汲むのに縄につけた桶を井戸に下ろして引っぱっていたので、孔子の弟子のひとりが滑車という物があるのを知らないのかと訊くと、こう答えた。
「もちろん知っている。力をほとんど使わずに重い水を上げることができる機械だろう」
「それをご存じなのになぜお使いにならないのですか?」
「滑車を直す術を知らないからだ。機械は便利な道具だが、壊れてしまってはどうすることもできない」
 対処できない事態、機事が起こり。機械に頼る心、機心がいちど宿ってしまうと、もう機械のなかった時代にはもどることができない。
 こうして人は機械無しでは生きられなくなり、人間本来の営みさえ忘れてしまう――。  

「ずいぶんと含蓄のある話だが、それがどうした」
「あなたの言うとおりに『魔術』がロクでもない技術だったとします。しかし現実にそれが世に浸透している以上、いくら忌み嫌っていても詮の無いこと。となれば考えることはふたつ。ひとつは魔術と魔術師をこの世から抹消すること。もうひとつは魔術が人に害をあたえないようにすること。前者と後者、どちらがより現実的かはわかりますよね」
「…………」

 軽い既視感。グレンの脳裏に教え子である金髪の少女の言葉がよぎる。

『――それがすでに在る以上、それが無いことを願うのは現実的ではありません。なら、私達は考えないといけないんです。どうしたら魔術が人に害を与えないようにするか――』

(盲目のままに魔術を忌避するより、知性をもって正しく魔術を制する――全ての魔術師がそうなるように働きかける――か――)


「まず国家が独占し、それを戦争にしか利用しないというのがおかしい。魔術という技術ではなく、それをあつかう制度に問題があるのです。すべての人が平等に知恵と力を得ることができれば、魔術を知ることができれば差別も偏見も一方的な殺戮も減少するのでは?」
「……あんたも魔導省の官僚にでもなるつもりかい?」
「は?」
「いや、なんでもない」

 ちょうどデザートがはこばれてきたので会話は一時中断。スコーンにクロテッドクリームとジャムが添えられている甘味は、例によってほとんどがグレンの胃袋におさまることになる。

「いささか話がそれましたが、学院に入る前に少しでも実践的な魔術に触れたいという欲求に駆られまして、どうかひとつご指導のほどよろしくお願いいたします」
「あー、いやでも魔術ってのは基本的に国家機密でね。個人的に教えるのは色々とヤバいんだよなー」
「もちろん、ただでとは言いません」
「ふっ、俺も安く見られたものだな。金でなびくようなグレンさんじゃないぜ」

 秋芳はふところから皮袋を取り出すと、紐を解いて逆さにする。鈍色の輝きを放つ無数の塊がテーブルの上に広がった。
 銀貨だ。

「おおっ……」

 めったにお目にすることのできない光景にグレンの目が見開いた。
 庶民が普通に生活するぶんにはセルト銅貨だけでじゅうぶんこと足りる。
 銀貨は少し贅沢な買い物をするときくらいにしか使わない。
 庶民にとっては大金、金持ちにとっては小銭。銀貨とはそのようなものだ。
 現代日本人の感覚的には万札の束を見たに等しい。

「一〇〇枚あります」
「ひゃ、ひゃくまいも……」
「どうです、これで俺に魔術を教えてくれませんか」
「ぐぬぬ……」

 グレンの顔が懊悩で歪む。
 黙っていればわかりっこない。
 殺傷能力の低い汎用の初等呪文をいくつか教えるくらいなら安全で簡単だ。
 これだけあればしばらくは豪奢な暮らしを満喫できることだろう。
 しかし――。
 だがしかし――。

「い、いやいやいや! そいつを受け取ることはできないな。俺は自分のポリシーを曲げることは絶対にしない主義なんだ」
「それなら銀貨を……」
「一枚ずつ増やして気を引くつもりか? ふふん、無駄だぜ。どんな大金を積もうが、俺は金なんかじゃ動かされない。動かされない! 動かされない! 絶対に!!」
「減らそう」
「え!?」

 指先で銀貨をつまむと皮袋にもどす。

「もう一枚」
「えっ? えっ!? えええっ!?!?」

「さらにもう一枚。さあどうしました、時間が経つほど報酬は減っていきますよ」
「なにそれこわい。意味わかんない!」

 もう一枚、もう一枚、もう一枚――。

「あ……」
「もう一枚」
「ああっ!」
「もう一枚、もう一枚!」
「あああっ!」
「めんどうだ、もう一〇枚ずつ減らしていく!」
「わーっ!! わかった、魔術を教えてやるよッ!! ……ハッ!?」

 みるみるうちに銀貨がなくなっていく。
早く了承しないと取り分がなくなってしまう。
 パニックに陥ったグレンは、まんまと秋芳の策略にハマって、了承してしまったのであった。
 報酬が増えていくならかたくなに拒んでいたことだろう。だが逆に減っていくという予期せぬ展開に混乱と焦りが生じ、理性による正常な判断ができなくなり、ついついお金が欲しいという本心に流されてしまった。
 妖言惑衆。
 これもまた呪、相手の心の機微と隙を巧みに突いた乙種呪術である。
 真の陰陽師は甲種呪術などもちいずとも人の心を操ることができるのだ。

「今後ともよろしくお願いしますよ、グレン=レーダス先生」
「あ……、ああ……。お、おう。こちらこそ、よろしくな。カモ・アキヨシ」

 こうして秋芳アルザーノ帝国魔術学院に入る前に、グレンからの個人的な魔術指導を受けることになった。
 

 

シーホーク騒乱 1

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』10巻。絶賛発売中。 

 
 南国の珍しい果物や北方で獲れた珍獣の毛皮、東方の貴重な薬草など、シーホークの港湾監視員はその職業柄、様々な希少品を目にする機会がある。
 蛇のように長い鼻と帆のように大きな耳をした象という巨獣や、黒と白にくっきりと分かれた体毛の熊などにくらべれば、目の前にある物はさして珍しくもなかった。
 時代遅れの板金鎧(プレートアーマー)
 攻性魔術や銃砲火器の発達によって戦場からは姿を消し、もっぱら儀式や儀礼の場でしか見かけないようになった古めかしい金属製の全身鎧が木箱の中に納められている。
 問題は、その数だ。

「ここにあるものすべて、ですか?」
「そうです。合わせて五〇〇とニ〇、ご確認ください」

 五ニ〇個の木箱すべてにおなじサイズ、おなじ装飾の板金鎧が入っているのを、監視員たち複数に分かれて根気強く確認していく。

「この大きな箱は?」
「同様の物が入っています。ただし、大きさは少々異なりますが」
「これは……、人が身につけるようなサイズじゃないですな。巨人用の鎧ですかね」
「そのあたりのことをくわしく調べてもらうため、運んできたのです」

 帝都の貴族たちが出資している調査団が異国の地で発見した品々。それを学院の魔術師に鑑定してもらうため、ひと月ほどシーホークの倉庫を借りたいという話だ。

「なにせ数が数なのでフェジテまで輸送するのは困難でして。しばらくの間ここに置かせてもらい、むこうから魔術師さんに来てもらう手はずになっています」
「たしかに、これを陸路で運ぶとなると容易ではないでしょうな。しかしよくもまぁ、こんなに発掘されたものですなぁ」

 旧古代前から後期(聖暦前八〇〇〇年から四〇〇〇年)前後に超魔法文明が存在していた関係で、各地に多くの遺跡や碑文が残され、魔法遺物(アーティファクト)が発見されているセルフォード大陸以外の場所でこれほどの量の遺物が見つかるのは珍しい。

「では、こちらの種類にサインを――。それではカルサコフさん、シーホークを満喫してください」

 監視員のチェックを滞りなく済ませたカルサコフは手配されたホテルへ向かう前に街中を歩いてまわった。
 だが目的は観光ではない、偵察だ。
 近日中に遂行する任務のため、ある程度街の造りを知る必要があるためだ。
 シーホークはヨクシャー地方の玄関口である港町であり、交易が盛んなほか観光地としても栄えている。
 浜辺のある区画では水着姿の若い男女が歓声をあげて人生を謳歌している姿が見られた。

「退廃主義者どもめ」

 堕落、放蕩、享楽、不埒、不届き、不健全、不道徳――。
 そのような言葉しかカルサコフの頭には浮かんでこない。
 貴族や豪商といった裕福な人々が居を構える富裕地区にも足を運ぶ。ここがもっとも重要なポイントだ。いかにも観光客といった風情をよそおい、くまなく観察する。

「ブルジョアジー……」

 いますぐにでも攻性魔術を連発して拝金主義者どもを粛正したくなる欲求を抑え、あやしまれないうちにその場を後にして手配されたホテルへむかった。

「なんだ、これは……!」

 たったいま偵察してきた富裕地区。そこに軒を連ねる豪邸に勝るとも劣らないような豪華なリゾートホテルに眉をしかめる。
 しかも用意された部屋は最上階にあるもっとも高級なロイヤルスイートルームだった。
 質実剛健を良しとするカルサコフにはまことにもって不愉快極まりない宿の選択にいら立ちを覚えつつ部屋に入る。
 そこでは床のそこかしこに酒瓶がころがり、小太りの中年男性が薄着姿の若い女性たちと戯れていた。

「おお、遅かったじゃないか同志カルサコフ。悪いが先に楽しませてもらってるぜ。フィヒヒヒ!」

 下卑た笑い声をあげて女の白い乳房に脂ぎった顔をうずめる。

「これはどういうことだ、同志ウェルニッケ! 部外者を中に――ッ!?」

 女たちの目は虚ろで、表情に乏しく、意思や知性というものが感じられない。

「きさま、壊したな」
「フィヒヒヒヒ! ご名答!」

 【マインド・ブレイク】
 対象の思考を破壊し、強制的に朦朧状態にする精神攻撃呪文。精神操作系の白魔術のなかではもっとも高度で危険とされ、相手を廃人にしてしまうこともある。
 ウェルニッケと呼ばれた小太りはこの呪文をもちいて女たちを意のままに操っているのだ。

「こいつらは今夜のことなんて覚えちゃいないのさ、だからなにをしてもいいってわけだ。いや、今夜だけじゃなくてもうずっとなにも覚えられないかもしれないな。フィーヒヒヒ!」

 怒りと軽蔑にカルサコフの頭の芯が研ぎ澄まされていく。彼は怒りで頭に血が上るのではなく、逆に血の気が引くタイプの人間だった。

「ほら、遠慮しないでおまえもどうだ。赤毛が好きか? 黒髪か? 金髪はどうだ。酒だってあるぜ、イクラやキャビアもだ。ハラショー! どうせ一週間後にはみんな殺しちまうんだ、今のうちに楽しめよ、ズドーラヴァ!」

 ウェルニッケは女におおいかぶさると酒臭い息を吐きだして腰を振りはじめる。

「……天の智慧研究会に下品な男は不要だ――《雷精の紫電よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ・焼き尽くせ・消し炭と化せ》」
「ん? ――ギャッ!?」

 カルサコフは両手を前に出してウェルニッケの頭をはさみこむ。両のこめかみに指圧のように指先を押し当てた状態で【ショック・ボルト】を放った。
 【ショック・ボルト】は魔術学院に入学した生徒が一番はじめに習う初等の汎用呪文で、微弱な電気の力線を飛ばして対象を電気ショックで麻痺させて行動不能にする殺傷力の低い呪文だが、非殺傷系の攻性呪文でも時間をかけて魔力を練り上げ、三節以上の詠唱節数をかけて呪文を唱え、威力を最大限に高めればじゅうぶんな攻撃力を得る。
 あたり所が悪ければ致命的だ。高圧電流がウェルニッケの脳神経を焼き切った。
 脳死――魔術によって他者の心を壊し、廃人同然にした男は、皮肉にも自身が魔術によって廃人となった。
 目の前で人が害されたというのに女たちは逃げもせずに茫洋とたたずむのみ。
 口封じするのは簡単だ。唾棄すべき輩とはいえ同志をいとも簡単に殺めたカルサコフにとっては造作もないこと。
 だが彼はそうしなかった。
 ウェルニッケの言うとおり、一週間後におこなう〝粛正〟によってこの街の人々の多くが死ぬことになるだろう。だがカルサコフの目的はあくまで任務の遂行であって殺害ではない。無意味に殺す気にはならなかった。
 ひとりひとり丹念に白魔術による精神治療をほどこしたあと、偽りの記憶を植えつけて家に帰らせた。後遺症が残る可能性はあるが、さすがにそこまでは面倒を見切れない。
 続いてまだ息だけはあるウェルニッケだった肉の塊の処理にかかる。

「《貪るものよ・暗き砂漠より・来たりて啖え》」

 カルサコフの唱えた召喚呪文に応じて異界よりなにかが現れる。
 人に似た四肢を持ってはいるが、前かがみになった姿勢や顔つきは犬めいており、肌は赤と緑を混ぜたような不気味な色をしている。手には鋭い鉤爪が生え、脚には蹄があった。
 グール。
 人の骸を好んで食べることから食屍鬼とも呼ばれる怪物だ。

「こいつを食え」
「GISYAAA……!」

 脳死という極めて新鮮な状態の獲物に歓喜のよだれを垂らして食らいつく。
 がぶり、ぞぶり、ごそり、くちゃり、ぞぞり、こつり、じゅるる、くちゃ、ぱく、ごぼ、ばり、べき、ぼこ、ぞぼぼ、ぺちゃ、ばり、ぼり、ぺき、ぱき、ぽき、ぺきん、ごぶり――。
 食屍鬼の食欲は旺盛だ。肉のひとつまみ、骨のひとかけら、血のひとしずくも残さずにたいらげるのに、さして時間はかからないだろう。
 同志だったものが処理されていくのを見ながら、カルサコフはこれからのことに思いを巡らせる。
 一週間後、フェジテとシーホークの二か所で同時に起こす破壊活動。
 任務とはいえおなじ魔術師の卵たちを弑することに抵抗があったため、この腐敗した街の粛清を任されたことは幸運だ。
 せめてこの協力者がもう少しましな人間だったら良かったのだが、済んでしまったことはどうしようもない。ことを終えたら包み隠さず報告し、沙汰を受けるだけだ。
 たとへ死をたまわることになっても悔いはない。組織によって処断された死体は魔術の実験に利用され、魔術のために貢献できるからだ。
 カルサコフの所属する組織――その名を天の智慧研究会という。
 アルザーノ帝国に最古からある魔術結社。魔術を極めるためならばなにをしても良い、どんな犠牲を 払ってもゆるされる、むしろそうするべきだ。
 この世界を導くのは優れた人間、すなわち研究会に所属する魔術師であり、それ以外。特に魔術の使えない人間はすべて盲目の愚者であり、家畜。そのような思想に取りつかれた者たちの集団だ。

「天なる智慧に栄光あれ。魔術は偉大なり」

 虚空にむかって腕を斜め上に突き出す独特の敬礼をしたカルサコフの腕には短剣に絡みつく蛇の紋が彫られていた。





 ナーブレス邸にはウェンディ専用の浴室が存在する。
 巷の大衆浴場よりも広く、普通にお湯を張る浴槽のほかにも水練用のプールや足湯用の浅いバスタブ、北方で主流の蒸し風呂やシャワーも完備してある。

「清き水よ・溢れ出で・満たせ」

 ルーン語のコマンド・ワードを唱えれば水晶石から水が沸きだし。
 
「炎よ・熱くたぎる・炎熱と化せ」

 炎晶石で熱し。

「冷たき氷よ・吹雪け・冷やせ」

 熱すぎるようなら氷晶石で冷ましてほどよい湯加減に調整できる。

 魔法に縁のない庶民が見たら大いにうらやむ、あるいは恐がることだろう。

「はぁ……、お嬢様のお肌、白くて綺麗できめが細かくて玉のようです」

 スポンジでウェンディの身体を優しく丁寧にこすっているミーアが、主の肌の美しさにため息を漏らす。

「当然ですわ。でもミーア、あなたのお肌もモチモチしていて、美味しそうな肌触りですわよ」

 ウェンディは自分の身体についた泡を両手ですくい、ミーアの身体になすりつけて愛撫する。

「ああ、ダメですよお嬢様。そんなに動いたら洗えません」
「手じゃなくてあなたの身体をスポンジにして洗いなさいまし★」
「くすぐったいです~」
「にょほほほほ」
「ああ、お嬢様! 『にょほほ』は、『にょほほ』はいけません!」

 ミーアはいま入浴用のメイド水着を着てウェンディにご奉仕している。
 この水着はノワール男爵という文化と芸術を解する風流貴族が考案したもので、エプロンドレス+ワンピース水着というデザインをしている。フリルつきで紺と白の配色はひとめでメイド服を彷彿とさせると高評価を得た。ちなみにビキニタイプも存在する。
 貴人はなにをするにも使用人まかせだが、魔術学院で集団行動をしているウェンディはまだ自分で動いているほうで、他の王族や貴族など、着替えや歯磨きすら使用人にさせている。
 
「今日のお風呂はいつもよりも彩り鮮やかですこと。……あら?」

 身体を洗い終え、お湯に浸かろうとしたウェンディは薔薇の花びらや各種ハーブの浮かんだ湯船に、あまり目にしない果実が交ざっているのに気づく。

「これは、スカイベリーじゃありませんこと?」
「はい。おっしゃる通りです、お嬢様」

 スカイベリー。雲ひとつない青空に似た色合いと、高所にしか生えないことからその名のついたベリー種の果物。
 人がそのまま食べるにはむいていないが、薬効があり、錬金術の材料にするほか、このように湯船に浮かべて利用することが多い。

「まだ新鮮ですわね。このあたりではグロスター山でしか採れないはずですけど」 
「アキヨシさんが採ってきてくれました」
「ああ、そういえばルドウィン卿の狩りのお手伝いをするとか言っていましたわね」
「そのお仕事が終わったあとに、山で色々と採ってきたそうです」
「ふぅん、でも空も飛べないのにスカイベリーだなんてよく採取できましたわね」
「なんでもシュゲンドウの修行で山中をさんざん駆けずり回ったから、ヘキココウの心得があって平気だとかなんとか……」
「シュゲンドウにヘキココウ……。また、わたくしの知らない単語が出てきましたわね」

 当初悪魔だと思っていた秋芳が普通の人間だとわかった後も、本人が言うように異世界から来たという話は信じられなかった。
 それだけ遠い、辺境の地から召喚されてしまったことへの嫌味や皮肉で異世界などと称している。
 最初はそう思っていた。
 たが秋芳が語る物語の多くはウェンディのまったく知らないような話ばかりで、たまに語るむこうの世界についての話にも前後の内容に矛盾はなかった。

「ミーア。あなた彼、カモ・アキヨシについてどう思いますこと?」
「よく働いていますね~、他の人ならめんどくさがってやりたがらないような遠くへの荷物運びも、『スカイリムやジルオールの冒険者みたいでこういうお使いクエストはきらいじゃない』とか、意味不明なこと言って引き受けてくれますし。人間的にも悪い人ではないと思いますよ。たまに――、ううん、よく変なことを口にするのは気味が悪いですけど。今日もいきなり『この世界の人は猿から進化してないのか』とか訊いてきて、びっくりしちゃいました」
「人が、お猿さんから……?」

 いったいどこからそんな発想が出てきたのか検討もつかない。

「そんなわけないじゃないですかって答えたら、一八〇〇年代ならウォレスとダーウィンがどうのこうのとか、ミッシングリンクだとか、ぶつぶつ言ってました」
「…………」

 このようにときおり意味不明な言動をとることはあっても、カモ・アキヨシという人物の立ち居振舞いに卑しいところはない。
 貴族として高い教育を受けた自分とくらべても、遜色のない教養や知識を持っている。ウェンディはそう思えてならない。
 頻繁に口にする未知の言葉の数々も、創作ではない現実味を感じる。この世界にはない語彙を豊富に持っていることを感じさせる。
 少し前にも、こんなことがあった。
 領内の農園開発のために用水工事に取りかかっていたのだが、軽石地帯のために水を引いてもすべて吸い取られてしまい、完成できずにいた。
 なにか良い案はないかと広く意見を求めたところ、秋芳がひとつの提案をした。

「ひとつ考えがある」
「なにかしら」
「コストを度外視してもいいなら、水を引く手段がないこともない」
「もったいぶらないで話しなさい」
「これはかの弘法大師空海が一ニ〇〇年前に唐の国より伝えた最新の治水技術で」
「一ニ〇〇年前なのに最新技術とか、おかしくなくて?」
「その名も『綿埋(わたうずめ)の水流し法」といい、軽石の部分に綿を貼り、底に敷き詰めることで水漏れを防ぐことができる」
「綿ですって!?」

 半信半疑どころか一信九疑だったが念のために試してみるとたしかにした。
 結果は秋芳の言うとおり、見事に成功。

 このような方法はウェンディの知るどの文献にも書いてないし、聞いたこともない。
 異世界云々は道化じみたホラ吹きでも妄想でもない、事実なのかもしれない。

「――それで、そこの名産の蜂蜜をお土産にくれたんですよ。他の人もよくおごってもらったりしているみたいで、太っ腹です~」
「学費を貯めないといけないのに、よくそんな余裕がありますわね」
「ここのお仕事の他にも、街の人たちのお手伝いをしてやりくりしているそうで、そのお手当てを元手にシーホークの漁師さんから余った魚を安く買って干物にしてフェジテ近隣の村々で売りさばいたら、けっこうな利益になったそうです」
「たまに見かけなくなると思いましたら、そんなお小遣い稼ぎをしていましたの。器用な人ですこと」

 如才ない働きぶりで従僕として大いに役に立っているが、それ以上に魔術師としての素養が気になり出していた。
 あれからロクでなしだと思っていた非常勤講師のグレンが思いもよらなかった有意義勝かつ楽しい授業をはじめたことでそちらのほうに意識がむかい、ウェンディ自身すっかり失念していたが、オンミョウジという「異世界の魔術師」である秋芳がいかに特異な存在か、今さらながら気になってきた。
 いちど学院で魔術の適性検査を受けさせて、その結果次第ではナーブレス家が出資して入学させてもかまわないだろう――。

「決めましたわ。来週にでも彼を学院に連れて行きましょう」
「まぁ、きっとアキヨシさんも喜びますよ。……あ、お嬢様。でもその前にシーホークで商工ギルドの寄り合いの件ですが……」
「ああ、そういえばそんなのもありましたわね。ちょうど授業が五日間休講になりますし、今回はわたくしも顔を出しますわ。ミーア、あなたも来なさい。ついで彼も、アキヨシも同行させましょう」
「わ~い、楽しみですぅ」





「ぐおおぉぉぉおおッ! 遅刻、遅刻ぅッ!?」

 学院へと続く街中で叫び声をあげて疾駆する者がいた。
 グレン=レーダスだ。
 パンを口にくわえながらの全力疾走で叫んでいるのだから器用なことである。

「つーか、なんで休校日にわざわざ授業なぞやんなきゃならんのだ!? だから働きたくなかったんだよっ! ええい、無職万歳!」

 学院の教授や講師たちはそろって帝都オルランドでおこなわれる魔術学会に出席する。それに合わせて学院は休校になるのだが、グレンの担当クラスだけ例外だった。
 彼の前任講師だったヒューイがある日、突然失踪してしまったことで生じた空白期間にくわえ、グレン自身の最初のやる気のない講義内容のため、彼の担当する二年二組のクラスだけ授業の進行が遅れていた。
 そのためその穴を埋める形で休校中にも授業が入っているのだ。
 グレンは居候先の屋敷から学院まで道のりをひたすら駆けて表通りを突っ切り、いくつかの裏通りを抜けてショートカットし、ふたたび表通りに出て学院への目印となるいつもの十字路にたどり着いた時。

「……っ!?」

 異変に気づいて足を止める。





 さて、ここから先グレンの身に降りかかる災難については原作本編にあるとおり。
 授業があることをすっかり忘れてシーホークへとむかったウェンディと、彼女に同行した秋芳。
 これから先は「if」もしもの話がはじまります。
 

 

シーホーク騒乱 2

 フェジテからシーホーク間の移動には専用の駅馬車――都市間移動用の大型箱型馬車が使われており、街道の一定区画ごとに設けられたステージと呼ばれる各停車駅で馬を取り替えるついでに休憩を入れて街道を進み続ける。
 早朝に出発すれば翌日の正午には到達できる計算だ。
 これは乗り心地を優先してゆっくり進んだ場合で、揺れるのを承知で急行馬車をもちいればもっと早く到達できる。
 ウェンディはナーブレス家が所有する馬車を二台用意し、一台にはウェンディとミーアが、もう一台には秋芳が乗ることになった。
 護衛の必要はない。主要街道周辺は衛兵らが定期的に巡回や整備をおこなっており、治安が良いのだ。
 道中なにもすることのない秋芳は持参した初等レベルの呪文書をなんども読み返して内容を頭に叩き込む。
 武術の心得があるとはいえ、呪術が使えないのはなんとも心もとないし、不便だ。こちらの世界の魔術を少しでも多く習得したかった。

「この奉神戦争てやつは酷いなぁ」

 呪文書以外にも歴史関係の本にも目を通していてそのような感想を抱いた。
 帝国政府は魔術師を諸外国に対する潜在的な戦力と考えており、有事の際には学院の生徒ら魔術師の卵たちですら戦力として導入することも視野に入れている。
 実際にそうなった例は少ないが、四〇年前の奉神戦争では戦争の末期に魔術学院から有志の学徒出陣があり、そのおかげで辛うじて勝利を拾えたとも伝わっている。

「学徒を動員するほど追い込まれての勝利……。たがいに総力戦だったんだろうな。しかし有志を募って、なんて書いてあるが、どこまで正確かわからんし、どんなあつかいを受けたのかも書いてない。動員された学生らを肉壁にされている間に後方を整えて……、とかそんな使われかたをされたりしたのかなぁ。ソ連みたいに銃はふたりに一丁とか、そういうレベルで……」
「アキヨシ」
「よく『入隊の日にコップ一杯の醤油を飲んでいけば検査で引っかかって家に帰される』なんて徴兵逃れの話を聞くが、これは誤りで、入隊じゃなくて入営。しかも当日にそんなことしても手遅れだし、コップ一杯ならやろうと思うとだれでもできる。正確には徴兵検査当日に醤油を一升飲むと死人同然の顔色になって兵隊に取られずにすむ。が正しいんだよな。もっともこれは都市伝説で、そんな詐術はすぐに見破られて厳罰にされたそうだが」
「アキヨシ!」
「あらかじめ条件起動式か時間差起動(ディレイ・ブート)に病気治療(キュア・ディジーズ)を組み込ませておいてから、めっちゃ重い病気に罹って検査を受ければ――」
「カモ・アキヨシ!」
「しかし解せんな、この魔導兵団戦とやら。火や雷の魔術を使うだけで馬は恐慌状態になり騎兵は機能しなくなる。隊を組んでの弓兵や銃兵の一斉掃射も対抗呪文で防がれる。重装歩兵を並べての密集陣形も広範囲破壊呪文の的にしかならない。これはまぁ、わかる。だが魔術を使えない兵士が敵魔導兵掃討後の拠点制圧や兵站活動や後方支援にしか役に立たないとか、敵の魔導兵を相手に一般兵が立ち向かわなければならない状況というのは捨て駒か敗北が決定した時だけと書いてあるが、はたして本当にそうだろうか?」
「ア~キ~ヨ~シ~ッ!」
「そもそも破壊魔法をもちいた個人レベルの戦闘にこだわりすぎだ。召喚呪文を使えば戦力を増やせるし、幻術を使えば容易く伏兵でき、魅了や混乱で同士討ちを誘えて、火と風を起こすだけで火計は成功する。それなのにわざわざ魔術師が最前線でドンパチ魔術バトルする意味なんて――」
「……《雷精よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 か細い雷光が秋芳の鼻先をかすめて壁にあたって弾けた。

「あぶないじゃないか」
「主の問いを無視するからですわ、あてなかっただけでも感謝なさい。聞きましてよ。あなた、独学で呪文を習っているそうですわね」
「ああ、入学までに少しでも多くのことを知りたいと思って。初歩の初歩のしか使えないが」

 汎用の初等呪文の多くは攻性系の魔術が占めているが、学士生が通常の授業範囲で習得するような攻性呪文は、せいぜい相手を気絶させる【ショック・ボルト】、目を眩ませる【フラッシュ・ライト】、突風で相手を吹き飛ばす【ゲイル・ブロウ】などの殺傷能力が低い術ばかりだ。
 グレンの指導は基本的に学院のカリキュラムに沿って進んでいるため、秋芳もこのみっつの呪文の習得からはじまった。

「喜びなさい、あなたが学院に入るよう手配しておきましたわ」
「おお、それはありがたい! だがまだ学費のほうが……」
「出世払いでかまわなくてよ。逆に言いますとそれなりの働きをしてもらってからでなくてはお国への帰還はゆるしませんことよ」
「もちろんだ、受けた恩はかならず返す」
「けっこう。ところであなた、今の【ショック・ボルト】の呪文の詠唱節を四つに区切るとどうなるか、ごぞんじかしら?」

 とっておきの秘密を教えたくて仕方がないという顔だ。

「ああ――」

 詠唱節についてのあれこれはグレンから学んで知っていた。そしてそれが教科書には記載されず、普通の講師は教えないということも。

「ああ、いや知らないな。俺はまだ初歩の初歩しか学んでないんだ。そういう応用編も後々教科書に出てくるのかな」

 だがグレンから教えを受けていることは極秘だ。国の許可なく魔術を教えることは禁止されている。 まして営利目的で教えているとあっては依頼したほうも受けたほうも厳罰を受けることとなるだろう。
なので秋芳は知らないふりをする。

「ふふん、なら特別にこのウェンディ・ナーブレスが教えてさしあげますわ。《雷精よ・紫電の・衝撃以て・撃ち倒せ》」

 得意げに四節になった呪文を唱えると、大きく弧を描くように右に曲がって窓にあたって火花を散らした。

「さらに……《雷・精よ・紫電の・衝撃以て・撃ち倒せ》で、射程が三分の一くらいになりますの。《雷精よ・紫電  以て・撃ち倒せ》みたいに呪文の一部を消しますと出力が落ちましてよ! 他にも――」

 ひとしきり変則詠唱をもちいた魔術を披露して満足したウェンディは自分の馬車へと戻っていく。よほど自分が得た知識を、だれか魔術に理解のある人に見せつけたかったのだろう。
ウェンディが去ってしばらく、ふと思いついた秋芳が両手を広げて【ショック・ボルト】を唱える。
 一〇本の指、すべてから雷光が射出されるよう心に念じて。

「《雷精よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 右手の指先からひと筋の微弱な電気が放たれた。

「……《群れなす雷精よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 一〇本の指先から放たれた一〇条の光が壁にあたって弾ける。
 続いて両手を拝むように合わせて前に突き出す。

「群れなす雷精よ・疾く集え・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ」

 太い雷光が放たれ、壁に焦げ跡を作る。太さだけではなく威力もまた通常のものより上がっているのは明らかだ。
 生身で当たれば痺れるだけではすまないだろう。

「意識するだけではダメか。唱えるルーン語を変化させることでのみ術式は改変可能なのか、ただたんに俺が未熟なだけか……」

 シーホークに着くまで試し撃ちを繰り返す。いま使える魔術は三種のみ。このみっつでなにが、どこまでできるのか、できる限り把握する。
 対人呪術戦というのは手持ちの術(カード)でいかに勝つかにかかっている。手札が足りなかったり弱かったとしても、組み合わせの妙や応用で勝敗は決まる。
この手札、なにも甲種呪術に限ったことではない。
 呪術者が数多の問題を解決するにあたり、その手段として呪術が有効なことは確かだが、それはあくまでも手段のひとつ、選択肢のひとつに過ぎない。
 大切なのは、より柔軟に対応する能力だ。
 ある意味、呪術者が目的のために用いるのなら、剣だろうが銃だろうが、金や舌先三寸で人を動かそうが、なんであろうと「呪」なのである。
 呪術は奥が深く、幅が広いのだ。それも様々な方向に。




 
 潮風が吹き、磯の香りがただよう港町シーホーク。
 帝国西海岸部の各主要都市や沿岸部各地。周辺の島々をつなぐ定期船が行き交うほか、海外からの貨物船がつねに出入りし、人と物と情報が集まる重要な交易拠点。
 各地から訪れる観光客のほか、未知の世界を求めて海図なき航海に挑む冒険者や、一獲千金を狙って捕鯨船に乗り込む若者たちがひしめく、富と欲望、希望と絶望、活気に満ちた街だ。
 だれが最初に言い出したのか、シーホークでは観光スポットや商業施設の建ち並ぶエリアを潮風地区、地元住人のうち比較的裕福な人の住むエリアを高潮地区、そうでない人の住む引き潮地区、貧困層の住む磯地区。
 そして貴族や豪商といった富裕層の住むエリアを雲地区と呼んでいる。高潮でさえ届かぬ雲のある場所にナーブレス家のシーホーク屋敷はあった。

「お久しゅうございますお嬢様」

 白い髪に白い髭をはやした老人がウェンディたちを出迎える。彼の名はマスターソンといって、ナーブレス家に古くから仕えている帝国騎士――領地を持たない最下級の貴族だ。
 
「ごきげんようマスターソン。わたくしのいないあいだ、変わりはなくて?」
「はい。おかげさまでなにごともございません。……強いて言うなら旧磯地区の堤防問題についてあれこれ取り沙汰されていることくらいでしょうか」

 街のもっとも古い部分。西側の一角は堤防に囲まれていてマイナス海抜になっている場所が存在する。老朽化による多数の漏水が発見されており、もはや改修できる状態ではない。
 いちど破壊する必要がある。だがその費用はどこから出すのか。長い間そのことで議論されていたのだが、商品の減税を条件に費用の一部をナーブレス公爵家が負担することを条件に解決した。
 この堤防のあるマイナス海抜地域はもともと貧民街であったが、アルザーノ帝国女王アリシア七世主導のもと実施された近年の福祉政策の影響によって住民は他所へと移り、今は無人と化している。
 あとはいつ、どうやって破壊するかが問題だ。

「そのことについて話をつけにまいりましたの。明日の商工ギルド会議に出席しますから、今日は早めに休みますわ」
「はい。お疲れでしょう、ご入浴の支度ができていますのでお食事の前にどうぞごゆるりと」
「気が利きますわね、お言葉に甘えて旅の塵を洗い落とさせてもらいますわ。ミーア、あなたも一緒なさい。アキヨシも湯浴みして綺麗になさい」

 綺麗好きなウェンディは最低でも一日一回の入浴を習慣とし、従者にも清潔を求める。現代日本に生まれ育った文明人である秋芳もそのことに異存はない。素直に風呂に入った後、特に用事を命じられることもなかったので、その日も魔術関連の本を読みふけって就寝した。





 翌日。
 商工ギルドの会議は滞りなく終えたウェンディは秋芳とミーアをともなって件の堤防を視察した。

「これはでかい、実に見事だ。こうして見ると壊すのがもったいなくなるなぁ」

 下から見上げた秋芳が正直な感想を口にする。

「ですが毎年の維持管理費が重なるいっぽうですし、破壊処分もいたしかたありませんわ」
「金にあかせて造った悪趣味な建物ならいくら壊してもかまわないが、風雪に耐えてきた古い建物は大事にしたいものだ。けど人々の安全や生活がかかっているんじゃしかたがない。だがどうやって破壊するんだ、ダイナマイトでも使うとか?」
「帝都から魔導士を招聘して軍用魔術を披露してもらう予定ですの」

 軍用魔術とは文字通り戦争用の強力な呪文。純然たる破壊魔法であり、学院で習う汎用魔術とはけた違いの威力がある。
 軍用魔術はA級、B級、C級の三クラスに分かれ、A級は戦術・戦略レベルの大魔術で天変地異に等しい威力があるが単独で詠唱するものではなく複数の魔導士が協力して詠唱する儀式魔術だ。
 主として近~遠距離の魔術戦でもちいられるのはBC級の軍用魔術であり、一般的な目安としてC級を一節で詠唱できれば超一流。B級なら何節かけてでもとにかく詠唱することができれば超一流の魔導士とされる。
 しかしB級軍用魔術の一般的な詠唱節数は七節以上、これは通常、味方との連携の中で運用されるべき節数であり、B級はC級にくらべて威力が格段に高いものの一対一の魔術戦では詠唱に時間がかかり使い難いというのが実情だ。

「魔術にA級だのB級だのとか、なんだかすてプリみたいだなぁ。そのうち廃棄王女とかいって社会的には死んだことになっている女王陛下のご落胤とか登場するんじゃないか、この世界」
「さて、ついでにもう一か所視察に参りましょうか。たまには市井の人たちの暮らしぶりを見てみるのも貴族たる者の務めですわ」

 秋芳の意味不明なたわ言にはもう慣れっこだ。軽く無視して潮風地区でおこなわれている万年蚤の市広場へと向かう。





「ううん、聞きしに勝る猥雑ぶりですわね。ごちゃごちゃしていて、いるだけで人酔いしてしまいそうですわ」
「わぁ、かわいいお人形。あ、こっちの髪飾りも。やっす~い。買っちゃおうかなぁ」
「安いからと必要のないものを買うのはおよしなさい『小銭に賢く大金に愚か』という言葉がありますわよ」
「おお、この壺の『はにゃあ』とした感じがたまらない」
「そんなひしゃげた出来損ないの壺のどこが良いのか、理解に苦しみますわ」
「破調の美と言ってだな、俺の国にはととのった形ではなく、くずれた形に美を見い出す思想があるのだ」

 服や食器といった日用品、絵画や彫刻といった調度品、装飾品、書物、武器、防具、用途不明のなにか――。
 広場のあちこちに天幕が張られ、その下に置かれた台座や茣蓙の上に多種多様な品々があふれている。
 あふれているのは物だけではなく人もだ。

「これではゆっくりと落ち着いて買い物もできませんわ」
「……お嬢、【センス・オーラ】は使えるか? 使えるならあのナイフとそこの古本を見てみろ」

 【センス・オーラ】
 視界内の魔力を感知し、魔力を帯びた品物や空間、強さ、大体の性質や属性を知ることができる。

「できますけど、学院の外での魔術の使用は禁止されていますわ」
「あれ、魔道具かも知れないぞ」
「…………」

 ウェンディは周囲に気づかれないよう、小声で呪文を唱える。

「ナイフのほうは魔力を感じますけど、本からは反応ゼロですわ」
「ふうん、隠形――魔力隠蔽(シール・エンチャントメント)されているようには視えないから、魔道具じゃなくて普通の逸品かな。非凡な気が宿っている」
「普通なのに逸品て、言葉がおかしくてよ」
「とにかく掘り出し物だ、買おう」

 このような場所に出品されているだけあって値段は安いが、それでも秋芳はなんとか半額以下に値切ってナイフと古本を購入した。
広場から少し離れた場所で品定めする。

「まずナイフのほうだが、【ファンクション・アナライズ】は使えるか?」

 【ファンクション・アナライズ】
 対象物の分析と解析をおこなう。物理的な構造や機能のほか、魔術的な機能や符呪された魔術も知ることができる。

「とうぜんですわ」

 なんの変哲もない青銅製のナイフには【ホーリー・エンチャント】が符呪されていた。設定されたコマンド・ワードを唱えることによって神聖な力を宿し、屍鬼や死霊といったアンデッドに対して強力なダメージを発揮する。

「お次は本のほうだが、こいつからは普通の作品にはない強い気を感じる。それなりの作家が書いた作品だと思うが、あいにくと文芸評論家じゃない。来歴鑑定の呪文は使えるか?」
「いくらわたくしでも、そんな専門呪文なんて知りませんわ。プロの魔導考古学者でもない限り習得しない呪文でしてよ。……それよりも、あなたなんで魔道具だと見抜いたんですの」
「あれぇ、見鬼のことは説明してなかったか?」
「あ、そういえば最初に聞いたような気が……」

 見鬼とは霊気の流れや霊的存在を感じ取る力のこと。いわば霊感能力であり、通常は視認できる範囲のものを〝視る〟が、高位の使い手ともなると目のとどかないような広範囲や遮蔽物も関係なく感知することが可能だ。

「素で【センス・オーラ】がかかっているだなんて、ずいぶん便利ですこと。ちょっとした異能ですわね」
「異能か、たしかこの国では追われる存在だったな。魔術学院へ入れるのはありかたいが、まさか適性検査でそれが引っかかって、人体実験の検体にされるとかはやだなぁ」
「レザリア王国や聖エリサレス教会の異端審問官じゃあるまいし、わがアルザーノ魔術学院がそのような非人道的なおこないを許すことは断じてありませんわ」
「レザリアってのはそんなにひどい国なのか」
「愚問でしてよ、先の奉神戦争はかの国の狂信的な信仰が引き起こした一方的な侵略戦争で――」

 ウェンディがレザリア王国に対する悪口雑言すれすれの批判を口にする。
 それはこの国の歴史書に書いてあるとおりの内容だった。
 おそらくレザリアではレザリアでアルザーノが先に侵略してきただの、魔術は野蛮な悪魔の技だのと、真逆の歴史が語られているのではないだろうか。
 
(時は変わり所は移ろえど、人の営みに何ら変わりはない。春秋に義戦なしとはこのことか)

「あああ~! これってばライツ=ニッヒの初期作品集ですよ!」

 黙って本をめくっていたミーアが著者に思い当たり驚きの声をあげる。

「ライツ=ニッヒ、どこかで聞いた名ですわね」
「ひと昔前の有名な幻想小説家ですよ。行ったことも見たこともないような古代遺跡をまるで実際に見てきたかのようにリアルに表現することに定評があって――でも彼は若い頃の自分の作品を黒歴史認定していて、絶対に書籍化しなかったんです。それどころか片っぱしから処分して、なかったことにしたいほどだったそうです。晩年になって自分が若い頃に書いた作品を焼き捨てろと家族に遺言した話は有名ですよ。これは彼のアマチュア時代に書いた同人誌じゃないですか。ちょーレア物ですよ!」
「自分の作品を焚書にするとはおだやかじゃありませんわね、どうしてそこまでしてみずからの過去を否定なさるような真似をしたのかしら」
「なんか、いろいろとひどかったそうですよ。内容とか設定が」
「ひどい?」
「はい。――とにかく主人公はやたら最強能力設定を搭載しまくった天下無敵で、クールでぶっきらぼうのくせになぜか人をひきつける魅力があって、特に理由もなく女の子にモテモテで常にハーレム状態。どんなに固い信念を持った敵も少し主人公が説教するだけであっさり揺さぶられてあげくの果てには主人公に理論的にも物理的にも完全敗北して改心し、だれもかれもが主人公をすごいすごい、さすがですわと大絶賛」
「まぁ、それは……、たしかに、ひかえめに言ってひどいですわね」
「いや、俺はそうは思わないな」
「あら、以外ですわね。あなたこそこういった作品を毛嫌いしてそうですのに」
「物語の主人公が高スペックなのは当然だ、だれが好き好んで凡人の平凡なお話なんて読みたがるものか、そんなのは自分自身のリアルライフでじゅうぶんだろ。それよりも実質最強系主人公なのに、俺ツエーじゃありません、他の作品とはちがうんですアピールしてとってつけたような、なんちゃって最弱落第劣等生属性をつけるような作品こそうっとうしいわ。信者どもは信者で毎回ケガしている、苦戦しているから〇〇は最強系じゃないとか擁護しだしてさ――」

 『花関索伝』という物語がある。
 主人公である関索は関羽の子という設定だが史実にそのような人物は存在しない(つまりオリ主!)関索は武勇のみならず知略にも優れ、美少女たちにもモテモテという最強系主人公。
 そんな彼が魏や呉の悪役をやっつけていく歴史IFをテーマにした古典ラノベだ。
 さらに京劇では孟獲の娘、花鬘と戦い彼女を嫁にして四人目の妻にまでしている。
 関索が主人公の転生学園ハーレムラノベでも出るのも時間の問題だろう。

「――とまあ、神話や伝説から個人の創作物にいたるまで、主人公が強くてモテモテな作品は数多く、それだけ人々に求められているのだ。陳腐だなんだのと言われるが、陳腐というのは幾度にもわたって使われるからで、幾度も使われるということはそれだけ効果があるからであり、王道を理解できないやつには――」
「そんなことよりも、この方法で他に魔道具がないか調べてみますわよ!」
「そんなことって……」
「わたくしは魔道具を担当しますから、アキヨシはそれ以外の気? とかいうのをまとったいわくありげなやつを任せますわ。ミーア、あなたは荷物持ちですわよ」

 こうして午後は蚤の市での掘り出し物探しに費やされた。





「思っていたよりも見つからないものですわね……」
「そうかな、けっこうな釣果だと思うが」

 ナーブレス邸にもどったウェンディ一行は部屋いっぱいに収穫品を広げて整理をしている。

「伝説の武具や秘伝の魔導書などが発見できるかと期待していましたのに、小物ばかりでしたわ」

 入手できた魔道具は小粒の魔晶石や【トーチ・ライト】が付呪されて文字通りペンライトとして仕える筆、【ファイア・トーチ】が符呪されたワンドなど、こまごまとした物ばかりだった。

「いや~、そんなものだろ。むしろあんなところに魔道具がごろごろと転がっていたら、国の管理能力を疑うわ」

 魔術と魔術師が国によって管理されているように、魔道具の類も原則として国家の管理下にある。
 とはいえすべての魔道具を完璧に管理するのは無理なので、害がなかったり目立たない物は一般に流通されてしまったり、今回のように市に流れてくることがある。

「それよりもこっちの未鑑定品の価値が知りたいね」

 非魔道具。秋芳の見鬼で発見した非凡な気を纏う品々は後日専門家に見てもらうことになっている。

「それこそ小物ですわ。わがナーブレス家にそのような小汚ない壷や絵は不要でしてよ」
「城ひとつが買えるほどの価値がある美術品かも知れないぞ」
「もしそうなら好事家連中にでも売って、あなたの入学費にあててさしあげてよ」
「いや、こういった芸術作品は美術館などに寄付して多くの人に観賞されるべきだ」
「好きになさい」

 こうしてライツ=ニッヒの未公開作品はアルザーノ魔術学院の図書館に寄付されることとなり、のちに幽霊騒動を引き起こすことになるのだが、それはまたべつのお話――。

「けれどセンス・オーラにこんな使いかたがありましただなんて、思ってもみませんでしたわ」

 この手の感知系の魔術は遺跡で見つけたあやしい場所や道具を鑑定する際にしか、魔導考古学の授業でしか使わない。ウェンディのなかではそういうイメージだったのだ。

「呪術は奥が深く、幅が広い。それも様々な方向に。陰陽術において必要とされる才能は、極めて多岐にわたる。どんな才能であれ、武器にすることはできる――。俺のいた世界ではそういうふうに教えられている。あとこういう余興もできるぞ」

 秋芳は机の上にあった布巾で頭を覆い、ヴェールのように目隠しをする。

「さぁ、これで視界が妨げられたわけだが、ちょっと目の前になにかかざしみてくれ」

 ミーアが言われるままに手近にあったポットをかざしてみる。

「ポットだ」
「わぁ、あたりです!」

 ウェンディが無言で燭台を差し出すと、これも言い当てた。

「【クレアボヤンス】を使っているわけじゃありませんわよね……」
「この世界の魔術じゃない。俺のいた世界の陰陽術のひとつで射覆(せきふ)と言う」

 射覆とは箱や袋の中に入れてある物を言い当てる陰陽術で、賀茂忠行という平安時代の陰陽師はこの術の名人だったという。
 安倍晴明と蘆屋道満が箱の中身を当てる、射覆勝負をした逸話は有名だ。

「ただしこの射覆は甲種じゃない、乙種だ」
「乙種……、つまり種も仕掛けもある手品というわけですわね。見破ってみせますわ!」

 ウェンディは秋芳から向こうの世界の話を聞くうちに陰陽術についても耳にしていた。甲種呪術と乙種呪術のことくらいは覚えている。
 花瓶、フォーク、ワインボトル、皿、人形――。
 なんども繰り返し、トリックを暴こうと試みているうちに、ミーアが感づいた。

「あっ! わかっちゃいました。影ですよね」

 目を覆う布巾は強く縛っているわけではない。
 視線を下げれば床が見え、床には顔の前にかざした物の影が映る。秋芳はそれを見て言い当てていたのだ。

「このような小細工、詐欺師の手口ですわ」
「これもまた呪、そして人の智恵だ」
「わたくしが求めるのは賢者の叡智。このような狡智は不要でしてよ」

 こんどはウェンディが語る番だ。
 優雅さと気品、古き良き伝統的な貴族の教養としての魔術について――。
 それらのことを秋芳にとくとくと語ってみせた。





「――了解した。天なる知慧に栄光あれ。魔術は偉大なり」 

 フェジテからの連絡。同志たちは首尾よく対象の確保に成功した。撤収すると同時に学院を爆破することだろう。
 倉庫におさめられた五〇〇を越える数の木箱を前にしたカルサコフは課せられた任務を実行する。

「《虚ろなる兵よ・黒鉄の魂を宿し・目覚めよ》」

 金属の軋む音を立てて箱の中の鎧たちが起き上がる。

「ニ〇〇は雲地区を襲え、もうニ〇〇は潮風地区を、残りは私についてこい。動くものすべてを殺し、形あるものすべてを壊すのだ」

 五〇〇の兵士が無言の喚声を上げて動き出す。
 シーホークに死と破壊を撒き散らすために――。
 

 

シーホーク騒乱 3

「……おい、ありゃあなんだ?」

 詰め所にいた港湾職員たちは外の光景に目を丸くした。板金鎧の集団が列を作って行進しているのだ。

「パレードがあるなんて聞いてないぞ」
「いったいどこの国の兵隊だ、ありゃ」
「どこってそりゃあ、アルザーノかレザリアだろ」
「あんな時代遅れの鎧着た兵士なんているかよ」
「じゃあなんだ、仮装行列か」
「ん? お、おいっ」

 鎧の兵士が振るった鉄拳によって通行人のひとりの頭が熟れたトマトのように叩き潰される姿を目撃し、口々に意見していた職員たちは凍りついた。

「な……」

 道行く人々に襲いかかる鎧たち。彼らは武器を持っていないが、重装鎧の籠手はそれ自体が金属製の鈍器に等しい。
 次々に撲殺していく。

「け、警備官だ。警備官を呼べ!」

 助けを求めようと外へ出た職員の顔面がザクロのように弾ける。板金鎧の兵士が詰め所の中にいる職員らを肉の塊にするのに三分もかからなかった。





 網の上に乗せたアワビとサザエが泡を吹いて焼けていくのを秋芳が至福の表情で見つめている。
 
「ありがたい、ありがたい。こんな上等な海の幸が安値で手に入るんだから港町は最高だ」
「なにやら香ばしい匂いがすると思ったら、こんな場所で朝餉かね」

 こんな場所。ナーブレス邸の庭の片隅で浜焼きをしている秋芳にマスターソンが声をかける。

「これはマスターソンさん、おはようございます」
「きみはこの前もただの魚の塩焼きを美味しそうに食べていたね。フライでもムニエルでも、ナーブレス家に仕える使用人ならもっと手の込んだ料理を味わえるはずだが、よほど粗食が好きなのかね」
「とんでもない、日本人にとってはこれがごちそうなんです」
「日本人というのはずいぶん粗食なんだねぇ。――ん?」

 買い出しに出ていたミーアが大慌てで帰ってくるなり、正門である大きな鉄柵の扉と、その横の通用門にもあわただしく施錠している。

「いったいなにごとかね。戸締りするには早すぎないかい」
「鎧を着た集団が街で暴れてるんです! 警備官の人たちが早く安全な場所へ避難するようにって、だから――」
「……その鎧を着た集団というのは、ああいう連中のことかい」
「え?」

 マスターソンが指さす先、施錠したばかりの鉄柵扉の前を板金鎧の一団が通り過ぎていく。
 そのうちの何人かが足を止め、鉄柵に突進してきた。

「あ、あああっ、そうです! あの人たちです! あの人たちが街で大暴れしていて――」

 耳をつんざく金属音にミーアの声がかき消される。
 鉄柵扉を強引に突破した板金鎧たちが殺到してくる。

「招かれざる客には、お引き取り願いましょう」

 狼藉者たちの前に立ちふさがったマスターソンが腕を一閃すると、板金鎧の肘関節部分に短剣が突き刺さっていた。

(介者剣法か! やるな、このじいさん。だがこの甲冑野郎ども、人ではない!)

 介者剣法とは鎧兜を身につけた重装備の剣法、もしくは重装備の敵に対する剣法のことを差す。
 腰を落として重心を低くして構え、自分の鎧の防御力を最大限に利用しつつ相手の鎧のすき間や下半身を狙って突いたり足を薙ぎ払うなどの攻撃をするものだ。
 どんなに硬い鎧を身に着けていても肘や膝、首筋といった関節部分は守れないし、重い鎧を身に着けた状態で転倒すれば容易に立ち上がれない。
 リアリティを軽視していたり、作り手の想像力が乏しい映像作品などではたまに鎧を着こんだ相手に剣で正面から斬りつけ、その一撃で相手が倒されるシーンが出てくるが、鎧を着ている限りそんなに簡単に倒されたりはしない。
 そんな鎧ならいっそ着ないほうが身軽なだけ有利である。

 板金鎧は一瞬だけ動きを止めたが、負傷した様子もなく腕を振るう。

「ぬぬっ」
「いかん、マスターソンさん。そいつらはリビングアーマーだ。中に人はいない」
 
 リビングアーマー。
 魔力によって動く生きた鎧。精霊や幽霊といった霊的存在が憑依して動くアンデッド・モンスターの場合もあるが、今回は魔術によって人工的に作られたゴーレムタイプだと、秋芳の見鬼は見抜いた。

「なんと、どうりで手応えがないわけだ」

 どんな堅固な鎧を身につけていても、生身の人間ならつなぎ目狙いの刺突攻撃が有効だ。しかし相手が生身を持たない生きた鎧とあってはダガーでは効果が薄い。
 一定以上の損傷を与えてやっと動きを止める生きた鎧相手にどう立ち向かうか――。

「ミーア、アキヨシ。ふたりは早くお嬢様のところへ!」
「は、はい!」
「いや、この数を相手にひとりでは骨が折れることだろう。俺にも多少の心得はある、加勢しよう」
 
 秋芳は近くにあった薪割り用の斧をマスターソンに手渡すと、自身は素手でリビングアーマーの一団に立ち向った。
 大振りな攻撃をかわしつつ踏み込んで掌打を放つ。
 足の踏み込み、腰の回転、肩のひねりによって生じた力。そこへさらに全体重をくわえて一点に集中された一撃はリビングアーマーの厚い鉄板を穿ち、吹き飛ばす。
 さらに打ちかかって来る二体のうち一体の腕を両手でつつみ、軽くひねると、耳障りな金属音を立てて本来ならば曲がらない方向に腕がひしゃげた。人ならば関節が破壊された痛みに悶絶しているところだろう。
 そのまま体を揺らすと、いかなる力の作用なのか、リビングアーマーが右に左にと激しく振り回される。
 等身大のモーニングスターと化した鎧で周りにいる鎧兵どもをなぎ倒す。

「おお、それらの技は魔闘術(ブラック・アーツ)というやつかね!?」

 魔闘術。
 拳や脚に魔術を乗せ、打撃の瞬間、相手の体内で直接その魔力を爆発させる魔術師ならではの近接戦闘術。魔力操作の技術がなければ使えず遠距離攻撃という魔術の利点を捨てることになるが、接近戦では絶大な威力を誇る。

「いや、ただの発勁と擒拿だ。そんな技は知らない」

 武術はもっとも実践的な呪術魔術のひとつ。そのような考えのもと、秋芳は幼い頃から鍛錬を重ねてきたのだ。
 これが獣型のモンスターであったならまた話は変わってくるが、襲撃者が四肢を持った人型モンスターである以上、対人用の武術は大いに効果を発揮した。

「なんであれこのマスターソンも、まだまだ若い者に負けてはおられませんな!」

 転倒して起き上がろうとしている鎧にむかって容赦なく手斧を叩き込み、破壊していく。
 六体いたリビングアーマーはやがて動きを止め、ただの半壊した鎧と化した。

(……呪術が使えないせいか、妙に冴えるな)

 身体的、霊的欠損というものは、呪術者にとってむしろ『強み』となることがある。
 東北地方には「いたこ」と呼ばれる巫女が死者の霊魂を呼び寄せて意思の疎通をする、口寄せという儀式が存在する。
 この儀式をおこなう巫女たちは強い霊力を持つことで知られており、同時に盲目や弱視といった視覚障害者でもある。
 こうした例をもとに目が見えないからこそ見鬼の才が磨かれる、霊視能力が増すという説は古くから呪術関係者らの間にある。
 つまり霊力、呪力が身体的なハンディキャップの補完作用として強化されるという見方で、ほかにも隻眼、隻腕、隻脚など。身体的、ひいては霊的欠損による逆説的な霊力の強化は、古いタイプの呪術師たちの間に語り継がれてきた。
 呪術が不自由だからこそ武術が冴える。

「武と魔、魔法戦士でも目指してみるか」

 壊れた門のむこうから次々と現れるリビングアーマーの集団を前に、秋芳はそうひとりごちた。





 いつもより遅い朝食を食べ終えてお茶を飲んでいたウェンディは外から聞こえてくる喧騒に眉をしかめる。
 閑静な雲地区にはおよそ似つかわしくない、ひどく荒々しく暴力的な響きの騒音。
それが徐々に大きくなり、近づいてくる。
 いや、騒音などではない。
 物の壊れる音にまざって人の悲鳴や怒号まで聞こえてくる。
 
「お嬢様、敵襲です~!」
「なんですって!? 簡潔、簡略、可及的すみやかに説明なさい!」
「かくかくしかじか、ホニャララホニャララで――」
「かくかくしかじか、ホニャララホニャララじゃわかりませんわ!」
「ある事柄の説明を省略した際に具体的内容の代用としてもちいられる文章表現ですってば!」

 などと戯れている場合ではない。説明を聞いたウェンディは部屋着を脱いで学院の制服に着替えた。
 ウェンディがふだん着用している制服やローブは身体まわりの気温・湿度調整魔術である黒魔【エア・コンデショニング】が永続付与されており、見た目よりも夏は涼しくて冬は暖かい。同様にわずかではあるが防御力を上昇させる白魔【プロテクション】も付与されている、とても便利な代物だ。

「みなをロビーに集めなさい。緊急事態ですわ!」





 所属不明の兵隊たちが街中で暴れている。彼らは雲地区にも押し寄せ、家々を荒らしてまわっている――。

「全員お集まりでして?」

 学院の制服に着替え、腰に小剣を佩いだウェンディがロビーに姿を見せると、集められた使用人たちのあいだにただよっていた不安と緊張がいくらかやわらいだ。

「無頼の徒がわが屋敷に乱入して狼藉を働こうとしていますわ。今からこの身の程知らずの賊徒どもを蹴散らしに行きますので、われはと思う者は名乗り出なさいまし」
「とりあえず屋敷に入ってきた連中はたおしたぞ」
「早ッ!」

 秋芳とマスターソンがボロボロになった鎧をかついで入ってきた。

「リビングアーマーだ。二〇体ほど片づけた」
「まぁ、これがあの……」

 ウェンディも動く鎧のモンスターについては知っていた。

「こうして見ると、ただの鎧にしか見えませんわね」
「所属を示す刻印や徽章のたぐいは見つからない。こいつを使役している魔術師はどこかの国の軍人というわけではないようだ。少なくとも正規兵ではない」

 魔術は軍事技術であり、魔術師は軍属になる例が多い。そして国に仕えている魔術師は特に魔導士と呼ばれる。この世界に来てまだ日の浅い秋芳だが、そのくらいのことは学んでいた。

「まぁ、詮索するのは官憲に任せるとして。このままだと危険なので避難するか籠城するか決めてくれ」
「なんですって!?」
「もし他国からの攻撃だった場合、すぐに脱出しないと門を封鎖されて街から出られなくなってしまう。公爵家の人間として身柄を拘束されるといろいろやっかいだろう」
「…………」
「シーホークに攻め入る国なぞ、レザリアくらいなものでしょう。しかし先の大戦中ならいざ知らず、無差別に民間人を襲撃するような真似をするとは考えられませんな。……聖キャロル修道会あたりのテロならともかく」

 隣国であるレザリア王国との統治正当性をめぐる国際緊張は近年高まるいっぽうだ。マスターソンの言葉に出た聖キャロル修道会などという過激派集団が台頭し、保安局も神経をとがらせている。

「遠くから発砲音が聞こえてきました。銃士隊が鎮圧に乗り出しているからには制圧されるのは時間の問題でしょう、それよりも下手に動き回ると流れ弾に当たる恐れがあります。騒ぎが治まるまで屋敷にて静観なさっていてください。このマスターソンがいる限り賊徒どもの侵入はゆるしません」
「…………」

 ウェンディがなすべきことを考えている間にも剣戟や銃声といった剣呑な響きの音が聞こえてくる。ナーブレス邸に入り込んだリビングアーマーたちは秋芳とマスターソンの手で撃退したが、雲地区ではまだ戦闘がおこなわれているようだ。

「……この騒ぎはすぐ近く、トーランド卿のお屋敷からですわね」
「はい。しかし男爵様はいくさ上手として名を馳せたお方で、家中の方々も腕利きぞろい。屋敷も外敵に備えた造りですのでそう易々と賊徒どもに後れはとらないでしょう」
「……アキンド邸からも騒ぎが聞こえますわ」
「アキンド様は日頃から大量の傭兵を召し抱えておりますので、こちらも簡単には破れますまい」

 雲地区に居を構える貴族や豪商の多くは私兵を擁している。金に糸目をつけずに雇い入れた彼らの実力は高く、個々の戦闘力なら並の警備官を上回る者もめずらしくない。

「他の家の方々も似たようなものです。他家のことよりも今はご自身の心配をなさってください」
「なるほど、たしかに雲地区のみなさまには身を守る手段がありますわね。けれどもそれ以外の人たちはどうですの? 先ほどミーアから聞いた話ですと、潮風地区はひどいありさまだったとか……。ついきのう楽しくお買い物に興じた街が賊徒に荒らされているだなんて、義憤に耐えかねますわ。わたくしには魔術の力があります、動く鎧ごときに後れをとるつもりはなくてよ。わたくしたちのシーホークは、わたくしたち自身の手で守るべきですわ」

 ウェンディはみずから出向いて暴れまわるリビングアーマーたちを退治しようと言っているのだ。

「ここがお嬢の、ナーブレス領なら『高貴なる者の義務』を果たすべきかも知れないが、そうでないのだからあえて危険を冒す必要はないだろう。警備官たちに任せておけ。君子危うきに近寄らず、だ」
「義を見てせざるは勇なきなり! とも言いますわ」
「勇気と蛮勇はちがう。相手の目的も規模も不明なのに、敵前に身をさらすのは無謀だ」
「危険を自ら引き受けるのは無謀でなく勇気! そして勝機が見えても危険を恐れるのは慎重でなく臆病でしてよ!」
「おお、よくぞおっしゃってくれました。それでこそナーブレス家のご息女!」

 ナーブレス公爵家はアルザーノ帝国建国以来、帝国王家に忠誠を誓う古参の大貴族の筆頭格だ。奉神戦争の影響で困窮した貴族たちの多くは領地を奉還し、領地貴族から宮廷貴族へ、領主から代官へと鞍替えしたなか、卓越した領地経営手腕を発揮して財政難を克服し、自身の領土を守り切ったという矜持が存在する。
 肥沃な土地から生産される良質の葡萄に支えられたワイン基幹産業に金融業を営み。さらに利益を生み、富み栄えていることを口さがない者は運が良いだの商人貴族だのと揶揄するが、その土地を戦火から守り抜いたのは商才などではなく、武威である。
 ゆえにナーブレス家の者は尚武の気風を貴ぶ。

「このマスターソンもお供つかまつりますぞ。先の奉神戦争では槍働きひとつで騎士の位をたまわり、槍のマッさんと呼ばれたこの武勇。いまだ錆びついてはいないことをお見せします!」
「いいえ、マスターソン。あなたにはこの邸の守りを任せますわ。わたくしがいない間の留守をあずかることこそ、あなたの役目でしてよ。――アキヨシ、同行なさい」

 ウェンディは腰に佩た小剣を手にとって秋芳の前に差し出した。

「カモ・アキヨシ。あなたをウェンディ=ナーブレスの剣に任命します。わたくしの剣となり、わたくしの代わりに敵を打ちなさい」

 ここまで言われてことわるわけにはいかない。

「……受けたまわった」

 ウェンディから手渡された剣は見た目よりも軽かった。軽量化をはじめ、いくつかの魔術が作用している魔道具だと、秋芳の見鬼は視た。
 だがその剣にこめられたウェンディの想いはけっして軽くはなかった。 

 

シーホーク騒乱 4

「ウラーッ! ウラーッ! いいぞ、わが鋼の軍団よ。鉄の嵐となって薄汚い金にまみれた豚どもを粛清するのだ! 逃げるやつは拝金主義者だ、逃げないやつは訓練された拝金主義者だ! ウラーッ! ウラーッ!」

 シーホーク総督府はカルサコフ率いるリビングアーマーたちによって猛攻撃にさらされていた。
城壁に開けられた狭間から間断なく放たれる攻性呪文や銃撃によってリビングアーマーたちの数は減っていくが、恐れも痛みも疲れも知らない鋼の群れの勢いは止まらない。
 寄せ手の数が尽きるのが先か、守り手の戦意がくじかれるのが先か。総督府はリビングアーマーたちに押されて徐々に制圧されていく。
 たとえリビングアーマーが全滅したとしてもカルサコフ自身が残っている。
 みずからも魔導の鎧を身をつけた、カルサコフ自身が。
 搭乗操縦型ゴーレム『スターリ・ルイーツァリ』。着用した人間の動きをそのままフィードバックして動かせるだけでなく、音声や思考による制御も部分的に可能な漆黒の巨人魔像。
 四メートルを超える巨躯から繰り出される一撃の威力は破城鎚に匹敵し、その装甲は刀剣を防ぎ銃弾をも弾く。
 このような規格外の怪物を屠れるとすれば強力な魔術のみ。

「《紅蓮の獅子よ・憤怒のままに・吼え狂え》!」

 その、魔術による攻撃によってルイーツァリが爆炎につつまれた。
 黒魔【ブレイズ・バースト】。収束された熱エネルギーの球体を放ち、着弾地点を爆炎と爆風で薙ぎ払う強大な軍用攻性呪文。
 その威力は大きく、城壁はもとより堅固な鎧や厚い皮膚を持つ生物をも粉々に破壊することができるので、城攻めのさいに多用される爆裂呪文。
 並の人間がこの爆炎に巻き込まれれば消し炭すら残らない。
 
「……朝に嗅ぐ攻性呪文の匂いは格別だな」
「な、なに!?」。

 しかし物陰に潜んでいた総督府勤めの魔導士による不意打ちはカルサコフを倒すどころか、ルイーツァリの外装に傷ひとつ負わせることもできなかった。
 黒光りする金属の表面に無数のルーンが浮かび上がっている。その文字の意味するものは耐魔。
魔術抵抗および魔術防御・回避力上昇、魔術ダメージの減少。
 魔術に対するありとあらゆる防性・対抗処理が施されていたのだ。

「くそっ、《雷帝の閃槍よ》《雷帝の閃槍よ》《雷帝の閃槍よ》!!」

 魔導士は矢継ぎ早に攻性呪文を唱える。
 【ライトニング・ピアス】。貫通力の高い電撃の一閃で敵を射抜く、基本にして最強の呪文と名高いC級軍用攻性呪文。
幾筋もの雷光がほとばしる。
 そのひとつひとつが岩盤を穿ち鉄板をも貫く強力な雷光。だが先ほどの【ブレイズ・バースト】同様、内部のカルサコフどころかルイーツァリの外装にわずかな傷もあたえることもできない。
 必殺の雷光は命中寸前にひしゃげてあらぬ方向へと飛んでいってしまったり、あるいはかき消されてしまうからだ。

「魔法回避率、無効率ともに九〇パーセント超。計算通りだ。さぁ、次は魔法防御力について試させてくれ。んん? ……どうした、早く次を撃て。撃つんだ!」

 必殺の魔術が通用しない鋼の巨人を前に呆然とする魔導士。もはや次の呪文が唱えられる状態ではなかった。
 蒼白になって身をひるがえし、脱兎のごとく逃走する。

「敵に背を向けるとは、敗北主義者め。粛正だな。――鉄拳射出装置起動、アゴーニ!!」

 ルイーツァリの腕の先が本体からはずれ、火箭と化して突き進み魔導士の上半身を吹き飛ばした。
 腰だけを残した二本の足は数メトラほど走ると、もつれるようにしてたおれ、血と臓物をぶちまける。
 射出した拳が【マジック・ロープ】によって自動的に腕に戻るのを見て満足げな笑みを浮かべるカルサコフ。
 そこには無駄な血を流さないよう、【マインド・ブレイク】による精神的ダメージを負った女たちを治療して帰した数日前の面影はない。
 血の臭いに興奮し、死と破壊に悦びを感じる狂人の姿しかなかった。
 これが、カルサコフの、いや、天の智慧研究会と称するテロリストたち全員に共通する正体であった。
 どのような正義やお題目や大義名分を掲げようが、暴力で世の中を変えようとする人間の性根など、しょせんはこのようなものだ。
 そのテロリストの身体にかすかな振動が伝わってきた。
 城壁の上に設置された複数の銃身を環状に束ねた火器――ガトリング砲から猛烈な勢いで鉄弾が発射され、リビングアーマーたちを蜂の巣にしていく。
 その銃弾の嵐がカルサコフにも降りかかっているのだ。

「……ふぅむ、矢避け(ミサイル・プロテクション)は作動せず、か。やはり火器による銃撃はやっかいだ。これは改良の余地がある。だがこの防御力、これはすばらしい!」

 ルイーツァリの表面にふたたびルーンが浮かび上がっている。魔術による攻撃を受けたときとはまた別の種類、物理的な打撃に対する盾のルーンが。

「ウーツ鋼への耐物理・耐魔術符呪。予想通り、いや予想以上の出来栄えだ!」

 ウーツ鋼とは鋼の元素配列構造内に一定周期で炭素の層構造を配列することによって通常の鋼よりも圧倒的に優れた剛性と靭性を持たせた特殊鋼材だ。
 帝国内でもウーツ鋼を工業的に生産できる鍛造技術者の数はとても少なく、年間生産量はごくわずかなため、錬金術による魔術的な手法での錬成法が研究されている。
 だが錬成物の永続的な固定がむずかしく、配列構造の複雑怪奇さから錬成そのものにも時間がかかるという、実に希少な金属なのだ。
 このスターリ・ルイーツァリは、そのウーツ鋼によって造られ、さらに各種の符呪がほどこされた魔鋼鉄のゴーレムなのだ。

 リビングアーマーたちを一瞬で鉄屑へと変えた銃撃の嵐の中を悠然と突き進む。

「いにしえの魔導大戦ではミスリルゴーレムが大量に投入され、大いに活躍したというが、私のスターリ・ルイーツァリもそれに比肩するのではないか? ……くっくっく、シーホーク兵の銃撃はまるで霧雨のようだ。銃撃というのは――《見えざる手よ》!」

 【サイ・テレキネシス】によって周囲に散らばる落ちた銃弾をすくい上げ、飛ばす。
 念動力で斉射された何百何千という数の弾丸が炸裂。
 ガトリング砲は射手もろとも粉々に破壊され、鉄と血肉の混合物となった。
 狭間の狙撃手の頭部を貫通した銃弾は建物内を跳弾して城壁の中にいた兵士たちをも死に至らしめる。
 亜音速で荒れ狂う鉄の飛礫は周囲を一瞬にして死の静寂に満たした。

「どうだね、シーホークの兵士諸君。これが真の銃撃というものだ。……と言ってもだれも聞いていないか」

 念のために生存者を確認。視界を生命探知モードに切り替えてあたりを見渡すと瓦礫の下に生存者を発見した。
 鋼のかいなで瓦礫をどかすと、ひとりの兵士が恐怖におののいた顔で見上げている。

「こ、降参だ。武器は捨て――ッ!?」

 手にした銃を投げ捨て、両手をあげて投降の意思を示す兵士にカルサコフは無言のまま瓦礫を押しつけ圧殺した。

「なげかわしい。ここにも敗北主義者か。ひとたび戦火を交えたからには勝つか負けるか。どちらかが死ぬまで終わることはない、闘争における血と鉄の掟を忘れたか」

 血肉のこびりついた瓦礫を城門にむかって投げつけると、その一撃で崩壊した。
 カルサコフの進撃を阻む障害はもはや存在しない。
 シーホークの権威たる総督府。
 シーホークの権力を司る貴族や豪商。
 シーホークの象徴である商業施設。
 このみっつを徹底的に破壊し、虐殺し、蹂躙し尽くすことで堕落した街を無に帰す。
もはや目的達成は時間の問題だろう。
 勝利を確信し、無人の野を征くカルサコフが歩みを止めた。

「なんだ……」

 操縦席内のモニターが雲地区から潮風地区にかけて展開したリビングアーマーたちの数が減っていることを示している。
 雲地区にはよほどの手練れでもいるのか。
 貴族や豪商らが金にあかせて凄腕の冒険者や傭兵を雇っている可能性はある。彼らが奮戦でもしているのだろうか。

「あちらは〝将軍〟が率いる一隊がいる。たとえ歴戦の冒険者が相手だとしても、まず負けはしないだろうが……」

 このまま総督府の制圧を続けるか、潮風地区にむかうか、カルサコフはしばし逡巡した。





「《駆けよ風・駆けて抜けよ・打ち据えよ》!」
 
 ウェンディの起こした強風で体勢をくずしたり転倒したところを秋芳が斬る。
 最初はそのパターンだったのだが。

「《大いなる風よ》!」
「ウボォアーッ!?」

 三回に一回は誤射し、リビングアーマーに隣接する秋芳を盛大に吹き飛ばす。

「《我は射手・原初の力よ・我が指先に集え》!」
「あいたぁッ!?」

 背伸びして学んだ黒魔【マジック・バレット】を牽制のため放てば散弾と化して秋芳も巻き込む。しかもリビングアーマーはほとんど無傷。

「魔法の(マジックミサイル)は的を外さないんじゃないのかよ! D&Dにはそう書いてあったぞ!」
「そんな本知りませんわ!」
「ガープスか! 呪文射撃判定のあるガープスか!」
「だからそんな本知りませんわ!」
「……もう攻性呪文禁止。回復や支援に専念してくれ」
「ぐぬぬ……、わかりましたわ」

 といってもウェンディが秋芳にすることはなにもない。【フィジカル・ブースト】で身体能力を上げなくても無駄のない動きで攻撃し、回避する。この体術の持ち主に魔術の援護は必要ないだろう。マナのむだ遣いだ。
 負傷することもないので【ライフ・アップ】はいちども使っていない。
 魔剣を振るっているので【ウェポン・エンチャント】も不要だ。
 ウェンディはときおり発見する負傷者に【ライフ・アップ】で治癒する以外は、もっぱら傍観につとめた。

(それにしてもなんて不思議な動き。帝都の闘技場でも、あんなふうな戦いかたをする剣闘士なんて見たことありませんわ)
 
 アルザーノ帝国北部イテリア地方に存在する帝都オルランドはフェジテ以上に発展した都市であり、学術施設や魔術機関のほか観光地や娯楽施設も多い。
 闘技場もそのひとつだ。
 剣闘観戦は貴族の娯楽のひとつで、なかにはみずから参加したり決闘の舞台にする者がいるほどだ。ウェンディ自身はあまり好きではなかったが、公爵家の令嬢としてつき合いなどで何度か観戦したことがある。

 秋芳の剣法は道教に縁のある武当派や峨眉派のもの、いわゆる中国剣法だ。
 連続性のある柔軟な動きが特徴で、軽快で優美。敏捷性と変化に富んでいて、素手による突きや蹴り、組んだり投げたりといった赤手空拳の技も混在している。
 
(武闘というよりも舞踏、まるでダンスですわ!)

