とあるβテスター、奮闘する


 

プロローグ

『もしも、ゲームの世界に行けたら』

世の中に数多くいるゲーマーの方々ならば、実際にゲームの世界に入り込んでみたいと思ったことが一度はあるんじゃないだろうか。
そういったものはネット上じゃ厨ニ病だの何だのと叩かれがちだが、むしろそういった空想を一切持たずに大人になった人間なんているのだろうか、と甚だ疑問に思う。
ちなみに僕も『趣味=ゲーム』という典型的なゲーマーであるため、当然ながらそういった空想をしたことは何度もある。

とはいえ。
いくら僕のようなゲーマーが夢を持ったところで、所詮ゲームはゲーム。
実際にゲームの世界に行くことなんて不可能だし、空想と現実の区別が付かなくなって錯乱、挙句に何かしらの犯罪に手を染める―――なんてことになったら笑えない。

趣味は趣味、遊びは遊びとして割り切らなければ世の中では生きていけない。
ましてや僕はもう高校生。まだ入学してから一月経ってないとはいえ、あと二年もしないうちに大学受験が待っている。
いつまでもゲームで遊んでばかりじゃいられない。

ああ、やってやるさ。
これを機にゲームとは縁を切って、時間があればひたすら勉強に励んでやる。
そして浮かれてる同級生達をあっという間に抜き去り、誰もが羨むサクセスストーリーを歩んでやるのさ!






……と、思っていたのだけれど。
そんな僕の決意は、その後一年も持たずに崩壊することとなる。

全世界のゲーム好き達を震撼させた脅威のMMORPG。
『ソードアート・オンライン』―――通称SAOの登場によって。 

 

とあるβテスター、幽閉される

―――2022年11月6日 第一層『はじまりの街』周辺フィールド―――



「ユノくん、たのむよー」

「はいはい―――っと!」

気の抜けるような間延びした声を聞きながら、手にした投擲用のナイフを敵に目掛けて投げつける。
同時に、声の主である女性は横へと飛び退いた。敵へと向かうナイフの軌道を妨げないためだ。
女性の持つレイピアによって牽制されていたイノシシ型のモンスター『フレンジーボア』は、自分を牽制していた相手が突然飛び退いたため、攻撃対象を見失う形となる。
それによって生まれた一瞬の隙を突いて、直線軌道を描くナイフがモンスターの急所へと迫った。

投剣スキル基本技、シングルシュート。

鮮やかなライトエフェクトに包まれたナイフは狙い違わずに敵モンスターの脳天へと吸い込まれ、ブヒィ!という苦しげな断末魔と共に、青いイノシシがガラスのような破片となって砕け散った。
「やったー!大勝利!」
いい歳して(外見はアバターであるため実年齢は不明だけど、アバターの見た目だけでいうなら20代前半のお姉さんに見える)ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜びを表現する女性に苦笑しながら、今の戦闘で消費した分のナイフを補充する。

―――これで何匹目だっけ?

ゲーム開始直後に目一杯買い込んでおいた投擲用ナイフは、随分とその数を減らしていた。
目の前の女性と自分。お互いの動きがかなりスムーズになってきたところをみると、既に両手の指では足りない数を倒したことになるかもしれない。


「ユノくんすごいねー。わたしじゃそんなに上手に投げられないなぁ」
「慣れてるからね。練習すればこれくらい、すぐにできるようになるよ」
「おお、余裕の発現。憎らしいですなぁ」
草原に腰を下ろし、他愛もない会話をしながら身体を休める。
『休める』といっても実際に肉体的疲労が溜まっているわけではなく、戦闘によって減ったHPが回復するのを待っているだけなのだけれど。

「でも、ほんとすごいなー。ここがゲームの世界だなんて信じられないよ」
目の前の風景を眺めながら、隣に座る女性が感嘆の呟きを漏らす。
ちなみに『ユノくん』というのは“この世界での”僕の名前だ。

そう。
ここは現実の世界じゃない。

『ソードアート・オンライン』―――通称SAO。
ナーヴギアと呼ばれるヘッドギア型の接続機器を用いることにより、自身の五感……すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全てを仮想世界とリンクさせることにより、ゲーム世界へのフルダイブを可能とした前代未聞の大規模MMORPG。
『ゲームの世界に行ってみたい』というゲーマー達の願望を形にした、まさに夢のようなゲームだ。

今日、11月6日はSAOの正式サービス開始日だ。
世界初のVRMMORPGだということもあり、その様子は世界中のメディアが注目していた。
当然ながら、初回ロットの一万本はあっという間に完売。
日本中の各地でゲーマー達がSAO購入のために三日前からゲームショップの店頭に並ぶという、傍から見れば異様な光景まで作り上げていたそうだ。

「でもよかった。ユノくんがいなかったらいつまでも『はじまりの街』にいるところだったよ」
「ん……、シェイリはMMO経験者じゃなかったっけ?」
「そうだけどさ~」
隣に座る女性―――シェイリとは、正式サービスが開始されてから一番最初に知り合った間柄だ。
ゲーム開始直後のログイン地点である『はじまりの街』において、投擲用のナイフを買いに向かう途中の路地で声をかけられた。

以前にもMMORPGを嗜んでいたようだけど、フルダイブは初めての体験だったらしく、どこに向かえばいいのわからず途方に暮れていたのだそうだ。
初心者はちょうど武器選びから始める必要があるため、僕が向かっていた武器屋まで案内することにした。

ついでに基本的な戦闘のレクチャーも頼まれ、僕は自身のレベル上げも兼ねて、この女性とPTを組むことになった。
そうして暫くの間二人でモンスターを狩り続け、今に至るというわけだ。

「そうなんだけど、このゲームは今までのとは違うっていうか、なんかこう……」
「……ああ、なるほど」
今までのMMORPGは、パソコン画面の向こう側で繰り広げられるゲームだ。
年々進化する映像技術によって昔よりは迫力があるものが多くなったものの、所詮は『画面の中の出来事』に過ぎない。

例えば。
右も左もわからない状態でフィールドへ出たとして、成す術もなくモンスターにやられたとしよう。
従来のMMORPGでは『モニターの向こう側』のアバターがやられたところで、それはやはりどこか他人事のように思えてしまう。
デスペナルティという形でいくらかの経験値、場合によっては所持金を失ったところで、よほどの高レベルでもない限りは大した損害にはならないだろう。
MMOに限らず、RPGは『死んで覚える』というのが基本であり、初心者の間は自力で試行錯誤することも結構重要だったりする。

でも、それはあくまで“従来の”MMORPGでの話だ。
SAO《フルダイブ》の世界では話は変わってくる。

なにせ、五感全てが仮想世界とリンクしているのだ。
もちろん攻撃されても痛みは感じないようになっているけれど、モニター越しのゲームとは違い、フルダイブの世界で敵にやられるのは“自分自身”だ。
いくら仮想世界とはいえ、自分が怪物に噛まれたり剣で斬られたりする瞬間なんてものは誰だって怖いと感じるだろう。
そのため、初心者の中でも慎重な人や気の弱いプレイヤーは、なかなか一人でフィールドに出る踏ん切りがつかないというわけだ。
シェイリもそのうちの一人だったらしく、フィールドに出て最初の戦闘では終始腰が引けていた。

「ほんと、ユノくんが教えてくれて助かったよ。ありがとね!」
「ん、どういたしまして」
最初はソードスキルのひとつも発動できない有様だったシェイリ。
でも、彼女もSAO購入者の例に漏れずゲーマーなだけあって、戦闘のコツを掴むのは思いの他早かった。
今では戦闘中に声を交わし、簡単な連携くらいならできるようになったほどだ。

ちなみに。
そこに至るまでに既に数時間かかっているのだけれど、その程度はMMORPGでは割と珍しくなかったりする。
ハイレベルのプレイヤーなんて一日中プレイしてる人もいるくらいだ。
僕もSAOにはだいぶはまっているけれど、流石に重度のMMO中毒にはなってない───はず。多分。うん。きっと。


────────────


「さて。そろそろ再開しようか?」
「は~い」
それから二十分ほど経って。
ついつい会話に夢中になってしまい、ふと見ればお互いのHPはとっくに全回復していた。
気付けば辺りも暗くなり始めている。SAOの世界の時間は現実の時間とリンクしているため、今頃現実世界の空はここと同じように夕日に染まっているのだろう。

念のため右手の人差し指と中指を揃えて縦に振り、メニュー画面を開いて時間を確認する。
現在時刻、午後5時26分。
夕食までにはまだ時間があるし、今のうちにいくつかレベルを上げてしまいたいところだ。
シェイリもだいぶ慣れてきたことだし、そろそろ狩りのペースを早めてもいいかもしれない。

そんなことを考えながら。
敵モンスターのいる方向に向かって駆け出したシェイリを援護すべく、腰のホルスターからナイフを引き抜───こうとした、瞬間。

突如として鳴り響いた鐘の音に、思考を遮られた。


草原を吹き抜ける風の音すら掻き消すように、鐘の音が響き渡る。
今まさにモンスターに向かって細剣を突き出そうとしていたシェイリは、攻撃を中断すると不思議そうな顔でこちらに振り向いた。

「ねぇねぇユノくん。これって何の音?」
「………」
シェイリの質問に、僕は答えることができなかった。
これは恐らく、『はじまりの街』にある鐘の音だ。
だけど。あの鐘が鳴っているところなんて、今までに見たことも聞いたこともない。

―――正式サービス開始の記念イベント?それにしては……

「嫌な感じだね……」
「ユノくん?」
夕日で赤く染まった空に、鳴り続ける鐘の音。記念イベントというにはあまりにも不気味な演出だ。
何か、不吉なものを感じずにはいられない。

―――まさか、戻ったら街中ゾンビだらけだったりなんてこと、ないよね……。

少し前にテレビで放送されていたホラー映画の内容を思い出し、軽く身震いしてしまう。
いやいや、何考えてるんだ僕。VRMMOでそんなことあるわけないじゃないか。
それに何かのイベントだとしても、プレイヤー全員が強制参加させられるわけじゃないだろうし。何ならスルーすればいいだけのことじゃないか。
そう結論付け、余計な思考を頭から振り払う。

「ユノく~ん?どうしたの?」
「……ん、何でもない。まあ特に気にしなくても―――」
「ひゃっ、何これ?」
いいかな、と続けようとした僕の言葉は、シェイリの呆けたような声によって遮られた。

「――っ!?」
僕とシェイリの身体が、青白いエフェクトに包まれる。
これは『転移結晶』と呼ばれるアイテムを使うことによって起こる、プレイヤーがテレポートする時のエフェクトと同じだ。
だけど。僕もシェイリも、結晶アイテムなんて使っていない。
つまり、これは……

―――強制転移……?

一体何が?と頭で考えているうちに、視界が暗転した。
続いて転移した瞬間特有の、ふわりとした浮遊感が僕の身体を包み込む。
SAOをやっていると嫌でも経験することになる感覚。だけど、僕は未だにこの感覚が苦手だった。
上昇していたエレベーターが停止する寸前の、あの感覚に近いものがあるからだ。
昔から乗り物全般が苦手な僕にとって、この瞬間は何ともいえない不快感を伴う。

「ユノくん、大丈夫?」
「な、何とか……」
一緒に転移させられたシェイリは特に問題ないらしく、心配そうな表情で僕の顔を覗き込んできた。
心の準備ができないうちに強制転移とか、ほんと勘弁してください……。
人の気も知らずに強引な手段を取った運営に心の中で恨み言を呟いていた僕は、改めて転送先の風景を見回した。

―――あれ?ここは……

SAOに初めてログインした時、最初に見た風景。それから今に至るまで、何度も見た風景。
ゲーム開始直後のスタート地点、『はじまりの街』。ここはその中央広場だったはずだ。

「おい、何なんだよこれは!」
「イベントか何かかー?」
「そんなことよりログアウトできねぇよ!」
「何だ何だ?何が起こってるんだ?」
「バグ直すのにいつまでかかってんだよー?」
「運営仕事しろ!」

ざわざわ、がやがや。

僕たち以外にも強制転移させられたプレイヤーが大勢いるらしく、広場は人気バンドのライブ会場もかくやといった喧騒に包まれていた。
改めて見ると、これだけの人数がSAOにログインしてたんだなぁと感慨深い気分になってくる。

―――って、あれ?何か今、聞き捨てならないことを聞いてしまったような……?

「あ、ほんとだ。ログアウトボタンが見つからないや」
「!?」

―――何ですとぉ!?

呑気に言ってのけたシェイリに、危うく大声で突っ込んでしまうところだったのを何とか抑え込む。
関心したようにメニューウィンドウを覗き込むシェイリを余所目に、慌てて自分のメニュー画面を開いて確認する。

―――ない。本当にログアウトボタンがない……。

フルダイブ形式のゲームでログアウトボタンがないということは、つまり現実世界に戻ることができないということだ。
ナーヴギアは脳から出力される信号を一定の箇所で遮断し、それら全てを自身のアバターへとリンクさせることによって、仮想世界へのフルダイブを可能としている。
当然ながら、フルダイブ中は現実世界の身体を動かすことは一切できない。脳からの信号が遮断されているのだから当たり前だ。
要するに、ゲーム中の僕たちは意識だけをこちらの世界に置き、現実の身体は抜け殻―――悪く言えば、植物状態だ。
もちろん現実世界で食事や排泄を行わないわけにもいかないため、SAOプレイヤーは定期的にログアウトして休憩を取る必要がある。

―――だけど、これじゃあ。

ログアウトボタンがない以上、それも不可能だ。
マニュアルにはログアウト以外に自力であちら側へ戻る方法は記載されていないし、ナーヴギアには内臓バッテリーがあるため、電力切れによって現実世界に戻されるということもない。
家族や同居人がいれば、誰かがナーヴギアを外してくれれば強制的にログアウトすることはできる。
だけど。SAOプレイヤーの中には、一人暮らしの人だって大勢いるはずだ。そういった人達は、誰かにナーヴギアを外してもらうこともできない。
つまり、ログアウトボタンが復旧するまでこのゲームから出ることができない。

―――バグ……?それにしては、対応が遅すぎる……。

SAOも人間が開発したゲームである以上、多少のバグは付き物だ。
でも、これは度を超している。
ログアウトできないなんて前代未聞のバグ、普通ならサーバーを強制停止してでも修正を急ぐべきなのに……。

「………」
さっき感じた、不吉なもの。
赤く染まった世界に、不気味に鳴り響く鐘の音。
そして、消えたログアウトボタン。
それら全てが、僕の“嫌な予感”を増長させる。

考えれば考えるほど、不安だけがどんどん大きくなっていく。
周りの喧騒も耳に入らなくなり、知らず知らずのうちに拳を握り締め―――

「ま、いっか~。続きやろうよ、続き」
「え、ちょっと待―――」
ようとした瞬間、シェイリが僕の腕を掴んで出口へと引っ張っていった。
結構な力で腕を引っ張られ、半ば引き摺られるようにして出口へと向かっていく。

「ほらほら、れっつごー!」
「ちょ、ちょっと、強い強い!自分で歩けるから!」
「えー?」
僕が必死に解放を求めると、シェイリは渋々といった様子で手を放した。
そりゃあさっきまでは狩りの途中だったけど。でも何だってこんな時に、しかもこんなに強引に……

「だってユノくん、さっきからずっと難しそうな顔してるんだもん」
「……あ」
そう言われて。
僕は自分がここに転移させられてから、ほとんど言葉を発していなかったことに気付いた。

“嫌な予感”について考えているうちに、一人で思考の深みに嵌まりかけていたらしい。
これは僕の悪い癖だ。一度ネガティブなことを考えると、どんどん思考がマイナス方向に向かってしまう。

「バグならそのうち直してくれるよ。だから、ね?続きいこ?」
「……そ、だね。どうせ待ってるくらいなら、レベル、上げちゃおうか」
「うん!」
僕の煮え切らない態度にも気にした様子を見せず、満面の笑みを浮かべるシェイリ。
今度はやんわりと僕の手を握り、再度、出口へ向かって歩き出す。

―――ひょっとして、気を遣ってくれてるのかな……。

つい数時間前に出会ったばかりの相手に気を遣わせてしまったことに内心で謝りつつ、一方で感謝する。
心の中が不安で一杯になってしまった時、こうやって明るく接してくれる相手がいるだけで気が楽になるものだ。

「……ありがとね」
「何が~?」
「ん、なんでもない」
「えー?変なユノくん」
にへらと笑うシェイリに、僕も笑顔を返すことができた。

今日、SAOにログインして。最初に出会ったのがこの人でよかった。
そんなことを思いながら、出口の門をくぐろうとして―――

「ぶっ!?」
「ユノくん!?」
ばしん!という音を立てて、“見えない壁”に激突した。
SAOに痛みという概念はないけれど、何かに衝突した時の衝撃はしっかりと再現されている。
不用意に門をくぐろうとした僕は、“見えない壁”にぶつかった衝撃で尻餅をついてしまった。

「大丈夫?」
「うん、痛くはないけど……。もしかして、出られない?」
答えつつ立ち上がり、“見えない壁”にぶつかったあたりを手で叩いてみる。

「ねぇユノくん、これって?」
「侵入不可オブジェクト……?」
よくよく目を凝らして見れば、出口を覆うようにして薄い膜が張られていた。
確かこれは、イベントに使うスペースなどを区切るのに使用されていたオブジェクトだったはず。
つまり、この出口封鎖はさっきの強制転移と同じく、ゲーム運営者の手によるものだということだ。

ということは、運営側はこの広場の様子をどこかで見ているということになる。
だとすれば。これだけの騒ぎになっても尚、何の告知もないというのはおかしい……。

「な、なんだよあれ!?おい、上を見ろ!」

と。
シェイリ共々目の前のおかしな現象に戸惑っているうちに、誰かが叫び声を上げた。
咄嗟に声がした方向に振り返ると、プレイヤーの一人が驚愕に彩られた表情で上空を指差していた。

【Warning】【System Announcement】

その男性プレイヤーの指が指し示している方向に自然と目を向ければ、僕たちの頭上には真っ赤な文字がびっしりと浮かび上がっていた。

システムアナウンス。
他のMMOでは『天の声』とか『神のお告げ』なんて呼ばれているそれは、SAOを管理する運営側からの告知が始まることを意味している。
この状況からして、案件は十中八九ログアウトボタン消失バグについてだろう。
運営側に動きがあったということは、ようやく復旧の目処が立ったのだろうか。

―――よかった。何とかなりそうなのかな?

色々と不安になったけれど、運営が本格的に動いてくれたのなら問題ないはずだ。
このバグさえ解消されてくれれば、あとは予定通りシェイリと二人でレベル上げを―――



と、思ったのも束の間に、


《プレイヤーの諸君》


僕が抱いた、ほんの小さな安堵感は、


《私の世界へようこそ》


本来であれば、僕たちの助けとなるはずの“運営者”の言葉によって、


《私の名前は茅場晶彦》


徹底的に、決定的に、


《今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ》


覆されることとなる。






2022年、11月6日。

後にSAO事件と呼ばれる大事件の、幕が上がった――― 

 

とあるβテスター、戦慄する

嫌な予感というのは当たるものだと、誰かが言っていた気がする。
家族か友人か、それとも僕自身が言っていた言葉かどうかは、今となっては思い出せないけれど。
何にせよ、あの時僕が感じた“嫌な予感”は、見事に的中することとなってしまった。

その証拠に。SAOサービス開始日から約一ヵ月が経った今となっても、僕は未だに“ここ”にいる。
このゲーム―――ソードアート・オンラインの、世界の中に。


────────────


《―――プレイヤーの諸君は、既にメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う。しかし、これはゲームの不具合ではない。繰り返す―――》

《―――また、外部の人間によるナーヴギアの停止、あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合―――》

《―――ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる―――》

《―――残念ながら、既に213名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界から永久退場している―――》

《―――今後、ゲームにおいてあらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君らのアバターは永久に消去され、同時に―――》

《―――諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される―――》

―――あの日。燃えるような赤い空と、鐘の音が響き渡る、あの場所で。
世界中が注目していたこのゲームは、僕たちを閉じ込めておくための牢獄と化した。
茅場晶彦。ソードアート・オンライン―――ひいてはナーヴギアの開発者である、彼の手によって。

中央広場上空に突如として現れた、フードつきのローブを纏った顔のない巨大なアバター。自称茅場明彦。
そんな彼の言葉を、最初は誰もが信じようとはしなかった。こんなものはタチの悪い冗談で、ゲームを盛り上げるための演出の一環だろう、と。
もちろん、僕だってそう思いたかった。遊ぶために買ったゲームで命を落とさなくちゃならないなんて、冗談にしても笑えない。
……だけど。現にログインボタンは見当たらず、僕たちが自力で現実世界へと戻ることはできない。

《それでは。最後に、諸君らにこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう》

これは冗談なのか。それとも本気なのか。
誰もが茅場晶彦の真意を測りかねている中、彼はそんなプレイヤー達の反応に気にした素振りも見せず、淡々と言葉を紡いでいく。

《諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意されてある。確認してくれたまえ》

半ば呆然としたまま、言われるがままにアイテム一覧を開く。何が起こるかわからないため、慎重にスクロールしていくと……
この街の店で買い込んだ回復アイテムや投擲用ナイフ、モンスターからのドロップ品などが並ぶ中に、『手鏡』という見覚えのないアイテムが紛れ込んでいた。
怪訝に思いつつもアイテムを実体化してみる。すると現実世界でも馴染みのある、何の変哲もない手鏡が手の内に収まった。

「うーん、普通の鏡だよねー?」
僕の隣ではシェイリも実体化させた手鏡を持ち、首を傾げていた。確かに見た目も手に持った感じも、現実世界で使われている手鏡そのものだ。
だけど、何でこの場でわざわざそんな物を?これが“この世界が現実である証拠”だと言われても、そんなことは―――ッ!?

―――まさかっ!?

不意に脳裏に過ぎった、さっきまでとは比べ物にならない程の“嫌な予感”に、全身にゾクリとした悪寒が走る。

―――ログアウト不可。本来の仕様。ナーヴギア。アバター。脳を破壊。永久退場。仮想世界。私の世界。唯一の現実。証拠。プレゼント。

バラバラになったパズルのピースのように、先程の茅場の言葉が次々と頭の中に浮かんでいく。

―――これは、ゲームであって遊びではない。

最後に浮かんだのは、とある雑誌のインタビューで茅場本人が言った言葉。
頭の中に浮かび上がったパズルのピースが、カチリと嵌まったような気がした。

「うわっ!?」
「な、何だぁ!?」
「キャーッ!?」
次の瞬間、周囲のプレイヤー達の悲鳴が中央広場を埋め尽くした。辺りにいた全員が、次々と白いエフェクトに包まれていく。
当然ながら、それは僕たちも例外ではなかった。

「ひゃっ!?何これ~!?」
「う、やっぱりか……!」
周りのプレイヤー達を包み込んでいたエフェクトが、僕とシェイリの姿を覆い隠した。
目の前で相変わらず緊張感に欠ける声を出しているシェイリの姿が、白いエフェクトに包み込まれる。
そして、僕の視界は白く染まり───





────────────





「ユノくん危ないよ!前前っ!」
「──っ!?うわっ!」
あの日───“はじまりの日”を思い出していた僕の意識は、背後からの切羽詰ったソプラノボイスによって現実へと引き戻された。
咄嗟に手に持った短剣を水平に構え、眼前に突き出す。ガキィン!という金属同士がぶつかる音が響き渡り、今まさに僕を一刀両断にしようと迫っていた手斧がその進行を止める。
衝撃の重みによって片膝をついてしまい、跪くようなポーズで敵の攻撃を受け止める形となった。

───し、死ぬかと思った……。

危うくニ分割されてしまうところだった。慣れない前衛をやってる最中に考え事なんてするものじゃないね……。
流石に短剣で手斧の衝撃を全て受け止めきれるわけではなく、武器を握った右手がびりびりと痺れる。それでも、スイカ割りのように頭から真っ二つにされるよりは何百倍もマシだ。
早鐘のように脈打つ心臓の鼓動を何とか抑え込み、鍔迫り合いの状態のまま両脚に力を込めた。

「せー……のっ!」
気合を込めた掛け声と共に全身の力を集中し、垂直飛びの要領で敵の持つ手斧を上へと跳ね上げる。
犬と人間を足して割ったような姿の亜人型モンスター『ルインコボルド・トルーパー』は、武器を持った手を思い切り跳ね上げられ、大きく体勢を崩した。

「シェイリ!スイッチ!」
「はいはーい!」
すかさず飛び退きシェイリの名前を呼ぶと、嬉々とした表情で両手斧を構えながら突進してくるパートナーの姿が見えた。

『スイッチ』というのはSAOのパーティ戦で用いられているテクニックの名称だ。
SAOに存在する全てのソードスキルには、発動前の『溜め』と発動後の『硬直時間』が課せられる。
硬直時間はその名の通り、ソードスキル発動が終わってから次の動作が可能になるまでの間に発生するクールタイムのことだ。
当然ながら、硬直時間中のプレイヤーは身動き一つ取れない。例え目の前に敵の攻撃が迫っていようが、システムによって定められた時間が終わるまでは一切の行動を封じられてしまう。
硬直時間は弱いソードスキルでは短く、強いソードスキルになればなるほど長く設定されている。
つまり大技を使えば使うほど、その分に見合った無防備な時間ができてしまうということだ。

「おかえしだよ!」
その欠点を克服するための方法が、この『スイッチ』だ。
一人がソードスキルを使用して硬直時間を課せられても、すかさず二人目が交代することにより、相手に攻撃する隙を与えずに次々とソードスキルを叩き込むのできる連携攻撃。
最低二人以上での連携が必要なため、ソロのプレイヤーには無縁なテクニックではあるけれど、パーティプレイをするなら必須のテクニックだと言っても過言ではない。

―――というより、スイッチができないプレイヤーはパーティ組もうにも蹴られるのがオチなんだけどね。

SAOがまだ和気藹々とした世界だった頃は、そんな光景もあったなぁ―――なんてことを思いながら、僕と交代で敵へと向かっていったシェイリの戦いっぷりを見守る。
体勢を崩したままの敵に向かって、頭上に振りかぶった両手斧を振り下ろす。更にその勢いを殺さずに、旋回しながら深緑のライトエフェクトを纏った刃を振り回していく。

両手斧 範囲攻撃技《ワールウインド》

まるで旋風のように巨大な斧を振り回す様は、彼女の華奢な見た目からはとても想像のつかない戦い方だ。
その幼い顔にニコニコとした笑みを浮かべながら敵を切り刻んでいく姿は、正直ちょっと……いやかなり怖い。
というかこのデスゲームにおいて、笑顔で敵に向かっていく人なんて未だに一人しか見たことがない……。

「これでっ、終わり~!」
僕が内心ドン引きしながら見守っていると、シェイリは敵に最後の一撃をお見舞いした。
武器の重さと身体の遠心力を利用した横薙ぎが、ルインコボルド・トルーパーの無防備な胴体を横一線に引き裂く。
ついさっき僕を縦真っ二つにしようとしていた亜人型モンスターは、無邪気な少女の手にって横真っ二つにされ、ポリゴンの破片となって砕け散った。

「えへ、気持ちよかったぁ」
「……お、おつかれ」
戦闘の余韻に浸っているのだろう、恍惚とした表情で得物である両手斧を撫でる彼女の姿を見ながら、僕はこう思わずにはいられなかった。

どうしてこうなった、と―――


────────────


事の発端は、あの“はじまりの日”だ。
このゲームのクリア条件はただ一つ、アインクラッド第100層をクリアすること───そう言い残して、茅場明彦が操るアバターは姿を消した。
その場にいたプレイヤー達は暫くの間、呆然とした表情で茅場のいた空を見上げたまま……

「……い、いやぁぁぁぁ!」
「っ!?う、うわあああああっ!!」
誰かが上げた小さな悲鳴を切欠に、水に石を投じた時の波紋のように、パニックが伝染していった。

―――まずい、このままじゃ……!

幸い、通行不可オブジェクトは解除されたようだ。パニックに巻き込まれる前に一旦この場を離れようと、さっきまで一緒だった彼女の姿を捜す……が、うまくいかない。
“さっきより目線が低い”せいで、他のプレイヤーがブラインドとなって辺りを見回せない。
それに、彼女も“さっきまでとは姿が違う”はずだ。僕が見たところで彼女だと認識できるかどうかわからない。
恐らく向こうも僕を捜しているはずだ。この喧騒の中、お互いが各々動き回ってしまっては合流するのが困難になってしまう。

【合流しよう。最初に会った路地で待ってる】

そう考えた僕は彼女宛てに簡潔なメッセージを送り、一足先に中央広場を出ることにした。
薄情に思えるかもしれないが、このままここに留まっていたら周囲にあてられ、何も考える余裕がなくなってしまいそうだったからだ。


────────────


「お待たせ~……ユノくん?」
「……へ?シェイリ?」
「そうだよー?」
数分後。最初に出会った路地でシェイリを待っていた僕は、無事に彼女と合流することができた。
……のは、いいんだけど。正直言って予想外だった相手の姿に、間の抜けた声を出してしまう。

「?ユノくん、どうしたの?」
「えー……いや、なんていうか……」
間延びした、気の抜けるような喋り方。見紛うことなくシェイリ本人だ。それはいい。
だけど。20代前半のお姉さんに見えていたさっきまでの姿とは違い、彼女の“現実世界の姿”はあまりにも幼くて。
そう、これはどう見ても……

「……中学一年生くらい?」
「え?わたし高校生だよ?」
「!?」

───なん……だと……?

