永遠の謎


 

1部分:前奏曲その一


前奏曲その一

                       永遠の謎
                       前奏曲
 この時の欧州は激しい激動の時代にあった。
 誰もがその中にあった。それは王家の者達とて例外ではなかった。
 むしろだ。彼等こそがだ。その激動の中心にいた。その中で生きその中で考え動いていた。そしてその中でだ。今ある命が生まれようとしていた。
 バイエルン王国。やがてドイツと呼ばれる国の南にある国である。その西方にニンフェンブルグ城。その城の夏においてである。
 鬱蒼と茂る木々の間にあるこの城はイギリス風の庭園を持っている。白く左右に広がっている宮殿を持つこの城はミュンヘン郊外にある。
 その城においてだ。八月二十五日である。美しい池も持ち中も白いロココ調のこの宮殿の中で厳しいカイゼル髭の男が金色の光に照らされている白いサロンの中をせわしなく歩き回っていた。表情は不安げなものだ。
 そしてその顔でだ。周りの者に問うのだった。
「もうすぐなんだな」
「はい、もうすぐです」
「間も無くです」
 周りの者達はこう話すのだった。
「お生まれになられます」
「生まれられますので」
「そうか。もうすぐだな」
 わかっていたがそれでもだった。確認せずにはいられなかったのだ。
 この人物の名をマクシミリアンという。バイエルンの王太子である。この彼に今子供が生まれようとしている。それが今だったのだ。
 その彼にだ。また周りの者が声をかけた。
「お妃様も御無事です」
「ですから殿下は」
「落ち着かれていればいいのです」
「わかっているのだが」
 太子は焦った顔のままだった。
「それはだ」
「それではです」
「コーヒーをお入れしますので」
「落ち着いて下さい」
「どうかここは」
「わかっている」
 それは太子にしてもわかっていた。しかしなのだ。
 どうしても焦ってしまう。それを自分でもどうしようもなかったのだ。
 それで部屋をせわしなく歩き回る。歩くしかできなかった。
 そしてだ。実はであった。
 周りにしても同じでだ。太子のいない場所でこう囁き合うのだった。
「前は死産だったしな」
「その時はお妃様は危なかったしな」
「若し何かあれば」
「そうだな」
 死産の多かった時代である。これで子供だけでなく母親まで死ぬことはよくあった。子供を産むということはそれだけの危険があったのである。
「だからだ。まさか」
「いや、妙なことを言うとだ」
「そうだな」
「現実になってしまうな」
「そういうことだ」
 この時太子の妻であるマリア妃はナポレオンの第一帝政の頃の様式である白と緑の色の寝室においてベッドの中にいた。そこにおいてであった。
 今まさに子を産もうとしていたのである。時計だけが空虚に鳴る。
 彼等は誰もが不安な中にあった。しかしである。一人の鷲鼻の人物だけは落ち着いていた。
 彼の名はルートヴィヒという。他ならぬバイエルン王であり太子の父である。彼だけは至って落ち着いてこの王都ミュンヘンの郊外にある城で待っていた。
「今日は聖ルイの日ではないか」
「そして陛下のお誕生日です」
「その日ですが」
「なら落ち着くことだ」
 こう周りに言うのだった。
「よいな」
「それはわかっていますが」
「しかし」
「どうしてもです」
「それはわかる」
 王は彼等のその気持ちはわかると返した。しかしであった。
「だが、それでもだ」
「落ち着かれよというのですね」
「ここは」
「安心するのだ」
 彼だけは泰然自若とさえしていた。
 

 

2部分:前奏曲その二


前奏曲その二

「よいな」
「わかりましたと申し上げたいですが」
「ここは」
「とりあえずコーヒーでも飲むことだ」
 王自ら勧めたのだった。
「そして菓子でもどうだ」
「菓子ですか」
「それもですか」
「何か飲み食べれば落ち着くものだ」
 少なくともこう考えられる余裕が王にはあった。
「だからだ。どうだ」
「わかりました。それでは」
「そうさせてもらいます」
 周りの者は王の言葉に従った。そのうえで宮殿にいる者達にコーヒーと菓子が出された。太子もまたそのコーヒーを飲み菓子を食べた。彼は席に座りそのうえでチョコレートをふんだんに使ったケーキを食べる。その中でこう言うのであった。
「そういえば今日は」
「はい、聖ルイの日です」
 傍にいた将校が彼の言葉に応えて述べた。
「そしてそれと共に」
「父上の生まれられた日だったな」
「我がバイエルンにとっては目出度い日であります」
「だからだな」
 太子はそれを聞いて納得した顔になった。
「それで父上は落ち着かれているのか」
「そうだと思います」
「成程な。確かにな」
 そしてだった。太子はそこに納得するものを見た。
「それもそうだ。今日はよき日だ」
「はい、そうです」
「では。ここは神の御力を信じよう」
「神をですね」
「神は、そして聖ルイは」
 ルイの名も出すのだった。
「必ずやバイエルンを守護して下さる」
「だからこそこの国は今もあります」
「そうだな。ハプスブルクやホーエンツォレルンよりも古くからな」
 それぞれオーストリア、プロイセンの王家の名前である。ただしオーストリアは皇帝であるので皇室になる。その違いはあった。どちらもかつて神聖ローマ帝国と呼ばれたこの地域において権勢を振るっている。その両国の主達である。
「その御守護を信じるとしよう」
「そうされますね」
「そうする。それではだ」
「落ち着かれますね」
「もう一杯くれ」
 コーヒーを一杯飲み終えての言葉だった。
「そうしてくれ」
「はい、それでは」
 このコーヒーが落ち着く為のものであるのは言うまでもなかった。そしてだ。
 正午になった。その時だった。
 声が聞こえた。それは。
「あれは」
「そうだ、あの声はだ」
「間違いない」
「産声だ」
 誰もがその声に顔をあげた。
「では」
「そうだな、間違いない」
「産まれられたのだ」
「御子が」
 まずはこのことを喜んだ。そしてだ。
 次にだ。このことも考えらた。
「そしてどちらなのだ」
「御子息か。それとも御息女か」
「どちらなのだ」
「御子息ならば」
 その場合が最も大きかった。それならばだ。
「将来の御世継ぎだ」
「バイエルン王になられる方だ」
「やがてこの国を背負われる方になられる」
 やはり男の方がいいとされていた。そしてだ。
 医師がその部屋から出て来てだ。そのうえでまず王の前に出て来てだ。恭しく一礼してからゆっくりと口を開いて述べたのだった。
「王子です」
「そうか」
 王は医師の言葉に笑顔になって述べた。
 

 

3部分:前奏曲その三


前奏曲その三

「では。将来の」
「その通りです。王になられる方です」
 そうだというのだった。そしてだ。
 ミュンヘンに百一発の礼砲が鳴りそのうえで王孫の誕生が祝福された。王は孫の誕生に心から喜びを見せた。そうしてだった。
 孫の為に詩を書きそして名前を授けた。その名はだ。
「余の名前にしたい」
「ルートヴィヒ」
「それですね」
「そうだ、それだ」
 こう臣下の者達に告げる。
「やがてルートヴィヒ二世になるのだ」
「ルートヴィヒ二世」
「それがあの方の御名前ですか」
「どうだ」
 その王、ルートヴィヒ一世は周りに尋ねた。
「この名前で」
「はい、よいかと」
「その御名前で」
「いい御名前と存じます」
 周りはこう王に対して答える。そしてこうも言うのだった。
「何故か。その御名前でなければならないと思います」
「その他には思いつきません」
「あの方にはその御名前しか」
「余もだ。そう思うからこそだ」
 そうしたふうに考えるのは王自身もだというのだった。
「それでルートヴィヒにするのだ」
「その御名前でこそあの方です」
「それしかありません」
「では」
「あらためて言う」
 王はまた周りに告げた。
「我が孫の名前はルートヴィヒとする」
「わかりました」
「それでは」
 これで名前も決まった。彼の名前はルートヴィヒとなった。
 この名前もバイエルン、そして欧州中に広まった。バイエルンの臣民達はこの王孫の名前にだ。不思議なまでに合ったものを感じたのだった。
「相応しい御名前だよな」
「ああ、他の名前もよりもな」
「遥かに相応しいよな」
「というか他の名前はな」
「合わないな」
 こうまで言われるのだった。
「ルートヴィヒ様か」
「陛下の跡を継がれる御名前か」
「いい御名前だよ」
「全くだ」
 誰もがこう話す。そしてだった。彼が生まれその名前が決まったことを今小柄で頭の大きい、とりわけ額が目立つ男が聞いた。その目がやけに鋭く強い光を放っている。
 この男の名前はリヒャルト=ワーグナー。ライプチヒに生まれ今は指揮者、そして作曲家をしている。彼は己のオペラの脚本まで書く男だった。
 その彼がルートヴィヒという名前を聞いてだ。こう周りに話すのだった。
「ありきたりな名前だがだ」
「それでもかい」
「違うというんだね、君は」
「不思議とそんな感じがする」
 こう言うのであった。
「何かが違うな。そう」
「そう?」
「そうというと?」
「何があるんだい、そこに」
「運命を感じる」
 これがワーグナーの言葉だった。哲学者の表情になっての言葉だった。
「何かしらの」
「運命をかい」
「それをなのか」
「バイエルンに対してだけではない」
 彼が背負うであろうその国だけではないというのだ。
「それ以上の。何かを感じる」
「音楽のかい?それとも芸術かい?」
「君が追い求めているそれだというのかい?」
「そうだな」
 友人達の言葉に一旦頷いてからだ。ワーグナーはまた述べた。
「それもあるがそれ以上に」
「それ以上にかい」
「あの王孫様にはあるというのかい」
「私、そして私の芸術」
 このことを話に入れる。このこともまた感じざるを得ないワーグナーだった。
 

 

4部分:前奏曲その四


前奏曲その四

「だがそれ以上のものをだ。あの方は残されるような気がする」
「おいおい、まだ生まれられたばかりなのにかい」
「何もされていないというのにか」
「そうだ、感じる」
 これははっきりと言うのであった。
「あの方はだ。必ず何かをされる」
「ううん、そうなのか」
「そうした運命なのか」
 この時ワーグナーはまだ広く認められるところまではいっていなかった。彼の音楽はその斬新さ故に認められないことも多かった。彼はまだ借金に追われるしがない人物だった。
 しかしだ。ワーグナーは確かに言ったのであった。この王孫には運命があるとだ。
 そしてである。やがて彼に弟が生まれた。
 名前はオットーと名付けられた。彼の誕生もまたバイエルンの祝福に包まれた。
 このことをだ。中年の男も喜んだ。
 彼もまた王族だった。名前をルイトポルドという。太子の二番目の弟である。温和な表情をしておりそのうえでだ。こう甥に対して話すのだった。
「ルートヴィヒ、おめでとう」
「おじさん、僕に弟が生まれたんですね」
「うん、そうだよ」
 その穏やかな顔で彼に話したのだった。
「おめでとう、卿は兄になったんだ」
「はい、有り難うございます」
 まだ子供でありならわしにより少女のドレスを着させられている。だがその顔立ちは幼いながらも非常に整った。男性的なものがある。
 その顔でだ。叔父に対して答えるのだった。62
「僕はこれからオットーと共に」
「生きていくというんだね」
「そうあるべきですね」
「そう、その通りだ」
 自分を見上げる甥の顔を優しく見続けている。
「そうするんだ、絶対に」
「わかりました」
「このヴィテルスバッハの者の務めは」
 ここでこんなことも話す彼だった。
「愛することだ」
「愛することですか」
「そう、愛することだ」
 それだとだ。甥に話すのである。
「それが務めなのだ」
「愛することがですね」
「臣民を、バイエルンを」
 まずはこの二つだった。
「そして。かけがえのない相手をだ」
「かけがえのない相手」
「それはやがてわかる」
 今はあえて言わないことにしたのだ。まだ幼い甥にはわからないだろうと思ってダ。そしてそれはその通りであった。
「だがその相手を知り見つけた時は」
「その時は」
「愛することだ」
 そうせよというのだった。
「いいな、愛することだ」
「何があってもでしょうか」
「勿論。その通りだ」
 あえて言葉をだ。強く告げたのだ。
「愛することだ」
「そしてそれがですか」
「ヴィテルスバッハ家の者の務めだ」
 そうであるとだ。話すのだった。
「わかってくれるか」
「わかりました」
 甥は叔父にこう返した。そしてだった。叔父にこうも言うのだった。
「そして叔父上」
「うん」
「私は叔父上とずっと共にいていいでしょうか」
 こう言ってきたのであった。
「叔父上と共に」
「私とか」
「はい、叔父上は私のことが好きですね」
「勿論だ」
 心からの言葉だった。彼にとっては甥である。それで肉親としての愛情を持たない筈がなかった。それでこう答えたのであった。
 

 

5部分:前奏曲その五


前奏曲その五

「好きだ」
「ならば。共に」
「そうしたいな。私が生きている限りな」
「有り難うございます」
「ルートヴィヒならきっと」
 温かい目でだ。甥を見続けている。
「素晴しい相手に巡り会える」
「素晴しいですか」
「そうだ、卿に相応しいな」
 そうだというのであった。
「必ず会える。それが何時になるか」
「何時になるか?」
「そして誰なのかはわからないがだ」
 その二つはわからないのだという。しかしそれでもだというのである。
「必ず会える」
「では」
「楽しみにしておくことだ」
「わかりました。それでは」
「それでなのだが」
 ここまで話してだ。ルイトポルドがあらためて甥に話した。
「プレゼントを用意しておいた」
「プレゼント?」
「そう、積み木だ」
「積み木ですか」
「好きだな」
 甥のこの好みは既に聞いていた。だからこそ知っているのだった。
 その積み木を用意していると話したうえでだ。また話すのだった。
「それで何を作るのが好きだ?」
「はい、お城です」
 王孫は笑顔で答えた。
「お城を作るのが好きです」
「城か」
「駄目ですか、それは」
「いや、いい」
 ルイトポルドはまた笑顔で甥に答えた。
「城はいいものだ」
「そうですよね。私はお城が好きです」
「そんなに好きか」
「白い。山の上にあるお城が」
「山の上、か」
「母上によく連れて行ってもらっています」
 彼の母であるマリアは本を読む趣味はない。しかし森の中や山を歩くことが好きだ。そして湖を見ることもだ。彼もまた連れて行かれているのだ。
「ですから」
「それでなのか」
「そして本で読んだお城に」
「それは兄上の趣味だな」
 彼の兄、即ち太子である。太子の趣味は読書である。王孫はここでは父の影響を受けているのだ。それで書も好きであるのだ。
 この二つが彼を育てようとしていた。そしてその積み木もだった。
 積み木についてだ。王孫は目を輝かせて話すのだった。
「一つ一つ積み上げて。そうして」
「お城をだな」
「何時か。私のお城を」
 そしてだった。彼はこうも話すのだった。
「築きたいです」
「そうだな。それは何時の日かな」
「何時か、ですか」
「卿が王になった時にな」
 ルイトポルドはこの時はあまり考えずに言った。しかし甥が必ず王となる運命だということもわかっていた。この言葉がどういった形で現実になっていくのか、彼はそこまでは考えていなかった。むしろ考えられなかった。
「そうするのだな」
「はい、わかりました」
 王孫は健やかな笑顔で答えたのだった。
 それから数年経ってだ。彼はまた成長した。その彼がだ。
 ある日壁に描かれている白銀の騎士を見た。
 白鳥に惹かれた小舟に乗りそのうえで姫の窮地を救わんとしている。銀色の鎧と白いマント、そして剣を持っているその騎士は金色の髪に青い目を持っている。まさに絵画の中の美貌だった。
 その騎士を見てだ。彼は傍にいる乳母に問うた。
「ねえ、婆や」
「何でしょうか、殿下」
 乳母は優しい声で彼に応えてきた。
「何かありますか?」
「あれは誰なの?」
 まだ騎士を見ている。そのうえでの言葉だった。
 

 

6部分:前奏曲その六


前奏曲その六

「あの騎士は。誰なの?」
「あの騎士はですね」
「うん、誰なの?」
「ローエングリンといいます」
 乳母はその騎士の名前を話した。
「白鳥の騎士です」
「白鳥の?」
「はい、ブラバントにおいて姫の窮地を救う為に遣わされた騎士なのです」
「そうなの。あの人が」
「左様です。姫の為に剣を振るう騎士なのです」
「あの人が」
 彼はその騎士を見続けていた。そうして言うのだった。
「凄く」
「凄く?」
「凛々しい」
 そうだというのだ。
「あんな人が現実にいてくれたら」
「そうですね。そして」
 乳母はだ。ただこう言っただけだった。
「殿下を御護り頂ければ」
「僕を」
「はい、あの姫と同じく」
 ここでだった。彼はその姫と己を重ね合わせてしまった。心の中で無意識にだ。そうしてしまったのだ。幼いその心の中でだ。
「そうして頂ければ」
「僕を」
 また言う太子だった。
「そうしてくれたら」
「婆やは嬉しく思います」
 こう言う乳母は深いものは考えていなかった。だがこのこともだ。
 彼の心に残った。そうして言うのだった。
「僕は。この人を」
 彼の中に次第に残っていった。そうしてであった。 
 時代は動く。バイエルンでもだ。
 革命が起こった。王は止むを得なく退位した。そうしてだ。
 太子が王になった。そして王孫もだ。
「そなたは今から太子だ」
「太子?」
「そう、次の王になる者になったのだ」
 こうその父王に告げられたのだ。
「このことをわかっておくようにな」
「僕が王に」
「その為にだ」
「その為に?」
「家庭教師を選んだ」 
 そうだと。我が子に告げる彼だった。
「いいな、それがこの者だ」
「はじめまして」
 すらりとした長身の男が一礼してきた。きびきびとした動作であり姿勢が実にいい。顔立ちは引き締まり目の光も強い。まるで彫刻の様に整っている。その彼が名乗ってきた。
「テオドーラ=バスレ=ド=ラ=ローゼです」
「ええと」
「ローゼとお呼び下さい」
 その名前を言い切れない太子になった彼に告げてきた。見ればその顔は整っているが老いが少し迫っている。初老の顔だった。
 そしてだ。彼はこうも言ってきた。
「これから殿下の家庭教師を務めさせてもらいます」
「彼はフランスの軍人だ」
 そうだと話す王だった。
「だったと言うべきだな」
「軍人?」
「そなたを厳しく教育してくれるぞ」
「では殿下」
 ローゼからの言葉だった。
「今から」
「うん。じゃあ」
 こうして太子は王となる者の歩みをはじめたのだった。
 全てははじまった。しかしそれはだ。同時に終わりに向かうものでもあった。


プレリュード   完


                      2010・11・1
 

 

7部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその一


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその一

                  第一話  冬の嵐は過ぎ去り
 太子となってからの彼はだ。自由を忘れてしまった。
 朝から晩まで授業が行われる。ローゼの教育は厳格だった。
「歴代の教育は厳格にしても」
「それでもな」
「あれはかなり」
「厳しいな」
「全くだ」
 周りの者も驚くまでの厳しさだった。そしてだった。 
 王は多忙であり我が子を省みることが少なかった。王としての務めを果たすことに忙しかったのだ。それでそれを聞いてもこう言うだけだった。
「それでよいのだ」
「よいのですね」
「あれで」
「オットー様も同じく受けていますが」
「あの厳しい教育を」
「厳しければ厳しい程いいのだ」
 そうだというのである。これが王の言葉だった。
「余もそうだったではないか」
「それはその通りです」
「ですがあれはかなり」
「厳し過ぎるのですが」
「かなり」
 これが周りの者達の言葉だった。彼等にしてみればローゼの教育はあまりにも厳し過ぎた。それで今王に対して意見をするのだった。
 しかしだ。王はそれを聞き入れない。そしてだった。
「ローゼにはこう伝えておいてくれ」
「何とですか」
「それで一体」
「より厳しくしてもよいとな」
 こう告げるのだった。
「厳しければ厳しいだけだ」
「朝から晩までなのですね」
「これまで以上にですか」
「それは」
「そうだ、そうしてもよい」
 また話す王だった。
「それがルートヴィヒを正しき王にするのだからな」
「だといいのですが」
「それでは」
 彼等は幾分か懐疑的な顔であった。あまりにも厳しいと思ったからだ。
 だがローゼの厳格な教育は変わらない。それを続けるのだった。
 そのうえで友人達にこう話すのだった。
「ルートヴィヒ様だが」
「今家庭教師をしていたな」
「殿下の」
「そうだ、そうしている」
 また話す彼だった。
「非常に優れた方だ」
「そうなのか」
「それではやりがいがあるな」
「いいことではないか」
「それ自体はな」
 ここで彼の言葉に苦いものが加わった。
「いいことだ。お人柄もいい」
「では言うことはないな」
「いい王になられる」
「そうなるな」
「いや、それがだ」
 ローゼはまた苦いものが加わった声で話した。
「どうも。御自身の興味があるものばかり学ばれ」
「そうなのか」
「興味のあることだけをか」
「それだけを学ばれるのか」
「そうだ。それに」
 さらに話す彼だった。
「どうも夢見がちなご気性のようだ」
「想像が好きか」
「そうなのか」
「そうだ。神話や聖書がお好きだ」
「それはいいではないか」
「うむ、いいことだ」
 神話や聖書は教養として欠かせないものだった。それで友人達も話を聞いてそれはいいとした。しかしここで、なのだった。
 ローゼはだ。難しい顔で話すのだった。今度はその顔だった。
 

 

8部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその二


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその二

「だがな」
「だが、か」
「そこでも言うのだな」
「どうもそれが過ぎるのだ」
「度がか」
「そうなのか」
「そうだ。どうもな」
 難しい顔で話す。
「それがよからぬ方に向かわなければいいのだが」
「しかしお人柄はいいのだろう?」
「それは」
「素直ではある」
 それはあるというのだ。
「そして一途で真面目な方だ」
「ではいいではないか」
「それではだ」
「充分ではないか」
「充分な枠で収まっていればいいのだが」
 ローゼは不安といった面持ちで首を捻って述べる。
「本当にな」
「大丈夫、とはな」
「少し言えないか」
 友人達もここでこう言うのだった。
「ヴィテルスバッハ家の方はな」
「こう言っては何だがな」
 彼等も知っていた。だからこその言葉だった。
 ヴィテルスバッハ家、そして一族のことをだ。だから言うのであった。
「先王陛下もな」
「御心はよいのだが」
「それでもな」
 こうそれぞれ言うのであった。
「ローラ=モンテスのことはだ」
「魔がさしたとは言えないな」
「むしろ。そうした下地があったからこそ」
「ああなってしまったか」
「そう言えるか」
「それにだ」
 ここでもう一人の名前が出るのだった。
「エリザベート様だが」
「あの方もな」
「何か浮世離れしているところがある」
「あれだけの美しさを持ちながら」
 太子の従姉である。その美しさはバイエルンにおいてよく知られている。ヴィテルスバッハ家の中でも際立った微動の持ち主なのだ。
 しかしなのだった。そのエリザベートもだったのだ。
「この世の摂理に何処か馴染まれていないな」
「そこが心配だな」
「そしてか」
「太子もか」
「そうなのだ。御心は確かにいい」
 これはローゼも認めるにやぶさかではなかった。
「邪なものは一切ない方だ」
「だがそれでいいというものではない」
「そういうことだな」
「つまりは」
「そうだ。その浮世離れしたところがだ」
 彼も言うのだった。このことをだ。
「それが殿下にとってよからぬことにならなければいいが」
「そうだな。しかしだ」
「君は殿下を大切に思っているのだな」
「それは事実だな」
「素晴しい資質を持っておられる」
 彼は太子が好きだった。教師として愛情も持っていた。心配をしているがそれも愛情あってのことだ。それも間違いのないことだ。
 しかしなのだった。だからこそだ。彼は太子のことが気になって仕方ないのだ。
 

 

9部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその三


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその三

 それでだ。彼はさらに言うのだった。
「だが。繊細だ」
「浮世離れしているところがあるうえにか」
「その御心がか」
「すぐに傷つかれる。感受性も強い」
 太子のこの性質もわかっていたのだ。
「それがいい方向に向けばいいのだが」
「ではそれではだ」
「軍人としての教育を続ければどうだ」
「それはどうだ」
「それはもうしている」
 既にしているというのであった。
「やはりな。一国の王となられる方だ」
「軍を率いる存在だからな」
「やはりな」
「だからだ」
 このこともわかっている王だった。はっきりとだ。王はそのまま軍の最高司令官となる。国家元首がそうなのはどの国でも同じなのだ。
「それでだ」
「そしてその御心を強くされるのだ」
「いいな」
「それでだ」
 こう話してだった。ローゼは考える顔になった。
 そのうえでだ。こうも話すのだった。
「殿下は音楽や芸術もお好きなような」
「それはいいな」
「そうだな」
「確かにな」
 友人達は太子のその嗜好を聞いて顔を明るくさせた。
「本もお好きだったな」
「そうだったな」
「そうだ。山や森を歩かれるのもお好きだ」
 それもだというのだ。
「だからだ。そうしたこともだ」
「やっていけばいい」
「教育に入れるのはいいことだ」
「その通りだな」
「そう考えている。だからこそな」
 ローゼはとにかく太子のことを考えていた。軍人出身として厳格ではあった。だがそれでもだ。彼は太子のことを真剣に、かつ忠実に考え心配していたのだ。 
 それで彼に音楽や芸術を見せ山や森を歩かせもした。彼はそのことには目を輝かせ非常に熱心であった。しかし己の好きではないものにはだ。
「殿下、それでは駄目です」
「わかっています」
 軍に関することはだ。顔を曇らせるのだった。
 教練もだ。暗い顔で浮けるばかりだった。ローゼが幾ら言ってもだ。
「それは」
「ならもう少し熱心にです」
「はい」
 ローゼのその言葉に頷きはする。だが顔は暗いままである。
 とかく己が好きなことには熱中するがそうでないものにはとんと関心を示さない。彼は太子のその性格にさらに憂慮を覚えた。
 そしてだ。さらにであった。太子は時としてこうも言うのである。
「あの、先生」
「何でしょうか」
「父上と母上は今日は」
 両親を見なかったのでだ。不安な顔になって彼に問うのだった。
「何処に行かれたのですか?」
「御公務でお忙しいのです」
 それでだというのだ。
「御二人は今は」
「そうですか」
「王、そして王妃としての務めです」
 彼はこう語ると同時に太子に対して王の務めも教えていた。
「ですから」
「わかりました」
「殿下、お父上もお母上もお忙しい方なのです」
「それはわかっています」
「それは御承知下さい」
 こう言いはするがだ。彼は納得しないものも感じていた。
 こうした教育が続いていた。その中でだ。 
 太子はよく乗馬をした。これは見事なものだった。
 

 

10部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその四


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその四

 ローゼも軍人であるから当然乗馬は慣れている。しかしその彼が見てもだった。
「殿下、お見事です」
「これでいいのですね」
「はい」 
 共に馬に乗りだ。隣同士になって話すのだった。
「馬はお好きですか」
「はい、好きです」
 そのまだ少年ながら美貌を感じさせる顔で答える太子だった。
「何か。乗っていると」
「乗っていると?」
「騎士になった気がします」
 こう言うのである。
「それで好きです」
「騎士ですか」
「はい、騎士です」
 それだというのである。騎士だとだ。
「だから。馬に乗るのは」
「とりわけ白馬ですね」
 見れば今もである。太子は見事な白馬に乗っている。それに乗りながらだ。ローゼと笑顔で話をしているのである。それが今の太子だ。
「それがお好きですね」
「白馬に乗っているとです」
「やはり騎士になったように思われますか」
「白鳥の騎士ですか」
 ここで太子はこんなことを口にした。
「それになった気持ちになります」
「白鳥の騎士?」
「ローエングリンです」
 彼はこの名前を出した。
「それに」
「ローエングリンというと」
「先生は御存知でしょうか」
「あれですか。姫の窮地を救う白銀の鎧の騎士」
「はい、それです」
 話す太子の顔が晴れやかなものになる。そのうえでの言葉だった。
「それなのですが」
「ううむ、ローエングリンにですか」
 ローゼは太子の言葉を受けて難しい顔になった。そのうえで述べるのだった。
「それはいいのですが」
「いいのですね、それは」
「ただ」
「ただ?」
「殿下は王になられる方です」
 厳しい顔になった。そのうえでの今の言葉だった。
「それは御承知ですね」
「はい、それは」
「ならば。騎士になられるのも当然ですが」
 これは貴族という意味である。ローゼはそうしたことを踏まえたうえで太子対して話すのだった。二人は今も馬上で横に並んでいる。
「まずは王になられることをです」
「自覚せよというのですね」
「ローエングリンは王ではありません」
 このことを言うのであった。
「そのことはよく御承知下されるよう」
「それはわかっているつもりですが」
「ならばいいです」
 ローゼは太子の目を見た。いつも空を見ているその目を見てだ。そこに嘘がないのを見ての言葉だ。太子は嘘は言わない人物だった。
「それでなのですが」
「はい、乗馬の次は」
「剣です」
 それだというのだ。
「フェシングをしましょう」
「フェシングですね」
 太子はそれを聞いても笑顔になった。
「それなのですね」
「殿下は剣もお好きですね」
「はい、それもまた」
 笑顔のまま話す太子だった。顔が晴れやかなものになっている。
「好きですから」
「それはいいことです。銃は」
「どうも好きにはなれません」
 それはだというのだ。
 

 

11部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその五


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその五

「それはです」
「ですがそれでもです」
「扱いを覚えることはですか」
「心得ておいて下さい」
「わかりました」
 教育は順調な面とそうでない面が如実に表れてしまっていた。ただかなり厳しい。父王は時として二人に体罰を与えることもあった。政務の合間を見てたまに顔を見せればそうなのだった。
 そんな教育を見てだ。ルイトポルドは難しい顔をしていた。そうして親しい者達に対して話すのだった。
「太子もオットーも」
「あの教育はですか」
「駄目なのですか」
「二人にはよくないかも知れない」
 こう話すのである。
「二人共な。特に太子にはだ」
「しかし教育は厳しくていいのでは」
「違いますか」
「厳し過ぎるのもよくないのではないのか」
 これが彼の意見だった。
「あそこまではだ」
「そういえば確かに」
「詰め込みでしかも質素に過ぎるような」
「ハプスブルク家やホーエンツォレルン家よりも厳しいのかも」
「殿下は息をつく間もありません」
「あの子はだ」
 王族でしかも叔父だからだ。彼は太子をこう呼んでも許されるのだった。
「繊細だ。もう少しあの子のことを気遣わないとだ」
「いけませんか」
「そうだと仰るのですね」
「気の毒だ」
 甥にだ。心から心配するものを見せた。
「せめて。少しでも何かを許さないと」
「その何かとは」
「一体何ですか」
「それで」
「愛情か」
 それだというのだった。
「もう少し愛情を注いでもいいのではないだろうか」
「しかし王は孤独なものです」
 所謂帝王学の言葉だ。王は常に一人である、このことが今話された。
「ですから。愛情もまた、です」
「それも諦めるべきではないでしょうか」
「王として」
「王は国家の第一の僕」
 ルイトポルドはこの言葉を出した。
「だからか」
「はい、ですから」
「それもまた、です」
「仕方ないのでは」
「そう思いますが」
 親しい者達はこう話す。だが彼はまだ難しい顔をしていた。
 そうしてだ。こうも話すのだった。
「その考えもいいのだろうか。あの子にそこまで重圧を与えては」
「ですから王ですから」
「仕方ないと思いますが」
「違うのですか」
「やはり少しは」 
 どうしても甥のことを気遣わずにはいられなかった。篭の中の鳥になっている甥をだ。しかし彼への教育はさらに続くのだった。
 そしてだ。その中でだった。
 太子は多くの歌劇も見た。それも教育の一環だったがその中でだ。ドイツの歌劇も観ていた。
 ミュンヘンにある王立劇場は赤と黄金の世界だ。貴賓席の壁のところは黄金でありそこにロイヤルボックスもある。太子はよく王、王妃と共にそこでオペラを観るのだ。
 そこでだ。彼は言う。
「ドイツのオペラも」
「どうだというのだ?」
「何かあるというの?」
「素晴しいものがありますね」
 これが彼の言葉だった。
「実に」
「イタリアのものよりもか」
「いいというのかしら」
「いえ、イタリアのものはイタリアでいいと思います」
 イタリアオペラを否定しなかった。むしろ彼はイタリアは好きだった。だからこそそれは否定せずに肯定してみせたのである。
 しかしだった。ドイツオペラについてもだ。こう述べるのだった。
 

 

12部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその六


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその六

「しかしドイツのものにはドイツのよさがあります」
「ドイツのか」
「そうだというのね」
「何時か必ず」
 そして言った。この考えをだ。
「ドイツに見事な音楽家が現れるでしょう」
「ベルリーニやドニゼッティの様なか」
「ロッシーニかしら」
「いえ、彼等を超えるでしょう」
 まだ見ぬその音楽家についてだ。彼は熱く語るのだった。
「その彼は」
「一体どんな音楽家なのだろう」
「わかりませんね」
 両親は息子のその言葉に首を捻ることになった。
「しかしドイツにもな」
「必要ですね」
「神聖ローマ帝国はなくなった」
 王はこのことを言う。ナポレオンにより解体させられたその国のことをだ。
「だがオーストリアとプロイセンは争っている」
「そうですね。それは」
「そしてどちらかがだ」
 王の言葉は続く。
「ドイツを一つにするのか」
「おそらくですが」
 太子はいささか物憂げな顔になって言った。
「プロイセンでしょう」
「プロイセンか」
「その勢いは止まるところを知りません」
「だからだというのだな」
「そうです」
 まさにそうだというのである。
「ですから。プロイセンが必ず」
「このドイツを統一するか」
「そう思います」
「ううむ、そうなるか」
「そしてです」
 さらに話す彼だった。
「ドイツにその音楽家がです」
「ロッシーニを超えるか」
「モーツァルトやベートーベンに匹敵するでしょう」
 こうまで話してだった。太子は今日の歌劇を観た。それはイタリアのものである。それを観てだ。彼はドイツのその偉大な音楽家を夢見るのだった。
 そしてだ。その時にだった。
 太子は大叔父の家を訪問した。そこでだった。
「叔父上、それでなのですが」
「何かあるのか?」
「叔父上は音楽の評論を読まれていると聞きましたが」
「その通りだ」
 それは否定しない叔父だった。
「それはな」
「そしてなのですが」
「その評論を読みたいのか」
「できれば」
 こう叔父に申し出る。
「宜しいでしょうか」
「いいとも。それでなのだが」
「それで?」
「一人面白い音楽家の評論を読んでいる」
「面白いですか」
「かなり斬新な音楽家だ」
 叔父は甥に対して話す。
「その主張はな」
「それでどういった評論ですか?」
「音楽の中の女性的なるものか」
 叔父はいぶかしむ顔になり話をする。
「そんなことを言っている」
「女性ですか」
「そうだ、女性だ」
 こう甥に対して話す。
「それがあるというのだ」
「そうなのですか。女性的なものですか」
「そしてその音楽だが」
 音楽についてもだ。話すのだった。
 

 

13部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその七


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその七

「楽譜を見たところそれも非常に斬新だ」
「音楽もですか」
「歌劇だが番号制をしていなくだ」
「そうした音楽は最近イタリアでもあるそうですが」
「確かタンホイザーといった作品だったな」
 その彼の作品名も話に出た。
「その作品は」
「タンホイザーですか」
「そうだ、タンホイザーだ」
 その作品の名前をまた言う叔父だった。
「タンホイザーという」
「あの伝説の詩人ですね」
「ワルトブルグのな」
「その彼の歌劇ですか」
「そうだ。そして」
 さらに話すのだった。次にこの名前を出してきた。
「今ローエングリンがドイツで上演されているな」
「ローエングリン」
 太子はその透明な響きの名前に目の色を僅かだが変えた。
 そしてだ。声も無意識のうちにうわずらせて話すのだった。
「確か。白鳥の」
「知っているのか」
「伝説は聞いています。その騎士の歌劇ですか」
「そうだ。部屋に来てくれ」
 叔父はここまで話したところで甥に自分の部屋に来るように勧めた。
「その評論を貸そう」
「有り難うございます。それでは」
「実際に読んでわかることだ」
 一見ということだった。
「それではな」
「はい」
 こうしてだった。太子は叔父に案内されて彼の部屋に入った。その樫の重厚な部屋にある机のところにだ。一冊の黒い表紙の本があった。 
 それを見てだ。太子は言った。
「この本がですか」
「そうだ、そのな」
「音楽家の本ですね」
 その著者の名前を見る。それは。
「リヒャルト=ワーグナー」
「今はお尋ね者になっている」
「何かしたのですか?」
「あの革命騒ぎの時にな。罪に問われたそうだ」
 叔父はこのことも甥に話した。
「それでだ」
「革命騒ぎに加担してそれでなのですね」
「ザクセンのドレスデンでな。あそこでも騒ぎがあったな」
「はい」 
 これはバイエルンでもザクセンでも同じだったのである。一八四八年の三月革命はだ。ドイツ全土に及びそして大変な騒ぎとなったのである。
 太子もこのことはよく知っていた。そしてであった。
 そのことを聞いたうえでだ。叔父にまた問うのであった。
「つまり革命家ですね」
「そういうことになる。今は何処にいるかわからない」
「生きてはいるのですね」
「一応はな」
 生きてはいるのだという。
「生きてはいるがだ」
「何処にいるかはですか」
「支援者達に匿われながら転々としているらしい」
「そうですか。そうした状況ですか」
「その通りだ。それでなのだが」
 ここ叔父は話した。
「この書はかなり難解だぞ」
「それ程までなのですか」
「そうだ、私も読んだがな」
 彼は難しい顔にもなった。そのうえで話すのだった。
「どうもな。理解するのはな」
「難しいのですか」
「それはわかっておいてくれ」
「ワーグナーは難解ですか」
「おそらくこの書だけではない」
 そうだというのである。
 

 

14部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその八


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその八

「それはわかっておいてくれ」
「わかりました。それでは」
 こう話してであった。太子はその書を借り読みはじめた。そのうえでだった。
 ワーグナーについてだ。周りの者にこう話すのだった。
「どうやらこの国にだ」
「この国にですか」
「何かあったのですか」
「素晴しい音楽家がいるようだ」
 こう話すのだった。
「そう、ベートーベン以来のだ」
「そこまでのですか」
「素晴しい音楽家がですか」
「生まれているのですか」
「そうだ、この書を書いた者だ」
 大叔父に借りたその書を手にしての言葉だった。
「ワーグナーという」
「ワーグナーというと」
 ここでだった。何人かは眉を顰めさせた。
「あの悪名高きですか」
「革命家の」
「しかも山師の」
「あの者ですか」
「山師!?」
 太子はこの言葉に反応を見せた。革命家であるというのは聞いていた。しかし山師という言葉は聞いていなかった。それで言ったのである。
「どういうことだ、それは」
「はい、そのワーグナーという男はです」
 彼等はそのワーグナーについて太子に話した。
「とにかく浪費家でして」
「絹以外のものは身に着けません」
「莫大な借金を抱えていてそれから逃れ続けています」
「そして大言壮語が常でして」
「おまけに異常に女癖が悪いです」
 それもあるというのだ。
「妻がありながら他の女性を次々と誘惑します」
「そうした人間です」
 これはカトリックの世界では重要なことだった。妻だけを愛さねばならないからだ。尚バイエルンはカトリックの国である。
「失言や放言も多いですし」
「人間としましては」
「いや、それはどうでもいい」
 ところがだった。太子はそのことには関心を示さなかった。
 そしてだ。ワーグナーのその人間性には素っ気無く言うだけだった。
「人間ではないのだ」
「といいますと」
「何だというのですか」
「大事なのは」
「音楽だ」
 それだというのである。
「芸術なのだ」
「それですか」
「それだというのですか」
「芸術がですか」
「そうだ、それこそが大事なのだ」
 こう言うのである。
「だからだ。その音楽を聴いてみたいものだ」
「ワーグナーの音楽をですか」
「それをなのですね」
「つまりは」
「そうだ、ワーグナーの考えは素晴しい」
 書は手にしたままだ。そのうえでの言葉だった。
「その芸術への心は確かだ」
「ではやはり」
「ワーグナーをですか」
「認められるのですか」
「一度聴いてみたいものだ」
 また言う太子だった。
「必ずな」
「その時が来ればいいですね」
「それでは」
「その時にですね」
「楽しみにしている」
 太子の言葉はここではしみじみとしたものになっていた。彼はワーグナーを知った。そしてその芸術への考えもだ。彼はここから変わった。
 常にだ。ワーグナーについて考えそして言うのだった。
「音楽を聴きたい」
「はい、それでは」
「早速ピアノを」
「頼む。それでなのだ」
 さらに言うのだった。
 

 

15部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその九


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその九

「この曲を頼む」
「この曲をですか」
「そうだ、これだ」
 手に入れた楽譜をだ。ピアニストに差し出す。その曲は。
「ワーグナーのものだ」
「ワーグナーですか」
「リエンツィの楽譜だ」
 それだというのである。
「これを頼む」
「リエンツィですか」
「そうだ、私はこの曲を聴きたいのだ」
「わかりました。それでは」
 ピアニストは一礼してだった。その曲を奏ではじめた。太子はソファーにすわりその曲を聴く。そしてこう言うのであった。
「これこそが真の芸術なのだ」
「満足して頂けましたか」
「心からな」
 そうだというのだ。
「思った通りだ。やはりワーグナーの音楽は素晴しい」
「そこまでなのですか」
「ワーグナーは」
「ドイツは。彼により変わる」
 こうまで言うのだった。
「大きくな」
「音楽がですか?」
「そして芸術が」
「そうだ、まずはそれだ」
 太子は答える。
「しかしそれだけではなくだ」
「といいますと」
「その他にもですか」
「ワーグナーは音楽だけに止まらない」
 太子の言葉は続く。
「舞台もそうだし思想もだ」
「思想にもですか」
「影響を及ぼしますか」
「教養をも変える」
 太子は本気だった。だがその本気は何処か浮世離れしていた。何か、現実にはないものを見ながらの如く。話をするのである。
「そう、ドイツそのものになり得るのだ」
「まさか。ドイツをですか」
「そのものに」
「やがてわかる」
 太子は確信していた。
「私の言っていることがな」
「そこまでの音楽家がいるのでしょうか」
「果たして」
「本当に」
「現実にいるのだ」
 現実を見ていない筈だが太子は今現実を話していた。
「それも言っておこう」
「左様ですか」
「そうだというのですか」
「そうだ。リヒャルト=ワーグナー」
 言葉はここでも夢現だった。
「その名前を覚えておくことだ」
「わかりました」
「それでは」
 彼等は頷きはした。しかし太子の言葉はわからなかった。だがやがてだ。彼の言葉をそのまま行う者が出てしまうのだった。
 その者はだ。ワーグナーを心から愛した。そしてだ。
 常にワーグナーを聴き。こう言うのであった。
「我がドイツこそ世界を治める者なのだ」
 太子より七十年後にこの世にその名を知られることになる男の名前をアドルフ=ヒトラーという。彼もまたワーグナーを愛していたのだ。
 しかし人である太子は未来のことはわからない。彼はただワーグナー、まだ見ていない彼を愛することだけしかできなかった。その音楽と思想をだ。
 その太子にだ。神が贈りものをしたのだった。
 王がだ。太子に告げたのだ。
「ローエングリンをですか」
「そうだ、王立劇場で上演されることになった」
 こう太子に話すのだった。
「それでどうするのだ?」
「観るかどうかですか」
「嫌ならいいが」
 こう太子に言う。
「だがそなたは近頃ワーグナーのことばかり言っているそうだな」
「はい」
 こくりと頷いてそのことを認めた。
 

 

16部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十

「その通りです」
「あの男はお尋ね者だ」
 王もこのことを知っていた。だから言及した。
 しかしだ。同時にこうも言うのであった。
「だがフランツ=リストの働きかけもあった。そして劇場にもだ」
「劇場にも?」
「ワーグナーの信奉者がいてな。それでだ」
「何処にも真がわかる者はいるのですね」
 太子は王の今の言葉を聞いて微笑みになった。
「真の芸術がわかる者が」
「真か」
「ワーグナーは真です」
 ワーグナーそのものがだというのだ。
「ですから」
「そうか。それでか」
「はい、おそらくです」
 太子は言った。
「この度の上演は神の裁量です」
「神がか」
「はい、神がこのミュンヘンにもたらして下さった恩恵なのです」
「大袈裟だとは思わないのか」
「いえ、思いません」
 父の言葉もその微笑みで否定した。
「真は。必ず世に出るものですから」
「それでか」
「そうです。それでなのですが」
 太子の言葉は続く。
「父上、ローエングリンの他には」
「タンホイザーの上演も決まっている」
 もう一つ作品が出て来た。
「それもだ」
「左様ですか。タンホイザーも」
「それも観るか」
「無論」
 太子の微笑みは変わらない。彼は言うのだった。
「是非共。観させて下さい」
「確かワーグナーははじめてだった筈だが」
「人は何事もはじまりからです」
 太子はここでは世の摂理を述べた。
「ですが。そのはじまりこそがです」
「尊いというのだな」
「そうも考えます。それではです」
「観るか」
「観させてもらいます」
 これが彼の返答だった。
「是非」
「わかった。歌劇を観るのも王になる者の務めだ」
 教養としてである。これは歌劇というものがこの世に生まれた時からのことだ。劇や音楽は長い間王侯のものだったのだからこそだ。
「ではな。その時はな」
「有り難うございます。それでは」
 こうして彼はローエングリンを観ることになった。はじまる前からだった。
 彼は周囲にこう言うのだった。
「いよいよだな」
「ローエングリンですか」
「それを観られるというのですね」
「そうだ、全てはここからはじまる」
 まるで恋人について語るかの様だった。
「何もかもがな」
「しかしワーグナーはです」
「今は何処にいるかさえ」
「色々とよからぬ噂もありますし」
「それはいいのだ」
 太子はワーグナーの人間としての評価は気にしなかった。
「それはだ」
「左様ですか」
「それはなのですか」
「そうだ、いいのだ」
 また言う太子だった。
「大事なのはその芸術なのだ」
「芸術なのですか」
「それこそがですか」
「そうだ。ワーグナーの芸術」
 具体的には何かも言う太子だった。
 

 

17部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十一


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十一

「それは必ずやドイツを形作る」
「この国をですか」
「再び一つにですか」
「そうするのだ。ではだ」
「はい」
「そのワーグナーの歌劇をですか」
「見ようではないか」
 自分自身だけでなく周りにも告げた言葉だった。
「若し観られないというのなら」
「その時は」
「一体」
「お金は私が出そう」
 太子がだというのだ。彼は幼い頃よりそうしたものはあまり手にしていなかった。だが出そうと言えばそれで出たりするものだからだ。
 それでだ。彼は今こうも言ってみせたのだ。
 周りもそこまで言われてはだった。行かざるを得なかった。彼等もそのローエングリンを観ることになった。そして太子もまた。
 王と共にロイヤルボックスに入る。観客達の拍手と歓声に応えた後で着席してだ。そうしてそのうえで期待に満ちた眼差しで待っていた。
 そこでだ。王がその太子に対して声をかけた。
「期待しているな」
「はい」
 その通りだと答える太子だった。実際にその目は喜んでいるものだった。
「それは」
「そうか。しかしな」
「しかし?」
「私はあまり賛成できなかった」
 王はここで難しい顔を見せた。太子とは対象的にだ。
「実はな」
「ワーグナーがお尋ね者だからですか」
「そうだ。だからな」
「それは大した問題ではありません」
 太子は父王に対してもこう話すのだった。
「別に」
「大した、か」
「お尋ね者だからどうだというのでしょうか」
 太子は言う。右手をしきりに動かしながら。
「それで何があるでしょうか」
「そこまで言える根拠はあるのか」
「あります」
 断言だった。まさにそれだった。
「何故ならです」
「何故なら?」
「ワーグナーの芸術は何にも替えられないものだからです」
「それでか」
「はい、それでです」
 断言する彼だった。
「ワーグナー。その芸術は比類なきものです」
「しかしだ」
 王は怪訝な顔になった。そのうえで太子に対して問うのだった。
「そなたはまだワーグナーを聴いたことがないのではないのか」
「ピアノでいつも聴いています」
「しかしオーケストラではない筈だ」
 王が指摘するのはこのことだった。
「それに舞台もだったな」
「はい、今日がはじめてです」
「しかしなのか」
 あらためて太子に対して言う。
「それでもか」
「はい、それでもです」
「ワーグナーを知っているか」
「そうです。ですから私は」
「わかった」
 王は太子の言葉だけでなくその真剣な顔を見てだ。ここでは頷いたのだった。
 そうしてだ。顔を正面に戻してこう言うのであった。
「そなたは幼い頃からどうもな」
「何でしょうか」
「妙なところで頑固なところがある」
 こう言うのであった。
「それがな。どうにもな」
「いけませんか」
「悪いとは言わない」
 そうではないと言う。しかしなのだった。
 やはり怪訝な顔でだ。話すのだった。
 

 

18部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十二


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十二

「それでも。それが時として厄介なことになるかもな」
「厄介なですか」
「己の意志を持つのはいい」
 それはいいというのである。
「しかしだ」
「それでもなのですか」
「そうだ、それでもだ」
 また言う王だった。
「それが意固地になればそなたにとってよくないことになるやもな」
「よくないことに」
「よく聞いておくのだ」
 我が子への言葉だった。
「そなたは見たところだ」
「見たところ?」
「人から嫌われる者ではない」
「そうなのですか」
「そなたをあまり見られはしなかった」
 これは自分でも認める。しかしなのだというのである。彼もまた父として我が子を見ることは見ていた。そこから話すことだった。
「だが。その心根はいい」
「ですか」
「腹は奇麗でやましいことはない」
 太子のその清らかさを知っていたのだ。
「意地も悪くない。他人を傷つけることは好きではないな」
「言葉にも気をつけているつもりです」
「他者を思いやることも王の務めだ」
 彼は少なくともそれができているというのだ。
「それもな」
「それはわかっているつもりです」
「だからだ。そうしたことでだ」
 人に嫌われないというのだ。
「それにその顔立ちだ」
「顔ですか」
「それもまた好かれるものだ」
 太子の顔の整いは際立っていた。この世にあるとは思えないまでの、絵画にあるような美貌である。それはもうバイエルンだけでなく欧州中においても話題になっていた。
 そのことからもだというのだった。
「だからだ。そなたはだ」
「嫌われはしませんか」
「それに自然と人を惹き付けるものも持っている」
 今度はカリスマだった。
「だからだ。嫌われはしない。むしろ」
「むしろ?」
「誰もがそなたを好く」
 そうだというのだった。
「そして愛するだろう」
「そうであればいいのですが」
「安心するのだ」
 王の言葉は明らかに我が子に向けられたものだった。これまで親子の交流はほぼなかった。しかし今はそれが違っていたのだった。
 そうしてだ。王はさらに我が子に話した。
「それでだが」
「それで、ですか」
「そうだ。そなたは王として相応しい者だ」
「そう仰って頂けますか」
「私もそう思う。必ずやバイエルンの、どいつの歴史にその名を残す」
 それも感じ取っていたのだ。我が子のその資質を。
 そしてである。そう話している間にだった。
 上演開始の合図のベルが鳴った。それを聞いてだった。
「さて、それではだな」
「開演ですね」
「ローエングリン」
 王は考える顔でその名前を呟いた。
「確かあれだったな」
「はい、白鳥の騎士です」
「姫の窮地を救う白銀の騎士か」
「伝説のあの騎士を歌劇にしたのです」
「果たしてどういったものか」
 王はその考える顔のまま述べていく。
「見せてもらおう」
「見させてもらいます」
 王だけでなく太子も話した。
「これから」
「そうだな」
 こうしてだった。まずは前奏曲からだった。その前奏曲は。
 透明で清らかな響きの曲だった。色にすると白銀の。
 青い空と水色の水の間から騎士が現れそうして天上から祝福の聖なる杯が舞い降りて恩恵を施す。太子は前奏曲からそうしたものを感じ取った。
 

 

19部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十三


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十三

 そうして幕が開き姫、エルザ=フォン=ブラバントが王と騎士達に囲まれ審判を受けようとしていた。姫はここで語るのだった。
 自分を救ってくれる白銀の騎士が来ることを。それを語ったのだ。
 誰もがそれを疑おうとする。しかしここでだった。
 河の向こう、その彼方から小舟が来る。白鳥に曳かれたそれに乗っているのは。
 白銀の鎧と兜、そして白いマントにその身体を包んだ見事な騎士だった。その両手に剣を抱いている。その騎士が来たのである。
 騎士を見てだ。太子は息を飲んだ。その彼に全てを見てだ。
 言葉を失ったまま騎士に魅入られる。その太子を見てだ。周囲は異変を感じ取ったのだった。
「おかしいな」
「ああ」
「今の殿下は何かが違う」
「そうだな。歌劇を観る顔ではない」
「あれは」
 何かというとだった。
「恋に出会ったような」
「まさにそうした顔だな」
「そうだ、その顔は」
「少なくとも歌劇を観られるものではない」
「そうした御様子ではない」
「これは」
 そしてだ。年配の侍従が言った。
「よからぬことにならなければいいが」
「よからぬこととは」
「といいますと」
「何が」
「殿下は一つのことにその御心を囚われる方」
 太子のことをよくわかっている言葉だった。
「あの歌劇にもまた」
「しかし歌劇です」
「それに過ぎません」
 だが周囲はその年配の侍従にこう言うのだった。
「ですから例え何があっても」
「大したことにはなりますまい」
「精々」
 どうなるか。若い侍従が述べた。
「あの歌劇にのめり込まれるだけです」
「そうだな。結局は」
「それだけで終わる」
「大したことは何も起こらないだろう」
「別に」
「そうであればいいがな」
 だが、だった。年配の侍従はそれでも心配する顔だった。その間にも歌劇は続いていく。
 最後に聖杯の奇蹟が起こり姫は救われた。だが姫が騎士が禁じていたその名前を問うたが為にだ。騎士は去らなければならなくなった。
 騎士は己の名を告げた。ローエングリンと。
「ローエングリン・・・・・・」
 その名を聞いてだ。太子はこの舞台を観ていてはじめて口を開いた。
 しかし以後はまた口を閉ざし舞台を観ていく。舞台は終局に向かっていた。
 そうしてそのままだ。結末まで観た。結末は騎士、ローエングリンは聖杯の城モンサルヴァートに戻り姫と別れる。姫は泣き崩れ息絶えてしまう。悲しい結末だが全てを観終えてだ。彼は恍惚となっていた。
 感涙さえしていた。そうして呟いた言葉は。
「これこそが」
 何かというのだった。
「芸術なのだ。私が望んでいた芸術なのだ」
「気に入ったようだな」
「はい」
 その通りだと父王にも答える。カーテンコールが行われている舞台を観ながらだ。彼はそのカーテンコールにも騎士を観ていた。
 そしてだった。彼は父の言葉に応えていたのだ。
「これ程までだったとは」
「言っているだけはあるな」
 王の言葉は冷静だった。
「素晴しい。それは確かだ」
「素晴しいというものではありません」
 しかしだった。太子の言葉は王のそれとは違っていた。恍惚をそのままんしてである。そのうえで言葉を出し続けているのであった。
 

 

20部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十四


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十四

 彼はまたその名を呟いた。
「ローエングリン」
「白銀の騎士だな」
「私は忘れられません」
 太子はまだ舞台を観ている。そこから顔を放さない。
「この時を」
「ではだ」
「はい、それでは」
「次にタンホイザーの上演も予定されているが」
「無論です」
 こう言ってからだった。
「そちらもです」
「観るのだな」
「そうします。是非共」
「そうか、わかった」
「はい」
「ではタンホイザーも観るのだな」
「リヒャルト=ワーグナー」
 自然とだった。太子の口から彼の名前も出た。
「間違いない、彼こそがこのドイツを一つにする芸術を生み出す者だ」
 この言葉は確信だった。彼は今永遠の存在と巡り会ったのだった。彼にとっての永遠の存在にだ。確かに会ったのだった。
 そこから彼は変わった。常にだった。
「ワーグナーの本を」
「あの者の著作をですか」
「そうだ、持って来てくれ」
 まず彼の書を欲するようになった。
「是非読みたい」
「わかりました。しかし」
「しかし?」
「最近ワーグナーばかり読まれますね」
 言われた者が言うのはこのことだった。
「本当に」
「そうだろうか」
「ええ、そこまで入れ込まれているのですか」
 彼は怪訝な顔で太子に対して問うた。
「ワーグナーに」
「入れ込んでいると言われればそうだな」
 太子自身もそのことを認めた。そうしてだった。 
 さらにだ。こんなことも言うのであった。
「私がだ」
「殿下がですか」
「王になったその時にはだ」
 既にそのことは決まっていることだ。何故なら彼は太子だからだ。そして今父王の体調は優れなくなってきている。王となる時も近そうだった。
「ワーグナーを救いたいものだ」
「そういえばあの者は今もでしたね」
「逃亡中だな」
「お尋ね者のままです」
 まずはそれだった。彼は相変わらず革命に関することでドイツ中で指名手配となっていたのだ。特徴のあるその顔がドイツ中で知られてしまっていた。
「そして借金取りにも追われています」
「どちらも下らない話だ」
「下らないですか」
「そうだ、下らないことだ」
 太子の顔にだ。憂いが加わった。そのあまりにも整った顔にだ。
「芸術の前にはだ」
「では殿下はワーグナーを」
「些細な罪は消し去るべきだ」
 これが太子の返答だった。
「その様なものはだ」
「そう思われるのですか」
「その通りだ。そしてだ」
「はい、ワーグナーの書ですね」
「彼の著作に脚本」
 具体的に何かも話すのだった。
「何でもいい。持って来てくれ」
「初期の脚本もですか」
「妖精や恋愛禁制だな」
 どちらもワーグナーの初期の作品だ。ワーグナー自身もあまり振り返ろうとしない作品達である。だが太子はこうした作品まで知っていたのだ。
 

 

21部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十五


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十五

「そうだな。どちらもな」
「ご所望ですね」
「あれば頼む」
 実際に前にいる彼に告げた。
「どちらもな」
「わかりました。それでは」
「それにリエンツィもだな」
 これもまた初期の作品だった。
「あれも欲しいな」
「リエンツィ。ローマの護民官だったあの」
「ワーグナーらしさはまだ薄かった」
 ワーグナーの作品がそのワーグナーらしさを発揮していくのはさまよえるオランダ人以降である。リエンツィには多少出ている。しかしそれ以前の妖精や恋愛禁制はそうではないのだ。
 太子もそれはわかっていた。しかしそれでも言うのであった。
「だがそれでもだ」
「御覧になられたいのですね」
「ワーグナーの全てをだ」
 太子の声に熱いものが宿った。
「私は知りたいのだ」
「わかりました。それでは」
「そしてできればだ」
 その言葉がまた発せられた。
「ワーグナーを呼びたいものだ」
「このミュンヘンにですか」
「我がヴィッテルスバッハ家の務めはだ」
 言わずと知れた彼の家だ。あのハプスブルクよりさらに古い歴史を持ちかつては神聖ローマ皇帝まで出した。彼の家の名前を出したのであった。
「民を護ること」
「はい」
「そして芸術を護ることだったな」
「その通りです」
「ではだ。ワーグナーもそうされるべきなのだ」
「そのワーグナーをですか」
「ワーグナーは誰も殺してはいない」
 それはその通りだ。しかし太子は今そのことを免罪符にしていた。ワーグナーの。
「それで何故今だに罪に問われているのだ」
「ですから革命の」
「あの騒ぎは既に終わった」
 祖父を退位にまで追いやったその騒動もだ。今の彼にとっては些細なことに過ぎなくなってしまっていた。それよりもなのだった。
「だが今はだ」
「ワーグナーですか」
「芸術は護られるべきものだ」
 また言う太子だった。
「だからこそだ」
「それでは、ですか」
「ワーグナーだ」
 何もかもがそこに至っていた。
「わかってくれるか、このことが」
「私は殿下程芸術への造詣は深くありませんが」
 それでもだというのだった。
「ですが殿下のお気持ちはわかります」
「そうか」
「では」
「頼んだぞ」
「わかりました。それでなのですが」
 ここで話が変わった。彼は太子にあらためて告げてきた。
「今から司教様が来られますが」
「御教えを聞く時間か」
「どうされますか、それは」
「聞かねばなるまい」
 義務といった感じの言葉だった。
「そして聞かねばならないのと共に」
「それと共に?」
「私は神もまた愛する」
 このことを言うのだった。今度は穏やかな目になっていた。
 

 

22部分:第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十六


第一話 冬の嵐は過ぎ去りその十六

「その神もな」
「左様ですか」
「神は全てを許して下さる存在だ」
 彼は信仰も持っていた。尚バイエルンはカトリックである。当然ながら彼もまたカトリックだ。そうした観点から言えばオーストリアのハプスブルク家と同じだ。
「だからこそな」
「それはよいのですが」
「プロテスタントか」
「はい、今度そのプロテスタントの方も来られます」
「ビスマルク卿だな」
 この名前が出て来たのだった。
「あの方だな」
「殿下も御会いになられると思いますが」
「会わなければならないだろうな」
「ならないですか」
「私とあの方もまた」
 そしてだ。こんなことも言うのだった。
「だからこそだ」
「左様ですか。それでは」
「何故だろう」
 太子は考える顔にもなった。
「私はカトリックだ」
「はい」
「そしてあの方はプロテスタントだ」
 このことは絶対だった。太子はバイエルン、ビスマルクはプロイセンを代表する二人だ。そしてドイツにおいてカトリックとプロテスタントを代表してもいる。そうした意味では二人は対立する間柄だった。
 しかしだった。太子はだ。何故か今対立するものは感じていなかった。
 むしろそこにあったのは親しみだった。不思議なことに、太子自身もそれに戸惑っているがそれでもだった。まだ会っていない彼にそれを感じていた。
 そのうえでだ。彼は語るのだった。
「いがみ合って当然だがな」
「それでもなのですね」
「そうだ、会いたい」
 彼は言った。
「是非な」
「ビスマルク卿もそう思われているようです」
「あの方もか」
「はい、あの方もです」
 そうだというのである。
「殿下と御会いしたいそうです」
「そうなのか」
「殿下のことはプロイセンにも伝わっています」
 これは当然のことだった。バイエルンはドイツにおいてプロイセン、オーストリア両国の後に続く第三の国である。国力は両国と比べてかなり落ちるにしてもだ。
 そうした国が見られない筈がなかった。その国の次の王ともなるとだ。それにその容姿と知性も加わればだ。当然のことだった。
 それをビスマルクが知らない筈がなかった。それでなのだった。
「それは」
「そうか。それでか」
「ビスマルク卿はかなり辛辣な方だそうですが」
 このことも話される。
「それは御気をつけ下さい」
「いや、それはいい」
 ビスマルクはそれには構わなかった。平然としている。
「そのことはだ」
「宜しいのですか?」
「ビスマルク卿のことは私も聞いている」
 こう話す彼だった。
「それはだ。しかし」
「しかし?」
「あの方にも会いたいな」
「左様ですか」
「ワーグナーにも会いたいがだ」
 やはり彼が最初だった。
「それでもだ。あの方にもだ」
「わかりました。それではその会談の用意も」
「頼んだぞ。それではな」
「はい、それでは」
 こんな話をしてであった。彼はその時を待っていた。彼の運命は動きはじめていた。それは大きなうねりとなっていたのだった。


第一話   完


             2010・11・10
 

 

23部分:第二話 貴き殿堂よその一


第二話 貴き殿堂よその一

                第二話  貴き殿堂よ
 その時が来た。プロイセンから彼が来たのだった。
「殿下、あの方がです」
「来られたか」
「只今列車がミュンヘンの駅に着きました」
 こう述べられるのだった。
「それで」
「そうか。わかった」
 太子はその報告に対して頷く。彼は今青い部屋の中にいた。青と黄金の部屋の中にいてだ。そこでピアノを聴いていたのだ。それはロココ期のフランスの音楽だった。
 座っているソファーもロココのものだった。そこに座ってであった。落ち着いた優雅な服を着てだ。そのうえで話を聞いているのだった。
「それではだ」
「今からですね」
「会いたい」
 会おうではなかった。こう言ったのである。
「すぐにな」
「ううむ、殿下は」
「私は?」
「そこまでビスマルク卿を好かれているのですか」
「好きか。そうだな」
 その言葉にだ。太子はふと反応を見せて話すのだった。
「どういう訳か自分でもわからないがな」
「それでもですか」
「会いたいのだ」
 またこう言う彼だった。
「あの方とな」
「では。晩餐の場で」
「そう頼む。会うのならばだ」
「そういった場所でこそですか」
「楽しく話したい」
 それでだというのだ。太子は穏やかな顔で話すのだった。
 そしてそのうえでだ。こんなことも話すのだった。
「それでだが」
「晩餐の食卓はどうされますか」
「あの方の好きなものでいい」
「ビスマルク卿のですね」
「そうだ。ビスマルク卿のだ」
 彼のだというのである。
「それに合わせておいてくれ」
「そういえばビスマルク卿も」
 その彼の話にもなるのだった。どうかというとだ。
「殿下と同じくかなりの長身の方で」
「そうらしいな」
「そしてです」
「かなり召し上がられるそうだな」
「はい、そうです」
 その通りだというのであった。
「何でも茹で卵を十数個召し上がられ」
「そして生牡蠣を百七十個以上だったな」
「御存知でしたか」
「話は聞いている」 
 それで知っているというのであった。太子にしても愚かではなかった。それでそのうえでだ。話をしてきた侍従に話すのだった。
 そしてだ。さらに話すのだった。
「ハンバーグもお好きだったな」
「はい、そこに目玉焼きを乗せられて」
「その好みにだ」
「合わせられてですね」
「そうしてくれ。それではな」
 こうしてだった。太子もまたビスマルクとの会見のことを進めていくのだった。そのうえでだった。太子は落ち着くとワーグナーをまた聴くのだった。
 そしてだった。彼はそのワーグナーについても呟く。
「ワーグナーにもだ」
「御会いしたいですか」
「会いたい」
 是非にという口調だった。ソファーに座り話をピアノで聴いている。そうしながらのやり取りだった。
「一刻も早く」
「左様ですか」
「ビスマルク卿もそうだがワーグナーは」
「それ以上に」
「この世で最も会いたい」
 何かを見ている目で話していた。
「この世界に生きている人間の中でな」
「そしてですね」
「救いたい」
 そしてだった。太子はこうも言ったのだった。
 

 

24部分:第二話 貴き殿堂よその二


第二話 貴き殿堂よその二

「彼をな」
「そのワーグナーをですか」
「さまよえるオランダ人だが」
 そのワーグナーのオペラだ。海を彷徨う亡霊に等しい男にひたすら献身的な愛を捧げる一人の女が遂にその男を救う、愛に救済の話である。
「そのゼンタ、そして」
「そして?」
「タンホイザーのエリザベート」
 この名前も出すのだった。
「あのシシィの名前を持つ乙女の様にだ」
「ワーグナーを救いたいのですか」
「若しくはローエングリンか」
 太子の目の色が恍惚としたものになった。その名前を言う時にだ。
「私はあの白銀の騎士になりたい」
「ワーグナーにとっての」
「そうだ、あの偉大な音楽家を救いたいのだ」
「では。殿下は」
「王になったその時は」
 最早それは確実なことだった。問題はそれが何時になるかということだ。太子は既にその時のことを考えていたのである。そうなのだった。
「私は彼を救おう」
「ですが殿下」
「そのワーグナーのことか」
「よからぬ話がまた」
 この話になるのだった。
「人妻との噂が」
「そうなのか」
「はい、それも己の庇護者の妻とです」
 語るその顔が曇っていく。そのうえでの言葉だった。
「これは流石に」
「そして借金だな」
「はい」
 従者の顔がさらに曇った。
「その通りです」
「モーツァルトも借金に追われていた」
 これが太子の返答だった。
「そしてモーツァルトの人柄はどうだった」
「それは」
「だが音楽は素晴しい」
 モーツァルトの人間性についてはあまりにもよく知られていた。一言で言えば下品である。およそ真っ当な人間とは言えない人物だったのだ。
「そしてベートーベンもな」
「あの御仁も相当でしたが」
「そういうことだ。まずは芸術だ」
 太子はそれを見ていたのだ。それだけと言ってもよかった。
「それが大事なのだ」
「左様ですか」
「そうだ、それがだ」
 また言う太子だった。
「大事なのだ。だがそれをわかる者はだ」
「わかる者は」
「少ない」
 太子は俯いた。その整った顔に憂いを帯びさせてだ。そうして呟いたのだ。
「だからこそモーツァルトもベートーベンも貧困に苦しんだのだ」
「殿下、モーツァルトは」
「ビリヤードのせいか」
「それに莫大な金を浪費していましたので」
「それ位何だというのだ」
 モーツァルトは実はかなりの収入を得ていたのだ。しかしその極端な浪費癖により借金を重ねていたのだ。その辺りに彼の人間性の問題が出ていたのである。
 太子もこのことは知っていた。ところがなのだった。
「モーツァルトも救われるべきだったのだ」
「あれだけの浪費家もですか」
「浪費が何だというのだ」
 太子はここでは首を左右に振った。俯いたままでだ。
「その程度のことで芸術が阻まれては駄目なのだ」
「左様ですか」
「そうだ。私は彼を救う」
 顔を上げた。ここでだ。
「何があろうともな」
「そうされますか」
「そうだ。そしてだ」
「そして?」
「私はそれができる」
 自分ならばというのだ。そうだというのだ。
「芸術を解することもな」
「殿下だけがでしょうか」
「それをわかってくれる人間も少ないだろう」
 太子はこんなことも言った。
「やはりな」
「殿下、それは」
「シシィはわかってくれている」
 ハプスブルク家、オーストリアに嫁いだ従姉ならばというのだ。彼より七歳上のその美貌の彼女と彼はだ。今もお互いを慕い合っているのだ。
 

 

25部分:第二話 貴き殿堂よその三


第二話 貴き殿堂よその三

 そしてだった。もう一人の名前を出すのだった。
「それに」
「それに?」
「おそらくこれから会うあの方もだ」
「ビスマルク卿ですね」
「話を聞くとあの方はかなりの方だ」
「その様ですね」
「だからだ。是非会いたい」
 こう話すのだった。
「では。行こう」
「晩餐に」
 こうして太子はそのビスマルクと会うことにしたのだった。勲章が幾つも下げられている白い軍服を着た厳しい口髭の男だった。背は太子と同じだけ高く鷲鼻が目立つ。目の光は強く口元も厳しい。その男がビスマルクだった。
 彼はまず太子と握手をした。太子から言ってきた。
「ようこそ、バイエルンに」
「はい」
 ビスマルクはその厳しい声で彼に応えた。
「はじめまして、殿下。ビスマルクです」
 ここで彼は恭しく一礼した。バイエルンの太子に敬意を表してである。
 そうしてだった。ビスマルクは彼に言うのだった。
「では殿下」
「はい、何でしょうか」
「お話を聞きました」
 こう言ってからだった。
「何でも私に贈り物があるとか」
「些細なものですがいいでしょうか」
 太子は微笑んで彼に返した。
「音楽ですが」
「といいますと」
「こちらへ」 
 その笑みのまま彼を一室に案内した。青い花が所々に飾られた金色の部屋に黒い服のオーケストラの者達が座っていた。そしてビスマルクが部屋に入るとだった。
 すぐにだった。音楽が奏でられたのだった。その曲は。
「これは」
「お聴きになられたことがありますか」
「ワーグナーですな」
 すぐに答えが返ってきた。ビスマルクから。
「それもこの曲は」
「はい、ローエングリンです」
 今度は太子から答えた。
「第一幕の前奏曲です」
「そうですな。殿下はワーグナーがお好きでしたか」
「素晴しいと思っています」
 これが太子のここでの返答だった。
「この世で最も素晴らしい音楽でしょう」
「素晴しいですか」
「私はそう思っています」
 何処か熱を帯びた目でビスマルクに述べていく。
「ですからここで」
「私にもこの曲をですか」
「御気に召されたでしょうか」
「私はドイツ人です」
 ビスマルクはこう太子に言うのだった。
「ですから」
「そうですか。ドイツ人だからこそ」
「有り難うございます」
 こう言うのだった。
「曲だけでなく」
「演奏もですね」
「はい、見事です」
 ビスマルクは己の耳にも自信があった。だからこそだった。
 それでなのだった。今は耳を澄まして聞いていた。それで太子に礼を言うのだった。
「殿下、有り難うございます」
「御気に召されたのですね」
「その通りです。音楽は最高の贅沢の一つですね」
「人にだけ許された贅沢ですね」
「はい、その通りですね」
 ビスマルクも太子のその言葉に頷く。
「それは」
「そしてその中でも」
 その人の中だけでもというのだった。太子の言葉は続く。
「芸術を解することができるのは」
「さらに限られてますな」
「はい、そうです」
 

 

26部分:第二話 貴き殿堂よその四


第二話 貴き殿堂よその四

 太子は言う。ワーグナーを聴きながら。
「その中でもワーグナーは」
「理解できる者は少ないですね」
「残念なことに。ですが私は」
「ワーグナーを愛されてますね」
「はい、その通りです」
 音楽を聴きながらだった。恍惚として話す。二人は立ったままだがそれでもだった。ワーグナー、そして芸術への話を続けるのだった。
 そうしてだった。太子はさらに話す。
「これだけの芸術家に会えたことは生涯の幸せです」
「殿下、それでは貴方は」
「この命が続く限り」
 軽い言葉ではなかった。間違いなくだ。
「私はワーグナーを愛します」
「そうですか。では私は」
「ビスマルク卿は?」
「その貴方を見させてもらいます」
 こう太子に言うのだった。
「私はこの命をドイツに捧げますが」
「そうですね。貴方はその為に生きられてますね」
「その為に貴方と対立することもあるでしょう」
 ビスマルクはこのことも話すのだった。プロイセンとバイエルンは違う国だ。それで完全に同じになることなぞ有り得ないことだった。
 それはビスマルクだけでなく太子もわかっていた。そしてそのうえでなのだった。二人はドイツについても話をするのだった。
「私の言葉は御存知ですね」
「哲と血ですね」
「そうです」
 それだというのである。
「それによりドイツを統一します」
「その為には何でもされますね」
「その通りです。それが私のやり方です」
「わかっています。ただ私は」
「戦いは望まれてませんね」
「私は血を好みません」
 太子は言った。それはだというのだ。
「ですから。血は」
「鉄もですね」
「鉄は。平和と芸術の為ならば」
 その為だというのだった。
「その為ならばです」
「ですが殿下」
「わかっています」
 またビスマルクに対して返す。
「それは。ですが」
「わかっておられてもですね」
「私はワーグナーを、芸術を愛します」
 これが太子だった。やはりそうだった。
「それを見て生きていきたいです」
「この世にありながらですか」
「この世には美しいものばかりではない」
 これも言うのだった。
「それもわかっていますが」
「それでもですね」
「間違っているでしょうか」
 ビスマルクに対して問う。
「戦いが必要とわかっていながらそれを避けたいと思いそしてこの世にいながらこの世にないものを見て愛そうとする私は。間違っているでしょうか」
「お答えして宜しいですね」
「是非」
 またビスマルクに対して述べる。
「御願いします」
「間違っています」 
 ビスマルクもそれは否定しなかった。
「何よりも。貴方は王となられる方なのですから」
「この世にあるものを見ずしてですね」
「左様です。私はそうした人を何よりも軽蔑します」
 誰に対するよりも辛辣な評価だった。しかしであった。
「ですが」
「ですが?」
「私は確信します。貴方はその御考えにより誰からも愛されるでしょう」
「誰からもですか」
「今生きている者だけでなくこれからこの世に生きる者達にもです」
 現在だけでなくだ。未来でもだというのだ。
「そして私もです」
「貴方もですか」
「はい、軽蔑することはありません」
 そうだというのである。
「むしろ。貴方の様な方がこの世にいることを喜ばしいと思います」
「そう言って頂けるのですね」
「意外に思われますか」
 こんなことも言ってきたビスマルクだった。
 

 

27部分:第二話 貴き殿堂よその五


第二話 貴き殿堂よその五

「現実主義である私がこう言うのが」
「それは」
「素直に申し上げて頂いて結構です」
 遠慮は不要というのであった。
「それにつきましては」6
「そうですね。この場合の遠慮は失礼になります」
 太子も察した。それがわからない彼ではなかった。
 それでだ。思い直してこう言うのであった。
「実はそう思っています」
「そうですか。やはり」
「ですが」
「ですが?」
「それでもほっとしています」
 そうだというのであった。それが太子の言葉だった。
「まことに」
「私が殿下に対してこう思われていることがですね」
「その通りです。私はよく誤解される人間ですので」
「殿下、それについてもです」
 ビスマスクは太子に顔をやって話してきた。ここでもだった。
「その人を理解できるのはです」
「理解できるのは」
「その人と同じかそれ以上の器を持つ者だけです」
「それだけですか」
「そして」
 ビスマルクの言葉は続く。
「同じ時代にいてはかえってわからないこともあります」
「同じ時代ではですか」
「そうです。同じ時代にいれば。かえってわからないものです」
「それは何故でしょうか」
「人間は相手の顔は一面からしか見えません」
 こんなことも言うビスマルクだった。
「もう一面は。方向を変えれば見えますが」
「それには気付かない」
「そうです。そしてその目で見ているからそれをどうしても信じてしまいます」
「しかし違う時代ならば」
「それが変わります」
 こう太子に話していく。その言葉は切実なものだった。
 バイエルンの太子が相手である。しかしプロイセンの宰相である彼はそれでもなのだ。その太子に対して親身に話をするのだった。
「様々な書を読み話を聞くことによってです」
「成程、それでなのですか」
「この時代で理解されなくても」
「されなくても」
「後の時代では違うこともあります。特に殿下は」
 彼はというと。
「今よりむしろ後の世になってです」
「理解してもらえますか」
「はい、私はそう思います」
「そうであればいいのですが」
「少なくとも今の時代でも」
 ビスマルクは太子をさらに見た。言葉はより親身なものになっている。
「殿下を理解する者はいますので」
「貴方もですね」
「そうでありたいと思っています」
 珍しいことにだ。ビスマルクが謙遜を見せた。これはプロイセンの者達も見たことのないものだった。非常に珍しいものであるのだ。
 だが彼は確かにそれを見せてだ。言うのであった。
「是非共」
「私を理解してくれますか」
「そうした者はそれなりにいる筈です。それはお忘れなきよう」
「そうであればいいのですが」
「そして。また述べさせてもらいますが」
 前置きしてからの言葉だった。
「殿下を嫌う者はおりませぬ。そうなるにはです」
「私に何かがあるのですか」
「あまりにも魅力的なのです。この世にあるのが奇跡であるまでに」
「奇跡、私が」
「はい。ですから誰も為されなかったことをされるでしょう」
 彼は言った。
「後世の誰もが貴方のことを知れば深いものを感じられます」
「私を理解してくれてですか」
「そうです。それはお忘れなきよう」
「その御言葉有り難く思います」
 太子はビスマルクの言葉をここまえ聞いて静かに述べた。
「是非共」
「はい、それではです」
「音楽の後は何にされますか」
「そうですね。食事を」
 それをだとだ。太子に答えたのだった。
 

 

28部分:第二話 貴き殿堂よその六


第二話 貴き殿堂よその六

「それを御願いします」
「食事ですか」
「出来ればハンバーグを」
 ビスマルクは微笑んでそれを願ってきた。
「それも上に」
「目玉焼きを乗せてですね」
「御存知でしたか」
「それがお好きと聞きましたので」
 それでだというのだった。
「ではそれをですね」
「有り難うございます。それでは」
「私も最近食に目覚めまして」
「おお、それは何よりです」
「食は人の心を和ませ楽しませます」
 これはその通りだった。食というものは極論すれば人の全てである。だからこそ太子もまたこう話すのであった。
 そうしてだ。彼等はその食を楽しむのだった。その後でだ。
 ビスマルクは用意された部屋に入った。豪奢なホテルの一室にだ。そこに入るとすぐにだ。姿勢のいい執事が彼のところに来た。
 そうして上着を脱がせる。そのうえで主に問うた。
「御主人様、御機嫌ですね」
「わかるか」
「はい、お顔に出ています」
 そうだというのだった。見れば実際に彼の顔は少し綻んでいた。
「バイエルンの太子殿下はいい方ですか」86
「素晴しい方だ」
「そう仰いますか」
「おかしいか」
「いえ、珍しいと思いまして」
 こう答える執事だった。そのホテルの部屋は金色と青で彩られている。豪奢でありながら何処か落ち着いている。そうした部屋であった。
「御主人様がそう仰るとは」
「確かにな」
 ビスマルク自身もそれを認めた。上着を脱がされた彼はソファーに座った。その前に使用人がコーヒーを出してきた。それを飲みながら話すのだった。
「私は人に対して辛辣だからな」
「あの殿下はそこまでの方ですか」
「決して卑しい方ではない」
 まずはその品性から話すのだった。
「むしろ非常に高貴な方だ」
「バイエルンの次の王に相応しく」
「それ以上だな。あの方は」
「王以上の気品の持ち主ですか」
「この世のな」
 こう言ったビスマルクだった。
「どの王よりも素晴しい気品を持たれている」
「そこまでなのですか」
「まるで。聖杯の城の王の様だ」
「といいますと」
 執事はそれを聞いてだった。この名前を出した。
「パルジファルですか」
「そうだ、あのな」
「聖杯を見つけ出したあの騎士」
「そしてその城の王となる者だ」
 まさにそれだというのだ。太子は。
「そうした方だ」
「まことに素晴しい方なのですね」
 執事は主の言葉を己の中で反芻しながら述べた。主が人に対してそうしたことを言うことは滅多にないことだからということもある。
「バイエルンの太子は」
「資質も。既に出されているものも」
 ビスマルクはさらに話していく。コーヒーを飲みながら。
「素晴しい。ドイツは素晴しい君主を手に入れることになる」
「我等のドイツが」
「ドイツはただ国力だけで成り立つものではないのだ」
 彼の言うドイツはプロイセンを中心としたドイツである。それは今から生まれようとしていた。だがそれは国力だけで成り立つものではないというのだ。
 では何によって成り立つものなのか。彼はそれについても話した。
「芸術によってもだ」
「それによってもですね」
「成り立つものなのだ」
「音楽もまた、ですか」
「そうだ」
 執事の言葉にその通りだと頷いてもみせる。
「それがわかるな」
「はい、僅かですが」
 彼も伊達にビスマルクに仕えているわけではない。それでわからなければ長きに渡って彼の傍にいることなぞできはしないのだ。 
 それでだ。彼は答えることができたのである。
「ベートーベンやシューベルト」
「ウェーバーもだ」
「あの音楽家が夭折したのは惜しいですね」
「そうだな。しかしだ」
「もう一人の音楽家がいますが」
「ワーグナー」
 ビスマルクもまた彼を知っていた。
 

 

29部分:第二話 貴き殿堂よその七


第二話 貴き殿堂よその七

「その音楽はフランスのそれを超える」
「フランスを」
「オーストリアもだ」
 目下の最大の敵であった。大ドイツ主義を掲げるその国こそが小ドイツ主義、即ちオーストリアを排したドイツを掲げるプロイセンの敵なのだ。
 それでだ。彼はここでオーストリアの名前を出したのだ。
「あの国の音楽もだ」
「ワーグナーはそれだけのものがある」
「その通りだ。確かにあの男は危険な思想の持ち主だ」
 その急進的な思想はビスマルクから見てもそうだった。
「だが。その音楽はだ」
「ドイツの象徴となる」
「あの方はそれがわかっておられる」
 またバイエルンの太子の話になった。
「それだけの方だ」
「左様ですか」
「そうだ。あの方は様々な素晴しいものを持っておられる」
「資質も。既に出されているものも」
「そうだ。そして」
「そして?」
「魅力的な方だ」
 このことも話すのだった。魅力のこともだ。
「類稀なる魅力の持ち主であられる」
「カリスマですか」
「そうだ。そのカリスマもまた素晴しい方だ」
 こう話していく。
「非常にな」
「ではその方は」
「必ず素晴しいことを残される」
 また太子を高く評価するのだった。
「後世に残るまでな」
「では御主人様は太子を」
「好きになった」
 素直な、だ。感情だった。
「これからも会えるかどうかはわからないがだ」
「それでもですね」
「見守りたい。そして私のできることをさせてもらいたい」
「ドイツの為に」
「あの方の為にもな」
「バイエルンの太子の為に」
「プロイセンにいようともだ」
 それでもだというのである。
「私はあの方をだ」
「見守り、そしてお力を」
「そうしたい。ただ」
「ただ?」
「気の毒な方でもあられる」
 ビスマルクはここで顔を曇らせた。そうしてこんなことも言ったのである。
「非常にな」
「それは何故ですか?」
「孤独な方だ」
 太子をしてだ。こう言うのであった。
「非常にな」
「孤独な、ですか」
「君主は本質的に孤独なものだ」
 それは至高の座にあるからだ。至高の座に座る者は一人しかいない。太陽が一つしかないのと同じである。これは言うまでもなかった。
 しかしだった。ビスマルクの今の言葉は君主だからこそ孤独であるという他にもだった。こうした意味もその中にあったのである。
「あの方をわかることができる者は少ない」
「少ないですか」
「今の世には非常に少ない」
「今は」
「あの方は後世になってからわかる方だ」
「歴史ですか」
「賢者は歴史に学ぶ」
 彼のだ。座右の銘であった。
「愚者は経験に学ぶ」
「では太子は」
「歴史において理解される方だ」
「今ではなくですか」
「同じ時代に生きていてもわからないことがある」
 わかる場合もあるがそうでない場合もある。太子はわからない場合であるというのだ。
「些細なことが問題とされることがあるからだ」
「些細ですか」
「あの方は。些細なことが多過ぎる」
 太子のことであった。
 

 

30部分:第二話 貴き殿堂よその八


第二話 貴き殿堂よその八

「実にな」
「そしてそれによってですか」
「誤解され、そしてそのことによってだ」
「そのことによって」
「傷つかれるだろう。それはあの方をさらに孤独にしてしまう」
「さらなる孤独に」
「繊細な方だ」
 太子のことも見抜いていた。ビスマルクの目は確かなものであった。
「非常にだ」
「それがあの方の問題だと」
「そうなってしまう。それが心配だ」
「心配だと仰いましたが」
「そうだ、心配だ」
 また言うビスマルクだった。
「実にな」
「バイエルンの方であっても」
「確かにだ」
 ビスマルクは一言置いてだった。さらに話す。
「私はプロイセンの者だ」
「はい」
 執事は主のその言葉に頷く。
「それは確かに」
「否定することはできない」
 決してだというのである。
「それにだ。私はプロテスタントだ」
「それに対してあの方は」
「カトリックだ」
 この対立はルターの時代から変わらない。三十年戦争の時の様に戦争にはなりはしない。しかしそれでも対立は続いているのである。
「本質的に対立してしまうことになる」
「それでもですか」
「そうだ、プロイセンによるドイツ統一への障害は」
 そのことは常に念頭に置いている。ビスマルクの国家戦略に置いて対立と戦争は常にあるものだ。それを乗り越えてこそなのである。
「オーストリア、そして」
「フランスですね」
「どちらも必ず倒す」
 これを言うのだった。
「しかし私の好きな酒は」
「シャンパンです」
「フランスのものだな」
「はい、その通りです」
「しかしそれでもだ」
「シャンパンを愛されますか」
「私はそこまで偏狭ではないつもりだ。よいものはよいのだ」
 そしてだ。こうも話すビスマルクだった。
「例え敵のものであろうともな」
「そして対立されている方でもですか」
「あの方はドイツに入られるべき方だ」
 これも話す。
「必ずだ」
「閣下の目指されるドイツの中に」
「対立していようがそれでもだ」
「ドイツの中に」
「そうだ、入るべき方だ」
 そうだというのである。そしてであった。
 ビスマルクは太子を思い出していた。その際立った美貌と気品をだ。すると自然に残念に思って言うのだった。まさに自然とだった
「私はできるだけ」
「あの方をですか」
「力になりたい。ドイツにとってかけがえのない方になられる」 
 こう話してだった。
「これからのドイツにもな」
「そうなられますか」
「そうだ、なられる」
 まt言うのだった。
「だが今はだ」
「わかる者は少ない」
「わかる者で助けていくしかない」
 ビスマルクの誓いだった。彼は決意したのだった。
 これが太子とビスマルクの出会いであった。彼等の出会いはこれが最初であり最後であった。だがその出会いは彼等にとって運命のものだった。
 

 

31部分:第二話 貴き殿堂よその九


第二話 貴き殿堂よその九

 ビスマルクとの出会いの後で太子はだ。周囲にこう問われていた。
「それで殿下」
「そろそろですが」
「お相手を」
「お后様はどうされますか」
「それか」
 そう言われるとだった。太子の顔が曇った。
 そしてそのうえでだ。こう言うのであった。
「后。私の生涯の伴侶だが」
「はい、どういった方が宜しいですか」
「それで」
「どういった方が」
「殿下のお好きな女性はどういった方ですか」
「一体」
「そうだな」 
 周りの言葉を聞いたうえで話した。その女性とは。
「彫像だ」
「彫像?」
「彫像といいますと」
「それは一体」
「どういう意味でしょうか」
「何も言わずそこにいるだけでいいのだ」
 これが太子の好きな女性だというのである。
「それだけでだ」
「いえ、それではどうにもです」
「お言葉ですが私にはわかりません」
「私もです」
「どうしても」
 皆太子のその言葉に首を傾げさせる。そうしてまた言うのだった。
「ですからそれはです」
「どういった意味ですか」
「一体」
「何がどういうことか」
「美しい」
 太子は呟くようにして話した。
「そうだな。エリザベートやエルザの如くに」
「エリザベート?エルザ?」
 一人がその言葉に首を捻った。
「それはどういった方ですか」
「あっ、それは」
 同僚が彼に話してきた。すぐにだ。
「ワーグナーのオペラに出て来る女性だ」
「その女性なのか」
「そうだ、オペラのだ」
 それだというのである。
「それだ」
「さて」
 そう言われてだ。何人かが首を捻ってしまった。
「オペラの女性と言われましても」
「それがどういった方なのか」
「清らかな方でしょうか」
 また一人が言った。
「私もワーグナーは知っていますが」
「知っているのだな」
「はい、そのどちらも清らかな姫でございますな」
 それはわかるというのである。
「確かに」
「そうだ、何処までも清らかだ」
「しかしそれでもです」
「どちらも現実にはいません」
「そうですが」 
 ここでだった。彼等はこう太子に話した。
「それでもなのですか」
「理想の女性と言われますか」
「現実か」
 太子は現実という言葉に反応を見せた。その反応は面白くなさそうだった。そしてそのうえでこんなことも言う彼であった。
「現実が何だというのだ」
「何かと言われましても」
「我々は現実にいます」
「この世にです」
「それでこんなことを仰るのは」
「どうなのでしょうか」
「醜いものだ」
 これが彼の今の言葉だった。その現実についてのことだった。
 

 

32部分:第二話 貴き殿堂よその十


第二話 貴き殿堂よその十

「そこにいる女性もまた、だ」
「いえ、しかしです」
「そうです。現実にいるからこそ愛せるのではないですか?」
「子供をもうけることも」
「子供を作ることだけが目的なのか」
 今度はこのことを問うのだった。それについてもなのだった。
「それがか。問題なのか」
「いえ、王になられる方がです」
「そんなことを仰ってはです」
「どうかと思いますが」
 周りの者達は太子の言葉にいささか驚いた。何故なら王の務めとして子をもうけることこそが最も重要なものだからだ。これは言うまでもない。
 しかし太子はそれを否定するようなことを言った。そしてだった。
 彼はさらに言うのであった。
「愛とは純粋なものではないのか」
「しかし。王であればです」
「愛よりもまずは国です」
「このバイエルンの為にです」
「結婚をされてです」
「愛があればこそだ」
 太子はあくまでそれを話す。その現実を見てそれで否定しようとする。そうしてそのうえでさらに話をしていくのであった。
 その中でだ。彼はこうも話した。
「女性だけを愛さなければならないのか」
「いえ、それはです」
「人として当然です」
「違いますか」
 この言葉にだ。周りの者達はさらにいぶかしむものを感じざるを得なかった。
 そしてだ。彼等は怪訝な顔でさらに話した。
「とにかくです。まずはです」
「結婚をされることです」
「相応しいお相手とです」
「どうしてもか」
 太子の顔が暗いものになっていく。それは止まることがなかった。
 彼はその中でだ。またこのことを口にした。
「彫刻の如き相手であればいいのだがな」
「殿下は何を考えておられるのだ」
「わかるか?」
「いや、わからない」
「どうしても」
 そして誰もが不安なものを感じていた。だが太子はあくまで女性を近付けようとしない。しかし時は少しずつだが確かに進んでいた。
 王は次第にその体調を崩していた。それを見てだった。国中でまず王を気遣う言葉や行動が少しずつ見られるようになっていた。
 そしてだった。同時に太子も見た。彼に対してはだ。
「あの方ならな」
「ああ、問題はないな」
「あの方なら」
「まず顔がいいしな」
 最初にその整った顔立ちが認められるのだった。
「背も高いしすらりとしているぞ」
「あれだけ奇麗な君主はそうはおられないぞ」
「釣り合うのはあれだな。あの方だな」
「エリザベート様しかおられないな」
「あの方だな」
 こう話すのだった。
「あの方しかおられない」
「同じヴィテルスバッハ家だしな」
「ああ、あの方しかおられない」
「それだけの方だ」
「そしてだ」
 さらに話すのであった。そしてなのだった。
 次にだ。こんなことも話された。
「容姿はいいが他はどうだろうな」
「芸術に関する造詣は深いようだがな」
「肝心なのは政治だが」
「それはどうなのだろうな」
「まずプロイセンがいる」
 その国だった。今ドイツの中心になろうとしているその国だった。
「それにエリザベート様のおられるオーストリア」
「その二つの国にフランスもいるしな」
「太子はフランスがお好きなようだが」
「どうだろうな」
「この三国の間でどうやって生きていくかだが」
「このバイエルンがな」
 今のバイエルンの周りの状況は複雑だった。それは誰もがわかっていた。
 そしてだ。バイエルンの者達はその中で太子を見てだ。考えるのだった。
「あの方はどうされるか」
「プロイセンかオーストリアか」
「どちらを選ばれる」
「一体どちらを」
「まだ何もわからないな」
 未知数だというのだった。太子の政治力はだ。
 

 

33部分:第二話 貴き殿堂よその十一


第二話 貴き殿堂よその十一

「頭はいい方らしいがな」
「それでもどうかだな」
「政治にどう活かせられるか」
「それだな」
「そうだな。どうされるかだな、このバイエルンを」
 誰もが太子を期待と不安が入り混じった目で見ていた。彼が王になればどうなるのか、そしてバイエルンがどうなるのかをだ。
 それは誰にもわからない。だが、なのだった。
 王の体調はさらに崩れてだ。いよいよその時が迫ってきていた。
 それでだ。重臣達が太子のところに来て言うようになってきていた。
「王に何かあればその時はです」
「どうか宜しく御願いします」
「是非」
「王か」
 その言葉を聞いてだ。王は考える顔になった。ここでもだった。
 そしてだ。今言う言葉は。
「私が王になるのだな」
「はい、左様です」
「若しもの時はです」
「殿下が」
「そうだな」
 太子もだった。彼等のその言葉に頷くのだった。
「私がまず、だな」
「そうです。そしてその時はです」
「王として。おわかりですね」
「わかっている」
 即答した。それは生まれた頃から教え込まれていたことなのですぐに答えることができた。
 そしてだ。彼はこうも言うのであった。
「王になると共にこの家の」
「はい、ヴィッテスルスバッハ家のです」
「主にもなられます」
「この古い家の」
 ホーエンツォレルン家はおろかハプスブルク家よりも古くかつては神聖ローマ皇帝を出しハプスブルク家とも競り合ってきた家だ。その誇りを感じずにはいられなかった。
 だが、だった。その誇りの中でだ。太子はこうも思ったのだった。
「しかしだ」
「しかし?」
「しかしと仰いますと」
「何かおありですか」
「人は言うだろう」
 何か遠いものを見る目でだ。太子は語るのだった。その青い目はこの世を見ているものではなかった。何か別のものをだった。
 それを見ながらだ。太子は語るのだった。
「祖父殿のようになるのではと」
「先王ですか」
「あの方と」
「そうだ。私をこう言う者がいるな」
 今度は彼等に顔を向けた。そのうえでの言葉であった。
「祖父王と。私は似ていると」
「それは確かですが」
「ですが先王はです」
「素晴しい方だ。しかしだ」
 だが、なのだった。女優ローラ=モンテスに溺れ退位せざるを得なくなったのだ。その先王と彼を重ねる者がいるのである。
「女性か」
「はい、ですからそれにさえ気をつけられれば」
「問題はありません」
「ましてや殿下はです」
 彼が近頃言われている最も憂慮すべきこともここで語られた。
「今のところ女性が傍にいません」
「それがかえって心配な程です」
「女優はお好きですか?」
「いや」
 その質問にはすぐに否定で返した。
「好きではない」
「そうですね。むしろ少し興味を持たれた方がいいです」
「少しだけでもです」
「むしろそこまで思います」
 そうだと話してなのだった。
 そしてそのうえでだ。彼等は太子に対してさらに話していくのだった。
「ですから先王の様にはなられません」
「むしろ先王の素晴しいものをそのまま引き継いでおられます」
「それでどうして憂慮されることがありますか」
「ないのではないでしょうか」
「そうであればいいのだがな」
 そう言われてもだった。彼の憂慮は消えない。
 

 

34部分:第二話 貴き殿堂よその十二


第二話 貴き殿堂よその十二

 そしてだ。こんなことも言うのであった。
「オットーも」
「弟君が?」
「どうされましたか」
「あれもヴィッテルスバッハの血を引いている」
 誰もが知っている、このことをあえて話すのだった。
「そのせいか。近頃」
「それはですが」
「その」
「あの方は」
 ここでだった。周りの者も口ごもってしまうのだった。話してはいけないことを話すかの様にだ。そうなってしまっていたのである。
「少し戸惑っておられるだけです」
「じきによくなられます」
「ですから殿下は御気になさらずに」
「憂慮されることはありません」
「長く存在しているとそこに澱みができるものだ」
 言われてもであった。その憂慮は消えなかった。
 太子は今度は上を少し見上げてだ。それで語るのだった。
「我がヴィッテルスバッハもそうなっているのだろうか。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「私も。その中にいるのか」
 こう言うのであった。彼は王位が近付くその中でその身を憂いに浸らせていた。そして時間があればだ。あの音楽を聴くのであった。
 この日はオーケストラだった。室内管弦楽団の演奏を聴いていた。聴くのはやはりあの作曲家のものだった。豪奢なロココのソファーに座りながら聴いていた。
 そしてだ。傍に控える従者に対して言うのであった。
「この曲だが」
「ローエングリンですね」
「そうだ、第二幕のだ」
 その曲を聴いてだった。
「聖堂への行進曲だ」
「それなのですか」
「エルザ」
 この名前を出すのだった。
「エルザ=フォン=ブラバントを祝福する曲だ」
「これがですか」
「これがその曲ですか」
「そうだ、聖堂に向かう曲だ。婚礼の前にな」
 それだというのである。
「それなのだ」
「確か結婚といえば」
「このオペラでは第三幕に行われる」
 それは知っていた。だが第二幕にもだ。聖堂に向かいそこで周囲が祝福の合唱を贈る。そうした場面の曲なのである。
「だが第二幕でもだ」
「そうでしたね。それは」
「婚礼だが、だ」
 そしてだった。太子はここでこう言うのだった。
「その他にもある」
「と、いいますと」
「神の祝福だ」
 それだというのだ。
「それは婚礼に限らない」
「そうなのですか」
「それが私にも間も無く及ぶのだな」
 次にだ。太子はこう言ったのであった。
「この私にもな」
「はい、王となられれば」
「ローエングリン」
 今度はこの名を呟いた。
 

 

35部分:第二話 貴き殿堂よその十三


第二話 貴き殿堂よその十三

「私はそれになるのだ。騎士に」
「騎士にといいますと」
「王になったその時にはだ」
 従者に応えずにだ。さらに呟く彼だった。
「その時には」
「その時には?」
「私もそうなりたい」
「ローエングリンにでしょうか」
「あの白鳥の騎士に」
「そうだ、なりたいものだ」
 己の望みを今かたりもした。
「是非共な」
「ですがあの騎士は」
「そうです」
 周りはその言葉にいぶかしみながら告げるしかできなかった。
「現実にはいません」
「あくまで物語の中です」
「それでどうして」
「それになれますか」
「現実か」
 それについてはだった。面白くなさそうに言う彼だった。
「この世の半分はそうであってもだ」
「半分ですか」
「それだけだと」
「昼と夜。半分だな」
 今度は二つの世界についてだった。これは太子にとっては実に意味のあるものであった。言葉の調子から誰もが感じられることだった。
「昼が現実だとしたら」
「夜は何ですか」
「それは」
「夜は夢だ」
 それだというのであった。
「夢がこの世の半分ではないのか」
「半分ですか」
「その夜が」
「そうだというのですね」
「そうだ、私はそれを見ていたいのだ」
 太子は今は夜を見ていた。そのうえでまた回りに話すのだった。
「昼よりも夜だ。夜を愛したい」
「夜といえば」
「そういえばローエングリンでは」
「そうだな」
 周りもここで気付いたのだった。そのオペラにおいて夜とはなのだった。
「テルラムントとオルトルートが企んでいたな」
「ワーグナーのオペラでは夜に何かが起こるな」
「確かに」
「夜だ」
 またそれだと話すのだった。
「夜、それに森。最後に」
「最後に」
「最後は一体」
「城だ」
 この三つを話すのだった。
「その三つを見たいのだ、私は」
「森と城も」
「それも確かワーグナーに」
「よくありますが」
「その全てをもたらしてくれたワーグナー」
 まさに全てを話す口ぶりだった。
「彼を救わなければ」
「王になられればすぐになのですか」
「そうされるおつもりですか」
「殿下は」
「そうしたい。いいか」
 彼等に顔を向けて問うた。
「私がそうして」
「それ位はいいと思います」
「あの革命騒ぎから割かし時間が経ってますし」
「それなら」
 彼等は特に深く考えずにだ。太子に対して答えたのだった。
「構わないかと」
「殿下の思われるままに」
「わかった。それではだ」
 周りの言葉を受けてだった。太子は決めた。
 その時は来ようとしていた。太子の運命の時が。王になりワーグナーと。その時が来ようとしていたのだ。


第二話   完


                 2010・11・19
 

 

36部分:第三話 甘美な奇蹟その一


第三話 甘美な奇蹟その一

                 第三話  甘美な奇蹟
 父王の容態がだ。いよいよ危うくなっていた。
 太子はその時馬に乗っていた。森の中を進みそして帰るとだった。
 母にだ。こう言われたのだった。
「お気持ちはもう確かですか」
「母上、まさか」
「はい、その時が来ようとしています」
 真剣な顔で息子に告げるのだった。
「わかりましたね」
「父上が」
 彼はまずそのことを考えた。己のことより父のことをだった。
「それではですね」
「何時何があってもいいように」
 母は我が子にこうも話す。
「これからは常に王宮にいるのです」
「森や山から離れ」
「そうです。いいですね」
「わかりました。これからは城の中にいます」
 ここでは素直にだった。母の言葉に頷くのだった。
「ではまずは」
「まずは?」
「音楽を聴きたいのですが」 
 こう母に対して述べた。
「宜しいでしょうか」
「それはいいですが」
「何かありますか」
「いえ、どの曲にするのですか」
 背の高い我が子を見上げその青い目を見詰めての言葉だった。
「一体どの曲に」
「モーツァルトを」
「ワーグナーではなくですか」
「はい、モーツァルトです」
 それだというのだった。
「それを聴きたいのですが」
「ワーグナーではないのですね」
「ロココを感じたいのです」
 だからだというのであった。
「ですから」
「またフランスなのですね」
「はい、あの部屋で聴きたいです」
 そのフランスの装飾品によって飾られた部屋でだというのだ。彼はいつもその部屋で音楽を聴いているのだ。だからだった。
「ですから」
「はい。ただ」
「ただ?」
「今はあの時とは違います」
「ロココのあの頃とはですね」
「それはわかっていますね」
 我が子を見上げたままの言葉だった。
「そのことは」
「どうでしょうか」
「わかっています」
 太子の返事は聡明なものだった。
「今は十九世紀です。革命を二度も経た」
「しかもそのロココもです」
「終わっています」
 また答える太子だった。
「無論それは私とてです」
「わかっているというのですね」
「母上、ナポレオンを知らない者はいません」
 フランス革命のことだ。それを象徴する人間として出したのだ。
 そしてだ。それだけではなかった。ナポレオンは。
「あの、この国を王にした英雄を」
「そうですね。ヴィッテルスバッハ家を王にしたあの英雄を知らない筈がありませんね」
「そういうことです。ですから私とてです」
 また言う太子だった。
「わかっています」
「それならいいのですが」
「そしてです」
「そして?」
「そのうえで愛しているのです」
 これが太子の母への言葉だった。
「ロココを。それは私にとって憧れなのです」
「憧れであればいいのですが」
「憧れであればとは」
「既になくなったものは夢でしかありません」
 母后が言うのはこのことだった。
 

 

37部分:第三話 甘美な奇蹟その二


第三話 甘美な奇蹟その二

「そう、夢です」
「夢ですか」
「現実にはないもの。それをこの世に現そうとするとです」
「そこに何かがありますか」
「どうなるかはわかりません。ただ」
「ただ?」
「それが貴方の運命を歪にするものの一つにならなければいいのですが」
 我が子の顔を見てだった。その絵画の如く整った顔をだ。
「貴方は只でさえ夢を追い求める方ですから」
「夢を」
「そう、夢をです」
 そうだというのであった。
「神話に憧れ、ワーグナーに憧れ」
「ワーグナーは私にとっては」
「そうですね。全てになろうとしていますね」
「母上も聴かれましたね」
 母后に問うた。ワーグナーのことを。
「あれは。一度聴けばです」
「ワーグナーは確かに素晴しいです」
 母后もそのことは認めた。
「その音楽は斬新であります。ただ」
「ただ?」
「あれは麻薬です」
「麻薬ですか」
「そう、麻薬です」
 まさにそれだというのだ。ワーグナーは。
「心の奥に染み入りそして捉えてしまう」
「それこそがワーグナーの魅力です」
「ですがそれが問題なのです」
「問題だと」
「そうです。特に貴方はそうなっています」
 我が子のあまりものワーグナーへの耽溺が気になっていたのだ。彼は常にワーグナーの音楽を聴きその書を読んでいる。そしてなのだった。
 さらにだった。近頃の彼は。
「あの服は何ですか」
「あの服とは」
「白銀の服です。他に緑の服も持っていますね」
「ローエングリンとタンホイザーですか」
「貴方は。何になるつもりですか」
「騎士に」
 母后にはっきりと答えたのだった。
「それに」
「騎士団に入ったからですか」
「そうですが」
「そのことはいいのです」
 またこう話すのだった。それはいいとだ。
「ですが。貴方は度が過ぎます。服まで仕立てるとは」
「遊びですが」
「そうは見えません」
「全てになっていると」
「王になれば」
 この言葉は最早予言ですらなくなっていた。確かになっている未来だった。母后は我が子にその未来をも語ったのであった。
「貴方は今度は何になるつもりですか」
「それは」
「ハインリヒ王ですか」
 ローエングリンに出るドイツ王だ。王となる我が子とその王がどうしても心の中で重ね合わさってだ。こう言わざるを得なかったのだ。
「今度はそれになられますか」
「王は王です」
 これは言うのだった。
「ですが」
「ですが?」
「私はやはり。あの騎士にこそ」
「ローエングリンにこそ」
「憧れます。どうしても」
 そうだというのだった。
「それはいけませんか」
「度が過ぎなければ。それが貴方の心を閉ざさなければ」
「閉ざすと。ワーグナーが私の心を」
「そうなってしまうような気がします。だからこそ気をつけて欲しいのです」
「心配性ですね。母上」
 母のその気遣う言葉を聞いていてだ。苦笑いになってしまって言うのだった。
「私はそこまでは」
「なければいいのですが」
「私は王になります」
 その確かな未来は自分でもわかっていた。そして言うのであった。
 

 

38部分:第三話 甘美な奇蹟その三


第三話 甘美な奇蹟その三

「そしてその務めも」
「果たしますね」
「それは約束します」
「では王として」
「はい」
「その責務と誇りを忘れないことです」
 このことをだ。我が子に強く告げた。
「そしてこの世を見ることです」
「この世を」
「貴方にはそれは辛いですか」
「私は。この世にあるあらゆるものが見えるようです」
 ふとだ。太子のその目に悲しいものが宿った。その青い目にだ。
「人の心が」
「心が」
「渦巻くものが見える時があるのです」
 そうだというのだった。
「どす黒く。そして不気味なそれが」
「人には誰にもあるものですが」
「それはわかっていますが」
「ならば受け入れることです」
 母は我が子にまた言った。
「それもまた」
「受け入れよというのですか」
「王ならば清らかなものだけを見る訳にはいきません」
「醜いものもまた」
「はい、見なければなりません」
 そうだというのであった。
「そして」
「そしてですか」
「王としての務めを果たすのです」
 これが我が子への言葉だった。
「宜しいですね」
「清らかであってならないとでもですか」
「それでもです」
 また我が子に告げた。
「よいですね」
「私にそれができるでしょうか」
 母の今の言葉にはだ。戸惑いを感じるしかなかった。戸惑いというよりはそれは受け入れ難かった。その彼を見てであった。
 母后はだ。今度はこのことを告げたのだった。
「若し貴方が王にならなければ」
「その時は」
「わかりますね。オットーが王となります」
 彼の弟である。たった一人の弟だ。だが彼が問題なのだった。
「あの子は。どうやら」
「今日はどうなのでしょうか」
「落ち着いています」
「そうですか」
「しかし。それでもです」
「王になるには」
「無理です」
 母后は首を横に振った。そのうえでの言葉だった。
「何があろうとも」
「ではやはり私が」
「その通りです。貴方しかいないのです」
 その太子がだというのである。
「ですから。わかりますね」
「わかりました。それではやはり」
「貴方がバイエルンの王となるのです」
 絶対の言葉だった。我が子に対してのだ。
「そしてその務めをです」
「果たします。それでは」
「王としてバイエルンを支えるのです」
「はい」
 母后の言葉に頷く。彼もそれしかないとわかっていた。選択肢はなかった。
 その彼にだ。遂にその知らせが届いた。
 馬に乗っていた。白馬である。青い上着に白いズボンといういでたちで馬に乗っていた彼が降りるとだ。そこに従者達が来て告げたのだった。
「殿下、悲しいお知らせです」
「陛下が」
「そうか」
 太子は彼等の言葉を聞いてすぐにわかった。
「父上が」
「はい、そうです」
「今しがた知らせが届きました」
「ではだ。すぐにだな」
「はい、すぐにです」
「宮殿の中に向かって下さい」
「そしてすぐに」
 すぐにというのであった。
 

 

39部分:第三話 甘美な奇蹟その四


第三話 甘美な奇蹟その四

「準備をはじめて下さい」
「王になられるその準備を」
「わかっている。ではな」
 こうしてだった。彼は王になる用意に入った。その夜だった。
 彼は自分の部屋にいた。絹のカーテンに豪奢な天幕のベッド、それといい装飾の椅子に見事な絵画で飾られたその部屋の中でワインを楽しんでいた。
 しかし彼は一人ではない。他にもいた。
 しかも何人もだ。誰もが若く美しい男達だ。太子は彼等に声をかけた。
「間も無くだ」
「殿下が王になられますね」
「遂にですね」
「このバイエルンの王に」
「そうだ、王になる」
 その通りだとだ。太子も述べた。彼は今ソファーに座っている。そして男達は彼の周りにはべっている。まるでハーレムの様に。
「だが。母上に言われた」
「お后様から何と」
「何と言われたのでしょうか」
「私達のことでしょうか」
「それはない」
 彼等のことではないというのだった。
「しかしだ」
「しかしですか」
「では一体何でしょうか」
「何を言われたのでしょうか」
「王としての務めについてだ」
 このことを話すのだった。ありのままに。
「言われた。美しいものだけでなくだ」
「それだけでなくですか」
「他のこともまた」
「言われたのですね」
「そうだ。そしてだ」
 そしてなのだった。
「醜いものまで見るようにだ」
「醜いものまでなのですか」
「それもまた」
「見られよと」
「そうしなければならないのだろうか」
 顔を見上げてさせてだ。太子は言った。目には暗がりと天井しか見えない。しかし彼は今は別のものを見ているのであった。
 それを見ながらだ。彼は語った。
「王は。そうしなければ」
「やはりそうかと」
「それはです」
「王ですから」
 男達も母后の言葉に賛同してそれぞれ言うのだった。
「仕方ありません」
「それは」
「そうなのか」
 それを聞いてもだった。太子の返答はいささか虚ろなものだった。
 そしてその虚ろな声でだ。彼はまた話すのだった。
「王ならば」
「はい、王ならばです」
「それ義務です」
「国の主なのですから」
「このバイエルンの」
 太子もわかっていた。だからこそ呟いたのだった。
「この国の」
「そう思いますが」
「どうなのでしょうか」
「わかっている」
 こう答えはした。
「それはだ。しかし」
「しかしですか」
「それでもなのですね」
「私には望みがある」
 太子の言葉には願いがあった。明らかにだ。
「それを成し遂げたいのだが」
「王になられればですか」
「その時にこそ」
「そうだ、王になればすぐにだ」
 何をするかだ。彼は自ら語った。
「ワーグナーをだ」
「リヒャルト=ワーグナーですか」
「あの音楽家をですね」
「やはり。彼を」
「救わなければならない」
 願いであったがだ。それは彼の中では義務にさえなっていた。
 

 

40部分:第三話 甘美な奇蹟その五


第三話 甘美な奇蹟その五

 そしてだった。彼はさらに話すのだった。
「必ずだ」
「殿下、ではその彼もまた」
「こうして我等の様に」
「愛されるのでしょうか」
 青年達はここでこんなことを尋ねたのだった。
「夜に共に褥で」
「これからの様にでしょうか」
「そうされるのですか」
「いや、それはしない」
 それはしないというのであった。これは断言であった。
「私は彼を敬愛している」
「敬愛ですか」
「愛情ではなくそれなのですか」
「いや、愛情もある」
 敬愛と愛情がだ。共にあるというのである。
「だが。肉体ではなく心のだ」
「その愛ですか」
「ワーグナーへの愛は」
「それだと仰るのですね」
「その通りだ。それでだ」
 さらに言うのであった。
「ワーグナーを救う。それではな」
「では殿下、それでは」
「これからは」
「この夜は。どうされますか」
「褥にだ」
 一言で述べた彼だった。
「行くぞ。いいな」
「はい、わかりました」
「それでは共に参りましょう」
「そこに」
「言われているらしいな」
 太子はワインを飲む手を止めてだ。そのうえでこう話してきたのだった。
「私が。女性を遠ざけているということを」
「御気になされることはありません」
「そのことは」
 答える彼等だった。その通りだとだ。
「世の者の言葉がくちさがないものです」
「それを一つ一つ気にしてはです」
「どうにもなりません」
「ですから」
「いや」
 しかしであった。ここで太子は言うのだった。
「私は。その声も目もだ」
「御気になられますか」
「どうしても」
「わかっているが逃れられない」
 俯いてだ。辛い顔での言葉だった。
「どうしてもだ。どうすればいいのだ」
「ですからそれは」
「下らない者の言葉や視線なぞです」
「御気にされることは」
「だといいのだが」
 どうしてもだった。その言葉は雲っていた。
 それを自分でも拭えないままだ。彼は言うのであった。
「私は。どうしてもだ」
「では我等はその殿下を御護りしましょう」
「殿下の騎士として」
「それで宜しいでしょうか」
「頼めるか」
 太子は細い声で彼等に告げた。
「では」
「はい、それでは」
「何時までも殿下を」
「そうさせて頂きます」
「それではな」
 こう話してだった。彼等は今は褥の中に入った。そしてであった。
 即位の時が来た。太子が王となる時が遂に来たのだ。
 彼はかつての乳母にだ。手紙を書いたのであった。
「私は私の全てを玉座に注ぎます」
 このことからはじまりだ。あくまで己の国民のことを思っていた。
 それは強い誓いだった。確かにだ。
 そして父であった先王の葬列を先導するバイエルンの軍服姿の王の姿を見てだ。バイエルンの国民達だけでなく彼の姿を見た他国の者達も言うのだった。
 

 

41部分:第三話 甘美な奇蹟その六


第三話 甘美な奇蹟その六

「素晴しい方だな」
「そうだな。何と美しい」
「背は高く姿勢がいい」
「すらりとしているな」
「目鼻立ちは繊細だ」
「まるで絵画だ」
「ここまで美しいとはな」
 こう言ってなのだった。彼等はその王の姿に魅了されたのだった。
 古代ギリシアの彫刻を思わせるその彼に誰もが魅了された。馬に乗る彼の姿はまさに絵画そのものだった。
 その彼が王になるとだ。すぐにある問題が語られるのであった。
「プロイセンだな」
「あの国とどう付き合うかだ」
「今まさにドイツを席巻しようとしている」
「オーストリアと戦争になるか」
「このままいけばな」
 誰もがプロイセンとオーストリアの衝突は近いと思っていた。
 フランス皇帝ナポレオン三世は言うのだった。
「間違いなく戦争になる」
 彼もまた両国の衝突を確信していた。それはどの国もだった。
「激しい戦争になる」
「ドイツの国の全てが巻き込まれる」
「当然バイエルンもだ」
「そうなるな」
「戦争は避けられるか?」
 このことも話題になるのであった。戦争は確実と思われてもそこに希望を見出そうとする者は必ずいる。そうしたことをするのもまた人なのである。
「何とかして」
「どうだろうな。難しいだろう」
「やはり一度やり合うしかないだろうな」
「どちらも引かないしな」
 そのオーストリアとプロイセンがというのであった。
「まずオーストリアは自分達も入れた大ドイツ主義だ」
「神聖ローマ帝国の再現だな」
 この言葉が出た。かつてドイツを形成していた国だ。長い間、それこそ千年に渡って続いたが内実は諸侯の力が強く三十年戦争以降は有名無実化していた国である。ナポレオンにより完全に解体された国だ。
「それはまさにな」
「そうだな。神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルク家だった」
「完全にそうなる」
「あの国の再現だ」
「それに対して」
 もう一方の話もされるのであった。
「プロイセンは小ドイツ主義だ」
「オーストリアを除外したドイツだな」
「これはかつてのドイツか?」
「神聖ローマ帝国成立前の」
 このドイツだというのであった。
「それでも南ドイツの諸侯の国家も抱き込んでいるな」
「あのバイエルンもな」
「バイエルンはどちらにしても入るな」
 そしてなのだった。バイエルンのこの事情が注視された。
「それがどうなるかだな」
「どっちになっても得をするか」
「それとも損をするか」
「バイエルンはどうなるかだな」
「この辺りの舵取りはかなり厄介だ」
 このこともまた話された。バイエルンの外交についてである。
「さて、あの若い王様はどうされるかな」
「外見だけじゃ駄目だからな」
「ああ、王としての資質はどうか」
「見物だな」
 まだ即位前だというのにこんな話が出ていた。バイエルンを取り巻く状況は決して穏やかなものではなかった。不穏なものがあった。
 それは太子も聞いていた。王になる直前でもだ。
「陛下、まずはプロイセンです」
「あの国とどうして付き合っていくかです」
「それが問題です」
 周りの者達も口々にこう彼に言うのだった。
 

 

42部分:第三話 甘美な奇蹟その七


第三話 甘美な奇蹟その七

「そしてオーストリアですが」
「あの国についてもですが」
「外交が肝心です」
「プロイセンだが」
 その彼等に対してだ。太子はその落ち着いた声で述べるのだった。
 彼の声はうわずったり興奮したりすることはない。常に王に相応しい者としてだ。穏やかさと気品を保ったまま話すのであった。
「母上がプロイセン出身だ」
「はい、その通りです」
「それは」
「そしてだ」
 太子の言葉は続く。
「オーストリアにはシシィがおられる」
「エリザベート様ですね」
「あの方が」
「まずはこの二つだ」
 縁戚から話すのだった。欧州では王家同士の縁戚が非常に多い。そして重要な意味を持っているのである。
「どちらについてもおかしくはないな」
「その通りです」
「実際にどの国もどの者もそれがわかっています」
「だからこそです」
 バイエルンの動向が注視されるのであった。そしてだ。
 バイエルンが注視される理由はそれだけではなかった。こうした理由もあるのであった。
「次にだ」
「はい」
「次には」
 皆太子のその言葉を聞くのであった。その言葉は。
「我がバイエルンはこの南ドイツの中心だな」
「南北でも東西でもですね」
「どちらに分けても我がバイエルンはそこの中心にあります」
「南、若しくは西の」
「その中心にあります」
「このドイツにある国の中で第三の勢力だ」
 太子は冷静に述べた。
「国力そのものは両国に落ちるがな」
「それでも第三だと」
「そう仰いますね」
「確かに」
「今言った通りだ」
 ここではこう返した太子だった。
「まさに我がバイエルンの動向がドイツに大きく影響する」
「ですから軽はずみには動けません」
「それは御了承下さい」
「まことに些細な間違いがです」
「バイエルンを大きく誤らせてしまう」
 太子はそこからは自分で話した。
「そうなるな」
「はい、ですから」
「殿下、ここはです」
「王となられたらすぐにです」
「どうされるかお決め下さい」
「その必要はない」
 ところがだった。太子は今の周りの言葉にはこう返したのであった。
 そしてそのうえでだ。こうも言うのであった。
「急ぐ必要はない」
「それは何故ですか」
「両国の対立は不可避だというのに」
「それでもですか」
「確かに対立は不可避だ」 
 それは太子も認めることであった。これは否定できなかった。
「だが、だ」
「だが」
「何故急がれないのですか」
「それはどうしてでしょうか」
「お聞かせ下さい、その理由を」
「そう、理由だ」
 周りの者の一人の言葉に反応を見せてだった。
「理由が必要なのだ」
「?ここでの理由とは」
「衝突する理由だ」
 それだというのであった。
 

 

43部分:第三話 甘美な奇蹟その八


第三話 甘美な奇蹟その八

「それが問題になるな」
「では今すぐではないのですね」
「両国の衝突は」
「そうだ、まだだ」
 これが太子の見解だった。彼はそう見ていたのだ。
「まだ動きはない」
「それでは今は」
「お互いに警戒し合っているところですか」
「まだ」
「そうだ、戦いはまだはじまらない」
 太子はまた己の見解を述べた。
「おそらくはだが」
「おそらくは」
「どうだというのですか、それで」
「今デンマークで騒動が起こっている」
 ドイツの北にある国だ。古い王国である。
「シュレスヴィヒ、ホルシュタインでだ。そこだな」
「あの二つで、ですか」
「そこでなのですね」
「あの場所での騒動が発端になる」
 太子はまた言った。
「そこに両国が介入する。そこから話がはじまる」
「そうなりますか」
「あそこからですか」
「そこからはじまる。だが今すぐではない」
 またこう言う太子だった。
「とりあえず今はだ」
「はい」
「我がバイエルンも備えをですね」
「戦争への備えを」
「今のうちから」
「それは別にいい」
 だが、だった。太子は戦争準備はいいとしたのだった。それは特に何でも問題にないようにだ。言ったのであった。そうだったのだ。
「我が国は特に何もせずともよい」
「いえ、それは」
「そうはいかないのでは」
「やはり」
「どうかな。だが一つ言っておく」
 ここで、だった。太子はその顔を曇らせた。そうしてそのうえでだ。こんなことも述べたのであった。
「私は戦いは好まない」
「それはなのですか」
「戦いは好まれませんか」
「それは何故ですか」
「戦いが何を生む」
 その曇った顔での言葉だった。
「戦いがだ。何を生むのだ」
「国家の発展です」
「勝利によって得たもので」
「それが得られるではありませんか」
「違いますか」
「そんなものはどうとでもなる」
 何か、他の者には見えないような目でだ。彼は語った。
「どうとでもな」
「なるとは」
「そうなのでしょうか」
「それは」
「そうだ、戦わずとも外交で得られるものだ」
 これが太子の考えだった。武よりも文を見ているのだった。
「それよりも戦いで何が失われる」
「何がですか」
「それが問題だと仰るのですね」
「殿下は」
「その通りだ。人が死に傷つく」
 そのことからだった。太子が言うのはだ。
「そして多くの美しいものが破壊されていく」
「街や田畑が」
「そういったものがですか」
「三十年戦争でドイツは荒廃したな」
 その長い戦争でだ。ドイツは多くの人命だけでなく国土を荒廃させてしまったのだ。千六百万いたといわれるドイツの人口は一千万まで減ったと言われ街も田畑も破壊された。そして多くの美しいものも失われたのだ。
 

 

44部分:第三話 甘美な奇蹟その九


第三話 甘美な奇蹟その九

 太子はこのことを知っていた。そして多くの戦いの惨禍も学んできた。そうしてそのうえでだ。彼は戦いについて語るのだった。
「ああなってしまうのだ」
「それを好まれないからこそ」
「だからですね」
「それは」
「そうだ、戦いは駄目だ」
 また言う彼だった。
「少なくとも私は好きにはなれない」
「では今は」
「何をされるというのですか」
「即位されたならば」
「既に考えている」
 太子は答えた。
「その時にだ」
「左様ですか」
「ではさしあたっては即位ですね」
「その式を」
「王となれば」
 遠くを見る目で話すのだった。
「私は彼を救えるのだから」
「救われるとは」
「一体?」
「誰をですか」
「・・・・・・・・・」
 語らない彼だった。そうしてなのだった。
 その即位の時が来た。その時はだった。
 バイエルン中が歓喜の声に包まれる。特に王都ミュンヘンはだった。
「遂にだな」
「ああ、新しい王が即位されるぞ」
「あれだけ奇麗な王を戴けるなんてな」
「我々は幸せだ」
「全くだ」
 彼等はそれぞれ言ってだった。彼の姿を見ようとしていた。
 そうして大通りに並んでだ。彼を見んとしていた。
「さあ、そしてだ」
「来られるぞ」
「新しい王が」
「ルートヴィヒ二世閣下が」
「いよいよ」
 そしてだった。彼等の王を見たのだった。濃紺の上着に白の乗馬ズボン、そして白テンのマントという姿の長身痩躯の王を見てだった。
「噂以上だな」
「ああ」
「あそこまで奇麗な人だとはな」
「信じられない」
 誰もがだった。恍惚として言うのだった。
「我々は凄い王様を戴いたみたいだな」
「ああ、外見だけでも欧州一だな」
「ハプスブルクにもホーエンツォレルンにも負けないな」
「そうだな」
「あれだけの方とはな」
「それにだ」
 ここでだ。さらに話されるのだった。
「見ろよ、あのお顔」
「奇麗だよな」
「見れば見る程」
「そうだよな」
「違うって」
 その顔の奇麗さではないというのである。確かにあまりにも、絵画と見まごうばかりの美貌を誇る顔であってもだ。それでもだというのだ。
「だから。賢明そうだな」
「ああ、そういう意味か」
「王様のお顔な」
「そうだよな、あのお顔は」
「あの目は」
 どうかというのだった。
「愚かな方じゃないぞ」
「むしろかなり聡明な方だ」
「全てを見すこし理解されてるような」
「そうしたお顔だな」
「いい目をしておられる」
 新しい王は聡明ではないのか、そうしたようにも見られていた。そして実際にだ。彼等のその見方は間違ってはいなかった。
 王の即位の式での立ち居振る舞いはだ。実に見事なものだった。そこには何の過ちも愚かさもない。何一つとしてだった。
 

 

45部分:第三話 甘美な奇蹟その十


第三話 甘美な奇蹟その十

 その動きを見てだ。周りの者は言うのだった。
「素晴しいな」
「ああ、細かいところまで覚えておられる」
「見事な方だ」
「愚かな方ではない」
 それがわかるのだった。王は間違いなく聡明である、その立ち居振る舞いからもわかるのだった。
 その王を見てだ。他の国の大使達も見抜くのだった。
「外見だけではなくな」
「かなり聡明な方だ」
「欧州のこともバイエルンのこともわかっておられる」
「そしてどうされるべきかも」
「全てわかっておられる」
 そのことをだ。王のこれまでの言葉や動きからもわかったのだ。
 そしてそのうえでだ。彼等はまた話すのだった。
「あれだけの方ならばな」
「バイエルンは憂いを抱かずに済む」
「この国は素晴しい王を手に入れたな」
「これはバイエルンにとって僥倖だな」
「そうだな」
 こう話していく。とかく見事な王であることがわかったのだ。
 その王が即位してだ。皆その最初の命を待っていた。何を言うかだ。
 即位の儀式の後で玉座に座る。その姿も絵になっている。
 バイエルンの青の上着に白いズボンとマントにブーツ、その姿で玉座に座ってだ。彼は周りの者達を前にして言うのであった。
「では王よ」
「それではですね」
「これからどうされるか」
「何を言われますか」
「既に決めている」
 玉座に座ってもその目は変わらない。遠くを見る目だ。
 その目でだ。彼は言った。
「ワーグナーだ」
「ワーグナー?」
「ワーグナーといいますと?」
「あの音楽家ですか」
「陛下がお好きな」
「そうだ、そのワーグナーだ」
 こう言うのだった。
「ワーグナーを呼びたいのだが」
「まさかこの国にですか」
「バイエルンにですか」
「呼ばれると」
「そうだ、ワーグナーを呼ぶのだ」
 これが王の最初の命だった。
「よいな」
「あの、ワーグナーはです」
「今は何処にいるかわかりません」
「ドレスデンでの革命でのことで今もです」
「ドイツ中を転々としています」
「いえ、若しかすると」
 どうかというのだった。そのワーグナーは。
「この国にいないかも知れません」
「ドイツにいるかどうかもです」
「わからないのですが」
「革命はもう過去のことだ」
 王はそれにこだわらないのだった。
「最早だ。過去だ」
「過去ですか」
「そうだというのですか」
「そうだ、些細なことだ」
 また言う王だった。
「そんなことはな」
「そんなことですか」
「あの革命もまた」
「そう仰るのですか」
 ドイツはおろか欧州中を騒然とさせた革命であった。一八四八年のその革命によってだ。多くの国の政権が変わったのである。
 

 

46部分:第三話 甘美な奇蹟その十一


第三話 甘美な奇蹟その十一

 民主化が進んだ。そしてその中でワーグナーは急進的な思想の下民衆を先導した。それを罪に問われてだ。彼は今も追われているのだ。
 そしてだ。王はその彼について言うのだった。
「このことは前にも言った筈だが」
「それはそうですが」
「しかし真だったのですか」
「そのお考えは」
「そうだ、真だ」
 まさにそうだというのであった。王はだ。
「わかったな。ではワーグナーをだ」
「その罪はいいのですか」
「バイエルンにおいてもその罪を問われていますが」
「それもまた」
「すぐに消す。そして」
 さらに言う王だった。
「他の国にも伝えてくれ。もうワーグナーの罪は問わないようにとな」
「一人の、しかも人を殺めていないならばすぐに罪は消せますが」
「このバイエルンの力ならば容易です」
「それはです」
 バイエルンはその程度の力はあった。しかしだと。周りの者は言うのであった。
「それをワーグナーに使われますか」
「あの男に」
「ワーグナーだからこそ使うのだ」
 王は彼だからこそと言った。言い切った。
「それをだ」
「そこまでの者だと」
「あのワーグナーは」
「わからないのか、あの音楽はだ」
 王の言葉は次第に恍惚となってきていた。そのワーグナーの曲を聴いている時の様にだ。
「あれだけの音楽を見せる者が今このドイツにいる奇蹟を」
「奇蹟」
「そこまでなのですか」
「彼の存在は」
「そうだ、だからだ」
 また言う王だった。
「ワーグナーを救う。そして」
「そして」
「このバイエルンにですか」
「そうだ、この国に来てもらう」
 真剣な言葉だった。嘘なぞ全くなかった。
「わかったな」
「は、はい」
「それでは今から」
「そのワーグナーをですね」
「しかし殿下」
 ここでだった。一人が言うのだった。
「問題はそのワーグナーの居場所です」
「何処にいるのでしょうか」
「一体」
「まずは探さないといけないのですが」
 このことが問題なのだった。何しろワーグナーは今はお尋ね者なのだ。
「このドイツにいるかどうか」
「それが問題です」
「どの国にいるのか」
 こう話していく。
「陛下、まずはそれからです」
「暫く時間がかかりますがそれでもいいですか」
「彼を見つけるまでにも」
「構わない」
 いいというのだった。
「とにかく見つけ出してそしてだ」
「ミュンヘンにですね」
「この街に」
「屋敷も用意しなければならない」
 王は既にこのことを考えていた。ワーグナーについてだ。
 

 

47部分:第三話 甘美な奇蹟その十二


第三話 甘美な奇蹟その十二

 そしてそのうえでだ。彼は次々に言うのであった。
「そしてなのだが」
「そして?」
「そしてといいますと」
「彼には多くの借金があったな」
 王はワーグナーのことを知っていた。彼の行いや現状について細かく知っていた。当然そのお世辞にもいいとは言えない人間性までもだ。しかしそうしたことも踏まえてなのだった。
 彼はワーグナーをだ。受け入れると言うのであった。
「それもだ」
「まさかと思いますが」
「陛下、その借金もですか」
「それもまた」
「どうにかされるというのですか」
「そうだ、当然のことだ」
 王はまた言うのだった。決意している顔でだ。
「それもな」
「幾ら何でもそこまでは」
「そうです。手配されているのは仕方ないにしても」
「それは」
 それはいいというのだった。彼等も王の決意に負けた形だった。
 だがそれでもだった。借金についてはなのだった。
「自業自得ではありませんか」
「あの男、相当な浪費家の様です」
「ですからそれは」
「放っておいてもいいではないですか」
「いや、そういう訳にはいかない」
 また言う王だった。
「それもだ。何とかしなければならない」
「しかし。その借金も膨大ですし」
「冗談にならないだけのものがあります」
「ですからそれは」
「幾ら何でも」
「いや、何とかする」
 ここでも強い決意を言う王だった。
「それもだ」
「どうしてもなのですか」
「その借金までも」
「ワーグナーにそこまで」
「ローエングリン」
 王はここでは王の名前を出した。
「私があのオペラをはじめて聴いた時、いやワーグナーを知った時に」
「その時からだと」
「仰いますか」
「そうだ、ローエングリンはモンサルヴァートからエルザを救いに出た」
 その白鳥の騎士のことを話すのだった。
「そして私もだ」
「ワーグナーを」
「借金までも」
「全てを救う。では探すのだ」
「わかりました」
「そこまで仰るのなら」
 誰もが折れるしかなかった。彼は既に王となったのだから。それでその言葉にあがらうことはできなかった。何しろ彼はただの王ではなかったのだから。
「何処までも純粋な方だ」
「底意地の悪さなぞ微塵もない」
「陰湿、陰険とは無縁の世界におられる」
「優雅で気品があられる」
 そうした人物だった。それならばだ。
 その言葉に従わざるを得なかった。彼の人柄もまたそうさせていた。こうしてワーグナーが探されることになったのです。王の最初の命令としてだ。
 しかしその二週間前、王が即位する少し前にだ。ミュンヘンに一人の小柄で頭の大きな男がいた。
 青い目が強い光を放っている。そこには知性だけでなく底知れぬ深さもある。顔付きは厳しさがあり額が広い。顎髭は頬髯と一緒になっておりそれが哲学者めいた印象を見せていた。
 絹の服を着たその男はだ。聖金曜日の日に項垂れて自らの墓碑まで置いてそこに書いていた。
『無名の騎士団の騎士に叙せられることさえなく名を成すことのなかった』
 こう書いてだ。そしてだった。
『ワーグナーここに眠る』
 この言葉を書き残して姿を消した。だがそこでショーウィンドウーの若い、まだ太子である彼の肖像を見て一言呟くのであった。
「素晴しい方だな。必ず何かをされるだろう」
 このことを直感で感じ取ったのであった。だが今は項垂れたままミュンヘンを去るのでだった。王が命じる少し前のことであった。


第三話   完


             2010・11・26
 

 

48部分:第四話 遠くから来たその一


第四話 遠くから来たその一

               第四話  遠くから来た
 王は命じた。しかしだった。
 ワーグナーを見つけることはだ。やはり容易ではなかった。
「庇護者の下を転々としているようです」
「官憲の目を潜り抜けることが上手でして」
「今一体何処にいるのか」
「全くわかりません」
「そうなのか」
 王はそれを聞いてまずは頷いた。そしてそれからだった。こう言うのだった。
「それではだ」
「はい、それでは」
「どうされるのですか」
「ここで考えを変えるのだ」
 これが王の言葉だった。
「いいか、ワーグナーはだ」
「はい、ワーグナーは」
「何でしょうか」
「何を好むか」
 言うのはこのことだった。
「一体何を好むのか」
「何かとは」
「それは」
「何かですか」
「そうだ、ワーグナーが好むのは何か」
 王はそれを周りの者に話す。
「それは何か。考えてみたことはあるか」
「ええと、それは」
「何かと言われますと」
「何でしょうか」
「そこまで考えたことは」
「森だ」
 ここでだ。王はまた言った。
「森だ。ワーグナーの音楽にはだ」
「森がですか」
「あるのですか」
「ワーグナーの音楽の中には森があるのだ」
 これは彼がワーグナーの音楽から感じ取っていることだった。彼の音楽の中にはだ。森があり王も今それを話すのであった。
「そう、森がだ」
「そうなのですか。森がですか」
「あるというのですか」
「城もあるがな」
 次に言うのはこのことだった。
「城もだ。だが今考えるのは森だ」
「森といいますと」
「ではワーグナーは森にいる」
「そう仰るのですか」
「今はいないかも知れない」
 王はワーグナーが各地を転々としていることを踏まえて述べた。
「しかしだ。手掛かりはある」
「ワーグナーの手掛かりがですね」
「それが」
「そうだ。森を探すといい」
 そしてだ。王は次には人の名前を出した。それは。
「リヒトだな」
「フランツ=リヒトですか」
「そういえば彼はワーグナーの熱烈な擁護者でしたね」
「そうでしたね」
 高名な音楽家である彼については誰もが知っていた。そうしてそのうえで話すのだった。リヒトとワーグナーが親密な関係にあることも知っていた。
 それでだ。彼等も言うのだった。そして王もだった。
「あのローエングリンだが」
「あのオペラですか」
「そこにも何かありますか」
「ワーグナーはあのオペラを彼に贈っているのだ」
 このことも話すのだった。
「もう一人の自分に、と書いてな」
「もう一人の自分ですか」
「ワーグナーはリヒトをそこまで認めているのですか」
「そしてリヒトもまた」
「ワーグナーを」
「そうだ、そうしているのだ」
 それでまた話す王だった。
 

 

49部分:第四話 遠くから来たその二


第四話 遠くから来たその二

「そこから彼が今いる場所を考えるといい」
「一時ヴェーゼンドルク家にいたことはわかっています」
「そこで問題があったそうですが」
 彼等はそこでワーグナーがヴェーゼンドルク夫人と問題を起こしたことも知っていた。だが王にはそのことをあえて言わなかったのだ。
 だが王は問題という言葉に目を微かに動かした。しかしそれ以上は言わずにだ。それでまた彼等の話を聞くのであった。
「とにかく中々居場所がわかりません」
「借金取りにも追われていますし」
「彼等からも逃げていますし」
「見つけ出すのは」
「しかしだ。森とリヒトだ」
 またこの二つを話に出す王だった。
「こうしたことから考えていってくれ」
「推理してですか」
「そうしてですね」
「ワーグナーを探し出せと」
「その通りだ。ワーグナーは間違いなく生きている」
 これは確かだった。死んでいる筈がないことはわかっていたのだ。
「そして多くの手掛かりがあるのだ」
「ではその手掛かりを使って」
「そうしてワーグナーをですね」
「探し出しこのミュンヘンに案内する」
「陛下の御前に」
「その時を待っている」
 王の言葉に切実なものが宿っていた。
「だからだ。頼んだぞ」
「わかっています」
「そのことは」
 周りの者の言葉も切実なものだった。彼等もまたこの若く純粋な王を敬愛していた。彼にはそれだけのものが備わっているのは確かなのだ。
 そしてだった。周囲はワーグナーを探し続けた。その中であることがわかった。それは。
「ワーグナーがか」
「はい、ミュンヘンにいました」
「少し前にです」
「陛下が即位される二週間程前にです」
「このミュンヘンにいたのです」
「惜しかったな」
 王はそのことを聞いて唇を噛んだ。無念さがその顔に出ていた。
「それは」
「はい、全くです」
「その時にここに連れて来ればよかったのですが」
「それは適いませんでした」
「残念なことに」
「しかしだ」
 だがここで王は気を取り直して言った。
「このミュンヘンにいたとはな」
「はい、それは確かです」
「ついこの前に」
「そのことはいいことだ」
 微笑んでだ。そのうえでの言葉だった。
「実にな」
「おそらくこの近くにいるでしょうか」
「まだ」
「いや、そうとは限らない」
 楽観はしていなかった。決して。
「二週間もあれば馬を使えばだ」
「かなりの距離を進める」
「そういうことですか」
「ましてやお尋ね者で借金取りに追われているとなればだ」
 王は洞察していた。深く細かいところまでだ。
「尚更だ」
「若しくは人知れない場所に潜伏しているか」
「そうだというのですね」
「そうだ。探し出すのは容易ではない」
 王はこのことはよくわかっているのだった。誰よりも。
「だからだ。慎重に頼む」
「はい、わかっています」
「そのことは」
 周りも王のその言葉に応える。そうしてだった。
 またワーグナーを探しはじめる。その中でわかってきたことは。
 ワーグナーの人生だった。調べているうちにわかってきたのだ。周りの物達も王に対して彼の人生について語るのであった。
 

 

50部分:第四話 遠くから来たその三


第四話 遠くから来たその三

「いや、恐ろしいまでにです」
「波乱万丈の人生です」
「あれだけの人生を歩んだ者とは思いませんでした」
「いや、全くです」
「そうなのだ」
 そしてだった。王の返事は知っている者の返答だった。
「彼はだ。凄まじい人生を歩んできたのだ」
「一八一三年にライプチヒで生まれています」
「イタリアのヴェルディと同じ年です」
「即ち歳が同じです」
「そうだ、二人の生まれた時は同じだ」
 ここでも知っている者の返答を出す王だった。
「全くな」
「そうですね。妙に因果じみたものを感じます」
「このことには」
「それもまた運命だ」
 王は静かに語った。
「ワーグナーのな」
「そこはライプチヒでした」
「ワーグナーが生まれた場所はそこでした」
「この年のライプチヒは」
 その都市についてもだ。話すべきものがあるのだった。
「あのナポレオンが敗れています」
「あの場所での戦いで」
「そしてフランスを去ることになりました」
「戦いか」
 戦いについてはだった。その名を聞いただけで王の整った顔が曇った。
「そうだったな。あの年のライプチヒだったな」
「はい、ナポレオンが激戦の末に敗れています」
「そして退くです」
「そのうえでエルバ島に流されています」
「戦いがあった。それもまた運命だったのだ」
 王はここでも運命だと述べた。
「何もかもが」
「多くの兄弟がいました。ですが父は彼が幼い頃に亡くなっています」
「母はその夫の友人と再婚しています」
「ワーグナーには二人の父がいました」
「その継父は実にいい人物でワーグナーを可愛がっていました」
 このことわかってきたのだった。そこまでだ。
「ただ。母親との関係は微妙なものがあったようです」
「疎まれてはいませんでしたが」
「どうもワーグナーの感情にしこりがありました」
「そのせいでそうなっていたようです」
「そうだったな。彼の環境は妙に複雑なものがある」
 王はまた言った。そしてだった。
 ここでだ。王から言うのだった。
「少年時代からだったな」
「はい、その頃から女性が周りにいました」
「ある姉妹に恋慕の情を抱いたこともあります」
「そしてその頃にです。シェークスピアの影響を受けて」
 一人の偉大な劇作家の名前もだ。出たのだった。
「そしてそのうえで壮大な劇を書いています」
「確かその題名は」
「ロンバルトだな」
 ここでも自分から言う王だった。その遠くを見る青い目でだ。
「そうだったな」
「あっ、はい。そうです」
「その通りです」
 周りの物達は王のその言葉にすぐに頷いた。
「ロンバルトといいます」
「ですが彼自ら破棄して今はありません」
「最早」
「そうだな。見られないのが残念だ」
 このことにはだった。王は心から無念のものを見せた。言葉が曇りそうしてそのうえで両手でそれぞれの互いの肘を持って言った。
「そのことがな」
「どうも作品にかなりの誇りがあるようで」
「失敗作を許せないようです」
「その頃から」
「それがワーグナーだ」
 王の言葉は今度は敬愛の念を込めたものになっていた。
 

 

51部分:第四話 遠くから来たその四


第四話 遠くから来たその四

「それこそがな」
「そして二十歳の時に最初のオペラを書いています」
「妖精という作品です」
「これは楽譜も脚本もあります」
 このことも王に話される。
「それはですが」
「陛下も確か」
「うむ、観ている」
 上演させたのだ。彼自身がだ。
「だが、だ」
「だがですか」
「違いますか」
「今のワーグナーではないな」
 こう言うのであった。
「どうもな」
「左様ですか」
「そこまで違いますか」
「そしてその次の作品もだな」
 王から話を進めた。
「恋愛禁制だったな」
「あれはシェークスピアでしたか」
「尺には尺でしたね」
「あの作品をオペラにしたのですね」
「脚本は彼が書いた」
 また言う王だった。
「彼は脚本は全て自分で書くからな」
「そうした作曲家もいないですが」
「他には」
「彼は舞台の全てを手がける」
 それこそがワーグナーだというのである。
「演出も全てだ」
「ううむ、多才なのでしょうか」
「そうした人物なのですか」
「少なくとも作曲だけではない」
 それに止まらない。ワーグナーはそうだというのである。
「そうしたことにもだ」
「才能を発揮しているのですね」
「それで恋愛禁制もですか」
「まだ彼らしさを発揮していないがな」
 恋愛禁制でもまだだというのである。ワーグナーらしくはないとだ。
「それはな。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「次だ」
 王は今度はこう言ったのだった。
「次の作品だ」
「リエンツィですか」
「あれですね」
「あれは大成功でしたね」
「ワーグナーにとっては最初の」
「そうだ、あれは成功した」
 実際にそうだとだ。彼は話すのであった。
「あの序曲もいい」
「あれは私も聴きました」
「私もです」
「何度か聴きました」
 そのオペラの序曲はというのだ。周りの物達は話していく。
「何か聴いていると気が昂ぶります」
「えも言われぬ高揚感を感じます」
「あれはいい曲ですね」
「そうだ、そしてタイトルロールのリエンツィ」
 主人公の話もするのだった。そのオペラの主人公である。
「あれこそがワーグナーなのだ」
「あれがですか」
「あれがワーグナーですね」
「あの主人公がなのですね」
「そうだ、私は思う」
 王の言葉もまた高揚の中にあった。そうしてその中で語るのだった。ワーグナーとは何か、静かな高揚の中で語っていくのだった。
 

 

52部分:第四話 遠くから来たその五


第四話 遠くから来たその五

「ワーグナーは何によってワーグナーか」
「音楽によってでしょうか」
「つまりは」
「それと脚本」
「そして演出で」
「それだけでは完全ではない」
 しかし王はここでこう返した。
「そこにだ」
「そこに」
「何が来ますか」
「次には」
「そのタイトルロールだ。ワーグナーの主人公の多くは」
 王は話し続ける。それは。
「テノールだな」
「ああ、あのテノールですか」
「あれはどうも不思議です」
「あの様なテノールは聴いたことがありません」
「全くです」
 そのワーグナーのテノールについてはだった。誰が手に取っても全くわからないといった面持ちでだ。そのうえで話すのだった。
「あれは何なのですか」
「あのテノールは一体」
「どういったものでしょうか」
「ヘルデンテノールだ」
 それだというのだった。王は言った。
「あれはヘルデンテノールだ」
「英雄ですか」
「そうしたテノールなのですか」
「つまりは」
「そうだ、それだ」
 まさにそれだというのであった。王の言葉にはさらに熱いものが宿っていた。それは普段は何か遠くを見ているような彼には珍しいものだった。
「ワーグナーのテノールは英雄なのだ」
「英雄」
「それがですか」
「ワーグナーを完全にするもの」
「そうなのですか」
「元は。そうだな」
 王は己の中にある深い教養から話した。
「モーツァルトやベートーベンにあったか」
「そこにですか」
「あったのですか」
「イドメネオのタイトルロールやフィデリオのフロレスタン」
 どちらもテノールの役である。それも独特な。
「そしてウェーバーだな」
「どれもドイツのオペラですね」
「ドイツ語のオペラからですね」
「そうだ、ワーグナーも当然観ている」
 そうしたオペラもだとだ。王はワーグナーのそうしたところまで洞察していた。そしてそれはまさにその通りだったのである。
 それを話していくのだった。その次第に熱くなっていく口調でだ。
「そしてそれによってだ」
「ああしたテノールが生み出されたのですか」
「ヘルデンテノールが」
「声域はバリトンに近い」
 そのヘルデンテノールの声域についても話された。
「しかし高音を出しほぼ常に舞台にいるな」
「そしてその舞台の中心にいる」
「そうした役ですね」
「それがヘルデンテノールだ」
 王は見ていた。そのヘルデンテノールをその目にだ。
「まさにな」
「そしてそれがリエンツィで出て来たと」
「ワーグナーの作品の中で」
「そうした意味で極めて重要だ」
 王は語った。
「そういうことなのだ」
「しかしです」
「陛下、リエンツィの後はです」
「明らかに変わっていますね」
「それがわかるのだな」
 ここでだった。王は笑顔になるのだった。
 

 

53部分:第四話 遠くから来たその六


第四話 遠くから来たその六

「そうだ、さまよえるオランダ人だ」
「ワーグナーの音楽が変わってきています」
「まさにワーグナーになってきているのですね」
「あの作品ではヘルデンテノールはいない」
 王はこのことを指摘した。
「しかしだ。それでもだ」
「音楽が、ですね」
「ワーグナーになってきている」
「そうなのですね」
「そうだ、ワーグナーになったのだ」
 そこからだというのだった。王の言葉にはさらに熱が入ってきていた。
 そうしてだ。王は次の作品を出した。
「タンホイザーだが」
「そういえば陛下はワーグナーの中ではですね」
「ローエングリンの他にはタンホイザーを愛されてますね」
「あの作品も」
「素晴しい作品だ」
 恍惚として話す王だった。
「聴いているとな」
「違うのですね」
「そう仰るのですね」
「そうだ、他の誰の音楽でもない」
「独特の世界がそこにある」
「そうだというのですか」
「あれこそがヘルデンテノールなのだ」
 またこの言葉が出た。その独特のテノールを出したのだ。
「この世にありながらこの世にない。そのテノールがだ」
「あの世界にいるというのですね」
「では陛下は」
「タンホイザーにもまたなりたい」
 王は言った。
「ローエングリンだけでなく」
「あのヴェーヌスベルグにですか」
「行かれたいのですか」
「ワルトブルグも好きだ」
 ヴェーヌスベルグは官能の世界、そしてワルトブルグは清純の世界である。王はそのどちらに対しても熱い目を向けていた。
 そのうえでだった。彼は今語るのだった。
「私はどちらも好きだ」
「官能と清純を」
「どちらも」
「ワーグナーはその二つを一つにしたのだ」
 そしてだった。王は言った。
「エリザベートとヴェーヌスはだ」
「あの作品のヒロイン達ですね」
「姫君と女神」
「その両者ですね」
「彼女達は二人ではないのだ」
 そうだというのだった。二人ではないというのであった。
「一人なのだ」
「一人!?そうなのですか?」
「あの両者は」
「そうだ、同じ存在なのだ」
 こう言うのだった。
「タンホイザーはそのどちらも見ていたのだ。エリザベートとヴェーヌスは二人ではない。両者は鏡の様なものなのだ」
「ではどちらもですか」
「同じ存在なのですか」
「陛下はそう考えられているのですね」
「私は女性については興味がない」
 このことは言い切る。王の嗜好だった。
「だが。それでもだ」
「エリザベートは愛されますか」
「そしてヴェーヌスも」
「何故か。同じに感じる時がある」
 王の言葉が現実を離れた。
「私は。彼女達とは」
「そうなのですか?」
「それは流石に無いと思いますが」
「確かに」
 王の今の言葉にはだった。誰もがいぶかしんだ。
 王は長身の美男子だ。それに対して彼女達は美女ではあるが女だ。それでどうして同じとまで感情移入できるのか、それがわからなかったのだ。
 

 

54部分:第四話 遠くから来たその七


第四話 遠くから来たその七

 それでだった。周りはさらに問うのだった。
「むしろ陛下はです」
「王なのですから」
「そうだな。ヘルマンかハインリヒ王だな」
 ヘルマンはタンホイザー、ハインリヒ王はローエングリンに出て来る。どちらも君主として出ているのだ。王は彼等だというのだ。
「しかし私はだ」
「彼女達なのですか」
「そうだと」
「そう思う時がある。その同じである彼女達とな」
「ではローエングリンもですか」
「あちらもですか」
「エルザだな」
 遂にだった。ローエングリンの話に届いたのだった。
「彼女についても思う。これはゼンタもだが」
「さまよえるオランダ人のですね」
「彼女だと」
「そうも思う。本当に不思議だ」
「我々にはわかりません」
「それは」
「ローエングリンをはじめて観た」
 十六歳の時のことだった。今度はその記憶を遡ったのだった。
「その時からだ」
「エルザ姫に心を移されていたのでしょうか」
「その時にも」
「ローエングリンに会った」
 まさにエルザの言葉だった。それ以外の何でもなかった。
「それは私の運命だったのだ」
「陛下はあの騎士をことの他愛されてますが」
「あの騎士になりたいのですか」
「白鳥の騎士に」
「なりたいとも思う」
 その通りだと。このことを認めたのだった。
「しかしだ」
「エルザ姫にですか」
「御自身を」
「どうしてそうなるのか。私は男だ」
 これは自分でもわかっていた。それも実によく。
「それだというのにだ」
「それがどうしてなのかはです」
「我等にもわかりません」
「ですが」
 周りの者はいささか言葉を濁して王に話していく。そうしてだった。こう話したのだった。
「陛下、今はです」
「そのワーグナーが何処にいるのかを知りです」
「このミュンヘンに」
「そうだな」
 王も彼等の言葉に頷きだ。そうしてだった。
「とにかく探し出してくれ。いいな」
「わかっております」
「では。彼を」
 ワーグナーを探すことは続いていた。そしてであった。また新たな情報が入ったのだった。
「ウィーンにいたのですね」
「王立歌劇場にいました」
「それは知っていた」
 王はこの報告に対してすぐに述べた。
「そうしてだな」
「はい、自身の作品の上演をしようとしていました」
「トリスタンとイゾルデという作品です」
「かなりの大作らしいですが」
「しかし上演できなかったのだな」
 王からの言葉だった。
「残念なことに」
「歌手を選ぶ作品だとか」
「それも主役二人共とのことです」
「何十回も舞台稽古をしてそれでもです」
「上演できなかったそうです」
「ワーグナーらしい」
 王はそのことを認める言葉を出したのだった。
「彼は完璧主義だ。何もかもがな」
「だからですか」
「そうして何度も何度も稽古をさせていたのですね」
「自身も立ち会って」
「相当なことをしていたのだな。だがそれでもだ」
 どうなったか。話が元に戻った。
 

 

55部分:第四話 遠くから来たその八


第四話 遠くから来たその八

「上演できなかった」
「その作品もどうなるかわかりません」
「また。トリスタン以上の大作があります」
「それは」
「指輪か」
 また王からの言葉だった。そう言ってみせたのだ。
「それだな」
「はい、ニーベルングの指輪です」
「何でも四部からなるとか」
「それだけの途方も無い作品も上演されないままです」
「そちらもどうなるのか」
「それを上演させるのがだ」
 王の青い目に不思議な光が宿った。そのうえでの言葉だった。
「私なのだ」
「陛下がなのですか」
「そのどうなるかわからない作品をですか」
「上演させると」
「そうだ、私がだ」
 また言う王だった。
「そうさせるのだ。だからこそワーグナーを探しているのだ」
「彼の音楽の為に」
「その為に」
「彼は求めているのだ。助けを」
 そしてなのだった。ワーグナーを探し続ける。その中でだ。
 王室秘書官長のブフィスターマイスター男爵を呼んでだ。こう告げたのだった。
「ウィーンに行ってくれ」
「ワーグナーを探す為にですね」
「そうだ、その為だ」
 まさにその為にだというのだ。彼をウィーンに行かせるというのだった。
「ウィーンの王立歌劇場にいたならだ」
「そこに多くの手掛かりがあるからですね」
「その為だ。すぐに行ってくれ」
「わかりました。ですが」
 男爵は王の言葉に頷いた。しかしなのだった。
 彼は浮かない顔になってだ。王に対してこう話したのであった。
「私が行くとです」
「いらぬ噂が広まるというのだな」
「はい、それは絶対にです」
 広まるというのである。
「そうなってしまいますが。陛下のご成婚のことや外交のことでも」
「そうだな。しかしだ」
「しかし?」
「それもまたよしだ」
 聡明さがわかるはっきりとした顔での言葉だった。
「卿が動くことで噂が流れればだ」
「他の政務のことへのカムフラージュになると」
「だからだ。それもまたよしなのだ」
 そうしたこともわかっている王だった。彼はわかって命じているのだ。そしてであった。王は彼に対してあらためて命じるのだった。
「ではだ。いいな」
「はい、それでは」
 こうして男爵はウィーンに向かった。早速マグデブルグの新聞が彼の動きに気付き書きはじめた。彼の同行は筒抜けだった。
 しかしその目的はわかっていなかった。彼はウィーンに着くとすぐにだった。 
 ワーグナーに関する調査をはじめた。その結果わかったことは。
「間違いないな」
「はい」
「そうですね」 
 男爵にだ。同行する外交官達が彼に述べていた。彼はウィーンの大使館にいてそうしてだった。彼等の報告を聞くのだった。
「ウィーン郊外のあの場所にいます」
「ペンツィンクにいます」
「あの場所に」
「中々見つからなかったな」
 男爵は大使館の一室にいた。そこで豪奢な席に座りそうして話を聞いていてだ。そのうえで外交官の話を聞いてから述べたのである。
「全くな」
「そうですね。確かに」
「ワーグナー、その逃走は用心深く抜け目ないとは聞いていましたが」
「ここまでとは」
「思っていませんでした」
「だからこそだな」
 男爵も納得した顔で話す。
「それでああしてだな」
「はい、長い間捕まることなく逃げていたのです」
「官憲からも借金取りからも」
「ウィーンでも莫大な借金を作っています」
「かなり贅沢な暮らしをしていたようで」
「その借金についてもだ」
 男爵はこのことについても言及した。
 

 

56部分:第四話 遠くから来たその九


第四話 遠くから来たその九

「陛下はだ」
「肩代わりをされるとのことですね」
「それまで」
「そのおつもりだ」
「ワーグナーの借金は膨大ですが」
「それこそです」
 一人が例え話を出してきた。それは。
「ユリウス=カエサルに匹敵するまで」
「カエサルとは」
「そこまでか」
「それだけの借金があるのか」
「あの男には」
「しかしだ」
 それでもだとだ。男爵は話すのだった。
「陛下はそうされるのだ」
「そうされるおつもりですか」
「それが陛下の御考えですか」
「変えられないのですね」
「陛下のことは御存知の筈だ」
 外交官達にこう述べる男爵だった。
「あれでだ。一度決められたらだ」
「そうですね、御考えを中々変えられません」
「そうした頑固なところもおありです」
「間違いなくですね」
「特に御気に召されたものに対しては」
「それがワーグナーなのだ」
 そうだというのだった。王にとってワーグナーはまさにそうした存在になっているのだ。そしてその想いがどうしたものかというのもだ。
「王にとってはな」
「そのワーグナー、いよいよですね」
「間も無く見つかりますね」
「いよいよですね」
「そうだ。随分骨が折れたがだ」
 それでも見つけることができた。彼等はそのことに喜んでいた。
 しかしだった。実際にそのペンツィンクに行くとだった。彼はもういなかった。
 豪奢な屋敷にいたのは一人の使用人だけだった。ワーグナーはいないのだった。
 訪れた男爵はそのことに愕然としながらもだ。使用人であるその女に対して尋ねたのだった。尋ねる内容は決まっていた。
「御主人様が何処に行かれたかですか」
「それはわかるか」
 彼は使用人にこのことを尋ねたのである。
「一体どちらに」
「そうだ、何処に行ったのだ」
「知りません」
 返答はけんもほろろなものだった。
「申し訳ありませんが」
「何も聞いていませんか」
「すいません」
 取り付く島もない感じだった。
「本当に何も」
「そうか、わかった」
 彼女が何も話さないと見抜いてだ。男爵は彼女に聞くことを諦めた。
 そのうえで一端ウィーンに戻った。その途中周りが彼に囁く。
「あの女おそらく知っていましたが」
「ワーグナーの行き先を」
「それでも聞かれないのですか」
「どうしてですか、それは」
「かなり口の固い女だ」
 男爵はこう彼等に述べたのだった。
「喋る筈もない」
「だからですか」
「ここはですか」
「そうされると」
「そうだ、聞き出す先はまだ幾らでもある」
 男爵はこれまでの政治にたずさってきた記憶からこのことを察していた。
 そしてであった。彼等はさらに話すのだった。
「それでだ。ウィーンに戻りだ」
「また調査ですね」
「それをされますね」
「そうだ、そうするぞ」
 こう話してだった。ワーグナーの行き先を探し続ける。そうしてそのうえでだった。ある新聞紙の記者からあることを聞いたのだった。
 

 

57部分:第四話 遠くから来たその十


第四話 遠くから来たその十

「スイスにか」
「はい、スイスにです」
 その記者はこう男爵に囁いた。今二人はカフェにお互いの身分を隠して会っている。そのうえで話をしているのであった。
「そこにです」
「スイスか。そういえばな」
「ワーグナー氏は森や山が好きだとのことですね」
「そうだったな。それでスイスか」
「どうされますか、それで」
「決まっている。スイスに向かう」
 男爵は即座に決断した。コーヒーを飲む手を止めてそのうえで話すのだった。
「今からな」
「では」
「礼を言う。謝礼はだ」
 男爵は胸のポケットに左手を入れてだ。何かを出してきた。それは。
 サファイアだった。一カラット程度の大きさのそれを記者に差し出してだ。そのうえでこう述べたのであった。
「これだ」
「あの、只の情報提供ですが」
「しかしワーグナーはそこにいるのだな」
「はい、間違いありません」
 それは事実なのだというのだった。
「そのことは」
「ではだ。それに見合う」
「宝石とは」
「陛下はワーグナーをどうしても見つけられたいのだ」
「だからですか」
「そうだ。だからこその謝礼だ」
 それでだというのだ。そしてだった。
 男爵は王に電報を打ち了承の返事を受けてからだ。すぐにスイスに向かった。
 そしてすぐにでだった。ワーグナーがスイスの何処にいるかを突き止めたのだった。
「マリエンフェルトだな」
「そこにいます」
「間違いなくです」
「あの場所にいます」
「間違いありません」
 ここでも周りの外交官達がワーグナーに話す。
「知人達も集まっていますし」
「そこに支援者もいます」
「多くの書も集めています」
「それを調べてです」
 そこにいるのだというのだった。間違いなくだ。
「ワーグナー本人は屋敷の中に閉じ篭っていますが」
「そうしたところからです」
「彼はそこにいます」
「では男爵、今からですね」
「そちらに」
「向かうとしよう」
 男爵はここでも即断したのだった。
「それではな」
「はい、そうですね」
「いよいよワーグナーに会えますね」
「遂に」
 彼等は遂に仕事が終わることを喜んでいた。そのうえでその屋敷に向かった。しかしであった。
 そこにはだ。ワーグナーはいないのだった。
「まさかと思いましたが」
「もう去ったのですか」
「早いですね」
「そうだな。またか」
 男爵もだった。ワーグナーがいないことに無念さを感じていた。そしてであった。
 そのうえでだ。こう言うのだった。
「諦めることは許されない」
「決してですか、それは」
「絶対に」
「そうだ、絶対にだ」
 また言う男爵だった、彼は王から直々に命じられているというその自負感と責任感があった。それでなのであった。彼は引かないのだった。
 それでだ。また周りに話した。
「それでなのだが」
「はい」
「また調査の再開ですね」
「そうだ、絶対に諦めないでだ」
 それでだというのだった。
 

 

58部分:第四話 遠くから来たその十一


第四話 遠くから来たその十一

「わかったな」
「はい、わかりました」
「仕方ありませんね」
「それでは」
「ワーグナーが生きていることは確かだ」
 それは間違いなかった。それでだった。
 彼等はまたワーグナーを探しはじめた。その結果だった。 
 支援者の夫婦がだ。男爵の身元を打ち明けられてだ。まずは驚いたのだった。
「バイエルンのですか」
「バイエルン王の御命令で」
「そうだ」
 その通りだと話す男爵だった。彼等は今密室で話している。
「それでワーグナー氏を探しているのだ」
「そうですか」
「それでワーグナー氏をミュンヘンにですか」
「そちらに」
「そうしたいのだ。それでだが」
 ここで彼等にもサファイアを出した。その前に己の身元を証明するものを出すことも忘れなかった。そうして話をするのだった。
「ワーグナー氏は今何処に」
「そのことですが」
「一つ約束して下さい」
 夫婦はだ。真剣な面持ちで男爵に言ってきた。
「そのことをです」
「宜しいでしょうか」
「無論だ」
 男爵もだ。二人に真剣な顔で返すのだった。
「私とて陛下に誓っている。それならばだ」
「それではです」
「お教えします」
「うむ」
 こうしてだった。夫婦はそのワーグナーの居場所を教えたのだった。そこは。
 そこを教えてからだ。彼等はこう釘を刺すのを忘れなかった。
「ただ、お約束ですが」
「それはですね」
「それでその約束は何だ」
 こう話してだった。二人で話すのだった。
「一体」
「はい、そこへは男爵御一人で向かわれて下さい」
「そのことを御願いします」 
 約束はこれだった。
「このことはです」
「くれぐれも」
「わかった」
 こうしてであった。男爵は遂にワーグナーの居場所を知ったのだった。そして夫婦と交えさせた約束に従ってだ。それで、であった。
 二人に教えられたそのワーグナーの居場所に向かった。シュツットガルトのあるホテルの一室にだ。潜伏していたのだった。
 一人でそこに向かう。そして扉をノックする。するとだ。
「誰なのか」
「バイエルン王の御命令で来ました」
 男爵はまずはこう述べたのだった。
「そうしました」
「バイエルン王!?」
「はい、そうです」
 扉の向こうの声の主に対して述べた。
「それでミュンヘンから来ました」
「まさかと。そんな筈が」
「信じて頂けませんか」
「証拠はありますか」
 声の主はこう彼に問うてきた。
「その証拠は」
「わかりました」
 それを聞いてだった。男爵はだ。
 彼の名刺、そして王から直々に貰った直筆の文を出してだ。扉の郵便受けのところに差し入れたのだった。それはすぐに扉の向こうに消えた。
 暫くの間沈黙が続いた。しかしそれが終わってだ。
 扉の向こうからだ。また声がしてきたのだった。
「男爵ですか」
「そうです」
「そしてバイエルン王ですか」
「はい、左様です」
「それで何の御用件で来られたのですか?」
 声はまた男爵に尋ねてきた。
「この私に。一体何の御用件で」
「御会いして頂けますか」
 男爵はまた彼に言った。
 

 

59部分:第四話 遠くから来たその十二


第四話 遠くから来たその十二

「今から」
「わかりました」
 声の主は頷いてきた。そうしてであった。
 扉が開いた。そこから強い、それでいて深い叡智と傲慢さをたたえた青い瞳を持つつながった頬髯と顎鬚の男が出て来たのだった。
 絹の服を来ていて小柄だがそれでも妙な威圧感があった。その男がだ。こう男爵に名乗ってきたのであった。
「ワーグナーです」
「貴方がですね」
「はい、リヒャルト=ワーグナーです」
 こう名乗ったのだった。
「私がリヒャルト=ワーグナーです」
「わかりました。では貴方が」
「それではですね」
「はい、それでは」
 こうしてであった。二人はそのまま部屋に入ってだった。
 そのうえでだ。豪奢な部屋の見事なソファーに座ってだ。二人で話をするのだった。
「それでなのですが」
 男爵から話を切り出したのだった。
「宜しいですか」
「はい、それで御用件とは」
 ワーグナーも彼に応えて話す。まだ疑っているようで何かが強張っていた。
「何でしょうか」
「それではです」
 ここでだ。男爵はまたあるものを出してきた。それは。
 ワーグナーは己の前に差し出されたそれを見てだ。こう言うのだった。
「小箱ですか」
「開けて下さい」
 男爵は小箱を開けるよう勧めてきた。
「どうぞ」
「そうですか。それでは」
 ワーグナーは彼の言葉に従い小箱を開けた。すると。
 そこから出て来たのはだ。銀線細工にルビーをあしらった指輪だった。それを見てだった。彼は息を飲まずにはいれなかった。
 その彼にだ。男爵はまた言ってきた。
「王からの贈り物です」
「この私にですか」
「御気に召されませんでしたか」
「いえ、滅相もない」
 不遜な彼がだ。今はおずおずとして答えるのだった。
「まさかこの様な」
「王は芸術を愛されます」
「芸術をですね」
「そうです。その中でも歌と」
 そしてであった。
「音楽を。舞台もです」
「その三つ共ですね」
「そしてその三つが一つになった」
「歌劇をですか」
「その歌劇の中でも最も素晴らしいものを作られる」
 男爵はワーグナーを見ていた。明らかにだ。
「貴方の才能を、いえ」
「いえ?」
「その全てをです。愛されています」
「だからこそですね」
「それはお受け取り下さい」
 遠慮なくとだ。男爵は述べた。
「そしてです」
「そしてとは。まだなのですか」
「是非ミュンヘンにいらして下さい」
 王に告げられた命ををだ。その彼に告げたのだった。
「これよりです」
「宜しいのですか。私は」
「革命のことですか」
「はい、それは」
「お気遣いなく」
 これがワーグナーへの返答だった。
「それは王が全て取り計らってくれます」
「バイエルン王が」
「革命に関することだけではありません」
「といいますと」
「貴方を苦しめているお金のことも」
 借金のことだった。まさにそれであった。
 

 

60部分:第四話 遠くから来たその十三


第四話 遠くから来たその十三

「それもです」
「そのこともですか」
「住む家も用意できます。それに」
「まだあるのですか」
「貴方が芸術に専念できるように」
「私の芸術に関してですか」
「王は全てを取り計らって頂けるのです」
 これもだった。王が神にも、そして己にも誓っていることだった。王はワーグナーの為にだ。全てをしようと誓っていたのだ。
 そしてだった。男爵はさらに話してきた。
「ですから。如何でしょうか」
「ミュンヘンに」
「そうです、どうされますか」
「信じていいのですね」
 そこまで彼にとって都合のいい話があるのかどうか。これまでの辛酸を舐めてきた人生でだ。ワーグナーはこのことをいぶかしむのだった。 
 そしてだった。彼はまた言った。
「そのことを」
「はい、何でしたら」
「何だというのですか」
「これを」
 今度出してきたものは。それは。
 券だった。ミュンヘンまでのだ。旅行券であった。
 それをワーグナーの差し出してだ。男爵は再び話すのだった。
「どうぞお使い下さい」
「そういうことなのですね」
「王が貴方を待っておられます」
 王の名前をだ。ここでも出す。
「どうか。ここは」
「わかりました」
 その旅行券を見てだ。遂にだった。
 ワーグナーは頷いた。彼も決めたのだった。
 こうして彼は男爵と共にミュンヘンに向かう。王がいるその街にだ。
 その彼等が乗る鉄道の中でだ。ワーグナーは男爵に対して話す。
「夢の様です」
「夢ですか」
「そう、あの」
 ここで言うことは。
「エルザの様です」
「貴方の作品のですね」
「はい、ローエングリンの」
 その作品のヒロインの如きだというのである。
「そうなった気持ちです。夢の様です」
「そうですね。実はです」
「実は」
「陛下も同じです」
「バイエルン王もとは」
「あの方もローエングリンを御覧になられました」
 その十六歳の時のことだった。王にとって運命を決めたその時のことがだ。他ならぬワーグナーに対して話されるのだった。
「その時にです」
「王もまたあの歌劇を御覧になられたのですか」
「その通りです」
「光栄です」
「そしてそのうえで」
「どうなされたのですか」
「魅了されました」
 一言だった。
「貴方にです」
「そうだったのですか。それで」
「はい、あの方も時折話されます」
 男爵はだ。向かい合って座り目の前にいるワーグナー、そのローエングリンを生んだ男に対してだ。そのことを語っていくのである。
「エルザになったのだと」
「ローエングリンではなくですか」
「ローエングリンだと仰ることもあります」
「どちらもなのですね」
「そうです。そしてどちらにしてもです」
 男爵はワーグナーに語る。
「陛下は貴方をです」
「私をそこまで、なのですね」
「だからこそです。お招きしているのです」
「僥倖ですね」
 まさにその通りだった。ワーグナーにとって。
 

 

61部分:第四話 遠くから来たその十四


第四話 遠くから来たその十四

「信じられないまでの」
「ですがこれは現実です」
「現実ですね。ですがそれでも」
「それでも?」
「夢が適えられるようになりました」
 現実であってもだ。それがなるようになったというのである。
 そしてだった。ワーグナーはさらにこう話すのだった。
「私の夢はです」
「どうしたものなのですか、貴方の夢は」
「一つの壮大な物語を完成させることです」
 最初に言ったのはこのことだった。
「トリスタンとイゾルデの話は御存知でしょうか」
「ウィーンで上演しようとされていたあの作品ですね」
「それ以上の作品です」
「指輪ですね」
 男爵は答えた。
「あの作品ですね」
「御存知でしたか」
「はい。陛下が常に熱く語っておられましたから」
 ここでも王であった。王は何処までもワーグナーのことを考えそうして想いを馳せていたのだ。それで男爵も知っていたのである。王の傍にいるからこそ。
「ですから」
「だからですか」
「脚本は完成されているのですね」
「それは既に」
「では後は」
「音楽です」
 それはまだだというのだ。音楽はだ。
「それはまだです」
「それを完成させることですか」
「その通りです。そして」
「そして?」
「その作品、ひいては私の作品をです」
 ワーグナーはさらに語るのだった。その己の夢について。
 自然とその顔に少年の如き邪気のないものも宿っていた。その老獪ささえ見られる初老の男の顔にだ。それが宿っていたのだった。
「それだけを上演する劇場をです」
「何と、貴方の作品だけをですか」
「それが夢です」
 こう話すのだった。
「それもまた」
「はじめて聴きました」
 こうしたことはだった。男爵も驚きを隠せない。
「そうした劇場を作られるというのは」
「そうですね。しかしです」
「実際にそう思われているのですね」
「はい、そうです」
 ワーグナーの青い目にだ。今は純粋な光が宿っていた。
「絶対に無理だと思っていましたが」
「陛下は貴方に御自身の全てを捧げるとも仰っていますから」
「そうした方なのですね」
「ですから。ミュンヘンに」
「わかりました」
 ワーグナーは今自分の夢が現実のものとなることに熱いものを感じていた。そしてそれはだ。王もまた同じなのだった。
 彼はだ。王宮において周りにこう話していた。
「間も無くだ」
「ワーグナー氏がですね」
「このミュンヘンに来る」
「それがなのですね」
「そうだ、間も無くだ」
 また言う王だった。その言葉は熱い。
「私の夢がいよいよ適うのだ」
「それで陛下、ワーグナーが来ればです」
「最初に何をされますか」
「まずは」
「会う」
 そうするとだ。王は言うのだった。
「彼とだ。会う」
「会われますか」
「最初は」
「そしてそれからですね」
「彼を悩ませる俗世のことを解決する」
 指名手配されていることと借金のことだった。
「そんなものは造作もないことだがな」
「陛下ならばですね」
「それは」
「王が持つものは悪しきことの為に使われるものではない」
 彼は暴君ではなかった。むしろその対極にいる男だった。血も戦いも好まない。愛するのは芸術、それをひたすら愛しているのである。
「決してだ」
「決してですね」
「そしてワーグナー氏に対しては」
「正しきことだと」
「そう仰いますね」
「悪しきものだとは思っていない」
 これはだ。王も確信していた。
 

 

62部分:第四話 遠くから来たその十五


第四話 遠くから来たその十五

「実際に悪しきものだろうか。彼を助けることは」
「そうは思いません」
「はい、私もです」
「私もまた」
 周りの者もだ。それは思っていなかった。
 悪だとはだ。誰もが思わないしその通りだった。しかしだった。
 彼等はだ。いささか怪訝な顔になってこう王に話してきたのだった。
「しかしです」
「陛下のワーグナー氏への想いはかなりのものですね」
「一人の音楽家にです」
「そこまでされるのですね」
 バイエルン王ともあろう者が、言外にはそうした言葉もあった。彼等にとって王と一介の初老の音楽家は全く釣り合わないものだった。
 しかしだ。王はこう言うのだった。
「私の名はこの一代で消えるが」
「しかしワーグナー氏はですか」
「違うと」
「そう仰いますか」
「彼は永遠に残る」
 こう語る王だった。
「人の世にな」
「そこまでの音楽家だと」
「モーツァルトやベートーベンの如き」
「あの音楽は」
「残る」
 王は確信していた。
「間違いなくな」
「左様ですか」
「残ると」
「それだけのものだ。ワーグナーは」
 音楽だけに限らないというのだった。その全てがだというのだ。
「だからこそ。私は愛するのだ」
「ワーグナーを」
「その全てを」
「間も無く来る」
 王の目が見ていた。その彼をだ。
「その彼がな」
「それはいよいよですね」
「彼がこのミュンヘンに来る」
「そのうえで陛下に会われる」
「そうなりますね」
「どれだけ待ったことか」
 愛しい相手を語る言葉だった。
「私は。どれだけ待ったことか」
 期日の問題ではなかった。心だった。
 その心を感じながらだ。彼は今言うのだった。
「彼を。それが今適うのだな」
「では陛下、その時ですが」
「会われる場所は何処にされますか」
「一体どちらに」
 王はそうした場所も決めなければならない。だからこそ周りの者はそこを何処にするのか尋ねるのだった。全ては周到にだった。
「どちらにされますか」
「その場所ですが」
「一体どちらにされるのですか」
「王宮だ」
 王は一言で述べた。
「王宮で会う」
「ここで、ですか」
「王宮で会われると」
「何と」
 王の言葉にだった。誰もが驚かざるを得なかった。王宮で会うということは公になる。王のその存在こそが公であり彼が住む王宮も公となるからだ。
 その公で会うとだ。王は言い切ったのだった。そしてであった。
 王はだ。王宮のその場所についても述べるのだった。
「大広間だ」
「王宮の大広間で」
「そこで会われるのですか」
「あの場所で」
「そうだ、大広間だ」
 まさにそこだというのだった。彼はだ、
「よいな」
「あの、それは幾ら何でも」
「そうです。ワーグナーは一介の音楽家です」
「他国の要人でも王族でもありません」
「それで何故そこまで」
「その様な場所で会われるとは」
「何度も言うがそれだけの者だからだ」
 だからだとだ。王は言うのだった。
「ワーグナーはだ」
「ヴィッテルスバッハの主が公に会われるだけとは」
「そこまでとは」
 誰もがわかっていなかった。王のその見ているものをだ。王は見ていたのだ。ワーグナーにそれだけのものを見ていることをだ。
 それでだった。王はさらに話した。
「では。私は待つ」
「ワーグナー氏が来られるのを」
「それをですか」
「何時までも待つ。来るのは間違いないのだからな」
 だからだと言ってだ。彼は待ち続けるのだった。期待に胸を膨らませそのうえでだった。彼が来るその時を待ち続けるのだった。


第四話   完


                2010・12・6
 

 

63部分:第五話 喜びて我等はその一


第五話 喜びて我等はその一

                第五話  喜びて我等は
 王は待ちながらだ。ソファーに座りそこで音楽を聴いていた。それは。
 大行進曲であった。ワーグナーのオペラタンホイザー第二幕のその華麗かつ豪奢な音楽を聴いていた。そのうえでこう口ずさむのだった。
「喜びて我等は尊き殿堂に挨拶を送る」
「この曲の歌詞ですね」
「そうだ」
 その通りだと侍従の言葉に応える。侍従は彼のその前に控えている。
「今の私の気持ちだ」
「陛下のお気持ちですか」
「どれだけ嬉しいかわからない」
 その言葉は恍惚とさえしていた。
「言葉では。全てを言い表せないまでだ」
「そこまでなのですか」
「そうだ。卿はわかるだろうか」
 その若い侍従に顔を向けて問う。耳は音楽に向けたままで。
「この私の今の気持ちが。それは」
「ときめきでしょうか」
「ときめきか。そうだな」
 その言葉を告げられてだ。王は頷いた。
「それだな。今の気持ちは」
「陛下は今その中にあるのですね」
「常にだった。ワーグナーの音楽を聴く前に常に感じていた」
 そのときめきをだというのだった。
「そして今はとりわけだ」
「感じておられますか」
「期待だ」
 次に出した言葉はこれだった。
「そして希望だ。私は今エリザベートやエルザの気持ちがわかる」
「そのワーグナーの姫達のですか」
「そうなのだ。彼女達もまた同じだったのだ」
 そのワーグナーの曲を聴きながらだ。彼は恍惚として語るのであった。
「今の私と同じく。愛しい騎士達に会う期待と希望にときめいていたのだ」
「陛下もまた」
「そうだな。私は姫ではない」
 王だ。それは間違いない。
「しかし同じくだ。ときめいているのだ」
「ワーグナー氏は今日来られます」
「夜だったな」
 それが何時になるか。彼は既に知っていた。
「夜に来るのだったな、このミュンヘンに」
「その通りです」
「やはり楽しみだ」
 王はまた話した。
「私は何時までも起きている。そして待とう」
「そうされますか」
「今日は寝ることはしない」
 はっきりと言った。そのときめきに従い。
「待っている」
「どれだけでもですか」
「夜は好きだ」
 これは王の嗜好であった。
「自然と落ち着く」
「夜がですか」
「昼にはない美しさもある」
 王は夜にそうしたものも見ているのだった。
「だからだ。夜になろうともだ」
「待たれるのですね」
「むしろ夜に会うのがいいかも知れない」
 こんなことも言う王だった。
「彼に会うのは」
「夜ならばこそですか」
「ワーグナーは夜だ」
「夜なのですか」
「ワーグナーの作品では常に夜が大きな意味を持っている」
 だからだというのである。
「夜に何かが起こる。ワーグナーの時ではそうなのだ」
「それで夜に」
「会えればいいのかもな」
 こう話してであった。
「彼とは」
「そしてこの王宮で会われる」
「バイエルンは今永遠の芸術を手に入れるのだ」
「ワーグナー氏を」
「その為に私は待つ」
 王はその言葉を続ける。
 

 

64部分:第五話 喜びて我等はその二


第五話 喜びて我等はその二

「何時までも」
「では陛下、その夜の為に」
 侍従もだった。そのワーグナーの音楽を聴きながらここでだ。王に対してある申し出をするのだった。その申し出というのは。
「コーヒーをお持ちしましょうか」
「コーヒーか」
「はい、それとケーキを」
 コーヒーだけではなかった。それもだった。
「チョコレートケーキを如何でしょうか」
「ザッハトルテか」
 王はチョコレートケーキと聞いて述べた。
「それか」
「はい、それです」
「ではもらおう」
 ザッハトルテと聞いてだった。王は微笑みになりそのうえで答えた。
「ウィーンのそれをな」
「ウィーンですね」
「シシィがいるあの街のものだな」
「そういえばエリザベート様ですが」
 話が変わった。王の七歳年上の従姉の話になる。王と彼女は王がまだ幼い頃より親交があった。それが彼等の交流であったのだ。
「ウィーンでは随分と」
「ハプスブルグ家は古い因習が多いからな」
「そうですね。それもかなり」
「そうだ。シシィは翼を持っている」
 こんなことも言う王だった。
「だからだ。ハプスブルグ家に留まるのは」
「あの方にとってお辛いですか」
「そう思う」
 まさにそうだというのであった。
「果たしてどうなるかだな」
「旅をはじめられたそうですが」
「いいことだ」
 王はこのことを肯定した。
「彼女にとってはな。森や山、谷を見ることはだ」
「よいことなのですね」
「馬に乗るのも好きなのだ」
 この点は王も同じだった。彼も乗馬を愛している。馬に乗りながら何を見ているのか、それは王だけが知っていることだった。
「だからこそだ」
「それでなのですか」
「そうだ、彼女は旅をするべきだ」
 王はいつもの遠い目になって述べた。
「是非な」
「ではあの方は」
「縛り付けては駄目なのだ」
 遠い目はそのままだった。
「何があろうとも」
「それをあのウィーンの宮廷が理解していればいいのですが」
「しないだろう」
 王の言葉が悲しいものになった。
「あの宮廷はな」
「それはありませんか」
「あの宮廷はミュンヘンとは違う」
 悲しい言葉のまま語る。
「何もかもが古い因習の中にある」
「それでなのですね」
「そうだ。双頭の鷲はシシィとは合わないのだ」
「あの方のその翼には合わない」
「時々は。そうした旅で心を癒すべきなのだ」
 これが王のエリザベートへの考えだった。彼は彼女のことを理解していた。そうしてそのうえで。その従姉を心から心配していたのだ。
 そしてであった。遂にミュンヘンにだ。彼が戻ってきたのだった。
 ワーグナーは男爵に案内されまずは宿泊先のホテルに入った。その見事な部屋の中であらためて男爵と話をするのだった。
「今聞いたことですが」
「はい」
「王は今日御会いしたいとのことです」
 男爵はこうワーグナーに話した。
「今日です」
「今日にですか」
「それも王宮で」
 場所も話されるのだった。
 

 

65部分:第五話 喜びて我等はその三


第五話 喜びて我等はその三

「王宮で。御会いしたいとのことです」
「王宮でとは」
「それも今日ですから」
「今日御会いするとなると」
 ワーグナーは王宮で会うということにも驚きを隠せない。しかしそれ以上にだった。今は時間について強く思うのであった。
 そしてだ。それを言葉に出した。
「夜になりますが」
「それでもとのことです」
「私と」
「そうです。御会いしたいとのことです」
 そうだというのだった。
「それで如何でしょうか」
「そうなのですか」
「はい、貴方はそれで宜しいでしょうか」
 男爵はワーグナー自身に問うた。
「夜でも」
「はい」
 ワーグナーに異存はなかった。すぐに答えたのだった。
「私としましては」
「左様ですか。それでは」
「しかし本当なのですか」
 まだ信じられないといった顔だった。それは彼も隠せなかった。
「王が。私に王宮で」
「そうです。陛下は嘘を吐かれません」
「左様ですか」
「陛下は嘘がお嫌いです」
 これもまた事実だった。王は虚言を嫌った。人の心のそうしたことをだ。彼は何よりも嫌い忌んでいたのだ。それはかなり強いものだった。
 男爵はこのことを話してであった。
「ですから」
「それでも。まだ」
「信じられませんか」
「どうにも」
 そのことを話さずにはいられないワーグナーだった。
「ですか。それならば」
「夜に王宮に」
「窺わせて頂きます」
「それでは」
 こうしてだった。ワーグナーは夜の王宮において王と会うことになった。そしてその時が遂に来た。しかしそれはなのだった。
「駄目か」
「申し訳ありません」
「やはり夜は」
「そうか」
 王はだ。周りの言葉を聞いて無念の声をあげた。
「明日になるか」
「既にワーグナー氏はミュンヘンに到着しています」
「間違いなく会えますので」
「ですから今は」
「御辛抱下さい」
「わかった」
 夜の謁見を止められだ。王は渋々ながら頷いた。
 しかしそれと同時にだ。彼はこう言うのだった。
「明日になればだな」
「そうです。間違いなくです」
「ワーグナー氏が王宮に来ます」
「時間は昼とのことです」
「既にあちらには礼装を渡しています」
「頼む」
 王は厳粛な声で告げた。
「昼だな」
「では今はお休み下さい」
「夜も遅いですし」
「ですから」
「寝られはしない」
 王はだ。深刻な顔でこう述べた。
「とてもな」
「明日のことを思えばなのですか」
「それで、ですか」
「今は」
「そうだ。明日のことを思えば」
 やはりそれであった。明日ワーグナーと会う、そのことを考えただけで王は目が冴えてだ。どうしても寝られなかったのである。
 

 

66部分:第五話 喜びて我等はその四


第五話 喜びて我等はその四

 だが今は会えない。王は仕方なく自室に入りそこで一人黙々と本を読んだ。読むのはワーグナーの本、彼にそこで会うのだった。
 場所は大広間である。青の綾錦が壁を飾り黄金の装飾はバロック様式のものである。その二色が大広間を飾っていた。
 まさに宮殿であった。それもルイ十四世のそれを彷彿とさせながらそのうえで青い静かな美しさもたたえた。ワーグナーは今そこに入ったのだ。
「間も無くです」
「王がなのですね」
「はい、来られます」
 男爵がワーグナーに告げていた。
「もう暫くお待ち下さい」
「時間をこれだけ長く感じたことはありません」
 黒い礼服に身を包み白いネクタイの姿でだ。ワーグナーは言うのであった。
「まことに」
「そこまで思われていますか」
「はい、バイエルン王が私に会われる」
 そのことを思うとであった。そうならざるを得なかった。
「夢ではありませんね」
「はい、これは現実です」
 何度目かのやり取りであった。
「ですから。御安心下さい」
「わかりました」
 ワーグナーは男爵の言葉に頷いた。そうしてであった。
 暫くしてであった。大広間に控える侍従長が言った。
「陛下が来られます」
 それを聞くとだった。控えている他の侍従も兵達も姿勢を正す。無論男爵もだ。
 ワーグナーもまだ反射的に姿勢を正す。そうしてであった。
 青と白の見事な服を着た長身の王が姿を現した。彼は静かに玉座に座る。そうしてそこからワーグナーを見て言うのであった。
「リヒャルト=ワーグナー」
「はい」
「ようこそ、バイエルンに」
 微笑んで親しげに声をかける。
「私は貴方を待っていました」
「有り難き御言葉」
「では」
 ワーグナーの言葉を受けてだ。王はさらに告げた。
「傍に」
「王のお傍に」
「はい。では接吻を」 
 王は立ち上がりそのうえでワーグナーを迎える。ワーグナーはぎこちない動きで王の足下に向かいそこに跪く。そして差し出されていたその右手に接吻するのだった。
 これが二人の運命の出会いであった。王はすぐにワーグナーに見事な屋敷と年金を与えそのうえで借金を肩代わりすることを取り決めた。即ちワーグナーの全てを支えることにしたのである。
 そのうえでだ。王は周りの者達に話すのだった。
「私の夢が適えられた」
「ワーグナー氏と会い」
「そしてですね」
「彼と出会えてどれだけ嬉しいか」
 恍惚として語るのだった。
「言葉では到底言い表せない」
「そこまで思われていますか」
「今日の出会いを」
「そこまで」
「思わないではいられない」
 これが王の今の言葉だった。
「まことにな」
「それでは陛下」
「これからもワーグナー氏とですか」
「御会いになられますね」
「会わないではいわれない」
 王はこうも言った。
「とてもだ」
「左様ですか。それでは」
「これからもですね」
「ワーグナー氏の音楽も」
「それもだ」
 王の言葉が続く。
「全てを愛さずにいられない」
「では陛下。明日にでも」
「ワーグナーとまた話したい」
 話もだった。彼は望んでいるのだった。彼の運命の出会いは果たされたのだった。
 

 

67部分:第五話 喜びて我等はその五


第五話 喜びて我等はその五

 そしてすぐにだった。ワーグナーに多くのものが授けられたのだった。
「豪奢な屋敷に別荘まで」
「馬車もあれば年金もだ」
「それに借金も肩代わりか」
「そこまでは予想通りだが」
 王宮に出入りする者達はここで王のワーグナーへの対応にいぶかしまざるを得なかった。それでだった。
「それ以上にだな」
「王は常にワーグナーと会われたいと仰る」
「実際にそうされる」
「あれではまさに」
「寵臣だ」
 この言葉が出た。
「陛下の寵臣だ」
「そしてワーグナーはだ」
「遠慮を知らないようだ」
 このことがだ。彼等の危惧の元だった。
「年金だけではない」
「金を湯水の様に使う」
「あれだけ使っていてはな」
「借金漬けになるのも当然だ」
「一体どういう金銭感覚をしているのだ」
 このこと自体が彼等にとってはいぶかしむに値することだった。
「あの男、止まることを知らず金を使う」
「使用人達に気前がいいのはいいことだが」
「しかし、服は常に絹だ」
 言うまでもなくだ。絹は贅沢なものである。ワーグナーは絹を愛しているのだった。
「絹以外は身に着けようとはしない」
「それ以外はという」
「まずはそれだ」
 服だけではないというのだ。
「とにかく金についてあまりにもな」
「何かにつけ贅沢だ」
「おまけに贅沢だけではないぞ」
「その女癖も酷いものだ」
 ワーグナーのこのこともまた問題になろうとしているのだった。
「バレエのダンサーや使用人に手をつける」
「その前には支援者の妻と不倫の仲になったらしいな」
「その通りだ」
「そうしたこともあった」
 このこともだ。ワーグナーにとって悪名になっていた。
 そしてだった。とりわけである。
「弟子のハンス=フォン=ビューローの妻だが」
「フラウ=コジマか」
「あの女性だな」
「フランツ=リストの娘の」
 この女が出て来たのであった。
「あの女とか」
「既に娘がいるぞ」
「あれはリストの娘ではないのか」
「違うのか」
「名前を見ることだ」
 その娘の名前にこそ謎があるというのだ。その名は。
「イゾルデというな」
「イゾルデ」
「イゾルデというと」
「彼の作品のヒロインだ」
 それだというのであった。
「まだ上演されていないがな。ウィーンでの数多くの練習の末上演されなかったというあの作品のな」
「その作品のヒロインの名前があるということは」
「その娘の父親はやはり」
「ワーグナーだというのか」
「まさかとは思うが」
「いや、そのまさかだ」
 そのことがだ。真実だというのである。
 そのことに気付いてだ。誰もが顔を顰めさせるのだった。
「弟子の妻をというのか」
「どういった男なのだ、ワーグナーは」
「倫理観がないのか」
「信じられん」
「おまけにユダヤ人への偏見も強いぞ」
「金銭問題や女性問題だけではなかった。この問題も出て来た。
「何故あそこまでユダヤ人を嫌うのだ」
「何かにつけてユダヤ人を批判するが」
 その批判についてはだ。こう言われてしまった。
「批判と呼んでいいのだろうか」
「あれは中傷ではないだろうか」
「あそこまでの感情的な攻撃となると」
「どうにもおかしい」
「何故彼はそこまでユダヤ人を嫌うかだが」
「個人的怨恨なのだろうか」
「いるらしいな。ユダヤ人の批評家が」
 ユダヤ人には知識人や金融業者が多い。それはドイツにおいてはとりわけそうである。その知識人にというのである。それであった。
 

 

68部分:第五話 喜びて我等はその六


第五話 喜びて我等はその六

「では彼に批評されてか」
「それで嫌っているというのか」
「ではそれは」
「個人的怨恨か」
「それによって嫌っているのか」
 ワーグナーのこのことについても考えられたのだった。
「あまり褒められたものではないな」
「いや、あまりどころではないぞ」
「とんでもない話だぞ」
「そうだ、金銭問題や女性問題と並んでだ」
「ワーグナーの由々しき点だ」
 とりわけそのユダヤ系の者達、ミュンヘンにも多くいる彼等が危惧を覚えたのであった。
「そうした人物か」
「音楽はいいとして」
「とんでもないことにならなければいいがな」
「いや、なるぞ」
「必ずなるぞ」
 こうも話されるのだった。
「このままではだ。陛下はワーグナーに心酔しておられる」
「そしてワーグナーは遠慮を知らない」
「だとするとか」
「充分以上に有り得るか」
「このままでは」
「どうすればいい、それでは」
 ここまで話されたうえでだった。具体的にどうすべきかという話になった。
「あの男については」
「取り返しのつかないことになる前に」
「何をすれば」
 彼等は真剣に危惧を覚えていた。ワーグナーのその人間性から来る問題とそれを原因として起こるかも知れない騒ぎにだ。しかしであった。
 王はだ。全く動じてはいないのだった。それを聞いてもだ。
「そうか」
「えっ、そうかとは」
「あの」
「それがどうかしたのか」
 こう言うだけであったのだ。
「全ては」
「しかしです。陛下」
「金銭だけでなく」
「女性も」
「それにユダヤ人嫌いもです」
「問題ではありませんか」
「それもかなり」
「金銭については最早何の問題もない」
 王はまずこのことについて述べたのだった。
「私が全てだ」
「受け持たれるのですね」
「そちらは」
「そうだ、それは全て私が援助する」
 ワーグナーの借金や生活のことはというのだ。全てだったのである。
 王についてはそれはだ。実に下らないことだった。金のことはだ。
「そんなことはだ」
「何でもありませんか」
「彼の浪費癖は」
「借金も」
「個人のことなぞどうとでもなる」
 王はまた答えた。
「大した問題ではない筈だ」
「確かに。その通りですが」
「それは」
「個人のことなぞ」
「そうだ。何ということはない」
 王の言葉はここでは変わらない。全くである。
「偉大な芸術家一人を助けることなぞ。バイエルンにとってはな」
「ではそれについてはですね」
「何ともないですか」
「全く」
「しかしです」
「女性は」
「噂ではないだろうか」
 王は金銭以上にだ。女性については素っ気無いのだった。
 その理由もだ。王も話すのだった。
 

 

69部分:第五話 喜びて我等はその七


第五話 喜びて我等はその七

「女性のことは」
「いえ、噂ではないようです」
「そのことですか」
「とかく噂が耐えません」
「今もです」
「私は噂なぞ聞きはしない」
 きっぱりと言い切った王だった。
「私のことは知っている筈だ」
「は、はい」
「そのことはです」
「知っているつもりです」
 誰もがだった。王のその言葉に畏まる。王は噂を好まなかった。そうした人についての陰口や中傷はだ。彼の嫌うところであったのだ。
 だからだった。彼はだ。それは金銭についてよりも素っ気無かった。
 その素っ気無さのままだ。王はまた話した。
「ではだ」
「はい、それではそのことは」
「いいのですね」
「それは」
「そうだ、私は全く気にしない」
 これがこの問題についての王の考えだった。
「それで問題はない」
「では彼のユダヤ人嫌いは」
「それは彼の本にも出ていますが」
「それについては」
「私がそれを用いなければいい」
 反ユダヤ主義についてもそうだというのだった。
「違うか。それは彼個人のことだ」
「彼個人の考えに過ぎないと」
「そのことはですか」
「そうだ。どうということはない」
 そうだというのであった。
「反ユダヤ主義は何も生み出さない」
「彼等は知識人に多く財界での発言力も強いです」
「それを考えればです」
「決して無視できません」
「何があっても」
「私とてそれはわきまえている」
 はっきりとした言葉だった。実にだ。
「これもそれで問題はないな」
「わかりました。それでは」
「そのこともですね」
「陛下は何ともないと」
「ではだ」
 ここまで話してまた言う王だった。今度の言葉は。
「これからのことだが」
「これからといいますと」
「ワーグナーについてですか」
「そのことですか」
「そうだ、トリスタンとイゾルデ」
 このオペラのことを話すのであった。
「その上演のことだが」
「はい、それですが」
「まず歌手選びで、です」
「揉めております」
「あの二つの役だな」
 王は周りの言葉にすぐに顔を向けて述べた。
「トリスタンとイゾルデだな」
「どちらもワーグナーが人を選ぶので」
「かなり難航しています」
「彼は。歌手への要求が厳しく」
「それに適う者が中々いないのです」
「歌手についてはだ」
 王はこのことについてもだ。言うのであった。
「彼に全てを任せる」
「左様ですか」
「そのことはですか」
「他のことも全て任せている」
 歌手選びだけではないというのだ。要するにオペラのことは全て彼に任せているというのである。
「私が口出しをすればかえって悪くなることだ」
「では陛下は資金援助に徹されると」
「そう仰るのですね」
「私にできるのはそれだけだ」
 王はワーグナーを心から信頼している。それが言葉になって出たのである。
「彼は全てを創る」
「音楽を」
「芸術をだ」
 ここでも王の顔が恍惚としたものになる。
 

 

70部分:第五話 喜びて我等はその八


第五話 喜びて我等はその八

「私はそれを観させてもらう」
「では陛下」
「全てを彼に委ねる」
 そのオペラについてだ。トリスタンとイゾルデについて。
「必ず素晴しいものが出来上がるぞ」
「ワーグナー、そこまで」
「素晴しいものを築き上げますか」
「そうだ。今度だ」
 ここでだ。王はこんなことを言うのであった。
「歌劇場に行こう」
「ミュンヘンのその」
「王立歌劇場にですね」
「私だけではない」
 王はさらに言うのだった。
「彼もだ」
「ワーグナーもですか」
「彼もまた」
「陛下と共に」
「彼と共にあの歌劇場に入り」
 そうしてだというのだ。王はそこで何をするのか。周りに語るのだった。
「そこで芸術について何処までも語り合いたい」
「芸術をですか」
「陛下が愛されているそれを」
「あの御仁と共に」
「彼の芸術こそが私の待っていた芸術なのだ」
 言いながらだ。瞼の中にローエングリンを観る。それは無意識のうちに、自然に彼の瞼の中に浮かんできたのである。まさにそうしたものであったのだ。
「あの音楽、そして舞台」
「全てがですね」
「陛下が待たれていたものだと」
「幼い時にあの白鳥の騎士を知り」
 そのローエングリンをだというのだ。
「そしてだ」
「そのうえで、ですか」
「あのオペラを御覧になられた」
「白鳥の騎士を」
「現実のものだったとは思えない」
 ローエングリンの舞台は。そうだったというのである。
「あれは夢だったのだろうか。いや」
 己の言葉を否定してだ。そのうえでさらに話す王だった。
「夢ではない。私は確かに観たのだからな」
「そのローエングリンだけでなく」
「そのトリスタンもですね」
「このミュンヘンで上演されますね」
「私がはじめて観るのだな」
 そのトリスタンをというのである。
「そうだな」
「そうなります」
「ウィーンでの上演は果たされませんでした」
「ですから」
「そう、そのトリスタンだ」
 王の言葉は恍惚となったままである。顔は上を見ておりさながら天上の存在を仰ぎ見るようであった。彼は今はその様にして語るのだった。
「一体どうしたものか。早く観たいものだ」
「既に脚本は出ていますな」
「彼自身が書いた脚本がです」
「既に」
 ワーグナーは脚本もまた自分で書くのだ。彼は己の芸術の全てを統括する。ただ音楽だけには止まらない人間、それがリヒャルト=ワーグナーなのである。
「それはもう御覧になられましたね」
「お読みになられたと思います」
「読んだ。しかしだ」
 王は認めながらもさらに言うのであった。
「それだけだ」
「読まれただけ」
「そうだと仰るのですか」
「それは」
「ワーグナーは読んだだけではわかりはしないものだ」
 それがワーグナーだというのである。
「聴くのだ」
「その音楽を」
「そうだというのですね」
「その通りだ。聴く」
 王はまた言った。
 

 

71部分:第五話 喜びて我等はその九


第五話 喜びて我等はその九

「そうでなければわかりはしないものだ」
「では。その音楽もまた」
「聴かれるのですね」
「舞台と共に」
「舞台もだ。ワーグナーは目にも訴えるものだ」
 舞台そのものにも非常な魅力があるというのであった。王はここでだ。あのローエングリン、そしてタンホイザーについて語るのであった。
「白鳥の騎士が水の世界から白鳥に曳かれた小舟に乗り現れる」
 そこに見る色は。
「青の中に。白銀の彼が出て来るのだ」
「その白鳥の騎士が」
「清らかなる姫を救いに」
「そうだ。そしてタンホイザーだ」
 この騎士についても語る王であった。
「あの騎士もまた」
「あの騎士は」
「どの世界にいた時でしょうか」
「ワルトブルグもいい」
 第二幕のだ。歌合戦の場であった。チューリンゲンにある城である。
「だが私は第一幕も好きだ」
「ヴェーヌスベルグ」
「あの場ですね」
「美しい」
 王のここでの言葉は一言だった。
「幻想の美がそこにある」
「地下の泉の中で踊る精霊達ですね」
「そして恋人達」
「泉の青と洞窟の白。花々の赤の中で」
「ヴェーヌスの世界の中で」
「あれもまた現実のものとは思えない」
 ここでもこう言う王だった。
「ワーグナーは。夢にあるものを現実に出せる芸術家なのだ」
「それができる数少ない存在ですね」
「まさに」
「そういうことだ。だからこそ」
 王は言う。
「私は彼の全てを愛するのだ」
「愛するとは」
「まさか」
「勘違いすることはない」
 同性を愛する王はだ。ここで己の言葉への誤解を解いた。そうしてだった。
「私は彼にはそうした愛情は抱いてはいない」
「といいますと」
「その愛情は」
「何だというのでしょうか」
「心だ」
 それだとだ。王は語った。
「私は彼を心で愛しているのだ」
「心で、ですか」
「それによってですか」
「彼を」
「そうだ。私は心で彼を愛している」
 王はまた言った。その中に静かだが深く熱いものを感じながらだ。そのうえで述べたのである。
 そしてであった。王はある人物の名前を出してきたのだった。
「そう、彼女と同じだ」
「彼女といいますと」
「あの方ですね」
「そうなのですね」
 周りの者達もだ。それでわかったのだった。
「エリザベート様」
「あの方ですね」
「あの方と同じですか」
「シシィ」
 王はその名前を出した。
「彼女と同じだ」
「そのエリザベート様ですが」
「あの方は旅を続けられています」
「今もです」
「欧州の各地を」
 そうしているというのである。そしてそれを聞いてだ。王も悩ましげな顔になってそのうえでだ。憂いに満ちた声で話してきた。
「ウィーンの宮殿から離れられてです」
「そうされています」
「残念なことだ」
 王はその憂いに満ちた声で言った。
 

 

72部分:第五話 喜びて我等はその十


第五話 喜びて我等はその十

「彼女にとってな」
「ウィーンではなくですか」
「エリザベート様にとってですか」
「そうだというのですか」
「そうだ。彼女にとってだ」
 これが王が残念だということだった。彼女にとってであるのだ。
「ウィーンは合わないのだ、彼女にとっては」
「オーストリアは非常に厳格です」
「格式に全てを固められています」
「それではエリザベート様がです」
「あまりにも気の毒です」
「厳し過ぎる」
 王は俯きながら言った。
「太后殿が特にだな」
「はい、そうですね」
「あの方がとりわけ厳格だとか」
「皇帝陛下のお母上の」
「あの方が」
「あの方が実質的なハプスブルク家の主だ」
 王はわかっていたのだ。このことまでもだ。
「夫君である大公殿以上にだ。皇帝陛下にも影響力を持っている」
「そして宮廷にもですね」
「皇帝陛下は非常に保守的な方だそうですが」
「それをさらに強いものにさせているとか」
「そうだというのですね」
「その通りだ。それはこの国も同じだがな」
 王はバイエルンもそうだというのだった。
「因習が多くしかも強い。仕方のないことだがな」
「王家ならば何処でもですね」
「まさにそうだというのですね」
「ハプスブルクもヴィッテルスバッハも」
「それはある。だがハプスブルクはそれが特に強い」
 王はまたハプスブルクのことを話した。
「シシィが旅に出るのも道理だ」
「始終森や湖を御覧になられているそうです」
「ですが異性は近づけないとか」
「馬に乗られ場所の中から世界を見られ」
 そうしているというのだ。彼女はだ。
「心を癒されているそうです」
「しかしだ」
 王はまた言った。
「彼女は愛してもいるのだ」
「陛下をですね」
「皇帝陛下を」
「あの方を」
「それは間違いない。シシィはあの方を愛してもいる」
 それもあるというのだった。愛は確かにあるのだとだ。
「だからこそ苦しんでもいるのだ」
「一体どうするべきなのでしょうか」
「このことは」
「どうすれば」
「わからない」
 王もだ。このことには首を横に振るばかりだった。
「鳥は宮廷には留まれない。篭の中にはいられないのだ」
「だからこそですか」
「あの方は旅を続けられる」
「左様なのですか」
「どうするべきか」
 また言う王だった。
「それが問題なのだが」
「ウィーンが変わればいいのでしょうか」
「それともあの方が」
「ウィーンが変わることは難しい」
 王はそれについては悲観的であった。
「あの宮廷はとりわけだ」
「歴史ですね」
「それによって」
「そうだ、歴史だ」
 まさにそれによってである。王は見ていた。
 

 

73部分:第五話 喜びて我等はその十一


第五話 喜びて我等はその十一

「歴史がだ。あの宮廷を縛り付けているのだ」
「神聖ローマ帝国皇帝であったその歴史がですか」
「そして今も皇帝であるということがなのですね」
「そうしたことが」
「そうだ。ヴィッテルスバッハもそうだが」
 バイエルン王家も神聖ローマ帝国皇帝だったことがあるのだ。だがおおむねにおいて神聖ローマ帝国皇帝といえばだ。ハプスブルク家に他ならなかった。
 王はこのことは誰よりもよくわかっていた。わかり過ぎる位にだ。だからこそ今言うのだった。
「縛られてしまうのだ」
「エリザベート様には合わないですか」
「あの宮廷は」
「結論から言おう」
 王はまずはこう言葉を置いてから述べた。
「合いはしない」
「やはりですね」
「それは」
「どうしてもだ。それが運命だとしたら」
 王はここでも遠いものを見る目で話していく。
「シシィにとっては悲劇だ」
「その通りですね」
「それにつきましては」
「あの時会ったが」
 王の顔は曇ったままだった。
「皇帝陛下との仲は決して悪くはない」
「それ自体はなのですね」
「良好ですか」
「そうなのですか」
「あの皇帝陛下は」
 フランツ=ヨーゼフ帝である。言わずと知れたオーストリア皇帝にしてそのエリザベートの夫である。ハプスブルク家の主でもある。
「悪い方ではない」
「かなり生真面目な方と聞いていますが」
「しかも質素だと」
「その通りだ。贅沢も好まれぬ」
 王もそのことはわかっているのだった。
「そしてだ」
「そしてですか」
「何かがあるのですね」
「そうだ。人間としても素晴しい方だ」
 そうであると。王は話す。
「温厚でだ。道を踏み外す様なことはされない」
「しかしその方と愛し合っていてもですか」
「それでのなのですね」
「宮廷とは」
「そうだ。ウィーンの宮廷とは合わないのだ」
 やはりそうだというのである。
「それが問題なのだ」
「エリザベート様も苦しいところですね」
「ここは」
「どうされるべきか」
「私も何かと話を聞きたいが」
 そのエリザベートの話だというのだ。
「少なくとも今の私はだ」
「はい、陛下は」
「どうなのでしょうか」
「ワーグナーがいてくれている」
 その彼がだというのである。
「彼の芸術がだ」
「陛下を励まされていますか」
「その御心を」
「心だ。ワーグナーの心だ」
 彼の心でもあるというのだった。
「それが素晴しい。何時までもワーグナーの芸術を傍に置いておきたいものだ」
 これが彼の心からの願いだった。それが何時までも果たされることを願っていた。しかしであった。
 ベルリンにおいてだ。ビスマルクは首相官邸においてだ。官僚達の話を聞いていたのだった。
「それではだ」
「はい、左様です」
「そうなっています」
「ミュンヘンでは」
「ワーグナーの話は聞いていた」
 ビスマルクは己の机に座りその上に置かれている様々な書類を見ながらだ。そのうえで官僚達に対してこう返したのであった。
 

 

74部分:第五話 喜びて我等はその十二


第五話 喜びて我等はその十二

 そのうえでだ。彼はこう言った。
「だが。思った以上にだ」
「彼は反発を受けています」
「それも深刻なものになろうとしています」
「それがどうなるでしょうか」
「これから」
「破局だな」
 ビスマルクは一言で述べた。
「これはだ」
「破局ですか」
「そうなるというのですか」
「結果は」
「バイエルン王にとっては残念なことだが」
 ビスマルクの言葉に同情が宿っていた。その厳しい顔にも同じものが宿っていた。そうしてそのうえで言葉を出すのであった。
「このままいけばだ」
「破局なのですか」
「そして結果として、ですか」
「バイエルン王とワーグナー氏は」
「そうなると」
「人は出会い別れる」
 ビスマルクはまた述べた。
「それが人生というものだ」
「確かに。人生はそうです」
「出会いと別れのものです」
「生まれてから死ぬまで」
「その二つが常に向こうからやって来るものですね」
「つまりは」
「その通りだ。ただ」
 ここでだ。ビスマルクはミュンヘンの方をちらりと見てだ。王について話した。ここでの王は彼が仕えるプロイセン王ではなく異国のバイエルン王だ。
「あの方がそれに耐えられるか」
「別れに」
「それに」
「繊細な方だ。触ればそれで折れてしまうかの様に」
 バイエルン王のことを話していく。
「そうした方だから」
「ワーグナー氏と別れるとなると」
「それでどうなるか」
「あの方のことを理解するべきだ」
 ビスマルクは言った。
「宮廷の者達もミュンヘンの者達もだ」
「では理解すれば」
「どうせよというのでしょうか、彼等は」
「一体」
「王の考えを受け入れるべきだ」
 そうだというのであった。
「是非な」
「左様ですか」
「それではですか」
「ワーグナー氏はあのままミュンヘンに」
「そうするべきなのですね」
「些細なことだ」
 ビスマルクはこうも述べた。
「実にな。一人の芸術家のその贅沢や女性関係なぞは」
「それよりもその芸術家がもたらす芸術ですね」
「それなのですね」
「そうだ、それだ」
 まさしくそれだというのである。
「芸術の前にはだ」
「その者の行いなぞ」
「些細なのですね」
「芸術はそれだけ尊いものだ」
 ビスマルクは言うのだった。
「それは永遠に残り」
「永遠にですね」
「歴史に」
「その通りだ。人の歴史に永遠に残る」
 まさにそうだというのである。これがビスマルクの言葉だった。
「その心にもだ。特にワーグナーはだ」
「ワーグナーはですか」
「とりわけなのですね」
「その通りだ。モーツァルトやベートーベンに匹敵する」
 そこまでだとだ。ビスマルクもまたワーグナーを高く評価していたのだ。
 

 

75部分:第五話 喜びて我等はその十三


第五話 喜びて我等はその十三

 だからこそだ。彼もまた今それを話すのだった。
「その彼の芸術を理解して護るバイエルン王はだ」
「正しいのですか」
「今は」
「そうなのですか」
「それがわかる者は少ない」
 遠い目をしていた。彼にしては珍しくだ。
「このドイツにもな」
「少ないですか」
「ではミュンヘンにもそれがわかる者は」
「少ないのですね」
「私はわかるが」
 彼自身はだという。しかしその顔は苦いものだった。
「他にわかる者はだ」
「誰でしょうか、他には」
「それがわかる方は」
「どなたが」
「オーストリア皇后か」
 エリザベートだというのだ。ビスマルクもまた彼女を知っていた。
「ワーグナー自身の他には」
「あの方とだけですか」
「三人だけですね」
「それだけなのですね」
「それがあの方にとっての不幸にならなければいいが」
 バイエルン王をだ。心から気にかけての言葉であった。
「本当にな」
「閣下、まさか」
「まさかと思いますが」
 そしてビスマルクの今の言葉と表情でだ。官僚達も気付いたのであった。
 それで懸念する顔になってだ。その彼に問うた。
「閣下はバイエルン王は」
「お嫌いではないのですか?」
「むしろ好きだ」
 そうだというのだった。
「好きだ。よい方だ」
「そうなのですか」
「よい方なのですか」
「そう言われますか」
「人柄だけではない」
 それに止まらないというのだ。
「資質も素晴しい方だ」
「王としての資質もですか」
「それもまた、ですか」
「素晴しい方ですか」
 彼等は驚きを隠せなかった。ビスマルクの人物評は辛辣なことで知られているからだ。無論彼等もそれを知っている。しかしなのだった。
 今ビスマルクはだ。明らかに好意を見せていた。そしてそのバイエルン王に対して高い評価を見せているのであった。
 そのことに驚きながらだ。彼に問うのだった。
「ワーグナーを見つけたからですか」
「だからこそですか」
「ワーグナーはドイツの芸術を永遠に輝かせる者だ」
 ビスマルクはこう言ってワーグナーを高く評価する言葉も出した。
「その彼を護っていることは素晴しい」
「だからですね」
「それでなのですね」
「それであの方を」
「だが違う」
 それとは違うというのであった。
「それとは違うのだ」
「といいますと」
「どういうことでしょうか」
「あの方自身にあるものだ」
 それだと。ビスマルクは話した。
「それこそがだ」
「王としての資質ですか」
「それなのですね」
「カリスマもある」
 王のそうしたところも認めている彼だった。
 

 

76部分:第五話 喜びて我等はその十四


第五話 喜びて我等はその十四

「だからだ。あの方はだ」
「見事な王ですか」
「色々と言われてもいますが」
「それでもなのですね」
「そういうことだ。ワーグナーだけではない」
 彼はまた言った。
「あの方は素晴らしい方だ」
「しかしあの方はカトリックです」
「そしてプロイセンとは何かと対立もします」
「決して味方とは限りません」
「それでもですか」
「あの方をそこまで」
「敵だからといって認めないことはだ」
 これが王の言葉だった。
「それは愚か者のすることだ」
「例えバイエルン王であってもですか」
「敵であっても認める」
「そうせよと」
「さもなければ誤る」
 ビスマルクの言葉は冷徹ですらあった。
「全てをだ」
「しかし今の閣下のお言葉は」
「それ以上のものを感じますが」
「それはどうなのでしょうか」
 官僚達はだ。また怪訝な顔になって彼に話した。
「お言葉ですが個人的な感情もありませんか」
「それはどうなのでしょうか」
「それもある」
 そしてだった。ビスマルクもそれは否定しないのだった。
「やはりな。そして」
「そして」
「そしてなのですか」
「あの方の様な人もいていいのだ」
 何処かだ。大切なものを護りたいというものも見せていた。
「そしてだ。あの方はドイツにとっての財産ともなられる方だ」
「財産ですか」
「そうだと」
「そうだ。しかしな」
 嘆息だった。そのうえでの言葉だった。
「今それがわかる者はだ」
「少ない」
「どうしてもですか」
「私はわかる」
 ビスマルク自身はだというのだ。
「わかるからこそ言えることだ」
「そしてオーストリアのエリザベート様」
「お二人だけですか」
「傍に誰かいればいいのだが」
 王をだ。心から気遣う言葉であった。
 

 

77部分:第五話 喜びて我等はその十五


第五話 喜びて我等はその十五

「バイエルン、ひいてはミュンヘンにな」
「あの方を理解し助けられる方が」
「そうした方がミュンヘンに」
「若しいれば」
 その時はどうするか。ビスマルクが話す。
「私はできるだけの助けをしたい」
「左様ですか」
「それではその時は」
「そういうことだ。それではだ」
「はい、それでは」
「次の案件ですが」
 官僚達は話題を変えてきた。それは。
「デンマークのことですが」
「宜しいでしょうか」
「シュレスヴィヒ、ホルシュタインのことだな」
 ビスマルクは官僚達の話を受けてすぐにこう述べた。
「あの二つだな」
「そのオーストリアも介入しようとしています」
「如何されますか、それは」
「今のうちに潰しますか」
 官僚の一人が述べた。
「介入の目は」
「そうしてプロイセンだけで仕切りますか」
「どうされますか」
「いや、それは止めておこう」
 ビスマルクはオーストリアの介入を防ぐことはしないというのだった。その目の光が賢明だがどこか危険な、鷲の様な目になっていた。
 その目でだ。彼は話すのだった。
「ここはできればだ」
「できれば」
「どうされますか」
「それでは」
「共に介入しよう」
 これがビスマルクの考えであった。
「そうすればオーストリアも怒らないだろう。そして」
「そして?」
「それからは」
「それからまた仕掛ける」
 ビスマルクは言った。
「既に準備はできているのだしな」
「左様ですか」
「それでは今は」
「共にですね」
「そういうことだ。あと今日の晩餐だが」
 その時の話もだ。今するのであった。
「参謀総長と共に摂りたい」
「モルトケ閣下と」
「そうされますか」
「明日はクルップ社長と会おう」
 明日の話もするのだった。それもであった。
「わかったな。晩餐と明日はそうする」
「参謀総長とクルップ社長にですか」
「それはまた何故」
「お二人と会われるとは」
「またわかることだ」
 今はこう言うだけに留めるビスマルクだった。
「とにかくだ。今はそうするのだ」
「わかりました。それでは」
「まずは今宵の晩餐ですね」
「そうされるのですね」
「その通りだ。いいな」
 こう話してであった。ビスマルクはバイエルン王を気遣いつつもそのうえで今後の政治を考えていた。ドイツはプロイセンの彼を軸にしてだ。大きく動こうとしていた。そしてその中に王もいるのだった。


第五話   完


                  2010・12・16
 

 

78部分:第六話 森のささやきその一


第六話 森のささやきその一

                  第六話  森のささやき
 ビスマルクは首相官邸においてだ。鷲鼻の痩せた顔の男と向かい合ってそのうえで食事を摂っていた。見ればその男は厳しい、独特の灰色の軍服を着ている。乗馬のそれを思わせるズボンと黒いブーツがよく似合っている。
 その彼がビスマルクと共にいる。だが彼は話そうとはしない。
 しかしだ。ビスマルクが先に口を開いてきた。
「参謀総長はこの料理がお好きか」
「牡蠣ですか」
「そうだ。それは好きか」
 見れば二人は今生牡蠣を食べている。殻から出したそれを食べながらだ。ビスマルクはこうその男モルトケに対して問うのであった。
「牡蠣は」
「嫌いではありません」
 モルトケは静かにこう返した。
「私もまた」
「そうか。それは何よりだ」
 ビスマルクは彼の今の言葉にまずは微笑んだ。そしてであった。
 自分の皿の上の牡蠣は全て食べ終えた。そのうえで周りの者に言うのだった。
「お代わりだ」
「わかりました」
 こうしてだ。すぐに別の皿から牡蠣が出された。見ればその殻から出した牡蠣にはレモンが添えられている。すぐにそのレモンが絞られ牡蠣の上にかけられる。
 それを見ながらだ。ビスマルクは満足した顔で言うのだった。
「牡蠣はいい」
「そういえば宰相殿は」
「前にあれだったな」
 モルトケの言葉に応えてだ。楽しげに話しはじめた。
「百個食べたことがあったな」
「それ以上だったのでは?」
「百七十個程だったか」
 それだけ食べたというのである。
「あの牡蠣は実に美味かった」
「成程、そうでしたか」
「それでだが」
 一旦シャンパンを飲んでからだ。ビスマルクはモルトケに対してあらためて言ってきた。
「一つ聞きたいことがあるのだが」
「シュレスヴィヒとホルシュタインのことですね」
 モルトケはすぐに答えたのだった。
「あの場所のことですね」
「話が早いな。その通りだ」
「オーストリアと共に介入する」
 モルトケは淡々とした口調で話していく。
「そうされるのですね」
「準備はできているか」
「はい」
 即答であった。
「何時でも」
「早いな」
「何時何があるかわかりませんから」
 これがモルトケの返答であった。
「ですから」
「有事は何時でもだな」
「その通りです。それで閣下」
「何だ」
「戦争をされても。オーストリアはいいのですが」
「わかっている。あの国だな」 
 ここでだ。彼は言った。
「バイエルンのことだな」
「その通りです。あの国はどう動くでしょうか」
 モルトケは冷静な顔で問うた。戦争はプロイセンとオーストリアだけでやるものではない。彼はただの軍人ではないのであった。
 政治もわかっている。だからこその言葉であった。
「私が思うにはだ」
「どう思うか、バイエルンについて」
「カトリックです」
 それが大きいのだった。カトリックであることがだ。
「オーストリアと同じ」
「そうだな。それに対して我がプロイセンは」
「プロテスタントです」
 この二つが大きかった。実にだ。宗教はこの時代においても大きな意味を持っていた。ドイツはそういった意味では三十年戦争の頃から変わってはいなかった。
「その二つの問題があります」
「この二つだな」
「そうだ、その二つだ」
 ビスマルクもだ。それがわかっているのだった。
 

 

79部分:第六話 森のささやきその二


第六話 森のささやきその二

 彼は冷静にだ。牡蠣を食べながら言った。
「バイエルンはカトリックだ。ドイツの南部はカトリックの牙城の一つだ」
「そしてバイエルンこそがその中心にいます」
「結果として我がプロイセンを嫌っている」
 それ故にである。
「それもかなりな」
「だからこそ。バイエルンは」
「オーストリアにつくな」
「しかもです」
 モルトケもまた、だった。その言葉を続けるのだった。
「オーストリアの皇后は」
「ヴィッテルスバッハ家の方だからな」
「そうしたことも考えますと」
「バイエルンはオーストリアにつく」
 ビスマルクはここでは断言した。
「間違いなくな」
「その通りです。その場合は」
「バイエルンをどうするか」
 それが問題であった。ビスマルクはそれについても考えていたのだ。
「戦争はするからにはだ」
「短期で終わらせるべきです」
「長引いては誰も得をしない」
 つまり短い戦争だからこそだというのだ。意味があるというのだ。
「全くな」
「はい、戦争はすぐに終わらせないと」
「しかしだ。オーストリアの軍は旧式とはいえ、だ」
 既にだ。オーストリア軍についても調べているのだった。
「数は多い」
「戦争は数です」
「少し間違えれば長期戦になる」
「オーストリアとの戦争を短期に終わらせる計画は既にできています」
「それもか」
「はじめれば。すぐに」
 モルトケは鋭い目でだ。ビルマスクに対して言い切ってみせた。
「それができます」
「早いな。そこまでか」
「ただしです」
 ここでだった。モルトケは言葉を限ってきた。そのうえでの言葉だった。
「オーストリアと戦う計画だけです」
「オーストリアだけか」
「必要な戦略だけを考えています」
 そしてなのだった。こうも告げたのであった。
「あくまで」
「面白い話だな。そこまでか」
「バイエルンについてはです」
「何の計画も立てていないな」
「その通りです」
「そうだ。それでいい」
 そしてだった。ビスマルクもこう言うのであった。
「あの方は全てをわかっているのだからな」
「情勢を全てですね」
「そういうことだ。あの方は決して愚かではない」
 ビスマルクはここでも王に対して語る。そしてここでもだった。
「むしろ非常に聡明な方だ。政治もわかっておられる」
「政治もまたですね」
「それがわかっている者は少ない」
 ここでもこう言う彼だった。
「清らかなる愚か者なのだ」
「清らかな愚か者ですか」
「そうだ。愚かだが愚かではない」
 そうだというのだった。
「あの方はな」
「ではバイエルンは」
「動かない」
 ビスマルクは言った。
「オーストリアについてもだ」
「ですね。ですからオーストリアに専念します」
「そして戦争を短期でだな」
「戦争はこれで終わりではありません」
 オーストリアとの戦争だけはないとだ。モルトケは見ていたのだ。
 

 

80部分:第六話 森のささやきその三


第六話 森のささやきその三

「オーストリアの次は」
「フランスだが」
「ナポレオン三世は策謀を好みます。それにどうするか」
「案ずることはない。策謀といってもだ」
 どうかとだ。ビスマルクは軽く話す。
「たかが知れている」
「たかがですか」
「そうだ。知れている」
 こうモルトケにだ。軽い調子で話すのだった。
「やることも見えている」
「それもですね」
「だからだ。仕掛けてきたならばだ」
「その時は」
「こんな言葉がある」
 ビスマルクは素っ気無く言った。また牡蠣を食べ終える。するとすぐに新しい皿が来た。
「策士策に溺れるだ」
「策にですか」
「あの御仁に相応しい言葉だ」
 その言葉こそがだと。ビスマルクは話す。
「そういうことだ。仕掛けてくればだ」
「その時にこそ」
「必ず来る」
 ビスマルクは確信さえしていた。
「あの御仁はな」
「そうですな。あの御仁は何かと口を挟むお人です」
 それはモルトケもわかっていた。二人共全てわかっているのだった。
 そのうえでだった。二人は言うのであった。
「では。まずはオーストリアを終わらせて」
「その通りだ。そのオーストリアだが」
「勝ち取られるものはやはり」
「いや、多くは求めない」
 ビスマルクはそれはしないと言った。
「勝利を収めオーストリアを抑えるだけで充分だ」
「今後を考えますと」
「そういうことだ。確かに大ドイツ主義はプロイセンにとって不都合だ」
 大ドイツ主義とはオーストリア主導でのドイツ統一だ。それはプロイセンにとっては決して受け入れられるものではないからだ。だからだ。
「しかしだ。プロイセン主導のドイツが成立したならばだ」
「そのドイツだけではやってはいけないからこそ」
「オーストリアはそのドイツの友邦にしなければならない」
 ビスマルクはそこまで考えているのであった。
「それとロシアとはだ」
「決して戦ってはなりませんね」
「カール流星王もナポレオンも敗れた相手だ」
 だからこそだというのだ。それは避けるというのだった。
「ドイツは鉄と血で成立するがだ」
「しかしそれと共に平和もまた」
「鉄と血で護る。戦争なぞは統一されればもうすることはないのだ」
 あくまで政治としての一手段だというのだ。それが彼の考えだった。
 それでだ。彼等は言っていくのだった。
「ロシアともだ」
「では東はオーストリア、ロシアと手を結び」
「南のイタリアとも交流を深めていこう」
 ビスマルクはイタリアも見ていた。
「あの国も遂に一つになろうとしているからな」
「だからこそですね」
「そうだ。何はともあれオーストリアは」
「勝利だけを求め」
「多くは求めない。後を考えてだ」
「わかりました。それでは」
「それを念頭に戦争を進めていく」
 ビスマルクは言い切った。既に全ては彼の頭の中にあった。
「ドイツの為にだ」
「では。機が来れば」
 モルトケも頷く。今彼等は牡蠣を楽しんでいた。そして。
 バイエルン王はだ。今ある場所に向かっていた。青と金のロココ調の、天井にまでアラベスクを思わせる左右対称の模様が描かれたその車両の中でだ。紅のワインと子牛の肉を口にしながらだ。こう言うのであった。
「シシィと会えるのだな、いよいよ」
「はい」
「その通りです」
 こう答える侍従達だった。
 

 

81部分:第六話 森のささやきその四


第六話 森のささやきその四

「エリザベート様もご一緒です」
「皇帝陛下と」
「いいことだ。確かにシシィには旅が必要だ」
 肉をナイフで切る。濃厚な白いソースがその切られた間に入る。
 それを口にしてだ。肉とソースの絡み合いを楽しみながらまた言うのだった。
「しかしだ」
「しかしですか」
「そうだ。少しは陛下と一緒にいないとだ」
「いけません」
「それもまたシシィの為だ」
 こうだ。従姉を気遣って話すのだった。
「皇帝陛下と共にいることもだ」
「皇帝陛下もエリザベート様も愛し合われています」
「それは確かです」
 侍従達がこう話していく。それは彼等も知っていたのだ。
「ですが。ハプスブルク家、ウィーンはあまりにも慣わしが多く」
「格式が高いあまり」
「それはシシィにはよくない」
 ハプスブルク家のその格式がだというのだ。
「合わない。思えば因果なことだ」
「因果ですか、それは」
「そうだと仰るのですか」
「その通りだ」
 見事なガラスのグラスを手に取った。そのうえで口の中に入れてだ。ワインの芳香と味覚を味わいながら侍従達に話すのだった。
「二人は愛し合っていてもだ」
「周囲には馴染めない」
「そうなのですね」
「夫婦とはそういうものなのか」
 王は遠い目で話した。
「所詮は。男女の愛なぞ」
「いえ、愛はです」
「男女のものではないのですか」
 侍従達は王の今の言葉には怪訝な顔になった。
「だからこそ成り立つのではないのですか」
「違うのですか」
「それだけではないのではないのか」
 王はだ。今度は懐疑的な顔になった。
「私は。少なくとも」
「陛下は」
「どうなのですか」
「いや、いい」
 それ以上は言わなかった。そうしてだ。
 食べながらだ。彼はまた言った。
「では今からシシィのところに行こう」
「はい、それでは」
「今より」
「私にとってもいいことだ」
 王はだ。微笑んで述べた。
「シシィに会える。久し振りにな」
「お元気だとのことです」
「顔色もいいそうで」
「鳩はどうして鳩か」
 王の言葉だ。
「空を飛んでのことだ」
「空を飛ぶからことですか」
「だからですか」
「しかし時には休むことも必要なのだ」
「それが今ですね」
「陛下が向かわれる場所ですね」
「その通りだ。鳩は今安らぎの中にいる」
 こう話していく。
「鷲はその前に行こう」
「それでは陛下、今から」
「どうされますか」
 侍従達は肉を食べ終えた王に対して問うた。
「新しいワインをお持ちしましょうか」
「そしてデザートは」
「ワインはもういい」
 それはというのだった。
 

 

82部分:第六話 森のささやきその五


第六話 森のささやきその五

「もうな」
「ではデザートだけですね」
「そうだ。何があるか」
「アイスクリームがあります」
 それがあるというのだ。アイスクリームだというのだ。
「それで宜しいでしょうか」
「わかった。ではそれを頼む」
「はい、それでは」
 こうしてだった。王はそのデザートを楽しむのであった。
 そうしてであった。彼は食事も楽しみながらそのうえで従姉のところに向かった。そうしてそのうえでだ。フランケンの鉱泉の町キッシンゲンに着いた。
 そこは美しい公園や庭園があちこちにあり薔薇が咲き乱れていた。紅や白や黄色の花々を見ながらだ。王は満足した顔でこう言った。
「やはりいいものだな」
「薔薇がですね」
「私は薔薇が好きだ」
 こうだ。また侍従達に話すのだった。
「見ているだけで幸せになる」
「そしてですね」
「この花も好きだ」
 今度は青い花も見ていた。それは。ジャスミンであった。他の花もあったのだ。
「青い花もな」
「陛下は青がお好きですね」
「いい色だ」
 目を細めさせての言葉だった。その整った青い目のだ。
「青い花は種類は少ないがな」
「そうですね。チコリやヤグルマギクがありますが」
「スミレや菖蒲はあっても」
「全体的に少ないですね」
「どうしても」
「だからこそかも知れない。私は青い花が好きだ」
 こう言うのであった。その青いジャスミンを見ながら。
「願わくばだ」
「願わくば」
「一体」
「私は最後はこの花達に見送られたい」
 こうだ。ジャスミンを見ながら話す。
「そう思う」
「陛下、そうしたお言葉は」
「どうかと思いますが」
「そうだな。確かにな」
 王も侍従達のその言葉に頷く。いわれてみればなのだった。
 そうしてだ。彼はこう言い換えるのだった。
「この花達に囲まれて生きていたい」
「それは何時でもできますので」
「御安心下さい」
「そうだな。薔薇だけではなく青もだ」 
 薔薇も出す。しかし青もなのだった。
「私は共に愛する」
「青い薔薇というのはありませんし」
「それは」
「やがてできるかも知れない」
 王の言葉はここでは希望を見ているものだった。
「やがてな」
「やがてできますか」
「そうした青い花も」
「そうだというのですね」
「そうだ。世界は常に前に進んでいる」
 そのことが無条件に信じられていた時代でもあったのだ。だから王はこうして話すのだった。話すことができるのであった。
 その希望を見る目でだ。王はさらに話す。
「だからこそ。やがては」
「青い薔薇もまた」
「出て来ますね」
「私は見ないだろうが」
 それは諦めていた。無理だとだ。
「だが。やがては生まれるだろう」
「左様ですか」
「青い薔薇もまた」
「青は人を清らかにさせる」
 ここでも青を見てだ。いとしげに話した。
 その青いジャスミンの園を歩きながらだ。彼はそこに向かった。
 そこにいたのは。茶色がかり波になっている極めて長い、しかも豊かな髪を持ち琥珀を思わせる神秘的な輝きを放つ目を持っている。細面であり鼻が高い。目鼻はどれもまるで彫刻の如く整い何かの芸術品を思わせる。長身でありすらりとしている。その長身を白いドレスで包んだ彼女がだ。そこにいた。
 

 

83部分:第六話 森のささやきその六


第六話 森のささやきその六

 白い宮殿を思わせる建物の中でだ。二人は会った。王はにこやかに彼女に言うのであった。
「お久し振りです」
「はい」
 美女もだ。にこやかに彼に応えた。
「貴方もお元気そうですね」
「お陰様で。今日はよくこちらに来られました」
「私が一人でいないのは珍しいでしょう」
 美女はここではその言葉に少し自嘲を込めた。
「そう言う者が多いですね」
「御気になさらずに」
 王はその彼女にこう返した。
「下らぬ言葉なぞ。耳に入れることもありません」
「オーストリア皇后として相応しくないというのですね」
「そうは言いません」
 王はそれは否定した。二人が今いるその場所は白い円柱に壁に。そして薔薇とジャスミンに囲まれて緑の庭がある。白をベースにして様々な色で飾られた。そんな場所であった。
 そこにおいてだ。王はそのオーストリア皇后、自身にとって七歳年上であり従姉エリザベートに対して。親しく声をかけるのであった。
「ただ。貴女の御心を痛ませるだけですので」
「だからですね」
「そうです」
「有り難うございます」
 皇后は王に対して静かな礼を述べた。
「ではそのお言葉。有り難く受けさせて頂きます」
「私としてもそうして頂けると何よりです」
「左様ですか」
「はい。それでなのですが」
 王からの言葉であった。
「皇帝陛下はどちらにおられるでしょうか」
「こちらに」
 いるというのだった。
「御会いになられますね」
「できれば」
 そうしたいと。王も述べた。
「御願いします」
「わかりました。それでは」
 皇后が案内をする。こうして二人はその宮殿、神殿を思わせるその中を進んでいく。その中においてであった。
 皇后は。王を案内しながらこんなことを言ってきたのであった。
「音楽家と会われたそうですね」
「ワーグナーですね」
「はい、彼をミュンヘンに招いたとか」
「はい」
 その通りだと。王は答えた。白いその廊下を進みながら。
「会わずにはいられません」
「会わずに、ですか」
「今はこうしてここにいますが」
 それでもだとだ。言葉に出ていた。
「ですが。彼の芸術のその全てがです」
「ワーグナーといえば」
 ここでだ。皇后もまたそのワーグナーについて話すのだった。
「ウィーンではちょっとした有名人でした」
「トリスタンのリハーサルですね」
「七十七回もそれを行い」
 リハーサルの数としては尋常なものではない。ワーグナーは完ぺき主義者であった。その為リハーサルも徹底して行う男なのである。
 そのことをだ。皇后も知っていてそれで今話すのであった。
「しかしそれでもです」
「上演されなかったのですね」
「はい、そうです」
 その通りだというのである。
「ウィーンの歌劇場においては」
「オーケストラも困難ですが」
 まずそれもなのだった。
「数が非常に多いのですね」
「ワーグナーのオーケストラはどれもそうと聞いていますが」
「そうです、壮大なのです」
 そうであるとだ。王は七歳年上の従姉に半ば恍惚として語る。
「その壮大さもまたワーグナーなのです」
「それもですね」
「そうです。それに」
「それに」
「歌手もです」
 それについても話すのだった。
 

