黄泉ブックタワー


 

第1話 初めてだった

 秋葉原駅から、少しだけ離れた交差点。
 平日なのでそこまで騒がしいわけではないが、人はたくさん流れていた。

 ここには、大きなタワー型の本屋がある。
 ……いや、あるはずだった。
 なぜか、今日は違った。

 アカリは〝それ〟を見た瞬間、本当に現実なのだろうかと思った。
 気温は連日の三十五度超え。おまけに最近は体調も悪かった。そんな中で、会社の昼休みに外出した。
 なので、自分は熱中症にでもなって、白昼夢か幻覚を見ているのではないか、と。

 だが、目の前の〝それ〟は、夢にしてはあまりにも鮮明だった。
 そして、夏の幻にしてはあまりにもどす黒かった。

「何、これ……」

 アカリの視線の先には――。
 見たこともないような禍々しい塔が、天高くそびえ立っていたのである。



 圧倒的な高さに、黒色の壁。
 中層より上には窓があるようだが、なぜか太陽の光を反射している様子はない。不気味な闇色が並んでいる。

 その異様な塔。昼間の秋葉原の景色からは、明らかに浮いていた。
 しかし、通行人には誰一人として足を止めて見上げる者はいない。いつものように、うだる暑さの中、早足で塔の前を通り過ぎていく。

「どういうこと?」

 その不自然な光景に、思わずそんな言葉が口から出てしまった。

「それは、お前にしかあの塔が見えてないからさ」
「――?」

 その突然の声に、猛暑で吹き出していた汗が急に凍ったような感覚がした。
 アカリはこわばる体を回し、後ろを振り向く。

「よお。お前、アカリだろ」

 人が行き交う中、笑顔で立っていたのは、アカリよりも上背のある若い青年だった。
 黒のタンクトップに濃緑のショートパンツだけという、夏らしい恰好。露出している腕や足は程よく筋肉質で、肌は日本人にしては濃く、そしてただの日焼けとは思えないほど、ムラのないきれいな褐色だった。

「あなた、誰」

 名前を呼ばれたアカリだったが、この青年に見覚えなどなかった。

「俺だよ。俺」

 人差し指を自身の顔に向けながら、青年はそう言った。
 バランスよく上がった口角に、薄い唇、やや犬歯が発達した真っ白な歯。とても爽やかな笑顔で、褐色の肌とよくマッチしていた。

「え、オレオレ詐欺?」
「ん?」

 形のよい青年の黒い眉毛が、左右同時にわずかに上がる。

「なんだ? 『おれおれさぎ』って。初めて聞いたな」

 不思議そうに言うと、自身の左手を胸の前まで挙上させた。

 そこでアカリは初めて気づいた。青年は、左手に厚めの黒い本を持っていた。高級そうな模様で装飾されており、一見するとアンティーク洋書のようだ。
 たまたま持っていた本が辞書で、今調べる気なのだろうか? と、今度はアカリのほうが不思議に思った。

 青年が本を開く。
 左手の親指をずらしながら、猛スピードでページを送っていった。
 最後まで進むのに、わずか数秒。

「この本には載ってないみたいだな。アカリ、それは新しい言葉か?」

 そんな速さでページをめくって、読めるの? とますます不思議に思いつつ、聞かれたことには答えることにした。

「新しいといえば新しいのかな。オレオレ詐欺っていうのは、孫とか子供のフリをして、お年寄りからお金を取る犯罪」
「俺、犯罪者じゃねえよ!」

 今度は一転、青年はムスっとした表情になった。

「あっそ。で、とりあえずあんた誰なの」
「俺は悪魔だよ」
「私に悪魔さんなんていう知り合いはいません」
「いや、いるだろ? お前、昨日ツイッターで『死にたい』とか書いただろ。そのときリプしたぞ」

 ――あ。
 心当たりはあった。

 たしかに昨日、ツイッターで「もー死にたい」とは書いており、すぐに「悪魔」という名のユーザーから、長々と説教じみた励ましをもらっていた。
 ツイートは冗談半分であり、匿名の相手に人生相談などする気はなかっため、大変に困惑していた。

「あの悪魔かー。朝起きて思い出したら気持ち悪くなったから、ブロックしちゃってた」
「んあっ?」

 青年はわかりやすく驚いた表情をとると、ショートパンツの右ポケットからスマートフォンを取り出した。

「あ。ここ無料Wi-Fiとかいうやつ、つながってないか。でもお前ひでえな! 俺べつに変なこと言ってなかっただろ!」
「ごめんごめん」
「なんだよ、せっかく励ましたのに」

「でも今までリプくれたことなかったでしょ? いきなり来るとびっくりするよ。というか、ツイッターにリアル情報を出してないのに今日いきなり私の前に現れるとか、おかしくない? ストーカーなの?」
「俺、悪魔なんだから、お前の位置を知っててもおかしくないだろ。ストーカーじゃないぞ」
「ストーカーっていう言葉は知ってるんだ……」

 ツイッターやWi-Fi、ストーカーを知っていて、オレオレ詐欺は知らない。
 そのバランスの悪さを、アカリはいぶかしく思った。

「で、自称悪魔のストーカーさんは、なんの用で私の前に現れたの?」
「だからストーカーじゃないって。今日は仕事をしにきたんだぜ」
「仕事?」

 青年は「ああ」と答えると、少し顎を引いて、胸を張った。

「お前の願いを、一つだけ叶えてやるよ」

 人差し指を立て、ニコッと笑う青年。
 夏の日差しに照らされた、爽やかなその顔。なぜか汗が光っている様子はないが、見かけだけならずいぶんと健康的で、逞しい若者といった感じだ。

「ふーん。本物の悪魔みたいなことを言うんだね」
「俺は本物だぞ? 悪魔の一種の本魔ってやつ。本に悪魔って書いて本魔」
「本魔だから本を持ってるってわけ? ホンマに成り切り具合が素敵やね」
「お前、信じてないだろ……。俺はあの塔の上層から、空を飛んでここに降りてきたんだよ」

 彼が指で示したのは、アカリが驚かされた、黒い塔。

「そう言われても信じられるわけないでしょ。いつ建ったのか知らないけど、あんな高さの塔の上層から飛び降りたら、普通死ぬって」
「じゃあ、飛べることを証明できれば信じるのか?」

 犬歯を覗かせながら、少しニヤリと笑い、腕を組む青年。

「は? どうせちょっとジャンプして飛べたとか言うんじゃ…………え?」

 適当にあしらうはずのそのセリフは、最後までは言えなかった。
 音もなく、彼の背中から左右に、真っ黒な羽が広がったからである。

「ええええ――――?」

 アカリの大きな声が、真っ昼間の秋葉原にこだまする。
 それは真っ黒で、膜状で。悪魔のイメージそのものの羽だった。
 早足で通り過ぎていた人たちが足を止め、顔を向けていたが、アカリの目には入らなかった。

「え、何これ? どういうこと?」
「へへっ。お前みたいな奴のことをな……うん、これかな。『夏虫疑氷』って言うんじゃないか?」

 青年は手元の本を見ながらそんなことを言うと、背中の羽を羽ばたかせた。

「えええっ? と、飛んでるし……」

 不気味なほど穏やかに上空に昇っていく青年。なぜか風圧もなく、アカリの長めの髪もほとんど揺れることはなかった。
 青年は、信号機と同じくらいの高さで止まった。
 そして太陽の光をいっそう浴びながら、夏の青空を背に、爽やかに笑っていた。

 しばし呆然としたアカリだったが、電車と思われる警笛が遠くから聞こえると、ハッと我に返った。

「あっ! ちょっと! 降りてきて!」
「ん? もっと見なくていいのか?」
「いいから早く!」

 青年はゆっくりと羽ばたきながら、ふわっと着地した。

「どうした?」
「どうしたじゃないでしょ! 周りの人たちに見られてるって! その羽も早くしまって! 警察来ちゃったらどうするの!」

 いつのまにか、大勢のギャラリーに囲まれていた。
 詰め寄るアカリに対し、青年は親指を立てた。

「そのへんはちゃんと考えてるぜ。俺、今は姿消してるから。お前にしか見えてないはずだ」
「は?」

 アカリはあらためて周囲を見渡す。
 言われてみれば、ギャラリーの視線は悪魔の羽を生やした青年ではなく、アカリのほうに集中しているように見えた。

「も、もしかして、声も?」
「ああ。俺の声も、今はお前にしか聞こえてないはずだぞ?」

 そのあっけらかんとした口調は、アカリの頬を瞬時に紅潮させた。

「早く言えこの大馬鹿――――!」

 ビンタの音が、秋葉原の道路に響いた……と感じたのは、アカリだけ。
 周囲から見れば、やはりそれも若いOLの一人コントだったのである。 

 

第2話 きっと、いい人間だ

 青年を連れてファーストフード店に入ったアカリは、窓際一番外れの、二人掛けテーブル席に陣取ることにした。

「もー。私にしか見えないようにしてるんなら先に言ってよ。ここ、会社の近くなのに。他の社員に見られてたらどうするの」
「アカリ。このフライドポテトってやつ、おいしいな!」
「ちょっと。聞いてるの?」

 小さな丸テーブルには、お昼のセットメニューが二人分。
 快調にポテトを口に放り込んでいく青年を、アカリは睨みつけた。

 今は青年の姿も他の人間から見えるようにしてもらっているが、褐色肌のうえに服がタンクトップとショートパンツである。オフィスカジュアル姿のアカリと二人組というのは、だいぶ浮いているのかもしれない。

「聞いてるって。そこまで考えてなかった。悪かったよ。でもお前、さっき思いっきり叩いただろ。まだほっぺがジンジンしてるぞ」

 青年はあっという間にフライドポテトを平らげた。だいぶその味を気に入ったようだ。

「あっそう。で、人間様にぶっ叩かれた感想はどうでしたか」
「んー……そうだな。結構よかった」
「叩かれてよかったとか、変態なの? 気持ち悪いね」
「変態じゃないぞ。学校でも家でも叩かれたことなんて一度もなかったから、新鮮だったんだよ」
「そんな優等生には見えません」
「うるせー。見えなくて悪かったな」

 突っ込みを入れながらも、あの塔の中には学校も家もあるのかと、アカリは密かに驚いていた。
 あらためて、目の前の若い青年を見る。
 先ほどからいちいち言い返してきてはいるが、表裏のなさそうな、素直な顔。今は羽も出ていないし、普通に人間の好青年という感じだ。

「ん? 俺の顔に何かついてんのか?」
「なんでもない」
「ふーん。じゃあ、もう信じてるだろうから。もう一度言うぞ?」

 やはりあっという間に平らげてしまったハンバーガーの包み紙を畳み、アイスティーを一口飲むと、青年は言った。

「お前の願いを一つだけ叶えてやるよ。人間なら一つくらいあるんだろ? 悪魔にお願いしたいこと」

 今度は、茶化す気にはならなかった。
 ならなかったのだが、純粋に困った。

 悪魔にお願いするようなこと――たとえば、嫌いな人を消したり?

 嫌いな人はいた。
 特に、会社で自分のOJTの教育担当になっていた先輩社員とはうまくいっておらず、顔を合わせるのも嫌なくらいだった。

 だが死んでほしいかと言われると、そこまでは思っていない。そうなったところで、自分が幸せになるわけではないからだ。
 それに、うまくいっていない原因が自分のコミュニケーション能力の低さにあることは自覚している。自分が今のままである以上、仮にその先輩社員がいなくなったとしても、代わりにくる先輩社員とまた同じような関係になるだけだろうと思っていた。

 まあ、自覚しているのに変わろうとしない自分もどうなのかなと、アカリは心の中で自嘲する。

「せっかくなのに悪いけど、悪魔にお願いしたいこと、別にないんだよね」
「ない?」
「うん。苦手な人はいるけど。殺したいとまでは思わないし、病気にしたいとかそんなことも思わないし」

 そう言ってアカリがアイスコーヒーのストローに口をつけると、青年は少し慌てたように、両手を前に出した。左手に持っていた本は膝の上に置いてあるようだ。

「おいおい、なんか勘違いしてないか? そんな願いじゃなくて普通の願いで頼むぞ」
「あ、そうなんだ」
「そうだぞ。でも、殺したいとか病気にしたいとか思わないってことは、アカリは優しい人間なんだな」
「え。なんか大真面目にそういうの言われるの、恥ずかしいんだけど?」

 唐突に誉め言葉を言われたので、調子が狂った。思わず横の窓のほうに顔を逸らしてしまう。
 気を取り直して願いごとを考えることにしたが、やはりうまいものは浮かんでこない。

「うーん、思い浮かばないな。適当だけど、やる気が出ますように、は?」
「抽象的すぎて無理だな。他ので頼む」
「じゃあ、いい気分になれますように」
「お前変なクスリやってないか? 大丈夫か? それも無理だよ。もっと具体的なもので頼むぞ」

「なんかめんどくさいね。具体的にって、たとえばどういうの?」
「札束をくれとかだったらできるぞ。ポンと出せる。人間はそういうのが好きなんだろ?」
「いや、別にいらないし。未婚だし親と同居してるから、貯蓄は勝手に増えてくよ。それに、お札って番号振られてるはずだけど? どっかからワープさせるのかゼロから作るのか知らないけど、どちらにしろ犯罪になると思うよ?」
「む、そうなのか。じゃあ金塊が山ほどほしいとかでもいいぞ。たっぷり出せる」
「どこに置くのよそれ。うち置き場ないよ」

 二連続で問題点を指摘すると、ミナトは降参した。

「やっぱり人間じゃない俺が考えてもだめかー。なんとかお前がひねり出してくれよ。俺がちゃんと叶えるから」

 投げ返ってきたボールを受けると、アカリは両腕を組み、ふたたび考え込んだ。
 だがやはり、願いが思い浮かばない。ほしいものがない。
 自分は欲がない人間。無欲無私、高潔無比。素晴らしい人格者なのだ……というわけでない。

『人生に希望が持てていないので、なんかもう、どうでもいい』
 少し大げさではあるが、そう思っていたからである。



 どうも自分は、この世の中に合わない体質になってしまっているのではないか――強くそう感じていた。

 エリート主義の両親により、小中学生の頃は塾と習い事漬け。高校生になっても一年生から予備校通い。部活動などにも一切参加せず。親友と呼べるほどの仲のよい友達はできなかった。
 成績だけはまともだったおかげか、いじめの対象にまではならなかったが、楽しかった記憶などもない。学校行事なども苦痛で、ただ早く過ぎればいいと願うだけの時間だった。

 大学は一人で勉強だけしていればよいので、楽になるだろう――そう期待したこともあった。
 結果は残念ながらそんなことはなく、語学や専門科目では横のつながりが必要なことが多く、さほど楽にはならなかった。しかも三年生からはゼミへの所属が必須で、連日ゼミ生や院生、教授らとの付き合いが必要になり、うまく溶け込めないアカリには苦痛度が増した。

 そんな中、不満のはけ口になってくれていた唯一の人間が、祖父だった。
 祖父は定年退職するまで大学教授をしており、エリートといってよい経歴の持ち主だった。
 だが両親とは違い、アカリに勉強を強要してくることはなかった。却下されていたが、「もっと遊ばせてやったらどうだ」と両親に言ってくれていたこともあった。

 年相応の説教臭いところはあれども、基本的にはどんな愚痴でもきちんと聞いてくれて、優しく励ましてくれた。大好きで、尊敬していた。
 ただ――。

「どうせやるなら楽しまなければ損」

 常日頃から説教とセットで言われていた祖父のその言葉については、笑いながらハイハイと聞き流していた。
 どう考えても、楽しめそうなことがないような気がしていたからだ。