ゲーム内でリアルのことを詮索するのはマナー違反だけど、どうしても聞かずにはいられなかった。
高校生ってことは、最低でも僕と同じ15歳以上だということなんだけど……
目の前で不思議そうな顔をしている女の子は、どう見ても中学生に成り立ての───下手をすれば小学生に見えなくもない、童顔どころか年齢詐称疑惑の出そうな外見をしていた。
身長は150cmもないだろう。高校生の平均身長ぎりぎりの僕から見ても、だいぶ小柄に感じる。
肉付きの少ない身体は所謂お子様体型というやつで、肩にかかるぎりぎりのところで切り揃えられた黒髪に、幼い目鼻立ち。
いや、これで高校生というのはちょっと無理があるような……

「……ほんとに高校生?中学生じゃなく?」
「ユノくん?怒るよ?」
「ごめんなさい」
ついつい聞き返してしまったけれど、この反応から見るに嘘ではないらしい。
ちなみにその声もさっきまでの落ち着いた女性のものではなく、子供のようなソプラノトーンの声に変わっていた。

───いやまあ、口調的にはこっちのほうが合ってるんだけど……ってそうじゃなくて!

シェイリの姿が予想外だったことに気を取られ、本題を忘れるところだった。ぶんぶんと頭を横に振り、関係のない思考を頭の隅に追いやる。
そう、今はそんな話をしてる場合じゃないんだ。
僕たちが今考えなくちゃならないことは、これからこのゲームでどういった身の振り方をするかということで、ここでは至って真剣な話をするために───

「でもわたしもびっくりだよ。まさかユノくんが───」
「ス、ストップ!その話は今はなし!」
「えー?」
またしても話が逸れそうになったのを強引に遮ると、シェイリは不満そうに唇を尖らせた。
だから君のそういう仕草が小中学生に見えるんだよ───って、それはこの際いいとして。
今僕たちが考えなきゃけないことは、茅場曰くデスゲームと化したこの世界でどうやって生きていくか、だ。

彼の言っていたことが本当なら、僕たちはこの世界で一度もHPを0にすることなく、アインクラッド第100層のクリアを目指さなければならない。
このアインクラッドは天空に浮かぶ浮遊城の体を取っており、今僕たちがいる『はじまりの街』はその底部、第1層にある街だ。
それぞれの層ごとに異なるフィールドが広がっており、それに加えていくつかの街や村、次の層へと続く道───迷宮区と呼ばれるダンジョンがある。

ここで問題となるのは、迷宮区の最奥で待ち受けているフロアボスの存在だ。
フロアボスとは次の層へと続く唯一の通路を守護しているボスモンスターのことであり、その強さはそこらの雑魚モンスターとは比べ物にならない。
当然、一人や二人で太刀打ちできる相手ではなく。普通はレイドPT───複数のパーティ(最大48人)による討伐隊を組み、スイッチによる連携攻撃を駆使して倒す……というのがセオリーだ。
でも。ボス攻略はただ人数が多ければいいというものではない。
例え48人を集めてフルレイドPTを組んだところで、ボスの攻撃パターンや使用するソードスキルの躱し方が頭に入っていなければ、最悪の場合は全滅なんてこともありえるからだ。

このように、ボス攻略には大変な危険が伴う。
しかも僕たちが現実世界に戻るためには、その危険なボス戦を100回も繰り返さなければならない……。

「……シェイリは、これからどうする?」
「どうって?」
僕が問いかけると、シェイリは何の話だとばかりに首を傾げた。
その反応は無理もない。今現在ほとんどのプレイヤーは、自分の身に何が起こったのか理解が追いつかない状態だろう。
あるいは、まだこれが悪い冗談……もしくは夢か幻か、そう思う人もいるかもしれない。

だけど。多分あれは……嘘じゃない。
もちろん本人と面識があるわけじゃないし、テレビや雑誌といったメディアで見る機会しかなかったけど……
それでも、これだけは言える。茅場明彦という天才科学者は、こんな質の悪い冗談を言うタイプじゃない。

「あの人の言ってたことが嘘か本当かはわからないけど、多分本当だと思う。だから、僕たちは強くならなくちゃいけない」
「強く……?」
「うん。シェイリもわかると思うけど、MMORPGでいつまでも低レベルのままでいるのは危険だからね」
攻略が進めば上の層も順次解放されていくだろう。当然、敵モンスターも上の層に行けば行くほど強くなってくる。
いつまでも『はじまりの街』に閉じ篭もるならともかく、行動の幅を広げるためにはレベルを上げて、強くなる必要が出てくる。
それ以外にも、PK───プレイヤーキルと呼ばれる、あえてプレイヤーを攻撃して楽しむプレイスタイル───の相手がいないとも限らない。
さすがにここで死ねば現実世界でも死ぬという現状で、PKなんて馬鹿げたことをするプレイヤーがいるとは思いたくないけど……。万が一そんな相手と遭遇した時に身を守るためには、レベリングによる強化が必要不可欠だ。

「でも、普段のレベル上げだって死ぬ可能性がゼロなわけじゃない。本当に現実世界でも死ぬなら、雑魚モンスターと戦うのだって気が抜けない。だから……」
安全策でいくなら、『はじまりの街』に留まるというのも手だ。
安全圏内の街中にさえいれば、モンスターと戦う必要も、PKに怯える必要もない。
必要以上に戦うことなく、安全圏に留まり続ければ───いつか、誰かがゲームをクリアしてくれるかもしれない。それが何ヵ月、もしくは何年先だとしても、だ。

「安全のことだけを考えるなら、ここに残るのが一番いいと思う。でも、僕は」
でも、僕は。
このままここで現実に帰れる日をただ待っているだけなんて、とてもじゃないけどできそうにない。
ただでさえネガティブ思考が加速する、悪い癖があるんだ。
もしも、ここで誰かがゲームクリアしてくれるのを待ってるだけだったら。きっと不安に押し潰されそうになって、一人で気が狂ってしまいそうだ……。

「僕は、強くなろうと思う。一緒にきてくれると心強いけど、もちろん無理にとは言わない」
まだ信じられないようなこの状況で、一人でいるのは戦力的にも、精神的にもかなり心細い。
それに、シェイリを……SAOで初めてできた友達を置き去りにするということも、できればしたくない。
かといって強引に連れて行くというのも、それはちょっと違う気がする。
もしそんなことをすれば、それは僕の勝手なエゴだ。本人が望まないレベル上げを無理矢理やらせて、生き残る確率を多少上げたところで……彼女がそれを望まないのであれば、僕の勝手な自己満足に他ならない。

───だから……

「だから、シェイリはどうするのか聞いておきたいんだ。レベル上げをする気があるなら、僕と一緒に行こう。でも」
こんな状況で決断を迫る僕は、きっと卑怯なんだと思う。

「戦うのが怖いなら、ここに残ったほうがいい。僕もできる限り君を守るつもりだけど、絶対にとは言い切れないから……」
僕はこれから彼女にどうして欲しいのか。僕自身の望みを彼女に求めることの、その責任を背負い切れる自信がないから。
『彼女が出した答えだから』という、自分自身に対する言い訳が欲しかったのかもしれない。
それが危険を伴うことだとしても、置き去りにすることだとしても───

「ユノくんは怖くないの?」
「………」
僕が言いたいことを言い終えるのを待って、それまで無言だったシェイリは、僕の目を真っ直ぐに見ながら問いかけた。
「死ぬのが怖くないの?」
問いかける声は気の抜けるようなものではなく、硬く、真面目な雰囲気を纏っていた。
常にへらへらと笑っていた彼女と同一人物には思えないような、真剣な表情。

「……怖いよ。怖いに決まってる」
怖いか怖くないか、そんなことを聞かれれば。答えは決まってる。
この状況で何も感じることなく遊び感覚を続けられるとしたら、そんな人は恐怖を感じる心が欠如しているとしか思えない。
あるいは。

───そのくらい何も考えずにいられたら、逆に楽なのかな?

一瞬そんな考えが頭を過ぎった自分に対し、内心で苦笑い。
そんな生き方ができるくらいなら、こうして頭を悩ませる必要もなかったんだろうけど。

と、そんなことを思っているうちに。

「そっか~。ユノくんも怖いんだね」
たった今まで真剣な表情をしていたはずのシェイリは、僕がほんの少し意識を逸らした隙に、例のふにゃっとした表情に戻っていた。
口調も間延びしたものに戻っており、さっきまでの真剣な表情は何処へ……と、思わずにはいられなかった。

「じゃあ、わたしも一緒に行こっかな。ユノくん一人じゃ心配だもん」
そして彼女は、いともあっさりと答えを出した。
一人でうじうじ悩んでいた僕が馬鹿らしく思えるほど、簡単に。
本当に命が懸かってるって理解してるのだろうかと疑わしくなってしまうくらい、あっけなく。

「……いいの?」
「だめだったら言わないよー。それにユノくん、守ってくれるんでしょ?」
「………」

───あ、やばい泣きそう。

正直断られると思っていただけに、彼女が即決して───しかも、僕を信じて───くれた時、不覚にも涙が出そうになってしまった。
心のどこかで言い訳を捜してばかりだった僕を、迷う素振りも見せずに信頼してくれた。
そんなシェイリのにへらとした笑い顔を見ただけで、徐々に視界が霞んで───ってやばい、本当に泣く!

───いやいやだめだってこんな場面で泣くとか恥ずかしいなんてレベルじゃないどうにか誤魔化し

「ユノく~ん?どうしたの?」
「な、なんでもな……ひっ」
……無理でした。思いっきりしゃくり上げてしまった。
シェイリさん、その子供を暖かく見守るような目をやめてください……。


────────────


そんなこんなで。僕とシェイリはあれから一ヵ月経った今となっても行動を共にしている。
正直な話、あのまま彼女を置き去りにしてソロでやっていたら、僕は今頃きっと精神的に病んでしまっていたと思う。
SAOはただでさえ他のゲームと違って集中力が必要なのに、精神的に不安定な状態で無理に戦おうものなら……。今頃死んでいたとしても、それは大袈裟な話じゃないだろう。

僕はあの日の出会いに感謝している。
あの日彼女と出会わなければ、デスゲームとなったSAOで今日まで生きていられたかわからない。
下手をすれば『はじまりの街』の宿部屋に篭りっ放しだった可能性だってあるんだから。
誰かが隣にいるだけで精神的にここまで楽になるものなんだな、としみじみ思う。

そう、僕は彼女に感謝している。
最初に出会った日からずっと僕のことを支えてくれて、今や良きパートナーとも呼べる間柄になった彼女に。

───そこまでは、

「……そこまでは、いい話だったんだけどなぁ」
「何がー?」
「何でもないです……」
自身の得物───ツーハンドアクス+4という非常にゴツい武器を愛しげに撫でる彼女に、僕は何も言えなかった。

……あの後。僕と正式にパートナーを組むという段階になって、彼女は武器の使用変更を申し出た。

『ユノくんの武器は投げナイフだから、わたしはもっと強いのを持たなくちゃね~』
今使っているレイピアでは不満なのか、と問いかけた僕に対し、彼女はこう答えた。
僕が使うスキルの都合上、細剣と投剣のペアでは火力不足になるのを懸念しての判断らしい。
それなら一緒に選ぼうかという話になり、僕たちは数時間ぶりにあの武器屋へと足を運んだのだった。

SAOでは使用する武器スキルをセットできるスロット数には上限があるため、本来なら無闇に何でも上げるというのはおすすめできない。
だけど、その時の僕たちのレベルはお互いに上がったばかり……つまり、2になったばかりだった。
その程度なら熟練度も大して上がっていないし、他の武器に転向したとしても十分間に合う段階だ。

そんなわけで、彼女に初心者向けの武器をいくつか勧めてみた……のだけれど。
彼女の武器選びは、思った以上に難航してしまうこととなった。
ちなみに武器に対する彼女のコメントは以下の通りだ。

片手剣→えー?レイピアとあんまり変わらなくない?
曲刀→えー?片手剣と(以下省略)
短剣→ちょっと軽すぎないかな?
片手棍→うーん、あと一押し欲しいかなー?
槍→これって後ろから攻撃する武器だよね?ユノくん前に出るのあんまり得意じゃないんでしょ?
両手剣→あ、ちょっといいかも
両手斧→これいいかも!ユノくんユノくん!わたしこれにするね!

こういった流れを経て、めでたく(?)彼女は両手斧使いとして生まれ変わったのだった。
そこまではよかった。そこまでは。

見た目に似合わず重そうな武器が好きなんだなぁ、と呑気に考えていたのも束の間。
試し切りと称して『はじまりの街』周辺フィールドで行った初戦闘で、僕は戦慄を覚えることとなる。

『あはっ、これすごーい!見て見てユノくん!こんなに切れるよー!』
どうやら彼女に合った武器だったようで、レイピアを使っていた時よりも動きのキレが増している。
それは結構。それは大いに結構なんだけど、一つだけ言わせて欲しい。

───シェイリさん、あなたは何故そんなに楽しそうなんでしょうか?

自分の背丈の半分以上もある両手斧を振り回し、清々しいまでの笑顔で青イノシシを斬殺していく中学生くらいの少女(自称高校生)。
僕はというと防具屋で買ったばかりのフードを目深に被り、彼女のバーサーカーっぷりに脅えた顔を見せまいと必死なのであった……。 

 

とあるβテスター、赤面する

「今日もいっぱい戦ったねー。ユノくん、お疲れさま!」
「あ、うん、お疲れさま」
ここ何日かの日課となっている迷宮区での狩りを終え、ダンジョン周辺に広がる鬱蒼とした森を抜けて帰路に就く。
木々が生い茂っているせいで視界が悪いこの森を歩くのも、毎日迷宮区まで通っているうちにすっかり慣れたものだ。

「ねぇねぇユノくん。ベータの時も第1層でこんなに時間かかってたの?」
「んー、そうだなぁ……」
帰り際、シェイリが何気なしに口に出した質問に、僕はすぐに答えることができなかった。
このゲームが始まっておよそ一ヵ月が経った今でも、プレイヤー達は第1層攻略の真っ最中だ。
βテストの時では二ヵ月で第10層まで進んでいたのに対し、これはかなりのローペースであると言えるだろう。

───だけど、無理もないよね……。

βテスト当時はHPがゼロになって死んだとしても、『はじまりの街』にある『黒鉄宮』という宮殿の、『蘇生者の間』と呼ばれる復帰ポイントまで飛ばされるだけで済んだ。
いくら死んでも復帰できるのだから、ボスに挑むのだって『当たって砕ければいい』程度の感覚でしかない。というか通常、MMORPGなんていうのはそんなものだろう。
でも。茅場曰く、僕たちが当たり前のように思っていたそれは、SAOの“本来の仕様”ではなかったらしい。

SAOが“本来の仕様”となった現在、『蘇生者の間』には巨大な碑が設置されており、そこにはSAOにログインしている全プレイヤーの名前が刻まれている。
そしてプレイヤーのHPが全損した際には名前に横線が引かれ、ご丁寧なことに死亡理由まで表示されるという仕組みになっていた。

そもそもにおいて、攻略に意欲を見せているプレイヤー自体、βテストの時に比べて随分と減っている気がした。
本来の仕様───HPがゼロになった瞬間、ナーヴギアに脳を破壊されてしまうという現状では、迂闊にボスに手を出して初見殺しに引っ掛かるということは、イコール現実世界の死でもあるのだから、当然といえば当然かもしれない。
あの時、僕がシェイリに提案した、もう一つの選択肢。危険を冒してまで攻略に行くくらいなら『はじまりの街』にいたほうがマシだ……と考えているプレイヤーも、決して少なくない。
そういったこともあって、本来であれば第5層までは攻略できていたであろう月日が流れても、僕たちは第1層から上に行くことができずにいる。

「みんな怖いんだと思うよ。負けたら死ぬんだから、当たり前ではあるけど……」
「そっかぁ」
もしもβの時のように、HPがゼロになっても復帰できるという仕様だったら。
10000人もの人数がログインしているこの状況なら、遅く見積もっても一ヵ月もあれば、βテストの最終層だった第10層までは行けていたと思う。
当時のプレイヤー───βテストの当選者は、たった1000人しかいなかったのだから。
その10倍もの人数がいれば、以前の半分の時間もかけずに追い付けていたはずだ。

だけど、それはあくまで仮定の話だ。
現にSAOがこうしてデスゲームと化してしまった以上、全プレイヤーに攻略参加を無理強いするわけにはいかない。
元々MMOなんてものは遊び方も人それぞれであり、仲間内でのんびりとSAOを楽しむつもりの人だっていただろう。
鍛冶や料理などの非戦闘系スキルを上げて楽しむプレイスタイルの人は、そもそも攻略向けのステータスじゃない。
そんな人達に対して『命を懸けて前線に出ろ』と要求するのは、あまりにも酷というものだ。

「じゃあユノくんとわたしでボス倒すしかないね。がんばろー!」
「……ん、そうだね。そんなに簡単な話じゃないけど、意気込みとしてはそのくらいあったほうがいいかな」
いとも簡単そうに言い、日常的に命を危険に晒しているにも関わらず、シェイリは相変わらずの間延びした口調でにへらと笑う。
傍から見れば緊張感に欠けていると思うかもしれないが、この状況に至って尚笑顔を絶やさない彼女のことが、正直言って羨ましかったりする。
この一ヵ月彼女と行動を共にして、彼女のこういう面に支えられたことは、一度や二度の話じゃない。

───まあ戦闘になるとちょっと人が変わるというか、ぶっちゃけ怖いけど。

最初の日、レイピア片手に青イノシシ相手に逃げ惑っていた彼女は何処やら。
今や両手斧を使ってバッサバッサと敵を斬り倒していく彼女の姿は、思わず『あなたの前世は剣闘士か何かですか?』と聞きたくなってしまう程だ。
もちろん、面と向かってそんなことを聞けば自慢の斧で真っ二つにされかねないため、実際に口に出したことはないけれど。

───両手斧って扱いが難しい武器のはずだったんだけどなぁ……。

SAOにおいて極めて初心者向けである片手剣や細剣を差し置いて、両手斧が一番しっくりくる女子高生というのは如何なものか。
この幼い少女(実際は同い年もしくは年上の可能性あり)が戦闘狂へ変貌するきっかけを作ってしまったことに何ともいえない責任を感じつつ、僕たちは迷宮区から程近い街『トールバーナ』の北門をくぐるのだった。

2022年12月2日。
本日夕方よりこの『トールバーナ』において、正式サービス開始後初の『ボス攻略会議』が開かれるらしい。


────────────


「みんな!今日はオレの呼びかけに応じてくれてありがとう!」
第1層迷宮区より徒歩十数分に位置する谷間の街『トールバーナ』。その中央広場に、よく通る男の声が響き渡った。
声の主───広場の中央に設置された噴水の縁に立つ青髪の剣士は、まるでユーザー主催イベントの司会者でもあるかのように、場違いに爽やかな笑みを浮かべている。

「オレはディアベル。職業は気持ち的にナイトやってまーす!」
その一言で周囲のプレイヤー達がどっと沸き、『職業システムなんてねーだろー!』『ほんとは勇者って言いたいんだろー!』などという声が投げかけられた。
さっきまで初のボス攻略会議ということで、この中央広場にはどこかピリピリとした空気が漂っていたのだけれど、その空気をあっという間に180度変えて場を和ませてしまうあたり、どうやらこのディアベルという剣士、こういったイベントごとを仕切るのには慣れてるらしい。
殺伐とした雰囲気を和らげるという意味では、こういうノリの人が一人くらいいたほうが、下手に緊張しなくて済むので助かる。
シェイリと並んで広場の隅に座った僕はそんなことを考えながら、ディアベルが本題を切り出すのを待った。

「……今日、オレたちのパーティが、あの塔の最上階に続く階段を発見した。つまり明日か、遅くても明後日には、ついに辿り着くってことだ。第1層のボス部屋に!」

───おお……。

ディアベルの言葉に周囲のプレイヤー達がどよめく中、僕は感嘆の思いを抱く。
第1層の迷宮区である塔は全20階建てで、僕とシェイリがさっきまで狩りをしていた場所が17階だ。
シェイリが両手斧使いとして覚醒してからは、ペア狩りにしてはだいぶ早いペースで進んできたつもりだったのだけれど、どうやら彼らのパーティはその何歩も先を行っていたらしい。

「オレたちは、示さなきゃならない。ボスを倒し、第2層に到達して、このデスゲームそのものもいつかきっとクリアできるんだってことを、『はじまりの街』で待ってるみんなに伝えなきゃならない」
ディアベルの熱弁に、周りのプレイヤー達が息を呑んだのが気配でわかる。

そして、

「それが、今この場所にいるオレたちトッププレイヤーの義務なんだ!そうだろ、みんな!!」
最後に一際大きい声でディアベルが叫ぶと、噴水広場がプレイヤー達の大喝采で包み込まれた。
明日か明後日にはボスと戦って死ぬかもしれないというのに、周りにそんな不安を微塵も感じさせない。
個人がバラバラに動きがちなMMORPGという環境であるにも関わらず、巧みな話術であっという間に士気を高揚させてしまった。
自ら騎士を名乗るだけあって、リーダーシップにはかなり長けているものがあるらしい。

───この人がリーダーなら、協力してボスに立ち向かうことも……

できるかもしれない、と思った矢先。

「ちょお待ってんか!」

やたら耳障りなダミ声による関西弁が、歓声を遮った。その一言によって歓声がぴたりと止み、広場が再び沈黙に包まれる。
みんなの士気がいい具合に上がったのに、わざわざこのタイミングで水を差す必要があるのだろうか、と思っていると。
やがてディアベルの立つ噴水の前に、一人の男が歩み出てきた。

「ワイはキバオウってもんや。あんたらと仲間ごっこする前に、こいつだけは言わしてもらおか」
小柄ながらがっちりとした体格に、かなり独特的な髪型をした茶髪の男だった。
キバオウという名前といいサボテンみたいな髪型といい、『この人だけまだアバター姿のままなんじゃ?』と思えて仕方ない。
というか、現実世界でこんな髪型の人に遭遇したら絶対笑ってしまいそうだ。

「こん中に、このゲームの全プレイヤーに対してワビ入れなあかん奴らがおるはずや。ベータテスト上がりの連中がな!」

───へ?

キバオウの特徴的な髪型にばかり気を取られていたせいで、一瞬彼が何を言っているのか理解が追い付かなかった。
その時の僕は周りから見て、かなり間の抜けた顔をしていたに違いない。

───謝罪?ベータテスターが?何に対して?

僕が頭の中で疑問符を浮かべていると、それに応えるかのようにキバオウは続けた。

曰く、あの“はじまりの日”、元ベータテスター達は右も左も分からない初心者達を見捨て、自らの保身に走った。
曰く、元ベータテスター達は効率のいい狩場やクエスト情報を独占し、他のプレイヤー達のことを一切省みることがなかった。
曰く、彼らのせいでたった一ヶ月で2000人ものプレイヤーが死んだ───

周りがシンと静まり返った中で、キバオウは『元ベータテスターがいかに汚いか』『彼らがいかに自分達だけおいしい思いをしているか』を熱弁していく。

「こん中にもおるはずやで、ベータテスト上がりの奴が!そいつらに土下座さして、貯め込んだ金やアイテムを吐き出してもらわな、パーティメンバーとして命は預けられん!」
「──ッ!!」
最後の言葉を聞いて、僕はキバオウという男の真意を感じ取った。
結局のところ、キバオウはこれを言いたいだけだったのだろう。
『ベータテストの知識を持ったプレイヤー達からお金やアイテムを吐き出させ、取り分を自分達に回せ』、と。
口では死んだ人達のことを考えているような言い方をしているけど、死んだプレイヤー達に詫びを入れろだとか、命を預ける預けないだとか、そんなものは全部建前で。
要するにこいつは、自分がおいしい思いをできなければ、何でも気に食わないタイプの人間なんだ。

元々MMORPGなんていうのは不特定多数のプレイヤーが存在する以上、多かれ少なかれ、ある程度の格差が生まれるのは仕方がない。
だけど。どのMMORPGにも必ずキバオウのようなタイプの人間がいて、そういった人達はそれをよしとしない。
人より少し強かったり、貴重なアイテムを持っているという理由だけで、相手を匿名掲示板で執拗に叩くことだってある。
『ネットゲーマーは嫉妬深い』なんて言われるように、そういった光景はMMORPGの風物詩とも言ってもいい。
彼らは叩ける要素があれば何でもよくて、叩く対象の心情や都合なんてものを考えることはないんだ。

僕もいくつか他のMMORPGをやってきたから、世の中にはそういった人達がいるっていうのも身に染みている。
でも、それはあくまで“遊び”としてのゲームの世界の話であって。
実際に命が懸かってるこの期に及んでまで、こんな、こんな下らないことを───

「おるんやろ、ベータ上がりの卑怯もんが!はよう金とアイテムを並べて、地べたに頭ついて土下座しいや!」

───せっかく、せっかく場がまとまりかけてたのに……!

このままでは、まずい。
討伐部隊を組んでボスと戦うどころか、プレイヤー同士で協力するという体制そのものが崩壊してしまう。
最悪の場合、これを口実にベータテスター達に対する“処刑”が始まってしまうかもしれない。

「あくまで名乗り出ないつもりか、そんならそれまでや。こんな卑怯もんが潜んどるかもしれんパーティに命なんか預けられへん。パーティ組むっちゅう話はなかったことに───」

───どうする……?

せっかくディアベルが一纏めにした場の空気が、キバオウの登場によってバラバラになろうとしている。
ここは無理矢理にでも割り込んで、この男を黙らせるべきなのかもしれない。
今、僕が何かを言えば。それこそ『おまえがベータテスターか』と、キバオウの主張を正当化させる口実になってしまうかもしれない。
だけど、これからの攻略のことを考えるなら……

───いくしかない、かな……

このまま黙って言わせておけば、事態は悪化する一方だ。会議を円滑に進めたいなら、キバオウを黙らせる必要が出てくる。
今後、プレイヤー同士で協力してボス攻略に臨むなら。ベータテスターだとかそうじゃないとか、そんなことで確執を生んでる場合じゃないんだ。

そう思い、フードを目深に被り直し、キバオウの言葉を遮るべく立ち上が───

「発言、いいか」
「なんや!」
ろうとして、それは失敗に終わった。
僕が立ち上がろうとしたのと同時、どこからか聞こえた野太いバリトンボイスが、先にその場に割り込んだからだ。
今まさに立ち上がろうとしていた僕は、中途半端に腰を浮かせた状態になり、何とも格好のつかないまま再び座り込むのであった……。
そんな様子に気付いていたのか、隣に座るシェイリのクスクスという笑い声が耳に入り───ちょっと笑いすぎだって!鬱になるだろ!

シェイリに羞恥心をちくちくと刺激されながらも顔を上げれば、人垣を掻き分けてキバオウの前へと歩み出るプレイヤーの姿があった。

───お、おう……?

そのプレイヤーを視界に捉えた瞬間、僕はシェイリからの精神攻撃のことも忘れ、思わず呆気に取られてしまった。
なぜなら、さっきのバリトンボイスの主は、身長2メートルに届くかどうかという程の巨漢で。
彫りの深い顔立ちに、髪型は完全なスキンヘッド。チョコレート色の肌に、身体のほとんどは筋肉で出来ているんじゃないかと思ってしまう程のガタイのよさ。
背中にはシェイリが使うものによく似た、武骨な両手斧を背負っている。だけど、武器に背負われてる感じのするシェイリとは違い、この人の場合は巨大な両手斧すらも小さく見えてしまう。

「………」
「どうしたの、ユノくん?」
「いや、何でも……」
両手斧というのはああいう人が使う武器なんだよ、と言いたくなるのを何とか堪え、視線を広場中央に戻す。
彼女は新調した武器をいたく気に入っている様子だし、ここでケチをつけようものなら『えー?だってこれ使いやすいよ?なんならデュエルしてみる?』とか笑顔で言われかねない。
死ぬ危険性のないデュエルとはいえ、あんなゴツい斧で真っ二つにされるのはごめんだ。自分から地雷を踏みに行く趣味は僕にはない。

───いや、待てよ?接近戦に持ち込まれる前に投剣でちくちくやれば、勝てる可能性も…………無理か。

投剣スキルは射程が長い分、威力は近接武器より劣る。
頑張って一発や二発ソードスキルを命中させたところで、硬直中に接近されて真っ二つにされるのがオチだ。
ましてや、短剣で鍔迫り合いなんて論外だ。受け止めようとした腕ごと持っていかれかねないだろう……あれ?ひょっとして彼女のほうが強いんじゃ……?