 

84部分:第六話 森のささやきその七


第六話 森のささやきその七

「それもなのです」
「主役の二人ですか」
「楽譜を見ました」
 王は楽譜を理解できる。その音楽に対する造詣は尋常なものではなかった。王の教養はそうしたところにまで及んでいたのである。
「それを見る限りはです」
「困難な役ですか」
「トリスタンもイゾルデも」
 そのどちらの役もだとだ。王は話すのだった。
「どちらも人が歌えるかどうか」
「そこまで困難な役だと」
「そうです」
 王はまた語る。
「それでウィーンの上演は果たせなかったのですね」
「歌手が自信をなくしてしまったと聞いています」
 皇后がここでまた語る。
「そのトリスタンを歌う歌手が」
「その様ですね。そしてその結果」
 ウィーンでは上演できなかった。そういうことであった。
 それを話しながらだ。王は皇后にこんなことを話した。
「それで私はです」
「貴方は?」
「彼の思うままにです」
 全てワーグナーに委ねると。こう言うのだった。
「上演させることにしました」
「そのトリスタンとイゾルデを」
「予算を保障し」
 何につけても予算であった。それがなければ何も動かない。そういうことだった。
「そして人を選ぶのもです」
「彼に任せたのですか」
「まず指揮者が来ました」
 最初はそれであった。
「彼の愛弟子であるハンス=フォン=ビューローです」
「プロイセン出身のその指揮者ですね」
「彼には奇妙な縁がありまして」
 王はビューローについてもだ。話を続けるのであった。
「実は彼の妻は」
「フラウ=コジマですね」
「そうです。御存知でしたか」
「フランツ=リストの娘でしたね」
 この者の名前も出て来た。彼こそはだ。
「あのワーグナーの最大の理解者とも呼ばれている」
「はい、彼にとってはもう一人の自分です」
 そこまでの存在だと。皇后に対して話す。
「そうローエングリンの総譜にも書いています」
「彼を何かと助けたとか」
「そのリストの娘なのです」
「それもまた縁ですね」
「顔立ちは彼にそっくりです」
 コジマのその顔がだというのである。
「本当に何もかもがです」
「その娘が弟子の妻である」
「まことに奇妙な縁です」
「縁はあらゆる人を招き寄せますね」
「そうですね。その縁によって私と彼は会えましたし」
 それは王自身もだというのだった。
「そして歌手も呼ばれています」
「歌手もまた」
「はい、そうです」
 今度はだ。歌手のことであった。それについても話されるのだった。
「歌手もまた彼が選び招き寄せたのです」
「誰でしょうか」
「カルロスフェルト夫妻です」
 王が名前を出したのはだ。夫婦であった。
「その二人が主役の二人を演じることになります」
「カルロスフェルト夫妻といいますと」
「御存知でしょうか。ワーグナーも認めるこのドイツ屈指の歌手の夫婦でして」
「そこまでの人物なのですか」
「はい、その二人が主役の二人を務めます」
 こう皇后に話していく。
 

 

85部分:第六話 森のささやきその八


第六話 森のささやきその八

「そして演出はです」
「誰が務めるのですか?」
「ワーグナー自身が」
 他ならぬだ。彼自身がだというのである。
「彼自ら申し出ました。そして私はです」
「それを認めたのですね」
「彼の芸術は彼が最もよく理解しています」
 だからだというのである。
「ですから」
「ワーグナーに入れ込んでいますね」
「入れ込んでいますか」
「貴方らしいです」
 皇后はそれは認めた。だが、だ。ふとそのあまりにも美麗な、絵画を思わせる目に憂いを含ませてだ。王に対してこう話したのであった。
「ですがその貴方らしさが」
「私らしさが」
「よくない結果にならなければいいのですが」
 こう言うのであった。
「それを思います」
「何故かよく言われます」
 それを否定しない、できない王だった。それで今こう言うのだった。
「誰からも」
「思うことは同じなのですね」
 そう聞いてだ。皇后もその整った目に悩ましさを含ませて述べた。
「誰もが貴方を」
「私を」
「心から心配しているからこそ」
 だからだというのだった。
「それでなのです」
「心からですか」
「はい、そうです」
 まさにその通りだった。
「貴女は人を惹き付けずにはいられない方です」
「私は。その様な」
「いえ、それはその通りです」
 皇后だけではないというのだ。確かに王は魅力に溢れている。その容姿だけでなく気品に人柄に。そうしたものによってである。
 それを今その目で観ているからこそ。皇后は王に対して語るのだった。
「貴女は誰もに見られる方なのです」
「誰もに」
「そして誰もに愛される方なのです」
「見られ愛される」
「そうした方です。だからこそ」
「気遣ってもらえるのですね」
「それはとても幸せなこと」
 皇后は述べた。
「忌み嫌われるよりも」
「それはですか」
「はい、そうです。ですが」
「ですが、ですね」
「貴方のその貴方らしさが」
 話が戻った。そちらにだ。
「純粋さと無垢さが。貴方であるのですが」
「それによってですか」
「貴方がその気遣いと目に耐えられれば」
 皇后の目には今度は悲しさが宿った。
「私は。できませんでした」
「だからこそ旅を」
「はい。宮廷のこともありますが」
 言外にあった。彼女はどうしてもなのだった。ウィーンの宮廷に馴染めないでいた。表向きはそれが彼女の旅の理由だとされていた。
 しかしだ。ここで彼女はだ。こう話すのだった。
「ですが私は」
「それ以上にですか」
「貴方には言えます。私は人の視線と心がです」
 皇后ならばば。そこから逃れられない。人の視線も心もいやおうなしに集まる。それが皇后、このエリザベートの悩みなのだった。
「どうしても。耐えられなく」
「私もまたそうなると」
「ならなければいいのですが。今の貴方には」
 従弟を見続けている。そのうえでの言葉だった。
「あの芸術家が常に傍にいることが」
「今の私の全てです」
「それが最後まで適うことを願います」
 彼の為にであった。その彼のだ。
 

 

86部分:第六話 森のささやきその九


第六話 森のささやきその九

「ですから貴方もです」
「彼を決して手放してはならないのですね」
「貴方の為に」
「私の為に」
「そうです。貴方の為に」
 これが皇后の彼への言葉だった。そうした話をしてだ。二人は奥の部屋、別荘の中でも一際見事な部屋に来た。そこに彼がいた。
 白い勲章が飾られた白い軍服である。白い軍服はまさにオーストリアの伝統のそれである。
 鼻が高く面長であり額が広くなってきている。茶色の髪が目立つ。
 目は生真面目そうな光を放った何処か数字を思わせる整いのものである。背は高く姿勢は立派だ。その彼がそこにいたのである。
 王はだ。その人物の前に来るとだ。まずはその左膝を降りだ。一礼したのであった。
「遅れて申し訳ありません」
「いや、遅れてはいない」
 彼はだ。やはり生真面目な響きの声でこう王に告げたのだった。
「今が丁度いい時間だ」
「だといいうのですが」
「それでバイエルン王よ」
「はい、陛下」
 この人物こそがであった。エリザベートの夫、即ちオーストリア皇帝であるフランツ=ヨーゼフであった。長い歴史を持つこの帝国、そしてハプスブルク家の主である。その彼が今ここに来ているのだ。
「まずは接吻を」
「有り難き幸せ」
 皇帝は右手を差し出した。王はその右手に唇を寄せ接吻をする。それからであった。
 皇帝に立ち上がるように言われてだ。立ち上がったうえで話に入るのであった。
「ここにはロシア皇帝も来られますね」
「その通りだ」
 皇帝が王の言葉に答えた。
「そうして三者での会談になるが」
「そうですね。ただ、今はです」
「楽しむべきか」
「ここはそうした場所です」
 王は微笑みそのうえで皇帝にこう述べた。
「ですから湯治に花をです」
「そうしたものを楽しめばいいのだな」
「その様にしてお楽しみ下さい」
 これが王の皇帝への勧めであった。
「是非共」
「わかった。ではそうさせてもらおう」
「たまには仕事のことを忘れられて」
 王は皇帝にこんなことも告げた。
「そうされるといいでしょう」
「そうしたいのはやまやまだが」
 しかしだった。皇帝はここでは苦笑いになりだ。こう王に返すのだった。
「そうもいかない」
「いきませんか」
「そうだ、それはできないのだ」
 王への言葉はこうしたものだった。
「どうしても」
「ではここでもですか」
「そうだ。仕事はしている」
 この湯治の場においてもだ。そうだというのである。
 それでだ。彼はこう話すのであった。
「それが終わることはない」
「お話は聞いています」
 王はここで話を少し変えてきた。皇帝のその整った、だが何処か頑ななその顔を見ながら話すのであった。
「陛下は毎日朝早くから夜遅くまで」
「当然のことだ」
 皇帝の返答はここでは素っ気ないものだった。
「皇帝ならばな」
「皇帝ならばですか」
「時間は待ってはくれない」
 皇帝の考えがだ。これ以上はないまでに出た言葉だった。
「だからこそだ」
「そうですか」
「バイエルン王もそう思われているのではないのか」
 皇帝はここで王に対してその言葉を返した。
「それは違うのか」
「そう思ってはいます」
 それは王も否定しなかった。できなかったと言った方がいいだろうか。
「ですが」
「しかしか」
「私は。時以上に大事なものがあると思っています」
 青い目に熱いものが宿った。そのうえでの言葉だった。
 

 

87部分:第六話 森のささやきその十


第六話 森のささやきその十

「それが常に心にあります」
「そうなのか」
「はい、そしてそれは」
 それが何かもだ。王は皇帝に対して話すのだった。
 そしてである。王は言葉を続けた。
「美ですが」
「美か」
「芸術です。それが常に心にあります」
 これが王の最も尊ぶものであった。
「今もです」
「話は聞いているが」
 皇帝は王のその言葉を受けてだ。それでこう述べたのであった。
「バイエルン王のその考えは素晴しい」
「認めて下さいますか」
「そうだ。だが」
「だが?」
「どうもバイエルン王はそのことに入れ込み過ぎているのではないのか」
 皇帝もだった。こう指摘するのだった。
「あまりそれに入れ込み過ぎてもだ」
「左様ですか」
「王なのだからな。確かに芸術を護るのはいい」
 それはいいというのである。
「だがそれでもだ」
「それでもですか」
「入れ込み過ぎるのはよくない」
 断言だった。一国の主らしくだ。
「それでバイエルン王は今は」
「今は」
「あの音楽家に入れ込んでいるようだが」
「ワーグナーですか」
「ウィーンで。上演しきれなかった」
 トリスタンとイゾルデのことをだ。ここでも話すのだった。
「あまりにも難解な作品故にな」
「ですが私はその作品をです」
「ミュンヘンで上演するつもりか」
「はい、既にそれは進めています」
 王の目がまた熱いものになった。熱いものをそこに宿しながらだ。そうして皇帝に対して話す。皇帝はその目を見てであった。
 危ういものを感じた。だが今はそれを言わずにだった。王の話を聞くのだった。王の言葉はさらに続いた。皇帝の心に内心気付きながらも。
「指揮者も歌手も集めそうして」
「そのうえでか」
「資金もあります」
 このことも話す王だった。
「彼は必ず最高の舞台を実現するでしょう」
「そうなるのだな」
「はい、必ず」
「それは期待する」
 王にこう告げてだ。皇帝はここで話を別にさせてきた。その話はだ。
「そして他のことも期待する」
「といいますと」
「戦いは避けられない」
 今度は皇帝の目が語る。だがその目は熱いものではない。冷静でかつ沈着なものである。王が見せる熱さとは対局のものだ。
「最早な」
「ではプロイセンと」
「バイエルン王にはだ」
 どうだというのである。
「軍を指揮してもらいたい」
「私がですか」
 これを聞いてだ。王の言葉に動揺が走った。
 そしてそのうえでだ。彼はそのまま話すのであった。
「私が軍の指揮を」
「そうだ。是非な」
「申し訳ありませんが」
 王はだ。明らかに否定する声でこう返したのだった。
 

 

88部分:第六話 森のささやきその十一


第六話 森のささやきその十一

「私は軍は」
「率いられないか」
「すいません」
 こう皇帝に答えるのだった。
「それだけはです」
「そうか。駄目か」
「ただ。このことは約束します」
 王はこう皇帝に話した。
「バイエルンはオーストリアにつきます」
「それはだな」
「はい、必ず」
 皇帝に話す続ける。
「約束しますので」
「ならいい」
 皇帝もそれを聞いてだ。納得した顔で頷く。
 そうしてだ。彼に対してあらためてこう話すのだった。
「バイエルンがついてくれることは大きい」
「そうですか」
「これでプロイセンに対抗できる」
 皇帝の声は確かなものだった。そうしてであった。
 そこにだ。あるものも見ているのだった。
「オーストリアが勝てばだ」
「どうされますか、その時は」
「バイエルンに対して多くのものを約束しよう」
 これが皇帝が今見ているものだった。
「オーストリアの盟友としてな」
「盟友ですか」
「そうだ、我が国のだ」
 まさにそうだというのである。
「それを約束しよう」
「有り難いことです。それでは」
「頼んだぞ」
 明らかにだ。願う言葉であった。
「戦いになればな」
「はい、それでは」
 こうした話をした。しかしであった。
 王にとっては戦争のことは面白くなかった。それで皇帝と別れるとだ。浮かない顔でいてだ。自分に用意された部屋で音楽を聴くのだった。その曲は。
「今日はモーツァルトがいい」
「それですか」
「ワーグナーでなくですか」
「今はそれを聴きたい」
 こう周りに話すのであった。
「だからだ。頼む」
「はい、それでは」
「今から」
 すぐにピアノが奏でられる。王はソファーに座りその曲を聴く。モーツァルトの軽快な、天使の調べの如き曲を聴きながらだ。彼は言うのであった。
「オーストリアの音楽はいい」
「ウィーンは音楽の都です」
「そしてこのモーツァルトもです」
「その音楽があればだ」
 王はだ。ここでこうも言うのであった。
「戦争なぞしたくもなくなるが」
「そう思われますか」
「陛下は」
「戦争が何を生む」
 王は周りの者にこう問うた。
「一体だ。何を生む」
「勝利を」
「そして栄光を」
「どちらも戦争でなくとも手に入れられる」
 しかしなのだった。王は挙げられたどちらについてもこう言い返したのだった。
「外交。政治でだ」
「それができると」
「そう仰るのですね」
「そうだ。戦争は血生臭い」
 王は憂いに満ちた顔で述べた。
 

 

89部分:第六話 森のささやきその十二


第六話 森のささやきその十二

「私は血は好まない」
「だからですか」
「戦争は」
「赤十字というものができたそうだが」
「確かスイス人が作ったのですね」
「名前は確か」
 周りの者達は記憶を辿りながらだ。この名前を話した。
「アンリー=デュナン」
「そういいましたが」
「戦場であろうとも」
 王はその名前を聞いたうえでさらに言っていく。
「傷ついた者を助けるそうだな。敵味方の関係なく」
「酔狂といいますか」
「それとも妄想とも言いますか」
「荒唐無稽な話です」
 周りの者達はその考えに対してこう述べていく。有り得ない話だというのだ。
「その様なことをして何になるでしょうか」
「戦場で人が死ぬのは当然のこと」
「それなのにです」
「いや、それは違う」
 王はだ。彼等のそうした一連の言葉は否定するのだった。
 そのうえでだ。彼はこう話した。
「例え戦場であろうともだ」
「戦場であろうとも」
「どうだというのでしょうか」
「死ぬ者は最低限でいい」
 こうだった。己の考えを述べるのだった。
「どの軍にいる者であろうともだ」
「それが正しいというのですか」
「陛下は」
「少なくともだ」
 真剣そのものの顔でだ。彼は話すのだった。
「私はそう思う」
「そうなのですか。誰であろうとも」
「戦場で傷ついた者を救う」
「その考えが」
「理想に過ぎないかも知れない」
 王は一旦言葉を置いた。
「だがそれでもだ」
「それを現実にできる」
「赤十字のその考えを」
「そうだと」
「理想だと思い、夢だと思い」
 王はその言葉を続けていく。やはり遠くを見る目でだ。語るのであった。
「そのままで終わっては何にもならないのだ」
「ではやはり」
「赤十字もまた」
「現実のものにできると」
「そうするべきだ。だからだ」
 王はだ。ここでまた述べた。己のその考えを。
「私はその考えに賛同しよう」
「赤十字に」
「そう仰るのですね」
「その通りだ。公に言おう」
 王が公に言う、このことは非常に大きかった。国の主が言うとなると私のことでも世に広まる。それが公になればだ。余計にそうなることだった。
 それを踏まえてだ。彼は今こう言ってみせたのである。
 そこまで言ったうえでだ。王はまた話した。
「ミュンヘンに戻り次第すぐにな」
「そうされますか」
「赤十字に対して」
「誰であろうとも」
 王の言葉は。ワーグナーを語る時の如く熱くなっていた。そこにもまた彼の信念があるのだった。
「救われるのならば救われるべきなのだ」
「誰であろうとも」
「例え敵であろうとも」
「そうだ。戦争は忌むべきものだ」
 何処までもだった。王は戦いを嫌った。
「そこにはあらゆる醜いものがある」
「そして多くの者が死ぬ」
「現実でありますね」
「しかしその醜さが少しでも減るのならば」
 それならばであった。
 

 

90部分:第六話 森のささやきその十三


第六話 森のささやきその十三

「それに越したことはない」
「わかりました。それでは」
「陛下がそこまで仰るのなら」
 周りの者も王の決意を知ってだ。遂に頷くのだった。そのうえでだ。彼等はまた王に話すのだった。
「赤十字については」
「支持を」
「私から言おう。いいな」
「はい」
「ではその様に」
「夢は現実のものになる」
 王は言い切った。
「必ずだ」
「夢がですか」
「現実に」
「そうした意味でもだ」
 熱い言葉もだ。そのままだった。
「彼は助けたい」
「では赤十字に対してはすぐに」
「支持をですね」
「その考えが広まることを願う」
 実際にそうだとも話す王だった。
「戦いで傷つく者は少ないに限る」
 モーツァルトを聴きながらだ。王は話す。
「戦いは続くだろうがな」
「続くとは」
「それはどういうことでしょうか」
「オーストリアとプロイセンの戦いは避けられない」
 王はそれはもうわかっていた。しかし見ているものはそれだけではないのだ。それからのこともだ。みていたのである。
「それからだ」
「二国の戦争だけではないのですか」
「まだありますか」
「そうだ。次はだ」
 両国の戦争の後に起こる戦争は何か。王はまた話した。
「プロイセンと」
「またあの国ですか」
「プロイセンですか」
「プロイセンの目的は小ドイツ主義によるドイツ帝国の建国だ」
 まさにそれだというのである。
「その為にまずオーストリアを排除し」
「戦争に勝ちですか」
「そのうえで、ですか」
「次の相手と戦う」
 王は今は遠くを見ていた。そのうえでの言葉であった。
「その次の相手はだ」
「どの国ですか、それは」
「考えられるのは」
 周りの者達も欧州の情勢は把握している。それならばだ。プロイセンと戦う可能性のある国が何処か。考えることができたのだ。
 そしてだ。彼等はその国を挙げていくのだった。
「ロシアでしょうか」
「オランダ」
「イギリス」
 そうした国が挙げられていく。
「イギリスはさし当たっては動きはありませんね」
「オランダはプロイセンには対しない」
 それだけの力がないということでもあった。イギリスについて植民地統治で多忙であった。この時代のイギリスは欧州で、世界で随一の国であり多くの植民地を持っていたのだ。
「ではロシアか」
「若しくは」
「ロシアはない」
 王が考える彼等にここで言ってみせた。
「プロイセンはあの国とは絶対に揉めようとはしない」
「あまりにも強いからですか」
「あの国は」
「あの国は熊だ」
 この時代でもだ。ロシアは熊に例えられていた。
「まともに戦って勝てる相手ではない」
「確かに。あまりにも強大です」
「あのナポレオンですら勝てませんでした」
「ではプロイセンといえど」
「ビスマルク卿は賢明な人物だ」
 このことは間違いなかった。誰が見てもだ。
 

 

91部分:第六話 森のささやきその十四


第六話 森のささやきその十四

「その彼が強大なロシアと対立することはだ」
「何としても避ける」
「そういうことですか」
「そうだ、避ける」
 断じてだというのである。
「だからそれはない」
「左様ですか」
「それでは」
「そうだ。それはない」
 また答える王だった。
「ロシアとの戦いは絶対にだ」
「避けますか」
「決してですね」
「それだけは」
「では残る国は」
「あの国ですか」
 ロシアも否定されてだ。誰もが残る国が何処なのか理解した。そしてだった。その国が何処かをだ。彼等はその言葉に出すのだった。
「フランスですか」
「あの国ですか」
「あの国とですか」
「フランスは神聖ローマ帝国の頃から」
 その頃からだというのである。
「ドイツと対立してきていた」
「そうですね。何百年もの対立です」
「では今もですか」
「それは」
「フランスは常にイギリスと対立している」
 それは絶対なのだった。
「そしてドイツがそこに加わればだ」
「フランスにとっては実に厄介なことですね」
「ではその目はですか」
「何があろうとも」
「絶対に」
「そうだ。だからこそだ」
 それでだというのだ。王はプロイセンとフランスの戦いもだ。予見していたのだった。
「両国との戦いも避けられない」
「やがてですか」
「そうなのですね」
「そういうことだ」
 王の言葉は先の先を見ていた。まさにである。
「フランスはドイツ帝国の成立は何があろうとも妨害してくるだろう」
「そしてプロイセンはそれに対してですか」
「立ち向かうと」
「いや、何かしてくる前にだ」
 その前にだというのである。
「プロイセンが仕掛けるかもな」
「あちらからですか」
「そうしてきますか」
「ビスマルク卿はそういう方だ」 
 一度しか会っていない。だが王はビスマルクをよくわかっていた。彼がどうした人物なのか。実によくわかっていたのである。
「仕掛けられる前にだ」
「あの方から仕掛けられますか」
「そういう方ですね」
「非常に賢明な方だがそれと共にだ」
 王はビスマルクについてだ。この話をしたのであった。
「学生時代のことだ」
「その時代ですか」
「何かあったのですか」
「数多くの決闘に勝ってきた」
 そうしたことがあったのである。争うことを嫌う王とはまさに正反対であった。
「その為に乱暴者とさえ呼ばれていた」
「そうした血気のうえにですか」
「あの賢明さなのですね」
「手強い方ですね」
「しかしだ。そこで終わる」
 王はまた言った。
「フランスとの戦争でだ」
「そこで、ですか」
「戦争はなのですか」
「されなくなると」
「プロイセンもまた」
「何故あの方が戦争をするか」
 王であるから本来は敬語を使わなくともよい。しかし彼に敬意を払ってだ。それであえて敬語を使っているのであった。なおビスマルクも王に対してそうしている。お互いそれを知らないがだ。
 

 

92部分:第六話 森のささやきその十五


第六話 森のささやきその十五

「それはドイツ帝国を創る為だ」
「その為の戦争だからこそ」
「それでなのですね」
「そうだ」
 王はだ。ビスマルクの意図を完全に見抜いていた。全てをだ。
「あの方は決して好戦的ではないのだ」
「あくまでドイツ帝国の為ですか」
「その為だけに戦われる」
「そうだというのですか」
「ドイツはだ」
 次はドイツそのものについての言葉であった。
「まず南にそのオーストリアがある」
「まずはそこですね」
「オーストリアが」
「オーストリアは広大だ」
 ハンガリーにチェコ、それにバルカン半島にだ。オーストリアの影響は中欧全体に及んでいた。それがオーストリア=ハンガリー帝国だったのである。
「北にもデンマークやスウェーデンがある」
「侮れませんね、彼等も」
「決して」
 北にもだ。相手がいるのがドイツなのである。そうしてであった。
「西にフランス、東にロシアだ」
「まさに四方を取り囲まれていますか」
「ドイツは」
「その中で戦争を続けるならば」
 どうなるか。少し頭が回る者ならばすぐにわかることだった。ましてや王ともなればだ。手に取る様に容易にその結論を出してしまった。
「待っているのは破滅だけだ」
「あの方はそれがわかっているからこそ」
「それでなのですか」
「戦争を止めると」
「目的を達せればな」
 そうだというのであった。
「しかし達するまではだ」
「戦争を続ける」
「決して止めることなくですか」
「鉄と血だ」
 ビスマルクの代名詞だ。鉄血宰相である。
「それによってだ」
「軍隊と戦争」
「その二つですね」
「私もまた鉄と血は好きだ」
 ここでだった。王は実に意外なことを言うのであった。周りから聞いていてである。
「だがその鉄と血はだ」
「軍隊と戦争ではないのですか」
「違いますか」
「技術だ」
 まずはだ。それだというのだ。
「鉄はそれだ」
「技術ですか」
「それだと仰いますか」
「技術は夢を適えてくれるものだ」
 その技によってだ。王はそのことを期待していたのだ。
「まさにな。そして血はだ」
「それは何でしょうか、陛下にとっては」
「血とは一体」
「何なのでしょうか」
「心だ」
 今度はだ。それだというのであった。
「私にとっての血は心だ」
「心ですか」
「それなのですか」
「そうだ、心だ」
 そしてその心とは何かもだ。彼は周りに語った。
 

 

93部分:第六話 森のささやきその十六


第六話 森のささやきその十六

「芸術だ。それが心だ」
「その技術と心が」
「陛下にとっての鉄と血」
「そうなのですね」
「そうなる。私にとっては軍隊はまだいい」
 それはだというのだ。
「騎士ならばいい」
「しかし戦争はですか」
「どうしてもなのですか」
「どの様な場合でも。好きにはなれない」
 どうしてもであった。王は戦争の中で生じる、見えてくる人間の醜さを知っていた。だからこそそれを余計にだ。忌むべきものとしているのであった。
「ビスマルク卿のそこはだ。どうしてもだ」
「ですが陛下、最早です」
「両国の関係はです」
「わかっている。避けられそうもない」
 どちらもそのつもりはない。さすればだった。
 そして王はだ。あることの決断も迫られていたのであった。それは。
「我がバイエルンもだ」
「はい、どうするべきか」
「それもまた問題です」
「戦いは避けられない」
 この前提があった。
「そしてバイエルンはだ」
「オーストリアにつかれますね」
「やはり」
「そうするしかない」
 これもまただ。王には嫌になる程わかっていることだった。
「ここはな」
「しかしプロイセンはですか」
「やはり」
「勝ちますか」
「それは間違いないな」
 王はそこまで見抜いていたのであった。
「しかしバイエルンはだ」
「それでもオーストリアにですか」
「つかれますか」
「今の時点では好戦的なプロイセンよりもだ」
 これからはわからないとだ。言外で言いながらだった。
「そうではないオーストリアの方がいい。それに」
「それに?」
「それにといいますと」
「カトリックだ」
 次に言われたのは宗教のことであった。
「オーストリアは同じカトリックだからな」
「余計にですね」
「そうだというのですね」
「そういうことだ。それでいいな」
「はい、それでは」
「戦争の時はその様に」
 おおよその話が決まってきていた。戦争はまだはじまってもいない。しかし政治としてのそれはだ。もうはじまっているのだった。王が本心ではそのことをどう思っていようともだ。
 王は今はモーツァルトを聴いていた。そのオーストリアの音楽を。プロイセンの音楽ではなくオーストリアのそれにだ。身を浸らせていたのだった。


第六話   完


               2010・12・26
 

 

94部分:第七話 聖堂への行進その一


第七話 聖堂への行進その一

                第七話  聖堂への行進
 王は庭にいた。そこで薔薇を見ていた。
 紅の薔薇達が緑の中に咲き誇っている。数えきれないまでの薔薇達は咲き誇りだ。そのうえで王を囲んでいた。王はそれを見ながら一人佇んでいた。
 しかしそこに誰かが来た。それは。
「そこにおられたのですね」
「シシィ」
 皇后だった。彼女が来たのであった。 
 白い、エーデルワイスを思わせる服を来てだ。王の前に来てだ。こう告げてきたのである。
「薔薇を見ていましたね」
「嫌いではありません」
 今は皇后に顔を向けて答えた。
「美しいものは」
「けれどそれよりもですね」
 その彼にだ。皇后はこう言ってきたのだった。
「青い花がですね」
「そうですね。青です」
「貴方は昔から青が好きでしたね」
「いい色です」
 そのあまりにも美麗な顔に微笑みを浮かべてだ。王は話した。
「バイエルンの色です」
「ええ。バイエルンの色は青」
「オーストリアは金」
「それぞれの色がありますね」
「私は金も好きです」
 王は微笑んだまま皇后に話した。
「赤と黒よりも遥かに」
「それは私がいるからですか?」
 皇后は王が赤と黒、血と鉄について言及したところで王に問うた。
「だからですか?」
「そう思われますか?」
「少なくとも貴方は」
 王は。どうかというのであった。
「プロイセンはお好きではありませんね」
「黒には馴染めません」
 これがプロイセンの色であった。実際にプロイセン軍の軍服は黒であった。ナポレオン時代、いやオーストリア継承戦争の頃からの色だ。
「それはどうしても」
「ビスマルク卿は貴方を高く評価しているようですが」
「あの方は嫌いではありません」
 それは認める王だった。
「ですが。プロイセンはです」
「どうしてもですか」
「冷徹な現実」
 王はこの言葉を出した。
「あまりにもです」
「そこには夢はない」
「あるでしょうが少ないです」
 そうだとだ。皇后に話すのである。
「それがどうしてもです」
「そうなのですね」
「夢。それは夜に見られるもの」
 王はまた遠い目になった話した。
「夜を否定するようなプロイセンにはどうしても」
「オーストリアはそうではないと」
「はい、ですから私はです」
 今度はまた皇后を見てだ。話すのであった。
「オーストリアを選びます」
「有り難うございます。陛下もお喜びです」
「はい。では」
「ただ」
 しかしだった。ここで皇后をは王を見ながらだ。また話すのだった。
「貴方は動かれませんね」
「私が動かないと」
「オーストリアについても」
 それでもだというのである。
「貴方は動きませんね」
「それは」
「バイエルンのことを考え」
 王である。それで国のことを考えない筈がなかった。
 

 

95部分:第七話 聖堂への行進その二


第七話 聖堂への行進その二

「そうされますね」
「私は」
「それについては私は何も言いません」
 皇后もまた微笑んでだ。王に話した。気品に満ち溢れた微笑みだった。
「もう私はバイエルンの人間ではないのですから」
「オーストリアの」
「はい。ハプスブルク家の人間です」
 少しだ。寂しげな目になっての言葉だった。
「ですからもう」
「そうですね。ヴィッテルスバッハではなく」
「ハプスブルクです」
 またそれだというのだった。
「ですから」
「双頭の鷲ですね」
「それが私の今の紋章です」
「ですね。お互いに何もかもが違ってきています」
「はい。本当に」
「けれど私は」
 ここでだ。皇后の言葉が変わってきた。
「昔を忘れません」
「私もです」
 王もだというのであった。
「あの頃のことは」
「いい思い出です」
 王はここでも遠い目になっていた。そのうえでの言葉だった。
「とても」
「そうですね。バイエルンにいたあの頃のことは」
 どうかとだ。二人は話していくのであった。
「私の娘時代の。素晴しい思い出です」
「あの頃に戻りたいですか」
 王はふとだ。こう皇后に話したのだった。
「やはり」
「いえ」
 しかしだった。皇后は王のその言葉に目を暗くさせて。そのうえでそうではないとだ。拒む声で告げたのであった。
「それは」
「そうですか」
「私はオーストリア皇后です」
 そしてこう王に話した。
「ですから」
「そうですね。私はバイエルン王ですね」
「お互い。あの頃とは変わりましたね」
 王もまた、だった。その目を暗くさせて述べた。
「あまりにも」
「それが今の私達ですね」
「ええ、確かに」
「今の私達は」
 どうかとだ。皇后は述べていくのだった。
「多くのものに囚われています」
「王として、皇后として」
「もう子供ではありません」
 今度の言葉はこうしたものだった。
「楽園から出て。そして現実の世界にいるのです」
「現実ですか」
 現実という言葉にだ。王はさらに暗い目になった。そこに何かしらの疎ましさを見せながら。そのうえでまた皇后に話すのだった。
「現実は。何を生み出すのでしょうか」
「何かとは」
「私は王になりました」
 そのことをだ。自分から話したのだった。
「そしてワーグナーを呼び寄せましたが」
「日々その芸術家と話をしているそうですね」
「はい、話さずにはいらえません」
 そうだとだ。皇后に話していく。
「ミュンヘンにいる時はどうしても」
「それが今の貴方なのですね」
「現実にあるものは醜いものです」
 王は語る。今はその目に悲しいものを見せている。そうしてそのうえでだ。皇后に対して話していく。そうしているのだった。
 

 

96部分:第七話 聖堂への行進その三


第七話 聖堂への行進その三

「ワーグナーの周りもです」
「彼の周りもですか」
「何かと。中傷の声があるのです」
 そうした状況になりつつあることはだ。王もよく知っていた。それが彼の今の現実の一つだった。そうした状況にあったのである。
「彼をミュンヘンから追い出そうとしているのです」
「あの都からですか」
「どう思われますか」
 皇后に顔を向けてだ。そのうえで問うた。
「そのことは」
「貴方は。ワーグナーを愛していますか」
 皇后が王に問うのはこのことだった。
「それはどうなのですか」
「愛していないと言えば嘘になるでしょうか」
 王は顔をあげた。そこには青い空がある。青い空には白く清らかな雲がある。その青と白、何処までも清らかなそれを見上げながら。皇后に話すのだった。
「肉体的なものでなく。精神的にです」
「愛しているのですね」
「それがワーグナーです」
 こう話すのだった。
「ワーグナーの芸術は。私を捉えて離しません」
「その彼のですね」
「私は。おそらく」
 王はだ。顔を前に戻してだ。また話すのだった。
「彼の為にいるのでしょう」
「彼の為にですか」
「そうです。まだ小さい時にその著を知り」
 それからだった。その時から全てがはじまったのである。
「そしてローエングリンを観て」
「あの白鳥の騎士ですね」
「あの青銀の世界」
 二つの色が今一つになっていた。
「あの世界と触れて以来です。私は彼の虜となったのです」
「それが今の貴方ですね」
「ワーグナーの芸術。それこそが至高のもの」
 彼にとってはだ。まさにそうだったのだ。
「私は彼なしではいられません」
「しかしミュンヘンではなのですね」
「何故彼を中傷するのか」
 気付いていた。しかし王はあえてそれを見ないのだった。それを見るにはだ。彼の心はあまりにも繊細なものだったからである。
「それが私には耐えられないのです」
「変わりませんね」
 それを聞いてだ。皇后は述べた。
「貴方のその心は」
「変わりませんか」
「ええ。子供の頃から」
 その頃からだと。皇后は話すのだった。
「貴方のその純粋さは変わらないですね」
「そうでしょうか」
「貴方はあまりにも純粋です」
 皇后の目はここでは悲しいものになっていた。王を慈しみながら。そのうえで悲しみを感じずにはいられない。そうした顔だった。
「その純粋さは素晴しいのですが。けれど」
「けれど、ですか」
「その純粋さが貴方を追い詰めてしまわないか」
 それを言うのだった。
「そうなってしまわないでしょうか」
「わかりません」
 王自身もだ。こう答えるしかなかった。
「それは」
「貴方自身もですか」
「私は。ワーグナーと共にいたいのです」
 王の願いはだ。全てはここにあった。
「彼の芸術を愛したいのです」
「しかしそれは」
「崩れて欲しくないです」
 切実な、あまりにも切実な願いだった。
 

 

97部分:第七話 聖堂への行進その四


第七話 聖堂への行進その四

「それが私の。ただ一つの願いです」
「そうなのですね」
「王は。常に縛られています」
 これは皇后も同じだ。それが君主というものなのだ。
「傍に誰かがいて見ていて」
「そして言葉が来て」
「そうしたものがない時はありません」
「それがかえって翼を求めますね」
「だからですね。貴女もまた」
「はい」
 皇后は王のその言葉に対してこくりと頷いた。
「その通りです。ですから旅を」
「私はそれがワーグナーなのです」
「彼ですか」
「若しワーグナーがいなければ」
 どうなるのかと。王は話す。
「私は生きてはいけません」
「この世では、ですね」
「はい。あの出会いは運命だったのです」
 今その目にだ。ローエングリンをはじめて観た時のそれが浮かんでいた。それを見ながらであった。王は皇后に話していくのであった。
「私はその運命に従います」
「そうなのですか」
「ワーグナーと常に共にいたいのです」
 王はさらに語っていく。
「あのミュンヘンで」
「王都で」
「そうです。あの都は私にとってはそうした場所です」
「ワーグナーと共にいる為の」
「それ位いいのではないですか?」
 ふとだ。王は甘えも見せた。
「王にとって。それ位のことは」
「常に何かに追われている者としてはですね」
「そうです。王はこの世のあらゆる雑事が来ます」
 それが王であった。王の責務であるのだ。
「ですから。その慰めとしてです」
「ワーグナーが」
「その芸術がです」
 こう話すのであった。
「私にとっては必要なのです」
「それではです」 
 王の言葉を聞いてだ。皇后は優しい声で彼に告げた。
「貴方は」
「私は」
「そのワーグナーと共にです」
「共にですか」
「そうです。その心を通わせていることです」
「それが私の為なのですね」
「はい」
 その通りであるとだ。王に告げる。
「そうです。是非」
「わかりました。それでは」
「ただ。それが困難であっても」
「困難であっても」
「貴方はそれから逃げてはなりません」
 従弟の繊細なものがそうしてしまうのをだ。彼女は見抜いていたのだろうか。その言葉は切実なものにさえなっていた。そうした言葉だった。
「必ずです」
「必ずですか」
「そうです。いいですね」
 王の整った顔を見ての言葉だった。
「貴方は。そうするのです」
「そうですか」
 王は皇后の言葉を受けた。そしてだった。
 その言葉を心に刻み込んだ。そのうえで。
 

 

98部分:第七話 聖堂への行進その五


第七話 聖堂への行進その五

 彼はまた。皇后に話した。
「では今は」
「はい、今は」
「舞踏会ですね」
 微笑んでだ。皇后にこう話したのである。
「二人の皇帝陛下をお招きした」
「そうですね。ロシア皇帝もです」
「今皇帝は三人ですね」
 王はふとこんなことを話した。
「この欧州に」
「オーストリア、ロシア、そして」
「フランスの」
 この三国がであった。皇帝を戴いているのだった。
「三人ですね。そのうちの二人ですね」
「皇帝は本来は」
 ふとだ。皇后は話してきた。
「一人だと言われていますね」
「中国ですか」
 東の長い歴史を持つ大国だ。王も皇后もその国の名前を知っていた。
「あの国ではそうでしたね」
「今は清といったでしょうか」
「はい、国の名前はそれです」
 満州族の国だ。今その国は困難の中にあった。だが王はそのことについては深くは知らなかった。その困難をよいものとは考えていなくともだ。
「あの国では皇帝は常に一人です」
「そうなのですね」
「本来は欧州でもです」
 この欧州でもだと。王は話した。
「ローマ皇帝だけが。皇帝なのですから」
「しかしそれが東西に別れ」
「東ローマ帝国はロシアです」
 実際にロシアはこう主張している。ビザンツ帝国からの流れなのだ。
「そしてオーストリア皇帝は」
「はい」
「西ローマ帝国皇帝でしたね」
 彼等はそれだというのであった。
「そうでしたね」
「ええ、そうなります」
「神聖ローマ帝国はなくなりました」
 ナポレオンによってだ。そうなってしまったのだ。
「しかしオーストリアは健在です」
「ですから。陛下は」
「西ローマ帝国皇帝になりますね」
「そういうことです」
「フランスはナポレオン=ボナパルトの流れを汲んでいます」
 最後のフランスはそうだというのであった。
「その三人の皇帝が今欧州にいます」
「そしてそのうちの二人が」
 今このフランケンにいるというのである。
「思えば。これも縁ですね」
「そして舞踏会にですね」
「そういうことになります」
「そして貴方は」
 皇后はまた王に対して問うた。
「どうされるのですか、この舞踏会」
「出るかどうかですね」
「そうです。どうされますか」
「舞踏会の類は好きではありません」
 王は少し困った様な笑みを見せてまずはこう答えた。
「ですが」
「しかしですか」
「貴女も出られますね」
 皇后のその絵画の如き顔を見てだ。問うたのであった。
「舞踏会に」
「はい」
 王は皇后のその言葉に静かに頷いた。
「そうさせてもらいます」
「わかりました。それでは」
「勿論私もです」
「出られますね」
「珍しいでしょうか」
 少しはにかんだような笑みになっていた。彼女にしては珍しく。
 

 

99部分:第七話 聖堂への行進その六


第七話 聖堂への行進その六

「私が舞踏会に出るというのは」
「お互い様です」
 王は皇后のその心を気遣いこう述べた。
「それは」
「貴方もだというのですね」
「そうです。私達はそうした意味でも同じなのでしょう」
 また皇后に述べたのだった。
「そうしたところは」
「そうですね。私達は王家に生まれながら」
「それでいてですね」
「翼を持っています」
 皇后は上を見上げた。そこには無限の青い空がある。
「そしてその翼で空を」
「そうですね。私達はそうして空を羽ばたきます」
「それが許されないことだとしても」
「そうせざるを得ません」
 二人はお互いを理解していた。だがそれを理解する者は少なかった。そのこともまた二人を悲しみの中に追いやっていたのだった。
 その舞踏会にだ。王が出ると聞いて周りの者達は驚きを隠せなかった。
「陛下がですか」
「舞踏会に出られますか」
「そうされるのですね?」
「まことですね?」
「私は嘘は言わない」
 王は礼装に着替えていた。その姿で彼等に告げていた。
 黒いタキシードが実によく似合う。黒と白、そして蝶ネクタイがだ。彫刻の如き姿を王に与えている。いや、王が礼装に与えているのだろうか。
 その王がだ。今周りの者達に話していた。舞踏会への準備の中で。
「決してな」
「だからですか」
「そうだ。そしてだ」
「はい、そして」
「何かあったのでしょうか」
「私も出て」
 そうしてだというのである。
「あの方も出られる」
「皇后様もですね」
「そう仰るのですね」
「そうだ。それを見てだ」
 どうかとだ。王は話していくのだった。
「おそらく誰もが言うのであろうな」
「何とですか」
「それは」
「珍しいとな。違うか」
 彼等に目をやってだ。そのうえで告げた。
「私達が共に舞踏会に出ることがだ」
「それは」
「何といいましょうか」
 事実であるだけにだ。彼等は答えられなかった。返答に窮する。
「あの」
「つまりは」
「よい。事実なのだからな」
 そしてだった。王は自ら言った。
「それもまたな」
「あの、それは」
「ですから」
「いい訳はいい」
 それは言わせなかった。王はそれは好まなかった。それで彼等にあえて言わせなかったのだ。お互いに不愉快になるのを避ける為に。
「それではな」
「は、はい」
「それでは」
「私も。私だけでは出なかっただろう」
 ここでもだった。王は遠い目になっていた。
「おそらくな」
「あの方がおられるからですか」
「エリザベート様が」
「そう仰るのですね」
「そうだ。あの方がおられてこそだ」
 それでだというのである。
 

 

100部分:第七話 聖堂への行進その七


第七話 聖堂への行進その七

「私もまたな」
「しかし陛下」
「お言葉ですが」
「あの方が」
「わかっている。シシィはオーストリア皇后だ」
 このこともだ。忘れたことは一度もなかった。
「安心するのだ。私はあの方にはそうした感情は抱いてはいない」
「そうですね。陛下に限って」
「それはありません」
「決して」
 何故ないか、王は女性を傍に寄せない。常に整った姿形の青年達を傍に置いている。それが王の嗜好であるのを。彼等は知っているのだ。
「だからです。それは」
「言われてみれば我等もです」
「それにつきましては」
「そうだな。ならばいい」
 王もだ。彼等の言葉に今は安心していた。
 そのうえでだ。彼はこうも言うのだった。
「私とあの方はだ」
「はい」
「それでも好意をですね」
「心だ」
 王は言った。
「心でつながっているのだ」
「心でといいますと」
「どういうことですか、それは」
「一体」
「私達は共に翼を持っている」
 またこう話すのだった。彼等にもだ。
「そういうことだ」
「?それは一体」
「お言葉ですが陛下」
「それは」
「わからなければそれでいい」
 王はここでは多くを求めなかった。
「それでな」
「左様ですか」
「そうなのですか」
「そうだ。いい」
 また言う王であった。
「それはな」
「わかりました。それでは」
「今はですね」
「とにかく舞踏会の用意だ」
 そちらを優先させるというのである。
「わかったな」
「はい、わかっています」
「ですから今より」
「そういうことだ。頼んだぞ」
 こうして舞踏会の為の準備をさせる王だった。そうしてだった。
 華やかなその舞踏会に出る。するとだ。
 みらびやかなドレスに身を包んだ貴婦人達がだ。王の姿を見て感嘆の声を漏らした。
「お話には聞いてましたけれど」
「ええ、そうですね」
「あれだけお奇麗な方だとは」
「思いませんでした」
 王をはじめて見る貴婦人達はこう言った。そして見たことのある彼女達は。
「普段よりもさらに」
「礼服姿もお美しい」
「まるで絵の如くですね」
「そうですね。そこまでの方ですね」
 彼女達もまたその美貌を褒めるのだった。それは紳士達も同じであった。
「ううむ、見事です」
「やはり絵になる方です」
「ただ整っているだけでなく」
 それだけではないというのである。
「気品もありますね」
「王に相応しい方です」
「それだけのものがあります」
 誰もが口々に王を賞賛する。そしてそれは。
 

 

101部分:第七話 聖堂への行進その八


第七話 聖堂への行進その八

 ロシア皇帝もだ。彼を見て言うのだった。
「あそこまでの美男子はいないな」
「そうですね」
「ロシアにも」
 彼の周りの貴族達がこうそのロシア皇帝に話す。
「男性であっても女性であっても」
「あそこまでの方はいません」
「とても」
「背も高いな」
 王の長身もまた注目されていた。
「すらりとして。いい容姿だ」
「あれで舞踏をされてはそれだけで」
「非常に絵になりますね」
「確かに」
 その動く姿がどうしたものかも考えられるのだった。
「いや、ロシアにああした方がいれば」
「非常に素晴しいのですが」
「それが残念です」
「そうだな。あの王は」
 ロシア皇帝は自身でも王を見てだ。そのうえで話すのだった。
「ドイツの宝だな」
「話を聞くとかなりの知性の持ち主の様ですし」
「それも考えますと」
「そうだ。あれだけの人物はいない」
 ロシア皇帝もまたここまで言う程であった。今舞踏会の主役の一人は彼になろうとしていた。
 そしてもう一人は。白い絹のドレスに身を包んでいる。その長い髪がさらにドレスを映えさせている。その彼女もまた見られていた。
「皇后様もお見事ですね」
「私ははじめて見ましたけれど」
「そうですね。いや、噂以上の方です」
「何とお美しい」
 皇后もまたこう言われるのだった。
「あの方もヴィッテルスバッハ家の出ですが」
「あのバイエルン王とですね」
「あの方と」
「そうです、バイエルン王家のです」
 まさにその家の者だというのである。
「あの美はヴィッテルスバッハの美ですね」
「そうですね。ただ」
「ええ。あの美貌をもっと見せて頂ければ」
「まことにそうですね」
 こうも話されるのだった。皇后を見てだ。
「今日はこうして陛下と共におられますが」
「いつも旅に出られておられません」
「放浪の皇后陛下」
「その美貌を人にあまり見せることのない」
「思えば」
 話が皇后から移った。その対象は。
「バイエルン王もですね」
「何でもワーグナーという山師に入れあげているとか」
「ああ、あの浪費家で手癖の悪い」
「何でも弟子の妻を」
「フランツ=リヒトの娘でしたね」
「そうでしたね」
 王とワーグナーの話にもなった。何時しか舞踏会での話はひそひそとした、華やかな場所にはいささか不釣合いなものになっていた。
「音楽は素晴しいですが」
「しかしその人間性は」
「尊大でしかも図々しい」
「おまけにです」
 それだけではなかった。ワーグナーが噂されているのは。
「反ユダヤ主義だとか」
「それですか」
「そうした考えも持っているのですか」
 このこともまた話される。ただこの話にはあえて加わらない面々もいる。貴族社会においてはユダヤ系の問題は市井のそれよりさらに複雑であるのだ。
「何とまあ」
「そうした男ですか」
「そうした人物を傍に置いてですか」
「崇拝しているとか」
「大丈夫なのでしょうか」
 王に対する評価がだ。ここでは一変した。
 

 

102部分:第七話 聖堂への行進その九


第七話 聖堂への行進その九

「何時か大変なことになるのでは?」
「いや、既になっているとか」
「ワーグナーという者はとかく浪費家ですぞ」
「ああ、そうですな」
「ウィーンでもそうでした」
 そのウィーンにいた頃のことがだ。オーストリア貴族達の間から話される。彼等だからこそワーグナーのことを知っているのである。
「とかく金を湯水の如く使います」
「そうした者を重用しているとは」
「あの王は果たして大丈夫なのでしょうか」
「そういえば先の先のバイエルン王も」
 彼の祖父のことだ。
「あの女優に入れあげて」
「ローラ=モンテスでしたな」
「そうしてその結果」
「血でしょうか」
 血統の話になった。自然に。
「ヴィッテルスバッハの」
「何か。現実のものとは違う」
「そうしたものを魅入ってしまう」
「そうした血でしょうか」
「かも知れませんね」
「やはり」
 そう話をするのだった。王や皇后に聞かれないようにして。
 しかし王はだ。彼等のその話を聞いていた。そのうえで悲しい目になってだ。周りに控える者達に対してこう話をするのであった。
「聞こえているのだがな」
「静かにさせますか」
「ここは」
「いや、いい」
 王はそれは止めた。
「口を塞いでも。心は塞ぐことができない」
「だからですか」
「それでなのですね」
「そうだ。だからいい」
 それでだと。王は話したのだった。
「しかし。ワーグナーはだ」
「御気になされぬよう」
「それは」
 彼等は王を気遣いだ。こう告げたのであった。
「彼は今はミュンヘンにいます」
「そうして陛下の為に芸術を紡いでいますので」
「そうだ。それはわかっている」
 王はだ。彼が今何をしているのかを話されるとだ。悲しみを消した。そうしてそのうえでだ。ここでも芸術に対して語るのであった。
「卿等は薔薇が好きか」
「はい、好きです」
「花はどれも」
 そうだとだ。控えている彼等はすぐに答えた。
「その中でもやはり薔薇は」
「素晴しい花です」
「そうだな。私も花は好きだ」
 王もだ。それもだというのだ。
「そしてだ」
「そして」
「そしてといいますと」
「バイエルンの色は青だな」
 王は次には青という色を話に出すのだった。
「そうだな」
「そうですが」
「確かにその通りですが」
 周りの者の言葉は今度は今一つはっきりしないものになった。歯切れが今一つのものになっていた。そのうえで答えたのである。
「ですが。何故それを今」
「薔薇と共に仰ったのでしょうか」
「陛下、それは何故」
「青い薔薇だ」
 王はだ。ここでこの言葉を口に出したのだった。
「青い薔薇なのだ」
「ワーグナーはですか」
「陛下にとってそれなのですね」
「私は薔薇が好きだ」
 またこのことを言ってからであった。
 

 

103部分:第七話 聖堂への行進その十


第七話 聖堂への行進その十

「そして青もだ」
「しかし青い薔薇はこの世にはありませんね」
「それは」
「そうだ。だがワーグナーはそれなのだ」
「現実にないものが現実になっている」
「それなのですね」
「その通りだ。だからこそ私はワーグナーを愛する」
 こう話すのであった。
「何処までもな。そして」
「そして」
「今度は一体」
「その青い薔薇も現実にだ」
 どうなるかをだ。話すのだった。
「この世に出るだろう」
「そうなるのですね」
「何時かは」
「そうだ、なるだろう」
 王はだ。そのことに希望を見ていた。目にもそれは出ていた。そうしてそのうえでだ。周りにいる彼等に対して話すのだった。
「青い薔薇がこの世にだ」
「まさか。それは」
「青い薔薇が現実になるのですか」
「私はそれを信じている」
 そうだというのだ。
「何時かはな」
「何時かはですか」
「そうなるのですか」
「信じている。ではな」
 ここまで話してだった。王は前に出た。舞踏がいよいよはじまろうというのだ。
 彼が動くとだった。これまで彼に対してよからぬことを噂していた者達がだ。ふと話を止めてだ。そのうえで彼を見て話をするのだった。
「やはり。あの王の姿は」
「そうだな。お美しい」
「何処までも」
「動かれるだけで。そこにおられるだけで」
 どうかというのだった。
「その場が映える」
「そしてあの方もまた」
「そうだ」
 皇后も見る。彼女もだった。
 そのあまりもの美しさが場を支配する。皇后は王の動きを見て無意識のうちに足を前にやっていた。しかし皇帝の存在を思い出してだ。動きを止めようとした。
 しかしここでだ。その皇帝が彼女に言うのだった。
「行くといい」
「宜しいのですか?」
「噂になるのを恐れているのだな」
「はい」
 その通りだとだ。こくりと頷いて認めた。
「それでは陛下に」
「安心するのだ。そなたはそうした女性ではない」
 少なくともだ。皇后は皇帝以外の、夫以外の存在に心を動かされる女性ではなかった。王に対してはだ。また別の感情を抱いているのだ。
 そして皇帝はだ。さらに言うのだった。
「あの王もまた」
「彼もですか」
「そうした人物ではない」
 王のことはだ。皇帝もよく知っているのだった。彼のこともだ。
「安心している」
「左様ですか」
「では陛下」
「踊ってくるといい」
 こうだ。自分の妻に対して述べた。
「好きなだけな」
「はい、それでは」
 皇帝に対して一礼してからだ。皇后は前に出た。そうして。
 王と向かい合う。その時にお互いに微笑み合って言葉を交えさせた。
「こうして二人で踊るのも」
「久し振りですね」
 そしてだ。王がこう言った。
「私は今こうして踊るのはです」
「久し振りなのですね」
「私は。一人でいることが多いので」
 だからだというのである。
 

 

104部分:第七話 聖堂への行進その十一


第七話 聖堂への行進その十一

「ですから。それで」
「そうですね。それは私もです」
「貴女もなのですね」
「はい、そうです」
 その通りだとだ。皇后も言った。
「その通りです。旅を続けていますので」
「貴女の舞踏は見事なものですが」
「それは貴方もですね」
「しかし。お互いにですね」
「ええ。踊ることなく」
「その二人が今こうして共に踊る」
「不思議なものですね」
 こう話をしてだった。そうして。
 皇后の方からだ。手を差し出したのだった。そのうえでまた王に声をかけた。
「どうぞ」
「それでは」
 二人は微笑みをそのままに手を取り合う。ここで演奏がはじまった。
 そうして二人でだ。場の中心で踊りはじめる。美麗かつ長身の二人の舞いはだ。周囲をして目を瞠らせ驚嘆させるに充分であった。
「踊ると余計に」
「しかもお二人だと」
「何と絵になる」
「この世のものではない」
 こう言ってだ。誰もが息を呑んでいた。
「やはりあれが血か」
「ヴィッテルスバッハの血」
「美麗の血」
 それ故だというのである。
「その美麗が二人になればさらに」
「あれだけのものを魅せるのか」
「ただ見事なだけではない」
 二人の舞いそのものも非常に素晴しいものだった。踊りというものを心得ている。そのことまでもよくわかる、そうした舞いであった。
 そしてその舞いにはだ。さらに別のものも加わっていたのだ。誰もがそれを見てだ。息を呑み言葉を漏らす、そうなっていたのである。
「魅力に満ちている」
「バイエルン王とオーストリア皇后のそれぞれの魅力がさらにだ」
「素晴しいものを引き出し合っている」
「やはりあの二人は」
「違う」
 こうまで言われるのだった。
「二人だけが違う世界にいるような」
「そうしたものがある」
「二人だけが。何か」
「別の世界に」
「そうなのだ」
 彼等の話を聞きながらだ。皇帝は呟いた。
「エリザベートはだ」
「皇后様は」
「どうだというのですか」
「この世にある者ではないのだ」
 皇帝もだ。今は遠くのものを見る目になっていた。
「別の世界の。そう」
「そう?」
「そうといいますと」
「バイエルン王はワーグナーを愛していたな」
 皇帝もだ。このことを知っていた。
「そうだったな」
「はい、あの音楽家です」
「ライプチヒ生まれの」
「あの音楽家の音楽は私も聴いたことがある」 
 ウィーンは音楽の都だ。彼はその中で常に様々な音楽を聴いている。その中でだ。ワーグナーの音楽も聴いているのである。
 だからこそだ。彼は今こう言うのであった。
「森と城。そして英雄か」
「その三つがあるのですか」
「彼の音楽の中には」
「そうだ。森と城」
 皇帝はまずはこの二つに言及した。
「エリザベートも王も双方を愛しているな」
「確かに。皇后様は」
「あの方は」
 皇后のことはだ。彼等もよく知っていた。
 

 

105部分:第七話 聖堂への行進その十二


第七話 聖堂への行進その十二

「常に森におられます」
「その自然の中に」
「そして城もよく見られます」
「バイエルン王もだ」
 そして彼もだというのだ。
「あの王もまたその二つを深く愛している」
「やはりヴィッテルスバッハなのですか」
「あの方々は」
「血が。そうしたものを求めさせているのだろう」
 皇帝はこう話した。
「英雄だが」
「最後のそれですか」
「英雄ですか」
「ヘルデンテノールだったな」
 ワーグナーのオペラにおける主人公達の声域である。テノールであるがほぼバリトンの声域で輝かしい歌を歌う。言葉で言えばそれだけだが非常に困難な、そんな声域である。
「英雄だ。その英雄がだ」
「皇后様であり」
「バイエルン王なのですか」
「いや、まさか」
 皇帝はだ。ここでふと考えなおした。
「違うかも知れない」
「といいますと」
「どうなのでしょうか」
「それでは」
「二人はだ」
 彼等をだ。共に同じにしての言葉だった。
「同じだと言ったな」
「はい、そうです」
「今確かに」
「そうだ、エリザベートとあの王が同じだとすると」
 どうかだとだ。王は考えながら話していく。
「エリザベートはその心は何処までも女のものだ」
「旅を続けていてもですね」
「それは」
「そうだ、女なのだ」
 それをだ。まず定義してであった。
「そしてそのエリザベートと心を同じにするあの王もだ」
「女性だと」
「そう仰るのですか」
「だからではないのか」
 今度はだ。仮定の言葉だった。
「王は女性を愛せないな」
「そうですね、あの方は」
「どうしてもそれはですね」
「女性だけは駄目だとか」
 このことはあまりにも有名になっていた。バイエルン王は女性を愛さない。常に整った顔立ちの美青年を周りに置いているのだ。
 そのことも見てだ。皇帝は今話すのだった。
「だからだ」
「あの王もですか」
「女性だと」
「ワーグナーの主人公達は男だ」
 今度はこのことも話した。
「何処までも男だな」
「それもその通りですね」
「タンホイザーもローエングリンも」
「そしてオランダ人も」
 オランダ人もまた同じなのだった。声域は先の二人と違うがだ。何処までも、幻想的な意味で男性であることはだ。否定できないものだった。
「その彼等に憧れる王は」
「その心はなのですか」
「そうだと」
「そう思うがどうなのか」
 皇帝はその舞う王を見ながら話した。
「果たしてな」
「どうでしょうか。言われてみれば」
「そうも思えます」
「バイエルン王はやはり」
「その心は」
「そうかも知れないな」
 皇帝はまた王を見た。皇后もだ。
 

 

106部分:第七話 聖堂への行進その十三


第七話 聖堂への行進その十三

「だからこそ。私もエリザベートとあの王が共にいてもだ」
「何も動じられないと」
「そう仰いますか」
「私は元々嫉妬深い男ではない」
 皇帝の美徳の一つであった。彼は非常に生真面目で皇帝の職務に忠実である。その中で嫉妬という感情がないことは彼に非常にいい影響を与えていたのだ。
 そしてだ。皇后もなのだった。
「エリザベートも。私以外の男性を近付けないかtらな」
「一人だけですね」
「陛下だけ」
「そしてあの王だけだ」
 二人であった。しかし同時にであった。
「しかしあの王はだ」
「女性ですか」
「その本質は」
「そう思える。ではだ」
「はい、それでは」
「お二人は」
「あのままでいいのだ」
 二人で舞を舞っていてだ。いいというのである。
「私は一向に構わない」
「わかりました。それでは」
「我々もこうして」
「お二人を見守ります」
「そうしていきます」
「見ていないと。あの二人は何処かに飛び立ってしまうだろう」
 皇帝は今度はこんなことを言った。
「その背にある翼でな」
「翼ですか」
「それで」
「そうだ、翼でだ」
 舞い続ける二人を見てだ。こうも話したのである。
「何処かにな」
「それはできないと思いますが」
「流石に」
 皇帝の周りの者達はこのことは否定したのだった。
「いや」
「いや、と言われますと」
「違うというのですか」
「それは」
「そうだ。だからこそエリザベートは旅をしているのだ」
 宮廷から離れだ。彼女は流浪の皇后とまで呼ばれるようになっているのだ。
「篭の中の鳥ではいたくないのだ」
「そしてあの王も」
「そうだというのですね」
「エリザベートは束縛されるべきではないのだ」
 わかっていてもだ。それはできないことだった。ハプスブルク家の宮廷においてはだ。それはどうしてもできないことであるのだ。
「そしてミュンヘンもだ」
「あの王をですか」
「決して」
「ワーグナーがあるのなら彼をだ」
 そのワーグナーをというのである。
「あの王から引き離すべきではないな」
「バイエルン王の為に」
「そうなのですね」
「そうだ。若し引き離せば」
 どうなるか。皇帝もそれは見えていた。
「あの王にとって。よくないことになる」
「左様ですか」
「あの方にとって」
「話は聞いている」
 皇帝はさらに言った。
「ワーグナーのこともな」
「そうですね。ミュンヘンでも途方もない浪費をしているとか」
「それも際限なく」
「音楽にも個人の生活にも」
「それではやがて」
「恐ろしいことになるのでは」
 こうだ。ウィーンの者達も言うのだった。
「王にとって」
「それでは」
「そうだろうな」
 これはだ。皇帝も察していた。
 

 

107部分:第七話 聖堂への行進その十四


第七話 聖堂への行進その十四

「ワーグナーを止める者がいればいいのだが」
「そうした者はいるでしょうか」
「バイエルンに」
「果たして」
「少なくとも王ではない」
 バイエルン王はだ。ワーグナーを止めないというのだ。
「あの王にはそれはだ」
「無理なのですか」
「そうだ、できない」
 止めないというのではなくだ。止められないというのである。
「決してな」
「ただ愛するだけなのですね、それでは」
「ワーグナーを」
「あの王はそうした人間ではないのだ」
 誰かを止めるという。そうした人間ではないというのだ。
「それが問題なのだがな」
「では他には」
「誰かワーグナーを止められる人物は」
「ミュンヘンには」
「いるかも知れない」
 ここでは仮定だった。
「しかしだ。逆に言えばだ」
「いないかもですか」
「その可能性もあると」
「おそらくいないのではないのか」 
 これが皇帝の見たところだった。
「あそこまでの人物をだ。止められる者はだ」
「流石にですか」
「いませんか」
「フランツ=リヒトならできる」
 彼の最大の理解者の一人であるこの人物ならばだというのだ。ワーグナーは彼のことをもう一人の自分とまで言っている程なのだ。
「しかし彼はミュンヘンにはいない」
「いるのは崇拝者と敵だけですね」
「その崇拝者達にはですか」
「あの王もまた崇拝者なのだから」
 止められない理由はだ。それであった。
「ワーグナーを愛し過ぎている」
「では。このままでは」
「王とワーグナーは」
「やがては」
「彼等が望まなかろうが」
 それでもだというのであった。皇帝は。
「このままでは不幸なことになる」
「とりわけ王にとってですね」
「あの方にとって」
「ワーグナーはかなり強かな男だ」
 皇帝はこのことも聞いていた。そうして知っていた。
「これまでの人生で多くの辛酸を嘗めてきただけはある」
「借金を重ねそれでも逃げ続け」
 まずはこれであった。ワーグナーといえばだ。
「多くの支援者や崇拝者を得て」
「しかもその支援者の妻とよからぬ恋に陥る」
 これはだ。ワーグナーの悪名を高める一つにもなっている。こと女性においてもだ。ワーグナーは実に強かで大胆な男なのである。
「そうした男だからですね」
「それは」
「そうだ、決して潰れはしない」
 それがないというのである。
「それがワーグナーという男だ」
「では彼は破局してもですか」
「仮に王と破局しても」
「それでもなのですね」
「そうだ、動じない」
 ワーグナーはというのである。
「何もなかったように己の芸術に打ち込み続ける」
「ある意味において恐ろしい男ですね」
「そこまでの人物だとは」
「そうした人物ですか」
「そうだ、そしてそれに対して」
 彼について話し。もう一方の人物についても話す皇帝だった。
「あの王はだ」
「非常に繊細な方ですね」
「強かでは決してありません」
「聡明ですが脆い」
「そういう方ですね」
「だからこそ危ういのだ」
 皇帝はだ。王を心から案じていた。それが言葉に出ていた。
 

 

108部分:第七話 聖堂への行進その十五


第七話 聖堂への行進その十五

「彼はな」
「ではそうなれば」
「心の拠り所を失われ」
「己をも」
「それが彼を迷わせよからぬ方に向かわせるか」
 皇帝の案ずる言葉は続く。
「彼等を引き裂いた周囲に絶望して」
「そうしてですか」
「その結果バイエルン王は」
「よからぬ方に向かわれると」
「だが。決して残忍でも邪悪でもない」
 こうしたものとはだ。全く無縁なのもバイエルン王だった。彼にはそうした習性のものは備わってはいないのである。それも確かだった。
「醜悪さとは無縁の人物だ」
「そうした意味で道を誤らない」
「そうなのですか」
「美を求め。そうして」
 そうなると。皇帝は語った。
「それがよからぬものにならなければいいのだが」
「引き裂かれたワーグナーを追い求め」
「そうしてでしょうか」
「そうだな。追い求めるな」
 実際にそうなるというのであった。
「そうなれば」
「ワーグナーの世界を」
「それを」
「森と城か」
 王はこの二つをまたその言葉に出した。
「それを求めるのだろうか」
「その二つというと」
「一体」
「具体的には森の中の城か」
 それではとだ。皇帝は言うのだった。
「あの王が求めるとなると」
「それもワーグナー的な、ですか」
「そうした城ですか」
「城をただ求めるだけではあるまい」
 王の性格を考えるとだ。そう考えざるを得ないのだった。
「それはとてもな」
「王がお好きなのはタンホイザーとローエングリン」
「ワーグナーの中ではとりわけこの二作ですね」
「とりわけローエングリンですね」
「その二つだ」
 まさにその作品だというのである。
「だとすればだ」
「ローエングリンを実現させる」
「その城に」
「そして」
 まだあった。王が愛するものは。
「バロックとロココか」
「王はフランス趣味でもありましたね」
「そういえば」
 このことも知られていた。芸術をこよなく愛する王はバロックやロココといったフランス趣味でもあったのだ。それもかなりのものであった。
「ではかなり壮麗な」
「そうした城をですか」
「ワーグナーが傍にいればそうはなるまい」
 皇帝は王を気にかけながら述べた。
「だが。ワーグナーと別れることになればだ」
「そうなられる」
「城を求められますか」
「そうなっては王にとってもよくない」
 やはりであった。皇帝は王を心配していた。それは純粋に人間としてだ。
「周りにもだ」
「構わないのはワーグナーだけ」
「強かな彼だけが」
「ワーグナーは特別だ」
 皇帝はこの音楽家のあまりもの個性の強さと図太さを知っていた。だからこそ彼だけは違うとだ。はっきりと言えるのであった。それでだ。
「彼だけは何があってもだ」
「変わらない」
「己の芸術を追い求める」
「そうだというのですね」
「その通りだ。彼だけはだ」
 そのワーグナーだけはと。また言うのであった。
 

 

109部分:第七話 聖堂への行進その十六


第七話 聖堂への行進その十六

「何処にいようと変わらない。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「王は彼を助け続ける」
 そのワーグナーへの援助は変わらないというのだった。
「決してだ」
「あの膨大な援助をですか」
「どうあっても続けられますか」
「王は」
「そうだ。それもまた変わらない」 
 それもなのだった。王のワーグナーへの愛はというのだ。
「それが離れたり薄らいだりしてもだ」
「愛自体は変わらない」
「そうなのですね」
「あの王はあまりにも愛し過ぎている」
 そのワーグナーの全てをというのである。
「悲劇はそこにあるのかもな」
「厄介な話ですね」
「全くです」
 それを聞いてだ。オーストリアの宮廷でもバイエルン王を気遣う声があった。だが王は今はその言葉を今は無視してだ。皇后と舞うのだった。
 音楽が終わり舞い終わるとだ。お互いに優雅に一礼してから言い合った。
「ではまた」
「ええ。また」
 お互いにだ。再びだというのであった。
「機会があれば」
「踊りましょう」
「この様に明るく踊れたのは久し振りです」
 王は微笑んで皇后に話した。
「踊ること自体がです」
「なかったのですね」
「それは貴女もですね」
「はい」
 その通りだとだ。皇后は微笑んで述べた。
「旅の中にいますから」
「そうですね。お互いに」
「できればこうして」
 皇后はだ。自然にその望みを口にしたのだった。
「踊れればいいのですが」
「全くです。私もです」
「踊れないものがあります」
 二人共だった。それがあるのは。それによってだった。
 二人は踊れなかった。しかし今はなのであった。
「ですが今は」
「そうです。こうして」
「因果なものです。私は王です」
「そして私は皇后です」
 二人の立場がだ。二人を縛っていたのだった。
「王であるが故に考え、悩む」
「私もまた同じ」
「しかしその座から離れられない」
 王の顔に憂いが戻った。
「離れたら私は私でなくなります」
「そうですね。貴方も私も」
 こうした話をしてだった。二人は今は別れたのだった。お互いに心で結び合うものを感じながら。二人は別れたのであった。
 その頃だ。ミュンヘンの宮廷ではだ。端整な服を着た者達が頭を抱えながら話をしていた。
「何と、そうなのですか」
「はい、そうです」
「そこまでなのです」
 こうだ。その一室で話をしていた。
「あの男、とかくです」
「陛下の寵愛があるのをいいことにです」
「そこまでしています」
「浪費の限りを尽くしています」
 そうだとだ。彼等は話すのであった。
「あまりにも図々しい」
「これではあのローラ=モンテスと同じではないか」
「そんな男を置いていられるのか」
「このミュンヘンに」
「ここは」
 そしてだった。一人が言った。
「彼を説得するしかないのでは」
「男爵、それしかありませんか」
「ここは」
「できるだけ穏健にいきたいのです」
 あの男爵だった。彼は悩む顔で言うのであった。
 

 

110部分:第七話 聖堂への行進その十七


第七話 聖堂への行進その十七

「穏健にですか」
「ここは」
「そうです、陛下のお気持ちを害することはあってはなりません」
 王への忠誠がだ。彼にそう言わせているのだった。
「ですから。彼にあの生活をあらためるようです」
「そうして陛下への援助の無心もですね」
「それも謹んでもらうようにですね」
「そういう風に」
「はい、そうしてはどうでしょうか」
 男爵はこう周りに話すのだった。
「ここは」
「そうですな」
 彼等の中で一際厳しい顔の男も言ってきた。
「ここはそれがいいのでは」
「ブフィースターマイスター首相」
「卿もそう思われますか」
「はい、今はそれでいいでしょう」
 彼は今はというのだった。そこに彼の考えがあった。
「それで彼が行いをあらためればです」
「とりあえずはそれですか」
「まずは」
「はい、それで落ち着けばよし」
 これがその彼、首相の考えであった。
「ですがそれで行いをあらためなければ」
「その時はですか」
「最後の手段ですか」
「何もこのバイエルンから追放するというのではありません」
 首相もそれは否定した。そこまでは考えていないというのだ。
「ただ。陛下の御傍にいるのはです」
「あまりにも酷いとそれはですか」
「許せないと」
「そうだというのですね」
「そういうことです。それが最後の手段です」
 首相はそれを最後とした。そして彼もまた、だった。
「陛下は。彼の芸術があればそれでいいと言われるでしょう」
「本人ではなく芸術が」
「そちらがですか」
「はい、そうです」
 これが首相の見たところであった。しかしであった。
 彼は見誤っていた。王が彼についてどうした感情を抱いているのか。それを見誤っていた。しかもそれでいて王への敬慕が強かった。
 その為にだ。彼は言うのだった。その敬慕のままに。
「ですから。陛下のお気持ちを害さずにです」
「彼の問題をどうかするのですね」
「ここは」
「そうした意味で男爵のお考えに賛成です」
 ここまで話して男爵に顔を向けたのだった。
「そういうことです」
「左様ですか、それでは」
「今は」
「はい、そうします」
 こう話してであった。そのうえでだ。
 首相と男爵はだ。お互いに手を出し合ってだ。そのうえで握手をするのだった。
「男爵、それでは」
「首相も」
 二人は今盟友となったのであった。それを確かめ合いながらまた話す。
「陛下の為に」
「このバイエルンの為に」
 あくまでだ。彼等に私はなかった。公、そして忠があるだけだった。
 それは確かだった。だが、だった。
 やはり彼等はわかっていなかったのだ。王のことをだ。彼を理解することはあまりにも難しかった。その繊細さと醒めた中にある情熱を。
「共に動きましょう」
「是非」
「我々もです」
「そうさせてもらいます」
 周りもここで二人に続いた。
「陛下の為に」
「バイエルンの為に」
 彼等は今誓い合っていた。王の為に動きことをだ。しかしそれがどういった結果になるのかはだ。彼等はわかっていなかった。王のこともまた。


第七話   完


                 2011・1・6
 

 

111部分:第八話 心の闇その一


第八話 心の闇その一

                    心の波
 ワーグナーの生活はだ。豪奢と言っても有り余るものだった。
 ビロードのベレー帽に絹の服の格好をいつもしていた。香水、それもかなり高価なそれの香りをいつも嫌になるまで漂わせている。
 ビロードにタフタにサテン、高価な布地のカーテンに絨毯。色彩は紫に黄色。庭にはつがいの孔雀がいる。そんな二階建てのバルコニーのある屋敷だった。
 愛犬達もいる。これが彼のミュンヘンでの屋敷だった。
「しかもこれだけではないからな」
「全くだ」
 その彼の屋敷に来た宮廷の者達は顔を顰めさせずにはいられなかった。そのうえで彼の屋敷の中を見回すのだった。そこは極彩色の豪奢の中にあった。
「別荘まであるのだぞ」
「しかも年金まである」
「途方もない借金は全て陛下が肩代わりされた」
「そのうえでこれだ」
「どういうことだ」
「図々しいにも程がある」
 この言葉も出された。
「陛下の寵愛をいいことにだ」
「ここまでするというのか」
「最近ではどうやら革命家と会っているそうだしな」
「革命家!?というと」
「あのマルクスのか」
 革命と聞いてだ。すぐにこの名前が出て来た。共産党宣言を行った哲学者である。昨今知識人の間でメシアとさえみなされている男だ。
「あの男の関係者か」
「まさか」
「そうらしい。危険ではないのか」
 このことがだ。宮廷の者達にこう言わせていた。
「あの男、このままでは」
「そうだな、確かにな」
「せめてそうした男と会わせてはならない」
「監視をつけるか」
「だがそれは陛下がお許しになられぬ」
 ここで王のことが話に出た。
「彼への過度の干渉はだ」
「陛下か。あの方はもう都に戻られるのだな」
「このミュンヘンに」
「うむ、間も無くだ」
 王の帰還がだ。近いというのである。
「帰ってこられる」
「エリザベート様と一緒におられたがな」
「そのフランケンから帰られる」
「無事な」
「ならばよしだな」
 それを聞いてだ。彼等はそれぞれ頷くのだった。安心した顔で。
「陛下がおられなくてはな」
「やはり何かが違う」
「王がおっておられてこそのミュンヘンだ」
「その通りだ」
 こうした意味でもだ。王は敬愛されていた。その臣下からも国民からも。
「しかしな。ワーグナーについてはな」
「そうだな。どうもな」
「あの方は違ってしまわれる」
「どうしても」
 それがだ。彼等の頭痛の種であった。それについても思うのだった。
「この屋敷には奥方さえおられぬ」
「そうだな。あの奥方とは別居か」
「あまり仲がよくないというがな」
「それでもな」
 ワーグナーと妻の不仲はだ。彼等の耳にも入っていた。それもよくだ。
「こうして妻と離れて豪奢な暮らしを過ごす」
「しかもだ」
 それもだというのである。
「あのコジマ=フォン=ビューロー」
「あのハンス=フォン=ビューローの妻だが」
「あの女性はワーグナーの何なのだ?」
 彼女のことはだ。どうしても語られずにはいられなかった。
「いつも傍にいるが」
「あれは弟子の妻の態度ではないぞ」
「そうだな、あれは」
「愛人ではないのか」
「この前娘を生んだが」
 その彼女はというのだ。
「父親はビューロー氏ではないというが」
「その噂はあるな」
「ああ、確かにな」
「ある」
 このよからぬ噂のことも話されていく。ワーグナーにとっては避けられない醜聞となっていた。このミュンヘンにおいてはなのだった。
 

 

112部分:第八話 心の闇その二


第八話 心の闇その二

「イゾルデというが」
「ありきたりの名前だが」
 この当時のドイツではである。
「だが。それでもな」
「あのオペラ」
「トリスタンとイゾルデ」
「今このミュンヘンで上演が考えられているオペラだ」
 それだというのである。やはりワーグナーは音楽家なのだ。
「あれのヒロインは」
「タイトルロールの一人は」
「イゾルデだ」
 名前がだ。全く同じであったのだ。
「名付け親はワーグナー氏だ」
「ではやはり」
「真の父親はワーグナー氏なのか」
「前にも女性問題を起こしている」
 小柄で容姿も決して優れているとは言えない。それでもなのだ。
 ワーグナーは女性を魅了する男だった。容姿ではない別のものによってだ。それによってコジマもまた魅了されたのは事実であった。
「それではな」
「そうであってもおかしくはないな」
「そうだな」
「それでは」
 こうしてだった。彼等はだった。
 徐々にワーグナーへの不信や嫌疑の感情を強くさせていっていた。それはワーグナーの崇拝者達も感じていた。それでだった。
 ワーグナー自身にだ。こう述べるのだった。
「御気をつけ下さい」
「このミュンヘンでもです」
「貴方をよく思わぬ者がいます」
「それも増えてきております」
「そうした面々が」
「そうなのですか」
 しかしだった。ワーグナーの返答は至って落ち着いたものだった。
 動じてすらいなかった。まるで今更といった風に言うのであった。
「今はそれ程気をつけることはありません」
「しかしです」
「どうやら宮廷だけでなくです」
「政府もまた」
「首相が」
「しかし今は」
 今はと。ワーグナーは言うのであった。
「私には陛下がおられますので」
「バイエルン王ですね」
「あの方が」
「はい」
 その通りだというのである。
「その通りです」
「それはいいのですが」
「ここは御願いがあります」
「いいでしょうか」
 彼等はだ。真剣な顔でワーグナーに言ってきた。彼等にとっての崇拝の対象はだ。どうしても護らなくてはならないものだったのだ。
 それでだ。彼等は彼にさらに忠告を続けた。
「贅沢は慎まれた方が」
「そうされるべきです」
「是非共」
「いやいや、それはです」
 いいというのである。ワーグナーはだ。
「私にとってはです」
「必要なのですか」
「そう仰いますか」
「はい」
 その通りだとだ。答えるのである。
「私はそうした環境の中でないと」
「芸術を生み出せない」
「そうですか」
「それは御存知の筈ですが」
 彼のことをだ。知っているかというのである。確かめさせる言葉だった。
「私のそのことは」
「その為の浪費でしたから」
「それは」
 ワーグナーが何故借金を、ユリウス=カエサルの如く借金を積み上げてきたのかは彼等も知っていた。その贅沢故のことであることをだ。
 

 

113部分:第八話 心の闇その三


第八話 心の闇その三

「だからですか」
「若しかして陛下は」
 王についてだ。さらに話されていく。
「フォン=ビューロー夫人とのことも」
「御存知だと」
「そのこともですか」
「あの方は鋭い方です」
 少なくともだ。愚かではないのは誰もが知っていた。
「何かあればすぐに気付かれる方ですから」
「そうですな。あの方はです」
「知識や教養だけではありません」
 その二つも勿論併せ持っているのである。しかしそれ以上にというのだ。
「そうした生来の勘と聡明さも持っておられます」
「ならば。夫人とのことは」
「少なくともワーグナー氏のそうした人間性は御存知でしょう」
 そのあまりにも問題のある人間性のことである。
「しかしそれでもですか」
「ああして愛されている」
「何故でしょう、潔癖な陛下が」
「そうされるのは」
「やはり」
 ここで、だった。一人が察するのであった。
「あの方は時としてあえて見られないことがありますから」
「ではワーグナー氏についても」
「その負の部分はあえて見ずに」
「そのうえで愛されている」
「そうなのですか」
「芸術です」
 まず第一にだ。これがくるというのである。
「陛下は芸術を何よりも尊ばれますから」
「従って。ワーグナー氏のその芸術がある限り」
「彼を愛される」
「そうなのですか」
「そうではないでしょうか」
 こう考えられるのであった。
「だからこそああして」
「だとすればこれは由々しき問題ですな」
「全くです」
 彼等はだ。こう考えたのだった。
「陛下がご承知のうえだとすると」
「ワーグナー氏をこのままにしておくことは」
「そうですな。ここは」
「首相と男爵にお話しましょう」
「是非」
 こんなことも話されていた。このことは無論ワーグナー自身の耳にも入る。しかし彼はまだ焦ってはいないのだった。
「気にすることはない」
「そう思われますか」
「そうだ。それよりもだ」
 彼は弟子のハンス=フォン=ビューローと話していた。広い額で髪を首のところまで伸ばした何処か中性的な面持ちの男である。
 その知的な印象を与える彼にだ。ワーグナーは話すのだった。
「トリスタンだ」
「それですね」
「陛下が戻られたならあの方もだな」
「舞台稽古を御覧になられたいと言われてましたね」
「素晴しいことだ」
 そのことにだ。王は素直に喜びの感情を見せた。
「まさか。陛下がな」
「流石にそこまでは思われていませんでしたか」
「そうだ。一国の君主が私の舞台稽古を御覧になられる」
 しかもであった。
「陛下がだ」
「陛下がですね」
「私の芸術を。完全に理解して頂いているしな」
「そうですね。陛下はですね」
 それはだ。ビューローも感じ取っていることだった。王はワーグナーの芸術を理解していた。その理解の深さと細かさはというとであった。
「もう一人の私と同じだけだ」
「私の義父と同じだけですね」
「そうだ。フランツ=リヒトに陛下」
 そのことについて。王と彼は同じ存在であった。
「私の全てを理解して頂いている」
「では陛下はもう一人の」
「いや、違うな」
 ワーグナーは弟子の言葉はここでは否定した。そして言うのだった。
 

 

114部分:第八話 心の闇その四


第八話 心の闇その四

「あの方は私ではない」
「違いますか」
「もう一人の私ではなく」
 何かというのだった。それは。
「エルザだ」
「エルザですか」
「そうだ、あの方はエルザだ」
 それだというのだ。ローエングリンのヒロインだというのだ。白銀の騎士に座れるブラバントの姫、王はそれだというのである。
「私は騎士を生み出すが」
「あの方はですか」
「そうだ、エルザなのだ」
 またこう言うワーグナーだった。
「むしろな」
「陛下は姫なのですか」
「私にはそう思える」
「ですが。あの方は」
「確かに男性の方だ」
 あまりにも男性的なのが王だった。美麗な意味で。
「だが、御心は」
「女性ですか」
「そう思えるのだ。だからローエングリンを愛するのではないのか」
「あの白銀の騎士を」
「そう思えるのだが。どうだ」
「さて。それは」
 そう言われてもだ。ビューローにはわからないものだった。もっと言えばそれは感じるには足りなかった。ビューローですらだ。
「私には」
「感じられないか」
「はい」
 その通りだというのだった。
「申し訳ありませんが」
「謝ることはない」
 それはいいとするワーグナーだった。
「だがな」
「それでもですか」
「あの方もそれに気付いておられるだろうか」
 王に対してだ。深い考えに至るのだった。
「御自身で」
「どうでしょうか。それは」
「あの方は青年を愛される」
 王のそうした嗜好は既に知られていた。王に女性の話はなかった。
「そこがだ」
「先生とは違いますし」
「それにだ」
「それに?」
「あの方のその想いはだ」
 そのことについても話すのだった。
「やはりな」
「女性のものですか」
「ローエングリンだと思われている」
 そのオペラの主人公である白銀の騎士であるとだ。王自身は思っているというのである。しかしそれが、というのである。ワーグナーは指摘する。
「だが。実際はだ」
「エルザですか」
「御心は男性のようで男性ではない」
「女性だと」
「人は誰でもだが」
 ここからはだ。ワーグナーがこれまで培った学識において述べられる。偏ったところはあるが彼の知識と教養もかなりのものなのだ。
「男性的なもの、女性的なものをそれぞれ持っている」
「聖なる愛も欲なる愛もですね」
「私はかつてそれを描いた」
 何の作品かというとであった。それは。
「タンホイザーでな」
「そうでしたね。それは」
「そうだ、描いた」
 まさにそうだというのだ。ワーグナーは今は絵画的に語っていた。
 

 

115部分:第八話 心の闇その五


第八話 心の闇その五

「その二つの愛を」
「そして男性的なものと女性的なものですか」
「男であっても女性的なものは必ず持ち」
「女であっても男性的なものを」
「それぞれ持っている」
 ワーグナーはビューローに話していく。
「そして陛下はだ」
「その女性的なものがとりわけなのですか」
「何故ローエングリンに憧れるか」
 ワーグナーだけがわかることだった。それが何故かもだ。
「心の中の女性的なものが彼に憧れを抱かせるのだ」
「あくまで男性的な彼に対して」
「ローエングリンにしろ女性的なものは持っているがな」
 彼にしてもなのだった。その白銀の騎士にしてもだというのだ。
 ワーグナーだけがわかることだった。その騎士を生み出した者だからだ。
「その騎士に。憧れ」
「彼になりきりたいとするのも」
「憧れ故だ」
「そして陛下は特に」
「女性的なのだ。むしろ」
 言葉を言い換えた。その言葉だ。
「御心は。女性そのものなのかもな」
「だからこそローエングリンに憧れ続ける」
「ヘルデンテノールの様でヘルデンテノールではない」
 また言ったのであった。
「若しかするとな」
「その女性的なものはいいのでしょうか」 
 ビューローは怪訝な顔になって師に問うた。
「陛下にとっては」
「さてな」
 弟子のその問いにはだ。彼は難しい顔になって返した。
「それはわからない」
「わかりませんか」
「陛下はあまりにも繊細だ」
 ここで王の一つの要素が述べられた。
「あまりにもな」
「確かに。あそこまで繊細な方はそうはおられません」
「その繊細さは一歩間違えば危うい結果をもたらす」
「そうなりますか」
「それが気になるのだ」
 ワーグナーにしてもだ。王を気にせずにはいられないのだった。
 それでだ。彼はその王についてさらに話すのだった。
「他人を避けるようにならなければいいが」
「傷つきですね」
「そういうことだ。あの方は非常に傷つきやすい」
 王のその性質をわかっているからこそ言うワーグナーであった。
「どうなるか」
「それが不安ですね」
「その通りだ」
 こう話すのだった。そしてその王がだ。遂にミュンヘンに戻ってきたのであった。
 専用の車両から降りだ。彼はまずこう言うのだった。
「まずは王宮に戻りだ」
「はい」
「職務をですね」
「それを」
「そうだ。そしてだ」
 王は後ろにいる者達に話していく。駅を歩きながら。
「会議だな」
「はい、それもです」
「外交について」
「やはりオーストリアとプロイセンの対決は避けられない」
 王はだ。このことを見極めていた。彼の中ではそれは絶対であった。
「決してだ」
「外交についてはです」
「既に会議が決まっています」
「戦いのことか」
 自分でこの言葉を出してだ。王はその顔を曇らせた。
 美麗な顔に曇りを宿らせて。彼はさらに話した。
「私はだ」
「はい、陛下はです」
「司令官になられるでしょう」
 彼等はすぐに述べてきた。
 

 

116部分:第八話 心の闇その六


第八話 心の闇その六

「オーストリア軍の司令官です」
「それに」
「それはお断りしよう」
 それについてはだ。王はすぐに述べた。
「司令官はな」
「しかし陛下」
「それはです」
 彼等もまた、だ。顔を曇らせて彼等に言うのだった。
「お断りすることは」
「かなり」
「いや、それでもだ」
 無理だと言われてもだというのだ。彼はだ。
「お断りする」
「しかし。それでは」
「オーストリアとの関係が」
「かなりこじれますが」
「私でなくともよいのだ」
 少し聞いただけではだ。逃げと取れる言葉であった。しかし王はここでは逃げていなかった。個人としては層であったかもしれないが王としてはであった。
「それはだ」
「陛下でなくてもよいとは」
「いえ、それは」
「幾ら何でも」
「むしろ私であれば」
 王はだ。考える顔でこうも言った。
「後々不都合なことになるかも知れない」
「まさか。それは」
「そんなことはないかと」
「そうです」
 彼等は王の今の言葉は否定しようとした。彼等の見えるその中での否定だった。
「むしろそれをされないと」
「今後厄介なことになりませんか」
「オーストリアとの関係が」
「悪化する恐れがあります」
「それはない」
 王はオーストリアとの関係悪化についてはこう言って終わらせた。
「バイエルンはオーストリアにつくのだからな」
「それでだと仰いますか」
「それでオーストリアとの関係は悪化しませんか」
「今後は」
「確かにプロイセンとオーストリアの対決は避けられない」
 そしてだ。王はそれは何なのかも語った。
「ドイツの内戦はだ」
「内戦ですか、これは」
「両国の対決は」
「ドイツのですか」
「南北の内戦だ」
 まさにそれだというのだ。
「三十年戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争とあったが」
「そういったものと同じですか」
「過去の戦争と」
「そうなのですか」
「それぞれ事情は違うが内戦だ」
 そのドイツのだというのである。
「神聖ローマ帝国、即ちドイツのな」
「そして今回のプロイセンとオーストリアも」
「内戦ですか」
「しかしこの内戦は」
 どういったものであるのか。王はそれも把握していた。王は現実を見てはいないと思われていた。しかしそれを見ていたのだ。醒めた目でだ。
「過去の内戦とは違う」
「何処が違うのですか」
「では」
「分裂の為の内戦ではなく統一の為の内戦だ」
 それだというのだ。
「ビスマルク卿はドイツの統一を目指しておられるのだ」
「小ドイツ主義による、ですね」
「プロイセンによる」
「第二のドイツ帝国だ」
 それだというのである。
「神聖ローマ帝国に次ぐな」
「第二のですか」
「ドイツ帝国ですか」
「そこまでは戦争が終わることがない」
 王はそこまで見ていた。ビスマルクの目指すものもだ。
 

 

117部分:第八話 心の闇その七


第八話 心の闇その七

「決してな」
「ドイツ帝国ができるまで」
「それまで」
「鉄と血による統一だ」
 ビスマルクの言葉をそのまま話した言葉だった。
「それによるドイツ帝国なのだ」
「ですがそれでは」
「我が国は」
「このバイエルンは」
「それだけは守らなくてはならない」
 歩きながらだ。王は言った。
「この国の独立だけはだ」
「はい、その通りです」
「それだけは守らなくては」
「バイエルンの独立は」
「そのことだけは」
「それを念頭に置くのだ」
 やはり王はバイエルン王であった。この国のことを誰よりも真剣に考えていた。そのうえでだ。彼は言うのであった。
「それで司令官だが」
「それはなりませんか」
「やはり」
「どうしても」
「そうだ、私は就かない」
 それを言うのであった。
「いいな。それではだ」
「兵の士気に関わります」
「陛下が出られないと」
「それでもですか」
「そのことについてもまた話す」
 王はまた言った。
「時になればだ」
「その時にですか」
「仰るというのですね」
「兵についても」
「覚えておくのだ。大事なのはだ」
 バイエルンにとってだという。まさにそのバイエルン王の言葉だ。
「バイエルンの独立を守ることだ」
「それですね」
「我々にとっては」
「そのことこそが」
「大事なのだ。中においても同じだ」
 外交だけではない。内政もだというのだ。王の目は外だけ見ているのではなかった。中にもその聡明な目を向けているのだった。
「それもだ」
「最近プロイセンに接近している者もいますが」
「議会にも閣僚にも」
「彼等は」
「仕方のないことだ」
 王の言葉はここでは醒めた。
「それもまた、だ」
「プロイセンに近付いてもですか」
「それはですか」
「仕方ないと」
「プロイセンの勢いは止まるところを知らない」
 飛ぶ鳥を落とす勢いである。それを見ればというのだ。
「時代の流れだ」
「時代の」
「それがわかっているからこそ」
「彼等は」
「時代の流れというものはだ」
 王はだ。語りながら寂しい顔になった。そこに想うところがあるのを見せていた。
「人ではどうしようもないものなのだろう」
「そういうものですか」
「時代の流れは」
「バイエルンも私もまた」
 王はさらに語る。
「その中において」
「どうなると」
「陛下は」
「いや、いい」
 語ろうとしたところでそれを止めたのだった。
 

 

118部分:第八話 心の闇その八


第八話 心の闇その八

「それはいい」
「左様ですか」
「仰られないのですね」
「そうされますか」
「大した話ではない」
 こう言ってだ。それを語らないのだった。
「何はともあれだ。オペラだが」
「はい、ワーグナー氏ですね」
「あの方のことですね」
「そうだ。トリスタンとイゾルデだ」
 王の顔から憂いが消えてだ。生き生きとしたものになってきていた。その生気のある顔でだ。彼は彼等に話をしていくのだった。
「あのオペラは何処で上演されるべきか」
「陛下は劇場でだと仰っていますが」
「ワーグナー氏は小劇場でと仰っています」
「そこでだというのです」
「あの方は」
「劇場の方がいい」
 これが王の意見だった。
「トリスタンにはだ」
「そちらがですね」
「あの作品には」
「大作だ」
 その作品についての言葉だった。
「上演は二時間どころではない」
「四時間は優にかかるとか」
「ワーグナー氏の作品はどれも長いですが」
 その長さもまたワーグナーの芸術の特徴だった。オーケストラもかなりの数を誇る。豪奢なのは生活だけではなく芸術もなのだ。
「トリスタンはさらにですね」
「そこまでの長さがあるのですか」
「あれだけの作品は小劇場で上演されるべきではない」
 王はこうも語った。
「やはり。我がミュンヘンの王立劇場で上演されるべきだ」
「ウィーンでも上演できなかったそれを」
「このミュンヘンで」
「そうするべきだと仰るのですね」
「陛下は」
「そうだ。だがワーグナーはか」
 王の顔に再び憂いが宿った。己の考えとワーグナーの考えが食い違うことにだ。憂いを感じてそうした今は語るのだった。
「そちらだというのか」
「歌手もようやく揃いそうですが」
「それでもですね」
「上演の場所でも」
「音の響きを考えてのことだろう」
 王は何故ワーグナーが小劇場だと主張するのかを察して述べた。
「それでだな」
「音響ですか」
「その問題ですか」
「難しい。芸術は」
 憂いのある顔で話した。
「何につけてもな」
「果たしてトリスタンはどうなるか」
「それが不安ですか」
「やはり」
「何としても成功させる」
 だが、だった。王は決意していた。既にだ。
「あの作品の初演はな」
「はい、それでは陛下」
「これからですね」
「あのオペラについても」
「私は全力を尽くす」
 その決意を言葉にも出してみせた。
「何としてもな」
 王はミュンヘンに戻り政治と芸術の双方において憂いを感じていた。しかもそこにだ。新たな憂いが降りかかってきたのであった。
 ワーグナーへの批判と攻撃がだ。強くなっていたのだ。
 新聞には連日連夜ワーグナーへの攻撃の記事が載り市民達も口々に反感の言葉を出していた。そして閣僚達もであった。
 首相と男爵がだ。まず言うのであった。
「これ以上彼の好きにはさせられない」
「ローラ=モンテスはもういらないのだ」
 先々王を惑わしたとされている女優の名前を出すのだった。彼女の名前はミュンヘンにおいてはトラウマにさえなっていた。
 

 

119部分:第八話 心の闇その九


第八話 心の闇その九

「あの様なことはあってはならない」
「絶対にだ」
「だからこそ最早許してはおけないのだ」
「彼のやりたい放題はだ」
 内閣の首班である首相と宮廷の重鎮である男爵が主張すればだ。影響は計り知れない。どちらの場所でもワーグナーへの反感の念が強まったのだ。
 そしてだ。やはりあの話が出た。
「ビューロー夫人との関係はだ」
「あれはどうなのだ」
「清らかなものではないだろう」
「間違ってもだ」
 そしてだ。そのことを攻撃するカリカチュアも描かれた。
 ワーグナーがコジマを連れて歩きその後ろをビューローがついてくる。楽譜を落としながら。あからさまな風刺画であった。
 そのカリカチュアを見てだ。ミュンヘン市民達はさらに言うのだった。
「そういう男なのだ」
「そうだ、ワーグナーはな」
「とんでもない奴だ」
「山師だ」
 この言葉が出された。
「あの男は陛下をたぶらかしているのだ」
「国庫から金を好きなだけ引き出して浪費している」
「バイエルンの金食い虫だ」
「あの男の好きにさせるな」
「しかも弟子の妻を愛人にしている」
「そんな男を許せるのか」
 人を攻撃するにはその下半身を攻撃すれば最大の効果を得られる。例えそれが事実無根のものでもその人物の評判は確実に落ちる。ましてやそれが事実だったならば余計にだ。
 ワーグナーはだ。今その攻撃を受けていたのであった。
 その攻撃が強まってだ。流石にワーグナーも平穏ではいられなくなってきていた。苛立ちを露わにさせて信仰する者達に話すのだった。
「偽りだ、何もかも」
「偽りだと」
「全ては」
「ビューロー夫人とのことはだ」
 それを話すのだった。
「全て偽りだ」
「しかし陛下、このミュンヘンでは」
「その話題は最早」
「誰もが」
「彼を貶める話だ」
 王はこう言って引かなかった。
「それ以外の何ものでもない」
「では陛下、この話は」
「王室としてはですか」
「そうだ、否定する」
 言い切った。完全にだ。
「そんなことは有り得ない」
「有り得ませんか」
「絶対に」
「そうだ。有り得ない」
 また言う王だった。
「わかったな。ワーグナーとビューロー夫人の間には何もない」
「二人は潔白ですね」
「完全に」
「そうだ、潔白だ」
 王はまた言った。
「二人も言っているな」
「確かに」
(しかし)
(あれは)
 だが、だった。王の周りもだ。誰もが思うのだった。
(ワーグナー氏は嘘をついている)
(二人の間には既に)
(あの娘の父親は)
(間違いない)
 こう思うのだった。
 

 

120部分:第八話 心の闇その十


第八話 心の闇その十

(ワーグナー氏だ)
(陛下をたばかっておられる)
(わかっていて)
(そして陛下も)
 王自身もだというのだ。王を見ながら思うのだった。
(わかっておられる)
(御存知でない筈がない)
(間違ってもだ)
(御承知だ)
 勘のいい王がそれを察しない筈がないというのだ。それも誰もがわかっていた。
 そのこともだ。巷で言われるのだった。
「陛下は何を考えておられるんだ?」
「全くだ。あの男は陛下をたばかっておられるんだぞ」
「陛下をたばかりビューロー夫人との関係を続けている」
「陛下は御存知の筈」
「それでどうしてだ」
「二人の関係を否定されるのだ」
「まさか」
 ここでだ。あらためて言われるのだった。
「陛下は」
「陛下は!?」
「というと」
「どう考えておられるんだ」
「御存知のうえであえて」
 王が知らない筈がないと。誰もがわかってのことだったのだ。
「ああしてワーグナーを傍に」
「あの男をか」
「そこまでワーグナーに入れ込んでおられるのだ」
 こう考えられていくのだった。
「どうやらな」
「それではこのままでは」
「陛下はワーグナーにたばかられたまま彼を傍に置くのか」
「全てがわかっていて」
「そのうえで」
 こう考えていくとだった。ミュンヘンの中にさらに不穏なものが宿っていった。
 それでだ。彼等はさらに話すのだった。
「やはり。これでは」
「あの男をミュンヘンに置いていては駄目だ」
「危険だ」
「バイエルンの財政問題だけではない」
 ワーグナーのその浪費だけではないと。彼等は思いだしていたのだ。
「陛下をたばかり何を続けるか」
「わかったものではないぞ」
「やはりあの男、このままでは」
「ミュンヘンに置いていては」
 王への忠誠も彼等をそちらに向かわせていた。彼等は確かに王を想っていた。しかしそれは決して王の望むところではなかった。
 だが彼等はそれに気付かずにだ。さらに言っていくのだった。
「ワーグナーはバイエルンにいてはならないぞ」
「絶対にな」
「駄目だ」
「何があっても」
 この流れをだ。政府も宮廷も見逃さなかった。それでだ。
 首相と男爵はだ。食事を摂りながら話していた。そこでだった。
 まずはだ。男爵が言うのだった。
「いい流れですな」
「そうですな」
 首相も満足した顔で男爵のその言葉に頷く。二人は今目玉焼きを乗せたハンバーグを食べている。ビスマルクの好物でもあるそれをだ。
「ワーグナー氏は焦ってマスコミへの攻撃をはじめているが」
「それもまた思う壺」
「このままいけば」
「彼はさらに追い詰められます」
「後はです」
 今度は首相から言った。
「彼が陛下の下に参上する時にです」
「仕掛けるのですね」
「そうします」
 フォークでハンバーグを切りながら話す男爵だった。
 

 

121部分:第八話 心の闇その十一


第八話 心の闇その十一

「そうすれば彼はさらに追い詰められます」
「そして陛下も」
「目を覚まされます」
 彼等もまた、だった。王への忠誠は確かだった。その忠誠とバイエルンへの想いから動いているのは確かだった。ワーグナーへの憎悪や嫉妬も確かにあったが。
 それでもだったのだ。彼等は。
「陛下は今オペラの初演にも心を傾けられていますが」
「では今は」
「ワーグナー氏を用意に手放されはしないでしょう」
 首相はそれは察していた。
「ですがやがてはです」
「これを続けていけばですね」
「ワーグナー氏はこのミュンヘンからいられなくなります」
 こう話す首相だった。
「バイエルンにとっても陛下にとっても」
「実にいいことですな」
「全くです」
 二人で言い合う。しかしであった。
 ここでだ。男爵が顔を曇らせて言うのであった。
「ただ」
「ただ?」
「ことが成就するのは少し先のようですな」
 こう首相に話すのであった。
「どうやら」
「先ですか」
「トリスタンとイゾルデでしたか」
 男爵はこのオペラのことを話に出すのだった。
「そのオペラでしたか」
「あのウィーンで上演できなかった」
「それです。今その初演の準備が進められています」
「それが影響しますか」
「そう思います」
 男爵は顔を曇らせたまま述べていく。
「陛下は初演を何としても成功させたいと思われていますので」
「ワーグナー氏のそのオペラを」
「それまでは。何があっても」
「陛下は動かれませんか」
「そう思います」
 これが男爵の見たところだった。
「それまではです」
「今は待つしかありませんか」
「そうです。ただ」
「ただ?」
「手は打ち続けられます」
 男爵は暗い光をその目にたたえて述べた。
「それはです」
「ことを成就させる為には準備が必要ですな」
「それをしていきましょう。それで如何でしょうか」
「正論ですな」
 首相も頷く。まさにその通りであった。
「ですからここは」
「よし、それでは」
 こうしてだった。二人はさらに策を練るのであった。その中でだ。
 首相がだ。こう男爵に話した。今度は彼からだった。
「それでなのですが」
「何かお考えが」
「いえ、我等の同志を増やしてはどうでしょうか」
 彼の提案はこうしたことだった。
「ここで」
「我々だけではなくですか」
「はい、ワーグナー氏の敵は我々だけではないのです」
 敵が多いのはだ。ワーグナーの特徴だった。その人格や行動がだ。彼は非常に敵が多い男となっていたのだ。特徴にさえなっていたのだ。
「そういうことです」
「それは承知していますが」
「それで、です。我等の他にも一人」
「同志がですね」
「います」
 こう話すのであった。
「ですからここはです」
「その同志を迎え入れますか」
「その同志とは」
 こう言った。ところでだ。一人の男が出て来た。彼は。
 

 

122部分:第八話 心の闇その十二


第八話 心の闇その十二

「貴方は」
「はい」
 見ればだ。制服の厳格な顔の男だった。それは。
「ブフォイファー警視総監」
「どうも」
 彼は一礼した。彼が来たのである。
「貴方でしたか」
「私もあの人物には思うところがありまして」
 それでだというのだった。彼は二人のところに来て話す。
「それでなのです」
「貴方も加わられるとは」
「このままではいけません」
 総監は険しい顔で話すのだった。
「あの男は放っておいてはです」
「しかし。警視総監の貴方がまでなのですか」
 男爵はこのことに驚きを隠せなかった。表情にそれが出ていた。
「我等の同志に」
「はい、バイエルンの為に」
 そしてだ。彼もこう言った。
「陛下の為に」
「そうです。陛下を惑わしバイエルンに取り憑くあの男を」
「何としても」
 男爵も首相も言う。彼等もバイエルンの為に動いていた。だがそれはだ。決して。
 しかしであった。ミュンヘンでの話を聞いたビスマルクはだ。難しい顔でこう周囲に話すのだった。
「まずいな」
「そうなのですか?」
「ミュンヘンの流れは」
「そうだ、まずい」
 こう言うのであった。
「バイエルン王にとってな」
「あの方にとってですか」
「まずいと」
「あの方にはあの音楽家が必要なのだ」
 その厳しい顔を暗くさせての言葉だった。
「絶対にな」
「絶対にですか」
「必要なのですか」
「誰にも支えが必要だ」
 ビスマルクは持ち前の鋭く深い人間洞察を見せた。
「私に妻がいてドイツ統一と繁栄という支えがあるようにだ」
「あの方にもですね」
「それが」
「あの方にとっての支えは芸術だ」
 まさにそれだというのだ。そしてさらにこう語るのであった。
「とりわけ。リヒャルト=ワーグナーの」
「その渦中の音楽家の」
「それがなのですね」
「それがなくては駄目なのだ」
 彼は断言した。
「若し失えば」
「その時は」
「どうなりますか」
「ローエングリンを失ったエルザだ」
 それだとだ。ビスマルクは言うのだった。
「それになられてしまう」
「姫にですか」
「そうなのですか」
「そうだ。姫なのだ」
 ビスマルクもまたこう言うのだった。ワーグナーと同じである。しかし当然ながら彼自身は自身の考えがワーグナーと同じだとは知らない。
「あの方はな」
「女性ですか」
「実は」
「御心はな」
 それはだというのである。
「女性なのだ」
「そうは見えないのですが」
「どうも」
「それは外見を見ているからだ」
 ビスマルクは言った。
 

 

123部分:第八話 心の闇その十三


第八話 心の闇その十三

「あの方の内面はだ」
「女性だと」
「あくまで」
「御自身も気付いておられないが」
 それも言う。
「だが実はだ」
「だからこそ白鳥の騎士に憧れる」
「そうなのですか」
「そうだ。人は誰でもだ」
 今度は人間観にもなった。ビスマルクはただ政治家であるだけではない。そこには鋭く深い人間洞察がある。哲学者に匹敵するまでに。
「男性的なものと女性的なものがあるのだ」
「誰でもですか」
「それを持っているのですか」
「どちらも」
「女であっても男性的なものを持っている」
 その例えとしてある人物を出した。
「ジョルジュ=サンドの様にだ」
「あの男装のですか」
「変わった女ですが」
「変わっているがだが事実だ」
 その例えとしてのだった。
「それはだ」
「そうですか。それとですか」
「同じだと」
「そしてあの方もだ」
 ここでは話が戻ったのだった。
「ジョルジュ=サンドをそのまま逆にすれば」
「つまり男の中にある女性的なもの」
「それですか」
「それがあの方だ」
 こう話すのであった。
「バイエルン王なのだ」
「だからこそローエングリンを愛されている」
「そうなっているのですか」
「そうだ。そしてだ」
 さらに話すビスマルクだった。
「ローエングリンは実際にこの世にはいない」
「いるのはあくまで幻想の世界にですね」
「そちらの世界に」
「それに対してあの方は現実におられる」
 この矛盾がだ。深刻な問題となっているというのだ。王の中にある女性的なものと共にだ。その現実と幻想の違いがだというのだ。
「現実にな」
「だからこそ会えない」
「あの騎士にはですか」
「実際には」
「しかしローエングリンを創り出した者は目の前にいる」
 ビスマルクの言葉がここで変わった。
「ワーグナーはな」
「そうなのですか」
「だからこそあの人物がいなければですか」
「あの方は」
「私ならばいいとする」
 ビスマルクは王に対して暖かい目を向けていた。
「その程度はだ」
「しかし財政に負担が」
「しかもあの男はです」
「些細なことなのだ」
 そうだというのである。彼はだ。
「あの方の素質と素晴しさを考えれば」
「その二つをですか」
「考えれば」
「そうだ、些細なことだ」
 ビスマルクは今度は王にだ。同情する目を見せていた。そこに王はいないがそれでもだ。王のことを真剣に考え述べるのだった。
「あの方を。迷わせてはならないのだ」
「それがわかる者はミュンヘンにはいない」
「そうなのですか」
「いない。私はここにいる」
 ベルリンにだというのだ。
「そしてもう一人の方だが」
「その方とは」
「誰でしょうか」
「オーストリア皇后だ」
 彼女だというのだ。他ならぬ。
 

 

124部分:第八話 心の闇その十四


第八話 心の闇その十四

「あの方もまた王の御心をわかっておられるのだが」
「しかしあの方は旅を続けられています」
「それでは」
「このままでは不幸な結末になる」
 憂慮も見せるビスマルクだった。
「願わくば祝福を」
「神の」
「それの」
「それを願う。私がこう願うのは」
 ここでさらに語るのだった。
「プロイセン王、そしてこの国と」
「あの方」
「それだけですか」
「そうだ。あの方には幸せを願う」
 リップサービスではなかった。その証に王は今ここにはいない。それで辛辣な人間評で知られる彼がそんなことを言う筈がなかった。
「まことにな」
「では我等にできることがあれば」
「できるだけ」
「したいものだな。本当にだ」
 また言うビスマルクだった。
「あの方は。後世にまで残るドイツの宝なのだから」
「宝ですか」
「まさにそれだと」
「それを今わかる者は僅かだ」
「今はですか」
「僅かですか」
「そうだ、僅かだ」
 こう周りに言うのであった。
「愚か者は経験に学ぶ」
「ですがそれができる者もです」
「少ないですが」
 その経験に学ぶ者ですらというのだ。実際にその通りである。人は中々学ぶことができない部分がある。だから経験ですらなのだ。
「それができぬ者は」
「一体」
「取るに足らない輩だ」
 ビスマルクの持ち前の辛辣な人物評が出た。
「そうした輩はな」
「左様ですか」
「所詮は」
「そうだ、だが」
 このことを話してからだ。ビスマルクは本題に入った。
「賢者は歴史に学ぶ」
「それにですか」
「歴史に」
「そうだ、それに学ぶ」
 他ならぬだ。その歴史にだというのだ。
「このドイツの統一も同じだ」
「歴史に学びですか」
「そのうえで」
「ドイツ帝国は神聖ローマ帝国の次の帝国なのだ」
 かつてドイツにあったその国だというのである。千年に渡って存在した。しかしその国はナポレオンによって解体されているのである。
「だが。完全な神聖ローマ帝国ではない」
「後継であり別である」
「そうした帝国ですね」
「中央の権限はさらに強い」
 まずはそれを言う。
「多くの君主達がその中にいるが中央は強くなる」
「そして軍もですね」
「それもまた」
「そうだ、中央集権国家なのだ」
 それこそがだ。ビスマルクの目指すドイツ帝国だった。中に多くの君主を内包していてもだ。それでも中央と軍は強いというのだ。
「かつての神聖ローマ帝国の失敗は犯さぬ」
「だからですか」
「生まれる新たなドイツは」
「それが歴史に学ぶということだ」
 こう話すのだった。
「そしてだ。あの方だが」
「バイエルン王は」
「どうなのでしょうか」
「歴史においてああした方はいないだろう」
 ビスマルクですらだ。知らないというのだ。
 

 

125部分:第八話 心の闇その十五


第八話 心の闇その十五

「だが。芸術はだ」
「それは」
「どうなのでしょうか」
「芸術は全てを浄化する。魂を高めるものだ」
 芸術を解さぬビスマルクではない。少なくとも解さぬものに対して喚きたてる様な野蛮人ではない。彼は高い教養の持ち主でもあるのだ。
「あの方はそれを愛されておられそれを残される方だ」
「ではそのまま望まれるようにですか」
「今のまま」
「しかも暴虐の方ではない」
 それでもないというのだ。
「それはわかるな」
「はい、わかります」
「それはよく」
 彼等もだ。そのことはよくわかっているのだった。
「血を好まれません」
「残虐もです」
「それは美徳の一つだ」
 ビスマルクは遠い目にもなった。
「ドイツは。これまで多くの血が流れてきた」
 これも歴史にある通りだ。三十年戦争や魔女狩りに見られる諸侯や宗教を基にした対立によってだ。多くの血が流れてきたのである。
 ビスマルクはそれも学んでいた。それで言うのだった。
「それを思えばだ」
「血を好まれず芸術を愛されるあの方は」
「宝ですか」
「その愛されるものを後世に残される方だ」
 バイエルン王は。まさしくそうした人物だというのだ。そしてだ。
 ビスマルクはだ。そうした人物についても語るのだった。
「あの方の様な方はおられなかったが同じことをしてきた人物はいる」
「過去の歴史に」
「そうなのですね」
「そうだ、それが必ず」
 どうかというのだった。
「ドイツにとっても。人間にとっても宝となるのだ」
「だからこそですか」
「閣下はあの方を」
「素晴しい方だ。そのお人柄も資質も」
 どれもだという。ビスマルクは語る。
「あの方は。傷つけてはならないのだ」
「閣下、それでは」
「プロイセンは」
「少なくとも私はあの方の味方だ」
 暖かい目でだ。その誓いを出すのだった。
「あの方が泉下の方になろうとも」
「その時まで」
「何があろうとも」
「そうされますか」
「そうだ。だからこそ」
 今度はだ。しくじくたるものをその目に見せた。
「あの状況はよくないのだ」
「ワーグナーにも問題がありますし」
「あの男も」
「確かに彼はだ」
 ビスマルクはワーグナーも見ていた。一方だけを見て判断する男ではなかった。
「呆れる程に金遣いが荒く女性に関してもだ」
「弟子の妻を奪うとは」
「そんな男ですし」
「人間性は肯定できない」
 ビスマルクは言い捨てた。ワーグナーのそれについてはだ。
「全くだ」
「その通りです。しかも尊大で図々しくです」
「極めてふてぶてしいです」
 それが人間としてのワーグナーであった。
「失言癖もありますし」
「偏見によりユダヤ人を嫌う様な男です」
「そういう人物ですから」
「とてもですね」
「偏見の塊だな」
 ビスマルクもワーグナーの人間性には辛辣である。
「私も実際に目の前にいればだ」
「到底ですか」
「好きになれませんか」
「とてもな」
 実際にそうだというのである。
「ああした人間ではな」
「やはりそうですか」
「それは」
「そうだ。しかしあの方はだ」
「そうした人間性に気付いておられるのでしょうか」
「バイエルン王は」
「あの方は鋭い方だ」
 またここから話すのだった。王について。
 

 

126部分:第八話 心の闇その十六


第八話 心の闇その十六

「気付かれぬ筈がない」
「しかしそれについて何も仰らない」
「それはどうしてなのでしょうか」
「あの人間性について何も」
「忌まれることはないのでしょうか」
「あの方は。気付いておられなくとも気付かれないふりをする」
 ビスマルクはそうしたこともわかっていたのだ。王と会ったのは確かに一度だけである。しかしその一度でだ。そこまで見抜いていたのだ。
 それでだ。王について語るのだった。
「そうした方なのだ」
「しかしそれではです」
「何の解決にもなりません」
「違うでしょうか、それは」
「それでは」
「そうだ」
 実際にだ。その通りだというのだった。
「あの方はワーグナーの人間性には何も仰ることはない」
「ワーグナーを止められるのはあの方だけであっても」
「それでもですか」
「一切止められない」
「そうなのですか」
「そうだ、止めるようなことはされない」
 決してというのである。
「とてもな」
「ではやはりこのままでは」
「あの方にとってよくない結果になる」
「そうなってしまうのではないでしょうか」
「そしてあの方は」
「周囲の誰かがそれに気付けば」
 ビスマルクは述べる。
「それで大きく違うが」
「あの方を理解される方」
「その方が」
「今ドイツには三人しかいない」
 ビスマルクは溜息と共に。悲しい響きの言葉を出した。
「私とオーストリア皇后、そして」
「他ならぬワーグナー」
「その三人だけですね」
「あの方の傍に。一人だけでいいのだ」
 ビスマルクはまた言った。
「あの方を理解し、支えられる者が」
「せめて一人だけで」
「それでいいと」
「そうなのですか
「ローエングリンがいれば」
 そしてだった。白鳥の騎士の名前も出した。
「あの騎士があの方の傍にいれば」
「あの騎士ですか」
「あの方に必要なのは」
「あのオペラの主人公ですか」
「そうだ、あの騎士なのだ」
 また言うビスマルクだった。
「あの方を理解し包み込んでくれる存在。あの方のお傍に」
「ですか」
「そうだと」
 周りもだ。ビスマルクの言葉を聞いて述べる。
 そしてそのうえでだ。ビスマルクはまた言うのであった。
「それではだ」
「はい、それでは」
「シュレスヴィヒ及びホルシュタインのことですね」
「手は次々と打つ」
 落ち着いた声でだ。彼は言うのだった。
「そしてそのうえでだ」
「オーストリアとですね」
「あの国と」
「そうだ、戦う」
 そのことをだ。絶対としているのだった。
「そしてそのうえでだ」
「勝ち取るのですね」
「ドイツ帝国を」
「その国を」
「その通りだ。だが私は血は好まない」
 それはというのだ。ビスマルクは戦争は求めていてもであった。
 

 

127部分:第八話 心の闇その十七


第八話 心の闇その十七

「あくまで。ドイツ帝国をだ」
「それを手に入れる為にですね」
「戦争をする」
「それだけですね」
「ただそれだけのことだ」
 ここでは極めて事務的に話すビスマルクだった。
「しかし世ではです」
「閣下は戦争を好み血を求めておられる」
「そう言っているようですが」
「愚か者にはわからないことだ」
 ビスマルクはそうした己への話をばっさりと切り捨てた。
「私の真意はな」
「左様ですか」
「それは」
「そうだ。それもやがてわかることだ」
 ビスマルクが何を求めているかということもだというのだ。
「もっともあの方はだ」
「そのバイエルン王ですね」
「あの方ですね」
「あの方はそれをわかっておられる。だがあの方は戦争そのものを忌み嫌われておられる」
 このこともだ。ビスマルクはわかっていた。
「あの方はオーストリアとの戦争では」
「間違いなくオーストリアにつきますが」
「それは」
「そうだな。しかし独自の御考えがある」
 既にだ。読んでいるといった口調のビスマルクだった。
「ここはだ」
「どうされると思われますか」
「あの方は、そしてバイエルンは」
「次の戦いでは」
「おそらくバイエルンは動かない」
 そうなるというのであった。
「そうする」
「動かないですか」
「あの国は」
「オーストリアについてもですか」
「言っておくが私は負けない戦争はしない」
 これはビスマルクが常に心掛けていることである。やるからには必ず勝たなくてはならない、戦争はそうしたものだと踏まえているのである。
 だからこそだ。戦う前に既に色々としているのだ。そういうことなのだ。
 そのうえでだ。バイエルンを見て言うのであった。
「そしてあの方もそれがわかっておられるこそだ」
「それによってですね」
「バイエルンは動かない」
「決して」
「そうだ。動かない」
 そういうのであった。
「それは安心していい」
「ではバイエルンに対しては」
「勝利を収めたその時は」
「どうされますか」
「多くを求めることはしない」
 バイエルンに対してはそうするというのだった。
「ただ、それはだ」
「それはといいますと」
「何かあるのですか」
「まだ何か」
「オーストリアについても同じだ」
 その戦う相手に対してもそうだというのであった。
「あの国に対してもだ」
「ですがそれはです」
「戦いに勝ち賠償金や領土を手に入れるのはです」
「それは当然のことです」
「それをされないのですか」
「多くはですか」
「そうだ、多くは求めない」
 また言うビスマルクだった。
「決してな」
「それは何故ですか」
「何故オーストリアから多くを求めないのですか」
「オーストリアは排除しなければならない相手です」
 それはだ。プロイセンでは最早言うまでもないことだった。彼等の小ドイツ主義に対して大ドイツ主義のオーストリアはだ。邪魔でしかないからだ。
 しかしだった。ビスマルクはだ。勝利を収めても多くは求めないというのだ。それは言うのであった。
 それを聞いてだ。周りはいぶかしみながら問うのであった。
「徹底的に叩かなければです」
「なりませんが」
「それをされないのですか」
「それは何故ですか」
「戦争の後だ」
 それからをだとだ。彼は言うのだった。
「その戦争の後のことだ」
「オーストリアとの戦争の後とは」
「一体?」
「そこに何かあるのですか?」
「それでは」
「そうだ、オーストリアとの戦争に勝ってもオーストリアは残る」
 これは絶対のことだった。プロイセンもオーストリアを滅ぼすことはできない。国力から考えても欧州の情勢からもだ。それはできないことだった。
 当然ながらビスマルクはそれもわかっていた。それでなのだった。
「そして残らなければならないのだ」
「オーストリアは、ですね」
「あの国は」
「それもわからないのですが」
「だからだ。オーストリアとは確かに戦い勝つ」
 この絶対の前提の後の話であった。
「それからだ」
「それからとは」
「ですからそれがわからないのですが」
 周りの者はだ。どうしてもわからず首を捻るばかりだった。
 それでだ。こう口々に言うのであった。
「あの国は排除しなければならないというのに」
「それで終わらないのですか」
「どういうことですか」
「オーストリアは排除するがその後で彼等とは手を結ぶ」
 これが彼の考えであった。
「そしてそのうえでロシアともだ」
「では三国で東欧を安定させる」
「そういうことですか」
「つまりは」
「そうだ、そうするのだ」
 これこそがビスマルクの考えであった。彼は既にそのことまで頭の中に入れていたのである。先を読んでいたのではなかった。先の先をであった。
「わかったな」
「ううむ、そこまで考えておられたのですか」
「ドイツ帝国を築いた先まで」
「そこまでとは」
「そこまで考えてこそだ」
 ビスマルクは鋭い目で述べた。
「それが政治なのだ」
「では閣下、まずはオーストリアと戦い」
「そして勝利を収め」
「そのうえで」
「そうだ、そうするのだ」
 こう話すのであった。ビスマルクは先の先を読んでいた。そしてそれは政治だけでなくだ。バイエルン王についてもだ。政治では確かな手応えを感じていた。しかし王に対してはだ、憂いを感じずにはいられないのだった。


第八話   完


                2011・1・17
 

 

128部分:第九話 悲しい者の国その一


第九話 悲しい者の国その一

                  第九話  悲しい者の国 
 ミュンヘンでのワーグナー攻撃の動きはさらに激しくなっていた。
 新聞では連日連夜彼を攻撃する記事が載り政府や宮廷でもだ。彼を批判する者が増えていっていた。そして王にも彼について言う者がいた。
「陛下、このままではです」
「財政に支障が出ます」
「ですから最早」
「あの御仁とは」
「ましてやです」
 今度はだ。この話であった。
「ビューロー夫人とのことも」
「あれはどうやら事実のようですが」
「あれは」
 この話も為されていく。
「幾ら何でもそれはです」
「あってはなりません」
「そう思われませんか、陛下も」
「今ミュンヘンでは彼のその話が」
「それは全て事実無根だ」
 しかしであった。王はそういった話を全て否定するのだった。
 そしてそのうえでだ。彼はこう言うのであった。
「流言蜚語、誹謗中傷の類には惑わされない」
「いえ、ですからこれは」
「全て事実ですが」
「間違いなくです」
「ですから」
「何度も言うつもりはない」
 王は彼等にそこから先は言わせなかった。
「そういうことだ」
「左様ですか」
「では陛下は」
「ワーグナー氏は」
「潔白だ」
 こう言うのだった。言い切ってさえみせた。
「それを言っておく」
「わかりました。それでは」
「その様に」
 誰もが頷くしかなかった。そしてであった。
 王はワーグナーに文を送り続けていた。その文章もかなり熱いものだった。
 ロマン主義そのもののその文体で書きながらだ。王は思うのだった。
「こうして文を書くだけでもだ」
「幸福ですか」
「そう仰るのですね」
「そうだ、ワーグナーとこれでも交えられる」
 こう言うのである。
「それだけでもだ」
「左様ですか」
「それでしたら」
「文位はいいな」
 王は周囲のその言葉や視線を気にしながら述べた。
「これは」
「確かに。文でしたら」
「別に誰も何も言わないと思います」
「そこまでは」
「私は多くを望んでいるだろうか」
 王はふとだ。こんなことも言った。
「果たして」
「それは」
 そう問われるとだった、誰もが言葉を詰まらせた。そうなるのだった。
「私はワーグナーと共にいたいのだ」
「それだけですか」
「それだけだと仰るのですね」
「そうだ、それだけだ」
 また言う王だった。
「そして彼の芸術を愛したいのだ」
「ですがそれは」
「ワーグナー氏はです」
「あの方は」
 確かに王はそれだけだった。しかしだ。
 この問題は相手がいる。その相手がなのだった。
 周りの目にはだ。王の寵愛をいいことにしたやりたい放題をしている。そうとしか見えなかった。それこそが問題なのだった。
 しかしそれでもだ。王はなのだった。
「誰にでも必要なものがあるのだ」
「それがですか」
「陛下にとてはあの方なのですね」
「つまりは」
「そうだ、その通りだ」
 王は言った。
 

 

129部分:第九話 悲しい者の国その二


第九話 悲しい者の国その二

「しかしそれは許されないのか」
「それは」
「何といいますか」
 また言葉を詰まらせる彼等だった。
「あの時からなのだ」
 十六の時のあのことをまた脳裏に思い浮かべていた。
 ローエングリンを観た時のことをだ。思い出しながら言うのであった。
「私は。彼に心を奪われたのだ」
「ワーグナー氏に」
「あの方にですか」
「その通りだ。いや」
 自分の言葉をだ。ここで訂正したのだった。
「若しくは」
「若しくは?」
「若しくはといいますと」
「何があるのでしょうか」
「むしろ。あの騎士か」
 王は考える目になって述べた。遠くを見てそのうえでだ。
「あの騎士に私は」
「あの騎士といいますと」
「誰ですか、それは」
「一体」
「ローエングリン。私は彼にあの時から」
 こう言うのだった。王は今もその騎士を見ていた。今は舞台を前にしてはいない。しかしそれでも彼を見て彼のことを思うのだった。
 そんな彼にだ。叔父のルイトポルド公爵もだ。心配して会いに来たのだった。
「陛下、この度は」
「叔父上、今は他人行儀でなくていいです」
 王は穏やかな声で公爵に返した。
「かつての様にです」
「叔父と甥で」
「それで御願いします」
 こう話すのだった。
「宜しいでしょうか」
「わかった。それではだ」
 公爵も王のその言葉に頷いた。そのうえでだった。
 堅苦しい仕草を置いてだ。あらためて王に言うのであった。
「話は聞いている」
「ワーグナーのことですね」
「あの音楽家のことがそこまでなのか」
「はい」
 叔父に対してもだ。その通りだというのであった。
「彼だけは。どうしても」
「離したくはないのだな」
「私は。彼の芸術について考えるのです」
 叔父に対してだ。醒めているがそれでも熱さを内包したその言葉で語るのだった。
「あの芸術が傍にあることがどれだけ幸せか」
「それがそのまま全てになっているのか」
「その通りです」
 また叔父にこう話した。
「ですから。私は彼は」
「そうか。そうでなければ」
「私は。贅沢を言っているでしょうか」
「贅沢をか」
「ただ。彼と共にいたいのです」
 切実な言葉だった。
「それだけなのです」
「彼とは誰なのだ」
 公爵はそのことを問うた。
「一体誰なのだ」
「それは」
「果たしてそれはリヒャルト=ワーグナーのことか」
 それともだと。彼は王のそこに別のものを感じていた。
 それをだ。どうしても言わずにはいられないのだった。
「若しくは別の」
「別のとは」
「別の誰かではないのか」
 こう王に問うたのだった。
「その彼とは」
「いえ、ワーグナーですが」
 王は真剣な顔で公爵の問いに答えた。
「それは」
「そうであればいいのだが」
「彼がいなくてはです」
 王はそのまま自分の言葉を話していく。少なくとも自分ではワーグナーを見ているつもりだった。そのことは自分では確信していた。
 

 

130部分:第九話 悲しい者の国その三


第九話 悲しい者の国その三

 しかしだ。公爵は王の見ているものにどうしてもだ。疑念を抱いていたのだった。
「まさかとは思うが」
「まさかとは」
「昨日もあの音楽を聴いていたそうだな」
 公爵は不安げな顔で王にまた言った。
「そうだな」
「ローエングリンのでしょうか」
「そうだ。聴いていたのは」
「第一幕の前奏曲です」
 そのはじまりの曲である。それをだというのだ。
「それを聴いていました」
「そうか、あの曲をか」
「あの澄み切った曲はまさに奇跡です」
 王の言葉に熱が宿ってきていた。
「清らかな。まさに白銀の騎士が来る」
「あのオペラはそこからはじまるのだな」
「そうです、全てはそこからはじまるのです」
 まさにそうだというのである。
「あの曲を聴かなければです」
「何もかもはじまらないというのか」
「他の音楽も聴きますが」
「しかし第一はワーグナーだな」
 公爵はそれはわかっていた。それは彼だけではない。
「そしてその中でも」
「はい、ローエングリンです」
「あくまでそのオペラを愛するか」
「聴かずにはいられないのです」
 そこまでだというのである。彼のそのオペラへの愛情はだ。
 それをだ。公爵に対しても熱く話しだ。止まることがないのだった。
 公爵もそれを聴きながらだ。こう話すのだった。
「音楽や芸術を愛することはいいことだ」
「そうですね。それは確かに」
「我がヴィッテルスバッハ家の務めでもある」
 公爵はこうも言った。
「我が家は代々芸術を愛し庇護してきたのだからな」
「そうした意味ではハプスブルク家と同じです」
「その通りだ。だが」
「だが?」
「耽溺はよくないのではないのか」
 王はそうなっているのではないのかと見てだ。彼自身に言ったのだった。
「それは」
「耽溺はですか」
「芸術に耽溺というものがあるのかどうか」
 公爵はそのことは疑問に思うのだった。言いながらだ。
「しかしだ」
「しかしですか」
「若しそれがあるのならばだ」
「はい」
「王はそうはなっていないか」
 それをだ。心から心配していたのだった。
「離れられないのではないのか」
「それは」
「愛しているのか」
 それもどうかというのだった。
「そのオペラを」
「はい、愛しています」
 その通りだと答える王だった。
「彼の生み出したものは全て」
「そうか。全てをだな」
「だからこそ離れたくはないのです」
 王は公爵にだ。己が想っていることを全てありのまま話した。
「ですから今のミュンヘンの動きは」
「何とかしたいか」
「はい、収めたいのですが」
「陛下はいいのだ」
 王はというのだ。
「だが。それでも」
「ワーグナーですか」
「陛下が言えばいいのだ」
 また彼自身への言葉だった。
「そうしてはどうか」
「それは」
「できないか」
「私は信じています」
 もっと言えば信じていたい。それが今の王だった。
 

 

131部分:第九話 悲しい者の国その四


第九話 悲しい者の国その四

「ですから何があろうとも」
「彼と共にいるのだな」
「はい、そうします」
 こう話すのだった。
「私はそうしなければ生きていられません」
「では。そうするのだ」
 公爵はここで遂に折れた。
「陛下のしたいようにだ」
「はい、それでは」
「例え何があろうとも」
 これは王への忠告に他ならなかった。
「彼を決してな」
「そうします」
「それならばいい」
 切実な顔で王のその美麗な顔を見て告げた。
「王室のことは私が見よう」
「申し訳ありません」
「一つ言っておく」
 そしてだった。王にまた告げたのだった。
「私は最後の最後まで。何があろうとも陛下の為にいる」
「有り難うございます」
「そうさせてもらうからな」
「それでなのですが」
 ここでだ。王は微妙な顔になりだ。叔父である公爵に対して自分から言ってきた。
「オットーですが」
「あれのことか」
「叔父上はどう思われますか」
 怪訝な顔になっていた。
「最近の弟は」
「危うくはないだろうか」
 公爵はここでも心配する顔を見せた。
「どうもな」
「叔父上もそう思われますか」
「時折突拍子もないことを言い出すようになってきたな」
「まさかあれは」
「いや、即断はできない」
 年長者としてだ。王のそれを止めた。
「だが。注意はしておこう」
「これからのことをですね」
「そうだ。オットーは王位継承の第一位だ」
「私に何かあればです」
「あれが王となる。だからな」
「その通りですね。何もなければいいのですが」
 王もだ。弟のことについて心から心配する顔になっていた。そうしてそのうえでだ。公爵と二人で彼について話をするのであった。
「落ち着けば」
「そうだな。それを願おう」
「よい医者は」
「医者か」
「誰かいたと思いますが」
 王がこう言うとだ。公爵はある人物の名前を出してきた。それは。
「グッデンか」
「グッデンというのですか」
「我が国の精神鑑定の権威だ」
 そうした人物だというのである。
「彼のことだな」
「何か。妙に気になる名前ですが」
 王はそのグッデンという名前にいぶかしむものを感じていた。そしてそのうえでだ。彼は公爵に対してこう話をするのであった。
「オットーよりも」
「というと?」
「私にとって。何か」
 こう言うのであった。
「引っ掛かるものを感じます」
「それはまたどうしてだ?」
「それが何故かはわかりませんが」
 自分ではわからない。しかしこう感じていたのだった。
 

 

132部分:第九話 悲しい者の国その五


第九話 悲しい者の国その五

「ですが。運命めいたものを感じます」
「グッデンについてもか」
「私と何処かで会い、私に何かを告げるような」
 王はいぶかしみながらも遠い目で話すのだった。
「そんなものを感じます」
「また妙なことだな」
「はい、自分でもそう思いますが」
 王はさらに話す。
「グッデンという名前には。そんな響きが」
「気のせいではないのか、それは」
「だとすればいいのですが」
「とにかくだ。ワーグナーについてはだ」
「はい、何があってもですね」
「そうだ。手放すな」
 こうだ。王に対して忠告するのであった。
「いいな、絶対にだ」
「わかりました。ではまずは」
「あのオペラだな」
「トリスタンとイゾルデはこのミュンヘンで初演させます」
 王の言葉に熱が宿った。これまでとはうって変わってだ。
「必ずです」
「そして彼の他の作品もだな」
「今作曲しているというニュルンベルグのマイスタージンガーも」
 その作品もだというのである。
「そしてニーベルングの指輪もです」
「全てか」
「はい、彼の作品は全てです」
 そうするとだ。彼は言って退くことがない。
「このバイエルンで」
「そういえば彼は自分の作品を上演する為の劇場も望んでいたな」
「素晴しいことです」
 王の言葉にさらに熱が宿る。
「かつてその様なことはありませんでした」
「一人の音楽家の為の劇場なぞな。なかったな」
「そうです。そしてその劇場をです」
「この街に設けるのだな」
「はい、このミュンヘンに」
 まさにこの街にだというのだ。
「それを置きます」
「そしてそこでワーグナーの作品がか」
「上演されます。素晴しいことにです」
「芸術には。何物も勝てはしないか」
 公爵は甥である王の言葉を聞きながらだ。こう思うのだった。
「そうだな」
「はい、まさにそうです」
「そして陛下はその中で生きる」
「ワーグナーと共に」
「ワーグナーであればまだいいが」
 またこんなことを言った。思わざるを得なかったからだ。
「だが。それがその心を繋ぎ止めるならだ」
「よいのですね」
「私はそれでいいと思う」
 やはりだ。何処までも甥である王を護ろうとしていた。そして彼の為にだ。最もよいことをしようと誓っていた。それが公爵であった。
 その暖かい目で王を見てだ。彼は話した。
「ではだ」
「はい、今から政務にあたりです」
「それからだな」
「劇場に行きます」
 そのトリスタンとイゾルデのリハーサルが行われているそこにだというのだ。
「そしてその初演を成功させます」
「ではそうするといい」
 公爵は甥を暖かく見送った。こうしてだった。
 王は政務を終わらせてから実際に劇場に足を向かわせた。そうしてそこでだ。ワーグナーと共に練習の進み具合を見るのだった。
 ワーグナーはだ。王に舞台での稽古を見せながらこう語った。
「やはり思ったのですが」
「上演する場所が何処がいいかですね」
「はい、やはり王立劇場にしようと思います」
 そこだというのである。
「オーケストラも多いですし」
「そうですか。それでは」
「陛下の仰る通りでした」
 ワーグナーは王を認め褒め称える言葉も述べた。
 

 

133部分:第九話 悲しい者の国その六


第九話 悲しい者の国その六

「やはりトリスタン、いえ私の作品はです」
「はい、オーケストラの規模や歌を考えますと」
「大きな舞台の方がいいですね」
「そう思っていました」
 ワーグナーも考えをあらためたというのである。己の芸術に絶対の自信を持ち完璧主義者である彼だがそれでもここはなのだった。
「それで私は」
「陛下のお目はかなりのものです」
 また言うワーグナーだった。
「まさに私の芸術をです」
「はい、貴方の芸術のことならばです」
 王も微笑んで応える。
「私は。心で」
「頭でわかるのではなくですね」
「頭で、です」
 それでだというのであった。彼がワーグナーを理解するのは。
「ですから。私は」
「はい、それでは」
 こうしてであった。彼等は舞台の話を進めていく。ワーグナーはここで歌手の話をした。オペラならば歌手がいなくては話にならない。
「それで歌手ですが」
「遂にですね」
「はい、トリスタンとイゾルデ、二人共です」
 見つけたというのである。
「遂に来てくれました」
「見つからなくそれで延期にもなりましたが」
「それがやっとです」
 こう話すのだった。
「やっと来てくれました」
「それは夫婦でしたね」
「はい、カルロスフェルト夫妻です」
 また答えるワーグナーだった。
「あの夫婦ならば必ず」
「トリスタンとイゾルデを歌えますね」
「特に夫のトリスタンはです」
 いけるというのである。
「間違いなく果たしてくれます」
「あの歌手は貴方の贔屓の歌手でしたね」
「はい、かつてローエングリンも歌っていました」
 そうだったというのである。
「その彼ならばです」
「あの難しい役を」
「トリスタンは確かに難しい役です」
 それはかなりのものだというのである。そのトリスタンを創り出したワーグナー自身だからこそわかっていることだった。その難しさを。
「ですが必ずです」
「期待しています」
「演出も私がします」
「貴方がですね」
「私の作品のことは私が最もわかっていますので」
 それでだというのであった。
「だからこそ」
「ではそれも期待しています」
「そして指揮者は」
 話が進んでいく。オーケストラを指揮する者についてもだった。
「ビューローでどうでしょうか」
「彼ですね」
「はい、彼です」
 だが、だった。その名を聞いてだった。周囲は思わず顔を顰めさせてしまった。
「まさか」
「自分の弟子というだけではないではないか」
 そうした縁故等で人を選ぶワーグナーではない。ワーグナーはそれよりもその能力で選ぶ。これもまた彼の完ぺき主義故のことである。
「そのビューロー氏といえば」
「その妻を」
「その人物をか」
「何という人選だ」
 ワーグナーのあまりもの図太さにだ。誰もが唖然となっていたのである。
 そしてだ。誰もが言うのであった。
「陛下もお気付きの筈だが」
「それでもか」
「よいと仰るのか」
「どうなのだ、それは」
 皆王も注視する。するとだった。
 

 

134部分:第九話 悲しい者の国その七


第九話 悲しい者の国その七

 王はだ。気品のある笑みを笑みを浮かべてこう答えたのであった。
「わかりました。彼ならばです」
「無事初演の指揮を務めますね」
「できます。確かに」
 今その彼がオーケストラの指揮の練習をしている。オーケストラも彼の指揮に基づいてそれで演奏をしている。それを見ればなのだった。
 王はだ。満足した顔で言うのであった。
「見事なものですね」
「ですから」
「いいと言われるな」
「間違いなく」
「それではやはり」
「このまま彼が初演の指揮を務めるか」
 周りは王のその決断にだ。首を捻るばかりだった。誰もがワーグナーとビューローの関係を知っているからこそだ。そうなるのだった。
 だがそれでも王はだ。それを意に介さない顔でまた言うのだった。
「全てを期待しています」
「はい、全てをですね」
「では」
 こうした話をしていたのだった。そしてだ。
 初演の時が近付いていた。王は何処にいても期待していた。そのうえで心を弾ませてだ。満面の笑顔でこう述べるのであった。
「間も無く歴史が変わるのだ」
「芸術の歴史がですね」
「それがですね」
「そうだ、あの作品はそれだけの作品だ」
 そのトリスタンとイゾルデのことである。
「それがこのミュンヘンで初演されるのだ」
「ウィーンでもベルリンでもなく」
「このミュンヘンでですね」
「だからこそ陛下は」
「私と彼の作品がだ」
 二人の作品だというのであった。
「間も無くな」
「それでは陛下」
「いよいよですね」
「初演を」
 誰もがその王の期待を見ていた。それはさながら子供が贈り物を前にしているかの様な。そうしたものだった。そして初演の時にだ。
 ワーグナーはだ。親しい友人達にこう述べるのだった。
「全ては陛下のお陰だ」
「あの陛下の」
「まさに」
「その通りです」
 ワーグナーは感謝の言葉をここでも言うのだった。
「あの方がなくしてトリスタンはとてもです」
「確かに。資金だけではありませんから」6
「何もかもを提供してくれますから」
「その陛下がなくしては」
「トリスタンはとてもですね」
「はい、その通りです」
 こう述べるワーグナーだった。
「あの方なくしてです」
「その陛下はさらに仰っていますね」
「トリスタンだけではないと」
「他の作品についてもお力をと」
「そう仰っていますね」
「今作曲のマイスタージンガーもです」
 その作品もだというのだ。
「それの上演にもお力を貸して頂けるというのです」
「それも相当な大作ですね」
「そうですね」
「はい、大作です」
 まさにそうだというのだ。ワーグナーの作品はどれも大作だがそのマイスタージンガーはその中でもとりわけ大きな作品だというのである。
「それの上演もです」
「されると」
「そうですね」
「そうです、それもです」
 ワーグナーの言葉が続く。
「そして」
「あの作品もですね」
「あれも」
「指輪も」
「あれもですね」
「そうです、指輪もです」
 ワーグナーの言葉に熱が宿った。これまでの喜びに加えてだ。
 

 

135部分:第九話 悲しい者の国その八


第九話 悲しい者の国その八

「それもです」
「指輪は上演できないと思いましたが」
「あれだけの作品ですし」
「流石に」
「しかしです」
 だが、というのである。友人達もまたその言葉に喜びを表していた。彼等はワーグナーの友人であるだけではない。信奉者達でもあるからだ。
「陛下のお力があれば」
「あの未曾有の大作もですね」
「上演できますか」
「私はかつてジークフリートに別れを告げました」
 つまり指輪を諦めたというのだ。そうしていたというのだ。
「ですがそれでもです」
「陛下がおられるからこそ」
「上演できるようになった」
「完成すれば」
「はい、そして」
 ワーグナーの言葉の熱はさらに強まる。そのうえでさらに話すのだった。
「その作品はです」
「まさかと思いますが」
「あの夢をですか」
「実現されるというのですか」
「本当に」
「はい、そう考えています」
 まさにそうだというのであった。ワーグナーの言葉は本気のものだった。
「私の作品を。専用の劇場で」
「貴方の作品のみを上演する劇場」
「それがですね」
「本当に実現する」
「そうだと」
「はい、実現させます」
 その本気での言葉だった。
「必ずや」
「それではです」
「我々もその貴方の夢が実現することを願います」
「心より」
「御願いします。そして実現すれば」
 その時はというのだ。
「私の作品は誰もが観られるようにします」
「誰もがですか」
「貴方の作品をですね」
「そう」
「はい、そうです」
 その通りだというのである。
「誰もが観られるのです」
「それも無料で」
「そうなのですね」
「このバイエルンの何処かの地で」
 今彼はミュンヘンとは言わなかった。間違いなく。
「その劇場を設けます」
「そして貴方はそこで、ですね」
「貴方の作品と共に伝説となられる」
「まさにそれに」
「私の作品は永遠に残されるべきものです」
 己の芸術には絶対の自負があった。だからこその言葉である。
「ですから」
「そうですね。だからこそです」
「その劇場は築かれるべきです」
「この世に」
「陛下ともそのことをお話しています」
 それも既にというのである。
「ですから。それも間違いなくです」
「実現するのですね」
「その途方もない夢が」
「私は神に祝福されています」
 まさにそうだというのだった。
「それはまさに」
「まさに」
「まさにといいますと」
「エルザと巡り会えたローエングリンなのです」
 ここでだ。ワーグナーは己をローエングリンとした。彼は確かにこうしたのであった。
「私はそれなのです」
「ローエングリンなのですか」
「貴方がですか」
「はい、私がです」
 やはりだった。彼は己をローエングリンとしたのである。
 

 

136部分:第九話 悲しい者の国その九


第九話 悲しい者の国その九

「エルザと巡り会えた」
「陛下がローエングリンではないのですか?」
「それは違うのですか?」
「あの方こそが」
「私も最初はです」
 ワーグナーはこう前置きしてから述べた。
「そう思っていました」
「あの方こそがローエングリンだと」
「貴方にとっても貴方の芸術にとっても」
「そうなのですね」
「はい、そうでした」
 言葉は明らかに過去形であった。
「確かに思っていました」
「しかし違ったと」
「あの方はローエングリンではないのですか」
「ではあの方は一体」
「何なのでしょうか」
「私がです」
 ワーグナーは自分のことから話す。そこを基準としてだ。
「ローエングリンと言いましたね」
「はい、確かに」
「それは」
 友人達も彼の先程の言葉からそれを聞いていた。そのうえで頷くのだった。
「今も仰いましたし」
「その通りです」
「そうですね。私をローエングリンとすると」
 彼はその基準からまた話した。
「あの方はエルザなのです」
「エルザ=フォン=ブラバントですか」
「ローエングリンのあの姫ですか」
「陛下はそうなのですか」
「エルザ姫だと」
「しかし」
 友人の一人がここでこう言った。そのことは。
「あの方が姫とは」
「思えませんか」
「あの方は男性的な方です」
 彼はだ。王の容姿から言っていた。王の美貌はバイエルンだけでなく欧州全体に知られるようになっていた。その絵画の如き美貌はだ。
「背が高く顔立ちもです」
「はい、それはその通りです」
 王の容姿についてはだ。ワーグナーも認めるものだった。彼は毎日の如く王と会っていた時期がある。その姿は脳裏に残っているのだ。
「あの方ならローエングリンやタンホイザーの服を着てもです」
「実に似合いますね」
「それは間違いありません」
「あの方の容姿なら」
 これも認めるのだった。友人達もだ。
「騎士に相応しいです」
「実に」
「容姿はそうなのです」
 ワーグナーは何度も話していく。そのことをだ。
「しかしです」
「しかしですか」
「それでもなのですね」
「あの方は」
「そうです。何故エルザかというと」
 そこを話していく。
「あの方のお心がそうなのです」
「陛下のお心がですか」
「エルザなのですか」
「あの方は」
「はい、そうです」
 その通りだというのだ。
「あの方はです」
「御心が女性のものだというのですか」
「左様ですか」
「御心が」
「私もそのことに中々気付きませんでした」
 ワーグナーですらそうだったのだ。王のことを細かく知る彼でもだ。
 そのことを今自分でも考えているのだった。友人達に話しながらだ。
「あの方は御心は女性なのです」
「ではエルザがローエングリンを救ったのですか」
「そうなのですか」
「人は女性的なものによって救われます」
 ワーグナーの言葉が哲学的なものになった。
 

 

137部分:第九話 悲しい者の国その十


第九話 悲しい者の国その十

「これは私は自分の作品の中で述べていますね」
「さまよえるオランダ人とタンホイザーですね」
「その二つの作品ですね」
「マイスタージンガーと指輪もです」
 そちらもだというのだ。既に脚本は完成し友人達に見せているのだ。王にもだ。知られていないのは音楽だけであるのだ。そうした意味で未完の作品なのだ。
「そしてトリスタンは」
「確か死ぬのでは」
「イゾルデもまた」
「彼等は死の世界に向かうことで救われるのです」
 それがトリスタンとイゾルデだというのだ。
「トリスタンはイゾルデと出会うことによって。ですから」
「あの作品もですか」
「女性的なものによって救済される」
「そうだというのですね」
「はい、あの作品も然りです」
 ワーグナーは確かな声で返した。
「女性的なものによってです」
「救われる」
「そうなりますか」
「人は女性的なものによって救われるのです」
 ワーグナーはまた己の作品に共通するこのテーマを述べた。
「それを考えますと」
「あの方は女性だったのですか」
「そうだったのですか」
「陛下御自身も気付かれていません」
 他ならぬ王自身もだというのだ。それに気付いていないというのだ。
「ですが。私は陛下に救われましたし」
「それも考えるとですか」
「あの方は女性なのですか」
「御心は」
「だからですか」
 ここでまた友人の一人が言った。
「あの方は女性を愛されない」
「愛されるのは美しい青年だけですね」
「あの方は」
 王のそうした嗜好もまた知られるようになっていた。女性を知らないという意味において王は清純であった。それを清純と言うならば。
「だからですか」
「女性であるからこそ」
「同性である女性を愛されない」
「そうだったのですか」
「そうなのだと思います」
 ワーグナーは今はさながら哲学者であった。少なくとも今の彼は王に対して深い、それでいて慈しむ洞察を見せていた。
「あの方はそうなのです」
「身体は男性でも心は女性」
「妙なことではありますが」
「陛下はそうなのですか」
「実は」
「それがよからぬことにならなければいいですね」
 一人がこう言った。
「決して」
「では陛下は后を迎えられない」
「そうだというのですか?」
「はい、それではそれはできないのではないでしょうか」
 こう話すのだった。
「それでは」
「確かに。王は后を迎えなければなりません」
「そして子をもうけなければなりません」
「必ず」
 これは言うまでもないことだった。王、もっと広く言えば王家の者は伴侶を迎えそのうえで子孫、跡継ぎをもうけなければならないのだ。それがそのまま王家を存続させることだからだ。
 そして王は。年齢としてもだった。
「もういい頃ですし」
「后を迎えられてもいい御歳です」
「そうした話が王家や宮廷でも出ていますが」
「陛下が女性であるならば」
 その心がそうならばというのである。
 

 

138部分:第九話 悲しい者の国その十一


第九話 悲しい者の国その十一

「伴侶を得られない」
「そうなってしまうのでは」
「それでは」
 どうなるか。危惧が芽生えていた。
「陛下の後継者はオットー様になられますね」
「陛下の弟君のあの方」
「あの方ですが」
「しかしあの方はどうも」
 その王弟についてだ。王に対するのとはまた違った危惧が語られていく。それが何かというとだ。バイエルンにとってかなり憂慮すべきことだった。
「近頃言動や発言が妙ですが」
「そうです、その噂が出ています」
「これはまことでしょうか」
「奇矯な振る舞いが多いといいますが」
「あれは」
「噂に過ぎません」
 ワーグナーがそれを噂とした。
「噂というものはおおむねにおいてその根拠が曖昧なものです」
「だから気にすることはない」
「そうだというのですね」
「はい、その通りです」
 彼自身今その噂、彼の場合は実は真実が殆どであるがそれに攻撃され悩まされているからこそ。彼は今はこう言うのであった。
「ですから。そうした噂はです」
「信じない」
「そうすればいいのですね」
「今は」
「はい、そうです」
 こう話すワーグナーだった。
「ですがそれでもです」
「それでも」
「それでもとは」
「やはり。陛下は王に相応しい方です」
 王弟は批判しない。しかし王は褒めるのだった。
「あれ程まで相応しい方はそうはおられません」
「まさに王となるべくしてこの世に現れた方」
「ハインリヒ王ですね」
「あの方はハインリヒ王にもよくなられます」
 この王もまたローエングリンの登場人物だ。王は自分と同じ王であるこの人物にも感情移入してその姿になることもあるのだ。王はローエングリンだけでなくこの王にも感情移入をしていたのだ。
「まさに生まれついての王なのです」
「その方がエルザ姫ですか」
「貴方にとっての」
「エリザベートでもあるでしょう」
 タンホイザーのヒロインだ。清らかな乙女である。
「あの方は」
「そしてエヴァでもある」
「そうですね」
 今度はワーグナーが今作曲しているオペラのヒロインだ。この娘はごく普通の町の娘だ。ワーグナーの作品にしては珍しく。
「御心が女性ならば」
「そうですね」
「はい、ですがブリュンヒルテではありません」
 指輪のヒロインだ。ワルキューレ、即ち戦う乙女である。
「決してです」
「あの方は戦いは好まれません」
「血は」
「そうしたものは」
「だからこそブリュンヒルテではありません」
 また言う王だった。
「あくまで。エルザなのです」
「清らかな乙女ですね」
「ローエングリンを憧れ慕う」
「そうした方なのですね」
「あの方がそうであるということは」
 ワーグナーはまた悲しい声で言った。
「あの方ですら気付かれていないでしょう」
「陛下御自身も」
「そうだと」
「せめて。御自身が気付かれれば」
 さらに話すのだった。
「違うのですが」
「早くそれに気付かれれば」
「違うのですね」
「そうです。ですがこのことはです」
 ワーグナーの悲しみを帯びた言葉がさらに出されていく。
「私があの方にお話をしてもです」
「駄目ですか」
「それは」
「はい、陛下も御自身がそうだとはとても思われないでしょう」
 こう話すのだった。
 

 

139部分:第九話 悲しい者の国その十二


第九話 悲しい者の国その十二

「あの方がエルザであるとは」
「むしろローエングリンと思われています」
「あの白銀の騎士ですね」
「あの方にとってあの騎士は絶対の存在なのです」
 どうした意味で絶対であるのかも問題だというのである。
「私は。あの方にそれ程までのものを提供してしまったのですね」
「してしまったですか」
「それは」
「いいことか悪いことか」
 ワーグナーのその表情が変わった。悩むものに。
「それは私にもわかりません」
「貴方にもですか」
「あの作品を作り上げた貴方にもそれは」
「わからないのですか」
「残念ですが」
 その悩む顔で述べるのだった。
「それは」
「ですがあの方はあの作品を心から愛されています」
「そして貴方自身も」
「それは間違いありませんね」
「そうですね。それは確かに」
 このことはよくわかった。他ならぬワーグナーは。
「それがいい結果になることを願います」
「あの方にとってですね」
「貴方の言われるエルザ姫に」
「そうなることを」
「エルザは最後は。ローエングリンの名前を問うてしまいました」
 ローエングリンでは彼の名前を問うてはならないとされていた。しかしエルザは彼のその名を問うてしまったのだ。それによりエルザはローエングリンと離れざるを得なくなったのである。
「そしてそれによりです」
「悲しみのあまり息絶えてしまった」
「あの結末ですね」
「陛下も。まさか」
「そのことも否定できないのです」
 ワーグナーの顔がまた変わった。今度は悲しいものだった。
「あの方の御心を考えますと」
「ローエングリンあってのエルザ」
「だからこそなのですね」
「あの方がどうなるか」
「それが」
「はい、ですから願います」
 もっと言えばだ。祈っていた。
「あの方の幸福を」
「私達もです」
 友人達もそれは同じだというのだ。
「そして貴方の幸福も」
「それもです」
「有り難うございます」
 ワーグナーは苦しい中で己のことを考えていた。しかしそれと共にだ。王のこと、何よりもオペラのことを考えていたのだった。
 そしてだ。その彼に心配されている王はだ。舞台のリハーサルを観ながら。周りの美しい青年達にこんなことを話していた。
「素晴しい舞台になる」
「このままいけばですか」
「そうなると」
「そうだ。音楽もいい」
 ビューローの指揮にだ。彼は今の時点で満足していた。
「そしてだ」
「そしてですね」
「歌手もですね」
「そうだ、歌手もいい」
 そのタイトルロールの二人も観た。一人は大柄な髭の巨漢、もう一人は彼より年長と思われる痩せた女性だ。その二人であった。
「カルロスフェルト夫妻もな」
「ワーグナー氏が選ばれたお二人です」
「あの方々は」
「そうだな。だからいい」
 それでだというのである。王も満足している。
 

 

140部分:第九話 悲しい者の国その十三


第九話 悲しい者の国その十三

「あの二人とこの音楽ならばだ」
「舞台は成功しますね」
「陛下はそう」
「確信している」
 実際にそうだというのである。
「あの夫君は以前ローエングリンも歌っていたな」
「はい、そうです」
「その通りです」
 青年達はすぐに王に答えた。
「その歌も見事だったそうです」
「ワーグナー氏が認められる程でした」
「ローエングリンとトリスタンは同じテノールだ」
 それは言うまでもなかった。
「しかしだ」
「しかしですか」
「違うところがあるのですね」
「トリスタンの声域はローエングリンのそれより低い」
 テノールと一口に言ってもその声域の広さがあるのだ。そういうことなのだ。
「それが問題だが」
「しかし彼はそれを見事に克服しています」
「あれならば」
「陛下の仰る通り」
「そうだ。ローエングリンもだな」
 ここでだ。王の言葉に熱が宿った。
「歌えるとなると」
「聴かれますか、機会があれば」
「そうされるのですね」
「楽しみにしている」
 まさにその通りだというのであった。
「トリスタンもいいが。ローエングリンはやはり」
「違いますか」
「あの作品は」
「ローエングリンはどれだけ観ても聴いても飽きることはない」
 これが王の言葉である。
「何度もな」
「左様ですか、ローエングリンはですか」
「陛下はそこまで」
「彼のローエングリンも聴きたい」
 王の言葉は続く。
「必ずな」
「では。機会があればそうしましょう」
「彼のローエングリンもまた」
「このミュンヘンで」
「この街はもう一つの音楽の都となる」
 ウィーンを意識しての言葉だった。
「必ずな」
「ワーグナー氏の音楽によってですね」
「それはなるのですね」
「ウィーンはモーツァルトによってそうなった」
 完全にそうなったのは彼によるところが大きい。それ以前もウィーンは音楽の都だった。だがそれはモーツァルトという天才により完全に確立されたのである。
「そしてミュンヘンはだ」
「ワーグナー氏によって」
「そうなりますか」
「その中心にあるのがローエングリンなのだ」
 ここでもこの騎士であった。
「あの騎士が。その中心なのだ」
「白銀の騎士の都ですか」
 一人が言った。
「このミュンヘンは」
「そうだ、モンサルヴァートだ」
 王は騎士がいた聖杯の城の名前も出した。
「あの城になるのだ」
「では陛下はローエングリンであられますね」
「そしてそれと共に」
「そうだな。パルジファルでもある」
 王は半ば恍惚として応える。
「そうなるな」
「そうですね。ですが陛下は」
「他にもですね」
「そうだ。タンホイザーでもあるのだ」
 この主人公でもあるというのだ。
「ヴァルターもトリスタンもジークムントもジークフリートもだ」
「ワーグナー氏の全ての主人公が」
「陛下なのですね」
「彼のあの英雄達はおそらく全て同じ人間なのだ」
 王の今の言葉にだ。青年達はまずは首を傾げさせた。
 

 

141部分:第九話 悲しい者の国その十四


第九話 悲しい者の国その十四

 そしてそのうえでだ。問わずにはいられず実際にそうしたのだった。
「あの、同じなのですか」
「あの英雄達はですか」
「全て」
「そうなのでしょうか」
「そうだ、同じなのだ」
 また言う王だった。
「それはわかりにくいか」
「私はそうは思いませんが」
「私もです」
「それは」
「いや、若しかして」
 ここで青年達のうち一人が言った。
「あれでしょうか」
「あれとは?」
「何かあるのか?」
 周囲はその彼の言葉に顔を向けて問うた。
「同じだという根拠が」
「それが」
「ヘルデンテノールだから」
 その青年はそこに根拠を求めた。ワーグナーのテノールの特徴だ。バリトンに近い響きでそれでいて輝かしい声を出す。それがワーグナーのヘルデンテノールなのだ。
「全ての役がそうだからでしょうか」
「いや、それを言えばどの作曲家の役もそうではないのか?」
「モーツァルトにしても」
 他の青年達は彼の言葉にこう指摘を入れた。
「モーツァルトのソプラノやテノールも同じ存在なのか?」
「絶対に違うと思うが」
「それでは」
「ワーグナーだけだろう」
 その青年はあくまで彼の音楽だけだというのだった。
「それは」
「ワーグナーだけが違う」
「ヘルデンテノールは特別なのか」
「それでか」
「そうだ、ヘルデンテノールは特別なのだ」
 また言う彼だった。
「それはな」
「ヘルデンテノールはそうなのか」
「特別なのか」
「全て同じ存在なのはそれでか」
「ヘルデンテノールだからこそ」
 青年達がそれぞれ言っていってだ。そうしてだった。
 王に顔を戻してだ。あらためて問うたのだった。
「陛下、それでなのでしょうか」
「ヘルデンテノールだからこそでしょうか」
「彼等が同じ存在だというのは」
「だからですか?」
「いや、同じ存在だからこそのヘルデンテノールなのだ」
 ところがだった。王は逆のことを述べた。同じ存在だからこそのヘルデンテノールだとだ。彼は青年達にそう語ったのだった。
「それでだ」
「逆ですか?」
「同じ存在だからですか」
「ヘルデンテノールなのですか」
「そうだ。同じ存在だからだ」
 だからだとだ。王はまた言った。
「ワーグナーは彼等をヘルデンテノールとしたのだ」
「何故同じ存在なのか」
「それでしたら」
 青年達も考えていく。真剣そのものの顔でだ。
「それぞれ違う世界、違う国にいるというのに」
「それでも同じ存在とは」
「それは」
「彼等は乙女の心を救い愛による救済を受ける者だ」
 王は彼等をそうしたものだと述べた。
「そして同じ人格だ」
「そういえばどの英雄達も性格は同じですね」
「言われてみればそれは」
「ほぼ全てが」
 青年達も王の今の言葉で気付いた。
 

 

142部分:第九話 悲しい者の国その十五


第九話 悲しい者の国その十五

「そういうことなのですか」
「それで彼等もまた」
「同じなのですか」
「そうだ。違う世界、違う国にいようとも彼等は同じ存在なのだ」
 それでだというのである。
「同じ人格であり同じことを為す。だからだ」
「だからこそ彼等はワーグナー氏にヘルデンテノールとされた」
「それだからですか」
「同じ存在故に」
「そういうことですか」
「そうだ、だからだ」
 また言う王だった。
「それでだ」
「では。彼等は」
 青年達はさらに深く話していく。
「同じものを求めているのですね」
「異なる場所と国にいながらも」
「そうなのですね」
「そうだ、それは愛だ」
 王は一言で言った。
「愛を求めているのだ」
「では陛下もですね」
「愛を求められているのですね」
「それを」
「そうなるな。私が求めるのはそれだ」
 王自身もそれを認めた。
「愛なのだ」
「女性ではないのでしょうか」
 青年の一人が怪訝な顔になって王にこのことを問うた。
「それは」
「異性か」
 その言葉を聞くとだ。王の顔が急に曇った。そうしてそのうえでこう言うのだった。
「私は以前からだ」
「女性はですか」
「駄目だというのですね」
「そうだ。自分でも何故かわからない」
 その曇った顔で話していく。
「何か。自分と同じものを見ているような気がするのだ」
「陛下御自身とですか」
「女性にですか」
「本当に何故かわからない」
 王はまたこの言葉を出した。
「しかし。それでもだ」
「しかし陛下は王です」
「それならばです」
「何時かは」
「それもわかっている」
 やはりであった。その表情は曇ったままである。ワーグナーについて、芸術について語る時とは違いだ。王は今はその表情だった。
「私は王だ。王ならばだ」
「はい、必ずです」
「生涯の伴侶を得なければなりません」
「そして」
「想像もできない」
 また言う王だった。
「私が子をもうけるのだな」
「はい、そうです」
「王ならば必ずです」
「それは」
 青年達もそれはわかっていた。王ならばそれは当然だというのだ。王としての第一の務めと言っていい。伴侶を得て子を得ることはだ。
 だが、なのだった。王はそれに対してなのだった。
「駄目だ、どうしても」
「伴侶を得られることは」
「それはですか」
「そうだ。どうしてもだ」
 王の言葉もまた曇ってきていた。
「私の女性の好みはだ」
「それはおありですか」
「女性についての関心はなのですね」
「陛下にも」
「彫刻だ」
 王は一言で述べた。
「彫刻の如き女性がいいのだ」
「彫刻!?」
「彫刻なのですか」
「陛下の女性の嗜好は」
「それですか」
「そうだ、彫刻なのだ」
 また言う王であった。
「私は彫刻の如き女性で充分だ」
「彫刻は動きません」
 青年の一人が述べた。
「そして笑いません」
「そうです、感情もありません」
「ただそこにいるだけです」
「美しくともそれでもです」
「全く何の動きもありませんが」
「それでいいのだ」
 しかしであった。王はそれでいいというのである。素っ気無い口調で述べていた。
「それでな」
「ううむ、それはまた」
「そうした方がですか」
「陛下は望まれるのですか」
「それだけでいい」
 王は顔を伏せさせた。僅かではあるが。
「私は。女性は」
「左様ですか」
「それは」
「生まれた時から。女性に想うことはなかった」
 それは今もだというのである。
「だからだ。このままでいいのだ」
「左様ですか」
「そう仰いますか」
「そうだ。だが芸術は違う」
 顔を正面に戻す。そしてそのリハーサルが行われている舞台を観る。今は森の中だ。そこでトリスタン役の歌手とイゾルデ役の歌手が歌っている。
 それを観ながらだ。王は今は熱さが戻った声で語った。
「彫刻であってはならないのだ」
 芸術はそうだというのである。そう言いながらであった。王は舞台を観ていた。それは女性を観る目であった。本来はそうなるべき目であった。


第九話   完


               2011・1・27
 

 

143部分:第十話 心の波その一


第十話 心の波その一

                 第十話  心の波
 今や政府でも宮廷でもだ。ワーグナーへの批判の声は高まっていた。
 新聞は連日連夜彼のことを書たてる。そしてワーグナーはそれに対して。
 ビューローと共にだ。感情的な批判で応じた。
 だがそれが逆効果になりだ。彼は次第に追い詰められていっていた。
 それは王の耳にも入っていた。そうしてそのうえでこうだ。今傍らにいる見事な長い金髪に青く澄んだ目、彫刻の如き顔立ちの青年に言うのであった。
「タケシス少尉」
「何でしょうか、陛下」
「悲しいことだ」
 こうその彼、タケシスに言うのである。
「彼等は何もわかっていないのだ」
「ワーグナー氏のことをですか」
「彼は美しい」
 そのワーグナーのことだ。
「芸術はあくまで美しいものだ」
「しかし彼等はです」
「政治。いや違うな」
 王はだ。この問題は政治的ではあるがそれだけではないことを既にわかっていた。そうしてそのうえでこうタケシスに対して述べるのだった。
「あれは感情だ」
「感情ですか」
「ワーグナーへの年金も援助も。バイエルンの財政においては些細なものだ」
 所詮は一人の人間である。贅沢もたかが知れているというのだ。
「それに芸術はだ。幾らかけてもだ」
「いいのですね」
「軍にかけるより遥かにいいのだ」
 こう憂いのある顔で述べるのだった。
「軍や戦争は何も生み出しはしない。何も残さない」
「しかし芸術は」
「華を生み出す」
 まずはこれであった。
「銃での統一なぞ。何になるというのだ」
「ですがビスマルク卿はです」
「鉄と血だな」
 すぐにタケシスの言葉に返す。
「そうだ。それは間違ってはいない」
「しかし今の御言葉は」
「正しい。しかしそれだけなのか」
 王は言うのだった。嘆く様な声で。
「ドイツに必要なものはそれだけなのか」
「ではそこに」
「芸術は必要だ」
 王はそれを見ていた。その彼が愛する芸術をだ。
「そしてだ。それはもうあるのだ」
「ではそれは」
「まず文学だ」
 そこから話した。王は音楽だけではない。文学も愛しているのだ。
「ゲルマンの古典があり。そして」
「ゲーテですね」
「彼もいる。哲学もある」
 ドイツの学問は隆盛していた。統一はまだだがそれでもであった。既にそこには多くの豊かなものがあった。それがこの時のドイツだった。
「カントにヘーゲルだ」
「哲学もまた」
「多くのものがある。そして」
「音楽ですね」
「既にベートーベンがいてシューベルトがいる」
 オーストリアに匹敵するものがだ。既にあるというのだ。
「そしてだ。ワーグナーだ」
「彼ですね」
「そのワーグナーがこのミュンヘンにいるのだ。これだけ素晴しいことはない」
「ですが今は」
「そうだ。ミュンヘンは間違っている」
 これは街を指し示した言葉ではない。そこにいる人々を指し示した言葉だ。政府やマスコミもその範疇に入れてのことである。
「ワーグナーをそうして糾弾するのはだ」
「しかし政府もマスコミもです」
「わかっている」
 何故彼等がワーグナーを責めるのかもだ。王はわかっていた。
「しかしそれでもだ」
「陛下はあくまで」
「そうする。私はな」
 こんな話をしていた。夜のことだった。王は今はタケシスと共にいた。そしてその夜が明けた時にだ。朝食の時にこう母に告げられた。
「近頃ですが」
「舞台のことですね」
「随分と入れあげているようですね」
 向かい側に座りパンを食べている我が子にこう問うのだった。
 

 

144部分:第十話 心の波その二


第十話 心の波その二

「そうですね」
「はい」
 そしてだ。王もそれを認めた。
「今はです」
「ワーグナーの作品だとか」
「トリスタンとイゾルデです」
 王はその作品が何かを話した。
「それを上演するのです。このミュンヘンで」
「それはいいのです」
 母は上演自体はいいとした。しかしであった。
「ですが」
「ワーグナーのことですか」
「本当にいいのですね」
 怪訝な顔で我が子にまた問うた。
「彼をこのままミュンヘンに」
「彼は潔白です」
 王はこう母に返した。
「間違いなくです」
「潔白ですか」
「そう、潔白なのです」
「しかしミュンヘンではそれは」
「私はわかっています」
 確かにわかったうえでの言葉だった。
「ですから」
「そう言うのならいいです」
「有り難うございます」
「ただ」
 それでもだとだ。母は我が子を咎める様な目で見ながらだ。こうも告げるのだった。
「貴方は全てを見ていても」
「それでもだと」
「それでもあえて見えていないとすることがあるのですね」
「そう仰いますか」
「美しいものだけを見たいのですか」
「それは」
「この世には二つのものがあります」
 母だから言えることだった。
「美しいものと醜いものです」
「その醜いものは」
「それもまた人間です。それから避けてもです」
 王を見据えて。そのうえで告げていく。
「それは貴方の前に現れます」
「逃れられないと」
「王は。美醜を見るものです」
 その美しいものと醜いものの二つをだというのである。母は王たるものは背負わなくてはならないと考えていた。当然我が子もである。
 その我が子に告げた。美醜のことをだ。
「貴方はその美醜は」
「私は」
「やがてわかります」
 母は我が子が答える前に述べた。
「それもです」
「わかるというのですか」
「はい、それを告げておきます」
 子我が子にこうも告げた。
「よいですね」
「左様ですか」
「後は。そろそろですね」
 話を変えてきた。だが王にとっていい話でないのは同じだった。
「貴方も伴侶を」
「そのことですか」
「そうです。私も探しておきましょう」
 この辺りは市井の女と変わりなかった。そうした意味で王の母も女であった。女ならばだ。我が子のそうしたことを気にかけるものなのだ。
「よいのですね」
「はい」
 沈んだ声でだ。王は答えた。
「それでは」
「そうしたことをしてこそです」
「王だというのですね」
「貴方もわかっている筈です」
 母の言葉は厳しい響きがある。
「そうですね」
「はい、確かに」
「わかっているのならです」
 母はさらに言ってきた。
「これ以上は言いません」
「生涯の伴侶ですか」
「そもそも貴方はどういった女性がいいのですか?」
 王に対してだ。その女性の趣味も尋ねたのだった。
 

 

145部分:第十話 心の波その三


第十話 心の波その三

「それはどうなのですか?」
「女性の好みですか」
「そうです。美しい同性を愛するのもいいでしょう」
 このことは母も知っていた。そしてそれは仕方ないと諦めてもいた。同性愛が欧州では受け入れられないものだとわかっていてもだ。我が子のそうした嗜好が最早止められないものだとわかっているからだ。
「ですがそれと共にです」
「女性もまた」
「愛さなくてはなりません。それではです」
 ここまで話してだ。また問うのだった。
「貴方は。どういった女性が」
「お話したことはあったでしょうか」
 王は言葉を一旦置いてから述べてきた。
「私はです」
「また彫刻の様なというのですね」
「そうです。そうした女性が」
「それがわかりません」
 母は顔を曇らせてその言葉を返した。
「彫刻を愛してどうするのですか」
「私は女性はどうしてもです」
 王は顔を曇らせた母にまた述べた。
「動く女性。話す女性は」
「動き話すからいいのではないのですか?」
「舞台の女性ならいいのですが」
 こんなことも言う王だった。
「そうした女性ならば」
「またワーグナーですね」
「エルザです。ああした女性ならば」
「ならばエルザですね」
 母はたまりかねたような感じで話をまとめた。自分で強引にだ。
「あのローエングリンのヒロインですね」
「彼女ならおそらくは」
「あくまでローエングリンですか」
 母の言葉は呆れた感じになっていた。そうした我が子にだ。
「貴方は。何処までもワーグナーなのですね」
「それはよくないでしょうか」
「悪いとは言いません」
 母はそれは否定した。きっぱりとだ。
「芸術を愛し護ることも王の務めです」
「だからこそですね」
「ですが。貴方のそれはです」
「耽溺ですか」
「そうなっていませんか」
 我が子の目を見て問う。何処までも青く澄んだ、ローエングリンが来た川の如き青をだ。
「果たして」
「そうではないと思いますが」
「ですがローエングリンなのですね」
「はい」
 このことは変わらなかった。
「私は。あの騎士になりたいのです」
「それはわかりました。それではです」
「エルザを迎えます」
「いいでしょう。ですが」
「ですが?」
「あのオペラは私も何度か観ました」
 我が子である王に付き合ってだ。そうして観てきたのだ。
「確かに素晴しい作品です」
「そうです。あれこそが真の芸術です」
 王の言葉に熱が宿る。
「あの白銀の騎士と空と海の青、あの二つの色もまた」
「素晴しいです。ですが」
「ですが?」
「エルザはローエングリンと結ばれていません」
 母が指摘したのはこのことだった。
「彼の名前を聞いてしまいそのうえで」
「はい、そうです」
 王はまた述べた。
「あれは。悲しい結末です」
「ローエングリンである貴方がエルザを求めるのですか」
「そうして結ばれないと」
「そうならなければいいのですが」
 そのオペラのことを考えてだ。母はまたその顔を曇らせた。
 そうした話をしたのだった。それがこの朝食だった。
 こんなことがあった。しかしだ。
 王は政務についてもその力を注ぎ大臣達と色々と語り合い政策を決めていた。それは確かに王としての当然の務めであった。
 

 

146部分:第十話 心の波その四


第十話 心の波その四

 それを果たしながらだ。彼は己の夢を見ていた。
 今日も歌劇場に入りだ。舞台のリハーサルを観るのだった。
「いよいよだな」
「はい、間も無くです」
「本番の時です」
 今度は舞台の関係者達が王に答えていく。
「遂にトリスタンとイゾルデが上演されます」
「この王立歌劇場において」
「私が最初にトリスタンに会うのだ」
 王はこのことに今から胸を震わせていた。
「何という素晴しいことか」
「イゾルデにもです」
「彼女にも」
「そうだな。どういう訳かわからないが」
 ここで王の顔には戸惑ったものが宿った。
「私はこのオペラはだ」
「はい、このオペラは」
「どうされたのですか?」
「私はイゾルデの目で観ている」
 そうだというのである。
「どうもな」
「イゾルデですか」
「あの姫の目で、ですか」
「オペラを御覧になられているのですか」
「私はイゾルデではない」
 王は自分でそれを否定した。
「しかしだ。何故かだ」
「イゾルデにですか」
「なられていますか」
「そうだ。不思議だ」
 自分でもだ。戸惑いを見せる。
「何故イゾルデなのだ」
「トリスタンではなく」
「イゾルデなのですか」
「彼女だと」
「私はトリスタンを見ている」
 また言う王だった。
「イゾルデの目でだ」
「そのうえでトリスタンを見ている」
「陛下は」
「何故なのだ。私はトリスタンに最も感情移入している」
 そうだというのだ。
「ワーグナーのどの作品もだ。私はテノールこそ見ている」
 感情移入はだ。そちらにあるというのだ。
「だが。彼から見ているのではなく彼を見ているのだ」
「イゾルデの目で」
「そしてですね」
「そうだ。エリザベートになりエルザになっている」
 他の二人のヒロインの名前も挙げる。
「ゼンタでもあるが」
「さまよえるオランダ人のですね」
「あの」
「そうだ、どちらにしてもヒロインだ」
 こう話すのだった。
「私は何故か彼女達の目から英雄達を観ているのだ」
「何故ですか、それは」
「それは一体」
「それがどうしてもわからない」
 王はというのだ。
「どういうことなのだ」
「陛下は女性は」
「それはなのですね」
「そうだ、興味はない」
 青年を愛する王ならだ。それも当然のことだった。
 しかし彼はだ。あくまでその目でだ。英雄達を見ているのだった。
 そのうえでだ。彼は舞台を見ていた。そうしていたのだった。
 王は舞台を見続けていた。その中でだった。
 その中でもだ。ワーグナーへの攻撃が続いていたのだった。
 歌劇場を一歩出ればだ。すぐにだった。
「ワーグナーを追い出せ!」
「このミュンヘンから追い出せ!」
「バイエルンからもだ!」
「陛下を惑わす山師をだ!」
「追い出してしまえ!」
 市民達も煽られていた。まずはマスコミに。
 

 

147部分:第十話 心の波その五


第十話 心の波その五

 そして政府もだ。首相に警視総監がその先頭にいた。
 彼等はだ。騒ぐ市民達を官邸から見てだ。満足していた。
「いい感じですな」
「はい、このままですとやがては」
「彼は陛下の御前から去ることになります」
「必ず」
「して総監」
 首相は満足している顔で総監に告げてきた。
「ここで、です」
「ここで?」
「策を仕掛けましょう」
 こう総監に話すのだった。
「男爵ともお話して」
「男爵ともですか」
「はい、そうです」
 こう述べるのだった。
「そうしましょう」
「ふむ、策ですか」
「ここで策を仕掛ければです」
 どうかというのである。
「そうしましょう」
「それではですが」
「それでは?」
「どうした策ですか?」
 総監が問うのはこのことだった。
「その策とは」
「はい、陛下と彼の仲に亀裂を生じさせる策です」
「ふむ、彼をさらに追い詰めるのではなく」
「それはこのまま進めていけばいいのです」
 それはもう充分だというのだ。
「しかしそれだけではなくです」
「肝心の陛下ともですか」
「はい、亀裂を生じさせましょう」
 そうするというのである。首相はだ。
「それで如何でしょうか」
「確かに。ここで肝心の陛下との仲を裂けば」
 総監もだ。話を聞いて述べた。
「彼はさらに苦境に追いやられますな」
「確かにワーグナー氏は知識と教養があります」
 それはあるというのだ。間違いなくだ。
「ですが政治はです」
「弱いですな」
「政治の駆け引きを知りません」
 芸術家だから当然である。彼は政治の世界には生きてはいない。だからこそ今も次第に追い詰められてきているのだった。
 それでだ。首相は笑みを浮かべながら言うのだった。
「追い詰め裂くのは実に楽です」
「そしてやがては」
「はい、ミュンヘンからです」
 この国からだというのだった。
「いられなくします」
「それが目的ですね」
「別に命を取ろうとは思っていません」
 首相もそこまでは考えていなかった。
「私はそうしたことはです」
「御嫌いですね」
「はい、第一に陛下が悲しまれます」
 だからだというのである。
「陛下はあの御仁の芸術を愛しておられますから」
「ですからそれはですね」
「陛下を悲しませてはなりませんね」
「その通りです」
 総監もそのことにはすぐに頷いて返す。
「陛下の悲しみはこのバイエルンの悲しみでもありますから」
「ですからそれはしません」
 また言う首相だった。
「絶対に。しかしです」
「浪費家であるあの御仁はバイエルンにはですね」
「いてもらっては困るのです。そういうことです」
 単純に言えばそうだった。それが彼等の考えだった。
「ですから」
「そうですね。だからこそですね」
「追い詰めます」
 首相はまた言った。
「このままです」
「それは楽ですね」
 総監から見てもだった。ワーグナーを追い詰めることはたやすかった。しかしだった。彼等は決して楽観せずにだ。こうも話すのだった。
 

 

148部分:第十話 心の波その六


第十話 心の波その六

「ですがそれだけではなくです」
「陛下も」
「陛下は鋭い方です」
 それはもうわかっていることだった。
「ですがその陛下の為にです」
「ここは何としてもですね」
「その通りです。その御心を安んじなければなりません」
 首相もだ。彼なりの忠誠心を持ってだ。そうして動いているのだった。
 そのうえでだ。彼は王について言う。
「陛下は気付かれれば対処されます」
「それをどうするか」
「陛下に気付かれぬように宮中に手を打ちます」
 そうなるとだ。手はそれだった。
「ですから」
「男爵にお話してですね」
「そうです。あの方がおられます」
 彼等のもう一人の有力な同志だ。彼等にとっての同志、ワーグナーにとっての敵は多かった。宮中にもだ。それは多くいるのである。
「ですからそのうえで」
「わかりました。ではその手は」
「何、簡単です」
 首相の顔が微笑になった。
「ワーグナー氏は陛下のところに参上しますね」
「はい、最近数は減りましたが」
 かつては毎日の如くだった。だがそれが減ってきているのだ。疎遠になってはいないがだ。手紙でのやり取りが増えてきているのだ。
 二人のやり取りは手紙の、ロマン主義的な文体によるそれになっていた。そのやり取りをだ。二人は今は楽しんでいるのである。
 だがワーグナーが宮中に出入りしているのは確かだった。それでなのだった。
「必ず参上しますので」
「そこをですね」
「少し仕掛ければいいだけです」
 首相は言った。
「それだけです」
「ではここは」
「はい、男爵もお招きして」
 こうしてだった。彼等は罠を張ることにした。無論王に気付かれずにだ。   
 王もだ。宮中においてだ。
 その日が迫っているのをだ。今待っているのだった。
「間も無くだな」
「はい、間も無くですね」
「明日になりました」
「待ち遠しい」
 王の座においてだ。こう呟くのだった。
「今か今かとな」
「そこまでなのですか」
「楽しみにされていますか」
「期待だ」
 それだという王だった。
「私は今期待しているのだ」
「だからですか」
「今はそうしてなのですね」
「待たれているのですね」
「待っている」 
 実際にそうだとも答える。
「だがそれ以上に期待しているのだ」
 まるで少年の様にだ。王は目を輝かせている。
 そしてその目でだ。王はさらに言った。
「今夜は眠れないだろう」
「ではワインをお持ちしましょうか」
「それを」
「それでも眠れるかどうかだな」
 王は酒でもだ。そうなれるとは思っていなかった。
「今日は」
「左様ですか。そこまでなのですか」
「期待されてですか」
「陛下は」
「そういうことだ。明日になるのが待ち遠しい」
 また言った。
「時というものはその流れが変わるものだ」
「流れがですか」
「変わると」
「そうだというのですか」
「流れが速くもなれば遅くもなる」
 そうだというのである。
 

 

149部分:第十話 心の波その七


第十話 心の波その七

「そうしてだ。変わるものだ」
「時の流れは一定ではないのですか」
「時計は常に同じ動きをしますが」
「それでもなのですか」
「時計の動きと時の流れは別だ」
 そうだというのである、
「流れは変わるものなのだ」
 意識でというのだ。そういうことだった。
「今は。とてつもなく遅い」
「遅いのですか」
「そうだというのですか」
「今は」
「ワーグナーとはじめて会う時もだった」
 その時についてもだと述べるのだった。
「あの時も遅かった」
「そして今もですか」
「明日の夕刻か」
 オペラの上演は夕刻にはじまり夜に終わる。王にとってはそれもなのだった。
「夕刻まで私は何をするべきだろうか」
「乗馬をされてはどうでしょうか」
 一人がこう言ってきた。
「そうされては」
「馬か」
「はい、馬です」
 それをだというのだ。
「それでどうでしょうか」
「そうだな。それに乗るか」
 王もその彼の言葉を受けて言う。
「何もしないというのはな」
「はい、どうかと思いますし」
「その通りだ。それではだ」
「明日の昼はそれですね」
「それと詩だ」
 それもだというのだ。王は音楽だけではない。詩も愛している。それも美しい詩をだ。彼の嗜好はここでもまずは美なのであった。
「その二つで過ごしたい」
「そのうえで待たれるのですね」
「上演を」
「そうするとしよう。しかしだ」 
 それでもだというのである。
「それでも。時の流れはだ」
「遅いですか」
「それはどうしてもですか」
「避けられないだろう」
 王はいつものあの遠くを見る、何処か達観した目で述べた。
「それはな」
「ですが陛下」
 一人の青年が言ってきた。
「それでも時は流れます」
「時はか」
「はい、ですからそこまで憂いを感じられることもありません」
 彼はこう王に話すのだった。
「待たれればいいのですから」
「それはわかっている」
 王は実際にその顔に憂いを見せていた。
「そのことはな」
「左様ですか」
「しかしそれでもだ」
 王はだ。また言った。
「私は待ち遠しい」
「初演のその時が」
「しかしだ。これは幸せなのか」
 こんなことも言う王だった。
「こうして。待ち遠しいと思われることも」
「おそらくは」
「そうかと」
 周りはだ。王のその言葉にこう答えた。
「陛下は今どう思われていますか」
「憂いは感じられてもです」
 それでもだというのだ。
「しかし。幸福を感じられているのでは」
「それを待たれているのでは」
「そうだな。確かにな」
 そして王自身もだ。そのことを認めた。
 

 

150部分:第十話 心の波その八


第十話 心の波その八

「感じていないと言えば嘘になる」
「やはりそうですか」
「そうだったのですか」
「言われてみればそうだ」
 その通りだというのである。
「私は今幸福も感じている」
「憂いのある幸福ですか」
「それをですか」
「感じられていますか」
「この二つは共に存在できるのだな」
 王は今はじめてこのことがわかった。自身でそれを感じてだ。それでわかったのである。
「不思議なことだな」
「そうですね。それは確かに」
「憂いは本来悲しみに近いです」
「しかし幸せとも共存できる」
「それは確かに不思議なことです」
 周りはまた王に話す。彼等にとってもだ。これまでその二つは共に存在できるものではなかった。しかし今そのことがわかったのである。
 その中心にいる王はだ。ここでこうも言った。
「待つ憂い。待つ楽しみ」
「その二つですね」
「それが今」
「私は今その中にいる」
 王の言葉が続く。
「ワーグナー。彼の芸術を待とう」
「それでは今は」
「待ちましょう」
 こうしてだった。彼等は今は待つのだった。そうしてなのだった。
 眠れぬ夜をだ。今夜は一人で過ごした。青年達はいなかった。
 そして朝になった。だがそこに眠気はなかった。
「眠れなかったようですね」
「はい」
 朝食の時間に母に答える。
「実は」
「今夜のことで、ですね」
「おわかりですか」
「既に知れ渡っていますので」
 母は落ち着いた声で我が子に告げた。
「それはもう」
「そうでしたか」
「はい、そして」
「そして?」
「今夜はあのオペラをですか」
「母上も同席されますね」
 王はいささか疲れの見られる、徹夜故にそうなった顔で母に問うた。
「今夜の舞台に」
「はい」
 一言で静かに答えた。
「そうさせてもらいます」
「それは何よりです」
「ですが。舞台ではです」
 母は静かな口調のままで王に述べていく。
「何が起こるかわからないとだけ言っておきます」
「どういうことでしょうか」
「舞台だけではないのですから」
 今度はこう告げるのだった。
「観客席もあります」
「観客ですか」
「貴方だけが観るものではない」
 王の顔を見てだ。言葉を続ける。
「そういうものなのですから」
「彼の芸術はです」
「誰もが理解し感動するものだというのですか?」
「それは」
「そうですね。理解できない者もいます」
 口ごもった王にまた告げた。
「それはわかっていることです」
「不幸な話です」
 王は溜息と共に述べた。
「あの素晴しさを理解できないということは」
「芸術は主観です」
「主観だと」
「そうです、主観です」
 それだというのである。
「主観だからこそです」
「それは仕方がないと」
「誰もが貴方と同じではないのです」
 今度はこう王に告げるのだった。
 

 

151部分:第十話 心の波その九


第十話 心の波その九

「それはわかっていますね」
「はい」
 王とてだ。それはわかっていた。しかしなのだった。
 その言葉は口ごもりだ。そして小さくなっていた。その小さな言葉だった。
「ですがそれでもです」
「誰もがあの芸術に触れて欲しいというのですね」
「そうです。誰もがです」
 それもまた王の望みなのだ。誰もが自分と同じくだ。ワーグナーの芸術に触れてもらいたい、そして理解してもらいたいと考えているのだ。
 それでなのだった。母にこんなことも話すのだった。
「そしてです」
「そして?」
「彼は彼の作品の為の歌劇場を考えています」
「王立歌劇場での上演は」
「それも続けます」
 それに加えてだというのだ。それも考えているというのだ。
「私はそれにです」
「賛同しているのですか」
「非常に素晴しい考えです。今学院が設けられていますが」
「ワーグナー氏のですか」
「そうです。このミュンヘンにおいて音楽家を育てる」
 そうしたものだというのだ。それをだ。
「それに加えてです」
「ではです」
 母は熱く語る我が子に問うた。
「その歌劇場にかかる予算は」
「予算ですか」
「そうです。それはどれだけなのですか?」
 冷静な口調でだ。王に問うのである。
「一体どうなのですか、それは」
「予算は関係ありません」
 これがだ。王の返答だった。
「それはどうとでもあります」
「そうだというのですか」
「はい、そうです」
 返答は変わらなかった。それも全くだ。
「それだけの予算はあります」
「あるのと出すのは別ではないのですか?」
 母もかつて王妃だっただけはある。だからこそ予算のことはわかっていた。それで今はその予算について我が子に言うのだった。
「それは」
「いえ、あれば提供する」
「そういうものだというのですか」
「はい、そうです」
 これが追うの考えだった。紛れもなくだ。
「その通りです。芸術の為に予算は惜しむべきではありません」
「そして歌劇場もですか」
「そうです。それはいけませんか」
「それが貴方によくないことにならないことを祈ります」
 母は心から心配していた。その我が子のことをだ。
「心から」
「芸術にかけるものは全てを生み出します」
 王はだ。その芸術への考えを述べていく。
「ですから。それはいいのです」
「そう思われるのならいいのですが」
「御覧になっていて下さい。バイエルンは永遠に語り継がれる国になります」
 彼とて王だ。国のことは考えている。それが言葉にも出ている。
「それは武によってではなく」
「芸術によってですね」
「そのうちの一つが今日の初演です」
 トリスタンとイゾルデ、それの初演だというのである。
「今宵は。運命の日なのです」
「ではその運命の日に貴方は」
「その中にいます。このうえない幸福です」
「貴方にとっての幸福ですか」
「はい、それが永遠に続くことを願います」
 今がだというのだ。王はワーグナーの芸術に触れることを何よりの喜びとしていた。そのうえで夜を待っていた。そうしてであった。
 遂にだ。その時が来たのであった。
 宮中にいる王にだ。侍従達が述べてきた。
「陛下、お時間です」
「歌劇場に向かわれる時間です」
「そうか。遂にだな」
 王は待ちかねたような言葉を出した。
 

 

152部分:第十話 心の波その十


第十話 心の波その十

「この時が来たか」
「はい、それではですね」
「今から歌劇場に向かわれますね」
「あの場所に」
「無論だ」
 当然だとだ。王はすぐに侍従達に述べた。
「それではな」
「はい、それではです」
「どうぞこちらへ」
「案内致します」
「既に何度かリハーサルを聴いている」
 そして観ていたのだ。
「だが。それでもだ」
「それでもですか」
「初演はですね」
「違いますか」
「そうだ。違うのだ」
 こう話すのだった。王はだ。
「初演は。本物の舞台は」
「そこには何があるのでしょうか」
「それでは」
「全てがある」
 これが王の返答だった。
「ワーグナーの芸術があるのだ」
「それが全てなのですか」
「そうだ、全てだ」
 また述べる。王の言葉は変わらない。
「この世の全てがだ。ワーグナーの芸術にはある」
「そこまでのものだと」
「あの人の芸術は」
「まことに思う。誰もが観るべきなのだ」
 王の言葉は静かだ。だがそこに熱もあった。静かな熱がだ。
「それの前にはだ。俗世のことなぞ」
「俗世は」
「どうなのでしょうか」
「些細なものだ」
 そうだというのだ。
「ほんのな。些細なことなのだ」
 何気にだ。ワーグナーを取り巻く環境について述べていた。
「何を気にする必要があるのか。芸術こそがこの世で最も尊いものなのだ」
「そしてそれを今から」
「御覧になられますか」
「そういうことだ。では行こう」 
 王は立ち上がった。己の席から。
「その運命の舞台にだ」
「はい、それでは」
「今から」
 こうしてだった。王はそのトリスタンとイゾルデの初演の舞台に向かったのだった。彼は歌劇場のロイヤルボックスに入った。するとだ。
「おお、来られたぞ!」
「陛下だ!」
「陛下が来られたぞ!」
「太后様もご一緒だ!」
 二人でロイヤルボックスに入る。既に入場している観客達が二人を迎えた。
 万雷の拍手を受ける。だが王はそれに対してはだ。今一つ浮かない顔だった。
 それを見てだ。母はここでも王に尋ねた。
「拍手に応えるのです」
「はい」
 手をかざしてその拍手と出迎えに応える。しかしだった。
 王の顔は浮かないままだ。その顔を見てだ。母はまた我が子に言った。
「どうして浮かない顔をしているのですか」
「見られているのがです」
「嫌だと」
「誰もが私を見ています」
 そのことを言うのだった。
「それがです」
「それも王の務めです」
「務めだと」
「王は常に見られるものなのです」
 そうだとだ。我が子に話す。その間にもだ。観客達はオペラグラスまで使ってである。王の姿を見ている。一挙手一投足までだ。
 それでだ。王は己の席に座りながらだ。こう話すのだった、
「唯一の存在なのですから」
「王は常にですか」
「そうです、唯一です」
 また言う母だった。
 

 

153部分:第十話 心の波その十一


第十話 心の波その十一

「そして至高の位にあるのですから」
「そうしたことはわかっていますが」
「ならばそれを嫌と思わないことです」
「見られることをですか」
「そうです。わかりましたね」
「そういうものですか」
 王は納得しない顔で母の言葉を受けた。彼は今だ。周囲の視線を嫌になる程感じていた。そして感じ取っているのは視線だけではなかった。
 何時しかだ。歌劇場の中の声まで聴いていたのだった。聴こえてきたのだ。
「必ず来られると思っていたけれど」
「ワーグナーの作品だからな」
「あの山師の」
「弟子の妻に手を出す様な」
「そういえば」
 そのワーグナーの話がだ。さらにされる。王に聴こえる様には言っていない。しかしその言葉自体がだ。王の耳に入ってしまっていた。
 王はそのことには不快さを感じていた。顔にもそれが出ていた。しかしそれに気付く者はここではおらず。歌劇場での言葉が続く。
「イゾルデですが」
「これからはじまる舞台のヒロインですか」
「アイルランドの姫だとか」
「魔術も使える」
「その娘ですね」
 こう話していく。王が聴いているとは考えず。
「あのイゾルデという名前」
「そうですな。ハンス=フォン=ビューローの娘」
「あそこにいるあの男の」
「師に妻を奪われた男の」
 既に指揮者の席のところで立っているビューローも見られた。彼ははっきりと聴いていた。そのことにあえて表情を見せないでいる。
 だが彼も耐えていた。顔には出さないがだ。そうしていたのだ。
 その彼のこともだ。話されていくのだった。
「あの男の娘の名前ですな」
「しかし実は」
「その父親はワーグナーですな」
「それは間違いないですね」
「確実に」
 このスキャンダルがだ。歌劇場の中でも囁かれる。それは何故か。ワーグナーのオペラの初演が行われるからに他ならない。
 それだからだ。彼等はひそひそと話すのだった。
「その不義により生まれた娘がヒロインですか」
「実にワーグナーらしい」
「全くですな」
「全く以て厚顔無恥な」
「それにも程があります」
 確かにだ。ワーグナーにはそうしたところが多分にある。それが話されていた。
「陛下に取り入り贅を極め」
「国の財政を湯水の様に使い」
「そうして今度は自分の作品の為の歌劇場まで作るとか」
「それもまたバイエルンの財政で」
「何処まで図々しいのか」
 こうだ。話されていく。それを全て聴いてだ。
 王はだ。うんざりとした顔になって述べるのだった。
「醜いものです」
「醜いというのですか」
「はい、醜いです」
 こう話すのだった。王はだ。
「人のそうした噂話など」
「噂を気にするのですか」
「気にはしません」
 それはだと母に答える。しかしだった。
 王はだ。母にこうも話すのだった。
「ですが」
「ですがですか」
「そうです。醜いものは耳にするだけで不快になります」
「確かにですね」
 それはだ。母も認めた。
「それについては同意です」
「母上もですね」
「そして貴方がそれを気にしないというのは」
「それは」
「いいことです」
 そうだとだ。我が子に告げるのだった。
 

 

154部分:第十話 心の波その十二


第十話 心の波その十二

「噂は噂でしかありません」
「その通りです」
「例えそれが真実だとしてもです」
 こうも言う。我が子への忠告に他ならない。
「それは噂でしかありません」
「それはわかっています」
「では。気にはしないことです」
 王への忠告だった。これもまた。
「いいですね。これまで通り」
「それはわかっていますが」
「噂話は人の心を蝕みます」
 人生を知ったうえでの言葉だった。王の母だけあり彼より長く生きている。その経験の中でだ。そうしたことを知ったうえでの言葉だったのである。
「それも何処までも」
「全くですね」
 王もだ。母のその言葉に同意した。
「これ程までとは」
「決して惑わされないことです」
 母のその人生での経験に基づく忠告は続く。
「惑わされれば歯止めが効かなくなります」
「そして何処までもなのですか」
「貴方はシェークスピアも知っていますね」
 イギリスの戯作家である。数多くの作品を書いていることで知られている。その素性については一応経歴等が残っているが素顔は不明なままである。
「イギリスのあの戯作家は」
「はい、よく」
 その通りだと答える王だった。彼の教養は当然ながらその偉大な戯作家にまで及んでいた。だからこそ答えることができたのである。
「オセローですか」
「そうです。彼の様にです」
「陥ればそのまま落ちていく」
「底のない闇の中にです」
「それが噂というものなのですね」
「噂は人を殺します」
 また話す母だった。
「その心をです」
「オセローの様に」
「それはよく覚えておくことです」
「わかっています」
 王は沈痛な声で答えた。そうした話をしながらだった。
 開演を迎えた。まずはだった。
 暗鬱な、それだけで悲劇を予感させる前奏曲からはじまった。異様な、誰もがこれまで聞いたことのない変わった前奏曲だった。
 それは螺旋の様に二つのものが絡み合いそうして何時までも続いていく。無限にだ。それが何処までも続いていくといった感じだった。
 長い、十分はあるその前奏曲が終わるとだ。船の中に二人の女がいた。
 彼女達は興奮することのない音楽の中で歌う。だがそれもモーツァルトとも違う、ロッシーニとも違う、そしてヴェルディとも違う静かな歌の中でだ。進んでいきだ。
 合唱は僅かだった。何もかもが物静かで落ち着いている。これまでのワーグナーの作品ともだ。大きく違っていた。
 だがそのテノールは明らかにワーグナーのものだった。ソプラノものだ。低い、だが輝かしい声で何時までも歌いだ。その二人の世界が続いていく。
 互いを愛し合う様になり夜の森で密会する。だがその場で讃えるのは死だった。
 この世を疎い死の世界での幸せを心から願う、トリスタンはその命を失うに至る傷を負っても生を願わず死を望む。そうしてだった。
 イゾルデが来た時にだ。彼は自ら傷口を開き死に至った。そしてイゾルデもだ。そのトリスタンの亡骸の前で恍惚として歌い死んでいく。二人は死を迎えることでその愛を成就させたのであった。
 その舞台を最後まで観てだ。観客達は唖然となった。
 そしてだ。互いにひそひそと話し合うのだった。
「何だこの作品は」
「死を讃えている」
「二人だけの世界だ」
「しかも音楽もだ」
「何かが違う」
 その死を受け入れている、厭世的な作風と無限に螺旋状に続く夜の世界の音楽にだ。彼等は戸惑いを覚えた。そうして話すのだった。
「この作品は何だ」
「何だというのだ」
「こんな作品ははじめてだ」
「話の原題はわかるが」
 アーサー王の話に出て来る騎士の一人、それがトリスタンであるのだ。その彼とイゾルデの愛の話、アーサー王の話の外伝的な話である。
 それはわかる。しかしなのだった。
「ここまで死を賞賛した作品はない」
「夜を讃えている」
「死と夜」
「そしてこの音楽」
 興奮することの非常に少ない、二人の為だけにあるかの如き音楽もだった。彼等をして戸惑わせるに充分なものだったのである。
 

 

155部分:第十話 心の波その十三


第十話 心の波その十三

 それを聴いてだ。彼等はまた話すのだった。
「こんな音楽も聴いたことがないぞ」
「ワーグナーの音楽はこれまでも聴いてきたが」
「確かに独特の音楽だ」
「常に変わってきている」
 作品ごとにという意味だ。彼はその作品ごとにだ。音楽を大きく変えてきているのだ。タンホイザーとローエングリンでもかなりの違いがある。
「だがそれでも」
「これは」
「どう言うべきか」
「和音なのはわかる」
「半階音だ」
「それをここまで使うか」
「何という音楽なのだ」
 誰もが呆然となったまま話していく。そしてだった。
 その評価はまちまちだった。賛美する者もいた。だが戸惑う者もおり批判する者もいた。だが王はだ。素直にこう評価するのだった。
「この作品は音楽を変えた」
「音楽をですか」
「それ自体を」
「そうだ、芸術を変えたのだ」
 舞台が終わってからだ。彼は恍惚として周囲に話すのだった。
「それだけの作品なのだ」
「左様ですか」
「そこまでなのですか」
「トリスタンとイゾルデは」
「ショーペンハウアーだ」
 王はこの名前を出した。
「彼のことは知っているか」
「はい、哲学者ですね」
 侍従の一人が答えた。
「随分厭世的な思想の持ち主だとか」
「そうだ。彼の哲学は厭世的だ」
 まさにそうだと述べる王だった。
「厭世哲学なのだ」
「その哲学者が何か」
「あの作品と関係があるのですか」
「そうだ、ある」
 その通りだというのだ。
「あるのだ。その厭世観が作品にそのまま出ているのだ」
「だからですか。あそこまで死を賛美した」
「それでだったのですか」
「生を厭っていたのは」
「だからこそ」
「死は絶対のものだ」
 王はだ。また遠くを見る澄んだ目になって述べた。
「その先にある愛もだ」
「絶対なのですか」
「その愛は」
「魂は不滅だ」
 王はこうも言った。
「それは永遠にあるものだ」
「神の教えによるとですね」
「魂は不滅」
「その通りです」
 キリスト教の教えである。それに基づいてだとだ。周りは思った。
 しかし王はだ。こう言うのであった。
「私にはわかるのだ」
「陛下にはとは」
「神の御教えによるものではなくですか」
「陛下がですか」
「おわかりだというのですか」
「そうだ、私にはわかるのだ」
 遠くを見る目のまま語る。
「そのことがだ。それでだ」
「それで?」
「それでとは」
「トリスタン。彼だが」
 今観たばかりのオペラの主人公の名前をだ。ここで出した。
 

 

156部分:第十話 心の波その十四


第十話 心の波その十四

「彼の魂も不滅なのだ」
「死してもですか」
「それでも尚」
「そうなのだ。それは不滅なのだ」
 こうだ。静かな熱を帯びた声で話していく。
「だからこそ彼は死を恐れなかった」
「その夜の世界で」
「死を恐れずにですか」
「イゾルデとの愛を願った」
「そうだったのですか」
「その通りだ。そしてだ」
 言葉を続ける。さらにだった。
「前にも言ったが」
「はい、何でしょうか」
「その御言葉は」
「トリスタンはトリスタンであるだけではない」
 こう話す。彼はただトリスタンというだけではないとだ。さらにあるというのである。
「ローエングリンでありタンホイザーでもある」
「一つの魂だと」
「そうだと言われますか」
「ヴァルターでもありジークムントでもある」
 今ワーグナーが生み出そうとしている作品の主人公達だ。
「そしてジークフリートでもある」
「ニーベルングの指輪の主人公」
「彼もですか」
「トリスタンと同じ魂なのですか」
「全て」
「そうだ、全て同じ魂なのだ」
 こう話すのだった。周りに対して。
「私はそのトリスタンとしての魂を観た」
「彼のですね」
「その魂を」
「さらに観ていく」
 さらに遠くを見ていた。これまで以上に。
「全てをだ」
「そういえば陛下、ワーグナー氏の作曲ですが」
「トリスタンは上演できました」
 周りの話が変わった。その魂を生み出すワーグナーについての話になった。それを話しながらだ。王のその整った顔を見るのだった。
 王もだ。彼等の話を聞いている。表情を変えずに。
「ですが他の作品はです」
「まだ作曲中です」
「中々進みません」
「果たして上演できるのでしょうか」
「焦りか」
 王は彼等が何を言いたいのか悟ってそのうえで述べた。
「私が焦ると。そう思うか」
「はい、御言葉ですが」
「焦りは感じておられますか」
「それは」
「如何でしょうか」
「その通りだ」
 王はだ。それを認めた。淡々とした言葉だがそれでもだ。彼は焦っていると。その現実を認めて言葉に出してみせたのであった。
 そのうえでだ。彼自身の口で言った。
「彼の芸術は私の手中にあるが」
「それでもですか」
「焦りを感じておられますか」
「それでも」
「作るのは彼だ」
 ワーグナーであった。その彼だ。
「彼が作る」
「陛下は」
「それを手中に収めておられますか」
「そうだ、それでもだ」
 王が作るのではない。それが問題なのだった。
「私はその芸術を愛でるだけだ」
「だからこそですか」
「焦られる」
「そうだというのですか」
「陛下は」
「そうだ、早く観たいものだ」
 王の言葉に熱が戻った。
「彼の芸術をだ。さらに」
「まずはマイスタージンガーですね」
「あの作品ですね」
「そうだな。あの作品だ」
 まさにそれだというのだった。
 

 

157部分:第十話 心の波その十五


第十話 心の波その十五

「あのマイスタージンガーを早く観たい」
「芸術は既に陛下の手中にあります」
「では後はですか」
「その芸術をその御目で、ですか」
「観るだけだ」
 王はまた言った。
「しかしだ。観ることが最もできない」
「それはですか」
「そのことは」
「現実は待ち遠しい」
 怨む言葉だった。その現実そのものを。
「夢ならば幾らでも観られるというのに」
「現実はですか」
「待ち遠しいものですか」
「そうなのですか」
「思うようにならない。誰にもだ」
 王である彼にもだ。現実はどうしようもなかった。彼はそのことにだ。少し、今は少しだがわずらわしさを感じていた。そうなりだしていた。
「思うことと逆になることもだ」
「あると」
「そうだというのですね」
「そうだ。思うようにはならない」
 王はまた言ったのだった。
「何もかもがだ」6
「現実とはそうしたものです」
 侍従の一人が述べた。
「様々なものが入り組んでいるのですから」
「国自体がそうだな」
 王としての言葉だった。国を預かる者として言ったのだった。
「それは」
「はい、ですがそれに負けることなくです」
「国を治めていくのが王かと」
「私もそう思います」
「私もです」
 他の者達も続く。王を励ましていた。
 王も彼等のその言葉を聞いてだ。いささか気を取り直した。しかしである。気を取り直してもだ。王はこうしたことも言葉として出したのだった。
「しかしだ」
「しかし」
「何かおありですか」
「私は。国を治めるのにだ」
 その場合にだとだ。こう話すのだった。
「芸術が必要だ」
「ワーグナー氏のですか」
「彼の芸術が」
「彼自身もだ」
 それを生み出すワーグナー自身もだというのだった。
「必要だ。このミュンヘンにだ」
「そうであればですか」
「王として治められますか」
「このバイエルンを」
「この国を」
「それだけでいいのだ」
 また言う王だった。
「彼とその芸術の二つが傍にあるだけで」
「ではどちらがなくなってもですか」
「陛下は」
「そう仰るのですか」
「そうだ。私はそうなのだ」
 自分でわかっていた。それもよくだ。
 それで今言う。その願いをだ。
「だからだ。彼を私から離さないで欲しいのだ」
「ですがどうやら」
「首相が」
「男爵もです」
「そして警視総監もだな」
 王から言った。彼は既にわかっていたのだ。
 三人の名前が出てだ。王はまた言ったのだった。
 

 

158部分:第十話 心の波その十六


第十話 心の波その十六

「あの三人が。私とワーグナーを」
「あの方々も陛下のことを案じておられます」
「それは間違いありません」
「それはです」
「わかっている」
 彼等の忠誠もだ。王はわかっているというのだった。
 わかってはいる。しかしなのだった。その言葉がここでも曇る。
「彼等の行動は私のことを案じて故だ」
「はい、そうです」
「それはご承知頂ければ」
 こうした場合の擁護は結託している者ならば偽りになる。しかし今王の周りにいる彼等は誰もが三人とは距離を置いている。それならばだった。
 どちらかというと王寄りの立場からだ。三人について話すのだった。
「御三方は財政から考えておられます」
「そしてワーグナー氏の思想です」
「その二つからです」
 彼の醜聞についてはだ。あえて言わなかった。そのうえでなのだった。
「とりわけ財政です」
「ワーグナー氏の財政ですが」
「そのことですが」
「芸術には金が必要なのだ」
 王の芸術への考えはだ。変わらなかった。
「だからこそ。それは」
「よいのだと」
「そう仰るのですか」
「何故それが理解されないのか」 
 言葉に溜息まで宿っていた。
「芸術jにそれが必要だということが」
「そして芸術とワーグナー氏」
「その二つも」
「どちらもですね」
「そうだ、ワーグナー」
 彼の名前を出した。
「私は彼と共にいたいだけなのだ」
 こう言ってやまなかった。しかしだった。 
 それは許されそうになかった。王はそのことを認めたくはなかった。
 そしてその中でだ。策謀は続いていた。
「では。全て」
「トリスタンは初演されましたが」
「それでもですね」
「全てはこれからですね」
「はい、これからです」
 首相に男爵、それに総監の三人だった。その三人が密室で話をしていた。そうしていたのだった。その彼等がなのだった。
 今策謀を企てていた。彼等にしては王の為、バイエルンの為の策謀である。それが王の為になるのかまでは彼等は見えていなかったが。
 男爵がだ。確かな笑顔で話した。
「宮廷は整いました」
「左様ですか」
「それではですね」
「はい、ワーグナー氏は宮廷に入ればそれで済みます」
 それだけでだというのである。
「ですから」
「ではこれでよしですね」
「そのことは」
「これが決定的なものになるでしょうか」
 男爵は首相と総監が満足した顔になったのを見ながらまた述べた。
「彼に対しての」
「いえ、どうでしょうか」
 総監はすぐに難しい顔になってこう言ったのだった。
「あの御仁はしたたかです」
「そう簡単にはいかないと」
「少なくとも油断はできないでしょう」
 これが総監の考えだった。
「彼は政治的なセンスはないようですが」
「それでも。そのしたたかさがですが」
「そのことは忘れてはならないでしょう」
 ワーグナーを侮っていなかった。決してだ。
 だからこそだった。総監は慎重な口調でだ。同志達に話すのだった。
「そしてそのうえで、です」
「策を巡らしそして」
「陛下から引き離す」
「最後にはこのバイエルンからも」
「このままではです」
 首相もここで言った。
「我が国の財政に支障をきたします」
「ですね。あれではです」
「あのローラ=モンテスと同じです」
「全くです」
「寵愛を受けてそれをいいことにしていることはです」
 同じだとだ。男爵と総監も同じ見方だった。彼等にしてはそのことが問題だった。バイエルンの財政の問題は国家の問題そのものだからだ。
 それを話してだった。彼等は。
 さらに話す。そしてだった。また首相が言うのだった。
「しかも素行はローラ=モンテスより問題がある」
「弟子の妻だけでなく舞台の踊り娘達にも手をつけているとか」
「そうした者をバイエルンで好き勝手にさせては」
「我が国の誇りにも関わります」
「他国からもどう思われるか」
 体面もだ。気にしてだった。
 そんな話をしてだ。彼等は今は仕組んでいた。そしてそれはだ。王とワーグナーの仲をだ。決定的に壊そうとしていたのであった。


第十話   完


                2011・2・7
 

 

159部分:第十一話 企み深い昼その一


第十一話 企み深い昼その一

                  第十一話  企み深い昼
 王の下にだ。悲しむべき報告が入って来ていた。
「それはまことか」
「はい」
「残念ですが」
 侍従達が王に話していた。彼等は今王宮の中にいる。そこでだ。王に対してその悲しむべき報告を述べていた。そしてなのだった。
 王もその話を聞いてだ。暗い顔で述べた。
「早いな」
「はい、まだ若いというのに」
「それでもです」
「急死でした」
「妻君が病になったと思えば」
「私はだ」
 王はだ。ここでまた話した。
「妻君の病を心配していたのだが」
「はい、私もです」
「私もそう思っていました」
 侍従達もだった。それは同じなのだった。
 ところがだ。彼等はここでまた話した。
「ですがそれでもです」
「夫君がまさか」
「急死するとは」
「わからないものです」
 こうも言うのだった。わからないとだ。
「人の運命というものは」
「まだ三十の若さで」
「どうしてでしょうか」
「あの方が死ぬとは」
「素晴しい歌手だった」
 王はここでも遠くを見る目になった。そしてその彼のことを話した。
「トリスタンを歌うに相応しい歌手だった」
「まことに」
「あの方ならばこそ歌えました」
「しかし。舞台が終わってすぐに」
「あの様にして」
「死か」
 王は今度はこの言葉を口にした。
「彼もまた死に魅入られたのか」
「死ですか」
「それにですか」
「魅入られたと」
「そうなのではないのか」
 こうだ。王は言うのだった。
「トリスタンとイゾルデは死の作品だ」
「二人は死によってその愛を成就させた」
「その死。愛の死」
 そのオペラの最後の歌だ。イゾルデが歌う。その歌は第一幕前奏曲と並ぶトリスタンとイゾルデの象徴とも言える曲なのである。
 それを話しながらだ。王は彼のことを話した。
「ペーター=フォン=カルロスフェルト」
「惜しい歌手でした」
「彼のことはですか」
「忘れないのですね」
「忘れる筈がない」
 それはないというのだった。
「決してだ。それはない」
「あれだけの素晴しい歌手は」
「決してなのですね」
「トリスタンの死に魅入られたのか」
 王の言葉にまた悲しみが宿った。
「彼もまた」
「そうして旅立ってしまった」
「そうなってしまったと」
「陛下は」
「冥福を祈ろう」
 沈んだ声だった。だがそれでも話した。
「心からな」
「はい、それでは」
「今は」
「その冥福を」
 彼等はこう話してだ。王と共にその歌手、カルロスフェルトの冥福を祈るのだった。王は今一人の歌手の死をだ。心から悲しんでいた。
 その彼のところにだ。ワーグナーが向かっていた。屋敷を出る時にだ。
 

 

160部分:第十一話 企み深い昼その二


第十一話 企み深い昼その二

 既に実質的な妻となっているコジマがだ。彼に話してきた。
「御気をつけ下さい」
「何に対してだ?」
「宮廷に向かわれるのですね」
 コジマは怪訝な顔で事実上の夫に話す。
「そうですね」
「そうだ。陛下に御会いしに行く」
 その通りだとだ。ワーグナーも答えた。
「今からな」
「だからです。近頃宮中もです」
「私をよく思っていない者が増えているというのだな」
「特に男爵が」 
 彼だというのだ。かつてワーグナーを迎えに来たその彼がだ。宮中においてワーグナーを快く思っていない一派の中心だというのである。
 コジマはだ。夫にこのことを強く話すのだった。
「ですから。どうかくれぐれも」
「わかっている。だが」
「だが?」
「安心することだ」
 落ち着いた顔でコジマに話すワーグナーだった。
「何も気にかけることはない」
「そうなのでしょうか」
「陛下はわかっておられる」
 王への信頼をだ。彼女に話した。
「私のことをな」
「それはそうですが」
 だが、だった。コジマはそう言われてもだ。そのドイツ的な顔立ち、鼻が高く細面の、父によく似た顔立ちにだ。不安なものを見せるのだった。
 そのうえでだ。事実上の夫にこう述べた。
「今は宮中においても」
「私を快く思っていない者が多いというのだな」
「しかもそれが」
 どうかというのであった。
「増えています」
「だからか。私と陛下は」
「御気をつけ下さい」
 またこう言う彼女だった。
「くれぐれもです」
「そして気をつけてか」
「難を避けられるべきです」
 彼に忠告する。そしてだった。
 ワーグナー自身にだ。こう告げた。
「焦られぬことです」
「焦りが身を滅ぼすか」
「そうです。あなたの焦りこそが」
 それこそがだと。コジマは切実な顔で彼に話した。
「あの方々の望むところですから」
「それでか。わかった」
「はい、御願いします」
 コジマは切実な顔で述べた。
「それは」
「わかった。それではだ」
 ワーグナーは頷きはした。しかしその頷きはただ頷いただけのものだった。彼は今はこれといって深く考えていなかった。もっと言えば楽観していた。
 しかしその楽観はだ。宮中において打ち砕かれた。
 宮廷に仕える者達がだ。彼に入り口で冷たく告げたのだ。
「御会いになられないとのことです」
「今は」
「馬鹿な、そんな筈がない」
 ワーグナーは驚きを隠せない顔で彼等に話した。
「陛下は今宮廷におられるのですね」
「はい、そうです」
「それはその通りです」
 まさにそうだとだ。彼等は話す。
「ですが今陛下はです」
「御会いしたくないとのことです」
「そんなことはない。私はその陛下に」
 呼ばれてここに来たと言おうとする。しかしだった。
 宮廷の官吏達はだ。冷たい声のまま再び彼に告げた。
「ですが今はです」
「陛下が仰っています」
 会わないとだ。こう話すのだった。
「ですからここはです」
「御帰り下さい」
「そんなことがあるものか」
 ワーグナーは我を失いかけながらまた言った。
「陛下が、そんな」
 だが、だった。彼は宮殿の前で門前払いを受けたのは確かだった。そしてだ。王にこのことはだ。形を変えて伝えられたのであった。
 

 

161部分:第十一話 企み深い昼その三


第十一話 企み深い昼その三

 王はだ。その彼等からだ。こう話されたのだった。
「ワーグナーが帰っただと」
「はい、急に怒られてです」
「何があったのかはわかりませんが」
「そうしてです」
「一体どうしてだ」
 王は怪訝な顔でだ。こう言うのだった。
「和今日は会えると思っていたのに」
「わかりません。ですが」
「あの方は帰られました」
「御自身のお屋敷に」
「そうされました」
「わからない」
 今王はだ。その理由がわからなかった。それでだった。
 彼とワーグナーの関係はだ。そこから微妙なものになっていった。そうしてそれがだ。亀裂となり二人の間に残ってしまった。
 互いに気まずいものを感じてだ。王はビューローのピアノを聴きながら彼に言った。
「ワーグナーはだ」
「マイスターがどうされたのですか?」
 ビューローはピアノを止めて王に顔を向けた。
「一体」
「いや、私はどう思われているのだ」
 こう彼に問うのだった。
「彼に」
「敬愛すべき方です」
 それだとだ。ビューローは素直に述べた。
「マイスターが最も敬愛されている方です」
「そうなのか」
「どうしてそうでないと言えましょう」
 彼は切実な声でまた述べた。
「マイスターの今は陛下によってあるのですから」
「だといいのだが」
「違うと思われるのですか?」
「いや」
 そう言われるとだ。王は否定できなかった。それはまさにその通りだからだ。
「それはその通りだが」
「ではそれでは」
「私は彼に傍にいて欲しいのだ」
 ビューローにもだ。このことを話した。
「どうしてもだ。だが」
「だが?」
「それは許されないのか」
 俯いてだ。そのうえでの言葉だった。豪奢な、黒檀と見事な刺繍の入れられたソファーに座りながらだ。こう言ったのであった。
「私にとって。それは」
「許されないと」
「かけがえのない存在と共にいる」
 こうだと話すのだった。
「それは私には許されないのか」
「いえ、それは」
「許されるというのだな」
「私はそう思いますが」
 ビューローは王にだ。悲しさを帯びさせた、だが誠実な目で述べた。
「ですから。そこまで悩まれることは」
「ないか」
「はい」
 こう述べるのだった。
「愛は絶対のものです」
「それはそうだが」
「そして誰もが求め。手に入れることを許されているものです」
「私にもだな」
「人であれば誰でもです」
 王に話していくのだった。
「それは手にしていいのです」
「では私も」
「そう思います」
 穏やかな声でだ。王に話す。
「ですが。それでもです」
「それでもだというのか」
「はい。自分がそれをしたくとも周りが許さないこともあります」
「そうだな」
 そう言われるとだ。王もよくわかった。その周りのことはだ。
 

 

162部分:第十一話 企み深い昼その四


第十一話 企み深い昼その四

「周りは。色々と言う」
「特に陛下はそうですね」
「誰もが私を見て私について言う」
 そのことにだ。わずらわしさを感じながらの言葉だった。
「それが私にとってはだ」
「お嫌ですか」
「どんなに聞こえないように、気付かれないようにしていてもだ」
 その周囲がという意味である。
「聞こえるし気付くものだ」
「それが噂であり視線ですか」
「私はそれに耐えなくてはならないのか」
 辛い目になっての言葉だった。
「王は」
「それは」
「それについては」
 侍従達は王のその言葉に何と言っていいかわかりかねた。
 それで沈黙してしまった。だが王はその間にもまた言う。
「王の務めは。噂や視線を浴びることなのか」
「それはです」
 何とかといった感じでだ。侍従の一人が言ってきた。
「御気になされなければいいのです」
「気にはか」
「はい、気にしていてはきりがありません」
 その通りだった。彼の言うことは正論だった。そしてその正論がさらに続く。
「耳に入る噂はその心に滲みは入り」
「蝕んでいくものだな」
「そうです。それは意識してはならないものです」
「それはわかっていてもだ」
「御気になされぬよう。そして」
「そして?」
「愛するものはです」
 それについての話にもなった。愛するものについてのだ。
「一度掴まれたら二度とです」
「二度とか」
「はい、手放されないことです」
 こう王に話すのだった。
「決してです」
「そうか。決してだな」
「手放されればそれで終わりです」
「そうだな」
 王も彼のその言葉に頷く。話を聞いてその通りだと思ったからだ。
 そしてだ。そのうえで王は自分からも話した。
「私は。今手にしているものを絶対にな」
「手放してはなりません」
「手放したその時は」
「陛下が最もよく御存知かと」
「その通りだな。まさにそうだ」
 王は自分の心の中を覗いた。そうしてから答えたのだった。
「私は今手にしているものを手放してはいけないな」
「何があろうともです」
「ではだ」
 顔をあげた。決意した顔になっていた。
「彼を呼んでくれ」
「ワーグナー氏をですか」
「そうだ。先には帰ったそうだな」
「はい、宮殿の入り口まで来たそうですが」
「それでもです」
「帰ったようです」
 このことをだ。彼等は話すのだった。そこに首相や男爵達の謀略があったことはだ。彼等は知らなかった。誰もが知らなかったのだ。
 だからこそだ。彼等は今は怪訝な顔で話すのだった。真実を知らない故に。
「おそらく何かしらの事情があったようです」
「それが何故かはです」
「ワーグナー氏御自身だけが御存知かと」
「そうか。それではだ」
 王はその話を聞いてだ。一計を案じた。その一計とは。
「私だ」
「私がといいますと」
「陛下がですが」
「陛下御自身がですか」
「そうだ。私が行こう」
 こう話すのだった。
 

 

163部分:第十一話 企み深い昼その五


第十一話 企み深い昼その五

「私自身がな」
「ワーグナー氏の屋敷にですか」
「そちらに」
「そうだ、行こう」
 また言う王だった。
「それならば彼が帰るということもあるまい」
「そして陛下が来られれば」
「陛下御自身が来られればですね」
「ワーグナー氏も会わざるを得ない」
「だからこそですか」
「そうだ。だからこそ私が行こう」
 王は再び話す。その言葉が続く。
「それでどうか」
「いい御考えだと思います」
「それは」
 侍従達は王のその考えにまずは賛成した。しかしだった。
 彼等はそのうえでだ。怪訝な顔になってだ。こうも話すのだった。
「しかしです」
「陛下が行かれるとなるとです」
「どうしても気付かれます」
「それが問題です」
「そうだな。先程の話だが」
 王はまた暗い顔になった。そのうえでの言葉だった。
「私は誰からも見られているからな」
「はい、ですから」
「迂闊に赴かれてもです」
「よくありません」
「また噂の種になります」
 そのことが問題だった。噂に倦んでいる王にとってそれは避けなければならないものだった。王自身もそのことを最も恐れていた。
 そしてだ。王はふと閃いた。
 その閃きをだ。彼等に話したのだった。
「夜はどうか」
「夜ですか」
「その時にですか」
「そうだ、夜に行こう」
 こう話すのだった。
「夜にだ」
「それがいいかも知れませんね」
「確かに」
 侍従達もそれでいいとしたのだった。
「夜は人目が少ないですし」
「御忍びということで」
「それでいいかと」
「そうだな。ではそうしよう」 
 王はこれで決めた。
「夜にひっそりと行こう」
「夜はこの場合いいですね」
「確かに」
「何もかもを隠してくれます」
「非常にいいです」
「その通りだ。夜はいいものだ」
 王の言葉には憧憬があった。夜に対するだ。それを言葉に出していた。
 そうしてだ。今度は夜について話すのだった。
「昼は何もかもを曝け出してしまう」
「その太陽の光がですね」
「全てをですね」
「そうするのですね」
「太陽の光は眩し過ぎるのだ」
 そうしたものだというのだ。
「何もかもをな。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「今度は」
「昼は誹謗や中傷で満ちている」
 こう言ってだ。そこに嫌悪を見せた。
「企みもだ」
「昼にこそあると」
「そうだというのですね」
「そうだ。人は昼に動くものだ」
 人の動くのは昼である。だとすればだった。
 何もかもが昼に行われる。王はそう考えていた。人は昼に動きそうしてそこにはあらゆる醜いものがある。王はそう考えていたのだ。
 

 

164部分:第十一話 企み深い昼その六


第十一話 企み深い昼その六

 そしてその考えをだ。彼はさらに話した。
「だからだ。昼にはだ」
「行かれませんか」
「そうされるのですね」
「それだけではない。昼には」
 昼自体に嫌悪を見せる言葉だった。
「私はいたくないのだ」
「昼の世界にはですか」
「おられたくないのですか」
「そうだというのですか」
「そうだ。昼には何もない」
 また言う王だった。
「私が望むものはだ」
「左様ですか」
「そう仰いますか」
「昼には何もない」
「そうですか」
「そうだ。夜にこそあるのだ」
 まただ。夜そのものに対して憧憬を見せた。そうしてだった。
 彼はさらにだ。こう話すのだった。
「全てはな」
「夜といえば」
「そうだな」
「そういえば」
「ワーグナー氏のオペラでは」
 侍従達は王が夜について話すのを聞いてだ。そのうえで彼等の話をはじめた。それはワーグナーの中での夜のことだった。
 その夜は何かというとだった。
「何かが起こるのは夜ですね」
「常に夜に起こります」
「魔女が蠢くのも夜でした」
 ローエングリンのオルトルートのことである。このオペラは彼女、その正体はヴォータンの信者によって事件がはじまっているのだ。
 そしてだ。夜はさらにあった。
「トリスタンとイゾルデが密会するのも夜ですね」
「森の中での密会」
「それもまた」
「そういうことだ。夜なのだ」
 王は憧憬をさらにつよくさせていた。
「私はもう昼には何も見ない」
「その光の下にはですか」
「何もですか」
「見られないですか」
「夜に見る」
 そこにだというのだ。夜にだ。
「夜にこそ。私は生きたい」
「ワーグナー氏のその夜の世界に」
「そうなのですか」
「そうだ。だから夜に行く」
 そこまでの意味があったのだ。彼が何故夜に行くかというとだ。
 そうしてだった。王はその夜にだ。僅かな供だけを連れて密かに宮殿を出た。そのうえでワーグナーの屋敷に向かったのであった。
 ワーグナーの屋敷の入り口の扉、中から香水の香りがしてくるその場所でだ。まずはこう名乗った。
「ワーグナー氏の友人です」
「マイスターのですか」
「はい、そうです」
 黒いコートを着てだった。使用人である老女にこう話したのだった。
「その者が来たとお伝え下さい」
「御名前は」
 老女はその名前を尋ねた。
「何と仰るのですか」
「名前ですか」
「はい、貴方のお名前は」
 暗がりの中だ。しかも帽子を深く被っている。王の整った顔は老女には見えなかった。だからこそその名前を問うたのである。
「何と仰いますか」
「ヴァルターです」
 あえてこう名乗った王だった。
「ヴァルターと申します」
「ヴァルターさんですか」
「はい」
 こう名乗ったのであった。
「そう言って頂ければです」
「マイスターもおわかりだというのですね」
「その通りです」
 また老女に述べた。
「では。御願いします」
「わかりました」
 老女も頷いてだった。そのうえで一旦家の入り口の扉から消えた。
 

 

165部分:第十一話 企み深い昼その七


第十一話 企み深い昼その七

 そしてその代わりにだ。ワーグナーが来た。彼は整えた身なりでだ。急いで来てだった。
 彼に対してだ。こう言ったのだった。
「まさか。御自身でとは」
「それはいけませんか?」
「いえ」
 そうではないと答えはした。
「ただ」
「ただ、ですか」
「信じられません」
 あの尊大なまでに自信家のワーグナーがだ。こう言うのであった。
「陛下御自身でとは」
「どうしてもと思いまして」
「どうしてもですか」
「はい、そうです」
 穏やかに微笑んでだ。王はこう述べた。
「だからこそです」
「やはり。あのことで」
「詳しい話は後で」
 少なくともここではというのだった。
「ここでお話するのも何でしょう」
「そうですね」
 ワーグナーもだ。そのことに気付いた。今自分達が家の扉のところにいることをだ。つい忘れてしまっていたのだ。あまりにも驚いてだ。
「それでは」
「はい、それでは」
 こうしてだった。王はワーグナーの屋敷に入った。お供の従者は別室で待たされてだ。彼はワーグナー、そしてコジマと共に応接間に入った。
 そこも香水の香りが漂っている。そしてビロードの絨毯にロココを思わせる壁の絵画、それに紫の花、金と黒のソファー。そこに座ってだった。
 ワーグナーからだ。王に自らコーヒーを差し出しながら述べた。
「あらためてようこそ」
「はい」
 王も応える。それからだった。
 王がだ。こう切り出したのであった。
「私はです」
「はい、陛下は」
「永遠に貴方と共にいることを望みます」
 こうワーグナーに言うのであった。
「それが私の願いです」
「では」
「はい、ミュンヘンに留まって下さい」
 王自らの言葉だった。
「是非共」
「そうしていいのですか」
「是非です」
 言葉も心もぶれていなかった。全く。
「御願いします。これが私の願いです」
「そうですか。陛下は」
「だからこそここにも来たのです」
 微笑み、そして切実さも入った言葉だった。
「この屋敷に。貴方の前に」
「私の前にも」
「その通りです。御願いできますか」
 王はだ。またワーグナーに告げた。
「このミュンヘンに。これからも」
「そして何時までも」
「そうです。それは駄目でしょうか」
「いえ」
 ワーグナーの返答は決まっていた。既にだ。
 そしてその返答をだ。彼はその口で述べた。
「喜んで」
「そう言って頂けるのですね」
「いえ、私はです」
「貴方はですか」
「そうです。陛下と共に」
 彼と共にというのだった。ワーグナーが、今の彼が王の言葉を断る筈がなかった。王なくして今の彼は存在できないからだ。
 さもなければだ。これまでの様にだ。借金取りに追われて放浪する日々に陥る。その辛さは他ならぬ彼自身が最もわかっていることだった。
 だからだ。彼は答えたのだった。
「このミュンヘンに」
「わかりました」
「そしてです」
 ここでだ。ワーグナーはさらに言った。
「今私を悩ませていることですが」
「あの下らない噂ですね」
「全ては事実無根です」
 ワーグナーは言った。嘘をだ。
「何もありません」
「そういえば」
 ここでだった。王はようやくコジマに気付いた。実際に彼は女性に興味はない。しかしここでは気付いたふりもしてみせたのだ。
 

 

166部分:第十一話 企み深い昼その八


第十一話 企み深い昼その八

 そして気付いたふりをしてだ。そのまま続ける王だった。
「そちらの方は」
「はい、ビューロー夫人です」
「リヒト氏のご令嬢でしたね」
「常に私に。よくしてくれます」
 コジマをだ。こう話したのだった。
「素晴しい女性です」
「そうですね。それは私にもわかります」
「ですから。この方との間には」
「何もありませんね」
「はい、ありません」
 ワーグナーはまた嘘を言った。王もだ。その『真実』を受け入れたのだった。
 そのうえでだ。王はこう言った。『真実』を元に。
「わかりました。それでは」
「それではですか」
「私が言いましょう」
 微笑んでだ。こう言ったのだった。
「貴方達は潔白です」
「公に言って頂けるのですか」
「はい、その通りです」
 はっきりとだ。本人に告げた。
「そうさせてもらいます」
「何と、そこまで」
「芸術に。誹謗中傷はあってはなりません」
 これは王の考えそのものだった。
「何があろうともです」
「美しくなければならない」
「はい、だからです」
 己のその考えを見ながら。王はワーグナーに話す。
「だからこそです」
「有り難うございます。それでは」
「そしてです」
 王はここでさらに述べた。
「劇場の件ですが」
「そのことですか」
「やはり築かれるのですね」
 こうワーグナーに問うた。
「我が国に」
「はい、バイエルンに」
 それは間違いないとだ。ワーグナーは今度は真実を話した。
「築かせてもらいます」
「わかりました。それではです」
 王はワーグナーの言葉を受けた。そのうえで、であった。
 あらためてだ。彼にこう告げた。
「資金のことですが」
「そのことは」
「何も心配されることはありません」
 こう告げるのだった。
「貴方はそのことについてはです」
「何もですね」
「そうです。貴方が御気にされるべきか」
 それは何なのか。王は穏やかな声で話していく。
「それは芸術のことだけです」
「そのことだけですね」
「そうです、そのことだけです」
 これが王がワーグナーに告げることだった。
「他には何もありません」
「有り難うございます、そのことも」
「私は最後まで貴方の最も親しい友人なのですから」
 ワーグナーだけでなくだ。自分自身への言葉でもあった。
 その言葉を告げながら。王は考えていた。
 そうしてそのうえでだ。また話した。
「今はいい時ですね」
「夜はですか」
「はい、夜はです」
 その夜についての言葉だった。
「昼は憂いに満ちています」
「この世のあらゆる憂いがですか」
「そうです。しかし夜には」
「そういったものは何もないと」
「人々、噂を話す人々が全て眠り」
 王はそうした人間達への嫌悪も見せていた。
「この世のあらゆるものが眠ります」
「しかし起きているものは」
「トリスタンとイゾルデです」
 あのオペラの主人公達の名前をだ。ここでも出したのであった。
 

 