 大学三年生の終わりから始まった就職活動は、うまくいった。
 成績証明書はほとんどB評価以上で埋まっていたし、適性検査も対策していたので、書類や筆記試験で落ちることはほぼなかった。面接だけは心配だったが、わりと肝は座っている方だったこともあり、協調性がなくて友達がいないということがバレることもなく。
 結果、両親の要求どおり、上場企業へ総合職として採用された。

 だが、やはり入社してからは困ることになった。
 他の社員――特に先輩社員とうまく付き合うことができなかったのである。

 同じ女性総合職の先輩がOJTの教育担当についていたが、おそらく不愛想で可愛げのない後輩と思われているのだろう。新人いびりに近いようなこともされたことがあり、内心ではお互いに嫌いという状況だったと思われた。その関係は今も続いている。

 他の同期入社の人たちを見ていると、すぐに先輩社員との距離を詰めており、うまくやっていた。
 懐に入る――それが他の人間は上手なのである。
 否、自分が下手すぎるのだろう。そんな自覚もあったのだが、打開することはできなかった。

 これで仕事自体が楽しければ、まだよかったのかもしれない。
 だが最初に配属された部署は、希望していた経理課が人員過剰とのことで、あまり希望していなかった総務課だった。
 人間関係もダメ、やっている仕事も希望と違う。そんな状況で楽しいわけがなく、会社員生活一年目は、すぐに苦痛なものとなった。

 そして、とどめを刺されるような出来事が起きた。
 祖父が、六月に急死したのである。

 心の支えになっていた人がいなくなったからだろうか。暑くなってきたころには、アカリは徐々に体調を崩すようになっていった。寝つきの悪い日が増えてきて、体が重く、気分も悪いことが多くなっていった。
 両親は普段相談できる相手ではなかったが、体調があまりよくないことは一度言った。

「そんなのはただの甘えだろう。たるんでいる証拠だ」

 しかし、そのように一蹴されてしまった。
 両親の頭の中には、優秀な成績を修め、名の知れている大学に進学し、上場企業に就職することが一番と考えている節があった。
 その意味では、現在のアカリはおそらく両親の求めていたスペックを満たしている。敷いたレールから外れることは許さん――そんな圧力を感じた。

「生きていれば、きっとそのうちよいことはある」

 生前の祖父は常日頃そうも言っていたが、少なくとも今のところは〝ない〟。
 この先にあるという希望も持てない。

 せめて、祖父のような、愚痴を言える相手が身近にいてくれれば……また気分も違うのかもしれないが。

 ……。

 ん? ちょっと待った。
 そうか――。

「おいアカリ、どうした? ボーっとして。ちゃんと考えてくれてるのか?」

 回想、そして思考が終わるのと、そう話しかけられたタイミングが同時だった。

「うん。考えてたよ。願い事、決まった」
「お! そうか。何にする?」

 身を乗り出すように聞いてきた青年に、アカリは言った。

「私のおじいちゃんを、生き返らせてよ」 

 

第3話 なんで、いないんだ?

「あ?」

 アカリが願いを言うと、元々パッチリしていた青年の瞳が、さらに大きく見開かれた。

「『あ?』って何よ。具体的な願い事なら叶えてくれるんでしょ? 私のおじいちゃんを生き返らせて」
「そんなの無理に決まってるだろ」
「はあ? 叶えるって言ったのはそっちでしょ?」
「言ったけどよ……。悪魔の魔術はいろいろできるけど、人を生き返らせるのは無理だぞ」

 アカリはため息をついた。

「役立たずだね。話にならない」
「なんでだよ」
「期待させてから落とすとか、あんた最低だわ」
「いや、俺は最高だぞ?」
「きもっ。どう考えても最低です」

「え? だってよ、悪魔が死人を生き返らせたとか聞いたことあるか? あってもゾンビとかじゃないのか?」
「なるほど。それはあんたの言うことが正しいかもね。さようなら」
「おい、ちょっと待てってば」

 アカリが自分のトレーだけ持って席を立とうとすると、青年が慌ててそのトレーを机に押し戻してきた。

「何? もうあんたに用はありません」
「俺があるんだよ。ていうかよ。人間って、誰でも金がほしいとか物がほしいとか、そういう願いがいつもあるって聞いたぞ?」
「いや、本当にないんだって。なんか人間に偏見持ってない?」
「ええ? そういうもんだと教わったんだけどな。俺、もしかして特別な人間に当たっちまったかな」

 まいったなという感じで、青年は真っ黒な髪に手をやった。

「ま、とりあえず。こうやって姿を見せたんだから、何かお願いしてくれよ。俺にもメンツってもんがあるからな」
「手ぶらでは帰れませんってことかー。悪い訪問販売を教える学校に行ってるの?」
「違うっての。悪魔と人間は契約するもんだろ。このまま何もしないで帰れるかよ」

 契約。
 学生の頃であれば、アカリがその言葉に警戒することはなかったかもしれない。
 だが、社会人となった今では違う。

「ん。契約ってことは、対価を取るの?」
「もちろんそうだよ。そうしないと契約にならないだろ」
「もしかして、魂を抜くとか?」
「普通は抜くぞ。抜いてその魂を魔本にする」
「何その不利な契約。でもあんたは抜かないんだ?」
「俺は出血大サービスで抜かないことにしたんだ。お前はラッキーだ」
「よくわかんないね……。でも私は別に魂抜かれてもいいって思ってるくらいだけど? 痛くないんでしょ?」

 青年はその回答に一瞬固まると、真顔になった。

「アカリ、あんまりそういうことを言うもんじゃないぜ?」

 そう言って手元の分厚い本をパラパラとめくる。

「えーっと。この世界ではすべての人が主人公だ。主人公なんだから簡単に死んじゃだめだろ?」
「……今の言葉がその本に入ってたの?」
「そうだぞ。この本の元になった魂の持ち主の名言らしいな。『プロゲーマー』とかいう職業だったみたいだな」

 このタイミングでゲーム中でおこなわれたと思われる名言、しかも少しピントがズレているものを出してくるのはどうなの? とアカリは一瞬思った。
 だがすぐに、そんな突っ込みがどうでもよくなるくらいの重大なことに気づいた。
 すなわち、『この本の元になった魂』という彼の言葉である。

「まさか、その本って。辞書じゃなくて?」
「ああ、たぶんお前が今想像したとおりだ。これは死んだ人間の魂を製本した『魔本』なんだ。その人間の歴史とか、知識とか、人生哲学とかが、これ一冊に全部詰まってるんだぜ」

 青年はその分厚い本を、胸の前で見せるように開いた。

「――!」

 横書きで段落の字下げもなく、小さな文字がびっしりと書き込まれていた。
 しかもその文字は、明らかに日本語でも英語でもない。これまでに見たこともないような種類の文字だった。

 アカリは驚き、目を見開いた。
 しかし〝本魔〟というくらいである。特殊な魔本を持っていてもおかしくはないのかもしれないし、日本語でも英語でもない文字を使っていてもおかしくないのかもしれない。

 すぐに頭は切り替わった。

「じゃあ話戻すけど。対価の中身はなんなの? 事前に聞かないとフェアな契約じゃないよね」
「ああ。願いを叶える代わりに……」
「代わりに?」
「お前のこれからの人生で、もっと本を読んでほしいんだ」
「はい? そんなんでいいの?」
「いや、それ、俺らにとってはまあまあ大事なんだ」

 怪しむアカリに対し、青年は真剣な表情のまま、身振り手振りまじえて話し始めた。

 本魔とはその名のとおり本の悪魔であり、普段はあの黒い塔の内に居住していること。
 蔵書の魔本を読んで人間の知識を吸収することができ、それが塔内の文明レベルを支えていること。
 人間の魂から魔本を生成する際には、副次的にエネルギーも産生され、その一部を使って塔が運用されていること。そのため、常に新しい魔本の生成を必要としていること。
 魔本のもとになるのは死んだ人間の魂の一部だが、百パーセントが魔本になるわけではなく、生前に読書好きで読書量が多いほど率が高まること。

 そのようなことを青年は説明していった。
 ちなみに、塔の蔵書となった魔本については、書庫内で閲覧できるほか、一冊ずつであれば外への持ち出しも自由らしい。

「なんとなく理解したけど。もしかして、あんたが現れたのは、私が〝本嫌い〟だったからなのかな?」

 本嫌いを自覚していたアカリは、そう聞いてみた。

「あー、まあ、そうだよ。このままだとお前は魔本にならない。お前みたいな人間ばかりになっちまうと、俺らの塔が困ることになるんだよ」
「ふーん」

 はい読みますと契約して願いを叶えてもらって、そのあと約束を破って本を読まなかったらどうするのだろう。
 アカリはそう思ったが、読んで〝ほしい〟だから、あくまでもお願いベースということなのかもしれないと考え、もっと気になったことを聞いた。

「さっき契約の対価について、『普通は魂を抜く』って言ってたけど、強制的に人間の魂を抜いて魔本にする場合だと、必ず製本は成功するんだ?」
「お前頭いいな。そのとおりだぞ。契約で魂を強制的に抜けば、本が大嫌いな人間でも、百パーセント魔本になる」

「それって苦しませずに魂を抜けるんでしょ? 別に抜いてくれてもいいけど」
「だからそういうこと言うなって」
「変な悪魔さんね」
「変で悪かったな。もうこれだけ話したんだから、契約しないとかだめだぞ。無理やりでもいいから、なんかお願いしろ」

 ふたたび考え込んだが、やはり「悪魔に頼むならこれだ」という願いは出てこない。

 うーん……。
 あ。
 アカリは、一つひらめいた。

「じゃあ。ちょうどいいの思い付いたから、それで」
「お。やっと決まったか。なんだ?」
「うん。一泊二日で旅行にでも行こうかなって。で、あんた、ついてきてくれる? ついてくるだけで、何もしなくていいから」

 青年が「ん?」と首をひねる。

「それだと悪魔の魔術と関係ないだろ。別に俺に頼まなくてもよくないか? 一緒についていくだけなら、人間に……友達に頼めばいいんじゃないか?」

 その疑問に、アカリは自身でも不思議なほど、さらっと答えた。

「友達、いないんだよね」 

 

第4話 断られた

 友達がいない。
 アカリがそう言うと、青年は怪訝な顔をした。

「なんでいないんだよ。今お前、普通に俺と話してるよな。話すことは苦手じゃなさそうに見えるぞ」
「あんた年下に見えるし。それに人間じゃないし」
「関係あんのか?」
「たぶんけっこうある。で、どう? この願いなら『できない』ってことはないよね?」

「んー。人間でもできることをやるのはちょっとなあ」
「あっそ。嫌ならこの話は白紙だね」
「あ、ちょっと待てって。わかったわかった。やる。やるから」

 またアカリが席を立とうとすると、青年は慌てたように了承した。

「じゃあ、それでよろしくね。ただついてこればいいだけだし、何もしなくていいからね。友達代行サービスの何もしない版みたいな感じで」

 旅行というのは思いつきであり、特段強い願いだったわけではない。
 だが、学生のときには一緒に行ける友人がいなかったせいで、旅行に行っていない。心残りではあった。

 最近は気分も鬱気味だし、この機会に現実逃避でもしよう。対価である『本をたくさん読む』というのは実行できる気があまりしないけれども、まあ頑張りますということにすればいい――アカリはそう考えたのである。

「ああ。わかった。気は進まないけどいいぜ」

 口ではそう言っているが、青年は直前までの気乗りしない表情を、すでに引っこめていた。

「俺はミナトって名前だ。ミ・ナ・ト。これで契約成立だ。よろしくな」

 青年――ミナトはニコッと笑った。
 名前の部分の強調ぶりから、どうやら願いを聞いて名前を教えることで契約が成立するようである。



 店の外に出ると、ふたたびモワっとした暑さを感じるとともに、例の塔が目に入ってしまった。
 どす黒いその姿。何度まばたきしても消えない。
 やはり幻でなく現実。そう思い知らされる。

「ほんっと気持ち悪いというか。禍々しいっていうの? まるで悪魔の塔みたいだね」
「悪魔の塔だぞ? 俺らは悪魔の一種だって言っただろ」

 笑うミナト。
 褐色の肌、黒い髪、黒いタンクトップ。塔と同じ黒系統の姿でも、受ける印象はだいぶ違う。こちらは爽やかだ。

「そうだ。ちょっと塔の中を見せてやろうか? まあ中の半分以上は書庫だから、アカリにとってあまり面白いところはないかもしれないけどな」
「へぇっ?」

 まさかの提案に、アカリは変な声が出る。

「私、飛べないけど。どうやって行くの。一階から入れるの?」
「一階からは無理だ。空からだな。俺の体につかまってくれれば」
「絶対嫌です」
「なんでだよ」
「だって悪魔の一種なんでしょ? 汚そうじゃない。そのタンクトップとか洗ってるの?」
「当たり前だろ。俺ちゃんと自分で洗ってるぞ」

 ミナトはドヤ顔で親指を一回立てると、頼んでもいないのにわざわざクルっと一回転した……が、真っ黒なタンクトップを外で見せられても、アカリの目からはよくわからない。

 ただ、背中で羽が生えていた部分には、切れ込みが入っていることが判明した。どうりで羽を生やしたときに破れなかったわけである。

「じゃあ……あ、そうだ。ねえ、ちゃんとお風呂は入ってるの?」
「それも当たり前だろ。塔の中には風呂もある」
「え? その年でお姉さんと入ってるの?」
「……」
「……」

「なめてんのかコラ」
「気づくの遅!」
「うるせー。俺は一人っ子だよ! ていうか、悪魔は悪魔でも、本魔は本を扱うから清潔なんだ。人間と違ってあまり汗かかないしな」
「あっそ。本当であることを期待します。一緒に旅に行く人が不潔なのは嫌だしね」

 なんとなく、からかってはみたが。
 彼の顔や体の露出部分には、ここまで一滴の汗も見ておらず、肌のテカリもまったくない。アカリは、この褐色青年の言うことが嘘だとは思わなかった。

「本当だよ。たぶん俺、人間よりもきれい好きだと思うぞ。ほら、スマホだっていつも拭いてるから液晶画面も――」
「あ!」

 目の前に差し出されたスマートフォンのロック画面を見て、アカリは時間をすっかり忘れていたことに気づいた。

「どうした?」
「やばい。もう時間だった。会社に戻らないと」
「ああ、昼休みが終わるのか。じゃあ旅行の日にちだけ教えてくれよ。あんまり先だと俺も困るんで、なるべく早めに行けると助かる」

「うーん、有休の申請をするから、今ここで確定ってわけにはいかないけど。来週の水曜日と木曜日あたりは?」
「来週かよ!」
「そりゃそうだよ。そんなに急に有休取ったら怒られちゃう」

「んー、そうか。じゃあ火曜日と水曜日にしてもらえないか? 木曜日は俺の誕生日だからな」
「悪魔のくせに誕生日にイベントやる文化でもあるの? まあ別にいいけど。じゃあ、今日中に上司に申請するから。明日の昼に、またここであんたに報告ってことでいい?」
「わかった。んじゃ仕事頑張れよ!」

 笑顔で手を振るミナトに、アカリは「嫌なことは頑張らない主義なの」と言い捨て、会社へと急いだ。

 汗だくで会社に戻ったときには、午後の始業を微妙に過ぎてしまっていた。
 先輩社員から小言を頂戴したことは言うまでもない。 

 

第5話 実は、楽しみだから

 有休申請は通り、来週の火曜日と水曜日を一泊二日の旅にあてることになった。
 ミナトも約束どおりにファーストフード店に現れ、無事に日程の確定を伝達できた。

 ちょうどその時期、世間はお盆。アカリの会社にはお盆休みがなく、各自適当に有休を取得して休むシステムである。
 アカリは実家住まいなので、帰省する社員とほぼ同じタイミングの有休申請には上司も首をかしげていた。だが今はまったく繁忙期ではない。取得は二日間だけということもあり、いちゃもんをつけられることはなかった。
 ただ、両親に旅行のことが知られるのは面倒であるため、家ではその二日間を出張という説明にした。

