魚を釣るよりも


 

第一章

                魚を釣るよりも
 アントニウスはカエサルの後にエジプトに入ることになった、当初彼はエジプトの女王クレオパトラをカエサルを篭絡した姦婦とみなしていた。
 だがその彼もクレオパトラの魅力には勝てなかった、それで忽ちのうちに彼女の虜となってだった。
 今やエジプトから出ることはなく彼女と共にいる時間に溺れる様になっていた。それでこの日もだった。
 周りの者達にだ、こんなことを言っていた。
「今日は釣りに行くがだ」
「はい、クレオパトラ様の船に乗ってですね」
「そうしてですね」
「そうだ、その時にだが」
 大柄で逞しい身体はローマ人の理想とも言える、顔立ちも男らしく魅力的である。巻き毛と太い眉は実にローマ的だ。
「実はそなた達に頼みたいことがある」
「釣りの時にですか」
「我々にですか」
「そうだ、私は恥をかきたくない」
 それでというのだ。
「だからだ、釣る時もな」
「魚がですか」
「多く釣れる様にですか」
「将軍の釣り針にですね」
「かけて欲しいのですね」
「川の下でして欲しい、泳ぎの達者な者にな」
 その者に生の魚を手にして潜ってもらってというのだ。
「そうしてもらいたいがいいか」
「そこまでしなくてもいいと思いますが」
「流石に」 
 周りの者達はクレオパトラにいいところ、自分が釣り上手であることを見せたいアントニウスにどうかという顔で応えた。
「普通にされていては」
「そう思いますが」
「私は彼女の心を捉えていたいのだ」
 アントニウスは自分に言う家臣達に真剣な顔で言った。
「だからだ」
「それで、ですか」
「魚を釣り糸に」
「川の中で、ですね」
「そうして欲しい、彼女の魅力はローマにも何処にもない」
 まさにそれだけの美女だというのだ。
「だからだ、頼みたい」
「将軍がそこまで言われるなら」
「我等も反対しませんが」
「しかしあまりエジプトに長居されることも」
「そろそろです」
 家臣達はアントニウスにこうも話した。
「ローマに戻られた方が」
「ローマではオクタヴィアヌス殿が権勢を強めておられます」
「このままではです」
「オクタヴィアヌス殿がどう動かれるか」
「そのことが問題になってきます」
「レピドゥス殿は退かれましたし」
 アントニウス、そしてそのオクタヴィアヌスの間に入っていて仲裁する形になっていた。第二次三頭政治では彼もいたのだ。
「今や間に入ってくれる方はいないです」
「若し何かあればです」
「そこから内戦にもなりかねません」
「そう考えますと」
「ここは」
「何、戦いになっても私にはそなた達に兵達がいてだ」
 アントニウスは心配そうな彼等に笑って話した。
「しかもオクタヴィアヌスは戦下手だ」
「はい、オクタヴィアヌス殿はお身体も弱く」
「戦いは不得手です」
「それはその通りです」
「あの方もそのことは気にしておられます」
「いざ戦いになっても問題ない」
 勝てるというのだ。
「しかも私の妻は彼の姉なのだぞ」
「その縁もありですか」
「問題はない」
「そう言われますか」
「そもそも戦いにならない、私と彼はな」
 アントニウスは笑って言っていた、よしんば戦いになろうともオクタヴィアヌスには勝てるとだ。そうしてだった。 

 

第二章

 この日もクレオパトラと共にいる時間を楽しむことにした、家臣達に魚のことをくれぐれも頼んでから。
 それで彼女と共に船に乗りナイル川での釣りを楽しんでいた、そうしているとだった。
 アントニウスは一匹また一匹と見事な魚を釣っていく、クレオパトラはその釣りを見て笑みを浮かべて言った。切れ長の目に高い鼻が目立つ顔だ。艶やかな化粧が映えていて薄いエジプトの服の下には見事な肢体がある。黒髪も実に整っていて装飾も奇麗に飾っている。
「お見事ですね」
「うむ、私は釣りもだ」
「お得意ですか」
「そうなのだ」
 こうクレオパトラに言うのだった。
「私はな」
「釣りもですね」
「凄いのだ」
「戦いだけではなく」
「こちらもだ」
 こう言うのだった。
「凄いのだ」
「それは何よりですね」
「カエサルとは違う、確かにな」
 自身が仕えもしていた彼についてはだ、憧憬に懐かしさも感じていた。そこには嫉妬ではなく肯定があった。
「素晴らしい方だった、教養も高く」
「そうでしたね」
「器が大きい方だった、私は教養はないが」
 カエサルと違ってというのだ、何しろ膨大な借金のうちには高価な書籍を惜しみなく買っていたことも入っていた位だ。
「しかしだ」
「魚を釣ることはですか」
「兵を率いることと力、武芸にな」
「そちらもですね」
「カエサルには負けていないのだ」
「それは何よりですね」
 微笑んで応えたクレオパトラだった。
「魚釣りよりは。しかし」
「しかし?」
「もっといいものを釣ってみませんか?」
 釣りを続けるアントニウスに言うのだった。
「そうしてみませんか」
「魚よりもか」
「はい、よりいいものを」
「それは何だ」
 アントニウスはクレオパトラにいぶかしむ顔で尋ねた。
「一体」
「貴方はおわかりになられる方だと思いますが」
「私はか」
「カエサルに認められた方ですね」
「如何にも」
 このことについては胸を張って答えた、カエサルを敬愛しているが故に。
「私はそのうえで今に至る」
「カエサルに認められ頭角を表されて」
「そしてだ」
「戦いにも勝たれ」
「偉大なるカエサルの跡を継ぐ者はだ」
「貴方ですね」
「私以外にはいない」
 強い、これ以上はないまでのそれを以て答えた。 