167部分:第十一話 企み深い昼その九


第十一話 企み深い昼その九

「彼等だけです」
「そして陛下もですね」
「そうです。私も夜の世界にいたいのです」
 またしても遠くを見る目になってだ。述べたのであった。
「月の光の下に」
「ですが陛下、それは」
「なりませんか」
「陛下は。日輪です」
 それだというのだ。王はだ。
「御自身が眩きを発せられているのですから」
「だから夜にはいられないと」
「夜の光と昼の光は違います」
 ワーグナーは今は心から気遣う目になっていた。その目で王に対して語るのだった。
「貴方は夜におられるべきでなく」
「昼の世界にですか」
「はい、それが王というものです」
 こう王に話すのだった。
「ですから。それは」
「そうですか」
 ワーグナーのその言葉にだ。王は暗い目になった。
 だがそれでもだ。こう言うのであった。
「貴方がおられれば」
「私がですか」
「はい。昼の世界にもいられるでしょう」
 これが王の言葉だった。
「あの企み深い昼の世界にも」
「トリスタンですね」
「そうです。トリスタンです」
 今はだ。トリスタンにも感情移入する王だった。少なくとも彼はそう思っていた。己はトリスタンである、そう思っていたのだった。
「私は彼にも想いを馳せます」
「そうなのですか」
「しかし私は昼の世界にいるべきですね」
「その通りです」
 ワーグナーはまた王に告げた。
「そうあるべきです」
「左様ですか」
「はい、私はそう思います」
「わかりました」
 王はワーグナーのその言葉に頷いた。そうしてそれを最後にしてだ。
 ワーグナーの屋敷を後にした。そのうえで従者と共に王宮に帰った。
 屋敷に残ったワーグナーはだ。コジマに対してだ。王が残した香りの中でだ。こう言ったのだった。
「ああ仰っていてもだ」
「何かあるのですか?」
「陛下は。夜に入られるだろう」
 こうコジマに話すのだった。
「あの方はな」
「あなたが止められてもですか」
「そうだ。あの方が昼におられるべきなのは確かだ」
 それはだというのだった。
「しかし。夜の世界にだ」
「入られようとしているのですか」
「昼の世界の。人々の声に傷つけられている」
 あまりにも繊細が故に。そうなっているというのだ。
「その為にだ」
「夜の世界にですか」
「私以外に。誰かがあの方を理解し導けば」
 どうなるかと。ワーグナーはそのことも話す。
「昼の世界に留まれるだろうが」
「そうでなければ」
「イゾルデになる」
 ワーグナーは顔をあげた。そのうえでの今の言葉だった。
「そうなられる」
「トリスタンではなくですね」
「やはりあの方はトリスタンではない」
 無論ローエングリンでなくともいうのだった。
「イゾルデなのだ」
「その夜の中に入りそして」
「いずれはな」
「そうならない為にはですね」
「私が必要と考えておられる。しかし」
 それでもだと。彼はまた話した。
「それは」
「若しかしたらですか」
「私は負けはしない」
 ワーグナーはその言葉に怒りも滲ませていた。
「誹謗中傷にはだ」
「そうですね。絶対に」
「あの者達は何なのだ」
 あくまで自己中心的にだ。彼は考えていた。
 

 

168部分:第十一話 企み深い昼その十


第十一話 企み深い昼その十

 そうして己を中心に置いたままだ。彼は話していくのであった。
「私の邪魔をし中傷をする」
「絶対に許せませんか」
「そうだ、誹謗中傷にはだ」
 熱くなるあまりだった。彼はここで過ちに至った。
 ある彼を攻撃する記事を読んでであった。彼はすぐにであった。
 その記事に対して攻撃の文章を書いた。しかしそれは。
 その記事を載せた新聞紙に書きしかも匿名だった。それを読んでだ。
 多くのものはだ。すぐにわかってこう言った。
「これを書いたのは本人だな」
「ああ、ワーグナー本人だ」
「こんな感情的な記事を書くのはな」
「本人しかいないぞ」
「完全な擁護の文章じゃないか」
「自分で書いてどうするんだ」
 多くの者がこれに呆れた。そしてだった。
 ワーグナーの品性や人間性にだ。かなりの疑問を覚えたのだった。
 そしてこれが火に油を注ぐ結果になってだ。事態はさらに悪化した。
 王もそれを見てだ。そうしてであった。
 己の傍でピアノを弾くビューローにだ。こう言うのであった。
「あの記事だが」
「あの新聞紙のですか」
「そうだ、あの記事だ」
 憂いのある顔でソファーに座りながらの言葉だった。
「あの記事は駄目だった」
「あの記事は」
「誰が書いたかは知らない」
 今はこう言うだけだった。
「だが。それでもだ」
「それでもですか」
「そうだ。あの記事はワーグナーを追い詰めてしまっている」
 あえて誰が書いたかは話さずにだ。こうビューローに話すのだった。
「逆効果だった」
「ですがあの記事は」
 ビューローも誰が書いたのかは知っている。しかしであった。
 誰が書いたのかは言わずにだ。あえて真実を隠して王に話すのだった。
 何時しかピアノは止まっている。そのうえで王と話すのだった。
「マイスターの為に」
「よかれと思ってしたことでもだ」
 王はこのことがだ。今わかってきたのだった。
「それがかえってな」
「悪い結果をもたらす時もあるのですか」
「そうだ。今がそれなのだ」
 こうビューローに話した。目を伏せさせて。
「あの記事は。最早」
「最早ですか」
「取り返しのつかないことになってしまった」
 その目での言葉だった。
「全ては」
「ではマイスターは」
「いや、それでもだ」
 ここでだ。王は言った。
「私は彼が必要だ」
「それではこれからも」
「この街にいてもらう」
 これが王の考えだった。
「何があろうともだ」
「左様ですか」
「無論卿もだ」
 ビューローに対してもだった。
「この街にいてもらう」
「有り難うございます」
「せめて。これ位はいいのではないのか」
「これ位は、ですか」
「私はワーグナーと共にいたいのだ」
 これが彼の望みなのであった。彼にとってはかけがえのない望みである。
「それだけなのだ」
「その為にですね」
「あの記事については。私が何とかしよう」
 まだそのつもりだった。王は。
「絶対にな」
「有り難うございます」
「あの記事を書いた者が誰かは知らない」
 あえてだ。そこはぼやしての言葉だった。
「しかしもう二度とだ」
「書かれないことをですね」
「それを望む。自重してもらいたい」
 ビューローにだ。話していく。そのワーグナーの弟子にだ。
 

 

169部分:第十一話 企み深い昼その十一


第十一話 企み深い昼その十一

「私が望むのはそのことだ」
「わかりました」
 ビューローも静かに頷く。そうしてだった。
 王はワーグナーと会い続けた。ミュンヘンから離れてもだ。彼と会う。そうしていた。
 保養地の別荘でだ。花火を見ながら王はワーグナーに話した。
「火薬は何の為にあるのか」
「それは戦いの為ではないのですね」
「こうして。美しいものを生み出す為にあるのです」
 こう話すのだった。
「それはです」
「はい、その通りです」
 ワーグナーもだ。王に対してその考えを述べた。
「あらゆるものはまず美の為に」
「そうですね。科学もまた」
 近頃話題になっているその新しい技術についても言及が為された。
「それは同じですね」
「戦争の為ではなく」
「オーストリアとプロイセンの対立もありますが」
 このことはだ。ここで止めたのだった。あくまで政治的な話でありだ。芸術家であるワーグナーに話すのはまたいらぬ火種になると判断してだ。
「とにかく戦争はです」
「技術を使う為のものではありませんか」
「はい、それが私の考えです」
 こう述べるのであった。
「あくまで。それはです」
「芸術の為にあるものだと」
「私はそれを実行したいのです」
 花火の赤や青の輝きを見ながらだった。その夜空の大輪を見つつ。
「貴方の舞台も。それが必要とあらば」
「御力をお貸しして頂けるのですか」
「助けられる者が助けずして」
 王はここでは熱さが戻っていた。
「どうするというのでしょうか」
「そう言って頂けますか」
「言葉だけではありません」
 王はそれだけで済ませるつもりはなかった。それも確かなことだった。
 それでだ。彼はあらためてこんなことも言った。
「私は。今もです」
「今もですか」
「はい、今もです」
 ワーグナーに対する時の熱を帯びた口調をそのままにしてであった。彼は目の前にいるその彼だけが潔白という音楽家に対して言うのだった。
「私は公に言いましょう」
「公にとは」
「貴方は潔白です」
 それをだ。言うというのである。
「王である私が貴方の潔白を証明すればです」
「それで口さがない者達は」
「はい。言葉を失うでしょう」
 少なくともだ。表向きにはというのである。
「ですから。そうさせてもらいましょう」
「有り難うございます」
 そしてだった。ワーグナーはその申し出を断らなかった。
 それどころかだ。進んで受けるのだった。そうしてであった。
 王にだ。満面の笑顔でこう述べた。
「陛下がそうして下さればです」
「周囲もですね」
「はい、静かになります」
 こう話すのだった。
「有り難いことです」
「悪質な噂なぞあってはならないものです」
 これは確信であった。
「それは人の心を蝕み腐らせていきます」
「その通りです。噂とは忌まわしいものです」
「はい、その通りです」
「ですから」
 こう話してであった。ワーグナーはまた言った。
「そのあってはならない噂を陛下が打ち消して下さる」
「そうさせてもらいます」
「私にとって最高の贈りものです」
「それだけではありません」
 王は微笑んでだ。またワーグナーに話した。
 

 

170部分:第十一話 企み深い昼その十二


第十一話 企み深い昼その十二

「あの劇場のこともです」
「私が考えている。私の作品の為の劇場は」
「費用はお任せ下さい」
 そのことについても言うのであった。
「全て。御心配なく」
「そうですか。費用もですか」
「芸術の為にその費用がどれだけかかろうがです」
「それも構いませんか」
「戦争に使うより遥かにいいです」
 密かにだ。プロイセンに対する反発も見せていた。
「ですから」
「戦争ですか」
「はい、それよりもです」
 また言う王だった。
「遥かにです」
「確かに。その通りです」
 ワーグナーもだ。王のその言葉に本心から頷いた。そうしてであった。
 彼は王に対してだ。さらに言うのであった。
「偉大なるドイツの芸術は不滅です」
「そうです。ハンス=ザックスが言うように」
 そのワーグナーのオペラの主人公の言葉である。
「ドイツの芸術は不滅のものになります」
「その為にはですね」
「費用なぞ何の意味があるのでしょうか」
 王はその熱い声で語っていく。
「その不滅のものにです」
「そうです。ですから」
「費用のことはお気遣いなく」
 こう話すのであった。王のワーグナーへの熱は存在し続けていた。そしてであった。
 王はミュンヘンに戻るとすぐにワーグナーに関する一連の醜聞を否定した。そしてそこにはだ。王自身の名前まで存在していた。
 それを受けてある程度の沈黙が戻った。しかしであった。
 王のその言葉をだ。誰もが信じなかった。
 表向きには沈黙した。しかしであった。
「そんな筈がないだろう」
「あの男は山師だ」
「芸術はどうか知らないがな」
 それがわからない者もいた。しかしであった。
 その人間性や行動についてだ。さらに話されるのだった。
「あの男は下衆だ」
「浪費家だ」
「弟子の妻に手を出す様な男だ」
「しかも図々しいにも程がある」
「態度も尊大だ」
「とんでもない奴ではないか」
 彼の芸術とは別の話だからだ。それは止まなかった。
 王は彼の芸術を見て動いていた。しかし彼等は彼の人間性や行動を見ていた。その二つの相違がだ。問題をこじれさせてしまっていた。
 その為にだ。彼等は話すのであった。
「あの様な男をこれ以上置いておけるか」
「陛下の御傍だけではないぞ」
「ミュンヘンにもだ」
「いや、バイエルン自体にだ」
「置いてはおけない」
「最早これ以上は」
 こうしてだった。ワーグナーへの反感はさらに高まった。王の公においての彼の潔白の証明はただ表向きに止めただけになってしまった。
 そしてそのうえでだ。ミュンヘンはさらにであった。
 ワーグナー排斥の動きが高まりだ。どうしようもなくなってしまった。
 それでだ。遂にであった。
 首相がだ。満足した面持ちで男爵と総監に話していた。彼のこれからの動きをだ。
「いよいよです」
「いよいよですね」
「陛下に」
「はい、御決断を御願いします」
 その満足した顔での言葉であった。
「ワーグナー氏に対してです」
「既に移って頂く先は決めていますね」
「それは」
「はい、スイスです」
 その国だというのである。
 

 

171部分:第十一話 企み深い昼その十三


第十一話 企み深い昼その十三

「あの国にです」
「いいですね。あの国ならばです」
「彼も落ち着くでしょう」
 二人はいささか悪意を含ませた笑みで述べた。
「いえいえ、落ち着いてもらうのです」
「おっと、そうでしたな」
 総監は男爵のその悪意のある笑みに同じ笑みで応えた。
「バイエルンではなくミュンヘンに落ち着いてもらわなければ」
「あの国で、ですな」
「そういうことですので」
「わかりました」
 総監はその笑みで男爵の言葉に応える。そしてであった。
 総監がだ。あらためて二人の同志に話した。
「我等の苦労が報われましたな」
「まことにです。中々苦労しました」
「しかし。それがようやくです」
「実を結びました」
「そしてです」
 ワーグナーがだ、どうなるかであった。
「あの御仁は音楽にだけ専念します」
「芸術にですね」
「芸術家は芸術に専念するもの」
「それが正しいあり方なのですから」
「それでは」
 こうしてであった。彼等はその動きを実際に取った。王のところにだ。首相が来て言うのであった。
「最早。こうなっては」
「しかしそれは」
 王は玉座においてだ。その顔に戸惑いを見せて言った。
「避けられないのか」
「臣民達の憤りは頂点に達しています」
 首相は王の前であえてきつい言葉を出してみせた。
「それを抑えるにはです」
「ワーグナーをこの街からか」
「はい、バイエルンからです」
 ミュンヘンどころではなかった。この国自体からだというのだ。
「立ち去ってもらわないといけません」
「そうでないと騒ぎは収まらないか」
「ローラ=モンテスのことを思い出して下さい」
 首相はここでこの女の名前を出した。これも計算のうちである。
「あの時はです」
「御爺様か」
 王の顔に忌まわしいものが宿った。
「あの方が退位された」
「そうです。このままではです」
「私もまた御爺様と同じように」
「それだけは避けなくてはなりません」
 これは首相の本意であった。彼にしても王の退位は絶対に避けなくてはならなかった。これは王への忠誠心だけの問題ではなかった。
 真剣に危惧する顔でだ。彼は王に話すのだった。
「さもなければ次の王に」
「オットーか」
「はい、あの方が王になられます」
 こう王に話した。
「それは」
「オットーは。どうしてなのだ」
 弟の名前をだ。出すとそれだけで王の顔がこれ以上になく曇った。
「あれもまた」
「陛下、それは」
「ヴィッテルスバッハの血か」
 王は己の一族の血について言及した。
「長年の我等の血は。濁ってきているのか」
「・・・・・・・・・」
 首相は俯いてしまった。そのことについては何も言えなかった。暗い顔になってだ。ただ王の言葉を聞くだけになってしまっていた。
「よくはならないのか」
「周りも懸命に治療していますが」
「それでもか」
「はい、それでもです」
 首相はようやくといった感じで述べた。
「悪化する一方です」
「そうか」
「陛下、ですから」
 首相はあらためて王に上奏した。
 

 

172部分:第十一話 企み深い昼その十四


第十一話 企み深い昼その十四

「御決断を」
「王は全てを決めるもの」
 王は首相の切実な顔に曇った顔で応えた。
「己のこともか」
「バイエルンのこともです」
「そうなのだな」
「ですから。ここは」
「わかった」
 遂にだ。王は言った。
 そうしてそのうえでだ。首相に対して告げたのであった。
「それでは。その様にする」
「わかりました」
 こうしてであった。ワーグナーの処遇が決まった。しかしなのだった。
 それをベルリンで聞いたビスマルクはだ。嘆息してこう言った。
「仕方ないとはいえ残念な話だな」
「ワーグナー氏のことですか」
「そのことですか」
「そうだ、それだ」
 まさにそれだというのであった。側近達に話す。
「あの方には彼が必要なのだ」
「ですがそれはミュンヘン市民には」
「そしてバイエルン人にとっては」
「我慢できなかったな。特にあの方の周りの者達には」
「はい、そうです」
「ですからああなりました」
 側近達もこうビスマルクに話した。
「財政への負担、それに醜聞」
「それでは我慢する方がです」
「無理ではないかと」
「財政への負担なぞ些細なものだ」
 ビスマルクは現実からそのことについて述べた。
「軍隊や戦争にかけるものと比べるとだ。些細なものだ」
「芸術への費用も、ワーグナー氏個人への援助もですか」
「些細なものだというのですか」
「そうだ。些細なものだ」
 ビスマルクはまた言ってみせた。
「ほんの些細なものに過ぎない」
「しかしそれが誇大に宣伝された」
「そういうことですか」
「そうなる」
 バイエルン王とだ。同じ見方にそれを加えたのだった。
「そして醜聞なぞだ」
「それも些細なことですか」
「そうなのですか」
「醜聞なぞ何処にでもある」
 このことについてはだ。ビスマルクは財政への負担よりさらに素っ気無く述べた。本当に何でもないといった口調でだ。側近達に話したのだった。
「それこそ。何処にでもな」
「言ってしまえば確かに」
「そういう話はですね」
「街中に入れば普通に」
「どんな小さな村にもある」
 ビスマルクはさらに言った。
「そうしたものだ」
「では。些細なことですか」
「ワーグナー氏の醜聞も」
「醜聞のない人間なぞいない」
 ビスマルクは今度は個人について話した。場所と合わせてだ。
「大なり小なりだ」
「誰でも持っている」
「そういうものですか」
「確かにワーグナー氏のそれは眉を顰めるものだ」
 ワーグナーの醜聞がそういった類のものなのは認めるのだった。このことはビスマルクも否定はしない。しかしそれでもだというのだ。
「だが。それでもだ」
「そうしたことは普通にありますか」
「世の中には」
「そうだというのですか」
「それだけに騒ぎやすい」
 達観した目でだ。ビスマルクは話した。
「そういうものに過ぎない」
「ではバイエルンでもですか」
「その辺りにある醜聞を騒いでいる」
「そういう類のものでありますか」
「あの騒ぎは」
「そうだ。騒ごうと思えば幾らでも騒げる」
 ビスマルクはまた言った。
 

 

173部分:第十一話 企み深い昼その十五


第十一話 企み深い昼その十五

「バイエルンの者達はそれに踊らされているのだ」
「踊らされてそうして騒ぎ」
「そのうえで、ですか」
「あの芸術家を追い出した」
「そうだと」
「そしてそれがだ」
 ビスマルクの目がだ。ふと悲しいものになった。そのうえでの言葉だった。
「あの方をいたく傷つけてしまった」
「バイエルン王をですか」
「あの方といいますと」
「そうだ。あの方はあまりにも純粋だ」
 ここでだ。ビスマルクは王について親身になって話をはじめた。ここでも彼の王に対する深い敬慕の念は変わらない。それはなのだった。
「そして繊細なのだ」
「純粋で繊細」
「そうした方ですか」
「それだけにこれまでの一連の動きがあの方を傷つけてしまっていた」
 その一連の騒動だけでもだというのだ。
「そしてだ」
「そしてですか」
「今回の追放ですね」
「それが決定打になってしまった」
「そうだと」
「その通りだ。あの方にはあの芸術家が必要なのだ」
 言葉は現在形だった。今もだというのだ。
「だが。それが適わなくなった」
「あの方の御心は傷つけられ」
「そしてそれは癒されない」
「そうした状況なのですか」
「最悪の結果だ」
 ビスマルクは苦々しい声で言った。
「あの方にとって」
「一体どうなるのでしょうか、それで」
「あの方は」
「そしてバイエルンは」
「どうなってしまうでしょうか」
「わからない。だが」
 ビスマルクは顔をあげた。そのうえで遠くを見る目でだ。こう言うのだった。
「私ならああなってしまえばだ」
「ああなってしまえばですか」
「どうなりますか」
「閣下ならば」
「世が嫌になる」
 そうだというのであった。
「全てな。嫌になる」
「嫌にですか」
「なりますか」
「あの方なら余計にだ」
 ビスマルクは王に感情を移入させた。そうして王の立場としてだ。あらためて話すのだった。
「全てが嫌になりそれでもあの芸術家を求められるだろう」
「傍にいなくともですか」
「それでもですか」
「そうだ、世に悲しみを感じそのうえであの芸術家を求める」
 それが王だというのだ。
「最悪の結果だ。バイエルンはあの方をわかっていない」
「バイエルンの者達がですか」
「誰もなのですか」
「あの方を」
「それがどうなるかだ」
 問題はそれだというのだ。
「私にもわからない。だが祈る」
「あの方に対して」
「祈られますか」
「そうだ、願わくばあの方の憂いが少しでも消えることをだ」
 祈り願うのはそのことだった。
「そして私はその為にはできる限りのことをしたい」
「それはプロイセンとしてですか?」
「プロイセン首相としてのお言葉でしょうか」
「今のお言葉は」
「そう捉えてもらっても結構だ」
 いいとだ。ビスマルクは返した。
「あの方は。今だけでなく」
「今だけでなくですか」
「そうだ。未来においてもドイツの宝になられる方だ」
 そこまでの人物だというのだ。バイエルン王はだ。
 

 

174部分:第十一話 企み深い昼その十六


第十一話 企み深い昼その十六

「だからだ。私はあの方の力になる」
「そうされますか」
「プロイセンとしても」
「プロテスタントもカトリックもここでは問題にならない」
 プロイセンはプロテスタントの国だ。それに対してバイエルンはカトリックである。その宗教的な対立もドイツ統一にとって問題になっているのだ。
 ドイツの宗教対立、欧州全体に言えることだがそれはそのまま深刻な問題になってしまっている。ユグノー戦争や三十年戦争の頃から変わらないことだ。血生臭い宗教戦争にこそならないがだ。それでもなのだ。
 だがそれはだ。このことには問題にならないというのだ。
「あの方は至宝なのだからな」
「ドイツのですね」
「そこまでの方だからこそ」
「傷つけてはならなかったのだ」
 言葉は過去形になっていた。
「決してな」
「しかしバイエルンの者達はそれをしてしまった」
「遂に」
「彼等もあの方を思ってのことなのだろう」
 ビスマルクはそれはいいとした。
「だが」
「だが、ですか」
「それでもですか」
「世の中というものは複雑だ」
 ビスマルクはここではその世の中を知る者として話した。
「善意だけで結果がよくなるものではない」
「善意だけではですか」
「それだけではなのですか」
「そうだ、善意だけでよくなればどれだけいいものか」
 こう話すのだった。その言葉には哲学の色が入っていた。
「だが。そうはならない」
「だからですか」
「今のバイエルンはですか」
「その結果は」
「よいものにはならない」
 それはわかるのだった。ビスマルクにはだ。
 そしてだ。そのよくならないものとは何か。彼はそのことも話した。
「あの方にとっては」
「残念なことですね、非常に」
「ドイツにとって」
「確かにプロイセンとバイエルンは対立することが多い」
 北と南、東と西、そしてカトリックとプロテスタント。両国の間柄は決して順調にいくものではない。しかしそれでもだと。ビスマルクは思うのだった。
「だがあの方はそれでもだ」
「ドイツの宝だからこそ」
「それが傷つけられるのは」
「残念な話だ。至宝は今傷つけられた」
 彼はこう言った。
「そしてその傷は。癒すことが困難だろう」
 王の行く末を真剣に案じるのだった。辛辣な彼にしてみてもだ。王がワーグナーと別れたことは悲しいことだった。王のことを思えばこそ。


第十一話   完


               2011・2・18
 

 

175部分:第十二話 朝まだきにその一


第十二話 朝まだきにその一

                 第十二話  朝まだきに
 王がワーグナーと別れざるを得なくなったという話をだ。オーストリア皇后エリザベートは旅先で知った。彼女はこの時代も旅をしていたのだ。
 そしてそれを聞いてだ。悲しい顔でこう従者に漏らした。
「これであの方は変わってしまわれます」
「バイエルン王がですか」
「はい。この世を厭われるようになるでしょう」
 こうだ。従者に対して漏らす。
「全ては悪い結果になるでしょう」
「ですが陛下」
「彼はです」
「あのワーグナーという者は」
 従者達は眉を顰めさせてだ。皇后に対して言った。
「浪費家でしかも女癖が悪く」
「そうしたことを考えればです」
「やはり。ああなったことは」
「自業自得では?」
「そうです」
 彼等は常識から考えて話す。彼等が見ている常識からだ。
「バイエルンの者達の怒りも当然です」
「ましてや。王の御傍にいるとなると」
「誰もが遠ざけようと思うでしょう」
「ですから当然です」
 こう皇后に話していく。しかしであった。
 皇后はだ。その彼等に対してだ。澄んだ、それでいて悲しさをたたえた瞳でだ。告げたのであった。
「確かにワーグナーという人物に問題はあります」
「それも非常にです」
「到底放置できないまでに」
「しかし。あの方が見ていたものは違うのです」
 言うのはこのことだった。
「芸術だったのです」
「ワーグナー氏のですか?」
「それだというのですか」
「芸術だと」
「そうです。あの方は芸術に魅せられそれから離れることはできなくなっています」
 それがバイエルン王だというのだ。そしてだった。
「あの白鳥の騎士からも」
「ローエングリンですか」
「あのオペラですか」
「そうです。ワーグナー氏のそのオペラです」
 まさにそれだというのであった。ローエングリンだと。
「それを生み出したワーグナー氏が傍にいなければ」
「駄目なのですか」
「そうだというのですか」
「しかしそれでは」
「そうです。まるで」
 従者達は皇后の言葉から察した。王が抱いているその心は何かとだ。
「恋では?」
「それではないのですか?」
「ワーグナー氏に対する」
「ワーグナー氏ではなくです」
 それは違うとだ。皇后は否定した。
「芸術に対して。あの騎士に対して」
「恋をしている」
「そうなのですか」
「それにあの方は気付いていません」
 自分でもだ。それはないというのだ。
 だがそれでもだった。皇后は話していく。
 その遠くを見る目は同じだった。王とだ。その同じ目でだ。彼女は今話していくのだった。王を、同じものを持っている相手をだ。
 王はだ。さらにであった。
「御自身が想う相手は誰なのか。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「御自身のことも」
 王自身もだというのだ。それもわかっていないというのだ。
 さらにだ。皇后は見る。さらにだった。
「ワーグナー氏の芸術が傍にありたいと思っていたがそれは適えられなくなった」
「大変なことになりますか」
「それが」
「それを避けるのは難しいです」
 見ているものを。そのまま話す。
「最早」
「左様ですか」
「バイエルンは選択を誤りましたか」
「では」
「はい、願わくば」
 皇后の声が悲しいものになっていた。そのうえでの言葉だった。
 

 

176部分:第十二話 朝まだきにその二


第十二話 朝まだきにその二

「あの方にも」
「陛下にも」
「祈られるのですか」
「そうしたいと思います。神よ、願わくば」
 切実な顔でだ。皇后は言うのだった。
「あの方に御加護を」
 ヴィッテルスバッハの血以上にだった。そこには王への愛情があった。年下の従弟、互いに分かり合える者への。その愛情であった。
 ワーグナーはだ。バイエルンを出る時はだ。酷く憔悴していた。
 その憔悴はだ。誰が見ても唖然とするものだった。
 見送る支持者達がだ。こう囁き合う。
「まるで死ぬ様だな」
「あそこまで落胆した氏を見るのははじめてだ」
「これまで多くのことがあった方なのに」
「ここまで落胆されたことは」
「なかった」
 こう言うのであった。多くの者がだ。
「死にはしないだろうか」
「強い方だが」
 俗にはしたたかと言われている。こちらの方が正しいであろうか。
「しかし。それでもな」
「今回ばかりは」
「立ち直られるだろうか」
「果たして」
 こう思う程だった。しかしであった。
 ワーグナーは確かにしたたかであった。そのしたたかさは尋常なものではない。そしてそのしたたかさをだ。ここでも発揮した。
 彼は見送りに来ていたビューローとコジマにだ。こう囁いた。
「全ては首相達の陰謀の結果だ」
「陛下はですか」
「悪くはないと」
「あの方はあくまで私を想ってくれている」
 それはだ。見抜いていた。そしてであった。
「私はだ」
「マイスターは」
「どうされますか、これから」
 二人、今では形だけの夫婦の二人が師、若しくは本当の夫に問う。
「どうか御気をです」
「確かに」
「安心するのだ。スイスに着いたならだ」
 その流刑先に着いたらというのであった。
「マイスタージンガーを完成させる」
「あの作品をですか」
「遂に」
「そしてだ」
 その作品だけではなかった。他にもだというのだ。
「指輪も完成させよう」
 この作品もだというのである。
「あれもな。いよいよな」
「そうですね。あの作品もようやくです」
 ビューローが言う。
「この世に出されようとしています」
「かつては諦めていたが夢が適う」
 指輪を完成させるということである。
「私はスイスでそれを完成させる。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「あの方御自身を描きたい」
 絵画に例えた言葉であった。
 そのうえでだ。彼は意気消沈しながらもだ。別れるその人物の顔を思い浮かべながらだ。そのうえでビューローとコジマに話した。
「あの方をな」
「陛下をですか」
「あの方をオペラに」
「そうする。聖なる愚者だ」
 ワーグナーはこう言った。
「パルジファルだ」
「聖杯城の主」
「あの方はそれなのですか」
「あの方はそうだ」
 王はだ。この世の王ではないというのである。
 

 

177部分:第十二話 朝まだきにその三


第十二話 朝まだきにその三

「パルジファルなのだ」
「だからこそあの方をですか」
「オペラにされる」
「聖杯城に王にされる」
「そうされますか」
「そうだ。パルジファルも作る」
 ワーグナーは王を見ながら話していく。その目にだ。
「そうする。あの地でな」
「わかりました。それでは」
「私達もまた」
 二人はこう言ってだ。ワーグナーを見送ったのだった。彼は確かに落胆していた。しかしその心は前に進んでいた。彼はだった。
 だが王はだ。ワーグナーがいなくなりだ。明らかに意気消沈してだ。暗い顔で日々を送っていた。
 宮廷においてもだ。彼は暗鬱な顔でこう言うのであった。
「何もかもが嫌になる」
 こう一人呟くのだった。
「何も見たくないし何もしたくはない」
「陛下、ですが」
「それは」
「わかっている。王としての職務はだ」
 そのことはだ。忘れていなかった。まだ。
「果たす」
「はい、プロイセンですが」
 政治の話になった。外交である。
「シュレスヴィヒ、ホルシュタイン問題においてです」
「オーストリアと話し合いに入っているか」
「戦いは避けられるかも知れません」
「いや、それはない」
 王は静かに否定の言葉を出した。
「プロイセンは必ず戦うだろう」
「必ずですか」
「そうだ。何としてもだ」
 こう言うのであった。
「ビスマルク卿はそうされる」
「では今回の動きは」
「罠だ」
 言った。一言でだ。
「間違いなくだ。罠だ」
「オーストリアに対しての」
「既に周辺の状況は整ってきている」
 王には見えていた。今の欧州全体の状況が。
「オーストリアは孤立し二国だけの状況となっている」
「オーストリアとプロイセン」
「この二国だけとなった」
「では。後はですか」
「戦いですか」
「それだけですか」
「全ては計算の中にあるのだ」
 王はだ。そう話すのだった。
「ビスマルク卿のな」
「あの方のですか」
「プロイセンの」
「あの方が全てですか」
「考えてそうしてですか」
「あの方が目指されるのは統一したドイツだ」
 こう話す。王はビスマルクが何を目指しているのかわかっていた。
 そしてだ。さらに話すのだった。
「それを誕生させることだ」
「プロイセン主導のドイツですね」
「小ドイツ主義による」
「それをですね」
「その為にプロイセンがどうしてもしなければならないことがある」
 王は述べた。さらにだった。
「ドイツの経済的な統合とだ」
「関税同盟ですね」
「あの」
「政治的な統合と経済的な統合は不可分だ」 
 王は既にそのこともわかっていた。国家の統合は言えばそれでできるのではない。経済的な統合もまただ。必要だということがだ。
 

 

178部分:第十二話 朝まだきにその四


第十二話 朝まだきにその四

 それを言ってだ。王はまた話した。
「それは今進められている」
「そしてですか」
「戦争ですか」
「それなのですね」
「プロイセンが戦う国は二つだ」
 王はその二つの国についても述べた。
「一つはオーストリアだ」
「そのオーストリアですか」
「その国とですね」
「戦う」
「今ですね」
「そうだ、だからこそあの方はオーストリアと戦争をされるのだ」
 ビスマルクについての敬意は言葉になっても出ていた。これは相手であるビスマルクも同じだ。彼にしても王に敬意を持っている。それを言葉に出すのも御互いなのだ。
「そうなのだ」
「必要だから戦争をする」
「そういうことですか」
「ドイツ統一に必要だから」
「それでなのですか」
 彼等もだ。何故ビスマルクが戦争をしたがるかわった。それは決して戦争が好きだからではないのだ。
「統一に必要だからこそ」
「それで戦争をする」
「あの方は戦争が好きではなかったのですね」
「別に」
「それはわかっておくといい」
 王は話す。
「あの方は政治として戦争をされるのだ」
「戦争は政治ですか」
「クラウセヴィッツですね、まさに」
「それですね」
 こう話すのだった。
「プロイセンは戦争をする」
「あの方も」
「そうですか」
「その通りだ。まずはオーストリアと戦う」
 こう話す。
「そしてだ」
「もう一つですか」
「プロイセンが統一の為に戦う国はありますか」
「そうなのですか」
「そうだ、ある」
 オーストリアだけではないとだ。王はそのこともわかっていた。
「その国はだ」
「何処ですか、その国は」
「ロシアですか」
「それともイタリアですか」
 周りはそういった国を挙げていく。何処もドイツを囲んでいる国だ。
「何処でしょうか」
「一体」
「フランスだ」
 王は曇った顔で話した。
「あの国だ」
「フランスですか」
「それでは神聖ローマの頃と同じですね」
「そうですね」
「そうだ、同じだ」
 王はその通りだと話した。そうだとだ。
「それは変わらない」
「ドイツとフランスの対立はですね」
「その構図は欧州において普遍なのですね」
「ハプスブルクとヴァロアからだった」
 両家がそれぞれドイツとフランスの主だった頃からなのだ。両国は何かというといがみ合ってきた。それが欧州の一つの対立軸なのだ。
「フランスはドイツが強くなれば必ず介入してくる」
「若しくは強くなる前にですか」
「その前にもですか」
「介入する可能性がある」
「そうですか」
「それを防ぐ為にだ」
 王は遠い、だが確かな目で話す。
 

 

179部分:第十二話 朝まだきにその五


第十二話 朝まだきにその五

「プロイセンはフランスとも戦う」
「必要だからこそ」
「だからこそですか」
「フランスとも戦う」
「そうするのですか」
「戦争はその二つだ」
 ビスマルクが考えている戦争はだ。オーストリアとフランス、その両国とだというのだ。これもまた政治的な理由からだというのである。
「だが。それは」
「それは」
「それはといいますと」
 周囲は王の顔が曇ったことに気付いた。
 それでだ。その王に対して問うた。
「バイエルンの取るべき道はですか」
「それを御考えなのですね」
「それはもう決まっている」
 全てを達観した、そうした言葉だった。
「プロイセンは今は好戦的だ」
「好戦的だと」
「そう言われますか」
「あくまで今は、だがな」
 言葉は限定だったがそれでも断定であった。
「やはり好戦的だ」
「ではそのプロイセンとは」
「どうされますか」
「距離を置く。私はオーストリアの方がいい」
 こうだ。醒めた声で述べた。
「好戦的なプロイセンよりはだ」
「ではやはりですか」
「オーストリアにつかれますか」
「そしてですね」
「軍の総司令官になられますか」
「オーストリアが望んでいる」
 それにというのであった。
「なられるのですね」
「そうされますか」
「いや」
 だが、だった。そのことにはだ。王は顔を曇らせて答えた。
 そしてだ。彼は話した。
「私は戦いは好まない」
「あの、ですが」
「バイエルン王としてはです」
「司令官に就任されないと」
「とても」
「しかし私は好きではない」
 それは変わらないと。王の言葉は強いものになった。
 そしてだ。その醒めながらも強い言葉でまた述べたのだった。
「戦い自体をだ」
「だからですか」
「司令官には就任されない」
「それが理由ですか」
「陛下、それは」
 それについてはとだ。誰もが言葉を曇らせる。
 そのうえでだった。彼等は王に対して述べるのだった。
「オーストリアに示しがつきません」
「そして我が国の信頼にも関わります」
「そんなことをされては」
「オーストリアからも各国からもです」
「よく思われませんが」
「だが、だ」
 それでもだというのであった。王はだ。
「私はそれでもだ」
「就任はされせんか」
「断られるのですか」
「やはり」
「そうだ、それはない」
 また言ったのだった。彼はだ。
「決してだ」
「左様ですか」
「司令官にはなられませんか」
「それは絶対になのですか」
「御心は変わりませんか」
「そうだ、変わらない」
 やはりまた言うのであった。
 

 

180部分:第十二話 朝まだきにその六


第十二話 朝まだきにその六

「それにだ。このことがだ」
「このことが」
「どうなるのですか」
「我が国の信頼を損ねますが」
「それは間違いありません」
「今はそうだろう」
 また、だ。王の言葉にあるその醒めたものが強くなった。
「だが。やがては」
「やがてはですか?」
「変わると」
「そう仰るのでしょうか」
「この戦いは必ず起こる」
 王はこのことも確信していた。絶対だというのだ。
「だが、だ」
「だがですか」
「それでは一体」
「どうだというのですか」
「多くの言葉とは違いだ。すぐに終わる」
 その戦争がどうなるかもだ。話すのだった。
「その時にわかる。何もかもがな」
「オーストリアが勝たれればです」
 侍従の一人が危惧する声で述べた。
「その時は誰もが陛下を蔑まれます」
「そうです。そうなればです」
「間違いなくそうなります」
 他の侍従達も話していく。その通りだとだ。
「ですがそれでもですか」
「司令官には就任されませんか」
「どうしても」
「何度も言うが私は戦いは嫌いだ」
 また言った王だった。これは本音でもあった。
「だからだ。私はそれは受けない」
「では。代わりの方を立てるしかありませんね」
「そうですね。それでは」
「王家の方から」
「申し訳ないがそうしてもらおう」
 王はここでは申し訳なさも見せた。だがそれでもだった。
 完が絵を変えずにだ。また話すのだった。
「私は出ない」
「王である陛下は」
「決してですか」
「そしてだ。今はだ」
 王の言葉が変わった。前を見てだ。こう周囲に話した。
「音楽にしよう」
「ではワーグナーをでしょうか」
「あの御仁の音楽をですか」
「聴かれるのですか」
「そうされますか」
「ピアノを頼む」
 それでだというのであった。
「曲は。オランダ人だ」
「序曲でしょうか」
「それをですね」
「そうだ、それだ」
 まさにだ。その曲をだというのである。
「それを頼む。今の私だ」
「今の?」
「今のといいますと」
「それは一体」
「彷徨っている」
 こうだ。暗い目になって述べた王だった。
「彷徨っているのだ、彼と同じ様にな」
「オランダ人とですか」
「あの彼と同じく」
「そうした意味で。そうだな」
 王は青ざめた顔になっていた。その浮世離れした顔でだ。彼は言うのであった。
「オランダ人なのだ」
「オランダ人は亡霊です」
「呪われた存在です」
 侍従達は王の今の言葉に言う。それは受け入れられないというように。
「その彼と同じとは」
「幾ら何でも」
「不吉では?」
「そうです、不吉です」
「それはとても」
「そうかも知れないな」
 王もその不吉なことは否定しなかった。しかしであった。
 

 

181部分:第十二話 朝まだきにその七


第十二話 朝まだきにその七

 それでも尚だ。王は話すのだった。
「それはな」
「ではそれはです」
「何としても打ち消して下さい」
「御自身が幽霊と同じとは」
「そうした不吉なお考えは」
「わかっている」
 それはわかっているというのだ。
「だがそれでもだ」
「考えずにはいられませんか」
「左様ですか」
「そうだと」
「オランダ人は呪われた存在だ」
 これはオペラだけのことではない。話の元になっている伝説でもだ。彼は呪われそのうえで海を永遠に彷徨っている。そうなっているのだ。
「呪いだ」
「呪いとは」
「陛下もだと」
「呪われていると」
「そんな筈は」
「ヴィッテルスバッハ家の血だ」
 それだとだ。王はまた話した。
「古く続いた我が家の血には呪いが入っているのだ」
「オットー様でしょうか」
 侍従の一人が王に気兼ねしながら述べた。
「あの方のことでしょうか」
「オットーは。よくはならないか」
「思わしくありません」
 言葉は濁ったものだった。はっきりと言えないものがそこにある。
「どうもです」
「そうか。あのままか」
「むしろ。以前よりもです」
「悪くなっているのか」
「何とも」
「公のことはできそうもないな」
 それはわかるのだった。わからない筈がなかった。
「オットーは。それでは」
「公爵も心配されています」
「ルイトポルド公爵も」
「叔父上は。心優しい方だ」
 王は公爵のこのことも話した。幼い頃から知っている叔父だ。
「オットーのことも私のことも常に気にかけてくれている」
「御時間があればオットー様を訪問されています」
「そして会われています」
「そうされています」
「叔父上には何と言っていいかわからない」
 そこまでだ。感謝しているというのだ。
「オットーのことは特にだ」
「はい、素晴しい方です」
「とても」
「だからこそ有り難い」
 また言う王だった。
「だが。それでもオットーは」
「調子のいい時もあるのですが」
「それでもです」
「どうも。日が経つにつれて」
「その御様子は」
 悪くなっているという。そういうことだった。
 オットーの話をする。そのうえでまたオランダ人に戻った。
「呪いは。ヴィッテルスバッハの血にもあり」
「それだけではないと」
「そうでもありますか」
「私自身にもかけられたのだろう」
 憂いの顔になった。青ざめさせたまま。
「呪いがだ」
「その呪いとは一体」
「何なのでしょうか、それでは」
「どういったものですか」
「私は。永遠にワーグナーを追い求め」
 そうしてというのだ。さらにだ。
 

 

182部分:第十二話 朝まだきにその八


第十二話 朝まだきにその八

「それでいて手に入れられなくなったのだろう」
「それが呪いだと」
「陛下にかけられてしまった呪い」
「そうなのですか」
「ワーグナーは昼の世界にはない」
 ここでこんなことも話した。
「夜にこそあるのだ」
「夜にですか」
「それはある」
「そう仰いますか」
「そうだ。昼とは何なのだ」
 王は昼そのものについても述べた。
「一体何なのだ」
「何なのかと言われましても」
「それは」
「どう言うべきか我々にも」
「わからないか」
 侍従達の言葉に落胆したものを見せる。しかしだった。
 そのうえでだ。王はまた話すのであった。
「私は昼にはもうよいものを見出せないのだ」
「昼にですか」
「そうだというのですか」
「朝が怖くもなってきた」
 顔の青ざめたものがだ。増してきていた。
「夜の心地よさに比べて。朝の恐ろしさ、昼のわずらわしさは何なのだろう」
「夜は誰もいない」
「誰もが寝静まっている」
「だからでしょうか」
「そう仰る理由は」
「そうかもな」
 また否定しない王だった。ここでもだ。
「だからこそ。私は夜に惹かれるのかも知れない」
「誰もいないからこそ」
「それでなのですか」
「人は何故」
 悲しむ言葉だった。
「噂なぞを口にするのだ」
「それはやはり」
「人の性では」
 周りはだ。こう王に話す。
「噂をするのもです」
「それもまた」
「私にはそれがわからない」
 悲しい言葉がだ。また出される。
「どうしてもな」
「そうなのですか」
「どうしてもですか」
「それは」
「そうだ。噂は全てを蝕んでしまう」
 ワーグナーのことがだ。今王を苛んでいた。それをどうしようもできなかった。そのことがだ。彼を今も苛んでいるのである。
「私は。ただ彼と共にいたいだけだったのだ」
「ワーグナー氏と」
「あの御仁と」
「確かに私は女性を愛さない」
 これについてもだ。王は言われている。しかしそれはあくまで青年達に対してだけだ。ワーグナーは初老の男だ。それならばだった。
「だが彼はだ」
「そうしたお相手ではありませんね」
「決して」
「肉体ではない。心なのだ」
 まさにだ。それだというのだ。
「心でだ。私は彼の全てを愛していたのだ」
「その芸術を」
「その全てをですね」
「そうだ。それは今も変わらない」
 話はだ。そこに至るのだった。
「しかし。誰もがそれを」
「仕方ありません。今は」
「時がです。来ればまた」
「待つしかないか」
 王はまた悲しい声で述べた。
 

 

183部分:第十二話 朝まだきにその九


第十二話 朝まだきにその九

「そうするしかないか」
「はい、そうするしかありません」
「また時が来ます」
「陛下あってのことですから」
 王がワーグナーの庇護者である。このことは言うまでもなかった。ワーグナーの今があるのはだ。王のその庇護あってのことなのだ。
「ですからそれは」
「御安心下さればいいのです」
「わかっている。だが」
 王の繊細な心はだ。それでもだというのであった。
「彼はもう。ミュンヘンにはだ」
「来られない」
「そうだと」
「彼の劇場をこのミュンヘンに築けるか」
 王にとってはこのことも懸念のことだった。
「いや、この街は」
「ミュンヘンは」
「どうだというのでしょうか」
「ミュンヘンそのものが。彼を拒んだ」
 こうも考えるのだった。そのミュンヘンについてだ。
「そのことを考えると。ミュンヘンでさえも」
「昼の世界にある」
「そうだと」
「昼は。私の愛する世界ではないのだ」 
 王もだ。昼自体に絶望を見ていた。
「最早私は夜の世界に生きるしかないのか」
「その夜にですか」
「そちらに入られるのですか」
「ですがそれは」
「もう昼にはいられない」
 王は俯いてしまった。どうしてもそうなってしまうのだった。
「夜だ。夜にいたい」
 彼は次第にその心を夜に向けていた。そうしてそのうえでだった。次第に人、昼の世界にいる彼等にだ。絶望を感じていくのだった。
 王が絶望を感じている中でもだ。時は進んでいた。
 ビスマルクは着々と手を打っていた。オーストリアとの戦いの準備が着々とだ。
 両国の戦争が近いことは明らかだった。しかしだ。
 王はだ。動かない。それどころから。
 ミュンヘンから去った。彼は別の場所に向かった。
「陛下は何処に行かれたのだ?」
「都を後にされて一体」
「何処に行かれたのだ」
「今はミュンヘンを離れられない」
「それでもか」
 こうだ。ミュンヘンの市民達がそれぞれ話すのだった。
「オーストリアとプロイセンの戦いは近い」
「両国との戦いは間近い」
「それで何故だ」
「何故去るのだ」
「何を考えておられるのだ」
 王の行動についてだ。いぶかしむものを感じざるを得なかった。
 それはだ。すぐに嫌疑に変わった。
「バイエルンのことをどう考えておられるのだ」
「王がそれでは」
「この国はどうなる」
「一体どうなるのだ」
 考えれば考える程だ。わからなくなっていた。嫌疑は不信にもなっていく。
 だがそれでもだ。王はだった。
 ミュンヘンからいない。それは間違いなかった。
 問題はだ。何処にいるかだった。
「まさかワーグナーの下に行ったのか?」
「何処に行かれているのだ」
「逃げられたのか?」
 こうした言葉まで出ていた。しかしだ。王はだ。
 湖のほとりにいた。そこでその青い湖を見ている。手には一輪の花がある。
 青い花だ。小さく咲いているその花を持っている。その花を見てだ。共をしていたタクシスが言うのであった。
「ジャスミンですか」
「いい花だ」
 王は後ろに控える彼に静かにこう述べた。
 

 

184部分:第十二話 朝まだきにその十


第十二話 朝まだきにその十

「青い花は好きだ」
「陛下はいつも青を愛されていますね」
「バイエルンの色だ。それに」
「ワーグナー氏の色ですね」
「ワーグナーは青だ」
 これがだ。王がイメージするワーグナーの色なのだ。
「その青なのだ」
「バイエルンの色でありワーグナーの色であるからこそ」
「私は青を愛する」
 いとしげにだ。花を見ながらの言葉であった。
 小さいその花は長身の王から見ると実に小さい。しかしであった。
 その小さな一輪の花を手にしてだ。王はさらに言うのだった。
「永遠にだ」
「左様ですか」
「そしてだ」
 ここで目を湖にやる。その向こうには緑の森がありさらに先には白と青の山々がある。そうした自然を見てだ。王はまたタクシスに話した。
「この自然だが」
「陛下は自然がお好きですね」
「好きだ。愛している」
 実際にそうだというのだ。
「この自然の中にもだ。ワーグナーがある」
「この中にもですか」
「ローエングリンの世界もある」
「水の上を進むその騎士ですね」
「そうだ、こうした清らかな世界にだ」
 まさにだ。その世界にこそだというのだ。
「ワーグナーはある。だが」
「だが?」
「この自然の中にも。一つないものがある」
 その自然を見てだ。王はそこに一つのものを出すのであった。
「一つだ」
「その一つとは」
「自然とはまた違うものだが」
「ワーグナー氏の世界にあるものですね」
「そうだ、ある」
 まさにそうだというのだ。
「それは」
「それは?」
「城だ」
 それだというのだ。王は今その場所にはない城を見ていた。その目にだ。
「城がない。ワーグナーの城が」
「そういえばワーグナー氏の世界には」
「城があるな」
「はい、あります」
 その通りであった。ワーグナーの世界には城もあるのだ。森や水と共にだ。城もなのだ。ワーグナーの中には存在しているのだ。
 王はだ。今その城を見ていた。そのうえでの言葉だった。
「私はワーグナーと離れざるを得なかった」
「陛下、それは」
「わかっている。言っても仕方のないことだ」
 止めようとするタクシスの言葉を受けてだった。
「だが。心はまだある」
「御心はですか」
「そうだ。それがあるからこそだ」
「どうされますか。それでは」
「私が。ワーグナーの世界を実現したいのだ」
 こう話すのだった。
「是非だ。そうしたい」
「どうされるのですか。一体」
「自然の中の城だ」
 それだとだ。遠くを見る目で話した。
「是非な。そうしたい」
「ですがそれは」
「実現できるものではないというのか」
「どうも私には」
 わからないというのだ。彼はだ。
 しかしここでだ。王はさらに話すのであった。
「何時かだ。私のワーグナーの世界をこの現実に」
 戦争が迫る中でだ。王はそのことを考えていた。しかし現実は彼から離れない。それでだった。
 

 

185部分:第十二話 朝まだきにその十一


第十二話 朝まだきにその十一

 王はミュンヘンに戻らざるを得なかった。そこに戻るとだ。
 臣民達はだ。顔でだ。こう話していた。
「ガスタイン協定が罠だったな」
「そうだ、あれこそがそうだったんだ」
「ビスマルクがオーストリアに仕掛けた罠だ」
「しかもロシアもフランスも介入しようとしない」
「ドイツの中だけでの戦いだ」
「オーストリアとプロイセン」
 まさにだ。その二国であった。
「両国が正面からぶつかる」
「バイエルンもだ。オーストリアにつくしかない」
「だとすればここは」
「戦うしかない」
「戦争に加わるしかないぞ」
 こう話していくのだった。それが王の耳にも入る。
 それを馬車の、豪奢な金が目立つ馬車の中で聞きながらだ。王もまた暗い顔になる。そうしてそのうえで話をするのであった。
「誰もが。戦いのことを考えているな」
「左様ですね」
「戦いが何を生み出すのだ」
 ここでもだ。隣に控えているタクシスに話すのだった。
「何を生み出す。一体」
「そう言われますと」
「人が無駄に死に血が流れる」
 戦争のその一面を言葉として出した。
「そうした世界ではないか」
「それはお嫌ですか」
「好きにはなれない」
 ここでもだ。戦いについての嫌悪を見せるのだった。
「どうしてもな」
「ですが陛下、最早」
「戦いは避けられない」
 王もだ。それはわかっているというのであった。
「ならばバイエルンもだ」
「戦われますか」
「いや」
「いや?」
「私は。それでもだ」
 こう言うのであった。やはり暗い顔でだ。
「戦いは好きにはなれないのだ」
「左様ですか」
「そうだ。とてもな」
 また言う王だった。戦いについてであった。
「何故戦いがこの世にあるのだ」
「そう言われましても」
「何も生み出さない。武力による統一はそれでも必要だが」
 それでもだというのだ。王はさらに話す。
「だが。生み出すものはだ」
「統一だけですか」
「武力による統一だけでどうなるのだ」
「それ以外のものがですか」
「生み出されなくてはならないのだ。ドイツもまた」
 こうタクシスに話していく。
「戦いによる統一だけでなくな。そして」
「そして?」
「わかってくれている方はおられる」
 そのことにだ。微かな希望も見せる王だった。
「そうした方もな」
「といいますとその方は」
「二人おられる」
 一人ではないというのである。
「二人な」
「まずはエリザベート様ですね」
 一人が誰なのかはタクシスにもわかった。彼女しかいなかった。彼と年齢が少し離れた従姉だ。二人は互いを理解し合える感性を持っているのだ。
 

 

186部分:第十二話 朝まだきにその十二


第十二話 朝まだきにその十二

「あの方ですね」
「そうだ、シシィだ」
 王は彼女のその仇名で言ってみせた。
「あの方は。それを理解しておられる」
「陛下と同じくですね」
「その通りだ。そして」
「もう一人の方は」
「プロイセンにおられる」
 その国の名前を聞いてだ。タクシスは眉を少し顰めさせた。その整った、ギリシア彫刻さえ思わせるその眉をである。
 そしてだ。そのうえでこう王に問うのだった。
「プロイセンにですか」
「そうだ、プロイセンだ」
 また言う王だった。
「あの国にだ」
「それはないのでは」
「いや、おられる」
 遠くを見てだ。王は語るのだった。
「あの国にもだ」
「その方は一体」
 誰なのか。タクシスは問わずにはいられなかった。
「どなたなのですか?」
「ビスマルク卿だ」
 誰なのか。王は話した。
「あの方だ」
「まさか。あの方が」
「違うというのか」
「はい、まさか」
 タクシスにはそれが信じられなかった。何しろだ。
 王が忌んでいるその武力によるドイツの統一、それを推し進めている人物こそがだ。鉄血宰相と言われているビスマルクに他ならないからだ。
 タクシスの驚きは当然だった。しかしだ。王はこう言うのであった。
「だがあの方はわかっておられるのだ」
「それでもですか」
「芸術もまたわかっておられる」」
 また言う王だった。
「あの方はな」
「そうなのですか」
「私はプロイセンのやり方は好まない」 
 それは絶対だという。どうしてもだ。
「だが。あの方はだ」
「お好きですか」
「私を理解してくれている」
 少なくともそうであった。ビスマルクは王の数少ない理解者の一人である。王を理解できるだけのものをだ。彼も備えているのだ。
「そうした方だからだ」
「だからですか」
「あの方は好きだ」
 また言う王であった。
「ドイツにとって芸術が必要であることも理解しておられるからこそ」
「ドイツの統一に芸術が」
「必要だ。そして」
「そして?」
「私はそれだけではなくなった」
 青い湖を見ていた。その向こうにある緑の森に青と白の山々も。
「この世は醜いもので満ちている。だが」
「だが?」
「その中に。真に美しいもの」
 それが何かもだ。王は語った。
「ワーグナーの芸術をだ。この世に実現させよう」
「ワーグナー氏のですか」
「ローエングリン」
 あの白銀の騎士の名前をだ。ふと呟いた。
「あの彼の世界をだ」
「この世にですか」
「あの世界は。誰にも汚されない世界だ」
 恍惚とした顔になっていた。恋する相手を見るような。
「あの世界をだ。白銀の世界を」
「ローエングリンだけでしょうか」
「いや、それだけではない」
 王はタクシスのその言葉に付け加えた。
 

 

187部分:第十二話 朝まだきにその十三


第十二話 朝まだきにその十三

「タンホイザーもだ」
「あの騎士の世界もですね」
「ワルトブルグの城。そして歌合戦」
 タンホイザーの世界だ。まずはその聖なるものを語る。
「それにヴェーヌスベルグだ」
「それもですか」
「エリザベートとヴェーヌスは違う存在でないのだ」
「同じなのですか?彼女達は」
「そうだ、同じ存在なのだ」92
 王はだ。こう話すのだった。
「だからこそタンホイザーを愛した」
「ヴェーヌスのあの世界は」
「愛なのだ」
 それだというのであった。ヴェーヌスベルグはだ。
「あの世界もまた。実現されなければならない」
「ワルトブルグと共にですか」
「タンホイザーはその二つが合わさってこそだ」
 芸術論もだ。ここで展開される。
「完全なのだから」
「それでなのですか」
「その通りだ。だからこそ私はあの世界もだ」
 こう話していく。恍惚とした顔で。
「実現させたい」
「醜いこの世界に」
「現実は。残酷なものだ」
 よく言われる言葉だ。王はその言葉もまた口にした。
「美を否定することもある」
「美もですか」
「ワーグナーはミュンヘンから去った。去らざるを得なかった」
 このことが忘れられなかった。どうしてもだ。そしてそのことがだ。王を今も苦しめ。その心に深い傷を与え続けているのであった。
「悲しい話だ」
「しかし陛下、今は」
「わかっている。帰らなくてはならないな」
「御言葉ですが」
「あの街に」
 王の顔に悲しいものが宿った。またしても。
「ワーグナーを追い出したあの街に」
「ですが陛下」
「だからわかっている」
 仕方ないといった顔だった。
「それはな。だから戻ろう」
「これ以上、都を空けられては」
「間も無く戦争がはじまるからな」
 それはだ。もうわかっていることだった。王にはだ。
「私は。それに対してだ」
「指揮は執られないのですね」
 タクシスもまたこのことを言った。
「オーストリア軍の」
「むしろそうしない方がいいだろう」
 王はここでだ。思わぬことを言った。
 そしてだ。あの遠い目でだ。湖の果てを見ながら述べた。
「バイエルンにとっては」
「そうなのですか?」
「そうだ、そうしない方がいい」
 王はまた言った。
「それもあってだ。私はだ」
「総司令官にはなられないのですか」
「避けなければならないことは」
 バイエルン王になっていた。完全に。
「バイエルンがプロイセンの属国に成り下がることだ」
「そのことですか」
「例えプロイセンがドイツを統一しようとも」
 そのことも頭の中にあった。プロイセンがどれだけ強力なのかもだ。
 それも頭にあってだ。王は話すのだった。
「属国にだけはなってはならない」
「プロイセンに対して」
「卑屈になってはならない」
 王はこうも言った。
「王は何か。国は何か」
「王とは。国とはですか」
「我がバイエルンは基本的に臣下だった」
 そのことは歴史にある通りだ。ヴィッテルスバッハ家は神聖ローマ帝国の中にあった。皇帝になったことはあるがだ。王である方が長かったのだ。
 

 

188部分:第十二話 朝まだきにその十四


第十二話 朝まだきにその十四

「そしてバイエルンもだ」
「神聖ローマ帝国の中の一国でしたね」
「それは確かだ。だが」
「だが、ですか」
「誇りを失ってはならない」 
 それが王の考えだった。
「決してだ。それはだ」
「誇りですか」
「臣下になろうとも」 
 王としてそれも耐え難いことだった。だがそれでも覚悟はしているのだ。
「それでもだ」
「誇りを失わない」
「それが大事なのだ。絶対にだ」
「それで総司令官にもですか」
「わからないか」
 タクシスに顔を向けてだ。このことを尋ねた。
「そのことは」
「申し訳ありませんが」
「そうだな。だが」
 また言う王だった。
「今はこうするのがいいのだ」
「司令官にはならないことが」
「そうなのだ。そしてだ」
「そして、ですか」
「後は。実際の軍の動きだが」
 そのことも考えていた。軍についてもだ。
「そのこともやがてだ」
「その時にまたですか」
「軍の指揮権は私にあるのだ」
 王がその国の軍の最高司令官である、これはバイエルンでも同じだ。国家元首が軍の指揮権を持つ、国家として絶対とも言えることだ。
「ならば。それはだ」
「陛下、私には本当に」
「済まない。だがだ」
 困惑した顔になったタクシスに謝ってからまた話した。
「ミュンヘンにだな」
「はい、では」
「トリスタンを用意してくれ」
 ここであの騎士の名前が出た。
「あの船をだ」
「トリスタンですか」
「あの船に乗りそうして戻るとしよう」
 トリスタンの名前には笑顔を見せる。微かな笑顔を。
「そうするとしよう」
「トリスタンですね」
「あの船はいいものだ」
 微笑みをそのままにして話す王だった。
「あの騎士と共にいられるのだからな」
「それに乗りミュンヘンまで」
「戻ろう。せめてあの騎士のことを想いながら」 
 帰るというのである。そうしてだった。
 王は踵を返した。湖に背を向けた。
 そのうえで湖のほとりを後にする。そうしてであった。
 王はミュンヘンに戻った。そのミュンヘンではだ。
 男爵がだ。部下からこの話を受けていた。
「馬丁官の交代か」
「はい、どうされますか?」
 部下にだ。宮廷の人事について問われていたのである。
「誰にされますか?」
「そうだな。ここは宮廷を知っている者がいいだろう」
「宮廷をですか」
「その方がいい。今は陛下の御心を安んじることが大事だ」
 それを重く見て宮廷を知っている者がいいというのである。彼は確かにワーグナーに好意的ではなかった。だがそれでもなのだった。
 王への忠誠はある。だからこそなのであった。
「できれば幼い頃からな」
「宮廷を知っている者ですか」
「その者がいい」
 こう部下に話す。
「それではだ。誰にすべきか」
「そうですね。ここは」
 部下がここで言った。
「ホルニヒはどうでしょうか」
「ホルニヒ?というと」
「はい、息子のホルニヒです」
 この名前をだ。男爵に話すのだった。
「彼はどうでしょう」
「リヒャルト=ホルニヒか」
 男爵はそのフルネームを口にした。彼もまた知っている者だった。
「彼だな」
「はい、彼はどうでしょうか」
 こうだ。部下も男爵に対して薦める。
「真面目な性格ですし」
「そうだな。いいな」
 男爵もだ。彼でいいというのであった。
 考える顔になってだ。彼はまた言った。
「彼でな」
「はい、わかりました。それでは」
 こうしてであった。そのホルニヒが王の馬丁官になった。そうなったのである。これもまた、だ。運命の出会いの一つであった。


第十二話   完


                      2011・2・27
 

 

189部分:第十三話 命を捨ててもその一


第十三話 命を捨ててもその一

                第十三話  命を捨てても
 王は一旦ミュンヘンに戻った。しかしだ。
 王は楽しまない顔で宮廷にいてだ。そのうえでだった。
 オーストリアとプロイセンの話を聞いていた。その話をだ。
 両国は動員態勢に入っていた。王自身もだ。
 まだ周囲からだ。しきりに言われていた。
「どうかです」
「総司令官になって下さい」
「是非共です」
「ここはです」
 こうだ。周りの誰もが執拗に薦める。しかしなのだった。
 首を縦に振らない。どうしてもだった。
 そしてだ。かえってだ。王は周囲にあまり面白くなさそうに述べた。
「今夜の舞台は何だったか」
「舞台ですか!?」
「今夜のですか」
「そのことですか」
「そうだ、それは何だったか」
 周囲に尋ねるのはそのことだった。そのことをだ。周囲に尋ねるのだった。王宮で尋ねるのはそのことであった。
 そのことを尋ねるがだ。周囲はだった。
「あの、今夜はです」
「舞台はありませんが」
「申し訳ありませんが」
「そうか。そういえばそうだったな」
 話を聞いて納得する王だった。そのうえでだった。
 今度はだ。こんなことを話すのであった。
「それではだ」
「あの、ですから今は」
「オーストリアとプロイセンがです」
「今にも戦争になります」
「ですから。とても」
「舞台等は」
 こう言ってだ。王に政治に顔を向ける様に促す。しかしだ。
 王はそれでもだ。まだ周囲に言うのだった。
「いいではないか。むしろだ」
「むしろ?」
「むしろといいますと」
「戦争の時だからこそ娯楽を求めるべきではないのか」
 こう周囲に話すのだった。
「私だけでなく誰もがだ」
「誰もがですか」
「陛下だけでなくですか」
「臣民達もですね」
「そうだ、それ位いいではないか」
 またこう話す王だった。
「楽しみのない世の中なぞ。何だというのだ」
「だから舞台をですか」
「舞台をですか」
「御覧になられたいのですか」
「舞台がないのならだ」
 その場合はだと。まさに今のことを話すのだった。
「それならだ。音楽にするとしよう」
「では王宮のオーケストラをですね」
「それをですか」
「そうだ。それでいいな」
 また話す王だった。
「オーケストラだ」
「わかりました。それでは」
「しかし。本当にです」
「今はご自重されるべきかと」
「そう思うのですが」
「戦争だからといって全てを捨てなければならないというのか」
 王はそのことを問うた。それをだ。
「そう決められているのか」
「それは違いますが」
「そこまではありませんが」
「そうだな。神が定められたことではあるまい」
 王は神の名も出した。それもであった。
「ではいいではないか」
「それで臣民達もですか」
「彼等も。今はですか」
「楽しんでいいと」
「そう言われるのですね」
「そうだ。戦争になっていてもだ」
 それでもだというのである。その状況でもだ。
 

 

190部分:第十三話 命を捨ててもその二


第十三話 命を捨ててもその二

「それはしない。そういえばだ」
「そういえば?」
「そういえばといいますと」
「今度は一体」
「何のことでしょうか」
「戦争は長引くと言われているな」
 その戦争のこともだ。ここで話したのだった。
「そうだな」
「何年もかかると」
「フランス皇帝もそう言われています」
「この戦争は長くなると」
「誰もが言っています」
 これも実際のことだった。多くの者が戦争は長くなると思っていた。だが王はだ。その意見に対してだ。こう話をするのであった。
「短いかもな」
「短いですか」
「すぐに終わると」
「そうなるというのですね」
「そうかも知れないな」
 王はだ。考える顔でだ。静かに話すのだった。
「もしかするとな」
「まさか。あの両国の戦争です」
「国力はどちらもかなりです」
「それならばです」
「かなり長引くのでは」
「過去もそうでしたし」
 歴史もだ。ここで話された。
「オーストリア継承戦争や七年戦争もそうでしたし」
「まさにあの戦争の再現ですから」
「ですから」
「それは」
「長くなるというのだな」
 王も彼等に問う。
「それでだな」
「はい、双方の国力が比較的拮抗しています」
「やはり。それでは」
「この戦争は。長くなります」
 あらためて話す彼等だった。しかしであった。
 王はだ。落ち着いた、いつもの全てを見透かした様な声でだ。こう彼等に話すのだった。
「あの頃とは違う」
「オーストリア継承戦争や七年戦争の時とはですか」
「違うと」
「そうなのですね」
「そうだ、あの頃にはないものがある」
 まずはそこから話す王だった。
「鉄道がある」
「鉄道ですか」
「あれがですか」
「あれはいいものだ」
 王はその鉄道について話した。
「線路さえあればすぐに目的の場所に行ける」
「その鉄道がですか」
「役に立つと」
「そう仰るのですか」
「この戦争に」
「有効に使えばな。そして」
 さらにというのであった。王の言葉は続く。
「あの方もおられるしな」
「あの方、ですか」
「プロイセンのビスマルク卿ですか」
「あの方がですか」
「私は王だ。それに対してあの方は貴族でしかない」
 王と貴族は違う。貴族は王に仕えるものだ。だから王は本来はビスマルクに対して敬語を使う必要はない。しかしなのだった。
 王はだ。ビスマルクという人物そのものに対して敬意を払っていた。だからだ。彼はビスマルクを『あの方』とも呼ぶのだった。
 そうしてだ。あらためてであった。王は話すのであった。
「そしてその目指すものは相容れないところも多いが」
「それでもですか」
「あの方にはですか」
「敬愛の念を持っておられますか」
「左様ですか」
「そうだ。あの方もまた純粋なのだ」
 ビスマルクをこう言う者は王だけだった。彼だけだ。
 

 

191部分:第十三話 命を捨ててもその三


第十三話 命を捨ててもその三

「純粋のプロイセンの、そしてドイツと民のことを考えているのだ」
「純粋なのですか、ビスマルク卿が」
「まさか。あの方は」
「純粋とはかなり」
「言えないのでは」
 誰もがそう言う。しかしだった。
 王はだ。それでもであった。まだそう言うのであった。
「私がない。野心もないのだ」
「ドイツ統一は野心ではないのですか」
「プロイセンの伸張も」
「それではないのですか」
「そうだ。それはドイツを想ってのことだ」
 あくまでだ。そうだというのであった。
「父なるドイツをだ」
「父なるこのドイツを想うからこそ」
「謀略を使い戦争もする」
「しかしなのですか」
「そこには私はない」
「そして野心もない」
「そうだ、だからこそ私はあの方を嫌いではない」
 むしろだ。高く評価していた。それはビスマルクも同じだった。二人は心の奥底でだ。互いに認め合い理解し合うものを持っているのだ。
「あの方がプロイセンにおられる」
「それが大きいですか」
「この戦争には」
「あの方の存在がですか」
「その通りだ。例え国力が拮抗していようとも」
 それでもだというのであった。王はまた話す。
「この戦争は。短いうちに終わると思う」
「短いうちにですか」
「終わりますか」
「だといいのですが」
「その際バイエルンは何をするべきか」
 話の核心だった。そのバイエルンのことだ。
「それが問題だが」
「はい、それです」
「我がバイエルンはオーストリアにつきます」
「ですから。ここはやはり」
「積極的に戦うべきです」
 誰もがこう主張する。バイエルンはだ。元々宗教的、そして地理的、政治的な理由からだ。プロイセンに対していい感情を持っていないのだ。
 だからこそだ。彼等もだ。王に進言するのだった。
「プロイセンが有利ならです」
「オーストリアに助太刀してそのうえで」
「プロイセンを倒すべきです」
「そうするべきではないのですか」
「感情ではな」
 王は彼等の主張の源をわかっていた。だからこそ冷静に述べた。
「そうあるべきだ」
「ではやはりです」
「ここはです」
「そうされましょう」
「プロイセンを」
「私は戦争を好まない」
 王はここでもこのことを言葉に出した。それはどうしても変わらない。王は戦争に対してだ。何一つとして肯定的なものを見出していなかった。
 それでだ。このことをまた話すのだった。
「今の時点においては好戦的なプロイセンも好きになれない」
「では余計にです」
「オーストリアに助太刀して」
「そうあるべきです」
「そうしましょう」
「いや、ここで避けるべきはだ」
 それが何か。王はまた話した。
「我が国が属国になることだ」
「それをですか」
「避けるべきだと」
「そう仰るのですか」
「それだけは避けなくてはならない」
 穏やかであった。しかしだ。
 そこには断固たる決意があった。王が殆ど誰にも見せたことのない、断固たる決意をだ。ここで周囲に対して見せたのである。
「皇帝が誕生しようとも。王は王でなければならないのだ」
「では一体」
「どうされるのでしょうか」
「だからだ。王は王であるのだ」
 こう言うのだった。
 

 

192部分:第十三話 命を捨ててもその四


第十三話 命を捨ててもその四

「王は媚びてはならないのだ」
「媚びない」
「そして諂わない」
「それが王なのですね」
「その通りだ。確かに皇帝の下にある」
 それは否定できなかった。神聖ローマ帝国でもだ。皇帝は王に対して上に立つ。ローマ教皇と同じくだ。それだけの存在なのだ。
 しかしだ。王はここでこうしたことも話した。
「だが。皇帝はだ」
「皇帝はですか」
「何と言われますか」
「皇帝は誰もがなることができる」
 皇帝のその即位の話だった。
「ローマ帝国の頃からだ」
「誰でもですか」
「なることができる」
「そうだと」
「神聖ローマ帝国では選ばれていたな」
 これは事実である。だからこそ選帝侯という存在がいたのだ。基本的に七人おり四人の大諸侯と三人の大司教からなる。ただしやがて実質的にハプスブルク家の実質的な世襲となってしまい選帝侯は帝国での大貴族の称号の様になってしまう。
「誰でもなれるのだ。だが王は」
「違う」
「そう仰るのですね」
「そうだ、違う」
 王という存在についてはだ。どうかというとだ。
「王は血筋によってなるものだ」
「血筋ですか」
「それによってなるもの」
「それが王ですか」
「つまりは」
「私もまた然り」
 他ならぬだ。彼もだというのだ。
「ヴィッテルスバッハ家の血があってこそだ」
「そうですね。それは確かに」
「陛下がバイエルン王であるのはです」
「ヴィッテルスバッハ家故」
「だからこそです」
「ホーエンツォレルン家も血筋は見事だ」
 それは否定しないのだった。その血統はだ。
「だが。それでもだ」
「皇帝になるのはですか」
「誰でもなれる」
「そうだというのですね」
「皇帝には」
「そうだ。もっとも我が家は皇帝にはあまり縁がないが」
 かつて神聖ローマ皇帝だったことはあった。しかしだというのだ。
「その皇帝の臣下となろうとも」
「臣下となろうとも」
「それでもですか」
「媚びてはならないのだ」
 それはだ。絶対だというのだ。
「諂ってもならない。しかし」
「反抗もですか」
「それもよくないのですか」
「そうだ、それもあってはならない」
 どちらもだ。王は否定するのだった。
「今議会も臣民達もプロイセンを嫌っているがだ」
「それもまたですか」
「危ういですか」
「そうですか」
「最早プロイセンの勢いは抑えられない」
 王はさらにこんなことも話した。
「やがてイギリスやフランス、ロシアと並ぶ国になるだろう」
「我がドイツがそうなりますか」
「あのイギリスと肩を並べる」
「そしてロシアとも」
「そうなりますか」
「ドイツには底力がある」
 王もまたそのことを見抜いていた。彼はドイツそのもののことをだ。ビスマルクと同じく実によく理解していた。見事なまでにだ。
 

 

193部分:第十三話 命を捨ててもその五


第十三話 命を捨ててもその五

「そこにまで確実になれる」
「それはいいことですね」
「はい、素晴しいことです」
「そこまで至りますか」
「それ自体はいいことだな」
 それは王も否定しない。晴れやかな顔になった周囲に話す。72
「確かにな」
「確かにといいますと」
「そこにも何かありますか」
「ドイツがイギリスと肩を並べるまでになるのにも」
「そこまでも」
「強ければだ」
 それでどうなるかであった。
「周辺国のいらぬ警戒を招く。そしてそれがだ」
「周辺国から敵視されるようになる」
「イギリスやロシアとですか」
「そうなるというのですか」
「そうだ、そうなる場合もある」
 そこまではだ。断言しない王だった。未来まではだ。
「力が強ければそれでいいという訳ではないのだ」
「左様ですか」
「力があろうともですか」
「それでいいというものではない」
「そうでもないのですか」
「そうだ。確かに統一はあるべきだ」
 王は話をだ。少しずつ戻してきていた。
「そこからが問題だが。しかしだ」
「そのプロイセンですね」
「プロイセンのことですね」
「そうだ、その中心となるプロイセンに媚びず諂わず」
 そして最後の一つだった。
「憎まずだ」
「その三つをですか」
「バランスを取っていきますか」
「これからは」
「そうあるべきなのだ。私はプロイセンに対してどの行動も採らない」
 王の考えはそこにあった。
「今度の戦争でもだ」
「いよいよはじまりますが」
「オーストリアについてですね」
「そうして今もですか」
「そうされますか」
「そうだ。私は今は動かないでおきたい」
 遠くを見る目で顔をあげて。そうして語った言葉だった。
「そしてだ」
「そして?」
「去りたいものだ」
 今度はだ。こんなことを言うのだった。
「もうな」
「去りたい?」
「ミュンヘンからでしょうか」
「この町から」
「そうだな。この町からもだな」
 それをだ。否定しなかった。
「もうこの町には。私は」
「そう仰らないで下さい」
「陛下、それはです」
「なりません」
 周囲がだ。すぐに彼を止めた。
「この町は陛下の町なのです」
「バイエルンの首都です」
「ですから。それはです」
「仰らないで下さい」
「わかっている。しかしだ」
 それでもだとだ。王は寂しい言葉でだ。それで話すのだった。
「私はもう」
「ここはです」
 侍従の一人がここで王に言った。
「馬に乗られてはどうでしょうか」
「馬か」
「はい、馬です」
 乗馬に出てはどうかというのだ。王は乗馬をよくしている。他には泳ぎもだ。王は身体を動かすことも好んでいるのである。
 

 

194部分:第十三話 命を捨ててもその六


第十三話 命を捨ててもその六

「気分転換にどうでしょうか」
「そうだな」
 王もだ。その侍従の言葉に頷いた。
「私はどうしても悩みを抱いてしまう」
「ですから。ここはです」
「馬に乗りそしてだな」
 王はまた言った。
「気持ちを晴らすとしよう」
「はい、では馬丁官に話しておきます」
「宜しく頼むな」
「では今より」
「馬に乗ろう」
 こうしてだった。王は乗馬に向かうのだった。宮廷を出てだ。厩舎に向かう。そこにいたのは。
 白いズボンに青い上着のすらりとした青年だった。その背丈は王よりも幾分低い。顔立ちは細く色は透き通る様に白い。
 見事な、日の光に輝く金髪をなびかせ後ろで束ねている。青い湖の瞳は清らかな瞬きを見せている。鼻立ちはすらりとしている。
 その彼がだ。厩舎の前にいた。王は彼を見てすぐに声をかけた。
「そなたは」
「はい、新しく馬丁官になった者です」
 こうだ。王に一礼してから述べたのだった。
「ホルニヒといいます」
「ホルニヒか」
「リヒャルト=ホルニヒといいます」
 それがだ。自分の名前だというのである。
「宜しく御願いします」
「リヒャルトか」
 王はその名前に反応した。その名前こそがだった。
「そうか。そしてホルニヒだな」
「はい」
「供をするのだ」
 王はだ。こうそのホルニヒに話した。
「いいな、これから馬に乗る」
「わかりました。それでは」
「馬はいい」
 ふとした感じでだ。王はまた言った。
「わずらわしさを忘れさせてくれる」
「あの、陛下」
「いいのだ。供をするのだ」
 王は今はこう言うだけだった。
「わかったな」
「それでは」
 こうしてだった。ホルニヒもだ。
 王の供をしてだ。外に出た。そうしてなのだった。
 二人は湖のほとりまで来た。そこはだ。
 澄んだ、青い世界だった。王はその静かな水面を見ながら。ホルニヒに話すのだった。
「私はだ」
「陛下は?」
「ただ。供にいたかっただけなのだがな」
 ホルニヒに対してもだ。遠い目で話すのだった。
「彼とな」
「彼とは?」
「いや、いい」
 言葉を途中で止めた。
「何でもない」
「左様ですか」
「それでどう思うのだ?」
 王はホルニヒに顔を向けて尋ねた。見ればだ。その顔は整い女性の様に見える。しかしその顔はだ。それでいて青年のそれをたたえていた。
 それを見てだ。王はまた話すのだった。
「この青のことだ」
「湖のですか」
「そしてだ」
 さらにだというのだった。
「青をだ」
「青そのものですか」
「私は青が好きだ」
 その色自体をだ。愛しているというのである。
「バイエルンの青を。それをだ」
「それをですか」
「この青は永遠にあって欲しい」
 また話す。湖を見ながら。
 

 

195部分:第十三話 命を捨ててもその七


第十三話 命を捨ててもその七

「そう思っているのだがな」
「バイエルンの国旗でもあるその青をですか」
「そしてだ」
「そして?」
「リヒャルトの色だな」
 今度はその青だと言ったのだった。
「そうだな」
「私のですか?」
「そなたの。そうだな」
 ホルニヒの名前がだ。彼の名前と同じだからこそだった。それがわかってだ。
「同じだったな」
「そこに何が」
「同じか。いや、違うか」
 すぐにわかった。王はだ。
「また別だな」
「?」
 ホルニヒは王の言葉がわかりかねた。しかしだ。
 王がだ。悩んでいるのはわかった。それがわかったからだ。彼はこう王に述べた。
「陛下、お悩みでしたら」
「悩みか」
「はい、出過ぎたことですが」
 こう断ってからだ。ホルニヒは王に言うのだった。
「私が」
「出過ぎたことではない」
 王はまずそれを否定した。
「そなたは出過ぎたことは言っていない」
「そうであればいいのですが」
「王とは望むものを手に入れられないものなのだ」
 遠い、悲しい目での言葉だった。
「人は誰でもそうかも知れないが」
「人はですか」
「それ以上にだ。王はだ」
 どうかというのである。
「王は玉座にいるだけでだ。望むものがその手に届く場所にあってもだ」
「手に入れられない」
「そうだ。手に入れられない」
 また言う王だった。
「手を前に出しても。届く場所にあっても」
「決してなのですか」
「手に入れられない。自然と遠くに離れていく」
 悲しい目で話していく。
「それが王なのだ」
「左様ですか」
「人は言う」
 周りのことだ。多くの者達のことだ。
「王の意のままにならぬものはないと言うな」
「それは」
「隠さずともよい」
 それはさせなかった。今はホルニヒを見てはいない。前を見ている。しかしなのだ。王はそれでありながら彼の心を見ているのだ。
「わかることだ」
「そうなのですか」
「人は。隠そうとしても出してしまうものなのだろう」
 こう話すのだった。人についてだ。
「噂は余計にだ」
「噂ですか」
「私は聞いてきたのだ。私は何もかもを意のままにしていると」
 しかし実はどうなのか。その王の言葉だ。
「だが。私は何もかもを、傍に置きたかった世界をだ」
「それを留めることが」
「できなかった」
 そのことを言った。
「私は。あの世界だけが欲しかったのにだ」
「それがあの」
「ワーグナーだ」
 彼であった。まさにだ。
「彼のことは知っていたのだ」
 王はだ。見えていたのだ。そして聞いていたのだ。
「何もかも。だが」
「それでもですか」
「私は傍にいて欲しかった」
 同時にこうも言った。
「傍に置きたかったのだ」
「ですが陛下」
「誰もが許さなかった。私があの美の世界の中にいることを」
 王の目にだ。ローエングリンが映った。その白鳥の騎士のことはだ。幼い時に見てからだ。何があろうと忘れることはないのだ。
 

 

196部分:第十三話 命を捨ててもその八


第十三話 命を捨ててもその八

「それだけでよかったのにだ」
「左様ですか」
「だが私は」
 王はだ。さらに話していく。
「ワーグナーの美の世界にいたい。その中に留まりたい」
「ではどうされるのですか?」
「私からワーグナーを引き離した人々から離れ」
 疎ましく思っていた。確かに。
「そしてそのうえで」
「その美の世界にですか」
「入りたい。そうしたい」
 こう話すのだった。ホルニヒはここまで聞いた。
 そのうえで言葉を出そうとする。その言葉は。
「あの、陛下」
「何だ」
「場所を変えますか」
 こう王に話したのである。
「どうされますか」
「場所をか」
「はい、気分転換に」
「ここにはその為に来たのだがな」
 寂しい微笑みでの言葉だった。
「だが。しかしだな」
「どうでしょうか、それで」
「そうだな」
 王はだ。ホルニヒのその言葉に頷いた。そうしてだ。
 彼に顔を向けてだ。こう話すのだった。
「庭園に行くか」
「宮殿のですか」
「そうだ、人工庭園に行こう」
 そこにだというのである。
「そこに行こうか」
「話には聞いていますが」
「行ったことはないのだな」
「はい」
 ホルニヒは王に対する礼と共に述べた。
「それは」
「そうか。はじめてだな」
 王は彼のその整った、一見すると少女にも見えるその顔を見ながら述べた。かなり長身の少女に見える、彼はそうした外見なのだ。
「そなたがそこに入るのは」
「私なぞが入って宜しいのでしょうか」
「いいのだ」
 それはいいとだ。王は述べた。
「私にも。その程度の自由は許されている」
「誰かを庭に招き入れることは」
「肝心なことはだ。許されないのだがな」
 ワーグナーのことはだ。どうしても言ってしまう。
 そこに悲しみを感じながら。王はさらに話した。
「だが。許されることはだ」
「それはですね」
「させてもらう。では戻ろう」
「はい、王宮に」
「技術は。戦争の為に使うものではない」
 王の言葉がまた変わった。ここでだ。
「美や芸術の為に使うものなのだ」
「その為にですか」
「そうだ。そういうものだ」
 また話す。
「それが私の考えだ」
「左様ですか」
「それは庭も同じだ」
 その庭もだとだ。そうだというのである。
「同じなのだ」
「ではその庭は」
「入ればわかる」
 こう話していく。
「その時にな」
「わかりました。それでは」
「行こう」
 ホルニヒを伴いだ。馬首を返した。
「そこにな」
「はい」
 ホルニヒは王のその言葉に頷いた。そしてだった。
 その庭に来た。そこはだ。
 ドイツのものではなかった。アラビア風の庭園だった。
 

 

197部分:第十三話 命を捨ててもその九


第十三話 命を捨ててもその九

 川が流れ花々が咲き誇りだ。そのうえでアラビア風、オリエントの建物があり鳥達がいる。そして空には青と白の色があった。
 それは確かに素晴らしいものだ。しかしだった。
 よく見ればだ。それは。
「人工のものですね」
「そうだ、自然ではない」
 その庭の中でだ。王はホルニヒに答えた。
「ここは。人工の庭園だ」
「やはり。そうですか」
「私が造らせたものだ」
 王は微笑みになってホルニヒに話した。
「ここは。そうなのだ」
「陛下がですか」
「それを実現できる技術があるならば」
「それがあるならば」
「使うべきなのだ」
 そしてだ。ホルニヒにこうも話した。
「その為の技術なのだからな」
「技術は使う為にあるもの」
「そうだ。だからな」
 こう話す。そしてだ。
 ホルニヒにだ。今度はこう告げたのであった。
「ではだ」
「はい、それでは」
「庭の中を散策するとしよう」
 彼にだ。それを勧めるのだった。
「これからな。そうするとしよう」
「わかりました」
 ホルニヒも微笑みと共に頷いた。そしてであった。
 二人でだ。そのオリエントの庭園を歩いていく。ドイツではないその世界を。
 南方の花々の色は赤であり黄色だ。そして派手だ。白い建物は異郷の美しさをそこに見せている。そうしてさらにであった。
 空にだ。虹が出た。七色の虹がだ。
 急に出て来たそれを見てだ。ホルニヒは思わず声をあげた。
「虹が」
「驚いたか」
「はい、人工の虹ですか」
「そうだ。虹もまた」
 王もまたその虹を見ている。そのうえでだった。
 ホルニヒに対してだ。その虹について静かに話すのだった。
「こうして。造り出すことができるようになった」
「虹がですか」
「そうなのだ。人は美しいものを造り出せるのだ」
 その虹こそがだというのであった。
「美は。造り出せるものだ」
「自然とあるだけではなくですか」
「自然にある美も。人工の美も」
 王の言葉が続けられる。
「美だ。人はその美の為に生きられればそれで幸せなのだ」
「幸せ」
「そうだ。幸福だ」
 王は述べた。
「それこそが幸福なのだ」
「ではこの庭園は」
「私が美の為に造らせた。だが」 
 ふとだ。王は虹から視線を逸らして俯いてだ。そのうえで言うのだった。
「この庭も。所詮は」
「所詮は?」
「大したものではない」
 寂しい顔になっての言葉だった。
「夢のものでしかないのだ」
「夢なのですか」
「そうだ。うたかたの夢だ」
 それでしかないというのだ。
「覚めればそこには空虚があるだけなのだ」
「これだけ美しい世界が」
「模造の建物に絵の具の空に山」
 そういったものを見ながら。話をしていく。
「そして花々はだ」
「この花々もですか」
「鳥達に食べられる。鳥達が食べるのはいいが」
「それでも」
「そうだ。所詮は全てが模造なのだ」
 こう話すのだった。
「空虚なのだ。だが」
「だが?」
「私はその模造を何時か本物の美にしたい」
 ホルニヒにだ。こう話すのだった。
「自然と人工が合さっただ」
「その二つがですか」
「至上の美を実現させたい」
 王は話していく。
 

 

198部分:第十三話 命を捨ててもその十


第十三話 命を捨ててもその十

「必ずな」
「それはどういった美でしょうか」
「どういったものか、か」
「はい、それはどういった美でしょうか」
「そうだな、やはりあの世界だな」
 遠くを見る目になった。ここでもだ。
「白鳥の世界だ」
「白鳥ですか」
「ワーグナーだ」
 ワーグナーの名前が。またしても出された。
「そしてバロックやロココ。そうした世界だ」
「それをですか」
「造り出したい。自然と人工だ」
「その二つを合わせてなのですか」
「模造だけでは駄目だ」
 王は言った。
「自然と融和させて」
「至上の美を造り出す」
「私は。永遠に手にしたかったものを手放さざるを得なかった」
 またしても寂しい顔になる。様々な感情が交差していた。
「だが今度は」
「手放さないと」
「そうしたい。必ずな」
 王は言っていく。話しながらだ。
 自然と散策は終わった。するとだ。
 ホルニヒに顔を向けてだ。そのうえで。
「ホルニヒ、いいだろうか」
「はい、何でしょうか」
「私はそなたが気に入った」
 こう彼に言うのだった。
「だからだ。今日は」
「今日は?」
「共にいてくれるか」
 彼への誘いの言葉だった。
「そうしてくれるか」
「はい」
 ホルニヒの返事はすぐだった。一言であった。
 一言で答えてから。彼は再び王に言った。
「私は陛下の臣です。臣ならば」
「臣下だからか」
「それ以外に理由があっては駄目でしょうか」
 王の前に片膝をついてだ。そのうえで王に言うのだった。
「それでは」
「済まない」
 王はホルニヒのその言葉を汲み取って述べた。
「私は人を避けようとしている。だが」
 それでもだというのだ。人を避けたいと思いながらも。
「それでいて誰かに傍にいて欲しいのだ」
「だからですか」
「そうだ。だからだ」
 それでだと話すのだった。
「そなたに傍にいて欲しい」
「私でよければ」
「不思議なものだ」
 己のその感情について考えてだ。王は言葉を漏らした。
「人を避けたくなっているのに誰かに傍にいてもらいたい」
「感情は二つですか」
「人の感情は一つとは限らないのだな」
 王にもそれがわかった。
「様々な感情が複雑に絡み合う。まるで」
「まるで?」
「ワーグナーの芸術だ」
 まさにだ。それだというのである。
「無限旋律を知っているか」
「確かトリスタンとイゾルデの」
「それだ。あの作品の音楽の旋律はそれだ」
 ワーグナーが開拓した音楽の一つだ。複数の音楽が絡み合い永遠に続くのだ。ワーグナーはトリスタンとイゾルデではじめてそれをしたのだ。
 王はそのトリスタンを思い出しながら。ホルニヒに語るのだった。
「螺旋状に絡み合いそれが続くのだ」
「人の心もですか」
「そうだ。それが続くのだ」
 複雑な絡み合いがだ。永遠にだというのだ。
 

 

199部分:第十三話 命を捨ててもその十一


第十三話 命を捨ててもその十一

「それぞれの中でな」
「それが人の心ですか」
「私もまたそうなのだな」
 自分自身に思いをやった。ここでもだ。
「今もまさにそうだ」
 こう言ってだ。そのうえで。
「では。今からだ」
「この庭園を去られますか」
「私の部屋に行こう」
 王の部屋、そこにだというのだ。
「そして。ワインを飲みながら話そう」
「陛下、それは」
 ホルニヒは顔をあげた。そのうえで王に言った。
「私の様な者が」
「王の部屋に入ってはならないというのだな」
「そうです。恐れ多いことです」
「いいのだ」
 だが、だった。王はそれはだ。構わないというのだった。
 それが何故かもだ。王は今話した。
「私がいいというのだからな」
「だからですか」
「この程度の自由もあるのだ」
「自由がですか」
「自由が許されるなら。使いたい」
 王は言う。その自由についても。
「篭の中の鳥でも。鳴くことやその中を動くことはできるのだから」
「では今より」
「行くとしよう。それではな」
「わかりました」
「立つのだ」
 まだ片膝をついているホルニヒに立つように告げた。
「いいな、立つのだ」
「わかりました。それでは」
「立ちそしてだ」
 どうするかはだ。もう決まっていた。
「私の部屋に入ろう」
「有り難く。お受けします」
 ホルニヒは一礼してから立ち上がった。そのうえでだ。
 二人で王の部屋に向かうのだった。王にとってもホルニヒにとっても。これは運命の出会いだった。そうして一夜を共に過ごしてから。
 身なりを整えた王はだ。部屋のソファーに座ってだ。
 向かい側の席にいるホルニヒに対して言った。彼も身なりを整えている。
 もう朝になっていた。その朝日を感じながらだ。王は彼に話した。
「朝だな」
「はい、夜が終わるのは早いですね」
「夜は。いつもすぐに終わってしまう」
 王は悲しい顔で話す。
「朝はそれに対してだ」
「すぐに来ると」
「そうだ。夜が永遠であればいいのにな」
 悲しさがだ。さらに増していた。
「しかしそうはならない」
「何故夜がお好きなのですか?」
「月の光がある」
 まずはそれだった。月光だというのだ。
「太陽の様に何もかもを照らし出すのではなくだ」
「そうした光ではなくですか」
「月の光は。優しく、そこにいるものを包んでくれる」
 王は月光をそう見ていた。最早姿を消したその光をいとおしく思いながら。そのうえでホルニヒに対して今話すのだった。
「だから好きなのだ」
「そうだったのですか」
「そしてだ。人々の多くが寝静まる」
 今度は夜についての言葉だった。
「企みや噂や醜聞も。そこにはない」
「夜には」
「あるのは清らかな静けさだ」
「人々が眠りそれが訪れるのですね」
「それが夜だ。昼の世界は醜い」
 悲しさに加えて。嫌悪もその顔に浮かべた。
「人々が噂をする。そしてその噂を元に企む」
「それがお嫌なのですか」
「私も。見る」
 他ならぬだ。王もだというのだ。
 

 

200部分:第十三話 命を捨ててもその十二


第十三話 命を捨ててもその十二

「そのことを話し考えてからだ」
「陛下もまた」
「昼には人の目もあるのだ」
「それは」
「何故だろう。これまでは平気だった」
 王の言葉は。既に過去のものになっていた。
「しかし今はだ」
「その目がですか」
「次第にわずらわしく感じてきている。私はいつも見られている」
「それが王ですが」
「私がワーグナーを観る時も」
 即ち歌劇場にいる時だ。ロイヤルボックスにいる王を誰もが観るのだ。
「私は歌手でもなければ役者でもないというのにだ」
「王であるからこそなのですね」
「王は。常に誰かに見られ何かを言われる」
 その王の宿命についてだ。王は束縛を感じていた。
 そしてその束縛を感じ。彼はホルニヒに言うのだった。
「王でなければならない。だが私は」
「その束縛をなのですか」
「何とかしたい。できなくとも」
 こう語った。
「そして。私は必ず」
「必ず?」
「あの芸術を完成させたい」
 夢が語られた。王のその夢が。
「私が手放さざるを得なかった。その芸術を」
「それをなのですね」
「そうだ。私はもう一度手に入れたいのだ」
 願望がだ。その目に宿ってきていた。少年が夢見る様な、そうした純粋な願望がだ。王のその青い目に宿ってきているのだった。
 それを目に込めながら。王はさらに話す。
「必ずだ」
「では陛下」
「何だ?」
「私は。その陛下のお傍にいたいと思います」
 こうだ。忠誠を見せながら告げたのだった。
「そうして宜しいでしょうか」
「私の傍にか」
「はい、陛下のその不安を少しで安らげることができるのなら」
 僭越であるとわかっていてもだ。それでも言うのだった。
「私は。是非」
「そうしてくれるのか」
「それはいけませんか」
「私は気まぐれな男だ」
 その評判もあった。あえてそれをホルニヒに告げたのである。
「それでもいいのか」
「陛下が望まれるなら」
 そうしてくれ。そうした言葉だった。
「是非。そうして下さい」
「わかった。それではだ」
「はい、それでは」
「傍にいてくれ」
 願いだった。その言葉だった。
「私のな」
「有り難きお言葉。それでは」
 こうしてだった。ホルニヒは王の傍に常にいるようになった。周囲は王の新しい愛人だと噂した。しかしだ。それはだ。彼等にとって、運命の出会いであり絆であったのだ。それは彼等だけが知っていることだった。


第十三話   完


               2011・3・6
 

 

201部分:第十四話 ドイツの国の為にその一


第十四話 ドイツの国の為にその一

                第十四話  ドイツの国の為に
 遂にだ。オーストリアとプロイセンの戦争がはじまった。
 それを聞いてだ。ナポレオン三世はほくそ笑んでだ。皇帝の座からこう大臣達に言った。
「この戦争は数年かかる」
「はい、そうですね」
「あの両国が争えばです」
「それは避けられません」
 大臣達もだ。笑みを浮かべながら話す。
「国力が拮抗しています」
「大国同士が戦えばです」
「自然とそうなりますな」
「それは避けられません」
「その通りだ」
 フランス皇帝は笑みを浮かべたまままた言った。笑みでその独特な形にしている髭が普段とは違った形になっているのに気付かずにだ。
「そしてその間にだ」
「我々は勢力を伸ばしますか」
「若しくは。戦争に介入して」
「得られるものを得ますか」
「必要なことはだ」
 フランス皇帝として以上にだ。己のことを考えて言う皇帝だった。
「我々がどうして利益を得るからだ」
「そうですな。近頃何かと五月蝿い輩もいます」
「あのイギリスにいるユダヤ人」
「あの男、何といいましたか」
「ユダヤ人だというのに神を信じぬというあの男」
「確か」
「マルクスといったか」
 皇帝自らだ。この名前を出した。
「そういったな」
「そうでしたな、確か」
「カール=マルクスといいました」
「共産主義がどうとかいう」
「あの男です」
「山師であろう」
 皇帝はこう見ていた。実際にそうしたところが多分にあると言ってもいい男だったのだろう。そうした意味で彼の見方は間違ってはいない。
「あの男はな」
「しかしその山師がです」
「我等に何かと言ってきます」
「そしてそれに知識人達が乗せられています」
「厄介なことにです」
「何とかしなければならん」
 皇帝の言葉と顔が曇る。
「それについてもな」
「それと合わせてですね」
「この戦争を利用する」
「そうするとしましょう」
「是非共」
「少なくとも両国は疲弊する」
 皇帝はこのことは絶対と断言した。
「オーストリアもプロイセンもな」
「かくしてドイツは混迷する」
「東に大きな脅威がなくなる」
「それだけでも有り難いことですし」
「フランスにとっては実にいいことです」
「オーストリアとプロイセンが弱まればだ」
 どうなるか。それがフランスにとって問題であった。そしてだ。
 皇帝はこのことはよくわかっていた。フランス皇帝としてだ。それを認識したうえでだ。今この場で己の大臣達に語るのであった。
「後は我等の相手はだ」
「イギリスです」
 この国の名前が出た。言うまでもなくフランスの宿敵だ。
 その国のことを言うとだ。皇帝の顔が曇った。そしてこう言うのだった。
「私自身はだ」
「ロンドンにおられましたね」
「そうですね」
「そうだ、確かにあの街はいい」
 それはいいというのだ。彼はイギリスに亡命していたことがありその時はロンドンにいた。そこでその緑を見てなのである。
 パリを再開発する時にその緑を取り入れたのだ。そのうえでだ。
 

 

202部分:第十四話 ドイツの国の為にその二


第十四話 ドイツの国の為にその二

 パリをだ。整然とした街並みにもした。ロンドンは彼に多大な影響を与えた。
 その為彼自身はイギリスには悪感情はない。しかしなのだった。
「だがな」
「はい、フランスの為にはです」
「やはり。イギリスはですね」
「乗り越えなくてはならない」
「そういうことですね」
「そうだ。フランスは欧州の盟主にならなくてはならない」
 それは絶対だというのだった。
「何があってもな」
「だからですね」
「イギリスに専念したい」
「あの国を越える為に」
「フランスは何か」
 それも話すのだった。フランス自体のこともだ。
「欧州の盟主になるべき存在だな」
「はい、そうです」
「我がフランスこそはそうあるべきです」
「イギリスでもドイツでもなくです」
「我等こそが」
「叔父上はその為に働かれた」
 ナポレオン一世だ。コルシカに生まれそのうえで欧州を席巻した男だ。 
 皇帝は彼の甥にあたるのだ。叔父のその名声も利用して皇帝にまでなった。その叔父のことはだ。彼は常に念頭にあるのである。
「その叔父上の夢をだ」
「遂に実現しますか」
「いよいよですね」
「そうしますね」
「そうだ、だからイギリスを越える」
 また言う皇帝だった。
「叔父上ができなかったことを私はやるのだ」
「そしてその前にまずは」
「ドイツの脅威をなくしておく」
「今度の戦争を機に」
「そうしましょう」
「まずは様子を見る」
 長い戦争になる。それを確信しての言葉だった。
「そして時としてオーストリアに肩入れをしだ」
「時としてプロイセンにつく」
「そうしていってですね」
「戦いを煽りさらに長引かせ」
「ドイツそのものを疲弊させる」
「力をなくさせる」
 外交の基本である。戦争は多くの力を使う。それもまた前提になっていた。
 そしてその前提を元にだ。彼等は話していくのだった。
 フランスはこの戦いを喜んでいた。しかしであった。
 ベルリンではだ。ビスマルクがフランスのその話を耳にしてだ。嘲笑する様に言うのであった。
「確かにだ。普通に考えればだ」
「この戦争は長くなる」
「そうなるというのですね」
「普通に考えれば」
「普通に考えればだ」
 ビスマルクはこう部下達に話す。
「そうなるものだ」
「しかし普通ではないというのですね」
「この戦いは」
「そうだと」
「私は既に多くの手を打っている」
 ビスマルクは自身に満ちた声で述べた。
「だからこそだ」
「それで、なのですか」
「フランス皇帝の予想を裏切る」
「そうなりますか」
「他人の予想は何の為にあるのか」
 それも話すビスマルクだった。
「それは裏切る為にあるのだ」
「その虚を衝く」
「そういうことですね」
「孫子、清の昔の兵法家か」
 あえて軍人とは呼ばなかった。ビスマルクは清の歴史も知っているからだ。
 

 

203部分:第十四話 ドイツの国の為にその三


第十四話 ドイツの国の為にその三

「その言葉通りだ」
「今回もそうする」
「そういうことですね」
「その通りだ。戦争は長引かせるものではない」
 戦争そのものについても話す。
「短く終わらせるものだ」
「この戦争も」
「そうですね」
「そうだ。そしてだ」
 ビスマルクのその言葉が続けられる。
「戦争の後だが」
「オーストリアからかなりのものを得られますね」
「多くの領土に賠償金」
「それがそのままプロイセンの力になります」
「いいことです」
「いや、それはしない」
 ビスマルクはだ。ここでこう言うのだった。
「オーストリアからはあまり得ない」
「あまりですか」
「得ないと?」
「そうなのですか」
「フリードリヒ大王の様にもしない」
 かつてのプロイセン王がオーストリアからシュレージェンを手に入れたことだ。これがオーストリア継承戦争、七年戦争の主な要因となった。
 この二つの戦争はプロイセンにとってそれまでで最大の危機だった。しかしそれを乗り越えてだ。プロイセンは大国になったのである。
 そのことを話しながらだ。ビスマルクはこれからのことを見ているのだった。
 そしてその見ているものをだ。官僚達に話す。
「オーストリアとは戦い勝つ」
「それは絶対ですね」
「何があっても」
「しかし。それからは手を結ぶ」
 そうするというのだ。
「そうしなければ駄目だ」
「昨日の敵とですか」
「友人になるというのですか」
「普通ではないのか」
 ビスマルクの言葉はここでは平然としていた。
「違うか、それは」
「確かに。その通りですが」
「しかしそこまで考えられてですか」
「戦争をされますか」
「そうだ、戦争とは政治だ」
 素っ気無くすらある今のビスマルクの言葉だった。
「それならばだ。昨日、今日の相手と明日に手を結ぶこともだ」
「普通である」
「そうなのですね」
「これは今の味方にも言えることだ」
 その目が光った。鋭くだ。
「わかるな、それは」
「はい、次の戦争ですね」
「そのことですね」
「参謀総長と話をしておこう」
 その参謀総長のこともだ。話される。
「モルトケ閣下とな」
「あの方は今多忙ですが」
「それでもですか」
「無論今ではない」
 流石にだ。それはないというのだった。
「今は今の戦争に専念してもらう」
「左様ですね」
「そうされますね」
「そうする。だが」
 それでもだと。ビスマルクは考えを巡らせながら述べていく。
「この戦争が終われば。すぐにだ」
「次の戦争にですか」
「モルトケ閣下とお話をされますか」
「ドイツ帝国の為だ」
 あくまでその為だった。ビスマルクはその為に働きその為に戦争を進めて行っている。そこに私めいたものはないのは確かだった。
 

 

204部分:第十四話 ドイツの国の為にその四


第十四話 ドイツの国の為にその四

 しかしそれでもだった。彼はここでまた言うのだった。
「その為には私は何でもしよう」
「では。次の戦争でも」
「仕込まれますか」
「そうだ。色々と考えておこう」
 言いながらだ。ふとだった。
 こんなこともだ。彼は言った。
「あの御仁は確かに謀略を好むが」
「そこがかえってだと」
「そう仰るのですね」
「これも昔の清の言葉だったか」
 またこの国のことが話に出る。
「策士策に溺れるだ」
「それですね」
「そこが狙い目ですね」
「策に溺れる様では駄目だ」
 鋭い目で。それを否定する。
「策略は必要だからこそ行うものだ」
「では。それを好んで使い溺れるのは」
「かえってなのですか」
「破滅の元だ。私はそこを衝こう」
 冷静な声でだ。ビスマルクは述べた。
「次の戦争ではな」
「そして今は」
「どうされますか」
「暫くは軍人の仕事だ」
 彼の手を離れている。そうだというのだ。
「しかしまた私の仕事が来る」
「閣下の」
「そのお仕事がですね」
「戦争を行うのは軍人だ」
 誰もがそう言う、言わずもがなの事実であった。
「しかしはじめるのと終わらせるのはだ」
「閣下のお仕事だと」
「そう仰るのですね」
「その通りだ。それが私の仕事だ」
 まさにそうだと。ビスマルクはそのことを完全にわかっていた。
 そのうえでだ。彼はこの戦争をはじめたのであった。プロイセンとオーストリアの戦争は幕を開けた。そしてそれに対してだ。
 バイエルン、この国はだ。どうかというとだ。
 確かにオーストリアについた。しかしだった。
 兵は動いていなかった。戦争に積極的に加わろうとしない。それを見てだ。
 まず各国の要人達がだ。いぶかしんで言うのだった。
「何っ、バイエルンは動かない?」
「どういうことだ?」
「何を考えているのだ」
「オーストリアについたのではないのか」
「それでもか」
「動かないというのか」
「何故だ?」
 それがだ。彼等はどうしてもわかなかった。
 それでだ。彼等はだった。
 いぶかしんでだ。バイエルンの考えをわかりかねた。そしてその中心にいるとわかっている人物のこともだ。考えられるのだった。
「あの王はどうするつもりなのだ」
「従姉殿がオーストリア皇后だというのに」
「同じカトリックだというのに」
「プロイセンが嫌いではないのか」
「対立していた筈だ」
「それでついたのではないのか」
 これはわかるのだった。
「それで兵を動かさないとは」
「あの王は怖気付いたのか」
 こうした考えも出て来た。
「戦争を好まないというが」
「それでか」
「それで動かないというのか」
「まさか」
 こうした意見も出てだ。やがて。
 その意見は支配的となりだ。王に対する嘲りとなった。
「あの王は腰抜けか」
「ワーグナーと青年にばかりご執心で」
「それで戦争からは逃げる」
「戦いこそ男の仕事だというのにだ」
「それを避ける」
「とんだ王だ」
 そしてこの言葉はだ。バイエルン、彼の国でもだった。
 

 

205部分:第十四話 ドイツの国の為にその五


第十四話 ドイツの国の為にその五

 支配的になっていた。臣民達は呆れながら同じことを言うのだった。
「うちの王様ときたら」
「ここからが肝心なのにな」
「今ミュンヘンにいないんだろ?」
「そうらしいな」
 ここでだ。王がミュンヘンにいないことがだ。話題になった。
「ベルツに行ったらしいな」
「ベルツ?あの保養地にか?」
「戦争がはじまったのにか」
「そうしたのか」
「何でだ?」
 そのことにだ。誰もがいぶかしんだ。
「王様がいないとまずいだろ」
「戦争だぞ」
「この戦争はかなり派手だぞ」
「それで何考えてるんだ?」
「何でベルツなんかに」
「あの王様は何考えてるかわらないけれどな」
「それでも。今はな」
 ないとだ。誰もが思うのだった。
 しかしだ。実際に王はベルツに向かった。そしてだ。
 その場所でだ。日々花火を見ていた。濃紫の夜空に赤や青、緑の大輪が咲き続ける。それを見つつ。王はこう呟くのだった。
「火薬は何の為にあるか」
「それは」
 供をしているホルニヒがだ。ここで言った。
「何の為かといいますと」
「そなたもだろう」
 王は彼が火薬についてどう考えているのか言ってみせた。
「火薬とは銃や大砲の為にあると思っているな」
「はい、確かに」
 王に言われてはだ。彼も否定できなかった。まさにその通りであった。
「それはその通りです」
「そうだな。殆どの者がそうだ」
 王は言った。
「そう思うものだ」
「しかしそれはというのですか」
「そうだ。火薬をそれに使って何にするのだ」
 王の目が悲しいものになる。そのうえでの言葉だった。
「火薬は。こうして」
「花火として使うものですか」
「美に使わなくて何だというのだ」 
 また花火があがった。派手な音を立ててだ。夜空に花を見せている。王は別荘のバルコニーに席を出してそこに座って見ている。
 ホルニヒはその傍らに立っている。そしてなのだった。
「火薬も。他のものも」
「ですが今は」
「わかっているのだ」
 王はホルニヒの言葉に暗い顔になった。
「それはだ」
「では陛下、ここは」
「ミュンヘンに戻るべきだというのだな」
「はい、そうです」
 彼は真剣な顔で王に述べた。
「そうしましょう」
「しかし」
「しかし?」
「それはしない」
 ミュンヘンにはだ。戻らないというのだ。
 そしてだ。王は彼にこう話した。
「むしろそうした方がいいのだ」
「ミュンヘンにいないことが」
「そうだ。ミュンヘンにいれば戦いを指揮せざるを得ない」
 王はその国の軍の最高司令だ。名目上のことでしかないといってもだ。その指揮にあたるということ自体がだ。それが間違いだというのだ。
「それは避ける」
「どうしてもですか」
「確かにバイエルンはオーストリアについている」
 これは絶対のことだった。否定できない。
 

 

206部分:第十四話 ドイツの国の為にその六


第十四話 ドイツの国の為にその六

「それでもだ。この戦争はプロイセンが勝つ」
「間違いなくですか」
「ビスマルク卿は無駄なことはされない」
 ビスマルク個人への敬意はここでも消えていない。
 しかしだ。プロイセンに対してはこう言うのだった。
「プロイセンが勝利を収めようとも」
「そうしようとも」
「あの国の属国にはならない」
 そのことはだ。否定するというのだ。
「幾らあの国がドイツの盟主になろうともだ」
「それでもですね」
「そうだ、それはしない」
 また言う王だった。
「バイエルンは誇りを失ってはならない」
「その為にも今は」
「この戦争は。細心の注意が必要だ」
 政治の言葉だった。まさにだ。
「だから私はここにいるのだ」
「この保養地に」
「確かに戦争は嫌いだ」
 それは否定しなかった。王が戦いを避けこの場所にいるのは紛れもない事実である。しかし理由はそれだけではなかったのだ。
「だが。私が今ミュンヘンにいては駄目なのだ」
「あの町には」
「そうだ。私は戦争を指揮しない」
 そしてだ。さらにだった。
「軍も動かさない」
「それもされませんか」
「オーストリアに対して体面を保つ。それだけでいいのだ」
 これが王の考えだった。
「そうするのだ」
「それだけでいいのですか」
「誰もわかっていないのだな」
 王の目がだ。また悲しいものになった。
 花火を見ながらだ。今は別のもの見ていた。
「私の考えは」
「それは」
「ホルニヒ、そなたはどうなのだ」
 王は彼に顔を向けた。そのうえで彼に問うた。
「そなたは私のことがわかるか」
「御言葉ですが」
 こう前置きしてだ。彼は答えた。
「わかるように努力します」
「そうするのか」
「はい、私は陛下の臣です」
 だからだと。切実な声で話す。
「ですから」
「わかるようにか」
「そうです」
 そしてだ。こうも言うホルニヒだった。
「そして私は」
「そなたは」
「僭越ながら陛下を愛しています」
 このこともだ。言うのだった。
「だからこそ。陛下の全てを」
「いいのか。私は」
 王は一旦は拒む顔になって。彼に述べた。
「ヴィッテルスバッハの者だ」
「王家の方だというのですか」
「この家の血は。狂気を含んでいる」
 言うのはだ。このことだった。狂気のことだった。
「オットーのことは聞いているな」
「噂には」
「我が弟は。最早元に戻らん」
 こうだ。悲しい顔で話すのだった。
「あのまま。狂気の世界の中で住んでいくのだ」
「ですが陛下は」
「私も同じだ」
 彼自身もだ。そうだというのだ。
「私もまた。狂気の中にやがては」
「陥ってしまうと」
「既にそうなのかも知れない」
 未来ではなくだ。現在もではないかというのだ。
 

 

207部分:第十四話 ドイツの国の為にその七


第十四話 ドイツの国の為にその七

「我が血族は。昔から狂気をはらんでいるのだから」
「それは違うと思います」
「違うというのですか」
「そうです、違います」
 切実な、澱みのない声でだ。ホルニヒは話すのだった。
「陛下は。ヴィッテルスバッハはです」
「狂気を持ってはいないか」
「人は悲しいものです」
 彼はだ。自然と思うままの言葉を出していく。
 それは王への言葉だ。それを出していくのだった。
「己と違うもの、理解できないものを狂気とみなしてしまいます」
「では私は」
「そうです。狂気ではありません」
 だからだというのである。
「だからこそ。私は」
「私を理解したいのか」
「確かに狂気はあります」
 それがこの世に存在することを否定することはしなかった。これはホルニヒもわかっていた。狂気は確かに存在するのである。
 しかしだ。王はだ。どうかというのだ。
「ですが陛下にもヴィッテルスバッハにもです」
「狂気はない」
「はい、ありません」
 こう話すのだった。
「決してです」
「ならいいのだがな」
 王は言うのだった。僅かに安堵した顔でだ。
「私が狂気の中になければ」
「狂気に陥っている方がです」
 どうなのか。ホルニヒはそれも話す。
「今こうして戦いを悲しまれるでしょうか」
「戦いをか」
「陛下は戦いを悲しまれますね」
「血は好きではない」
 実際にだ。そうだと述べる王だった。
「人が無駄に死ぬ。そしてそこには剥き出しの醜さがある」
「だからですね」
「そうだ、だからだ」
 これがだ。王が戦いを嫌う理由だった。
 それを話してだ。彼はさらに述べた。
「戦いは何も生み出さない。決してな」
「そうしたお考えがあるからです」
「私は狂気に陥ってはいないか」
「その通りです。ご安心下さい」
「わかった。ではそなたのその言葉」
 穏やかな微笑みになってだ。王はホルニヒに話した。
「信じさせてもらう」
「そうして頂ければ何よりです」
「狂気だと思うのも駄目か」
 王はふと言った。こうだ。
「気持ちが沈んでしまうばかりか」
「はい、それよりも」
「花を見るとするか」
 王の考えが移った。そこにだ。
 夜空を見る。そこにはだ。
 花が咲いていた。今は白い花々が咲いている。それを見てだ。
 彼はだ。その夜空の白い薔薇を見ながら。あらためてホルニヒに話した。
「次の花はだ」
「次はですか」
「青い花だ」
 微笑んでだ。こう言うのだった。
「青い花が夜空に咲く」
「陛下は青がお好きですね」
「この世で最も好きな色だ」
 微笑のまま話した言葉だった。
「それにバイエルンの色だからな」
「そうですね。確かに」
「バイエルンの青。ヴィッテルスバッハの色」
 こう言っていく。
「だからだ。私は青を愛する」
「空も湖も青ですね」
「自然の色でもある。そして」
「そして?」
「ワーグナーの色でもある」
 ここでもだ。ワーグナーの色はそれだというのだ。
 

 

208部分:第十四話 ドイツの国の為にその八


第十四話 ドイツの国の為にその八

「白や銀色もあるがだ」
「ワーグナー氏はまず青ですか」
「そうだ、青だ」
 また言う王だった。
「青がまずあるのが彼の世界なのだ」
「青が最初に」
「ローエングリンが出る時にだ」
 白銀の騎士、しかしだというのだ。
「全てが青く染められてしまう」
「暗鬱だったものがですね」
「そうだ、全てがそうなる」
 清らかな青に。変わってしまうというのだ。
「英雄達は全てを清らかな青に変えるのだ」
「その色が青ですか」
「青は清らかなものだ」
 王のイメージの中でのことを。そのまま話すのだった。
「その青に変えてくれるのが英雄だ」
「タンホイザーにローエングリン」
「トリスタンもだ」
 まずはこの三人が挙げられる。そしてさらにだった。
「これから出て来る者達もだ」
「ヴァルターにジークムントですか」
「それにジークフリートだ」
 彼等もだというのだ。
「彼等もまたそうなのだ」
「全てを清らかな青に変える存在ですか」
「そうだ。ただしだ」
「ただ?」
「それができるようになるには一つのことが欠かせない」
 こんなことも言う王だった。
「一つのことがだ」
「それは何でしょうか」
 ホルニヒはその欠かせないものが何かを尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
 王との話は彼にとっては無限に引き込まれるものだ。だからだ。
「欠かせないものとは」
「救済だ」
「救済?」
「そうだ、救済だ」
 それだというのである。
「愛による救済だ」
「それが欠かせないのですか」
「そうなのだ。英雄が英雄となり」
 さらにだった。
「そして世界を清らかな青に変える為にはだ」
「愛による救済が必要なのですか」
「その英雄を救うな」
 世界を救う英雄をだ。救うものがだというのだ。
「それは女性的なものなのだ」
「女性ですか」
「私は女性を愛せない」
 それはどうしてもだというのだった。
 王はこれまで女性を愛したことがなかった。そしてだ。
 そのことについてだ。王はさらに話した。
「何故かはわからないが」
「といいますと」
「私は女性に自分と同じものを感じる」
 戸惑いを見せた顔での言葉だった。
「だからだ。女性は」
「愛せませんか」
「拒んでしまう」
 そうなってしまう、それが王だった。
「私は男であり女性を愛するものの筈だが」
「しかし女性は」
「愛せない。鏡に映る自分は愛せる」
 それはできてもだ。しかしなのだった。
「だが。女性は」
「愛せない」
「何故かわからない。私はローエングリンの筈であり」
 男だからだ。それに違いないというのだ。
 

 

209部分:第十四話 ドイツの国の為にその九


第十四話 ドイツの国の為にその九

「ワーグナーを救った」
「そうですね。あの方をこの国に呼んで」
 これはホルニヒだけでなく誰もが知っていることである。ドイツの誰もが。バイエルン王のワーグナーへの唯ならぬ耽溺はなのだ。
「そうして」
「ワーグナーの世界を救ったのは」
「それは英雄ですね」
「ローエングリンの筈なのだ」
 そうに違いないと思った。だが、なのだった。
「しかし。それでも」
「陛下は女性を」
「エルザを愛せる筈なのだ」
 ローエングリンのそのヒロインだ。ブラバントの姫だ。ローエングリンの救済を受けその妻となるが禁を破ってしまう乙女である。
「だが。どうしても」
「やがて変わるのでは?」
「変わるというのか」
「はい、時が来ればです」
 ホルニヒの今の言葉はあえての慰めだった。
「陛下も。女性を必ず」
「だといいがな」
「ですからそのことは考えられずとも」
「そうか。ならいいがな」
「はい、それでは」
「私は今は」
「今は?」
 王の言葉に問うた。その言葉に。
「どうされますか」
「その時が来るのを待とう」
 王の言葉はこれだった。そうしてだった。
 遠い目でだ。また話した。
「エルザを迎えに来る時をな」
「そうされますか」
「そうする。そしてさらにだ」
 王は言葉を続ける。自然に。
「この戦争の間はここに留まる」
「そうされますか」
「そうしよう。戦争はどうしても好きになれない」
「陛下は。確か」
「確か?」
「赤十字というものに注目されていましたね」
 ホルニヒはこのことも話に出した。
「そうですね」
「そうだ。私は実際に」
「あの赤十字に注目されていますか」
「戦いでは人は傷つく」
 そして死ぬ。そうなることをわからない者はいない。
「しかしその傷を癒せる者がいれば」
「その者を支持したいのですか」
「そうだ、そうしたい」
 こう言うのだった。
「そうした者がいてもいい」
「アンリー=デュナンでしたね」
「人は彼を荒唐無稽と言うな」
「そう言う者もいるのですね」
「ドン=キホーテだと」
 あの己を騎士と思い込んだ道化だというのだ。
「だがその道化が」
「大きな力になるのですね」
「道化が道化でなくなるのだ」
 こうも言うのであった。
「道化は。人が道化と思うから道化であり」
「人が思わなければ」
「もう道化ではない」
「では何でしょうか」
「英雄なのだ」
 それであると。王はホルニヒに話す。
「彼は英雄になるのだ」
「なれるのではなく」
「戦場で傷ついた者を助ける。それは英雄なのだ」
「英雄は戦争で勝利を収める者ではないのですか」
「戦争で生み出されるものなぞ」
 それはどういったものか。王はそのことも話す。
 

 

210部分:第十四話 ドイツの国の為にその十


第十四話 ドイツの国の為にその十

「そんなものは。芸術や傷ついた者を救うことに比べれば」
「小さいですか」
「些細なものだ」
 戦争について王は。その程度のものだと考えていた。
 しかしだ。その彼については。王はそうした目を向けているのだった。
「きっと。彼は多くのことを成し遂げる」
「傷ついた者を救い」
「それはやがてわかる。わからなければ」
「わからなければ?」
「人は過ちを犯す」
 そういうものだと。王は話すのだった。
「それも。あってはならない過ちだ」
「そこまでのものですか」
「私は。彼を信じている」
 そのデュナンをだというのだ。
「多くの者が彼によって救われるのだ」
「だからこそ支持されるのですか」
「本当の騎士とはそうではないだろうか」
 遠くにある、今は幻想と思われている国を見ながらの言葉だった。
「剣で勝利を収めるよりも」
「誰かを救う」
「そうではないだろうか」
「そういえばローエングリンも」
「確かに剣は持っている」
 それにより勝利も収める。しかしだというのだ。
「だが、彼は救うな」
「はい、エルザ姫と彼女の弟を」
「英雄は人を救うものだ」
 それこそが英雄だというのだ。
 そしてだ。王はまたそこに付け加えた。
「そしてその英雄を救う存在が」
「女性ですか」
「だが私は女性を愛せない」
 そのことに至る。再びだった。
「何故だ。何故私は」
「陛下、今は」
「わかっている。言っても仕方のないことだ」
 目の光が弱まる。その表情も。
 憂いのあるものになってだ。その中での言葉だった。
「では今は」
「この花火をですね」
「見るとしよう」
「花は。自然にあるものだけではないのですね」
 ホルニヒはだ。そうしたことも話した。
「こうして。夜空にも」」
「そうだ。花は造り出せる」
 王は話す。花のことを。
「人は花を造り出せるのだ」
「花火もまたですか」
「花火だけでもなく。人の手で造り出せる花は多い」
「人の持つ力で」
「人の力は。そういうものに対して使われるべきだ」
 これが王の考えだった。その中には。
「科学もまた」
「あの。世の中を変えたものも」
「その為にあるものだ。何もかもな」
「では陛下、今は」
「見ていよう」
 また花火があがった。今度は赤と青だ。
 その二色の百合を見ながらだった。夜空の百合を。
「こうして。二色の百合も生み出せるのだから」
「わかりました。では私は」
「その私の傍にいてくれるか」
「陛下がお望みとあらば」
 片膝をついて。心からの忠誠を述べた。
「そうさせて頂きます」
「わかった。ではこれからもな」
「はい、これからも」
「供にいてくれ。私は一人でいたいことが多いが」
 それでもだというのだ。相反するものがここで語られる。
「一人では。いられないのだ」
「人が必要ですか」
「勝手だな」
 自嘲だった。その感情だった。
「一人でいたいのに。一人を嫌うとは」
「それは」
「そして。女性を認めながら女性を嫌う」
 そのことも言ったのであった。またしても。
「私はおかしな人間だ。人が私をおかしいと言うのも」
「陛下、それは」
「言うべきではないか」
「はい」
 まさにだ。その通りだというのだ。
「そうです。それは」
「わかった。では言わないことにしよう」
「そうして頂けると宜しいかと」
「そうだな。私は多くのことを言うべきではない」
 王として。そう思ったのである。
「むしろ何も言わない方がいいのだろうな」
「何もですか」
「そうだ。だが」
「だが?」
「そなたには言いたいと思った」
 そうなったというのである。
「少しな」
「私にはですか」
「ホルニヒ」
 彼の名前も呼んだ。ここで。
「これからもそうさせてもらう」
「有り難うございます」
「では。今はだ」
「はい、今は」
「花達を見よう」
 こう彼に述べた。
「静かにな」
「わかりました。それでは」
 今はだ。戦争を避け花火を観る王だった。刻一刻と変わっていく状況の中でもだ。彼はそうしていたのだ。まるで事の成り行きがわかっているかの様に。


第十四話   完


                  2011・3・14
 

 

211部分:第十五話 労いの言葉をその一


第十五話 労いの言葉をその一

             第十五話  労いの言葉を
 ミュンヘンでは。相変わらずのことになっていた。
 王がいないことにだ。誰もが暗澹としていた。
「戦争の指揮にあたられないとは」
「大公に指揮を任せられるのか、このまま」
「もうあの方は御高齢だというのに」
「それでもとは」
「陛下は何を考えておられるのだ」
 こうそれぞれ言うのだった。
「バイエルンが今動かずしてどうする」
「今はオーストリアと共にプロイセンを討つ時だぞ」
「それで何故だ」
「何故王がミュンヘンにおられぬのだ」
「何を考えておられるのだ」
 こう次々に言っていく。しかしだ。
 叔父のルイトポルド公は悲しい目で。親しい者達にこう漏らした。
「王に述べる言葉ではない」
「そう言われますか」
「その様に」
「そうだ、我が甥にして王は」
 彼をだ。そう呼んでの言葉だった。
「考えあってああされているのだ」
「このミュンヘンにおられない」
「そうなのですか」
「確かにあの方は戦争は好まれない」
 公もそれは否定しなかった。幼い頃から見ている甥の性格は知っている。
 しかしだ。それでもだと言うのである。
「だが。それだけではない」
「王が今ミュンヘンにおられないのは」
「王のお考えがあって」
「だからだと」
「だからだ。今は何も言わないことだ」
 これが公の考えであった。
「それにあの方は」
「あの方は」
「といいますと」
「繊細な方だ」
 このこともよくわかっていた。実にだ。
 それもだ。公は話していく。
「非常にだ」
「それは知っています」
「王のそうした御資質は」
 周りもこう答える。しかしであった。
 公はだ。悲しい顔を左右に静かに振って。こう述べるのだった。
「いや、あの方の繊細さは」
「それはですか」
「どうだと」
「卿等が考えている以上のものだ」
 こう言うのである。
「触れただけで壊れてしまいそうな繊細さなのだ」
「ガラスよりもですか」
「それよりも」
「そうだ。何よりも繊細なのだ」
 それがバイエルン王の心だというのである。
「少しの噂や。中傷がだ」
「あの方の御心を傷つけてしまう」
「そうなのですか」
「だから。その繊細な御心を害するのは止めるべきだ」
 これが公の御考えだった。王をよく知っている彼のだ。
「王であるが。それでも」
「言葉をですか」
「注意して」
「そうしなければならないのだ。しかしそのことは」
「誰もわかっていない」
「そうだと」
「このままではよくない」
 公は悲しい顔のまま話す。
「やがて。大変なことになってしまうかも知れない」
「この戦争ではなくですか」
「陛下が」
「私では。王の御心を救えない」
 叔父である彼にもだ。完全にはというのだ。
「見守るだけしか。それだけしかできない」
「しかし何とかしなければならない」
「そうなのですね」
「その通りだ。そしてこの戦争だが」
 今の戦争についてもだ。話されるのだった。
「我が国は確かにプロイセンへの反感が強い」
「それも非常にです」
「どうしようもないまでにです」
 これはだ。そのままドイツの南北の対立、そしてプロテスタントとカトリックのだ。実に根深い対立がそこには存在しているのである。
 

 

212部分:第十五話 労いの言葉をその二


第十五話 労いの言葉をその二

「だからこそです」
「我々も戦っているのです」
「バイエルンも」
「そうだ。だがそれは」
 どうかと。公は話すのだった。
「果たして正しいのか」
「プロイセンと戦うことがですか」
「果たして」
「そしてだ」
 公の言葉は続く。
「オーストリアにつくしかないな」
「はい、我々はです」
「選択肢はそれしかありません」
「一つしかです」
「だからオーストリアについて戦っている」
 それでもだとだ。言葉が続く。
「しかし。若しプロイセンが勝てば」
「その場合は我が国は危うい」
「そうだというのですね」
「下手をすれば目の敵にされてしまう」
 こう危惧するのだった。
「それも避けたいが」
「ではです」
「この場合はどうすればいいのですか?」
「一体」
「あの方が正しいのかもな」
 公は考える顔で述べた。
「ここはな」
「陛下がですか」
「正しいというのですか」
「今は」
「どうなるかはわからない」
 公もだ。この戦争がどうなるかというとだ。わかりかねていた。
 しかしだ。このことは彼にもわかった。それで言うのであった。
「だが。プロイセンはだ」
「強いですね」
「思えばオーストリア継承戦争の頃からです」
「強いです」
「しかもだ」
 今のプロイセンはそれに加えてであった。
「今のプロイセンにはビスマルク卿がいる」
「あの鉄血宰相がですか」
「プロイセンにおられると」
「そうだ、これは大きい」
 また言う公だった。
「あの御仁は恐ろしいまでに切れる」
「今回の戦争を仕組んだのはあの方ですが」
「その方がですか」
「おられるからこそですか」
「そうだ、そしてだ」
 さらにだというのだ。公はビスマルクだけを見てはいなかった。
 それに加えてだ。もう一人いるというのだ。
「プロイセンの参謀だが」
「モルトケ将軍ですか」
「あの御仁もまたですか」
「大きいと」
「今のプロイセンは軍の強さだけではない」
 それに留まらない。それが今のプロイセンだというのだ。
「その人もだ」
「無視できない」
「決してですね」
「その通りだ。オーストリアは果たしてどうなるか」
 その彼等と戦うオーストリアの行く末がだ。案じられた。
「それが問題だ」
「それ次第によっては我が国もですね」
「どうなるかわからない」
「そうですね」
「そうだ。果たしてどうなるか」
 公の憂いの言葉が続く。
「我々にはわからない」
「陛下はどう思われているでしょうか」
「それが一番気になりますが」
「一体」
「それが最もわからないが仕方がない」
 公は憂いのある顔のままで話す。
「陛下を信じよう」
「臣民として」
「そうしてですか」
「それしかない。それではな」
 こう話してだった。彼等は今はバイエルンの行く末を案じるしかなかった。だが肝心のバイエルン軍は動かない。戦争に加わらないのだ。
 

 

213部分:第十五話 労いの言葉をその三


第十五話 労いの言葉をその三

 そのことに前線は戸惑っていた。呆然とさえしている。
「まだ前進命令は出ないのか」
「何故だ、戦うのではないのか」
「どうしてだ、何故プロイセンと戦わない」
「それをしないというのか」
「陛下は何を考えておられるのだ」
 ここでもだ。王に対する疑問の言葉が出た。
「何故動かれない」
「何もされない」
「ミュンヘンにもおられないというが」
「どういうおつもりか」
 こうだ。兵士達だけでなく将校達もいぶかしんでいた。
 そして将軍達もだ。戸惑いを隠せず話をするのだった。
「ベルクで花火を見られ続けているのか」
「花火もいいが今は戦争だ」
「戦争をしているというのに」
「何故ミュンヘンにもおられないのだ」
「何を御考えか」
 こうだ。会議の場でも困惑の声ばかりが出る。
「まさか戦争が今終わるとは思わないが」
「それはない」
「絶対にない」
 この戦争が長期戦になるとの判断は将軍達も同じだった。
「しかし。だからといってだ」
「その通りだ。このまま何もしないでいるのは駄目だ」
「オーストリアに面目が立たない」
「それにだ」
 彼等はオーストリアが勝利を収めることを前提として話をするのだった。
「勝った後での見返りも要求できない」
「何もしないではだ」
「陛下はそれをわかっておられるのか」
「前線を視察してもらいたいとまでは言わないが」
 王がそれをするとは考えずにだ。彼等はそこまでは言わないことにした。
 しかしだ。せめてだというのであった。
「だが。それでもせめて」
「ミュンヘンにいて頂きたいのだが」
「それだけでもされれば」
「そうしてもらいたいのだが」
 こう話すのだった。しかしだ。
 ここでだ。彼等のところにだ。驚くべき報が来た。
 若い将校の一人がだ。狼狽しながら部屋に入って来た。そしてだ。
 彼はだ。慌しい敬礼の後でだ。将軍達に述べた。
「大変なことが起こりました」
「大変だと?」
「一体何があった」
「まさかどちらかが」
「いえ、陛下です」100
 将校は何とか落ち着きを保ったまま話す。
「陛下が。来られました」
「馬鹿な、ここにか」
「陛下が来られたのか」
「それはまことか」
「はい、そうです」
 その通りだと答える将校だった。
「この場にです。来られました」
「そんな筈がないが」
「陛下はベルクにおられるのではないのか?」
「それでなのか」
「この場に来られるなぞ」
 有り得ないとだ。誰もが思った。しかしだ。
 ここでだ。その王がだ。青と銀色のバイエルン軍の軍服を着て姿を現したのであった。
 それを見てだ。将軍達はあらためて唖然となった。
「馬鹿な・・・・・・」
「本当に陛下が来られるなぞ」
「戦いはお嫌いではなかったのか」
「それで何故だ」
「どうしてだ」
 こう言い合う。その彼等にだ。
 王はだ。静かにこう言うのであった。
「それではだ」
「は、はい」
「ようこそ来られました」
 将軍達は我に返った。そうしてである。
 敬礼をしそのうえでだ。王に問うのである。
「それで今回はどうしてここに」
「この戦場に来られたのですか」
「一体どうして」
「兵達を見たいのだ」
 戦場とは思えない優雅な声での言葉であった。
 

 

214部分:第十五話 労いの言葉をその四


第十五話 労いの言葉をその四

「我がバイエルンの兵達をだ」
「では視察ですか」
「それをされるというのですね」
「そうだ。その通りだ」
 こう答える。そうしてだ。
 王は早速兵達の視察をはじめた。馬に乗り将軍達を従えだ。
 その王の姿を見てだ。兵達は将軍達以上に驚きの顔を見せた。
 そうしてだ。こう口々に言うのであった。
「陛下が!?」
「まさか来られるとは」
「嘘ではないのか」
「夢ではないな」
 我が目を疑う者さえいた。
 だが、だ。王の姿を見ていてだ。彼等は。
 次第に彼等の王に対してだ。こう言うのであった。
「バイエルン王万歳!」
「バイエルン万歳!」
「バイエルンに栄光あれ!」
「この世に勝利を!」
 こうだ。口々に言うのである。
 諸手を挙げてだ。そうしてである。
 彼等は爆発的な歓呼の声をあげて。王を迎える。彼等の士気は最高にまで高まった。
 王はその彼等を見回る。その王を見てだ。
 将軍達はだ。戸惑いながら話すのだった。
「兵達の士気が再考にまで高まったな」
「そうだな、想像以上だ」
「ここまで高まるとなると」
「いけるか」
「そうだな。戦える」
「勝てるぞ」
 勝利さえ予感した。その士気にだ。
 それでだ。王に対して進言したのであった。
「陛下、今です」
「今こそです」
「攻撃命令を」
「それを」
「いや、私はだ」
 ところがだ。王は後ろに控える彼等にこう返すのだった。
「これでいい」
「これでいいとは」
「一体?」
「どうされるのですか」
「ベルクに戻る」
 こう言うのである。
「そうさせてもらう」
「えっ、ここでなのですか?」
「まさかとは思いますが」
「攻撃命令を出されないのですか」
「軍を動かされないのですか」
「そうだ、これでいいのだ」
 また言う王だった。
「それではな」
「あの、しかし」
「今兵を動かせばです」
「プロイセンを倒せます」
「それができます」
「一つの戦場ではそうかも知れない」
 王は戦場でもだ。その遠い目を見せた。
 そしてその目でだ。将軍達に話すのだった。
「だが、それでもだ」
「あの、とにかくです」
「軍は動かされないのですね」
「そうなのですね」
「その通りだ。それはしない」
 はっきりと言ってだ。それをしないというのだった。
 そしてだ。彼はだ。
 踵を返す様にして軍の野営地を後にした。絵画を思わせるその見事な視察は瞬く間に終わった。そうしてなのであった。
 王はベルクに戻った。そこでまた花火を観て音楽を聴く。そうしてだ。
 ホルニヒにだ。こう言うのであった。
「これでいいのだ」
「あの、視察だけでなのですか」
「そうだ、それでいいのだ」
 彼にもだ。こう言うのである。
「これだけでいいのだ」
「やはり兵は動かされないのですか」
「動かしてはならない」
 必要がないのではなかった。してはならないというのだ。
 

 

215部分:第十五話 労いの言葉をその五


第十五話 労いの言葉をその五

「このままでいるべきだ」
「今戦争は」
「オーストリアにとって不利になってきているな」
「はい」
 その通りだった。今はだ。
 オーストリア軍は各地で敗れ続けていた。モルトケの作戦と鉄道を使った群の集中運用の前にだ。敗北を重ねていたのである。
 誰もが予想しなかったまでにだ。彼等は敗れていた。
 そして遂になのである。
「サドワに両軍が集まっています」
「あの場所にか」
「ここで決戦でしょうか」
「そうだな。あの場所でおおよそのことが決まるな」
 白い花火を見ながら話すのである。
「この戦争がだ」
「何年もかかると思われていましたが」
「いや、短くなると思っていた」
「陛下はですか」
「そうだ、思っていた」
 王はだ。そう見ていたというのである。
「少なくとも三ヶ月もかからない」
「そこまで短いのですか」
「戦争は長引かせるものではない」
 戦いは嫌いでもだ。それはわかっているのだった。
「決してだ」
「ではプロイセンは一気にウィーンまで」
「いや、それはない」
「ウィーン入城はありませんか」
「そこまですれば取り返しがつかない」
「取り返しとは?」
「そうだ、取り返しがつかなくなる」
 こうホルニヒに話すのである。
「そこまですればな」
「戦争をしているのにですか」
「戦争は政治だ」
 ここで王は言った。このことをだ。
「政治ならだ。ある程度で折り合いをつけなければ駄目だからだ」
「それでなのですか」
「そうだ。プロイセンはオーストリアを破っても」
 それでもだというのだ。先を見据えながら。
「オーストリアからは多くを手に入れない」
「多くを」
「決してな。むしろだ」
「むしろといいますと」
「オーストリアが驚く様なことになる」
 こうだ。王は言うのであった。
「そうしたことになる」
「オーストリアが驚くとは」
「ビスマルク卿は今は好戦的だ」
 あくまで今に限っている。現在にだけだ。
「だが。目的を果たせばだ」
「それが変わるのですか」
「そうだ。戦争は何の為にあるか」
 それだった。問題はだ。
「それは政治的な目的を達成する為なのだ」
「戦争に勝利をすることではないのですね」
「そうだ。目的を果たす為だ」
 あくまでだ。その為だというのだ。
 そしてだ。王はさらに話すのだった。
「今の戦争もだ」
「今のプロイセンの目的は」
「オーストリアに勝利することではない」
 それよりだ。先にあるというのだ。
「ドイツを築くことだ」
「ドイツを一つの国にする」
「それなのだ。オーストリアとの戦争はその為に必要なのだ」
 遠くを見てだ。そのうえでの言葉だった。
「一旦あの国をドイツから排除しなければならないのだ」
「一旦ですか」
「そうだ、一旦だ」
 あくまでだ。それは一時的なものだというのである。
 王はだ。さらに話すのだった。
 

 

216部分:第十五話 労いの言葉をその六


第十五話 労いの言葉をその六

「だが。プロイセンはオーストリアを必要としているのだ」
「必要としているのですか?」
「そうだ、ドイツ帝国を築く」
 それからだ。先があるというのだ。
「築いた後でだ。ドイツは一国では成り立たない」
「ドイツだけでは」
「それだけでは成り立たない。同盟国が必要なのだ」
「だからオーストリアがですか」
「必要だ。そして」
「そして?」
「他にも。国が必要だ」
 さらにだというのだ。
「イタリアもだな」
「今統一に向かっているあの国もですね」
「そのうえで一つになる必要があるのだ」
 こう話す。王は遠くを見ながら話すのだった。
「ドイツは統一してからが問題だ。それでだ」
「オーストリアに対しては」
「多くを要求しない」
 勝利してもだというのだ。
「そして」
「そして?」
「我が国もだ」
 そのだ。バイエルンもだというのである。
「我がバイエルンもだ」
「まさか今軍を動かされないのは」
「今バイエルンがしなければならないことは」
 それはだ。何かというのだ。王がこの戦争の前から考えてそして行っていることは何か。それを今はじめて話すのであった。
「まずはオーストリアに対して外交的な誠意を尽くすこと」
「まずはそれですか」
「体面とも言うが」
 ここで表情を暗くさせもした。
「それを見せることだ」
「左様ですか」
「そしてだ」
 さらにだった。もう一つのことも話した。
「プロイセンの属国になってしまうことだ」
「それもですか」
「そうだ。それもあってはならない」
 こう言うのであった。
「必ずだ」
「そうなのですか」
「そうだ、絶対にだ」
 王はだ。また言うのであった。
「その二つを同時に果たさなければならないのだ」
「難しい問題ですね」
「そうだ。だが」
「だが?」
「私はそれを果たさなければならない」
 義務だとだ。そうだというのだ。
「双方をだ」
「オーストリアとプロイセンに対して」
「確かに私はオーストリアが好きだ」
 個人的な。その感情も話す。
「しかし。プロイセンは強い」
「勝つというのですね」
「その場合バイエルンはどうあるべきか」
 話はそこに至った。彼の国についてだ。他ならぬ。
「それを考えればだ」
「軍を動かさないのですね」
「それしかないのだ。オーストリアにつきだ」
 そうしてだ。動かない。それが王の考えであった。そして実行していることだった。
「今の様にするのだ」
「そうだったのですか」
「わかっている者は。少ないがな」
 寂しい笑みでだ。今の言葉を出した。
「それをな」
「確かに。実は」
「そなたもだったか」
「申し訳ありません」
「いや、正直に言えばいい」
 それでいいとだ。王は微笑んで言葉を返したのだった。
「私は嘘は嫌いだ」
「左様ですか」
「嘘は。人の心を蝕む」
 嘘については。嫌悪ではなくだ。悲しみを見せる。だが今はそのことはこれで終わらせてである。王はさらに話をするのであった。
「それでだが」
「その戦争のことですね」
「そうだ。この戦争のことはわかっていた」
 そうだというのである。
「プロイセンが勝つのだ」
「短期にですね」
「しかしオーストリアは多くを失わない」
 それはないというのである。
 

 

217部分:第十五話 労いの言葉をその七


第十五話 労いの言葉をその七

「ビスマルク殿はこれからのことを考えておられるからな」
「だからですか」
「そうだ。これにはオーストリアも驚く筈だ」
 そしてだ。さらに話すのだった。
「我がバイエルンもだ」
「だからこそ動かれなかったのですか」
「確かに戦いは嫌いだ」
 王自身のその嗜好も見せはした。
「剣を嗜むのならともかく。銃や砲はな」
「それはですか」
「そうだ、好きではない」
 こう言うのであった。
「だがそれ以上にだ」
「バイエルンの為にですか」
「私はそうしたしそうしている」
 兵を動かさないこと、それがだというのだ。
「ここで派手に動き戦っていればビスマルク殿も断固とした処置を取らざるを得なくなるのだ」
「そのこともわかっておられるのですか」
「不思議なことにだ」
 前置きしてから。そのうえでの言葉だった。
「私はあの方の思考がわかるのだ」
「ビスマルク殿の」
「そうだ。あの方も同じだろう」
 ビスマルクもだというのだ。王の考えがわかるというのだ。
「私達は心の奥底で同じかも知れない」
「陛下とビスマルク卿が」
「ただ。あの方は昼の世界におられる」
 そちらの世界にだ。彼はいるというのだ。
 しかし王自身はだ。どうかと話すのである。
「だが。私は」
「陛下は」
「私は夜の世界に入ろうとしている」
 その世界にだ。入ろうとしているというのである。
 こう話してだ。王は実際にその顔にだ。
 夜を漂わせた。そのうえでの言葉だった。
「その深い夜の世界に」
「その世界になのですか」
「昼、企み深い昼」
 トリスタンとイゾルデの言葉だ。その言葉が自然に出た。
「その昼よりも夜の世界にだ」
「入られたいのですか」
「どうなるかわからない。それでもだ」
 どうかとだ。王は話していく。
「私は夜を愛しはじめているのだ」
「そういえばワーグナー氏の作品は」
「夜だな」
「はい」
「夜にこそあらゆることが起こるな」
「不思議なことに」
「そうかも知れない。夜にこそ人は本当の姿を現すのかも知れない」
 王はここでも遠い目になってだ。そうして話すのだった。
「しかしそれを覆い隠してくれるのがだ」
「夜ですか」
「そうだ、夜だ」
 その夜だというのである。
「夜はそうしてくれるものなのかもな」」
「だからこそですか。陛下は」
「若しかしたらな」
 王は話す。そうしてだ。
「私はその夜に入っていくのだろうか」
「昼と夜は」
「全く違う。私は昼を愛せなくなってきた」
 太陽を。それをだというのである。
 そうした話をしていって。やがては。
 王はだ。ふとだ。考えを変えた顔になって述べたのだった。
「さて、それではだ」
「どうされますか、これから」
「花火はもういい」
 それはだ。もういいというのだ。
 

 

218部分:第十五話 労いの言葉をその八


第十五話 労いの言葉をその八

 こう述べたうえでだ。王はホルニヒに対して述べた。
「今からワインを嗜むとしよう」
「ワインですか」
「そうだ、それを飲もう」
 今度はだ。それだというのだ。
「それをな。どうだろうか」
「それでは」
「そなたも付き合ってくれるか」
「陛下がお望みとあれば」
 こうだ。あらたまって述べるのだった。
「私も」
「済まないな。それではな」
「いえ、私は」
「そなたは。私には媚びてはいないな」
 それはわかるのだった。王はそうしたことを見抜けた。少なくともだ。彼は己の周りにだ。媚びや追従を置く様なことはしてはいない。
「それでいいのだ」
「左様ですか」
「媚も嘘なのだ」
 そうだというのである。
「本心を偽っているのだ」
「だからこそですか」
「私は媚を厭う」
 そのことをだ。はっきりと述べたのである。
「それよりも本心をだ」
「愛されますか」
「だからだ。今は二人で飲もう」
 ここまで話してだ。あらためてホルニヒに告げた。
「いいな、それで」
「それでは」
 こうしてだ。王はホルニヒと共にかけがえのない時間を過ごしていた。そうしているうちにだ。戦争は決定的な局面を迎えたのだった。
 サドワにおいてだ。ビスマルクがだ。プロイセン王に対して話していた。彼は王と共にだ。この戦場に来ていたのである。
 彼は己の主にこう告げていた。
「この戦場では勝利を収めます」
「そう言えるのだな」
 今彼等の目の前で両軍が戦っている。戦局はオーストリア軍に有利となっている。それを見てである。王はビスマルクに対して謹厳な顔で問うたのである。
「確かに」
「はい、申し上げることができます」
 ビスマルクは毅然として答えた。
「何度でも」
「ではそう言える訳を聞こう」
 プロイセン王は表情を崩さずビスマルクに問うた。動くのはその見事な髭だけである。
「それは何故だ」
「私は先程参謀総長に葉巻を渡しましたが」
 モルトケも来ているのだ。彼は今戦場を見据えている。顔はそこから離れることはない。鉄の如き表情でだ。自軍の戦いを見守っているのだ。
 その彼を見ながらだ。ビスマルクは王に話すのだった。
「私は二本の葉巻を用意しました」
「二本だったのか」
「はい、二本です」
 モルトケは葉巻を愛している。その彼にだというのだ。
「二本用意しましたが一本は悪い葉巻でした」
「そしてもう一本は」
「よい葉巻です」
 その二本をだ。用意したというのだ。
「参謀総長はそのうちのよい方を迷わず手に取りました」
「そうか、いい方をだな」
「冷静にです。ですから」
「この戦いは勝つか」
「間違いなく」
 こう王に話すのだった。そして彼の言葉通りだ。
 サドワにおいてプロイセン軍は勝利を収めた。決定的な勝利だった。この勝利を見てだ。欧州中が驚愕の渦に包まれた。
 敗れたオーストリアではだ。誰もが口々に叫んでいた。
「プロイセン軍が来るぞ」
「ウィーンにまで攻め込んで来るぞ」
「もうオーストリア軍は壊滅した」
「彼等を止めることはできない」
「このままではだ」
「オーストリアは終わりだ」
 最早ウィーン入城は避けられなかった。そう思われていたのだ。
 そしてだ。何を思ってかだ。
 ウィーン駐在のフランス大使はだ。祖国にこう報告していたのだ。
 

 

219部分:第十五話 労いの言葉をその九


第十五話 労いの言葉をその九

 プロイセン軍がウィーンに入城し略奪の限りを尽くしている、ウィーンは最早荒地と化している、こう大袈裟どころではない報告を送った。
 それを見てだ。フランス皇帝は言った。
「まさかこうなるとはな」
「はい、何年もかかると思っていましたが」
「それが。これだけ短期で決着がつくとは」
「ウィーン陥落ですか」
「予想外のことです」
「いや。ウィーンは陥落していない」
 ところがだ。皇帝はだ。大使のその報告は否定した。
 そのうえでだ。彼はこう大臣達に話した。
「大使は大袈裟に言い過ぎだ。サドワからウィーンまで距離がある」
「ではプロイセン軍はまだですか」
「ウィーンに向かっていても入城はしていない」
「そうなのですか」
「そうだ。まずは安心していい」
 こうだ。大臣達に話したのである。
「だが。このままではだ」
「プロイセンが勝ち過ぎますね」
「これは由々しき事態です」
「フランスにとっても看過できません」
「とてもです」
「その通りだ。兵を動かすのだ」
 フランス皇帝は言った。
「北ドイツ連邦との境にだ。兵を送れ」
「わかりました、それでは」
「今すぐに」
 こうしてだ。フランスはプロイセンが得るものを得過ぎるのを避ける為にだ。兵を動かそうとしたのである。そうしてだ。
 バイエルンでもだ。恐慌状態に陥っていた。サドワでの勝利は誰が見ても決定的なものだった。オーストリアについている彼等にとってはだ。
 危機以外の何でもなかった。それでだった。プロイセンを恐れることしきりになっていた。
「プロイセン軍はこちらにも来るぞ」
「そうなったら勝てるのか?」
「もうオーストリアは立ち上がれない」
「どうすればいいのだ」
 こうだ。恐慌の中で話すのだった。
 バイエルンの何処でもだ。これからのことに不安を感じていた。それは宮廷でも同じでだ。顔を顰めさせてひそひそと話していた。
「まずいですな」
「ええ、この事態は」
「まさか。オーストリアがこうも呆気なく敗れるとは」
「こうなっては同盟国の我々もどうなるか」
「困ったことになりました」
 こう話が為されていた。しかしだ。
 王だけは冷静であった。何も動じずだ。彼は音楽を聴いていた。
 ソファーに座りだ。コーヒーを飲みつつだ。彼はビューローに告げていた。
「タンホイザーを頼めるか」
「どの曲にされますか?」
「序曲がいい」
 それをだと。優雅に話すのである。
「それを頼めるか」
「わかりました。それでは」
「あの序曲もまたいいものだ」
 王は優雅に微笑んで述べた。
「清らかでいてそれでいて」
「官能的ですね」
「そうだ。清らかな官能だ」
 それだというのである。
「あの序曲はローエングリン第一幕前奏曲と共にだ」
「陛下のお気に入りですね」
「その通りだ。その曲を頼む」
「わかりました。それでは」
 こう話してだ。王はビューローにその曲をリクエストした。しかしその王に対してである。周りは怪訝な顔で意見を述べるのだった。
「あの、陛下」
「今はです」
「音楽もいいですが」
「それよりも」
「政治のことだな」
 王は表情を変えず彼等に返した。
 

 

220部分:第十五話 労いの言葉をその十


第十五話 労いの言葉をその十

「それだな」
「はい、そうです」
「今は本当に恐ろしいことになりました」
「どう御考えなのですか?」
「どう、か」
 周りのその言葉には。王は平然と返す。まるで何とも思っていないようにだ。
 こうだ。王は言った。
「落ち着いていればいい」
「ですがプロイセン軍はウィーンに入城しようとしています」
「その返す刀でこのバイエルンにも来ます」
「それをどうされるのですか」
「一体、どうされますか」
「戦われますか、それとも」
「降伏ですか」
 こう王に口々に言う。しかしである。
 王の態度は変わらない。そのうえでの言葉だった。
「戦いも降伏もしない」
「どちらもですか」
「されませんか」
「そうだ、しない」
 どちらもしないというのである。
「戦いも降伏もしないのだ」
「あの、それではです」
「プロイセンに対して何をされるのですか」
「何もされないのではです」
「どうにもなりませんが」
 周りは王に対して焦りを見せる。彼等にしてみればまさに焦眉の急である。だからだ。彼等は王に対して問わずにはいられなかった。
 しかしだ。それでも王の態度は変わらずだった。相変わらず平然としていた。そのうえで彼等に対してだ。こう告げたのだった。
「安心するのだ」
「安心!?」
「安心とは」
「言った通りだ。安心していいのだ」
 これが王の言葉だった。
「今はだ」
「あの、ですが」
「実際にプロイセンはです」
「サドワにおいて勝利を収めました」
「ですから」
「勝利を収めたからだ」
 王もそれはわかっている。だが、だ。そこに見ているものはだ。王と周りとではだ。全く違っていた。何もかもが違っていたのだ。
「それで終わりだ」
「まさかと思いますが」
「プロイセン軍が動かれないというのですか?」
「プロイセン軍がこのまま」
「動かれないと」
「そうだ、動かないのだ」
 こう話す王だった。彼等はだというのだ。
「ウィーン入城はない」
「ないのですか」
「それが」
「そうだ、ない」
 断言だった。まさにだ。
「ましてやこのバイエルンにもだ」
「来ないのですか」
「絶対に」
「だから安心していいのだ。それではだ」
 ここで話を打ち切った。そうしてであった。
 ビューローに対してあらためてだ。こう告げたのだった。
「それではだ」
「音楽ですね」
「そうだ、タンホイザーだ」
 それを聴くというのであった。そしてその曲はだ。
「序曲だ。それを頼む」
「はい、それでは」
「音楽、とりわけワーグナーはいい」
 奏でられはじめた演奏の中でだ。王は話した。
 

 

221部分:第十五話 労いの言葉をその十一


第十五話 労いの言葉をその十一

「この世における最高の芸術だ」
「その芸術がこれからも聴ければいいのですが」
「本当にプロイセンが来なければ」
「それに越したことはありませんが」
「ビスマルク卿は確かに策略を使い軍を動かす」
 それでもだというのである。ビスマルクについてもだ。
「だがそれは必然としてしているだけだ」
「だからですか」
「我々は今は」
「落ち着けばいい。では音楽を聴こう」
 そのワーグナーのことをだ。聴くというのである。
 そうしてそのうえでだ。王は実際にワーグナーを聴いた。そうして時間を過ごしていく。時間が過ぎるとだ。次第に明らかになってきた。
 プロイセンはオーストリアに対してサドワ以上のものは求めなかった。当然ウィーンにも入城しない。圧勝したとは思えない程寛大な条件でだ。オーストリアと講和したのである。
 それを見てだ。誰もが唖然となった。それはフランスでもだ。
「馬鹿な、あの程度か」
「あれだけの条件でいいのか?」
「多額の賠償金や広大な領土」
「そうしたものを手に入れないのか」
「ビスマルクは強欲な男だが」
 これは偏見だが多くの者はそう見ていなかった。
 それでだ。彼等は口々に言うのだった。
「だが。何故だ」
「オーストリアに対してあの程度で終わらせた」
「そしてそれによってだ」
 どうなっているか。それも問題だった。
「オーストリアのプロイセンへの感情が変わったな」
「憎しみに満ちていたというのに」
「呆気に取られてから」
 それからなのだった。
「プロイセンを見直している」
「やがてはプロイセンを手を組みかねないまでだ」
「まずいな、このままでは」
「プロイセンとオーストリアが手を組めば」
 どうなるか。彼等はそのことを考えだした。
「まさに大ドイツだ」
「中欧を牛耳られてしまう」
「フランスにとっても脅威だ」
「座視できないぞ」
「しかもだ」
 さらにであった。彼等の不安はまだあった。
「プロイセンはロシアとも手を組もうとしている」
「では三国同盟だな」
「プロイセンとオーストリア、そしてロシア」
「プロイセンの東への脅威はなくなる」
「そうなればまずいな」
「まずいどころではないぞ」
 フランス、そしてフランス人の間にだった。危機意識が漂っていた。
 そしてその危機意識はだ。あまりにも強かった。
「このままプロイセンが伸張すればだ」
「抑えられないのではないのか?」
「只でさえイギリスがいるのだ」
 言うまでもなくフランスの宿敵だ。フランスは常にイギリスと戦ってきた。そして東にだ。神聖ローマ帝国やオーストリアを持ってきたのである。
 そのことを念頭に置いてだ。彼等は話すのだった。
「ここでプロイセンまで抱えては」
「やっていられないぞ」
「しかもあの国の首相はビスマルクだ」
「このままでは抑えられない」
「どうするべきだ」
 こう話していく。そしてだ。
 フランス皇帝もだ。玉座から話すのだった。
「まさかここまで短期間で終わるとは思わなかった」
「陛下もですか」
「それはですか」
「そうだ、思わなかった」
 実際にそうだというのである。皇帝もだ。
「何年もかかるとな。思っていた」
「それで国力を消耗するとは思ったのだが」
「しかし八週間です」
「僅か八週間で終わってしまいました」
「しかもです」
 さらにまだあった。フランスにとって驚くべきことはだ。
 

 

222部分:第十五話 労いの言葉をその十二


第十五話 労いの言葉をその十二

「オーストリアへの講和の条件はあまりにも寛大です」
「それによりオーストリアはかえってプロイセンに好感情を持ってしまいました」
「プロイセンは憂いをなくしました」
「最早敵はいません」
「フランスにとっての脅威になる」
 フランス皇帝としてだ。この脅威は座視できなかった。そう話していくのだった。
 そしてだ。バイエルンに対してもだった。
 プロイセンがバイエルンに提示した講和の条件はだ。オーストリアに対するのと同じだけ寛大なものだった。それを見てだ。
 バイエルンの者達は唖然となった。多少の賠償金と三万程度の人口を持っている地域の割譲だ。その程度だったのだ。
 それを見て誰もが驚く。無論プロイセン軍の侵攻もなかった。
「これだけか?」
「何か拍子抜けだな」
「そうだな。徹底抗戦だと思ったが」
「それもないんだな」
「戦争は終わるんだな」
 こうだ。話していくのだった。
「もう終わりか」
「何年もかかると思った戦争が」
「あっさりと終わったな」
「しかも我々にとってこの条件だけだ」
「殆ど失っていないな」
 ただし閣僚達が交代することは間違いないと思われていた。具体的には首相がホーエンローエ、プロイセン寄りの人物になると思われたのだ。
 しかしそれだけであった。そうなってだ。
 彼等は落ち着いてからだ。彼等の王を見たのである。
「まさか陛下は」
「そうだな。まさかな」
「既にわかっておられたのか」
「戦争の流れを」
 王がだ。この戦争のことをわかっていたのではと見たのである。
「だとすれば陛下は政治がわかっておられるのか?」
「流れを全て読まれていたのか」
「しかも的確に」
「そうされていたのか」
「だとすると」
 これまで芸術と男色にのみうつつを抜かしていると思われていた王がだ。実際はどうかというのだ。そのことを考えてなのだった。
「あの方は政治的に優れた方なのか」
「ただの金食い虫のパトロンではないのか」
「戦争から逃げ回っているだけではない」
「そうだったというのか」
 王に対する評価が変わろうとしていた。そしてだ。
 周りの者達もだ。王に対して尋ねるのだった。
「まさかと思いますが」
「こうなることをわかっておられたのですか」
「オーストリアとプロイセンとの戦争のことを」
「全てですか」
「さてな」
 あえて答えずにだ。こう述べる王だった。
「何はともあれ戦争は終わったな」
「はい、さして戦禍もなくです」
「終わりました」
「八週間で」
「そのことをよしとしよう」
 微笑んでだ。こう述べるのだった。
「戦争が終わりバイエルンもあまり失わなかった」
「兵達も傷つきませんでした」
「それではですね」
「そうだ、それでいいのだ」
 王の微笑みは続く。そのうえでの言葉だった。
「それでな」
「しかしこの度のことで、です」
「誰もが王を褒め称えておられます」
「そのことについてはどう思われますか?」
「一体」
「どうとも思わない」
 実に素っ気無い言葉だった。
「私は王だな」
「はい、それはです」
「その通りです」
「王に功やそういったものは不要だ」
 そうしたことにはだ。何の興味もないのだった。彼は自身の名誉や功績には関心が薄かった。王としての誇りは意識してもだ。
 

 

223部分:第十五話 労いの言葉をその十三


第十五話 労いの言葉をその十三

「だからいいのだ」
「左様ですか」
「それでいいのですか」
「それでは」
「何はともあれ喜ぶとしよう」
 また言う王だった。
「戦争が終わったことをな」
「はい、それではです」
「臣民と共にですね」
「今のこの平和が来たことを」
「ではだ」
 ここまで話してだった。王はだ。
 その彼等に対してだ。こう話したのだった。
「これからだが」
「これから?」
「これからといいますと」
「タクシス少尉を呼んでくれ」
 彼の名前を出したのである。
「いいか、彼をだ」
「少尉をですか」
「あの方を」
「そうだ、呼んでくれ」
 こう告げるのである。
「頼めるか、そのことを」
「はい、わかりました」
「では」
 周りは王の言葉に応えた。そうしてだ。
 実際にタクシスが王の前に来た。彼は敬礼してからだ。王に微笑んで述べた。
「戦争が終わりましたね」
「そうだ。無事な」
「そうです、いいことです」
「その通りだ。そしてだ」
「そして?」
「卿のことだが」
 彼に顔を向けてだ。王は話すのだった。
「結婚するのだな」
「はい」
 タクシスは静かにだ。王に述べた。
「そうさせてもらっていいでしょうか」
「私の許しは必要ない」
 それはだ。いいというのである。
「それはいい」
「宜しいのですか」
「そうだ、いい」
 王のタクシスへの言葉はこれだった。
「卿の好きな様にしたらいい」
「そうなのですか」
「私も。私の好きな様にする」
 王もだ。そうするというのである。
「だからだ。そうするといい」
「わかりました。それでは」
「幸せになるのだ」
 王は遠い目、いつもの目で述べた。
「是非な」
「有り難きお言葉」
「バイエルンはとりあえずは救われた」
「とりあえずですか」
「プロイセンの属国にならないことだ」
 王が今考えているのはそのことだった。プロイセンの力は抑えられない。だがそれでもだ。それは避けると決意しているのである。
 それでだ。彼は話すのだった。
「とりあえずは救われた。だが」
「だが、なのですね」
「避けられないのかもな」
 また遠い目で話す王だった。
「最早な」
「プロイセンの属国になることはですか」
「プロイセンが目指すのは何か」
 そのことについても話す。
 

 

224部分:第十五話 労いの言葉をその十四


第十五話 労いの言葉をその十四

「それは神聖ローマ帝国だ」
「かつて存在したあの」
「とはいってもあの国の様に存在が薄くはない」
 神聖ローマ帝国は国として存在していた。だが中央の力が弱くだ。貴族達がそれぞれの国を持っているといった状況だったのだ。
 しかしビスマルクの目指すドイツはだ。どうかというのである。
「国として実際に存在するドイツだ」
「神聖ローマ帝国と違い」
「そうだ、違う」 
 まさにだ。違うというのだ。
「中央集権国家だ」
「では他の国はどうなるのでしょうか」
 タクシスはそのことを問わずにはいられなかった。
「バイエルンも」
「ドイツの中に収まる」
「そのプロイセンのドイツにですか」
「その中における。そうだな」
 読んでいる目であった。青いその目に不思議な光が宿っている。
「君主、私達は存在している」
「諸侯はなのですね」
「そうだ、だが」
「だが?」
「その権限はない。飾りになる」
 象徴、それだというのだ。
「イギリス王家の様なものになる。そして」
「さらにですね」
「諸侯、王達はだ」
「陛下は」
「ドイツ皇帝の下にいる存在になる」
 王と皇帝は違うのだ。皇帝は王の上に立つ唯一の存在だ。これは中国、つまり東洋のそれと同じ部分である。差異はあってもだ。
「そうなるのだ」
「では陛下は」
「今は安堵している」
 戦争が終わりだ。そうなっていることは認めた。
 しかしだった。それでもだとも話すのだった。
「だが。将来のことにはだ」
「不安ですか」
「私は憂いに覆われている」
 タクシスに対して話すのだった。
「王であることにだ」
「それから離れられることは」
「できない」
 それはだ。無理だというのだ。
「私以外に、オットーにだ」
「弟君に」
「王が務まるのか」
 それが問題だというのだ。王位継承権第一位の王弟がだ。
「それはどう思うか」
「それは」
「思うな。無理だ」
 それはだ。できないというのだ。
「オットーは狂っている。狂った者は王にはなれない」
「だからですか」
「私もそうかも知れないが」
 王のその顔に自嘲が宿った。
「若しかするとな」
「それはありません」
 タクシスは王の今の言葉を否定した。そして謹厳な声で述べるのだった。
「陛下は。何処までも」
「そう言ってくれるか」
「私は陛下の臣です」
 これがタクシスの王への心だった。
「ですから」
「そうか。私を愛してくれているか」
「忠義を永遠に」
「わかった。それではだ」
 その言葉を受けてだ。王はまた彼に告げた。その言葉は。
「婚姻のことだが」
「はい」
「許しなぞよい」
 穏やかな声でだ。タクシスに告げたのである。
「それはだ。いい」
「宜しいのですか」
「私は誰が誰と婚姻を結ぼうとも」
 そうしようともだというのだ。無関心そのものの声でだ。
「何も言いはしない」
「だからですか」
「言うとすればだ」
 それならばだというのだ。タクシスを見ているがそれと共にだ。
 彼のその向こうを見る目でだ。話をするのであった。
「幸せになるのだ」
「幸福ですか」
「幸福を得られるならそれに越したことはない」
 これが王のタクシスへ言う言葉だった。
「だからだ。いいな」
「有り難うございます。それでは」
「今までご苦労だった」
 こうも告げるのだった。
「そして有り難う」
「有り難きお言葉。それでは」
 タクシスは敬礼をしてから去るのだった。それからだ。
 一人になった王は玉座に座ったままでだ。こう言うのだった。
「また一つ終わったな」
 これが王の今の言葉だった。遠くを見ながら。一人になったうえで呟いたのであった。


第十五話   完


               2011・3・23
 

 

225部分:第十六話 新たな仕事へその一


第十六話 新たな仕事へその一

               第十六話  新たな仕事へ
 戦争が終わり講和もされだ。バイエルンはまずは落ち着いた。
 しかしだ。プロイセンへの感情はというとだ。
 かなりの反感を抱いていた。それは高まっていた。
 しかしだ。王はだ。 
 首相にそのプロイセン寄りのホーエンローエを任じた。このことにはだ。
 誰もが首を捻った。特に議会はだった。
「陛下はプロイセンに屈されるのか?」
「あのプロイセン贔屓のホーエンローエ卿を首相にとは」
「だが陛下はプロイセンとは疎遠の筈だ」
「それで何故だ」
 こう話されるのだった。
「あの御仁を首相にとは」
「どういうおつもりなのだ」
 議員達は首を捻る。しかしだった。
 王はそうした声には意を介さずだ。叔父の言葉を聞いていた。
 ルイトポルド公は穏やかな顔でだ。甥である王に話していた。
「まずは一安心ですな」
「戦争と講和のことですね」
「バイエルンは大きな山場を越えました」
 そのことをだ。喜ぶ言葉だった。
「幸いにして」
「そうですね。それは確かに」
「これも神のご加護ですね」
「はい。ただ」
「ただ?」
「叔父上もでしょうか」
 その叔父の顔を見てだ。王は問うのであった。
「近頃母上も仰っていますが」
「婚姻のことですか」
「戦争は終わりました」
 そのことがだ。ここでも大きく関わるのだった。
「そしてそのうえで」
「はい、落ち着きましたし」
「それで婚姻ですか」
「どう御考えでしょうか、このことについて」
 公はあらためてだ。微笑みを以て王に尋ねた。
「一体どういった風に」
「御答えしても宜しいですね」
「是非」
 この辺りのやり取りは慎重だった。王に対するものだった。
「御願いします」
「わかりました。それでは」
 断ったうえであらためてだ。王に話したのだった。
「私も王太后様と同じ考えです」
「左様ですか」
「婚姻は王の務めでもあります」
 だからだというのである。これは誰もがわかっていることであるし知っていることであった。言うならば常識というものであるのだ。
「だからこそです」
「そうですか。だからこそ」
「はい、どうされますか」
 今度は公が王に対して問うた。
「このことについては」
「考えさせて下さい」
 今はこう答える王だった。
「暫くの間」
「考えられるのですか」
「王の務めなのですね」
「はい、そうですね」
「そうですね。確かに」
 微かに、公さえ気付かない悲しい目をしての言葉だった。
「それはその通りです」
「だからこそ」
「それはどうなるか」
「どうなるかとは」
「愛がある婚姻」
 王が今言うのはだ。こうしたことだった。それを言うのだった。
「それはあるのでしょうか」
「ありますが」
 当然といった口調でだ。答えた公だった。
 

 

226部分:第十六話 新たな仕事へその二


第十六話 新たな仕事へその二

「だからこそ誰もがです」
「結婚するというのですね」
「そうです。愛があればこそです」
「愛、尊いものです」
 王もよくわかっていた。このことはだ。
 だが今はだ。その尊いものに対してだ。何故か悲しみを見せる。
 そのうえでだ。公にこう話すのだった。
「ただ。それは」
「それは?」
「女性に向けられるものですね」
「御言葉ですが陛下」
 甥の嗜好はわかっている。そのうえでの言葉だった。
「騎士は姫を愛するものです」
「そして姫は騎士をですね」
「愛するものですか」
 例えてだ。こう話したのだった。
「ですから」
「わかっています」
 王の返答はこれであった。
「私も。わかっているのです」
「あくまで。そちらはです」
 男色について。公はやんわりと表現した。
「遊びに留めて」
「女性をですか」
「愛されてはどうでしょうか」
「そして后をですね」
「迎えなくてはなりません」 
 后を迎えるそのことはだ。義務だというのだ。
 その義務についてだ。公はさらに話した。
「ですからどなたかを」
「愛。愛は」
 王はだ。叔父である公の言葉を受けてだ。こう話したのだった。
「異性を愛するものですね」
「その通りです」
「では。私は」
 王はここでも遠い目になった。そのうえでの言葉である。
 その遠い目で見ているものは何なのか、公にはわからない。しかし王はそこにあるものを見ながらだ。こう話したのだった。
「歪んでいるのですね」
「それは」
「男性しか愛せない私は」
「そのことですが」
 己を否定しだした王にだ。公は。
 何とか取り繕いながらだ。思い出した様にしてこう話すのだった。
「オーストリア皇后がです」
「シシィですね」
「はい、あの方が言っておられました」
 王と親しい数少ない女性である彼女の話を出してなのだった。事実でありそれはだ。今の王にはよいと判断しての話である。
「陛下は女性を愛されないのはむしろ」
「むしろですか」
「それが普通なのだと」
「私はそれでなのですか」
「私にはどういった意味かはわかりません」
 それはだ。公にはというのだ。
「ですが確かにそう言っておられました」
「私が女性を愛せないのは」
「どういうことでしょうか」
「はじめて聞きました」
 王は叔父の言葉にこう返した。
「シシィがそんなことを」
「そしてです」
 さらにであった。公はもう一人の名前も出した。
「プロイセンのです」
「ビスマルク卿ですね」
「あの方も言っておられました」
 不思議とだ。王に対して深い敬愛を見せるプロイセンの宰相の名前も出すのだった。王も彼に対しては敬意を見せている。
「陛下の御婚姻はです」
「それはですか」
「焦ることはないと」
 このこともだ。王に伝えたのである。
「そう言っておられたとのことです」
「焦る必要はない」
「はい、決して」
 そうだというのである。
 

 

227部分:第十六話 新たな仕事へその三


第十六話 新たな仕事へその三

「言っておられました」
「左様ですか」
「私はです」
 公は二人の名前を出してから己の考えをだ。あらためて述べるのだった。
「やはり早いうちにです」
「婚姻をですね」
「して頂きたいと思っています」
 この考えをだ。王に伝えるのだった。
「ですが全ては陛下の思われるままです」
「私が決めることですか」
「はい、相手はどなたか」
 まずはこのことだった。
「そして何時婚姻されるか」
「そうしたことをですね」
「御自身が決められることです」
「私が。王として」
「后を迎えられる。お考えになって頂ければです」
「わかってはいます」
 穏やかな声でだ。王は答えた。
「私もその時期に来たからこそ」
「そうです。よくです」
 ここでも己の考えを伝える公だった。こうした話をしていた。
 そしてだ。その話の後でだ。
 王は公が去ってからだ。ホルニヒを呼んだ。そのうえで彼に対してだ。親しげな様子で声をこう告げたのであった。
「馬に乗るか」
「これからですね」
「そうだ。そうしようか」
 こう彼に告げたのである。
「これからな」
「そして何処に行かれますか?」
「湖に行こう」
 そこにだというのだ。王宮から少し離れた場所にあるその湖にだ。
「そしてそこで泳ぎたい」
「水泳もされるのですか」
「馬と親しむのもいいが」
 王は乗馬が好きなだけではなかった。馬自体を愛しているのだ。
「水と親しむのもいい」
「だからこそですね」
「そうだ。どうだろうか」
 微笑んでだ。ホルニヒに問うた。
「これからな」
「侍従長が来られるとのことですが」
 ホルニヒは彼の名前をここで出した。
「そのことは」
「いいのだ」
 王は一言で答えた。
「それはな」
「宜しいのですか」
「そうだ、いいのだ」
 また言う王だった。
「待っていてもらおう」
「そうされるのですか」
「彼も慣れていることだ」
 実際に王は臣下との話し合いの場を離れることも多い。それで王は気まぐれだと言われだしてもいる。だがそれでもだというのである。
 今王はだ。そうするというのだった。
「いいな」
「わかりました。それでは」
「止めはしないのか?」
 ホルニヒの言葉に対して問うた。
「それを」
「止めることですか」
「王としての仕事の放棄だ」
 それだと言ってみせるのだった。
「それをしようとする私を
「止めないのか」
「陛下は後でされますから」
 だからだというのである。
 

 

228部分:第十六話 新たな仕事へその四


第十六話 新たな仕事へその四

「ですから。それは」
「しないというのだな」
「はい」
 そうだとだ。ホルニヒは言うのだった。
「帰られてから。その仕事をされますね」
「私は王だ」
 そのことは自身が最も意識していることだった。王であるだけにだ。彼は自身が王であることを誰よりも強く意識しているのだ。
 それがあるからだ。今こう言うのだった。
「王は己の責務から逃れられない」
「決してですね」
「バイエルンを護らなければならないのだ」
 こう話すのだった。
「国も。臣民達も」
「その全てを」
「そうだ。だが」
 ここからだ。本心、普段は出さないそれを出した。
「私も一人でいたい時があるのだ」
「だからですね」
「今は馬に乗りたい」
 そしてであった。
「泳ぎたいのだ」
「自然の中で」
「自然はいい」
 王は憧憬を見せた。その自然に対して。
「全てを癒してくれる」
「それでなのですが」
 ホルニヒからの提案であった。
「陛下、一度です」
「一度。何だ」
「戦争が終わりましたし」
「仕事が減ったからだな」
「そうです。何処かに旅をされてはどうでしょうか」
 一人になりたいと言った王に対してだ。こう提案したのである。
「そうされては」
「だが。私が旅をすれば」
 王はその提案に暗い顔を見せた。
「必ず誰かが見る」
「では」
「旅は好きだ。しかしだ」
 青い目にも暗いものを帯びさせる。すると不思議なことにその目の色がグレーに見える。色が変わってしまったかの如くに。
「そこに人の目があれば」
「お嫌ですか」
「そうだな。ここは」
 ホルニヒの言葉を受けながらだ。話した。
「私でなくなろうか」
「陛下ではなくですか」
「偽の名を使う」
 そうするというのだった。
「ここはだ。そうしよう」
「それで旅をされるというのですね」
「そうしよう。そしてだ」
「そして?」
「そなたも来るのだ」
 ホルニヒに対してだ。誘いの声をかけたのだった。
「ホルニヒ、そなたもな」
「私もですか」
「私は勝手な男だ」
 自嘲だった。自分に対する。
「一人でいたいのにだ。それでいて誰かにいて欲しいのだ」
「だからなのですね」
「だからだ。来てくれ」
 また告げる王だった。
「私のその旅にだ」
「宜しいのですか?」
 ホルニヒは王の顔を見た。その目の瞳は今はグレーではなかった。澄んだ湖の色に戻ってだ。そのうえで彼を見ているのだった。
「私が同行して」
「何度も言うが私は勝手な男だ」
 またこう言う王だった。
「だからだ。いいか」
「陛下のお心がそれで癒されるなら」
 これがホルニヒの言葉だった。彼は言ったのであった。
 

 

229部分:第十六話 新たな仕事へその五


第十六話 新たな仕事へその五

「私は」
「そうしてくれるか」
「はい、そうさせて頂きます」
 王に対して一礼してから述べた。
「陛下のお望み通りに」
「済まない。それではだ」
「何処に行かれますか?」
「フランスがいい」
 王が望む国はだ。そこだった。
「フランスに行くとしよう」
「あの国にですか」
「あの国には美がある」
 王が愛するもの、それがだというのだ。
「だからだ。あの国に行きたい」
「芸術を御覧になられるのですね」
「そうしたい。醜いものの多い歪んだその世界で」
 どうかというのである。
「美がある。ならば私はそれを見たい」
「だからこそあの国に」
「行きたい」
 はっきりとだ。意志を口にした。
「あの国にだ。今は」
「わかりました。それでは」
「おかしなものだ」
 再び自嘲を見せてだ。王は話した。
「私はドイツに生まれだ」
「そしてドイツに生きておられるというのですね」
「そうだ。全てがドイツにある」
 その身体だけでなくだ。心もだというのだ。
「だがそれなのにだ」
「フランスも愛されているのですね」
「あの英雄が我が家を王にしてくれた」
 ナポレオン=ボナパルトのことだ。そうした経緯もありだ。バイエルンはフランスとは懇意なのである。ドイツの中の親仏国であると言ってもいい。
「そしてその美もだ」
「むしろでしょうか」
「そうだな。フランスを愛するのは」
 ホルニヒの言葉に応えてだった。今は。
「その美故だ」
「美が全てなのですね」
「そうであって欲しい」
 断言ではなかった。願望であった。
「醜いものは。私はだ」
「受け入れられないのですね」
「否定しても。排除しても」
 どうかと。王はその顔に残念なものを浮かべて述べた。
「それは消えはしない」
「醜いもの、それは」
「人は醜いものなのか」
 遠くを見る顔をだ。ここでも見せるのだった。
「美しいだけではないのか」
「人はです」
「どう思う、ホルニヒ」
 王はここでホルニヒに対して問うた。
「人は醜いものなのか。それとも美しいものなのか」
「私の思うところですが」
「うむ。どういったものに思う」
「どちらでもあると思います」
 これがだ。ホルニヒの見たところだった。
「そのどちらでもあると思います」
「醜くかつ美しいか」
「陛下は同じ者にそれを見ることはあるでしょうか」
「ないと言えば嘘になる」
 言いながらだ。彼の顔を思い出した。
 リヒャルト=ワーグナー。彼が最も愛する音楽家をだ。彼のその青い目を持つ哲学者を思わせる顔を瞼に浮かべてだ。そして話すのだ。
「それが不思議なのだ」
「同じ者が相反するものを持つのが」
「そうだ。いや」
「いや?」
「若しかするとだ」
 ここでだ。こう言う王だった。
「エリザベートとヴェーヌスだが」
「タンホイザーのですね」
「そうだ。あの二人は二人ではある」
 それでもだというのである。
 

 

230部分:第十六話 新たな仕事へその六


第十六話 新たな仕事へその六

「しかし一人なのだ」
「美の女神と清らかな姫が」
「妖しい美と清らかな美」
 その相反する二つの美だった。
「そして色欲と清純だ」
「その二つもありますか」
「肉と心でもある」
 二人をだ。互いに相反するものとして話していく。
「正反対の様でいて一つなのだ」
「その二人の登場人物は」
「そうなのだ。同じなのだ」
 タンホイザーの世界を象徴する二人である。
 多くの者は今は彼女達を全く違う存在と見ている。しかしだった。
 王は違った。彼女達をだ。同じだと見ているのだ。
「彼女達は同じなのだ」
「ではその同じ存在が」
「タンホイザーにある。つまりは」
 哲学者になっていた。王は己をそうしてだ。今さらに話すのだった。
「人には相反するものが同時に備わっているのだな」
「美醜もまた」
「そういうものなのか。完全に清らかな存在はいないのか」
 そしてだ。彼の名前を出した。
「ローエングリンの様に」
「あの騎士は完全なのですね」
「彼は違う。ワーグナーの主人公達は」
 彼等はだ。どうかというのだ。
「完全なのだ。この世にない存在だ」
「英雄なのですね」
「英雄だ。完全なる」
 その主人公達をだ。こう評した。
「この世には本来存在しないものなのだ」
「それがヘルデン=テノールなのですか」
「ヘルデン=テノールだけは完全だ」
 この話をしてだ。それからだった。
 王は思いなおすものを目に見せてだ。また話した。
「私は。彼等を愛している」
「英雄達を」
「そうだ。誰よりも深く愛している」
 憧憬の目であった。同化ではなかった。
「その愛をこの世に見たい」
「美もまた」
「だからこそだな」
 話をまとめた。王自身の中で。
 そしてだ。その言葉がだ。出されたのだった。
「フランスに向かおう」
「はい、わかりました」
「美を見るのだ」
 その為にだと。王は語った。
「この世で至高の美を見て。そして」
「そのうえで」
「この世に再現したい、いや」
 再現ではなかった。それ以上のものだった。
「この世も現したいのだ」
「再現ではなく現すのですか」
「今までこの世になかったからだ」
「その至高の美が」
「だからだ。現すのだ」
 そうなるというのである。
「是非な」
「ワーグナー氏の世界はこれまでなかった」
「誰が為し得るのだ」
 疑問の言葉はだ。ホルニヒに向けたものではなかった。
 彼ではない大きなもの、その全てに向けてのものだった。
 王は今それを見ていた。自分の向こうに立つそれをだ。
 そしてだ。それに対してだ。王は告げたのだ。
「それは私ではないのか」
「陛下が」
「私はこの世に生まれ彼を見た」
 ホルニヒの言葉を受けていた。しかし語りかけるのはその存在に対してだった。
 

 

231部分:第十六話 新たな仕事へその七


第十六話 新たな仕事へその七

「その彼を。彼の世界を」
「この世に」
「現す。彼を愛するが故に」
 愛を見ていた。やはり同じものとはしていなかった。
「そうする」
「それでなのですが」
「それで。何だ」
「旅に出られている間ですが」
「案ずることはない」
 そのことについてはだ。懸念はないというのである。
「それはだ」
「戦争が終わったからですか」
「だからだ。今は私がいなくとも」
「そうですか。今はですね」
「旅に出ていい。むしろ」
「むしろ?」
「今行かずしてだ」
 どうかというのである。今旅に出ずしてだ。
「今度は何時行けるかどうかわからない」
「また。何かありますか」
「ある、それもだ」
 先を見てだ。そのうえでの言葉だった。
「フランスとだ」
「そのフランスとなのですね」
「確実にある。ドイツとフランスは」
「確かに。我々とフランスは長い間対立してきました」
 それこそ神聖ローマ帝国の頃からだ。ドイツとフランスは長い間対立してきた。その象徴がハプスブルク家とヴァロア家の対立なのだ。
「それを考えればですね」
「フランスはドイツの隆盛を望んでいない」
「ドイツ自体のはですか」
「そうだ。ドイツ自体はだ」
 ドイツとして見ればなのだ。バイエルンとしてではなくだ。
「分裂し多くの力を持たないことがいいのだ」
「只でさえイギリスがいるのにですね」
「敵は少ない方がいい」
 政治の常識である。
「だからこそだ」
「左様ですか」
「そういうことだ。それはわかるな」
「はい」
 謹厳な調子でだ。ホルニヒは答えた。
「私も。それは」
「フランスの立場になって考えることだ」
「そうすれば。ドイツの隆盛は決して見過ごせるものではない」
「それは既に見抜かれている」
 誰にか。それもまた問題だった。
「あの方にだ」
「あの方?」
「ビスマルク卿だ」
 まさにだ。彼だというのだ。
 そのプロイセンの宰相、ひいてはドイツの宰相になろうというビスマルクがだ。そのことを既に見抜いているというのである。その彼がだ。
「あの方は見抜いておられる。だからこそ」
「フランスが何かをする前に」
「されるだろうな。問題はフランスはそれをわかっていない」
「ナポレオン三世はですか」
「すぐにプロイセンは見る」
 そのフランスをというのである。
「フランスの動きをだ。それをだ」
「では。フランスの動きに付け入るものがあれば」
「そこを衝く」
 間違いなくだ。そうするというのだ。
「フランスはそれに何時気付くかだが」
「若し最後まで気付かなければ」
「終わりだ。罠に陥りプロイセンに敗れる」
 これがだ。王の見ている未来だった。
 ドイツにとっては悪い未来ではない。しかしなのだ。
 王はそれに暗いものを見せていた。その顔にだ。
 

 

232部分:第十六話 新たな仕事へその八


第十六話 新たな仕事へその八

 そしてだ。こうホルニヒに話すのだった。
「私は戦争は好きではない」
「戦争はですか」
「そうだ、ましてやフランスとの戦争は」
「望みませんか」
「避けられないことはわかっていても避けたい」
 そうだというのだった。これが王の考えであった。
 それを話してだ。王は言葉を一旦止めた。その王にだ。
 ホルニヒがだ。王に問うた。
「ところで陛下」
「何だ、一体」
「陛下は何故ビスマルク卿に敬意を払われるのでしょうか」
 王のその言葉や態度からだ。それを察しての問いであった。
 王はバイエルン王だ。そしてビスマルクはプロイセンの宰相だ。二人の立場は違う。そのうえでだ。ホルニヒがさらにいぶかしむものがあったのだ。
「ビスマルク殿はユンカー出身です。今は爵位がおありですが」
「王である私が敬意を払うにはか」
「御言葉ですが」
「心だ」
 微笑んでだ。王は話した。
「心からだな」
「御心からですか」
「そうだ、心なのだ」
「御心故になのですか」
「あの方は私をわかっておられる」
 敬意と共にだ。話す王だった。
「そして私もだ」
「ビスマルク卿をなのですね」
「わかるのだ。あの方のことは」
「御心で」
「あの方は私に敬意を払ってくれている」
 それもわかるというのだ。王は彼を理解し彼も王を理解している。そうした間柄だというのである。
「私達もまた、だ」
「互いになのですか」
「そうなのだ。そして」
「そして?」
「若しかするとだ」
 王はあの遠い目を見せて述べた。
「あの方は私以上に私をだ」
「陛下を」
「シシィやワーグナーと同じく」
 この二人、王が決して忘れない二人の名前も出た。
「私を理解してくれているのかもな、私以上に」
「陛下御自身よりも」
「そうではないだろうか」
 こう話すのだった。
「若しかしてな」
「そういうこともあり敬意を払っておられるのですね」
「あの方の政治的な行動は好きになれないが」
 それでもだというのだ。
「あの方自体は嫌いではない。むしろ好きだ」
「ですか」
「正しいのだ。あの方は」
 その政治的な行動の話もしたのだった。
「ドイツにとってな」
「ドイツの為に」
「ドイツだけを見ているのでもない」
 そうでもあると。王は語る。
「欧州全体を見て。そのうえでだ」
「考えておられるのですか」
「そうした方なのだ。ドイツはだ」
 そのドイツはだ。どうかというのである。
「あの方が創るだろう」
「新しいドイツですか」
「第一帝国に続き。第二の帝国だ」
 その帝国は何かというのものだ。王は話す。
「プロイセンを中心とした帝国になる」
「第二の神聖ローマ帝国はですか」
「神聖ローマ帝国の後継国家になるか」
 かつてあっただ。その国のだというのだ。
「思えば神聖ローマ帝国は中心が弱かった」
「そうですね。あの国は」 
 具体的には皇帝の権限が弱かったのだ。それが神聖ローマ帝国の弱点だった。そしてそのまま国の歴史を終えているのである。
 

 

233部分:第十六話 新たな仕事へその九


第十六話 新たな仕事へその九

「それに対して今度のドイツは」
「中心が強くなる」
 神聖ローマ帝国の反省という意味もあるのであった。
「プロイセンがだ。だが」
「バイエルンはなのですか」
「それに対さなければならないのだ」
 そうした意味で、であった。王とビスマルクはだ。どうかというのだ。
「私はあの方とはだ。そこではだ」
「対立しますか」
「相容れないものがある」
 まさにだ。そうだというのである。
「それに宗派もだ」
「我が国はカトリックですが」
「プロイセンはプロテスタントだ」
 かつて神聖ローマ帝国を分裂に追いやったこの新旧の対立はこの時代にもあった。それはどうしても消せないものがあった。
 だが今はというのであった。
「あの頃と違い宗教は殺し合いにはならないがな」
「ですが対立としては存在しますね」
「それが問題なのだがな」
「しかしそういうものも含めてですか」
「私はあの方を嫌いではない」
 やはりだ。ビスマルクについてはそうなのだった。
「会えないが。お考えはわかる」
「バイエルンはどうなるのでしょうか」
 ホルニヒは尋ねた。そのことをだ。
「これからは」
「どうなるか、か」
「はい、どうなるのでしょうか」
 ホルニヒはまた王に尋ねた。
「このまま。プロイセンの下に入るのでしょうか」
「今避けるべきことは」
 何なのか。王は熟知していた。誰よりもだ。
「バイエルンがプロイセンの属国になることだ」
「そのことはですね」
「そうだ、絶対に避ける」
 どうしてもだとだ。決意を見せる。
「あがらうことはできないかも知れないがだ」
「プロイセンに逆らうことはでしょうか」
「いや、時代にだ」
 プロイセンではなくだ。歴史だというのである。
「時代の流れにだ」
「時代ですか」
「時代は求めているのだ。ドイツが一つになることを」
「プロイセン中心によるですね」
「その中にバイエルンも入ってしまう」
 己の意志によるものではない。そうでもあるというのだ。
 そしてそれがだ。王にとってはだ。
 憂いの元だった。バイエルン王として。
「バイエルンはドイツの中に入ってしまうのだ」
「国としては」
「存在している」
 それは確かなのだというのだ。
「だがそれでもだ」
「自主性のある国としては」
「弱くなる」
 控えめな言葉だった。自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「中央が強いのだからな」
「かつてのバイエルンではなくなりますか」
「神聖ローマの頃より」
 そのだ。滅んだ国の話がまた為された。
「バイエルンには自主性があったな」
「はい、その通りです」
「ハプスブルクの臣下であったがそれでもだ」
 自主性があった。それはその通りだ。ヴィッテルスバッハ家は時としてハプスブルク家と衝突もした。戦争をしたことも度々あるのだ。
 

 

234部分:第十六話 新たな仕事へその十


第十六話 新たな仕事へその十

「選帝侯であった」
「王でもありました」
「領邦国家の中で強い権限を持っていた」
 神聖ローマ帝国の弱点がだ。そのままバイエルンの自主性となっていたのだ。これはドイツの国家全てに言えることであった。
「それがバイエルンの誇りだった」
「しかしその誇りが」
「失われようとしているのだ」
 それが今なのだった。
「私はその誇りを守りたい」
「バイエルンの誇りを」
「それが王としての私の務めなのだ」
 こうまで言うのであった。
「だからこそだ」
「では陛下」
 ホルニヒがここでこう王に話した。
「プロイセンに対しては」
「暫くはつかず離れずでいく」
 それがプロイセンへの政策だというのだ。
「それと共にオーストリアにもだ」
「これまで通りですか」
「そうしていく。これといって動く必要はない」
 今のバイエルンの動きはだ。それでいいというのである。
「今はな」
「そうされますか」
「しかし時が来ればだ」
「その時は」
「決断するしかない」
 止むを得ずだが。しかしだというのだ。
「その時はだ」
「プロイセンにつかれますか」
「選択肢は唯一だ」
 王は言った。それだけだと。
「バイエルンは何処にあるか」
「ドイツです」
「だからだ。一つしかない」
 バイエルンがドイツにあるからだと。そこに答えがあるというのだ。
「バイエルンはプロイセンにつく」
「フランスと戦うならば」
「それしかない。フランスにつくなぞ有り得ないのだ」
「中立もですね」
「それもない」
 どちらもだ。ないというのだ。
「あくまでだ。プロイセンしかないのだ」
「先の戦争の様にはいきませんか」
「あの時はまだ気が楽だった」
 王が憂いを見せただ。その戦争ですらというのだ。
「オーストリアにつきだ」
「そして兵を動かさないことで、ですね」
「それだけでよかった」
 こう話すのだった。
「しかし次の戦争はだ」
「兵を動かさないとなりませんか」
「どうしてもな。そうせざるを得ない。そして」
「そして?」
「私自身も。おそらくは」
 その王もだ。どうなるかというのだ。
「担ぎ出されるだろう」
「陛下もですか」
「バイエルンの王だからだ」
 そのだ。バイエルンの王だからだというのだ。
「私は表舞台に出ることになるだろう」
「それはお嫌なのですか」
「利用されることは好まない」
 だからだというのである。
「それはだ。好きにはなれない」
「利用するのはやはり」
「プロイセンだ。あの国しかない」
 そのだ。プロイセンだというのだ。彼が今最も見ているその国だ。
 

 

235部分:第十六話 新たな仕事へその十一


第十六話 新たな仕事へその十一

 その国を見てだ。さらに話すのだった。
「ドイツ皇帝を。皇帝にするのは誰だ」
「ドイツ皇帝をですか」
「プロテスタントのその皇帝をだ」
「皇帝にするのは」
「教皇様ではないのだ」
 そのだ。ローマ教皇ではないというのだ。
 ローマ教皇は神聖ローマ帝国皇帝にその帝冠を授けてきた。歴史的な誕生の経緯からだ。神聖ローマ帝国皇帝はカトリックの擁護者だったのだ。
 しかしプロイセンは違う。プロテスタントだ。それならばカトリックのローマ教皇が冠を授けることはできない。それは宗教的、政治的な理由からだ。
「では誰だ」
「そうなると」
「私しかいないのだ」
 王自身しかというのだ。
「プロイセンを除けば。第一の国であるバイエルンの王である私しかな」
「他の者にはですか」
「できない。ドイツの皇帝を決めるのはだ」
「では陛下は」
「プロイセン王をドイツ皇帝に推挙する」
 そのことがまた述べられた。
「その役目が来るのだ」
「プロイセンとフランスの戦争の後で」
「私は。嫌だ」
 王の言葉は暗鬱に満ちていた。
「その様なことはだ」
「どうしてもなのですね」
「それはバイエルンの誇りの放棄だ」
 それに他ならないというのである。
「それをだ。自らするのはだ」
「できませんか」
「しかし時代は無慈悲だ」
 それがわかっているからこそだ。余計にだというのだ。
「それはどうしてもだ」
「しなければならないのですね」
「そういうことだ。だからこそ私は」
「陛下は」
「私は勝手な男だ」
 再び自嘲を見せたのであった。そうしての言葉だった。
「それから逃れようとしている」
「いえ、それは」
「その通りだ。私は逃げようとしているのだ」
 そうしていると話す。そのうえでだ。 
 王はだ。さらにこう話したのだった。
「その。現実からだ」
「時代からですか」
「それが何処までも私を追おうとも」
 現実に疎ましさを感じながらだ。そうして話すのだった。
「私は逃げたいのだ」
「では旅は」
「その為のものだ。では私はだ」
「フランスにですね」
「人は。逃れては駄目なのか」
 それはホルニヒではなく。世界への問いだった。
「己を苛むものに」
「時と場合によるのではないでしょうか」
「時と場合によってはか」
「避けることを決めるのにもです」
「それについてもか」
「はい、決断が必要ですから」
 それでだというのである。
 

 

236部分:第十六話 新たな仕事へその十二


第十六話 新たな仕事へその十二

「ですから」
「だといいのだがな」
「では。暫くして」
「旅に出よう」
 ホルニヒを見てだ。王は言った。
 ホルニヒを見てはいる。しかしそれと共にであった。
 そこにフランスも見ていた。彼が愛している国の一つをだ。
「是非な」
「はい、それでは」
 こうした話をしてであった。王はフランスに行くことを決めた。しかしその王の周辺でだ。
 また一つ。王にとって思わしくないことが現実のものになろうとしていた。
 周囲、宮廷の者達がだ。こう話すのだった。
「それではですな」
「はい、時が来ました」
「戦争は終わりましたし」
「それならです」
「陛下もいよいよです」
「ご成婚ですね」
「王として」
 話はだ。そのことだった。
 婚姻のことを話してだ。自然とだった。
 彼等の声がうわずってきていた。興奮を感じているのだ。
「一体どういった方と結婚されるのか」
「家柄だけではありませんね」
「その通りです。陛下は整った方です」
 王のそのだ。見事な容姿のことが話された。
「それだけに。釣り合う方でないと」
「そうですね。お奇麗な方」
「どなたがいいでしょうか」
「陛下程の方になると困りますね」
「全くです」
 こうだ。善意そのものの心で話をしていくのだった。
「果たしてどなたがいいか」
「陛下御自身のお言葉も聞きたいですね」
「そう、ただあの方は」
 ここでだ。彼等の中に厄介な話が浮かび出た。その王の嗜好である。
「女性については興味が」
「全くないようですから」
「それがどうなるかです」
「陛下を振り向かせられる方」
「その御心を繋ぎ止められる方」
 その二つが条件となるのだった。
「一体どなたになるのか」
「それが問題ですね」
 喜びと共に悩みがあったのだ。王の結婚についてはだ。
 そのことに対してどうなるか、どうするべきか。多くの者はわかっていなかった。しかしそれでもだ。この話もまた動いていくのだった。


第十六話   完


                 2011・3・30
 

 

237部分:第十七話 熱心に祈るあの男その一


第十七話 熱心に祈るあの男その一

                第十七話  熱心に祈るあの男
 王は時間ができたと見てだ。すぐにだった。
 傍の者達にだ。こう話したのだった。
「暫くこの国を離れる」
「旅にですか?」
「それに出られるのですか?」
「そうだ、そうさせてもらう」
 まさにだ。その通りだと述べるのだった。
 そしてだ。そのうえでだった。
 すぐに旅支度を整えてだ。宮廷を去ろうとする。その時にだ。
 ホルニヒにだ。声をかけることも忘れていなかった。
「わかっているな」
「はい、わかっています」
 すぐに答えるホルニヒだった。当然彼もだった。
 既に支度を整えている。そのうえで王に応えているのだ。
 静かにだ。片膝をついて述べるのであった。
「御供致します」
「私は今から王ではなくなる」
「王でないとすると」
「そうだな。伯爵にでもなるか」
 無論仮の姿である。それになるというのだ。
「少なくとも王ではなくなる」
「そのうえで、ですね」
「旅に出よう。そなたもホルニヒではなくなる」
 王としてのだ。様々な憂いや悩みから逃れてだ。そうしてだった。
 彼は旅に出るのだった。ホルニヒもだ。
 彼はミュンヘンを後にした。それにより空席となった玉座を見てだ。
 傍の者達はだ。溜息と共に言うのであった。
「陛下は。どうして」
「何故王としての責務をこうも度々放棄されるのか」
「王ならば」
 彼等は王に対してだ。無限のものと絶対のものを求めて言うのだった。
「務めるべきことは全て果さないとならないのに」
「それなのに勝手に旅に出られるとは」
「こうしたことが続けば」
「よくないというのに」
 こう話す彼等だった。しかしだ。
 王が旅に出たことをだ。スイスで聞いたワーグナーは静かにこう言うのだった。
「いいことだ」
「陛下にとってですか」
「いいことだと仰るのですか」
「そうだ、いいことなのだ」
 こうだ。スイスに来ていた彼の支持者に対して話すのだった。
 彼はスイスでも豪奢な生活をしている。部屋は黄色や紫の装飾で飾られ見事なピアノが置かれている。そのピアノの席に座りだ。
 そのうえでだ。こう自身の支持者に話すのである。
「ミュンヘンに常にいてはだ」
「よくはないと」
「だからですか」
「そうなのだ。陛下は常に背負っておられる」
 何を背負っているのか。それも問題なのだった。
「その重荷に押し潰されては。あまりに気の毒だ」
「それから逃れる為に」
「だから旅に出られることはいいのですか」
「あの方にとって」
「王になられるのに相応しい方だ」
 ワーグナーはそのことはわかっていた。実によくだ。
「しかしそれでもだ」
「何かあるのですか」
「陛下には」
「そうなのだ。あの方の御心はあまりにも繊細なのだ」
 その繊細こそがだ。問題だというのだ。
「その繊細さは。他の者にとってはだ」
「わからないのでしょうか」
「中々」
「人は同じ域にあるものしかわからない」
 ワーグナーは言った。
「美醜も。心も」
「心ですか」
「陛下もまた」
「陛下はそこまで繊細な方なのだ」
 人としてだ。あまりにもそうだというのだ。
 

 

238部分:第十七話 熱心に祈るあの男その二


第十七話 熱心に祈るあの男その二

「ダイアの如く美しいがガラスよりも脆い」
「それが陛下の御心」
「では。王としては」
「繊細に過ぎる。しかし王に相応しい方だ」
 この二つ、矛盾する二つこそがなのだった。
「あれ以上の王はおられない。そして王以外になることができない方なのだ」
「生まれついての王」
「そうであろうとも」
「そう、王になるべくしてなられた方だ」
 それが王だというのだ。
「しかしだ。それでもだ」
「繊細に過ぎる」
「それが王ですか」
「バイエルン王なのですね」
「その繊細さに気付けば」
 どうかとだ。ワーグナーは話す。
「接し方もわかるのだが」
「しかしそれでもですか」
「それがわかっていない」
「だからこそ今は」
「そうだ。陛下は憔悴されてきている」
 ワーグナーは王の側に立って話している。
「だから旅にもだ」
「行かれていますか」
「だからこそですか」
「そうだ。だからこそだ」
 それでだと。ワーグナーは見ていて話すのだった。
 その目に見ているのはだ。まさに王のその心だったのである。
「あの方は旅に出られたのだ」
「帰られるでしょうか、陛下は」
「その旅から」
「果たしてバイエルンに」
「帰られるでしょうか」
「それは間違いない」
 そのだ。王の帰還はだというのだ。
「だが。それでもだ」
「それでも?」
「それでもといいますと」
「あの方は完全には癒されない」
 王のその心はだ。どうしてもだというのだ。
「憔悴はそのまま蓄積されていくだろう」
「それを消し去るにはどうすればいいでしょうか」
「一体」
 ワーグナーの支持者達はそのことをワーグナーに問うた。
 彼等も王に対して敬意と愛情を抱いている。だからこそだ。
 こうしてだ。ワーグナーに対して問うのである。
「陛下のその憂いを消し去るには」
「どの様にすれば」
「一体どうすれば」
「芸術と。自然だ」
 その二つがだ。王にとっての癒しになるというのだ。
「その二つが陛下を救われるのだが」
「では現実は」
「それはどうなのでしょうか」
「現実は過度になると憂いになる」
 そうなるというのである。
「今実際にそうなっている様にだ」
「陛下にとっては」
「その現実がなのですか」
「陛下はバイエルン王だ」
 これがだ。現実の第一歩だった。王にとってはだ。
「だがそのバイエルンはだ。どうなろうとしているのか」
「プロイセンに飲み込まれようとしています」
「ドイツ帝国が築かれようとしていますが」
「その中心はプロイセンです」
「ですからバイエルンは」
「そうだ、それもまた陛下にとって憂いなのだ」
 それもだと。ワーグナーはさらに話す。
 

 

239部分:第十七話 熱心に祈るあの男その三


第十七話 熱心に祈るあの男その三

「それも最も大きいだろう」
「その。プロイセンとのことが」
「最もなのですか」
「やはり。そうなるのですか」
「そうなのだ。長い歴史を誇るヴィッテルスバッハ家はだ」
 どうなるかというのだ。そのヴィッテルスバッハがだ。
「また。他の家の下についてしまうのだ」
「神聖ローマ帝国と同じですね」
「そうですね」
 誰もがすぐにわかった。そのことはだ。
 そのまま神聖ローマ帝国に当てはめられる。かつてバイエルン、そしてヴィッテルスバッハ家はだ。神聖ローマ帝国の一諸侯だったのだ。
 その中に入るというのだ。それを話してだった。
「それがなのですか」
「陛下にとっては」
「本来はハプスブルク家の風下にもつきたくないのだ」
 そうだというのだ。王の本心はだ。
「バイエルンはバイエルンとして。誇りを以て立っていたいのだ」
「しかしそれは適わないと」
「バイエルンは」
「最早動いている」
 歯車が動く様にと。ワーグナーは話していく。
 その動くものはだ。何かというとだった。
「ドイツは。一つになろうとしているのだ」
「バイエルンもまたその中に入る」
「それは避けられないのですか」
「ドイツにとっていいことだ」
 そのだ。かつて神聖ローマ帝国があったその場所にとってはというのだ。
「だが。陛下にとってはだ」
「そのことはそのまま憂いになってしまう」
「バイエルン王として」
「一国の主としてですか」
「それから避けられたいのだ」
 憂いからだというのだ。
「避けられないとおわかりでもだ」
「そして旅にも出られましたか」
「憂いから逃れる為に」
「そうなる。だが最後まで逃れられるかどうか」
 話はそこに至った。結末にだ。
「やはり。それはだ」
「できませんか」
「どうしても」
「それは陛下ご自身が最もよくわかっておられる筈だ」
 王の心を読み取っていた。そのうえでだ。
 ワーグナーはその青い、様々なものが入り混じりお世辞にも澄んでいるとは言えない、だが深い叡智もある目で王の心を見てだ。話すのだった。
「その王を救えるとすれば」
「それは?」
「救えるとすれば」
「彼しかいない」
 一人の男がだ。出て来た。
「彼しかな」
「彼とは」
「その彼とは誰でしょうか」
「白銀の騎士だ」
 ワーグナーはまずこう表現してみせた。
「その彼だ」
「白銀の騎士といいますと」
「あの騎士ですか」
「ローエングリン」
 周りはだ。自然にこの名前に辿り着いた。そしてだ。
 ワーグナーもだ。こう話すのだった。
「彼しかいないのだ」
「ローエングリンがですか」
「陛下を救える」
「そうなのですか」
「そうだ。それに気付けるかどうかだが」
 その気付けるのは誰かも話される。
「周りがだ」
「その周りが気付かなければ陛下は」
 どうなるか。そのことも話されていく。
「救われないのですか」
「そうなってしまうのですか」
「そうだ。あの騎士が必要なのだ」
 それは何故か。ワーグナーの話は続く。
 

 

240部分:第十七話 熱心に祈るあの男その四


第十七話 熱心に祈るあの男その四

「陛下はエルザなのだからな」
「前も言っておられましたね」
 一人がワーグナーのその話に気付いた。
「陛下はエルザだと」
「そうだ、言った」
 まさにだ。その通りだと答えるワーグナーだった。
「私は実際にそう思っている」
「陛下は姫なのですか」
「女性なのですか」
「あの方が」
「外見の問題ではない」
 王のその整った、絵画の世界から出て来た様な、そうしたあまりにも整った騎士と見まごうばかりのその外見ではないというのである。
 では何か。王はさらに話した。
「御心なのだ」
「陛下の御心がなのですか」
「女性だと」
「あのブラバントの姫君なのですか」
「陛下が何故ローエングリンを愛されるか」
 その作品世界全てを愛しているのだ。王にとってローエングリンとはまさに意中の作品であり運命の出会いに他ならないのである。
「そのことだ」
「陛下が女性だからこそ」
「ローエングリンを愛される」
「そして陛下をお救いできるのは」
「ローエングリンだけなのですか」
「陛下は同性愛者ではないのだ」
 ワーグナーはこのことを否定した。尚彼は同性愛者ではない。
 その同性愛者ではない彼の冷静な目はだ。王は同性愛者ではないとしていた。それは何故かもだ。彼は言うことができた。
 そして今実際にだ。そのことを話したのだ。
「一途な姫なのだ」
「そうした意味でもエルザ姫なのですか」
「あの方はローエングリンではなくエルザ姫」
「そうだったのですか」
「では。あの方は」
「ローエングリンを求められ、その救いを待たれている」
 それが王だというのだ。
「おそらく御自身も気付かれていないがだ」
「御心は女性であることに」
「そのことに」
「そうだ。御自身はローエングリンであると思われている」
 これが問題なのだった。複雑なパラドックスである。
 そのことを知るワーグナーはだ。今度はその旅について述べた。
「今その旅はいいことだ」
「陛下のその憂いに満ちたお心に」
「よいのですね」
「そうだ。私は願う」
 純粋な願いだ。王に対する。
「あの方の何があろうとも清らかなままの御心が安らかになることを」
 こう言うのであった。旅に出ている王に対して。そして王は。
 この時列車の中にいた。フロックコート、青のそれを着た王は優雅に座席に座っている。その王の向かい側にホルニヒがいる。
 そのホルニヒがだ。王に声をかけてきた。
「伯爵、宜しいでしょうか」
「どうしたのだ?」
 仮の身分にだ。王は言葉を返した。
「間も無くフランスですが」
「そうだな。いよいよだな」
「何処に行かれますか、フランスの」
「宮殿がいい」
 そこだとだ。王は答えた。
「ベルサイユだ」
「ベルサイユに行かれるのですか」
「バロックの芸術を見たい」
 ベルサイユ宮殿が造られたのはその時代のことだ。太陽王ルイ十四世の象徴とも言える。そしてバロック芸術の集大成とも言われる宮殿である。
「あの芸術をな」
「だからなのですね」
「そうだ、だからだ」
 まさにその通りだというのである。
 

 

241部分:第十七話 熱心に祈るあの男その五


第十七話 熱心に祈るあの男その五

「まずはあの場所だ」
「まずはですか」
「無論他の場所も巡る」
 王はベルサイユだけではないと答えた。
「他の宮殿もだ」
「宮殿を巡られるのですか」
「そうだ、そうする」
 こうホルニヒに話す。
「そうさせてもらう」
「それでは」
「フランスにはドイツにない多くのものがある」
 王の目は今はそれを見ていた。そしてだ。
 それを見ながらだ。ホルニヒにさらに話すのだった。
「だがそれはだ」
「それは?」
「ドイツに入れることもできるのだ」
「ドイツにもですか」
「やはり私はドイツ人だ」
 このことはだ。否定しなかった。そしてするつもりもなかった。
「ドイツを愛している」
「我が国をですね」
「父なる国をだ」
 彼もまた祖国をこう言っていた。尚後にその祖国を母なる国であると言う男も出る。その者も王と同じくワーグナーを深く愛する。
「その国を。愛している」
「そしてその国にですか」
「バイエルンは入る」
 それは絶対だというのだ。
「ドイツにとって喜ばしいことではある」
「ドイツにとっては」
「そうだ。これまでの様に周辺国の介入に悩まされることはない」
 小国が乱立していればその対立に付け入ることができる。それで実際にドイツは多くの戦乱に苛まれてきた。三十年戦争然りである。
「その中心がフランスだったがな」
「確かに。あの国は」
「神聖ローマ帝国皇帝の冠を狙ったこともある」
 それも王が敬愛するルイ十四世である。彼の野心は留まるところを知らず神聖ローマ帝国皇帝になることさえ望んだのである。
「そのフランスの介入もなくなる」
「ドイツは強力な国となり」
「そうだ、民達も強い国に守られるのだ」
 そのだ。父なる国にだというのだ。
「それはよいことだ」
「では喜ぶべきものなのですね」
「本来はな」
 ホルニヒに対してこう限定してみせた。
「そういうものだ」
「そうですか。喜ぶべきものですか」
「それが鉄と血によってなるものもわかる」
 ビスマルクの政策をだ。そのまま言ってみせた。
 彼は産業と戦争によりドイツの統一を推し進めている。このことは政策としてかなり強引に推進している。それがドイツを押しているのだ。
「それしかないからだ」
「その二つによって」
「そうなのだ。政治は現実だ」
 王が倦みだしているだ。その現実である。
「鉄と血もまただ」
「現実のものなのですね」
「それが成り立つものがだ。現実なのだ」
「ビスマルク卿はよくわかっておられるのですか」
「あの方は。全てを承知されている」
 ビスマルクへの敬意は忘れない。こうした話の中でもだ。
「しかしだ。それでもだ」
「好きにはなれませんか」
「鉄はいい」
 それはいいというのだ。
「それは人の世を繁栄させる」
「だからそれはいいのですか」
「私もまた鉄は愛している」
 王は技術を愛しているのだ。その技術を使って人工の庭園を造りその中にいて楽しんでいる。その他にもだ。王はこんなことも言うのだった。
「やがて人は空を飛べるようになる」
「まさか。それは」
「そうだ。なるのだ」
 こう言うのだ。この当時では夢の様になる話をだ。
 

 

242部分:第十七話 熱心に祈るあの男その六


第十七話 熱心に祈るあの男その六

「それはだ。なるのだ」
「人が。鳥の様に空を飛ぶのですか」
「それは鉄によってなる」
 王はまた言った。
「アルプスの上をだ。その美しい姿を空から見るのだ」
「気球の様にですか」
「あれよりももっと高く飛べる」
 王はまた遠くを見た。そこにあるのは夢だ。
「人は鉄によってそうなるのだ」
「鉄は。硬く重いですが」
「だがその鉄が人をそうさせる」
 空に舞い上げるというのである。王はその言葉に熱を帯びさせている。
「やがてはな」
「そうなるというのですか」
「鉄によってだ。鉄はその他にも人を様々な幸福に導く」
「だから鉄はいいのですか」
「そういうことだ。私は鉄を愛する」
 それはだというのである。
 しかしだった。同時にだ。彼はこうも言うのであった。
「だが。血は」
「戦争はなのですか」
「そうだ、戦争は愛せない」
 戦いを好まない王にとってはだ。それはどうしてもだった。
「あるのは破壊と醜悪だ」
「破壊と醜悪が」
「その二つしかない。華なぞないのだ」
 王は戦争によきものを見ていなかった。そこにある憎悪もまた、だ。彼にとっては心の奥底から忌むべきものでしかないのである。
「兵達は武器を持たない者にまで襲い掛かるな」
「それが戦争なのでは」
「だからだ。私は戦争を愛せない」
 そこに醜いものを見ているからこそだ。
 王は戦いを愛せなかった。血をだ。
「だが鉄は血にこそ最もよく反応するのだ」
「血にこそ」
「鉄は血を栄えさせてきた」
 戦争をというのだ。これは歴史にある通りだ。
「今もそうだ。銃や砲がその何よりの証だ」
「プロイセンではクルップ社が大砲を造っていますが」
「それであの社は大きな収入を得ている」
 クルップもまた今のプロイセンの勢いに貢献しているのだ。ビスマルクやモルトケだけではない。産業界にも英傑がいるのだ。
「鉄によってな」
「血を栄えさせているのですね」
「鉄だけならば」
 王はそれに限った。
「人はどれだけ幸せになれるのだろう」
「では陛下は」
「あの方は正論であり真実だ」
 それに他ならないというのだ。ビスマルクは。
「ドイツの統一にはそれしかないのだ」
「しかしなのですか」
「私は。どうしても血を好きにはなれない」
 拒否反応であった。それ以外の何者でもない。
「花を愛する。血よりもだ」
「花を」
「少女みたいだな」
 言ってすぐにだ。自嘲を口にしたのだった。
「それではな」
「いえ、男であっても花は」
「愛するものか」
「はい、そうではないのでしょうか」
「世の者は言うのだ。男は血を愛さなければならないと」
 そのだ。戦争をだというのだ。
「それが男なのだとな」
「では花は」
「その次だ」
 これがだ。男というものの世間の見方だった。
 

 

243部分:第十七話 熱心に祈るあの男その七


第十七話 熱心に祈るあの男その七

「戦いなぞ。何になるというのだ」
「陛下はあくまで戦いを避けたいと思われますか」
「そうだ。それが受け入れられないのはだ」
 嘆きをだ。その言葉に実際に出していた。
 そうしてだ。その言葉にだ。嘆きを含ませてだった。さらに言うのである。
「悲しいことだ」
「そういえば陛下は」
「赤十字のことか」
「はい、支持を表明されていますね」
「戦いがなくならないのなら」
 それはもうわかっていた。わかっていての嘆きなのだ。
「それならばだ」
「傷つく者は少しでも少ない方がいい」
「傷を癒せる者がいてもいいではないか」
 王の考えはそこにあった。彼は戦いで傷ついた者達のことを考えていた。
 そうしてだ。赤十字を支持しているのだった。
「違うだろうか」
「私はです」
「そなたはどう考えている」
「同じ考えと言えば媚になるかも知れませんが」
 それでもだというのである。
「ですが。戦いで多くのものが壊されるということは知っているつもりです」
「命もだな」
「その命が少しでも救われるのなら」
「いいな。それで」
「はい、そう思います」
 こう王の言葉に賛同するのだった。
「やはり。それは」
「そうだな。戦いの傷は少しでも癒されるべきだ」
「はい、そして」
「そして?」
「花だ」
 それに話を戻したのだ。花をだ。
「花は。戦いよりも尊ばれるべきだ」
「花、そして美はですか」
「そう思う。特に青い花だ」
 王が好きな色だ。それこそがまさに青なのだ。
「青い花が最もいい」
「ジャスミン等ですか」
「ジャスミンもチコリもだ」
 どれも青い花だ。王は何処までも青い花を愛していた。
 そしてだ。さらにであった。王はこの花も話に出した。
「ヤグルマギクもだ」
「その花もお好きですか」
「あの花は。ドイツに相応しい」
 彼等の国にもだ。いいというのである・
「青はいい。何処までも澄んでいる」
「そしてバイエルンの色ですね」
「そうだ。それもある」
 そのだ。バイエルンの青だからだともいうのだ。
「バイエルンの青だ」
「それが陛下の愛する色だからこそ」
「人は何時か青い薔薇も生み出すだろう」
 王は薔薇も愛している。しかしなのだった。
 青い薔薇はない。これはこの世の誰もが知っていることだ。
 しかしである。王はだ。その青い薔薇が何時か生まれるというのだ。
 それを聞いたホルニヒはだ。流石にだった。
 いぶかしむ顔でだ。こう言ったのであった。
「ないのではないでしょうか」
「そう思うか」
「はい、青い薔薇はです」
 それは不可能、現実にはないことの例えでもある。だからこそだ。
 彼はだ。それはというのである。
「ないかと」
「そうかもな。確かにな」
「御言葉ですが」
「しかしだ」
 それでもだと。王はまだ言う。
「やがては生まれる」
「青い薔薇がですか」
「人がそれを目指すなら必ず生まれる」
 こう言うのであった。
「それはだ」
「そうですか。人が目指せば」
「なるだろう。そしてだ」
「そして?」
「人はその青い薔薇を見て慈しむ」
 そうなるとも話す。王はそこまで見ていた。
 

 

244部分:第十七話 熱心に祈るあの男その八


第十七話 熱心に祈るあの男その八

 そうしたことを話してだった。彼はだ。ホルニヒに対してだった。
 その青いものを見つつ。こうも述べた。
「青い薔薇がこの世を覆い」
「この世を」
「戦いも覆ってしまえばいいのだがな」
「戦いですか」
「戦いなぞなくなれば」
 何処までも戦いを嫌っての言葉だった。
「そうなればいいのだが」
「では陛下。次の戦いも」
「避けられはしない」
 また言う。わかっているとだ。
「だが。避けたいものだ」
「そうですか。どうしても」
「避けられないものでも避けたい」
 矛盾している。しかし矛盾していてもだった。
 王は今はそれを求めていた。戦いを避けることをだ。
「因果なものだな。この国と」
「フランスとですね」
「この国の美は替え難い」 
 今もその美を見ている。その中でだった。
 王はまずは寺院に入った。そこはだ。
 黄色をベースにして青と緑、それに赤で主の誕生を描いたステンドガラスがあり黄金の十字架には主がかけられている。
 左右対称に席が並びその中央に通路がある。白い天井の高いその教会の中に入ったのである。そしてその教会の中で、であった。
 その中に入りだ。王はだ。
 礼拝に向かおうとする。だがホルニヒはだ。
 ここでだ。教会の神父に呼び止められたのである。
「何か」
「あの、どちら様でしょうか」
 神父はだ。彼等の身分を尋ねてきたのである。
「礼拝に来られたと見受けられますが
「はい、そうです」
 その通りだとだ。ホルニヒはその神父に答えた。
「そうさせてもらって宜しいでしょうか」
「はい、それでは」
「神父殿か」
 王もだ。その神父に気付いてだ。それでだった。
 ホルニヒに対してだ。こう言うのだった。
「それではだ。教会にだ」
「寄付ですね」
「そうだ。それをしよう」
 王はカトリックだ。カトリックの信者として寄付を忘れてはならない。彼の信仰心はそれなりに篤いのだ。それでホルニヒに対して言ったのである。
「そのことについてだが」
「私にお任せ下さい」
 寄付についてはだ。自分がするというホルニヒだった。
「そうして宜しいでしょうか」
「そうか、それではだ」
「はい、それでは」
 こうしてだったホルニヒがだ。
 神父に対してだ。静かにこう言うのであった。
「それでなのですが」
「そうしたお話はです」
 神父も気を使ってだ。礼拝堂ではというのだ。
「こちらで」
「それでは」
 礼拝堂から出てだ。他の場所で話をすることになった。こうして礼拝堂には王一人となった。そう、一人になった筈であった。
 だが礼拝堂、十字架の主の前に一人いた。それは。
 白いマントを羽織っている。そして兜だ。銀色の兜には白鳥がある。主の前に跪いているその後姿を見てだ。王はこう言うのだった。
「まさかと思うが」
「陛下ですね」
 その声にだ。そのマントの者も応えてきた。
 声は高い男の声だ。所謂テノールだ。しかしテノールにしては低い。それでいて輝かしい、その声は王が最も知る声であった。
 その声でわかった。彼は。
「白銀の騎士か」
「はい」
 王の言葉に頷いてであった。彼は。
 すくっと立ち上がった。そのうえで王の方に身体ごと振り向いた。それでその全身が見えた。
 白銀の鎧に身を包んでいる。その中に見える上着もズボンは白だ。全てが白と銀色の男だ。長身であり実に引き締まった身体をしている。
 

 

245部分:第十七話 熱心に祈るあの男その九


第十七話 熱心に祈るあの男その九

 兜から見える豊かな金髪は黄金に輝き彫のある白い顔は整いまるでギリシア彫刻である。唇は薄くそして一文字である。
 高い鼻に小さな目、その目は湖の輝きである。金髪碧眼、まさにゲルマンの芸術そのものの姿をした彼がだ。王の前に立っていた。
 その彼がだ。こう王に言ってきたのだ。
「そうです。こうして御会いしたのは」
「はじめてだな」
「直接御会いしたのははじめてですね」
「そうだったな。しかしだ」
 それでもだとだ。王は言うのだった。
「卿と会ったことはこれがはじめてではない」
「はい、陛下がご幼少のみぎりに」
 その時のことをだ。思い出して話したのである。
「御会いしていますね」
「そして十六歳の時に」
「そうだった。あの時のことは今も覚えている」
 はじめて観ただ。ローエングリンの話である。
「あの時の出会いは」
「そうです。そしてここで御会いしましたね」
「何故ここに来たのだ?」
 王はあらためてだ。騎士に対して尋ねた。
「この教会に」
「陛下が私に御会いしたいと思っておられたので」
「それはいつもだ」
「そうですね。それはいつもですね」
「その通りだ。だがこうして私の前に姿を現したのは」
 どうかとだ。王はそのことを騎士に尋ねた。
「何故だ。私に用があるのはわかるが」
「はい、それはです」
「それは?」
「陛下は今傷ついておられます」
 騎士にはわかることだった。それも実によくだ。
「そのことが心配で」
「来てくれたのか」
「陛下、貴方はです」
 見れば騎士の腰には大きな剣がある。
 銀色の柄に鞘だ。その剣を見てだ。
 王はだ。さらに話した。
「リヒャルト=ワーグナーと引き離され」
「そのことも知っているか」
「常に見ていましたので」
 王をだ。そうしているというのだ。
「そしてです」
「卿はワーグナーとも常にいるのだからな」
「そうです。私はあの音楽家の傍にも常にいます」
 この騎士はそうだというのだ。ワーグナーの傍にもだというのだ。
「彼もまた傷ついていますが」
「それよりもだというのだな」
「貴方は。さらに」
 騎士は王を見ていた。さらにであった。
「傷ついておられますね」
「否定はできないようだな」
 騎士の青い目で見られてだ。そのうえでの言葉だった。
「そうだな」
「申し訳ありませんが」
 また言う騎士だった。
「私にはわかってしまうのです」
「わかってくれるのだな」
 気遣いも見せる王だった。騎士に対して。
「私を常に見てくれているのだから」
「それで陛下」
「わかっている」
 騎士に対して答えた。
「先の戦争のこと、そして次の戦争のこと」
「独逸のこともですね」
「避けられないのだ、全て」
 王は寂しい顔を見せた。また遠い目になってだ。
「それもわかっているのだ」
「だからこそ。貴方は」
「それを癒す為にこの旅に出たのだがな」
「それでなのですが」
「それで?」
「貴方はその傷心の中で考えておられますね」
 王にだ。こう問うたのである。
「そうですね」
「そうだ。私は一つの世界をこの世に、そしてドイツに表したい」
 そうしたいとだ。王は騎士に対して本音を話した。
 

 

246部分:第十七話 熱心に祈るあの男その十


第十七話 熱心に祈るあの男その十

「フランス、いや卿のだ」
「私のですね」
「卿の世界を表したい」
 こう騎士に話した。
「私はそれをしたいのだ」
「おそらくそれがです」
「それが?」
「陛下の運命なのです」
 騎士もだ。こう王に言うのである。
「誰もがこの世に生まれたならば」
「運命を持っているのだな」
「はい、陛下の運命はです」
 その運命についてだ。騎士はまた話した。
「この世に。私の、いえ白銀の世界を表すことなのです」
「この世に。夢を描くことか」
「それを実現されることがです」
「ワーグナーの美はその夢だ」
 王は自然に彼の名前を出したのだった。ここでも彼のことは頭から離れない。まさにその芸術は王にとって全てになっていた。
「この世の至高の芸術だ」
「その至高の芸術はもう一つありますね」
「私は今それがある場所にいる」
 そここそが、なのだった。
「この国にだ」
「フランス、バロックやロココの」
「それをより洗練し素晴らしいものを描きたい」
 こう熱く語るのである。
「白銀の世界と合わせ。そのうえで」
「それを描く場所は」
「青と緑の場所だ」
 どの色も王の愛する色だ。王は緑も愛しているのだ。
「そこにその至高の芸術を描こう」
「では。その為に」
「そうだ、私はこの国に来たのだ」
 そのこともだ。王はわかったのだった。
 何故フランスに来たのかをだ。理解したのである。
「私がこの国に来たのもまた運命だったのだ」
「その通りです。陛下は導かれたのです」
 騎士も話す。
「陛下、それでは」
「フランスから戻れば」
「美を築かれて下さい
 騎士はこう王に話した。
「どうか。御自身の運命を果されて下さい」
「思えばそれは決まっていたのだ」
 王は騎士を見てだ。語った。
「私が卿と出会った時にな」
「私と出会うこともまた」
「全ては。運命の導くままにか」
「はい、そうです」
「そうだな。それではだ」
「進まれて下さい」
 彼は言った。
「そうして下さい」
「そして卿とも」
 騎士にまた話してであった。
「共にだな」
「私は常に陛下と共にいます」
 騎士は微笑んで王に話した。
「それでは」
「進むとしよう」
 王もまた微笑んで騎士の言葉に応えた。そうしてであった。
 騎士は王の前から姿を消した。まるで霧の中に覆われるかの様に。王が一人になるとだ。すぐにホルニヒが彼の下に戻ってきた。
 

 

247部分:第十七話 熱心に祈るあの男その十一


第十七話 熱心に祈るあの男その十一

 そのうえでだ。彼はこう王に言うのであった。
「陛下、お待たせして申し訳ありません」
「いや、待ってはいない」
 王はそのホルニヒに顔を向けて彼に答えた。
「ここで実りを得たからな」
「実りをですか」
「そうだ、それを得た」
 こうホルニヒに話すのである。
「私はここでな」
「神の御加護をでしょうか」
 教会にいることからだ。ホルニヒはこう述べた。
「それをでしょうか」
「そうだな。近いな」
 実際にそうだと話す王だった。
「それはな」
「左様ですか。それはよいことですね」
「それでだが」
「はい、寄付のことですね」
「それはどうなった」
 ホルニヒに対してそのことを問うのであった。
「どうした、それは」
「サファイアとルビーを二個ずつ」
 宝石をだ。寄付したというのだ。
「そしてダイアも二個です」
「トリコロールだな」
「それで宜しいでしょうか」
「いい」
 それで問題ないという王だった。
「充分だ。そしてフランスに相応しい」
「だからだと思いまして」
「考えたな。私でもそうする」
 ホルニヒのそれを評しての言葉だった。
「だからだ」
「そうですか。では」
「そなたも祈るか」
 寄付の話の次はだ。それであった。
「神にだ。そうするか」
「はい」
 まさにだ。そうするとである。
 ホルニヒは微笑んで王の誘いに頷いた。
「そうさせて下さい」
「神は常に見ておられるのだ」
 王の目が微笑んでいた。そのうえでの言葉だった。
「そしてだ」
「そして?」
「騎士もだ」
 彼のことをだ。自然に話に出したのである。
「彼も見ているのだ」
「騎士?」
 だが、である。ホルニヒは彼のことを知らない。それでだった。
 王に対してだ。怪訝な顔で尋ねたのである。
「誰ですかそれは」
「むっ、そなたは知らないか」
 それを聞いてだ。王もわかった。
「そうなのか。彼は」
「私が入る前にいたのでしょうか」
 ホルニヒはこう考えた。そうでなければ不自然だからだ。
「その騎士の方は」
「そうなるな」
 実際にそうだったのでこう答えた王だった。
「彼はだ」
「左様ですか。その騎士殿は」
「その騎士に教えてもらった」
 王は微笑んでもいた。
「それでなのだが」
「それでとは?」
「まずはこの国の宮殿を回る」
「ベルサイユ等ですね」
「無論他の宮殿もだ」
 フランスといえばベルサイユだ。しかしそのほかの宮殿もだというのである。彼は様々な宮殿を回って見ていくというのである。
 

 

248部分:第十七話 熱心に祈るあの男その十二


第十七話 熱心に祈るあの男その十二

「回る。そしてだ」
「そして?」
「ドイツに生かそう」
「宮殿を見たことをですか」
「そうする。それでだ」
 ここまで話してまた言う王であった。
「騎士に教えてもらった世界をドイツに再現しよう」
「お話を聞きますと」
 ホルニヒは王の話を聞いてだ。考えてからだ。こう述べたのであった。
「その騎士殿は芸術家だったのでしょうか」
「そうだな。芸術家だな」
 そう言われるとだ。まさにその通りだというのだ。
「素晴らしい騎士だった」
「左様ですか」
「私の運命を教えてくれた」
 そこまでの人物だと話すのである。
「ならばだ。私はだ」
「その騎士殿のお言葉に従われるのですね」
「そうする。それではだ」
 こんな話をしてからだった。王はだ。
 あらためてだ。ホルニヒに話した。
「さて、そなたもだ」
「神に祈りを捧げても宜しいでしょうか」
「そうしなければならない」 
 信徒としてだ。そうしなければならないというのである。
「そなたもな」
「はい、それでは」
「それからだ」 
 ホルニヒは王の言葉に従い礼拝堂の前に跪いてだ。そのうえで祈りを捧げた。短いがそれでもだ。信仰の篤さが窺える礼であった。
 それをしてからだ。彼は立ち上がりだ。王に述べた。
「有り難うございます。それでは」
「他の場所に行くか」
「どちらに行かれますか?」
「まずは食事にしよう」
 王は微笑みと共に述べた。
「そうしよう」
「昼食ですか」
「ワインもある」
 それもだというのである。
「それも楽しもう」
「フランスのワインをですね」
「そうだ。シャンパンがいいだろうか」
「シャンパン。それは確か」
「ビスマルク卿の好物だ」
 こう話す。そのシャンパンについて。
「今はそれにしよう」
「そうですか。だからですか」
「ビスマルク卿は偏狭な愛国者ではない」
 それは少なくともその通りだった。彼は確かにドイツの為に邁進している。しかしなのだ。彼の視野は決して狭くはないのである。
 むしろかなり広い。その嗜好もなのだ。
「だからだ。シャンパンも飲まれるのだ」
「陛下と同じくですか」
「シャンパンはいい」
 また言う王だった。
「もっともフランスのワインはそれだけではないがな」
「シャンパンだけではない」
「フランスの美酒は一つではない」
 そうだというのだ。
「多くの美酒を飲みたい。そして味わいたい」
「フランス料理もですね」
「全てを楽しもう。そのうえで」
「そのうえで?」
「バイエルンに戻ろう」
 そのだ。彼の国にだというのだ。
「私の運命を実現させる為にだ」
「実現ですか」
「そうだ、実現させるのだ」
 遠くを見る目になる。教会の中でもだ。
 

 

249部分:第十七話 熱心に祈るあの男その十三


第十七話 熱心に祈るあの男その十三

「この国に来たのも運命だったのだ」
「ただの旅行ではなかったのですか」
「そう思っていたが違った」
 そうだというのである。
「これも運命だったのだ」
「神に導かれた」
「そうだな。神だ」
 まさに神によるものだと。王は認めた。
「私がこの国に今こうして来ているのはだ。それはだ」
「それは?」
「私が幼い頃に出会い」
 あの騎士とだ。そうしてとだ。王はその言葉をさらに続ける。
「あの歌劇を観たことも」
「ローエングリンですね」
「ワーグナーを招いたことも。運命だったのだ」
 その全てがだ。そうだったというのだ。
「そして今この国にいるのもだ」
「神が導かれたことなのですか」
「人にはそれぞれ運命がある」
 王は遠くを見たまま。そのことをホルニヒに語る。
「そして私の運命がわかった。私はそれを果そう」
「では何をされるのですか?」
「この世に美を再現する」
 それをだというのだ。
「私はワーグナーと引き離された。しかしその美は私の心に留まったままだ」
「美とはワーグナー氏の芸術でしょうか」
「そうだ。まさにそれだ」
 王の言葉に熱が入ってきていた。そうしての言葉だった。
「それにバロックやロココを交えてだ」
「最高の芸術を生み出されるのですね」
「そうしたい。それが私の運命なのだ」
 王は話す。
「そうだったのだ」
「では今から」
「うむ」
 微笑んでいた。その微笑で頷いた。
「それではだ。今からだ」
「まずはフランスの宮殿を御覧になられますか」
「ベルサイユだな」
 こう言った。そこだとだ。
「食事の後でだ。行こう」
「では」
 こう話してだった。彼等は今はそのベルサイユに向かうのだった。食事の後で。
 そうした話の後で食事を楽しむ。飲むのはやはりだ。
 シャンパンだった。それを宮殿を思わせる見事なレストランの中で飲む。王の向かいにはホルニヒが座っている。その彼はというと。
 申し訳なさそうな顔をしている。そのうえで王に問うのであった。
「あの」
「どうしたのだ?」
「私も共にいて宜しいのですか」
 こうだ。王に対して尋ねるのだった。
「その。私は」
「何だ?何か不都合があるのか?」
 王は微笑んでだ。そのホルニヒに対して返した。
「私と共にいて」
「その。陛下は」
「私は陛下ではない」
 これが返答だった。今の王の。
 

 