 旅行先は、鍾乳洞などが有名な天岩(あまいわ)高原に決めた。
 同伴者が同伴者であるため、人でごった返すテーマパーク等では何をしでかすか不安という理由や、単純に涼しそうだからという理由もあった。が、何よりも、その観光地はアカリの祖父が好きだったということが大きな理由だった。

 アカリは子供のころ、祖父にその地へ連れていかれたことがある。
 まだ小さかったので、すべてをはっきりと思い出せるわけではない。しかし、アカリにしては貴重な、とても安らぎのある記憶だった。
 そこにふたたび行くことで、記憶の中にあるその感情に少しでも浸れるのであれば――そう思ったのである。



 * * *



 窓が、二回強く叩かれた。
 その乱暴な音に、そろそろ風呂に入ろうと着替えを準備していたアカリの心臓が、ビクンと跳ねた。

 ここは自宅の二階。普通の人間の仕業ではない。
 さては……と思いながら、アカリはカーテンを除け、夜で鏡と化していた窓を開けた。

「よお、アカリ」

 犯人はやはり、本魔ミナトだった。
 見た瞬間は背中に羽が生えていたが、すぐに縮小して消えた。人懐っこい笑顔とともに、フリーの右手をウェーブさせている。

 左手のほうには相変わらず魔本を持っていた。
 今日のものは表紙が灰色だ。初めて会った一昨日や、有休取得の報告のために会った昨日のものとは違う。

「ちょっと! びっくりするでしょ! 窓割れたらどうすんの! ……の前に、なんで私の部屋に来てるの? スケジュールは伝えたでしょ?」

 今日は木曜日。旅行に出かけるのは来週の火曜日である。
 ミナトには当日の朝、駅で合流という話になっていた。それ以外で会う約束はしていない。

「大丈夫。ちゃんと姿を消して飛んできたから、誰にも見られてないぞ。安心しろ」
「そういう問題じゃなくて――」
「んじゃ、お邪魔するぜ」

 ミナトは抗議を無視すると、まず窓枠に座った。
 そのまま両ひざを胸につけるようなかたちで魔本を挟むと、両手を器用に使い、足裏をつけないように、すぐ下のカーペットへ着地した。

「何か拭くものはあるか?」

 壁に背中を預け、足を浮かせてブラブラさせたミナト。
 アカリは虫が入らないように窓を閉め、ウエットティッシュを取ってくると、仏頂面で彼の横にしゃがみ込んだ。足を拭き始める。

「お? 悪いな。拭いてもらっちまって」
「適当に拭かれたら嫌だしね。まったく、汚い足で女性の部屋に来ないでよ」
「いつもは汚くないぞ? 今日は素足で飛んできたから、屋根の上に足を付いちまったんだよ」

 足裏からくるぶしまでを拭いたが、自己申告のとおりだと思った。
 タコや水虫はなく、爪もきれいに切られている。

 そしてアカリの目を引いたのは、ムラのない褐色肌が足の甲まで続いていたことだった。
 靴や靴下に覆われる部分が白くなっていることもなく、まるで日焼けサロンで焼いたような一様な色なのだ。肌のきめも細かい。

「まあたしかに、いつもはきれいにしてそうな感じに見えるけど」
「だろー?」

 ミナトは嬉しそうに笑うと、部屋をキョロキョロ見渡した。
 アカリによる足拭きが終わると、「サンキュー」と言いながら机の横に置いてある本棚へと向かった。

「仮に清潔でも、いきなり部屋に来るということ自体が人間だと非常識だからね? 私はいつも親に言われて片づけてるからよかったけどさ。散らかってたら恥ずかしすぎるでしょ」
「お? この小説面白そうだな。読んでいいか?」

 ウエットティッシュをくずかごに入れながら文句を言ったアカリだったが、見事に無視された。

「ちょっと、話聞いてる? ていうかそれ、全然面白いと思わなかったんだけど」
「そんなことないだろ? ここに名作っぽいことが書いてあるぞ」

 本棚の前、あぐらで座り込んだ彼が手に取っているのは、本棚に入っていた本のうちの一冊。
 そのカバーの上から巻かれている帯には、『日本文学の金字塔』と書かれていた。
 しかしアカリからすれば、そんなこと言われても面白くありませんけど? である。

「私にはつまらなかったの。ま、子供のころに文学を無理やり読まされて、もう生理的に無理ってのもあるけど」
「へー。アカリが本嫌いなのは、ちっちゃいころに無理強いされたからなのか」
「そういうこと」
「もったいねえな。本には書いた人の人生が詰まってるのに」
「人生が詰まってるのは、あんたたちの魔本でしょ? 普通の本は関係ないじゃない」

 アカリは、ミナトの腿の上に置かれている魔本を指さした。
 彼と二回目に会ったときに、魔本一冊だけで一人分の人生記録を詰め込めるからくりについて、説明を受けている。
 本魔の文字は人間のそれよりも高密度であり、文字一つに膨大な量の情報が入っているとのこと。

「いや、アカリ。人間の本だって魔本と一緒だぞ」
「あっそ」
「こら、流さないでちゃんと聞けって」

 彼は魔本に持ち替えると、高速でめくりだす。

「ええとだな……。三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する――。どうやら聞かないと三流になるらしいぞ?」
「三流でけっこうですよーだ。とりあえず、その本が読みたければ貸してあげるから、今日はもう帰って。これから私、お風呂入るから」

「入ってきたらいいんじゃねえの? 俺はこの本読んでるから」
「え? そっちの塔では女性の風呂上がりすぐに立ち会ってもいいんだ? それともあんたが変態なだけ?」
「変態じゃねーよ」

 否定しながら笑うと、ミナトはまた魔本を高速でめくる。

「あ、なるほど。たしかにそういうのはよくないみたいだな。悪い」

 頭を掻きながら、素直に謝罪してきた。

「まあ、そういうことなら今日は帰る。お言葉に甘えてこの本は借りるぜ」

 最後はまた爽やかな笑顔で締めくくると、ミナトは窓を開け、闇夜へと飛び去っていった。



 翌日夜。
 前日よりもだいぶ加減した勢いで窓が叩かれた。

「よお」
「出た……」

 またミナトである。
 時間は昨日よりも遅い。アカリはもう食事も風呂も済ませ、部屋でゆっくりしていたところだった。

 彼の右手には昨日借りていった本。左手の魔本はまたチェンジしてきたのか、緑色をしていた。
 前日の反省点を生かして履いてきたのであろうサンダルを脱ぐと、彼は中に入り込んできた。

「あんた暇なの? また本借りにきたの?」
「それもあるんだけどよ。今日はまず、この家の中を探検してきてもいいか? お前以外の人間には見えないように姿を消すからさ」
「は? 気持ち悪いんだけど。なんで?」

 彼の表情はそれまでと変わらず、悪魔の一種だとは信じがたいくらい無邪気だった。それだけに、頼み事の気持ち悪さとのギャップが凄い。

「せっかくだし、全部見たいんだよ。ま、駄目だって言われても見るけどな!」
「きもっ」

 探検に出かけた彼は、思っていたよりも長い時間戻ってこなかった。
 アカリはその間、ノートパソコンで適当にインターネットニュースを閲覧していたが、いったい彼はうちの中で何を見ているのだろう? と徐々に不審に思い始めた。

 一度様子を見に行こうかと立ち上がったそのとき、ドアがノックされた。

「はいどうぞ」

 入ってきたのは、もちろんミナトだ。

「おい、アカリ」
「おかえりなさい、気持ち悪い悪魔さん」

 適当に迎えの言葉を投げてから、アカリは気づいた。
 先ほどとはうって変わって、彼の表情はややシリアスで、怪訝さを浮かべているようだったのである。

「下にいた、ちょっと痩せぎみの男と、髪の毛を後ろで縛ってた女の二人は、アカリの親ってことでいいのか?」
「そうだけど?」
「なんかお前が最近たるんでるとか言ってたぞ?」
「あー、最近ちょっと体調がよくなくてね。だからだと思う」

 それについては面と向かって言われたこともあり、アカリにとっては特に驚くべきことではない。

「人間のことはよくわかんねえけど。体調が悪いなら普通心配するもんじゃないのか?」
「普通はそうかもしれないけどね。あの二人はそうじゃないみたいだよ」

 ミナトがベッドの前で、カーペットの上にあぐらをかいて座る。

「へー。お前の親、厳しいんだな」

 彼がベッドを勝手に背もたれ代わりにしているのを咎めるのも忘れ、アカリは頭の中で、学生生活をまとめた白黒フィルムを高速回転させた。

「まあね。子供のころからいろんなものを押しつけてくれてたよ。塾とか習い事とかね。学校の成績だって、ちょっと落ちただけで説教だったし」
「そんなに必死になる理由ってあんのか?」

「なんだろうね。私が一人っ子というのもあるだろうし、それに、おじいちゃんが学者でインテリだったのに、両親は二人ともそこまでの経歴じゃないから、コンプレックスでもあったんじゃないの? 今も『同期で一番早く昇進しろ』とか、『結婚するなら婿に来られる人で』とか、つまらないことを言われ続けてるけど……って、ミナトは昇進とか婿とか言われてもわからないか」

「何度か魔本で見かけた言葉だし、いちおうわかるぞ」
「へえ。まあそういうことで、そういう家なんです。ここは」
「……」



 三日目以降も、ミナトは毎晩部屋に来た。
 窓を叩き、部屋に入り、前日に借りていった本を返却すると、また部屋の本を漁り、その日に借りる本を決め、帰っていく。
 アカリにとってはまったくつまらない本でも、彼にとっては大変面白かったようだ。

 そして、旅行前日の夜――。
 旅の準備が整ったタイミングで、また窓が叩かれた。

「結局毎日来たことになるけど。ミナト、あんたよっぽど暇なんだね」
「まあな! でも今日は挨拶だけだ」

 中に入ってくることはなく、これまでで一番と思われる無邪気な笑顔だけ、網戸越しによこしてきた。

「明日からよろしくな! アカリ!」
「なんか、すごく楽しみにしてるように見えるんだけど? あまり行きたくないんじゃなかったの?」
「甘いなアカリ。えーっとだな……人生というのは、やりたいことができなくなったときが出発点なんだ。だから――」
「ハイハイ。もう魔本読み上げはいいから」

 また魔本カンニングの説教が始まったので、アカリは途中でさえぎった。
 なお魔本の表紙は、部屋の照明を反射して輝いているのが網戸越しでもわかる。金色のようだ。

「しかもさ。その名言、それ自体はいいこと言ってそうだけど、この場合だとちょっとピントがずれてない?」
「そう言われれば、そうかもな」

 アハハ、と彼は頭を掻きながら笑った。

「魔本に載ってる言葉をそのまま使ってるから不自然になるんじゃないの……。ちなみにその魔本、他にも何か名言あるの?」
「んーっと、そりゃ無数にあるけど。適当に拾うと……二度としません、三度します。コマオクリモデキマスヨ。いやぁ~まいった、まいった。あれ? なんだこれ、わけわかんねー」
「それは私のセリフだって。なんなのその魔本は」

 アカリは呆れたが、本人はどこ吹く風だ。

「じゃあ、俺も準備するから! また明日!」

 そう言うと、彼は背中から悪魔の羽を出し、夜空へと消えた。 

 

第6話 頑張ることで、少しでも喜んでもらえるなら

 現実逃避のための旅は、順調に始まった。

 特急列車を使って二時間半。無事に終点に到着すると、アカリはミナトとともに駅の外に出た。
 ここから先は車での移動だ。

 東京に比べるとさすがに空気が違う。
 少し涼しいし、おいしい。

「どうだアカリ? 少しは懐かしいと思うのか?」

 そう言って伸びをしているミナトの左手には、魔本のほかに、市販のガイドブックが握られている。
 普通の人間であればずっと持っているのはつらいはずなのだが、まるで重力を無視するかのように軽々と握り込んでいた。
 なお、魔本はまた出し直してきたようで、表紙は焦げ茶色をしている。

「うーん。懐かしいような、そうでもないような、記憶がないような」
「そうか。前に来たのがまだ小さいころなら、忘れてても仕方ないよな。通り過ぎただけの町ならなおさらだ」

 昔に祖父と一緒に来たときと、おそらく同じルートで来ているはずだった。
 しかし、東京に比べてかなり高さ控えめなこの街並みを見ても、アカリは特に何かを感じることはなかった。

「じゃあ行こうぜ。レンタカー屋はこっちだ」

 いつのまにかレンタカー屋の場所を把握していたミナトが、指でその方向を示した。
 羽をしまっていることもあり、白い犬歯を少しだけ目立たせて笑っているその姿は、よく日焼けしたサーファーという感じだ。

「それとも、空飛んでくか? 俺につかまってもらえれば――」
「却下!」
「へーい」

 特急列車の席では窓際を譲られていた。
 さらに、頼んでもいないのになぜかガイドブックをいくつも持ってきており、窓から見える景色の説明までしてくれていた。

 そして今。
 彼は、肩にアカリのバッグ、背中に自身のリュックと、二人分の荷物をしょっている。アカリは手ぶらだ。

 今回の旅についてきてもらったのは、単に一人だと行きづらいという理由だった。
 空気のような感じでよかったのだが、彼はまるで付き人のように機能している。
 相変わらず魔本をめくりながら説教めいたことを言ってくることを除けば、今のところは完璧な同伴者だ。

 ――ずいぶんと親切な悪魔さんだこと。

 そう思いながら、アカリも彼に続いてレンタカー屋へと歩いた。



 車を走らせること一時間強。
 この地方では一番の観光名所である鍾乳洞、天岩洞の大きな看板が見えた。
 そしてさらに進むと、「洞入口」と矢印付きで書かれている小さな看板も見えた。
 だが、そこはいったん素通りし、車のまま坂道を登り続ける。

 この坂道の途中にはキャンプ場があり、さらにそのまま登ると、車のまま山頂近くまで行くことができる。そこには高原を見渡せる展望台が設置されていることになっていた。
 先にそちらに行く理由は、昔祖父と一緒にここに来たとき、鍾乳洞に入る前に見晴らしのよい場所に行っていたような記憶が残っていたからである。

 車がすれ違えないほどの狭い登り道を抜けると、そこは山の頂というよりも、峠のような、平らでのどかなところだった。
 ミナトの説明によれば、この山の名称は仙人平(せんにんひら)。名前のとおりということなのだろう。

 道の終点にあった広い駐車場には、観光客と思われる車が数台とまっていた。
 車から降りたアカリたちは、ゆるやかな斜面に設置されていた大きな展望台へと向かった。

「うわあ。なんか、何もかもが、なだらかだね」

 展望台からの眺望も、やはり穏やかで優しい。夏空の下の稜線は切り立つことなく、柔らかなうねりが続いていた。

「でも不思議。なだらかなんだけど、どうしてか元気をもらえる気がする」

 その手前に広がっている濃い緑や、流れている川のおかげだろうか。けっしてパワーを感じない眺めではなく、活力にもあふれている気がした。

 ――この感じ、少し記憶にあるような気がする。

 アカリはそう思った。
 昔の記憶が呼び起こされている感覚が、たしかにあった。

 この展望台で、祖父が自分のすぐ右側に立っていて。その内容まではさすがに思い出せないが、景色を見ながら何かを話してくれていたような……。
 ……まあ、今右側に立っているのは祖父ではなく、得体の知れない悪魔さんなわけだけれども。

「この景色は隆起準平原、だな」

 相変わらず魔本とガイドブックの両方を持ったままのミナトが、ガイドブックのほうを開きながら、そんなことを言ってくる。

「何それ」
「よーし、説明してやる」
「あんた、まるでガイドさんだよね。一度も来たことないくせに」

 その突っ込みにもめげず、ミナトはガイドブックをチラチラ見ながら、説明を進めた。


 河川の浸食――水のエネルギーによって作られた山と谷の地形は、その浸食がさらに進むと、最終的には『準平原』と呼ばれる地形となる。
 準平原は平原と残丘が残るだけのなだらかな地であり、高度も海面に近づいているため、水の持つエネルギーも弱くなり、それ以上の地形の発達はなくなる。
 つまり〝終わった地形〟なのだ。

