山内くんと呪禁の少女


 

再会

 
前書き
 原作者公認の二次創作です。 

 
 昏い昏いどこかから声が聞こえる。
 黒い衣をまとった男が朗々と声をあげる。

「讃えよ、讃えよ、我らが大御神。其は破壊と鏖殺、自由と解放の魔皇なり。今こそ、現に魂降り賜いて、失わせし御代を我らに再び与え給え。されば、我らまつろわぬものども。水の底、草の陰に潜む水魅山怪。地の果て闇夜に蠢く百鬼万妖に至るまで、ことごとく魔皇に永遠の忠誠を誓わん。その証に血と、肉と、湯気立ちあふるる腸を、ここに用意いたしました。数多の供物を、御身が御前に山と饗してご覧にれましょうほどに……」

 闇の中から獣のいななきが響く。
 牛。
 馬。
 鶏。
 犬。
 豚。
 鹿。
 いつの間にか目の前に六種の獣が縄につながれていた。
 黒衣の男が鶏に歩み寄り、それを高く差し上げる。

「いざ、血と肉と、悲鳴と恐怖を捧げます」

(やめろ、そんなもの、僕は欲しくない!)

 羽根をにぎった手を左右に開く。生きたままばりばりと引き裂かれた鶏はけたたましい鳴き声をあげて絶命した。
 頭上より降りそそぐ生温かい血。
かな臭い、鼻を突く悪臭。吐き気をもよおす臭気のはずが、なぜか心地好く感じられた。

(うそだ、こんなの……)

 次は、牛。
 大槌を角の根元に打ち込み、頭骨もろともひしゃげたそれをめりめりと折り曲げ、つかみ取り、鳴き続ける牛の目玉に先端をぞぶりと突き刺し、えぐり取る。腹を裂き、手を中へ突っ込んで臓物を引きずり出すと、それを身体に巻きつけてくる。

(――ッ!?)

 口のなかに、生贄の血肉が押し込められた。
 脈動とともに血をしたたり落とす生き肝、湯気を上げる腸がたまらなく旨い。
 血のひとしずく、骨のひとかけらも残さずたいらげたい。
 柔らかな血肉にぞぶり、と牙を立て、歯ごたえのある骨をこちゅるこちゅると吸う甘美さに身が震える。

(ダメだ、そんなことをしたらダメだ。そんなふうに思っちゃダメなんだ!)

「次は美しい子どもの悲鳴に彩られし贄を……」

 男の腕に赤ん坊が抱かれていた。
 まわりでおこなわれている惨状に気づくことなく、すやすやと穏やかな寝息を立てている赤子の首を狙い、凶刃が振り上げられ――。

(やめろ、やめろ、やめろっ……)

 振り下ろされた。



「やめろォォォッッッ!!」

 山内くんは絶叫をあげて跳ね起きた。

「はぁはぁはぁ……」

 窓から差し込む街灯の明かり、遠くからかすかに聞こえる喧騒。時計の針はまだ日付の変わらぬ時間を指していた。
 夢だ。
 最悪の悪夢を見た。
 去年の終わり頃から繰り返しおなじ夢を見る。何者かが自分を讃え、生け贄を捧げるという、不気味な悪夢だ。
 悪夢にうなされる頻度は日に日に多くなり、内容も鮮明になってきていた。

「邪鬼丸っ! どうした!?」

 二メートルを超える身長にプロレスラーのようなたくましい体躯をした大男が部屋に飛び込んできた。スキンヘッドのうえに眉毛もないという、いかつい顔をしたこの大男は悪夢にうなされていた少年、山内邪鬼丸の父親だ。
 華奢で色白、時代劇に出てくる天草四朗や森蘭丸の役が似合いそうな少年とは似ても似つかないふたりだが、戸籍の上ではれっきとした親子である。

「だいじょうぶ、平気だから……」



 喫茶店『惡猛麗(アモーレ)』ここが山内くん親子の今の住まいである。
 去年まで住んでいたアパートは火事で全焼。新居を探すにも財布に見合った住居は見あたらず、当座の雨露をしのげる場所に山内くんのパパがオーナー兼マスターをしている喫茶店にころがりこんだのだ。
 物置状態だった奥の間と二階の空き部屋を整理してみたら以外にも広く、最初のうちこそ埃っぽさに辟易したものだが住めば都。思っていた以上に快適な生活が送れている。欠点と言えば内風呂がないことくらいだが、歩いてすぐの場所に銭湯があり、いざとなれば台所を使ったザ・流し風呂でどうにかなる。
 それまでパパと相部屋だった山内くんだが、中学生になったことだしと二階の空き部屋を自室にもらうこととなった。

「楓ちゃん……十妙院(じゅうみょういん)に診てもらったほうがいいかもな」

 朝食の後かたづけをしながら山内くんのパパは毛のない眉――ぐれていた十代のときに永久脱毛済み――をひそめて思案げにつぶやいた。
 十妙院。
 兵庫県神明郡明町の山村にある呪術を生業とする古き血筋の家。呪禁師と称して風水を見たり卜占をおこない、呪詛や霊障から人々を守る。呪術家業の十妙院。
 去年の夏、山内くんはとある事情からその地へゆき、事件に遭い、その身に人ならざる存在を、太古の悪神を宿すことになってしまったのだ。 ※くわしくは角川ホラー文庫より発売中の『山内くんの呪禁の夏』全二巻を参照。
 そんな文庫本二冊に収まるほどの顛末ののち、街へと帰り呪術とは無関係な日常生活を送っていたのだが、雲行きが怪しくなってきた。うなされて飛び起きるほどの悪い夢を繰り返し見るというのは普通ではない。山内くんの身に呪的霊的な障害が起きている可能性がある。
 そのようなたぐいのものであれば通常の医療は効果がない。十妙院の霊的療法に頼ることになる。