250部分:第十七話 熱心に祈るあの男その十四


第十七話 熱心に祈るあの男その十四

「伯爵だ。そしてそなたはだ」
「私はですか」
「そのお供だ。伯爵とお供ならばだ」
「それならば?」
「私がいいと言えばそれでいいのだ」
 それでだ。相席を許されるというのである。
「そこまで離れたものはない」
「王でないのなら」
「王とは。やはり因果なものなのだろう」
 少し寂しく笑ってだ。王について話した。
 話をしながらシャンパンが入っているそのグラスを手に取り己の口に近づける。そうして一口飲み喉を潤してからであった。
 王はあらためてだ。ホルニヒに話した。
「至高の座にあるな」
「まさに」
「そこにいれば全ての者が共にいることを許されない」
「誰であろうともですか」
「王の上にあるのは教皇様と」
 ローマ教皇である。カトリックでもある彼にとって教皇はまさに太陽である。そしてその太陽と比肩する存在についてもだ。王は話した。
「そして皇帝だけだ」
「皇帝ですか」
「オーストリア皇帝」
 まずはその皇帝だった。
「そしてドイツ皇帝だ」
「その御二人ですか」
 ドイツ皇帝はまだこの世に出てはいない。しかしだ。
 既に誕生するものとしてだ。王は今話すのだった。
「王の上に立つのは」
「そうだ。それだけに王は孤独だ」
 その孤独さを見ての言葉だった。
「相席もだ」
「許されないと」
「それが王なのだ」
 王はホルニヒに話していく。
「だが伯爵ならばだ」
「まだできますか」
「そうだ。だからいいのだ」
 微笑みに戻っての言葉だった。
「今はだ」
「では」
「さて、そろそろ食事が来る」
 王は話をそこに移した。
「その前に今はシャンパンを楽しもう」
「そうですね。それでは」
「美酒はいい」
 王はその美酒を実際に楽しみながら述べた。
「この世の憂いを忘れさせてくれる」
「憂いをですか」
「憂いは尽きることがない」
 王にとってはだ。まさにそうしたものだった。
「その憂いを忘れさせてくれるのだからだ」
「確かに。酒は」
「いいものだ。ワインもいいがシャンパンもいい」
 王はどちらも愛していた。もっと言えばドイツの酒もフランスの酒もだ。
 今はフランスの酒を飲んでだ。それで話すのだった。
「では。楽しもう」
「では」 
 こうしたやり取りのうえで、だった。彼等は今は共に酒を楽しんだ。王は今は憂いを忘れていた。それと共に己を運命の中に置こうともしていた。


第十七話   完


                   2011・4・7
 

 

251部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その一


第十八話 遠く過ぎ去った過去その一

                 第十八話  遠く過ぎ去った過去
 王の旅の話はだ。ビスマルクも聞いた。
 彼の周囲はだ。顔を顰めさせて言うのだった。
「あの王にも困ったものです」
「全くです。公務を放棄してお忍びでの旅とは」
「しかもフランスに」
 こうだ。口々に言うのである。
「我等が次に戦うのはフランスです」
「そこに行かれるとは」
「一体何を考えておられるのか」
「何も考えておられないのか」
 王の資質をだ。明らかに疑っていた。
 そうしてだった。こんな言葉も出て来た。
「あれでは。バイエルンも気の毒です」
「困るのは臣民達です」
「彼等のことを考えずあの様な行動を取られるとは」
「何を考えておいでなのでしょう」
 これが彼等の言葉だった。しかしだ。
 ビスマルクはだ。落ち着いた様子でだ。こう言うのであった。
「あの旅はあの方にとっていいことだ」
「バイエルン王にとっては」
「いいことなのですか」
「そしてドイツにとってもだ」
 よいことだとだ。彼は言うのである。
「必ずよいものを手に入れられることだろう」
「必ずですか」
「今回の旅により」
「そうだ。しかしだ」
 だが、だった。ここでビスマルクの言葉が変わった。
 そのうえでだ。こう周りに言うのであった。
「それがわかるかどうかはだ」
「それは別問題というのですか」
「そうなのですか」
「そうだ。それが問題なのだ」
 ビスマルクはその深い洞察を窺わせる目で話した。
「あの方を理解することは難しい」
「確かに。それは」
「私は少し」
「私もです」
 周りもだ。ビスマスクのその言葉に難しい顔になる。そしてだ。
 彼等は己の考えをだ。そのまま言うのだった。
「あの方のお考えはわかりません」
「何を考えておられ何を御覧になられているのか」
「それがわからないのですが」
「あの方にあるのは知性や教養だけではない」
 その二つを兼ね備えた人物であるということはわかるというのだ。王がだ。
 そのことは誰もがわかることだった。しかしなのだった。
 王のその考えはというと。中々だったのだ。
「あの方は一体」
「何を見ておられるのか」
「それなのですが」
「あの方は美を見ておられるのだ」
 それだと話すビスマルクだった。
「それを御覧になられているのだ」
「美ですか」
「前もそういうことを聞きましたが」
「では王は美をこの世にですか」
「それを描き出そうとされているのですか」
「あの方は芸術家なのだ」
 ビスマルクはだ。王をそうだと理解していた。
 そしてだ。彼は王のその旅について話した。
「その芸術は必ずドイツの宝となる」
「これから生まれるドイツ帝国の」
「それになりますか」
「それだけではない」
 それに留まらないというのだ。
「それが世界の者の心を清らかにするだろう」
「ドイツだけではない」
「世界もですか」
「あの方はそれをされるのだ」
 プロイセンにいながらだ。バイエルンのその王をそこまで讃えていた。
 そしてだ。さらにであった。
 ビスマルクは王のことをだ。はっきりと話した。
 

 

252部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その二


第十八話 遠く過ぎ去った過去その二

「私は今回の旅を支持する」
「プロイセンの宰相として」
「そうされますか」
「プロイセンの宰相としてだけでなく」
 それに留まらないというのである。
「私個人としてもだ」
「そうされるのですか」
「閣下御自身としても」
「支持をされますか」
「そうだ。それを言っておこう」
 はっきりとした口調でだ。彼は言い切った。
「私はあの方を支持する」
「プロイセン宰相としてだけでなく閣下御自身としても」
「支持されるのですか」
「私はあの方が好きだ」
 そうだというのだった。ビスマルクがだ。
「あれだけの方がドイツにおられることは幸せだ」
「この国にとって」
「ドイツ帝国にとって」
「政治的には確かに対立する部分が多い」
 それはどうしてもだった。プロイセンとバイエルンはどうしても対立してしまう。ドイツの東と西、北と南、そしてプロテスタントとカトリック。
 その対立するものがだ。両国を政治的にいがみ合わせているのだ。
 それがわかっていてもだ。ビスマルクは言うのだった。
「だがそれでもだ」
「あの方をお好きなのですか」
「そして支持されますか」
「そうしていく。これからもな」
 今に留まらないというのだ。
「わかったな」
「はい、それでは」
「我々はです」
 彼等は官僚として話した。命令に忠実で個人的感情を見せない官僚にだ。
「宰相閣下のお言葉に従います」
「そうさせてもらいます」
「あの方が多くの者にわかるのは」
 それが何時かもだ。王は話した。
「それはあの方が歴史になってからだ」
「歴史になってから」
「それからなのですか」
「そうかも知れない。私はあの方を今理解できて幸せだ」
 そのことについてもだ。彼は幸福だというのだ。
「そう思う」
「あの方はこれからどうなるのか」
「それが気になりますが」
「それは今は言うべきではない」
 ビスマルクにとって珍しい顔になった。それはだ。
 悲しい顔だった。その気難しい顔をだ。悲しいものにさせてだ。
 彼は今こう言うのだった。
「今はな」
「未来はわからない」
「だからでしょうか」
「いや、私にはだ」
 わかると言おうとした。しかしだ。
 その言葉を言わなかった。未来を言ってしまえばそれが今すぐになってしまうのではないかと思えたからだ。それで言わないのだった。
「何でもない」
「左様ですか」
「そうなのですか」
「そうだ、とにかく私はあの方の今回の旅を支持する」
 それは変わらないというのだ。
「わかったな」
「わかりました」
 こうしてだった。ビスマルクは王の旅を暴漢するどころか擁護さえするのだった。それはバイエルンにも伝わりだ。高官達も表立って言えなくなった。
 しかし王はそれを知らない。旅に出ている彼が知る由もないことだった。そうしてそのうえでだ。彼は同行しているホルニヒに話した。
 今彼等はベルサイユの鏡の間にいる。は苦吟のシャングリラが幾つもあり天井はアーチ型をしていて黄金の絵画が描かれている。
 

 

253部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その三


第十八話 遠く過ぎ去った過去その三

 庭園に面した場所には窓が連なりその反対側には鏡、それも数えきれないまでにある。そこには庭園が映し出されている。
 その部屋を二人で歩きながらだ。彼は言うのであった。
「素晴らしいものだ」
「噂には聞いていましたが」
「噂以上だ」
 王は恍惚とさえして言っていた。
「これ程までとはな」
「そうですね。これがベルサイユですか」
「フランスにあるものだ」
 その国にだというのだ。
「しかしドイツにはない」
「それが問題なのですか」
「今はない」
 王は言葉を限定させた。今はだというのだ。
「しかしこれからはだ」
「違ってきますか」
「私は。是非だ」
 恍惚とした声でだ。王は話していくのだった。
「この美をドイツにも実現したい」
「ワーグナー氏と共にですね」
「その通りだ。ワーグナーの美とフランスの美」
「その二つを」
「両立させる」
 まさにだ。そうするというのだった。
 その話をしてだ。さらにだった。
 王は言葉を続ける。その鏡に映る庭園を見ながらだ。
 庭園は緑が美しい。そこもまたバロックの豪奢さがある。左右対称で幾何学の造りになっている。その宮殿を見ながらだ。王は話すのである。
「一つにさせると言うべきか」
「一つにですか」
「そうだ、一つにだ」
 そうするというのである。
「そのうえでこの世にこの世にない美を実現させる」
「この世に?」
「そうだ、この世にはない美を実現させるのだ」
 それが何か。具体的にはだった。
「白鳥の騎士、愛の泉とバロック、ロココがだ」
「両者は一つになるのですか」
「そうだ、一つになるのだ」
 王の目指すその美を話していく。
「私はそれを実現させる」
「ドイツに戻られてから」
「そうする。その場所は」
 そこが何処かもだ。王は話していく。
「バイエルンだが」
「ミュンヘンではありませんね」
「ミュンヘンには自然がない」
 王は首を横に振って述べた。
「森も湖もだ」
「その二つが必要なのですか」
「銀と金」
 白鳥の騎士とだ。バロックの色だった。
「その二つだけでは駄目なのだ」
「そこにその二つですか」
「緑と青だ」
 自然の二色、これもまた王が愛する色だった。
 とりわけだった。王はこの色を話した。
「青だ」
「青ですか」
「そうだ、青が必要なのだ」
 こう言うのである。青は絶対に必要だとだt。
 そうしてだ。王はその青についてもだ。ここで話すのだった。
「この宮殿には青がないな」
「そうですね。ここは」
「ベルサイユは元々水に乏しかった」
 それでわざわざ遠い場所からかなりの労力と費用をかけて水を持って来たのだ。ベルサイユは元はただの狩猟地に過ぎなかったのだ。
 そこにだ。王は宮殿を築いたのだ。それがこのベルサイユ宮殿なのだ。
「だからだ。ここにはだ」
「青が乏しいですか」
「緑もあるがそれは人工のものでしかない」
 こう語っていく。
 

 

254部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その四


第十八話 遠く過ぎ去った過去その四

「だが。私がそこに築くのはだ」
「それはどういうものですか?」
「自然の中に。それがあるのだ」
 そうだとだ。王は熱を帯びた声で話した。
「それが私の実現させる美なのだ」
「ではその場所は」
「何処かわかるか?」
「御答えして宜しいでしょうか」
 ホルニヒは王に対してだ。こう前置きしてから述べようとするのだった。
「そうして」
「うむ、そうしてくれ」
 いいとだ。王は告げた。
「それでどうなのだ」
「はい、アルプスでしょうか」
 ホルニヒが言う場所はそこだった。ドイツの南、そしてバイエルンの南にあるそこだというのだ。そこがどういった場所かというとだ。
「そこでしょうか」
「わかるか」
「陛下がお好きな場所ですから」
「自然はいい」
 王は今はだ。そこにはないものを見ていた。そのうえでの言葉だった。
「全てを癒してくれる」
「だからこそそこに」
「そうだ。人の心は時として醜い」
 そのことは嫌になるまでわかっていた。ワーグナーのこと、そして政治のことでだ。王は知りたくもないのにだ。そういったことを知ってしまったのだ。
 だが、だ。自然はというのだ。
「しかし自然は違う」
「常に美しいというのですね」
「人のその醜さなぞ自然の美の前には何程のものでもない」
 こう言う。ベルサイユにいて。
「何にもならないのだ」
「その自然の中に。陛下の美が」
「自然と同一するのだ」
 そうなるというのだ。王の実現させる美は。
「そうあるべきなのだ」
「ワーグナー氏とフランスのそれぞれの美」
「そして自然の美がだ」
「ドイツにおいて実現しますか」
「そういうことだ。そしてだが」
「そして?」
「私は今はだ」
 今はとだ。ここでさらに話したのだった。
「バイエルンに帰った時に一つのことをしたい」
「それは」
「ワーグナーをまたミュンヘンに呼ぶ」
 彼の街にだ。呼ぶというのである。
「あの街にだ」
「それはできるのですか」
「できるようになったのだ」
 微笑んでいた。顔が自然にそうなっていた。
「ようやくな」
「そうですか。そうなったのですか」
「あの戦争のことが私にそれをもたらしてくれた」
 あのプロイセンとオーストリアの戦争だ。それがだというのだ。
「意固地な者達を。退けてくれた」
「ワーグナー氏を遠ざけていた方々が」
「いいことだ。私にとって」
「陛下にとって」
「私は彼に出会う運命だったのだ」
 ワーグナー、そしてなのだった。
 しかしだった。その運命の全てをだ。ホルニヒは感じ取れなかった。それが王だけが感じ取れるものだった。彼だけがなのだ。
「ここに来ることもだ」
「鏡の間というだけはありますね」
 ホルニヒは庭を見ていた。鏡に映るその庭をだ。
 それを見ながらだ。彼は王に話すのだった。
「こうして庭を見ることができるとは」
「話には聞いていたが実にいい」
「はい、確かに」
「これをドイツに実現させたい」
 王は言った。
 

 

255部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その五


第十八話 遠く過ぎ去った過去その五

「是非な」
「自然の中に」
 そんな話をしてだ。ベルサイユの中を歩いていく。そして。
 ルイ十四世、その太陽王の部屋にも来た。やはり王の部屋だけはある。そこもまた豪奢を極めていた。そして芸術もあった。
 その芸術の中でだ。王はまたホルニヒに話した。
「ルイ十四世は芸術を好んでいたが」
「それだけではなかったと」
「美食家でもあった」
 そして大食でも知られていた。それがルイ十四世だったのだ。
「私も美食は好きだ。だが」
「だが?」
「ルイ十四世は女性を愛した」
 多くの愛人を持っていたことでも知られている。それは彼の祖父であるアンリ四世もそうだったし曾孫であるルイ十五世もだ。そうだったのだ。
「だが私は」
「女性は愛せないですか」
「愛さないとならないのだろう」
 それを考えるとだ。暗鬱になるのだった。
 その暗鬱さを見せてだ。王は言葉を続けた。
「私は王なのだから」
「王には后が必要ですね」
「后なき王は身体の半分がないことと同じだ」
 俗に言われることだった。そのことは。
「だが。それは」
「それは」
「私にとっては」
 こう話すのだった。暗い顔でだ。
「それが正しいのかどうかは」
「わかりませんか」
「自分でもわからないが私は女性を愛せない」
 それが何故かは王はわからなかった。そのことはだ。
「愛することができるのは」
「同性ですね」
「私はローエングリンになりたい」
 願望だった。それに他ならない。
「しかし私はどういうわけかだ」
「ハインリヒ王にはよくなられますね」
「そうだな。王としてだな」
「はい、そうされていますね」
「しかしハインリヒ王の目では彼を見ていない」
 ローエングリンをだというのだ。白銀の騎士をだ。
「エルザの目で見ているのだ」
「エルザのですか」
「どういうことかエルザから見ている」
 そうだというのだ。王は自分でそのことはわかっていた。
「彼をだ」
「ローエングリンになられてはどうでしょうか」
「私があの騎士になるのか」
「はい、その服を着られては」
 どうかというのである。それがホルニヒの勧めだった。
「そしてローエングリンになられては」
「そうだな。それもいいだろうか」
「そうすればまた何かに気付かれるかも知れません」
「私はあの騎士をずっと見ている」
 幼い頃からだ。それからだった。
「そして十六の時にだ」
「あのオペラを御覧になられ」
「信じられないものだった」
 そこまでだ。素晴らしかったというのだ。
「その美しい姿を今も覚えている」
「白鳥の騎士の」
「小舟に乗って現れた」
 ローエングリンがブラバントに来る場面だ。彼が白鳥の曳く小舟に乗りエルザの前に現れたその場面をだ。王は今でも覚えているのだ。
 そしてだ。王はその場面を言うのだった。
「私は。エルザの気持ちがわかる」
「そのオペラの」
「そうだ、よくわかるのだ」
 こう言うのである。太陽王の部屋を見ながら。
「彼女の心がだ」
「自分を救いに来た騎士を見たその時の気持ちが」
「救い、そして愛」
 言うのはその二つだった。
 

 

256部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その六


第十八話 遠く過ぎ去った過去その六

「その二つを私は見た」
「では陛下は」
「エルザの目で見ているのだ」
 ローエングリンを。そうだというのだ。
「あの彼を。おかしなことだ」
「おかしいのですか」
「私は男なのだ」
「はい、それは」
「男なのだ。それなのにだ」 
 どうかというのだ。彼は。
「私はエルザの目から彼を見てしまうのだ」
「それがおわかりになりませんか」
「どうしてもだ。わからない」
 戸惑いと共にだ。王は話すのだった。
「私はエルザではない。間違っても」
「はい、むしろ陛下は」
「ハインリヒ王だ」
 その王だというのだ。ドイツ王だというのだ。
「若しくは。ローエングリンだ」
「あくまで男性ですね」
「間違ってもエルザではないのだ。女性ではないのだ」
 この言葉は自分自身に言い聞かせていた。気付かないうちに。
「男なのだ。その私がエルザの目から彼を見るのは」
「何故でしょうか、それは」
「わからない」
 またこの言葉を出す王だった。自然に出てしまう言葉だった。
「だが。私は」
「陛下は」
「必ず。その美をドイツに実現させる」
「はい、では鏡の間は」
「無論だ。あの部屋もだ」
 王は強い言葉に戻った。そのうえでだった。
「私はドイツに描き出そう」
「ワーグナー氏の美と共に」
「彼の美も自然の美も」
 そのどれもがだというのだ。
「私は一つにして。ドイツに描き出そう」
「はい、それでは」
 こんな話をしてだった。王は鏡の間も王の間も巡るのだった。そしてだ。
 庭も見る。ベルサイユの緑の庭を。
 幾何学の模様が描かれ左右対称である。その庭も見てホルニヒに話す。
「この庭はだ」
「どう思われますか」
「私が考えているのは城と宮殿を一つにしてだ」
「その二つをですか」
「そして自然の中にあり自然と一つになっている」
「ではこの庭は」
「庭よりも自然だ」
 それだというのだ。
「自然の美を大事にしたい」
「では陛下」
 ホルニヒは王の話を聞いてだ。頭の中に白い城、そして緑の世界を描いてだ。そのうえで王に対してだ。静かに話をするのだった。
「庭はないのですか」
「城によるがやはり自然だ」
「自然の中にその城がある」
「そういうものを築きたい」
 こうだ。王は話す。
 その庭を見つつだ。王はまた話した。
「やはり緑はいい」
「陛下は緑もお好きなのですね」
「青も好きだ。そして緑もだ」
 どちらもだというのだ。王は愛しているというのだ。
「心を安らげさせてくれる」
「不思議ですね。色によって人の心は変わるのですね」
「青はバイエルンの色だ」
 他ならぬだ。彼の国の色だというのだ。
「その色に生まれた頃から包まれていた」
「青に」
「ワーグナーの色も。おそらくはだ」
「青ですか」
「そづあ。おそらくはだが」
 そう前置きしてからだ。王はワーグナーと青について話をしていく。
 

 

257部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その七


第十八話 遠く過ぎ去った過去その七

「青なのだ。ワーグナーは」
「白や銀ではないですか」
「それもある」
 その色もだというのだ。あるというのだ。
「ローエングリンの色だ」
「あの騎士のですか」
「無論そうした色も好きだ」
 王は清らかな色を愛するのだった。そこに想うものがあるようにだ。
 その話をしていき庭を見てだ。王は庭にある薔薇を見た。
 白い薔薇が咲いている。その薔薇を見てだった。
 彼はだ。ふと話をするのであった。
「いいだろうか」
「はい」
「この薔薇だが」
「白い薔薇ですね」
「私は薔薇も嫌いではない」
 花自体がだ。好きなのだ。
 その花々を見てだ。王は話していくのだった。
「だが。薔薇には青はないな」
「そうですね。青い薔薇は」
「それはない」
 こう話すのだった。
「薔薇と青は相容れないものだな」
「青い薔薇、それは」
「不可能という意味だ」
 そういう意味がある。それはその通りだった。
「今は存在しない」
「今はですか」
「だが。やがてはだ」
 王は遠い目になってだ。そうしてホルニヒに話した。
「人はその青い薔薇を生み出すだろう」
「不可能だったものをですか」
「その通りだ。青い薔薇は何時か生み出される」
「魔術の様な話ですね」
「魔術ではない。科学によってだ」
 それによってだとだ。王は話す。
「人は青い薔薇も生み出すだろう」
「陛下はそれを期待されているのですね」
「人は。確かに醜くもある」
 そのことは嫌になるまでわかっていた。これまで生きてきた中でだ。
 それがわかっているからこそでもあった。今の言葉はだ。
「だが。美もだ。人は求めるものだ」
「人がですか」
「だからだ。私はそれを信じている」
 王は話す。青い薔薇を心の中に見ながらだ。
「人が何時か青い薔薇を生み出すことをだ」
「青い薔薇だけではありませんね」
「わかるか」
 王はホルニヒの今の言葉に顔を向けた。白い道の左右に緑の文字が描かれている。その複雑だが美麗な文字の中にいてだ。王は話すのである。
「人はやがて青い薔薇を生み出し」
「そしてその他にも」
「空を飛ぶだろう」
「気球ではありませんね」
「前にも言っただろうか」
 王はふと己の記憶を辿って述べた。
「私はアルプスを見たいのだ」
「空からですね」
「上からあの白と青の世界を見られたならば」
 そのことを思いだ。恍惚として話すのだった。
「どれだけいいだろうか」
「陛下はアルプスがお好きですね」
「アルプスはいい」
 アルプスについてもだ。王は美を見ていた。
 そうしてだった。そのアルプスのことをホルニヒに話していく。
「あの場所だ」
「そのアルプスにお城を」
「あの場所が最もいい」
 そこにだと。王は意中の場所を見出したのだった。
 そのことを話してだ。さらに言葉を続けていく。
 

 

258部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その八


第十八話 遠く過ぎ去った過去その八

「私のその美を築く場所はだ」
「庭はアルプスですか」
「そこにワーグナーとバロック、ロココの美を合わせた至高の美が築かれるのだ」
「それこそが陛下の」
「そうだ、運命なのだ」
 それをすることこそが己の運命だと。王は確信しながら話していく。
「私の運命なのだ」
「そして義務ですね」
「そうだな。義務でもある」
 ホルニヒは王のその言葉を否定しなかった。まさにそうだというのだ。
 そうしてだ。さらにであった。
「私は王である義務と共にだ」
「その義務もまた」
「美に捧げる義務だ」
 それこそがだというのだ。
「それが私の義務なのだ」
「陛下はそれを築かれる為にこの国に来られ」
「バイエルンに帰ったならばだ」
「それに取り掛かられますね」
「そうしなければならない。だが」
「だが?」
「私にはどうしても必要なものがある」
 こうも言うのだった。王の言葉に陰が入った。
 その陰を己でも感じながらだった。王は緑を見ていた。
 しかしその緑はこれまでの緑と違うものと見ながらだ。そうして言うのだった。
「彼だ」
「彼?」
「ワーグナー。リヒャルト=ワーグナー」
 彼だけはだ。どうしてもなのだった。
「彼がいてこその私なのだ」
「ワーグナー氏は陛下にとってそこまで」
「かけがえのない存在だ。彼がいなくなれば」
 そうなれば。どうかというのだ。
「私もまた消えるのだろう」
「陛下もだというのですか」
「そうだ、私の全てはワーグナーの世界にあるのだから」
 その美そのものがだというのだ。
「私は白銀の騎士なのだろうか。だが」
「だが?」
「私は彼の視点から何かを見ることができない」
 ローエングリンのだ。その視点からだというのだ。
「常にだ。タンホイザーの視点でもない」
「あのミンネジンガーでも」
「どちらでもないのだ。そしてヴァルターでもジークフリートでもない」
「トリスタンでもありませんか」
「無論ジークムントでもない」
 ワーグナーの象徴であるヘルデン=テノール達の名前が出ては消されていく。王はどのヘルデン=テノールの視点でも見られなかった。
「彼等は一つなのだが」
「ヘルでン=テノール達が」
「そうだ、見られないのだ」
 絶望する様にして話していく。
「常に女性の目で見てしまう」
「エルザ姫ですか」
「エリザベート、エヴァ、ブリュンヒルテ」
 王はワーグナーのヒロイン達の名前も挙げていく。彼女達のだ。
「イゾルデ、ジークリンデ」
「彼女達のですか」
「彼女達の人格はおそらく全て違う」
 そこがヘルデンテノールと違うというのだ。
「だが私は常に見てしまうのだ」
「その女性の目から」
「彼を見る。私は彼なのではないのか」
 自分自身への問いだった。他ならぬだ。
「そしてワーグナーもまた」
「その女性の目から」
「愛する者達もだ。全てそうした目で見てしまう」 
 彼が愛する美しい青年達についてもだというのだ。
「私はジル=ド=レイではない」
 青髭だ。美少年達を陵辱し惨殺していった世紀の虐殺者だ。王が今いるフランスにおいてだ。それだけの凶行を残した人物だ。
 

 

259部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その九


第十八話 遠く過ぎ去った過去その九

「暴虐は好まない」
「それは確かに」
「しかし女性の目で何もかもを見てしまう」
 そのことにだ。気付きだしているのだった。
「何故かわからない。私は何もかもをだ」
「女性のその目によって」
「戦いを嫌う」 
 それは王の特質でもある。
「そして女性を愛せない」
「それが何故かをですか」
「わからない。私はやはり」
「やはり?」
「狂気に陥っているのではないだろうか」
 ヴィッテルスバッハ家に言われているだ。その遺伝の話だった。
「代々受け継がれてきた。その」
「いえ、それは」
「違うか」
「陛下は狂気に陥ってなぞいられません」
 それはないとだ。ホルニヒは王に強い声で話すのだった。
「それは決してです」
「そうなのだろうか」
「狂気に陥っていられるならばです」
 それならばだ。どうかと話していくのだ。
「何故こうして私に語られるのでしょうか」
「そなたにか」
「その美について」
 このことをだ。指摘してみせたのである。
「フランス、そしてワーグナー氏の」
「その二つを合わせた一つの美」
「それを築かれるのですね」
「それが私の運命だ」
「それを言われる方がどうして狂気に陥っておられるのでしょうか」
 切実な顔になっていた。まさにだ。
「ですからそれは」
「気にすることはないか」
「口さがない言葉は何処にでもあります」
「言葉はか」
「はい、言葉とはそういうものですから」
 だからだとだ。ホルニヒは王に話すのだった。
 そのうえでだ。彼はだ。
 その王の目を見てだ。そうしてさらに話した。
「陛下のその目は」
「私の目か」
「常にあの騎士を御覧になられていますね」
「そうだな。彼を」
 その彼こそがだというのだ。
「その御覧になられているものこそがです」
「私が狂気でない証か」
「それは清らかなものですから」
「狂気に陥っている者はそうしたものを見ないのか」
「何か。奇怪なものを見ているのでしょう」
 それが狂気だとだ。彼は捉えていた。
 そしてそれを見ている者は誰なのか。それを話したのは王だった。
 王はだ。悲しい顔になりだ。ここでホルニヒにこう話した。
「オットーだが」
「弟殿下ですか」
「あれは。何を見ているのだろう」
「殿下の御覧になられているものですか」
「そう、それは何だろうか」
 こうだ。王は言うのだった。
「何なのか」
「それはわからないのですか」
「そうだ、私にはわからない」
 弟のことをさらに考えてだった。王は話していくのだった。
「彼は何を見ているのか」
「それは一体」
「私にはわからないのだ」
 首を横に数回振っての言葉だった。
「恐ろしいものを見て。それに怯えているのだろうか」
「恐ろしいもの?」
「この世のものではない何か」
 それが何かとなるとだ。
 王にはどうしてもわからない。そう話してだった。
 

 

260部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十

 ホルニヒにだった。こんなことを述べた。
「私が見ているものとオットーが見ているものは全く違うのだろう」
「陛下が御覧になられているものは美であり」
「オットーは。狂気を見ているのか」
「それは」
「その中にいるオットー。一体どうなってしまうのか」
 弟のことを気遣いだ。その言葉を止められなくなっていた。
 彼について考えることもだ。そうした話をしてだった。
 王はだ。あらためてホルニヒに述べた。
「ではだ」
「では?」
「行こうか」
 他の場所にだというのだ。
「他の場所に行こうか」
「他のですか」
「ベルサイユはこれで終わりだ」
 王は話した。もうベルサイユから去るというのだ。
 そうしてだ。行く場所はだ。
「パリに入るか」
「パリにですか」
「パリも随分変わったという」
 フランスの帝都だ。この街は今の主ナポレオン三世になってからかなり変わった。それまで雑然とし道が入り組んでいた。だがそれが整然となり整った街並みになりだ。そうして緑が多くなっていたのだ。
 その街にだ。王は向かうというのだ。
「そこに入ろう」
「では今から」
「そうだ。行こう」
 こうしてだった。王はパリにも入るのだった。そこは道が中心から放射状に広がりだ。その道に沿って見事な建物が並んでいる。
 そして道の端と端には木々が並んでいる。そのうえだった。
 街を行き交う人々はそれぞれの自信の服を着てそうして闊歩している。店では若者達が食事やワインを楽しんでいる。レストランには富裕の者とその若い愛人やツバメが共にいる。そういったものを見てだ。
 王はだ。こう言うのだった。
「こうしたものはいい」
「宜しいのですね」
「そうだ。しかしだ」
「しかし?」
「見るのだ」
 ホルニヒにだ。足元を見るように話した。そこはだった。
 犬の糞やゴミが落ちている。それはかなり汚い。それを見てだった。
 王はだ。ホルニヒに話すのだった。
「これもまたパリなのだ」
「道は汚いというのですね」
「期待してこの街に来て。確かに見たが」
「それでもですか」
「そうだ。これはよくない」
 その汚い道を見ての言葉だった。
「欧州の街は何処もかつては道の端にあらゆるものを捨てていましたが」
「それと同じだというのですね」
「そうだ。これでは同じだ」
 こうだ。残念な顔で話すのだった。
「街も全てが整っていなくてはならない」
「では城もやはり」
「そうだ。全てを美しくだ」
 完璧主義をだ。ここで見せたのである。
「そうしなければならない」
「左様ですか」
「まさかパリでそれを見るとは思わなかった」
 王はまた残念な顔で述べた。
「どうもな」
「あの、陛下」
 落ち込む王にだ。ホルニヒが声をかけた。
「ここはです」
「ここは?」
「何か召し上がりましょう」
 王の気を取り戻させる為の言葉だ。まさにそれだった。
「何が宜しいでしょうか」
「そうだな。それではだ」
「レストランに入られますか?」
「それがいいな」
 王はホルニヒのその提案に頷いた。気はそれで少し戻っていた。
 

 

261部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十一


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十一

「ではどの店に入ろうか」
「店も多いですね」
「フランス人は食を愛する」
 そのこともよく知っている王だった。
「だからだ」
「それはルネサンスの影響でしたね」
「知っていたか」
「少しですが」
 ホルニヒは少し謙遜してから述べた。
「カトリーヌ=ド=メディチが入ってからですね」
「そうだ。アンリ二世の后だった彼女がこの国に入ってからだ」
「それまではかなり粗末な食事だったとか」
「ドイツも同じだったがだ。確かによくはなかった」
「それが大きく変わったのでしたね」
「外から入ったものもまたその国や人を大きく変えるのだ」
 そうだとだ。王は話していく。
「そしてそれがフランスの食を大きく変えたのだ」
「それもかなりですね」
「そうだ。特にルイ十四世の頃だ」
「あの頃にこそですか」
「そうだ。あの頃にその美食が確立された」
 太陽王のその頃にだというのだ。それは確かにその通りだった。
 この王は稀代の美食家だった。それと共に大食漢だった。その彼が食を楽しみだ。フランスの食文化を大いに発展させたのである。
「そして今のフランス料理に至る」
「では今から」
「そうだ。その美食を食べよう」
 王は少し期待する様にして述べた。
「今からな」
「では」
「そなたもだ」
 王はホルニヒに顔を向けて述べた。
「共に来るのだ」
「宜しいのでしょうか」
「だからこそ共にいるのだ」
 王はそのホルニヒにこう告げたのだった。今度はそうしたのだ。
「一人で食べるのもいいが今は二人で食べたい」
「勿体なきお言葉」
「バイエルンにいる時にはとてもできない」
 それが何故かということもだ。王は話すのだった。
「周りがいて。そして誰もが私を縛る」
「だからですね」
「何もかもが私を縛る」
 人だけではないというのだ。王を縛るものは。
「しかし今はそれがないからだ」
「二人で食を楽しむこともできますか」
「その通りだ。それではだ」
「はい、では有り難く」
「食べるとしよう」 
 こうしてだった。王はホルニヒと共にそのフランスの美食を楽しむのだった。そうして美食を楽しんでからだ。王はそのレストランを出てだ。
 パリのその放射状の、上は美麗だが下はそうではない街を歩きながらだ。ホルニヒに話すのだった。
「先程言ったが」
「フランス料理のことでしょうか」
「そうだ、イタリアから入ったと言ったな」
「はい、確かに」
「それはドイツも同じなのだ」
「ドイツも」
「私が入れるのだ」
 そうだとだ。王は話すのである。
「フランスから。その美を」
「フランスの豊かな芸術を」
「それを入れる」
 また話す王だった。
「城としてだ」
「そしてワーグナー氏の芸術は」
「それはドイツに最初からあるものだ」
 ワーグナーに関してはだ。そうだというのだ。
 

 

262部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十二


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十二

「ドイツが生み出したものだ」
「その二つが一つになるにしてもですか」
「そのフランスの美は私が入れる」
 王は話すのだった。その彼の夢もだ。
 話しながら街を歩きだ。こう言うのだった。
「しかしそれはこの街ではない」
「パリではありませんか」
「城だ」
 そしてだった。もう一つは。
「宮殿だ」
「それが取り入れるものなのですか」
「そうだ。城と宮殿にこそその美がある」
 王は話していく。その美についてもだ。
 城の、宮殿のその美を見ることを続けるというのであった。それによってだ。
「それを一通り見たい」
「ベルサイユだけではなく」
「今度は何処を見ようか」
 王は話していく。パリを進みながら。
 そうしてだった。彼が次に来た場所は。
 寺院だった。
 二つの長方形の塔があり門にも見えるその寺院はだ。中央に円を思わせる薔薇の窓があり細かい彫刻があちこちに施されている。
 そこにあるだけで何故か雪が見えそうである。パリのその中にあるこの寺院を見ながらだ。王は静かに微笑みその中に入ろうとする。
 だがだ、ここでだった。傍らにいるホルニヒに顔を向けて尋ねるのだった。
「そなたも来るな」
「御供して宜しいですね」
「そうしてくれ。どうもこの中には」
「中には?」
「妙な気配を感じる」
 そうだというのだ。
「この寺院はある小説の舞台になっているが」
「あの小説ですか」
「そう、ユゴーのな」
「あの小説では」
「カシモドがいた」
 背中が曲がりコブになっただ。せむしの男だ。その男が王達が言うノートルダム寺院にいてだ。そこで作品を動かしていくのである。
「あの彼がだ」
「カシモドは気の毒な男でしたね」
「その心はよいものだった」
 王はカシモドをだ。嫌ってはいなかった。
 そしてだ。彼についてこう話すのだった。
「彼は不幸だった。外見だけで大きくな」
「外見によってですか」
「人は。外見に惑わされてしまう」
 王はそのことに悲しさを見出していた。美麗な顔立ちの王がだ。102
「中身は違うのだ」
「中身はですか」
「そうだ。人の心こそが問題なのだ」
 それこそがだというのである。
「そこにこそ真の美醜があるのだから」
「そういえばあの小説では」
「堕落してしまった僧侶がいるな」
 その僧侶がいた寺院をだ。見ての言葉だ。
「あの僧侶もまた」
「心ですか」
「心は変わるものなのか」
 こう言うのである。
「人の心は」
「はい、それは」
「そうだな。変わる」
 王はここではこのことを話した。人の心のことをだ。
「間違いなくな。だが」
「だが?」
「私は変わらないものを創り出したいのだ」
 それがだ。王の望みだというのだ。
 そうしてノートルダム寺院を見ながら。ホルニヒに話し続ける。
「変わらない美を」
「それをなのですか」
「そうだ。私はそれを創り出すのだ」
 変わらない美をというのだ。何があってもだ。
 

 

263部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十三


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十三

 そうしてだ。王はさらにであった。彼は言うのであった。
「ではだ」
「では?」
「中に入るとしよう」
 寺院のだ。中にだというのだ。
「これからな」
「そうですか。寺院の中に」
「外だけを見ては完全ではない」
 完全主義者のだ。その王らしい言葉だった。
「中も見てこそだ」
「外だけでなく中も」
 その二つを比べてだというのだ。
 そして彼等はだ。その中に入るのだった。そうして中の美も見ていくのだった。
 そうしたものを見ていってであった。王はだ。
 フランスの中をさらに回っていく。そしてその美を見ていくのだった。
「素晴らしいな」
「はい、確かに」
「フランスの美は非常に素晴らしい」
 見回った後でだ。王はホテルの中でホルニヒに話す。
 ホテルは豪奢なものだった。まるで宮殿の様にだ。見事なソファーにテーブル、そしてカーテンは絹でだ。見事なものである。
 その中でだ。王はホルニヒにさらに話すのだった。
「その美を全て見た訳ではないがだ」
「それでもなのですか」
「その美はわかった」
 それはだというのである。
「そしてだ。それを持って帰ろう」
「バイエルンにですね」
「そしてドイツにだ。父の国だ」
 ドイツをそう呼んだ。ドイツ人としてだ。
「その国に帰りだ」
「ドイツ。思えばです」
「どうしたのだ?ドイツに何かあるのか?」
「ドイツはこれまで長い間多くの国に分かれていました」
 そうなのだ。実はドイツはだ。
「それが一つの国になるのだ」
「そうだな。ドイツは一つになる」
「そしてそのドイツに美を築かれるのですか」
「はい、しかし」
「しかし?」
「それは陛下にとってはなのですね」
「嬉しいことだ。だが」
 しかしだというのだ。王は暗い顔で話すのだった。
「それ以上にだ」
「悲しいことですね」
「バイエルンがそれを政治的に導くことはできないのだ」
「それはどうしてもですね」
「力がない」
 それもだ。よくわかっている王だった。
「バイエルンにはそれだけの力がないのだ」
「あるのは」
「プロイセンだ」
 まさにだ。そのプロイセンだというのだ。
「あの国にあるのだ。そしてだ」
「ドイツの統一はプロイセンによって為される」
「そうなる。それは避けられない」
 王の言葉には悲しみがある。諦められない悲しみがだ。
 その悲しみを見せたままだ。王は己の向かい側に座っているホルニヒに話すのだった。その手にワインが入ったグラスを持ちながらだ。
「どうしてもだ」
「プロイセンですか」
「政治的統一は正しい」
 王はそれはいいとした。
「しかしだ」
「しかしなのですか」
「私はあることでドイツを統一すべきなのだろう」
「ではそれこそが」
「美だ」
 それをだ。ここでも出すのだった。
 部屋の中は暗い。夜のその暗さの、灯りの薄暗い中でだった。
 

 

264部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十四


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十四

 王はホルニヒに話していく。その美についてだ。
「それでドイツを統一したいのだ」
「ドイツを」
「そうなのだ。ドイツは政治的、軍事的に統一されるだけではないだろう」
「芸術的にも」
「既に文学的、音楽的には統一されている」
 そうなっているというのだ。
「ゲーテやワーグナーによってだ」
「文学や音楽では」
「その次には政治と軍事だ」
 ドイツはだ。その面でも統一されるというのである。
「人の目には。それがドイツの統一と思うな」
「はい、ドイツ帝国が誕生すれば」
「しかし。それだけではなくだ」
「美をですか」
「私はそれでドイツを一つにしたい」
 王は言っていく。
「私ができることは。それだけだ、いや」
「いや?」
「本来はだ」
 王はだ。ホルニヒにだけはだった。その本心を話すのだった。
「私は。バイエルンがだ」
「政治的、軍事的にですか」
「統一したいのだ」
 その望みをだ。辛い目で話すのだった。
「だがそれはだ」
「適えられませんか」
「何があってもできない」
 それがだ。わかっているという言葉だった。
「プロイセンの力ではだ」
「では」
「プロイセンの勢いは誰にも止められない」
 わかっているのだ。実によくだ。
「オーストリアも敗れたな」
「あの勝利は意外と言われていますね」
「私にはわかっていたがな」
 王にはなのだ。既にあの戦いの結末はわかっていたのだ。
 しかしわかっていてもだ。それでもなのだった。
「だが。それに対してバイエルンは」
「何もできなかったと仰るのですね」
「避けることはプロイセンがバイエルンの属国になること」
 それをだ。わきまえての行動だったのだ。あの時の王の動きは。
「しかしだ」
「しかしなのですか」
「それは最後まで避けられるかというと」
「無理でしょうか」
「難しい、バイエルンはだ」
 どうなるかというのだ。王のその国がだ。
「ドイツでは確かに大国だ」
「ドイツにおいては」
「しかし。プロイセンの力は圧倒的だ」
 それは何時からだというとだ。かなり前からだった。
 そのこともわかっていてだ。王の言葉は続けられる。
「オーストリア継承戦争に勝利をして以来、いやその前からだな」
「兵隊王の頃からでしょうか」
「そうだ。国家は一日で成るものではない」
 そしてその言葉はというと。
「ローマは一日にして成らずだ」
「プロイセンもまた、ですか」
「フリードリヒ大王の前より力を蓄えだ」
「今に至るのですね」
「我がバイエルンは。三十年戦争で深い傷を負い」
 その荒廃は目を覆うばかりだった。ドイツ全体が荒廃したがその中にバイエルンも入っていたのだ。それが三十年戦争だったのだ。
 そしてだ。そのうえであった。
「ようやく立ち上がれるようになれば。オーストリアとプロイセンが前にいた」
「あの二国が」
「そもそも元となる力が違い過ぎた」
 そうだったというのだ。ドイツにおいてはその二国が大きく開いていたのだ。
 それでだった。王はさらに話していく。
「それではだ」
「今の状況になるのは」
「必然だ」
 まさにだ。そうだというのだ。
 

 

265部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十五


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十五

「それが必然なのだ」
「必然ですか」
「そうなのだ。そしてそのバイエルンが政治や軍事で立つのはだ」
「できませんか」
「それを覆ることはできない」
 王の前にあるこの現実。これはどうしようもなかった。
 そのどうにもならないものを見てだ。王は話すのである。
「絶対にだ」
「それでバイエルンの摂るべき道は」
「プロイセンの属国にはならず」
 そうしてだというのだ。
「芸術によってだ」
「ドイツを統一することですか」
「私の夢の、運命の実現でもあるが」
 己のだ。その望みも含めての話だった。
「それを推し進めたい」
「芸術においてのドイツの統一」
「それを笑う者もいるだろう」
 そのこともわかっていた。しかも実によくだ。
「夢だとな」
「夢ですか」
「そうだ、夢なのだ」
 そうだと話す王だった。
「見果てぬ夢だとな。だが」
「だが、ですか」
「確かに夢だ」
 それは認めた。確かにだ。
 しかしだ。その夢という言葉に持つ意味をだった。
 王はだ。さらに話すのだった。
「だが夢は妄想という意味だけではないのだ」
「目指すものでもあるのですね」
「目指し、そして果すものだ」
 そういう意味もだ。あるというのだ。
「私はそうした意味で夢をドイツに実現させたい」
「我等の祖国に」
「ドイツ。父なるドイツ」
 愛をだ。ドイツに見せた。
「そのドイツに必ずだ」
「芸術の統一を」
「するとしよう」
 こんな話をしてであった。王はだ。
 フランスでの旅を続けていた。その頃だ。
 バイエルンではだ。また動きがあった。その動きは。
 一室でだ。彼等は顔を寄せ合って話をしていた。その話はというとだ。
「あの戦争での陛下のお考えは臣民に受け入れられているな」
「うむ、妥当だったとな」
「慧眼だったという言葉もある」
「確かに。陛下はプロイセンを救われた」
「兵を動かさないことによって」
「プロイセンも非常に好意的になっている」
「バイエルンの地位はかえってあがった」
 あの戦争におけるバイエルンが得たものが話されていくのだった。
「いいことだな」
「確かにな」
「陛下は政治的にも優れた方だった」
「そしてだ」
 それに対してだというのである。
「これにより陛下のお考えに反した方々の権威が失墜したな」
「首相も男爵も総監も」
「そのままワーグナー氏に敵対する方々だ」
「全て失脚されたかされるだろう」
 この予測も述べられていく。
「では。ワーグナー氏はか」
「この国に戻って来るのか」
「スイスからバイエルンに」
「そうなるのか」
「陛下はお望みだ」
 王がだというのだ。
「彼が戻ることを。いや」
「そうだな。それどことではない」
「望まれるどころではない」
「常にそれを願っておられた」
「常にだ」
 王はだ。常にそのことを心から願っていたのだ。ワーグナーがスイスからバイエルンに戻ることをだ。それが彼の最も願っていたことだったのだ。
 

 

266部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十六


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十六

 それがだというのだ。
「いよいよな」
「あの方にとってはな」
「最も望まれていたことが実現する」
「最高の話だな」
「では、だ」
「あの方が帰られたら」
 そのだ。旅に出ている王が帰るとどうなるかというのだ。
「即位された時と同じになるか」
「まずはワーグナー氏だ」
「あの音楽家の話になる」
「あの音楽家をバイエルンに呼び戻す」
「そうなっていくのだ」
「遂にな」
 こう話されていくのだった。そしてだ。
 彼等はだ。微妙な顔になってだ。こんなことも話した。
「それはよいことなのだろうか」
「バイエルンにとっては」
「それか」
「そうだ、いいことなのだろうか」
 一人がだ。疑問系を出した。他の者達も応える。
「ワーグナー氏は浪費家だ」
「それもかなりのな」
「あのローラ=モンテスとどちらが問題か」
「そこまで酷い」
「しかも女性問題まである」 
 金銭問題だけではないのだ。ワーグナーはだ。
「まだビューロー夫人とは続いているな」
「信じていないのは陛下だけだ」
「いや、あの方も本当はわかっておられるのではないのか」
「あの方はわかっておられないようで実はわかっておられるのだ」
「そういうところがあるからな」
 それがだ。王だというのだ。
「そういう方だからこそ」
「しかしそれをあえて見ずに」
「気付かないふりをして」
 そうしているのではないかというのだ。
 王のそうした見透かす目とだ。その見えるものを選びそうして醜いものを避けようとするその心の動きをだ。彼等は話すのだった。
「ワーグナー氏についてはとりわけ」
「あの音楽家はやはりいかがわしい人物だ」
「金銭問題に女性問題」
「しかもその行動もだ」
「そうだな。何かと問題を起こしていく」
「揉めごとを引き起こす人物だ」
 それがワーグナーだというのだ。
「厄介な御仁だ」
「その彼がバイエルンに戻る」
「確かにワーグナー氏に反発する面々は大人しくなる」
「しかしそれはバイエルンにとってどうなのか」
「よきことか」
 それについてはだ。誰もがだった。
 不安を覚えざるを得なかった。とかくワーグナーは問題が多くだ。しかも評判の悪い人物なのだ。だからこそだった。彼等も話すのだった。
「臣民の間でもまだワーグナー氏への悪評はくすぶっているが」
「それがまた湧き上がるのではないのか」
「あの御仁は遠慮を知らない」
「そしてその行動をあらためない」
 ワーグナーはだ。騒動そのものなのだ。
 そうしたことがあってだ。彼等も話すのだった。
「それではまた騒動になる」
「だが陛下はワーグナー氏の帰還を望まれる」
「そうされないと駄目だ」
「陛下は満足されない」
「彼がいなくては」
 バイエルンにとってはなのだ。王のそのワーグナーへの寵愛はだ。
 まさに悩みの種だった。しかしだ。
「陛下はワーグナー氏から離れなれない」
「ではやはり」
「また国庫から金を好きなだけ使う」
「何でも自分の作品の為だけの劇場を造るつもりらしいしな」
「そんな話は聞いたことがない」
 そのだ。一人の音楽家の作品を上演する為だけの劇場などはというのだ。
 

 

267部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十七


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十七

 それはその通りだった。これまでどの音楽家もそこまではできなかったのだ。
 あのモーツァルトやベートーベン、そして彼等より遥かに裕福な立場となったロッシーニでさえもだ。そこまではできなかったのだ。
 しかしだ。ワーグナーはなのだった。
「それをしようとしている」
「一体どれだけの費用がかかるのだ」
「あの御仁のことだ。また派手なことをするぞ」
「その金はバイエルンの金だ」
「それを好きなだけ使いだ」
「しかも陛下はだ」
 また王の話になる。
「そのワーグナー氏でなければならないのだ」
「何故だ」
 また疑問の言葉が出された。
「何故陛下はあの音楽家をそこまで」
「そうだな。お后も迎えられないといけないのに」
「その方はどうなるか」
「まだその話も決まっていない」
「同性愛はいい」
 王のその嗜好はだ。ワーグナーに比べれば認められるものだった。
「それは金もかからない」
「そうだ、お后さえ迎えて下されば」
「それでいいのだ」
「だが。陛下は女性には」
 関心を向けない。どうしてもだった。
「そうした方だからな」
「ワーグナー氏にはそうした感情を持たれていないようだが」
「だが。それでもだ」
「あの御仁が戻ればまた騒動になる」
「どうしたものか」
 こう口々に話していく。しかしだった。
 結論は出ずだ。遂にだ。一人がこう言うのだった。
「しかし流れは今は陛下にある」
「それならばか」
「陛下が望まれるままになる」
「そうだな」
「陛下の望まれることは」
 それは何かという話にもなった。
「どうも最近変わられたのではないだろうか」
「変わられた?」
「変わられたというと?」
「そうだ、変わられたのではないのか」
 こうした話も出るのだった。
「微妙にな」
「そうだろうか」
「しかし変わられたというと何が」
「何か変わられたのだ?」
「建築に興味を持たれていないだろうか」
 この疑念がだ。起こったのである。
「若しかして」
「建築?」
「建築にか」
「何かそんな気がしたのだ」
 こう指摘する者がいるのだった。今の時点でだ。
「気のせいだろうか」
「それはないと思うが」
「そうだ、ないのではないのか」
「あの方は音楽や芸術が好まれるが」
「建築は」
「だがその建築もだ」
 それが何かという話にもなった。建築のだ。
「芸術の一つだとすると」
「それに興味を持たれる」
「そうなるというのか」
「そうなってもおかしくはない」
 こう指摘されるのだった。王のその気性からだ。
「建築が芸術ならば」
「建築は芸術だ」
 このことが話される。建築についてだ。
 建築はだ。人類の歴史においてどういったものかも話されるのだった。
 

 

268部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十八


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十八

「ベルサイユもそうだったしサンスーシーもだ」
「確かに。その外観や内装だけでなく」
「装飾もある」
「絵画でも飾られる」
「陛下は美しいものを愛される」
「それではか」
 彼等の中に不安が漂う。そしてだ。
 その建築を指摘した彼がだ。先に話が出たその場所について話した。
「ベルサイユだが」
「ベルサイユ宮殿、フランスの」
「あの国のか」
「陛下が今行かれているそのか」
「そこにあるあの宮殿か」
「陛下がそのベルサイユに行かれ」
 それからだというのだ。王がフランスのその美を知ってからだというのだ。
「それを建築として実現させるとすると」
「どうなるか」
「それか」
「建築は病だ」
 また別の一人が言った。
「権力を持つ者の病だ」
「莫大な費用がかかる」
「そしてそれは中々歯止めが利かない」
「そしてその中で贅沢を極めていく」
「それが建築だが」
「しかしだ」
 それでもだとだ。こんな話にもなった。その話は。
「今は昔程ではないが」
「人間の世界は豊かになった」
 かつてよりもだ。遥かなのだ。
「始皇帝の頃とは違う」
「東洋のあの皇帝の頃とはか」
 人類の歴史に名を残す建築愛好家である。万里の長城や己の宮殿、陵墓といった様々なものを建築させてだ。途方もない金と労力を使ったことで知られている。
 その皇帝の名前がだ。ここで出たのだった。
「二千年も経ち人類は技術を身に着けた」
「そしてさらなる富もだ」
「建築はむしろベルサイユの頃よりも重荷にはならなくなった」
「だが。それでもだな」
「建築そのものが」
 それ自体がだ。問題だというのだ。
「御自身の別荘だけで済めばいいが」
「それがどうなるか」
「それが問題だ」
「どうなるか」
「陛下は建築に興味を持たれているのか」
「そしてそれにどう向かわれるか」
 不安がだ。バイエルンを覆おうとしているのだった。 
 そしてその不安がだ。さらにだった。
「陛下は。止まらないのか」
「誰かお止めできないのか」
 それができる者がいるのかどうか。そうした話にもなる。
 その話にもなってだ。彼等はだった。
「せめて伴侶がおられれば」
「陛下の妻となられる方」
「王妃がおられれば」
「違うのではないのか」 
 こうした話にもなっていく。
「そうだな。せめてな」
「陛下はお一人だ」
「人は一人になるとよくない」
「考えも行き詰る」
 王の孤独さもだ。問題となるのだった。
「そしてそれがよからぬ結果になる」
「それをお止めできる方」
「その方はおられるのか」
「エリザベート様はそれができたのだが」
 今オーストリア皇后となっているだ。彼女はだというのだ。
「陛下はあの方を仰ることなら何でも頷かれた」
「あの方がおられればいいのだが」
「今このバイエルンに」
「しかしあの方はおられない」
 それがだ。問題になるのだった。
 

 

269部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その十九


第十八話 遠く過ぎ去った過去その十九

「今このバイエルンにはおられないのだ」
「オーストリアにおられる」
「それでは」
 誰もだ。いないのではないのかというのだ。その話になってだ。
 彼等はだ。あらためて話すのだった。
「プロイセンのビスマルク殿も陛下には妙に好意的なようだ」
「止められることはしない」
「それがわからないな」
「全くだ」
「何故だ?」
 ビスマルクが王に対して好意的なことがだ。わからないというのだ。
「何故ビスマルク卿は陛下に好意的なのだ」
「水と油ではないのか」
「そうだ、まさに水と油だ」
「それ以外の何者でもないというのに」
「何故だ、一体」
「あそこまで好意的なのはだ」
「それがわからない」
 どうしてもだ。そうだというのだ。
「だが。それがだ」
「そうだな。陛下のあの挙動を助長させているのだが」
「ビスマルク卿のその陛下への態度がだ」
「それで何故だ」
「ああされているのだ」
「ドイツにとってよくないだろうに」
 ドイツ、ひいてはだ。
「プロイセンにとってな」
「あの方はプロイセンの統一を望まれている」
「陛下の挙動はそれにとってよくないだろうに」
「何故それで何もされない」
「理解できない」
「しかしだ」
 ここでだ。中心にいた者がだ。言うのだった。彼はこの場ではじめて口を開いた。
「ビスマルク卿の動きは止まらない」
「そうだと仰るのですね」
「伯爵だ」
「その通りだ」
 背が高くしっかりとした身体つきの者だった。黒髪を端整に後ろに撫で付けだ。その目は青く輝いている。まるでギリシア彫刻の様な顔立ちをしている。その顔は実に男性的である。服は絹のものだ。
 伯爵と呼ばれた彼はだ。周りの言葉に応えてさらに話す。
「我々はそれに対してどうするかだ」
「ドイツの中に入るべきですね」
「そうあるべきですね」
「歴史の流れはそこに向かっている」
 だからだというのだ。伯爵はだ。
「ドイツにだ」
「プロイセンにつく」
「それですね」
「そうだ。それが私の考えだ」
 そのギリシア彫刻を思わせる顔に不敵な笑みを浮かべてだった。彼は言うのであった。
「このホルンシュタインのな」
「ではホルンシュタイン伯爵」
「またプロイセンに行かれるのですね」
「そうされますね」
「そうする。機を見てだ」
 実際にだ。そうすると答える伯爵だった。
「またあの国に行こう」
「間も無くドイツの中のプロイセンになりますか」
「いや、この場合はどうなるのでしょうか」
「プロイセンを中心として統一されれば」
「その場合は」
「プロイセンはプロイセンだ」
 それは変わらないとだ。伯爵は周りに答えた。
「しかしだ」
「しかしですか」
「それでもですね」
「ドイツという国ができるのだ」
 そうなるというのだ。
「我々はその中に入る」
「そしてドイツ皇帝の下に集うのですか」
「プロイセン王がなるドイツ皇帝に」
「それに」
「ドイツは再び帝国になるのだ」
 伯爵の言葉に熱が入ってきていた。
 

 

270部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十


第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十

「神聖ローマ帝国から。再びだ」
「あの実体のない帝国とは違いますね」
「そうだ、違う」
 神聖ローマ帝国は確かに皇帝が存在し国境もあった。法律もあれば領土もあった。だが国家としては一つではなかったのだ。
 その中に多くの国家、領邦国家があった。それは三十年戦争以前からだ。三十年戦争とそれに続くウェストファリア条約はそれの追認に過ぎなかったのだ。
 しかしだ。これからは違うというのだ。次のドイツ帝国はだ。
「実体のある強いドイツだ」
「一つにまとまっているドイツ」
「そのドイツが遂に誕生しますか」
「これまで我々は他国に脅かされてきた」
 これもまたドイツの歴史だ。
「フランス然り他の国然りだ」
「特にフランスですね」
「あの国ですね」
「あの国は貪欲だ」
 伯爵はフランスについては忌々しげに言った。
「手に入れようとするものは何でも手に入れようとする」
「先の戦争でもですね」
「ラインの西岸を渡すなら三十万の兵を出すと言ったそうで」
「ナポレオンもドイツの領土を多く奪いました」
「ルイ十四世も」
 彼等はフランスが嫌いだった。その口調は実に忌々しげなものだった。
「神聖ローマ帝国皇帝になろうとしましたし」
「何処まで貪欲なのか」
「そしてあつかましいのか」
「私は不思議に思う」
 ここでだ。伯爵の口調が少し変わった。
「陛下はフランスを愛されているな」
「今も旅に出られていますし」
「実際に」
「そうだ。だがフランスはドイツに何をしてきた」
 伯爵が今この場で話すのはだ。歴史だった。
「常に脅かし介入してきたな」
「何度煮え湯を飲まされてきたか」
「わからない程です」
「それがフランスだ」
 伯爵の見ているフランスだというのだ。
「あの国の欲望には限りない」
「思えば。神聖ローマ帝国の頃からです」
「何かというと出て来てです」
「そしてドイツと争ってきました」
「バイエルンもどれだけ利用されてきたか」
「知っているな。マクシミリアン一世との対立は」
 伯爵はこのことから話すのだった。
「あのことは」
「はい、フランドルを巡って」
「そのうえで」
「それがはじまりではなかったしな」
 ドイツとフランスの因縁はというのだ。
「教皇を巡っても対立してきた」
「あの教会分裂」
「その時もでしたし」
「そうだ。だがマクシミリアン一世以降激化していった」
 ドイツとフランスの対立はだ。欧州の対立軸の最も重要なものの一つとなっていたのだ。それはイギリスとフランスの対立と共にだ。
「ハプスブルクとヴァロアだ」
「そうです、あの両家の対立がです」
「そのままドイツとフランスの対立でした」
「何かあれば衝突し」
「剣を交えてきました」
「イタリアにおいても」
 今ドイツと共に統一に向かっているだ。その国においてもだったのだ。
「フランスは貪欲にもイタリアを手に入れようとしました」
「あの素晴しいイタリアにです」
「そうしてきました」
「イタリアはいい」
 伯爵はイタリアについては手放しだった。それが言葉にも出る。
 

 

271部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十一


第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十一

「気候は暖かく食べるものもいい。国土も美しい」
「プロイセンもイタリアは好きですし」
「オーストリアも」
「そのことはどの国も一致している」
 ドイツにいるならばだ。フランスについてはそうなのだ。
「イタリアはいい国だ」
「はい、しかしそのイタリアもです」
「フランスは手に入れようとしました」
「それでハプスブルク家との戦いになりました」
「そうなりました」
 そうだったというのだ。これも歴史だ。
「あの時は何とか追い払うことができました」
「しかし梅毒を流行らせてくれました」
「忌々しいことに」
 梅毒はフランス病と呼ばれている。フランスがイタリアに攻め込んだその時にナポリの娼婦達から貰いだ。それが欧州に一気に広まったのだ。
「三十年戦争では同じカトリックでありながら介入し」
「そして最後の最後で戦争に入り多くのものを奪っていきました」
 三十年戦争の話になるとだ。余計に怒りがこみ上げる彼等だった。
「あの戦争を混乱させたのもフランスです」
「あの国のせいであの戦争は余計に混乱しました」
「そしてルイ十四世に至っては」
「あろうことか神聖ローマ皇帝になろうとしました」
「神聖ローマ皇帝はドイツの皇帝だ」
 伯爵は言い切った。反論の余地がないという口調でだ。
「フランスの皇帝か」
「いえ、違います」
「ドイツの皇帝です」
「何故フランスの皇帝なのか」
「そうではない筈です」
 これが周りの言葉だった。誰もが言うのだった。
「陛下はあの太陽王を敬愛しておられますが」
「あの王はとんでもない男でした」
「野心に満ち贅を極め」
「美食と美女をその権勢で集めていました」
「そうした人物だったのですが」
「陛下はだ」
 伯爵はバイエルン王がどういった人物かわかっていた。それもよくだ。
「美しいものを見られる方だ」
「では醜いものは」
「それについては」
「それも見られる」
 人の美醜もだ。どちらもだというのだ。
「しかしだ。それでもだ」
「醜い部分からはですか」
「何かが違うというのですね」
「あの方は」
「そうなのだ。美しいものは愛される」
 それが王の特徴だ。王になってからそれがとりわけ顕著になっている。
「だが。醜いものは」
「それはですか」
「醜いものに対しては」
「どうされるかですね」
「あの方は醜いものを見られると」
 どうなるか。伯爵はそれを話すのだった。
「それから目を逸らそうとされる」
「ですね。人の美醜を見分けられるからこそ」
「美しいものを愛され」
「醜いものからは逸らされる」
「そうされますから」
「問題です」
 こう話していくのだった。そしてだ。
 その中でだ。彼等はだ。
 王についてだ。さらに話していく。
「ですからフランスについても」
「美だけを御覧になられ」
「醜は見られない」
「そこからは半ば無意識に目を逸らされてしまう」
「それが問題なのです」
 王の欠点と言えるものはだ。それだというのだ。
 

 

272部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十二


第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十二

「どうされたものか」
「一体」
「私はだ」
 伯爵はだ。己のことも話すのだった。
 自身から見てどうなのか。目でそれを語りながらその言葉を出していくのだった。
「陛下は素晴しい方だと思う」
「はい、確かに」
「王としての資質は素晴しいものがあります」
「生まれついての王と御呼びするべきか」
「それ程の方です」
「気品も優雅さも素晴しい」
 卑しさという言葉はだ。王にとっては全く無縁であった。それとは対極の場所にいる、それこそがバイエルン王ルートヴィヒなのである。
「忠誠を誓わなくて。どうするというのだ」
「そうです。あの方の為ならです」
「我々は何でもできます」
「そうした方です」
「人に自然に忠誠心を向かわせられる方なのだ」
 伯爵はまた言った。それこそがバイエル王だというのだ。
「だが。陛下はだ」
「その醜いものから目を逸らされる」
「そのことが」
「不幸になるのではないだろうか」
 伯爵は心から懸念する目になった。
「このままでは」
「なられますか」
「そうなられると」
「それが心配なのだ」
 心からだ。危惧する顔だった。
「あの方はあまりにも純粋でだ」
「はい、その通りです」
「あそこまで純粋な方はです」
「見たことがありません」
「私もです」
「そうだ。私もだ」
 伯爵もだというのだ。王程の純粋さを持った者は知らないというのだ。
 それを話してだ。彼はさらに話すのだった。
「純粋さはいい」
「はい、清らかさもまた」
「そうしたものはですね」
「いいですね」
「人の持ついいものだ」
 そうだとも話す伯爵だった。
「それは。だが」
「だが、なのですね」
「それが」
「あまりにも純粋過ぎる純粋」
 まずはこう言ったのである。
「そして清らか過ぎる清らかさはだ」
「かえってよくはない」
「悪いのですね」
「そうだ、諸刃の剣だ」
 それになるというのだ。
「それを持つ人を傷つけてしまうのだ」
「陛下をですか」
「あの方を」
「人は。複雑なものだ」
 王は遠くを見ていた。それは人を知っているからこその言葉だ。
「清らかなものだけではないのだ」
「醜いものもある」
「確かに。人は清らかなだけではありません」
「醜くもあります」
「そしてそれは否定出来ない」
「結局のところは」
「そうだ。人はだ」
 何かというのもだ。伯爵は把握していた。
 そしてそれを知ってだ。彼は話すのだった。
「その両輪の中で生きているからだ」
「美しさと醜さは両輪なのですか」
「その二つは」
「醜さは。誰もが否定しようとする」
 そうしようとする。それは実はだ。
 

 

273部分:第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十三


第十八話 遠く過ぎ去った過去その二十三

「私もだ」
「伯爵もですか」
「卿も」
「そうだ。私もまた同じだ」
 伯爵もまた人間だからだ。醜さを否定しようとするというのだ。
 しかしだ。それでもだと話す彼だった。
「しかし否定してもそれは消えないのだ」
「醜さというものは」
「だから両輪なのですか」
「善と悪と言ってもいいだろうか」
 伯爵の言葉が変わった。言い換えたのだ。
「人は善を求める」
「そして悪を忌む」
「これは自然ですね」
「人として自然だ。人は美や善を求める」
 そしてだ。王はその中でもだというのだ。
 伯爵は話す。王のその見ているものについて。
「ローエングリンだが」
「陛下が常に愛されているあのオペラですね」
「ワーグナー氏の」
「あの騎士は美だ」
 まさにそれだというのだ。
「そして美だ」
「その二つですか」
「あの騎士にある」
「陛下が愛されているあの騎士に」
「それがありますか」
「それの象徴の様なものだ」
 ワーグナーの生み出した騎士はだ。まさに美と善の具現化だというのだ。そうした意味でだ。ワーグナーは最高の芸術を生み出したと言える。
「陛下はその騎士を愛されているのだ」
「しかしです」
「その騎士を生み出したワーグナー氏は」
「御世辞にも」
「どうにも」
「醜さを持っている」
 ワーグナーはだ。そうだと断言できた。これは伯爵だけでなくだ。誰もが言えた。それこそドイツの誰もが断言できることだった。
「美も巨大だが醜も巨大な。その二つの資質を持っている者だ」
「ですが陛下は美が巨大であり」
「醜は」
「二つの軸は同じ程でなければならない」
 これもまた摂理だというのだ。一つのだ。
「陛下のその不均衡を何とかしなければならないのだ」
「では伯爵はその為に」
「動かれるのですか」
「私は醜さを知っている」
 そうだというのだ。
「そしてドイツのことも知っている」
「そのうえにおいて陛下にですか」
「忠義を」
「そうしたい。それでだ」
「はい、では我々もです」
「陛下の為に」
 彼等もだ。口々に言うのだった。
「働かせてもらいます」
「是非共」
「頼むぞ。今は大切な時だ」
 彼は言った。まただ。
「ドイツにとってな」
「ドイツがまた一つになる」
「本当の意味で一つになる時だからこそ」
「その為にも」
「今は」
「細心を以て行動する」
 これは絶対というのだ。
「そうしていくのだ」
「バイエルンの為にですね」
「ひいてはドイツの為に」
「時代の流れではだ」
 伯爵は読んでいた。バイエルンとドイツの現状をだ。そしてだ。
 どうなっていくのかもだ。現在も未来も読んでいたのだ。
 そうしてだ。彼は話すのだった。
「ドイツは一つになるのだからな」
「はい、それでは」
「それに基づきです」
「動いていくとしましょう」
「そうするのだ」 
 こうした話をしてだ。彼等はだ。
 ドイツの中で動いていく。ドイツは確かに大きなうねりの中にあった。だが王はだ。その中にありながら。別のものも見ているのだった。


第十八話   完


                2011・4・23
 

 

274部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その一


第十九話 ヴェーヌス賛歌その一

               第十九話  ヴェーヌス賛歌
 王はフランスでの旅を続けていた。その中でだ。
 歌劇場もよく通った。その中にいるとだ。
 着飾った美しい貴婦人達はだ。こう話をするのだった。
「あれは間違いなく」
「そうですね、あの王です」
「バイエルン王です」
「間違いありませんわね」
 すぐにだ。王であるとだ。わかったのだ。
 そのうえでだ。美女達はこうも話していくのだった。
「噂以上ですね」
「背は高くすらりとしていて」
「彫刻の様なお顔立ち」
「着こなしも見事です」
「何とお奇麗なのか」
「この世のものとは思えません」
 その美貌故にだ。注目されるのだった。
 それで歌劇場ではだ。舞台よりもだ。
 王が注目された。貴婦人達は誰もが彼を見ていた。
 しかしだ。王自身はというとだ。
 彼女達に何の興味も見せない。そうしてだった。
 舞台を見ている。そうしながら傍らにいるホルニヒに話すのだった。
「舞台に専念したいのだが」
「あの方々ですか」
「静かにして欲しいものだ」
 こうだ。困った顔でホルニヒに話すのだった。
「今は舞台が行われているのだからな」
「そう思われますか」
「そうだ。彼女達は何をあれだけ騒いでいるのだ」
 わからないといった口調だった。
「舞台を見ているのではないのはわかるが」
「陛下をです」
 これがホルニヒの言葉だった。
「陛下を御覧になられてなのですが」
「私をか?」
「はい、陛下をです」
 また話すホルニヒだった。
「そのうえでなのですが」
「そうなのか」
 話を聞いてもだ。それでもだ。
 王は何の意も介さない顔でだ。こうホルニヒに述べた。
「私を見てか」
「そうなのですが。何とも思われないのですか」
「詳しくは聞いてはいなかった」
 興味がないからだ。
「何か話しているのは聞こえていたが」
「聞こえていたのですか」
「聞いてはいない」
 まことにだ。全く興味がないというのだ。
「どうでもいいことだと思っていたからな」
「ではあの方々が何をお話されているのは」
「何の興味もない」
 また言う王だった。
「全くな」
「そうなのですか」
「昔からだ」
 舞台を見ながらだ。王はホルニヒに話していく。
「私は女性についてはだ」
「どうでもいいというのでしょうか」
「興味を抱かない」
 そうだと話すのである。
「いや」
「いや?」
「本来なら抱かなくてはならないのだ」
 それはわかっているというのである。
 しかしだ。それでもだと話す王だった。
「しかしそれでもだ」
「それはできませんか」
「私は何かがおかしいのだろうか」
 王は自分についても話していく。
 

 

275部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その二


第十九話 ヴェーヌス賛歌その二

「やはり。そうなのか」
「いや、それは」
「ないか」
「そうです。ただ意中のお相手がいないだけです」
 それだけだというのだ。ホルニヒは実際にそう考えていた。
 しかしだった。彼は王のことを完全に理解できなかった。そのことを理解できる者達は今はだ。王の傍には一人もいないのである。
 ホルニヒも王を完全に理解できなかった。それは何故か。
 心の奥底で一つになれない、だから王を完全には理解できない。そして彼はそのことについてすらもだ。自覚できないでいたのだ。
 その彼がだ。王に話すのである。
「それだけですから」
「そうだといいうのだが」
「はい。それでなのですが?」
「それで?」
「陛下の今のお考えは正しいと思います」
 前を見て舞台を観ながら話す彼だった。
「今は舞台が行われているのですから」
「それにだな」
「専念されるのがいいです」 
 微笑んでだ。王に話した。
「それがです」
「そうだな。それではだな」
「はい、観ましょう」
 また王に話す彼だった。
「これから」
「そうだな。今は舞台だ」
 また言う王だった。
「それに専念しよう」
「そうしましょう」
 こう話してである。王は今はだ。
 舞台に専念した。そうしてだ。
 舞台が終わりロビー、見事な内装のそのロビーに来るとだった。
 ある貴婦人がだ。すぐに来た。その貴婦人は。
 すらりとしており茶色の髪を奇麗に上でまとめている。緑の目が映え青いドレスを艶やかに着こなしている。その彼女が来てであった。
 王にだ。一礼したうえでこう問うてきたのである。
「伯爵ですね」
「御存知なのですか」
「はい、失礼ながら」
 王に言うのである。
「御聞きさせてもらいました」
「左様ですか」
「そしてなのですが」
 また言う貴婦人だった。
「これからお時間はありますか?」
「時間がですか」
「はい、それはおありでしょうか」
「はい、あります」
 それはだ。あると答える王だった。
「ありますが」
「そうなのですか。それではです」
「それでは?」
「これからお食事でも」
「いえ」
 しかしだ。王はだ。
 こうだ。落ち着いた声で言うのだった。
「申し訳ありませんが今はです」
「今は?」
「自由な時間を楽しみたいので」
 だからだとだ。王は言うのである。
「その申し出を受けることはできません」
「そうなのですか」
「はい、そうです」
 王は素っ気無い口調で答えた。
「では。これで」
「わかりました」
 貴婦人もこう答えるしかなかった。ここまで素っ気無いとだ。
 こうしてだ。王は貴婦人の前から姿を消した。ホルニヒを連れて。
 

 

276部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その三


第十九話 ヴェーヌス賛歌その三

 そして一人残った貴婦人はだ。苦い顔でこう言うのであった。
「噂には聞いていましたけれど」
「そうですね。バイエルン王は」
「女性に興味がおありではないようです」
「おそらく。お連れしているあの方が」
「御相手なのでしょう」
 王の後姿を見送りながらの言葉だ。他の貴婦人達も言うのだ。
「どなたかは存じませんが」
「あまり身分の高い方ではないようですね」
「そうですね」
 ホルニヒの出自はすぐに見抜かれた。
「陛下は御気に召されれば身分にこだわらないといいますが」
「ではやはりなのですね」
「あのお相手の方は」
「あまり高貴な方ではありませんか」
「けれど」
 それでもだとだ。パリの貴婦人達の話が変わった。
 そうしてだ。彼女達の次の話は。
「本当にお美しい」
「絵画の様なお方です」
「実際に多くの絵画に描かれているようですが」
「さもありなんですね」
「全くです」
 そのことがだ。確かに言われるのだった。
 王の評判は悪いものではなかった。むしろかなりよかった。とりわけ貴婦人達の間ではだ。既に王の偽名は何の意味もなくなっていた。
 そのうえでだ。彼女達は行く先々で王を見ていた。だが王の態度は変わらない。
 どれだけ見られてもだ。意に介さない。平然と過ごしていた。
 かえってだ。ホルニヒがだ。こう王に言うのだった。
「あの」
「どうしたのだ?」
 パリを進みながらの言葉だった。
「一体」
「女性の方々が見ておられますか」
「そうなのか」
 王の周りには女性達が集まっている。パリの街中でだ。
 貴婦人達だけではなく市井のおかみや娘達もだ。王を見てうっとりとなっている。しかし王はだ。そのことに言われて気付いたといった感じだった。
 そうしてだ。こう言うのだった。
「今気付いたが」
「今ですか」
「私は街を見ていた」
 パリの街をだというのだ。
「そして考えていたのだ」
「何について考えておられたのですか?」
「宮殿と城のことだ」
「その二つのことをですか」
「それについて考えていた」
 まさにだ。その二つについてだというのだ。
 そうしてだ。王はホルニヒにこうも話した。
「その二つを一つにしてだ」
「そうしてなのですね」
「そうだ。フランスとワーグナー」
 この二つについてもだ。考えていたというのだ。
「この二つもだ」
「一つにされ」
「考えていたのだ。しかしだ」
「女性についてはですか」
「本当に今気付いた」
 そしてだ。気付いてもだった。
 王は女性達を見ない。全くだった。
 そしてそのうえでだ。王はこう言うのだった。
「だがどうでもいい」
「左様ですか」
「私の世界の中にいる女性はだ」
「その方は?」
「エルザだ」
 彼女だった。まずはだ。
 

 

277部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その四


第十九話 ヴェーヌス賛歌その四

「エリザベート、イゾルデ」
「ワーグナー氏の女性達ですね」
「マリー=アントワネットもいるが」
 ベルサイユだからだ。それでだった。
「だがまずはだ」
「ワーグナー氏のですか」
「マイスタージンガーではだ」
 まだ上演されていないだ。その作品についても話す。
「エヴァだったな」
「その様ですね」
「彼女もいるのだ」
 そうだとホルニヒに話すのである。
「そういった女性達はだ」
「では。他には」
「いない」
 即答であった。
「彼女達だけだ」
「現実の女性は」
「いて何になるというのだ」
 最初からだ。否定する言葉だった。
「現実の女性なぞ」
「そう御考えですか」
「現実の女性は」
 どうなのか。王にとってはどういったものなのか。
 彼はだ。拒む目で話すのだった。
「私にとってはどうでもいいものなのだろう」
「あくまで物語の中の」
「シシィにしてもだ」
 彼の従姉であるだ。オーストリア皇后にしてもだというのだ。
 王と彼女は互いに理解し合っている。しかしそれでもだった。
「私は異性として感じはしないのだ」
「異性ではないですか」
「そうだ。確かに心の奥底でつながってはいるのだろう」
 皇后にはだ。そうだというのだ。
「だが。異性というよりは」
「というよりは?」
「同性だろうか」
 それだというのだ。王の考えではだ。
 それを話していきだ。王は見るのだった。
「彼女を見る目は」
「皇后様がですか」
「少なくとも異性と感じたことはない」
「では皇后は男性だというのですか?」
「いや、女性だ」
 そのことは否定できなかった。皇后は欧州でも随一とまで謳われる絶世の美女だ。その美貌故にだ。彼女はというとなのだった。
「あくまでだ」
「女性ですか」
「それ以外のものではない」
「では陛下は」
「やはり。それがわからない」
 王の言葉には。疑念が浮かび上がっていた。
「私は。王だな」
「はい、その通りです」
「そして后を迎える立場だ」
 それは王自身が最もよくわかっていた。己のことだからだ。
 だがそれでもなのだった。その心に感じるものはだ。
「だがそれでもだ。シシィに対してはだ」
「同じものを感じられるのですね」
「異性への愛情ではない」
 そうではないというのだ。
「肉親への愛情はあるが」
「それでもですか」
「それが私達なのだろう」
 遠い目で見ながら。王は話していく。
 

 

278部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その五


第十九話 ヴェーヌス賛歌その五

「だから私は宮殿にはだ」
「女性はですか」
「そうだ。ワーグナーのヒロイン達に」
「そしてですね」
「歴史上の女性達を置きたい」
 そうだと話す。そうした女性達をだ。
 そんな話をしながらだ。パリを歩くのだった。その周りの美女達はだ。
 そんな王を見てだ。こう話すのだった。
「あれだけの美貌の方は」
「はい、いませんね」
「バイエルンは幸福です」
「全くです」
 バイエルンの民への憧れの言葉も出た。
「まさにバイエルンの誇りですね」
「そうです。しかも非常に聡明だとか」
「芸術を愛されるとか」
「しかも清潔で」
 少なくとも王は清潔であった。潔癖症の気質があると言ってもいい。
 その王の噂が囁かれる。その中にはだ。
 口さがない言葉も出ていた。その言葉は。
「リヒャルト=ワーグナーにたぶらかせられているらしいな」
「その様ですな」
「全てを貢いでいるとか」
「あの山師にですか」
「弟子の妻を奪う様な男に」
 このこともだ。話されるのだった。
「その前は恩人の妻と噂になりましたし」
「舞台の踊り娘達にも次々と手をつけるとか」
「おまけに尊大で図々しい男です」
「パリでも評判ですから」
「いかがわしい男です」
 この評価がだ。この街でも話されるのだった。
 そしてだ。さらにだった。王自身のことも話される。
「どうも同性愛者だとか」
「ああ、そうらしいですね」
「噂では女性を愛さないとか」
「美青年だけだとか」
「神の教えに反しますね」
 キリスト教では同性愛は禁じられている。実に忌まわしい大罪とされているのだ。しかし王はだ。その同性愛に耽溺しているというのだ。
 この話をする者達はだ。王を否定する目で見てだ。そうして話すのだった。
「あの王はそうした方ですか」
「いかがわしい人物を傍に置き」
「そして同性愛者」
「困った方ですね」
「全くです」
 賛美だけではなかった。そんな言葉も出される。
「バイエルンも大変ですね」
「浮世からは離れた方の様ですし」
「何かあると何処かにお隠れになられるとか」
「そういえば今も」
「そうですね」
 パリにいることについてもだ。囁かれるのだった。
「あのお連れの人は愛人で」
「ただの従者ではなくですね」
「男の愛人」
「そしてお忍びでここに来られている」
 パリにだ。そうしているのではというのだ。
「いい御身分ですな、誰もが生きるのに苦労しているというのに」
「バイエルン王はお気に入りの音楽家に何もかもを貢ぎ」
「そして男の愛人を連れて旅を楽しむ」
「そうした方なのですね」
「困った方です」
「カトリックであるというのに」
 ここでもだ。このことが問題になった。
「それでも。神の御教えに反発して」
「そのうえで男色を嗜まれるとは」
「王ともあろう方が」
「背徳の方です」
 こうも言われるのだった。
 

 

279部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その六


第十九話 ヴェーヌス賛歌その六

「それがあのバイエルン王ですか」
「奇妙な方です」
「あれではバイエルンも本当に」
「気の毒になります」
 こうした話は表には出ない。しかしだった。
 王の耳には入りだ。そうしてだった。
 その心を傷つけるのだった。そのことをだ。
 宿においてだ。王はだ。憂いに満ちた顔でホルニヒに話すのだった。
 朝だ。清らかな白い光がカーテン越しに部屋に入る。だが王はその中で憂いに満ちた顔を見せながらだ。既に寝床から出ているホルニヒに話すのだった。
「パリも同じだな」
「同じといいますと?」
「人は同じなのだな」
 こう言うのである。
「噂話をする」
「噂のことですか」
「陰口とも言おうか」
 そうしたものをだとだ。王は話すのである。
「それを言うのだな」
「それは」
「確かに私は女性を愛さない」
 寝床の、天幕の中で話す王だった。王はまだそこにいるのだ。
「しかし。それでもだ」
「愛することはですね」
「自然ではないのか」
 これが王の考えだった。
「誰かが誰かを愛するというのは」
「それはその通りですが」
「しかし男が男を愛するのはだな」
「神が定められていますので」
「そうだな。神がな」
 まさにその神がだとだ。王もわかっていた。
 王には信仰はある。それはあるのだ。しかしなのだ。
 その信仰が今はだ。王を苦しめることとなっていた。それは。
「神はそう定められたのだな」
「男は女を愛し」
「女は男を愛するのだな」
「それが決められていますので」
「確かにその通りだ」
 王もその摂理は正しいとした。
「それはな。だが」
「だが?」
「私はそれができないのだ」
 こうだ。王は寝床の中で暗い顔になり話した。白い光もだ。今は王の心を照らすことはできなかった。朝だというのにだ。王は暗かった。
「どうしてもだ」
「ですが」
「そのことを言う」
 そのだ。同性愛のことをだというのだ。
「やはりそれは」
「噂されるべきことだと」
「それはパリもですか」
「人の言葉は何をしても聞こえてくるのだ」
 王の耳には入る。それがなのだった。
「辛いものだな」
「いえ、ですが」
「ですが。何だ」
「そのことを御気になされないのもです」
「それも処世か」
「そう思うのですが」
 ホルニヒは王にこう話した。
「そしてです」
「わかっている。后をだな」
「御后を迎えられれば人の噂もです」
「それもなくなるか」
「かなり消えると思います」
 そうなるとだ。王に対して話すのである。
 

 

280部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その七


第十九話 ヴェーヌス賛歌その七

「そして御后はです」
「そうだな。必ず迎えなければならない」
「その通りです。御言葉ですが」
「その通りなのだ」
 わかっていることだった。やはりだ。
「それはだ。ではバイエルンに帰ればだ」
「御后をですね」
「迎えよう」
 王は決めた。このことをだ。
「是非な。ではだ」
「バイエルンに戻られれば忙しくなりますね」
「そうだな。私にはやらなければならないことがある」
「王としてですね」
「王は為さねばならないことが多い」
 それもだ。実にだ。
 王はすべきことしかないとも言っていい。玉座は温めるものではないのだ。
 その多くのことについてもだ。王は話すのである。
「その中の一つがだ」
「御后を迎えることですね」
「そうだ。そしてだ」
「そして?」
「子だな」
 次に話されるのはこのことだった。后を迎えればだ。
 跡継ぎとなる子だ。そのことも絶対なのである。
 それを己から話してだ。王は見るのだった。
「子もだ」
「バイエルンの次の主をです」
「考えられないことだ」
 王にとってはだ。とてもだった。
「私が子をもうけることはだ」
「誰もがそうだと聞いていますが」
「人は新たな命を作ることができる」
 生きているならばだ。それは可能だ。
 魔術の様なものだ。しかし王はその魔術についてだ。
「しかし私はそれは」
「それは?」
「私にはできないのだろう」
 己を見てだ。そうしての言葉だった。
「そうしたことはだ」
「子をもうけられることはですか」
「そうだ。私はそうした人間ではないのだ」
 まただ。己を見て話すのである。
「私にはだ」
「それは」
「誰もがだというのか?」
 王はホルニヒが話す前に言ってみせた。
「それは」
「はい、そうではないでしょうか」
「誰もが子をもうける」
 王はそのことを言う。
「それができるな」
「最初は誰も想像できるものではないと思います」
 ホルニヒは王に穏やかな言葉で話す。
「しかし。それでもです」
「現実のものになっていくものだというのだな」
「そう思いますが」
「誰もが子供から大人になり」
 王が今話すのはだ。成長だった。
「そして結ばれ子をもうけるな」
「そういうものではないでしょうか」
「そうなのだろう。普通は」
「普通は、ですか」
「そうだ。普通はそうなのだ」
 普通という単語をだ。王は出していくのだった。
「それが世界の摂理だからな」
「夫婦になり、ですね」
「神もそれを定められた」
 アダムとイブの話にもなった。それにもだ。
「そしてそれはだ」
「王家ならば余計にですね」
「王はどうしてなるか」
 それがどうしてなのかもだ。王ならばわからないことではなかった。
 

 

281部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その八


第十九話 ヴェーヌス賛歌その八

 それを話してだった。王はさらに遠い目になるのだった。
「それは血脈故にだ」
「王家であるということの」
「私はそのヴィッテルスバッハ家の血脈によりだ」
「王になられていますね」
「その私が」
 王がだというのだ。
「后を迎えず。子をもうけないのはだ」
「誤りだと」
「何度も言うがわかっているのだ」
 それはどうしてもだというのだ。王ならばだ。
「だが。私はどうしてもだ」
「御后を迎えられることも」
「子ももうけることもだ。どちらもだ」
「考えられませんか」
「現実のものとは思えない」
 王にとってはである。
「とてもな」
「しかしそれが現実のものになります」
 ホルニヒは現実から話すのだった。
「陛下はバイエルン王なのですから」
「だからだな」
「まずは旅を終えられたらです」
 そこからだというのだ。旅の終わりは物語の終わりではなく新たな話のはじまりだというのだ。ホルニヒはこう王に話すのである。
「そのことのお話になるでしょうか」
「后のか」
「そうです。そろそろかと」
「そうなのか」
「戦争も終わりました」
 オーストリアとプロイセンの戦争、それがだというのだ。
「今は落ち着いていますし」
「后を迎えるにはいい時期だからか」
「そういう事情もありますし」
「私は后を迎える」
「そうなるでしょうか」
「慶賀だな」
 王の今の言葉は第三者のものだった。
「まさにだな」
「その通りです。それはです」
「慶賀と言う他ないものだ」
 また第三者として話す王だった。
「バイエルンにとっても私にとっても」
「では是非共」
「しかし私はどうしても女性は」
 どうかというのだ。王の言葉は変わらない。
「愛せないのだ」
「ですからそれもまた」
「変わるのは。むしろ私には」
「陛下には」
「私にとって女性を愛することは不自然なのか」
 そうではないかとだ。自問しながらの言葉だった。
「そうなのだろうか」
「陛下は男性ですか」
「そうだ。男が女を愛するのは自然なのだ」
 この摂理もまた話される。
「そして女が男を愛するのもだ」
「それもまた、ですね」
「私は。あの騎士に出会ってから彼を見てきた」
 瞼にあの白銀の騎士、白鳥に曳かれて小舟に乗りやって来る騎士が思い浮かぶ。またしてもだった。
「そして愛している」
「今もですね」
「しかしそれは普通ではないのか」
 王は言う。
「エルザの目から彼を見るのは」
「ハインリヒ王の目で見ておられるのではないのですか?」
「あの王か」
 そのオペラに出ているだ。ドイツ王だ。そう、王なのだ。
「そうではないのですか」
「それが自然だな」
 王はホルニヒに話した。
「その通りだな」
「はい、そうではないのですか」
「私はハインリヒ王に扮する」
 そうして遊ぶこともだ。王の趣味になっているのだ。歌劇の人物に扮するものだ。だからホルニヒは王はその立場から騎士を見ていると考えたのだ。
 

 

282部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その九


第十九話 ヴェーヌス賛歌その九

 王はすべきことしかないとも言っていい。玉座は温めるものではないのだ。
 その多くのことについてもだ。王は話すのである。
「その中の一つがだ」
「御后を迎えることですね」
「そうだ。そしてだ」
「そして?」
「子だな」
 次に話されるのはこのことだった。后を迎えればだ。
 跡継ぎとなる子だ。そのことも絶対なのである。
 それを己から話してだ。王は見るのだった。
「子もだ」
「バイエルンの次の主をです」
「考えられないことだ」
 王にとってはだ。とてもだった。
「私が子をもうけることはだ」
「誰もがそうだと聞いていますが」
「人は新たな命を作ることができる」
 生きているならばだ。それは可能だ。
 魔術の様なものだ。しかし王はその魔術についてだ。
「しかし私はそれは」
「それは?」
「私にはできないのだろう」
 己を見てだ。そうしての言葉だった。
「そうしたことはだ」
「子をもうけられることはですか」
「そうだ。私はそうした人間ではないのだ」
 まただ。己を見て話すのである。
「私にはだ」
「それは」
「誰もがだというのか?」
 王はホルニヒが話す前に言ってみせた。
「それは」
「はい、そうではないでしょうか」
「誰もが子をもうける」
 王はそのことを言う。
「それができるな」
「最初は誰も想像できるものではないと思います」
 ホルニヒは王に穏やかな言葉で話す。
「しかし。それでもです」
「現実のものになっていくものだというのだな」
「そう思いますが」
「誰もが子供から大人になり」
 王が今話すのはだ。成長だった。
「そして結ばれ子をもうけるな」
「そういうものではないでしょうか」
「そうなのだろう。普通は」
「普通は、ですか」
「そうだ。普通はそうなのだ」
 普通という単語をだ。王は出していくのだった。
「それが世界の摂理だからな」
「夫婦になり、ですね」
「神もそれを定められた」
 アダムとイブの話にもなった。それにもだ。
「そしてそれはだ」
「王家ならば余計にですね」
「王はどうしてなるか」
 それがどうしてなのかもだ。王ならばわからないことではなかった。
 それを話してだった。王はさらに遠い目になるのだった。
「それは血脈故にだ」
「王家であるということの」
「私はそのヴィッテルスバッハ家の血脈によりだ」
「王になられていますね」
「その私が」
 王がだというのだ。
「后を迎えず。子をもうけないのはだ」
「誤りだと」
「何度も言うがわかっているのだ」
 それはどうしてもだというのだ。王ならばだ。
「だが。私はどうしてもだ」
「御后を迎えられることも」
「子ももうけることもだ。どちらもだ」
「考えられませんか」
「現実のものとは思えない」
 王にとってはである。
 

 

283部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十

「とてもな」
「しかしそれが現実のものになります」
 ホルニヒは現実から話すのだった。
「陛下はバイエルン王なのですから」
「だからだな」
「まずは旅を終えられたらです」
 そこからだというのだ。旅の終わりは物語の終わりではなく新たな話のはじまりだというのだ。ホルニヒはこう王に話すのである。
「そのことのお話になるでしょうか」
「后のか」
「そうです。そろそろかと」
「そうなのか」
「戦争も終わりました」
 オーストリアとプロイセンの戦争、それがだというのだ。
「今は落ち着いていますし」
「后を迎えるにはいい時期だからか」
「そういう事情もありますし」
「私は后を迎える」
「そうなるでしょうか」
「慶賀だな」
 王の今の言葉は第三者のものだった。
「まさにだな」
「その通りです。それはです」
「慶賀と言う他ないものだ」
 また第三者として話す王だった。
「バイエルンにとっても私にとっても」
「では是非共」
「しかし私はどうしても女性は」
 どうかというのだ。王の言葉は変わらない。
「愛せないのだ」
「ですからそれもまた」
「変わるのは。むしろ私には」
「陛下には」
「私にとって女性を愛することは不自然なのか」
 そうではないかとだ。自問しながらの言葉だった。
「そうなのだろうか」
「陛下は男性ですか」
「そうだ。男が女を愛するのは自然なのだ」
 この摂理もまた話される。
「そして女が男を愛するのもだ」
「それもまた、ですね」
「私は。あの騎士に出会ってから彼を見てきた」
 瞼にあの白銀の騎士、白鳥に曳かれて小舟に乗りやって来る騎士が思い浮かぶ。またしてもだった。
「そして愛している」
「今もですね」
「しかしそれは普通ではないのか」
 王は言う。
「エルザの目から彼を見るのは」
「ハインリヒ王の目で見ておられるのではないのですか?」
「あの王か」
 そのオペラに出ているだ。ドイツ王だ。そう、王なのだ。
「そうではないのですか」
「それが自然だな」
 王はホルニヒに話した。
「その通りだな」
「はい、そうではないのですか」
「私はハインリヒ王に扮する」
 そうして遊ぶこともだ。王の趣味になっているのだ。歌劇の人物に扮するものだ。だからホルニヒは王はその立場から騎士を見ていると考えたのだ。
 しかしだった。王はだ。その王の視線から騎士を見ていなかったのだ。
 エルザの目から王を見てだ。それで話すのだった。
「そしてあの騎士にもだ」
「そうされておられるので」
「その衣装は誰が見たものか」
 そういう問題にもなるのだった。
「誰が見たものか」
「といいますと?」
「エルザが見ているものなのだ」
 他ならぬだ。彼女がだというのだ。
「彼女がだ」
「では陛下は」
「やはり彼女の目で見ているのだ」
 そうだとだ。ホルニヒにさらに話していく。
「ハインリヒ王ではなくだ」
「そしてあの騎士でもない」
「私はハインリヒ王の立場にいるのだろうか」
 今度の言葉はだ。自問自答だった。その答えは。
 

 

284部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十一


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十一

「それは違うのだ。私は」
「陛下は」
「彼の立場になりたいのだ」
 その彼こそがなのだった。王の永遠の存在であるのだ、
「ローエングリンに」
「そしてタンホイザーにですね」
「彼になりたいのだ」
 王の願いがだ。静かに、だが確かに語られていく。
「しかしそれはできるかどうか」
「確かタンホイザーは」
 ホルニヒはここで気付いた。彼等は何かというとだ。
「歌を歌う騎士ですね」
「そうだ。私は歌もまた愛している」
「そしてそれによりエリザベートに歌を向けますね」
「それが彼だ。そしてローエングリンは」
「ローエングリンは」
「彼もまた歌なのだ」
「歌を生業とする立場でなくとも」
 それでもだと話すのだ。王はそのローエングリンとは何かも話していく。
「彼はその存在自体が歌なのだ」
「彼自体がですか」
「詩人だ」
 王は詩も愛している。それもだった。詩も芸術だからだ。それを愛するのも当然だった。狩りは嫌いでもだ。そちらは愛しているのだ。
「彼はまさにそれなのだ」
「詩人である彼に」
「なりたいと。思ってきている」
 それは今現在もだというのだ。
「常にだ」
「陛下、では」
「では、か」
「ローエングリンになられたいのですね」
 ホルニヒはまだ天幕の寝床にいる王に話すのだった。
 そしてだ。さらにであった。
 言葉を出していく。彼のその心をそのまま出した言葉をだ。
「是非ですね」
「その通りだ。私は彼になりたい」
「あの騎士は聖杯城の主となる者ですね」
「言うならば太子だな」
「はい、やがてその城の主となる者です」
 それは自分から歌うのだ。名乗りの時にだ。
「ですから。その彼には」
「私はなれるか」
「そう思います」
「そうだな。私はなれるのだ」
 王は寝床の中で半身を起こしたままでだ。遠くにその彼を見る目で話すのだった。そこには小舟の上にいるローエングリンがいた。
「あの騎士に」
「はい、それでは」
「やはり私は美を築くべきなのだ」
 またこの話になった。
「その白銀の世界をだ」
「では。陛下は」
「バイエルンに戻ればだ」
 そうなればというのだ。それはもう少し先のことだった。
「それからすぐに動こう」
「美を築かれるのですか」
「準備をしなければならない」
 まずはそこからだというのだ。
「早速な。そうしよう」
「はい、それでは」
「しかしその前に。ローエングリンならばだ」
 白銀の騎士ならばというのだ。今王は自身を完全にだ。その騎士と重ね合わせてだ。そのうえで王は話していく。
「エルザを迎えないとな」
「あの姫をですね」
「ヴァルターでもジークフリートでもだ」
 彼等でもだというのだ。それぞれの作品の主人公達ならばだとだ。
「やはりエヴァやブリュンヒルテが必要なのだ」
「そうなりますね」
「答えは出た」
 ここまで話してだ。その結果だった。
「今フランスでやるべきことは全て終えた」
「では今は」
「都合のいいことに戻る時になろうとしている」
 そのだ。バイエルンにだというのだ。彼の祖国にだ。
 

 

285部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十二


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十二

「ではだ」
「はい、帰りましょう」
「それからだな。私は」
 こうした話をしていってであった。王はだ。
 バイエルンに戻る。そうしてだ。
 すぐにだ。スイスにいるあの男にだ。電報を打ったのである。
 その電報は彼のところに届いた。それはだ。
 既にスイスに来ていたコジマがだ。彼に話すのだった。
「奇妙な電報です」
「奇妙な?」
「これは。マイスターの作品の主人公達ですね」
 それはだ。すぐにわかるというのだ。
「彼等です」
「私の作品のか」
「親愛なるザックスへ」
 この一文でだ。すぐにだった。
 ワーグナーはだ。全てを察してこうコジマに話した。
「陛下からか」
「おわかりですか」
「ザックスとは私のことだ」
 ワーグナーは言うのだった。ニュルンベルグのマイスタージンガーの主人公である。もう一人の主人公を導きその愛を成就させる人物だ。その人物にだ。
 ワーグナーは己を強く投影させている。かなり美化されてはいるが。だからその名前を聞いてだ。彼は王が自分に送った電報だと察したのである。
「陛下が私に送った電報だな」
「はい、その通りです」
「あの方から一体何だ?」
「これまたわからない表現ですが」
 コジマはこう前置きしてから話していく。
「ワルターはエヴァを」
「ヴァルターがか」
「まさかこれは」
「誰かわかったな」
「はい、陛下ですね」
 コジマもそれがわかった。
「あの方がですか」
「あの方らしいな」
 ワーグナーはここでは微笑んで話した。
「あの方は時折別の方になられるのだ」
「バイエルン王からですね」
「そうだ。王という存在は色々とある」
 そのことはだ。ワーグナーもわかっているのだ。王は至高の存在であり孤独な存在でもある。そしてその重圧は計り知れないのだ。それを考えるとだった。
「だからだ」
「この様にしてですか」
「別の方になられる」
「それでヴァルターなのですか」
「ヴァルターについてはわかるな」
「はい」
 コジマもワーグナーの実質的な妻にただなっているのではないのだ。そうなるにはだ。ワーグナーのことを理解していなければなのだ。
 だからこそだ。その彼が誰なのかもだ。彼女はわかったのである。
「マイスターが今作曲しておられる」
「そうだ、あのマイスタージンガーのな」
「もう一人の主人公ですね」
「そう、あの騎士だ」
 ニュルンベルグのマイスタージンガーのだ。主人公である。ザックスと共にもう一人の主人公、そしてワーグナーの象徴であるヘルデンテノールなのだ。
「あの若い騎士になられているのだ」
「それが今の陛下ですか」
「その陛下がエヴァを見つけられたな」
「といいますと」
「御后だ」
 まさにだ。それだというのだ。
「その方を見つけられたのだ」
「それではです」
「それでは。さらにだな」
「今度はジークフリートです」
 次に出たのはだ。彼だった。
「ジークフリートがブリュンヒルテをと」
「またヘルデンテノールだな」
「はい、見出したとなっています」
「そのことをザックスに知らしてくれたか」
「そうなります」
「わかった」
 ワーグナーはここまで聞いて微笑んだのだった。
 

 

286部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十三


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十三

「そうか。あの方も遂に」
「そうですね。遂にです」
「いいことだ。だが」
「だが?」
「あの方は果たして結ばれるのか」
「あの、結ばれるのは」
 コジマはそれを言われてだ。少し目をしばたかせてだ。
 そしてそのうえでだ。こうワーグナーに問い返した。
「既に決まっているのでは?」
「王には王妃が必要だからだな」
「必ずいなくてはならないものではないでしょうか」
 彼女は常識の観点からワーグナーに話した。
「そうではないでしょうか」
「普通に考えばな」
 こう答えるワーグナーだった。コジマのその問いにだ。
「そうなるな」
「はい、違うのですか?」
「あの方は御自身をヘルデンテノールと思われている」
 ワーグナーがここで話すのはこのことだった。
「そうだな」
「そうですね。間違いなく」
「しかしそれはだ」
「それはなのですか」
「そうだ。そうではないのだ」
 こう話すワーグナーだった。
「あの方はこの場合はむしろだ」
「むしろ?」
「エヴァなのだ」
 女性だというのだ。そしてこのことをだ。
 コジマに対してだ。こう話すのだった。
「このことは前に話したと思うが」
「はい、確かに」
「そうなのだ。あの方は実は女性なのだからだ」
「その見出された方を結ばれることは」
「難しいだろう」
 そうだとだ。コジマに話すワーグナーだった。
「あの方が女性だからこそだ」
「ではこのことは」
「一つ誤れば後味の悪いものになる」 
 ワーグナーは未来を見ているその目で話した。
「非常にだ」
「そうですか。そうなりますか」
「しかしそのことを理解している者は少ない」
「マイスターだけでしょうか」
「私以外にいるとすれば二人だ」
「二人ですか」
「プロイセンの宰相であるビスマルク卿か」
 まずは彼だった。今ドイツを主導しているその彼だというのだ。
「そしてオーストリア皇后であられるだ」
「エリザベート様ですね」
「その御二人しかおられないのではないだろうか」
 こう話すのだった。
「私以外にはだ」
「バイエルンにはおられないのですね」
「今はいない」
 このことは断言するワーグナーだった。
「誰もな」
「そうなのですか」
「あの方はあまりにも特別な方だ」
「王としてでしょうか」
「王としてもそうだが」
 それだけではないというのだ。ワーグナーは言い加えるのだった。
「人としてもだ」
「人としてもまた」
「特別な方なのだ」
 王についてだ。こう話すのだった。
「あまりにも純粋で清らかで聡明な方なのだ」
「そうした意味で特別なのですか」
「しかも実は女性なのだ」
 その心がだというのだ。
 

 

287部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十四


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十四

「そのことに気付けることは」
「難しいですね」
「不可能に近い」
 そこまでだというのである。
「だからこそだ」
「周囲はあの方を」
「理解できないのだ」
 そのせいだというのだ。王のその本質がわからないからだ。
 しかしワーグナーはだ。その中でだというのだ。
「私はあの方の意中の作品を完成させていっている」
「陛下のその意中の」
「そうだ。それでだ」
 それによってだというのだ。
「私はそれがわかるがだ」
「他の方は」
「できない。陛下ご自身もだ」
「陛下もですか」
「自分のことはだ。ある意味において最もわからないものなのだ」
 今度はこう話すワーグナーだった。
「どうしてもだ」
「では陛下は」
「御自身を男性だと思っているのだ。これは何度も言おう」
「それが問題の本質だからですね」
「そうなのだ。男性ではないのだ」
 あくまでそうだとだ。王について話すワーグナーだった。
「そのことに陛下はおそらくだ」
「おそらく?」
「永遠に気付かれないだろう」
「陛下御自身はなのですか」
「そうなのだ。そして周囲もだ」
「陛下の本質には」
「そしてそれがどうなっていくのか」
 それも話していくのだった。王のこれからのこともだ。
「心配になる」
「この御結婚は」
「相手が男性であれば」
 ワーグナーは決して有り得ないことを話した。
「そしてその彼がだ」
「ローエングリンであれば」
「あの方は幸せになれたのだ」
 そうなればだとだ。彼は有り得ないことを話していく。
「あの方は。実はエルザなのだから」
「エルザだからこそ」
「そうだ。だから相手がローエングリンであれば」
「幸せになれたのだ」
「しかしです」
 コジマはエルザ、そしてローエングリンと聞いてだ。そうしてだった。 
 彼女はその気付いたことをだ。ワーグナーに話した。
「マイスター、エルザですね」
「あの方はな」
「しかしそれではです」
 エルザというヒロインについてはだ。どうかと。コジマは話す。
「やはり幸せになれないのではないでしょうか」
「エルザ=フォン=ブラバントだからというのか」
「エルザは結ばれませんでした」
 こう話すのだった。
「その愛は成就されませんでした」
「そうだったな。ローエングリンの名を聞いてしまい」
「そうして幸せになれませんでした」
「愛を手に入れられなかった」
「愛する存在の名前を聞いてしまい」
 それでなのだった。どうしてもだ。
 エルザは幸せになれなかったのだ。それができずにだ。
 それを話してだった。コジマはだ。
「聞かずにはいられなかったのですから」
「愛する者の名前はだ」
「はい、それは」
「聞かずにはいられないものだ」
 ワーグナーはその青い目をだ。遠くにやってコジマに話した。
 

 

288部分:第十九話 ヴェーヌス賛歌その十五


第十九話 ヴェーヌス賛歌その十五

「それはどうしてもだ」
「まして。聞くなと言われれば余計にですね」
「尚更聞かずにはいられない」
「人の心は」
「人の心は複雑で微妙なものだ」
 その人の心をこれまで見てきて知っているからこそ。ワーグナーは言うのだった。その心理の微妙なことを見てだ。作品を創造しているからこそ。
 ワーグナーは今言うのだった。そのことをだ。
「だからだ。エルザは彼の名を聞かずにはいられなかった」
「騎士の名を」
「そして聞いて愛を得られなかったのだ」
「陛下はどうでしょうか」
「若し陛下がその場におられたら」
 そうなればだ。どうかというのだ。
「エルザの立場ならばだ」
「聞かれますか」
「誰でもそうする」
 ワーグナーはそれは王だけではないというのだ。誰もがだというのだ。
「必ずな」
「それでなのですね」
「そうだ、そうする」
 彼は言い切った。
「そうした意味でもか。あの方は」
「幸せを手に入れられないのですか」
「おそらくはそうなる」
 こう話すのだった。
「今回のことも。それにだ」
「それにですか」
「これからもだ。あの方は幸せになれない方なのだろう」
「ではマイスターはどうされますか?」
 ワーグナーはそのことにどうするか。コジマは彼に尋ねた。
「これからは」
「そのことか」
「はい、どうされますか」
「おそらく私はだ」
 ワーグナーは目を光らせた。そのうえでだ。
 コジマにだ。こう話すのだった。
「もう少ししたらここを出ることになる」
「スイスをですか」
「そしてバイエルンに戻ることになる」
「ミュンヘンに」
「その時に陛下に進言させてはもらう」
 政治のことではなくだ。王自身のことについてだというのである。
「私のこの作品のことを通じてだ」
「そうしてそのうえで、ですか」
「あの方に何かあってはならないのだ」
 王への敬意を見せ。そのうえでの言葉だった。
「あの方はまさに至宝なのだからな」
「バイエルンの」
「バイエルンだけではない」
 その国だけに留まらないというのだ。
「ドイツのだ」
「ドイツ全体のですか」
「そうだ、至宝なのだ」
 王はだ。そこまでの人物だというのだ。
「そうした方なのだから」
「しかしそれがわかる方はなのですね」
「少ない。僅かしかいない」
「普通の方にはわからない方なのですね」
「あの方がわかるようになるのは」
 どうなのか。ワーグナーは遠い目をして話す。
「若しかして。永遠にないのかもな」
「永遠に?」
「永遠の謎になるのかも知れない」
 こうコジマに話すのである。
「あの方の繊細さ。美しさ故にだ」
「それ故に」
「そうだ、永遠の謎になるのかもな」
 こう言うのだった。ワーグナーは王からの電報を喜びはした。しかし同時に王がこのことで幸せにはなれないとも見ていた。王の理解者である故に。


第十九話   完


                   2011・5・1
 

 

289部分:第二十話 太陽に栄えあれその一


第二十話 太陽に栄えあれその一

                第二十話  太陽に栄えあれ
 王はだ。ミュンヘンに戻すとだ。
 すぐに周囲にこんなことを話すのだった。
「王としての務めの一つを果たす時が来た」
「王としての」
「といいますと」
「伴侶のことだ」
 それだとだ。周囲に話すのである。
「その女性を迎える時が来たのだ」
「といいますと」
「遂にですか」
「御后様をですか」
「迎えられるのですか」
「そうだ。私が一人でいてはだ」
 王としての言葉だ。しかしだ。
 それは淡々としていた。感情が見られない。その淡々として事務的とさえ思える言葉でだ。王は周囲に対して話していくのだった。
「不都合だな」
「はい、御言葉ですが」
「それはやはりです」
「よくありません」
 周囲もこう王に話していく。
「ですからできるならです」
「一刻も早く御后をです」
「御迎え下さい」
「そしてです」
 周囲の王への言葉が変わった。
「どなたでしょうか」
「確かに。迎えられることはいいことです」
「しかしです。ただ迎えられるのではなくです」
「どなたでしょうか」
 次の問題はだ。そのことだった。
「バイエルン王に相応しい方」
「その方を迎えなくてはなりませんが」
「それは一体」
「どなたでしょうか」
「既に決めてある」
 王は周囲に対してすぐに答えた。
「その相手はだ」
「もうですか」
「決められているのですか」
「そうだったのですか」
「そうだ。彼女はだ」
 誰なのか。王は周囲にその意中の相手について話すのだった。
 話は遡る。ワーグナーがスイスに追放された時だ。
 王は孤独を感じていた。そのうえで側近達に話していた。
「悲しいものだな」
「ですが陛下、それはです」
「もう決まったことです」
「ですから。もうです」
「忘れられることです」
「忘却か」
 王は彼等が差し出す処方薬を見た。
「それか」
「はい、それもまた必要です」
「ですからここはです」
「お忘れ下さい」
「そして別の楽しみを」
「そうするしかないのか」
 王は寂しい瞳になり玉座で言葉を出した。
「今の私は」
「ワーグナー氏はスイスにおられます」
「バイエルンにはもうおられません」
「ですから」
「手放さざるを得なかった」
 王はその今のことをだ。こう表現したのだった。
 

 

290部分:第二十話 太陽に栄えあれその二


第二十話 太陽に栄えあれその二

「それでは。今は」
「今宵はです」
 側近の一人がここで話した。
「舞台を御覧になられてはどうでしょうか」
「舞台か」
「モーツァルトの歌劇が上演されます」
 それだというのである。モーツァルトはドイツ圏全体で上演される。オーストリアだけでなくだ。ドイツ圏全体で愛されているのである。
 そのモーツァルトと聞いてだ。王はいささか顔をあげてだ。そうして言うのだった。
「ロココか」
「そうです。ロココの音楽です」
「それは如何でしょうか」
「その音楽は」
「私はモーツァルトも好きだ」
 王の返答である。
「そしてロココもだ」
「では。聴かれますか」
「そうされますか」
「そうしよう。忘れることで癒されるというのなら」
 それならばだと。言葉としては出す。
「それならばそうしよう」
「帰られたらワインもあります」
「それもどうぞ」
「歌劇と美酒」
 王はその二つも言葉に出した。
「今はそれを楽しむか」
「はい、それでは」
「今宵は」
 こうしてだった。王はだ。
 舞台に向かうのだった。そのうえでロイヤルボックスに入りだ。
 歌劇を観る。しかしだった。
 やはり気は晴れない。どうしてもだ。
 ワーグナーのことを想い仕方がない。その彼にだった。
 誰も声をかけられなくなった。それは叔父であるルイトポルド大公もだった。彼はこう周囲に漏らした。
「よかったのだろうか」
「ワーグナー氏のことですか」
「確かに彼は浪費家だ」
 大公もそのことは否定しなかった。
「そしていかがわしい人物だ」
「何しろ弟子の妻を奪う様な男です」
「それだけではないしな」
 とにかく人間的には問題のある男だった。このことは誰が見てもだ。
「尊大であり失言癖がある」
「極端な反ユダヤ主義者ですし」
「おまけにその原因が個人的な怨恨の様ですし」
「ハンスクリック氏の批評が気に入らないとか」
 そのユダヤ系の批評家である。ユダヤ系の知識人は多く彼もまたその一人ということだ。このこと自体はドイツでも他の欧州の国でも珍しくはない。
「しかしあのハンスクリック氏は公平な人物です」
「ワーグナー氏への批評も評価するところは評価しています」
「普通に受け止めるべきのものです」
「そうだと思うのですが」
「しかしワーグナー氏はそうは思わないのだ」
 大公はこのことを話した。
「己への批評は好まないのだ」
「肯定的なもの以外はですね」
「そうですね」
「そうだ。それについてだ」
 ここでまたワーグナーのいかがわしさが話される。
「あの御仁は投書までしていたな」
「はい、偽名を使ってそれで自身を擁護していました」
「そうしたこともしていますし」
「陛下のお傍に置くのはです」
「問題があります」
「だからでしたが」
「そうだ。それは当然だったのだ」
 ワーグナーについてはだ。大公もだった。難しい顔で述べる。
 

 

291部分:第二十話 太陽に栄えあれその三


第二十話 太陽に栄えあれその三

「だが。それでもだ」
「陛下から離すのはですか」
「問題があったのですか」
「それもまた」
「そうではないのか」
 大公は周りに漏らす。
「陛下はワーグナーを愛されている」
「あの初老の男を!?」
「そうなのですか?」
「ではまさか」
「陛下は」
「そうした意味での愛ではない」
 周りが何を考えているのかを察してだった。大公は話した。
「そうではない」
「いつものあの方のそれではなくですか」
「肉体的な愛ではない」
「そちらではありませんか」
「そうだ。また違うのだ」
 大公はそれはわかっていた。王が幼い頃より知っているからだ。
「またな」
「ではどうなのでしょうか」
「どうした愛でしょうか」
「陛下のワーグナー氏への愛は」
「それは」
「プラトニック。いや」
 大公は言ってから己の言葉を訂正させた。
「違うな。心の愛だ」
「心のですか」
「と、いいますと」
「あの方は心でだ。ワーグナー氏の芸術を愛しておられるのだ」
 そうしたものだというのだ。王のワーグナーへの愛は。
「だからこそ即位されてすぐにあの御仁をミュンヘンに呼びだ」
「そしてそのうえで、ですか」
「ああしてですね」
「ワーグナー氏と常に傍に置きたい」
「そういうことですか」
「そうだ。だからなのではないか」
 大公は言うのだった。
「陛下はワーグナー氏を」
「そういえばです」
 ここで周りの一人が話した。
「その陛下にです」
「どうしたのだ?」
「女性の方がお傍に集っていますが」
「無駄なことだ」
 大公はそのことにはすぐにこう述べた。
「陛下に女性か」
「はい、そうです」
「最も縁のないものだ」
 こう言うのだった。王に女性という組み合わせはだ。
「そんなことをしてもだ」
「意味はないと」
「そうだ。あの方の周りにはいつも花が集まるが」
 そのまま女性という意味である。
「しかしだ」
「それでもですね」
「実際は」
「そうなのだ。御后を迎えなくてはならない」
 大公はこのことも話した。
「それでもだ。あの方にはだ」
「女性は縁のないもの」
「興味のないものですね」
「あるとすればエルザ姫だ」
 大公もまたワーグナーの歌劇のヒロインの話を出した。
「あの姫だけだ」
「エルザ姫ですか」
「あの方だけがですか」
「エリザベートかも知れないが」
 タンホイザーのヒロインの名前も出た。
 

 

292部分:第二十話 太陽に栄えあれその四


第二十話 太陽に栄えあれその四

「どちらにしろだ。そうした女性しかだ」
「陛下は目を向けられない」
「そうなのですか」
「実際にいればな」
 大公は目を少し伏せて述べた。
「いいのだが」
「そうした方がですか」
「おられれば」
「そうだ。いいのだが」
 大公は憂いの言葉を出した。
「どなたかな」
「誰かおられればいいのですが」
「確かに」
「どなたかが」
「探すか」
 こんなことも言う大公だった。
「それではな」
「いえ、探してもです」
「陛下が振り向かれる女性とは」
「その方が果たしておられるか」
「それも問題ですし」
「一人だけか」
 大公は言った。
「あの方と心を通わせられた女性は」
「エリザベート様ですね」
 それが誰かはだ。ここにいる彼等はすぐにわかった。
 今はオーストリア皇后となっている彼女だ。彼女しかなかった。
 その彼女のことを言うとだ。彼等はだ。
 ふとだ。こんなことを話すのだった。
「そういえばエリザベート様には多くの妹君がおられます」
「その妹君の方々も婚姻が決まっていっていますが」
「まだ。末のゾフィー様はまだです」
「御相手が決まっていません」
「そうだったな」 
 大公もそのことに気付いた。彼女のことにだ。
 そしてだ。気付いた顔になってだ。こう側近達に話すのだった。
「ゾフィーがいたのだ」
「はい、あの方がです」
「あの方がおられます」
「エリザベート様の妹であられるなら」
「若しや」
「しかもだ」
 ここでだ。大公はまた言った。
「彼女については私もよく知っている」
「それも幼い頃よりですね」
「その頃から」
「いい娘だ」
 大公は微笑んで話す。よい娘だとだ。
 そしてだ。さらにこうも話すのだった。
「心が奇麗だ」
「そうですね。純粋で」
「芸術も愛されます」
「とても素晴しい方です」
「しかもそれだけではない」
 大公はさらに話した。彼女のことをだ。
「あの娘は陛下と同じ趣味を持っておられる」
「ワーグナー氏の音楽をですか」
「あの御仁の音楽を」
「ワーグナーは主に男が好むものだと思っていた」
 これは大公の主観である。しかしだった。
 ゾフィーはそれでもだった。ワーグナーを好んでいた。ワーグナーを愛するのは男だけではない。女性もなのだ。彼の芸術を愛するのだ。
 それを話してだ。大公はだ。
 考える顔になってだ。こんなことを話した。
「しかしそれはかえっていいことだ」
「陛下のお相手にですね」
「いいことですね」
「それでは」
「そうだ。それではだ」
 大公は王と彼女のことを併せて考えてだ。そしてだ。
 

 

293部分:第二十話 太陽に栄えあれその五


第二十話 太陽に栄えあれその五

 こんなことを言うのだった。
「一度陛下と彼女をだ」
「御会いして頂く」
「そうされますか」
「御二人を」
「まず。ワーグナー氏と離れた陛下の御心が安らかになる」
 王のことをだ。どうしても忘れない大公だった。それは叔父としてだ。甥を気遣いそのうえでだった。彼は大公に話すのだった。
「そしてゾフィーもだ」
「あの方も」
「それは一体」
「あの娘は陛下に好意を持っている」
 大公が今言うのはこのことだった。
「陛下は。女性が見るととりわけ魅力的なようだ」
「あれだけの容姿ですし」
「それに御心も高貴ですし」
「それならですね」
「女性が惹かれない筈がありません」
「しかもだ。女性に対して清潔に見える」
 無関心であることがだ。そう見えるのだ。王の同性愛の嗜好はよく知られている。だがそれでもだ。王の女性への無関心はそう思われるものだったのだ。
 その容姿に高貴な立場と性格、それに女性への無欲さ、そうしたこと全てがだ。女性が王を愛することになっているのだ。王はとりわけ女性に愛される人物だった。
 しかしその王は女性を愛さない。しかしそれをだとだ。大公は言うのだった。
「それを何とかする好機でもあるな」
「それではですね」
「御二人を何処かで」
「それに相応しい場所で」
「それは容易い」
 大公はそれでいいというのだ。
「陛下とゾフィーを会わせるのはな」
「そういえば御二人もですね」
「幼い頃よりですね」
「御知り合いでしたね」
「そうでしたね」
「だから容易いのだ」
 こう話す大公だった。
「最初から知り合いであるならな」
「はい、それではです」
「公爵が御二人をですね」
「それに相応しい場所で」
「御互いに」
「そうさせてもらおう」
 穏やかな笑顔になってだ。周りに話す大公だった。そうしてだった。
 ある日王は舞台を観ていた。この日はシラーの劇だった。それを観た帰りにだ。
 大公がだ。こう王に声をかけたのである。
「陛下、宜しいでしょうか」
「叔父上、どうされたのですか?」
「美酒を手に入れまして」
 ワインがだ。あるというのである。
「それを如何でしょうか」
「ワインですか」
「はい、それで陛下を私の屋敷に御誘いしたいのですが」
「叔父上の御誘いならです」
 王は微笑になって大公の言葉に応えた。
「受けない訳にはいきませんね」
「そう言って頂けますか」
「そうさせてもらいます」
 微笑一つも気品がある。その気品を漂わせての言葉だった。
「是非共」
「わかりました。それでは」
「ワインはいいものですね」
 王は微笑みながら述べる。
「憂いを忘れさせてくれます」
「味はどうでしょうか」
「好きです」
 それもいいと答える王だった。
 

 

294部分:第二十話 太陽に栄えあれその六


第二十話 太陽に栄えあれその六

「かつては神の飲み物とされてきましたが」
「ギリシア神話においてでしたね」
「はい、そうです」
 王はギリシアも愛していた。欧州の美の原点の一つであるその美をだ。
「あの中では誰もが葡萄の美酒を愛していますね」
「そしてローマでも」
「愛されるべくして愛されていたのです」
 ワインはだ。そうだというのだ。
「それがワインなのです」
「では。今からそのワインを」
「楽しませてもらいます」
「チーズもあります」
 大公は酒の友にそれもあるというのだ。
「それもまた」
「チーズもですか」
「山羊のチーズですが如何でしょうか」
「それはいい」
 山羊のものと聞いてだ。王はだ。
 微笑みをさらに深くさせてだ。そうして話すのだった。
「あの濃厚な味を楽しめますか」
「はい、是非そうされて下さい」
「喜んで。そうさせてもらいます」
「では」
 こうしてだ。王はワインを楽しむことになった。無論音楽もである。ピアノでワーグナーの音楽が奏でられる。王はその音楽をだった。 
 屋敷のソファーに座ってだ。ワインを楽しみながらその音楽を聴く。その中でだ。
 ふとだ。大公が言うのだった。
「あの、陛下」
「何でしょうか」
 音楽はローエングリンの聖堂への合唱だった。それをピアノで奏でているのだ。その清らかな音楽の中でだ。大公は言ってきたのである。
「実はです」
「実は?」
「お客様が来ているのですが」
「私以外にですか」
「明日に呼んだつもりでした」
 しかしだというのだ。この言葉は実は偽りである。
「ですが。そうではなくです」
「今日来られたのですね、その方は」
「私が招待状に間違って今日と書いてしまったのです」 
 自分のミスだというのである。
「そのせいで鉢合わせになってしまいました」
「構いません」
 美酒とワーグナーに満足している王はだ。機嫌よく答えた。
「それではその方をです」
「はい、その方を」
「こちらに案内して下さい」
 そうしろというのだった。やはり上機嫌にだ。
「是非共」
「そうしていいのですね」
「その方もワインを飲まれますね」
「ワイン以上にです」
「それ以上に?」
「音楽を愛されています」
 こう話すのだった。その客人は音楽だとだ。
「そちらになります」
「音楽ですか」
「ワーグナーをです」
 そのだ。ワーグナーと聞いてだった。
 王の目が動いた。そうして話すのだった。
「ワーグナーを愛しています」
「そうなのですか」
 その客人がワーグナーを愛していると聞いてだ。王はだ。
 目の光を変えた。青い目の輝きを強くさせてだった。
 そのうえで。こう言うのだった。
「その方もですか」
「ではその方を」
「御願いします」
 また同じ言葉を返す王だった。
「その方をこちらに」
「はい、わかりました」
「一体どの方なのか」
 王はだ。ワーグナーを通じてだ。その客人に自然に興味を覚えていた。
 

 

295部分:第二十話 太陽に栄えあれその七


第二十話 太陽に栄えあれその七

 そしてその興味に従いだ。こんなことを言うのであった。
「気になりますね」
「どの方かですか」
「一体何処の方なのか」
 また言う王だった。
「興味があります」
「陛下が御存知の方です」
 大公はその王にだ。少しヒントを出した。
「その客人はです」
「私のですか」
「そしてです」 
 そしてだ。大公はだ。
 ヒントをもう一つ出した。そのヒントは。
「私も知っています」
「この屋敷に呼ぶだけにですか」
「はい、そうした方です」
 大公は優しい微笑みを浮かべて王に話す。
「では。その方を」
「はい、その方を」
「こちらに呼びします」
「そうして下さい」
 こうしてだった。その客人がだ。
 王の前に案内される。それは。
 女性だった。しかも若い。王と比べれば流石に小柄だが女性としては申し分ない背丈を持っておりややふっくらとした顔立ちの明るい雰囲気を出している。
 眉は細く小さめである。愛らしい青の目と黒い髪はヴィッテルスバッハ家のものだった。そしてその高い鉤に似た形の鼻は。王のよく知る女性と同じものだった。
 そのだ。白いドレスを着た女性を見てだ。王は言った。
「ゾフィー」
「陛下、お久し振りです」 
 その女性ゾフィーはにこりと笑って一礼してだ。王に応えたのだった。
「こちらに案内されたのですが」
「貴女だったとは」
 王はだ。彼女に親しい声を送った。
「思いませんでした」
「はい、私もです」
「まさか今日。ここで一緒になるとは」
「そうですね。それに」
 ゾフィーからだ。笑顔で王に話すのだった。
「ワーグナー氏の音楽を聴くとは」
「そう、貴女もまた」
 王はここで言った。そのことについて。
「ワーグナーの音楽を愛していますね」
「はい」
 明るい笑顔でだ。王のその言葉に応えるゾフィーだった。
「あの音楽は斬新でとても奇麗だと思います」
「そう、ワーグナーは美しい」
 自然とだ。笑みになってだ。王は話した。
「まさに至上の美です」
「そうですね。あの方の芸術は」
「この世に生まれた奇跡です」
 その賞賛をだ。王はありのまま口にする。
「それを今聴けるのは何と幸せなことか」
「その通りですね。それで」
「今から聴かれますか?」
 王はゾフィーに対して尋ねた。
「そのワーグナーの音楽を」
「そうさせてもらいたいです」
 これがゾフィーの返答だった。
「是非共」
「わかりました。それではです」
 ゾフィーのその言葉を受けてだ。王は。
 彼女にだ。こう告げたのであった。
「これから共に」
「はい、ワーグナー氏の音楽を」
「聴きましょう」
 こうしてだった。二人はだ。
 ワーグナーの音楽を聴くのだった。これがはじまりだった。
 王はそれから時折ゾフィーと共にだ。ワーグナーについて語りそしてその詩を読み合ったりした。そうしてワーグナーのいないミュンヘンの仲でお互いを慰め合っていた。それを見てだ。
 

 

296部分:第二十話 太陽に栄えあれその八


第二十話 太陽に栄えあれその八

 大公は周囲に対してだ。満足する顔で話すのだった。
「これはいいことだ」
「はい、このままいけばです」
「やがてゾフィー様は」
「若しかすると」
「将来のバイエルン王妃か」
 この言葉をだ。大公は口に出した。
 そしてだ。希望を見る顔でこうも述べた。
「肩の荷が一つ降りる」
「何か。信じられません」
「陛下に御后ができるとは」
「それが現実になるのですか」
「そうなのですか」
「私もだ」
 大公自身もだとだ。彼は話した。
「そのことは信じられない」
「大公もですか」
「陛下が御后を迎えられることにはですか」
「とてもですか」
「そうだ。とても信じられない」
 大公もそれを話す。
「だが。それは何としてもだ」
「現実のものにしなければなりませんね」
「それは陛下の為です」
「そしてバイエルンの為です」
「王妃は必要だ」
 そこまでだと話す大公だった。
「王と共にだ」
「その二つがあってこそですね」
「国である」
「だからこそ王妃をですね」
「迎えないとならない」
「何があろうとも」
「誰もが思うことだ」
 大公の表情が変わった。
 喜びからだ。憂いになった。そのうえでの言葉だった。
「王妃がなくてはならないのだ」
「はい、ではです」
「ゾフィー様を王妃に」
「そうしましょう」
「ホルンシュタイン伯爵とも話をしておこう」
 大公は彼の名前も出した。
「彼ともな」
「あの方ともですか」
「お話をされますか」
「そうだ。彼はプロイセンに近い」
 つまり親プロイセン派なのだ。バイエルンは反プロイセン感情が強い。だがそのホルンシュタインはだ。プロイセン寄りの人物なのだ。
 その彼の名前を何故ここで出したのか。大公はそのことも話した。
「その彼が動いてくれればだ」
「プロイセンの協力も得られる」
「だからこそですね」
「正直なところだ」
 ここでどうかと話す彼だった。
「プロイセンの動きはバイエルンにとって望ましいものでないことが多い」
「はい、このままではプロイセンに飲み込まれかねません」
「何とかバイエルンを守らなければなりません」
「それでプロイセンの動きを借りるのは」
「どうかとなりますが」
「しかしだ」
 だが、だとだ。大公は話すのである。
「ことは万全を必要とすることだ」
「我がバイエルンに王妃を迎える為には」
「何としてもですね」
「そういうことだ。ゾフィーをバイエルン王妃にする為に」
 また言う大公だった。
 

 

297部分:第二十話 太陽に栄えあれその九


第二十話 太陽に栄えあれその九

「その為にだ」
「プロイセンの力も」
「それも借りるということで」
「では早速だ」
 大公は意を決した顔になった。そうしてだ。
 そのうえでだ。また彼に話した。
「いいか」
「はい」
「それではですね」
「動くとしよう」
 こうしてだった。ゾフィーをバイエルン王妃にする動きがはじまったのである。
 そしてだ。そのホルンシュタインを通じてだ。ビスマルクにもだ。この話が届いたのである。
 彼はそれを聞いてだ。まずはこう言うのだった。
「いいことだ」
「そうですね。バイエルンにとって」
「あの王にとっても」
 側近達も彼のその言葉に応える。
「王妃ができればです」
「大きく変わります」
「王妃だな」
 だが、だ。ビスマルクはだ。
 遠い目になりだ。彼等にこんなことを話した。
「あの方御自身がそうであるのにな」
「あの、閣下はよくそう仰いますが」
 側近の一人が怪訝な顔でビスマルクに問うた。
「バイエルン王が女性だと」
「そう仰っていますが」
「あの方がですか」
「女性なのですか」
「そうだ、女性なのだ」
 そしてだ。さらにだった。
「エルザ姫なのだ」
「あのローエングリンのヒロインですか」
「あのブラバントの姫」
「あの方がですか」
「そうなのですか」
「そうだ。あの方の御心は女性なのだ」
 身体ではなくだ。心がだというのだ。
「御身体を見ては思えないな」
「あれだけの長身ですし」
「美貌は騎士を思わせます」
「それではやはり」
「女性には思えません」
「どうしてもです」
「そうだ。私も外見だけを見ればだ」
 ビスマルク自身もだ。どうかと話すのである。
 王のその長身と美貌は明らかに男のものだ。だがそれは目を誤らせるものだというのだ。ビスマルクのその慧眼を以てしても。
「あの方を男性だと思ってしまう」
「しかしそれは違う」
「女性ですか」
「そうなのですね」
「そうだ。あの方は根幹から女性なのだ」
 そのことを話してだった。
 ビスマルクはさらにだ。こんなことも話した。
「女性が女性と結ばれることはだ」
「それはないですね」
「到底」
「同性愛。私にその趣味はないが」
 今度はこの話をするのだった。
「だが陛下が女性を愛されないのはだ」
「それは一体」
「何故なのか、ですか」
「つまりは」
「あの方は同性愛者ではないのだ」
 これはだ。あまりにも斬新な言葉だった。
 

 

298部分:第二十話 太陽に栄えあれその十


第二十話 太陽に栄えあれその十

 では何なのか。ビスマルクにはわかっていた。
「本質的に正常なのだ」
「女性が男性を愛するのはですか」
「それは自然だから」
「それでなのですか」
「あの方は同性愛者でもない」
「そうなるのですね」
「そうだ。あの方が女性ならばだ」
 全てはそこからはじまるのだった。王が女性ならばだ。
「男性を愛して当然なのだ」
「では今回のご成婚は」
「一体どうなるでしょうか」
「やはり。幸せにはなれないだろう」
 ビスマルクの目は遠くを見ていた。
 そうしてだ。さらに話すのだった。
「エルザはエルザとは結ばれない」
「ローエングリンとのみ」
「だからですか」
「あの方は幸せにはなれませんか」
「あの方御自身もわかっておられない」
 王自身もだというのだ。その結婚のこと、そして王が女性であるということもだ。わかっていない、ビスマルクはその遠い目で話すのだった。
「あの方はおそらくは」
「おそらく?」
「おそらくといいますと」
「その御相手に御自身を投影しておられるのだ」
 ビスマルクの慧眼がここでまた働いた。
「他ならぬだ」
「陛下御自身を」
「そうなのですか」
「あの方は決してヘルデンテノールではないのだ」
 ワーグナーのだ。その主人公達ではないというのだ。
「むしろそのヘルデンテノールを愛するヒロインなのだからな」
「ヘルデンテノールが伴侶ならば」
「それならばよかったのですね」
「つまりは」
「そうなのだ。ヘルデンテノール、それが伴侶ならば」
 つまり男である。
「彼等のうちの誰か、いや」
「いや?」
「いやといいますと?」
「彼だな」
 複数からだ。一人に戻したのだった。
「彼だ」
「ヘルデンテノール達ではないのですか」
「彼等ではなく彼ですか」
「それぞれの作品に出ているがその人格は同じなのだ」
 ワーグナーの作品に出ているヘルデンテノール達はだ。そうだというのだ。
「タンホイザーもローエングリンもだ」
「そしてトリスタンもですね」
「ヴァルターにしてもジークフリートにしても」
「無論ジークムントもだ」
 つまりだ。全てのヘルデンテノールがだ。同じだというのだ。
「そうなのだ。あの方はそのヘルデンテノールを一途に想われている」
「そのヘルデンテノールが現実にいれば」
「それならばよかったのですね」
「そして伴侶であれば」
「あの方にとっては」
「そうであればよかった。あの方にとっても」
 ビスマルクの目がまた変わった。
 今度は悲しみを帯びていた。厳しいと言われている彼がだ。
「まことに残念なことだ」
「そういえばですが」
 ここで側近の一人がこんなことを言ってきた。
「閣下はバイエルン王のことをお好きなのですね」
「好きだ」
 嫌いではないとさえ言わなかった。
 

 

299部分:第二十話 太陽に栄えあれその十一


第二十話 太陽に栄えあれその十一

「素晴しい方だ」
「浮世離れされていますが」
「それでもなのですか」
「そうだ。あの方は資質にも恵まれている」
 そうだというのだ。それがバイエルン王だというのだ。
「王としてのな」
「正直そのことはです」
「意外でした」
 これが側近達の言葉だった。
「知的でありますし」
「しかも冷静です」
「私はわかっていた」
 ビスマルクはというのだ。やはり彼は慧眼の持ち主だ。
「そのことはな」
「閣下はですか」
「わかっておられたのですか」
「そうだ。あの方とは一度御会いした」
 それでわかったというのだ。王の資質にだ。
「その時にわかった」
「その時にですか」
「バイエルンに来られた時にですね」
「おわかりになられたのですか」
「そうだ、あの方はわかっておられるのだ」
 何がわかっているとかというとだった。そのことも話すのだった。
「ドイツのこともだ。政治のこともだ」
「そのあらゆることがですか」
「あの方はおわかりなのですか」
「その通りだ。確かに戦争は好まれない」
 それはだというのだ。戦争はだ。
「しかしそれがそのまま王の資質を失うかというとだ」
「そうではないのですね」
「戦いを好まないというのは」
「そういうことですね」
「そうだ。先のオーストリアとの戦争のことは覚えているな」
 話はそこに至った。あのプロイセンとオーストリアの戦争のことだ。
「あの戦争でバイエルンはオーストリアについた」
「はい、確かに」
「あの時は予想していました」
「むしろバイエルンはオーストリアにつくしかなかった」
 バイエルンの選択肢はそれしかなかった。政治の世界においては選択肢がごく限られている場合もあるのだ。それはその時もなのだった。
「それでつきましたが」
「しかしバイエルンは兵を動かさなかった」
「ほぼ中立の状態でした」
「そうしてバイエルンはプロイセンの恨みを買わなかった」
「我が国の」
「あそこでバイエルンが積極的に動けばだ」
 その場合はだというのだ。ビスマルクはその場合はどうしていたかも話す。
「プロイセンとしてもだ」
「断固たる処置を取らざるを得なかった」
「そうですね」
「そうだ。おそらく戦争は長引いた」
 八週間で終わった戦争は大方の予想では数年はかかるかと思われていた。しかしそれが八週間で終わったのはだ。どうしてかというのだ。
「バイエルンが動かなかったからだ」
「それでなのですね」
「あの戦争は早期に終わった」
「元々勝つにしても」
 それにしてもだというのだ。
「それでもですね」
「戦争は早期に終わった」
「損害も少なかったです」
「そしてオーストリアとは禍根を残さず講和ができました」
「こちらにとってもいいこと尽くめでした」
「何もかもがです」
 プロイセンにとってはだ。オースとリアとの戦争は非常に満足のいく結果になった。勝つとわかっていてもだ。それでもだというのである。
「それはバイエルンが動かなかったことも大きかった」
「そうですね」
「大きかった。プロイセンが勝つのなら」
 それならばだというのだ。
 

 

300部分:第二十話 太陽に栄えあれその十二


第二十話 太陽に栄えあれその十二

「動かない方がいいのだ」
「あの王はそのことがわかっておられたのですね」
「それでなのですか」
「軍を動かされなかった」
「ほぼ中立だったのですね」
「その通りだ。あの方は全てわかっておられたのだ」
 戦争の推移がだというのだ。そしてだ。
 その他のこともだ。彼は話した。
「そしてわかっておられるのだ」
「今のことがですか」
「そしてこれからのこともですね」
「そうだ。わかっておられるのだ」
 全てだ。王はわかっているというのだ。
「ドイツは統一に向かっている」
「バイエルンもその中に入る」
「そのこともですか」
「バイエルンの内政はどうか」
 急にだ。話をそこにもやった。
「あの国の内政は破綻しているか」
「いえ、全く」
「平穏です」
「財政的にも落ち着いています」
「そういうことだ」
 ここまで話してそれがだというのだ。
「あの方は王として見事な資質を持っておられるのだ」
「何もかもですか」
「わかっておられ」
「そのうえでバイエルンにおられる」
「それがあの方ですか」
「王としての資質はようやく世間に理解されてきた」
 やっと、と。ビスマルクはここでも王に好意的であった。
 そしてその好意的なものをだ。さらに見せるのだった。
「私や限られた者にしかわからないことだったが」
「しかしそれがですか」
「ようやく他の者にも」
「理解できてきたと」
「真のものは自然と出て来るものだ」
 こんなことも話すビスマルクだった。
「つまりだ。あの方はだ」
「その真であると」
「左様なのですね」
「そうなのだ。だが」 
 また話が変わった。しかし王について話すのは変わらない。
「その資質は女性としての資質だ」
「あくまで女性なのですか」
「あの方は」
「その通りだ。女王と言うべきか」
 この言葉が出される。
「あの方はな」
「麗しの女王ですか」
「まさにそうなのですね」
「エルザそのものと言うべきか」
 そのヒロインだとだ。ビスマルクはまた言うのである。
「エルザ=フォン=ブラバントなのだ」
「だからこそ騎士をですか」
「迎えなければならないのですか」
「あの方の場合は」
「その通りだ。神の悪戯か」
 ビスマルクの目がふと顰められた。
 そのうえでだ。こう話すのだった。
「神の悪戯なのか、あれは」
「神の悪戯ですか」
「バイエルン王が男性なのは」
「それはですか」
「御心は女性だが身体は男性だ」
 そのことがだというのだ。
「奇妙な、そして残酷な」
「残酷な」
「そうした悪戯ですか」
「それなのですか」
「神は時として悪戯をする」
 それは歴史を見てそうだというのだ。神はそうしたことをするというのだ。
 

 

301部分:第二十話 太陽に栄えあれその十三


第二十話 太陽に栄えあれその十三

「あの方の様にだ」
「御心は女性だというのに」
「御身体は男性なのですか」
「それが悪戯なのですか」
「神の悪戯」
「それは悪魔の悪戯よりも残酷だ」
 悪魔という言葉も出た。
「神は悪意がないというが」
「それは確かでは」
「神はそうしたことはされないです」
「悪意は悪魔のものです」
 これはキリスト教徒の考えだ。ただしグノーシス主義は創造主は悪意のある存在だとしている。救世主が人を救うとしているのだ。
 プロテスタントの彼等はそう考えていた。しかしだった。
「しかしそれでもなのですか」
「神のその悪戯はですか」
「残酷なものですか」
「そうなのですか」
「そうだ。非常に残酷なものだ」
 また言うビスマルクだった。
「悪意がないからといって残酷ではないとは限らないのだ。むしろ」
「むしろですか」
「悪意がない方がですか」
「残酷なのですか」
「人に悪意だけがあれば」
 ビスマルクは人間そのものについても話した。
「そして善意だけならばだ」
「そうしただけならばですか」
「そうしたものならば」
「どうなのでしょうか」
「人も人の世もどれだけ単純だったのか」
 ビスマルクらしい言葉だった。それも実に。
「何もかもが楽に語れ対処できる」
「では悪意だけが人を不幸にするのではない」
「善意もまたですか」
「それが災いになりますか」
「今のバイエルン王の様に」
「その通りだ。あの方は悪意を受けられることは少ない」
 それはだというのだ。
「どの者もあの方に敬意を払わざるを得ず忠誠を誓わずにはいられないのだ」
「それは閣下もですね」
「プロイセン宰相としてもですか」
「それでもですか」
「そうだ。私は一度しか御会いしていない」 
 それも王になる前にだ。しかしそれでもなのだった。
「だが、だ」
「それでもですか」
「あの方には敬意を払われているのですね」
「そうなのですね」
「そうだ。あの方は真に素晴しい方だ」
 目にだ。確かな敬愛のものを見せていた。プロイセンにのみ忠誠を誓う筈の彼もだ。王に対して敬愛の念をはっきりと感じていたのである。
 その彼がだ。王のことを語るのだった。
「どうして悪意なぞ抱けようか」
「善意が人を不幸にする」
「それもまたあるのですか」
「悪意だけでなく」
「だから人は難しいのだ」
 ビスマルクならではの言葉だった。
「そして人の世もだ」
「ではこの場合はどうするべきか、ですね」
「バイエルン王を幸せにするのは」
「それは何でしょうか」
「あの方を理解する方が多くなることだ」
 それがだというのだ。
 

 

302部分:第二十話 太陽に栄えあれその十四


第二十話 太陽に栄えあれその十四

「そうなればいいのだ」
「あの方を理解する方が増える」
「それがなのですか」
「よいのですか」
「しかしそれが最も難しい」
 見事なまでのだ。パラドックスだった。
「あの方を理解できるのは頭ではないのだ」
「では何なのでしょうか」
「あの方を理解する為に必要なのは」
「それは」
「感覚だ」
 それだというのだ。
「それがあの方を幸せにできるものだ」
「感覚、ですか」
「それでバイエルン王をですか」
「理解できるのですか」
「そうだ、それこそがなのだ」
 こう言うのである。
「感覚こそがだ」
「感性とも言うのでしょうか」
「そうとも言う」
 その通りだとだ。問うた側近にも答えた。
「とにかくだ。あの方を理解するのは頭ではないのだ」
「感覚、感性で」
「それはできるのですか」
「頭脳というものはだ」
 その頭について話すビスマルクだった。
「意外とあてにはならないものだ」
「そうなのですか?」
「あてにはならないのですか」
「頭が」
「案外あてにならない」
 ビスマルクはまた言った。
「確かに重要だがあてにならないのだ」
「それは何故でしょうか」
 側近の一人がすぐに問うた。
「何故頭があてにならないのでしょうか」
「わかった気になるからだ」
 それでだというのだ。
「そのせいだ」
「わかった気になってしまう」
「だからですか」
「頭脳はあてにはなrなあい」
「そうなのですか」
「そうだ。わかった気になって実はわかっていない」
 ビスマルクはその頭について話していく。
「それが最も厄介なのだ」
「頭が全てではないのですか」
「つまりはそうですか」
「そうだ。頭でわかることは少ない」
 ビスマルクは今度は強い光をその目に宿している。
 そうしてだ。彼は話すのだった。
「それだけが全てではないのだ」
「それで感覚もなのですか」
「それもまた重要になる」
「そういうことですか」
「万能なものなぞないのだ」
 政治にも言えることだった。実際にビスマルクはプロイセンが万能だとは思っていない。そうした考えは全く持っていないのだ。
「だからだ。感性なのだ」
「バイエルン王を理解するには」
「それが重要になりますか」
「知識は頭に入れてだ」
 そのうえでだというのだ。
「そしてそのうえでだ」
「感性で理解する」
「そうあるべきなのですね」
「その通りだ。あの方は感性で理解するのだ」
 そうあるべきだというのだ。そうしてだった。
 

 

303部分:第二十話 太陽に栄えあれその十五


第二十話 太陽に栄えあれその十五

 ビスマルクはだ。さらに述べた。
「そうして語るべきなのだ。ましてや」
「ましてや」
「といいますと」
「新聞や本に書かれていることは駄目だ」
 今度はドイツにおいて急激に力をつけてきているだ。マスコミやそういったものについての話だった。無論ビスマルクも色々書かれている。
「特に新聞はだ」
「確かに。あることないこと書きます」
「中には完全な誹謗中傷もあります」
「新聞というものは全く以て困ったものです」
「確かに役には立ちますが」
 側近達も新聞についてはだった。
 嫌悪をその顔に見せている。そうしてビスマルクに述べるのだった。
「あの書き方には品性がありません」
「しかも絵でわかりやすく表現すると言ってさらに醜く表現します」
「あれが特に酷い」
「閣下も書かれていますし」
「私は気にはしない」
 全くだとだ。ビスマルクは素っ気無く返した。
「あの者達の書くことはな」
「そして意に介されない」
「そう仰るのですね」
「質のいい話は受け入れる」
 だが、だ。そうではないならばというのだ。
「それだけのことだ」
「しかしバイエルン王はどうでしょうか」
 また側近の一人が問うた。
「あの方は」
「それが問題なのだ」
 ビスマルクの顔が難しいものになった。
「あの方は繊細な方だ。そして人の目や言葉を気にされる」
「ならばですね」
「それはバイエルン王にとって危ういですね」
「以前もワーグナー氏のことがありましたし」
「ならば」
「あれだ」
 まさにそれだとだ。ビスマルクは今述べた。
「あの時のバイエルンのマスコミは煽りに煽ったな」
「はい、ワーグナー氏を追い出そうとです」
「そうして宮廷や内閣の勢力と結びついていました」
「その結果ワーグナー氏はスイスに去りました」
「そうなったのでしたね」
「あの時にわかった」
 完全に王の側に立った言葉だった。
「あの方は他者の言葉や目を非常に気にされる」
「新聞の言うことは気にしてはならないというのに」
「それでもですね」
「あの方は」
「そうだ。気にされてはならないものを気にされる」
 心配する目になっていた。明らかにだ。
「それがあの方なのだ」
「では今度もですね」
「そのことがあの王を苦しめていきますか」
「そうなってしまいますか」
「あの方はバイエルンの宝だ」
 また言うのだった。
「そしてドイツの宝でもある」
「ドイツのですか」
「そこまでの方ですか」
「前にも言ったが」
 その通りだった。実際に彼はそうも言っていた。
「あの方がおられることは非常に素晴らしいことだ」
「バイエルンにとっても」
「そしてドイツにとっても」
「そうだ。だからこそ新聞はあの様なことを書いてはならない」 
 そのことをだ。戒める言葉だった。
 だが現実はそうはならない。それが厄介なのだった。
「決してだ」
「それがバイエルン王を傷つけるからこそ」
「どうしてもですね」
「そうだ。あの方はドイツの宝だ」
 ビスマルクはまた言う。
 

 

304部分:第二十話 太陽に栄えあれその十六


第二十話 太陽に栄えあれその十六

「それを傷つけてはだ。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「私は政治家だ」
 ここでこうも言うのだった。
「政治は時として非常だな」
「はい、それは確かに」
「その通りです」
 側近達も官僚であり政治家だ。それならば言えることであった。
「何をしようとも目的を達することが命題です」
「それこそがです」
「ならばだ。その至宝もだ」
 どうするか。非情になった目で語るのだった。
「使うべき時は使う」
「そうされますか」
「その様に」
「そしてドイツを築き栄えさせる」
 それこそが彼の使命だとだ。そのことを確信していた。
 だからこそだ。ビスマルクはこうも話すのだった。
「その為にはあの方もだ」
「使われますか」
「そうされるのですね」
「陛下も使わせて頂く」
 他ならぬだ。プロイセン王、彼の主君であってもだというのだ。
「ドイツの為にだ」
「その為に陛下もですか」
「使われるというのですか」
「そうだ。御二人もだ」
 バイエルン王、そしてプロイセン王というのである。
「ドイツの為にはだ」
「利用されるというのですか」
「あえて」
「それを不敬と言うのなら言うといい」
 ビスマルクはあえて言った。それでもだとだ。
「私はドイツの為には何でもするのだからな」
「例えバイエルン王を傷つけても」
「それでもですか」
「それも止むを得ない」
 決してであった。それを言うのだった。
「ドイツの為にはだ」
「ドイツの為に」
「その為には」
「それがあの方を傷つけようとも」
 腹を括っていた。彼もだ。
 そしてその覚悟を述べてだ。彼は実際に話した。
「それでもやるのだ」
「ドイツの為に」
「その為にも」
「それでもあの方は大切にしなければならないのだ」
 バイエルン王への敬意はだ。それでも忘れないのだった。
「私はあの方を利用させてもらう」
「それでもですか」
「あえてですか」
「あの方を敬愛している。そして大切に思っているのだ」
 これもまた彼の心にあるのだった。彼もまた人間だ。そして人間としてである。彼はバイエルン王のことを考えているのだった。
 その考えにおいてだった。彼はこれからのことを見ていた。
「バイエルンの者達こそがだ」
「あの国の者達がですか」
「最もですか」
「そうだ。最もだ」
 こう話すのだった。
「だが。人は手近にあるものこそが最もわからないのだ」
「最もですか」
「それはわからない」
「そうなのですか」
「そうなのだ。手に持っていれば最もわかっていると思ってしまう」
 それでもだというのだ。実はだ。
「しかしそれは錯覚だ」
「実際はそうではない」
「わかってはいない」
「そうなのですね」
「それはバイエルンの者達も同じだ」
 ビスマルクは残念なものをその目に見せて話す。
 

 

305部分:第二十話 太陽に栄えあれその十七


第二十話 太陽に栄えあれその十七

「それが大きな悲劇にならなければよいが」
「悲劇、それにですか」
「なりますか」
「危ういというのですか」
「危うい」
 まさにだ。その通りだというのだった。
「非常にだ」
「無理解が悲劇を起こすのですね」
「理解しているつもりの無理解がだ」
 全く違うものがだ。そうなるというのだ。
「何かを最もわかっていると言う者こそその何かを最もわかっていないのだ」
「わかっていると自惚れているだけなのですね」
「それに過ぎないのですね」
「そうだ。それはバイエルンの者達も同じなのだ」
 まさにそうだというのだ。
「あの方を理解している者はあの方の傍にはいない」
「ワーグナー氏もいませんし」
「あの御仁はスイスにいますし」
「それならば」
「あの方は孤独だ」
 まさにだ。そうだというのだ。
「まさにエルザ姫だ」
「最初の窮状に陥っている状況のですね」
「あの姫だというのですね」
「そうだ。あの状況なのだ」
 ローエングリンを待ち願うだ。その姫だというのだ。
「だからこそローエングリンが必要なのだが」
「ローエングリンはいない」
「現実にはですか」
「いないのですね」
「そうだ。あの白銀の騎士はこの世には現れ得ないのだ」
 救世主は。いないのだった。
「何があろうともだ」
「ではそれでは」
「あの方はこのまま」
「その御心を」
「少なくとも御成婚ではだ」
 そのことに話が戻った。ビスマルクは戻した。
「あの方は幸福にはなれない」
「やはりですか」
「そうなのですか」
「こう言っては信仰を疑われるが」
 それでもだとだ。ビスマルクは言うのだった。
「神は時として。真に残酷だ」
「残酷ですか」
「神は」
「何故あの方の御心は女性にして」
 そうしてだというのだ。心は女性でありながら。
「御身体は男性のものにされたのだ」
「それこそがあの方の不幸ですか」
「御心は女性で御身体は男性」
「そのことが」
「しかもだ」
 尚且つであった。王にとっての不幸はまだあるとだ。
 ビスマルクは嘆きを漏らしてだ。話すのだった。
「そのどちらもだ。美麗なのだ」
「清らかなお心にですね」
「そしてあの端麗な容姿」
「そのそれぞれがですか」
「それが問題なのだ。この場合美麗なのは災厄となる」
 美しいことが災厄となる。それはだ。
 今ビスマルクの周りにいる者達にとってはだ。わからないことだった。それでだ。
 彼等はいぶかしみながらだ。彼に尋ねるのだった。
「美麗であることが災厄になるのでしょうか」
「美麗はそれだけで幸福をもたらしてくれますが」
「そうではないのですか」
「違うのですか」
「そうだ。美麗は多くは幸福になるが」
 それでもだ。違うというのである。
 

 

306部分:第二十話 太陽に栄えあれその十八


第二十話 太陽に栄えあれその十八

「あの方にとってはそれがかえって災厄となるのだ」
「御心も御身体も美麗だというのにですか」
「そうではないというのですか」
「その二つが美麗であっても」
「あの方にとっては災厄なのですか」
「心と身体は複雑なものなのだ」
 ビスマルクは嘆きと共にまた述べた。
「確かに美麗は素晴しいことだ」
「ですね。それは確かに」
「人を惹き付けるものです」
「人が周りにいてくれるというのはそれだけでよいことです」
「しかし。それがあの方にとっての災厄になりますか」
「美麗が」
「あの方が完全な男性か」
 ビスマルクはまたしてもだ。性別から述べた。
「完全な女性ならばよかったのだ」
「御心も御身体もですね」
「そのどちらも」
「そうなのだ。あの方は御心は女性だが御身体は男性だ」
 まさに齟齬だ。王はこの二つが完全に分かれてしまっている。
 それでだとだ。ビスマルクは話す。
「それだけでも厄介だというのに。美麗であれば」
「余計に問題がありますか」
「そこがなのですね」
「美麗であればある程」
「真に神は残酷だ」
 ビスマルクはまたしても嘆息して述べた。
「ヤーゴの如く残酷だ」
「シェークスピアのあの劇のですね」
「オセローの」
 その戯曲に出て来る悪人だ。嫉妬や偏見によりその心を歪ませ悪魔の如き陰謀を巡らせていく男だ。シェークスピアの作品においても屈指の悪人とされている。
「あそこまで残酷ですか」
「神は」
「少なくとも無限の慈悲を下さる存在ではないのではないか」
 ビスマルクはこうまで言った。
「そう思う時がある」
「とりわけあの方を見て」
「そのうえで」
「王として素晴しい資質を持たれながらも」
 今度はだ。このことを語るのだった。
「しかし玉座に座られるにはあまりにも繊細だ」
「それもまた不幸ですか」
「バイエルン王にとっては」
「そうだ。女性のその繊細さもあまりにも際立っておられる」
 そしてなのだった。女性の持つもう一つの資質についてもビスマルクは言及した。
「しかも女性の持つ強かさ。それは」
「それは?」
「それはといいますと」
「子を産むことで備わる資質だが」
 女性のその強さはだ。そうしたものだというのだ。
「あの方はそれは決して持てない」
「子を産めないからですね」
「そもそも」
「御身体は男だ」
 またこのことがだ。語られるのだった。
「それでどうして子を産めるか」
「男は産ませるもの」
「だからですね」
「そうなのだ。あの方は繊細であられるままだ」
 あくまでだ。そこから伸びはしないというのだ。
「強さを備えられることはない」
「繊細を護るそれを」
「備えられませんか」
「強さは鎧だ」
 それだというのだ。心における。
「だがあの方が着られるのは鎧ではなく。繊細という絹の衣だけなのだ」
「御身体が男性だからこそですね」
「そうなってしまうのですね」
「そうなのだ。あの方は王として相応しいが玉座に座られるには脆い」
 このこともだ。齟齬なのだった。
 

 

307部分:第二十話 太陽に栄えあれその十九


第二十話 太陽に栄えあれその十九

「残酷だ。神は本当に」
「そのバイエルン王を幸福にするとなると」
「それは何でしょうか」
「わからない。だが」
 それでもだというのだ。ビスマルクはそこに王への敬意と愛情を示して話すのだった。
「私はそれでもだ」
「それでもですか」
「あの方をドイツの為に利用しても。それでもあの方の為に尽力する」
 そうするとだ。ビスマルクは決意を見せた。
「やはりあの方はだ」
「バイエルン王」
「あの方をですか」
「私は助けたい」
 こう言うのだった。
「御力になりたい」
「それは個人としてでしょうか。それとも」
 それともだとだ。側近の一人が尋ねる。
「プロイセンの宰相としてでしょうか」
「どちらだと思うか」
 強い視線でだ。ビスマルクはその側近に尋ね返した。
「それは」
「個人だと思いますが」
 それではとだ。その側近は答えた。
「違いますか」
「確かに個人ではある」
 それは確かだというのだ。しかしだった。
 ビスマルクはだ。こうも答えた。
「しかしだ」
「しかしなのですか」
「そこで」
「プロイセンとしても援助するべきだ」
 それもするというのだ。王はだ。
「そうあるべきだ」
「プロイセンとしてもですか」
「あの方を援助されるのですか」
「そうされるべきだというのですか」
「何度も言うがあの方はドイツの宝だ」
 何故公に助けるのかも話すのであった。
「その方を放っておいてはならない」
「プロイセンとしてもですか」
「そうなのですね」
「そう思う。バイエルンだけの方ではない」
 それだけではなくとだ。ビスマルクは話していく。
「ドイツの方なのだから」
「だからこそプロイセンとしても助けると」
「そう決められたのですか」
「私の決断も。あの方の行われることも」
 その双方がだというのだ。ビスマルクは話す。
「今は笑われるだろう」
「今はですか」
「笑われると」
「そう思われていますか」
「そうだ。だが今わかることとわからないことがある」
 そうだというのだった。
「私のこともあの方のこともだ」
「後世にわかる」
「そうだというのですね」
「つまりは」
「そうだ。あの方は今はわからない方なのだ」
 何処までもだった。ビスマルクはバイエルン王を見てだ。彼を理解してそのうえで話していく。そうしているのであった。
 そしてであった。ビスマルクは現実に何をするかも述べた。
「では御婚約のことだが」
「それですか」
「そのことですか」
「そうだ。そのことはだ」
 どうするかを話すのだった。
 

 

308部分:第二十話 太陽に栄えあれその二十


第二十話 太陽に栄えあれその二十

「御祝いの言葉をお送りする」
「はい、それでは」
「そうしましょう」
「儀礼を守り」
「それだけでいい。お祝いの品も考えておこう」
 外交の儀礼をだ。さらに進めるというのだった。
「それもな」
「ではあの方が御気に召されるものを」
「それを用意しておきましょう」
「是非共」
「そうする。そしてだ」
 さらにだというのであった。ビスマルクはだ。
 バイエルン王のそれをからを見てだ。また話すのだった。
「何かあった時もだ」
「その時もですか」
「どうされるか考えられるのですか」
「その場合も」
「やはり。この度の話は順調には進まないだろう」
 ビスマルクは見ていた。そうなるとだ。
「だからだ。何があっても対処できるようにしておく」
「それでは戦争ですが」
「まさにそれですが」
「恋愛と戦争は。同じものだ」
 そうだというのだった。ビスマルクはだ。
「争い、競り合うものだからな」
「だから同じなのですか」
「恋愛と戦争は」
「そうなりますか」
「しかもあの御婚約は二人だけの話ではない」
 話はだ。さらに大きいというのだ。
「バイエルン全体の話であるししかもだ」
「しかも?」
「しかもといいますと」
「まだあるのですか」
「そう。もう一人の存在がある」
 ビスマルクの話がまた動いた。この話が二人だけではないとしてだ。
 さらにだ。あるというのだ。
「その御仁のことも大きい」
「大きいというと」
「それだけの方といいますと」
「誰でしょうか」
「あの音楽家だ」
 まずはそこから話す彼だった。
「彼だ」
「ワーグナー氏ですか」
「またしてもあの彼がですか」
「出るのですか」
「先の戦争で我々が勝った」
 この政治の話が加わる。
「それによってバイエルンの政界でも動きがある」
「ワーグナー氏に反対する派はオーストリア派でしたね」
「そうでしたね」
 こう話されるのだった。その政治のことがだ。
「では。我々が勝ちましたから」
「彼等は力を失う」
「そうだというのですね」
「そうだ。それによってだ」
「では。ワーグナー氏は再びですね」
「バイエルンに戻る」
「そうなると」
「あの方にとっての幸福だ」
 まさにだ。そうだというビスマルクだった。
「よいことだ。そしてだ」
「そしてですね」
「我々にとっても」
「我々はバイエルンと対立するつもりはない」
 その考えはないのだった。全くだ。
「こちら側にいて欲しいだけだ」
「プロイセンの側に」
「そうですね」
「感情的な対立は仕方がない」
 それについてはどうしようもないというのだ。人間の感情はある意味においてどうしようもないものだ。ビスマルクはそれもわかっている。
 

 

309部分:第二十話 太陽に栄えあれその二十一


第二十話 太陽に栄えあれその二十一

 そのうえでだ。彼は話すのである。
「それは表面化して政治に関係しなければだ」
「それでだけでいい」
「感情については」
「そうだ。それよりもだ」
 どうかというのだ。ビスマルクはだ。
「これでバイエルンに親プロイセン派の者が台頭する」
「特にホーエンローエ氏ですね」
「あの方ですね」
「そうだ。彼が首相になる」
 そうなるというのだ。
「それはバイエルンにとってもだ」
「いいことだと」
「そう仰るのですか」
「いいことだ。だがそれがわかるのはだ」
 どうかというのだ。ビスマルクはそこまで見ていた。
「限られている」
「限られていますか」
「ではバイエルンの民は」
 彼等はだ。それが問題なのだった。
「それはわからない」
「その感情故にですか」
「わからないというのですか」
「そうだ。プロイセンへの感情は悪い」
 それは否定できないのだった。どうしてもだ。
「それ故にだ。その限られた選択肢がだ」
「わからず。そしてですか」
「バイエルンの状況は」
「政治的に悪化する」
 言葉は限定されていた。しかしその限定はだ。
 かなり広い範囲での限定だった。そこが問題なのだった。
「そしてそれがそのままだ」
「そのままといいますと」
「さらになのですか」
「あの方を悩ませる」
 再び王の話も戻った。そのバイエルン王のだ。
「そのバイエルンとプロイセンの間でだ」
「あの方のお心がですか」
「傷ついていきますか」
「それは避けられない」
 またしてもなのだった。そうなるのだった。
「あの方はあまりにも繊細だというのにだ」
「あの方はわかっておられるのですね」
 ここで側近の一人が言った。
「バイエルン王は」
「その選択肢のことをだな」
「はい、そうなのですね」
「そうだ」
 その通りだとだ。ビスマルクはここでもすぐに答えた。
「あの方はそのこともわかっておられるのだ」
「親プロイセン派の人物を用いるしかない」
「そのことが」
「ワーグナー氏への想いからあの方もそれを望んでおられる」
 個人的な事情もあるというのだ。
「だがそれと共にだ」
「今の状況を把握しておられるからこそ」
「そのこともおわかりなのですね」
「バイエルンが為すべき人事も」
「わかっておられる。そして」
 ビスマルクはさらに話す。
「そうされるのだ」
「しかしそれはあの方自身を傷つけてしまう」
「その選択自体が」
「王は因果なものだ」
 バイエルン王への限りない同情だった。しかしその同情は上から下へのものではない。人間として共にいる相手へのだ。その同情だった。
 

 

310部分:第二十話 太陽に栄えあれその二十二


第二十話 太陽に栄えあれその二十二

「自身が傷つくとわかっていてもそうするしかないものなのだ」
「王として。国を治める者として」
「そうするしかないのですか」
「あの方もまた」
「素晴しい王であられる」
 王への想いを。再びありのまま口にする。
「だがそれでもだ」
「その御心は」
「傷ついてしまう」
「どうしても」
「それがあの方にとって不幸なのだ」
 その不幸は忌んでいる。だがそれでもなのだった。
「避けられない不幸なのだ」
「そしてその傷を癒せるのは」
「それができるのは」
「白銀の騎士だけなのだ」
 やはりだ。彼だけなのだった。
「あの人物しかいないのだ」
「この世にはいない彼が」
「その彼だけが」
「世界は一つではなく」
 今度はこんなことを言うビスマルクだった。
「そして互いに行き来することもできないのだ」
「見ることはできても」
「それはできないのですか」
「どうしても」
「あの方はあの世界に入り」
 そしてだというのだ。
「あの騎士と共にいたいのだ」
「適わぬ夢ですね」
 またしても側近の一人が話す。
「それは」
「あの世界へ向かう道も扉もないのだ」
 だからだと。ビスマルクは話した。
「見られるだけなのだ」
「鏡ですか」
「そこに映る世界なのですね」
「それだけなのだ」
 まさにそうだというのだった。ビスマルクはそう話す。
「あの方はその鏡の世界に映る騎士を愛され」
「そして焦がれておられる」
「そうなってしまわれていますか」
「あの方があの世界に行くことができれば」
 こうも言った。遠くを見る目になって。
「それはどれだけ幸せなことなのか」
「そうですね。あの方にとって」
「それができればどれだけいいのか」
「幸せはそこにあるのですね」
「あの方にとっての幸せはな」
 まさにだ。そこにだと話してだった。
 ビスマルクはバイエルン王について話していく。そしてそのうえでだった。彼のことを気にかけていた。不安に満ちたその心で。


第二十話   完


              2011・5・15
 

 

311部分:第二十一話 これが恐れその一


第二十一話 これが恐れその一

                第二十一話  これが恐れ
 王がゾフィーと婚約するという話はだ。瞬く間に欧州全体に伝わった。
 それは当然オーストリアの宮廷においてもだ。
 皇帝はそれを聞いてだ。まずはこう言うのだった。
「まずはいいことだな」
「はい、しかも御相手はゾフィー様です」
「皇后様の妹君です」
「まさに最高の選択です」
「これ以上はないまでの」
「そうだ。まさにだ」
 その通りだとだ。皇帝も話した。
「待っていた。あの王が結婚する時をな」
 皇帝はウィーンの宮廷、黄金のその宮廷において話すのだった。それをだ。側近達は聞いてそれぞれ述べていた。そうしていたのである。
 そしてだ。皇帝はだ。そのことについてだ。
 静かにだ。こうも話した。
「皇后も喜んでいるだろう」
「はい、そうですね」
「あの方が最も喜んでおられますね」
「やはりそうですね」
「そうだ。皇后とバイエルン王は親族同士だ」
 皇后は王の従姉なのだ。従ってゾフィーは王の従妹になるのだ。
 その従兄妹同士の婚約だからこそだ。皇后もだというのだ。
「家柄としては問題ない」
「王家の婚姻としてですね」
「非常によいですね」
「その通りですね」
「そうだ。ヴィッテルスバッハ家は名家だ」
 バイエルン王家の歴史はハプスブルク家よりもさらに古い。そして神聖ローマ皇帝を出したこともある。そうした意味でハプスブルク家とも比肩する。そこまでの家なのだ。
 その家の婚姻ともなるとだ。流石に相手が選ばれる。それを考慮してもだった。
 ゾフィーは相応しい相手だった。それを踏まえて語る皇帝だった。
「それに見合う相手だった」
「そして年齢もですし」
「また外見的にも」
「バイエルン王の美貌は際立っている」
 皇帝も認めることだった。とかくバイエルン王はだ。その美貌が話された。長身で尚且つすらりとした容姿、整った気品に満ちた顔立ち、どれを見てもだった。
 王は美貌を誇っていた。その王だからこそだった。その相手もだ。
「それだけの美貌の持ち主の伴侶ならbだ」
「バイエルン王と見合うだけの美貌の持ち主」
「その方が必要だったのですね」
「そうだったのですね」
「そうだったのだ」
 こう話すのだった。
「あの方にとっては必要だったのだ」
「しかしそれが見つかりましたね」
「ゾフィー様がですね」
「皇后様の妹君であられる」
「あの方が」
「そうなのだ。あの妹君がなのだ」
 また話す皇帝だった。
「皇后の妹である彼女はだ」
「写真を見ましたが非常にお奇麗な方です」
「皇后様とはまた違った美貌の持ち主ですね」
「それでいて皇后様の妹君であることを思わせる」
「そうした方ですね」
「全くだ」
 その通りだと話す皇帝だった。
「彼女はあの王に相応しい女性だ」
「あの方こそがですか」
「バイエルン王の伴侶にですか」
「相応しい方」
「そうですね」
「幸せになることを祈る」
 皇帝は結論としてこう述べた。
 

 

312部分:第二十一話 これが恐れその二


第二十一話 これが恐れその二

「バイエルン王もあの妹君もだ」
「御二人がですね」
「幸せになられることをですか」
「陛下も願われていますか」
「そうなのですか」
「私はあの王が好きだ」
 そのだ。バイエルン王がだというのだ。皇帝もだ。バイエルン王は嫌いではなかった。政治的には軋轢を生じることはあってもだ。
 何故王を嫌いではないか。皇帝はその理由も話した。
「非常に聡明で高貴な性格をしている」
「そうですね。とても純粋な方です」
「そしてあくまで高貴です」
「芸術を愛され人の心を御存知です」
「そうした方だからなのですね」
「あの王で幸せなのだ」
 皇帝はこうも言った。
「バイエルンの者達は」
「はい。確かに」
「あれだけの方はそうはおられません」
「英傑ではないですが」
 少なくともだ。王はそれではなかった。自ら剣を取って何かをするような。そうしたことをする人物ではなかったしそうしたことを好むこともない。
 だが、だ。それでもだとだ。皇帝とその側近達は話すのだった。
「ですが。素晴しい方です」
「美麗で気品があり」
「そして聡明です」
「そうした方ですから」
「最高の王だ」
 皇帝は王をこうまで評した。
「バイエルンにとってもだ」
「そうですね。バイエルンの者達は幸福です」
「あの王はバイエルンの誇りです」
「そしてドイツの」
「彼等が意識していなくともだ」
 それでもだとだ。皇帝は話した。
「あの王がいるということはだ」
「バイエルンの者達にとって幸福である」
「そういうことなのですね」
「そうなのだ。気付いていないのだ」
 皇帝はだ。バイエルンの者達のそのことを指摘してだ。
 そのうえでだ。批判する口調で話した。
「贅沢ではないか」
「贅沢ですか」
「それは」
「そうだ、贅沢だ」
 こう言うのである。
「あれだけの王はそうはいない」
「外見だけではありませんから」
「その資質もですね」
「見事な方です」
「まことに」
「そうだ、あの王はまさに奇跡なのだ」
 ここまで言えた。バイエルン王について。
「幻想にいる様な王だ」
「しかし現実におられますね」
「あの方はバイエルンにおられる」
「それは紛れもない事実ですね」
「それは」
「そうなのだ。あの王は現実にいる」
 皇帝はまた話す。
「非常に素晴しい王だ」
「そしてそのバイエルン王がですね」
「御結婚されますか」
「その伴侶を得て」
「贈りものの用意をしておこう」
 儀礼としてだ。それは忘れなかった。
 

 

313部分:第二十一話 これが恐れその三


第二十一話 これが恐れその三

「早速な」
「はい、それでは然るべきものをですね」
「バイエルン王にお贈りしましょう」
「そして王妃となられる方にも」
「そうするのだ」
 皇帝は簡潔に述べた。
「それでいいな」
「畏まりました。それでは」
「その様に」
 こう応えてだった。彼等もだ。
 バイエルン王に対する様々な外交的な応対の用意に入るのだった。そしてそのことは今はウィーンにいる皇后の耳にも入ったのだった。
 皇后はそれを聞いてだ。こう話した。
「そうですか。それはいいことですね」
「はい、実に」
「そう思います」
 女官達もだ。すぐに皇后に答えた。
「では。皇后様からもですね」
「御祝いをされますか」
「無論です」
 当然だとだ。皇后は答えた。
「我が従弟と我が妹の婚姻なのですから」
「だからですね」
「余計にですね」
「御祝いをされますね」
「はい、そうします」
 まさにだ。そうだというのだ。
「それでなのですが」
「それで?」
「それでといいますと」
「バイエルン王は本当に」
 そのだ。王のことを尋ねるのだった。
「結婚するのですね」
「はい、その通りですが」
「それが一体」
「どうされたのですか?」
「信じられません」
 こう言うのだった。その整った顔に怪訝なものを浮かべてだ。
 そのうえでだ。彼は話した。
「あの方が結婚するのですね」
「だからこそこうして今お話が出ているのですが」
「そうなのですが」
「それはわかっています」
 皇后はだ。わかっているというのだ。
「ですが」
「ですが?」
「ですがといいますと?」
「あの方に結婚は」
 そのだ。バイエルン王にはだというのだ。
「女性との結婚はできるものでしょうか」
「では男性とですか?」
「あの方は結婚されるべきだと」
「そう仰るのでしょうか」
「まさか」
「あの方の場合は」
 どうかというのだ。バイエルン王はだ。
「そうあるべきなのでしょう」
「女性とではなく男性とですか」
「結婚されるべき」
「そうだというのですか」
「私はそう思います」
 皇后が考える顔で話した。
「あの方はそうした方なのですから」
「左様ですか」
「あの方は元々そうした嗜好ですが」
「それでなのでしょうか」
「男性と」
「あの方は男性ではないのです」
 ここでだ。皇后もだった。ビスマルクと同じことを話した。
 

 

314部分:第二十一話 これが恐れその四


第二十一話 これが恐れその四

 そしてそのうえでだ。こんなことも話した。
「女性なのですから。ですから」
「女性だから?」
「それでなのですか」
「はい、従妹とも呼ぶべきなのでしょう」
 こんなことも話すのだった。
「正しくは」
「正しくはですか」
「あの方はですか」
「そうだというのですか」
「そうなのでしょう」
 皇后もだ。バイエルン王がわかっていた。だからこそだ。彼女は彼のことを考えてだ。今周りの女官達に対して話すのだった。
「そこに男性的なものはありません」
「そういえばそうですね」
「あの方の嗜好はどうも」
「女性的です」
「男性的なものはありません」
 こう話すのだった。女官達もだ。
「嗜好だけ見ればですが」
「そうなりますね」
「女性なのです」
 また言う皇后だった。
「あの方の心は」
「しかし御身体は男性です」
「それは紛れもない事実です」
「そのことは」
「それもまたどうにもならないことです」
 そのだ。王の身体が男性であることはだ。否定できないのだった。
 皇后はそのことを話してだ。その整った顔を曇らせた。
 そしてその曇った顔でだ。話すのであった。
「今回の結婚も」
「非常にまずいことになりますか」
「このままでは」
「やはりそうなりますか」
「無論幸せになることを願っています」
 皇后もだ。それはなのだった。
 それがどうしてなのかもだ。彼女は話すことができた。
「バイエルン王も。そしてゾフィーも」
「どちらの方もですね」
「幸せになるべきですね」
「やはりそう思われていますか」
「ゾフィーは我が妹」
 まずはだ。彼女についてから話した。
「妹が幸せにならないことを願わない姉はいません」
「肉親として。姉として」
「そうなのですか」
「そうです。ゾフィーは他の妹達と同じく」
 皇后には多くの妹がいる。四人だ。そしてゾフィーはその末妹なのだ。
 その末妹についてだ。彼女は話すのである。
「幸せになってもらいたいのです」
「そしてバイエルン王もですね」
「肉親としての愛情故に」
「それでなのですね」
「そうです。あの方は従弟です」
 ここでは従弟だと話す彼女だった。
「ですから。あの方もです」
「その為にもこの度の御成婚は幸せにならなければならない」
「従弟の方と妹君の御成婚ならばこそ」
「どうしてもですね」
「はい、そう願っています」
 また話すのだった。
「願ってはいるのですが」
「それでもですか」
「あの方の御心が女性故に」
「この度は」
「この言葉は許されないでしょうが」
 それでもだとだ。つい言ってしまうのだった。
 

 

315部分:第二十一話 これが恐れその五


第二十一話 これが恐れその五

「神は時として残酷です」
「あの方の御心が女性であること」
「そのことがですか」
「不幸の元であるというのですか」
「ゾフィーは気付いていません」
 そしてだ。彼女はだというのだ。
「そのことに。若し気付いていれば」
「それでかなり違いますか」
「それだけで」
「ですが若し気付けば」
 その時はどうなるかもだ。皇后は読んでいた。王と、そして妹の双方のことをわかっている故にだ。だからこそわかることだった。
「その時には何もかもが終わります」
「御成婚は」
「二人の幸せは」
「そうです。終わります」
 また話すのだった。
「ゾフィーはあくまで女性です」
「御心も御身体も」
「そうなのですね」
「そうです。女性と女性は結ばれないもの」
 カトリックの、キリスト教の考えだった。
「だからこそです」
「それではこの御成婚は」
「幸せになることは願っています」
 またそうだと話しはした。だがそれでもだ。
 皇后はこれからのことを考え憂いていた。不幸な結末を不安に思いだ。そのうえで憂いていた。彼女とビスマルクはそうなのだった。
 そしてだ。王はというとだ。ゾフィーとの婚約を発表した。それを終えてだ。
 様々な報告をだ。側近達から聞いていた。その中でだ。
 政治の話も聞いていた。王の前にはだ。カイゼル髭の男がいた。その彼がだ。玉座の王に対して話していた。
「ワーグナー氏のことですが」
「どうなのでしょうか」
「はい、順調です」
 そうだというのである。
「全てはです」
「そうですか」
 それを聞いてだ。王はだ。
 安心した顔でだ。こう述べるのだった。
「それは何よりです」
「ワーグナー氏はバイエルンに戻れます」
 それがだ。大丈夫だというのだ。
「このミュンヘンにです」
「そうですか。このミュンヘンにですね」
「そうなります」
 こうだ。王に微笑んで述べるのだった。
「そのことをお約束します」
「わかりました。ではホーエンローエ卿」
 王はその口髭の男の名前をだ。呼んでみせた。
 そしてそのうえでだ。こうも言うのだった。
「首相となった貴方に期待させてもらいます」
「有り難き御言葉。それでは」
「思う存分動いて下さい」
 こうもだ。ホーエンローエに告げた。
「首相として」
「わかりました」
 ホーエンローエは一礼して応えた。こうした話も進んでいた。
 その王を見てだ。周囲はこんな話をした。
「ホーエンローエ卿が首相とはな」
「陛下も思い切ったことをなされる」
「あの御仁はワーグナー氏に比較的好意的だ」
「それを考えてのことだろう」
「しかしだ」
 だが、だとだ。ホーエンローエについて話が為されていく。
 

 

316部分:第二十一話 これが恐れその六


第二十一話 これが恐れその六

「あの御仁はな。プロイセンに近い」
「そうだ。親プロイセン派だ」
「そうした意味でホルンシュタイン伯爵と同じだ」
「御二人はビスマルク卿とも度々会われている」
「それはどうなのか」
「まずいのではないのか」
 こうだ。彼等は話していく。それは追うの周囲だけでなくバイエルン全体で話されることだった。彼等にとっては話さざるを得ないことだった。
「我々はプロイセンは嫌いだ」
「彼等はプロテスタントだ」
「それに北だ」
「東にある」
 ドイツといっても一つではないのだ。まずカトリックとプロテスタントがある。宗教的な違いがドイツにとっては実に大きいものなのだ。これはルターの頃から変わらない。程度の違いはあっても。
 そして南北、東西という地理的な違い。プロイセンは北であり東にある。それに対してバイエルンは南であり西だ。そうした意味でも彼等は正反対なのだ。
 それもありだ。さらにだった。
「プロイセンは自分達のドイツを築こうとしているのだぞ」
「軍事的、経済的、政治的にだ」
「そのプロイセンに近い人物を首相にするとは」
「陛下は何を御考えなのだ」
「国民は反発するぞ」
「それも御承知なのか」
「それでされているのか」
 王の資質への疑問にもなっていく。
「あの方は何を考えておられるのだ」
「プロイセンに近い人物を首相にする」
「議会も黙ってはいない」
「政治に混乱をもたらしていいのか」
「ワーグナー氏だけを考えているのだろうか」
「彼さえ戻ればいいのか」
「あの金食い虫が」
 次第にだ。王はワーグナーのことだけしか考えていないのではないのかという見方も出て来た。そしてこのことは王の耳にも入った。
 王はそれを聞いてだ。王宮においてだ。ホルニヒに話すのだった。
 白をベースにし青と金の装飾で彩られている。天井にはバロック調の模様があり床はビロードの絨毯だ。その部屋の見事なソファーに座りながらだ。彼に話すのだった。
「彼を首相にしたことはだ」
「ホーエンローエ卿ですね」
「そうだ、それは確かにワーグナーのこともある」
 王もそれは認めた。
「私にとって彼が傍にいるのといないのでは全く違う」
「だからこそあの方を首相にされたのですか」
「他の者達も全て更迭した」
 王はさらに話した。
「ワーグナーを好まない者達はな」
「閣僚、そして宮廷の重役からですね」
「そうした。だがそれだけではないのだ」
「ではやはり」
「そうだ。プロイセンの勢いは止まらない」
 政治の話だった。内政と外交がここでは一つになっている。
 それを把握したうえでだ。王は話すのだった。
「それもありだ」
「ホーエンローエ卿を首相にされたのですか」
「選択肢はないのだ」
 王はまた話した。
「プロイセンに反発しても何の意味もない」
「何もですね」
「時代の流れは統一に向かっている」
 そのだ。ドイツのだ。
「ならばだ。それに従うしかない」
「しかし陛下」
「わかっている」
 ホルニヒの言うことを先に言ってみせたのだった。
「それは議会や国民から反発を受けるものだな」
「それは宜しいのでしょうか」
「それもわかっている」
 まただ。悲しい目になって話す王だった。
 

 

317部分:第二十一話 これが恐れその七


第二十一話 これが恐れその七

「仕方のないことだ。ここはバイエルンだ」
「プロイセンではありませんね」
「バイエルンとプロイセンは水と油だ」
「決して混ざり合わないものですか」
「同じドイツでもだ。我々は全く違う」
 この対立は以後も続くことになる。南北、そして東西のドイツはだ。
「それで対立しない方がおかしいのだ」
「ドイツの中で」
「しかも今プロイセンは高圧的だ」
 今度の指摘はこのことだった。プロイセンの態度だ。
「少なくともバイエルンではそう見られるな」
「それもまた問題なのですね」
「そうなのだ。今はプロイセンの一挙手一投足がだ」
 つまりだ。何もかもがだというのだ。
「バイエルンにとっては不快なのだ」
「だからこそホーエンローエ卿は反発されますか」
「避けられないことだ。しかしだ」
「それでもあの方を首相にされたのですか」
「さっきも言ったが選択肢は一つしかないのだ」
 王は言った。
「我々はドイツの中に入るしかないのだ」
「そのプロイセン主導のドイツにですね」
「ドイツは一つにならなければならない」
 このことはだ。絶対だというのだ。
「そしてそれがプロイセン主導ならばだ」
「プロイセンにつくしかない」
「かつてドイツは多くの国の介入を受けてきた」
 三十年戦争がその最たるものだ。この戦争はドイツにとっては最悪の災厄であった。このことはドイツにいるなら言うまでもないことだった。
「それを避ける為にはだ」
「ドイツは統一されなければならない」
「そういうことだ。そしてそれがプロイセンによって行われるのなら」
「それにつくべきなのですね」
「時代の歯車は絶対だ」
 王は言った。
「神の御意志なのだ」
「神の御意志なら従わざるを得ませんね」
「そうだ。そうするしかない」
 王はまた言った。
「感情的な反発は私にもあるが」
「陛下にもですか」
「そうだ。ある」
 王は己の感情については否定しなかった。確かにあるというのだ。
「私はバイエルン王だ」
「だからこそですか」
「青が好きだ」
 バイエルンの色、即ちバイエルンそのものがだというのだ。
「だからこそだ。プロイセンの者ではないのだからな」
「それ故になのですね」
「バイエルン王として」
 そのだ。王を王たらしめているもの故にだというのだ。
「私はプロイセンに対してはだ」
「反発がおありですか」
「そうだ。プロイセンに従うことはできない」
「しかしそれでもなのですね」
「そうだ。時流はプロイセンにある」
 それがわかっているというのだ。どうしてもだ。
「どうにもならないものはあるが」
「それでもなのですね」
「その通りだ。感情は否定できない」
 王の中にあるそれはだというのだ。そうした意味で王もまた人間だ。
 それを話してだ。王はまた述べた。
「私はやがて最も望まぬ役目を担わされることになるだろう」
「望まぬ役目とは」
「バイエルン王としてだ」
 バイエルン王としてだ。それを担わされると。王はホルニヒに言うのだった。
「このドイツの王達の中でも重要な位置にいるからこそ」
「だからこそですか」
「地位と立場は時として人に望まぬものをさせる」
 遠くを見てだ。空虚な言葉で今の言葉を出したのだった。
 

 

318部分:第二十一話 これが恐れその八


第二十一話 これが恐れその八

「プロイセン王はドイツを統一すればだ」
「そうなればなのですか」
「プロイセン王ではなくなる」
「といいますと」
「皇帝だ」
 皇帝、この言葉が出て来た。
「ドイツ皇帝になるのだ」
「ドイツ皇帝ですか」
「ドイツを一つにするのは王ではないのだ」
「王はドイツには多くいますね」
「そうだ。それでどうして王が統べようか」
 こう話すのだった。
「王の上に立つのは皇帝だ」
「その神聖ローマ帝国皇帝ですね」
「その通りだ。神聖ローマ皇帝はもういない」
 神聖ローマ帝国そのものが存在しなくなった。ナポレオン、バイエルンを王国にしたその彼がだ。既に有名無実となっていたその国を完全に消し去ったのだ。
 それを話してだ。王はまた言った。
「新たなドイツ皇帝となるのだ」
「王の上に立つ皇帝ですか」
「それになるのだ。プロイセン王はだ」
 こうした話をしてであった。王はだ。
 ホルニヒに対してだ。こんなことも述べた。
「臣下とだ。私を見るようになる」
「陛下を」
「皇帝は王の上に立つ。法皇と同じく」
 それが皇帝なのだ。言うならば皇帝は月なのだ。法皇を太陽としたならばだ。王の頭上にある天空のだ。そこにある存在だというのだ。
「それもまた時流にあるものだ」
「そうなのですね」
「私は臣下になるつもりはない」
 王としての言葉だった。
「何があろうともだ」
「しかしそれでもですね」
「時流がそれを望んでいる。仕方のないことだ」
 こうした話をしたのだった。そしてまたホルニヒに話した。
「では」
「では、ですか」
「傍に来るのだ」
 こう言って誘った。
「飲もう、二人で」
「そうして宜しいのですね」
「そうだ。今は二人で飲みたい」
 テーブルの上のワインとガラスのグラスを見て話す。
「そうするか」
「はい、それでは」
 ホルニヒもだ。王の心を受け取りだった。
 そうしてそのうえでだ。王の向かいの席に来て話した。
「御言葉に甘えまして」
「そうしてくれるか」
「陛下の御言葉ならば」
 どうするかというのだった。
「そうさせてもらいます」
「有り難い。私の憂いは消えない」
 その目にだ。実際に憂いを漂わせての言葉だった。
「どうしてもだ。消えはしない」
「では余計に」
「飲むべきだな。酒はいいものだ」
 そのだ。ワインのボトルを見ての言葉だった。白だ。その白ワインを見ているのだ。
「飲むとその分だけ憂いを消してくれる」
「だからこそですね」
「今は飲もう」
 ホルニヒにも話す。
「こうしてな」
「畏まりました。それでは」
 こうしてだった。王は話の後でホルニヒと美酒を楽しむのだった。
 

 

319部分:第二十一話 これが恐れその九


第二十一話 これが恐れその九

 そうした中でだ。王は周囲の言葉も聞くのだった。
「では今日もですね」
「ゾフィー様と共に歌劇を御覧になられますか」
「そうされるのですね」
「ロイヤルボックスでな」
 まさにだ。王の場所でだというのだ。
「そこで共に観たい」
「ではゾフィー様にもその様にお伝えしておきます」
「それで宜しいですね」
「頼む」
 実際にそうしてくれと話す王だった。
「それで今宵の歌劇を観たい」
「ワーグナー氏のタンホイザーを」
「それをですね」
「ワーグナーの音楽を理解できる」
 ゾフィーがだ。そうだというのだ。
「その人と共に観られるのはいいことだ」
「そのワーグナー氏ですが」
「そうだ」
 王は話す。
「思えばこれまでは中々いなかったな」
「そうなのですか」
「そうした方はですか」
「いなかったのですか」
「いなかった」
 王は残念そうな顔で話す。
「私と同じ様に。彼の音楽を深く愛せる方はだ」
「だからゾフィー様とですか」
「一緒になられるのですか」
「そうなのでしょうか」
「それもある」
 そのことをだ。王は否定しなかった。
 否定しないうえでだ。話すのだった。
「それにゾフィーは前から知っている」
「そうですね。幼馴染みとして」
「そうしてですね」
「御互いに知っているのならやりやすい」
 王は再び話す。そのこともだ。
「知らない相手と。そこまで至るのは難しい」
「確かに。そうですね」
「幼馴染みの方は気心が知れてますし」
「それならば余計にですね」
「ゾフィー様とは」
「そのゾフィーに伝えておいてくれ」
 王はだ。こう周囲に話した。
「エルザにと」
「エルザ?ローエングリンのヒロインですか」
「その名前で、ですか」
「そうだ。伝えてくれ」
 そうしてくれと。王はさらに話した。
「ローエングリンが招待したいとだ」
「今度はローエングリンですか」
「白鳥の騎士ですか」
「そうだ。ローエングリンがエルザを招待したい」
 そのローエングリンとエルザが誰なのかはだ。最早言うまでもなかった。王はローエングリンを自分としてだ。ゾフィーをエルザとしているのだ。
 そのうえでだ。王は話すのだった。
「そう伝えてくれ」
「わかりました、それでは」
「その様に」
 彼等は応えはした。しかしだ。
 内心首を捻りながらだ。それで話すのだった。
「ですがそれでもです」
「そのお名前で伝えられるのですか」
「そうされるのですか」
「それ位は許してもらいたいものだ」
 王は甘えも見せた。ここでだ。
「何しろこれから歌劇を観るのだからな」
「そのワーグナー氏のですね」
「だからこそですか」
「この程度はいいだろう」
 その甘えを周囲に話す。そう話してだった。
 

 

320部分:第二十一話 これが恐れその十


第二十一話 これが恐れその十

 王はだ。その歌劇、これから観るタンホイザーについても話した。
「タンホイザーとするならば」
「その今日の歌劇ですか」
「それはどうなるのでしょうか」
「タンホイザーならば」
「一体」
「やはりタンホイザーになる」
 その歌劇のだ。主人公なのだというのだ。
 それを話してからだ。王はゾフィーについても話した。
「そして彼女がエリザベートだな」
「そうですね。騎士と姫です」
「まさにそうなりますね」
「エリザベートだ」
 王はタンホイザーからだ。この名前に注目していった。
「シシィと同じ名だな」
「あっ、確かに」
「そうですね。タンホイザーのヒロインはあの方と同じ名前ですね」
「そうなりますね」
「言われてみれば」
「ゾフィーはシシィとは違う」
 そのことはどうしようもない。姉妹であってもだ。やはり別の人間なのだ。しかし王はここでは二人を重ね合わせてだ。そうして話すのだった。
「だが。同じ姉妹だ」
「同じ姉妹だからいい」
「そうなのですね」
「思えば縁か。シシィは私にとっては」
 愛し合う関係ではない。それとは別にだというのだ。
「鴎なのだ」
「あの方は鴎なのですか」
「鳥なのですか」
「自由な鴎だ。そして」
 そしてだとも話す。
「彼女は私を理解してくれる」
「そういえばあの方は以前より陛下に対して」
「何かと」
「そのシシィの妹」
 そのことが余計になのだった。王にとっては。
「その彼女が私の妃となるのだな」
「では陛下、それではそのゾフィー様とですね」
「共に歌劇を観られますか」
「今宵は」
「そうする」
 王はそのことについてあらためて言った。そうしてだった。
 王立歌劇場に向かう。入るのはロイヤルボックスだ。その中に進むところでだ。
 前にいた。彼女がだ。
「陛下」
「来て頂けましたね」
「御呼び頂き有り難うございます」
 白い清楚なドレスを来ただ。ゾフィーが待っていた。その彼女が王に一礼してから話す。
「では今宵は」
「舞台を共に観ましょう」
 そうしようとだ。王はゾフィーに話すのだった。
「それでは今より」
「歌劇場に」
「参りましょう」
 こうしてだ。王は己の右手を差し出した。
 するとゾフィーはその右手に己の左手を添わせてだ。共に並んだ。
 そのうえで歌劇場に入りロイヤルボックスに姿を現すと。観客達は。
 誰もが立ち王とゾフィーに対して拍手を送る。それを見てゾフィーは満面に笑みを浮かべる。
 しかし王はだ。その中においてだ。
 醒めた目をしていた。その目でいたのだ。
 だがゾフィーはそのことに気付かない。他の者も。
 誰もが王は幸せな婚姻に至ると思っていた。しかしだった。
 

 

321部分:第二十一話 これが恐れその十一


第二十一話 これが恐れその十一

 二人の写真、二人並んで立っているその写真を見てだ。まずはだ。
 王太后、王の母がだ。こう言うのであった。
「これは」
「どうされたのですか?」
「何かあったのですか?」
「陛下は。あの方は」
 息子であっても王だ。だからこう敬語で呼んだ。
「恋をされていません」
「?まさか」
「そんな筈がありません」
「いえ」
 太后はこう言うのだった。
「この目はそうです」
「目、ですか」
「それがですか」
「そうです。この目はです」
 写真にいる王はだ。上目遣いであった。そのうえで隣にいるゾフィーを見ずにだ。そのうえでその上の方を見ていたのだ。そうしていたのだ。
 それは王の癖で王はいつも上を見ている。しかしなのだ。
 太后はそれを見てだ。それで言うのだった。
「この目ではです」
「恋をされていないと」
「そう仰るのですか」
「そうです。ゾフィーを見てはいないです」
 それを見ての言葉だった。
「あの方はやはり」
「やはり?」
「やはりといいますと」
「女性に恋を抱けないのでしょうか」
 こう言うのだった。
「これではです」
「これでは」
「これではといいますと」
「ゾフィーにとってよくありません」
 ゾフィーを気遣うのだった。彼女をだ。
「愛を向けられていない。しかしです」
「しかしですか」
「といいますと」
「ゾフィーは陛下を愛しています」 
 彼女はというのだ。王を愛しているというのだ。
「陛下はあれだけの美貌の方ですから」
「そうですね。陛下の美貌はです」
「非常に素晴しいものがあります」
「誰もが愛さずにはいられません」
「そうした方だからですね」
「あの方は。外見だけではないですから」
 我が子のことであるがそれでもだ。王のその美貌は認められるものだった。
 それを話してだ。太后は話していく。
「その御心も」
「御心も非常に素晴しいですね」
「清らかな方です」
「女性を魅了せずにいられません」
 まさにそうだと話すのであった。王について。
「そうした方ですから」
「だからこそゾフィー様もですか」
「愛さずにはいられない」
「そういうことですね」
「愛している相手に愛されない」
 その矛盾する二つのことがだというのだ。
「これでは悲劇を心配せずにはいられません」
「ではこの御成婚はどうなるのでしょうか」
「一体」
「わかりません」
 太后は曇った顔で述べた。
「ですが私はです」
「悲劇を危惧されているのですね」
「そうだというのですね」
「はい。ゾフィーのことが心配です」
 王よりもだ。彼女の方がだというのだ。
 

 

322部分:第二十一話 これが恐れその十二


第二十一話 これが恐れその十二

「我が姪はよい娘です。それなのに愛されない」
「あの、ですが陛下はです」
「愛していると仰っていますが」
「歌劇場でもです」
 その歌劇場でロイヤルボックスで共にいたことについても話が為される。
「共におられましたし」
「歌劇を共に楽しんでおられました」
「それでもなのですか」
「陛下はゾフィー様を愛しておられない」
「そうだと仰るのですか」
「あの方は」
 我が子であるだ。王はどうかというのだ。
「この世にいる人を愛せないのかも知れません」
「まさか。そんなことはありません」
「あの方もこの世におられるのです」
「それでどうしてこの世にいる方を愛せないのですか」
「そんな筈がありません」
「あの方が愛されているのは」
 それはだというのだ。王が愛しているその対象は。
「おそらく歌劇の中にいます」
「歌劇ですか」
「その中にだというのですか」
「いつもあの騎士のことを考えておられるのでは」
 太后もまた言った。
「まさかと思いますが」
「あの騎士といいますと」
「タクシス殿ではないのですか」
「そしてホルニヒ殿でもないですね」
「あの方々とは」
「違います。おそらく」
 太后ははっきりとはわからない。しかしおおよそで話すのだった。
「白銀の騎士です」
「あのですか」
「ワーグナー氏の」
「陛下はいつもあの歌劇のことを話されています」
 そうした意味でローエングリン、その歌劇はまさに王の意中の作品であった。十六歳の時に観てからだ。王は魅了され続けているのだ。
「ですから」
「あの騎士だというのですか」
「歌劇の中の騎士だと」
「そう思えるのです」
 王のことを考えながら話す。
「どうにもですが」
「そういえばあの方は本当にですね」
「あの歌劇のことをよくお話されます」
「ワーグナー氏の音楽は常にですが」
「その中でも」
「幼い頃にあの騎士を御覧になられ」
 絵画である。王は既にそれで彼に会っていた。そしてそこからだったのだ。
「十六であの歌劇を御覧になられてです」
「そこからですか」
「ああなられたのですか」
「そう。心を奪われ」
 そしてだというのだ。
「王になられて最初に仰ったことは覚えていますね」
「ワーグナー氏をミュンヘンに呼ぶ」
「そう仰いました」
 そして実際にワーグナーをミュンヘンにまで呼んだ。王にとってはそれがまずしなければならないことだったのだ。彼を救う騎士として。
「まさかワーグナー氏にでしょうか」
「あの方は想いを」
「それはないでしょう」
 太后はそれはないとした。
「陛下が好まれるのは騎士ですから」
「美しく整った青年ですね」
「そうした方ですね」
「はい、ワーグナー氏は初老です」
 同性愛の王でもだ。好みはあるというのだ。
 

 

323部分:第二十一話 これが恐れその十三


第二十一話 これが恐れその十三

「初老の小柄な人物ですから」
「そうした意味では陛下の愛の対象ではない」
「そうなのですね」
「精神的なものではないでしょうか」
 王のワーグナーへの想いはそれだというのだ。
「あの騎士を生み出したワーグナー氏そのものへの」
「精神的な愛情」
「それが陛下のあの方への愛」
「はい。そして」
 そしてなのだった。ここが問題なのだった。
「あの方は肉体よりも精神を重く見られます」
「ではです」
 侍女の一人が言った。
「陛下はゾフィー様よりもワーグナー氏のことを」
「ローエングリンと彼を生み出したあの方のことを」
 別の侍女も言った。
「そうなるのでしょうか」
「この場合は」
「おそらくそうなのでしょう」
 太后はまたそうだと述べた。
「陛下はどう見ても彼女を愛してはいません」
「それは確かなのですか」
「ゾフィー様を愛されていないことは」
「御覧になられていても」 
 ゾフィーを見ていてもだ。それでもだというのだ。
「この娘自体を見ているのではないでしょう」
 写真にいるゾフィーを見ての言葉だ。
「これで。幸福な結果になるとはです」
「思えませんか」
「そうなのですか」
「ゾフィーにとっては気の毒なことです」
 ここでも姪を気遣っている。
「この婚姻は。彼女にとっては」
 こう言うのであった。太后は王の母としてことの結末を悲観していた。しかし殆んどの者はそのことには思いも寄らずだ。この婚約のことを祝うばかりだった。
 そしてだ。宮廷の者達はだ。王にそっとこう囁くのだった。
「女優が?」
「はい、リタ=ブリョンスキーといいます」
「その方が陛下に御会いしたいと」
「そう仰っています」
「そうですか」
 そう言われてだ。王はだ。
 少し考える顔になってだ。こう彼等に答えた。
「それではです」
「御会いになられますか」
「そうされますか」
「そうさせてもらいましょう」
 これが王の答えだった。
「その方と」
「わかりました。それではです」
「時と場所はこちらで手配します」
 彼等はすぐにこう話した。
「ではその様にです」
「話を進めさせてもらいます」
「御願いします。しかし女優ですか」
 王はその女優という職業から話した。
「思えば女優の方とはお話したことがありませんね」
「はい、ですからです」
「ここは是非です」
 また話す彼等だった。
「御会いになられるべきです」
「経験をされることも大事ですから」
「経験ですか」
 王は静かに述べた。
「それも大事ですね」
「その通りです。まずはそれからです」
「全てははじまります」
 彼等はゾフィーとの婚姻のことも念頭に置いて話していた。しかし王は実はそうしたことは考えていなかった。そのうえで彼等の話を聞いていた。
 そしてだ。王は応えるのだった。
「はじまり。はじまりは」
「そうです、はじまりです」
「ですから是非共」
「そうですね。はじまりならば」
 そのはじまりはどうかとだ。王は話していく。
「その後の幕に相応しいはじまりでなくてはなりませんね」
「ですからブリョンスキーさんはいいかと」
「陛下のそのはじまりにとっても」
「ローラ=モンテス」
 王はふとその女優、祖父であるルートヴィヒ一世との関係でバイエルンを騒がした彼女のことを話した。その彼女のことをである。
 

 

324部分:第二十一話 これが恐れその十四


第二十一話 これが恐れその十四

「彼女もまた女優でしたが」
「いえ、それは」
「何と申しましょうか」
「彼女については」
 その彼女の名前が出るとだ。周りの者達はだ。
「何といいましょうか」
「流石にちょっと」
「わかっています」
 すぐに言葉を返す王だった。
「彼女とその方は違いますね
「はい、違います」
「それは全くです」
 周りはだ。彼女とローラ=モンテスは違うということを強調した。ローラ=モンテスのその名前はだ。バイエルンでは口に出すのも憚れるのだ。
 それを述べて保証してからだ。彼等はまた王に話す。
「ですから特に意識されずにです」
「御会いされてはどうでしょうか」
「その方と」
「そうですね」
 王は何でもないといった感じで彼等に答えた。
「それでは今度」
「はい、それでは手配をしておきます」
「こちらで」
「そうさせてもらいます」
「そうしてもらえますね」
 王も彼女と会うことに乗り気な様に見えた。その話が流れ出てだ。
 話を聞いた者達はだ。こんなことを話すのだった。
「陛下があの女優と御会いされるのか」
「女性に興味を持たれるようになったのか」
「そのこと自体はいいことだが」
「だが。彼女は」
 そのだ。リラ=ブリョンスキーのことが話されるのだった。
「あまりいい噂がないからな」
「身持ちはよくないらしいな」
「女優の中にはそうした者もいるが」
「ローラ=モンテスの様に」
 口に出すのも憚れるがだ。どうしても話に出るのだった。
「あの女優と同じく」
「似てはいないですが身持ちがよくないのは同じ」
「困るな、これは」
「全くだな」
 こうした話も出ていた。しかしだった。
 その中でだ。彼等は今度はこんなことを話した。
「そもそもあの陛下が女性に興味を持たれる」
「確かにそれは人として普通だが」
「婚約されたことが影響しているにしても」
「しかし。それでもな」
「急だ。にわかには信じられない」
 王のそうしたことがだ。とてもだというのだ。
「女優と会われるなぞ今までなかったこと」
「それが急になられるのだからな」
「一体何が起こるのか」
「それが問題だ」
「厄介なことだ」
 こう話してだった。彼等はだ。
 王と女優が会うことについて不自然な、現実であるが現実とは思えないことに考えを巡らせる。しかし会うことはもう決まったのだった。
 それでだ。王はだ。二人きりでだ。その女優リラ=ブリョンスキーと会うことになったのだった。
 艶やかな、そして妖しい化粧と服で飾りだ。見るからに色気を漂わせた女が来た。その彼女が王の前に来て一礼してから話してきた。
「はじめまして、陛下」
「貴女がですね」
「はい、リラ=ブリョンスキーといいます」
 己の名を名乗ったのだった。
「以後宜しく御願いします」
「はい、それでは」
 王も応える。そうしてだった。
 二人はまずはそれぞれソファーに座る。向かい合ってだ。そのうえでだ。
 リラがワインを出してきた。紅のワインがグラスに注ぎ込まれる。それを呑んでからだ。王からだ。こんなことを話してきたのだ。
「一つ面白いことがありました」
「面白いこととは」
「はい、ワーグナーです」
 ワーグナーの話をだ。彼女にもするのだった。
「この前のさまよえるオランダ人ですが」
「オランダ人?ああ」
 リラはそのオペラの題目を聞いてだ。一瞬きょとんとしたがそれでもすぐに気付いた顔になってだ。そのうえで王に応えたのだった。
「あのワーグナー氏の初期の作品ですね」
「ワーグナーはあの作品からはじまります」
 王は気品のある笑みでだ。王に話すのだった。
 

 

325部分:第二十一話 これが恐れその十五


第二十一話 これが恐れその十五

「彼はそう言っています」
「確か」
「確かとは」
「はい、ワーグナー氏の作品はオランダ人以外にもあったのでは」
 内心で考えているものを隠してだ。リラは応える。
「リエンツィ等が」
「それと妖精と恋愛禁制ですね」
「その三つの作品があったと思うのですが」
 王に合わせて話す。
「そうでしたね」
「はい、あります」
 その通りだと答える王だった。
「特にリエンツィは成功していますね」
「そうですね。ですが」
「彼は完璧主義者です」
 ワーグナーの完璧主義は有名であった。己の作品の上演には細部に至るまで一切の妥協をせず見落としもしない。財政のことを考慮から外してもだ。そのうえでしているのだ。
 そのワーグナーについてだ。王はリラにさらに話す。二人きりでいるがそのことには意を見せずだ。ワーグナーについて話していくのだった。
「一点の曇りも許しはしません」
「それでその三つの作品は」
「彼自身が認めていないのです」
 そうだというのだ。
「決してです」
「そうですか。それでなのですか」
「それがワーグナーなのです」
 微笑んでだ。王は話した。
「全てにおいて完璧を目指す。素晴しい芸術家です」
「芸術家なのですね」
「フラウ」
 リラをこう呼んでだった。
「貴女は女優ですね」
「はい」
 リラはこくりと頷いて王のその問いに答えた。
「その通りです」
「ならば貴女も芸術家ですね」
「女優は芸術家ですか」
「違うのですか?」
 彼女のその睫毛を長くさせたその目を見ながらの問いだった。
「それは」
「いえ、それは」
 そう言われるとだ。リラもだった。
 少し戸惑ってからだ。こう答えた。
「舞台を芸術とするならばです」
「女優も芸術家となりますね」
「僭越ながら」
 リラは王に答えた。
「そうなります」
「そうですね。芸術家になりますね」
「私はワーグナー氏についてはあまり知りませんが」
「御存知ありませんか」
「また別の舞台に出ていますので」
 ワーグナーの舞台にはだ。出ていないというのだ。
「それで」
「そうですか。それでワーグナーは」
「申し訳ありませんが」
「ですが御存知ではありますね」
「知ってはいます」
 こう答えはしたのだった。
「それは」
「では、です」
「それでは?」
「今度は舞台にいらして下さい」 
 王はリラのその顔を見て話した。
 

 

326部分:第二十一話 これが恐れその十六


第二十一話 これが恐れその十六

「ワーグナーのその舞台にです」
「ワーグナー氏のですか」
「そうです。今度遂にです」
 王はその言葉を弾ませた。まるで子供が長い間待ち望んでいた絵本を見る様にだ。そうした邪気のない声でリラに話をするのだった。
「ニュルンベルグのマイスタージンガーが上演されるでしょう」
「確かそれは」
「お話は聞いているでしょうか」
「少しは」
 リラはここでは真実から話した。
「あります」
「それではです」
「それでは?」
「是非御覧になられて下さい」
 王はこうリラに話していく。
「間違いなく素晴しい舞台になりますので」
「だからこそですか」
「楽しみにしておいて下さい」
 またリラに話す王だった。
「あとはです」
「あとは?」
「もう一つ大作があります」
「大作をですか」
「はい、ニーベルングの指輪です」 
 その作品もあるとだ。王は話すのだった。
「四部の大作です。ワーグナーはそれを今創っています」
「あの作品は確か」
「確か?」
「ワーグナー氏はかなりの歳月をかけて作曲しておられますね」
「そして脚本も書いています」
「ワーグナー氏は作曲と脚本も全てされるのですね」
「彼は全てを自分で創り上げるのです」
 それがワーグナーだというのだ。だからこその完璧主義者なのだ。
 そのワーグナーについてだ。王は話していきだ。そのうえでだった。 
 ワインがなくなるとだ。王はリラに告げた。
「では、です」
「はい、それでは」
 リラはいよいよだと思った。しかしだった。
 王はだ。リラにこう話すだけであった。
「今日は楽しかったです」
「えっ!?」
「またいらして下さい」
 何でもないといった調子でだ。王はリラに言うだけだった。
「送る者を用意しますので」
「左様ですか」
「はい、それではです」
 こうしてだ。リラを帰してだ。王はその日は一人で休むのだった。その夜のことをだ。リラと戸惑いながら周囲の者達に話すのだった。
「陛下は女性には興味がありません」
「噂通りですか」
「そうした方なのですね」
「まるで私を彫刻の様に見てです」
 そしてそのうえでだというのだ。
「ワーグナー氏のお話をされただけです」
「ワーグナー氏のですか」
「陛下が愛されているその音楽を」
「それだけだったのですか」
「はい、それだけでした」
 まさにだ。それだけだというのだ。
「全く以てです。何とでもない様にです」
「フラウに対してもですか」
「ではあの方はやはりですか」
「女性には興味がない」
「それも全くですか」
「そうとしか思えません」
 リラは話した。
「あの方はまた特別な方です」
「しかしそれではです」
「ゾフィー様はどうなるでしょうか」
「あの方と婚約されていますが」
「それでは」
「わかりません」
 リラは王とゾフィーの関係については素っ気無く述べた。
 

 

327部分:第二十一話 これが恐れその十七


第二十一話 これが恐れその十七

「ただ。あの方は女性よりも騎士殿を御覧になられているのでしょう」
「騎士を」
「それを」
「ワーグナー氏の創られたその世界を御覧になられています」
 リラもだ。王と話してこう言うのだった。
「しかし現実の女性はです」
「現実の女性にはですか」
「興味がですか」
「あの方の理想はワーグナー氏の女性なのでしょう」
 リラはそう見ていた。しかし王の本質には気付いていなかった。
「例えばエルザ姫です」
「ワーグナー氏の歌劇のあの」
「あのローエングリンのヒロインですか」
「そのヒロインならばですか」
「その方ならばです」
 リラはそのエルザについての話をしていく。
「きっと陛下の御心を惹き付けられるでしょうが」
「ではゾフィー様はですか」
「そのエルザ姫ならばですか」
「きっと」
「そう思いはします」
 リラの返答はこうしたものだった。
「若しもですが」
「あの方がそのエルザ姫ならばですね」
「そうなるのですね」
「しかしです」
 ここでまた言うリラだった。
「果たしてあの方がエルザ姫かどうかは」
「わからない」
「そうだと仰るのですね」
「そうです。むしろ」
 どうかというのだった。さらにだ。
「あの方のエルザはです」
「あの方」
「あの方といいますと」
「陛下です」
 この場合のあの方とは王になるというのだ。リラは王に相手にはしてもらえなかった。しかし王に対しての感情は悪いものではなかった。
 その感情に基いてだ。王のことを話すのだった。
「陛下の中にあるのではないでしょうか」
「エルザ姫はですか」
「陛下の中にある」
「そうだというのですか」
「そうではないかと思います」
 リラは考える目で話していく。
「やはり若しもですが」
「エルザ姫はあの方の中にある」
「そうなのですか」
「あの方の外にあるのではなく」
「あの方の中にこそですか」
「これは不思議なのですが」
 リラはまた言った。
「あの方とお話していて男性的なものは感じませんでした」
「男性的なもの?」
「まさか」
「そんなことは」
「長身で容姿端麗であられ」
 王の美貌は女優である彼女から見ても際立っていた。まさに彫刻の様なだ。そこまでの美貌の持ち主であると言うのである。それは言う。
「しかしです。男性的なものはです」
「感じられなかった」
「そうですか」
「物腰は男性のものです」
 今度はその仕草についての話だった。
 

 

328部分:第二十一話 これが恐れその十八


第二十一話 これが恐れその十八

「外見や仕草に女性的なものはありません」
「それで何故男性的なものを感じないのですか?」
「それでは」
「それが不思議なのです」
 また言うのだった。
「おそらくその中にないのでしょう」
「あの方の中にですか」
「陛下の中に」
「そうなのでしょう。おそらくは」
 あまりはっきりしない口調で話したのだった。
「不思議ですが」
「エルザ姫はあの方の中にある」
「そうですか」
「あの方の外にではなくですか」
「あの方の中にこそ」
「あの方は鏡を見ておられるのでしょうか」
 リラはここでも考えながら話した。
「御自身を映し出す鏡を常にです」
「鏡を常に見ておられる」
「それで御自身の中のエルザ姫を見ておられる」
「そうだと」
「ワーグナー氏の舞台は」
 ひいてはだ。彼の芸術の話に至った。
「その音楽もですが」
「あの人の芸術が鏡?」
「そうなのですか?」
「あの方の中に最初からあったもの」
 王の中、即ち心だというのだ。
「それを映し出したものではないでしょうか」
「だからワーグナー氏の芸術を愛されていると」
「御自身の鏡だから」
「それだからこそ」
「確か」
 今度は王の話だった。彼についてのだ。
「あの方は幼い頃からドイツの古典を学ばれてきましたね」
「はい、その様ですね」
「中世の騎士物語や北欧神話」
「そして聖杯の伝説」
「そうしたものを親しまれてきたとか」
「そうしたものは全てワーグナー氏の芸術にあるものです」
 まさに全てだった。ワーグナーの芸術にあるものはその騎士や神話、伝説なのだ。その世界を芸術にした、それがワーグナーなのだ。
 そのことを話してだった。リラは思うのだった。
「あの方に愛されるもの。それは」
「それは」
「それはといいますと」
「果たしてこの世にあるのでしょうか」
 王のことをだ。気にかけている言葉だった。
「そうも思ってしまいます」
「ゾフィー様とは是非にと思うのですが」
「幸せにと思うのですが」
「それも果たして」
「私も思います」
 リラ自身もそうだと話す。そうだとだ。
「ですがそれでもです」
「それが不安になるのですね」
「あの方については」
「ゾフィー様については問題はありません」
 一方のだ。彼女についてはだというのだ。
「ですが陛下は」
「あの方についてはですか」
「どうしてもなのですか」
「不安を感じてしまう」
「そうなりますか」
「あの方は幸せにならなくてはならない方です」
 王への敬意はだ。確かだった。
 

 

329部分:第二十一話 これが恐れその十九


第二十一話 これが恐れその十九

 それはリラについても同じでだ。こう言うのだった。だがそれでもだった。
「ですがそうはなれない方なのでしょうか」
「幸福はですか」
「あの方にとっては」
「そうも思います」
 こう周囲に話すのだ。
「若しかしてと思いますが」
「幸福にならないといけないがそれはなれない」
「それは悲劇ですね」
「まさにギリシア悲劇の様な」
「そうしたものですね」
 こうした話をしてだった。周囲も話すのだった。
「それがあの陛下なのですか」
「バイエルン王だと」
「そう仰いますか」
「そうでなければいいのですが」
 リラは王を心から心配してその言葉を出す。
「陛下は是非」
「そうですね。それ」
「あの方は幸福にならなくてはなりません」
「それは必ずですが」
「ですがあの方は」
「人は時として」
 どうなのか。リラの話は続く。
「求めるものは得られないもの」
「そうしたものがありますね」
「確かにそれは」
「時としてですね」
「はい、あの方にとってはそれはです」
「幸せ」
 まさにだ。それがだというのだ。
「幸せではないでしょうか」
「人としての幸せ」
「幸福がですか」
「そうです。鏡を見られるだけではなりませんから」
 こうした話をしてだった。王の未来を心配するのだった。
 王の婚約は婚礼に進もうとしている。しかしその婚礼がどうなるのかはだ。多くのものは幸せになるものと思っていた。しかしなのだった。
 その幸福を。王は得られるのか、そして手に入れられるのか。そのことを読みわかっている者はだ。憂いを感じずにはいられないのだった。


第二十一話   完


                  2011・5・25
 

 

330部分:第二十二話 その日の訪れその一


第二十二話 その日の訪れその一

               第二十二話  その日の訪れ
 王はだ。その時待っていた。周囲にもだ。そのことを話すのだった。
「間も無くだ」
「はい、ご婚礼ですね」
「ゾフィー様と」
 周囲は王のその言葉に笑顔で応える。確かに婚礼の準備は進みその式の日も近付いていた。だが、だった。王は周囲にこう言うのだった。
「違う、それではない」
「違うのですか?」
「ご婚礼ではないのですか」
「それではないと」
「そうだ。それではない」
 それを否定してだ。このことを話すのだった。
「彼が戻って来る」
「彼、ワーグナー氏でしょうか」
「あの方でしょうか」
「スイスは遠い」
 王はその距離に無念を込めて述べた。
「あまりにも遠い」
「ホーエンローエ首相はワーグナー氏をこの街に迎えられますね」
「その為に動かれていますね」
「だからこそですか」
「ホーエンローエはわかってくれている」
 王は彼について好意的に述べた。
「ワーグナーのことも。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「ドイツのこともだ」
 彼はだ。それもわかっているというのだ。
「父なる国のこともわかっている」
「ドイツですか」
「我等の国のことも」
「わかっていると」
「そうだ、わかっていて動いているのだ」
 ホーエンローエについての評価はだ。こうしたものだった。
「だからこそ彼は必要なのだ」
「このバイエルンにですか」
「必要ですか」
「むしろわかっていないのは議会だ」
 そちらだというのだ。
「彼等の多くはわかっていない。特に上院は」
「上院といいますと」
「あの議会は」
 反プロイセン派が大勢を占めている。このことはバイエルンにいれば誰でも知っていることだった。バイエルン自体がプロイセンへの反発が強い。
「彼等はわかっていませんか」
「そうなのですか」
「ドイツのことが」
「時代の流れは変えられないのだ」
 王は今度は時代について話した。
「それは神が為されるからだ」
「ではホーエンローエ卿は時代をわかっておられる」
「ドイツのことを」
「そうなのですね」
「そうだ。彼はわかっている」
 また彼について肯定して話す王だった。
「だからこそ首相にしているのだ」
「ワーグナー氏のことだけではなくですか」
「違うのですね、それは」
「無論それもある」
 嘘は吐かなかった。王は虚言を嫌う。
「だが。それだけではないのだ」
「バイエルンの為にも」
「この国の為にも」
「バイエルンのことはバイエルンが決められる限りは」
 言葉はだ。ここでは限定するものになった。
「決めなければならない。この私が」
「王であられるからこそ」
「だからこそですね」
「王は。国を背負うもの」
 その自覚は強かった。それを自覚しているからこその王だった。やはりバイエルン王はだ。王になるべくして王となった人物だった。
 

 

331部分:第二十二話 その日の訪れその二


第二十二話 その日の訪れその二

 その王がだ。今話すのだった。
「ならばだ」
「バイエルンの為にですね」
「あの方を首相に」
「選択肢は限られている」
 王は真剣な顔で話した。
「今バイエルンはドイツの中に入ろうとしている」
「ドイツにですか」
「その中にですか」
「そうだ。限られているのだ」
 そうだとだ。王は周囲に話していく。
「そしてそのドイツはだ」
「プロイセンが軸になる」
「そしてプロイセン王がドイツ皇帝になるのですね」
「そうなるのですか」
「私とてだ」
 王自身もだ。どうかというのだ。彼の本来の望みもだ。ここで話したのだった。
「できればドイツのだ」
「そのドイツのですか」
「この国の」
 誰かが言った。ドイツをこの国だと。それは確かにその通りだった。
 バイエルンは確かにバイエルンだ。しかしそのバイエルンはドイツの中にある。まだ地域でしかないとも言っていいがだ。確かに存在しているのだ。
 それを話してだった。王はこんなことも述べた。
「そうだ。この国はバイエルン中心で進めたいのだが」
「ヴィッテルスバッハ家がですね」
「このバイエルンが」
「そうなのだ。バイエルンがだ」
 そのだ。バイエルンがだというのだ。
「それは神聖ローマ帝国の頃からの望みだ」
「そうですね。それは確かに」
「ヴィッテルスバッハ家は古い歴史を誇っています」
「それこそハプスブルク家以上の歴史を持っています」
「ドイツで最も古い家の一つです」
 そこまで古いのだ。バイエルンのヴィッテルスバッハ家はハプスブルク家、スイスからはじまったその家よりもだ。古いのだ。
 それを話すのだった。王にしても政治的な望みがあるのだ。
 その望みを話してからだ。さらにだった。
「しかし我が家は歴史においてだ」
「常にハプスブルク家の後でした」
「そしてホーエンツォレルン家の」
「常に後でした」
「そうですね」
「神聖ローマ皇帝になったことはあった」
 それもまた誇りだ。しかしなのだった。
「だがな」
「そうですね。それでもですね」
「その期間は僅かでした」
「皇帝はその殆んどがハプスブルク家が実質的に世襲でした」
「我が家がなれたのは僅かでした」
「そして今も」
「バイエルンの運命か」
 王は悲しい顔で話した。
「このドイツでだ。常に他の家の後塵を拝する運命なのだろうか」
「しかし陛下の御言葉ですとです」
「それはです」
 こうだ。彼等は話すのだった。
「時代の流れですね」
「避けられないですね」
「そうなのですね」
「そうだ。どうしようもない」
 まさにだ。そうだというのだった。
「それではだ。首相に彼を任じるのも仕方のないことだ」
「しかし議会は反発しています」
 そのことが話される。
 

 

332部分:第二十二話 その日の訪れその三


第二十二話 その日の訪れその三

「国民の反発もです」
「深刻なものがありますが」
「しかもワーグナー氏のこともまた」
 そのことも話される。ワーグナーのこともだった。
「また言われるかも知れませんが」
「それは」
「それは許してもらいたいものだがな」
 ワーグナーのことはだ。王にとってはささやかな望みだった。
 そしてその望みをだ。王はどうしてもだというのだった。
「王の為すことは、どうしてもな」
「限りがあるからですか」
「それはどうしてもなのですね」
「ワーグナー氏のことは」
「彼と共にいたいのだ」
 そのことを。王は切実に話していく。
「私は。それだけなのだが」
「ホーエンローエ卿はそのことについて賛成しておられます」
 そのだ。議会にも国民にも反発を受けている彼がだというのだ。
「そのことには希望を持っていいかと」
「彼は解任しない」
 ホーエンローエについてはそうだというのだった。
「確かにワーグナーのこともあるがだ」
「まずはバイエルンの為ですか」
「我が国の」
「我がバイエルン」
 バイエルンについてもだ。ワーグナーに、彼の芸術に対するのと同じだけの愛情を見せた。そして王の言うバイエルンはだ。こうした表現も為された。
「バイエルンの青だ」
「その青ですか」
「バイエルンの青」
「その青を」
「私は永遠に愛する」
 そのことは変わらなかった。バイエルン王として以上にバイエルンの者としてだ。
 それを話して。王は周りに話した。
「音楽を頼めるか」
「ワーグナー氏の音楽でしょうか」
「そうだ。ローエングリンだ」
 そのオペラからの曲をだというのだ。
「ローエングリン第三幕のあの合唱曲だ」
「婚礼の曲をですか」
「あの曲を」
「ピアノで頼む」
 そのピアノでだというのだ。
「それでな」
「わかりました。それではです」
「すぐに用意します」
「それとだ」
 音楽だけではなくだ。王はさらに言った。
「ワインも頼む」
「ワインは赤でしょうか、白でしょうか」
「白がいい」
 そちらだというのだ。
「青と白の組み合わせでいきたい」
「ワーグナー氏の音楽が青ですね」
 白ワインからだ。そのことを連想するのは容易だった。実際にこう話されるとだ。王は微かに笑ってだ。そのうえで応えたのだった。
「そうなる」
「そしてそこにですか」
「白も加わるのですね」
「ワインの白も」
「清純の白だ」 
 そうした意味もあるのだと話すのであった。
「それもまた見たい」
「白、清純の」
「では婚礼の意味もありますね」
「それも」
「婚礼か」
 それを聞いてだ。ふとだ。
 王はその顔を少し曇らせてだ。こう周囲に漏らしたのだった。
「私がゾフィーと結ばれるのだな」
「そうです。そうなります」
「その日は近付いています」
「もうすぐです」
「そうだな」
 何故かだ。顔に憂いを魅せて話す王だった。
 

 

333部分:第二十二話 その日の訪れその四


第二十二話 その日の訪れその四

 その憂いのままだ。王は周囲に話していく。
「私も遂にだな」
「はい、用意は進んでいますので」
「御期待下さい」
「我々が進めていますので」
「済まないな。だが、だ」
 それでもだと話すのだった。王はその憂いを増していく。
 その話をしながらだった。王は出されたワインを飲みワーグナーの音楽を聴いていく。その中でだった。王は静かに話を続けていく。
「私が結ばれる相手は」
「それがゾフィー様です」
「あの方になります」
「そうなりますので」
「何故か」
 何故かとだ。王は言葉を続ける。
 ワインを飲むがその味を楽しまずだ。憂いの中にその心を沈ませながらだ。
 王は述べた。こうだ。
「私が結ばれるのは彼女ではなくだ」
「ゾフィー様ではない?」
「あの、それでは一体」
「どなたというのでしょうか」
「エルザなのか」
 王自身はそうだというのだった。
「ゾフィーは。エルザなのだろうか」
「それならばそうではないのでしょうか」
「ゾフィー様と結ばれますので」
「ですからゾフィー様はエルザ姫になります」
「そうなるかと」
「そうなるのだな」
 答えはしたがだ。憂いは消えていない。
 その憂いのままだ。王は話していく。
「では私は白銀の騎士か」
「ローエングリンですね」
「歌劇のあの騎士」
「白鳥の騎士ですね」
「そうだな。私は白鳥の騎士なのだな」
 白銀の騎士であり白鳥の騎士である、それが王自身だと思った。しかしだった。
 白ワインを飲みつつだ。王は酔いを感じなかった。そうしてだった。
「そうなればいいのだがな」
「ではそうなられますか」
「その騎士に」
「なるのだな」
 その未来を話してだった。
 王は今はワインを飲みワーグナーを聴いていくのだった。その婚礼の曲を。
 婚礼の曲を聴きながらだった。王は婚礼のことを考えていた。しかしそれは楽しげなものではなくだ。憂いを漂わせたものであった。
 その憂いのまま婚礼が進むのを見ていく。だがそれでもなのだった。
 憂いを深めていくのだった。それは止まらなかった。
 そしてなのだった。王はふとだ。ホルニヒに漏らすのだった。
 夜になろうとしている深い黄昏の中でだ。王は言った。
「私はこのまま」
「ご婚礼のことですね」
「私は結ばれるのだな」
「そうです。ゾフィー様と」
「そなたもそう言うな」
 王は彼の言葉を聞いてこう述べた。
「そうだな」
「はい、そうです」
「では私は」
「陛下は?」
「何になるのだろうか」
 こう言うのだった。黄昏がさらに深くなっていく宮廷の中で。
「私は一体」
「陛下は陛下ですが」
「そうか。私は私か」
「はい、そうではないのでしょうか」
「そうか」
 ホルニヒの話を聞いて無意識のうちにであった。
 王はだ。この名前を出してしまった。
「エルザ」
「エルザ?」
「私は彼女」
 こう言うのだった。
 

 

334部分:第二十二話 その日の訪れその五


第二十二話 その日の訪れその五

「彼女を」
「あの歌劇の姫を」
「いや、違う筈だ」
 己の言葉を無意識のうちに否定してまた言うのだった。
「私はローエングリンの筈なのだ」
「騎士ですか」
「その筈だ」
 こう話すのである。
「そうではないのかというのか」
「陛下は男性ですから」
「そうだな。そして夫となるのだな」
「ローエングリンもそうでしたね」
 歌劇の中で彼はエルザと結ばれる。だからこその言葉だった。
「では陛下は」
「ローエングリン。憧れの存在」
 その憧れの存在だというのだ。
「私はそれになれるのだな」
「それが間も無くです」
「だといいのだが」
 こうだ。やはり憂いに満ちた声で言うのだった。
「私は幼い頃から彼を見ていたのだから」
「その憧れの方になられるのですね」
「本当なのだろうか」
 王は戸惑いも見せた。
「私は彼になるのだろうか」
「御結婚されれば」
「そうか。なるのか」
 そのことをだ。確める言葉だった。
「私が彼に」
「楽しみでしょうか」
「いや、不安だ」
 楽しみではなくそちらだというのだ。逆の感情だとだ。
「私はそのことに不安になる」
「御結婚についても」
「そうだ。そのことにもだ」
 不安になるとだ。王は言っていくのである。
 そのうえでだ。こんなことも話した。
「私は鏡を見ているのではないのか」
「鏡をですか」
「そうだ。私は彼を見ているのではなく」
「鏡をですか」
「前にも言ったと思うがローエングリンの目になったことはないのだ」
 それはないというのだ。ここでもだ。
「エルザの目からだ」
「あの騎士を見ているのですか」
「常にだ。だから鏡を見ている様だ」
「では白銀の騎士を御覧になられたのは」
「あの。川辺から来る時だ」
 その時になるというのだ。ローエングリンを観る時は。
「はじめて観た時もそうだった」
「白鳥に曳かれ。そして姿を現す」
「初恋なのだろうか」
 考える目で。さらに話していく。
「彼を観て。淡いものも感じた」
「確かそれは」
「私が十六の時だ」
 まさにだ。恋を覚える頃だ。人はこの頃に恋を知りそれを覚えだ。その中に生きていくのだ。
 王はそのことを感じながらだ。それで今ホルニヒに話すのだたt。
「はじめて観て。それ以来だ」
「ローエングリンを観られているのですね」
「彼自身を」 
 他ならぬだった。
「その彼に私はなるのか」
「なられるのです」
 少なくともホルニヒはそう思っていた。しかしなのだった。
 

 

335部分:第二十二話 その日の訪れその六


第二十二話 その日の訪れその六

 王はどうしてもそう思えずだ。話す言葉だ。
「私は花婿にはなれるのだな」
「ですから。陛下はその為におられるのですから」
「ではゾフィーがだな」
「はい、あの方がです」
「エルザ姫なのです」
「そうか。ではこのまま呼ぼう」
 王はようやく微笑むことばできた。僅かにではあるが。
 その僅かな微笑みでだ。王は今決めた。
「私はローエングリンとして彼女と接しよう」
「陛下がなられるものに」
「それになりだ」
「ゾフィー様をエルザ姫と呼ばれますか」
「王妃になる彼女をな」
 こう話してだった。王はゾフィーと向かうのだった。
 そうしてだ。実際にだった。
 彼女に対してだ。エルザと呼んでみせたのだった。
「ではエルザ姫」
「私がですか」
「はい、この呼び名で宜しいですね」
「有り難うございます」
 その呼び名にだ。ゾフィーはだ。
 最初は戸惑いを見せた。しかしだ。 
 王がそう呼ぶ意味を彼女なりに察してだ。微笑んでから答えたのだった。
「それでは」
「はい、ではエルザ姫」
「ローエングリン様」
 ゾフィーもだ。王をこう呼んだ。
「モンサルヴァートの次の主」
「そしてですね」
「そうです。白銀の騎士」
 実際に王は今は白銀の服を着ていた。白の絹の衣に所々に白銀の刺繍を施した服だ。絹自体も陽光で輝きだ。全てが銀に見える。
 その服を纏っている王を見てだ。ゾフィーは話すのだった。
「そうなりますね」
「その通りですね。それでは」
「はい、ローエングリン様」
「エルザ姫」
 お互いに呼び合いだ。お互いを確かめ合う。だがこの時もだ。
 王は彼女を見ずにだ。彼を見ていた。そうしてなのだった。
 そのゾフィーにだ。こう話した。
「それでなのですが」
「今度は一体」
「間も無くその時が来ようとしています」
 こう話すのだった。
「私が待ち望んでいた時が」
「婚礼でしょうか」
 ゾフィーは花嫁になる者としてこう考えた。エルザならばだ。
「その時のことを」
「あっ、いえ」
 そう言われてだ。何故かだった。
 王は戸惑いを覚えてだ。こうゾフィーに話した。
「ワーグナーです」
「ワーグナー氏ですか」
「そうです。ワーグナーが戻って来ます」
 ゾフィーに対するよりも明るくだ。王は話す。
「そうなります」
「このバイエルンにですか」
「ミュンヘンに戻って来ます」
 その言葉を続けていくのであった。
「間も無くです」
「そうですか」
 王のその言葉にだ。ゾフィーは。
 残念なものをその顔に見せてだ。言うのだった。
「あの方ですか」
「はい、彼が戻って来ます。そして」
「そして?」
「あの作品が。遂にです」
 そのワーグナーの作品についてだ。さらに話すのだった。
 

 

336部分:第二十二話 その日の訪れその七


第二十二話 その日の訪れその七

「ニュルンベルグのマイスタージンガーがです」
「あの作品が」
「私はその時をどれだけ待ち望んだか」
 王の言葉は続く。
「まことに幸せです」
「マイスタージンガーですか」
 ゾフィーはそれだと聞いてだ。
 また残念な顔を見せる。そうして王に話すのだった。
「あの作品についてですか」
「そうです。それが何か」
「いえ」
 その心にあるものを話さない。そのうえでの言葉だった。
「ならば私もです」
「楽しみにされていますね」
「陛下は今度はヴァルターになられるのですね」
「そうですね」
 その通りだとだ。王は笑顔で返した。
「そうなりますね」
「では私は」
「貴女は今度はエヴァになられるのです」
 マイスタージンガーのヒロインだ。無論ソプラノである。
「そうなるのです」
「そうですか。私は今度はそれに」
「ワーグナーはザックスです」
 王はまたワーグナー自身の話をした。
「彼はそれです」
「あの方はハンス=ザックスですか」
「思えばです。ワーグナーがザックスで」
 そしてだというのだ。
「私がワーグナーで貴女がエヴァであり」
「それで三人になりますね」
「そうなりますね。ワーグナーは実際に私達を結びつけたのです」
「その私達を」
「素晴しいことです」
 話していく。だがその言葉は。
 空虚なものがあった。王の今の言葉はだ。空虚であり現実を語っているものではない、ゾフィーにもそのことはわかったのだった。
 しかしそのことは表に出さずだ。王の話を聞いていく。王はさらにだった。ワーグナー、そして彼の作品についてさらに話すのであった。
「私はワーグナーが戻り彼の作品を観てです」
「そしてですね」
「ヴァルターになる。幸せなことです」
「あの、陛下」
 ここでだ。ゾフィーは自分から話した。
「ヴァルターはエヴァと結ばれますね」
「はい、そうです」
「ではエヴァとエヴァは」
 何故かは自分でもわからない。しかしこう言ってしまった王だった。
「結ばれるでしょうか」
「エヴァとエヴァはですか」
「はい、それはどうでしょうか」
「それはないでしょう」
 王もだ。そのことはすぐに否定した。
「本人同士は結ばれませんから」
「そうですね。それは」
「そうです。しかしです」
「しかし?」
「何故またその様なことを」
 怪訝な顔でだ。王はエヴァに対して問うた。
「仰るのですか」
「それは」
 エヴァ自身もだ。今自分が言った言葉に気付いてだ。
 そしてだった。こう話したのだった。
「何故でしょうか」
「御自身でもわかりませんか」
「どうしても。ただ」
「ただ?」
「ふと出てしまいました」
 その言葉がだというのだ。
「そうなってしまったのです」
「それはまたおかしな話ですね」
「自分でもそう思います。ただ」
「ただですか」
「陛下は私と共にですね」
 このことは確認せずにいられなかった。不安なあまり。
 

 