 これにくらべれば剣闘士の戦いかたなどなんと無粋で泥臭いことだろう。
 ウェンディに武というよりも舞と称された秋芳の剣だが、そのひとつひとつの動きには必殺の技が込められている。
 中国五〇〇〇年の歴史が生んだ絶技でもって街を荒らすリビングアーマーたちを手当たり次第に斬る。
 斬る。
 斬る。
 斬る。
 斬って、斬って、斬って、斬って斬って斬って、斬りまくる。

 わざわざこちらから探し回らなくても、むこうから襲いかかって来るので迎え撃つのみだ。

「しかしこの剣、よく斬れるなぁ」

 秋芳はウェンディからあずかった小剣をかかげ見て、感心する。
 鉄の鎧をなんども断ち斬ったにもかかわらず、刃こぼれひとつ生じていない。
 小剣――ショートソードといってもことさら小さいわけでも短いわけでもない。あくまで騎兵用の長剣(ロングソード)に対して歩兵用の小剣(ショートソード)という呼称がついているだけで、刀身の長さは七〇センチほど。日本刀とくらべても遜色はない。

「当然ですわ。なにせ古代遺跡から発見された正真正銘の魔導遺物(アーティファクト)ですもの」
「軽量化だけでなく攻撃力を上げる利刃や折れず曲がらずの不壊の魔力が込められているな」

 秋芳は見鬼によって魔剣の性能を把握している。
 
「そのとおりですわ。霊素皮膜処理(エテリオ・コーティング)が施されていますの」

 霊素皮膜処理。
 存在が完全に固定され、物理的・魔術的な変化や破壊を完全に受けつけない古代人の古代魔術(エインシャント)のなせる業。
 近代の魔術師にはどんな理論でどうやったのか、まったく理解も再現も不能な古代人の魔法技術のひとつだ。

「無銘ですがわたくしでさえ鉄を泥のように斬ることのできる魔剣ですわ。ぞんぶんに振るってリビングアーマーたちを一体残らず鉄屑にしてくださいまし」
「まるで青虹の剣だな。せっかくの宝剣を奪われないよう、敵に趙子龍がいないことを祈るよ」

 雲地区、高潮地区を抜け、潮風地区に近づくにつれてそこかしこに鎧の残骸を目にするようになる。街の警備官たちの働きによるものだろう。だが彼らも無事ではなかった。
 破壊されたリビングアーマーの数以上の負傷者を出し、最悪命を落とした者もいる。
 警備官らの帯びるサーベルでは金属鎧に有効なダメージを与えられず、不利な戦いを強いられたからだ。
 機転を利かせて武具屋から臨時徴収した戦鎚(ウォーハンマー)戦棍(メイス)で応戦したり、銃士隊による銃撃や魔導士の魔術によりなんとか引潮地区への侵入を防いでいた。
シーホーク潮風地区。
 花の匂い、香煙の匂い、果物や野菜の匂い、強い香辛料の匂い、揚げ菓子の甘い匂い、炭火が焼ける匂い、牛や犬、羊や山羊、鶏の匂い、人の匂い、土の匂い、木の匂い、水の匂い――。
 豊かで濃厚な匂いは活気の証拠。だがシーホーク潮風地区はいま、剣呑な血と硝煙の臭いに満ちていた。

「くそぅ、なんなんだやつらの動きは!」

 警備官のひとりが思わず悲鳴に似た声をあげる。
 街中を散発的に暴れていたリビングアーマーとちがい、引潮地区へと侵攻する鎧の一団は統制された動きをしており、迎撃が困難だったのだ。
 こちらが攻めればおなじだけ退き、こちらが退けばおなじだけ攻めてくる。
 理屈の上では一進一退になるはずだ。
だがなぜか警備官側が攻めているといつの間にか隊が分断されて各個撃破の憂き目に遭い、逆に退くと際限なく攻め立てられ押し潰されそうになる。
 このままでは、長くはもたない。次に攻めてきたときが終わりだ――。

「わたくしたちも加勢いたしますわ!」
「助太刀するぞ」
「君たちは……、魔術学院の生徒か?」

 警備官たちを率いる隊長は駆けつけてきたウェンディと秋芳にむずかしい表情をむける。
 ウェンディのへそ出し制服のおかげで女子のほうは学院の生徒だと一目瞭然。青年のほうはそれなりに腕が立ちそうだ。しかし――

「君たちふたりだけかい? 魔術の援護はありがたいが、正直ここはもう限界だ」
「ここを突破されたら後がありませんわ。引潮地区の住民の避難は済んでいまして?」
「それは……」
「ならばなんとしても死守するのみですわ!」
「われわれだってそのつもりだ! だがやつら、さっきから妙な動きをしていて……」
「……あの鎧、ほかのとはちがうな」
「え?」
「あの槍を持ったやつ、将気をまとっている。あいつを倒せばなんとかなるかもしれない」

 秋芳の見鬼はリビングアーマーたちのなかに集団を統率する長を見極めた。
 どうやって倒すか、それが問題だ。
 
 

 
後書き
作中の「元素配列構造内」という表記は正確ではないそうですが、原作にそう書いてるのでそのままの表記にしました。 

 

シーホーク騒乱 5

「だれかあの槍を持ったやつを狙撃できる射手はいないか?」
「……遠いな、銃じゃ無理だ。うちの隊にはそこまでの使い手はいないし、魔術の使い手もいない」
「ぐぬぬ~、わたくしが【ライトニング・スピア】を習得していれば……」
「あの槍を持ったやつが鎧どもの親玉なんだな?」
「総大将かどうかは知らんが、少なくともここのリビングアーマーたちを統率しているのは間違いない。やつを討ち取れば陣形を組むことはできず、軍隊として動くことはできなくなるだろう」
「ならあいつに攻撃を集中させよう。みんなで突撃すれば――」
「やみくもに突進しても今までの繰り返しだ。巧妙に分断されてこちらが各個撃破されるぞ」
「ならどうすればいい?」
「陣形には陣形を。と、言いたいところだが……」
「おれたちは警備官だ、軍人じゃない。戦闘の訓練なら受けているが、戦争の訓練なんて受けてないから陣なんて組めるか。だいたい陣を組むだなんて時代遅れの戦術、きょうびの軍隊じゃ教えてないぞ」
「だよなぁ」

 密集陣形や隊伍をならべての布陣は広範囲破壊呪文を撃ち込まれれば甚大な被害を生じる。この世界、この国では散兵戦術が基本である。だが逆に言えば破壊呪文という攻撃手段を持たない相手には絶大な効果を発揮した。

(式神が打てればなぁ)
 
 式神使役は陰陽師の十八番。数には数、式神の作成が可能ならば、相手の数に対抗してこちらも複数の簡易式を展開して陣形を組んで戦えるのだが――。

(いまの俺が式を作ってもインプのできそこないが出てくるだけだしな。そもそも呪術が使えればこんなタイプ・マテリアルの動的霊災、百鬼夜行避けの術で一気に修祓できるのに)

 そうこうしているうちにリビングアーマーたちが動きだした。
 隊列を組み、整然とした動きで進攻してくる。

「く、来るぞ!」
「どうするんだ!?」
「……よし、俺が陣形を崩す。敵の布陣に乱れが生じたら、全員で一気にそこを突くんだ」
「できるのか?」
「できる、できないじゃない。やるしかないなら、やるまでさ」

 秋芳は魔剣を片手にリビングアーマーの集団に立ち向かった。
 
「哈ッ!」

 気合い一閃。
 眼前のリビングアーマーの胴を両断すると、間髪入れずに敵陣に突入し、縦横無尽に剣を奮う。

「嘿ッ!」

 ――剣は示すに虚をもってし、開くに利をもってす。これに遅れて発し、先んじて制す。各種の剣捌きは力に随い行いに逆らってこそ鋭きを得る――。

「呀ッ!」

 斬る、突く、払う、打つ、薙ぐ――。
 点と線、円と直、緩と急、剛と柔。
 素手の延長である武器。剣は敵を倒すためのみに進化した道具。
 ひとりの敵を屠るには一降りの剣があればよく、一群の敵を屠るには、さらに一槍があればよい。
 もしも折れず曲がらず刃毀れもしない剣があったとしたら、一槍も不要。その剣は無敵。

「哈アァッ!」

 剣光が迸るたびに動く鎧たちはその数を減らしていく。
 
「す、すごいじゃないか」

 警備官たちは我を忘れて秋芳の奮戦ぶりに目を奪われていた。

「あ、またあの奇妙な動きをしだしたぞ!」

 単騎とはいえ手強し。
 槍の指揮官の声なき号令に応えてリビングアーマーたちが円陣を組み秋芳を二重三重に取り囲む。
 そして車輪のように陣を回転させ、一隊が攻撃するとすぐにその部隊が下がり、また別の部隊が攻める。循環式の陣形を組み立てた。

(きたな! ……これはまるで講談にある車懸りの陣。その変形じゃないか!)

 車懸りの陣。
 上杉謙信が川中島の合戦で使用したとされる布陣。自軍を円形に配置し、車輪のように陣を回転させながら一陣、二陣、三陣と入れ替わり、攻撃の手を休まずに次々と新手を繰り出す波状攻撃。その起源は古くインド神話にまでさかのぼり、薬師如来を守護する十二神将がもちいたとされる。
 中央に本陣を配置し外側に対して攻撃を繰り返すという通説にある車懸りの陣とはちがい、これは敵を囲み外から内へと攻めてくる。

(この配置、たとえ外から味方が救援に駆けつけたとしても、軍をふた手にわけて対応可能だ。外側の敵には従来の車懸りの陣の動きで応戦すればいい)
 
 内にいる者は完全に孤立し、敵に取り囲まれているというわけである。
 さらに右へ左へと目まぐるしく動き回ることにより、閉じ込めた相手を眩惑させる効果もあった。
剣陣とは奇門遁甲より生まれた術で、目くらましによる戦法である。
 一連の剣法を数人が一体となって操り、陣中の敵に対し隙を与えず攻撃をくわえ、みずからは消耗することがない。
 精巧な陣を組めば少数で大勢の軍にも対抗できる。
 どうすれば破れるのか?
 どんな剣法にも長所とともに必ず弱点がある。
 剣陣もまた同様。
 一陣、二陣、三陣、一陣、二陣、三陣、一陣、二陣、三陣――。
 間断なく攻撃をしかけては離脱し、各々が連続して打ちかかってくるのをしのぎつつ、秋芳は心を落ち着けて相手の動きに集中する。
 妙に守りの薄い箇所がある。わずかだが動きが遅く、鈍い。

(……だが、ちがう。あれは誘いだ。あえて守りの薄い場所を作り、相手を誘導する。囲師必闕のような逃げ道ではない。あそこは死門、真の生門は――)

 陣の形を十分に見極めて一気に弱点を打つのだ。
 気の流れを見る。

(兵に常勢なく、水に常形なし。よく敵により変化して勝をとるもの、これを神という……。そこだっ!)

 もっとも堅固にして鋭敏な一角、そここそが急所。弱点だからこそ守りを厚くし、攻めるに難くする。
 堅陣を突破し、槍を持った指揮官に必殺の一撃を繰り出そうと一足飛びに斬りかかった瞬間、指揮官の手にした槍が閃いた。

「ッ!?」

 眉間、喉、胸。三か所を狙った正確無比にして神速の刺突が秋芳の攻撃を阻む。
 首から上への攻撃は魔剣で受け、胸への突きはとっさに身体をひねることで串刺しを避ける。
 だが次の瞬間、紙一重で避けた槍の穂先が水平に薙ぎ払われた。

「――ッ!」

 地面にころがる寸前になんとか体勢をととのえ、槍の指揮官に対峙した秋芳の胸から鮮血が流れ出す。
 あやうく胴を両断されるところだった。
 鉄布衫功――体内の気を張り廻らせて肉体を鉄のように硬化させる気功術。ルヴァフォースでは硬気功と呼ばれる魔闘術の一種――をもちいて防御しなければ、切り株になっていたことだろう。

「ぬう、あの槍さばきは!」

 ウェンディに介抱されて戦闘を遠巻きに見ていた年配の警備官が驚愕に目を見開く。

「あら、おじいさん。なにか知っていますの?」
「まちがいない、あの槍さばきは『ヒドラ殺し』のゲオルグ将軍じゃ!」
「ヒドラ殺しのゲオルグ将軍……」

 その名前ならウェンディも聞いたことがある。槍術と用兵術に秀でたレザリア王国の騎士団長。七つ首のヒドラを退治した武勇伝が有名で、一瞬で三つの頭部を串刺しにし、続く一閃で残りの首を斬り落としたという。四〇年前の奉神戦争では彼が率いる騎士団によってアルザーノ帝国側は甚大な被害をこうむった。
 本格的に実戦投入された魔導士たちによる〝魔戦〟の中で命を落としたが、緒戦において連戦連勝を飾ったレザリアの英雄、アルザーノの悪夢。

「わしのいた部隊はやつの軍と戦ったことがある。そのときのやつの槍さばき、忘れるわけがない! ゲオルグ将軍じゃ! ゲオルグ将軍が地獄からよみがえったのじゃ!!」
「…………」

 ウェンディは【センス・オーラ】を使ってゲオルグ将軍だと言われたリビングアーマーを視る。ほかのリビングアーマーたちと同様、その身は魔力の輝きにつつまれているが、アンデッドやイモータル。負の生命力を宿した存在ではない。
 だがその動きはあきらかにほかの、いままでたおしてきたリビングアーマーたちとはちがっていた。

「あの槍……」

 ほかのリビングアーマーが素手。あるいはたおした相手から奪ったと思われる剣や曲刀など雑多な武装をしているなか、地味だがしっかりとした作りをしている。遠目でよく見えないが、なにか意匠もほどこされているように見えた。 
 なによりも槍身をつつむオーラ。あれは魔法の武器だ。

 振り下ろしを左右に避ければ水平の横薙ぎ攻撃が、後ろに下がれば刺突が、その刺突をはずされたら横薙ぎの攻撃につながる。
 下手に受ければ武器を弾き飛ばされるほどの剛撃には精妙な技が込められており、すり上げ、すり下ろされて上段や下段からの斬撃がくる。
 疾風の突きに迅雷の薙ぎ払い、颶風のような振り回し。
 間髪入れずの連続攻撃をなんとか受け流しつつ、反撃する。

(シャア)ッ!」

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
 秋芳は相手の長い間合いを封じるため槍を断とうと、けら首の部分を狙って魔剣を振るう。
 甲高い金属音と青白い火花が散った。

(硬い!)

 鉄の鎧を断ち切る魔剣でもっても武器破壊ができない。
 なんらかの魔力が込められていることは見鬼で視て取れたが、種類まではわからない。だがこの槍にも不壊の魔力が付与されているのは確かなようだといまの一撃で確信した。

(壊れない、てのは一番便利でやっかいだわなぁ)

 たがいに魔術なし、魔力の宿った武器を持っての白兵戦。
 技量は互角。
 となれば武器の性能が大きく左右する。
 剣と槍。
 剣のほうが不利だ。
 剣道三倍段という言葉がある。
 空手や柔道など素手の格闘家が武器を持った剣道家に勝つには三倍の段位、実力が必要。
などと書かれることが多いが、これは漫画発祥の言葉で、本来は槍や薙刀といった長物を持った相手に刀や剣で立ち向かうには、剣の使い手は相手の三倍の技量が必要である。
 という考えが元になっているが、実はこの『三倍段』というのも新しい考えで、さらにさかのぼれば攻撃三倍の法則から来ている。
 敵を攻めるには三倍の兵力を要し、守るには三分の一で足りるという、第一次世界大戦でドイツ陸軍が研究していた考えだ。

(この〝三倍〟差をいかにくつがえすか。――十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍すれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよくこれと戦い、少なければ即ちよくこれを逃れ、しかざれば即ちよくこれを避く――数、数、数、数の差、数を作るには……)

 秋芳の身が宙を舞った。跳躍したのだ。
 これには一騎打ちを見ていた周りの人々もおどろいた。アニメやコミック、ゲームなどフィクションでは飛んだり跳ねたりといった技がよくあるが、現実にはそうそうない。まず高く跳躍するほどのバネを身につけるのが困難だし、空中では回避行動が困難で隙が生じるからだ。
 利点があるとすれば落下による勢いで攻撃力を上げることと、相手の意表をつくこと。
 はたしてゲオルグ将軍ほどの達人の意表をつくことができるのか?
 否。
 動じることなく空中にいる秋芳に刺突を放つ。槍の穂先が吸い込まれるように胸を刺し貫いた瞬間、秋芳は霞のように消えた。

「!?」

 感情なき鎧に動揺の色が見えたと思ったのは見ていた人々の錯覚か。
 槍を持った鋼の腕が斬り落とされ、手にした魔槍もろとも地に落ち、続いて鉄兜も地面にころがった。
 
「敵将討ち取ったり! いまだ、攻撃しろ!」
「お、おおーッ!」

 ひかえていた警備官たちがリビングアーマーたちにいっせいに反撃をはじめる。指揮官を失ったことで統率された動きも陣形を組むこともできなくなった鎧たちが次々に壊されていくなか、秋芳は奇妙な既視感をおぼえていた。
 出神の術で闘気を込めた分身を作ると同時に自身は隠形し、敵の不意を突く。
 この作戦は、以前にも使ったことがある。
 場所は陰陽庁、相手は木暮禅次朗。

(なぜだ、なぜ俺は木暮さんと、十二神将を相手に戦ったんだ!?)

 夢などではない。
 これは記憶だ。
 木暮だけではない。
 鏡伶路、滋岳俊輔、山城隼人、弓削麻里、宮地磐夫、倉橋源司――十二神将の錚々たる面々と、自分は呪術戦をした。
 だが、その前後が、なぜそのようなことに至ったのか、それからどうなったかが思い出せない。

(こっちでの生活にかまけていてすっかり失念していたが、俺はなんで向こうの、最近の記憶がないんだ。……ひょっとして、ここ、死後の世界とかじゃないよな? 俺は、生きているよな?)

 鉄布衫功で防いだとはいえ先ほど受けた傷からは血が滲み、痛みを感じる。いまも内力を廻らし鎮痛と止血につとめているが、けして浅傷ではない。
 この痛みは本物だ。
 ここが死後の世界だとは思えない。

「すぐに手当ていたしますわ!」

 駆けつけてきたウェンディが秋芳に【ライフ・アップ】をほどこす。
 傷口はすぐにふさがり、痛みも遠のく。だが秋芳の険しい表情は変わらない。

「まだどこか痛みますの?」
「いや、だいじょうぶだ」

 痛みは引いた。だがひどく消耗している。隠形にせよ出神の術にせよ、気をもちいる術を使えることは使えるが、やはり消費が大きい。そうそう連発はできそうになかった。

「……この槍も魔法の武器だな」
「まぁ、ちょっとうかがいますわね」

 ウェンディが【ファンクション・アナライズ】で調べると、利刃や不壊――攻撃力の増加と破壊不能といった魔法の武器の基本性能にくわえ、白魔【ロード・エクスペリエンス】が永続付与されていた。
【ロード・エクスペリエンス】。物品に蓄積された思念や記憶情報を読み取り、持ち手に憑依させる魔術。
 生前のゲオルグ将軍が愛用していた魔槍。これを手にした者はゲオルグ将軍とおなじ槍術と統率スキルを身につけることができるのだ。

「超レア物じゃございませんこと! これを装備すればわたくしも戦えますわ! ……ぐぬぬ~、お、重いですわ~」
「軽量化の符呪はされていないようだな。必要筋力がたりない、てやつだ。穂先から石突きまで、柄もふくめて総身鉄作り。こんなの俺でも重くてあつかえんわ」
「と、とにかく戦利品として確保ですわ」

 リビングアーマーの掃討が終了し、人々の表情に安堵の色がもどりはじめた頃、ひとりの男が息せき切って駆けつけてきた。
 血と埃にまみれた制服は総督府勤めの衛兵のものだ。
 
「バカでかい鎧の化け物が総督府で暴れている、応援に来てくれ!」
「なんだと!? くそっ、こいつらだけじゃなかったのか。……なぁ、あんたたち。ええと……」
「賀茂秋芳だ」
「ウェンディ=ナーブレスですわ」
「カモにウェンディ。悪いがもうひと働きしてくれないか、シーホークを救うにはあんたたちの力がぜひ必要だ」
「是非もなし、ですわ!」
「……まぁ、お嬢がそう言うなら。ただその前に補給だ、補給。さっきから【ライフ・アップ】を連続使用しているが、マナ欠乏症にはなってないか?」
「まだまだ余裕ですわ」
「だが念のため魔晶石や各種ポーションあたりを用意しておいたほうがいい」

 魔晶石とはその名の通り魔力の詰まった宝石で、自然界に満ちるマナを充え、魔術を使う際の消費マナを肩代わりするのに使えるほか、込められているマナを直接吸収することでマナ欠乏症の治療薬にもなる。
 魔術師にとってはまことにありがたいアイテムだ。

「学院御用達の魔道具店があったはずですわ」

ウェンディのポケットマネーで取り急ぎ補給を終えた秋芳たちは総督府へ急行した。 

 

シーホーク騒乱 6

 シーホーク総督府の地下にはバンカーと呼ばれる防魔シェルター機能を備えた危機管理センターが存在する。

「これはあかんこれはあかん、これはあかんでぇ」

 側近たちとともにこの最後の砦に立てこもったヤング・アクスロープ総督が頭を抱えてつっぷする間にも、銃も剣も魔術も効かない魔鋼鉄のゴーレム『スターリ・ルイーツァリ』に搭乗したカルサコフによって総督府は陥落寸前にまで追い詰められていた。

「なんでや~、なんでわいの任官期間中にこないなことがおこんねんっ!」

 商工ギルドが実権をにぎっているシーホークでは国から派遣された総督などにさしたる力はない。それでも庶民から見ればじゅうぶん贅沢な暮らしができ、無茶な散財をしなければ任官を終える頃にはひと財産を作れる。
 野心も才覚もないが安穏で豊かな生活を求める帝都の貴族たちにとっては垂涎の官職だ。
 方々に根回しをしてこの地位に就いたヤング総督だったが、いまはわが身の不幸を嘆くのみだった。
 壁につけられた遠目の水晶板には表の映像が、魔力障壁を強引に突破しようとしているカルサコフの姿が映っている。

「袋の鼠になった気分はどうだ、ブルジョワども!」

 施設に備わった集音機能がカルサコフの声をバンカー内に伝える。

「――寒波に襲われた牧場で羊の凍死を防ぐために努力をかさねる牧場主や、子どもたちに教育と道徳を教える神官や僧侶、自分の店を持つために一日の三分の二以上の時間を家族で働く移民――そういった平凡な市民たちがことごとく死に絶えた後も、貴様らブルジョワジーどもはそこで安全に生き残れるというわけか」

「……は?」
「空気浄化装置もフル稼働し、プールもBARも劇場も兼ねそろえた安全な場所で余生を過ごすつもりか」
「な、なんやねん。王城やあるまいし、ここにそんなんあるわけないやろ。なに言うてんねん、アホか」
「――強欲で傲慢な官僚、無能な政治家、欲得しか考えない悪徳商人たちがのさばる堕落と腐敗の巣窟を、このカルサコフが粛清する!」
「キ印や~、キチキチやんけ、こいつ~」

 恨み、辛み、妬み、嫉み、憎、怒、忌、呪、滅、殺、怨――。
 カルサコフの全身からはありとあらゆる負の感情が実体を持った【カース・スペル】となってにじみ出ているかのようだったが、なによりも強く感じられたのは狂気と妄想。
 襲撃者はそのふたつに囚われた異常者だということを、ヤング総督はいやでも実感した。

「その平凡な市民を数多く犠牲にした、あなたの凶行もここまでですわ!」
「……なんだ、きさまらは」

 いつの間にか大勢の人々がカルサコフの背後をかこんでいた。
 街の警備官や衛兵たちだ。
 彼らの先頭に立っているへそを露出した少女――ウェンディが大声をはりあげる。
 
「なにやら不幸な生い立ちが言い分があるようですが、自分が不幸だからといって他人を不幸にするような真似はゆるしませんことよっ!」

 その奇抜な衣装には見覚えがある。アルザーノ魔術学院の女子制服だ。貴族や富裕層、良家の子弟がつどう魔術の名門校の。
 つまり、この少女は――。

「ブルジョワジー……」
 
 一週間ほど前の彼だったなら、魔術師の卵にして学究の徒たる彼女を見て多少なりとも心を動かされていたことだろう。
 魔術は貴族階級が身につけるべき教養のひとつとされており、そのためアルザーノ魔術学院には貴族の子弟が数多く在籍するのはたしかだ。
 だが聖リリィ魔術女学院――完全に上流階級の子女御用達である全寮制お嬢様学校などとちがい、適性と能力が認められれば一般階級の人間でも入学が可能で、奨学金や特待生の制度も存在し、苦学生と呼ばれる生徒も多数存在する。
 そのことを知らないカルサコフではない。ないはずなのだが――。
 破壊と殺戮に酔いしれ、内に秘めていた妄執に突き動かされている彼の目には、彼女もまた粛清すべき対象にしか見えなかった。
 カルサコフは鋼の巨体を揺り動かし、悠々たる足取りでウェンディを目指す。
 四メトラを軽く超える巨人が一歩一歩と近づいて来る威圧感と恐怖は筆舌に尽くしがたい。
 周囲の警備官らは思わず数歩後ずさる。ウェンディは半歩。それで、耐えた。高貴なる者の義務感が彼女を踏みとどめる。

「これはまたやっかいな相手だな」

 ウェンディのとなり、まったく後ずさらなかった秋芳がつぶやいた。

「あのゴーレム。……中に人が載っているのをゴーレムと呼んでいいのかわからないが、魔術でいくつもの防御処置がほどこされている」
「中に人が!?」
「ああ、外からの攻撃にはビクともしないだろうなぁ。そこで俺に一計がある。ごにょごにょごにょ……」
「ふんふん…………わかりましたわ」

 目前に迫ったカルサコフがウェンディを眼下に見下ろして問いかける。

「その制服、アルザーノ魔術学院のものだな」
「二学年次二組のウェンディ=ナーブレスですわ」
「ナーブレス……。公爵家の者か」
「そうですわ」
「貴族のお嬢様、おまえはなにを楽しむために生きている? 貴族のたしなみで魔術を学ぶことか? おなじ上流階級の貴公子との色恋沙汰か? いま以上に財産を築いて豪邸に住むことか? 位人臣を極めて名声を得ることか?」
「ええ、それらのことはみんな好きでしてよ」
「ふん、俗物が。おまえのような小娘の歳にしてすでに腐っている。これだから貴族は……」

 カルサコフの、スターリ・ルイーツァリの腕が高く上がる。

「けれども、それら以上に好きなものがありますわ」
「それはなんだ」
「領民の――、いいえ、すべての民の笑顔を見ることですわ」
「……綺麗ごとを抜かすなーッ!」

 鋼鉄の腕が振り下ろされる。
 ひとりの少女を血肉の塊にせんとする拳鎚はしかし、ひと振りの剣によって防がれた。
 甲高い金属音が鳴り響く。
 秋芳の手にした魔剣の剣先が鉄拳を止めていた。
 真上からの垂直な打撃を、真下から垂直に受け止めたのだ。

「…………」
「…………」

 カルサコフはそのまま強引に押し潰そうと力を込める。
雷霆万鈞の剛力に秋芳の足下の石畳に亀裂が生じた。しかし秋芳も剣も微動すらしない。
 元の筋力にもよるが、たとえ【フィジカル・ブースト】で増強されていたとしても生身でここまでの力が出せるものなのか、手にした剣はなぜ折れないのか。

「おまえは何者だ」
「…………」
「なぜ応えぬ!」
「なぁ、お嬢。俺の家にはいくつか家訓があるんだ。というか俺が作ったんだ」
「どういう家訓を作りましたの?」
「初対面の相手を呼び捨てにするやつは猿の仲間だから返事をする必要はない」
「なかなか良い家訓ですわね」
「だが名乗りもせずに人に名を訊ねる相手にどう接しろという家訓はまだない。そんな猿にも劣る無礼者が存在することを失念していたよ」
「……カルサコフ! それが私の名前だ。わかったら死ね、名も無き雑草めが!」

 再度拳を振り上げ、叩き下ろそうとするのだが、動かない。
 まるで強力な磁石どうしがくっついてしまったかのように、拳と剣が密着している。

「!?」
「賀茂秋芳。それが俺の名前だ。わかったかテロリスト」

 剣を持たないほうの手で掌打を放つ。
 相手の拳を止めるよう、体内を巡らしていた内力を順停止法から円転合速法へとつなぎ、螺旋回転による捻りをくわえた一撃。
 空手の透かしや骨法の徹しのような浸透系の一撃がルイーツァリの膝に撃ち込まれる。

「――ッ!?」

『損傷率三パーセント。自己修復機能ON、戦闘続行問題なし』
 
 コンソールに被害状況が表示される。
 軽微の損傷。
 だが、はじめて。ここにきてはじめてダメージを受けたのだ。
 続けて剣を閃かせる。狙うは間接部分。といっても四メトラ超えの巨体だ、腰から下の膝や足首の関節部分に斬撃を放つ。
 介者剣法だ。

『――人工筋肉破損――損傷率八パーセント――自己修復機能ON――戦闘続行問題なし――』

 ダメージは微々たるもの。だが蓄積されていけば無視はできない。
 早急に処理する必要がある。

「おのれカモ・アキヨシ! おまえは何者だ!?」
「知ってるじゃねーか」
「ウラーッ!」

 鉄拳鉄脚を振り回す。その様はまさに鋼の旋風。
 だがかすりもしない。まるで風に揺れる柳葉や波に乗って漂う水草かのように、秋芳はするりするりと回避する。

「この異様な動きに先程の奇妙な技と剃りあげた頭……。噂に聞く東方武闘僧(モンク)か?」

 はるか東方にはモンクと呼ばれる徒手空拳の戦闘術や魔術と似て非なる気功術を使う集団がいるという。

「目標固定、ホーミング効果ON、鉄拳射出!」

 猛烈な勢いで撃ち出されたふたつの鉄の拳を紙一重で避けるも、数メトラ先で旋回し、ふたたび秋芳に迫る。

「だがいかなる体術を身につけていようが、しょせんは生身の人間。動き続けている限り、かならず疲労する」

 自動追尾効果により延々と狙い続けてくる鉄拳を、どこまでかわすことができるか。
 右に避け、左に躱し、地を蹴り、宙を舞い、ときに走る。
 走る、走る、走る――。

「距離を取るつもりか。たしかに射出した鉄拳の操作範囲には限りがあるが、こちらもこうして距離をつめれば無意味だぞ」

 総督府内から街中へと戦いの場が移る。
 秋芳を一〇メトラ間隔で追い詰め、隙をうかがうカルサコフ。
 動きが鈍った時を見計らい攻撃するつもりだ。どのような呪文を使おうか、見定めていると、秋芳は様子を見ているカルサコフにむかっていきなり駆け出した。

「なにぃ!?」

 速い。
 ほとんど一瞬で目前に迫られた。
 とっさに攻撃。先端の取れた腕で放った大振りの攻撃は簡単に避けられた。それどころかそれを足場に素早くかけ登ってくる。
 まるで猫科の猛獣か猿のような人間離れした動きは軽功のなせる技。
 頸部のつなぎ目に切り上げ気味の刺突を入れて即座に離脱。
 人間ならば致命傷となる部分への攻撃にカルサコフの視界が、モニターの映像が乱れる。

『――メインカメラ損傷――バランサー低下――』

「まだだ、たかがメインカメラをやられ――ブゥハァッ!?」

 おのれを鼓舞した瞬間、強い衝撃に襲われる。
 秋芳を狙い、追尾していた飛翔鉄拳がカルサコフを、ルイーツァリを撃った。
 誤作動を起こしたわけではない。たんに秋芳が命中寸前に避けたため、射線の急変更ができずその場にいたルイーツァリの巨体に命中しただけだ。

『――損傷率一八パーセント――被ダメージ小破――戦闘続行問題なし――ただし自己修復機能では全体の○○までしか回復できません――』

「……お、おのれ……」

 ルイーツァリ本体と拳に付与された同種の防性魔術は効果を相殺し、魔術によるダメージ減少効果は発動しなかった。
 機体はまだいい。だが破城鎚に匹敵するふたつの鉄拳による打撃による衝撃で、内部にいたカルサコフは全身を強く打ち、数秒間朦朧状態におちいる。
そこに――。

「《駆けよ風・駆けて抜けよ・打ち据えよ》!」

 どこからかウェンディの呪文詠唱が響く。
 黒魔【ゲイル・ブロウ】。局所的に収束する突風を起こして目標を吹き飛ばす呪文だが、狙いはカルサコフではなく、その頭上。
 大きな樽が突風であおられ、ルイーツァリに落下。中身がぶちまけられた。
 独特の臭気が立ち込める。

「なんだこれは……、鯨油?」
「そのとおりですわ! ――《雷精よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 黒魔【ショック・ボルト】の電線が地面に火花を生じさせた。周囲を濡らす鯨油に火が点き、ルイーツァリの巨体にも燃え広がる。
 
「ぐおおおおッッッ!?」
「《駆けよ風・駆けて抜けよ・打ち据えよ》!」

 ウェンディはさらに続けて鯨油入りの樽を落として火勢を強める。
 秋芳は飛翔鉄拳から闇雲に逃げ回っていたわけではない。
 港湾労働者たちにまざっての荷運び作業でこの場所に鯨油樽があることは知っていた。
 総督府でルイーツァリの姿をひと目見た時から剣や魔術で倒すのは困難と考え、鯨油入りの樽が多数置かれた荷物置き場に誘導し、先回りしていたウェンディと協力してこうして火計をくわだてたのだ。
 魔鋼鉄のゴーレムがこの程度の火で燃え尽きることはないだろう。
 だが中にいる人はどうか。
 延焼による高熱で蒸し殺されるか、酸欠によって窒息させることができるはずだ。
 はたして秋芳の策は成功したのか否か――。 

 

シーホーク騒乱 7

「《守人の加護あれ》!」

 火炎による熱で肺と喉が灼ける前に、延焼によって窒息する前に唱えた【トライ・レジスト】によってカルサコフは炎の害から逃れることに成功した。
 対抗呪文(カウンター・スペル)【トライ・レジスト】。
 三属エネルギー(炎熱、冷気、電撃)のダメージを確実に軽減する符呪の対抗呪文。あくまで三属に対する軽減であり物理的防御力は皆無。
 だが魔術による作用以外にも効果が発揮されるため、汎用性が高い。
 炎天下の日射病対策や日焼け止めに使用したり、極寒での凍死も防げる。冬場の静電気対策にも使えることだろう。
 どの程度まで軽減できるかは術者の腕によるが、一流の使い手ともなれば燃え盛る火の海の中でも自由に行動できる。
 全身を炎につつまれていても、カルサコフにはなんのダメージもない。

「くだらぬ小細工を! 炎などなんの意味もないわ!」

 炎はむしろカルサコフの闘志を猛らせたようだ。火だるまと化した身体で猛然と打ちかかる。

「うわっ、あちちちッ!?」

 紙一重で避けようものならまとった火焔に炙られる始末。まるで炎の衣をまとい、術者の周囲の者を火炎で攻撃する黒魔【フレイム・クローク】でもかかったかのようだ。
 蒸気機関が熱を利用して動くように、熱というのは力を発生させるための重要な要素である。
 スターリ・ルイーツァリにはそのような機能はないが、カルサコフ自身の精神は炎により昂り、火炎の勢いに後押しされたかたちで猛進する。

「ニチェボー! 炎を身にまとう。これは案外良いアイディアかもな」

 壁面に追い込まれた秋芳は熱気に辟易しつつ攻撃を的確に避ける。ルイーツァリの殴った壁に亀裂が生じた。

「……油をまいて火を点ける。いい考えだと思ったんだが、その手の魔術があるとはね。やはり学院に入ってきちんと学ぶ必要があるな」

 秋芳はそのまま壁際を移動し、ふたたび追走劇がはじまった。

「カモとかいう東方人、おまえとの戦闘は良いデータが取れるが、そろそろおしまいにしようじゃないか」

 炎などなんの意味もない。
 そう断言したカルサコフではあるが、炎熱によって外部センサー機能がいちじるしく低下していた。センサーはメインカメラで見えない部分を補正して可視化する重要な機能だ。ただでさえ先ほどの一撃でメインカメラは破損し、モニターに映る外部の映像は不鮮明になっている。
 当然命中率も低下する。

「こちらの命中率が落ちたのなら、相手の回避力を下げればいい」

 センサー機能の低下により雑になってはいるが、周囲の地形がモニターに映し出されていた。

「このまま追い詰めていけば袋小路だ。せまい空間に押し込めれば自慢の体術で避けることもできまい。詰みだ」

 秋芳はカルサコフの思惑通りに、徐々に徐々にせまい路地へと追い込まれていく。
 だが秋芳にもシーホークの土地鑑はある。だからこそカルサコフを倉庫街におびき寄せて油をまいて火を点けることができたのだ。
 それがなぜ、みずから不利になる場所へと誘導されるのか?
 秋芳にはまだ一計があった。
 行き止まりに、たどり着く。

「おしまいだ、ウラー!」

 ルイーツァリによる全力の体当たり。
 前方を塞ぐ壁と後方から迫る鉄塊にはさまれ、押し潰される寸前――。

「《大いなる風よ》」

 秋芳は跳躍すると同時に【ゲイル・ブロウ】の呪文を一節詠唱で唱え、地面にむけて放った。

「なんだと!」

 巻き起こる猛烈な突風が秋芳の身を木の葉のように宙に舞わせ、放物線を描いてルイーツァリの頭上を跳びこした。
 目標を失った鉄の巨体は壁に直撃し、派手な衝突音を響かせる。
 壁一面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

「ちぃっ、味な真似を!」

 これではまた追いかけっこの繰り返しだ。
 カルサコフは焦燥は駆られた。
 だが、秋芳は遁走せず、ふたたび呪文を唱える。

「《奔放なる嵐よ・止むことなく・猛り狂え》!」

 秋芳の手から爆発的な風が生まれ、ルイーツァリに放たれる。

「なんだ、いまさらこの程度の風……」

 局所に集中する突風。それだけなら【ゲイル・ブロウ】とおなじだ。
 しかし異なる点があった。

「なぜ止まぬ!? いや、止ませぬ?」

 【ゲイル・ブロウ】によって生じる強風は一陣の風。ひと吹きで終わる。だが秋芳の手から放たれている指向性の強風は轟々と吹きすさび、止む気配がない。
 魔術公式と魔術文法に手をくわえることによってルーンが引き起こす深層意識の変革結果を従来のものとは異なるようにする。
 呪文の改変というやつだ。
 秋芳は一瞬で終わる【ゲイル・ブロウ】の効果に持続性を持たせた。
 だが即興ゆえかなり〝粗い〟改変である。
 呪文の発動中、つねにマナを消費し続ける。

「……たいした魔力容量だな。だが無意味なことを」

 駆け流れる強風は風の壁となってルイーツァリを圧迫している。だがこの魔鋼鉄のゴーレムの重量と剛力をもってすれば吹き飛ばすことはおろか押し倒すことすらできない。せいぜい歩みを遅くする、進行速度を落とすことくらいだ。

「なにかの時間稼ぎか?」

 だが周囲に援軍らしき気配は感じられない。

「なぜだ、なぜ逃げずにこのように消耗の激しい真似をする? 最期の悪あがきか?」
 
 一歩、一歩、気流に逆らい秋芳ににじり寄る。

 一歩。

 みしり。

 一歩。

 みしりみしり。

 一歩。

 みしみしみし――。

 もう一歩。
 もう一歩の距離でルイーツァリの鉄腕の間合いに入る。

「……敗北主義者どもとちがい最後まで立ち向かったのは評価しよう。だが、これはなんだ? なんの意味があってこのような真似を――」

 みしみしみし――ミシミシミシミシィィィッッッ!!

 壁が、堤防が決壊し、大量の海水が流れ込む。

「――――ッ!?」

 いかな鋼鉄の巨人もこの海嘯のごとき圧倒的な水量、水圧にはひとたまりもない。
 叫び声を上げるいとまもなくカルサコフは瀑布に押し流され、荒れ狂う濁流の中に没した。



「火がダメなら水。もし火計をしくじったら旧磯地区に近づくな」

 秋芳の考えを察したウェンディはその言葉にしたがって人々に呼びかけ、自身もまた安全と思われる高所に移動していた。
 その眼下、旧磯地区があったあたりにみるみる水が満ちる光景は圧倒的だ。

「まさか本当に壊すだなんて……」

 シーホークの一角にある旧磯地区。このマイナス海抜になっている場所は堤防の老朽化で多数の漏水が発見されており、改修できる状態ではないため破壊する予定だったのだが、思わぬ事態で予定が繰り上がってしまった。

「まだ見つかりませんの?」
「いま水中でも活動可能な魔術師たちを集めています。ただいま少しお時間が……」
「そう……」

 リビングアーマーらを掃討し、負傷者への対応を済ませた警護官たちがカルサコフと戦闘中行方不明になった秋芳を探索中だ。
 もとより旧磯地区一帯に人は住んでいない。堤防決壊による一般人への被害がないのは不幸中の幸いだが、ひとりで襲撃者の首魁を撃退した街の英雄を探し出そうと警護官たちも必死なのはウェンディにも伝わってくる。

(いっそのことわたくし自身が彼を探しに……。水中でも活動できる魔術が、【エア・スクリーン】なら使えますわ)

 黒魔【エア・スクリーン】。強固な空気障壁を膜のように張る。物理的な衝撃には弱いが、三属エネルギーを防ぐ対抗呪文の基礎だ。対象指定呪文なので足が止まらないのが利点で、圧縮空気の膜を球体上に形成しての潜水活動などにも多用される。

(あら?)

 ウェンディの視界の隅。空の
一点に見なれないものが浮いている。
 あちらに飛んだかと思うとこちらに急旋回、妙な角度ででたらめに飛行するその姿は鳥でも風船でもない。
 そんな未確認飛行物体をよく目を凝らして見れば。
 人だ。
 人が空を飛んでいる

「アキヨシ!?」

 秋芳と思われる飛行物体はウェンディのいる港に近づくと、近くに泊めてあった船の帆にむかって斜め気味に落下した。



(乗矯術が、呪術が、使えない、てのは、つくづく、不便だ、なっ!)

 乗矯術というのは道教に伝わる空中浮遊、飛行の術だ。
 もとの世界の呪術が使えない秋芳は【ゲイル・ブロウ】を即興改変した高出力かつ持続時間延長のオリジナル魔術をもちいてジェット噴射し、強引に空中飛行(の真似ごと)をして陸地に近づこうとしていた。
 
(アイアンマンや、アトムは、よく、こんな、方法で、空を、飛んで、るなっ!) 

 人の身体は空を飛ぶのに適していない。
 並の魔術師ならば秋芳と同様の方法で空を飛ぼうとしても、
三半規管がついていかず、途中で魔術を使える状態を維持できなくなるか気を失い墜落することだろう。
 そもそもマナの消費量がけた違いだ、このような無謀な方法で空を飛ぼうなどという考えに重い至る魔術師などいない。
 持ち前の魔力容量にくわえて、秋芳には軽功の心得がある。
 跳躍の力と落下の力が釣り合う最頂点では上下にかかる力がゼロになり、一瞬だが完全に静止した浮遊状態になる。その一瞬に身体を大きくしねらせ、反動力を生じることで二段跳躍をする軽功絶技。その名も『翻鯉転龍』。
 この体術を、中国武術発祥の軽業スキルを習得していたからこそできた芸当だ。
 大気の腕、重力の枷をごまかし、くぐり抜け、船の帆をクッションにして着地。
 なんとか地上に帰ることができた。

「アキヨシっ!」
「ラムを飲み干せ、YOHO」
「は?」
「いやなに、こういう船に乗ると言いたくなるんだよ」
「こ、このお馬鹿! なんて無茶な真似をなさるんですの。お馬鹿、お馬鹿、お馬鹿!」
「お馬鹿様」
「は?」
「その科白、二〇〇年生きた月の兎の末裔の女の子みたいに言って」
「存じませんわ、そんな方!」

 軽口を交わして船から下りる。

「あのカルサコフとかいう狼藉者はどうなりましたの?」
「沖に流されたか深海に沈んだが、あのゴーレムに水中でも活動できる機能が備わっていないことを祈ろう」

 その時、盛大な水しぶきが上がり、海面を割って魔鋼鉄のゴーレムが姿を現した。

「……んもー、しつこい」
「未練がましい殿方は嫌いですわ!」

 シーホークを襲った災禍は、いま少し続きそうだった。 

 

シーホーク騒乱 8

 おびただしい量の海水をしたたらせて陸に上がった魔鋼鉄のゴーレムはふたたび暴れ狂う――ことはなく、すぐに動きを止めた。

「……?」

 左膝の関節部分に容赦なく魔剣を突き刺し、ねじり斬ると、バランスを失ったゴーレムが他愛もなく倒れる。

「中の人は生きているみたいだが……」

 胸部のハッチに魔剣を押し当て、強引にこじ開けると海水とともにひとりの男――カルサコフが流れ出てきた。

「大量に水を飲んでいるな、このゴーレムには水中でも活動できる機能はなかったようだ」

 気を失ったカルサコフを警備官に引き渡す。彼らはすぐに【マジック・ロープ】と【スペル・シール】でカルサコフを無力化し、連行する。

「あの男。いったい何者で、どうしてこのような凶行を働いたのか、できることならわたくしみずから聞き出したいものですわ」

 ウェンディは形の良い唇を噛みしめ、口惜しげな表情を浮かべる。

「やつには拷問という付録つきの取り調べから、処刑台直行コースが待っていることだろう。俺たちが気にかけることはないさ」
「そうですけど……」

 拘束され連れ出されるカルサコフの姿を見送っていた、その時、異変が起きた。
 カルサコフの上腕部に彫り込まれた紋様、短剣に絡みつく蛇を描いた漆黒のタトゥー。その蛇がのたうち、闇の触手となってカルサコフにからみついたのだ。
 漆黒の蛇。霧のように実体のないものながら、絶対的な存在感をもった闇の塊。
 それは瘴気。
 闇に触れたカルサコフの皮膚が見る見るうちに変化していった。ぷくりぷくり、ぶくりぶくりと泡が膨れ上がるかのように皮膚がめくれ、肉がはじけ、ただれ落ちた。
 筋肉質だった長身はぶざまに膨れ上がっていく。
 それは、人であった面影を完全に失った生き物だった。
 樽のような胴体には数えきれないほどのいぼがあり、じゅくじゅくと正体不明の、悪臭を放つ、液体を分泌している。
 腐りかけた縄をよじり合せたような腕とも触手ともつかないものが三本、身体の周囲に生えていた。
 頭の位置はルイーツァリよりは低い位置にあるが、それでも並の男の倍ほどの高さにあり、足の先端は木の根のようにいくつも分かれ、わさわさとおぞましく蠢いていた。
 たったひとつ、頭だけがもとの形をとどめているのが、哀れであり、恐ろしくもある。
 だが狂気と妄執に囚われていても強い意志の宿った瞳は黒く濁り、淀んでいた。
 半開きになった口もとじからは、とめどなく薄桃色の液体がしたたり落ちている。
 それは――。
 それの名前は――。

「動的霊災!?」

 霊災。それは万物に満ちる霊気が極端に偏向し、五気と陰陽のバランスを崩すことで発生する霊的な災害のこと。動的霊災とは瘴気が実体化し、物理的に影響をおよぼすまで進行した霊災を指す。
 もっともここルヴァフォース世界には地水火風の四大精霊力や純粋な霊気やマナの流れはあっても五気は存在しない。
 この世界で歪みを体現する存在、それは――。

「悪魔か……」

 悪魔。
 それは人の深層意識下で広く認知された強大な概念存在のなかでも、負の要素に満ちた強大な概念存在。
 疫病、旱魃、飢饉、地震、台風、火事などの天災。
 虚偽、裏切り、妬み、憎しみ、肉欲、殺人や暴力衝動などの悪しき感情。
 そういった人の様々な忌避や禁忌や恐怖が、宗教や信仰。あるいはもっと純粋で原始的な感情――恐怖と結びついて具現化したもの。
 カルサコフの肉体を触媒に、悪魔が受肉したのだ。
いぼから滴り落ちた液体から猛烈な臭気が立ち込める。
 さわやかな潮風が吹く港は一転して汚れと瘴気が渦巻く地獄と化した。
 
「うぐっ」「ウエッ」「おえぇ」

 悪臭もあまりにひどくなると『臭い』ではなく『痛い』と感じるようになる。周囲の人々の目や鼻の粘膜に刺すような痛みが走り、嗚咽をもらす。
 もはや臭気ではなく毒気。それも心身を冒し汚す猛毒だ。

「嗅ぐな! これは瘴気だ。吸えば霊障を受けるぞ。【エア・スクリーン】と【マインド・アップ】で防御しろ」

 魔術の心得のある何人かが自分もふくめ、まわりの警備官らに対抗魔術をかける。

「なんなんですの……、いったい……ううっ!?」

 リビングアーマーやゴーレムを前に気丈に振る舞っていたウェンディだったが、瘴気を撒き散らす異形の存在を目の当たりにして平静ではいられなかった。
 自身に対抗魔術をかけることもできず、うずくまって胃の中のものを吐き出す。
 ウェンディだけではない。訓練を受けた警備官や衛兵たちでさえおなじ状態におちいっている者が出ている。
 これが、悪魔だ。
 姿形が恐ろしいだけではない。その存在そのものが極限まで堕落し腐敗した、おぞましく、醜悪で、淫らで、冒涜的な、究極の邪悪。
 悪魔は本来実体のないエネルギー生命体で、悪魔が肉体を得るには地上の生物と合体しなければならない。一般に合体する相手の知能が高く、能力が優秀であるほど強い肉体を得られる。
 魔術的な方法で星幽体(アストラルボディ)などのかりそめの肉体を作る方法もあり、星幽体をした悪魔には魔術によるものをふくめ物理的な攻撃がほとんど効かない。だがその場合は大量の魂を、生け贄が必要になる。
 現世に維持させるだけでも手間がかかるため、ひとりの生け贄に受肉させるだけですむ方法のほうが多用される。
 悪魔の姿は千差万別。彼(彼女)らは歪みの象徴であり、非存在であり、悪夢そのものだ。いびつな、ゆがんだ、醜悪な、妖美な、見るに堪えない、狂気を誘う――。
 そのような形容詞がつきまとう。
 青い炎につつまれた無数の髑髏、黒い霧のなかに浮かぶ数百の目や口や鼻、虫と鳥の頭をもった巨大な赤ん坊、コウモリの羽根と無数の腕を持った直立する獅子、山羊の頭部を尻から生やして逆立ちしている無頭の紳士、幾何学的な固まりの集合体――。
 などなどが記録にあらわれる悪魔の姿だ。

「ああああaAAはははhahaha――」

 悪魔の身体に生えているカルサコフの顔が白痴じみた笑い声をあげると、木の根のような足をわさわさと蠢かし、移動をはじめる。
 こんなものが街中に侵入すれば、その被害はリビングアーマーの比ではない。

「こいつを退治するのは俺の仕事だな。陰陽の理をはずれた魔障を修祓する、陰陽師たるこの俺の役目だ」

 たとえもといた世界の陰陽術が使えなくても世界の歪み、霊災を修祓せんとする義務感が秋芳を駆り立てる。

「……ウェンディ・ナーブレス! しっかりしろ」
「うう……」
「逃げるのか、あきらめるのか、ゲロの海の中で溺れ死ぬのか」
「そんなの、ごめんこうむりますわ」
「アーサー・ペンドラゴン、ジークフリート、クリシュナ、ペルセウス、キンメリアのコナン、アンディ・クルツ――。俺の語り聞かせた物語の主人公たちを思い出せ。彼らは絶対の危機の時にどうした?」
「立ち向かいましたわ」
「俺は今からやつに立ち向かう。お嬢を守る余裕はない。だから自分の身は自分で守れ、いいな」
「い、言われなくても……。わたくしだって立ち向かってみせますわ……『我々は貧者に分け与えるために富者から奪う。何人も分け隔てせずに弱者を等しく守る』!」
「その科白は――」
「ロビン・フッド。あなたの聞かせてくれた物語の中の登場人物の言葉ですわ。ただただ奪い、破壊するだけの怪物に、このウェンディ=ナーブレス。退きませんわ!」

 奮起したウェンディが自身に【エア・スクリーン】と【マインド・アップ】をかける。
 自分のためではなく、なにかを、だれかを守るためなら、この娘は実力以上の力を発揮するのではないか。
 とりあえず、立ち直った。
 そう確信したあと、カルサコフだったものへ魔剣を手にして駆ける秋芳。
 そこへ三本の触腕が風切り音をあげて打ちかかってきた。

 ヒュン、ヒュン、ヒュン!
 
 頭、胴、足を同時に――ではなく、微妙に時間差をつけて避けにくくした、狡猾な連撃。
 どのような肉体の作りになっているのか、樽のような身体から生えた触腕のみがグラインダーのように横回転し、接近をゆるさない。

「破亜亜亜ッ!!」

 近づくのに邪魔ならば切り落とすのみ。
 気合いとともに振るった鉄をも切り裂く斬撃はしかし、触腕の表面をわずかに傷つけたのみ。
 
「ぬめりやがる!」

 ゴムのように弾性のある表皮に、いぼから出た粘液がまとわりつき、潤滑油の役目をはたしていた。
斬撃、打撃、刺突。外部からのあらゆる衝撃を弱らせてしまい、剣や銃では分が悪い。
 秋芳とともに果敢に剣を振るっていた警備官のひとりが触腕の一撃で壁まで吹き飛ばされる。

「無理に近づいて攻撃するな、こいつには剣よりも魔術による攻撃のほうが有効だぞ!」

 だが強力な攻性魔術を使える魔術師の多くは総督府の攻防戦でカルサコフに倒されてしまっている。
【ブレイズ・バースト】や【ライトニング・ピアス】のような威力のある魔術の使い手はこの場にいないようで、【スタン・ボール】や【マジック・バレット】のような魔術が時おり飛んできては悪魔の身を傷つけるが、いかにも効果が薄い。

「《魔弾よ(アインツ)》! 《続く第二射(ツヴァイ)》! 《更なる第三射(ドライ)》!」

 ウェンディも必死になって習得しているなかでもっとも攻撃力の高い魔術を、【マジック・バレット】を矢継ぎ早に連唱し、収束魔力の光弾が次々と放つが、結果は悪魔の皮膚を焦がすのみ。焼け石に水だ。

(立ち向かうと決めましたのに、これではあまりにも無力ですわ! わたくしに力が、もっと大きな力があれば……!)

 それらにくらべて悪魔の唱える魔術は強力だ。

「《金色の雷獣よ・地を疾く駆けよ・天に舞って踊れ》」

 異形の身に唯一残っている人の部分。カルサコフの頭部が呪文を紡ぐ。

(木気の高まり、雷か!)

 錯覚である。
 実際は木気など存在しない。雷撃系の魔術を使用する瞬間のマナの構成や術式を秋芳の見鬼がそのように視させているだけにすぎない。
 それは秋芳も頭では理解しているが、とっさにそう思ってしまう。
 閃光と轟音、そして衝撃。
 無数の稲妻がほとばしり、雷球が荒れ狂った。
【プラズマ・フィールド】。術者の周囲に無数の雷球を展開し、周囲一帯を稲妻の嵐でなぎ払う電撃系のB級軍用魔術。電撃系のC級軍用魔術である【ライトニング・ピアス】の上位高等魔術だ。
 秋芳ほどではないが近距離で悪魔に攻撃していた警備官たちが稲妻になぎ払われ、一掃された。
 もう少し近くにいたり【エア・スクリーン】の加護を受けていなければ即死していたことだろう。
 では魔術の加護もなしに悪魔と接近戦をしている、雷陣の中心近くにいる秋芳の身はどうか。

(金剋木! じゃないんだよなぁ)

 もといた世界ならたやすく剋す、制することのできる攻撃にさらされるも、全身に気を廻らし、練らして、精神を集中することで魔術に抵抗。
 いわば生来の【トライ・レジスト】。それも三属エネルギー以外の、あらゆる魔術的な攻撃に対応する万能の防性能力。
 身体中をさいなむ電流に筋肉が収縮し、内臓が悲鳴をあげ、激痛が走る。だが総身から白煙をあげつつも、感電死はまぬがれた。

「uuuuu……、コ、コロぉして、クレぇぇぇ。たノム」

 目や口から薄桃色の体液を流し、わずかに残された人であった部分が、カルサコフの首が哀願する。
 悪魔になった者を救うには、肉体を破壊する。殺すことでしか救えない。
 
「いいいィィィたぁい、いたいいたいいたいイタイくルシィIIIいヤだぁぁあぁぁぁァァァ――《爆炎よ・障壁となり・燎原を走れ》――aaagaaaころしてころしてころしてコロシテコロシテたのむぅぅぅコロコロコロ――」

 自在に操作することが可能な炎の壁を生み出す【フレア・クリフ】。
 灼熱の炎が猛速度で床を駆けた。
 後方から銃や魔術で応戦していた人たちが灼熱の炎壁に飲み込まれる。

「くっ、《清き水よ―》! 《冷たき氷よ―》!」

 ウェンディが手持ちの水晶石や氷晶石を使うことで防護壁を展開。なんとか消し炭になるのはまぬがれたが、多くの人が火傷を負った。
 悪魔のたったいちどの呪文で、人間側の前衛と後衛は甚大な被害を受ける。

(このぬるぬる野郎に致命傷を負わせるには……。この方法は、使えるか?)

 意を決した秋芳が攻撃の手を強める。
 龍が尾を払うが如く人体の急所である両の向骨を斬り払う瞬撃《龍尾下閃》。
 足を軸に回転を繰り返し、その遠心力を利用して移動回避しつつ斬撃を放つ《風旋撩刀》。
 襲い来る猛虎の牙を模した、強烈な斬り落とし攻撃《落虎牙劈》。
 龍が天に向けて放つ咆吼の如く天地を揺るがす壮絶な刺突《天吼前刺》。
 獅子奮迅、疾風怒濤、驍将疾駆、闘志豪壮、古今無双、八面六臂の猛攻撃。
 ありったけの絶技の数々を繰り出した。
 触腕の表面に次々と裂傷が増え、三本の触腕のうちの一本には半分近く切り裂く傷をあたえることができた。
 だが攻めに集中しているぶん、どうしても守りが薄くなる。
 大きな痛手を受けぬよう、なんとか致命傷は避けているが鞭のようにしなる触腕がかすめ、傷ついた場所に黒くにごった血がにじむ。
 赤ではない。どす黒い、血が。
 悪魔の身体を濡らす粘液には強力な呪詛や魔術毒が込められている。
 秋芳は気を廻らすことで解毒。除去できなかった分を体外に排出しているのだ。
 易筋(ヨーガ)と気功(プラーナヤーマ)。
 拳法(メイ・パヤット)とともに達磨大師によって天竺から中華に伝えられたこれらの技術は肉体と精神の完璧な制御を目的とする。
 体内から有害物質を排除する程度のことは秋芳にもできた。
だが、神仙ならぬ人の身には限界がある。
 運動と出血による体力の消耗は裂けようがない。
 秋芳が呪文を唱える。

「《天使の施しあれ》」

 白魔【ライフ・アップ】。対象者の自己治癒能力を増強し、傷を癒す初等法医呪文。
 けれども秋芳は、それを自身ではなく悪魔にむかって使用した。
 悪魔の身に刻まれた傷のひとつがふさがる。

「な、なにをなさっていますの!?」

 恐怖で混乱したのか悪魔にあやつられでもしたのか、秋芳の行動にウェンディもまわりの人々も困惑した。

「俺は血迷ったわけでも悪魔にあやつられたわけでもない! みんな攻撃の手をゆるめるな、今は俺を信じろ!」

「…………」

 ウェンディをはじめ、その場にいた人々は秋芳を信じた。
 いや、賭けた。と言ったほうが近い。

「《天使の施しあれ》!」

 猛然と攻撃を繰り出すいっぽう、相手を回復させる秋芳。
 自身の血は流れ、体力と魔力が失われていく。

(死ぬかな)

 機械的に身体を動かしつつも、頭の片隅にそんな考えが生じる。

(万魔を祓い、千妖を降し、百鬼を縛り従える。陰陽師たるこの俺が異国の地で動的霊災に負けるのかよ)

 死の予感を感じたことは今までにも何度もあった。
 
 葛城山で手持ちの式神をすべて一言主に複製されて戦闘になったとき、京の街で牛頭天王の率いる百鬼夜行に遭遇したとき、夜の鞍馬山で魔王尊と相対したとき。
 
(あと、それと――)

 陰陽庁で十二神将を相手に戦ったとき。

(さすがにみんか強かったなぁ。……んー、なんで俺は陰陽庁にカチコミしたんだっけ?)

 ひとりの少女の姿が脳裏をよぎる。
 栗色の髪をアップにし、毛先をはらりと流している。ぱっちりとした瞳に、長いまつ毛。ローズピンクの唇。
 キュートな美貌やバランスのとれたスタイルはファッション誌のモデルと言われても、すんなり納得しそうな、そんな美少女。



 約束の時間が過ぎた頃、ひとりの少女が待ち合わせのカフェに颯爽と入ってきた。
 その瞬間、客の視線が一斉にそそがれた。
 白のブラウスと黒のパンツというラフな身なりでも、長身からファッションモデルのオーラがただよう。

「おまたせ!」

 はち切れそうな笑みを浮かべて声をかけてくる。
 雲間から陽光がさしこむような笑顔に秋芳は自分の恋人がたいへんな美人であることをあらためて確認した。



(京子……)

 双龍塔――地脈を流れる龍脈から気を吸い上げ、あらゆるエネルギーに変換する呪術技術の粋をあつめて造られた風水機構。
 その塔の人柱にされた京子。
 彼女を助け出すために自分は十二神将の守る陰陽庁に戦いをしかけた。
 そして、勝った。
 京子を、最愛の人を守ることができた。

(だが、その時の戦いの余波で生じた時空の歪みに俺は吸い込まれて、こっちの世界に来たのか……)

 妙な安堵感。
 いそいでもとの世界に帰るつもりにならない気持ちの正体に気がついた。

(ああ、俺は、なすべきことをしたんだ。京子を救ったんだ。だからか。だから、もういいのか)

 大切な人を守れた。だから未練はない。

「帰ってきて! かならず帰ってきて、秋芳くん!」

 ――!

(いや、まだだ。まだ死ねないな!)