「だいじょうぶだって、まだ里帰りって季節でもないでしょ」

 山内くんの家も源をたどれば十妙院とおなじく呪術者の家柄。それも祝部(はふりべ)という十妙院以上に呪術に秀でた家系であった。
 だがそれはもう過去の話。
 いまの山内親子には呪術に対する備えはない。

「でもほら、ひさしぶりに紺ちゃんにも会えるぞ」
「……なんでそこで紺の名前が出てくるの。パパのほうこそ楓さんに会いたいんじゃないの」
「なんでそこで楓の名前が出てくるんだ。おまえこそ本当は紺ちゃんに――」
「パパこそ本当は楓さんに――」

 山内親子の無為な会話は惡猛麗の開店時間まで続いた。



 ランチタイムの終了まで店の手伝いをした山内くんは日曜の街へとくり出した。
 特に用事があったわけではないが、家にいて朝の話題をぶり返されるのもいやだったからだ。
 ゆくあてもなくぶらりぶらりと街中を散策するのが妙に楽しい。この春から入学した賢真学院のあるあたりをうろついているのだが、ここはそれまでの山内くんの生活圏外に位置しているため、目にするものすべてが新鮮に見えた。
 見知らぬ店で、見知らぬ物を見て歩く。初夏と呼ぶにはまだ早い、皐月の薫風が吹く街中を軽やかに進む。

(あ、この映画。もう公開されてるんだ)

 映画館の前で足を止める。
 魔法使いの少年が主人公のファンタジー映画は、原作小説ともども世界的なヒット作だ。山内くんもかつては好きだったのだが、自身が呪術の世界に触れてしまってからは魔法や怪物、オカルトじみたものがどうも苦手だ。

(ほかにはなにが上映されてるんだろう……『ローン・オブ・ザ・リング』『タンクトップ・ミリオネア』『ダークバイト・ハイジング』……う~ん、どれも僕の趣味じゃないなぁ。ん、『実録外伝キョンシー極道』? キョンシー化しても仁義は通す……。なんか、この映画を見れば度胸が磨かれそうな気がする)

 山内くんは筋の通らないことがきらいだ。なかなかに心惹かれる内容の映画であったがいかんせんR15+指定。山内くんの歳ではまだ見ることはできない。

「山内?」

 背後からの呼びかけにふりむくと、おなじクラスの高橋がいた。

「へー、山内もこういうとこに来るんだ。休みの日は引きこもって本でも読んでるのかと思った」
「うん、ちょっと散歩。高橋くんは、なにしてるの?」
「高橋でいいって、なんだったら下の名前で呼んでもいいぜ。そしたらこっちもおまえのこと下の名前の邪鬼丸で呼ぶから」
「山内でいいよ」
「もっとフレンドリーにあだ名とかで呼び合っちゃう? 邪鬼丸だからジャッキーとか、どうよ」
「それ、小学校のときについてたあだ名」
「なんだ、じゃあべつのにするか」
「だから山内でいいって。……高橋くんのことはくんづけで呼ばせて。呼び捨てって苦手なんだ」
「あ、いるよね。そういう人。山内もそっち系の人なわけだ。で、なにしてるの? 映画?」
「ううん、そんなにお金もってないから、ほんと散歩してるだけ」
「じゃあいっしょにゲーセン行こうぜ、金ならおれが出すよ。小遣いもらったからちょっと余裕あるし」
「え、そんな。悪いよ」
「えんりょすんなって」

 山内くんはなかば強引に路地裏にあるゲームセンターへと連れ込まれた。



「ジャンプはなるべくしないでムダ飛びはスキつくるだけだから! そこでガード! 攻めるだけじゃなく守りも大事! まずは中段下段をおぼえる、このゲームは地上戦がメインだからね。相手の動きを読んで予測して!」
「わ、わかった」

 モニター内で武器を持ったキャラクターが縦横無尽に動き回る。ゲームよりも紙の本、スマホも持っていない山内くんには未知の領域。不馴れな作業に戸惑いつつ人生初のゲームセンターデビューを果たした。

「いや~、遊んだ遊んだ。どうよ、コンシューマーもいいけどゲーセンで遊ぶのもおもしろいだろ」
「たしかにおもしろかったけど、ずいぶんお金使ったよね。本当にいいの?」
「おれから言い出したことだから気にするなって」

 財布の中身を確認する高橋。中学生にしてはなかなか羽振りの良い懐具合なようで、小銭入れしか持ってない山内くんはわずかながらおどろいた。
 そろそろ帰るか、まだどこか寄っていくか、そんなことを話しながら歩いているときだった。

「おい、待てよボクちゃんたち」

 高校生くらいだろうか、耳どころか鼻や口にもピアスをして、スケーターファッションを着崩したような服装の三人組が声をかけてきた。

(きちんとした恰好ができないと、個性と非常識を混同するようなアホになるぞ)