337部分:第二十二話 その日の訪れその八


第二十二話 その日の訪れその八

「歩まれますね」
「それは当然ですが」
 王はゾフィーの言葉に無機的に返した。
「決まっているではありませんか」
「そうですね。そのことは」
「私はです」
「貴女は?」
「エルザになることを望んでいます」
 王に対して。自分がローエングリンであると思いたい彼に話した。
「ローエングリンの花嫁になりたいです」
「はい、私もです」
 王もだ。微笑んで話した。
「ローエングリンになりたいと思っています」
「ローエングリンにですね」
「幼い頃からの憧れでしたから」
 ここでもだ。その憧れが話に出た。
「第三幕ですね」
「あの婚礼ですね」
「そうです。まずは前奏曲があり」
 第三幕の前奏曲。ローエングリンの婚礼はその華やかな曲からはじまるのだ。
 そしてそれからだった。幕が開いてだ。
「婚礼になりますから」
「私達はその婚礼の場に入るのですね」
「二人であの曲を聴きましょう」
 婚礼の合唱曲だ。ワーグナーの。
「そうなりましょう」
「はい、それでは」
 こうした話をしてだった。彼等はだ。
 今は幸せに微笑んでいた。しかしなのだった。
 ふとだ。間も無くミュンヘンに戻ろうとしているワーグナーがだ。スイスに口実を設けて来ていたコジマにだ。こんなことを言うのだった。
「私は失敗したか」
「失敗とは」
「ローエングリンのことだ」
 こう彼女に話すのだった。ピアノを前にしながら。
「私はあの結末にしたがだ」
「ローエングリンが去る様にですね」
「あえてそうしたのだが。それは失敗だったのだろうか」
 ワーグナーにしてはだ。珍しい言葉だった。彼は己の作品については絶対の自信を持っている。だからこそだ。珍しい言葉だった。
「幸せにするべきだっただろうか」
「幸せにですか」
「そうだ。作曲していた時から言われていたが」
 ワーグナーの話はそこから遡る。
「あの作品は幸せな結末であるべきだったと」
「批評家の方だけでなく他の方もいわれていましたね」
「そうだ。だが私はだ」
 それでもだというのだ。
「あの作品はあえてああした結末にしたのだ」
「悲しい結末に」
「ローエングリンはこの世の者ではない」
 何故その結末にしたのか。ここにポイントがあった。
「聖杯城の者だな」
「あの城の主パルジファルの息子ですね」
「そうだ。この世にはいられない者だ」
 そこにだ。大きなものがあるのだった。
「それ故にエルザとは幸せに結ばれることはできないのだ」
「それでああした結末にされた」
「あの結末はああなるべきだった」
 作品を作ったワーグナーだからこそ言える言葉だった。
「ローエングリンは去りだ」
「そしてエルザ姫は悲しみの中に息絶える」
「それは決まっていたのだ」
 ワーグナーは話す。
「だが、だ」
「だがですか」
「それは陛下にとってよくなかったのか」
 そうではないかとだ。彼は考えだしていた。
「陛下はローエングリンだな」
「はい、あの方はそう思われていますね」
「あの方は気付いておられないがな」
 ここでもだ。ワーグナーは王の本質の話をした。
「あの方はエルザ姫だからだ」
「だからこそですね」
「幸せな結末を迎えられないのではないか」
 こう言うのだった。
「この度の御婚礼もまた」
「エルザ姫とローエングリンが幸せになれないのと共に」
「あの方は忠実に歩まれているのだ」
「忠実にですか」
「ローエングリンのあらすじを」
 そのあらすじこそがだ。結末だというのだ。
 

 

338部分:第二十二話 その日の訪れその九


第二十二話 その日の訪れその九

「エルザ姫は結ばれなかった」
「あの方もでしょうか」
「そうなるのではないのか」
 ワーグナーの心に危惧が宿る。
「そんな気がしてきたのだ」
「考え過ぎではないでしょうか」
 コジマは少し考える顔になってからだ。ワーグナー、今では実質的におっとになっている彼に対してだ。こう述べた。彼女はそこまで気付いてはいなかった。
「流石にそれは」
「そうであればいいのだがな」
「確かにあの方は無垢な方です」
 コジマはこのことは指摘した。
「まるでパルジファルの様に」
「パルジファルか」
「あの方はそうでもありますね」
「そうだな。パルジファルだな」
 ワーグナーもその言葉には頷いた。王の無垢を見てだ。
「あの方はそうでもある」
「王であられますし」
 パルジファルが聖杯城の主、王だからだ。それで話すのだった。
「ですから」
「そうだな。そういえばだ」
「そういえば?」
「あの城はこの世の城ではない」
 またこの話になった。
「人の立ち寄れぬ清らかな世界にある城だ」
「その城の主であられるのですね」
「この世はあの方がおられるには穢れ過ぎているのか」
「あの方の無垢には」
「私とてだ」
 自分のことも話すワーグナーだった。自覚しているのだ。
「穢れている」
「この世にあるものは全て」
「あの方がおられるにはあまりにも穢れている」
 穢れていないものはない。この世にはあらゆるものがあるからだ。しかしその穢れこそがだというのだ。王にとってはだというのだ。
「あの方は穢れを嫌われる」
「この世で最もですね」
「それから目を逸らし逃れられようとする」
「逃れられるのでしょうか」
「逃れられはしない」
 無理だと。ワーグナーは断言した。
「この世に常にあるものだからだ」
「穢れは」
「それでどうして逃れられるか」
 王のことを考えだ。ワーグナーは眉を曇らせる。
 そうしてだった。彼は話していく。
「決して逃れられないのだ」
「何があろうともですね」
「あの方はまさにあの城の主なのだ」
 聖杯城のだというのだ。
「女性の心を持ちながら」
「女性の」
「パルジファルは男だ」
 このことは紛れもない。その者は男だ。
 しかしだ。ワーグナーは同時にこうも話した。
「だが愛により先の王アムフォルタスを救う」
「それができるのは」
「女性だ。愛は女性的なものによって救済されるものになるからだ」
「ではあの方は」
「女性だからこそ。あの城の主になれるのだ」
 そうした意味でもだというのだ。
「パルジファルにだ」
「女性だからですか」
「そうだ。女性だからだ」
 身体は男性でもなのだ。心はだった。
 

 

339部分:第二十二話 その日の訪れその十


第二十二話 その日の訪れその十

「そうなるのだ」
「その辺りは複雑ですね」
「複雑極まる。陛下は男性であるが女性なのだ」
 王の本質を。さらに話していく。
「そしてあまりにも清らかなのだ」
「清らかに過ぎると」
「あの方は幸せになれないのか」
 話はだ。ローエングリンに戻った。
「ローエングリンを御覧になられているからこそ」
「悲劇に終わるあの歌劇を」
「あの方の心の中には常にあの騎士がある」
 まさにだ。それはなのだった。
「恋をされておられるのだ」
「それがあの方の恋ですか」
「一途に、何処までも」
 ワーグナーは言葉を加えた。
「愛されているのだ」8
「それこそまさにですね」
「そうだ。愛なのだ」
 恋でありだ。愛だというのだ。
「あの方の恋愛なのだ」
「既に恋愛をしておられるのですね」
「しかも一途であられる」
 王の本質はワーグナーには全てわかっていた。
 そしてだ。その恋愛について話していくのだった。王の恋愛を。
「何処までもだ。純粋で一途であられるからこそ」
「それが悲劇ならば」
「悲劇に終わるのだ」
 ローエングリンの様にだ。
「ローエングリンは去りエルザは悲しみの中息絶える」
「あの方もまた」
「ローエングリンはこの世にいない者」
「その彼を愛するとなると」
「エルザになるしかない」
 それこそだ。即ちだった。
「あの方はまさにエルザになっておられる」
「間違ってもローエングリンではありませんね」
「違うのだ。あの方は今鏡も見ておられる」
「鏡を」
「そうだ。ローエングリンは鏡でもあるのだ」
 それでだ。王は自分自身を見てもいるというのだ。
「あの方はゾフィー様ではなくだ」
「御自身を見ておられる」
「そしてあの方に気付かれず」
「ローエングリンのあらすじもなぞっておられますか」
「そのなぞりも複雑だ」
 王のローエングリンへのなぞり。それはどうかというとだ。
「エルザであるのにローエングリンのそれになってもおられる」
「ローエングリンの」
「ローエングリンは城に帰る」
 エルザを別れてしまいだ。そこに戻るというのだ。
「あの聖杯城にだ」
「ではその後は」
「そこで過ごされる」
 聖杯城に生きる。そしてその中でだというのだ。
「現実ではない美と神の中でだ」
「美と神」
「あの方もその中に身を浸らせられるのではないのか」
 王がそうなってしまうのではと。危惧して話すワーグナーだった。
「エルザと別れ人々の前から姿を消したローエングリンと同じく」
「聖杯城の中で」
「そうなるのではないのか。そうした意味であの方はパルジファルでもある」
 エルザであるがだ。ローエングリンでもありパルジファルでもある。王は複雑だった。
「そしてその中でだ」
「生きられていかれますか」
「それはあの方にはそうされるしかないことだが」
「それでもですか」
「あの方に悲劇をもたらせてしまう」
 そうもなるとだ。彼はコジマに話していく。
「私は。それを考えると」
「ローエングリンを幸せな結末にすべきだったのですか」
「正直迷った」
 そのだ。ローエングリンの結末についてだ。
「私はリエンツィ以外は幸せな結末にした」
「オランダ人もタンホイザーもですね」
「トリスタンもだ。確かに死ぬ」
 だがだ。それでもだというのだ。
 

 

340部分:第二十二話 その日の訪れその十一


第二十二話 その日の訪れその十一

「しかしその魂は救われるのだ」
「救いは幸福ですね」
「最高の幸福だ」
 救いこそ、しかも愛による救いこそがだ。最高の幸福だとだ。ワーグナーは言うしそれは実際に彼の作品にも如実に出ているものだった。
 それを話してだ。ワーグナーはさらに考えるのだった。
「あの方にも救いを」
「最高の幸福を」
「あの方を敬愛せずにはいられない」
 ワーグナーは尚更にであった。彼の庇護者だけでなく最高の理解者であるからだ。それで敬愛の念を抱かない方がおかしいことだった。
 それを話しながらだ。ワーグナーはピアノのところに置かれている楽譜を見た。そのうえでコジマに対してこんなことも話した。
「指輪は後は完成させるだけだ」
「作品としてですね」
「そうだ。そしてその後はだ」
「いよいよですか」
「パルジファルにかかる」
 その作品にだ。かかるというのだ。
「あの作品にだ」
「そうされますか」
「パルジファルは救いだ」
 そうなると話すのだった。
「そうなるのだ」
「救いですか」
「ローエングリンにはならない」
 そのことだ。断言するのだった。
「そしてだ」
「そして?」
「全ての英雄達はその作品で救われ」
「英雄達がですか」
「至高の存在となるのだ」
 パルジファルを一つの存在とみなしてはいなかった。ワーグナーがこれまで生み出してきただ。多くの主人公達を同じだというのだ。
 それを話してだ。ワーグナーは再び楽譜を見た。それでまたコジマに話した。
「音楽はこれまでとは変える」
「どの様に」
「儀式だ」
 それだというのだ。
「儀式にするのだ」
「儀式ですか」
「そうだ、それにするのだ」
 楽譜の中にあるもの、それは既にワーグナーには見えていた。
 それを見ながらワーグナーは考えているのだった。
「パルジファルは儀式なのだ」
「神の儀式ですね」
「それになる」
 パルジファルこそがそうだと話していく。
「若しかしたら私の最後の作品になるかも知れない」
「最後にですか」
「私ももう歳だ」
 年齢もこともだ。彼は口にした。
「人は何時までも生きられる訳ではないのだからな」
「それでなのですか」
「そうだ。だからこそだ」
 パルジファルがだ。最後になるかも知れないというのだ。
 その話をしてだ。彼はまた述べた。
「あの作品は儀式にする」
「神の儀式となるのですか」
「指輪は舞台祝典劇だ」
 四部作全てを合わせてだ。ワーグナーはニーベルングの指輪はそれに位置付けているのだ。つまり只の歌劇の作品ではないというのだ。
「だがパルジファルはだ」
「その作品は」
「舞台神聖祝典劇だ」
 この言葉を出したのだった。
「それになるのだ」
「神聖ですか」
「神の。神聖な劇なのだ」
 それだというのだ。
 

 

341部分:第二十二話 その日の訪れその十二


第二十二話 その日の訪れその十二

「舞台神聖祝典劇なのだ」
「では。あの方はその作品において」
「聖なる愚か者だ」
「パルジファルだからですか」
 パルジファルというのは清らかな、聖なる愚か者だという意味の言葉だ。その意味の言葉がそのまま彼の名前になっているのだ。
 二人は王をそのパルジファルになぞらせてだ。そうして話すのだった。
「あの方は王になられるのですね」
「あの方はあの世界でこそ王になられるべきなのだろう」
 ワーグナーは話していく。
「女性であるのだから」
「愛により救済をされる女性なのだからですか」
「だからこそパルジファルなのだ」
 王をだ。その清らかな愚か者になぞらえた話は続く。
「しかしパルジファルは愚か者ではない」
「それが変わるのですね」
「最初はそうであっても」
 それがだ。変わるというのだ。
「聖杯城の主に相応しい存在になる」
「一つのことからですか」
「女性の口付け。あの方の場合はローエングリンとの出会い」
「それが口付けですか。あの方にとっての」
「そうなるのだ。あの方は女性だが」
 それでもだと。ワーグナーの話は続く。
「聖杯城の主となられる方だ」
「それは御身体が男性だからですね」
「あの方は。複雑な方だ」
 心は女性でありながらそれでいて身体は男性である。そのことがだ。王を非常に複雑な存在にしているというのだ。ワーグナーは見ていた。
「ローエングリンもエルザも幸せになれず」
「そしてですね」
「パルジファルは妻を迎えずに聖杯城の王になる」
「陛下は既に城の主になっておられるのでしょうか」
「いや、あの城はこの世にはない」
 今だ。彼等が住んでいる世界にはないというのだ。
「存在しているのは俗世ではないからだ」
「では。あの方は」
「パルジファルは旅をする」
 ここでもパルジファルだった。王は今はその英雄になぞらえて話されている。それはワーグナーだからこそわかることであった。
「多くの場所を彷徨いその果てに辿り着く」
「聖杯城に」
「その陛下がこの世でその城に辿り着かれることはないのだ」
 そうだというのだ。
「それは御成婚もだ」
「あの方はこの世ではですか」
「おそらく。そうなる」
 コジマに話していく。
「女性的な存在は女性的な存在と結ばれないのだから」
「そうですか。しかし」
 今度はだ。コジマから話した。
「思えば不思議なことですね」
「不思議か。あの方が」
「あの方は女性ですね」
「そうだ」
 その通りだとだ。ワーグナーはコジマに答えた。
「その通りだ」
「しかしそれでも王ですね」
「聖杯城のだ」
「では男性ですね」
 そうなるのだ。聖杯城は男だけの世界でありその王になるのならばだ。それは必然的に男性的なものでなければならないからである。
 コジマはその矛盾について考えだ。ワーグナーに問うのだった。
「あの方はそうなるのですね」
「この場合はそうだ」
 ワーグナーの今度の返答はこうしたものだった。
「男性となる。あの方は」
「女性でありながら男性でもある」
「不思議な方だな。まことに」
「本当に。どういう方なのでしょうか」 
 コジマにはだ。そのことがわからなくなってきていた。
 

 

342部分:第二十二話 その日の訪れその十三


第二十二話 その日の訪れその十三

「一体」
「夢幻の方だ」
 ワーグナーがここで出した言葉はこれだった。
「あの方はそうなのだ」
「夢幻のですか」
「そうだ、やはり俗世におられる方ではないのだ」
「それが陛下ですか」
「そうなるのだ。夢幻の、俗世におられる方ではないからこそ」
「女性でありながら男性でもある」
「そのお心は完全に女性だ」
 そのことはだ。否定できなかった。ワーグナーは己が見ているものをここでは偽らず否定せずにだ。コジマに話してみせているのだ。
「だがお身体は男性であるが故にだ」
「あの城の主になられる」
「そうした方だ。だからこそあのご成婚はだ」
「余計にですか」
「不幸な結末になってしまうだろう」
 ワーグナーはまた話した。
「あの方は気付いておられないが」
「御自身は気付かれていないのですね」
「そして殆んどの者が気付いていない」
 王以外にもだった。
「そして破綻したならばだ」
「そうしたならば」
「それはあることのはじまりになるだろう」
 ワーグナーはここでまた見たのだった。
「あの方にとってだ」
「はじまりですか」
「あの方はあの方のおられるべき世界をこの世に探されている」
 王のことを指摘し続けるのだった。
「そしてそれをだ。この世にだ」
「この世にですか」
「そうだ。実現されようとする」
 王がこれからどうなるのかもだ。見抜いているのだった。
「必ずな」
「聖杯城でしょうか」
「パルジファルよりもローエングリンか」
 そちらの世界だというのだ。どちらにしてもワーグナーだ。
「そしてタンホイザーだ」
「タンホイザーもですか」
「そうなのだ。タンホイザーもなのだ」
「全て。マイスターの作品世界なのですね」
「私は恐ろしいものを実現してしまったのかも知れない」
 ワーグナーはふとこうも思った。
「少なくともあの方にとってはだ」
「陛下にとっては」
「そうなのだ。あの方をあまりにも魅了し過ぎてしまった」
 ピアノの前にいながら別のものを見ていた。その世界をだ。
「あの方は私のこの世界を実現されようとされているのだ」
「それは可能でしょうか」
 コジマはこんなことを言ったのだった。
「マイスターの世界をこの世に実現させることは」
「どうだろうか」
 言葉は懐疑的なものだった。
「それは」
「それはといいますと」
「私の世界はこの世にはないものを描いている」
 その自覚はあった。彼自身が築いている世界だからだ。
「描いた現実の世界はニュルンベルクだが」
「ニュルンベルクはですね」
「しかしあれにしてもそこに描いたのは英雄だ」
「ハンス=ザックス、そしてヴァルター=フォン=フォーゲルヴァイデですね」
 ニュルンベルグのマイスタージンガーの主人公達だ。主役はヴァルターだがそれでもだ。ザックスもまた主人公なのがその作品なのだ。
 そのことも話してだ。ワーグナーは話す。
「そうした意味でやはり現実の世界ではないのだ」
「あの方はその世界も実現されようとするでしょうか」
「そうされるな」
 ワーグナーはまた読んで話した。
「ニュルンベルグもまた」
「そうですか。やはり」
「ただ。不安だ」
「不安ですか」
「それがあの方にとって幸せになるのかどうか」
 不安に思うのはだ。やはり王のことだった。
 

 

343部分:第二十二話 その日の訪れその十四


第二十二話 その日の訪れその十四

「いや、それはおそらく」
「幸せにはならないですか」
「あの方はこの世では幸せになれない方だ」
「この世におられるべき方ではないからこそ」
「しかしその幸せを追い求められますね」
「人の性だ」
 今度の言葉はこれだった。
「人は幸せを追い求めるものだからだ」
「そうですね。それはですね」
「その通りだ。幸せを追い求めるのはいい」
 ワーグナーもそのことはいいと考えている。何故なら彼もまたそうだからだ。幸せをだ。常に追い求めているから言うのだった。
「だがそれは一歩間違えればだ」
「不幸をもたらせてしまいますね」
「そうなる」
「幸福を追い求めても」
「少しでも道を踏み外すとそうなる」
 王について言っていく。そんな話をしてであった。
 王の婚約と成婚を見守りながらだ。そのうえでだ。
 ミュンヘンに戻るその時を待っていた。そしてその時はだった。
 少しずつ用意されていた。そのミュンヘンでだ。
 宮廷の者達がだ。動き回りそのうえで話していた。
「あまり好ましくはありませんが」
「そうですね。あの方はどうも」
「浪費家でありしかも女性問題もありますし」
「存在自体が揉めごとです」
「その方を入れられては」
 こうだ。ワーグナーについて話していた。
 その言葉はだ。浮かないものであった。
 そしてその浮かない言葉でだ。さらに話していくのだった。
「しかし陛下のご要望ですし」
「ワーグナー氏に批判的だった方々はあらかた去られました」
 失脚した。プロイセンとオーストリアの戦争で積極的にオーストリアについた彼等はだ。プロイセンが勝利したことによりだ。去らざるを得なくなったのだ。
 それでなのだった。彼等が去りだった。
 そうしてだった。そのうえでだった。
「仕方ありませんね」
「これはどうしても」
「陛下のたっての御要望ですし」
「それならです」
 結論は一つしかなかった。
「ワーグナー氏には戻ってもらいましょう」
「確かに臣民達の反発はありますが」
「それでも。陛下によってバイエルンは助かりましたし」
 戦争で積極的に動かなかったことによりだ。プロイセンから不興を被らなかったということがそれだ。
「では。そういうことで」
「話を進めていきましょう」
「それでなのですが」
 ここでだ。話がまた動いた。
「ワーグナー氏は仰っていますが」
「あの劇場のことですね」
「御自身の作品の為の劇場ですね」
「それを設けられたいというのですね」
「まだそう言っておられます」
 この話になるのだった。
「それはどうしてもというのです」
「思えば。恐ろしく尊大な考えですな」
「全くです」
 多くの者がワーグナーのその望みについてこう言った。それまでそうした考え、自分の作品の為だけの劇場を設けようという考えを言葉に出した人間はいないからだ。そうした意味でもワーグナーは尊大であった。謙虚という徳が彼にはないのは残念ながら事実であったのだ。
「しかもそのことに陛下も賛同しておられますし」
「ではワーグナー氏が戻られたらです」
「そのこともですね」
「実現に傾きますか」
 こう話していってだ。顔を曇らせるのだった。
「また。費用がかかります」
「歌劇だけでも相当だというのに」
「あれは歌劇にかかる費用ではありません」
 確かに芸術には金がかかる。それは歌劇も同じだ。だからこそ歌劇は長い間王侯貴族の娯楽であったのだ。しかしそれでもだった。
 ワーグナーの歌劇はだ。桁外れだった。費用がかかり過ぎるのだ。
 その彼が戻ればどうなるか。誰もがわかることだった。
 

 

344部分:第二十二話 その日の訪れその十五


第二十二話 その日の訪れその十五

 そしてだ。その彼の歌劇の上演ではなくなってきていたのだ。
「戦争をするようなものです」
「陛下は戦争はお嫌いですがあれでは」
「常に戦っているのと同じ」
「支出に際限がありません」
「しかもワーグナー氏自身もです」
 金がかかるのは彼自身でもあるのだ。
「絹のもの以外見に着けられませんし」
「豪邸に住まれ孔雀や高価な犬に囲まれ」
「しかも見事な馬車に乗られ」
「調度品も贅を尽くしたもの」
「全て国家の予算でそれをする」
「しかもそのことについてです」
 ワーグナーの浪費の悪夢がだ。彼等を再び覆っていた。
 そしてその悪夢をだ。彼等は今思い出し話すのだった。
「あの方は遠慮されませんし」
「せめて歌劇だけなら納得がいっても」
「ワーグナー氏自身の豪奢な生活」
「しかもそれに加えて専用の歌劇場」
「有り得ません」
 それだけの浪費が一人の音楽家によって為される。そのことがだった。
「陛下がそれをお許しになられる」
「あの方はワーグナー氏の虜」
「だからこそそうされる」
「困ったことです」
 こう話していくのだった。そうしてだ。
 その中でだ。彼等はこのことも話した。
「そのワーグナー氏はこちらに戻る時に頭痛の種を持って来られます」
「我々にとって新たな頭痛の種といいますと」
「それが一体?」
「何でしょうか」
「新しい作品です」
 それだというのだ。
「それを持って来るというのです」
「新しい作品ですか」
「それを持って来るのですか」
「ではまたですか」
「費用がかかりますか」
「その通りです」
 まさにそうだとだ。話が為されるのだった。
「あの御仁は必ず持って来ます」
「その作品はあの指輪でしょうか」
 一人が怪訝な声で言った。
「ワーグナー氏が延々と作っているあの四部作でしょうか」
「いえ、違うようです」
 そのことはすぐに否定された。
「指輪はまだ製作中とのことです」
「陛下は完成を待ち望んでおられますが」
「それでもまだですか」
「あの作品は」
「そうです。指輪ではなく」
 そのだ。別の作品はというとだ。
「マイスタージンガーです」
「マイスタージンガー。そういえばあの作品も製作していましたね」
「あの作品が遂に完成したのですか」
「そうしてそのうえで、ですか」
「あの作品を持って来る」
「陛下に」
 そうなればどうなるか。このことはもう答えが出ていた。
 

 

345部分:第二十二話 その日の訪れその十六


第二十二話 その日の訪れその十六

 そしてその答えが話される。それは。
「陛下は間違いなく上演されますね」
「そうですね。その我々の頭痛の種を」
「また莫大な費用がかかります」
「ワーグナー氏の尊大さはさらに酷くなります」
「女性問題も」
 このことも大きかった。彼の女性問題、はっきりと言えばコジマとの関係である。それがワーグナーの評判をさらに悪くしているのだ。
 しかもコジマのことだけではない。彼等はこのことも話す。
「女優や踊り娘にも手を出しますし」
「決して力尽くではありませんが」
 小柄で女性の権利も主張するワーグナーは暴力は振るわない。女性に対しての敬意は持っている。しかしだ。彼のその魅力によってだったのだ。確かに尊大で遠慮を知らない人物だ。しかしそれでもなのだ。
 彼には不思議な魅力があった。彼の作品と同じく。それでその魅力によってだ。多くの女性を魅了して篭絡していっているのだ。
 そのことを知っているからこそ。彼等はさらに悩むのだった。
「マチルダ=ヴェーセンドルク夫人のことがまた起こりますな」
「ビューロー夫人だけでなく」
「とにかく問題を起こす御仁です」
「ユダヤ系への偏見も強いです」
 今度はこの問題だった。
「ユダヤ系への偏見を言葉にも文章にも出します」
「お陰でバイエルンのユダヤ系の者達も反発しています」
「只でさえ敵の多い御仁だというのに」
「さらに敵を作る」
「あれでは陛下もです」
 庇護者のだ。王もだというのだ。
「御気の毒です」
「騙されているというのに」
「陛下はそのことに気付いておられるのか」
「気付いておられぬ筈がありません」
 王のその勘のよさを考えればだ。それもわかることだった。
 それを話すがだ。それでもだった。
「ですがそれでもです」
「あの方は気付かれぬふりをされていますね」
「醜いものからは目を逸らされる」
「考えられることはされません」
 その王の特質もだ。彼等はわかっていた。
 王のことも思いだ。彼は考えていくのだった。
「できれば。あの御仁は」
「陛下の御傍にはいて欲しくないのですが」
「山師です」
 彼等にとってはワーグナーはまさにそれだった。そしてその見方はだ。一面から見れば真実だ。だからこそ余計に複雑であるのだ。
「山師を君主の傍に置いては危険です」
「スイスに留まって欲しいですが」
「それは適いませんか」
「どうしても」
 最早だ。それはできなかった。
 それでだ。彼等は希望、もっと言えば願望を抱いてだ。こんなことを言った。
「陛下とあの御仁の仲によからぬことが起これば」
「仲違いですか」
「それがあればですか」
「よいと」
「陛下は繊細な方」
 その繊細さがだ。王の特徴である。そして王を悩ませる要因でもあるのだ。
 その繊細さについてはだ。こんなことが話される。
「それ故に。他者の心無い言葉にはとても傷つかれる方です」
「対してワーグナー氏には失言癖がありますな」
「しかも放言もされます」
「言葉ですか」
 ワーグナーのその特質も話に加わる。そうしてだ。
 さらには。今度は二人の共有する特質が話された。
「陛下もワーグナー氏も芸術においては引かれません」
「それぞれの完全なるものを目指されますな」
「では芸術でしょうか」
「御互いの芸術を巡って」
「陛下とワーグナー氏は対立される」
「その可能性もあるのでしょうな」
「零ではないでしょう」
 少なくともだ。皆無ではないというのだ。
「ですから」
「ではそのことを期待しますか」
「陛下とワーグナー氏の仲違い」
「それを」
「ワーグナー氏は強かです」
 あまりにも強か過ぎると言ってもよかった。ワーグナーはこれまで放浪もしてきたし借金取りからも逃れてきた。その中で培った強かさなのだ。
 それに対してだ。王はどうかというのだ。
 やはりだ。こうだというのだった。
「陛下は非常に繊細な方」
「少し触れただけで壊れてしまいかねない方です」
「繊細と強かは相容れぬもの」
「最初から正反対の方々ですし」
 王と一介の音楽家、美貌と長身を誇る青年と小柄な老人、これではだった。全くの正反対としか言いようのないことであった。
「ではやがては」
「仲違いされる」
「そうなられますか」
「なればいいです」
 いいというのだった。そうなればだ。
「ただ。我々は期待するだけです」
「期待するだけですか」
「それだけですか」
「期待だけ」
「それだけですか」
「ワーグナー氏に関しては」
 そのだ。ワーグナーに関してはというのだ。
「陛下はどなたの言葉も聞かせませんから」
「そうですね。政治のことはともかくです」
「ことワーグナーのことに関してはあの方は一途です」
「まさに一本です」
 それならばというのであった。彼等には何もできない。
 その話をしながらだ。彼等は彼等の果たすべきことをしていっていた。それは少しずつ進んでいっていた。ワーグナーの帰還、そして運命が再び動き出し表舞台に現れるその時が。


第二十二話   完


               2011・6・5
 

 

346部分:第二十三話 ドイツのマイスターその一


第二十三話 ドイツのマイスターその一

                第二十三話  ドイツのマイスター
 王はだ。この時宮廷において期待に目を微笑まさせていた。
 そのうえで己の前に立っているホーエンローエ首相に話すのだった。
「間も無くですね」
「御成婚ですね」
「それは」
 言われてだ。ふと気付いた顔になった。
 だがその表情をすぐに隠してだ。こう首相に返した。
「第一ですが」
「第一とは?」
「ワーグナーのことです」
 彼の名前をだ。ここで出したのである。
 そのうえでだ。あらためて首相に話した。
「彼が。間も無く帰ってきますね」
「ワーグナー氏ですか」
「はい、そうです」
 その通りだとだ。微笑み話す。
「彼が戻ってきます」
「その通りです」
 内心妙なまでにいぶかしむものを感じながらだ。首相も応える。
「ワーグナー氏は帰って来られます」
「そしてそうなればです」
「そうなれば?」
「ワーグナーは一つのものを携えてくるでしょう」
「新しい芸術でしょうか」
「ニュルンベルグのマイスタージンガー」
 作品の名前をだ。王は言葉として出した。
「非常に素晴しい作品であることは間違いありません」
「では陛下」
「はい、私はまずあの作品を観ます」
 そうだというのだ。
「まずはです」
「それはいいのですが」
 首相はだ。ここでこう言うのであった。
「ただ。陛下」
「何でしょうか」
「御成婚のことですが」
 このことをだ。王にあえて告げたのである。王がそのことについてあまり口に出されないのを見てだ。それであえて告げたのである。
 それに対してだ。王はこう言うのだった。
「そのことはお任せします」
「私にですか」
「はい、卿に。そして」
 そしてだと。感情の篭もらない言葉で話していく。
「臣下にですか」
「お任せさせて下さるのですか」
「そうさせてもらいます」
 まるで関心がない。そんな口調だった。
「全ては」
「わかりました」
 首相はまずは王のその言葉を受け取った。
 それからだ。王にこう話したのであった。
「ゾフィー様への冠ですが」
「そのこともお任せします」
 やはりこう返すだけの王だった。
「あの方に相応しい冠を」
「ではバイエルン王妃の冠をですね」
「それを御願いします」
「では」
「それではです」
 ここまで話してだ。王は首相にこんなことを述べた。
「首相は今はお時間はありますか」
「時間ですか」
「はい、あるでしょうか」
 こうだ。首相に対して問うのである。
「それはどうでしょうか」
「ありますが」
 王の誘いを断る訳にはいかない。そう判断しての言葉だ。実際にはこれから書類にサインをしなくてはならない。首相はどの国でも多忙なものだ。
 だがあえてこう答えてだ。王に対するのだった。
「それでは一体」
「音楽を聴きませんか」
 こう首相を誘う王だった。
 

 

347部分:第二十三話 ドイツのマイスターその二


第二十三話 ドイツのマイスターその二

「共に。コーヒーを飲みながら」
「では。御言葉に甘えまして」
「はい、それでは」
「それで陛下」
 首相は話が決まったところで王に尋ねた。
「聴かれる音楽は」
「ワーグナーです」
 それだというのだ。
「ピアノで宜しいでしょうか」
「はい、私はピアノが好きですから」
「それは有り難い。それではです」
「そうさせて頂きます」
 王は首相が自分にいささかゴマをすっていることには気付いていた。しかしそのことはあえて言葉に出さず彼の言葉を受けるのだった。
 そして首相もだ。王がここでもワーグナーについて言ったことに内心思うものがありながらもだ。誘いをあえて受けるのだった。
 二人はお互いに本心を隠して音楽を聴くのだった。そしてその音楽はだ。
 ゾフィーに対しても同じだった。彼女も宮殿に呼んでだ。それでワーグナーの音楽を聴かせてからだ。こう彼女に問うのだった。
「如何でしょうか」
「ワーグナー氏の音楽ですね」
「ローエングリン第一幕より」
 ソファーに座り右手で頬杖をつきながら。王は微笑んでゾフィーに話す。
「エルザの夢です」
「あの歌を。ピアノにしたものですね」
「これだけの芸術はありません」
 そうだというのだ。
「それはピアノにしてもです」
「変わりませんか」
「その通りです。ワーグナーの芸術」
 それがどういったものかも話す王だった。
「貴女が彼の芸術を理解されるとは非常に有り難いことです」
「バイエルンにはそうした方は少ないのでしょうか」
「残念ながら」
 その通りだとだ。王は寂しい目で話した。
「この国はむしろです」
「ワーグナー氏の敵の方が多いですね」
「はい、多いです」
 これが現実だった。だがそれはワーグナーの芸術に対する無理解によるものではなくだ。彼のその行状に基くものであるのだ。
 それがわかっているからこそだ。王はこう言うのだった。
「芸術の前には。現世のことなぞ」
「取るに足らないことですね」
「一人の芸術家を生み出すことは容易ではありません」
 王はその芸術を聴きながら話す。
「それがわからないのでしょうか」
「芸術家を生み出すことは容易ではありませんか」
「そうです」
 こうゾフィーに述べさらに話す。
「人が作るものではなく神が生み出されるものですから」
「それが芸術ですか」
「そして芸術家です」
「神が生み出されるのですね」
「それが多くの者にはわからないのです」
 王は憂いを見せた。自分の向かい側に座るゾフィーに対して。
「神の生み出された芸術を理解できないのはです」
「悲しむべきことですね」
「そう思います。現実は芸術を害するものでしょうか」 
 こうまで言うのだった。今の王は。
「どうしようもないのでしょうか」
「現実は芸術を」
「ワーグナーは一度私から引き離されました」
 このことは今でもだ。王の心に強く残っていることだった。傷として。
「彼の芸術は貶められもしています」
「マスコミの中傷によって」
「ビューロー夫人と。彼は何もないのです」
 ゾフィーに問われる前に。王は自分からこの醜聞に言及した。
「それは二人が私に言っています」
「断じて、ですか」
「そう、断じてです」
 こうだ。ゾフィーにも強く話す。
 

 

348部分:第二十三話 ドイツのマイスターその三


第二十三話 ドイツのマイスターその三

「何もありません」
「そうですか」
「その通りです。ワーグナーの芸術は高潔なものです」
「ではその芸術を生み出しているあの方は」
「高潔なのです」
 そうでなければならない。王はそう願いだ。言葉に出した。
「間違いなくです」
「あの方のことは全て」
「はい、全てです」
 この話からだ。ワーグナーの次の醜聞も否定したのだった。
「芸術の前に。浪費のことは」
「小さいことですね」
「何もありません」
 そうだというのだ。
「全くです」
「ですがバイエルンでは」
「その小事をあえて大事にしています」
「小事を大事に」
「そうして彼を貶めているのです」
 批判だった。これ以上ないまでに明らかな。
「それが現実なのです」
「では陛下はその現実は」
「疎ましいと考えています」
 ゾフィーに。そう考えていると話した。
「願わくば永遠にワーグナーの世界に生きたいものです」
「永遠に」
「そうです。私はワーグナーの世界に生きたいのです」
 言葉に恍惚としたものが宿ってきていた。
「それが私の願いなのです」
「ではその世界には」
「ローエングリンがいます」
 今二人が聴いている歌の対象となっているその騎士だ。今の音楽はエルザがだ。夢に見た彼のことを歌っている曲なのである。
「彼がです」
「彼ですか」
「常に共にいたいものです」
 こうだ。ゾフィーに話すのであった。
「それが私の願いです」
「では陛下は」
 ゾフィーは王の言葉にだ。不安な顔になりだ。
 ついだ。こう尋ねたのだった。
「私とは」
「貴女とは?」
「はい、私とは共には」
 ローエングリンと共にいるのならばだ。自分はどうなるのか。それを問うのは当然のことだった。それで王に対して尋ねたのである。そうしたのだ。
 王はだ。まずは彼女の言葉をそのまま受けた。そうしてだ。
 表情をだ。何一つ変えずにだ。こう言うのであった。
「何を言われるのですか」
「ですから私とは」
「貴女はエルザです」
 こう話す王だった。
「そして私はです」
「陛下は?」
「ローエングリンです」
 今度はだ。彼に自己を感情移入させていた。それも同一と言っていい程にだ。
 その感情移入のままだ。王はゾフィーに話すのだった。
「ですから」
「私と共に」
「ローエングリンはエルザと共になります」
 物語の話を二人の関係に移していた。
「そうですね」
「ローエングリンとエルザといいますと」
「はい、二人は物語の中では別れてしまいますが」
「そうはならないと」
「エルザ姫は彼の名前を聞いてしまいました」
 ローエングリンはエルザに己の名前を聞くなと言ってしまった。だがエルザは魔女オルトルートの唆し、何よりも彼女の彼への想い、彼のことを知りたいという想い故にだ。その為に彼の名前を聞いてしまったのだ。
 

 

349部分:第二十三話 ドイツのマイスターその四


第二十三話 ドイツのマイスターその四

 それによりローエングリンはエルザと別れざるを得なかった。そうしてエルザはその悲しみの為に息絶えるこれがローエングリンの結末だ。
 ゾフィーはそれを知っている。そして王もだ。その中でだ。
 こうだ。王は話した。
「しかし貴女は私のことを御存知ですね」
「はい」
「聞かれることはありませんね」
「そうですね。それでは」
「安心されることです」
 こうは言った。しかしだ。
 王の顔には表情はない。そして見ているものもだ。
 ゾフィーではなかった。彼女はまずそのことに気付いた。
 それからだ。気付いたことは。
 王が見ているのは。彼であることに気付いた。あくまでなのだった。
 そのことに気付きだ。心の中にさらに不安を覚えた。だがその不安を言葉に出すことはできずにだ。余計に暗澹たるものを感じていた。
 そうしてだ。王はその彼女に気付くことなくだ。こう言うのだった。
「一緒になりましょう」
「共にですか」
「はい、ローエングリンとエルザは結ばれるのです」
 王は二人の関係を明らかに感情移入させていた。
「それが運命ですから」
「運命なのですね」
「共になる運命なのです」
 まさにそうだと話してだった。王はだった。
 ゾフィーにだ。彼女にもワインを勧めた。
「飲まれますか」
「陛下のワインを」
「神の血を。そして」
「そして?」
「聖杯にあるものを飲まれます」
 そうするというのだ。
「そうされますか」
「聖杯ですか」
「聖杯城にありパルジファルが持っている杯です」
 物語は。ここでも王の中では現実だった。
 そしてその現実を。王にとって現実になっているものをだ。さらに話した。
「それを飲まれますか」
「はい」
 一言でだ。ゾフィーは答えた。
「有り難うございます」
「この世には忌まわしいものが非常に多いです」
 王の顔に憂いが宿った。
「しかしワインはです」
「それを忘れさせてくれるのですね」
「そうした。素晴しいものです」
 そうだというのだった。
「ですから」
「二人で。ですね」
「飲まれましょう」
「わかりました」
 こうしてだ。ゾフィーは王の美酒を受けた。王は自ら酒を注ぎ込みそのうえでゾフィーに差し出した。ゾフィーはその杯を受けるのだった。
 そこまでは儀式の様だった。ゾフィーはそれを飲んでからだ。
 憂いを消そうと思った。しかしそれはだ。消えぬものだった。
 王はそのことにも、己のことにも気付かないままにだ。彼を待っていた。
 ゾフィーと会った次の日にもだ。宮廷において周りに問うていた。
「間も無くですね」
「ワーグナー氏ですね」
「はい、あの方ならばです」
「間も無く来られます」
「御安心下さい」
 周りは笑顔で王に話す。
「準備は進んでいますので」
「御婚礼と同じく」
「そうですか。楽しみです」
 王はその話を聞いてだ。微笑みになる。
 そしてだ。さらにだった。こんな話をした。
「そしてマイスタージンガーにですね」
「マイスタージンガーですか」
「あのオペラですか」
「そうです。そして遂にです」
 王は話した。明るくなっていく笑顔で。
 

 

350部分:第二十三話 ドイツのマイスターその五


第二十三話 ドイツのマイスターその五

「指輪がです」
「指輪?」
「ニーベルングの指輪」
「それがですか」
「あの作品が」
「私は観ることができるようになります」
 その作品についてもだ。王は想いを馳せるのだった。
「遂にです」
「ですがあの作品はです」
「まだ完成には至っていないのでは」
「最後までは」
 周囲はすぐにだ。その指輪について話した。
「最後の最後まではです」
「確か神々の黄昏まではです」
「そうだったと思いますが」
「確かにそうです」 
 そうだと認めはする王だった。
「あの作品は最後まではできていません」
「それではまだ御覧になられないのではないでしょうか」
「ラインの黄金やワルキューレはできていても」
「まだもう少しの我慢がです」
「必要なのでは」
「そうですね。まだですね」
 王は彼等の言葉に一旦足を止めた。
 だがすぐにだ。その足を進めてだった。
 周囲にだ。こう話すのだった。
「しかしラインの黄金やワルキューレはありますね」
「確かにそうした作品は完成しています」
「既にです」
「では上演は可能です」
 そのだ。ラインの黄金やワルキューレ等に限りだ。
「私は観ることができます」
「では上演をされるのですか」
「そうした作品をですか」
「陛下が」
「できます。私は」
 王にはだ。それは可能だというのだ。
 だが周囲はだ。すぐにこう言ってだ。王を止めに入った。
「ですが陛下、それはです」
「為されては如何でしょうか」
「それはとてもです」
「お勧めできません」
 こう話すのであった。王に対して。
「それを行えばワーグナー氏も快く思われないでしょう」
「ワーグナー氏は四つの作品を完成されてからの上演を望まれています」
「ですから先に上演されてはです」
「ではとても」
「それをされては」
「それはわかっています」
 王は唇を噛み締めてだった。
 そのうえでだ。周囲に述べた。
「ワーグナーはそのことを快く思わないでしょう」
「ではやはりです」
「それはされるべきではありません」
「全ての作品の完成を待たれるべきです」
「そうされましょう」
「わかっています」
 またこう言う王だった。
「ですが。私は待ち望んでいます」
「指輪を御覧になられることをですね」
「そのことはどうしてもですか」
「そうです。どうしてもです」
 まさにだ。そうだというのだった。
「指輪を観られたらどれだけ幸せなのか」
「ニーベルングの指輪を」
「あくまで想われますか」
「指輪はかつてはワーグナーも完成を諦めました」
 困窮の中でだ。作品の上演は無理だとだ。ワーグナー自身も思ったからだ。だがそれは王が彼を庇護したことで可能となったのだ。
 

 

351部分:第二十三話 ドイツのマイスターその六


第二十三話 ドイツのマイスターその六

 その王だからこそだ。今こう言うのだった。
「しかし今はそれが可能になりました」
「そしてですね」
「ワーグナー氏の作品のみを上演するあの劇場」
「その劇場もですね」
「築かれるのですね」
「至高の芸術にとっては相応しいことです」
 王は確信の下に話した。
「だからこそです」
「ワーグナー氏の為の劇場」
「ワーグナー氏の為だけにある場所ですか」
「それをこのバイエルンに築かれますか」
「ミュンヘンに」
 王のいるだ。その王都にだというのだ。
「そしてこの都はドイツに、いやこの世におけるです」
「ドイツだけではなくこの世に」
「この世においてなのですか」
「はい。この世における至上の芸術の都となるのです」
 微笑みだ。こう話すのだった。
「ワーグナーの芸術。その芸術の聖地となるのです」
「聖地ですか」
「このミュンヘンが整地になりますか」
「ワーグナーの作品がその整地を築きます」
 まただった。王は見ていた。
 その目にタンホイザー、ローエングリン、そしてトリスタンを。そのうえでワーグナーが携えてくるであろうマイスタージンガーもだ。
 そのうえでだ。やはりこの作品の話も出た。
「指輪もまた」
「やはり指輪もですか」
「このミュンヘンにおいて整地となる」
「そうなのですね」
「芸術は全てを清らかにします」
 今度はこんなことも話すのだった。
「何もかもよ」
「この世もですね」
「清らかにしますね」
「その芸術の聖都」
 ミュンヘンのことに他ならない。
「それはベルリンやウィーンにも劣らないものになります」
「このドイツにおいて」
「そうまでなりますか」
「戦いは人を荒ませます」
 王にとっては戦争はそういったものにしか他ならない。このことは変わらない。
「ですが芸術は人だけでなくあらゆるものをです」
「今の御言葉通りですね」
「清らかにする」
「そうするのですね」
「ドイツだけでなくこの世も。清らかであれば」
 そのだ。芸術によってそうなればというのだ。
「私はこのうえなく喜ばしいと思います」
「だからこそのワーグナー氏ですか」
「このバイエルンに戻されるのですか」
「そしてミュンヘンに」
「今度は手放しません」
 ワーグナーを。その想い人をといったようにも聞こえる言葉だった。
「絶対に」
「絶対にですか」
「そうされますか」
「私達の絆はです」
 それをだ。絆とまで話してだった。
 そのうえでだ。王はワーグナーとの関係について述べてもいく。
「何があろうともです」
「それは離されない」
「二度とですか」
「若しもです」
 若しも、やはり王はワーグナーとの絆を絶対だと思っている。
 その絶対のものをだ。確信しつつだった。
「私達が別れるならば」
「そうならば」
「どうなるのですか?」
「私はおそらく全てが嫌になってしまうでしょう」
 そうなるとだ。王は話すのである。
 

 

352部分:第二十三話 ドイツのマイスターその七


第二十三話 ドイツのマイスターその七

「この世にある全てのものがです」
「嫌になられる」
「そうだと」
「この世は憂いに満ちています」
 厭世観、トリスタンとイゾルデにも似た、ショーペンハウアーを思わせるものも出した。王にとってはここでもワーグナーなのだ。
「そして醜さもあります」
「醜さも」
「それもまた」
「その世においてです」
 どうなのかというのである。
「ワーグナーの清らかなものがあればです」
「それで違いますか」
「この世は清らかになる」
「そう御考えなのですね」
「そのワーグナーの作品の為の劇場」
 その劇場もまた、だった。王の夢になっていた。
「それをこのミュンヘンに築きましょう」
「しかしです」
 夢を語る王にだ。一人が現実を話した。
「陛下、御成婚のことは」
「そのことですか」
「大公家からは何と仰っていますか?」
「同じです」
 変わらない。そうだというのだ。
「この前もお邪魔しましたが」
「確か朝にでしたね」
「あちらを訪問されたのですね」
「そうでしたね」
「はい、そうさせてもらいました」
 王はその訪問のことを認めた。事実だからだ。
「朝早く失礼だと思いましたが」
「それでも大公様と奥方様は喜んでおられました」
「陛下が来られて」
「御夫君となられる方が来られて」
「ならいいのですが」
 王は相手が喜んでくれているということを聞いてまずは微笑んだ。
 そしてその微笑みのままだ。こんなことを言った。
「私はどうも」
「どうも?」
「どうもとは」
「評判が悪いようなので」
 巷のだ。心ない声のことをだ。気にしての言葉だ。
「それがあるとです」
「あの、それはです」
「市井の噂話なぞ御気に召されてはいけません」
「ああした言葉は毒なのです」
「心に巣食う毒なのです」
「毒ですか」
 王は噂を毒と言われてだ。目に憂いを見せた。
「噂話はそうなのですか」
「そうしたものに過ぎませんから」
「御気に召されたらなりません」
「聞き流されて下さい」
「そこには何もありませんから」
「何もないということはありません」
 王は常に何かしらの話題になるものだ。玉座にいればそうしたものも見えるし聞く。それならばだというのだ。やはり憂いの目で話す王だった。
「毒だと仰いましたね」
「はい、確かに」
「そう述べさせてもらいました」
「ではそれがあります」
 そのだ。毒があるというのだ。
「人の心を蝕む毒が。それに」
「それに?」
「それにといいますと」
「その毒は残るものです」
 こうも話すのだった。その噂話という毒について。
「心に。消えずに残ります」
「ですからそうしたものはです」
「御気に召されてはなりません」
「御気に召されるだけ無駄です」
「ですから」
 今度は毒をだ。気にしてはならないという。しかし王のあまりにも繊細な心はだ。そうしたものについてだ。こんなことも述べさせるのだった。
 

 

353部分:第二十三話 ドイツのマイスターその八


第二十三話 ドイツのマイスターその八

「ですが。あえて聞こえる様にです」
「あえてですか」
「聞こえる様にですか」
「そうして言われる毒はです」
 王ならば、いや人ならばだった。
 そうしたことも受けることもある。その毒もだった。
「人の心を病ませ、醜いものも見せてしまいますね」
「そうした毒だからこそ」
「陛下は」
「それを」
「忌んでいます。しかしどうしてもついてきます」
 憂いそのものの顔と言葉になっていた。
「この苦しみはこの世にいるからでしょう」
「あの、陛下」
 一人がだ。こんなことを言ってきた。
「ここはです」
「ここは?」
「音楽は如何でしょうか」
 それはだ。どうかというのだ。
「今日は趣向を変えてモーツァルトなぞは」
「モーツァルトですか」
「はい、フィガロの結婚です」
 モーツァルトの代表作の一つだ。その音楽はどうかというのだ。
「その序曲ですが」
「フィガロの結婚ですね」
「そうです。如何でしょうか」
「いいですね」
 王は微笑みになった。そのうえでの言葉だった。
「私はモーツァルトも好きです」
「だからですね」
「フィガロは不思議な作品です」
 そのだ。フィガロの結婚についての言及だ。王は静かに話すのだった。
「フィガロは平民ですね」
「そうですね。そして貴族のアルマヴィーヴァ伯爵と対決します」
「自分の主と」
「本来は貴族と平民の対決です」
 その為にだ。革命前のフランスでは上演が見合わせられている。それはモーツァルトのオペラのものではなくボーマルシェの原作の舞台である。しかしそれでもそこまでの問題作だったことに変わりはない。
 王はだ。その作品自体についても話すのだった。
「しかし。実際にはフィガロは」
「貴族でしたね」
「貴族の息子でした」
 作中の医師バルトロの息子だったのだ。このことが作中でわかるのだ。
「平民が貴族だった」
「驚くべきことに」
「しかしそれは驚くべきことではないでしょう」
 王は遠くを見る目、またこの目になって静かに話した。
「何もかも。流転するものですから」
「だからですか?」
「驚くべきではない」
「そう仰るのですか」
「はい。貴族も平民も全ては流転します」
 こう話すのだった。
「そして何時かはです」
「何時かは」
「何時かはといいますと」
「消えるものでもあります」
 こう話すのである。
「フィガロが貴族だったとしてもです」
「驚くべきではありませんか」
「それには値しないと」
「そうなのですか」
「はい、あの作品で観るべきは」
 それは何か。王にはわかっていた。
 

 

354部分:第二十三話 ドイツのマイスターその九


第二十三話 ドイツのマイスターその九

 そのわかっているものをだ。王はここでも述べるのだった。
「人です」
「人ですか」
「人間なのですか」
「やはりモーツァルトは天才です」
 誰もが言うことをだ。王も言う。
「元から素晴しい作品ですが彼はあの作品に奇跡とも言える音楽を加えました」
「その人がですか?」
「そうです。音楽を加えることにより」
 それによってだというのだ。
「どの登場人物も非常に魅力的になっています」
「確かに。どの登場人物もですね」
「あの作曲家の作品は」
「そう。モーツァルトに端役なし」
 この言葉もよく言われている。モーツァルトは全ての登場人物に等しく素晴しい音楽を与える。だからこそ彼は天才だったのだ。
 その才能を見つつだ。王は話すのだった。
「その中でもフィガロはです」
「平民だと思われていたのに貴族だった」
「これは面白いことですね」
「そして幸せを手に入れる」
 王はさらに話した。
「素晴しいことです。ただ」
「ただ?」
「ただといいますと」
「その幸せは」
 どうなのか。王の顔が曇っていった。
 その曇っていく顔では。こう話すのであった。
「この世のものではないのです」
「作中だけのこと」
「そうでしかないというのですね」
「はい、そうです」
 まさにそうだというのである。
「しかし音楽によりそれは最高の現実になっています」
「だからこそですか」
「陛下はあの作品を愛されているのですか」
「フィガロの結婚もまた」
「そうです。フィガロも。モーツァルトも」
 ひいてはだ。モーツァルト自身もだというのだ。
「私は愛しています」
「では今からですね」
「あの作品の序曲を」
「聴かれますか」
「そうさせてもらいます」
 こうした話をしてからだった。王はその音楽を聴くのだった。
 そうしながらその日を待っていた。その日はだった。
 遂にだ。彼がだ。ミュンヘンに戻って来た。それを聞いてだ。
 ビスマルクはだ。こんなことを話した。彼はベルリンにいてこう話すのであった。
「よいことだ」
「バイエルン王にとってですね」
「彼の帰還は」
「そうあるべきなのだ。あの方には彼が必要なのだ」
「リヒャルト=ワーグナー氏がですね」
「必要だというのですね」
「前から仰っていた通り」
「だからこそいいのだ」
 それでだと話してだ。ビスマルクは微笑んでいた。
 その厳しい顔を僅かに綻ばせてだ。それで話すのだった。
「このままあの方が幸せになればいいがな」
「御婚礼もありますし」
「そうなりますね」
「そうなる。ただ、だ」
 どうなのかとだ。ここでビスマルクの話は変わった。
 顔を憂いにさせてだ。そのうえでの言葉だった。
「あの方もワーグナー氏もだが」
「ワーグナー氏も?」
「そしてバイエルン王もですか」
「どちらも芸術について全く引かれぬ」
 そのことを話すのだった。
 

 

355部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十


第二十三話 ドイツのマイスターその十

「そのことがまた悲劇にならなければいいが」
「芸術ですか」
「それ故にですか」
「悲劇にですか」
「あの方と悲劇は離れられないものだ」
 ビスマスクはこのこともわかっていたのだった。読めていたのだ。
「どうしてもな」
「悲劇とはですか」
「そうなのですか」
「悲劇は甘美だ」
 ビスマルクは悲劇についてだ。こんなことを言った。
「それは例えようもなく甘美なものだ」
「何故甘美なのですか?」
 側近の一人がすぐに彼に問うた。
「悲劇は」
「その主人公に己を感情移入する」
「だからですか」
「そうだ。だからだ」
 それが為だというのである。
「己のその悲劇に入れてだ」
「そうしてなのですね」
「そうだ。だからこそ甘美なのだ」
 そうだというのである。これがビスマルクの悲劇への考えだ。
 そしてだ。さらにだった。彼は指摘するのだった。
「そしてあの方はだ」
「バイエルン王御自身に」
「さらにあるのですね」
「王でありそのことに誇りを持っておられる」
 そのことを指摘するのだった。
「王でなければならないと思っておられる」
「バイエルン王にはまだ御子がありませんね」
 王にとって必要な。それがだというのだ。
「この度御成婚という位ですから」
「その他にも弟君のオットー様は」
「噂によると」
「そうだ。オットー様は王にはなれない」
 ビスマルクはここで。唇を噛み締めた。
 その噛み締めた唇でだ。彼は無念の声で話した。
「あの方は狂気に取り憑かれておられる」
「だからこそバイエルン王は退位できませんね」
「尚更」
「それもある。あの方に退路はない」
 王であり続けなければならない。それがバイエルン王だというのだ。
 そしてその王はどうなのか。ビスマルクはさらに話す。
「だが。それでもだ」
「それでもですか」
「あの方は」
「王であることはそれだけで重圧なのだ」
 玉座そのものについての話だった。
「玉座の周りには何もない」
「孤独ですね」
「王は常に一人ですね」
「至高の座。言い換えればそれは孤独だ」
 そうなると話すのだ。王というものはだ。
「他に並ぶ者がいないのだからな」
「王は孤独。孤高というよりはですか」
「孤独ですか」
「周りに誰もいない」
「しかも常に見られている」
 もう一つだ。このことがあるというのだ。
 

 

356部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十一


第二十三話 ドイツのマイスターその十一

「誰からもだ」
「見られているのですね」
「その一挙手一投足までも」
「その全てが」
「今私は欧州で最も注目されている男だ」
 ビスマルクは己のことがわかっていた。彼が何を考え何を言い何をするのか。欧州中がだ。始終見ているのだ。注目されているということだ。
 それを話すのであった。だが、であった。
「しかし王はだ」
「その閣下よりもですか」
「常に見られているのですか」
「そうだ。王は常に見られるものだ」
 首相よりもというのだ。その彼よりもだ。
「私には個人の時間があるが王はそうはいかない」
「王は生活自体が仕事ですね」
 一人がこの現実を話した。
「そうですね」
「そうだ。王とはそうなのだ」
 生きている、そのこと自体が仕事でありそして常に、今のビスマルクよりも遥かに見られる。そうしたものだというのである。それが王だというのだ。
「常に見られるのだ」
「大変な重圧ですね」
 すぐにこう言われた。
「思えば」
「繊細では辛い」
 ビスマルクはここであえてこの言葉を出した。
「そしてあの方はだ」
「あまりにも繊細ですね」
「その御心は」
「繊細で。清らかに過ぎるのだ」
 また唇を噛み締める。眉も顰められる。
「王であられるには。いや」
「いや?」
「いやといいますと」
「この世におられるのにも。繊細であり過ぎる」
 ましてや。王となると、というのである。
「玉座は高い場所にあり広く多く見える」
「この世がですね」
「この世のあらゆるものが」
「それができるには王の資質も必要だが」
「あの方はおありですね」
「王として」
「あられる。だからこそ不幸になられる」
 王としての資質を備え玉座にある。だがそのことは決して幸福とはならない。むしろその二つが合わさり逆になることもあるのだった。
「あの方はその玉座からこの世の醜いものも御覧になられてしまう」
「この世は。人は」
「醜いものも持っている」
「だからこそ」
「あの方が愛されているワーグナー氏にしろだ」
 そのだ。芸術家であった。
「あの人物はいかがわしい。あそこまでいかがわしい者はそうはいない」
「金銭問題に女性問題」
「それに反ユダヤ主義」
「あの御仁には様々な問題があります」
「その一つ一つもかなりのものだ」
 ただだ。問題があるだけではないというのだ。
「山師と言われても仕方のない人物だ」
「バイエルン王はそのことにも気付かれていますね」
「気付かれていない筈がない」
 ビスマルクはその手に持っている様にだ。このことがわかっていた。
「あの方ならばだ」
「しかしそれをあえて言われず」
「そのうえでなのですね」
「しかしその御心は傷ついていく」
 このことはだ。避けられないというのだ。
「どうしてもな」
「傷を癒せるのは」
「それはあるでしょうか」
「芸術しかない」
 それだけだと。ビスマルクは言い切った。
 

 

357部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十二


第二十三話 ドイツのマイスターその十二

「あの方の御心は常にそこにあるのだからな」
「それでなのですね。あの方に芸術は絶対のもの」
「不可欠のものなのですね」
「そうなのだ。だがその芸術は悲劇だ」
 まただ。悲劇を言うビスマルクだった。
「あの方はローエングリンという鏡を通じて自身を見ておられる」
「ローエングリンが鏡となると」
「それでは」
「そうだ。エルザなのだ」
 王はだ。彼女だというのだ。
「あの方がだ」
「エルザですか」
「そうだ。エルザなのだ」
 こう言うのである。
「エルザの結末は悲劇だな」
「はい、悲劇です」
「愛は成就せず悲しみの中に息絶える」
「まさに悲劇です」
「その悲劇故にだ」
 それでだと話していくのだった。そうしてだ。
 ビルマスクはだ。こんな中でだった。王の結婚についてもまた話した。
「必ず幸せになって欲しいのだが」
「はい、そうですね」
「あの方には是非共」
「そうなって欲しいのですね」
「何度も言うが私はあの方が好きだ」
 そうだというのだ。彼は王に対して敬意と好意を抱いているのだ。そしてそのうえでだ。王を常に見ているのである。ベルリンからでもだ。
 そうしてだ。その目でだ。彼はさらに話す。
「立場が違ってもだ」
「政治的に相容れないものでも」
「それでもなのですね」
「確かに政治的には相容れない」
 プロイセンとバイエルン、カトリックとプロテスタント、北と南、東と西、まさに何もかもが違っている。両国の関係はあくまで微妙だ。
 しかしその微妙な中でだ。彼は話していく。
「だがそれでもだ」
「人として。君主として」
「あの方に敬意を抱いておられる」
「そうなのですね」
「その通りなのだ。だからこそ幸福になって頂きたい」
 そうだというのである。
「どうしてもな。しかしだ」
「あの方は幸せにはなれない」
「エルザ姫であるが故に」
「それ故に」
「そしてそのことを殆んどの者が理解できない」
 これもまただった。現実なのだった。
「悲しいことだ。だが私は」
「閣下は」
「どうされますか」
「私はあの方の力になる」
 その幸せになれない王にだというのだ。
 そのことを話してだ。彼は意を決して述べるのだった。
「幸せにはなれないとしてもだ」
「それでもですか」
「あの方の為にですね」
「閣下の御力を」
「少なくともバイエルンの者達とは違う」
 王の理解者はバイエルンにはいなかった。プロイセンにいた。
 そのことを話してだった。そのうえでだ。
 彼は実際に王に祝辞を送り祝いの品も送っていた。そのうえで陰ながら王に対して様々な手を尽くしはじめていた。そのことについてだ。
 王もだ。有り難いという感じでだ。ホルニヒに話すのだった。
「確かにあらゆるものが違う」
「ビスマルク卿ですか」
「あの方と私は何もかもが違う」
 王もだ。こう言うのだった。
 

 

358部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十三


第二十三話 ドイツのマイスターその十三

「だが。それでも私はあの方の好意の全てを喜んでいる」
「政治的な思惑があるとも考えられますが」
「それもあるだろう」
 だがだ。それでもだというのだ。
「だが、だ」
「あの方は」
「私に対して。純粋に好意を抱いてくれている」
 そうだというのである。
「そのことは非常に有り難い」
「左様ですか」
「あの方は。私を理解し好意を抱いてくれている」
 このことはよくわかるのだった。王はその感性でそのことを理解するのだ。
 そうしてだ。王は言うのであった。
「そうした人がいてくれるのは幸いだ」
「陛下を理解してくれている」
「そして私の最大の理解者は」
「あの方ですね」
「今ここに来る」
 遂にだ。ここにだというのだ。
「この私の前にだ」
「では」
「そうだ。リヒャルト=ワーグナー」
 彼の名前をだ。自分から出したのだった。
「来るな」
「今こちらに向かっています」
「ドイツのだ」
 この国のだ。そうだというのだ。
「マイスターだ」
「ドイツのマイスターですか」
「ハンス=ザックス、この時代のハンス=ザックス」
 それこそがだと話してだった。
「その彼に再会しよう」
「陛下」
 ここでだ。侍従の一人がだ。
 王の前に出て来てだ。こう言って来たのだった。
「ワーグナー氏が来られました」
「通してくれ」
 満足した笑みで。侍従に答えた。
「今すぐここに」
「わかりました。それでは」
「この日が来ること」
 それがだというのだ。
「そのことがどれだけ嬉しいか」
「そうなのですね」
「これだけの喜びはない」
 また言う王だった。
「あの曲も持って来てくれる」
「そのハンス=ザックスの」
「そうだ。マイスタージンガー」
 王の言葉は実に楽しげである。王にしては珍しく。
「彼が来るのだ」
「左様ですか」
「そうだ。彼こそはハンス=ザックス」
 完全にだ。かつてのマイスタージンガーとワーグナーを同じに見ていた。そしてそのうえでだ。その彼がここに来るのを待っているのだった。
 その中で王はホルニヒに話す。
「そして私はだ」
「騎士ですね」
「ヴァルターだ」
 王自身もまた、だった。己に投影しているのだった。
「それなのだ」
「では陛下」
 ホルニヒは王の今の言葉とマイスタージンガーを合わせてだ。こう話した。
「陛下は」
「何だ」
「陛下はワーグナー氏に導かれるのですね」
 マイスタージンガーのあらすじからだ。こう話すのだった。
「そうなりますね」
「そうだな。なるな」
 その通りだとだ。王も認める。
 

 

359部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十四


第二十三話 ドイツのマイスターその十四

「私は彼に導かれるな」
「その通りですね」
「そして私は彼女と結ばれるのか」
 ここでもだ。己を投影して話すのだった。
「エヴァと」
「エヴァですか」
「そうだ。エヴァだ」
 彼女だというのである。ゾフィーはだ。
「彼女とだ」
「そうですね。ですが陛下」
「何だ」
「エヴァなのですね」
 このことをだ。ホルニヒはあえて王に話すのだった。
「陛下が結ばれる相手は」
「そうだ」
 その通りだとだ。また王はホルニヒに話した。
「その通りだ」
「それは」
 いぶかしむ顔でだ。ホルニヒはまた述べた。
「ゾフィー様なのですね」
「そうだが何かおかしいのか」
「おかしいということはないのですが」
 いぶかしむ顔のままだった。ホルニヒは王に述べていく。
「ですがゾフィー様はエヴァなのですね」
「何かがあるのか。そのことに」
「いえ、ありません」
 ないとは答える。そうだとだ。
 しかしそれと共にだ。ホルニヒはこうも言うのだった。
「言って宜しいでしょうか」
「いい」
 それはいいと答える。王は言葉を遮らなかった。
「言ってくれ」
「はい、それでは」
 こうしてだ。ホルニヒは王に対してだ。実直に、己の思うことを話すのだった。
「ゾフィー様と結ばれるのにエヴァを出されるのは」
「おかしいのか?そのことが」
「何かが違うのではないでしょうか」
 こう言うのである。
「それではです」
「違うのだろうか」
「はい、ゾフィー様とエヴァはまた違う存在なのでは」
「同じだと思うが」
 王は表情をそのままにホルニヒに答える。
「それは」
「陛下がヴァルターだからですか」
「私は彼女をエルザとも呼んでいる」
 またしてもワーグナーだった。ここでもだ。
「私はローエングリンなのだ」
「だからなのですね」
「そうだ。私がそうだからだ」
 ワーグナーの生み出したヘルデンテノール、それだからだというのだ。
「彼女もまたそうなのだ」
「左様ですか」
「だから私はワーグナーに導かれ」
「ゾフィー様と」
「エヴァと結ばれる」
 王はエヴァを見ていた。一人だけしか見ていなかった。
「そうなるのだ」
「わかりました。そうなのですね」
「そのワーグナーが間も無く来るのだ」
 ワーグナーを待ち。そのうえで話していく。
 そしてだ。遂にだった。そのワーグナーが来たのだった。
 彼の姿を見てだ。そうしてであった。王から言うのであった。
「よくぞ戻られました」
「はい、陛下」
 ワーグナーは一礼してからだ。王に応える。王は玉座から彼のその姿を見てだ。微笑みそのうえでまた自分から言葉を出すのだった。
 

 

360部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十五


第二十三話 ドイツのマイスターその十五

「最早私達を分けるものはです」
「ありませんか」
「そうです。共にです」
 どうかというのである。そしてなのだ。
「私達は共にいられるのです」
「左様ですか。では陛下」
「はい」
「その絆の証にです」
 どうなのか。ワーグナーの手からだ。
「持って来ました」
「あの作品をですね」
「はい、マイスタージンガー」
 その作品をだとだ。王に話すのである。
「こちらに」
「そうですか。ではその作品は後で」
「御覧になられますか」
「そうさせてもらいます」
 玉座からだ。王は微笑みながらワーグナーに話すのだった。
「是非共。そしてなのですが」
「指輪ですね」
「あれはどうなっていますか」
 ワーグナー自身にだ。問わずにはいられなかった。だからこそ問うたのである。
「今は」
「もう少しお待ち下さい」
 いささか社交儀礼的にだ。ワーグナーは王に答えた。
「指輪につきましては」
「少しですか」
「はい、もう暫くです」
 ワーグナーの話術だった。あえて何時かは話さない。
 その話術にだ。王は気付かないうちに信じさせられ。そうしてだった。
 頷きだ。満足した顔でこう言うのであった。
「では楽しみにしています」
「そうして下さい」
「それでなのですが」
 今度は王から話した。その話すことは。
「劇場ですが」
「私が我儘を言わせてもらっている」
「はい、あの劇場のことです」
 王は微笑みながら彼に話していく。
「予算はあります」
「用意して頂いたのですね」
「お金のことは気にしないで下さい」
 ここでも予算のことは考慮しない王だった。王は芸術の前には金のことなぞと思っていた。それは金を卑属と考え芸術を至上としているからだ。
 その王だからだ。予算についてはそれで済ませたのだった。
「貴方が望まれるだけです」
「使って宜しいのですね」
「遠慮はいりません」
 こうまで言うのだった。
「ですから」
「有り難うございます。それでは」
「場所は何処にされますか」
 暗にだ。王の希望を述べはじめた。
「やはりそれは」
「選ばせて下さい」
 ここでも話術を使い王に話す彼だった。
「それは」
「そうされますか」
「約束できることは」
 これもまたワーグナーの話術だ。多くの借金取りや支援者、そして女性を窓割り虜にしてきたその話術を王にも使ってきたのだ。 
 だが王はそれには気付かず、ワーグナーへの心酔故に気付かずだ。彼の話を聞きそのうえで頷くだけだった。今の王はそうだった。
「この国にです」
「バイエルンに」
「はい、この国に設けさせてもらいます」
 公約はここまでだった。
「そうさせてもらいますので」
「左様です」
「はい、そうさせてもらいます」
 微笑んで王に話すのであった。表情も使っているのだ。
 

 

361部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十六


第二十三話 ドイツのマイスターその十六

「ですからそれはです」
「わかりました。それでは」
「御期待下さい」
「私達の作品の為だけの劇場が」
 『私達』だった。王はそこに絶対の思い入れを見せている。
「私の国でなのですね」
「築かれるのです」
「それは何と素晴しいことなのか」
 王は恍惚したまま己の、盲目的な思い入れを話していく。
「その時が本当に来るのですね」
「そしてその時に」
「指輪も」
「全ては。私の中にあります」
 ワーグナーは指輪についても答えた。
「その中で陛下はです」
「私は、ですか」
「パルジファルであられます」
「あの聖杯城の王ですね」
「それであられるのです」
「素晴しいことです。私は聖杯城の王になる」
 そのことを話す。王自身の口で。
 そのうえでだ。王はその表情にある恍惚をさらに深めてであった。ワーグナーに、その作品を生み出す彼に対して言うのであった。
「では貴方は」
「私はですか」
「ハンス=ザックスですね」
「そうです。私は僭越ながら」
 何かというのだ。ワーグナー自身は。
「ドイツの芸術を生み出しています」
「この国の。新たな芸術を」
「ヴァルターを」
 そのだ。マイスタージンガーの主人公をドイツの芸術と擬人化して語るのだった。
「その彼をです」
「ヴァルターをですね」
「そうです。そうしているつもりです」
「では偉大なるマイスターよ」
 ヴァルターに己を投影していることを今は忘れ。王はワーグナーをザックスと呼んでだ。満足した顔のまま彼にこんなことも告げた。
「住む場所に年金はあります」
「有り難うございます」
「貴方の芸術に専念して下さい」
 王のワーグナーへの願いを話すのだった。
「是非共」
「そうさせてもらいます。それでは」
「はい、指輪に」
「劇場を」
 今度はその二つだった。マイスタージンガーの後はその二つであった。
 ワーグナーは王との再会の後で宮廷を去った。だがその足で向かったのは王が用意した屋敷ではなくだ。彼女のいる場所だった。
 コジマのところに行きだ。そのうえで言うのであった。
「有り難いことだ」
「陛下は全てを約束して下さったのですね」
「そうだ。劇場のことも」
 そのことがだ。最も重要であった。今の彼には。
「全てな」
「ではすぐにですか」
「いや」
 ここでだ。ワーグナーは言葉を一旦止めた。そのうえでだ。
 己の席でコーヒーを飲みながら。コジマにこう話すのだった。
「ミュンヘンだな」
「はい、劇場はこの町にですね」
「考えているのだ」
 実際に深い思慮を見せている顔での言葉だった。
「この町は私の劇場に相応しいのかとな」
「そうなのですか?」
「そうだ。確かに劇場はバイエルンになくてはならない」
 それは何故か。彼を庇護する王の国だからだ。
「だが。その築く町はだ」
「ミュンヘンとは限らないのですか」
「ミュンヘンは好きではない」
 顔を曇らせての言葉だった。
「いや、好きではなくなった」
「なくなったのですか」
「最初は違った」
 複雑なものをだ。表情にも言葉にも帯びさせるワーグナーだった。
 

 

362部分:第二十三話 ドイツのマイスターその十七


第二十三話 ドイツのマイスターその十七

 そしてその複雑なものの原因も。彼はコジマに話す。
「私を中傷してきた町だ」
「確かに。マエストロを何かと」
「その為に一度は去らなければならなかった」
 己のことは忘れてだ。ワーグナーは恨みを覚えていたのだ。だからこそだ。今もこう言うのである。
「そのことは決して忘れはしない」
「何があろうとも」
「そうだ。忘れられない」
 ワーグナーの言葉は強い。逆恨みにはじまるものだとしても。
「それでどうしてこの町に私の劇場を置けるのか」
「ですが陛下は」
「バイエルンであればいいのだ」
 ワーグナー独特のレトリックが。ここで正当化される。
「陛下の国であればだ」
「それでよいのですか」
「そうだ、いいのだ」
 自己正当化に基きだ。ワーグナーはコジマに言っていく。
「この国であればな」
「では具体的には」
「既に幾つか考えてはいる」
「どの町に置くべきか」
「実際に見回るが」
 完璧主義故にだ。実地を見ることもするのだった。
「バイロイト等がよさそうだ」
「バイロイト?」
 その町の名前を聞いて思わず声をあげたコジマだった。その鼻の高い、父によく似た知的な顔にいぶかしむものが加わった。
「それは何処でしょうか」
「聞かないか」
「はい、申し訳ありませんが」
 素直に述べるコジマだった。
「そうした町もあるのですか」
「バイエルンの北の方にある」
「この国の北に」
「そしてドイツの中央にある」
 その町が何処にあるのか、ワーグナーはコジマに話す。
「そこにある町だ」
「ドイツの中央、つまりプロイセンからも西の諸都市からも近い」
「そしてバイエルンにある」
「そうだ。最適の場所ではないだろうか」
 ワーグナーはドイツの地図を頭の中に広げそのうえで話していた。今彼の頭の中ではそのバイロイトを中心にして考えが巡らされているのだ。
「私の劇場にな」
「ドイツのマイスターの劇場に」
「そう思うのだが」
 ワーグナーはここまで話してからコジマに顔を向けて問うた。
「どう思うか」
「マイスターの思われるままに」 
 コジマはここでは彼をこう呼んだ。
「そうされるといいかと」
「私の思うままにか」
「マイスターの芸術ですから」
 だからだというのだ。
「ですから。是非」
「そうか。私の思うままに」
「はい、マイスターがバイロイトに劇場を築かれたいのなら」
「私がそうするべきか」
「それに考えてみればです」
 コジマもだ。あの町について述べた。
「ミュンヘンは。この町は」
「若し私が劇場を築いてもな」
「反発する人が多いでしょう」
「その通りだ。この町は私を嫌っている」
 人だけでなくだ。町そのものもだというのだ。
「その町に築けば」
「反発を受けますね」
「その町に築くのもどうか」
 己が嫌われていること、それはどうしてかまでは考えていないがそれでもだ。ワーグナーは自分がミュンヘンの市民に嫌われていることを承知していた。
 だからこそだとだ。彼は言うのだった。
「そう思う」
「そうですね。それでは」
「バイエルンの町を見て回る」
「旅も兼ねられますね」
「旅はいい」
 ワーグナーは旅行好きでもある。犬や贅沢の他にも趣味はあるのだ。
「心を入れ替えさせてくれる」
「浮世のことを忘れさせ」
「それも兼ねて行こう」
 己の趣味のことも考えての言葉だった。
「それではな」
「では私も」
 当然の様にだ。コジマも言ってきた。
「御供させて頂きます」
「そうしてくれるか」
「私は常にマイスターの御傍にいます」
 完全にだ。崇拝者の言葉だった。
「ですから」
「そうだな。では共に行こう」
「はい、是非共」
 こうしてだった。ワーグナーは己の劇場のことも頭の中に入れて動くのだった。だがこのことが、そして様々なことがだ。王と彼にとって。一つの運命の出来事になってしまうのだった。


第二十三話   完


                2011・6・16
 

 

363部分:第二十四話 私の誠意その一


第二十四話 私の誠意その一

                 第二十四話  私の誠意
 王はワーグナーがミュンヘンに戻ってから上機嫌だった。しかし何故上機嫌なのか、多くの者はそれを取り違えこう話すのだった。
「御成婚が近いからな」
「ああ、間も無くだ」
「もう王妃様のドレスも完成した」
「贈り物は各国から次々と届いている」
「エリザベート様もお喜びだそうだ」
 オーストリア皇后にしてゾフィーの姉、王にとっても従姉である彼女のことも言及される。
「いいことだ。本当にな」
「まさに美男美女だ」
 王とゾフィーの美貌についてもだ。よく知られていた。
 彼等はその御成婚のことについて話されていく。誰もがそう思っていた。
 それは大公も同じでだ。己の屋敷で微笑み客として来ている者達に話していた。
「間も無くだな」
「はい、御成婚ですね」
「いよいよですね」
「そうだ。間も無く陛下は幸せになられる」
 微笑みだ。客達に話すのだった。
「これ以上の喜びはない」
「では我々もこの御成婚を祝福しましょう」
「神と、そしてバイエルンに」
「陛下に」
「私はです」
 大公もだ。穏やかな顔で彼等に話す。
「あの日が待ち遠しいです」
「大公は余計にですね」
「陛下の御成婚が楽しみですか」
「はい、あの方を幼い頃より見てきました」
 王の叔父としてだ。その立場からである。
「ですから。余計にです」
「そうですね。血のつながりがあると余計にそうなりますね」
「尚更」
「私は気楽な立場です」
 己のことはだ。少し自重めかして言うのだった。
「王位継承権はありますが後の方ですし」
「気楽に。御自身の職務をこなしつつ」
「趣味を満喫されていますか」
「はい、生活の心配はありませんし」
 それがないのは当然だった。何しろ大公である。それで生活が困窮するということもないことだった。王族ともなれば年金が出るからだ。
 その気楽な立場を満喫しながらだ。大公は王を見て話すのだった。
「陛下は王の重圧を背負われています」
「しかしその陛下にですね」
「伴侶が来られる」
「御心を癒す伴侶が」
「妻はいいものです」
 常識の世界にいる人間としてだ。大公は温かい目をしていた。
「そうですね」
「はい、常に傍にいる女性というものはいいものです」
「そして子をもうけて父親になる」
「それもまた非常にいいですね」
「家庭を築いていくことは」
「バイエルンの跡継ぎも生まれます」
 このことも話していく大公だった。
「よいことばかりです」
「バイエルンの未来も素晴しいものになる」
「陛下の御成婚がもたらすものは多いですね」
「本当に楽しみです」
 また言う大公だった。
「では。この楽しみをさらに朗らかにする為に」
「それではですね」
「飲みますか」
「美酒を」
「ビールを用意してあります」
 それがあるというのだ。バイエルンはドイツの中でもとりわけビールを飲む国である。ワインも飲まれるがビールも非常によく飲まれる。
 それは貴族達も同じでだ。それでだというのだ。
 木の大きなジョッキに並々と注がれたビールが運ばれてきてだ。ソーセージやベーコンといったものも来た。そうしたものを前に置いたうえでだ。
 

 

364部分:第二十四話 私の誠意その二


第二十四話 私の誠意その二

 大公が最初にジョッキを持ってだ。客人達に話す。
「では。陛下の幸せを心より願って」
「はい、それでは」
「飲みましょう」
 こう話してである。彼等はそのビールを楽しく飲むのだった。
 大公だけでなくバイエルン全体で王を祝福し飲まれている。しかしだ。
 その中で渦中の王はだ。憂いに満ちた顔で宮廷にいてだ。
 友人でもあるホルンシュタインにだ。こう言うのだった。
「間も無くか」
「はい、喜ばしいことですね」
「そうだな」
 晴れやかな顔のホルンシュタインと対象的にだ。憂いに満ちた顔で言うのだった。
「間も無くだ」
「まさか」
 王のその表情に気付いてだ。ホルンシュタインはすぐに述べてきた。
「御成婚が近いので」
「それでだというのか」
「はい、気持ちが沈んでおられますね」
 そうなっているのではないかというのだ。
「そうですね」
「そうだな。今はな」
「誰でもそうです」
 微笑んでだ。王に話す彼だった。
「結婚が近付くとそうなります」
「そうなのか」
「だからです。何、御気に召されることはありません」
 身振りも踏まえてだ。王にさらに話す。
「そうした場合はです」
「どうすればいいというのだ?」
「飲まれることです」
 ホルンシュタインが薦めたのは酒だった。
「それが一番です」
「酒か」
「はい、丁度いいワインがあります」
「ワインか」
「如何でしょうか。今からそれを差し上げますか」
「プロイセンからのワインか」
 王はふとだ。ホルンシュタインに返した。
「それか」
「おや、プロイセンだというのですか」
「違うのか」
 こう彼に問うのである。
「あの国のワインではないのか」
「ははは、ドイツのワインはやはり西に限ります」
「西。モーゼルか」
「どうでしょうか。モーゼルは」
「そうだな。貰おうか」
 話を聞いてだ。王は憂いの顔のままホルンシュタインに答えた。
「それをな」
「それでは」
「プロイセンのワインでなければ」
 実は王は他のことも考えていたのだった。あの国の酒でなければというのだ。
「シャンパンか」
「フランスですか」
「ビスマルク卿はシャンパンがお好きだ」
 彼のその嗜好は既にだ。王は知っていたのだ。そのうえでの言葉だった。
「それではないのか」
「ははは、あの酒もいいですね」
「しかし今はないか」
「はい、モーゼルです」
 それだとだ。ホルンシュタインは両手を軽く動かしながら述べた。軽やかに手首をスナップを効かして振ってだ。そのうえで話しているのだ。
「白です」
「ではそれを貰おうか」
「チーズもありますよ」
 肴はそれだというのだ。
 

 

365部分:第二十四話 私の誠意その三


第二十四話 私の誠意その三

「それでいいですね」
「いい。ではだ」
「ですが陛下」
 王が飲むといったところでだ。また言うホルンシュタインだった。
「今から」
「そうさせてもらう。ところでだ」
 王はワインを飲むことにした。そこで話を変えてきた。
 ホルンシュタインに対してだ。あらためて問うたのである。
「この前だが」
「この前とは?」
「卿は何処に行っていたのだ?」
 こう彼に問うのである。
「暫くバイエルンにいなかったが」
「旅行と言えば信じて頂けますか」
 思わせぶりな笑みで言うホルンシュタインだった。
「そうして頂けるでしょうか」
「どうだろうか」
「おや、そう仰いますか」
「東の方に行っていたのだな」
 王は無表情で彼に告げた。
「そうだな」
「東ですか」
「チューリンゲンと言っておこうか」
 ドイツ東部の地だ。ワーグナーの歌劇タンホイザーの舞台でもある。チューリンゲンの城ワルトブルグにおいて歌合戦が行われるのだ。
 その地名を出してだ。王はホルンシュタインに問うのである。
「そこだろうか」
「ではそこにさせてもらいます」
「別に構わない」
 それでいいとだ。王は言った。
「卿が東に行くのはだ」
「宜しいのでしょうか」
「時代の流れは変えられない」
「そうですね。時代の流れは」
「そうだ。動いているのだ」
 王は表情のない顔でだ。彼にこのことも話す。
「それを止めることは人にはできない」
「その通りです。それは誰にもできません」
「卿はそれ故にだな」
「旅をしました」
 あくまでそういうことにするホルンシュタインだった。
「そしてこれからも」
「旅をするのだな」
「そうさせてもらいます」
「ならいい」
 またこう言う王だった。
「私も同感だからな」
「おや、そう仰るのですか」
「そうだが」
 ホルンシュタインが注ぎ込んだ美酒を手にしながらだ。王は話す。
 そうしてそのワインを一口飲んでからだ。王はまた話した。
「私とて。見えるのだ」
「そのことが見えることが素晴しいかと」
「そうだろうか」
「世の中にはそれが見えない者が多いですから」
 それでだというのだ。
「時代の流れを」
「それを読めない者が多いか」
「そう思います。このワインも」
 ホルンシュタインもそのワインを手にしている。そのうえで王と向かい合いだ。グラスを右手にしてそれをいとしげに見ながら話すのである。
「ドイツのワインです」
「ではだな」
「ドイツにいる誰もが飲むべきです」
「その為にか」
「また。東に出ます」
 その東が何処かはもう言うまでもなかった。
 

 

366部分:第二十四話 私の誠意その四


第二十四話 私の誠意その四

「そうさせてもらいます」
「反発に気をつけることだ」
「時代が見えない者に」
「そうするといい。私は平気だが」
 王が平気というとだ。ホルンシュタインはそれまで微笑んでいたものをいささか変えた。笑みは変えないが目に怪訝なものを宿らせた。
 その怪訝な目でだ。王に言うのだった。
「平気ですか?」
「嘘に聞こえるか」
「この場合は嘘ではないでしょう」
 そうは呼ばないというのだ。
「別のものです」
「その別のものとは」
「そうだと言わなければならないもの」
 ホルンシュタインは何故かこうした表現を使ってきた。
「そうではないでしょうか」
「言わなければか」
「はい、立場故に」
 今度はこう言うのであった。
「そうしなければならないものではないでしょうか」
「私は今それを言ったのか」
「そう思いますが」
「王故にか」
 ホルンシュタインが何を言いたいのかを読んでだ。王は述べた。
「私が王だからか」
「そうでなければいいのですが」
「私は何を言われても耐える」
 王は目は伏せなかった。しかし伏せようとしていた。それをすんでのところで止めてだ。そのうえでホルンシュタインに述べるのである。
「そうする」
「耐えられますか?」
「王は倒れない」
 これが王の言葉だった。
「決してな」
「ですが陛下」
 ホルンシュタインの顔から笑みが消えていた。そうなってしまっていた。
「王も人です」
「それはその通りだが」
「ならば。耐えられないこともあります」
 こう王に言うのである。
「人の言葉にも」
「言葉にか」
「言葉は毒です」
 今度はこんなことも言うホルンシュタインだった。
「人の心に毒の花を咲かせます」
「そうして人の心を蝕むというのだな」
「そうです。言葉程人の心を蝕み傷つけるものはありません」
「そうかもな。しかしだ」
「それでもですか」
「私は王だ」
 このことがだ。王を王たらしめていた。バイエルン王はそうした意味で生まれついての王だった。
 だがその生まれついての王故にだ。王は言うのだった。
「だからそうした毒の花はだ」
「咲きませんか」
「咲かせないようにしたい」
 望みだった。できればというのだ。
「そう思う」
「咲かせないようにですか」
「毒の花なぞあってはならないのだ」
 この願いもだ。王は口にした。
「心を蝕む様なものは」
「その通りですね。誰もがそう思います」
「その通りだ」
「ですが。どうしてもです」
「それは宿ってしまう」
「宿らせてしまうのです」
 自分でそうしないようにしてもだ。それでもだとだ。ホルンシュタインは話す。彼の言葉は必然的にそうなってしまう、そうした言葉だった。
 

 

367部分:第二十四話 私の誠意その五


第二十四話 私の誠意その五

「人とはそういうものです」
「言葉を。気にしないようにしても」
「気にしてしまいますから」
「気にしたくない。いえ」
「いえ?」
「耳に入れたくない言葉が多い」
 こう言うのだった。
「どうしてもな」
「ワーグナー氏のことでしょうか」
「話さねばならないか」
「いえ」
 それはいいというのだ。別にだ。
「それは構いません」
「言わずともいいのだな」
「はい、陛下が仰りたくないのなら」
「そうか。済まないな」
「御気に召されずに。ですが」
「ですが?」
「あの方とのことについて私は何も言うつもりはありません」
 穏やかな顔でだ。ホルンシュタインは王に話すのだ。
 そのことを話してだ。あらためて王を見て言うのだった。その絵画の世界の中にそのままいるかの様な、あまりにも整った美貌を。
「陛下の望まれるままに」
「私の望むままに」
「音楽、いえ芸術で国を傾けた者はいません」
 少なくともだ。この時代まではだ。世界にはいなかった。
「むしろ後世にです。芸術を愛した君主としてです」
「名を残していったな」
「陛下は歴史に名を残されたいでしょうか」
「そうした考えはない」
 王にはそうした虚栄心はない。そうした俗世の欲には乏しいのだ。
 その考えをだ。そのままホルンシュタインに話すのである。
「歴史に名を残して何だというのか」
「何にもならないですか」
「そうだ。自己満足に過ぎない」
 自己満足についてはだ。こう言うだけだった。
「そんなものは実に下らないことだ」
「そう御考えですね」
「私はただ愛しているだけなのだ」
 それだけだというのだった。
「ワーグナーの芸術を。そして」
「そして?」
「彼の全てをだ」
 話はそこにまで及んだ。彼の全てだというのだ。
「その中にある全てを愛しているのだ」
「左様ですか」
「それはおかしいだろうか」
「そうですね。陛下は彼に見返りは求めておられますか」
「彼の芸術」
 それだった。王が彼に求めているものは。
「それだ」
「彼は芸術家ですからそれは当然のものとして生み出されますが」
「それだけでいいのだ。これまでの芸術も」
「そしてこれからの芸術も」
「おそらく。パルジファルまでだ」
「パルジファル?」
「彼が今考えている作品だ。壮麗な宗教になる様だ」
 パルジファルとはだ。そうした作品だというのだ。
「その作品までだな」
「御覧になられたいのですね」
「その通りだ。そこまで観ることができて」
 そうしてだというのだ。
「彼の芸術をこの世に再現できたなら」
「この世に?彼の芸術を?」
 王の今の言葉にだ。ホルンシュタインはふと妙なものを感じた。それは美麗であるが何か不吉なものも含んでいる様な、そうしたものを感じたのだ。
 だが王はだ。そのことをだ。さらに話すのだった。
 

 

368部分:第二十四話 私の誠意その六


第二十四話 私の誠意その六

「そうだ。この世にだ」
「それは彼の作品が出ることを助けられることでしょうか」
「それもある」
「それもとは」
「考えているのだ。私は何を為す為にこの世にいるのか」
 こうした話もだ。王は自分から話した。
「その答えが間も無く出るかも知れない」
「そういえば劇場を造られるそうですね」
 ホルンシュタインはそれではないかと考え王に問うた。ワーグナーが自分の作品だけを上演する歌劇場を設けることを考えていることは彼の耳にも入っているのだ。それでこう王に問うたのだ。
「そのことでしょうか」
「さらにだ」
「さらにとは?」
「いや、どうしたものか」
 王の言葉が途切れた。自分で切った形だ。
 そうして切ってからだ。王はふと壁にある時計を見た。そのうえでホルンシュタインに対して話した。
「時間か」
「おや、もうですか」
「そうだ。時間だ」
 こうホルンシュタインに話すのだった。
「政治に戻ろう」
「では今から王の間に」
「首相が待っている」
 ワインを飲み干し。グラスをおいてから述べた。
「おそらく話はだ」
「フランスのことでしょうか」
「何かの誤解ではないのか」
 王の言葉がここで動いた。
「何故あの国はプロイセンをそう言うのだ」
「フランスだからですよ」
「あの国だからだというのか」
「あの国は昔からではありませんか」
 軽い笑みになってだ。ホルンシュタインはフランスについて述べた。彼もまたグラスを置いている。
「我がドイツをです」
「憎み嫌ってきたか」
「我々の関係は神聖ローマの頃から変わりません」
 最初のドイツの帝国だ。その頃からだというのだ。
「互いに敵対し合う間柄です」
「それはその通りだな」
「我々はフランスには散々煮え湯を飲まされてきました」
 フランスもまたそう言うことだった。とかくフランスとドイツには因縁が多い。その因縁はホルンシュタインだけでなく王もよくわかっていた。
「ですが今回はです」
「そうだな。今回はな」
 王は今は何処かだ。無気力に応えたのだった。
 そしてホルンシュタインも王のそれに気付いてだ。問うたのだった。
「陛下、やはり」
「やはり。何だ」
「フランスとの戦争は」
「好きになれない」
 実際にそうだと答える王だった。
「私は戦争自体がだ」
「お好きではありませんね」
「そしてフランスはだ」
 どうかというのだ。その国は。
「好きだからな」
「だからこそあの国との戦争はですか」
「避けられないな」
 王はこのことを言葉にして漏らした。
「そうだな」
「おわかりですか。そのことは」
「ドイツ統一の為にはだ」
「はい、やはりフランスとの戦争は避けられません」
「その為の総仕上げだ」
 まさにだ。それだというのだ。
「その為にもだ」
「その通りです。ですから」
「わかっているのだ」
 それがわからない王ではなかった。それだけの洞察は備えている。しかしわかったからといって納得できることとできないことがある。王は今は納得していなかった。
 

 

369部分:第二十四話 私の誠意その七


第二十四話 私の誠意その七

 その納得しないままでだ。王は話した。
「しかしそれでもだ」
「陛下、しかし」
「王はだな」
「時としてその御心とは逆のこともです」
「決めなければならない」
「それが今か」
 そのだ。フランスとの戦争だというのだ。
「決めるのではなく追認か」
「そう思われますか」
「私の決断は参戦への決断だ」
 それだというのだ。王の決断は。
「開戦を決めるのはだ」
「プロイセンです」
「そうだ。プロイセンだ」
 バイエルンではない。王の国ではないのだ。
「バイエルンはそのプロイセンに続くだけだ」
「その通りです。ですから」
「これが時代の流れだ」 
 王の言葉は項垂れるものになっていた。顔はあげている。しかしその言葉は項垂れていた。その項垂れる声での言葉だった。
「バイエルンはその中に従うだけだ」
「それではですね」
「私は従う」
 王は言った。
「その時代にだ。いや」
「そうですね。いや、となりますね」
「私はその決断をするしかないのだ」
 参戦への決断、それだというのだ。
「私はそれをする」
「そうです。バイエルンはそうするしかないのです」
「卿はそれに従うのか」
 ホルンシュタインを見た。そうしての問いだった。
「その時代の流れに」
「進んでしていると思われますか」
「さてな。そこまではわからないが」
「それは置いておいてです」
「プロイセン、いやドイツとフランスの戦いは避けられない」 
 王はこの現実を再び話した。
「ビスマルク卿は必ずだ」
「そう、戦争をされます」
「今考えておられる筈だ」
 そのだ。戦争のことをだというのだ。
「どうしてはじめるか。そして」
「そして?」
「どう終わらせるかだ」
「終わりまで考えておられますか、あの方は」
「全てにおいてはじまりと終わりがある」 
 王はそこから話した。戦争についてだ。
「戦争も然りだ」
「何時までも続く戦争はありませんか」
「その通りだ。次の戦争の目的は二つある」
「二つ。では一つは」
「ドイツ統一だ」
 最初に来るのはこれだった。
「ドイツ統一が目的だ」
「そうですね。そのドイツにです」
「そして次はだ」
「はい、次は」
「ドイツ皇帝だ」
 皇帝、こう言ってだ。王の言葉が微かに動いた。
 心の揺れ動きを出してだ。そうしてだった。
「第二の帝国の主を生み出すことだ」
「そうですね。神聖ローマ帝国に続く第二の帝国です」
「神聖ローマ帝国は滅んだ」
 十九世紀にだ。王の愛するフランスの主、しかもそのバイエルンを王国にしたナポレオンによってだ。神聖ローマ帝国は完全に抹消されたのだ。
 

 

370部分:第二十四話 私の誠意その八


第二十四話 私の誠意その八

 建国当初から各領主達の寄り合い所帯であり三十年戦争で死亡通知を渡された国だったが国名としては残っていたのだ。しかしその継承者としてなのだ。
「だが。再びだ」
「はい、ドイツは皇帝を戴きます」
「フランス皇帝に取って代わるな」
 王は既に読んでいた。ドイツの勝利、そしてフランスの敗戦とフランス皇帝であるナポレオン三世の退位を。全て読んでいたのだ。
 読みながらだ。さらになのだった。
「王の上に立つ皇帝だ」
「ドイツはその下に統一されるのです」
「いいことなのだろう」
 ここでは。言葉の最後を疑問符としたのだった。
「だが。それは」
「陛下は」
「私は王だ」
 そのだ。王だというのだ。
「王は」
「しかしそれもです」
「そうなのだ。それもまた」
 王の言葉が曇った。そうなった。
「わかっているのだ」
「では。そのプロイセンとのつながりを進められる首相とこれから」
「会おう」
 こう言ってであった。王は玉座の間に向かった。
 そしてそのホーエンローエと会う。まずは王から彼に声をかけた。
「よくぞ来られました」
「有り難きお言葉」
 儀礼的な挨拶から話をはじめる。まずは政治の話だった。
 首相はだ。王にこう話すのだった。
「一つ厄介なことになっております」
「厄介なこととは」
「新聞です」
 この時代新聞の力が日増しに増してきていた。それはバイエルンも同じだ。プロイセンは締め付けが厳しかったがバイエルンはそれに比べて穏やかだったのだ。 
 その為バイエルンでは記者達はかなり色々なことを自由に書いていた。その中には下品なものもあったがそれでもマスコミの力は強くなっていた。
 そのマスコミについてだ。首相は話すのである。
「彼等のことですが」
「新聞ですか」
「陛下も御存知だと思います」
 王に顔を向けて問う言葉だった。
「新聞のことは」
「はい、そのことは」
 王はワーグナーが新聞にどう書かれていたのかを思い出してだ。そのうえで辛い顔になってそのうえで苦い声で話をした。
「よく」
「そうですね。そしてそれはです」
「今もですか」
「さらに酷くなっています」
 首相は焦っているかの如き口調になっていた。
 その口調でだ。王にさらに話していく。
「誹謗中傷で満ちています」
「そうですね。確かにそれは」
「それでなのですが」
「それで?」
「彼等を取り締まるべきです」
 これが本題だった。首相の言いたいことだった。
「このままではさらに酷いこととなります」
「新聞の規制ですか」
「はい、陛下はどう思われますか」
「別にいいでしょう」
 王はだ。新聞についてこう言うだけだった。
「そのことは」
「宜しいのですか」
「はい、確かに新聞には誹謗中傷も多いです」
 王もそのことは認めた。
「それも実に」
「そうです。ですから」
「しかし規制して何かなるものではありません」
「ないとは」
「そうです。人の口を塞いでもそれでことは解決しません」
 王は表情を消していた。そのうえでの言葉だった。
「若し私が新聞を規制して口さがない記事を止めたとします」
「そうするべきですが」
「しかしそれで人の言葉は止まるでしょうか」
 王はこう首相に話すのであった。
 

 

371部分:第二十四話 私の誠意その九


第二十四話 私の誠意その九

「噂話になって出るだけです」
「噂ですか」
「噂はそよ風の様に広がりそしてです」
「そして」
「人の心に毒の花を咲かせます」
 ホルンシュタインとの話で出たことを首相にも話した。
「結局は同じことなのです」
「しかしこのままではです」
「新聞の記事はさらに酷くなりますか」
「そしてその記事に煽られてです」
 どうなるかというのだ。
「民衆がどうなるかです」
「そうですね。彼等が惑わされます」
 このことも話すのだった。民衆についてもだ。
「それもありました」
「陛下も御存知では」
「しかし。やはり止めてもです」
 またワーグナーのことを思い出す。彼は新聞の記事に煽られた民衆にも攻撃されたのだ。しかしそれでもどうかというのである。
「同じです」
「同じですか」
「はい、先程も言いましたが」
「噂になるだけですか」
「ですから。同じなのです」
 王はこう言ってだ。それはしないというのだった。
 そのうえでだ。王は首相にこんなことも話した。その話は。
「ですが首相」
「はい」
「今は大事な時です」
 こう話してからだ。どうかとだ。首相に話していく。
「ですから貴方にお任せします」
「私にですか」
「このまま舵をお取り下さい」
 これが首相に告げる言葉だった。
「首相として」
「そうして頂けるのですか」
「その通りです。新聞の記事に惑わされることのないよう」
 首相が何故今ここにいるのかわかっていてだ。こう告げたのである。
「宜しいですね」
「はい、そうさせてもらいます」
「議会についてもです」
 バイエルン議会だ。この議会も力をつけてきていた。バイエルンにも近代の波が来ていて影響を与えていたのだ。そうした時であったのだ。
「御気に為されぬ様」
「では私はこのまま」
「首相として責務に励まれて下さい」
 この場ではじめて微笑んだ。そのうえでの言葉だった。
「是非共」
「はい、それでは」
 こうした話をしてだ。首相は満足した顔で微笑みそのうえで王の前から退出した。今は婚礼の話はしなかった。そうした話だった。
 その話をしてからだ。王は己の部屋に下がった。その彼にだ。
 ホルニヒがそっとコーヒーを差し出す。それを受け取ってだ。
 まずは一口飲む。それからあらためてホルニヒに話した。
「新聞は確かに厄介だ」
「首相とのお話ですか」
「だが。人の言葉は。心は」
「心ですか」
「それはどうしようもないのだ」
 こう言うのである。辛い口調でだ。
「どうこうはできない」
「できませんか」
「結局は同じだ。噂話になって出る」
 噂の話をだ。またした。
「それではだ」
「塞いでも同じですか」
「全く同じだ。ならばしないに限る」
「ですがビスマルク卿は」
 ホルニヒがこう言うとだ。王はすぐにこう返した。
「あのことだな。カトリックと社会主義」
「はい。あの方はその二つに対して強硬ですが」
「あれは政策としてだ」
「政策ですか」
「まずカトリックだ」
 バイエルンもカトリックである。無論王もだ。信仰心も持っている。しかしここでは王は冷静にだ。かつ淡々としてそのカトリックのことを話すのだった。
 

 

372部分:第二十四話 私の誠意その十


第二十四話 私の誠意その十

「あまり過度にものを持っていては駄目なのだ」
「それはどうしてでしょうか」
「ドイツ。統一されたドイツはプロテスタントも存在する」
「プロイセンですね」
「ザクセンもだがな。何はともあれだ」
「あまりカトリックが強くなっては」
「そうだ。プロテスタントと衝突する」
 それが懸念されるからだ。カトリックの力が強くなることを抑えるというのだ。
「それを避ける為にだ」
「だからこそカトリックを抑えているのですか」
「確かにプロイセンはプロテスタントだ」
 つまり新しいドイツはプロテスタント主導になるということだ。そのドイツを主導するプロイセンがプロテスタントの国であるからにはだ。
「そしてドイツ皇帝もだ」
「プロテスタントですね」
「そうなる。しかしそれに対してだ」
「カトリックが過度の力を持ち要求するとですか」
「国が分かれる。あの時代の様に」
「三十年戦争ですか」
「ドイツは宗教的には変わっていないのだ」
 流石にそれで破滅的な内戦に至ることはないにしてもだ。宗教的な構造は三十年戦争の頃と全く変わっていないというのだ。
「それではだ」
「カトリックにあまり力を持たせられませんか」
「それ故にだ。あの方はだ」
「カトリックを抑えられているのですか」
「これは同時に保守主義者、あまりにも頑迷なそれを抑える目的もある」
「保守主義者もですか」
「あの方は極端な保守主義も好まれない」
 ビスマルクは実際には中庸なのだ。バランス感覚のある男なのだ。
 だからだ。あまり極端な保守主義、国家に害を為すレベルのそれは否定しているというのだ。これは彼が生粋の政治家であるが故のことだ。
「だからだ」
「カトリックは保守的ですね」
「それでだ。あの方は政治としてそうされているのだ」
「では社会主義もですか」
「あれはより危険だ」
 王の顔が強張った。そのうえでの言葉だった。
「マルクスだな」
「はい、あのユダヤ系の」
「そもそもユダヤ系なのにだ」
 そのマルクス自身の話からだ。
「何故同じユダヤ系を嫌うのか」
「彼は宗教を否定しているそうですね」
「宗教を否定しその共産主義を信じろと言っているな」
「それでは同じではないのでしょうか」
 ホルニヒはそのこと、共産主義への信仰について怪訝な顔を見せた。
「共産主義という宗教への強制では」
「その通りだ。しかもだ」
「しかも?」
「共産主義の出生は極めて危険なのだ」
「危険ですか」
「一見新しい様に見える」
 共産主義、ここでは社会主義と同義語になっているそれはどうなのかというのだ。王のその知識と洞察は答えを出させていたのだ。
「だが違うのだ」
「違うのですか」
「あれはジャコバンだ」
 それだというのだ。フランス革命での急進的共和主義者だというのだ。
「それなのだ」
「ジャコバンですか」
「革命を起こしそれ以前の全てを完全に否定する」
「そこが同じだというのですか」
「その通りだ。社会主義者達もそう主張しているな」
「では。やはり」
「そういうことだ。彼等はジャコバン派の後継者、落とし子なのだ」
 王の目は確かなものになっている。カトリックについて話すよりもだ。その目も言葉もだ。恐ろしい危機を見る目になって話しているのだ。
「その彼等を許せばだ」
「ドイツがおかしくなりますか」
「若しドイツが社会主義の国になる」
「そうすればどうなりますか」
「思想は一つになる」
 一つ、それだけを聞けば耳に心地よいものだった。
 だが、だ。王はそうではない証拠をホルニヒに話した。
「一つの思想以外は認められなくなる」
「社会主義以外は」
「彼等は自分達以外を認めない」
「ではカトリックもプロテスタントも」
「共に抹殺される」
 抑えられるのではなくだ。そうなるというのだ。
「何しろ宗教を否定しているのだからな」
「そうなってしまうのですか」
「彼等は労働者と農民の国を造ると言っている」
 王は彼等の主張を聞いていた。そのうえでの言葉だった。
 

 

373部分:第二十四話 私の誠意その十一


第二十四話 私の誠意その十一

「だがそれも偽りなのだ」
「真実ではありませんか」
「ジャコバン派は何をしたか」
 そこから話すのだった。ここでもジャコバン派だった。
「ロベスピエールが全権を握ったな」
「はい。絶対者になりました」
 ホルニヒも知っていた。彼も学んだのだ。
「まさに。全てを握りです」
「そうだったな。ああなるのだ」
「ジャコバン派の落とし子故に」
「労働者と農民、どちらも必要とあらば次々に殺されていく」
「彼等もですか」
「フーシェは叛乱を抑える時にその町の市民の一割を殺した」
 その一割についてもだ。問題だというのだ。
「一割を殺すと決めてそのうえで一割を実際に殺したのだ」
「その一割の中に関係のない者は」
「勿論いた」
「その彼等もですか」
「そうだ。殺したのだ」
 この歴史的事実をだ。王は話すのだった。
「革命と言えば聞こえはいい」
「しかしその実態は」
「流血と破壊だ」
 王の言葉にも血が入る。王が最も忌んでいるものがそこにあるからだ。
 王はだ。その革命についてさらに話していった。
「その他にもだ。多くの血が流れているのだ」
「罪のない市民達の間で」
「市民の国だと言っていた」
 これは事実だ。何しろジャコバン派は急進的共和主義である。その背景には圧倒的多数の市民がいることになっているのだ。しかしそれは。
 建前でありだ。実際はどうかというのだった。
「だが。その市民達をだ」
「割合を決めそれだけ殺戮したのですか」
「街も破壊した」
 殺戮だけではなかった。
「それもだ」
「街までも」
「そうだ。何もかもを破壊し殺戮したのだ」
「それはフーシェ個人の問題ではないのですね」
「確かにフーシェは怪物だった」
 フランス革命は無数の革命家を生み出した。しかしそれとは別に四人のある意味において際立った存在も生み出してしまったのだ。
 まずは一人の独裁者だ。ロベスピエールである。
 そして一人の英雄だ。ナポレオンだ。フランス革命の最後に現れバイエルンにも大きな影響を与えた存在である。その彼と共にだ。
 二人の怪物、それが問題だった。
 一人はタレーランという。僧侶階級出身であり片足を引き摺っている一見して冴えない男だ。だが女性を篭絡することに長け恐ろしいまでの交渉能力を持っていた。その怪物ぶりはナポレオンすら手出しできなく最後は裏切られ破滅させられた。
 その怪物のもう一人がフーシェだ。天才的とも言える組織構成能力に悪魔的なまでの情報収集能力を以てフランスの警察機構を一手に握った。そのうえで辣腕を振るいやはりナポレオンにも手出しをさせず彼を裏切って破滅させたのだ。尚彼等はウィーン会議でフランスも救っている。
 そのフーシェの資質だけではないというのだ。
「あの怪物の問題でもロベスピエールの問題でもないのだ」
「革命そのものにあるのですか」
「そしてジャコバン派にだ」
「ジャコバン派ですか」
「あれは個人を否定し全てを絶対者に委ねるものだ」
 こう言うとキリスト教にも聞こえる。しかしなのだった。
「その絶対者が神となるのだ」
「神に」
「神の下に派、今は共産党がありだ」
「共産党が全てを治める」
「絶対者とそれに動かされる共産党が絶対の正義となる」
「この世の神に」
「そのこれまでの全てを否定する者達が治めるのだ」
 さすればだ。どうなるかというのだ。
 

 

374部分:第二十四話 私の誠意その十二


第二十四話 私の誠意その十二

「自分達と違う存在は全て消されるのだ」
「それが共産党であり社会主義ですか」
「そういうことだ。それがドイツを覆えば」
「その時は」
「ドイツは地獄となる」
 王の言葉は強張っていた。どうしてもそうなってしまうのだった。
「ビスマルク卿もそれがわかっておられるのだ」
「その地獄が訪れることをですか」
「だからあの方はそうしておられるのだ」
「政治としてカトリックも社会主義者も抑えておられるのですか」
「だが第一は社会主義者だ」
 何につけてもだ。彼等なのだった。
「社会主義の下では芸術もまやかしになる」
「まやかし」
「それに」
「そうだ。まやかしになるのだ」
「芸術は芸術ではないのですね」
「それは国民に政治的に見せるだけのショーになる」 
 啓蒙やそうした適当な理由をつけただ。それになるというのだ。
「そんなものは芸術ではないのだ」
「全てが政治にありショーになる」
「それが社会主義だ。そして彼等は」
「この国においてもですね」
「知識人は何もわかっていないのだ」
 今度は知識人、ドイツが誇る筈の彼等を否定もした。
「ただ。新しいものを無批判に受け入れているだけだ」
「それだけですか」
「所詮はそうなのですか」
「そうだ。それだけなのだ」
 また言う王だった。
「多くの者はビスマルク卿がされていることを理解していない」
「ドイツの為にされているということを」
「不思議だな」
 ここまで話してだ。王は微かな笑いを浮かべてだ。
 そのうえでだ。こう言うのだった。
「私はあの方と何もかも対極の位置にいるのにだ」
「それでもだというのですか」
「それでも。あの方のことは理解できる」
 王はだ。それができるというのだ。
 そしてだ。さらにこうしたことも言葉として出した。
「そのうえでだ。好意を感じる」
「御好意もまた」
「あの方もまた私を理解してくれていて好意を抱いてくれている」
「御互いになのですね」
「そのことはとても嬉しい。私を理解してくれる人は少ない」
 王はよくわかっていた。自分を理解してくれる存在は少ないということがだ。王は孤独だった。だがその孤独さえも理解している者がいるのだ。
 それでだ。王はそのことに感謝を感じ。ホルニヒにこう話した。
「私は。やはり」
「やはり?」
「ローエングリンと共にいたい」
「ローエングリンですか」
「あの騎士は私を最も理解してくれる」
「だからなのですね」
「そうだ。共にいたい」
 そこにはいない筈のローエングリンを見て。そのうえでの言葉だった。
「永遠にな」
「陛下は既にローエングリンですから」 
 ホルニヒが今こう言った根拠は王がゾフィー、婚約している彼女をエルザと呼んでいることからだ。妻となる女性をエルザと呼ぶ、それはローエングリンに他ならないからだ。
 だが王は自分である筈のローエングリン、青い湖から小舟に乗り姿を現す白銀の騎士を見つつだ。幻想の中に浸りながらだった。
 この言葉をだ。出すのだった。
「彼と共にいられたら」
「共に?」
「私は。それで満ち足りることができるのだろうか」
「では陛下」
 ホルニヒはそんな王を気遣いこう提案する。
 

 

375部分:第二十四話 私の誠意その十三


第二十四話 私の誠意その十三

「今からです」
「ローエングリンをか」
「それを聴かれてはどうでしょうか」
 ローエングリンのだ。その音楽をだというのだ。
「そうされてはどうでしょうか」
「そうだな。そうするか」
「ではどの音楽にされますか」
「第二幕から」
 そこからだと。王は言った。
「聖堂への合唱を」
「あの曲をですか」
「ビューローはいるな」
 彼を呼ぶのだった。ワーグナーの弟子であり現在もコジマの夫ということになっている彼をだ。
「彼を呼んでくれ」
「わかりました。それでは」
「しかしその音楽ですか」
「そうだ。そこに何かあるのか」
「宜しいかと」
 微笑んでだ。王に述べるのだった。
「あの曲はエルザの幸せを祝福する曲ですから」
「だからか」
「陛下と。ゾフィー様を」
 まさにだ。その彼女とだというのだ。
「祝福する曲ですから」
「そうなるな。彼女はエルザだ」
「そして陛下は」
「ローエングリン。その筈だから」
 それでだとだ。王に話すのだ。その話を聞いてだ。
 王も納得してだ。そのうえでだ。
 王はビューローを呼び彼にピアノでその曲を演奏してもらう。そうしたのだ。
 だが音楽が終わってからだ。王はそのビューローに対して言うのだった。
「貴方は近頃」
「近頃?」
「心が離れていませんか」
 こうだ。演奏したビューローに対して言うのである。
「ワーグナーの芸術から」
「いえ、それは」
 ビューローは気まずい顔で王に返した。一応は否定だった。
「ありません。私のマイスターはです」
「ワーグナーだけですね」
「そうです。そのことは御安心下さい」
「だといいのですが」
「それでなのですが」
 ビューローは話を誤魔化す様に自分から言ってきた。表情は何処か必死である。やはり何かを隠す様にだ。王に言うのである。
「日が近付いていますが」
「あのことですか」
「はい、御婚礼です」
 彼もだ。このことを王に話すのである。
「そのことですが」
「その音楽はです」
「婚礼の際のですね」
「それは貴方にお任せします」
 そのだ。ビューローにだというのだ。
「そうさせてもらいます」
「有り難き幸せ。それでは」
「受けてくれますか」
「そのことについてです」
 ここでまた、だった。ビューローの顔が曇った。王はその曇りを見逃さなかった。
 だがそれでもだ。王はそのことについてあえて言わずにだ。ビューローの言葉を表情を変えないまま聞いていくのだった。
「マイスターとお話しますので」
「ミュンヘンで」
「あの作品は受け取られたでしょうか」
「はい」
 王の表情が明るくなった。そのうえでの言葉だった。
 

 

376部分:第二十四話 私の誠意その十四


第二十四話 私の誠意その十四

「そうさせてもらいました」
「マイスタージンガーをですね」
「遂にあの作品が上演されますか」
「そうですね。あの作品は素晴しい作品です」 
 ビューローもそのことは素直に認められた。ニュルンベルグのマイスタージンガーという作品のその素晴しさはだ。ワーグナー自身はともかくとして。
「必ず陛下のお心に残るでしょう」
「そうですね。楽譜と詩を見ましたが」
「そのどちらも」
「素晴しい。確かに長く壮大な作品ですが」
 ワーグナーらしくだ。しかもその中でもとりわけなのだ。
「その壮大さに心を浸らすことのできる作品です」
「そうですね。そして」
「指輪ですか」
「私はあの作品の完成も待っています」
 王の望みはそこにもあった。指輪のだ。
 指輪についてはだ。王はこんなことを述べた。
「あの作品は歴史に永遠に残るでしょう」
「人類の歴史にですね」
「そう、残ります」
 まさにそうだというのだ。
「人の心にもです」
「心にもですか」
「その作品を一刻も早く観たい」
 素直な望みだった。王のその中にある純真なまでの望みだった。
「そう願ってやみません」
「では。待たれて下さい」
「全てが整うまで」
「マイスターは指輪の完成を進められています」
 ただしどれだけの速さかはあえて言わないビューローだった。彼はワーグナーの完璧主義とそれに基く完成の遅さを知っているのだ。
 それを言わないのは王への気遣いだった。しかし王は。
 その青い目に焦りの色を浮かべて。こう言うのだった。
「それを願います」
「一刻も早くですね」
「そうです。何とか早くに」
「待たれることです」
「待つのですか」
「その完成まで」
 こう言っていればいいと思っていた。彼は王は待つと思っていた。しかしだ。
 王は次第に待ちきれなさも感じていたのだった。ビューローはそのことに気付かない。このこともまた次第にうねりになっていくのだ。
 この時王はそのことだけを考えていた。それでだ。
 婚礼のことを言われてもだ。こんな調子だった。
「では。御婚礼の際は」
「婚礼とは」
 ビューローに言われてもだ。こんな調子だった。 
 だがすぐに我に返った様になってだ。こう言うのだった。
「ああ、あのことですね」
「間も無くですのね」
「そうですね。それは近いのですね」
「やはり。不安でしょうか」
 結婚を経験している者として王に尋ねる,。
「今は」
「不安ですか」
「そうです。人は幸せを前にすると不安になったりもするものですから」
「それが手に入れられるかどうか。考えてですね」
「はい、ですから」
「不安。そうですね」
 不安という言葉を自分の口で出して。それからの言葉だった。
「むしろそれよりもです」
「それよりもとは?」
「恐れ、いえ嫌悪」
「嫌悪?」
「私は何故かです」
 こうだ。王は言うのだった。
「恐怖に基く嫌悪を感じています」
「恐怖に基く?」
「同じ性別の相手と結婚し褥を共にし」
 そしてだというのだ。
 

 

377部分:第二十四話 私の誠意その十五


第二十四話 私の誠意その十五

「生涯を共に過ごす様な」
「そうした恐怖をですか?」
「そうです。私は男性で彼女は女性です」
 このことは把握しての言葉である。それもよくだ。
「ですが。女性は」
「女性が同性だと」
「何故かそう感じてしまうのです」
 そうなるとだ。王はビューローに話すのだ。
「おかしなことにです」
「陛下、それは」
「御存知ですね。私は男性を愛しています」
 自らの同性愛も話すのだった。
「しかしその時はです」
「同性とは感じられないのですか」
「異性に感じます。それで」
「ゾフィー様とのことは」
「同性に感じます。同性を愛すること」
 このことをキリスト教、しかもカトリックの観点から考えて。その言葉は。
「それは恐ろしい罪悪です」
「教会はそう言いますね」
「私は既に罪を犯している筈です」
 既に男性を愛していっている。それならばだというのだ。
 だがそのことについてだ。王はどう考えているかというと。
「しかしそのことに罪の意識を感じたことはなく」
「ゾフィー様とは」
「何故でしょうか。恐ろしい罪悪を感じてしまうのです」
「妙なことですね」
「私もそう思います」
 他ならぬだ。王自身もだというのだ。
「そんな筈がないというのに」
「そうですね。まことに」
「私は。結婚するべきなのですね」
「素直に申し上げて宜しいでしょうか」
 ビューローは常識人だった。そして師程ワーグナーを完全に理解していない。だからこそだ。彼はこう王に対して述べるのだった。
「そうして」
「どうぞ」
「すべきだと思います」
 それはだ。絶対だというのだ。
「しなければなりません」
「そうですね。普通に考えれば」
「そうです。王は王妃を迎えてこそです」
「まことの意味での王となる」
「だからこそです」
 それでだというのだ。
「ゾフィー様をお妃に迎えるべきです」
「その通りですね。しかし」
 それでもだと。王の言葉は揺らぐ。
 その揺らぐ言葉は心そのものだった。その心も出してだ。
 王はゾフィーとの婚礼についてだ。ある決断を下したのだった。
 それを知った誰もがだ。一体何ごとかと言うのだった。
「御婚礼を延期だと!?」
「バイエルン王は何を御考えなのだ!?」
「何故その様なことをされる」
「それは間も無くだというのに」
「わからない」
 王のその考えはだ。殆んどの者がこう言った。
「ここに来てそれか」
「そんなことをして何になるのだ」
「何にもならないというのに」
「どういうことだ」
 こう言ってだ。いぶかしむ彼等だった。
「何処をどう考えてなのだ?」
「あちらの家も当惑しているだろう」
「バイエルンにとってもよくない」
「それなのに何故」
「全くわからないが」
 欧州中でこのことにいぶかしむのだった。しかしバイエルン王は婚礼を延期すると決めた。このことを知りだ。オーストリア皇后は旅先でこう漏らした。
 

 

378部分:第二十四話 私の誠意その十六


第二十四話 私の誠意その十六

「ああなると思っていました」
「ああなるとですか」
「そうだというのですか」
「はい、バイエルン王は女性とは結婚できない方なのです」 
 そうだとだ。皇后は遠くを見る目で話すのだった。
「決して」
「決して?」
「結婚できない方なのですか」
「何故ローエングリンを愛するのか」
 ここでもだった。この騎士の名前が出た。
「それを考えると」
「ゾフィー様とはまさか」
「このまま」
「覚悟しています」
 ゾフィーの姉、そして王の従姉としての言葉だった。
「このこともです」
「左様ですか」
「そうなのですか」
「はい、しかしそうなれば」
 最悪の事態になればどうなのか。皇后はその際立った美貌を強張らせ。こう言うのだった。
「私はあの方を暫くは」
「暫くは?」
「暫くはといいますと」
「許せないでしょう」
 そうなるというのだ。それは何故かというと。
「私はゾフィーの姉なのですから」
「だからですか」
「そうだからこそですか」
「はい、そうです」
 まさにそこにだ。皇后の覚悟があった。
「ですから。暫くの間は」
「そうなればですか」
「バイエルン王を」
「しかし私はやがては」
 それでもだというのだ。許せなくなろうとも。
「やがて時が来ればです」
「許されるのですね」8
「そうされますか」
「間違いなくそうします」
 自分でもわかっているというのだ。そのことは。
「必ずです」
「そうですか。必ずですか」
「あの方を許されますか」
「私にとってあの方は」
 バイエルン王は何か。そういう話だった。
「もう一人の自分なのですから」
「もう一人のですか」
「皇后様御自身なのですか」
「はい、そうです」
 まさにそうだというのだ。皇后にとって。
「私にとってはそうした方です」
「だからこそですか」
「皇后様はバイエルン王を許される」
「そうされるのですね」
「その通りです。私は鴎で」
 自分自身はそれだとして。王は。
「あの方は鷲なのです」
「バイエルン王は鷲ですか」
「そうなのですか」
「そうなのです。鷲なのです」
 まさにそうだというのだ。バイエルン王は鷲だというのだ。
「あの方はそうなのです」
「ですか。鴎と鷲」
「そうなっているのですか」
「だからこそ。最後には許すでしょう」
 そうなるとだ。自分でも語る皇后だった。
 

 

379部分:第二十四話 私の誠意その十七


第二十四話 私の誠意その十七

「あの方を。けれどあの方は」
「バイエルン王は」
「といいますと」
「あの方は結ばれず。その代わりのものを」
 皇后にはわかっていた。読めていたのだ。もう一人の自分だからこそだ。バイエルン王のそのこともわかったのである。
「求められるでしょう」
「求められるとは何を」
「一体何をでしょうか」
「代わりのものとは」
「はい、幻想を現実のものにすることをです」
 それをだというのだ。王は求めるというのだ。
「求められるでしょう」
「幻想を現実に?」
 皇后のこの言葉には誰もが首を傾げさせた。それは最初聞いただけでは殆んどの者がわからないことだった。しかし皇后はその彼女達にだ。
 静かにだが確かにだ。こう言うのだった。
「といいますと」
「一体どういうことでしょうか」
「幻想をこの現実の世界にですか」
「そのものにするとは」
「あの方が愛されている世界」
 皇后の目にそれは見えた。あの銀色の聖杯が。
 それは眩く、優しい光を放ち宙に浮いている。その聖杯を見つつ話すのだった。
「白鳥がいて。女神の洞窟があり」
「白鳥に女神」
「そういった存在が」
「そうです。そし歌があり英雄の息吹がし」
「歌に英雄」
「それも」
「そして何よりもあの騎士がいます」
 皇后はまた見た。今度は白銀の鎧と白いマントに身を包んだ剣を持った騎士だ。その彼が出て来てだ。皇后の前にいたのである。
 その騎士を見つつ。皇后は言った。
「それは森と城の中にあるのです」
「森はドイツには多いですが」
「そこにですか」
「はい、その中にこそあるべきなのです」 
「幻想が現実となっている世界」
「それはですか」
 周りの者達には騎士は見えない。だがそれでも言うのだった。
「ううむ、そうした世界なのですか」
「あの方が望まれる世界は」
「森と城の中にある」
「そうした世界なのですね」
「はい、あの方はその中で生きられるでしょう」
 そのことはわかっていても残念だという口調だった。
「永遠に」
「ではバイエルン王としてはどうなるのでしょうか」
「そのことは」
「この世にあるものは完全に幻想とはなりません」
「幻想と現実はですか」
「完全に一つとはなりませんか」
「ある程度は重なっても」
 それでもだというのだ。本来は完全に分かれているものが完全に重なり合うことはないとだ。その寂しい現実が皇后の目には見えていた。
「あの方の夢は完全には果たされないのです」
「そうなりますか」
「どうしてもなのですか」
「そうです。しかしあの方はそれを追い求められます」
「現実ではないそれを」
「どうしてもですか」
「そのことが悲劇になり」
 そうしてだというのだ。
「あの方に結末をもたらすでしょう」
「では何としてもではないでしょうか」
「やはり」
 周りの者達は言うのだった。それならばだ。
「あの方とゾフィー様を幸せに」
「そうなるべきです」
「無論誰もがそう思います」
 皇后だけではなかった。それを願うのは。
 

 

380部分:第二十四話 私の誠意その十八


第二十四話 私の誠意その十八

「しかしです」
「それでもなのですね」
「どうしても」
「私は心配なのです」
「バイエルン王のことが」
「あの方が」
「ゾフィーもそうですが」
 それ以上にだというのだ。
「あの方の行く末がです」
「聡明な方ですから」6
 周りの者の一人が王のその資質を話してだ。皇后を安心させようとする。
「大丈夫なのでは」
「聡明故にですか」
「そうです。ですから」
「聡明。それは素晴しいことですが」
 それでもだと。皇后は表情を変えずに言うのだった。
「ですがそれでもです」
「それでもですか」
「あの方はやはり」
「幸福は訪れ、手に入れられるとは限らないのです」
「そうなのですか」
「聡明だからといってもなのですか」
「そこには神も関わり」
 幸せになる為には神の助けも必要である、キリスト教徒としての考えである。無論皇后はカトリックである。バイエルン王家の者でオーストリア皇后としてだ。そうなのだ。
 そしてだった。神に加えてだ。
「御本人がです」
「幸せを求められればではないのですか?」
「それで幸福になるのではないのですか」
「そうなのですか」
「そうです。求めても得られない幸福もあります」
 幸福も様々。そうだというのだ。
「そうしたものなのです」
「バイエルン王の求められている幸福はこの世のものではに」
「左様ですか」
「そうしたものですか」
「あの方はこの世にはないものを求めておられます」
 遠く、王と同じ見方で話す皇后だった。
「この世に完全に現れることのできないものを」
「だから。あの方は」
「幸福にはなれない」
「決してですか」
「まず気付いておられないことは」
 王がだ。そうだということとは。
「あの方はゾフィーをエルザと呼んでいますが」
「それは正しいのでは?」
「バイエルン王は男性ですし」
「それでは」
「そう、外見は」
 表の、それだはだというのだ。
「表面は男性ですがあの方はゾフィーではなく鏡を見られているのです」
「ゾフィー様ではなく鏡を」
「ではエルザとは」
「あの方です。御自身なのです」
 そうだというのだ。
「あの方はそれがわかっておられません」
「左様ですか」
「あの方はわかっておられないのですか」
「そうしたことが」
「男性の幸せを求めなければならないのですが」
 王だからだ。王妃ではないのだ。
「女性が男性の幸福を手に入れることはできません」
「難しい話ですね」
「バイエルン王にとってもです」
「それは」
「はい、困難です」
 困難に加えて。さらにだった。
「むしろ。果たし得ない」
「夢の様な」
「そうしたものですか」
「あの方が望まれる幸せは」
「神は何故あの方をこの世に出されたのか」
 ひいてはそうした話になった。
 

 

381部分:第二十四話 私の誠意その十九


第二十四話 私の誠意その十九

「それもわかりません」
「全ては神の思し召しといえど」
「それでもですか」
「あの方がどうしてこの世におられるのか」
「それさえもわからないですか」
「ある程度は察することができます」
 皇后は考える顔になった。深い憂いの顔で。
「しかしそれは」
「それはですか」
「おわかりですか」
「この世に芸術を残され」
 そしてさらにだった。
「それを見る人々にこの世にある夢幻を見せられることでしょう」
「芸術、そして夢幻を」
「そうしたものを」
「それがわかる者は少ないです」
 まずは皇后だった。
「他にはワーグナー氏とビスマルク卿でしょう」
「この世で三人だけですか」
「あの方を理解できるのは」
「その中であの方の傍にいられるのはワーグナー氏だけです」
 そのだ。ワーグナーだけなのだ。
「あの方は彼と離れてはいけません。決して」
「決してですか」
「どうしても」
「若し離れることがあれば」
 そうなればだ。やはり同じだというのだった。
「ゾフィーと同じです。いえむしろ」
「むしろ?」
「若しあの方がワーグナー氏を再び手放されれば」
 どうなるかというのだ。その時は。
「ゾフィーとのことも。均衡はなくなるでしょう」
「それだけあの方にとってワーグナー氏は大切なのですか」
「御后になられる方よりも」
「神は。運命の出会いを用意されました」
 その運命の出会いとは何かであった。
「それは二人にとって甘美でしたが」
「甘美なだけではなく」
「それに加えてですか」
「残酷なものもあるのです」
 王も気付いていない。それがあるというのだ。
「ワーグナー氏は気付いているでしょう。しかしあの方は」
「気付いておられない」
「決して」
「芸術は一つではありません。そしてあの方は焦ってもおられます」
 問題はだ。一つではなかった。
「待ちきれないのです」
「待ちきれない」
「といいますと」
「ワーグナー氏の芸術を観たいのです」
 それをだ。待ちきれないというのだ。
「あの。指輪ですね」
「ニーベルングの指輪ですね」
「あの噂の」
「四部、そしてその上演には」
 皇后もその指輪のことは聞いていた。これまでにない恐ろしいまでの大作だとだ。そのことはオーストリアにまで届いていたのである。
「四日かかるそうですね」
「そんな作品があるのですか」
「果たして」
「これから生まれるのです」
 その恐ろしいまでの大作がだ。これから生まれるというのだ。
「ワーグナー氏が生み出しあの方は」
「それではバイエルン王は」
「あの作品にとって何なのでしょうか」
「産婆です」
 生み出すのを手伝う。王はその作品についてはそれだというのだ。
 

 

382部分:第二十四話 私の誠意その二十


第二十四話 私の誠意その二十

 それは何故かというとだ。バイエルン王がワーグナーを全面的に援助しているからだ。王なくしてワーグナーは存在し得ないと言ってもいい。
 だからこそ産婆だとだ。皇后も言うのだ。
「今その赤子をその手に抱くことをです」
「それを望まれている」
「左様ですか」
「そうです。あの方はあの作品を最初に抱かれる方です」
 そうだというのである。
「指輪をです」
「だからこそ焦っておられるのですか」
「指輪の完成を」
「しかしワーグナー氏はです」
 ワーグナーは完璧主義だ。その為作品の完成には時間をかけている。その完璧主義ぶりはベートーベンに匹敵するまでだ。
 そのワーグナーの作品の完成は遅い。だが王は。
「待ちきれなくなろうとしているのです」
「しかしあの方が仰れば」
「作品を上演されよと言われれば」
「四部ありますし」
「それでは」
「そう。既に完成している作品は」
 それはどうなのかというのだ。あの作品はだ。
「上演しようと思えばできます」
「あの方はですね」
「それができますね」
「できること、それが望んでいることなら」
 それが手にしているのならだ。どうかというのだ。
「人は必ずするものです」
「ではバイエルン王もですか」
「そうされると」
「そうだというのですね」
「できることをしない。このことに耐えることは辛いことです」
 欲に耐える、それが非常に困難だというのだ。
 それを話してだ。王のことを考えるのだった。
「あの方はそれに耐えられなくなるでしょう」
「では完成している作品をですか」
「上演されますか」
「あの方の御力で」
「それができるのですから」
 やはりすると。皇后は見ていた。王という人がどうした人なのかを理解しているからこそ。そのするであろうことが読めているのだ。
 だが読めているからこそだ。暗い顔で話すのだった。
「しかしそれをすればです」
「ワーグナー氏はどう思われるでしょうか」
「果たして」
「あの方は上演は完成されてからと考えておられます」
 この辺りがワーグナーらしかった。その完璧主義の彼らしいのだ。
「だからです」
「ではあの方が上演されると不快に思われますか」
「それもかなり」
「はい、思われます」
 実際にそうだというのである。
「そして御二人は衝突されるでしょう」
「そうなりますか」
「そして傷つくのは」
 図太いまでに強かなワーグナーの筈がなかった。何しろどれだけ借金を重ねても踏み倒そうとし多くの女性に平然と、それこそ恩人や弟子の妻を篭絡したりする様な人間だ。そうしたことで傷つく筈もなかった。
 だが王はだ。どうかというとだ。
「あまりにも繊細だからこそ」
「では。その繊細さ故に」
「あの方は傷つかれますか」
「あの方の方が」
「そうです。そうなってしまいます」
 皇后はこのこともだ。わかっているのだった。
 それがわかっているからだ。皇后は憂うのだった。
「本当に。ゾフィーと共になれれば」
「それでよいのですか」
「そうなれば」
「あの方にとっていい筈ですがそれでも」
 それでもだと。王のことを話していく。
 

 

383部分:第二十四話 私の誠意その二十一


第二十四話 私の誠意その二十一

「それができるかどうかは」
「それはわからない」
「むしろ」
「悲しい結末は。ローエングリンのものです」
 ここでもだ。ローエングリンの話になった。
「あの方は。その中におられることを望まれています」
「悲劇の中にですか」
「その中に」
「幻想。白銀の幻想」
 皇后はローエングリンをそれだとする。
「それはこの世には完全には表われないものですが」
「しかしその幻想をですか」
「あの方はあまりにも愛され」
「そしてそのうえで」
「神は。残酷なものでしょうか」
 今度はだ。神について思う皇后だった。
「あの方にそうしたものを見せられ導かれています」
「そしてあの方が辿り着かれるのは」
「何処なのでしょうか」
「あの方は王です」
 王を王たらしめているだ。その最も重要なことだった。
「今も王でありこれからも」
「これからも」
「これからもですか」
「王であられます」
 周りの者達も言う。
「そういえば弟殿下のオットー様は」
「残念なことに」
「彼は。王にはなれません」
 皇后から見てもだ。オットーはそうだった。
「彼の心はもう」
「戻りませんか」
「二度と」
「はい、それはありません」
 そうだとだ。皇后はここでも悲しい顔で話す。
「王位継承者が。それでは」
「あの方は王でなければならない」
「何があろうとも」
「そうです。しかしそれ以外にもです」
 まだだ。王が王であり続ける根拠があるというのだ。
「あの方はです」
「まだですか」
「その根拠がおありですか」
「この世で王であられ」
 そしてだというのだ。
「そしてあちらの世でもです」
「あちらの?」
「あちらのといいますと」
「まさかそれは」
「神の」
「そうです。主の世界のです」
 キリスト、皇后は今その主を見ていた。十字架にかけられ微笑んでいる主、彼も見てそのうえで周りに話をするのだった。
「その世界の王になられるのです」
「あの世界の王ですか」
「あくまで王なのですね」
「その存在になられるのですね」
「その通りです。そしてその玉座は」
 王は玉座に座るものだ。ではその玉座は。
「モンサルヴァートにあります」
「そのローエングリンのいたですか」
「そこにおいてなのですか」
「あの方は王になられる」
「そう仰るのですか」
「そうです。この世において王であられ」
 そしてだった。その後で。
 

 

384部分:第二十四話 私の誠意その二十二


第二十四話 私の誠意その二十二

「あちらの世でも王になられます」
「そうなのですか。あの方は」
「そうして王であられ続けるのですね」
「二つの世で」
 周りの者達も言う。そうしてだった。
 皇后は遠くに目をやり。今度の言葉は。
「ではまた」
「はい、出発ですね」
「今度はどちらに」
「何処にしましょうか」
 問われるとだ。要領を得ない返答だった。
「それは気の赴くままにします」
「では。今もですね」
「右にでしょうか」
「それとも左に」
 丁度目の前の道は二つに別れていた。どちらかに行かなければならない。
 その二つの道を見てだ。皇后は周りに尋ねた。
「どちらに何があるでしょうか」
「右には森があり」
 まずは右の道について返答が来た。
「そして左は湖です」
「森と湖ですか」
「ではどちらにされますか」
「青に」
 こう答える皇后だった。
「そちらに」
「では湖ですね」
「そちらに行かれますね」
「はい、青に」
 湖とはあえて言わずだ。色で言う皇后だった。
 こう言ってだ。そのうえでだった。
 その左にある湖、まだ見ていないそれを目に見つつだ。皇后はまた述べた。
「バイエルンの青に」
「その青ですか」
「バイエルンの青」
「それに」
「青はいい色です」
 生まれた国の色でもある。皇后にとっては。
「黄金もいいですが」
「青もですね」
「お好きですね」
「はい」
 黄金はハプスブルク家の色だ。そしてそれと共にバイエルン王が愛している色の一つである。王は青と黄金、そして白銀を好んでいるのだ。
 その青を見つつ。さらにだった。
「では今から」
「青にですね」
「そちらに向かい」
「青を見ます」
 こう言ってなのだった。彼等は。
 前に進みはじめる。王のことを気にかけながら。彼女は今は旅をするのだった。


第二十四話   完


              2011・6・29
 

 

385部分:第二十五話 花咲く命その一


第二十五話 花咲く命その一

                第二十五話  花咲く命
 王の婚礼の日が延期された。そのことに妙に思わない者はいなかった。
 宮廷においてもだ。多くの者がいぶかしんでいた。
 そしてだ。王にこう言う者達もいた。
「やはり延期は」
「望ましくありません」
「これではです」
「各国にも妙に思われます」
「わかっています」
 王の返答は憂いに満ちたものだった。
「ですが」
「それでもだというのですか」
「どうしてもだと」
「心が」
 また憂いに満ちていた。そうした言葉だった。
「どうしても」
「不安なのはわかります」
 周りもだ。それはわかるという。彼等は王が所謂マリッジブルーにかかっていると思ったのだ。繊細な王ならば尚更であるのだ。
「ですがそれでもです」
「その日が来られれば幸福が訪れます」
「必ずです」
 そうだとだ。周りは王に話す。
「ですから陛下、今はです」
「婚礼の日を再びです」
「延期されぬよう」
「その日を」
「それが正しいのですね」
 王は応えた。しかしであった。
「やはり」
「おわかりでしたらです」
「ここは」
「そうですね」
 あまりだ。気力の感じられない返答だった。
 そしてその返答をする王の顔もだった。
 何処か元気がなくだ。暗い。あの憂いのある顔だ。
 その顔でだ。周囲にこう話すのだった。
「では。そうさせてもらいます」
「是非です」
「今度こそはです」
 延期をしないようにだ。周囲もくれぐれという感じであった。
 彼等にとってみても切実な話である。主の婚礼のことだから。
 だがその主はだ。今度はこんなことを言うのだった。
「それではです」
「はい、次のお話ですね」
「何でしょうか」
「歌劇場に行きたいのですが」
 こう周囲に言うのである。
「あちらに」
「それでは」
「はい、ワーグナーです」
 結婚の話からだ。彼のことを話すのだった。
「彼のところに。今は歌劇場におられますね」
「はい、確かです」
「あの方は今そちらにおられます」
「そしてローエングリンの稽古に立ち会っておられます」
「いつも通りですね」
 それはだ。ワーグナーにとってはまさにそうだった。彼は芸術のことに関しては完璧主義者でだ。稽古にも常に立ち会う男なのだ。
 そしてその指導も厳しい。そういう男なのだ。
 その彼が歌劇場にいると聞いてだ。王は表情を明るくさせて。
「では今からそちらに」
「ではですね」
「歌劇場に」
「ローエングリンなら尚よしです」
 王は微笑みその歌劇に対して喜びを見せた。
 

 

386部分:第二十五話 花咲く命その二


第二十五話 花咲く命その二

「今度の舞台が楽しみです」
「では我等も」
「御供します」
 こうしてだ。王は歌劇場に向かうのだった。歌劇場にはワーグナーが実際にいた。そこで歌手やオーケストラの指導をしていた。
 その彼を見てだ。王はすぐに彼のところに来てだ。笑顔で挨拶をした。
「どういった感じでしょうか」
「これは陛下」
 ワーグナーは彼の挨拶を受けるとすぐに姿勢を正して応えた。
「ようこそこちらに」
「堅苦しいことは抜きで。それでなのですが」
「今度の舞台のことですね」
「そうです。どうでしょうか」
「今回は順調です」
 ワーグナーにしてはだ。満足のいくものだというのだ。
「いい舞台になるでしょう」
「そうですか。それは何よりです」
「特にタイトルロールがです」
 ここではローエングリンを歌うだ。その歌手の話にもなる。
「いい歌手が来てくれました」
「あのフォン=カルロスフェルト以上の」
「匹敵するでしょう」
 そこまでだとだ。他ならぬワーグナーが太鼓判を押すのだ。王もそれを聞いてまずは期待した。彼がそこまで言うのならというのだ。
 その彼の言葉を聞いてだ。舞台を観る。そこには。
 白銀の騎士がいて歌っていた。それを観てだ。
 王は眉を顰めさせてだ。そのうえでワーグナーに問うた。
「彼ですか」
「はい、彼です」
 ワーグナーは王の顔を見上げ会心の笑みで応える。
「彼ならばです」
「そうなのですか」
 そう言われてもだ。王は。
 その顰めさせた眉でだ。彼に言うのだった。
「他にはいないのでしょうか」
「今回は望む限りの歌手だと思いますが」
「私は。今回は」
 王のお気に入りの歌手の名前を出す。すると今度はワーグナーがだった。
 眉を顰めさせてだ。こう王に返すのだった。
「彼は駄目でしょう」
「駄目だと」
「やはりローエングリンは彼です」
 ワーグナーも舞台を観る。やはりその顔は会心の顔である。
「ですから今回は」
「いえ、ここは」
 だが、だ。王も退かない。
「あの歌手です」
「今の歌手ではなく」
「そう思うのですが」
「私は違う考えです」
 あくまでだとだ。ワーグナーも退かない。
「今回は」
「どうしてもだというのですか?」
「私はこの作品について何もかも知っています」
 他ならぬだ。この作品の全てを創り上げたからだ。
「ですから」
「そう言えますか」
「ですからここはお任せ下さい」
 ワーグナーはまた王に言う。
「あの歌手で間違いありません」
「ですが」
 王も同じだった。王とワーグナーははじめて意見の食い違いを見せた。
 結局ここでは話は平行線だった。王はその顔をかえって曇らせて王宮に戻ることになってしまった。そしてその王のところにだ。
 

 

387部分:第二十五話 花咲く命その三


第二十五話 花咲く命その三

 醜聞が届いた。それは。
「ビューロー夫人が」
「はい、そうです」
「ワーグナー氏と」
 またワーグナーだった。しかし今度は芸術の話ではない。
「またしてもです」
「密会をしているとか」
「そして」
 さらにだった。醜聞はさらに醜いものとなる。
「ビューロー夫人は今妊娠されていますが」
「それはビューロー氏の子ではなくです」
「その」
「それは嘘です」
 王はすぐにそのことを否定した。
「只の誹謗中傷です」
「そうだというのですか?」
「はい、そうです」
 絶対の。そうした言葉だった。
「口さがない言葉に過ぎません」
「ですが陛下」
「ワーグナー氏はです」
 周りは否定する王にだ。さらに話すのだった。その顔は怪訝なものになっている。
「そもそも女性問題が尽きませんし」
「実際にビューロー夫人とは常にいます」
「本来の奥方とは別居しています」
「やはりあれは」
「いえ、彼は潔白です」
 まだ言う王だった。
「それは以前に私が言った通りです」
「左様ですか」
「そうだと言われますか」
 王の言葉、それは即ち公ということである。王もそれがわかっていてだ。あえて自分が言うことにより二人を守ろうとしているのである。
 そうしてだった。この場でもだ。王は言うのだった。
「彼とビューロー夫人の関係は清らかです」
「そうであればいいのですが」
「私もそう思います」
「私もです」
 彼等もだ。信じたいとは言う。
 しかしだ。それはどうしてもだった。
「ですが。あの方はです」
「やはり。ビューロー夫人と」
「以前にはマチルダ=ヴェーセンドルク夫人と関係がありましたし」
「前にもあったことですから」
「あれも事実無根です」
 そういうことにしてしまう王だった。
「そしてです」
「そして?」
「そしてといいますと」
「私は事実無根の話は好きではありません」
 こう言ってだ。周りを咎めるのだった。
「宜しいですね」
「左様ですか」
「では。ワーグナー氏のことは」
「何もされませんね」
「いえ、必要とあらば」
 ここでもワーグナーを護ろうとするのだった。言いながら心の中で先程の歌劇場でのことが浮かび上がる。しかしそれでもだった。
 王はだ。言うのだった。
「私が彼等と会いましょう」
「ワーグナー氏とですか」
「そうされるというのですか」
「はい、ビューロー夫人と」
 そしてだというのだ。さらに。
「ビューローとも」
「三人共ですか」
「御会いになられるのですか」
「はい、そうしましょう」
 微笑んでだ。こう周りに言うのである。
 

 

388部分:第二十五話 花咲く命その四


第二十五話 花咲く命その四

「そう考えています」
「左様ですか。陛下は」
「彼等と会われますか」
「そのうえで」
「彼等から直接話を聞きます」
 王は既にどう言うのか決めていた。だがあえてそうするというのである。
「そうしますので」
「陛下御自身がですか」
「そうされるというのですか」
「あえて」
「そうです。ですから」
 また言う王だった。
「私はまた言いましょう」
「あの方々の潔白を」
「それを」
「そもそも。何と下らないことでしょう」
 こんなことも言う王だった。
「芸術の前には。醜聞は」
「取るに足らないもの」
「そうだと」
「そうです。芸術を無闇に汚す醜いものです」
 王は顔を曇らせる。ここでもだった。
「その様なもの。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「それが何を生み出すか」 
 そのことも言葉に出した。醜聞が何を生み出すのか。
「何も生み出しません」
「醜いものはですか」
「左様ですか」
「そうです。必要なのは芸術」
 あくまでそれだというのだ。
「それだけです」
「それでは陛下」
「そのワーグナー氏ですが」
 ワーグナーのことについてだ。別の話になった。
「あの方が歌劇場を築かれるそうですが」
「その場所は」
「ミュンヘンであるべきです」
 王はそこだと言った。他ならぬ王の国の都、今ここにいる町だ。
「ここであるべきなのです」
「しかしワーグナー氏はどうも」
「バイエルン各国を歩いておられるようですが」
「そして然るべき場所を探しておられます」
「そうしておられますが」
「いえ、それでもです」
 それでもだと。王は言い切ろうとする。願望を。
「ミュンヘンです」
「この町ですね」
「それはミュンヘンにあるべきですね」
「この町に」
「はい、そうです」
 まさにすだとだ。王はまた言った。
「この町でなければなりません」
「ではワーグナー氏に」
「そのこともお話されますか」
「ミュンヘン、この町に」
 そのだ。この町にだというのだ。
「歌劇場、彼の歌劇場も置きます」
「既にある王立の歌劇場と共に」
「それもですね」
「ミュンヘンは芸術の都になるのです」 
 まさにそうなると。王はその望みを見ていた。
 そしてその芸術とは何か。芸術といっても様々だ。
 

 

389部分:第二十五話 花咲く命その五


第二十五話 花咲く命その五

 それは。これであった。
「ドイツ。この国において」
「このドイツで」
「ミュンヘンがですね」
「そうです。これまでドイツは」
 王の愛する。そのドイツはというのだ。
「芸術ではフランスに遅れを取っていると思われていました」
「やはり。そうですね」
「ドイツよりフランスでした」
「そう思われていました」
「それが変わります」
 王はそれを望んで話すのだった。
「そしてドイツは」
「ドイツは」
「この国は」
「芸術により統合されるのです」
 そうなるとだ。王はその望みを見ていた。
「鉄と血だけではないのです」
「鉄と血」
「ビスマルク卿が言われているそれですが」
「軍隊と産業」
「その二つですね」
「それで統合したとしても」
 王はわかっていた。その二つだけではドイツは統一されてもだ。それは長い間続かないと。一つにするものが足りないからだ。
 そしてその一つにするものはだ。何かというとだった。
「それはすぐに消えてしまいます」
「ドイツを統一しても」
「それでもですか」
「弱いのですね」
「武力と産業は必要でしょう」
 それは王も認める。とりわけ。
「産業はです」
「産業ですか」
「それは」
「国は豊かでなければなりません」
 だからだというのだ。
「ですから」
「そしてその産業を成り立たせる」
「科学も」
「科学。人の未来を切り開いてくれるもの」 
 王はそれにも希望を見出していた。ただ王の見る科学は戦争の為の科学ではない。それが芸術の為の科学を見てのことであった。
 そしてそれと共にだ。その科学は。
「人を豊かにもしてくれます。そう」
「そう?」
「そうとは」
「例えばアルプスを」
 そのだ。アルプスはどうかというと。
「空から見ることもできるでしょう」
「空からといいますと」
「気球で」
「それを使って」
「いえ、気球ではなく」
 それではないというのだ。王がここで言うのは。
「鉄の翼で」
「鉄の翼!?」
「それが空を飛ぶのですか」
「まさか」
「そうです。人がそれができるようになるでしょう」
 王は見ていた。その未来を。
「考えるだけで素晴しいことではないでしょうか」
「あのアルプスを上から見るのですか」
「空から」
「アルプスは何処から見ても美しいもの」
 王はアルプスも愛していた。その大自然を。
 

 

390部分:第二十五話 花咲く命その六


第二十五話 花咲く命その六

「それは上から見てもです」
「非常に美しい」
「そうなのですね」
「それが鉄の翼によって行われる」
「そうなると」
「私もまた」
 そしてだ。王もなのだった。
「そうしてアルプスを見たいものです」
「それも芸術でしょうか」
「そうなのでしょうか」
「そうですね。芸術になりますね」
 王は見ることもだ。そうだと話した。
「そうした意味で。科学は芸術をも華やかにします」
「古風一辺倒ではないのですか」
「そうしたことないのですね」
「よいものは護られるべきです」
 それはだ。いいというのだ。
「しかしそれは」
「それはですね」
「そしてよいものは取り入れられるべきです」
 芸術においてもだ。そうだというのだ。実際に王は人工の庭園を持っている。そこには南欧やオリエントの世界が存在している。
「是非共」
「そして芸術が華やかになり」
「その芸術で」
「芸術、ひいては文化」
 そうしたものでだというのだ。
「ドイツは統一されるべきです」
「そしてミュンヘンが芸術の都になる」
「このバイエルンが」
「そうなるべきです」
 王は言ったのだった。
「私はそれを願います」
「だからこそですか」
「この町にワーグナー氏の歌劇場をですか」
「それを築かれたいのですね」
「戦いが生み出すものは僅かです」
 王は戦いを好まない。それはどうしてもだった。
「しかし芸術が生み出すものは」
「非常に大きい」
「戦争の破壊と比べて」
「芸術は創造ですか」
「創造。ドイツの芸術の創造」
 王はまた話す。
「必ずそうなります」
「では陛下」
「ワーグナー氏に是非」
「そう言われますか」
「一度ワーグナーとも話をしましょう」
 ミュンヘンに歌劇場、彼の作品の為のそれを築く。それをだというのだ。
「そしてです」
「決められますね」
「正式に」
「そうしましょう」
 そうするとだ。王も言う。
「是非共」
「ミュンヘンが芸術の都になるのですか」
「それが陛下の夢ですか」
「ミュンヘン、そしてバイエルン」
 ミュンヘンを中心として。国全体がであった。
「この国全体がです」
「芸術の国になる」
「ドイツの芸術の中心に」
「音楽はウィーン」
 王はこの国の話もした。
「そして政治はベルリン」
「そして芸術はミュンヘン」
「そうなりますか」
「ローマは武力だけではありませんでした」
 これはその通りである。ローマは武力で欧州を統一し法律、そして宗教とだ。欧州を三度統一している。しかしその三つだけではないのだ。
 

 

391部分:第二十五話 花咲く命その七


第二十五話 花咲く命その七

 その文化でも欧州を統一した。王はそのローマも見て話すのだった。
「芸術でも欧州を統一しました」
「統一するものは武力だけではない」
「芸術もまた」
「そうなのですね」
「芸術のない国はそれだけで悲しい国です」
 王にとってはだ。そうしたものだった。
「幾ら強くともです」
「では芸術は政治でもあるのですか」
「それでもあるのですね」
「そう思います。軍では生み出せないものを生み出すのが芸術です」
「ワーグナー氏の芸術」
「それもまた」
「そうです。彼の芸術はドイツを一つにします」
 実際にワーグナーはドイツオペラの巨人となっていた。楽聖とまで言われていた。ゲーテやベートーベンと並ぶ存在になっていたのだ。
 その彼だからこそだと。王は言ってだった。
「では。ワーグナーと」
「ですが陛下」
「一つ問題があります」
 ここで言う彼等だった。
「ミュンヘンはまだワーグナー氏を好まれない者が多いです」
「宮中にもです」
「多くいますが」
 先の戦争で王の名声が高まり彼等は抑えられてもでだ。彼等には院宣たる力が存在し続けていた。それは無視できるものではなかった。
 だからだと。彼等は王に話すのだった。
「ですからそれはです」
「くれぐれも御気をつけ下さい」
「どうか」
 こう話してだった。王に注意を促すのだった。
「ミュンヘンにその歌劇場を築くにしても」
「そのことは」
「わかっています」
 こう返す王だった。
「そのことは」
「はい、そうであればです」
「どうかくれぐれも」
「そうされることを望みます」
「わかっています」
 王はまた言った。
「ですが。彼が築き上げるものは残ります」
「残りますか」
「永遠に」
「はい、永遠にです」
 それだけの芸術だというのだ。
「残ります。そしてこのミュンヘンを飾るでしょう」
「ミュンヘンを芸術の中心にする芸術」
「それですか」
「その通りです。では」
「では?」
「ではといいますと」
「お話はこれ位にして」
 そしてであった。王はいよいよだ。
 王に対してだ。周囲はこう声をかけた、
「ワーグナー氏のところに参られますか」
「それとも呼ばれますか」
「呼びましょう」
 王が選んだのはそちらだった。
「そうしましょう」
「呼びましょう」
 そうするというのだった。
 こうしてワーグナーが呼ばれる。その彼にだ。
 王はだ。すぐにこう言った。
「歌劇場のことですか」
「そのことですね」
「はい。何処にされますか」
 王は穏やかにワーグナーに尋ねた。
 

 

392部分:第二十五話 花咲く命その八


第二十五話 花咲く命その八

「やはりそれは」
「バイエルンです」
 ワーグナーはこの国だと。王に答えた。
「この国にです」
「バイエルンにですね」
「はい、そうです」
 まさにだその国だというのだ。
「ですから。それはです」
「安心していいのですね。では?」
「どの町にされますか」
 王の最大の関心ごともだ。話される。
「一体どの町に」
「それもまたです」
「またですか」
「その。最も相応しい場所に」
 その場所にだ。歌劇場を築くというのだ。
 それを話してだ。ワーグナーはだ。
 王を安心させた。しかしだ。
 ミュンヘンだとは言わなかった。それは決してだった。
 王はそのことを問おうとする。しかしだった。
 それはどうしてもだ。問えなかった。それでだ。
 こう言うしかできなかった。その言葉は。
「私は望みます」
「何をでしょうか」
「貴方の芸術がその相応しい場所に設けられることを」
 こう言うだけだった。
「それを望みます」
「そうですか」
「はい、期待しています」
 ミュンヘンとは言えなかった。まるで恋人に言う様に。
 そしてだった。王は吉報を待つのだった。ローエングリンでの衝突のことはその吉報を前にしてはどうということはなかった。しかし心には残っていた。
 その王にだ。届いた報告は。
「バイロイト!?」
「はい、バイロイトです」
「あの町とのことです」
 周りの者達が王に、怪訝な声をあげた王に報告する。
「あの町に歌劇場を築かれたいとのことです」
「ワーグナー氏はそう仰っています」
「馬鹿な」
 それを聞いてだ。王はすぐにだった。
 驚き否定する顔でだ。彼等に言うのだった。
「そんなことは有り得ません」
「けれどです」
「ワーグナー氏はそう仰っています」
「バイロイトだと」
「あの町に御自身の歌劇場を築かれたいと」
「バイロイト。あの町は」
 その町はどうかというのだ。王もその町のことは知っているのだ。
 だが知っていてもだ。王はこう言うのだった。
「あの町は我が国の北にあり」
「何もない町ですね」
「これといって」
「はい、そうです」
 まさにそうだというのだ。
「人も多くありませんし。これといってです」
「産業もありませんね」
「そういったものも」
「それで何故。いや」
 自分で言っていてだ。王は気付いたのだった。
 その気付いたことは。産業ではなくこのことだった。
「ドイツ全体から見て中央にあります」
「そうですね。従って交通の要衝ではあります」
「人の行き来は多いです」
「ドイツ全体を見て」
 王は気付いたのだった。
「そのうえで、ですね」
「ドイツ全体を見てですか」
「そのうえであの町にしたのですか」
「その様にしたのですか」
「ワーグナー氏は」
「正しくはあります」
 こうは言ってもだ。王の顔は。
 

 

393部分:第二十五話 花咲く命その九


第二十五話 花咲く命その九

 晴れてはいない。暗い面持ちでだ。こう言うのだった。
「しかし」
「しかしですか」
「陛下にとってはですか」
「それは認められない」
「そうですか」
「何故ミュンヘンでないのか」
 王は苦い顔になっていた。
「この町に。やはり」
「やはり?」
「やはりといいますと」
「この町は一度彼を追い出しました」
 そのことがあってだというのだ。
「だからなのですね」
「そのこともあってですか」
「あの方はバイロイトにされたのですか」
「あの町に」
「間違いです」
 間違いだとだ。また言う王だった。
「バイエルンのこの町でないと駄目なのです」
「この町を芸術の中心にする為に」
「その為に」
「そうだというのに」
 王の顔に。さらに苦さが宿る。
「何故彼は。肝心の彼は」
「ミュンヘンを離れあの町に行こうとされていますね」
「バイロイトに」
「それではミュンヘンにいても」
 王はまた話す。
「意味がないものですが
「いえ、陛下それは」
「それはです」
「御言葉にされぬ方が」
「そうですね。ですが」
 それでもだとだ。王は話さずにはいられなかった。
「ワーグナーはまさか」
「まさか」
「まさかといいますと」
「私から」
 離れるのではないかとさえ思ったのだった。そう思ったのだった。
 考えは暗い世界に入っていく。そこから逃れらなくなってきていた。そこにだった。
 ローエングリンでのこともだ。王の心に浮かび上がってだった。
「私は。常に」
「常に」
「常にといいますと」
「彼と共にいたいだけなのですが」
 そうだというのだった。
「しかし彼は」
「それでもですね」
「バイロイトを選ばれた」
「そうだと」
「裏切り」
 無意識のうちにだ。この言葉が出た。
「まさか」
「ですからそうした御考えはです」
「思われぬ方が」
「ですね。今は」
 何とかその暗い考えを落とそうとしてだ。王は振り払った。しかしであった。
 暗いものが増していくのを止められずだ。その中で。
 ゾフィーとも会う。するとだった。
 彼女は追うのその暗いものを察して。そして言うのだった。
「あの」
「はい、何でしょうか」
「何かあったのですか?」
 王の顔にあるそれを見ての言葉だ。
「若しや」
「いえ、何も」
「そうですか。そうだといいのですが」
「フロイラインが心配されることではありません」 
 王はこうゾフィーに返した。
 

 

394部分:第二十五話 花咲く命その十


第二十五話 花咲く命その十

「御安心下さい」
「フロイライン?」
「はい、フロイラインがです」
 また言った王だった。
「ですから御安心下さい」
「あの」
 王の言葉にだ。すぐに問い返したゾフィーだった。
 その顔は何か強張っている。その顔で問い返したのである。
「今何と」
「何かとは?」
「フロイラインと仰いましたが」
 彼女が言うのはこのことだった。
「それは何故でしょうか」
「何故かとは?」
「フロイラインとは」
 その言葉にこそだった。ゾフィーが問うことがあった。
「何故その御言葉を」
「はて。何かあるでしょうか」
 問われる王は怪訝な顔で彼女に返した。
「今の言葉に」
「私は陛下の婚約者ですが」
「はい、その通りです」
「それで。フロイラインなのですか」
「フロイラインでなければ」
 ゾフィーが何を言っているのかわからないままだ。王は今度はこう言った。
「エルザではどうでしょうか」
「いつもの呼び名ですね」
「これはどうでしょうか」
「そうですね。いえ」
 しかしだった。ここでまた気付いたゾフィーだった。
「エルザですが」
「はい、エルザ姫ですね貴女は」
「エルザは。考えてみると」
 そこからは言えなかった。エルザはローエングリンと結ばれはしないのだ。決して問うなと言われたことを問うてだ。それでだった。
 そのことを思った。しかしだった。その言葉は決してだった。言えなかった。
 それを隠してだ。そのうえで王に話すのだった。
「何でもありません」
「左様ですか」
「はい、何もありません」
 こう言うのだった。
 そしてだ。あらためてこう話す彼女だった。
「ですが。私は」
「はい、貴女は私の妻になる方です」
「そうですね。間違いなく」
「落ち着かれて下さい」
 彼女が不安な心であるのはわかった。それでその心を落ち着かせる為にだ。この言葉をかけた。
「今宵の貴女は随分感傷的ですね」
「そうでしょうか」
「はい、これから舞台に行かれますか」
「舞台に」
「シラーの劇が上演されています。今から行けば」
 間に合うというのだ。そうなるとだ。
「どうでしょうか」
「シラーですか」
「そうです。それに行かれますか」
「いえ、今は」
 遠慮したいとだ。ゾフィーは小さな声で述べた。
「特に」
「左様ですか。それでは」
「それでは?」
「ワーグナーの脚本を御覧になられますか」
 ここでもだ。王はワーグナーだった。
 

 

395部分:第二十五話 花咲く命その十一


第二十五話 花咲く命その十一

「マイスタージンガーの」
「今度上演されるそれですね」
「はい、それはどうでしょうか」 
 こうゾフィーに話すのである。
「読んでいれば落ち着きます」
「そうですね。それでは」
「はい、それでは」
 こうした話をしてだ。今はそのマイスター陣がーの脚本を読みだ。ゾフィーはその心を落ち着かせたのだった。とりあえず今は。
 王の心は憂いを増していた。その中でだ。
 まただ。その話を聞いたのだった。
「ビューロー夫人にですか」
「はい、妊娠されていますが」
「その父親はです」
「その」
「ワーグナーだというのですね」
 最早だ。そのことはわかっていた。王にもだ。
「その話ですね」
「はい、そうです」
「またそうした話が出ています」
「それは」
「全ては根拠のないことです」
 そういうことにしたかった。だからこその言葉だった。
「中傷に過ぎません」
「ですがそれでもです」
「ミュンヘンのあちこちで噂になっています」
「新聞にも書かれていますし」
「これは」
「新聞は好きなことを書くものです」
 どの時代でもどの国でも言えることだ。そこに責任はない。
「気にしてはいけません」
「では一体どうされますか」
「今回は」
「一体」
「一度。当事者達を呼びましょう」
 王は助け舟を出すことにしたのだった。
「そうします」
「ではワーグナー氏とですね」
「ビューロー夫人」
「そしてビューロー氏も」
「三人はそれぞれ潔白です」
 このことはだ。王の中で既に決まっていることだった。
「後はそれを証明するだけです」
「だからこそですか」
「三人をですか」
「陛下の御前に」
「そうして下さい」
 王は周囲に命じた。
「その様に」
「はい、それではすぐに」
「そうします」
「そして後は」
 後はだと。ここで話が変わった。
「あの、陛下」
「何でしょうか」
「大公ですが」
 ゾフィーの父だ。王の親族でもある。その彼がというのだ。
「かなりご立腹です」
「婚姻のことですね」
「そうです。延期されたので」
 そのことでだ。彼は怒っているというのだ。
「もうかなりです」
「そうでしょうね」
 それを聞いてだ。王は納得する声で応えた。
 

 

396部分:第二十五話 花咲く命その十二


第二十五話 花咲く命その十二

 そのうえでだ。こう言うのだった。
「私のしたことはそれだけのことですから」
「おわかりでしたら」
「そうです。やはりです」
「わかってはいます」 
 王は周囲の言葉に返した。
「ですが」
「ですが?」
「ですがといいますと」 
「私はそれでもです」
 王は深刻な顔になり。そのうえで述べるのだった。
「あの時は。そして」
「そして」
「そしてといいますと」
「今も。そうすべきであるというのに」
 結婚すべきだと。それはわかっているというのだ。
 しかしそれでもだった。王は。
「それをしてはならないように思えるのです」
「すべきなのにしてはならない」
「何故そう思われるのですか」
「同性と結ばれる様な」
 王の顔にだ。嫌悪も加わった。微妙であるがそれはだ。確かに嫌悪の色だった。
 その顔でだ。王は言うのである。
「そうしたものを感じ」
「同性?」
「同性といいますと」
「女性が女性とですか」
「この場合はそうなりますか」
「何故でしょうか」
 王でもわからない。そうした言葉だった。
「それはどうしてもです。しかし」
「気が進まれない」
「そうなのですか」
「今になって。自分でも不思議です」
 戸惑いもだ。それも見せるのだった。
「結婚しなければならないですしゾフィーのことは」
「御嫌いではありませんね」
「そうですね」
「嫌いな筈がありません」
 そうだというのだった。
「だからこそ余計にです」
 戸惑っているというのだ。それを今話すのだった。
 そしてだ。王は言うのだった。
「これから少し書きます」
「御手紙をですね」
「そうされますね」
「はい、大公と」
 そしてであった。他には。
「ゾフィー。そして」
「そして?」
「他の方にも書かれるのですか」
「ワーグナーにも」
 この場でもだ。彼だった。彼の名を出すのだった。
「手紙を書きましょう」
「あの、御二人はわかるのですが」
「ワーグナー氏にもですか」
「そうされるのですか」
「はい、そうします」
 まさにそうだとだ。王は話すのである。
「彼にもです」
「あの。御二人はわかるのですが」
「そこで何故ワーグナー氏にもですか?」
「御手紙を書かれるのでしょうか」
「それは」
 それがどうしてもわからないというのだ。これが周りの考えだった。
 そしてだった。さらにだ。彼等は王にさらに問うた。
「あの、それで」
「そのワーグナー氏のこともですね」
「ビューロー夫人とのお話も」
「そのことについても」
「彼等は潔白なのです」
 信じたい、そうした言葉だった。
 

 

397部分:第二十五話 花咲く命その十三


第二十五話 花咲く命その十三

「それを証明しましょう」
「その為にですか」
「御手紙を書かれるのですね」
「あの方に対しては」
「いえ」
 それではないというのだ。彼の潔白の証明の為の手紙ではないというのだ。
「違います」
「違う?」
「違うといいますと」
「それは」
「このことです」
 一言聞いただけではだ。どうしてもわからないことだった。
 そのわからないことをだ。王はさらに話した。
「今のこの」
「今のといいますと」
「ではご婚礼の」
「そのことで」
「はい、彼にも書きます」
 そうだというのだ。ワーグナーに結婚のことをだ。
「そうします」
「どういうことかわかりませんが」
「あの方にもご婚礼のことで、ですか」
「書かれるのですね」
「はい、そうです」
 王は言い切ったのだった。
 そうしてあった。王はまた話した。
「ではその様にです」
「はい、書かれたお手紙は送らせて頂きますので」
「それぞれの方に」
「そうして下さい。それでは」
 こう言ってであった。王は三人に対してそれぞれ手紙を書くのだった。そうしてそれが終わってからだった。彼は侍従達にその書き終えた手紙を渡したのだった。
 それでだ。手紙を渡してだった。王は彼等に話した。
「これで」
「これで、ですね」
「話はまとまりますね」
「それはわかりません」 
 いつもの憂いに満ちた顔でだ。王は話すのだった。
「ですが」
「しかしですか」
「それでもですか」
「手紙でも」
「私は。やはり」
 やはりだとも話す。王の言葉は次第にとりとめがなくなってきていた。
 だがそれでもだった。王は言わずにはいられなかった。
「結婚は」
「あの、ですから」
「これ以上何かあればです」
「大公も」
「わかっています」
 わかってはいるのだ。王もだ。
「しかし。それでもです」
「陛下」
 一人が厳しい言葉を出した。
「陛下は王であられますね」
「その通りです」
 バイエルン王だ。このことは王にとっては絶対のことだった。王を王たらしめているもの、それに他ならないのだ。
 だからだと。その彼は言うのだ。
「王ならばです」
「我儘は許されないというのですね」
「そうです。申し訳ありませんが」
「王は微塵の我儘も許されない」
 王も自分から言う。
「全ては公だからこそ」
「王の結婚は公ですから」
「だからどうしてもですね」
「御成婚を」
 とにかくだ。結婚はしなければならないというのだ。
 

 

398部分:第二十五話 花咲く命その十四


第二十五話 花咲く命その十四

 それを聞いてだ。王も実際に言う。
「私は公を務めます」
「では結婚されますね」
「そうされますね」
「はい」
 そうするしかなかった。わかっていた。
 だがそれでもだ。心の中では。
 その結婚についてどうしても従えないものを感じ続けていた。
 それをだ。ホルニヒには、二人だけの時には話すのだった。
 項垂れた顔でソファーに座りだ。傍にあるベッドの中にいる彼に話した。
「あのことだが」
「御成婚のことですか」
「やはりできない」
 こう言うのである。
「何故かはわからないが」
「何故かといいますと」
「私は。女性とは結婚できない」
「それはどうしてでしょうか」
「わからない。とにかく同性と結婚するような」
 そうしたものを感じるというのだ。
「だからだ。どうしてもだ」
「それはできませんか」
「私は女性を愛せない」
 これは前からだった。しかし結婚を仕事として割り切ることもできる。だが王はだ。そのことについてはこうホルニヒに話すのだった。
「結婚するならばだ」
「結婚するだけではないと」
「御互いに全てを愛してこそだ」
「そうでなければ結婚ではありませんか」
「そうだ。そうしなければ駄目だ」
 そして言う彼等は。
「ヴァルターとエヴァの様に」
「マイスタージンガーのあの二人ですね」
「彼等の様に幸せにならなければならない」
「女性もまた」
「女性に心がない。それは嘘だ」
 キリスト教徒だがそれでもだ。キリスト教の考えの中のこれは否定した。
「女性にも心がある」
「そうですね。女性にも」
「そしてそれを軽んじることはだ」
「許されませんか」
「決してだ。だからだ」
 愛のない、結婚はどうかというのだ。
「そんなものがあってはならないのだ」
「その通りですね。やはり」
「私はゾフィーを愛したい」
 こうした願いも確かにあるのだ。
「しかしだ」
「それでもですか」
「私は彼女を愛せない」
 こうも言うのだった。
「愛さなければならないのに愛せないのだ」
「女性を」
「自分でもわからない。だが」
「女性をどうしても愛せないというのですか」
「苦しい」
 そのことはそのまま王を苦しめていた。女性を愛せないことを。
「そして罪なのだ」
「いえ、陛下それは罪では」
「男性が男性を愛する。それは罪だ」
 キリスト教の考えでもこれはだ。王は受け入れていた。いや、受け入れざるを得なかった。それが王を尚更苦しめているのだ。
「私は許されない罪を犯している」
「それは」
「私は狂気に陥っているのか」
 不意にだ。こんなことも言う王だった。
「だから。こうして」
「男性を愛するというのでしょうか」
「女性を愛するのが当然だ」
 自分自身をわからないまま。王は言った。
「それで男性を愛するのはだ」
「それが狂気ですか」
「何故だ。何故男性を愛するのだ」
 王の嗜好は美青年だ。背が高くすらりとした。ホルニヒにしろ先のタクシスにしろそうだった。そうした存在が王の愛の対象だ。
 

 

399部分:第二十五話 花咲く命その十五


第二十五話 花咲く命その十五

 その愛の対象であるホルニヒを見てだ。王はまた話した。
「特に彼は」
「まさかその彼とは」
「やはりローエングリンだ」
 この世にいない彼がだ。彼の最高の恋愛の対象であり続けていた。
「彼と共にいたいのだ」
「聖杯城から出る白銀の騎士が」
「聖杯、主の血を受けた至高の宝」
 ここでもキリスト教だった。
「その力はまさに主の力」
「それがあの剣に入っているのですね」
「その通りだ。それが彼だ」
 ローエングリンだというのだ。
「その彼こそがだ」
「陛下の」
「おかしな話だ」
 自嘲気味にだ。王は笑って言った。
「それは」
「おかしいと言われますか」
「そうだ。彼は現実にはいないのだ」
「それは確かにそうですが」
「その彼のことを想う」
 それをまた言う王だった。
「そうせずにはいられない」
「彼を。しかしですね」
「彼がいなくては。若し彼がいなくては」
 その現実にいないだ。ローエングリンがだというのだ。
「私はどうなっていたのかわからない」
「そこまでなのですか」
「幼い頃にはじめて出会った」
 そこからだった。二人の出会いは。
「絵画の中にいる彼に」
「最初は絵画でしたか」
「そこにいたのだ、彼は」
 ローエングリンに会ったのは。そこからだった。
「そして十六の頃にだ」
「歌劇においてですね」
「運命の出会いだった」
 まさにだ。王にとってはだった。
「あの。白鳥に曳かれた小舟に乗って姿を現した彼と」
「ローエングリン。彼が」
「彼は一つの存在なのだ」
「一つのとは?」
「ローエングリンはタンホイザーでもあるのだ」
 まずはだ。彼だというのだった。
「そしてヴァルターでもありトリスタンでもあり」
「他の作品の主人公でもあるというのですね」
「ジークムントとジークフリートの親子もだ」
 親子であってもだ。彼等もだというのだ。
「無論トリスタンも」
「あの彼もですね」
「最後の。パルジファルも」
 今ワーグナーが考えているだ。その作品の主人公も然りというのだ。
 王はワーグナーの作品のことを何処までも深くわかっていた。まるで彼のその中に全てがある様にだ。それがわかっているのだ。
 それでだ。彼は話すのだった。
「彼等は一つなのだ」
「その一つの存在を」
「私は想っている」
 そうだというのである。
「そしてそれが自然に思えるのだ」
「ヘルデンテノール達と」
「英雄。それはこの世の英雄ではない」
「この世の英雄ではなく」
「神の世界からこの世界に来た英雄なのだ」
 何処までもだ。彼等はこの世の存在でないというのだ。
「救いの為に」
「救いの」
「そうだ。私はだ」 
 王自身はどうかとも話す。
 

 

400部分:第二十五話 花咲く命その十六


第二十五話 花咲く命その十六

「救われたい。だが」
「だが?」
「救われるのは女性の筈なのだ」
 しかしなのだった。王は。
「私は男性だ。それでは」
「救われないと」
「いや、男性も。その世界にいる者は誰であろうとも」
「救われますね」
「そうである筈だ。私は救われるのか」
 自然にだ。王は救済を見ていた。キリスト教の最後にあるその救済をだ。そしてその救済を夢見ながらだ。王はまた言ったのだった。
「彼によって」
「陛下、救われるとしたら」
「そうであれば」
「御成婚によってではないでしょうか」
 ホルニヒは現実のことを話した。彼がいる世界からだ。
「それではないでしょうか」
「結婚か」
「はい、それは間も無くです」
「そうであればいいが」
 だが王はそれでもだった。信じられないといった顔であった。
 そしてその顔でだ。また言うのだった。
「救済は。結婚によってか」
「はい、そうではないでしょうか」
「女性と結婚して」
「やはり私はそう思うのですが」
「わかっているのだ」
 頭ではだというのだ。
「だが」
「だがですか」
「私はどうしてもあの騎士を見てしまう」
 ローエングリンを。見ずにはいられなかった。
「そして愛さずにはいられないのだ」
「では陛下」
「何だ」
「その彼の音楽を聴かれてはどうでしょうか」
 王の憂いを見てだ。ホルニヒは提案した。
「そうされては」
「そうだな。今からな」
「はい、そうすれば彼にです」 
 そのだ。ローエングリンにだというのだ。
「出会えますから」
「朝食の後で聴こう」
「朝は何を召し上がられますか」
「簡単に。パンとソーセージを」
 ドイツの伝統料理だ。それをだというのだ。
「それとビールだな」
「ビールも飲まれるのですね」
「実はな。嫌いではない」
 それを否定しなかった。王もまた。
「ワインも好きだがビールもだ」
「そうだったのですか」
「貴族的なものだけではなく」
 それだけではないというのだ。
「そうした。ドイツの味もだ」
「それは知りませんでした」
「平民を馬鹿にする貴族もいる」
 そうした者はどの国にもいる。欧州の厄介ごとの一つだ。貴族制ではどうしても起こってしまうことだ。
「だが私は」
「違いますか」
「ドイツの全てを愛している」
 これは紛れもないことだった。
「平民やそうしたことは」
「関係ありませんか」
「貴族はやがて廃れる」
 時代の流れはそうなっていた。王はそれも見ていた。
「ドイツではユンカーが没落しているな」
「そうですね。プロイセンでは」
 ビスマルクもそのユンカー出身だ。その彼等が軍に入りプロイセン軍の中核にもなっている。ドイツも産業革命で変革を受けているのだ。
 

 

401部分:第二十五話 花咲く命その十七


第二十五話 花咲く命その十七

「次第に」
「かつ急激にだ」
「では貴族の時代は終わりますか」
「人の心には残る」
 容易には消えないというのだ。
「だが。これまでの絶対的なものはだ」
「廃れますね」
「廃れる。そして」
「そして?」
「王もまた同じだ」
 王制もまた廃れようとしているとだ。王は時代を見て言った。
「共産主義というものによってかどうかはわからないが」
「共産主義がこれ以上流行ると」
「恐ろしいことになる」
 共産主義にはだ。王は王としての立場だけでなくだ。個人としても心の奥底から危険なものを感じ禍々しささえ感じていたのだ。
 その禍々しさを見ながらだ。王は話す。
「彼等が平民を解放しても」
「それは解放ではありませんか」
「抑圧になる」
 それだというのだ。解放とは逆の。
「あのロベスピエールの再来だ」
「フランス革命ですか」
「彼等の正体はジャコバンだからだ」
「では人民や平和というのは」
「全ては偽りだ」
 共産主義の言うだ。それだというのだ。
「彼等は神を否定し自分達を絶対とし」
「粛清を行いますか」
「行わない筈がない」
「では。あの様にその解放した筈の人民を」
「血が。罪なき者達の血が」
 その禍々しさを。今口に出した。
「国を覆うのだ」
「それは社会主義でも同じでしょうか」
「社会主義。イギリスであるような。そしてワーグナーが言うような」
 ワーグナーは個人の財産を否定している。とはいっても彼は贅沢を続けているからこの辺りは矛盾している。これもワーグナーが攻撃される材料だ。
「ああしたものならまだいい」
「では社会主義はいいのですか」
「社会主義。それが暫定的に世の中をよくするものなら」
 それでいいというのだ。
「一向にな。ただ」
「共産主義の隠れ蓑であれば」
「危険だ。そうした者も多い筈だ」
 王はこのことも見抜いていた。
「必ずな」
「それを見抜くのは容易ではありませんね」
「いや、わかる」
「見抜けるのですか」
「共産主義には独特の禍々しさがある」
 感性でもだ。王は見抜いていた。
「だからわかるのだ」
「禍々しさですか」
「私だけでなくあの方もわかっておられる」
「この場合のあの方は」
「ビスマルク卿だ」
 プロイセンの宰相である彼だった。王を理解し王が理解しているだ。その彼だというのだ。
「あの方は見抜かれる」
「ではあの方が以前より社会主義者を抑圧されているのは」
「共産主義者への対策だ」
 それだというのだ。
「それに他ならない」
「全てはそこにあるのですか」
「共産主義を放っておけば」
 どうなるかというと。最早応えは出ていた。
「ドイツは一人の独裁者の意のままになる恐ろしい国になる」
「一人の」
「社会主義を隠れ蓑にしても同じなのだ」
 王の言葉は未来を見ていた。しかし国家社会主義なるものは見てはいない。
 

 

402部分:第二十五話 花咲く命その十八


第二十五話 花咲く命その十八

「ある程度右になるのも左になるのもいい」
「しかし極端なものは」
「ドイツを破滅に導く」
 そうなるというのだ。
「それは許してはならない」
「近頃バイエルンでも知識人達が共産主義に染まっていますが」
「何とかしなければならない」
 絶対にだというのだ。
「政治としてな」
「現実として」
「現実は。何故」
 その現実について。王は憂いを述べた。
「そうしたものが多いのか」
「その現実は」
「美だけではない」
 共産主義に対しても。王は見ていた。
「醜も。それもまた多い」
「醜いものもまた」
「純粋に清らかなもの」
 一つの夢を語った。
「それはないのか」
「純粋なですか」
「美。私はそれが欲しい」
 それをワーグナーに見る。しかしだった。
「人は誰でも持っているのか」
「醜いものを」
「彼もそうだ」 
 そのワーグナーへの言葉だった。
「完全に純粋なものはないのだろうか」
「いえ、陛下それは」
「あるというのか?」
「私はそう思います」
 追随ではなく本当にそう思いだ。ホルニヒは話した。
「そうしたものもまた」
「あるのか」
「この世にもです」
「それはまことだろうか」
「それは創るものです」
 創る、ホルニヒは王に話した。
「そういうものだと思います」
「完全な純粋は創るものか」
「若しこの世になければ」
 創るものをだと。ホルニヒはまた話す。
「創ればいいのではないでしょうか」
「そうだな。その場合はな」
「それが芸術ですから」
「芸術は人が創るもの」
 王は言う。
「それが出来ることは人の」
「人の、ですか」
「人の最も素晴らしいことの一つだ」
 そうだと言ってだ。さらにだった。
「神が人に与えられた素晴しいことのな」
「そのうちの一つですね」
「そう思う。人は確かに禁断の果実を口にした」
 それが原罪である。キリスト教の考えではそうだ。
「しかしだ。それと共にだ」
「芸術を創り出すこともできますね」
「私にも出来る」
 そのだ。王にもだというのだ。
「芸術を創り出すこと。そして」
「そしてですね」
「完全な純粋を創り出すこともだ」
「それもまた」
「そうだな。創り出そう」
 王は言うのだった。
「必ずな」
「陛下は芸術家になられるのですね」
「そしてこの世に完全な純粋、そう」
「そう?」
「ワーグナー、バロック」
 王が心の中から愛する。その芸術達だった。
「そうしたものを全て入れよう」
「ワーグナー氏のその芸術もですか」
「彼の芸術は完全な純粋だ」
 彼自身はともかくだった。王はワーグナーの芸術自体には懐疑やそうしたものを抱いてはいなかった。このことは普遍のことだった。
 

 

403部分:第二十五話 花咲く命その十九


第二十五話 花咲く命その十九

 その王の中で普遍なことをだ。王は話すのだった。
「そしてフランスの芸術を」
「ルイ十四世のですね」
「マリー=アントワネットもだ」
 バロックにロココも加わった。
「優雅な。豪奢な余裕がある」
「優雅かつ豪奢な」
「その余裕をドイツにも入れよう」
 王の考えが動いていく。それはまだ王の中にあるだけだった。しかしそれは王の中から出て。そのうえで芸術になろうとしていたのだ。現実に。 
 そのこともだ。王は見ていた。
「ドイツに、いやどの国にもだ」
「それまでなかったものですね」
「そう。それをこのバイエルンに築く」
「ミュンヘンに」
「ミュンヘンに築くのが理想だが」
 それだけではなかった。さらにだった。
「それができなければ」
「その場合は」
「バイエルンに。私の愛するこの国に築く」
 こう言ってだった。王は夢を見るのだった。
 しかしその夢の中にはだ。彼女はいなかった。
 ゾフィーにだ。彼女の友人達が話す。その話すことの内容は。
 彼等は怪訝な顔になりだ。話していた。
「あの、陛下は一体」
「何を御考えなのでしょうか」
「婚約を延期されるとは」
「こんなことは聞いたことがありません」
「前代未聞です」
 こう言うのである。
「以前より時折奇矯なことをされる方でしたが」
「このことは特にです」
「訳がわかりません」
「王のお考えは」
「何もかもがです」
「まさか」
 その中でだ。一人が言った。
「陛下は御成婚を望まれていないのでは」
「まさか。そんなことは」
「そうです。有り得ません」
「幾ら何でもです」
「そんなことが」
 他の友人達がそのことをすぐに否定した。しかしだ。
 これまで黙っていたゾフィーがだ。こう言ったのである。
「いえ」
「いえ?」
「いえといいますと」
「陛下は私を」
 静かにだ。こう彼等に話すのである。
「エルザと呼ばれます」
「エルザ。ローエングリンのですね」
「あのヒロインのことですね」
「そうですよね」
「はい、あのヒロインとです」
 このこともだ。彼等にも話すのだった。
「そう呼んでくれます」
「では陛下はローエングリンですね」
「あの騎士になりますね」
「ゾフィー様がエルザならばあの方は」
「そうですね」
「はい。あの騎士は」
 このことは友人達も知っていた。王の意中の作品のことはだ。彼等も知っているのだ。
 その中でだ。また話す彼等だった。
「ではよいのでは?」
「はい、ローエングリンならば」
「あの騎士は確かに見事です」
「舞台はおろか全てを支配するものがあります」
「騎士ローエングリンとエルザ姫」
 まさにこの二人はだというのだ。
 

 

404部分:第二十五話 花咲く命その二十


第二十五話 花咲く命その二十

「非常によい組み合わせでは?」
「絵画の如きですよね」
「御二人と同じで」
「まさにワーグナー氏の芸術ではありませんか」
「素晴しいことです」
「そうですね」
 周りの言葉にだ。一旦は頷くゾフィーだった。
 しかしそれでもだ。彼女はこうも言うのだった。
「ですが」
「ですが?」
「ですがといいますと」
「ローエングリンは幸せにはなれないのです」
 それは。決してだというのだ。
「そしてエルザもまた」
「そういえばそうですね」
「あの作品の結末は悲しい結末です」
「二人は結局結ばれませんでした」
「そして」
 そのローエングリンの結末が。今ここで思い出される。
「エルザ姫は悲しみのあまり息絶えてしまう」
「ローエングリンは希望を失い去ってしまう」
「そうなってしまいますね」
「それでは」
「私をエルザと言ってくれますが」
 それがだ。ここでは複雑なものを生まれさせているのだ。
 その複雑なものを感じながらだ。ゾフィーは話していく。
「それはです」
「喜べるものではありませんか」
「そのことは」
「複雑です」
 実際にだ。エルザの顔にはその複雑さが宿った。
 喜んではいる。しかしそれと共に難しい、そして悲しいものを漂わせてだ。そのうえで王についてだ。話をしていくのだ。
「あの方は私を愛して下さっています」
「それはいいことですか」
「それも非常に」
「嬉しいと」
「はい、嬉しいです」
 それは確かだというのだ。
「ですが。私ではなく」
「貴女ではなく」
「といいますと」
「エルザ姫を御覧になられてのことです」
 彼女であって彼女ではない。そうだというのだ。
 その複雑なものを見てからだ。周りは。
「ううむ、わかりません」
「そうですね。これは」
「一体何がでしょうか」
「陛下に愛されていることは確かだと」
「しかしですか」
「それは」
「ローエングリンの歌劇におけることだと」
 ここで問題が出たのだった。
 王はローエングリンを見ている。だからエルザだというのだ。
 それを話してだった。ゾフィーは。
「あの歌劇。ワーグナー氏は」
「あの方がですか」
「はい。私に陛下を会わせて下さいました」
 正確に言えば最初からだ。二人は幼馴染みだったのだ。だがその仲が進展したのはだ。ワーグナーを通じてのことだったのである。
 王はワーグナーを愛している。そしてゾフィーもワーグナーの音楽に親しんでいた。その二人の関係が深まったのは。あの頃だった。
「ワーグナー氏は今はミュンヘンにおられますが」
「しかし前まではです」
「このミュンヘンから去られていました」
「追放されていましたね」
「その頃に」
 傷心、ワーグナーと別れざるを得なかった王とだ。彼女は。
 王は自然に心の傷を癒すことを求めた。そこにゾフィーがいてだったのだ。
 その頃のことをだ。ゾフィーはさらに話した。
「それからですか」
「そうなのですか」
「あの頃から」
「あの頃は私を名前で呼んでくれていました」
 そのだ。ゾフィーという名前でだというのだ。
 

 

405部分:第二十五話 花咲く命その二十一


第二十五話 花咲く命その二十一

「ですが今は」
「そうではなくですか」
「違うというのですか」
「はい、違います」
 エルザと呼ばれている。そのことだった。
「そのことに何故か悲しいです」
「あの美貌の姫に例えられることがですか」
「そのことが」
「あの方はまさか」
 王はだ。どうかというとだった。
「私を見ているのではなく」
「それは違い」
「他の方を」
「あの方はあの騎士を御覧になられているのでしょうか」
 エルザではなかった。騎士だというのだ。
「彼を」
「彼!?」
「彼ですか」
「彼女ではなく」
 周りはこの単語の違いに思わず問い返した。ゾフィーは今彼と言ったのだ。その言葉を聞き漏らすことは今は決してできなかった。
 それでだ。問い返すとだった。ゾフィーも話す。
「あの方は。ただひたすら見ておられるのです」
「一体どなたをでしょうか」
「彼と仰いましたが」
「それに先程騎士と仰いましたが」
「では一体」
「どなたでしょうか」
「ローエングリンです」
 彼だと。ゾフィーは話す。
「あの方はひたすらあの騎士を見ておられるのです」
「御自身を投影されているのではないのですか?」
「だからあの歌劇を愛されているのではないのですか?」
「そうではないと」
「確かに。あの方はあの歌劇を愛されています」
 それは確かだ。しかしだというのである。
「ですがその愛し方は」
「それはですか」
「違うというのですか」
「女性。女性の愛し方です」
 それだというのだ。
「そうなのですから」
「女性?ではあの方がエルザ姫だと」
「そう言われるのでしょうか」
「近頃」
 こう前置きしてだ。ゾフィーは話した。
「そんな気がします」
「ううむ、それはどうでしょうか」
「違うのではないでしょうか」
「そう思いますが」
 誰もがだ。それはどうかというのだった。
「あの方を見ていますと」
「そうですね」
「あの方はあくまで男性です」
「女性ではありません」
 こう言うのだった。王の外見を見て思い出してだ。
「背は高くすらりとしておられます」
「しかも流麗なお姿で」
「軍服もフロックコートも似合いますし」
「王のマントを羽織られればそれこそ」
 これ程見事な男性的な姿はない。これが彼等の意見だった。
 これは外見だけを見ての言葉だった。しかしであった。
 ゾフィーはだ。まだこう言うのであった。
「しかし」
「しかしですか」
「違うと仰いますか」
「はい、そう思います」
 こうだ。己の察しているところを述べるのである。
 

 

406部分:第二十五話 花咲く命その二十二


第二十五話 花咲く命その二十二

「あの方は。実は」
「女性である」
「そうだと言われますか」
「そうだと」
「私の気のせいでしょうか」
 確信はなかった。言葉は疑問系にもなる。
「そこまで思うのは」
「そうですね。それは」
「少し違うのでは」
「あの方はローエングリンに相応しい方です」
 またしてもだ。外見から話されることだった。
「実際にローエングリンの姿になられることもありますが」
「ハインリヒ王にも」
 それならばだというのだ。
「白銀の姿も似合われます」
「まさにローエングリンというお姿ですが」
「それでもですか」
「はい、思うのです」
 王はエルザだと。女性だと。
「不思議なことに」
「ではです」
「それならばですが」
 若しそうならばと。ここで言う彼等だった。
「女性は女性とは結婚できません」
「それは決して」
「そうです。あの方が女性であれば」
 どうなるか。それは。
「あの方はローエングリンと結ばれるべきなのですが」
「現実にはいない相手とですか?」
「まさかそれは」
「できるのでしょうか」
「そんなことが」
「この世では適わないことです」
 また話す彼女だった。
「そうです。この世では」
「では神の御前で、でしょうか」
「それが適うのは」
「若しあの方が女性ならば」
「そうであったならば」
「そうではないでしょうか」
 ゾフィーは確信のないまま話していく。そうしてだった。
 その不可思議なものを思い、見ているのだった。
 そこに憂いが加わりだ。彼女は首を小さく横に振った。
 そのうえで。また王のことを話した。
「あの方は王であるべきですが」
「あれだけ見事な王はおられません」
「まさに王に相応しい方です」
「そう思います」
「そうです。ですが玉座はこの世にあるだけではありません」
 この世だけを見て語る、ゾフィーは今はそれはしなかった。
 

 

407部分:第二十五話 花咲く命その二十三


第二十五話 花咲く命その二十三

 そのうえでだ。王はさらにだった。
「聖杯城にもあります」
「神に仕える騎士が集うというですね」
「あの伝説の城」
「ヴォルフラム=フォン=エッシェンバッハが歌った」
 実在のミンネジンガーだ。それと共にワーグナーのタンホイザーにも出て来る。ここでもまたワーグナーだった。
「あの城ですか」
「その城にも玉座がある」
「あの聖杯と共に」
「聖杯はこの世にあったのか」
 ゾフィーの言葉はここでは過去形だった。
「様々なことが言われていますね」
「はい、実にですね」
「よく言われていますね」
「昔から」
「この世になければ神が持っておられるのでしょう」
 神はここでは絶対だった。キリスト教の神だ。
「あの神が持っておられ」
「聖杯城の主が守護していますね」
「聖杯城の王パルジファル」
 この名前が出た。やはりヴォルフラムの歌に出て来る者だ。
「あの王がロンギヌスの槍を手に守護しておられる」
「そうなのですね」
「そのパルジファルの子がです」
 ゾフィーは見た。彼を。
「ローエングリンなのです」
「では次の聖杯城の王ですね」
「あの白銀の騎士は」
「そうです。そして」
 さらにだと。ゾフィーの話が動いた。
「あの方は」
「王はですか」
「陛下が」
「あの方は次の主でもあるのではないでしょうか」
 こう言うのである。王と聖杯城のことを考えながら。
「パルジファル、そしてローエングリンに続く」
「聖杯城の王」
「それになられる方ですか」
「そう考えてしまいます」
 どうしてもだ。そうなるというのだ。
「あの方はそうした方ではないでしょうか」
「この世の王、そしてあの世界の王になられる」
「そうした方なのですか」
「そう思われますか」
「考えてしまいます」
 まさにそうだというのだ。
「そして聖杯城の主はです」
「そういえば」
 ここでだ。彼等も気付いたのだった。
「あの城の王には妃がいませんね」
「どの王も」
「そうです。聖杯城の王は清らかな存在ですから」
 だからだというのだ。その王には。
「伴侶を必要としないのです」
「ではあの方もですか」
「御后は必要ない」
「そう言われるのですか」
「思われているのですね」
「私個人の考えです」
 しかしだ。それでも思うというのだ。
 こうした話をしてだ。彼女は王との婚姻について暗い考えを増していくのだった。そしてそれは止まらずにだ。さらに深くなっていた。


第二十五話   完


                     2011・7・14
 

 

408部分:第二十六話 このうえもない信頼その一


第二十六話 このうえもない信頼その一

                          第二十六話  このうえもない信頼
 王はだ。決意してだ。周りの者達に告げた。
「彼等をです」
「王宮にですね」
「呼ばれ、そしてですか」
「そのうえで」
「はい、話を聞きます」
 そうするとだ。決めたというのだ。
「そうすることにしました」
「わかりました。それではです」
「早速あの三人を呼びましょう」
「まずはワーグナー氏」
 最初に名前を挙げられたのは彼だった。
「そしてビューロー氏」
「最後にビューロー夫人」
「この方々をですね」
「呼びます」
 そうすると。王は周りに告げた。
「そうしますので」
「わかりました」
 こうしてだ。周りは王の言葉に頷くのだった。
 しかしだった。王の前を退いてからだ。彼等は暗い顔で話すのだった。
「しかし。これは」
「そうですね。これはです」
「厄介な話です」
「あの三人は陛下に真実を話すことはないでしょう」
「決して」
 このことをだ。彼等は確信していたのだ。
「そんなことをする筈がありません」
「信じるを話すことは彼等にとって破滅です」
「それで何故真実を話すのか」
「例え陛下をたばかっても」
 彼等の庇護者である。王を騙してもだというのだ。
「このことを隠すでしょう」
「例え何があっても」
「真実は語られません」
「彼等の口からは」
 そうなるとだ。確信している彼等だった。
 そしてだ。彼等はワーグナー達についてこうも話すのだった。
「ワーグナー氏はそもそもが山師です」
「非常に信用できない御仁です」
「借金を重ねそれを踏み倒してきました」
「先々で女性問題を起こしてもいます」
「人種的な発言も気になります」
 彼の反ユダヤ主義はだ。宮廷においても疑問視されていたのだ。
「そうした方を置けばです」
「必ず問題になります」
「それでよいのかどうか」
「甚だ疑問ですね」
「全くです」
「ましてやその言葉は」
 信用できない。それに尽きた。
「陛下をたばかってもその名誉を守られるでしょう」
「彼の全てを」
 こうだ。彼等は見ていた。
 そして次は。ビューローについて話すのだった。
「そもそも師匠に妻を奪われるなぞ聞いたことがありません」
「逆でも眉を顰めさせますが」
「彼は弟子です」
「弟子が師匠に奪われる」
「それをさせる御仁というのも」
 ビューローの夫としての器についても疑問が言われるのだった。
「まずありません」
「情けない話ですね」
「本当に」
 こう話される。
「そうした御仁が今更名誉を守ろうとされても」
「誰も信じません」
「信じる方がおかしいです」
「そんな者はこの国にはいません」
「いえ、何処にもです」
 いないというのだ。ビューローの名誉を信じる者は。
 

 

409部分:第二十六話 このうえもない信頼その二


第二十六話 このうえもない信頼その二

「あの方は師匠に妻を奪われました」
「このことは紛れもない事実」
「それをしたワーグナー氏の名声も誰も信じませんが」
「あの方も名誉も同じ」
「何も違いはありません」
 信用されないということにおいてだ。同じだというのだ。
「そして最後にですね」
「ビューロー夫人ですね」
「あのリスト氏のご令嬢でもありますが」
「あの方もです」
 その父によく似た高い鼻を持つコジマのことも話された。
「夫を捨ててその師に走った女です」
「既にワーグナー氏の娘を二人産んでいます」
「公にはビューロー氏の娘になっていても」
 このこともだった。誰も信じてはいなかった。
「誰もが知っていることです」
「既に不義の子を二人も産んでいる」
「そしてまた一人です」
「妊娠しています」
「その父親もまたです」
「ワーグナー氏です」
「それはもうわかっています」
 既にだ。バイエルンの誰もがわかっていることだった。
 そのことをだ。彼等はさらに話していく。
「御存知ないのは陛下だけでしょう」
「いえ、陛下も実は御存知なのでは?」
 ここでこんな意見が出た。
「若しかして」
「陛下も御存知でしょうか。あのことは」
「まさかと思いますが」
「ビューロー夫人のお腹の子の父親は誰なのか」
「そのことを」
「御存知でない筈はないでしょう」
 こうまで言われるのだった。このことについて。
「何しろバイエルンの誰もが噂していますし」
「これで三度目です」
「三人も子を孕めばです」
「知らない方がおかしいです」
 こう話されるのだった。
「ましてあの方はかなり鋭い方です」
「そうですね。あの方はあれで感性がはっきりしていますし」
「それを考えるとですね」
「あの方も本当は御存知でしょう」
「左様ですか」
 こうだ。王はワーグナーとコジマのことを知っているのではと考えられるのだった。
「しかしあえて御存知ないふりをする」
「あえて謀れる」
「彼等が嘘を吐いていると知っていて真実と言う」
「それは何故でしょうか」
「おかしな話ですな」
「全くです」
 王のその行動は誰もが首を捻るのだった。そしてこの話は。
 ベルリンにまで届いていた。ビスマルクは食事中にこの話を聞いてだ。好物のハンバーグ、その上に目玉焼きを乗せたものを食べながらだ。
 その中でだ。彼は言うのだった。
「誰もわかっていない」
「わかっておられないとは」
「どういうことでしょうか」
「バイエルンの誰もわかっていないのだ」
 こう言うのである。傍に控えている者達に対して。
「あの方のことがだ」
「バイエルン王のことが」
「あの方のことがですか」
「そうだ。あの方はわかっておられるのだ」
 王はだ。わかっているというのだ。
 

 

410部分:第二十六話 このうえもない信頼その三


第二十六話 このうえもない信頼その三

「全てな」
「ではワーグナー氏とビューロー夫人のことを」
「そしてビューロー夫人の三人目の子の父親は誰なのか」
「そのこともですか」
「全て御存知なのですか」
「そしてそのうえでだ」
 どうかというのだ。ビスマルクはさらに話す。
「あの方はあえてだ」
「あえて?」
「あえてといいますと」
「騙されるのだ」
 騙されるとわかっていてだ。それで騙されるというのだ。
 そしてそれはどうしてかもだ。彼は話した。
「恋をする相手は信じたいな」
「そうですね。それについてはですね」
「わかります」
「私もです」
 彼等もだ。それはわかるというのだ。
「ではですか」
「あの方は恋をされているのですか」
「だからこそ騙されるのですか」
「そうなのですか」
「しかし」
 ここでだ。彼等がわからないことがあった。それは。
「ではあの方はどなたを愛されているのでしょうか」
「既にゾフィー様と婚約されていますが」
「その他に愛されているとは」
「では誰なのでしょうか」
「美だ」
 ビスマルクは赤ワインを一口飲んでから述べた。今はシャンパンではなかった。
「美を愛されているのだ」
「美をですか」
「それを愛されているというのですか」
「左様ですか」
「そうだ。美、それは即ち」
 何かというとだ。その美は。
「ワーグナー氏の美なのだ」
「その渦中の人物のですか」
「その本人の美を愛されているのですか」
「そうだというのですか」
「では」
「そうだ。あの方は美に裏切られることを恐れておられるのだ」
 美とワーグナーはここでは一致していた。王の中では。
 ビスマルクはこのこともわかっていた。それも全てだった。
 そしてだ。それを話してだった。
 ビスマルクは食事の中でだ。顔を曇らせた。厳しい顔がだ。そうなったのだ。
 そしてその曇った顔でだ。彼はさらに話した。
「あの方は今受難の中にあられる」
「その愛が裏切られる」
「それを恐れておられますか」
「だからこそですか」
「あの方はあえて騙される」
「そうされますか」
「既に騙されている」
 それはもう決まっていた。既にだ。
「だが。それを認められるか」
「それは」
「そう言われますと」
「愛する相手に騙されること」
 このことはどうなのかというのだ。そのことは。
「それはこの世で最も辛いことの一つなのだ」
「愛が裏切られる」
「そうですね。それ程辛いものはそうはありませんね」
「あの痛さは。味わうと」
「信じていたものが壊れるということは」
「それは味わいたくないものだ」
 決してだというのだ。ビスマルクもまた。
 

 

411部分:第二十六話 このうえもない信頼その四


第二十六話 このうえもない信頼その四

「誰もがな」
「はい。だからですか」
「あの方は信じられている」
「信じようとされている」
「ワーグナー氏もわかっている」
 そのだ。王の心境はだというのだ。
 しかしそれでもだとだ。ビスマルクはここでまた言うのだった。
「だが、それでもだ」
「それでもですか」
「あの御仁は」
「ビューロー氏にしてもビューロー夫人にしても同じだ」
 三人はここでは同じだった。共犯関係にあるというのだ。
「彼等は自分達を守る為にだ」
「王をたばからなくてはならない」
「そうなのですね」
「彼等もあの方は嫌いではない」
 ビスマルクは彼等のこともわかっていた。王だけを見ているのではないのだ。
「むしろ愛している」
「あの方が彼等を守っていて認めている」
「だからですね」
「そうだ。だからこそだ」 
 それでだというのだ。
「そうした方を愛さない者はいない」
「しかしそれでもですか」
「彼等は王を裏切る」
「たばかるというのですね」
「決して認められないことだ」
 コジマの腹の中の子の父親がワーグナーであること、このことはだというのだ。彼等にしてみれば決して認められないことであるのだ。
 ビスマルクはこのこともわかっていた。そのうえでの言葉なのだ。
「何があってもな」
「だから王の信頼を裏切りますか」
「何があっても」
「その通りだ。そうするのだ」
 彼は語った。
「彼等の為にな」
「御世辞にもいいことではありませんが」
「気持ちはわかるにしても」
 彼等とて愚かでも人の心に通じていない訳でもない。それならばだった。
 こうだ。釈然としない顔で言うのである。
 だがそのうえでだ。こうも言うのだった。
「しかし。良心の問題ですね」
「それをあえてするのは」
「天秤だ」
 ビスマルクはここでそれを出した。
「損得と良心を天秤にかけだ」
「彼等は損得を選んだ」
「それをですね」
「そういうことだ。彼等が選んだのはそちらだ」
 そのだ。損得をだというのだ。
「彼等の為にだ」
「そしてバイエルン王はそれを全て御存知のうえで」
「彼等に騙される」
「彼等への愛情故に」
「彼等を護る為に」
「あの方は必ずそうされる」
 そうだとだ。ビスマルクは遠いバイエルンを見ながら話した。
「迷われることなくだ。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「あの方はそのことにより深く傷つかれる」
 そうなることもだった。ビスマルクは読んでいるのだった。
 その読んでいることをだ。このベルリンで話す。そのことについてもだ。
 ビスマルクは憂いの顔でだ。それで述べた。
「騙される、裏切られること。そして周囲の言葉に」
「あの方はそれだけ繊細なのですか」
「そこまでなのですか」
「そうだ。若しも」
 ここでだ。ビスマルクは王を想いながら話した。
 

 

412部分:第二十六話 このうえもない信頼その五


第二十六話 このうえもない信頼その五

「私があの国にいれば」
「バイエルン王国にですか」
「あの方の国に」
「私があの方を御護りしていた」
 そうしていたというのだ。王への気持ち故に。
「あの方はドイツの宝だ。そして聖なる方なのだ」
「聖なる方とは」
「そこまでの方なのですか」
「バイエルン王は」
「そうだ。そこまでの方だ」
 まさにだ。そうだというのだ。
「あの方はこの世に現れた奇跡と言ってもいい方なのだ」
「だからこそあの方をですか」
「御護りしたい」
「そうされますか」
「そうだ。バイエルンにおいてあの方を理解している者はいない」
 いるとしてもだった。その彼は。
「ワーグナー氏以外には」
「ですがそのワーグナー氏がです」
「今回はです」
「だからこそ。厄介なのだ」
「そのワーグナー氏があの方を傷つけるからこそ」
「そのせいで」
「この世で最も難しいものはだ」
 それが何かもだ。ビスマルクは深い叡智から話した。
「人なのだ」
「その、人ですか」
「人こそがですか」
「人は複雑なものだ」
 今度はこのことを話すのである。
「愛する相手を裏切ることもあるのだ」
「己の為に」
「あえてですね」
「ワーグナー氏は強かだ」
 その強かさはだ。人として顔を顰めさせるものでもあるというのだ。
 その彼に対してだ。王はというと。
「だが。あの方はだ」
「繊細ですね」
「非常に」
「それが問題なのだ。あの方は繊細に過ぎる」
 そしてその繊細さは。どういったものかというと。
「乙女だ」
「乙女ですか」
「乙女の繊細さですか」
「それだ。あの方は乙女なのだ」
 王の本質をだ。この日も話した。
「清らかな乙女なのだ」
「清らかなですか」
「そうした御心でもあられますか」
「あれだけ清らかな方はおられない」
 こうまで言うのだった。
「この世にはだ」
「そこまで純粋な方だからこそ」
「それでなのですか」
「今回のことにはですか」
「人一倍なのですね」
「傷つかれる」
 ビスマルクの言葉は心から心配し気にかけている、そうしたものだった。
 その気にかける顔でだ。彼は言うのだった。
「本当に思う。あの方は救われるべきなのだ」
「しかしその救いはなのですね」
「バイエルンにおいてはですか」
「それは」
「少なくとも今は無理だ」
 時を限定した。今現在はだというのだ。
「そしてこれからも」
「これからは」
「どうなるのでしょうか」
「やはり難しい」
 それは何故かとも彼は話していく。
 

 

413部分:第二十六話 このうえもない信頼その六


第二十六話 このうえもない信頼その六

「あの方を心から理解できる者がいなければだ」
「それはワーグナー氏でしょうか」
「やはり」
「他ならぬ」
「もう一人いるとすれば」
 ビスマルクの目は現実を見る目である。だが彼は今あえてこの世、即ち現実とはまた別の世界を見てだ。そのうえで話すのだった。
「騎士だ」
「騎士、ですか」
「といいますと」
「あの白銀の騎士だ」
 彼もまただった。こう言ったのである。
「彼ならばだ」
「白銀の騎士、ですか」
「その人物ならですか」
「あの方をお救いできる」
「そうだというのですね」
「その通りだ」
 ビスマルクはその世界を見ながら話していく。尚彼も後にその白銀の騎士となる。その像がある港町に置かれることになるのだ。
 だが彼はこのことを知らず。そのうえで話すのだった。
「あの騎士ならばだ」
「ではその騎士殿をですね」
「あの方のところに案内しましょう」
「そうしましょう」
「今すぐに」
「そうしたい」
 ビスマルクもだ。それを願うというのだ。
「是非共な」
「ではその騎士殿は何処におられるのですか?」
「バイエルンでしょうか。それともプロイセンでしょうか」
「若しくはオーストリアでしょうか」
「どの国でもない」
 また話すビスマルクだった。
「その騎士はいないのだ」
「いませんか」
「ドイツにはですか」
「ゲルマン民族の世界には」
「いや、ゲルマンの中にいる」
 彼等にだ。ビスマルクはまた話した。
「しっかりとだ」
「いますか」
「ではすぐにですね」
「その彼を探してそのうえで」
「あの方の御前に」
「そうしたいのだが」
 願望の言葉だった。しかしそれが現実にできるかどうか。それも話すのだった。
「できるのなら」
「?どういうことですか?」
「御言葉の意味がわかりませんが」
「私もです」
 彼等のうちの誰もがだ。彼の今の言葉の意味が理解できなかった。
 そしてそのうえでだ。また言うのだった。
「ドイツにおられるのですね」
「我等ゲルマンの世界に」
「ならば御呼び出来る筈では」
「オーストリアにいてもどの世界にいても」
「それが違うというのですか」
「世界は一つではない」
 ビスマルクは言った。
「そう。一つではないからだ」
「世界は一つではない」
「?地球がもう一つあるのでしょうか」
「まさか」
「地球は一つだ」
 それはだと。また話すのだった。
 

 

414部分:第二十六話 このうえもない信頼その七


第二十六話 このうえもない信頼その七

「しかしそれでもだ」
「世界は一つではない」
「あの、申し訳ありませんが私は」
「私もです」
「私もまだ」
 誰もがだ。怪訝な顔で話すのだった。
「仰る意味がわかりません」
「今の御言葉の意味は」
「どうしても」
「わからないか」
 彼にはわかる。そしてそれがわかる者は。
「私と。ワーグナー氏と」
「そして?」
「もう一人おられるのですね」
「オーストリアの皇后陛下」
 ビスマルクは己も含めて三人の名を挙げた。
「その騎士のいる場所はわかっている」
「では閣下がですね」
「すぐにですね」
「その騎士にお声をかけて」
「そのうえで」
「私が。呼ぶか」
 ビスマルクはその世界を見ながら。また話した。
「そうするか」
「はい、そうされてはどうでしょうか」
「私達ではです」
「その方が何処におられるか」
「それすらもわかりませんから」
 だからだと。周りの者達はそのビスマルクに話す。
「その様に御願いします」
「宜しければ」
「できればいいのだが」
 しかしだった。ビスマルクは。
 その顔に憂いを満ちさせてだ。そして言うのだった、
「実際にな」
「いえ、その方が何処におられるのか御存知ですよね」
「そうですよね」
「知ってはいる」
 それはビスマルクも認めた。その通りだとだ。
 だがそれと共にだった。憂いの顔のままで。
「しかし。それができるかどうかはだ」
「わからないのですか?」
「そうなのですか」
「この世とは別の世界」
 呟く様に。その世界を見つつ話す。
「そこに辿り着ければ」
「?別の世界」
「そこに辿り着くことができればですか」
「その騎士殿に御会いできますか」
「そうだというのですか」
「そして呼べるのですね」
「結局あの騎士に会えるのは」
 そして呼べるのは誰かもだ。彼はわかっていた。
 そのことをだ。やはり呟いて話した。
「あの方だけなのだろう」
「バイエルン王、あの方だけ」
「そうですか」
「私はベルリンにいる」
 ミュンヘンでもその世界でもない。それが彼を悩ませていた。
 それを見つつだ。それでだった。
「行けたらいいが。あの方の為にも」
「バイエルン王の為に」
「そうされたいのですね」
「そうしたい。是非な」
 彼は遠くを見つつ話した。そこに見えるものは何処までも清らかな青、そして白だった。その何処までも澄んだ色を見つつ。王のことを考え憂いていた。
 その憂いを向けられている王もだった。今もまた。
 玉座に座って項垂れたままだ。彼等を待っていた。
「間も無くですね」
「はい、来られます」
「あの方々が」
 部屋の左右に控えている近衛兵達が王のその言葉に応えて話す。
 

 

415部分:第二十六話 このうえもない信頼その八


第二十六話 このうえもない信頼その八

「ですからもうすぐです」
「御待ち下さい」
「わかりました」
 王も兵達の言葉に応えて言う。
 だがどうにも虚ろな声だった。その声でだ。
 王はだ。彼等について話した。
「あの方々は」
「ワーグナー氏ですね」
「そしてビューロー氏」
「ビューロー夫人もまた」
「わかっています」
 信じているのではなかった。その言葉を出さずにだ。
 その言葉でだ。それで話すのである。
「あの方々の潔白が」
「そしてそれをですか」
「ここで聞かれる」
「そうされるのですね」
「潔白は。確かにされなければなりません」
 王は虚ろな目でその真実を見ながら話した。
「ですから」
「あの方々は潔白ですか」
「そうなのですか」
「そうです。潔白です」
 また言うのだった。彼等は潔白だと。
「後はそれを公にするだけです」
「陛下」
 ここで、だった。王の前にだ。
 侍従の一人が来てだ。そのうえでだった。
 王に対して端整な仕草で一礼してからだ。こう述べたのだった。
「ワーグナー氏が来られました」
「三人共ですね」
「はい、来られました」
 そうだとだ。王に対して告げたのである。
「ではこちらに」
「はい。案内して下さい」
 すぐにこう述べる王だった。
「この部屋に」
「それでは」
 こうしてだった。その侍従は再び一礼してからだ。
 そのうえでだ。彼等を王の前に案内した。その彼等を見てだ。
 近衛兵達は表情には出さなかった。だがその仮面の裏でだ。
 顔を顰めさせてだ。こう囁き合うのだった。
「目がだな」
「ああ。泳いでいる」
「陛下をまともに見ようとしていないではないか」
「あれでは」
 すぐにだ。わかることだった。
「誰でもわかるではないか」
「嘘だ」
「彼等はこれから嘘を吐く」
「間違いなくだ」
 それがわかるというのだ。
「あの三人は嘘を吐く」
「既に目でそれを言っている」
「陛下を謀ってでもか」
「自分達の保身を考えるおつもりか」
「あくまで護ろうとされる方の御好意を逆手に取り」
「そうするおつもりか」
 そのことにだ。彼等は。
 非常に厄介なものを感じてだ。それでだった。
 三人を見ていた。三人は近衛兵や侍従達の軽蔑と嫌悪の、目から放たれる矢をその全身に浴びていた。だがそれでもであった。
 王に対してだ。恭しく一礼してだった。こう言ったのである。
「陛下、昨今の噂ですが」
「あのことですが」
 こうだ。堰を切った様に口々に主張する。
「全て根も葉もないことです」
「誹謗中傷に過ぎません」
 そうだというのだ。
 

 

416部分:第二十六話 このうえもない信頼その九


第二十六話 このうえもない信頼その九

「神に誓ってです」
「そのうえで言えます」
 今度は神の存在を口にしだした。
「私達は潔白で」
「何の疚しいところはありません」
 こうだ。あくまで言うのである。
「周りが。心ない者達がです」
「言っているだけです」
 その話を聞いてだ。近衛兵達も侍従達もだ。
 顔をあからさまに顰めさせてだ。軽蔑しきった目で彼等を見つつ。それでまた囁いた。
「よく言えるものだ」
「誰もが知っているというのに」
「恥知らずにも程がある」
「醜いですな、ここまでいくと」
「全くです」
「あそこまで嘘を言うと」
 嘘は只でさえ醜いものだ。しかしそれでも今はだった。
 その嘘の中でもだ。とりわけなのだった。
「陛下を。自分達の庇護者を騙すとは」
「しかも自分達の保身の為に共謀して」
「それで言うとは」
「自分達を信じたい陛下をあえて」
「そうするとは」
「何という醜さか」
 ワーグナー達はその醜さを露わにしてだ。今王の前にいるのだ。
 ワーグナーもビューローも弁明を続ける。とりわけコジマは。
 必死になりだ。王に対して釈明、偽りのそれを述べ続けていた。
「私の子は夫の子です」
「そうです。その通りです」
 その『夫』もここで言った。
「私と妻の間の子です」
「このことを今あえて申し上げます」
 コジマは演技を続け言っていく。
「私達は何もありません」
「これは本当のことです」
「それで陛下」
 コジマは一歩踏み込んだ。そのうえで言うことは。
「御願いがあります」
「御願い!?」
「まさかと思うが」
「またあれをか」
「陛下にしてもらうというのか」
 聞こえないようにはしているが。それでもだった。
 近衛兵達や侍従達の言葉はそのまま矢となりワーグナー達に突き刺さる。しかし彼等はそれに気付かないふりをして、おそらくワーグナーはそうした矢を普通に取り払いながら王の前にいる。
 その中のコジマがだ。今言った。
「このことを陛下がお話して下さい」
「やはり言うか」
「陛下に揉み消しを御願いするか」
「事実の揉み消し」
「それを公に」
 また言う周囲だった。
「陛下が仰れば全ては公のものになる」
「それで国の者は黙ってしまう」
「例えそれが事実とは違っていても」
「そうなってしまう」
 だからこそだった。コジマも今あえてそれを言ったのだ。
 身振り手振りまで踏まえてだ。そうしてだった。
 王に対して言う。このことを。
「そうして頂けるでしょうか。この忌まわしい誹謗中傷に対して」
「誹謗中傷ではない」
「それは事実だ」
「紛れもない事実」
 これはバイエルン全体での評価だった。
「それでも言うか」
「この期に及んで」
 しかしだった。コジマは言い続けた。その彼女に対して。
 これまで沈黙を守っていた。王がだ。遂にだった。
 

 

417部分:第二十六話 このうえもない信頼その十


第二十六話 このうえもない信頼その十

 その口を開いてだ。こう告げた。
「わかりました」
「陛下、それでは」
「その様に取り計らいましょう」
 微笑みだ。こうコジマに告げたのである。
「私は最初からわかっていました」
「御存知だったのですね」
「はい」
 そのだ。『真実』をだというのだ。
「そうです」
「だからこそなのですね」
「貴方達は潔白です」
 今この『真実』を公としたのである。
「それが確かなものになります」
「有り難うございます、陛下」
 コジマだけでなくだ。ワーグナーもビューローも言う。
「これで我々は」
「救われます」
「ただ。一つです」
 王は安堵の顔になった彼等、とりわけコジマに対してだった。
 彼女の名を呼びだ。こう言ったのである。
「ビューロー夫人、約束して下さい」
「約束ですか」
「はい、約束です」
 コジマを見つつ。そのうえでの言葉だった。
「この冬はです」
「冬にはですね」
「ここに留まっていて下さい」
 こうコジマに告げたのだった。
「このミュンヘンに」
「この町にですか」
「はい、そうして下さい」
 王はコジマを見つつ話を続けていく。
「それだけです」
「わかりました」
 コジマもその時は王の言葉に頷いた。
「それではその様に」
「そういうことで」
 こうして話は終わった。ワーグナー達の潔白は王が保障することになった。だがこのことはだ。
 今潔白が確かなものとされたその場においてもだった。
 近衛兵達も侍従達もだ。溜息を出してから言ったのだった。
「そんな筈がない」
「彼等は嘘を吐いている」
「それが真実だ」
 『真実』は既にわかっていた。
 後はその真実をどうするかだった。そして王の選択はそれだったのだ。
 彼等の言葉をそのまま受けた。そのうえでだ。
 公にだ。こう言ったのだった。
『コジマ=フォン=ビューロー夫人は潔白である』
 これで全ては終わった。しかしワーグナーは攻撃を避けスイスに逃れた。ここまでは誰もが予想していることだった。だが予想外のことは常に起こるものだ。
 何とだ。コジマは王の忠告を聞かずにだ。そのワーグナーを追って。
 スイスに向かった。それを見てだ。
 誰もがだ。顔を顰めさせて言い合った。
「折角陛下が忠告されたのにか」
「それを聞かずにか」
「真の夫を追って行ったというのか」
「あれでは」
 最早だ。言い繕うことのできないことだった。
「自分自身で真実を言っているようなものだ」
「誰もが知っているその真実をな」
「あれが真実だ」
「バイエルン王の信じた真実だ」
 王への批判にもなった。そしてさらにだった。
 コジマはその子を産んだ。その名前は。
 ジークフリート、ワーグナーのその作品ニーベルングの指輪の主人公だ。この大作を象徴する名前をだ。ワーグナーは名付けたのだ。
 このことは欧州中に伝わった。勿論バイエルンにもだ。
 

 

418部分:第二十六話 このうえもない信頼その十一


第二十六話 このうえもない信頼その十一

 バイエルンでは誰もがだ。ワーグナーを攻撃した。
「あの男はやはり山師だ」
「陛下をたばかる詐欺師だ」
「国費を食い潰すだけではない」
「陛下も騙す男だぞ」
「己の保身の為に」
 これが事実だからどうしようもなかった。そしてその王は。
 王宮の奥深くに篭もる様になった。そのうえで一人ローエングリンの音楽を聴きながらだ。共にいるホルニヒに話したのだった。
「信じていても」
「ワーグナー氏のことでしょうか」
「人は自分を信じている相手を裏切るのだな」
 こうだ。下を見て言うのだった。
 黄金と赤のソファーに座っている。そこで傍に控えるホルニヒに話すのだった。
「私は」
「陛下、そのことは」
「わかっている」
 わかってはいる。しかしなのだった。
 憂いは消えずにだ。それどころか増していくその中でだ。
 沈みながらだ。こう話すのだった。
「全てな」
「では」
「この音楽をはじめて聴いたのは」
 王はさらに話す。王のその心にもつながるものだった。
「私が十六の頃だった」
「その時にはじめてなのですね」
「そうだ。その時に彼に出会ったのだ」
 目にある世界が広がった。青い清浄な世界が。
「川から小舟に乗り現われる彼に」
 その彼も見た。白銀の騎士を。
「あの時で全ては決まったのだ」
「そして今に至るのですか」
「そうだ。私は今も見ている」
 ホルニヒには見えず彼だけに見えるものをだった。
「彼を。だが」
「それでもですか」
「こうなることはわかっていたのだ」
 ホルニヒの気付かないうちにだ。王は話を変えた。
「しかしそれでもだ」
「ビューロー夫人は潔白ではないのですか?」
「そう、潔白だ」
 真実を知っていてそのうえでの言葉だった。
「潔白なのだ」
「では。そう思われた方が」
「そうだな。しかし」
「しかし?」
「私は純粋に信じたかった」
 だがそれでもなのだった。王は。
「それは確かだ」
「陛下、今は」 
 ホルニヒは王を気遣いだ。そしてだった。
 王にだ。こう言ったのだった。
「庭園に行かれますか」
「あの庭園だな」
「はい、そこで虹を見ましょう」
 こうだ。王に対して言ったのである。
「そうしましょう」
「そうだな。それがいいな」
 王もだ。ホルニヒのその提案に頷いたのだった。
そのうえで二人であの人工庭園に向かった。庭園はアラビアやスペインがあり南欧の植物や花で満たされていた。そしてだった。
 霧と光の魔術でだ。虹も生み出された。その虹を見てだ。
 王はだ。ホルニヒに話したのだった。
「虹は橋だったな」
「北欧神話でしたね」
「そうだ。ひいては我々の神話だ」
 ゲルマンの神話と北欧の神話は同じである。そしてそれをこの時代で確かにしたのもだった。そのワーグナーだったのである。
 彼の歌劇がだ。そうさせたのだ。その歌劇のことをまた思いながら。 
 

 

419部分:第二十六話 このうえもない信頼その十二


第二十六話 このうえもない信頼その十二

 王はその虹を見てだ。こう話したのだった。
「そしてこの橋を渡れば」
「確か。それで入る場所は」
「ヴァルハラだ」
 そこだというのだ。
「この世とは別の世界だ」
「そうでしたね。ラインの黄金でしたね」
「光の精霊、神々がいる世界だ」
 そこもまただ。この世ではなかった。
「その世界だ」
「神々の世界ですか」
「思えばあのヴァルハラも」
 どうかというのだ。その世界もまた。
「裏切りによって築かれたな」
「確か。ヴォータンが」
「そうだ。巨人達を騙してだ」
 そうしてだ。築かせた城なのだ。
「それにより出来上がった世界だ」
「神々もまた騙すのですか」
「誰もが騙しそうして」
 己のエゴを満たしていく。そうなるというのだ。
「それが人なのだろうか」
「それは」
「醜い」
 王はこの言葉を出した。
「人は醜い。そして」
「そして?」
「その人が創り出すこの世界も」
 どうかというのだ。その世界自体もまた。
「やはり醜いものだ。特にだ」
「特に?」
「戦い。戦いはこのうえなく醜い」
 戦いを好まない王らしいと言える言葉だった。
「そしてまたそれが近付いている」
「戦争が再びですか」
「起こる。今プロイセンとフランスは対立しているな」
「エムス電報事件ですね」
 フランス側が保養の為温泉に来ていたプロイセン王ヴィルヘルム一世にスペイン王の継承について確認を入れたことに関してだ。
 ビスマルクは策を仕掛けてだ。そのうえで両国の対立を煽ったのだ。具体的には電報を都合よく改竄してそれを公に出したのだ。
 そのことによりプロイセンとフランスは対立するようになったのだ。それについてだ。
「ビスマルク卿はだ」
「あの方はですか」
「ドイツ帝国を築かれる為ならどんなことでもされる」
 そうだというのだ。彼は。
「その中にはああした謀略もだ」
「あれは謀略ですか」
「フランスは焦っていた」
 エムス電報事件の真実をだ。王は見抜いていた。
 そしてそのうえでだ。こうホルニヒに話した。
「もっと言えばナポレオン三世はだ」
「そういえばあの方は近頃」
「メキシコで失敗しあのマルクスに糾弾された」
 メキシコ内戦でメキシコ皇帝へ援助を約束しておきながら見捨てた形になった。結果としてメキシコ皇帝は反乱軍に処刑された。
 このことがそのままだ。ナポレオン三世への批判になっていたのだ。
 そしてそれに加えてだった。
「マルクスはだ」
「ナポレオン三世の政策を欺瞞だと言っていますね」
「そうだ。欺瞞だとだ」
「しかしあれは」
「あの男は危険だ」
 マルクスについてはだ。王は全く信頼していなかった。
 そのうえでだ。こう言うのだった。
「非常にだ」
「そういえば労働者と資本家に区分して」
「農民も入るがだ」
 労働者に加えてだ。農民もだというのだ。
「それと資本家、貴族を対立させてだ」
「争いを起こさせようとしているのですね」
「それが革命だ」
 所謂だ。共産主義革命だ。
 

 

420部分:第二十六話 このうえもない信頼その十三


第二十六話 このうえもない信頼その十三

「マルクスの言う革命なのだ」
「そしてその革命においてなのですね」
「血だ」
 王は言った。
「多くの血が流れるのだ」
「そうですね。それではそのまま」
「フランス革命だ。彼は決して新しいことを言っているのではない」
「確かに。共産主義革命といっても」
「フランス革命なのだ。そして共産主義者は」
「ジャコバンですね」
 ホルニヒにもわかってきていた。王とのこれまでの話でだ。
「彼等は」
「革命は血を欲する」
 よく言われる言葉を。王も言った。
「その対象はだ」
「資本家や貴族だけでなく」
「教会、そしてだ」
「王や皇帝にもですね」
「最後には自分達にも向けられる」
 そこまでだ。王は見抜いていた。
「最終的には労働者や農民もだ」
「殺していくのですね」
「それがあの共産主義だ」
「ではマルクスの批判は」
「裏がある」
 そうだというのだ。共産主義者の行動は。
「彼等は危険だ。今欧州は無政府主義や虚無主義があるが」
「そしてですね」
「暗殺もだ」
 即ちアナーキズム、ニヒリズム、そしてテロリズムだ。その三つのものが欧州を覆っていた。ロシアから来てだ。そのうえでなのだ。
 王はだ。彼等について話してだ。
「そしてそれ等全てがだ」
「共産主義の中にあるのですね」
「だから余計に危険だ」
「彼等は無政府主義でもあるのですか」
「若し革命が為されないのなら」 
 それならばだというのだ。どうなのかとだ。
「彼等は全てを破壊する」
「政府もですか」
「彼等は自分達以外の秩序を求めない」
「自分達が全てなのですね」
「自分達以外の全てを嘘偽りだと考えている」
「だからこそ教会も」
「彼等の無神論は虚無主義なのだ」
 王はこのこともわかっていた。共産主義者の言う無神論もだ。
 それも全て見抜いてなのだった。彼は話すのだった。
「全ては危険なのだ」
「彼等の主張は」
「そして存在もですね」
「そうだ。彼等は自分達が全てなのだ」
「それが彼等の言う革命ですか」
「革命とはそうしたものだ」
 王は共産主義者達にもだ。その深い洞察を見せた。
 そしてだ。話すその言葉は。
「自分達が全てに。神になるのだ」
「そういえばジャコバンは」
「そうだな。彼等が最初に神を否定していたな」
「それは教会への反発ではなかったのですか」
「実は違っていたのだ」
 そうだったというのだ。
「彼等は自分達以外の存在をそもそも認めていなかった」
「だからこそ教会も貴族も」
「そして彼等が言う民衆もだ」
 そうしただ。全てをだというのだ。
「そして意に添わぬ者達を殺戮していったのだ」
「あの革命で多くの者が死んだのは確かですね」
「自由。博愛。平等」
 フランスの国旗、革命の時のその色だ。
 

 

421部分:第二十六話 このうえもない信頼その十四


第二十六話 このうえもない信頼その十四

「言葉としてはいい」
「しかし実際は」
「その逆だ。革命には自由も博愛も平等もないのだ」
 何処までもだ。王は革命を否定していっていた。
「あるのは彼等だけなのだ」
「彼等が神ですか」
「その彼等によってフランス皇帝は攻撃されているのだ」
「あの方が」
「確かにあの方には問題がある」
 ナポレオン三世についてもだ。王は把握していた。
「皇帝でありあのナポレオン一世の甥であるが」
「それでもですか」
「あの方は妙に小手先の手段を好まれる」
 それがナポレオン三世の癖だった。一見すると堂々としているが実際にはなのだ。裏や隠れた場所でそうしたことをすることが多いのだ。
 王はそれを見ているからだ。それで話すのだった。
「そしてマルクスはそれに気付いた」
「あの彼が」
「マルクスの言っていることは問題だらけだ」
 このことは二十世紀も終わりになってようやくわかることだ。しかし王は今のこの時点でだ。既にそのことに気付いているのだ。
「あれは悪夢なのだ」
「悪夢ですか」
「幻想ではない。全てのものに栄枯盛衰がある」
 共産主義にはない考えだ。資本家や地主といったものは何処までも大きくなっていく、それがマルクスの主張の根幹なのだ。
「資本家や地主の間でもだ。そして」
「そして?」
「労働者や農民も資本家や地主になれるのだ」
「なれるのですか」
「万物は流転する」
 古のギリシアの哲学者の言葉をそのまま述べたのだ。
「資本家や地主が没落するのもだ。それに彼等も人間なのだ」
「資本家や地主も」
「労働者や農民と同じだ。違うのは富と地位だけだが」
「その富と地位が問題なのですね」
「それは簡単に流転する」
 王はこのことも指摘した。
「革命によってしかどうにかできないということはないのだ」
「革命もまた絶対ではないのですね」
「少しずつ確実に変えていくこともできる」
 王は自分の考えを述べていく。
「今のドイツの様にだ。少しずつだが確実にだ」
「ドイツの様に」
「ドイツの変革はいいことだ」
 それ自体はいいというのだ。
「ドイツにとってはな。話を戻そう」
「マルクスですね」
「知識人達の多くは何もわかっていないのだ。偽りの福音に騙されている」
 王の見る真実はこれだった。偽りの福音だった。
「あれに従えば大きな災厄が訪れる。ドイツにも」
「この国にも」
「共産主義、若しくは名前を変えただけの共産主義」
 名前が。変えられてもその本質は変わらないというのだ。
「それがドイツに現れた時に」
「ドイツに災厄が訪れますか」
「フランス皇帝に対するどころではない」
「より恐ろしいことにですか」
「なる。フランス皇帝にしても今窮地に追い込まれている」
 そのフランス皇帝の話にもなった。叔父であるナポレオン一世の名声を大いに借りているこの皇帝もだ。どうかというのだ。
「ビスマルク卿はそこを衝かれたのだ」
「そしてそれにより」
「フランスはプロイセンとの戦争を選ぶ」
「選ばされるのでしょうか」
「そうだ。選ばされるのだ」
 追い詰められてだ。そうなるというのだ。
「そしてプロイセンに勝てると思っている」
「戦力的にはひけを取らないのでは?」
「外観ではな」
 あくまでそれはだ。外だけのことだというのだ。
 

 

422部分:第二十六話 このうえもない信頼その十五


第二十六話 このうえもない信頼その十五

「そうだが」
「実際は」
「違う。フランスではプロイセンには勝てない」
「プロイセンはそこまで強いですか」
「オーストリアを八週間で破った」
 これがプロイセンのしたことだ。先のオーストリアとの戦争もだ。数年はかかると思われていたのが僅か八週間で終わっているのだ。
 しかもだ。王はその戦争で既にだった。
「私はあの戦争は読んでいた」
「そうでしたね。陛下は」
「プロイセンは強い。それに」
 それに加えてだった。プロイセンの精強さに加えて。
「あの方もおられるからな」
「ビスマルク卿が」
「あの方は誤解されることが多い」
「誤解ですか」
「あの方は好戦的ではないのだ」
 俗にだ。ビスマルクは戦争を好むと見られていた。学生時代に二十回以上の決闘に勝利を収め乱暴者とさえ言われたこともそれに影響している。
「戦争は必要だからこそする」
「プロイセンにとって」
「そしてドイツにとって」
 だからこそするというのだ。戦争を。
「それだけなのだ」
「ではむしろ」
「あの方は理知的だ」
 ビスマルクのその本質を。はっきりと指摘してみせた。
「非常にだ」
「理知的ですか」
「必要なことだけをされる」
 それも冷静に。ビスマルクはそうした男だというのだ。
「それだけなのだ」
「ですか。ではフランスとも」
「ドイツを築く為に。我等ゲルマン民族の国家を築く為に」
 戦い勝つ。それだけだった。
「必要な戦争なのだ」
「必要な戦争もあることは」
「それはわかるな」
「私もです」
 わかるとだ。ホルニヒも答えることができた。
「そのことは」
「ならいい。だが」
 ここでだった。王は表情も曇らせてだった。こう言ったのである。
「しかし。私は」
「陛下は」
「それでも好きになれない」
 これが王が今言う言葉だった。
「どうしてもだ」
「戦争をですか」
「戦争は何を生み出すか」
「統一の他にですね」
「破壊。そして殺戮」
 そうしたことに対してはだ。王は嫌悪を見せる。
 そのうえでだ。こんなこともだ。ホルニヒに話した。
「醜いものが浮き出てその牙と爪が傷跡を見せる」
「傷、ですか」
「人を殺し街も田園も壊してしまう」
 王の思うだ。美しいものに対してそうするというのだ。
「戦いによりどれだけの城や宮殿が壊されてしまったか」
「そのことを思うとなのですね」
「戦争は好きにはなれない」
 これが追うの結論だった。
「どうしてもだ」
「例えそれが必要なことであってもですか」
「少なくともビスマルク卿はこれで最後にされる」
 そのだ。戦争をというのだ。
 

 