「オレの名前はエギルだ。キバオウさん、あんたの言いたいことはつまり、元ベータテスターが面倒を見ないかったからビギナーがたくさん死んだ、その責任を取って謝罪・賠償しろ、ということだな?」
「そ……そうや」
守ると言ったはずの相手にいつの間にか追い抜かれていた、という事実に僕が軽くショックを受けていると。
さっきまで散々言いたい放題だったキバオウは、エギルと名乗ったプレイヤーの風貌に圧倒され、怯んだように片足を引きかけていた。
キバオウは男にしては小柄なほうだし、エギルは日本人離れした(もしかすると本当に外国人かも)体格をしているため、その反応は無理もないだろう。

「ベータ上がりの全員が全員、おいしい思いをしてると言うが、その根拠はどこにあるんだ?」
「根拠やと?んなもん、こんクソゲームの現状見ればわかるやろが!右も左もわからん奴が2000人も死んどるんやで!しかもそのほとんど全部が、他のMMOじゃトップ張ってたベテランやったんやぞ!」

───またそれか。

明確な根拠も出さず、この期に及んで死んだ人達をダシにするキバオウのやり方に、内心で嫌気が差してくる。
確かに、彼が並べている言葉をそのまま鵜呑みにするのであれば、βテスターに全く非がないとは言い切れない。
元βテスターが1000人もいれば、中には自分がおいしい思いをすることだけを考えている人も、少なからずいるはずだ。

でも。キバオウの言い分は正論に見える一方、その裏にはかなりの私情が含まれている。
彼は『全プレイヤーは平等であるべき』と口では言ってる一方、その根底にあるものは、自分の一歩先を行くベータテスター達への嫉妬心だ。
そして。今まで経験してきたMMOにおいて、そういった人ほど、自分が利益や権力を得た途端、それに溺れるものだと相場が決まっている。もしも逆の立場なら、キバオウのようなタイプは真っ先に、彼の言うところである『卑怯もん』と同じ行動をしていたことだろう。

「その2000人は全員が全員、あんたの言う元ベータテスターのせいで死んだと?」
「そうやろが!ベータ上がりのアホテスターどもは、わいらに何の情報も渡さんで───」
「いいや。金やアイテムはともかく、情報ならあったと思うぞ」
そう言ってエギルが取り出したのは、羊皮紙を綴じた本の形をしたアイテム。
表紙には、丸い耳と左右三本ずつの髭を図案化した『鼠マーク』が。それは、このアイテムを製作したのがかの情報屋であることを示している。

βテスト時代、金銭と引き換えにありとあらゆる情報を売って歩いていたプレイヤー、通称『鼠のアルゴ』。
『奴は金さえ積めば自分のステータスだって売る』という噂通り、ボスのデータからプレイヤー個人の情報まで、対価さえ払えば何でも教えてくれる情報屋。
いつの間にチェックされているのかわからない上に、その情報《売り物》は下手な情報サイトより信憑性がある───と、客として接するならば頼もしい反面、敵に回すと厄介なことこの上ないプレイヤーだ。

そんな情報屋こと『鼠のアルゴ』が、どういう風の吹き回しなのか、βテスト時代のエリアマップやモンスター情報、クエストデータなどを記載したガイドブックを各地の道具屋に委託販売している。しかも無償で。
あのアルゴがタダで情報を提供していたというのには驚きだった。僕とシェイリが最初に到達した村で、二人分のアイテム補給を買って出たシェイリがこれを持ってきた時、何かの冗談じゃないかと思った程だ。
半分訝しげながらも中身を読んでみると、そこには確かにβテスト当時のデータが詳しく記載されていた。どうやら本当にアルゴが書いたものらしい。

……もっとも。表紙下部に書かれている『大丈夫。アルゴの攻略本だよ。』という宣伝文句には、そこはかとなく不安を感じられずにはいられなかった。
何か重大な誤植がありそうな気がしてならない。いや、そう思った理由はわからないんだけど。

「いいか、情報はあったんだ。なのに、たくさんのプレイヤーが死んだ。その理由は、彼らがベテランのMMOプレイヤーだったからだとオレは考えている」
彼らはSAOを他のMMOと同じ物差しで計り、引き際を見誤った───と、エギルは続けた。その意見は至極もっともだ。
ベテランMMOプレイヤーだったからといって、同様にSAOで戦っていけるかどうかと問われれば。答えは否だろう。

そもそも、マウスとキーボードで全ての操作ができる今までのMMOと、自分の身体を動かして戦うSAOを比べること自体、無理があるといってもいい。
MMO経験者であるシェイリがそうだったように、中にはベテランでも『画面の向こう』と『目の前の光景』のギャップについていけない、という人だっていたはずだ。
このSAOにおいて、他のMMOと同じ感覚で狩りをしようとすれば───集中力を切らし、ほんの少しの油断が生まれた瞬間、待っているのは“現実世界での死”だ。
いやまあ、ついさっきコボルドに真っ二つにされかけたおまえが言うなって思うかもしれないけど。

「だが今は、その責任を追及してる場合じゃないだろ。オレたち自身がそうなるかどうか、それがこの会議で左右されると、オレは思っているんだがな」
それはさておき。
僕が言いたかったことは、代わりにエギルが全て言ってくれたようだった。
キバオウはまだ何か言いたさそうにしているけれど、真正面から真っ当な意見をぶつけられ、おまけに相手は自分より数段体格のいい巨漢……と、彼が反論する余地はなさそうだ。
更にディアベルが仲裁に入ったことにより、キバオウは負け惜しみじみた一言を残し、一度だけエギルを睨んでから集団へと戻っていった。

───うん、行かなくてよかったかも。

キバオウが黙ったのは、相手の風貌に気圧されたというのも大きいだろう。
高校生の平均身長しかない僕が同じことを言ったところで、足元を見て難癖つけられていたに違いない。
エギルのお陰で議論の方向も元に戻ったようだし、キバオウを止めてくれた彼には感謝しないと、と思った瞬間。

───え?

不意に、こちらを振り向いたエギルと目が合った。
それだけならよかった。こちらを向いたのも偶然だったかもしれないし、目が合ったのもたまたまだと思えれば。
だけど。エギルはなにやら『言ってやったぜ?』といった感じのドヤ顔をすると、こちらへ向けてサムズアップしてきたではないか……!

───ま、まさか、

見られていたというのか……!?
キバオウを止めようと中途半端に立ち上がり、タイミングを逃してすごすごと座り込むという、あの情けない姿を……!

───う、う、うわああぁぁぁぁ………!


「……?ユノくんどうしたの?顔赤いよ?」
「……、ほっといて……」
羞恥で頬が紅潮するのを感じながら、シェイリには見えないよう俯いたままサムズアップを返す。
そんな僕の様子を見て、エギルはハリウッドスターよろしくニカッと笑い、元いた列へと戻っていった。
エギルさんありがとう。でも、できることなら気付かない振りをしていて欲しかったです……。


────────────


「───それじゃ、早速だけど、これから実際の攻略作戦会議を始めたいと思う!」
翌日。
前の日と同じように中央広場に集まった僕たちは、またしても噴水の縁に立つディアベルの声に耳を傾けていた。

あの後は特にこれといった問題も起こらず、12日2日の初会議は円満に終了、解散となった。
もっとも。円満に、とはいったものの、これといって現状に進展があったわけでもない。
最上階への階段が発見されたとはいえ、まだボス部屋も見つかっておらず、結局のところは対策の立てようがなかったからだ。

……だけど、翌日───今日、12月3日の午後。
ディアベル率いるパーティが、フロア最奥にある二枚扉を発見。中にいたボスの姿を拝んできたのだという。
彼の話によれば、第1層のボスは『イルファング・ザ・コボルドロード』という、身の丈2メートルはあるほどの亜人型モンスター。周囲には鎧を着込んだ同じく亜人型のモンスター、『ルインコボルド・センチネル』を三体従えていたそうだ。

更に、ボス部屋発見の報告を受け、開かれていた二回目の攻略会議の最中。
広場の隅で店を広げていたNPC露天商に、『アルゴの攻略本・第1層ボス編』がいつの間にか委託販売されており───

ディアベル達が見たというボスの特徴と、ガイドブックに記載されていた情報に差異が見当たらなかったため、この情報を本物と断定し、急遽としてボス討伐作戦を練ることとなった。
現在、その会議の真っ最中というわけだ。

「うー……」
「えへ、なんかどきどきするねー!」
β期間中もボス攻略には何度か参加していたものの、正式サービスになってから初めてのボス戦ということで、どうしても緊張を隠せなくなってしまう僕。
一方、隣に座るシェイリはというと、遠足前日の小学生のような浮かれ顔をしていた。
『緊張してないの?』という僕の問いに対し、『緊張はするけど、ボスって斬り応えがありそう』と笑顔で答えるあたり、もはや相当なバトルジャンキーの領域に片足を踏み込んでしまっているかもしれない。

───お父さんお母さんごめんなさい。おたくの娘さんは遠いところへ行ってしまったようです。

明日のボス戦をイメージしているのか、にっこにっこと笑みを浮かべているシェイリの姿を見て、僕は顔も知らない彼女の両親に心の中で詫び続けた。
すみません、僕が両手斧なんて持たせたばかりに……そしてもしSAOがクリアされても、決して娘さんに斧を与えないでください。危険です。 

 

とあるβテスター、睨まれる

人間、誰しも一度は対人関係で気まずい思いをした経験があるんじゃないだろうか。
例えば、自分の何気ない一言が、場の空気を凍りつかせてしまった時。
この場合、言った本人はもちろんのこと、フォローする側の人間にとっても気まずいことこの上ない。
とはいえ、こういった時は大抵、周囲の人間がフォローしてくれるため、気まずい空気が延々と続く……といったことはそうそうないはずだ。
自分の発言によって空気が静まり返るというのは、言った本人が一番気まずいのだから、苦し紛れにでも話題を変えるのがベターだろう。

では、どうして僕がこんなことを考えているのかというと。
それはボス攻略会議の場の空気が現在進行形でフリーズ中であり、おまけに空気を凍りつかせた本人に自覚がないという、非常に気まずい展開になっているからに他ならない。

「……うーん……」
正式サービス開始後初となるボス攻略会議を取り仕切り、ほんの数分前までテキパキとパーティ編成・ボス情報の確認を行っていた自称騎士《ナイト》・ディアベル。
男性にしては長めの髪を青く染め、金属装備に身を包んだイケメン騎士様は、先程までとは打って変わって悩んだような声を上げていた。
騎士様を悩ませる元凶となった発言をした少女を、横目でチラリと見る。彼女は相変わらずのふにゃりとした表情で、頭に疑問符を浮かべている。
この気まずい空気を作った張本人である彼女───シェイリは、どうやら自分の発言がいかに重大な問題を引き起こしたのか、まったく自覚がないらしい。

そんな僕たち二人に対し、今頃後ろに座るパーティメンバーも呆れ顔を───

───って、怖い怖い怖い!思いっきり睨まれてるから!

後ろの列に座る人物からの射殺すような視線を背中に受け、僕は内心冷や汗をかいていた。
恐る恐る振り返り、視線の主であるレイピア使いの顔を覗き見る。
目深に被ったフードの奥から覗く双眸が、『おまえの連れのせいで会議がグダグダになったぞ、何とかしやがれ』と暗に告げてくる。
ぶち殺すぞと言わんばかりの視線に居た堪れなくなった僕は、彼女の隣に座る灰色コートの剣士へと、助けを求めるような視線を送り───あ、目逸らした!この薄情者!

───明日、大丈夫かなぁ……

僕とシェイリに対し、無言で圧力をかけてくる彼女───フーデッドケープに身を包んだレイピア使い、アスナ。
視線を逸らし、飛び火を避けた灰色コートの剣士───薄情者、またの名をキリト。

当分続くであろうディアベルの悩み声をBGMに、臨時パーティメンバーとなった二人と隣に座るシェイリの顔を交互に見比べ、僕は不安を感じずにはいられなかった。


────────────


ボス攻略会議は順調すぎると言ってもいいくらい、何の問題もなく進行していった。
ディアベルが自分で直接確認したボスモンスターの姿と、アルゴの攻略本に書かれていたデータを照らし合わせ、それに基づいた作戦を組み立てていく。
と、相変わらず見事なリーダーシップだと密かに関心していると、不意に彼がこんなことを言い出した。

「それじゃあみんな、仲間や近くにいる人と、パーティを組んでみてくれ!」

───う、パーティかぁ……。

ディアベルの指示を受け、わいわいがやがやとパーティを組んでいく周りのプレイヤー達を見て、内心焦りが募っていく。
ボス攻略に臨む以上、パーティを組むのは当たり前だ。当たり前なんだけど……。
あの日からずっとシェイリと二人でやってきた僕には、知り合いらしい知り合いが一人もいない。
βテストの時のパーティメンバーとはとっくに縁が切れてるし、そもそも、この場に元βテスターがいるかどうかもわからない。

SAOのパーティは最大六人までで、この場にいるのが確か46人。
周りの様子を見るに、ほとんどのプレイヤーが既に仲間内で六人パーティを完成させてしまったようだ。
となると、残るは僕たち二人と、アブレたもう二人……。

「ねぇねぇ、パーティだって。どうしよう?」
「うーん……」
シェイリに袖をクイクイと引っ張られながら、僕は悩んでしまった。
ボスに挑むにあたり、今まで通り二人だけというのも心許ない。かといって誰かと組もうにも、ほとんどのパーティは定員割れ。
あとの二人がどうかはわからないけれど、この状況で余りが出るということは、そちらは既に二人でペアを組んでいるか、あるいはソロか……。

実のところ、僕が悩んでいるポイントはそこにある。
仮に相手がペアを組んでいるなら、お互いのパーティと合併して四人で組めばいいだけの話だ。
ただ、もしも残った二人がそれぞれソロプレイヤーだった場合、話は少し変わってくる。
どのMMOでもソロプレイヤーというのは必ずいるものだけど、その大多数が気難しい性格をしていたり、他人と組むのを極端に嫌ったり……と、それに大小の差はあれど、一癖二癖ある相手の可能性が高い。
ましてや今のSAOで、わざわざソロに徹する程のプレイヤーともなれば。こちらがパーティを組もうと誘っても、それに応じてくれるかどうか。

それに、ただでさえ前衛が苦手な僕と、派手に暴れ回る戦闘スタイルのシェイリ。
そこに恐らく一癖あるであろうソロプレイヤーを加えたら、どんな化学反応が起こるか───などど、僕がパーティについてあれこれ悩んでいるうちに。

「あ!あの子、一人だよ!」
「……、え?」
「ユノくん、わたし声かけてくるね!」
「ちょ、ちょっと待───!」
アブレた二人のうち一人を発見したらしいシェイリは、広場の隅でポツンと立っている人物に向かって走って行ってしまった。
一人でいるということは、やはり両者ともにソロプレイヤーなんだろうか。
下手をすればペアより危険度が増すかも、なんて考えている僕を余所目に、シェイリはいつもの調子で目当ての人物へと話しかけていた。

「ねぇねぇ、あぶれたの?」
「………」

───ぶっ!?ば、ばかっ!

ズバリ言うわよとばかりに無遠慮な聞き方をするシェイリに、僕は思わず咳き込んでしまった。
質問された相手はというと、フーデッドケープを着込んでいるため表情はわからない。
だけど、そのフードの奥から烈火の如き視線が放たれて───あ、これ完全に怒ってる……。

ハラハラしながら見守る僕の気も知らず、シェイリはいつものふにゃりとした笑顔で、

「あぶれたんだったら一緒にやろうよ。わたしたちもまだ二人なんだ~」
「……アブレてない。周りがみんなお仲間同士だったみたいだから遠慮しただけ」
「それをあぶれたっていうんだよ?」
「………、アブレてない……わよ」
「あぶれてるよー」
「アブレてないわよっ!」

相手の言い分もお構いなしなシェイリに(実際、僕もアブレてるとは思ってたけど)、とうとう相手は声を荒げ、鋭い視線を向けた。

───あれ、女の子?

もう少しオブラートに包んだ言い方をしてください、とシェイリに対して心の中で突っ込みつつ、相手の口調に違和感を覚える。
フーデッドケープで顔を隠し、押し殺したような声で喋っていたけど……最後の叫び声は、間違いなく女の子のものだった。
ただでさえ女性プレイヤーの数が少ないSAOの世界で、女の子で、しかもソロプレイヤー。
フードで顔を隠していなければ、周りの男性プレイヤー達が放っておかないだろう。

ちなみにシェイリも一応女性プレイヤーなのだけれど、人前を歩く時は僕とお揃いのフードで顔を隠させている。
戦闘中は邪魔になるということで装備していないけど、大抵の相手は戦闘時の彼女の姿を見て、ドン引きしたような顔で横を通り過ぎていくだけだ。
無理もない。誰もが恐怖を抱えながら戦っている中で、見た目中学生くらいの女の子が満面の笑みを浮かべ、無邪気な声を上げながら両手斧で敵を薙ぎ倒していくのだから。
薄暗いダンジョンの中、周囲にモンスターの返り血に見えなくもない赤いエフェクトを散らせながら、『えへ、まだ足りないなぁ……』などと言っている光景は、パートナーである僕ですら時々ゾクリとするほどだ。
まったく知らない人が見れば、新手の人型ネームドモンスターか何かかと思うのではないだろうか……。

そんな顔だけは可愛い残念美少女シェイリさんはさて置き、どうやらアブレ組の一人であるレイピア使いは、周りが仲間内でパーティを組んでいるため置いてけぼりをくらったらしい(本人は否定しているけど)。
ずっとペアでやってきた僕たちですら知り合いがいないくらいだし、ソロプレイヤーなら尚更だろう。

「わたしがシェイリで、あっちはユノくんだよ。よろしくねー」
「ちょっと、私はまだパーティ組むなんて一言も───」
「えーっと……ユノくん、パーティってどうやって申しこむのー?」
「聞きなさいよ!」
「すいませんこの子ちょっと空気が読めないんで!あと僕もソロは危ないと思います!」
ビキビキと青筋を立ててるであろう相手を見て、僕は思わず乱入してしまった。
平謝りしながらもボス戦でソロは無謀ですよとやんわりと窘めると、相手は渋々といった様子でパーティに加入してくれることとなった。

視界の端に映る、新たに参加したパーティメンバーの名前……【Asuna】という表示を見て、このレイピア使いが女性だと確信する。
フードで顔を隠しているのは、恐らく女性であるが故の余計なトラブルを避けるためだろう。
ネットゲームの中でリアル女性だとわかると、途端に対人関係がめんどくさくなるんだ。主に男女間での関係が。

そんなレイピア使い───アスナは、僕に対して『あなたこの子の保護者か何かなの?ちゃんと見ててよね』といった感じの恨みがましい視線を向けてくるが、あえてスルーさせて頂くことにする。
シェイリの誘い方はともかく、アスナはあのまま放っておいたら本当にソロで挑みそうな雰囲気だったし、それで死なれでもしたら後味が悪いなんてものじゃない。
この際ソロプレイヤーがどうだとか、そんなことは言っていられない。
それほどまでに……アスナの纏った雰囲気には、僕にそう思わせるような、何とも言い難い危なっかしさがあった。

───何はともあれ、これで三人。あとの一人は……

どこにいるんだろう、と辺りを見回せば。程なくして、目当ての人物を見つけ出すことができた。
組む相手がいないからだろう、慌てたような顔でおろおろと辺りを見回している、灰色コートを着た青年───いや、少年か。

「……あの、よかったら僕たちと組みませんか」
「え?」
僕がおずおずと声をかけると、彼は予想外ばかりに素っ頓狂な声を上げた。
その顔立ちはシェイリほどとはいかずとも、ネットゲーマーにしては幼く見える。恐らく年齢は14か15といったところだろう。
彼といいアスナといい、こんな人達がソロプレイヤーだなんて意外だ……。

「い、いいのか!?俺が入っても!?」
「えっ、あ、うん」
「すまん、助かる!ほんと助かる!」
彼の必死な剣幕に思わず後ずさってしまったけれど、思っていたより普通の人だったので少し安心した。
僕の誘いに一も二もなく飛びついた彼は、パーティ加入申請を快く承諾すると、しきりに感謝の言葉を述べた。

───ちょっと意外、かな?

ソロに拘るプレイヤーはもっとこう、偏屈な感じの……それこそキバオウみたいな人が多いイメージだったんだけど、彼もアスナも話してみたら割と普通、というよりむしろ接しやすい。
アスナは一見暗そうな人に見えるけど、シェイリの言う事にいちいちムキになってるあたり、本当は明るくて負けず嫌いな性格をしているんじゃないかな。
そして、灰色コートの彼───キリトは少し人見知りがちだったり、他人を自分からパーティに誘えないタイプなところが妙に親近感を覚える。

彼曰く、アスナとはちょっとした顔見知りで、誘おうと思ったところをシェイリに先を越されてしまったらしい。
それは悪いことをしたと謝ると、結果的に四人パーティになったんだから問題ない、と言って笑ってくれた。いい人だ。
アスナは相変わらずシェイリに振り回されているようで、時折『違うわよ!』『そこはこうでしょ!?』『あーもう!』などといった声が聞こえてくる。
彼女はどこか生き急いでるように見えるので、シェイリのマイペースさを足して割るくらいがちょうどいいんじゃないかと思う。

───なんにせよ、四人いれば何とかなりそうだね。

キリト以外は全員フード装着という、見た目なんとも怪しいパーティになってしまったけれど、それはまあ置いといて。
四人もいればペアで戦うより比較的安定するだろうし、ボス攻略で足手まといということもないだろう。

……と、思ったのも束の間。
何とか即席パーティを作ることに成功した僕たちは、組まれたパーティを見ながらボス戦の役割分担をしていくディアベルから『君達アブレ組は邪魔にならないよう大人しくしててね』といったニュアンスのことを言われ、遠回しに戦力外通告を受けた。

他は六人、僕たちは四人だから仕方ないといえば仕方ないのかもしれないけれど……
でも僕は、僕たち四人を見て少し考え込むディアベルの様子に、何となく違和感を覚えた。
パーティリーダーとして名前を名乗った僕と、メンバーであるキリトの顔を見た時……一瞬だけ、眉を顰めたようなような気がしたからだ。

───今のは……?

ディアベルの態度に疑問を抱いた僕だったけど、それが何を意味することなのかはわからなかった。
彼は次の瞬間にはいつもの爽やかな表情に戻っており、『君達はE隊のサポートを頼んだよ』と言い残し、広場の中央へと戻っていく。

「キリト、今のって……」
「……、何だろうな。きっと、俺達アブレ組は大人しくしてろってことだろ」
キリトも疑問に思ったのか、少しだけ考え込む様子を見せていたけど……結局、わからないようだった。

ちなみに他の二人は気付かなかったようで、シェイリは相変わらずふにゃりとした顔だし、アスナはディアベルの采配に不満を示してはいたものの、特に彼の態度を不審には思わなかったようだ。
となるとディアベルのあの態度は、僕とキリトの二人に共通する“何か”に対してだということになるけど……うーん。
ディアベルとは初対面だし、僕とキリトだってついさっき知り合ったばかりだ。共通点なんてどこにあるのやら。
キリトという名前に聞き覚えがないわけじゃないけど……ゲームのハンドルネームにはありがちな名前だし、どこで聞いたかまでは覚えてない。

───ま、いいか……。

あれ以降ディアベルの様子に不審な点はないし、僕の気にしすぎなのかもしれない。
まあ見た目的にかなり怪しい……下手すればPK集団にでも間違えられそうなパーティだし、それが気になったのかもしれない。
そう思い、僕はそれ以上考えることはしなかった。


────────────


そんなわけで。
少し気になる点はあったものの、会議は概ね良好に進行していた。

七組のパーティはAからGまでナンバリングされ、それぞれ壁《タンク》役、攻撃役、取り巻きの殲滅役といったように役割分担されていく。
そんな中、人数が半端な僕たち四人はナンバリングなし───これといって重要な役割を与えられていなかった。
形だけはキバオウ率いる取り巻き殲滅部隊・E隊のサポートに回れと言われているものの、要はおまけのようなものだろう。
その証拠に、さっきからキバオウが『おまえたちの出番はないぜ』と言わんばかりの挑発的な顔でこちらをガン見してきて───ア、アスナ落ち着いて!ここで揉めたらまずいって!

キバオウのあからさまな挑発に今にもマジギレしそうなアスナを窘め、ここで口論になることは回避できた。
取り巻きはボスのHPバーが一本減るごとに三体ずつ、計12体召喚されるため、どのみちE隊だけでは相手にしきれない数だ。
要するに、相手が文句を言えなくなるような戦いぶりを見せればいい。
接近戦が苦手な僕はともかく、シェイリは両手斧を用いた重攻撃型だし、キリトとアスナはソロで迷宮区に篭れる程のプレイヤーだ。僕たち四人が他の六人パーティに比べて劣るということはないだろう。
僕たち四人がキバオウ率いるE隊よりも成果を出せば、彼もあんな態度は取れなくなるはずだ。

そこまで言うと、アスナはようやく怒りを鎮めてくれたようだった。
それでも全部が全部納得できたわけではないらしく、フードの奥から剣呑な雰囲気が伝わってくる。

───アスナ、意外と怒りっぽい……?

口に出したら僕まで睨まれそうなので、その疑問は心の奥にしまっておくことにした。


最後に、ボスや取り巻きがドロップしたお金は46人全員で自動均等割り、アイテムは手に入れた人のもの(SAOのドロップアイテムは、ランダムで戦闘に参加した人のアイテムストレージに自動収納される)ということで話がまとまった。
これならドロップアイテムの分配を巡るトラブルは起こらないだろう。ボスのドロップともなればレアな物が多いため、話し合いで決めるとなると余計なトラブルを起こしかねないからだ。
パーティを仕切るのに慣れているであろうディアベルも、それを考慮してこういった形式をとったのだと思う。正直、そういった話し合いについてはいい思い出がないため、この形式はありがたい。

「以上で、ボス攻略会議を終了とする!みんな、明日は───」
そして、午後5時半。
昨日と同じように『頑張ろうぜ!』『オー!』のシメで解散となり、集団は三々五々ばらけて酒場やレストランに呑み込まれていく───はずだった。

───はずだったんだけど、ね……。

「ディアベルくん、質問ー!」
「何かな?」
一通りの打ち合わせが終了し、さあ解散だという場面になって、シェイリがディアベルの言葉を遮った。
どう見てもディアベルのほうが年上なのに『ディアベルくん』というのはどうなんだろう、と僕がまったく関係のないことを考えていると、

「それってベータの時の話だよね?ほんとに大丈夫なの?」

ピキッ!と。
その場の空気が凍りついた音が聞こえた気がした。
いい感じに士気高揚としていた周りのプレイヤー達が、シェイリの一言によって一瞬で押し黙り、僕たち四人に注目が集まる。
テキパキと事を進めていたディアベルに対し、ぽっと出のプレイヤー(しかもアブレ組)が突然こんなことを言い出したのだから、『おまえ何ケチつけてんだよ』くらいのことを思っているのかもしれない。

「……というと?」
「だからー、ボスの強さとか、使ってくる技とかー……」
「!!」
一丸となったムードを完膚なきまでにブレイクしたシェイリに訝しげな顔で聞き返したディアベルは、その言葉を聞いてハッとしたように表情を凍りつかせた。
次いで、凍りついた表情のまま『アルゴの攻略本・第1層ボス編』の裏表紙に目をやる。
そこには真っ赤なフォントで書かれた、『情報はSAOベータテスト時のものです。現行版では変更されている可能性があります』という文字が───

───そうか、その可能性もあるのか……!

インターネットが普及している現代では、MMORPGというジャンルのゲームはさほど珍しくもない。
そしてそのほとんどのタイトルが、βテストを経て正式サービスに移行……という形を取っている。ここまではいい。
問題はβテストから正式サービスにかけて、ドロップ率やレベルの上げやすさなどといったゲームバランスに修正が入る場合が多々あるということだ。

βテストとは、その名の通りゲームを“テストする”ためのものであって、運営側も無闇やたらと無料サービスを提供しているというわけではない。
テスターの意見を取り入れ、開発側が改めて全体を見直し、不具合などがあれば修正する。
そういった一連の流れを汲み、より完璧なゲームとして完成させていくのがβテストの役目だ。

もちろん、それは敵の強さに関しても例外ではなく。
敵の見た目がβテストの時と同じでも、使ってくる技が変わっていたり、ステータスそのものが大幅強化されている……なんてことも、大して珍しいことではない。
実際に僕がSAOの前にやっていたMMOでは、β当時は最弱と呼ばれていたボスが、正式サービスでは最強モンスターへと早変わりしていたことだってある。

SAOもMMORPGというジャンルのゲームである以上、ゲームバランスの修正がきている可能性がある。
ボスの攻撃パターンや使用するスキルも、そこまで極端な変化はないにしろ、何らかの変化があってもおかしくないんだ……!