 そう。あのとき、京子は帰ってきてと言った。
 秋芳の帰還をのぞんだ。
 秋芳の帰還をのぞんでいる。
 ならば、帰らなければならない。
 このようなところで死ぬわけにはいかないのだ。
 心の深奥から闘志がわいてくる。
 気力充溢。
 剣をにぎる手に力がこもり、斬撃はその勢いと激しさを増し、刺突の速さと鋭さが冴え渡る。
 そして、ついに――。
 悪魔の身に異変が生じた。
 【ライフ・アップ】がかかっても傷がふさがらない。
 それどころか傷が大きくなり、治したはずの傷まで開いている。
 皮膚がはがれ、骨が折れ、出血性の障害が体内外の各器官で生じ、全身に壊死が広がっていく。
 治癒限界。
 ごく短期間に法医呪文による肉体治癒を何度も繰り返すと、とある施術回数から治癒の効きが極端に悪くなり、さらには肉体の自壊に至る状態をさす。
 繰り返される過剰回復が生体組織活動に深刻な障害をあたえるために起きる現象で、戦いに身を置くだれもが『癒やし手の手をつかむ死神』と恐れる。
 この悪魔はカルサコフの肉体を触媒に受肉した存在。星幽体をした、概念が形をとった悪魔とはちがい、この世界の法則に縛られている。肉体の枷に囚われている。
 肉体をもった存在ならば、治癒限界があるはずだ。
 そう考えたゆえの【ライフ・アップ】連続使用。
 秋芳の予想はあたった。

「UGAAAaaaッッッ……」

 もはや手をくだす必要はない。
 カルサコフだった悪魔は三分と経たないうちに、死滅した。
 ウェンディが秋芳のもとへ駆け寄る。

「や、やりましたの……?」
「ああ、もうこいつは生きていない」
「勝ちました……、勝ちましたわ!」
「……《群れなす雷精よ・疾く集え・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 なにを思ったのか、秋芳はなにもない空にむかって太い雷光を放った。

「ひゃんっ!? な、なんですの、いきなり?」
「いや、だれかに見られている気がしたんでな」
「はぁ?」
「そんなことより、まだ動けるか?」
「とうぜん、動けますわ。魔晶石だってまだこんなに」
「ならけが人の救助だ。こいつのせいで街中に負傷者があふれているぞ」
「力なき人々を守り、助け、癒すのも魔術師の務めですわ。……まずは、あなたを癒さないと」
「不要だ。この程度の負傷と不調なら活剄で回復できる。……というか、あんな方法で倒した後に【ライフ・アップ】を使うのはなんかいや」
「ま、まぁたしかに」
 
 秋芳とウェンディはみずからも疲弊していながらその日の夜遅くまで懸命に街中を奔走し、けが人の救助にあたる。
 シーホークを襲った災禍は、ようやく終焉をむかえた。





 閃光とともに遠見の水晶球が粉々にくだけ散り、間近で見ていたエレノア=シャーレットの顔に破片が突き刺さった。

「あら、やだ」

 無数の水晶片によって顔面をずたずたに傷つけたにもかかわらず、まるで服にお茶でもこぼしたかのような、のんびりとした声をあげる。

「こちらに、気がついた? 勘の良い殿方ですこと」

 顔にめり込んだ大小の水晶片が机の上にぽろぽろと落ちる。
 細胞が増殖し、神経が伸び、血肉が広がる。【ライフ・アップ】などの比ではない。ありえない早さでエレノアの傷ついた肉体は治癒されていく。

「勘の良さもさることながら、魔術も使わずに【トライ・レジスト】を発動していたようですが……」

 気を廻らして魔術に対する抵抗力、防御力を高めた秋芳の練気術はエレノアの目にはそのように見えた。

「異能力者かしら? だとしたらあの身体能力の高さもそのせい?」

 エレノアはカルサコフをずっと監視していた。
 組織のなかでも有能かつ危険と判断された者は蛇剣の刻印に特殊な処理をされることがある。
 ある者は致死性の毒を、ある者は特殊な爆弾を、ある者はギアス、あるいはカースを付呪され、裏切りや暴走に備える。
 カルサコフの場合は、悪魔だった。
 
「着いた早々に同志を処断してしまった時はどうしたものかと思いましたが、なんとか最後まで使えましたわね。……少しだけ、もったいない気がしますが」

 カルサコフを調整し教育を施したのはエレノア自身。
 調整の課程で刷り込んだ記憶が強烈すぎたのか、富裕層に対する憎悪が強すぎた気がするが、あの程度の歪みなど組織の擁す他の強化人間に比べれば微々たるものだと考えている。
 それゆえ少なからず愛着があった。
 愛玩用のペットとまではいかなくても、お気に入りの玩具程度には。
 
「あのゴーレムを相手にあそこまで奮戦するだなんて……。しかもあんなにも華麗にして剛毅、燕のように舞ったかと思えば獅子のような一撃をくり出す。帝都の剣闘士でも、あのように強く美しい剣技の使い手、いませんわぁ」

 だが、もはやカルサコフに対する愛着は消え失せた。代わりに秋芳への興味がふつふつとわいてくる。
 わいてくるのは興味だけではい、他の感情。いや、肉体的な情動が。
 秋芳の戦いを思い出し、脳裏に思い浮かべるエレノアの息が荒くなる。
 熱く湿った吐息を漏らすと、身体を震わせ、その手を自身の股間へとのばした。

「ああんッ!」

 もぞもぞと、身震いしながら両手を激しく、時に緩慢に動かしてみずからの身をまさぐる。

「あんなの……はじめて、見ました、わ……なんといか……その……お下品ですけれども……フフ……私ったら、濡れちゃいます……アッ! ああッん」
 
 エプロンドレスにロングスカート。彼女が身にまとっているのは地味で貞淑な侍女の装い。
 それゆえにいっそうその行為の卑猥さを際立たせた。

「しかもッ! あんな方法で《汚れの悪魔》をッん、たおすだ、なんて、あっ、あああっ、ンンっんン。あんなのっ、あんなことされたら、私ッ!」

 おのれの身に備わった高い不死性。それすらも無力化させる可能性を秘めた、エレノアの予想だにしなかった【ライフ・アップ】をもちいた秋芳の戦術。
 
「斬ったり、刺されたり! 癒したり! 燃やしたり、凍らせたり! 癒したり! アはアンっ! 斬る! 癒す! 刺す! 癒す! 燃やす! 癒す! 凍らす! 癒す! 攻める! 受ける! 攻めて受けて癒して! 攻め受け癒す! 攻め! 受け! 攻め! 受け! 攻め! 受け! 攻め! 受け! リバァァァァァァス!!!!」

 髪を振り乱してよだれを垂らし、白目を剥いて自慰に耽るその淫乱な様にはもはや、女王付き侍女長兼秘書官としての怜悧な姿は微塵も残っていない。

「ああン、いっちゃう★」 

 秋芳との戦いを、殺し殺される様を妄想し、エレノアは果てた。 

 

出会いの夜

「それで、私になにを聞きたいのだね。定命の者よ」

 漆黒のマントに身をつつみ、夜会服を着た、いかにも貴人然としたその人物は言った。
 すらりと背の高い色白の瀟洒な紳士。だがどこか、妙な野性味が、独特の獣性を身に帯びている。

「生と死の秘密を」

 相手の答えを聞いて黒マントの貴人は青い唇の左右をゆっくりと持ち上げた。長すぎる犬歯がちらりとのぞくと、いっそう野性味が増した。
 まるで、狼だ。

「どうして私がそれを知っていると思う? 永劫の命を得たからとて、いいや、それゆえにこそ死の秘密は私より遠い」

 地下墓所(カタコンべ)から吹き上げた風にあたれば、このような寒気を感じるのだろうか。黒マントの貴人から定命の者と呼ばれた男は思わず身震いすると、腰の皮袋に手をのばし、その中身を胃にそそぎ込む。
 ようやく人ごこちがついたところで無作法に気がつき、相手にも酒を勧めた。

「飲まないのだよ……、葡萄酒は。私はけっしてワインは飲まない。飲むものは、べつにある」

 そう言うと目の前に置かれたタンカードに、かたわらのビンからお気に入りの飲み物をそそいだ。
 青い唇に、真っ赤な液体がなみなみと湛えられたタンカードが触れる。
 高貴な人々は銀の食器を好む。
 銀には殺菌作用があるのにくわえて、青酸カリやヒ素などの毒物に反応し黒く変色する。毒殺を恐れる王侯や貴族たちに重宝された。
 だが、このタンカードは銀製ではない。銀食器をそろえられるだけの財力があるにもかかわらず、この貴人は銀食器を使っていない。
 タンカードの液体は、まるでそれ自体に意志があるかのように、彼の唇を赤く染め、喉を滑り落ちていった。

「それでも君の知らないことの多くを私は知っているだろう。それを知りたければ私を楽しませることだ、死霊術師どの」
 
 この日、ヨーグ伯爵の屋敷に新しい使用人がひとり増えた。





 窮屈で不自由な階級制社会にも利点はある。
 たとえば場違いな場所に場違いな者が出入りすることがない。というような。
 貴族たちは大衆酒場に顔を出さないし、庶民は高級店になど足を運ばない。
 夜――というにはまだいささか早い、夕闇の街にくり出したセリカ=アルフォネアがむかったのは、ちょうどその中間点にあたるような店だった。
 ていねいに磨かれたオーク材で作られた内装や。趣味の良い器や酒瓶が整然とならぶ棚。キャンドルの炎がゆらめき、明かるくまなく暗くもない、独特の雰囲気を演出している。
それなりの懐具合で、節度と礼節をわきまえていれば、だれでも利用可能な趣味の良い大人の社交場。
 路地のつきあたる少し手前、右手側にある扉を開けたとたんに歓声があがる。

 彼女に、ではない。 
 腰までのびた流麗な金髪。漆黒のドレスの上からでも一目でわかるほど豊満で、それでいて均整のとれたしなやかな肢体をした彼女は、あらゆる場所で驚嘆と羨望、あるいは嫉妬や情欲まじりの視線を受け、歓声をあげられる。
 だがめずらしいことに、今日にかぎって歓声の対象はセリカではなく、べつの人物だった。
 店の奥の壁際。テーブル席でなにやら盛り上がりを見せている。

「今夜はずいぶんとにぎやかじゃないか」
「これはアルフォネアさん。おさわがせしてすみません」
「べつにいいさ、たまにはこういうのも。ここは酒場であって葬儀場じゃないんだから」

 いつもの席につき、お気に入りの赤ワインをたのむ。
 赤い唇をしめらしていると、件のテーブル席のやり取りが聞こえてきた。

「すげえな、これで六回連続だぜ」
「なにか魔術でも使ってるんじゃないよな」
「種も仕掛けもない。言ってるだろう、俺は陰陽師。占い師なんだ」

 どうやら店に入ってくる客が男か女かを言い当てているらしい。

「占い師(フォーチュンテラー)ねぇ」

 セリカがいぶかしげに話題の男を見る。
 東方の修行僧のように剃りあげた頭をした短身痩躯の青年。
 このあたりでは見ない顔で、セリカの記憶にもない。
 テーブルの上には空になったボトルがいくつもころがっているが、ひとりで飲んでいるというより周りの人たちにおごっているようだった。

「ずいぶんと羽振りが良さそうじゃないか、あの男」
「噂のシーホークの英雄ですよ」
「ああ……」

 数日前、フェジテの魔術学院襲撃と時をおなじくして起きた。シーホーク無差別テロ。
 この事件のせいで、時をおなじくして起きたフェジテの魔術学院襲撃事件はすっかり影が薄くなっている。
 外敵の侵入をやすやすとゆるしてしまったことにくわえて、死者まで出してしまった不祥事だ。人々の関心がよそにむいたことに胸をなでおろしている学院関係者も少なくはない。

「ほ~う、あいつが噂の騎士爵様か」

 卓越した剣技と体術。奇策をもって街を襲ったリビングアーマーとゴーレムを掃討し、悪魔まで退けてシーホークを壊滅の危機から救った秋芳に対して国から金一封と騎士爵を下賜されたのだ。
 
「ロットやハーレイたちが大騒ぎしていたな」

 それだけではない。魔術学院への入学を希望し、適性検査を受けたところ全魔術分野に対して非常に高い数値を出して講師陣を驚嘆させた。もっとも今の時期に編入するのはどうかということと、未知の異能反応も発見されたことで入学を認めるか否か、認めるとしてだれがどのように受け持つのか。ただいま喧々諤々の議論中だ。
 もっともナーブレス公爵家の後押しもあり入学自体はほぼ確定している。その関係ですでに学院に自由に出入りできる許可をもらい、図書室や実験室をはじめ学院内の施設を使っているそうだ。
 どんなやつが入学しようがしまいが、セリカには関心がなかった。
 魔術学院に教授として籍をおいてはいるが、彼女の興味の対象は地下に広がる古代遺跡の調査のみ。
 この場で、偶然目にするまでは。

「剣と魔術の両方に長けたチートキャラ。気に入らないねぇ」 

 絶大な魔力と強力な魔術特性【万理の破壊・再生】――すべての物理法則を破壊し、それを自在に再構築する。時間の理すらも破壊し、支配する――を持つ、みずからを棚に上げてうそぶくセリカの前にグラスが運ばれてきた。たのんだおぼえはない。

「これは?」
「騎士爵様からです。入学祝だと言って、今夜は来るお客様全員にふるまっています」
「もう入学したつもりか、おめでたいやつだな。……ん? なんだこれ、美味いじゃないか」

 鮮やかなピンク色をした液体を紅唇にひとくちふくむと、果物の持つ爽やかな甘みと香りが口腔に満ちた。

「騎士爵様に教えていただいたレシピで作ったベリーニというお酒です」
「酒の好みは悪くないみたいだな」

 店の扉が開いて新たな客が入ると、ふたたび歓声があがった。例の性別当てゲームはまだ続いているようだ。

「どれ、一杯おごってくれたお礼に少しつき合ってやるか。占いのお手並み拝見だ」

 魔術をもちいた卜占術も存在するが、巷の占い師のたいていはいんちきだ。
 たとえば――。

 客が来るとまず最初に「あなたの父親は死んでいないでしょう」と言い、もしその客が
「父は存命ですが」とでも言えば「そうでしょう、父親は死んではいないでしょう」と返す。
「三年前に亡くなりました」とでも言ったら「そうでしょう、死んでこの世にはいないでしょう」などと、どちらにころんでも自分の言ったことが当たったと無理やり思わせる。
「あなたの家の庭に樫の木があるでしょう」と言い、ないと答えれば「なくて幸せだ、あれば命にかかわる」と返し、あると答えれば「顔を見ただけで庭の様子がわかるのだ」とはったりをかます。

 などなど……、言葉巧みに相手を惑わす。
 良心的な占い師にはお悩み相談、心理療法士としての側面があるが、そうでない者のほうが圧倒的に多い。
 セリカはベニーニを飲み干すと早口で《センス・ライ》《センス・エネミー》《センス・マジック》を唱え、秋芳のテーブルに近づいた。
 どんなトリックを、あるいは魔術をもちいているのか見破るつもりだ。

「ごちそうさま、騎士爵様。おもしろい遊びをしているようだが、どんな魔術を使っているんだ。【アキュレイト・スコープ】かい? それとも【シースルー】? ああ、あるいは外に使い魔でも放っているとか」

 特殊呪文(エクストラ・スペル)【アキュレイト・スコープ】。光操作による遠隔視。指定された座標の観測地点が発する光を曲げて術者の視界にとどける呪文。
 おなじく【シースルー】は障害物のむこう側や物体の中身を透視できる呪文だ。

「この人ってばあたしの職業も当てたんですよ!」

 秋芳が応じるよりも早く近くのテーブルについていたピンク色のドレスを着た女性が興奮気味に声をあげた。

「ふぅん、見ない顔だね」
「あ、あたしは――」
「おっと、まった。私もあんたの職業を当ててみよう」
「え?」
 
セリカは女の周りを軽く一瞥した。席の位置、荷物、衣類掛け――。

「……ずばり、帝都の芸能関係者だ」
「えええッ!? あたしこれでもお芝居してるんです。当たりです、なんでぇ? あなたも占い師さん?」
「明白なことさ」

 派手なピンク色の服から芸能関係の仕事。所持していたスーツケースから数泊の予定でフェジテへ来た。フェジテはここ数日晴れているのに外套は湿っていて、襟を立てた濡れかたから風をともなう雨だった。
 住まいは遠いが外套が乾かない距離で風雨があった場所は帝都オルランド方面である――。

論理的推論(アブダクション)てやつだ、占いでもなんでもない。騎士爵様も外見と所持品で相手の特徴を言い当てたんじゃないのかい?」
「そういう芸当なら俺にもできる。……君は強い意思と信念があるが、同時にストレスで心に重いものを抱えている。他人に自分のことを知って欲しいと思う反面、深入りして欲しくないとも思っている」
「この服の色を見て思いついただろう、色彩心理学のテンプレート通りの言葉だな。しかも内容はだれにでも該当する曖昧で一般的な記述だ。ところが言われたほうは自分だけに当てはまる性格だと捉えてしまうまう。心理的な現象てやつだ。論理的推論を続けようか騎士爵様」
「賀茂秋芳だ」
「セリカ=アルフォネア」
「マスター、アルフォネアさんにベリーニを」
「セリカでいい。ベリーニか、あれは美味しかったが次はべつのものが飲みたいな」
「飲めるほうなのか」
「もちろん」
「リュ=サフィーレを。それとベルーガのキャビアを薬味つきで」

 たがいに杯を交し、サフィーレ地方の厳選された葡萄から生み出された濃厚かつ清純な美味を喉に流し込む。

「シーホークじゃ大活躍だったそうじゃないか、カモ・アキヨシ」
「秋芳でいい。賀茂だとダックみたいだからな」

 セリカの指先が酒を注ぐ秋芳の手を悩まし気に撫でる。

「左手の小指と薬指の根元と、両手の人差し指と中指の拳頭にタコがある。剣をたしなむようだが純粋な剣士ではない。格闘術など、それ以外の身体能力にも長けている。……錬金術にも興味があるみたいだな」

 セリカは秋芳の袖についた紅鉛鉱の粉末を目ざとく見つけ、魔術溶液のかすかなにおいを嗅ぎ取った。

「ご明察。たいしたコールド・リーディングだ」
「さっきの質問に答えてくれ。入ってくる客の性別をどうやって見分けているんだ。【アキュレイト・スコープ】か【シースルー】か。【コール・ファミリア】で外に使い魔でも放っているのか」
「いやいや、こいつは射覆(せきふ)といって俺の国に伝わる占術の一種さ。魔術のたぐいはいっさい使っていない」

 うそはついていないようだ。セリカの【センス・ライ】にはなんの反応もない。

「ほう、射覆ってのはどんな占術なんだ?」
「隠されたもの、見えないものを当てる占術だ。この国に伝わる魔術とはちがう」
「へぇ、そりゃ凄い。なら私の下着の色も当てられるのかい?」
「当てて欲しいのか?」
「ああ、ぜひ当ててくれ」
「黒だ」
「はずれだ、インチキ占い師。罸杯だな」
「おいおい、そいつはおかしいぞ。見せてくれ」
「淑女になんてこと言うんだい」
「淑女は下着の色を当てろだなんて言わないだろ。もっと無難な質問はないのか」
「なら私のスリーサイズは?」
「それが淑女らしからぬ質問だと言っているんだ。だいたい下着だの体形だのを言い当てるのが射覆じゃあない。俺は気の流れを見て様々な事象を――また来たぞ。男と女のふたり連れだ。マスター、女性にはベリーニを、男性にはジン・ビターズを」

 はたして秋芳の予想通り、男女のふたり連れが入ってきた。これがセリカには解せない。
 気を読むとはどういう意味か。
 いや、気の意味ならセリカにもわかる。
 人の身体や天地に満ちる魔力(マナ)、霊脈、自然界に存在する精霊力、それら霊的エネルギーを『気』と呼ぶのは知っている。
 だが魔術を使わずになぜそのようなことができるのか。
 たしかに東方には東方の魔術があるだろう。マントラやタオという東方魔術の名なら聞いたことがある。だがそれは名称が異なる、表層の術式がちがうだけで本質はルーンをもちいた魔術と大差ない。
 このルヴァフォース世界に魔術はひとつしかない。
 そのはずだ。

「東方の〝魔術〟も使っていないだよな」
「そうだ」

 やはり、うそはついていない。

「異能か?」
「ああ……、たしかに異能といえば異能か。見鬼といって対象の気を感知する術というか能力で、遠視でも透視でもない。男女の気にはちがいがあるので、俺はそれを壁越しに感知しただけさ」
「男女の気のちがいだと?」
「そうだ。男には陽の気が、女には陰の気が――」





 いくつもの酒瓶が空けられ、カウンターやテーブルの上どころか、床にもころがっていた。
 客のほとんどは帰るか酔いつぶれており、マスターでさえ手洗いに立ったままそれっきりだ。
 その酔いつぶれて寝ている客はみな異様な姿になっていた。
 エルフのようにとがった耳やドワーフのようなビア樽体形にされた者はまだましなほうで、下半身を馬や蛇にされたり、全身に鱗を生やされたり、頭髪をイソギンチャクの触手にされたり、謎の発光器官をそなえた名状しがたい存在にされた者までいた。
 すべてセリカの変身魔術によるものである。
 秋芳の予想をはずすために入ってくる客の姿を戯れに変えたのを皮切りに、なにに変身させるか当ててみろという話になり、こうなった。
 事情を知らない者が入ってきたり、うっかり外に出ようものなら大騒ぎになることだろう。
 一応短時間で、ほうっておいても日が上る頃には自然に解除するよう手をくわえてあるが、いかんせん酔っぱらいの仕事である。

「少女の純真さと大人の女性の色香が微妙に混じり合って、天上の人とも見まごうばかり。まさに女性美の化身。優雅で愛らしいエロティシズムを体現している。きみがもつそんなエロティシズムに我を忘れて耽りたい……」
「そうなれば、おまえはもっと恋に落ちるぞ」
「それは地獄だな、すでに恋の地獄、略して恋獄におちいっているんだ。俺を破滅させたいのか?」
「うん、おまえを破滅させたい」
「いいね。それは俺が望んでいることでもある」
「愛が答えさ。でも答えが出るまでに、セックスという手段でとても愉しい質問ができる」

 異形の群れにかこまれたなか、秋芳とセリカが杯と言葉を交わしているが、こちらも頭の中はぐちゃぐちゃの酔客で、もはやおたがいになにを言っているのか理解していなかった。

「峨眉山の霧、洞庭湖の月、廬山の朝日、長安の牡丹、銭塘江の波……。俺のいた世界にはいたるところに絶景がある」
「セルフォード大陸にも絶景はあるぞ。四方を美しい森林と湖にかこまれたリリタニアという場所がな。神秘的な霧のヴェールにつつまれた水と緑の楽園で――」
「黄河の鯉、松花江の鮭、松江の鱸、太湖の白魚……、中国四大名魚だ。とにかく死ぬまでに食してみたいものだ」
「セルフォード大陸にも美味いものはあるぞ。リリタニア地方の湖で捕れる鯉は絶品で、かつて皇帝が特に好んで食べたことから皇帝魚『鰉』と呼ばれるように――」
「リリタニア推すね~、そんなに良いのかよ」
「良いとも」
「行きたいな」
「行きたいか」
「行きたいとも」
「行くか」
「行こう」

 そういう話になった。





 そして、ふたりの酔っぱらいが次に気づいた時、リリタニアどころかまったく、ぜんぜん、これっぽっちもちがう、見知らぬ場所にいたのだった――。 

 

辺境異聞 1

 秋芳が目覚めると、見覚えのない古びた聖堂の中にいた。

「…………」

 かつて信仰者たちの祈りの場として使われていたであろう、十字の形をした聖エリサレス教会の聖印(ホーリーシンボル)が見下ろす座席の上で眠り込んでいたのだ。

「頭痛い~、どこだぁ、ここはぁ……」

 気だるげな女の声に振り向けば、懺悔室の中からセリカが顔を出すところだった。

(うお、こいつこんな美人だったのか。それに乳でけえ)

 黄金を溶かしたような豪奢な金髪と精緻に整った白皙の貌に、艶美な線を描く肢体。埃だらけの朽ちた廃墟という背景がよりいっそう彼女の美しさを強調し、まるでひと筋の光明とともに美の女神が降臨したかのようだ。
 暗い店内と、酒に酔っていたため気づかなかったセリカの美貌に、今さらながら目を奪われる秋芳。

「あれぇ~、おまえ、だれだっけ? ここはどこだ?」
「俺の名前は賀茂秋芳。ここがどこかは知らん。……なんか、どこかに行く途中だったような」
「……リリタニア?」
「ああ、そうそう。リリタニアだリリタニア。そこに行くとか行かないとかそういう話で」
「なんでリリタニアになんか行くんだ」
「……さぁ?」
「ああもう、リリタニアなんかどうでもいい。ここはどこなんだ、フェジテじゃないよな」

 外へ出て辺りを見て回る。
 小高い山の中腹あたりだろうか、おいしげる木々の合間から眼下に広がる平原。ところどころに丘陵が見えた。

「うーん、まったく見覚えがない」
「やれやれ、フェジテに帰るのも一苦労だな。これじゃあ今日のお勤めはなしだ」
「なんの仕事をしてるんだ。おおかた魔術関連だと思うが」
「なぜそう思う」
「【センス・ライ】だの【センス・マジック】だの、あんなゴチャゴチャ符呪しまくってるやつは魔術師くらいだ」
「ああ、そういえばおまえは魔力が〝視える〟んだったな。……そうだ魔術学院に講師として籍を置いている、一応な」
「なんか妙に歯切れの悪い言い方だな」
「実際に教壇に立つことなんて、ほとんどないのさ。それでも私みたいな第七階梯(セプテンデ)の人間はいるだけで学院の株が上がるってんで、いるだけで重宝されてるよ」

 魔術師には下から順に第一階梯(ウンデ)第二階梯(デュオデ)第三階梯(トレデ)第四階梯(クアットルデ)第五階梯(クインデ)第六階梯(セーデ)第七階梯(セプテンデ)の七つの位階が存在する。
 学院を卒業したての新人は第三階梯、第四階梯は平均的な魔術師が至る最高階位。第五階梯は天才で第六階梯は超天才。第七階梯ともなれば規格外だ。
 ちなみに遺跡調査やその他特別な任務などで人員を募集する場合は第三階梯以上の者には報酬を与えるという規定が存在する。

「ペルソナ5の鴨志田みたいなものか」
「……なんかものすご~い嫌な例えをされた気がするぞ。訂正しろ」
「うちの十二神将みたいなものか」
「うん、だいぶマシになった気がする。……言っておくが給料泥棒に甘んじているわけでもないからな、学院の地下で得た情報や物を提供することで、給料分以上の貢献をしているつもりだよ」
「地下迷宮か、そういえば、そんなのもあったな」

アルザーノ帝国魔術学院の地下には広大無辺な古代遺跡が存在する。
「地下に向かってのびる塔」のような構造をしており、探索危険度はS++。帝国最高難度を誇る迷宮で、地下九階までは学生実習などでも使用しているが、地下一〇階を境に危険度が激増する。四九階までは「愚者の試練」とも呼ばれ、内部の構造が定期的に変化しているために転移魔方陣の設置や地図が意味をなさないのだ。

「身近な場所にダンジョンがあるだなんて、東のミカド国のナラクみたいだ。学院の地下にある、入るたびに構造が変わるとか、月光舘学園のタルタロスみたいで今から潜るのが楽しみだな」
「迷宮探索志望者か、おまえが正式に学院に通うようになれば許可もおりるだろうよ。それよりものどが渇いた、水」
「さっき井戸があっただろう」
「ずっと使っていない井戸だぞ、汚いじゃないか」
「井戸というのは単体で存在する水溜りではなく、帯水層や地下水脈の一部だ。使わないからといって澱んだりはしない。もっともあまりにも長いこと使わない、人が手を入れないと表面に土砂や枯れ葉がたまったり帯水層が痩せて水が汲めなくなることがあるが」
「そういうのを汚いと言うんだ、そう言うのを」
「まあ、試しに汲んでみよう」

 聖堂裏にあった井戸に近づくと、秋芳が異変を察した。

「まて」
「なんだ」
「五気の偏向――ではなくて精霊力の均衡がくずれている。あんたの言うとおりだ、あの井戸の水は穢れて、よくないものになっている」 
「狂えるウンディーネでもひそんでいるのか?」
「そんなところだ、近づかないほうがいい」
「そんな危険なやつ、ほうってはおけないな」
「あ、おいっ」

 秋芳の言葉を無視して足を進めるセリカ。
 すると井戸の中から黒くにごった水が噴水のように吹き出し、人の形をとった。
 
「キャハハハハハッ!」

 泥にまみれた裸の少女が哄笑をあげる。
 本来ならば清らかな水で肉体を形作った、全裸の美しい女性の姿をしているウンディーネの見る影もない。

「ううむ、長いこと祀られることのなかった井戸神が祟りをなすことがあるが、これもそのようなものか」
「溺れちゃえ☆ 沈んじゃえ☆」

 汚泥まみれのウンディーネがその身を濁流に変えて押し寄せる。狂気に囚われた彼女たちは陸上生物の鼻や口に浸入し、肺を満たして水死させることを喜びとする。
 くるぶしにも満たない路上の水溜まりや浅瀬や小川で溺死した者は、この狂えるウンディーネの被害に遭ったと言われ、ルヴァフォースの人々に恐れられていた。

「逃げるぞ、こいつらは水のある場所から遠くには――」
「《失せろ》」

 灼熱の業火が真紅の海嘯と化して狂えるウンディーネを押し潰す。超高熱に焼かれ、ひと滴の染みさえ残さず蒸発した。
 黒魔【インフェルノ・フレア】の火力は凄まじく、狂えるウンディーネどころか井戸を跡形もなく吹き飛ばし、聖堂の一部と周囲の木々を消し炭に変えた。
 井戸のあった場所にはクレーターが生じ、高熱で溶けた土石が急速に冷えガラス状に変異しつつある。

「たおしたぞ、だがこれじゃあ井戸が使えないな。もう一発ぶちかまして大穴を開けるか」
「このアホーっ!」
「なんだいきなり」
「まわりを見ろ、まわりを! 地形が変わっているぞ。井戸や建物はともかく、森を焼くとはなにごとだ。自然破壊もたいがいにしろ!」
「なんだおまえ、自然崇拝者(ドルイド)か?」
「だれが九階から出てくる壁を壊す青い呪文を使う魔法使いだ!」
「またわけのわからないことを……」
「やりすぎだと言っているんだ。あんたの実力ならもっと穏やかに対応できただろうに、むやみに破壊するな」
「男の癖にこまかいこと言うじゃないよ。それより井戸は、水はどうするんだ?」
「たった今あんたが壊しただろうが! 掘り起こすなよ、山ごと吹き飛ばしそうだ。……ちょっとまて、偵察がてら探してみる――《闇夜に舞い・羽撃け・御先の大鴉》」

 【コール・ファミリア】で召喚したカラスで空からあたりを見回すと、山の裏側に小さな滝があり、滝壺からのびた川の先には田園地帯が広がっていた。ぽつぽつと建物も見え、人がいそうだ。
 水を確保したいことだし、とりあえず滝にむかってみた。



「あ、あれ」

 セリカが木の上を指さす。その細い指の指し示す先には紫色の果物がたわわに実っていた。

「アケビか」
「あれ食べたい」
「朝の食事は、あれでいいかな。落とすから下で取ってくれ」

 落ちている石を拾い上げ、樹上にむけて投げると、拳大の果実がぽとりと落ちた。

「アケビ……」
「どこからどう見てもアケビだな。…… ドラゴンとかキマイラとかがいる世界なら、べつにアケビがあってもおかしくないよな。俺のいた世界のアケビとはちがう、この世界独自に進化したアケビがいるということにすればいいんだから。 日本原産種であるアケビがルヴァフォースにあってもおかしくない!」
「だれにむかってなんの力説をしているんだか。……なぁ、アケビの形って」
「うん?」
「アケビの形って、なんかエロくないか?」
「エロくねえよバカ女。いいからだまってお食べなさい」

 やがて間近から川のせせらぎが聞こえてくる。アケビを食べ終わる頃には滝壺にたどり着いた。
 清水で口をゆすぎ、喉を潤して川沿いに下る。

「あ、あれ」

 セリカが川面を指さす。陽光が反射して縞模様になった水面を黒い影が泳いでいる。

「イワナか」
「あれ食べたい」
「まぁ、アケビだけじゃもの足りないか」

 手ごろな大きさの石を拾い、狙いをつける。

「…………っ!」

 川にむかって放った石でイワナを一尾、仕留めた。

「さっきも思ったが器用なものだな。その石、符呪したわけじゃないんだろ?」

 純粋な魔術戦にこだわる魔術師からは嫌われているが、投擲武器に必中のルーンを書いたり刻んだりして戦う方法は広く知られている。

「印字打ちといってな、野外生活にあると便利な技だよ」

 自分の分もふくめてもうニ、三尾仕留めようと狙いをつけるが、なかなか水面に浮かんでこない。少しでも深みにいると石の勢いが削がれて仕留めきれないのだ。

「手裏剣でもあれば楽に捕れるんだが……」
「めんどくさいなぁ、ここは私が【ブレイズ・バースト】で発破漁を――」
「そういうのをやめろと言っているんだ! そんなことをすれば関係ない生き物まで死んでしまうし、食べきれない分まで捕る必要はない。無益な殺生はよせ」
「まったくエリサレス教会の僧侶みたいなこと言うやつだねぇ。いいじゃないか、ついでに湯浴みもしたいし」
「湯?」
「そう。ひとっ風呂浴びてシャキッとしたいんだよ」
「川の水をせき止めて湯を沸かすつもりか?」
「うん」
「豪快な……、リナ=インバースみたいなことを考えるやつだ。水浴びじゃいかんのか」
「水浴びするには風も水も冷たすぎるよ」

 北東の万年雪連峰を越えて流れてくる寒冷な気団の影響でフェジテの気候は一年を通して涼しい。

「なら【トライ・レジスト】を使えばいいじゃないか。あるいは【エア・コンディショニング】とか」

 【エア・コンディショニング】とは身体回りの気温・湿度を調節する魔術だ。身体にかかる水そのものを温めることはできないが、対象にとってつねに最適な温度状態を維持してくれるこの魔術がかかっていれば水に体温を奪われて寒い思いをしなくてすむ。 
 
「なるほど、おまえ機転が利くな。もう少し時間がかかりそうだし、私はさっきの滝壺で水浴びしてくるよ」
「気をつけろよ」
「そのことだが」
「うん?」
「おまえのことは信用している。だが、念のため【デッド・ライン】を張り巡らせておくから近寄るなよ」
「まったく、ぜんぜん、これっぽっちも信用してねえじゃねえか!」

 操死【デッド・ライン】。線状結界の魔術罠。それは生と死を別つ境界。不用意に足を踏み入れば、即座にデス・スペルが発動し、侵入者を死に至らしめる。

「私ってばほら、淑女だろ。ガードが固いんだよ」
「関係ない森の動物や通りかかった人が巻き込まれたらどうする! 人払いの結界を張るとか、【セルフ・イリュージョン】で身を隠すとか、そういうのにしとけ!」
「おお、なるほどなるほど。そんな使いかたもあるとはね、おまえってほんとうに機転が利くな」
「あんたが雑なだけだ」
「じゃあ水浴びしてくるから覗くなよ。絶対に覗くなよ。いいか、ぜっ、たい、に、の、ぞ、く、な、よ~」
「わかったから行ってこい!」

 セリカの言葉を反芻する。あれは芸人の前ふり的な、覗けという意思表示ではないだろうか。
 
(ふん、そんな深夜三流俗悪萌えアニメの主人公じみた真似、頼まれてもするものか!)

 へそ曲がりの秋芳は黙々と作業を続けた。
 魚を仕留めたら枯れ枝を断ち割りへし折って、焚き木を作り、河原を掘って焚き火を起こし、大きな葉を折って簡易な鍋を作って湯を沸かし、枝で作った即席の串に刺して川魚を焼く。

「おー、いい感じに焼けてるじゃないか」
 
 測ったかのように絶妙のタイミングでもどってきたセリカは焼き魚を見て相好を崩す。
 水気を帯びた彼女は全身からしっとりとした雰囲気をただよわせ、妙な色気を醸し出している。
 燦然と輝く太陽から、闇夜に浮かぶ月へと変幻したかのようだ。
 セリカが嬉しそうな顔でかぶりつく。赤く柔らかそうな唇に秋芳もつい気を取られる。
立ち居振る舞いは子どものそれに近いのたが、不思議と優美さを感じさせるのだ。

「たまにはこういう素朴な味もいいな。ああ、食後のお茶が飲みたい」
「さすがに茶は用意できないな」
「ならフェジテにもどるとすか」
「タクシーがありゃ楽なんだが……」
「タクシー?」
「遠耳水晶ひとつでどこにでも駆けつけてくれる馬車みたいなもので――」

 山を下りて田園地帯に近づくにつれ空模様があやしくなってきた。
 そう遠くない空から雷鳴が轟き、風が強くなる。
 やがて鉛色をした雲から大粒の雨が滴り落ちた。
 雨は瞬く間に勢いと量を増し、南国のスコールさながらの暴雨と化した。

「ああ、うっとうしい! 【コントロール・ウェザー】でも使って止ましてやろうか」
「局地的な環境情報の改竄は生態系に後遺症を発生させる可能性があるから、行使するのなら念入りに準備をして――」
「また屁理屈を!」
「《大気の壁よ》。ほら、濡れるのが嫌なら【エア・スクリーン】でも使って傘代わりにしろ」
「なるほど、おまえ機転がーー」
「だからあんたが雑すぎるんだっての」

 雨はやむ気配を見せない。
 【エア・スクリーン】によって風雨はまぬがれているが、舗装されていない野路はぬかるみ、歩行が困難になってきた。

「まったく……、こんな大雨が降るって予言できなかったのかい、占い師」
「……日輪の動き、星の動き、大地の揺れ、天地(あめつち)のことは何人であれどうにもならぬと安倍晴明だって言っている」
「安倍の声明? 北のミサイルが飛んできたのかい」
「メタな発言はよさんか! ……言っておくがきちんと調べれば天候くらい予測できるからな。方位や星の在り方を見て吉凶を占うのが陰陽師の仕事で、その一環として天気を当てるくらい――」
「はいはい、わかったわかった」
「わかればいい、わかれば」

 突如として閃光が瞬く。
 轟音とともに近くの木が炎上した。落雷だ。

「こりゃあいかん、どこかで雨宿りを――」

 ふたたび稲光が走る。
 陽光をさえぎる黒雲と風雨で視界が悪いなか、数瞬だけ光に照らされ、小高い丘の上に城のような建物が見えた。
 
「あそこだ、行こう」

 城の前に来るとセリカがくるりと振り向き、両手を高々と上げ、 音吐朗々と声を響かせた。

「ふっふっふ、いいぞいいぞ。雨よ降れ、風よ吹け、雷よ吠えよ。生意気な人類に天界の鉄槌をくらわせてやるのだ……!」
「……なんの真似だ、それは」
「いや、なに。こういう場所でこういう状況だから、つい」

 城の古い大扉が強風にあおられ、きしみながら開いた。中は真っ暗で廃城のようだと思ったが、奥からランプを掲げた人影が近づいてくる。
 光に照らされ、この時になってはじめて玄関の両脇に立っている門番たちに気がついた。

(隠形しているわけじゃない。こいつら、妙に気が薄い)

 門番たちからは瀕死の病人のように微弱な、弱々しい生気しか感じられない。
 
(まるで、死人だ)

 秋芳は闖入者に視線もむけず、微動だにしない門番たちの姿に、生きる屍のような印象を受けた。

「ひどいお天気ですわね……」

 ランプを掲げた人物。白いドレスを着た金髪の少女が秋芳たちに微笑みかける。

「父はいま執務中で手が離せないため、代わってご挨拶いたします。辺境伯ヨーグの城へようこそ。わたしは娘のフーラともうします」

 光の加減であろうか、稲光に照らされたフーラの瞳は一瞬だけ真紅に染まって見えた。 

 

辺境異聞 2

「月蝕の夜、翡翠の塔に人狼の影。マールバッハ侯爵の遺言状は全文が人間の血で書かれていた……」
「なんだそりゃ」
「知らないのか、 ライツ=ニッヒの『夜の血族』のなかの一節だ」
「ゴシック・ホラーか、こういう場所でマーヴィン・ピークの『タイタス・グローン』とか読んだら雰囲気が出るだろうな」
「聞いたことのない名前だね、おもしろいのかい?」
「いつの時代、どこにあるのかも知れない巨大な迷宮のような城塞都市のような建造物のただなかで展開される奇怪で異様で、それでいて魅惑に満ちた物語だ」

 清潔な着替えと暖かい部屋を貸しあたえられるだけでなく、城内を自由に歩き回ってよいという格別のゆるしまで得た秋芳とセリカのふたりは談話室のなかでくつろいでいた。

「たしかに、雰囲気はあるよな」

 暗灰色の空を稲妻が走り、大粒の雨が窓を叩く音が年代物の調度品や遊具で埋め尽くされた古色蒼然とした室内に響く。

「うん、さすがボルツェル辺境伯の居城だ。どれもこれも年代物だぞ」

 辺境伯とはアルザーノ帝国における貴族の称号のひとつだ。
 もともとはレザリア王国との国境や、帝国の法に従わない異民族が支配する領域付近に防備の必要上置いた軍事地区の指揮官として設けられた地方長官の名称であった。
 敵体勢力と接しているため他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられ、一般の地方長官よりも高い地位にある役職とされる。

「ボルツェル家というと、歴史の教科書にも載っていたような……」
「そうだ、嵐が丘の戦いの英雄さ」

 嵐が丘。
 広大な丘陵地帯と激しい風雨が頻繁に起こるため、この辺り一帯はそう呼ばれている。
 四〇年前の奉神戦争のさい、アルザーノ帝国の領土を侵そうと迫るレザリア王国の大軍を寡兵で撃退したのが、嵐が丘の領主である先代のボルツェル伯だ。
 視界を妨げるほどの豪雨に乗じてレザリア軍の本隊に奇襲をかけ、敵将を討ち取った武勇伝は今も語り継がれている。

「まるで桶狭間の戦いだな。それにしても……」
「うん?」
「なんでフェジテから馬で四日もかかる、下手すると帝都オルランドよりも遠いところにいたんだ、俺たちは。どう考えてもヘベレケになってから半日しか経っていないだろ」
「う~ん、なんか【ラピッド・ストリーム】の連続使用で競争しようとか、そんなこと言っていたような」
「マジかよ……。いや、そういえば、そんなことしたような……」 

 黒魔系補助呪文【ラピッド・ストリーム】。気流操作による機動力補助の魔術。指向性の風をまとうことによって身体の動作を風に後押しさせ、圧倒的な素早さ、移動力を得ることができる。ただし操作が難しいのと燃費が悪いせいで使用する者は少ない。
 これを連続起動することによる高速機動術を帝国軍では『疾風脚(シュトロム)』と呼ぶが、制御を誤れば高速状態で障害物に衝突したり転倒するという危険な魔導技だ。

「あと【レビテート・フライ】と【サイ・テレキネシス】の組み合わせで空中移動を試みたような……」

 黒魔【レビテートフライ】。飛行呪文だが基本は浮くのみで、機動力を維持しながら長時間飛ぶためには専用の魔導器が必要。昔は箒型の、現在は指輪型が主流だ。

「酔っぱらってすることじゃない。よく事故らなかったもんだ」

 散策のゆるしを得たとはいえ人様の家をあちこち見て廻るのも趣味が悪い。談話室の中で過ごしていると、ボルツェル家に仕える侍女が顔を出した。

「失礼します、お客様。お食事の用意ができましたので、食堂に案内いたします」

 ことわる理由はない、ふたりは食堂へとむかった。





 席に着くと夜会服を着た紳士が現れ、城主のヨーグ・ボルツェルと名乗った。すぐにフーラも現れ夕食が始まったのだが、彼は早々に食事を済ませてすぐに自室へと戻る。

(どうも俺たちは歓迎されていないようだな)

 それだけではない、娘のフーラともひと言も口を聞かず、目も合わせなかった。どうもここの親子仲は良好ではないように思えた。

「ごめんなさいね、こんな田舎臭いものしかなくて」

 骨つき羊肉とマッシュポテトに季節の野菜のサラダとスープ。洗練されたフェジテの料理や新鮮な魚介類を使ったシーホーク料理にくらべれば素朴で、味つけも単調だった。
 たしかに良く言えば野趣のある、悪く言えば田舎臭い料理だ。

「なぁに、たまにはこういうのも悪くないさ。塩と胡椒があれば大抵のものはごちそうだからね、塩気のない川魚なんて味気ないものだよ」
「その味気ない川魚をひとりで三尾もたいらげておいてよく言う。次からは塩を錬成して振りかけてやるよ」
「それは遠慮しておこう、高速錬成された物質は一定時間でもとにもどるからな」
「まぁ、おふたりには魔術の心得がありますの? わたしも多少は使えますの」

 フーラは腰に差した短杖を見せる。
 貴族の令嬢なら魔術を習得していてもおかしくはない。
 アルザーノ帝国では、魔術、剣術、拳闘、乗馬、学門の五つは貴族の五大教養とされ、人の上に立つ者は文武両道たれ。というのが古典的な帝国貴族の考えだ。

「差し支えがなければおふたりのことを聞かせてください。ここは旅人も滅多におとずれない田舎で、外の話が知りたくて――」 

 ヨーグ辺境伯が退席した途端にフーラは饒舌になり、堰を切ったようにしゃべりだした。
 この娘、やはり父親が苦手な様子だ。

「とても楽しい夕食でした。こんなにお話したのは久しぶりです。おふたりとも、おやすみなさい」

 洋の東西を問わず田舎の夜は早い、フェジテならまだ宵の口の時間に消灯となった。 





 薄暗い城内を照らすのは時おり走る稲光のみのなかで、談話室だけに明かりが灯る。

「この国の魔術は軍事用に特化していて総じて剣呑だ。遊び心にとぼしい」
「その紙のおもちゃがおまえの言う遊び心というやつか」

 テーブルの上で小さな紙人形が踊りを踊っている。
 パペット・ゴーレム。人とおなじか、それよりも小型のゴーレムをそう呼ぶが、これもその一種だ。

「ま、子どもは喜びそうだな」
「こういうのを俺のいた国では式神といってな、感覚共有や発声機能をつければ汎用性のある便利な代物になる。外装を変化させて花や蝶の姿に変えることもできれば室内の装飾にもなる」
「こんなにちんまりしたのを動かせて、実際器用だよなぁ、おまえ。……そういえば学院の魔術適性はなんだったんだ? この調子だと召喚系か?」
「ああ、それは――」

 その時、談話室の扉がノックされ、遠慮がちに開かれた。
そこにはランプを手にしたフーラの姿があった。
 妙に思いつめた表情をしている。

「こんな遅くにごめんなさい、実は悩みを聞いて欲しくて――。何の関係もないあなたたちに、こんなことをお話するのは本当に申し訳ないのですが……」

 彼女は自分の出生になにか秘密があり、父のヨーグは城内にそれを隠し、その秘密に近づき、触れることのないよう、監視の目を光らせていると言うのだ。
 それだけではなく近頃妙な夢をなんども観るという。
 母が何者かに殺され、それを見たいた自分を冷たい手が抱き上げる――。
 これはなにかの兆しや託宣ではないか? 
 亡霊となった母がなにかを訴えてきているのではないか?
 実はその夢のせいで出生に疑問を持つように鳴ったという。

「まさか父も行きずりのあなたたちが調査をするとは思わないでしょう。お願いです、どうか私の過去を調べてくれませんか? お金はあまり用意できませんが、もしよろしければ報酬としてこの城にある物をいくつか差し上げます」
「ああ、いいよ」

 即答するセリカ。

「おい、いいのかそんな簡単に引き受けて」
「外をごらんよ、雷雨はまだ止みそうにないよ。今夜中に嵐が去っても道はぐちゃぐちゃで、城から出るのは当分先になりそうだろう。暇つぶしにはもってこいさ。それにあんな美少女の頼みを断るだなんて、物語の主人公のすることじゃないよ」
「主人公て……」

 こうして、秋芳とセリカはフーラ・ボルツェルの依頼を受けることにした。
 

 

辺境異聞 3

 
前書き
 さんざんロクでなしの原作小説10巻の宣伝しておいてなんですが、まだ読んでません。 

 
 時おり奔る稲光がランプの灯すかすかな明かりを飲み込む中で、フーラの説明が続く。

「この城にはわたしたち父娘のほかに執事がひとり、召し使いが十二人、門番が四人の合計一九人が暮らしています。執事も召し使いも門番も父に忠実で、聞いてもなにも答えてくれないでしょう。無理に聞き出そうとすれば、あなたたちのことを父に報告するだろうと思います。そうなれば調査に妨害が入ることでしょう。ですから、それは思いとどまってください」
「できる限りこの城の住人とは口を聞くなってことだね」
「はい。――それと父のヨーグは非常に厳しい人間です。というより冷酷な人間です。召し使いやわたしにもつらくあたります。なぜあのような父に執事や召し使いたちが忠実なのか、まったく不可解です。それと彼らも母の死についてはなにも語ろうとしません。――あと、わたしには姉がいたそうです。ですが、わたしがまだ幼い頃に母と姉は流行り病でともに死んだと教えられました。母の記憶はかすかにあるのですが、いつのことか、またどのような病気で死んだのかわたしはまったくおぼえていません。姉についてもほとんど記憶にありません。母の名はソティー、姉の名はヘルギです」

 フーラからそのようなことが聞けた。
 秋芳とセリカは夜が空けてから捜査を開始する。





 翌日。
 昨日ほどの勢いはないが、それでもじゅうぶん激しい雨が降っている。
 外出はひかえて城内を調査することにした。
 秋芳は城の三階にある図書室にこもってなにか情報はないものかと書物の山を漁った。セリカとふたりで手分けして作業すれば負担は軽くなるのだが、その手の仕事を嫌うセリカにすべて押しつけられたのだ。
 ごく普通の本のほかに、魔術関係の本が目立つ。
 魔術書は学院の図書室にも置いてあるような一般的なものがほとんどだったが、一冊だけ『暁の王』という聞きおぼえのない書名の本があり、ページの大部分が破かれてなくなっていた。
 またボルツェル家の家系図や代々の記録書などもあり、家の記録を調べるとフーラの母が死んだ時期のものが巧妙に抜き取られてなくなっているのを確認した。

「ゴシックロマンあふれる古城で謎解きか、なにやら『クリムゾン・ピーク』を思い出すな」

 ふと窓の外に目をむければ眼下に雨に煙る中庭が見えた。貯水槽を兼ねた池と温室、そしてボルツェル一族の墓が建てられている。

「リメイク版『オーメン』で出生の秘密を知るのに墓を暴くシーンがあったが、さすがに、なぁ……」
「お疲れ様です、なにかわかりましたか?」
 
 ひとりごちる秋芳に様子を見に来たフーラが遠慮がちに声をかける。

「ああ、この『暁の王』という魔術書なんだが。どうも意図的に抜き取られているようだ。内容はご存じで?」
「『暁の王』ですか……。すみません、わたしの記憶にはありません」
「それとボルツェル家の記録書も調べたのですが、あなたの母が亡くなった時期の記録だけがやはり抜き取られている」
「まぁ! では、やはり……」
「なにかあるのはたしかでしょうね。ところであの温室ではなにを栽培しているんです?」
「おもに錬金術用の薬草をいくつか」
「後で見せてもらってもいいですか、最近この世界の――。ああ、いやこの国の錬金術の勉強をしていましてね」
「ええ、もちろん。わたしも錬金術は好きで、趣味で色々と調合しています。……どうですか、息抜きにハーブティーでも。摘み立ての薬草で淹れたものを用意できますよ」
「よろしいので?」
「はい。昨夜のようにいろいろなお話も聞きたいですし」

 食堂に移りハーブティーを飲むことにした。

「これは……、シロッテで苦味をおさえてありますが、コンカラーの根っこですか?」
「まぁ、よくわかりましね。どちらもお城の温室で採れたものです。スコーンも焼きましたので、どうぞ」
「ひょっとして、これもご自身でお作りに?」
「はい。父はわたしが外出することをゆるしてくれないので、手慰みに……、味はどうでしたか?」
「美味しい」
「よかった! ……変ですよね、貴族の娘がこんなふうにお菓子を作ったりするのって」
「いやいや、調理スキルというのは錬金術に通じるから料理を嗜むのは決しておかしくはないですよ」
「そんなふうに言ってくれて嬉しいです。この前は蜂蜜とティーツリーを使ってアロマキャンドルを――」

 フーラは秋芳が茶を飲み、菓子を食べているあいだ、ずっとしゃべり続けた。

「あ、やだっ、ごめんなさい。こんなの、はしたないですよね、ゴニョゴニョごにょごにょ……」
「…………」
 
 両手で口を押さえて赤面するフーラ。
 その伏し目がちな姿はなんとも可憐で愛らしい。細く可憐な手を取っておのれの手を重ねたくなる。
 シルクのような長い髪からただよう芳しい香りが、麻薬のように感じる。
 形の綺麗なその唇が潤いを忘れないように自分の唇で湿らせて――。

「人が足を棒にして調べまわっているあいだに優雅にお茶なんかして、いい身分だね」
「きゃっ」
「この香りはコンカラーの根っこと……、ん?」

 いつの間に食堂に入ってきたのか、セリカはカップに注がれた琥珀色の液体の匂いを嗅ぐと軽く眉をひそめた。

「……コンカラーの根は苦味を味わうのが通なんだ。シロッテで甘味を足すのは私の好みじゃないな」
 
 口元まで持っていったカップをテーブルへ戻す。

「足を棒にしてと言ったが、どこをほっつき歩いてたんだ。俺は一日中本の山と格闘してたんだぞ」
「上から下までさ。まず最初に――」





 秋芳が本の山とにらめっこしている間、セリカとて惰眠を貪っているわけではない。セリカはセリカで情報収集をしていた。
 私は足で情報を稼ぐ。
 そう決めて調査と称して城内をくまなく歩きまわった。
 四階にある倉庫。
 鍵がかけられている。それも【ロック】が、魔術による施錠だ。

「《開け》」

 ヨーグや召し使いたちに見つからなければどこでもご自由に、というフーラの許可は得てある。
 彼女に言って鍵をもらってもよかったのだが、セリカは伝える手間をはぶいて【アン・ロック】で扉を開けた。
 魔術師の基礎教養として多少の鑑定眼はある。まして地下迷宮の調査を日課とするセリカは普通の魔術師よりも目利きである。
 高価な美術品が並ぶなか、丹念に捜すとボルツェル一族の肖像画を発見した。
 赤ん坊の頃のフーラとソティー、ヘルギの絵もある。
 ソティーは三〇代前半、ヘルギは二〇歳前くらいに見えた。
 また壁にかけられた絵の中にはヨーグによく似た若い男性の絵もあった。

「お姉さんとはいくつ歳が離れてるんだい?」
「……一四歳ほどです」
「ふうん、よく似ているねぇ。それにお母さんはずいぶんと若い時分にお姉さんを産んだんだね」
「はい。歳は離れていますが、姉とわたしは双子のように生き写しだったそうです」
「あのヨーグ辺境伯にそっくりな男の人は?」
「ああ、その人は伯父のウンキです。父の兄にあたりますが、わたしが生まれた頃に事故で亡くなられたとか……」

 セリカは上から下まで城内を見てまわった。
 照明が極端に抑えられた城内は全体的に薄暗く、影も見えないほどで窓の外はいまだに嵐でなお暗い。
 城の住人は全体的に少食でヨーグは朝が遅いということで朝食には顔を出さないということをメイドから聞けた。
 彼が部屋から出るのは昼と夜の食事の時だけで、それを済ませるとすぐに自室にもどるそうだ。
 そのメイドをはじめ召し使いたちはヨーグに完全に服従し、個性も自我も持たないように見える。
 四階には倉庫のほかに使われていない礼拝堂といくつかの空き部屋やテラス。
 三階にはヨーグの私室と図書室。
 二階にはフーラの私室といくつもの客室、談話室。
 一階には玄関、ラウンジ、ホール、兵舎、食堂、厨房、召し使らの居住区。
 その召し使いたちが利用する食堂兼居間から地下室に降りられる。食糧庫、物置小屋、ワインセラー、もう長いこと使われていない地下牢がある。
 浴槽つきの化粧室が各私室と客室にある。
 見張り塔は高さにして六階まであり、屋上もあるが普段は使用されていない。
 などなど――。

「どうだ、すごいだろう!」
「ああ、すごい」
「いいか、見るのと観察するのは大きなちがいがある。私は各階段の段数までかぞえておぼえたんだからな」
「おお、そりゃすごい!」
「ははは、すごいだろう、すごいだろう」
「あのう、セリカさん。お口に合わないのなら新しく淹れてきますが」
「いや、私が淹れるよ。厨房のなかのものを好きに使ってもいいかい」
「はい、どうぞご自由に」

 セリカが席をはずしているあいだ、フーラはずっと秋芳に話をねだり続けた。

「外の世界を見てみたい……。わたしはここから出ることなく父の決めただれかと結婚し、年老いてゆくのです」
「ご自分を籠の中の鳥だとでも?」
「ええ、そう。ここは牢獄です」
「たとえ籠の中からでも想像力さえあれば人は自由に羽ばたき、どこにでも飛んで行けます。ライツ=ニッヒは座して紙上に数多の物語を、世界を創りました。本を読むこと、書くことは旅をすることとおなじです。人は読書を通じて、それまで知らなかった世界や感情。人生を旅することができるのです。行ったことのない南の島の青さと緑に目を細め、極北の凍った風の匂いを嗅ぎ、身を焦がす恋をする 。名もない男や老女、さすらう犬になる。そのたびに自分の中の世界が広がってゆく。宇宙が誰にも気づかれないうちに広がるように」
「……とても、誌的ですね」
「だから図書室や書店には、本の中には、本を書いたり読んだりする人の頭の中には無限の世界が詰まっている。いろんな時代、いろんな物語、いろんな命。そして死――。籠の中には無限の世界が存在し、穏やかな静寂があり、ゆるやかに流れる時がある」
「わたしに作家になれと?」
「本は嫌いで?」
「いいえ、好きよ。でも他のこともしたいの、ダンスとか」
「舞踏会ならいくらでもひらけるでしょうに」
「父の決めた相手ではなく、いろんな方と踊りたいのよ」

 艶然と微笑むフーラ。可憐で切なげな表情にかすかにまざる妖艶な表情。
 それがまた、魅力に思えた。

「踊ってくれますか?」
「ああ」
「ワルツはできますか? わたし、まだだれとも踊ったことがないんです」
「ワルツは簡単だ。女性は男性の少し右に立ち、六つのステップを踏むだけですむ」
「音楽はありせんが、お願いします」

 手を取り合ってワルツを踊る。
 蝋燭の灯りに照らされ、ふたりの影が幾たびも交差する。

「待たせたな!」
「きゃっ」

 いつの間に帰ってきたのか、新しく淹れたハーブティーを持ってセリカがそこにいた。

「おやおや、まぁまぁ、お邪魔しちゃったかな。若いおふたりさん」
「そ、そんなことありません!」
「踊って喉が渇いたろう、お茶でも飲みなよ」

 セリカの注いだ茶を 口にした、その時。

「あ、ごめん。私ってば砂糖とまちがえてシアン化カリウム入れちゃったみたい。てへぺろ(・ω<)」
「ウボォアーッ!? なんでそんなまちがえようがないものをまちがえるんだよっ。そもそもなんでそんなものが台所に?」
「まぁあわてるな。幸いここにユニコーンの角を砕いて作った万能の解毒薬があるから、飲め。フーラ、あんたもお飲み」
「……いえ、わたしも錬金術をたしなむ身です。薬の用意くらいはあります」

 フーラはそう言うとそそくさとその場を立ち去った。はたから見たら良い雰囲気のところを邪魔されて気分を害したように見えるだろう。

「……礼は言わないぞ。それと、薬も不要だ。フーラの薬は効いてない」
「ん? 一服盛られたことに気づいていたのか」
「俺は陰陽師でもあり呪禁師でもあるからな、多少は鼻が利く」

 呪禁師、あるいは呪禁道士。呪術によって病気の原因となる疫神や瘴気を祓う治療などを務めた典薬寮の役人。

「こっちに来てから色々と薬を試したよ。あれは浮気草、ラブ・ポーションの類だな」

 さらにだめ押しの【チャーム・マインド】。両手で口を押さえた時にこっそりと魅了の呪文を唱えていた。
 薬と魔術。両方をもちいて秋芳を篭絡しようとしたのだ。
 コンカラーの苦みとシロッテの甘味で浮気草の香味をごまかそうとしたが、錬金術に通じたセリカはそれを目ざとく察知し、解毒する流れに持ち込んだ。

「どうやって抵抗した? 飲んだふりをしてこっそり吐き出したのか?」
「これから吐き出すところだ。……失礼」

 窓を開けると外にむかって胃の中のものを吐き出した。
 意守丹田。内力を廻らし薬が五臓六腑に染み込むのを防ぐと同時に薬の無効化に努め、薬効を弱めていたのだ。
 もっとも神仙ならざる人の身だ、さすがに完全に無効化することはできなかったので、フーラを魅力的に思えてしまったのは否めない。

「また器用な真似をするねぇ……。だけどいきなりラブ・ポーションぶちかますとは、ずいぶんと惚れられたじゃないか、この色男」
「初対面の男に惚れ薬を盛るような女に好かれても嬉しくないな。とっとと依頼を片づけてフェジテに帰りたい。さっきの話の続きをしよう、まずボルツェル家の記録におかしなかところが――」

 秋芳はフーラの母が死んだ時期の空白と、聞き覚えの無い魔術書のことを説明した。

「で、そっちは倉庫でウンキ伯父さんの肖像画を見たんだっけ。百聞は一見に如かずだ、案内してくれ。あと他に見聞きしたこと情報を交換したいから色々と聞かせて――」
「口で説明するのはめんどうだから移すよ」
「移す?」
「抵抗するなよ~。《千の言の葉・一指に宿りて・疾く移れ》」
「……ッ!?」

 セリカの手が秋芳のひたいに触れた瞬間、脳に衝撃が走る。一瞬【メンタル・アタック】を受けたのかと錯覚したが、ちがった。
 セリカの見聞きした記憶が、流れ込んでくる。
 白魔改【メモリー・マイグレイト】。
 術者の伝えたい記憶を対象に移す補助呪文(サポート・スペル)。一瞬にして脳内再生されるため、口頭や文章で伝えるよりも鮮明で素早く正確に内容を理解させることができる。
 本来は白魔儀。儀式魔術で、複雑な手順と手間暇を要する、それなりに高度な魔術だが、セリカはそれを三節呪文に落とし込んだ。
 論理的には可能でも、技術的には至難の業だ。それはもはや固有魔術(オリジン)に近い。

「なんちゅう呪文だ……。それにあんた、ヨーグ伯の部屋に忍び込んだのか。大胆なことをする」
「フーラの出生にはなにか秘密があって、ヨーグ伯は城内にそれを隠して、だれも触れないように監視の目を光らせていると言っただろう。なら一番怪しいのはヨーグの私室だ。真相を記した日記でも見つかれば一発だと思ったんだけどね」
「アドベンチャーゲームの謎解きや情報集めを無視して一気にクリアしたがるタイプだな」

 ヨーグ伯の生活について、召し使いたちからある程度のことは聞けた。
 彼は朝が遅く、自分の部屋から出てくるのは昼と夜の食事の時だけで、三〇分ほどで食事を済ますとすぐに自室へ戻る。
 昼食時、セリカはこっそりと侵入をこころみた。
 だが部屋にはしっかりと鍵がかけられていた。それも魔術による施錠、扉や箱などの開閉式の物体に鋼の強度を宿す【ロック】の上位魔術である【ハード・ロック】が。
 しかも出入りするたびに合言葉を変えている痕跡がある。
 セリカの魔力であれば【アン・ロック】や【ディスペル・フォース】で解除できるが、いちど解除したものをもとの状態に戻すのはむずかしい。開けてしまえば何者かが侵入したとすぐにばれてしまい、疑いの目は部外者であるこちらに向けられるのは明白だ。
 ヨーグ伯の私室は三階にある。バルコニーから侵入しようとすれば登攀するか空を飛ぶ必要があるが、そちらにも【ハード・ロック】がかけられていれば意味はない。
 どうするか?
 幸い部屋自体に魔術的な結界は張られていなかったので、セリカは【レイス・フォーム】を使って幽体離脱し、室内を物色した。
 清潔だった。
 あまりにも、清潔だった。
 清潔すぎる。
 壁にも床にも塵ひとつ落ちていない。
 それ自体は不思議ではない、貴族の私室だ。毎日のように使用人たちが念入りに清掃していれば、そういう状態を作り出すことはできる。
 そういうレベルではないのだ。居間にも書斎にも寝室にも、全く生活している様子がない。感じられない。
 物を、調度品どころか机の上のペンや燭台ひとつかすかに動かした形跡すらない。
 異様さを感じつつ書斎を見れば魔術関連、特に死霊術(ネクロマンシー)に関する本が数多く並んでいる。
 次に多いのは聖エリサレス教会が禁書指定している、異教の神々や信仰について記された本だった。
 思っていた以上に書物の数は多い。
 とおりいっぺんの捜査しかできず、短い捜査時間ではフーラの出生に関するものは発見できなかった――。

「もうさ、【スリープ・サウンド】でふか~く眠らせてる間にガサ入れしちゃわないか?」
「だからそういうのはやめなさいっての。まだ一日目だ、また明日にでも調査してみよう」

 そのようにしてたがいに情報交換をした、その夜。秋芳は温室の中を覗いてみることにした。
 フーラの依頼について調べるというよりかは、純粋にどのような薬草が栽培されているか、興味があったからだ。
 マンドレイク、ナイトシェード、ベラドンナ、ロトス、オーキッド・ベル、フライ・アガリック――。

「薬と毒は表裏一体と言うが、またずいぶんと毒性のある草花ばかりだな」

 特に多いのがベラドンナだった。美しくも毒々しい紫色の花が視界を埋める。
 
「…………」

 秋芳の見鬼が厭な気配を察した。地面の下、そう深くない場所からかすかに陰気を感じる。
 生命の発する陽の気ではない、死がまとう陰の気だ。

「《常世の風よ・還らざる者たちの・声なき声をとどけよ》」

 死体探知魔術【ディテクト・コープス】。
 帝都やフェジテ周辺は寒冷な気候のせいで死体が長持ちするいっぽう、冬場は雪のために死体の発見が困難になる。救助活動に従事する者には必須の魔術だ。
 攻性魔術を重んじる学院では馴染みのない魔術だが、秋芳はあえてこの地味な魔術を習得していた。
 死者の放つオーラが見えた。
 地面の下に無数の死体が埋まっている。
 この温室の草花は人の骸を養分に育てられているのだ。
 
 

 
後書き
 夢枕獏の『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』がおもしろくて、そっちを読み進めています。
 空海と逸勢のやり取りが、おなじ作者の『陰陽師』晴明と博雅のやり取りとかぶる。 

 

辺境異聞 4

 地面の下には無数の死体が埋まっていて、草花の養分になっているようだった。

「……肥料は人の死体か。まるで魔夜峰央の『怪奇生花店』や『茸ホテル』だな」
「わっ!」
「おどかすな」
「全然おどろいてないじゃないか」
「そうでもない。怪奇映画みたいな展開に心臓ばくばくだ」

 言うまでもなく声をかけてきたのはセリカだ。

「この地面の下に死体が埋まっているぞ」
「マジか!?」

 すぐにセリカもおなじ呪文を唱えて確認する。

「……たしかに、牛や馬なんかじゃなくて、これは人の反応だな」
「ゴシックホラーが一転して猟奇殺人ものに変わってしまったな。ヨーグ辺境伯の正体はジル・ド・レやエリザベート・バートリーのような殺人鬼か……」
「いやいや、まだそう決めつけるのは早いぞ。この辺りの風習で花壇の下に人を埋める花葬とかだったり」
「そんな風習聞いたことないわ」
「どうする、このことを直接ヨーグやフーラに問いただしてみるか?」
「それよりも今すぐにこの城を出たいところだな」

 だが雷をともなう激しい風雨はいまだに止む気配がない。

「まるで、私たちをこの城から出さないようにしているみたいじゃないか。読みかけの本を途中で投げ出す真似はしたくないね、それにもしこれがヨーグの仕業だったらますます放ってはおけないだろ。この死体たちが城の使用人か旅人だったかは知らないが、こんなふうにするやつを野放しにできるのか?」
「たまにはまともなことを言う。だが……」
「なんだ」
「さっきのあんたの言葉じゃないが、まだ殺害されたと決まったわけではないんだよなぁ」

 この時代、貴族の領内は一種の治外法権だ。
 他国の旅人はともかく自分の領土内の人たちに対してなにをしても咎めがない。とまではいかないが、よほどのことでもない限り帝国の法がおよぶことはない。

「故意に殺されたならまだしも、『死骸を肥料にするから持ってこい』て、感じで領内から墓場行きの死体を徴収したのなら倫理的には問題でも法律的にはセーフだよな」
「では死体をあらためて見るか。故意に殺害されたかどうか、検分してみよう」
「ほう、アルフォネア教授には検死の心得もおありで?」
「そんなものは、ない」
「そうか、ならやめよう」
「ふん、意気地なしめ。死体が怖いのか」
「なんだと! そこまで言うなら――」

 秋芳の口から禍々しい呪文が唱えられた。
 【クリエイト・アンデッド】。
 人や動物の死体をアンデッド化して支配する魔術。死体の状態によりスケルトンかゾンビとなる。
 邪悪な死霊魔術師が好んで使うことが多いが、戦場で死んだ兵士を故郷や家族の元へ届けるなどの目的にも使用もされる。

 無数の死骸が土を割って這い出てきた。
 生気のない土気色の肌、眼球を失った虚ろな眼窩、そして、鼻をつく屍臭。
 その数、一〇体。
 むせ返るような草花の芳香に屍臭が混じり、形容しがたい悪臭が鼻をさいなむ。

「ああ~、ゾンビなんか出してゴシック・ホラーの雰囲気が台無しだぁ。それにこの臭いときたら……、鼻の下に○ィックス○ェポラップ やメ○ソレー○ムを塗りたいところだな」
「軟弱な男だな、この程度の臭い、まだましなほうだろうに。魔導大戦の時はもっと凄惨で酸鼻を極める行為が繰り広げられていたんだぞ。それよりもよくごらん。こいつら、妙に干からびてないか?」
「……たしかに、ドラウグルみたいにカサカサだな」

 人の身体とは水分が多いものだ。およそ六割が水分――おもに血液でできている。
 だがこの死体からは完全に血が抜かれているとセリカは見た。
 血液は腐敗を促進し、その結果強烈な屍臭を発する。
 この血抜きについて犯人の狙いはなにか?

「腐敗の程度をやわらげたり、遅らせるため。じゃなさそうだ。見てみろ、こいつらの首筋を」

 骨と皮だけになった死体の首筋にふたつ。小さな穴が開いている。

「まるで吸血鬼にでも噛まれたかのような痕だが、まさか……」
「そのまさか、じゃないか? ヨーグの書斎にはたくさんの死霊術関係の本があったが、その中には【ビカム・アンデッド】についてのものもあった」

 【ビカム・アンデッド】。
 高位の魔術師や僧侶など、魔導を極めた者が自らに不死の魔術をかけて不死者と化す、死霊術の奥義。

「【ビカム・アンデッド】でなれる高位の不死者は吸血鬼(ヴァンパイア)とリッチの二種類だ」
「ええ~と、この世界の吸血鬼ってのはどういう存在なんだ?」
「知らないのなら教えてやろう、セリカ=アルフォネアの講義を心して聴くがいい」

 吸血鬼、それは暗黒の貴公子、アンデッドの頂点、不死者の王。
 かりそめの生を過ごし、黄昏に目覚め、夜明けに恐怖し、憧れる者。
 その起源は聖エリサレス教の神話にまでさかのぼる。
 人類最初の殺人を犯したある人間が神によって不死の呪いを受けた。彼、あるいは彼女はみずからの呪いに苦しみ、生と死について徹底的に調べたが、それを解く方法は見つからなかった。だが他人におなじ呪いをかける方法は見つかった。それが、吸血鬼のはじまりだ。そしてそれには知恵ある者の生き血を求めてしまうという新たな呪いまでくわわってしまった。
 吸血鬼の能力はひとりひとりがまったく異なっている。
 太陽の光に極端に弱く、陽の光に焼かれる者もいれば、そうでない者もいる。
 流れ水を渡ることができない、足を踏み入れれば麻痺する者もいれば、そうでない者もいる。
 聖エリサレス教の聖印に弱い者もいれば、そうでない者もいる。
 昼間は眠っていなければならない者もいれば、そうでない者もいる。
 知的生物の血を吸わなければ死んでしまう者もいれば、飢えや渇きにさいなまれることはあっても死なない者もいる。

「やつらは個体差が大きいんだ。他に特徴といえば――」

 赤く光る眼には恐怖(フィアー)魅了(チャーム)の魔力があり、狼や蝙蝠や鼠、霧に姿を変えることができる。
 人並み外れた怪力と敏捷力、極めて高い魔力と治癒力。
 心臓に杭を打ち込まれない限り、一度死亡しても復活し続ける。その再生能力は凄まじく、燃やし尽くして灰にしても、したたり落ちた一滴の血からよみがえることもある。

「――といった特殊能力を持つ。また吸血鬼は血を吸いつくした獲物を、おのれの一族にくわえることがあり――」

 相手の血を吸い尽くしてから自分の血を与える儀式を行う。
 この際に一度で血を吸い尽くせばスレイブ・ヴァンパイアと呼ばれる干からびた怪物になる。スレイブは下僕としてしかあつかわれず、意識をなくし知力が極端に低下する代わりに体力と生命力が高まり、並のゾンビやスケルトンよりは手ごわいアンデッド・モンスターだ。
 二度ならば姿はそのままで記憶をなくしたレッサー・ヴァンパイアとなる。意識を持ち知力はそのままだが、血をすすった主人の奴隷となる。レッサーは魅了や変身などの特殊能力は持たないが、怪力や再生能力は吸血鬼と変わりはない。
 三度なら姿にくわえても記憶も知力もそのままに、性格だけが邪悪となった吸血鬼となる。この場合、血を分け与えた吸血鬼から対等のパートナーとしてあつかわれる。

「なるほどな~。で、リッチのほうは?」
「禁断の魔術の果てに死にぞこない(アンデッド)と化した出来損ないの不老不死。生者から精気を吸わないと自分の身体を維持することもできない、醜く生き汚い無様な化け物。以上」
「なんか、吸血鬼の説明とくらべてぞんざいじゃね?」
「これがやつらのすべてだ」
「…………」

 どうもセリカはリッチという存在が嫌いらしい。先入観ありきの説明を聞くのもなんなので、秋芳はリッチに関してはセリカからそれ以上のことを聞かないことにした。
 必要なことは他者の言葉ではなく、自分自身の目と耳で調べるのが一番だ。

「まぁ、リッチについてはもういい。リッチと吸血鬼の差異はなんだ?」
「リッチが純粋な魔術によって不死性を得たのに対し、吸血鬼は魔術的な措置の他に悪魔や邪神の加護を得て不死と化すんだ」
「なるほどな~」
「……この城の主は、いやこの城の住人すべて吸血鬼かもしれない」
「う~ん、だが一応みんな『人の気』をしているんだよなぁ」
「気? ああ、そういえばおまえはそういうのがわかるんだったな」
「陰の気、負の生命力は感じられない。ただ、みんな妙に弱々しい気なのが面妖だが」
「かたっぱしから【ピュアリファイ・ライト】でもぶちかましてやるか」

 【ピュアリファイ・ライト】。屍鬼や悪霊などへの対抗手段として考案された祓魔の浄化呪文。術者を中心とした光を生み出し、対象を祓い清める。

「優雅でない真似はやめろ。……まてよ、この城にはまだ俺たちの知らない人物が潜んでいるかもしれない」
「そいつが黒幕の吸血鬼だとでも?」
「まだ吸血鬼だと決まったわけではないが」
「おいおい、なにを言ってるんだ。首筋にふたつの穴が開いた血のない死体が出てきたんだぞ。今回のお話は吸血鬼ものに決まっているだろ」
「いや、まあ、たしかにお約束だが……」

 雷光がほとばしり、雷鳴が轟く。
 小降りになっていた雨がまた強く降り出した。大粒の雨が温室の壁を叩く。

「とりあえず、今夜はもう休もう」
「夜中にフーラの姿をした者が訪ねてきたら気をつけろよ。ドアを開けた瞬間に首筋にガブリ、なんてことになるかもしれないからな」
「吸血鬼は住人に招かれないと家に入れない。だったな。ん? ここは吸血鬼の家だから関係ないか」

 秋芳とセリカは自分の部屋に戻り、それぞれの褥についた。





 銃砲が大地を穿ち、槍や斧が肉を断ち骨を砕く。
 攻性魔術が唱えられるたびに火球が炸裂し、稲妻が走り、冷気が渦を巻き、死と破壊を撒き散らす。
 血と硝煙、鉄と火の臭いに満ちていた。
 戦いだ。
 戦いの中にいる。
 聖エリサレス教会の聖印を身につけたレザリア王国の兵士たちが倒しても倒しても、雲霞の如く押し寄せてくる。
 これは、夢だ。
 夢を観ている。
 厭な夢だった。どうも自分はアルザーノ帝国の将軍らしい。

(もっと楽しい夢を観たいな……)

 ぼんやりと考える秋芳の思いを無視して、殺戮の夢はしばらく続いた。

 場面が変わった。
 どこかの山の中腹だろうか、目の前に聖エリサレス教の聖堂があり、そこに押し込められた人々の怨嗟の声が聞こえてくる。
 やがて油がまかれ、火がつけられた。
 怨嗟の声は悲鳴と怒号に変わり、やがて赤い炎と黒い煙が人々の声を完全に掻き消す。
 それを見上げて満足げな表情を浮かべるヨーグの姿があった。
 さらに、場面が変わる。
 薄暗い部屋で目を閉じたまま寝かされている。
 身体は金縛りにあったようにまったく動かない。
 目を閉じているにも関わらず、なぜか周りの光景が見てとれた。
 エリサレス教会の聖印が見えた。ここは先ほどとは別の聖堂のようだ。
 そのうち不気味な人影が近づいてくる。
 人影が手にしたナイフを心臓めがけて降り下ろし――血のしたたる心臓がえぐり出され、壇上に置かれた聖杯にその血が注がれた。そしてその血を口にした者がいる。
 ヨーグだ。

 目が覚めた。
 ベッドの横にフーラに面立ちの似た少女が立っている。肖像画に描かれたヘルギにそっくりだ。 

「あれは――なんかじゃ――ない、だまされないで――吸血鬼に気をつけて――」
「…………」

 ヘルギに似た少女は秋芳を見下ろし、しきりになにかを訴えているが、聞き取れない。
 しばらくすると部屋を出て、こちらを振り向く。
 ついてきて欲しいようだ。
 黙ってその後に続くと、地下室へと降り、ワインセラーにたどり着く。

「――――」

 左奥から三番目の樽の前で少女がなにかの言葉を口にすると、床がずれ、さらに地下へと続く路が現れた。

 そこで、本当に目が覚めた。





「という夢を観た」
「奇遇だな、私もだ」
「行くか」
「行こう」

 なんらかの力が働き、ふたりにおなじ夢を観せたのはあきらかだ。
 あのようなあからさまな夢を観せられて無視はできない。
 秋芳とセリカは夜が明けてすぐに地下へとむかった。 

 

辺境異聞 5

 【トーチ・ライト】で明るく照らし、地下にあるワインセラーをくまなく調べる。
 夢では左奥から三番目の樽の床に隠し扉があったが、はたしてその部分だけ埃が堆積しておらず、頻繁に動かしている形跡があった。
 問題は開け方だ。

「コマンド・ワードを唱えて開閉する魔術的なカラクリだ。はて、あのヘルギのような少女は夢のなかでなんと唱えただろうか……」
「コマンド・ワードなど不要だ」
「おいおい、まさか攻性魔術で床に大穴を開けるつもりじゃないだろうな」
「おお、そういえばここは古代遺跡なんかとちがって霊素皮膜処理(エテリオ・コーティング)が施されてないから、その手が使えたか。たしかにそっちのほうが手っ取り早いな」
「じゃあ別の方法を考えていたのか?」
「そうだ。【ファンクション・アナライズ】でコマンド・ワードを読み解くつもりだったんだが……」

 【ファンクション・アナライズ】。
 対象物の分析・解析をおこない、物理的な構造や機能はもちろん、魔術的な事柄も知ることができる探知の魔術。

「こんな床、壊したほうが早いよな」
「いやいや、ぜひその解析魔術で読み取ってスマートに進めてくれ」
「注文の多いやつだねぇ」

 セリカの解析魔術によって知り得たコマンド・ワードを唱えると、ワイン樽ごと床が横にずれて地下へと続く階段が現れた。
 地下二階。すえた臭いのする古い通路を進むと、道がふたつにわかれている。

「左手法に則って、とりあえず左から攻めるか」
「前に迷宮探索を希望していたよな。ちょうどいい機会だ、いくつか基本の呪文を教えてやろう」

 黒魔【スペーシャル・パーセプション】。
 空間把握の術。微弱な音波を放ち、その反響によって、ごく近距離の通路構造を魔術的に把握できる。
 黒魔【アキュレイト・スコープ】。
 遠隔視の術。光を操作することで、視覚を遠方へ自在に伸ばせる。
 白魔【トラップ・サーチ】。
 罠感知の術。あらゆる罠は仕掛け人の攻撃的悪意・害意が空間に残るため、それを拾うことで罠の存在を察知する。

「おお、なんだか潜りゲーみたいだな」
「あとは【ディテクト・マジック】と【イレイズ】などが『魔導探索術』における重要な魔術だ」

 魔導探索術。
 地図作成、水や食料の調達、照明の確保、罠や仕掛けの探知、周囲の索敵、碑文の解読、そして戦闘。あらゆる技能や知識が試される総合技術であり、魔導考古学を専攻する魔術師には必須のスキルだ。
 左手側の通路の先には扉があった。

「罠も施錠もなし、開けるぞ」

 扉を開けた瞬間、 髑髏の山が視界を埋め尽くした。
 山のようにされこうべが積まれている。
 異様なのはそれだけではない。
 穹窿(きゅうりゅう)天井から吊るされた三灯のシャンデリアも、 壁面に施された装飾も、長椅子も、燭台や花瓶も、奥にある祭壇に置かれた十字聖印も――。部屋にあるすべてが人骨で作られている。

「これは……! まるでチェコのセドレツ納骨堂じゃないか」
「納骨堂を兼ねた礼拝堂といったところか。しかし悪趣味の極みだな」
「蝋燭や篝火の燃えさしが残っているのを見ると、現在も定期的に礼拝がおこなわれているということか。しかし、なにを拝んでいるんだ」
「決まっているだろう、暗黒神だ」
「暗黒神てのはどういう神様なんだ?」
「善悪二元論の聖エリサレス教において絶対の正義、善であり至高の存在である神に対抗し、絶対悪として表される存在。法や秩序を重んじる神に対し、欲望に忠実であれと説き、無秩序や混沌を良しとする。創世神話において神との戦いに敗れ、魔界や地獄と呼ばれる異界の深闇に堕とされるが、徐々に勢力を盛り返してふたたび神に戦いを挑むとされている」
「悪魔とはちがうのか?」
「人々に信仰される、されないかのちがいにすぎない。と考え、悪魔と同一視する者もいる」
「あんたはどう思う」
「悪魔だろうが善神だろうが悪神だろうが、ようは強力なモンスターさ」
「エリサレス教の神や暗黒神には固有の名はないのか?」
「それはむずかしい質問だな。当然やつらにも『真の名』があるはずだが、それは極秘にされている。というか人の世に伝わっているかどうかですら不明だ。複数の宗派や教団がそれぞれ別の呼称で――」