423部分:第二十六話 このうえもない信頼その十六


第二十六話 このうえもない信頼その十六

「それは間違いない」
「フランスとの戦争で統一されるからですね」
「後の戦争は全てにおいて無意味だ。そして」
「そして?」
「あの方はこれから戦争の原因になるものは全て取り除いていかれる」
「全てですか」
「間違いなく平和を主張される」
 しきりに戦争を主張していたのが一転してだ。そうなるというのだ。
「あの方がおられる限りもう戦争は起きないだろう」
「その後は」
「わからない」
 未来についてはだ。王もすぐには答えられなかった。
 だが、だ。王はまた憂いの目でだ。ホルニヒに話した。
「しかし永遠の戦乱がないことと同じでだ」
「永遠の平和もですか」
「それもない。また戦争は起こる」
 それは間違いないというのだ。戦争が起こることはだ。
「その時に欧州がどうなるかだ」
「そのことが問題ですか」
「欧州で。三十年戦争の様な恐ろしい戦いが起これば」
 その危険をだ。王は完全に否定してはいなかった。
 それでだ。王はさらに話すのだった。
「その時は美も芸術もだ」
「破壊されてしまうのですね」
「多くの者が死に」
 そしてだというのだ。さらに。
「多くのものが失われるだろう」
「戦乱によってですか」
「そうだ。願わくばそうしたことは起きないで欲しい」
 心からの切実な願いだった。王はあくまで戦争を嫌う。
 しかしその嫌うものが迫っていることもわかっていた。それでなのだった。
「大砲も騎兵も好きにはなれない」
「そういえば陛下は銃も」
「剣は好きだ」
 王は射撃は苦手だ。だが剣を扱うことは得意だ。それにも理由があった。
「剣は芸術でもある」
「そしてスポーツでもですね」
「だからいいのだ」
「乗馬もまた」
「そうだ。そして火薬も嫌いではない」
 王の嫌う大砲や銃を生み出すそれもだというのだ。
「花火が全ての国の夜を常に飾れば」
「陛下は満足ですか」
「できないことだ」
 その現実はわかっているのだった。どうしても。
「だがそれでもだ」
「陛下は望まれますか」
「そうだ。戦いなぞなく美が全てを覆えば」
 言いながら。またあの騎士を思い出す。
「この世もどれだけ素晴しいだろう」
「そう思われるのですね」
「変わらない。この考えは」
 王の中ではだ。そうなのだった。
 そのことを話してだ。さらにだった。
「私はだ」
「では陛下」
 ホルニヒは王の憂いを癒そうと考えた。それでだ。
 王に対してだ。こう言ったのだった。
「今はです」
「今はだな」
「モーツァルトを聴かれますか?」
 あえてワーグナーではなくこの音楽家のものにしたのだ。
「そうされますか?」
「そうだな。それではだ」
「はい、それでは」
「魔笛にしよう」
 ドイツ語で歌われる。その作品のものをだというのだ。
「あれにな」
「魔笛ですか」
「パパゲーノのアリアがいい」
 魔笛の登場人物の一人だ。バリトンで歌われる役であり鳥の様な格好をしている。鳥刺しという職業を営んでいるユーモラスな男だ。
 

 

424部分:第二十六話 このうえもない信頼その十七


第二十六話 このうえもない信頼その十七

 その彼の曲をだと。王は所望したのだ。
「あの第一幕のな」
「最初の歌ですね」
「あの歌を聴いていると自然と心が弾む」
 そうなるからだというのだ。
「不思議だな。モーツァルトの音楽は」
「そうですね。本当に」
「魔術だ」
 そのものだとも。王はモーツァルトを賞賛した。
「あの音楽は心地よい魔術だ」
「ではその魔術をお楽しみ下さい」
「そうしよう」
 こうして何とか憂いを消そうとする王だった。だが。
 ワーグナーのことだけでなくだ。憂いの種はありだった。王の憂いは続いていた。
 ドイツでもだ。次第にだった。
「戦争だ!」
「フランスを倒せ!」
「フランスは敵だ!」
 こう主張する者が増えてきていた。ドイツ全域でのフランスへの反感は次第に強まっていた。
 そしてフランスでもだった。その彼等も。
「ボタン一つに至るまで不備はない」
「軽い気持ちでこの責任を引き受けよう」
 こうした言葉がだ。高官達から出て来ていた。
「プロイセン、そしてドイツ諸国には勝てる」
「我がフランスが負ける筈がない」
「勝つのは我等だ」
 彼等もだ。戦いを見だしていた。
 どちらも戦い勝つことを確信していた。しかしである。
 フランス皇帝ナポレオン三世はだ。親しい者達にこう漏らしていた。
「まずいことになっている」
「プロイセンへの反感が強まっていることですね」
「そのことですね」
「そう、それだ」
 まさにそのことだというのだ。
「このままでは大変なことになるぞ」
「戦争ですね」
「それはもう避けられないのでは?」
「双方共最早止まりません」
「それでは」
「敗れる」
 ナポレオン三世は難しい顔で言った。
「敗れるのは我が国だ」
「フランスだと」
「そう仰るのですか」
「プロイセンは強い」
 彼にはわかっていたのだ。プロイセンのあまりもの強さが。それにだった。
「あの国にはビスマルクもモルトケもいる」
「人材もいる」
「だからですか」
「兵の移動は速く大砲も多い」
 鉄道、そしてグルッフ社の大砲だ。プロイセン軍は兵が強く人材がいるだけでなくだ。技術もあれば装備もいい、全てにおいて突出していたのだ。
 それをだ。彼は既に見ていたのだ。そのことも話すのだった。
「私はかつてオーストリアとあの国の戦争について言ったな」
「何年もかかる」
「そうですね」
「そうだ。実際にそう思っていた」
 彼だけでなくだ。他の者も思っていたことだ。
 だが実際はどうだったか。それが彼に敗北を言わしめていたのだ。
「しかしプロイセンは八週間で勝った」
「オーストリアを次々に破り」
「そのうえで」
「ウィーンに入城しようと思えばできた」
 これをしなかったのはビスマルクの慧眼故だ。彼は後々オーストリアと友好的な関係を築く為にだ。あえて勝ち過ぎず寛大な態度を取ったのだ。そしてこれは正解だった。
 

 

425部分:第二十六話 このうえもない信頼その十八


第二十六話 このうえもない信頼その十八

「そこまで強いからだ」
「我が国では敗れる」
「そうなると」
「あの国に勝てるとすればロシアだけだ」
 圧倒的な数を誇るその国だけだというのだ。
「他にはいない」
「しかしです。誰もがです」
「フランスは勝つと言っています」
「そうならないのですか?」
「我が国は」
「やはり敗れる」
 それでもナポレオン三世はまた敗北を口にするだけだった。首を横に振って。
「あの国にはな」
「では陛下がです」
「それを止められますか」
「陛下御自身が」
「そうしたい」
 ナポレオン三世の偽らざる本音である。しかし。
 全てはその本音通りにいくものではない。今がまさにそうだった。
 彼はだ。項垂れてこう言った。皇帝の座から。
「だが。若し朕が止めようとする」
「この流れを」
「それをすれば」
「それでも止まりはしない。戦争への流れは」
 皇帝である彼ですらだ。止められないものだというのだ。
 そしてだ。さらにだった。
「しかもだ。若しこの流れを止めようとする者がいれば」
「皇帝である陛下でも」
「それをしたならばですか」
「そのまま飲み込まれる」
 濁流の中にだ。戦争へのそれに。
「誰もそれを止めようとする者を許しはしない」
「では陛下が止められれば」
「民衆は陛下御自身をですか」
「まさか」
「そのまさかだ。民衆の力は絶大だ」
 それを使って皇帝になったからこそわかることだった。彼はナポレオンの甥という血筋によって世に出て民衆の人気を取りそのうえで皇帝になったのだ。だからこそだった。
 その民衆の力を見てだ。今言うのだ。
「それに抗うことはできない。それに」
「プロイセンもある」
「そうですね」
「我が国の民衆も抑えられず敵は戦争を欲している」
 ビスマルクの顔がだ。彼の脳裏に宿っていた。
「最早それではだ」
「戦いしかない」
「そうなのですか」
「最早誰も止められない」
 皇帝は苦々しげに言った。
「そしてフランスは敗れる」
「必ずですね」
「そうなると」
「そしてドイツは統一される」
 このこともだ。間違いないというのだ。
「全てはビスマルクの書いている通りだ」
「そのうえでドイツ帝国ができですか」
「その中にあれだけの多くの国が入る」
「三十五の君主国と四つの自由都市」 
 これがだ。ドイツの全ての国家だった。
「その全てがですか」
「ドイツの中に入る」
「そのうえでの統一ですか」
「そうだ。かつてのドイツは」
 どうだったか。ナポレオン三世はこのことも話す。
「三百以上に別れていたが」
「それがですね」
「三十九にまでなり」
「そして一つになる」
「これが時代の流れですね」
「そのドイツは強い」 
 ただ統一されるだけではない。力もあるというのだ。
 

 

426部分:第二十六話 このうえもない信頼その十九


第二十六話 このうえもない信頼その十九

「我が国に。それに」
「それに」
「それにといいますと」
「イギリスにも匹敵する国になる」
 言わずと知れただ。日の沈まぬ国にまでだというのだ。
 イギリスは欧州において圧倒的な力を持ち続けていた。その工業力と海軍の力においてだ。欧州だけでなく世界を主導していたのだ。
 だがそのイギリスに比肩するまでにだ。ドイツはなるというのだ。
「既に我が国はイギリスに迫ろうとしているがだ」
「ドイツもですか」
「迫りますか」
「それだけの国になる」
 また話すのだった。
「従って我が国は東西から挟まれることになる」
「イギリスとドイツ」
「この両国にですね」
「そうなると」
「孤立する」
 それもわかることだった。
「我が国は今後暫くは辛い状況に追いやられるだろう」
「それはプロイセンとの戦争の後ですね」
「それからもですか」
「敗北だけでなく」
「そうなる。フランスにとって辛い時代になる」
 フランス皇帝としてだ。フランスのことを想い話す。
「ビスマルクは我が国を追い込んでいくかも知れない」
「あの男が戦争を引き起こしですか」
「そのうえでなのですね」
「戦争の後でもそうしていく」
「我が国を」
「それをわかっている者がいるかどうか」
 フランス皇帝の憂いはそこにあった。まさにだ。
「それが問題なのだ」
「それでいると思われますか」
「そこまでフランスをわかっている者が」
「果たして今この国に」
「いるでしょうか」
「期待していない」
 ナポレオン三世はこのことは諦めていた。既にだ。
「最早な」
「左様ですか」
「ではいない」
「そうですか」
「いれば今だ」
 そのだ。プロイセンとの緊張が高まっている今だ。
「止めようといる者が出るな。少なくとも声をあげる者がいるが」
「いませんね」
「今は誰もが戦争を叫んでいます」
「新聞もそれ一色です」
「それしかありません」
「新聞は害毒だ」
 ナポレオン三世は苦々しい声でだ。新聞について言った。
「新聞は人を煽りそのまま暴走させる」
「何かそれではです」
「レミングでは?」
「それに近いのでは?」
「レミング。そうだな」
 北欧にいる鼠だ。危機になると群れで海に飛び込み集団自殺をする。新聞、即ちマスコミは人をそうさせるとだ。ナポレオン三世は話すのだ。
「あれだな」
「人を啓蒙するものではありませんか」
「死地に誘うものですか」
「新聞とはそうしたものですか」
「実は」
「朕はこれまで新聞も利用してきた」
 彼等を巧みに操り自身の評判を広めさせていたのだ。しかしそれがだというのだ。
「だが。今はわかる」
「この状況になりですね」
「フランスを戦争に誘おうというそれで」
「その今になりおわかりになられた」
「そうなのですか」
「そうだ。今全てがわかった」
 遠い、そして苦々しい顔での言葉だった。
 

 

427部分:第二十六話 このうえもない信頼その二十


第二十六話 このうえもない信頼その二十

「フランスが敗れる戦争に向かう今になってな」
「フランスは敗れそこから苦境が続く」
「そうなろうとしている今に至り」
「そうしてですか」
「愚かだった」
 自省の言葉もだ。皇帝の口から出た。
「全てはビスマルクに見られていたのだ」
「戦争を狙う彼に」
「一部始終を」
「エムスで先走り過ぎた。あの時ビスマルクはだ」
 そのビスマルクがだ。どうしたかというのだ。
「モルトケに聞いたそうだ」
「あのモルトケにですか」
「参謀総長の彼にですか」
「聞いたのですか」
「あの電報の話が彼の耳に届いた」
 そしてなのだった。その時にだ。
「その時彼はモルトケと二人で食事を摂っていた」
「そしてその時にですか」
「彼に問うた」
「そうだったのですか」
「そうだ。我が国と戦争が出来るかどうか」
 既にだ。それを尋ねていたというのだ。
「そしてモルトケは答えた」
「それで何と」
「あの男はどう答えたのでしょうか」
「今すぐにでもとだ」
 こう答えたというのだ。そのモルトケは。
「そして今に至るのだ」
「では最初からですか」
「あの男は我が国との戦争を狙っていた」
「決して国民の激怒が根拠ではなく」
「既に」
「戦略だ」 
 それだとだ。ナポレオン三世は言った。
「既にそれで考えていたのだ。思えば」
「思えば?」
「思えばといいますと」
「それも当然なのだ」
 プロイセンがフランスとの戦争を狙うこともだ。そうだというのだ。
 それが何故かというとだ。ナポレオン三世は皇帝らしくなく俯いてしまいそのうえでだ.。言うのだった。
「ドイツの統一の為に必要なことはだ」
「ドイツ統一ですか」
「その為にですか」
「必要なこととは」
「まずは経済的な統合だ」
 最初に来るのはそれだった。
「ドイツ関税同盟だ」
「あれですね」
「プロイセンが中心となっている」
「あの同盟ですか」
「そうだ。またしてもプロイセンだが」
 そのプロイセンが軸になってだ。北ドイツから南ドイツまで拡大していっている経済統合の組織だ。まずはそれがあってこそだというのだ。
「序曲として文化的な統合もあるがな」
「ゲーテですね」
「そしてカント」
「ヘーゲルもまた」
 音楽家だけでなく哲学者まで挙げられる。ドイツの誇る哲学者達だ。
「フィヒテもドイツ国民の統合を訴えていましたが」
「まずはその文化的な統合が序曲だったのですか」
「ワーグナーも然りだ」
 他ならぬバイエルン王が愛する彼もその序曲の中にあるというのだ。
「文化が序曲としてあり」
「それからですか」
「経済的統合」
「それですか」
「それが第一幕だ」
 序曲の次に来るものは第一幕だ。まさにそれだ。
 その第一幕が進みだ。そのうえでだった。
「そして政治的な統合を進めると共に」
「それと共にですか」
「行うことは」
「ドイツ統一、プロイセンの提唱する小ドイツ主義」
 具体的に言えばオーストリアを外したドイツ統一だ。これに対してオーストリアも入れたドイツ統一は大ドイツ主義だというのである。
 

 

428部分:第二十六話 このうえもない信頼その二十一


第二十六話 このうえもない信頼その二十一

 その統一の為には。何かというと。
「大ドイツ主義のオーストリアを排除する必要があったのだ」
「だからこそオーストリアと戦った」
「そうだったのですね」
「どうだ。あの戦争は数年かかると思っていた」
 それはだ。彼だけが見てはいなかった。
 しかしなのだ。その戦争は八週間で終わった。それは何故かというと。
「事前に準備していたのだ」
「事前にですか」
「準備していましたか」
「既に」
「そうだ。プロイセンは優れた鉄道網がある」
 それがあるのだった。プロイセンの大きな武器である。
「あれを使う兵を即座に動かしてだ」
「そして一気に戦争を終わらせたと」
「兵の迅速かつ大量の移動により」
「その他の物資もだ」
 兵だけで戦争はできない。銃に砲、火薬にだ。そして食糧もだ。
 そうしたものもありだ。ようやく戦えるというのだ。
 それを話してだ。ナポレオン三世は結論を出した。
「オーストリアも多くの兵を持っていたがだ」
「それでも兵を一気に大量にぶつけられはですか」
「敗れるのも当然」
「そうだったのですか」
「そうだ。それでオーストリアを破ったのだ」
 僅か八週間でだ。そうしたというのだ。
「そのうえでオーストリアを排除し小ドイツ主義を確かなものにさせ」
「ドイツの統一を確かなものにした」
「それで終わりではなくですか」
「小ドイツ主義、内は確立された」
 しかしそれで終わりではなかった。というとだった。
「その次は外敵だ」
「ではその外敵はですか」
「我が国だというのですね」
「このフランスだと」
「だからこそですか」
「フランスはドイツにとって不倶戴天の敵だ」
 何故敵かというと。このことは歴史的な事情もあった。
「カペー朝と神聖トーマ帝国の頃からのことだ」
「我々は常にあの国に介入してきた」
「ビスマルクもそれを知っていますか」
「あの男は歴史に学ぶ」
 ビスマルク自身が常に言っていることだ。
「そうしているからだ」
「それでいい」
「そうなのですか」
「そうだ。あの男は歴史から見てもだ」
 そこからドイツとフランスの関係を見ればよくわかることだった。ビスマルクが何故フランスとの戦争まもで望んでいるのか。それがだ。
「我が国との戦争を望んでいるのだ」
「フランスが介入してくるからですか」
「それを排除する為に」
「その為にですか」
「そうだ。フランソワ一世も」
 ヴァロア朝の王だ。この王も神聖ローマ帝国に常に攻撃を仕掛けていた。
「ルイ十四世もだ」
「そういえばリシュリューもですね」
「三十年戦争の時の」
「常にそうだった」
 ナポレオン三世は自国の立場からだが何故今ビスマルクがフランスとの戦争を望みそこに誘導したのかを言う。彼も今になりわかったことだ。
「それからも。我が叔父上もだ」
「あの方もそうでしたね」
「ドイツに対して」
「積極的に介入された」
 神聖ローマ帝国を解体しオーストリアとプロイセンの力を弱め諸侯に連合を組ませだ。そうして積極的に介入していっていたのだ。
 

 

429部分:第二十六話 このうえもない信頼その二十二


第二十六話 このうえもない信頼その二十二

 そのこともだ。ナポレオン三世も知っていてだ。それで話すのだった。
「朕自身もじゃ」
「ドイツにですか」
「隙があればですね」
「介入を考えておられましたか」
「左様でしたか」
「あくまで時と場合に応じてじゃが」
 それでもだ。考えていたことは。
「考えておった」
「しかしそれは適わないことですね」
「今のプロイセンには」
「左様ですか」
「そうだ。強い」
 またこのことを言うのだった。
「フランスでは適わないまでにだ」
「しかし戦争は避けられない」
「最早ですね」
「そして敗北もだ」
 ナポレオン三世にはだ。そのことはわかっていた。
 だがそれでもだった。彼は皇帝である。
 その誇りとしてだ。彼は話した。
「だが。最後の最後で避けるべきものはだ」
「それですね」
「それは」
「犠牲を多くすることだ」
 それだった。避けるべきものというのは。
「最低限に抑えたい」
「皇帝としてですね」
「この国の」
「私とてわかっているつもりだ」
 これまでの策士、権力主義者としての顔はなかった。
 彼は今国家元首としてだ。純粋に言うのである。
「国家元首として為さねばならないことはだ」
「敗れるならばその血を少しでも抑える」
「流れる血をですね」
「それを」
「そうだ。それを少しでも抑える為に」
 まさにだ。その為にだった。
「私はフランスの為に最後の仕事をしよう」
「何か。残念な仕事ですね」
「敗戦の処理ですか」
「それが陛下の最後の仕事ですか」
「フランス皇帝としての」
「私としても不本意だ」
 彼もそのことは否定しなかった。憮然とした顔でだ。
 そのうえでだ。こう周囲に話す。
「だが。やらなければならない」
「フランス皇帝としてですね」
「それはどうしても」
「私にしかできないことだ」
 国家元首であるからだ。それが何よりもそう決めていることだった。
「戦争を早期に終わらせることはな」
「では戦いがはじまりです」
「すぐにでもですね」
「フランスはすぐに敗れ続ける」
 最初からだ。そうなるというのだ。
「タイミングも大事だ」
「開戦してすぐに停戦はできませんね」
「それは」
 これは言わずもがなだった。はじまりすぐに結果がわかるか。ましてや一発の銃弾を放っていないのに。そんな筈がないことだった。
 だからだ。状況が大事だというのだ。
「ある程度敗れてからですね」
「停戦になる」
「そうなりますね」
「そうだ。犠牲はだ」
 それはだ。どうしても避けられなかった。
 それもわかっているからだ。ナポレオン三世の顔は苦い。
 その苦い顔でだ。王はさらに話す。
「しかし。最低限で抑えなければならない」
「どうしてもですね」
「血は少しでも少ないに限る」
「だからこそ」
「朕は少なくともだ」
 自分はどうかと。こう話す。
 

 

430部分:第二十六話 このうえもない信頼その二十三


第二十六話 このうえもない信頼その二十三

「流血を好みはしない」
「そうですね。陛下はそうした方ではありません」
「それは確かです」 
 彼等もわかっていた。ナポレオン三世は確かに策略を好むがだ。それでも決して残暴な人間ではない。だからなのである。
 そうしただ。無闇な流血はというのだ。
「朕はそうする。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「朕が戦いを止めさせてもだ」
 それでもだというのだ。ここで。
「それを聞かぬ民がいればだ」
「その場合はですか」
「わからないと」
「そうだというのですね」
「そうだ。朕が降伏すればとりあえずの戦争は終わる」
 フランスとプロイセンの国家同士の戦争はというのだ。
「しかしそれを受け入れない民がいれば」
「彼等は戦い続けますか」
「プロイセンに対して」
「そうしますか」
「そこまで我が国の臣民のプロイセンへの反感は強い」
 まずはこれがあった。まさにそれが為に今戦争に向かっている。
 ここからだ。彼は言えた。
「それが戦いで消えなければ。むしろ」
「むしろですね」
「ここで」
「そうだ、敗戦でそれが増せば」
 どうなるかというのだ。それによって。
「彼等は戦争をだ。さらに望む」
「しかし正統な政府が陛下の停戦を継承されれば」
「それではです」
「何も問題はないのでは」
「そう思いますが」
「正統か」
 この言葉にはだった。
 ナポレオン三世は笑わなかったがシニカルな響きを込めてだ。そうしてだ。
 こうだ。苦々しげに言ったのだった。
「正統という言葉はこの世で最も曖昧な言葉の一つだ」
「では」
「まさか」
「正統なぞ言えばそれだけでなれる」
 そうしたものに過ぎないというのだ。
「だからだ。幾ら普通の政府が言ってもだ」
「そうした者達が出ればですか」
「血が流れ続ける」
「そうなりますか」
「戦争での。軍同士での流血は限られている」
 そうだというのだ。その場合の流血はだ。
 しかしどういった流血ならばだ。問題かというと。
「市民ということになるか」
「そうした者達が騒げばですか」
「より多くの血が流れる」
「そうなるというのですね」
「そうだ。革命がそうだ」
 革命のことはフランスにいれば誰もが知っていることだった。
 この国は多くの革命を経てきた。その都度だ。
 多くの血が流れてきた。だからなのだ。
 ナポレオン三世もだ。今言う。
「そうしたプロイセンに反発して革命的なことが起こればだ」
「その場合はですか」
「最悪の事態になりますか」
「少なくとも朕は流血を抑える」
 それは絶対だった。彼にとっては。
 しかしその後のことは彼でも保障できなかった。時代は血も欲していた。美だけがあるのではなかった。そうしたものもあったのだ。


第二十六話   完


                 2011・7・28
 

 

431部分:第二十七話 愛を呪うその一


第二十七話 愛を呪うその一

               第二十七話  愛を呪う
 婚姻は延期され。さらにだ。
 王はこんなことも言い出していた。
「取り止めたい」
「御婚礼をですか!?」
「それを」
「そうだ。それをだ」
 遂にだ。こうしたことまで言い出していたのだ。
「止めたいのだ」
「あの、冗談ですよね」
「その御言葉は」
「そうですね」
 こうだ。周りは戸惑いながらだ。
 そのうえでだ。必死の顔で王に問うた。
「今のお言葉は」
「まさかと思いますが」
「それは」
「そうだな」 
 王の返答は今一つだ。何か要領を得ないものだった。
 そしてその要領を得ないままだ。また言う王だった。
「冗談だ」
「全く。脅かさせないで下さい」
「まさかと思ったではないですか」
「いや、本当に」
 しかしだ。王の言葉にだ。誰もが安堵した。
 そのうえでだ。彼等は口々に言った。
「とにかくです」
「式の準備は順調に進んでいますので」
「後はその式だけです」
「その日が来れば」
「私は女性と結婚する」
 王は今度はだ。誰にも聞こえない声でだ。
 こう呟くのだった。そしてさらにだった。
「何か。同性と結婚する様な」
「?陛下今何と」
「何と仰いましたか」
「一体」
「何でもない」
 ここから先はだ。王は言わなかった。聞こえると思ってだ。
 それで言わずにだ。ただ玉座にいるだけだった。
 そしてそのうえでだ。その日を虚ろに待っていた。
 こうしたことがあった。殆んどの者がこのことを冗談に過ぎないと思った。
 しかしだ。そのことを聞いてだ。オーストリア皇后は。
 眉を顰めさせてだ。こんなことを言った。
「間違いありませんね」
「間違いないとは?」
「何かあるのですか」
「それでは」
「この婚礼は破綻します」
 そうするというのだ。王と彼女の妹の結婚は。
「バイエルン王は冗談を言いはしません」
「そうした方ですか」
「あの方はですか」
「そうなのですか」
「そうです。決してです」
 こう話すのだった。王について。
「ですから。あの方は」
「結婚をですか」
「取り止められる」
「そうされますか」
「元々。実現する筈のないことでした」
 バイエルン王の結婚はだ。そうしたものだというのだ。
「あの方は女性を愛せない方なのですから」
「以前より仰っていることですね」
「そうした方だと」
「そうですね」
「このことによって」
 皇后は今度はだ。オーストリア皇后としてだった。
 

 

432部分:第二十七話 愛を呪うその二


第二十七話 愛を呪うその二

 その立場からだ。こう言ったのだった。
「しかし。そのことによってです」
「そのことによってですね」
「オーストリアとバイエルンの関係ですね」
「両国の関係は」
「破綻させてはならないです」
 それはだ。決してだというのだ。
「影響を最低限に抑えましょう」
「そうですね。そのことはです」
「皇帝陛下にお話してです」
「そうしましょう」
 ゾフィーがだ。皇后の妹だからだ。婚姻が破綻したならばバイエルンとの関係に間違いなく影響が出る。しかしそれをだというのだ。
 それを最低限に抑える為にだ。為るべきことをしようというのだ。
 そのことを話しているのはオーストリアだけではなかった。プロイセンもだ。
 ビスマルクがだ。密かに側近達に話す。
「あの婚礼はならない」
「バイエルンにおけるですか」
「王の婚礼は」
「そうだ。ならない」
 こう言うのだった。
「最早それが決まった」
「決まった!?まさか」
「それがですか!?」
「公にですか」
「公ではない」
 ビスマルクはそれは否定した。しかしだった。
 彼はだ。こう言うのであった。
「だが。あの方の中でだ」
「それが決まったのですか」
「婚約の破棄がですか」
「あの方の中では」
「そうなのですか」
「あの方はあれでいてだ」
 バイエルン王の気質、それはだった。
「頑固なところがあるのだ」
「頑固ですか」
「あの方は」
「そうなのだ。あの方は一途だ」
 その一途さがだというのだ。
「頑固さになっているのだ」
「その頑固さ故に」
「一途から来る頑固さが」
「それがなのですか」
「婚約の破棄にですか」
「あの方を決断させたのですか」
「そうさせているのだ」
 ビスマルクの声は苦い。彼にしては珍しくだ。
 政治的なものに感情を見せつつ。そのうえで話していく。
「あの方をしてだ」
「そういえば十六の頃にだったとか」
「ワーグナー氏のローエングリンを観られてでしたね」
「そのうえで今もだとか」
「ワーグナー氏を深く」
「そこに最もよく出ている」
 そのだ。王の一途さから来る頑固さがだというのだ。 
 それを話してだった。ビスマルクはこうも話した。
「まことに残念なことにだ」
「婚約の破棄がですか」
「それがなのですか」
「そうだ。そしてそれと共にだ」
 今彼が残念に思うのはだ。もう一つあった。
 そしてそれは。彼が王に対して常に思っていることだった。
「あの方は何故男なのか」
「女性でないのか」
「そうですね」
「神はこのうえなく残酷だ」
 ビスマルクとてクリスチャンだ。しかしだった。
 その信じている神にだ。無念の言葉を漏らしてしまった。
 その無念さをだ。さらに出して話す。
「あの方は女性であるべきなのだ。しかし」
「しかし?」
「しかしですか」
「あの方が肉体的には男性であるから」
 それならばだというのだ。そこからだ。
 

 

433部分:第二十七話 愛を呪うその三


第二十七話 愛を呪うその三

「おそらくあの城に行けるのだろう」
「あの城?」
「あの城というと」
「そこは」
「ローエングリンにある城だ」
 ビスマルクはその城を見た。その目にだ。
「モンサルヴァートだ」
「あの聖杯の城ですか」
「ローエングリンがいるという」
「あの城ですか」
「あの方はローエングリンになられたいが」
 これは常にだ。バイエルン王が思っていることだった。
 そしてその思っていることをだ。さらに話すのである。
「しかしだ」
「しかしですか」
「あの方は」
「パルジファルなのだ」
 それだというのだ。バイエルン王は。
「あの方はあのだ。聖杯城の主なのだ」
「何でもワーグナー氏は今構想中だそうですね、その作品を」
「今回はかなりキリスト教的な色彩が強いとか」
「そうした話を聞いています」
「そうなのですね」
「そうらしい。そしてだ」
 さらにだというのだ。
「あの方は聖杯城に入られ王になられる」
「そのパルジファルだからこそ」
「そうなりますか」
「精神的には女性だ。完全に」
 だからこそビスマルクにしてもオーストリア皇后にしてもなのだ。
 バイエルン王は女性と見る。しかしなのだ。
「あの方は肉体的には男性だ」
「矛盾していますね、それは」
「あの方は」
「そうですか」
「そうだ。あの方のそれがだ」
 どうなるかというのだ。
「あの方を聖杯城に導くことになる」
「しかしこのご婚礼は」
「それはですね」
「どうしても」
「そうだ。破綻してしまう」
 ビスマルクはそのことは避けられないと断言する。
「そうなってしまうのだ」
「しかしそれでは」
「最早」
「様々なものが壊れてしまう」
 その婚礼の破綻によってだ。他のものもだというのだ。
「そうなってしまう。その中でも特に」
「特に何が壊れますか」
「その中でも」
「あの方の御心だ」
 王のだ。その心がだというのだ。
「壊れてしまわれる。そしてそれにより人を」
「人を?」
「人をですか」
「避けられるようになるだろう」
 そうなることをだ。ビスマルクは既に読んでいた。
 王のことを何処までも理解でき。そして何とかしたいと思っていた。だが彼はベルリンにいるプロイセンの人間だ。それならばだった。
「心を閉ざされ」
「王であってもですか」
「そうなられますか」
「王とて人だ」
 時に忘れられていることをだ。彼は常に頭の中に入れている。
 それでだ。今話すのだった。
「あの方もまた」
「それで心を痛められ」
「そうしてですか」
「人を避けられるようになりますか」
「そうなるだろう。この婚姻の破綻は」
 それでまた言うのだった。
 

 

434部分:第二十七話 愛を呪うその四


第二十七話 愛を呪うその四

「あの方にとって。一つの問題の終わりでもあり」
「それでもありですか」
「さらに」
「はじまりでもある」
 何かが終わってそれで完結ではなくだ。
 そこからさらにだ。はじまるものがあるというのだ。
 そしてそれが何かもだ。ビスマルクはわかっていた。
「夜だ」
「夜?」
「夜ですか」
「あの方は夜の世界に入られる」
 そうなるというのだ。夜の世界にだ。
 そしてだった。その夜の世界についても言及する。
「ワーグナー氏の作品、ウェーバーもだが」
「あの方はウェーバーもお好きだとか」
「そうでしたね」
「ワーグナー氏はウェーバーの影響を受けている」
 ドイツ歌劇の開祖と言ってもいい。モーツァルトもドイツ語の歌劇を作っているがそれを確かにしたのがそのウェーバーなのである。
 彼はどうかというとだった。
「魔弾の射手では夜に狼谷に行っているな」
「あの魔物がいる谷」
「あの谷ですね」
「そうだ。あの谷に夜に行く」
 そうして魔弾を造るのだ。魔弾の射手第二幕の場面だ。
 その夜だった。ウェーバーも。
「夜なのだ。ワーグナー氏然り」
「そういえばそうですね」
「ワーグナー氏の作品で事件が起こるのは常に夜です」
「夜に全てが起こります」
 それが大きな特徴なのだ。ワーグナーの世界においては夜が非常に大きいのだ。
 その夜だった。王が入るという世界は。
「夜、全ては夜」
「そうなのですか」
「あの世界に入られる」
「そうなりますか」
「その通りだ。あの方はワーグナー氏の夜に入られるのだ」
 そしてなのだった。さらに。
「そして夜の中にある」
「夜の」
「その中のですか」
「森、そして城だ」
 この二つもだった。ワーグナーの作品に常にと言っていいまでにあるものだった。
 ワーグナーの作品はそうしたものが無意識の中にまであるのだ。ビスマルクもそのことがわかってだ。そのうえで話していくのである。
「あの方々はあの中に入られて」
「そうしてですか」
「その中で生きられるのですか」
「そうなってしまわれますか」
「それも運命なのか」
 ビスマルクはここでまた遠くを見た。
「あの方にとって」
「しかし。王は昼の世界にいなければならないのでは?」
「人は昼に生きるものです」
「夜には休むもの」
「ですから」
「その人がいるからだ」
 それでだと言うのだった。ビスマルクは今度は。
「あの方は人を避けられるようになる」
「はい、そうですね」
「首相は先程からそう仰っていますが」
「だから夜の中に入られ」
「昼に休まれるようになられると」
「昼。企み深い昼」
 ビスマルクは自然にトリスタンとイゾルデのこの一節を口にした。
「あの方の耳に入る傷つけるものは常に昼にある」
「人の噂」
「それも口さがない」
「これまでもそうだった」
 ワーグナーの数多い醜聞、それのことだ。
 

 

435部分:第二十七話 愛を呪うその五


第二十七話 愛を呪うその五

「あの方は今も次第に昼に倦まれておられている」
「だからですか」
「それが機になり」
「そうして」
「ご婚姻の破綻がさらに」
「決定付ける。それを止められる者はバイエルンにはいない」
 このこともまただった。
「ワーグナー氏は醜聞を生み出す立場でしかもだ」
「はい、最近はです」
「どうも関係に支障が出ているようです」
「色々と」
 このことはベルリンにまで届いていた。既に。
「ビューロー夫人のこともですが」
「歌劇場を置く場所、それに歌手のことで」
「御二人は衝突されておられるようです」
「どうやら」
「その様だな」
 このこともだ。ビスマルクは聞いていた。
 それでだ。こう言うのだった。
「あの方は芸術家なのだから」
「芸術家は妥協しない」
「そうだというのですね」
「そうだ。あの方もまた芸術家だから」
 だからだ。その芸術に対してだというのだ。
「ワーグナー氏が相手でも引かない」
「しかしそれは」
「あの方をまたしても」
「だからまずいのだ」
 王の側に立ちだ。ビスマルクは考え言っていた。
「ワーグナー氏はあの方を理解しているが止められはしない」
「むしろ助長してしまう」
「そうなのですね」
「そうだ」
 ワーグナーはだ。そうなってしまうというのだ。
「だからバイエルンにはいないのだ」
「唯一の理解者がかえって傷つけてしまう」
「それがバイエルンですか」
「私は残念に思う」
 心から思いだ。ビスマルクは言った。
「あの方の理解者があの国にいないことを」
「しかし宰相はです」
「あの方を理解しておられます」
「ですから」
「無論できることはする」
 このことはだ。確かに言えた。
 だが、だ。確約できるのはだった。
 彼もここまででだ。それで言ったのだった。
「しかし私はバイエルンにはいない」
「あの方を最後まではですか」
「御護りできませんか」
「それが無念だ」
 残念だとは言わずにだ。今度はこう言うのである。
「あの方はドイツの宝だというのに」
「しかしその方を最後まではですか」
「御護りできないからですか」
「あの方を理解することは難しい」
 それはだ。殆んどの者がだった。
 しかしその理解できる僅かな者の一人であるビスマルクは。
 苦い声でだ。ベルリンにいてだった。
「何もできない」
「そうですね。どうしても」
「それは」
「そうだ。理解できる者がいないからこそだ」
「せめて一人でもですね」
「あの国にいれば」
「バイエルンに」
 王は救われるかも知れないのだった。しかしだった。
 それがどうしてもならないままだ。今は。
 婚礼も破綻に向かいだ。そのうえでだ。
 王は孤独の中に陥ろうとしていた。その彼にだ。
 かろうじてホルニヒだけが傍にいてだ。王に尋ねるのだった。
 

 

436部分:第二十七話 愛を呪うその六


第二十七話 愛を呪うその六

「陛下、宮廷にです」
「大公が来ておられるな」
「はい、ゾフィー様のことで」
「私は会えない」
 王は言った。こう。
「今は」
「御病気でしょうか」
「そうしておいてくれ」
 病気でだ。いいというのだ。
「その様にな」
「わかりました。それでは」
「時間が欲しい」
 王はこうも言った。
「今は静かに考える時間がだ」
「御考えになられるのですか」
「そうしたい。せめてだ」
 どうかとだ。王は言ってだった。
 そのうえでだ。ホルニヒも下がらせてだ。一人になった。
 そのまま静かにワインを飲む。そのまま一本空けもう一本空けた。そのうえでソファーの上で休もうとした。しかしここで、だった。
 王にだ。声をかけてきたのだった。誰かが。
「陛下、宜しいでしょうか」
「誰だ」
「騎士です」
 こうだ。その声は言うのだった。
「貴方のお傍に来たくて参りました」
「呼んだ覚えはないが」
 王はその騎士に静かに言った。見ればだ。
 王の前にその彼は立っていた。あの白銀の騎士がだ。
 騎士は王の前に片膝をついてから。そのうえで恭しく言ってきた。
「貴方はいつも私を御呼びではないのですか?」
「そうだな。確かにな」
 王もだ。そのことを否定せずにだった。
 ソファーから寝ようとしていた身体を起こしだ。騎士に述べた。
「私はいつも卿を呼んでいる」
「その通りですね」
「もっと言えば卿と同じ心を持つ全ての存在をだ」
「私をですね」
「そう、卿をだ」
 こう騎士に言うのだった。
「卿は一人だな」
「確かに複数の姿を持っていますが」
「だが一人だ」
 何故一人なのかは。王と騎士はわかっていた。
「卿はチューリンゲンにいてもウェールズにいてもだ」
「神話の中のゲルマンにいても。そしてあのニュルンベルグにいても」
「近々その世界の卿を観る」
 ニュルンベルグにいる彼をだというのだ。
「そうする」
「楽しみにされていますか」
「している」
 実際にそうだというのだ。
「それは間も無くだ」
「そうですね。あの世界の私もまた」
「私は卿を常に呼んでいる」
 そのことをだ。王は今自分でも認めた。
「卿と共にいたい」
「それも常ですね」
「そうだ。そしてだが」
 王はだ。今騎士に言った。
「これからだが」
「これからですか」
「私はあるものを築きたいのだ」
「城ですね」
 騎士はすぐに王の言葉に答えたのだった。
「それは」
「そうだ。卿の世界をだ」
 そのだ。騎士の世界そのものをだというのである。
「この世に現したいのだ」
「そうお考えですか」
「私は何の為に生まれてきたのか」
 そうした話にもなった。
 

 

437部分:第二十七話 愛を呪うその七


第二十七話 愛を呪うその七

「それだが」
「そのことは」
「今はその答えははっきりとはわからない」
 王はここでは憂いの顔を見せた。
 そのうえでだ。騎士にこうも話した。
「だがそれでもだ」
「今はですね」
「卿の城を築きたい」 
 そうだとだ。今その騎士に話す。
「私の城をですか」
「そうだ。森の中にだ」
「森。ドイツの森の中に」
「森は全てを癒してくれる」
 王の森への憧憬はさらに深まっていた。今は。
「その中にこの卿の城はあるべきだからな」
「よいことです。しかし」
「しかし。何だ」
「そこに人はいるのでしょうか」
 騎士がここで王に問うたのはこのことだった。
「私以外の人は」
「いない。いや」
 言葉を打ち消して。そしてだった。
 王はだ。こう答えたのだった。
「必要ない」
「左様ですか」
「私はもう人はいい」
 こう言うのだった。人については。
「裏切り。そして醜い」
「あの芸術家ですらも」
「女性。何故女性に惹かれるのか」
 ワーグナーの女性問題についてもだった。
 苦い顔でだ。こう言ったのである。
「それがどうしてもわからないのだ」
「陛下はですね」
「女性を愛することは同性を愛することに感じる」
 王独自の考えだった。まさにだ。
「それを愛することはできない」
「だからこそ男性を愛し」
「そして卿を愛する」
 そのだ。白銀の騎士をだというのだ。
「そうなっているのだ」
「左様ですね。ただ」
「ただか」
「陛下はこの世におられます」
 今話すのはこのことだった。
「ですからそれはです」
「卿の城は完全には再現できないというのか」
「そうです。それはわこあっておられるのではないのですか?」
「この世が。人が醜ければ」
 どうかとだ。王は言った。
「せめてその場所にだけ至上の美を置きたいのだ」
「その理由もあってですね」
「私はこの世に。森の中に」
 まさにだ。その中においてだった。
「卿の城、私の城を築きたいのだ」
「しかしそれならば」
 どうなるか。騎士は王に対して話した。
「陛下は今のご婚礼は」
「あのことか」
「それはどうされるのですか?」
 今この世で最もよく話されていることをここで王に問うたのである。
「そのことは」
「嫌だ」
 王は苦い声で、一言で言った。
「もういい」
「ではやはり」
「あの婚約は破棄したい」
 今はじめてだった。そのことをだ。
 

 

438部分:第二十七話 愛を呪うその八


第二十七話 愛を呪うその八

 王は自分の口からだ。こう言ったのだった。
「もうだ」
「左様ですか」
「反対はしないのか?」
「わかっていましたから」
 だからだとだ。王に言うのだった。
「ですから」
「わかっていたのか。このことは」
「陛下は女性とは結ばれない方です」
 そうだというのだ。王は。
「そのことは私にはもうわかっていました」
「そうなのか。既にか」
「はい、私にはです」
 騎士にはだと。こう言うのだった。
「ですから」
「そうなのか。わかっていたのか」
「陛下は次の主になられる方ですから」
「次の?」
「やがておわかりになられます」
 騎士は今はそのことについて詳しいことは言わなかった。
 それでだ。そのことを言わずにだ。
 そうしてだ。今度はこんなことを話した。
「では陛下。是非です」
「城のことだな」
「築かれて下さい。至上の美を」
 王にだ。静かに告げたのだった。
「それが陛下のこの世で為されるべきことですから」
「そのことがだ」
「この世で、です」
 あくまでこの世においてだというのだ。
「そしてそれを築かれてからです」
「私はどうするのか」
「陛下の次の場所に向かわれるのです」
「それもまた私の運命だな」
「そうです。ですからまずはです」
「わかった。この世界に築こう」
 王はここで言った。騎士に対して。
「卿の城をだ」
「そうされるべきです。それでは」
「今は帰るのか」
「そうさせてもらいます」
 恭しく仕える態度でだ。騎士は述べた。
「では今から」
「また出て来てくれるか」
 王は去ろうとする騎士にこう問うた。
「私の前に」
「陛下がお望みとあらば」
「そうしてくれるのだな」
「私は勝手な男だ」
 ここでは自嘲を込めて言う王だった。
「人を嫌おうとしているのに人が傍にいないとな」
「矛盾ですね」
「こうした割り切れないこともまた」
「そうだ。矛盾だ」
 まさにそれだというのだ。
「人は矛盾しているものだな」
「その通りです」
 騎士はそのことは確かに言った。
「よいか悪いかは別にして」
「そうだな。やはり」
「しかし陛下は」
「それでいいのだな」
 また言う王だった。
「私もまた」
「お嫌ですか。矛盾は」
「何か釈然としないものはある」
 そのことをだ。騎士に素直に述べた。
 

 

439部分:第二十七話 愛を呪うその九


第二十七話 愛を呪うその九

「それでいいのかどうか」
「しかし人はそれが当然ですから」
「では私が同性しか愛せないことは」
「それは必然です」
「必然!?それは何故だ」
「陛下の御心がそうなのですから」
 騎士は言わなかった。王がそのことは受け入れられないとわかっていたからだ。
 王は実は女性である、その心がそうだとはだ。そのことは言わなかった。
 しかしだ。ここでだった。
 王はだ。また言ったのだった。
「心か。私の心が」
「だからです」
「私の心は女性を拒んでしまう」
「御身体は」
「それに従って身体もだ」
 心からだ。女性を受け付けないと言ってだ。
 そしてだ。騎士もこう王に話す。
「だからです。陛下は男性を愛されればいいのです」
「そうであっていいのか」
「陛下の全てが拒まれるのですから」
 だからだとだ。王の側に立って話す。
「そうされるべきです」
「そうか」
「そうです。そしてですが」
「そして?」
「次の世では陛下はそうした肉体的な欲から解放され」
 それからだというのだ。王は。
「御心のみの愛の中に生きられる方になります」
「次の世ではか」
「既に陛下の次の世でのお役目は決まっています」
「地獄ではないのか?」
 王は目を伏せ。両手の指を組み合わせそのうえで顎をその手に置いてだ。暗い面持ちになってそのうえで騎士に対して尋ねた。
「私が行く次の世は」
「そう思われているのですか?」
「私は既に罪を犯している」
 だからだ。地獄に落ちるというのだ。
「男色という許されない罪を」
「そのことですか」
「あれは地獄に落ちる大罪だ」
 このことをだ。王は自分でも認識していた。
 同性愛はキリスト教においては最大の罪の一つだ。遠い東の日本という国でフランシスコ=ザビエルがそのことを糾弾したこともあった。
 そうしたこともあったしオスカー=ワイルドもそのことで罪に問われた。当然ながら王もそうした話は知っている。それで言うのだった。
「だからこそ」
「陛下が地獄に落ちられると」
「そうではないのか」
 こう騎士に問うのである。
「私は罪人なのだから」
「人は誰でも罪を犯します」
 騎士はその王にこう返した。
「誰もがです」
「では私もだ」
「罪と徳があります」
 騎士はその二つを話に出した。
「そして罪が重ければ地獄に落ち」
「徳が重ければか」
「天国に行くことができます」
「私に徳はあるのだろうか」
「陛下がお気付きになられていないだけです」
 騎士はわかっていたのだ。王のそうした徳がだ。
 それでだ。王にまた言ったのだった。
「陛下には他の者よりも遥かにです」
「徳があるのか。私に」
「そう、あるのです」
「だからいいのか」
「陛下はそれでいいのです」
 騎士はまた王に話した。
「人は罪と徳の両方を為していくもので陛下はあまりにも徳の多い方です」
「私は何もしていない」
 王は自分ではそう考えていた。それでだ。
「徳なぞ何も」
「御自身ではわからないことです」
「そう言ってくれるが」
「御安心下さい。陛下がその世に赴かれる時は」
 その時はだ。どうかというのだ。
 

 

440部分:第二十七話 愛を呪うその十


第二十七話 愛を呪うその十

「私がお迎えに参ります」
「そして天国にか」
「いえ、陛下は天国にも行かれません」
「地獄でもなくか」
「はい、どちらでもありません」
 王に対して話す。
「また別の世界なのです」
「ではそこは何処なのか」
「陛下がいつも御覧になられている世界です」
 ここではこう王に話した。
「その世界です」
「私がいつも見ている世界にか」
「陛下はそこに行かれます」
「卿のいる世界だな」
 王はこのことはわかった。すぐにだ。
「そこだな」
「はい、そうです」
 その通りだとだ。騎士も答える。
「そこに案内致します」
「そうか。私の次の世は」
「しかしそれでもですね」
「この世に築きたい」
 王は心からこの言葉を出した。
「何としてもだ」
「そうです。それこそがです」
「私の役目か」
「この世での」
 騎士もこう言うのだった。王に対して。
「ですからそれは是非です」
「この世にあの世界の、卿の美を再現することだな」
「しかしこうも考えておられますね」
 騎士はここで王にこんなことも言った。
「陛下が築かれるその私の世界をです」
「私が死ねばな」
「はい、消そうと考えておられますね」
「わかるのだな」
 ナイシンを読まれてもだ。王はだ。
 そのことを認め。そして言うのだった。
「そうだ。そう考えている」
「やはりそうですか」
「卿の世界だが私の全てであるのだ」
 王の顔は切実なものになっていく。そうしてだ。
 王はだ。今騎士に話すのだった。そのことを。
「それを残すことはだ」
「されないのですね」
「しない。私はこの世では理解されないのだから」
「現在はですね」
 騎士は王の言葉に期限を加えてきた。
「現在はそうですね」
「それはどういう意味だろうか」
「陛下は今は理解されることは殆んどありません」
 その現在はだ。どうしてもだというのだ。
 しかしだ。同時にだ。騎士は王にこうも話した。
「しかし未来は違います」
「未来はどうなのだ」
「陛下は永遠の謎になりますが」
 謎になる、だがそれでもだというのだ。
 王は理解されるのか。それは。
「陛下のことを心から考え理解する者が多く出ます」
「馬鹿な、そんな筈が」
「今のこの世は陛下を拒まれています」
「そうだ。私がワーグナーの、卿の世界を愛し女性を愛せないからだ」
「しかしそれがです」
「変わるというのか」
「陛下がこの世におられ為されるそのことは」
 王を見つつだ。
 騎士は言葉を続けていく。どうかとだ。
 

 

441部分:第二十七話 愛を呪うその十一


第二十七話 愛を呪うその十一

「永遠の謎であり永遠に考えられそして」
「永遠に理解されるのか」
「理解できなくとも誰もが慈しみます」
 王をだというのだ。その全てを。
「陛下はそうした方になられるのです」
「では私がこれから築くものは」
「陛下は消そうとされますが」
「どうしてもな。そうしたい」
「しかしそれは残り」
 そしてだ。どうなるかというと。
「後世の者達が陛下を愛される指標になります」
「私は。死ねばもう忘れられてしまいたい」
 ここではサド侯爵の様なことも口にした。
「永遠に。誰からも」
「理解されないのなら」
「そして私の愛が認められないのなら」
「しかし。そうはならないのです」
 騎士にはもう見えていた。その未来が。
 そしてその未来をだ。今話すのだった。
「陛下は後世においてこそです」
「そうなる筈がないが」
「今はわからないことです」
「そうだろうか」
 王は今はわからなかった。そのことはだ。
 王は人であり未来を見ることができない。予測はできるがそれは悲観的なものでしかなかった。自分自身が理解されるとは思えなかった。
 それでなのだ。騎士の世界であり自分自身の夢をだ。この世に残そうとは思えなかった。それでまたその言葉を出すのだった。
「私は。結局のところは」
「この世ではわからないことです」
「あちらでわかることか」
「はい、そうです」
 また言う騎士だった。
「陛下があの世界に行かれてからです」
「ならいいが。ではだ」
「はい。それでは」
「やはり結婚はできない」
 王はまずはだ。このことについて結論を出した。
「私にはそれはできない」
「そのことは残念ですが」
「そうだ。結婚すればゾフィーを不幸にしてしまう」
 王が女性を愛せないからだ。だからだ。
 それでだ。それはできないというのだった。
 そのことを言ってだ。騎士を見てだった。
「私は生涯に渡って」
「そうです。この世においては」
「女性とは結ばれない」
 それはできないことだった。王はだ。
 そのことへの結論は出た。そしてだった。
 王はだ。このことも決めたのだった。
「築く」
「陛下が築かれるべきものを」
「卿の世界、そして私の夢を」
「このドイツにおいて」
「ドイツもまた芸術の中心であるべきだ」
 今もドイツへの愛情自体は衰えていない。そうした意味で王もまたドイツの者だ。
 しかしだった。それと共にだった。
「だが。バイエルンはそのドイツの中心にはなれない」
「今はそうですね」
「ドイツはプロイセンにより統一される」
 現実の政治の動きはだ。見えていた。
「バイエルンはその中に組み込まれていき」
「プロイセン王、いえドイツ皇帝に敬礼されるでしょう」
「臣下だな」
「王が礼をする存在は」
 それは何か。これは何処でも変わらない。欧州、そしてドイツでも。
「神、教皇、そして」
「皇帝の三つだけなのだから」
「だからです」
 騎士もこのことを言う。
「それは避けられません」
「プロイセンの勢いは止まらない」
 王にはわかっていた。現実の世のことも。
 

 

442部分:第二十七話 愛を呪うその十二


第二十七話 愛を呪うその十二

 それでだ。今も無念の声で語るのだ。
「誰にも止められない」
「少なくとも今は」
「私の国の者達が幾ら嫌おうともだ」
 バイエルンではプロイセンへの反感が強い。政治的、宗教的、地理的にもだ。両国は同じドイツにありながらどうしても相容れなかった。
 それでバイエルンの者の多くはプロイセンを徹底的に嫌っていた。しかしそれでもだとだ。王は全てを見抜いて今騎士に語るのである。
「ドイツはプロイセンにより統一される」
「ビスマルク卿によって」
「ビスマルク卿には私がない」
 王は彼についてもこう述べる。
「あの方はあくまでドイツのことを考えられだ」
「そしてドイツを統一する」
「そうされる」
「ここで一つ御聞きしたいのですが」
 騎士はここで王に尋ねた。
「宜しいでしょうか」
「ビスマルク卿のことだな」
「はい。陛下はバイエルン王です」
 このことが最初にあった。まずはだ。
「しかしそれでもですね」
「あの方と呼び敬意を見せるのは」
「それは何故でしょうか」
 尋ねるのはこのことだった。
「バイエルンとプロイセンの関係、そして陛下のお立場を考えますと」
「不思議に思うな」
「どうしてでしょうか」
 王に対してさらに尋ねる。
「それは」
「わかっていると思うが」
 こう前置きしてからだ。王は騎士のその問いに答えた。
「私を理解してくれ認めてくれている方だからだ」
「そうですね。ですから」
「そうだ。私を慈しんでくれる」 
 ビスマルクは自分をどう思ってくれているのか。王はこのこともわかっていた。
 だからこそだ。彼に対して敬意を払っているというのだ。
 それでだ。また話す王だった。
「あの方にシシィ」
「オーストリア皇后ですね」
「そしてワーグナー」
 最後には彼だった。
「三人だけだ。この世で私を理解してくれているのは」
「この世ではですね」
「愛してくれているのはホルニヒ」
 彼の名前も出したのだった。
「彼等の存在がどれだけ有り難いか」
「しかし四人だけだというのですね」
「この世は私にとってはあまりにも辛い」
 王の目がだ。あの遠くを見るものになった。
 その遠くを見ながらだ。騎士に話すのである。
「いるのが苦しい。しかし」
「しかし?」
「私はまだ生きなければならないのだな」
「陛下のやられるべきことがありますので」
「だからだな。仕方ないな」
「はい、今はまだです」
「ショーペンハウアー。彼の書を読んだ」
 王が嗜んでいるのはワーグナーだけではなかった。
 確かにワーグナーにまつわる、トリスタンとイゾルデに影響を与えた哲学者だがそれでもだ。王はそうした哲学についても造詣があった。
 それでだ。王はそのショーペンハウアーのことも話すのだった。
「この世は苦しみに満ちている」
「苦しみ。むしろ」
「悲しみか。そして醜い」
 ふとだ。コジマのことも思い出した。
「欺き、裏切り」
「人の性ですね」
「その性が。私には耐えられない」
 王にはだ。次第にそうなっていた。
 

 

443部分:第二十七話 愛を呪うその十三


第二十七話 愛を呪うその十三

 しかしだ。それでもだった。
 まだこの世で生きなければならない。そのことを頭の中に入れてだ。
 そしてだった。今度はこう言うのだった。
「最後の審判が待ち遠しい」
「永遠に召されるその時が」
「少なくともこの世にいたくない」
 心からだ。そう思いはじめていたのだ。
「人もだ。人は欺き裏切る」
「それが人の性だからこそ余計に」
「いたくない」
 またこうした言葉を漏らす。
「ましてや。婚姻を結びだ」
「常に奥方と呼ばれる方と共にいるのは」
「すぐに召されてしまいたい」
 ここまで言うのだった。
「そんなことになれば」
「そうですね。陛下にとっては」
「愛そうと努力した」
 ゾフィーをだ。
「しかしできなかった」
「陛下が陛下であるが為に」
「そうだ。できなかった」
 こう言うのである。
「それはどうしてもだ」
「陛下は一人の女性を愛する運命にはないのですから」
「では何を愛する運命か。まずは卿で」
「ドイツもですが。そして」
「それ以上に。私が最も愛する対象は」
「美です」
 それだというのだ。この永遠にして絶対のものだというのだ。
「美こそがです。陛下が愛されるものです」
「この世でも。次の世でも」
「そうです。ではその至上の美を愛される為に」
「今は生きるか」
「そうされて下さい」
「生きることも苦しい」
 王は俯いて言った。
「それだけで」
「ですがそれも陛下の務めです」
「私がこの世で為すべきことを為す為にだな」
「その通りです。ですから」
「だが。私はもう人は」
 人に対しては。王は。
「信じられない。殆んどの者が」
「しかしそれでもです」
「そうだな。果たすことを果たさなければならない」
「そうされて下さい」
 そうした話をした。そうしてだ。
 話が終わるとだ。騎士は王にまた一礼し。こう言ったのだった。
「では。お邪魔しました」
「帰るのか」
「そうさせてもらいます」
「卿のその世界にだな」
「小鳥に曳かれる舟に乗り」
「あの舟だな。そういえばだ」
 騎士の小鳥という言葉にだ。王は反応した。
 そうしてだ。その小鳥についてだ。王は尋ねた。
「あの小鳥は何なのだ?白鳥はあの少年だったが」
「小鳥は舟を曳かないからですね」
「そうだ。ではあの小鳥は何なのだ」
 王が問うのは些細なことだが重要なことだった。
「一体」
「モンサルヴァートにいる者です」
 騎士は微笑み。王にこう答えた。
「あの城にいる者です」
「それは人なのか」
「天使です」
 それだとだ。騎士は答えた。
「天使があの姿になってのことです」
「そうか。あれは天使だったか」
「私を導いてくれて。そして」
「あの城に導いてくれているのか」
「それがあの小鳥なのです」
「わかった」
 そこまで聞いてだ。王は頷いた。
 

 

444部分:第二十七話 愛を呪うその十四


第二十七話 愛を呪うその十四

 王にしても納得できたことだった。そのうえでだ。
 王はだ。天使と城からだ。こんなことも話した。
「私もやがてはあの城に入ってだな」
「はい、陛下とです」
「私は天使達にも祝福されるのか」
「ですから。その時を待っていて下さい」
「そうさせてもらう。この苦しい世に耐えながら」
 そうした話をしてだった。騎士は王の前から去ったのだった。
 王は一人になって暫くその場に残っていた。だがだ。
 やがて一人小さく頷きその場を後にした。その次の日だった。
 王はある決断を側近達に話した。それは。
「えっ、まさか」
「それはまことですか!?」
「あの、それは」
「幾ら何でも」
「私は決めました」
 王の言葉は強かった。
「最早それはです」
「できないと」
「そう仰るのですか」
「御婚礼をですか」
「されませんか」
「はい。ゾフィー公女との婚礼は破棄します」
 このことをだ。王ははっきりと口にした。
「そうさせてもらいます」
「しかしそれは」
「それをされるとです」
 側近達は王の言葉を聞いたうえでだ。狼狽してだった。
 そのえうでだ。必死になって王に言った。
「大公もお気持ちを悪くされます」
「国内では陛下の御成婚を誰もが楽しみにしています」
「同時に結婚しようという者達もいます」
「そして各国もです」
「どう思うのか」
「それを考えますと」
「わかっています」
 わかっていても。それでもだというのだ。
「そのことは全て」
「それならです」
「あの、思いなおして下さい」
「さもなければ大変なことになります」
「どうか御成婚をです」
「されて下さい」
「いえ、しかしです」
 王の言葉は変わらなかった。
「私は結婚はしません」
「婚礼を破棄されますか」
「あの、どうしてもですか」
「そうされるのですか」
「思いなおされはしませんか」
「愛そうと思いました」
 彼等にもだ。このことは話した。
「しかしです」
「愛せないからといってもです」
「それでも。君主の結婚というものはです」
「愛がなくともです」
「必ず」
「それが許せないのです」
 また言ったのだった。王は。
 苦しい様な顔になってだ。そのうえでの言葉だ。
「愛のない結婚なぞ何になりますか」
「ですから君主の務めです」
「例えどうであろうと伴侶は必要なのです」
「ですから」
「いえ、私はしません」
 また言ったのだった。拒む言葉を。
「それはもう変わりません」
「どうしてもですか」
「それは変わらないのですか」
「御気持ちは」
「申し訳ないと思っています」
 その気持ちもあった。実際に王の顔が歯噛みするようなものになる。
 その顔でだ。王はまた言った。
 

 

445部分:第二十七話 愛を呪うその十五


第二十七話 愛を呪うその十五

「ゾフィーには。しかし」
「いえ、それでもです」
「それはなりません」
「何があってもです」
 側近達は必死の顔になってだった。王を止めにかかる。
「御気持ちはまた変わります」
「ですから。今はです」
「発言を公にされない様に」
「熟考を御願いします」
「止まれというのですね」
 王はその彼等を見てだ。こう言った。
「しかし私の気持ちは」
「どうかここは」
「本当に少し御考え下さい」
「そうすればお気持ちも変わるでしょう」
「ですから」
 彼等は王がよくあるマリッジブルーになったと思っていた。これは女だけでなく男もなるものだ。そして人一倍繊細な王ならばだ。
 そうなっても当然だとだ。こう考えて止めたのだ。彼等は王と騎士の会話を知らない。それどころか騎士の存在すら知らない。
 だからだ。彼等は王に必死に進言するのだった。
「では今宵は舞台があります」
「それに行かれてはどうでしょうか」
「御気持ちを晴らしに」
「そうですね」
 彼等が引かないと見てだ。王は静かに頷いた。
 そのうえでだ。こう彼等に返したのだった。
「では今宵は」
「シラーの劇です」
「陛下もお好きでしたね、彼の作品の劇は」
「シラーは癖があり彼の主観が強いです」
 王はシラーのその作品のことについての話に入った。
「何かというとハプスブルク家を批判します」
「そうですね。確かにそうしたところがありますね」
「それが作品に強く出ています」
「それは否定できません」
「ヴェルディも彼の作品を歌劇にしていますが」
 そのだ。ヴェルディ、イタリア人の作品にも影響が出ているというのだ。
「そこにも影響が出ています」
「エルナーニですね」
「あの作品ですね」
「それにドン=カルロも」
 どちらの作品にもハプスブルク家が出て来る。そこではその欧州随一の名家は敵役だったり考え方やあり方が否定される立場だったりするのだ。
 そのことについてだ。王は話すのだった。
「ドン=カルロ自身にしても非常に問題のある人物でしたね」
「どうもかなり情緒不安定で」
「狂暴な方だったそうですね」
「その様ですね。狂気」
 狂気という言葉を出すとだ。王の顔が微妙に歪んだ。
 そしてだ。王は言ったのだった。
「あれに捉われていた人物だったそうですね」
「少なくともあの劇の様な人物ではなかったのですね」
「かなり美化されているのですか」
「あの劇では」
「美化しても美化しきれていないところがあります」
 王は今度は歌劇から話す。
「情緒不安定で。自身の立場と行動がわかっていません」
「ハプスブルク家はカトリックです」
「そしてスペインという国もです」
 そのカトリックということがだ。ハプスブルク家をハプスブルク家にしていると言ってもよかった。これはこの時代でも同じなのである。
「神聖ローマ帝国皇帝家ですから」
「そしてスペインはカトリックが絶対ですね」
「イタリアと並ぶ程です」
「我が国以上の」
 そこまでだ。スペインはカトリックへの信仰が強いのだ。
 そういうことがあってだ。スペインもその王家であったハプスブルク家もプロテスタントが叛乱を起こしているフランドルに強硬的な政策を採らざるを得なかったのだ。ただドン=カルロではこのことが無視されている。
 

 

446部分:第二十七話 愛を呪うその十六


第二十七話 愛を呪うその十六

 しかしカトリックであり君主でもある王には分かっていたのだ。そうしたことがだ。
 それでだ。王は話すのだった。
「そうしたことをわかってからシラーを観ると」
「色々なものが見えますね」
「舞台を観るにも色々な見方があるのですね」
「そうです。ではそのシラーの劇を。いえ」
 決めようとしたところでだ。そこでだった。
 王はだ。また言ったのだった。
「今宵は宴もありましたね」
「そうですね。宴もありましたね」
「ではそちらに出られますか?」
「宴の方に」
「そうするべきでしょうか」
 こう考えてだ。そこでだった。
 王はだ。その宴についてだ。ふと気付いたのだった。
「そういえばあの宴では」
「そうでした、あの宴ではです」
「あの方も出られますね」
「ゾフィー様も」
「いい機会です」
 側近達はだ。ここでは迅速さを選んだ。
 それでだ。王にここぞとばかりに言うのだった。
「ではゾフィー様と会われてです」
「そのうえで宴をお楽しみ下さい」
「そうして下さい」
「そうするべきですか」
 王はここでは無機質に応えた。
「今は」
「はい、ですから」
「今宵は宴を選びましょう」
「そうしましょう」
 側近達はは王に話す。そうしてだ。
 王もだ。今は頷き言うのだった。
「では宴を選びましょう」
「はい、では是非」
「そうしてです」
「ゾフィー様を御覧になって下さい」
「そうすればいいです」
 こうしてだった。王は今宵のことを決めたのだった。
 そのうえで宴に出席した。その王を見てだ。
 宴に出ている者はだ。王に対して恭しく一礼をした。そうしてだった。
 ゾフィーにもだ。そうしたのだった。
「王妃様、それでは」
「陛下とお二人で」
「ごゆっくり」
 こう言ってであった。二人を二人でいさせようとした。
 実際にゾフィーは王のところに来た。王は今はバルコニーにいた。そこから星空を見ていたのだ。
 その王にだ。ゾフィーは声をかけた。
「あの」
「エルザ」
 王は彼女に顔を向けてだ。まずはこう呼んだ。
 そのうえでだ。何処か造られた様な微笑みでだ。彼女に言ってきた。
「御疲れですか」
「いえ、陛下がこちらにおられるので」
「来たのですか」
「いけないでしょうか」
「私もです」
 王はその造られた様な微笑みのまま話してきた。
「今はこうして一人で」
「星空をですか」
「夜はいいものです」
 こんなことも言う王だった。
「夜は人が眠ります」
「だからですか」
「あらゆる謀やそうしたものが休みます」
 夜にはだというのだ。
 

 

447部分:第二十七話 愛を呪うその十七


第二十七話 愛を呪うその十七

「ですから」
「夜はお好きですか」
「人は昼に動き夜に休むもの」
 それが人の社会だ。王はその夜にだった。
 安らぎを見てだ。エルザに話していくのだった。
「それに昼の太陽とは別にです」
「星達ですか」
「月もです」
 今は空にない。しかし王はその月についても話した。
「月もまたいいものです」
「月ですか」
「はい、月です」
 王は月の話になるとだ。さらに笑顔になりだ。 
 そのうえでだ。こんなことも言った。
「月は優しく穏やかな光で世を照らしてくれます」
「太陽とは別に」
「太陽の輝きは」
 欧州では男性的とされる、それはだというのだ。
「私にとっては厳しいです」
「眩しいのですか?」
「眩しく。あまりにもきついです」
 そうだというのだ。王にとっては。
「ですから。月の方がです」
「よいのですか」
「月は突き刺さず優しい光で包んでくれます」
 王はまた星空を見た。赤や青、白の光がだ。濃紫の空の中に輝いている。その輝きを見ながらゾフィーにも話すのだった。
「ですから月が」
「お好きなのですね」
「私はその下か。星の下でいたいです」
「では太陽は」
「人は太陽を尊びます」
 こうした言葉がある。教皇は太陽、皇帝は月だ。あるローマ教皇が言った。教皇を上位に置いた言葉に他ならない。こうした言葉が出る程だ。
 欧州では太陽が上位に置かれている。しかし王は。
 それを拒みだ。月や星をだというのだった。
「よいでしょうか。それは」
「月や星を愛することが」
「エルザはどう思われるでしょうか」
 ゾフィーを見ずに。星を見て話す。
「そのことは」
「私はです」
 ゾフィーは王が取り繕いを好まないことを知っていた。それでだ。
 王にだ。率直に答えたのだった。
「やはり太陽がです」
「お好きですか」
「はい、好きです」
 実際にそうだというのだ。
「そちらの方がです」
「そうですか。太陽の方がですか」
「はい」
 その通りだとだ。彼女はまた率直に述べた。
「そうです」
「そうですね。それが普通ですね」
 王はだ。ゾフィーのその言葉を聞いてだ。
 そのうえでだ。また言ったのだった。
「私がおかしいのです」
「おかしいとは」
「はい。普通は太陽を愛します」
 王はそのことはわかっていた。
「しかし私は」
「月、そして星を」
「その方がおかしいのです」
 暗い目になりだ。ゾフィーに話した。
「夜を愛する方が」
「夜ですか」
「夜は私にとっては快いものです」
 そうなってきていた。今は。
 しかしだ。その夜を愛するということは。
「おかしいのです」
「あの、ですが」
「昼を愛せず夜を愛する」
「それはおかしくはないですが」
「おかしくはありませんか」
「そう思いますが」
 ここでも率直に述べたゾフィーだった。
 

 

448部分:第二十七話 愛を呪うその十八


第二十七話 愛を呪うその十八

「昼を愛する人もいれば夜を愛する人もいる」
「それが普通なのですね」
「はい、そうあっていいと思いますが」
「有り難うございます」
 王はゾフィーのその言葉にまずは礼を述べた。
 そうしてだ。そのうえでこう言ったのだった。
「私は。残念に思います」
「残念に」
「はい、そう思います」
 こう言うのだった。
「貴女を」
「私を」
「いえ」
 言おうとしたができなかった。そのことは。
 そうしてだ。言葉を一旦区切ってからだ。
 ゾフィーにだ。こんなことを言ってきた。
「今宵ですが」
「今宵?」
「舞台もあります」
 不意にだ。このことを言ったのである。
「シラーの舞台ですが」
「その舞台に?」
「はい、行きませんか」
 ゾフィーをだ。その舞台に誘う。しかしだ。
 ゾフィーは戸惑いを隠せない顔でだ。王に言葉を返したのだった。
「しかし今宵は」
「宴ですね。今のそれがありますから」
 それでだ。行けないというのだ。
「ですから」
「いえ、今行けばです」
 しかしだった。王はまだ彼女に言うのだった。
「間に合います」
「舞台にですか」
「第三幕には間に合います」
 何としてもだ。行こうというのだ。
「ですから如何ですか」
「今宴には国から多くの方が集っていますから」
 それこそバイエルン中の名士達がだ。この宴に来ているのだ。
 しかし王は彼等のことには目もくれずだ。こう言うのだ。
「シラーはお嫌いですか」
「シラーですか」
「はい。確かにシラーはハプスブルク家嫌いです」
 ゾフィーの姉であるエリザベートが嫁いでいるだ。その家のことを考慮しての言葉だ。それは確かにだった。
 それを言ってだ。王はゾフィーに尋ねたのだった。
「だからですね」
「そうではありません」
 ゾフィーはそれは否定した。首を横に振って。
 そのうえでだ。こう王に返す。
「今はです」
「だからですか」
「はい。宴がありますから」
「宴は何時でも開かれます」
 また言う王だった。
「しかし舞台はです」
「そうではないと」
「舞台はその都度変わるものです」
「生き物の様にですか」
「そうです。その舞台はその舞台でしかないのです」
 これが王の意見だった。
「ですから」
「是非にですか」
「どうされますか?」
 王はあらためてゾフィーに尋ねた。
「今は」
「今は」
 ゾフィーは常識の世界の中にいてだ。王に答えた。
「すいません」
「そうですか」
「はい、今はここにいなければなりませんから」
 だからだとだ。こちらの世界にいて話すのだった。
 

 

449部分:第二十七話 愛を呪うその十九


第二十七話 愛を呪うその十九

「ですから」
「左様ですか」
「私はここに残ります」
「では私だけで行きましょう」
 王はゾフィーに言われてもだ。特に残念そうな素振りも見せなくだ。
 素っ気無い調子でだ。こうゾフィーに述べたのだった。
「そうさせてもらいます」
「あの、本当にですか」
「舞台は今です」
 あくまで舞台のことを話す。王はこの世界にはいなかった。
 王のいるべき世界からだ。ゾフィーに話すのだった。
「その今を観に行きます」
「どうしてもですか」
「何かおかしいでしょうか」
 おかしなところはなかった。王にとってだ。
 それでだ。こう言ってであった。
 王は周りにだ。すぐに告げたのだった。
「では今からです」
「今から?」
「今からといいますと」
「舞台に行きます」
 こう周囲に告げるのだった。
「すぐにです」
「あの、陛下」
「本当ですか?」
「本当にそうされるのですか?」
「舞台に行かれるのですか?」
「今から」
「はい、そうです」
 何でもないといった感じでだ。王は驚く周囲にまた告げた。
「そうさせてもらいます」
「あの、今はです」
「宴が開かれていますが」
「それにゾフィー様もおられます」
「それでもですか」
「今行けば第三幕に間に合います」
 また言う王だった。
「ですから」
「はあ。左様ですか」
「それでゾフィー様はどうされますか?」
「それでは」
「私が行きます」
 言外にだ。ゾフィーを外しての言葉だった。
「そうさせてもらいますので」
「ですか。お一人でなのですか」
「今から舞台に行かれますか」
「そうされますか」
「はい、そうします」
 こう話してだった。王は実際に舞台に向かった。ゾフィーを残して。
 このことはすぐに宴の場全体に広まった。それでだ。
 誰もがだ。唖然として言うのだった。
「それはまことか!?」
「陛下は舞台に行かれたのか!?」
「この宴を抜け出られて」
「しかもお一人で」
 そのことにだ。唖然としながら言っていく。
「ゾフィー様を置いてか」
「そうされたのか」
「一体何を考えておられるのだ」
「わかりませんな」
「全くです」
 こうだ。彼等は言っていく。
「陛下の御考えはわからないことが多いですが」
「しかし今回は特にです」
「こんなことをされるとは」
「御后を置いていかれるとは」
 異常な事態と言ってよかった。そして舞台でもだ。
 

 

450部分:第二十七話 愛を呪うその二十


第二十七話 愛を呪うその二十

 ロイヤルボックスに現れた王を見てだ。観客達も舞台の者達もだ。
 唖然としてだ。宴の場の者達と同じことを言った。
「な、何っ!?」
「陛下がか!?」
「何故出て来られたのだ!?」
「宴に出ておられたのではなかったのか」
 誰もが唖然とする。その王を見てだ。
「シラーも観られるとは聞いていたが」
「それでも今は」
「ゾフィー様はおられないのか?」
「御一緒ではないぞ」
「ではか」
「御一人で」
 来ていることがわかってだ。彼等は余計にだった。
 唖然としながらだ。話をしていくのだった。
「まさか」
「不仲なのか!?」
「ゾフィー様と」
「噂ではあったが」
「そういえばだ」
 ここでだ。さらに出た話は。
「御婚礼を延期されているしな」
「そうだな。それを考えると」
「やはり。それもあるのか」
「陛下はゾフィー様と不仲なのか」
「それならば」
「考えたくはないが」
 それでもだ。考えてしまうことは。
「御婚礼は破棄されるのだろうか」
「まさか。それはないだろう」
「そう。もう御婚礼は決まっているのだぞ」
「それを破棄されるとは」
「有り得ないことだ」
「そうだ。有り得ない」
 こうだ。それは否定されようとする。しかしだった。 
 それと共にだった。彼等はそれでもだった。
「しかし。有り得ないことは往々にして起こるものだ」
「ましてや陛下だ」
「陛下はよく奇矯なことを為される」
 他の殆んどの者から見ればだ。そうなるのだ。
「だからだ。あの方にとっては有り得ないということはないのだ」
「ましてや女性の噂がない方だ」
「愛されるのは男性のみ」
「それならば」
「それも有り得る」
「そうだな」
「認めたくはないが」
 誰もがだ。舞台を観る王を見てだ。
 そうしてだ。これからのことに不吉なものを感じていたのだ。
 だがその中でだ。王は。
 ロイヤルボックスにまで届く声と自身に集中する視線を感じながらだ。供をしているホルニヒに対してこんなことを言ったのだった。
「前から感じていたが」
「前からとは」
「舞台を観ていてもだ」
 王が愛するだ。その舞台を観ていてもだというのだ。
「人は私を見るのだな」
「陛下をですか」
「そうだ。私を見るのだな」
 ここでも憂いに満ちた顔でだ。王は言うのだった。
「どうしても」
「そういえば」
 王に言われてだ。ホルニヒも気付いた。
 ロイヤルボックスにいる王に視線が集中していることに気付いた。声には既に続いていた。しかし視線には今気付いたのである。
 それを見てだ。彼は言った。
「誰もがですね」
「そうだ。私が王だからか」 
 そのせいではないかというのだ。
 

 

451部分:第二十七話 愛を呪うその二十一


第二十七話 愛を呪うその二十一

「だから私を観るのだろうか」
「陛下が王だから」
「王は唯一の存在だ」
 国の中においてはだ。そうだ。そして他の国から見てもだ。
「国の主であり要だな」
「だからこそ王は見られますか」
「ましてや。私はとりわけ見られるようだ」
 見られる者であることはだ。王もわかっていた。
「だからこそだ」
「陛下は見られる」
「常に誰かに集中して見られる」
 それが王だというのだ。
「舞台を観ていてもだ」
「見られるのですか」
「常にそうだった」
 今にはじまらないというのだ。それは。
「見られているのだ」
「ではその視線は」
「辛い」
 王は言葉を漏らした。
「慣れるものではない」
「私も。確かに」
 ホルニヒはここでは自分のことから考えて話した。
「誰かに強く見られると」
「辛いな」
「そして陛下の場合は」
「常に。そして多くの者に見られる」
 それが王の置かれている立場なのだ。
「せめて舞台に集中したい」
「歌劇の時代もですね」
「王にはそれも許されないのか」
 許されないものばかりのだ。その中でもだった。
「そうなのか」
「せめて舞台はですか」
「舞台以外もだ」
 王の言葉に疲れが見えてきていた。
「私は人の視線に耐えられない」
「見られることに」
「常にな」
 このことからもだった。王は人を厭いはじめていた。
 それでだ。このことについても行った。
「もうだ」
「もうとは」
「永遠に一人でいたい程だ」
 そこまで思っているというのである。
「心の底からな」
「しかしそれは」
「できないな」
「はい、人は一人ではいられません」
「わかっているのだ」
 王は苦い顔で俯いて話した。
「だが。それでもだ」
「御一人でいたいですか」
「見られたくない」
 そのことをまた言った。
「そして見たくもない」
「見たくないとは」
「人の醜い部分もだ」
 それもだ。見たくないというのだ。
「あらゆることがだ」
「だからなのですか」
「ミュンヘンは好きだった」
 言葉は過去形になっていた。
「だが。今は」
「離れたいのですか」
「ミュンヘンを離れ」
 そしてだというのだ。
「他の何処かにいたい」
「人のいない場所に」
「そして美のある場所に」
 そこにもだというのだ。
「行きたい。そしてそこにいたい」
「それはここにありますか?」
「ある。なかったとしても」
「その場合は」
「創る」
 そうするというのだ。
「なければだ」
「そうされてその場所でなのですね」
「私はいたくなっている」
「しかしミュンヘンを離れられるのですか」
「ミュンヘンにはもうワーグナーの劇場は建てられない」
 このことも大きかった。今の王には。
 

 

452部分:第二十七話 愛を呪うその二十二


第二十七話 愛を呪うその二十二

「ならば最早だ」
「ミュンヘンに留まる理由もないと」
「そうなってきた。ドイツの美の軸となるべきなのは」
 王はだ。やはりそこに行き着くのだった。
「ワーグナーなのだ」
「あの方ですか」
「彼の芸術、美こそがその軸となるべきなのだ」
 だがそのワーグナーはだというのだ。
「しかし彼はバイロイトに行く」
「あの街はドイツの中央にありますね」
「理には適っているのだ。ドイツ中から人が行き来する」
 ドイツの中央にあるが故だ。そしてそこならば彼を攻撃する者もいない。彼にとって悪いことはない。だからこそバイロイトを選んだのだ。
 王はそうしたことはわかっていた。しかし感情としては。
「彼は私の下から去ることを選んだのだ」
「そうなるのですか」
「なる。ミュンヘンは彼を拒んだ」
 二度も追い出した。結果として。
「そして私についても色々と言う」
「そういう者もいますが」
「言い、そして見る」
 このことが加わるとだ。ホルニヒもだ。
 言えなくなった。しかし王はさらに言うのだった。
「逃れたくなったのだ」
「そうなのですか」
「私は。ミュンヘンを出たい」
 王は確かに言った。
「そしてあるべき場所にあるべき場所を築き」
「そうしてなのですね」
「そこにいたい。私のこの世の最後まで」
 心からだ。そう思いだしていたのだ。
 王は次第にこの世も、そして人も厭いだしていた。そしてそれは止まらなくなってきていた。
 だからこそだ。己の部屋にいてもだ。
 周りの者達にだ。こう言ったのだった。
「部屋の中に胸像を置いて下さい」
「ゾフィー様のものをでしょうか」
「いえ、ワーグナーのものをです」
 彼のそれをだ。置いて欲しいというのだ。
「そうして下さい」
「えっ、お后様のものではなくですか」
「ワーグナー氏のものを」
「それをなのですか」
「はい、それを御願いします」
 ソファーに座りながらだ。王は何処か虚ろな声で告げた。
「彼の像を」
「既にあの方の肖像画がありますが」
「そこにさらにですか」
「ワーグナー氏ですか」
「あの方の」
「そうです。ワーグナーです」 
 やはりだ。彼だというのだ。
「彼です」
「陛下がそう仰るのならです」
「そう致します」
 周りはだ。王の言葉に戸惑いながらもだ。
 王の言葉だからこそだ。従うことにした。
 それでだ。早速ワーグナーの胸像が造られたのだった。
 その完成を待ちながらだ。王はまたホルニヒに話した。
「やはり私はおかしいのだろうか」
「といいますと」
「女性は愛そうとしても愛せない」
 ある一点を見詰めながら。そのうえでの言葉だった。
「幾ら努力してもだ。いや」
「いや?」
「シシィは愛しているのだろうか」
 オーストリア皇后については。どうかというのだ。
 

 

453部分:第二十七話 愛を呪うその二十三


第二十七話 愛を呪うその二十三

「私は彼女とつながりを感じる」
「その御心にですか」
「精神の奥底で。それを感じるのだ」
 それがだ。愛かどうかというのだ。
「これは愛なのだろうか」
「同じだからではないでしょうか」
 ホルニヒはその王にこう述べた。
「陛下とあの方は」
「同じ?」
「何かが同じなのではないでしょうか」
 そうではないかというのだ。
「それで」
「そうなのか」
「はい、陛下は皇后様をどう言われていますか?」
「鴎だ」
 皇后をだ。鳥に例えて呼んでいるのが常だ。
「そしてあの方は私を鷲と呼んでくれる」
「御互いに鳥ですね」
「そうだな。鳥だな」
「そう言われるのはやはり」
 どうかというのだ。それでだ。
「御互いが同じだと感じておられるからではないでしょうか」
「だからなのか」
「そうです。それでなのでは」
「私とあの方は同じか」
「御心が」
「だからか」
 また言う王だった。
「私はあの方に同じものを感じておられるのか」
「それは愛情ですね」
「そうだな。愛だな」
 それは間違いないとだ。王も認めた。
 しかしだった。それと同時にだった。
 王はだ。その愛についてだ。こう言ったのだった。
「だがそれは男女の愛ではないな」
「それではなくですね」
「心の愛だ」
 それだというのだ。
「愛と言っても色々あるのだから」
「親子の愛もあれば友情としての愛もありますね」
「私は男女の愛は知らない」
 自分ではそう思っているのだ。王自身を知らないが為に。
 そのうえでだ。王はこう言うのだった。
「シシィに対してもだ」
「男女の恋愛ではなく」
「同性めいたものを感じる」
 七歳年上の従姉に対してだ。感じるのはそれだというのだ。
「妙だな。そしてゾフィーにも」
「あの方にも」
「愛は感じるのだ」
 このことは否定しなかったしできなかった。
「だが。その愛はだ」
「男女の愛ではなく」
「同性への愛なのだ」
 それを感じるというのだ。ゾフィーに対して。
「女性は女性とは結ばれない」
「男性が男性と結ばれない様に」
「だからだろうか。やはり私はだ」
「まさかと思いますが」
「結婚できない」
 騎士との言葉も思い出しながら。王は話した。
「だからだ。やはりだ」
「御成婚は取り止められますか」
「そうしていいだろうか」
「私からは何も」
 ホルニヒの王への言葉はだ。こうしたものだった。
「申し上げられません」
「言えないか」
「はい、それは」
 こう王に頭を垂れて答える。
 

 

454部分:第二十七話 愛を呪うその二十四


第二十七話 愛を呪うその二十四

「申し訳ありませんが」
「ではこうしよう」
 ホルニヒが言えないことがわかってだ。王は。
 その彼にだ。今度はこう告げたのだった。
「一人言は言えるか」
「一人言ですか」
「そうだ。それは言えるか」
 ホルニヒにだ。静かに告げたのである。
「一人言はだ」
「それでしたら」
 ホルニヒは王のその言葉にあるものを受け取った。そうしてだった。
 静かにだ。答えたのだった。
「陛下が思われるのなら」
「いいのだな」
「一人言です」
 自分でもこう前置きする。
「ですから」
「そうか。私が思うままか」
「左様です」
「私の中ではもう答えは出ている」
 既にだ。それはだというのだ。
「最早な」
「では」
「私はやはり女性を愛せない」
 このことをどうしても意識してだった。
「何があってもだ」
「ではやはり」
「決めている」
 既にだと。また言う王だった。
 そのうえでだった。王は。
 ホルニヒにだ。今度はこんなことを話した。
「飲もう」
「ワインをですか」
「そうだ。飲もう」
 ホルニヒをだ。それに誘った。
「飲めば憂いが消える」
「だからですね」
「そうだ。飲む」
 王は実際にだ。ホルニヒがワインを出すのを見ていた。
 そしてだ。そのワインを見た。それは。
「イタリアのワインだな」
「はい、あの国のワインです」
「イタリアも今一つになろうとしているな」
「サルディニアの下に」
「ドイツは昔からあの国に惹かれてきた」
 それは最早運命的なものでありだ。ドイツ、そしてドイツ人はイタリアを見続けていたのだ。
「神聖ローマ帝国の頃から」
「そうでしたね。その頃から」
「イタリアを見てイタリアで楽しみたかった」
「今もそうですね」
「ゲーテもそうだった」
 彼もイタリアに惹かれだ。よくイタリアを旅していたのだ。
「そしてワーグナーも」
「あの方も度々行かれていますね」
「プロイセンもイタリアには好意的だ」
 そのドイツの中心になろうとしている国もだ。そうなのだ。
「あの国にはだ」
「そうですね。そしてバイエルンも」
「ドイツ人はイタリアを愛するものだ」
 王は言った。
「それは必然だ」
「必然ですか」
「そうだ。必然だ」
 まさにそうだというのだ。
「ドイツの気候は暗いな」
「暗鬱としていることが多いですね」
「その暗鬱なドイツにいてイタリアを見る」
 さすればどうなるか。それはドイツ人なら言わずもがなだった。
「憧れ以外の何者でもない」
「ワインも美味ですね」
「そして料理自体もいい」
 王にしてもだ。イタリアを褒めることに躊躇はなかった。
 

 

455部分:第二十七話 愛を呪うその二十五


第二十七話 愛を呪うその二十五

「ドイツ人を魅了してやまないのだ。あの国は」
「イタリアという国そのものが」
「私も好きなのだろう」
 少なくともだ。嫌いではかった。
「あの国の歌劇も好きだしな」
「ヴェルディ等ですね」
「そうだ。イタリアを嫌いになることはない」
 やはりそうだというのだ。
「私はだ」
「ではこのイタリアのワインは」
「もう一本欲しい」
 一本だけでなくだ。もう一本だというのだ。
「そして楽しみたい」
「それではすぐに」
「二人で飲もう」
 微笑みだ。王は言った。
「私の美はドイツと。王朝だが」
「王朝といいますとやはり」
「フランスだ」
 ルイ十四世への敬意はだ。この時代でも健在だった。
「あの国の美も入る」
「イタリアはこれといってですか」
「ワーグナーもイタリア的なものはその芸術には入れていない」
「そうですね。確かに」
「彼の芸術はドイツだ」
 そこから離れることはないのだ。ワーグナーは確かにイタリアを愛している。しかしその芸術はあくまでドイツ的であるのだ。
 王もまた同じだからだ。イタリアについてはこう言うのだった。
「好きだが。それでもだ」
「美には入れられない」
「そうする。ではだ」
 それではと。さらに言ってだった。
 ホルニヒが持って来ただ。そのもう一本のワインも飲む。
 飲みながらだ。王は。
「美味だ。イタリアだな」
「そのイタリアも統一されますね」
「あの国は王国になりそうだな」
「帝国にはなりませんか」
「帝国はドイツだ」
 そのだ。ドイツだというのだ。
「我が国がなのだ」
「ドイツがですか」
「そうだ。神聖ローマ帝国だ」
 それになるというのだ。
「第二のドイツ帝国だからな」
「では西ローマ帝国なのですか」
 まずはシャルルマーニュ、つまりカール大帝のローマ帝国が西ローマ帝国だった。そしてその後継国家である神聖ローマ帝国もまたなのだ。
 それは一旦ナポレオンにより断絶させられナポレオンが皇帝になっている。そしてナポレオン三世は叔父の跡を継ぐ形でフランス皇帝となっている。
 だからだ。彼等は。
「我が国は西ローマ帝国になるのだ」
「それはいいことですか」
「ドイツにとってはいいことだ」
 このことはそうだというのだ。
「しかしだ」
「しかしですか」
「私はそれは」
 どうかというのだ。王は。
「拒みたい」
「それはですか」
「そうだ。拒みたい」
 また言うのだった。憂いを見せて。
「私は王だ。王はだ」
「誰にも仕えるものではないというのですか」
「確かに皇帝と教皇には膝を折る」
 だが、なのだ。
「しかし。臣下になることはだ」
「お嫌ですか」
「バイエルンはバイエルンだ」
 自分の国を護る意志、それは健在だった。
「プロイセンに従うことは拒みたい」
「そうですね。それは」
「それをどうにかしたい」
 王は憂いと共に言う。
 

 

456部分:第二十七話 愛を呪うその二十六


第二十七話 愛を呪うその二十六

「絶対にだ」
「できるのでしょうか。それは」
「いや、できない」
 これもわかっているのだった。
「やはり無理だ」
「そうなのですか」
「時代の流れには逆らえない」
「それにはですか」
「プロイセンにだ。全てはまとまろうとしている」
「バイエルンではなく」
「プロイセンなのだ」
 そのこと自体がだ。王の憂いだった。
 そしてその憂いの中でだ。王はまた話す。
「バイエルンは。ドイツの中に入るしかできないのだ」
「それを拒むことはできないのですね」
「絶対にだ」
 やはりだ。できないというのだ。
「多くの者はわかっていないがな」
「確かに。我が国では」
「プロイセンへの反感が強い」
 これは避けられないものだった。これも、と言うべきだろうか。
「ドイツの盟主になろうとしているプロテスタントのあの国に対するな」
「宗教的な対立もありですね」
「そうだ。それは仕方のないことだ」
 反感が起こるのもだ。止むを得ない、王はそれもわかっていた。
 しかしだ。それでもだった。
「だが。それはだ」
「無駄ですか」
「結局同じなのだ。ドイツは統一されるのだから」
 そのだ。プロイセンによってだ。
「誰もわかっていないのだ」
「しかし議会では」
 国民の声がそのまま出る。議会ではどうかというと。
「最早反プロイセン派で、です」
「占拠されているな」
「そして彼等を選ぶ国民もです」
「わかっている。議会、とりわけ上院は反プロイセン派の巣窟となっている」
 王は既にこのことを把握していた。
「最早どうしようもない」
「手は打てませんか」
「王は万能に思われている」
 しかしどうかと。王は目を遠くさせて述べた。
「しかしその実はだ」
「違うのですね」
「何もできないのだ」
 目を悲しくさせて。そうしての言葉だった。
「何一つとしてだ」
「できないのですか」
「一人の音楽家と共にいることもできない」
 ワーグナーとのことが。また話される。
「その音楽家への中傷を止めることもだ」
「それもですか」
「できないのだ」
 あくまで中傷としたのは。王がそう思いたいからだ。
 そういうことにしてだ。さらに話すのだった。
「だから議会もだ」
「できませんか」
「どうにもならない。人の感情はな」
 その反プロイセンが感情だからだ。どうしようもないというのだ。
「反感、とりわけ嫌悪や憎悪はだ」
「人の感情はですか」
「どうにもならない」
 また言うのだった。この言葉を。
「否定しようがないのだ」
「では議会は」
「あのままプロイセンへの反感を強めていく」
「弱まることは」
「ドイツが統一されても」
 それからもだというのだ。
「暫くは続く」
「暫くですか」
「そうだ。バイエルンでのその感情は吹き荒れ続ける」
 まさにだ。嵐だというのだ。
「反感を強めても何にもならないのだがな」
「プロイセンを幾ら嫌っても」
「時代はどうしようもないのだ」
 時代がだ。プロイセンを軸とした統一に導いているからだというのだ。
「だからこそだ」
「あの方々が何を言われようとも」
「どう動こうともだ」
 行動でもどうしようもないというのだ。
「何にもなりはしない」
「しかし議会は何とかプロイセンに反発しようとして」
「首相も交代させようとしているな」
「ホーエンローエ卿はプロイセンに好意的です」 
 それも踏まえて首相に任命したのは王だ。王は彼がワーグナーに好意的であるということと以上にだ。それもあって任命したのだ。
「その首相も」
「ホーエンローエを首相から追い落とす」
 王の言葉は議会から見てのものだった。
「それはいいだろう」
「しかしですか」
「それでどうなるものでもない」
 王はわかっていた。このことが。
「バイエルンが何をしようともだ」
「プロイセンが統一しますか」
「そうなる。どうしようもない」
 こうした話をしてだった。王は寂しい顔をするのだった。
 そのうえでだ。王はホルニヒに話した。
「私はこのまま進める」
「ホーエンローエ卿は」
「解任しない」
 そうするというのだ。
「それは何の意味もないことだからだ」
「だからですね」
「そうだ。こうしていく」
 こう言ってだ。そのうえでだった。
 王はこのことについてはだ。変えるというのだった。
「だが婚礼はだ」
「それはなのですか」
「今はそなただけに言う」
 ホルニヒだけに。言う言葉は。
「私は結婚できない」
「左様ですか」
「結局のところ。そうするしかないのだ」
 こう言ってであった。王は疲れ切った様にソファーにもたれかかってワインを飲みはじめた。そのうえで今はそのイタリアの美酒を飲むのだった。


第二十七話   完


                 2011・8・13
 

 

457部分:第二十八話 逃れられない苦しみその一


第二十八話 逃れられない苦しみその一

              第二十八話  逃れられない苦しみ 
 ニュルンベルグのマイスタージンガー。その初演は。
 バイエルンで行われた。当然ながら王も観劇した。
 だがロイヤルボックスにいるのは。王だけだった。
 それを見てだ。周囲はまた眉を顰めさせて噂を囁くのだった。
「やはりなのだろうか」
「陛下はゾフィー様とはもう」
「結婚されないのか?」
「まさか」
 こうだ。婚礼のことを囁き合うのだった。
「しかしそんなことができるのだろうか」
「御婚礼はもう決まっているのだ」
「王には王妃が必要だ」
「それで御婚礼を破棄されるというのは」
「有り得ないのではないのか?」
 常識、この世のそれから話される。しかしだ。
 彼等はここでだ。王について話してだ。その常識を自分達から覆さざるを得なかった。
「だが陛下は」
「非常に浮世離れしておられる」
「それでは。それもだ」
「あるのではないのか」
「まさかとは思うが」
 このことがだ。まことしやかに囁かれだした。しかしだ。
 舞台を観ている王はだ。こう周囲に話すのだった。
「よい作品ですね」
「マイスタージンガーがですか」
「今の作品がですね」
「はい、いい作品です」 
 その言葉は満足しているものだった。
「今回は実在の詩人を扱っていますが」
「ハンス=ザックスですね」
「彼はワーグナーなのです」
 そうだというのだ。歌劇の中に出て来る彼がそうだというのだ。
「他ならぬ」
「ではあの方がですか」
「歌劇の中に出ておられる」
「御自身の作品の」
「はい、そうです」
 まさにその通りだというのだ。
「彼はドイツ芸術の偉大さを主張しているのです」
「我等の国ドイツの」
「その芸術をですか」
「高らかに謳っておられるのですか」
「そうです。彼はそれをこの作品で果たしているのです」
 こうだ。王は言うのである。
「そして既存の作品を打倒し」
「新しい芸術をですか」
「それを生み出そうともされているのですね」
「ワーグナーの音楽は何か」
 それは何なのかも。王はわかっていた。
 それでだ。こう言ったのだった。
「革命です」
「革命ですか」
「ドイツの芸術における」
「革命だというのですか」
「そう。世俗の革命には無駄な血が流れます」
 世俗の革命、フランス革命に代表されるそれの本質は何か。王は把握していた。
 それでだ。その革命についてはだ。王は顔を曇らせる。
 そのうえでだ。また話すのだった。
「フランスでは王がギロチンにかけられましたね」
「はい、ルイ十六世」
「あの方が首を刎ねられました」
「マリー=アントワネットも」
「革命は王を殺すものです」
 確かに言った。王がだ。
「清教徒革命でもですね」
「そうでしたね。イギリスのあの革命でも」
「王は殺されました」
「ではドイツでも革命が起これば」
「やはり」
「そうなってもおかしくはありません」
 その王だからだ。より一層だった。
 

 

458部分:第二十八話 逃れられない苦しみその二


第二十八話 逃れられない苦しみその二

 顔を曇らせてだ。世俗の革命については否定するのだった。
「自由と平等、博愛の名の下において殺されていくのです」
「それが行われるのが世俗の革命」
「そうなのですね」
「つまりは」
「そうです。だからこそ私は世俗の革命は」
 既にだ。出る言葉は決まっていた。
「否定するのです」
「しかし芸術における革命はですか」
「それはよいのですね」
「ワーグナー氏の革命は」
「ドイツ芸術は長い間フランス等の後塵をはいしてきました」
 王はフランスを敬愛している。しかしだ。
 ドイツの芸術の発展と成熟は願っていた。だからこその言葉だった。
「しかしそれがです」
「ワーグナー氏によって変わる」
「そうなりますか」
「これからは」
「そうです。それは既にワーグナーの誕生からはじまっていましたが」
 それでもだというのだ。マイスタージンガーを観ながら。
「ですがこの作品においてそれがです」
「前面に出て主張されている」
「そういうことですか」
「そうです。そうなっているのです」
 まさにだ。そうだというのだ。
「ドイツ芸術の隆盛が今高らかに主張されるのです」
「それが革命ですか」
「ワーグナー氏の起こす革命」
「それですね」
「そうです。では聴きましょう」
 舞台を観ながら。王は周りに話す。
「そうしようか」
「はい、それでは」
「共に観させてもらいます」
「ワーグナー氏のこの作品を」
「そう。ワーグナーの音楽は素晴らしい」
 それはいいというのだ。しかしだった。
 それでもだ。彼はこう言うのだった。
「ですが」
「ですが?」
「ですがとは」
「心はどうなのか」
 ワーグナーの人間性。それの問題だった。
「それが問題ですが」
「心がですか」
「ワーグナー氏の」
「芸術はあくまで高潔です」
 彼のそれについてはだ。王は何の不安も持っていなかった。
 しかしだ。それ以外のこと、その心はというと。
 こうだ。苦い顔で呟くのだった。
「人は誰もがそうなのでしょうか」
「あの。陛下」
「ワーグナー氏のことは」
「あのことは」
「いえ、どうも」
 言葉をだ。途中で遮ったのだった。
 そしてだ。王はこんなことも言った。
「何でもありません」
「左様ですか」
「ではこのままですね」
「歌劇を御覧になられますか」
「そうされますか」
「最後までそうします」
 その考えも伝えたのだった。
 

 

459部分:第二十八話 逃れられない苦しみその三


第二十八話 逃れられない苦しみその三

「是非共」
「わかりました。それではです」
「この場で」
「そうしましょう」
「観劇は素晴らしい」
 王はそれはいいと言う。
 しかしだ。その曇った顔でこうも言うのだった。
「しかし。見られることは」
「それはですか」
「耐えられませんか」
「この劇場にいる全ての者が」
 確かにだ。ロイヤルボックスをだ。常に誰かが観ている。
 王はそこにいてだ。視線を感じて言うのだった。
「観ています。これでは劇に集中できません」
「陛下は国王ですから」
「それは」
 仕方がないとだ。周囲は話す。
「ですから何といいますか」
「残念ですが」
「私は一人で楽しみたいのです」
 観劇をだ。そうだというのだ。
「是非共です」
「ですからそれは」
「残念ですが」
「どうにもならないですか」
 王は悲しい顔になった。項垂れる様に。
「このことは」
「ロイヤルボックスにいればどうしても」
「そしてこの席は」
 王のみの席だ。まさに玉座なのだ。
 だがその玉座でだ。王は項垂れたままだった。
 そして項垂れながらだ。王は観劇を続ける。しかしその間もだった。
 誰かの視線を感じる。そうしてまた周囲に話す。
「王は常に観られているものなのですね」
「そうですね。確かに」
「王とはそういうものです」
「国の主として」
「それもまた務めです」
「わかってはいるのです」
 悲しい顔でだ。王は話していく。
「ですがそれでも」
「視線は御気になされないことです」
「観られていないと思えばいいのでは?」
「観劇に集中されれば」
「それでどうでしょうか」
「できればいいのですが」
 それはだ。どうかというと。
 王の心ではできなかった。どうしてもだ。
 だからこそだ。今も観劇を観てだった。言葉は憂いに満ちたものだった。
 そのままだ。観劇を観る。今は。
 ザックス、つまりワーグナーがだ。ドイツ芸術を高らかに謳っていた。それを観てだ。
 王はだ。このことは素直にこう言えた。
「ドイツの芸術は普遍です」
「普遍ですか」
「そうなのですね」
「そうです。そして不滅です」
 そうしたものだというのだ。
「それがドイツの芸術なのです」
「ドイツの芸術は今こそですか」
「不滅のものとなる」
「そうなりますか」
「そのドイツ的なもの」
 ドイツの者として。王は話す。
「この素晴らしいものが咲き誇る時なのです。そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「私もまた」
 どうするのか。王はこんなことを話した。
「その花を一輪でもいいから咲かせたいものです」
「陛下は既にですが」
「ワーグナー氏の音楽を助けられていますし」
「ですからそれはもう」
「いいのでは?」
「果たせられているのでは」
「いえ、まだです」
 王にはわかっていたのだ。自分が何を為すべきなのかを。それがわかったのはあの騎士との会話である。それを思い出しながら話すのだった。
 

 

460部分:第二十八話 逃れられない苦しみその四


第二十八話 逃れられない苦しみその四

「これからです」
「これからですか」
「その花を咲かせられるのは」
「そうなのですか」
「そうです。これからです」
 王はまた話す。
「私が為すべきことを為すことは」
「申し訳ありませんが」
 周囲にいる者の一人がこう前置きして話す。王が実直さを好みごまかしやそうしたものを嫌うことを知ってだ。こう話したのである。
「私にはそれは」
「おわかりになれませんか」
「すいません」
 まさにそうだというのだ。
「それは」
「左様ですか」
「はい、陛下は既にそれをされていると思いますので」
「しかし違うのです」
 王の中だけでわかってだ。それで話すのだった。
「それはです」
「違いますか」
「そうです。私はこのドイツに」
 そのだ。ドイツにだというのだ。
「その花を咲かせるのです」
「陛下が咲かせるべき花を」
「それを」
「そうです。青と銀、そして金の」
 王の愛する色だった。どれも。
「見事な花を咲かせたいです」
「ではそうされて下さい」
「陛下の思われるままに」
「有り難うございます」
 周囲の言葉にだ。王は。
 それを聞いてだ。また言うのだった。
 今まさにだ。舞台は終わろうとしていた。それを観つつ。
「ザックス万歳ですか」
「それは即ちですか」
「あの方と」
「そう。ドイツです」
 その二つへの賛辞だというのだ。
「ワーグナーはドイツを至上にまで高めたのです」
「この作品によって」
「遂にですか」
「ザックスは彼で」
 そしてだった。
「私はヴァルターなのです」
「陛下はですか」
「あの若い騎士ですか」
「そうなるのですか」
「はい、私はヘルデンテノールになります」
 ワーグナーの代名詞であるだ。その独特のテノールだというのだ。
 ワーグナーの作品はテノールである。バリトンに近い声域で輝かしい声を要求される困難な役だ。ワーグナーはそれを創り出したのだ。
 そのテノールだとだ。王は言うのだ。
「ですから私は」
「陛下は」
「ワーグナー氏でしょうか」
「はい、彼に導かれるのです」
 ヴァルターがだ。ザックスに導かれた様にだというのだ。
「そうなります」
「ですか。あの方に」
「これまで通り」
「それは変わらないのです」
 今の関係はあってもだ。そうだというのだ。
「今は無理でもです」
「またあの方とですか」
「共にですね」
「おられたいのですね」
「そう思っています」
 この願いは変わらなかった。そうしてだ。
 舞台が終わりカーテンコールを観ながら。王はまた言った。
「ヴァルターはザックスという理解者を得て幸せを手に入れました」
「そうですね。見事に」
「生涯の伴侶を得ました」
「私は何を手に入れるのか」
 言うのはこのことだった。
 

 

461部分:第二十八話 逃れられない苦しみその五


第二十八話 逃れられない苦しみその五

「それが問題ですが」
「陛下が手に入れられるもの」
「それは」
「美なのか」
 それではと。王は呟いた。
「芸術か」
「一体何かをですか」
「それが問題ですか」
「彼は言いました」
 この『彼』は周囲はワーグナーだと思った。しかしだ。
 王はあの騎士のことを考えた。そして言うのだった。
「私は築くべきだと」
「築く?」
「築かれよとですか」
「あの方は仰ったのですか」
「そうです」
 王は周囲とは違う『彼』をその目に見ながら話す。
「では私はいよいよ」
「あと陛下、明日のことですが」
「宜しいでしょうか」
 ここで話が変わった。そしてだ。
 周囲はだ。こう王に話すのだった。
「やはりフランスもです」
「戦うつもりの様です」
「どうやら」
「そうですか」
 王はこの話にはだった。
 顔を曇らせてだ。そうして述べた。
「では避けられませんね」
「どうやら。そしてです」
「我が国もまた」
「明日。ホルンシュタイン伯爵を呼んで下さい」
 彼をだ。呼ぶというのだ。
「そうして下さい」
「はい、では伯爵を」
「あの方をですね」
「そうです。そしてです」
 さらにだ。王は言った。
「首相もです」
「ホーエンローエ卿もですか」
「あの方もまた」
「そうです。ただしです」
 ここでだ。一つだ。王は言った。
「それぞれ別にです」
「お話されますか」
「首相と伯爵とは」
「そうします」
 こう話してだった。王はだ。
 舞台のカーテンコールを見て余韻を味わっていた。その余韻は。
 現実の中に戻ろうとする王にだ。このうえなく甘美な感触を味あわさせていた。その甘美なものに浸りながらだ。王は耐えられない現実に戻ろうとしていた。
 その次の日だ。王は。
 まずはホルンシュタインにだ。こう話したのだった。
「プロイセンは何と言っていますか」
「はい、バイエルンはです」
 どうかというのだ。それは。
「ドイツと共にあるべきだと」
「そう言っているのですね」
「はい、そうです」
 その通りだというのだ。
「ですから我が国は」
「わかりました」
 こうだ。彼は苦い顔で答えたのだった。
「それではです」
「兵を動かされますか」
「中立はできません」
 王にはわかっていた。この国のことは。
 それでだ。また言うのだった。
「バイエルンはドイツにあるのですから」
「その通りです。では」
「兵を動員しましょう」
 王は一つの決断を述べた。
 

 

462部分:第二十八話 逃れられない苦しみその六


第二十八話 逃れられない苦しみその六

「ドイツと共に」
「はい。それでは」
「それでは終わらないでしょうが」
 王はだ。さらにだった。
 プロイセンにだ。あるものを見て話したのだった。
「バイエルンは。いえ私は」
「陛下はですか」
「一つの役割を演じることになりますね」
「はい」
 ホルンシュタインは恭しく一礼してから王に述べた。その述べることは。
「皇帝の位をプロイセン王に対して」
「推挙する」
 このことが今言われた。
「そうなります」
「私がプロイセン王を」
「それしかないと思いますが」
「確かに」
 王は暗い顔で応えた。
「それはわかっていますが」
「お嫌ですが」
「私は王です」 
 だからだというのだ。王だからだというのだ。
「王は誰にも膝を屈しないもの」
「教皇と皇帝以外にはですね」
「教皇と皇帝ですか」
「ですから」
「皇帝に推挙できるのもですね」
「まずは教皇ですが」
 しかしだ。このことはというのだ。ホルンシュタインは。
「それはできませんね」
「そうです。プロイセンはバチカンとは対立していますから」
「プロテスタント故に」
「そしてカトリックを警戒しておられます」
 やはりだ。宗教的な問題があった。流石にもう戦争になりはしない。しかしカトリックとプロテスタントの問題は今もドイツにあるのだ。
 だからだ。それが影響してだというのだ。
「何でも公立学校から修道僧や尼僧を排除するとか」
「公的機関からのカトリックの締め出しですね」
「その他にも様々な政策を展開しておられます」
 カトリックへの抑圧とも見える政策をだ。ビスマルクは社会主義思想、即ちマルクス的なものを嫌悪していることで有名だがカトリックも快く思っていない。
 それが何故かというと彼個人の感情によるものではない。ドイツ統一、内政的な意味においてそうしたものが邪魔であるからだ。
 だからだ。彼はカトリックを排除し教皇と対立しているのだ。
 そのことを踏まえてだ。ホルンシュタインは今王に話すのだった。
「ですから教皇は有り得ません」
「そもそも無理な話ですね」
「ドイツ皇帝はプロテスタントになります」
 即ちだ。プロイセン王だというのだ。
「宗教的な推挙はできない故に」
「政治的な推挙になる」
「つまり王達が推挙するのです」
 ドイツ皇帝にだ。そうするというのだ。
「そしてその代表となるのが」
「私ですね」
「バイエルンはドイツ第二の国です」
 とはいっても力の差は歴然としている。プロイセンは圧倒的だ。
「ですから陛下が」
「この言葉は内密ですが」
 目を伏せさせてだ。王はホルンシュタインに言った。
「因果なものですね」
「因果ですか」
「はい、因果です」
 そうだというのである。
「まことに」
「そうですね。望まぬ仕事ではありますね」
「しかし王はですね」
「例え望まぬとも」
 ホルンシュタインの今の言葉は道徳の言葉だ。しかしだ。
 その道徳は彼の政治的な立場を擁護するものだった。王にはそのこともわかっていた。
 

 

463部分:第二十八話 逃れられない苦しみその七


第二十八話 逃れられない苦しみその七

 しかしそれ以上にだ。選択肢がないこともだ。王はわかっていた。
 だからだ。こう答えたのだった。
「では」
「そうされますね」
「少し時間を下さい」
 決断は延ばすというのだ。
「今は」
「そうされますか」
「ただ。動員令はです」
 兵を動かす。そのことはというと。
「決定です」
「プロイセンにつかれるのですね」
「中立は有り得ません」
 それが何にもならない、最早自明の理だった。
「ドイツにいるならば」
「プロイセンにつかれますね」
「フランスはマクシミリアン一世の頃からのドイツの敵でした」
 ドイツが神聖ローマ帝国と呼ばれていた頃からだ。
「その頃からのです」
「はい、その通りです」
「常に介入してきました」
「そうですね。忌々しい国です」
 何気にだ。ホルンシュタインは王にドイツにあるフランスへの反感を囁きはじめた。
「カール一世の頃はイタリアに関わり」
「三十年戦争の時は」
「よりによってカトリックだというのに」
 そのだ。カトリックである。
「我がドイツに介入してきてです」
「最後には軍も送ってきました」
「あの戦争が何故あそこまで悲惨なものになったのか」 
 バイエルンとて例外ではなかった。ドイツ全土が焦土になり多くの者が死んだ。欧州の戦乱の歴史の中でもとりわけ凄惨な戦争だったのだ。
 何故そうなったのか。ホルンシュタインは話すのだった。
「おそらくフランスが介入しなければあの戦争はより早く、そして幾分かましな戦争になったでしょう」
「スウェーデンやデンマークが介入してきていても」
「フランスとはそもそも国力が違います」
 フランスは欧州随一の大国、そのことは変わりない。
「最初から一連の戦乱の黒幕でしたから」
「その介入、そして軍の派遣により」
「あの戦争は悲惨を極め」
 そしてだった。
「ドイツ帝国は一度死んでいます」
「はい、多くの国が分裂しました」
「確かにバイエルンは主権を手に入れました」
 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約によってだ。各領邦国家はその主権を保障されたのだ。つまりドイツは分裂させられたのだ。
「しかしドイツ自体は」
「混沌が続きました」
「そうしたのはフランスです」
 歴史からだ。ホルンシュタインは話す。
「そう、あの国なのです」
「そのフランスはさらにでしたね」
「ルイ十四世は神聖ローマ皇帝になろうとしていました」
 太陽王はフランス王に飽き足らなかったのだ。その座も狙っていたのだ。
「それでドイツにも介入しましたね」
「ルイ十四世もそうでしたし」
「オーストリア継承戦争でも介入し」
 何度もだ。フランスはドイツに関わってきて戦乱を大きくしてきたというのだ。
「ナポレオンもいましたし」
「ナポレオンは我が国を王国にしましたが」
「ですね。しかしです」
「はい、それでも」
「神聖ローマ帝国を書類上からも抹殺しました」
 これもまた歴史的事実である。
「そのフランスとです」
「戦う」
「そのうえでドイツは統一されます」
 ドイツ統一へのだ。最後の総仕上げだというのだ。
「遂にです」
「わかっているのです」
 王は暗い顔でホルンシュタインの言葉に頷いた。
 

 

464部分:第二十八話 逃れられない苦しみその八


第二十八話 逃れられない苦しみその八

「それはです。しかし」
「しかしですか」
「避けられないのですね」
 それがわかっていてもだ。言った言葉だった。
「最早」
「では動員令を取り下げられますか?」
「いえ」
 首を横に振ってだ。王はまたホルンシュタインに話した。
「それはしません」
「されませんか」
「はい、それはしてはなりません」
 今動員令はしない。決してだというのだ。
 それが何故か。王はまた述べた。
「バイエルンはドイツの中で生きるしかないのですから」
「その通りですね」
「はい、そうします」
 また言う王だった。
「仕方ありません」
「では」
「はい、それでは」
「フランスと戦います」
 バイエルンもだ。そうしたというのだ。
「その様に」
「そしてドイツ皇帝は」
「推挙しましょう」
 それもだ。そうするというのだった。
「そうさせてもらいます」
「はい、それでは」
「全ては。一つの流れの中にあります」
 その流れがどういったものかもだ。王は把握していた。
 確かにだ。それで述べるのだった。
「バイエルンの選択肢は一つしかありません」
「そういうことですね」
「ドイツは統一されるべきです」
 それは王の願いでもある。願いだがそれでもだった。
 プロイセンが軸になりバイエルンはそうではない。そのことに憂いを感じていた。だがそれでも受け入れざるを得ないのもわかっていてだ。
 それでだ。王は一つしかない選択肢を選んだのだった。
 そのうえでホルンシュタインとの話を終えた。次はだ。
 首相を呼んだ。そのホーエンローエを。
 彼が前に出るとだ。すぐに話したのだった。
「大変なことになっていますね」
「はい」
 その通りだとだ。ホーエンローエも答える。
「反プロイセン感情が高まっています」
「議会でも臣民の間でも」
「そしてです」
「卿もまたですね」
「私を罷免しようとしています」
 こうだ。首相は王に対して述べた。
「そして次の首相にはですが」
「少しでも。プロイセンに反発を抱いている者をというのが彼等の考えです」
「彼等は何もわかってはいません」
 王はわかっていた。全てだ。
 だからこそだ。首相に話すのだった。
「ビスマルク卿はドイツにとって必要な方です」
「そうです。あの方は」
「バイエルンにとっても」
 バイエルンがドイツにあるからだ。それならばそうなるのは当然だった。
「欠かせない方なのです。それに」
「それにですね」
「プロイセンを排除することは不可能です」 
 そもそもだ。それ自体がだというのだ。
「ビスマルク卿もまた」
「そうです。何故排除できるのか」
「バイエルンもプロイセンもドイツにあり」
 そのだ。彼等の国にだというのだ。
「そしてです」
「ビスマルク卿はプロイセンにおられます」
 こう話したのだった。
「それでどうしてビスマルク卿を排除できるのか」
「どうしようもないというのに」
「あの者達はわかっていないのです」
「そうです。ドイツはプロイセンが軸になります」
 苦い声でだ。王はこのことを認めた。
 

 

465部分:第二十八話 逃れられない苦しみその九


第二十八話 逃れられない苦しみその九

「それをどうして否定できるのか」
「排除すればドイツは統一されません」
「そのことがわかっていないのです。ドイツは統一されるべきです」
 ひいてはだ。そうなることだった。
「それがわかっていないのは」
「嘆くべきことです」
「私はです」
 首相を見てだ。そうしての言葉だった。
「卿を罷免しません」
「そうして頂けるのですか」
「卿はバイエルンにとって」
 ひいてはだった。さらに。
「ドイツにとって必要な方です」
「そう言って頂けるのですね」
「はい」
 その通りだというのだ。
「今、プロイセンに反発しても何もなりません」
「かえってバイエルンの立場を悪くするだけです」
「今必要なのは」
 それは何なのか。王はこのこともわかっていた。
「バイエルンがドイツに入り。そして」
「そのうえで」
「卑屈にはならないことです」
 誇りを護る、それが重要だというのだ。
「私は卑屈は嫌いです」
「あくまで胸を張りプロイセンとですか」
「協調します」
 そうすると。王は今首相にはっきりと述べた。
「それが私の考えです」
「では」
「安心して下さい」
 ここで王は首相に微笑んでみせた。
「私は卿を解任せず」
「そしてですか」
「プロイセンに対してもです」
「このままですね」
「確かに協力はします」
 このことは変わらない。変えられない。
 しかしだ。それと共にだった。
「ですが膝を屈しません」
「敬礼だけですね」
「口調も変えません」
 あらゆることをだ。変えないというのだ。
「そうしていきます」
「そうです。そうあるべきなのです」
「そしてビスマルク卿も」
 彼のことはだ。ここでも念頭にあった。プロイセンといえば彼である。王だけでなく欧州の誰もがプロイセンと彼についてはこう認識していた。
 だからだ。王も彼の名前を出してだった。
「それがいいとわかっておられます」
「バイエルンがそうした態度でいることを」
「ひいては私が」
 王がだ。そうした姿勢でいるということもだ。ビスマルクはよしとしているというのだ。
「人は卑屈な相手にはどうするか」
「軽蔑しますね」
「卑屈、誤魔化しは正しいことではありません」
 騎士の顔でだ。王は話した。
「嘘偽りもまた」
「だからこそですね」
「私はこのままでいます」
 プロイセンに対する態度もだ。そうするというのだ。
「正面を見てそうしてです」
「対されますか」
「戦いはしません」
 そもそもだ。王は戦いを好まない。
 だがそれでもだ。動かないというのではなかった。むしろ。
 

 

466部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十


第二十八話 逃れられない苦しみその十

「対していきます」
「それは対立ではなく」
「そうです。前に立っていきます」
 これがプロイセンに対する王の選択だった。
「そうします」
「それが正しいのですが」
「多くの者はわかっていません」
 これもだ。王の悩みだった。
「幾らプロイセンを嫌っても。ビスマルク卿はおられますし」
「そしてビスマルク卿こそは」
「プロイセンの為になる方なのです」 
 そのバイエルンの者の多くが嫌う彼こそはというのだ。
「何故ならあの方は欧州全体を見てドイツのことを考えておられるからです」
「そしてそれは」
「そうです。バイエルンのことでもあるのです」
 ひいてはだ。そうなるのだった。
「だからこそです」
「あの方はバイエルンのことも常に考えてくれているのです」
「そして」
「そして?」
「私のことも」
 そのこともだ。王はわかっていた。
「有り難いことに常に気にかけてくれています」
「バイエルン王である陛下を」
「そう。そのことを有り難く思っています」
「左様ですか」
「あの方もまた」
 どうなのかというのだ。ビスマルクもだ。
「ローエングリンなのでしょうか」
「あの方もですか」
「はい、あの方もです」
 ここでだ。
 王は頭の中でだ。ビスマルクをローエングリンの姿にさせた。
 そうしてだ。首相に述べた。
「私を気にかけてくれる。騎士なのでしょう」
「ワーグナー氏の生み出したあの騎士ですか」
「そうです。ワーグナーがハンス=ザックスであり」
 ニュルンベルグのマイスタージンガーだ。観たばかりのこの壮大な作品のことは今も王の心に深く残っており一つの世界になっているのだ。
「シシィは」
「あの方もまた」
「鴎。鳥であり」
 こうだ。皇后を呼んでいるのだ。
 それと共にだ。皇后は何かというのだ。
「ローエングリン、彼を導く鳥であり」
「しかしビスマルク卿とはですね」
「関係がありません」
 そこは違うというのだ。
「しかしそれでもです」
「あの方は鳥ですか」
「ジークフリートを森の中で導く小鳥なのです」
 一見すると目立たないがだ。作中で重要な役を果たすだ。鳥達だというのだ。
「そうなのでしょう」
「その方々がですね」
「常に私のことを気にかけてくれています」
 そうだというのだ。
「そのことは非常に有り難いです」
「人は誰かに気にかけてもらえることだけで幸せですね」
「はい、その通りだと思います」
 人を嫌う様になっていた。だがそれでもそうしたことはわかっている王だった。
「しかし私はそれでも」
「陛下は」
「心が晴れることはありません」
 それはだ。決してだというのだ。
 こう話してだ。さらにだ。首相に述べた。
「婚礼のことも」
「どうされるのでしょうか」
「やはり」
 一旦言葉を止めて。これ以上はないまでに辛い顔になり。
 その顔でだ。王は述べた。
「取り止めたいのですが」
「しかしそれは」
「わかってはいるのです」
 それでもできない。王には非常によくあることだ。
 

 

467部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十一


第二十八話 逃れられない苦しみその十一

 それをだ。今首相に言ったのである。
「ですが私にはどうしても」
「御結婚は」
「できないのです」
 このことをだ。首相に言ったのである。
「どうしても」
「どうしてもですか」
「はい、私は女性を愛せない」
 それならばだというのだ。王は。
「それで結婚をするのはその人に申し訳ありません。愛のない結婚は」
「意味がないと」
「そうです。婚礼は愛によってなるもの」
 王のこの考えは君主としては相応しくない。しかしだ。
 それでもだ。そこにあるのは。
「騎士はそうしたものですね」
「騎士道ですか」
「あれはメルヘンです」
 実際にはないものだとだ。王はこのことも把握していた。
 しかしだ。それでもなのだった。
 王のその心にはだ。このことは存在していた。
 それでだ。今言うのだった。
「ですがそのメルヘンがです」
「陛下は守られますか」
「そうしたいのです。ゾフィーへの想いは」
 それがどういったものかもだ。王は把握していた。
 では何か。王はこのことも話せた。
「妹に対する想いに似ています」
「妹君への」
「私には弟がいるだけですが」
 今精神を病み幽閉されているだ。彼だけだった。
 だがそれでもだ。実感としてだ。 
 わかるとだ。王は話すのだった。
「ですがゾフィーは妹と思っています」
「だからですか」
「私は彼女と結婚できません。ひいては」
「女性とはですか」
「結婚できません」
 女性そのものとだ。結婚できないと話してだ。
 そうしてだ。王はあらためて首相に話した。
「ですからこの度の婚礼はです」
「破棄されますか」
「正式にそうします」
 こう言ってなのだった。王はだ。 
 国政において王を第一に補佐する首相に告げてだった。このことを公にしたのだった。こうしてこのことはだ。
 瞬く間に広まった。バイエルンだけでなくだ。
 ドイツ、ひいては欧州全体にだ。バイエルン王の婚約破棄は忽ちのうちに欧州における大事件となってだ。広まってしまったのだった。
 各国の外交官達も貴族達も民衆もだ。唖然となりそれでいて何処か納得してだ。そのうえでこのことについて話をするのだった。
「まさか、いややはりか」
「そうですな」
「どうも様子がおかしかったですし」
「こうなるのも道理ですか」
「バイエルン王は女性を愛せないのですから」
「ですから」
 そのことからだ。これは当然だと話されたのだ。
 だが、だ。それでもだ。
 彼等はだ。こう話をするのだった。
「しかしそれでもですぞ。あの方は王なのです」
「そうですな。バイエルン王です」
「王なら生涯の伴侶が必要ですな」
「御后様が必要です」
「それはどうしてもです」
「しかし」
 しかしなのだった。王は。
 それを選ばなかったのだ。結婚をだ。このことは。
「君主としてどうなのでしょうか」
「あの方はそれがわかっておられないのか」
「君主としての自覚がないのか」
「現実の世界におられないのか」
 こうした言葉も出て来たのだった。
 

 

468部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十二


第二十八話 逃れられない苦しみその十二

「あの方には多分にそうしたところがありますし」
「近頃昼におられることも少ないとか」
「では。やはり」
「あの方は」
「その御心を」
 何かおかしいのではないかという疑惑さえ出て来ていた。ゾフィーはこのことについて自失し閉じ篭る様になった。王もだ。
 王宮を去り黒の森の中で隠棲するかの如き有様となった。だからこそ余計にだった。
 彼等は疑惑を高めていった。王は何かが違うのではないのか、こう考えていったのである。しかしその中でだ。ビスマルクは。
 沈痛な顔でだ。こう周囲に漏らした。
「残念だ。しかしだ」
「しかしですか」
「予想されていましたね、首相は」
「わかっていたのだ」
 そうなることがだ。わかっていたというのだ。
「そしてあの方は今」
「バイエルン王ですね」
「あの方は」
「不覚傷ついておられる」
 そうなっているというのである。
「少し時間を置いてからお慰めの品を送ろう」
「バイエルン王にそうされるのですか」
「慰められるのですか」
「あの方を」
「ゾフィー様も傷ついておられる」
 ビスマルクは彼女についても言及した。
「しかしだ。あの方はさらにだ」
「傷ついておられる」
「そうなのですか」
「あの方の御心は一際繊細なのだ」
 その繊細さ故にだ。彼は王を気遣うのだった。
 彼もまた憂いのある顔でだ。周囲に話す。
「それが為にああなっておられたのだ。ならば私はだ」
「あの方を慰められる」
「そうされるのですか」
「あの方には」
 ビスマルクはさらに話す。
「あらゆることをしたい。それは」
「それは?」
「それはといいますと」
「私のしなければならないことの一つなのだろう」
 こうまで言うのだった。
「おそらくな」
「そこまでなのですか」
「閣下はあの方をですか」
「思われているのですか」
「そうだ」
 その通りだとだ。ビスマルクははっきりと認めた。
 そしてだ。さらに言葉を続けた。
「あの方を。人間としても」
「お好きですか」
「そうなのですか」
「私は入れないがだ」
 政治家としてそれはしない。公私はわかっていた。
 彼は政治家、プロイセンの首相だ。その意味で公である。
 公の人間としてだ。私情は入れなかった。しかしだ。
 彼はそれでもだ。私人としてもだというのだ。
「私はあの方が好きだ」
「左様ですか」
「あの方は」
「あの方を御守りしたいのだ」
 そうだというのだ。
「そうしたいのだ」
「では陛下、それでは」
「あの方を私人としてもですか」
「気遣われていますか」
「そうなのですね」
「あの方の素晴らしさはわかりにくい」
 彼にはわかる。それでもだというのだ。
 バイエルン王をだ。その目に見てだ。
 そしてだ。彼は話したのだった。
「今わかる者は少ない」
「今は?」
「今はですか」
「わかる者は少ないですか」
「そうだ。私は歴史に学ぶが」
 ビスマルクの信条だ。彼はそこから多くのものを学び政治に生かしているのだ。愚か者は経験に学び己はそうしているというのだ。
「今学べることは限られているのだ」
「限られているのですか」
「今学べることは」
「同じ時代にいれば見られるものは限られている」
 この真理をだ。ビスマルクは話す。
 

 

469部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十三


第二十八話 逃れられない苦しみその十三

「一面しか見ることはできないのだ。しかもその一面もだ」
「余計なものが入りますね」
「そうですね」
「愚か者は一面しか見られない」
 今度はこうも言うビスマルクだった。彼の辛辣な人間評も出た。
「だからだ。同じ時代においてはだ」
「あの方は理解されない」
「殆んどの者に」
「この世は僅かの賢者と無数の愚か者からなる」
 つまりだ。賢者はだ。圧倒的少数だというのだ。
 その圧倒的多数の愚か者にだ。王も囲まれているというのだ。
 無論ビスマルクもだ。しかしだった。
 彼はその愚か者達を何とも思っていなかった。それだけの強靭さがあるからだ。伊達に鉄血宰相とまで呼ばれている訳ではないのだ。
 だが、だ。バイエルン王はどうかというと。それだった。
「あの方は愚か者に誤解されその言葉と視線に苦しめられている」
「それが今ですか」
「あの方の」
「あの方の素晴らしさは今は殆んどの愚か者に誤解される」
 そうなってだというのだ。
「しかし未来は」
「その未来は」
「どうなのでしょうか」
「あの方は後世になり理解される方なのだ」
 いささかだ。ビスマルクは芸術家を評する口調になっていた。
 その口調をだ。ビスマルクはあえて続けてだった。
「今はわからないのだ」
「左様ですか」
「ではあの方の婚約破棄もですか」
「今は誤解されている」
「そういうことですか」
「そうだ。私はわかるが」
 ビスマルクはだというのだ。
「そうしてだ」
「殆んどの者は理解できないのだ」
「ではそのバイエルン王にですね」
「慰めを送られて」
「そのうえで、ですか」
「助けられますか」
「御助けしたい」
 はっきりとだ。言い切ったのだった。ここでも。
「何としてもな」
「公でも私でも」
「そうしてですか」
「だが私は悪人だ」
 今度はこんなことも言うビスマルクだった。
「あの方を利用することもある」
「では。あのことにですか」
「どうしてもですね」
「推挙してもらうのですね」
「そうだ。皇帝に自ら進んでなる」
 このことを言った。
「それはよくはない」
「鷹は爪を隠すものですから」
「その通りですね」
「自ら野心を出す者は愚か者に他ならない」
「ナポレオン一世でしょうか」
「それは」
「そうだな。だがあの男はそれが様になっていた」
 彼の場合はだ。そうだというのだ。
「だがそうした者は稀だ。ましてやだ」
「ましてや?」
「といいますと」
「陛下は代々プロイセン王だ」
 そこにあった。野心を見せられない理由は。
「気品と風格があるのだ」
「それをですね」
「どうしても護らなくてはならない」
「何があろうとも」
「そうだ。絶対にだ」
 してはならないというのだ。野心を見せることはだ。
 

 

470部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十四


第二十八話 逃れられない苦しみその十四

「見せてはならないのだ」
「だからこそ推挙されるべきですね」
「ドイツ皇帝に」
「だからこそ」
「神聖ローマ皇帝は教皇に冠を授けられた」
 ここでその歴史から学んだことをだ。ビスマルクは話した。
「だがそれはカトリックだからだ」
「我々はプロテスタントですから無理ですね」
「それは」
「ならばだ」
 教皇が無理ならだ。それならばだった。
「王に推挙してもらうのだ」
「そのドイツの王の方々のですね」
「推挙を受けてですね」
「プロイセン王がドイツ皇帝になられるのだ」
 そうなるというのだ。ただしだ。ビスマルクはこのことは確かとした。
「だが、だ。陛下はだ」
「今も懸念しておられますが」
「ドイツ皇帝になられると」
 それならばだ。どうなるかというのだ。
「プロイセン王ではなくなると」
「そのことを懸念しておられますが」
「そのことは」
「そのことだな」
 当然ながらだ。ビスマルクもこのことはわかっていた。
 それでだ。こう言うのだった。
「しかしそれはだ」
「陛下にはお話されたのですね」
「プロイセン王としての称号はそのままだと」
「ドイツ皇帝ではあるがプロイセン王でもある」
「それはそのままだと」
「プロイセン王はホーエンツォレルン家の誇りなのだ」
 まさにだ。そうだというのだ。
「それは代々のものだ。それを捨てるということはだ」
「陛下にはできませんね」
「とても」
「では言えるだろうか」
 ビスマルクは彼等に問うた。
「オーストリア皇帝に大公の座を退けと」
「まさか。そんなことはできません」
「絶対にです」
「それを言うことはあまりにも無道です」
「考えることすらできません」
 誰もがそのことは否定する。この前戦った相手の君主に対しても言うことはできない、考えることすらだとだ。彼等は首を横に振り狼狽した顔で話す。
「到底です」
「言えません」
「その様なことは」
「そうだ。そういうことだ」
 まさにそうだというのだ。
「私はその様なことは考えていない」
「では陛下はこのままですね」
「プロイセン王であり続けるのですね」
「そうなのですね」
「これからも」
「そうだ。陛下はプロイセン王でありだ」
 それと共にだというのだ。
「ドイツ皇帝になられるのだ」
「そのドイツ皇帝はホーエンツォレルン家の世襲ですね」
「そうなりますね」
「即位されたならば」
「そうなる。新しいドイツはプロイセンが主導する」
 最初からそのつもりであることだ。
「それは決まっているのだ」
「だからこそホーエンツォレルン家の方、プロイセン王がですね」
「ドイツ皇帝に代々なられる」
「そうされますか」
「そしてそのドイツ皇帝だが」
 話がそこに戻った。
 

 

471部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十五


第二十八話 逃れられない苦しみその十五

「教皇に帝冠を授けられないのならだ」
「ドイツで王である方々に推挙して頂く」
「同じドイツで王であられる」
 その彼等の推挙を受けてだというのだ。
「そしてドイツ皇帝になられる」
「そうなりますね」
「そしてだ。その王の中でだ」
 誰かというのだ。その中で。
「最も地位があり貴い方は」
「バイエルン王ですね」
「やはりあの方ですね」
「バイエルンはプロイセンに次ぐ国だ」
 このことが非常に大きかった。バイエルン王国はプロイセン王国と比べると確かにかなり落ちる。しかしそれでもその国力と地位はというと。 
 今ドイツで第二なのだ。その国の王だからだ。
「あの方に推挙して頂くことになる」
「そうですね。それが一番です」
「そのうえでドイツ皇帝になられる」
「その為に」
「あの方を利用することになる」
 そうだというのだ。ビスマルクはあえてそうするというのだ。
 そしてだった。彼は。
「私はあの方と違うのだ」
「バイエルン王とはですか」
「あの方とは」
「私は悪人だ」
 顔はにこりともしていない。しかしだ。
 声には自嘲を含めてだ。そして言うのだった。
「だからだ。そうするのだ」
「バイエルン王をですか」
「そうされてなのですか」
「そうだ。このことはあの方を苦しめることになる」
 それもわかっていた。わかっていてなのだ。
「だが。それでもだ」
「ドイツの為にですか」
「ドイツ皇帝を戴く為に」
「そうする」
 こう話してなのだった。ビスマルクはドイツの為にあえて王を苦しめることを選んだ。そうしてそのうえでこう話をするのだった。
 そしてこのことはだ。王もわかっていた。それでだ。
 こうだ。ホルニヒに漏らすのだった。
 周囲は婚約破棄のことで騒がしい。しかしだ。
 今の王にはそんなことは関係なくだ。彼にこのことを言うだけだった。
「仕方ないことなのだ」
「といいますと」
「ドイツ皇帝は必要だ」
 まず言うのはこのことからだった。
 沈痛な顔でだ。こう漏らしたのだ。
「ドイツの為にだ」
「そしてそのドイツ皇帝は」
「ホーエンツォレルン家がなる」
 このこともだ。わかっている王だった。
 しかしだ。それでもなのだ。
「だが」
「だが、ですか」
「私がプロイセン王をドイツ皇帝に推挙することは」
「そのことは」
「どうしても受け入れられない」 
 感情としてはだ。そうなのだ。
「だが。ドイツ皇帝になれるのはだ」
「最早ドイツではプロイセン王だけです」
「力も地位もだ」
 それだけのものがあるというのだ。
「それにドイツはプロイセンを軸として統一されるのだからな」
「それでプロイセン王がならない筈がないですね」
「どうしてもだ」
「しかし皇帝に推挙するのは」
「私でなければならない」
 ドイツ第二の国であり随一の名門ヴィッテルスバッハ家の主であるだ。王だけだった。
 

 

472部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十六


第二十八話 逃れられない苦しみその十六

「どうしてもだ」
「それはプロイセンの考えでしょうか」
「もっと言えばビスマルク卿の考えだ」
 このこともだ。王は既に読んでいた。
「あの方はドイツ統一の仕上げとしてそれを考えておられるのだ」
「陛下に。プロイセン王のドイツ皇帝への推挙を」
「考えておられる。当然のこととして」
「あの方は陛下に好意を抱いておられたのではないのですか?」
 ホルニヒは怪訝な顔で王にこのことを尋ねた。
「確か」
「私としてはな」
「私ではですか」
「そうだ。私としてはだ」
 つまりだ。ビスマルク個人としてはなのだ。
 彼は王に好意を抱いているというのだ。しかしだった。
 それとは別にだ。ビスマルクは。
「だがあの方はプロイセンの首相だな」
「そこに問題があるのですか」
「公だ」
 プロイセン首相としての地位はそれになるというのだ。
「だからだ。公人としてはだ」
「陛下を」
「私を使うのだ」
「陛下がどう思われようとですか」
「それが政治だ」
 政治を知っているからこその言葉に他ならない。
「政治とは。公に徹するものなのだ」
「それ故にですか」
「あの方は私にプロイセン王をドイツ皇帝に推挙するように進めておられるのだ」
 王は虚ろな声でだ。ホルニヒにこのことを話した。
 その彼にだ。ホルニヒは。
 すがる様な顔になりだ。尋ねたのだった。
「お断りすることは」
「それか」
「はい、それはできるのではないのですか?」
 こうだ。王に対して尋ねたのあった。
「それはできませんか」
「私しかいないのだ」
 王の返答はこれだけだった。
「他の君主の方々にはできない」
「ではバイエルンでは」
「いない」
 一言だった。簡潔だった。
「王である私だけだ」
「それができるのは」
「そうだ。私しかいないのだ」
 また言う王だった。
「オットーはあの通りだ」
「あの方は」
「出来る筈がないのだ」
 狂気に捉われだ。外に出ることすらままならない彼はだ。到底無理だというのだ。
「本来ならだ」
「本来なら?」
「私は王を退きオットーに王位を譲るべきかも知れない」
「しかしそれはですか」
「できないのだ」
 それはやはりだ。オットーの狂気故になのだ。
「どうしてもだ」
「オットー様が狂気に陥っておられるから」
「私は王位を退けない」
 退位を願おうともだ。狂気の王を即位させる訳にはいかないのだ。
 だからこそだ。王は王でなければならない、そういうことなのだ。
 そのことをホルニヒに話し。そしてだった。
 今度はだ。こうホルニヒに話した。
「そして私という人間もまた」
「陛下御自身が」
「そうだ。バイエルン王でなくとも」
 ルートヴィヒ二世という個人としてもだというのだ。
 

 

473部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十七


第二十八話 逃れられない苦しみその十七

「私はプロイセン王をドイツ皇帝に推挙しなければならないのだ」
「それは何故でしょうか」
「ビスマルク卿が認めておられるからだ」
 理由はここにあった。
「あの方が。私をそこまで」
「それだけの資質が陛下にはおありなのですか」
「そのこと自体は有り難い」
 人に認められる、とりわけ敬意を払っている相手にそうされることは嬉しいことだ。しかしそれでもなのだ。今それは王にとっては。
「だが。それでもだ」
「今回のことは」
「私はできることなら退きたい」
 推挙からだ。どうしてもだった。
「しかししなければならないのだ」
「バイエルン王として」
「ルートヴィヒとして」
 ここまで話した。そうしてだった。
 その中でだ。王はまた述べた。
「この仕事をしなければならないのだ」
「ではバイエルンもまた」
「プロイセンにつく」
 今回はだ。そうするというのだ。
「動員令も決めた」
「既にですか」
「今回の戦いもすぐに終わる」
 王は戦局の推移についても述べてみせた。
「先の戦争と同じ様にだ」
「長期戦を予想する声が多いですが」
 ホルニヒの今の話は欧州の多くの推察だ。プロイセンとフランスはその国力が近い。それで戦えば長期戦になるとの予想が妥当と言えた。これは先の普墺戦争と同じだ。
 しかしだった。王はこう見ているのだった。
「プロイセンは強い。それに兵の移動が早い」
「それ故にですか」
「鉄道の力は大きい」
 王が指摘するのはこのことだった。
「非常にだ」
「鉄道ですか」
「私もまた鉄道を愛している」
 そうしているというのだ。実際にだ。
 王は移動には鉄道をよく使っている。豪華な内装の鉄道で移動するのを好む。
 王は文明の利器、とりわけ科学には夢を見ていた。それでだ。
 鉄道についてもだ。肯定的に話すのである。
「あれは多くのものを迅速に移動させられる」
「迅速に、ですね」
「そうだ。迅速にだ」
 それができるというのだ。
「プロイセンは既にドイツ全土に鉄道網を敷いている」
「ならばそれを使って」
「軍を即座にフランスとの国境に移動させる」
 そうするというのである。
「そしてあの国のお家芸だが」
「お家芸?」
「宣戦布告と同時に攻撃を仕掛ける」
 それがだ。プロイセンの伝統だというのだ。
「フリードリヒ大王からそうしているのだから」
「そういえばオーストリアとの戦争の時も」
「そうしたな」
「はい、しました」
 これはホルニヒも覚えていた。先の戦争のことを。
「ではフランスに対しても」
「当然の様にする」
 そうするというのである。
「間違いなくだ」
「フランスはこのことをわかっているでしょうか」
「いや、わかっていない」
「左様ですか」
「そうだ。それどころかだ」
 王はプロイセン側のことだけを見ているのではなかった。フランス側もなのだ。そして彼等はどういった状況なのかも把握していた。
 

 

474部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十八


第二十八話 逃れられない苦しみその十八

「勝てると確信している」
「確信ですか」
「彼等はそう思っているのだ」
 フランスはだ。そうだというのだ。
「あの国の高官達はとりわけだ」
「プロイセンは強いですが」
「しかしフランスはそれ以上に強いと思っている」
 これがフランスの見たところだった。
「だからだ。周囲は数年はかかると思っている戦争もだ」
「彼等は瞬く間に終わると思っていますか」
「その点は私やビスマルク卿と同じだ」
 戦争が短期で終わることは間違いないというのだ。だが。
 問題はだ。その勝者だ。それは。
「しかし勝者はフランスではない」
「プロイセンですね」
「フランス側の殆んどの者がわかっていないのだ」
 これが現実だった。
「だが」
「だが、ですか」
「皇帝だけはわかっておられる」
 この場合の皇帝はフランスの皇帝だ。
「あの方は流石にだ」
「戦えばフランスが破れることが」
「わかっておられるのだ」
「しかし政治家や官僚、そして国民達はですね」
「全くわかっていない」
 プロイセンの強さ、それがなのだ。
「油断しており相手を軽く見ている」
「それがよくありませんか」
「それで勝てる筈がない」
 油断は最大の敗因となる、それはプロイセンとフランスでも同じだった。
 王はそれも見ていた。そのうえでの言葉だった。
「フランスは確実に。即座に破れる」
「多くの血が流れますか」
「いや、血は周りが思う程流れはしない」
 犠牲者は少ないというのだ。
「フランスは瞬く間に破れるのだから」
「破れるからですか」
「そうだ。それでは血は多くは流れない」
「三十年戦争とは違いますか」
「あの戦争は長い間激しい戦争が続いた」
 しかもそこに宗教が絡み武器を持たない者への蛮行が日常化してだったのだ。
「だが今回の戦争はすぐに終わるからだ」
「血は多くは流れませんか」
「わかっていない者達が愚行を犯せば別だが」
 その場合は違うという。
「だがだ」
「戦争による犠牲は少ないですか」
「そうなる。だがこの戦争では多くのものが失われる」
 犠牲の他にだ。そうなるというのだ。
「そして私もまた」
「失われますか」
「バイエルン王は臣下になる」
 それはだ。間違いないというのだ。
「ドイツ皇帝のだ。その時が来るのだ」
「それは避けられませんか」
「ドイツ皇帝は世襲になる」
 このこともだ。王は既に見抜いていた。
「ホーエンツォレルン家のな」
「バイエルンがプロイセンの臣下にですか」
「皇帝は王の上に立つ」
 その皇帝にプロイセン王がなるのならだった。
「誰にも止められない」
「陛下にも」
「私は最もだ」
 止められないというのだ。彼がまずだ。
「それができない立場にいるのだ」
「王だからですか」
「王は制約が多い」
 その制約の多さこそがだ。王だった。
 

 

475部分:第二十八話 逃れられない苦しみその十九


第二十八話 逃れられない苦しみその十九

「それでどうしてこのことにだ」
「何もできないのですか」
「できることは限られている」
 そのだ。限られていることこそはだった。
「プロイセン王をドイツ皇帝に推挙することだけだ」
「他にはありませんか」
「ない」
 まさにだ。それだけだというのだ。
「それだけなのだ」
「陛下がされたくないことだけですか」
「これは甘えになるだろうか」
 前置きしてからだ。
 王は憂いに満ちたいつもの顔でだ。ホルニヒに話した。
「王といえどもだ」
「されたくないことはありますか」
「そうだ、ある」
 そうだというのである。
「人は誰でもそうだな」
「確かに。それは」
「そなたもだろう」
 ホルニヒ自身にもだ。王は問うた。
「それは」
「はい、私もそれは」
「人にはどうしてもそうした感情がある」
「しかし王はなのですね」
「そう言ってはいられないのだ」
 それは何故か。国を預かっているからだ。
 だからそれはできない。それはわかっているのだ。
 だがそれでもだ。王は話すのだった。
「しかし。どうしても」
「できませんか」
「バイエルンが。プロイセンに膝を折る」
 そう考えるとなのだ。
「そういうことになるからだ」
「しかし最早ドイツは」
「そうだ。一つになる」
 これは絶対だった。最早時代の流れはそうなっていた。
 そして王もだ。ドイツの統一自体は歓迎していた。
 実を言えばだ。ドイツ皇帝については。こう言うのだった。
「私は皇帝にはなりたいとは特に思わない」
「皇帝にはですか」
「確かにバイエルン王のままでドイツ皇帝になれる」
「そしてヴィッテルスバッハ家はですね」
「かつて神聖ローマ皇帝にもなっている」
 ハプスブルク家と争いだ。そうなったのだ。
 長い歴史の中でだ。そうしたこともあったのだ。
 だが、だ。それと共にだ。
 王はだ。ここではこう話した。ホルニヒに対して。
「私はこの世における欲はないつもりだ」
「それはですか」
「そうだ。ない」
 そうだというのだ。この世における欲はないというのだ。
 それでだ。皇帝についても。
「祖先では皇帝が出ていても」
「陛下御自身は」
「バイエルン王のままでいい」
 そのだ。王のままでいいというのだ。
「皇帝にはなろうとは思わない」
「そうなのですね」
「やはりドイツ皇帝にはプロイセン王が相応しい」
 このこともだ。わかっていたのだった。
「しかしだ。それを私が推挙するのは」
「臣下となることだからですね」
「私もまた。バイエルンも」
 プロイセンの下になっていく。そうなってしまうからだ。
 王はだ。どうしてもだった。
「絶対にだ」
「できませんか」
「したくない」
 王は項垂れて呟いた。
「だが。しなくてはならないのだ」
「バイエルン王として」
「私の他に出来る者はいない」
 プロイセン王をドイツ皇帝に推挙するだ。そのことは。
 そう話してだ。王は今は。
 項垂れた顔でだ。別の話をだ。ホルニヒに振ってきた。
「ところで今ミュンヘンは騒がしいな」
「あのことですか」
「私は婚約を破棄した」
 このことをだ。あらためて話したのだった。
 

 

476部分:第二十八話 逃れられない苦しみその二十


第二十八話 逃れられない苦しみその二十

「そのことについて誰もが話しているな」
「あまり御考えにならない方が」
「しかしそれでもだ」
「考えてしまわれますか」
「幾ら目を塞いでも目を閉じても」
 それでもだというのだ。このことについての話がだ。
「入って来る。わかっていたのだが」
「ゾフィー様のこともまた」
「ゾフィーには悪いことをした」
 それもわかっていた。王は決して愚かではない。
 だからこそ言えてだ。そうしてだった。
 暗い顔でだ。また話したのだった。
「だが。私はどうしても」
「ゾフィー様を」
「愛せない。女性を愛せない」
 これが理由だった。結婚に至らなかった。
「どうしてもな」
「ではこれからも」
「私はこれからも結婚しない」
 そうするというのだ。王は。
「死ぬまでだ」
「では生涯に渡って」
「そうする。こう言うとエリザベス女王になるか」
 イングランドのだ。その女王にだというのだ。
「あの生涯に渡って結婚しなかった」
「あの女王陛下とですか」
「同じになるか。事情は全く違うが
「では伴侶がいない王もですね」
「いるのだ。だが異様な話であるのは間違いない」
 君主は伴侶がいる、子孫を残す為に。君主として子孫を残すことは絶対の義務だ。君主は血脈によってなるものだからだ。
 だが王にとってはだ。その義務は。
「苦痛だ」
「苦痛?」
「考えるだけで苦痛だ」
 そうだというのだ。
「私は男性だが」
「女性と結ばれることを考えられると」
「それだけで苦しくなる」
 そうなると。王は怯える様な顔で話していく。
「おぞましいものさえ感じるのだ」
「前から仰っている様に」
「私だけだろう」
 王はこうも言った。
「こう考えるのは。だが」
「それでもですか」
「できなかったのだ」
 言葉は過去形だった。
「どうしても」
「そうだったのですか。前から仰っていた様に」
「どう思うか」
 ここまで話してだ。このことについてホルニヒに尋ねた。
「そなたはこのことを」
「私は」
「そのまま言っていい」
 いいというのだった。ありのまま言っても。
「むしろ率直な言葉を聞きたいのだ」
「わかりました。では」
「どう思うか。そなたは」
「私はこのことは」
 前置きしてからだ。王に話す彼だった。
「やはり妙に思いました」
「そうか。やはりか」
「陛下はゾフィー様と結ばれると思っていました」
「例え何があってもか」
「そうです。王ですから」
「そうだな。王ならばな」
「御后がいるものですから」
 常識からだ。ホルニヒは話していた。そうした意味で彼はこの世にいた。王がいるその世界にはだ。彼は身を置いてはいなかったのだ。
 

 

477部分:第二十八話 逃れられない苦しみその二十一


第二十八話 逃れられない苦しみその二十一

 その世界からだ。王は話していくのだったl。
「ですから。陛下が男性を愛されていても」
「それでもだな」
「私は結婚されると思っていました」
「愛がなくともか」
「はい、思っていました」
 そうだと話すホルニヒだった。
「しかしそれは」
「君主ならば愛のない結婚も当然だな」
「貴族の方々の間ではそうだと聞いていますが」
「かつてのフランスがそうだった」
 ここで話が出たフランスは肯定的なものではなかった。王が普段話すフランスとは違ってだ。否定的に話されるフランスだった。
 そのフランスについてだ。王は否定的に話を続けていく。
「貴族同士の結婚はあくまで義務だった」
「家と家を結ばせる」
「そうしたものだったな」
「はい、そうでしたね」
「そして不倫は当然のことだった」
 不倫と言うとだ。王は。
 その顔をこのうえなく曇らせた。そしてだ。 
 不快感も露わにさせてだ。話すのだった。
「それはどうしても許せない」
「どうしてもですね」
「愛のない結婚程おぞましいものはない」
 生来持っているその潔癖症をだ。王は見せた。
 それを身に纏いだ。今王はホルニヒに話すのだった。
「ああしたものは消していかなければならない」
「どうしてもですね」
「だから私はだ」
「結婚されなかったのですか」
「そうだ」
 こう言うのだった。
「絶対にだ」
「だから結婚されなかったのですか」
「妹の様な存在と結婚はできない」
 妹への愛、男女の愛の違いだった。
「私はだから」
「ではこれからも」
「結婚はしない」
 一生だ。そうだというのだ。
「何があってもな」
「わかりました。では」
「私は一人でいたい」
 この言葉がだ。ふと漏れた。
「ずっと。一人でいたい」
「御一人で」
「何もかもが嫌になろうとしている」
 俯く様になってだ。そうしての言葉だった。
「特に昼にいることは」
「昼は」
「企み深い昼」
 トリスタンとイゾルデでのだ。この言葉がだ。
 王の口から出た。昼を否定してだ。
「夜の方がどれだけいいのか」
「夜といえば」
「ワーグナーは私に教えてくれた」
 やはりワーグナーだった。王の心にあるのは。
 

 

478部分:第二十八話 逃れられない苦しみその二十二


第二十八話 逃れられない苦しみその二十二

 その彼の世界を瞼に浮かべながら。今話すのだった。
「夜の世界の美しさを」
「だからこそ夜に」
「夜の光は優しい」
 王は今度はその光をだ。瞼に浮かべていた。
「月の光、そして星の光」
「そうした光こそが」
「私はその中にいたくなっている」
 心が傷ついていった王はだ。そこに至っていた。
 至りながらだ。そうしてだった。
 その夜を見ながらだ。ホルニヒに話していく。
「だから私は」
「これからは」
「昼に身体を置かず夜にいたい」
 まさにそうだというのだ。
「そうしたい」
「では私は」
「そなたは」
「陛下と共に」
 穏やかに微笑みだ。こう王に述べたのだった。
「そうさせてもらいます」
「それでいいのか」
 王はその彼にだ。気遣う声でだ。
 声をかけだ。問うたのだった。
「人は本来は昼にいるものだ。それで」
「ですが陛下は夜を愛されているのですね」
「そうなろうとしている」
「私は陛下の臣です」
 それならばというのだ。ホルニヒは己が何かをわかっていた。
 そしてその立場から。王への想いはそれ以上に強くだ。王にその心を見せて話した。
「ですから」
「そうしてくれるか」
「御一人のままなら私は」
「私は勝手な男だ」
 自嘲をだ。微かに込めての言葉も出した。
「一人でいたいというのにだ」
「それでもですか」
「私はそなたに側にいてもらいたい」
 ホルニヒに話すのだった。
「是非な」
「左様ですか。では」
「間も無くドイツは一つになる」
 王にはわかることだった。このことが。
「喜びと。苦しみが私に訪れるのか」
「陛下に」
「私だけのことだろうが」
 それでもその二つが訪れることを思いながらだ。王は黄昏を迎える宮殿の中にいた。葡萄の美酒に今その弱まっていく日差しが差し込んでいた。


第二十八話   完


                  2011・8・28
 

 

479部分:第二十九話 人も羨む剣その一


第二十九話 人も羨む剣その一

              第二十九話  人も羨む剣
 プロイセンとフランスの戦いの時が迫ろうとしていた。遂にだ。
 バイエルン王も動員令の書類にサインをした。バイエルンに続いてだ。
 南ドイツの各国も続く。ドイツ全体がフランスと戦おうとしていた。
 フランス側の高官はだ。そのことに対してだ。悠然と構えて言うのだった。
「軽い気持ちでこの責任を引き受けよう」
「ボタン一つに至るまで準備に不備はない」
 絶対に勝てるとだ。確信していたのだ。
 だが、だ。皇帝であるナポレオン三世だけはだ。
 このうえなく苦い顔で皇帝の座にいてだ。こう周囲に漏らしていた。
「罠にかかった」
「罠といいますとプロイセンの」
「あの国のですか」
「そうだ。ビスマルクのだ」
 他ならぬ彼のだ。それにかかったというのだ。
「やられた。エムスの時にだ」
「あの電報ですか」
「あの電報は短くされた」
 それも極端に、しかも双方の敵愾心を煽る様にだ。ビスマルクは編集してそれを流したのだ。そしてそれこそがだというのだ。
「あれが罠だったのだ」
「ではビスマルク卿はあの頃からですか」
「我が国との戦いを考えていたのですか」
「既に」
「プロイセンの参謀総長であるモルトケはだ」
 プロイセンのもう一人の重要人物だ。王であるヴィルヘルム一世、宰相のビスマルク、砲を造るグルック社のグルック等と共にだ。彼もまたプロイセンにおいて注目されている者なのだ。欧州全体からだ。
「彼がビスマルクと共に食事をしていた時にだ」
「その時にですか」
「あの電報についてですか」
「答えたそうだ」
 答えたというのだ。
「まずビスマルクが電報の話を聞いた時にだ」
「というと」
「まずはあの御仁ですか」
「何時我が国と戦争ができるか」
 それをだ。既に問うてきたというのだ。ビスマルクは。
「それを問うてだ」
「そしてあのモルトケ氏がですか」
「どう答えたのでしょうか」
「すぐだ」
 そうだとだ。皇帝は忌々しげな顔で答えた。
「すぐにできると答えたのだ」
「では我が国との戦争は最初から念頭に置いてですか」
「ビスマルク卿は戦略を練っていた」
「そうだったのですか」
「あの方は」
「してやられた」
 首を横にだ。忌々しげに振ってだ。
 皇帝はだ。苦い顔で述べた。
「全く以てな」
「そして今に至るというのですか」
「プロイセンの罠にかかったままですね」
「戦争をはじめる」
「そのプロイセンと」
「罠にかけた相手と戦争をする」
 皇帝は今フランスが置かれているその現状についても述べた。
「それで勝てる筈がない」
「プロイセンもまた既に準備をしていますか」
「戦争の」
「そうだ。しかも我々以上に用意周到にだ」
 そうしているというのだ。彼等は。
「我々のことも丹念に調べたうえでだ」
「では開戦になれば」
「我が国は敗れますか」
「すぐに」
「犠牲者は少ないに限る」
 皇帝は言った。
 

 

480部分:第二十九話 人も羨む剣その二


第二十九話 人も羨む剣その二

「私は開戦すればすぐに前線に向かう」
「そうしてですか」
「戦争を終わらせるのですか」
「即座に」
「そうだ、そうする」
 また言う皇帝だった。
「敗れるのなら。犠牲者は少ない方がいい」
「全てはプロイセンの思う通りですか」
「状況は進んでいる」
「まさに」
「そしてドイツは統一される」
 そうなるともいうのだ。
「完全にだ」
「係争地であるアルザス、ロレーヌはドイツのものになる」 
 何故プロイセンがフランスとの戦争を望むかというとその二つの地の存在も理由にあった。鉱産物が豊富なその二つの地をドイツに完全に組み入れる為だ。 
 この地はドイツの呼び名ではアルサス、ロートリンゲンとなる。ドイツとフランスの領土の間でそれぞれ領有が主張されているのだ。
 だからだ。ビスマルクは戦争を考えているのだ。
 そうしたことを話してだ。皇帝は戦争を待っていた。フランスでは彼だけが暗鬱ある中にいた。
 そのフランスとの戦いを進めるプロイセンではだ。ビスマルクがだ。
 意気揚々と仕事をしながらだ。彼の周囲に述べていた。
「全ては順調だ」
「はい、間も無くですね」
「フランスとの戦争がはじまります」
「ドイツの全ての国が我が国と共に戦います」
 周囲は次々にビスマルクに話していく。
「まさにこちらこそがです」
「ボタンの一つの抜かりもありません」
「何もかもが整っています」
「フランスは孤立している」
 そこまで追い詰めたのだ。ビスマルクが。
「それに対して我々は団結させた」
「それで敗れる筈がない」
「フランスは一国だけで戦うのに対してですね」
「我が国は既に周辺国の好意的中立を取り付けています」
 これもだ。ビスマルクの手腕である。
 彼が既に外交的にもだ。手を打っていたのだ。
 オーストリアとの戦争の時と同じだった。打てる手は全て打ちだ。万全を期して戦争に向かう。絶対に勝てる状況にしてからなのだ。
 ビスマルクは既に用意した。ならばだった。
 負ける筈がなかった。プロイセンが。
 そしてだ。戦争に勝ってからだった。
 彼等はだ。あるものを手に入れるのだった。
「ドイツを手に入れますか」
「統一されたドイツがですね」
「我々のものになりますね」
「そうだ、なる」
 まさにだ。そのドイツがだった。そしてだ。
 そのドイツをどうするかはだ。ビスマルクはこのこともだ。
 既に頭の中にありだ。こう言ったのだった。
「もう戦争はしない」
「しませんか」
「最早」
「そうだ、しない」
 このことは確約の言葉だった。
「する必要がなくなる。それに」
「それに?」
「それにといいますと」
「私は必要だから戦争をするのだ」
 これがだ。ビスマルクの戦争への考えだった。
「戦争は決して好きではない」
「では必要ならば平和を求める」
「それが閣下の御考えですか」
「ドイツは欧州の中央にある」
 ドイツの地政学的な状況についてもだ。ビスマルクは把握していた。
 

 

481部分:第二十九話 人も羨む剣その三


第二十九話 人も羨む剣その三

「平地であり要害もない」
「つまり四方八方から攻められる」
「そうなるからですか」
「そうだ、最早戦争をしてはならない」
 そう考えているのだった。彼は。
「平和を維持しなくてはならないのだ」
「それが統一されたドイツの戦略になりますか」
「フランスとの戦争の後では」
「そうなりますか」
「そうだ。戦争はしない」
 また言う彼だった。
「決してだ」
「では閣下」
「その様にですね」
「そうされますか」
「統一されてからは平和ですか」
「そうだ。その為にオーストリアとの講和はあちらにいい条件にした」
 既にだ。その時点で考えていたのだ。
「怨みを買っては。オーストリアを敵に回すからだ」
「むしろオーストリアとは同じゲルマン民族として友好関係を保ちですね」
「南からの脅威を取り除く」
「そうしてですか」
「オーストリアからの脅威はなくす」
「イタリアともだ」
 次はだ。この国だった。
「イタリアも統一されようとしているがだ」
「そのイタリアとも手を結ぶ」
「あの国とも」
「イタリアは無意識のうちに好きになってしまう」
 ビスマルクはここでこんなことを言った。考える顔だがその口元は微かに笑みになっている。その顔でだ。こうしたことを言ったのだ。
「不思議な国だな」
「そうですね。イタリアは確かに」
「どうしても好きになります」
「憎めないといいますか」
「あの国に対しては」
「ドイツ人はイタリアが好きだ」
 ビスマルクはこの結論を出した。
「神聖ローマ帝国の頃からな」
「空は晴れ渡り暖かく」
「そして食べ物は豊富で美味です」
「そこには我々の欲しいものが全てあります」
「だからですね」
「そうだ。イタリアはドイツ人にとっては特別だ」
 まさにだ。そうした国だというのだ。
「南を安全なものにする為でもあるが」
「それと共にですね。あの国とは」
「友好関係を築いて守り」
「共に栄えていくのですね」
「そうしたい。南はそうしてだ」
 オーストリア、そしてイタリアとの良好な関係を築くというのだ。
 南のことは話した。しかしだ。
 次に彼はだ。顰めさせた顔になってだ。この国のことを述べたのだった。
「問題はロシアだ」
「あの国ですか」
「東の」
「まさに熊だ」
 ロシアは常にこの動物に例えられる。それはビスマルクも同じでだ。
 この国をこう言いだ。そしてだった。
「隙を見せれば襲い掛かって来る」
「はい、東に南に領土を拡大し続けています」
「しかもかなりの強さです」
「コサック騎兵もいますし」
 ロシア軍の看板とも言える兵達だ。河川を船で暴れ回っていたがこの時代ではだ。騎兵隊としてだ。ロシア皇帝の頼りになる戦力になっているのだ。
 その彼等の存在もありだ。ロシアは強大な国となっていた。
 ビスマルクもだ。彼等についてはだった。
 

 

482部分:第二十九話 人も羨む剣その四


第二十九話 人も羨む剣その四

「何があっても対立を避けてだ」
「あの国とは戦わない」
「あわゆる外交努力を行いですね」
「そうだ。あの国とは戦わない」
 また言う彼だった。
「無論あれ以上勢力の拡大も防ぎたいが」
「ではイギリスに協力を仰ぎますか」
「その際は」
「そうだ。そうする」
 今度はこの国の名前も出た。
「あの国に対抗できるのはイギリスしかいない」
「七つの海を支配するあの国ですか」
「あの国しかありませんか」
「そうだ。今のところドイツとイギリスは」
 その両国の関係についてもだ。ビスマルクは述べる。
「対立関係にない」
「確かに。利害自体がありません」
「特に」
「あの国は多くの植民地を持っている」
 それがイギリスの特徴だ。その多くの植民地がイギリスを支えているのだ。海軍はその植民地とそこから運ばれる富を守る為にあるのだ。
 しかしだ。ドイツは植民地がない。だからだというのだ。
「植民地も若しかして」
「若しかして」
「といいますと」
「必要ないのかもな」
 こう言うのだった。植民地についても。
「ドイツには」
「不要でしょうか」
「まさか」
「下手に進出すればそのイギリスと対立してしまう」
 そのことも考えてだった。
「そうなれば厄介だ」
「それは確かにそうですね」
「ロシアとも対立したくないですが」
「イギリスともですね」
「その両国と対立すればドイツにとって危険だ」
 まさにだ。陸と海からだった。
「それは避けたい」
「むしろ両国にですか」
「対立してもらいですね」
「ドイツは厄介を避ける」
「それがよいですか」
「おそらくな。それがいい」
 まさにそうだと話すビスマルクだった。
「只でさえロシアとイギリスは対立しているのだからな」
「そうですね。今も各地で対立していますし」
「そのまま対立してもらいですね」
「我が国に矛先が行かないようにしますか」
「戦いは避けるに限る」
 これがビスマルクの本音だった。やはり彼は戦争を好んでいる訳ではないのだ。むしろ戦争を知っておりだ。必要か不要かも弁えていたのだ。
 だからだ。フランスとの戦争の後にはというのだ。
「絶対にだ」
「では下手な進出を避けますか」
「ドイツは統一してからは」
「国内の産業を充実させたい」
 これがビスマルクの考えだった。
「幸いルールがある」
「あの地ですか、炭鉱のある」
「あの地に工業地帯を作るのですね」
「そうしたい。それとアルサス、ロートリンゲンの鉄だ」
 炭と鉄、この二つだった。
「その二つを使ってドイツの産業を築き上げるのだ」
「あのイギリス以上の産業をですね」
「築き上げるのですね」
「そうしたい。ドイツは幸いにして近代化に成功している」
 所謂上からの近代化だ。ビスマルクがそれを達成させているのだ。彼は外交だけではないのだ。内政においても秀でているのである。
 

 

483部分:第二十九話 人も羨む剣その五


第二十九話 人も羨む剣その五

 その産業、そしてだった。
「人材もいる」
「人材もですか」
「それも」
「そうだ。文学や音楽だけではなく」
 ゲーテにベートーベン、そしてワーグナーだった。
「科学でも人材がいるからだ」
「その彼等の力を使いですか」
「産業を発展させますか」
「人材育成は必須だ」
 そのだ。ドイツの発展の為にだというのだ。
「その産業と人材でドイツは生きるのだ」
「統一してからのドイツはですね」
「そうなりますか」
「戦わず、対外関係を考え進出していく」
 つまりだ。穏健路線だというのだ。
「それがドイツのこれからなのだ」
「戦争を終えてですか」
「そうして」
「軍は維持していくがな」
 統一を進ませているもののもう一つだった。血、即ち軍はだというのだ。
「軍は攻めるだけではない」
「守る為にもある」
「だからですか」
「そうだ、強力な軍は維持していく」
 それは変わらないというのだ。統一してからもだ。
「さっきも言ったがドイツは欧州の中央にあり守りはない」
「だから強力な軍が必要ですか」
「何としても」
「そうだ。ドイツの平和と安定の為には三つのことが必要だ」
「産業、外交、そして軍ですか」
「その三つですか」
「産業は発展させ外交は穏健なものに変えていく」
 そして軍はだった。
「軍は維持していく」
「一つは栄えさせ一つは変え一つはそのままですか」
「それがドイツのこれからですか」
「若しもそれを間違えると破局を迎える」
 ビスマルクの顔がここで強張った。
「それを誤ってはならないのだ」
「ううむ、統一して終わりではない」
「それが現実ですが」
「現実だけの話ではない」
 ビスマルクは現実だけを見てはいなかった。もう一つのものもだった。
「人は死んで終わりでもないしな」
「最後の審判を経て天界に行きですか」
「神と共に生きるからですね」
「生憎私は地獄だがな」
 ビスマルクはここでは自嘲を入れた。口元も微かにそなる。
「悪人はそこに行くからな」
「いえ、閣下はドイツの為に働いておられます」
「ですから地獄はです」
「閣下には縁のないものかと」
「だといいがな」
「はい、首相は必ず天界に行かれます」
「ドイツを築き多くのものを築かれた方として」
 それもまた善行だというのである。
「ですから御安心下さい」
「そのことは」
「それならばいいがな」
 彼等に言われてだ。ビスマルクは少し笑った。しかしだ。
 すぐにだ。こうも言うのだった。
「だがな」
「だが?」
「だがといいますと」
「あの方はどうなのか」
 言う言葉はこれだった。
「バイエルン王は」
「あの方ですか」
「天界に行かれるかどうかですか」
「そのことですか」
「そうだ。あの方は天界に行かれるのか」
 こう言うのである。
 

 

484部分:第二十九話 人も羨む剣その六


第二十九話 人も羨む剣その六

「いや、違うか」
「違う?」
「違うといいますと」
「あの方は純潔だ」
 それならばだというのだ。
「純潔な方ならばだ」
「そういえば婚姻は破棄されましたね」
「だからこそですか」
「あの方は」
「天界とは別の世界に行かれるのではないのか」
 そうではないかというのだ。
「そう、聖杯」
「聖杯!?」
「あのアーサー王のですか」
「円卓の」
「そう、あの聖杯の城に行かれるのだろうか」
 王の行く場所はだ。そこではないかというのだ。
「その主として」
「聖杯といいますと」
「パーシバルでしょうか」
 この名前を出した者はだ。すぐに言い換えた。そのことに気付いてだ。
「失礼、パルジファルでしたね」
「ドイツの言葉で言えばな」
「はい、そうでした」
「そうだ。パルジファルだ」
 それだとだ。ビスマルクも言う。
「あのパルジファルではないだろうか」
「あの方はあの城の主なのですか」
「そうではないだろうか」
 ビスマルクは考えていく。王について。
「あの方はあの場所に行かれ」
「聖杯を守護されるのですか」
「ロンギヌスの槍も」
「思えばおかしな話なのだ」
 ビスマルクはこんなことも口にした。
「キリスト教の教えでは純潔でなければならない」
「はい、その生涯に渡ってです」
「そう言われていますね」
「しかし生み栄えよともある」
 モーゼの十戒にもあるだ。それだ。
「しかも同性愛を禁じている」
「その三つがそれぞれありますね」
「欲望に寛容な宗教ではない」
 本質的にそうなのだ。キリスト教は禁欲を強制する。これはユダヤ教から派生した宗教なので当然と言えば当然のことではある。
 しかしだ。それでもなのだ。
「純潔を。完全な純潔を維持することはだ」
「不可能に近いですね」
「それは」
「それこそ同性を愛するようにならなければならない」
 女に対しての純潔だからだ。そうなるのも当然だった。
「それは罪であり生み栄えることにもならない」
「しかし聖杯城に入るにはです」
「あくまで純潔でなければならないですから」
「ならばこの場合はだ」
 どうかというのだ。
「純潔を守るただ一つの方法は」
「それはあるのですか?」
「実際に」
「ある。心は女性である方だけができるのだ」
 そのだ。純潔を生涯に渡って守ることができるというのだ。
「そうした方だけがだ」
「そういえば閣下はバイエルン王の御心は女性だと仰っていますね」
「それも常に」
「そうだ。あの方は御身体は男性だが」
 それでもだ。心はだというのだ。
「御心は女性だから」
「だから男を愛されているのですか」
「御心がそうだからこそ」
「そうなのだろう。だから聖杯城にも行ける」
 そのだ。純潔な者しか辿り着けないその城にだ。
 

 

485部分:第二十九話 人も羨む剣その七


第二十九話 人も羨む剣その七

「そしてあの城で主になられるのだろう」
「それがあの方ですか」
「バイエルン王ですか」
「おそらくはな」
 そうではないかというのだった。王は。
「あの方のお役目はこの世界においては幻想の世界をこの世界に導かれることであり」
 そしてだというのだ。
「あの世界においてはだ」
「聖杯城の主になられる」
「その二つですか」
「そうなるのですか」
「そう思えてきた」
 断言はできなかった。まだ。
 しかしだ。ビスマルクだからこそだ。その考えに辿り着くことができて。そうして言ったのだった。
「やはり私はあの方を嫌いにはなれない」
「むしろですね」
「それどころか」
「好きになっていく」
 純粋にだ。人間としての王をだというのだ。
「素晴らしいと思わないか。あちらの世界でも至高の王となられるのだ」
「若しあの方がそうした方なら」
「その通りですね」
 周りの者達はビスマルクの今の言葉には半信半疑だった。実際のところビスマルクも確かなことは言えてはいない。それでもだった。
 彼はだ。王についてだ。その思うことを話していくのだった。
「あの方を政治的に利用するのもだ」
「今回だけですか」
「そうですか」
「二度としない」
 断言であった。
「確かに私はドイツの統一、そしてそれからの発展の為には何でもしよう」
「ですがそれでもなのですか」
「あの方については」
「やはり。気が引ける」
 そうだというのだ。ビスマルクですら。
「あの方はこの世における奇跡なのだから」
「奇跡とまで仰いますか」
「バイエルン王は」
「そうだ、奇跡だ」
 まさにそうだというのだ。
「あの方は奇跡なのだ」
「そしてその奇跡をですね」
「二度とですか」
「政治的に利用はしない。ただ」
「ただ?」
「ただといいますと」
「見守りたい。そして」
 ここからもだ。ビスマルクの偽らざる心の言葉だった。
「必要とあらばお助けしたい」
「これからもですか」
「あの方については」
「予算か。そんなものはどうとでもなる」
 王が浪費するそれについてもだ。ビスマルクは大したものとは見ていなかった。実際にだ。こう言って終わらせる程であった。
「あの方の残されるものは予算など埃の様なものでしかないのだから」
「埃ですか」
「その程度のものになるのですか」
「莫大な予算の浪費も」
「そうだ。ドイツの、そして人間の」
 話はだ。そこまでだというのだ。
「大きな財産になるのだから」
「それで、ですね」
「予算についても援助をされる」
「そうされてですか」
「お助けしたい。バイエルンの者達があの方を理解せずとも」
 それでもだというのだ。
 

 

486部分:第二十九話 人も羨む剣その八


第二十九話 人も羨む剣その八

「私は。あの方をお助けしたい」
「だから政治利用はこのことだけにして」
「後はですか」
「そうしていく」
 ビスマルクとて人間でありだ。人の心はあった。それでだ。
 バイエルン王に対してもだ。節度、そして敬意を持って接していた。そしてそれはだ。バイエルンの民達、彼等も同じであった。
 確かに婚姻は破棄された。しかしだった。それでもであった。
 王に対してだ。静かな敬意を以てだ。その乗る馬車を見て言っていた。
「見事な馬車だな」
「あの方に相応しい」
「もっとお姿を見せて欲しいのだが」
「折角あそこまでお奇麗なのだから」
 王の容姿の麗しさは男性であってもだった。
 誰から見ても惚れ惚れとするものでだ。こう言わせるものがあった。
 それでだった。彼等もだ。
 その王の乗る馬車を見て。残念に思っていた。
 しかし王はだ。馬車から出ようとしない。顔を見せようとしない。
 そのうえでだ。ミュンヘンからある場所に向かっていた。 
 馬車に共に乗るホルニヒがだ。その王に尋ねた。
「アルプスに行かれるのですか」
「そうだ。あの場所にだ」
 行くとだ。王は静かな面持ちで答えた。
「今考えていることがあるのだ」
「それでなのですか」
「そうだ。あの場所こそが相応しいだろう」
 アルプスの白と青の世界を瞼に思い浮かべ。そしてだった。
 静かにだ。言うのだった。
「私の夢を築き上げる場所は」
「あの地に陛下の」
「夢がある」
 王はまた言った。
「そして理想もだ」
「それもですか」
「そうだ。緑の森に」 
 最初に語ったのは。ドイツのその森だった。
「そして青い空、白い山」
「その三つがあるあの場所で」
「私は夢を築くのだ」
 そうするというのだ。
「必ずな」
「だから今そこに向かわれ」
「既に人も集めている」
 それもなのだった。
「そうしてだ」
「その夢とは」
「それはあの地で語りたい」
 この馬車の中ではないというのだ。それは。
「そうしていいか」
「はい」
 ホルニヒに異存はなかった。ここでもだ。
 そしてだった。王も彼のその言葉を聞いてだ。
 笑み、気品のあるそれになってだった。
「あの場所では人もいない」
「人もですか」
「もう人の喧騒に耐えられないのだ」
 そうなっていた。確かに。
「ミュンヘンはかつてワーグナーを追い出した。その町の声には」
「耐えられないのですか」
「この町は私の生まれ育った町だ」
 このことは否定できなかった。そうした意味で王の父であり母である。
 しかしその父と母にだ。王は今はこう言うのだった。
「だが。私はこの町に相応しくないのかも知れない」
「ミュンヘンに」
「そんな気もするのだ」
 王はこうした考えも持っていた。
「どうもな」
「まさか。それは」
「ただそんな気がするだけかも知れない」
 だがそれでもだと。王は話していく。
 

 

487部分:第二十九話 人も羨む剣その九


第二十九話 人も羨む剣その九

「しかしだ。今ミュンヘンにはだ」
「おられたくないのですね」
「どうしてもだ」
 王の心はだ。ミュンヘンから離れてきていた。
「最早この町には」
「ですが陛下」
「王としてか」
「はい、王都にいるのは」
「わかっている。だが」
「だが?」
「せめて観劇の間でも」
 王はぽつりと。己の願いを口にした。
「一人でいたいのだが」
「観劇の、ですか」
「ワーグナーを観ていても。人は私を見る」
 ワーグナーの芸術ではなくだ。王その人をだというのである。
 それがだ。王にとってはだった。
「視線は矢だ」
「その矢が陛下をですか」
「私に突き刺さりだ」
 視線という弓矢がだ。そうしているというのである。
「離れない。それが辛い」
「御一人で、観られることは」
 その王にだ。ホルニヒはだ。
 少し考えてからだ。こう提案したのだった。
「それはどうでしょうか」
「一人で観劇か」
「それはできるでしょうか」
「それは」
 どうかとだ。彼の言葉にだ。
 王は今は考える顔になった。そうしてだ。
 そのうえでだ。まずはこう述べた。
「無理ではないだろうか」
「できませんか」
「考えてはみるが」
 それができるかどうかはだ。王も確かなことは言えなかった。
 しかしそれでもだ。彼の提案にだ。
 考える顔をしてだ。言葉は出した。
「ミュンヘンの喧騒も視線も耐えられない」
「ならばですか」
「せめて観劇だけは静かにしたい」
 つまりだ。孤独はだ。
 今の王にとっては切望するものだった。そしてその孤独は。
 どういったものかもだ。王にとっては。
「籠の中の鳥は外に出たい」
「籠の中の」
「その鳥は外に出たい。一人で出たい」
 そうだと。話していってだ。
 そうしてであった。王は。
 今はその孤独でいられる場所に向かう。そうしてだった。 
 その別邸に辿り着くとだ。王の前にだ。
 何やら厳しい顔立ちの男達が来てだ。そのうえでだ。
 王に対してだ。何枚かの設計図を広げてだ。
 王に見せてだ。話すのだった。
「これがワルトブルク城です」
「こちらはニュルンブルクです」
 実際にある城の設計図が広げられる。
 それを見てだ。王は話した。
「そしてその城を合わせたものは」
「はい、こちらです」
「こうなります」
 また一枚の設計図が王の前に出される。それは。
 白く優美な外見だった。その設計図を見てだ。
 王はだ。少し考える顔になりだ。彼等に述べた。
「それよりもだ」
「違いますか」
「この城では」
「シンメトリカルな様式美よりも」
 王はそれを否定してだ。そうしてだ。
 次にだ。こう述べたのだった。
 

 

488部分:第二十九話 人も羨む剣その十


第二十九話 人も羨む剣その十

「白鳥の騎士だ」
「陛下がいつも言っておられるローエングリンですか」
「あの騎士ですか」
「それにタンホイザーだ」
 次に言うのはこの騎士のことだった。
「そうしたものを前面に出したいのだ」
「ではこうした城ではなくですか」
「また別の」
「そうだ。規模は大きく華麗なものにしたい」
 その華麗さについてもだ。王は話す。
「色は白だ」
「白ですか」
「基本になる色は」
「それですか」
「そうだ。白だ」
 色はそれだと話してだ。そのうえでだった。
 王はだ。己の考えをさらに話した。
「内装はバロックとロココを合わせ」
「フランスも入れられるのですか」
「そうだ。ルイ十四世以降の芸術だ」
 それも入れていくというのだ。
「それも入れる」
「ではより大きなものになりますが」
「あの芸術を入れるとなると」
「それでいい。小さくて何かを捨てなければならないのなら」
「大きくされる」
「そうされてですか」
「そうだ。完璧な美を持つ城にしたい」
 これが王のその城への願いだった。
「私が考えているのはそうした城だ」
「完璧な美、白鳥の城を前面に出した」
「そうした城ですか」
「そうなのだ。だから大きさは構わない」
 そしてだ。さらにだった。
「費用も気にしなくていい。そして」
「そして?」
「他には何が」
「中世の中に科学を入れたい」
 今度はそれだった。王はただ過去の美を見ているだけではなかった。
 そのだ。科学についてもだった。
「今の時代のだ」
「それを城に入れられるのですか」
「今の科学を」
「例えば白鳥はイミテーションにしろ」
 本物ではない白鳥も入れてだった。さらに。
「その白鳥は動き。湖の中を動き」
「あのローエングリンの白鳥の様に」
「動くのですか」
「そうした白鳥にしたい」
「そうですか。動く白鳥ですか」
「現代の科学で」
「他にもだ」 
 白鳥だけに留まらないというのだ。科学を採り入れるのは。
「厨房や城全体に」
「科学をですか」
「技術を採り入れていかれますか」
「科学は人にとって光だ」
 そこにだ。王は明らかな希望を見ていた。
 そしてその希望でだ。彼の城を照らさせるというのだ。
 その光は。王にとっては。王のその城を照らすものでありだ。
 こうだ。彼等に話すものだった。
「その光で私の城を照らしたいのだ」
「だからこそですか」
「科学もまた入れるのですか」
「そうだ。それはどうか」
 王は彼等に尋ねた。
「他には泉を照らす照明にもだ」
「科学を入れて」
「そのうえで築かれますか」
「芸術は科学によりさらに輝くものになる」
 次は芸術についての言葉だった。
「だからだ。是非だ」
「わかりました。それではです」
「そうして内装の設計を考えていきます」
「しかしあくまで、ですね」
「外装と内装のデザインは」
「そうだ、中世とフランスだ」
 王の美はそこから離れることはなかった。あくまでだ。そこに軸があるのだ。
 

 

489部分:第二十九話 人も羨む剣その十一


第二十九話 人も羨む剣その十一

 その軸からだ。王は言うのである。
「しかしその中でも特に」
「ワーグナー氏ですね」
「あの方の芸術が」
「彼しかいない」
 まさにだ。ワーグナーだった。
 王はそのワーグナーを至高に置きだ。城を考えていた。
 そしてそこにあるのは。やはり彼だった。
「ローエングリンをとりわけ表に出す」
「だから白鳥ですか」
「白鳥を中心に置かれますか」
「この緑の森の中で」
 その城はだ。王が今いる森の中に築かれる予定なのだ。
 そしてだ。あるのは緑だけではなかった。
「青の空に白い山に囲まれてだ。ローエングリンは永遠にここに留まるのだ」
「他のワーグナー氏の世界もですね」
「その世界も」
「無論だ。タンホイザーもあり」
 彼もだった。やはりいた。
「トリスタンもヴァルターもいるのだ」
「そしてジークムントもジークフリートもですね」
「彼等の世界も」
「無論だ。パルジファルもだ」
 ワーグナーが今構想している聖なる愚か者もだった。いるというのだ。
「彼の世界もあるのだ」
「では城はモンサルヴァートでもあるのですか」
「聖杯の」
「そうかも知れない。私は」
「陛下は?」
「どうなのですか?」
「近頃ワーグナーはビューロー夫人と共に私をこう呼んでいるそうだ」
 ワーグナー自身のこともだ。王は話す。
「パルジファルとな」
「その主人公にですか」
「陛下を」
「その様だ。だがそれはいいと思う」
 パルジファルと呼ばれることもだ。王は受け止めていた。
 それでだ。言うことは。
「若しかすると私は」
 王はだ。考える目になりだ。
 それでだ。今言う言葉は。
「あの城に行くべき人間なのかも知れないからだ」
「モンサルヴァート」
「あの城にですか」
「そうだ。あの城だ」
 王はその遠くにある城を見ていた。遥か彼方の世界にある。
 その城を見ながら。王は言うのだ。
「あの城に私は行くのだろうか」
「そういえばローエングリンはそのパルジファルの息子でしたね」
 一人がこう言った。
「彼自身が劇中で言っていましたが」
「そうだ。あの城の主となる者だ」
「ですね。そもそもは」
「今は主になっているのだろうか」
 そのだ。聖杯の城のだというのだ。
「そして私は次の」
「次の?」
「次のといいますと」
「いや、それはないな」
 しかしだ。すぐにだった。
 自分自身でだ。その言葉を打ち消してだ。
 それでだ。言ったのだった。
「私の様なものが。だからこそこの世に築くのだ」
「では陛下、それでは」
「城は」
「その方針でいく」 
 現代の科学も入れてだというのだ。
「それでだ。名前は」
「名前はどうされますか」
「城の名前は」
「ノイシュヴァンシュタインだ」
 その名にするというのだ。
 

 

490部分:第二十九話 人も羨む剣その十二


第二十九話 人も羨む剣その十二

「それが私の城の名だ」
「ノイシュヴァンシュタイン」
「その名は」
 その名を聞いてだ。誰もがだ。
 不思議なものを感じた。ただこの世にあるだけではない。
 そこに無限の幻想がありだ。その中に浮かんでいる様な。
 そのこの世ならぬ美を感じながらだ。王の言葉を聞いてだ。言うのだった。
「不思議な名ですね」
「何か実に」
「いい名前だろうか」
 城の名を言ってからだ。王は。
 彼等に顔を向けてだ。それであらためて尋ねたのだった。
「この名は」
「そうですね。何か」
「この世のものではないような」
「そんな感じがします」
「不思議と」
「ではこれでいいな」
 彼等の言葉にだ。王もだ。
 まずは満足した顔になった。そうしてだ。
 彼らにだ。こうも話すのだった。
「自然と幻想、そして科学を一つにした城にしたいのだ」
「これまで誰も築いたことのない」
「そうした城をですね」
「私は。私の夢を今この世界に生み出したいのだ」
 これもだ。王の願いだった。
「その為にもだ」
「この城を築かれるのですね」
「この地に」
「他にも考えている」
 そしてだ。それはだ。
 このノイシュヴァンシュタイン城だけではなかった。他にもあるというのだ。
 その他の城についてもだ。王は話していく。
「ワーグナーとフランス芸術、そして現代の科学を合わせた城はこれだけではなくだ」
「他にもですか」
「築かれるのですか」
「そう考えている」
 王の夢はだ。今大きくなろうとしていた。
 そしてそれを止めないままだ。王は話していくのだった。
「是非な。このドイツの森と山の中に」
「そして湖の傍にですね」
「陛下の愛される」
「自然は何もかもを包み込んでくれる」
 自然への憧憬もだ。王は強く持っていた。
 その中でも特にだ。これについてだった。
「森は特にだ」
「ではどの城も森の中にですか」
「築かれるのですね」
「その通りだ。森だ」
 何につけてもだ。そこだった。
「森の中に。ドイツの森の中に」
「城を築かれる理由はそれが奇麗だからでしょうか」
 ここでだ。一人が王にこう尋ねた。
「だからでしょうか」
「それもあるがそれ以上にだ」
「それ以上にですか」
「ワーグナーには常に森がある」
 だからだというのだ。王はまずワーグナーがあった。このことは王がかつて読んだワーグナー自身の書、そして十六の時に観たあのローエングリン、そこからはじまっていた。
 その森があるからこそだと。王は述べてだった。
「だからだ」
「ワーグナー氏の森にですか」
「ワーグナーは森だけではない」
 ワーグナーは一つのことだけでは語れないともいうのだ。
「城もある」
「陛下がこれから築かれるその城がですか」
「そうだ、あるのだ」
 こう語るのである。
「だからこそだ」
「森の中に城を築かれる。そのことこそが」
「ワーグナーの世界なのだ」
 そしてだ。その城こそがだ。
 

 

491部分:第二十九話 人も羨む剣その十三


第二十九話 人も羨む剣その十三

「私にとってもモンサルヴァートなのだ」
「聖杯の城ですね」
「その」
「モンサルヴァート。何という美しい響きか」
 その名前自体にだ。王は美を見ていた。
 そしてだ。こう言うのだった。
「私はその城の中で生きるのだ」
「では陛下は」
 また一人が王に話す。
「パルジファルになりますね」
「遥かな森の中にある聖杯城の主だからだな」
「はい、まさしく」
「そうなりたい」
 心からだ。王は願い話した。
「私はこの世ではなくあの世界にいたいのだ」
「そうでありたいからこそパルジファルですか」
「あの王ですか」
「彼はクンドリーの接吻で清らかな愚か者から槍の主になる」
 イエスの処刑の時にその胸を刺したロンギヌスの槍だ。キリスト教における聖遺物の一つだ。まさに聖杯と並ぶキリスト教の至高の宝なのだ。
 その槍を持つ者こそだ。聖杯城の主なのだ。つまりだ。
「パルジファルこそは聖杯の持ち主でありだ」
「聖杯城の王である」
「槍の主であるからこそ」
「私はワーグナーを知った」
 王は語っていく。
「そして聖杯城に入るのだ」
 だが、だ。ここまで言ったところでだ。
 王の顔はまた曇った。憂いにより。
 その憂いをだ。言葉に出してだった。
「もっとも私は槍も聖杯も手にしてはいないが」
「あれはこの世のものではないので」
「どちらも」
「あの二つを手にしてこその聖杯城の王なのだ」
 その世界のだ。王だというのだ。
「だが私はその二つを手にはできないだろう」
「この世にはないからですか」
「どちらも」
「そうだ。ない」
 槍はハプスブルク家が持っていると言われている。しかしその槍が本物のその槍かどうかはだ。残念ながら誰にもはっきりと言えないことだ。
 だからだ。王も言うのだった。
「あの槍はこの世では誰も手にできないのだろう」
「どうしてもですか」
「それは」
「そうだ。私のモンサルヴァートはモンサルヴァートではない」
 その二つなくしてはというのだ。
「そして私も」
「陛下もまた」
「そうだと」
「パルジファルには。完全になれない」
 そうだというのだ。そしてそれは。
「この世では」
「なりませんか」
「どうしても」
「この世は。憂いに満ちている」
 王から見てだ。そうなることだった。
「手に入れたいものは届かない世界なのだ」
「それがこの世界ですか」
「我々がいる」
「そう思う。そしてその世界に私がいる」
 それはどうかというのだ。
「辛いものだ」
「ですが陛下、城を築かれますし」
「それにです」
 ここでだ。周りはだった。
 王を慰める為にもだ。この話を出したのだった。
「間も無くワルキューレもです」
「あの歌劇も上演されるではありませんか」
「初演でしたね」
「待ちきれなかった」
 しかしだ。その歌劇、ワーグナーのそれについてもだ。
 王はだ。憂いの目で言うのだった。
 

 

492部分:第二十九話 人も羨む剣その十四


第二十九話 人も羨む剣その十四

「上演をだ」
「そうなのですか、上演を」
「待ちきれなかったのですか」
「そうだ。ワーグナーは反対した」
 歌劇の親であるだ。彼はだというのだ。
「どうしてもだ」
「そうですか。反対ですか」
「あの方は」
「そうだ。反対した」 
 そのことについてもだ。王は話していく。
「どうしても従えないと言ったのだ」
「その理由は一体」
「陛下に反対された理由は」
 彼の庇護者である王に対して反対する理由、それを聞かずにはいられなかった。
 庇護者に反対することはだ。それだけのものが必要だ。ではそれは何なのかをだ。誰もが聞かずにはいられなかったのである。
 それでだ。彼等は王に問うたのだった。
「完璧ではないそうだ」
「完璧ではない」
「作品の上演に関してですか」
「それがなってはいないから」
「反対していたのですか」
「今もしている」
 話はだ。過去形ではなかった。
 現在形であるとだ。王は言いだった。
「だからだ」
「そうだからですか。あの方は」
「完璧主義者であるからですか」
「上演に反対されているのですか」
「状況が整わないだけでなくだ」
 まだあった。完璧主義者のワーグナーが反対する理由は。
「指輪の四部作全てが完成してからだというのだ」
「その上演はですか」
「ワルキューレの」
「そう言ってだ。反対し続けている」
 しかしだ。王はというとなのだ。
 待ちきれずにだ。遂にだった。
「私はだからこそだ」
「上演されるのですね」
「あの作品を」
「観たい」
 一言だった。今は。
「是非共な」
「しかしワーグナー氏とのことは」
「どうされますか、一体」
「あの方のことは」
 だが、だった。王の強い言葉を聞いてもだ。
 彼等は顔を曇らせる。そのうえで王に問うたのだった。
「ワーグナー氏があくまで反対されているのなら」
「そのことは」
「わかっている。しかしだ」
 それでもだとだ。王は言ってだった。
 ワルキューレをだ。あくまだと言うのであった。
「私は観たいのだ」
「そのワルキューレを」
「何があろうとも」
「上演権を持っているのは私だ」
 このことが大きかった。王はそれを持っているのだ。
 だからこそだ。それを出してだ。王は上演させるのだ。
 それを出してであった。何としても上演させ観るつもりなのだ。例えそれがだ。ワーグナーとの抜き差しならぬ状況になろうともだ。
 それでだ。王は言っていく。
「その時もまた楽しみにしている」
「ワルキューレを観ることを」
「それを」
「また一つ憂いが来る」
 現実を見ての。そうしての言葉だった。
「戦争がはじまるのだから」
 こう言ってだった。王は。
 城の話も最後は憂いで締めてしまった。それからだ。
 ホルニヒとも別れ休ませたうえで夜に紅いワインを飲んだ。部屋のバルコニーからは白い月が見える。その光がワインも王も照らしている。微かに風が入り絹の薄いカーテンを揺らしている。
 その中で王は一人だった。しかしだ。
 その一人である筈の王がだ。言うのだった。
 

 

493部分:第二十九話 人も羨む剣その十五


第二十九話 人も羨む剣その十五

「どう思うか」
「城のことでしょうか」
「あらゆることについてだ」
 返事に対しても言った。その返事の主は。
 不意に出て来た。そのバルコニーのところに。彼は。
 あの騎士だった。白い月の光に照らされている騎士はこの時も銀の鎧と白いマントにその身を包んでいる。その彼が剣を抱いて立ちだ。
 そしてだ。こう王に言うのだった。
「わかりました。ではお答えしましょう」
「卿はどう思うか」
「陛下は為すべきことをされています」
 そうしているとだ。剣を抱く騎士は王に答えた。
 そしてだ。それからこうも述べた。
「運命のままに」
「城もワルキューレもか」
「はい」
「そしてドイツのことも」
「左様です。全てです」
「因果なものだ」
 騎士の静かな返答を聞きだ。王は。
 辛い顔になりワインをテーブルの上に置きだ。こう言った。
 座っているソファーはフランス製の豪奢なものだ。そこに深々と座り足を組んでいた。そうしながらだ。王は言うのであった。
「私の為すことは全て決まっているのか」
「陛下は選ばれた方ですから」
「選ばれた。何にだ」
「神に」
 まさにだ。その神にだというのだ。
「陛下はそうした方なのです」
「だからか」
「はい、全ては決まっています」
「いいのか」 
 王はその騎士に顔を向けて問うた。
「私が選ばれて」
「そのことについてですね」
「そうだ。私は女性を愛せない」
 このことをだ。どうしても言わずにはいられなかった。それでだ。
 騎士にもこのことを話してだ。そうしてなのだった。
 憂いに満ちたその顔を白い月の光に照らさせて。
「その私がなのだ」
「はい、それもまたです」
「神が定められたというのか」
「その通りです。陛下につきましては」
「わからない」
 どうしてもだとだ。王は騎士に述べる。
「何故私はそうなのか」
「それはやがておわかりになられることです」
「では今はか」
「はい、御気になさらずそのままです」
「同性を愛していいのか」
「同性であって同性ではないですが」
「?どういうことだそれは」
 騎士の今の言葉は王にとってはわからないことだった。それでだ。
 首を捻ってからだ。騎士に顔を向けて問い返した。
「同性であって同性でないとは」
「今申し上げてもいいでしょうか」
「いや」
 一瞬問おうとした。しかしだ。
 何故か心の中でそれを止めるものを感じてだ。それは止めた。
 そのうえでだ。騎士にこう言ったのだった。
「言えばそれでどうにかなるかとも思えない」
「だからですか」
「そうだ。いい」
 こう言うのだった。そのうえでだ。 
 王はだ。あらためて彼に尋ねた。
「しかし私がワルキューレを望むこともか」
「それもまた一つの果たされるべきことなのです」
「ワーグナーと意見が違っても」
「それでワーグナー氏と縁が切れることを恐れておられますね」
「わかるか」
 王は今本音を曝け出した。そしてだ。そのうえでの言葉だった。
「そうなれば私は」
「御安心下さい。陛下はワーグナー氏をどうしても手放されたくはないですね」
「ミュンヘンに置きたかった」
 その切実な願いを今述べた。
 

 

494部分:第二十九話 人も羨む剣その十六


第二十九話 人も羨む剣その十六

「彼は。しかしそれはできなかった」
「それが為にもミュンヘンを最早」
「その通りだ。ワーグナーのことを悪く言い彼を追い出したあの町は」
「最早陛下の町ではないですね」
「そう思いつつある。そしてワーグナーは彼の劇場をミュンヘンには置かない」
 全てはワーグナーからだった。それが為にミュンヘンもだった。
「その町にはもうだ」
「いたくもないと」
「それはそのまま私のワーグナーへの想いでもある」
 自分でだ。このことを話すのだった。
「それが為か」
「そしてワーグナー氏もです」
 騎士は今度はワーグナーのことを話した。王の次は彼のことだった。
「あの方もです。決してです」
「私とは離れられないか」
「陛下あってのワーグナー氏です」
 彼という絶対のパトロンがいてこそだ。もっとも王はそのことについて特にこれといって言うことはない。己の権勢や財力を出すことは王の嫌うところだからだ。
 しかしだ。それ以上にだというのだ。ワーグナーは。
「あの方は陛下の理解者の一人ですから」
「そうであってくれる彼だからか」
「はい、ですから決して」
 それでだというのだ。
「あの方もまた離れません」
「御互いにそうだからこそか」
「離れることはありません」 
 そうだとだ。王に話していく騎士だった。
「そのことは御安心下さい」
「ワルキューレについても」
「そうです。むしろあの作品の初演を導かれることは芸術にとっての花の一つになりますので」
「だからいいのか」
「私個人としましても」
 端整な笑みでだ。騎士は述べてきた。
「陛下があの作品を上演されることを楽しみにしています」
「卿もあの作品を観たいのか」
「是非」
 まさにそうだというのだ。
「陛下と共に観たいです」
「そうか。そう言ってくれるか」
「そして。パルジファルまでの作品も」
「全てだな」
「共に観ましょう」
 またそうだとだ。騎士は話す。
「彼の全ての作品を」
「そうしていくか」
「私もまた」
「わかった。ではワルキューレはこのまま進める」
 上演させる。そうだというのだ。
「そして二人で観よう」
「ワーグナー氏の芸術はここでまた一つの大きな花を咲かせます」
「彼自身が望んでいなくてもだな」
「はい、そうなります」
 まさにそうなるというのだ。
「これは彼が望む、望まないに関わらずです」
「運命か」
「はい、運命です」
「私がそうさせる運命か」
「陛下の為されることは陛下だけのことではないのです」
 騎士の言葉はさらに神秘的なものになった。その神秘的なことをだ。
 騎士はさらにだ。こう述べた。
「為されることは全てこの世に多くのものを残されることなのです」
「私にはわからない」
 王にとっては自分の為にしていることなのだ。そうした意味で王は自己中心的である。しかしその自己中心的なものがだというのだ。
「それは」
「やがておわかりになります」
「やがてか」
「はい。陛下がその世界に来られる時にです」
「卿の世界にか」
 王は騎士の言葉を聞いてすぐにわかった。
 それでだ。こう言ったのだった。
「そこに来ればか」
「そうです。その時をお待ちしていますので」
「私の行く世界は天界なのだろうか」
「天界ではありません」
「では地獄か」
「そこでもありません」
 騎士はそのどちらの世界も否定する。そのうえでまずは地獄について話した。
 

 

495部分:第二十九話 人も羨む剣その十七


第二十九話 人も羨む剣その十七

「地獄は陛下に相応しい世界ではありません」
「私は罪を犯しているが」
「人は誰も罪を犯すものです」
「それでもか」
「善と悪は天秤の中にあります」
 この考えはギリシア神話から、もっと言えばエジプト神話から変わらないことだ。その二つを天秤にかけ重い方に審判が傾くのだ。
 その審判において王はどうかというと。
「陛下の善は遥かに重いのです」
「悪よりもか」
「ワーグナー氏についてもビスマルク卿についてもです」
 この二人もそうだというのだ。
「彼等もまた罪を犯しています」
「そうだな。その悪は大きい」
 ワーグナーにしてもビスマルクにしてもその資質が巨大な故にだ。その悪もまた大きいものになる。そのしていることもなのだ。
 しかしだ。その悪と共にだとだ。王は言った。
「だがそれ以上に」
「ワーグナー氏は偉大な芸術を残します」
「そしてビスマルク卿はドイツをだな」
「その二つは善です」
 まさにだ。それだと騎士は言った。
「ですから」
「天界にか」
「あの方々は行かれます」
「シシィもだな」
 オーストリア皇后もだ。王は話に出した。
「彼女もまた」
「そうです。その結末についてはあえて申しませんが」
「いや、それはわかる」
「おわかりですか」
「そうだ。シシィは安穏には生きられてはいない」
 放浪の中に生きている。それならばだというのだ。
「その死も安穏なものではないだろう」
「その通りです。あの方は」
「今の欧州は騒がしい」
 それがだ。皇后にそのまま影響するというのだ。
「そしてそれによりだ」
「あの方は御命を」
「そうなるだろう」
 王は既に皇后の運命を見ていた。その青い目に。
 湖を思わせる澄んだ目にはそれが見えていた。それで言うのだった。
「そして私は」
「いえ、御自身のことは」
「考えるべきではないか」
「陛下はそれよりもです」
「その私の為すべきことを為すべきだな」
「そのことを御考えになって下さい」
 騎士は静かに王に話す。
「そうされて下さい」
「わかった。ではだ」
「はい、今はワルキューレを御覧になられ」
「それからだな。城だ」
 ワーグナーのだ。その城をだというのだ。
「築いていこう」
「そうされて下さい。では今は」
「帰るのだな」
「そうさせてもらいます」
 騎士は王に恭しく一礼してから述べた。
「また御会いしましょう」
「卿は私の導き手だな」
「そうなります。陛下が陛下に相応しい世界に来られる為の」
「そこが私が行く世界だな」
 天界でも地獄でもないそこだというのだ。
「私はダンテの世界には行けないか」
「ダンテは全てを見た訳ではありません」
 神曲のだ。それだというのだ。
 

 

496部分:第二十九話 人も羨む剣その十八


第二十九話 人も羨む剣その十八

「地獄、煉獄、そして天界だけです」
「他にもあるのだったな」
「はい、その世界に陛下は来られます」
「神の世界だな」
 王はわかった。このことが。
「天界ではない」
「そこにおいで下さい。そしてそれまでの間に」
「私はこの世界で。私のするべきことを果たす」
「そうされるのです」
 こう話してであった。騎士は。
 バルコニーから姿を消してだ。そうしてだった。
 王はその誰もいなくなったバルコニーを見る。そのうえで。
 月を見てその照らす世界を見ていた。王がいる世界を。
 王はミュンヘンに戻るとだ。すぐにだった。
 ワルキューレの初演を観た。その際だ。
 またしても周囲がだ。王にとって不愉快な声を出した。
「どうなのだろうか」
「ワーグナー氏の反対を振り切っていいのか」
「ワーグナー氏はかなり怒っている様だが」
「それはいいのか」
 そうした声にだ。言ったのは。
 ルイトポルト公だった。彼は。
 己の屋敷の中で沈んだ顔でだ。こう言ったのだった。
「いいのだ。陛下の望まれることはだ」
「為されるべきだというのですね」
「そうだ」
 その通りだとだ。公爵は共にいるホルンシュタインに話した。
「卿もそう思うだろう」
「確かに。ですが」
「それでもか」
「陛下には是非です」
「ドイツの為にだな」
「果たされることを果たして頂けばいいのです」
「それはプロイセンの為ではないのか」
 公爵はホルンシュタインを見て言葉を返した。公爵は沈んだ顔をしているがそれとは対象的にだ。ホルンシュタインは楽観した顔だ。
 その顔の彼にだ。公爵は言うのだった。
「違うのか」
「ひいてはドイツの為です」
「しかし陛下はか」
「陛下はあまりにもバイエルン的に過ぎます」
 それが問題だというのだ。ホルンシュタインから見れば。
「ですから。是非です」
「よりドイツ的になって頂きたいのだな」
「それが私の願いです」
 ホルンシュタインはその楽観的な顔で述べる。
「時代の流れはそうなっています」
「時代か」
「決して長いものに巻かれろという訳ではありません」
 そのことは否定する。
「しかしそれでもです」
「陛下にはドイツ的にか」
「バイエルンよりもです」
「しかしそれは」
 公爵はそのことについて。憂いの顔でホルンシュタインに返した。
「陛下にとってはよくはないことだ」
「よくはありませんか」
「そうだ、あの方はバイエルン王だ」
「そうですね。バイエルン王としては」
「わかっているではないか」
「無論承知です」
 それはわかっているとだ。ホルンシュタインも応えて話す。
「そのことは」
「では何故だ」
「ですから時代がそうさせているからです」
「バイエルンをドイツの中に入れることがか」
「ドイツは一つになりますので」
「プロイセンを軸にしてだな」
 ここでもこの国だった。プロイセンこそがだというのだ。
 そのプロイセンはどうかとだ。公爵は言う。
「プロテスタントの、ユンカーの国の」
「プロテスタントはお嫌いですか?」
「私はカトリックだ」
 バイエルン王家の者としてだ。これは当然のことだ。
 

 

497部分:第二十九話 人も羨む剣その十九


第二十九話 人も羨む剣その十九

 それでだとだ。公爵はさらに言う。
「それで何故あの国が軸になるのを笑顔で受け入れられる」
「陛下は尚更ですね」
「そうだ。しかもユンカーはユンカーだ」
 つまりだ。彼等とは違うというのだ。
「全く異質の存在ではないか」
「北と南で」
「しかも東と西だ」
 ドイツは既に大きく二つに分かれていた。既にだ。
「それでどうしてなのだ。プロイセンが軸であることを喜べる」
「確かに。それは私もです」
「卿もだというのに何故受け入れられる」
「それが政治だからです」 
 平然とした顔でだ。ホルンシュタインは応える。
「割り切って考えるのです」
「割り切ってか」
「そうです。個人的な感情は置いておいて」
「それができるか」
「陛下がですね」
「そうだ。陛下がだ」
 王がそれをできるのか。それは。
 公爵は王を幼い頃より知っている。それでだ。
 ここでだ。そのことを強く言うのだった。
「あの方はあまりにも繊細だ」
「硝子の様に」
「あの方の御心は澄んでいてしかも脆い」
「まさに硝子ですね」
「その方がそれを受け入れられるのか」
 こうだ。公爵は言うのだ。
 王の繊細さ、それがだった。バイエルンを完全にドイツの中に入れることを拒み阻んでいる。ホルンシュタインはそれが問題だと言う。
 それでだ。彼も言うのだった。
「それが難しいですね」
「しかしそれでもか」
「はい、そうです」
「それが政治だからか」
「何度も言いますが時は流れているのです」
 このことがだ。それを王に強いているというのだ。
「ドイツは一つになりです」
「あのフランスにも介入をさせない」
「三十年戦争の様なことはあってはならないのです」
 ホルンシュタインもだ。ここでだ。その目の光を強くさせた。
 そしてだ。その目に怒りも帯びさせて話すのだった。
「忌まわしい。あの様なことは」
「あの戦いではフランスが常に後ろにいた」
「プロテスタントにつき戦いを煽りです」
 神聖ローマ帝国の諸侯達だけでなくだ。
 デンマークやスウェーデンといったプロテスタントの国にも資金を援助し戦わせていたのだ。フランスは言うまでもなくカトリックの国だ。
 しかし宿敵である神聖ローマ帝国を倒す為にだ。そうしていたのだ。
 そしてだ。戦いの終盤になのだ。
「参戦もしてきました」
「それによりドイツは荒廃した」
「どれだけの人間が死んだのか」
 ホルンシュタインは静かに怒ったまま話していく。
「神聖ローマは千六百万の人口がありました」
「それが一千万に減ったな」
「八百万とも六百万とも言われていますね」
「四百万ともな」
 極端な主張ではだ。そこまで減ったとされているのだ。しかしそれでもだ。ドイツの戦災が非常に大きいのは否定できない。
 そのことを話に出してだ。ホルンシュタインは言うのである。
「ですからです。ドイツは一つになりです」
「力を持つのだな」
「そう、そうあるべきなのです」
 そのことを話してだ。さらにだった。
 ホルンシュタインは王について述べた。
「陛下もそのことは御存知です」
「おわかりだというのだな」
「それは公爵もおわかりですね」
「陛下は非常に聡明な方だ」
 このこともだ。公爵はよくわかっていた。やはり王を幼い頃より知っている。それならばだ。わかっていない筈がないことだ。
 それでだ。公爵は言ったのだ。
 

 

498部分:第二十九話 人も羨む剣その二十


第二十九話 人も羨む剣その二十

「おわかりになられていない筈がない」
「では話が早いですね」
「だがそれは」
「陛下にとっては受け入れられないものであるというのですね」
「何度も言うが繊細な方なのだ」
 沈んだ目でだ。公爵は話した。
「御心を害することは避けたいのだが」
「できればですね」
「それはできないのだな」
「私も何度も言わせて頂きます」
 今度はホルンシュタインがこう言うのだった。
「それが時代の流れだからです」
「時代の流れとは無慈悲なものだ」
 公爵はここでだ。深い溜息を出した。
 そしてだ。こうも言ったのである。
「人に。受け入れられないことを強いる」
「そういうものですね、時として」
「陛下のその御心を害してどうなっていくのか」
「何にもならないでしょう。陛下は芸術で御心を晴らされます」
「それで済めばいいが」
「済めばいいと」
「嫌な予感がする」
 そうだというのだ。公爵は。
「どうしてもだ」
「嫌な予感ですか」
「どうしてもだ。あの方はあまりにも繊細だからこそ」
 その繊細ことがだ。恐ろしいというのだ。
「壊れてしまいそうでだ」
「では退位もまた」
「退位!?」
「はい、私とて陛下への忠誠はあります」
 これは本心からの言葉だ。ホルンシュタインとて王への忠誠心はある。彼は彼なりにバイエルン、そして王のことを考えているのだ。
 それでだ。今それを言うのである。
「陛下のことを考えればです」
「できるのか、それは」
 公爵はそのことはだ。眉を顰めさせてだ。
 言う。そのことを。
「陛下は結婚もされていない」
「そして今後もですね」
「その望みはない」
 従ってだ。後継者、王の直系はいないのだ。
 それでだ。言うことは。
「そしてオットーもだ」
「あの方は」
「陛下以上に。そっとしてやってくれ」
 彼をだ。心から心配して気遣う言葉だった。
「あの子はもう」
「もうですか」
「そうだ。心が壊れた」
 彼はだ。既にだというのだ。
「調子のいい時もあるがだ」
「ですがそれでもですね」
「そっとしておいてくれ」
 また言う公爵だった。
「あの子だけは」
「しかし王位継承権はですが」
「オットーが第一だな」
「陛下が王であられる限り御心を乱されるなら」
 やはりだ。王のことはホルンシュタインも考えている。
 しかしだ。それは彼の考えであり王の考えではない。彼は王を見ることはできる。しかし王の心の中まで見ることはできなかった。
 それでだ。今言うことは。
「退位されてです」
「そのうえでか」
「芸術を楽しまれてはどうでしょうか」
「できればいいのだがな」
 それ自体が無理があるとだ。公爵は話した。
「オットーがあれでは」
「そうですか。無理ですか」
「陛下は王であられるしかない」
 それと共にだ。公爵はこのことについても言及した。
 

 

499部分:第二十九話 人も羨む剣その二十一


第二十九話 人も羨む剣その二十一

「陛下もそのことは御承知だしな」
「王であり続けるしかないことを」
「そうだ。それしかない」
 こうした話だった。それでだ。
 王について。それでだった。
「王であられ続けるしかないのだ」
「難しい話ですね」
「全くな。だが」
「だが?」
「私は陛下の御心を乱したくないのだ」
 このことをだ。切実に言うのである。
「どうしてもだ」
「しかしどうされますか」
「あの方の望まれるようにしよう」
 これが公爵の考えだった。
「それが一番いい筈だ」
「バイエルンにとってもですか」
「そう思う。あの方御自身にとってもそのバイエルンにとっても」
「ひいてはですね」
「ドイツの為でもある」
 そのだ。統一される国の為でもあるというのだ。
「そうするべきなのだろう」
「そうであるといいのですがね」
 ホルンシュタインは今は公爵の言葉に頷いた。そうしてだ。
 そのうえでだ。こう言ったのだった。
「私としてもあの方には幸せになってもらいたいのですから」
「そうしてくれるか」
「はい。ただあの方は」
 王はだ。どうかというのだ。
「行動が読めませんね」
「あの方を理解するのは難しいことだ」
「何を御考えなのか何をされるのか」
 そうしたことがだ。どうしてもだった。
 ホルンシュタインは常識の、この世のことから考える。それでだった。
 そのことを話してだ。彼は。
 難しい顔でだ。王について話すのだった。
「麗しい方だけに余計にです」
「残念か」
「はい、私としても陛下が望まれる様にしたいのですが」
「それができないと」
「はい、できないのかも知れません」
 ホルンシュタインはここまで言いだ。溜息を吐いた。
 そのうえでだ。言う言葉は。
「それが残念であります」
「わかっているのはエリザベート様とワーグナー氏か」
「それにビスマルク卿もですね」
「そうだ。ミュンヘンにおられればいいのだが」
 こんなことを言ってだった。彼等は。
 今は休みだ。そうしてなのだった。
 これからのことも考えていた。どうするべきかだ。
 だが王のことは完全にわかってはいなかった。傍に理解者のいない王は気遣ってくれる者の傍にいた。その彼はというとだった。
 ホルニヒは今日もだ。動き回っていた。そしてだ。
 侍従達にだ。このことを話していた。
「陛下は夜にしたいとのことです」
「御食事をですか」
「夜にですか」
「そう、夜にです」
 王のスケジュールについての話だった。
「夜に御願いします」
「わかりました。それでは」
「シェフに伝えておきます」
「御願いします。メニューもです」
 ホルニヒはメニューの話もした。
「フランスのそれを御願いします」
「今日の予定のものですね」
「それをですね」
「はい、それは予定通りです」
 メニューについては確認だた。それをしてだ。
 

 

500部分:第二十九話 人も羨む剣その二十二


第二十九話 人も羨む剣その二十二

 ワインについてもだ。彼は話した。
「ワインは赤で」
「そちらもフランス産ですね」
「今宵のワインは」
「はい、そうです」
 まさにそうだというのだ。フランスのものだとだ。
「ボルドー産で」
「ではその様に」
「こちらで手配します」
「御願いします」
 ホルニヒは話を終えた。そこまで聞いてだ。
 侍従達はふとだ。心配する顔になった。そうしてだ。
 ホルニヒに対してだ。こう尋ねたのだった。
「しかし近頃の陛下は」
「どうも夜にばかり動かれています」
「それはどうなのでしょうか」
「昼に休まれていますが」
「陛下は夜を好まれだしているのです」
 ホルニヒは彼等の問いに答えた。これがその答えだった。
「月の光を」
「だからですか。それもミュンヘンを離れてですか」
「アルプスにおられるのですね」
「そして黒い森に」
「鉄道で移動され」
 王は鉄道を愛していた。その新しい技術をだ。
 それでだ。移動の際にはだ。よく鉄道を使っているのだ。特別に造らせた豪奢な鉄道を使ってだ。彼はミュンヘンから森に行っているのだ。
 その王についてだ。彼等は言うのである。
「常に夜に動かれていますが」
「王は昼におられるものですが」
「夜に動かれるのは」
 どうかというのだ。しかしだ。
 ホルニヒはだ。その彼等にこう言った。
「そこは何とかです」
「何とかですか」
「はい、陛下の望まれるようにです」
 そうしてくれというのだ。
「どうかです。御願いします」
「陛下が夜におられるのならですか」
「それを望まれるならですか」
「だからですか」
「そうです。陛下は今はそうされたいのです」
 夜にいたい。そうだというのだ。
「ですから」
「陛下は繊細な方ですが」
 侍従の一人が言った。このことはだ。
 彼等もよく知っていた。王は感情を爆発させて怒鳴ったりすることはない。だがあまりにも繊細でだ。何かあるとそれでなのだ。 
 傷つく。それを知っているからだ。彼等も。
 ホルニヒの言葉に頷いた。それで言うのだった。
「わかりました」
「そうして頂けますか」
「我等は陛下の臣です」
 彼等は畏まってこう答えた。
「陛下には絶対の忠誠を誓っています」
「そして忠誠以上にです」
「我々は」
 どうかというのだ。彼等は。
「陛下を愛しています」
「人として」
「陛下という方をです」
 彼等も王のその魅力を受けていた。それでだ。
 ホルニヒに述べてだ。それからだった。
 畏まった顔でまたホルニヒに話す。
「では。陛下が傷つかれるのならそれを癒す為に」
「その為にも」
「そうさせてもらいます」
「有り難うございます」
 侍従達に言われてだ。ホルニヒは。
 

 

501部分:第二十九話 人も羨む剣その二十三


第二十九話 人も羨む剣その二十三

 微笑みそうしてだ。彼等に感謝の言葉を述べた。
 それからだ。この話もしたのだった。
「後はです」
「はい、後は」
「何でしょうか」
「ワルキューレです」
 この歌劇の名前を出すのだった。ここで。
「あの歌劇のことですが」
「間も無く初演ですね」
「あの歌劇も」
「間も無く」
「そうです。陛下はその初演を楽しみにされています」
 これは王も表に出していた。確かにワーグナーとの衝突はあるがだ。
 それでだ。ホルニヒも侍従達に話すのである。
「陛下は必ず出席されます」
「そうですね。何があろうともですね」
「陛下は」
「そうです。体調管理にも気をつけておられますので」
 全てはワルキューレを観る為である。自らそうしているのだ。
「そのことの準備も御願いします」
「では歌劇場側ともですね」
「詳しく調整をして」
「そのうえで」
「そうして下さい。ただ」
 ここでだ。ホルニヒはまた言った。
「陛下は観劇の際ですが」
「そうですね。近頃は」
「人に観られたくないと仰っています」
「その間も」
「そのことはどうにかならないでしょうか」
「それはかなり」
「難しいのではないでしょうか」
 だがだ。侍従達はだ。
 このことについてはだ。実際に困難だと顔に出してだ。ホルニヒに答えた。
「観客達は歌劇には常にいるものです」
「そうですね。だからこそ」
「はい、歌劇場です」
 こう言うのである。侍従達も。
「ですが陛下はですか」
「そうです。あの方は近頃お一人を望まれていますので」
 何についてもだ。そうなtっているからだというのだ。
「ですからどうにかならないでしょうか」
「それは幾ら何でもです」
「難しいのでは」
 侍従達は難しい顔で話す。
「歌劇場ですから」
「人がいるものですから」
「あの方は歌劇は好まれます」
 ホルニヒはまだ言う。このことも。
「しかし誰かに見られることはです」
「望まれない」
「そうなられているからこそ」
「それを何とかしたいと思われています」
 王がだ。そう考えているというのだ。
「そして昼もです」
「あの方は何かが変わられているのですね」
「そうなってきていますか」
「次第に」
「そう。次第にです」
 そうなっているとだ。ホルニヒは話す。そうしてだ。
 王をさらにだ。気遣っていた。だがその気遣いが実るとは限らない。そのこともまた彼を苦しめていた。そうなってきていた。
 しかしそれでも王への敬慕を捨てずにだ。侍従達に話し続ける。
「陛下はまた考えられるので」
「その御考えをですね」
「実現されたいのですね」
「そう考えています」
 ホルニヒ自身もだというのだ。
「是非」
「貴方の様な方がおられる」
 侍従の一人がホルニヒに言う。その彼に。
「陛下にとって有り難いことですね」
「私がいるからですか」
「一人の忠臣は王を救う」
 その侍従はまたホルニヒに言う。
「そう言われていますので」
「忠臣でありたいと思っています」
 これがホルニヒの返答だった。
「私は」
「では我々もです」
「忠臣となります」
 こう話してだった。彼等は。
 王の為に動いていた。しかし王は少しずつ夜の中に入っていく。そのことを止めることはだ。もう誰にもできなくなっていた。王自身も。


第二十九話   完


               2011・9・12
 

 

502部分:第三十話 ワルキューレの騎行その一


第三十話 ワルキューレの騎行その一

               第三十話  ワルキューレの騎行
 ワルキューレの初演が近付いていた。しかし。
 その中でだ。王は首相のことでだ。周囲に言っていた。
「ではです」
「今の首相のホーエンローエ卿はですね」
「遂にですか」
「解任ですか」
「そうします」
 こうだ。沈んだ顔で玉座から述べた。
「そして後任はです」
「オーストリア大使のあの方ですね」
「シュタインブルク伯爵ですね」
「はい」
 その彼を首相にすると。王は明言した。
 そのうえでだ。王はまた言った。
「彼はカトリックですから」
「国民も彼は支持します」
「そうしますので」
「バイエルンはカトリックです」
 このことは何百年も前から変わらない。同じのままなのだ。
「ですから。どうしてもです」
「プロイセン寄りのホーエンローエ卿はです」
「国民の支持を得られません」
「ですから」
「それはわかっています」
 王とてだ。だが、だ。
 その王はだ。辛い顔で言うのだった。
「彼は。ホーエンローエはです」
「真にドイツの為になるというのですね」
「そうだと」
「はい。多くの者はわかっていないのです」
 だが王にはわかっていた。その現実が。
「ドイツは。最早」
「プロイセンが軸になり統一される」
「だからこそ」
「そうです。ホーエンローエを辞任させてもです」
 それでもだというのだ。問題は残るというのだ。
「ビスマルク卿は残ります」
「プロイセン首相として」
「あの国にですね」
「そうです。問題は解決しないのです」
 バイエルンのだ。プロイセンに対する反発もだというのだ。
「それは」
「しかしそれでもです」
「国民はその反発をホーエンローエ卿に向けています」
「プロイセンの傀儡と見て」
「ホーエンローエが正しいのです」
 やはりだ。王はわかっていた。
「そしてビスマルク卿も」
「あの方も正しいのですか」
「その反発されている方も」
「反発されていてもそれが誤っているということにはなりません」
 一つの真理だった。
「あの方は必要な方なのです」
「ドイツにとってですね」
「そうです。ひいてはです」
 王はだ。そのビスマルクについて語っていく。
「バイエルンにとっても」
「ドイツを統一しそのうえで国を護っていく」
「だからこそですね」
「ドイツは長い間戦乱に覆われ」
 王は戦いを好まない。このことは幼い頃からだ。
 戦いは文化や芸術を破壊し人の命を奪っていく。王にとってはそうしたものでしかない。それでだ。王は戦いを忌み嫌っているのだ。
 

 

503部分:第三十話 ワルキューレの騎行その二


第三十話 ワルキューレの騎行その二

 だからこそだ。今言うのだった。
「そしてフランス等に翻弄されてきました」
「そうですね。このバイエルンもです」
「何度も利用されてきました」
 そのフランスにだ。
「ですから」
「フランスはドイツの敵です」
 王はこのことを言い切った。
「おそらくこれからもです」
「これからもですか」
「はい、これからもです」
 そうだというのだ。王はフランスについて話していく。
「そうした意味でこの戦争は必然です」
「そして勝たなければならない」
「そうした戦争ですね」
「ドイツの統一は我々にも多くのものをもたらします」
 王はわかっていた。あらゆることを。
 そしてだ。さらにだった。そのわかっていることを述べていくのだった。
「文化に芸術、そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「将来は融和も」
 そこまで見ていた。未来まで。
「今のこのプロイセンへの反発は所詮は一時的なものです」
「一時的なですか」
「そうなるのですか」
「結果として」
「そうです。ドイツは一つになり」
 そしてだというのだ。さらに。
「そしてドイツ人もです」
「まさか。それは」
「一つになりますか」
「これだけ対立しているのにですか」
「一つに」
「はい、なります」
 そうなると。王は未来を語っていく。
「宗教や感情を超えてです」
「そうなるとは思えませんが」
「とてもです」
「プロイセンとバイエルンが一つになる」
「まさか」
「なります」
 王は見ていた。そのドイツの未来まで。
 しかし誰もだ。その未来はだ。
 誰も理解できずにだ。首を捻るばかりだった。そしてだ。
 王に対してだ。それぞれこう言うのだった。
「カトリックとプロテスタントすら融和できていないというのに」
「戦争にならないだけましだというのにですか」
「そこまで我々は一つになりますか」
「やがては」
「例え分裂しても」
 それでもだというのだ。それがあっても。
「我々は一つになることを望むでしょう」
「プロイセンとバイエルン」
「その二国ですらですか」
「一つになって」
 そうしたことを話してだった。彼等は。
 王の考えがどうしても理解できなかった。彼等は今しか見ていなかった。王は未来も見えるということもわからずだ。それで言うのだった。
 しかしだ。王は。
 同時にだ。こうしたことも言った。
「若しもそれが共産主義かそれに近いものによって為されるのなら」
「ドイツの統一がですか」
「それがですか」
「統一に続く団結です」
 団結、それだった。
「それです」
「団結ですか」
「それが共産主義等によって為されるのならばですか」
「どうなるでしょうか、その場合は」
「一体」
「ジャコバン派です」
 王はフランス革命のそれを言った。
 

 

504部分:第三十話 ワルキューレの騎行その三


第三十話 ワルキューレの騎行その三

「彼等がドイツを支配することになります」
「粛清に次ぐ粛清ですか」
「それですか」
「そうです。フランス革命が永遠に続きます」
 しかもだ。それが永遠だというのだ。
「ですからそれはです」
「避けなくてはならないことですか」
「では」
「はい、ただ一人の人間に全てが支配されていきます」
 王はそこまで見ていた。共産主義の危険を。
 それが欧州を席巻していることにだ。深刻な危惧を覚えてだ。王は。
 ドイツの将来をだ。また話した。
「ドイツは文化や芸術を第一に一つになるべきです」
「ドイツがですか」
「一つになる」
「文化や芸術によって」
「それは既にはじまっています」
 そちらからの統一はだ。既にだというのだ。
 しかしそれでもだ。王は言うのだった。
「ですがそれは第一に為されるべきです」
「それは難しいですか」
「やはり鉄と血ですか」
「それによってですから」
「必然なのはわかっています」
 ビスマルクを理解していた。何処までも。
 それでだ。王は言っていく。
「それを彼等はわかっていないのです」
「問題ですね」
「それが非常に」
「そう仰るのですね」
「臣民達が」
「臣民達だけではありません」
 それはだ。まさにだった。
「バイエルンの殆んどの者がです」
「だから首相もですか」
「更迭せざるを得ない」
「そうなっていると」
「彼を。ホーエンローエを更迭しても」
 それでもだった。彼等がもたらすものは。
「ビスマルク卿がおられ」
「そうしてあの方はバイエルンの為にもなる」
「そうなっていることがですか」
「誰にもわかっていない」
「あらゆることが」
「ドイツのこともわかっていません」
 王はわかっているがだ。それでも彼等はなのだ。
 そしてそのことについてだ。王はあの憂いの顔で述べた。
「悲しいことに」
「それは彼等が愚かだからでしょうか」
「それともものを知らないからでしょうか」
「感情故にです」
 そのせいだとだ。王は言った。
「彼等の感情故に」
「プロイセンへの反感ですか」
「そのせいですか」
「ひいてはビスマルク卿への」
「若しもです」
 ここで王は一つの家庭を述べた。
「ビスマルク卿がバイエルンの者で」
「そしてカトリックならですね」
「その場合は」
「彼等は喜んであの方を支持したでしょう」
 そうなるというのだ。若しビスマルクがそうならば。
「そしてプロイセンが反発したでしょう」
「そうなっていましたか」
「その場合はですか」
「逆なら」
「同じことをしてもです」
 ビスマルクがバイエルン人でだ。カトリックでもありだ。今と同じ政策をしならばバイエルンの者はどう思ったか。そうした話をしてだった。
 

 

505部分:第三十話 ワルキューレの騎行その四


第三十話 ワルキューレの騎行その四

 王はだ。また述べた。
「それだけのことなのです」
「感情、反感だけでというのですね」
「彼等はプロイセンとビスマルク卿を否定している」
「それだけだと」
「そうです。彼等はドイツを見てはいません」
 ひいては考えてもいないというのだ。
「自分の気が済む様にしたいだけです」
「だからこそホーエンローエ卿をですか」
「更迭したい」
「それだけですか」
「何度も言いますがホーエンローエを更迭しても」
 彼等の問題のだ。根本的な解決にはならないというのだ。
 それは何故かというと。やはり問題はバイエルンにはないからだ。
 プロイセンにある。それこそがだった。
「ビスマルク卿はいますし」
「そしてプロイセンもですね」
「どちらも」
「そしてあの方は私がないのです」
 ビスマルクにだ。それはないというのだ。
「あくまでドイツのことを考えておられます。そう」
「そう?」
「そうと仰いましたが」
「そう、私よりも」
 王自身よりもだ。ビスマルクはドイツのことを考えているというのだ。
 そしてだ。王は言うのだった。
「私は所詮は自分だけです」
「御自身だけ」
「いえ、それは」
「いえ、私はそうなのです」
 己を否定してだ。王は言っていく。
「私の望む城を築き劇を楽しむのですから」
「いえ、それは誰もがです」
「己のことを考えるものです」
「それはビスマルク卿も同じでは」
「そう思いますが」
「いえ、違います」
 また言う王だった。
「私はあくまで自分だけなのです」
 己を、鏡の己を見てだ。王は言う。
 今ここには鏡はない。しかし心にあるそれに己を映し出してだ。王はそこに映っている自分自身を見て。そして憂いと共に言うのである。
「ただ。満足する美だけをです」
「求めておられると」
「そう仰いますか」
「そうです」
 また言うのだった。
「それが私なのです」
「そこがビスマルク卿と違う」
「そうだとも」
「私は私だけなのです」
 鏡を見つつ。王は述べていく。
「そうでしかないのです」
「ですが陛下、それでもです」
「陛下はバイエルンの為に働かれています」
「そのことは誰もが認めています」
「そうであればいいのですが」
 こう言う。だが、だった。
 王はだ。さらにだった。
 己の見ているものをだ。さらに見て述べたのだった。
「だからこそホーエンローエも最後の最後まで」
「残念ですがそれは不可能です」
「議会も臣民も反発していますので」
「ですからとても」
 これはどうしようもなかった。それでだった。
 王は結局ホーエンローエを罷免した。これによりバイエルンのプロイセンへの反発はさらに強くなり抑えられなくなった。しかしだ。
 

 

506部分:第三十話 ワルキューレの騎行その五


第三十話 ワルキューレの騎行その五

 王は既に署名していた。動員令に。そうしてバイエルンもまたフランスと戦うことになった。そのこともまた定まってしまっていた。
 しかしこのことにはだ。バイエルンの者は賛成した。そして言うのだった。
「フランスを倒せ!」
「バイエルン万歳!」
「ドイツ万歳!」
 こう言うのである。彼等はだ。
 プロイセンへの反発をそのままにしてそのプロイセンが主導するフランスとの戦争はいいとする。その彼等の熱狂的な声にだ。
 王は王宮のバルコニーから見ていた。その彼等の熱狂的な声は王にも届いている。
 その彼等に何度も応えながらだ。王はまた言った。
「ドイツの。祖国への情熱はいいのだ」
「ですが戦争はですか」
「好きにはなれずにですね」
「そうです。やはりそれは」
 どうしてもだ。王は戦いは好きにはなれなかった。
 だがそれでもだった。今の彼等の熱狂には応えていた。そうしてだ。 
 その熱狂の中でだ。あるものを見たのだった。
「あれは」
「?あれは」
「あれはといいますと」
「ワルキューレでしょうか」
 それを見たというのだ。
「まさか」
「ワルキューレ!?」
「ワルキューレといいますと」
「あのワーグナーの歌劇の」
 こう言うのである。
「ヒロインですが」
「ああ、ブリュンヒルテですね」
「あの勇敢な乙女ですか」
「いる筈がありませんね」
 だがすぐにだ。王はこう結論を出した。
 そしてだ。また見るとだ。 
 いなかった。そのワルキューレの姿は何処にもなかった。それでもだ。
 王はだ。すぐにこう述べた。
「いえ、あれは」
「あれは?」
「ワルキューレは私に教えてくれたのです」
 王にとってはだ。そうしたことだった。
「この戦争はです」
「フランスとの戦争ですか」
「これからはじまるその戦争がですか」
「勝ちます」
 そのことをだ。ワルキューレに教えられたというのだ。
「間違いなくです」
「ですがフランスは強いです」
「やはり欧州でも屈指の大国です」
「そのフランスに果たして」
「勝てるかどうか」
「いえ、勝ちます」
 確信した言葉だった。
「この戦争は間違いなく」
「では、ですね」
「我々も安心して参戦し」
「そしてプロイセンと共に戦うべきですね」
「既に署名しています」
 動員令にだ。賽は投げられているのだ。
「ですからそれはもうです」
「はい、決められているから」
「もう迷うことなくですね」
「我が国は戦うべきですね」
「その通りです。ですが」
 民衆の熱気の中で。王は言っていく。
 熱気の中にいても王だけは何処か冷めている。その冷めた中での言葉だった。
「戦いは避けたかったです」
「陛下はやはり戦いは」
「好まれませんか」
「どうしても好きになれません」
 実際にそうだというのである。
 

 

507部分:第三十話 ワルキューレの騎行その六


第三十話 ワルキューレの騎行その六

「この戦争の後は。ビスマルク卿は戦争をされないにしても」
「あの好戦的なビスマルク卿がですか」
「もう戦争を止められるのですか」
「そうなるのですか」
「はい。あの方はこれで終わらせます」
 これからはじまるだ。フランスとの戦争でだというのだ。
「ドイツが統一されるのですから」
「ではあの方はドイツ統一の為にですか」
「戦争を行っていた」
「そして強権的だったのですか」
「そうです。多くの者はそのことがわかっていません」
 ビスマルクのだ。そうした考えがだというのだ。
「あの方はドイツの為に最も合理的な手段を採られているだけです」
「ドイツの為に」
「それだけなのですか」
「あの方の鉄と血はドイツの為の鉄と血です」
 産業と軍隊はそうしたものだというのだ。ビスマルクにとって。
「双方があり戦争が行われますが」
「これからはそれが違ってくる」
「そうなりますか」
「そうです。これからはその鉄と血は」
 戦争ではなくだ。別の目的の為に使われるというのだ。
 そしてだ。その目的とは。
「平和の為に使われます」
「あのビスマルク卿が平和をですか」
「プロイセンがですか」
「そうするというのですか」
「あのフリードリヒ二世も」
 プロイセンを大国にしたあのフリードリヒ大王だ。今プロイセンがあるのはこの王があってこそだ。だからこそ大王とまで呼ばれているのだ。
 その王についても。話すのだった。
「オーストリア継承戦争、そして七年戦争の後は戦争をしていませんね」
「あっ、そういえば確かに」
「あの王はそうでしたね」
「二つの戦争の後は決してです」
「戦おうとはしませんでした」
「戦争とは何か」
 ひいてはだ。戦争論にもなった。
「それは政治なのです」
「政治の一手段ですね」
「戦争はあくまで」
「そしてリスクも非常に高い」
 敗れればそれこそ国家の存亡の危機に陥る。バイエルンがこれから戦うフランスにしてもナポレオンの敗北で危うく全てを失うところだった。だがそこでタレーラン、フーシェという二人の怪物がいてだ。その敗北の責任をかつて自分達が仕えていたナポレオンに押し付けてフランスを救ったのだ。
 タレーラン、フーシェについてはその人間性は多くの者が顔を顰めさせるものだった。両者共平然と政治的裏切りを繰り返し多くの者を、時としては陰謀まで使いギロチン台に送っている。しかもタレーランは女性問題が多く賄賂も受け取った。フーシェの政治的冷酷さと数字を数えるが如く粛清を行うことは欧州に広く知られていた。
 だがその彼等がフランスを救ったのだ。これが政治なのだ。
 その政治についてだ。王は言った。
「ですからこれからはです」
「プロイセンは戦争をしない」
「この戦争の後は」
「そうするのですね」
「はい、そうです」
 王はそのことも見て述べた。
「ビスマルク卿はそうされます」
「ドイツに平和が訪れる」
「そうもなるのですね」
「その通りです。プロイセンが軸になり」
 ここでプロイセンを話に出すと。王は。
 憂いのある顔でだ。述べたのだった。
「しかし」
「しかしですか」
「そうです。バイエルンではありません」
 このことが問題だった。王にとって。
「仕方ないことだとしても」
「ですが陛下は既にです」
 彼等はここで言った。
 