 彼らの装いを見た山内くんはパパが言っていた言葉を思い出した。目の前の連中は〝だらしない〟ことと〝個性〟をはき違えているようにしか思えなかったからだ。

「さっきゲーセンで見たけど、ボクちゃんらチョーお金持ってたよね。俺ら帰りの電車賃がなくてこまってるの。ちょっとお金貸してくれる」

 カツアゲ、恐喝、ゆすり、たかり――。
 そんな単語が脳裏をよぎる。

「お財布、落としたか盗まれでもしたんですか」
「んあ?」
「駅員さんか交番できちんと事情を説明すればお金を貸してくれるそうです。あるいはタクシーの着払いって手もありますよ」

 完全に固まっている高橋に代わって山内くんが答える。

「え? あー、いや、そういうんじゃなくてさぁ、なんつーのかなぁ……」

 正論で返され、鼻白むも気を取り直して交渉を続けようとする。

「キミらさぁ、お金持ってるでしょ。逆にボクらはお金持ってなくてこまってるの。援助してくれないかなぁ」
「財布をなくしたのか、ただたんにお金欲しさに脅しているのか、どっちなんです」
「あはは~、まぁぶっちゃけその通りなんだけどさぁ、そんなにハッキリ言われると恥ずかしいわ。オレらまるで悪者みたい。……で、どうするの。素直に出すもの出せば、そっちの帰りの電車賃くらいは残しといてあげるから」
「それは、筋が通らない」
「ああ?」
「だましたり脅したりしてお金を巻き上げようという行為は筋が通らない」
「……おい、さっさと済ませろよ」

 もうひとり、仲間がいたようだ。スケーターファッション三人組よりかは少し年かさ、二十代前半くらいの若い男で、ドレッドヘアーに迷彩柄のアーミーファッション。バタフライナイフをこれ見よがしにもてあそんでいる。
 どうやらこのナイフ男がリーダーのようだ。

「ごねるならごねるで、オレはいっこうにかまわないんだぜ」

 右手から左手、また右手。得意げにバタフライナイフアクションを見せつつ、ニヤニヤと見る者を不快にさせるにやけ笑いを浮かべる。

「お、おい。おまえらおとなしくオレらの言うこと聞いとけよ。カンバラさんキレるとヤバイんだよ、最近ナイフにハマってて、逆らうやつを刻むの楽しみにしてるから。むしろ逆らって欲しいんだ。マジ刺されるから、わかるだろ」

 わかるものか。
 話が通じる気配がしない。武器をちらつかせて脅迫してくるチンピラにいら立ちをおぼえる。
 これが半年前、あの出来事を経験する前の山内くんだったならば義憤とともに恐怖も感じていたことだろう。だがあの時以来、熱心に武道の鍛錬に励んできた山内くんには〝胆〟が出来上がっていた。
 人は暴力を恐れる。
 傷つくことを恐れる。
 抜き身の刃を突きつけられれば委縮し、顔面に拳が迫れば身体がかたまる。
 しかしプロボクサーは自分の顔にヒットする瞬間まで相手の拳を目で見ることができる。そうしないと避けられないからだが、なぜそのようなことが可能なのか?
 鍛錬を重ねているからだ。
 殴り、殴られ。痛み、暴力そのものに耐性を得るまで鍛えているからだ。
 いまの山内くんには目の前の破落戸連中に微塵も恐怖を感じない。

(でも、戦うのは最後の手段)

 山内くんが通っている道場の師範はこう言う。
 『君が悪人に襲われたとしても武道で相手を撃退しようとするのは思いあがりというものです』
 『女性や子供が多少腕が立ったところで、暴漢の体格がよかったり複数人相手だったりするとなんにもなりません。だいいち、暴力に訴えるのでは獣と変わりありません』と――。
 じゃあどうしたらいいんですか、とたずねる山内くんに師範は訓示を垂れた。
 『最初から危うきには近づかないことが最上です。人にも獣にも共通する安全の鉄則です』
 『気をつけていたにもかかわらず窮地に巻き込まれてしまったならば、人の知恵から使いましょう。説得や譲歩で危険を避けられるなら、それに越したことはありません』
 『それが通用せずして初めて〝ファイト・オア・フライト〟……これは野生動物が敵と出会ったときの反応ですが、〝戦うか逃げるか〟という選択肢が出てきます。逃げることを選びなさい、逃げ切れそうであるかぎりは』
 危険にかかわらずにすむ道があるなら、かかわらないに限る。逃げられるときは逃げる。それが訓えだった。
 『武道家の拳は刀といっしょです。刀はつねに磨いておかなければなりませんが、抜かないに越したことはありません。生涯に一度あるかないかの〝いくさ場〟を生き抜くために刀を磨くのです』
 『ただし――』
 師範は逃げろと勧めた後にこう言ったのだった。
 『良くも悪くも人は野生の獣にはなりきれません。自分の身の安全よりも優先する大事なことがあるなら、それが人としてどうしても譲れないものなら、そのために戦うことを止めはしません』
 『力愛不二。道理の通らない悪人を前にどのような正論を唱えたところで通じません。そのような悪人の蛮行から身を守る力が無ければその人は無力です。どんなに強い腕力や優れた知力。莫大な財力や権力を持っていたとしても、その使い方を誤れば、それはただの暴力にすぎません。力なき正義は無力であり正義なき力は暴力です。力と愛が一つとなる陰陽の思想。これが力愛不二です』

 そして山内くんにとって、身の安全より優先するものはパパの教えだった――
 筋を通せ。
 
「おら、とっとと出すもん出せっ」

 ピアス男が山内くんの顔にむかって拳を振るった。容赦のないパンチだ、まともにあたれば鼻血くらいは出るだろう。
 山内くんは眼前に迫る拳を目で見ながら、あえて受けた。鼻でも口でも頬でもない。額で受けた。