 話しながら室内を調べていると、いきなり埃が舞い上がった。
 ここは地下にある。風など、吹かない。

「アッシュか!」

 アッシュ。死体を焼いた灰を元に作り出されるアンデッド。 普段は容器に納められていたり、砂や埃のように地面に広がっているが、生ある者が近づくと舞い上がり人型をとって襲いかかってくる。
 灰という肉体的な特徴から武器などによる攻撃は効かず、一度焼かれた存在であるため炎も効果がない。
 アッシュの攻撃もまた直接的に危害をあたえるものではなく、目標となる生物を包み込み、口や鼻から体内に侵入して内臓を傷つけるというものだ。
 アッシュだけではない。
 無数の骸骨――スケルトンがうごめき、起き上がった。
 犬のような顔と蹄を持ったグール、黄色く輝く穢れた光につつまれたワイト、骨と皮だけのドラウグル。
 さらには頭蓋骨の形をした悪霊ラフィン・スカルなどの肉体を持たないホーントまでもが出現した。

「うううう……ぐぼぼぼぼぼぼぉぉぉ……」
「新鮮な血肉だぁ、捧げよ捧げよ、われらの贄となれぇ」
「脳みそぉぉぉ、喰わせろぉぉぉ」
「おれは、はらわたが食いたい」
「熱イィィィィ、寒イィィィ、ひもじイィィィ、苦しイィィィ」

 悪しき不浄の死者たちが、生者への憎悪と敵意を剥き出しに襲いかかる。

「アンデッドの叩き売り状態だな。SAN値がぐんぐん減っちまいそうだぜ、まったく!」
「自慢の見鬼とやらはどうした、陰陽師。こういうのを察知できるんじゃなかったのか?」
「こうも陰の気まみれの場所で、個々の幽鬼の気配なぞわかるか!」

 にじり寄ってきたグールを蹴り飛ばし、飛来する頭蓋骨に刀印を切る。もといた世界であればその一撃で修祓できたのだが、やはり異世界では勝手がちがう。退かせるだけにとどまる。
 
「なんだ、思ったより使えないな。見鬼とやらも」
「そんなことより【セイント・ファイア】は使えるか? この手の連中には一番効果があるだろう」

 【セイント・ファイア】。
 【ピュアリファイ・ライト】の上位呪文で、広範囲におよぶ浄化の炎によって悪霊や屍鬼たちを節理の環へと回帰させる高等浄化呪文。

「……《地獄に堕ちろ》」

 セリカの唱えた言葉に反応し、黒く輝く魔力の線が縦横無尽に奔り六芒星法陣を瞬時に形成。
闇よりもなお昏く、夜よりもなお深い深淵色が世界を染めて、霊的な奈落が出現した。
 召喚儀【ゲヘナ・ゲート】。
 現世に縁なき霊的存在を問答無用で虚無の奈落へと引きずり堕とす外法。それがあたえるのは魂の救済ではなく、節理の円環からの排斥。
 すなわち、永劫の無。

「――――ッ!?!?」

 アンデッドたちは二度目の断末魔をあげることなく、この世界、いや宇宙から永遠に抹消された。

「…………」
「どうした、イボイノシシにキンタマを舐められたような顔をしているぞ」
「どういう例えだ! ……今の呪文、たしか亡者らを問答無用で消滅させるやつだったよな」
「そうだ。まさかおまえ、無慈悲だのかわいそうだのと言い出すんじゃないだろうな」
「まさか。 悪意や害意を持った相手が攻撃してきたら、遠慮なく反撃してもいい。まして殺る気満々な相手に慈悲をかける必要なんてない。こいつらだって好きで悪霊になったわけじゃないが、襲ってきたからには反撃しなければならないし、どんなに実力に差があったとしても命を奪いにくる相手に手加減は無用だ」
「ふんふん、なにも問題ないじゃないか。それなのになんでホシバナモグラに尻の穴を嗅がれたような顔をするんだ」
「だからどういう例えだよ、それ! ……いやなに、なんかひとりでゲームバランスくずしてる人がいるなー、と思っただけだ」
「バカバカしい、おまえが私のレベルについてこられないだけだろ。精進しろ」



 悪霊たちを一掃したあと、礼拝堂をひととおり調べたが、めぼしい発見はなかった。
もと来た道を戻り、右側の通路を進む。
 突き当たりの左右に扉があり、どちらも施錠されていた。

「こっちの扉には罠が仕掛けられているな。不用意に開けると中からクロスボウの矢が飛んでくる仕掛けがある」

 セリカの【トラップ・サーチ】が反応し、罠を感知する。

「すごいな。罠の有無だけじゃなくて、そんな具体的なところまでわかるのか」
「じゃあ【ブレイズ・バースト】で罠も扉をぶっ飛ばすぞ」
「やめろ! そんなことをして中に貴重な書物や薬品、重要な情報になるような物があったらどうするんだ。爆炎でおしゃかにするつもりか」
「じゃあどうするんだ」
「こうするんだ」

 ふところから紙を取り出して呪文を唱えると、たちまち等身大の人形となった。紙を触媒にしたパペットゴーレムだ。
 【アン・ロック】で解錠した扉をゴーレムに開かせると、その胸に一本の矢が突き刺ささる。
 セリカの言ったボウガンの罠が発動したのだ。
 力も耐久性も低い紙製のパペットゴーレムは、その一撃で穴の空いた紙へと変わった。

「ふん、おまえの危惧したとおり中は書庫みたいだな」
「そうだ。あやうく灰塵になるところだったわけだ。……この矢。ごていねいに毒まで塗っていやがる。……ベラドンナの毒だな」

 台の上に設置されたクロスボウには扉がある程度開くと発射されるようになっていた。さらに一度射っても扉を閉めると再装填される仕掛けまで施されていた。
 慎重に罠を解除してから室内を見回すと、きちんと装丁された本から巻物まで、年期のありそうな文献が束になって本棚にならんでいた。
 書庫のようだ。

「げー、また書物漁りか」
「本の山を相手していたのは俺だ。今度はあんたも手伝え、手分けして調べるんだ」
「めんどくさいねぇ、しかもこんな埃っぽくてジメジメした場所でさ」
「たしかに、不衛生な部屋だな」

 湿気を吸った埃のもつ独特の臭気が室内を満たしていた。呼吸するたびに肺の中に不潔な黴が入ってくるような気がして身体に悪いことおびただしい。

「烏枢沙摩明王の呪が使えれば一発で清潔にできるんだが……」
「私は向こうの部屋を見てくるから、ここはまかせたよ」
「あ、おいっ。……壊したり燃やしたり吹き飛ばしたりするなよ」

 セリカは罠のかかっていないほうの部屋の扉を解錠し、中を覗いてみた。
小さな個室で、朽ちた机や寝台しかない。

「ん?」

 ふと気になってドアノブを見ると、外側からしか施錠・解錠できない仕組みになっている。

「座敷牢ってやつかねぇ」

 だれかが長いあいだ閉じこめられていた形跡があり、机の上には汚れた本が置かれていた。
 手にとって読んでみると、どうやらだれかの日記のようだ。だが保存状態は最悪で、ほとんど読めないうえに内容は支離滅裂だった。
 暗号のたぐいではない、この日記を書いた人物は精神に異常をきたしており、その症状は日付を追うごとに顕著になっていく。
 次のような内容が、かろうじて読み取れた。

『あの男は悪魔です。神よ、そしてどこかへ行ってしまった愛する人よ、あの悪魔を滅ぼしたまえ』
『ヘルギはどうしているかしら。いくらあの悪魔といえども、あの子にだけは手をかけないと信じています。魔女にそそのかされても、あの子は愛するあの人の娘なのだから』
『ああ、ついにその日が来る。悪魔がほんとうの悪魔になる日が。神よ、ヘルギを守って。ヨーグをお救いください』 

 

辺境異聞 6

 心を病んだ者の文章には一定の特徴があるという。
 普通の人が文章を書く場合はまず頭の中で文章を構成し、さらに推敲して文章にする。
 だが狂気に囚われた者は頭の中での思考が断裂、混乱していたり、論理性が低下して支離滅裂な文章になってしまう。
 さらに過去の記憶をよみがえらせること困難になるので、文章の内容に一貫性がなくなってしまう。

「……最後のページに書き記された署名を信じるなら、これは流行り病で亡くなったというソティーの書いたものだな。『愛する人』『悪魔』『魔女』はそれぞれだれだ……?」

 第七階梯(セプテンデ)の魔術師であり、多種多様な学識を持つセリカが心理学を駆使して謎の日記を解読しているあいだ、秋芳も向かいの部屋で文献の束を紐解き、情報を集めていた。





「二日連続で本の山と格闘とはね、『クトゥルフの呼び声』のシナリオかっての。〈図書館〉技能大活躍かっての。……お、この錬金術のレシピ本はおもしろそうだな。この魔術書は学院の図書室にはないやつじゃないか、どれどれ……て、いかんいかん! いまはボルツェル家に関することを調べないと」

 脱線しそうになるなか根気よく探すと、フーラの母ソティーと姉のヘルギの死について記述された古い記録類の束を発見できた。
 図書室にあった記録書から抜き取られていた部分と思われる。
 どうやらふたりは病死ではなく、ともに城内で行方不明になったようだ。またおなじ頃にボルツェル家の領内でも人が行方不明になる事件が相次ぎ、城内の召し使いも何人か消息不明になったと書いてある。

「ウンキ伯父さんはどうした、彼も不慮の死を遂げたはずだが……」

 倉庫にあった肖像画の人物。ヨーグ伯の兄にあたるウンキはフーラが生まれた頃に事故で亡くなった。
 そうフーラからは説明を聞いている。

「そのフーラだ。ヘルギの出生は記録にあるのにフーラは記録にない。……ウンキとフーラの名前がどこにもないぞ。直近で記されたボルツェル家の記録はヘルギの誕生。その前は『長子』であるヨーグ伯が家督を相続したことのみ。……家系図にもフーラとウンキの名は書かれていない。長子だと? ウンキはヨーグ伯の兄じゃなかったのか? ……ウンキもフーラも、戸籍上には存在しない」

 ボルツェル家の記録のほか、奇異な書物も見つけ出した。
 図書室にあった『暁の王』の破り取られたページだ。
 その記述は抽象的で曖昧模糊としたものだが、ご丁寧にも注釈が書き加えられており吸血鬼になる方法が書かれているとすぐに理解できた。
 暗黒神へ犠牲を捧げるやり方など、儀式のくわしい方法などが述べられている。

「よし、いちどまとめてみようか」





 不快な埃と黴と、死者たちの気配に満ちた地下を後にした秋芳とセリカは談話室でおたがいに得た情報を交換し、これまでのことを整理することにした。

 地下で見つけた礼拝堂から察するにヨーグは死霊術師(ネクロマンサー)であり、暗黒神を崇拝しているダークプリーストでもある。
 彼には瓜二つの兄、ウンキがいた。
 ソティーはもともとウンキの婚約者であった。
 ソティーは死の寸前に精神に異常をきたしていた。
 ソティーはヨーグを憎み、去っていった愛しい人(ウンキ?)に助けを求めつつ死んだ。
 ソティーの死期はヘルギと一致しており、ふたりとも城内で行方不明になっている。
 ソティーとヘルギはヨーグによって暗黒神への生け贄にされた可能性が高い。

 すなわち、ヨーグはウンキを抹殺し、その地位と婚約者を奪った。そして彼は辺境伯の地位を利用して自分の研究を完成させ、邪魔になったソティーとヘルギを生け贄に吸血鬼になり、この地に君臨している。

 だがこの推理にはいくつか穴がある。なぜヨーグ伯がフーラを生かしておいたのか。不死の吸血鬼に後継者は必要ない。さらにウンキの死因。いやそれどころか存在そのものについても不明な点がある。
 存在があやしいというのならフーラもだ。地下室で見つけたボルツェル家の記録にも、ソティーの日記にも彼女の名は見あたらない。

「ヨーグだけじゃない。フーラもあやしい」
「戸籍上には存在しない『娘』か。それにいきなり一服盛ってくるあたり、まともな娘じゃないね、あやしさ大爆発だ」
「実はあの後もなんどか魅了の魔術を使ってきた」
「なんだって! とんでもないヤリマン糞ビッチじゃないか!」
「ヤリマンて……、もうちょっと淑女らしい言葉の選択はないのか」
「あんた、まんまと魅了されたんじゃないだろうね」
「それならこんな話するか」
「たしかにね」
「どうも俺たちは暇をもて余した有閑者たちの遊びにつきあわされている気がするなぁ」
「ヨーグとフーラはグルになって私らをおちょくっている。そういうことだね」
「そうだ。たんなる勘だがな」
「奇遇だね、私もそう考えていたんだよ。直感てのも軽視できないぞ、あれは意識では把握できない高速で処理されたデータともいえる」
「ただの探偵ごっこ、お家の秘密探しごっこにつき合わされただけならあとで参加費をちょうだいするだけだが、問題はやつらが人じゃないってことだ」

 ボルツェルとフーラをはじめとする城の住人は吸血鬼とその眷族。温室で発見した死体の状態と地下で見た邪悪の痕跡からその可能性が極めて高い。
 魔術によるものか薬物によるものか不明だが、負の生命力を隠すためなんらかの隠蔽手段をもちいていると思われる。住人らが不自然なほどおなじ気を帯びて。いるのはそのためだろう。

「芋と肉だけの食事にも飽きてきた、私は『空の骨休め亭』のミルクティーとスコーンが食べたい」
「そういえはこの世界(ルヴァフォース)じゃ生の牛乳も飲めるんだよな」

 イギリスで生の牛乳を人々が口にするようになったのは一八七〇年代に入ってからだという。
 それまでは牛乳は飲むよりもバターやチーズ、クリームの原料として使われていた。市販されている牛乳のほとんどは水で薄められおり、その水も衛生的ではない。
 牛乳だけで飲むときは必ず温めホットミルクにする。生の牛乳を口にするような勇者や挑戦者などいなかった。

「角砂糖なんて便利なものもあるし」

 角砂糖ができたのもおなじ頃だ。それまでは円錐形をしている砂糖のかたまりを食料品店で砕いてもらい、必要な量だけ買って帰り、家ではさらに必要に応じて小さく割ったりすりつぶしたりしていた。

「一見するとヴィクトリア朝時代のイギリスのようだが、技術も文化も人々の意識もずっと近代的だ。さすが異世界だよなぁ」
「またわけのわからないことを……。そろそろ頃合いじゃないか。夕食の席でこの記録を突きつけて誰何してみよう」
「そして『あなたがたは吸血鬼じゃないですか?』と訊くわけか。さて、どんな反応が返ってくるかな」
「とっとと正体を晒して襲ってきてもらいたいものだよ」
「たしかに、そろそろおしまいにしたいな、俺も芋と肉だけの食事に飽きてきたところだ。屋台のチキンブリトーが食べたくなったわ。ところで正体といえばフーラなんだが、『娘』じゃないとするとだれだと思う?」
「そうだねぇ、逆を張ってヨーグの実母ってのはどうだ」
「なるほど、ありだな」
「ありだろ」
「じゃあ俺は意表をついて赤の他人説だ」
「賭けるか」
「賭けよう」
「じゃあなにを賭けるか――」
「そうだなぁ――。むっ、……だれか来るぞ」

 先に述べたようにこの城の住人はおなじ気を帯びている。秋芳の見鬼でも部屋に近づく者がフーラなのかヨーグなのか、召し使いのだれかなのか、目で見るまではわからない。

「お邪魔します。さっき偶然に父の部屋で見つけたものなのですが、おふたりに見てもらいたくて……」

 青い顔をしたフーラが書類の束を手渡す。
 黄ばみの浮かんだそれらはいかにも年季の入ったもので、遺産相続に関する権利書や記録書のようだ。地下で見つけたものとおなじ種類の書類だが、内容が微妙に異なっていた。
 そこにはソティーとウンキが婚約していたこと、その時すでにヘルギは生まれていたことが、ふたりの署名入りで書かれている。
 またウンキが事故死したのが、ソティーがフーラを身籠る以前であることと、ソティーがヨーグと結婚したのはウンキの喪が明けてからであることがわかる。

「嗚呼、わたしは父の本当の子じゃないのかしら……」

 フーラは潤んだ瞳で秋芳を見つめる。

「なぁ、フーラ。ちょっとここにあんたの知っている限りの親族の名を書いてくれないか」
「え? なぜです?」
「ブレインストーミングみたいなものさ」
 
 怪訝な顔で聞き返すフーラを諭してセリカがフーラに筆を持たせて、何人かの名を書き綴らせる。
 それを見ていたセリカが確信を込めて断言した。

「この書類、ずばり偽書だね」
「なんですって!?」
「ウンキのものとされるサインの筆跡がフーラ、あんたと一致する」
「そんなこと、なんであなたにわかるんです?」
「言ってなかったかい? 私は第七階梯の魔術師だよ」

 ただ魔力が強ければ、多くの魔術が使えれば、研究実績を積めば高い階梯に至ることができるわけではない。
 考古学、言語学、植物学、心理学、文学、数学、神学、神秘学、生理学、犯罪学、天文学、地質学、科学、化学、紋章学――。
 魔術の才以外にも、この世に存在するありとあらゆる学問に通じた博識の賢者にしか第七階梯は授与されない。
 第七階梯の魔術師ならば、筆者識別くらい簡単にできる。
 セリカはそう言っているのだ。

「偽造されているのは文章だけじゃない、この書類そのものもだ。いかにも古色蒼然とした紙質だが、これは紅茶。特にエイジティーでいちど濡らしてから乾かしたものだ。実際には新しい紙質を年季の入ったものに見せかける、古書の偽造によくある手口さ。本物の記録書はこれ。私たちがワインセラーにある隠し口から降りた地下で見つけたものだ。内容もしっかりと確認済みだよ」
「わたしが、偽物を用意したとでも言うの?」
「ああ、そうさ」
「ほんとうにそんなことを考えているの? わたしが、あなたたちを騙そうとしているだなんて。ひどいわ。そんなことをして、なにになると言うのよ!」
「ついでに言うとフーラ。それにヨーグ。あんたたちの正体は吸血鬼だ。地下の聖堂や温室で無数の犠牲者を発見したよ。首に牙の痕がる、干からびた死体をね」
「……吸血鬼は、吸血鬼かも知れないのは父なのでは?」
「なんならこの場で【ピュアリファイ・ライト】を浴びて無実を証明してみるかい? ボルツェル家の記録にもソティーの日記にも書かれていない『フーラ』さん」
「そう、あなたはどうしてもわたしを悪者にしたいのね。……ねぇ、アキヨシさん。あなたは、信じてくれるわね?」

 フーラがしなを作った表情を浮かべ、哀願する。だが秋芳の心が揺れ動くことはなかった。

「あいにくと魅了の魔術も薬も効いてないんだよ、フーラさん。あのとき俺に一服盛ろうとしなければ、もう少し信用していたかもしれないな」
「……もういいわ、もういい。もう結構っ!」

 談話室から退出しようとしたフーラが足を止め、きびすを返す。
 ひとつしかない出口をふさぐかたちで。

「そうね、ここで殺してしまえばいいんじゃない。ヨーグには、あいつらは気づいてなかったと言えば――」
「それはルール違反じゃないか、フーラ」

 フーラのいる場所とは反対側。談話室の奥から声がした。
 部屋の隅から霧とも霞とも靄ともつかない煙が生じ、人の形を成す。

「よくぞそこまで気づいたものだ。まさかワインセラーの地下道まで発見するとは恐れ入ったよ。そして、なにより素晴らしいのは、それが私の勝利を表すことだ」

 ヨーグだ。
 漆黒のマントに身をつつみ、夜会服を着たヨーグ・ボルツェル辺境伯がそこにいた。

「ろくに相手もできず失礼した。なにせそういう決まりだったのでね」
 
 青い唇を歪めて酷薄そうな笑みを浮かべると、長すぎる犬歯がちらりとのぞく。
 夕食の時に見せていた、いかにも貴族然とした瀟洒で冷徹な雰囲気は鳴りを潜め、獣じみた風貌があった。

「あらヨーグ、耳ざといこと。盗み聞きしていたのね」
「そろそろ煮詰まる頃合いだと思ったからね。フーラ、今回は私の勝ちだ」

 得意げに宣言すると手にしたタンカードを掲げた。そこには真っ赤な液体が、ただし葡萄酒ではないなにかが満たされている。

「変わった方法で入室するな。今のが吸血鬼の霧化(ミスト・フォーム)というやつか。その状態だと軽く隠形がかかるようだ」
「剣も槍も銃も効かない、優れものだよ」
「そんなことよりあたしたちを動き回らせた理由を訊かせてもらおうか。理由によっちゃあ手間賃がぐんとはね上がるよ」
「強く勇敢で賢しい人たち、わたしたちがなにをしていたのか、特別に教えてあげる」
「我々はここで半世紀近い時を過ごしてきた。ときおり訪れる旅人を糧にしてな」
「たまに毛色のちがう人たちも訪れたわ。わたしたちの噂を聞いて退治しようと思った僧侶や、不死の秘密を知りたがる死霊術師なんかが」
「そんな連中を相手にしているうちにふと思いついたのだよ。ただ食べるだけの食事は味気ないから、ちょっとした賭けを、ゲームをしないかとね」
「わたしが作った筋書きの通りに、あなたたちをだませればわたしの勝ち」
「だまされなかったら私の勝ち。そして今回は私の勝利だ。賭けたのは君たちの血と、そして魂。勝ったほうが先に獲物を選び、美味い血を啜ったあとで自分の僕にできる」



 フーラの筋書きとは――。
 辺境伯ヨーグは兄であるウンキを抹殺し、その地位と婚約者を横取りした。そして領主の地位を利用して死霊魔術の研究をしてソティーとヘルギを生け贄にして吸血鬼となり、この城に君臨している。
 ヨーグが吸血鬼になった頃はフーラはまだ幼く、まったく事情を知らない。
 父の過去を訝しく思ったフーラは訪問者に調査を依頼し、ヨーグが吸血鬼であるという結論にたどり着かせる。
 ところが真相はこうだ。
 この城に住むヨーグもフーラもともに吸血鬼であり、事情を知らずに訪れた旅人や、様々な理由でやって来た人々を糧にして生きてきた。
 しかしそれだけの生活に飽きてきた彼らは訪問者たちをただ食料にするのではなく、賭けの対象にして楽しむことにした。
 フーラの書いた筋書き通りに訪問者たちをだませればフーラの勝ち。だまされなければヨーグの勝ち。勝ったほうが先に獲物を選び、血を啜ったあとで自分の僕にできる。
 ――というものだった。



「この数日間はとっても楽しかったわ。でもあなたがわたしになびかなかったのが残念。人間たちを仲たがいさせて争わせるのがおもしろいのに。……こんなふうに!」

 フーラの瞳が鮮血の色に染まり、白い肌がさらに白く――死人の蒼白に染まる。
 吸血鬼の本性を現したのだ。
 赤く光る邪眼が秋芳の瞳を見すえ、心を虜にしようとする。
 禍々しい眼光に縁取られた血のような瞳に、妙な安堵をおぼえる。赤い唇から覗く牙に惹かれ、屍のような蒼白な肌に頬擦りしたい衝動に駆られた。

「阿!」
 
 気合いを入れ、素早く精神を統一。全身に気を廻らせ、惑乱しかけた身心を霊的に浄化。
 呪的干渉の影響を極力排除する、密教にある阿字観という瞑想法の一種だ。
 
「そして今のが吸血鬼の瞳による魅了か。魔術によるものより強力だったな」
「……!? 【マインド・アップ】もなしにわたしの誘惑をはねのけるだなんて!」

 このルヴァフォース世界において秋芳の使える呪術は制限されている。今もちいた阿字観は甲種呪術ではなく乙種呪術。
 秋芳は自己暗示によって自身の精神力を強化したのだ。
 このようなものはフィクションの世界だけの芸当ではない。
 たとえば修験道の行者や忍者の使う九字護身法などは心の不安や動揺を打ち消す精神安定の効果があると実証されている。

「これはこれは! シーホークを救った英雄という評判は伊達ではない。噂にたがわぬ猛者ではないか」

 秋芳たちの身の上は城に訪れた日の夜に話してある。シーホークの一件もその時に説明済みだ。

「フーラ、その騎士爵は私がもらうぞ。なかなか珍しい獲物だ」
「……そうね。そういうルールですものね、わたしはこちらでがまんするわ」
「天下の第七階梯をつかまえてずいぶんな言いぐさだね。――《ふざけるな》」

 虚空より出現した紅蓮の火柱がフーラとヨーグの身体を飲み込んだ。
 黒魔【プロミネンス・ピラー】。指定した空間から天を突くような紅炎の柱を呼び出す。周囲に影響をおよぼさずに対象をピンポイントで狙える空間指定単体攻撃が可能なB級軍用魔術。
 ふたりの夜魔は瞬く間に消し炭ひとつ残らず焼却された――かのように見えたのだが。

「――ッ!?」

 虹色の燐光に包まれた衣類には焦げ跡ひとつ、身体には火傷ひとつ見あたらない。
 対抗呪文(カウンター)をもちいたのではない。
 近代の軍用魔術においては、B級は打ち消し(バニッシュ)ができない。防ぐしかない。
 一定の威力規格を越えた攻性呪文は打ち消し不可能なのだ。

「その七色に輝く光……、エネルギー還元力場……、アンチ・マジック・シェルか? ああ、そうか。そういえばおまえたちは暗黒神の信徒。暗黒魔術が使えるんだったな」

 聖エリサレス教徒たちが神聖魔術を使えるように、暗黒神の信徒たちもまた暗黒魔術を使うことができる。
 神へと語りかける神聖言語。それは自己深層意識改革を通すルーン魔術とは異なり、『神』という高次元の存在に働きかけ、その加護を得る。
 神聖魔術と暗黒魔術。ルーンとは異なる神聖語と暗黒語をもちいるこのふたつの魔術は呼びかたがちがうだけでおなじ魔術体系に属している。
 暗黒魔術は光の神の信者が使用すること自体を悪として禁じられたものだが、暗黒神の信者にはそのような禁忌は存在しない。それゆえ治癒や防御の魔術が中心の神聖魔術よりも多くの攻性呪文が存在する。

「神聖魔術の【イノセント・クローズ】を使っているのか」

 【イノセント・クローズ】。
 高レベルの僧侶や神官のみが使用できる魔力(マナ)を完全に遮断する絶対魔術防御呪文。魔術による攻撃を遮断できるが、術者の魔術も同様に遮断される。障壁は一定時間が経過するか、術者が任意に解くことがきる。

「うふふ、なにせ『天下の第七階梯』の魔術師が相手なんですもの、このくらいの備えがないと」
「そうなると肉弾戦になるわけだが、殴り合いでもはじめるつもりかい? 優雅ではないね」
「あら、この国では拳闘と剣術も貴族のたしなみにふくまれているのでしょう? 安心して、痛くはしないわ。抵抗しないならね!」

 フーラの身が沈み、一足跳びにセリカへと躍りかかる。その手には光る刃物が、いや。短剣のように長く鋭い鉤爪が伸びていた。
 だがセリカの白磁のように白くなめらかな喉が血の華を咲かすことはなかった。春の燕のように華麗かつ俊敏な身のこなしで躱したからだ。

「《来い》」

 避けると同時にセリカの朱唇が呪文を紡ぐ。するとその手に蒼白に輝く白銀の剣が現れた。
 【アポート】。
 術者がよく知るなじみの物。あるいはあらかじめこの魔術のため呪印を描いていた物品を手元に呼び寄せます召喚魔術の一種。
 銀光一閃。
 フーラの鉤爪が切断され床に落ちる。とっさに手を引いていなければ手首を斬り落とされていたことだろう。

「おのれ!」

 激昂したフーラの口が耳まで裂け、長い犬歯が剥き出しになる。
 熾火のように爛々とした真紅の眼には怒りと憎しみが込められ、気の弱い者なら恐怖に卒倒してしまいそうだ。
 実際にその瞳には恐怖(フィアー)の魔力が込められていた。
 だがセリカの強い魔力抵抗の前にはなんの効果もない。

「魔術を封じたのがあだになったね。一瞬で滅ぼしてあげたのにさ、こいつで刻まれるのは死に損ない(アンデッド)にはさぞかし痛いだろうに」
「……真銀(ミスリル)!」

 鉄を上回る驚異的な剛性と靭性を兼ね備えた真銀を魔術的な手段で幾度も折り返し、叩き、鍛え抜くことで鋳造した至高の一振り。
 それはセリカ秘蔵の逸品。《剣の姫》エリエーテ=ヘイヴンの形見の剣だ。
 セリカは物品に蓄積された思念や記憶情報を読み取り、自身に一時的に憑依させる【ロード・エクスペリエンス】によって剣の姫と謳われた達人の卓越した剣技を操ることが可能なのだ。
 魔術戦のみならず、白兵戦にもセリカに隙はない。

「私はおまえらみたいな死にぞこないがきらいなんだ。容赦はしないよ」
「訂正なさい」
「ああ?」
「死にぞこない(アンデッド)ではなく、永遠者(イモータリスト)だと訂正なさい」
「永遠者だと? おまえら吸血鬼が」
「ええ、そうよ。不死者の頂点、命なき者の王、暗黒の貴族、闇の生をすごし、黄昏に目覚め、夜明けに微睡む、永遠なる者……。それがわたしたち吸血鬼」
「他人の血を吸って生き長らえる偽りの不死者、醜く生き汚い歩く屍、墓場の土の詰まった棺桶をねぐらにしている、出来損ないの死にぞこない。それがおまえらだ。永遠者だって? 不潔な化け物風情が笑わせるなよ」
「……脆弱な定命の者が、よく吠えること」

 フーラが腰に差した短杖(ワンド)を抜いてひと振りすると、二メトラ近い長さまで伸びた。太さも増し、ワンドというよりクォータースタッフだ。

「なんだい、棒術使いだったのか」
「ただの棒ではないわ」

 フーラの口からコマンドワードが唱えられると、棒の先端部分から直径方向へ三日月型に光が迸った。
 光の粒子は力場によって固く凝縮し、腕の長さほどの光の刃となる。
 おなじく反対側の先端からも逆方向に三日月型の刃が出現した。
 ただしこちらは漆黒の刃だ。

「捕食者と被食者はどちらが強いのか、わからせてあげる」
「狩られる者より狩る者のほうが強いんだよ、化け物。おまえたちを倒すのは、いつだって私ら人間だ」

 白銀の刃がひるがえり、光闇の刃が旋回する。 

 

辺境異聞 7

「それでは我々もはじめようか」

 セリカとフーラが刃を交えだすと、ヨーグは空になったタンカードを投げ捨てた。その身に異変が生じる。
 耳がとがりながら上方へ伸び、鼻より口が前方に突き出し、顔じゅうに毛が生えはじめ、両目は人血の色に染まっていく。
 のどの奥から獣のうなり声が轟く。

「さっきの霧化に続いて、こんどは人狼化の能力か」
「少しちがうな、これはたんなる人狼化ではない。それよりもっと大きな力、暗黒神からの闇の賜り物さ。――このような素晴らしい力だ」

 言葉の最後は秋芳の背後から聞こえてきた。
 左腕の布地が裂けて血が滴る。
 目にも止まらぬ――いや、目にも映らない速さで駆けた人狼ヨーグの鉤爪による一撃に よるものだ。

「ほう、定命の者にしてはなかなか良い反応をするな。腕一本いただくつもりだったのだが……。美味い! おまえの血は実に美味だぞ。こんなにも芳醇で濃厚、それでいて爽快。こってりとしているのに少しもくどくなく、スッキリした味だ」
「どこの料理漫画の科白だ、それは。……それにしても、ずいぶんと敏捷だな、おい」
「私が暗黒神より下賜された能力。闇の氏族『ヴリカラコス』の力だ。並の吸血鬼がもちいるような中途半端な人狼化とはわけがちがう」

 ヴリカラコス。それは秋芳のいた世界ではギリシャ地方に伝わる妖怪の名だ。元はスラブ地方で人狼を意味する言葉であったが、スラブ民族が南下して地中海に進出した六世紀以降ギリシャに伝わり定着した。
 だれにも看取られずに孤独に死んだ者や狼が殺した肉を食べた者などが死後ヴリカラコスになるという。
 ヨーグが床に転がるタンカードを蹴飛ばすと、それが壁にぶつかる前に移動して手でつかんだ。
 恐るべき移動速度だ。

「クイックシルバーやザ・フラッシュみたいだな」
「いかなる武術魔術も純粋な速さの前では無力に等しい。呪文を詠唱するよりも、構えをとるよりも、それどころか相手の動きを知覚することすらできず一瞬で命を散らすことになる」

 こんどは右腕の布地が切り裂かれ、血が流れた。
 先ほどの一撃よりも深傷だ。

「ふふふ、おまえは本当に反射神経が良いな。常人なら首が落ちていたところだぞ」
 
 獣毛におおわれた腕を振ると、鉤爪についた血が飛び散った。それを先ほどのように高速で移動して牙の生えた口で受け止める。

「んっん~、デリィィィシャァァァスゥゥゥ! 甘く、ほろ苦く、のどごしが心地良く、口内を夜風が吹き抜けたような感覚。単なる美味しさを超えて、もはや快☆感!」
「だからなんなんだよ、その料理漫画みたいな表現は」

 秋芳は両腕の止血をしつつ考えをめぐらせる。

(速さには速さで対抗したいところだが【フィジカル・ブースト】では心もとない)

 ヨーグの超高速に追いつくには、たんに足を速くしたり機敏になるといった【フィジカル・ブースト】で上昇できるようなレベルの速さでは足りない。これに対抗するには【タイム・アクセラレイト】による爆発的な加速が必要だ。

(と、いきたいところだが、【タイム・アクセラレイト】はリスクがでかいしな)

 【タイム・アクセラレイト】。対象に流れる時間を加速させ、高速で動くことができる。
 ただし、術が切れると魔導第二法則によって加速させた分だけ減速し、世界の辻褄を合わせる。
 速くなったぶん、遅くなってしまうのだ。
 当然のことながらそれは致命的な隙となり、帝国軍の中では自殺魔術などと揶揄されることもあるくらいだ。

(だが使いどころを見誤らなければ決定打となる。……ん? まてよ、この手は使えないか?)

 一計を案じた秋芳が相手に悟られないよう、小声で呪文を唱えた。

「エイイッ鈍足、鈍足ゥ!!」

 黒い疾風が部屋中を駆け、空気のこすれ合う摩擦音が響く。
 床を走り壁を跳び天井を蹴る、前後左右どころか上下からも繰り出される全方位空間攻撃に秋芳の衣類はぼろ雑巾のように散り散りになり、全身に血が滲む。

「……妙に硬いな、なにか防御呪文でも唱えたか?」

 両手で正中線をガードし、甲羅に閉じこもる亀のように守りを固めた秋芳の全身は鉤爪による切り傷だらけだが、最初に腕に受けたよりも軽い負傷ですんでいる。

「無駄な足掻きを。どこもかしこも傷だらけ、だが死には至らない気分はどうだ? 出血多量で死ぬのは時間の問題だぞ。獣の速さと力を備えたヴリカラコスである私に勝てる人間なぞ存在しない」

(まだだ……。もう少し、時間が必要だ)

 鉄壁の守りを維持したまま口だけ動かす。

「……おまえたちが俺たちをだしに賭けをしたように、俺たちもおまえたちである賭けをした」
「ほう、どんな賭けをしたのかね?」
「あんたら二人の関係さ。父と娘を演じていたが、実際のところはどういう関係なのかとね。本当に親子なのか、父と娘なのか、母と息子かもしれない、あるいは祖母と孫、祖父と孫娘、それともまったくの赤の他人なのかってね」
「フハハハハ! 知らずに人の生を終えるのも哀れだろうから教えてやる。私たちは――」



 平原、山地、河川、湖、街道、市街地、海原――。
 今からおよそ半世紀ほど前、アルザーノ帝国とレザリア王国は各地で激しい戦いを繰り広げていた。
 世に言う奉神戦争だ。
 時に攻め、時に退き、時に勝ち、時に負ける。
 一進一退の攻防がどこまでも続く。
 それはここ、嵐が丘でも同様だった。
 いつ終わるとも知れない長引く戦いにヨーグが心を荒ませていた時、漂泊民たちがやって来た。
 その漂泊民たちの中にいたフーラは美しい容姿と妖艶な踊りでヨーグを魅了し、暗黒神への信仰を勧誘した。
 終わりの見えない殺戮の日々に心を病んでいた者が闇への誘いに屈するのは、実に容易いことであった。
 暗黒神への供物と称し、反逆者や捕虜を串刺しにしたり、エリサレス教の信徒を聖堂にあつめて火を放ったりと常軌を逸した行為に走るヨーグ。
 さらにヨーグは実の娘であるヘルギを暗黒神への生け贄にし、妻であるソティーと共に吸血鬼化しようと試みたのだが、ソティーはそれを強く拒んだために吸血鬼化をまぬがれ、人としての生をまっとうできた。
 ソティーは儀式の前から精神が不安定になり、以前のヨーグと暗黒神を崇拝するようになったヨーグを別人と認識することで精神の安定をかろうじて保っていた。地下室にあった狂気を孕んだ日記はその時に書かれたものだ。
 ウンキという人物は最初から存在しない、フーラの筋書きの中だけの人物。倉庫にあった肖像画はヨーグの肖像画のキャプションを変えただけのフェイク。



「夜の美しさと芳しさをはじめて知ったあの時の気持ちは格別だった。おまえもすぐに知ることになるだろう」

 完全に勝利を確信しているヨーグは自身の境遇を饒舌に語った。自分が負けるなどとは露にも思っていない。

「んん? 半世紀ほど前? レザリア王国との戦いと言ったが、奉神戦争が終わった後も連中は攻めて来たのか」
「いいや、奉神戦争のまっただ中。より正確には四〇年前のことだ」
「なんだと?」

 ヨーグはどう見ても五十歳よりも上には見えない。奉神戦争の時にはまだ子どもだったはずだ。

「吸血鬼になった時点で老化は止まる。ということは……」
「ふふふ、この私こそが寡兵でレザリアの大軍を撃ち破ったと言われる『先代』さ」

 何十年も歳をとらずに生活していれば怪しまれる。頃合いを見て亡くなったことにして、父から家督と名前を継いだ息子としてヨーグはこの地に君臨し続けているのだ。

「では少数の兵でレザリア軍を撃ち破ったという話にもいささか語弊がありそうだな」
「そうだな、たしかに少数ではあったが兵ではない。あの侵略者どもを殲滅したのはこの私とフーラのふたりでだ」
「たったふたりで軍隊を殲滅!?」
「この力をもってすれば、鈍重で脆弱な人間を狩ることなぞ稲穂を刈り取るよりも簡単だ」
「あの時の戦いはとても楽しかったわ」

 セリカと刃を交わすフーラが話に入ってきた。

「二〇〇年もの長い歳月を夜のしじまと共に静かに暮らしていたのに、いきなり合戦の檜舞台に立てたのですもの」
「あの人狼化、ヴリカラコスとか言ったね。あんたはヨーグみたいに獣にはならないのかい」

 光闇の刃を真銀の剣で打ち払いながらセリカが問う。

「わたしの氏族(クラン)はヴリカラコスではないの。ああいう一芸に長けたような闇の賜り物はないのよ。その代わり、いろんなことができるわ」

 フーラが手をかざすと無数の蝙蝠が召喚され、セリカに殺到した。これは通常の召喚魔術ではなく、狼や鼠といった動物を呼び出すことのできる吸血鬼固有の特殊能力だ。
 それゆえ【イノセント・クローズ】により魔術の使えない状態でも行使できる。

「《風よ》」

 セリカの周囲を颶風が吹きすさび、群がる蝙蝠を吹き飛ばす。

「おい、あぶないぞ! 室内でそんな呪文を使うな」

 風で飛ばされた調度品に打たれた秋芳が抗議の声をあげる。

「だからこうして邸が壊れないように加減してるんじゃないか」

 事実セリカは手加減をしている。この【ウィンドストーム】。本来ならば竜巻の周囲に真空の刃を広範囲にわたって出現させ、範囲内の物体を無差別に切り刻むものなのだ。

「部屋が壊れないレベルで手加減しろ、どうせやつらには魔術が効かないんだからな。――二〇〇年も吸血鬼をやっていたのか、ヨーグよりも先輩というわけか」
「ええ、そうよ。とても長い長い刻を過ごしてきたの、退屈で死にそうになるくらいに」
「たかが二〇〇年程度でずいぶんと大げさだな」
「たかが、ですって? わずか一世紀足らずで老い衰え寿命を迎える、定命の者からすれば永遠ともいえる時間でしょう?」
「あいにくと俺の故郷には仙人という不老不死の人たちがいてな、なにも人の血を吸って他者の生命力を奪わなくとも、修行をつんで仙人になれば永遠の生を得られるんだ。仙人になれば霞を食べるだけで生きていける」
 
 霞を食べる、というのは天地に満ちる気。マナや霊力をエネルギーとして摂取するということだ。人の血肉どころか動物の肉を食べる必要もない。だが酒を飲んだり、美味佳肴を食す楽しみを捨てることはない。

「吸血鬼というやつはどうしてこう、たかが二、三〇〇年生きただけで『人生は退屈だ』とか『永遠の生は苦しみだ』とか言い出すんだろうな。宵っ張りの人生を楽しめよ」
「…………」
「漂泊民といったが二〇〇年の間にさぞかし多くの土地を巡り歩いたんだろうな。サイネリア島の椰子の実や、リリタニアの鯉を食べたことはあるか?」
「イテリアとヨークシャーの間を、何度も行き来したわ。わたしたちが口にするのはただひとつ、定命の者の生き血のみ」
「なんだ、セルフォード大陸から出たことがないのか。そんな引きこもりの上に偏食生活していたら退屈するのは当然だ」
「…………」

 道教の仙人は千年万年と生き続けても退屈するということがない。
 雲に乗って広い大陸を旅してまわる。
 西湖の霧、娥媚山の雲、武陵源の山々、青海の花畑……。いたるところに絶景がある。
 また一〇〇年後にでも訪れるとしようか、どう変わっているのか楽しみだ。
 数百年も経てば歴史は移り変わり、王朝は興亡する。
 それにかかわる人々の運命も変転する。
 どの時代にもすぐれた芸術家や学者があらわれて、書画を描き、誌を吟じ、楼閣を建て、音楽を奏でる。
 それらを鑑賞するだけでも飽きない。
 有名な仙人は皇帝や王といった時の権力者をからかったり、妖怪をやっつけたり、古い美酒を飲んだりして楽しむ。
 春は桃や牡丹の花を見て、夏は滝のそばで涼しく過ごし、秋は紅葉を見物し、冬は雪景色を愛でる。
 退屈などと無縁に、永遠の生を大いに楽しむのだ。
 羅公遠という仙人は唐の玄宗皇帝を月へつれていった。いつどこで生まれたか誰も知らないが、容姿は十代の少年のようで、天下を旅して酒と音楽を楽しんでいた。
 などという話がいくらでもある。

「――修行をつんで仙人になれば不老不死となり、霞を食べて生きていける。たった二、三〇〇年生きた程度で人生の重さ苦しさに耐えきれないだの、血を啜らなければ生きていけないだの、吸血鬼というのはなんとまあ、陰気でつまらない連中だ、修行が足りん」
「……口の減らない人ね。ヨーグ、遊んでいないでそろそろ片づけてしまいなさいよ。この女、手ごわいの」
「先輩からの注文だ。そろそろ終わりにしようか、騎士爵どの」
「《魔力よ・集いて剣となれ・其は至高の利刃なり》」

 秋芳の手にマナが凝縮し、尖形状の光刃が形成される。
 魔力を武器の形にする【フォース・ウェポン】だ。
 同様の魔術に錬金術の形質変化法と根源素配列変換を応用することによって、なにもないところから武器を生み出す【隠す爪(ハイドウン・クロウ)】 というものがある。
 ひとたび錬成すればマナの消費のない【隠す爪】とはちがって、維持している限り常にマナを消費する【フォース・ウェポン】ではあるが、基本的な威力が高いことにくわえて、純粋なマナによって作られた性質上、銀や魔力の宿った武器でしか傷つけられない高レベルのアンデッドや魔法生物にもダメージを与えることができる利点がある。

「なるほど【イノセント・クローズ】が防ぐのはあくまで魔術のみ。純粋な魔力の刃ならたしかに我が身に通じよう。だが、あたらなければ意味はない。人の身で獣の動きについてはこれらまい」
「《我・時の頸木より・解放されたし》」
「悪あがきを……」

 剛毛におおわれた獣の顔にもはっきりとわかる冷笑を浮かべ、ヨーグが突進した。【タイム・アクセラレイト】によって驚異的な加速を得たとしても、焼け石に水。
 地力の差が大きすぎて、魔術をもちいてもヨーグの、ヴリカラコスの獣速に追いつくに至らない。
 もう、一歩。いや、三歩ほど足りない。
 魔力の刃が振り落とされるより前に、鉤爪が秋芳の身体を引き裂く。
 一瞬の後におのれの爪が血肉に沈む感触を想像しつつ、鉤爪を振るったヨーグの脳天に秋芳の刃が振り落とされる。

「――ッ!?」

 速い。
 一瞬どころか半瞬の速さで秋芳が動いたのだ。
 とっさに上げた両腕でガードしなければ、頭を断ち割られていただろう。
 秋芳の血肉を吸うはずだった二本の腕が、血の糸を垂らして床に転がり落ちた。

「GUGAGUGAAAaaaッッッ!!」

 痛みと怒り、驚愕の入りまじった雄叫びをあげて喉笛に噛みつく。たとえ鉤爪が失われても鋭い牙が 残っているのだ。
 だがそれよりも速く秋芳の刃が閃いた。
 袈裟斬り、右胴、右斬上げ、逆風、左斬上げ、逆胴、逆袈裟。
 顔面、首、胸への突き。
 一瞬七斬三突。
 七つの斬撃と三つ刺突を〝ほぼ同時に〟受けたヨーグが全身から血を噴き上げる。

「なん……、だと……?」

 【タイム・アクセラレイト】によって加速した術者は効果が切れた後に魔導第二法則によってズレた時間の分だけ帳尻を合わせるため今度は時間が減速する。
 では先に減速魔術をかけた場合はどうか?
 減速効果が切れた後に加速状態になる。それでも前述したように【タイム・アクセラレイト】だけではヨーグの速さにわずかにおよばない。
 そこで秋芳は圧縮された時間が解き放たれると同時に、あらためて【タイム・アクセラレイト】を唱えたのだ。
 いわば一種の重ねがけである。
 数倍速の、さらに数倍。
 これによりヨーグを上回る速度を得られたのだ。
 減速状態の時はまともな回避行動ができないため、見鬼による気の流れを読む【先読み】に集中。
 致命傷になるようなヨーグの攻撃を見抜き、鉄布衫功でひたすら防御に徹して反撃の機会を待っていたのだ。
 試みは見事に成功。相手の速さを逆手にとって真っ向からの交差法で斬り飛ばした。
 セリカのほうを見れば、こちらも終焉を迎えようとしていた。
 ヨーグの敗北に不利と判断したフーラが霧に変じて逃走しようとしていた。
 だが、遅い。
 すぐさまセリカの追撃を受けるだろう。
 そう思って静観を決め込んでいると、なんとセリカが膝をついたではないか。
 そのままくずれ落ちるように倒れ伏してしまう。

「おい、どうした!?」 

 

辺境異聞 8

「――たった二、三〇〇年生きた程度で人生の重さ苦しさに耐えきれないだの――」

 秋芳のその言葉がセリカの胸中に引っかかった。
 とっくの昔に克服したはずの心の痛手が妙にうずく。
 自分がまったく歳を取らない、謎の不老体質であることが判明した時のこと。
 だれもが気味悪がって、はなれていった。
 永遠の愛を約束し、将来を誓い合った人までもが、セリカを化け物と罵り、去って行った。
 それでも変わらずに接し、側にいた数少ない人たちも年老いてこの世から消えて逝った。
 不老であることに加え、セリカの持つ強大な力を恐れ、妬み、嫉み、僻み――。孤立していった。
 人が我を人と思わぬなら、我もまた人を人と思わぬ――。
 自分を忌み嫌う者と仲良くするつもりはない。人々の冷たい態度は彼女を偏狭な枠組みに捕えさせ、傍若無人な振る舞いに駆り立てる。
 やがて『灰燼の魔女』などと呼ばれはじめた。
 その魔女が通った後には塵ひとつ残らない、破壊と死を振りまく災厄の化身だと。
 
(……〝あいつ〟に出会う前の私は終わりの見えない永遠の生と記憶のない不安と孤独にいつもムカついていたっけ。あいつのおかげで、私は救われた。でも、それはいつまで続く? あいつの生きている時間と私の生きている時間はちがう。いつの日か、あいつも――)

 パァァァンッ!

 秋芳の超高速によって生じた炸裂音が室内に響く。

「ヨーグゥゥゥッ!?」

 一瞬のうちに血肉の塊と化した同胞の姿に動転したフーラが光闇の鎌を滅茶苦茶に振り回した。
 
「ちッ!」

 技もなにもない、吸血鬼の怪力にまかせたでたらめな攻撃など、エリエーテの剣技の前では児戯にひとしい。
 光の刃を軽く受け流し、闇の刃を捌く。
 だが、物思いに耽っていたセリカの動きにわずかに鈍さが生じた。
 闇の刃が膝の上を軽くかすめ、かすかな痛みをおぼえる。

「う……ッ!?」

 目の前が唐突に暗くなった。
 視界も狭くなり、まるでひどい貧血になったかのように全身の力が抜け落ちる。
 心臓の鼓動が早鐘のように鳴り、意識が薄くなってくる。

(毒? ……いや、ちがうこれは)

 闇の刃がかすめた膝の上を見る。たしかに切られた痛みを感じたが、スカートにもその下に隠されたガゼルのようにしなやかな脚にもかすり傷ひとつついていない。

「その黒い刃。肉体を傷つけず精神を破壊する【魂砕き】か、それとも吸収する【魂喰らい】か……」

セリカに答えることなく霧と化してその場から逃れるフーラ。

「おい、どうした!?」
「おまえが、変なことを言うから……」
「はぁ?」
「あの両刃の鎌、黒いほうの刃には斬った相手の精神を破壊、あるいは吸収する能力があったらしい。私は霊魂を、エーテル体を壊されちまった、みたいだ……」
「たしかに、そのようだな」

 セリカの気が急激に衰弱しているのを、秋芳の見鬼が見て取った。

「霊魂の損傷は自然回復を持つしかない。だが、かすっただけだが、かなりやられちまったみたいだ……。私はもう魔術を使えないかもしれない」

 霊魂の損傷は魔術師にとっては致命傷だ。霊的な感覚を使用する魔術において、霊魂――エーテル体の状態は大きな影響をおよぼす。魔術がまったく使えなくなるとまではいかなくても、なんらかの障害が残ってしまう可能性がある。

「この程度の霊障で大げさなことを言うな」
「大げさだと? 他人事だと思って……。そもそもおまえがあんなことを言うから!」
「あんなこと? とにかく俺は呪禁師だ。このくらいすぐに治せる」
「なんだと? あ、こらっ。どこを触ってるんだ!」

 秋芳はセリカを抱きかかえると客室へ行きベッドに横たえさせると、フーラや下僕の吸血鬼と思われる召し使いたちの奇襲に備えて結界を張った。

「体を楽にして力を抜くんだ。なにがあっても力を入れてはいけない」
「…………」

 自信に満ちた秋芳の言葉に、セリカは黙ってうなずく。
 秋芳は左手を胸にあて、右手の人差し指でゆっくりとセリカの頭の百会穴を点いた。

「あ……」

 熱い気が頂門から下りてきて、セリカの体がかすかに震え、吐息が漏れる。
 秋芳は指をすぐに離すと次は百会穴の後ろの後頂穴を点く。

「あっ、んっ……」

 さらに強間、脳戸、風府、大椎、陶道、身柱、神道、霊台と続けて点き、湯が沸くよりも短い間にセリカの頭から背筋を走る督脈の三〇大穴をすべて順番に点いた。

「あっ、ああっ……くっ、んっ」

 さらに顔から胸、腹へと続く任脈の二五大穴を、陰維脈の一四穴、陽維脈の三二穴を順番に点く。

「あ、あぁん……」

 さらにくるぶしかの内側から喉にいたる陰蹻脈、くるぶしの外側から耳の後ろの風池穴にいたる陽蹻脈、足から胸にいたる衝脈を次々と点く。

「あっ……ああっ……んっ」

 最後に残ったのは腰のまわりの帯脈。章門穴をはじめとする帯脈の八つの穴を点く。
 
「ああっ……あっ……あ、あぁん……ひぁあっっ!」

 セリカの奇経八脈をすべて点き終わった。

「ひあっ……やあぁ……かふっ………あぁっん……くぅうんっ……はふぅうっ!」

 痛いやら痒いやら、セリカは今まで感じたことのない摩訶不思議な感覚にとまどい、唇を噛みしめて耐えていた。そのひたいからは汗がしたたり、細い眉を伝って落ちる。
 秋芳も通常の指圧などとは異なる、内力を込めた点穴治療に汗を浮かせるが、指先の動きに寸分の狂いもなく、セリカの治療を続けた。





 ウサギ肉と玉ねぎのシチュー、鶏肉パイ、マッシュポテトをそえた鱒のグリル、アンチョビー・ペーストをそえたバタートースト、それに山盛りのポテトフライ。バニラのアイスクリームとリンゴのタルト。
 セリカの目の前に食べきれないほどの料理がならんでいた。
 遠慮なく手にとって口にすると妙に味気ない。というよりも味がまったくしない。
 それどころかいくら食べても腹がふくれる感じがしない。

「なんだこりゃ、まるで夢の中で食事をしているみたいじゃないか」

 そのとおり、これは夢だった。





「……腹が減った」

 食事をする夢を観るくらいの空腹に目が覚めると、どこからか食欲をそそる香ばしい匂いがただよってきた。
 ベッドから身を起こすと、見覚えのないネグリジェを着ていることに気づく。自分で着替えた記憶はない。

「あいつ、まさかあたしが寝ている間になんかしたんじゃないだろうな……」

 意識を失う前とおなじ下着を身につけているし、妙な悪戯をされた形跡もない。
 それでも服を着替えさせられたということは下着姿をバッチリと見られたはずだ。

「まぁ、たしかにたくさん汗をかいたしな……」

 一〇代のおぼこ娘ではない。羞恥心を頭のすみに追いやると、匂いのする方にむかった。
 厨房で秋芳が調理をしている。

「目が覚めたか、体に異常はないか?」
「おかげさまでね、なにを作っているんだ」
「雉とリーキのスープ」
「いただこう」

 雉は肉質こそ硬めだがしっかりとした味があって美味。出汁がよく出るので汁物にするとさらに味が深まるうえ、身が柔らかくなり食べやすくなる。

「こりゃあ美味い!」
「あいつら、自分らは血しか飲まないくせして大量に食料を蓄えこんでやがった」
「そういえば、フーラや残りの吸血鬼はどうした。私はどのくらい寝ていた。着替えさせたのはおまえか、脱がしたときに私の裸を見たのか。その時にエロいことをしたか」
「フーラをはじめ残りの吸血鬼はすべて退治した。あんたはちょうど一晩ほど寝ていた、今は朝だ。着替えさせたのは俺で、服だけ取り替えたが下着は脱がしていないから裸は見てない。当然エロいこともしてない。下着の色が黒だったが、酒場で違うとか言ってたな。俺の卜占はあたっていたのに嘘をついたのか!」
「ちっ、こまかいことを覚えてるやつだね」
「着ている服も下着も黒とか、どんだけ黒が好きなんだよ。ギークやナードみたいなファッションセンスだな」
「黒は汚れても、飲み物をこぼしても、洗濯するにしても、あんまり気にしないで一日を過ごせるだろ。素晴らしい色じゃないか、黒」
「だからってこぼすなよ」
「ふん、子どもあつかいするな」

 パンをほおばり、スープを三杯ほどおかわりをしてようやく人心地ついたセリカは、お返しとばかりにルーマティーを淹れて振る舞う。
 淹れたての茶の放つまろやかな香気が食堂をただよう。

「……静かだな」
「この城の中で生きている人間は俺たちふたりだけ――て、最初からそうだったな。やつらを始末するのに剣を借りたぞ」

 秋芳が腰に帯びたエリエーテの真銀剣をセリカに返した。

「ウェンディに借りた魔剣も凄かったが、それもたいした業物だな」
「ああ、なにせ《剣の姫》エリエーテの佩剣だったからな」
「魔導大戦の英雄のひとりか」

 魔導大戦。
 二〇〇年前に外宇宙から侵略してきた邪神とその眷属らと人類の間で発生した戦い。
 人類がなすすべもなく蹂躙され、滅亡の淵へと追いやられた悪夢の如き死闘。

「たしか六英雄のひとりだったな」

 魔導大戦で活躍した六人の英雄。
 《灰燼の魔女》セリカ=アルフォネア。
 《剣の姫》エリエーテ=ヘイヴン。
 《聖賢》ロイド=ホルスタイン。
 《戦天使》イシェル=クロイス。
 《銀狼》サラス=シルヴァース。
 《鋼の聖騎士》ラザール=アスティール。
 邪神との激戦でセリカ以外は全員戦いの中で散っていった。

「あいつらだけじゃない、邪神どもに戦いを挑んだ《百の勇者》のうち、最後まで立って戦っていたのが私たち六人。……最後の最後まで、生き残ったのが私だ」
「ほう!」
「少し、昔の話をしてやるよ――」

 セリカの脳裏に二〇〇年前の情景がよみがえる。



 地平線の果てまでを、奇怪な軍勢が埋め尽くしている。
 数千、数万のその軍勢には、どれひとつとしておなじ姿をしたものはいない。
 ねじくれた角を生やしたもの。
 蝙蝠と白鳥の羽をともに持ったもの。
 百の目ですべての方向を睨んでいるもの。
 獅子のたてがみと蛇の鱗を持つもの。
 漆黒の影のようなかたまり。
 足のかわりに五本の尾を持つもの。
 毒蛇の牙から炎をあげる毒液をしたたらせたもの。
 邪神の群れであった。
 ある夜、突如として空がすっぽりと欠け落ちたかのように、漆黒の月が現れた。空間に開いた巨大な穴。
 そこから、外宇宙からの侵略者が、邪神がやってきた。
 歪みが具現化した邪悪の象徴。ルヴァフォース世界を根底から破壊するもの。極限まで堕落した究極の混沌。
 邪神の存在そのものが、このルヴァフォース世界と相容れないのだ。
 かくして戦いがはじまった。
 いくつもの森が燃えた。
 海は灼熱に沸騰した。
 大地は腐った。
 山がくずれた。
 空気は淀み、空は闇に閉ざされた。
 五つの国が滅び、七つの島が海に沈み、九つの都市が瘴気で腐り果てた。
 そして、その時。反抗の狼煙が上がった。
 邪神の前に立ちはだかるのはアイコーンの城塞。人類最後の希望の砦。
 そこで兵士たちを率いるのは《聖賢》ロイド=ホルスタインと一〇〇人の仲間たち。
 栄光の担い手たる、百の勇者たち。
 セリカが天空へと向けて放った一発の光弾。
 それこそが、邪神を追い払う、最初の一撃だった。
 後の世に六英雄と称される者たちだけではない、邪神との戦いでは数多の英雄や悪人。超人魔人妖人が現れた。
 深く傷つきながら、だれを憎むことなく、すべての浄化と救済につとめた《癒しの姫》アンジェリカ。
 素手で魔鋼鉄のゴーレムを砕いた東方の《武王》マス・タイザン。
 竜の王(ドラゴン・ロード)と心を通わせ共に大空を翔けた最初で最後の《竜騎士》リシャール。
 悪魔に肉体を奪われながらも最後に残った哀しみと喜びの心によってその支配を跳ね返したという《悪魔人》アキュラ。
 血のつながった姉を愛し、その愛ゆえに邪神と通じ、数万の血を流した《狂騎士》ガーランド。
 外宇宙から飛来し、大地に落ちた見えない船から魔法の源を奪い、邪神と手を組んで人々を支配した《魔盗賊》ドルコン。
 狂気の芸術家にして合成魔獣の生みの親《黒の創り手》モロウ。

 魔導大戦は邪神との戦いと同時に人類同士の殺し合いでもあったのだ。



「――魔導大戦の頃から今に至るまでのニ〇〇年の間、その剣と、そこに込められた技のおかげで私は数々の危難を払いのけてきた。……おまえは、私が齢四〇〇を超える灰塵の魔女だと知って、なんとも思わないのか」
「そんな歳には見えないな」
「だが、事実だ」
「疑っているわけじゃない。その桁違いの魔力容量(キャパシティ)を視たら信じざるをえないさ、そのくらい長いこと修行を積んだ魔術師だと」
「恐くはないのか。何百年も歳を取らない、化け物だぞ。東方に伝わる仙人の話なら私も聞いたことがある。だが私は仙人なんてありがたい存在じゃない、魔女だ。《灰燼の魔女》セリカ=アルフォネアだ」
「なんでそんなに卑下するんだ。いいじゃないか、高い金を出して美容整形だのアンチエイジングだのしなくてすんで」
「そういうお気楽なことを言うやつが今までいなかったわけじゃない。だがそんなことを言った連中も、自分が歳月と共に老い衰えていくのに、私だけが刻に取り残され変わらぬ姿でいると、恐怖や嫉妬を抱くようになる」
「俺のいた国には一〇〇〇年以上生きている鬼だの荒御魂だのがいてな、この国の人ほどあんたのことを怖いだの変だのとは思わん。それに、俺も純度一〇〇パーセントのまっとうな人間とは言い切れない身の上でね〝化け物〟なのはおたがい様さ」
「なんだと? どういう意味だ」
「さて、どこから説明すればいいものか……。実は軽く記憶を失っているみたいでな――」

 ………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… …………。

「――なるほど、異授卵丹ねぇ……。あんたの国。いや、世界にもとんでもない外道魔術師がいるもんだね」
「そのとんでもない外道のもちいた、とんでもない外法で俺は生まれてきたってわけだ。さて、俺が自然の摂理に反する人造人間だと知って、嫌悪感を抱いたか?」
「出自がどうこうは問題ない。世間の連中からどう思われようが、大切なのはそいつ自身がどういう人間かだ」
「そうだ、自分でもわかってるじゃないか」
「…………」
「それとも、声に出して言って欲しいのか。『不老不死だの記憶喪失だの、そんなことはどうでもいい。大切なのは今の君自身だ』と」
「やめろよ、恥ずかしい」
「だが、事実だろう」
「まあな、《造られし者》カモ・アキヨシ」
「そうだ、《灰燼の魔女》セリカ=アルフォネア」
「あたしたちは似たもの同士ってわけだ。……なぁ、昨日の妙な治療。あれはなんだ? 私は助かったのか?」
「あれは経絡治療と呼ばれるものだ。完治させるにはもう少し治療を続ける必要がある」
「ケイラクとはなんだ」
「経絡というのは人の身体に流れる気の通り道で――」





 その日の夜。
 
「内功修練の時の姿勢は五心を手に向ける。五心とは両手の掌心、両足の掌心、頭の頂心、それで五心。内息を身体中に廻して丹田に収めるには背中、頭部を走る督脈と胸腹部を走る任脈を、舌を上顎につけて繋ぐことで可能になる。だが今回は内功修練ではなく治療だから、あんたはなにもしなくていい。俺の気に合わせるんだ」
「その気を合わせるというのすらわからん」
「手と手を合わせるだけでいい。妙な感じかも知れないが、力まずに流れに身をまかせるんだ」

 秋芳とセリカは向かい合って座り、おたがいの両の掌を合わせる。

「俺が気を廻らすから、舌を上顎につけて……」
「ふむゅ、こふか?」
「そのまま、俺の気の流れに逆らうな」

 秋芳は落ち着いた気持ちでじっと目を閉じ、視線を体内に向ける。
 体の熱い内息を尾てい骨のあたりに集め、そこから腎関、背中の両側の夾脊を経て、耳のつけ根の天柱、後頭部の玉枕とまわし、最後に脳の中の泥丸宮へ入れる。
 それらの動きを掌で伝え、そのままセリカに移す。

「あっ……ああっ……んっ、ああっ……あっ……」

 しばらくして今度は下を上顎につけて内息を額の神庭から鼻と口の間の水溝、さらに舌でつないだ鵲橋、喉の重楼、肺の右の黄庭、腎臓上の気穴を経て、へそ下の丹田へとゆっくり下げていった。

「ひあっ……やあぁ……かふっ………へあぁっ……くぅうんっ……はふぅうっ!」
「いいぞ、セリカ。その調子だ、覚えが良いな。これならすぐに良くなる」
「んんんっ、ンッっ、んんーっ、んふぅうううっ、ふむぅうっぅっ、ンゥウンンゥウンッ!」

 こうして七日の間、一日に三回。気功による治療を施し、セリカの負った魂の損傷。秋芳の世界で言うところの霊障の治癒を続けるのであった。
 

 

辺境異聞 9

 セリカの一日は一杯のモーニングティーからはじまる。
 速めに起床し、規定のルートで早朝散歩をおこない、その後はお茶を嗜むという貴族的で優雅な朝からはじまるのだ。
 魔術学院に籍を置いているが、教鞭を執ることはほとんどない。いつも研究所や図書室でなにか調べものをしている。提出が義務づけられている論文等はアフタヌーンティーの片手間にかたづける。
 陽が落ちてからはロクでなしな同居人の夕食を作るなどの世話を焼きつつイブングティーや読書を楽しみ、時にはそのロクでなしな同居人のチェスの相手をすることもある。通算成績はセリカの一三四五勝〇敗だ。
 ボルツェル城という仮の住まいでも確立したライフスタイルをくずさないセリカ。秋芳は秋芳でセリカの治療以外の空いた時間は図書室や錬金部屋にこもり、書を紐解いていた。
 逃げたフーラを探し出す際に見つけた地下の隠し部屋のなかには、上階になかった魔術書や錬金レシピを発見。
 それらのなかにベラドンナ・ブラッドという霊薬があった。
この霊薬を服用した吸血鬼は、その外見的特徴――青い肌や赤い瞳など――を中和されて一見してそうと見分けられなくなる。血液中を循環することにより見鬼もある程度ごまかせるのだ。

「あいつらが生身の人間に偽装できたのはこれのおかげだったのか。ベラドンナは瞳孔を拡張する作用もあるから、目を大きく見せたいご婦人がたの間で一時期流行ったことがあったが……。この組み合わせだとそんな効能がつくのか」
「しかしなんだな」
「どうした」
「今さらだが地方を治め、外敵に備えていた辺境伯が吸血鬼だったというのは結構な大事件なんじゃないか」
「それも半世紀もの間、だれにも気づかれなかったときたもんだ。中央から遠く離れている場所だからこそそんなことが可能だったわけだ」
「人を害する吸血鬼を退治したのはいいが、同時に国に認められた辺境伯を亡き者にしたわけだろう。エリサレス王国との緩衝地帯をそのままにしておくわけにもいかないだろうし、どこにどう報告したものか……。下手をすると俺たちは貴族殺しの下手人あつかいされるかも知れない」
「帝国上層部の連中には公私ともに知り合いが何人もいる。そのあたりのことは私から説明しておこう、おまえが危惧するようなことにならないようにな」
「さすが第七階梯、顔が利くな。あと気になるのが……」
「なんだ」
「この城の中にある物だ。金貨や宝石類、美術品や貴重な霊薬や錬金素材やらなにやら、かなりの量を蓄えてある。それらがごっそり後続のやつに渡ると思うとちょっとな。俺たちはフーラどもに迷惑をかけられたわけだし……」
「いいじゃないか、慰謝料替わりに頂戴しろ」
「そうだよな、そう思うよな。なにも根こそぎもらおうってわけじゃない、少しばかり頂戴しよう」

 いつまでもフェジテを留守にしてボルツェル城にいるわけにもいかない。セリカは通信魔導器で学院とグレンに連絡し、近日中にフェジテに帰る旨を伝えた。

「ついでにおまえのことも学院に言っておいたぞ。私の野暮用を手伝っていることにしておいた。失踪したことにはなっていない」
「ありがたい、助かるよ」
「なあに、おまえは私の魂の傷を癒してくれた恩人だしな」

 セリカの霊障が癒えた翌日。城にあった馬車のなかでも造りの良いものを選ぶと、慰謝料として頂戴した荷物を乗せて出発することにした。
 目指すは街道。そこに出てしまえばあとは路なりに進むだけだ。

「《剽桿なる獣よ・荒野を走り・我がもとへ駆けよ》」

 秋芳はこの七日の間にセリカからいくつか魔術を教えてもらっている。そのうちのひとつを唱えた。
 黒い巨躯をした馬が召喚される。肉食魔馬の異名を持つ、激しい気性の汗血馬ブケパロスだ。

「ほう、肉食魔馬か」
「こいつ一頭で並の兵士二、三〇人は相手にできる。ケチな山賊が襲ってきても蹴散らしてくれるし、シャドウ・ウルフ程度の魔獣なら襲ってはこないだろう。馬車馬兼護衛に最適だ」

 主要街道周辺は軍が定期的に街道整備を行い、市井の人々が護衛をつけずに行き来できるほど安全だが、辺境ともなれば話は別だ。
 野盗まがいの連中や熊や狼といった野生の獣のほか、魔獣のたぐいに人が襲われたという話はたまに聞く。

「自分が病み上がりだということを忘れるなよ。妙なことになっても、いたずらに魔術を使ってはいけない」
「安心しろ。少ない魔力でも呪文を工夫して威力を増幅すれば【ゲイル・ブロウ】程度でも森を根こそぎ吹き飛ばして更地にできる威力を出せる( ̄^ ̄)」
「だからそういうのをやめなさいっての。君子危うきに近寄らず、暴虎馮河の勇を奮うなかれ、だ」

 ボルツェル城を後にして主要街道に通じる支街道を進んで間もなく、思いもよらないものを目撃することになった。

 GAAAAAッッッ!!