 

508部分:第三十話 ワルキューレの騎行その七


第三十話 ワルキューレの騎行その七

「動員令にサインされましたし」
「ですから最早です」
「そのことは承知されてるのでは」
「承知はしています」
 それはだと言う王だった。しかしだ。
 憂いのある顔のままでだ。王は言うのである。
「しかしです」
「しかし?」
「しかしとは」
「その決断がいいかどうかは」
 それはだと言うのだ。
「私は」
「左様ですか」
「そうなのですか」
「選択肢は一つしかありません」
 王にはわかっていた。既に。
「私はそれを選んだだけです」
「バイエルンの為に」
「ひいてはドイツの為に」
「今はバイエルンが第一にきています」
 ドイツよりもだ。そうなっているのは確かだった。
 しかしだ。それがこれからどうなるか。王にはわかっていた。
「やがてはドイツが第一になります」
「プロイセンが主導するドイツが」
「その国がですか」
「そうです。ドイツなのです」
 こう言ってだった。王は憂いを見せ続ける。
 そのうえで臣民達に応えていた。しかしその臣民達もこれからはドイツの臣民、プロイセンの臣民になっていくこともだ。王は見ていた。
 その王がだ。遂にだった。
 ワルキューレを観る。バイエルンでは。
 誰もがそのワルキューレの初演についてだ。こんなことを話していた。
「まさか本当にな」
「そうだ。陛下が上演される」
「ワーグナー氏の反対を押し切って」
「そうするとは」
 このことがだ。誰もがまずは信じられなかった。
「ワーグナー氏はまだ反対しているが」
「それでもか」
「初演までされた」
「あのワーグナー氏の言うことなら何でも聞く陛下が」
「そうされるとは」
「それ程御覧になられたいのか」
 こう言ったのだ。
「あの方はあの歌劇を」
「そうされたいのか」
「あの作品の第一夜になるが」
「それを御覧になられか」
「やがては」
「全ての作品をか」
「御自身で上演されるのだろうか」
 こうした考えも出て来ていた。王のこれからへの予測だ。
「ワーグナー氏が今の様に反対されても」
「それでも」
 王が何かが違ってきていることをだ。この初演からも誰もが感じていた。しかしだった。
 王はその初演を迎えた。遂にだ。ロイヤルボックスからそれを観るのだった。
 まずは誰かが何処からか逃げる音楽だった。そして。
 城を思わせるものになり高らかになりだ。幕が開けた。
 その舞台の中では神話が映し出された。神々が出てだ。そうして心と心、剣と剣の戦いが繰り広げられる。それを観てだった。
 王は静かにだ。こう呟いた。
「美しい」
「満足しておられますか」
「この劇に」
「はい」
 そうだとだ。王は侍従達に答えた。
「やはり素晴らしいです」
「左様ですか。満足しておられますか」
「ではこの初演は成功ですか」
「そう思われますか」
「いえ」
 しかしだ。ここでだ。
 王はだ。こう言ったのだった。
 

 

509部分:第三十話 ワルキューレの騎行その八


第三十話 ワルキューレの騎行その八

「それはまだ第三幕が終わってからです」
「そこでわかる」
「そうだというのですか」
「はい」
 まさにそうだとだ。王は言うのだった。
「そのうえでわかることです」
「最後の最後まで観てですか」
「それでわかるものですか」
「最初で何かわかるものではありませんし」
 そしてだった。さらに。
「途中までで決まるものでもありません」
「やはり最後の最後まで観てですか」
「その出来がわかる」
「そういうものですか」
「確かにトリスタンやマイスタージンガーははじまりから最高のものだと確信しました」
 この二つの作品はそうだというのだ。
「そしてこのワルキューレもです」
「はじまりからですか」
「最高のものだとですか」
「思われますか」
「最高のものではあります」
 しかしだと。ここで王は言った。
「ですが最後まで観てです」
「最後まで、ですか」
「そこまで御覧になられ」
「完璧な。完璧なワーグナーか」
 王はだ。完璧なものはそれだというのだ。
「それが決まるのです」
「最高と完璧はまた違う」
「そしてワーグナー氏は完璧である」
「そうだともいうのですか」
「そう。ワーグナーはまさに完璧な美なのです」
 王にとってはだ。意中にあるのはやはり彼なのだ。
「そしてその美は」
「最後の最後で完成する」
「そういうものですか」
「だからこそ」
 王は言った。
「私は待ちきれなかったのです」
「御覧になられることをですね」
「そのことを」
「そうです」
 まさにそうだというのだった。
「完全なるものを観たいが為に」
「そしてその完全なるものがですね」
「今完成に近付いているのですね」
「そうです。次第にです」
 第三幕になり。それが終わる時にだというのだ。
 しかしだ。この作品はどうかというと。
 王はこのこともだ。少しずつ話した。
「ですがこのワルキューレは」
「間も無く幕が下りますね」
「長い作品ですが」
「いえ、それで終わりではありません」
 幕が下りだ。それでだというのだ。
「それからもです」
「まだあるのですか」
「ワルキューレは」
「そうです。それからもです」
 あるとだ。王は話す。
「何故ならワルキューレは指輪という作品の一部に過ぎないのですから」
「確か四部作でしたね」
 一人が言った。
 

 

510部分:第三十話 ワルキューレの騎行その九


第三十話 ワルキューレの騎行その九

「指輪は」
「そうです。先のラインの黄金に」
「このワルキューレ」
「そしてジークフリートに神々の黄昏」
「この四つで、でしたね」
「その通りです。全てが一つになります」
 王はわかっていた。このことも。
 そうしてだ。そのワルキューレを目の前にして話すのである。
「この作品は次の作品への萌芽でもあるのです」
「これだけの作品がですか」
「十分な大作だというのに」
「一つのものはまた一つのものを生み出します」
 王は大作もだと言うのだ。
「さらにです」
「また一つですか」
「生まれると」
「ワーグナーの芸術もまた」 
 ひいては彼自身の芸術もだと。王は話す。
「そうなのですから」
「では陛下はやはり」
「あのことをですか」
「実際に為されますか」
「はい、そうします」
 城のことにも話がいった。それについてもだ。
 王はだ。こう言うのだった。
「必ずや」
「左様ですか、決められたのですか」
「そのことはもう」
「現実のものとされる」
「城。ワーグナーの城」
 王の脳裏にまたあの城が浮かぶ。そしてその城は。
 一つではなかった。幾つかあった。そこにはワーグナーだけでなくバロック、そしてロココもあった。王の愛するその芸術達が全てだ。
 そうしたものを見つつだ。王は言った。
「この作品を観ることもまた」
「それもですか」
「生み出すことだと」
「ただ観るだけではないのです」
 まさにだ。王にとってはそうだった。
「だからこそなのでしょう」
「なのでしょうとは?」
「といいますと」
「私はワルキューレを観たかったのです」
 渇望の元はだ。そこにあったというのだ。
「生み出す為に」
「陛下の芸術を」
「それを」
「そうです。さて」
 ここまで話してだ。そうしてだった。
 ワルキューレに目を戻す。やがてワルキューレ達が吠え空を駆る音楽が奏でられる。そして父であるヴォータンとの別れの後。舞台は降りた。
 紅い炎が燃える中に王は観た。新たな生命の誕生を。
 その生命を観てだ。王は言った。
「ジークフリートです」
「第二夜の主人公ですね」
「彼ですね」
「そう、彼です」
 話はだ。そのジークフリートに及んだ。
「彼が生まれます」
「次の作品の主人公が」
「彼が」
「そうです。そして彼は」
 そのジークフリートはだ。どうかというと。
「彼はただ歌劇の主人公というだけではなくなります」
「ただ英雄というだけではないのですか?」
「作品の中での」
「ドイツのです」
 その国のだというのだ。
 

 

511部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十


第三十話 ワルキューレの騎行その十

「ドイツの英雄になるのです」
「このドイツ全体の主人公」
「それになるというのですか」
「彼は」
「そうです。なります」
 また言う王だった。
「彼は」
「ではワーグナー氏はその英雄の父となるのですね」
「あの彼が」
「そうです。ワーグナーはそうした存在まで生み出します」
 まさにだ。そうだというのだ。ワーグナーは。
「彼はそうなのです」
「左様ですか。あの方はそこまで」
「そうしたものまで生み出す」
「芸術だけでなく」
「ドイツの英雄までも」
「モーツァルトもベートーベンもできなかったことです」
 その偉大なだ。彼等ですらだというのだ。
「彼はそれをするのです」
「ではワーグナー氏はドイツの象徴ともなるのですね」
「ジークフリートと共に」
「やがて彼は」
 王は未来も見た。それを。
 そしてだ。彼等に話すのだった。ドイツ人の彼等に。
「ドイツの聖者、音楽の守護神ともなるでしょう。そう」
「そう?」
「そうとは」
「ドイツを心から愛しそのドイツと結婚したとまで言う男」
 まだ彼はこの世に出ていない。しかしだ。
 王は既にだ。その存在を予感して言うのだった。
「その彼がドイツを統治する様になれば」
「そうなればですか」
「ワーグナー氏はさらに偉大になる」
「ドイツの聖者」
「音楽の守護神に」
「彼がそうなるのは」
 何によってか。わかっているからこその言葉だった。
 王はだ。言えた。
「歌劇によってですがとりわけです」
「指輪によってですか」
「その偉大な四部作からですか」
「今第一夜が終わった」
「その通りです。英雄を生み出したこの歌劇によって」
 ニーベルングの指輪。まさにそれによってだ。
 そう話してだった。王はこれから現われるジークフリートの話をした。そのうえでだ。
 舞台の余韻に浸っていた。今王は幻想の中にいた。
 しかし次第に現実に戻る。それに対して。
 王はだ。辛い顔で。こう漏らした。
「苦痛です」
「苦痛ですか」
「今は」
「はい、苦痛です」
 そうだとだ。王は漏らすのだった。
 そうしてだ。その苦痛を肌で感じながら。 
 王は現実に戻った。その王に対してだ。
 政治が来た。それは追うの最も嫌う戦争だった。
 その戦争の状況はだ。どうなっていたかというと。
 次から次にだ。プロイセン圧勝の報が入る。その中にはバイエルン軍に関するものもあった。
 バイエルン軍もだ。ドイツの一国として戦い。
 そしてだった。果敢に戦い勝利を収めていた。
 王にそれを報告する者達は満面の笑顔だ。その笑顔でだ。
 王に報告する。その勝利を。
「プロイセンは勝ち続けています」
「信じられない勝利の連続です」
「フランスは最早為す術もありません」
「そしてバイエルン軍もです」
「我が軍もです」
 彼等もだというのだ。
 

 

512部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十一


第三十話 ワルキューレの騎行その十一

「ドイツの一国として勝ち続けています」
「このままパリに入城できます」
「あの国の心臓に」
「憎むべきあの国に」
「そうですか」
 だが、だ。王はだ。
 彼等の言葉を玉座で聞きだ。そしてだ。
 そのうえでだ。王はこう言った。
「我が軍も。我が民達も」
「民達?」
「彼等が」
「戦争の中にその身を投じているのですね」
 言うのはこのことだった。
「あの中に」
「はい、そうですが」
「その通りですが」
 周囲はそうだとだ。いささか戸惑いながら王に応えた。
「彼等もです。果敢に戦いです」
「我が国の名声をあげています」
「ひいては陛下のです」
「これは喜ぶべきことです」
「我が民達が名声をあげるべき場所は」
 それは何処でか。王は述べた。
「芸術です」
「戦争ではなくですか」
「今行われているそれではないのですか」
「仕方ないことですが」
 バイエルンがドイツに入りフランスと戦う。そのことはだというのだ。
 しかしだ。それでもだというのだ。
「破壊は。私は」
「戦争による破壊」
「それは」
「そうです。好きになれないのです」
 それはどうしてもだった。軍服を着ていてもだ。
 こう述べてだ。彼等にまた述べた。
「そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「この戦争はドイツを統一させる為の戦争です」
 何度もだ。このことを自問自答していた。
 確かにいいことだ。しかしだった。
 王はどうしても一つのこと、その絶対のことを認識してだ。それで言うのだった。
「プロイセン主導で」
「いえ、バイエルンは残りますが」
「我が国は」
「それはわかっています」
 バイエルンは残り王は王のままだ。しかしだ。
 また一つの現実をだ。王は述べた。
「しかしバイエルン独自のものはです」
「消える」
「失われるというのですか」
「全てはドイツになります」
 そのだ。プロイセン主導のドイツにだというのだ。
「私はその中で王であり続ける」
「はい、陛下はこれからも陛下です」
「喜ばしいことに」
「空虚な玉座」
 王は言った。またしても。
「そしてそれはです」
「いえ、ですから」
「その玉座はあくまで」
「空虚です」
 周りは慰めようとする。しかしだった。
 王はその彼等にだ。あくまでこう言ったのである。
 そうしてだ。その憂いに満ちた顔でだ。こんなことも話した。
「それでも私はこの玉座をです」
「陛下の玉座を」
「どうされるのでしょうか」
「守らなくてはならないのです」
 こうだ。その憂いの顔で言うのである。
 

 

513部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十二


第三十話 ワルキューレの騎行その十二

「オットーではもう」
「そのオットー様ですが」
「今はです」
「御体調はいいです」
「そうですか。今はですか」
 王はそれを聞いてだ。少しだけ。
 その顔の憂いを晴れやかにさせてだ。言った。
「では少しの間にしてもですね」
「はい、陛下の代わりもです」
「務められますので」
「わかりました」
 そのことも聞いてだ。まただった。
 王は少しだけ晴れやかになった。そうしてであった。
 周りにだ。こう言ったのだった。
「将兵達には労いを忘れずに」
「我がバイエルンの兵達」
「彼等にですね」
「そうします。それと」 
 さらにだった。王は。
 このことをだ。彼等に話した。
「殿下のことですが」
「プロイセン王太子ですね」
「あの方ですか」
「あの方が私と御会いしたいそうですね」
 ドイツ南軍、南部の緒国家の連合軍の指揮を執るのが太子なのだ。その太子とだ。
 王はだ。会うというのだった。
「ではです」
「会われますか」
「是非共」
「はい、そうです」
 そうすると言ってだった。王は。
 周りに太子と会うことを約束した。そうしてだ。
 プロイセン軍の軍服を着た見事の金髪の太子と会った。太子はまずはバイエルン軍の軍服を着ている太子と敬礼を交えさせた。
 太子が先、王が後にだ。そうしてからだ。
 太子がだ。王に対して言った。
「今我が軍は勝っています」
「そうですね。順調に」
「このままパリまで進軍してです」
 そしてだ。どうかというのだ。太子は。
「ドイツ帝国が生まれるのです」
「そうなりますね。よいことです」
「バイエルン王もそう思われますね」
「はい」
 そうだとだ。王は言葉では応えた。
「私もまた」
「左様ですか。では今からですが」
「劇を御覧になられますか」
 王からだ。太子に話した。
「そうされますか」
「劇ですか」
「はい、ワレンシュタインですが」
「いいですね、あのシラーの劇ですね」
「そうです。あの劇は如何でしょうか」
 王は笑ってはいない。表情は何処か強張っている。太子もその顔を見ていた。
 だが太子はそのことについては何も言わずにだ。王にだ。
 微笑みをつくりだ。こう答えたのだった。
「はい、それでは」
「御覧になられますか」
「そうさせてもらいます」
 太子は微笑んで応えた。そうしてだ。
 そのうえでだ。こうも言うのだった。
「ワレンシュタインの敵はスウェーデンでしたね」
「そうですね。舞台においては」
「スウェーデン、あの時のドイツの敵でした」
 既にだ。太子の中ではだ。
 ドイツは一つになっていた。そしてそのドイツの敵は何なのか。
 太子は王にだ。そのことを話した。
「そして今はフランスですね」
「そうですね。フランスですね」
「そのフランスを我々は今倒しています」
 太子はここでは確かな微笑みになり述べた。
 

 

514部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十三


第三十話 ワルキューレの騎行その十三

「そういえばスウェーデンの後ろにはフランスがいましたね」
「はい、三十年戦争の時は」
「フランスはドイツにとっては仇敵です」
 王は太子のフランスに対する言葉はだ。内心では。
 辛く思っていた。非常に。王のフランス文化への感情故にだ。
 それでだ。また話した。
「やはり戦い倒さなくてはなりません」
「わかっています」
 それはだ。王自身もだ。実によくわかっていた。
 理解していた。しかし納得はというと。
 どうしてもできずにだ。太子の言葉を笑わず聞いていた。そうしてだ。
 太子にだ。あらためて言ったのである。
「では今宵は」
「はい、ワレンシュタインをですね」
「観ましょう」
 こう話してだ。太子を観劇に誘った。その舞台においてだ。
 太子がロイヤルボックスから、王より前に立ち姿を現わすと。その太子に。
 観客達が一斉に拍手をする。それを見てだ。
 王は微妙なものを感じた。そして観劇の後で。
 こうだ。ホルニヒと二人だけになった時にだ。こう漏らしたのだった。
「ドイツは今からまた一つになる」
「喜ばしいものの筈ですね」
「そうだ。喜ばしいものだ」
 それはだ。間違いないというのだ。
 しかしだった。王はその太子への拍手を思い出した。ホルニヒに言った。
 王は今青いベッドの中にいる。ホルニヒはその傍らに控えている。その暗い褥の中に半身を起こしてだ。王はこう言うのだった。
「だが私は次第にだ」
「陛下は」
「空虚の中に入ろうとしている」
 こうだ。ホルニヒに話したのである。
「プロイセンが全てを扱う国になろうとしている」
「バイエルンもまたその中に」
「入り。そしてだ」
 どうなるか。バイエルン王としての言葉だった。
「ドイツの中の只の一国になる」
「一国に」
「ドイツの軸はベルリンになる」
 プロイセンの王都、そこにだというのだ。
「あの町は帝都になりだ」
「ドイツの心臓になるのですね」
「心臓は一つだ」
 王はこうも言った。
「一つしかないのだ」
「ではバイエルンもですか」
「心臓がなくなる」
「ドイツに」
「そうだ。ドイツが一つになればだ」
 それでだというのだ。バイエルンは。
「ミュンヘンもまた。しかし」
「しかし?」
「しかしといいますと」
「ワーグナーはバイロイトに入る」
 ここでもワーグナーの話になりだった。
 そのうえでだ。また言うのだった。
「ミュンヘンに彼の劇場は築かれない。それではだ」
「ミュンヘン、我等の都が」
「どうなるのでしょう」
「芸術の都にもなれない」
 王の望みがだ。消えるというのだ。その絶対的な存在であるワーグナーがいなくてはだ。それはならないとだ。王は考えているのだ。
 そしてだった。王はそれについてこう述べた。
「だがそれはミュンヘン自身が望んだことだ」
「ミュンヘンという町が」
「ワーグナー氏をバイロイトにやったと」
「そうだ。彼を何度も追い出した」
 このことをだ。言うのだった。
「それで何故ミュンヘンを去らずにいられるか」
「しかしあれはです」
「仕方なかったのでは」
「芸術。あの芸術の前に多少のことは問題ではないのだ」
 ワーグナーのその浪費、尊大、女性問題もだというのだ。
 

 

515部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十四


第三十話 ワルキューレの騎行その十四

「だがミュンヘンの者達はそれがわからなかった」
「それ故にワーグナー氏を追い出した」
「だからワーグナー氏はバイロイトに向かった」
「そうなったのですか」
「そして私も城は築く」
「?しかし」
 ここでホルニヒは気付いた。あることにだ。
 自分以外にも誰かが王に問うている。そのことに気付いた。 
 それで周りを見回す。しかし誰もいなかった。彼はそれを気のせいだと思った。
 そのうえで王に顔を戻す。見れば王は何も驚くものはない。それを見てだ。
 彼はあらためて自分の気のせいだと思った。それでだ。
 王にだ。また問うたのだった。
「ノイシュヴァンシュタイン城ですね」
「他にはヘーレンキムゼー、リンダーホフ」
 城の名をだ。王は挙げていく。
「私の夢をそこに築く」
「そうされますか」
「そうだ。そうする」
 また言う王だった。それでだった。
 ミュンヘンについてだ。また言ったのだった。
「芸術の都でなくなり。心臓でもなくなるミュンヘンはだ」
「陛下にとっては」
「ワーグナーを追い出した町でしかない」
 王にとっては苦い思い出であるだ。それだというのだ。
「私自身もよく言われている」
「新聞の言うことは御気にされない方が」
「わかっているがどうしてもだ」
 それができない。王のその性格故にだ。
 だからだと話してだった。王は。
 ミュンヘンを離れ。そうしてだというのだ。
「私は。この世からも離れたい」
「ノイシュヴァンシュタインに入られますか」
「全てはベルリンの下に一つになる」
 王の憂いはここにもあった。
「バイエルンはその中に埋没していくのだから」
「他の国もですね」
「同じだ。プロイセンはそのままドイツになる」
「そしてドイツがプロイセンになるのですね」
「ドイツにある他の国もだ」
 そうなっていく。プロイセンになっていくというのだ。
 そのことをビスマルクと同じだけわかっている王は。それでだった。
 虚しいものを感じてだ。王は述べた。
「私は。現実の世界にいたくはなくなってきた」
「しかしそれは」
「わかっているのだが。それでもだ」
 こうした話をするのだった。そうしてであった。
 王は戦いの成り行きにもこれといって興味を見せなかった。それはだ。
 乗馬に出る時にだ。王にだ。
 侍従の一人が来てだ。報告してきた時もだ。
「何かあったのですか?」
「はい、朗報です」
 駆けて来た侍従は喜びと共に肩で息をしながらだ。王に手にしている電報を読みあげてきた。
「アルサスですが」
「あの場所がですか」
「はい、陥落しました」
 満面の笑みでだ。侍従は王に述べる。
「ドイツ軍の大勝利です」
「わかった」
「はい、見事なまでにです」
 勝利を収めたと侍従は言っていく。しかしだ。
 王はその彼にだ。冷静な顔でだ。彼の名を呼んだのだった。
「アイゼンハルト君」
「何でしょうか」
「私はこれから乗馬に行くのだ」
 そうするとだ。冷静に述べる。見れば王は乗馬の服だ。
 その王がだ。彼に言うのだ。
「だからだ」
「しかしです」
「待てと言うのかね?」
「はい、続報がある筈です」
 ドイツにとって喜ぶべき。それがだというのだ。
 

 

516部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十五


第三十話 ワルキューレの騎行その十五

「ですから少しだけです」
「では聞こう」
 王は冷静だが不機嫌なものも見せてだ。その侍従に述べた。
「卿は王に命令をできるのか」
「いえ、それは」
「そうだな。王に命令できるのは二人だけだ」
 その二人はだというのだ。
「教皇、そして皇帝だけだな」
「しかしです。続報は」
「後で聞く」
 こうも返した。
「そうさせてもらう」
「では今は」
「馬だ」
 それに乗ってだというのだ。
「少し時間をかける。それではだ」
「あの、本当に大事なことなのですが」
「結果はもうわかっている」
 王にはだ。それは最初からだった。
「ならば後で聞いても問題はない」
「そう仰るのですか」
「そうだ。では行って来る」
「左様ですか」
 こうしてだ。王は一人遠乗りに出た。そうして自然の中に馬を飛ばす。
 緑の森の中を抜け青い湖のほとりに来た。そこに来ると。
 あの騎士がいた。騎士は恭しく一礼してから王に述べてきた。
「御待ちしていました」
「ホルニヒの隣にいたな」
「お気付きでしたか」
「ホルニヒも妙に思っていた」
 彼の気配を感じてだ。王は騎士にそのことを話したのだ。
「卿の姿は見えなかったがな」
「悪戯になったでしょうか」
「そうだな。他愛のない悪戯だ」
 王は既に馬から降りている。そうして湖の傍に座っている。騎士はその王の傍らに来て立ちだ。そのうえで王に対して話をしている。
 その騎士にだ。王はまた話した。
「気にすることはない」
「それでは」
 王のいいという言葉を受けてからだ。騎士はあらためて王に問うた。
「それでなのですが」
「先程のことか」
「陛下はドイツの統一を喜ばれていますね」
「私とてドイツの者だ」
 湖、青いそれを見ながらだ。王は答えた。目はそこにある。
「それでそれを喜ばない筈がない」
「しかしですね」
「戦いは好きではない」
 そうだというのだ。
「そしてフランスとの戦いはだ」
「余計にですね」
「ドイツを心から愛している」
 王は言った。
「父なるドイツと言われるが私にとってはだ」
「騎士ですね」
「卿だ」
 その騎士に顔をやり。そうして答えたのだ。
「まさに卿だ」
「父ではなく騎士ですか」
「父となると。それは恐れ多いものになる」
 しかしだ。それが騎士となるとどうかというのだ。
「そこが違う」
「そうなりますか」
「騎士は傍に。いつもいてくれる」
 今そこにいる騎士とドイツをだ。一つにしての言葉だった。
「そこが違う」
「そしてその騎士なるドイツと」
「フランスが戦うことはだ」
 どうかとだ。王は憂いに満ちた顔になり。
 そのうえでだ。騎士に話したのだ。
「私はフランスも愛している」
「ドイツに次いで」
「そうだ。ドイツは第一だ」
 ドイツの者としてだ。これは否定しなかった。
 

 

517部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十六


第三十話 ワルキューレの騎行その十六

「しかしフランスもまただ」
「その文化と芸術を御存知だからこそ」
「そのドイツとフランスが戦う」
「しかしそれは決して避けられるものではありませんでした」
「ドイツの統一の為には」
 王はまた湖に顔をやっていた。そうして湖の青い静かな水面を見ながら。そうして騎士に対して言うのだった。王が思うそのことを。
「フランスとの戦いは絶対に必要だった」
「ハプスブルク、ヴァロワの因縁からですから」
「フランスは常にドイツ統一を妨害してきた」
「フランスにとって東に強大な国ができることは避けなくてはなりません」
「だからだ。フランスとは戦わなくてならなかった」
 王は述べる。その必然を。
「しかしだ。わかってはいてもだ」
「御心はですね」
「それを受け入れられない。できれば避けてもらいたかった」
「しかし避けられず」
「今に至る。私は戦い自体を好まない」
 軍服を来てもだ。それでもだというのだ。
「それでどうして今を受け入れられるのだ」
「しかしこの戦いの後ではです」
「ドイツは一つになり平和が訪れるな」
「はい、そうなります」
「では受け入れられるのではないですか?」
「無理だ。それが終わればだ」
 次はどうなるのかも。王は騎士に語る。
「バイエルンは。私の国は」
「ドイツの中に入ってしまいますね」
「プロイセンのドイツにだ」
「それは陛下としては受け入れられませんね」
「このこともわかっている」
 何処までも何もかもだ。王はわかっている。
 しかしわかっているからこそだ。王は。
「バイエルンの運命も」
「国としては生きます」
「空虚な。名前と玉座があるだけの国がな」
「バイエルンはプロイセンからかなりも譲歩をもらえますが」
「しかしドイツの中で。ドイツという国の中で名前だけになる」
 最早だ。バイエルンではなくだ。ドイツという国の中にあるだ。そうしたバイエルンになるというのだ。王が言うのはこのことだった。
「そうした存在になってしまうのだ」
「ですがそれも必然ですね」
「政治と軍事がそうなることはわかっていた」
 必然だったと。そうだというのだ。
「だが。文化や芸術はバイエルン、そしてミュンヘンとしたかった」
「文化、芸術によるドイツ統一ですね」
「バイエルンはその中心となる筈だった」
「政治はベルリン、産業はルールが中心になっていきますが」
「文化はそうなるべきだった。だが」
 その軸となるべき彼がだ。ミュンヘンから去りだ。王はそのことからだった。
「ワーグナーはもうミュンヘンにはいない」
「他ならぬミュンヘンが彼を追い出してしまいました」
「そのミュンヘンはもう」
「芸術の都足り得ない」
「私はそう思う」
 王はだ。憂いの顔で述べた。
「だからだ。もうあの町とはだ」
「決別されたいですか」
「離れたい」
 夢破れた。そうした言葉だった。
「あの町には現実しかない」
「現実ですか」
「昼だ」
 そしてその昼とは。
「企み深い昼だ」
「トリスタンとイゾルデの言葉ですね」
「そうだ。私にとってもだ」
 そのだ。王にとってもだというのだ。
 

 

518部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十七


第三十話 ワルキューレの騎行その十七

「昼は企み深く」
「そうしてですね」
「醜く疎ましい昼だ」
「だからこそ陛下は今は」
「アルプス。自然のその場所に」
「人のいない場所に」
「そこに行く」
 そうだと言うのだ。そしてそこにおいてだった。
「私のその全てを表す場所でだ」
「ノイシュバンシュタイン、そしてですね」
「他の城も築いていく」
「それが陛下がこの世で果たされることです」
 ここまで聞いてだった。騎士は。
 にこやかであり気品のある端整な笑みでだ。王に答えたのだった。
「それこそがです」
「ではこのままでいいのか」
「いいのです。ですが」
「しかしか」
「今陛下と共にいる者の多くはです」
「このことをわからないのだな」
「はい、今は」
 現在のだ。この時はだというのだ。
「わかりません」
「そうか」
「陛下を今理解しているのは僅かです」
「そうだな。まことにな」
「しかしそれはです」
 そのこと、王の理解者が僅かであることはというのだ。
「悲しむべきことですがそれでもです」
「私は道を歩むべきだな」
「その通りです」
「そうだな。私はな」
「その数々の城を築かれて下さい」
 騎士はこう王に告げる。
「そうされて下さい」
「わかった。それではだ」
「はい、それでは」
「森と湖の中に城を築いていく」
「そうしてです」 
 さらにだというのだった。
「陛下はそれが終わった時にです」
「この世を去るのか」
「新しい。陛下がおられるべき場所にいらして下さい」
「その時にも来てくれるのだな」
 王は騎士に顔をやりその彼に問う。
「また」
「そうさせてもらいます」
「ではその時を待とう」
 王は静かに騎士に述べた。
「そなたが私を迎えに来るまで」
「この世界におられてですね」
「この世界にあるのは苦しみだ」
 王にとってはそうなりつつあった。
「だがそれでもだ。私は現実の苦しみではなく甘美な幻想をだ」
「この世界に描かれ」
「それを見たい」
 王の願いは完全にそこに至っていた。最早。
「全ては決まっているのだからな」
「ドイツのことは」
「そうだ。何もかもが決まってしまっている」
「フランスは敗れ統一されプロイセンが軸になります」
「それが現実だ」
 王にとって喜ぶべきものもある。しかし悲しむべき、嘆くべきことも多い。
 その現実にだ。王は。
「逃れたいがそれができないならだ」
「せめてですね」
「それを果たしたい。私の果たすべきことを」
「そうされて下さい。では今は」
「去るのか」
「そうさせてもらいます」
 まさにそうだとだ。騎士は王に答え。
 そうして湖に来た白鳥が曳く舟に顔を向けてだ。その瞬間に。
 舟の上に乗り。そこから王に話した。
「それでは」
「ではな」
「はい、また御会いしましょう」
「私には卿の姿が見える」
 王にだけだ。それができた。
 

 

519部分:第三十話 ワルキューレの騎行その十八


第三十話 ワルキューレの騎行その十八

「そして声も聞くことができる」
「あくまで陛下だけです」
「人は卿と話す私を見てどう思うだろうか」
「狂気に陥っていると思うでしょう」
「狂気か」
 狂気と言われてだ。王は。
 微かに笑いだ。こんなことを言った。
「人は私をそう言う様になるか」
「理解できないが故に」
「理解できないものは狂気」
 王は寂しい声で述べた。
「そう言って簡単に終わるものか」
「大抵の者はそうです」
「オットーの様になるのか」
 ふとだ。弟のことも思い出したのであった。
「あの様に私も」
「そのことについては」
「ヴィッテルスバッハの血か」
 王の身体に流れる、その古い血の話にもなる。
「この血にある者は狂気にあるという」
「陛下は狂気ではありません」
「それは違うか」
「はい、私の他何人かはわかっています」
 騎士はこう王に答える。
「その方々をです」
「信じていればいいか」
「確かに今は僅かですが」
 それでもだというのだ。
「それでもいます」
「そうだな。私には確かにいる」
 王もだ。騎士の話からだ。
 そのことを自分も理解してだ。そうして騎士に答えた。
「そうした相手が」
「ですから。どうかです」
「私の為すことを果たしてか」
「それが果たされた時に」
 騎士は王を見て語る。
「私は陛下をお迎えに参ります」
「その時にか」
「はい、その時にです」
「それは何時になるのか」
 その時について王は騎士に尋ねた。
「一体何時なのか」
「それは私にもわかりません」
「卿にもか」
「はい、陛下が何時それを果たされるのか」
「わからないか」
「それは陛下次第です。しかしです」
「それが果たされた時にか」
 王がこの世で果たすべきことを果たしたその時にだ。騎士はだというのだ。
 王にだ。静かに話した。
「必ず迎えに参ります」
「この世は私が生きるにはあまりに辛い」
「そうなろうとしていますね」
「だが。己の果たすべきことがあるのなら」
 それでもだというのだ。その時はだ。
「それを果たそう」
「そうして頂ければ何よりです」
「不思議だな。私の様な者が」
 王は己を卑小なものと見なしていた。今は。
「何の資質も力もない者が果たせるのか」
「陛下は決してそうした方ではありません」
「資質や力があるというのか」
「それも後にわかります」
 後世にだというのだ。それがわかるのはだ。
「ですから陛下は陛下の果たされることをです」
「行えばいいか。では」
「はい、それでは」
 こうした話をだ。王は騎士と話した。それを終え宮殿に戻るとだ。新たな電報が届いていた。
「陛下、遂にです」
「プロイセンがか」
「ドイツがです」
 その侍従アイゼンハルトが肩で息を切らしながら話す。
「我が父なるドイツがです」
「フランスに勝ったのか」
「このままパリに迎えます」
「そうか」
 それを聞いてもだった。王は。 
 暗い顔でだ。応えるだけだった。
 そしてだ。馬から降りてだ。こう侍従に述べた。
「風呂の後でだ」
「風呂で?」
「そう、風呂の後でだ」
 こう言うのである。
「ワインが欲しい」
「あの、ですから」
「話は聞いた」
 戦勝報告、それはだというのだ。
「ではこれでいいな」
「これは喜ばしいことだと思いますが」
 侍従は王の無関心そのものの態度に立つ瀬がなくなった顔で返した。
「それでもですか」
「わかっていることだ」
 プロイセン、即ちドイツが戦争に勝つことはだ。
「それはだ」
「だからですか」
「後はいい」
 こう言ってだった。王は侍従にまた話した。
「風呂とワインの用意を」
「しかしです。ドイツは勝っているのです」
「プロイセンがだな」
「ですがそれでも」
「いいのだ。それではだ」
 強引に話を終わらせてだった。王は。
 馬をなおさせそうしてだった。風呂に入り汗を流しだ。
 自分の部屋でワインを飲む。そうして一人言うのだった。
「この世は。何故これ程辛いのだ」
 こう呟きだ。憂いに満ちた顔になっていた。昼の輝かしい光の中で。王だけが憂いに満ちた顔になっていた。


第三十話   完


              2011・9・23
 

 

520部分:第三十一話 ノートゥングその一


第三十一話 ノートゥングその一

               第三十一話  ノートゥング
 ドイツはプロイセン、ビスマルクの導くままにフランスに勝っていく。それはまさに破竹の勢いだった。
 それを見てだ。フランス皇帝であるナポレオン三世は重臣達に言った。
「セダンに行く」
「セダンに?」
「あの場にですか」
「セダンの我が軍は聞くままだとだ」
 報告のままだとだ。どうかというのだ。
「敗れる。だからだ」
「陛下が自ら行かれてですか」
「指揮を執られるのですか」
「そして勝たれる」
「勝敗は既に決している」
 しかしだった。皇帝は重臣達にこう答えた。
「我が国は破れた」
「いえ、まだ兵は多いです」
「それに装備も補給も万全です」
「確かに今は劣勢ですが」
「それでもまだ」
「ドイツの勢いは最早止められない」
 皇帝の言葉は変わらない。
「それならばだ」
「それならばとは」
「どうされるのですか」
「戦争を終わらせる」
 皇帝はこう重臣達に答えた。沈痛な顔で。
「これ以上戦いを続けてもフランス、そして民達が傷つくだけだ」
「しかし敗れると多くの賠償金を取られます」
「それに領土も」
「そうだろう。ビスマルクは多くを手に入れない考えの様だが」
 だがそれでもだというのだ。
「しかしそれはもうだ」
「ならないというのですか」
「そうだと」
「オーストリアの時は周りが譲歩した」 
 実はオーストリアに勝った時にだ。周りはオーストリアに多大な要求をしようと思っていたのだ。戦争に勝った国の当然の権利としてだ。
 だがビスマルクは将来のオーストリアとの同盟を念頭に置いていた為それをあえてせずに周りに何とか己の考えを認めさせたのである。
 彼はフランスとも今後の関係を考えていた。だがそれはだというのだ。
「今回はだ」
「それはできませんか」
「ビスマルクでも」
「万能の人間なぞいない」 
 このことはビスマルクにも言えた。今やドイツの舵取りになろうとしている彼すらも。今欧州で最も実力があると言われている彼ですらだ。
「だからだ。我が国に対してはだ」
「プロイセンは多大な要求をする」
「そうなりますか」
「今の時点でもだ」
 今のだ。ただ敗れている状況でもだというのだ。
「これで我が国のかなりの部分が占領されるかパリを陥落させられれば」
「その時はプロイセン、そしてドイツはですか」
「我が国に法外な要求をしてくる」
「そして我が国はそれを拒否できないですか」
「そうだ。今降伏しても我が国にはかなりの力が残る」
 敗戦であろうとも程度がある。皇帝は今そのことを念頭に置いてだ。自国のことを考えていた。戦争を終わらせること、そしてそれかもだ。
「だからだ。今のうちにだ」
「陛下が自ら行かれ」
「そのうえで」
「降伏する」
 皇帝は苦いが確かな声で言った。
「わかったな」
「無念ですが」
「そうするしかありませんか」
「少なくとも要求以外はビスマスクの思惑通りだ」
 皇帝は降伏するこの段階においてもこう語った。
「開戦に至るまでもそして降伏までもだ」
「全ては彼の頭の中にありですか」
「我々は彼に合わせて踊っていただけですか」
「踊らされていたのだ」
 皇帝の言葉はここでさらに苦いものになった。
 

 

521部分:第三十一話 ノートゥングその二


第三十一話 ノートゥングその二

「全てはだ」
「そうしてドイツ帝国がですか」
「成立しますか」
「第二の帝国だ」
 ドイツにとってだ。そうした国だというのだ。
「神聖ローマ帝国を第一としてな」
「神聖ローマ帝国は多分に名前だけの国でしたが」
「その中には多くの独自の国家がいましたが」
 所謂領邦国家だった。途中皇帝、ハプスブルク家の力が強くなろうとしたが宗教対立によりそれは頓挫し三十年戦争とウェストファリア条約により帝国は事実上崩壊しナポレオンにより印堂を渡された。
 しかしその後にだ。再びだというのだ。
「ドイツに帝国が誕生する」
「そうなりますか」
「そうだ。我が国は東にも強大な国を抱えることになる」
 歴史的な宿敵であるイギリスと共にだというのだ。
「辛い時代が待っているな」
「この戦争の後で」
「そうした状況になりますか」
「だがそれでもだ」
 自国にとってそうした未来になるとわかっていてもだ。皇帝は。
 己の果たすべきことを果たす為にだ。玉座を立ち。
 そのうえでだ。重臣達に告げた。
「ではだ」
「はい、戦場にですね」
「赴かれるのですね」
「最後の最後は。せめてだ」
 権力を求め韜晦と欺瞞を駆使してきた。それはメキシコで破綻しマルクスによって暴かれその権威は失墜した。しかしそれでもだというのだ。
 皇帝は自国の為に最後の務めを果たす為にだ。今戦場に向かうのだった。そうして。
 セダンにおいてだ。皇帝は二十万の大軍と共にプロイセン軍に降伏した。それを受けてだ。
 ビスマルクはだ。周囲にこう言った。
「この降伏は受ける」
「受けられますか」
「フランス皇帝の降伏を」
「戦争は早く終わらせるに限る」
 だからだというのだ。
「私が自らセダンに赴きだ」
「フランス皇帝の降伏を受諾されますか」
「そうだ。そうする」
 自分自身がそうするというのだ。
「そして皇帝には礼を尽くす様にな」
「敵とはいえ皇帝ですし」
「そのことはですね」
「礼節をわきまえぬのは蛮人だ」
 ビスマルクは元々外交官だ。その外交官の立場からだ。
 彼は礼節を忘れなかった。それを周りにも言うのだった。
「いいな。それは守る様に」
「はい、それはよく」
「承知しています」
 周りも彼の言葉に頷きだ。そうしてだった。
 彼は自らセダンに赴きフランス皇帝と会いだ。降伏を受け入れた。これで戦争は終わった。
 だが、だ。ビスマルクは会見の後で戦局とフランスの現状を聞いてだ。こう言うのだった。
「フランスとの戦争は終わったがだ」
「後はベルサイユですね」
「そこに行かれてですね」
「遂に陛下がですね」
「ドイツ皇帝になられるのですね」
「それだけではない」
 ここではだ。ビスマルクの顔は残念そうなものだった。 
 その厳しい顔にそれを見せてだ。彼は言うのである。
「戦争は続くな」
「しかしフランスは降伏しました」
「フランス皇帝が自らそれを宣言しています」
「フランスの新政府もそれを了承する様ですし」
「それでは」
「政府が了承してもだ」
 それでもだとだ。ビスマルクは言うのだった。
 

 

522部分:第三十一話 ノートゥングその三


第三十一話 ノートゥングその三

「臣民、いや市民はどう思うかだ」
「市民?」
「市民がですか」
「この表現は好きではないが」
 市民という表現はだ。ビスマルクは好まないというのだ。彼の考えでは市民ではなく臣民なのだ。皇帝の下にいる、それであるというのだ。
「その市民達がどう思うかだ」
「この降伏についてですか」
「彼等が」
「受け入れるかどうかだ」
 彼が言うのはこのことだった。
「果たしてな」
「市民の問題ではないのでは」
「それはです」
「幾ら何でも」
 周りはビスマルクに首を捻りながら話す。
「既に皇帝は降伏されていますし」
「退位も決まり新しい政権が誕生しています」
「その政権が我が国と講和を選んでいます」
「それでどうして」
「現実を認めたくない者がいる」
 ビスマルクはここでは冷徹に言った。
「我々に敗れたという現実がな」
「だからですか」
「その者達が暴発する」
「そうだというのですね」
「そうだ。そうなる」
 ビスマルクは言う。
「特にパリだ」
「パリですか」
「あの町で、ですか」
「それが起こりますか」
「あの町はフランスの中でも特に誇り高い」
 これはこの頃にはもう定着していた。所謂パリジェンヌのプライドはだ。最早肌に染み付いてそれでだ。完全に離れなくなっているのだ。
 それが為だとだ。ビスマルクは話す。
「だからだ。彼等は講和に反対してだ」
「暴発すると」
「叛乱ですか」
「そうだな。彼等が何を称するかはわからないが」
 それでもだというのだ。
「叛乱は起こるだろう」
「では戦争は続くのですか」
「まだ」
「そうだ。フランス軍で抑えられなければ」
 それでだ。彼等もだというのだ。フランス人でない彼等も。
「我々も戦うことになるだろう」
「因果なものですね。それはまた」
「国と国の戦争が終わってもまだ戦争が続くとは」
「今度は市民とは」
「難儀なものです」
「おそらくこれからの戦争は違ってくる」
 ビスマルクの慧眼は彼にそうしたものも見せていた。
「国と国、軍と軍の戦争ではなくだ」
「そうではないのですか」
「それで終わりではないですか」
「そうだ。市民と市民の戦争」
 それは即ちだった。
「最後の最後まで行われる戦争になるだろう」
「では総力を尽くした戦争ですか」
「御互いに全てを賭けた」
「そうした戦争ですか」
「これからは一度戦争が起これば」
 どうなるかというのだ。そうなれば。
「三十年戦争の様な惨状に至るまで行われることになる」
「厄介ですね、それは」
「そうなるとなると」
「そこまでに至るとなると」
「そうだ。私は必要だから戦争をするのだが」
 ビスマルクにとって戦争とはあくまで政治の一手段に過ぎない。ましてやそうしただ。極限まで行われる戦争はだ。彼にとっても。
 

 

523部分:第三十一話 ノートゥングその四


第三十一話 ノートゥングその四

「何かを得るのではなく全てを破壊するものはするべきではない」
「全くですね」
「それは」
「そうだ。戦争はそうしたものになっていく」
 全てを破壊するものになるというのだ。何もかもを。
「市民達によってだ」
「近頃知識人達は市民の台頭をいいものとしていますが」
「それを絶対の善、神の御導きだともいう感じですが」
「それは違うというのですか」
「閣下はそう御考えですか」
「絶対の善なぞない」
 これがビスマルクの返答だった。彼はこのことは断言した。
「市民達が若し狂えばどうなる」
「国家の主権者になる市民がそうなればですか」
「その国家も狂う」
「そうなるというのですね」
「全てが」
「そうだ。ましてそこに共産主義が入れば」
 彼はこの思想を忌み嫌っていた。その本質を見切っているからだ。共産主義の実態を知っている、そうした意味で彼はバイエルン王と同じだった。
「無政府主義や虚無主義にしてもだ」
「そういえば共産主義にはその二つの思想が強いですね」
「強く含まれていますね」
「彼等にとって共産主義にならなければ」
 どうかというのだ。それは。
「全てはないのと同じだ」
「自分達の主義主張通りにならなければどうでもいい」
「他のあらゆるものがですか」
「そうした意味で彼等は究極の利己主義者だ」
 これがビスマルクに見たものだった。
「その彼等が市民の中に入ればだ」
「それは恐ろしいことになる」
「極限の戦争になる」
「共産主義でなくとも市民が狂えばそうなる」
 全てを破壊する戦争が訪れるというのである。
「これからはな」
「暗澹たるものですね」
「何もかもをなくす」
「そうした時代になっていくのですか」
「そこには芸術も文化もない」
 この言葉を出したところでだ。ビスマルクは。
 バイエルン王のことを脳裏に思い浮かべた。そうして言うのだった。
「そうだな。だからこそ」
「だからこそ?」
「だからこそとは」
「あの方はそれを既に御存知だからこそ」
 周囲に構わずにだ。ビスマルクは言っていく。
「戦いそのものを忌み嫌われているのだな」
「あの方とは一体」
「どなたでしょうか」
「バイエルン王だ」
 このことは答えるビスマルクだった。
「あの方だ」
「そういえばバイエルン王ですが」
「我が陛下のドイツ皇帝への即位は推戴してくれましたが」
「しかしです」
「戴冠式には来られないのですね」
「代理に王弟であるオットー様が来られるとか」
「そうだな」
 彼が来ると聞いてだ。ビスマルクは複雑な顔になった。
 そうしてだ。こんなことを言うのだった。
「あの方も今はいいようだな」
「はい、落ち着いておられる様です」
「今は何とか」
「いいことだ」
 そのことについてだ。ビスマルクは好意的に述べた。
「バイエルン王にとってもな」
「バイエルン王は王弟殿下のことを非常に気にかけておられるそうですね」
「本当に心配されているとか」
「当然のことだ」
 そのことについてだ。ビスマルクは静かに答えた。
 

 

524部分:第三十一話 ノートゥングその五


第三十一話 ノートゥングその五

「親族を心配しない者はその時点で問題がある」
「だからですか」
「あの方も」
「何故心配しなくなるかはそれぞれの事情があるが」
「しかしそれでもですね」
「あの方は弟君を心配されていますね」
「そのことは確かですね」
 このことはビスマルクにとって喜ぶべきことだった。しかしだ。
 周囲はだ。その代理を送るバイエルン王の話をだ。ここでする。その表情はどうにも晴れずにだ。困ったものになっていた。その顔での話である。
「しかしバイエルン王御自身は来られないです」
「何でも歯が悪いとのことで」
「それで来られないとのことです」
「どうしても」
「それならそれでいい」
 だが、だ。ビスマルクはだ。こう言うのだった。
「あの方が来られないのならだ」
「それでいいのですか」
「ドイツ各国の元首達が集る中でただ御一人だけですが」
「それでもですか」
「あの方だけが来られないのは」
「私は既にあの方に無理を強いている」
 プロイセン王へのドイツ皇帝への推挙、まさにそのことだ。
 それがあるからこそだ。彼は言うのである。
「それで今回もというのは。いや」
「いや?」
「いやといいますと」
「私はもうあの方には無理はしない」
 そうだというのだ。そのことは決してだというのだ。
「二度とな」
「二度とですか」
「そうされますか」
「無理を承知でしたのだ」
 その即位への推挙のことはだ。ビスマルクもわかっていた。彼は政治家、ドイツの宰相になる者としてそうした。しかし今度はだというのだ。
「だがあれで終わりだ」
「バイエルン王を二度と利用されない」
「決してですね」
「その通りだ。だから今回もいい」
 バイエルン王がプロイセン王のドイツ皇帝への即位式に出ないこと、それもまたいいというのだ。
 そのことを言ってだった。彼は。
「ではその様に式典の準備を進めるのだ」
「わかりました、それでは」
「場所はベルサイユですね」
「あの宮殿においてですね」
「敵地のその場所で」
「一つの報復にもなるな」
 フランスへの。それだというのだ。
「フランスへの。歴史的な、な」
「そうですね。あの国には何百年もの間煮え湯を飲まされています」
「そのルイ十四世が築いた宮殿で即位ですね」
「あえてしてですね」
「そうだ。そうする」
 ビスマルクはここでだ。確かな笑みになり述べた。
「わかったな。それではだ」
「ベルサイユにおいてドイツ皇帝が誕生する」
「そして統一されたドイツが」
「遂にそうなりますね」
「その通りだ。ドイツはこれからはじまるのだ」
 統一で終わりではなかった。そこからはじまると話してだ。
 ビスマルクは再び手を打ったのだった。ドイツの為に。ベルサイユでドイツ帝国を誕生させてだ。それからについても考えていたのだ。
 だがバイエルン王は。この時はだ。
 その城、王が築くべき城のことをだ。芸術家達と話していたのだった。
「内装の絵画だが」
「絵画はどうされますか?」
「それは」
「洞窟の絵はタンホイザーだ」
 まずはその場所の絵について話す。
「ヴェーヌスベルクの場面を描いてもらいたい」
「では洞窟自体をタンホイザーをイメージしたものにされますか」
「第一幕のヴェーヌスベルクの場面ですね」
「あの場面にされるのですね、洞窟も」
「そうしたい」
 まさにだ。それだというのである。
 

 

525部分:第三十一話 ノートゥングその六


第三十一話 ノートゥングその六

「だが中には。洞窟の中の湖にはだ」
「どうされるのですか、湖は」
「洞窟の中のそれは」
「白鳥、本物も含めてだ」
 それだけではないというのだ。ローエングリン、そして白鳥も。
「白鳥を模した小舟、機械で動くそれを置きたい」
「では洞窟の中にも科学を入れるのですか」
「今の科学を」
「照明もだ。様々なものを入れてだ」
 尚且つだというのだ。さらに。
「オーケストラも入れたい」
「洞窟の中に音楽もですか」
「それも入れますか」
「そうしたい。音楽は外せない」
 王にとって音楽は絶対のものだった。何故ならその音楽が王とワーグナーをめぐり合わせたからだ。それ故に外せないというのだ。
 そしてだ。王は芸術家達にさらに話していくのだった。
「後は食堂から厨房まで料理をすぐに届けられる様に小型のエレベーターを置きたいな。食器は温かいものをすぐに出せる様にしたい」
「城には常にですか」
「科学を取り入れますか」
「外観は中世でありながら中には現代もある」
「そうした城にされるのですね」
「如何にも」
 まさにその通りだと。王は答えた。
「その他にもだ」
「城の各所にですね」
「科学を入れられて」
「科学は幸せをもたらす」
 王は言った。
「人にだ。そしてそれは」
「芸術にもですか」
「新たなものをもたらしますか」
「錬金術かも知れない」
 王はそこに神秘的なものと禁じられたものを見ながら述べた。
「しかしそれでもだ」
「芸術をも変える」
「それが科学ですか」
「そしてそれを今から築かれる城にも取り入れる」
「そうされるのですね」
「ミュンヘンのあの庭と同じだ」
 王が造らせたあの人工の庭とだというのだ。
「科学を入れて素晴らしい幻想の世界を造り出すのだ」
「左様ですか」
「そうされてですか」
「科学を取り入れた現代の芸術の粋を集めた城」
「それを築かれてですか」
「そうだ。素晴らしい芸術を築く」
 王は半ば恍惚としていた。その芸術を想い。
「ノイシュヴァンシュタイン、ヘーレンキムゼー等をだ」
「地下の洞窟もそうされてですか」
「そして内装にもですね」
「そうしたものを取り入れられて」
「暖房も入れたい」
 続いてそれもだった。
「とにかくだ。現代の科学は積極的に取り入れる」
「ではその様にしましょう」
「そしてそのうえで、ですね」
「素晴らしい城にされますか」
「これまで誰も築いたことのないような」
「そのつもりだ。私は築く」
 王はこれから築く城をだ。既に目を見て話す。
「これからだ」
「では。我々もです」
「今から細かい部分まで設計させてもらいます」
「そしてその完成図を持って来ます」
「それまでお待ち下さい」
 こう話してだ。芸術家達はまずは王の前を去る。一人残った王は残された設計図を見ていた。その王のところにだ。またあの騎士が来た。
 騎士はいつも通り王に一礼してからだ。にこやかに笑って言うのである。
「夢をいよいよですね」
「そうだ。現実のものとする」
 己の机に座りながらだ。王は騎士に述べた。
 

 

526部分:第三十一話 ノートゥングその七


第三十一話 ノートゥングその七

「私のやるべきことをな」
「そうされて下さい。それでなのですが」
「絵画のことだな」
「私も描いて下さるのですね」
「無論だ」
 そのことは当然だとだ。王は騎士に答えた。
「卿も描かずしてどうする」
「有り難うございます」
「卿と。そして」
 さらにだというのだ。王は。
「卿と同じ精神を持つ彼等もだ」
「描いていくのですね」
「全て描く。ワーグナーの全てをそこに描き」
 そしてだった。さらに。
「バロックにロココもだ」
「城の中に築かれますか」
「そうする。あのベルサイユも再現する」
 王が心から憧れているだ。その宮殿もだというのだ。
「だからだ。私はだ」
「わかりました。それでは」
「待っていてくれ。私は今から築く」
 そのだ。宮殿をだというのだ。
「それが今はじまったのだ」
「畏まりました。それでは」
「それではか」
「そのベルサイユには今は行かれないのでしたね」
「行きたくはない。そして」
 さらにだとだ。王は騎士に話した。
「私は新しい国旗もだ」
「それも掲げられませんか」
「それもしない」
 そのこともだ。しないというのである。
「私はバイエルンの王だ」
「そうですね。ならばですね」
「私はバイエルン王だ」
 こう話すのだった。そのことを念頭に置いて。
「それならば決してだ」
「ドイツ、即ちプロイセンの国旗ではなく」
「バイエルンの国旗ですね」
「それを掲げる」
 王は言った。
「そしてそれは咎められはしない」
「ビスマルク卿は御承知ですから」
「あの方は私の理解者か」
「そして心から心配して下さっています」
「不思議だ。私はあの方とは立場が違う」
 それもあらゆることがだ。違うというのだ。しかしだ。
「それでもだ」
「ビスマルク卿は陛下を理解されているからです」
 騎士はこう王に話す。
「ですから」
「そして私もだな」
「はい、ビスマルク卿を理解されていますね」
「見事な方だ」
 そのあらゆることが違う相手をだ。王は認めていた。そしてそのことを言葉にありのまま出してだ。王は騎士に話したのである。
「全てはドイツの為に行われているしな」
「あの方の夢はドイツを築かれることです」
「そうした意味で私達は同じか」
「その通りです。あの方はドイツ帝国を築かれ」
「私は城を築く」
「ワーグナー氏がそれぞれ想うことをです」
 ワーグナーは愛国者でもある。ドイツ人なのだ。それ故に芸術にあるドイツ的なものに関して著作において書き残してもいるのだ。
 そのワーグナーの見ているものをだ。二人はそれぞれだというのである。
「実現されようとされています」
「私達が」
「だからこそです」
 騎士は王に話す。
「あの方は今は」
「フランスを批判しているが」
「それもドイツ人故です」
「わかっていることだ」
 それ自体はだと言う王だ。しかしだ。
 感情からだ。王は言うのである。
 

 

527部分:第三十一話 ノートゥングその八


第三十一話 ノートゥングその八

「しかし。ああしてフランスを攻撃することはだ」
「どうしても認められませんか」
「許せないものがある」
 実際にそうだと。王は述べた。
「どうしてもな」
「仕方ありませんね。しかしです」
「このことは解決できるか」
「時間によって」
 時が全てを解決してくれる。そうだというのだ。
「ですから少しお待ち下さい」
「そうすればいいか」
「ワルキューレのこともありますが」
「あのことか」
「はい、ワーグナー氏もまたご立腹です」
「待てなかったのだ」
 これは自己弁護だった。王にとってはいささか珍しいことに。
「あの作品を。そしてだ」
「これからもですね」
「指輪は最後まで観てこそだ」
 ニーベルングの指輪四部作を全てだと。王は述べる。
「それも一刻も早く観たい」
「早急に」
「だからああしたのだ」
 待てなかった。どうしてもだった。
「だがそれは」
「間違ってはいません」
「そうか。そしてか」
「ワーグナー氏も間違っていません」
 彼もまただというのだ。間違ってはいないというのだ。
「ドイツ人として」
「そうだな。ドイツ人だからこそ」
「陛下はフランスを愛されています。しかし」
「そうだ。ドイツの敵だ」
「神聖ローマ帝国、ハプスブルク家とヴァロワ家の頃から」
 王の従姉であるそのエリザベートが嫁いだだ。ハプスブルク家とだというのだ。
「ですから。どうしてもです」
「戦わねばならなかった」
「そしてドイツは勝ちました」
 プロイセンと一つになっていた。ここでのドイツは。
「後は統一です」
「そうだ。それも間も無くだ」
「陛下はその統一されたドイツの中で」
「果たすべきことをするのだな」
「それまでの時間はあります」
 騎士は微笑み王に述べる。
「じっくりと為されて下さい」
「そうか。時間はあるのか」
「それを果たされてから陛下のおられるべき世界に入る」
 騎士はこう王に話していく。
「それが陛下の運命ですから」
「だからだな」
「はい、世界をゆっくりと築かれて下さい」
 騎士の背にだ。その世界があった。
 王は自室にいながらその世界を観てだ。騎士に述べた。
「そうしよう。ゆっくりとな」
「では私は今日はこれで」
「また来てくれるな」
「私は陛下の忠実な騎士です」
 これが王へのだ。騎士の返答だった。
「ですから」
「では。また会おう」
「それでは」
 こうした話をしてだった。騎士は王の前から姿を消したのである。そうしてだ。
 王は一人でも城について考えていった。その考える世界はワーグナー、バロックやロココも入れたそれだった。神話とキリスト教、そして科学がその中にあった。
 科学についてだ。王はアルプスを観つつホルニヒに話した。
 アルプスは青と白がありだ。そして麓には緑が広がっている。
 青い空の下にあるその世界を観つつだ。ホルニヒに話すのである。
「この世界を。アルプスの上を」
「アルプスの上を」
「飛びたいものだ」
 こうだ。そのアルプスを観ながらの言葉だった。
 

 

528部分:第三十一話 ノートゥングその九


第三十一話 ノートゥングその九

「何時か。科学の力で」
「では気球で」
「いや、翼で飛びたい」
「翼で?」
「出来る様になる筈だ。人は翼を手に入れられる」
 科学を観てだ。王は言うのである。
「必ずだ。だからだ」
「何時かはこのアルプスの上をですか」
「飛びこの美しい世界を上から全て眺めたいのだ」
「それが陛下のお望みですか」
「その一つだ」
 そうだとだ。王はホルニヒに話す。
「そうしたい。私がそれを適えられなくとも」
「それでもですか」
「後世の者達ができればいい」
 未来のこともだ。王は希望と共に話した。
「そう考えている」
「そうですね。科学の力で」
「その力も。火薬にしても」
 戦争のことも。王は話した。
 自然に顔を曇らせて。王は言うのだった。
「花火やそうしたものであればいいのだが」
「では翼も」
「人はあらゆるものをあらゆることに利用する」
 王は次には悲しい顔になっていた。
「だからその翼もまた」
「戦争に使われるのでしょうか」
「間違いなくそうなる」
 そのこともだ。王は観ていた。
「やがてはな」
「空にも戦火が及ぶ様になるのですか」
「この世のあらゆる場所がこれまでそうなっていた」
 戦争が行われてきた。それならばだというのだ。
「それでどうして空だけが例外でいられようか」
「だからこそですね」
「空もそうなる。しかしだ」
 それでもだと。王はここで言った。
「私はそれでもだ」
「空を飛ばれたいですか」
「そしてアルプスを観たい」
 王はこうホルニヒに述べていく。
「最早あらゆるものは。現実は」
「現実は?」
「現実は私の手から離れようとしている」
 バイエルン王としてだ。今の言葉を出した。
「全てはベルリンに移ろうとしている」
「プロイセンにですか」
「プロイセンはフランスに勝った」
 ナポレオン三世が降伏した。それならばだというのだ。
「フランス人達が何を言おうともだ」
「フランスは敗れたのですね」
「そうだ。敗れたのだ」
 最早そのことはだ。覆すことはできないというのである。
 王はこの現実がわかっていた。戦争の現実が。
「最早どうしようもない」
「フランスにとっては」
「その通りだ。そしてドイツ帝国ができる」
 ドイツ人としてこのことを見ていた。
「プロイセンを軸としたな」
「君主は残りますが」
「残るが最早統治することはない」
 それはもう決してだというのだ。
「全てはプロイセンが取り仕切ることになる」
「バイエルンはドイツの中に入ってしまうのですね」
「歴史の流れは必然だ」
 ドイツの中にだ。そうなるというのである。
「そしてそのドイツはだ」
「プロイセンですね」
「その通りだ。ビスマルク卿が取り仕切られる」
 こう言っていく。その時ふとだ。
 ホルニヒがだ。王にこのことを尋ねたのだった。
 

 

529部分:第三十一話 ノートゥングその十


第三十一話 ノートゥングその十

「それでなのですが」
「何かあったのか」
「首相から陛下にお話がありますが」
「旗のことだな」
 王はすぐにだ。ホルニヒに答えを述べた。
「王宮に掲げる旗のだな」
「はい、そのことで」
「新しく生まれるドイツの国旗かプロイセンの国旗か」
「どちらにされるのでしょうか」
「どちらでもない」
 まずはこう答える王だった。
「そのどちらでもだ」
「それは一体」
「ドイツ帝国はまだ誕生していない」
 王はまずだ。ドイツの国旗について述べた。
「だからだ。ドイツ帝国の国旗、既に定まっているにしてもだ」
「それでもですか」
「そうだ。ドイツの国旗は掲げない」
 だからだというのだ。ドイツの国旗は掲げないというのだ。
「そしてプロイセンの国旗はだ」
「それはどうして掲げないのでしょうか」
「我が国はバイエルンだ」
 これがプロイセンへの王の言葉だった。
「それで何故プロイセンの国旗を掲げるのか」
「そういうことですか」
「その通りだ。だからプロイセンの国旗を掲げる必要はない」
 不要とまで言い切った。プロイセンの国旗については。
「これはこれからもだ」
「普遍ですか」
「我が国がバイエルンである限りはだ」
 王は今の自身の言葉にはふと陰をさした。だがそれをそのままにして話すのだった。
「それはしない」
「では掲げる旗は」
「バイエルンの旗だ」
 まさにだ。それだというのだ。
「その旗を掲げる」
「そうされますか」
「その通りだ。首相には私から伝えよう」
 王はその遠くを見る目でホルニヒに話す。
「掲げるのはバイエルンの旗だとな」
「首相はそのことをどう思われるでしょうか」
「認めるだろう」
 そうなるというのだ。
「彼はプロイセンを嫌っているからな」
「だからですか」
「そうだ。だからだ」
 元々その為に首相になった。国民がプロイセンへの反感から前首相であるホーエンローエを排除させそのうえで首相になった者だからだ。
「彼は私のこの考えに賛同する。それに」
「それに?」
「私もだ。媚びはしない」
 王の言葉が強いものになる。
「王は誰にも媚びないものだ」
「だからバイエルンの旗ですか」
「そうだ。バイエルンの旗しかない」
 王は断言になっていた。
「これでわかったな」
「はい、それでは」
 こうしてだった。王は王宮にバイエルンの旗を掲げることを伝えた。そのうえで勝利を祝う旗はバイエルンの旗になった。ビスマルクはこのことをベルサイユで聞いた。
 そうしてだ。こう言うのだった。
「挑発だ」
「挑発ですか」
「そうだ。挑発だ」
 こう周囲に漏らしたのである。
「あの方のだ。だが」
「だが?」
「この挑発は受け入れるべきだ」
 バイエルンの旗を掲げること、それはだというのだ。
「プロイセン、いやドイツはだ」
「バイエルン王のその挑発をですか」
「あえてですか」
「そうだ、受け入れよう」
 ビスマルクはまた言った。
「その程度の度量はなくてはならない」
「ドイツ帝国としてはですか」
「そうあるべきなのですか」
「ドイツ帝国は多くの君主国家の連合国家だ」
 三十五の君主国と四つの自由都市によるだ。そうした意味でドイツは分権国家なのだ。ビスマルクが中央集権を目指し実際にそれに近くともだ。
 

 

530部分:第三十一話 ノートゥングその十一


第三十一話 ノートゥングその十一

「だからだ。そこにある国もだ」
「ドイツの中で。全てが行われますか」
「バイエルンはドイツの中で。例えかなりの権限が与えられても」
 それでもだというのである。
「ドイツ、プロイセンの中にある」
「属国ですか」
「そうだ」
 まさにそうだとだ。王は言い切った。
「バイエルンはプロイセンの属国となるのだ」
「つまりバイエルン王は臣下になるのですね」
 ホルニヒにもわかった。この現実が。
 それでだ。王に対してだ。無念の声で話したのである。
「かつての神聖ローマ帝国と同じく」
「そう考えられるな」
「しかしそれでもですね」
「あの頃は実質的に独立していた」
 とりわけ三十年戦争の後はだ。そうなっていた。あの戦争は確かにドイツという国、神聖ローマ帝国を破壊した。だがそれと共にだったのだ。
 バイエルン、他の国々も国家になれたのだ。それまでの領邦国家から独立国家となったのである。それぞれが外交権まで持つ。
 しかしそれも終わるのだった。新しいドイツ帝国の誕生と共に。
 王はドイツ帝国の誕生を喜ぶ。しかしそれと共にだった。
「バイエルンが消えるのだ」
「陛下は王のままですが」
「しかしドイツ帝国の中で。その中の一地方の王に過ぎなくなる」
 その通りだった。バイエルンもそうなるのだ。
 だからこそだ。王は言うのだった。
「それは運命だ。私はカトリックだが」
「予定説ですか」
「そうだ。新教徒のそれになるが」
 それでもだとだ。王は話してだった。
「神は全てを定められていたのだ」
「ドイツ帝国の誕生とバイエルンの属国化も」
「そして」
「そして?」
「私自身の運命、為すべきこともだ」
 また見た。その目に城を。
 その城を見つつだ。王はホルニヒに話すのである。
「この現実が醜くおぞましいものだとしても」
「それでもですか」
「そうだ。私はこの世界に美を築こう」
 その果たすべき運命をだ。王は見ていた。
 そうしてだった。王は今その為にだ。全てを考えていた。
 王にとっても為すべきことははじまっていた。その中でだ。
 ベルサイユ宮殿でのドイツ皇帝の戴冠式がはじまった。しかしそこには。
 バイエルン王の姿はなかった。このことにだ。
 ドイツの諸侯達もプロイセンの貴族達もだ。怪訝に思わざるを得なかった。
 壮麗な宮殿、バイエルン王が愛している筈のその宮殿の中でだ。彼等は困惑さえ見せてだ。このことをひそひそと囁き合うのだった。
「風変わりな方だが」
「それでもだ。幾ら何でもだ」
「諸侯の中でお一人だけおられないというのは」
「しかもだ」
 尚且つだというのだ。
「バイエルン王はドイツ諸侯の中で随一の方だ」
「ヴィッテルスバッハ家の家柄もバイエルンの国力も」
「全てだ」
 プロイセンを別格としたという意味での言葉だ。
「しかしそのバイエルン王がおられない」
「これではプロイセン王、いやドイツ皇帝もどう思われるか」
「只でさえ戦勝にバイエルンの国旗を掲げているというのに」
「それでこれは」
「しかも代理の方はというと」
 彼等は観る。その代理の者を。
 王弟であるオットーだ。彼を見てだった。
 

 

531部分:第三十一話 ノートゥングその十二


第三十一話 ノートゥングその十二

「王弟殿下は大丈夫なのか」
「しきりに奇行を繰り返しておられるというが」
「ミサの時でも何かあらぬことを口ばしられたとか」
「その殿下を寄越されるとは」
「果たしていいのだろうか」
「しかし今は」
 どうかというのだ。今は。
「落ち着いておられますな」
「左様ですな。それでは」
「よしとするべきですね」
「我々としては」
 こう話してだった。諸侯達も着賊達もだ。
 今はいいとした。しかしだった。
 ビスマルク、白い軍服の彼だけはだ。冷静にだ。
 その中にいてだ。こう言うのだった。
「これでいいのだ」
「バイエルン王がおられずともですか」
「それでいいのですか」
「そうだ。これでいい」
 また言うのだった。側近達に。
「若しここにバイエルン王がおられればだ」
「その時はですか」
「かえってよくなかったですか」
「あの方はあまりにも麗し過ぎるのだ」
 バイエルン王の容姿だけでなくだ。内面まで話すのだった。
「それではだ」
「この場を支配してしまう」
「そうだというのですね」
「その通りだ。それにあの方はここにいてはあの方が傷つかれる」
 そうなるというのである。ビスマルクはここでも王を気遣っていた。
「それは避けたい」
「だからですか」
「あの方はあえてですか」
「来られなくてよかったのだ」
 ビスマルクは確かな声で言い切った。
「まことによかった」
「しかしオットー様ですが」
「あの方は」
「今は御心が平穏だな」
 ビスマルクもまたその彼を見る。そうしての言葉だった。
「ならそれでいい」
「それで宜しいですか」
「今は」
「そうだ。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「殿下はあの方の足枷になってしまっている」
 ビスマルクの顔は憂いのものになる。祝うべき場の中で。
 そうしてだった。ここではこんなことも話した。
「そしてあの方を苦しめられておられるのだ」
「だから玉座を降りられないのですか」
「退位を望まれているとも聞いていますが」
「人は全てを思い通りにはできない」
 ビスマルクは語る。人のそれを。
「それはとりわけ王ならばだ」
「王ならば余計にですか」
「思い通りにならない」
「そうなのですか」
「そうだ。愚か者は王は万能だと思っている」
 共産主義者のそうした主張はだ。ビスマルクにとっては全否定するものだった。
 その否定をだ。今言うのだった。
「権力にあるからだと。しかし」
「実のところは束縛されていますか」
「あらゆるものに」
「しかも常に誰かに見られている」
 ビスマルクは目も話に出した。
「それは非常に辛いものだ」
「ではその中で己の望むままに振る舞える者はおかしいのですか」
「歴史にある暴君達は」
「ルイ十四世にしてもだ」
 栄華を極めただ。あの太陽王、彼もだというのだ。
 

 

532部分:第三十一話 ノートゥングその十三


第三十一話 ノートゥングその十三

「あの王にしてもそうだった」
「建築に美食に美女に戦争に明け暮れていてもですか」
「太陽王ですらですか」
「束縛の中にあったのですか」
「そうだ。あの王も常に誰かに見られ」
 目覚めや食事、そうした日常全てにおいてだ。ルイ十四世にはプレイベーとトいうものがなかったのだ。それも何一つとしてだ。
「そしてブルボン家の束縛の中にあったのだ」
「では好きに振る舞える王は何かがおかしい」
「そうだというのですね」
「そういうことだ。そうした君主は何かがおかしい」
 実際にだ。ビスマルクは述べた。
「普通はできるものではないのだ。とりわけ」
「バイエルン王はですか」
「その中にとりわけ囚われている」
「そうだというのですね」
「その通りだ。あの方はあまりにも繊細で感受性が強い故に」
 王の気質、まさにそれによってだった。
「玉座の束縛の中におられるのだ」
「そのうちの一つがオットー様」
「王弟殿下ですか」
「殿下にそのお気持ちはない」
 もっと言えば悪意もない。兄王に対して。
「全くだ」
「しかしそれでもですか」
「御自身がそう思わずとも」
「そうだというのですか」
「そうだ。しかし今は何もなくて何よりだ」
 オットーの平穏をだ。ビスマルクも喜んでいた。
 そうしてだ。周囲にまた話した。
「バイエルンはこれでいい」
「バイエルン王の御出席はなしで」
「このままで」
「そしてバイエルンには様々な権利が認められるべきだ」
 ドイツの中にあってもだ。そうだというのだ。
「軍事や鉄道、郵便に関してはだ」
「バイエルンのままですか」
「それでいい」
 こう話すのだった。バイエルン自体に。
「少なくとも私はあの方について悪い様にはしない」
「バイエルン王がお好きなのですね」
 側近の一人がこう問い返した。
「閣下は」
「好きだ」
 そしてだった。ビスマルクは。
 バイエルン王がそうするその遠い目になりだ。その問いに応えた。
「あの方の御心、そして御覧になられているものも」
「そうしたものがですか」
「お好きなのですか」
「そうだ。だからこそあの方は御護りしたい」
 騎士になっていた。彼も。
「ドイツのこの中で」
 こう話すのだった。ドイツ皇帝、自身の主であるプロイセン王がそれになる戴冠式においてだ。宮殿の外から砲声が聴こえそれが戴冠式を祝うファンファーレとなっていた。パリではコミューン達が騒いでいたのだ。
 だがそのコミューンも鎮圧された。このことを聞いてだ。
 王はだ。苦い顔でホルンシュタインに述べた。
「気持ちはわかる。そして無駄な流血は忌むべきことだ」
「それでもですね」
「共産主義によって為されるものならば」
「危ういですね」
「非常にだ。危ういものとなる」
 こうだ。王宮に戻ったその中でホルンシュタインに話すのであった。
「それは卿も同じ考えだと思うが」
「少なくとも私は」
 前置きしてからだ。ホルンシュタインは答えた。
「共産主義については否定的です」
「それは貴族だからか?」
「いえ、ドイツ人だからです」
 だからだとだ。ホルンシュタインは王に答えた。
 

 

533部分:第三十一話 ノートゥングその十四


第三十一話 ノートゥングその十四

「あの思想がドイツに入れば恐ろしいことになります」
「ドイツにおいてフランス革命が起こる」
「ドイツにロベスピエールが誕生しますね」
「共産主義はジャコバンなのだ」
 遥か先にわかることをだ。王は今述べた。
「全く新しい思想に見えるが実はそうではないのだ」
「違うのですか。新しくはなかったのですか」
「そうだ。あれはジャコバンなのだ」
 王は共産主義を再びだ。ジャコバンだと述べた。
「全てを否定し自分達以外を粛清していく」
「そして神を否定し理性やそういったもののみを崇拝していくからですね」
「実は崇拝するのは理性ではない」
 王はこのことも否定した。
「教義だ。そしてそれを手にするロベスピエールだ」
「そういったものがですね。共産主義において崇拝されていくのですか」
「王は殺され彼等は身内同士でも殺し合う」
 ジャコバン派で実際に起こったことをだ。王は述べていく。
「共産主義はそうした主張だ」
「だからこそですか」
「共産主義はドイツに入れてはならない」
 王は述べた。
「そうした意味でビスマルク卿は正しい」
「あの方は共産主義者を徹底的に取り締まっておられますね」
「さもなければ取り返しのつかないことになりかねない」
「陛下も同じ御考えですね」
「その通りだ」
 王はこうホルンシュタインに述べる。
「私は王だ」
「だからこそですか」
「あの思想は認められない」
 どうしてもだというのである。
「そしてだ」
「そしてなのですね」
「共産主義者と共にだ」
 ここでだ。ビスマルクのことを考えてだった。
 そうしてだ。こう言ったのである。
「あの方はカトリックも問題視しておられる」
「あのことですか」
「文化闘争になるか」
 王はここでは憂いの顔で述べた。
「色々と規制が為されるだろう」
「そのことについてはどう思われますか」
「残念だ」
 王は今度は無念の言葉だった。
「非常にな」
「しかしそれでもです」
「そうだ。仕方のないことだ」
 王は言う。その無念の声で。
「そのこともまた、だ」
「しかしそれでもですか」
「ドイツにおいて宗教対立は以前として存在している」
 それこそマルティン=ルターの頃からである。一度三十年戦争という破局を経験している。しかしそれでもだ。対立は存在しているのだ。
 だからこそだ。王は言うのだった。
「その対立を解消することは容易ではない」
「一朝一夕にはできませんね」
「世代をかけて行われるものだ。だが」
 それでもだというのだ。
「今すぐにはできない故にだ」
「抑圧が起こりますか」
「どちらか一方をあまり極端に自由にさせることはできないのだ」
「政治としてはですね」
「そうだ。政治だ」
 王は政治を語る。その独特の視野から。
「政治としてはだ。どうしてもだ」
「カトリックもプロテスタントもどちらも」
「バランスを維持しなければならないのだ」
「そこが共産主義とは違いますね」
「共産主義はドイツを滅ぼす」
 そうした意味で共産主義については全否定だった。
 

 

534部分:第三十一話 ノートゥングその十五


第三十一話 ノートゥングその十五

「だがカトリックは違う」
「ドイツは滅ぼしませんね」
「亀裂を生じさせる。しかし」
「それでもですね」
「亀裂で済む」
 それ以上ではないというのである。
「修復が可能なだ」
「ではビスマルク卿は共産主義については共産主義よりはですね」
「緩やかなものになる」
 そうなるというのである。
「抑圧もな」
「全否定しなければならないものとバランスを維持すればいいものとですか」
「そうだ。カトリックもまたドイツの中にある」
 このことはビスマルクも否定できなかった。プロイセンもまた。
「そしてそのうえでだ」
「バランスを維持してですか」
「やっていくのだ。時が経てばその対立は薄まっていく」
「今は引き締めてもですね」
「その対立は弱まっていく」
 そうなるというのである。
「だから安心していい」
「このことについてはですね」
「そうだ。共産主義の問題と比較してもだ」
「その通りですね」
「しかしバイエルンの者達。カトリックはだ」
 当のカトリックのだ。彼等はだというのだ。
「そのことが理解できない」
「つまり我々は、ですね」
「規制される者は僅かな規制も望まない」
「それがドイツに必要なことであっても」
「受け入れられないのだ」
 そうだというのだ。
「どうしてもだ」
「はい、それもまたその通りですね」
「ドイツはまだはじまったばかりだ」
 統一されたドイツはだというのだ。
「まだ様々なことがあって当然だがだ」
「中々難しいことですね」
「そうだ。ドイツの舵取りは」
 内政だけでなく外交のこともだ。ドイツの舵取りは容易ではない。
 ドイツはこのことはわかる。だがそれでもだった。
 王はだ。沈んだ顔になり述べた。
「だが私は」
「陛下は」
「私はもうだ」
 こう言うのだった。
「現実というものについて思うことが少なくなってきた」
「現実に対して」
「ワーグナー。城に」
 この言葉を聞いてだ。ホルンシュタインは危ういものを感じた。王のその現実への倦みにだ。決していいものを感じなかった。
 だがそのことは今は隠してだ。王の話を聞くのだった。
「では陛下」
「何だ」
「程々に」
 これが彼がこの場で王に言うことだった。
「全ては中庸にです」
「中庸か」
「ビスマルク卿も中庸を目指されています」
 このことをこの時点において理解している者は少なかった。
「ですから陛下もです」
「バイエルンの為にだな」
「そのことを望みます」  
 それまでは王を見ていたホルンシュタインはここでは中庸を見ていた。その天秤をだ。
「私はバイエルンの為に動くことを常としていますので」
「その通りだな。卿は」
「はい」 
 王の言葉に答えてからだった。
 彼はだ。こう言ったのである。
「私は確かにプロイセン寄りです」
「それはただ卿がプロイセンの縁者であるだけではなくだな」
「あれも私が望んでそうしたことですが」
 具体的には縁戚関係にある。こうした意味で彼はバイエルンにおいては異質の存在だ。だがそれでもなのだ。
 

 

535部分:第三十一話 ノートゥングその十六


第三十一話 ノートゥングその十六

「しかしそれはです」
「バイエルンの為にだな」
「下世話な言葉では長いものに巻かれろになりますが」
「それもまた違うな」
「時代はバイエルンをドイツの中に入れようとしていました」
 そしてそれは今もだった。
「だからこそです」
「卿はプロイセンに依っている」
「下手に独立しても何もなりません」
 王自身にだ。こう話すのである。
「かえってプロイセンに飲み込まれるだけです」
「プロイセンは圧倒的だ」
 王もだ。このことを言う。
「その軍事力だけでなくだ」
「経済力もですね」
「科学もだ。植民地こそないがな」
「イギリスやフランスの様にですね」
「しかしそれでも国力は高い」
 植民地はこの時代ではまさに国力のステータスシンボルだった。プロイセンにはそれはまだない。だがそれでもだ。その国力はというと。
「ドイツ諸侯を圧倒している」
「無論バイエルンも」
「それで下手に独立を言ってもだな」
「何にもなりませんから」
「最悪プロイセンとの戦争になり」
 そしてどうなるか。その場合のことも王はわかっていた。
「我が国は敗れる」
「そうすれば何もかもが終わりです」
「国土を蹂躙されることも覚悟しなければならない」
「そうなれば元も子もありませんから」
「その通りだ。だからこそだ」
 それでだというのである。
「バイエルンはプロイセン、ドイツに寄るべきだ」
「そう確信しているからこそです」
 ホルンシュタインは真顔で王に話していく。
「私はバイエルンの為に動いているのです」
「そういうことだな」
「ですから」
 ここでまただった。ホルンシュタインは話を戻した。今度戻した話は。
「陛下はバイエルンの為に動かれて下さい」
「それが王の務めか」
「オットー様では無理です」
 ホルンシュタインも知っていた。彼の状況は。
 幸い今は落ち着いておられますが」
「危ういな」
「最早どうなるかわかりません」
 それでだというのだ。オットーは玉座に座れないというのだ。
「決してです」
「だからこそ私がか」
「玉座におられるべきです」
「そうなのだな」
 王はここで崩れた。身体には出ていないが心がそうなった。そうしてだった。
 ホルンシュタインにだ。こう述べたのである。
「ではだ」
「はい、玉座に留まられますね」
「そうする。しかしだ」
「あのアルプスの城達ですか」
「それは築く」
 望みではなかった。既に。
「何としてもだ」
「ですがくれぐれもです」
「負担はかけるなというのだな。国に」
「このことを願います」
 ホルンシュタインはバイエルンの財政を見ていた。国家の財政というものは容易に破綻するものだからだ。だからこそ王に言うのである。
「くれぐれもです」
「財政。それは」
「それは?」
「今のことでしかないのだがな」
 それでもだと話してだった。王は。
 

 

536部分:第三十一話 ノートゥングその十七


第三十一話 ノートゥングその十七

 今はだ。ホルンシュタインを下がらせた。そうして遠くからドイツの勝利を讃える喚声を聞いていた。だがそれはバイエルンへの喚声ではなかった。
 その王はまたバイエルンに来たプロイセン、ドイツの皇太子を迎えた。その際だ。
 軍服を着て馬に乗り進む太子を同じく軍服を着て馬に乗り迎え敬礼で迎える。太子はその王に対して敬礼で返す。全てドイツ式の敬礼だ。
 その敬礼を終えてからだ。王はふとこんなことを言った。
「はじめてだな」
「はじめてとは?」
「これが臣下としてはじめての敬礼だ」
 こう周囲に呟いたのである。
「私のな」
「陛下・・・・・・」
「昔に戻っただけか」
 王は馬上から遠くを見て述べた。
「バイエルンはかつては神聖ローマ皇帝の臣下だったのだからな」
「そのことはあまりです」
「御考えになられない方が」
「そうしようか。しかしだ」
 だがそれでもだとだ。王はまた話す。
「私は最早至高ではないのだ」
「臣下だからですか」
「それ故に」
「これからはそうなる」
 王はそのことを誰よりも感じ取っていた。そうしてだ。
 その感じ取っている中でだ。また言うのだった。
「では後でだが」
「後で?」
「後でとは」
「太子に贈りものをしたい」
 こう言ったのである。
「あの方にだ」
「バイエルンからですね」
「そうされたいのですね」
「受け取って頂ければいいが」
 ふとこんなことも言った。
「そのことを願う」
「それは何でしょうか」
「一体」
「手に取るものではない」
 そうしたものではないというのだ。
「また別のものだ」
「では名誉ですね」
「そうしたものですね」
「そうだ。あの方に名誉をお渡ししたい」
 こう周囲にも述べる。
「是非な」
「そうですね。太子にとってもいいと思います」
「それは」
「そうだ。是非ともそうしよう」
 こう話してだった。王は太子にそれを渡すことにしたのだった。
 お決まりの華やかな宴に歌劇、そしてそれからだった。
 王は太子の前に出てだ。こう申し出たのだった。
「宜しければですが」
「何でしょうか」
「贈りものをさせて頂きたいのですが」
 卑屈ではなかった。臣下となってもそのうえでだ。
 王は太子にだ。こう話したのだった。
「バイエルン国王として太子にです」
「私にですか」
「バイエルン王国大佐の階級をお渡ししたいのですが」
 これが名誉だった。
「これは如何でしょうか」
「はい」
 太子は王の申し出にまずは笑顔で頷いた。
 そしてそのうえでだ。王のその好意を受けようとした。しかしだ。
 ここでだ。太子の周りの者達がだ。その太子にそって耳打ちした。
 その耳打ちを受けてだ。太子は笑顔を瞬く間に真剣なものにさせてだ。こう王に話したのだった。
「申し訳ありませんが」
「何か?」
「まずは皇帝陛下から承諾を受けてからです」
「陛下からですか」
「そうして宜しいでしょうか」
 バイエルン王からの好意だけでは駄目だというのだ。
「まずは」
「そうですか」
 太子にそう言われてだ。王はだ。
 

 

537部分:第三十一話 ノートゥングその十八


第三十一話 ノートゥングその十八

 暗い顔になりそのうえでだ。太子の言葉を受けた。
 そしてそのうえでだ。その場をそっと離れたのだった。
 気付けば王はその場から完全に消えていた。そうしてだった。
 一人沈んだ顔になりだ。王はワインを飲みはじめた。
 その王の傍らにだ。ここでもだ。
 あの騎士が姿を現しだ。王に言ってきたのである。
「御気分を害されましたか」
「少しな」
 そうだとだ。王はその騎士に答える。
 ワインを入れているグラスを右手に持ちながらだ。王はその紅の透き通ったものを見ながらだ。そのうえでこう騎士に対して述べた。
「やはり私はもう臣下なのだな」
「至高の存在ではなくなりましたね」
「運命はわかっていた」
 王としてだ。それはだというのだ。
「既にだ」
「王の上に立つのは教皇、そしてですね」
「皇帝だ」
 ドイツ皇帝。まさにその存在がだ。
「その皇帝の臣下になったのだ」
「その通りです。しかしです」
「それでもだというのか」
「陛下の玉座は永遠のものです」
「永遠のか」
「この世の玉座から夢の世界の玉座に赴かれます」
 騎士はまたこのことを語っていく。
「そしてその玉座はです」
「至高のものか」
「はい、陛下の為に用意されているのですから」
「聖杯城の玉座か」
「陛下はそこに座られるのですから」
 だからだというのだ。王はこれからはだというのだ。
「今は憂いを感じられてもです」
「それはやがて終わるのか」
「ですから沈まれることはないのです」
「そうかも知れない。しかしだ」
 それでもだとだ。王は話す。
 どうしてもその臣下であることを意識してだ。それで言うのだった。
「私はどうしても」
「そこまで仰るのならです」
 騎士は王の憂いが容易に消えないのを見てだ。ここで話を動かした。
 こうだ。王に話したのである。
「城を築かれて下さい」
「城をか」
「はい、陛下が築かれているその城達をです」
 築くべきだというのだ。さらに。
「そうされるのがいいかと」
「そうか。この憂いから逃れる為に」
「陛下の為にもなります」
 その城を築くことはだというのだ。
「ですから是非です」
「わかった。それではだ」
 王も騎士の言葉に頷く。そうしてだった。
 王は静かにだ。ワインのグラスを置き。
 そのうえでだ。騎士に述べたのだった。
「城を築いていく」
「陛下がこの世において果たされることを」
「そうしていこう」
「ではその様に」
「私の憂いは消えはしない」
 王にとって憂いはそうしたものだった。まさに永遠のものだ。
 しかしその永遠のものを手にしたままだ。王は騎士に述べていく。
「だがそれを少しでも払う為に」
「その為にですね」
「私は城を築こう」
「そうされて下さい」
「卿もその中にいる」
 城の中にだ。そうだというのだ。
 

 

538部分:第三十一話 ノートゥングその十九


第三十一話 ノートゥングその十九

「むしろ卿が主役か」
「私と。私と同じ心を持つ彼等が」
「その中にいる。私の中に」
「そして陛下もです」
「私も中にいるのか」
「陛下はあの城の主となられる方なのですから」
 だからこそだというのだ。
「ですから」
「私もそうなのか」
「そうです」
 騎士は微笑み王に語る。
「必然的にです」
「陛下もまたそうなります」
「私もまた卿等と同じく」
「そのことはお嫌ですか」
「嫌である筈がない」
 王は即座に否定した。そのことを。
「私は卿に出会ってから今に至るまで卿のことを考えていたのだから」
「それでは宜しいですね」
「あの城において永遠の王となる」 
 王はそこに新たなものを見ていた。夢を。
 そうしてだった。王はさらに話していく。
「ワーグナーがあの世界を描くのはこれからだ」
「そうですね。まさにこれからです」
「まずは指輪の残る二部がある」
 その作品達もだ。王は見ていた。
「ジークフリートと神々の黄昏だ」
「ワーグナー氏の生涯の仕事を終わらせてから」
「そうしてだな」
「はい、パルジファルにかかるでしょう」
「パルジファル。いい響きだ」
 王はその名前自体にだ。清らかさを見出していた。
 そうしてだ。こう騎士に述べた。
「ワーグナーの世界に相応しい」
「そうですね。そして」
「そして?」
「パルジファルは陛下御自身なのです」 
 騎士がだ。微笑んで王に話した。そうだと。
「陛下はまさにパルジファルなのです」
「私があの城に入るからか」
「それもありますが」
 騎士は王にさらに話していく。
「先程お話させて頂いた通りで」
「私もまた卿等と同じだからこそ」
「だからこそです」
 それでだというのだ。王はパルジファルだというのだ。
「例えば陛下は私に会われ」
「それで大きく変わった」
「これはそのままですね」
「そうだな。クンドリーの接吻で目覚めた彼だ」
 そのだ。パルジファルだというのだ。
「そうなるな」
「陛下への接吻は私との出会いでしたが」
「それでだな」
「はい、それと共にです」
 こう話していくのだった。
「陛下はパルジファルであられるのです」
「清らかな愚か者か」
 パルジファルとはだ。まさにその通りだった。
「それだな」
「はい、左様です」
「では私は槍は」 
 その槍は何かはだ。王はわからない。
 だがそのことについてもだ。騎士は微笑んで答えた。
「御心です」
「私の中にあるのか」
「いえ、陛下の御心がです」
 それ自体がだ。槍になるというのだ。
 

 

539部分:第三十一話 ノートゥングその二十


第三十一話 ノートゥングその二十

「陛下は既に槍も聖杯も持っておられるのです」
「私の心がそのままその二つか」
「その通りです」
「では後は城を築き」
「それを終えた時にこそ」
 それからだった。王の次に為すことは。
「我等の世界において下さい」
「そうさせてもらおうか」
「この世は陛下にとってはあまりにも汚れています」
 そして醜い。そうした言葉だった。
「しかしその世に果たすべきことがあり」
「そうしてだな」
「そうです。さらにあるのですから」
「果たそう」
 王は騎士の話を聞いたうえで呟いた。
「それではな」
「ではその様に」
 騎士は一礼した。そうしてその姿を次第に消していく。王はその騎士を見ながらだ。少しだけ微笑みそのうえで騎士に問うたのだった。
「また帰るのだな」
「そうさせてもらいます」
「また会おう」
「はい、それではまた」
 こう話してだった、騎士は王の前から消えたのだった。
 そして後に残った王はだ。少しだけ気が晴れて。
 傍にあった鈴を鳴らした。そうしてホルニヒを呼んでだ。
 そのうえでだ。彼にこう告げるのだった。
「これからアルプスに向かう」
「ですが今は」
「殿下のことか」
 ドイツ帝国皇太子、その客のことをだというのだ。
「あの方か」
「はい、お待ちですが」
「もういいのだ」
 その現実についてはだ。王は空虚に返した。
 そのうえでだ。こう述べたのだった。
「私にとってはだ」
「しかしそれでは」
「既に必要なことはした」
 王はそのことはもうしていた。そのうえでの言葉だった。
「ならばいい」
「では今から」
「アルプスに向かう。そうして」
「ノイシュヴァンシュタインですか」
「あの城に向かおう」
 その城の名を聞くとだ。王の言葉が弾んだ。
 そのうえでだ。こうホルニヒに述べた。
「そしてだ」
「そのうえで、ですね」
「あの城の築城を急ごう」
「リンダーホーフとヘーレンキムゼーは」
「無論その二つもだ」
 築城を続ける。そうするというのである。
「是非だ。ワーグナーとフランスをそこに表現しよう」
「では手配をします」
「済まないな」
 ホルニヒには礼と共に謝罪の言葉も述べた。
「そなたにはいつも迷惑をかける」
「いえ」
 王のその言葉にはだ。ホルニヒは。
 静かに。畏まった態度になって応えたのだった。
「私は陛下の臣ですから」
「だからか」
「はい、このままいさせてもらいます」
 こう王に答えたのである。
「そして陛下の御言葉ならば」
「私は幸せなのだな」
 ホルニヒの話を聞いてだ。王は微笑んだ。
 そうしてだ。こうも言ったのだった。
「理解者がいてくれてそなたもいてくれている」
「私も」
「それを幸せと聞かずして何と言うのか」
 こう言っていくのだった。
「ではな」
「これよりアルプスに」
「赴こう」
 こう話してだった。王は実際にアルプスに経った。
 鉄道の豪奢な、青と金の宮殿を思わせる車両の中でだ。王はホルニヒから聞いていた。
「そうか。宮廷では大騒ぎか」
「皇太子殿下をそのままにしていいのかと」
「そうだろうな」6
 そのことはわかるとだ。王は述べた。
 だがそれでもだとだ。王は同時に言った。
「しかしだ」
「今陛下はここにおられますね」
「もう決めた。私は私の為すことをする」
「陛下の。それは」
「城を築く。そうする」
 こう言ってだった。ミュンヘンを振り返すことなくアルプスに向かってだった。
 そのまま城の築城に取り掛かるのだった。王はその世界に入っていった。夢幻の中に。


第三十一話   完


                2011・10・6
 

 

540部分:第三十二話 遥かな昔からその一


第三十二話 遥かな昔からその一

              第三十二話  遥かな昔から
 王立歌劇場ではだ。今は。
 真夜中だというのに活気があった。だがそれは舞台だけでだ。
 舞台の用意をしているスタッフ達や俳優達、歌手達はだ。異様なものを感じながらそのうえで動き回っていた。その彼等はひそひそと話をしていた。
「音を立てるな、ですか」
「だからフェルト靴なのですか」
 見れば彼等は普通の靴を使っていない。フェルト靴を履いている。
 それで音を立てない様にして舞台の中を動きながらだ。そのうえでだ。
 観客席を見る。しかしそこには。
 誰もいない。暗がりだけがあるだけだ。その暗い観客席を見てだ。
 彼等は無気味なものさえ感じてだ。こう言い合うのだった。
「話は聞いていたが無気味ですね」
「全くです」
「誰もいない観客席とは」
「こんな上演ははじめてですよ」
 こう口々に言い合うのだった。
「観客は御一人ですね」
「陛下御一人ということですが」
「こんな上演があるとは思いませんよ」
「異様です」
 こうまで言うのだった。
「これは陛下の希望と聞いていますが」
「こんな上演を望まれるとはどういうことでしょうか」
「訳がわかりませんね」
「全くです」
 そのロイヤルボックスにもまだ誰もいない。ただオーケストラだけがボックスに入っている。だがその彼等にしてもなのだった。
 劇場を観てだ。落ち着かないものを感じていた。そしてだった。
 彼等もだ。こう指揮者に話していた。
「あの、この上演ですが」
「本当に宜しいのですね」
「今こうして私達も演奏して」
「何もありませんね」
「はい」
 その通りだとだ。指揮者は答える。だがその指揮者の顔もだ。
 これから行われることにどうしても納得出来ない様子だった。それが顔に出ていた。
 そしてだ。彼自身もこう言うのだった。
「私もはじめてです」
「誰もいない演奏なぞ」
「観客が御一人とは」
「陛下だけとは」
「陛下は仰いました」
 指揮者はさらに話すのだった。
「観客達が自分を見ている中では観劇に集中できないと」
「だからなのですか」
「こうして御一人での上演をされると」
「そういうことなのですか」
「その様です」
 指揮者は浮かない顔でオーケストラの面々に話す。
「ただ。報酬はありますので」
「はい、それは弾んで下さるそうですね」
「それは聞いていますが」
「ならば我々はです」
 どうするかというのだ。彼等はだ。
「演奏に専念しましょう」
「はい。陛下が望まれるのなら」
「我々はそうするだけですね」
 彼等は釈然としなかったがそれでもだった。
 それが仕事なのでその場にいたやがてだった。
 深夜の歌劇場のロイヤルボックスにだ。光が宿った。その時にだ。
 王の入場を知らせるベルが鳴った。それを合図にしてだ。
 上演がはじまった。王が脚本を書かせた作品だ。舞台はバロックの頃のフランスだ。
 その演奏の中でもだ。観客席には誰もいない。やはり王がいるだけだ。
 王はそのロイヤルボックスの中でだ。傍らに立つホルニヒに述べていた。
「この方がいい」
「御一人での観劇ですか」
「いつも誰かに見られている」
 王はそのことについても述べる。
「それは辛いことだ」
「だからですね」
「観劇の時はそれに専念したい」
 王はぽつりとした口調になっていた。
 

 

541部分:第三十二話 遥かな昔からその二


第三十二話 遥かな昔からその二

「こうしてだ」
「だからこの様にされているのですか」
「そうだ。私は静かにしていたい」
 王のその願いである。
「一人でだ」
「だからこうされているのですね」
「そうだ」
 まさにそうだとだ。王はホルニヒに述べる。
 そしてだった。さらにこんなことも話した。
「許されないかも知れない。これは私の我儘だ」
「それは」
「素直に言っていい」
 王を気遣うホルニヒにだ。王は告げた。
「これは私の我儘だな」
「僭越ですが」
「そなたは嘘を吐かない」
 王がホルニヒを信頼し傍に置く何よりの理由だ。
「だからいいのだ」
「申し訳ありません」
「謝らずともよい。わかっている」
 こうも言う王だった。言いながらその顔は舞台にある。暗闇の中に浮かぶその舞台を観ながらだ。王は手を組み肘をボックスの上に置いて立たせて見ていた。
 そうしながらだ。王は言うのだった。
「我儘だ。そして浪費だ」
「そうなります」
「しかし私は耐えられないのだ」
 周囲の目にだ。そうだというのだ。
「人の視線に」
「前から仰っている様に」
「そうなのだ。どうしてもだ」
 王はそのことに苦しみを見せていた。
「見て。そして噂する」
「陛下のことを」
「人も視線も言葉も痛いのだ」
「弓矢の様にですか」
「そうだな。弓矢だ」
 それだとだ。王はホルニヒの言葉に応える。
「そこには毒がある」
「人の毒ですか」
「人は毒も持っているのだ」
 これは王独特の考えだった。その人の毒はというと。
「心に入り蝕んでいく毒だ」
「それが陛下を」
「常に苦しめてきた。だから」
 そのだ。視線や言葉をだというのだ。
「もう避けたいのだ」
「だからこそ今こうして」
「一人で観たいのだ」
 こう言うのである。
「観劇はだ」
「そして普段もですか」
「人は口さがない」
 王はまた言う。
「何かを言われるのは辛いのだ」
「ですが陛下」
「その周囲がどう言うかだな」
「はい、浪費だと」
「無駄な。私だけの為の公演だと」
 それはわかっているのだ。王もだ。
 わかっていないことではない。無論抵抗はあった王自身も。
 だがそれでもだ。王は観劇を楽しみたかった。それでだ。
 暗闇の中にそこだけ浮かび上がるロイヤルボックスの中でだ。ホルニヒに話すのだった。
「そうだとだな」
「そう言われることは」
「わかっている。しかしだ」
「それでもですか」
「私はこうしていたいのだ」
 噛み締める様な顔で。王は言った。
「人が辛いのだ。できればだ」
「できれば?」
「何らかのことで一人で観劇を観られれば」
 その夢もだ。王は述べた。
 

 

542部分:第三十二話 遥かな昔からその三


第三十二話 遥かな昔からその三

「それは幸せなことだ」
「御一人で、ですか」
「科学でそうしたことができれば」
 どうかというのだ。王は。
「私は幸せになれるが」
「ですがそれは」
「できない。科学はより進歩して欲しい」
 それが王の望みでもあった。
「私だけでなく多くの者も幸せにしてくれるのだからな」
「少なくとも陛下は」
「アルプスの上も飛びたい」
 王はこの夢も語った。
「そして一人で観劇もしたい」
「ではその時を待ちましょう」
 ホルニヒは王を気遣いながら述べた。
「陛下の望まれるその時を」
「そうなることを望む」
 そんな話をしながらだ。王は深夜の一人の観劇を行っていた。
 それが終わると王宮に戻り。夜に生き朝に休む。昼は眠っていた。
 完全に夜に生きる様になっていた。そのうえだ。
 アルプスに行くことが多くなった。王の愛するそこにだ。
 そのことにだ。宮中は戸惑いを覚えていた。
「陛下はまたか」
「アルプスに行かれているのか」
「また御会いするのが大変だな」
「一体何処におられるのだ」
「ノイシュヴァンシュタインだな」 
 そこだとだ。ホルンシュタインがその宮中の者達に述べた。
 そのうえでだ。こう彼等に告げた。
「今すぐそこに人をやることだ」
「はい、わかりました」
「それでは」
「困ったことになってきたな」
 悩む顔になってだ。ホルンシュタインは述べる。
「陛下は」
「近頃どうもです」
「陛下は変わられました」
「いつも夜に過ごされる様になりました」
「昼には眠られています」
「そして夜に外に出られます」
「御一人での観劇といい」
 宮中の者達も心配する顔で話していく。その王について。
「何か閉鎖的になっておられます」
「孤独になられているというか」
「そして殆どアルプスにおられるようになっています」
「築城に没頭されています」
「あの城に」
「それが問題だ」
 ホルンシュタインもだ。危惧する顔になって彼等に述べた。
「今の陛下は個人での観劇といいその築城といいだ」
「はい、浪費されています」
「ワーグナー氏はバイロイトに去られそれであの御仁に関する浪費は抑えられましたが」
 だがそれでもだった。ワーグナーに関する浪費が止まってもだ。
「ですがここで、です」
「築城に観劇です」
「そうしたことに没頭されてです」
「かろうじて国政へのサインはしてくれますが」
「そうだな。それはな」
 しかしだ。人前に出ることはだというのだ。
 そのことについてだ。ホルンシュタインは言うのである。
「だが。こうも人前に出られなくなると」
「臣民達が心配します」
「諸国も不穏に思います」
「ですからこのままでは」
「よくありませんが」
「陛下にお話したいが」
 だがそれでもだというのだ。
「果たして今の陛下は」
「まず御会いすることがです」
「それ自体が」
「難しくなっている」
 それが問題だというのだ。その時点から。
 

 

543部分:第三十二話 遥かな昔からその四


第三十二話 遥かな昔からその四

「そして御会いできてもだ」
「近頃は何か我々の言葉にも何処かうわの空です」
「御心あらずといった様子で」
「そうもなっておられます」
「バイエルンがドイツの中に入る」
 ホルンシュタインは政治から考えて述べた。
「それは必然だったのだが」
「バイエルンは確かに昔のバイエルンではなくなりました」
「ドイツの中に入りそうして終わりました」
「しかしそれでもです」
「かなりの権利が認められてはいますが」
「そうだ。プロイセンも譲歩してくれたのだ」
 ホルンシュタインとてバイエルンの者だからだ。バイエルンの為には動いている。
 しかしそれでもだ。王はだというのだ。
「しかし陛下はそれでもか」
「やはり今のバイエルンに憂いを感じておられますね」
「そしてそれにより塞ぎ込んでおられる」
「そうなっている様です」
「選択肢はなかった」
 ホルンシュタインはまた言った。
「それでもか」
「はい、それでもです」
「あの方は憂いを感じられそのうえで」
「ああしてアルプスに入られてです」
「そのうえでお一人になられています」
「夜の中に」
 そうしてミュンヘンにいてもだった。その時もだった。
「お一人の観劇ですが」
「あれは費用がかかります」
「しかも陛下は歌手や俳優達への贈りものがかなりです」
「かなりのものになっていますから」
「浪費は忌むべきものだ」
 また政治的に話すホルンシュタインだった。
「元から陛下にはその傾向があったが」
「それがさらにです」
「酷くなってきています」
「それもまた問題です」
「そうだ。それをどうするか」
 ホルンシュタインも悩んでいた。そのことに。
 そうしてだ。彼は言うのだった。
「必要とあらばだが」
「必要とあらば」
「どうされるのですか」
「一世陛下の様にだ」
 ルートヴィヒ一世、王の祖父である。孫と同じく芸術を愛していた。
「そうして頂くか」
「しかしそれはです」
「やはり。どうにも」
「よくありませんが」
「私もそう思う」
 それを言ったホルンシュタイン自身もだった。
 浮かない、その顔で言うのである。
「だがそれでもだ」
「バイエルンの為ですか」
「その為にも」
「そうだ。あくまで最後の選択だ」
 退位、それはだというのだ。
「あの方程の王はおられない」
「はい、麗しい方です」
「何もかもが」
「どの国におられてもあれだけ麗しい方はおられない」
 王についてだ。肯定するのだった。それはどうしても否定できなかった。
「だが。それでもバイエルンの為ならばだ」
「あの方でもですね」
「あえて」
「王とは何か」
 ホルンシュタインは近代における王の存在について言及した。
「国家の為の機関だ」
「王室、それもですね」
「あくまでそうなのですね」
「そうだ。あの方ですらだ」
 機関だというのだ。国家の為の。
 

 

544部分:第三十二話 遥かな昔からその五


第三十二話 遥かな昔からその五

「王位は神により授けられたにしてもだ」
「それは機関である」
「国家の為の」
「だからだ」
 それでだというのである。
「あの方にはそうして頂くことも考えなくてはならないのかもな」
「しかしその場合はです」
 ここで周りは怪訝な顔で言った。
「その次の王ですが」
「どなたがいいのですか?」
「それは一体」
「間違ってもです」
 ここで彼等は怪訝な顔でだ。彼の名を出した。
「オットー様はです」
「王にはなれません」
「どうしてもです」
「そうだ。あの方はだ」
 王になれないというのだ。ホルンシュタインもそれはわかっていた。
「御気の毒なことだ」
 こうだ。苦渋の顔で言ったのである。
「ああなられるとはな」
「ドイツ皇帝の即位式では無事でしたが」
「ですがそれでも最早です」
「あの方はもう」
「あのままです」
「あの方は玉座には座れない」
 ホルンシュタインはその苦渋の顔で言い切った。
「どうしてもだ」
「では一体どなたが」
「王になれるにしてもです」
「その方は」
「わからない」
 ホルンシュタインも今は打つべき手を考えられなかった。
 それでだ。声をぼかして言うのであった。
「どなたがおられるのか」
「大公殿下ですが」
「あの方がおられますが」
「王位継承者として」
「いや、あの方は」
 大公についてはどうか。ホルンシュタインはすぐに述べた。
「そうした御考えはない」
「野心のない方ですね、確かに」
「それに陛下のことを大事に思っておられます」
「常に気遣っておられます」
「では王位は」
「あの方は陛下のことを心から思っておられる」
 実際にそうだとだ。ホルンシュタインも話す。
「その為のことであるがだ」
「それでもですね。野心がおありではなく」
「そして陛下を退け御自身が王位に就かれることはない」
「それは決して」
「そうだ。それはない」
 絶対にないと。ホルンシュタインは断言した。
「あの方はだ」
「ではどうすればいいのか」
「それですが」
「少し考えるか」
 彼は腕を組み考える顔で述べた。
「とにかく全てはバイエルンの為だ」
「はい、その為にですね」
「何とかしなければなりません」
「陛下にとってもよいことを」
 彼等は彼等なりにバイエルン、そして王のことを考えていた。それは確かだ。
 だが、だった。その王はだ。
 銀の温められた食器で馳走を食べていた。豪奢な、宮殿そのものの食堂で。
 そこで一人座り侍従達を控えさせてだ。そのうえで、である。
 彼は下から小型のエレベーターで運ばれてくる食事を食べながらだ。ホルニヒに述べた。
「いいものだ」
「御気に召されていますか」
「うむ」
 その通りだとだ。王は自身の傍らに立つホルニヒに述べる。
 

 

545部分:第三十二話 遥かな昔からその六


第三十二話 遥かな昔からその六

「やはり下の食堂から早く運ばれると味が違う」
「それだけで、ですね」
「そうだ。違う」
 まさにそうだというのだ。
「三階下だと人が運んではどうしても冷めてしまう」
「はい、確かに」
「しかしエレベーターを使うとだ」
 これも最新技術だ。王が注目している。
「すぐに運べる。それにだ」
「食器も温めているからですね」
「余計にいい」
 そうしただ。温めた食器に乗せた食事を最新の技術で運ばせる。それがなのだ。王にとっては非常に満足のいく、まさに芸術となっているのである。
 その芸術の美食をだ。王は楽しみながら述べるのだった。
「私の考えは間違ってはいなかった」
「それは何よりです」
「うむ。非常にいい」
 王は満足した顔でまた言った。
「その他にも様々な技術を取り入れているが」
「そうですね。他にも」
 調理器具にもだ。様々なものを取り入れてさせたのだ。そしてその食事を楽しんでいたのだ。王の周りには今はガスの灯りが灯ってもいる。
 その灯りも見てだ。王は言う。
「新しいものは取り入れていくべきだ」
「それが人を幸せにするからですね」
「そうだ。このノイシュヴァンシュタイン城にしてもだ」
 このだ。白い城もだというのだ。
「あらゆる最新のものを取り入れて理想のものにしたい」
「食事だけではなくですね」
「そうだ。あらゆることについてだ」
 そうすると言いながら食事、そしてワインも楽しみ。
 王はホルニヒにだ。こんなことも述べた。
「ではこれからはだ」
「外に出られるのですね」
「そうだ。そうしたい」
 日課にもなっているそれをしたいというのだ。
「馬車を出してくれ」
「わかりました。では御者達に伝えておきます」
「それとだ」
 さらにだった。
「彼等の帽子は。わかっているな」
「三角帽子ですね」
「私が言った様にな」
 フランス風の三角帽子を被り着飾った彼等の馬車に乗ってだというのだ。
「そのうえで月を見よう」
「畏まりました」
 こうしてだった。食事の後でだ。
 王は城を出て馬車に乗る。そのうえでその夜の世界を楽しむ。そうした日々を送る様になっていた。
 だが王は王であり政治と関わり続けていた。この日もだった。
 閣僚達と会議をする必要があった。問題はその場所だ。
 閣僚達は周りを見回しながら戸惑いを隠せなかった。それでそれぞれ言うのだった。
「これはまた」
「どう言っていいのか」
「まさかこの様な場所で閣議とか」
「陛下はどう御考えなのか」
「いや、これも何かあってのことでしょう」
 ここでこう言ったのは首相のルッツだった。
「ですからここはです」
「こうしてここで、ですね」
「我々は閣議を行う」
「そうあるべきですか」
「確かに私も戸惑っています」
 首相もこのことは否定しなかった。周りは田園だった。牛や鶏までいる。そうしたのどかではあるが閣議には向かないその中に彼等はテーブルを置き着席している。
 その中でだ。彼等はそれぞれ言うのだった。
「しかも今は昼ですし」
「陛下がこうして昼におられるだけでもですね」
「それだけでもよしとすべきですか」
「近頃のあの方のことを考えますと」
「そうです」
 まさにその通りだとだ。首相も言う。
 

 

546部分:第三十二話 遥かな昔からその七


第三十二話 遥かな昔からその七

「確かに場所はどうも閣議向きではありませんが」
「それでもですね」
「今は」
「はい、陛下を待ちましょう」
 そのだ。王をだというのだ。
「間も無く来られます」
「それではです」
「その様にさせてもらいます」
 大臣達もいささか納得しない顔だがそれでも頷いてだった。
 王を待つ。その王が来てだ。閣議がはじまる。王は彼等の話を聞いていきだ。決定を下していく。その閣議や発言自体は以前のままで実に聡明なものであった。しかしだ。
 王はだ。その発言と共にだった。
 牛や鶏の言葉を聞く。それについてだ。
 何の妙なことも感じずだ。閣議を続ける。そのままだった。
 閣議が終わった。大臣達はそれを受けてだ。王に対しておずおずと尋ねた。
「あの、宜しいでしょうか」
「陛下にお伺いしたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
 王はその彼等の言葉に応える。
「この場での閣議のことでしょうか」
「はい、そうです」
「申し訳ありませんが」
「何故ここで閣議を?」
「田園においてとは」
「こうした場での閣議こそがです」
 王は彼等の問いにだ。一呼吸置いてから答えた。
「正しい議論が出来決断を下せると思ったからです」
「だからですか」
「それでこの田園で、ですか」
「閣議を開かれたのですか」
「田園はいいものです」
 自然を愛する王にとってはだ。田園もまたそうなのだ。
「いるだけで心が落ち着きますね」
「ロココでもありますね」
 ここで閣僚の一人がこう述べた。
「だからですね」
「そうですね。ロココでもありますね」
 その通りだとだ。王は話す。
「田園はマリー=アントワネットも愛していました」
「だからでしょうか」
「意識はしていませんでした」
 そのことは正直に述べる王だった。
「ですがそれでもです」
「田園を選ばれましたか」
「そうです」
「自然にそうされたのですか」
「何も閣議室でばかり開かれるものではありません」
 王はまたこの考えを述べる。
「時としてはこうした場所で開かれるのもいいものです」
「そう言われますか」
 彼等は王の話を確かに聞いた。しかしだった。
 それでも王のこの行動は奇行に思えた。どうしてもだった。
 そしてだ。王は時折村を不意に訪れることもあった。その時にだった。
 村人達は王を笑顔で迎え入れてだ。ある大会に案内したのである。
「丁度今です。祭りを行っていまして」
「陛下も参加されますか?」
「お祭りに」
「どういった祭りでしょうか」
 王は村人達にだ。まずはその祭りについて尋ねた。
「一体」
「はい、射撃の大会です」
「的を射抜くことを競う大会です」
「無論優勝すれば賞品を貰えます」
「そうした大会ですが」
「はい、それではです」
 それを受けてだった。王もだ。その祭り、射撃大会に参加することにした。
 王は銃を手に取り何発か撃った。しかしである。
 的に全て当たった。それも中央にだ。それを受けてだ。
 村人達は一斉に拍手した。そうしてそのうえでだ。王を讃えてそれぞれ言うのだった。
 

 

547部分:第三十二話 遥かな昔からその八


第三十二話 遥かな昔からその八

「陛下、おめでとうございます」
「全て的を射抜いていますね」
「優勝は陛下となりました」
「では賞品を」
 こうそれぞれ告げてだ。王を讃える。しかしだ。
 その彼等にだ。王は不機嫌な顔で言うのだった。
「私は射撃は得意ではありません」
「おや、そうだったのですか」
「陛下は」
「そして私の射撃は一度も当たらなかったです」
 王にはわかっていた。このこともだ。
 それでだ。こう言ったのである。
「それで優勝なぞ有り得ません」
「ですがそれでもです」
「陛下は全て射抜かれています」
「その証拠に的は」
「嘘です」
 王はあくまで言う。
「私は嘘は好みません」
 こう告げてだ。賞品が差し出されてもだ。
 王はそれを受け取ろうとしない。それでこう村人達にまた告げた。
「優勝していない者には受け取ってはならないものです。そして」
「そして?」
「そしてとは」
「残念に思います」
 今度はこんなことを言ったのである。
「貴方達は私にとって好ましくない方々の様です」
「陛下・・・・・・」
「では」
 彼等にこれ以上告げずにだ。踵を返して村を後にしたのである。
 こうしたこともあった。その他にもだった。
 王の興味を惹こうとだ。王の前でわざと溺れてみせた女優もいた。だが王はだ。
 その女優をベンチに座ったまま見てだ。こう侍従達に告げた。
「あの方を救い出して下さい」
「陛下は」
「陛下に助けを求めておられますが」
「私はこうした芝居には応じません」
 素っ気無くだ。こう言ったのである。
「ですから」
「宜しいのですか」
「そうなのですか」
「しかしこのままでは本当に溺れてしまう危険もあります」
 王はそのこともわかっていた。それで言ったのである。
「ですから助け出して下さい」
「わかりました。それでは」
「すぐに」
「そしてあの御婦人に伝えて下さい」
 王はまた述べた。
「二度と私の前に姿を現さないで欲しいと」
「ではそのことも」
「御願いします」
 こう言ってだった。王は静かにベンチを後にした。そうした話を聞いてだ。
 ビスマルクは政務の間にだ。周囲に述べた。
「あの方らしい」
「バイエルン王らしいですか」
「そうしたことが」
「あの方は純粋な方なのだ」
 そしてこうも言った。
「パルジファルなのだ」
「ワーグナー氏が今構想されるという」
「あの歌劇の主人公ですね」
「話では歌劇ではなく舞台神聖祝典劇というそうですね」
「随分物々しい名前ですが」
「あの作品の主人公なのだ」
 まさにそれだというのだ。王は。
「清らかな方なのだ。しかしだ」
「しかし?」
「しかしといいますと」
「あの方は愚かではない」
 パルジファルとは清らかな愚か者という意味だ。王は清らかだがそれでもだ。愚かではないというのだ。そしてその愚かさについてもだ。ビスマルクは言及したのだった。
「パルジファルも当初は愚かだった」
「どうも白痴の様ですね」
「そうした愚かさですね。あれは」
「原点や伝え聞く脚本によりますと」
「しかしその愚かさは消えてなくなる」
 これがパルジファルという物語の根幹にあるものだ。清らかな愚か者は愚かではなくなるのだ。清らかな賢者になりだ。聖杯城の主となっていくのである。
 

 

548部分:第三十二話 遥かな昔からその九


第三十二話 遥かな昔からその九

 そのことをだ。ビスマルクは話すのである。
「聖杯城の王となるのだからな」
「槍と聖盃を守護するですね」
「その王となる」
「ではバイエルン王は」
「まだ槍と聖盃は持ってはおられない」
 それはないというのだ。
「だがあの方は紛れもなくパルジファルだ」
「その御心がですか」
「そうなのですね」
「そうだ。だからこそあの方に媚やそうしたことは意味がない」
 ビスマルクにはわかっていた。王の心を。
 だからこそだ。彼は今言うのだった。
「むしろ不興を被るだけだ」
「しかしバイエルン王は近頃です」
「どうも奇行が絶えません」
 周囲がだ。不意に怪訝な顔になりこう話をしだした。
「御一人での観劇にしても深夜で馬車を走らせることも」
「それに近頃ミュンヘンにあまりおられません」
「バイエルンにばかりおられます」
「そして宮廷でそのことを懸念する声が出ている様です」
「バイエルンの宮廷においても」
「そんなことは些細なことだ」
 ビスマルクはそうしたことは何でもないと述べた。
「気にすることはない」
「御一人の観劇もですか」
「かなりの浪費になっている様ですが」
「あの一連の築城も問題になっていますし」
「それがどうしたというのだ」
 まただ。ビスマルクはこう言った。
「あの方が残されること、そしてその御心を癒すことを考えればだ」
「そうした浪費もですか」
「大したことはないのですか」
「今バイエルンを悩ませている一連のことも」
「そうだと仰るのですか」
「どうしても浪費が問題になるのなら」 
 そうならばだと。ビスマルクは驚くべきことを言った。
「私があの方をお救いする」
「閣下がですか!?」
「ドイツの宰相である閣下がですか」
「あの方を救われるのですか」
「バイエルン王を」
「あの方が築かれている城のことは聞いている」
 ビスマルクの目は千里眼であり耳は地獄耳だ。それでバイエルン王の築いている城のことも知っていた。そしてそのことについてだ。彼は言うのだった。
「是非築かれるべきだ」
「だからこそですか」
「芸術として、ですか」
「それ故に閣下がですか」
「あの方に助力されますか」
「私でよければそうさせてもらう」
 ビスマルクはこうまで言った。
「あの方の素晴らしい業績を助けられるのならばな」
「何と、そこまでですか」
「そこまで考えておられるのですか」
「何度も言うがあの方はドイツにとって素晴らしい財産なのだ」
 バイエルン王という存在そのものがだというのだ。
「聡明であられるだけではない。凡人には見えないもの、そして考えられないものが見えて考えられる。そうした方なのだ」
「だからこそですか」
「あの方の築城にも援助を」
「そうされますか」
「ドイツがあの方にできることは」
 それは何かというと。
「金銭的な援助だけだが」
「その浪費が今バイエルンを悩ませています」
「それをドイツとして援助されるというのですか」
「そうだと」
「そうだ」
 まさにその通りだとだ。ビスマルクも答える。
 

 

549部分:第三十二話 遥かな昔からその十


第三十二話 遥かな昔からその十

「是非そうするべきだ。あの方が金銭的に困っておられるのなら」
「ですがバイエルンではです」
「今宮廷がそれで頭を抱えています」
「この時代に中世の、しかも過度に装飾の多い城の築城なぞ意味はないと」
「それに加えて観劇への浪費も」
「あの方はまずドイツの偉大な芸術家を保護された」
 ワーグナーのことに他ならない。ワーグナーは最早ベートーベンに匹敵するドイツの楽聖となっていた。確かにその素行は褒められたものではないが。
「そしてその次にドイツに残されるものは」
「その城達だと」
「そう仰るのですか」
「バイエルン王が築かれた城達はドイツの偉大な財産になっていく」 
 ビスマルクは断言した。
「そのことを今わかるのはあの方の真の理解者達だけだ」
「それが閣下だと」
「そのうちのお一人ですか」
「そうだ。私もなのだ」
 ビスマルクは強く確かな自負と共に言い切る。
「私もまたあの方を理解できる」
「バイエルン王を」
「左様ですか」
「私とオーストリア皇后」
 その王を理解できる者達の名を挙げていく。
「ワーグナー氏、そして」
「そして?」
「そしてといいますと」
「ローエングリンか」
 架空の存在の筈であるこの騎士の名前も出すのだった。
「あの騎士もだ」
「最後の彼は架空ですね」
「この世にはいませんね」
「そうだ。彼は確かにこの世にはいない」
 ビスマルクもそのことは否定しない。しかしそれと共に言うのだった。
「だが。違う世界にはいる」
「それはどの世界でしょうか」
「この世界ではないとすると」
「この世界は現実の世界だ」
 まずはこう述べるビスマルクだった。
「しかし世界は一つだけではない」
「神のおられる天界でしょうか」
「そして地獄もでしょうか」
「天界、そうだな」
 ビスマルクは挙げられた二つの世界のうち一つの世界を見た。
 そうしてだ。こう述べたのである。
「天界に連なる世界か」
「そうした世界ですか」
「天界に連なる」
「おおまかに言うとそうだ」
 ビスマルクには見えていた。その世界がだ。
 そしてその世界がどうした世界なのか。彼は言うのである。
「あの世界。聖杯の世界はな」
「モンサルヴァートですか」
「そのパルジファルのいる世界」
「そしてローエングリンもいる世界ですか」
「聖盃はこの世界にはない」 
 それは伝説だった。かつて多くの者が伝説のプレスター=ジョンの国と共に探し求めたが遂に見つからなかった。アーサー王の中にもあるその聖杯はだ。
 遂になかった。だが彼は言うのだった。
「しかしあるのだ」
「この世界とは別の世界にですか」
「それはありますか」
「そういうことだ。そのモンサルヴァートにある」
 天界の系譜にあるだ。その城にだというのだ。
「そして騎士はその世界にいるのだ」
「バイエルン王を理解できるその騎士」
「彼はそこにいますか」
「そういうことだ。彼等はそこにいる」
 ビスマルクはまた言う。
「そしてその彼もまた、だ」
「バイエルン王を理解できる」
「そうした存在ですか」
「あの方を理解できる者は僅かだ」
 そのことにだ。ビスマルクは残念なものを感じていた。それが王にとって幸せなことにはならないことがわかっているからだ。それでこう述べたのである。
 

 

550部分:第三十二話 遥かな昔からその十一


第三十二話 遥かな昔からその十一

「バイエルンにいるのはワーグナー氏だけだが」
「そのワーグナー氏は今バイロイトにおられます」
「ミュンヘンにもおられません」
「ましてやアルプスにも」
「その通りだ。あの方の理解者はお傍にいない」
 それが問題だった。そして悲劇だというのだ。
「何とかするべきだが」
「さもなければですか」
「あの方は」
「より深い孤独に入られてしまう」
 ビスマルクにはそのことがわかっていた。既に。
「だが私はあくまでだ」
「あの方をお救いしますか」
「そして護られるのですね」
「そうしたいしそうする」
 ビスマルクは言い切った。簡潔に。
「あの方はドイツの宝だ。そしてだ」
「あの方を嫌われない故に」
「それ故にですね」
「金銭のことで済むならどうということはない」
 ビスマルクにとってそんなことはどうでもよかった。王については。
「そして必要とあらば助言もさせてもらう」
「そこまでされてですか」
「あの方を」
「私はあの方を理解できることを幸福に思う」
 実際にだ。そのことについて神に感謝して述べた。
「だからやらせてもらおう」
「わかりました。それでは」
「閣下の思われる様にされて下さい」
「バイエルン王に」
「そうさせてもらう。あの方は必ず素晴らしいことを残される」
 理解者達にだけわかることだ。今は。
「その力になろう」
「ではその様に」
 彼等が応えてだった。そのうえでだ。
 話が変わった。側近の一人がビスマルクにあることを話してきたのだ。その話とは。
「あの、閣下ハンブルグですが」
「聞いている。あのことだな」
「閣下の像を造りたいとのことですが」
「別に構わない」
 そのことについてだ。ビスマルクはまずは無造作に答えた。
「私へのおべっかかも知れないがそれでもだ」
「彼等が造りたいのならですか」
「それでいい」
 こう言うのである。
「追従してくるなら相手にしないだけだ」
「それだけですか」
「そうだ。だが」
 それでもだった。ビスマルクはここでこんなことも言った。
「私をあの騎士に模すというが」
「はい、ローエングリンです」
 この騎士の名前がここでも出されたのである。
「あの騎士の姿で。閣下の像をと」
「そのことについては悪く思わない」
 そうだとだ。ビスマルクは言った。
「いいことだ」
「共にバイエルン王を理解できる者としてですか」
「そうだ」
 ビスマルクの今の言葉には満足があった。
「本心から思う」
「媚は嫌いでもですか」
「そちらはなのですね」
「彼等は築いていないだろうがな」
 ハンブルグの者達はというのだ。
「だがそれでもだ。彼等は私をそうしてくれた」
「ローエングリンに」
「あの騎士に」
「ではあの方に何かあればだ」
 また周囲に告げる。
 

 

551部分:第三十二話 遥かな昔からその十二


第三十二話 遥かな昔からその十二

「私に知らせてくれ」
「そしてお助けすると」
「バイエルン王を」
「ミュンヘンにいないのがもどかしい」
 こうまで言う。
「あの方を完全にお助けできるのだが」
「さらに孤独に向かわれているあの方を」
「閣下が」
「ある程度の孤独はいい」
 ビスマルクはそれはよしとした。
「あの方の御心を癒せるのならな」
「しかし過度の孤独はですか」
「それはいけませんか」
「あの方にとって」
「それはかえってあの方を傷つかせてしまうのだ」
 だからよくないというのだ。
「そうした時にこそあの騎士は現われるのだろうが」
「そのローエングリンが」
「あの方の前に」
「だが。それはあの方を現実に引き戻すものではなく」
 何かというのだ。それは。
「あの方を本来の世界に誘うものだ」
「本来の?」
「あの方の」
「そうだ。それはまだ早い」
 時の話だった。今度は。
「もう少し待っていてもらいたい」
「どうしてでしょうか」
 今の言葉の意味は周囲にはわからなかった。それでだ。
 彼等のうちの一人がだ。ビスマルクに尋ねた。
「待って欲しいとは」
「あの方が果たされるべきことを果たされるまでだ」
 だからだというのだ。
「それまでは待って欲しいが」
「だからですか」
「今は」
「そうだ。待って欲しいのだ」
 こう言うのである。
「もっとも果たされるのは何時なのか。私にはわからないが」
「閣下にもですか」
「それはおわかりになられない」
「そうなのですか?」
「私とて万能ではない」
 人間だからだ。そうではないというのだ。ビスマルクは自信があったが過信はしていなかった。そして自らに自惚れてもいなかった。自身も冷静に見ているのである。
 だからだ。こう言ったのである。
「全てがわかる訳でも全てを知る訳でもないのだ」
「人ではわからない」
「左様ですか」
「そうだ。しかし私は最後の最後まであの方をお助けする」
 この決意は変わらなかった。どうしても。
「そのことを言おう」
「では我々はです」
「その閣下の御考えに賛同します」
「ドイツの為になるというのなら」
「間違いなくドイツの為になる」
 国益を越えて。そうだというのだ。
「ではな」
「はい、バイエルンからの話は逐一です」
「閣下にお話させてもらいます」
 こうしてだった。ビスマルクはバイエルンに情報網を築きそのうえで王のことを知りだ。王を救おうとした。そしてこのことはだ。
 王もだ。こう漏らしたのだった。
「多少お節介だが」
 ノイシュヴァンシュタインの青い寝室の中でだ。王はホルニヒに漏らした。
「だが有り難い」
「何がでしょうか」
 王の傍らにいるそのホルニヒが尋ね返す。王はその彼に述べる。
 

 

552部分:第三十二話 遥かな昔からその十三


第三十二話 遥かな昔からその十三

「ビスマルク卿だ」
「あの方ですか」
「あの方は常に私のことを気遣ってくれる」
 言うのはこのことだった。
「そのことが有り難い」
「お節介であってもですか」
「あの方は私を理解してくれている」
 王になる前に会ったその時からだというのだ。
「そして私を助けてくれる」
「確かに。資金援助の話が来ています」
「わかっていてくれているのだ」
 またこう言う王だった。
「私をな」
「そしてなのですね」
「そうだ。私の為すべきことを助けてくれる」
「築城をですか」
「バイエルンでそれを理解してくれているのはワーグナーだけだ」
 その城達の元となっている芸術を生み出した彼だけだというのだ。
「だが。ドイツにはだ」
「ビスマルク卿がおられますか」
「オーストリアにもいてくれている」
「あの方ですね」
「そうだ。シシィだ」
 皇后の名前をだ。王は言った。
「あの方はいつも私を理解してくれている」
「そのエリザベート様ですが」
 ホルニヒは皇后のことが話に出たところで王に告げた。
「御手紙が来ています」
「そうか」
 王はベッドの中で半身を起こしている。見事なガウンで。そのガウン姿のまま顔をホルニヒに向けてだ。そうして応えたのである。
「それで何と」
「あの方は旅を続けておられますが」
 ウィーンの宮廷を離れてだ。これは奇行とさえ言われている。その為人は彼女を流浪の皇后とさえ呼んでいる。ハプスブルク家の皇后として疑問があると。
「来られるそうです」
「ここにか」
「はい、バイエルンに」
 そうなるとだ。ホルニヒは王に話す。
「来られるとのことです」
「里帰りだな」 
 皇后にとってはそうなった。ヴィッテルスバッハの家の出だからだ。
「我が国への」
「そうですね。皇后様にとっては」
「あの方にとってハプスブルク家は窮屈なのだ」
「我がバイエルンよりも遥かに作法に五月蝿いのでしたね」
「ハプスブルク家は名門だ」
 欧州随一とさえ言われている。このことについてはドイツ皇帝家となったホーエンツォレルン家も勝てはしない。あのイギリスのハノーヴァー家も。
「名門であればそれだけ作法等が五月蝿くなる」
「まして帝国ともなればですね」
「そうだ。かなりのものとなる」
 そうだというのだ。
「だからだ。あの家はシシィにとっては牢獄なのだ」
「牢獄ですか」
「どれだけ美麗な宮殿も時としては牢獄になる」
 王はこうホルニヒに話す。
「ましてや常に誰かに見られているのだからな」
「陛下と同じくですね」
「そうだな」
 ホルニヒの今の言葉を受けてだ。王はだ。
 少し微笑みだ。こう言ったのだった。
「私もまた。その牢獄から逃れて」
「そうしてここにですか」
「逃れている。同じだな」
 まさにそうだとだ。王はやや自嘲を込めて呟く。
「牢獄からな」
「ミュンヘンが。陛下にとっての」
「あの王宮もだ」
「牢獄なのですか」
「だから私は逃れたのだ」
 そうだったとだ。王は話す。
「そうした意味もあったのだ」
「このノイシュヴァンシュタインに」
「ヘーレンキムゼー等もですね」
「人は自由を求める」
 王は今度はこんなことも言った。
 

 

553部分:第三十二話 遥かな昔からその十四


第三十二話 遥かな昔からその十四

「奴隷。あれはだ」
「陛下はお嫌いですね」
「私は間違っていると思う」
 王は人道主義からだ。奴隷を好んでいなかった。
「廃止されて然るべきだったのだ」
「人は自由を求めるからですね」
「その通りだ。そしてそれは」
 奴隷という存在を己に転移させて。そのうえで。
「私とて同じなのだ」
「王である陛下もまた」
「王と奴隷は似ているのかも知れない」
 この考えもだ。抱いたのである。
「若しかすればな」
「まさか。それは」
「至高の貴は底辺の奴と同じなのだろうか」
 断言して確信はできなかった。それはあまりに恐ろしいことだからだ。
「自由がないということは」
「そのこと故にですか」
「自由はない」
 また言う王だった。
「それならばだ」
「自由。それは」
「私は籠の中の鳥だ」
 これはだ。王が即位した時からわかっていることだった。
 そうしてだ。こう述べるのだった。
「そしてシシィも」
「あの方もですか」
「私達は互いを鳥に例えて呼び合ってきた」
 王が鷲、皇后が鴎だった。その中では。
「それは無意識の中でわかっていたからだ」
「皇后様もですね」
「私達は同じなのだ」
 王はこのことを誰よりも実感していた。皇后のことを考え。
「籠の中の鳥。同じなのだ」
「だからこそ陛下は城を築かれ」
「あの方は旅をしているのだ」
「自由を求められ」
「私は唯自由をも求めているだけではない」
 それだけではないことが複雑だった。王の築城は自由を求めてのことだけではないのだ。そこにはメルヘンもあれば他のものもあった。
「美を再現し」
「陛下の美を」
「ワーグナー、そしてバロックにロココ」
 それぞれの美の融合、これは変わらなかった。
「アルプスの自然の中も融合させ」
「その美を築かれますか」
「私の果たすべきことでもある」
 王はこのことを確かに言う。
「それもある」
「美ですか」
「だからこそ私はこの城達を築く」
 ただだ。自由を求めてだけではないというのだ。
「ただ。私がいなくなれば」
「?どういうことでしょうか」
「この城はこの世には不要のものとなろう」
 憂いをこのうえなく込めて。王は述べた。
「誰からも理解されない。孤独な城達なぞは」
「あの、それは」
「慰めはいい」
 ホルニヒのそうした言葉はいいとしたのだった。そのうえでの言葉だった。
「私が理解されないのと同じく。私が築いた城達も理解されないのだから」
「それ故にですか」
「この城達は不要のものとなる」 
 王は信じ込んでいた。王の築いたものもまた理解されないものであると。
 だからこそだと。王は言うのだった。
「それならばだ」
「不要だからこそ」
「この城達は私がいなくなれば消し去るべきだ」
 こう言ったのである。
「この世から永遠に」
「永遠に、ですか」
「誰からも理解されないのだ」
 王は深い悲しみと共に言う。
「それならばだ」
「消し去るべきなのですか」
「私を理解してくれる人は僅かだ」
 王が最もわかっていた。自分の理解者の少なさは。
 

 

554部分:第三十二話 遥かな昔からその十五


第三十二話 遥かな昔からその十五

「そしてこの城達も」
「だからこそだと」
「理解されず。言われるのは私だけでいい」
 再び悲しみと共にだ。王は言うのである。
「この城達は悲しみの中に置きたくはない」
「ですがやがては」
 ホルニヒは王の悲しみを止めようとだ。切実な声で王に言った。
「この城達も」
「理解されるというのか」
「そうなるかも知れません」
「そうだろうか」
「はい、何時かは」
 そうなるとだ。ホルニヒは言うのである。
「ですから。そうした御考えは」
「そうであればいいが」
「そして陛下も」
 ひいてはだ。王もだというのだ。
「今でも理解者はおられるではありませんか」
「シシィ、ビスマルク卿」
「そしてワーグナー氏です」
「彼等がいてくれているというのだな」
「そうです。今もです」
 その理解者がいないだ。今もだというのだ。
「ですから後世も」
「そうであればいいが」
「希望はあります」
 ホルニヒは切実に王に話していく。
「それは必ず」
「あるのか」
「はい、あります」
 ホルニヒはここからだ。ギリシア神話の話をした。欧州の文化、文明の根幹にローマ、キリスト教と共にあるだ。それの話をしたのである。
「人には常に残っているものですから」
「パンドラの箱だな」
「確かにこの世には多くのものがあります」
「憎しみ、嫉妬、苦しみ、嘆き」
 王はその悲しむべきものを言葉に出していく。
「中傷、そういったものだな」
「そうです。ですがそれでもです」
「希望はあるか」
「それは常に」
「そうだな。確かに希望はある」 
 王もこのことは否定しなかった。そうしてだ。
 あらためてだ。こうも言うのであった。
「あの騎士もそうだな」
「ローエングリンですね」
「彼はエルザの危機に訪れた希望だ」
 あの歌劇からだ。王は希望を見た。
「彼は常にいるのだから」
「常にですか」
「そうだ。常にいる」
 王と共にだ。このことがわかった。
 そうしてだった。ホルニヒを見てもだ。
 そのうえでだ。彼に対しても言った。
「そなたもまた」
「私もですか」
「希望なのかもな」
 ここでだ。王は微かな微笑みになった。そのうえでの言葉だった。
「私にとって」
「私がですか」
「そうだ。そなたもだ」 
 こう言うのである。
「私にとって希望なのだろうな」
「いえ、私は」
「常に。何があろうとも私の傍にいてくれる」
 このことに感謝もしていた。ただ言葉には出していないだけで。
「それでどうして希望ではないのか」
「私はただ」
「ただ?」
「陛下の臣です」
 畏まって王に告げるのだった。
「ただそれだけですから」
「私の臣だからか」
「はい、ですから」
「臣が希望でないとは誰が決めたのだ」
 王はその微かな笑みのままホルニヒに話す。
 

 

555部分:第三十二話 遥かな昔からその十六


第三十二話 遥かな昔からその十六

「そんなことはない筈だ」
「では私は」
「そなたもまた希望だ」
 王はまた言った。
「私にとっては。だからこそ」
「こうしてですか」
「傍にいて欲しい」
 こう言うのだった。
「頼めるか」
「はい」
 ホルニヒに断る発想はなかった。王の願いを。
 それでだ。こう答えたのだった。
「喜んで」
「済まない。それではだ」
「これからもですね」
「共にいてくれ。私と共に」
「わかりました」
「では部屋を出よう」
 この寝室をだと。そうしてだというのだ。
「まずは食事だが」
「何を召し上がられますか」
「シェフに任せる」
 王はそのことについてはだ。こう答えた。
「そうさせてもらう」
「わかりました。それでは」
「その後は馬だ」
 こうも言うのだった。
「そして洞窟の中で音楽も楽しみたい」
「では音楽隊の方々にも連絡しておきます」
「そうしてくれ。手配は頼んだ」
「畏まりました」
「夜の中にこそ真があるのだ」
 王にはそう思えてきていた。孤独の中で。
「なら私は夜の中に生きよう」
「夜、昼から離れて」
「昼は企みに覆われている」
 トリスタンとイゾルデにあった言葉をだ。ここでも思い出す。
 そうしてだ。その昼を拒んでだった。
 王は夜を見てその中に入り。そうして言うのだった。
「だからこそ私は夜に生きるのだ。そのことについて」
「何か」
「そなたは受け入れてくれるのだな」
 そのホルニヒを見てだ。彼に問うたのである。
「その私を」
「私が陛下の希望ならば」
 そうすると。また答えるホルニヒだった。
「そうさせてもらいます」
「済まないな」
「御礼は」
「いいのか」
「はい」
 そうだとだ。また王に述べる。
「では今からですね」
「食事に。そうだ」
 言いながらだ。王はふと思い出した。あることを。
「白鳥だ」
「白鳥達を洞窟に入れてですね」
「そうして餌をやらないといけない」
 このことをだ。言いながら思い出したのである。
「迂闊だった。まずはそれだった」
「ではまずは白鳥達に餌をやり」
「そのうえで食事にしよう」
「畏まりました」
 こうした話をしてだった。王は一日をはじめるのだった。
 空に太陽はなく月が白い輝きを放っていた。その輝きは厳しいものではなく落ち着いたものだった。王はその月の下で生きていた。


第三十二話   完


                 2011・10・17
 

 

556部分:第三十三話 星はあらたにその一


第三十三話 星はあらたにその一

              第三十三話  星はあらたに
 ミュンヘン王立歌劇場。深夜のその劇場に今人が集まっていた。
 彼等は舞台裏でだ。今日も忙しく動いていた。
 その中でだ。観客席を見て話すのだった。
「相変わらずだな」
「王様は何を考えておられるんだろう」
「こうしてミュンヘンにおられる時はいつもお一人で観劇か」
「報酬は弾んでくれるにしても」
「何か無気味だよな」
「ああ、寒い」
 王以外、ロイヤルボックス以外には誰もいない観客席にだ。そうしたものを感じていたのだ。
「こんな寒い劇場はな」
「リハーサルの時よりも寒いよな」
「誰もいないと劇場は冷える」
 人気、それにより劇場は熱くなるものだ。しかしだ。
 王以外に誰もいない劇場においてはそれは感じられない。だからだ。彼等も寒いものを感じてだ。そのうえで無気味に感じていたのだ。
 そしてだ。それはオーケストラの面々も同じだった。
 彼等にしてもだ。こう話していた。
「宮廷は何としても止めたいらしいな」
「そうらしい。無駄な浪費だとな」
「観劇なら昼にできる」
「御一人での観劇なぞ浪費に過ぎない」
 上演にも費用がかかるのだ。特にワーグナーのそれは舞台設定や衣装にもかなりの金がかかる。王が愛するワーグナーの作品は。
「だがそれでもか」
「陛下はこうして今日も御一人で観劇だ」
「あまりにも奇行が過ぎるのではないのか」
「まさか」
 王のその行動からだった。彼等はこうも考えた。
「陛下はやはり」
「おい、それは言うな」
「しかしだ。最近は昼にはおられない」
「人前にも出られない」
「そしてアルプスに篭もられてばかりだ」
 王の狂気が疑われだしていた。しかしだった。
 王はその中で観劇に入ろうとしている。その王にだ。
 今日も傍らにいるホルニヒがだ。こう言うのだった。
「間も無くです」
「開幕だな」
「はい、ですから」
「現実から夢幻の世界に入る」
 王は開幕をこう表現した。
「その瞬間が素晴らしいのだ」
「夢幻に入ることが」
「そうだ。素晴らしい」
 また言う王だった。
「ミュンヘンにいるとどうしてもだ」
「こうした観劇をですね」
「せずにはいられない」
 現実のことを考えてだ。王の顔に苦痛の色が浮き出た。
「ミュンヘンは最早都ではない」
「都ではないとは?」
「ドイツの都はベルリンだ」
 ドイツ帝国の誕生によりだ。そうなったというのだ。
「バイエルン王国もだ」
「国ではないと」
「ドイツの中にある郡の様なものだ」
 他の国もそうだった。ドイツの君主国も自由都市もだ。
 その全てがプロイセンの属国になったと言ってだ。王は現実に苦痛を感じていた。
 そうしてだ。王は言うのだった。
「それでどうして都なのか」
「この町は都ではなく」
「ただの町だ。ワーグナーを追い出し芸術を拒んだ町なのだ」
「この町はもう芸術の都にはなれませんか」
「ワーグナーを拒んだのだ」
 それが理由だった。最早ミュンヘンがそうなれない。
「そしてワーグナー自身もこの町を去った」
「バイロイトに移られましたね」
「バイロイトに歌劇場を築きそこに住む」
 ワーグナーは既にそう決めていてだ。実際にもうバイロイトにいた。
 その費用はいつも通り王が受け持っていた。その王が言うのだった。
「最早そうなってはだ」
「ですがバイエルンは」
「芸術の国になれるというのか」
「そうではないのでしょうか」
「かつてはそうなれたかも知れない」
 話は既に過去のものになっていた。
「だが今は」
「それもなり得ないと」
「ワーグナーは大きい」
 皮肉ではなかった。王は皮肉は言わない。
 率直にワーグナーを認めてだ。こう言ったのである。
「その大器故にだ」
「あの方はどうされたのですか?」
「バイエルンに留まらずドイツに羽ばたいたのだ」
 ワーグナーは今やドイツの楽聖になっていた。バイエルンだけではなかったのだ。
 

 

557部分:第三十三話 星はあらたにその二


第三十三話 星はあらたにその二

「それではもうだ」
「バイエルン自体が」
「芸術の中心にはなれないのだ」
 王が考える要のワーグナーがなければだというのだ。
「そして第一にミュンヘンがそれを拒んでいた」
「ワーグナー氏を排除しましたね」
「二度もだ。最早その町には苦痛しかない」
 王は苦い声で述べた。
「その町に住む者達が私を常に見ている」
「観劇の間も」
「私にはそのことが耐えられない」
 王は言う。
「ワーグナーを認めず。中傷により排除した彼等が私を見ることに」
「そうした理由もあってですか」
「こうしているのだ」
 まだ開いていない幕を見ながらだ。王は話す。
「それに一人で観てこそだ」
「御一人でとは」
「そうしないと舞台は本当に楽しめない」
 これは内向的な王らしい考えだった。
「集中できないのだ」
「そうなのですか」
「読書と同じだ」
 王は書にも親しんでいる。教養はそこからも手に入れているのだ。
「だからこそだ」
「しかしそれはですか」
「世の者は快く思っていない」
 そのこともだ。王はわかっていた。
「中には私を狂人だと言う者もいるな」
「それは」
「知っているのだ」
 ホルニヒがそのことを言うまいとするところでだ。王はそれをさせなかった。
 そうしてだ。ここではこう言ったのである。
「そうした話も」
「ですが」
「狂っているか」
 王はまたしても悲しい顔を見せた。
「ヴィッテルスバッハ家の者は以前よりそう言われる者が多かった」
「口さがない言葉です」
「口さがなくとも言いはしているのだ」
 このこと自体がだ。王にとっては苦しみなのだ。
 そしてだ。王はそのことからさらに話すのだった。
「我が祖父殿もそうだったし」
「あの方ですか」
「あの方はただ美しいものを愛していただけだ」
 その退位の原因となったローラ=モンテスのこともだというのだ。
「それが過ぎただけだ。そしてシシィも」
「皇后様ですか」
「あの方もだ。ただ繊細なだけだ」
「繊細故に」
「あの方は旅で御心を癒されているだけなのだ」
「しかしそのことは」
「殆ど誰も理解していない。ただ救いは」
 皇后への救い、それは何かというと。
「皇帝陛下があの方を優しく見守って下さっている」
「そうですね。オーストリア皇帝は」
「あの方の理解者であられる」
 皇后にとっては幸せなことにだ。皇帝は皇后を理解して優しい目で見守っていた。だからこそ皇后もだ。旅をしていられるのだ。そうした事情もあったのだ。
「だが。それでも口さがない者達は言う」
「皇后様もですか」
「狂気にあると言う」
 その放浪故にだ。言われることだった。
「あの方はただ束縛や人の目に耐えられないだけなのだ」
「そうした意味では同じですね」
 ホルニヒは王の言葉からそのことを察した。
「陛下とも」
「そうだな。私は芸術を観て」
「そして皇后様は」
「旅に入られている。だがその旅もだ」
「旅も?」
「芸術なのだ」
 そうだというのだ。皇后にとっては旅がそうだというのだ。
 

 

558部分:第三十三話 星はあらたにその三


第三十三話 星はあらたにその三

「多くの者にそのことが理解されないだけなのだ」
「そしてそれがですか」
「狂気と思われるのだ」
 そうだというのだ。人は理解できないものを狂気と言う。王はそのことを知っていた。そしてそのうえでだ。王はだ。さらに暗いになりだ。
 そのうえでだ。彼のことを言ったのだった。
「だが。オットーは」
「殿下は」
「あの者は本当にそうなっている」
 このうえなく暗い顔になりだ。弟のことを話すのだった。
「最早助けられない」
「公爵様も常に心配されているそうですね」
「叔父上だな」
「はい、あの方も」
「叔父上は心優しい方だ」
 王に対してもだ。公爵はそうした人物だ。
 その公爵だからこそだとだ。王は語る。
「オットーに対してもだ」
「ですがあの方は」
「それすらもわからなくなってきている」
 真の狂気に陥っているが故にだ。そうなっているというのだ。
「そして私のことすらもだ」
「陛下のことも」
「この世で唯一の兄弟だというのに」
 その兄のこともだ。彼はわからなくなってきているのだった。
「酷くなる一方だ」
「殿下は」
「オットーは我が家の原罪を背負ってしまった」
 王は顔をあげた。そうして深い嘆きと共に述べた。
「我が家の長い歴史の中の罪をだ」
「罪、それは」
「我が家も多くの罪を犯してきている」
 キリスト教的考えだった。実際はキリストにより清められているのだがキリスト教徒達にはこの考えが強い。教会がそう教えているからだ。
 そしてその原罪がだ。全て彼に入ってしまったというのだ。
「オットーはその生贄となってしまった」
「だからこその狂気なのですか」
「そして私も」
 王は自身の弟からだ。自身のことも考えていった。
「実はそうなのかも知れない」
「いえ、それは」
「私もまた狂っているのかも知れない」
 こう言うのだった。
「だからこそ女性を愛せず」
 王は知らなかった。自身の心を。だからそこの言葉だった。
「そして人を拒み。こうしたことを続けているのだ」
「陛下、そのことは」
「考えるべきではないか」
「はい」
 そうだとだ。ホルニヒはあえて穏やかな声で告げる。
「そうされるべきです」
「では今は」
「もうすぐ開幕です」
 そしてそれにだというのだ。
「ですから」
「わかった。では舞台に専念しよう」
 王もだ。彼の言葉に頷くことにした。そうしてだ。
 幕が開き王はその舞台を観た。それはロココ、フランスのそれだった。王が作らせたその劇を観てからだ。こうホルニヒに対して尋ねたのだった。
「あの主演の俳優だが」
「あの若い俳優ですか」
「いい演技をする」
 まずはその演技を褒めてだった。
「それに顔立ちもいい。あれは誰だ」
「はい、ヨーゼフ=カインツといいます」
「カインツというのか」
 王はその若い美男の俳優を観ながら呟く。今はカーテンコールだった。王だけに向けられているカーテンコールを観ながらの言葉である。
「そうか。わかった」
「それではですね」
「贈りものをしたい」
 カインツを観ながらまた言うのだった。
「そうしたい」
「ではすぐにですね」
「そうだ。頼んだぞ」
「わかりました。それでは」
 こう応えてだった。ホルニヒは王の傍から退くのだった。その舞台では。
 王が注目したそのカインツがだ。こう周囲に漏らしていた。ロココの舞台衣装のままでだ。周囲にこう話していたのである。
「何度演じてもです」
「この舞台には慣れないか」
「そうなんだな」
「はい、何かぞっとします」
 こう言うのだった。そうしてだ。
 ロイヤルボックスの方を見てだ。今度は問うたのだった。
 

 

559部分:第三十三話 星はあらたにその四


第三十三話 星はあらたにその四

「陛下はいつもああして幕が下りてもおられますが」
「どうも余韻を感じておられるらしい」
「舞台の余韻を」
「舞台のですか」
「何でも現実の世界に戻ることが辛いらしい」
 年配の俳優がこう話す。
「それでらしい」
「現実の世界にですか」
「国王陛下だからだろうか」
 この年配の俳優は王に対する敬意を持っていた。それでだ。王を、そのロイヤルボックスの中に残ったままの王を見ながらだ。そうして言うのである。
「現実が辛いのかも知れない」
「左様ですか」
「国費で贅沢をされていると言われている」
 その年配の俳優はこのことについても言及した。
「しかしだ。弟君が病にかかられ」
「外に出られないとか」
「噂では」
 彼はオットーの狂気を言おうとした。だがそれは途中で自分で止めてだ。
 そのうえでだ。こう言い替えたのだった。
「いや、陛下はだ」
「陛下はですか」
「何かと悩みを持っておられるのだろう」
 王についての話にしたのだった。暗いロイヤルボックスにいる王を見つつ。
「だからこうして舞台を御覧になられ」
「そうして今もですか」
「ああして余韻に浸っておられるのだ」
「国王も大変なのですね」
「そうなのだろう。我々とは違った悩みを持っておられるのだ」
 こうカインツに話していた。そしてそこにだ。
 ホルニヒが来てだ。舞台の役者やスタッフの面々に尋ねていた。
「ヨーゼフ=カインツ氏はおられますか」
「カインツ?」
「彼に一体何か」
「はい、お話したいことがありまして」
 こうだ。ホルニヒは礼儀正しい言葉で舞台の者達に言うのだった。
「一体何処におられますか」
「私ですが」
 カインツは自分から名乗り出てだ。ホルニヒの前で一礼した。
 そうしてからだ。こうホルニヒに名乗った。
「私がヨーゼフ=カインツです」
「左様ですか。私は王室馬丁長官のリヒャルト=ホルニヒです」
 ホルニヒも己の名を名乗った。一礼と共に。そのうえでカインツに告げた。
「貴方の先程の舞台ですが」
「はい。今のですね」
「陛下は貴方の演技をいたく気に入れられました」
「そうですか。それは何よりです」
「それで、です」
 王の好意を得たと聞いて笑顔になるカインツにだ。さらにだった。
 ホルニヒは白い象牙の、金の装飾がある豪奢な小箱を出してだ。その箱を開けてカインツに見せたのだった。
「その演技を見せてくれた御礼として」
「あの、これは」
「陛下からの贈りものです」
 青いダイヤとサファイアだった。それもかなり大きい。
「これをどうぞと」
「あの、この様なものは」
「是非にと仰っています」
 その大きな宝石を見て驚き謙遜するカインツにだ。ホルニヒはまた言った。
「ですからどうぞ」
「わかりました。そこまで仰るのなら」
 カインツもだ。そこまで言われてはだった。
 ホルニヒの言葉に応え宝石を受け取った。ホルニヒはその彼にさらに言った。
「そしてです」
「そしてとは」
「陛下は貴方をリンダーホーフにお招きしています」
「リンダーホーフ。あの城に」
「既に車券は用意しています」
 鉄道のだ。それも既にだというのだ。
「ではどうされますか」
「宝石はもう受け取らせてもらいました」
 カインツはこのことから答えるのだった。考える顔で。
 

 

560部分:第三十三話 星はあらたにその五


第三十三話 星はあらたにその五

「それではです」
「来られますね」
「はい、そうさせてもらいます」
 こうホルニヒに述べるのだった。こうしてそのリンダーホーフに向かうことになった。
 カインツはリンダーホーフに来た。しかしだ。
 その城に向かいながらだ。彼は馬車の中でだ。迎えのホルニヒに申し訳なさそうに話していた。
「申し訳ありません。鉄道を一つ乗り過ごしてしまいました」
「そうだったのですか」
「お陰でこんなに遅くなっていました」
 馬車の外は真っ暗になっている。深夜である。
「これでは陛下は」
「いえ、むしろいい時間になりました」
 ホルニヒは馬車の中の向かい側の席に座っているカインツに対して笑顔で述べる。
「陛下がそろそろお目覚めになられますから」
「今にですか」
「陛下は夜を愛されています」
 つまり昼に休み夜に動くというのだ。
「ですから」
「お話は聞いていましたし」
 カインツとてだ。王が夜の中にいることは知っていた。その観劇に参加しているからだ。
 だがそれでもだ。この夜の森の中で進む馬車にいてだ。こう言うのだった。何か無気味なものも感じながら。
「ですが」
「それでもですか」
「夜にですか」
「はい、夜にです」
 ホルニヒはこのことを当然のこととして話す。
「夜は陛下が愛される時なのです」
「確か夜は」
 カインツはここでだ。王がワーグナーを愛することから考慮した。そのワーグナーの世界において夜とは。
「ワーグナー氏の作品においては」
「あの方のですね」
「はい、あの方の作品においてはです」
 そのワーグナーから考えて話すのだった。
「何かが起こるのは夜ですね」
「そうですね。確かに」
「そしてその夜をですか」
「トリスタンとイゾルデの詞の一節ですが」
「あの歌劇のですか」
「昼、企み深い昼」
 ホルニヒはカインツを見つつだ。この言葉を出したのだった。
「この言葉がありますね」
「ええ、確かに」
 カインツもその一節は頭の中にあった。ワーグナーを知っているからだ。
「企み深いですか」
「陛下は企みを好まれません」
 それは即ちだった。
「ですから昼も」
「好まれないのですか」
「そうなのです。ですから陛下は夜に生きられます」
「この夜にですか」
「太陽よりも月を愛されます」
 ホルニヒはこう言いだ。馬車の窓から夜空を見上げた。そこには白い満月がある。
 月は白く淡い光を放っている。その光を顔に浴びながらだ。彼はカインツに問うた。
「この光についてどう思われますか?」
「月の光ですか」
「はい、そうです」
 その整った顔に白く淡い光を当てそれに照らされだ。夜の中に己の姿を浮かび上がらせながらだ。ホルニヒはカインツに対して問うたのである。
「この光について」
「嫌いではありません」
 カインツはこうホルニヒに答えた。
「よく月は邪だと言われますが」
「月は人狼を目覚めさせるものとも言われていますね」
「はい」
 カインツは答えながら森も見た。
「あの野獣ですが」
「ジェヴォダンの野獣ですか」
「あれは人だったのでしょうか」
 ルイ十五世の頃のフランスのジェヴォダン地方を中心に暴れ回り多くの者を食い殺してきた野獣だ。狼だったとも何者かが操っていた猛犬だとも言われている。
 しかしその中にはだ。野獣は人狼、若しくは人だったのではないかと言う者もいるのだ。カインツもそのことについて今話をするのである。
 

 

561部分:第三十三話 星はあらたにその六


第三十三話 星はあらたにその六

「時々そう思うのですが」
「森の中にいて夜にですね」
「人狼は現われるもの」
「あの野獣もまたそれだったと」
「魔物はこの世にはいないと言われています」
 この頃にはそうした存在は迷信だとされるようになっていた。
「ですがどうなのでしょうか」
「それは私にはわかりません」
 ホルニヒには答えられないことだった。魔物の実在については。
「ですが」
「それでもですか」
「月には確かに不思議な力があります」
 ここで彼が言うのはこうしたことだった。
「間違いなくです」
「そうですね。見ていると」
 ここでカインツもだ。夜空を見た。そこにある月を。
「落ち着きますね」
「しかもですね」
「はい、人狼や他の魔物達を目覚めさせるものであっても」」
「夜は決して闇ではない」
 ホルニヒは言った。
「それが陛下の御考えです」
「闇ではなくですか」
「夜には夜の光があります」
「それが即ちですね」
「はい、月です」
 まさにそれだというのだ。そしてだ。彼はさらに言った。
「そして星達もです」
「星もですね」
「そうです。星達もまたです」
 光だというのだ。夜のだ。
「ですから決して闇ではないのです」
「そして陛下はその中においてですね」
「生きておられます。では」
「はい」
「その夜の世界において下さい」
 ホルニヒは月の光の中でカインツに告げ。そのうえでだった。
 カインツはホルニヒの案内の下ヘーレンキムゼー城に入った。そのドイツ、中世と幻想のそれとフランス、バロックとロココのそれの中にある城の中においてだ。先に進むホルニヒに尋ねた。
 城の中は近代的にだ。ガス灯が使われそれで照らされている。思った以上に明るい。
 だが彼等はその明るさから次第に奥に入っていく。カインツはその中でホルニヒに尋ねたのである。
「何処に行かれるのでしょうか」
「はい、洞窟です」
 そこにだとだ。ホルニヒは答えた。
「陛下はそこにおられます」
「洞窟にですか」
「この城の地下には洞窟もあります」
 ホルニヒは先を進みながらカインツに話していく。
「そしてそこにおいてです」
「陛下がですね」
「貴方を待っておられます」
 こうカインツに話すのである。
「ですからおいで下さい」
「わかりました。洞窟ですね」
「そしてそこからです」
 ホルニヒはさらに話す。
「王の間においてです」
「その部屋で、ですか」
「陛下は貴方と詳しくお話をされたいそうです」
「それはまた」
「変わっていますか」
「そう思います」
 カインツは追うが偽りを好まないと聞いていたので率直に答えた。
「最初に洞窟とは」
「そうですね。それは確かに」
 そしてだ。ホルニヒもそのことを否定しなかった。
 だが、だ。彼はこう王に言ったのである。
「ですがそれでもです」
「陛下はですか」
「そうされることを好まれます」
「まずは洞窟ですか」
「そこで貴方と御会いしたいとこのことです」
 最後にカインツに話す。
 

 

562部分:第三十三話 星はあらたにその七


第三十三話 星はあらたにその七

「そしてそのうえで、です」
「王の間でなのですか」
「貴方とじっくりお話したいからと」
「だからですか」
「はい、その為に」
 彼と最初に洞窟で会い。それからだというのだ。
「それで宜しいでしょうか」
「わかりました」
 カインツは真剣な顔でホルニヒの言葉に頷いて答えた。
「ではその様に」
「有り難うございます。それでは」
「洞窟。そこにも何かがあるのですね」
「それは来て頂ければわかります」
 ホルニヒは今は洞窟について話さなかった。
「ではまずは」
「はい、それでは」
 こうしてだった。カインツはホルニヒに案内されそのうえでその洞窟に入った。その洞窟の中を見てだ。カインツは目を瞠ることになった。
 泉がありそこに白鳥達がいる。そして岩の壁には絵があった。
 それは妖精達が愛の女神と共にいる。その絵はというと。
「ワーグナーですね」
「はい、タンホイザーです」
 それだった。タンホイザーのヴェーヌスベルクの場面だった。
 それを見てだ。カインツは言った。
「この洞窟自体がですね」
「はい、この洞窟はです」
「陛下がそうされたのでしょうか」
「陛下はワーグナー氏の音楽を愛されていますので」
 このことは有名である。あまりにも。
「ですから」
「成程。そういうことですか」
「はい、そして」
 ホルニヒはさらに言う。ここでだ。
 彼は厳かな態度になりだ。こう言ったのである。
「陛下が来られます」
「今ですね」
「では宜しいですね」
「わかりました」
 カインツも背筋を伸ばしそうしてだ。真剣な顔で述べる。
 そしてそのうえでだ。彼は言うのだった。
「それでは」
「はい」
 背筋を伸ばし姿勢を正しだ。王が来るのを待つのだった。やがてだ。
 音楽が聴こえてきた。それはワーグナー、タンホイザーの序曲だった。演奏しているのは。
 見えない、しかしそれでも聴こえてきていた。カインツには演奏しているのが誰なのかわかった。
「楽団ですね」
「はい、楽団です」
 彼等が演奏しているとだ。ホルニヒも答える。
「彼等が演奏してくれています」
「そうですね。楽団がわざわざ」
 あえて姿を見せないのも演出だった。そしてだ。
 それを聴きながらだ。再びだった。
 二人は王を待った。今度は赤や青の光が洞窟の中をゆっくりと動いてそれで洞窟の中を照らしていく。そしてその中でだ。
 王が現れた。王は黄金の舟に乗りそのうえで湖の中を進んできていた。そのうえでだ。カインツの前に出て来て声をかけるのだった。
「ようこそ来られました」
「は、はい」
 黒いだ。フロックコートと正装だった。その王が来たのだ。
 カインツはその王に応える。そうしてだ。
 舟から降りカインツの前に来てだ。タンホイザーの序曲を背景に言うのである。
「ではです」
「はい、私を御呼び頂き有り難うございます」
「まずはこの洞窟の中を御覧下さい」
 こう言うのだった。
 

 

563部分:第三十三話 星はあらたにその八


第三十三話 星はあらたにその八

「そしてまずは音楽を楽しんで下さい」
「タンホイザーの序曲をですね」
「この曲は貴方の為の曲です」
「私の為にあえてですか」
「演奏させています」
 まさにそうだというのである。
「ですからどうか」
「はい、有り難うございます」
「ワーグナーは最高の芸術を生み出す者です」 
 王は赤や青の光に照らされる洞窟の中も見ながらだ。カインツに話すのだった。
「それでは貴方にはこれからです」
「これからですか」
「はい、朗読をお願いします」
「私の演じた役をでしょうか」
「それとワーグナーの作品の朗読を」
 それもだというのだ。
「お願いします」
「わかりました。それでは」
 こうした話をしてだった。カインツはワーグナーの音楽を聴いてからだ。そのうえでだ。王の間に行きそのうえでだ。彼は王の間でだ。朗読をしたのだった。
 それを聞いてだった。王はだ。静かに言うのだった。
「見事です」
 王の間だが玉座はない。そこに立っていながらだ。
 彼はだ。こう言うのだった。
「貴方のその朗読はです」
「どうだったでしょうか」
「芸術です」
 微笑みだ。賞賛の言葉を送る王だった。
「まさにそうです」
「そうですか。それは何よりです」
「この部屋を御覧下さい」
 そのだ。王の間をだというのだ。
「この部屋についてどう思われますか」
「ロココでしょうか」
 その部屋の中、白いカーテンと黄金の装飾で飾られ壮麗な宗教画まであるその美麗な部屋の中を見回してだ。カインツは答えた。
「そうした趣を感じますが」
「はい、ロココです」
 カインツもそれだと述べる。
「それで間違いないでしょうか」
「そうです。これはロココです」
 王もだ。その装飾はその通りだと答える。
 そしてそのうえでだ。こうカインツに尋ねてきた。
「どう思われますか」
「ロココについてですね」
「はい、そのことについては」
「私はロココは嫌いではありません」
 王が嘘を見抜きそれを好まないのを知っていたので。カインツは素直に答えた。
「豪奢ですね」
「装飾過多ではありませんね」
「装飾は芸術の一つです」
 黄金に輝くその装飾、それを見ながら話すカインツだった。
「ですから」
「それは何よりです。ロココの他にもです」
「バロックですね」
「それもあります。そしてです」
「ワーグナー氏でしょうか」
「この城、いえその他の城も」
 王が今築かせているだ。全ての城がだというのだ。
「モンサルヴァートなのですから」
「モンサルヴァート。確か」
「そうです。聖杯の城です」
 ローエングリンがいたその城だ。その城を築いているというのである。
「その城をこの世に現しているのです」
「聖杯ですね」
「そうです。パルジファルの絵画もあります」
「パルジファルですか」
「御存知ですね。聖杯城の主です」
 その城のだ。他ならぬそれだというのである。
 

 

564部分:第三十三話 星はあらたにその九


第三十三話 星はあらたにその九

「その絵画もあります」
「聖杯城の主といいますと」
 カインツも気付いた。そのことに。
「陛下は」
「そうですね。そうなりますね」
 カインツに言われてその通りだとだ。王も微笑んで答えた。
 そうしてだ。彼に対してこう言うのだった。
「私はパルジファルですね」
「そう思うのですが」
「清らかな愚か者」
 何時しか微笑みだ。王は述べる。
「私はそれですか」
「はい。失礼ながら」
「いえ、失礼ではありません」
「それならいいですが」
「そうですか。ワーグナーも言っている様です」
 他ならぬだ。彼もだというのだ。
「私はパルジファルだと」
「あの洞窟はそのパルジファル王の子息の」
「ローエングリンですね。そうでしたね」
「そうした意味でもここはモンサルヴァートですか」
「この城以外の。ノイシュヴァンシュタインやヘーレンキムゼーもです」
 リンダーホーフ以外にもだというのだ。そうした城は。
「私の築く城は」
「外観や内装が違っていても」
「モンサルヴァート。この世にあるそれは一つとは限りません」
「この世にあるならですか」
「あちらの世にあるあの城は一つですが」
 それでもだった。この世にあるのは。
「幾つもあっていいと思いまして」
「幾つもですか。それはどうして」
「私にもわかりません」
 王はカインツの今の問いにはだ。この返答だった。
 憂いの、王の非常によくあるその顔になってだ。それで言うのだった。
「ですがそれでも。幾つも築けと」
「築け、ですか」
「そう言われる気がしてです。いえ」
 言葉を訂正させた。その訂正した言葉は。
「言われています」
「誰にでしょうか」
「騎士です」
 あの騎士のことをだ。王は述べたのである。常に王に語り掛けてくるあの騎士のことを。
「その騎士に言われた様に思えまして」
「騎士ですか」
 そう言われてだ。カインツはだ。
 その騎士が誰なのか彼の考えられる中で考えた。そうして。
 こうだ。王に答えたのである。
「ホルニヒ殿でしょうか」
「彼が私の騎士だというのですね」
「はい、違うでしょうか」
「ではそう思われて下さい」
 カインツにはわからないと見てだ。王は述べた。
「その様に」
「はい、それでは」
「ではです」
 また言う王だった。
「城の中を見回りますか」
「まさか陛下が」
「案内させてもらいます」
 王自らだ。彼を城の中に案内していくというのだ。
「そうさせてもらって宜しいでしょうか」
「有り難き御言葉」
 王にそうしてもらえるとは流石に夢にも思わずだ。こう答える彼だった。こうしてだ。
 カインツもまた王の傍にいるようになった。そうして王の庇護を受けてだ。彼は俳優として大成していくのだった。だが王は次第にだった。
 人を拒む様になっていた。さらに深く。しかしその中でもだった。
 王はだ。バイロイトのことをだ。ホルニヒに尋ねたのである。
 

 

565部分:第三十三話 星はあらたにその十


第三十三話 星はあらたにその十

「間も無くだな」
「バイロイトの上演ですね」
「そうだ。間も無くだな」
「はい、そうです」
 城の歌の間でだ。ワルトブルグの歌合戦、タンホイザー第二幕のそれを観ながらだ。王はホルニヒに尋ねていた。やはりここでもワーグナーだった。
「そして上演されるのは」
「指輪の残り二つだな」
「ジークフリート、そしてですね」
「神々の黄昏だ」
 最後は王自身が言った。
「あの作品もだ」
「そうしてあの作品が遂に完結しますね」
「壮大だ」
 王は指輪についてこう述べた。
「あまりにもな」
「ワーグナー氏の渾身の作品ですね」
「私は待ちきれなかった」
 ワルキューレの時のことをだ。王は言葉として漏らした。
「だからああしたのだ」
「そしてそれによってでしたね」
「私達は衝突した」
「しかしですね。それでも」
「そうだ。どうしてもだったのだ」
 自己弁護だった。今の言葉は。
「だが今度はだ」
「そうしなくてもいいというのですね」
「幸いな。そうせずに済む」
 王はそのことにだ。幸運を見て述べる。
「ワーグナーと衝突することは私にとっても避けたいものだ」
「だからこそですね」
「そうだ。バイロイトでの上演が楽しみだ」
 心からだ。王は言った。
「その時を今待っている」
「バイロイトでの指輪の完結ですか」
 ホルニヒは王程ワーグナーに造詣は深くない。しかしだった。
 それでもだ。彼もこう言うのだった。
「感慨深いものがありますね」
「そうだな。彼はあの作品は二十五年以上もかけて創り上げた」
 途中だ。中断もあった。それも長い間。
「それが遂に完結するのだ」
「バイロイトにおいて」
「ミュンヘンでないことが残念にしても」
「作品が完結することは」
「それが素晴らしい。ではだ」
「バイロイトに赴かれますね」
「そうする。ただしだ」
 どうかとだ。王はここでだ。
 憂いのある顔でだ。こう言ったのである。
「ただ。各国の君主達とは会いたくない」
「プロイセン王、いえドイツ皇帝や他のドイツ諸侯の方々とはですね」
「そうだ。会いたくない」
 ベルサイユでの戴冠式の時と同じくだった。そのことはだ。
「だからだ。最初の日は避けよう」
「他の日にですね」
「バイロイトに赴く」
 こうはっきりと言った王だった。
「鉄道はその日に用意しておいてくれ」
「畏まりました」
「そしてだ」
 バイロイトの話の次はだった。
「シシィだが」
「はい、エリザベート様ですね」
「あの方は何時この国に来られるのだろうか」
「まだ詳しいことは決まっていません」
 ホルニヒはそのことについてこう答えた。
「残念ながら」
「そうか」
「はい、しかしです」
「必ず来てくれるのだな」
「戻られると言うべきかも知れませんが」
「そうだな。あの方はな」
 ヴィッテルスバッハ家出身だからだ。そうなることだった。
 

 

566部分:第三十三話 星はあらたにその十一


第三十三話 星はあらたにその十一

「そうなるな」
「実家に帰られたということになるでしょうか」
「里帰りか」
 王はここではごく普通の表情で述べた。
「だがその里帰りの場所は」
「それは何処になるでしょうか」
「できれば城に来て欲しい」
 王の築いているだ。その城達にだというのだ。
「それが望みだとだ。あの方にお伝えしよう」
「では今からですか」
「手紙を書く」
 王は皇后によく手紙を書く。皇后もだ。互いにそうしているのだ。
 その手紙についてだ。王は微笑みこう述べた。
「鴎にだ」
「そういえば陛下は」
「あの方をそう御呼びしている」
「そしてあの方もですね」
「私を鷲と呼んでくれている」
 そうしているのだ。お互いにだ。
「有り難いことにな」
「鴎と鷲ですね」
「私達は鳥なのだ」
 王は微笑んで述べた。
「空を飛ぶな」
「何かそれは」
「どう思う、そのことについて」
「幻想でしょうか」
 ホルニヒもだ。王に微笑んでこう述べたのだった。
「そうなりますか」
「幻想か」
「はい、空を飛ばれるのですね」
「私もシシィもな」
「やはり幻想的です」
 空を飛ぶからだ。そうなるというのだ。
「陛下は空もお好きですね」
「だからだ。何時か空を飛びたいとも思う」
 王の夢の一つだった。このことも。
「あの永遠に青いあの空をだ」
「鉄の翼で、ですか」
「そうだ。人は何時かそのことを可能にする」
 その鉄の翼で空を飛ぶことをだ。可能にするというのだ。
「科学、文明の力でだ」
「空を。人が飛ぶ」
「気球ではそれはもうできている」
 それはできていたのだ。既にだ。
「だが。それとは別にだ」
「鉄の翼で」
「空を飛ぶのだ。必ずだ」
「そして陛下もですね」
「私はアルプスを飛ぶのだ」
 王の愛するだ。そのアルプスの上をだというのだ。
「青い空と山の間をな」
「青ですね」
「青はいい」
 その色についてもだ。王は愛情を見せる。どちらの青にもだった。
 そしてだ。この青についても。王は述べた。
「我がバイエルンの色でもあるしな」
「国旗にも使われていますね」
「青は清純だ」
 それを表している色だというのだ。
「その清らかな青の間を飛びたいのだ」
「何時か。それが果たされることを」
「近い筈だ。それは」
 空を飛ぶ、そのことはだとだ。王は述べる。
「待っている」
「空ですか」
「その時まで私は。いや」
 言いかけたところで。王は言葉を訂正させた。その訂正する言葉は。
「ワーグナーが生きていてくれれば」
「ワーグナー氏ですか」
「彼がいなくなってしまえばもう」 
 どうなのかというのだ。王の愛するその芸術がなくなれば。
「それで私は生きていられなくなる」
「だからですか」
「それまで生きていて欲しい」
 ワーグナーを見ていた。今ここにいない彼を。
 

 

567部分:第三十三話 星はあらたにその十二


第三十三話 星はあらたにその十二

「何としても」
「そしてワーグナー氏の芸術と共にですか」
「私は空を飛びたい」
 この時は幻想としか思えないことをだ。王は現実として話す。
「ワルキューレとはまた違いだ」
「ワルキューレとは違うのですか」
「彼女達は華麗だが血生臭い」
 戦いで死んだ者達を運ぶ彼女達はだというのだ。
「その彼女達とはまた違う芸術だ」 
「ワーグナー氏のそれを」
「共に空に飛びたい」
 こうしたことを言ってだ。王は空にも夢を見ていた。そしてだ。
 その夢を抱きながらだ。バイロイトのこけら落とし、ニーベルングの指輪を最後まで観ることも考えてだ。そのうえでその時を待つのだった。
 そして遂にだった。王にその時が来たのだった。
 鉄道、バイロイトに向かう鉄道の中でだ。金と青で彩られ豪奢な装飾と絵画に覆われた車両の中でだ。ロココをイメージしたソファーに座りつつだ。侍従達に述べていた。
 その手にはグラスがあり紅の美酒もある。その美酒を飲みながらだ。
 王はだ。期待する声を出したのだった。
「待ち焦がれていました」
「ジークフリート、そして神々の黄昏ですね」
「その上演をですね」
「御覧になられることを」
「はい、そうです」
 まさにそうだとだ。王はワインを飲みながら話す。
「その通りです」
「既にあらすじは知っていましたし」
「楽譜もでしたね」
「持っておられましたね」
「どういったものかは目ではわかっていました」
 脚本等はだ。わかっていたというのだ。
「ですが。心ではです」
「心では」
「といいますと」
「心で観てはいません」
 それはまだだというのだ。
「ですから。心で観るそのことがです」
「楽しみなのですね」
「今から」
「バイロイト。そこは私の国にありますが」
 それは確かだった。紛れもなくバイエルンの中にある町だ。 
 しかしそれでもだった。その町は。
「確かワーグナー以外は何もない筈です」
「そうです。バイロイトはです」
「あの町は静かな町です」
「ただ静かなだけの町です」
「そうです。そうした町だと私も聞いています」
 そのバイロイトの主としてだ。王もそのことは知っていた。
 だからこそだ。ここでこう言うのだった。
「本当に願わくばです」
「ミュンヘンにですね」
「ミュンヘンにワーグナー氏の歌劇場を築いて頂きたかった」
「そうですね」
「しかしミュンヘンは彼を拒みました」
 これが現実だった。王は愛したが町、そしてそこにいる者達は拒んだのだ。
「だからこそバイロイトになったのです」
「ワーグナー氏は既にあの町に住んでおられます」
「ヴァンフリートという邸宅も設けられました」
「そこでジークフリート牧歌という曲も作曲されています」
「ジークフリート、息子ですね」 
 その名前を聞くとだ。王は自然にこう呟いた。
「彼の息子ですね」
「はい、御子息ですね」
「氏の三番目のお子様であり唯一の御子息」
「そのジークフリート君ですね」
「彼だけではありません」
 その彼だけではないというのだ。ワーグナーの息子は。
「歌劇のあの主人公です」
「これから上演されるジークフリートの」
「その主人公ですか」
「彼のことでもあります」
 現実と幻想がだ。ここでも一つになっていた。
 そしてだ。その一つになった中でだ。王は話すのだった。
 

 

568部分:第三十三話 星はあらたにその十三


第三十三話 星はあらたにその十三

「そしてその彼は」
「歌劇の主人公ですか」
「そのジークフリートは何なのでしょうか」
「タンホイザーでもあり」
 まずはこのだ。歌の騎士だった。
「そして」
「そしてですか」
「さらになのですね」
「トリスタンであり」
 愛の中に死ぬこの騎士も挙げられた。
「ヴァルターであり」
「マイスターになる若き騎士もですか」
「ジークフリートだと」
「さらにジークムントもです」
 ジークフリートの父でもある。その英雄だ。
「これから上演されるであろうパルジファルもまた」
「あれは随分変わった作品になる様ですね」
「その様ですね」
 王は侍従の一人の言葉にこう述べた。
「どうやら」
「その聖杯の騎士もジークフリートだと」
「そう仰るのですね」
「そして最後に」
 王にとって最も重要な存在だった。最後の彼は。
「ローエングリンでもあるのです」
「ではワーグナー氏の作品の全ての主人公はですか」
「同じ存在だというのですか」
「そうです。前にも何処かで話したことですが」
 そうした輪廻めいたものも感じながら。王は述べていく。
「そうなのです」
「そしてそのうちの一人がですか」
「ジークフリートですか」
「ヘルデンテノールはそれぞれの世界にいる同じ人物なのです」
 王はそのことを見ていた。彼等は同じだとだ。
「ですから。ジークフリートはローエングリンでもあるのです」
「あの白鳥の騎士でもあるのですか」
「パルジファルの息子でもある」
「無論パルジファルとローエングリンも同じです」
 父子の関係にあるがそれでも彼等は同じだというのだ。考えてみれば不思議なことに。
「同じ人間なのです」
「確か愛による救済でしたね」
 侍従の一人がワーグナーの作品のテーマを話に出した。
「そうでしたね」
「そうです。それがワーグナーの作品の主題です」
「彼等は常に救済されていますが」
「しかし最後ではです」
 パルジファルのことだった。まだ上演どころか完成もされていない作品だ。
「彼は聖杯城とその王を救いますね」
「あら筋はそうなっている様ですね」
「彼はそれが可能になったのです」
 同じ存在である。ヘルデンテノールはだというのだ。
「そうなります」
「女性ではないのにですか」
「女性ですか」
「オランダ人からですが」
 この侍従はワーグナーに詳しかった。彼の作品のはじまりと言ってもいいそのオランダ人から話すのだった。王もそれを聞いていた。
「女性が苦しみ悩む者を救っていますね」
「はい、タンホイザーでもトリスタンでも」
 この場合死は救いでもあった。ショーペンハウアーそのままのだ。
「そうなっていますね」
「それなら何故パルジファルは」
「彼はクンドリーの接吻によって目覚めます」
 聖杯城の周りにいる妖女、彼女のことだ。
「そしてその時にです」
「ただ目覚めたのではなくですか」
「女性的な。人を救済するものをです」
「備えるのですね」
「そうです」
 その通りだと。王は語る。
 

 

569部分:第三十三話 星はあらたにその十四


第三十三話 星はあらたにその十四

「そうしたことにまで目覚めたのです」
「そうだったのですか」
「彼はそれにより聖杯城も騎士達も王もです」
「そこにいるあらゆる聖なるものをですね」
「救える様になったのです」
 こう言うのだった。そしてだ。
 王はだ。こうも話した。
「目覚めですか」
「目覚め?」
「目覚めとは」
 目覚めという言葉にはだ。ワーグナーに詳しい侍従だけでなく他の侍従達も応える。そうしてそのうえで話をするのだった。
「クンドリーの接吻ですね」
「そのことですね」
「いえ、私の目覚めは」
 何時しかだ。王自身の話になっていた。
「あの時。ローエングリンに出会ったことでしょうか」
「あの、ローエングリンですか」
「ここで」
「はい、あの騎士です」
 まさにそうだとだ。王は彼等に話す。
「彼に出会ってからです」
「お話がよくわからなくなりましたが」
「ここでローエングリンなのですか」
「パルジファルではなく」
「彼等は同じですから」
 侍従達にはわからない。しかし王の中では全てわかっていることだった。
 そしてそのうえでだ。彼は言うのだった。
「私は。何時かは」
「今からバイロイトです」
「そちらに赴かれます」
「いえ、聖杯城に」
 ここで言うのはこのことだった。
「そこに行くのでしょう」
「左様ですか」
「そうなのですか」
 侍従達は王の話がわからなくなった。しかし王の中では全てがはっきりとわかっていることだった。それがわかる者は王以外では僅かではあるが。
 その僅かな理解者の一人であり他ならぬ王の愛する芸術の創造者であるワーグナーは当然ながらバイロイトにいる。その彼はだ。
 己の邸宅であるヴァンフリートでだ。自身の足下にいる犬をあやしながらだ。コジマに話すのだった。
「あの方が来られるな」
「そうですね。間も無く」
「バイロイトに来られる」
 ワーグナーは微笑んで妻に話す。
「パルジファルがな」
「聖杯城の王となられる方がですね」
「来られるな」
 こう言うのだった。
「私はあの方が来られるのを待っていた」
「そして貴方の歌劇を。世界を観られることを」
「待っていた。確かにワルキューレのことはあった」
 そのことはまだ不快に思っていた。しかしだった。
「ですがそれでもだ」
「あの方はなのですね」
「敬愛せずにいられない方だ」
 敬意と愛情を込めてだ。彼は話した。
「心からな。だが」
「だが?」
「あの方はローエングリンによって目覚められた」
 ここでこう言うのだった。
「パルジファルになられたのだ」
「その時にだったのですか」
「あの方の御心は女性だ」
 そのだ。救済するものだというのだ。
「女性的なものはあの方にとりわけ強くある」
「むしろあの方はですね」
「女性なのだ」
 僅かな者だけがわかっていることだった。
「あの方はお気付きではないが」
「その女性ということに」
「あの方はそうした意味で。完成されたヘルデンテノールであり」
 そしてだった。
 

 

570部分:第三十三話 星はあらたにその十五


第三十三話 星はあらたにその十五

「女性なのだ」
「ローエングリンだと思われていますが」
「ヘルデンテノール達は全て同じ人格だからそうでもある」
「ではあの方はやはり」
「パルジファルなのだ」
 ワーグナーはそうした意味からもだ。王をこう呼ぶのだった。
「まさにな」
「女性的なものも内包された」
「パルジファルはクンドリーとの接吻により目覚めた」
「そしてあの方は」
「ローエングリンとの出会いによってだ」
 目覚めたというのだ。王にとっての接吻はそれだったというのだ。
「そうさせたのは私になるのだな。いや」
「いや?」
「あの騎士は。私が描かずとも」
 絵画的な話にもなっていた。ワーグナーは己の話から想像してだ。こう話したのである。
「あの騎士は自然と出て来て」
「そうしてなのですね」
「あの方を目覚めさせたのだろう」
「ではあなたがあの方に果たされたことは」
「橋渡しに過ぎないのかも知れない」
 王と騎士の出会いの、それのだというのだ。
「若しかしたらだが」
「橋渡し。それだけですか」
「そうだったのかも知れない。だが」
 それでもだというのだ。ワーグナーは深く思索しつつコジマに話していく。
「あの方にとって私の芸術は絶対のものになっている」
「はい、それはまさに」
「あの方は今それを描き出されている」
 それが城達だった。王がアルプスに築いていっているそれだった。
「あれは費用から色々と言われているが」
「バイエルンにおいて深刻な問題になっていますね」
「だがそれは誤りだ」
 予算から王を批判する、それはだというのだ。
「あの方のこの世での使命でもありあの城達は」
「ただ。陛下の道楽ではないのですね
「確かにあの方の全てが込められている」
 そこには道楽もあるのは確かだった。
 だがそれでもだ。それだけではない、ワーグナーはわかっていた。
「しかしそれ以上にだ」
「あの方は多くのものをですね」
「あの城に描かれている。必ずドイツの、いや」
 ワーグナーは観た。城達にあるものを。
「人類にとって最高の財産の一つになる」
「ですがそのことは」
「まだ誰にもわからない」
 殆ど誰もだった。僅かな王を理解できる者達以外の。
「あの方にとってはそれが悲劇なのだ」
「私も。あの方は」
 コジマもだ。顔を曇らせて述べる。
「どうしても理解できないことが多いです」
「そうだろう。私があの方を理解できること」
 ワーグナーも彼にしては珍しく顔を俯けさせて話す。
「それは最高の幸せだ」
「それ自体がですか」
「神が私に与えられた幸せだ」
「そうですか」
「そうだ。そしてその方に」
 どうするかとも話していく。
「贈りものをさせてもらう」
「指輪の残る二作を」
「ワルキューレのことは残念だったがそれでもだ」
「ジークフリート、神々の黄昏をですね」
「その二作を陛下に捧げる」
 彼の渾身の指輪を最後まで。王にそうするというのだ。
 

 

571部分:第三十三話 星はあらたにその十六


第三十三話 星はあらたにその十六

「そして最後の作品もだ」
「パルジファルもですね」
「完成したその時にあの方に捧げよう」
「それでは」
 こうしてだった。ワーグナーは王がバイロイトに来るのを待つのだった。この世のパルジファルが来ることを。そしてパルジファルは来た。
 王はバイロイトに着いてすぐにだ。宿泊するホテルに入った。そのうえで共にいるホルニヒに尋ねた。王が宿泊するに相応しいバイロイトで最も豪奢な部屋の中でだ。
 ワインを飲みそうしてだ。彼に尋ねる。
「今はだな」
「はい、他の君主の方々はどなたもです」
「来られていないな」
「ドイツ皇帝も他の方々もです」
「いいことだ。確かに初日は終わった」
 こけら落としはだった。既にだ。
「だがそれでもだ」
「明日が陛下にとってですね」
「こけら落としになる。バイロイトのな」
 王は頬を上気させて話す。自然にそうなっているのだ。
「そして遂にだ」
「御覧になられますね」
「指輪を最後まで」
 明らかに興奮してだ。王は話していく。
 ここでワインを一杯飲みだ。そして話した。
「このワインも普段よりも美味だ」
「一週間前と同じものですが」
「だがそれでもだ」
 美味だというのだ。
「心がそうさせているのだろうな」
「それだけ明日のことがですね」
「この日をどれだけ待ち望んだことか」
 指輪の残る二作を観る、やはりそのことだった。
「そして遂にだ」
「明日に」
「明日観て。一日置いて」
 王はさらに話していく。
「神々の黄昏だな」
「どれもかなりの大作でしたね」
「どちらも普通に四時間はかかる」
 歌劇の多くは二時間程だ。だがワーグナーは一作一作自体が大作なのだ。
 その大作を二つだ。王は観るというのだ。
 そしてその指輪についてだ。王は話していく。
「十五時間。四作全てでそれだけかかることになる」
「やはり。それだけの作品は」
「他にない。だがワーグナーは描ききった」
 歌劇を絵画に例えて。王は歌劇をこう述べた。
「そしてそうさせたのは他ならぬ私ということになる」
「陛下がワーグナー氏を援助されたからこそですね」
「私は彼にとってのパルジファルなのだな」
 王はここですっと微笑んだ。
「そうなるな」
「そうですね。そしてワーグナー氏の芸術にとっても」
「では私はやはりヘルデンテノールなのだ」
 ひいてはそうなるというのだ。
「幸いにだ」
「幸いにですか」
「そうなのですね」
「そうだ。そしてだ」
 ここでだ。また言う王だった。
「この町にはそのワーグナーがいてくれている」
「はい、それでなのですが」
 侍従の一人がここで王に述べてきた。
「そのワーグナー氏からお話がありまして」
「彼からか」
「はい、是非陛下と御会いしたいと仰っています」
 このことをだ。その侍従は王に伝えてきたのだった。
 

 

572部分:第三十三話 星はあらたにその十七


第三十三話 星はあらたにその十七

「どうされますか?」
「どれだけの時を経たのか」
 王はその侍従の言葉からだ。まずは遠い目になった。
 そしてそのうえでだ。こう答えたのだった。
「彼と別れて。しかしです」
「今はこうしてバイロイトにおられますし」
「それならばです」
 王としてもだ。あの別れは本意ではなかった。そしてだ。
 その長い年月を越えて再び会う旧友のことを思い出し。そのうえでの言葉だった。
「是非共です」
「会われますね」
「そうさせてもらいます」
 これが王の返事だった。
「そしてそれは」
「何時に為されますか?」
「彼は何と言っていますか」
 ワーグナーの方はどうかというのだ。王は友人に合わせた。
「明日でしょうか。それとも」
「何時でもとのことです」
 その侍従はこう述べた。
「何時でも。陛下さえ都合がつけば」
「私次第ですか」
「はい、何時にされますか?」
「会えるのなら」
 どうかとだ。王は考える目になってからだ。
 そのうえでだ。こう答えたのだった。
「すぐにでも」
「では今宵にでも」
「会いたいと。彼に伝えて下さい」
 こうその侍従に述べるのだった。
「今すぐにヴァンフリートに行かれて」
「そうさせてもらいます。では」
「お願いします」
 こうしてだった。ワーグナーにそのことが伝えられた。そうしてだった。
 ワーグナーの方からだ。王の宿泊するホテルに来た。その旧友はだ。
 彼は一礼してからだ。こう王に挨拶をした。
「お久し振りです」
「はい」
 王はその端麗な顔に微笑みを浮かべて応えた。
「御元気そうですね」
「陛下も」
「長い年月が経ちました」
 ただの年月ではない。一時一時が千秋だった。
 しかしその秋がだ。遂に終わりだというのだ。
「そして今ここで御会いできました」
「全くです。それで陛下は」
「つもることがありますね」
 王は言ってだ。そしてだった。
 二人は夜遅くまで話をした。そのうえでだ。
 王はバイロイトに赴く。その中はというと。
 ロビーはなかった。入るとすぐに観客席があった。木造で音の反響をかなり考慮した造りだった。そしてオーケストラのピットの姿は見えなかった。
 同行していたホルンシュタインがだ。その見えないピットについて言った。
「オーケストラの席は」
「あそこにある」
 奥が非常に深い舞台を指し示してだ。王はそのホルンシュタインに話した。
「あの下にだ」
「あっ、覆いがありますね」
「あの覆いがオーケストラの姿を隠し」 
 そしてだというのだ。
「音を反響させているのだ」
「成程、考えたものですね」
「ワーグナーは周到に考えてこの劇場を造った」
「木造なのもロビーがないのもですね」
「そうだ。ここはまさに彼の歌劇場なのだ」
 舞台を観つつだ。王はホルンシュタインに話す。
「さて、それではだ」
「開幕ですね」
「貴賓席に移ろう」
 王がいるべきだ。その場所にだと話してだ。
 そうしてだった。開幕を待った。やがてだ。
 上演がはじまった。ジークフリート、指輪の主人公が出るその舞台を王は観るのだった。気が遠くまで待ったその舞台を観てだ。王は至福の時を迎えた。
 最後のジークフリートとブリュンヒルテの抱擁の後で一日置き再び上演があった。今度は最後の神々の黄昏の上演だ。王はその最後も観た。
 

 

573部分:第三十三話 星はあらたにその十八


第三十三話 星はあらたにその十八

 ジークフリートは死にブリュンヒルテが炎を点けそれを司るローゲを呼び。彼女はその炎の中に消えた。
 そしてその炎はヴァルハラとそこにいる神々、攻め入らんとするアルベリッヒとニーベルングの軍勢を燃やした。人だけがそこに残る。
 アルベリッヒの息子ハーゲンは指輪を手に入れようとする。しかし彼はラインの乙女達に捉われ激流の中に消える。全ての元凶の指輪は青い世界の中にいる乙女達の手に戻った。それが全ての終幕となった。
 最後まで観てだ。王は涙と落として言った。
「最早何も言うまい」
「何もですか」
「そうだ。言葉もない」
 こうだ。ホルニヒに話したのである。
「これ以上の感動はない」
「これだけの舞台は私も」
「観たことがないか」
「ありませんでした」
 それはホルニヒもだった。彼は涙を流していないがそれでも言うのだった。
「神々の世界ですね」
「まさにそうだ。しかしだ」
「しかしですね」
「最後の作品がまだある」
 そしてその作品のこともだ。王は話した。
「パルジファル、それが最後になる」
「パルジファルですね」
「おそらくそれがワーグナーの最後の作品になる」
 王にはわかっていた。そのことも。
「彼はそれで全てを終えるのだ」
「そしてその作品をですね」
「私は観る」
 今からだ。こう言うのだった。
「だが。今はだ」
「指輪ですね」
「指輪が遂に終わった」
 王は満足した声で述べた。
「このことは私の人生にとって最大の喜びの一つだ」
「途中どうなるかわからなかったのでしたね」
「完成するかどうかな」
「しかしそれが完成して今舞台で完結しましたね」
「あの時私が彼を助けなければ」
 ワーグナーをだ。他ならぬ彼をだ。
「そうはならなかったのだな」
「はい、その通りです」
 事実だった。だからホルニヒもこう答える。
「まさに。あの時陛下がワーグナー氏をお助けしなければ」
「彼は指輪を完成させられなかった」
「他の作品もです」
 指輪だけではなかった。それは。
「トリスタンとイゾルデも」
「そしてマイスタージンガーもだな」
「ですから陛下はワーグナー氏にとっては」
「ジークフリートか。いや」 
 ここで言い換えた。すぐにだ。
「ローエングリンだな」
「ローエングリンですか」
「それになるのだな」
 こう言うのだった。
「私は彼にとっては」
「ローエングリンですか」
 ここでもこの騎士だった。ジークフリートを観てもだ。そしてそのことはだ。王の中では矛盾しなかった。ジークフリートを観ながらもローエングリンを語ることは。
「陛下は彼ですか」
「そうだ、彼だ」
 また言う王だった。
「私はあの騎士なのだ。彼にとっては」
「ではワーグナー氏は」
「ワーグナーの芸術も。全てだな」
「エルザ姫になるのですね」
「そうなるのだ。やはり私はローエングリンなのだ」
 自分でそのことを確めて満足もする。
 そのうえでだ。王はホルニヒにこうしたことも話した。
 

 

574部分:第三十三話 星はあらたにその十九


第三十三話 星はあらたにその十九

「だからこそ。あの城にも入られるのだな」
「城?ノイシュヴァンシュタインでしょうか」
「いや、あの城ではない」 
 王にだけ見えることだった。そのことは。
「あの世界にある城なのだ」
「あの世界?」
「私は最後にあの城に入るのだ」
 半ば恍惚としてだ。王は話すのだった。
「最後にはだ。だが」
「だが?」
「今はこの世界の城を築いていこう」
「ノイシュヴァンシュタインですね」
「当然ヘーレンキムゼーやそうした城もだ」
 今王が築いているその城達だった。その城達を見ながらだ。
 王はだ。静かに話すのだった。
「そうしていこう。何はともあれ満足している」
「指輪が終わったことを」
「そうだ。そのことは実に素晴らしい」
 満足した言葉を続けていく。
「バイロイトは今その歴史をはじめたのだ」
「あの、ですが陛下は」
「確かにミュンヘンに築いて欲しかった」
 その望みは話すのだった。王にとっては切実な願いだった。だがそれは適えられなかった。そのことを残念に思う気持ちはまだ強くあった。
 しかしそれでもだった。王はワーグナーの芸術自体について語るのだった。
「この町は聖地になる」
「芸術のですね」
「モーツァルトを産んだザルツブルグ」
 王はモーツァルトも愛している。ロココを象徴するその偉大な作曲家も。
「あの町に匹敵するだけの聖地になる」
「ではワーグナー氏もまた」
「ゲルマン民族は何と幸福なのか」
 ひいてはだ。民族の話にもなった。
「モーツァルトとワーグナーの二人の聖地をだ。神に与えられ、そして」
「さらにですか」
「他にも実に多くの素晴らしい音楽家を与えられた」
 そうだというのだ。二人の偉大な音楽家達だけでなくだ。
「バッハ然り、ベートーベン然りだ」
「彼等もまたですね」
「シューベルトもいい。全てはドイツの宝だ」
「この国のですか」
「この民族に神は数多くの素晴らしい音楽を与えてくれた」
 王の言葉は今は現実にはなかった。神の神秘的な世界を見ていた。
 そうしてだ。王はその夢幻の音楽を語っていくのだった。
「そしてその中の一つとしてだ」
「このバイロイトがですね」
「聖地になる。偉大な音楽のだ」
「バイロイトはこれまで何もない只の田舎町でしたが」
「しかしそれでもですね」
「そうだ。今その歴史がはじまったのだ」
 その現実を話す。しかしだった。
 ホルニヒはここでは暗い顔になってだ。王に話した。
「しかしワーグナー氏はどうやら」
「聞いている。財政だな」
「かなりの赤字になったと御心を沈まされているそうです」
「大したことではない」
 王にとってはだ。まさにそうだった。
「はじまりで赤字になったといってもだ」
「大したことではないのですか」
「芸術の前には俗世のことなぞ塵芥の様なものだ」
 特に金銭のことはだ。王にはそうとしか見えないものだった。
 それが為にだ。王はホルニヒの今の言葉をこう言ってよしとしたのだった。
「足りなければ私が出す。それにだ」
「それにとは」
「財政はすぐにどうとでもなることになる」
 赤字ではなくなる、具体的にはそうなるというのだ。
 

 

575部分:第三十三話 星はあらたにその二十


第三十三話 星はあらたにその二十

「人がこの町に来るのだからな」
「人が来る、即ちですね」
「それが黄金を生み出す。人は黄金を造るものだからだ」
「それでなのですね」
「その通りだ。そんなものは小事に過ぎない」
 王は簡単に言い切った。
「大事なのはこの芸術を何時までも伝え」
「そしてバイロイトを残していくことですね」
「聖地を潰すことはこの世での最大な悪行の一つだ」
 王はそう考えていた。心から。
「それが理解できない者もいるだろうが」
「バイロイトは聖地になりますか」
「そのことは確かだ」
 王はその未来を見ていた。
「だが私は」
「陛下は?」
「おそらく再びこの町に来ることはないだろう」
 こう言ったのである。
「ここも人が多く来る。そして」
「そして?」
「私を見るからだ」
 だからだというのだ。
「見られることは非常に辛い」
「そうですか。だからこそ」
「私は見られたくない」
 王にとっての苦痛をだ。痛みを感じる声で話していく。
「そして噂されるのなら」
「陛下、俗人の言葉は」
「わかっていても辛いのだ」
 どうしてもだった。最早王には止められなかった。
「この辛さをどうするべきか。そう考えてだ」
「バイロイトにもですか」
「この町に来ることはない」
 そうだというのだ。王はこの町には今来るだけだというのだ。
 そのことを話してだった。それでだ。
 王はそれでも満ち足りた顔でだ。席を立ったのだった。
「では帰ろう」
「はい、それでは」
「パルジファルは別の場所で観ることになる」
「それは何処でしょうか」
「私だけに許され、私だけが観られる場所」
 そこでだというのだ。そしてそこは。
「ミュンヘンのあの場所だ」
「あの歌劇場ですか」
「ワーグナーは他の者には許さない」
 上演そのものをというのだ。パルジファルについて。
「だがそれでもだ」
「陛下ならば」
「私一人が観るのなら。バイロイト以外であの作品を観られるのだ」
 まさにそれがだ。王の特権だった。
 そしてその特権についてもだ。王は述べた。
「私にとっての幸せだ」
「ではその時を」
「待とう。今はな」
 こう言い残してだ。王はバイロイトを後にした。そうしてだった。王は二度とこの町に来ることはなかった。その王が去ったことを聞いてだ。
 ワーグナーは借金に追われながらもだ。またコジマに話した。
「あの方に観て頂いたことは満足だ」
「そうですね。待っておられましたから」
「御会いできたことも幸せだ」
 そのことについてもだ。彼は述べた。
 ヴァンフリートのピアノに座りパルジファルの作曲をしながらだ。傍らに立つコジマに話したのである。
「やはりあの方は私の最大の理解者の一人だ」
「お父様と共に」
「そうだ」
 コジマの父フランツ=リストと同じくだというのだ。
 

 

576部分:第三十三話 星はあらたにその二十一


第三十三話 星はあらたにその二十一

「私を理解して下さっているのだ」
「八年の間隔を経ても」
「理解して下さっている。その方にあの指輪を観て頂いた」
「そのこと自体が幸せですか」
「まことにな。だが」
「だが?」
「あの方はこれからより夜の中に入られる」
 闇ではなかった。そこだというのだ。
「その中にだ」
「そのことから離れられませんか」
「最早な。それは運命なのだ」
「あの方が夜に入られることは」
「夜は私の世界では何かを起こす場所だ」
 ワーグナーの世界ではだ。何かが起こるのは夜なのだ。
 だからだ。それでだというのだ。
「しかしそれと共に人が眠る場所でもある」
「そしてその夜に」
「あの方は入られる。人が眠り噂なぞしないあの中に」
「では陛下は」
「夜の。私の世界の中に入られるのだ」
「ですがそれは」
「この世では認められないことだ」
 人は昼にいるからだ。夜に入ることは認められなかった。
 だがワーグナーは夜についてだ。こう言うのだった。
「夜にもあらゆるものがある」
「ただ。見えないだけで、ですね」
「あの方には見られるのだ」
 そこが違っていた。王と他者は。
「しかし多くの者、今生きている多くの者はそのことをわからない」
「だからこそあの方を理解できないのですね」
「その通りだ。これは悲劇だ」
 王の人生そのものがだというのだ。
 そしてその悲劇はどうなるか。ワーグナーはそのこともわかっていた。それで今だ。コジマに対してそのことを静かに語ったのである。
「だがそれは終わる」
「終わる悲劇なのですね」
「しかもあの方にとっては幸福に終わる」
 そうなるというのである。
「私はそのことがわかるのだ」
「幸福に終わる悲劇ですか」
「魂は永遠だ」
 ワーグナーはこうも言った。
「それはこの世のことだけではない」
「別の世界に行ってもですね」
「魂は永遠に生きる。あの方はあの世界に生きられるのだ」
「あの世界とは」
「聖杯の世界だ」
 まさにそこだというのだ。
「そこに入られる」
「ではあの方はやはりパルジファルなのですね」
「正真正銘のな。それもクンドリーの接吻を受けた後のだ」
 その後のだ。王となる彼だというのだ。
「今は聖杯の城に入る前の旅路なのだ」
「しかしそれが終わると」
「あの世界に入られる」
 まさにそこにだというのだ。
「悲劇だが。その先には」
「幸福が待っている」
「そうだ。そしてあの方はだ」
 王についてさらに話していく。
「そこでも王であられるのだ」
「その世界でもですか」
「そうだ。永遠の王になられる」
 ワーグナーには見えていた。そのことが。しかしだった。
 コジマにはそのことが見えずだ。首を傾げるところもあった。
 今もだ。そうして言うのだった。
「その世界は私には」
「わからないか」
「あの方についてもおそらくは」
 完全には理解できていないことはコジマ自身にもわかった。だがわかるのはそのことだけでありだ。王のことをワーグナー程理解できていなかった。
 

 

577部分:第三十三話 星はあらたにその二十二


第三十三話 星はあらたにその二十二

 それでだ。怪訝な顔にもなり言うのだった。
「この世でも王で別の世界でもとは」
「そうだ。魂は不滅なのだ」
 これもだ。ワーグナーならわかることだった。
「永遠のものは確かに存在するのだ」
「魂がそれですか」
「私はかつて言った」
 何を言ったかというとだ。それは。
「マイスタージンガーの最後の場面だが」
「ザックスが言ったことでしたね」
「そのことは覚えているか」
「はい。ドイツの芸術はですね」
「それは不滅なのだ」
 ザックスはワーグナーである。彼はザックスに己を投影してマイスタージンガーを創り上げたのだ。そこに既にだ。彼は永遠を見ていたのだ。
 そして王についてもなのだった。
「あの方もまたドイツ芸術の体現者であられ」
「不滅の方なのですね」
「全ては不滅だ。ドイツもこれからはだ」
「これからは?」
「様々なことがあるだろう」
 ようやく誕生した、王が望みつつもその誕生を恐れたその国もだった。
「戦争もあれば苦境もある」
「そして滅びることは」
「あるかも知れない。国土は」
 それはだというのだ。国土はだ。
「しかし。その魂、芸術はだ」
「不滅ですね」
「そうだ。不滅だ」
 まさにそうだと話してだった。ワーグナーは今度はパルジファルについて話した。
「遂に最後の作品にかかりたい」
「あのパルジファルに」
「そうだ。その時が来た」
 ここでピアノに置かれている楽譜を見たのだった。
「指輪を完成させたのだからな」
「そうですね。では」
「私の作品の総決算になるだろう」
「ただ。そのことで」
「彼か」
「はい、ニーチェ氏はよく思われていないようですが」
 今その名を知られてきている哲学者だ。ワーグナーを崇拝していた。
「どうもバイロイトでも」
「そうだな。彼は私から離れようとしている」
「そのことは宜しいのですか?」
「彼はあの方とは違う」
 王とはだ。そうだというのだ。
「私を完全に理解することはできていない」
「だからですか」
「確かに残念だがそれも仕方ない」
 これがワーグナーのニーチェについての話だった。
「おそらく彼は私から別の音楽家に向かう」
「では今は」
「パルジファルに専念する」
 こう言ってだった。実際に作曲にかかるのだった。ワーグナは最後の作品にかかろうとしていた。そして王もだ。彼のその最後の作品を観ることに向かっていた。


第三十三話   完


              2011・10・30
 

 

578部分:第三十四話 夜と霧とその一


第三十四話 夜と霧とその一

                第三十四話  夜と霧と
 王はこの時ヘーレンキムゼーにいた。その一室の中でだ。
 豪奢な、やはりロココやワーグナーを思わせる絵画のあるその部屋においてだ。彼はホルニヒを傍に控えさせていた。そのうえでだ。 
 ワインを手にだ。朗読するカインツに述べていた。
「見事です」
「これでいいのですね」
「はい、この前とは全く別です」
 その前の話がここで出た。
「あの時はどうかと思ったのですが」
「実はです」
 カインツは王にだ。素直に述べた。
「ある方からアドバイスを受けまして」
「それでその朗読になったのですか」
「はい」
 答えてからだ。そのうえでだ。王に話す彼だった。
「そちらにおられるホルニヒ殿に」
「この者にですか」
「よい朗読の仕方を教えて頂きました」
 こう述べるのだった。
「それで朗読を変えてみました」
「そうだったのですか」
 ソファーに座り美酒を飲みつつだ。王は納得した顔になった。
 そのうえでだ。こうホルニヒ、王が飲んでいるワインを手にしている彼を見たのだった。
 そうしてだ。こうホルニヒにも述べた。
「有り難う。そなたが今一人の素晴らしい俳優を生み出したのだ」
「勿体なきお言葉」
「彼は素晴らしい資質の持ち主だ」
 それがわかっているというのだ。
「その彼の資質を開花させた」
「いえ、私はです」
 だがホルニヒは王にだ。こう言うのだった。
「ただ彼に助言しただけで」
「それだけだというのか」
「全ては彼の力です」100
 カインツを見てだ。そのうえでの言葉だった。
「彼はその素質を発揮しただけです」
「そうか。ではだ」
「それではですね」
「彼の朗読をもっと聞きたい」
 王は微笑み述べた。そのうえでカインツに顔を戻してだ。
 そのうえでだ。こう言ったのである。
「お願いします」
「ではまた」
「そうして下さい」
 こうしてだった。この日はカインツの朗読を楽しんだ王だった。
 そしてだ。遂にその日が来たのだった。
 深夜目覚めた王にだ。従者達が告げる。王は丁度朝食の時だった。
 朝食とはいえ果物や肉が豊富にある豪奢なそれを食べる王にだ。彼等は告げたのである。
「陛下、皇后様がです」
「明日この城に来られます」
「明日のお昼にとのことです」
「そうですか」
 そのことを聞いてだ。王はまずは微笑んだ。
 そうしてだ。こう彼等に述べるのだった。
「ではその時はです」
「お昼にですね」
「起きられますか」
「そうします。昼といえど」
 どうかというのだ。王が避けるその昼も。
「シシィがいれば違います」
「それだけ華やかになるということでしょうか」
「はい」
 静かな微笑みでだ。王はそうだと答えた。
「その通りです」
「では皇后様にそのことをです」
「お伝えします」
「そうして下さい。シシィにとっては里帰りです」
 ヴィッテルスバッハ家の生まれだからだ。そうなるのだった。
「人は故郷をどうしても恋焦がれるものです」
「だからこそ戻って来られたのですね」
「このバイエルンに」
「私の故郷はここです」
 今いるそのヘーレンキムゼーだとだ。王は言うのだった。
 

 

579部分:第三十四話 夜と霧とその二


第三十四話 夜と霧とその二

「そしてノイシュバンシュタインでもあります」
「陛下が築かれた城達ですか」
「その城達こそが」
「私の故郷です」
 まさにそうだと言うのだった。そうしてだ。 
 シャンパンを飲んだ。王の愛する酒の一つだ。
「だからここにいるのです」
「そしてその故郷にですね」
「エリザベート様をお招きできることが」
「嬉しいものです」
 また言う王だった。
「それも実に。では」
「はい、その明日に備えてです」
「用意させてもらいます」
 こうしてだった。その明日のオーストリア皇后の来訪の用意がされていった。その中でだ。一人の少女、城に勤める者の娘が好奇心から王の部屋に入った。
 そこは見事なベッドにだ。美しい絵画があった。そして装飾で飾られている。
 その部屋に入り恍惚としているとだ。後ろからだった。
 少女に王がだ。こう問うたのだった。
「どうされたのですか?」
「陛下・・・・・・」
「ここは王の部屋です」
 怒らない声でだ。王は少女に述べた。
「その部屋に王の赦しなく入ってはいけませんね」
「はい・・・・・・」
「そのことは知っていましたね」
「知っていました」
 少女は恐る恐る王に素直に答えた。
「ですが」
「どうして入られたのでしょうか」
 王はあくまで穏やかだった。怒るものはない。
「そのことを話すのです」
「一度。陛下の部屋がどういったものか」
「見たくなったのですか」
「そうです」
 少女は素直に述べていく。子供らしい素直さで。
「申し訳ありません。それで」
「わかりました。それではです」
 王はここまで聞いて少女に告げた。
「もうここには二度と入らないことです」
「えっ、それだけなのですか」
「人には好奇心があります」
 そのことがわかっているからだった。王は今こう言ったのである。
「ですから時としてこうしたことをしてしまいます」
「ですが私は」
「王である私がいいとしています」
 処罰を覚悟していた娘にもだ。王は優しい。
「それではいいのです」
「では私は」
「今すぐこの部屋を出るのです」
 その声はここでも優しい。
「わかりましたね」
「はい、わかりました」
 こうしてだった。少女は王に深々と頭を下げそのうえで部屋から駆け去った。このことが知られる様になったのは少女が成長して王について話した時だった。
 皇后はヘーレンキムゼーに馬車を進めていた。その中でだ。 
 皇后は自身の侍女達にだ。馬車の中でこう話していた。
「バイエルン王は近頃人前に姿を現されないのですね」
「はい、その様です」
「そして昼に眠られ夜に起きられます」
「こうした山奥の城に篭もられです」
「築城とお一人の観劇ばかりされています」
「今はそうされています」
「噂の通りですね」
 その話を聞いてだ。皇后は表情を消して静かに述べた。
 

 

580部分:第三十四話 夜と霧とその三


第三十四話 夜と霧とその三

「あの方には今のこの世は生きにくいものなのです」
「ですがあの方は王です」
「バイエルン王です」
 侍女達はその皇后に怪訝な顔で述べる。
「ですから人前に出られてです」
「政務にあたらなければなりませんが」
「そうしなくともドイツは動いています」
 その侍女達にだ。こう返す皇后だった。
「ベルリンから全てが動いていますね」
「それはそうですが」
「その通りですが」
「バイエルンはドイツの中にあります」
 そうなってしまったのだ。そのことは皇后もよくわかっていた。
「そしてあの方は何かと見られます」
「王ですから、それは」
「当然です」
「仕方ないことでは」
「普通の人なら仕方ないことです」
 ここでだ。皇后はこう侍女達に述べた。
「ですがそれでもあの方は繊細なのです」
「それも御聞きしていますが」
「それ故にですか」
「ロマンを愛し。とても繊細な方なのです」
 そしてだ。その繊細故だというのだ。
「人の目や言葉には耐えられないのです」
「それを耐えるのが王では」
「違うのでしょうか」
「人に押し付けるには酷なことがあります」
 王とて人だ。ならばだった。
「特にあの方は繊細なのですから」
「そっとしておくべきですか」
「そうだというのですか」
「私はそう考えます」
 これが皇后の王への考えだった。そのことを実際に述べたのであるy。
「あの方は。まことに」
「しかし王です」
「王ならばどうしてもです」
「一人になることは」
「できないものですね。わかります」
 そのこともまたわかっている皇后だった。何故なら自分も同じだからだ。
 それでだ。こうも言うのだった。
「私もまた。それでこうしているのですから」
「旅を」
「それをですか」
「ウィーンは私には辛い町です」
 簡単に言えば合わなかった。皇后にはだ。
「ハプスブルク家の宮廷もです」
「ですが陛下は皇后様を愛しておられます」
「そのことは皇后様もおわかりですね」
「そのことは」
「はい、そうです」
 その通りだとだ。皇后も答える。
「そのことは私もわかっています」
「しかしそれでもですか」
「こうして旅を続けられますか」
「皇后様は」
「陛下には申し訳ないと思っています」
 それはなのだった。だが、だった。
「しかしそれでも」
「こうして旅を続けられますか」
「今も」
「はい、そうしないと耐えられないのです」
 こう話してだった。皇后は今ヘーレンキムゼーに向かっていた。そして城に着きだ。
 最初に案内されたのは鏡の間だった。その鏡の間は部屋の左右に鏡が連なっている。黒い部屋の中にその鏡達が連なり天井は黄金と絵画に飾られている。
 神の世界を描いたその宮殿に入りだ。皇后はまずこう言った。皇后を照らしているのは黄金だった。それはまさにロココの絵画も照らしていた。
 その黄金に照らされる中でだ。皇后は言ったのである。
「広過ぎますね」
「広過ぎますか」
「そう言われるのですか」
「はい、ベルサイユの鏡の間ですね」
 何を元としているのかはすぐにわかることだった。鏡の間といえばだ。
 

 

581部分:第三十四話 夜と霧とその四


第三十四話 夜と霧とその四

「ですがあの部屋よりも広いです」
「ベルサイユのことはよく知りませんが」
「私もです」
「申し訳ありませんが私も」
 ウィーンにいる侍女達は知らなかった。フランスのその宮殿のことはだ。
 それでだ。皇后の周りで首を傾げさせながら言うのだった。
「ですがそれでもですか」
「ここは広いですか」
「そうだというのですか」
「この城の広さと比べてもです」
 ベルサイユは巨大な宮殿だ。そのベルサイユのものよりも広いのだ。
 それでだ。皇后は言うのだった。
「不釣合いにも思えます」
「左様ですか」
「この場所は」
「ですがあの方はそれを望まれたのです」
 他ならぬ王がそうさせた。王は城の設計やデザインにも細かく指示を出していたからだ。
 それでこうして見てだ。皇后は言うのだった。
「それならいいでしょう」
「そうですか。バイエルン王が望まれるなら」
「それならですね」
「そうです。では」
 それではだと話してだった。皇后は王の待つ場所に向かった。そこは舞踏の間だった。やはり黄金の輝きに満ちワーグナーやロココの香りが濃厚にある部屋の中に黒のフロックコートを着た王がいた。その王と互いに一礼をしてからだ。皇后は王に対して述べた。
「何処か顔色が悪い様ですが」
「そうでしょうか」
「はい、日の光に当たっておられないからでしょうか」
「そうかも知れませんね」
 そのことを否定せずに答える王だった。
「私は近頃月ばかりを見ています」
「アルプスにおいてですね」
「そうです。よくそうしています」
「アルプスの月光王」
 皇后は言った。王の仇名の一つを。
「だからですか」
「月はいいものです」
 王は微笑みだ。皇后にこう述べた。
「優しい光でこの世を照らしています」
「だからこそいいのですね」
「はい、その下にいると癒されます」
 太陽よりもだ。そうだというのだ。
「それだけで」
「だからこそなのですね」
「昼は。憂いの世界です」
 王は昼についてはだ。皇后に対してもこう言うのだった。
「その世界にいても。私は」
「御心が休まりませんか」
「ですからここにいるのです」
「ですが今は」
 昼だった。王にしては珍しくその世界にいた。そのことについてだ。王は皇后の問いに答えた。
「貴女に御会いできますから」
「だからいいのですか」
「はい、そう思いまして」
 それでだというのだ。
「それで今はいます」
「そうですか。ですが」
「ですが?」
「無理をされることはないのです」
 それはいいというのだ。皇后は微笑み王に話した。
「貴方が貴方の望む様にされて」
「それでいいのですか」
「私は構いません」
 微笑みだ。王に述べていく。
「ですからこれからも」
「いいですか」
「そうです。ですが」
「ですが?」
「有り難うございます」
 微笑みだ。礼も述べる皇后だった。
 

 

582部分:第三十四話 夜と霧とその五


第三十四話 夜と霧とその五

「私に会わせて下さって」
「だからですか」
「はい。それではですね」
「何を楽しまれますか?」
 王から皇后を誘う。
「音楽でしょうか。それとも」
「船を」
 それをだとだ。皇后は微笑んで述べた。
「トリスタンだったでしょうか。貴方の船は」
「あれに乗ってですか」
「少し湖を見たいのですが」
「わかりました」
 王は微笑みだ。皇后のその言葉に応えた。
「それでは今から船に乗りましょう」
「船にですね」
「はい、そうして青い湖を見ましょう」
 青という言葉には王は笑顔になった。微笑みからだ。
「そうしましょう」
「では」
 こうしてだった。王は皇后を船に案内してそのうえでだ。青い湖に出た。船はゆっくりと進みそのうえで青い湖を進む。周りには緑の森がある。
 その青と緑の中にいてだ。皇后は船の中から恍惚として王に話すのだった。
「貴方は今もなのですね」
「はい、青が好きです」
「そして緑も」
「自然の中にいることはいいことです」
 誰にも見せない微笑みを皇后に見せながらだ。王は話していく。
 二人は今船の甲板にいる。そこから後ろにホルニヒや侍女達を控えさせてだ。そのうえで話をしているのだ。二人だけで今はそうしているのだ。
「心が癒されます」
「そうですね。私もそうですし」
「貴女もウィーンにいるよりですね」
「はい、旅をして」
 そうしてだった。皇后もまた。
「青や緑を見ることが好きです」
「鴎の様に」
「そうですね。鴎は海の鳥ですが」
 それでもだった。皇后も自分で言う。
「私はいつも青や緑を見ていたいのです」
「それも自由に」
「鳥になりたいです」
 そしてこうも言うのだった。
「空を飛ぶ鳥に」
「そうなるのには少し時間がかかるでしょうか」
 王はここで時間の概念を話に出してきた。
「鳥になることは」
「鳥にですか」
「はい、鳥になれます」
 王はこう皇后に話すのだった。
「何時か人は科学によって空を飛べるようになります」
「それも近いうちになのですね」
「そうです。実際に人は科学によって多くのことを成し遂げてきていますね」
「そうですね。今世界は大きく変わってきています」
 実際にそうだった.。オーストリアにおいても。
「鉄道もあればその他のものも」
「そうですね。私は鉄道も好きです」
「専用のものを持っているそうですね」
「ええ。あれはいいものです」
 こうだ。王は鉄道について何処か子供の様に機嫌をよくさせて話していく。
「新しい形の旅をもたらしてくれています」
「馬よりもずっと速く動き」
「そうして多くのものを見せてくれます。しかも優雅に」
「だからこそ鉄道を好まれていますね」
「あれは人に多くのロマンをもたらせてもくれます」
「科学も人にロマンをですか」
「もたらせてくれます。実際にです」
 今度は城の話もするのだった。
 

 

583部分:第三十四話 夜と霧とその六


第三十四話 夜と霧とその六

「私は城にも多くの科学を取り入れています」
「そうして灯りや食事もですね」
「はい、整えています」
「古城に科学をですか」
「取り入れています。それは非常にいいものです」
 こう話すのだった。王は実際にその中にいるからこそ言えることだった。
「そして空ですが」
「その空ですか」
「はい、空です」
 この話に戻った。空のことにだ。
 話をしながら上を見上げる。その青い空を。
「この青い空を何時か人は飛ぶことができるようになります」
「夢の様ですね」
「ですが夢ではないのです」
 王の中ではそうなるものだった。そして自然にだ。
 王はだ。皇后にこう話したのだった。
「夢は現実になるものです」
「現実に、ですね」
「はい、なります」
 王は無意識のうちに話していた。こう。
「だからこそいいものなのです」
「だからですか」
「人は多くのものを求めそれを果たしてきています」
「一つ、そしてまた一つと」
「なっていきます。それにしても空は」
 また空を見上げてだ。王は話した。
「何時見てもいいものですね」
「本当は青い空が好きなのですね」
「青は好きです」
 王の好きな色は青だった。このことは変わらない。
 その青についてだ。王は深く見てだった。
「バイエルンの。我が国の色ですから」
「だからこそ余計にですね」
「はい。青に包まれた世界ならどれだけいいか」
 恍惚とさえなって話していく。しかしだった。
 憂いの顔になりだ。王はこんなことも述べた。
「ですが。昼の世界には」
「だからですか」
「私は昼の企みから避けている、いえ逃げているのですね」
 顔は自然に俯き寂しいものになってだ。王は青から、王が愛している青から目を逸らせてだ。そうして皇后に話すのだった。その憂いを。
「そうしているのです」
「昼にだけ青はありません」
 その王にだ。皇后は静かに述べた。
「夜にも青はありますね」
「はい、それは確かに」
「昼の青も夜の青も同じく素晴らしいものです」
「では私は」
「なら夜の青を愛されるべきです」
 必然的にだ。そうあるべきだというのだ。
「昼の企みに耐えられないのなら」
「夜のですか」
「はい、夜の青を」
 また王に告げる皇后だった。
「そうされてはどうでしょうか」
「そうですね」
 少し考えてからだった。王は皇后に答えた。
 そうしてだった。少しだけその顔を晴れやかにさせてだ。皇后に述べるのだった。
「色は夜にもありますから」
「夜はお好きなのですね」
「好きなのでしょう」
 ここでは言葉は断定ではなかった。
「私もそう思います。私自身も」
「そうですか。やはり」
「夜は醜いものを覆い隠しています。それに」
「それに?」
「照らせば隠されている美しいものは見えます」
「青もですね」
「そうですね。青も」
 こう話していく。王は今その青について考えてだ。
 

 

584部分:第三十四話 夜と霧とその七


第三十四話 夜と霧とその七

 昼の空と湖の青を見る。そして遠くの山の青もだ。
 森の緑、それに雲や山の頂上の白もある。その二色が余計に青を映えさせている。その二色も見てだ。そのうえで青を見て言うのだった。
「本来はこうして昼の青をです」
「御覧になられたかったのですか」
「昼。そこに企みと醜さがある故に」
 まさにそれ故にだった。
「私は夜の世界に入りました」
「しかし今はですね」
「貴女と共にいると昼も心地よいものです」
 皇后を見て話した言葉だった。
 この世で最も美しいとも言っていいその美貌を見てだ。王は話していく。
「お美しいだけでなく」
「それだけではなくですか」
「私を理解してくれる貴女が共にいてくれると」
「私にはわかるのです」
 皇后は率直にだ。王に対して述べた。
「貴方の御考え。そして悩みが」
「そうしたものもですか」
「わかります」 
 まさにそうだというのだ。
「そう、心の奥底から」
「理解して頂けます」
「それができる人は少ないでしょう」
 皇后は王のその絵画の如き美貌の顔を見ていた。その顔は何処までも美しい。その見事な美貌を見つつだ。皇后も話をしていくのだった。
「今は」
「今はですか」
「はい、今現在貴方を理解できる人は少ないです」
 だがそれでもだというのだ。
「しかしそれでもです」
「やがてはですか」
「その目で見ているとその目に頼ってしまいます」
「目、目というものは」
「何もかもを過度に見せてしまいますね」
「はい、人を過信させます」
 目についてはそうだとだ。王も話す。
 王は見られそうして言われ囁かれてきた。だから言えることだった。
 そのことをだ。心の傷と共に皇后に述べていく。
「誤解や偏見を生み出してしまいます」
「そうですね。しかしその目で見ずにです」
「伝え聞き。考えればですか」
「より多くのことを正しく理解できます」
「そういうものですね」
「貴方の場合は特にです」
 王はだというのだ。その夜に逃れた王は。
「現在ではなく未来に理解されるのでしょう」
「過去の私を見てですか」
「ですから。悲嘆にくれられることもありません」
「そうであればいいのですが」
「ですから。今は」
 皇后は話を変えてきた。まるでパルジファルがモンサルヴァートに入る様に。別の世界に入る様にだ。その話を変えてきたのである。
「貴方の為されるべきことを為されることです」
「ワーグナーやフランスを愛してですか」
「その芸術をこの世に映し出されてはどうでしょうか」
「築城でそうしている様に」
「そうです。そうあるべきだと私は思います」
「貴女だからこそそう言って頂けますね」
 王は微笑みだ。王を理解してくれている皇后の言葉を受けてだった。
 微笑みだ。こう述べたのである。
「私はそれを果たし」
「芸術を完成されて」
「そのうえであの玉座に行くのでしょう」
 青ではなくそれを見た。遥かな世界にあるその玉座を。
「私はそこで永遠に」
「永遠に?」
「貴女ならわかって頂けるでしょう」
 その玉座を見ながらだ。皇后に話す。
「私が座るべき玉座は」
「この世界にはありませんね」
「やはりおわかり頂けますか」
「感じました」
 皇后も答える。
 

 

585部分:第三十四話 夜と霧とその八


第三十四話 夜と霧とその八

「あの世界のことを」
「そうですね。私を理解して頂けるのなら」
「感じました。ですが」
「私はもう暫くこの世界に残る様です」
 微笑みだ。それはそうなると話す王だった。
「私の果たすべきことを果たしてから」
「ですが私は」
「私にこの世に残って欲しいですか」
「そう思います」
 あの世界の玉座のことを考えてもだ。そうなのだった。
「願わくば」
「それが運命だとしても」
「貴方にはより多くのことを果たしてもらいたいのです」
「だからですか」
「残って下さい」
 皇后の今の言葉は切実なものだった。
「最後の最後まで」
「それはできるだけ長くですね」
「そう願います」
 こう話す。するとだった。
 皇后はだ。今度はこんなことを言った。
「そういえばバイロイトに行かれたそうですね」
「そのことですか」
「はい、如何だったでしょうか」
「見事でした」
 満ち足りた顔になりだ。王は皇后のその問いに答えた。
「やはりワーグナーはいいものです」
「そうですか。満足されたのですね」
「久し振りにですが」
 そうなったというのだ。王の満足している顔が続く。
「私が満ち足りた気持ちになれたのは」
「そうですか。それは何よりです」
「指輪が終わりました」
 ワーグナーのだ。それがだというのだ。
「二十年以上もかけて作られたあの作品が遂にです」
「そしてそれを完成させる助けになったのが」
「私です」
 このことにだ。王は満足していたのだ。
「私が彼と出会わなければあの作品は完成されたなかったです」
「そして他の作品もですね」
「そうですね。トリスタンもマイスタージンガーも」
 そしてだった。
「パルジファルも」
「あの人の最後の作品ですね」
「そうです、あの作品もやがて完成します」
「あの作品が最後になるのですか」
「そうなります」
 そのことは間違いないと。王は皇后に話す。
「彼の年齢も考えますと」
「もう七十に近いですね」
「古稀といいましたね」
 王はふとこの言葉を出してきた。
「中国の言葉でしたが」
「東洋のあの古い国ですか」
「はい、あの国の言葉です」
 王はその国についても知っていた。そうしてだ。
 皇后に対してだ。こう話すのだった。
「あの国でも七十というのはやはり長生きの部類でして」
「ドイツでもオーストリアでもですね」
「はい、同じです」
 この時代でもだったのだ。七十というのはやはり長生きなのだ。
 ワーグナーの年齢はそれに近付いてきている。それで言うのだった。
「ですから。彼にとってあの作品こそが」
「最後の作品になりますか」
「そうなります」
 そしてだった。ワーグナーの年齢だけでなくだ。
 

 

586部分:第三十四話 夜と霧とその九


第三十四話 夜と霧とその九

 王はだ。このことからも話すのだった。
「そして。パルジファルという作品も」
「あの方の全てですか」
「はい、全てを集めた作品になります」
「それは指輪ではなかったのですか」
「そうです。指輪の後に。あの騎士が」
「あの騎士とは?」
「あの騎士と同じ心を持つ全ての者です」
 それこそがワーグナーのヘルデンテノールである。王は彼等が全て同じ存在であると看破している。そしてその王がだ。どうかというのである。
「そこで救う存在になるのです」
「聖杯城の王をですね」
「そうです。これまで救われてきた彼が」
 完全に一人になっていた。これまでの人格が。
「救う存在になるのです」
「だからこそ全てを集めた作品だというのですか」
「バイロイトで上演される作品ではタンホイザーからですね」
 王はその作品から話した。
「そしてローエングリンもトリスタンもヴァルターもです」
「指輪ならですね」
「はい、ジークムントとジークフリートもです」
「彼等は全て同じ心なのですね」
「彼等は今まで救われてきました」
 ワーグナーの作品のテーマであるだ。女性的なものによる救済だ。
 そのことは皇后にもわかった。王を理解できるからこそ。
「そして最後にです」
「彼が救う存在になるのですか」
「そうなります。最後に」
「だからこそ最後の作品になるのですか」
「はい、そうです」
 まさにそうだというのだ。王はこの時その聖杯の城を見ていた。
 それは森の中にあり深く壮麗な音楽の中にある。既にその音楽さえ感じ取ってだ。
 王はだ。恍惚とさえなって述べた。
「彼はその作品を遂にです」
「完成させ最後となるのですね」
「そして私は観ます」
 その作品をというのだ。
「それを心待ちにしています」
「そしてその作品を観ることもまた」
「私は楽しみにしています」
「貴方自身を御覧になられるのですね」
 皇后は自然にこう言った。
「そうなるのですね」
「私自身ですか」
「ワーグナー氏は貴方のことをそう呼んでおられると聞いています」
「パルジファルとですね」
「はい、そのことは私も聞いています」
「そのことは私も知っています」
 既にだ。王もそのことは聞いていた。
 そうしてだ。王はこう答えるのだった。
「ではです」
「貴方はあの城に入られるのでしょうか」
「あの城はこの世界にはありません」
 王は皇后にこう答えた。
「ですがそれでもです」
「貴方はやがては」
「貴女には言えますね」
 優しい笑顔になってだ。王は皇后に話した。
「貴女ならば」
「私ならですか」
「貴女に隠すことはできません」
 王にはだ。それは決してだった。
「私はあの城に入ります」
「この世で果たされることを終えれば」
「はい、そうなります」
 こう答える王だった。
 

 

587部分:第三十四話 夜と霧とその十


第三十四話 夜と霧とその十

「あの城に。遂に」
「遂にですか」
「私は待ち遠しくさえ思っています」
 王のその言葉は次第にだ。この世から離れていた。
 そうしてだ。その言葉を皇后に述べるのだった。
「おわかりですね。私にとっては」
「この世は辛い」
「若しワーグナーがいなければ」
 どうかとも話す。その彼がいなければ。
「私はこの世に生まれている意味がなかったかも知れません」
「いえ、それは違います」
 王の今の言葉は皇后によってすぐに否定された。
 そうしてだ。皇后はこう王に話した。
「ワーグナー氏がこの世に出て来たのは必然でした」
「必然ですか」
「そうです。あの方はあの芸術を描く為に生まれたのです」
「そうなのですか」
「はい、あのドイツそのものの芸術を」
「彼はそれだけの芸術を築き完成させる為に」
「この世に生まれたのでしょう」
 ライプチヒにおいてだ。その年にナポレオンはその町で敗れている。ワーグナーの誕生はそうした意味においても歴史的なものでさえあったのだろうか。
 そしてそのことをだ。皇后はさらに話す。
「そして指輪を完成させ」
「最後にパルジファルを」
「はい、そしてです」
「私ですか」
「貴方はその芸術を愛し護り」
 ヘルデンテノールともだ。王は一つになっていた。
「そしてそのうえで」
「その芸術をこの世に」
「再現させる為にです」
「私もまた生まれたのですか」
「貴方の魂は不滅なのです」
 他の者と同じくだというのだ。
「貴方は神によりワーグナー氏と共に定められていたのです」
「この世に生まれそうして芸術を」
「そうです。築かれる為に」
「そうだったのですか」
「はい、ですから貴方は」
「この世に生まれられるべきだった」
「そうして今おられるのです」
 そうだったというのだ。皇后は。
 そうしてだった。王に静かに述べた。
「何か飲まれますか」
「ワインでしょうか」
「若しくは他の飲みものを」
 こうだ。王に提案する。
「何を飲まれますか」
「ではワインを」
 王は穏やかな微笑みで皇后に述べた。
「それを頂きたいのですが」
「ワインですか。色は」
「そうですね。ロゼを」
 赤でも白でもなくだ。それだった。
「それをお願いします」
「わかりました。ロゼですね」
「薔薇の美酒を飲みたいです」
 王は薔薇も愛している。そのうえでだった。
 美酒だけでなくだ。この花もだというのだった。
「そして青い花がありますね」
「この船にですね」
「ジャスミン。あの花がありましたね」
「あの花をどうされるのですか?」
「こちらに」
 それまでただそこにいるだけだったホルニヒに顔を向けてだ。
 そうしてだ。こう彼に命じたのだった。
 