 だがその準平原も、地殻変動などで隆起して高度が復活すれば、そこに流れる水は再びエネルギーを持つようになり、それ以降は浸食が復活する。
 この地形の若返りを『回春』といい、隆起した準平原を『隆起準平原』という。


 ミナトの説明は、かなりたどたどしくはあった。
 しかしアカリは前方を眺めながら、最後まで聞いた。
 きちんと理解はできる話だった。

 眼前の景色が優しくも力を感じるのは、この高原が若返りを果たした準平原であり、これから始まっていく地形だからという理由もあるのかもしれないと思った。

「私、高校のころの理科は地学じゃなくて生物を取ってたからなあ。全然知らなかった。でも、そういう知識ってさ、知っててもあまり役に立たないでしょ」
「そんなことないぞ? 人間だって自然の一部だからな。こういう自然の法則は、人生にもつながるんだ。特にアカリには参考になるはずだ」

 首をひねるアカリの横で、ミナトが今度は魔本のほうを広げ、パラパラとめくる。

「ええとだな。ただ生きて同じことをしているだけだと、なだらかで起伏が少ない人生になるんだ。だから適度に刺激を求めていくことが大事なんだ。ほら、今の話と一緒だろ?」
「また説教臭い話に持っていく……。しかもそれ、魔本を読んでるだけでしょ? そんなのは全然響きませーん」

 ミナトは「そう言われちまうとなあ」と、空いている右手で頭を掻きながら笑う。

「でも仕方ないだろ。俺、人間じゃないし。しかもまだ十七歳だぞ?」
「あ、やっぱり年下だったんだ。でも、悪魔なのに年齢があるとか、おかしくない?」
「おかしくないぞ。普通に年をとって、普通に死ぬ」

 そこでまたミナトは魔本をチラッと見る。

「人生はロウソクのように限りがあるからな。だからアカリも無駄にしないで一生懸命――」
「ハイハイわかりました。鍾乳洞のほうに行くよ」

 すでに一通り堪能した景色を見るのをやめ、アカリは展望台から降りようとした。

「あ、待てって。階段は俺が先に下りる」
「別にそんなの気にしなくていいって」
「いやいや。気にしないとダメだろ。男子たるもの紳士たれ、だな」
「どうせそれも本で見たのをそのまま言ってるだけでしょ」
「だから仕方ないだろって」

 言い返してはくるが、やはり顔には爽やかな笑み。
 彼の後に続いて、アカリも階段を下りていく。

「……」

 下りる途中でも、展望台から景色を見たときに感じたものと同種の懐かしさが続いていた。

 ――昔に来たときも、こんな感じで祖父を眺めた気がする。

 当時は背が低かったから、階段のおかげで祖父の肩が上から見られることを嬉しく思った。しかも見るだけでなく、上から飛びかかってもいたような――そんな記憶まで出てきた。
 今思えば危険なことをしてしまったわけだが、祖父は笑っていたような気がした。

 今見えているのは、彼の剥き出しになった褐色の肩。
 祖父はどちらかというと色白だったし、ここまで筋肉もしっかりしていなかったと思う。
 でもなぜか、それを見てもなお、懐かしかった。 

 

第7話 いい気分、なのかな

 このあたりの地質は、約8000万年前にできあがったという結晶質の石灰岩である。そして、その石灰岩が雨水で溶かされ続けた結果、巨大な鍾乳洞が形成されるに至った――それが天岩洞だ。
 一般向けに公開している範囲は入口から約600メートルほどで、非公開部分を含めると約3300メートル。未発見部分もまだまだあるという巨大な鍾乳洞である。

 その一番の魅力は、種類と数の多さでは東洋一と名高い鍾乳石。
 天岩洞が発見されたのは戦後になってからであるが、直後に洞内を見た人は、そのあまりに美しい白亜の世界に驚愕したという。

 観光鍾乳洞は、外気の流入や人間の出す二酸化炭素、洞内の照明などの影響により、どうしても鍾乳石が黒ずんでいく運命にある。
 しかし、天岩洞についてはさほど年数が経っていないこともあり、現在でもきれいな姿を保っているとされている。


 仙人平を出発してから、天岩洞のやたら広い駐車場に車をとめるまで、ミナトは助手席で洞の概要を説明し続けた。
 もちろんガイドブックを見ながらである。

「どうだ? アカリ。今度の説明は」
「うーん。なんか説明の仕方がスムーズになってるかも?」
「だろ? 少し慣れたぜ」

 白い歯を見せて嬉しそうに笑う。

「こっちはありがたいんだけどさ。いちいちガイドするの、めんどくさくない? 横歩いてくれてるだけでいいのに」

 車を降りてからそう言ったが、「それだとお前がつまんないだろ?」と返されてしまった。
 アカリは予想外に機能し続ける悪魔に戸惑いながら、受付けで入場料を支払った。



「おー、やっぱり涼しいんだ」

 洞の中に入ると、アカリは自然にその感想が口から出た。
 湿度こそ高そうではあるが、外の猛烈な暑さが嘘のような気温の低さだった。

 鍾乳洞の内部は頑丈な足場が組まれており、高低差があるところではしっかりとした階段が設置されていた。照明もついており、女性のアカリでも問題なく歩くことができた。

 一部を除いてかがむ必要もないような広い洞内を、奥へと進む。
 見せ場となっているスポットでは、「妖怪の塔」「白磁の滝」など、見え方にちなんだ名称の札がついていた。そのようなところでは他の観光客も立ち止まっていて、実に観光鍾乳洞らしい光景となっていた。

「というか、寒っ! 涼しいを通り越してるんだけど」

 照らされた幻想的な鍾乳石を前に、アカリが縮こまってそう言うと、ミナトは荷物の中に手を入れ、薄いブラウンの布を取り出した。
 そして――。

「ホレっ」
「えっ?」

 アカリの上半身にサッと巻かれたのは、エスニック調の大判ストールだった。
 薄いが上半身ごと包めるような大きいサイズであり、一気に暖かくなった。

「これ、私が使っていいんだ?」
「もちろん!」
「ありがとう。あんたは?」
「俺はあんまり暑いとか寒いとかないんで大丈夫だぞ?」

「へー。じゃあなんでこんなの持ってたの?」
「ちゃんと調べたからな。鍾乳洞は地中にあるから、夏でも冬でもそんなに温度が変わらないんだ。夏でも涼しいどころか寒く感じる人が多いってよ」
「……」

 さらに進んでいくと、巨大なホールのような場所に着いた。

「うわ、すごいね」

 鍾乳石で複雑な形状をした天井は、見上げているとめまいがするほどの高さがあった。

「ここは『天岩御殿』という名前がついてる。この天岩洞の一番の見どころらしいぞ」

 ミナトがガイドブックを見ながらそう説明したが、アカリはその言葉が頭の中で処理されないくらい、このドームの景色に圧倒されていた。

 カーテンのように上から膜状に垂れ下がる鍾乳石、つららのように鋭く地を睨む鍾乳石、今にも流れ出しそうな滝の形をした鍾乳石。神殿の円柱のように太く構えている鍾乳石。下からタケノコのように生えている鍾乳石。
 それらのすべてに、神秘的な造形美がある。

 大自然の力による非日常的な空間。
 まるで違う世界に来たかのような感覚だった。

「アカリ」

 この異世界感は、体が覚えている。アカリはそう思った。
 少し、懐かしさを感じた。これは気のせいではない。

「おーい、アカリ」

 この洞の雰囲気と昔の記憶に完全に浸ってしまい、ミナトに名前を呼ばれていることにも気づかなかった。

「アカリー。こっち向いてみ」

 右肩を後ろからトントンと叩かれ、アカリは我に返った。

「ん? 何……ぎゃあああああっ!」

 すぐ目の前に出されていたのは、人差し指から逆さまにぶら下がった、茶褐色の小さな生き物。
 コウモリだった。

「あははは。アカリ驚いてやんの」
「当たり前でしょ! 何してくれてんの!」
「いや、でもよく見てみ。結構こいつらかわいいぞ?」

 ふたたび人差し指を目の前に出してくるミナト。
 コウモリは大人しくぶら下がっているようで、動きはない。
 アカリはその様子から、いちおうは安全なのだろうと判断し、近くから観察する。

 やや突出している鼻、丸く小さな目、ピンと伸びた大きな耳、意外に柔らかそうな体毛。
 しばらく眺めていたら、アカリにはそれらのパーツが絶妙なアンバランスさに感じ、とても愛嬌のある姿に思えてきた。

「……たしかに。ちょっとかわいいかも?」
「だろー?」

 ミナトが無邪気に笑い、「よかったな。好かれたみたいだぞ」とコウモリに話しかけた。
 すると、なぜか多数のコウモリがどこからか飛来し、彼の頭上近くでホバリングを開始した。
 そして彼は、空いている左手だけで魔本を開き、器用にめくっていく。

「えーっと。アカリ、世界でもっとも不要な眼鏡は色眼鏡だ。人を見るときは先入観を取っ払って――」
「ハイハイ。いちいち魔本読み上げのお説教はいらないってば。しかも人じゃなくてコウモリだし」
「ははは。そうだな」

「というか、なんでコウモリが懐いてるの? 普通は無理でしょ?」
「なんでだろ。悪魔だから?」
「……すごい説得力あるけど。でもここは他の人たちもいるし、そういうことしてると周りの人たちがドン引きしちゃう…………って、あれ? そういうわけでもないみたいだね」

 広い天岩御殿には、パッと見たところ二十組以上の観光客がいた。
 だがこの異常事態を見ても、悲鳴をあげるわけでも気持ち悪がるわけでもなく。
 皆笑いを浮かべながら、物珍しそうに見ていた。

「お兄さん、スマホで撮ってもいいですか?」
「いいぜ! 撮影は自由!」

 カップルと思われる若い男女が近づいて撮り始めると、他の組も続いた。
 家族連れもいて、子供は大変に喜んでいるようだった。

「なんだかなあ。人間ってよくわからないなー。得体の知れない人によく自分から近づけるよね」

 一通り対応が終わり、ミナトがコウモリたちをどこかに去らせると、にぎやかな輪を外から見ていたアカリは、そんなことをぼやいた。

「お前の目には、俺は悪い奴に見えるのか?」

 彼は除菌ウエットティッシュを出して手を拭きながら、そんな聞き方をしてくる。

「んー、得体は知れないけど、今のところ悪い人には全然見えない」
「実際悪くないからな! けどお前だって、俺から見ると悪い人間には見えないぜ?」
「私には人もコウモリも近づいてこないけどね」
「俺にはそれが不思議なんだけどな」
「いや不思議じゃないよ。私だって私に近づきたくないかもしれないし」

 首をひねっているミナトの仕草は、本当に不思議がっているように見えた。
 だがアカリとしては、長年の付き合いである自分のことは、ある程度わかっているつもりだ。ついつい自虐的な言葉も出てきてしまうというものだった。

「あんまりそうやってネガティブなことを言わないほうがいいぞ?」

 またミナトの左手の魔本が開いた。

「ええとだな。人間の世界って、言葉の積み重ねでできてるんだ。だから言葉は大事にしないといけない――」
「はーい。それは少しピントがズレてると思いまーす」
「そうか?」
「そうです」

「じゃあ、アカリはちょっと笑顔が少ないと思うから、これかな。人間は笑いが伝染する生き物なんだ。相手に笑ってほしかったら、まず自分が笑えばいい――」
「それもちょっとズレてるような……。しかもさ。それ難しいよ。つまらないときは笑えないって」
「ふむふむ、じゃあ……」
「あー、もう。魔本の読み上げはしなくていいってば」

 キリがないと思い、アカリは魔本のカバーを四指で弾いて、無理やり閉じた。
 それらの言葉自体はどこかで聞いたようなものばかりだったが、説教臭くてかなわないと思った。 

 

第8話 自分の手でよければ、いくらでも

 天岩洞を後にしたアカリたちは、近くにあった天文台の見学などをおこなったのち、車を走らせ、予約していた『三休(さんきゅう)』という宿に着いた。

 木造二階建てで、かなり古く感じる外観だった。客室は十部屋もなさそうな小さな旅館だ。
 もちろんチョイスの理由は、小さいころに祖父と泊まったと思われたためである。名前だけうっすらと覚えていたのだ。

 外から見た限りでは、特にアカリの記憶が呼び起されることはなかった。
 経った年月を考えれば、外観を覚えていないのは仕方ない。

 ところが。
 チェックインを済ませたとき、女将だという初老の女性から意外な声がかかった。

「電話をいただいたときによっぽど聞こうと思ったけど……。あなた、西海枝京助(さいかいしきょうすけ)先生のご家族のかたかしら?」

 先生。アカリはその呼び方に「おや?」と思った。
 祖父――西海枝京助は大学教授であり、それなりの立場ではあった。
 だが、仕事で関わっていたとは思えない旅館の女将が、昔に泊まった宿泊客のことなどずっと覚えているものだろうか? と。

「あ、はい。私は孫ですが」
「あら、やっぱり。サイカイシって珍しい苗字だったから、たぶんそうかなと思ってたのよ。このたびはご愁傷様です」
「……! ありがとうございます。祖父を覚えてくださっていたんですね」
「もちろんよ。毎年この時期に来てくれてたんだから」
「えっ、そうなんですか?」

 驚きだった。
 女将が祖父の死を知っていたということに対してもそうだが、祖父が定期的にこの小さな宿を訪れていたということにも、である。
 たしかに毎年この時期になると祖父は家にいなかったが、アカリは墓参りとしか聞いていなかった。

「本当は孫も連れてきたいって毎回言ってたわよ。でも息子夫婦に嫌な顔されるから難しいんだって」
「……!」

 それもまったく知らなかった。

「こんなにハンサムな彼氏さんがいるなんて、きっと先生も喜んでたでしょう」

 イケメンという言いかたをしない世代なのか、ハンサムという表現をした。
 ミナトが「おばちゃん。俺、ハンサムなのか?」と、ストレートに女将へ質問している。
 とりあえず『彼氏』の部分を訂正しようよ、とアカリは思った。



 夕食は家庭料理のような感じだった。ボリュームがものすごい。

「すげえ! こんなに食っていいのか」
「ちょっと、大きな声で言わないで」

 卓を挟んでミナトがウキウキであるが、案内されたこの畳の大部屋には他の宿泊客も数組いる。アカリとしては悪目立ちは避けたいところだ。

「というか、今さらだけど、本魔ってご飯食べるんだね」
「食べることはできるぞ? あの塔の中には食い物の店もあるぜ」

 食べること〝は〟という言いかたが少し気にはなった。

 が、突っ込もうかどうか考えているうちに、ミナトは説明を続けてきた。
 基本的に本魔の社会は魔本の知識で作られているため、食文化も存在し、最新ではないものの、人間の世界に準じたものが存在するとのことだ。

 その真偽を確かめる手段がアカリにはないわけだが、目の前で器用に箸を使って魚を食べている彼の姿を見てしまうと、信じざるをえない。



 食後、小ぶりな浴場で入浴を済ませ、ふたたび部屋に戻ってくると、布団が敷かれていた。
 二つ。隙間なく、並ぶように。

「あら。くっついてるね。離そうか?」
「おっ。悪魔を警戒してるな? けど心配無用だぜ。俺は寝ないからな」

 似合わない浴衣姿で、そんな返し方をしてくるミナト。

「余計心配だけど……。でもどうして寝ないの?」
「悪魔は寝なくても、人間みたいに次の日フラフラになることはないんだよ」

 微妙にぼやかしたその言いかたでは、眠くなるのかどうかまでは読み取れない。
 わかるのは、寝ないという意思表示だけだ。

「つーことで。おばちゃんにお願いしてた本を読むつもりだぜ」
「あー。このかごは、そういうことだったんだ」

 布団の近くに買い物かごが置いてあり、本がどっさりと入っていた。
 見えている限りでは、このあたりの旅行ガイドや、地理歴史に関する本が多そうだ。

 旅行前にアカリが聞いていた話では、彼は魔本であれば超高速で読破でき、キーワード検索のようなことも可能らしい。だが人間の世界の本については、並の人間より速く読める程度であるという。

 旅行先でわざわざ本を借り、時間を使って読む。アカリには理解しかねることだったが、かごの本を眺める彼の表情は、まるで子供のように輝いている。

 ――でも、ずっとこんな感じだったかも?