 突如として大気を切り裂くような声が轟いた。
 なにごとかと声のした方向を見れば、遠い空の彼方に黒い影が大きく翼を広げている。点のようにしか見えないが、そこまでの距離を考えればその巨大さは容易に想像できた。
 影が翼をはためかせて悠然と空を舞ってまっすぐに翔てくると、視界のなかで影は急速に膨れ上がり、その正体があらわになる。
 巨大な翼、漆黒の鱗、長い首と尾、太い胴体、口は耳まで裂け、頭には大小三対、六本の角が生えている。背筋に沿って暗灰色の毛がなびいていた。
 竜だ。
 竜が秋芳とセリカの頭上高くを飛びすぎていった。
 猛烈な風が吹き抜ける。

「あれが、竜か……」
「竜だな」
「どヴぁきん、どヴぁきん、ならしろすヴぁー♪」
「なんだその呪文は」
「いや、竜を見るとつい……」

 人知を越えた強大な力を持ち、万物の頂点に立つ最強の聖獣にして妖獣、幻獣にして魔獣。神獣とも謳われる存在を目の当たりにしてさすがの秋芳も驚きを禁じ得ない。

「このあたりは自然も多いいし、まだあんな竜が棲んでるんだねぇ」
「不忍池で狸を見かけたような軽い言いかただな」
「一〇〇年くらい前はフェジテ近郊でもよく竜を見かけたものだよ。湖には細長い胴の水竜が泳いでいたし、巨大な洞窟の奥には小山のような体躯の地竜が眠っていた。蒸気を吹き出す谷間には真っ赤な鱗の火竜が大きく避けた口から灼熱の炎を吐きあげていた……。今の竜、あの鱗の色から察するに闇竜だね」
「闇竜とはどんな竜なんだ?」
「知性を獲得する前の成竜(アダルトドラゴン)まではブラックドラゴンとも呼ばれ、老竜(エルダードラゴン)まで成長するとダークドラゴンと呼ばれる。特徴は全身を覆う黒い鱗と、その貪欲さだ。竜という種族は総じて金銀財宝といったお宝を巣に溜め込む習性があるが、やつらは特にお宝を好んでかき集める。人にとって価値があるものはやつらにとっても価値があるのか、ときには絶世の美女や美少年といった、生きたお宝をかっさらうこともある。『ドラゴンにさらわれたお姫様』てのはおとぎ話なんかじゃない。また闇竜は暗黒神と関係があると言われ、暗黒魔術も行使できる」
「うわぁ~、悪いモンスターそのものだな」
「だが邪悪というわけではない、気性の荒さや凶暴さでは火竜のほうが遥かに上だしな。――竜は幻獣ゆえ、その巨体の割には大量の食事を必要としないと言われ、なにも食べなくても生きてゆけると唱える学者さえいるが、空腹になると知性を失い凶暴になるとも言われる」
「どっちなんだよ、そりゃ」
「個体による差が大きいのさ。……また人を喰うことをおぼえた竜は人ばかりを食らうというが、食べるために人を襲うことはめったにない。聖エリサレス教会の連中は人の姿が神に似ているから畏怖しているのだ。などと主張しているが、どうだかな。私は単に人を恐れているだけだと思う」
「竜が人を恐れる?」
「そうだ。いくら竜が強いといっても重火器で武装した軍隊や高レベルの魔術師はそれ以上に強い。やつらはそのことを本能や経験で察している。だからあまりにヤンチャが過ぎると痛い目を見るから、直接人に手を出すような真似はしないんだろう」
「それに牛や豚にくらべたら人なんて骨と皮だけだし、俺たちのことは眼中になかったな。幸い腹は減ってなかったようだ」
「……いや、そういうわけでもないようだぞ」

 大気を切り裂く咆哮をあげて、漆黒の竜が舞い戻ってきた。その手には哀れな獲物が闇竜の太く鋭い爪から逃れようと必死に暴れていた。
 獲物は、大きな獣だった。
 鹿ではない、熊ではない、猪でもない。
 闇竜が捕えてきたのは獅子の胴に鷲の頭と前脚を持ち、翼を生やした異形の獣。

「グリフォン!」

 鷲頭獅子と呼ばれる魔獣を狩ってきたのだ。
 人を襲う魔獣ではあるが、その姿は雄々しく、家紋にしている騎士や貴族も多い。その嘴と爪には恐るべき破壊力があり、金属鎧でも板のように貫き、切り裂くという。馬を好んで餌にしているので、辺境の山道で馬車馬や旅の騎士が襲われたという話が数年に一度くらいは噂にのぼる。
 書物によれば光る物を好んで集めるため、その巣には金銀宝石の類が多くころがっているとあるが、さだかではない。
 魔術学院を晴れて卒業した第三階梯の魔術師であってもグリフォンと一対一で戦って簡単に勝てるとは思えない。そんな強力な魔獣であるグリフォンを獲物として屠った竜の闇色の鱗には傷ひとつついていなかった。
 巣に持ち帰って、ゆっくり食べるのかと思って見上げていると、岩山の頂に舞い降りて、やにわに食らいついた。
 グリフォンがひときわ激しく暴れて、大量の羽根が飛び散る。
 だが、すぐに動かなくなった。
 ぞぶり、ぞぶり、ぞぶり――。
 そのような咀嚼音が聞こえてくるような気がしてくる。

「グリフォンて鷲の味なのかな、それともライオンの味がするのだろうか」
「さあねぇ、鷲も獅子も肉食で不味いだろうから、いずれにしても美味しくないと思うよ」
「せめて草食獣がまざっていれば美味い部位がありそうだが」
「ならキマイラの山羊の部分は食えるのかね」

 弱肉強食という大自然の過酷な姿を目にした文明人ふたりが散文的な会話をしているうちに闇竜はグリフォンをぺろりとたいらげ、飛び去っていった。
 腹がくちくなって巣に帰りひと休みするのか、新たな獲物を探しにゆくのか。
 遠くにひときわ高く、険しくそびえ立つ山が見えるが、なんとなくそこが闇竜の住処のような気がした。

「食欲旺盛なようだが、成竜なのかな」
「いや、あの大きさからするとすでに老竜だろう」
「じいさんになっても食欲旺盛。なるほど、たしかに貪欲だ」

 秋芳は気の変わった竜に餌だと見なされ、追ってこないうちに、馬車を走らせた。





 森の中の道を進んでいると開けた場所に出た。ちょっとした広さの草原になっているそこかしこに馬が繋がれ、天幕が張られている。地面に布を敷いてなにやら商いをしている者もいる。
 一見すると隊商の野営か、市座のようだ。
 だがこのような辺鄙なところで市を開くなど、実に不可解だった。
 幾人かに話を聞けば、この先にある川が大雨のため増水し、橋が沈んで通れないとのこと。
 迂回しようにも橋のある場所はここから遠く、そこも沈下橋状態の可能性もあるうえ、野盗や魔獣の襲撃を恐れながら道なき道を進むのはリスクが大きい。
 水かさが低くなるまで待っているうちに行商人たちはおたがいに商売をはじめ、噂を聞いた近隣の村々からも人々が集まっていて、予期せぬ市が開かれたというわけだ。
河川敷の様子を見たところ、これ以上増水する気配はなく、あと数日もすれば落ち着くだろう。

「いそぐ帰路でもでもないし、俺たちもこの即席の市を楽しむか。なにか変わった酒や食べ物でもないかな」
「辺境の商人のあつかう物に私やあんたの舌を満足させる酒があるとは思えないけどねぇ」

 整備された街道とつながり、近くに港町があるフェジテには世界中から食材があつまってくる。特に近年では蒸気機関の発達で、庶民の元にも食料品がより速く、より遠くからあつまってくるのだ。
 国産のハムやチーズはもちろん、北海の鮭、南海のロブスター、南国の野菜や果物、西方の香辛料、東方の茶――。

 これらの食材に都会の洗練された調理がくわわり、人々の舌と胃袋を満足させる。

「なに、このさいハギスやバンガースみたいなゲテモノでもかまわないさ」

 スコットランド人やイギリス人が聞いたら怒るようなことを言って、あたりを物色してみる。
 たしかにナーブレス家があつかっているような品のある葡萄酒などないが、自家製のエールや蜂蜜酒は野趣のあるこくや酸味があり、悪くはなかった。

「…………」

 露天にならぶガラス細工を眺めるセリカの口元におだやかな笑みが浮かぶ。

「――その美貌は生きた人間というよりも、氷で作られた女神像を思わせる美しさ。肌の白さは白磁の花瓶、唇の紅さは女王陛下の宝冠に飾られたルビー。瞳はさながら氷に封じ込められたサファイアだった」
「口説き文句だとしたら一〇点だな」
「一〇点満点中で?」
「一〇〇点満点中の一〇点だ、ヘボ吟遊詩人」
「アルフォネア教授の採点は厳しいな」

 秋芳が手にした筒をかたむけて中身を胃の中に収めてゆく。持ち運びに耐えられるように蒸留酒とハーブを添加して度数を高めた葡萄酒で、船乗りや行商人などが愛飲している旅人の酒だ。

「美しさを喩えるのに生命のないものばかりを使用しているのが気に入らない。私が不老不死の化け物だって言いたいのかい」
「この世ならぬ美しさだからさ」
「私とキョウコちゃん、どっちが綺麗?」
「京子が太陽なら君は月だ」
「私が太陽がないと輝けない月だって言うのかい」
「そういえばルヴァフォース世界てのは天動なのか地動なのか。丸いのか平らなのか。それによってお日様やお月様の設定が変わってくるぞ」
「酔ってるね」
「酔ってるさ」

 さらにひとくち、筒の中身をあおる。

「なにか気になる物でもあったのか?」
「グレンがさ、最初の小遣いで買ってくれたのが、あんな感じの指輪なんだよ」
「ほう」
「私の渡した小遣い、全部使ってさ、一番高くて綺麗なやつをあげるって」

 セリカの脳裏に昔日の記憶がよみがえる。

(これ、セリカにあげる。けっこんゆびわ! またらいねん、おなじのかって、いっしよにはめる!)

「あの頃は小さくて素直でなぁ、ほんっと、可愛かったんだ」
「今の姿からは想像できないな」
「あーあ、子どもの頃はあんなに素直で可愛い男の子だったのに、今じゃあんなスレた男になっちゃって、……時の流れは残酷だな」

 そのようにして祭りにも似た楽しげな雰囲気を堪能していると、浮かれ騒ぐ周囲になじまない、深刻な面持ちの一団がいることに気がついた。
 身なりの良い初老の男を中心にして、なにやら相談事をしているのだが、彼らの口から頻繁にある単語が飛び交っている。
 「ドラゴン」という言葉が。
 秋芳とセリカは顔を見合わせた。つい先日ドラゴンに遭遇し、その威容を目撃したばかりなのだ。

「なにかおこまりですか」
「ええ、実は……」

 身なりの良い初老の男は山の向こう一帯のウォルトン地方を治める郷紳(ジェントリ)のジャレイフといった。
 郷紳というのは貴族ではないが先祖代々の広大な領地を持っている実力者で、貴族とともに上流階級を構成する一員だ。
 彼の土地にあるいくつもの村がドラゴンに襲われ、甚大な被害を受けているのだが、救援を求めて帝都オルランドまで行こうにも、この場で足止めを余儀なくされている。

「あの黒い竜ときたら、三日と間を空けず襲ってきやがる。このままじゃ村中の牛が食い尽くされちまうよ!」

 ジャレイフのお供の男たちはみな彼の治める村の住人で、ドラゴンの暴虐を目の当たりにしている。
 彼らの話によればドラゴンはおもに牛や羊といった家畜を襲い、貪り喰っているという。
 ウォルトン地方の主な収入源は牧畜で、これは死活問題だ。それに家畜を食べ尽くしたあと、こんどは人を餌と見なして襲ってくる可能性がある。

「一日でも早くオルランドへ向かいたいのだが、このありさまだ。今からでも引き返してレザリア王国に助けを求めてはという意見もあるのだが……」
「もう二日、早ければ一日待てば水は引く、それまで待てないのか!」
「その一日二日が惜しい。早馬を駆ってアルザーノに行ったほうが早い!」
「……という具合にみなの意見が割れていてな、難儀しているところだよ」
「先ほど黒い竜と言いましたが、ほかに特徴はありますか」
「そうだな、見た者の話では背筋に暗灰色の毛が生えていて、頭に大小六本の角が生えていて――」

 秋芳たちが目撃した闇竜の特徴と一致する。

「この人たちの村を襲っている竜は、私らが見たグリフォンを食べていたやつだね」
「家畜を襲い、グリフォンまで貪るとは、聞きしに勝る貪欲ぶりだな。よっぽど腹が空くとみえる。だれだよ、ドラゴンは幻獣だから食事はしないなんて言ったやつは」
「これは見過ごせないねぇ。彼らからしたらドラゴンを退治してくれるならアルザーノ帝国の魔導士だろうがレザリア王国の神官でもいいわけだ」
「……もしレザリアの連中の助けを借りて事態を解決した場合、この辺りはレザリアの影響力が強くなる。ということか」

 アルザーノ帝国とレザリア王国。両国の間に挟まれるような場所ながらも、中央から遠く離れたこの土地は緩衝地帯ということになる。
 両国は平時から土地の有力者と良好な関係を結び、自治を認めたり、納税を免除するなど優遇し、有事の際には味方になってもらう。最悪でも相手方に協力せず中立を保ってもらうよう、普段から根回しをしている。
 なかには形ばかりとはいえ両国から官位官職を与えてもらい、貴族の仲間入りをする表裏比興な郷紳もいるくらいだ。

「ここでレザリア王国に出てきてもらっては、アルザーノ帝国としてはまずいわけだ」
「そういうことだ。それに神官どころか軍隊でも派遣してきてドラゴン退治を名目に常駐されでもしたら、まためんどくさいことになる」
「じゃあ連絡してやろう。通信魔導器の魔力はまだ残っているだろう」
「もっと早く解決する方法もあるぞ。私がドラゴンを退治するんだ」
「まだ強力な魔術を使える状態じゃないと言っただろう、やめろ」
「ならおまえが行って退治してこい」

 裏庭の井戸から水を汲んで来い。
 とでも言うように、気軽な調子でセリカが言い放った。 

 

辺境異聞 10

 岩と岩の間のわずかな亀裂に指を食い込ませる。
 全身を引き上げ、次の足場に足を置く。
 切り立った崖が遥か上に続き、見上げれば手前に反り返っているかのような錯覚におちいるほどだ。
 峻烈な岩山の頂を目指して秋芳が壁虎功を駆使して崖を登っていた。
 道具はなにひとつ使っていない。肉体の持つ力と技のみで登攀している。
 壁虎功とは、そのような技だ。
 この技の要訣は四肢の筋力ではなく、眼力だ。
 指をかける凹凸部分に自分の重みを支えられるか、それを一瞬で見極める力が大事なのだ。
 壁面を文字通り壁虎(ヤモリ)のように素早く駆け上がる。
 瘤のように突き出た大岩の上に登りきり、一息ついた。

「まるで『X‐ミッション』だな」

 CGなしで危険なアクションを繰り広げるエクストリーム映画の題名をつぶやいて崖を見下ろすと、下から見上げたときよりも遥かに高く感じた。眼下には緑豊かな山々が連なり、渓谷や山上湖がその間隙を埋めている。
 【レビテート・フライ】を使えばもっと楽に山頂へ登ることができるだろう。だが、これからすることを思うとそのような気持ちにはならなかった。
 平安時代。寺社に参拝する貴族が騎馬や牛車ではなく徒歩を選んだように、身ひとつでおもむきたいのだ。





「竜を退治しろ、だと」
「そうだ。おまえが行って退治してこい」
「…………」
「考えてみれば私のこの格好で山登りはしんどいしな、その点おまえは野遊びは得意そうだ」
「…………」
「どうした?」

 怖いのか。とは訊かない。
 目の前の男がドラゴンよりも弱いとも臆しているとも思ってはいない。

「いやな、あの姿を見た後ではどうもな」

 竜は魔獣にして神獣。
 その姿は雄々しく猛々しく、優美で、禍々しくも神々しい。
 神聖にして邪悪な存在。

「東洋の竜ではないが、西洋の竜もやはり侵しがたい気品のようなものがある。あれを狩るのは、正直気が引ける」

 秋芳がもといた世界にも竜は実在した。有名な土御門の竜『北斗』を見たことがあるし、それよりかは格が下がる悪竜の類を修祓したこともある。
 竜とはいえ、動的霊災の一種にすぎない。
 すぎないのだが――。

「竜は古神だという説がある。エリサレス教の神よりももっと古い時代からこの世に君臨した存在だと。だが、だからなんだ。それがどうした。現実問題として人間に仇なす存在を放ってはおけまい。ドルイドたちだって里に下りてきた熊や狼は駆逐するぞ」
「…………」
「この世はしょせん弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。それが自然の摂理だ。神だけが特別じゃない、人だけが特別じゃない。人も神もおなじ自然という円環のなかの存在にすぎない。人も神も、同等なんだ。なんで私らが連中に遠慮する必要がある。神だろうがなんだろうが、バカにはバカと言ってやれ、殴られたら殴り返せ!」
「…………」
「納得できないか?」
「いいや、とっくの昔に納得済みさ」

 秋芳のいた世界、日本では呪術を習得するにあたり『宗教(信仰心)の排除』が徹底されていた。
 特定の思想や信仰に染まらないからこそ陰陽師は神道の祝詞も密教の真言も道教の呪文も唱え、その力を発揮することができた。
 全知全能の、創造主としての神など、いない。
 いても、たいした存在ではない。人が勝てる、あらがえる。その程度のものだと。
 信仰の否定。だが、これも呪だ。
 一種の信仰だ。
 どう転んでも人は信仰からは逃れられない。
 信じるものがなくては、人は強くなれない。

「人も神も鬼もおなじ――陰陽師のやり方で、修祓させてもらう」
「好きにしろ」





 そういうことになって、秋芳は今ここにいる。
 崖を、登りきった。
 開けた場所だ。
 山火事か、それともドラゴンの吐く息によって木々が焼かれてちょっとした広さの草原のようになっている場所だ。
 咆哮が聞こえた。
 険悪な響きがこもっていた。
 一瞬、こちらを見つけた竜の侵入者に対する誰何の声だと思ったが、そうではないようだ。
 咆哮のしたほうへと向かう。





 漆黒の竜が大ムカデと戦っていた。

「ジャイアント・センティピード!」

 ジャイアント・センティピード。
 その名の通り異常に成長した巨大なムカデで、その体長は一メトラを超える。無数の体節のある細長い身体には数十本もの足が並んでおり、それをくねらせて這い進む姿はおぞましい限りだ。
 深い森や密林、洞窟や廃墟などの薄暗く湿ったところを好み、フェジテの迷いの森や下水道にも生息している。
 その牙には運動神経をいちじるしく低下させる麻痺毒があり、狩猟民たちはジャイアント・センティ ピードから採取した毒を鏃に塗って使うほか、錬金術の材料にも使用される。
 だが、このジャイアント・センティピードは規格外のサイズだった。
 丸太ほどの太さと、それに見合った長大な胴を持っている。
 そいつが闇竜と死闘を繰り広げているのだ。
 大ムカデは鎌首をもたげると、巨体に似合わぬ俊敏さでドラゴンの体に巻きつき、人の胴など両断してしまいそうな大顎で食らいついた。
 二度、三度、四度と大きく顎を動かす。
 だが漆黒の鱗には傷ひとつつかない。
 竜が、吠えた。
 遠く離れているにもかかわらず、その声に圧倒されそうになる。
 竜の咆哮には聞いた者の魂を打ち砕く魔力があるという。それは吸血鬼の視線に込められた恐怖よりも強力だった。

「こいつは、こわいな」

 竜に巻きついていたジャイアント・センティピードの体から力が抜け落ち、大地に沈む。
 竜が口を開いた。
 食らいつくのか、それとも灼熱の息吹を吐くのか。

「《昏き褥に横たわり・永久の眠りにつけ・滅》」

 竜語でも、ルーン言語でもない。竜の口から神聖語が、暗黒神に奇跡を願う暗黒魔術が放たれた。
ジャイアント・センティピードは大きく痙攣すると、動かなくなった。
 死んだのだ。
 ドラゴンが使ったのは暗黒魔術【デス・スペル】。
 対象の命を一瞬にして奪う死の呪文。
 闇竜が暗黒神と関係があり、闇の魔術を行使するというセリカの説明は本当だったようだ。
 おのれの屠った大ムカデに一瞥もくれず、悠然と立ち去ろうとする。
 背後に見える大穴が竜の住処なのだろう。

「竜よ」

 その背にむかって秋芳が声をかける。
 秋芳に竜語の心得はない。だが翻訳の魔術を使ったので、相手には竜語で聞こえている。
 闇竜が翼をはためかせ、秋芳のそばに降り立った。
 その目は剣呑な輝きを帯びている。

「地を這う小さき者が、我に呼びかけるとは、不遜!」

 竜の言葉も翻訳され、人の言葉として秋芳の耳にとどく。
 竜が息をするたびに硫黄の臭いが鼻をついた。喉が大きく膨らんでいる。
 炎か。
 死の言葉か。
 いずれが放たれても無事ではいられない。

「そうだ。俺はおまえを呼んだ」
「なぜ、我を呼んだのか」
「賀茂秋芳が、黒き竜に問う。なぜ人里を襲い、奪うのか」
「獲物を狩るのに理由がいるか」
「腹が減っているのか」
「いかにも」
「ならなぜそのムカデを食べない」
「毒ある地虫をだれが口にするか!」
「毒はおまえのような竜族をも害するのか」
「笑止。毒ごときで我が身は害せぬ。ただ、不味いのよ」
「不味いか」
「不味い」
「不味いから食べないのか」
「不味いから喰わぬ」
「腹がくちくなれば人里を襲わないか」
「腹が満たされているうちは」
「腹が減っても人里を襲わないで欲しい」
「できぬ!」
「ただとは言わない」
「なんだと」
「条件を飲んでくれたら、おまえに与えられるものがある。貢ぎ物だ」
「それは、なんだ」
「賞味」
「ショウミ!?」
「おまえに美味い『料理』を食べさせてやる。その味に免じて俺の頼みを聞いて欲しい」
「料理だと!」

 竜がふたたび吠えた。
 背中に生えた闇色の体毛が大きく逆立ち、鼻の穴からは黄色がかった煙のようなものが立ち上がった。

「小さき者の小細工を我に供じるというのか! 不遜だぞ!」

 竜の怒りは今にも爆発しそうだった。

「人の料理を食べたことはないのか」
「ない!」
「料理をすれば、そこのムカデが美味くなる」
「なんだと?」

 竜が首を伸ばしてきた。その首は長く、秋芳のすぐ前まで迫っている。
 秋芳を殺す気があるのなら息吹や呪文を唱えずとも、ひと噛みで終わるだろう。

(なるほど、たしかに闇竜は貪欲だ。餌に食いついてきた)

 秋芳は動じない。胸を張って宣言した。

「美味いものを食わせてやる」





 大地に穿たれた大穴は即席の鍋となり、中に注がれた熱湯がぐつぐつと煮立っていた。
 秋芳はそこにジャイアント・センティピードを放り込む。

「こうすると体内の毒がみんな吐き出されるんだ。この湯は毒でいっぱいだから飲むなよ。不味いからな」

 さらに大ムカデの頭を切断。ムカデの毒素は頭部に集中しているので食用には適さない。
 胴体の殻を切り落とし、中身を押し出した。身は白く透明で、海老の剥き身のようだった。
 それを綺麗に洗って完全に毒を落とす。
 真ん中部分の白く分厚い部分を串に刺してソースを塗る。
 ソースは特製のものだ。
 トマトをすり潰して液状にしたものに水、塩、胡椒、蜂蜜と混ぜて一緒に煮て作る。
 ソースをかけたらジャガイモ、ニンジン、リンゴと一緒にパイ生地に包んで焼く。
 残っているソースも焼きながら塗りかける。まんべんなく薄茶色になってきたらできあがりだ。
 これらの食材や調味料は【アポート】で取り寄せた物だ。
 あらかじめ転送用の呪印を描いた木箱に必要な物を詰めてある。
 秋芳は最初からドラゴンに馳走するつもりだったのだ。
 今でこそ霊災に対しては直接的な呪術をもちいて修祓する方法が一般的だが、昔はそうではなかった。
 西洋のエクソシストのように神の名を挙げて高圧的に悪魔を追い払うのではなく、米や酒を供えてもてなし、なだめて、鎮めて帰ってもらう。
 それこそが鬼を、あらゆる悪しきものを人の世から返す呪術であった。
 人々の心に神仏に対する畏敬が、自然に対する感謝と畏怖。人知を超えた存在への理屈ではない信心が、真摯な『祈り』があった時代の呪術――。

「できたぞ、食べろ」

 平たい岩の上にクッション大の特製パイがいくつもならべられている様子は、まるで巨人の食卓だ。
 闇竜がそのうちのひとつを口にする。

「サクッ、サク…サク…モニュ…モグ…モニュ……モニュモニュ…………淡旨!」

 秋芳も味見したが、さっぱりとしてほのかに甘味のある白身肉に特製のソースが絡み合い、見事な味に仕上がっていた。

「不味いはずの地虫がとろりと甘い。味気ないはずの野菜や果物も濃厚で美味。このような物を口にするのははじめてだ」
(良かった。ドラゴンの味覚も人間と大差ないみたいだ)

 ライツ=ニッヒ作『神々の包丁』に載っていたセンティピード・パイのレシピを忠実に再現した料理はドラゴンの好みに合ったようだ。
 
「至福……」
「今のパイは即席のオードブル。次は用意してきたメインディッシュを賞味してくれ」

 木箱の中に用意してきた肉塊を切り分け、先ほどとは別のソースを塗って短冊焼きにした。

「ぬぅ……、牛か、豚か、羊か……。わからない。これは、なんの肉だ?」

 肉の焼ける匂いに鼻をひくつかせたドラゴンが不思議そうに訊く。竜族の鼻でも判別がつかない未知の食材に興味津々だ。

「いくつかの肉がまざっている。だが、それを言ってはつまらない。ゆっくりと、味わって。自分の舌であててみろ」
「ようし……ガモッ、ガプ…ギュウウウ……ナポ、モギュ、モギュ、モニュモニュ……こ、これはいったいなんだッ!?」

 甘い香りがたちまち口いっぱいに広がる。これはただの牛肉ではない。
 しかも噛むたびにちがう味がする。脂身のやわらかさ、さくさくと口当たりのいい甘さ、様々な味が入り乱れて変幻自在。曲芸士が様々な技を次々に繰り出すようで予測がつかない。

「わからん! これはなんだ!? なんなのだ、教えよ!」
「ひとつは子羊の尻の肉、ひとつは子豚の顔と耳、ひとつは子牛の腎臓、そして鹿の肉に兎を混ぜたもの。牛、豚、羊、鹿、兎。肉は五種類だが豚と羊が合わさればまた別の味、鹿と牛をいっしょに噛めばまた別の味。順番による変化を無視すれば二十五通りになる」
「おおう……」
「これが、料理だ。人の業だ」
「おおう!」
「俺からの貢ぎ物は気に入ってもらえたかな」
「至福……。不思議だ、美味いと思う、だが以上に腹が満たされる、まるで一〇〇〇頭の牛馬を食したかのような満腹感だ」
「料理とは人類という種が持つ固有魔術に等しい。ただ獲物を狩って貪るのでは、この味と満足感は得られない」

 食事というのはたんなる栄養摂取の一過程ではない。
 動植物を殺し、命を奪い、その魂を吸収する一種の儀式。呪術としての要素を持つ。
 料理もまた同様である。
 素材である動物や植物に細胞レベルで残留した気と、調理する人間から発散されて食べ物にうつる気を消化器官を通じて食事する側の魂に吸収させる呪術。
 これこそが、料理。
 料理とは、呪の一種なのだ。
 秋芳は、ドラゴンに呪をかけた。

「それにこのソース。これは先ほどのものとはべつのソースだな」
「オリーブオイルにエシャロットとニンニクをすりおろして作った。平凡だが、風味は限りなく豊かだ」
「料理とは、奥が深い……」
「人里を襲うのを止めると約束するなら、お礼にこのような料理を一年に一度捧げるようこの辺りの、ウォルトン地方の人間たちに話をつけよう」
「一年に一度か」
「そうだ。永遠にも等しい長い寿命を持つ竜族にとってはたいした間ではないだろう。先ほどの料理で一〇〇〇の牛馬を食べたに等しいと言ったじゃないか、年に一度くらいの食事が、ちょうどいいのさ」
「うむ……」
「――それと、おまえの力で彼らの生活が豊かになれば、より上等な料理が用意できるかもしれない」
「どういうことだ」
「その牙と爪、激しい炎の力をもってすれば岩土や木々を除くこともできるだろう。そこに人が田畑を作り牧草地を広げて牛や羊の数を増やせば、安定して捧げ物を用意できる。彼らの神として生まれ変わるのだ、黒き竜よ」
「なにやら体よく利用されているような気がするが……」
「美味い飯が報酬では不服か?」
「否。よかろう、我は神となる」
「では、黒き竜よ、おまえの名はなんという?」
「我に名はない」
「では、料理のついでに俺から名前の贈り物だ。黒き竜よ、おまえの名は『ヘイフォン』だ」
「おお、人の子が、定命の者が我に名をつけようというのか、その名を受け取れば、それこそが我が『真の名』になってしまう」
「ではみずからで神としての名を考えるか」
「ヘイフォン……。不思議な響きの言葉だ」
「俺の生まれた世界にある言葉で、意味は〝黒き風〟だ。」
「黒き風……。よし、おまえのつけた名が気に入った。おまえのつけた名こそが我にふさわしい。これより我が名はヘイフォンだ」
「では彼らに挨拶しに行こうじゃないか、ウォルトンの守護神ヘイフォンよ」

 秋芳は竜の背に乗り、セリカとジャレイフたちのもとへと戻った。





 フェジテ。
 魔術学院の会議室では講義終了後、連日のように喧々囂々の議論がおこなわれていた。

「異邦人の入学は滅多にありませんが、まったく前例がないわけでは――」
「――彼の身元については公爵家が保証しています。たんなる流れ者とはわけが――」
「わかっている。それに本人も最下位とはいえ貴族の序列にくわわる以上、無下にはできない」
「入学自体は問題ありません。ただこの微妙な時期に入れるのはどうかと。あと半年近く待ってもらい春から他の新入生と共に迎えては」
「あの魔力容量と意識容量。系統適性検査の結果はご存知でしょう。アルフォネア教授を除けば我が学院はじまって以来の逸材ですぞ。それを半年以上も寝かせておくなどもったいない!」
「そうは言ってません」
「へそを曲げて他所に引き抜かれてしまうかも。学院に籍を置くだけおいても……」
「だからとりあえず入学だけさせて――」

GOOOAAAAAッッッ!!

「んなななッ、なにごとだ!?」

 百家争鳴の議論をも打ち消す雷鳴の如き轟音。
 なにごとかと外へ出てみれば、漆黒の竜が翼をはためかせて舞い降りるところだった。

「なんだって、ドラゴン!?」

 その背には黄金を溶かしたかのような豪奢な金髪と宝石の煌めきのような瞳をした白皙の美女が立っている。

「ア、 アルフォネア教授!?」
「おやおや、在籍講師陣がそろってお出迎え……。というわけでもなさそうだね。まさかまだアキヨシの入学の是非を巡って議論していたとかじゃないだろうね」
「そのまさかだ、セリカ=アルフォネア! 聞けば件のカモ・アキヨシを連れ回しているそうじゃないか。彼はまだ正式に入学していないんだぞ。勝手な真似は慎んでもらおう」

 二十代半ばの、神経質そうな眼鏡の講師――ハーレイ=アストレイが進み出て非議する。

 GOOOッ!

「ヒェッ!?」

 漆黒の竜ヘイフォンが鼻から蒸気をあげて、うるさい人間を一瞥した。

「とっとと決めちまえよ」

 セリカはそう言って竜の背から軽やかに跳ぶと、優雅に降り立った。体重があることを感じさせない、ヒールの高い靴を履いている者の動きとは思えない身のこなしだ。

「物事には順序というものがある。学年はカルネの月一日にはじまり、翌年フィリポの月三十一日に終わるのだ。今この時期に第一次生を編入するのは学院側としても準備を必要とし、どの講師の担当にするかも決めなければ――」

 GAAAッ!

「ヒェッ!? そ、そのドラゴンを引っ込めないか、セリカ=アルフォネア!」
「このドラゴンは私の使い魔じゃない。彼のだ」
「正確には『使い魔』でもないんだけどな」

 セリカの後に続いて秋芳も降りる。

「会議は踊る、されど進まず。状態のようだな。まぁ、横紙破りをするつもりはないから結果が出るまで気長に待つさ」

《その人を、すぐに入学させてあげて》

「――ッ!?」

 内なる声が、セリカの脳内に響いた。
 だが、これはいつもの内なる声ではない。玉の鈴を鳴らしたかのような、玲瓏たる美声。それもまだ若い、少女の声だ。

《その人は貴女の目的を果たす力になってくれる。貴女がふたたび魂に傷を負った時、彼が癒してくれる。――彼を地下の奥まで連れてきてちょうだい、彼はそこから帰れる――貴女の求めるも得られる――》

「おい、どうした?」
「担当なら、私がなる」
「なんだと?」

 この発言には秋芳以外の、その場にいた講師陣もおどろいた。セリカは学院の地下に存在する古代遺跡の探索を定期的におこなう関係で、学生の指導はしない通例なのだ。

「ナーブレス公爵家の後援にシーホークの街を守った実績、騎士爵という身分、適性検査の結果――。アルザーノ帝国魔術学院が彼を拒む要素はなにひとつ存在しない。学院長、ご決断を」
「……うむ、そうだな。カモ・アキヨシの入学を認めよう。彼は本日をもってアルザーノ魔術学院の第一次生とする」

 こうして、賀茂秋芳はアルザーノ帝国魔術学院の正式な一員となった。 

 

帝都にて

 時計塔、サンシャイン凱旋門、聖バルディア大聖堂、サンタローズ大通り、フェルドラド宮殿、帝国博物館、王立公園(ロイヤル・パーク)、公衆浴場、闘技場、賭博場、劇場、美術館、図書館、施療院、交易所、アルザーノ帝国大学内には魔術に限らず様々な技術や知識を教える教育機関が入っている――。

「もし君が帝都オルランドに飽きることがあるとしたら、それは人生そのものに飽きるということさ」

 とはライツ=ニッヒの著作『セルフォード大陸の歩きかた』に書かれた名言だ。活力と熱気にあふれた街は一日ごとに人口と建物が増え、変化は目まぐるしく、オルランドに暮らす人々は退屈する間もない。

 先代女王は奉神戦争終了後の混乱にあった国内をまとめ、秩序を回復した。
 街道を整備し、無料の休息所や施療院を設置し、多くの井戸や貯水地を作って耕地を開いた。
 治水、開発、防衛、福祉。その業績ははかり知れない。
 政治家であると同時に文化人で、すべての宗教と学芸を平等に保護し、聖俗貴賤を問わないボランタリズムを大いに奨励して社会の格差や不平等を極力解消しようと、大いに尽力した。
 その弱者救済の精神は現女王アリシア七世にも色濃く伝わっている――。

「――セツルメント運動をさらに進めたようなものか。しかしこうなると既得権益層や保守派からは煙たがられていたのは、想像にかたくないな」

 秋芳は歴代の女王の偉業を称えるコーナーを後にすると、次の展示場に向かった。
 目の前に広がるガラスケースの内容物は超魔法文明時代の遺品で、刀剣とその鞘、酒杯、皿、衣類などの日用品がならんでいた。
 聖暦前に存在していたとされる古代魔術(エインシャント)を使う古代人たちが築いた文明。その遺物には古代魔術による物理的・魔術的な破壊を無効化する霊素皮膜処理(エテリオ・コーティング)が施されており、数千年の時を経ても当時の姿のままで現代まで残っている。
 何千年も昔にそれらを作り、使用した人々。何千年か後にそれらを発掘した人々。
 彼らの営みを想像すると、胸が熱くなる。
 アルザーノ帝国博物館。その巨大さと所蔵品の多さから、一日どころか一週間あってもすべてを見学できないと言われている。

「まるで大英博物館だ。無料で見学できるところも似ている」

 イギリスにある大英博物館の入場料は無料。正確には入場者による任意の寄付金制で、入り口の所に透明なボックスがあり、そこに寄付金を入れて入るのだ。
 ここアルザーノ帝国博物館もおなじシステムを採用している。

「この国では日本とちがって国民の税金が正しく有効に使われているなぁ」

 まだすべての展示場を巡っていないが、閉館時間になったので退館することにした。
 夕焼けに染まった高層建築が目の前に広がる。そのひとつひとつがフェジテの魔術学院の本校舎並の規模だ。
 高さ一〇〇メトラを越える聖バルディア大聖堂や千人以上が入れる帝国劇場など、壮観のひとことに尽きる。
 早くも地上の家々や運河沿いの道にはガス灯がともって、大きな蛍が群れをなすように明るい。
 フェジテやシーホークにも街灯が灯されるが、立派なガス灯が立つのは大通りや観光スポットだけで路地にまわるとお粗末なものだった。柱から柱へロープを渡し、そこにランプをかけただけだ。もしランプを故意に割ろうものなら厳罰に処せられた。割れたランプから火と油が漏れて火事になってしまうからだ。
 また家庭用の照明といえばランプや蝋燭で、ガス灯のほうが明るかったが、ガス漏れやガス爆発の危険が常につきまとっていたし、ガスの臭いで頭痛をおこす人もいた。銀の食器がどす黒く変色するので、大邸宅の厨房や食堂では好まれなかった。
 だからガス灯は主として屋外でもちいられるものだった。屋内で使われるとすれば、商店のショーウィンドウや屋内体育競技場くらいだった。
 フェジテもそれなりに発展した大都市だが、帝都オルランドの発展ぶりはそれ以上で、夕日とガス灯、自然と人工。二種類の橙色の光に照らされた帝都の姿は、とても雄々しく、美しい。
 そう、ここはセルフォード大陸北部イテリア地方、アルザーノ帝国首都オルランド。
 秋芳は叙勲式に出席するため、オルランドへ出向いていた。
 つつがなく騎士爵の位を戴き、空いた時間を利用して帝都見物をしている――。
 わけではなかった。

「明日から魔術競技祭だが、この分じゃ間に合いそうにないな」

 アルザーノ帝国では儀礼や祭典などの公式行事には女王陛下と、伴侶である王配殿下がともに出席するのが習わしだが、アリシア七世の王配殿下はすでに逝去しており、ひとりですべての公務に出席している。
 これはなかなかに激務であり、王配殿下が存命の頃は各地への式典には王配が行啓し、帝都内での式典には女王が行幸する。という具合に公務を分担していたくらいだ。
 そのため近年では成人を迎えた第一王女レニリアが一部の公務を、もっぱら帝都内での行事を引き受けるようになっていた。
 今回の叙勲式は各地を巡幸中のアリシアに代わってレニリアが出席して親授するはずなのだが、予定日を過ぎても叙勲式がおこなわれることはなかった。
 もともと蒲柳の質であり、急に体調をくずしたという噂があるが、さだかではない。
 予定通りならフェジテに帰って明日からの魔術競技祭を観戦できたのだが、どうやら今回の観戦は無理のようだ。
 魔術競技祭――。
 その名の通りアルザーノ帝国魔術学院で年に三度に分けて開催される、学院生徒同士による魔術の技の競い合い。それぞれの学年次ごとに、各クラスの選手達が様々な魔術競技で技比べをおこなう。
 総合的に最も優秀な成績を収めたクラスの担当講師には特別賞与が出るため、今回は二年二組の担当講師であるグレン=レーダスが大はりきりしていた。
 入学して間のない秋芳はみずからの意思で参加を見送ることにした。
 そもそもクラス対抗戦にもかかわらず、秋芳は『一年セリカ組』ただひとりの生徒である。
 この魔術競技祭。ひとりの生徒が全種目掛け持ち可能なシステムなので、べつにひとり参加すること自体はおかしくないし、参考のために好きな競技をひとつ選んで経験してみることもできるのだが、いまいち気が進まないので辞退した。
 担任であるセリカは特に無理強いすることなく秋芳の意思を尊重した。
 悪魔や吸血鬼を倒し、ドラゴンを手なずけるようなやつには、学生のお遊びなんて今さら物足りないんだろう。
 勝手にそう推し量ったようだが、少しちがう。
 秋芳はイベントごと自体はきらいではない。むしろ好きなほうだ。
 だか、この魔術競技祭はどうにも好きになれなかった。
 あまりにも内輪向けだったからだ。
 たんなる軍事技術ではない、破壊や殺人の技ではない、魔術の楽しさ面白さ便利さを外部に向けて宣伝するイベントだと思っていたのだが、ちがった。
 参加者も観戦者も王族や貴族といった魔術関係者のみ。一般人は蚊帳の外だ。
 あくまで内々で己が技量を誇示するだけ。
 これがどうにも好きになれない。
 魔術の剣呑さを払拭して娯楽性や利便性を人々にアピールする良い機会だと思うのだが、そういうことは求めていないらしい。
 もったいない。
 それに、それならばそれで遊興が過ぎる。
 軍事技術をもちいてのお遊びではないか。
 魔術は人殺しの技術だと断言したグレンがそれに乗っかっている姿は、秋芳を鼻白みさせた。




 
 受勲者たちはみなおなじホテルに宿泊することになっている。
 その名も『ゴールデンシープ』。アルザーノ帝国が誇る魔導技術が惜しげもなく使われており、全館に魔術による照明が灯され、魔力を動力とするエスカレーターやエレベーターが備えられている。すべての個室に水道がいきわたり、シャワーつきのバスルームが完備された一流ホテルだ。
 無位無冠の身から爵位を授かる者は秋芳のみで、他の出席者は代々の爵位を襲爵する者や功績が認められて陞爵する者、特別な勲章を授与される者、みな由緒ある貴族たちばかりだった。
 宿泊代はもちろん、朝夕の食事も無料だが、のんきにただ飯を楽しむ気にはならなかった。
 貴族同士のつき合いというのも大変だ。公の場では爵位の位で挨拶する順番などの決まりがあり、なかなか気を使う。
 食事の後は自然とおなじ位の者同士が集まり、歓談する流れとなるのだが、やはり主な話題は叙勲式の延長についてだった。

「いったいいつになったらはじまるのやら、せめて延長の理由くらい教えて欲しいものだ」
「まったくです。宮廷貴族とは異なり我々のような領地貴族は国許にたくさんの業務をかかえているというのに」
「おや、聞き捨てなりませんな。官僚仕事も楽ではありませんぞ」
「やはり女王陛下の代わりはレニリア姫にはまだ早すぎなのでは」
「……そのレニリア姫ですが、御悩になられたという話も――」

 そのような話が交わされていると、ひとりの紳士が末席にいる秋芳に気さくに語りかけてきた。

「やぁ、シーホークの英雄くん。ここのホテルの料理はどうにも薄味だね。つい最近シルヴァース地方で食べた羊鍋が濃い味つけだったから、よけいに薄く感じるよ」
「これはヴァドール伯爵。このたびは栄えある文化勲章受章おめでとうございます」
「栄誉など蛍の光のごときもの。遠くから見れば輝いているが、近くに寄れば熱も明るさもありはせぬ――。そもそもまだもらっていないしね。受勲式はいつになることやら」

 カブリュ・ヴァドール伯爵。放浪伯や詩人伯爵の異名を持ち、吟遊詩人として各地をさすらう異色の貴族だ。
 吟遊詩人とは楽曲を奏でる歌い手であると同時に歴史的な事実や物語の語り部でもある。
 歴史や物語についての研究が評価され、このたび文化勲章を賜ることになった。

「シルヴァース地方に行かれていたのですか」

 レザリア王国の宗教浄化政策で故郷を追われた遊牧民族シルヴァース一族。その民族名がそのまま彼らの故郷である大草原の通称になっていた。

「あちこち旅したけど東方にはまだ行ってない。ぜひ君の故郷のことについて聞かせてくれないか」
「私の生まれた国は東の果ての果て。極東の海に浮かぶ小さな島国です。とても田舎で、取り立ててお話しするようなことはありませんよ」

 ここルヴァフォース世界の東方にも秋芳の住むアジアに似た国々が存在する。初対面の人にいきなり異世界云々と説明するのは話がややこしくなるため、東方の小さな島国出身ということになっていた。

「そう言わずに、なにかあるだろう」
「そうですねぇ……。失礼ですがヴァドール伯爵は最近医者から肝臓が悪いと言われていませんか」
「ほぅ、なぜそう思うんだい?」
「吟遊詩人として各地を巡り歩く。長旅が続くとどうしても干し肉などの乾燥食品が多くなるでしょう。ビタミンやミネラルが不足して肝臓に負担がかかる」
「ふむ」
「シルヴァース地方は羊肉とチーズが名産ですが、これはどちらもコレステロールが高い。そして内陸部にあるシルヴァースを旅するアルザーノ人は海の味を懐かしみ、携帯食に干した魚や貝を用意しますが、これらはプリン体を多くふくみ、やはり肝臓に悪い」
「ふむふむ」
「肌に日焼けとは異なる黒ずみが見えます。白目の部分と爪が黄色がかっていて、これは肝臓に異常がある人の症状です。そして今あなたはお茶でも酒でもない生姜水(ジンジャーエール)を飲んでいる。肝臓を痛めているという自覚があるのでアルコールやカフェインの摂取を控えている」
「医者から言われた内容そのものだ。一目で症状を言い当てるとはこのヴァドール伯カブリュ感嘆の極み! 騎士爵殿は医学にも明るいのか」
「さて、そこです。私の生まれた国には鍼灸という独特の医療法がありまして――」

 手のひらにある老宮、手の甲にある陽池、足の甲にある太衝、足の親指と人指し指のつけ根にある行間、膝の内側にある曲泉、背中にある肝兪。
 これらはすべて肝臓の働きを良くする経穴だ。
 好奇心旺盛なヴァドール伯爵はそれらを点穴してもらった。

「あいたたた!? ……しかし、この痛みが妙に心地好い。身体が温まってくるようだ」
「執筆で目も酷使していることでしょう。この太陽穴は眼精疲労に効果があります」
「おお、目のかすみが消えて鮮明に」
「腰痛には帯脈と命門を……」
「重りが取れたように身体が軽くなった!」

 変わり者で有名な放浪伯が見なれぬ東方人に妙なマッサージをされている。珍妙な光景に惹かれて、いつの間にか人だかりができていた。
 そのうち好奇心旺盛な若い貴族たちも東方渡来の鍼灸を受けてみようと挙手しだす。

「痛風にはまず足の照海と京骨を――」
「おお、心なしか痛みがやわらぐような……」
「最近どうも怒りっぽくて」
「では耳の神門を――」
「この鍼灸という技は素晴らしい。我が国の法医呪文にも取り入れてはどうか」

 盛り上がりを見せていた場の空気を冷やすひとことが放たれた。

「……騒がしいぞ。ここはいつから未開のまじない師の祈祷場になったのかね」
「クェイド侯爵!?」

 口髭を生やした痩身の老紳士が不機嫌さを隠さず若い貴族たちを一瞥した。

「由緒あるゴールデンシープ内で蛮族の下品なまじないに興じるとは、貴公らには分別というものがないのか。みっともない、すぐに服を正せ!」
「これは、お見苦しいところを」

「帝国貴族たる者がいかがわしい真似を、そのうちそこの蛮族から〝蝋を塗った鍋〟でも買わされるぞ」

 蝋を塗った鍋。これは魔術師たちの間でよく使われる、魔術を装った詐欺を指す俗語だ。
 錬金術を謳った詐欺のなかでもっとも有名な手口がもとになっている。
 その手口とは、まず少量の金を鍋の底に入れておき、上から蝋を垂らす。そのままではばれるので鍋とおなじ色を塗り、鉄や鉛といった材料を入れて熱すれば蝋は溶けて蒸発し、鉄や鉛に交ざって金が出てくる。いかにも金を生み出したかのように見せる。錬金術詐欺の常套手段で、いまだに類似の詐欺に騙される者がいるくらいだ。
 つまりクェイド侯爵は秋芳を、初対面の人間を詐欺師呼ばわりしているのである。

「それにしても……」

 クェイド侯爵の秋芳を見る目は、はめをはずした若輩者を軽視するような生やさしいものではなかった。
 この世でもっとも愚かで醜い罪人を、いや獣や虫けらを見たかのように顔をしかめる。

「どこの馬の骨ともわからぬ下賎の者などに放埒に褒賞するとは。犬や猿にも官位官職を与えるのは時間の問題だな。……いや、すでに黄色い猿なぞに賞を下賜しているか」

 …………ッ!

 秋芳に対して侮蔑と敵意をむき出しにして嘲笑している。言葉の冷水によって冷やされた場の空気は、さらなる言葉の冷水によって氷点下以下にまで冷やされた。

「言葉が過ぎますぞ、クェイド侯!」

 異を唱えたのはヴァドール伯だった。

「彼は悪魔やゴーレムを使役するテロリストの襲撃からシーホークを護った英雄。その功績により騎士爵の位をうけたまわるのは当然ではないですか」
「それが分不相応と言っているのだ、異民族に叙勲するなどなげかわしい! そもそもそやつがテロリストの仲間ではないと言い切れるのか。自作自演ではないのか、んん? 」

(思い出した。こいつがあの有名なクェイド閣下か。……あれ? 『テロリスト』に『自作自演』……。なんかひっかかるな。なにか、わりと重要なことを忘れている気がする。双角会がらみだったような気がするが、こっちは、思い出せん)

 常に一触即発の状態にあるレザリア王国と折衝し、紙一重の平和を維持している辣腕外交官。それがクェイド侯爵に対する世間の評価だ。
 そしてもうひとつ、彼は過度の外国人嫌いでも有名だった。
 周辺諸国への侵略と弾圧を続けるレザリア王国に対してアルザーノ帝国は辺境の国々と積極的に友好を結び、好条件で異民族を受け入れている。その中にはレザリアによって祖国を滅ぼされた人々も大勢いた。
 レザリアを憎む国々と手を結ぶ合従策の布石だ。
 これにより聖エリサレス教のみを唯一絶対のものとし、信仰の自由が存在しないレザリア王国とは異なるアルザーノ帝国には民族も宗教も異なる人々が多くあつまった。
 外国人を積極的に受け入れることは労働力の確保と消費の拡大にもつながる。
 こんにちの繁栄は彼らの働きによるものが大きい。
 女王の異民族受け入れ政策は人道的な見地からだけではなく、実際に利益を生み出しているのだ。
 これが、クェイド侯爵には気にくわない。
 彼は日頃から「私はレザリア王国になら出かけるが、シルヴァースや東方のような不潔で野蛮な国にはいかん。レザリア人は狂信的だが少なくとも我々とおなじ人間だ。だが辺境の蛮夷どもときたら、毛皮のない獣ではないか」などと公言してはばからず、「アルザーノ帝国領から目障りな外国人労働者を追い出せ」という強硬論の持ち主だった。

「クェイド侯爵。あなたが私の出自を卑しむのは自由ですが、すでに認められている功績をいぶかしむのは帝国賞勲局の選定、さらには女王陛下の差配に問題があると言っているようなものですよ」
「これはこれは、猿かと見えたのは虎の威を借る狐であったか。だがアルザーノ帝国と女王の名を掲げれば万事解決するとはゆめゆめ思わぬことだ。その名が仇になり敵を作ることもありえる」

 アルザーノ帝国は一枚岩では無い。
 帝国政府内でも国軍省や強硬派議員からなる武断派と魔道省や穏健派議員からなる文治派とのいさかいが絶えず、その二派のなかに王室直系派、王室傍系派、反王室派、過激派極石、保守的封建主義者、マクベス的革新主義左派、帝国国教会右派といった派閥がある。
 さらに、それぞれに青い血側と赤い血側など、アルザーノ帝国は様々な思想主義と派閥が渦巻く混沌の魔窟といえた。
 そもそもアルザーノ帝国王家の始祖は犬猿の仲であるレザリア王国王家の系譜に連なっているのだ。そのため帝国貴族のなかでさえアリシア七世の統治正当性に異を唱える者まで存在する。

「金言、肝に銘じておきます」
「アルザーノではアルザーノ人のするようにせよ。野蛮な習慣や愚かな迷信を持ち込むな」

 クェイド侯爵はそう言い捨てると若い貴族たちに背を向けて、別の貴族たちと歓談をはじめた。

「――人種差別のどこが悪い。民族や人種には優劣の差があるのだ。我々のような優秀な民族と、そうでない者が確実に存在する」
「――我々の国から富をかすめ取ろうとする貧乏人どもを追い出さなければ、富を食いつぶされてしまう」

 似たような思想の貴族たちと、外国人を蔑視する内容の話に熱をあげている。

「やれやれ、あの老人はレザリアのほうばかり見過ぎて自国の現状が見えないみたいだね。オルランド市民が深夜の土木作業や下水処理みたいな汚れ仕事をやらなくなっている現実があるのに、外国人労働者を全員追放なんかしたらオルランドは都市として機能しなくなるってのにさ」
「でしょうね。街にはゴミがあふれ返り、上下水道の工事もできなくなる。ヴァドール伯は異民族や労働者階級の人々に対して理解があるようで」
「あちこち旅をしているからね、だれもがみんな外国人さ。レザリア人だってみんながみんな狂信的ってわけでもないのにねぇ」
「そのレザリア相手にあんな調子でよく他国との交渉が務まるものですねぇ」

 ヘイトスピーチに花を咲かせるクェイド侯爵を遠目に当然の疑問を口にした。外国人嫌いの人間に、外国相手のやり取りができるとは思えない。

「実際の彼の人となりを知る者でそれを疑問に思わない人はいないよ。我が国の誇る敏腕外交官がことごとく追い返されたのに、なぜかクェイド侯だけはレザリアで歓迎されているんだよね」
「ははぁ……。その忠臣を厳にして、その賂いを薄くし、その使いを稽留して、その事を聴くなかれ。亟かに代わりを置くことをなさしめ、遺るに誠事をもってし、親しみてこれを信ぜば、その君まさにまたこれに合わんとす。苟もよくこれを厳にせば、国すなわち謀るべし――」
「それはなにかの呪文かい?」
「交渉の為に隣国から使者が来て、その者が有能ならばなにひとつ与えずに返せ。その者が無能ならば大いに与えて歓待せよ。そうすれば隣国では無能な者が重用され、有能な者が失脚する。そしてやがては滅ぶ。という、東方に伝わる兵法書に書かれた言葉です」
「なかなかに達見した言葉だ。このヴァドール伯カブリュ感嘆の極み! ほかにもそのような含蓄のある名句はおありかな」
「国が亡びるのは敗北した時ではなくて、敗北を隠すようになった時だ」
「これまた名言だ。それもその兵法書に書いてある言葉なのかな」
「いいえ、私の言葉です」
「ハハハッ! その言葉いただきだ。ぜひこのヴァドール伯カブリュの作品で使わせてくれ」

 しばらくしてクェイド侯爵が退席すると、彼に合わせて談笑していた貴族たちがあきれ顔で嘆息した。

「ふぅ、やれやれ。侯爵の外国人嫌いも筋金入りですな」
「まったく、あんな国際感覚でよく一国相手の交渉が務まるものだ」
「アルザーノよりもレザリア人気質なので気が合うのでは。異民族に対する弾圧好き同士で気が合うのでしょうよ」

 どうやら考えていることはみなおなじらしい。

「レザリアから相当もらっているらしい。なかなか羽振りが良くてあちこちにばらまいているそうだ」
「今回の勲章も金で買ったようなものだろう」
「私は侯爵の外国人嫌いの噂を聞いていたましたが、あれほどとは。あれでは例の噂も真実味を帯びますな」
「ああ、あの……」
「その例のあれ。侯爵とおなじ反女王、下民嫌いのギルモア大公も参加しているとか、していないとか」
「しっ、声が大きい……」

 上流階級のゴシップ好きはいつの時代のどこの国でも変わらないらしい。こそこそとなにやら良からぬ噂についての話題におよんでいる。
 いやでも内容が耳に入ってきた。
 いわく、不法移民や非市民、貧民街の人々を標的としたハンティングを楽しんでいる。
 さらに上流階級のセレブたちから高額な手数料を取ってゲームに参加させているという。

「彼は郊外に広い土地を持っているからね、そこを自分の狩猟場にしているわけさ」
「そういえばクェイド侯爵はナーブレス公爵のような地方領主ではなく宮廷貴族でしたね。はて、オルランドに自分の家があるのに、なんでここに顔を出したんでしょう」
「そりゃあ外国人に対する悪口をまき散らしに来たんだろ」
「石拳のロルフみたいなやつだなぁ。しかし人狩りとは、物騒な噂もあるものですね」
「たしかに物騒な話だが、そう珍しい類のものじゃない。この手の噂は昔から横暴な貴族にはつきものなんだよ」
「では、その手の噂はあくまで噂。事実だった例はないのですね。東方人である私はクェイド侯爵にとっては狩りの標的になりますから、これは他人ごとではない」
「はっはっは。さぁて、どうだろう。事実は小説よりも奇なり。という言葉があるからね。もっとも騎士爵殿ほどの腕があれば狩人を狩る獣になれるだろう」
「狩るのも狩られるのもごめんですね。狩りってのはどうも好きになれない」
「狩猟は貴族のたしなみのひとつだよ。君も我々の仲間になるのなら好きになったほうがいい」
「まぁ、食べるための狩りなら納得できますが、ブラッド・スポーツやスポーツハンティングの類は苦手で」

 よほど敬虔な聖職者や極端な菜食主義者でもない限り、アルザーノ帝国の人達に狩猟が野蛮な行為だという認識はなかった。
 特に貴族や軍人の場合は馬に乗って弓や銃、時には魔術をもちいて動きまわる獲物の命を奪うことは軍事訓練にも繋がる。
 殺される動物がかわいそう。などという感傷的な気持ちは微塵もなく、貴婦人たちも狩猟場に足を運んで狩りを楽しんでいる。
 また罠などを仕掛けて獲物を取ることは軽蔑され、猟犬と共に獲物を追いこみ、銃などの武器や魔術を使って射止めないと意味がない。
 このように、狩猟はルールのあるスポーツのようなものだと考えられている。

「血肉を食らい、毛皮を獲る。命の一滴も残らず人の糧にする。そういう狩りならいいんだね」
「はい。ガチョウ引きや狐狩りのような虐待や無益な殺生が嫌なだけで、自分達が食べるぶんだけ殺すような狩りなら納得できます」
「まぁ、基本はそうだよ」

 射止めた獲物を持ち帰り、料理人に調理させて客に振る舞う。狩りの後の宴もまた王侯貴族たちの楽しみのひとつだった。狩猟は社交場でもあるのだ。
 また食用以外にも毛皮や骨で衣類や手袋、かばん等を作り、動物の命を無駄なくいただいている。

「しかしそういう考えなら魔戦武闘は楽しめないか」

 魔戦武闘。アルザーノ帝国内でもオルランドの闘技場でのみおこなわれる、魔獣対魔獣。あるいは人と魔獣の戦い。
 その性質上引き分けが存在しない、どちらかの命が尽きるまで戦う死闘。
 近年ではその残酷さから廃止を求める声もあるが、庶民から貴族にいたるまで熱狂的なファンも多く、歴史と伝統のある競技ゆえいまだに続いている、オルランド名物のひとつだ。

「真剣勝負は技量にかかわらずいいものだ。決する瞬間、互いの道程が火花のように咲いて散る……。ああ! あの興奮と熱狂はいちど味わうとくせになる」
「闘争に対する原始的な昂りを否定はしませんが、血生臭いのはどうも。それよりも観劇や庭園散策のほうが好きです」
「これはどうも、騎士爵殿はこの吟遊詩人よりも文化人だね。劇も庭園も最高級のものがオルランドにはそろっている。たとえば――」

 秋芳はしばらくのあいだ、ヴァドール伯爵をはじめ他の貴族達との世間話を楽しんだ。





 夜陰にまぎれて影が走る。
 黒に近い紺色の外套と頭巾を身につけた秋芳だ。
 賀茂秋芳は短気で根に持つ性格である。
 あの場ではつとめて冷静を装っていたが、クェイド侯爵から酷い暴言を浴びせられて腹が立たないわけがない。
 賀茂秋芳は相互主義者である。
 礼儀を知らない者に、礼儀を尽くす必要はない。礼には礼をもって返す、無礼には無礼をもってあたれ。これが秋芳の持論だ。
 なので、留飲を下げるために郊外にあるクェイド侯爵の屋敷へとむかった。
 高価な銀食器や宝石の類を少々頂戴するつもりだ。なんなら現金でもいい、それならば足がつかないので、盗った後に侯爵が毛嫌いする外国人や貧民相手に大盤振る舞いするつもりだ。
 余人からは軽挙妄動だの匹夫の所業だのと言われるかも知らないが、そんな意見はクソ喰らえである。

「君子有三戒。少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得――。君子に三戒あり。孔子様、俺はたった今闘争戒を破ります。しかし悪いのは君子たらんと努力する俺を怒らせたあいつです」

 帝都オルランドの郊外にあるクェイド侯爵の邸宅は質素倹約を良しとして慎ましやかな生活を送るアリシア女王とその治世に逆らうかのように豪華なたたずまいをしていた。
 大運河を望む邸宅は高い塀で囲われ、遠目からでもひときわ目立つ。
 広大な敷地内には山林や草原を模した狩猟場が広がっており、邸宅内の天井や壁は金色で彫刻やシャンデリアなどの調度品がいたるところに飾られていた。
 帝都の近くで本格的な狩猟ができる貴族限定の高級会員製クラブとして使われ、入会費はリル金貨二〇〇〇枚。
 ちなみにリル金貨一〇〇枚で通常の魔術講師の約四ヶ月分の給料である。
 クェイド侯爵と狩りを共に楽しみ、館で宿泊するという一連の流れが最高の接待コースになっていた。

「なんとまぁ大仰な。塀どころか、まるで城壁じゃないか」

 クェイド侯爵の帝都内領土ともいえる土地の外周は焼いたレンガを幾枚にも積み重ねた一〇メトラ近い高さの壁を周囲にまとっている。
 その上端はノコギリ状の凹凸を持つ胸壁となり、城門の両脇と城壁の四方、遠くに見える邸宅の背後には物見の塔がそびえていた。
 組み上げられたレンガ壁の所々には狭い隙間が開いているが、それは矢や銃を放つための狭間といわれる小窓だ。

「ナーブレス邸といった他の貴族の館とはけた違いの堅固さだ。こりゃあ後ろめたいことがあるにちがいない。だいたい貴族の館ってのは存外守りが薄いものだぞ。鼠小僧の忍び込んだ江戸時代の大名屋敷みたいにな」

 鼠小僧が大名屋敷を専門に狙ったことには理由がある。
 市井の人々が暮らす町人長屋には大金は無く、金のある商家はその金にあかせて警備を厳重にしていた。
 いっぽう大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締めつけや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重にできなかった。
 敷地面積が非常に広く、いったん中に入れば内部の警備が手薄であったり、人の出入りが多くまぎれやすいこと。また面子と体面を必死に守る為に被害が発覚しても公にしにくいという事情や、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており、金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいなど、江戸において最も大金を盗みやすい種類の場所であったのだ。

「ご丁寧に対魔術の備えまでしてある」

 秋芳の見鬼見鬼が城壁に施されている魔術をとらえた。
 いかに堅牢鉄壁の城塞であっても、魔術をもちいればたやすく潜入できる。
 深い濠をめぐらせ、高い壁を築いても【レビテート・フライ】で飛び越えられる。
 【セルフ・イリュージョン】の応用で透明になれば衛兵に気づかれることなく侵入できる。
 もし見つかっても 【コンフュージョン・マインド】、【チャーム・マインド】、【ファンタズマル・フォース】などの呪文を駆使して幻惑すれば、切り抜けられる。
 そのため重要施設には対魔術用の備えがしてあることが多かった。
、 魔術の行使に反応してアラーム発報したり、空間に【ディスペル・フォース】を張り巡らせて魔術を使えなくするなどが有名な魔術師返しだ。
 この城壁には後者、【ディスペル・フォース】が所々にかかっており、城壁の近くでは魔術が使えず、あらかじめ唱えた魔術も無効化されるようだ。

「軍の重要施設や王宮だってこんなに警戒厳重じゃないぞ。こりゃあなにか後ろめたいことをしているにちがいない。まさか本当に人狩りだとは思いたくはないが……」

 門を守る衛兵の表情は硬く、同僚と無駄口ひとつきかずに緊張した面持ちで立哨を続けていた。
 もとの世界ならば禁感功――隠形を駆使して容易に侵入できるところだが、この世界では呪術の使用がいちじるしく制限されている。
 気に属する術ならばそれなりに使えるため、気配を絶つ隠形術ならば使用可能だが、やはり精度は落ちる。
 万が一発見されることを危惧し、正面からの侵入は避けて壁面をよじ登ることにした。
 壁虎功を駆使して城壁を登りつめ、鋸壁の内側にある移動用の通路に降り立つ。
 見渡せばクェイド侯爵の居城と思われる屋敷の他にもいくつか建物が見え、敷地内のそこかしこに外灯の明かりが見えた。ガス灯の放つ橙色ではない、白く鮮明な光は魔術によるものだろう。夜だが見通しは悪くない。

「幾何学式庭園というやつか。ブツを頂戴する前に散策してみるのもいいかもな」

 ひときわ強い風が吹き、鳥が羽ばたくような音が聞こえた。見上げると夜空に溶け込むような闇色の翼をした鳥が飛んでいた。
 否。鳥ではない。
 人間だ。
 手と足の間に布を張った滑空用のウイングスーツを装着した人間が上空を飛び越していく。

「キャッツアイかよ……」

 ある程度の見鬼の持ち主は肉眼で見ると同時に霊的感覚で視る。ウイングスーツを身につけた黒装束の人物は男性のまとう陽の気ではなく、女性のまとう陰の気を発していたと、一瞬ではあったが、たしかに視た。 

 

人狩りの夜 1

 
前書き
 ようやく原作小説の10巻を読みはじめました。 

 
 貧民街という場所には不釣り合いな豪華な馬車が停車した。
 なにごとかと物陰から様子をうかがう子どもたちに良家の使用人ふうの身なりをした馭者が声をかける。

「やぁ、君達。お菓子はいらないかい? たくさんある、もちろんお金なんていらないよ」
「…………」
「ふふふ、遠慮なんかしなくていいんだよ。ほぅら、こんなにたくさんある」

 ビスケット、キャンディ、チョコレート、スコーン、ファッジ、スイートロール、ハニーナッツ――。
 大箱の中にぎっしりと詰まった甘い菓子類を路上に撒き散らす。
 歓声をあげて群がる子どもたちに。

「もっと欲しい子は馬車に乗るといい。お菓子だけじゃなくてご馳走も用意してあるよ。……私の主人は君達のようなお腹を空かせた子どもたちを放ってはおけない慈善家なんだ。お行儀が良ければご奉公させてくれるかも知れないよ。私もそうして馬車の馭者を任されるようになったんだ」

 逡巡する子どもたち。

「どうしよう、知らない人について行っても平気かな?」
「でも仕事があれば、お金があればこんな暮らし……」
「行くだけ行ってみようぜ!」

 幾人かの子どもたちが意を決して馬車に乗りこんだ。



 オルランドは人種と文化の坩堝であり、実に百人にひとりが異国人であった。
 そのオルランドのすぐ近くには外国からの移住を希望する人専用の宿場があり、そこで入国手続きを済ます。
 自然と非アルザーノ系の異国人達も周囲に集まり、異人街の様相をなしている。

「あんたいい身体をしているね。ボルカン人、それも戦士かい? ならひとつ仕事をしてみる気はないかい」

 昼間から開いている大衆酒場で、褐色の肌をした筋骨たくましい男達に良家の使用人ふうの身なりをした男が声をかけてまわっていた。
 褐色の肌の男達――ボルカン人だ。彼らは総じて頑強な肉体と高い運動神経を持った生まれつきの闘士と評される。将官としてより一兵卒として戦うことを好み、斥候や前哨兵として戦場を駆け回ることが多い。

「……ああ。むかしは傭兵だったが、膝に矢を受けちまってな」
「最近はレザリアとの緊張も高まり、いろいろと危険が多い。用心に越したことはないと考える貴族様がたが、公正な金額で用心棒や雑役に従事する労働者を求めているんだ。なに、少しでも戦闘経験があるなら給金ははずむよ」
「そいつはありがてぇ! もう少しで干上がっちまいそうだったんだ」

 ボルカン人の男達は、渡りに船とばかりに仕事の話に食いついた。





 謎のウイングスーツ女を追って、秋芳が夜の庭園を駆ける。
 噴水や花園の広がる場所ではなく、鬱蒼と生い茂る、黒い森のほうへと飛んでいったのはさいわいだった。闇夜にまぎれて巡回中の衛兵に見つかりにくくなるからだ。
 森のなかを影が疾駆する。軽功を駆使して枝から枝へと跳び渡る。
 この暗闇だ。人が見ても猿かなにかの獣が木々を飛び回っているとしか見えないだろう。
 壁虎功と同様に、この軽功の要諦は足腰の強さではなく眼力だ。
 跳び移る先の枝が自分の重みを支えられるか、瞬時に見極め、跳躍を繰り返す。
 肉眼だけではなく見鬼心眼によって細部を見取り、間合いを読む能力は山岳修業で培った。

「……!」

 秋芳の動きが止まる。
 いた。
 ウイングスーツをはずした黒装束の女を発見した。
 華奢で小柄な身体をつつむのは黒い革製の軽装服。袖も裾も短くワンピースのようなデザインで、そこから伸びるしなやかな手足は濃紺のタイツのような素材に覆われ、手袋やブーツも黒い。
 長い黒髪を後頭部でたばねて腰まで垂らしたポニーテールとあいまって、時代劇に出てくる、くノ一のようだ。
 その女性が、巡回中の衛兵の背後にピタリと張りついていた。
 後ろから奇襲でもするつもりかと思ったが、ちがった。なんとそのまま影のように寄り添い、衛兵の動きに合わせて歩を進める。
 完全に呼吸を合わせている限りは、この衛兵が背後の存在に気づくことはない。

「す、すごい!」

 巡回中の衛兵同士が出会い、挨拶をするときも寸分たがわず手を挙げ、完璧に相手の死角に入っていた。

「す、すごい!」

 中国武術には聴勁という技術がある。
 相手に手など体の一部を触れた状態で筋肉の微細な動きを先読みし、攻撃を瞬時に読み取る技術だ。
 それの応用であろう、この黒装束の女性は接触することなく、超至近距離で相手の微妙な筋肉の動きを見て動作を見切っていたのだ。

「す、すごい! でもアホだ。あのキャッツアイ女、どこに行くつもりか知らないがそれだと巡回する衛兵まかせじゃないか」

「お疲れさま」「お疲れさま」

 黒装束の女の動きに微塵の無駄もない。完璧だ。衛兵が手を挙げたらそれに合わせて手を挙げる。

「す、すごい! でもやっぱりアホだ。たしかに正面からはさとられないが、側面や後ろから見られたらもろばれじゃないか。もしすれちがった相手が振り向いて後ろを見たら……。あ、影だ。影だ影! 外灯に照らされてポニーテールの影がめっちゃ地面に映ってるよ! 下を見られたらばれちゃうよ!」

 秋芳の予想していたことが起きた。

「そういえば聞いたか、今夜は人狼の森でも狩りがあるから夜明けまでは近づかないよう――って、うわぁッ! シムラ(仮)~、後ろ、後ろ! なんだそいつは!?」

まさにすれちがった同僚が後ろを振り向いて女の存在が発覚してしまったのだ。

「……っ!」

 騒ぎを起こされてはたまらない。いつも懐に入れているセルト銅貨を衛兵めがけて印字打ちする。
 狙い通りに命中し、暈穴を点かれた衛兵は昏倒。
 シムラ(仮)のほうも声も無く倒れたが、こちらは秋芳の仕業ではない。女の手が素早くひるがえって耳の下を打ち、気絶させたのだ。
 実に鮮やかな手並みであった。

「そこにいるのはだれ?」

 静かだがよく通る声が女の口から放たれる。

「ホー、ホー」
「梟は銅貨を投げ飛ばしたりはしないわよ」

 隠形してやり過ごすこともできたが、また今のような真似をされて騒がれてはこまる。姿を見せることにした。

「とりあえずお礼を言うわ。あなただれ?」
「通りすがりの冒険者です。そう言うあなたは?」
「美少女仮面ペルルノワール!」

 女は目元を隠す仮面をつけていた。
 翼を思わせる流麗な意匠は精悍かつ優美だったが、露出している細いおとがいや桜色をした硬質の唇の美しさから、仮面に劣らぬ美貌の持ち主だと想像できた。
 たしかに美少女仮面の名は伊達ではなさそうだ。

「ずいぶんとアクロバットな方法で侵入しましたね」
「ええ、ここはただの冒険者が通りすぎるような場所じゃないわ。ああでもしなくちゃ侵入は無理だったの。……あなた、泥棒さん?」

 秋芳は盗み目的でクェイド侯爵の庭園に忍びこんだのだ。たしかに泥棒である。

「泥棒とは人聞きが悪い。より格調高く義賊とでも言ってもらおうか」
「あら、ご同業かしら」
「ほほう、ご同業ね」
「あなた、本物の義賊なら、その心得は暗誦できる?」
「……弱い者から奪ってはいけない。貧しい者から盗んではいけない。富める者から盗み、貧しき者にあたえる――」
「正解!」

 即興で出た言葉だったが、美少女仮面ペルルノワールの満足のいく答えだったようだ。古今東西、義賊の心得といえば、そのようなものだろう。

「ここの主はたいそう羽振りが良さそうなんでな、少しは恵まれない人々に余ったお金を分け与えてもらおうかと考え、忍び入ったという次第さ」
「ふ~ん、でもあなた、東方人よね。捕まった同胞を助けに来たとかじゃないの?」
「捕まった同胞、とはどういうことだ?」
「クェイド侯爵の人狩りの噂を知らないとは言わせないわよ。職にあぶれた外国人労働者や貧しい人々を言葉巧みに誘惑して領内に招いて狩りの標的にする邪悪な遊戯の噂を。そしてその噂はおそらく真実。そのことを確かめ、告発するためにわたしは来たの」
「告発ねぇ。しかし貴族の所有する土地は一種の治外法権。被害者の身を確保して、その口から凶行を証言できたとしても、罪を問うことができるだろうか」
「法で裁けぬ悪ならば、この手で断罪するのみ!」
「ほう、天誅というやつか」
「民を虐げる暴虐な貴族は口からピラニア流し込みの刑にて処します」
「……まぁ、処断の仕方はともかく悪辣な権力者をころがしてやろうという意見には賛成だ」

 普段は君子ぶっている秋芳ではあるが、その性質は君子にも長者にも程遠い、荒っぽい性である。
 『三国志演義』なら劉備よりも張飛、『水滸伝』なら宋公よりも武松や魯智深、『三侠五義』なら包拯よりも艾虎といった登場人物に近いタイプの人間だ。
 貪官汚吏の類をこらしめるのは大好きだ。
 ふんぞり返った金持ちや、権威を笠に着た連中を虚仮にするのは楽しい。
 そのような男である。

「それで、調べはついているのか」
「城壁内のほとんどは森林が占め、北側は川と山に囲まれた地形で、森を抜けると湿地帯が広がっているわ。この人工の荒野で逃げ場といえば正門の他には城壁にある通用口のみね」
「良くできた箱庭だな、秘密の狩りをするにはもってこいだ。だが俺の訊いた『調べはついているのか』とは、クェイド侯爵が実際に非道な行いをしているか否かの――」

 一発の銃声が響いた。
 夜のしじまを破る音に驚いたのだろう、遠くから眠りを妨げられた鳥逹の羽ばたく音が聞こえる。

「……」
「……」

 秋芳とペルルノワールは銃声のしたほうへ向かって駆けた。





 三〇メトラ先にある厚い木板を簡単に撃ち抜く威力の弾丸は、光の六角形模様(ハニカム)が並ぶ魔力障壁。【フォース・シールド】によって完全に防がれた。
 垂直二銃身拳銃は弾込めしなくても、もう一発続けて撃てる。
 だが連射はためらわれた。相手に命中させる自信がなかったからだ。
 銃など、一流の魔術師にとってはなんの脅威にもならない玩具に過ぎない。銃を持った兵など何人群れようが物の数ではない。
 などと言われるが、これはいささか誇張が過ぎる。
 剣を抜いて斬りかかってくるよりも、銃の引き金を引くほうが早い。
 たとえ一節に短縮したとしても、呪文を詠唱するよりも銃の引き金をひくほうが早い。
 まして不意打ちで撃たれたらおしまいである。魔術師は肉体的には普通の人とおなじなのだから、銃に限らず飛び道具はじゅうぶんに脅威である。
 そのため無意識にシールドを張る。たとえば条件起動式で一定以上の速度で飛来する物体に対して発動する【フォース・シールド】などが、銃撃に対するもっともポピュラーな防御手段として普及していた。
 いまもこの方法で防いだのだ。

「やったな。お返しだよ、ボルカン人」

 狩人の持ったクロスボウから放たれた鉄球(ペレット)をかろうじて躱した褐色の肌をした男は茂みの中に身を潜めた。
 ボルカン人を追うふたりの狩人は馬に乗っている。木々の生い茂る場所に逃げれば追ってはこられまいと判断したからだ。