「あー……えー……その、だな……」
さすがの騎士様もその可能性は考慮していなかったらしく、視線を宙に泳がせながら言葉を探している。
僕もシェイリに言われるまでは忘れていたくらいだし、まさかこんな質問がくるとは思っていなかったのだろう。
周りのプレイヤー達からも、『修正?』『マジかよ……』『そういや前のMMOでは……』などといった声がちらほら聞こえてくる。

───まずい。昨日とは違う意味でまずい。

空気をぶち壊しにしたという意味では同じでも、利己的だったキバオウの言い分とは違い、シェイリの意見は直接の生死に関わることだ。
ここでこの意見を却下すれば、それが部隊の命運を分かつこととなってしまう場合もある。
かといって、そればっかりは実際に戦ってみるまでわからないため、ディアベルも迂闊な答えを返せない。

『アルゴの攻略本・第1層ボス編』によれば、『イルファング・ザ・コボルドロード』のHPゲージは全部で四本。
手に持った骨斧を用いて斧系スキルを使い、HPゲージが最後の一本を切った時、曲刀カテゴリのタルワールに持ち替える……というのが、βテスト当時のデータらしい。

僕がβテスト期間中にボス戦に参加するようになったのは、テスト開始後何週間か経った後の、第4層攻略戦からだ。
よって、第1層のボスであるコボルド王と実際に戦ったことはない。
4層からのボス戦には全て参加していたけど、第9層……βテスト最後のボス戦で、僕にとっては忘れられない出来事となる事件が───と、それはこの際置いておこう。

今問題となるのは、第1層ボスのデータが本当に当時のままなのか、というところだ。
この情報通りなら、ボスのステータスが大幅強化されていない限りは、斧と曲刀のソードスキルの対処法だけを頭に入れておけばさほど問題はないだろう。
だけど。シェイリの言う通り、使用するスキルが変更されていたら?
ボスの持ち替える武器が曲刀ではなく、両手剣やメイス、もしくはβでは未実装だった“まだ見ぬ武器”だったら───

「………」
「ユノくん、どうしたの?」
「……、いや、なんていうか」

空気が読めてないようでたまに的確なことを言うなぁ、と彼女の評価を改める。
もし、あのまま解散となって、βテストと同じ感覚で挑んでいたら。
シェイリの言う通りに、実際に戦ってみたら強さが違って全滅……なんてことになっていたかもしれない。

───その分、ディアベルは大変そうだけど。というかシェイリ、よく平然としていられるな……!

うーんうーんと唸りながら悩む青髪の騎士様とは対照的に、作戦の根底を覆した張本人は『なんでみんなこっちを見てるんだろう?』といった顔をしている。
広場にいるほぼ全員から注目されても顔色一つ変わらない相方に、ひょっとして将来大物になるのでは、と思わずにはいられなかった。


……ちなみにこの後、ディアベルは十数分以上悩み続けることとなる。
散々悩んだ末に彼が出した結論は、『暫く戦って様子を見て、使用するスキルが違うようなら撤退しよう』という、なんとも無難な回答だった。 

 

とあるβテスター、密会する

シェイリの何気ない一言によって一波乱あったものの、会議は何とか解散まで漕ぎ着けた。
当初の楽勝ムードは壊れてしまったけれど、現実世界での命が懸かっている以上、気を引き締めすぎて困るということはないだろう。
ただ、出鼻を挫かれてしまったディアベルのことは、少し気の毒と思わずにはいられなかった。
パーティの指揮に慣れているであろうディアベルだからこそ、あえて不安を煽るようなことは言わなかったんだろうけど、結果的に彼の迂闊さを露呈する形となってしまったのだから。

───ま、死人が出るよりマシだよね……。

精神的な面からくる疲労によって、まだ午後6時を回ったばかりだというのに眠気が襲ってくる。
なんだか、今日一日で色々なことがあった気がする。
ディアベルのリーダーシップに関心したり、キリトと知り合ったり。アスナに睨まれたり、シェイリのフォローに回ったり、アスナに睨まれたり、周りに睨まれたり、アスナに睨まれたり、アスナに睨まれたり───
この世界にきてから、ほとんどの時間をシェイリと二人で過ごしていた僕にとって……こうやって何人もの人と関わり合いを持ったのは、随分と久しぶりに感じられた。

そんなわけで、久方ぶりのコミュニケーション疲れをひしひしと感じながら、僕たち二人は滞在中の宿へと向かった。
途中でアイテム補充に向かったシェイリと別れ、一足先に部屋へと戻った僕は、いつものように即ベッドにダイブ───したかったのだけれど、今夜ばかりはそういうわけにもいかない。

「驚いたナ。あのユー助がまさカ───」
「………」
知り合いがほとんどいない僕にしては珍しく、今夜は“客人”が訪れているからだ。
部屋のソファーにどっかりと座り込んだ“客人”は、語尾にコケティッシュな鼻音が被さる声で驚きを表した。

「今はその話はよそう。ついでに、この情報は誰にも売らないでくれるとありがたいんだけど?」
「もちろん売らないヨ。タダ、最近オネーサン忘れっぽくてナー」
「ちっ……」
なんとも食えない“客人”に、舌打ち一つ。
トレードウィンドウを呼び出し、いくらか金銭《コル》をちらつかせてやると、情報屋は『オッケー、誰にも売らなければイイんだナ。オネーサンこれでも記憶力はいいほうなんダ』と180度掌を返した。
要するに、口止め料だ。

───結局いつものパターンか……。

好きか嫌いかでいうなら好きな部類の相手だけど、だからといっていつものパターンに入るのは遠慮したかった……んだけど、もう遅いようだった。
苦手だとか嫌いというわけではなく、単純にペースを掴みづらい。
普通に話していたはずが、いつの間にか相手のペースに乗せられ、余計なお金を支払う羽目になる。
彼女が『鼠』と呼ばれる所以は、きっと顔のフェイスペイントだけが理由ではないだろう。
そんなことを思いながら、ソファーに我が物顔で座る情報屋の姿を見やった。
小柄な矮躯。語尾が特徴的な喋り方。金褐色の巻き毛に、顔には左右三本ずつのフェイスペイント。
顔の作りこそ当時とは違っているものの、この人物は間違いなく情報屋『鼠のアルゴ』その人だ。偽者の心配はないだろう。
もっとも、いい意味でも悪い意味でも有名な『鼠』を騙る物好きなんて、いるのかどうかも疑わしいけれど。

「まあ、改めて……久しぶりだね、アルゴ」
「そうだナ。ところで呼び方は変えるべきなのカ?」

───この野郎っ!いや女の子だけど!

これ見よがしに足元を見てくるアルゴに、思わず叫ぶところだったのを必死に押さえ込む。

「……、いくら?」
「500コル」
「………」
「にゃハハ、まいどアリ」
楽しそうに笑うアルゴをジト目で睨みながら、再びトレードウィンドウを開いて500コルを渡してやる。
相変わらず人の弱みを握るのが上手い。そして、それは顔見知りが相手だと容赦がなくなるからタチが悪い。

「ユー助は相変わらずいいお客さんだナ。オイラが見込んだだけのことはあるヨ」
「そう思うなら少しはサービスしてよね」
「それとこれとは話が別だナー」
「ちっ」
ジト目を継続させながら値切ってみたけど、やっぱりだめだった。
このデスゲームで以前と変わらず情報屋を営むだけあって、肝が据わってるというか何というか。
情報が不足している現状では頼りになる反面、誰にも知られたくない情報がある場合、口止め料を支払う羽目になるのが玉に瑕だ。
彼女のお陰でボス攻略の目処が立ったのもまた事実。その件に関しては、彼女に感謝するべきなんだろうけど、それとこれとは話が別。
こっちもナイフ代が馬鹿にならないっていうのに、ケタケタ笑いやがってこの女───ああっ、どんどん口が悪くなってる!だから嫌だったのに!

「……まあいいけど。そんなことより、君に聞きたいことがあるんだ」
「わかっタ。ユー助は何を知りたいんダ?」
せめてもの仕返しとして脳内でアルゴが一文無しになった姿をイメージしつつ、本題を切り出す。
僕がわざわざ彼女を呼んだのは、何も旧知の仲だからという理由でも、ましてや余計な出費を増やすためでもない。

「単刀直入に聞くよ。ディアベルって名前に心当たりは?」
「ディアベル?あの青髪のニーチャンのことカ?」
「うん。あの自称騎士さんだよ」
さらりとディアベルのことを知ってるような言い方をするアルゴだけど、今更驚くようなことでもないため、あえて突っ込むような真似はしない。
あのイケメン具合といい髪色といい、あれほど目立つプレイヤーはそうそういない。
僕とシェイリのように常に顔を隠しているわけでもないし、アルゴの情報網にかかっていてもおかしくはないだろう。

「んデ、その騎士様がどうしたんダ?ユー助ってばああいうのがタイプなのカ?」
「いや、爽やか系って友達としてはよくても付き合うにはちょっと───って、そういうのはいいから!」
「にゃハハ、ゴメンゴメン」
この女、またそういうタチの悪い冗談を───落ち着け僕、深呼吸深呼吸……。

「……、それで、そのディアベルについてなんだけどさ。最近、仕事で彼と接触したことは?」
「ないナ」
即答。
アルゴがそう言うからには、本当にディアベル本人と接触したことはないのだろう。
でも、その答えは予想の範囲内だ。

「本人じゃなくてもいい。彼と繋がりのある……例えば、パーティメンバーとか」
「それもないヨ。あのパーティはディアベル本人も含めて、オイラの顧客リストには載ってない人間ダ。ユー助の言うことには心当たりがないナ」
「そう……」

───これもハズレ、か……。

ディアベル本人ではなくても、彼の周りの人間が絡んでる可能性が高いと思ったんだけど……どうやら、それは僕の思い違いだったらしい。
アルゴは仕事に関して嘘はつかないし、情報屋としてのプライドも持っているため、本当に知らないこと以外には『心当たりがない』などといった言葉を使わない。
仮に本人から口止めを頼まれていた場合は、『知らない』ではなく『知っているが教えられない』といった言い方をする。
そのアルゴがそう言うのだから、本当にディアベル一行とは関わり合いを持っていないのだろう。

「ああ、そういえバ」
「?」
と、アテを外した僕が思考を巡らせていると。
アルゴは今思い出したとばかりに、ポンと手を打った。

「ディアベルのパーティメンバーってわけじゃないガ、奴にそこそこ近い人間になら心当たりがなくもないナ。確か、キバオウとかいう───」
「……っ、それ本当!?」
「わア!?驚かせるなヨ!」
予想外の言葉を受けて思わず急接近してしまった僕に、アルゴは珍しく驚いた声を上げた。
驚き顔の『鼠』という何とも貴重な眺めだけど、今はそれに構っている場合じゃない。

───アルゴと接触してた?あのキバオウが?

昨日、場の雰囲気をぶち壊しにしてまで元βテスターを糾弾しようとしていたキバオウ。
あの男が、散々嫌っていたはずの元βテスターと情報交換していた……?

───でも、それは。

それはおかしい。いくらアルゴが自分からベータの話題を持ち出すことはないとはいえ、これだけの情報を持っていれば、元βテスターだということはまず間違いなくバレていると思っていい。
ましてや、例のガイドブックの著者であるアルゴのことだ。疑うなというほうが無理があるだろう。
だけど……それは逆に言えば、アルゴの客は彼女を元βテスターと知った上で情報提供を受けているということだ。
キバオウのようなガチガチの反βテスター派が、果たして彼女を頼るような真似をするのだろうか。
プライドの高そうなあの男のことだから、『βテスターに借りは作らん』とか言い出しそうな気がするんだけど……。

「それで、キバオウは何の情報を買ったの?」
「………」
「……、1000コルでいい?」
「もう一声だナ」
またしてもトレードウィンドウを開き、1500コルを乗せてやると、アルゴはそれでいいとばかりにニヤリと笑った。
相手が興味を示しそうな単語をちらつかせ、それに食いつけばここぞとばかりに報酬を要求する。流石は『鼠』、自分の商売に関しては抜け目がない。
上手いやり方だと感心しつつ、今後の出費のことを考えると思わず溜息が出てしまう。

───こいつ、いつか絶対泣かせてやる……!

ナイフが買えなくなって死んだら化けて出てやる、と決意を固め、報酬に見合った情報提供を要求する。
特に口止めされていたわけではないらしく、アルゴはキバオウに関する情報をすんなりと教えてくれた。
……とはいえ、当然のことながら。話がいいところまで進む度、追加料金として金銭を要求されたのは言うまでもない。
『おまえは旅館のテレビの有料チャンネルか!』と突っ込みたくなる衝動を押さえるのは大変だった……。

閑話休題。


「……それ、本当?」
「嘘はつかないヨ」
どんどん寒くなっていく懐に反比例してアルゴへの恨みを募らせていく僕だったけど、話を聞いていくうちに衝撃で恨みを忘れてしまった。
彼女からもたらされた情報には、それほど不可解な点がいくつもあった。

アルゴの話によると、キバオウはここ一週間、彼女を通してとあるプレイヤーの持つ武器を買い取ろうと交渉しているらしい。
買い取ろうとしているのは『アニールブレード+6』。買取希望価格はなんと驚きの39800コル。
それは約40000コルも出すほどのレアアイテムなのかと聞かれれば、答えは否。
『アニールブレード』は第1層で受けられるクエストの報酬として貰える片手剣で、強化を重ねれば第2層までは十分に使っていけるという、片手剣使いには必須といっていいほどポピュラーな武器だ。
だけど、クエスト報酬で必ず貰えるということは、逆に言えばそれなりの数が市場に出回っているということでもある。
未強化の『アニールブレード』の相場価格が15000コルで、そこに20000コルも上乗せすればほぼ安全に+6まで強化できるため、実質35000コルで同じ物を作ることができる……んだけど、キバオウは何度も断られているにも関わらず、その都度価格を上乗せし、執拗に交渉を迫っているのだそうだ。

「それってそこまでする価値ないよね?どういうこと?」
「さァ?オイラも何度もそう言ったんだガ、一向に引き下がる気配がないんダヨ。もうわけがわからン」
彼女にしては珍しく、お手上げといったように首を振るアルゴ。
そんな情報屋の姿を眺めながら、僕は頭の中で情報を整理していく。

あれほど反βテスターを掲げていたキバオウが、元βテスターであるアルゴに頼ってまで、とあるプレイヤーが持つ『アニールブレード+6』を買い取ろうとしている。
武器自体は大して珍しいものではないし、40000コルもあれば自力で同じものを作ることができる。だというのに、何度断られてもそれを諦めようとはしない。
となると、キバオウの目的は。武器そのものではなくて、その武器を持つプレイヤー個人に対する何か、ということになる。

わざわざ相手の武器を、相場以上の金額で買い取りたがる理由。
自分が使っている武器より高性能だから、という理由ではないだろう。確かに昨日キバオウの持っていた武器よりは高性能だけど、それなら元手の40000コルを使って自作すればいい。
わざわざ一週間もの手間をかけてまで、相手の武器に固執する理由にはならない。

だとすれば、残る可能性は。
メインウェポンを奪うことにより、そのプレイヤーの攻撃力を大幅に弱体化させることによる妨害工作───

───でも、どこでそれを……?

キバオウが大金を積んでまで妨害したがる相手となれば、相手は恐らく元βテスターだろう。
だけど。昨日あの男が言っていたように、『βテスターは自分達を見捨てた』と思っているプレイヤーも少なくない中、わざわざ自分がβテスト上がりであることを名乗り出る者はいない。
となると。キバオウがそのプレイヤーをβテスターだと断定するには、裏付けとなる情報が必要となってくる。

「アルゴ、キバオウがβテスターの情報を買ったってことは───」
「見くびってくれるなヨ、ユー助」
「あ……」
そう思って頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした僕は、言い切る前にアルゴに遮られ、それが失言だったことに気が付いた。

「いくら金を積まれよーガ、ベータの情報だけは売らないヨ。それはユー助も知ってるダロ?」
「ごめん……」
アルゴの言う通りだ。彼女はいくらお金を積まれても、β時代の情報だけは絶対に売ることはない。
そうでなければ。β時代と同じ名前でプレイしている僕が、“今頃無事なわけがない”。
アバターの時とは見た目が違うし、僕も人前では顔を隠しているとはいえ、そんなものは所詮は気休めだ。
アルゴがβ時代の情報をお金で売るような人物だったら───彼女の情報網にかかれば、それもそう長くは続かなかっただろう。
ある意味、僕が今日まで生きてこられたのは、『βの情報は絶対売らない』と言い切っているアルゴのお陰といってもいい。

「それにしても珍しいナ、ユー助が他人をそこまで気にするナンテ」
「……、ちょっと、気になることがあってね」
「フーン?ま、ただ聞いてみただけなんだけどナ」
アルゴの言葉に曖昧な答えを返すと、本当にただ聞いてみただけなのだろう、それ以上追求してくることなく話題を終える。
僕はというと、頭の中が絶賛混乱中だったため、彼女が必要以上に踏み込むことをしてこなかったのは正直ありがたかった。


────────────


「そんじゃ、オレっちはちょっと着替えてくるカラ。ユー助、覗くなヨ?」
「覗くか!」
「にゃハハ、冗談冗談」
さっきの失言を謝罪し、報酬として幾許かのお金を渡すと、アルゴは上機嫌でドアの向こうへと消えていった。
この後も何件か仕事で人に会う予定があるらしく、その前に夜装備に着替えておきたかったのだそうだ。
内心よくやるなあと思いながら、『鼠』が向かった先───バスルームの扉を眺めつつ、溜息一つ。
僕の気分が落ち込んでいる理由は、わざわざ言うまでもないだろう。

───何なんだ、本当に……。

キバオウが大暴れしたあの時から、僕は会議中の彼の様子を逐一チェックしていた。
そうして見ているうちに、気が付いた点が一つ。どうも彼は、ディアベルに心酔している節があるということ。
あの様子からして、彼らは会議の時が初対面……というわけではなさそうだ。
そもそも、アルゴが『ディアベルにそこそこ近い人物』としてキバオウの名前を挙げた時点で、二人の間には最初の攻略会議よりも前から、少なからず接点があったということになる。

反βテスターを掲げるキバオウ。恐らく元βテスターであろう、『アニールブレード+6』の持ち主であるプレイヤー。そして、騎士ディアベル。
この三人を結び付けているものが何かまではわからないけれど……キバオウとディアベル、二人が何かを隠し、それを密かに実行しようとしていることだけはわかる。

───二人は、一体何を企んでる……?

あの時。僕の名前とキリトの顔を見て、一瞬とはいえ眉を顰めた騎士ディアベル。
彼の不審な態度を思い出しながら、僕は明日のボス攻略戦を思い浮かべ、随分久しぶりとなる“嫌な予感”を感じていた……。 

 

とある情報屋、失神する

【とあるβテスター、おまけの一幕】


「そういやユー助、こんな噂があるのを知ってるカ?」
風呂場のドアから顔だけをひょっこりと出し、アルゴが唐突にこんなことを言い出した。

「……、お金なら払わないよ?」
「噂だって言ってるダロ。情報料は取らないヨ」
また報酬と称して巻き上げられたら堪らないと思って釘を刺すと、彼女にしてはなんとも珍しいことに、無料で情報を提供してくれるという。
アルゴ自身、確証を取れていないため、売り物にならないと判断したのだろう。

「これまた珍しい……。それで、何の話なの?」
有料なら突っ撥ねるところだけど、タダというなら話は別だ。
アルゴの情報は何だかんだで有益なものが多いため、ちょっとワクワクしてしまう。

「迷宮区の話なんだけどナ、どうやらベータの時にはいなかったモンスターが現れるそうダ。何件も目撃情報があるんだヨ」
「新規追加モンスターってこと?」
「かもしれないナ。詳しいことはオイラにもわからないんだガ、何でも亜人とは違う、完全な人型モンスターだそうダ」
「へぇ、人型モンスターねぇ……」
そんなものがいるとは初耳だ。
僕も迷宮区には毎日篭っているけど、そんなモンスターは見たことがない。レアモンスターか何かなのかな?

「視界の悪いフロアだってのニ、そのモンスターの周りだけ血みたいに真っ赤なエフェクトが漂ってるらしイ」
「へ、へぇ~……」
ちょっとゾクっときた。ホラー物は苦手なんだよ……。

「しかも、そのモンスターは人間の言葉を話せるらしくてナ。こう呟くんだそうダ」
「う、うん」
「『足りない。まだ足りない……』」
「………」
「『足りないよぉ……血が足りないよぉ……』って、まるで人間の子供みたいな声デ────」
と、そこまでアルゴが言った時、


────足りない────


「……、ユー助、何か言ったカ?」
「……いや、別に」

“それ”は、僕たちのすぐ傍まで迫ってきていた。



────足りない────


「……聞こえたカ?」
「……うん」


────足りないよぉ────


「………」
「………」


THE・沈黙。
僕とアルゴ、二人揃って部屋の入口へと目をやる。
気のせいか、声がどんどん僕たちのいる部屋に近付いてきている気が───

と、僕が思った瞬間。入口の扉が勢いよく開かれた───!!


「足りないよぉー!ユノくーん!」


「うわああああああァ!?」
「うわあああああああああああ───ってなんだシェイリか!驚かせないでよ!」

心臓に悪すぎる登場の仕方をした相方に、殺す気か!とデコピンを一発お見舞いする。
絶妙な力加減で小突かれたシェイリは両手で額を押さえながら涙ぐんでいるけど、自業自得なのでスルーさせて頂こう。

シェイリ曰く、アイテム補給ついでにNPC露天商の品揃えをチェックしていると、前々から欲しかった装備が格安で販売されていた。
一も二もなく飛びついたシェイリだったけれど、二人分の回復アイテムを買い込んでしまったせいでお金が足りない。
僕の分の代金は後で清算するという形をとっているため、泣く泣くその場を離れ、アイテム代を受け取るべく戻ってきた───ということらしい。

と、まあそれはいいとして。

───アルゴの言ってた新規モンスターっていうのも、きっと

シェイリのことなんだろうな、と思いつつ、トレードウィンドウを開きながら盛大に溜息をつく。
血のような赤いエフェクトというのは、シェイリがモンスターを攻撃した時に散った破損エフェクトに違いない。
『血が足りない』という台詞は、きっと戦闘後の『えへ、まだ(斬り)足りないなぁ』という呟きが、人から人へと伝わるうちに尾鰭をつけられたんだろう。
蓋を開けてみればなんともお粗末な結果だ。

───アルゴがこの情報を売り出す前でよかった……。

この噂が広まろうものなら、危うく敵と間違えられてPKされるところだった。
ツレがモンスターになりまして、なんてことになったら笑えない。

「えへ、ユノくんありがとー!また行ってくるね!」

お金を受け取り、笑顔で部屋を後にしたパートナーを見送りながら。
風呂場で失神しているであろうアルゴを起こすべく、僕は椅子から立ち上がった。 

 

とあるβテスター、参戦する

2022年12月4日。
およそ一時間半の行軍を経て、ディアベル率いるボス攻略部隊は、迷宮区最奥に位置する二枚扉の前へと辿り着いた。本日のレイドパーティ構成員である46人が、誰一人として欠けることなく。
途中で何度も遭遇した敵モンスターについては、ディアベルの的確な指示によって危なげなく撃退している。

───これで死人が出たら、本末転倒だもんね。

相変わらず見事な手腕だと感心しつつ、ここまでの道のりで死者が出なかったことに安堵する。
ボスと戦いにきたはずなのに、その前に誰かが死のうものなら。
こんなことで本当にボスを倒せるのか、と、パーティ全体の士気低下を招くことになりかねないからだ。

実を言うと、こんな大人数を彼一人で仕切ることができるのか、不安に思わなかったわけでもない。
いくらディアベルがリーダー職に慣れている様子でも、MMOプレイヤーというのはやはり、どこか利己的な考えを持っている者が多いからだ。
SAOがデスゲームと化した現状であっても、最前線で戦うプレイヤーには、ネットゲーマーの性とも言えるその性質が色濃く出ているように思える。
強いて挙げるならば、昨日のキバオウの行動がいい例えとなるだろう。
死んだ人間に謝罪しろと口で言ってはいたものの、その言動の裏に隠れていたものは、元βテスターが自分より優位なのが許せないという嫉妬心だ。
要は、『人よりおいしい思いをしたい』『周りより優れていたい』といった考えを切り捨てることができないのだろう。例えそれが、命懸けのゲームであっても。
そんなことを気にする暇があるなら、少しでも自分が強くなるか、他のプレイヤーと協力することを考えるべきだというのに……。

だけど。
ディアベルはそんなプレイヤー達を仕切り、自ら指揮を執ることで、全員一丸で戦うスタイルを貫こうとしている。
事実、ディアベルのリーダーシップは本物のようで、即席のレイドパーティだというのにも関わらず、プレイヤー達は彼の指示があればすかさず動くようになっている。
ダンジョンに入る前に彼が行った『みんな、勝とうぜ!』という呼びかけも、全体の士気を上げるのに大いに効果があった。
それほどまでに、ディアベルという人間は人を操ることに精通している。
各々の主張をまとめ上げ、巧みな話術で士気を向上させ、一つの目的に向かって進むよう仕向ける。
言葉にするだけなら簡単だけど、それを実行に移し、更に成功させるのは決して簡単なことじゃない。
恐らく、現状では彼以上の指導者は見つからないことだろう。

───でも、彼は。

そんなディアベルの行動は大いに評価されるべきなのだろうけど、僕はそれを手放しに喜ぶことができずにいた。
アルゴの情報によって知らされた、キバオウの不可解な行動。更には、考えが正反対であるはずの二人が事前に接触済みであるということ。にも関わらず、あの場でキバオウが行った、元βテスターを炙り出そうとする行為……。
これらが偶然によるものなのか、それとも何か意図があってのことなのか。そのどちらなのかを判断できるほどの材料はない。
だけど……僕とキリトの二人を見た時の、彼の不審な態度。あの時ディアベルが一瞬見せた表情が、僕の頭から離れなかった。
あの、嫌悪感とも警戒心とも取れる、なんともいえない表情が。

「……、何にせよ、何事もなければいいけど」
「?ユノくん?」
「あ、ごめん」
どうやら無意識に言葉に出していたようで、隣のシェイリが不思議そうな顔をしていた。
何でもないよと言って、グルグルと頭の中に渦巻く疑問を胸に仕舞い込み、僕自身も気を引き締める。

───そんなことを考えている場合じゃない。

ディアベルが僕たちの何を警戒しているのか、それはわからない。だけど、今はそんなことを気にして、集中力を欠かすわけにはいかない。
正式サービス開始後初となるフロア攻略戦。死と隣り合わせの戦いが、すぐ目の前に迫っているんだから。

───そうだ、今は。今は、目の前の敵を倒すことだけに集中しろ───!

行くぞ!というディアベルの掛け声と、重い二枚扉が開く音を聞きながら。
ランナーズ・ハイにも似た気分の高揚を感じつつ、僕は手にした短剣を力の限り握り締めた。


────────────


アインクラッド第1層ボス部屋。左右20メートル、奥行き100メートルという長方形の形をしたフロアだ。
その最奥に位置する玉座にてプレイヤー達を待ち受けていたボスモンスターの名は、『イルファング・ザ・コボルドロード』。身の丈2メートルはあるであろう巨大な体躯に、武骨な骨斧を携えた亜人の王。
周囲には『ルインコボルド・センチネル』という名の側近を三体従えている。

ゲーム開始後初のボス攻略部隊となる46名と、亜人の王率いるモンスター勢の激突が始まってから、既に十数分以上が経過していた。

「A隊、C隊、スイッチ!」
ディアベルの指示を受け、A隊を構成する六人がソードスキルを放ち、下がったA隊と入れ替わるようにしてC隊のメンバーが前へと躍り出た。

「来るぞっ!B隊、ブロック!」
「任せろ!おらあああ!」
コボルド王が振り下ろそうとしていた骨斧を、B隊のリーダーであるエギルが両手斧で弾き返す。

「C隊、ガードしつつスイッチの準備……今だ!交代しつつ、側面を突く用意!」
ディアベルがその場で長剣を振り下ろすのと同時、C隊の盾装備剣士が骨斧を防ぎ、その隙にB隊が側面から回り込み、ボスを包囲して攻撃を開始。

「D、E、F隊!センチネルを近付けるな!」
「了解!」
攻撃中の部隊を背後から襲われないよう、長身の両手剣使いがリーダーのD隊、キバオウ率いる遊撃用E隊、長柄武器装備のF隊で取り巻きのセンチネルを足止めする。
例えボスの取り巻きといえど、迷宮区に徘徊している一般モンスターよりは遥かに強敵だ。しかも『ルインコボルド・センチネル』は、頭と胴体の大部分を金属鎧で頑強に守り、鎧の継ぎ目や喉元などのごく狭い範囲にしか攻撃が通らない。
三匹いる取り巻きのうちの二体をD、E、F隊がそれぞれ相手取り、俺達の担当は殲滅が追い付かなかった三匹目───要するに、殲滅部隊の尻拭いだ。

「アスナ!スイッチ!」
片手剣を構えながらセンチネルと相対し、敵の持つハルバードが突き出された瞬間、狙い通りのタイミングでそれを迎撃する。
身体の捻りを加えた逆袈裟斬り。俺の剣は敵の斧槍の柄に激突し、甲高い金属音を響かせた。
こちらの胴体を貫こうと迫っていた斧槍は火花のようなエフェクトを散らしながら跳ね上げられ、センチネルが体勢を崩したのと同時、俺はすかさずバックステップで距離を取る。

そして、

「三匹目っ!!」
次の瞬間には、細剣を構えたアスナが目にも留まらぬ速さで肉薄していた。

細剣 単発刺突技《リニアー》

細剣カテゴリで最初に習得できるソードスキルで、剣を身体の中心に構え、捻りを入れつつ直線に突くだけのシンプルな技だ。
凄まじい速度で突き出されたレイピアの先端がセンチネルの無防備な喉元を捉え、急所を突かれたモンスターはポリゴン片となってあえなく四散する。

───やっぱり、速い。とても初心者の動きとは思えない。

同じ技を何度も見ているはずの俺ですら、速すぎて剣先が見えないほどの一撃。ここにきて更に速度が上がっているアスナの剣裁きに、改めて舌を巻く。
迷宮区で初めて見かけた時から思っていたことではあるが、アスナの技は手練のそれといっても何ら遜色がない。
初心者……そもそもMMO自体SAOが初めてだと本人は言っていたが、既に一般プレイヤーからは頭一つ飛び出した強さを持っているだろう。
それほどまでに、アスナの《リニアー》は戦慄せずにはいられない完成度を誇っていた。

「GJ《グッジョブ》……!」
まったくの初心者だというのにも関わらず、これほどの動きをいとも簡単にやってのける、もはや天性ともいえるバトルセンス。
このまま成長すれば、一体どれほどの剣士になるだろうか。
そんな彼女の可能性に思いを馳せながら、パーティメンバーたる少女に小声で賛辞を送る。

「……?あなたも───」
恐らく意味がわかっていない(MMOという言葉の意味すら知らなかったのだから、無理もない)であろう賛辞に、彼女が応えた……瞬間。

「──っ!?ひっっ!?」
“横から飛んできた何か”を視界に捉えたアスナは上擦った悲鳴を上げ、戦闘時だというのにも関わらず俺の傍まで走り寄ると、背後に隠れるようにして“飛んできたもの”へと視線を向けた。

「アスナ!?どうし───うおっ!?」
「きゃああ!?」
た、と俺が言い終えるよりも早く。
再度飛んできた“同じもの”が俺達の足元へと転がり、それを見て二人同時に悲鳴を上げた。

───な、なんつー戦い方してるんだよ……!