 朝に待ち合わせ場所で会ったときも、特急列車に乗っていたときも、車で移動していたときも、鍾乳洞に入っていたときも、彼はここまでずっと面白そうな顔をしていた。

 無理やり連れてこられたのに、この変な悪魔は何がそんなに楽しいんだか。
 そう思いつつ、布団に入った。



 嫌な予感は十二分にしていたが、やはりアカリはなかなか寝つけなかった。

 エアコンは入っていて、暑くはない。
 部屋の照明も、「俺は暗くても普通に読めるから」とミナトが消してくれていたので、明るくもない。

 仰向けで目をつぶって、じっとしている。
 でも、眠れない。
 時計の音が、耳を刺激し続ける。

「寝られないのか?」

 起きているというサインは出していなかったはずなのに、隣の布団から声がかかった。
 アカリは右向きになった。
 移動のタイミングを逃したので、すぐ隣がミナトの布団だ。

 仰向けで借りてきた本を広げており、顔だけこちらを向けていた。
 彼は最初、布団の上であぐら座りをしていた。しかし「これだとお前が気になっちまうよな」と言って、寝ている体勢で本を読んでいたのだ。

 この地方の自慢である星明かりと、廊下側の窓から入ってくる光源不明の光に薄く照らされた、彼の顔。
 もう目が暗さに慣れていたのでアカリにもわかったが、微笑を浮かべていた。掛け布団は使っていないようで、引き締まった腹部の上に魔本が置いてある。

「いつもの夜よりは少し眠気がある気がするけど……すぐには寝られなそう。なんか最近、夜になると頭が落ち着かなくなって、目が冴えちゃうんだよね。昼間は頭がボーっとして眠いのにさ」

「でも今日の昼間は別に普通に見えたぞ」
「今日は有休だしね。会社にいない日はちょっとマシ」
「ストレスにやられてるからなんだよな? 俺、人間じゃないから完全に理解してるわけじゃないけどよ」
「うん。ヘラヘラしてばっかりのあんたにはわからないかも」

 ここまで完璧な同伴者を演じてきたであろう彼に対し、この嫌味な言いかた。
 アカリは言い終わる前に罪悪感にかられた。

「あはは。そうかもな!」

 しかし、間髪を入れずに返ってきた無邪気な笑いが、それを吹き飛ばしてくれた。

「なあアカリ。お前のじいちゃんって、そういうときは何かしてくれてたのか?」
「さすがに物心ついてからは何も。だいたい部屋も違うし」
「ずっと昔は?」
「……あー。思い出しちゃった。小さいころは、眠れないときに、触ってもらった気がする」

 左前腕を両目の上に置き、記憶を辿っていた…………ところに、彼の「へえ」という声とともに、布団の中で自然に投げ出していた右腕が、風で一瞬だけ涼しくなった。
 そして右手の甲の上に、温かく乾いたものがフワッと乗る。

 いつも魔本を握っている、ミナトの左手だ。

 見ると、彼はいつのまにか仰向けではなく、横向きになっていた。
 腹部に乗っていた魔本は、そのまま前に落ちていた。

「まだ手とは言ってないでしょ……」

 その抗議にも、彼は手を引っ込めなかった。
 そしてアカリも、手を引こうとは思わなかった。

「ああ、そうだよな。悪い悪い。でも正解なんだろ」

 彼が笑いながら言っているとおり、記憶が確かならば、祖父が触ってくれていたのも手だったのだ。

「ま、正解。あんたカンがいいね。おじいちゃんは手を重ねてくれてた」

 素直に降参し、悪魔の厚意を受け取ることにした。
 そのまま目をつぶる。

「アカリは、おじいちゃんっ子ってやつなんだな?」
「たぶん、そう」
「俺だと完全な代わりにはならないと思うけどよ……少しは効果ありそうか? 前も言ったけど、俺清潔だし、そのへんは心配しなくていいぞ」
「それは全然心配してないよ」

 彼は「へへ」と満足そうな笑い声を出した。
 アカリは懐かしくも温かい感情に包まれていた。それこそ、幼少のころの記憶のままに。

 それは、なぜだろう? と考えた。
 仰向けのまま横を確認する。

 彼の顔は、祖父には全然似ていない。その乾いた手の感触も、遠い記憶にある祖父のものには似ていないような気がする。
 では、彼の声のせいだろうか? 顔や手の感触は全然違うにしても、声については、祖父のものをずっと若くすればと考えた場合、似ていないこともないのかもしれない。

 そう真剣に考えざるをえないくらい、彼の手は……いや、彼そのものがどこか懐かしいとすら思えた。それくらいの安心感があった。

「ん? どうした?」

 ジロジロ見すぎたのか、怪しく思われたようだ。

「なんでもない。明後日からまたいつもの毎日かー、やだなーって思っただけ」

 ごまかした。
 とはいえ、これも本音だ。この安心サポートが受けられるのは、今回の旅限定だ。
 それは惜しい。大変に惜しい。

「アカリ。嫌々やってるうちはいい結果が出ないぞ。いい結果が出ないと余計に嫌になるから、悪循環だ」

 彼はサッとガイドブックから魔本に持ち替え、そんなことを言う。得意の魔本読み上げだ。もちろんアカリはハイハイとスルーする。

「んで、どうなんだ? 手の効果は期待できそうか? 感想を聞かせてくれ」
「うん。なんか落ち着いた。ありがとう」
「よーし。じゃあダメ押しでこれもいこうか」

 ミナトはアカリの右手に重ねていた手を外すと、一度起き上がり、リュックから何か小さいものを出した。

 それはふわっとアカリの両目を覆う。
 完全な暗闇になると同時に、両耳にミナトの指が触れた。紐のようなものがかけられたようだ。

「これ、アイマスクだよね? なんで持ってきてるの」
「ストレスってやつは旅行前に本でいちおう調べてたんだ。ちゃんと理解はできなかったけど、夜に眠れなくなるってのは書いてあった。だから持ってきてた」

「……なんかあんた、今日ずっと過剰サービスというか。嫌々ついてきたわりにはものすごい親切だよね。そんなに頑張らなくてもいいのに」
「行く以上は同伴者として頑張るぞ? ええと……時間はすべての人間に平等に与えられるが、どのように過ごしても同じ量を失ってしまう恐ろしい資源だ。だから頑張ったほうがいいんだよ」
「また魔本をカンニングしたなー? たまには見ないで自分の言葉で言ったら…………ん、ちょっと待った」

 アカリは遅ればせながら、一つ不思議なことに気づいた。

「そういえば、ストレスにやられてるなんて話、ミナトにしてたっけ?」

 体調が悪いとは言っていたが、ストレスどうこうと言った覚えはない。なぜ知っているのだろうと思った。
 すると、ミナトは少し沈黙を置いてから、答えてきた。

「お前の親が言ってた」
「あー。なんかうちの中を探検とか、すごい気持ち悪いことしてくれてたもんね」

 アカリはそのときのことを思い出した。
 両親がそんな会話をしているのを、ミナトも直接聞いたと言っていた。原因がストレスであるという話も出ていたのだ。

「まあでも私、別に血を吐いたわけでもないし、高熱が出たわけでもないし、ぶっ倒れたわけでもないし。単に気分が沈んで、体が重くて、夜眠れないっていうだけだから。甘えって言われたらそれまでなんだよね」

 だが、ミナトは「はいそうですか」とは終わらなかったようだ。

「塔に帰ってから、人間の健康のことを調べたけどよ。ストレスで体調崩してるなら、それは病気だよな。俺は甘えってわけじゃないと思うぞ?」

 アカリの耳に、意外なセリフが流れ込んできた。
 せっかくつけてもらったアイマスクを、思わず外してしまった。
 体も横に向け、ミナトの顔を見る。

「ん、どうした?」
「……ねえ、明日東京に帰ったら、すぐに契約終了なの?」
「そうだぞ?」

 ミナトは契約のルールを説明し始めた。
 願いの内容を履行し、契約をした場所――今回の場合はファーストフード店――から一定範囲内に入ると、契約終了となるそうだ。

「ふーん」

 アカリとしては、契約終了の条件に興味があったわけではないので、適当に返した。
 体を仰向けに戻す。だが顔はミナトに向け続けた。

「あれ、アイマスクはないほうがよかったか?」
「ううん。つけてたほうが寝やすい気はする」
「じゃあつけてろよ」
「いや外しとく。でもこれ、ほしい。もらっていい?」
「いいぞ? でも今日使わないなら、しまっとこうか?」
「いや、持ったまま寝る」

 アイマスクの紐を左手に持ち、そのまま布団の中に潜らせた。

「……よくわけわかんねえけど、それがいいならそうするといいぜ」
「ありがとう。じゃあ、はい。右手のほうを、またよろしく」

 薄い掛け布団を、より深くかぶるようにスライドさせると、その中で右手の甲を上に向け、二回ほど跳ねさせてアピールした。

「あんたが嫌じゃなければ、こっちが寝るまで外さないでおいてもらえると嬉しいな。おじいちゃんはそうしてくれてたから」
「あいよ。了解!」

 ふたたび右手の甲を包む、温かい手。やはり落ち着く。

「……会ったときからちょっと思ってたけどさ。あんた、あんまり悪魔って感じじゃないよね」
「なんかそれ、親父にも言われたな」

 また無邪気に笑う彼。
 アカリはやがて、眠りに落ちていった。 

 

第9話 これがいいきっかけになれば、嬉しいな

 翌日。
 朝食を済ませたアカリとミナトの二人は、女将にお礼を言って旅館をチェックアウトした。

「さーて。じゃあ帰りますか」
「ちょっと待った!」

 アカリが運転席でシートベルトを締めると、助手席から、朝とは思えないほどの元気な声が飛んできた。

「え、何? ミナト」
「帰る前に、もう一か所行くぜ」
「行くって、どこによ」
「近くにもう一個あるんだよ。鍾乳洞」
「いや、でも。おじいちゃんと一緒に行ったのは天岩洞だけだと思うんだけど」
「いいからいいから。そこに行ってからでも、遅くなる前に東京に帰れる。行こうぜ」

 強引な提案で、行くことに。



 ミナトのナビにより到着したのは、天岩洞のときよりもだいぶ小ぶりな駐車場だった。

 冒険心をくすぐる地底空間・水心(すいしん)鍾乳洞――。
 駐車場の端、門構えのように掲げられている看板には、そう書いてある。
 宿からの距離は近いが、やはりアカリには覚えがまったくなさそうなところだった。

 看板をくぐり、細い登り道を歩いて進むと、登った先には小さな平屋の建物。

「これが事務所だな。ちなみにここの斜面の上は、昨日行った仙人平だぞ」

 天岩洞付近の灰色一色の崖とは違い、緑に覆われた斜面。その上を指さしながら、ミナトがそう言う。
 私が寝ている間に調べ尽くしたんだろうなと思いながら、アカリは受付けの前に立った。
 そこでミナトがスッと横に出る。

「おじさんおはよ! 俺らCコース予約してた!」
「――?」

 アカリは聞いていなかった。

「ご予約の西海枝様ですね。Cコースは案内人つきでこの金額です」
「え、案内人がつくんですか?」
「はい。危ないですからね」

 天岩洞ではそのようなことはなかったため、アカリは戸惑った。

「え、私きついのはちょっと――」
「アカリ! 頑張るぞ!」

 渋る言葉は、ミナトの元気な声にかき消された。
 受付けの人はニヤニヤしていた。完全にカップルだと思っているようだ。

「じゃあ、あちらがロッカールームになりますので」

 ここの鍾乳洞には、まるで銭湯のような広めのロッカールームがあった。
 なぜかミナトは、半袖短パンの着替えと、ゴム草履を持ってきていた。入る前にそれを渡され、アカリはよくわからないまま着替えた。

 ロッカールームから出ると、ミナトが笑顔で待ち構えており、レインコートを羽織らされた。さらに頭には、これまた用意されていたヘッドライトを装着。

「……なんか、ずいぶん本格的な装備に見えるんだけど?」
「ははは。けっこう似合ってるぞ」

 どう考えても、普通に歩けるところに入る恰好ではない。
 嫌な予感しかしない状態で、アカリはミナトとともに、学生アルバイトと思われる若い男性案内人に導かれ、洞へと突入した。



「ちょっと。何これ? 天岩洞と全然違うんだけど?」

 内部は狭いうえに、暗かった。ところどころ明かりが灯ってはいるが、照らそうという意志を感じるまでの明るさではない。
 さらに、そこかしこで水が流れていた。縞鋼板(しまこうはん)の足場の下が川のようになっていたり、壁面から地下水が噴き出していたり、といった具合だ。

 滝のような音がけっこうなボリュームで聞こえ続けるなか、案内人を先頭に、アカリ、ミナトの順番で進んでいった。



 Aコース部分を抜けてBコースに入ると、足場や照明がなくなり、ほぼ自然なままの洞窟となった。
 凹凸に富んだ床は歩きづらく、ちょくちょくゴム草履の紐部分が足の指にくいこんだ。痛い。

 狭い洞内の壁面は、いたるところで雫が垂れており、ヘッドライトの光で冷たく輝いている。他の観光客の気配もなくなり、孤独感も増した。

 観光鍾乳洞という印象はまったくなく、ガチの洞窟。
 これはこれで、悪くはないのか?
 そう考える余裕があったのは、Bコースの序盤だけだった。

「足が冷たい!」

 水たまりなどのレベルではない。Aコースと異なり、足がどっぷり浸かるほどの水が床を満たしていた。しかも流れがある。
 地下に流れる川の中を、その流れに逆らって進む――そんな感じだ。

「水温は十度くらいです。一年を通してあまり変わりませんね」
「ひええ……」

 刺すような冷たい水が、アカリの体温を容赦なく奪っていく。

「最奥まであと700メートルくらいですが、ほぼ水に浸かりながらになります」
 と案内人から告げられると、事前に一言も知らされていなかったアカリは、後ろのミナトを睨みつけた。

「ははは。アカリ、冷たくて気持ちいいだろ」
「……冷たすぎてむしろ痛いんですけど?」
「大丈夫。旅館のおばちゃんの話だと、すぐマヒして冷たく感じなくなるらしいぞ」

 怨嗟(えんさ)を込めた抗議もあっさりとかわされた。
 そして同時に、どうやらミナトは旅館の女将に対し、この鍾乳洞に行くことを相談していたであろうことがわかった。

「でもアカリ、この洞窟は『生きている』って感じがするだろ? 鍾乳洞って水に溶食されてできるものだからな」

 前を歩いている案内人が振り返り、「彼氏さんは詳しそうですね」と笑った。

「この人は本でガンガンに予習してきただけです。あと彼氏じゃないですので」
「彼氏さんという感じもしますが、ご家族のような感じもしますね。いい雰囲気でうらやましいです」
「せっかくちゃんと否定してるんで、スルーやめてください」
「案内人の兄ちゃん、いいカンしてるな! どっちも正解!」
「変にノるのやめて!」