「ッ痛ぇ!」

 だが痛みに声をあげたのは殴られた山内くんではなく、殴ったピアス男のほうだった。
 前頭骨は肘と並んで人体でもっとも硬い骨のひとつだといわれる。山内くんは男の攻撃をしっかりと視認して打撃点(ヒットポイント)をずらし、みずから額で受けたのだ。
 最小限のダメージにおさめた山内くんにくらべ、ピアス男は自爆したようなものである。

「先に〝抜いた〟のはそっちだ……」

 山内くんの心の中で白刃が鞘走る。

「はぁ? んだよ、クソがぁ、こいてんじゃねえぞクソガキ」

 こんどは八つ当たりに高橋にむかって蹴りを入れようとするが、それよりも速く山内くんが動いた。
 膝の真横。けっして鍛えることのできない間接部分を狙い、上から叩きつけるような下段蹴りを打つ。
 手加減は、しない。
 ピアス男の足はぶきり、と嫌な音をあげて本来ならば曲がらない方向にむかって微妙に曲がった。
 クリーンヒット。絶妙のタイミングとスピードで決まった山内くんの攻撃にピアス男の姿勢が崩される。
 この機を逃す手はない。頭の位置が低くなったので顔面に膝蹴りを叩き込むと、弾かれたように上体を反らして派手に地面に転がる。
 手ごたえあり、ひとり撃沈。

「早く逃げて!」

 状況を把握できず固まっている高橋を叱咤し、山内くん自身も脱兎の如く遁走。

「このクソガキッ!」

 無抵抗な獲物からの予期せぬ反撃に激昂した男たちは高橋を無視し、山内くんを追って駆け出す。

(良かった、こっちに食いついたぞ)

 足には自信がある。路地裏を抜けて表通り、人目の多い場所にまで出れば連中もあきらめるだろう。そう考えていた山内くんだったが、行き止まりにぶつかってしまった。
 なにしろこの辺りは初めて訪れた場所だ、山内くんに土地勘はない。
 追ってきた男たちのひとり、鼻ピアス男が山内くんに乱暴につかみかかる。
 ふっ、と山内くんの身体が沈んだと思った瞬間、鼻ピアスが後ろに転倒した。かがんでから突き上げるようにして背中を使って体当たりしたのだ。

「げふぅッ!?」

 みぞおちに肩が食い込んだ痛みと衝撃で、尻もちをついたように転倒し、蛙がひっくり返ったような無様な姿を晒した。がら空きになった股間めがけて容赦のないストンピング。
 股間を踏まれた鼻ピアスは泡を吹いて悶絶する。
 これでふたりが戦闘不能。

「マジかよ……」

 舐めてかかった相手は実はヤバい奴だった。中学生とは思えない鮮やか手並みに口ピアス男の腰が引く。

「中坊相手にビビってんじゃねぇよ」
「で、でもカンバラさん。こいつなにか格闘技かなんかやってますよ、ヤバイっすよ、強いっすよ! おれ、わりと文化系なんでこういうの苦手っていうか……」
「おらよ」
「へ?」

 カンバラはいじっていたバタフライナイフとは別の刃物を取り出して口ピアス男の手に握らせた。折り畳み式ジャックナイフだ。

「剣道三倍段て言葉知ってるか」
「へ? あ、い、いや、知らねっす」
「得物持ってるほうが強いって意味だ。これ貸すから刻んでこい」

 剣道三倍段。
 空手や柔道など素手の格闘家が武器を持った剣道家に勝つには三倍の段位、実力が必要。などと書かれることが多いが、これは漫画発祥の言葉であり、本来は槍や薙刀を持った相手に刀で立ち向うには、剣の使い手は相手の三倍の技量が必要。
 という考えが元ネタである。

「いや、でもおれ刃物はちょっと……。刺さっちゃったらさすがにヤバイですよ」
「軽く撫でる程度に刻んでやるだけでいいんだよ。それともなんだ、あのガキ刻むよりおれに刻まれたいのか」

 そう凄まれては嫌とは言えない。口ピアス男は手渡されたナイフを手にすごむ。


「おとなしく出すもん出しときゃ血ぃ見ないですんだのによ、恨むならてめぇを恨めよクソガキぃ……。おれらが脅しておまえらはビビって金を出す。そういう遊びなんだよ、これは。そうすりゃ遊びで終わってたんだ。おまえが病院送りになるのは、みんなおまえのせいだからな、オラァッ!」

やけになった口ピアスは手前勝手な理屈を吐いてナイフを振りかざす。

「おらぁあっ! ボケッ、クソがッ、オラッ、オラッ、オラァッ!」

 大声をあげて刃物を振りまわす姿は狂人だ。並の人間ならすぐにきびすを返してその場を離れたいと思うことだろう。
 人は本能的に刃物を恐れる。
 それがたとえ図工に使うような小刀やカッタータイフ。銃刀法に違反しない刃渡り六センチに満たない(それでも軽犯罪法に抵触する可能性はあるが)刃物であっても、普通の人なら刃物を突きつけられれば恐怖で委縮し、硬直する。威嚇や恫喝が目的ならば、それでナイフの役目はおしまいだ。
技術は不要。抜き身の刃を見せるだけでいい。
 山内くんとて、刃は怖い。殴られただけでも痛いのだ。切られたり刺されたりしたらもっと痛いことだろう。最悪、死ぬ。
 命を落とす。
 それは怖いことだ。
 怖い。
 怖い、だからこそ戦う。立ち向かう。
 山内くんは恐怖を覚えつつも、委縮することも緊張に身をこわばらせることなく平常心を維持することに成功した。

(ほとんど棒立ちのままナイフを持った腕ばかりでたらめに振り回している、まったく腰が落ちていない、典型的な素人剣法だ)

 頭、肩、胴、腰、脚――。ギラつく刃に目を奪われることなく相手の全身を俯瞰して見る。

(いまだ!)