ボス戦の最中(といってもオマケみたいなものだが)だということも忘れ、二人分の悲鳴の原因となった、残るパーティメンバーの戦いへと目を向ける。

フードで顔をすっぽり覆い隠した、小柄な体格の短剣使い───ユノ。
戦闘中は邪魔になるからかフードは被らず、ユノよりも更に小柄な体躯であるにも関わらず、両手斧を軽々と振り回す中(小?)学生くらいの少女───シェイリ。
このボス戦における臨時パーティメンバーであり、昨日の会議の際に俺達を誘ってくれた二人組だ。

「む、無理……!シェイリ、はやく……!」
新たに湧いたセンチネルの攻撃を短剣で受け止め、鍔迫り合いに持ち込むユノ。『接近戦は苦手』と本人が言っていた通り、その戦い方は随分と危なっかしい。
筋力パラメーターが低めなのか、水平に構えた短剣で斧槍の刃を受け止め、空いた手を短剣に添えることで何とか持ち堪えているといった具合だ。この分では、ソードスキルを発動させる余裕もないだろう
彼の動きはペアで迷宮区に篭もっていたにしては、あまりにもお粗末と言わざるを得なかった。

「はいはーい!いっくよー!」
今にも打ち負けそうな彼をハラハラとした気分で見守っていると、弱音を吐くユノとは対照的に、場違いに楽しそうな声が聞こえてきた。
鍔迫り合いに持ち込まれたことによって必然的に動きを止めたセンチネルに、両手斧を担いだシェイリが側面から迫る。

両手斧 突進技《バスターチャージ》

まさに猪突猛進といった様相で敵にタックルを食らわせ、体勢を崩した敵に対し、両手斧による回転斬りのコンビネーション。重量のある両手武器ならではの豪快な技だ。
筋力パラメーターにものをいわせた強烈な一撃を、力任せに喉元へ食い込ませ……そのまま、首から上を文字通り“吹き飛ばした”。
すぽーん、といった擬音が思わず浮かぶほどあっけなく。
胴体から切り離されたセンチネルの首が宙を舞い、カランカランと音を立てながら俺達の足元へと転がり、一秒ほど間を置いてからポリゴン片へと姿を変えた。

「………」
「………」
まるでB級ホラー映画の演出か何かのような光景に、二人揃って絶句してしまう。

───相手がモンスターとはいえ、斬首とは……

あまりにもむごい殺し方をする二人組に、近くで戦っていたD隊のリーダーである両手剣使いの男が、信じられないものを見るような顔で二人を交互に見つめていた。

「……、ナイスファイト、だ……」
「えへ、ありがと~!」
「あ、あはは……」
明らかにドン引きしている素振りを見せつつも、形だけでも賛辞を送るD隊リーダー。
大の男が引いてしまうほどのコボルド殺害現場を見せ付けた少女は、そんな相手の心情を理解していないのか、投げかけられた言葉に素直に喜びを表している。
そんな相方の様子を見て、ユノが乾いた笑いを浮かべているのが印象的だった。

……余談だが、後にこの時のD隊リーダーであった男はこう語っている。
『あの時は正直、コボルドよりも彼女のほうが恐ろしかった。あの場で下手なことを言えば、今頃飛んでいたのは俺の首だっただろう』と……。


────────────


その後、アスナとシェイリのツートップによる善戦《大量虐殺》によって、その場に湧いたセンチネルは一匹残らず葬り去られた。
『えへ、ボス戦って楽しいね~!』『呑気なこと言ってる場合じゃないで……しょっ!9匹目っ!』『すごーい!あっちゃんかっこいー!』『誰があっちゃんよっ!!』などといった遣り取りはあったものの、俺達は与えられた役割をまっとうしていた。
といっても、俺とユノはほとんど何もしていないわけだが……。

「なんか俺達、やることないな……」
「うん、僕もそう思ってた」
俺がポツリと呟くと、隣に立っていたユノが苦笑いを含んだ声で同意した。
シェイリと相方であるこの少年は、あの戦いぶりを毎日見せ付けられているのだろう。
なんというか、おまえも苦労人だな……。

まあ、何はともあれ。
これで今湧いていた取り巻きは全て倒したことだし、あとは残る三匹を倒し、ボスのHPを削り切れば……初のボス攻略戦は、俺達の勝利で終わる。

───今のところはベータの時と何も変わらない、か……。

昨日の会議でシェイリが口にした、ボスの強さがベータテストの時とは変わっているのではないかという可能性。
だが。今のところ、取り巻き含む亜人達にはベータとの差異は見当たらなかった。
今、ボスのHPは三本目のゲージが残り僅かといったところだ。あと一分ほども経てば、最後の一本に突入するだろう。
その時、コボルド王は武器を腰に差した湾刀《タルワール》に持ち替え、後は死ぬまで曲刀スキルを使い続ける───はずだ。本当に何の変更もなければ、だが。

───頼む、このまま……このまま行かせてくれ。

ソロで戦っている時はまるでしないことだが、俺は全身全霊で何者かにそう祈った。
このまま何事もなく終わってくれ。そうすれば……一人の死者も出さずに第1層を突破できたと知れば、絶望していた他のプレイヤー達だって───

「アテが外れたんやろ。ええ気味や」
と、俺が思っていた瞬間。
俺達の背後から、耳障りな濁声がひそっと響いた。

「……何だって?」
言われた意味がわからず、振り向きざまに聞き返す。
いつの間にか俺達の近くにいたサボテン頭の男は、俺に───否、俺達二人に対し、憎しみと皮肉の籠もった表情を浮かべていた。
隣にいたユノも、表情は窺えないが、フードの下で眉をひそめていることだろう。

「ヘタな芝居すなや。こっちはもう知っとんのや、ジブンらがこのボス攻略部隊に乗り込んできた動機っちゅうやつをな」
「……、意味がわからないんだけど。誰かと間違えてない?」
「開き直んなや、卑怯もんどもが!」
押し殺した声でユノが尋ねると、キバオウはその態度が気に入らなかったのか、苛立った声で激昂した。まったくわけがわからない……。

「キバオウ、何が───」
言いたいんだ、と、理不尽さに歯噛みしながら聞き返そうとした俺は。
次にキバオウが俺に言い放った言葉により、一瞬思考が停止した。

「わいは知っとんのや。ちゃーんと聞かされとんのやで……あんたが昔、汚い立ち回りでボスのLAを取りまくっとったことをな!ジブンら二人がおるのは、大方卑怯もん同士で手ぇ組んだっちゅうことなんやろが!」
「……な、に……?」
LA《ラストアタック》。とどめの一撃。
SAOでは、ボスに最後の一撃を加えて止めを刺したプレイヤーに『LA《ラストアタック》ボーナス』が与えられる。
LAボーナスを獲得したプレイヤーには、他より多くの経験値やコル、更には二つとない貴重品《ユニークアイテム》が与えられる。
俺はベータテスト時代、ボスのHPがなくなるギリギリのタイミングで強力なソードスキルを叩き込み、LAボーナスを獲得するのを得意としていた。
だが、それはベータの時の話であって。
俺のプレイスタイルを知っている人間は、アルゴのような元ベータテスター以外にはありえないはず───

───まさか。

不意に。
ここ一週間の間で何度も抱いた疑問の答えが、脳裏に浮かび上がった。

キバオウはここ一週間、アルゴを通じて俺の『アニールブレード+6』を買い取ろうとしていた。
何度断られても交渉を諦めることはせず、しまいには相場価格を大幅に上回る大金を積んできた。だが、そうまでする理由はなんだ?
反ベータテスター主義を掲げるキバオウ。そんな奴が、そうまでして俺の武器に執着する理由。
奴の言葉から察するに、恐らくその目的は、俺の攻撃力を削ぐことによるLA獲得の妨害。

───なら、キバオウに俺のベータ時代の情報を与えたのは?

情報と聞いて真っ先に浮かぶのは、やはりというか『鼠のアルゴ』だ。
俺はアルゴとベータの時からの顔見知りだし、当然、彼女も俺のプレイスタイルを熟知している。
この条件であれば、彼女が金を積まれて俺の情報を売った、と解釈するのが妥当だが……それは違うと断言できる。
アルゴはいくら金を積まれようと、ベータの情報だけは絶対に売らない。それはあいつが自分で言ったことであり、彼女は仕事に関して嘘はつかない。

だとすれば、残る可能性は。
キバオウに俺の情報を与え、妨害工作を働くように仕向けた人物は。
それは───


「みんな、下がれ!オレ達が出るっ!」

……と、俺がそこまで考えた時。
それまで指揮に徹していたディアベルが一際大きな声で叫び、自ら敵に向かっていく。
彼の視線の先には、HPゲージを最後の一本まで削られ、とうとう骨斧を投げ捨てた亜人の王。
腰から湾刀《タルワール》を抜き放ち、自分に立ち向かってくるディアベルらを粉砕すべく、雄叫びを上げた。

「一気に片付けるぞっ!」

敵が湾刀《タルワール》を抜いたことで、ボスの使用スキルが変更された可能性はないと判断したのだろう。
青髪の騎士は、自身のパーティメンバーであるC隊の五人と共に、全員でコボルド王を取り囲む。

───やっぱり、あんたがそうなのか、ディアベル……?

あのキバオウから、絶対の信頼を寄せられていたディアベル。
恐らくは、この状況で自らLAボーナスを獲得すべく動き出した青髪の騎士が。彼こそが、俺に対する妨害を仕組んだ張本人だろう。
キバオウのベータテスターへの反発心を利用し、妨害工作のための手駒として利用した。
そして、彼が俺の存在を知っているということは……それは、彼自身がベータテスト出身者であるということを意味している。

───だけど、まだ何かある。

俺の武器を買い取ろうとしたキバオウ。あの不可解な行動については、ディアベルが黒幕なのだとすれば辻褄が合う。
ベータ当時から俺の存在を知っていたディアベルが、俺がボス攻略戦に参加するであろうことを予想し、彼に指示したのだろう。
恐らく俺達四人が後方に回されたのも、ボスに直接攻撃でもされればLAを奪われると思ったからに違いない。
そこまではわかる。陰でコソコソと妨害工作されていたのは決していい気分ではないが、彼がそういった行動を取りたくなる気持ちもわからなくもない。

───だが、さっきのキバオウの言葉はなんだ?

今までの問題が解決したのと同時に、今度は新たな疑問が浮上する。
『ジブンら二人がおるのは、大方卑怯もん同士で手ぇ組んだっちゅうことなんやろが!』

───ジブンら?二人?

キバオウが言う二人とは、俺とユノのことで間違いないだろう。
事実、先ほどから彼は俺とユノの顔を交互に見て、憎しみの籠もった目で睨めつけてくる。
だが。LA狙いのプレイスタイルを取っていた俺とは違い、ユノには彼らから警戒される理由がないはずだ。

───だというのに、キバオウは俺達に対して『卑怯もんどもが』という言い方をした。それは何故だ?

キバオウの言う『卑怯もん』とは、俺のような元ベータテスターに対する言い方だ。
仮に、ユノが元ベータテスターだったとしても。キバオウの態度は、それだけの人間に対するものとしてはあまりにも……。

───それに、あの場はディアベルの仲裁によって収まったはずだ。

元ベータテスターだろうと貴重な戦力で、諍いを起こして全滅したらそれこそ意味がない───今となっては『あんたが言うか』と突っ込みたくなるが、ディアベル自身がそう言っていた。
だからこそ。ベータ当時からマークされていた俺はともかく、単なる元ベータテスターだというだけでは、彼を警戒する理由にはならないはずだ。

「あんたもや。得意の投げナイフを使わんっちゅうことは、最後まで正体隠してコソコソしとるつもりやったんやろ?せやけど残念やったな、あんたの正体はとっくにバレとるんやで!」
「──ッ!!」
だが。次の瞬間には、キバオウの矛先がユノに向けられていた。

───“得意の投げナイフ”、だと……?

ユノが息を呑む気配が伝わってきたが、俺はそれどころではなかった。
『投げナイフ』。その単語を聞いた瞬間、不意に感じた既視感《デジャヴ》にハッとなった俺は、自身の頭に残るベータ時代の記憶を漁り、情報を照らし合わせていく。

昨日出会ったばかりの短剣使い、ユノ。
自分のことを『僕』と呼ぶ、少年らしい口調。男にしては高めの中性的な声、小柄な体躯───否、今のSAOでは姿形はアテにならない。それよりも。
近接戦闘がセオリーのSAOで、わざわざ威力が低めの投剣スキルをメインで使っていた人物に、俺は一人しか心当たりがない。
直接の知り合いというわけではないが、何度かボス戦でも顔を合わせるうちに、その個性的なプレイスタイルに興味を持ったこともある。
姿形が違うというのはもちろんのことだが、短剣を使っていたから気が付かなかった。
仮に、“彼”の名前を思い出したとしても……名前が同じというだけの、まったくの別人だと思っていただろう。

───どうして今まで忘れてたんだ。俺は……俺は、彼のことを知っている……!

彼がフードで顔を隠したり、苦手なはずの近接武器で戦っていた理由は。
その理由は恐らく、ベータ時代の彼を知る者に、素性が割れるのを防ぐため───

───ユノ。おまえが、あの《投刃》なのか……?

ベータテスト時代。第9層のボスが攻略された直後に突如として名前が挙がり、一時有名となった一人のプレイヤー。
その後暫く各地で目撃された後、ある日を境に姿を消し、やがて忘れ去られていった一人の男。

ベータテスター、《投刃のユノ》。
仲間を殺し、LAボーナスを持ち逃げした───オレンジ《犯罪者》プレイヤー。 

 

とあるβテスター、殴られる

《投刃のユノ》。それは、βテスト時代の僕の呼び名だ。
第4層からボス攻略戦に参加するようになり、第9層攻略戦が終了した後、味方であるはずのパーティメンバーを殺し、LAボーナスを持ち逃げしたオレンジ《犯罪者》プレイヤー。
それが、《投刃のユノ》。正義感溢れる者やPKK《プレイヤーキラーキラー》といったプレイヤー達に追われ、逃げるように各地を転々とし、やがて姿を消した───味方殺しの名に相応しい末路を辿った、昔の僕。

「雑魚コボ、もう一匹くれたるわ。精々大人しくして、変な気ぃ起こさんことやな」
憎しみの滴る声で皮肉の言葉を残し、キバオウはE隊メンバーの元へ戻って行く。
カシャカシャという耳障りな金属音が耳に入り、音がした方向に視線を向ければ。左右の壁の高い位置に存在する穴から、最後の取り巻きが戦場に舞い降りたところだった。
新たに湧いた三体のうち、二体の『ルインコボルド・センチネル』が、斧槍を構えながらこちらに向かってくるのが見える。
だけど、僕は。命の危険がすぐそこまで迫っていることも忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。

───どうして。

身体が震える。視界が狭まる。音が消える。
どうして。その言葉だけがただただ頭の中を巡り、他のことを考えることができない。
まるで僕一人だけが世界から切り離されてしまったかのように、目の前の敵が振りかぶった斧槍を、どこか他人事のように眺めていた。

───どうして、どうして、どうしてっ!

例え、《投刃のユノ》の名を覚えているプレイヤー……元βテスターが、この場にいたとしても。
投剣スキルを封印し、近接戦闘をしているうちは。人前で以前のプレイスタイルを見せない限りは、ここまで露骨に警戒されることはないと思っていた。
今の姿はアバターの時とは違うし、足が付かないよう、得意な戦闘スタイルも使っていない。
《今のユノ》が《投刃》と呼ばれていたプレイヤーと同一人物だと知っているのは、情報屋・鼠のアルゴくらいのものだ。
だけど。僕も知ってる通り、アルゴはβテストに関する情報は一切売らない。

グリーンでいる限り───“以前のように”オレンジ《犯罪者》にならない限り、僕が《投刃》であることは露見するはずがない。
そう、心のどこかで楽観視していた。

───でも、バレた……!それも、こんなに早くッ……!

本当のことをいうなら。SAOがクリアされるまでの間、《投刃のユノ》の名を隠し通せるとは思っていなかった。
当時と同じ名前を使っている以上、いつかは怪しまれる時がくると、まったく思わなかったわけじゃない。
グリーンを維持したところで、かつてオレンジだったことを警戒され、人知れず闇討ちで葬り去られる日がくるかもしれない。
例え、βテストでは死者が出ることはなかったといっても。
デスゲームと化した今のSAOで、βテスト時代とはいえ“仲間を殺した”という前科があれば───討たれる理由としては、十分すぎる。

───でも、それでも……!

それでも、せめて。
せめて、あの子が───シェイリが独り立ちできる時が、来るまでは。
僕が《投刃》だとバレることで、彼女まで巻き込んで、周りのプレイヤーからの敵意を集めることだけは。
そんな事態になることだけは、絶対に、絶対に避けなきゃいけないはずだったのに……!

「──!────ッ!」
「……、あ」

そうして、僕が気付いた頃には。斧槍の刃が、もう目と鼻の先まで迫っていた。
もう一体のセンチネルを相手取っていたキリトが何かを叫ぶが、何を言っているのかわからない。
思わず間の抜けた声を出してしまう僕。当然ながら、AIに基づいて動いているだけの敵がそんなことを配慮してくれるはずもなく。

周囲をディアベル率いるC隊に包囲され、咆哮する亜人の王。
その側近であるモンスターが繰り出した、斧槍による攻撃。直撃すれば瞬く間にHPを全損させるであろう、容赦ない一撃。

───避けられ、ない。

僕はそれを、ただぼんやりと眺め───


────────────


「ユノくん!ダメだよっ!」


刹那。
この一ヵ月、何度も僕を救ってくれた彼女。そのよく通るソプラノボイスが、僕の耳を打った。
切羽詰ったシェイリの声で我に返り、思考の海に沈みかけていた意識が表層へと浮上する。

「──ッ!!」
咄嗟に身体を捻り、右腕を前に出して左半身を庇う。
流石に無傷とはいかず、斧槍の刃が右腕に食い込み、HPゲージが決して無視できない勢いで減少していく。
ただでさえ軽装備なのに加え、先の戦闘で少なからず減っていたHPゲージ。その二つの要素が合わさり、僕のHPはレッドゾーン《危険域》まで落ち込んでしまった。
それでも、急所のある左半身に直撃を……クリティカルヒットを貰い、即死することだけは、何とか回避することができた。
本当に、ギリギリのところだったけれど。

「ユノ、退いてろっ!」
「……ごめん、任せた」
次の瞬間。いつの間にかフリーになっていたキリトが、僕を狙っていたセンチネルへと向けてソードスキルを放つ。

片手剣 突進技《ソニックリープ》

キリトの剣がライトエフェクトを纏い、鮮やかな直線軌跡を描きながらセンチネルの金属鎧を打ち付けた。

「よしっ!シェイリ!」
「────ッ!!」
キリトの声に応えたシェイリは、いつもの気の抜けるような声とは違う、言葉にならない咆哮と共に敵へと肉薄する。
《バスターチャージ》を発動させながら突っ込んできた彼女の攻撃により、センチネルは胴を金属鎧ごと横一閃に切り裂かれ、ガラスの割れるような音と共に砕け散った。

「……、ユノくん……」
亜人モンスターを難なく葬ったシェイリは、急いで走り寄ってきたためか、肩で息をしながら僕の名前を呼ぶ。
少し遅れて合流したアスナの話によれば、自分と戦っていたコボルドを無理な戦い方で倒し、かなり強引にこちらの援護に回ったのだそうだ。
その証拠に。いつもほぼ一撃必殺で敵を倒してきたため、ほとんど8割を切ることのなかったシェイリのHPが、注意域のイエローゾーンまで減少していた。

「ユノくん」
「……、う、うん」
少し落ち着いたのか、彼女は今度はしっかりとした声で、再度僕の名前を呼ぶ。
だけど。その声はいつもの間延びしたものではなく、むしろ剣呑な響きを含んでいるような───

「ばかっ!!」
「ぐえっ!?」
と、思った次の瞬間。
シェイリの右手が残像を残す程の速さで振るわれ、次いで、僕の顔面を強烈な衝撃が襲った。

これはドラマなんかでよくある、女の子が激怒した時に繰り出される平手打ち───なんて生易しいものではなく、ゲームに出てくる格闘家が使うような、見事な正拳突きだった。
レベルアップボーナスのほとんどを筋力値につぎ込んでいるシェイリから繰り出された拳たるや、下手なソードスキルより威力があるのではないかと思ってしまう程だ。
パーティメンバー同士では攻撃判定にならず、HP自体は減らないものの……攻撃がヒットした時の衝撃そのものは緩和されない。
そのため、僕は頭から仰け反るようにして吹っ飛び、無様に尻餅をついてしまう。

「ばか!ばかばかばか!なに考えてるの!?死んじゃうところだったんだよ!?」
「しぇ、シェイリ、ちょっと待っ───」
尻餅をつき、上半身だけを起こした状態の僕に、再び彼女の正拳突きがクリーンヒット。顔面と後頭部に強烈な衝撃を感じ、仰向けに倒れ込む。
更にシェイリは僕の上に馬乗りになり、左右の拳で容赦なく顔面に連続攻撃を浴びせてきた。
拳がヒットする度に衝撃が生まれ、更に殴られた衝撃と後頭部を床にぶつける衝撃が、二重苦となって何度も僕を襲い───し、死ぬ!本当に死ぬって!

「ばか!ユノくんのばか!」
「ま、待って、これ以上は本当にHP減りそ───うぶっ!?」
僕のことを罵りながら両の拳を振るうシェイリに、本格的に命の危険(HPが減らないとわかってはいるものの)を感じ、制止を求めた瞬間。
彼女はおもむろに回復ポーションを取り出すと、蓋を開けて強引に僕の口へと捻じ込んだ。

「げほっ!ごぼっ!おぇっ………ジェ、ジェイリざん、ボージョンなら自分で飲めまずがらっ……!」
「しらないっ!」
口の中に柑橘系の甘い香りが広がり、危険域にあった僕のHPゲージが回復していく───のはいいんだけど、倒れた状態で無理矢理液体突っ込まれたため、まともに喋るのも困難なくらい咽てしまう。
何とか回復薬を嚥下すると、通常の回復ポーションの倍近い速度でHPゲージが戻っていくのがわかった。
これはボス戦に向かう前、僕が彼女に『いざという時のために』と言い渡しておいた、現段階では最高級の価格と性能を誇るポーションだ。

───あ、そうか。僕、死ぬところだったんだ。

あと一瞬、反応が遅れていれば。
現実世界の僕の身体はナーヴギアに脳を焼かれ、SAOからも現実世界からも永久退場していたことだろう。
渡した本人が“いざという状況”になってたら世話はない……なんて、呆けた頭で考えていると。
不意に、僕の顔を殴る手が止まった。

「……、ユノくんの、ばか」
思わず閉じてしまっていた目を、そっと開ければ。
彼女はその大きな両目に目一杯の涙を溜め、まさにMN5(マジで泣き出す5秒前)といった様相で───だめだ、完全に頭が馬鹿になってるぞ、僕。

……と、そんなしょうもないことばかりが頭に浮かんでいた僕は、

「最後まで気を抜くなって、自分でいつもいってるくせに。死なないでって、いってるくせに!」
「……!」

涙声で叫んだ彼女の声を聞いた瞬間、まるで冷や水をかけられたように、思考がフリーズした。

最後まで気を抜くな。絶対に死なないで。
戦闘で浮かれがちなシェイリに、僕が毎日……それこそ決まり文句のように、言い聞かせてきた言葉。

───そうだ、自分でこの子にそう言ってきたじゃないか。

いまいち現実感が持てないとか、そんな呆けたことを言ってる場合じゃない。
なぜなら。僕はあの“はじまりの日”から、僕のことを信じてついてきてくれたこの子を、絶対に守ると決めたから。
彼女を守るためなら、僕は何があろうと─── ───?

───何があろうと……?……違う、僕は……

自分の主張と実際の行動に、決定的な矛盾を感じて。
それまで当たり前のように思っていた自分の考えが、どうしようもなく矛盾していたことに気が付いてしまって。
僕は、思わず押し黙る。

───違う、僕は。僕は、彼女を、置き去りに……

自分が《投刃》と呼ばれていた元オレンジだということは、いずれ周囲に露呈してしまうだろう。
そうなる前に彼女を育て上げ、最低でも独り立ちできるようになるまでは、一緒に行動するつもりだった。
それが、彼女が僕に寄せてくれる信頼への、僕なりの応え方だと思っていたから。

だけど。もし実際に、その時がきたら。
このまま何も起こらずにボス戦を終えて。やがて僕が《投刃のユノ》だと知られて、彼女を巻き込みかねない状況になったら。
その時、僕はどうするつもりでいた───?

───僕は、僕はシェイリを置き去りにして、一人で消えようと思ってた……

彼女を巻き込みたくないという免罪符を振りかざして、一人で置き去りにしようとしていた。
何をしてでも守るだなんて言いながら、それがずっと続くはずはないと、心のどこかで勝手に諦めてたんだ。

───なんだ……。僕、最低じゃないか……。


────────────


「ユノくんのばか!一人で死んじゃうなんて、絶対にゆるさないからっ!!」
……そう言って、シェイリはとうとう泣き出した。
彼女の涙が頬に落ちてくるのを感じながら、知らず知らずのうちに彼女の信頼を裏切っていた自分を恥じる。

───さっきだって、そうだ。

自分が元オレンジだとバレたからといって、一人で思考停止を起こして。
シェイリが助けにきてくれなければ、僕はあのままモンスターに殺されて、彼女を一人ぼっちにしてしまうところだった。

『それにユノくん、守ってくれるんでしょ?』

あの“はじまりの日”、彼女は僕にこう言った。
SAO初心者であるシェイリには、あのまま『はじまりの街』に残るという選択肢だってあった。実際、僕も彼女はそうするとばかり思っていた。
それでもこの子は、僕を信じて一緒に行くと言ってくれたんだ。守ると言った僕の言葉を、一瞬たりとも疑うことをせずに。
僕はそんな彼女との出会いに感謝して、必ず守ると心に決めた───はずだったのに。
守ってもらっていたのは、どっちの方だったのやら。

───ああ、僕ってほんと……どうしようもないなぁ。

βテストの時に僕がやってきたことを彼女が知れば、どういう反応をするのかわからない。
もしかしたら。味方殺しの経歴がある僕のことを、信用できないと言うかもしれない。
だけど、その時はその時だ。
彼女が僕と一緒にいることを拒むなら、望み通りに消えればいい。
でも。もしも彼女が、それでもいいと───信じると、言ってくれたなら。
その時は、《投刃》だとか元オレンジだとか、そんなものは関係なくて。
僕はただ、あの日心に決めたことを守ればいい。たったそれだけの、話だったんだ───

───独り立ちだとか何だとか、とんだエゴだったね。

どうして今まで気が付かなかったんだと、自分でも不思議に思いながら。
未だ泣きじゃくるシェイリの涙を拭ってやり、頬にそっと手を当てる。

「ごめん、シェイリ。本当にごめん」
「うっ、うぇっ、ユノくん……」

───あーあ、こんなに泣いちゃって……。

そうさせたのは他でもない僕だろう、と、自分自身に苦笑いしつつ。
僕を殴るうちに乱れた黒髪を、手櫛でそっと整えてやった。
さらさらとした髪が指の間を通り抜ける感触を感じながら、改めて彼女の目を見つめる。
赤く、泣き腫らした目。僕が臆病だったばっかりに、こんなになるまで泣いてしまった彼女。
そのことに罪悪感を感じながら、同時に、もう二度とこんな思いはさせまいと決意する。

「もう大丈夫だから。勝手に死んだりしないから」
「……、ほんとに?やくそく、できる?」
「約束するよ。だから───」

───だから、これが終わったら。僕の話を聞いてくれる?