「さぁ、次はイーグル卿の番ですぞ」
「どうれ、まずは邪魔な草木を刈り取ってやりますか……《荒れよ風神・千の刃を振るいて・烈しく踊れ》」

 空気が渦巻く音を立てて猛回転し、見えざる伐採機が真空の刃でもって木々を刈り散らす。
 黒魔【シュレッド・テンペスト】。風系のC級軍用攻性呪文。
 指定空間を中心に巻き起こる風が無数の真空の刃となって回転し、嵐の範囲内にあるものを切り刻む呪文。
 軍用魔術としては低威力だと評されることが多いが、魔術に対する防御手段を持たない一般人にとっては大いに脅威である。

「うわぁぁぁぁぁッッッ!!」
「はっはっは! そこかな? ここかな? それとも、あそこかな?」
「むこうに逃げたようですぞ、イーグル卿」
「ちくしょぉぉぉッ!?」

 荒れ狂う風刃に追われ、悪態とも悲鳴ともつかない声をあげながら、ボルカン人が茂みから飛び出る。
 もう、身を隠す場所はない。

「出てきた、出てきた。さぁ、次はマンティス卿の番です」

 イーグル、マンティス。ふたりの狩人はそれぞれ鷲とカマキリを模した仮面をしていた。獲物を襲い、食らう。捕食者の仮面を。
 狩人達はその仮面に応じた名で呼び合っている。

「おや? 銃をなくしたようだ」

 風の刃から逃れるべく必死になって逃げまわっているうちに、まだ弾の残っていた銃を手放してしまった。

「ちくしょう! クソったれのクソ野郎が、やるならやれ!」

 覚悟を決めたボルカン人は素手でかまえをとり、馬上の狩人を睨みつけた。

「よろしい、その覚悟や良し。イーグル卿、腰の物をお借りしますぞ」

 マンティス卿はイーグル卿から受け取った細身の(レイピア)をボルカン人の前に投げつけると、馬から降りてみずからのレイピアを抜き放った。

「もし私に勝てたら褒美を与えたうえでここから出してやろう」
「…………!」

 意を決したボルカン人がレイピアを手にしてマンティス卿に突きかかった。

「ほほう、それなりに心得があるようだ」

 わざわざ剣の勝負を挑んだだけあって、マンティス卿はレイピアのあつかいに長けていた。素早い動きでボルカン人の攻撃をことごとく躱し、鋭い突きを返す。
 ボルカン人のほうも戦闘経験があるようで、あきらかにあつかい慣れないレイピアを懸命に振るって切っ先を払い、相手の防御をかいくぐって反撃する。
 しかしその技量には明らかなへだたりがあった。
 本能と経験にしたがい剣を振るうボルカン人に対してマンティス卿の剣さばきは訓練に裏づけされた洗練されたもの。確実で隙のない動きにボルカン人はたちまち肩や腕に無数の傷を負わされた。
 通常の決闘ならば降伏が認められるほどの怪我だったが、これは決闘ではない、殺し合いだ。
 もはや勝利を確信して必殺の突きを放ってきたマンティス卿の剣を、ボルカン人はおのれの脇腹で受け止めた。

「なんと!」 

 肉を切り裂き、体の側面をかすめた剣の腹を自由な左腕で挟み込む。
 予想外の相手の動きに愕然としたマンティス卿に隙が生じる。そこを狙ってボルカン人のレイピアが心臓めがけて繰り出される。

「《バン》!」

 文字通り、肉を切らせて骨を断つ。ボルカン人の試みはマンティス卿の指から放たれた【ライトニング・ピアス】の一閃によってくじかれた。
 声もあげず地に伏したボルカン人の胸には焼け焦げた穴が穿たれ、炭化した傷口からは血が流れる代わりに、人肉の焼ける悪臭がただよう。

「素晴らしい! 剣で心臓を狙ってきた相手の心臓を、逆に魔術で撃ち抜く。このマスク・オブ・イーグル、感嘆の極み! これは良いものを見させてもらいました。ブラボー!」

 人狩りの森に哄笑が響く。
 この夜、クェイド侯爵の庭内で血の臭いに興奮し、殺戮に酔いしれて笑い声をあげる者たちは、鷲とカマキリの他にも幾人も存在した。 
 

 
後書き
 ここまでのお話がハーメルンに投稿したもの。
 次からは新しく書いていきます。 

 

人狩りの夜 2

 
前書き
 『ゼノブレイド2』のホムラがかわいいのでプレイしたいのですが、ニンテンドースイッチ持っていません。
 これ一本のためだけに本体購入するのもなぁ……。 

 
「――いやはや、先ほどの狩りは実に見事な趣向でしたな。剣で心臓を狙ってきた相手の心臓を逆に魔術で撃ち抜くとはお見事です、マンティス卿。このマスク・オブ・イーグル、感嘆の極み!」
「はっはっは、イーグル卿にそこまで褒められるとは光栄ですな」

 馬に乗った狩人がふたり、森のなかを進む。
 それぞれカマキリと鷲を模した仮面をつけていた。イーグルにマンティス。仮面に応じた名で呼び合っている

「しかしせっかく丈夫なボルカン人が獲物だったのだから、もう少し狩りを楽しめば良かった気もしますなぁ」
「たしかに、まだ血が騒いでいますよ」
「とはいえ我々に用意された今夜の獲物はあれが最後。……それとも『ドクター』の解剖でも見物しに行きますか?」
「たしかに血の流れる様は十二分に堪能できるでしょうが、抵抗できない獲物をただバラすだけというのは、いまいち興が乗らないもので」
「同感です。牙もむけてこない、逃げ回りもしない獲物を狩ってもつまらない」
「では少々早いですが、屋敷へ戻りますか」
「ええ、この興奮が治まらないうちに先ほどの様子を詩にでもいたしましょう――」

 ふたりの狩人が馬を駆り、いなくなる。
 すると、木々の陰から黒装束に身をつつんだ男女が姿を現した。
 ペルルノワールと称する仮面の義賊と、秋芳だった。

「…………」
「…………」

 狩人達には気づかれていない。やり過ごしたのを確信し、たがいに無言でうなずき合うと、彼らの来た道を進む。
 いくらも進まないうちに、地面に横たわるボルカン人を見つけた。胸に穿たれた穴から血を流し、闇のなかを濃厚な血の臭いがただよう。
 すでに、息はない。

「――全身にできた無数の真新しい刀創に炭化した胸の傷。さっきの連中の言っていたボルカン人のようだな」
「やっぱり噂は本当だったみたいね」
「どうやらそのようだ」

 仕事のない外国人労働者や貧しい人々を言葉巧みに誘惑して領内に招いては狩りの標的にする殺人遊戯。
 それが、まさにおこなわれていたのだ。

「牢記されよ、我は大いなる主の意を代弁する者なり――」

 ペルルノワールの手が聖印を切り、その口が聖句を唱えていく。

「汝は我が言の葉を借りし主の意を酌み、その御霊を主に委ねよ。さすれば汝、悠久の安らぎを得ん。死を恐るるなかれ。死は終焉に非ず。初頭の生誕を告げる産声となるもの。現世は円環にたゆたう一時の夢なりて、只、主の御名を三度唱えよ。さすれば汝、重き荷の頸木から解き放たれ、その生が積んだ罪は主の御名の下に赦され、濯がれん。いざ、其の御霊は自由の翼を得て輪廻の旅路につき、永遠の安寧へと続く扉は其の心の前に等しくその門扉を開かん。汝の魂に祝福あらんことを。真に、かくあれかし(ファー・ラン)」

 驚愕と恐怖に開いたボルカン人の瞳孔を、白い繊手が閉ざす。

「ボルカン人が聖エリサレス教の祈りをありがたがるとも思えないが」
「たしかに。彼らにとっては故郷を滅ぼした侵略者たちの信仰する教えですものね」

 宗教国家であるレザリア王国は聖エリサレス教至上主義で、他宗教を徹底的に排斥してきた。かの国の宗教浄化政策によって故郷を失った人々はシルヴァースの民だけではない。ボルカン人もそのひとつだ。

「けれども、わたしはほかに祈りの言葉を知らないから……。これから言葉ではなく行動でこの人の魂を救済するわ」
「狩りの標的にされている人々を救い出し、クェイド侯爵の悪行を暴露するんだな」
「ええ、そうよ」
「しかし一体何人の人達が連れ込まれ、どこにいるのやら。こんな広大な敷地内でどう動くつもりだ」
「個別に助け出さなくても、騒ぎを起こして狩りどころじゃなくすればいいのよ」
「そこらに火でも点けてまわるのか」
「火事になったら連れ込まれた人にも害がおよぶかもしれないでしょ。それよりも――」

 美少女仮面の細くしなやかな指先が館の方向を指し示した。

「敵の本拠地を叩き潰す! 派手にね」
「なるほど、そりゃ大騒ぎだ」
「行きましょう」
「行くか」
「行くわ」

 そういうこととなり、ふたつの影が疾駆した。





 【トーチ・ライト】によって皓々と照らされた広い地下室には奇妙な形の家具や調度品がならんでいた。
 壁に掛けられていたり天井から吊るされているもの、オブジェのようにテーブルの上やソファを飾り立てているもの。いや、ソファ自体も――大小様々なそれらは、すべて人骨や皮膚など、人の体の一部で作られていた。

「ドゥフッ、ドゥフフフフッ」

 人骨で作った骨組みに人皮を貼った椅子に座った肥満体の老人が不快な笑い声をあげる。
 この老人も先の狩人達のように仮面をしていた。鳥のような長い嘴が突き出した黒いマスク。ペストマスクと呼ばれる、黒死病患者を専門的に診る医師が身につけるものをかぶっている。

「この椅子はわしの最高傑作でなぁ、こうしてちょうど手が置かれる場所におなごの乳房を貼りつけてある」

 醜く肥えた芋虫のような指を動かして、肘かけの先端にある茶褐色の突起をもてあそぶ。
 乳首だ。
 切り取られた女性の乳房が、椅子の肘の先をおおっているのだ。

「だからこうしていつでも乳が揉めるのじゃよ、ドゥフフフフ!」
「ンンーッ! ンンッンーッ!!」

 部屋の中央に置かれた寝台の上に拘束された少年が恐怖と嫌悪に叫び声をあげようともがくが、口枷のせいでまともな声にならない。

「ドゥフフフフ、いいぞいいぞ。その恐怖におびえた顔、たまらん! おまえより下の弟どものほうが好みなのじゃが、残念なことにやつらは狐狩りの狐じゃ。生きたまま解剖したかったのう。だが安心せい、おまえの弟どももわしが切り刻んでやる。だから自分が死んだ後にどうなるかなどと、よけいな心配はしなくていいぞ。内臓はホルマリン漬けにして、骨や皮は剥製にして仲良くならんで置いてやるからな。ドゥフッドゥフッ」
「ンーッッッ!!」

 この老人としては気の利いたユーモアのつもりなのだろう、人間性のもっとも醜悪な部分を垂れ流して、べちゃべちゃと舌を鳴らして笑った。

「――お楽しみのところ失礼します、ドクター」

 地下室に降りてきたクェイド邸の使い番が声をかける。

「なんじゃ、邪魔するでない!」
「それが、トラブルが生じまして――」
「なんじゃとぉ、侵入者!?」

 突如として館に乱入してきた正体不明の侵入者があちこちで狼藉を振るい、ケガ人が続出している。そのため今夜の遊戯に出席している人達に安全のため避難を呼びかけている。
 そのように、使い番はペストマスクのドクターに状況を知らせた。

「いちど『鳳凰の間』にお集りください。安全が確保しだいお遊びの続きを」
「ふんっ、賊の侵入をゆるすとは、侯爵殿も存外抜けておるな。いらんいらん、避難なぞ必要ない。自分の身は自分で守ると、そう伝えろ」
「かしこまりました」

 使い番はあっさりと引き下がった。今宵のゲームの参加者達は館の主に比類する権力や財力を持つ実力者なのだ。彼らの意向をないがしろにすることはできない。

「まったく邪魔しよってからに……なんじゃ、その目は」

 拘束された少年が怒りに満ちた視線をむけている。先ほど彼の弟のことに言及したことが、少年の反抗心に火を点けたのだ。
 怒りの感情は、いかなる恐怖にも上回る。

「反抗的な目つきをしおって、気にくわん。実に気にくわん」

 ドクターの手が愛用のメスにのびる。

「しょせんは貧民窟のクソガキ。老人に対する敬意を持たんとは、ろくな教育も受けていない浮浪児の証左よ」

 ドクターの手にしたメスが光る。

「わしは今まで七、八〇人ばかりの人間を生きたまま解剖した。そのうちのひとりがおまえのような目をしてわしを極悪人だの鬼畜だのとののしりおった。そのような無礼者には罰をあたえてやったぞ。そやつの目の前で、そやつのガキを麻酔なしで解剖してやったのじゃ。ドゥフッドゥフッ」

 うれしそうにドクターがメスを振るう。

「わしは医学とアルザーノ帝国の発展のために非国民や劣等民族の肉体を切り刻んできたのじゃ。医学の進歩に役立てることに感謝せい。おまえの目の前で弟どもを切り刻んでやろうか!」
「自分のたるんだぜい肉でも切り刻んでろ」
「!?」
 
 秋芳の手がひるがえり、脂肪の塊を無造作に放り投げた。

「うぎゃェッ!?」

 踏みつぶされたガマガエルのような声をあげて醜い肉の塊が宙を飛んだ。
 空中で両手両足をバタつかせ、右の肘と背中から壁に衝突したのだが、そのときなおドクターの右手はメスをにぎって離さなかったため、壁に叩きつけられてずり落ちたさいにまがった腕が背中にきた。
 ドクター愛用のメスはドクター自身の背中に深々と突き刺さった。

「プギィィィッ!?」

 痛みに絶叫をあげてのたうちまわる。

「そんなことをしたらますます深く刺さるぞ」
「抜いてくれぇぇぇ、痛い! 痛い!」

 幼い子どもを麻酔なしで解剖した老人だ。
 他人の苦痛に悦びをおぼえるサディストだが、自分自身の苦痛に耐える強さは毛ほども持ち合わせておらず、つねに加虐者としての立場にあったドクターは自分が被害者となることなど想像してもいなかった。

「おまえが切り刻み、痛い痛いとうったえる人達に対して、おまえはどうした。加虐の手を止めたのか? 少しは人の痛みを思い知れ」

 のたうちまわる肉塊を冷酷に見下す秋芳のうしろで、ペルルノワールは拘束具に縛られた少年を解き放ち、口枷もはずした。

「ぺ、ペルルノワール!?」
「ええ、そうよ。美少女仮面ペルルノワール。ここに推参☆」
「すごい、本物のペルルノワールだ! ペルルノワールが助けに来た!」
「うふふ、さぁ、もうだいじょうぶよ」
「しかし『ペルルノワール』てのは本当に有名人だったんだなぁ」
「あなた、本当にわたしのことを知らなかったの? 美少女仮面ペルルノワールを知らない義賊だなんて、とんだモグリだわ」
「なにせつい最近セルフォード大陸に流れ着いたばかりの身でね。オルランドに来たのも数日前だ」
「こ、この卑賎者どもが、こんなことをして無事ですむと思うなよ!」

 肥満した身体をゆすって恫喝するドクターのペストマスクをはぎ取ると、ガマガエルのような容貌が外気にさらされた。

「知った顔か?」
「……ええ、ライスフェルト・ズンプフ侯爵。過去に法医大臣を務めたこともある、製薬会社を経営するオルランド医薬会の重鎮よ」
「医療にたずさわる者が、快楽殺人に興じるとはね……」
「この人物にはむかしから黒い噂があったわ。先の大戦のさいに法医術特殊部隊を指揮して、錬金術や薬の研究と称してレザリア王国の捕虜を生体実験によって虐殺したという噂がね」
「まるで731部隊や九大事件だな」
「そ、それがどうしたというのだっ。わしが今までに手にかけたのは侵略者どもや非市民の連中。獣のようなやからを解剖しても、なんの問題もなかろうが」
「裁判官の前でもそうやって情状酌量の余地皆無な弁明をするんだな」
「ふん、上級貴族であるわしが裁かれるものか。法官どもなぞわしら上級貴族の思うがままじゃ」
「そうなのか?」
「いささか誇張があるわね。五〇年前ならまだしも、人道を重んじ法を遵守する為政者たらんとするアリシア七世陛下の御世でそのような横暴は通らないわ」
「八〇人も切り刻んだ大量殺人犯だ。お家取り潰しのうえ本人は断頭台送りかな」
「でも、今のアリシア女王の立場は盤石とは言えない。そのため貴族階級の支持を保持しておく必要があるわ。彼らの反感を買わないために大貴族を死刑に処す可能性は低いと思う。いっさいの公務からはずされてオルランド追放といったところかしら」
「所払い、追放刑とはまたずいぶんと軽い罰だな。こういう手合いは生きている限りおなじことを繰り返すぞ」
「古来より統治の要は公平な税制と裁判だと言われているわ。女王陛下に代わってこの美少女仮面ぺルルノワールが正しい裁きをくだします。判決、死刑!」
「ヒェッ!」

 腰に提げた細剣を抜き放ち、断罪の刃を振るおうとした美少女仮面の動きを秋芳が制した。

「まぁ、待て。何十人もの人を生きたまま切り刻んできた凶悪極まりない殺人鬼を一瞬で楽にしてやることもないだろう。こいつの処置は、こいつに殺された人々と近しい人達の手にゆだねるべきだ。首に罪状を書いた標識でもぶら下げて移民街の晒し台の上にでも立たせてやれ」

 秋芳の手がライスフェルトの背中にのび、ふたことみこと呪文を唱える。

「ふがっ」

 途端に老人の体が痙攣し、硬直した。
 錬金改【ポイズン・エンチャント】。武器や手足に毒を符呪する特殊呪文。
 魔術による毒の攻撃というのは基本、散布系呪文であり、黒魔術の【エア・スクリーン】を張れば防げるし、もし毒を受けたとしても白魔術の【ブラッド・クリアランス】で浄化ができる。
 魔術製の人工毒をあつかう呪文は術者がよほどの使い手でない限りは決定力に欠けるというのが常識だ。
にもかかわらず、毒というものは魔導戦史上でも魔術戦においても多大な成果を残し続けてきた。
 なぜか?
 ひとつは天然毒の存在である。
 毒蛇や毒虫、毒草。動植物が生来持つ、自然界に存在する天然の毒は魔術製の人工毒とは異なり、クシナ蛇の毒にはルラート草、バジリスクの毒にはヘンルーダなど、解毒呪文の施術のさいに特定の薬剤や魔術触媒を必要とする。
判明している全種類の触媒を常に持ち歩くわけにもいかない。人工毒を併用してこのような毒物を密かに盛られた場合、解毒は困難だ。
 毒使いの魔術師達は多種多様な手で敵を毒殺してきた。ルーンの秘密を知り、この世の神秘を解き明かしたはずの魔術師がひとしずくの毒で命を落とした例は数知れない。
 このように、武器に毒を塗るのもそのひとつ。
 秋芳はおあつらえむきにライスフェルトの体にメスが刺さっているのをいいことに、毒を直接注入してやったのだ。

「…………ッ!?」

 秋芳が魔術で生成した毒は麻痺毒。テトロドトキシンに酷似したそれは対象の神経伝達を遮断して麻痺させる。そのため脳からの呼吸に関する指令が遮られて呼吸器系の障害が生じる。
 口や舌などはまっさきに痺れて言語障害を起こし、呪文の詠唱など不可能にさせ、【ブラッド・クリアランス】による解毒を不可能にする、魔術師にとって致命的な猛毒だった。

「雀の涙程度の量で熊も動けなくさせる強力な毒で、肺や心臓といった生命維持にかかわる器官まで麻痺させるにもかかわらず、死に至らしめることはなく仮死状態を維持できる……。魔術毒ってのは実に便利だ。――お~い、聞こえただろ。みんな降りてきてくれ」

 秋芳の声に応じて地上から十数人の人達が降りてきた。みな、粗末な身なりをしていて、手に手に剣や銃を携えていた。
 甘い言葉でだまされ、人狩りの獲物として連れてこられた外国人労働者や貧民街の子ども達だ。
 騒ぎを起こして人狩りを中止に追い込むため森からまっすぐに館を目指した秋芳とペルルノワールだったが、人狩りの主催の場はまさに館の周囲だった。
 贅を尽くした館の周りで残酷な遊戯がおこなわれていたのだ。
 トラバサミなどの罠だらけの広場を追い立てられたり、池に沈められて窒息寸前に引き上げられてはまた沈められることをくり返されたり、召喚した魔獣をけしかけられたりといった、様々な虐待を受けていた人々を救出し、加虐者と衛兵らを処理してまわっていると、地下へと通じるあやしい建物を発見し、こうして醜悪な貴族を黙らせた次第だ。

「にいちゃん!」
「エリック!」

 捕らわれていた兄弟が無事に再会する。

「よかった、みんな無事だ」
「どうやら子どもらは全員助かったようだな」
「だけど、オーマスやオズウィンは……」
「ちくしょう! クソったれの貴族どもめ!」

 すべての人を助けられたわけではない。
 森で殺されたボルカン人(オズウィンという名だった)をはじめ、手遅れだった人もいた。

「連れてこられたのはこれですべてか?」
「うん、アルフもロミオもマギーもダンテも……みんないる!」
「ああ、おれたちの仲間はこれで全員だ。……生きているやつは全員そろった」
「これからわたし達は館に向かいます。敷地内の衛兵はあらかた片づけたから、門の近くにあった馬車で逃げるのよ」
「もしもの時はそのブタガエルを――ええと、ライスフェルト・ズンプフ侯爵だっけ? そいつを人質にでもするといい。そのメスが刺さっている限り仮死状態を維持できるが、抜けば目を覚ます。起こすときは魔術を使われないよう用心しろ」
「ああ、わかった。おれたちも借りを返しに行きたいところだが、魔術を使う貴族どもにはかなわねぇ」
「ありがとう、ペルルノワール!」
「あんたのおかげで命拾いしたよ」
「オルランドの市民はみんなあんたに感謝してるぜ」
「それと、そっちのフードのにいちゃんもな」
「ペルルノワールに仲間がいたなんて、知らなかったよ」

 人々は感謝の言葉を口にして陰惨な地下室を後にした。

「さぁ、行きましょうか……あ、ちょっとまって」

 ペルルノワールが細いおとがいに指をあてて小首をかしげる。なにやら思案している様子だ。

「あなたの名前、まだ聞いていなかったわね」
「ああ、そういうえばそうだったな。俺の名は――」
「まって。わたしがつけるわ」
「つけるって……」
「あなた、こんなことしていて本名を名乗るつもりはないでしょ? どうせ偽名を名乗るならわたしにつけさせてちょうだい。わたし、人に名前をつけるのって好きなの」
「じゃあとっととつけてくれ」
「トンヌラ」
「意味はよくわからないが、とにかくマヌケな響きがするのでいやだ」
「言われてみればパッとしない名ね。じゃあ、もょもと」
「なんて発音するのかわからないから却下だ」
「たしかに言いにくいわね」
「ボロンゴもプックルもアンドレもチロルもリンクスもゲレゲレもモモもソロもビビンバもギコギコもなしだ」
「ゲレゲレには惹かれるものがあるんだけど」
「うむ、俺もだ。……て、ふざけているひまなんてないぞ。クェイドのやつが逃げたらどうする」
「すぐに決めるから少しくらい待ちなさいよ。ロートリッター、黒薔薇、ジャンヌ、天竜、D、パスカル――」
「なんなんだ、その一貫性に欠ける名前の羅列は! というかジャンヌって女性名だろ」

 秋芳のコードネームが決まるまで、もう少し時間がかかりそうだった。





 五〇メトラ四方、和室に換算して三〇畳近い広さの部屋の色調はワインカラーを基調にととのえられ、家庭用ではない本格的なサイズのビリヤード台や蓄音機、樫の卓上には象牙製のチェスセットが置かれていた。
 貴賓室『鳳凰の間』。そこには主であるクェイド侯爵のほか、数名の貴族があつまっていた。今夜の遊興におとずれた貴族のほとんどが闖入者の手で再起不能にされたか、身の危険を感じて早々に退出していた。
この場にいるのは貴族の矜持が邪魔をして、襲撃者から逃げることを良しとしなかった者達だ。

「ええい、なんという醜態だ! 鼠賊の一匹や二匹に振り回されるとはっ」

 クェイド侯爵は怒気もあらわに手にしたワイングラスを床にたたきつけた。権威権力権勢を異常に愛する人間は儀式や儀礼が予定通りにはこばないとヒステリーを起こすのだ。彼の精神には運動会の予行練習で行進がそろわないからと怒り、怒鳴り散らす。野蛮な体育教師と共通する部分があった。

「たかがコソ泥風情に避難しなければならぬとは……!」
「――この世の悦楽を愛してやまない道楽者の憩いの場。豪奢な空間は酒脱なおしゃべりに絶えぬ笑いが満ちている。美味佳肴が舌を楽しめ、のどを潤す――そして、運が良ければ楽しい舞踏劇など」
「……なにが言いたいのだね、イーグル卿」
「いや、なに。この予期せぬ出来事を利用して、狩りとは趣の異なる遊興などどうかと」
「ほう、それはどのような遊興かね」
「知っていますぞ、館主(ハウスマスター)殿。あなたがサイネリア島の研究所からいろいろと珍しいモノを買い取っていると」
「ほぅ、サイネリア島にある研究所というと帝国白金魔導研究所だが……」

 白金術。
 肉体と精神をあつかう白魔術と元素と物質をあつかう錬金術。そのふたつの複合魔術、生命そのものをあつかう白金術は不治の病の治療や欠損した四肢や臓器の再生などの医療に貢献するいっぽう、複数の動植物をかけ合わせて産み出す合成魔獣(キメラ)と呼ばれる生命体の創造など、命をもてあそぶ禁忌の面も持っている。

「そのような所から買い取る珍しいモノといったら、やはり合成魔獣ですか」
「マンティス卿の察しのとおり、愛玩用に何匹か飼っておる」
「どうです館主殿、今夜は愛玩用ではなく番犬代わりに使ってみては」
「それは面白そうだ」
「本物の合成魔獣に人間が引き裂かれるところ、ぜひともこの目で見てみたい!」
「いや、今宵の闖入者が噂に聞くペルルノワールだとしたら合成魔獣といえども――」
「侵入者が勝つか、ペルルノワールが勝つか――」
「どちらが勝つか、賭けてみないか?」

 館の主であるクェイド侯爵の返事も待たずに、すでに合成魔獣対ペルルノワールという話の流れになっていた。
 
「……いいだろう、防犯上の不手際でせっかくの狩りが中断してしまったお詫びを兼ねて、今宵集まったみなさまにとっておきの合成魔獣らを見せようではないか」
「さすが館主殿!」

 鳳凰の間が歓声につつまれた。





「――そうね、美少女仮面ペルルノワールの仲間なんですもの。やっぱり仮面が必要よ」
「はぁ、でもどこに仮面があるんだ。あのブタガエルのつけてたペストマスクはお断りだぞ」
「あなた東方人よね。東方には『鬼』というとても強い怪物がいるんでしょ」
「ああ、たしかにこの世界にも鬼がいるそうだな」

 ルヴァフォース世界にも鬼と呼ばれる怪物が存在する。修羅に落ちた人の歪んだ精神が肉体をも異形と化した。そんな存在だ。

「鬼面と呼ばれる東方のマスクは、たしかこんな感じだったわよね」

 懐から取り出した手巾(ハンカチ)をひるがえし、なにか呪を唱えると、手巾は顔の上半分を隠す鬼の面に変わった。
 錬金術による高速錬成だ。

「高速錬成だから永続はしないけど、今晩くらいは持つわ」
「これをつけろと? まぁ、たしかにフードより顔を隠せるが」

いかにも悪そうな派手な装飾のほどこされたそれは、生粋の日本人である秋芳の目には鬼というよりバリ島のケチャで使われるランダのお面に見えた。

「あなたは今からニンジャ仮面『寿司デーモン』よ!」
「鬼の要素皆無じゃねえか。もういい、自分で決める」

 手渡された鬼面に手をかざして呪を唱えると、派手な鬼面が黒い鳥面に変化した。

「なにそれ、鴉?」
「ああ。鬼は知り合いにいるからな、俺はこれにしてもらおう。闇鴉(レイヴン)だ。俺の名はレイヴン」
「レイヴン……。たしかに『っぽい』わね。あなたの雰囲気に合ってるわ。それじゃあ、あらためてよろしくね、レイヴン」
「なんかあれだな、一時間も考えたあげくに結局デフォルト名ではじめたゲームみたいだな」
「さぁ、館に突貫よ!」

こうして秋芳こと闇鴉と美少女仮面ぺルルノワールは解き放たれた魔獣のひしめく、魔の館へと突入するのであった。 
 

 
後書き
 『俺達の世界わ終っている。』の評価が高かったので購入しました。 

 

人狩りの夜 3

 屋敷に入れば贅沢の限りをつくした部屋がいくつも続く。
 玄関ホールの床には異国の珍しい絨毯が敷かれ、壁には有名な画家の作品や美しいタペストリーが掛けられている。
 応接室には免状や権利書、狩猟大会のトロフィーなどが自慢げに飾られている。
 各寝室には天蓋つきのベッドが鎮座し、書斎には革装の立派な書物が並ぶ。
 大広間では夜ごとのように晩餐会や舞踏会が開かれていることだろう。
 その大広間の中央に光輝くルーン文字と様々な紋様が浮かび上がった。
 魔方陣だ。

「転移……いや、召喚門(ゲート)か」

 秋芳は魔方陣に記された文字列と紋様の内容を読み取る。
 召喚用の魔方陣――。ゲートの奥から、たくましい人間の体に雄牛の頭を持った怪物が現れた。かぶりものではない、本当に人の体に牛の頭が乗っているのだ。
 おそるべき怪力と狂暴さで知られる魔獣ミノタウロスだ。
 牛頭の魔獣人が両手持ちの戦棍(モール)をかかげて咆哮をあげると、鳳凰の間にいる貴族たちの口から歓声があがった。そこには流血を期待する気持ちだけではない。他の感情も込められていた。
 ミノタウロスの股間にある男根は隆々と屹立している。
 ミノタウロス――。
 屈強な人の体躯に牛の頭を持つこの怪物はきわめて狂暴で残忍な生き物だ。肉食性で、特に人間の肉を好む。空腹になると人里を襲うため、田舎の村では若い娘をミノタウロスの生け贄に捧げる儀式がしばしばおこなわれる。というのもミノタウロスはすべて雄なので子孫を残すには人間の女性を利用しなければならないのだ。
 このミノタウロスは発情している。
 男のほうを無惨な肉塊に変えて、女のほうは別のお楽しみに観賞できる。
 色欲を求める下卑た笑い声が貴族たちの口からもれていた。
 そんな哄笑が魔術による伝声手段を通じて広間に反響する。

「民草の救世主を気取る貴族の敵、ペルルノワールよ。今宵この場こそ、おまえの墓場となるのだ。ただで死ねると思うなよ。暴力と苦痛、恐怖と恥辱。凌辱の魔界で朽ちるがいい!」

 GOAAAAAAAッッッ!

 鼻息も荒くミノタウロスが猛る。

「さぁ、いけ。まずは男を挽き肉にしてやれ」
「派手にやってくれよ」
「すぐに殺すな。手足から潰してやれ」
「とどめは頭をかち割るんだ!」

 秋芳とペルルノワールは自分たちのおかれた状況を理解した。

「人狩りのお次は悪趣味な鑑賞会か。つくづく他人の流す血がお好きなようだ」
「有力貴族のなかには魔戦武闘用に魔獣を飼育している者もいるわ。クェイド侯爵ご自慢のミノタウロスのようね」

 牛頭の魔人は戦棍を振り上げ、うなりをあげて秋芳に襲いかかった。
 なんの変哲もない戦棍も、ミノタウロスにかかると、肉を裂き骨を砕く致命的な武器になる。
 その前にペルルノワールが割り込む。

「おい!」
「ここはわたしにまかせて」

 先ほどのゲスな哄笑に込められた、いやらしい展開を期待する観客たちの鼻をあかすつもりだ。
 ペルルノワールの漆黒のマントがひるがえり、戦棍を受け流す。
 受け流すと同時にマントがミノタウロスの胴体に吸い込まれるように斬り込まれた。
 ミノタウスの厚い胸板から激しい血しぶきが上がる。
 鉄の盾で受け止めても衝撃で腕をへし折られるような圧倒的な剛力を受け流し、鋭利なすそで斬撃をあたえる。
 武器と鎧と盾の役割を果たす、ペルルノワールの身にまとうマントはただのマントではない。
 魔導具だ。
 だがミノタウスはまだ倒れない。人ならば一撃で戦闘不能になる深手を負って苦悶と怒りの声をあげ、ますます猛り狂っている。
 戦棍の連打がペルルノワールの身に降りそそぐ。まともにあたれば彼女の華奢な体なぞ、一撃でへし折れてしまうことだろう。
 だが、その身につけたマントのみならずペルルノワール自身もただの人ではなかった。右に左と体を動かし、マントを閃かせて戦棍の猛打を紙一重で避け続ける。
彼女はミノタウロス相手の接近戦で、一歩も退かないのだ。
 そして避けると同時に、細剣(レイピア)で突く。マントで斬る。

(攻撃を左右に散らし、転身することによる遠心力を利用して突く。円滑な重心移動がなければできない芸当だ。まるで一流のダンサー並の身体能力だな)

 秋芳は下手な格闘家などより、ダンス。特にクラシックバレエを習っている者のほうがよほど強いと思っている。よく鍛えられた下半身と体軸により身体の軸が安定し、重心を瞬間で取れる。基本的な身体能力も高く、背筋や腹筋をはじめ全身の筋肉も強靭で体力、スタミナに優れ柔軟だ。
 戦闘に必要な要素をすべて持っている。
 舞踏は武闘に通じる。
 剣とマントの舞によってミノタウロスの全身が赤く染まり、さすがに動きが鈍くなった。
 それを見逃すペルルノワールではない。
 レイピアが一閃しミノタウロスの顎に下から突き刺ささる。
 血と脳漿のついた先端が頭頂部から突き出る。脳を貫通していた。
 二度、三度と痙攣して弱々しい鳴き声を漏らすと、さすがのミノタウロスも息絶えた。
 相手を血だらけにした美少女仮面の身には返り血ひとつついていなかった。

「…………」

 予想外の展開に鳳凰の間に並ぶ貴族たちは言葉を失った。
 怪盗としての噂は名高いペルルノワールだが、これほどの武技を持っているとはだれも思いもしなかった。
 正体は若い娘のようなので、庶民の間で人気があるが所詮は泥棒。少しばかり盗みの技に長けただけの義賊と称するコソ泥風情にミノタウロスを一方的にたおす実力があることに驚愕した。
 ここにきて貴族たちにはじめて危機意識が生じた。
 合成魔獣を倒すだけの実力を持つ者が、館に侵入してきているのだと。

「これはおどろいた! あのような華奢な乙女が、かの牛頭人身の魔人を屠るとは、このマスク・オブ・イーグル、感嘆の極み!」
「ははは、初戦の賭けは私の勝ちですな」

 あまり危機意識を持たない者もいた。

「ううむ、まさかペルルノワールがあそこまで強いとは、あの華麗な剣さばき。闘技場の剣闘士でもあのように動ける者は限られているぞ」
「まさかとは思うが、やつらここまで来ないだろうな」
「なぁに、まだ最初の一匹がたおされただけ。お手持ちのカードはまだまだあるのでしょう、館主殿(ハウスマスター)?」
「ハイエナ卿のおっしゃるとおり。まだまだお楽しみはこれからです」

 クェイド侯爵は内心の動揺をさとられないように、ことさらおもむろに魔方陣の操作盤に手をのばした。





 魔方陣が光り輝き、次なる魔獣を呼び出した。
 水牛ほどもある巨大な黒い獅子――。
 いや、獅子ではない。
 体の前半分が獅子、後半分が黒山羊で、背中から山羊の頭を、尾の代わりに大蛇が生えていた。
 シャンデリアから照らされる魔力灯の下で、艶のある黒い体毛が煌めき、獅子のたてがみは黒い炎のようだった。
 たてがみの後にある角の生えたもうひとつの獣の、山羊の顔。鎌首をもたげる大蛇の顔。
 それぞれの顔から王者の余裕と、賢者の思慮、殺人気の冷徹さを感じさせた。

「キマイラ!」
「おお、これがあの有名なテュポーンとエキドナの子――じゃなくて『最初の合成獣』か」

 キマイラ。魔術師たちが創造した最初の合成獣といわれる、合成獣の代名詞のような存在。獅子の頭からは灼熱の息吹を、山羊の頭は数多の呪文を、蛇の頭からは毒を吐き出す、おそるべき怪物。

「西洋風の『鵺』か。タイプ・キマイラどころか、ザ・キマイラだな」

 異形ではあるが、醜悪ではなかった。いや、美しいとさえ言えた。ただし、それは恐怖と狂気によって彩られた美しさだ。
 名匠によって鍛えられた剣の冴え冴えとした輝きが見るものをぞくりとさせるように、キマイラからは戦慄に満ちた美を感じられた。

「きわめて不自然な造形にもかかわらず、妙に合っている。これは、異形の美だ」
「あなたの感性もまんざら間違ってはないわ。グリフォンやワイバーン、キマイラを紋章に使う貴族は多いから」
「よし、今度は俺の番だな」
「素手であの怪物と渡り合うつもり?」
「指先は寸鉄、腕は白刃、足は槍。それが空手だ」
「まぁ! 翁とおなじようなことを言うのね」
「翁?」
「ええ、知り合いの魔闘術(ブラックアーツ)使いのおじいちゃん。わたしに武術とか教えてくれる人よ」
「なるほど、たいした体術だと思ったが、やはりきちんとした師匠がいたんだな。その魔闘術とやら、興味がある。縁があれば俺もその翁さんにご教授願いたいものだ。なにせ俺の空手はまだまだ未熟でね。だから武器を使わせてもらおうか」

 秋芳はテーブルクロスに手をかけると、一気に引き抜いた。
 速い。テーブルの上の食器や燭台は、微動だにしない。
 そのまま腕をまわすと、テーブルクロスは雑巾を絞ったように巻き固まる。
 布棍だ。

「……? 【ウェポン・エンチャント】したわけじゃないわよね、それ。でも、魔力が宿っている。あなたも魔闘術の心得があるの?」

 秋芳のいた世界の見鬼ほど正確ではないが、ルヴァフォースにも霊的な感覚の鋭い人は存在する。【センス・オーラ】を使わずともなにか魔術的な作用の有無を直感できる人が。ペルルノワールの優れた感覚は布棍に込められた秋芳の気を感じ取った。

「魔闘術ではないが、まぁ、そんなところだ」

 気を張り廻らせて肉体を鉄のように硬化させる鉄布衫功の応用で、手にしたテーブルクロスをほどけないように絞り上げ、硬質化したのだ。

「ヒージャーグスイもシェーブルチーズもハブ酒も……俺はけっこう動物好きだから、こいつをたおすのは心が痛むな」
「あなたのその『好き』って、食べものとしての好きじゃない?」

 最初に動いたのはキマイラだった。黒山羊の口が呪文を唱える。

「《穢れよ・爛れよ・朽ち果てよ》」

 第二ラウンドを告げる酸毒刺雨が大広間のなかを降りそそいだ。
 

 

人狩りの夜 4

 
前書き
 セリカの中の人のニューシングル「妄想帝国蓄音機」本日発売。 

 
 鮮やかな色をした蠍の下半身に美しい人間の上半身を持つパピルサグ。
 キチン質の肌と怪力を持つ蟻人ミュルミドン。
 身体の両端に頭のついている双頭の怪蛇アンフィスバエナ。
 下半身から六本の大蛇の頭と一ニ本の蛸の触手を生やした妖女スキュラ。
 虹色に煌めく大蛇の下半身をした魔女ラミア。
 青銅の皮膚をしたひとつ目の猛牛ストーンカ。
 獅子の体躯に老人の顔、蠍の尻尾、蝙蝠の翼を持つ妖獣マンティコア。
 ねじくれた二本の角を持つ双角妖馬バイコーン。
 単眼単脚で瘴気の息吹を吐く巨人フンババ。
 球状の体に一メトラを超える巨大な目玉と無数の触手と手足を生やし、麻痺や睡眠、火炎や冷凍、破壊光線を放つ魔眼生物ヴィデーレ――。

 辺境に生息する魔獣や神話や伝説に伝わる幻獣を模した奇々怪々、多種多様な怪物たちが魔方陣から次々と召喚されてはペルルノワールの剣技と秋芳の体術。あるいは両者の魔術の前に葬られる。
 白金術の粋を集めた合成魔獣(キメラ)が無惨に骸を重ねる姿を見て貴族たちは大いにあわて、うろたえた。
 これはもう、賭けどころではない。

「これほどの魔獣を相手にして一歩も引かず、息ひとつ乱さないとは、なんたる手練れ。このマスク・オブ・イーグル、感嘆の極み!」
「魔獣どもでは埒が明かない。ここはこのマンティスが出張ろうか?」
「イーグル卿もマンティス卿も、まだそのようなのん気なことを……」
「あ、あのデタラメな強さ。ただの盗賊とは思えぬ。も、もしや特務分室の手の者ではないか?」
「まさか、嗅ぎつけられたのか!?」

 帝国宮廷魔導士団特務分室。
 おもに魔術がらみの案件を専門に対処する部署で、その最大人員は二二名。
 それは、少数精鋭を意味する。
 構成員それぞれに大アルカナにちなんだコードネームがつけられ、ひとりが一軍に匹敵するとも言わしめる実力者そろいだ。
 この特務分室の室長は代々イグナイト公爵家の者が務めるのが慣例となっていると言われるが、政府中枢に座する者もその全容は把握しきれない、影の軍団。

館主殿(ハウスマスター)! 遊びはほどほどにして、残る魔獣をいっせいにけしかけましょう!」
「うむ、その隙に裏から散り散りに退散しましょう」
「ぬぅ、たしかに特務の輩と剣を交わすのはいささか気が引ける」
「でしょう。マンティス卿もイーグル卿も、今宵は早々に退出なされよ。さぁ館主殿、早く次の魔獣を」
「……ない」
「え?」
「たったいまやつらが倒したのが最後の一匹だ。もうこちらに手札は残ってはいない」
「なんと! こ、こうしてはいられない。やつらがひと息入れている間に退出しましょう!」
「館主殿もお早めに!」

 ひとり、またひとりと姿を消していく仮面の貴族たちを無表情で見送るクェイド侯爵。館主である自分が退くのは客人の退席を見届けてから。
 などという殊勝な心がけからではない。
 操作盤に手を伸ばして新たな合成魔獣を、真の最後の一体を呼び出す操作をする。
 貴重な魔鉱石をふんだんにもちいて造った、宝石獣を呼び出すために。
 宝石獣。
 帝国がひそかに行っていた合成魔獣(キメラ)研究の最高傑作で、様々な魔鉱石を掛け合わせて造った大亀型の魔獣。
 その外皮は三属の攻性呪文が効かず、真銀(ミスリル)日緋色金(ヒヒイロカネ)以外のいかなる武器でも傷つけることができないとされる。

「レザリア王国への手土産か、オルランド鎮圧のさいの切り札として用意していた秘蔵の宝石獣。まさか盗人風情に使うことになるとはな」

 先代から続く女王の弱者救済、福祉優先政策はクェイド侯爵のような人民の命を軽視する貴族たちや、保守的な富裕層、既得権益者たちから唾棄されていた。
 この男は自国であるアルザーノよりもレザリアに傾いていた。
 隙あれば反旗をひるがえし、帝都を我が物にすることを考えていたのだ。
 宝石獣『タラスクス』はそのための決戦兵器。
 たとえ高度な剣術と一通りの軍用魔術を修めた王室親衛隊――アルザーノ帝国軍の帝都防衛師団に属する、女王の警護を主任務とする帝国軍屈指の精鋭部隊であっても、一体で相手取ることができる目算だ。
 この強力な存在は秘中の秘。たとえ人狩りの同士であっても知られるわけにはいかない。

「もしも本当に特務分室の者なら好都合。ここで女王の駒を潰しておくに越したことはないし、良い実戦データも得られそうだ。さぁ、いけ。タラスクス。思う存分荒れ狂え!」



 天鵞絨(ビロード)の絨毯の上に怪物たちの屍が重なり、異臭を放っていた。
 水晶の杯や銀食器。絹のテーブルクロスは怪物の体液にまみれ、贅を尽くした大広間は死屍累々の惨状と化していた。

「――消化器官がない。どんな食性をしているのだろうな、この生物は」

 体の前半身がライオン、後半身がアリの姿をした異形の合成魔獣ミルメコレオの骸を検分する秋芳。
 いにしえの賢者が書いた数多の博物誌や旅行記、図鑑や辞典。魔術学院の蔵書に幻獣魔獣を記した書物は多いが、さすがに本で知るのと肉眼で見るのはちがう。

「…………」

 知的好奇心に駆られて合成魔獣の死骸を調べる秋芳とは異なり、沈痛な表情で怪物たちの屍の山にむかって黙祷を捧げるペルルノワール。

「俺たちの命を奪おうと襲ってきた怪物のためにも祈るのか?」
「彼らはみずからの意思で襲ってきたわけじゃないわ。魔術によって自然の摂理をねじ曲げられ、無理矢理この世に産み落とされたあげくに闘争の道具にされた、哀れな犠牲者よ」
「そのわりには、容赦がなかったな」
「殺さなければ、殺されていたから」

 合成魔獣たちは野生の獣とはちがう。
 たとえ相手との実力に雲泥の差があろうが、たとえ大きな手傷を負おうが、たとえ命を落とすことになろうが、主である魔術師の命令は絶対だ。
 生存本能に従い逃走することはゆるされない。
 そして秋芳とペルルノワール側には次々と召喚される魔獣相手に手心をくわえる余裕はなかった。
 死なない程度に攻撃しても回復したら再度襲撃してくるだろう。新たな魔獣を相手にしているときに背後から襲われてはたまらない。
 一体一体、完全に息の根を止めるしかなかった。
 それが、もっとも安全で効率の良い対処法だったのだ。相手の数が不明な以上、余計なことをして体力魔力の浪費はできない。
 マナ欠乏症にならないよう、可能なかぎり剣で応戦し、魔術の使用は極力控えて的確に行使する。
その戦いかたもあって秋芳もペルルノワールも消耗は最小限に抑えられていた。

「合成魔獣を兵器利用するための研究開発は禁止、凍結されているわ。所持するにも国からの許可が必要で、愛玩用や魔戦武闘用に何匹か飼育している貴族や魔術師はいるけど、クェイド侯爵がこんなにも大量の魔獣を用意しているなんて話は初耳よ。あきらかに無許可ね」
「罪を問うことができそうか」
「ええ、人民の誘拐、暴行、虐殺にくわえて合成魔獣の不法所持。たとえ大貴族とはいえ言い逃れはできないわ」
「そうか。……その合成魔獣だが、これで打ち止めかな?」

 新たな魔獣が召喚されない。
 たおして一分もしないうちに呼び出されていた魔獣たちが呼び出されない。
 なんの反応もない魔方陣の代わりに、正面の壁に掛けられたクェイド侯爵の肖像から音声が流れた。

「よくもやってくれたなネズミども。おまえたちが殺したキメラは一番安いものでも屋敷のひとつふたつ買えるだけの値打ちがあったのだぞ」
「無辜の民をかどわかし、虐殺する。非合法な合成魔獣を大量に所持する。帝国の法に従い、おとなしく縛につきなさい」
「ふんっ、ろくに税も納めぬ非市民など、どうあつかおうが大貴族である私の勝手だ」
「王家の領民に危害をくわえることは、王家の財産を傷つけるに等しい。貴族であっても許可なく殺害すれば法に背く行為よ」
「盗人風情が大貴族たるこの私に王家の法を説くとは、笑わせるな」
「この顔を見忘れましたか、クェイド」

 ペルルノワールが顔の上半分を隠している仮面をはずす。
 象牙細工のように整った鼻梁、長いまつ毛で縁取られた蒼氷色(アイス・ブルー)の瞳。
 仮面の下には秋芳が想像したとおりの美しい少女の貌があった。
 さらに夜闇のような黒髪が一変。黄金を溶かしたかのようなまばゆい金髪となる。
 【セルフ・イリュージョン】の魔力が宿った仮面の力で金髪を黒髪に染めていたのだ。

「ひ、姫様っ!?」

 思いもしなかった人物の登場にクェイド侯爵は度肝を抜かれた。
 仮面の下に隠されていたペルルノワールの美貌は、アルザーノ帝国第一王女、レニリアその人のものだったからだ。 

 

人狩りの夜 5

 
前書き
 原作ではまだ登場していない、レニリア姫を出しちゃいました。 

 
 帝都を騒がす仮面の義賊ペルルノワール。その正体はアルザーノ帝国王女レニリア姫。

「ななな、な、な、な、なにをほざくか!? 盗人の分際でなにをほざくかっ! 姫様の名を騙る不埒者が!」
「クェイド。あなたは先月の琥珀の間での謁見のおり、わたしにオルランド市場について質問しましたね」
「……っ!」
「そのときわたしはこう答えました『中央銀行の量的金融融和政策を過小評価するべきではない。準備制度の金利引き上げによる流動性も徐々に収まっていくのではないか』と。おぼえているでしょう」
「そ、そんなバカな。本当にレニリア殿下なのか……」
「そのとおりです。あるときは美少女仮面ペルルノワール、あるときは花屋の美少女看板娘シモーヌ、あるときは美少女吟遊詩人ミージュ、またあるときは美少女探偵アンジェリカ――」
「おまえそんないっぱい変装していたのか。つうか美少女押すな、おい」
「しかしてその実態はアルザーノ帝国女王アリシア七世が一子、愛と正義の美少女プリンセス☆レニリア(キラッ☆」
「…………」
「クェイド。あなたは侯爵という民草を守り導く貴族の地位にありながら守るべき人民をかどわかし、獣のように狩りたて殺しました。人倫にもとる鬼畜の所業、恥を知りなさい!」
「ぐぬぬ……」
「さらに不正に入手、飼育している合成魔獣(キメラ)をけしかけ、戯れに人を、わたしたちを嬲り殺そうとしました。その罪、断じて許しがたい!」
「…………」
「非道な悪事の数々、このアルザーノ帝国王女レニリアの目と耳を通して明々白々の下に晒されています。潔く法の裁きを受けなさい。もしくはこの場で歯ブラシで鼻の穴を磨き殺すの刑に処します!」
「いや、貴族の自決方法なら普通は毒酒をあおるとかだろ、なんだよそのえぐい刑罰」
「……は、ははっ、うぇーっはっは!」
「…………」
「姫様が、王女殿下がかような所に来られるはずがない! なにが王女殿下じゃ! いや、おまえなぞ姫様ではない、姫様の名を騙る痴れ者じゃ!」
「愚かな……」
「『暴れん坊将軍』でもおなじみの、定番の流れだな」
「ええいっ、たとえまことの姫様であろうと、ここで死ねばただの盗賊ペルルノワールよ!」
「うん、そんな科白も『暴れん坊将軍』であったわ」

 秋芳たちの足下の床が消滅した。
 落とし穴だ。

「《三界の理・天秤の法則・律の皿は左舷に傾くべし》」
「《三界の理・天秤の法則・律の皿は左舷に傾くべし》」

 秋芳とペルルノワールことレニリア姫。落下するふたりの口から、ほぼ同時におなじ呪文が唱えられる。
 重力を操作する黒魔【グラビティ・コントロール】だ。
 呪文は即座に効力を発揮し、落下速度が大きく減速。地面に叩きつけられることなく、ふわりと着地する。
 そこは、大広間よりもさらに広い空間が広がっていた。
 暗くはない。光源はドーム状の天井にいくつも灯された魔力光だ。

「なんだ、てっきり水牢にでも落とされてケルピーやマーマンといった水棲魔獣をけしかけられるとでも思ったぞ」
「ほう、中々興味深いことを言う。その発案、次回から使わせてもらおう」
「おまえに次はないわ、クェイド。悪あがきしないでとっとと鼻歯ブラシの刑に――」

 OOOoooUUUuuuNNNnnn――

 咆哮が轟くと壁の一角が上がり、新たな魔獣が姿を現した。
 六本の足に獅子の顔をした、家ほどもある巨大な亀。甲羅をふくめ、その巨体には大小無数の透きとおった宝石のようなものでおおわれ、ほのかに光り輝いていた。

「次がないのは貴様らのほうだ。我が最強の宝石獣タラスクスの餌になるといい」
「宝石獣……かつてわが国が密かにおこなっていた合成魔獣研究の最高傑作として、理論上の設計だけはなされていたと言うわ」
「なんで『理論上』止まりだったんだ?」
「生産するためのコストがあまりにも高かったため、軍縮傾向にあった当時の政局にかんがみて実際に創られることはなかったの」
「ふぅん、そんなにすごいのか」
「様々な魔鉱石で構成された外皮は炎熱・冷気・電撃といった三属の攻性呪文が効かず、真銀(ミスリル)日緋色金(オリハルコン)以外のいかなる武器でも傷つけることができない硬度を――しまった!」
「どうした?」
「わたしたち、たった今、高い所から落下したのにスーパーヒーロー着地しなかったわ!」
「膝に悪いからやめろ」
「だから【グラビティ・コントロール】がかかっているときにするんじゃない」
「あれは高速で落下して決めるからこそかっこいいのであって、今さっきみたいにゆっくり落ちたときは『ふわり』と着地したほうが凄味が出るだろ。なんかこう武術の達人的な」
「それは東方人的な感覚ね。もっとこう、派手にいきたいのよ、わたしは」

 UOOOUonnnッ……
 
 咆哮とともに丸太のような前足を振り上げ、突進するタラスクス。
 破城槌のごとき一撃を跳んで躱すレニリア。
 地を走り避ける秋芳。

「まぁ、目まで硬いのね」
「足のつけ根もだ」

 レニリアはレイピアで、秋芳は布棍で。避けると同時にそれぞれ攻撃をしたのだが、はじかれた。
 大抵の生物の急所である眼球と四肢のつけ根も鋼の硬度を持っている。

 UloooUOOOnnッ!

 大亀獅子が雄叫びを上げると、その巨体に埋め込まれている宝石が激しく明滅する。
 膨大な量のマナが放出し、破壊のエネルギーと化す。

「《光の障壁よ》!」

 攻撃に備えてレニリアは【フォース・シールド】を唱えた。
 黒魔【フォース・シールド】。無次元・有次元を間わず、あらゆる攻撃に対し有効な魔力障壁を展開する。非常に強力だが座標指定呪文なので、使用すると足が止まってしまうのが欠点。
 呪文は即座に効果を現し、光の六角形模様(ハニカム)が無数に並ぶ魔力障壁がレニリアの目前に展開。
 ひと呼吸ほど遅れて目も眩む閃光と耳をつんざく轟音が炸裂した。幾条もの稲妻が乱舞し、雷音とともに視界を埋め尽くす。
 タラスクスの全身から放たれた雷霆の嵐は【プラズマ・フィールド】にも匹敵するだろう。

「《霧散せよ》」

 一方の秋芳は【トライ・バニッシュ】によって放電攻撃を無効化。雷霆は秋芳の周りで煌めく塵のような魔力の残滓となって空間に散華した。
 黒魔【トライ・バニッシュ】。空間に内在する炎熱、冷気、電撃の三属エネルギーをゼロ基底状態へ強制的に戻して打ち消す、対抗呪文の基礎。
 一般的に防御呪文は【フォース・シールド】、【エア・スクリーン】、【トライ・レジスト】の三種が基本とされる。
 それぞれに『万能で強固だが足が止まり移動ができない』、『万能で自由に動けるが物理的な衝撃に弱く消滅しやすい』、『自由に動けて魔力が続く限り永続的だが効果は三属性だけで損傷を軽減するだけ』と、おのおのに一長一短がある。
 これら三魔術が受動防御ならば、【トライ・バニッシュ】は能動防御といえるだろう。
 相手の攻撃を読み、先んじて動いて無効化する。その性質ゆえ決まれば決定的だが失敗すれば、もともこもない。
 実戦で多用する機会は限られている。
 それを、秋芳はもちいた。
 なぜか?
 見鬼によってタラスクスの攻撃を電撃属性だと見抜いたからだ。

 UOOOnnッ!

 タラスクスの甲羅がふたたび激しく明滅し、マナが放出。こんどは、雷ではなく炎。
 燃え盛る火焔の渦が室内を焦がす。

「…………!」
「《霧散せよ》」

レニリアはそのまま障壁を維持し、秋芳は再度【トライ・バニッシュ】で炎を消し去る。

「雷に火ときて、次は氷かしら?」
「……いや、また雷だ」

 迸る雷光。
 灼熱の爆炎。
 炸裂する火球。
 荒れ狂う迅雷――。
 雷火の乱舞。タラスクスは雷と炎をでたらめに放ちまくる。
 そのつど秋芳は打ち消し、レニリアはさらに魔力を奮い、障壁を強化していく。

「レイヴン、ちょっとこっちに来て」

 秋芳はレニリアの手招きに応じ、【フォース・シールド】の範囲内に素早く移動する。

「あなた、なんで次に来る攻撃の種類がわかるの?」
「魔力の動きを読むのが人よりも少し早い体質なんだ」

 むろん、これは見鬼のことである。

「まぁ、便利なこと」
「それよりこのままではジリ貧だぞ。なにか手があるのか?」
「三属性以外の攻撃手段、風の魔術を試してみるわ」
「強力な風魔術の心得があるんだな」
「【エア・ブレード】を使うわ」
「極めれば岩盤をも切断し、人の体ならば一滴の血を流すことなく両断する真空の刃を生み出すという攻性呪文か」
「ええ、でもわたしの実力じゃあそこまではいかないかも。それでも試してみる価値はあるわ。ただ、【エア・ブレード】は節数が多いし、集中に時間がかかるから時間稼ぎをお願いするわ。あいつの注意をそらしてちょうだい、あなたならあいつの攻撃を寸前で散らせるでしょ」
「やってみよう」

 言うが早いかタラスクスの前へ飛び出し、鼻先に布棍を叩きつけた。
 足の踏み込み、腰の回転、肩、腕、手首のひねり――体内で練った勁力が槍と化した布を螺旋状に伝わり、浸透系の打撃となる。
 鋼の硬度を誇るタラスクスの外皮だが、内部に伝わる衝撃までは無効化できない。

 KISYAAAaaaッッッ!

 たいていの動物にとって鼻は神経の集中する急所である。魔改造をほどこされた合成魔獣であるタラスクスも鼻を攻撃されるのはいやのようで、いきり立って秋芳に狙いをさだめた。
 牙を剥き出し、六本の足を振り回して暴れまわる。
 秋芳は杭のような牙と丸太のような足による猛攻をかいくぐり、布棍を一瞬のうちに二閃三閃させる。
 魔鉱石におおわれた外皮には傷ひとつつかないが、打撃に込められた勁力がタラスクスの筋肉と神経を痛めつける。
 内傷というやつだ。
 この闘方は、ここルヴァフォース世界では魔闘術(ブラックアーツ)と呼ばれる技法に酷似していた。拳や脚に魔術を乗せ、インパクトの瞬間に相手の体内で直接その魔力を爆発させるという、魔術と格闘術を組み合わせた異色の近接戦闘術に。

(牛鬼よりもでかいな、こんなデカブツとやり合ったのは鈴鹿山の大鬼以来か)

 秋芳とて元の世界では数多の動的霊災を修祓してきた猛者である。
 小山の如き体躯をした合成魔獣が相手でも、一歩も引かず応戦する。

「――《天翔る風竜よ我らにその力を示せ・天を仰ぎし者どもよ地にひれ伏し祈れ・空よ裂けよ・ 颶風よ猛れ・大地を覆いし黒雲を切り裂け》――」

 一節詠唱と三節詠唱――。
 基本的に呪文の詠唱は三節でおこなわれるが、略式詠唱のセンスがあれば一節による詠唱も可能である。
 特徴として一節詠唱は素早く魔術を発動させることができるが、暴発する危険性がある。
 一方、三節詠唱は発動速度が遅いが魔力の消費効率が一節より良い。
 俗なたとえをすれば、一節詠唱はMPを多く消費する。というやつだ。
 そして非殺傷系の攻性呪文でも時間をかけて魔力を練り上げ、三節以上の詠唱節数をかけて呪文を唱えて威力を最大限に高めれば、 じゅうぶんな殺傷力を得ることができる。
 この応用で、本来ならばあつかえない高レベルの呪文であっても詠唱と集中に時間をかければ使用可能なのだ。
 レニリアを中心に竜巻が発生し、周囲にかまいたちが発生。黒魔【シュレッド・テンペスト】にも等しい風の刃が吹きすさぶ。発動前でさえ、このような現象を引き起こすのだ。【エア・ブレード】自体の威力たるや、どれほどのものだろうか。
 両手が舞うように動いて幾度も宙に印を刻み、十字を切る。

 轟ッ!

 上下左右から不可視の刃が迸り、タラスクスの甲羅を削って壁に大穴を空けた。

「おお、すごい! まるでバギクロスだ! ……だが、惜しいなぁ。あたっていれば決まっていたのに」

真銀(ミスリル)日緋色金(ヒヒイロカネ)以外の武器では傷つけることができないといわれる宝石獣の堅固な甲羅を削り取り、背後の石壁にはくっきりと十文字の形で大穴が穿たれていた。
 その断面はなめらかで、まるで鋭利な刃物でホールチーズを切り分けたかのようだ。

「ふぅ……、使いなれない魔術を使うとこれだから――。レイヴン、悪いけどもう少しそいつをひきつけてくれない。次は絶対にはずさないわ」
「やめておけ、あんな大技を続けて放てばマナ欠乏症になるぞ」
「ならどうするのよ、なにか考えがあるわけ?」
「ああ、ある。こいつ、さっきから直接攻撃のほかは炎熱と電撃しか使ってこないよな」
「ええ、そうね」
「ドーム型の背甲と平たい腹甲に円形の鼻孔。この合成魔獣のベースとなった生物はサイネリアノロガメじゃないかな」
「わたし、動物のことはあまりくわしくないから」
「サイネリア島を中心とした温暖な島々にしか生息できない、寒さに極端に弱い生き物だ。宝石獣に改造されても寒さに弱いという特徴があるのかもしれない」
「弱点が冷気だとしても、魔術が効かないなら、どうしようもないわ」
「あいつの体を直に冷やす必要はないだろう。この部屋を氷室にしてやるから、【エア・コンディショニング】で暖をとれ」

 秋芳の意図を察したレニリアはすぐに【エア・コンディショニング】――術者周りの気温と湿度を調整する特殊呪文(エクストラ・スペル)を唱える。

「《銀嶺より吹きし冷風よ・氷原を駆け・凍土に満ちよ》」

 瞬時に血液が凍るほどの強烈な凍気と、それによって生じた氷弾の合わせ技によって標的を粉砕する【アイス・ブリザード】でも、空気も凍る極低温の輝く凍気を広域に展開する【フリージング・ヘル】でもない。
 【クーリング・マテリアル】。対象物の温度を下げる地味な冷却呪文。魔力を消費し、維持し続ける必要があるが、理論上は絶対零度まで下げることが可能だ。

 UOOOッ!

 妨害しようとタラスクスが炎雷を放とうとするが、不発に終る。レニリアの【エア・ブレード】による損傷で、マナの放出ができなくなったのだ。
 穿たれた甲羅についた宝石はただただ明滅を繰り返すのみ。
 それならばと呪文を唱え続ける秋芳に襲いかかるが――。

「おっと」
「《銀嶺より吹きし冷風よ・氷原を駆け・凍土に満ちよ》」

 呪文を中断した秋芳に代わりレニリアが続きを唱える。
 目標をレニリアに変えて攻撃しても軽やかにかわして秋芳が続きを詠唱。また秋芳を攻撃し、レニリアが続きを詠唱。
 蝶のように舞い、燕のように翻り、さらりすらりと柳に風とばかりに華麗によけては冷却呪文を交互に唱え続けるうちに、タラスクスの動きが次第に鈍くなる。
 室内の温度の低下が、寒さに弱いその体を蝕んでいるのだ。
 体温を調節する機能がなく、 外界の温度によって体温が変化し、新陳代謝に影響を受ける変温動物は低温になると種々な活動が不可能となり、冬眠や休眠するものが多い。
 秋芳の推測通り宝石獣タラスクスには素体となったサイネリアノロガメの変温動物の特性が残っていたのだ。
 やがて、タラスクスはその動きを完全に止めた。
 
 

 
後書き
 ドラゴンマガジンに『真・三国志妹』という作品が載っていたのですが、主人公がしょっぱなから「劉備玄徳」と称していて萎えました。
 劉備玄徳、諸葛亮孔明、関羽雲長――。
 などと、姓+名+字で呼んだり書いたりすることは漢籍に親しまなくなった最近の日本人のまちがい。
 劉備か劉玄徳、諸葛亮か諸葛孔明、関羽か関雲長――。と、姓の次は名か字かにちゃんとわけないといけない。
 もう20年くらい前から作家の田中芳樹が指摘しており、彼以外にも高島俊男や大森洋平といった中国文学者や時代考証の先生も指摘しています。

 コーエーのゲームじゃそのあたりが守られていましたね。
 こういうの、ラノベだからといっておろそかにして欲しくないものです。 

 

晩餐会 1

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』11巻。本日発売です。 

 
 クェイド侯爵の館に駆けつけた宮廷魔導師団の面々は、そこかしこでたおれている使用人の姿を目にして通報が虚報や悪戯のたぐいでないことを確信した。
 そしてホール内を埋め尽くす合成魔獣の死骸と、ごていねいにも【マジック・ロープ】とカーテンで二重に縛り上げられ、【スペル・シール】をほどこされた上に猿ぐつわまでされた館の主を発見した。

「いったいなにがあったんだ……。うん?」

 意識を失ったその横に彼の罪状を書き連ねた書状が広がっており、この件は魔術がらみの案件を専門に対処する、帝国宮廷魔導士団特務分室にふさわしいと判断し、すぐに報告をした。
 このことを機にクェイド侯爵の悪逆非道のおこないが暴露されるのであった。





 授賞式はつつがなくおこなわれ、秋芳は名実ともに騎士爵となった。
 晩餐会用のホールには五〇人は座れる長いテーブル、アルザーノ帝国の歴史が描かれた丸みを帯びた天井にはシャンデリアがいくつも吊り下げられている。
 テーブルには純白のテーブルクロスがかけられ、そこにならべられた銀製の食器類は磨きこまれていて輝いている。ガラスの食器類は最高級のクリスタル製で、黄金製の枝つき燭台があちこちに置かれていた。
 出席者ひとりにつきひとりの給仕がつき、用のない時は微動だにせず壁際に立っている、その姿は彫刻のようだ。
 前菜はアカザエビと帆立貝の炭火焼き、エルダーフラワーやイラクサやラムソンなどハーブをふんだんに盛りつけたサラダ類、冬林檎のピクルス。
 主菜はうずらの黒ニンニクとリーキの灰風味、イモと野生のキノコ盛り合わせ、羊肉とトマトの煮込み、鴨や鳩のロースト。
 デザートはスノーベリーのシャーベット、レモンのチーズケーキ、サバイオーネで、メレンゲやサワークリーム、アイスクリームがたっぷりと添えられていた。
 そして飲み物は山ほどのワインの他に、ブランデー、蜂蜜酒、各種リキュールやカクテル類。コーヒー、紅茶、東方の緑茶までも用意されている。

「前菜を左右非対称に盛りつけるなど、見た目や香り。食感の変化を楽しませる工夫がされている。味つけは少々物足りないが、この気配りはなかなかに乙」

 秋芳は式典後の晩餐会のメニューに大いに満足した。
 晩餐会というが、貴族たちの食事会はむしろ食事よりも出席者同士の会話がメインだ。
 私的な食事会では夜通しおしゃべりに興じることもある。
 おしゃべりは得意なほうではない秋芳ではあるが、京都で白足袋連中を相手にしていたこともあり、大人の対応は心得ていた。

「カリーダ・フーロについてはご存知かな?」
「プラド大公が彼女の絵を認めるまで、カリーダさんの作品は絵画として世に認識されなかったのは実に残念です」
「ふむ」
「プラド大公といえば、彼の集めた美術品をもとに創設された美術館は世界屈指の美の殿堂かと」
「そうだろうとも」
「孫の小プラド公の収集したプラド七品のなかでも六英雄激闘図は傑作中の傑作だと世間では言われていますが、私はロイド聖賢図に描かれた庭園に惹かれます。あの絵に描かれた、たくさんの花々。鮮やかな色使いが美しく、まるで匂いまで伝わってくるようで、彼の技術の高さを感じます」
「リタースングラードの戦いについて、どう思われますか?」
「レザリア王国はロヴパフの家を手に入れるため、首都を陥落させるよりも多くの兵を失いました。アートレム劇場で公開中のメアリ=クライタの作品にそのあたりの顛末が描かれており――」
「ムーア様式の復刻についてだが」
「サンメザーノ宮殿に見られる東西の文化の融合を体現した建築様式は荘厳にして可憐、幻想的で洗練された摩訶不思議さに見る者を呆然としてしまうとか。聖エリサレス教と多宗教が平和に共存していた頃の名残ですね」
「騎士爵殿はアルザーノ魔術学院に通っているとか。第七階梯(セプテンデ)のセリカ教授の『平行世界における相互時間流に関する第三者視点からの思考実験』について学ばれたことは?」
「初歩の初歩なら。この論は時間という概念に関する哲学の二大潮流が主軸となります。このふたつはご存知ですよね」
「ああ、たしか……」
「循環的時間と直線的時間です。いっぽうには永遠に循環する時の円環(サークル)が存在し、もういっぽうには不可逆一方的な時間の直線があり――」

 陰陽師はたんなる呪術者ではない。博物学者でもある。秋芳はときにこちらの知識を試そうと意地悪な質問してくる出席者たちとの問答で恥をかくことなく、ひととおりの〝基礎知識〟を披露して社交辞令をすまし、隅にあるバーカウンターに身を寄せた。

「作ってもらいたい酒がある」
「なんなりとおもうしつけください」
「そこのカップに薄くスライスしたオレンジの皮、ジンジャー四枚、スプーン一杯の蜂蜜を入れて、ブランデーと温かい紅茶を半々で注いでシナモンスティックを挿してくれ」
「それは……、はじめて聞く飲みかたですね」
「デザート代わりの食後酒さ」

 琥珀色の液体からふわりと立ち上がる芳醇な香り越しに見れば、レニリア姫を中心とした人の輪ができていた。
 豪奢にして繊細なまばゆい金髪に白磁のような肌と長いまつ毛に縁どられた蒼氷色の涼やかな瞳。
 プリンセス・オブ・プリンセス。
 数多の受賞者達よりも公務に出席した王家の人間が会場の華なのだ。
 この場での顔合わせを機会に色々と便宜を図ってもらいたいと願う者は多いだろう。

「金髪に合わせた黄金のティアラと瞳に合わせたブルーのチュールドレス。クリスタルがふんだんにあしらわれたデザインは上品で存在感も抜群。だが、いささか華美に過ぎるな」
「まぁ、シーホークを救った騎士爵様は服飾評論家でもあるのかしら」

 若い女性が声をかけてきた。蜂蜜色の髪に青みがかった灰色の瞳。身なりからして給仕のたぐいではない。出席者の一員か貴賓として招待された、いずこかの貴族のご令嬢といった感じだ。

「それ、美味しそうね」
「味見しますか」
「お願いするわ」
「じゃあ、おなじものを頼む」

 琥珀色の液体をひとくちすすった女性が吐息を漏らす。

「体が温まるわ。イテリアの冬にはもってこいね」
「だろう。温かいココアを入れても合うぞ」
「あなたの周り、ずいぶん人だかりができていたわ。人気者ね」
「こちらの知識を試して、下手なことを言ったら笑いものにしてやろうという衒学ぶった連中にたかられただけさ。それに人気者というのならあそこにいる姫様のことだろう」
「そのレニリア姫殿下の装いに不満があるみたいだけど」
「あのティアラがまずい」
「なにがまずいの?」
「大粒のアクアマリンとダイヤモンドが余計だ」
「どうして? 彼女の美をよりいっそう引き立てる装飾だと思うけど」
「完全に完全を合わせても、くどくなるだけだ。あえてなにかを欠けさせることが美を引き立てるんだ。それこそが、乙というもの」
「破調の美というやつかしら? それは東方人の考えかたね」
「昨夜もスーパーヒーロー着地についての考えの相違でおなじことを言われたな、レニリア姫。その扮装もペルルノワールとしての仮面のひとつなのか」
「……どうしてわかったの」
「言っただろう、人よりも気を読む術に長けていると」
「外見を変えただけではお見通しというわけね。あなたにかかるとファントム・マスクも形無しだわ」

 蜂蜜色の髪をした貴族令嬢――。その正体は【セルフ・イリュージョン】が永続付与された仮面で変身したレニリアだった。

「王族としての公務を影武者に押しつけて、ペルルノワールとしての次なる標的の物色か?」
「ええ、豪華絢爛な貴族社会はひと皮剥けば民衆の生き血を啜る悪党たちが跋扈する魔界よ。民草の集まる場所と、こういうところ。至高と至弱、双方の姿を見定めて、ペルルノワールは獲物を決めるの」
「富める者から盗み、貧しき者にあたえる。貴族連中のふところにある宝石や金貨でいっぱいの袋が、ペルルノワールに盗まれるのを待っているな」
「でも、今日は義賊としての標的ではなく別の標的を見定めるために来たの」
「別の標的、とは?」
闇鴉(レイヴン)、あなたよ。昨夜のあなたの動きは実に見事だったわ。もしあなたがいなければ、ペルルノワールとはいえ難儀なことだったでしょうね」
「そりゃどうも」
「アルザーノ帝国はつねに強くて有能な魔術師を求めているわ。カモ・アキヨシ。あなた、特務分室に入るつもりはない?」
「ない」
「即答!?」
「姫として、叙勲者の、俺の経歴は見ただろう。魔術学院に入学したばかりだ。まだまだ学ぶことは多い。国のために働くいとまはないな。それに俺は軍人になるつもりはさらさらないよ。宮仕えは性に合わないんだ」
「今すぐにとは言わないわ。それに四六時中お役所にひかえていろともね。こちらとあなた、双方の都合の良い時に手助けしてくれればいいの。報酬も出すわよ。あなたが学院で有意義に過ごしたいのなら、お金はいくらあっても足りないくらいでしょ。たとえ講師でなくても」

 魔術学院の講師陣にとって給料はたんなる生活の糧以上の重要な意味がある。高い階梯の教授職ともなれば、学院から研究費が多く下りるが、講師にまわされる研究費は雀の涙だ。
 講師が功績を挙げるために自分の魔術の研究を進めるためには、研究費はみずからやりくりするしかない。
 魔術講師は世間一般から見ればたしかに高給取りではあるが、収入以上に支出が多く、実際のところつねに余裕のない状態なのだ。
 そして生徒もまた講師ほどではないにせよ、先立つものは必要だ。最低限の学費にくわえて、専門的なことを学ぼうとすれば方々に出費することになる。
 錬金術に必要な道具をひととおりそろえるためにもそれなりの金を用意しなければならない。
 学院にある錬金台を授業以外で使用するには申請と順番待ちがあり、好きな時に好きなだけ使う。というわけにはいかない。やはり自宅に錬金道具が一式あったほうが望ましい。

「金か……、たしかにいくらあってもこまる代物じゃないな」
「でしょう。とりあえず見習いとしていくつか任務をこなしてみましょうよ。それで合わないようだったら、無理に勧めないわ」
「ふ~ん、たとえばどんな任務があるんだ」
「あなた、殺しは得意?」
「ド直球な質問だな、おい。俺に王家の殺し屋になれというのか」
「言葉を飾ろうが濁そうが無意味だからね。特務分室の仕事は多岐にわたるわ。そのなかには暗殺や破壊工作といった汚れ仕事がふくまれるのは事実だもの、最初にはっきりさせておかないとね。……少し前まで外道魔術師の処分に向いたメンバーがいたんたけど、殺しの仕事が堪えたようで、心を病んで辞めてしまったの」
「まぁ、普通の神経の持ち主ならばそうなるだろうなぁ」

 特務分室は危険な任務が多い。作戦遂行中に命を失う者や、内容に耐えられず辞職する者が後を絶たないために欠員が頻繁に出るため、現在は特に空席が目立つ。なんとか任期をまっとうしても、心的外傷後ストレス障害――心の病を患う者も多い。

「そのてんあなたは慣れていそうよね。クェイドやズンプフをあしらった感じ、手慣れていたわ」
「そう見えるか」
「そう見えたわ」

 陰陽塾に入る以前、数多の闇働きで呪殺まがいのことをおこなっていた秋芳である。
 その身に帯びた暗いにおいを、敏感に察知されたようだ。

「まさか、しょっぱなから殺しの仕事じゃないだろうな。昨夜逃した人狩り貴族ども全員を見つけて殲滅しろだとか」
「いいえ、それもいいけど、それはすでに他の人に任せてあるから」
「そりゃあ手の早いことで」
「あなたには別のことをお願いしたいの。さる貴人への武術の指南をお願いするわ。おびただしい数の合成魔獣(キメラ)たちを退治した東方渡来の武術。魔闘術(ブラックアーツ)に酷似した神秘の技に興味津々なの」
「その貴人というのはもしや……」
「レニリア姫よ」

 手にしたグラスでひそかに指し示した相手は、人の輪の中心にいる影武者のレニリア姫ではなく、自身を指していた。

「ペルルノワールは剣技も魔術も一流。いまさら俺程度の教えなどたいして面白くもないと思うが」
「謙遜しなくていいわよ。アルザーノ帝国では、魔術、剣術、拳闘、乗馬、学門。この五つは貴人の五大教養とされているのは知っているわよね」
「ああ、人の上に立つ者は文武両道たれ、というのが古典的な帝国貴族の伝統だと、ナーブレス公爵家のお嬢様に教えてもらったよ」
「ナーブレス家のウェンディ嬢ね。彼女の認識は正しいわ。高貴なるものに伴う義務をまっとうするために、文武ともに精進を怠るわけにはいえないの。この国にはない異国の武術。ぜひ教えてちょうだい」
「尚武の気風が悪いとは言わないが、人の上に立つ者ならば個の力を磨くよりも衆を率いる智恵を得るほうが有意義では。ウェンディにも言ったことだが、剣はひとりの――」
「剣一人敵、不足学。学万人敵」
「おおう」
「剣術はひとりの敵にもちいるものだから学ぶほどの価値はない。統治者はひとりで万人にあたる政治や軍略を学ぶべきである。と言いたいのでしょう。まえにあなたとおなじ東方出身の剣士におなじことを言われたわ。彼は異邦人ながらも帝国のために軍人として尽くしてくれたけど、テロリストの凶刃に命を奪われた。今となっては彼の技を継ぐ者もなく、強引にでも彼を説得して教えてもらわなかったことを悔やんでいるわ。……個人の武勇が無価値だとは思わない。武とは戦いを止める仁義の心。武芸を極めてこそ暴力を止め、仁義の心を世に広げられる。おのれの身ひとつ守ることができなくて、どうして無辜の民人を守ることができるでしょう」
「仁義とは?」
「弱気を救うのが仁、己を捨てるのが義。これぞ仁義!」

(この女、侠の心がわかっているじゃないか)

 日頃から君子ぶっている秋芳ではあるが、儒者の教えよりもこの手の侠客の科白のほうが心に響く。

「そこまで言うのなら……。それに実は俺もこの国の武術をはじめ、文化や芸術に興味があるんだ。ロイヤルプリンセスともなれば教養豊かで、さぞや古典芸能に通じているだろう。こちらも教える、そちらも教える。これでもかまわないか?」
「一方的に奪うのも、惜しみなく与えるのも、わたしの本意ではないわ。 たがいに利を受け与える遠慮なき間柄こそ理想よ。『ダール・イ・レゼベール』てやつね。わたしはあらゆる人とそういう関係を築きたいの」
「ようし、ならば俺の知っていることを教えよう」
「わたしの知っていることを教えるわ」

 こうして、秋芳とペルルノワールことレニリア王女は期せずしてよしみを結ぶことになったのである。 
 

 
後書き
 先日、上野の東京国立博物館に行ってきました。
 展示物の写真撮影OKでびっくり(フラッシュはNG)。前からそうでしたっけ? 