 ミナトの言葉どおり、足がマヒしたのか次第に皮膚感覚がなくなっていった。
 冷たい・痛いという感覚がなくなるのは、それはそれで怖い。だが随意運動は受け付けてくれているようで、足はしっかり動く。
 これ以上気にしないことにした。

「ここは『胎内くぐり』です。狭いですので、気をつけてどうぞ。まず案内人の僕が通ります」

 え、これ本当に通れるの? それがアカリの第一印象だった。
 トンネルの天井が水面スレスレまで下がっている。しかも意外に距離が長そうだ。

 ひるむアカリの前で、ガイドの若い男が「では見ていてください」と四つん這いになる。

「――!」

 彼はまるで三億年の歴史を誇る某昆虫のように、ササっと抜けていった。
 もちろんアカリとしては真似できる気がしない。

「ちょっと! これ無理だって!」
「アカリ、自力で抜けたら多分楽しいぜ。後ろで見ててやるから、やってみ」
「えー……」

 仕方なく、案内人と同じように四つん這いになった。
 すでに感覚のない足だけでなく、手のほうも水に浸かることになる。冷たい。
 水面から頭一つ分程度しかないと思われるくらいの、狭い隙間。
 突っ込んでいく決心がなかなか固まらない。

「アカリ、どうした? お尻でも叩こうか?」
「お断りします」

 意を決して進んだ。
 途中、不用意に頭を少し上げてしまい、鈍痛が走る。

「アカリ、大丈夫か?」
「大丈夫!」

 ふたたび頭をぶつけないよう、振り返らずに答え、進む。
 やはり結構な長さだった。
 が、なんとか抜けることに成功。

「よっしゃ抜けたああっ!」

 ガッツポーズしていたら、後ろから「アカリー」とミナトの声。
 振り向いてパチンとハイタッチ……してから気がついた。
 苦労して抜けてきた胎内くぐりを、彼は難なく通ってきていたのだ。しかも片手には魔本を持ったまま、である。

「ちょっと、ミナト。なんであんた簡単に抜けてきてるの」
「なんでだろ。悪魔だから?」
「悪魔言うな! むぅ、せっかくの達成感が」
「いえ、あなたも平均的な観光客さんよりずっとスムーズでしたよ」

 案内人が笑いながらフォローを入れてきた。

「え、ホント? お世辞じゃない?」
「本当です」
「よおおおおっし!」

 ふたたびミナトとハイタッチし、先に進んだ。



 案内人必須とされているCコースに入ると、さらに厳しい世界が待ち受けていた。
 かなり入り組んでおり、まっすぐ歩けるところはほとんどなくなった。

 洞の断面も円形ではなく、おそらく傾斜のある亀裂のような形状であると思われた。斜め上には、ヘッドライトを向けてもなお不気味な闇がある。
 左右の幅も狭いため、まともに立つと斜めの壁に頭をぶつける。中腰以外の体勢がなかなか許されない。

「きっつ……」
「アカリ頑張れー」
「頑張ってください」

 案内人は慣れているという理由で、ミナトも悪魔だからという謎の理由で、スイスイと進めてしまうようだ。しかし、二人ともアカリの速度に合わせてくれていた。

 ときおり、パズルのように隙間へ体を嵌めるようにしないと進めないところもあった。アカリはヒイヒイ言いながら、全身を動かして進んだ。

 下を流れる水だけでなく、洞内の何もかもがひどく濡れている。
 そのため、レインコートの下に着ていた服も、いつのまにか水の侵入でずぶ濡れになっていった。

「……」

 暗い。狭い。腰が痛い。服が濡れて体にへばりつく。冷たすぎて足の感覚がない。鍾乳石に頭をぶつけて痛い。
 ひたすらそれが続き、あきらめの境地に達していたところで――。

「はい。ここが終点です」
「おおおお!」

 最奥に到着。
 アカリは歓喜の声を出した。

「アカリー」

 振り返ると、ミナトが笑顔で右手を挙げている。
 アカリはその手のひらに、自分の右手を思いっきり合わせた。
 パチンという音が、洞内によく響いた。 

 

第10話 喜んでもらえて、よかった

「では戻りましょう」

 案内人が静かな声で、帰り道のスタートを宣言する。

「事故が起きやすいのは、気が抜ける帰り道です。注意してくださ――んっ?」
「お? 揺れてる」
「わっ。結構大きいね」
「地震ですか……。今いる場所は狭くて頑丈なはずです。安心してください」

 皮膚感覚などなくなっていたアカリの足ではあるが、今の揺れははっきりと感じた。少し大きめの地震だ。
 そして揺れだけではない。
 どこで鳴っているのかは不明だが、ガキッ、ミシッというような不吉な音も響いた。

 揺れは、まもなく収まった。

 案内人が「慌てずに外に出ましょう」と言い、三人はここまで来た道を引き返し始めた。
 が、少し進んだところで非常事態に気づくことになった。

「塞がってますね……」

 その案内人の指摘を待たずして、アカリにも見えた。
 ちょうど狭くなっていたポイントに、大きながれき……というよりも岩が積もっており、人が通れるほどの隙間はなくなっていた。

 案内人はがれきに近づき、両手で動かそうとする。
 しかし、ボーリング玉よりもはるかに大きそうな岩たちが動く気配はない。

「これって、もしかして……」

 アカリはそこで言葉をとめたが、どうやら閉じ込められたようだ。

「地震で簡単に崩れるようなところは一般公開しませんので、こんなことはないはずなんですが」

 ヘッドライトの照明から外れていて表情が見えなくても、案内人の困惑はよく伝わってくる。
 アカリとしても、こんなフィクションのような展開が本当にあるのかと思った。

「救助待ちになりそうですね。けっこう時間はかかりそうですが、待ちますか」
「うーん。ツイてないなあ」

 アカリはついぼやいてしまった。
 だが、そこで同伴の悪魔より意外な一言が入る。

「いやアカリ、これはツイてるぞ?」
「なんでよ」
「悪魔の肉体労働が見られるんだからな」

 そう言うと、彼はレインコートをサッと脱ぎ、タンクトップ姿になった。

「契約の願い以外だと魔術は使えないから、力で解決するぜ」

 がれきを動かす気だ。自信満々である。
 ところが――。

「あっ、また地震だね」

 ふたたび洞が揺れた。
 先ほどの揺れまではいかないが、少しふらつくほどの大きさはある。

「この場所は先ほどよりも危険かもしれません」

 案内人の不安そうな声。
 この場所は先ほどとは違い、洞の形状が引き締まっていない。斜め上は不気味な闇だ。

 今度は亀裂音が近いだけではない。がれきが降って水面を叩いていると思われる、さまざまな音階の音も聞こえてきた。
 それは徐々に数を増し、こちらに近づいているようにも感じた。

「あー。これ、たぶんヤバいやつだよね……」

 ああ、石降ってきてるのね。
 淡泊にそう思ったアカリだったが、その首に、レインコートの上から何かが巻かれ、勢いよく体ごと寄せられた。

「わっ」

 そして顔が弾力のあるものにぶつかった。
 その勢いに、思わず目をつぶった。

 一度バウンドしてから目を開けると、目の前にはミナトの引き締まった胸板があった。どうやら首に右腕を巻かれ、引き寄せられたようだ。
 見ると、彼の左腕のほうも、その先の手に魔本を持ったまま、案内人を手前に引き寄せていた。

 そのまま頭を上からねじ込むように押し下げられ、アカリと案内人はその場にしゃがみこむことに。

「別にヤバくねえよ。頼りになるのがここにいるだろ」

 ミナトはしゃがんだ二人に覆いかぶさるような姿勢で笑顔と言葉を降らせると、胸を一回叩いた。
 彼の背中には…………悪魔の羽が広げられている。

「え? ちょっと、危ないよ。そこまでしなくても」

 明らかに自身の体と羽で二人を守ろうとしている彼に対し、アカリは戸惑いの言葉を返した。

「悪魔的には契約外だろうけどよ、俺的にはこれも契約内だ。履行中の事故対応も仕事のうちだぜ。任せとけって」

 今度はアカリの頭頂部に、ゆるく畳まれていたミナトのレインコートが押しつけられた。即席の防災頭巾だ。

「ええとだな……落ち着いているのと、あきらめているのは全然違うぞ。アカリはもっと慌ててもいいと思うぜ」

 少し間があったので、おそらく魔本を見たのだろうと思われた。

「とりあえず二人は目でもつぶっとけ。すぐ収まるだろ」

 案内人はミナトの羽に驚きすぎていたのか、裏返った短い声を出し、ヘッドライトを下に向けた。
 アカリもそれにならう。指示以外のミナトの声をかすかに聞いたような気がしたが、言われたとおりに目をつぶっていた。

 比較的長い揺れだったが、それが収まると、アカリの頭に乗っていたレインコートが、ポンポンと二回叩かれた。
 アカリはそれを受け、立ち上がる。
 ミナトが親指を立てていた。

「あ、あなたは一体……」

 同じく立ち上がっていた案内人は、呆然とした顔でミナトを見ていた。
 悪魔の羽はすでにしまわれているが、案内人の脳裏には強烈に焼きついてしまったことだろう。

「兄ちゃん、悪いけど内緒で頼む! って、誰かに言っても信じないだろうし大丈夫かな?」

 そう言って、彼は笑いながら頭を掻いた。

「じゃあ、岩どかすの俺がやるぜ。アカリ、ちょっとこれを持っててくれ」
「え? あ、うん」

 差し出された魔本を、アカリは両手で受け取った。
 さすがに濡れていないわけがないと思っていたが、なぜかそんなことはまったくなかった。不思議なものである。

 ミナトは「よーし」と言うと、積もったがれきをどかし始めた。
 軽々と、という様子ではないが、しっかりと持ち上がっている。

 アカリは温かさの残る魔本を握りながら、それを見守った。



 * * *



 帰りの特急列車は、地震の影響で多少の遅れはあったものの、きちんと動いていた。

「あー、楽しかったな!」

 進行方向に向かって左側の二人掛け席。その通路側から、ミナトがそう言った。

「どうした? アカリ。ムスッとして」
「んー……」
「ああ。この旅ってそういう意味の旅行じゃなかったな。悪い悪い。懐かしさに浸るための旅だったよな」

 そう言われて、アカリはこの旅の動機を思い出した。
 当のアカリ本人が驚いた。すっかり忘れていたのだ。

「いや、楽しかったよ。なんかさ、懐かしいよりも楽しいのほうが大きかった」

 これは本当だった。
 特に、二つ目に行った洞窟。冷たい水が足元を流れ続け、難所が数多く待ち受けているという過酷な条件のなか、最奥まで到達したことは大きな達成感があった。

 この旅はきっと、この先も楽しい記憶として残るだろうと思った。
 事故はあったけど、守ってもらったしね――と、右にいる彼の顔を見る。

「それでいいんじゃないか? お前のじいさんだって、きっとそのほうが喜ぶと思うぞ」

 いつのまにか、過去を探す旅が、今の楽しみを見つける旅に変わっていたのだ。
 そうなったのはきっと――。

「あんたのおかげだね。でも……」
「でも?」
「ちょっと背中、見ていい?」
「なんだいきなり? 悪魔の背中を見るのはダメだぞ? 一生かけても払いきれない見物料を……あ、こら。見るなって」

 彼の背中に手をまわして強引に背もたれから剥がすと、タンクトップの裾を上げた。
 きれいな褐色肌があらわになったが、よく見ると、背中の左下にやや発赤している部分があった。

「やっぱり。全然平気そうだったから言わないでいたけど。なんかそんな気はしてたんだよね。石ぶつかったんでしょ? 少しうめき声みたいなのが聞こえた気がしたから」
「こんなのどうでもいいって。今はもう痛くもねえし」

 丁寧にアカリの手を離れさせると、彼はタンクトップを戻した。

「本当に大丈夫なの? そのぶんだと羽もボロボロなんじゃないの?」
「大丈夫だって。人間と一緒にされても困るぞ。空を飛べるくらいだから、しょっちゅういろんなものにぶつかってるって。悪魔はすぐ傷が再生するから平気だよ」
「なら、なんで隠そうとしたのかな」
「見たらお前が気にするだろ」
「……」

「ん。どうした」
「なんかもうね、あんた最高じゃん」
「今ごろ気づいたのかよ。最初に会った日に『俺は最高』って言っただろ」

 彼は少し恥ずかしそうに、はにかんだ。
 その顔は、窓からの光を受けているせいもあるだろうが、アカリにはとてもまぶしく見えた。

 このやり取りのあと、彼からは話しかけてこなかった。

 アカリはすぐに眠気に襲われた。
 首が揺れ、いつのまにか右頬がミナトの三角筋のクッションに落ち着いた。

 その気持ちよさ。

 このままずっと東京に着かなくてもいい――。

 うとうとしながらなのか、それとも夢の中でそう思っていたのか。
 どちらなのかはよくわからなかったが、その気持ちを最後に、意識が途絶えた。 

 

第11話 今まで生きてきた中で、一番楽しかった

 アカリとミナトは、ふたたび契約の地・秋葉原へと戻ってきた。

 一般的な会社であれば、終業直後と思われる時間。
 そのせいか、駅前には人の数が多い。まだ日は沈んでいないが、ロータリーは周りの建物の影に入っており、やや暗く感じた。

 空を見上げると、天高くそびえ立つ本魔の塔があった。
 相変わらずの、黒く禍々しい姿。

「なんかあの塔、久しぶりに見る気がするね。そんなはずはないんだけど」

 直近で見たのは、旅行に出る日の朝だから、つい昨日のことだ。

「……そうだな」

 ミナトも、やや溜めたのち、抑えた声量で答えた。
 二人は、契約を結んだファーストフード店の方角に向かって、歩き始めた。

 ――旅が、終わってしまう。

 上野駅の少し手前でポンポンと頭を叩かれて目を覚まして以来、確実に迫ってきているその事実が、徐々に重さを増してアカリにのしかかってきていた。

 明日からまた、なんの変わり映えもない毎日が始まる。
 この不思議な悪魔とも、会うことはなくなる。

 残念。
 アカリの頭は、素直にそう感じていた。

「あーあ。ずっと一緒に、どっかに行っていたかったな」

 それは、口に出すつもりではなかった。
 やたら楽しそうで、同伴者として一生懸命。だが、彼にとっては旅への同行はあくまで『契約の履行』にすぎないはずだ。
 だからそんなことを言う予定ではなかったし、何より恥ずかしい。
 なのに、ボロッと出てしまった。

「俺もそう思う」

 取り繕う間もなくまっすぐな同意が飛んできて、アカリは救われた。発赤しかけていた顔が、急速に元通りになっていく。

 自分の隣、歩道の車道側で歩く彼を見た。
 願いはきちんと叶えるが、他の悪魔のように魂を奪うことはしないという、ちょっと変わった悪魔。
 その表情は、まだ旅行中と変わらない。悪魔の一種だということが嘘のような、優しく純粋な笑顔。

 ――よかった。

 帰りの特急列車に乗っていたあたりから、彼は徐々に口数が減っていた。
 ひょっとしたら、同じようなことを考えてくれていたのだろうか。
 もしもそうであれば、うれしい。そう思った。

 列車の冷房でひいていた汗がふたたび噴き出してきていたが、アカリは普段よりゆっくりと歩き続けた。
 彼も、特に何も言わず、同じペースで歩いてくれた。



 二人の目の前には、契約をおこなったファーストフード店。
 ミナトが、アカリよりも少し前に出て、足を止めた。
 その意味を理解しているアカリも、それを見て足を止める。