 ナイフを持った手を回すように払い、そのままつかんで前に引っ張る。

「うおお!? げふっ!」

 口ピアスの鼻先を自身が手にしたナイフがかすめる。これは相手の腕を使って視界を遮りつつ、脇腹に肘打ちを入れる技だったが、相手の攻撃を利用して手にしたナイフを顔や首に刺すという応用も可能だ。
 さすがにそこまではしない、腋に鋭い肘打ちを叩きこむだけにとどめた。
 脇の下は神経が集中して敏感なうえに骨や筋肉がなく、そこに受けた打撃は肺に直結する。人体急所のひとつだ。
 激しい痛みと呼吸困難におちいり、口から泡を吹いて悶絶する。
 これで三人がかたづいた、残りはリーダー。ナイフ男カンバラのみ。

「……てめぇのそれ、中国拳法かなんかか? 映画やゲームで見たことあるぜ、さっきの体当たりとか鉄山靠じゃね?」

 鉄山靠。ただしくは貼山靠。肩や背中といった体の硬い側面や背面部を相手の腹部に叩きこむ八極拳の技のひとつ。大事なのは下半身の踏み込みで、足首の捻りによって生じた力に全体重を乗せて相手にぶちかます。
 山内くんは八極拳を習っているわけではない。彼の通っている道場では打撃のほかにも崩し技、関節技、投げ技などなど、身を護る上で必要なあらゆる技術を古今の武術から取り入れており、そのうちのひとつを使ったのだ。

「カンフー使いかよ、強いじゃねぇか。光もの持った相手にビビらねぇとか、度胸もあるしよ。でもよぉやっぱ素手で武器に立ち向かうのは無謀だぜ」

 カンバラは手にしたナイフを山内くんに向けて、せせら笑う。

「知ってるかぁ? ナイフってのは接近戦なら銃よりも有利なんだぜ。銃には『抜く』『構える』『引き金を引く』の三動作があるのに対して、ナイフは抜くと同時に切る! のワンアクションですむからだ。抜くと同時に相手の首を、頸動脈を切れば一撃でおしまい。殺さなくても腕の大動脈を切って戦闘不能にするって手もある。さぁ、おまえはどっちがいい、カンフー小僧」

 首、腕、首、腕、首、腕――。
 切っ先で山内くんの身体の二か所を交互に指し示し、威圧する。
 刃の先が消えた。

「ッ!」

 とっさに上体を反らしながら両腕を交差するようにして顔、首、胸をガードした山内くんの左耳に冷たい痛みが走った。
 刃が飛んできたのだ。
 バリスティックナイフ。グリップに内蔵したばねで刀身の射出が可能なナイフで、スペツナズ・ナイフとも呼ばれる。
 射出されたナイフが山内くんの耳をかすって壁にぶつかり、地面に落ちる。

「ちっ、クソが……。次ははずさねぇ」

 おなじ形状をしたナイフを出して威嚇するように見せつける。今のナイフをかわした動きは僥倖だった。次もおなじ動きができるとはかぎらない。

「あんた、なにやってんだよ……」

 傷つけられた痛みよりも刃物に対する恐怖よりも、男に対する怒りのほうが勝っていた。
 目の前が紅く、昏く染まる。
 手前勝手な言い分を押しつけてくる相手に憎しみが、不条理なできごとに怒りがこみ上げてくる。
 沸々、沸々と身の内から生じる暗い、昏い、冥い、負の感情に心が支配されてゆく。
 たおしたい。
 ぶっ殺してやりたい。

『汝が欲することを為せ』

 頭のなかで声がした。声の主が自分に語りかけてくる。

『滅せよ、滅せよ。不遜の輩に誅罰を降せ。憤怒の槌にて頭を砕き、断罪の刃にて四肢を断ち斬れ』

(やめろ、僕に命令するな……!)

『我は汝、汝は我。汝の怒りは我が怒り、我が憎しみは汝の憎しみ。我が敵は汝の敵なり――』

 ガアガアガアガア――、脳内でカラスの鳴き声が鳴り響く。

『命じよ、命じよ、下僕に命じよ。其は我と汝の忠実なる(しもべ)――』

 ガアガアガアガア!

「死ねオラァっ!」

 ガアーッ! ひときわ大きなカラスの鳴き声がすると山内くんの足下から黒い縄が伸びて放たれた刃を叩き落とす。
 否、縄ではない。
 蛇だ。
 それもただの蛇ではない。蛇と呼んでいいものかもわからない。
 それは、カラスの身につながっていたからだ。
 頭と胴体はカラス、二本の足はまるで猿の手のような毛むくじゃらの形をしていて、尾の部分が黒い蛇になっている。
 おからすさま、鉢割烏。そのような名で呼ばれている山内家に代々憑いている式神。