 

晩餐会 2

 踏み出した足のかかとを床にあて、そこを小さくねじる。
 足首、ふくらはぎ、膝、太もも、腰、腹、胸、肩、腕、肘、手首、掌。
 ねじることにより人体の様々な箇所に生じた運動エネルギー、気を大きく育てる。
 気の螺旋を体内で練り上げ、手にした剣先にそれを乗せて打ち出した。
 中国武術にある纏絲勁に、体内で練り上げた気を合わせて打つ。
 発勁。体内の気を一瞬、外に向かって解き放つ法。
 剣を突きつけた幹の、反対側の木肌が内部からはぜるように穿たれた。

「……マナに動きはなかった。でもなにかが、なんらかの霊的エネルギーが体の中で動いた。アストラル体かしら?」

 【センス・オーラ】を使い、秋芳の動きを観察していたレニリアが感想を口にする。

「やっぱり魔闘術(ブラック・アーツ)とは似て非なる技ね。あれは手足に魔術を乗せて、打撃の瞬間に相手の体内で炸裂させる、硬い鎧や外皮をもった相手にも有効な徒手空拳の格闘術。でもこんなふうに剣を通しての使用も、打撃を徹すこともできない。無理にしようとすれば剣にも衝撃が伝わり、破損するはず」

 秋芳が手にした剣に傷みはなく、木肌は裏側のみが傷ついている。

「武器は手の延長。剣身を(たなごころ)のようにあつかえないようでは、使い手とは言えない」
「普通は素手でもこんな芸当できないわよ」
「これは浸透勁。透かし、徹しなどとも言われる技法だ。気というものは物理的なエネルギーであり、霊的なエネルギーでもある。前者がいまやった芸当なら、これは後者に属する。――吩ッ!」

 丹田に生じた気を全身に廻らせ、内力をみなぎらせる。
 【センス・オーラ】によって霊的な視覚を得たレニリアの目に、秋芳の全身は薄く輝く光をまとって見えた。

「【トライ・レジスト】に【ボディ・アップ】の効果が現れているわ」

 令嬢の姿を改めてペルルノワールの衣装をみにつけたレニリアと秋芳。いまふたりがいるのは晩餐会のおこなわれたフェルドラド宮殿の外に広がる庭園の片隅。
 歓談や舞踏を楽しむ人々をよそに、ごていねいにも人払いの結界まで張ってレニリア姫ご所望の東方武術を披露している。

「内功の修養は一朝一夕でできるものではない。要訣を説くだけでも長い時がかかる。……めんどくさいぞ」
「でしょうね。そんな感じがする。でも、教えてちょうだい。とりあえず、今の技を」
「今の発勁は内功ともいえない児戯だ。まず頭頂から股間に走る正中線に重心を保つ。動かない柱が体の中心に入っていると意識すること。拳を打つときは下半身から、上半身に力を伝える。正中線の柱を絞り込むように両足を内側に力を込める。わかりにくいなら最初は少し内股に立つといい。そして下半身から始動した力を上半身に伝えて、その上半身の力を正中線の柱を巻き込むように内側に絞る――。わかるか?」
「わかるわ」

 レニリアの手が翻り、秋芳の喉元に細剣(レイピア)の切っ先が向けられた。

「なんだ、この手は」
「ぐだぐだうだうだ、ごたくを垂れ流す前に、まずは実践あるのみ! あなたの力、見せてちょうだい!」

 未知なる武術の使い手と戦えることへの喜びに、レニリアの蒼氷色の瞳が輝いていた。
 この娘は、戦うことが嬉しいのだ。
 力と技を競うことが、楽しいのだ。

「……鮑三娘や穆桂英みたいな娘だな」

 鮑三娘とは後漢末の三国時代を舞台にした民間説話『花関索伝』に登場する人物で、良家の令嬢ながら武芸に秀で、「自分よりも弱い男とは結婚しない」と豪語するほどの女傑だ。
 穆桂英(ぼくけいえい)は『楊家将演義』という古典作品や、それを題材にした京劇に出てくる文武を兼ねそろえた女将軍で、並の男なぞ足下におよばない凄腕の女性だ。

「最初から俺と手合わせするつもりだったな」
「そうよ」
「技の教授よりも、手合わせするのが本命だな」
「ご明察」

 喉元にあてた剣がまっすぐに伸びる。
 伸びた分だけ秋芳が下がる。
 レニリアがさらに進む。
 秋芳がさらに下がる。
 進む。
 下がる。
 進む。
 下がる。
 人払いの結界の境目まできた時、ひときわ瞬烈な刺突が放たれる。

「……たいした発条(ばね)だ。普通はいちど腕を引くなり、腰を落とすなりして溜めを作って強烈な一撃を放つものだが、おまえさんときたら上半身の筋肉のみで強打を放った。ひょっとしてさっきの説明は不要だったか? それは寸勁といって、東方武術の技巧のひとつだ」
「こっちはそれをやすやすと避けたあなたの体捌きにおどろいているわっ」

 言うとともに背後に回った秋芳めがけて後ろ蹴りをするレニリア。
 すねに軽く手をあてて打撃の勢いをそらしつつふたたび後方に退く秋芳。 

「おどろいているのはこちらもだ。軽量の当て身は弱いのが相場だが、おまえさんときたら遠心力を乗せた瞬発力抜群の打撃を放つ。空手の黒帯レベルじゃないか」
「カラーテとかバリツとか、そういう名称の東方武術があるみたいだけど、わたしのはちがうわ。剣はゼーロスに、格闘術はバーナードに習ったの。あ、いま言ったふたりは親衛隊と特務分室の人ね」

 口を動かす間にもレニリアの攻撃は止まない。右に左に体を移し、疾風迅雷の速さで剣を振るう。
 剣だけではない。

「シュッ」

 鋭い呼気とともに剣を握っていないほうの手がひるがえると、漆黒のマントが刃となって秋芳の首筋を狙う。
 身にまとう鎧であり、攻撃を受け流す盾であり、裾で切りつける武器でもある攻防一体の魔道具。
 それだけでは、ない。
 首を狙ったかのように見えたマントは寸前で向きを変えて秋芳の手にした剣に巻きつき、奪い取った。

「これ、こういう使いかたもできるの」
「まるでシャストアのマントだなぁ。それにこのレイピアもたいした業物じゃないか。セリカの持っていた剣に勝るとも劣らない出来だ。蝶を模した護拳の意匠も精巧で美しい」

秋芳が手にした細剣をしげしげと眺める。

「――ッ!」

レニリアのマントで剣を取られたとほぼ同時に、秋芳も相手の剣を奪い取っていたのだ。

「いつの間に……」
「此方に意識を集中するあまり、彼方がおろそかになる。よくあることだ」
「それにしても妙手ですこと。騎士爵殿はスリの技にも長けているのね」
「我が祖、賀茂の一族は修験道と縁の深い一族で、修験道は忍者と密接な関係だ。つまり俺は忍びの技を心得えている。そして偸盗術は忍術の基本だ」
「まぁ、ニンジャ! 一糸まとわぬ姿で敵の首を手刀で切り落とす達人ね」
「どこの世界のニンジャだ、それは」
「それ、返してくれる。交換よ」

 そう言って手にした剣を地面に突き刺す。
 秋芳もまた無言でそれに応じてレイピアを突き刺し、自分の剣を取ろうとする。
 その寸前で秋芳の剣がマントにかすめ取られた。
 レニリアが両手に剣を持っている。

「相手を欺くのは立派な兵法よ!」
「ごもっとも」
 
 両手の剣を竜巻のように旋回させ、秋芳に斬りかかる。
 二刀細剣の達人。『双紫電』の異名で呼ばれる王室親衛隊総隊長ゼーロス=ドラグハート直伝の剣が颶風と化す。
 月光の下、両の剣が放つ銀光と黄金を溶かしたような豪奢な金髪の煌めきがひとつになり、白金の旋風のようだ。
 だが、金色の剣風は秋芳の身には届かない。
 どこからか、夜風に乗って軽快で優美な音楽が流れてくる。
 ダンスホールで演奏されている円舞曲だ。
 秋芳とレニリア。目まぐるしく交差するふたりの影は、まるで音楽に合わせてワルツを踊っているかのようだった。
 ペアのダンサーのように、あるいはフリージャズのセッションのような。
 ちがう楽器をあやつるふたりの奏者が自在に音をぶつけ合い、からめ合いながら音とリズムの三昧境に入っていく。足の運び、腰の動き、手の振りの緩急を自在にあやつり、心の想うままに相手にぶつけていく。
 双剣と無手。異なる得物をあやつるふたりの演奏。ふたりの円舞。
 いくたびもまじわり、交差する光と影。金と銀に彩られた、美しくも危険な双剣の舞が月明かりの下で延々と続く。

「――あたらないわ、まるで影を相手にしているよう」

 左右二連の三段突き。合わせて六発の刺突はゼーロスの異名の由来となった、その名も『双紫電』。本来なら両手で持った剣で放つ三段突きの技『紫電』をさらに昇華し、両手双剣で驟雨の如く連発する脅威の絶技。
 それが、幾度もちいても秋芳には通じない。

「剣の技は千変万化。身のこなしは緩急自在。だが、動から静、静から動へと移る一瞬に隙が出ている。相手を幻惑する剣舞の動きも、攻撃する瞬間を見切られては意味がない。実則虚之、虚則実之心――。虚と実は表裏一体。それを忘れるな」
「……」
「それと、剣と体が一致していない。心から剣を消して呼吸を以て操る。剣にとらわれ、みずからを見失ってはいけない。これぞ最大のあやまち。剣に心奪われれば、思うように動けず。本来の力を引き出すことができない。先ほども述べたが剣は手の延長。剣に、武器にとらわれるな」
「敗者は敵に敗れる前におのれに敗れる。心が平穏なればこそ勝機はあると言うわ。あなたの明鏡止水、乱してあげる!」

 後ろに飛びすさり、距離をとったレニリアが剣の柄頭をレイピアの切っ先で突いて押し飛ばす。

「飛刀術か」
「《光あれ》!」
「なに!?」

 レニリアの口から呪文が唱えられた。
 黒魔【フラッシュ・ライト】。
 光の球を放ち、指定空間上を任意のタイミングでストロボフラッシュのように光り輝き、その閃光に よって対象の視界を奪う。あくまで強烈な光を焚くのみ。だが直接魔力を介さない眩い光は間接的ゆえに三属攻性呪文や精神汚染呪文に備えた【トライ・レジスト】や【マインド・アップ】の効果も受けつけることはない。
 その強烈な閃光とともに、レニリアの手からレイピアが投擲される。
 双剣の特性を生かした二段重ねの飛刀術『双紫電・影貫』。二本目の剣が初撃の後に完全に隠れるため、受けるにせよ避けるにせよ相手に隙を生じさせ、仮に二本目もしのいでも急接近し、拳闘術を叩き込む。
 レニリアはそれにさらに閃光の魔術を駆使したのだ。
 フェイントをもちいた二段飛刀にダメ押しの閃光呪文。
 閃光を避けるため目を閉じれば視界がふさがり、二本目の剣に貫かれる。
 閉じなければ目を潰されて二本目の剣に貫かれる。
 なんとか剣を避けても、拳闘術による攻撃にさらされる。
 いずれにせよ相手の視覚を封殺し、戦闘能力を奪う、恐るべき手段だ。

「……やっと、あなたに〝技〟を出させたわ」

 肩を脱臼したかのように、だらりと下がった右腕を左手で押さえながらレニリアが満足そうな笑みを浮かべる。

「で、これはなに? けがはしてないけど、すっごく痛くて、まったく力が入らないんだけど」
「……まんまと技を出させられた、武の勝負で意表を突かれたのは久しぶりだ。いまのは寸指勁という。体内で練った気を指先に集中させて相手の経穴を点く。経穴というのは――」
「こっちの言葉でいう霊絡(パス)のことね。人の身体には経絡と呼ばれる気の流れる道があり、その経絡には秘孔や点穴とも呼ばれる、いくつもの経穴がある……。でしょ」
「そうだ」
「東方医学のシンキュウやツボってやつよね。経験したことはないけど」
「カブリュ・ヴァドール放浪伯に施術したが好評だったよ。その点穴だが、上手く突けば非力な老人や子どもでも大の男をたやすくたおすことができる。指一本で悶絶させ、死に至らしめることもできる。ただ相手の体調や時刻によって微妙に移動する点穴を探りあてて、突くことは至難の業だ。いまも正確には入らなかった」
「でも目をつむった状態で二本の飛刀をかわすなんてすごいわ」
「……そんな状態で笑みを浮かべるおまえもすごいぞ」

 予想外の攻撃に対してとっさに放った寸指勁はレニリアの全身を麻痺させるにはおよばなかったが、片腕の自由を奪った。
 中途半端に経絡を断ったのだ。感覚を失うのではなく、肩から先を切断されたが如く痛みを感じている。

「解穴すればすぐに治療できるが、せっかくの機会だ。自分で治癒する術を伝授しよう」

 痛みにさいなまれる者に対して、これは厳しい。スパルタ教育である。

「まずは気息を整え、体内の気をゆっくりと背骨にそって上に移動させてゆく。これは周天の法といって気を特定の経絡に――」
「その必要はないわ」

 レニリアの足刀が空を切った。
 下から秋芳の腹を削り上げるようにして顎を狙う。
 秋芳はそれを寸前で躱す。
 のどから耳にかけて、刃物のような鋭さで拳圧ならぬ足圧が走り抜けた。
 ぞくり、と秋芳の見鬼が反応する。

(――ッ!)

 たったいま躱した足が、かかとが後頭部を目がけて飛んできた。
 それを、首を沈めてかろうじてかわす。

「……宝蔵院の十文字槍かよ」

 奈良の興福寺に興った宝蔵院流槍術の十文字槍は『突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌』とうたわれるほどの万能武器だ。刺突を躱された瞬間に引くことで左右に突き出た両の穂身で相手を後ろから斬り裂くことができる。
 レニリアの足技もまた、そのようなものであった。

「初見の相手に昇龍脚と龍落踵――双龍脚を躱されたのははじめてよ」

 左足を後方に引き、右膝を軽く前に突き出した。自由の利かない右腕はそのままに、左手でマントの裾をつかんで盾のように前へ出す。

「なんなんだ、その拳武館の高校生暗殺者が使うような技の名は」
「実戦で、敵を前にして悠長に霊絡治療なんかするひまはないでしょ。このまま続けましょう」
「剣の次は格闘術か。いいだろう、つき合おうじゃないか」

 秋芳の薄い唇が笑みの形になる。
 武術はもっとも実践的な魔術のひとつ。そのような考えのもと、幼い頃から鍛錬を重ねてきた。
秋芳もまた、呪術魔術の徒であると同時に武術家でもあるのだ。
 動的霊災でもなんでもない、武の心得のある生身の人間と久々に拳を交えることに、喜びを感じていた。
 秋芳は軽く腰を落とし、膝をまげて両足を前後に開いた。
 両腕を大きく天地に開いている。肘をまげた右腕が頭上前方に伸ばされ、左手はへそのあたりにくる。
 受けにも攻めにも対応できる、均衡のとれた構えだった。
 対峙する。
 秋芳とレニリアは、よく似た体形をしていた。
 秋芳は短身痩躯だが、無駄な肉がなく全身これ筋肉という体躯をしている。筋肉といってもボディービルで無理に作ったような肉体ではない。皮膚の下にある筋肉の束は完全に実用的なものばかりだ。
 実戦となるとボディービルで作ったプロテインまみれの不自然な逆三角形の筋肉は、存外もろい。
 筋肉の用途がちがうのだ。
 秋芳の筋肉は強靭で柔軟性があり、安定感がある。それに対して、レニリアもまた細身ですらりとした肢体をしているが、脆弱さとはほど遠い。猫科の猛獣のごとき剣呑さと強さを秘めている。
 身長は高くないが、腰が高く脚が長い。溌溂とした雰囲気と相まって少年のようにも見えるが、身体の線を露にしている黒装束の胸と尻の部分は妙齢の女性らしい主張をしていた。

(勇ましく美しい、十三妹(シーサンメイ)を思わせる)

 十三妹とは『児女英雄伝』という清の時代に書かれた大衆小説に登場する架空の人物で、本名を何玉鳳(かぎょくほう)という。多くの映画や京劇の題材になっており、日本刀を手に悪人たちを成敗するバトルヒロインだ。

「どうしたの?」
「レニリア姫。あんた、綺麗だな」
「うん、知ってる」
「こうして素顔を見ると美人だ。そのことに、今気づいた」
「遅いわ」
「気づいたといえば、剣を学んだゼーロスという人物。たしか近衛兵の長じゃなかったか」
「ええ、王室親衛隊総隊長。ゼーロス=ドラグハート。四〇年前の奉神戦争を生き抜いた古強者よ」
「そして格闘術を学んだバーナードというのは……」
「特務分室に所属する執行官でも一番の古株で、こちらもまた奉神戦争で活躍した英傑よ」
「だから足技が達者なのか」

 貴族たちが嗜む通常の拳闘術には「貴族的でない」という理由から蹴り技がない。だがアルザーノ帝国軍が採用している軍隊格闘術には蹴り技も入っている。

「ええ、もっとも翁――バーナードのことね。あのお爺ちゃんてば訓練中にやたらと体を触ってくるから、いやになっちゃって、初歩の初歩しか教えてもらってないの。格闘に関しては、ほぼ我流ね」
「それでこれだけの足技を使えるとは」

 レニリアの体が動き出した。右に左に、風が吹くかのような、水が流れるような、舞うような、緩急自在の軽快玄妙な足運び。
 それに合わせて、秋芳も動く。
 レニリアに合わせて軸足を変えながら回る。
 レニリアの動きが、徐々に速くなっていく。
 奇妙なリズムだ。動いている手足の、どれが攻撃を仕掛けてくるのかわからない。

(プロのボクサーだって、こんな見事なフットワークなんて使えないぞ)

 秋芳の天地に構えた両腕が、上下する。
 右手の位置が左手の位置に、左手の位置が右手の位置に、円を描くように幾度も変わる。
 円を描くたびに、内力がみなぎる。

「それ、なに」
「円空掌。遠心力てのがあるだろ。 円運動に生じる力で、回転の中心から遠ざかる向きに働く。これはその発勁版さ。蓄勁といって、こうしていると気が高まるんだ。遠心力をかけて放つ発剄は、波紋にも似た衝撃波で空をも破砕すると伝わる」
「じゃあ、時間をかけるとこちらが不利になるわね」

 レニリアの右脚が秋芳のこめかみをめがけて走った。
 速い。
 まるで疾風の鞭のようだ。
 秋芳は左肘を曲げてそれを受ける。
 その瞬間、レニリアの体が宙に舞った。地にあった軸足である左脚で跳躍したのだ。その、跳躍した左脚の先が真下から鋭い弧を描いて秋芳のあごに翔んだ。
 秋芳は右腕でそれを外側へ弾いてガードする。
 レニリアはそのまま後ろへと体を回転させた。後方宙返りだ。
 着地する瞬間を狙い、秋芳の円空掌が唸りをあげて迸った。
 掌風が体に触れる寸前に、その力に逆らわずレニリアが翔んだ。
 猫のように体を丸めたレニリアは秋芳の力を利用して後方へと翔んだのだ。後方には、木があった。
 木を蹴って、秋芳に向かい跳躍する。
 三角跳び。
 全盛期の大山倍達がもちいた、敵の死角から飛び蹴りを放つ奇襲技をレニリアは使ったのだ。
 これまでの動きはすべてフェイント。この一撃こそがレニリアの狙い。
 声にならない裂帛の気合いがレニリアの桜色の唇から迸った。
 天使の声をした、闘神のごとき雄叫びが――。
 

 

人狩りの夜 後日譚

 空は仰ぎ見るものだが、体勢次第では見下ろしているように思えなくもない。
 草に寝転んでいると、眼下には天が深く沈んで見える。

「…………」

 レニリアの頭上にして眼下に星々の大海が広がっていた。
あれから――。
 時に攻性呪文をまじえての猛攻はすべて防がれ、そのつど大力鷹爪功、分筋錯骨手、岳家散手といった擒拿の技によって掴まれ、極められ、絞められ、地面に投げ飛ばされた。
 なんどもなんども挑んでは投げられ、挑んでは地面に叩きつけられた。
 秋芳は手加減しなかった。
 力と技と智恵を駆使して全力で挑んでくる相手に対して手を抜くことは、礼に反する。
 たとえ相手が一国の王女であっても。
 秋芳にとって、レニリアはアルザーノ帝国の王族である以前に怪盗ペルルノワールなのだ。
 ともに死線を潜り抜け、奸賊を成敗した義賊仲間なのである。
 そんな相手に手を抜く行為など、どうしてできよう。
 レニリアもまた、それを良しとした。
 所詮は王族。幼い頃より剣や魔術の鍛練や試合をしても、周りの人々はだれひとり本気を出してはくれなかった。
 大事な姫君を傷つけてはいけない、機嫌を損ねてはいけないと、腫れ物のようにあつかわれてきた。
 実力が上の者も、下の者も。
 今宵この時生まれてはじめて、完膚なきまでに打ちのめされた。
 本気で勝負し、打ちのめしてくる相手と、相まみれた。
 汗と土埃にまみれてなお輝く美貌に満足げな笑みが浮かぶ。

「星を見ているのか?」

 手合わせはいつの間にか終わった。
 どちらともなく、このあたりでいいだろう。という雰囲気になり終わりとなったのだ。
 レニリアは秋芳に投げ飛ばされて草むらに寝転んだまま、星空を見上げている。
 秋芳は岩の上に座って使い魔に取ってこさせた葡萄酒を飲んでいる。

「やりなおし」
「なに?」
「今の科白、俗な名前だけど姓は詩的な赤毛ののっぽさんみたいな声で『星を見ておいでですか、閣下』て言い直して」
「……雨というのは、消えた名もない星々の涙なのかもしれませんね」
「女々か! キルヒアイス女々か! それに広●雅志にも 梅原●一郎にも似てないし」
「ああもうキルヒアイスって言っちゃったよこの人。メタなネタはやめろっての。……先ほど、昨夜の人狩り貴族どもの掃討を命じたと言っていたが」
「ええ、今ごろ特務分室のメンバーが追跡しているでしょうね」
「実は、ひとり心当たりがある」
「お友だち?」
「いいや、たんなる顔見知りだ」
「助ける義理はある?」
「そんな義理も義務もない」
「良かった。お友だちだったら、あなたは全力でその人を守るでしょうね。そうなったら特務分室のメンバーのうち、半分くらいは殉職ものだもの」
「人を無差別殺人鬼のように言うな。……それと、俺は特務分室半分程度の強さなのか?」
「半分程度だという評価が不服? それとも思っていたよりも高評価だった?」
「……前者だ」

 元の世界では京子を救うため、十二神将を退け、○○○を制した秋芳である。
 おのれの強さにはそれなりの矜持はある。

「あははははっ! 言ってくれるわね。さすがはこのわたしを三十九回も投げ飛ばした人」
「投げ飛ばされた回数を勘定していたのかよ」
「もっと強くなって倍返しするためにね。それ、わたしにもちょうだい」

 手渡された葡萄酒を逆さに、白い喉を上下させる。およそ貴人に似つかわしいとはいえない行為だが、その姿が実に様になっている。

「あなた、弓もできるの?」
「いや、不得手だ。弓は儀式で射る程度しかできない」
「ふぅん、本当かしら。ちょっと見せてみなさいよ」
「見せるもなにも本当に苦手で――」

 レニリアは使い魔に弓と矢を取ってこさせて秋芳に無理やり引かせたが、その動きはぎこちなく、剣や格闘ほどの冴えはなかった。
 止まった的にはなんとか当てることはできるが、動く標的にはほとんど当てられない。

「さすがのレイヴンにも苦手なものがあったのね。多才な男性だと思ったけど」
「多才な男性を定義できるか?」
「ええ。音楽の知識があり、詩を詠えて、書画に通じて、舞踊に優れ、外国語が堪能で、弓馬刀槍の技に秀でて、拳闘と魔術を習得し、学識豊かで兵法にも通じた男性よ」
「まるで『高慢と偏見』のダーシーのようなことを言う」
「いい、三本撃ちの秘訣は指を四本、その間に矢を挟んで手の平を返して射るのよ」
「いや、無理だから。バーフバリやホークアイじゃないから、複数撃ちとか無理!」
「次は乗馬ね。馬に乗るときは鐙なしでもこうすれば――」

 夜は短いようで長い。
 ダール・イ・レゼベールの精神のもと、レニリアは剣と格闘について教えてもらったお返しに秋芳に弓馬の術を伝授した。

「――女王陛下の福祉政策は根本的な解決になっていない。あまりにも上から目線、一方的すぎるんだ。あれではクェイド侯爵のような、かたよった考えの差別主義者が生まれてしまうのもしかたがない」
「あの男に理解をしめすの?」
「いいや、そうじゃない。過度の弱者救済、外国人優遇政策は保守層や既得権益者から煙たがられるのは当然だろう。それなりに納得のいく説明をしないといけないし、貧者が金持ちから施しを受けることが当然だと考えるようになれば、彼らは自立し、みずからの力で生きることをしなくなる――」

 施す側の人間たちは自分たちが上の階層であることを、与えられる人間たちは自分たちが這い上がることのできない階層であることが普通だと認識する。
 こうした一方的な『福祉』は実は身分制度を強化する役割もある。
 与える人間が、与えられる人間よりも下になることは絶対にない。
 与える側の人たちは常に自分たちが上の階層であると意識し、与えられる人たちは自分たちは絶対に這い上がれない階層であるとあきらめる――。

「物乞いの人生が板につき、抜け出せなくなる、と言うのね」
「そうだ。施されるというのは、自分が相手よりも下であるという意識を刷り込む行為でもある。上から目線の押しつけがましい弱者救済政策の欠点だな」
「ではどうしろと? なにか改善案があるのかしら」
「浮浪し、正業を持たない無宿人や就職の困難な軽犯罪者らを集めた授産更正施設の設立だ。建築や製造などの、手工業に従事して技術を習得させる。賃金もきちんと支払い、自立の道をうながす。国が住職先を工面してやるんだ」
「……クェイド侯爵の甘言に乗せられた人たちは職を求めていたわ。犯罪に手を染めることなく、きちんとした仕事を。彼らに安全な仕事を紹介してあげられる」
「そうだ。それにくわえて教育だ。図書館は学者や魔術師といった知識層だけのためにあってはいけない。言葉が苦手な外国人、健康に不安を抱える高齢者、文字の読み書きが苦手な人々。様々な事情を抱えた人達が文化を学び、味わうのに役立つ施設であるべきだ。移民や貧民のなかには家で落ち着いて勉強できる部屋のない子どもたちがほとんどだろう。本がある落ち着いた環境で勉強できることが必要なんだ。図書館はもっと敷居を下げて一般に開放するべきだろう」
「帝国公用語以外にも、様々な国の言語を訳した書物が充実すれば、他文化の共生を目指すアルザーノ帝国の姿をよりいっそうアピールできるでしょうね。母国語と多種多様な外国語、双方を重んじれば結果として国民の文化的素養も上がるわ」
「そのとおり。さすがレニリア姫は聡明だ」
「その意見。カモ・アキヨシ騎士爵からの上奏として、わたしから女王陛下に伝えておくわ。……お母様のことだから、きっと喜んでその提案を採用することでしょう」
「アイディア料は出るのかな?」
「……『黄金の小鳩亭』の割引券なら」
「せこい! 割引券て、せめてお食事券とかにならんのか」
「このわたしが私財を投じてお礼をしようというのよ、感謝なさい。あそこのキドニーパイは絶品なんだから」
「おれはシェパーズパイのほうが好きだな」
「それなら『鉄の旋律亭』の割引券を――」
「また割引券か!」
「なによ、じゃあ馬を贈るから乗馬について今夜学んだことを復習しなさい」
「いきなり馬かよ! 割引券から飛躍しすぎだろ」
「なら、なんならいいのよ!」

 後日、馬と割引券の間を取ってオルランド~フェジテ間で使える馬車の乗車券が秋芳のもとに届けられるのであった――。





 ホテル 『ゴールデンシープ』の一室。カブリュ・ヴァドール伯爵の背中に鍼を刺す秋芳の姿があった。

「ううむ、これぞ妙技……、なにやら筋肉がほぐされ、身体中のこりがなくなっていくようだ」

 彼は明日からの長旅に備えて秋芳に鍼灸を頼んだのだ。

「ところで頭が痛いのになぜ脚に鍼をするんだい?」
「頭が痛いからと頭を直に治す……。急を要する場合はそれでもいいでしょう。しかしそれは拙速というもの。頭は五臓の血、六腑の気がすべて集まる大事な場所、重要な器官。なので五臓の血を巡らせ六腑を解毒することで根源的な治療を施すのが最上。巧遅は拙速に如かずという言葉がありますが、それも時と場合によりけり」
「騎士爵殿の国の医学は実に興味深い。できればいつか東方諸国を巡ってみたいものだ」
「今回の旅はまたずいぶんと遠出になるそうですね」
「ああ、セルフォード大陸の果ての果て。レザリア王国の版図である遥かな異境、風と炎の砂漠を越えた先にある幻の都を目指すのさ」
「なるほど。さすがにそこまで遠くへ行けば、特務分室の追っ手からも逃れそうですか、マスク・オブ・イーグル卿」
「――ッ!」
「兵は迫り来て衣は血に染まり、混沌の中あなたと視線を交わす。蹄の音は響き心千々に乱れる。なぜ先のことはわからないのか。聞かず問わず心の葛藤も忍ばず」
「それは、私の詠んだ詩だ」
「心に響く、良い詩です。このような詩を創れる人が、なぜ無抵抗な人々を虐殺するのです。ボルカン人を惨たらしくいたぶり殺すのです」
「……そうか、あの時ペルルノワールとともにいた鴉仮面の男は君か。ふふふ、強い強いとは思っていたが、まさかかの騎士爵殿だったとはね。悪魔殺し、シーホークの救世主の名は伊達ではなかったということか」
「クェイド侯爵はすでに縛につきました。ライスフェルト・ズンプフ侯爵は民衆の手で処断され、マンティス卿をはじめとする暴虐貴族の面々も遠からず、特務分室の手により捕まり、裁きを受けることでしょう」
「…………」
「さっきの質問ですが、なぜです? なぜあのような良き詩を創れるあなたが、残酷な遊興に耽るのです」
「人の死ほどに、興を掻き立てるものはないからさ。生々しい生と無慈悲な死。人の生き死にを目の当たりにしなければ、詩想がわかないのだよ。命がけの戦い、生死をかけた決闘、死にもの狂いの闘争……。そのような真剣勝負は技量にかかわらず良いものだ。決する瞬間にたがいの道程が花火の様に咲いて散る。まさに浪漫!」
「あなたは人の死に悦びをおぼえ、それを糧にして詩才を得ていたというのか……」
「それがなにか問題でも? 君とて人の死を糧にして今の強さを手に入れたのではないかい、敵の命を奪うことに悦びを感じていないのかい、カモ・アキヨシ。合成魔獣どもを屠ったあの動きは幾度も死線をくぐり抜けた者にしかできない強者の動きだった。生きるか死ぬかの殺し合いに勝ち残ってきた者のみが身につけられる実戦闘法! 訓練場では絶対に習得できぬ修羅の業! 今までに幾人の人をその手で殺めてきたんだい」
「……」
「いいや、答えなくてけっこう。そんなこと、おぼえていないだろう。人が『生きる』ために食べたパンの数なんて、わざわざ記憶してなんかしていないだろうしね。そんなことよりも、君のその力と技だよ。マンティコアの毒針をかいくぐると同時に首をはねた神速。ストーンカの硬皮を貫いた怪力。バジリスクの返り血を巧みに避ける技巧。まさに達人! このヴァドール伯カブリュ感嘆の極み!」
「……」
「ふっふふふ、なぁ、どうだい。殺した数をすべておぼえていなくても、印象に残った相手のことはおぼえているだろう? どんな相手とのどんな死合いが一番楽しめたか、教えてくれないか?」 
「……離別の憂いを苦い酒で飲み干す」
「……誰のために生きるのだろう」
「静かな夜はいつまで続くのか」
「忠義のため我が命を捧げよう」
「銀の鎧をまとい戦に身を投じる」
「血を流すのは天下泰平のため」
「覇を競わず欺くこともせず」
「「真の英雄はなにも恐れない、英雄が悔やむことはない」」

 これは、カブリュ・ヴァドール伯爵の詠んだ詩の一節だ。

「俺が昂るのは悪人を誅するときのみ。悪人とは権力(ちから)暴力(ちから)で無辜の民草を虐げる者。ヴァドール伯爵、昨夜のあなたたちがまさにそうだ」
「殺すつもりかい? たしかに今ならその長い鍼で心臓をプスリと刺せばイチコロだ」
「そうしようとも考えていましたが、やはりあなたの詩才は惜しい。たった今あなたの詩を吟じて改めてそう思いました」
「才能に免じてゆるしてくれるのかな」
「それは、あなた次第です。実は鍼を通してあなたの体に呪を注ぎ込みました」
「なっ!?」
「あなたが『次』に暴力と殺戮に興じれば、『それ』はあなた自身を苦しめ、滅ぼすことでしょう。暴力ではなく芸術に生きてくれることを望みます。……ああ、残念だ。実に残念だ。カブリュ・ヴァドールという人物が、血ではなく酒で詩想を湧かせる李白や杜甫のような人であったら良かったのに。そうすればこのような外法の業をもちいることもなかったのに――」

 秋芳の声は徐々にすぼまり、遠くから聞こえ、科白の後半は聞き取れなかった。
 いつの間にか開け放たれた窓からの風がカーテンをゆらしている。

「……ブラフ(はったり)だ」

 呪文を唱えたそぶりはなかった。【カース】などかけられようがない。
 だが――。
鍼 を刺すとき、小言でなにかつぶやいていたような気がする。あれは、ルーンだったのだろうか? ひそかに呪文を、魔術を行使していたとしたら――。
 ほんとうに【カース】がかけられていたとしても、自力で解呪している時間はなかった。
 特務分室が動いている。あせらず、目立たず、ごく自然にオルランドを、フェジテから離れなくてはいけない。
 【リムーブ・カース】ならレザリア王国でもできる。
 カブリュ・バドール伯爵は予定通り、翌日早朝。多数の護衛とともにオルランドを出立した。





 わずかな草木と岩ばかりの荒野を獣の群れが疾駆する。

「ぐあぁぁぁっ!?」

 足首を噛まれ、引きずり倒された男の喉笛に獣の牙が食い込む。
 
 獣――シャドウ・ウルフ。
 鋭い牙と爪、熾火のように光る目、夜闇に溶ける影のような漆黒の毛並みを持つ狼型の魔獣。その狩猟行動は獰猛惨烈で大型の野牛すら餌食にし、ときに熊や虎をも集団で狩り殺す。レザリア王国の辺境を旅するカブリュ・バドール伯爵の一行はシャドウ・ウルフの群れに襲われた。
 多い。
 実に五〇匹近い数だ。
 大陸でも街道をはずれた僻地や森の奥で不運な旅人が遭遇することのある魔獣だが、一度にこれほどの数の群れに遭うことはないだろう。
 せいぜい一〇匹前後といったところだ。
 それが、この数である。
 広大なレザリア王国の辺境は、アルザーノ帝国の辺境のそれよりも、遥かに広く、深く、闇が支配している。人の手のおよばぬ魔境が広がっていた。
 八人いる護衛が、ひとり。またひとりと、魔獣の顎に捕らわれ、餌食となる。
 そんな酸鼻を極める惨状を、酔いしれたように見つめるカブリュの姿があった。

「人が、獣に喰われる! 弱肉強食! グゥゥゥレィィィトゥゥゥハンティーングッ!!!! 野性の脅威の前には文明人など無力! なんという無慈悲な光景か、なんという無残な顛末か、このヴァドール伯カブリュ感嘆の極み! 人が生きるか死ぬかの瀬戸際こそ、最高のドラマ! これだから旅はやめられない、これこそ創作意欲をかき立てられる源泉!」

 この男は、人の死を楽しんでいた。
 この男は、人の死によってでしか、おのれの創作欲をみなぎらせることができない。
 そのために、創作の贄とするためにわざと必要のない護衛を雇い、危険な旅路を選び、この惨劇を招いたのだ。
 最後の護衛が斃れ、鋭い牙と爪で生きたままはらわたを引きずり出され、貪り喰われる――。
 残った獲物は、ただひとり。

 GRURURUruru――。
 
 気の弱い者が聞いたら失神してしまいそうな恐ろしいうなり声を上げて、カブリュの周囲を取り囲む。
 だが、なかなか襲いかからない。
 カブリュがまったく恐れを抱いていないからだ。
 シャドウ・ウルフには恐怖察知という魔獣ならではの能力があり、恐怖心の有無によって対象を襲撃するかを決める習性を持つ。
 そのことがシャドウ・ウルフたちを逡巡させた。

「ああ、楽しかった。大自然の脅威を目の当たりにできて、ほんとうに良い体験ができた。これは妙作が創れそうだ。それじゃあ、さようなら――《耀き太陽よ・地に墜ち・爆ぜよ》」

 灼熱の炎が吹き上げ、爆炎の障壁と化してシャドウ・ウルフたちを飲み込んだ。
 黒魔【フレア・クリフ】。自在に操作することが可能な炎の壁を生み出す【ファイア・ウォール】の上位呪文。
 その炎熱温度は最高で一〇〇〇度に達する。
 黒い毛並みが大気を焼き焦がす紅蓮の炎に焼かれ、数匹の魔獣が黒焦げの骸となり、肉が焦げる異臭があたりに満ちた。

「ぐわぁッ」

 沸騰した熱湯を浴びせられたかのような激痛がカブリュの身を襲った。
 痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、熱い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、痛、痛、痛、痛痛痛痛痛痛――。

 カブリュの手足が、顔が、腹が、背中が、全身のいたるところが真っ赤に染まり、焼け爛れ、火膨れが生じた。
 自身の放った【フレア・クリフ】に巻き込まれたわけでも、失敗して暴走したわけでもない。そのような下手を打つほどカブリュの技量は稚拙ではない。
 では、なぜか?
 なぜ、突如として火傷を負ったのか?
 不測の事態に対する混乱、そして恐怖。
 ここにきてはじめてカブリュの心に恐怖が生じた。

 GAAAッッッ!

 それに反応して一匹のシャドウ・ウルフが飛びかかる。

「《雷槍よ》!」

 とっさに撃った【ライトニング・ピアス】が魔獣の頭部を撃ち抜くと同時に、カブリュのひたいを焼け火箸でえぐられたかのような激痛が走り、鮮血がしたたる。

「グギャァァァッ! 《雷槍よ》!」

 苦痛に耐えて呪文を行使。
 雷閃が魔獣たちの胴を貫き、四肢を断つ。
 そのたびに、カブリュの肉体は傷つき、激しい痛みにさいなまれる。

「の、呪いか?」

 ここにきて、ようやく自らの身に生じた異常の正体に思いあたった。
 相手にあたえた痛みと傷が、おのれに反ってくるという呪い。
 それが、秋芳のかけた【カース】の内容。

「だ、だかすべてのダメージがそのまま反ってくるというわけじゃない。それなら最初の【フレア・クリフ】で私も黒焦げになっていたところだし、【ライトニング・ピアス】で頭を貫かれて即死していたところだ。決して一撃で死なぬよう、致命傷にはならないよう加減が生じる」

 即死級のダメージをあたえても、それがそのまま反ってはこない。だが、深傷と呼んでもさしつかえないほどのけがをする。

「は、ははははっ! ずいぶんと手の込んだことをしてくれたじゃないか。騎士爵殿!」

 カブリュの全身は重度の火傷と刺し傷によって真っ赤に染まっていた。早急に治療を施さなければ、命を落とすくらいに。
 だが――。

 GAAAッ!

 たおしてもたおしても次々と襲いくる魔獣の群れを前に、治癒魔術を使うひまはない。
 そして一匹たおすたびに深傷が増える。

「【スリープ・サウンド】や【痺霧陣】などの非殺傷呪文で傷つけずに無力化すれば……。たがこちらにも効果がおよべば? 魔獣に囲まれた状況で体の自由や意識を失ってしまうことになれば――」

 【ラピッド・ストリーム】などを駆使して、一気に離脱する手もある。だが、恐怖と痛みによって千々に乱れた心は冷静な判断と行動を遅らせた。
 魔獣のあぎとが足首に食い込み、筋を噛みちぎり、引きずり倒す。
 地面に倒れたカブリュの体に殺到する魔獣たち。

「こ、これが死か。これが死か、騎士爵! ぐわぁぁぁァァァッッッ――」

 喉笛を引き裂かれ、数多の詩を詠んだ口からは大量の鮮血が噴水のように溢れた。
 鋭い牙と爪に掻き切られた腹部から湯気の立つはらわたを引きずり出され、貪り喰われる。
 吟遊詩人として名を馳せたカブリュ・バドール伯爵は辺境の荒野で生きたまま魔獣たちの餌食となり、その生涯に終止符がうたれた。
 彼の本性を知る者は少なく、彼の死を知る者はいない。だが、彼の名声と遺した作品は世の人々の記憶に長く残るのであった。 

 

生存戦 1

 動物は血と皮と内臓を避け、よく火を通せばたいがいのものが食べられる。
 秋芳は皮を剥いで丸焼きにしたジャイアント・ラットに塩を振りかけてかぶりつき、咀嚼した。

「……悪くない。思うにカピバラやパカやマーモットなどの大型齧歯類の肉は、概して人の味覚に合うのではないか。野性動物の食用捕獲を商業化することには慎重であるべきだが、このネズミの畜産化には将来性があるぞ。今度レニリアに進言してみるか」

 ここはアルザーノ帝国魔術学院の北、アウストラス山の麓に広がる迷いの森。
 ただいま生存戦の最中である。
 生存戦――。
 魔導兵団戦とおなじく、魔術師の魔術戦競技の形式のひとつ。
 広大な競技場に参加者全員をバラバラに配置しておこなわれる。参加者たちは他の参加者を探して魔術戦をしかけ、勝ち残っていく。不利だと判断したり魔力を温存したかったら逃げたり隠れてやり過ごすことも可能。そして最後のひとりまで残った生存者。時間切れで生存者が複数出た場合は撃破数がもっとも多い生存者が優勝。
 というのが生存戦の基本的なルールだ。魔導兵団戦との最大のちがいは全体を俯瞰して指示を出す指揮官がいないこと。
 競技参加者はすべてみずからの判断で動き、繰り返される局地戦を勝ち抜かなければいけない。
 なぜ、秋芳がこのような競技に参加しているのか。話は少し前にさかのぼる。





 遥か異邦からやって来たシーホークを救った英雄。
 噂の騎士爵とはどんな人物か?
 英雄叙事詩(サーガ)に謳われるような立派な美丈夫か、筋骨隆々たる蛮族(バーバリアン)か、神秘の業をあやつる妖艶美麗な魔導師(ウィザード)か――。
 学院内は秋芳の噂でもちきりだった。
 唯一正体を知るウェンディ=ナーブレスはもったいぶって黙して語らず、噂だけがひとり歩きしていった。
 だが、いざ入学してみれば、その実態は頭を剃りあげた短身痩躯の小男。
 生徒たちの間に失望と失笑が広がった。
 そして嘲りや侮りの空気も。
 こんな小男が悪魔をたおしただって? ガセじゃないのか? と、そのような風聞が広がったのだ。
 そのようなおり、秋芳を軽んじた生徒のひとりが彼に決闘を申し込んだ。
 ことの発端は魔術と銃の、どちらが優位かという話題になった時だ。

「銃なんて、一流の魔術師にとっては、なんの脅威にもならないね。あんな玩具を持った兵隊が何人群れようが物の数じゃないよ」
「いや、その考えは危険だ。慢心というやつだ。剣を抜いて斬りかかってくるよりも、呪文を詠唱するよりも、引き金をひくほうが早いだろう? まして不意打ちで撃たれてしまってはおしまいだ。俺たち魔術師は肉体的には普通の人とおなじなのだから、じゅうぶん脅威であり、注意しなければならない」
「条件起動式で一定以上の速度で飛来する物体に対して発動する【フォース・シールド】があるじゃないか」
「それは【ディスペル・フォース】など、対魔術用の術が付与された銃弾もある以上、完璧とは言えない。それに剣や槍、素手による攻撃にいたってはより細かい条件起動設定をおこなう必要がある」
「素手だって!? 素手で魔術にかなうものか」
「だから呪文を詠唱する前に――」
「一節詠唱がある」
「言葉を発する前に間合いに入られては――」
「そんなどんくさい魔術師なんかいない」
「心も体も、実戦では思うように動かないものだ」
「実戦、実戦、実戦……。ふん、シーホークを救った騎士爵様は実戦豊富なようだけど、魔術戦についてはどうなのかな」
「魔術のみに縛った戦いなど、お遊びかと」
「なんだと!?」
「問題解決にあたり魔術が有効なことは確かだ。だが大切なのは、問題に対してより柔軟に対応することで魔術はその手段のひとつにすぎない。往々にして魔術師は魔術を使うことに意識が向かいがちだが、これは本末転倒と言える。魔術というのは奥が深く、幅が広い。それも様々な方向に。魔術戦において必要とされる才能は、極めて多岐にわたる。
どのような技術、知識、才能であれ武器にすることはできる。武器にしなければいけない。純粋な魔術のみに縛った戦いは、あくまで訓練や練習。もしくは遊戯の類としか思えない」
「長々と屁理屈を!」

 秋芳のこの態度が魔術至上主義の連中に反感を持たれた。
 そこで本当の魔術がどういうものか教えてやると、上級生らに言いがかりをつけられて勝負することになったのだ。

「俺は不調法者だから、作法にのっとった魔術決闘のルールは知らない」
「ならシーホークで見せた実戦でいいから来い」
「素手で打ちかかっても?」
「ああ、やれるものならやってみろ」

 そういうことになったのだ。
 そして、そのとおりにした。
 相手が詠唱を終える前に、一足飛びに駆けて喉に手刀を叩き込んだ。
 一瞬である。

「おまえは野獣か」「優雅ではないわ」「今のは野蛮人の戦いかただ」

 非難轟々、総スカンとなった。

「おかしなことを言う。俺は実戦(ケンカ)でいいから、素手でいいから来いと言われたのでそうしたまでだ。おまえたち、レザリア王国と戦争になっても相手の兵士におなじことを言うのか? アルザーノ帝国(このくに)の魔術とは、軍事技術。殺すため殺されぬための実戦術じゃないか。とにもかくにも敵をたおし、自分が生き残ることを最善とするのが基本であり、神髄のはずだ、ちがうか?」
「ぐぬぬ……」

 この発言は他の多くの生徒たちの闘争心に火をつけることになった。
 これにより改めて『正しい』決闘を望むものが続々と名乗りでた。

 正しい決闘とは。
 1)生徒間の揉め事を魔術による決闘で解決することは、両者の合意がある場合のみ認める。
 2)生徒同士で決闘を行う場合、必ず学院側へ申請し、講師・教授の立ち会いの下で行う。
 3)決闘は非殺傷系呪文のみ使用可能。
 4)決闘の結果は覆らない。その一度の結果が全てであり、再戦の要求や報復は断じて認めない。その禁を破った場合、退学処分とする。
 以上、アルザーノ帝国魔術学院、学院生活生徒心得より。

 素手や武器による攻撃は禁止。魔術のみの決闘。
 秋芳はこれに応じた。
 毎日のように放課後の運動場で決闘が行われた。
 一節詠唱に切り詰められた【ショック・ボルト】や【スリープ・サウンド】が矢継ぎ早に浴びせられるなかで【サイ・テレキネシス】を悠々と三節詠唱して相手の襟を絞めて落とす。

「じ、実戦ならより殺傷力の強い呪文が使えるから【サイ・テレキネシス】を唱える前に――」
「ほう、ならまた実戦方式に切り替えてやってみるか?」
「ぐぬぬ……」

 【ルーン・ロープ】を鞭替わりにして振るい、【マジック・バレット】をはね除け打擲する。

「きちんと魔術を使っているぞ。これは素手でも武器でもない」
「ぐぬぬ……」

 このようにして、勝ち続けた。
 ちなみにこの連日の決闘の勝敗を賭けて小遣い稼ぎをしているロクでなし魔術講師がいるのだが、それはまた別のお話。
 

 

生存戦 2

 アルザーノ帝国魔術学院講師グローリー=ストリックランドは影響されやすい男である。
 つい先日帝都オルランドでおこなわれた魔術学会でマキシム=ティラーノという、貴族の子弟らを中心にアマチュア軍人としての魔術師の育成を行っている人物の論を聴いて、それにすっかり感化されてしまった。

「隣国の驚異に対して対抗すべく、魔術師としての武力の観点から役に立たない魔術・授業・研究はすべて切り捨てる――。ううむ、改革。まさに改革! 自然理学、魔術史学、魔導地質学、占星術学、数秘術、魔術法学、魔導考古学などなど――。それら魔術師としての武力に直結しない授業や研究は廃止すべし。逆に魔導戦術論や魔術戦教練などは大幅に強化すべし――。ううむ、改革。まさに改革!」

 挑発行為を繰り返すレザリア王国の驚異やテロリストに対する不安と恐怖を煽り、それに対する魔術の有効性を高らかに謳いあげるマキシムの主張。
 彼はその場でマキシムの著書『魔術こそ力』を購入し、サインまでしてもらった熱の入れようである。

「レザリア側からの侵略や不法移民の侵入を防ぐために国境線に万里におよぶ長城(グレートウォール)を築く。費用はレザリア持ちか。ハハハ! 愉快、愉快。マキシム氏はユーモアのセンスもある」

 彼は生粋のアルザーノ人で、アリシア女王の移民受け入れ政策によって国内に大量に増えた外国人を心底軽蔑していた。
 軽蔑する対象は外国人労働者だけではない。
 自国民ですら家柄や血筋、財産で計り、低い地位に甘んじる向上心のない人々を蔑視している。
 彼の目標は自分とおなじく金髪碧眼のアルザーノ人伴侶を娶って多くの子どもをもうけ、社会的な地位と名声を得て、黒塗りの高級馬車を乗りまわすことだ。
 上昇志向にあふれるストリックランドは周囲に『マキシム主義』を強く勧め、彼を学院講師として招聘するようにリック学院長に訴え続けている。秋芳の決闘流行りの話を耳にしたのは、そのような時だ。

「実戦的魔術か、魔術こそ真の力。兵士たる魔術〝士〟に座学など不要、決闘おおいに結構。これからの時代はこのようなマキシム流こそ主流になるべきだからな。……なに!? カモ・アキヨシ、あの東方人だと! あんなつり目の米つきバッタに魔術なぞまともにあつかえるものか。我が学院の生徒たちはなにをしているのだ!」

 さっそく秋芳の決闘を見物しに行った。





「三界の理・天秤の法則・律の皿は左舷に傾くべし」

 【グラビティ・コントロール】で相手にかかる重力をゼロにして【ゲイル・ブロウ】で空高く跳ばす。
 重力の枷をはずされ、このままでは呪文の効果が切れるまで猛スピードで上昇する。おなじ【グラビティ・コントロール】で打ち消してゆっくりと落下すれば、なんらかの攻性呪文の格好の的。【レビテート・フライ】を使おうにも、機動力を維持しながら長時間飛ぶために必要な専用の魔導器の持ち合わせもない。
 詰みだ。
 少なくとも秋芳の対戦相手はそう思った。
 勝つための思考を放棄した。
 というより思わぬ事態に混乱し、それどころではない。
 秋芳の言った「心も体も、実戦では思うように動かないものだ」というやつだ。
 今回の決闘に、制限時間も場外もない。遥か空高く、秋芳の目の届く外まで、安全圏までいったら【ゲイル・ブロウ】の噴射で移動し、あらためてゆっくりと落下して仕切り直すという方法もあったが、それをしなかった。
 みずから敗けを認めた。

「三界の理・天秤の法則・律の皿は右舷に傾くべし」

 次の対戦相手もまた急接近した秋芳に【グラビティ・コントロール】をかけられた。今度は先程とは逆に重力の枷をいくつもはめられた。
 たちまち意識を失った。
 急激な加重によって血液が下半身に集まり、脳に十分な酸素供給ができなくなることによる貧血で失神したのだ。
 人は本来の体重の五~六倍になると脳の血が下がって失神するという。F1レーサーや戦闘機のパイロットがGの加速度によっておちいるブラックアウトというやつだ。
 【グラビティ・コントロール】は単に体重を増減させるだけではない、このような使いかたもあるのだ。
 非殺傷系どころか攻性呪文ですらない【グラビティ・コントロール】で立て続けに勝ちをおさめた秋芳の戦いかたは学院で正攻法のみの魔術戦を習った者には極めて異様に見えた。
 はじめて目にする奇術や曲芸を見たときのような、狐につままれたように呆気にとらわれた。
 だが秋芳は伊達や酔狂でこのような戦いをしたわけではない。魔術の汎用性を、使いかたしだいでどのような魔術も武器になりえるということを言葉ではなく行動で示す目的があったのだ。
 聡明な者ならそのことを察したが、そうでない、魔術戦とはこうあるべし。という固定観念に縛られた者の目には冒涜に思えた。

「おのれ東方人、神聖な魔術決闘を愚弄するとは……!」

 ストリックランドもそのひとりだった。
 さっそく秋芳にくってかかる。

「ふざけるのも大概にしろ、なんなんだその魔術の使いかたは。真面目に戦うつもりがないのなら決闘なぞするな」
「ふざけているわけでも不真面目なつもりもありませんが」
「そんな奇をてらう真似をして、どの口がほざく。攻性呪文を使ってまともに戦え。炎熱・冷気・電撃の基本三属に風。これらをもちいて力と技を競うことこそ魔術決闘の神髄だ」
「凡戦者、以正合、以奇勝」
「なんだと!?」
「戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ。一対一で対峙して正面からぶつかり合う正攻法は基本ですが、それでは純粋に実力の差、時の運が勝敗を決することになります。勝利を確実にするためには、相手の意表を突く奇策が重要。三属攻性呪文は直接的な攻撃力に優れますが、【トライ・バニッシュ】、【トライ・レジスト】などのほか、対魔術用の防具もあり、対抗手段も多く決定打になりにくい。奇をてらう――奇策もまた兵法であり魔術師の持つ知恵の力です」
「このストリックランドに魔導戦術論と魔術戦教練を説くつもりか。魔術師の〝強さ〟とは小賢しい真似をせずに純粋な魔力と魔術でもって敵を粉砕することこそ至上。悪知恵を働かせて勝ちを拾うなど、下の下の下策!」
「ははぁ、まるで魔術を戦闘で使うことしか考えてないかのような物言いですね」
「いかにも。知識の守護者としての魔術師などもう古い。これからはマキシム主義の時代だ」
「マキシム主義?」
「そうだ。魔術の持つ戦闘能力を特化し磨き上げるため、魔術師としての武力に直結しない雑多な学問を排除し、戦う力のみを追求する、マキシム=ティラーノ氏の提唱する純粋真理だ! 学生の身分で知識だなんだと多くを求めるのは無駄で無意味。そのようなことで国家に貢献できようものか」
「なんと短絡的な。魔術は純粋な力のひとつであり、暴力の手段として軽々しくあつかうものではない。世界を形作り命の創造と破壊をおこなうものであり、敬意を払い研究しつつ、忌避することなく学び、実践するもの。そもそも近代魔術(モダン)にふくまれる自然理学や占星術学、錬金術に魔術史学、魔導地質学、数秘術、魔導考古学、法医術――それら数多の学問はすべて智の結晶。人が生き残るための力そのもの――」

 魔術というのは様々な方向に対して奥が深く、幅が広い。魔術による戦闘ひとつにしても、必要とされる才能は、極めて多岐にわたり、どのような技術、知識、才能でも力となる――。
 知は力、知識は武器なり。
 だが秋芳のこの持論は他の多くの魔術師たちがそうであったように、ストリックランドにも理解されなかった。

「魔術師にあるまじき狡猾邪道な手品を披露したと思ったら、次はあやしげな言説で世の人々を惑わすつもりか」
「そんなつもりは毛頭ない。あなたはいささか偏った考えを持っているようだが、少し時間をいただければ蜂蜜酒とキッシュを食べながらででも。俺の考えを聞いて、理解してもらえるはずだ」
「私は酒なんて飲まない」
「では、お茶とクッキーでも」
「カフェインと砂糖は体に悪いのでひかえている」
「たいした禁欲主義者ですね、俺には真似できない。まるでヒトラーのようだ」
「ヒトラー? そいつはなに者だ」
「極貧の出自にもかかわらず 独学で教養を身につけて役人になり、国の頂点に立つほど出世をして、厳格だが裕福な家庭を築き上げた政治家です」
「ほう、それは良くできた人物じゃないか」
「あなたは俺のやりかたを邪道だなんだと認めないが、決まり従っているのは事実だ。ルールを破らずにこうして勝っているからには全否定されるいわれはないかと」
「実戦ではそんな小手先の技や狡知は通用しない」
「はぁ、あなたも『実戦』ときますか」
「マキシム主義の掲げる実戦魔術はきさまのケンカ魔術とは大違いだ。学院の間違った教育方針に染まった生徒たちは正しい魔術の使いかたを知らない。きさまは雑魚をたおしていい気になっているお山の大将にすぎん」
「この学院が誤った教育をしているとは思えない。魔術に武の側面があることを否定はしないが、武術が『敵を倒す』ことではなく『生き残る』ことを目的にしているように、魔術もまた――」

 堂々巡りの議論は次第に険悪な空気をただよわせはじめた。
 こんどはこのふたりが決闘しかねない。つい数ヵ月前に二年二組の担当講師グレン=レーダスと、その生徒であるシスティーナ=フィーベルとの決闘があったばかりである。
 生徒と講師の決闘など、そうそうあるものではない。
 そして、そう頻繁に起きてはならない。このようなことが頻繁に起きては長幼の序が乱れる。
 秋芳とストリックランドの間に割って入った人物がいた。
 二年次生一組の担当講師。若くして第五階梯に至った気鋭の俊英ハーレイ=アストレイである。

「グローリー=ストリックランドは学院の方針に異論があり、ここ最近不特定多数の生徒にマキシム主義とやらに裏づけされた武辺教育を教授しているとか。そこまでマキシム主義に熱を入れるのなら、悪魔殺しの実績のあるカモ・アキヨシを相手に、その生徒たちの力を試してみるといい。それも、個人対個人の決闘などよりも、もっと魔術師としての実力を証明できる方法で」
「その方法とは?」
「魔術師としての実力を明確で迅速に証明する戦闘方式。それは決闘でも魔導兵団戦でもない、生存戦だ。戦闘能力、状況判断力、継戦能力――。生存戦は魔術師として武力のすべてを試される。たしか、グローリー=ストリックランド君の愛読書『魔術こそ力』にもそう記述されていなかったかな」
「たしかに、そう書かれています。……なるほど、たしかに生存戦ならばいかなる小手先の技や悪知恵も通用しない。しかしそうなると必然的に集団戦になるわけだが……」
「三週間の準備期間を用意するのでその間に有志を募り、教練するといい。グローリー=ストリックランド直伝のマキシム流戦闘術を」
「こちらはそれでいいとして、カモのほうはどうする。まさかひとりで――」
「俺のほうはひとりでかまわない」
「なんだと!?」
「なにごとも勉強であり、決闘は決闘でためになったが、こうも立て続けだといささか食傷する。ここはひとつ俺に魔術でもの申したい連中を集めて決着をつけようじゃないか」
「生存戦は戦争を想定した対決方式。それをひとりでかまわんとは、きさま戦争をなめているのか」
「ハーレイ先生、生存戦というのは大がかりな演習で軽々しく実施することのできないものですが、そちらから生存戦を口にするということは、実施する算段があるのでしょう」
「ある。迷いの森の一画を使ってもらう。さて、こまかいルールについてだが――」
 
 実はハーレイは今回の決闘騒動とストリックランドの唱えるマキシム主義の台頭を苦々しく思っていた。
 連日のようにおこなわれる決闘は賢者の学舎にふさわしくないし、マキシム主義などという偏った考えを広められるのはゆるしがたい。
 そこで学院長とも相談し、だれもが納得せざるをえない方法で手打ちを狙ったのだ。
 噂と数値でしか知らない秋芳の実力を知りたいという個人的な望みもある。
 こうして生存戦に参加する者を募ったわけだが、実に三〇人の希望者が出た。
 その半数以上が秋芳との決闘に敗れた者であった。
 決闘の結果は覆らない。その一度の結果が全てであり、再戦の要求や報復は断じて認めない。とあるが、これは生存戦であって決闘ではない。事実上の再戦が可能とあって、雪辱の機会に飛びついたのだ。
 三〇人。一クラス分の人数だ。多い。多いだけではなく、この人数は三人一組(スリーマンセル)ユニットが一〇も編成できることを表している。
 三人一組のスリーマンセルとは魔導兵団戦における近距離戦の基本戦術単位。前衛は攻撃・防御のふたり、後衛は状況に応じた攻守のサポート役、支援のひとりで構成される。
 理論上強く立ちまわれる布陣だが、支援にまわる後衛の立ち回りが難しく、会得にはプロでも長期的訓練が必要とされる。
 ちなみに二人一組の場合はエレメントと呼ばれ、スリーマンセルから支援の役割を抜いた基本戦術単位だ。実際の戦場ではスリーマンセルが崩れた場合に仕方なく使用する戦術編成で、スリーマンセルよりも劣る編成だが、人数が少ない分訓練は容易である。
 ストリックランドの提唱するマキシム主義のもとに鍛えられた者たちが勝つか、奇抜な手段で決闘を勝ち抜く秋芳がさらなる勝利をつかむのか。
 

 

生存戦 3

 
前書き
 今週末発売のドラゴンマガジン7月号に、ロクでなしの書き下ろしショートストーリーつきクリアファイルが付録でつくそうです。 

 
 飛空挺から生徒たちがひとりずつ迷いの森の無作為な場所に降ろされる。
 今回の生存戦は、参加者ひとりひとりが勝ちを競うものではない。個人対個人ではなく、秋芳とマキシム主義ストリックランド派による個人対集団の戦いだ。
 総勢三〇人をひとりで相手取らなければならない。
 この三〇人という人数がくせ者だ。三人一組(スリーマンセル)のユニットが一〇組み出来る算段になる。
 編成される前に叩くのが常道である。

「俺は最後に降りる。みんな先に降りて、好きな相手と組めばいい」

 それを、秋芳はみずから放棄した。

「東方の米つきバッタめ、アルフォネア教授のお気に入りだからといって調子に乗りやがって……」

 ストリックランドと彼の教え子たちは奮起した。
 なんとしても魔術戦闘で、圧倒強大な魔力で叩き潰してやると。





 アウストラス山の麓に広がる迷いの森は広大だ。
 そのすべてを生存戦の舞台にするわけではない。今回はそのわずかな一画。学院に近い側を生存戦のフィールドとして指定している。
 派手な色に着色された【ルーン・ロープ】で仕切りをし、そこから外へ出た場合は失格となる。
 気絶や降参による戦闘不能を致死判定とし、攻撃手段は魔術のみ。時間無制限の一本勝負。
 そのため秋芳はあえて『今回の生存戦は魔術のみで戦う』という制約(ギアス)をみずからもうし出た。
 さらに長期の調査などで使用する記録保持用の行動履歴水晶(ジャーナルクリスタル)を身につけた。これにより体術を駆使した〝反則〟をおこなえば、その行動は記録されて明るみに出ることになる。

「《雷精よ・紫電の衝撃以て・撃ち倒せ》」

 秋芳の指先から放たれた雷線が跳びかかろうとした狼の鼻先で火花を散らした。

 GANッ!