「アカリ」
「うん」

 振り返って向き合ってきた彼の笑顔は、どこか寂しげで、先ほどまでに見せていたものとは異なっていた。
 まだ彼と知り合って二日。だが、はっきりと変化がわかった。

「ここで、お別れだ」

 ついに、旅は終わりなのだ。

「契約終了ってことだね」
「ああ。契約場所とみなされる範囲内に入った。今このときをもって契約終了だ」

 彼は、背負っていたアカリのバッグを降ろし、渡してきた。
 アカリは両手で受け取ったが、目線がそこに落ちることはなかった。

 契約終了。そしてお別れ。
 惜しみながら、普通にバイバイすればいい。

 ここまで歩いている途中に、気持ちを整えようと、いちおうの努力はしていた。
 していたはずだった。
 きっと大丈夫だろう。そうも思っていた。
 だが――。

「念のため言うけど、お前以外には俺の姿が見えないようにしたから」

 そう言って彼が背中から悪魔の羽を出すと、努力は水泡に帰した。

「――!」

 骨と骨の間の飛膜は、ところどころが傷んでいた。
 左の羽は特に酷い。小さな穴がいくつも空いており、下部には線状に大きく裂けてしまっているところがある。
 穴や裂け目は……赤黒く見えた。流れたのはきっと、人間と同じ、赤い血。

「羽……やっぱりボロボロだったんだ……」
「大丈夫だ。電車の中で言ったとおり、すぐ治るし、飛んで帰るには全然問題ないぞ」

 ミナトは笑いながら、傷ついた羽を軽く揺らす。

「本当に大丈夫だからな? 心配するな」

 彼は照れることもなく、頭を掻くこともなく。出発前や旅行中とは異質な笑顔のまま、もう一度そう答えた。

「じゃあ、もう行――」
「待って!」

 その声で、大きく動かそうとしていたであろう羽が、ピタッと止まった。

「もう、二度と会えない……の?」
「ああ。もう二度と会えない。今見えているあの塔も、すぐに消えるはずだ」
「そう……。でも、やっぱり、今すぐここでバイバイって、なんか嫌だよ……もうちょっとだけ……」
「……」

「フライドポテトおいしいって言ってたよね? 今から食べていかない?」
「いや、遠慮しとくよ。サンキュ」
「じゃあ……あ、そうだ。塔の中を見せてよ。あんたにつかまったら運んでくれるって、旅行に行く前に言ってたよね」
「契約が終わっているから、それはもうだめだ。見せられない」

 言わないはずだった言葉が、アカリの口から次々に出てきてしまっていた。
 だがそれも、彼は流していく。

「なんか、冷たいね……」
「冷たいとか言うな。契約ってそんなもんだ」
「でも、契約って言ってもさ。私、言われたとおりに本をちゃんと読むかどうかわからないよ? サボるかもしれないよ? 今後も私を監視したほうが――」
「アカリ」

 名前を呼ぶ一声だけで、アカリは言葉が出なくなった。
 ミナトの声に、悲しそうな響きが含まれていたからだ。
 アカリはうつむいてしまった。

「アカリ。お前は、俺との約束を破るつもりなのか?」

 ――。
 破ると言えば、この先も会えるのだろうか。

「私は……」

 そう言えば、この先も様子を見にきてくれるのだろうか。
 また魔本を見ながら、説教をしてくれるのだろうか――。

「破らないよ」

 でも、それを口にすることはできなかった。

「私は、たぶん守る。いや、絶対守るよ」

 顔をあげ、目をしっかり見て、そう答えた。
 約束を守る。彼のためにできることは、それしかないだろうから。

「だよな。そう言ってくれると思った」

 彼がまた笑った。
 その笑顔を見るのはもう、つらくなっていた。
 しかしそれでも、アカリは頑張って目を合わせ続けた。

「じゃあ、俺はもう時間がないから。本当に行くぞ」

 ミナトが、傷ついた羽を大きく広げた。

「……うん。わかった。ミナト、ありが――」
「アカリ、もうツイッターに変なこと書くなよ? 元気でやれよっ」

 感謝の言葉を遮ると、彼は背を向け、空へと飛んだ。

「あっ、ちょっと待っ――」

 思わず伸ばした手は、もちろんどこにも届かなかった。
 彼の姿は、あっという間に小さくなっていく。そして塔の後ろに回り、すぐに目で追えなくなった。

「……」

 礼すらも言わせてもらえなかったアカリは、空を見上げ、呆然と立ち尽くした。



 * * *



 何分くらい、その場でボーっとしていたのだろう。

 誰もがうだるような暑さはそのままに、暗さが確実に増してきていた。
 空も赤くなってきている。もうすぐ日没となるだろう。

「あ……」

 目の焦点を取り戻したアカリは、塔が消えていることに気づいた。
 もう完全に、いつもの秋葉原の景色となっていた。

 ――私も、帰ろう。

 いつも使っている都営地下鉄の駅に向かって、歩き始めた。



 もう、二度と会えない。それを考えないようにしようと思っても、無理だった。
 足が地をつかめなくなっていて、歩いているというよりも、フワついているという感覚のほうが近かった。

 肌に貼りつくシャツの不快感も徐々に薄れ、ただぼんやりとした景色だけが流れていく。まるで自分の目で見ていないようだった。

 だからかもしれない。
 普段は犯さないミスをしてしまった。

 信号がない横断歩道。いつもなら、必ず左右を見て横断歩道を渡っていたのに。
 このときだけ、うっかり、前だけを見て進んでしまった。

 ――あ。

 左折してくる大きなワゴン車に気づいたときには、もう遅かった。
 明らかに徐行ではない速度が出ていたと思われたが、アカリには不思議なほどスローモーションに見えた。

 ゆっくりと迫る、大きな塊。

 そのナンバープレートも、フロントガラスの向こうの運転手も。ぼやけてはいたけれども、ゆっくりと拡大していく。
 ああ、はねられるのか、と、やはりぼやけた頭で思った。

 だが、刹那――。

「――?」

 体の後ろに強い衝撃があり、前に……いや斜め上の方向に、突き飛ばされたような、打ち上げられたような、そんな感覚がした。
 抱えられている気がしたが、突然かつ一瞬のことで、何が起きているのかよくわからない。

 よくわからないまま、パキパキという音とともに体が止まった。

「……」

 空が、見えた。
 横断歩道の向こう側に植えてあった、枝葉が細かく丈の低い植樹。音から判断するに、おそらくそこに背中から着地したのだろうと推測した。

 発射時と違い、着地の衝撃はほとんどなかった。
 痛みも……まったく感じていない。小枝のチクチクすらもなかった。
 背中に感じるのは、この暑さでもまったく不快に感じない熱。
 これは――。

「ミナト!」

 起き上がると、やはりそうだった。
 アカリの下にいたのは、黒い羽の生えた、褐色の青年。
 車にはねられる寸前、彼が飛んできて助けてくれたのだ。

「アカリ……悪魔的には契約は終わったけどよ……人間的には家に帰るまでが旅行だろ……? 気を抜いたら……だめだ……」

 彼は植樹に埋もれたまま、左手で魔本を開き、弱々しい笑顔を浮かべた。

「ああ、でも……お前がボーっとしてたの、俺が原因ぽいよな……悪かったな……」

 もう会えないはずの彼がいるという混乱よりも、歓喜の感情が圧倒的に勝った。
 アカリは彼の腕を取って起き上がるのを手伝い、そのまま抱きついた。
 彼も、腕を回してきた。

 すべてが、優しかった。
 体も、腕も、手も。わずかに当たる、魔本の背すらも。

 最初に会った日、そして旅行一日目。どうしてこの体につかまるのを断ってしまったのだろう――。
 そう後悔するくらい、優しい感触がした。
 なのに。

 彼の手と魔本が、すぐにアカリの背中を滑り落ちた。

「え」

 手だけでなかった。彼の全身から力が急速に抜けていった。
 そしてアカリの体の前面を滑るように崩れ落ち、沈む。

「ミナトっ? 大丈夫? どこか大きなケガした?」

 アカリは慌ててしゃがみこみ、彼の頭が地面に激突しないよう、両手で食い止めた。
 さっき渡されたバッグが、すぐ前に落ちていた。それを枕にし、傷ついた羽を下敷きにしないよう、慎重に横向きに寝かせた。

「ちょっと待って。い、今救急車を」

 急いでバッグのサイドポケットからスマホを取り出そうとしたアカリだったが、その腕がつかまれた。
 ミナトの右手だ。
 震えていた。

「気にしなくていい……ケガなんてしてない。けど、俺は契約違反で……消えてなくなるんだ」
「き、消え……? う、嘘だよね?」

 彼の全身が、薄暮の中、うっすらと光に包まれてきていた。
 それが意味するところは……認めたくなかった。

「……違反って何……わけわかんないし……。どこかケガしただけなんでしょ? ケガってすぐ治るって言ってたよね? 大丈夫なんだよね?」
「ごめんな。こうやって見せる予定じゃ……なかったけどな……。でも事故が……俺が消える前で……よかった」

 彼を包む光が徐々に増してくるとともに、その褐色の肌が徐々に半透明になっていく。

「や、やだよ……。契約は終わったんだろうけどさ、また予定合わせて会おうよ。また旅行にも行こうよ。あんたが行きたいところに合わせるからさ。今度はさ、私がちゃんとガイドブック読んでガイドするから――」
「アカリ、これを」

 左手で力なく差し出されたのは、彼が旅行中に持っていた魔本だった。

「さっき、俺、慌ててたから……礼を……言うの忘れてた……旅行、すげー楽しかった……サンキューな」

 両目の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
 体全体を包む光が、いっそう強くなっていった。

「アカリ……人間として……この世に生まれる可能性って……どれくらいなんだろうな……」
「……」

 彼が目をつぶったまま微笑む。
 その体はどんどん実体がなくなり、ただの光に置き換わっているように見えた。

「人間として生まれるって……きっとそれ自体が幸せなんだ……。ああ、これは魔本の言葉じゃなくて……今考えた、俺の――」

 体が完全に大きな光の塊となり、そこから小さな光の粒へ、急速に分解されていく。

 やがて、何もなくなった。


 あたりに響き渡る、アカリの絶叫。
 それが途絶えると、意識を手放したその体が、ゆっくりと地に沈んでいった。

 駆け寄ってきていたワゴン車の運転手の声。
 集まってきていた通りすがりの人たちの声。
 あたりは騒然となった。 

 

第12話 (やっぱり、最高だよ)

 倒れたままの姿勢で意識を取り戻したアカリは、そこが道路ではないことに気づいた。
 やや薄暗い。
 床は……灰色。石かコンクリートだ。
 硬く、冷たかった。

 自分の右手に視線を移すと、魔本を握ったままだった。彼が最期に渡してくれたものだ。
 見た瞬間、目が熱くなり、鼻の奥がぐっと痛んだ。
 なのに、なぜか涙が一滴もこぼれてくることはなかった。
 ただただ、熱と痛みだけが、目鼻の奥で行き場なく暴れていた。

 ゆっくりと、起き上がった。

 ごつごつした質感の壁は、やはり灰色。天井は高い。
 どこかのビルの中のようにも感じたが、それにしては飾り気がなく、無造作な印象を受けた。

 通路の前方は、すぐに突き当りになっていた。
 そこには縦長の窓……というよりは、人がそのまま通れそうな、出入り口のような穴が開いていた。ガラスはおそらく張られていない。そこから外は、やや薄明るい灰色の夜空のみが見えていた。

 そして、反対を向くと……。


 変な生物がいた。


 アカリの一・五倍くらいありそうな背丈で、手足のない黒い影のような体。
 頭部にあたりそうなところは、巨大な口だけの構成になっており、だらしなく開いている。やはり黒い色をした口内には、無数の鋭い歯が覗いていた。

 足らしいものはない。
 なのにその生物は、ゆっくりとスライドするように、こちらに向かってくる。

 目の前で止まると、その生物は、首らしき部分を音もなく伸ばしてきた。

 ――自分を食おうとしているのだろう。

 アカリはなんとなく、そう思った。
 あんなにいい人を消滅させてしまって、きっと自分は罰を受けるのだろう。
 そうに違いないと思った。

 もしそうであれば、自分にはお似合いの最期だと思った。
 できる限り苦しむように殺してほしいと思った。

 アカリの予想どおり、その不思議な生き物は、口を大きく開けた。
 もともと巨大だった口がさらに開き、考えられないほどの大きさになった。
 そのまま助走をつけるように頭部を後ろに引くと、一気に――。

「……?」

 だがそこで、黒い影の動きが止まった。
 そして下のほうから、薄く広がりながら床に吸収されるように、体が崩れていく。
 ものの数秒で、完全に消滅した。

 何もなくなった目の前。
 その先には、シンプルな黒い槍を突き出している男性がいた。

「声ぐらい出しなさい。今そのまま食われていたら、君の魂はこの世界から消滅していたぞ? 守られた命、そう簡単に手放すべきではない」

 その男性は槍先を下ろすとそう言い、少し笑った。
 髪は黒いが、目元の笑いジワからは、それなりに歳を取っているように見える。黒色のベストを着ており、白のシャツ以外はすべて黒で統一されていた。

「君が、アカリくんだね」

 固まっていたアカリに対し、名前を呼んできた。
 驚くアカリ。その壮年男性に、見覚えなどなかった。

「そうですけど。どうして、私の名前を?」
「聞いていたからな」

 先が天井を向くように槍を握り直しながらそう言うと、彼は続けた。

「私は本魔の代表者だ。ようこそ、我々の塔へ」



 * * *



 話しやすい部屋に案内しようと言われ、アカリは壮年男性――本魔の代表者についていった。
 さっき出現した幽霊モンスターのような生物は、魔本になり損ねた人間の魂の一部であり、駆除対象。本魔の代表者は、歩きながらそう説明した。

「では、ここでいいかな。私が道楽でやっている店だ」

 重そうな厚い灰色の扉を、彼が開ける。
 そこは、それまでの無機質な景色とは違う、ダークブラウンのお洒落な空間だった。

 L字カウンターや数個置かれた小さなテーブルは、高級感の漂うアンティーク風。ゆらめくキャンドルの照明は、落ち着いた木の内装を穏やかに照らしていた。
 アカリはこれまで一度も行ったことはないが、おそらくこの店はバーなのだろうという推測はすることができた。

「今は誰もいないし、今日はおそらくもう誰も来ないだろう。安心してくれていい」

 彼はアカリに対し、カウンター席に座るよう言った。
 アカリはなんとなく、入り口に近いほうの席に座った。膝の上にミナトの魔本を置く。

 淡いブルーのカクテルが目の前に置かれ、それをすすめられた。
 だが、アカリはそれを味わおうという気にはならず、そのままうつむいていた。

「今お嬢さんが座っている席。息子はよくそこに座って、一人で本を読んでいた」

 息子。
 その言葉で、ビクンと体が反応した。顔をあげて彼を見た。

「まさか……」
「そうだ。私はミナトの父親でもある」

 柔和な光だが、同時に威厳も感じる細い目。
 ミナトとだいぶ違う。肌の色も白い。

 もっとよく観察すれば、似ている部分は見つかるのかもしれない。
 だが『息子』『父親』。その言葉は、今のアカリにはあまりにも鋭く胸に突き刺さりすぎた。彼の顔をじっと観察することなど、とてもできなかった。

「ミナトは、消えてしまいました……」

 中途半端なところで視線をさまよわせ、そう言うのがやっとだった。

「全部わかっているから大丈夫だよ。息子の説明不足のせいで、悲しい思いをさせてしまって悪かったね」

 彼――本魔の代表者でありミナトの父親は、穏やかに言った。
 そして戸惑うアカリに対し、「どこから話すべきかな」と一度ぼやくようにつぶやいてから、話し始めた。

「この塔と我々は、人間が本を発明したことによって生まれた」

 またも顔をあげてしまうアカリを前に、彼は続けた。

「物事には、光と闇がある……。人間が生み出したものに、光と闇の両面がバランスよく存在するのであれば、魔など発生しえない。だが本はどうだ? 人間に圧倒的な光をもたらすが、闇などほとんどないだろう。利しかないというのは、大変に歪みのある発明だ。そのようなものを創り出してしまった以上、本来あるべき闇が魔となって、人間社会以外のどこかで生み出されることは避けられない。それがこの塔と我々だ」