「ああッ!? なんで当たらねえんだよ、クソがっ!」

 男の目にはこの異様な生き物の姿が映っていないようで、二度もナイフがはずれたことにいら立っている。

膿血(のうけつ)タチマチ融滌(ゆうてき)シ、臭穢(しゅうえ)ハ満チテ肪脹(ほうちゃく)シ、膚膩(ふに)コトゴトク爛壊(らんね)セリ、人ノ死骸ハ數かず知ラズ』

 グミの実のように小さく血の色をした目を鈍く輝かせ、黒い翼を広げたおからすさまがドリルのような嘴を揺らし、人の言葉で唄う。

『餐ワセ給エ人ノ髄――萬里(ばんり)ガ間ニ音モセデ、地ヨリ湧キタル血ノ泉。十悪五逆ノ咎人(とがびと)ノ、(こうべ)ヲ連ネテ頭ヲ連ネテ六道地蔵ガ(むくろ)喰フ。サテモ目出タノ宮詣リ。ひとふたみよいつむにななやト言ヒ(そろ)ヨ。夜ノト夜ノト御伽ニヤ、身ガ参ロ身ガ参ロ――餐ワセ給エ人ノ髄――』

 殺そうと、山内くんに訴えかけているのだ。
 はやくわたしにあいつを殺せと命じてください。そうすればわたしの嘴であいつの頭を穿ち、脳髄を一滴残らず啜ってみせましょう。
 そう言っているのだ。
 いいだろう、好きなだけ貪るといい――。
 殺れ。
 山内くんの口から処刑宣告が放たれる、その直前。軽快な足音とともに背後にふわりとした風の動きが生じた。

「よっと!」
「わっ!?」
 
 だれかが山内くんの肩に身軽に跳びついてきたのだ。
うしろから手をかけて跳び箱を跳ぼうとするかのように地を蹴って、ひらりと舞うような動きでかれの前に回りこんできたのは女の子だった。
 年齢は山内くんとおなじくらい、すらりとした肢体にさらさらとした髪が陽光を受けて琥珀色に輝いて見える。
 鼻腔をくすぐる甘い香り。
 女の子に飛び越された。つい先ほど感じた柔らかな重みに、今さらながらどぎまぎする。

「自分を見失うなよ、山内。でないと闇に、禍津御座神(まがつみくらのかみ)に喰われちまうぜ」
「こ、紺!?」

 秀でた額に切れ長の目、細くすっきりした眉は美しさだけでなく聡明さも感じさせ、形よく整った鼻梁の下にある桜色をした硬質の唇から青い火が妖しくゆらめいている。
 十妙院紺(じゅうみょういんこん)
 去年の夏、人ならざるモノどもを相手に、ともに死線をくぐり抜けた少女の姿が、そこにあった。
 

 

変生

 あまりに突然の予期せぬ再会にすっかり毒気を抜かれてしまった。
 山内くんの身の内にたぎっていた怒りと憎しみ、殺意が鳴りを潜める。

「封印が綻びかけてる、あとでちゃんと再封じしないとな」

 ふいに紺は身を乗り出し、右手を伸ばしてきた。その人差し指が山内くんの唇をかすめて離れる。

「それと、耳。血が出てる」
「だいじょうぶ。このくらいのケガ、しょっちゅうだから慣れてる」

 本当は少しどきりとしたのだが、紺があまりに無邪気に笑っているので変に意識しないよう、努めてポーカーフェイスを装う。
 それに生傷が絶えないのは事実だ。
 事実だった。
 山内くんは幼い頃から多くの災難に巻きこまれてきた。
 落ちてきた看板に肩を強打されて鎖骨が折れたことがあり、少しずれていたら頭に当たって死んでいただろう。
 はじめてのお使いで最寄りのコンビニに行ったときは刃物を持った半狂乱の強盗に人質にとられて半日連れ回された。
 しかも山内くんがコンビニに入ったのは店員からの思わぬ抵抗を受けて逆上した強盗が店員を刺殺した直後だったという、実に危ういタイミングだった。
 マンホールから下水に落ちたり、ハイキングでは霧にまかれて遭難したり、ふたたび誘拐されてバットで足を叩き折らり、列車が通過している踏切へと突き飛ばされたり、サイドブレーキがかかっていた無人車が歩道に乗り上げて押しつぶそうとしたり……。
 この不運不幸体質。いまになって思えば明町で起きた一連の事件に関する呪詛によるもので、いまは鳴りをひそめているのだが、とにかく薬のにおいや包帯と縁の切れない人生を送ってきたのだ。

「なにいちゃついてんだゴラァ! ガキのくせに発情期でもおっぱじまっちまったのかよ。……んあぁ? その制服、清女か」

 紺の着ている服は女子修道服を模した古風なデザインをしている。清麗女子大付属中等教育学校。清麗や清女の通称で呼ばれており、創立一二〇年。時代おくれが一周まわって特色と化した、この辺りでは有名な名門お嬢さま校の制服だ。

「やっぱ清女はかわいいね~、刻みがいがありそうだわ」

 カンバラの顔に嗜虐心と性欲が七・三の割合でブレンドされた歪んだ感情が浮かぶ。

「……なるほど、こいつも憑かれているくちか」

 普通の女子中学生なら泣き出してしまいそうな邪気をふくんだ視線を浴びていても、紺はものともしない。その目がすがめられ、カンバラが新たに取り出した赤錆の浮いたナイフを注視する。
 常人には感じることのできない禍々しい気が刃を包んでいることが紺の目には見えた。

「ま、憑かれたから破落戸になったんじゃなくて、破落戸だから邪剣に魅入られたって感じだけど、これの放つ陰の気に触発されちまったんだな。――山内、少しは落ち着いたか? それ、引っ込めろよ」