彼女が僕の話を聞いて、それを信じてくれるかどうかはわからない。
だけど、もう……自分を信じてくれているこの子に、隠し事をするのはもうやめだ。
このままボス戦が終わって、次の層に辿り着くことができたら。その時、僕は彼女に全てを話そう。
僕が───《投刃のユノ》が、過去にしてきたことを。

僕が問いかけると。
シェイリは涙でぐしゃぐしゃになった顔に、いつものふにゃりとした笑顔を浮かべて。

「嘘ついちゃ、やだからね?」

そう言って、頷いてくれた。
顔は涙でぐしゃぐしゃで、それでも表情は笑ってるという、とてもおかしな笑顔だったけれど。
何故だかそれは、とても魅力的な笑顔に見えた。 

 

とあるβテスター、解禁する

女の子にここまでボコボコ殴られたのは、生まれて初めてかもしれない。
現実世界で母親に引っ叩かれたことがないわけじゃないけど、それは正拳突きじゃなくて平手打ちだったし、今さっきのような連続攻撃というわけでもない。
ようやく泣き止んだシェイリに頼み、マウントポジションを解除してもらうと、彼女は頬を少し紅潮させながら『ご、ごめんね、痛かったよね?』と謝ってきた。
痛かったというか、これがゲーム内じゃなかったら顔の形が変わっているところだったよ……。

───まあ、自業自得なんだけどさ。

SAOには痛み自体はないけれど、彼女の拳は確かに痛かった───心が。
泣かせてしまったこともそうだけど、僕は一人でパニック状態に陥って、もう少しで死ぬところだった。
あの時、シェイリとキリトが助けてくれなければ。僕は今頃真っ二つにされて、この子を置き去りにするところだったんだから。

「キリトも、さっきはありがとう。助かったよ」
「……、いや、俺は別に……」

───ん?

助けてもらったお礼を言うと、キリトの様子がおかしいことに気付いた。
何だかはっきりしないというか、余所余所しいというか───って、ああ、そうか。

「黙ってて、ごめん」
「………」
キリトの態度がおかしい理由は、僕が《投刃》と呼ばれる《仲間殺し》だからだろう。
さっきのキバオウの態度から察するに、アルゴの言っていた『アニールブレード+6』の持ち主は……十中八九、キリトで間違いない。
彼が件の元βテスターだとしたら。《投刃》が昔何をしたのか、知らないわけではないだろうから。キリトが僕を信用できなくなるのは当たり前だ。
だけど、それでも───

「キリトが僕を信用できなくなったなら、それは仕方ないよ。でも、ごめん。せめて次の層に着くまでは、このままパーティメンバーでいさせてくれないかな?」
それでも今は、無事に第2層に到達することが最優先だ。
キリトが僕を……《投刃のユノ》を信用できないと判断したなら、それはそれで構わない。
でも、せめて今だけは。このボス戦が無事に終わるのを、この目で見届けるまでは。
それまでは、このパーティの一員でいさせてほしい。

「……違う。違うんだ、ユノ。俺は───」
そう思い、僕が問いかけると。
キリトは何かを言おうとして、ポツリポツリと言葉を漏らし始めた。

「グルルラアアアアアアアアアアッ!!」

……だけど、次の瞬間。
コボルド王が突如として上げた、今までとは比べ物にならない声量の雄叫びに、キリトの声は掻き消されてしまった。
何事かと思い、ディアベルらC隊に包囲されているはずの、亜人の王へと目を向ける。

「ウグルゥオオオオオオオオ───!!」
一際猛々しい雄叫びを上げたコボルド王は、手にした湾刀《タルワール》を高々と掲げ、目の前の敵───C隊のリーダーである騎士へと向けて、何らかのソードスキルを発動させようとしているところだった。
対するは、右手に長剣、左手にカイトシールドを構えた青髪の騎士。
咆哮するコボルド王の剣幕には鬼気迫るものがあり、並大抵のプレイヤーであれば、そのプレッシャーに気圧されてしまうことだろう。

───でも、これなら。

これならいけるはず、と。僕は心の中で呟いた。
ボスの使用するスキルについては、会議の場で事前に対策済みだ。見たところ、使用武器も湾刀から変更されている様子はない。
相手がディアベル───恐らくは、キリトに対する妨害工作を指示した元βテスター───なら、ボスが使う曲刀スキルの対処法は頭に入っているはずだ。
実際、彼は敵の咆哮に怯んだ様子を微塵も見せず、落ち着いた動作で初撃を捌こうとしている。あの様子なら、多少の攻撃で崩される心配はないだろう。

裏でキリトに対する妨害工作を仕組んでいたのは……まあ、ちょっと見る目が変わらなかったわけじゃないけれど、それを言うなら僕だって元オレンジなわけだし。
リーダーである彼がLAボーナスを獲得し、戦力を大幅に増強することができたなら。その時はきっと、彼に付き従うプレイヤー達の士気も大いに向上するはずだ。
もしかしたら、ディアベルの狙いはそこにあったのかもしれない。妨害工作を行ったのは少しやり過ぎな気もするけど、それだけ彼も本気だったということだろう。
まあ、この際。誰も死なずにボスを倒すことができるなら、LAがどうとか、そんな小さなことに拘るつもりもない。

「あ……ああ………!」
と、僕が悠長にそんなことを考えていると。
僕の近くで彼らの戦いを見ていたキリトが、引き攣ったような声を出した。
声を出したいのに出せないといったような……まるで何かを恐れているかのような、そんな表情で。

「キリト……?」
「──ッ!!だめだ、下がれ!!全力で後ろに飛べぇぇぇぇッ!!」
怪訝に思った僕が名前を呼ぶと、それが引き金となったかのように、彼は突然大声で叫び、ディアベル達に制止を求めた。
その視線の先には。血のような真紅のライトエフェクトを纏い、今まさにソードスキルを放とうとしている、ボスの湾刀……。

───っ!?まさか、使用スキルが違う!?

血の気が引いたような顔で叫ぶキリトの絶叫を聞いて、ハッとした僕は、亜人の王が持つ湾刀へと目を向けた。
アルゴの情報では、ボスが後半戦で使用するのは曲刀カテゴリの『タルワール』だったはず。
現に。コボルド王が右手に持った武器には、曲刀の特徴ともいえる緩く反った刃が煌いている。
刀身はプレイヤーが使うものより少し細いように見えるけど、βテストでは曲刀以外にあんな武器はなかったはず───

───いや、違う……!

僕がβテストで攻略に参加していたのは、第9層のフロアボス戦が最後だ。
それ以降は……《投刃》と呼ばれるようになってからは、各地を転々と逃げ回っていただけで。だから、βの最終層である第10層には、結局一度も足を踏み入れたことはなくて。
もしキリトが叫んだ理由が、僕や……恐らくディアベルですらも知らない、第10層以降の敵にしかない“何か”だったとしたら。
コボルド王が発動させようとしているのが、曲刀スキルではなく、一部の人間しか知らない“敵専用スキル”なのだとしたら───!!

───ま、ずい……!

刹那。
コボルド王は巨体であることを感じさせない動きで軽々と跳躍し、空中で身体をぎりりと捻り、地を揺るがすような轟音と共に落下した。
血柱のようなライトエフェクトが生まれ、同時に発生した衝撃波が、亜人の王を包囲していた六人へと襲い掛かる。

「ぐあああああっ!?」
その“見たこともない”ソードスキルによって、ディアベル含むC隊メンバー全員が床へと倒れ伏した。
驚くべきはその威力だ。範囲攻撃であるにも関わらず、ほぼMAXだったはずの六人のHPが、一撃で注意域《イエローゾーン》まで減少してしまった。
しかも、技の効果はそれだけに留まらず。
倒れ伏した六人の頭上を、回転するおぼろな黄色い光───一時的行動不能《スタン》状態のエフェクトが取り巻き、誰一人として体勢を立て直すことができない。

「ウグルオオオオッ!!」
あまつさえ、ボスの攻撃の手は止まることがなかった。
彼らが動けるようになるより早く、硬直状態から回復したコボルド王が、下からすくい上げるような斬撃で、正面にいたディアベルを追撃して───

「──ッ!シェイリっ!!」
「!うん!」
予想外の事態により、誰もが動きを止めていた中。
昨日感じた“嫌な予感”が見事的中してしまったことに、舌打ち一つ。
パートナーたる少女の名を叫びながら、ディアベル達の───ボスのいる方向へと向かって駆け出した。
彼女も察してくれたのだろう、一瞬遅れて僕と併走し始める。

そうしている間にも、コボルド王は狼にも似た口で獰猛に笑い、空中に浮いたディアベルに止めを刺すべく、武器に赤いライトエフェクトを纏わせている。
ディアベルのHPゲージは、既にレッドゾーン《危険域》に陥る一歩手前だ。あと一撃でもクリティルヒットを貰えば、瞬く間にゼロになってしまうだろう。
その瞬間。彼のアバターは消滅し、同時にナーヴギアに脳を焼き切られ……ディアベルという人間は、この世界から消滅する。

パーティの指導者を失ってしまえば、その後に待っているのは全滅だけだ。
βテスト出身の僕ですら、あのスキルが何なのかわからなかった。初見の技を使うボスモンスター相手に、残ったプレイヤー達だけで対処できるはずがない。
唯一例外を挙げるなら、青ざめた顔でそれを見ていた灰色コートの剣士───キリトには心当たりがあるようだった。
だけどこの土壇場で、彼一人でこの大人数を仕切るのは難しい。

それに、例えこの後、この場を乗り切ることができたとしても。ディアベルのようなリーダーの代わりは、そう簡単に見つかるものじゃない。
新規プレイヤーも元βテスターも関係なく、協力して戦っていくという体制を築くためには。自ら集団の先頭に立つ人間が、必ず必要となってくる。
だからこそ、ここで彼を───ディアベルを失うことだけは、阻止しなければならない。

───間に、合えぇぇぇッ!!

それまで使っていた粗末な短剣を放り出し、メニューウィンドウから投剣スキルのショートカットアイコンを選択する。
次いで、腰のホルスターから投擲用ナイフを“四本同時に”引き抜く。
あの“はじまりの日”から一ヵ月。人前では決して使わずに、隠れてスキル熟練度を上げ続けた、僕が《投刃のユノ》であることの証。

ここで以前の戦闘スタイルを見せれば。僕が仲間殺しのオレンジだったということは、もう隠し通すことができない。
部隊はほぼ確実に追放されるだろうし、キバオウなんかはこれ幸いと、『そいつが変な気ぃ起こす前に殺しとくべきや!』とか言い出すかもしれない。

だけど、それでいい。言いたい人には言わせておけばいい。
目の前でやられそうになっている相手を見捨てて、本当の意味での《仲間殺し》になるくらいなら。
《投刃》だろうが何だろうが、僕は僕としてのやり方で、この世界で戦い抜いてやる───!! 

 

とある剣士、葛藤する

俺がユノを───《投刃》と呼ばれるプレイヤーを最後に見たのは、第9層ボス戦におけるレイドパーティのメンバーとして、攻略に参加していた姿だ。
彼は3層だか4層あたりから攻略に参加するようになったパーティの一員で、いつも他のメンバー達の背に隠れるようにして立っていたのを覚えている。

彼らのパーティの実力は、よく言えば平均的……悪く言えば、これといった特徴のないメンバーだらけだった。
正直に言えば。投剣主体なんていう趣味ビルドで、よくもまあボス攻略に参加しようと思ったものだと、内心でどこか見下していたのも事実だ。
だが、そんな俺の予想に反し、ボス戦……特に人型モンスター相手において、彼はパーティの───否、攻略レイドの誰より勝利に貢献していたといっても過言ではない。

決して自分からは前に出ず、絶妙なタイミングで投擲される投げナイフによる後方支援という、近接戦闘が主体のSAOでは何とも珍しいプレイスタイル。
彼の後方支援のお陰で、前衛を努める俺達が心置きなく戦うことができたのは間違いないだろう。

……だが。
彼は第9層ボス攻略戦でLAを獲得した後、仲間であるパーティメンバーをPK《プレイヤーキル》し、オレンジ《犯罪者》プレイヤーとなって前線から姿を消した。

『あいつはユニークアイテム欲しさに俺達を裏切った』『恩を仇で返しやがって』『絶対に取り返してやる』───全て、彼のパーティメンバーだった者達の言葉だ。
それ以降、ユノという名前は《アイテム持ち逃げ犯》という、MMOにおいて最大級の不名誉行為を働いたプレイヤーとして、瞬く間に広まっていった。

今考えれば、誰も現場を直接見たわけではないし、彼らの言い分だけを鵜呑みにするのはあまりにも軽率といえる。だが、当時はそんなことを気にする者はいなかった。
元パーティメンバーはもちろんのこと、騒ぎに便乗したPKK、漁夫の利を狙う者、『オレンジは何をしてでも倒すべき』という、ネットゲーマー特有の妙な正義感を持ったプレイヤー達。
それぞれ理由は違えど、誰もが彼を執拗に付け狙い……そして、返り討ちにされた。

先の通り、SAOでの主流は近接戦闘だ。当然ながら、ソードスキルで戦うには相手に接近する必要がある。
普通のプレイヤーが相手なら。お互い相手の懐に入る必要があるため、相手がどれ程強かろうと、一撃も当てられずに終了なんてことにはならないだろう。
突進系の技で距離を詰め、相手が体勢を整える前に最大火力のソードスキルを叩き込むというのが、SAOにおける対人戦闘でのセオリーだ。

だが。それはあくまで、お互いが近接武器の使い手だった場合の話だ。投剣という射程の長い武器を得意とする彼が相手では、話は違ってくる。
事実。彼を狙って戦いを挑んだプレイヤー達のほとんどが、接近する前に先手を打たれ、何もできずに取り逃がした……という報告は多々あった。
こちらも投剣スキルを使ってリーチの差を埋めようにも、それを主要武器として使っていた者と、付け焼刃程度の技術しか持たない者では、勝敗は火を見るより明らかだった。

そうして。
最初に誰がそう呼んだのかは定かではないが、いつしか彼はその戦闘スタイルから《投刃》と呼ばれるようになる。
やがて彼がSAOそのものから姿を消すまで、《投刃のユノ》の名前は、ベータテストにおいて初の《アイテム持ち逃げ犯》、及び《仲間殺し》のプレイヤーとして有名となっていった……。


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「ばか!ばかばかばか!なに考えてるの!?死んじゃうところだったんだよ!?」
「しぇ、シェイリ、ちょっと待っ───」
相方である少女にボコスカと顔面を殴られ続ける少年の姿を眺めながら、俺は記憶の中から《投刃のユノ》に関する情報を引き出していた。
アイテム持ち逃げ及び仲間殺しという、MMOにおいて最大の背信行為を行ったプレイヤー。元ベータテスター達にとって汚点ともいうべき存在。

今、俺の目の前にいる少年が、本当にあの《投刃》なのだとしたら。
いくら死人が出ないベータテストといえど、それまで共に戦ってきた仲間を裏切り、平気で殺した人間なのだとしたら。
キバオウの言っていたように、彼の目的はボスのLA獲得で、そのために俺達をパーティに加え、周囲の油断を誘っているのだろうか。
この少女とパートナーを組んでいるのも、いつか裏切って殺すためなのだろうか。
例えデスゲームとなった今のSAOでも、かつてのように、邪魔者はオレンジになってでも排除するのだろうか。


「最後まで気を抜くなって、自分でいつもいってるくせに。死なないでって、いってるくせに!」

だが、もし彼が───《投刃のユノ》が、目的のためなら人を殺すことをも厭わない人間なのだとしたら。
いつか狩るための獲物《ターゲット》に過ぎない少女に、そんなことを言っただろうか。自分の命が懸かっている状況で、わざわざ初心者である彼女を育て、ここまで守ってきただろうか……?

「ごめん、シェイリ。もう大丈夫だから。勝手に死んだりしないから」

───そうだ。彼は……

俺にはどうしても……この少年が、理由もなくそんなことをするような人間には思えなかった。
ベータの頃に噂されていた《投刃のユノ》と、泣きじゃくる少女を安堵させるように髪を撫でる、目の前の少年。
二人は同一人物のはずなのに、彼の実際の姿は、《仲間殺し》のイメージとはあまりにもかけ離れている。

ベータ当時、彼がどうしてあんな事件を起こしたのか、その理由はわからない。
だけど、きっと彼は、俺達が思っていたような人間じゃない。少なくとも、友達を見捨てて一人で生き延びてきた───俺のような“卑怯もん”とは、違う。

「キリトも、さっきはありがとう。助かったよ」
「……、いや、俺は別に……」
マウントポジションを解除され、最後に相方の頭をもう一撫でしてから、ユノは俺にそう言った。
彼の素直なお礼の言葉に対し、言葉に詰まる。
キバオウの言葉を受けて、彼が《投刃のユノ》としての目的のため、この場にいるのかもしれないと……一瞬とはいえ、疑ってしまったから。

「黙ってて、ごめん」
「………」
俺が言葉を捜していると、ユノはそんな俺の態度を見てどう思ったのか───否、露骨すぎる俺の態度で悟ったのだろう、俯きがちに言った。
俺に何をしたわけでもないというのに、心底申し訳なさそうな声で。

「キリトが僕を信用できなくなったなら、それは仕方ないよ。でも、ごめん。せめて次の層に着くまでは───」

───違う、違う……!

違う。そうじゃないんだ、ユノ。俺には、おまえのことを責める資格なんてないんだ。
おまえは自分の命を危険に晒してまで、その子をここまで守ってきたじゃないか。
おまえが投剣を───得意武器を封印してまで、正体を隠し続けてきたのは。自分が《投刃》だと周りにバレることで、その子に敵意が向けられるのを恐れたからなんだろ?
だから、謝る必要なんてないんだ。おまえは俺とは違って、ちゃんと誰かのことを考えてきたじゃないか。

「……違う。違うんだ」

───本当に卑怯なのは、俺の方なんだ。

「ユノ、俺は───」

俺は自分がベータテスターだってことを、ずっと隠し続けてきて。
クラインを───この世界で初めて出来た友達を見捨ててまで、自分が生き残ることしか考えていなかったんだ───!





……だが、俺がそれを言葉にする前に。

コボルド王の一際大きな咆哮が、俺達の間に割り込んだ─── 

 

とあるβテスター、投擲する

迂闊だった。
下からすくい上げるような斬撃で空中に浮かされ、今まさに凶刃によって屠られんとしている騎士ディアベルの脳裏に最初に浮かんだのは、その簡潔すぎる一言だった。

ここまでの流れは完璧だったはずだ。攻略レイドパーティを組み、ボスの攻撃パターンを知り尽くしている自分が自ら先頭に立って指揮を執る。
呼びかけに応じて集まったプレイヤーの数は46人と、フルレイドである48人には後二人ばかり足りなかった。しかし自身の知る限り、第1層のボスである亜人の王を倒すには十分すぎる程の戦力だ。
攻略意欲のある精鋭を掻き集め、この一ヵ月間誰もが突破できなかった第1層を突破すれば、それは未だはじまりの街に留まっているプレイヤー達にとっての希望となるだろう。
第1層を突破できたとなれば───ほんの僅かでも『このゲームはクリアできる』という可能性を示すことができれば。絶望ばかりが取り巻くSAOの現状を、少しでも前向きにすることが出来るはずだ。
騎士《ナイト》を自称するディアベルにとって、その集団の先頭に立つことは自身に与えられた使命のように思えた。

しかし。そうして挑んだはずのボス戦の、それも正念場ともいえる段階にまできて。
『ボスの使用するスキルがベータとは違う』という───恐らく茅場明彦による、こちらの考えを見越した上での罠───に、リーダーである自分がまんまと嵌まってしまった。

───まったく、迂闊だったな。

民《一般プレイヤー》を守るのが騎士《攻略組》である自身の役目と思い、勇み足で先陣を切った結果がこれだ。
あのフードの二人組の片割れである少女───確かシェイリとか言ったか。彼女の一見空気を読めてない……しかし的を得ている発言を受け、その可能性を考慮はしていた。していたはずだった。
だが。実際に戦ってみて、以前と変わった様子のないボスの姿を見て。これなら問題ないと気が緩んでいたのは否定できない。
その結果、湾刀だと思っていたボスの武器から繰り出されたのは、ベータテスト出身者であるディアベルですらも覚えがないスキルだった。
恐らくは、自身が到達できなかった第9~10層、その何れかに出現する敵が使用するスキルなのだろう。その証拠に、元ベータテスターである灰色コートの剣士───キリトが何かを懸命に叫んでいる姿が視界の端に映った。

───これは、罰なのかもな。

自身がベータ上がりであることを隠し続け、あまつさえ同じ元テスターである彼の妨害まで行った。
そんな騎士にあるまじき行為を働き続けた自身への、当然の報い。

キリト。
かつてディアベル自身も参加していた『ソードアート・オンライン・クローズドベータテスト』において、ボスのHPがゼロになろうとする瞬間に最高威力のソードスキルを叩き込み、LAボーナスを獲得することを得意としていたプレイヤー。
このデスゲームが開始されてから二週間ほど経ったある日、ディアベルは偶々キリトの姿を見かけ、当時の記憶を思い起こすと同時に彼を恐れた。ディアベルのシナリオでは、ボスのLAを獲得するのは攻略部隊の指導者たる自分でなければならなかったからだ。
LAボーナスを得ることによって与えられる、世界に二つとないユニークアイテム。これを自ら入手し、大幅に戦闘力《生存力》を上げることに成功すれば。先頭に立つ者がより強い力を持つことにより、ボス攻略における部隊の士気は格段に向上する。
そんな彼のシナリオを壊しかねない人物の姿を見た時から、ディアベルは密かに決意する。例えどんな手段を使ってでも、ボスのLAを譲るわけにはいかないと。

元ベータテスターに対して異様なまでの憎しみを見せるキバオウに交換条件を求め、キリトの持つ『アニールブレード+6』の買い取り依頼をさせる代わりに、公的な場で鬱憤を晴らす機会を与えた。
先の攻略会議で、キバオウがベータテスターを炙り出そうとした一幕。あれは彼への報酬代わりだったのだが、エギルというプレイヤーの理論立った割り込みによって失敗してしまった。
故にディアベルは、この戦いが終わった後、反省会と称して同じ話題を議論するつもりでいた。
そして、叶う事ならば。新規参加者も元テスターも関係なく、皆で協力して攻略へ臨む体制を築きたかった。

───後は頼む、キリトさん。ボスを、

倒してくれ、と、声に出さずに呟く。
彼に対して裏で妨害工作まで仕組んだ自分がこんなことを言っても、今更虫が良すぎると思われるかもしれない。
だが、それでも。死の間際、ディアベルは彼に縋らずにはいられなかった。

───頼む、キリトさん。ボスを、倒してくれ。みんなのために───


その時、一筋の光が彼の視界へと飛び込んだ。


────────────


「間に、合えぇぇぇッ!!」

自身が《投刃》と呼ばれていたオレンジ《犯罪者》プレイヤーであることの証───腰のホルスターから投擲用ナイフを“四本同時に”抜き放ち、ユノはあらん限りの声で叫んだ。
初手はあえてソードスキルを発動させず、システムのモーション・アシストに頼らない四本同時の一投。
それが敵に向かうのを確認するよりも早く、すかさずマントの下に両の手を潜らせ、左右に四本ずつ───計八本のナイフを構える。

投剣 ニ連続投擲技《ダブルニードル》

両の手でそれぞれ一本ずつ、二本の投擲用武器を連続で投げるというごくシンプルな技だ。
投剣スキルの中では《シングルシュート》の次に習得できるこの技は、投剣スキルを多少上げている者にとっては別段珍しいものではない。
……が、ユノの場合に限っては他プレイヤーのそれとは違う。

SAOにおけるソードスキル発動条件は、端的に言えば三つの要素によって成り立っている。
『使用する技の初動《ファーストモーション》を起こすこと』『使用するソードスキルに対し、同種の武器スキルをセットしていること』『それに見合った武器を手に持っていること』。
以上の条件を満たした際、システムによるモーション・アシストが入り、自動でソードスキルを放つ。武器を装備して初動だけ自分で行えば、後はシステムが勝手に身体を動かしてくれるといった具合だ。

ここで鍵となるのは、三つ目の要素───使用するソードスキルに見合った武器を手に持っている、という条件。
通常のMMOでは『装備していない物』を武器として扱うことはできないが、SAOではそのあたりの条件は意外と緩かったりする。
例えば、『食事用のナイフで細剣スキルを発動する』『フィールドに落ちていた小石で投剣スキルを放つ』といったように。
オブジェクトとして存在する『発動条件に見合った武器』として認識されるものであれば、例え装備している物でなくともソードスキルを発動させることができるのだ。
ユノはその仕組みを利用し、指の間にそれぞれ挟んだ四本のナイフを“ひとつの武器”としてシステムに認識させることにより、投剣の威力を底上げしている。

「ふッ!!」
短い気合と共に最初に利き手、一拍遅れて残るもう片方の手を振るう。
左右でそれぞれ一本ずつを投擲する通常の《ダブルニードル》とは違い、ユノが使用するナイフの数は一投で四本───計八本の同時投擲。
鮮やかなライトエフェクトを纏いながら投擲された八本のナイフは、初手と同じ軌道を描きながら一直線に敵へと───青髪の騎士に止めを刺すべく身体を浮かせた敵の、無防備な腹部へと向かう。
システムのアシストと、ユノ自身の動作による運動命令。更に敏捷値補正によってブーストされた、尋常ならざる速度を以って投擲された刃がコボルド王の腹部に突き立った。

「ガアアアアッ!!」
12本のナイフが無防備な横腹に連続で着弾し、コボルド王が苦しげな雄叫びを上げた。
青髪の騎士に止めを刺すべく発動させようとしていたソードスキルが中断され、その原因を作った乱入者へと視線を移す。
布製の衣服の上に皮の胸当てを装備し、上からフード付きのマントを羽織った軽装備の人間。投擲に使うためか、腰のホルスターには幾本ものナイフが吊り下げられている。

「グルゥ……!」
亜人の王はそんなユノの姿を確認すると、犬にも似た大口を広げてニヤリと笑う。
SAOの敵AIに感情があるのかどうかは定かではないが、仮にあるとすればこう思っていることだろう。
『そんな軽装で自分の前に出るなど、無謀以外の何ものでもない』、と。

「グルアアアア───ッ!!」
青髪の騎士から無謀な乱入者へと標的を移し、一撃必殺を狙うべく手にした湾刀───否、野太刀に力を集約させる。
対するユノは投剣スキルの術後硬直を受けているのか、一歩たりとも退く気配を見せない。そんな乱入者の姿が、コボルド王に勝利を確信させる。
頑強な金属鎧で身を固めていたあの騎士ですら、たったニ発の攻撃で死の寸前まで追い込まれた。ましてこの軽装な人間が相手であれば、ただ一度攻撃を当てただけでも屠るには十二分だろう。
先の不意打ちには虚を突かれたが、二度とあんな間違いは起こるまい。そう思いながら、刀身に真紅のライトエフェクトを纏わせていく。

カタナ 重単発居合技《迅雷》

野太刀を腰だめに構え、重心を下に落とす。ひとたび発動すれば雷の如き速度を以って敵を斬り裂く、一撃必殺の奥義。
受けられるものなら受けてみろ、と獰猛な笑みを浮かべ、亜人の王は野太刀を一閃させ───

「───」
「──ッ!?」

ようとした、その瞬間。
フードで顔をすっぽり覆い隠しているはずの乱入者が、ニヤリと笑い返してきた気がした。

「そぉー、れっ!」
「グ、ガアアッ!?」
刹那。側面からの強烈な衝撃がコボルド王を襲い、その巨体が数メートルも吹き飛んだ。
苦悶の表情を浮かべながら自身がいた場所に目を向けると、そこには武骨な両手斧を振り切った姿勢のまま、ふにゃりとした笑顔を浮かべる少女の姿。

「えへへ。やっぱりユノくんは投げナイフのほうが似合ってるよー」
「そりゃどう……もッ!!」
「ガァッ!?」
そして。
中性的な声と共に再び投擲されたナイフが、起き上がりかけたコボルド王の顔面───その爛々と輝く隻眼へと、正確無比に突き刺さる。

「グルラアアアアッ!!」
「まあ、当然こっちに来るよね……シェイリ!」
「まかせてー!」
視界を潰されながらも何とか立ち上がり、邪魔なことこの上ない投剣の使い手を潰そうとする。
しかしそちらに気を取られた瞬間、術後硬直から立ち直った両手斧使いの少女が背後から強烈な一撃を叩き込む。
ならばと先に目の前の敵を叩き斬ろうとすれば、横合いから飛来したナイフによって野太刀を振り上げた腕を抉られ、攻撃が中断される。

決して自身は前に出ず、四本同時の投剣による、敵の行動妨害を主とした後方支援。
それこそが、かつて《仲間殺し》と呼ばれたプレイヤー───《投刃のユノ》の真骨頂だ。

「ソードスキルは、使わせない!!」
「ユノくんユノくん!ボスってすっごく斬り応えあるね~!」
投剣を潰そうとすれば斧が、斧を潰そうとすれば投剣が。
絶妙なタイミングでお互いをカバーし合う連携攻撃によって、まともに身動きを取ることすらもままならない。

カタナスキルによって意表を突き、戦いを優位に進めていたはずの亜人の王は、たった二人を相手に手も足も出ずにいた。


……しかし。当然ながら、そんな一方的な攻防が永遠に続くはずもない。
いくらユノの真骨頂が味方との連携にあるとはいえ、その戦闘スタイルを維持するためにはいくつかの条件があり、逆に欠点も存在する。

───このペースじゃ、そう長くは持たない……!