 

第三章

「必ずな」
「ではです」
「魚よりいいものをか」
「釣られてはどうでしょうか」
「魚よりいいものというと」
 アントニウスはクレオパトラにいぶかしむ顔で返した。
「鰐か」
「このナイルに棲むですね」
「あれか、この辺りにはいない筈だ」
 だから泳ぎに長けた者を潜らせて釣り糸に魚をかけさせているのだ、アントニウスはこの辺りの配慮も忘れる男ではない。
「その筈だが」
「鰐なぞではありません」
「違うのか」
「鰐なぞまだまだ小さいです」
 クレオパトラは妖艶な笑みを浮かべて言ってみせた。
「それと比べれば」
「国か」
 伊達にカエサルに見いだされ将軍となり政治に関わってきた訳ではない、アントニウスもここまで察することが出来た。
「それをか」
「はい、そうです」
「むっ、かかったか」
 またアントニウスの釣り糸に引きがあった、また家臣が働いてくれたと思った。だがいざ釣ってみると。
 そこには干物があった、それでアントニウスはその魚の干物を見て言った。
「ばれていたのか」
「察しました、途中から」
「ううむ、しまった」
 アントニウスは自分の隣にいるクレオパトラに眉を顰めさせて応えた。
「いいところを見せようと思ったが」
「ほほほ、そのお気持ちで充分です」
「そうなのか」
「私を愛しているからですね」
「うむ、そう思った」
「ならばです」
「その気持ちだけでか」
 アントニウスはクレオパトラを見て彼女に尋ねた。
「いいのか」
「充分です」
「そうなのか」
「それでなのですが」
「釣りよりもか」
「はい、国をです」
「釣ってみろというのか」
 こうクレオパトラに問うた。
「私に」
「そうされてはどうでしょうか」
「カエサルの後継者としてか」
「如何でしょうか」
「わかった、ではだ」
 クレオパトラの声を聞いてだ、アントニウスは彼女に応えた。
「私はだ」
「国をですか」
「まずはエジプトだ」
 今自分達がいるこの国をというのだ。
「釣る、そしてギリシアにだ」
「ガリアにですね」
「カルタゴ、そしてだ」
「ローマもですね」
「釣る」
 宣言する様にして言い切った、それも強い顔と声で。 

 

第四章

「必ずな」
「そうされますね」
「そしてだ」
 さらに言うのだった。
「カエサルの後継者になる」
「ローマにおいてですね」
「彼がやり残したことを果たそう」
「オクタヴィアヌス殿ではなく」
「私が後継者だ」
 実はカエサルが自分の後継者にと言ったのはオクタヴィアヌスだった、だがアントニウスは軍人であり力を持つが故に言うのだった。
「その力がある」
「そうですね、では」
「決めた、オクタヴィアヌスと衝突してだ」
「戦う時が来れば」
「私は戦う、彼には優れた友が揃っているが」
 そしてその彼等が戦いの場で彼を助けるがだ。
「私の軍の才と経験はローマ一だ」
「ならばですね」
「私が勝つ、信じて共にいてくれている将と兵達も多い」
 それ故にというのだ。
「私は勝つ」
 戦えばというのだ。
「そしてそなたはこれからもだ」
「エジプトの女王ですね」
「そうなる、もう魚を釣りはしない」
「国をですね」
「それを釣る」
 まさにというのだ。
「そうしよう」
「それでは」
「さて、王宮に帰るか」
「そうしてですね」
「政治の話をしよう」
 釣りを止めてというのだ。
「これからのことをな」
「はい、是非」
「そしてだ」
「国をですね」
「釣るとしよう」
 クレオパトラに応えてだった、アントニウスは釣りを止めて立ち上がり彼の家臣達のところに戻り軍議を開いた。それからはクレオパトラと遊ぶよりも政治に力を入れオクタヴィアヌスに備える様になった。
 このことは歴史にある一幕だ、アントニウスは残念ながら敗れたことは歴史にある通りだ、しかしその最期は実に見事であったことも歴史にある。このことにはクレオパトラとこの一幕があってのことであろうか。敗れはしたがアントニウスは見事だった、クレオパトラもそれがわかっていて彼に国を釣れと言ったのであろうか。そう思うと実に面白いと思いここに書いておくことにした。一人でも多くの人にこのことを知って頂ければ幸いである。


魚を釣るよりも   完


               2018・3・18