 紺の目線が異形のカラスに向けられ、それ呼ばわりされたされたおからすさまが抗議の鳴き声をあげる。

「ええと……、おからすさまおからすさま、お帰りください」

 素直に従う山内くん。だがおからすさまのほうは素直ではなかった。
 帰れと言われておとなしく帰れるか。嘴からはガアガアと、尻尾の蛇はシャーッと威嚇の声をあげ、猿の手のような足は地団駄を踏み、羽根をばたつかせて全力で拒絶の意を示す。
 おからすさまは山内くんの先祖が、祝部が巫蠱の術で作り上げた対人用の呪詛式。いちど召還されたからには血を見るまでは、命を啄むまでは帰らない。
 ひとたび抜き放たれたら必ずだれかを斬らねばおさまらぬ邪剣妖刀のごとき厄介な性分の持ち主なのだ。

「ちっ、しょうがねえなぁコレやるからおとなしくご主人様の言うこと聞けよ」

 紺が鞄から出したのは丸い飴玉。山内くんには見覚えがある、それはさっきまで遊んでいたゲームセンターのクレーンゲームの景品だ。珍しい外国産の、いかにも味の濃そうなチェリーキャンディーだったので覚えていた。

「紺、ゲーセン居たの? 清麗て、ああいう盛り場への立ち入りは保護者同伴じゃないと行けないんじゃ……」
「こまかいことはいいんだよ」
「でも、規則を破るのは筋が通らないことだと思うよ」
「そんなことより今はとっととおからすさま帰せ!」

 おからすさまは紺の与えた丸い飴玉を飲み込むと、山内くんの命令を受け入れて姿を消した。
 おからすさま、鉢割鴉は卵や丸いおにぎりや果物。とにかく形の丸いものを好み、お供えに求める。
 それは人の頭の代用。鉢割烏の鉢とは人の頭を指す。人の頭部を好んで啖うものなのだ。

「テメェ、コラ、クソガキ、無視すんなゴラァ!」

 いきり立ったカンバラが赤錆びた刃を振り回して近づいてくる。
 紺を守らなきゃ。だが山内くんが動く前に紺が動いた。

「陰陽に使役されし、彩鱗の式神よ、我がもとに集い、その力を示せ。疾く!」

 鞄の中からいくつもの朱色の塊が飛び出して凶刃を振るうカンバラの周りを飛び交う。
 金魚だ。
 赤い金魚がまるで水のなかを泳ぐかのように空中を飛翔し、撹乱する。舞い踊る蝶の群れや桜吹雪さながらに。
 これで凶刃を振るう暴漢さえいなければ、実に妖しく幽かな夢幻美の情景であったろうに――。

「うがぁッ! どりゃぁッ! ウボァーッ!?」

 奇声をあげてめったやたらに刃を振るうものの、かすりもしない。

「吾が心の臓は(あけだま)なり、軻遇突命(かぐつちのみこと)護り座ましますなり。奇火(あやほ)は神の身ゆ出でぬ、横津枉(よこつまが)れる(あだなえ)を、悉斬失(ふつかたえう)火剣(ひのつるぎ)、熾かりて焚きて障は消けにけり!」

 式神に足止めさせているあいだに紺は右手の指で剣指を作り、みずからの口元へ添えて祝詞を唱える。速い詞とともに吐かれた火が、青い帯のように指から手、腕にまで巻きついていく。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」

 臨める兵、闘う者、皆、陣を列べて前を行く――。
 火のまとわりからむ指を相手へと向けて振るう。九字切りだ。
 カンバラの身体は炎の格子に包まれ、燃え上がる。

「ぎゃーッ!?」

 炎はすぐに消えたが、カンバラは意識を失い、その場に崩れ落ちた。
 山内くんには見覚えのある術だった。去年の夏におなじように火炎を生じさせ、悪霊を祓ったところを直に見ている。

「それ、人にも効くんだ……。でもだいじょうぶ? けっこう燃えてたんだけど」
「物理的に燃えたりしないよう調整してある。燃えたのはよくないものだけだ」
「よくないもの?」
「そう。こいつに憑いていたよくないものを焼却したつもりだったんだけど、生焼けだったみたいだな。思ってたよりタフだわ、こいつ」

 地面につっぷしていたカンバラが上からの糸に引かれたマリオネットのような動きで立ち上がる。それは常人の所作ではない。

「ぐ、ぐうううぅぅぅウウウゥゥゥッ! GURURURURUッッッ!!」

 その身体から赤い靄のようなものが立ち上る。
 鬼気、邪気、妖気、瘴気――。
 山内くんはそれがそのような、禍々しいオーラのたぐいだと直感した。
 カンバラに起きた異変はそれだけではない。
 瞳から黒目がなくなり白濁し、肌が赤銅色に変色して筋肉が隆々と盛り上がる。こめかみのあたりが鋭く隆起してゆく。
 角だ。
 角が生えてきた。
 いまやカンバラの姿は物語に登場する鬼そのものと化した。

「きるきるきるきるキルキルキルキル切る切る切る切る、斬る、斬る! 斬るっ! すべてぶった斬るぅぅぅゥゥゥッッッ! おまぇらもぅ、おれもぅみんな斬るぅぅぅ~」

 剣鬼と化したカンバラが、こともあろうにおのれの腹にナイフを突き立てる。
 毒々しい鮮血がまき散らされ、血腥い臭気がただよう。
 血臭に込められた禍々しい気に影響を受けたのか、あたりの景観が歪んで見えてくる。路地裏だった場所は半ば異界と化し、山内くんは去年の夏に足を踏み入れた闇宮の中を思い出した。