その一つが、投擲武器であるが故の弾数制限。
一度の投擲で使うナイフの本数が四本ということは、単純計算でも通常の四倍の速さで弾数を消費するということだ。
ユノの投剣は通常では出せない威力を誇っているが、逆にいえば、その分限界が訪れるのは早くなる。
まして相手がボスモンスターともなれば、行動を阻害するために必要な手数も通常の敵より多くなるため、このペースをいつまで維持できるかわからない。

───キリト……!

ナイフの残量を表す数値が見る間に減っていくのを感じながら、ユノは心の中で叫ぶ。
視界の端では彼が青髪の騎士を助け起こし、回復ポーションを飲ませている姿が見えた。


────────────


「すまない、キリトさん。本当に……」
「いや……」
しきりに謝罪の言葉を口にするディアベルに、キリトは何と言葉をかければいいのかわからなかった。

二人がボスを引き付けている間、倒れ伏した騎士の元へと駆け寄り、かろうじて死を免れた彼に回復ポーションを飲ませた。
あと一瞬、遅れていれば。コボルド王が発動させようとしていたスキル───確か《緋扇》という名の三連撃によって、彼のHPは瞬く間にゼロにされていたことだろう。
ユノの咄嗟の判断がなければ、リーダーを失った攻略部隊がどうなっていたかわからない。
危険域の一歩手前まで減少していたディアベルのHPが回復していくのを見ながら、キリトは安堵の溜息をつく。
ギリギリだったとはいえ、何とか助けることができた。取り返しのつかない事態になることだけは避けられた。

……と、そこまではよかったのだが。
目を覚ましたディアベルは、キリトの顔を見るなり何度も謝罪を重ねてきたのだ。

───参ったな……。

ディアベルが謝っているのは恐らく、この局面で油断したことに対してだけではないだろう。
先のキバオウの言葉で、キリト自身も気が付いている。彼に対する妨害工作を仕組んだ張本人が、この青髪の騎士だということに。

───とは言っても、なぁ……。

自分がベータテスト出身であることを隠していたのはお互い様だし、そのことに関して彼を責めるつもりはない。
何より、初めて至近距離で彼の目を見た瞬間、キリトは気付いてしまった。
自分はこのプレイヤーを知っている。顔も名前も違うけれど、あの頃───ベータテスト当時、確かにこのプレイヤーと顔を合わせたことがある、と。
そして、ディアベルが自分に対して妨害工作を仕組んだのは、他のプレイヤー達のことを考えての行動だったということに。

───あんたは立派だよ、ディアベル。俺なんかよりずっと……。

故に、キリトは彼を責めることができない。
このデスゲームが始まったあの日、初めての友人を───クラインを見捨てた自分には、彼の行動を批判する資格はないのだから。

「ディアベル、もう謝らなくていい。今はそんなことより、ボスを倒すことが最優先だ……そうだろ?」
「……、ああ、そうだな……」
居た堪れなくなったキリトは、話題の矛先を目の前のボスに向けることにより、これ以上気まずい空気になることを回避した。
ディアベルも彼の心情を察したのか、それ以上何も言わずにボスへと───ボスと戦う二人へと、視線を向ける。

「《投刃》か……。相変わらず、凄まじいな」
「……ああ」
ディアベルがポツリと漏らした呟きに、キリトも同意する。
四本同時投擲によって威力を底上げしているとはいえ、ユノの攻撃には突出した破壊力があるわけでも、何らかの特殊効果があるわけでもない。
にも関わらず、的確かつ絶妙なタイミングで敵の弱点部位へと投刃を突き立て、例え相手がボスであっても手玉に取る程の精密な援護射撃。
その独特の戦闘スタイル故にいくらか欠点はあるものの、彼がいるのといないのとでは、前衛にとって戦いやすさに雲泥の差があるといっていいだろう。

しかし、それでも。
お互いに《投刃のユノ》を知る元ベータテスターであるからこそ、それに限りがあることもまた分かっている。

「だけど、いつまでもこのまま行けるってわけじゃない。ユノの武器が投剣である以上、数には限りがあるはずだ。だから───」
「私たちで援護しないとね」
「そう、俺達で援護……って、アスナ!?」
いつの間にか傍にきていたらしいアスナに二の句を奪われ、キリトは一拍遅れて驚きを表した。
ディアベルのHPが回復したのを見届け次第、彼女には『後方に留まり、前線が決壊したら即座に離脱しろ』と指示するつもりでいたからだ。
いかに神速の《リニアー》を得意技とするアスナでも、ボスとの戦いとなれば話は別だ。死の危険性だって雑魚モンスターの比にならない。
アスナの剣の才能に魅せられたキリトとしては、こんなところで彼女ほどの逸材を失ってしまいたくはなかった。

「アスナ、君は───」
「私も行く。パーティメンバーだから」
君は安全なところに行ってくれ、とキリトが言葉にする前に。
アスナはフードつきのケープを身体から引き剥がし、愛剣であるレイピアを構えてきっぱりと言い放つ。

「………」
「何?」
「あ、ああいや、何でもない!」
「……?まあいいわ」
今までフードで隠れされていた栗色のロングヘアが露になり、その端正な顔立ちも相まって、キリトは説得することも忘れて思わず見惚れてしまった。
このレイピア使いが女性だということは分かっていたが、まさかここまでの美人とは思いもしなかった。
そんなキリトの様子に怪訝そうに眉をひそめ、しかしそれ以上何も言わず、アスナはボスの姿を見据える。

───言ってる場合じゃない、か……!

その瞳に込められた確固たる意思を感じ取り、キリトは説得することを諦めた。
きっとこの少女は、いくら止められようと自分も戦うことを選ぶだろう。

「ディアベル。あんたは回復が済み次第、部隊の体勢を立て直してくれ」
「あ、ああ、わかった」
「俺達は……ボスを、倒す!」

アスナの姿を見て呆気に取られていたディアベルに指示を出し、自身も剣を握り締めた。
次いで、視線をボスの更に向こう側───リーダーが負傷したことにより、半ば混乱状態にある攻略部隊へと向ける。
どうやら仕様変更はボスのカタナスキルだけには留まらなかったらしく、本来であれば現れるはずのないセンチネルが五体ほど追加で湧いていた。
いくら人数がいるとはいえ、冷静な思考を欠いたままの部隊では、取り巻きの相手をすることすらも危ういだろう。
そんな戦況を立て直せるのは、この集団の先頭に立つ人物───騎士ディアベルを置いて、他にいない。

「アスナ、行くぞ!!」
「わかった!」
部隊に向かって駆け出したディアベルの後姿を見送りながら、二人は亜人の王へと並走しながら肉薄する。
モンスターの行動アルゴリズムを司るAIが学習しつつあるのか、敵は連携攻撃によって翻弄されつつも、厄介な投剣使いであるユノを先に潰そうとしている。

「悪い、待たせた!」
剣にライトエフェクトを纏わせながら、小柄な投剣使いの脇を抜き去る。
その際、チラリと横目で彼の姿を覗き見れば。あちらも同様にキリトの姿を認め、フードに大半を覆われた顔の、その口許が僅かに綻んだように見えた。

「いいよ!そのかわり、きっちり倒してよね!」
「了解!」
軽口を言い合いつつ、ユノが八本のナイフに青い光を纏わせ、敵の脚部目掛けて投擲。
踏み込みと同時の斬撃を繰り出そうと片足を浮かせていたコボルド王は、全体重のかかっていた軸足に投剣による連撃を受け、ソードスキルを発動させる前にバランスを崩す。
そこをシェイリの《バスターチャージ》によるタックル・回転斬りのコンビネーションで追撃され、轟音と共に壁へと叩き付けられた。

「ぐるうっ!」
そのまま床に巨体を横たわらせたコボルド王は、喚き、手足をばたつかせながら立ち上がろうともがいている。
人型モンスター特有のバッドステータス、転倒《タンブル》状態───

「「スイッチ!!」」

同時に二人分の声が重なり、ユノとシェイリの二人が飛び退いた。
代わりに現れたキリトとアスナが、中途半端に起き上がった体勢の亜人の王へ最大威力のソードスキルを叩き込む。

「せああっ!!」
「行っけえええぇぇぇっ!!」

細剣 単発刺突技《リニアー》
片手剣 ニ連撃技《バーチカル・アーク》

アスナの神速を誇る刺突が、コボルド王の脇腹を抉る。
それから僅かに遅れ、キリトの剣が右肩口から腹、そこから更に跳ね上げるようにして左肩口へと抜ける斬撃を見舞った。

「まだまだ~!」
「グ、ガアアアアッ───」
胴をV字に切り裂かれ、苦し紛れに野太刀を振り上げようとしたコボルド王の手首に、嬉々とした声と共に振り下ろされた両手斧の刃が深々と食い込む。
力任せに振り払おうとするコボルド王だったが、どういう筋力値をしているのか、自分より遥かに小柄であるはずの少女の身体はビクともしない。

武器を持った腕を封じられ、身動きが取れなくなった亜人の王。
その視界の奥に、黒髪の剣士が剣を構えて突進してくるのが映り───

「はああぁぁぁっ!!」

次の瞬間。
ざしゅっ!という効果音と共に、光を纏った幅広の刃がコボルド王の胴に深々と突き刺さり、そのHPゲージを空にした。
亜人の王は暫くの間、剣を突き立てるキリトを睨めつけていたが、やがてその首から力が抜け、一拍の間を置いてポリゴン片へと姿を変える。

同時、戦線復帰したディアベルらと交戦中だったセンチネルも姿を消し、広間が静寂に包まれた。
誰もがボスのいた方向へ向き直り、ついさっきまでボスと戦っていたはずの四人の姿を視界に収めた、その瞬間。


【Congratulation!!】


安っぽい効果音と共に空中に表示された、たった一言が。
初のボス攻略戦が無事に終わったことを、激戦を戦い抜いた戦士達に告げるのだった─── 

 

とあるβテスター、離反する

「……、終わった?」
目の前でコボルド王の身体がポリゴン片へと変わっていくのを見届けながら、僕はへなへなと尻餅をついて座り込んだ。
別に何かの意図があってそうしたわけではなく、安堵からくる脱力によって、だ。

「やったぁ!ユノくん、勝ったよー!やったやったー!」
「……あ、うん、そだね」
いつになくテンションの高いシェイリに対し、僕はいまいち乗り切れていない声を返す。
流れ的にはハグし合いながら「イヤッホオオオオゥ!」とか叫んでもよさそうな場面なんだけど、残念ながらそんな気力は残ってない。
正直言って緊張感が半端なかった。未だにナイフを持ったままの左手が震えてるくらいだ。
久しぶりのボス戦で、久しぶりの武器で、おまけにデスゲーム。
ほんの少しタイミングを間違えば、あの細身の刃───キリト曰く、カタナらしい───にばっさり斬られていてもおかしくなかったのだから。

「お疲れ様」
と、いまいち勝利の実感が湧かずにいる僕に、横合いから声がかけられた。
僕がそちらを見ると、そこにはいつの間に部隊に紛れ込んでいたのか、さっきキリトと共闘していた栗色ロングヘアの別嬪さんの姿が。

「えーっと……どちら様でしたっけ?キリトのお知り合い?」
「ちょっと、パーティメンバーの顔も忘れたの?」
「というと……アスナさん?まじでございますか?」
思わず変な口調で聞き返してしまった。
女性プレイヤーだということは名前と口調で分かっていたけれど、まさかこんなに美人さんだとは思わなかったよ……。
なるほど、今まで顔を隠してきたというのも頷ける。これ程の美人が一人でいれば、男性プレイヤーが嫌でも寄ってくるだろうし。
っていうか色白っ!睫毛長っ!羨ましくなるんですけど!

「そりゃ驚くよな。俺もさっきは驚いたよ」
「あ、キリト」
「お疲れ、ユノ。ナイスアシスト」
「……ん、ありがと」
「キリトくんもおつかれさま!」
キリトが手を差し出してきたので、僕も右手を持ち上げ、片手でハイタッチを交わす。
掌同士がぶつかるパチンという音を聞いて、ようやく勝利の実感が湧いてきた。

───本当に、誰も死なずに勝てたんだ、僕たちは。


「見事な連携だったぞ。そして最後の剣技も見事だった」
「エギルさん……」
「コングラッチュレーション、この勝利はあんた達のものだ」
そう言って、褐色肌のナイスガイは僕を助け起こしてくれた。
途中の「コングラッチュレーション」の発音が見事なところを見るに、もしかしたら本当に外国の人なのかもしれない。
そんなエギル率いるB隊のメンバーも、次々に祝福の言葉をかけてくれる。
そんな僕たちの様子を見ているうちに、呆然としていた周りのプレイヤー達も我に返り、静まり返っていた広間が歓声に包まれた。

「勝った……勝った!俺達は勝ったんだ!!」
「うおおおおおお!」
「いよっしゃああああああ!」
「やった!やったぞっ!」
「Congratulation!Congratulation!」
「おめでとう……!おめでとう……!勝利おめでとう……!」
ある者は抱き合い、またある者は剣を掲げて喜びを表す。
みなが口々に勝利を称え合い、バラバラだったプレイヤー達がなんとも心地よい一体感に包まれた。

……と思われた、刹那。

「なんでや!!」

耳障りな濁声による関西弁が、それを遮った。

湧き上がっていた歓声が一瞬にして途絶え、広間を再び沈黙が支配する。
誰もが声の主へと目をやれば。そこにはディアベルらC隊メンバーに加え、E隊リーダーであるキバオウの姿があった。
リーダーであるディアベル以外、全員が全員、こちらに睨みを効かせている。

───やっぱり、そうなるか。

その視線に対し、僕は今更驚いたりはしない。
こうなるであろうことは、大体は予想済みだ。恐らく、キバオウが次に言うであろう言葉も。

「なんでや!なんでディアベルはんやなくて、あんたらみたいな卑怯もんが称えられとんのや!こいつは……この勝利はディアベルはんのもんやろが!!」
ほら……そうきた。
要するにキバオウは、ここまで指揮を執ってきたディアベルを差し置いて、僕たちぽっと出のアブレ組がおいしい所を掻っ攫ったのが気に入らないんだろう。
当のディアベル本人は困惑した顔でパーティメンバーを窘めようとしているというのに、それもお構いなし。
こういったタイプは一度こうなると、周りの意見に聞く耳を持たない。
C隊メンバーもそれに煽られてか、リーダーであるディアベルの制止も意味を成していないようだ。

「そうだ!アンタらはボスのドロップ品が欲しくて、だからディアベルさんがピンチになるまで黙ってたんだろ!?」
「はぁ……」
キバオウに便乗するように叫びだしたC隊のシミター使いに、思わず溜息が出てしまう。
まったく……くだらない。
この期に及んで誰が一番だとか、そんなことに拘って何になるんだか。
大事なのは、僕たちは一人の犠牲者も出さずに第1層を突破できた、ただそれだけのことなのに。

「だってそうだろ!アンタらは、ボスの使う技を知ってたじゃないか!」
「……、それで?」
「それで、だと!?アンタらが最初からあの情報を伝えていれば、ディアベルさんが危険な目に遭うこともなかったんだ!!」
僕の冷めた声に対し、激昂したように怒鳴るシミター使い。
どうやら彼らの中では、ディアベルが死に掛けたのは僕たちのせいということで決定済みらしい。
だけど、それはお門違いもいいところだ。
そもそも『ボスの使用スキルが変更されている可能性』は、昨日の攻略会議で散々提示されていたじゃないか。

「オレ……オレ知ってる!こいつらは元ベータテスターだ!だからボスの攻撃パターンとか、うまいクエとか狩場とか、全部知ってるんだ!知ってて隠してるんだ!!」
そう言ったのは、キバオウ率いるE隊メンバーの一人だ。
この言葉も、予想通り。

「でもさ、昨日配布された攻略本に、ボスの攻撃パターンはベータ時代の情報だって書いてあったろ? それは、そっちの嬢ちゃんだって指摘してたことだ。彼らが元テスターなら、むしろ知識はあの攻略本と一緒なんじゃないか?」
「あの攻略本が、ウソだったんだ。あのアルゴって情報屋がウソを売り付けたんだ!アイツだって元ベータテスターなんだから、タダで本当のことなんか教えるわけなかったんだ!!」
更に畳み掛けるように、シミター使いが怒りの矛先をアルゴに向ける。
彼の言い分は『日本人に犯罪者が一人がいた。だから日本人は全員悪い奴だ』と言ってるようなものだ。極端にも程がある。
だけど言ってる本人は、自分の言い分がいかに偏っているかを理解していない。
自分もアルゴの攻略本に助けられてきたはずなのに、それを棚に上げて、憎しみを彼女に向ける。

こうなることは、大体予想通りではあったんだけど……なんというか。
なんというか……やるせないよ。
アルゴの攻略本のお陰でここまで来れて。キリトがカタナスキルを知ってたお陰で死者が出ずに済んで。
それだけでいいじゃないか。それだけじゃ気が済まないの?

「それにそいつ!そこのフードの奴!」
最後に一際大きな声で叫び、シミター使いは僕を指差した。自然と周りの視線が僕に集まる。
彼が言いたいことは、十中八九あのことに関してだろう。

「オレは知ってるんだぞ!おまえ、ベータじゃ《投刃》とか呼ばれてた仲間殺しで、PKだったんだろ!!」
やっぱり、ね。
キバオウが僕のことを知っていた時点で、ディアベルの仲間であるC隊メンバーが同様に知っていても何らおかしくはない。

「どうせベータテスター同士でつるんで、自分達だけいい思いをしようと思ってたんだろ!おまえら全員、グルだったんだろ!!」
……それに、僕がボス戦で《投刃》としてのプレイスタイルを見せれば……こうなるであろうことも、わかってた。

───やるしかない、みたいだね。

このまま僕がここに居続ければ。
『元βテスターは偽情報を流し、あまつさえPKもする連中だ』というイメージが、SAO全体に根付いてしまう。
そうなればどうなるか、想像するのは難しくない。
ゲーム内で死ねば現実世界でも死んでしまう今のSAOにおいて、PKは殺人者と同義だ。
そんな噂が広まってしまえば……軋轢なんて生易しいものではなく、本当に『βテスター狩り』が始まってしまうだろう。
これ以上、プレイヤー同士の溝を広げないためには。元βテスター全員に対して、そんなイメージを持たせるわけにはいかない。

だから僕は、自分の過去が───《投刃のユノ》の名前が、彼らにバレていると知った時から、密かに考えていた。
元βテスターと、新規プレイヤーとの対立を防ぐためには。元オレンジである僕一人に、全プレイヤーの敵意を集めればいい、と。

放っておいてもいずれはバレていただろうし、何よりたった今、目の前のシミター使いがご丁寧にも暴露してくれた。
舞台の演出としては、この上なく整った環境だ。やるなら今しかないだろう。

「……、シェイリ」
「ふぇ?」
誰にも聞こえないよう、小声でシェイリの名前を呼ぶ。
状況が理解できているのかいないのか、ポカンとした顔で成り行きを見守っていた彼女を。

「僕は今から、最低なことをするよ」
「ユノくん……?」
ここで僕が、周りの敵意を集めれば。きっとその矛先は、ずっとパートナーを組んでいた彼女にも向かうだろう。
元オレンジの共犯者という汚名を、彼女に背負わせてしまうことになる。
そうなるのが怖くて。僕は心のどこかで彼女を守ることを諦めて、いずれ置き去りにしようとしていた。

……でも。

『ユノくんのばか!一人で死んじゃうなんて、絶対にゆるさないからっ!!』

僕のことを想って、あんなに泣いてくれたシェイリ。
そんなこの子に何も言わずに消えてしまうことは、彼女が寄せてくれる信頼への裏切りだ。

自分が元オレンジだとか、巻き込みたくないだとか、そんな独り善がりな言い訳はもういい。
決めたじゃないか。僕が《投刃》だろうと何だろうと、この子だけは守るって。

「この場にいる全員から嫌われるだろうし、下手をすれば命を狙われるかもしれない。僕と一緒にいることで、君にまで危害が及ぶかもしれない」
例え、僕が偽善者だろうと何だろうと。《仲間殺し》と呼ばれて、周りの敵意を集めたとしても。
僕を信じると言ってついてきてくれた、この子のことだけは。
この先何があろうと、守り通せばいい。

ただ一言、君が『信じる』と言ってくれたなら───

「それでも、君は……僕と一緒に来てくれる?」
「ユノくん、さっき約束したばっかりだよ?もうわすれちゃった?」
そうして、僕が問いかければ。
彼女はあの日と同じように、あっさりと答えを出した。
その顔に、いつものふにゃりとした笑顔を浮かべて。

「ユノくん、守るって言ってくれたもん。わたしは信じてるよ」
「……、ありがと」
ちょっと泣きそうになったけど、ここは我慢。
今から思い切って大芝居をしようという時に、主演の僕が涙目だったんじゃ格好がつかない。
目頭が熱くなってきたのを何とか押さえ込み、出来る限り気障な笑顔を作ってみる。

「それじゃあ行こうか、お嬢さん。しっかりエスコートさせて頂きますよ」
……うん、自分で言ってて恥ずかしさで死にたくなってきた。
緊張しすぎて頭がおかしくなってるのかもしれない。

「はーい!」
それでも彼女は、僕が差し出した手を握り返してくれた。
僕もそれをしっかりと握り返し……空いた手を、腰のナイフへと伸ばす。


「──っ!?」

全員の注目が集まる中、武器に手を伸ばした僕に対して、何人かが息を呑んだのがわかる。
それでいい。
僕を憎め。
僕を恐れろ。
僕を敵視しろ。
βテスターも新規プレイヤーも関係なく、《投刃》という、共通の敵のことだけを考えろ。

たけど、それら全てを踏まえた上で。
この子に手を出すことだけは、相手が誰であろうと許さない。


「───ごちゃごちゃうるさいなぁ、雑魚共が」


さあ、始めよう。
僕の───《投刃のユノ》の、一世一代の大舞台だ。
最低で最悪な……最高の悪役を、演じてやろうじゃないか。



────────────



「───ごちゃごちゃうるさいなぁ、雑魚共が」
なるべく低い声で吐き捨てつつ、腰からナイフを引き抜き、投擲。
適当に放り投げた四本のナイフは、喚いている集団に向かって一直線に飛び───あ、キバオウの顔に当たった。

「うぉっ!?」
レイドパーティのメンバー同士となっている僕の攻撃は、キバオウにダメージを与えることなくシステムの障壁に遮られた。
だけど、突然ナイフが飛来して……しかも目と鼻の先で甲高い金属音が鳴れば、誰だって驚くだろう。
実際、キバオウは飛んできたナイフに驚いて引っくり返り、尻餅をついていた。
別に彼を狙ったわけじゃないけれど、図らずしも今までの意趣返しができてちょっとスッキリしたのは否定しない。

「あーあ、そういえばパーティ組んでたんだっけ。うっかりしてたなぁ」
「なっ……なにすんのや!?」
「何って、決まってるじゃないか」
何を当たり前のことを、と言いたさげな声を作りながら、両手を広げてやれやれといったポーズを取る。
我ながら白々しい演技だと思うけれど、冷静さを欠いている彼らにはこのくらいが丁度いいだろう。

「僕は元オレンジ───人殺しのPKだ。君たちがそう言ったんだぜ?だからPKとして当たり前の行動を取っただけさ。ま、パーティ組んでるのを忘れてたのは失敗だったけどね。せっかく殺れるチャンスを逃がしちゃったよ」
「なっ……!?」
「別に驚くことじゃないだろ?僕が昔呼ばれてた《仲間殺し》ってのは、つまりそういうことなんだからさ」
目一杯の皮肉を込めながら、ニヤリと笑ってやる。散々騒いでいたC隊のメンバーが、一歩後ずさったのが見えた。
おいおいそんなに逃げるなよ。自分たちで言い出したことじゃないか、まったく。
これでもし僕が本当のPKだったら、今ので殺されてても文句は言えないんだよ?

「それにしても心外だなぁ。ああ、まったくもって心外だよ」
言って、横目でキリトを見る。
僕の言っていることが信じられないといったように、呆然とした顔でこちらを見ていたキリト。そんな彼と目が合った。
ごめん、と心の中で謝る。
そして、彼に向かってナイフを投擲。

「ユノっ!?」
キンッ!という金属音と共に、投げたナイフが床に散らばった。
当然、パーティメンバーであるキリトに攻撃が当たることはない。キバオウの時と同様、障壁に遮られる。
それでも、パーティメンバーに攻撃を加えるという行為は、周りのプレイヤー達を驚愕させるのには十分だった。
十分に効果が出ているのを確認し、精々苛立ったような声を出す。

「同じ元βテスターってだけで、こんな奴と同類だと思われるなんて……ね」
「………」
「あの連中はβの頃、寄って集って群がってきたくせに、誰一人として僕を倒すこともできなかった雑魚プレイヤー共だ。レベル上げのやり方も───人の殺し方も知らない素人連中。それはこいつだって同じさ」
「おまえ……!」
僕の物言いに、シミター使いの男がまるで親の仇でも見るような目で睨みつけてきた。
それだけではなく、他のプレイヤー達からも敵意の視線が向けられているのをひしひしと感じる。
正直ちょっと……いやかなり怖いけれど、今更退くわけにはいかない。

「いいね、その目。βテスターの腑抜け共に比べたら、今の君たちのほうがよっぽどマシに見えるぜ?」
「………」
「こいつがボスのカタナスキルを知っていたのは、僕が事前に教えたからだ。こいつらがボスのLAを取る前に───僕の手で殺される前に、死んで貰っちゃ困るんでね」
キリトは何も言わない。何も言わずに、ただ寂しそうな目でこちらを見てくる。
だめだよ、キリト。ここは怒るところなんだから。
君は元βテスターだけど、僕みたいな《仲間殺し》とは違う。
君はそんなことを知りもせずに、パーティメンバーとして散々利用されていた。
だから、君は怒るべきなんだ。

「そういうことさ。元βテスターがどうとか下らないことを言ってる暇があるなら、自分たちの身を守る方法でも考えるんだね。でないと───」
言いながら、右手でメニューを操作する。
『パーティを解散しますか?』───『YES』を選択。
これで、僕はこの場にいる人間を攻撃することが───殺すことが、できる。

「───でないと、次は容赦しない。今回は大人しく退いてあげるけど、僕の邪魔をするなら───僕の前に立ち塞がるなら、相手が何人であろうと、誰であろうと……殺す」
殺す、という言葉を口に出した瞬間、自分の手が震えているのがわかった。
演技とはいえ、それを口に出したことで、本当に人を殺してしまった時のことを思い浮かべて───身体が、勝手に震える。

「………」
だめだ、何とか言え。
次の一言で締めなんだ、今更怖がってる場合じゃないだろう。
僕は《投刃》だ。《投刃のユノ》なんだ。
仲間を裏切り、平気な顔で殺すことのできる、仲間殺しのオレンジ《犯罪者》。
そんな奴が、こんなことで震えてどうする……!

「ユノくん」
「……!」
……不意に。
シェイリが僕の震える手を───繋いだ手を、ギュッと握ってきた。
たったそれだけの動作。たったそれだけで、身体の震えが和ぐ。

「……そうだね、シェイリ」
そうだ。僕は強くならなきゃいけない。
例え全プレイヤーを敵に回しても、彼女だけは絶対に守る。そのためには。
こんなことで、この程度のことで、みっともなく震えている場合じゃないだろ───!