 内容だけで言うなら、にわかに信じがたいものかもしれない。
 だが、アカリは思った。この人物、ミナトの父親は、嘘はついていない、と。
 そしておそらく、この先に話されることもすべて事実なのだろう、とも。

「我々本魔は一定の年齢になると、定期的に人間と契約する必要がある。そして願いを叶え、その対価として魂を抜かなければ、消えてなくなってしまう生き物だ」
「――?」

 どういうことだろうか?
 ミナトは契約の対価に、魂を求めてこなかった。それどころか、「魂を差し出してもいい」という投げやりなこちらの言葉を咎めてきたくらいだった。
 混乱するアカリだったが、説明は続く。

「人間の魂を抜いて魔本を生成する行為は、その人間から生命力を吸い取る行為でもあるのだ。本魔はそれ以外に生命力を供給するすべを持たない。一度も供給がない場合、十八歳の誕生日を迎えると同時に消滅する」
「……」
「だから、本魔は全員がこの塔の中にある学校に通い、人間との契約の仕方や、願いを叶えるための魔術を学んでいる。そして人間と最初の契約をし、その魂を魔本とすることで卒業、成人となる。それ以降は定期的に人間と契約し、魂を奪い続けなければならない。怠れば死ぬ」

「え、でも……ミナトは私に、対価として『本をたくさん読んでほしい』って」

 アカリがそう言うと、彼は穏やかに微笑んだ。

「それは対価とはならない。我々がおこなう契約での対価は、契約する人間の魂以外にはありえない。それ以外はすべて契約違反となり、やはり消滅することになる」

 アカリは驚いた。
 人間が魔本になるのは、普通に死亡したときと、契約で強制的に魂を抜かれたときの二パターン。それはミナトから聞いていたが、実は後者が「本魔が生きるため」であることは知らされていなかった。
 彼は続けた。

「対価として魂を抜く。それを疑問に思う者など、今までいなかったと思う。誰もが当然のように人間と契約し、願いを叶え、対価として人間の魂を抜き続けた。人間が食事をすることと同じで、その行為が正当なものかどうかなど、考えもしないことだった。ところが、息子だけはなぜか、自分が生きるために人間を殺すことを良しとしなかった。そんなことをするくらいなら自分は消滅したほうがいいと考えたのだ。だから十八歳になる直前に、人間と最初で最後の契約をして願いを叶え、対価を取らずそのまま消滅することを決意した。それは父親である私も了承済みだ」

「そんな……」

 あまりにも衝撃的だった。
 契約を交わしたときには、予想だにしなかったことだ。
 だが――。

「息子は小さいころに、こう言っていたよ。『願いを叶えるって、いいことだよな? いいことをすると俺は嬉しくて楽しいのに、どうしてその対価を取らないといけないんだろ?』とね。息子と同じ時を過ごした今の君なら、なんとなくわかるかい?」

 今なら――。

「……わかります」

 ミナトの父親は、細い目をさらに細くした。

「ありがとう。最期を君に見られてしまったのは予定外だったが、息子は本懐を遂げた。これでよいのだ」

 アカリは、手元の魔本を見た。
 その焦げ茶色の表紙に、彼の爽やかで人懐っこい笑顔が浮かぶ。
 ふたたび目が熱くなり、鼻の奥が痛む。
 だがやはり、涙が出ることはなかった。

「君は意識を失い、今は病院で寝ている。ここにいる君は魂だけの状態。涙は流せぬはずだ。自分の体をよく見てごらん」

 心を読んだかのように、説明をしてくれた。
 アカリは言われたとおり、自身の体を見た。
 橙の照明でわかりづらかったが、露出している手の質感が、いつもと違う気がした。

 手のひらを、キャンドルの照明に向けた。
 キャンドルの光が、透けて見えた。
 今までまったく気づいていなかった。生身の体ではなかったのだ。

「このあと、君の意識は地上に戻ることになるが……」

 彼は、もともとよい姿勢を、さらに正した。

「これは父親としてのお願いだ。地上に戻ってからも、悲しんでくださるな。泣いてくださるな。息子を思ってくださるのであれば、息子のように、楽しんで生きていただきたい」

 気づいたら、アカリは魔本をギュッと抱きしめていた。

「その魔本、少しだけ見せてもらってもいいかな」

 その声に、アカリは一つうなずいた。

「これは、お返しします」

 そう言って、カウンターの上に魔本を差し出した。
 これは形見の品になる。自分が持っているべきではない。ずっと父親である彼が持っているべきだと思った。

 しかしミナトの父親はそれには答えず、微笑を浮かべるだけだった。
 そして置かれた魔本を手に取り、パラパラとめくった。

「これからの君には、そうだな……『生きていれば、きっとそのうちよいことはある』『どうせやるなら楽しまなければ損』――このあたりがぴったりかな。まあ、人間であれば真理だろう。頑張りたまえ」

 ――!

「その魔本、まさか……。誰の魂から作られたものか、教えてもらうことはできますか」
「ほう、気づいたようだな。そのとおりだ。この魔本のもとになった魂の持ち主は、西海枝京介。君のおじいさんだ」

 ……。

 旅行中に聞いていた魔本読み上げの言葉。あれらはすべて、祖父の言葉だったのだ。
 ミナトに対し、どこか懐かしさを感じ続けていた理由がわかった。
 でも、なんで……。

「人名からこの塔の蔵書を探すのは少し大変でね。息子は必死に探していたようだよ」

 あ――。
 彼にぶつけて却下された、願い。

『私のおじいちゃんを、生き返らせてよ』

 ……。
 どうしてだろう。
 どうして――。

「どうして、そんなに優しいの……」

 そのつぶやきで、また彼が穏やかに笑った。

「そういう子だ、ということもあるが……。きっと、契約者が君だったから、ということもあるのかもしれないね」
「ミナトは、何か言ってたんですか?」

「何かどころか、ここ最近は、いつもここで君の話をしていたよ。契約した女の子は、引っ叩いてくれて、怒鳴ってくれて、からかってくれて、嫌な顔をしてくれて、足を拭いてくれて、面白い本を貸してくれて――と、ずいぶん感謝していたね」
「……」
「なのに、その子には友達がいないみたいなんだ、とも言っていた。息子もあんな性格なので、この塔では異端扱いされていた。塔の仕事は一生懸命にやる子だったから、追い出そうという声はなかったが……。周りからは完全に浮いていて、親しい友人もおらず、空いている時間はいつもここで本を読んでいたよ。だから君の中に同じ部分を見つけて、親近感を持ったのかもしれないね」

 いや、それは同じ部分ではない。
 口には出さなかったが、アカリはそう思った。

 ミナトが実は孤独だった――それは本魔として生まれたからだ。
 彼は優しくて、明るくて、前向きで、一生懸命で、いつも楽しそうで、こちらが求めていないことまでやってくれて。完璧だった。自分にないものを全部持っていると思うくらいだった。

 彼は生まれたところが不運だっただけだ。
 人間に生まれてきさえすれば、きっと誰からも愛されるような存在になっていたはずだ。
 生まれたところが不運だったばっかりに。
 人間として生まれてこなかったばっかりに――。

 だが自分は違う。生まれたところは不運ではない。
 だから、彼と同じではない。
 彼の父親が同じと言ってくれるのはよくても、自分がそう考えてしまうのは、あまりにも彼に申し訳ないと思った。

「さて。ではもういいかな。君を地上に転送しよう」

 本魔の代表者は、L字カウンターから出てきた。
 アカリも席から立ち上がり、彼と向き合う。

「私……彼に出会えてよかったです。短い間でしたけど、彼のことは一生忘れません」

 それを聞くと、本魔の代表者はまた笑った。
 やはりミナトにはあまり似ていない気がしたが、優しい笑顔だった。

「ありがとう。息子が君に求めた対価については、読書量と死後に魔本になる確率は正の相関があるから、実行してもらえるに越したことはないが……。まあ、私からは無理しなくてもよいと言っておこう。君が死後に魔本になるかどうかは、この塔の運営上は誤差の範囲内でしかない」

 答えは一つだった。

「いえ、それでも読みます。彼との約束を守りたいです」

 約束は破らないと言ったときの、ミナトの嬉しそうな顔。それははっきりと覚えていた。

「それに彼は、魔本でなくても、『本には書いた人の人生が詰まっている』って言ってました。だから読めって」
「ほう、なるほど。それは事実だ。きっとあの子のことだ。君のことを本気で思って言ったことなのだろう」

 息子の遺志を尊重してくれること、感謝する――
 彼はそう言って、アカリの顔に手のひらを向けた。

 次の瞬間、アカリの体が光に包まれた。 

 

第13話 (結局、願いを全部叶えてもらった)

 目を覚ますと、アカリは病室のベッドの上にいた。

 すでに塔で聞いていたこともあり、そのことはまったく驚きではない。
 しかし、ベッド横のパイプ椅子に両親が座っていたことには驚いた。

「おお、気がついたか」
「よかった。心配したわ」

 そして安堵の声と表情がもらえたことには、さらに驚いた。
 気絶していて、今に至るまでの経緯がわからないアカリに対し、両親は説明を始めた。

 ワゴン車の運転手が救急車を呼び、アカリがこの病院に運び込まれたこと。
 病院から家に連絡が行き、二人が駆けつけたこと。
 検査の結果、幸いにもケガなどはなかったこと。

 丁寧に話す二人の顔は、以前のものとはまったく異なっていた。二人がこれだけ心配する様子を見せるのは、過去の記憶にはなかった。
 まるで、同じ顔の別人が座っているかのようだった。

「そうだったんだ。ここまで来てくれてありがとう」

 アカリが礼を言うと、二人はどこかすまなそうな表情で、顔を見合わせた。

「アカリ。今回のことで、ちょっと私たちも反省したの」

 母親は続けた。

「結局、体って一番大事なのよね。死んじゃったら、それで終わりだから。それが今回の事故でよくわかったの。今まではあなたに無理なことを言い続けてきたけど、これからは――」
「これからは私、頑張るよ」
「えっ?」

 母親が驚く。父親も声こそあげなかったが、表情で驚いていた。

「これからは頑張る。ものすごい頑張る。頑張りまくるから。私は、大学を出させてもらって、今ちゃんとした会社に入れてる。小さいときに珠算教室に行ってたから頭の中にソロバンがあるし、数字にはたぶん強い。小さいときに本を読んでたから、嫌いではあるけど文も人並みには読める。塾に行ってたから英語も少しできる。こういうのは全部、たぶん二人のおかげ。私、頑張る」

 アカリは両親に、いや半分は自分に向けて、そう言った。
 自分は、生まれたところが不運だったわけではない。
 すぐには無理かもしれないけれども、きっとそのうちよいことはあると信じて、目の前のことをきちんと一生懸命にやって、できるだけ楽しんやれるように努力する。

 だって――。
 生まれたところが不運だった人が、あんなに一生懸命に、あんなに楽しそうにしていたから。

「そう……。あなたが、それでいいなら」

 不思議そうに父親と顔を見合わせたあとに、母親がそう言った。

「あっ、そうだ」

 何かを思い出したのか、母親はテレビが置かれている床頭台の引き出しから、白いビニール袋を取り出した。

「この本、あなたのよね?」

 目の前に差し出されたそれがくっきりと見えたのは、一瞬だけだった。

「倒れていたときに手に持っていたそうよ。なんだか、私たちの知らない外国語で書かれているようだけど……あら、アカリ、どうしたの?」

 表紙の、この色。この装飾。
 あの人が旅に持ってきた、魔本――。

「ごめん。我慢しろって言われてたけど……やっぱり無理。今だけは勘弁して」

 溢れてきた熱い雫が、白いシーツにボタボタと垂れていった。 

 

第14話 エピローグ

「西海枝アカリくん。本日付けをもって君を経理部経理課・主任に任命する。より一層職務に励み、社業に貢献されることを期待する」

 アカリは、両手で辞令を受け取った。
 辞令式は朝礼の中でおこなわれている。広い部屋に集まっていた社員たちから、拍手が起こった。

 入社より四年――。
 本日、四月一日付けで、アカリは主任に昇進。
 そして、かねてより所属したいと考えていた経理課へ移ることになった。

「総務課での勤務が良好であるため、昇進させたうえで別の部署でも経験を積ませたい」
「入社当初の君を見た限りでは、この先どうなるのかと不安だったが……。今は順調に成長していると思う」

 前年度の人事検討会議後、管理部の担当役員よりそのようなことを言われていた。
 総務部の課長や部長は、その調子で最年少女性管理職も目指せよと、笑いながら送り出してくれた。

 入社一年目の夏以降、急に調子が良さそうになったのはなぜか? と、その秘訣を聞かれることもあったが、
「励まされてやる気が出たから」
「アイマスクを使い出して、夜にきちんと眠れるようになったから」
「本を読むようになったから」
 と答えていた。

 もちろんそれは嘘ではない。



 * * *



 経理課主任として最初の日の業務を終えると、家に帰ったアカリは、両親に正式な辞令がおりたことを報告した。
 そして向かう先は、自室ではなく、仏壇のある和室。

 仏壇の前で正座し、手を合わせ、祖父たちに報告を済ませる。
 その次に手を合わせるのはもちろん――。
 仏壇の隣の小さな台に置かれている、焦げ茶色の分厚い本だ。

 以前、仏壇のある部屋に置きたいと相談したら、両親は快諾していた。
 事故に遭っても無傷だったときに握っていた物ということで、心象がよかったようだ。

「この本、結局なんの言葉で書かれているのかわからないのよね」

 本への報告が終わると、仏壇までついてきた母親に、笑顔で突っ込まれた。

「そうだよ。全然わからない」

 アカリも笑って答える。
 この先も、書かれている文字が理解できることはないだろう。

「でも、お前にとってはお守りなんだよな?」

 いつのまにか後ろに座っていた父親がそう言って、やはり笑った。

「うん。この本はお守りだよ。最高のお守り」


 ――本当に、そう思う。

 あの人が見守ってくれているような、そんな気がするから。





 
 

 
後書き
『黄泉ブックタワー』 -完- 

 

あとがき

 初めましての方は初めまして、そうでない方にはこんにちは。
 どっぐすと申します。
 ここではあとがきに代わりまして、本作について二点補足説明をさせて頂ければと思います。



 一点目は、本作の舞台についてです。
 本作に登場する観光地は、実在するところをモデルにしています。

・天岩高原  …… 阿武隈高地
・天岩洞   …… あぶくま洞
・水心鍾乳洞 …… 入水鍾乳洞
・仙人平   …… 仙台平
・三休    …… 一休

 ただし作中でも案内人が言及しておりますが、観光鍾乳洞では地震で簡単に崩落するような箇所は一般公開されません。
 鍾乳洞に行かれるかたはどうかご安心下さい。



 二点目は、本作に登場する『魔本』の中にあった言葉についてです。
 以下につきましては、実在の人物のお言葉を使用または参考にさせていただきました。

・「この世界ではすべての人が主人公だ」……Maxim(ゲーマー)
・「三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する」……羽生善治氏の発言と言われていますが諸説あるようです。(参考リンクhttps://araishogi.hatenablog.com/entry/2018/10/21/200000)
・「人生というのは、やりたいことができなくなったときが出発点」……仲本工事氏
・「二度としません、三度します」……仲本工事氏
・「コマオクリモデキマスヨ」……仲本工事氏
・「いやぁ~まいった、まいった」……仲本工事氏
・「時間はすべての人間に平等に与えられるが、どのように過ごしても同じ量を失ってしまう恐ろしい資源だ」……本田宗一郎氏の『時間だけは神様が平等に与えて下さった。これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ』を参考にしました。



 それでは失礼いたします。
 ここまでお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。