 おぉい おぉい おぉい――。

 呼びかけるような声とともに、ざんばら髪をした白装束の老人たちや、ぼろぼろの甲冑を着た落ち武者のようなものらが路地裏の影から現れる。

 おぉい おぉい おぉい――。

 血塗られた刀や槍を手にし、怒っているよな笑っているような表情を浮かべて青白い鬼火につつまれているその姿は幽鬼そのもの、この世のものではないと一目瞭然だ。

 おぉい おぉい おぉい――。

 異形の群れが凄惨な表情を浮かべてにじり寄る。
 常人なら悲鳴を上げて逃げ出すか、腰を抜かして気絶するところだ。
 だが、山内くんがその凄惨な光景を目にして心に浮かぶのは恐れではなかった。
 妙に心がざらつく。山内くんは先ほどおさまった暴力衝動がふたたび湧いてくるのを自覚した。
 目の前で蠢く邪悪で醜悪な生き物を叩き潰したい。
 我が身を害そうとする身の程知らずの賊を八つ裂きにしたい。
 山内くんの身に宿ったなにかが反応し、牙をむこうとした。
 その瞬間。

 パァンッ!

 紺が両の掌を打ち鳴らした。柏手を打ったのだ。
 音に込められた冷たく澄んだ清冽な気によって周囲に満ちていた陰の気を祓い、さらにはふたたび鎌首をもたげていた山内くんの中の凶暴な気配をも消し飛ばしていた。
 それはまるでなんの前触れもなく全身に水を、滝のように大量の冷たく透き通った清水を浴びせられたかのようだった。
 突然のことにおどろきはしても、けして不快ではない。むしろ心地良さを感じる。
 だがそれは人の身である山内くんだからであり、陰の気に満ちたものどもには痛撃となった。
 狂相を浮かべて包囲の輪を縮めようとしていた異形の者たちのうち、一番手前のひとりが奇声をあげて弾き飛ばされる。
 紺の打った柏手の余韻が、きぃんとした硬質の音が鳴り止まずに、聖なる守護の円環と化して山内くんと紺を包んでいた。

「あのナイフの人、角が生えちゃったんだけど、いったいなにが……それにこの厭な顔の人たちって、だれ?」
「あのナイフ野郎は変生したのさ」
「へんじょう?」
「そう。生きながらにして人ならざる存在に生まれ変わること。仏の功徳によって善き存在に変生する例もあるが、こいつの場合は悪いものに、鬼になっちまった」
「生きた人間が鬼になっちゃうなんて、まるで『鉄輪』だね」
「お、『鉄輪』だなんてよく知ってるなぁ山内」

 鉄輪。
 愛する夫に捨てられた女が、憎しみの果てに鬼と化し、夫を取り殺そうとする。能の演目のひとつだ。

「――人の心には誰しも陽と陰がある。風の流れや川のせせらぎなど、この世界を形造る森羅万象にも同じように陽と陰がある。その陰に見入られた者は外道に堕ちると言われている。人ならざる、異形の存在へ。その法は外法と呼ばれ、人の世に今もなお密やかに受け継げられている。こいつはあのナイフを触媒にした外法によって鬼になっちまったんだ。――それと、この薄気味悪い連中は人じゃあない、通り悪魔だ」
「あ、悪魔ぁ!? 悪魔ってあの、デビルとかデーモンとかの悪魔のこと?」
「そう、その悪魔」
「でも、みんな日本人みたいな姿に見えるんだけど。着ているのも和風だし」
「悪魔という言葉はもともと仏典に由来する仏教用語だぜ。仏教の悪魔ってのは煩悩を擬人化した存在だ。サタンみたいなデビルや、バアルみたいなデーモンだけが悪魔じゃないぞ」
「サタンとバアル、デビルとデーモンてどう違うの?」
「デビルはギリシャ語でサタンを意味するディアボロスが語源で、サタンそのもの。あるいはアザゼルやルシファーといったキリスト教が出典の悪魔を指す。デーモンはギリシャ語のダイモンが語源。肉体を持たない精霊や鬼神のような存在で、キリスト教以外の神々もこれにあてはまる。仏教や神道の大日如来や天照大神もキリスト教から見ればデーモンだからな」
「へー」
「てんめぇぇぇらァァァっ、おれを、無視、するんじゃ、ねぇぇぇェェェッ!」

 カンバラの血刃が守護の円環に振り下ろされると、白い輝きがくすみ、柏手の残響音もかすかに弱まる。このまま攻撃を受け続ければ結界が破れてしまうことだろう。

「まったりとお話しするのはこいつらを退治してからだな。悪いけど、手を貸してもらう。もう一度こっち側の世界に来てもらうぜ、山内。そうしないと、おまえは禍津御座神(まがつみくらのかみ)に喰われちまうんだ」
「あいかわらず強引だね、最初に会ったときみたい」

 一年前の夏の日、山寺にある墓石の陰からひょっこり現れた紺の姿はいまでも鮮明におぼえている。死に装束のごとき白無地の帷子姿に白狐の面。しかも面を外すと朱唇からは細い青火が呼吸するたびに漏れているという。

「いいか、山内。力を制御しようだなんて思うなよ、力を受け入れろ。けれども流されるな」
「……むずかしい注文だけど、やってみるよ」

 山内くんは紺と肩をならべ、異形の群れへと立ち向かった。