 野生の獣は魔術による痛みと衝撃におどろき、退散する。

「紀伊や京都の山中で熊に遭遇したことはあったが、生きた野生の狼を目にしたのははじめてだ。やはりそこいらの犬よりも大きくて迫力があるな。それに、やつらが最初に人間のどの部分を狙うのか参考になった」

 狼が最初に狙うのは脛。脚をつぶして獲物の動きを封じてから首の後ろを噛む。ここをやられるとたいていの動物は即死だ。狼に襲われた人の体験談ではこの二点はほとんど共通している。腕を噛まれることも多いが、それは人がとっさに腕で防ごうとするからだ。

「本に書いてあるとおりだと我が身をもって証明できた。いい経験だ」

 このように、生存戦では野生動物との対峙なども自力で乗り越えなければならない。
 起伏のある丘陵や緑豊かな草原、河川や沼沢といった地形には様々な動植物が生息している。
 生徒たちの生存戦の舞台に選ばれるほどなので、それほど危険な動物や凶悪な魔獣は存在しないが、それでも熊や狼といった生身の人間にとってはじゅうぶん驚異となる獣と遭遇することがあるのであなどれない。
 そして、自然そのものも。

「《汚れ無き雫よ・真白き小瓶を・清きに満たせ》」

 幾重にも草を重ねて作った器に汲んだ沼の水から茶褐色が抜け落ち、たちまち透明な清水となった。
 【ウォーター・ピュリフィケーション】。泥水や毒物が混ざった水であっても、たちどころに不純物を取り除いて清潔な真水にすることができる。液体状であれば魔法の(ポーション)であっても相応のマナを消費すれば無害な水にすることが可能。
 ただし〝この呪文〟では生物の体液に対して行使し、その生物を害することはできない。

「甘露、甘露。音羽の滝や銀河泉の名水に引けを取らない馥郁たる妙味なり」

 およそ飲料水にはふさわしくない泥水を無害な飲み水に変えた魔術の結果に秋芳は大いに満足した。
 生命維持に必要な水分補給。飲料水の確保もまた野外における生存戦では重要となる。
 まして今回のような時間無制限の場合はなおさらだ。人がひとりで持ち運べる水と食糧の量には限度がある。現地で調達しなければならない。
 【ヒート・マテリアル】で加熱することで沸かしたお湯に採取した野草を入れる。
 コーカスとチャイブ。日本でいう行者ニンニクとニラである。
 これらはそれぞれ有毒植物であるイヌサフランとスイセンに酷似しているため、食用にするさいは注意が必要である。山菜採りなどで、見た目が似ていて確実な判断ができない時は絶対に採取したり食べたりはしないのが鉄則だ。
 秋芳は幼い頃に修めた山岳修行のさいに毒草について学び、見分けることができた。
 またこの世界についての動植物に関する知識も学院で学んでいる。そうでなくては魔術師の必須スキルである錬金術など習得できない。

「ルヴァフォースはドラゴンやグリフォンが実在するファンタジー世界なんだから、俺のいた世界の動植物が存在していてもおかしくはない。中世ヨーロッパ風ファンタジー世界にじゃがいもが出てくるのはおかしいとかいう類のツッコミは野暮野暮!」

 どこかのだれかにむかって意味不明な主張をしつつ、野草のスープで腹を満たした。

「鳥獣草木、百果百草。緑にあふれた山は食べ物の宝庫だな、珍しい薬草も手に入るし。それらを捕る技術と知識があれば、の話だが」

 そう独語し、山ウドの塊にかじりつく。
 生存戦三日目。秋芳はマキシム主義ストリックランド派の生徒を相手に兵糧攻めによる持久戦を仕掛けていた。
 迷いの森に降り立った秋芳はまず【サモン・インセクト】で大量のイナゴを召喚し、周囲に放った。狙いは生徒たちの所持する食料。無数のイナゴに喰い荒らされ、彼らが所持していた三日分の食料は一瞬にして消えてしまった。
 秋芳は開始早々に相手の糧道を断ち、その後は防戦一方。ひたすら身を隠して戦闘を避けている。
 食料を失ったあせりと、予期せぬ攻撃に晒された怒りに駆られた生徒たちは秋芳を探すことに躍起になったが、これは秋芳の誘いであった。
 野営の跡をあえて残すことで追跡者たちを迷いの森の深部に、より過酷な環境に追い込んだ。
 広大な平原には大小無数の池沼が点在している。いや、沼のあいだに陸地が点在していると言ったほうが正確なのかもしれない。
 わずかばかりの固い地面を探しながら進まなければならないので、そこはまるで巨大な迷路だった。
 なんとか歩ける固さの地面はどこも湿っており、一歩あるくごとに水がじわりと染み出して、ひどいところでは膝まで泥に沈んでしまう。
 視界を晒されたぎる葦や木々が密生していて、魔術で燃やしたり切り開きながら進まねばならないところもあった。
 よどんだ沼の放つ腐敗臭は酷く、蛭や蚊にも悩まされた。

「もうダメだ。腹が減って動けねぇ……」

 慣れない自然環境と飢えと渇きの前に気力と体力を失い、降参する生徒。

「き、きもち悪うゥゥゥいいいぃぃぃィィィ……ウボァーッ! お、オエーッ! ゲェーッ! お、おおうおぉぅえっ! うえっ! ヴぉおおごおおおぇえええッ! ぼふぉきゃおぇッ! うげぇェェェッッッ!! ごばぁーっ、ゲホッゲホッ……ごばぁ……おぅぇっおえぇ……ごばぁ……げほごほ……ブォッエェェエェェ……ベチャチャチャ……」

 飢えに耐えかねて口にした野草の毒にあたり、大量に吐瀉する生徒。

「は、腹が痛ぇぇぇェェェ」

 うんこぶりぶりブリブリぶりぶりブリブリぶりぶりブリィッッッッッ!!! プッッー!!! ブチャァァァッ!! ブフォッ! ブフォッ! ゾンギン!! ゾフッ!! キュゴガッ!! ゾザザザガギギギ!! ……ビチッビチチチチチチッ、ブチュルルル……ブチャ……プスゥ……、ブビッブピッ、ブリッ…………。……ぢゅっぢゅぅぅ、チュミチューン、ブリブリッ、ブッ、ブス~、……ブッ、ププッ、ブビッ、ブリブリッ、ブビィーッ、ブリブリブリブリ…………。

 おなじく毒草に当たり、激しい腹痛と下痢に脱水症状になる生徒。
 ひとり、またひとりと、リタイアする者が続出した。
 そんな彼らをよそに秋芳は普段は街中では手に入らない錬金素材を入手したりと、野外実習を満喫中だ。

「さぁて、今宵の寝床はこの樹の上にするか。しかし――」

 地面についた、多数の大蛇が這い回ったような跡が気になった。

「ある種の蛇は集団で狩りをしたり交尾をするそうだが……」

 迷いの森は深く、広い。
 奥に行けば行くほど剣呑な生物にあふれ、魔獣すら生息している。いまだに未知の動植物が発見されることもあるくらいだが、生存戦の舞台に選ばれたこの辺りは全体から見れば入り口に近い。
 秋芳が下調べした限りではそのような蛇は生息していないはずであった。
 そう、この三週間のあいだに秋芳はあらかじめ生存戦の場を歩き回り、地形の把握に努めた。
 最低限の土地勘がなければ、潜伏してやり過ごすことはむずかしい。
 ストリックランド派の生徒がひたすら戦闘訓練にいそしむなか、秋芳は生存戦の場を探索し続けていたのだ。
 もちろん許可を得ての行動である。
 そして相手側が戦いの場の自全調査をまったくしていないことを知り、あきれてしまった。
 戦いを地図の上でしか考えていない。
 実に愚かで危険な考えだ。
 レザリア王国との緊張が高まるなかで、このような近視眼的な思考の持ち主が軍学校としての側面も持つ魔術学院の講師として存在することに、秋芳は危惧の念を抱かずにはいられなかった。





「馬鹿な、あり得ん。こんな常識外れの……!?」

 秋芳がなにか小賢しい真似をしてくるとは予想していたが、この展開はストリックランドの予想のはるか上をゆくものだった。

「戦いもせずにこそこそと逃げ回るとは、戦う意思なしと判断してやつの負けにするべきだ!」
「――これが決闘や魔導兵団戦ならば、相手に背を向けて逃げ回る行為は戦意なしと見なして彼の負けを宣告してもいいでしょう。しかし生存戦は直接戦闘能力、状況判断力、継戦能力。魔術師として力のすべてを試される。持久戦に持ち込むことは反則でもなんでもない」

 初手から見て秋芳が持久戦をしかけていることは明らか。戦意がないとは見なさない。
 学院内で状況を見守るストリックランド以外の講師たちはそう判断した。

「潜伏すること、潜伏している相手を発見し殲滅すること。野外でのサバイバル術も有事における魔導〝士〟に必要とされる能力だ。それとも戦争に備えたマキシム主義にはそのような教えはなかったのかな?」
「ぐぬぬ……」
「あっはっは! ま~たひとり脱落したぞ。おまえのところの生徒はひ弱だなぁ。だいたい野外活動のスキルくらい習得させておけよ。そんなのは魔導探索術の基本中の基本だろ。水や食料も確保できない青二才に生存戦なんか一〇〇年早くないか?」
「ぐぬぬぬぬぬぬ~ッ!」

 伝統と格式ある学院の教育方針を否定して戦闘に偏った教えを広めるストリックランドは他の講師たちに煙たがられていた。
 今回の生存戦で彼の面子が潰れることを内心望んでいる者は多い。

(一騎討ちに代表される騎士の勲、派手な攻性呪文を駆使する魔術師の力。それらにくらべて地味で軽視されがちだが補給や兵站は実際の戦争でもっとも重要となる。生存戦という極めて実戦に近い競技でそれを知らしめるため、あえてこのような戦いを選んだのだろう。思えば決闘でクレバーな戦法を使い続けたことも、カモ・アキヨシの唱える魔術の持つ可能性、汎用性を実践して衆目に理解させるため。……できるやつだ。この生徒をセリカ=アルフォネアに、あの魔女に取られたのは実に不本意だ)

 どちらかといえば保守派に属するハーレイだが、実は秋芳の入学の賛成派筆頭だった。
 優秀な生徒をひとりでも多く学院に入れたいと思う一方で、規則を重んじる彼は中途編入を良しとせず、来年度からの入学を唱えていた。
 あわよくば自身のクラスに編入させようと。
 そこにセリカの鶴の一声で秋芳の即時入学が決まり、さらには担当クラスを持たない彼女の唯一の生徒となってしまった。
 優秀な生徒はみずからの傘下にしておきたいところなのだが、まんまとかすめ取られてしまったと、ハーレイは感じていた。

(我が校の伝統と格式を無視した、武辺一辺倒の下品で粗野なマキシム主義。それを一蹴し、それを蔓延させようとするグローリー=ストリックランドめが恥をかくのは痛快だが、それをセリカ=アルフォネアの手柄あつかいされるのは許しがたい! ぐぬぬ……)

「あ~、今日はもう遅いから私は帰るわ。明日の夜までには決着(ケリ)がついてそうだな」

 講師たちにも自身の生活や明日の授業がある。緊急時でも対応できるよう夜通しで見守る者以外は離席し、あとには今回の生存戦にひときわ注目している者だけが残った。

「ええい、なにをしている。こそこそと隠れることしかできない逃げネズミなぞとっとと見つけ出して殲滅しろ! 見敵必殺! 総員特攻! 撃ちてし止まん! 飢えがなんだ、渇きがどうした! 魔導士は食わねど高楊枝、欲しがりません勝つまでは!」

 真夜中の学院に叱咤激励するストリックランドの声が響く。





 焼け焦げた皮に恐る恐る口を近づけ、ひと口かじると濃厚な脂身が舌をとろけさせた。

「う、美味い!」

 柔らかい肉質に淡白だがしっかりとした味は牛肉に近い。ガマガエルを縦長に押し潰したようなグロテスクな見た目からは想像もつかない美味にクライス=アインツの口から称賛の声が漏れた。

「……だから言っただろう、スワンプサラマンダーは火を通せば牛みたいな味になるって」

 スワンプサラマンダー。サラマンダーとあるが、幻獣や精霊に分類される火蜥蜴(サラマンダー)ではない。日本でいうオオサンショウウオの仲間だ。

「でもちょっと泥臭いわ……」
「天然物だからな」

 ジャイル=ウルファートが手にしたダガーで仕止めたキラークラブを器用に解体していた。犬ほどの大きさで海水から淡水域まで幅広く棲息し、殺人蟹の名前通り危険な生き物ではあるが、身は少ないが食用になるし、殻は鍋などに使える。
 脱落者が相次ぐなか、クライス、ハインケル、ジャイル、エナ、ベニアーノ、ルネリリオの六人が合流し、パーティを組んだ。
 ほとんどの生徒が脱落するなか、ジャイルと合流したクライスたちは彼のサバイバル術に大いに助けられていた。
 【ウォーター・ピュリフィケーション】などという地味な魔術を習得していない彼らは飲み水の確保に困難した。
 目の前に大量にある沼地の水は煮沸したとしても、とてもじゃないが飲料水には適さない。
 あまりにも濁っていた。
 だがジャイルは池沼の水際から五メトラほど離れた場所を水面より深く掘ると比較的澄んだ水が出ることを知っていた。
 そこからさらに滲み出てくる水を幾度も汲み上げると、さらに濁りがなくなる。
 秋芳の世界で言う、インディアン井戸というやつだ。
 彼らはアースエレメンタルを召喚して穴を掘らせ、湧き出た水を沸騰させてなんとか飲み水を入手できたし、食べていい生き物を食べやすいように調理することができた。
 こんなことができたのはストリックランド派の生徒ではジャイルただひとりであった。
 ジャイル=ウルファート。
 二年五組の生徒で、学院内では札つきの不良として有名だ。若い身にもかかわらず多くの修羅場を潜っており、ガラも口も悪いが律儀な性格で男気がある。不良仲間から慕われ、仲間を引き連れて地下下水道の定期保守作業なども請け負っている、これまた異色の生徒だ。

「……わたし、棄権するわ。もうこんなの耐えられない」

 パーティ唯一の女子であるエナ=ウーノが憔悴した顔で退場する旨を告げる。

「まぁ、シャワーも浴びられないし、女の子にはつらいだろうね。無理せずに帰ったほうがいい」
「明日の朝一番にリタイアするから、みんなも無理しないで」
「ふん、僕は最後まであきらめないぞ。エナが抜けてもまだ三人一組(スリーマンセル)二人一組(エレメント)が組めるんだ。見つけることができればあんなやつすぐに撃破してやる」
「…………」
「けれど意外だな、まさか君みたいなやつが今回の生存戦に参加するなんて」
「俺も意外だったぜ。おまえらみたいな坊っちゃん嬢ちゃんが三日もこんな場所で根をあげずにいたなんてな」
「……ふん!」

 普段ならばこの物言いに食って掛かるところだが、水と食料を提供された恩がある。プライドの高いクライスもハインケルも強くは出なかった。

「けれど、意外というならジャイル。なんでおまえは今回の生存戦に参加したんだ? おまえはあの異邦人と決闘していないし、見る限りたいして遺恨があるとは思えないが」
「……そういう気分だっただけだ」

 ジャイルはそれっきり黙して語らなかった。
 嘘ではない。
 ほんとうにそういう気分だっただけだ。
 魔術競技祭でやわな相手とばかり思っていたルミア=ティンジェルと接戦の末に敗北。
 それも気がつけばベッドの上というていたらくにジャイルの矜持はひどく傷ついた。

「胆だ、俺には胆が足りねぇ!」

 胆力だけは人一倍。たとえ銃口をむけられても眉ひとつ動かさない自分が、見るからにか弱い少女に精神力勝負で敗北したことにずっとさいなまれていた。
 そんな鬱々とした日々を過ごしていた時に異邦人との決闘が流行りだした。

「へっ、おもしろいやりかたするじゃねえか」

 ストリックランドをはじめ多くの生徒から卑怯だの奇策だのと非難される秋芳の戦いかたはジャイルの目には痛快に映り、沈んだ気持ちを忘れさせた。
 ダーティなケンカ殺法はジャイルも望むところだ。剣だろうが魔術だろうが素手だろうが、どんな手を使ってでも勝てばいい。
 ハインケルの言うように、ジャイルに秋芳に対する遺恨はない。むしろ堅苦しい学院に風穴を開ける横紙破りの行動に好感を抱いているくらいだ。
 そして今度は生存戦だという。
 参加は自由。ただし秋芳の対戦者は総じてストリックランドからマキシム流戦闘術の教えを三週間受けること。
 あやしげな教えを三週間も受けるのは気が引けたが、生存戦という大がかりな演習には惹かれた。
 しかも相手は決闘に連戦連勝中の騎士爵。相手にとって不足はない。
 胆を鍛える、いい機会だ。
 くさくさした気持ちを忘れさせてくれる。
 これが、ジャイルが生存戦に参加した理由である。

「けれども、あのジャイルにこんなワイルドライフのスキルがあったなんて、それこそ意外だったよ。いったいどこでこんなことおぼえたんだい?」
「たまに下水道のバイトをしているって聞いたことがあるけど、他にも野外活動とか――」

 ベニアーノとルネリリオ。陽気なふたりの問いかけは沼から聞こえてきた叫び声にさえぎられた。
 それは若い女性の悲鳴だった。 
 

 
後書き
 先月の映画代12000円。
 ちょっと使い過ぎました。
 つうか日本の映画料金は高すぎる。中国では高くても日本円にして600円だとか。
 うらやましい。 

 

生存戦 4

 
前書き
 今回はジャイル主役回。 

 
「助けて! だれか助けて! だれかーッ!」

 夕焼けの色を映して血のような色をした沼のなか、必死でもがいている娘がいた。
 ほっそりとした腕をばたつかせ、水面をかき乱している。
 濡れた黒髪が黄昏の光を反射する。一六歳ほどの美しい少女だが、学院の生徒ではなかった。

「いったいだれ? 近くの村の子かしら」
「そんなことより早く助けないと! ……あ、蛇だ! 蛇がいるぞ!」

 ルネリリオが少女のほうを指差して叫んだ。少女の周囲の水面に大きな蛇の頭部が浮き沈みし、ちらちらと見え隠れしている。
 やがて一匹の蛇が少女のか細い首にするりと巻きつき、ぐいぐいと絞めあげはじめた。少女のけたたましい悲鳴が苦しげなあえぎに変わる。

「《雷精の》――ああ、くそっ」

 距離があるため【ショック・ボルト】の狙いがさだまらない。クライスもハインケルも魔術射撃の腕にはそれなりに自信があるであるが、失敗はゆるされないのだ。

「よし、待ってろ! 《優雅なる水鳥・湖上の舞踊家よ・その軽やかな魂を我が脚に宿せ》」

 ルネリリオが【ウォーター・ウォーキング】を唱えると、沼の上を駆け出した。ベニアーノもおなじ呪文を唱えて沼の上を走る。至近距離から少女を締めあげる蛇を攻撃するつもりだ。

「《優雅なる水鳥・湖上の舞踊家よ・その軽やかな魂を我が脚に宿せ》」

 クライスも【ウォーター・ウォーキング】を唱えてふたりの後に続こうとした時、異変が起こった。
 ルネリリオが短い悲鳴をあげて急に水中に沈んだのだ。【ウォーター・ウォーキング】がかかっていたにもかかわらず。
 続いてベニアーノも。
 少女の周囲の水が激しく波立つ。水面下でルネリリオとベニアーノがもがいているのだ。蛇は一匹だけではないらしく、長くうねる尻尾が何本も空中高く伸び上がり、水しぶきを 四方にはね散らした。
 少女は、もう苦しんでも溺れてもいなかった。
 奇怪な混乱のなかで、その中心にいる少女だけが静かだった。
 胸から上だけを水面に出して蛇を首のあたりにまとわりつかせたまま、にこにこと笑みを浮かべていた。

「その女はヤバい、水からはなれろっ!」

 ジャイルが大声をあげた瞬間、
 水際にいたクライスの目の前に真っ赤なかたまりが浮上した。血まみれになったベニアーノの顔だった。

「うわああああああアアアッ!?」

 クライスはたまらず悲鳴をあげた。
 ベニアーノの全身が水面上に現れた。何本もの蛇の尾に巻つかれており、ゆっくりと空中に持ち上げられる。手足奇妙な角度で垂れ下がり、その腹はずたずたに食い破られていた。
 続いてルネリリオが浮かび上がる。尾に巻きつかれて身動きが取れないところを、無数の蛇に噛みつかれて喉を裂かれた。おびただしい血が水面を染める。夕焼けの赤よりも鮮やかな、血の色に。

「ぼけっとするな!」

 ジャイルの一喝に水から離れようとするクライスだったが、その動きは遅々としたものだった。足が、動かない。腰から下に力が入らない。
 まるで悪夢のなかにいるように、思うように体が動かなかった。
 恐怖に腰が抜けている状態だ。

「なんで逃げようとするの? こっちに来て遊んでよ」

 少女はほっそりとした両のかいなをクライスの背中にさしのべて歌うように口ずさんだ。

「あたしの一番古い大親友、ほの暗い水の精霊たちよ、その子と遊んであげて!」

 水が盛り上がり、クライスを飲み込んだ。水の帳に包まれたまま、沼のなかに沈んでしまった。

「精霊使いか!」

 精霊使い。ルーンとは異なる方法で、己自身の言葉で自然に呼びかけ、世界に干渉する精霊魔術の使い手。遊牧民族シルヴァース一族などは呪歌と舞踏による風霊召喚術で有名だ。

「《雷精の紫電よ》! 《続く第二射(ツヴァイ)》! 《更なる第三射(ドライ)》」

 続けざまの【ショック・ボルト】連唱(ラピッド・ファイア)。まばゆい光の噴流が夕闇を切り裂いて迸った。
 少女の頭部に命中し、光の粒子を撒き散らす。常人ならば間違いなく意識を失うか、最悪ショック死するような打撃だ。
 だが少女は軽く顔をしかめて頭を振るって、髪にまとわりついた雷線のなごりを振り払った。

「それでも魔術のつもり? 魔術とはこうするものよ。――あたしの変わった友だち、熱く燃える火の精霊よ、その子と踊って!」

 焚き火の炎が膨張し、輝きを増したかと思うと、小さな竜の形となってハインケルの体に巻きついた。
 火蜥蜴(サラマンダー)だ。
 少女は火蜥蜴を召喚してけしかけたのだ。
 ハインケル衣服に火がつき、全身が炎に包まれる。
 呪文を唱えるどころではない、声にならない悲鳴をあげて水に転がり込もうとする。

「ダメよ、ハインケル。水に入ったらあの蛇たちに襲われるわよ! 《還れ・在るべき場所へ・契約は棄却されたし》!」

 エナの唱えた【デポート・エレメンタル】によりハインケルに巻きついていた火蜥蜴が精霊界へと強制送還され、身を焦がす火炎から逃れられた。

「水には近づくな。水に入ればあの蛇どもの餌食だ。沼からはなれるんだ」

ジャイルは今にも水に飛び込もうとしたハインケルの肩をつかんで強引に引き戻すと、沼から距離をとるべく駆けた。

「で、でもクライスが水に! ベニアーノとルネリリオもっ」
「……逃げるとは言ってねぇ。陸地から、蛇の牙のとどかない場所から遠距離攻撃でやつをたおすんだ。こっちはまだ三人いるんだぜ」
「……そうだな、三人一組(スリーマンセル)が組める」

 やみくもに逃げるだけでは背後から魔術による不意討ちを受けることになるだろう。
 戦うにせよ逃げるにせよ、一度態勢を立て直して応戦する必要がある。相手に地の利のある水辺からはなれ、こちらは数の優位で立ち向かう。
 突発的な惨事に動揺することなく、そのように考え、行動させたのはジャイルの体に馴染んだケンカ師としての経験のなせる業だ。

「あら、陸の上ならあたしに勝てるとでも?」

 少女の顔に意味ありげな微笑が浮かんだ。その周囲を泳ぎ回っていた蛇たちがいっせいに水面に鎌首を持ち上げた。

「いいわよ、お望みとあれば陸の上で相手してあげる」

 そう言うと少女が岸に寄ってきた。泳いでいる様子ではない。立ったままの姿勢で、腕も動かさすにまっすぐに進んでくる。
 周囲を泳ぐ蛇たちはぴったりと少女に寄り添い、まるで彼女を護衛する兵士のようだった。
 血まみれのベニアーノとルネリリオがその背後に引きずられている。まだ息があるのか、さだかではない。
 先頭の蛇が岸に這い上がり、少女の体が水面から持ち上がった。その全身があらわになる。

「ひっ……!」

 少女と蛇たちは一体だった。
 少女には人のような脚がなく、代わりに六本の長い大蛇の首と、十数本の触手が生えていた。
 イカやタコの吸盤の代わりに鱗が生えたかのような、おぞましくいやらしい触手が。
 いつの間にか太陽は完全に沈み、月が出ていた。その月の光を浴びて妖しく煌めく鱗から水が滴り落ちる。
 無数の触手が絡み合い、うねり、のたうちながら少女の上半身を陸地に押し上げた。
 迎え撃とうと身構えていたハインケルとエナは声にならない悲鳴で喉を詰まらせ、思わず後ずさりした。凄まじい嫌悪感と恐怖に全身に悪寒が走る。
 およそ現実の生き物とは思えない、悪夢のなかにしか存在しない怪物。

「スキュラ!?」

 エナが悲鳴にも似た叫びをあげた。
 スキュラ――。
 上半身は美しい女性だが、下半身からは無数の大蛇の頭と触手を生やした魔獣。水陸両棲で地上でも自由に動き回れるが主に水中を好む。
 性格は邪悪で水面から上半身だけを出して男を誘い、水中に引きずり込んで殺すといわれる。
 また大蛇ではなく犬の頭を生やしたハウンドヘッドと呼ばれる亜種も存在する。

「そうよ。あたしってば有名人?」

 水棲怪物スキュラはにっこりと笑うと、しなやかな触手をたくみにあやつって、ベニアーノとルネリリオの身体を草の上に放り出した。続いてもうひとりを水中から引きずり出して重ねて置いた。クライスだ。
「そんな、どうして!? この魔獣はもっと奥にしか出現しないはずよ!」
「今はそんなことを言っている場合じゃない。現実に遭遇してしまった以上、対処しないと。僕とジャイルで攻めるから、エナは支援を。ジャイルはやつの後方に回れ。挟撃してやる!」

 ジャイルは異を唱えることなく黙ってハインケルの指示にしたがった。その手にはダガーよりも大きな片手半剣(バスタードソード)が握られていた。頑丈そうな拵えの剣は、魔術師らしからぬ筋骨隆々としたジャイルの体格によく似合っていた。
 剣を帯びて生存戦に臨んだのはジャイルくらいだ。この生徒はいざとなれば【ウェポン・エンチャント】した剣で秋芳に挑み、「呪文がかかった剣で攻撃したんだからこれも魔術だ。それに魔術以外では攻撃しないという決まりはそっちだけに適応されているんだろ」と言うつもりだった。

「挟撃、ねぇ……」

 うねる大蛇とのたうつ触手に捕まらないよう、木々の間を迂回してスキュラの背後に回ろうとするジャイルが皮肉げに口を歪めた。
 無数の蛇の頭を生やしたこの怪物に背後などあるのだろうか? 蛇の目にも視覚があるとすれば、スキュラという生物は周囲を同時に見ることができる。

「~~~♪」

 スキュラは楽しそうにハインケルとジャイルを見比べている。どちらを先に殺すのか考えているのかも知れない。触手をくれねらせて、ずるりずるりと移動しつつ蛇の鎌首を空中に踊らせて威嚇している。

「《空気よ変じよ・戒めの楔・見えざる束縛の霧と化せ》」

 エナが【痺霧陣】を唱える。触媒にグールの爪や痺れ茸を使った強力な麻痺の呪文だ。
 スキュラの身体を麻痺の雲が覆う。

「なによ、これ。鼻がツーンとするんですけど」

 【ショック・ボルト】を頭部に数発受けても痛手にならなかった怪物には通用しなかった。
 さすがは魔獣といったところか、魔術に対する抵抗力は極めて高い。

「だったら削り殺してやる《紅蓮の炎陣よ》! 《続く第二陣(ツヴァイ)》! 《更なる第三陣(ドライ)》! 《次なる第四陣(フィーア)》!」
「《大いなる風よ》!」

 【ファイア・ウォール】による炎の障壁を展開しつつ、【ゲイル・ブロウ】による突風で進行を阻む。
 相手が進んでくるのを防ぎつつ、炎によってダメージを与える。効果的な戦術といえた。

「よし、エナ。チェンジだ! 《拒み阻めよ・嵐の壁よ・その下肢に安らぎを》」

 【ストーム・ウォール】。正規の魔術書には記されない、システィーナのオリジナル魔術。先の魔術競技祭でこの呪文に押し負けたハインケルは己を負かした相手のオリジナルスペルを執念で習得し、自身のものとしたのだ。
 よりいっそう足止めに特化した呪文で、相手を釘付けにして焼き殺す。

「オラァ!」

 そこにジャイルが踏み込んだ。
 吹きすさぶ風と燃える炎に巻き込まれないように――それでも多少の巻き添えは覚悟のうえで【ボディ・アップ】を重ねがけしての攻撃だ。
 大蛇の鎌首がひとつ、切り落とされた。

「痛い!」

 ハインケルとエナによる呪文攻撃よりも、こちらのほうがよほど堪えたとみえる。スキュラは悲鳴をあげて苦痛に全身を震わせた。
 すかさず追撃するジャイル。
 数本の触手が壁となって立ちふさがるのを、力任せに斬りつける。
 肉には弾力があり、剣にまとわりつくような感触だ。だがジャイルの剛腕と【ウェポン・エンチャント】によって切れ味を増した剣はやすやすと切り裂いた。

「痛い痛い痛い!」

 別の触手が足をすくおうと、下から這い寄るもジャイルはとっさに飛びのき、剣を振り下ろす。
 巨体に似合わぬ、俊敏な動きだ。
 手応えあり。切断された触手はそれ自体が独立した生き物のように地面の上をのたうち回る。

「ああ、もうっ! マジウザい! あたしの物静かな友だち、ねじれた森の精霊よ、その男を抱きしめてちょうだい!」

 スキュラの呼びかけに応じて木々の枝が、蔦が、草が、ざわりざわりと音を立てはじめた。
 危機を感じたジャイルが飛びのこうとしたが遅かった。数えきれない量の蔦が背後から襲いかかり、手足に絡みついてしまったのだ。
 振りほどこうとするが蔦の強度は高い。
 たちまち縛り上げられて身動きを封じられた。

「お返しよ!」

 触手の一本が鞭のようにしなり、ジャイルの胸を強打した。並の人間ならば肋骨の一、二本は折れていただろうか。生来の頑健さと【ボディ・アップ】による強化が、それを防いでくれた。

「《拒み阻めよ・嵐の壁よ・その下肢に安らぎを》!」
「《紅蓮の炎陣よ》!」

 ジャイルの直接攻撃ほどではないが、ハインケルとエナの呪文攻撃はスキュラの動きを封じ、わずかだが確実にスキュラにダメージを与えている。

「てめぇらもウザいんだよ! あたしの一番好きな大親友、夜と恐怖の精霊よ、あたしの敵はあんたの敵よ!」

 両腕を高く空に掲げ、精霊語で叫ぶとあたりが急速に暗くなった。スキュラを中心に黒い影が広がる。影は濃さを増して津波のようにハインケルとエナ。そしてジャイルの体を覆った。
 漆黒の闇が視界をふさぐ。

「いやあァァァ!?」

 一条の光すら差さない闇のなか、魂さえも凍てつかせるような絶叫が響く。
 完全なる暗闇。それは眠りと恐怖を司る悪夢の精霊ナイトメアの腕のなか。
 人類のもっとも古い感情、恐怖。そのなかでも暗闇に対する本能的な恐怖が心を砕く。
 闇が晴れ、あたりに月の光がもどるとハインケルとエナは白目を剥いて倒れている。
 スキュラはそれを見て満足げな笑みを浮かべていた。

「……それでおしまいか、化け物」

 残ったのは、立っているのはジャイルただひとり。
 乱れた呼吸をととのえつつ、剣を構え直す。

「しぶといのね。でも、足がふらついているわよ、立っているのがやっとって感じ」
「それは、そっちも、おなじじゃ、ねえのかよ」

 精霊魔術もまた魔術のひとつに変わりはない。自然や生命、精神。万物に宿る精霊たちの力を借りて行使するのにもマナを消費する。むしろルーン言語をもちいた魔術よりも荒削りなぶん、消耗が大きい傾向があるとされる。
 マナ・バイオリズムが乱れやすく、短時間に連発すればマナ欠乏症におちいる。
 たとえ相手が魔獣であっても。

「そろそろ打ち止めじゃねえのか」
「ふん、そうでもないわよ。――あたしの小さなお友達、袋を持ったおじいちゃん、この男の目に砂をまいてあげて!」

 急速な睡魔が襲ってきた。みずからの意思とは関係なくまぶたが落ち、頭の中が真っ白になる。意識が混濁し、深い深い眠りの淵へと落ちてゆくのを感じた。永遠に醒めることのない、夢の中へと――。
 ジャイルの上半身は前のめりに倒れ、スキュラの前にひれ伏すような格好になった。

(くそっ……たれ……! またか、また俺は倒れちまうのかよ……)

 身動きできないジャイルの腹に蛇の牙が突き立てられる。普通の蛇のような二本の尖った牙ではなく、鮫の歯のようなぎざぎざした構造になっていた。肉と内臓を食い破りやすいように。

「ぐぅぅぅ……!」

 【ボディ・アップ】がかかっていなかったら、たちまち体内に潜り込まれていたことだろう。
 足元に血溜まりが広がる。

「ふん、男の肉ってきらいよ。固いんだもの」

 大蛇の頭がエマの胸元に伸びて牙を立てた。着衣が紙くずのように破れ、ひかえめな乳房があらわになる。

「女の心臓は好きよ。柔らかくて美味しいの。特にこのくらいの歳の子の肉は大好き!」

 エマの薄い胸板に大蛇の牙が潜り込もうとした、その時。

「うおおおーっ!」

 雄叫びとともに、ジャイルは上体を起こした。

 スキュラがおどろいてエマに伸ばしたら蛇の頭をひっこめる。
 膝をついた姿勢のまま夢中で剣を振るった。

「ギャッ!」

 鎌首のひとつが断ち切られ、生き物のように血が垂れ流れる。

「やらせねぇ、仲間はやらせねえぞ、コラァッ!」

 剣を杖のようにして立ち上がる。急速に睡魔が去り、頭の中を覆っていた影が晴れてゆく。
 意志の力で相手の魔術を打ち破ったことに、心が高揚するのを感じた。
 胆の勝負で、負けてはいない。
 自信と闘志が沸々と湧いてきた。まだ危機は去っていないのに、すでに勝利したような気分だった。

「まだ終わってねえぞ、コラ。もう友達(ダチ)はいないのかよ、呼べるもんなら呼んでみろ。いくらでも相手してやるぜ」
「ひ、ひどい! よくもやったわね!」

スキュラは痛みに涙を流しながら襲いかかってきた。

「あんたなんか魔術を使うまでもないわ、あたし自身の手で殺してやる!」

 無数の触手がジャイルを包み込むように迫るのを、右に左に体をかわし剣を振るい、触手の攻撃を払いのける。
 まるで数人の敵を同時に相手しているようだが、そんなのはストリートで幾度も体験済みだ。
 触手の動きは剣よりもずっと遅い。のたうつような動きにまどわされずに落ち着いて正確に動きを見ればじゅうぶんに対処できた。
 また一本、触手が切り落とされた。他の触手もかなり傷ついている。ジャイルも派手に返り血を浴びてはいたが、最初に受けた腹部以外は無傷だった。
 蛇の頭がなんどもぶつかってきたが、生来の頑強さにくわえて【ボディ・アップ】が防いでくれた。触手に絡みつかれることだけを警戒すればいい。
 肉弾戦なら、負けはしない。
 一瞬、そこに油断が生じた。触手の一本が振り下ろした剣に絡みついたのだ。もぎ離そうとしたが、別の触手が足に絡みついてきた。
 とっさに剣の柄を離して触手を蹴って飛び退いたのは正しい判断だった。
 これが正規の剣術を習った、騎士の戦いしか知らぬ者だったら剣を取り戻すことに固執し、足をすくわれて転倒していただろう。
 ジャイルとスキュラとの間に距離ができた。危機は脱したものの形勢は不利となった。剣なしでは戦えない。ジャイルはハインケルやエマほどには魔術が得意ではないのだ。

「おとなしく死になさいよ、この筋肉小僧!」

 スキュラは触手に深く食い込んでいた剣を地面に振るい落した。下半身はあちこちがズタズタに切り裂かれて血だらけで、その顔は怒りと苦痛に歪み震えていた。

「さあ、かかってきなさい。さっきまでの威勢はどうしたの?」

 スキュラは自分からは動かなかった。
 だが剣のないジャイルも迂闊には動けない。
 無言のにらみ合いが続く。
 夜の森にふたりの乱れた呼吸だけが大きく聞こえる。
 どうする?
 どう動く?
 ジャイルは必死に考えをめぐらせた。逃げるのは問題外だ。仲間を見捨てて逃げるなどはなからジャイルの選択肢にない。そもそもこちらは地面の上しかまともに移動できないのに対し、スキュラは水中を自由に動ける。先回りされて奇襲を受けてしまうだろう。
 ここで、この場で倒すしかない。
 剣さえあればどうにかなりそうだが、愛用の片手半剣は今、スキュラのすぐそばに落ちている。ジャイルはそこまでの距離を目算し、飛びついて拾えるかを考えて、ふと疑問が生じた。

(なんでそこに落とした?)

 少女は怒りに満ちた瞳でこちらを凝視している。が、蛇はどうだ? 少女は剣のほうを見ていないふりをしている。だが蛇の視覚はしっかりと剣を見張っている。

(罠だな、誘っていやがる)

 そう、これは罠だ。
 スキュラはジャイルが剣を拾いに来るのを待っている。剣に飛びついた瞬間を狙って、いっせいに触手で上からつかみかかるつもりなのだろう。
 それでさっきから剣の近くを動こうとしないのだ。

(怪物のくせして考えやがる。……おもしれぇ、それに乗ってやろうじゃねえか)

 ジャイルは深呼吸すると剣に向かって駆け出した。スキュラの表情に勝ち誇った笑みが浮かぶ。ジャイルの突進を受け止めるかのように触手が左右に広がる。
 だがそれこそジャイルの狙っていた一瞬。
 彼は剣の手前で急に方向を変えて地面を蹴って飛び上がった。スキュラは完全に虚を突かれ、その動きに対応できなかった。触手の動きが乱れ、むなしく空を切る。
 ジャイルは巨体に似合わぬ軽捷さを見せて触手を飛び越え、スキュラの上半身に組ついた。おどろいて身をそらそうとする少女の髪の毛を左手でつかみ、引きずり戻すと同時に腰のダガーを抜いて少女のかぼそい首に突き立てた。
 血が噴水のように飛び散り少女の口からくぐもった悲鳴があがる。

(やったか!?)

 だがまだスキュラは生きていた。
 触手がジャイルを包み込み、蛇が噛みついてきた。

「しぶてぇやつだ!」

 ジャイルはダガーをノコギリのように前後に動かし、首を切断したが、スキュラの下半身は別の生き物であるかのように、まだ活発にうごめいている。
 すさまじい生命力だ。
 触手が首や腰に巻きつき、ものすごい力で締め上げてくる。
 蛇の牙が頭に、腕に、胴に、脚に突き立てられる。
 ジャイルの体は怒り狂った怪物の最後の猛攻にさらされた。
 全身から血が流れ、激痛が広がる。
 【ボディ・アップ】の効果が切れたのだ。
 スキュラが絶命するのが先か、ジャイルが力尽きるのが先か――。

「へっ、根競べなら負けないぜ。胆の勝負じゃ、俺はだれにも負けねぇ……」

 ――《慈悲の天使よ・遠き彼の地に・汝の威光を》――

 ジャイルは薄れゆく意識のなかで、だれかの唱える呪文の声を聞いたような気がした。 
 

 
後書き
 今日は『ランペイジ』を観に行く予定。 

 

生存戦 5

 
前書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』12巻、本日発売。
 

 
 まぶたを開くと、東から昇る太陽の放つまばゆい光がジャイルの目を射た。

「…………」

 意識がはっきりするにつれて、苦痛の感覚ももどってきた。触手に打たれ、大蛇に噛まれた傷の痛みが。
 だが、思ったほどではない。
 全身を見回すと、スキュラとの戦闘でついた泥と血は丁寧にぬぐわれ、なにかの葉がいたるところに貼られていた。なかには草で縛り包帯のようにしてある箇所もある。

「ヨモギか……」

 ヨモギの葉を揉んでその汁を傷口に塗り、その上に汁を絞ったあとの葉を貼る。
 天然の膏薬だ。
 スキュラから負わされた傷のほとんどは跡形もなくふさがり、治っていた。
 気を失う寸前、だれかが治癒魔術を唱えたことを思い出す。あれは幻聴ではなかったのだ。
 この手当てもその治癒魔術の使い手によるものだろう。
 近代の法医呪文(ヒーラー・スペル)は基本的に対象の自己治癒能力を増幅させて傷を癒すという方式が主流である。
 だが、その行為は人体の異常な生命活動を促進させるもので、被施術者の身体には多大な負担がかかってしまう。
 欠損や骨折、内傷などはただ闇雲に法医呪文をかけるだけでは後遺症が残ってしまうことが多い。
 そこで法医呪文の施術のさいに適切な前処理や外科的処置が必要とされる。
 治癒補助薬の選択や調合などに長けた専門家がいれば、治癒効率は格段に増して身体の負担は極限まで軽減されるのだ。

「気がついた?」

 声のほうを見ると、華奢な少女のシルエットが朝日を背にして立っていた。エナだ。

「無事だったみたいだな」
「ええ、ナイトメアにやられて気を失ったけど、ケガはしていないわ。服はボロボロになっちゃったけど」

 エナはくやしさに顔を歪めてジャイルの前にしゃがみこむ。

「目が覚めたらみんな終わっていて、まったく情けないったらないわ」
「俺は、スキュラを倒したのか?」
「ええ、そうよ。むこうに死骸があるわ。すごい死闘だったみたいね」

 ここはスキュラと戦った水辺ではない。最初に野営していた場所だ。

「気を失う前にだれかが呪文を唱えるのを聞いた。あれは、たしか【ライフ・ウェイブ】。おまえかハインケルが唱えたのか?」
「いいえ。残念だけどわたしもハインケルも【ライフ・ウェイブ】は使えないわ」

 そうだろう。【ライフ・ウェイブ】は遠距離に治癒魔術を飛ばすことのできる【ライフ・アップ】の上位呪文。学生で使える者は限られている。ジャイルの知る限り今回の生存戦の参加者で【ライフ・ウェイブ】の使い手はいない。
 少なくともストリックランド側には。ということは――。

「ジャイル!」

 ベニアーノとルネリリオが喜色を浮かべて駆け寄ってきた。

「お、おまえら!? 無事だったのか?」

 四肢がでたらめに折れ曲がり、喉を噛み裂かれたふたりの姿を目の当たりにしたジャイルはふたりの平然とした姿に驚愕した。正直なところ助かるとは思っていなかったからだ。

「どうやらあれはスキュラの見せた幻だったらしい」

 水に沈んだクライスもまた無事な姿でふたりの後から現れた。

「やられたよ。どうも僕らは最初からやつの、スキュラの【ファンタズマル・フォース】。あるいはそれに相当する精霊魔術を受けていたみたいだ」

 【ファンタズマル・フォース】。対象の精神に働きかけ、幻影を見せる魔術。精神に直接働きかけているので、術を見破れない場合は偽物の炎でも実際に熱く感じる。

「それでやつの眠りの魔術で水に捕らわれた姿を無惨に殺されたように見させられた、らしい」
「ああ、僕らを介抱してくれたこの騎士爵様の言葉によるとね」

 ハインケル、そして秋芳が姿を見せる。

「そうだ。スキュラは生きた人間の血肉を好む。大量に獲物を獲ってもすぐには殺さず魔術で仮死状態にして保存してちまりちまりと食いつなぐそうだ。ルネリリオ、ベニアーノ、クライス。最初に襲われたこの三人は残った連中からは酷い殺されかたをしたように見えたようだが、それは幻で実際は精霊魔術によって半永久的な眠りに落とされただけだったようだ」
「……それをあんたが救ったわけか、カモさんよ」
「そういうことになる。たが、スキュラを倒した手柄はおまえさんのものだ。たいした奮戦ぶりだったぞ、まるで巨大ワニと戦うドゥエイン・ジョンソンばりだった。不死身かよ! て思うくらいのタフさだった」
「そのたとえはわからねぇ」
「おまえさんの名前は、ジャイル=ウルファートで合っているよな?」
「ああ、それで合ってる。あんたが俺を、俺たちを手当てしてくれたみたいだな」
「うむ。恩を感じて降参してくれると助かる。なにせまだ生存戦は終わっていない、最後のひとりが残っているからな」
「それが俺ってわけか」

 ジャイルは秋芳に顔を向けたまま周囲に視線を向ける。

「……僕たちは降参したよ」
「なにせあんなことがあったばかりだし、とてもじゃないけど続けようって気にならなくてね」
「介抱してくれた相手と戦えないよ」

 ジャイルもまた彼らとおなじ心境だった。

「せっかくこんな丁寧な手当てをしてくれたんだ。また汚すのは気が引ける。俺はおりるぜ」

 生徒たちの間に安堵の息が漏れた。ジャイルのことだ、意地をはって秋芳と一騎討ちでもしかねないと考えていたが、杞憂に終わった。
 魔獣相手に命がけの戦いをした直後だ。もう戦闘になるのも見るのもごめんだったからだ。
 こうして四日間におよんだ今回の生存戦は秋芳側の勝利という形で幕を下ろした。

「ところでむこうに転がっているスキュラの死骸だが、食べてみようと思う」
「「「……はぁ?」」」

 とんでもない提案に凡然とする一同。

「蛇は鶏肉に似たあっさりとした淡白な味で、しかも滋養強壮や美肌効果もある」
「いや、蛇じゃなくてスキュラ……」
「だからスキュラの蛇の部分だけ食べる」
「ど、毒とかないのかよ」
「スキュラに固有の毒はない。感染症や寄生虫については【キュア・ディジーズ】の心得があるから問題ない。あ、感染症といえばスキュラに沈まされた三人は水を飲んだだろうから後でかならず医務室の先生に視てもらったほうがいいぞ。こんな濁った水、どんな人食いバクテリアが生息していてもおかしくないからな」
「いまは劇症型溶血性レンサ球菌感染症の心配よりも、あんたがしようとしているゲテモノ料理の心配だ!」
「くわしいな、おい」
「ゲテモノ食いはきらいじゃないぜ」
「ジャイル!?」
「おまえらがビビって食えないってんなら、俺が代わりに食う」

 胆はだれにも負けない。それがジャイルの矜持だ。

「好きにしてくれよ、もう。どうせ昼前には飛空挺が来るし、ここでスキュラなんかの肉を食べなくても餓死しないからね」
「で、どう調理するんだ。蛇の肉は小骨が多くて、料理するのにも食うのに難儀するって話だぜ」
「その前に、ちょっと偉ぶらせてもらおう」
「あ?」
「ええっと……。ハインケル、クライス、エナ、ジャイル。おまえらは魔術学院の成績優秀な生徒で、将来を約束されたエリートだ」
「あの、僕らのことは……」
「この二次創作のためにぽっと出で作られたモブキャラ」
「ひどい!」
「事実、今回の生存戦で最後まで残った。そんなおまえたちに勝った俺はすごい。マジすごい。鬼ヤバイ」
「……で?」
「この俺のすんごい技術や知識、知性は特権ではなく天からの授かり物だ。人類のために使わなければならない。俺はここでさらに、さ、ら、に! 調理スキルを駆使してスキュラの肉を究極にして至高の美味にしてやる。すごいだろう? これらのことを世に喧伝してもらおう」
「はあ?」
「俺を盛り上げてくれ」

 伯楽の一顧という成語がある。
 いにしえの中国。駿馬を売ろうとする者がいたが、なかなか売れない。そこで伯楽に合いに行き「私は駿馬を持っていて、これを売りたいのですが誰も見向きもしない。どうかあなたが馬の周りをぐるりと回って観察し、去り際にもう一度振り返っていただけませんか。そうすれば多少のお礼は差し上げます」と。
 伯楽が言われるままにそうすると、馬の値段はたちまちはねあがり、すぐに買い手がついた。
 伯楽とは秦の穆王に仕えた馬を見分ける名人のことで、のちにそのような馬の目利きのことを伯楽と呼んだ。
 その伯楽に「さくら」になってもらって、馬の値段をつり上げたのである。
 この話から立派な人の紹介や知遇を得ることを『伯楽の一顧』というようになった。
 ジョン・ピアポント・モルガンという人がいる。アメリカの五大財閥であるモルガン財団の創始者である大富豪だ。
 うそかまことか、彼にこんな逸話がある。
 ある日、古い友人が金を借りに来たのだが、モルガンは断った。
「かわりに、君と一緒に路を渡ってやろう」
 ふたりはウォール街の道路を横切った。
 翌日、友人のもとにはたちまち金の貸し手が殺到したという。
 権力のある者と親しい。世間にそう思われただけで、友人の側にもなにがしかの力が備わる。権力とは、そういうものだろう。

 閑話休題。
 秋芳はルヴァフォース世界でナーブレス公爵家の令嬢ウェンディ、続いてセリカ=アルフォネアという邪神戦争の英雄にして第七階梯の魔術師と親交を持った。
 レニリア姫とも密かに交流がある。
 これは、まさに伯楽・モルガンの知己を得たに等しい。
 自身もまた悪魔殺し、シーホークの英雄、竜を駆る魔術師という威名を持つ。
 異郷の地で他者に軽んじられることなく、快適に過ごすに値する働きをしたと思っていた。
 余人にわずらわされることなく、魔導の道を歩めると思っていた。
 その矢先に決闘騒ぎである。
 予測とちがったのだ。
 噂や肩書きに関係なく突っかかってくる者たちが絶たない。
 シーホークを救った実績もセリカやウェンディの後ろ楯はあるが、どうもここ魔術学院内では存在を軽視されている。

「専守防衛を良しとする、世界で一番平和を愛し温厚な日本人であるこの俺があえて決闘を受け続けていたのは魔術の多様性を実践して示すことのほかに、己の力量を知らしめようとしていたのだ。だが、あまり効果はなく今回の生存戦となってしまった」
「……」
「奥ゆかしい日本人の気質は時として仇となる。俺のような控えめで他人を立てる謙虚な日本人の態度はこのさい捨て置いて、ヤンキー並に俺が俺がの精神でいこうと決めたのよ」
「……はあ、そうですか」
「異論があるか?」
「異論はねぇがスキュラの肉を美味しく食わせてくれる調理スキルとやらを披露してくれよ。じゃきゃおまえを讃える英雄叙事詩(サーガ)のケツに汚点がつくぜ」
「おう、それよ。たしかにさっきおまえさんが言ったように蛇は小骨が多い。だから羮に、スープにしようと思う」
「ほう!」
「臭みを消すため各種ハーブも採ってきた」
「作るのも食べるのも君たちふたりの勝手にしてくれ」
「食べたくなったら遠慮なく声をかけてくれ。あのサイズだからな、ふたりで食べるには多すぎる」



 ジャイルが片手半剣(バスタードソード)で蛇の首を斬り落とした。
 秋芳は切断面にダガーをあてて切り開き、内臓を掻き出し取り除いてゆく。そして切れ目のほうから皮を少しずつ剥いてゆき、引っかかりを作るとそこから一気に剥ぎ取った。
 続いて肉。
 蛇は全身が筋肉のようなものなので肉の弾力がすさまじい。また骨は長く丈夫で肉にみっしりと喰い込んでいる。捌くには蛇の背骨に沿うようにしっかり刃を合わせて、あばら骨の流れに沿って肉をこそげ取るようにして剥ぐ。
 それでも小骨が多く残るので、これをどうするかが難題だ。

「これが死にたてで、ここに白酒(パイチュウ)でもあればな。さぞかし美味い蛇血酒(カクテル)が飲めたのになぁ」
「つくづくゲテモノが好きな野郎だぜ」
「せっかく見事な食材なのに、俺ごときの調理技術じゃたいした味にならないかもな」

その通りになった。

「……不味い」

 自身の作ったスキュラスープをひと口すすり、肉の一片を食べた秋芳は顔をしかめる。

「そうか? じゅうぶん美味いぞ」
「ちがう。これでは中華街で食べた烩蛇羮や太史五蛇羮に遠くおよばない。あまりにも、あまりにも遠くおよばない!」
「難儀な野郎だ」

 四日間におよんだ生存戦。その最後はスキュラスープで〆られることとなった。 




「《強く鋭き魔力よ・拘束の剣・束縛の刃と化せ》」

 黒魔【ブレード・ネット】。マナによって生じた光輝く刃の網がスキュラの身体を縛りあげた。

「GUGAAAAAッ!!」

 身体にある獣のあぎとから苦痛を訴える叫びがあがる。
 大蛇ではなく無数の犬の頭を生やしたハウンドヘッドと呼ばれる亜種だ。

「人は草を殺し魚を殺し獣を殺し、喰う。俺の知り合いにも人を喰う(ばけもの)がいる。だからおまえが俺を襲い、喰らおうとすること、それ自体は非難も否定もしない。おたがいに弱肉強食というやつだ。だからおまえも返り討ちにあっても文句を言うなよ。それと、ひとつ疑問に思うことがあるので答えてくれないか。なんでこんな浅い領域に、学院の近くにおまえみたいな魔獣がうろついているんだ?」
「魔術師ごときがいい気になるな! あたしの一番好きな大親友、夜と恐怖の精霊、あたしの敵はあんたの敵。だからこいつをやっつけて!」

 精霊魔術の行使には詠唱と動作が必要だ。両腕を高く上げる動きで身体を縛る刃の網に切り刻まれつつ、ナイトメアの召喚に成功した。
 急速に暗くなる。ハウンドヘッドスキュラを中心に漆黒の影が広がり、秋芳を飲み込んだ。

「おう、これが恐怖の精霊か。はじめて視たぞ」
「はっ、ははっ! はははハハハハっ! 恐怖に飲まれろ!」

 激しい恐怖に心を砕かれ、意識を失うか、精神を蝕まれて魔術を行使することを封じる闇の波が去った後も秋芳は平然としていた。

「なん、だってぇ……。ぐふっ!」

 起死回生のナイトメア召喚も相手に通用しなかった。
 それどころか無駄に傷つき、出血し、自身の命を削ることとなった。

「せっかく……、せっかくエリサレス教徒どもから逃れて来たってのに、良い隠れ家だと思ったの、に……」
「そう。それだよ、それ。おまえこのあたりの魔物じゃないだろう。いったいどこからなんのために来たんだ」
「あたしたちはミィミィル樹海に住んでいた――」

 ミィミィル樹海。それはヨクシャー地方よりも遥か遠く、レザリア王国の領土内にある広大な森林地帯。多くの魔獣の他、ゴブリンやオーク、リザードマンといった亜人(デミ・ヒューマン)や独自の文化を持つ蛮族たちが住む、闇の森だ。

「あたしたち、ね。仲間がいるのか。そいつもスキュラか」
「ああ、そうだよ。あたしの妹だ。妹が、妹がかならずあたしの仇をとってくれるから、覚悟しな……」

 秋芳の脳裏に多数の大蛇が這い回ったような地面の跡がよぎる。

「もうずっと、三〇〇年ほど平和に暮らしていたけど、いきなり神官どもがやってきたんだ」
「ああ、やつらの大好きな浄化政策ってやつか。魔物は存在自体が悪。問答無用で殺してしまえってやつか」
「いいや、やつらはあたしらを捕まえに来たんだ」
「エリサレス教徒が魔物を生け捕りに? なんのために?」
「兵隊に、するとか、言ってたね……。片っぱしから【カース】や【ギアス】をかけて支配していった……。はっ、人間どもの手駒にされるなん、て……、まっぴら、ごめん、だ、ね……」
「おい、ちょっと待て。まだ死ぬな、くわしく教えろ」
「…………」

 返事はない。ハウンヘッドスキュラはすでにこと切れていた。
 
「レザリア王国内でエリサレス教の神官が魔物を〝徴兵〟だと? 夷を以て夷を制すつもりか。それも極めて直接的な方法で」

 レザリア王国は様々な国や民族を神の名の下に併合し、巨大化していった歴史を持つ。その多種多様な人種を信仰によってかろうじてまとめ上げている、王国とは名ばかりの、事実上、聖エリサレス教会が支配する超巨大な宗教国家なのだ。
 遠征、出兵、侵略、侵攻、進出、征服――。常に対外戦争に明け暮れているのは、国内の余剰兵士を外に捨てる、一種の棄民政策だといわれている。
 支配下においた国の反乱因子を潰しつつ、レザリア憎しの感情を他国へ転嫁しているのだ。
 そんな国が神聖魔術をもちいて魔物を捕獲している。

「…………」

 後日。秋芳に不正はないか、行動履歴水晶(ジャーナルクリスタル)の記録を確認していたリック学院長をはじめとした講師達が表情をかたくする。

「これは、レザリア王国が魔物の軍を作るというのか!?」
「少数の魔物なら召喚魔術で制御できるが大量の魔物で軍隊を編制するなど至難の業だ。レザリアの魔導技術でそこまでできるとは考えにくい」
「だがやつらは現にこうして魔物狩りをしているぞ」
「やつらはいったい何人の召喚術士を擁しているのか」
「魔物の軍など聞いたことがない」
「いや、先の魔導大戦の時には邪神率いる魔物の軍勢が各地で猛威を奮った」
「それは邪神の力であって人が魔術で従えたわけでは――」

 生存戦の内容よりもレザリアの魔物狩りに関する話題にもちきりになった。
 当然だろう、事はあまりにも重大だ。

「今回彼が遭遇したスキュラ以外にも同様の魔物がいるかもしれない。迷いの森に、いや。それ以外の場所も念のため捜索するべきだろう。みなさん、この件は内密にお願いします」

(近年のレザリア王国はアルザーノ帝国に対して武力を背景にした露骨な外交戦略を取っているという。今は両国の穏健派同士が密かに連携して平和を保ってはいるが、これはどうも思っていたよりも早く戦争になりそうだな)

 秋芳は第二次奉神戦争勃発の予感をひしひしと感じていた。もしそうなれば学院に籍を置き、国から騎士爵を賜ったからには、戦争と無縁ではいられないだろう。戦場におもむく可能性があるのだ。
 
 

 
後書き
 本日発売のドラゴンマガジン9月号の表紙&特集も『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』 

 

ファリクス邸の怪 1

 
前書き
 『ロクなし魔術講師と追想日誌3』が今月二〇日発売予定です。 

 
 館の一角にある高さ一三メトラ、直径一〇メトラ。石造りの円形の塔の一階から三階はすべて書斎となっている。
 各部屋の真ん中には机と椅子が置いており、周囲をぐるりと取り囲んでいる壁には五段の書架にぎっしりと蔵書がならべられていた。
 そのほとんどを魔術関連の本で占められているが、なかにはメアリ=クライターの戯曲集やジョン=シープスやライツ=ニッヒといった大衆小説家の作品もあった。
 三階の三方の窓からは菜園と家畜小屋と中庭。さらに館の大部分が見下ろせ、遠くに目を転じれば緑 一色の葡萄畑が青々くけぶって遠くまで広がっている。
 室内にいながら里山と田園の光景が楽しめるのだ。

「……これぞまさに坐擁百城(ざしてひゃくじょうをようす)というやつだ、実に素晴らしい。まるで話に聞くモンテーニュの塔ではないか。あるいは永井荷風の偏奇館といったところか」

 中庭のそこかしこに花樹が植えてあり、ポカポカした日射しのなかで蜜蜂やクマンバチが赤や青、黄色といった色とりどりの花に舞い、しきりに蜜を集めている。
 その様子を眺めていると、なんとも言えない安らかでうっとりとした気分になる。
 秋芳は新たな住居の出来に大いに満足し、独語した。

「闇働きに奔走し、表舞台に出てからも汚れ仕事しかなかった俺が、陰陽師が、呪術師〝風情〟のこの俺が、爵位にくわえて土地と家までも手に入れることができるとは……」

 ここはフェジテの北東に位置する秋芳の家だ。
 いや、家というよりも貴族や豪商が住む館、屋敷、邸宅。そのような住居だ。
 つまり、豪邸である。
 ちなみにフェジテは大きく五つの区画に分かれている。
 ひとつ目は北地区。アルザーノ帝国魔術学院と、そこに通う学生達が下宿する寮やアパートなどの学生街が、その区画の大部分を占めている。
 ふたつ目は西地区。一般住宅街。中産、労働者階級に属する一般市民達が主に居を構える区画で、広場が多く工業地区もこの区画に含まれている。
 三つ目は東地区。高級住宅街。資産家、貴族、魔術師などの上流階級の者達が主に居を構える区画で、学院に勤める講師や教授陣もここに居を構える者は多い。
 四つ目は南地区。いわゆる商業街であり、フェジテ経済の中心地である。もっとも活気に溢れる区画であり、様々な商店街はもちろん、商館に繁華街、倉庫街、さらに奥まで立ち入れば、知る人ぞ知るブラックマーケット街などもある。
 そして、最後の五つ目が中央区。別名、行政区とも呼ばれるこの区画は街としてのフェジテを保持し、そして舵を取るフェジテの心臓部といっていい。行政庁や警邏庁、労務庁、帝国銀行フェジテ支部などの重要公的機関や、フェジテの各教区を統括する聖カタリナ聖堂などがこの中央区にはある。
 秋芳の家はちょうど北地区と東地区の間。学院にほど近い閑静な場所にあった。

「しかも中央から見て丑寅の方角とはね。陰陽師であるこの俺を鬼門に置くか。なんとも妙な縁を感じる。天は俺にこの街を守れと、安倍晴明になれと言っているのか」

 諸説あるが、平安時代の大陰陽師・安倍晴明は内裏の北東にあたる場所に屋敷を構えたとされている。
 晴明の強大な霊力で、鬼門封じをしたわけである。

「士は己を知る者の為に死す。こうまでされては俺も恩に報わなければな。もしも将来この街が災厄に見舞われるようなことがあれば、全力で守ろう」

 秋芳は相互主義者だ。良き待遇をしてもらったからには、こちらも同等の恩を返さなければと思う。

「ふ~ん、あの埃まみれの幽霊屋敷がずいぶんと立派になったじゃないか」
「呼び鈴くらい鳴らせ、不法侵入者」

 いつの間に部屋に入ったのか、ひとりの女性が秋芳に声をかけた。
 黄金を溶かしたかのような豪奢な金髪の煌めきが西日を照り返し、輝いていた。
 美しいのは髪だけではない。
 雪花石膏(アラバスター)のような白磁の肌、紅玉(ルビー)のように煌めく瞳、珊瑚のように艶やかな朱唇、そこから奏でられるのは玉を転がすような美声――。
 美を司る女神でも降臨したかのように、その女性がそこに現れただけでなんの飾り気も変哲ない書斎が変貌した。
 セリカだ。
 《灰燼の魔女》、《惨劇の魔王》、《竜殺し》――。あまたの異名を持つ、人外の第七階梯(セプテンデ)であり、秋芳の担当講師であるセリカ=アルフォネアがそこにいた。

「土地や建物は広く大きく瑕疵がなく、立地も良いにも関わらずだれもが長居をしないという、由緒正しい化け物屋敷。フェジテ四大七不思議に数えられる『ファリクス邸の怪』を祓ったそうじゃないか」
「四大七不思議って、四つなのか七つなのか一一なのか二八なのか、いくつなんだ」
「つまりそれだけ多いってことさ、フェジテは歴史のある街だからね」

 フェジテはアルザーノ帝国魔術学院と共に発展した大陸有数の学究都市であり、学院の歴史は四〇〇年におよぶ。だがフェジテという街自体は学院創立以前から存在し、その歴史は古い。時代の変遷とともに何度も区画整理と上下水道整備を行ってきたため地図にも乗らない旧下水道が埋めきれずに残っている。

「エリサレスの僧侶や魔術師が幾度も祓魔(エクソシスム)しようと試みたものの、だれひとり成功しなかった『ファリクス邸の怪』を治めて、その屋敷に移り住んだと聞いて挨拶しに来てやったんだ。どうやって解決したんだ? 聞かせろよ」
「どれ、せっかく来たのだから茶でも淹れてやろう。茶室を新調したんだ」
「それじゃあお言葉に甘えて。そうだな、リフレスの特級熟撰茶葉を八分煎じで、カモミールをひと摘まみ合わせてくれ」
「ない。その代わり東方緑茶(グリーンティー)が手に入ったので馳走する」
「馳走されようじゃないか」

 秋芳とセリカは書斎の塔から離れ、茶室へと移った。



「茶を挽くときは静かに油断なく滞らぬよう、茶道具はたびたび洗っておくよう、茶道具も人の心と同様汚れがつきやすい。茶の湯をひと杓汲み取った後は、水もひと杓差しくわえておくこと。けして使い捨て、飲み捨てにしないこと……」
「えいっ」
「うぼぁっ! ……なぜ寒さの残るこの時期に、沸いた湯にわざわざ水をひと杓差したのか」
「この時期は茶の香気が薄くなってくる、そんな茶に沸き立っている湯を入れたら茶の香気は吹き飛んでしまう。香気のない茶は美味くない。だから適当に熱さを加減したんだよ」
「ぬう、異形なれど見事なお点前」
「おまえの茶の淹れかたはまどろっこしいんだよ。あと、なんだこの部屋の狭さは。東方には茶道という独特の精神や思想があり、茶室が狭いのは理由があるのは知っているが、狭すぎだ」
「知っているなら文句を言うな」
「狭いのをいいことに私の匂いをくんかくんか嗅いで妙なことをするなよ、変態」
「たしかに良い匂いがするな。良き香りは魔を退けるというが、おまえからただよう芳香は麻薬のように甘く危険な香りがする。自然(じねん)の花の香のような甘く爽やかな香りのする京子とは似て非なるものだ」
「そうだ。私に近づくと身を滅ぼすぞ」
「ラーメンとアバンチュールには火傷がつきものだ」
「私はただのラーメンか」
「はて、この世界にもラーメンはあるのか?」
「ラーメンどころかハロウィンやノエルも公式に存在するからな。最近のおライトノベル読者はそんなこまかいことまで気にしないのさ」
「ステータスバーが出てきたり、なんちゃらスキルのひとことで諸々納得する孺子が相手の微温い商売になったものだなぁ。ファンタジーじゃがいも警察は今いずこ?」
「そんなことよりもおまえが『ファリクス邸の怪』をどうにかした話をしろ」
「ああ、僧侶や魔術師が幾度も祓魔を試みたと言うが、結論から言うとこの屋敷に憑いていたものは幽霊ではなかったんだ」
「ほう、ではなにが憑いていたんだ?」
「精霊だ――」





 錆の浮いた門の先には古色蒼然とした屋敷が悠然とそびえ立っていた。
 くすんだレンガの壁一面に蜘蛛の巣のように蔦が絡まり、門から玄関までの路は雑草で生い茂っており、かつては清水を湛えていただろう池はどす黒い泥水が溜まっている。

「なかなか侘びた風情のたたずまいじゃないか。この野趣あふれる庭も気に入った。少し手を入れれば良い菜園になりそうだ」
「それはようございました騎士爵様。どうぞごゆっくりご見分ください。では、わたくしはこれで……」

 フェジテ行政庁勤めの役人は秋芳に書類の束といくつかの鍵を渡してそそくさと立ち去ろうとする。

「おい、ちょっと待て。中の造りについて口頭で説明して廻らないのか。客と内見は必須だろ」
「この館に関する情報はすべてその書類にまとめてあります。なにか不明なことがございましたら連絡してください」
「噂の幽霊については書かれていないようだが、本当に出るのかな」
「そ、それは……」
「俺の聞いた話では三〇年以上前にこの家を買った貴族がいたのだが、彼は戦争後遺症で心を病んでおり、家族や使用人を次々と手にかけた末に自殺したとか。それ以降、この家では怪奇現象が多発し、買い手がつかないとかなんとか……。それは事実なのかな?」
「はい、おっしゃるとおりです。売却を繰り返した結果、所有者も相続人もいなくなり国有財産である土地とみなされて、わたくしどもが管理することとなったのですが、巷の噂にたがわず奇怪な現象が多発しているのは事実です」
「たとえば、どのような?」
「壁の中や屋根裏から足音が聞こえてきたり、いるはずのない小さな男の子が走り回っている姿を目撃した者がいました。わたくしが以前この目で見たのは、白い服を着た首のない女性でした」
「白い服ねぇ、たとえばあんな感じのか?」
「え?」

 鬱蒼と生い茂る木々の間に、白い夜着を着たひとりの女が立っていた。
 高い。
 異様に背が高い。
 長身というレベルではない、その身長は三メトラを超えている。
 そして異様なのは背の高さだけではなかった。
 首だ。
 首をかしげている。あごの先が横になるほどの角度で。
 普通の人間なら首の骨が折れているところだろう、その姿は見る者に首吊り死体を連想させた。

「ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア……。アアアあああアアア――」

 頸骨の折れた首からはこのような音が漏れるのだろうか、聞く者の身が総毛立つような奇声が漏れる。

「~~~~ッ!?」

 絶句。
 役人はあまりの恐怖に声も出ない。

「あああアアアぁぁぁアァァァッ――ッ」

 身の毛もよだつ声とともに口から真っ赤な血が滝のように流れ落ち、白い夜着を赤く染める。

「で、で、で――」
「出た?」
「ギャランドゥ!」
「なんだよギャランドゥ(へそ毛)て! 恐怖判定に失敗して錯乱したのか? こんな序盤でおかしくなるなんて探索者失格だぞ」
「あわわわわわ……」

 あまりの恐怖に腰を抜かし、逃げることもできずにいる役人。
 怪女はしばらくのあいだ感情の読み取れない黒目だけの瞳で秋芳をじっと見つめ、陽炎のように揺らいで消えた。

「今のが、噂の幽霊というやつかな」
「そ、そうです! ああいうのが出るのです!」
「ああいう不気味なのが出現するんじゃ、たしかに買い手はつかないだろうなぁ」
「今までの入居者はもって一〇日といったところでしょうか」
「そうだろう、そうだろう。あんなのが出るんじゃ銅貨一枚でも買うのは御免だろう。むしろ金をもらっても幽霊屋敷なんて欲しくない人のほうが多いだろうな」
「ああ、では騎士爵様もキャンセルなさいますか。今ならキャンセル料はなしで――」
「まけろ」
「は?」
「安い安いと思っていたが、事故物件にもほどがある。半額にまけろ」
「あ、あなたも見たでしょう! 今の恐ろしい幽霊を。それなのに正気ですか!?」
「俺のSAN値はいつだって平常値だ。イカもタコも踊り食いできるぜ」
「はぁ……。わかりましたそこまでおっしゃるのなら――」

 かくしてフェジテの七不思議に数え上げられるファリクス邸は秋芳の住居となった。



 血まみれの子どもが廊下を走り、老人の顔をした赤子が這いずり回る。
 女の生首がそこいらを転がり、視線を感じて振り向けばカーテンや本棚の隙間から無数の光る目が凝視している。
 血の色に染まった池から怨嗟の声をあげて大量の髑髏が浮かび上がる。
 ファリクス邸に住んだ秋芳は、たしかに数多の怪異に襲われた。
 だが、怪異とはべつのアクシデントも多数起きた。
 いつの間にか廊下に蝋が塗られていたり、丸いガラス玉や木の実がばらまかれて転がそうとする。
 食事に大量の塩が盛られる。
 寝所に蛇や蛙が投げ込まれる。
 カーテンや壁が落書でいっぱいになる。
 夜中に突然歌声や怒声が鳴り響く。
 いかにも心霊現象といった怪異とはまた異なる、まるで悪童の悪戯じみた現象も多発した。

「こちらのほうは実害があるだけ厄介だな」

 召喚したブラウニーやキキーモラといった家妖精に片付けさせたものの、物を害されてはろくに家具も置けない。高価な書物や貴重な薬品をあつかう魔術師としてはゆゆしき事態だ。
 原因を排除する必要がある。

「だが俺は陰陽師だ。あまり荒っぽい解決はしたくないんだよ」

 ある晩。スイートロールやシロッテタフィー、ハニーナッツといった子どもの好きそうな菓子類と蜂蜜入りのミルクと甘い果実茶を用意して庭先のテラスに腰を下ろす。
 すると夜風に乗って林の中から衣擦れの音が聞こえてきた。
 そちらに目を向ければ襤褸を纏った老婆が首を吊って揺れている。

「…………」

 しばらくそちらを眺めて卓上に目を移すと、老人の顔をした犬がティーカップに注がれた果実茶をペロペロと舐めていた。

「なに見てんだよぅ」

 いじけたような口調でぼやく人面犬を一瞥し、中空に目を向ける。
 スイートロールが浮かんでいた。
 それが少しずつ減ってゆく。
 まるで見えないなにかにかじり取られているかのように。
 実際そこにはなにかがいた。
 魔術的な視覚でしか見えない存在が。
 見鬼である秋芳にはそれがはっきりと見えた。
 痩せぎすの子どものような体躯に、白粉を塗ったかのように真っ白な肌。尖ったら耳と牙は絵物語に描かれる小鬼(ゴブリン)のようだが、邪悪な感じはしない。

「おいらが見えるみたいだね」

 菓子を咀嚼しつつ、ふて腐れたような表情で小鬼がつぶやく。

「ああ、見える。混乱を司る精神の精霊レプラコーンだな」
「あんた、つまらないよ」

 小鬼――レプラコーンは秋芳の問いには答えず卓上の菓子に手を伸ばす。そこには奇怪な人面犬の姿はない。林の首吊り老婆も消えていた。
 あれらはすべてレプラコーンの作り出した幻だ。

「あんた、なにを見せても怖がらないし、なにをしてもおどろかないんだもん」
「俺はつまらないが、俺の用意した菓子は気に入ったみたいだ」
「うん、美味しいね」
「なぜ悪さをする? おかけでせっかくの良い家なのに人が寄りつかず荒れ放題だ」
「楽しいからさ」



「人の造った建物は人が手入れをしないとすぐに傷む。そうなれば家に憑くこいつらも迷惑だ」

 足下で小さな影が蠢く。秋芳の使役しているブラウニーたちが蜂蜜入りミルクを飲んでいた。

「それに、ほどほどにしないと自分が自分でなくなるぞ」

 精霊達は意思を持ってはいるが、生物とうよりもエネルギーと呼ぶにふさわしい存在だ。精霊が姿形を、かりそめとはいえ肉体を持って物質界に存在するためには特殊な環境が必要であり、魔術師や精霊使いに召喚されて物質界に現れた精霊は、通常その役割を果たすと元いた精霊界に還る。
 使役されずにこの世にとどまれば、彼らは物質界に順応できず物質界のすべてに破壊的な行動をとる狂える精霊と化す。

「俺の目にはおまえがまっとうな意思と自我を持って行動しているようには見えない。まるで強迫観念に囚われて狂奔しているようだ。このままでは狂える精霊となって己を見失うぞ。そうなる前に元の世界に還るべきだ」
「いやだね」
「俺の供物は気に入ってもらえたようだが、頼みは聞いてくれないのか」
「それはそれ、これはこれだよ」
「ココナッツ生地にバナナ、シナモン、アガベシロップを練り込んだ特製のパンケーキだ」
「美味しいね、美味しいよ」
「もらうものだけもらってそれっきり、てのは筋が通らないぞ。それは不義理というやつだ」
「大人はむずかしいことばかり言ってお説教。きらい、きらい、きらい、きらいきらいきらいっ、だいっきらいだよ!」

 レプラコーンのとがった人指し指が秋芳に向けられる。
 マナの波動を感じ、魔術を使うつもりだ。と思った時にはすでに呪文は完成していた。
 人間の魔術師がルーンを発してかける魔術とはちがう。彼ら精霊にとって魔術とは生まれつき持った能力なのだ。かける手順がおなじとは限らない。
 秋芳の頭に不可視の触手が伸びる。
 レプラコーンがどんな呪文を使ったのか、その効果はすぐにわかった。
 【ファンタズマル・フォース】。対象に正気を失うような恐怖に満ちた冒涜的な幻影を見せる高位の幻覚魔術。今までの【セルフ・イリュージョン】によるこけおどしとは訳がちがう。

(ふんっ)!」

 常人ならば狂気に誘われる幻影を見せられるところを、秋芳の強い精神が退ける。
 その瞬間、秋芳の精神とレプラコーンの精神とが触れ合う。
 一瞬だけだがふたつの精神が交錯し、秋芳はレプラコーンの心の中を見た。
 撹乱、狂騒、騒動、騒乱、大混乱――。
 そして――孤独。
 他者を混乱させたいというレプラコーンが生来持つ衝動と、独りでいることの寂しさがおなじレベル存在していた。
 本来ならばありえないことだ。

「おう……」
「うわっ」

 刹那の刻におたがいの記憶が交わる。

「おまえ、人だったのか」
「あんた、オンミョウジっていうんだね」
「ピートというのがおまえの名か」
「……」

 レプラコーンの顔から悪戯じみた表情が消える。

「まだまだ遊び足りないのかよ、ピート。だが、このままでは本当に死ぬぞ。おのれがおのれでなくなることこそ、本当の死だぞ。いいのか?」

 ピートという名のレプラコーンは秋芳の問いかけには答えず、静かに姿を消した。
 
 

 
後書き
 原作小説『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』12巻173ページ。
 「檄を飛ばす」の使いかたがまちがっていました。
 あの言葉には叱咤激励するという意味はありません。遠くにいる同志に決起を促すというのが本来の意味です。
 目の前の人を励ますという意味はありません。
 役不足と役者不足はきちんと使い分けてるのに、なんでこんな言葉の使いかたするのかなぁ。