 

588部分:第三十四話 夜と霧とその十一


第三十四話 夜と霧とその十一

「持って来てもらいたい」
「わかりました。それでは」
「花と美酒は似ています」
 ホルニヒに命じ終え彼がその場を去ってからだ。王は皇后に話した。
「心を癒してくれます」
「そうですね。どちらも」
「ではどちらも楽しみましょう」
 こう皇后をその楽しみに誘うのだった。
「是非共」
「はい、それでは」
 こうした話をしてだった。二人は船の中でその美酒と花も楽しむのだった。このバイエルンでの話はウィーンにいるオーストリア皇帝の耳にも伝わった。
 しかし皇帝はだ。こう言うだけだった。
「ではそれでいい」
「皇后様が男性の方と会われてもですか」
「それでもなんですか」
「そうだ。シシィは男性には興味がない」
 自分以外のだ。少なくとも彼女は奔放ではないのだ。
「そしてバイエルン王だからな」
「女性を愛されることはない」
「そうした方だからですね」
「過ちは有り得ない」
 不貞、それはだというのだ。
「だからいいのだ」
「そうですね。言われてみればです」
「皇后様とバイエルン王は従姉弟同士でもあられますし」
「そうしたことは」
「私にはわかるのだ」
 皇帝もまただ。ここでは深い洞察の目になった。
 そうしてだ。周りの者達に話すのである。
「旅はシシィにとって癒しでありだ」
「そしてですか」
「さらに」
「バイエルン王にとって築城もまただ」
「それなのだといいますか」
「そうだ。あの二人はやはり似ている」
 皇帝にもわかってきた。そのことが。
「鷲、そして鴎だったな」
「そう呼び合われているとか」
「御互いのお手紙の中で」
「その様だな。鳥か」
 その鳥についてもだ。皇帝は思索を向けた。
「あの二人は空を飛ぶ鳥なのか」
「自由を求めておられるのでしょうか」
 側近の一人がこう述べた。
「それでなのでしょうか」
「自由か。そうだろうな」
 皇帝は彼の言葉に遠い目になった。
「皇后もバイエルン王もだ」
「御二人共ですか」
「自由を望まれているのですか」
「本質的に自由の場にあるべきなのだ」
 それが二人だというのだ。
「私とは違ってだ」
「確かに。このウィーンはです」
「宮廷は」
「自由はない」
 それはなかった。本質的に宮廷はそうだがウィーンはとりわけだ。
 ハプスブルク家、古くそして栄えているからこそだ。そうなっているのだ。
 それでだ。皇帝も言うのだった。
「私は生まれた頃からその中にいるがだ」
「皇后様は違いますね」
「あの方は」
「そうだ。生まれついて自由の中にいた」
 だがオーストリア皇后になりだ。それでそうなったというのだ。
 

 

589部分:第三十四話 夜と霧とその十二


第三十四話 夜と霧とその十二

「それでどうしてウィーンに馴染めるのか」
「ですがそれはです」
「ハプスブルク家にいればです」
「それはどうしても」
「だが皇后にはどうしても馴染めないものなのだ」
 見事なまでのパラドックスだった。皇后とハプスブルク家の格式の。
「だからああして旅を続けているのだ」
「そしてバイエルン王は築城ですか」
「それをされているのですか」
「あの二人は自由の、そして自然の中にあるべきなのだ」
 皇帝もわかっているのだった。そのことをだ。
 だからこそ皇后に対してだ。何をするかというと。
「それで私は彼女に旅を許しているのだ」
「そうした理由からですか」
「そうされていましたか」
「私は皇后を愛している」
 誰よりもだ。そして。
「皇后もまた私を愛してくれている」
「しかしそれでもですか」
「あの方は」
「そうしないと耐えられないのが皇后だ」
 どうしてもウィーンの宮廷に馴染めずになのだ。
 そうしてだった。旅を続ける皇后がバイエルン王と会う。しかしそのことについては王は何も思うことなくだ。やはりこう言うのだった。
「あの二人は会うべきでもあるのだ」
「バイエルン王ともですか」
「皇后様は」
「そうなのだ。バイエルン王はだ」
「皇后様とお二人でもですか」
「よいのですね」
「バイエルン王は女性には何もしない」
 やはり女性には興味がないのだ。そうした王なのだ。
 それでだ。皇帝はこんなことも言った。
「あの王は自身をワーグナーの作品の主人公達に投影しているが」
「あの城でローエングリンの服を着られているとか」
「そうだとか」
「そうらしいな。あの王はな」
 このことはウィーンでも知られていた。そうだったのだ。
「そのことだ。自身をワーグナーの英雄と思っているがだ」
「それは違うのですか?」
「あの方はそうではないのでしょうか」
「いや、そうなのだろう」
 皇帝はそのことは否定しなかった。王はヘルデンテノールだというのだ。
 だがそのヘルデンテノールがだ。どうかというのだった。
「だが。男性的かというとだ」
「ワーグナーの作品の主人公は非常に男性的ですが」
「また違うのですか」
「何か女性的なものを感じる」
 皇帝も遂にだ。そのことを感じ取ったのだ。
 それで言うことだった。このことは。
「皇后と何処か似た」
「確かに御二人は似ているところが多いですが」
「それがですか」
「あの方にも」
「そうなのだ。どうも感じる」
 皇帝は考える顔で述べた。
「王と皇后は似ているのだ」
「だからこそ女性的なのですか」
「あの方は」
「それがワーグナーの英雄なのだろうか」
 ひいてはだ。そうなるのではとも考えるのだった。
「そしてあの王もまた」
「では皇后様もですか」
「ワーグナー的なものがある」
「そうなのですか」
「おそらくそうなのだろう」
 皇帝はさらに言う。
 

 

590部分:第三十四話 夜と霧とその十三


第三十四話 夜と霧とその十三

「だがあの王はだ」
「特にですか」
「ワーグナー的なものが非常に強い」
「そうした方なのですか」
「だからこそそこまでワーグナーを愛されているのですか」
「そのワーグナーも老齢にある」
 ここでまた言う皇帝だった。
「若し彼がいなくなったらあの王はどうなるのか」
「その非常に愛する存在がいなくなればですか」
「その時はどうなるか」
「それが問題ですか」
「人は心の支えが必要なのだ」
 皇帝にもわかっていた。人間のそうしたことがだ。
 それでだ。皇帝は言うのだった。
「私もだ」
「そしてバイエルン王にとってはワーグナー氏ですか」
「あの方となるのですか」
「彼の芸術が第一だが」
 それでもだというのだ。
「彼の存在もあの王には必要なのだ」
「ワーグナー氏が生きておられること」
「そのこと自体が」
「若しかするとあの王は長く生きることのない運命かも知れない」
 皇帝もだ。遠いものを見る目になっていた。
「果たすことをし終えればだ」
「この世を去られる」
「そうした方でしょうか」
「そんな風にも思えてきた」
 皇帝はその目で見つつ話していく。何かを見つつ。
「そしてそれは」
「それはといいますと」
「近いのではないだろうか」
 王がこの世を去る、その時はだというのだ。
「ワーグナーも高齢だしな」
「ワーグナー氏の死の後にですか」
「あの方も果たすことを終えられる」
「そうなるのですか」
「あの三つの城は間も無く完成するな」
 王がアルプスに築城させている三つの城のことだ。
 その三つの城についてもだ。皇帝は言及した。
「バイエルン王はさらに築きたいようだが」
「あの三つの城は間も無くですね」
「完成しますね」
 それはその通りだとだ。周りも皇帝に答える。
「近いです」
「ではあの三つの城が完成し」
 そうしてだというのだ。
「それを世に残せれば」
「あの方はですか」
「去られますか、この世を」
「そんな気がする。惜しいことに思うが」
 皇帝も王は嫌いではなかった。確かに浮世離れしているが平和と芸術を愛し人間的魅力のある王をだ。皇帝も決して嫌いではなかったのだ。
 それでこう言ってだ。皇帝は周りにこう述べた。
「では皇后のことはだ」
「はい、手配をですね」
「万事ですね」
「頼んだぞ、それは」
 旅の間皇后が何も困らない様に配慮して欲しいというのだ。オーストリアでもそうした話になっていた。だがそのことはバイエルンでは。
 ミュンヘンの宮廷、今は主のいないその奥でだ。大公はホルンシュタインと話していた。彼は曇った顔でホルンシュタインに話していた。
「伯爵、しかしだ」
「大公は反対ですか」
「財政は確かに苦しい」
 こうだ。ホルンシュタインに話すのだった。
「だがそれでもだ」
「陛下はですか」
「そっとしておくべきではないのか」
 王についてだ。大公はその曇った顔で話した。
 

 

591部分:第三十四話 夜と霧とその十四


第三十四話 夜と霧とその十四

 二人は宮廷の一室において向かい合って座りだ。そのうえで話していた。大公はその場においてだ。ホルンシュタインに己の考えを述べていた。
 それは王に関してであり政治についてのものだった。彼は王の叔父、そして王族としてだ。ホルンシュタインに己の考えを出していく。
「あの方は。寂しいのだ」
「寂しい、そしてですね」
「周りの目に耐えられないのだ。そっとしておくべきだ」
「しかしです」 
 ホルンシュタインもだ。難しい顔で大公に返す。
「あの方の築城、そしてお一人での観劇がバイエルンの財政を圧迫しています」
「王室の予算の何年分のだな」
「そうです。このままではバイエルンは」
「わかっている。そのことはだ」
 大公も政治についてはわかっていた。伊達に王族ではない。
 それでだ。彼はホルンシュタインに話した。
「だがそれでもだ」
「それでもだと仰るのですか」
「陛下には何とかお話して」
「あの方は今何処におられますか?」
「このミュンヘンにはいない」
「アルプスにおられますね」
「そこに私が行こう」
 大公にしても切実だった。そうしてだ。
 ホルンシュタインに対してもだ。こう提案するのだった。
「そして卿もだ。卿の言葉なら陛下も」
「私もそうしたいです。しかしです」
「もう陛下は一部の者としか会われないというのだな」
「その通りです。陛下は変わられました」
 ホルンシュタインにはそう思われた。彼の常識の中では。
「今ではああして世捨て人の如く」
「世捨て人か」
「そうなっています。危険です」
「危険だからか」
「このままではバイエルンの財政が破綻します」
 ホルンシュタインはそのことを心から危惧してだった。こう大公に話すのだった。
「ですから。本当にです」
「あの方をか」
「何もお命をというのではないのです」
 ホルンシュタインもそのことは考えていなかった。流石にだ。
「あの方は悪ではありません、決して」
「戦いを好まれる訳でも暴虐を為される訳でもない」
 王は決してそうした人物ではなかった。それはその通りだった。
 だがしかしだった。ホルンシュタインの指摘することは。
「あの方の芸術への愛情がです」
「それがか」
「バイエルンを圧迫しています。芸術はいいです」
 それ自体はだというのだ。しかしだった。
「ですがあまりにも奇妙で度が過ぎています」
「財政についてはだ」
「ビスマルク卿がですね」
「あの方が援助して下さる。あの方は何故か陛下に好意的だからな」
「あのことはどうしてなのか私にもわかりません」
 ホルンシュタインもビスマルクの王への好意については理解できなかった。それが理解できるのは王、そしてビスマルク自身と僅かな者達だけだった。
 それでだ。ホルンシュタインは言うのだった。
「政治的にも宗教的にも対立する立場ですが」
「しかしその方がだ」
「陛下を助けて下さるというのですね」
「そうだ。それならばだ」
「しかしそれはです」
 ビスマルクの王への援助、それはだというのだ。
「一時的なものでしかありません」
「ただ。陛下の浪費を助長するだけだというのだな」
「はい、その通りです」
「だからか。陛下をどうしても」
「このままの状況が続けばです」
 こう前置きしながらだ。ホルンシュタインは話していく。
 

 

592部分:第三十四話 夜と霧とその十五


第三十四話 夜と霧とその十五

「最後の手段を」
「それしかないのか」
「大公は摂政になって頂けますか」
「そして殿下が王にか」
「オットー様は今はどうされていますか」
「卿も知っている通りだ」
 大公はその顔を暗くさせて述べた。王弟について。
「よくなることはない。それでだ」
「幽閉されたままですか」
「気の毒なことだ」
 深い悲しみをもってだ。大公は述べた。
「最早どうにもならない」
「ではやはり大公殿下が」
「私はしたくない」
 大公は苦い顔で首を横に振った。
 そうしてだ。またホルンシュタインに言うのだった。
「陛下にしてもだ。あのままでいいのではないのか」
「財政が破綻しますが」
「しかしだ。それでもだ」
「確かに陛下は素晴らしい方です」
 このことは否定できなかった。誰もが。
 それはホルンシュタインも同じだ。彼とて長い間王の傍にいる、だからこそこのことは素直に言えたのだ。
 それでだ。こうも言うのだった。
「軍も民もあの方を慕っています」
「そうだ。それではだ」
「しかしです。このままではバイエルンの財政が破綻します」
 ホルンシュタインが危惧しているのはこのことだった。
「国家財政の破綻はいいというのですか?」
「いや、それは」
「このままでは我が国の財政は確実に破綻し」
 そうしてだった。
「借金取り、若しくは他国の管理下に置かれます」
「それは、あまりにも」
「耐えられませんね」
「最悪の屈辱だ。それはできない」
 大公もだ。破綻からくるそのことについては顔を青くさせて述べた。
「我がバイエルンがその様なことになることを受け入れることは」
「それではです」
「退位か」
「はい、そうして頂くしかないかも知れません」
「いや、あの方とお話してはどうか」
 大公は戸惑いを見せて述べた。
「何度もだ。そうしてだ」
「しかしそれは可能ですか?」
 話が戻っていた。いささか堂々巡りに。
「今あの方とお話することは」
「アルプスに行こう」
 大公は尚も言う。
「是非共だ。そうしてだ」
「ですが御会いできません」
「あの方の人間嫌い故にか」
「昼に眠り夜に動かれる」
 王の今の生活だった。
「そして人に会われることさえ避けておられます」
「しかしだ。誰かを介して」
「陛下のお傍にいる者達をですか」
「それはできないのか」
「無理でしょう」
 ホルンシュタインは諦めていた。既にだ。
「それができればとうの昔にどうにかなっています」
「卿はもう諦めているのか」
「現実を見ているのです」
 少なくともそう思っていた。彼は。
「そしてバイエルンのこと、陛下のこともです」
「思っているというのだな」
「私とてバイエルンの人間です」
 笑っていなかった。その言葉は切実なものだった。
 

 

593部分:第三十四話 夜と霧とその十六


第三十四話 夜と霧とその十六

「そして陛下の臣です」
「それなら何故退位なぞ」
「ですからバイエルンにとっても陛下にとってもよいことを考えてます」
「それが退位なのか」
「あのままでは陛下にとってよくありません。そう」
 そしてだった。あの王の名前を出すのだった。
「ルートヴィヒ一世陛下の時の様に」
「あの方の様にか」
「あの時はあれでよかったではありませんか」
 ホルンシュタインは過去の出来事からも考えていた。ローラ=モンテスにいれあげていたあの王は退位により冷静さと尊厳を取り戻した。今の王から見て祖父にあたるその王のことをだ。
 そのうえでだ。彼は言うのだった。
「ですから今回もです」
「だがそれは」
「私が陛下を害しようとしていると思われるのですか?」
 このことはだ。ホルンシュタインにしても確認せざるを得なかった。それで大公に対してだ。これまで以上に強張った顔で問うたのである。
「もしや」
「それは」
「私は絶対にそうしたことはです」
「しないというのだな」
「ですから。私は陛下の臣です」
 このことは絶対だった。バイエルンの人間としての。
「それでどうしてあの方を害しますか」
「では忠義故にか」
「このままではバイエルンの財政が破綻するのです」
 そのことを憂いてだった。彼にしても。
「それを避ける為には」
「退位か」
「あの方はそうして穏やかに過ごして頂きます」
「それがいいのか」
「バイエルンにとってもあの方にとっても」
 ホルンシュタインは現在の一面しか見えていなかった。そうしてだ。 
 彼はだ。こう言うのだった。
「それが一番です」
「そして私がか」
「はい、摂政になって頂けますか」
「私とてあの方をお慕いしている」
 王の叔父としてだけではなかった。
「だから何とかしてさしあげたいが」
「それではここはです」
「あの方は孤独な方なのだ」
 大公は眉を曇らせ暗い顔で俯いてだった。
 そしてだ。こう言ったのである。
「その孤独をどうにかして理解させてもらうべきではないのか」
「それは可能ですか?」
「誰かできる筈だ」
 何とかだ。退位は避けたい大公だった。
「ワーグナー氏はどうか。あの御仁は」
「駄目です、彼だけはいけません」
 ホルンシュタインの声がうわずった。彼もまたワーグナーを浪費の根源と見ていた。
 それでだ。大公の提案をすぐに否定したのだ。
「彼の金銭問題、女性問題は御存知の筈です」
「弟子の妻を奪ったな」
「それだけではなく女中や踊り娘にも手をつけるとの噂があります」
 これが噂で済まないことが問題なのだ。ワーグナーの場合は。
「それに反ユダヤ主義であり何かと姑息なこともします」
「匿名で自身を擁護する投書もしたな」
「あまりにも行動に問題があり過ぎます」
「だからか」
「ミュンヘンから去ってよかったのです」
「しかし卿は以前は寛容だったのではないのか、ワーグナー氏に」
「いや、考えてみました、それから」
「そうしてか」
「はい、彼こそは陛下にとってです」
 顔を顰めさせての言葉だった。
「害毒です」
「あまりにも耽溺し過ぎているからか」
「あの方がワーグナー氏の音楽を聴かれてからです」
 それは根が深かった。何しろ十六の時にローエングリンを聴いてからだからだ。だがそれはより以前からだ。ワーグナーを知り興味は持っていた。
 

 

594部分:第三十四話 夜と霧とその十七


第三十四話 夜と霧とその十七

 そのワーグナーへの情熱を冷まさない王にもだ。ホルンシュタインは言及した。
「あまりにも。のめり込み過ぎています」
「確かに。それは」
「そしてワーグナー氏に遠慮があれば」
「残念だがそれはな」
「はい、ありません」
 そうした人物ではなかった。ワーグナーは。
 だからこそホルンシュタインもだ。こう言うのだった。
「陛下御自身の情熱だけなら救いはあったのです」
「しかしワーグナー氏自身がそこに加わるとだな」
「はい、いけません」
 そうなるのだった。ホルンシュタインはそう見ていた。
「バイロイトに去ってもらって何よりです」
「最悪の自体は避けられるからだな」
「そうです。ですから」
「だが。最悪の事態は」
 どうかとだ。大公は不吉なものを感じてだった。ホルンシュタインに述べた。
「陛下があそこまで人を避けられる様になったのはだ」
「ワーグナー氏と別れられてからだというのですね」
「そう思うのだが」
「そもそもです。あの時もです」
「彼の浪費と女性問題だな」
「しかも余計な騒動まで起こしていました」
 反ユダヤ主義に批判派に対する姑息な攻撃、そうしたものによってだ。
「あのままミュンヘンにはいてもらえませんでした」
「それはそうだが」
「だからあれもよかったのです」
「バイエルンの為にか」
「そうです。我が国にとってです」
 よかったと。ホルンシュタインは述べる。しかしだ。
 そこには国家はあれど王はなかった。しかし彼はそのことに気付いていない。そうしてまたこんなことを言う。気付かないまま。
「芸術で国を傾けさせるなぞ聞いたことがありません」
「贅沢や戦争はあってもだな」
「陛下の贅沢は国家として許容できるものです」
 豊かになったからだ。社会全体が。
「そして戦争を嫌われています」
「あの方はそうした方ではないからな」
「それに女性問題もありません」
 そもそも女性を愛せない。だからこれはどうでもよかった。
 しかしなのだった。王の、今話されている問題は。
「ですが芸術、それが建築への情熱につながっています」
「建築、それは」
「古来より権力者の病と言われています」
 秦の始皇帝が特に有名である。彼は多くの建築に国力を使い民を動員した。そしてその重圧に耐えかねた民衆が彼の死後反乱を起こし国は滅んだ。その頃から建築は権力者の深刻な病とされてきた。
 それは欧州でも同じでだ。王が敬愛する太陽王ルイ十四世もだ。ベルサイユ宮殿を建築させた。多くの予算と労力を使って。
 そのことについてだ。ホルンシュタインは危惧してなのだった。
「しかも中世の城なぞ。今は大砲と要塞の時代です」
「陛下は火薬にしてもだからな」
「はい、花火には使われますが」
「そうだ。そこでも戦いを好まれない」
「平和を愛することはいいことです」 
 誰もが認めることだった。これは。
「しかしそれでもです」
「建築は。戦いと同じだけ」
「芸術にしてもです。あの方の御満足だけですから」
「あの城についてだが」
 ふとだ。大公はここでだった。あの城達、王が築かせているその城について述べた。
「あの方の全てが投影されているな」
「あの方のご嗜好やそうしたものがですね」
「御趣味もな。だから全てだ」
「それが何か」
「あの城達はあのままでいいのではないだろうか」
「?といいますと」
 大公の今の言葉にだ。ホルンシュタインはだ。
 

 

595部分:第三十四話 夜と霧とその十八


第三十四話 夜と霧とその十八

 言葉に疑問符を入れてだ。思わず問い返したのだった。
「あの城達をこのままですか」
「築城して頂くのが国家の負担になるがだ」
「ですからそれをお止め頂く為にも」
「違う。陛下は誰からも理解して頂けないことを憂いておられるのではないのか」
 こんなことを言ったのである。深く思索する顔で。
「だからだ。あの城達は最後の最後まで築いて頂き」
「とりあえず決まっているまでですか、予算を」
「そしてあの城達はそのまま残しておくべきではないのか」
 こう言ったのである。
「ですがそれは」
「それはですか」
「そうだ。私はあの城達は陛下そのものだとさえ思っている」
「ただ陛下はあの城達をです」
「御自身が亡くなられたらこの世から消して欲しいと仰っているな」
「そのことはどうされますか」
「本心とは思えない」
 大公は少し読んでいた。あの城達のことをだ。
「あの方も人だ。理解して頂きたいのだろう」
「あの城達に罪はないですが」
「そうだ。少なくとも最後の最後までだ」
 何とかだ。大公は王を護りたかった。自身の甥でもある王を。
 それでなのだった。こうホルンシュタインに話した。
「どうだろうか。退位やそうしたことはまだ」
「思い留まってもらいたいというのですね」
「あの方は寂しいのだ。だからもう暫くだけだ」
「私もまだ何も実行に移していませんが」
「なら余計にだ」
「もう少しですか」
「そうしてもらえれば有り難い」
 切実な顔と声でだ。大公は言った。
「そしてあの城達については私に考えがある」
「といいますと」
「その時が来れば話そう」 
 今ではなかった。それは。
「それでいいだろうか」
「わかりました。しかしです」
「バイエルンの為にはだな」
「陛下にとっては酷な言葉ですが国王もまた国家の機関なのです」
 王権神授説、ルイ十四世が信奉したその後に出た啓蒙思想的な考えである。ホルンシュタインはそれを根拠にして述べるのだった。
「ですから」
「陛下が王として相応しくなければ」
「はい、国家財政を破綻させるならば」
 それならばだというのだ。
「それも止むを得ないでしょう」
「財政は全てか」
「国家の柱であることは間違いありません」
 ホルンシュタインはここではそのことを絶対としていた。
 そしてそのことをだ。強く言うのだった。
「陛下の浪費は度が過ぎていますから」
「それはそうだが」
「ではいざという時は宜しいですね」
 ホルンシュタインはにこりとせずにだ。大公の目を見て問うた。
「殿下がです」
「摂政にか」
「はい、オットー様が国王になられ」
「オットーは。しかし」
 どうかというのだ。大公はこれ以上になく暗く悲しむ顔で。
「あの状況では」
「陛下は狂気ではありません」
 ホルンシュタインは断言した。このことは彼もわかっていた。
 しかしそれに対してだ。王弟はというと。
「ですがあの方は」
「最早完全にだな」
「あの方はやはりどうにかならないのでしょうか」
 ホルンシュタインの顔が切実なものになっていた。
 

 

596部分:第三十四話 夜と霧とその十九


第三十四話 夜と霧とその十九

「あのままなのでしょうか」
「医師、グッデン氏の話では」
「無理ですか」
「やはりどうにもならないそうだ」
 大公は唇を噛んだ。口の中で。
「そしてこのままだ」
「このままですか。やはり」
「悪化する危険はあっても助かることはないそうだ」
 こう話すのだった。王弟の状況を。
「陛下とは違う」
「しかし財政や国政に関しては」
「あれで何かできる筈もない」
 大公は暗い顔で述べた。
「日常生活さえなのだからな」
「左様ですか」
「しかしそのオットーをか」
「あの方しか王になれません」
 ホルンシュタインもだ。難しい顔で述べた。
 政治であった。王になるのは誰かというのも。そしてこれはバイエルンにとっては避けられない、それと共に厄介な種の政治だった。
 その政治についてだ。彼は話すのだった。
「陛下の弟君ですから」
「そして彼があの状況だから」
「ですから殿下がです」
 摂政にだというのだ。そういうことだった。
「それで如何でしょうか」
「そうしないと駄目なのか」
「バイエルンの為には」
 彼等の国の為だった。全ては。少なくともホルンシュタインはそう信じていた。
 そしてその信じるものに基きだ。彼は大公に話すのである。
「是非共です」
「プロイセンのビスマルク卿が陛下をお助けしてくれてもか」
「確かに私はあの方の縁者です」
 ホルンシュタインはビスマルクについても述べた。
「そしてプロイセン寄りですが」
「それでもか」
「プロイセン人ではありません」
 このことを強く言うのだった。
「バイエルン人です。それでどうして」
「あの方のお力を借りれるかというのだな」
「そこからバイエルンに何を要求してくるかわかりません」
 そのことも危惧していたのである。もっともビスマルクはそうした申し出があっても見返りを求めるつもりはなかった。だがホルンシュタインはそのことを知らないのだ。
 だからこそだ。こう言うのだった。
「それは絶対に避けなくてはなりません」
「只でさえプロイセンの属国になっているのだからな」
「そうです。ですから」
「我が国だけで終わらせるか」
「はい、そうしましょう」
 こう言うのだった。
「何があっても」
「そうか。いざという時は」
 大公は俯き溜息と共に言った。
「あの方をか」
「そうならないことを祈っていますが」
「私もだ」
 割り切りシビアになっているホルンシュタインよりも大公の方がだった。そう思っていた。やはり王の血縁であり王が幼い頃から見ているからだ。
 だからだ。苦渋の顔で述べたのだった。
「あの方の為にも」
「そうですね。しかし時としてです」
「その判断を下すしかないのか」
「大事なのは今です」
 現在だった。
「今どうあるべきかです」
「現在が未来を作るからだな」
「その通りです。バイエルンはこれからどうなるのか」
 そしてどうするかだった。ドイツの中であっても。
「ヴィッテルスバッハ家の為にも」
「この古い家もどうしていくか」
「現在こそが大事なのですから」
「そう言うのだな。現在か」
「そして現実です」
 その二つがだ。ホルンシュタインに尊ぶことだった。そしてその為にだ。
 彼はこれから何をするのかを考えているのだった。そのうえで大公と話していた。宮廷の中で何かが起ころうとしていた。そしてだった。
 

 

597部分:第三十四話 夜と霧とその二十


第三十四話 夜と霧とその二十

 ヴェネツィアにおいてだ。ワーグナーは周囲にこう漏らしていた。
 ピアノの席に座りだ。こう言ったのである。
「パルジファルが完成し上演が為された」
「はい、あのバイロイトで」
「遂にそうなりましたね」
「いいことだ」
 満足している声だった。しかしだ。
 その声には衰えが見られていた。明らかな老いがだ。
 青い目の光も弱まっている。その中で彼は周囲に話していく。
「そして第一幕の前奏曲もな」
「陛下にですね」
「お贈りすることができた」
 こう言うのだった。
「確かに悶着があったがな」
「はい、それでもですね」
「陛下にもお贈りすることができましたね」
「それは確かですね」
「そうだ。私の仕事は全て終わった」
 ワーグナーは満足している面持ちで呟いた。
「何もかもな」
「何もかもとは」
「どういうことでしょうか」
「休むか」
 言うのはこのことだった。
「少しばかりな」
「あの、休まれるとは一体」
「どういったことでしょうか」
「だからだ。そのままだ」
 何時になく落ち着いた口調でだ。話すワーグナーだった。
「私は休みたくなった」
「だからこの地に来たというのですか?」
「ヴェネツィアに」
「この場所に」
「イタリアか」
 イタリアという国そのものについてだ。ワーグナーは温かい目を向けた。
 そうしてだ。この国についてはこう話すのだった。
「この国は非常にいい。ドイツにとって」
「我が国にとってですか」
「そうだというのですか」
「そうだ。とてもいい」
 ワーグナーは話していく。
「温厚な気候に晴れ渡った空」
「そして美酒に美食ですね」
「文化もまた」
「ドイツはイタリアが好きだ」
 それは最早無意識にさえあるものだと言わんばかりだった。
「そしてイタリアもドイツが好きだ」
「相思相愛ですね」
「そうなっているのですね」
「我が国とこの国は」
「そうした関係ですか」
「神聖ローマ帝国があった」
 言うならばドイツ第一帝国だ。中央が弱く最後までまとまらなかった国だがドイツがどれだけイタリアに思い入れがあったのかを示すことにもなっている。
 その国についてもだ。ワーグナーは話す。
「あの国はいつもイタリアを見ていた」
「その為に内政がおろそかになってもですか」
「それでもなのですね」
「そうだ。そこまで思い入れがあったのだ」
 神聖ローマ帝国でもそうだというのだ。
「そしてゲーテもだったな」
「あの詩人も常にイタリアを愛していましたね」
「何度も赴いています」
「ドイツにとってこれだけ素晴らしい国はない」
 イタリアは微笑んで言い切る。
「この国で私は休むのだ」
「このイタリアで」
「そうされるのですか」
「そしてドイツに帰る」
 語るその目は遠いものを見ていた。その遠いものとはだ。
 この世のものにはなかった。それを見てだった。
 ワーグナーはだ。また話すのだった。
「私が眠りにつく国はあの国しかないのだからな」
「ドイツに帰られる予定はまだ先ですが」
「暫く先ですが」
 ここで話す彼等だった。この世の予定について。
 

 

598部分:第三十四話 夜と霧とその二十一


第三十四話 夜と霧とその二十一

「それでもですか」
「帰られると言われるのですか」
「いや、イタリアには最後までいる」
 ワーグナーは彼等の疑問の言葉に答えた。
「最後までな」
「最後までなのですか」
「おられるのですね」
「それまではイタリアを楽しみたい」
 こう言ってだ。手元にあった鈴を鳴らした。そのうえでだ。
 コジマを呼んだ。そして妻に微笑んで言ったのだった。
「では今からだ」
「はい、外に出られますか」
「そうして何か食べよう」
 散歩とだ。食事だった。
「そうしようか」
「はい、それでは」
「君達も来てくれるか」
 ワーグナーは周囲に対して誘いをかけた。
「そうするか」
「いえ、マイスターはフラウと共に行かれて下さい」
「御二人で楽しまれて下さい」
 周囲は気を使ってこう言うのだった。
「私達は私達でそれぞれこの街を楽しみますので」
「ヴェネツィアを」
「そうするのか。それではな」
「はい、それではですね」
「今から」
 こう話してだった。彼等はだ。
 ワーグナーとコジマを二人にさせた。二人は彼等の好意を受けてそのうえで外に出た。そうして白い壁と赤い屋根の建物と青い運河の中を進む。運河にはゴンドラがありそこに晴れやかな人々がいる。
 そのヴェネツィアを見ながらだ。ワーグナーはコジマに話した。
「実は前に夢を見たのだ」
「夢をですか」
「そう。その夢に母が出て来た」
 ワーグナーにも母がいた。これは誰にも言えることだった。
「そして私に笑顔を向けてくれた」
「そうだったのですか。夢に」
「懐かしい。幼い頃のことを思い出した」
 こうも言うワーグナーだった。
「あの時のことも」
「それは何故だったのでしょうか」
「そうだな。休む前だからだな」
 ワーグナーはここでもこう言うのだった。
「だからだな」
「休まれるのですか」
「私のやることは全て終わった」
 使命を。終えたというのだ。
「そうなるのだな」
「休まれるとは」
「色々あったが満足している」
 コジマの問いに答えずにだ。ワーグナーはこんなことも言った。
「これまでのことは」
「これまでとは」
「七十年生きてきた」
 彼の人生を彼自身がだ。今振り返っていた。
「その間実に色々なことがあった」
「マイスターの人生ですか」
「そうだ。描くべき世界を全て描き」
「そうですね。パルジファルまで」
「そして私の劇場も築けた」
 バイロイトのことである。他でもない。
「それに」
「それに?」
「あの方にも御会いできた」
 これ以上になく温かい目になりだ。ワーグナーはこうも言ったのだった。
 

 

599部分:第三十四話 夜と霧とその二十二


第三十四話 夜と霧とその二十二

「パルジファルに」
「陛下ですか」
「あの方こそは私の作品の、そして私の理解者であり」
 コジマと共にだ。彼の妻となっている女性と共に。
「パルジファルだったのだ」
「そうですね。それは私にもわかります」
「あの方がおられて今の私がある」
 財政的な面もあった。何しろ王の援助がワーグナーも作品も救ったからだ。
 そのことについても述べながらだった。ワーグナーはコジマと共にヴェネツィアの街を歩きつつ回想していた。これまでの己の人生を。
 そうしてだ。王のことも話すのだった。
「あの方はこれからは」
「これからは?」
「苦しみを受けられ」
 そしてそれはというと。
「そう。パルジファルが槍を手に入れそうして苦難の旅を経た様にだ」
「偽りの城を消し去ってからそうした様にですね」
「そうだ。あれと同じだ」
 しかしその城はというと。
「陛下が築かれた城は偽りではないがだ」
「しかしそのパルジファルと同じく」
「欺瞞の中で苦難の道を歩かれる」
「そしてその終わりにですね」
「そうだ。モンサルヴァートに辿り着かれる」
 ワーグナーにはわかっていた。そのことが。
「そうなられるのだ」
「ではそれまで、ですね」
「苦難がある。しかしそれは永遠の先にあるものであり」
 そうしてだというのだ。
「あの方は永遠の玉座に座られることになる」
「ではマイスターはそのことは」
「わかっている。だから安心している」
 王についてだ。そうしたこともだというのだ。
「もう何も言うことはない」
「左様ですか」
「さて、今はな」
 ここまで話してだ。そのうえでだ。
 ワーグナーは満ち足りた顔でだ。またコジマに話した。
「何を食べようか」
「ヴェネツイアの料理をですね」
「イタリアはまことにいい国だ」
 ドイツが愛してきたこの国はというのだ。
「そのイタリアにおいて」
「この国において」
「私は満ち足りたものをドイツに感じて休もう」
 こう言い残したのだった。そしてだ。
 翌朝。コジマは見た。ピアノにうつ伏せになっている彼を。リヒャルト=ワーグナーは七十年のその波乱万丈の生涯を閉じた。そしてこのことは。
 すぐに王にも伝えられた。王はこの話をホルニヒに聞いてだ。
 まずは表情を変えずにだ。こう述べたのだった。
「全てはわかっていた」
「わかっていたとは」
「そう。彼は役目を終えたのだ」
 だからだというのだ。
「役目を終えたのだ。だからだ」
「それならばですか」
「この世を去り眠る。彼はフラウに休むと言っていたな」
「はい、死の前日に」
「彼は眠ったのだ」
 果たすべきことを果たし終え。そうなったというのだ。
「全てな。全てが終わった」
 王はここで遠い目になった。そうしてだ。
 そのうえでだ。ホルニヒにこうも述べた。
「私もまた」
「陛下もとは」
「間も無くかも知れない」
 こうも言うのだった。
「眠るのは。いや」
「いや?」
「旅立つのだろうな」
 これが王が果たし終えてからすることではないかというのだ。
「そうなのだろうな」
「旅立たれるのですか。陛下は」
「そうなるのだろう」
 王は憂いのある顔になりホルニヒに述べた。
 

 

600部分:第三十四話 夜と霧とその二十三


第三十四話 夜と霧とその二十三

「私はだ」
「ですが陛下は」
「まだ若いか」
「はい、ワーグナー氏は老齢でした」
 王の言葉に死を感じてだ。ホルニヒは慌てて言った。
「ですからその様なことは」
「いや、人生は生きている長さではない」
 そうしたものではないとだ。王は話すのだった。
「どれだけ満ち足りているかだ」
「それが重要なのですか」
「そうなのだ。生きている間にどれだけのことをするか」
「それが大事ですか」
「どれだけ生きていても無為なものなら」
 そうした人生は何かというと。
「何にもならない。人は果たすべきことがあるのだ」
「ワーグナー氏はそれを果たし終えられたからですか」
「眠った。そして私も」
 王自身もだった。
「果たし終えればだ」
「旅立たれるのですね」
「私のこの世で果たすことは決まっている」
 運命論だった。だがカルヴァンではない。
 王独自の、カトリックとはまた違った運命論を述べてだ。そのうえでだ。
 窓を見た。バルコニーのだ。そこには月があった。
 その白い満月を見てだ。王は言うのだった。
「それは月に照らされ」
「この月に」
「そうして導かれるものだ」
 それが王の果たすべきことだというのである。そのうえでだ。
 ホルニヒにだ。こんなことも述べた。
「彼がいてこそだった」
「ワーグナー氏が」
「そうだった。全てだ」
 旅立った友のことを思い。そのうえでだった。
 王は語っていく。王自身とワーグナーのことを。
「確かに彼は色々な問題を起こしたし衝突もした」
「それでもですか」
「私にとっては掛け替えのない存在、そう」
 それは何かというと。
「心でつながった親友同士だった」
「例え歳は違ってもですか」
「心での友情は年齢なぞ関係ない」
 王もわかったのだ。ワーグナーとの交流からだ。
 そうしてだ。また話すのだった。
「関係あることは心が共鳴するかどうかなのだから」
「だからこそ陛下はあの方と」
「偉大な芸術家だった」
 ワーグナーへの評価は普遍だった。王の中では。
 そしてその普遍の評価をだ。今ホルニヒに話すのである。
「その芸術は不滅だ。そして魂も」
「魂もですか」
「永遠のものもあるのだ」
 王が常に考え思うことだった。
 そのことを述べながらだ。ワーグナーのことを考えてだった。
 王は呟く様にだ。述べていった。
「彼の芸術はバイロイトに残り私の中に残り」
 そうしてだった。
「私は今いるこの城達にも残している」
 こう言ってだった。壁にある絵画を見た。
 それもまたワーグナーだった。タンホイザーにローエングリン、トリスタンに指輪だ。
 そしてパルジズァルもある。その中でだった。
 一枚の絵画、王が描かせたワーグナーの世界を見て。そのうえでだった。
「私はワーグナーの芸術をこの世に残すことが果たすべきことだ」
「だからこそこの城をですね」
「他の城達もだ。全てだ」
 そしてその他にだった。
「彼を助け劇場を築くことも許した」
「そうしたこと全てがですか」
「私の果たすべきことなのだ。そしてだ」
「ワーグナー氏は亡くなられました」
「ならば私のすることも間も無く終わるのだろう」
 未来を見た。王自身の未来を。
「そしてそれが終わる時」
 その未来を見ての言葉だった。
「私はあの騎士と会うのだな」
「騎士とは?」
 ホルニヒは知らなかった。無論気付いてもいなかった。
 その白銀の騎士のことを。だからこその言葉だった。
 

 

601部分:第三十四話 夜と霧とその二十四


第三十四話 夜と霧とその二十四

「それは一体」
「そなたは見えないか。ならいい」
 見えないのなら仕方がない。そうした言葉だった。
「だがそなたは私と共にいるのだな」
「はい」
 その通りだとだ。ホルニヒは恭しく一礼してから答えた。
「そうさせてもらいます」
「済まない。私に尽くしてくれるか」
「私は陛下の臣です」
 だからこそだというのだ。それがホルニヒだった。
「そうさせてもらうことに理由はおありでしょうか」
「ないか。そう言うのだな」
「左様です」
「忠義か」
 そしてそれに加えてだった。
「そして愛情か」
「それは」
「私は女性を愛せない」
 そのことはどうしてもだった。王はだ。
 婚姻も破綻して終わり今に至るまで妃もいない。王だというのにだ。
 そのことについてもだ。王は今も話した。
「女性を愛するということ、それは私には」
「同じ女性を愛する様にですね」
「そうしたものを感じてしまうのだ」
 だからこそなのだ。王は女性を愛せないというのだった。
「彫刻ならともかく。だがその彫刻も」
「どういった風になのでしょうか」
 自然と王の言うことの意味を察してだ。ホルニヒは問い返した。
「その彫刻とは」
「芸術品を愛する様なものだ」
 理想とする彫刻の様な女性像にしてもそうだというのだ。
 そしてそれはどういったものかもだ。王は自分から話した。
「彫刻には理想を求めるな」
「美の理想ですね」
「私が女性に見るのは美だけだ。他のものは求めない」
 そしてそれこそがなのだった。
「私の女性への感情だ。変わることはなかった」
 今に至るまでだった。それは。
「女性については。美を見るだけであり」
「愛の対象ではないのですね」
「普通の男性が男の彫刻を見てどう思うか」
 それもなのだった。
「美の理想を求めるだけだ」
「ではやはり陛下は」
「そうなのだ。私にとっては女性はそうしたものでしかない」
 あくまで美だけだったのだ。
「それ以外のものはだ」
「感じられませんか」
「何もな。私はやはりおかしいのだ」 
 自分でだ。巷で言われていることを縄にしてだ。
 王はそれに怯えてだ。こう話すのだった。
「女性を愛せない。それこそが狂気だ」
「陛下、それは」
「教会は言っている」
 キリスト教は同性愛を絶対の悪としている。それこそ殺人に並ぶだ。
 そしてそれに浸る王はだ。何かというのだ。
「人ではない。狂気の行いだと」
「神のお言葉だと」
「だから私は狂っているのかも知れない」
 実際にそうかも知れないというのだ。
「オットーと同じく」
 実の弟、この世で只一人の血を分けた兄弟だった。
「そしてそれ故に」
「陛下」
 流石にだ。ホルニヒはここでだ。
 王に声をかけその暗い思索を止めた。王もそれを受けてだ。
 言葉と思索を止めた。そのうえでだった。
 ホルニヒにだ。こう告げたのだった。
「ではだ」
「はい、それではですね」
「ワーグナーの遺体を送る様に伝えてくれ」
 こうだ。ホルニヒに顔を向けて告げるのだった。
「わかったな」
「はい、それではその様に」
「彼は長い生涯を終え眠る」
 そしてだった。タンホイザーのあの一句を口にした。
「天国の平和に入るのだ」
「永遠にですね」
「そうだ。永遠にだ」
 こう言いだ。友の眠りについて思うのだった。それが今の王だった。


第三十四話   完


                  2011・11・14
 

 

602部分:第三十五話 葬送行進曲その一


第三十五話 葬送行進曲その一

                第三十五話  葬送行進曲
 ワーグナーの遺体を乗せた列車がバイロイトに向かう。その途中でだ。
 ミュンヘンの駅に停まった。それは一時間に及んだ。
 その間ベートーベンの葬送行進曲が演奏され多くの者達がこの芸術家に別れを告げた。
 そのうえでワーグナーはバイロイトに帰る。そのうえで眠るのだった。
 だが王はそのことを遠くで聞いてだ。こう沈んで言うのだった。
「あの曲を」
「あの曲とは」
「ベートーベンのでしょうか」
「いや、ワーグナーのです」
 彼だった。こう侍従達に告げたのだった。
 ノイシュバンシュタインのその壮麗な一室にいながらも心を沈ませてだ。王は侍従達に言ったのである。
「彼の葬送行進曲をお願いします」
「神々の黄昏のですね」
「ジークフリートが死ぬ時の」
「それをお願いします」
 こう告げてだ。ワーグナーのその音楽を聴くのだった。
 暗く沈んだその曲を聴きそうしてだった。
 王は今は一人佇んでいた。そして曲が終わるとだ。
 こうだ。周囲に告げた。
「では下がって下さい」
「お一人にですか」
「なられると」
「今はそうして下さい」
 これが今の王の言葉だった。
「この部屋にいますので」
「わかりました。それではです」
「私達はこれで」
 侍従達もオーケストラの一団もだった。王に一礼してそのうえで部屋を後にする。そうして残った王は一人ソファーに座ったままで。
 項垂れその場にいた。この日から余計にだった。
 王は人の前に姿を現さなくなった。このことは疑問に思う声が相次いだ。しかしだ。
 ベルリンにあってビスマルクはだ。王についてこう言うのだった。
「ではそっとして差し上げろ」
「そうあるべきですか」
「今は」
「そうだ。あの方は友を失った悲しみに打ちひしがれておられる」
 王を気遣ってだ。こう周囲に話したのである。
「ならば今は御心をそっとして差し上げるべきだ。いや」
「いや?」
「いやといいますと」
「このままそうし続けるべきなのかも知れない」
 今だけに限らないというのだ。そうすることは。
「下手に何かするとあの方は余計に傷つかれる」
「そこまで繊細な方だからですか」
「あの方は」
「あれだけ繊細な方はおられない」
 ビスマルクはわかっていた。王のその心が。
 だからこそだとだ。彼は言ってだった。
 そうしてだ。王の周囲についても言及するのだった。
「近頃バイエルンの宮廷で動きがある様だな」
「動き?」
「動きといいますと」
「あの方の芸術について不満を抱いておられるのだ」
「浪費だというのでしょうか」
「だからこそですか」
「そうだ。あの方の築城と歌劇だ」
 まさにだ。その二つだった。
「それがバイエルンの財政を圧迫するとしてな」
「確かに。御自身だけの城ですから」
「しかも時代に合わない」
「中世のそれを模した城だからな」
 ビスマルクも聞いて知っていた。王が築かせているその城達のことは。しかもだ。
「中には一日しか滞在されていない城もあったな」
「ヘーレンキムゼーですね」
 側近の一人が述べた。
「あの城のことですね」
「そうだ。あの城には一夜滞在されただけだった」
 そうして蝋燭に照らし出された部屋の中を歩き回った。それだけだったのだ。
 そのこともあってだ。ビスマルクは話すのだった。
 

 

603部分:第三十五話 葬送行進曲その二


第三十五話 葬送行進曲その二

「確かに奇行だな」
「既にバイエルンの宮廷では問題になっていますが」
「それも極めて深刻な」
「バイエルンの財政は圧迫されている」
 結果としてそうなっている。ビスマルクはこのことも知っていた。
「あの国は危機的だな」
「はい、財政破綻寸前です」
「バイエルン王の築城によって」
「そう思われている」
 ビスマルクは言葉を一旦区切った。
 そのうえでだ。思われていると言うのだった。彼のその言葉にだ。
 周囲はすぐにだ。いぶかしむ顔になり問い返した。
「あの、思われているとは一体」
「どういうことでしょうか」
「財政なぞどうとでもなるのだ」
 それは小事だと。はっきりと言ったのである。
「そんなものはな」
「しかしバイエルンは今バイエルン王の浪費と資金の調達に混乱していますが」
「それはやはり危機なのでは」
「バイエルンが危機ならドイツが救おう」
 ビスマルクは実に素っ気無くだ。周囲に述べてみせた。
「そうするだけだ」
「ではバイエルンに資金援助をですか」
「そうされますか」
「そして陛下にも何でも相談すると伝えてくれ」
 バイエルン王にもだ。そうするというのだ。
「私はあの方をお救いする」
「そうされるのですか」
「バイエルン王の浪費を」
「あれは浪費ではないのだ」
 そのことを自体を否定するビスマルクだった。
「果たされるべきことを果たされているだけだ」
「果たされるべきこと」
「それをですか」
「それを理解できる者とできない者がいる」
 ビスマルクがどちらかはもう言うまでもなかった。
「私は幸いにして前者だ。あの方のことはわかるつもりだ」
「それでなのですか」
「そう仰るのですか」
「そうだ。芸術には金がかかる」
 この話もする。予算の話を。
「しかしそれは些細なことなのだ。よくその時代には浪費と言われることが後世では偉大な芸術、業績として残ることがある。そうだな」
「歴史を鑑みればですね」
「そうなると」
「そういうことだ。普通の者は経験に学ぶが」
 もっと言えば真の愚か者は経験にすら学ばない。
「私は歴史に学ぶ。歴史には既にそうしたことが書かれている」
「その視点からもバイエルン王をお助けする」
「そうされますか」
「そうだ。あの方の残されるものはドイツにとって偉大な財産になる」
 ビスマスクにはわかることだった。彼ならばこそ。
「私は常にドイツの為に考え動くのだから。ドイツの貴重な財産が偉大な財産を残されるのだ」
「バイエルン王もですか」
「ドイツにとって貴重な財産ですか」
「そうだ。このことは前にも言ったがな」
 こう前置きしてからの言葉だった。
「あの方もまたそうなのだ」
「ではあの方に何かあれば」
「その時は」
「助言させてもらう」
 まずはそうするというのだ。
 そしてさらにだった。ビスマルクは真剣な面持ちで話していく。
 

 

604部分:第三十五話 葬送行進曲その三


第三十五話 葬送行進曲その三

「窮地にはお助けさせてもらう」
「そこまでされますか」
「あの方の為に」
「あの方はドイツの財産なのだから。それに私自身」
「閣下ご自身」
「となりますと」
「あの方が好きだ」
 彼自身の好意もあった。ここでは私情も入れていた。
「公の意味もあるが私自身あの方を敬愛しているのだ」
「その意味でもお助けしたい」
「そうだったのですか」
「バイエルンの宮廷も内閣も何もわかっていない」
 ビスマルクは今度はいささか軽蔑する様に述べた。
「あの方を止めるべきではない」
「ドイツの偉大な財産を残されるから」
「それが為に」
「まことに残念に思う」
 心からの悔やみの言葉も出た。冷徹な筈のビスマルクの口から。
「あの方を理解できる者の少なさをな」
「今はですか」
「そうだというのですね」
「同じ時代にあっては見られることは少ないのだ」
 現在ならばだというのだ。同じ時代にいると余計にだと。
「それは神が仕掛けた罠だ」
「ものを見えなくする」
「そうしたものですか」
「そうだ。あの方についても同じだ」
 ビスマルクは今度は感嘆した。そうしてだった。
「それが為にあの方が不幸になるとすればそれこそが不幸だ」
「ドイツにとってですか」
「この国にとって」
「私は確信している。あの方は後世においてこそ讃えられる」
 深い叡智があった。ビスマルクのその目には。
「偉大な芸術を残され何処までも純粋だった方としてな」
 こう言ってなのだった。彼は王のことを考えていた。そこには悪意も冷徹もなくだ。ただ王への想いだけがあった。彼もまたその純粋さを持っていたのだ。 
 ワーグナーが死にだ。王はというと。
 以前よりもさらに深い憂いに包まれる様になっていた。それでだ。
 ホルニヒにだ。こう言われてもだった。
「陛下、裁決を求める文が来ていますが」
「いい」
 首を横に振ってだ。こう応えるだけだった。
「それはいいのだ」
「ですがこれは」
「最早私にはどうでもいいものだ」
 こうだ。厭世観と共に言うのである。
「昼の世界のことは」
「ではこの文も」
「そうだ。内閣に返してくれ」
 これがその文に対する王の返答だった。
「それもな」
「わかりました。それでは」
「私のやるべきことは昼にはない」
 何処までもだ。昼に憂いを感じる様になっていた。
「それは夜にこそあるのだから」
「では築城をですか」
「もう一つ築きたいのだが」
 憂いの中に考えるものを見せての言葉だった。
「そう。新しいものをだ」
「そうされますか」
「そうだ。既に三つ築いている」
 問題となっているその城達のことに他ならない。
「しかしそれをさらにだ」
「築かれますか」
「そうする。それではだ」
 こう言ってだった。王は築城計画を進めることにした。その中の日々はだ。
 ふとだ。森に出てだ。急に樵達の前に出ることもあった。
 

 

605部分:第三十五話 葬送行進曲その四


第三十五話 葬送行進曲その四

 樵達は自分達の前に不意に出て来た王に驚きだ。思わずその手を止めた。斧や鋸は木にそのまま入って残っているがそれは誰も目に止めなかった。
 そのうえでだ。彼等は王に一礼する。その彼等にだ。
 王は温和な笑みを浮かべてだ。こう言うのだった。
「そのまま果たすべきことをされて下さい」
「あの、しかしです」
「それは」
「私がいるからですか。それではです」
 彼等の意を汲み取りだ。そのうえでだ。
 王は彼等のところに自ら来てだ。そして静かに告げた。
「それでは今から休みましょう」
「あの、ご休憩ですか」
「ここで」
「そうです。丁度酒に食事も用意しています」
 王は後ろを振り向いた。するとそこにはだ。
 侍従達が控えていてだ。その手にワインや簡単な食事を持っている。
 そしてそれを樵達の間にある切り株の上に置いてだ。あらためて言うのだった。
「こうしたもので」
「陛下のお食事ですが」
「それでもですか」
「はい、どうぞ」
 彼等にそれを食べよとも言うのだ。
「召し上がって下さい。私と共に」
「何と。陛下がわし等とですか」
「わし等の様な者とですか」
「信じられません」
「気紛れだと思って下さい」
 王は微笑みこう彼等に話した。
「私のそれだと」
「そう言われるのならですが」
「そう思わせてもらいます」
「はい、それでは」
 こうしてだった。彼等と共にだ。
 王は食事を摂ったりもしていた。そんなこともあった。
 だが基本的にだ。王はさらに人目を避ける様になったいた。夜のアルプスで馬車を走らせてもだ。月夜の下で無言でいるだけだった。
 そしてだ。城に帰り周りに声をかけられてもだった。
「よかったと思います」
「それならいいですが」
「満足して頂けたのなら」
「今はです」
 そして言う言葉は。
「これでいいと思います」
「これで?」
「これでといいますと」
「もう彼はいません」
 ワーグナーのことを想っての言葉だった。
 城に入る時に月を見上げる。月は青い光を放っている。
 その三日月を見つつだ。王は言うのだった。
「気が晴れるのならです」
「いいというのですか」
「それで」
「はい、ではです」
 ここまで話してだった。王は城の中に入りワインを飲む。チーズと共に飲みだ。そしてそのうえでだ。従者達にこんなことを言ったのだった。
「音楽ですが」
「何を聴かれますか?」
「ワーグナーを」
 彼だった。ここでもだ。
「そして曲は葬送行進曲を」
「近頃よく聴かれますね」
「そうですね」
 そのことは王も否定しなかった。そうしてだ。
 周囲にだ。こうも言うのだった。
「どうもその曲を聴きたくなりますので」
「だからですか」
「それで聴かれるのですね」
「そうです。そうせずにはいられません」
 そのだ。葬送行進曲を聴かずにはいられないというのだ。
 そのことを話してだった。王は実際にその曲を聴く。その間ワインを傾けそのうえで無言で俯いていた。整った顔には憂いしかなかった。
 王は政も見なくなり夜にしかいなくなった。
 そしてだった。ミュンヘンにもだ。
 

 

606部分:第三十五話 葬送行進曲その五


第三十五話 葬送行進曲その五

 滅多に足を踏み入れることがなくなっていた。このことに首相のルッツは危惧を覚えていた。そして彼の側近達にこう漏らすのだった。
「あまりにも異様だ」
「陛下ですか」
「あの方のことですね」
「これまでもそうしたところはあられた」
 王の人間嫌いと彼から見た奇行はだというのだ。
「しかし近頃はだ」
「そうですね。全くお姿を見せられなくなりましたし」
「しかもミュンヘンにも戻られません」
「宮廷でも御会いできる方はおられないのですね」
「アルプスの城に篭もっておられるとか」
「そしてたまに戻られれば」
 ミュンヘンに戻ってもだというのだ。
「御一人での観劇ばかりです」
「浪費だけが増えています」
「この状況はあまりにも」
「危うい。陛下は本当におかしくなられたのか」
 ルッツは本気でこう危惧していた。
 そしてその顔に憂慮を浮かべてだ。周囲に言うのだった。
「政務も見られないのではだ」
「バイエルン自体が危ういですね」
「国家元首である陛下がそれでは」
「国王とは何か」
 ルッツは進歩的な見方からそのことについて言及した。
「それは機関なのだ」
「国家を統治する為の機関の一つですね」
「それですね」
「そうなのだ。機関なのだ」
 国家元首という機関だと。首相として述べるのだった。
「私も然りだが」
「その国家の最も重要な機関である国王が政務を見られない」
「そのこと自体がですね」
「危険だ。このままでは駄目だ」
 焦りもあった。ルッツの今の顔には。
「どうにかしなければな」
「しかし陛下にお話をするのも困難です」
 侍従の一人がこう言ってきた。
「何しろアルプスにおられるのですから」
「ノイシュバンシュタインやヘーレンキムゼーに」
「あの城達にかけた浪費も相当なものだ」
 現在形でだ。ルッツは危惧を覚えていた。
「そしてさらにだと仰っているしな」
「そうですね。プロイセンからの援助もあり何とか危機を凌げそうですが」
「ですが陛下はまた築城を主張されています」
「そのことが通れば」
「バイエルンの財政は確実に破綻する」
 ルッツは唇を噛み締めた。
「このままではだ」
「一体どうすればいいでしょうか」
「この状況は」
「考えたくはないが」
 そう言ってもだった。ルッツは言うしかなかった。
「あの方にだ」
「退位ですか」
「それをですね」
「そうだ。そうして頂くしかないのか」
 最後の手段をだ。彼は口にしたのである。
「最早だ」
「しかしそれはです」
「やはり」
「わかっている、私もな」
 ルッツもだ。こう返した。
 そして沈痛そのものの顔でだ。こう言うのだった。
「ああしたことは頻繁に起こるものではない」
「はい、一世陛下の時も残念でした」
「誰も幸せになりませんから」
「あの様なことは」
「バイエルンの名誉も汚される」
 そのこともだ。ルッツの念頭にあった。首相には憂慮することが多い。
 それでだ。彼はそうしたことも含めて考えていくのだった。
 

 

607部分:第三十五話 葬送行進曲その六


第三十五話 葬送行進曲その六

「どうしても避けたいがだ」
「このままではバイエルンがですね」
「財政破綻を起こしてしまいますね」
「名誉か。破綻か」
 そのどちらかだった。まさにだ。
「バイエルンが取るのはどちらかだが」
「そのことについてですが」
 側近の一人がここで彼に対して言ってきた。
「ホルンシュタイン卿がお話したいとのことですが」
「伯爵が?」
「はい、あの方がです」
「彼は確か陛下の側近だが」
「ですがそれでもです」
 いぶかしむルッツにだ。その側近はさらに話す。
「あの方も御考えがあるとのことです」
「わかった。では伯爵を読んでくれ」
「わかりました。それでは」
 こうしてだった。ルッツはすぐにホルンシュタインと会った。会うなりすぐにだ。彼はホルンシュタインのその顔と目を見てだ。こう言うのだった。
「卿は陛下の」
「ですが国王もまた、です」
 冷静さを何とか出してそれで全てを覆ってだ。彼は応えた。
「国家の機関ですから」
「私と同じ考えか」
「その様ですね。そういうことです」
「機関だからこそだな」
「割り切った考えですがそうなるでしょう」
 ホルンシュタインはやはりだ。冷静さで全てを覆って話していく。
「やはりです」
「ではこのことは」
「はい、このままではバイエルンは破綻します」
 一致していた。彼とルッツの考えは。
 そしてだった。彼はこう言うのだった。
「ですから。それを避ける為に」
「名誉を捨てるか」
「いえ、バイエルンの名誉は守ります」
 ここがだ。ホルンシュタインとルッツの違いだった。彼は名誉は守れるというのだ。だがそれを聞いてルッツはだ。いぶかしみつつ問い返すのだった。
「その様なことができるのか」
「できます。そして退位ですが」
「それもかなり困難だが」
 ルートヴィヒ一世の時を思い出してだ。ルッツは話す。
「それも頭が痛い話だ」
「そのどちらも解決できます」
「名誉を守れてそしてか」
「はい。最後の手段も容易にできる方法がです」
「あるならそれは何だ」
 ルッツは真剣な顔でホルンシュタインに尋ねた。
「言ってくれ。何だそれは」
「はい、それはです」
 一呼吸置いてからだ。ホルンシュタインはだ。ルッツにこう述べた。
「オットー様に国王になって頂きルイトポルド大公に摂政になって頂くことですが」
「オットー様が王にか」
「はい、そして陛下は先王に」
「そうすればいいことはわかった。しかしだ」
 ルッツがここで言うのは名誉と退位、その二つのことだった。
 そのだ。彼にとって最も気にかけるべきことをだ。彼はまた問うた。
「そこまでどうして至るのだ」
「はい、それはです」
「どうするのだ?」
「オットー様です」
 また彼の名を出す彼だった。
「あの方の主治医のですが」
「ああ、彼か」
「そうです。医師のグッデン氏です」
 ホルンシュタインは彼の名を出した。
「あの方の診察を発表すればいいのです」
「精神科医の権威のか」
「これでバイエルンの名誉は守られます」
 医師の発表、それによってだというのだ。
 

 

608部分:第三十五話 葬送行進曲その七


第三十五話 葬送行進曲その七

「そしてです」
「退位もだな」
「陛下は一年と一日だけです」
「正常であられなくなった」
「それだけでいいのです」
「それでバイエルンは救われるな」
 ルッツは難しい顔だがそれでも述べた。
「そうなって」
「はい、ですからこれで如何でしょうか」
「そのグッデン氏に会いたい」
 ルッツはその難しい顔でまた述べた。
「是非な」
「畏まりました。それでは」
 こうしてだった。ミュンヘンではまた動きがあった。だがこのことはビスマルクには筒抜けでだ。彼はベルリンにおいてこう言うのだった。
「何もわかっていないな」
「ミュンヘンの動きですね」
「そのことですね」
「そうだ。何もわかっていない」
 今回も側近達にだ。彼は言っていた。
「彼等はあの方のこともドイツのこともわかっていないのだ」
 そしてだった。ビスマルクは言った。
「バイエルンの。そして今だけしか考えていない」
「ドイツのこと、未来のことはですね」
「考えていないのですね」
「見えていないし聞こえてもいない」
 それならばだというのだ。
「それでどうして考えられるのか」
「では彼等は誤っているのですか」
「見えず聞こえていないが故に」
「そうだ。あの方の浪費は浪費ではない」
 では何かというと。ビスマルクにははっきりと見えていたし聞こえてもいた。
 だからだ。こう言うのだった。
「必要な経費だ。そしてだ」
「そして?」
「そしてといいますと」
「バイエルンの財政破綻なぞ最早どうとでもなる」
 ドイツの宰相としての言葉だった。
「些細なことだ」
「彼等はそうは思っていない様ですが」
「何もわかっていない証拠だ」
 ビスマルクは素っ気無く述べた。
「今のドイツをだ」
「バイエルンはドイツの中にあることがですか」
「そのことが」
「彼等のうち何人かはそうなることをあえて望んだのだがな」
 ホルンシュタインのことだ。ビスマルクの縁者でもある彼だ。
 ビスマルク自身はそのことに対して否定しなかった。しかしだった。
 ここでだ。彼はこう言うのだった。
「しかしそれがわかっていないのだな」
「妙な話ですね、それはまた」
「自らドイツに入ったのにそれがわかっていないとは」
「矛盾しますね」
「彼等はバイエルンしか見えていないのだ」
 ビスマルクにはわかっていることだった。彼にはだ。
「私は欧州全体を見てあの方は別の世界も見ているがな」
「しかし彼等はバイエルンしか見えていない」
「だからですか」
「そのことがわからないのですか」
「そうだ。そしてその彼等がだ」
 どうするのかを。ビスマルクは苦い顔で話す。
「あの方を玉座から退けようとする」
「そのことについて閣下はですか」
「あの方をですか」
「そうだ。前にも言ったが御護りする」
 こう言うのだった。
「その為にはあえてだ」
「あえてですか」
「表ではできないことも」
「軍と外交官を使いたい」
 その二つだった。
 

 

609部分:第三十五話 葬送行進曲その八


第三十五話 葬送行進曲その八

「そして必要とあらばオーストリア皇后とも連絡を取ろう」
「あの方ともですか」
「連絡を取りそのうえで」
「いざという時はあの方をお救いする」
 そうすると。ビスマルクは決意を述べた。
「私はそうする」
「それはドイツの利益になりますか」
 側近の一人がビスマルクが常に求め考えていることについて問うた。
「そのことは」
「なる。それ以上にだ」
「それ以上にですか」
「あるのですか」
「言った筈だ。あの方はドイツの宝なのだ」
 政治的にはいがみ合いながらもだ。ビスマルクは王をこう評価していた。
 その評価でだった。王について考えてだったのだ。
「その宝を失う訳にはいかないのだ」
「芸術によるものでしょうか」
 その宝とはどういう意味かというのだ。
「あの方の存在は」
「それだけではないのだ。あの方にあるのは」
「芸術を超えている?」
「そうした方なのですか」
「そのことを今わからない者が多いのは残念だ」
 ビスマルクはまたしても苦渋の言葉を漏らした。
 そうしてだった。彼は。
「だがそのことは後になってわかるのだが」
「では今はその為にもですか」
「あの方の危機には」
「あらゆる手段を使ってお助けする」
 プロイセンとバイエルンの間柄を超えた、心に基く言葉だった。
「わかったな」
「はい、それでは」
「その時には」
 こうしてだった。ビスマルクはいざという時に備えることをはじめた。しかしそれは表に見せずにだ。水面下で進められるのだった。
 これはベルリンだけではなかった。ウィーンでもだ。
 皇后はミュンヘンでの密談の話を聞いてだ。こう周囲に話した。
「私はまたバイエルンに行くかも知れません」
「あの国にですか」
「再びですか」
「はい、そうします」
 こうだ。女官達に話すのであった。
「何かあればその時は」
「そういえばバイエルンではどうもです」
「宮廷で不穏な話し合いが行われているとか」
「国王について」
「あの方に何かあってはなりません」
 だからこそだ。皇后も動くというのだ。
 そしてだ。皇后もまた言うのだった。
「バイエルンの、そして殆どの者達も」
「どうなのでしょうか」
「ミュンヘンは」
「あの方を理解していないのです」
 そうだというのだ。バイエルン王をだ。
「理解できないのです。あの方はあまりにも尊いが故に」
「ではあの浪費は」
「重要なことではないのですか」
「あの様なものは本当に何でもありません」
 皇后はビスマルクと同じことを言った。自分が意識しないうちに。
「大事なことはあの方をお救いすることです」
「だからこそバイエルンにですか」
「赴かれますか」
「そうします。その時は」
 そのこの世にあるとは思えないまでの美貌の顔に固い決意を見せてだった。皇后もだった。
 王を救おうと決意していた。そのうえでだった。
 憂いに満ちた顔でだ。こんなことも言った。
 

 

610部分:第三十五話 葬送行進曲その九


第三十五話 葬送行進曲その九

「ですが」
「ですが?」
「何かあるのですか」
「あの方は。若しかしたら」
 遠くを見た。この世にないものを。
 それは王を理解する者だけが見えるものだった。それを見てだ。
 皇后はだ。言うのだった。
「もうこの世で果たされるべきことが果たし終えられるかも知れません」
「この世で?」
「果たされるべきことを」
「そうです。間も無く終えられるかも知れません」
 こう言うのだった。
「ワーグナー氏が眠られ。そして城達も築かれました」
「だからだというのですか」
「あの方は」
「はい、間も無くです」
 皇后のその言葉に悲しみが宿る。
「私が何かをしても若しかすると」
「何にもならない」
「そうだというのでしょうか」
「そうかも知れません」
 悲しみは表情にも移っていた。
「神の定められたことなら」
「ではあの方はです」
 皇后の今の言葉にだ。侍女の一人が問うた。
「神に定められた方なのでしょうか」
「人は誰もがそうですが」
 そう前置きしてからだ。皇后は王と神について話した。
「ですがあの方はです」
「その中でもとりわけですか」
「定められた方なのですか」
「おそらくはそうです」
 断言はできなかった。人は神を完全には理解できないのだから。
 だがそれでもだった。皇后は言うのだった。皇后の知ることができる限りのことで。
「あの方は神に定められ。そうして」
「そうして?」
「そうしてとは」
「あの世界、定められた者以外は行くことができない世界」
 その世界が何かというと。
「モンサルヴァートに」
「モンサルヴァートですか」
「聖杯の城ですね」
「ワーグナー氏がその歌劇の中で描かれたという」
「あの城ですか」
「パルジファル。あの作品はです」
 どうかというのだ。そのパルジファルという作品は。
「バイロイト以外では上演できませんね」
「はい、ワーグナー氏がそう主張されてです」
「あの場所以外での上演は許されていません」
「ですから観られた方は少ない」
「そうした作品ですね」
「しかしどういった作品かは聞いています」
 皇后もだ。その世界は観てはいないが聞いてはいるのだ。
 そしてその聞いたことをだ。皇后は今言うのだった。
「あの作品はまさにです」
 どうかというのだ。そのパルジファルの世界は。
「あの方が入られる世界なのです」
「ワーグナー氏はあの方をパルジファルと呼んでおられました」
 先程とは別の侍女が言った。
「ではあの方はあの城に」
「そうなるでしょう」
「それではあの方をお救いしてもですか」
「それは無駄だと」
「そう仰るのですか」
「いえ」
 そのことはだ。首を横に振ってだった。
 皇后はそのことは否定した。皇后にしてはそうせざるを得なかった。
 

 

611部分:第三十五話 葬送行進曲その十


第三十五話 葬送行進曲その十

 それでだ、皇后はこう言うのだった。
「若しそうだとしても」
「それでもですか」
「あの方をですか」
「そうです。お救いします」
 この考えは変わらなかった。変える訳にはいかなかった。
 それでだ。侍女達、皇后が心から信頼する僅かな者達にだけ告げたのだった。
「宜しいですね」
「わかりました。ではその時は」
「バイエルンに向かいそうしてですね」
「あの方をお救いする」
「そうされるのですか」
「おそらくはビスマルク卿もそう考えておられます」
 皇后にはこのこともわかった。
「ですから」
「はい、それではですね」
「ビスマルク卿とも連絡を取りますか」
「そうされますか」
「おそらくビスマルク卿はバイエルンに人をやります」
 そこまでだった。皇后には読めたのである。
 そのうえでだ。皇后はそのビスマルクについて話すのだった。
「ですから連絡を取るのはです」
「バイエルンで会ってから」
「そのうえで、ですね」
「はい、その時でいいです」
 焦りはしなかった。いや、焦ってはならなかった。
 だからだ。皇后はこう言ったのである。
「あの方が危機に陥られた時にバイエルンで」
「ではその様に」
「そうされます」
 こうした話がだ。ウィーンでも密かに行われたのだった。
 皇后はこの話を終えてまたすぐにだった。旅に出た。しかしその間も始終だ。王のことを考えだ。すぐに動けるようにしていたのだ。
 ベルリンでもウィーンでも密かに動きがあろうとしていた。しかしだ。
 ノイシュバンシュタイン、その城の中でだ。王はだ。
 常に傍らにいたホルニヒにだ。こう告げていたのだった。
「ではいいな」
「しかし陛下、それは」
「命令だ」
 悲しい目でだ。王は彼に告げていた。
「王のだ。ならばわかるな」
「しかしそれは」
「言った筈だ。そなたをあらゆる役職から解任する」
 それは即ちだ。王の前から去れということだった。
「年金は与える。そなたは生活に困ることがない」
「私が求めているものは違います」
 ホルニヒは切実に訴えた。
「私は陛下に己の」
「もう充分だ」
 忠誠を捧げる、それはだというのだ。
「私はそれに値しない男なのだから」
「いえ、それは」
「そう思ってくれるといい」
 ホルニヒの言葉を遮る。悲しい目で座りながら。
「そして私を恨み。私の前から去るのだ」
「陛下、何故その様なことを」
「これまでよく仕えてくれた」
 本音がだ。言葉に含まれてきていた。
「しかしそれもだ」
「今日までだというのですか」
「そなたはそなたの人生を歩め」
 自分に構うな、そうした言葉だった。
「よいな。それではな」
「陛下・・・・・・」
 こうしてだった。王はホルニヒを自分の前から遠ざけたのだった。そしてだ。
 一人になった王にだ。誰かがだ。
 ワインが入った杯を差し出してきた。その杯を見てだ。
 王はその杯を持つ手を見てだ。こう言うのだった。
「卿か」
「彼をそうして遠ざけてですか」
「これ以上の私の為に自分を犠牲にして欲しくない」
 王はその目を沈ませて述べた。
「だからだ。ああしてだ」
「御気遣いですね」
「いや、我儘だ」 
 王は自嘲を含んだ笑みで言う。
「私の我儘だ。最初から最後までな」
「そう仰るこそこそ御気遣いです」
 騎士は王が自分の差し出したワインを手に取り飲むのを見てからだ。そのうえでだ。
 

 

612部分:第三十五話 葬送行進曲その十一


第三十五話 葬送行進曲その十一

 王に対してだ。微笑んで述べた。
「陛下の」
「そうなのだろうか」
「陛下はこう考えておられますね」
「わかるのか。私の考えが」
「はい。おおよそですが」
「では言おう。私はだ」
 どうかというのだ。王自身の口で話すのだった。
「間も無く己の果たすべきことを果たし終える」
「だからこそですか」
「そうだ。ホルニヒを去らせた」
「陛下にこれから降りかかることから避けさせる為に」
「私一人がどうなればそれでいい」
 王自身はいいと言うのだ。しかしそれでもだった。
 ホルニヒのそのいつも忠義を捧げるその心を瞼に思い浮かべてだ。言うのだった。
「しかしそれでもだ」
「それでもですね」
「彼が巻き込まれることは避けたい」
「そうですね。ですから陛下は彼を」
「他の者もだ。既に私の周りはだ」
 既にわかっていた。王はだ。
「私に二心のある者が多くなってきている」
「彼等を取り除くことは」
「それはできる」
 王としてだ。それは可能だというのだ。
 だがそのことについてもだ。王は静かに言うのだった。
「だがそれをしたところで何になるのか」
「陛下は果たされるべきことを果たし終えられるからですね」
「彼等には好きにさせる」
 あえてだ。そうさせるというのだ。
「どのみち私の時は少ないのだから」
「ではその時には」
「来てくれるな」
 騎士を見てだ。王は言った。
「そうしてくれるな」
「無論です。その時は」
「待っている」
 騎士を見てだ。王は述べた。
 そのうえでだ。騎士にこうしたことも話した。
「その私の最後に果たすべきことだが」
「あの歌劇を御覧になられますね」
「そうだ。パルジファルだ」
 ワーグナーの最後の作品、それをだというのだ。
「あの作品を観る」
「最後の最後に」
「それが私が最後にするべきことだ」
 だからだというのだ。
「観て。そうしてだ」
「私と共にですね」
「そうだな。私は最後に観る」
 パルジファル、それをだというのだ。
「そうさせてもらう」
「ではその様に」
「来てくれ。その時には」
 果たすべきことを全て果たし終えたその時にはだというのだ。
 そのことを述べながらだ。王はだ。
 騎士に対してだ。ふと問うたのだった。
「私は愚かなのだろうか」
「愚かとは?」
「いや、狂っているのだろうか」
 沈んだ顔でだ。騎士に問うたのである。
「やはり。だからこそ夜の中に人を避けて生きているのか」
「世間ではそう言われていますね」
「一人での観劇も。女性を愛せないことも」
 そうしたこと全てがだった。周囲が狂気と言っている。それについてだ。
 王はだ。騎士に問うのだった。
 

 

613部分:第三十五話 葬送行進曲その十二


第三十五話 葬送行進曲その十二

「築城、特にそれだが」
「世間ではそう言っていますね」
「それが為に私の周囲は動いているな」
「そうです。官邸もまた」
「ここは静かに見ているだけでいいのだろうか」
「いえ、動かれるべきです」
 座すことはすべきでないとだ。騎士は王に述べた。
「陛下はまだです。動かれるべきです」
「彼等に対するべきか。既に周囲に二心がある者達が来ているというのに」
「陛下はその時に色々なものを御覧になられるのですから」
「私は。最後に何を観るのだ」
「パルジファルの旅を」
 またしてもワーグナーだった。ここでもだ。
 騎士は微笑み王にだ。そのことを告げだ。王もだ。
 そのパルジファルのことを思いながらだ。そうしてこんなことを話した。
「あの旅を私自身がか」
「行われるからです」
「彼は聖杯城に戻るまでに多くのものを観る」
「聖杯城の主となる為に」
「それか」
「はい、そうです」
 騎士はまた王に告げる。
「ですからその時はです」
「動くべきか」
「そうされて下さい」
「私の果たすべきことはそれもあるのか」
 王はそのことを知った。実はだ。
 そのまま静かに過ごすつもりだった。だがそれは今はだ。
 騎士に言われそのうえでだ。こう言うのだった。
「無駄なことだと思っていたが」
「いえ、無駄ではありません」
 騎士はそのことを否定した。
「陛下がこれから為される。そのあがきと思われることはです」
「むしろしなければならないことだと言うが」
「そうです。是非共彼等と対峙して下さい」
「だが私はそうすればだ」
「退位ですか」
「最終的にはそれを告げられる」
 王にとっては屈辱なことにだ。王はあがらってまでそれをするつもりはなかった。
 そしてだ。現実も述べるのだった。
「若し私がミュンヘンに戻り無事な姿を民衆や軍に見せればだ」
「それで陛下は王のままでいられます」
「彼等は私を愛してくれている」
 そのことはよくわかっていた。王もだ。
 そしてだ。王はさらに述べたのだった。
「ホルニヒや他の私に忠誠を誓い続けてくれている者達、それにシシィにビスマルク卿」
「皇后様とビスマルク卿は陛下の理解者でもあられます」
「彼等が私を救おうとしてくれるだろう」
 王にとっては有り難いことに。しかしだった。
 今の王はそのことについて、まずはミュンヘンの彼等についてだ。苦りきった顔で述べるのだった。その述べる言葉はどういったものかというと。
「だが。私はミュンヘンにはもう」
「戻りたくないですか」
「あの一人での観劇だけが救いだったのだ」
 ミュンヘンにいてはだ。そうだったというのだ。
「あの街はワーグナーを。彼の芸術を拒んだのだ」
 王にとって全てとも言えるだ。それをだというのだ。
「何故その街にいて助けを求められようか」
「それ故にですか」
「そうだ。ミュンヘンにはどうしても助けを求めたくない」
 王は苦い声で述べた。
「何があろうともだ」
「ではそれはされませんか」
「何があってもミュンヘンでは助けを求めない。いや」
 王は言葉を換えた。その換えた言葉はというと。
「誰にも助けは求めない」
「王としてですか」
「卿は誰かに助けを求めるだろうか」
 騎士に顔を向けてだ。そうして彼に問い返したのだ。
「そうするか。卿は」
「私の窮地にですか」
「そうだ。そうするのか」
「いえ」
 騎士は首を横に振りだ。そのうえで王の問いに答えた。
 

 

614部分:第三十五話 葬送行進曲その十三


第三十五話 葬送行進曲その十三

「私は。そして私と心を同じくする彼等も」
「そうだな。卿等はそうするな」
「はい、そうします」
「それと同じだ」
 王は静かに述べた。
「私は助けは求めない。他の誰にもだ」
「陛下もまた。私達と同じだからですね」
「心は違うがな」
「ですが私達はです」
「愛による救済か」
「はい、それを受けるのですが」
「ホルニヒ、シシィ、ビスマルク卿」
 先に挙げた彼等だった。王に忠誠を誓う者、理解してくれている者。 
 その彼等の救いの手がある。しかしそれはだというのだ。
「彼等による救済か」
「それはどうされますか」
「私が果たすべきことを終えているのなら」
 それならばだというのだった。
「私には届かないな」
「そうですね。その時は」
「むしろ。私に救済を向けるのは」
 それはだ。誰かというとだった。
「卿だな。その時に現われるな」
「そのつもりです」
「では卿だ。私は卿を待つ」
 騎士を。まさにその彼をだというのだ。
「そしてそれは間も無くだな」
「そうです。隠しはしません」
「そうだな。卿は私を迎えに来てくれる」
「それは近いですし」
「ホルニヒは。私にあくまで忠誠を誓ってくれていて」
 そしてなのだった。
「シシィもビスマルク卿も私を理解してくれて。救いの手を向けてくれるがだ」
「陛下をお救いするのは私になりますね」
「ではその時までか」
「それが何時か御存知になりたいでしょうか」
「卿はその時を知っているのか」
 王は騎士を見た。そのうえでだ。
 騎士自身に対してだ。そのことを問うたのだった。
 騎士はそのことに対して言おうとする。しかしだった。
 王はその言葉をだ。途中で遮ってしまったのだった。
「いや、いい」
「宜しいですか」
「私がそれを知ってはよくはないことだ」
 本能的にそう察してだ。いいとしたのである。
「だからだ。それはいい」
「わかりました。それでは」
「では私はその時まで旅を続けよう」
 パルジファルとしてだ。そうするというのだ。
 それでだ。王はだ。
 ワインを一杯飲み。それから述べたのだった。
「聖杯城に着くまでな」
「城は何時でも陛下をお待ちしております」
「その玉座にか」
「そここそが陛下の玉座です」
 聖杯城のだ。そここそがだというのだ。
「ですから。旅を終えられれば」
「わかった。それではな」
「その時まで。生きられて下さい」
 そしてだった。それからは。
「そしてあの城で永遠の生を」
「私があの聖杯と槍を手にするのだな」
「左様です。王として」
「私の夢はこの世で果たされ」
「あの城においても果たされるのです」
「私は幸運だな」
 王はふとこんなことも口にした。
 

 

615部分:第三十五話 葬送行進曲その十四


第三十五話 葬送行進曲その十四

「果たしたいことを果たせるのだからな」
「それでだというのですね」
「それはやはり幸運だと思うが」
「はい、確かに」
 王の幸運は騎士も認める。しかしだった。
 騎士はそれと共に王にだ。こうも述べたのだった。
「ですがそれは定まっていたことなのです」
「神によってだな」
「そうです。ですから幸運以上のものがあったのです」
「私が果たさなければならないことだったのか」
「城達を築かれること、そしてワーグナー氏のこともです」
「彼の芸術は私がいなければか」
 どうなっていたのか。それは言うまでもなかった。
「彼の芸術はこれだけ世には出なかったな」
「だからこそです」
「私が果たすべきだったのだな」
 そのことを言うのだった。
「ワーグナーのことも」
「確かにリスト氏という理解者もいました」
 王がこよなく愛するローエングリンはリストが初演指揮者を務めている。コジマの父でもある彼の尽力があってローエングリンは上演されたのだ。
 しかしだった。彼や信奉者達だけでなくだ。王がいてこそだというのだ。
「ですが陛下のお力があってです」
「彼の芸術が最後まで実現されたのだな」
「陛下があの方を助けられたからこそです」
「それも私の果たすべきことだったか」
「左様です。ですから幸運以外のものもあったのです」
 義務、それがだというのだ。
「神の定められたものがです」
「何度かそう言われたな、そういえば」
「私にですね」
「いや、他の誰かにも言われたと思う」
 その辺りの記憶は曖昧なところがあった。だがそれでもだった。
 王はそのことに心当たりがあった。それで言うのだった。
「私は果たすべきことがあるのだとな」
「そうです。そしてそれはです」
「間も無く全てが終わるか」
「そのことは神が御存知です」
 全ては神だった。予定説めいたものがそこにあった。
「しかし陛下は神に定められた方ですから」
「神が私を選んでくれたのか」
「この時代に。そしてこの国に」
「ドイツ。父なる国にか」
 ドイツ人達は祖国に対して父なる国と話す。そしてだ。
 そのことについてだ。王は言うのだった。
「私は生まれそうしてか」
「はい、その通りです」
「この国に残すか。この世界に」
「かつてはミュンヘンをドイツにおける芸術の都にされようと思っておられましたね」
「かつてはな」
 全ては過去のことだった。それは最早だった。
「だが。ワーグナーが去ってはだ」
「それは夢に終わったのですね」
「あの頃は夢が破れたと思った」
 そう思い絶望した。しかしそれはだったのだ。
「だがそれは私の果たすべきことではなかったのだな」
「それ以上のものがあったのです」
「そうだな。私にはな」
 そのこともだ。王は今認識したのだ。
 そしてだ。騎士に対して述べるのだった。
「神の定められた果たすべきことがな」
「ではその最後に」
「わかっている。最早な」
 微笑みを浮かべて。王は答えた。
 そしてだ。そのうえでだった。騎士に告げたのである。
 

 

616部分:第三十五話 葬送行進曲その十五


第三十五話 葬送行進曲その十五

「どうだ。飲まないか」
「ワインをですね」
「神の血だ。どうだろうか」
「それはあの城で頂きます」
 騎士も微笑みだ。そのうえでだ。
 王に礼儀正しく一礼してからだ。こう返したのである。
「陛下があの城の玉座に座られた時に」
「わかった。ではその時にな」
「はい、それでは」
 こうした話をしてだった。王はその旅に入ろうとしていた。その頃ミュンヘンではまた密談があった。
 大公は今度はホルンシュタインだけでなく首相のルッツとも会っていた。そうしてだ。
 彼は苦渋に満ちた顔でだ。首を横に振り言うのだった。
「では。一年と一日か」
「はい、それだけです」
「法にある通りです」
「陛下は退位となるのだな」
 大公はホルンシュタインとルッツに述べる。
「そうなるのだな。しかしそれは」
「確かに陛下は今も臣民や軍には圧倒的な人気があります」
 ホルンシュタインは事実を否定しなかった。決してだ。
 だが肯定的な事実だけでなく否定的な事実もだ。彼は口にするのだった。
「ですが我が国の財政をです」
「わかっている。しかしだ」
「大公は陛下の退位には今もですか」
「反対だ。あの方には私がお話したい」
 大公にしても逃れるつもりはなくだ。こう言うのだった。
「それであの方に浪費を止めてもらいたい」
「御会いできますか?今のあの方に」
「それは」
 そう言われるとだ。大公も返答に窮した。
 その大公にだ。ホルンシュタインは苦い声で述べたのである。
「そうですね。御会いできないのです」
「しかしオットーを出すのはよくない」
 大公は今度はだ。彼に対しての気遣いを見せたのだった。
「彼はそっとしておいてくれ。世に出すのは可哀想だ」
「わかっています。しかしです」
「あれを王にして私が摂政になればか」
「問題はないのですから」
「私が泥を被るのはいい」
 大公はそれはよしとした。大公とて覚悟がある。
 だがそれでもだとだ。大公は言うのだった。
「しかしそれでも。陛下もオットーも」
「傷つけるべきではありませんか」
「その為に最善の策だ。それはやはり」
「私はそれは退位だと思います」 
 ホルンシュタインも引かない。しかも一歩もだ。
 そのままだ。彼は大公に話すのだった。
「陛下の為にもなります」
「あの方にこれ以上か」
「はい、浪費による財政破綻」
 それが王に何をもたらすかというのだ。
「それはそのままあの方の名声を落とすのではありませんか」
「それはそうだが」
「大公もおわかりの筈です」
 ホルンシュタインは一歩も引かないまま述べる。
「これ以上の浪費は認められません」
「ではやはりか」
「はい、オットー様が王になられ」
 その心を病んでいる彼、そしてだった。
「大公殿下が摂政となられるのです」
「私が実質的にこの国の元首となるのか」
「大公にそうした御気持ちがないのはわかっています」
「私には野心はない」
 自分でそのことを言う大公だった。
「王家の者としての義務感はあるつもりだが」
「それでもですね」
「そうだ。私はそんなものは求めていない」
 どうしてもだった。大公には王の座を狙うという野心は起こらなかった。そのことを自分でもよくわかっていた。わかり過ぎる程に。
 

 

617部分:第三十五話 葬送行進曲その十六


第三十五話 葬送行進曲その十六

 それ故にだった。ホルンシュタインにどうしてもだというのだ。
「今のままで充分だった」
「だった、ですか」
「最早どうにもならないのか」
 大公は悲しい目になって述べた。
「あの方は。最早」
「何も陛下のお命や身辺に危険を及ぼす訳ではありませんが」
「当然だ。それだけは許されない」
「私とてそれはわかっています」
 このことは断固として言うホルニヒだった。
「それだけは許されません」
「そうだ。それならば私は断固として反対していた」
「しかしそれでもですね」
「私はそのことに賛成せざるを得ないのか」
「バイエルン、そして陛下のことを思われているのなら」
「それも陛下の御為か。いや」
 ふとだ。大公は目を伏せてだ。
 そのうえでだ。今こうしたことを言ったのだった。
「我々は何もわかっていないのではないのか」
「何もとは?」
「あの方を理解することは非常に難しい」
 そのことはわかっていた。しかしだったのだ。
「だからだ。我々が今話していることもだ」
「陛下の御為にはならないと」
「そしてバイエルンの為にもだ」
「ではこのまま財政破綻を迎えて宜しいのでしょうか」
「いや、それはあってはならない」
 決してだと話す。大公はそのことはわかっていた。
 しかし王、自分の甥のことを考えるとだ。どうしてもだったのだ。
 それでだ。こう言うのだった。
「だがそれは」
「迷っておられますか」
「間違っている様に思える」
 迷いではなかった。不安だった。
 その不安を見せてだ。大公は話すのだった。
「どうにもならないのか」
「決断の時かと」
「大公殿下、宜しいでしょうか」
 遂にだった。これまで沈黙を守っていたルッツが話す。
「バイエルンの為です」
「この国の為にか」
「お願いします。御決断を」
「陛下は退位だけだなのか」
 大公は最後の砦について尋ねた。
「そうなのだな」
「それは私が何があっても保障します」
「私もです」
 ホルンシュタインもルッツもだ。そのことはすぐに答えた。
「若し陛下に何かあってはそれは臣下としてあってはならないことです」
「私達はあくまで陛下のことを考えておられるのですから」
「そうだな。ではか」
 ここまで話してだった。大公は遂にだった。
 ホルンシュタインとルッツにだ。こう言ったのだった。
「私が摂政になりか」
「そしてオットーが王となる」
「その通りです。ではお願いします」
 こうしてだった。王にとってその最後の旅の手筈がミュンヘンでも整えられていっていた。王はそのことはだ。騎士から聞いていた。
 王は今はミュンヘンにいる。その宮廷の奥深くにだ。この日は王の望みを適える為にそこにいてだ。騎士の話を聞いているのだ。
 騎士は微笑みだ。王に話していた。
「全ては順調です」
「そうか。何もかもがか」
「陛下の為に整えられています」
「喜ぶべきことなのだな」
 そのことにだ。王は己のソファーに深く座ったうえで述べた。
 そしてだ。こうも言うのだった。
「私にとっては」
「はい、殆どの者が気付いていないでしょうが」
「私の旅がはじまるか」
「御心の準備は宜しいでしょうか」
「できている」
 それは既にだというのだ。
 

 

618部分:第三十五話 葬送行進曲その十七


第三十五話 葬送行進曲その十七

「充分だ」
「わかりました。では私は最後の最後に」
「迎えに来てくれるのだな」
「それまでも陛下の御前に来させてもらいますが」
「そして私を導いてくれるか」
「それが私の務めなので」
 それでだというのだ。
「陛下の御身辺のこともです」
「いざという時は護ってくれるか」
「はい。そうさせてもらいます」
「済まないな。何もかも」
「頼んだ。それではな」
「では今宵はですね」
「そうだ。私はこの日を待ち望んでいた」
 王のその顔が急に晴れやかなものになった。
 そしてその顔でだ。こう話すのだった。
「長い間な」
「しかしそれがですね」
「遂に果たされる」
 晴れやかな顔には微笑みさえあった。そうしてだ。
 その顔で騎士に語りつつだ。それを見るのだった。
「いいものだな」
「聖杯の城ですか」
「それが見えてきた。私が最後に辿り着くべき城に」
「ワーグナー氏は音楽でそれを築かれたのです」
「そして舞台としてもだな」
「陛下は今から陛下がやがて辿り着くべき場所を御覧になられます」
 騎士も厳かな口調で王に話す。
「御期待下さい」
「期待してやまない」
 王は素直にその感情を述べた。
「真に清らかな世界は森の中にこそあるのだな」
「そうですね。陛下が築かれた城達と同じ様に」
「私は森が好きだ」
「自然がですね」
「自然がありそれと城が一つになる」
 それこそがいいというのだ。王の美意識は自然と城が一つになったものなのだ。
 そしてそれに加えてだった。さらに。
「そして湖だな」
「水ですね」
「卿があの姫を救う為に渡った水だ」
「白鳥に曳かれて来たあの時ですね」
「私はその卿に魅せられて今がある」
 王は今度はパルジファルではなくローエングリンを見ていた。その世界は既に王の中ではすぐに現われる、そうしたものになっていた。
 それを見ながらだ。王は話すのだった。
「卿の姿をミュンヘンで観てからだ」
「でしたね。私もあの時に陛下に御会いしました」
「既に書では知っていた」
 読みそうして知ってはいた。だが、なのだ。
「そこでは会っていたがだ」
「しかし舞台として御会いするのはですね」
「あの時がはじめてだったからな」
「そこから全てがはじまったからな」
 そうしたことを話してだった。王はだ。
 ワインをまた飲む。美酒は自分で入れていた。そうしてなのだった。
「では。私の辿り着くべき世界を観よう」
「ワーグナー氏の最後の作品を」
「それも観よう」
 王は今からだった。ワーグナーのその最後の歌劇を観に向かった。ミュンヘンは今真夜中だった。王はこの日も夜に劇を観ようとする。
 深夜に静まり返っている歌劇場の中を進む。キャンドルに照らされた廊下には侍従達が並んでいる。その薄暗い廊下を進みだ。
 王は自分の後ろに続く侍従長にだ。こう話したのだった。
「ワーグナー夫人は来ておられますね」
「はい、宮廷に御呼びしました」
「そして御子息達も」
「御息女の方々も御呼びしました」
 彼女達もだというのだ。ワーグナーには娘もいたのだ。二人だ。
 

 

619部分:第三十五話 葬送行進曲その十八


第三十五話 葬送行進曲その十八

「それで宜しかったのですね」
「はい、あの方々がいてこそです」
 どうかというのだ。それでだ。
「ワーグナーの最後の作品は聴けます」
「左様ですか」
「確かに色々なことがありました」
 コジマとのこと、それがだった。
「ですがそれは今ではどうでもいいことです」
「どうでもいいのですか」
「はい、いいのです」
 こう言ってだった。王はワーグナーのその醜聞を打ち消したのだった。
 そしてだ。王はロイヤルボックスに入った。そうしてだ。
 王の後ろにだ。彼等が案内された。コジマと。
 そして彼女の娘達もいた。そしてだ。
 一人の少年がいた。王は自分の席から立ち上がり彼等に身体を向けてだ。その少年に対して微笑みこう言ったのだった。
「君がですね」
「はい、ジークフリートです」
 少年は一礼してから王に答えた。
「ジークフリート=ワーグナーです」
「話は聞いています。今は音楽の勉強をされていますね」
「そうしています」
「今から君は御父上の音楽を聴きます」
 そしてさらにだった。
「その舞台もです」
「陛下と共にですね」
「御父上の作品は既に何度も聴かれたと思います」
 ジークフリート牧歌もある。他ならぬ彼の為の音楽なのだ。
「ですがそれでもです」
「はい、陛下と共に聴くことはです」
「はじめてですね。そしてです」
「そして?」
「私はこの作品をはじめて観ます」
 パルジファル、その作品をだというのだ。
「私の為に。御父上が創ってくれた世界を」
「その世界をですか」
「そうです。私は今それを観てです」
 そうしてだというのだ。
「これから旅に入ります」
「旅に」
「そうさせてもらいます。では今から」
「はい、父のパルジファルをですね」
「私を描いてくれたその作品を観させてもらいます」
 こう話してなのだった。王はだ。王自身を観るのだった。
 神聖だが幻想的で何かが違う、まさに神を祝福する前奏曲からだ。森の世界がはじまる。その緑の中に少年達と老騎士グルネマンツがいる。
 そこに粗野な魔女クンドリーが来、やがて愚かな少年が来た。物語は静かにはじまり宗教画の如く進められていく。
 第一幕が終わる。パルジファルは聖杯城を追い出される。その時はだ。
 王は拍手をしなかった。その王に王の後ろに用意された席に座るコジマが尋ねた。
「拍手は為されないのですね」
「はい、その決まりですね」
「そうです。第一幕が終わった時点では」
「彼は、いえ私はまだ目覚めてはいません」
 パルジファルを己として語る王だった。
「ですからそれはまだです」
「おわかりでしたか」
「彼が目覚めてからです」
 王はこうコジマに話す。
「それからですね」
「そうなります」
「この作品は歌劇ですが歌劇ではありません」
 王は言った。
「そう、言うならば儀式ですね」
「そうした意味合いもあります」
「私は今私を観ています」
 またこう言う。そしてだった。
 コジマにだ。こうも話すのだった。
「私となる儀式を」
「陛下が陛下にですか」
「ワーグナーは最後に残してくれたのです」
 静かに幕を下ろした舞台を見つつ話す。その真紅の舞台を見ているのは今は王とコジマ達だけだ。やはり観客席は誰もいない。
 

 

620部分:第三十五話 葬送行進曲その十九


第三十五話 葬送行進曲その十九

 その暗く静まり返った席の中でだ。王はコジマに話すのだった。
「私の為に。この儀式を」
「マイスターがですか」
「そのことは御聞きになっていませんね」
「マイスターはよく仰っていました」
 王の今の言葉はコジマには理解できないものだった。だがそれでもだ。ワーグナーの言葉を思い出しこう王に話したのである。
「陛下はパルジファルだと」
「そうですね。パルジファルは私自身なのです」
「ではこの作品は」
「はい、私自身です」
 また王は言った。そうしてだ。
 そのうえでだった。その幕を見つつこんなことも話したのである。
「そうなのです。そして私が聖杯城に入る儀式なのです」
「そうしたものだと仰るのですか」
「その通りです。では」
「それではですか」
「この劇を楽しませてもらいます」
 王は微笑み続けながらこの言葉も出した。
「この儀式を」
「歌劇であって儀式である」
「マタイ受難曲がありますが」
 バッハの代表作だ。劇であるが宗教曲であるものだ。
「それとはまた違いです」
「歌劇と儀式を完全に一つにした」
「ワーグナーはそうしたのです」
 王は言った。そうしてだった。
 第二幕が開くのを待つ。幕が開くと。
 妖美な城が姿を現す。だがそこは王のいる場所ではない。王はそのことは観ていてわかった。
「美はありますが空虚ですね」
「今の城はですね」
「はい、空虚です」
そこにまたパルジファルが現われる、王がだ。そして花の乙女達に囲まれる。だがそれもまただった。王にとってはどうだったかというと。
「これもまたですね」
「空虚ですか」
「彼女達は虚構です」
 それに過ぎないというのだ。
「何でもありません」
「よくおわかりですね」
「パルジファルは乙女達には惑わされません」
「では何に惹かれるのでしょう」
「真実です」
 それこそがだというのだ。
「真実にこそです。彼は」
「そして陛下は」
「そうです。それが間も無く現れます」
 王は既に知っていた。そのことを。
「クンドリーが」
「そして接吻がですね」
「出会いです」
 また自分自身のことを話すのだった。
「その出会いが待っています」
「接吻がまさにですか」
「そうなのです。クンドリーが与える接吻が」
 しかしだった。ここでなのだった。
 王はこんなことをだ。ふと漏らしたのである。
「ですが私は女性は」
「接吻もですか」
「女性的なものによる救済。それは接吻ではなく」
 では何だったかというのだ。
「出会いだったのですから」
「出会い、ですか」
「ローエングリンと出会えたこと、そのことが」
 まさにだ。それこそが王にとっての出会いだった。
 その出会いを思い出しつつだ。王は儀式を観ていっていた。
 儀式は進み遂にクンドリー、妖美な服に身を包んだ彼女が現れる。その姿はさながら。
 

 

621部分:第三十五話 葬送行進曲その二十


第三十五話 葬送行進曲その二十

「ヴェーヌスですね」
「そうです。マイスターはまた仰っていました」
「クンドリーは実は」
「ヴェーヌスでありエリザベートであると」
 タンホイザーの二人のヒロインだ。愛欲の女神と清純な乙女、その二人がだというのだ。
「クンドリーはそれだと仰っていました」
「その通りです。クンドリーは二つの存在が一つになったものです」
「不思議な存在ですね」
「はい、非常に」
 まさにそうだというのだ。
「マイスターも御自身でよく仰っていました」
「クンドリーのその不思議さを」
「そして。今こうしてですね」
「私の前に現れました」
 そのクンドリーが接吻をするとだ。パルジファルは。
 目覚めた。そしてなのだった。 
 何もかもが見える様になった。口調も変わり歌うのだった。その彼を見てだ。
 王はだ。静かに言ったのである。
「全てのはじまりです」
「今こそが」
「私はこの時からはじまったのです」
「出会いからですか」
「はい、クンドリーではなくローエングリンでしたが」
 この話はコジマにもわかった。だが深くはなかった。
 しかし王はそのコジマに対してだ。こう話すのだった。
「私は全てを知り、そしてはじめたのです」
「そのうえで今に至るのですね」
「まだ聖杯城には辿り着いていません」
 それが今の王でありパルジファルだというのだ。その王の前でだ。
 パルジファルは虚構の城を崩した。投げられた槍をその手に掴んで。
 槍はロンギヌスの槍だ。その槍を振ったのだ。
 それによって虚構の世界が崩れる。それが終わってからだ。
 パルジファルはクンドリーに対して宣言するのだった。
「何処に行けば私に会えるかわかっていよう!」
 この言葉を告げて世界を去る。そこで幕が降りる。ここでだった。王ははじめて拍手をした。
 一人だけの拍手だがそれは確かに劇場に鳴り響いた。それを自分でも聴きながらだ。王は言うのだった。
「ここで、ですね」
「そうです。はじめて拍手をするものです」
「今私は目覚めました」
 ここでも王自身として話すのだった。
「だからこそです」
「御自身への拍手ですね」
「ワーグナーはどう言っていたでしょうか」
「はい、マイスターもです」
 コジマはそのワーグナーのことも話す。他ならぬ彼のことをだ。
「陛下こそがパルジファルと仰っていましたから」
「だからこそそうなりますね。ただ」
「ただ、とは?」
「私は個人崇拝の類には興味がありません」
 それはないというのだ。
「確かに王ですがそれでもです」
「個人崇拝よりもですね」
「はい、私自身を観ているのです」
 パルジファルは崇拝されるものだが王はそれを望んでいないというのだ。
「パルジファルは聖人ではないのです」
「では何なのでしょうか」
「王です」
 それだというのだ。
「城の王なのです」
「モンサルヴァートのですね」
「はい、ですから崇拝される聖人ではありません」
「聖杯やロンギヌスの槍を持っていてもですね」
「むしろそちらが崇拝されるべきなのです」
 そういった聖遺物こそがだというのだ。
 

 

622部分:第三十五話 葬送行進曲その二十一


第三十五話 葬送行進曲その二十一

「そうあるべきなのです」
「では陛下は」
「私はそれに仕える身です」
「聖遺物にですか」
「ただそれだけです。城の王として」
 だからこそだ。崇拝は望まないというのだ。
 それよりもだった。王が求めていることは。
「ですが城の騎士達は理解者であるのです」
「陛下、そしてパルジファルの」
「私はその彼等の世界に入ります」
 それがだとだ。王は話すのだった。
「私が入るべきその世界に」
「それがはじまったのがですか」
「この第二幕でした」
「目覚められたことへの拍手でしたか」
「そうでした。そして」
 幕を観つつ。王はまた話した。
「第三幕ではですね」
「いよいよです。私があの城に辿り着きます」
 モンサルヴァート、その城にだというのだ。
「いよいよです」
「ではその第三幕を今から」
「観させてもらいます」
 こう言ってなのだった。王はだ。
 その第三幕を観る。そこではだ。
 パルジファルは城に辿り着き清められてだ。そうしてだった。 
 城の中で儀式を行いだ。傷ついていた聖杯城の主アムフォルタスを救う。それからだ。
 彼は聖杯城の主になり聖杯を城の中心に置く。クンドリーはそれを見届け安らかな眠りに入る。厳かな儀式の中でだ。幕は降りたのである。
 全てを観てだ。王は。
 再び拍手をしてだ。それから言うのだった。
「見事でした」
「素晴らしい劇でしたか」
「はい、ワーグナーの全てを見せてもらいました」
 こう言ったのである。
「そして聖杯城も」
「その城がですね」
「私が入るべき世界」
「この世にはない城にですね」
「それを見せてもらいました」
 満足した顔で言う王だった。そのうえでだ。
 コジマに顔を向けてだ。それで言ったことは。
「全ては終わりました」
「終わったとは」
「私が見たかったものを全て見終わりました」
 そうだったというのだ。その満足している顔でだ。
「ワーグナーも。芸術も」
「では後は」
「はい、もう見たいものはありません」
 何もかも見たというのだ。彼が見たかったものを。
 そうしてだった。王はまた話した。
「そしてミュンヘンにいる理由もなくなりました」
「陛下、それでは」
「私はミュンヘンには戻りません」
 既にだ。王の城はノイシュヴァンシュタインになっていた。ミュンヘンは王の城ではなくなっていた。そうしてだというのである。
「あの城達で過ごします」
「左様ですか」
「この世を後にするまで」
 死をだ。王は口にした。
「それまでは」
「ですが陛下は」
「王であるというのですね」
「その為に為されるべきことが」
「それも全て終わっているのです」
 コジマにだ。悲しい顔で話すのだった。
「あらゆることが」
「ではやはり」
「これが最後でした」
 微笑になる。だがその微笑はあまりに寂しいものだった。
 

 

623部分:第三十五話 葬送行進曲その二十二


第三十五話 葬送行進曲その二十二

「私が旅に出るまでにすべきことは」
「パルジファルを観ることが」
「それが遂に終わりました。ワーグナーは私に全てを見せてくれました」
 そのことに感謝しつつだった。
「では最早です」
「アルプスに戻られてですか」
「旅に向かいます。ではフラウ」
 コジマをそう呼び。そのうえで告げる言葉はこれだった。
「バイロイトをお願いします」
「マイスターの世界をですね」
「ワーグナーの世界を御護り下さい。そう」
 コジマにだ。言った言葉は。
「女性的なものにより」
「それがマイスターの世界の中心だからですね」
「女性的なものによる救済は護られなければなりません」
 王の考えだった。ワーグナーに対する。
「その為にも」
「ですがバイロイトは」
 バイエルンにある。それならばというコジマだった。
「陛下のお国ですが」
「そうですね。しかしです」
「しかしですか」
「バイロイトの芸術には巫女も必要なのです」
 宗教的なものはそこにあるというのだ。ワーグナーの芸術には。
 そしてその巫女は誰なのか。王は今言うのであった。
「それこそがです」
「私なのですか」
「だからこそです。バイロイトを御護り下さい」
「わかりました。それでは」
「バイロイトはお任せします」
 まるで遺言の様に。王はコジマに告げた。
「それではです」
「陛下はアルプスにですか」
「帰ります。そしてそこから」
 ここでもだった。遠くを見る目になりそのうえでだ。王は話すのだった。
「旅に出ます。あの城に赴く旅を」
 カーテンコールは今は目に入っていなかった。王は王が辿り着くその世界を見てだ。そのうえで舞台の余韻も感じていた。この世に戻る前に。


第三十五話   完


                2011・11・28
 

 

624部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその一


第三十六話 大きな薪を積み上げその一

             第三十六話  大きな薪を積み上げ
 遂にだ。時が迫ろうとしていた。
 ウィーンの宮殿、シェーンブルンにおいてその話を聞いた皇后はだ。黄金がちりばめられたその中においてだ。すぐにその整った顔を強張らせた。
 そしてだ。こう周囲に言うのだった。
「旅に出ます」
「今度は何処でしょうか」
「何処に赴かれるのでしょうか」
「バイエルンです」
 そこだとだ。周囲に答えたのである。
「そこに向かいます。ですが」
「ですが?」
「ですがといいますと」
「このことは内密です」
 公にはしないというのだ。今回の旅は。
 そしてだ。皇后はさらに言った。
「公にはザクセンかハンガリーに行ったとでもお話下さい」
「何故公にされないのでしょうか」
 何も知らない、皇后から少し離れた位置にいる従者が皇后に問うた。
「それはどうしてでしょうか」
「言えません。ですが皇帝陛下にもお話下さい」
 やましいことはない、だからこそ言えることだった。
「鷲を救いに向かいます」
「鷲?」
「鷲といいますと」
「皇帝陛下はこれでおわかりになって頂けます」
 夫であるオーストリア皇帝、フランツ=ヨーゼフ帝はだ。そうだというのだ。
「ですからその様に」
「わかりました。では今すぐにですか」
「そうです。今すぐにです」
 また言う皇后だった。そしてだ。
 前に出ようとするところでだ。ふと足を止めてだ。
 周囲にだ。こうも言ったのである。
「ただ。ベルリンのビスマルク卿ですが」
「?ビスマルク卿ですか」
「あの方が何か」
「あの方にもお伝え下さい」
 次の言葉はこうしたものだった。
「バイエルンでは。お互いに鷲を救いましょうと」
「あのビスマルク卿ですか」
「その様にですか」
 今はドイツとオーストリアは友好的な関係にある。だがそれでも前の戦争の遺恨はある。だから周囲も皇后の今の言葉には理解が及ばなかった。
 しかし皇后はだ。まだ言うのだった。
「そうです。あの方にもそれだけをお伝え下さい」
「鷲を救う、ですか」
「それだけを」
「ではお願いします」
 ビスマルクのことも話してだ。皇后は足早に宮廷を去り旅道具が揃うとすぐに馬車に乗りだ。ウィーンを後にしたのだった。その行く先はカモフラージュをして。
 そして皇后の話を受けたビスマルクもだ。すぐにだった。
 側近達にだ。強張った顔で話した。
「ではだ」
「何をされるのですか、一体」
「鷲を救うと来ていますが」
「その通りだ。私は清らかな鷲をお救いするのだ」
 彼もまた言うのだった。
「そうする。だからすぐにバイエルンに人を送れ」
「軍の者に官僚をですね」
「とりわけ俊敏な者達を」
「そうだ。そしてオーストリア皇后と必要とあらば協力してだ」
 そしてだというのだ。
「あの方をお救いするのだ」
「あの方といいますと」
「まさかとは思いますが」
「今は言わない。このことは内密にだ」
 公にはしないというのだ。彼もまただ。
「わかったな。それではだ」
「はい、わかりました」
「それでは」
 こうしてだった。ベルリンでも動きがあった。その中でだ。
 ビスマルクはバイエルン政府にだ。あることを伝えた。それを受けてだ。
 宰相のルッツは困惑した顔になりだ。閣僚達や宮廷の要人達にだ。こう言うのだった。
 

 

625部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二


第三十六話 大きな薪を積み上げその二

「まずい、ビスマルク卿は疑念を抱いておられる」
「我々の発表についてですか」
「陛下に関する」
「陛下の奇行にだ」
 ルッツが言う奇行とは王が狂気に陥っているという証拠だった。それはまさに精神分裂症、異常性愛者のそれであった。だがその全てについてだ。ビスマルクは疑念を示してきたのだ。
 そのことについてだ。ルッツは言うのだった。
「確かに事実ではない」
「はい、全て流言蜚語、いえ捏造です」
「全ては偽りのことです」
 誰もがそれは承知していた。王の奇行というものは全て偽りであるとだ。
 では何が真実なのか。それは何かというと。104
「陛下はアルプスに篭もられています」
「そして誰とも御会いになられません」
「そのうえで新たな築城を命じられています」
「それだけです」
「そしてその築城についてだ」
 どうかというのだ。ビスマルクは。
「ミュンヘンでは問題になっているな」
「財政的な負担が深刻です」
「あのままではバイエルンの財政がもちません」
「ならドイツが助けるだけだがな」
 ビスマルクにとってはその程度のことだった。
 だがミュンヘンではどうなのか。それについても言うビスマルクだった。
「だがそれはバイエルンには受けられないものだな」
「ドイツに入ってもそれはだと」
「そう考えていますね」
「矛盾だな」
 その考えはそういったものだと言うのだった。
「バイエルンの宰相であるルッツ卿も宮廷の要人であるホルンシュタイン卿もドイツ帝国ができる時にはあの方を利用してまで我々についたのだがな」
「その頃あの方は我々には明らかに反対の立場でしたね」
「ドイツ帝国建国の折は」
「それは当然だ。あの方はバイエルン王だ」
 それならばだった。バイエルン王ならばだ。
「プロイセン主導の建国を歓迎される筈がなかった」
「それが今も尾を引いてですが」
「あの様になられてもいますね」
「ドイツにとって必要なことだったがな」
 ビスマルクはそれは譲らなかった。しかしだった。
「だがあの方の築かれているものは素晴らしい」
「ですがそれは今はです」
「バイエルンを圧迫していますから」
「それで彼等はあの方を退位させようとしている」
 そのだ。かつてはプロイセンについた彼等がだ。
「私の考えとは別にな」
「それは何故でしょうか」
「今回は我がプロイセン、いえドイツとは違う考えなのは」
「親プロイセン派である筈なのに」
「彼等はバイエルン人だからだ」
 それでだとだ。ビスマルクは看破した。
「その為だ」
「バイエルン人だからですか」
「それが為に」
「彼等は彼等なりにバイエルンのことを考えているのだ」
 ビスマルクは言った。彼等はそうだとだ。
「そういうことだ」
「そうですか。だからこそ今はバイエルンの為にですか」
「あの方を退位させますか」
「そう考えているのだ。だがだ」
 ビスマルクは冷静にだ。今述べた。
「私はあの方の退位には反対する」
「だからこそあの御護りする」
「お救いするのですね」
「その通りだ。そうする」
 彼は言った。己のその考えを。
 

 

626部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその三


第三十六話 大きな薪を積み上げその三

「だからこそバイエルンに人を送る。そしてだ」
「そして?」
「そしてだといいますと」
「あの方にお伝えしてくれ。あの方はそうはされないと思うが」
 だがそれでもだというのだった。
「だが、だ」
「何をされるのですか、一体」
「どうされるのですか?」
「助言させてもらおう。ミュンヘンに赴かれ」
 そうしてどうするかというのである。
「臣民と軍にお姿を見せるべきだと」
「そうすれば解決する」
「だからこそですか」
「それで済むことなのだ。本来はだ」
 しかしそれはだった。王にとっては。
「あの方には到底できないことなのだがな」
「あの方の人間嫌い故」
「それ故にですか」
「あの方にとって最早ミュンヘンは都ではないのだ」
 王の国のだ。それではないというのだ。
「おぞましい醜悪な町になり果てているのだ」
「だからこそそれはできない」
「どうしてもですか」
「それが問題なのですね」
「あの方をミュンヘンに案内できてもお連れすることはできない」
 それはどうしてもだった。
「だからこそだ」
「その最も簡単な解決策はできない」
「そうなりますか」
「その通りだ。できないのだ」
 残念な顔でだ。ビスマルクは述べた。
「だからこそだ。バイエルンに人を送ろう」
「わかりました。それではです」
「そのうえであの方をお助けしましょう」
「さもなければドイツは素晴らしい財産を失う」
 王をこう言ってなのだった。
「そして私はやはり」
「閣下御自身もですか」
「あの方を」
「敬愛している。心からな」
 立場は確かに違う。しかしそれでもその感情は健在だった。
 そうしてだった。その想いのままだ。ビスマルクも王を救おうとしていた。
 ミュンヘンではいよいよだ。王の退位のことが現実のものになろうとしていた。
 宮廷ではだ。ホルンシュタインが要人達に述べていた。
 その隣には白い髭に覆われた顔に丸眼鏡の老人がいた。気難しい顔をしていて髪の毛はほぼ残っていない。白衣が実に目立つ。
 その彼を手で指し示してだ。彼は言うのである。
「こちらの方がです」
「ドクトル=グッデン氏ですか」
「精神医学の権威である」
「そうです。オットー様の主治医でもあられます」
 その彼を紹介するのだった。
「そして陛下の診察もして頂けます」
「ではその方に陛下を診察してもらい」
「そのうえで」
「はい、陛下のお心のことがはっきりします」
 そう理由を作るというのだ。
「そうしますので」
「お話は聞いています」
 その医師グッデンもだ。重い声で言ってきた。
「バイエルンはこのままではですね」
「そうです。財政が破綻してです」
「どうなるかわかりません」
「私は医師です」
 こう前置きしてだ。彼は言うのだった。
 

 

627部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその四


第三十六話 大きな薪を積み上げその四

「ですから偽りの診断をすることは気が進みませんが」
「ですがそれでもです」
「このままでは」
「わかっています」
 グッデンは溜息と共に会議の参加者達の切実な言葉に応えた。
「私もまたバイエルンの者ですから」
「だからお願いです。是非です」
「ここはバイエルンの為に」
「偽りの診断を公表する」
 また溜息と共に言うグッデンだった。
「そうさせてもらいます」
「それでなのですが」
 ルッツは憂慮する顔でグッデンに尋ねる。その尋ねることは。
「オットー様はどうなのでしょうか」
「相変わらずです」
 グッデンは悲しい顔で首を横に振って答えた。
「とても外には」
「そうなのですか」
「あの方を王にされることは進められません」
 医師としてだ。こう言ったのである。
「ですがそれでもですね」
「はい、そうです」
「今のままではバイエルンは」
「私は正直に言わせてもらいます」
 医師としての良心からだ。グッデンはまた言うのだった。
「陛下は。直接御会いしていませんが」
「狂気には陥ってはおられない」
「そうだというのですね」
「はい、あの方は正常です」
 こう言いきったのである。
「確かに多少鬱だと思いますが」
「それは心の病ではないのですか?」
 ホルンシュタインは身を乗り出してグッデンに問うた。
「鬱というのか」
「そうかも知れませんが王位に支障はありません」 
 それはないというのだ。
「決してです」
「ではそれは理由にはなりませんか」
「とてもです。ただ」
 ここでだ。グッデンは目を伏せて言うのだった。
「あの方は何かを求めておられるのでしょうか」
「何か?」
「何かとは」
「子供がおもちゃを、いえ女性が恋人を求める様な」
 ロマンを。彼はふと感じたのである。
「そうしたものでしょうか」
「ではそのロマンでバイエルンが傾いている」
「そうなるのでしょうか」
「私の専門は医学です」
 グッデンは難しい顔で話す。
「そうしたことは詳しくはないので」
「はっきりとは言えませんか」
「左様ですか」
「申し訳ありませんが。しかしです」
 グッデンは一旦顔をあげた。そして言うのだった。
「私は陛下に関する全ての話は事実無根であり陛下は正常であると確信しています。しかしそれを認めればバイエルンは傾くままです」
「では是非共」
「お願いします」
「わかりました。バイエルンの為の診察をします」
 患者を診ない、その診察をだというのだ。
「ではこれよりはじめます」
「ただ。お断りしておきますが」
 ルッツも誰もがだ。このことは真剣に述べた。
「我々は陛下に悪意はありません」
「退位は考えていますがお身体を害することはあってはなりません」
「そのことはご理解下さい」
「わかっています」
 それはグッデンも承知していた。しかしだった。
 

 

628部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその五


第三十六話 大きな薪を積み上げその五

「ただ。お身柄を保護する為には」
「ご無礼があっても」
「多少のことはあっても」
「それは仕方ないかも知れません。陛下はご長身でしかもお力もありますから」
 王の長身がここでは考慮されるものになった。
「御薬を使うこともあるでしょうし」
「クロロフォルムですか」
「あれが一番です」
 王を。彼等から見れば保護するにはだというのだ。
「とにかく。陛下に害することはあってはなりませんね」
「はい、それはまことに」
「それだけは」
 彼等は少なくとも王を害するつもりはなかった。だがそれでもだ。彼等は王をその玉座から退かせることを決定したのだ。バイエルンの為に。
 会議の決定をホルンシュタインから聞いてだ。大公は。
 項垂れた顔でだ。こう彼に言ったのである。
「ではいよいよだな」
「はい、陛下の御前に向かいです」
「あの方に退いてもらうか」
「既に大公殿下の摂政就任の発表の準備もできています」
「全ては順調だな」
「ではお願いします」
 大公のまだ躊躇が見られる顔を見てだ。ホルンシュタインは決断を促した。
「その様に」
「わかった。ただ、だ」
「ただといいますと」
「私は一つ考えていることがある」
「それは何でしょうか」
「あの城達だ」
 王が築いているだ。その城達のことを話すのだった。
「陛下はあの城、ノイシュバンシュタインをお亡くなりになられたら消す様に仰っているな」
「はい、その通りです」
「あの城、いやどの城も残すべきだ」
 そうするべきとだ。大公は言うのだった。
「そして誰からも観てもらうようにしたい」
「それが殿下のお考えですか」
「いいと思うか」
「あれだけの巨費を投じてのものを消すのは無駄の極みです」
 ホルンシュタインの現実の利益の観点から話した。
「それはいいことです」
「そうか。それではな」
「しかし。何故そう主張されるのです?」
 大公の考えに賛成はしたがだ。ホルンシュタインは怪訝な顔で大公にその理由を問うた。
「城達を残されるべきとは」
「思うところがあってな」
 それでだと答える大公だった。
「それでだ」
「何かわかりませんがそれならいいと思います」
 やはり下世話な言葉では損得勘定から頷くホルンシュタインだった。
「何はともあれです。私はこれからグッデン氏と共にです」
「陛下の御前に向かうか」
「はい、そうさせてもらいます」
 こう言うのだった。
「そして陛下を」
「一年と一日だな」
「それだけの間です」
 期限がだ。語られた。
「それだけの間、陛下には我慢して頂きます」
「わかった。しかし問題はだ」
「ベルリンですか」
「ビスマルク卿は陛下にベルリンの議会に援助を要請されるよう助言されているが」
「それは知っています」
 ホルンシュタインも知っていた。そのことはだ。
 それでだ。彼は今はこう言うのだった。
 

 

629部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその六


第三十六話 大きな薪を積み上げその六

「ビスマルク卿は我々の公表を信じておられませんね」
「それは間違いないか」
「あの方は非常に鋭い方です」
 洞察力は衰えていない。むしろさらに鋭く強くなっている。
 それ故にだ。バイエルンでのことを既にわかっているというのだ。
 そのことに対してはだ。ホルンシュタインも危惧する顔で言うのだった。
「長引けば我々にとってよくありません」
「その通りだ。ビスマルク卿が介入されるぞ」
「あの方は陛下に対して好意的です」
 それは唯一の会談から変わってはいなかった。王はビスマルクについては不満を漏らすこともあったがビスマルクの王への好意は変わっていない。
 そのことを知っているからだ。ホルンシュタインは大公にこう話したのだ。
「ですから今からです」
「ノイシュバンシュタインに向かいだな」
「陛下を保護させて頂きます」
 そうするというのである。
「そしてです。殿下は」
「このミュンヘンでだな」
「摂政に就かれて下さい」
 そうして欲しいとだ。大公に頼んだのである。流石に王族でありその中でも高位にある大公には要請なぞできはしなかった。
 それでだ。こう大公に頼んだのだ。そして大公もだ。
 難しい顔であるがホルンシュタインの言葉を受けた。そのうえで言うのだった。
「わかった。しかしだ」
「やはり今もですか」
「私は気が進まない」
 浮かない顔での言葉だった。
「どうしてもだ」
「ですがお願いします」
「バイエルンの為にだな」
「そうです。その為に」
「王もまた国家の機関の一つ」
 大公はまた啓蒙思想からの考えをだ。述べたのだった。
「それ故にだな」
「はい、問題があれば退位して頂くのです」
「その通りだな。だが陛下の御心は」
「王は国家元首ですので。時としてその御心もです」
「省みられることはない」
「そう言われているではありませんか?」
 ホルンシュタインは王権神授説ではなくだ。国王機関説を述べていく。
「今は太陽王の時代ではないのですから」
「その通りだ。最早ルイ十四世はこの世にはない」
 そのだ。王が敬愛するフランス王の時代ではないというのだ。
「では、か」
「はい。殿下もまた然りです」
「私はそのことにはやぶさめではない」
 国家の為に尽くすこと、それはだというのだ。
「だが。陛下は」
「ですから。御心は国王は時に」
 抑えなければならないとだ。ホルンシュタインの主張は変わらない。
「そうするしかないのですから」
「仕方ないか。それではだ」
「はい、今から行って参ります」
 こうしてだ。ホルンシュタインは主だった者達と共に王が今いると調査によりわかったノイシュバンシュタイン城に向かった。しかしだ。
 深夜に城に向かう途中でだ。馬車の中からだ。
 馬に乗り急いで何処かに向かう者達を見た。その彼等を見てだ。
 馬車の中にいる一行は怪訝な顔になり話した。
「何だ、一体」
「こんな深夜にあれだけの者が何処に行くのだ」
「この辺りで祭りでもあるのか?」
「何があるのだ」
「これは」
 しかしだ。ホルンシュタインはだ。
 その彼等を夜の中に見てだ。こう呟いたのだった。
「容易にはいかないのだろうか」
 ふと顔が歪む。その少し前にだ。
 これからいつもの様に深夜の遠乗りに出掛けようとする王にだ。従者の一人であるオスターホルツァーが駆け込んで来たのである。
「陛下、大変です!」
「どうしたのですか?」 
 王はその彼にだ。怪訝な顔で問うた。
「これから遠乗りなのですが」
「大変です、ミュンヘンから何人か来ます」
「ミュンヘンからか」
 その都市の名を聞いてだ。王はだ。
 

 

630部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその七


第三十六話 大きな薪を積み上げその七

 すぐに察した。そうしてこうオスターホルツァーに問い返したのである。
「ではヘッセルヴェルトは」
 王の今現在の側近の一人、彼のことを問うたのだ。
「何処にいますか?」
「下でミュンヘンから来た者達と話しています」
「そうですか」
 それを聞いても動じなかった。今の王は。
 そうしてだ。冷静にだった。オスターホルツァーや周囲に残っている者達に告げるのだった。
「衛兵を呼びなさい。そして」
「はい、さらにですね」
「地元の警察や消防団にも連絡を」
「わかりました」
 周囲も応える。こうして慌しく迎撃の用意が為される。
 その中でだ。従者の一人が王に進言した。
「陛下、デュルクハイム大佐にも電報を」
「彼ですね」
「はい、あの方なら」
「わかっています。ただ」
「ただ?」
「はじまったのですね」
 不意にだ。寂しい顔になり言う王だった。
「遂に。旅が」
「旅とは?」
「いえ、何でもありません」
 従者の怪訝な問いには答えない王だった。
 そしてだ。あらためてだった。周囲にこう言うのであった。
「では、です」
「はい、これからですね」
「城を固めます。彼等を入れてはなりません」
「そうします。すぐに」
 こうしてだった。城の警護が固められる。外を中心として。その城にだ。
 ホルンシュタイン達が来た。彼等はそのまま城の正門に迫る。その途中でだ。
 一人がだ。こうホルンシュタインに尋ねた。
「やはり衛兵達がいるでしょうね」
「そうですね。ですが」
「ですが?」
「他にも来ているかも知れません」
 正門の前を見ればだ。多くの者達がいた。その彼等を見てだ。
 一行はだ。怪訝な顔になりそれぞれ囁き合った。
「あれは一体?」
「衛兵にしては多いな」
「あの城にあそこまでの衛兵がいたのか」
「従者達を入れてもまだ多いが」
 彼等は正門の前に見られる人影の数の多さに奇妙なものを感じた。そしてそこに来るとだ。
 それぞれの手に鍬や鎌、斧等を持った農民や樵達がいた。民衆だった。
 彼等が正門のところに集りだ。そうして衛兵達と共に警護を固めていたのだ。それを見てだ。
 一行はだ。慌てふためきそれぞれ言うのだった。
「何っ、民達がか」
「陛下の前に集っているのか」
「まさか」
「いえ、考えられたことです」
 ホルンシュタインは苦い顔になり一行に述べた。
「これもまたです」
「民衆が陛下の御前に集う」
「そのことが」
「そうです。陛下は築城にあたって彼等を雇いましたが」
 当然その築城の人手としてである。その為にだ。
 そしてそれにあたってだ。王が何をしたかというとだ。
「その際彼等に多くの金を使っていますから」
「それによってか」
「彼等は今こうして陛下に従っているのか」
「それが為に」
「それだけではありませんね」
 ホルンシュタインの読みは続く。さらにだった。
「あの方の。生来持たれているカリスマもありますから」
「だからですか」
「この様にして」
「そうです。陛下の御力を甘く見ていた様です」
 ホルンシュタインも王のことはわかっていた。だが彼の予想を超えていたのだ。
 だがそれでもだ。彼等にしてもだ。
 退く訳にはいかずだ。正門の衛兵や民衆の中にいる将校にだ。こう言ったのである。
「通してはくれないか」
「いけません」
 将校も王に忠誠を誓っている者だ。だからだった。
 頑としてだ。こうホルンシュタイン達に言ったのである。
 

 

631部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその八


第三十六話 大きな薪を積み上げその八

「陛下から通すなと言われています」
「いや、それは聞けない」
「既に閣議で決まっているのだ」
 議会ではなかった。それは彼等も言えなかった。何しろ議会では決定していない、それはとてもできないことであったからだ。
 それでだ。彼等は閣議決定を出した。そして公文書もだ。
 首相のルッツのサインがあるそれを彼等に見せてだ。こう言ったのである。
「これを見るのだ」
「むっ、それは」
「首相の?」
「そうだ。陛下は退位されることが決まった」
 その公文書も楯にして言うのである。
「だからだ。君達は解散するのだ」
「そんなことできるか!」
「そうだ、陛下が仰ってるんだ!」
「絶対に駄目だ!」
「閣議が何だ!」
 民衆は閣議よりも王、国家元首に忠実だった。それでだ。
 一斉に、素直に言いだ。ホルンシュタイン達に対する。
 そしてだ。将校が言ったのだった。
「どうしても陛下を拘束されるというのですか」
「拘束ではありません」
 グッデンが出て来てだ。将校に述べる。
「陛下はかなり重度の精神病、パラノイヤですから」
「嘘ですね」
 将校はグッデンのその診察をすぐに否定した。
「陛下はご正気です。誰がどう見てもです」
「そうだ、王様が狂っておられるだと!」
「そんなことがあるか!」
「ある筈がないだろ!」
 民衆達もだ。グッデンのその診察に一斉に異を唱える。
 それでだ。彼等はだ。
 その得物を構えてだ。ホルンシュタインを取り囲む。その中でだ。
 彼等が手にしているものに気付いた。それは。
「縄!?」
「それに薬もあるぞ」
「まさかそれで陛下を」
「捕まえるつもりなのか」
「い、いやそれは」
「これはその」
 ホルンシュタイン達もそのことにはだ。返答に窮した。そうしてだ。
 彼等を囲む衛兵や民衆達に向かおうとする。しかしだった。
 数が違った。それでだった。
「まずいですぞ、ここは」
「一旦下がりますか?」
「これだけの数がいてはどうしようもない」
「今のうちに」
 多くの者が一時撤退を決めようとする。ホルンシュタインもだ。
 グッデンにだ。こう囁いた。
「ドクトル、今はです」
「分が悪いですね」
「あともう少しです」
 時間の話も入れての言葉だった。
「ですから今は」
「下がるべきだと」
「そうです。これでは仕方ありません」
 こうグッデンに囁くのである。
「今は」
「そうですね。それでは」
 彼等はそのまま下がろうとする。しかしだった。
 正門が開きだ。そこからだ。
 新たに衛兵達が来た。そこにはまた別の将校がいた。その彼がだ。
 一枚の書類を出してだ。そしてホルンシュタイン達に言うのだった。
「陛下からの御命令です」
「陛下からの」
「貴方達を謀反人として捕らえよと」
 これが王の命令だというのだ。
「そう命じられました」
「謀反人だと」
「はい、そうです」
 その将校は彼等に告げる。
 

 

632部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその九


第三十六話 大きな薪を積み上げその九

「では。宜しいですね」
「まずいですぞ、これは」
 グッデンがホルンシュタインに囁く。
「このままでは陛下の保護どころか」
「ええ、我々がですね」
「伯爵、どうされますか」
 ホルンシュタインの爵位を出して問う。
「ここは」
「このままでは完全に取り囲まれてしまいます」
 そうなればどうなるか。それは自明の理だった。
「ですからここはです」
「一時にしてもですね」
「退きましょう」
 三十六計逃げるに、だった。
「そうするしかありません」
「そうしてあらためてですね」
「朝まで我慢すればいいのです」
 危機にあるがそれでもだ。時間は彼等の味方だというのだ。
「ですから一旦はです」
「はい、それでは」
 こうしてだ。彼等はまだ空いていた後ろから慌てて逃げ出し馬車に乗り込みだ。城の正門の前を後にした。そうして一旦村に戻った。城の麓の村だ。
 だがそこでもだ。村人に軍の者達、王に忠誠を誓う者達がいてだ。彼等を囲みだ。
「陛下からの勅命です」
「何っ、もうか」
「もうここに手配を」
「貴方達を謀反人として捕らえよとのことです」
 こうだ。将校が彼等に王の令状を見せて告げる。
「何故こんなに早く村に」
「まさか我等が正門にいる時に既に手を回されていたのか」
「陛下がそうされたのか」
「どうやらその様ですね」
 同志達にだ。ホルンシュタインは苦い顔で述べた。
「流石ですね。聡明さは衰えてはいません」
「しかしこれでは我々は」
「捕らえられます」
「ここはどうすれば」
「仕方ありませんな」
 苦い顔だがそれでも何処かに余裕を見せてだ。言ったホルンシュタインだった。
 そしてだ。仲間達にこう告げたのである。
「ここはです」
「撤退ですか、さらに」
「ミュンヘンまで」
「いえ、完全に囲まれています」 
 見ればそうなっていた。彼等は完全に包囲さている。軍人達も村人達も皆それぞれ武器を手にしている。それではとてもだった。
 逃げられない。ホルンシュタインはそう判断して言うのだった。
「ここは大人しくしましょう」
「捕まるというのですか」
「そうすると」
「はい、そうしましょう」
 これがホルンシュタインの言葉だった。
「そうするしかありません」
「ですがそれでは」
「我々は」
「いえ、朝までですから」
 彼等にもこう言うホルンシュタインだった。
「朝までの我慢ですよ」
「朝までとは」
「まさか」
「はい、そのまさかです」
 苦しい中にも余裕を見せたままだ。ホルンシュタインは話す。
「ここはです」
「その御言葉、信じさせてもらいます」
「では」
 彼等も逃げられないことはわかった。それではだった。
 下手に歯向かうことを止めた。そうしてだ。
 彼等は捕らえられ村の宿の一室に集めて監禁された。その報はすぐに王の下にも届けられた。
 将校がだ。明るい声で王に告げる。
 

 

633部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十


第三十六話 大きな薪を積み上げその十

「陛下、謀反人達は全て捕らえました」
「全てですか」
「はい、全員です」
 こう王に報告するのである。
「後は。彼等を処罰するだけですね」
「そうですね。後は」
 王は将校の言葉を聞く。しかしだった。
 その返事は何処か虚ろでだ。こう述べるのだった。
「私は」
「陛下は?」
「いえ、有り難うございます」
 己の言葉を自ら遮っての言葉だった。
「では謀反人達はです」
「全員処刑ですね」
「まずは朝まで彼等をそのまま監禁しておくのです」
 そうしろというのだ。
「わかりましたね」
「そして朝になればですね」
 王の言葉の真意には気付かないまま将校は応える。
「彼等を」
「はい。そしてです」
 ここでだ。王は言った。その王の耳にはだ。
 城の外から歓声が聞こえてきた。その歓声はというと。
「王様万歳!」
「国王陛下万歳!」
 こうだ。王に忠誠を誓う衛兵や村人達が王に歓声をあげていたのだ。その彼等の自らへの言葉を聞きながらだ。
 王はだ。こう言ったのである。
「彼等に伝えて下さい」
「はい、何とでしょうか」
「有り難うと」
 そう伝えて欲しいというのだ。
「こう伝えて下さい」
「わかりました。それでは」
「私は。旅の中で彼等も見ることができました」
 己を慕いだ。絶対の忠誠を向ける彼等をだというのだ。
「非常に有り難いことに」
「その言葉も伝えて宜しいでしょうか」
「はい」
 王はそれもよしとした。だがその表情はというと。
 明るさがない。いつもの沈んだ深い憂いの中にある。その憂いと共にだ。
 王はだ。こう言ったのである。
「お願いします。貴方達のことば何があろうと忘れないと」
「有り難き御言葉。民達も喜びましょう」
「真に。感謝の念に耐えません」
 こう言ってなのだった。王は己の席に静かに座っていた。
 その捕らえられたホルンシュタイン達はだ。宿の中で村人達に王への歓声を聞きながらだ。
 そのうえで焦りと恐怖を覚えだ。口々に言っていた。
「まずい、このままでは」
「我々は皆処刑されるぞ」
「陛下もお許しになられない」
「そしてベルリンも陛下を支持するぞ」
 ドイツ皇帝として帝国の中にいる王への反逆は許さない、そういうことだ。
「では我々の行動は失敗か」
「失敗に終わるのか」
「そしてバイエルンの財政はこのまま破綻するのか」
「元の木阿弥ではないか」
「いえ、だからです」
 一人確かな顔の者がいた。ホルンシュタインだ。
 彼だけは落ち着き椅子に座りだ。こう同志達に述べた。
「朝までの我慢です」
「朝になれば処刑されるのですが」
「それでもだというのですか?」
「何、処刑はされません」
 見透かした目でだ。彼は話すのだった。
「それはありません」
「処刑はされないというのですか?」
「我等の命は保障されるのですか」
「ですから。朝になれば大公が摂政に就かれます」
 ホルンシュタインが言うのはこのことだった。
 

 

634部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十一


第三十六話 大きな薪を積み上げその十一

「そして公に陛下の退位を発表されます」
「成程、だからですか」
「それでなのですか」
「はい、そうです」
 こうだ。落ち着いたまま同志達に話すのだった。しかしだ。
 ここでだ。彼はこうも言ったのだった。
「ですがそれでもです。ベルリンは厄介ですね」
「問題はビスマルク卿の介入を防ぐこと」
「それですが」
「陛下は暫く。そう、一年と一日の間だけですが」
 この時間だけだった。彼等が注意する時は。
「静かに。誰も知らない場所で、です」
「いて頂く」
「そうしてもらうのですね」
「ビスマルク卿も知らない様な場所にです」
 これが彼の考えだった。
「バイエルンの為に。時々移動して頂くことも考えておきましょう」
「はい、それが宜しいかと」
 ここでグッデンもホルンシュタインに応えてきた。
「陛下の。そのご病状には移動も宜しいでしょうし」
「気分転換ですね」
「せめてです」
 どうかというのだ。今度は。
「朝に起きられて夜に休まれるべきです」
「夜型の生活はよくないと」
「これは確かです」
 医師としての言葉だった。純粋に朝型の生活を勧めたのである。
「夜は。よくありません」
「それがあの方をああさせてしまった一因ですか」
「夜は全てを覆い隠してしまいます」
 トリスタンとは別の主張だった。
「その中におられては」
「月は神の世界のものではありませんし」
「そうです。人は太陽の下で生きるべきなのです」
 これがグッデンの見るところだった。彼はあくまで昼の世界の者なのだ。
 だからだとだ。ホルンシュタインに話していくのだった。このことは誠実に。
「そしてです。御気持ちが晴れられないのなら」
「場所を移していってですね」
「ビスマルク卿に気付かれないのならさらにいいでしょう」
 こう話すのだった。
「旅にもなりますし」
「あの方は旅も好まれますし」 
 従姉であるオーストリア皇后と同じくだ。やはり二人は似ていた。
「では宜しいですね」
「はい、ではその様に」
「その朝です」
 ホルンシュタインはまた周囲に話した。
「朝になれば全ての決着がつきます」
「大公殿下によってですね」
「全ては」
「そうです。朝を待ちましょう」
 こうしてだった。ホルンシュタインは朝を待った。そしてだ。
 朝になった。そのミュンヘンの王宮では。
 大公が項垂れた顔でだ。周囲に告げていた。
「ではだ」
「はい、それではですね」
「今からですね」
「発表しよう」
 こう言ったのだった。彼等にだ。
「私は摂政に就く。そしてだ」
「陛下は退位ですか」
「そしてオットー様が」
「オットーは公には出られない」
 王以上にだ。そうだというのだ。
「だがそれでもだ」
「それしかないのですね」
「退位しか」
「バイエルンの為だ」
 項垂れたままだ。王は話していくのだった。
 

 

635部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十二


第三十六話 大きな薪を積み上げその十二

「全てはな」
「では。バイエルンの為に」
「殿下も」
「しかし。陛下の御身はだ」
 どうかというのだ。王の安全は。
「何があろうとも御護りするぞ」
「はい、それはです」
「何としても」
「私はあの方の叔父にあたる」
 そしてだ。王が幼い頃から知っている。それだけに愛情が深いのだ。
「それでどうしてだ。あの方を害することができるのか」
「わかっております。それは」
「我々も同じです」
「残念だ。あの方程王に相応しい方はない」
 言葉は現在形だった。今もだ。
「だが。それでもだな」
「退位しかなくなりました」
「バイエルンにとって」
「あの方はバイエルンそのものなのだろう」
 大公はこうも言った。
「最早この国はドイツの中の一つに過ぎない」
「ドイツ帝国という主権国のですね」
「その中の」
「あの方は誰よりもそのことをよくわかっておられる」
 玉座は見られる者が座れば全てが見られる。そういうことだった。
「だからなのだ」
「それ故にですか」
「あの方は」
「全てを見られているのだ」
 王の玉座、唯一のその座からだった。
「そしてなのだ。この世から離れられたのだ」
「最早動くことができないから」
「それ故にですか」
「その通りだ。今それがわかってきた」
 こう話すのだった。周囲に。
「遅過ぎた。それがわかることが」
「ではあの一連の築城は」
「そして一人だけの観劇は」
「その沈んだ御心を癒す為であり。そして」
「そして?」
「まだあるのですか」
「あの方が愛されているものをこの世に映し出されているのだ」
 城達がそれだった。観劇は癒しのみだが。
「そうされているのだ」
「何と。癒しだったのですか」
「それであったと」
「そのことを気付くのが遅かった」
 悔恨の言葉だった。それに他ならなかった。
「私もだ。あの方はあまりにも繊細な方なのだ」
「では。やはりあの方はですね」
「狂気には」
「オットーとは違う」
 まことの意味で狂気に捉われているだ。彼とはというのだ。
 大公も彼についてはその狂気を否定できなかった。しかし王はというと。
「あの方は正常だ」
「狂気には陥っておられない」
「では」
「そうだ。あの方を理解できる者がお傍にいれば」
 そしてそれは誰かというと。
「ワーグナー氏か。あの御仁がいればな」
「ワーグナー氏ですか」
「あの方がなのですか」
「あの御仁は陛下の理解者だった」
 王に芸術の目を目覚めさせただけはあるというのだ。
「だからこそだ」
「しかしあの方はです」
「その。どうしてもです」
「あれでは」
「せめてあの御仁がな」
 大公はここでもだ。悲しい顔になった。そのうえでの言葉だった。
「浪費家ではなく女性に対しても清潔ならばな」
「そして反ユダヤ主義ですね」
「問題が多過ぎましたね」
「芸術と人格は一致しない」
 悲しい現実だった。何時の時代にもある。
 

 

636部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十三


第三十六話 大きな薪を積み上げその十三

「特にあの御仁はそうだった」
「いかがわしい人物でしたね」
「山師と言うべきだったでしょうか」
「庇護者や弟子の妻に手を出す」
 実際にワーグナーがしたことだ。紛れもない事実だ。
「しかも個人の生活にまで国庫をを使ってはだ」
「擁護できるのは陛下だけでした」
「しかしその陛下も」
「庇いきれるものではなかった」
 王といえども限度がある。そういうことだった。
「それが故に彼はミュンヘンを去ることになったのだ」
「陛下の理解者がですか」
「あの方が」
「他にも理解者はおられるのだが」
「誰でしょうか、それは」
「一体」
 周囲はすぐに大公に問い返した。それが誰なのかをだ。
 彼等のその問いにだ。大公はすぐに答えた。とはいっても晴れている顔ではなかった。
「オーストリア皇后であるエリザベート様にだ」
「あの方ですか」
「我がヴィッテルスバッハ家の」
「そうだ。まずはあの方だ」
 それは一人ではないという言葉だった。そうしてだ。
 さらにいるとだ。大公は話していく。
「そしてもう一人はだ」
「もう一人おられるのですか」
「それは一体」
「ビスマルク卿だ」
 このこともわかったのだ。今になって。
「あの方も陛下の理科者であられるのだ」
「あの方もですか!?」
「しかしあの方はです」
「プロイセンの宰相でしたし今はそのドイツ帝国の宰相です」
「それでは」
「だがそれでもだ」
 王と彼は対立する立場であってもだというのだ。ビスマルクは王の理解者だというのだ。そのことを話してだ。大公は周囲の彼等を見た。
 そのうえでだ。こう問うたのである。
「信じられないか」
「はい、あの方がとは」
「とても」
「しかし事実だ。あの方もまた陛下の理解者なのだ」
「だからだったのですか。これまで何かと陛下に助言等をされてきていた」
「資金援助も」
「あの方は陛下を愛されている」
 立場を超えてだ。そうなっているというのだ。
「理解者として愛されているのだ」
「そうだったのですか。あの方もまた」
「陛下の理解者だったのですか」
「そうだったのだ。だが御二人はミュンヘンにはおられない」
 かけがえのないだ。その二人がだというのだ。
「あの方の理解者が近くにいなかった。それが故にだ」
「今の陛下がある」
「そうだったのですか」
「悲劇だ」
 大公は悲しい、これまで以上にそうした顔になって述べた。
「あの方にとってもバイエルンにとっても」
「しかし悲劇は終わるものですね」
 周囲のうちの一人が述べた。
「そうですね」
「そうだ。舞台は必ず終わる」
 例えそれがだ。どうしたものでもというのだ。
「それが今なのだ」
「しかしです」
 その彼はここでだ。声をやや、僅かであるが弾ませて述べた。
「陛下は退位によって救われます。ですから」
「悲劇ではなくなるか」
「そうなるのではないでしょうか」
「そうだな。悲劇は終わるな」
 大公も彼のその言葉に頷いた。大公は王を知っていたが全てを理解できている訳ではなかった。それでこう言ったのである。
 

 

637部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十四


第三十六話 大きな薪を積み上げその十四

「これで」
「はい、全てはこれで」
「では。我々は正しいことをしているのか」
「そうではないのですか?陛下にとってもバイエルンにとっても」
「そうであればいい。本当にな」
 大公は今は自分自身に言い聞かせた。そうしたのだ。
 そしてそのうえでだ。周囲にいる彼等に話すのだった。
「何はともあれ賽は投げられた」
「陛下は退位されます」
「これで間違いなく」
「これでバイエルンは救われるか」
 そうは言ってもだった。今の大公は。
 国が救われること以上にだ。悲しみを見てだ。
 周囲にだ。またしても言うのだった。
「だが。陛下は本当に」
「ですから陛下もではないのですか?」
「これはあの方にとっても」
「そうであればいい」
 切実にだ。願っての言葉だった。
「だが。私は完全に陛下を理解できてはいない」
「エリザベート様やビスマルク卿の様に」
「そしてワーグナー氏の様にですか」
「そのことを残念に思う」
 こうだ。心から言うのである。
「これまで生きていてこれ程残念に思ったことはない」
「陛下のことを完全に理解できない」
「そのことをですか」
「あの方を理解できる忠義の者がもっと多ければ」
 どうなっていたかというのだ。
「あの方はああはなっていなかっただろう」
「せめてワーグナー氏がいれば」
「そうだというのですか」
「彼を離したのは失敗だったか」
 ワーグナーをミュンヘンから追放した、そのことについても大公は再び考えた。
「それにより。陛下が塞ぎ込んでしまわれるのなら」
「それは過ちだった」
「そうだというのですか」
「そうは言っても遅過ぎるが」
 悔恨のみがあった。今の大公には。
「最早賽は投げられたのだからな」
「投げられた賽は元には戻りません」
「その手元には」
「そうだ。拾いはしても元の賽ではない」
 だからこそカエサルも決断したのだ。進むべきか退くべきか。その決断をしたが故にカエサルは英雄となったのだ。そしてローマを変えられたのだ。
 大公もそれはわかっていた。しかしだ。
 彼はカエサルではない、そして王でもない。それならばわからないことだった。そして迷いもだ。どうしても払拭できないものだった。
 その迷い故にだ。彼は今言うのだった。
「あの方にとってまことにいいこととは何なのか」
「そしてバイエルンにとってですね」
「何がいいかですか」
「それは人ではわからないことなのだろうか」
 これが今の大公の言葉なのだった。
「どうしても。それは神のみがお知りになっていることなのだろうか」
「神がですか」
「神のみが御存知だと」
「そうしたものだというのですか」
「そうとすら思う」
 大公は深く考える顔のまま周りに話していく。
「我々は重大な過ちを犯している可能性もあるのだ」
「そう言われると。そうも思ってしまいます」
「実際に。我々は正しいのでしょうか」
「そう自問自答することが」
「だからこそ残念なのだ」
 言葉も思考も堂々巡りになっていることを自覚してのことだった。
「あの方を。理解できないのは」
「陛下は理解するにはあまりにも清らかな方」
「そして神に近い方ですか」
「同性を愛されるが故に」
 大公は王の同性愛についても述べた。
 

 

638部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十五


第三十六話 大きな薪を積み上げその十五

「神に近いとは。陛下御自身も思われていなかった。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「あの方の御心はもしや」
 今になって気付いたのだった。大公もまた。
「女性だったのではないのか」
「陛下の御心は女性だったのですか」
「男の身体を持ちながら」
「陛下の美貌は男の美貌だ」
 彫刻の様だともアドニスだとも言われる、その美貌はだ。
 だがそれは外面のことであり内面はどうなのか。大公はそのことに気付いたのである。
「だが。御心は」
「女性のものだった」
「そうなのですか」
「何故ローエングリンを愛するか」
 ワーグナーだった。その答えのヒントになるものは。
「そのことはロマンだけではなかったのだ」
「御心が女性だからこそあの騎士を愛する」
「そうしたことでもあった」
「そう仰るのですね」
「その様なことがあるとも思わなかった」
 身体が男であっても心が女である、そうしたことがだというのだ。
「そんなことがな」
「そういえばです」
 ここでふと気付いた。今大公の周りにいる者のうちの一人がだ。
「ジョルジュ=サンドですが」
「ショパンとの恋愛のか」
「はい、彼女は自分の心には男性的なものがあると考えている様です」
「だからこその男装か」
「そうではないでしょうか」
「性は身体のものと心のものがある」
 大公はこの考えに至った。ここでようやく。
「そうだったのか」
「では男性を愛するということも」
「陛下にとっては自然だったのですか」
「そうなる。あの方の御心が女性ならばだ」
 ワーグナーやビスマルクが気付いていたこと、そのことを大公もようやくわかった。
 それでもだった。今はだった。
「だが。本当に遅過ぎた」
「そのことに気付かれるのが」
「そのことが」
「そうだ。遅過ぎた」
 また言う。悔恨と共に。
「最早賽は投げられたのだからな」
「我々はその賽に従うだけ」
「それだけですね」
「その通りだ。それしかない」
 言葉だけが出る。それだけが。
「ではだ。あの発表を出してだ」
「はい、そのうえで」
「大公殿下が摂政に」
「私ができることをしよう」
 沈んだ顔で言うのだった。
「その最大限のことを」
「はい、ではお願いします」
「これより」
 こうしてだった。大公は摂政となり王の退位を発表した。そのことはすぐに電報でベルリンにいるビスマルクにも伝えられたのだった。
 その電報を聞いてだ。彼はすぐに側近達に告げた。
「では私も電報を出そう」
「はい、バイエルンにですね」
「今より」
「この電報は公のものではない」
 鋭い目でだ。彼は言ったのだった。
「そのことはわかるな」
「無論です」
「ではそれをすぐに」
「打ってくれ。そしてだ」
 ビスマルクのその計画が話されていく。
「バイエルン王を救出できれば。オーストリア皇后も動かれているな」
「はい、既にバイエルンに密かに入られた様です」
「そのことにバイエルン側が気付いていません」
 側近達はバイエルンのことも話す。
 

 

639部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十六


第三十六話 大きな薪を積み上げその十六

「バイエルン王のことばかりに目がいきです」
「我々やオーストリア皇后の動きには気付いていません」
「人は一つのことに神経を集中させると他のことには気付かない」
 人のそうした特性をだ。ビスマルクは熟知していた。
 そしてそのことからだ。今自分の周りにいる側近達に話したのである。
「そこが狙い目だ」
「彼等が気付かないうちにですね
「打つべき手は全て打っておく」
「そうしてそのうえで」
「計画を成功させる」 
 ビスマルクは強い声で言い切った。
「今回の計画をだ」
「バイエルン王を。オーストリア皇后と協力してお救いして」
「そのうえで、ですね」
「バイエルンからお連れできれば我等の勝ちだ」
 ビスマルクはまた言い切る。その厳しい顔に確かなものを宿らせて。
「後はオーストリアに入って頂くなり何なりしてだ」
「バイエルン側の陰謀を暴く」
「そうされるのですね」
「そしてそのうえで」
「あの方にはバイエルン王に留まって頂く」
 強くだ。ビスマルクは王の在位を支持する言葉を出した。
「是非共な」
「そしてその為にもですね」
「まずはあの方をお救いする」
「そうされますか」
「そういうことだ。既に舞台ははじまっている」
 王を救い出すだ。その舞台がだというのだ。
「あの方は。王でなければならないのだ」
「あの国の、ですね」
「バイエルンの」
「これからもまた」
「いや、王はこの世にだけあるものではない」
 ビスマルクはその目に見えているものを話した。
「モンサルヴァートもある」
「パルジファルのですか」
「あの作品で描かれていた」
「あの城の玉座ですか」
「あの方はパルジファルなのだ」
 ワーグナーが言っていたことをそのままだ。ビスマルクも言うのだった。
 そのうえでだ。躊躇を、彼にとっては非常に珍しいそれを微かに見せてだった。
 そうしてだ。彼は今言ったのである。
「聖杯城の主なのだ」
「しかしあの城はこの世にはありませんが」
 側近の一人が話す。
「それでもなのですか」
「世界は一つではない」
 この世だけではないというのである。
「だからだ。あの方はだ」
「聖杯城の主となられる」
「そうなられると」
「私はあの方をお救いしたい」
 その望みは確かだった。しかしそれと共にだった。
「だが。それが正しいのかどうかはだ」
「わからない」
「そうだというのですか」
「あの方はドイツにとって素晴らしい宝だ」
 この考えは変わらなかった。彼がまだ太子である王と会ったその時からだ。
「掛け替えのないな」
「だからこそお救いするのですね」
「閣下も」
「その通りだ。財政問題なぞ何ということはないのだ」
 ドイツの宝という視点から見て考えてだ。ビスマルクは話した。
「そんなものはドイツ全体で援助できるものだ」
「バイエルン国内で駄目ならば」
「そうできますか」
「芸術には予算なぞ関係ない」
 ビスマルクは言い切った。こうだ。
 

 

640部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十七


第三十六話 大きな薪を積み上げその十七

「あの方の為されていることはこれまでになく素晴らしいことだからだ」
「それ故にですか」
「予算は尚更関係ない」
「そう仰るのですね」
「彼等はバイエルンの中でしか考えていない」
 それに対してビスマルクはだった。
「だが。私はドイツ全体から、そして歴史と人間から考えてだ」
「そのうえでバイエルン王をお救いする」
「それが閣下のお考えなのは聞いています」
「そういうことだ。最早バイエルンだけで考える時代ではない」
 時代も変わったというのである。
「ドイツ全体で考える時代なのだ。彼等はドイツ帝国の誕生を望み我々に強力しておきながらそのことが全くわかっていないのだ」
「矛盾ですね、まさに」
「それは」
「だがあの方はそのこともわかっておられる」
 バイエルン王のことだ。今ビスマルクが救おうとしているだ。
「だからこそ。ああして心を閉ざされてもいるのだ」
「バイエルンが一つの国としてある時代は終わった」
「そのことがですか」
「わかっているからこそだ」
 それでだというのだ。
「ああなられた。もっともそうさせたのは私だが」
 他ならぬだ。彼だというのだ。
「あの方をドイツ帝国誕生の為に利用したのだからな」
「あの即位の時ですか」
「バイエルン王の推戴を取り付けた」
「あの時ですね」
「ドイツ帝国誕生の為には必要だった」
 ドイツ諸侯の中でだ。プロイセン王に次ぐ立場にあるバイエルン王の帝位への推戴があってこそだ。ドイツ帝国が誕生できたというのだ。
 それでだ。彼は言うのだった。
「あの方がそれにより深く傷付くこともだ」
「わかっていてそのうえで、ですか」
「閣下はそうされたのですか」
「そうだ。政治として必要だったからだ」
 これもまたビスマルクだった。やはり彼はシビアだ。政治に関しては。
「だからああした。そしてその私がだ」
「今陛下をお救いする」
「そうされるのですか」
「これもドイツの為だ。そしてやはり私はあの方を敬愛している」
 個人の感情もあった。そこには。
「それが故にだ。あの方は利用してもお救いする」
「矛盾していませんか、それは」
 側近の一人、先程の側近とはまた違う者だ。
「利用しそのうえでお救いするのは」
「そうかも知れない」
 このことはビスマルク自身も否定しなかった。だが、だった。
 こうだ。その側近に話すのであった。
「だがそれもだ」
「それもといいますと」
「人間なのだろう」
 顔を俯けさせてはいないがそれでもだ。今は目を暗くさせるビスマルクだった。
「矛盾すること自体がな」
「矛盾こそ人間である」
「だからなのですか」
「あの方をそうされるのですか」
「私はドイツの為には何でもする」
 政治家として、ドイツ人としての言葉だ。
 その二つに基いてだ。彼は今言うのだ。
「だからこそあの方も利用した。しかしだ」
「あの方はドイツの宝であり、ですね」
「敬愛もされているからこそ」
「必ずお救いする」
 このことも言うのだった。同時にだ。
 

 

641部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十八


第三十六話 大きな薪を積み上げその十八

「矛盾していようともそれでもだ」
「ではあの方をですか」
「今より」
「そういうことだ。しかし矛盾か」
 その矛盾自体についてだ。ビスマルクは言及した。
 そのうえでだ。言うことはというと。
「あの方はその矛盾に我慢できない方なのだ」
「バイエルン王はですか」
「そうした方なのですか」
「そうだ。人がどうしても生み出しそれと共に生きる矛盾」
 そうした意味でまさに人間そのものだというのだ。
 矛盾についてだ。ビスマルクは深く考えそのうえで側近達に話していく。王と矛盾、その関係は芸術でありそれと共に哲学だった。
「そのことに純粋であり過ぎるが故にだ」
「耐えられなかった」
「あの方は」
「耐えられるのではないのですか?」
「いや、耐えられなかったのだ」
 言葉は現在形ではなく過去形であるというのだ。
「あの方はだ。しかしだ」
「しかしといいますと」
「神は時として。まことに残酷だ」
 またしても哲学だった。ビスマルクの言葉は。
「あの方に端整な男性の身体を与え御心は女性にされた」
「何度か仰っていますが」
「そうなるのですか」
「そうだ。そして類稀なる王の資質と聡明さを与えられながらあまりにも繊細な御心も与えられた。この世の醜さに耐えられないまでの」
「だからこそ今のあの方があるのですか」
「繊細な女性であるが故に」
「そのことがあまりにもわかりにくい」
 王の心、その本質が女性であることはだというのだ。
「そしてパルジファルもだ」
「あの聖杯の主となるですね」
「そうだ。彼は愛による救済を行う」 
 ワーグナーにおける重要なテーマだ。そしてそれを為すのは。
「女性なのだ。その役割は」
「あっ・・・・・・だからですか」
「つまりパルジファルもまたですか」
「あの騎士もまた」
「そうだ。心は、本質は女性なのだ」
 王と同じくだというのだ。それはだ。
「だからあの方はパルジファルなのだ」
「聖杯城の王となる」
「その英雄なのですか」
「ワーグナーは全てをわかっていた」
 王とワーグナーは離すことができない。どうした状況であっても。
「だからあの方をパルジファルと呼んだのだ」
「そういうことだったのですか」
「今私はようやくあの方が少しだけわかった様な気がします」
「私もです」
「だとすれば有り難い」
 王の理解者が増える、そのことはいいというのだ。
 そしてだ。その話からだった。ビスマルクは確かに言った。
「ではいいな」
「はい、電報を出します」
「極秘に」
 側近達も応える。こうしてだった。 
 彼もまた王を救おうと決意した。その為に動くのだった。王を救う為に王の理解者が動いていた。その救われようとしている王はというと。
 ノイシュバンシュタイン城に留まっていた。そのうえでだ。
 ミュンヘンからの公表を聞いた。それを聞いてだ。
 

 

642部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその十九


第三十六話 大きな薪を積み上げその十九

 こうだ。王の側近達に命じたのだった。
「城や麓の村に集っている民達に伝えなさい」
「何とでしょうか」
「すぐに解散するように」
 これが王が彼等に伝えることだった。
「これ以上私の為に動けば危害が及びます」
「軍や警察によってですか」
「そうです。忠義の者の血を謀反人達によって流させる訳にはいきません」
 だからだというのだ。
「ですから。いいですね」
「それでは」
「はい、解散させるのです」
 またこう命じる王だった。
「宜しいですね」
「ですがそれでは」
「陛下が」
「彼等を私の為に犠牲にしてはなりません」
 その忠義の者達を想っての言葉だった。
「気持ちだけ受け取らせてもらいます」
「陛下、では陛下は」
「最早」
「貴方達も私に仕えただけです」
 今度は側近達にも言うのだった。
「それだけです」
「いえ、我々はです」
「陛下に対してです」
「あくまです」
「いえ、仕えただけです」
 彼等にも危害が及ばない様にだ。王は言うのだった。
「それだけですから」
「それ故にですか」
「我等もまた」
「貴方達は義務を務めているだけです」
 王だけがだ。全てを追うというのだ。
「だからです」
「我々に罪はない」
「そう仰って頂けるのですか」
「こう言うのです。問い詰められたら」
 その場合についてもだ。王は彼等に話すのだった。
「私が狂気に陥っていたと」
「しかしそれでは陛下だけがです」
「責を問われてです」
「責められますが」
「構いません」
 そうなってもいいと言うのだ。そうしてだ。
 そしてそれが何故かもだ。王は話した。
「真実は公になるものですから」
「陛下は狂ってはおられない」
「そのことがですね」
「偽りなら進んで受けましょう」
 今はそうした考えに至っていた。旅の中で。
「だからです」
「では。我々は」
「陛下に」
「これまでのことで充分です」
 自分に仕えて尽くしてくれた。それだけで、だというのだ。
「有り難うございました。それでは」
「我々はあくまで、です」
「陛下のことは」
 真実を語ると言うのだ。例え何があっても。
 それが彼等の忠誠であった。王もその忠誠を見た。
 しかし今は微笑みだ。こう静かに言うだけであった。
「いいのです。これで」
「宜しいのですか、それで」
「陛下は」
「では。ご機嫌よう」
 別れの言葉をだ。自分から出した。
「お幸せに」
 こう言って彼等を下がらせようとする。だがここでだ。
 

 

643部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十

 従者が一人入室して来てだ。一礼してから王に述べた。
「デュルクハイム大佐が来られました」
「大佐が」
「御会いになられますか?」
「そうして下さい」
 すぐにだ。王はその従者に述べた。こうしてだ。
 バイエルン軍の軍服、王にとっては懐かしいそれを着た精悍な顔立ちの男が来てだ。そのうえで敬礼をしてからだ。王に述べたのである。
「陛下、遅れて申し訳ありません」
「私はもう王ではないのですが」
「いえ、陛下は王であられます」
 こう王に言うのである。
「謀反人達に惑わされないで下さい」
「私はまだ王ですか」
「私は陛下を御護りする為に来ました」
 こうだ。王に話したのである。
「すぐにミュンヘンに参りましょう」
「ミュンヘンにですか」
「はい、そうです」
 そのだ。王の都にだというのだ。
「そこにいらして下さい」
「あの町にですか」
「民、そして軍は陛下のことを心から敬愛しています」
 彼等の王への想いは変わっていなかった。何故なら彼等にとって王は魅力ある、そして自分達と共にある王だからだ。そのことは変わらないのだ。
 だからだ。デュルクハイムは今王に言ったのである。
「陛下が彼等の前に出ればです」
「それで、ですね」
「はい、彼等は陛下と共に立ち上がります」
 確信だった。王の民衆、そして軍隊での圧倒的な人気を踏まえてのことだ。
「ですから。是非共」
「王位、そして王都」
 その二つについて。王は呟いた。
 そのうえでだ。こうデュルクハイムに言うのだった。
「あの都はかつてワーグナーを追い出しました」
「そのことは」
「私のことを思ってですが私にとってかけがえのない者をそうしました」
 そのことがだ。今も出たのである。
「その時に様々な醜いものも見ました。ですから」
「あの都にはですか」
「戻りたくはないのです」
 暗く沈んだ顔でだ。こう王は話すのだった。
「そうなのです。あの都には」
「しかし都に戻られれば」
「私はそこまでしたくはないのです」
 その暗く沈んだ顔での言葉である。
「職務は叔父上が為されるのですね」
「ルイトポルト大公殿下のことですか」
「叔父上はいつも優しい方でした」
 過去形だった。完全に。
「あの方なら任せられます」
「しかしあの方こそがです。摂政になられたということは」
「いえ、叔父上に悪意はありません」
 そのことは見抜いていた。いや、わかっていた。
 大公がどういった人物なのかも王はわかっていたのだ。だからだった。
 こうだ。王はデュルクハイムに話した。
「そして他の者達も」
「謀反人達もですか」
「悪意はないのです」
 それもないというのである。
「しかしそれでもです」
「それでもなのですか」
「はい、こうなっています」
 悪意はない。そしてそれはだった。
 そのミュンヘンについてもだ。王は話すのだった。
「あの町の者達も。そうだったのですが」
「それなら。悪意がないのなら」
「悪意がなくとも醜い場合があるのです」
「それがなくともですか」
「だからこそです」
 王は言った。
 

 

644部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十一


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十一

「悪意に基かない醜さ、企みがあるからこそあの町には」
「戻られないのですか」
「そうです。ですから貴方も」
「しかし私は」
「いえ、帰るのです」
 デュルクハイムにもだ。こう告げたのである。
「宜しいですね」
「陛下、それは」
「私を王だと言いましたね」
 このことをだ。今は楯にする王だった。
「それならです」
「命令に従えというのですか」
「そうです。これは王の命令です」
 他ならぬだ。それだというのだ。
「わかりましたね」
「左様ですか」
「では。いいですね」
 また言う王だった。
「陛下、何故そうして全てを捨てられるのですか」
「私は捨ててはいません」
 王は穏やかな声でデュルクハイムの嘆きを否定した。
「そうしたことは一切です」
「ですが今そうして」
「この世にあるものだけが全てはありません」
 彼にもだ。王は言うのだった。
「私はまたあらたなものを手に入れるのですから」
「あらたなものとは」
「玉座です」
 まずはだ。それだというのだ。
「そして槍と聖杯です」
「その二つだと仰るのですか」
「そうです。ですから私は捨てないのです」 
 その目にだ。王が旅の先に手に入れるものを見ながら話すのだった。
「むしろ手に入れるのですから」
「どういうことなのか私には」
「おわかりになりませんか。ですが」
「去れと仰るのですね」
「貴方は貴方の人生を歩んで下さい」
 こうデュルクハイムに告げてだ。そのうえでだ。
 彼を去らせ。王は玉座に向かった。退くことを決められた、この世ではそうなった座にだ。
 デュルクハイムは項垂れて城を後にした。そうしてだ。
 麓の村に入った。そこに入るとだ。
 王に忠誠を誓う民衆がだ。口々に彼に問うてきた。
「大佐、それでどうなったのですか」
「陛下は」
「陛下はミュンヘンに向かわれますか」
「どうされるのですか?」
「いや」
 まずはだ。首を横に振ってだ。 
 デュルクハイムは目を閉じ塞ぎこんだ顔でだ。彼等の期待する声に答えた。
「陛下はノイシュバンシュタインの城を去られないとのことだ」
「ではミュンヘンには行かれない」
「そうだと」
「君達はミュンヘンまで陛下を御護りすると言ったが」
 民衆の他には兵達もいる。しかしだった。
 その彼等にだ。デュルクハイムは言うのである。
「無駄に終わる」
「無駄、そんな」
「それでは我々は」
「我々のすることは」
「なくなった」
 こう告げた。王に忠義を使う者達に。
「何もかもがだ」
「そんな、ミュンヘンに行けばそれだけで済むというのに」
「何故陛下はミュンヘンに行かれないのか」
「我々が何があっても御護りします」
「陛下には指一本触れさせません」
「その君達に危害を加えたくないのも理由だ」
 彼等も気遣ってのことだというのだ。
 

 

645部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十二


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十二

「自分の為に君達を傷つけたくないのだ」
「そんな、我等は陛下の臣民です」
「それでどうして陛下の為に動かないのか」
「そんなことは御気になさらずともいいのに」
「それでどうして」
「陛下は今まで傷ついてこられた」
 様々なことでだ。そうなってきたというのだ。
 王はあまりにも繊細であるが故に誰よりも傷つくことが多かった。そのせいでだった。
「だからだ。他の者も傷つけたくはないのだ」
「しかし今はそんなことを言っては」
「陛下は王でなくなるのです」
「それで何故その様なことを」
「今仰るのですか」
「最早。この世には未練はないらしい」
 それでだというのだ。
「あの方はもう」
「・・・・・・ではもう」
「あの方はこのまま」
「退位されるのですか」
「我々にできることはもうない」
 デュルクハイムもだ。このことを認めるしかなかった。
 それでだ。臣民達にこう話すのだった。
「君達もだ。解散しろとのことだ」
「そんな、陛下はもう」
「どうしようもないのですか」
「今まで御苦労だった」
 労いの言葉は同時に別れの言葉でもあった。
「君達の忠義は歴史に残る。忠臣達としてな」
「しかしそれでは」
「陛下は」
「いいのだ。最早全ては終わったのだから」
 それでだというのだ。
「いいな。解散するのだ」
「・・・・・・わかりました」
「それでは」
 こうしてだった。彼等も渋々だが解散しようとする。だがここでだ。
 デュルクハイムのところにだ。彼が来た。その彼は。
 ホルニヒだった。彼は意を決した顔でだ。デュルクハイムの前に出て来たのだ。
 その彼を見てだ。デュルクハイムは驚いた顔になり彼に言った。
「君は。しかし」
「役職なぞ関係はありません」
 解任された。そのことの話だった。
「それ以上にです」
「陛下を御救いしたいのか」
「その為に来ました」
 こうだ。全てを投げ捨てている顔でデュルクハイムに答えるのである。
「今ここに」
「私の話は聞いた筈だ」
 ホルニヒの決意も見てだ。それでもデュルクハイムは彼に告げた。
「陛下はもう」
「いえ、それでもです」
「陛下を御救いしたいというのか」
「はい、必ず」
 こう言うのであった。
「そうします。絶対に」
「止めても無駄か」
 デュルクハイムもだ。ホルヒニのその顔を見てだ。
 認めるしかなかった。そうしてだった。ホルニヒに告げた。
「馬がある。すぐに行くことだ」
「有り難うございます。それでは」
 ホルニヒが行こうとするとだ。民衆や兵士達もだ。
 再びだ。声をあげるのだった。
 

 

646部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十三


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十三

「俺達も生きますよ」
「王様の一大事ですから」
「貴方が行くんならやっぱり」
「俺達も」
「いえ、駄目です」
 その彼等にだ。ホルニヒは強い声で告げた。そのうえでだ。
 こうだ彼等にさらに言うのだった。
「私はこのことで命を落とすかも知れません」
「謀反人達によってですか」
「殺されるっていうんですか」
「最早大公殿下が摂政になられました」
 状況は変わった。相手にとって有利に。
 だからだとだ。その危険があるというのである。それでだった。
 彼等を拒みだ。同行を許さなかった。そのことを告げてだ。
 デュルクハイムが用意してくれた馬に乗る。そのうえで城に向かう。後ろを振り向こうとはしない。
 その彼をだ。民衆や兵達はまだ同行しようとする。しかしだ。
 デュルクハイムはだ。強い声で彼等を止めた。またしてもだった。
「駄目だ」
「ですが今はです」
「少しでも陛下の為にです」
「人が必要ですが」
「君達にはそれぞれ想う者がいる筈だ」
 彼はだ。その民衆や兵達にこう言った。
「その者達の為に自分を大事にするのだ」
「陛下への忠誠は」
「それは」
「我々は陛下の民、兵です」
「それでもなのですか」
「もう充分なのだ」
 遠い目になりだ。デュルクハイムは彼等にだ。また言った。
「君達はそれを見せた。陛下もわかっておられる」
「だからいいと」
「そして俺達の想い人の為にも」
「行くなというんですか」
「それはあの方も望まれてはいない」
 他ならぬだ。王もだというのだ。
「あの方は自分の為に他の者が傷つくのを好まれない」
「ではあの方は」
「ホルニヒさんは」
「どうして行かせたのでしょうか」
「それは彼の想い人が陛下だからだ」
 それでだというのだ。遠い目のままでだ。
「認めるしかなかったのだ」
「陛下を想われているからこそ」
「それ故に」
「全ては彼に任せよう」
 他ならぬだ。ホルニヒにだというのだ。
「君達は解散するのだ。いいな」
「・・・・・・わかりました」
「仕方ないですか」
「しかしです」
 ここでだ。兵の一人がだった。
 デュルクハイムに顔を向けてだ。こう問うたのである。
「大佐はこれからどうされるのですか?」
「私は」
「はい、大佐はこれからは」
「ミュンヘンに戻る」
 そうするとだ。淡々としてその兵士に答えた。
「そうする。今からな」
「あの、それはです」
 兵士は彼の返答を聞いてだ。顔を強張らせてだ。
 そうしてだ。こう彼に言ったのである。
「大佐にとっては」
「ミュンヘンに戻れば逮捕されるというのだな」
「そうです。陛下のことで」
「それならそれでいい」
 構わないとだ。やはり淡々として語る彼だった。
 そうしてだった。彼はだ。実際に馬を出してだった。
 そのうえでだ。こうその兵達や民衆達に話した。
 

 

647部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十四


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十四

「私は自分の行動に後悔はしない。全ては私の心に従っただけだ」
「大佐ご自身のですか」
「それに」
「それだけだからな。君達は君達の仕事に戻るのだ」
 彼等の罪も背負うというのだ。大佐にある者として。それは言外に込めていたがそれでもだ。民衆達にも兵達にもだ。そのことは痛くなるまでわかった。
 そのうえでだった。彼は馬に乗り彼等に別れを告げミュンヘンに戻った。そのうえで毅然とした態度で逮捕、拘束されたのだ。
 ホルニヒは馬で城に向かう。しかしだ。
 その動きはあまりにも遅い様にだ。彼には思えた。
 気が、心だけがはやる。心は城に光より速く向かう。だが身体は。
 前に進まない。それはあまりにも遅かった。彼はそのことに焦りを覚えた。
「いけない、早く陛下の御前に」
 馬を懸命に走らせる。しかしそれでも。
 馬は彼の望み通りに進まない。王への道はあまりにも長かった。
 その頃だ。王は玉座にいた。そこでだ。
 騎士とだ。二人だけで話をしていた。
 王の前に控える騎士は微笑みだ。王に話してきた。
「彼が来ます」
「ホルニヒがか」
「はい、ただひたすら」
「こうなることはわかっていた」
 騎士に応えてだ。王は悲しい目で述べた。
 そうしてだ。こう騎士に話したのである。
「だが。それでもだ」
「彼を巻き込まない為に」
「私は彼を遠ざけたのだがな」
「しかしそれは無駄に終わりましたか」
「そう言うべきか。彼は私のところに来ているのだからな」
 それでだというのだ。
「そうなるのか。だが」
「だが、ですか」
「私の旅はもうはじまっていてだ」
「そうです。その辿り着く先もです」
「既に決まっているのだ」
 こう騎士に話すのだった。
「ホルニヒはそこには連れては行かない」
「彼の為にも」
「彼はこの世界に留まるべき者なのだ」
「そして陛下は」
「あの世界に行くのだ」
 その旅にだ。彼を巻き込みたくない故にだ。彼を遠ざけてだった。
 王は今旅をしていた。その中でだった。
 同行している騎士にだ。玉座から話したのである。
「私は間も無くこの玉座から去る」
「はい、彼等が来るのもあと少しです」
「そうか」
 そのことについてはだ。王は。
 素っ気無い感じになりだ。応えるだけだった。
 そうしてだ。こう騎士に返したのである。
「来るのか」
「そうです。しかしですか」
「何も思うことはない」
 こう言う。実際にだ。
「彼等では私をどうすることもできない」
「幽閉されようとしていますが」
「幽閉か」
 多くの者が深刻に思うこともだ。今の王は。
 何も思うことなくだ。騎士に答えるだけだった。
「しかしそれはだな」
「はい、ただの旅です」
「では何も気にすることはない」
 今の王にとってはだ。まさにその程度のものだった。
 だからだ。今はこう言うだけだったのだ。
 

 

648部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十五


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十五

「彼等についてはだ」
「しかしです。彼等は」
「ホルニヒか」
「他にもおられます」
「わかっている。彼等のこともな」
 王の表情がやや変わった。少しだけだが晴れた。
 その僅かな晴れの中でだ。王は騎士に今度はこんなことを話したのである。
「私を理解してくれる方々のこともまた」
「ビスマルク卿、それに」
「シシィだ」
「あの方々は陛下をお助けしようとしています」
 この動きをだ。騎士は既に知っていた。王もまただ、察していた。
 騎士はこのことについてだ。王に問うたのである。
「それについてはどうされますか」
「私に彼等のその差し伸べる手をか」
「受けられますか」
 具体的にはだ。この世の玉座に留まるべきかどうかというのだ。
「あの方々は陛下を御護りしますが」
「有り難いことだ」
 彼等の好意、そのことについてはだというのだ。
 王も感謝の意を述べる。それは否定できなかった。
 しかしだ。それと共にだった。王は騎士に語るのだった。
「だが、それはだ」
「この世に留まられることです」
 騎士もだ。嘘を言わなかった。王に真実を述べた。
「そのままそうなります」
「そうだな。それはだ」
「陛下にとっては最早」
「何の意味もないことだ。私はこの世で果たすべきことを終えようとしているのだから」
「では彼等の手は」
「迷いはある」
 わかっていてもだった。それでもだ。
「私を理解してくれる方々のその手を受けないことはだ」
「それもまた、ですね」
「気が引ける」
「ビスマルク卿は確かに政治的な立場は違います」
 騎士はまずは彼から話した。
「ですがそれでもです」
「そうだ。私を理解してくれてそのうえで助けてくれてきた」
「それは今もです」
「あの方の理解は心からのものだ」
 ビスマルクだからこそできるものだった。それはだ。
「有り難い。それを邪険に思ったことは一度もない」
「そしてですね」
「シシィは。心の奥底から理解し合っている」
 皇后についてはそうだった。御互いにだ。
「鷲と鴎。だからだ」
「そうです。あの方についてはです」
「共にだな」
「はい、御二人は重なり合う部分が多いのです」
「私達は。彼女がいてくれて非常に有り難い」
 しかしだった。それでもだったのだ。
「だがそれでもだ」
「やはりですね」
「私のするべきことは終わった」
 この考えは変わらなかった。そうしてだった。
 王はだ。騎士に話したのだった。
「卿が来たその時にだ」
「畏まりました。それでは」
「今は去るのだな」
 一礼した騎士にだ。静かに述べた。
「そしてだな」
「その時にまた来ますので」
「待っている。それではだ」
「はい、それでは」
 こうしてだった。彼等は今は別れた。王は騎士が姿を消すのを見届けてからだ。そのうえでだ。
 

 

649部分:第三十六話 大きな薪を積み上げその二十六


第三十六話 大きな薪を積み上げその二十六

 一人静かに待っていた。その王の前にだ。
 彼等が来た。グッデンもいる。その彼等がだ。玉座の前に来て恭しく一礼してからだ。そのうえでこう告げたのである。
「陛下、宜しいでしょうか」
「お話したいことがあります」
 既に退位が発表されている。しかしだ。
 それでも王は王だ。彼等も礼を忘れてはいない。
 それが為に一礼してからだ。こう王に話したのである。
 グッデンが前に出てだ。そのうえで王に言ったのである。
「私の人生の中で最も辛いことを申し上げます」
「それは何でしょうか」
 わかってはいてもだ。問う王だった。
「一体」
「陛下はパラノイヤと診断されました」
 真実を偽りだ。王に告げたのである。
「それが為に一年と一日の間公務ができず」
 そしてだった。
「完治されることもありませんので」
「私が病にあるというのですね」
「そうです。御心が」
「そうですか。だから私は退位するのですね」
「残念なことに」
「わかりました」
 王はグッデンの言葉に玉座から頷いた。
 そしてそのうえでだ。こうその彼に問うたのである。
「ではです」
「何でしょうか」
「誰も私に会っていません」
 王が問うたのは真実についてだった。
 これはその通りだった。まさに今王の前にいる誰も王に会っていない。いや、この世にいる殆どの者が王に会っていない。これが真実だった。
 その真実からだ。王は問うたのである。
「それでどうして私が狂っているとわかるのでしょうか」
「そのことについてですが」
「何故わかったのですか」
「直接診察するまでもありませんでした」
 視線を何とか泳がせまいとしながらだ。グッデンは答えた。
「だからです」
「それでなのですか」
「そうです。お話は聞いています」
「わかりました。ではどの程度でしょうか」
 王はグッデンの嘘、他の者達の嘘をわかっていた。しかしだ。
 それは隠してだ。グッデンにさらに問うたのである。
「私が治療を受けるのは」
「はい、それはですが」
 何時までなのか。グッデンはこのことには答えられた。
 それは何時までなのかとだ。王に答えたのである。
「一年と少しになります」
「そうですか。一年とですか」
「はい、少しです」
 退位に必要な時と重なっていた。それが口実なのだから当然だった。
 王はこのことも当然としてわかっている。しかしだ。
 このことについてもだ。王は問わずにだ。今度はこう言ったのである。
「わかりました。しかし一年ですか」
「完治は見込めませんがそれだけあればかなりよくなりますので」
「それだけ時はかからないでしょう」
 王の言葉はその時に関するものだった。そうした意味ではグッデンと同じだ。しかしだ。
 王は言った。その考えを。
「私が去るのは間も無くですから」
「あの、くれぐれも申し上げます」
 グッデンは王の今の言葉に暗殺を疑われていると考えた。それでだ。
 すぐにだ。身をやや乗り出してそのことを否定したのである。
「我々はあくまで陛下のことを考えてです」
「身の安全はというのですね」
「それをどうして害するのでしょうか」
 このことは誰もが保障できた。ルッツやホルンシュタインでさえもだ。
 だからこそ言ったのである。しかしだ。
 王はだ。王と他に僅かな者だけがわかることをだ。今言ったのである。
「間も無く私の旅は終わるのですから」
「旅行も一年の後でしたら」
「そういうことだと思われますか」
「違うのでしょうか」
「いえ、そう思われているのなら構いません」
 グッデンにも今自分の前にいる誰にもわからないことだとわかっているからこそ。王はこう述べた。
 そしてだった。グッデン達に静かに述べた。
「では馬車を用意して下さい」
「それは既にできています」
「今にでも出発できます」
 彼等は王に即答した。
「では馬車に乗って頂けますか」
「そうして頂けるのですね」
「はい」
 暴れることはしなかった。最初からそのつもりはなかった。
 しかしだ。その行く先は尋ねたのだった。
「それで何処に向かうのでしょうか」
「シュタルンベルク湖です」 
 そこだと。グッデンが答える。
「その湖のほとりの城にです」
「私は入るのですね」
「そこで私が診察させて頂きます」
「わかりました。それではです」
「今からそちらに向かいましょう」
 こう話をしてだった。王は玉座から立った。
 そしてそのうえでだ。グッデン達に周りを囲まれてだ。
 それから部屋を後にして城を後にする。その動きはあくまで静かで気品があった。王であるのに相応しいその身のこなしでだ。王は今この世の玉座から降りたのである。


第三十六話   完


                    2011・12・14
 

 

650部分:最終話 愛の死その一


最終話 愛の死その一

                   最終話  愛の死
 ホルニヒはようやく城に着いた。その正門においてだ。
 護りを固めている衛兵達にだ。慌てて問うたのである。
「陛下は」
「これはホルニヒ殿」
「来られたのですか」
「はい、遅れました」
 こうホルニヒが答えるとだ。衛兵達は。
 苦渋に満ちた顔になりだ。そしてこう述べたのである。
「残念ですが」
「一足先にです」
「グッデン博士達が来られました」
「それでは。陛下は」
「はい・・・・・・」
 こうだ。苦い顔でホルニヒに答えるのである。
「既にお身柄を拘束されているかと」
「彼等は玉座に向かいました」
「我々も最早どうすることも」
 それだけ公表されたことが大きかった。彼等にしてもそうなっては動くことができなくなったのだ。それでだ。王も護れなかった。そのことを苦渋に満ちた顔で述べたのである。
 その彼等の話を受けてだ。ホルニヒもだ。
 肩を落としてだ。そして言ったのである。
「わかりました。しかしです」
「もう城に入られてもです」
「どうにもなりません」
 衛兵達は城に入ろうとするホルニヒを止めるしかなかった。そうしてだ。
 そのホルニヒにだ。言ったのである。
「今行っても無駄です」
「かえってホルニヒ殿が危険です」
「どうかここは御自重を」
「お願いできるでしょうか」
「この身のことなぞ。しかし」
 ホルニヒにはわかった。今行ってもだ。
 何にもならない、かえって彼が捕らえられてしまう。それでは何にもならなかった。
 そうしてだ。ここでだった。
 門を馬車が出た。その馬車の窓は見えない。白いカーテンで覆われている。
 しかしそのカーテンの向こうにいるのが誰かを察してだ。彼は言った。
「陛下・・・・・・」
「我々のできることは終わりました」
「どうしようもありません」
 衛兵達もだ。肩を落としてだ。
 そのうえでだ。ホルニヒに告げたのである。
「ですからホルニヒ殿も」
「御帰り下さい」
「そうですか」
「はい、貴方は充分過ぎる程忠義を示されました」
「誰も貴方を批判しません」
 慰めの言葉だった。衛兵達もそうした意味でホルニヒを敬愛していたのだ。
 だがその慰めや敬愛を受けてもだった。今のホルニヒは。
 どうしても諦められなかった。しかしだった。
 最早どうにもならないことは明らかだった。それでだ。
 唇を噛み締めつつだ。衛兵達に述べた。
「わかりました。それでは」
「御疲れ様でした」
「貴方に幸あらんことを」
 兵士達は本心は隠した。しかしだった。
 ホルニヒには心からの敬意と気遣いを以てだ。彼を帰した。その彼等の心を受けてはだ。
 ホルニヒも下がるしかなかった。こうしてだ。
 彼は城の前から去った。そうして馬に乗り項垂れた顔で帰り道を暫く進んでいるとだ。
 その彼の前にだ。黒い服の男達が出て来た。そして彼に問うのだった。
「リヒャルト=ホルニヒさんですね」
「バイエルン王の傍におられた」
「はい、そうです」
 その通りだと答えるホルニヒだった。そのうえでだ。
 彼は黒い服の男達、誰もが帽子を深く被り顔を隠している。その彼等に対してだ。
 警戒する顔でだ。尋ねたのだった。
「ですが貴方達は一体」
「はい、ドイツ帝国の者です」
「ベルリンから来ました」
 まずはこう答える彼等だった。ホルニヒに対して帽子を取らず敬礼で応える。
「バイエルン王を御救いする為に来ました」
「そうした意味で貴方の味方です」
「ビスマルク卿からの御命令でしょうか」
 ビスマルクが王に好意を持っていることはホルニヒもわかっていた。これまでの態度や王への評価でだ。だからこのことをすぐに察して問うたのである。
 

 

651部分:最終話 愛の死その二


最終話 愛の死その二

「その為にですね」
「その通りです」
「あの方はバイエルン王を御救いしたいのです」
「だからこそ我々はここに来ました」
「捕らわれの王を御救いする為に」
「そうですか。では今から」
 ホルニヒの顔に希望が戻った。それまで絶望していた顔に希望が戻った。そうしてだ。
 馬から降りて彼等と同じ目線になったうえでだ。彼等に言うのだった。
「私に協力して下さるのですね」
「では御同行願えるでしょうか」
「貴方に御会いして欲しい方もおられますし」
「どなたですか?」
 それが誰かが気になりだ。すぐに問い返したのだった。
「その方は」
「貴方と同じお考えの方です」
「そして非常に高貴な方です」
「あの方ですか」
 彼等の少しの言葉だけでわかった。それが誰なのか。
 そしてだ。彼は考える目で述べたのである。
「また旅に出ておられるのは聞いていましたが」
「密かに今はこの近くにおられます」
「潜伏という形で」
「そして我々と共にです」
「バイエルン王を御救いしようと為されているのです」
「貴方達に加えてあの方も来られたとなると」
 ホルニヒの顔にさらに希望が宿った。それでだ。
 彼はだ。こう男達に言ったのだった。
「有り難いです。陛下はこれで」
「はい、御救いできます」
「確実にです」
 ベルリンから来た者達は彼等の行動の成功を確信していた。
 それ故にだ。強い声でホルニヒに言ったのである。
「では御同行願えますね」
「バイエルン王の為に」
「はい、是非共」
 ホルニヒも応える。こうしてだった。
 彼はベルリンの者達と共にある場所に向かった。そこは湖、シュタンベルク湖の傍にある質素だが趣のある屋敷だった。そこに入るとだ。
 オーストリア皇后がいた。その彼女にだ。
 ホルニヒは恭しく一礼した。そしてそのうえで皇后に対して言ったのである。
「エリザベート様、ようこそ」
「聞いていますね。彼等から」
「はい、陛下をですね」
「これがオーストリア、ドイツの考えです」
 皇后、そしてビスマルクという意味でもあった。
「あの方を御救いします」
「有り難うございます、それでは」
「あの方は湖のほとりのある城に幽閉されています」
「そこまでわかったのですか」
 見れば皇后の周りにはベルリンの者達だけでなくだ。皇后の側近である侍女達もいる。その彼女達も見てだ。ホルニヒは皇后もビスマルクも本気であることをあらためて知った。
 そのうえでだ。彼は確かな声で皇后に話した。
「では。あの方を」
「時期があります」
「今すぐにではありません」
 ベルリンの者達が焦ろうとするホルニヒに話してきた。
「ですから今はです」
「計画を練りましょう」
「はい、それでは」
 こうしてだ。ホルニヒは皇后、それにビスマルクの送った者達と共にだ。王を救い出す計画を練り実行に移そうとするのだった。それが彼の為すべきことだと確信して。
 王は湖のほとりにあるベルク城の中に幽閉された。ある豪奢な一室にだ。
 そこは覗き窓や鉄格子がありまさに牢獄だった。豪奢な牢獄だ。
 その中にあるソファーに座る王の前にだ。彼が出て来たのだった。
 騎士は王の傍らに立ちだ。そのうえで問うてきた。
 

 

652部分:最終話 愛の死その三


最終話 愛の死その三

「御気分はどうでしょうか」
「よくはない。とはいってもだ」
「悪くもありませんか」
「この世のことはどうでもよくなっているからな」
 だからだというのだ。そしてだ。
 騎士自身に対してだ。こう尋ねたのである。
「しかし卿はだ。私の前に現れたが」
「まだその時ではありません」
 彼が務めを果たす、その時はだというのだ。
「それはまだです」
「だが近いな」
「おそらくは」
「そうだ。では今私の前に現れた理由は何だ」
「陛下が私と御会いしたいからだと思いまして」
 それ故にだというのだ。そしてだ。
 騎士はだ。王にこのことを話したのだった。
「それでなのですが」
「ホルニヒか」
「皇后様にビスマルク卿もです」
「私を愛してくれている者に」
「そして理解しておられる方々がです」
「私を助け出してくれるか」
 このこと自体には喜びを見せる王だった。しかしだった。
 それと共にだ。王は寂しい顔になりそのうえで言ったのでだった。
「だがそれはだ」
「今の陛下にとってはですか」
「王は差し伸べる手を受けるものだろうか」
「そうした意味でもですか」
「私は。卿の勧めに向かおう」
 従うのではなかった。何故なら王だからだ。
「そうさせてもらおう」
「この世の最後まで、ですね」
「そしてそれからはだ」
「はい、私は陛下にお仕えします」
 そうするとだ。騎士は王に恭しく答える。
「この世では御導きするだけですが」
「あの世界ではか」
「陛下はあの城の王になられるのですから」
「だからそうするか」
「陛下は間も無く陛下の座られる至高の座につかれます」
 王の本来の玉座にだというのだ。そのことを告げられてだ。
 王もだ。騎士に満足している顔で答えるのだった。
「そうだな。しかしだ」
「あの方々のことですか」
「ホルニヒも。ビスマルク卿もシシィも」
 その彼等のことがだ。今も気にかかり言うのだった。
「私を何としてもこの世に留めようとされる」
「ですがビスマルク卿とエリザベート様は」
「わかっておられる」
 王の理解者、それ故にだというのだ。
「私がこの世に留まらないこともだ」
「ですがそれでもですね」
「あの方々は私を愛して下さっている」
 理解してだ。そのうえでだというのだ、、
「だからこそ。わかっておられながらもだ」
「陛下を御救いしようと動かれていますね」
「有り難いことだ。だが私は」
「最早この世には」
「未練はないのだ。完全にな」
「それでは宜しいですね」
 騎士は王のその顔を見て問い返す。
「間も無くです」
「頼む。私を城にまで導いてくれ」
「お任せ下さい。あの城は限られた者しか行き来できませぬ故」
「まずは入りだな」
「左様です。それからです」
「私もまたあの城を行き来できるな」
「左様です。玉座に座られてからです」
 全てはそれからだった。王のはじまりは。
 そのことを話してだった。そうしてだ。
 

 

653部分:最終話 愛の死その四


最終話 愛の死その四

 騎士は王にだ。今度は静かに述べた。
「ではだ」
「迎えに参ります」
 こう告げてだった。騎士は王の前から姿を消した。その彼と入れ替わりにだ。
 扉をノックする音が聞こえてきた。そうしてだ。
 グッデンの声がだ。扉の向こうから王に尋ねてきた。
「陛下、宜しいでしょうか」
「診察ですね」
「はい、入って宜しいでしょうか」
「どうぞ」
 表情を消して扉に顔を向けてよしと述べた。それからだ。
 グッデンが入って来た。そうしてだ。王と話し診察をしたのである。
 その診察の後でだ。グッデンはこうホルンシュタインに述べた。彼もまたこの場所にいるのだ。そうしてそのうえでだ。王を見ていたのだ。様々な感情をその中に含めて。
 そのホルンシュタインにだ。グッデンは話すのだった。
「やはりあの方はです」
「狂気には陥っておられませんか」
「何処からどう見てもです」
 そうだというのだ。王はだ。
「正常な方です。ただ」
「ただ、ですか」
「深い憂いの中にあります」
「憂いですか」
「それ以外は至って正常です」
 医師としての良心がだ。こう言わせた。
「ですから。一年と一日の後は」
「はい、わかっています」
 ホルンシュタインもだ。そうだと彼に答える。
「あの方は王ではなくなっていますが」
「幸せに過ごされます」
「幸せ。あの方は久しくそれを感じられていたのか」
「憂いの中にそれはありません」
 これも医師としての言葉だった。
「だから。それを取り払うことができれば」
「そうですね。それがあの方にとってもいいですね」
「私もバイエルンの人間です」
 グッデンにも良心はある。だからこその言葉だった。
「陛下を何とか御救いしたいです」
「そしてバイエルンをですね」
「その為にもです」
 あえて王を退位させた。そうしてなのだった。
 王の診察の結果王を狂気に陥ってるとした。しかしそれはだった。
 偽りだった。その偽りには後ろめたさがある。良心とその後ろめたさの間でだ。
 彼もまただ。動いていた。そしてだった。
 ホルニヒ達は計画を決定した。そのことについてだ。
 エリザベートにだ。こう話したのである。
「陛下が湖に来られた時にです」
「その時にですね」
「はい、小舟を出して御救いします」
「あの方は毎日湖のほとりや森の中を散策されていますね」
「はい、そのお姿を確認しています」
 ホルニヒはこのことを皇后に述べた。
「ただ。周りには兵士達がいます」
「それをどうするかですが」
「既にビスマルク卿が動かれています」
 ここでも彼だった。その卓越した政治力を使ったというのだ。
「あの方がバイエルン側にベルリンに軍を呼んでおられます」
「その陛下の身辺を固める兵達をですか」
「彼等にそうしたのです。それも急に」
「では今は」
「はい、陛下の身辺は間も無く監視が緩みます。そして」
「そうしてですね」
「ベルリンの方々が陽動に出られます」
 ビスマルクの部下達、その彼等もだというのだ。
「そうしてその減った兵達をひきつけます」
「そしてその間に」
「はい、陛下をです」
 救いだすというのだ。そしてだった。
 

 

654部分:最終話 愛の死その五


最終話 愛の死その五

 皇后はだ。ここで言った。
「ただ。問題はです」
「それはですね」
「そうです。事前に陛下がご存知ならば」
「では私がお伝えしましょう」 
 皇后がここで言った。
「そうさせてもらいます」
「皇后様がですか」
「バイエルンの宮廷は私の実家です。ですから」
「陛下にお伝えすることもですか」
「いえ。あの城の場所はわかっていますので」
 それでだというのだ。
「真夜中に密かに窓に人をやってです」
「そうして陛下に」
「はい、お伝えします」
 そうするというのだ。王に対して。
「都合のいいことにあの方は夜に起きられていますので」
「だからこそですか」
「真夜中に。あの方のお部屋の窓のところに人をやりです」
 そしてだ。王に伝えるというのだ。
「そうします」
「それではですが」
 皇后の話を聞いてだ。ホルニヒは。すぐにだった。
 皇后に対して身を乗り出してだ。己の胸に右手を当てて申し出たのだった。
「その役目は私が」
「貴方がですか」
「はい、そうさせて頂けるでしょうか」
「見つかるかも知れませんが」
「断じてそうはなりません」
 彼とてだ。覚悟はできていた。それでだった。
 強い言葉でだ。皇后に対して申し出たのである。そのホルニヒの顔を見てだ。
 皇后もだ。暫し考えそのうえでだ。彼に述べた。
「わかりました」
「ではその様にして」
「はい、お願いします」
 ホルニヒにだ。静かに告げたのだった。そしてだ。
 ホルニヒは皇后の言葉を受けてだ。その前に片膝をついた。そのうえで言ったのである。
「有り難き幸せです」
「御礼には及びません。ですが」
「はい、必ず陛下にお伝えします」
「貴方があの方にお伝えしてからです」
 それからだというのだ。ホルニヒとベルリンの者達にも話す。
「私達は動きます」
「いよいよですね」
「間も無く賽は投げられます」
 運命のだ。それがだというのだ。
「そしてその賽がです」
「陛下をお救いするのですね」
「その通りです。あの方は王です」
 バイエルン王、そうであるというのだ。
「狂人として囚われになっている様な方ではないのですから」
「そうです。だからこそ」
「私達は賽を投げましょう」
 皇后は確かな顔で周囲を見つつ言った。
「間も無く」
「畏まりました。それでは」
「あの方の為に」
 誰もがだ。皇后の言葉に頷きだ。そうしてだった。
 ホルニヒは皇后からだ。その城の王が幽閉されている部屋の窓のところに向かった。夜に紛れて。
 夜は黒ではなかった。濃紫だった。その紫の中でだ。
 

 

655部分:最終話 愛の死その六


最終話 愛の死その六

 彼はだ。同行しているベルリンの者の一人にだ。こう言ったのだった。
「あの方は夜を愛しておられますが」
「そのことですか」
「はい、それが今よくわかります」
 そうだというのだった。
「夜は決して闇ではなく」
「それとは違いですか」
「澄んで清らかなものです」
 黄色い月もあった。その淡い光も見つつ言う彼だった。
「そしてそこにこそ全ての美の源があるのです」
「夜にですか」
「はい、この夜にです」
 まさにだ。その夜にだというのだ。
「それがあります」
「あの方が夜に過ごされているのは知っていましたが」
 ベルリンの者はそのホルニヒにこう答えた。
「しかしです」
「貴方は夜は」
「夜は魔の時と言われていました」
 キリスト教の世界ではだ。そうなっていることだった。
「ですからいい印象はありません」
「左様ですか」
「吸血鬼や人狼が跳梁する時」
 どちらもゲルマンの世界でもよく囁かれている存在だ。特に狼にまつわるものは。
「幼い頃よりそう聞いていましたので」
「だからこそですか」
「はい、夜は好きではありません」
「多くの方はそうですね」
 それもその通りだとだ。ホルニヒは彼の言葉を認めた。その夜の中の森。王の城を覆うその深い静かな森の中を進みつつ述べたのである。
「夜についてはいい思いはありません」
「しかしあの方はですか」
「はい、あの方は違います」
 王はだ。そうだというのだ。
「あの方はこの夜にそれを見出しておられるのです」
「だから夜におられたのですか」
「はい、そうです」
 まさにだ。そうだというのだ。
「それ故にです」
「美は夜にあるもの」
「私はこれまで頭ではわかっていました」
 そのことがだというのだ。
「しかし心ではです」
「そうではなかったのですか」
「その通りです。今になってです」
「そうだったのですか」
「しかし。わかれば」
 どうかというのだ。そうなれば。
「この中にずっといたいと思います」
「夜の中に」
「そうです。この中にです」
 いたくなっているというのだ。昼ではなくだ。
 その夜の月明かりの中を進みつつだった。やがてだ。
 館が見えてきた。その館を見てベルリンの者が言った。
「あの館ですね」
「はい、皇后様の仰っていた」
 二人は直感した。あの館こそがだとだ。そしてだ。
 その中の一室、柵のある窓を見てだ。彼等は確信した。
「あの部屋ですね」
「はい、あの部屋だけ柵があります」
「それならあの部屋に陛下がおられます」
「間違いありませんね」 
 こう言い合いだ。そうしてだった。
 周囲を見回す。幸い今はだった。
 見張りの兵達はいない。彼等にとって僥倖だった。ビスマルクの策略が功を奏したのだった。
 その僥倖に感謝しつつだ。彼等は。
 そっと王の部屋のところに近付く。するとだ。
 鋭い王は人の気配に気付いた。そうしてだった。
 窓のところに出る。そして彼を見たのだった。見てすぐにだった。
 全てを察していたことを隠し仮面を被ったうえで。彼に尋ねたのである。
「何故ここに来たのだ」
「申し訳ありません。ですが」
「私を救いに来たというのか」
「はい」
 窓越しにだ。王に答えたのである。
「その為にです」
「済まないな」
 王は仮面のままで彼に礼を述べる。しかし彼はそのことに気付かない。
 

 

656部分:最終話 愛の死その七


最終話 愛の死その七

 そして気付かないままに。王に言うのだった。
「間も無くですから」
「私をここから出すというのか」
「そうです。湖にいらして下さい」
 場所はそこだというのだ。
「そこに来られればです」
「そなたが船を出してか」
「はい、そうしてお救いしてです」
 そうしてだというのだ。
「一旦バイエルンから出てです」
「バイエルンから出る。そうか」
 ホルニヒのこの言葉からだった。すぐにだった。
 王はこのことに関して誰が関わっているのか察した。そうしての言葉だった。
「シシィにビスマルク卿がか」
「おわかりになられたのですか」
「何となくだが」
 これもまた直感で感じ取ったことだった。
 そして感じ取ってからだ。王は述べたのである。
「あの方々が共にか。私の為に」
「陛下のことを思われてです」
 二人共だ。そうして動いているというのだ。
「全ては」
「そうか。有り難いことだ」
 この気持ちは有り難かった。王の心はそこにはないにしても。
 そうしてだった。王は言うのだった。
「では湖だな」
「そうです。明日です」
「明日か。早いな」
「早いうちに進めるべきお話ですので」
 だからこそだと述べるホルニヒだった。こうしてだった。
 王にだ。全てのことを伝えた。そのうえでだ。
 ホルニヒは王に一礼してからだ。述べたのである。
「では。今宵はこれで」
「帰るのか」
「申し訳ありません」
 こう王に告げたのである。
「明日です」
「その明日だな」
「陛下はここから出られますので」
「わかった。では明日だな」
「もう少しだけのご辛抱ですので」
 王に告げ終えてだ。そのうえでだ。
 王の前から姿を消した。その彼を見届けてだ。
 彼とベルリンの者は姿を消した。そうしてだった。
 王の前から姿を消した。王はその彼の姿を見送ってからだ。部屋に一人になるのだった。
 そうしてだ。今はいない騎士に対して告げたのである。
「明日か。卿はどうするつもりか」
 いない彼に告げてだ。一人ソファーに座るのだった。そうしてだった。
 その翌日だ。外は雨だった。しかしだ。
「散策をですか」
「そうだ。外に出たいのだ」
 診察に来たグッデンにこう告げたのである。
「そうしたいのだが」
「この雨で」
「駄目か、それは」
「雨ですが」
 雨のせいでだ。ただでさえ減っている兵達はもういない。グッデンはこのことにも危惧を覚えた。
 だがそれでもだった。グッデンは。
 王の言葉に迷う顔になりながらもだ。そのうえでだ。
 彼はだ。王に述べたのである。
「わかりました」
「いいのだな」
「私も同行させてもらいます」
 こう言ったのである。
「それで宜しいでしょうか」
「構わない」
 グッデンの意図はわかっていた。それと共にだ。
 その意図が無駄なものであることもわかっていた。そのうえでの言葉だった。
 王はグッデンに対して答えたのである。
「ではだ」
「はい、では六時に」
「夕方のだな」
「ではその時間に」
「うむ、行こう」
 こうしてだった。王は夕刻に散策に出ることになった。その話を聞いてだ。
 

 

657部分:最終話 愛の死その八


最終話 愛の死その八

 ホルンシュタインは暗い顔になりだ。グッデンに対して述べたのだった。
「この雨にですか。何故」
「いえ、それはです」
「反対する材料がないと」
「そうです」
 だからだというのだ。
「いいと思いまして」
「しかし」
 ホルンシュタインは曇った顔で窓の外を見た。外には雨が降り続けている。
 その雨を見てだ。グッデンに話すのだった。
「今は兵達もいませんし」
「そうですね。この雨ではとても」
「しかしそれでもですか」
「特に反対する理由もありませんし。それにです」
「ここでお断りすればですか」
「陛下の御気持ちにとってもよくありません」
 王への気遣いはここでも忘れていなかった。
 そしてそれ故にだとだ。彼は言うのだった。
「閉じ篭っていてはこれまでと同じです」
「それはその通りですが」
「だからこそです」
 これは医師としての的確な言葉だった。
「私は今回の散策に同意しました」
「だからこそですか」
「散策、身体を動かすことは健康にいいだけでなく」
「心にもですね」
「気分転換になりますし外の空気にも触れられます」
 だからいいというのだ。
「それに湖や森の傍や中にいることは」
「森林浴にもなりますし」
 いい条件は他にもあった。今回の散策に関して。
「ですからよいかと」
「しかしです」
 ホルンシュタインは不安を拭いきれない。それでだ。
 グッデンに対してだ。窓の外を見つつ述べるのだった。
「この雨ですし兵達も外にいませんし」
「私一人ではいざという時にですか」
「陛下をお慕いする者、誤ってそうしている者がいるかも知れません」
 ホルンシュタインの主観からだ。述べたことだった。
「ですからその際は」
「この雨です。流石にそうした者達がいてもです」
「何ともありませんか」
「はい、いられません」
 雨に負けるというのだ。グッデンは雨を過信していた。
 そしてそのうえでだ。ホルンシュタインに述べるのだった。
「それに陛下に何があろうとも」
「その際は」
「クロロフォルムがあります」
 薬だった。それがあるというのだ。
「出来る限り手荒なことはしたくありませんが」
「それでもですね」
「はい、切り札もありますので」
「だから安心していいというのですか」
「そう判断します」
「そうであればいいのですが」
 まだ不安を隠しきれない。しかしだった。
 ホルンシュタインはグッデンに押し切られる形で頷いたのだった。こうしてだ。
 王の散策はグッデンと二人で行われることとなった。そうしてだ。
 グッデンはホルンシュタインと二人で王の部屋の扉をノックした。そのうえでだ。まずは王の言葉を待った。そしてすぐにだった。王の声が聞こえてきた。
「どうぞ」
「はい」
 儀礼的なやり取りの後でだ。二人は扉を開けた。そのうえでだ。
 王に対して一礼、これも儀礼的に行いそのうえでだ。王に述べたのである。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、いいです」
「左様ですか」
「では今からです」
 王はややせっかちな調子でグッデンに述べる。
 

 

658部分:最終話 愛の死その九


最終話 愛の死その九

「散策に出掛けましょう」
「では今から」
 こうしてだ。王はグッデンと共に散策に向かう為にだ。部屋を出た。その王を見てだ。
 ホルンシュタインは顔をあげられなかった。例え王の為にしているとはいっても後ろめたさがあるからだ。その王が彼の横を通る。するとその時にだった。
 王がだ。その彼に言ったのである。
「わかっている」
「!?」
 声を出さなかった。しかし心で言ってしまった。その彼にだ。
 王はだ。通り過ぎながら告げたのである。
「誰も。卿も私への敬意と愛情があるのだ」
 ホルンシュタインもルッツも、そしてグッデンもだというのだ。
 王もそのことはわかっていた。そのうえでの言葉だった。
「それ故のことだということはだ」
「・・・・・・・・・」
 ホルンシュタインは思わず唖然とした顔になりだ。顔をあげた。
 そしてそのうえでだ。王に顔を向けた。その彼にだ。
 王は前に進みながらだ。告げるのだった。
「だが。私を理解してはいなかった」
「理解・・・・・・」
「そのことだけを残念に思う」
 こう言い残してだ。王はその場を後にするのだった。そうしてだった。
 グッデンと二人で城の外に出た。その王の姿は。
 湖に小舟を出すホルンシュタインからも確認された。そのうえでだ。
 彼はだ。共にいるベルリンから来た同志の一人にだ。こう言ったのである。
「陛下が来られました」
「はい、遂にですね」
「なら今すぐに」
 ホルニヒはオールをこぎながらだ。そのうえで言うのだった。
 気持ちが自然に焦っている。その彼にだ。
 同志はだ。こう言って彼を止めようとする。
「待って下さい、出過ぎています」
「出過ぎて!?」
「はい、湖の中にです」
 雨の湖の中の視界を遮るものは何もなかった。それ故にだった。
「もっと端に寄りましょう」
「水草に隠れてですか」
「はい、さもないと見つかります」
 彼等がだ。そうなるというのだ。
「そうなっては元も子もありません」
「それはわかっています。ですが」
「ですからもう少し端に寄りましょう」
「陛下がそこにおられるというのに」
 湖のほとりを二人で歩く王を見続けながら。ホルニヒは必死の顔で同志に話す。
「それでもなのですか」
「この行動は成功しますから」
「だから焦るなというのですか」
「はい、そうです」
 それ故にだというのだ。
「今は慎重にです」
「慎重に進みですか」
「バイエルン王に近付きましょう」
「そうするべきなのですね」
「焦りは禁物です」
 それはくれぐれもだというのだ。
「だから宜しいですね」
「わかりました」
 ホルニヒは同志の言葉をだ。焦る気持ちの中で何とか抑えた。そのうえでだ。
 小舟を湖の端に寄せ少しずつ慎重に進む。そうしてだ。
 王のすぐ傍まで何とか来た。そのうえでだ。
 ホルニヒがだ。必死の声で王を呼んだのである。
「陛下、お待たせしました」
「ホルニヒか」
「早く小舟に」
 こうだ。手を差し出してさえ王を呼ぶのだった。
「お急ぎ下さい、早くこの舟に」
「これが忠義、そして愛情だな」
 王はホルニヒに応える前に呟いた。そうしてだ。
 

 

659部分:最終話 愛の死その十


最終話 愛の死その十

 ホルニヒに対してだ。こう返したのだった。
「わかった。それではだ」
「はい、お急ぎ下さい」
 王が湖に向けて歩きだすのを見てホルニヒは笑顔になった。
 王はそのまま湖の中に入ってゆく。小舟はさらに王に近付いていく。
 だがそれを見てだ。グッデンは焦ってだ。
 王に駆け寄る。そして何とか止めようとする。
「陛下、お待ち下さい」
「行くなというのか」
「行ってはなりません」
 まさにだ。そうだというのだ。
「行かれては。それは」
「陛下!」
 ホルニヒはそのグッデンを見て焦る。そしてだ。
 ベルリンの者に顔を向けてだ。そのうえで頼むのだった。
「どうか。もっと」
「はい、このままでは危ういです」
「早く。陛下をお助けしなければ」
 こうしてだ。小舟は王を救おうとだ。小舟を急いで岸辺にやる。そうしてだった。
 王まであと僅かの距離にまで至った。王は湖の中に下半身を完全につけていた。そうしてだった。
 小舟に手をやろうとする。しかしだった。
 グッデンはその王の服の袖を掴んだ。その時に言った。
「陛下、失礼します」
 まずは王の服の袖を掴んだこと、そしてだった。
 懐からクロロフォルムを含ませたハンカチを出す。それで王を止めようとすることにもだ。
 謝罪の言葉を述べてだ。王を何とか止めようとする。だがホルニヒも迫る。王はどちらに向かうことができるのかわからなくなっていた。しかしだった。
 この時それまで降っていた雨が止んだ。そのうえで。
 空が青く澄みわたりだ。湖の向こう側から。
 白鳥が来た。その白鳥に曳かれてだ。もう一艘小舟が来た。
 そしてその小舟に乗っているのは。彼だった。
 その彼がだ。グッデンを見た。それだけでだ。
 波が起こり彼はその中に飲み込まれた。そうしてだった。
 騎士を乗せた小舟は王の傍まで来た。そのうえで王に言ってきたのだ。
「陛下、時が来ました」
「そうか。それは今だったのか」
「はい、今です」
 それはだ。今だというのだ。
 そしてそのうえでだ。王に話すのだった。
「今がその時なのです」
「わかった。それではだ」
 王は何時しかだ。湖から出てだ。その上に浮かんでいた。
 水面の上に立ちだ。騎士と向かい合い微笑みだ。彼に言ったのである。
「行くとするか」
「その為にお迎えに参りました」
「では行くとするか」
 王は湖の上に立ったまま足を踏み出す。だがその横からだ。
 ホルニヒがだ。王に必死に言った。彼はそうしたのだ。
「陛下、この世ならざる者の言葉に惑わされてはなりません」
「いや、これは私の運命なのだ」
 そのホルニヒにだ。王は顔を向けて言ったのだ。
「あの城に行くことはだ」
「あの城とは」
「そなたもこの世での生が終わればわかる」
 このうえなく優しく、そして王がこれまで生きた中で最も満ち足りた顔での言葉だった。
「その時になればな」
「その時とは」
「私は今から私の行くべき場所に行く」
 そうしてだというのだ。
「そしてそのうえでだ」
「そのうえでとは」
「王になるのだ」
 その場所でもだ。そうなるというのだ。
 

 

660部分:最終話 愛の死その十一


最終話 愛の死その十一

「永遠の玉座に座るのだ」
「永遠の玉座・・・・・・」
「今までよく私に仕えてくれた」
 感謝の言葉もだ。彼に告げたのである。
「そしてシシィとビスマルク卿にも伝えて欲しい」
「あの方々にもですか」
「心から感謝している。忘れないと」
 このこともだ。伝えて欲しいというのだ。
「あの世界でもだ」
「左様ですか」
「ではだ。私はもう行く」
 王がいるべきその世界にだというのだ。
「それではな」
「陛下・・・・・・」
 こうしてだった。王は騎士の小舟に乗り。そのうえでだ。
 騎士の後ろに立ち白鳥に導かれてそのまま湖の向こうに消えていく。ホルニヒはその王を見送るしかできなかった。
 王が戻らないことにだ。ベルク城では騒ぎになった。そしてだ。
 ホルンシュタインは蒼白になりだ。周囲に言った。
「まさかと思うが」
「はい、陛下は」
「誰かに」
「すぐに兵を出す、そして城にいる者は誰でもいい」
 総動員してだというのだ。
「捜索に出せ、いいな」
「わかりました。それでは」
「すぐに」
「もう夜だ」
 見ればそうなっていた。外は暗くなっていた。そしてだ。
 彼は兵達も城の者達も総動員してだ。王の捜索に出た。
 松明を出してその灯りを頼りにだ。王とグッデンを捜した。そしてまずは。
 兵の一人がだ。湖の岸辺で嘆きの声をあげたのである。
「大変です、グッデン博士が」
「無事か!?」
「いえ・・・・・・」
 泣きそうな声でだ。ホルンシュタインの言葉に応える。
「残念ですが湖の中で」
「馬鹿な、では」
 グッデンの死を悟り。そしてだった。
 別の場所からもだ。声がしたのだった。
「陛下がおられました」
「ですが既に」
「・・・・・・・・・」
 彼等の声を聞いてだ。ホルンシュタインは呆然となった。そうして。
 蒼白となった、自失になった顔でだ。王の場所に来て。
 そのうえで王を見てだ。その場に倒れ込んで言うのだった。
「こんなことになるとは・・・・・・」
 彼にとっては考えたくもない結果になった。全ては終わった、彼はそう思ったのだ。
 だがだ。まだ湖の中に、小舟の中にいるホルニヒはだ。ベルリンの者とだ。
 その松明を見てだ。静かに言うのだった。
「あれは陛下への」
「我々が先程見たものは一体」
 ベルリンの男は流石にビスマルクが直々につかわした者だ。何とか我を保っていた。流石に顔は蒼白になっているがそれでもだ。
 そうしてだ。ホルニヒに言うのだった。
「何だったのでしょうか」
「わかりません。ただ」
「ただ?」
「あの松明達は」
 ベルク城から出て王に集る松明達を見て彼は言うのだった。
 その夜の中の赤い松明の光、それを見てだった。彼は澄み切った声で言ったのである。
「陛下への祝福ですね」
「祝福ですか」
「私にはそう見えます」
 その松明達を見ての言葉だった。
「新しい世界に行かれる陛下への」
「あれは一体何だったのでしょうか」
 ベルリンの者は自分が見たものについてホルニヒに問うた。
「夢ではなかったのはわかりますが」
「はい、あれは現実です」
「現実にあったものとはとても思えないですが」
「そうですね、ですが」
「現実であり」
「陛下は新しい世界に行かれました」
 また言うホルニヒだった。
 

 

661部分:最終話 愛の死その十二


最終話 愛の死その十二

「それへの祝福です」
「そうなのですか」
「ではです」
 王は救えなかった。それでもだ。
 ホルニヒは満ち足りた気持ちでいてだ。そのうえでだ。
 同志である彼にだ。顔を向けて言ったのだった。
「一旦エリザベート様の下に戻りましょう」
「そうですね。ここにいても仕方がありません」
 目的は果たせなかった。そしてこれ以上ここにいて見つかればだ。
 彼等の素性がわかり外交問題になる。それを避ける為にだ。彼もホルニヒに同意した。
 そしてだ。そのうえで言うのだった。
「ではこれで」
「はい、戻りましょう」
 こうしてだった。彼等は皇后の下に戻った。そして皇后に一部始終を話しビスマルクにも電報を送った。話を聞いた皇后はまずは静かにだ。こうホルニヒに告げた。
「わかりました」
「この話を信じて頂けますか」
「はい」
 またしても静かに答える皇后だった。
「貴方は嘘を吐く方ではありませんから」
「有り難きお言葉」
「それにです」
「それに?」
「あの方のことを考えれば」
 王のだ。それをだというのだ。
「信じられない話ではありません」
「陛下のことをですか」
「あの方はああなる運命だったのです」
 その王の話もするのだった。
「彼に導かれて。あの世界に入る」
「あの世界とは」
「ワーグナー氏の歌劇にある世界です」
 そこにだというのだ。
「そこに赴かれたのです」
「ワーグナー氏の世界ですか」
「おわかりになられますね」
 ここまで話してからあらためてホルニヒに問うた。皇后は今彼の目を見ていた。
 目と目が合う中でだ。ホルニヒも答えた。
「あの。パルジファルのですか」
「そうです。あの世界にです」
「あの方は入られたのですか」
「その通りです」
 皇后は静かにホルニヒに話す。
「そうなられる運命だったのです」
「そうだったのですか」
「そうです。私はわかっていたのですが」 
 王の運命をだ。しかしだった。
 ここで皇后は遠い目になりだ。そのうえでだ。
 ホルニヒにだ。話すのだった。
「希望を見たかったのです」
「希望ですか」
「私個人の希望をです」
 こう言ったのである。
「あの方にこの世に留まって欲しかったのですが」
「あの方があの世界に入られることをご理解のうえで」
「はい、そうだったのです」
 このこともホルニヒに話したのである。
「ですが。運命は変えられませんでしたね」
「そうなりましたか」
「では。私は」
 そしてだというのだ。皇后は。
「この場を離れます」
「ウィーンに戻られますか」
「はい、これ以上ここにいては怪しまれますし」
「そうですね。ミュンヘンでも気付かれるかと」
「目的は達せられませんでした」
 皇后個人の希望、それがだというのだ。
 その話をしてだ。皇后はウィーンを後にした。そしてだ。
 ベルリンでもだ。ビスマルクもだ。
 電報を聞きだ。己の席から言ったのだった。
 

 

662部分:最終話 愛の死その十三


最終話 愛の死その十三

「こうなるしかなかったのだが」
「それでもですか」
「あえてだったのですか」
「そうだ。私はあの方をお救いしたかった」
 この希望は皇后と同じだ。そしてだ。
 そのことを語ってだ。周囲に対してだ。
 こうだ。静かに、彼もそうなって言ったのである。
「ドイツの為以上に。私個人の希望としてそうしたのだが」
「残念なことにですか」
「あの方をお救いできなかったというのですね」
「あの方はあの方がおられるべき世界に入られた」
 彼も言うことだった。
「そしてその世界で永遠に生きられるのだ」
「それは天界でしょうか」
「似ているが違う」
 そしてだ。そこは何処かというと。
「聖杯の世界だ」
「そこにですか」
「あの方は入られたのですか」
「そうだ。そしてあの世界で生きられるのだ」
 こう話してだ。そしてだった。
 ビスマルクはあらためてだ。側近達に言ったのだった。
「このことは。わかるな」
「はい、公にせずにですね」
「情報の全てを消去されますね」
「そうする。それでいいな」
「はい、わかりました」
「それでは」
 側近達も応えてだ。そのうえでだ。
 ビスマルクは一旦溜息を吐き出して。それからだった。
 ペンを手に取りだ。また周囲に話した。
「全ては伝説の中に消えた。だが」
「だが?」
「それでは」
「それが現実のものだとは。殆どの者にはわからないことだ」
 そうしたものだと話してだった。彼は自分の仕事に取り掛かる。
 その顔は普段と変わらない。しかしだった。そのオーラには明らかな寂寥、そして残念に思うものがありだ。そのうえで今はその場にいるのだった。


最終話   完


                   2011・12・22
 

 

663部分:エピローグ 至高の救いその一


エピローグ 至高の救いその一

                     エピローグ  至高の救い
 王の遺体はすぐにミュンヘンに運ばれた。その王の都でだ。
 大々的な葬儀が行われる。王の棺は町を進んでいく。
 その棺にだ。民衆が集まりだ。手に手にだった。
 青い花を捧げていく。それはジャスミン、王のこよなく愛した青い花だった。
 その青い花を見てだ。葬儀を取り仕切るルイトポルド大公は言うのだった。
「それだけあの方が愛されていたのだな」
「はい、あの方は嫌われる方ではありませんでした」
「誰からも敬愛されている方でした」
「だからこそです」
「ああして花を捧げられるのですね」
「それに相応しい方だ」
 大公はやや俯きつつ周囲に述べた。その傍らにはホルンシュタインがいる。
 だが彼は何も語らない。沈痛な顔で俯いているだけだ。
 その彼を気遣う様に見てからだ。また言う大公だった。
「あの方は他の王の方々と共にだ」
「はい、安らかに眠られますね」
「これからは」
「私が言えることではないが」
 それでもだと話す大公だった。
「素晴らしい君主だった」
「それなのにこうなった」
「そのことがですね」
「残念だった」
 こう言うのだ。
「私の責任だが。だからこそだ」
「だからこそですか」
「殿下が」
「このことの咎は全て私が受けよう」
 十字架をだ。背負うというのだ。
「そうする。そしてだ」
「そして?」
「殿下、今度は一体」
「何をされるのでしょうか」
「葬儀の後で考えていることがある」
 こうした話をするのだった。
「それをしたい」
「御考えになられていることをですか」
「それをですか」
 周囲はこう言ってもだ。それでもだった。
 大公が何をしたいのかはわからなかった。その話の間にもだ。
 王はその眠るべき場所に向かっていく。誰も王に嫌悪や侮蔑の目を向けず深い敬愛の目を向けている。そうしてそのうえでだ。王に最後の別れを告げていた。
「陛下、御別れです」
「今までお疲れ様でした」
「安らかにお眠り下さい」
 厳粛な鎮魂歌が演奏されその中でだ。国の大通りを進みだ。王は旅の最後を進んでいた。民衆も兵達もだ。誰もが涙を流し王の棺を見送っていた。
 他国の外交官達もだ。こう言うのだった。
「これだけ敬愛されていた王はあまりいないでしょう」
「それだけ立派な方だったのですね」
「芸術と文化を愛された方でした」
「素晴らしい方でした」
 誰もがだ。王について賞賛の言葉を贈る。葬儀は壮大でだ。しかも厳粛な中で行われた。
 それが終わってからだ。大公はだ。側近達にこう言うのだった。
「陛下の築かれた城達だが」
「陛下は爆破しろと仰っていました」
「御自身がなくなられたら」
「ではあの城達はですか」
「全てですか」
「いや」
 そうではないとだ。それは否定する大公だった。
 

 

664部分:エピローグ 至高の救いその二


エピローグ 至高の救いその二

「それはしない」
「ではどうされるのですか」
「あの城達は一体」
「爆破されないとなると」
「残す」
 まずはだ。そうするというのだ。
「そして開放したいのだ」
「開放とはまさか」
「あの城達をですか」
「全てどの者にも見せる」
「そうされるのですか」
「そうだ。そうするのだ」
 城を開放して誰にも見せる、大公はそう言うのだった。
 そしてだ。彼はだ。側近達に問うたのである。
「これについてどう思うか」
「考えも及びませんでした」
「まさか。その様なことをお考えだとは」
「あの城達を開放してですか」
「多くの者に見せるのですか」
「私のあの城達は見た」
 王に招かれたことがある。その時にだ。王が築いた城を全て見ているのだ。
 そのうえでだ。大公は言うのだった。
「ただ美麗なだけではないからな」
「それだけではないとすると」
「他には何があるのでしょうか」
「一体」
「それは開放してからわかる」
 大公は穏やか、かつ静かに決意している顔で述べた。
「その時にだ」
「よくわかりませんがしかし」
「あの城達を開放される」
「そのことは絶対にですね」
「行う。いいな」
 こう側近達に告げてだ。大公は王が築いたその城達を全て開放し誰もが入城しその外も中も観られる様にした。その城達を見てだ。誰もが思い言うのだった。
「これがあの王の城か」
「ワーグナーの世界、それにバロックか」
「ロココもある」
「これがあの王の世界か」
「それが全てあるのか、この城に」
 豪奢な、それでいて気品のある美に満ちた城の中を見回してだ。彼等は言うのだった。
 そして誰もが王について思いだ。王について語る。
 城達を見てだ。誰もが王に敬愛を抱くのだった。王への賞賛はこの世にいなくなってからも続きだ。それはさらに高まっていた。
 このことは大公にも伝わる。
 大公はそのだ。ノイシュバンシュタイン城、王が愛したその城において言うのだった。
「いいことだ」
「城を開放したことにより多くの者が観ることをですか」
「この城達を」
「そうだ。非常にいいことだ」
 こう言ったのである。
「このことはだ」
「陛下が築かれた城を多くの者を観る」
「確かに。観光資源になっています」
「多くの者が訪れていますし」
「我が国にとっても実入りがいいです」
「しかしそれとは別のことですね」
「今殿下が仰っているのは」
 側近達は次々にだ。大公に尋ねる。
 そして大公もだ。彼等にこう答えたのである。
「そうなのだ。あの方が多くの者に後世まで愛され」
 そしてだというのだ。
「理解されようとすることがだ」
「その為にだったのですか。この城達を開放されたのは」
「それ故に」
「あの方は理解されたかったのだろう」
 大公はこう考えたのである。
 

 

665部分:エピローグ 至高の救いその三


エピローグ 至高の救いその三

「だからこそだ」
「それ故にですか」
「あの方は理解されたかったのですか」
「そうだったのですか」
「そう思えるのだ」
 大公は城の中を歩いていく。そのワーグナーとバロック、ロココの中をだ。
 白を基調にして青と金が所々にある。今は観光客のいない城の中を見回りワーグナーが描かれた絵画、王が細かい部分まで指摘したその絵も観た。
 それからだ。共にいる側近達に述べたのである。
「だからこそこの城も他の城も開放したのだ」
「そして陛下はこれからもですか」
「多くの者の記憶に残る」
「そうなるのですね」
「そうだ。そして考えられ」
 王についてだ。そうだと言ってだ。
 そのうえでだ。側近達に述べたのである。
「理解する者が現れたならだ」
「それならいいのですね」
「それが殿下のお考えなのですね」
「そうだ。私はあの方に何もしてあげられなかった」
 後悔と共にだ。大公は述べた。
「だから今せめてだ。こうしてだ」
「陛下の為に」
「為されますか」
「あの方は永遠の謎だ」
 大公はその白い床の上を歩きながら述べる。
「だが。少しでも理解できる者が現われることを祈る」
「そうですね。では我々も」
「これからも陛下のことを愛し思わせて頂きます」
「そうしてくれると何よりだ」
 大公は顔をあげてだ。そのうえで上を見た。そして王に想いを馳せつつだ。王の築いた城の中を歩くのだった。
 王はこの時だ。森の中にいた。その先導には。
 あの騎士がいた。白銀の鎧と白いマント、それに剣を手にした彼が王を先導する。その騎士が王に言うのだった。
「この森のことは御存知ですね」
「無論だ」
 王は答える。その森は。
 深くはない。奇麗な緑の葉が花の様に咲き誇りそのうえでだ。
 白い日差しが差し込む。その中をだ。二人で進みだ。
 王は自然と美しいものを見る目になっていた。そのうえでの言葉だった。
「私は旅の終わりにここに来る運命だったのだ」
「そうです。そして今がです」
「旅の終わりだな」
「陛下は私を御覧になられ」
 そうしてだというのだ。騎士も微笑みつつ王に話す。
「接吻を受けられました」
「クンドリーのあの接吻をだな」
「そして旅を終えられてです」
「今私が入るべきだった城に入ろうとしているのだ」
「そうです。だからこそ」
 それ故にだというのだ。
「入られましょう」
「そうだな。それではな」
「間も無く城に着きます」
 森は自然に動きだ。二人を導きだ。
 そしてそのうえでだ。二人はある城の前に来た。その城は。
 ノイシュバンシュタイン城を思わせる。白く見事な城だ。緑の森と青い湖に囲まれている。その城の前に来たのだ。ここで騎士は王に顔を向けて言ったのだった。
「着きました」
「そうだな。遂にだな」
「では中に入りましょう」
「それではだな」
 王も応え。そうしてだ。二人は門、樫の木の見事な門の前に来た。するとだ。
 王は自然に清められた。聖油がその頭にかかりその服がだ。
 騎士のそれと同じだがそれ以上に豪奢な銀の鎧、それに白い服とマントになりだ。
 その姿で門に向かって進む。するとだ。
 門は開いた。自然に。その門を潜ると。
 廊下もその左右にある部屋もだ。ノイシュバンシュタイン城を思わせるものだった。
 

 

666部分:エピローグ 至高の救いその四


エピローグ 至高の救いその四

 城だ。そしてその中に青があり金がある。どの部屋も美麗でしかも清らかだった。
 その部屋も見つつだ。王は言うのだった。
「私が思い描いていた通りだな」
「それも当然です」
 今は王の少し後ろにいる騎士がだ。王に答える。
「この城は陛下が主になられるべき城なのですから」
「そうだな。だからこそだな」
「はい、ですから」
「この城は私そのものなのだ」
 そこにまで至るというのだ。
「だから。この城はだ」
「はい、陛下の思い描かれるものになるのです」
「ではこの城において」
「これよりお願いします」
「その場所のことはわかっている」
 それはだ。もうだというのだ。
「ではそこに行こう」
「既に皆待っています」
 この城にいるのは王と騎士だけではないというのだ。
「陛下に仕える彼等が」
「王は仕える者がいて王となる」
 王だからこそだ。誰よりもわかっていることだった。
「だからこそだな」
「その通りです。それではです」
「彼等とも会おう」
「そして即位の儀式を」
「あの二つもあるのだな」
 王は前を見ながら騎士に問うた。
「私が持つべきあの二つのものが」
「無論です」
「そうだな。あれがなければな」
「この城がある意味がありません」
 騎士も言うのだった、
「あの二つのものを守護する城なのですから」
「だからこそ城の名にもなった」
 王は今度はその城の名も口にした。
「聖杯城、そのままな」
「それがこのモンサルヴァートです」
 騎士もだ。城の名を言葉に出した。
「陛下のおられるべき城です」
「そうだ。ではあの二つを手にしてだ」
「陛下は玉座に座られます」
「私が座るべき。定められた玉座」
 王はまた言った。
「儀式を行いそのうえで」
「お座り下さい」
 こう騎士と話した。そしてだった。
 王は廊下を歩き終え広間に出た。そこは城の中にある吹き抜けの部屋だった。
 一階に騎士達が円形にだ。中央を囲んで集っている。そして二階にも。
 三階にもいる。四階にもだ。天界に続く。白い光が差し込むその吹き抜けの広間の中央はだ。一段高くなりそこに白銀の壇があった。そしてその上にだ。
 白く神秘的な輝きを放つ杯があった。その古の杯こそが。
「遂に私はあの杯を見た」
「あれこそがです」
「わかっている。聖杯だな」
「はい」
 その通りだとだ。騎士は王に一礼して述べた。
 そしてだ。その王の傍にだ。
 一人の老騎士が歩み寄って来た。そのうえでだ。
 頭を下げたうえで王にあるものを両手で差し出した。それは。
 槍だった。巨大な刃を持つやはり白銀に輝く槍だった。その槍をだ。
 王は手に取った。そのうえで右手に持った。そしてだ。
 老騎士に顔を向けてだ。こう問うたのである。
「卿がだな」
「私のことを御存知でしたか」
「グルネマンツだな」
 この名をだ。彼に問うたのである。
 

 

667部分:エピローグ 至高の救いその五


エピローグ 至高の救いその五

「そうだな」
「はい、そうです」
 その通りだとだ。老騎士が王に答える。
「その通りです」
「卿がいてそうして」
「私がいます」
 騎士もここで名乗る。
「私の名は」
「ローエングリン」
 騎士は清らかな微笑みと共に名乗った。
「これが私の名です」
「そうだな。卿が私の永遠の導き手だった」
「そして私達以外にもです」
「聖杯城の主だった者もだな」
「先王もおられます」
「アムフォルタス王か」
「先王陛下もおられますので」
 見ればだ。長身で豊かな髭の者もいた。その彼がだ。
 王の前で静かに片膝をつく。そしてその男にもだ。
 王はだ。静かに微笑み告げた。
「この槍が貴方の傷を癒しました」
「その通りです」
「そして私はこの城の主となりました」
「では。これからは」
「はい。私が務めを果たします」
 聖杯城の王、その務めをだというのだ。
「お任せ下さい」
「では。これからは」
 先王もだ。王に一礼しそのうえでだった。
 王をその中央に導く。王はだ。
 騎士に槍を預け壇の前、聖杯の前に来た。そして。
 その杯を手にしてだ。両手で上に掲げ。
 それをゆっくりと回して掲げその光で広間を満たし。
 暫くそうしたうえでだ。杯を壇の上に戻す。
 それからだ。こう言うのだった。
「私は今私のいるべき場所に来たのだ」
 こう言ったのである。王はこれより永遠の玉座に座るのだった。
 バイエルン王ルートヴィヒ二世については今も様々なことが言われている。この王のことは多くの者が知っているが殆どの者が王が何を求め何を愛していたのかわからない。そうした意味で王は永遠の謎である。だがそれは無気味な謎でなく美しく神秘的な謎である。その王の求めていたもの、愛していたものについて考える、このこともまた美しく神秘的なものであるならば。王は人々にこのうえない贈りものを残したことになる。
 今ノイシュバンシュタイン城にホルニヒがいた。その彼がだ。
 共にいる友人達にだ。こんなことを話していた。
「この城が今ではバイエルンの宝ですね」
「はい、今やです」
「そうなっていますね」
 友人達もその通りだと彼に答える。
「この城は遂にです」
「そうなりました」
「そして陛下も」
 彼が敬愛し、この城を築いた王もだというのだ。
「永遠の方になられました」
「そのことについてどう思われるのでしょうか」
「貴方は」
「喜びを感じています」
 微笑みだ。彼は答えた。
「理解されなかった陛下が理解しようと考えられること」
「そのことがですか」
「喜びなのですか」
「はい、だから私は喜びを感じています」
 まさにそうだというのだ。
「陛下は。永遠の存在になられたのですから」
 こう言いながらだ。白いその城から青い空を見る。そこには鷲が飛んでいた。一羽の鷲が青い空の下でだ。自由に空を舞っていた。


エピローグ   完

永遠の謎   完


                  2011・12・24