「……、次の層の転移門は、僕が有効化《アクティベート》しといてあげるよ。使いたければ好きにするんだね」
「待てよ!このまま行かせるワケが───」
「よせ」
行かせるわけがないだろ、と言おうとしたC隊のメンバーを、ディアベルが片手で制する。
そのまま真剣な眼差しを僕へと向け、ゆっくりと口を開いた。

「ユノさん。ここでオレ達が争うことに意味はない。だから、今回は君を止めることはしない」
「へぇ?」
「こちらも無駄な犠牲は出したくない。だからオレ達は、これからも極力君には手を出さない。そのかわり約束してくれ。そちらも無闇に人を傷付けないと」
「……、賢明だね。その賢明さに免じて約束してあげるよ。僕はそっちから手を出されない限り、自分から君たちに危害を加えない。ま、いつまで有効なのかは知らないけどね?」
心底馬鹿にしているように───嘲笑うように言いながら、僕は内心でディアベルの心遣いに感謝する。
一見冷徹にも見える遣り取りだけど、ディアベルがこう言ってくれたお陰で、少なくとも今この場にいるプレイヤーは、自分から僕たち二人に手を出そうとはしないだろう。
彼は僕の真意を察した上で、お互いにとって一番被害の出ない方法を選んでくれたんだ。

「……そういうことだ。早くオレ達の前からいなくなってくれ」
「言われなくても」
「………」
その証拠に。
僕が背を向ける直前、彼は僕の目を見て、一度だけ頷いた。
全てわかっている、というように。

「聞いての通りだ、みんな。今後、彼を見かけても変な気は起こすな!オレ達の目的は、プレイヤー同士で殺し合うことじゃない。あくまでこのゲームの攻略なんだ!」
まったく……君はリーダーの鏡だよ、本当に。


────────────


「………、はああああああー……」
すれ違い様、キリトとアスナに小声で別れを告げ、シェイリと二人、次の層へと続く螺旋階段を登っていく。
その途中、誰の目もないことに安堵した途端、僕の口からは盛大な溜息が漏れた。

───やっちゃったなぁ。やっちまったよ。

これで僕は、彼らから《人殺しのオレンジ》として認識されただろう。
二度と誰かと───シェイリ以外と、パーティを組むことも、当然ながら出来ない。
これから僕は……僕たちは、たった二人で攻略を目指していかなくてはならない。

「まあ、パーティプレイは諦めるしかないかな……。というかシェイリ、本当によかったの?」
「えー?今から戻れとかいわないよね?」
「いや、言わないけどさ~……」
「ならいいのー!わたし、ユノくんといるのが一番楽しいもん」
この期に及んで彼女を巻き込んだことをちょっと後悔してる僕とは正反対に、当のシェイリは何てこともないように笑う。
そういえば、あの“はじまりの日”にも、似たような遣り取りがあった気がする。
その時も、彼女はこうやってふにゃりと笑っていた。
なんていうか……強いね、君は。

「……ん。そういうことなら、これからも二人で頑張っていこうか」
「おー!」
「それじゃ、まずは次の第2層だけど───」
螺旋階段を登りながら、記憶に残る第2層の特徴を説明する僕と、意気揚々と鼻歌なんかを口ずさむシェイリ。
そんな彼女と繋いだ手を、しっかりと絡めながら。僕たち二人は次の層へと向かう。

「……あ」
そういえば。
ボス戦が終わったら、僕の昔の話をするって約束してたけど───

「ユノくんユノくん!ほら、あそこ!おっきなドアがあるよー!」
……まあ、それは次の街に着いてから、宿屋の部屋で温かい物でも飲みながら話すとしようかな。
幸いなことに、時間はたっぷりあるようだし。 

 

とあるβテスター、人捜し

「ユー助、ちっとばかし頼みたいことがあるんだガ」
「ん?」
僕の宿泊している部屋に来るや否や、部屋に設置されたソファーに我が物顔でどかりと座り込み、情報屋『鼠のアルゴ』は唐突に切り出した。

「暫くの間でいいカラ、情報屋の助手をやってみる気ハ───」
「断る」
「最後まで聞けヨ!」
そこはかとなく嫌な予感を感じたため、言わせねえよとばかりにアルゴの言葉を遮る。
情報屋の助手ということはつまり、アルゴの使いっぱしりということだ。
僕は情報を買うためにアルゴを呼んだのであって、決してパシられるためじゃない。断固として拒否させていただこう。

「もちろんタダとは言わないヨ。それに、ユー助の欲しがってる情報とも関係のあることだかラ、悪い話じゃないと思うんだけどナー」
「むー……」
そんな僕の考えを見透かしたかのように、アルゴはこちらにとって無視できないワードをちらつかせてくる。
僕が欲しがっている情報と関係がある、などと言われれば、無闇に断ることができない。
かといって話を聞けば、そのままこの『鼠』のペースに持ち込まれ、雑用を押し付けられてしまう。

「さあどうするんダ、ユー助?」
そんな僕の様子を見て、アルゴは三本髭の描かれた片頬を吊り上げ、ニヤリと笑った。
最初から、僕が断れないのをわかってて聞いてきたんだろう。
くっ、結局このパターンか……!

「……、わかったよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「さっすが~!ユー助は話がわかルッ!」
「………」
ケラケラ笑うアルゴを張り倒したくなる衝動を何とか抑え、僕は買い物中のシェイリを呼び戻すためにメッセージウィンドウを開いた。
何だか面倒なことになりそうだなぁ、と思いながら。

2023年3月3日。
僕こと《投刃のユノ》が攻略組を敵に回した事件から、ちょうど三ヵ月が経った日のことだった。


────────────


「……というわけで。この辺りを手分けして捜すのが一番手っ取り早いと思うんだけど、どう思う?」
「ねぇねぇユノくん、そのお店って?」
「えーっと、アルゴの話だと───」
翌日。
僕とシェイリは手元にある情報を整理しながら、第17層主街区『ラムダ』の裏通りを歩いていた。
現在の最前線であるこの街は、人通りが多く、NPCショップやプレイヤー個人の露店などが数多く並ぶ。
反面、賑やかな表通りを一歩外れれば、薄暗い裏路地が複雑に入り組んでいるという、典型的な歓楽街といった様相を呈している。

どこの国でも、薄暗い裏通りというのは柄の悪い人間が自然と集まってくるものだ。
当然ながら、それはSAOにおいても例外ではなく。
この街の裏通りにも、オレンジとまではいかないものの、詐欺やMPK(モンスタープレイヤーキル)などの迷惑行為を行い、公の場に顔を出すことができない者───要するに、訳有りのプレイヤー達が集まっている。

「それにしても……誰もいないね」
「ねー」
そんな事情もあり、時刻はまだ昼を回ったばかりだというのに、ラムダの裏通りはひっそりとした静寂に包まれていた。
正直な話、アルゴの頼み(という名のパシリ)がなければ、僕たちがわざわざこの通りに近寄ることはなかっただろう。
僕たちだって、何も好き好んでこんな治安の悪そうな場所にいるわけじゃない。

「まあ、それはともかく。他のプレイヤーからの目撃情報──というより、まだ噂らしいけど。その話が正しければ、ここのどこかで露店を開いてるらしいよ」
「どんな人なんだろうね~」
「……、エギルを強面にした感じの人だったりしたら、やだなぁ……」
僕たちがラムダの裏通りに足を運んだのは、何人かのプレイヤー達からアルゴの元に寄せられた噂話の真偽を確かめるためだ。

昨日、僕がアルゴを部屋に呼んだ理由は、腕のいい鍛冶師を紹介してもらうためだった。
12月の初め───初のボス攻略戦が終わってから、三ヵ月。僕とシェイリは今も変わらず、ペアで最前線に挑み続けている。
当初こそ、他のプレイヤー達からの闇討ちを恐れていた僕だったけれど、あの時のディアベルのフォローがあったためか、今のところ僕が危惧していたような事態は起きていなかった。
ボス攻略戦に参加する際も、一応は『戦闘中にPKされるのを防ぐため』という名目で、僕とシェイリの二人もレイドに加えてもらっている。
当然ながら、キバオウ含む一部のプレイヤー達からは、戦闘中も射殺すような視線を向けられているわけだけど……まあ、それは当然だろう。
自分達に武器を向け、あまつさえ『邪魔するなら殺すよ?』と言い放ったプレイヤーと、仕方ないとはいえ共闘する形を取らなくてはならないのだから。

もっとも。
攻略に参加している全員が全員、敵意の視線を向けてくるというわけでもなかった。
あの時もフォローを入れてくれたディアベルをはじめ、褐色肌の両手斧使いエギルと、彼がリーダーを務めていたB隊のメンバー達。
シェイリの戦い方にドン引きしたような顔をしていた、D隊リーダーのリーランド。
それに……キリトとアスナも。

あの場に居た全員から敵対視される覚悟をしていたというのに、そんな僕の予想に反して、彼らは僕を咎めることをしなかった。
二度と他人と相容れることがないだろう、と思っていた僕にとって、それはとてもありがたくて……同時に、申し訳なく思ってしまう。
あの時の僕の行動で、元βテスターと新規プレイヤーが対立するということはなくなった。
そのかわり、今度は彼らが『殺人鬼と仲良くしてる連中』として、他の攻略組プレイヤー達からはあまりいい顔をされていない。
彼らはみんな、揃いも揃って『気にしていない』と笑ってくれたけれど、その原因を作った張本人である僕としては、引け目を感じずにはいられないわけで……

……と、まあ、その話は今は置いておこう。


閑話休題。

僕がアルゴに鍛冶師の紹介を頼んだのは、シェイリの使っている武器がそろそろ限界を迎えるためだ。
ディアベルの機転によって命を狙われることはないものの、《投刃》の名前は瞬く間に他のプレイヤー達の間に広まっていった。
当然、その中には鍛冶師や薬師といった、職人クラスのプレイヤーも含まれる。

多くのRPGがそうであるように、SAOでは店売りの武器や防具よりも、モンスターのドロップ品やプレイヤーメイドの品の方が、性能のいい物が多い。
必然的に、敵との戦いを有利に進めたいのであれば、店売りよりも非売品や鍛冶師作の武具で身を固める必要が出てくる。

大人数でパーティを組んでいるなら、多少装備の質が悪くても人数でカバーすることができる。
だけど、僕とシェイリは二人だけのパーティだ。
ペアで最前線に籠もっている僕たちにとって、店売り装備で敵の前に立つのは自殺行為といえる。

そのため、僕たちもプレイヤーメイドの武器を欲しているのだけれど、そこで二つほど問題が。
一つは、《投刃》の名前が広まってしまったために、武器の製作依頼を請け負ってくれる鍛冶師がいないかもしれないということ。
もう一つは、シェイリの狂戦士じみた戦い方に、そこらの武器では性能が追いついてこないということだ。

一つ目に関しては、見た目だけなら何とか誤魔化すこともできなくはない。
このデスゲームが始まって以来、僕は人前ではフードを目深に被り、顔がわからないように振舞っていた。
あの場にいたプレイヤー達が持つ《投刃のユノ》のイメージは、『フードを被った小柄な投剣使い』といったところだろう。
逆にフードを被らずに、素顔を晒してやれば……名前を名乗らない限りは、バレないかもしれない。

だけど、それはあくまで鍛冶師が《投刃》の特徴を詳しく知らなければの話だ。
いくら変装しようと、声や体格までは誤魔化せない。バレる相手にはバレてしまうだろう。
『人殺しに売る武器はない』と言われてしまえばそれまでだ(実際には殺してないけど)。

そして、二つ目の問題。
シェイリはレベルアップボーナスを全て筋力値に振っているらしく、並大抵の敵であれば両手斧の大火力で真っ二つにしてしまう。
本人が両手斧が一番使いやすいと言っていることから、武器の振りや重心の置き方などの立ち回りによって、本来の威力よりもいくらかブーストされているようにも見える。

と、それはいいことなのだけれど。
問題は、シェイリの意図的(無意識?)な威力の底上げによって、本来であれば歯が立たないような相手にも攻撃が通ってしまうことだ。
普通に考えれば、悪いことではないのだろう。
MMORPGにおいて、火力が高ければそれに越したことはないのだから。

ただし。
シェイリの場合、なまじ攻撃が通ってしまうだけに、敵の鎧や盾などの硬い装甲もお構いなしにぶった斬ってしてしまう。
本来であれば鎧の隙間などの装甲の浅い部分を狙うべきなんだけど、両手斧の分厚い刃でそれを行うのは難しい。
そのため、彼女は『防御の上から最大威力の攻撃を叩き込む』という力任せな戦法をとっている。
当然、敵の装甲と衝突することが多くなるため、武器の耐久度も著しく低下してしまうというわけだ。


そんなわけで。
僕たちはアルゴの情報網を使い、『訳有りプレイヤーでも製作依頼を請け負ってくれて、尚且つ腕のいい鍛冶師』を捜してもらうことにした。
といっても駄目なら駄目で、店売りの武器をNPCで強化して、いい武器がドロップされるまでの繋ぎとして使っていくつもりだった。
正直な話、そんな都合のいい人間がいるわけがないと思っていたからだ。

……ところが。
どうやらアルゴの情報網には、その『都合のいい人物』の情報がしっかりとヒットしていたらしい。
ただし、まだ噂話の域を出ていないという注釈付きで。

昼の12時から15時までの三時間の間だけ、ここ第17層主街区『ラムダ』の裏通りに、相当に質のいい武具を取り扱う露店商がいる。
偶然その露店を見かけたプレイヤーによると、武具の製作者名は『Lilia』。
名前から推測するに、女性の鍛冶師だろうという話だ。

その後も裏通りを拠点とするプレイヤーが何人か目撃しているらしく、扱っている武具の質の良さと、女性プレイヤーが作ったものということも相まって、一部の間では有名な店となっているらしい。
……だけど、ここにもまた問題がひとつ。
露店で武具を販売しているのがリリア本人ではなく、非常に無愛想な男性プレイヤーなのだそうだ。
客を相手に積極的に商売する様子もなく、更に製作者のことを聞こうとすると激怒する。
リリアに店番として雇われただけなのか、それとも彼氏か何かなのか。
その辺の真偽も不明であり、ミステリアスな武具屋としてマニアに人気らしい(マニア?)。


「まあ……、ここで商売してるくらいだし、僕たちでも大丈夫だよね」
わざわざ裏通りで商売しているということは、恐らくリリアは訳有りプレイヤーに対する偏見は持っていない。
もしくは、彼女自身が訳有りという可能性もある。
そんな相手であれば、僕たちのようなプレイヤーからの製作依頼も受けてくれるだろう。

アルゴの助手(という名の使いっぱしり)としての僕の仕事は、噂の真偽の確認。
鍛冶師の情報を無料で提供する代わりに、彼女がどんな人物なのかを確かめてきて欲しい、とのことだ。
しかも驚いたことに、もし噂が本当だった場合、僕に対する報酬として武器の制作費を半額都合してくれるという。
どういう風の吹き回しだ、と問い詰めれば、彼女は珍しく苛立ったように『あの店番は好きになれなイ』と吐き捨てた。
仕事に私情を挟まないこの『鼠』にそこまで言わせるとは、一体どんな男なんだか……。

「うーん、不安だ……」
「ユノくんユノくん!早くさがそうよー!」
「はいはい。それじゃあ僕はこっち、シェイリはそっちから捜そうか。言っとくけど、ここにいるプレイヤーはタチの悪いのが多いから気を付けてね。何かあったら僕を呼ぶか、すぐに逃げること。わかった?」
「はーい!わかりました!」
片手を伸ばしながら元気よく返事をするシェイリ。きみは遠足中の小学生かなにかですか?
いつもながらに思うけど、彼女は本当に高校生なんだろうか。
というか本当に大丈夫だよね?飴ちゃんあげるからちょっとおいで、なんて言われてホイホイついて行ったりしないよね?
周りが思っているほどお馬鹿ではないんだけど、見た目や口調のせいか、そこはかとなく不安を感じずにはいられない……。

……と、そんなことを考えてる場合じゃないか。
本当ならシェイリと別行動するのは危なっかしくて仕方ないけれど、この入り組んだ裏通りを一人で全部捜すのは無理だ。
彼女が変なプレイヤーに目を付けられる前に、噂の露店商を見つけるしかない。

「さて、と……」
それじゃ、お仕事といきますか。 

 

とあるβテスター、絡まれる

シェイリと別れて一分もしないうちに絡まれた。

「へっへ、ここから先は通行料が必要だぜぇ?通して欲しけりゃ金とアイテムを置いていきな」
「……まじですか」
あまりにも早すぎる展開についていけない僕の前で、いかにもチンピラですといった顔の方々が前後の道を塞いでいる。
集団のリーダーらしき大柄な男が仁王立ちしながらニヤニヤと笑い、これまたお約束な台詞を口にした。
どうやら裏通りに入った時から目を付けられていたらしく、ご丁寧なことに隠蔽《ハイディング》スキルを使って僕たちが別行動するのを待っていたらしい。
隠蔽スキルの熟練度もそこそこ高いらしく、僕の索敵スキルでは気付くことができなかった。

「参ったなぁ……」
シェイリに気を付けろなんて言っておきながら、いの一番に自分が絡まれていたら世話がない。
ここは圏内だからPKされる恐れはないけれど、こうやって通路を塞がれると身動きが取れなくなってしまう。
これは『ブロック』と呼ばれるハラスメント行為で、圏内では相手を意図的に動かすことができないという仕様を逆手に取ったものだ。
こうなってしまうと自力で退かせる方法がほとんどない上、下手に相手に触れればこちらがハラスメント行為としてシステムに認識されてしまう。
そのため、相手の要求を呑まざるを得ないというわけだ。

……と、そうはいっても。
はいそうですかと要求通りに身包みを引き渡す道理もないわけでして。

「仕方ないね……」
「ああ?」
わざと相手に聞こえるよう呟き、胸のホルスターから短剣を引き抜く。
『ハンティングダガー』。万が一、戦闘中に投擲用ナイフを切らした時のために、形だけでもと用意しておいた近接武器だ。

「……、くっ、くははははっ!オイオイなんのつもりだそりゃ!そんなチャチな武器でオレ達をヤろうってのかよ!面白い冗談だ!」
「つーかここは圏内だぜ?どうやってオレ達を傷付けるつもりなんですかぁ?ひひっ!」
「オレ達、こう見えて結構レベルあるからさぁ!そんなナイフじゃノックバックさせられないよ?ひゃはははは!」
武器を構える僕の様子がおかしくて堪らないといったように、リーダーを始めとした全員が笑い出した。
確かに彼らの言う通りだ。圏内ではいくら攻撃しても相手のHPが減ることはなく、そのかわり攻撃した人間もオレンジになることもない。
ソードスキルを当てれば衝撃とノックバックは発生するものの、その大きさは武器の威力や、プレイヤー本人の筋力値からなる攻撃力に比例する。
短剣という威力が低めな武器で、おまけに敏捷値ばかりを上げている僕がそれを狙ったところで、彼らを退かせることはできないだろう。

だけど、それでいい。
この場を切り抜けるには、ナイフ一本あれば十分だ。

「……ねぇ、知ってる?」
短剣を片手で弄びながら、なるべく不気味に聞こえるように声を作る。
このフレーズを口にした瞬間、何故か豆と柴犬が脳裏を過ぎったけれど、今は関係ないので余計な思考をカット。

「SAOのシステムって、意外と穴だらけなんだよね」
「は?オマエ、何言って───」
「だから、例え圏内であっても……人を殺す方法なんて、少し探せばいくらでも見つかるんだ。例えばこんな風に──ねッ!!」
言い終えたのと同時、短剣を構えてリーダーに向かって全力で駆け出した。

短剣 中級突進技《ラピッド・バイト》 ───の、構えだけをとりながら。

「なに!?」
ここは圏内で、尚且つソードスキルすら発動させていないため、僕の攻撃が当たったところでダメージもノックバックも発生しない。
それでもリーダーは、猛進する僕に対して怯んだ様子を見せた。
僕が『圏内でも人を殺せる』と告げたことによって、頭ではありえないと思いつつも、身体が勝手に反応してしまったのだろう。

「はあッ!!」
「っ!?」
僕は一際大きな声を上げながら、手に持っていた短剣をリーダーの顔目掛けて投げつけた。
投剣スキルでも何でもない、本当に“投げただけ”の、なんともお粗末な一撃。
僕の動きを警戒していたリーダーは反射的に両腕で顔を庇い、短剣は彼に当たる寸前のところでシステムの障壁に遮られ、甲高い金属音と共に弾かれた。

「なんてね」
その隙に、僕は無防備となったリーダーに攻撃───はせずに、彼の足と足の間をスライディングで潜り抜けた。
ただでさえ大柄な上、見事な仁王立ちをしていたリーダーの両足間の幅は、小柄な僕が潜り抜けるには十分なスペースがあった。
そのまま彼らに背を向け、敏捷値にものを言わせた全力疾走で裏通りを駆ける。

「──っ!!テメエ、ふざけんじゃねぇぞッ!!」
背後からリーダーの怒号が聞こえてくるけど、無視無視。
僕は最初から戦うつもりなんて毛頭なかったわけで(そもそも圏内じゃ無理だし)、彼らを騙したことに対して責められる謂れはない。

走りながらメニューを開き、スキルMod《クイックチェンジ》のショートカットアイコンを選択。
しゅわっ!という控えめな効果音と共に、放り投げた短剣が僕の手の中へと戻った。

Mod(Modify)とは、各種武器スキルを一定値上げる毎に取得チャンスを得られる、簡単に言えばスキルの拡張オプションようなものだ。
《ソードスキル冷却時間短縮》《クリティカル率上昇》《毒耐性10%》などの常時発動型のものや、《クイックチェンジ》のように任意で発動させる必要のあるものまで、多種多様なスキルModが存在している。

この《クイックチェンジ》はほとんどの片手武器で初期から習得できるアクティブModで、ショートカットアイコンから発動させることで、あらかじめ登録しておいた武器に一瞬で持ち替えることができるという効果を持っている。
これを使えば、武器を持ち替えるのにいちいち装備ウィンドウを開く必要がなく、更に『直前まで持っていた武器を自動で装備し直す』という設定もできるため、装備変更の手間を省いたり、敵に弾き飛ばされた武器を拾いに行く必要がなくなったりと、使いこなせると何かと便利なスキルだったりする。
僕は第1層の頃は投剣スキルを封印していたので、その間に使っていた短剣のスキルModで《クイックチェンジ》を習得済みだった。
発動させた時の持ち替え用武器として、さっきリーダーに向かって投げつけた『ハンティングダガー』を指定していたため、短剣は自動で装備解除→再装備という流れを辿り、逃走を続ける僕の手に戻ったというわけだ。


「こんなものかな……っと」
彼らをある程度引き離したところで適当な脇道へと飛び込み、すかさず隠蔽スキルを発動させる。
視界の端に映る『85%』という数字は、ハイディング中の僕がどれだけ背景に溶け込んでいるかということを表す数値だ。
85%という数値だけを見れば、一見かなり高い隠蔽効果を誇っているように思える。
ところが、この数値は装備の効果や地形、自身の熟練度や相手の索敵スキルなどにも影響されるため、実際にはそこまで高いというわけでもない。
僕は人目を避けるため、隠蔽スキルを人並み以上に鍛えてはいるものの、索敵スキルを鍛えている人や攻略組などの高レベルのプレイヤーが相手となれば、いとも簡単に発見されてしまう。

だけど、まあ。
それはあくまで、攻略組クラスのプレイヤーが相手だった場合の話だ。
彼らのような連中を撒くだけなら、85%もあれば十分すぎる程だろう。

「クソッ!あの野郎、どこ行きやがった……!」
僕を追いかけていたプレイヤーの一人が、毒づきながら周囲を捜している。

───予想通り、かな。

声には出さず、心の中で呟く。
彼らはその手口の性質上、隠蔽スキルはそこそこ鍛えてあるものの、逆に使う必要のない索敵スキルは大して高くないようだ。

「あんなガキに出し抜かれるリーダーもリーダーだよ、ったく……。デカいのは身体と態度だけかっつーの」
その証拠に、彼は一度だけこちらの脇道を見て、しかし僕に気付いた様子もなく別方向へと走り去っていった。
というかリーダー、手下に思いっ切り嫌われてるんですけど。
なんというか、お気の毒に……。


「……、はぁぁぁぁ……」
追跡者がいなくなったのを確認した後、僕は地面に座り込んで盛大に溜息をついた。

ラムダの裏通りは治安が悪いとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。
予め全員が隠蔽スキルを使い、相手が一人になった瞬間に取り囲む。
並のプレイヤーであればパニックに陥るだろうし、仮に冷静だったとしても彼らのブロックから脱出する手段がほとんどない。
転移結晶を使えば逃げることができるけど、あれは非売品な上に買うとしても結構な値段がするし、あの状況で咄嗟にその判断をするのも難しいだろう。
アイテムを取り出す前に妨害されて、転移結晶ごと身包みを剥がされるのがオチだ。

手口がやけに円滑だったところを見るに、彼らがああいった行為を働くのはこれが初めてというわけではないだろう。
本格的なオレンジではないとはいえ、何も知らずに迷い込んだプレイヤーが被害に遭う前に対策を立てる必要があるかもしれない。
今度、ディアベルにでも相談してみようかな。ああでも、あのシミター使いあたりに見つかるとうるさそうだなぁ……。

と、そんなことを考えながら周りを見回した僕は、

「……あれ?」
自分がいる脇道の更に奥、細い通路の突き当り部分に、一人の男が座り込んでいるのを発見した。

「あのー……」
「……あぁ?誰だオマエ。追い剥ぎなら他所でやれ」
僕が思わず近寄って話しかけると、向こうもこちらに気付いたようで、人の顔を見るなり面倒臭そうに吐き捨てた。
こういう場所だから仕方がないのかもしれないけれど、初対面の人間に対して随分と不遜な態度だ。

「んだよ、よく見りゃまだガキじゃねぇか。追い剥ぎごっこか?それとも迷子か?」
「どっちも違います」
フードの隙間から覗くこちらの顔を無遠慮に眺め、心底見下したように言う。
そんな彼の態度に、僕はちょっとイラっとしてしまった。
確かに目の前の男とはだいぶ歳が離れていそうだけど、僕はもう子供扱いされるような年齢じゃない。
というか、あんな追い剥ぎグループと一緒にしないでほしい。
こっちは彼らに追われていた側なわけで、あんなタチの悪いプレイヤーたちと同類に思われるのは心外だ。

「僕は追い剥ぎでも、ましてやガキでもありません。ここに来たのは───」
「ほお?」
「!?」
我ながら沸点が低いと思いつつも反論しようとした、その瞬間。
男の手が僕に向かって伸び、顔から30cmほど下───胸のあたりを鷲掴みにされた。
やられた本人である僕ですら唖然としてしまうほどの、見事なセクハラだった。

それだけに留まらず、男はそのままむにむにと指を動かし、

「あー、この手応えは……女にしちゃあまりにもお粗末っつーか……男、か……?男かよ……」
「な……」
正直ガッカリだよ、といったような顔で溜息をついた。

「チッ。んだよ、紛らわしい顔しやがって。リアル僕っ娘だと思った俺のときめきをどうしてくれんだよ」
「な、な……!」
「っつーかオマエも男なら顔赤らめてんじゃねぇよ、気色悪りぃ。言っとくが、俺はそんな趣味はねぇぞ」
「───ッ!!だったらその手を放せぇぇぇぇっ!!」
「ぐふっ!?」
思わず投剣スキルを発動させた僕の零距離射撃が顔面にぶち当たり、彼は座った状態から後頭部を地面に叩き付けられた。
先の短剣とは違い、投剣スキルは敏捷値によって威力が補正されるため、しっかりと衝撃及びノックバックが発生する。

「おまっ、いきなり何しやが───」
「そぉれー」
「ぐはっ!?」
視界の端に表示された『ハラスメント行為を受けました。対象プレイヤーを監獄エリアへ送りますか?』という防犯コード発動の可否を問うウィンドウをあえて無視し、僕は倒れた男の顔に向かってナイフを投げ続けた。
シェイリに馬乗り状態でボコボコにされたいつぞやの僕のように、二重の衝撃によるダブルパンチによって彼の身体が跳ねては落ち、跳ねては落ち───

「てめっ、やめぐぉっ!?このガキ、後でタダじゃ済まさね──うぶっ!?」
ははは、聞こえなーい。 

 

とあるβテスター、看破する

しまったやりすぎた、と思った頃には時既に遅し。
結構な量のナイフを無駄にしてしまったことに軽く後悔しながらも目の前を見れば、そこには地面に倒れ伏した男の姿が。

「……どうしよう」
これはまずい。
薄暗い裏路地、倒れた男、ナイフを手に持った僕。
なんとも殺人現場にありがちなパターンじゃないか。
こんなところを誰かに見られようものなら、『あの《投刃》が人を殺してた!』とか噂されてしまう。
実際には圏内だから人殺しとか無理なんだけど、さっき追い剥ぎプレイヤー相手に『圏内でも人は殺せるんだよ』とか言っちゃったし。
これで明日のアルゴの情報誌の見出しが『圏内殺人事件発生!なんと犯人はあの《投刃のユノ》!』なんてことになったら……!

『ディアベルはん!間違いない、こいつが犯人や!』
『そのようですねぇ。ユノさん、ちょっと黒鉄宮まで御同行願えますか』
『堪忍しぃや!ネタは上がっとるんやで!』
『圏内殺人……恐ろしい事件を考えましたねぇ。キバオウくん、お手柄ですよ』

待ってくださいナイトさん!悪いのはこの男です!僕は被害者なんです無実なんです───


「なにしてるのー?」
「ひっ!?黒鉄宮だけは許してください! ───ってなんだ、シェイリか……」
「??変なのー」
突然背後からかけられた声に振り向けば、声の主はいつの間にか近くにいたらしいシェイリだった。
パーティメンバーの位置情報で僕がここから動かないのを不思議に思い、様子を見にきたのだそうだ。
なんとも絶妙なタイミングだったせいでドキッとしたけれど、お陰で暗い未来のイメージから抜け出すことができた。
うん、よく考えたら正当防衛だし、僕は悪くないよね。

「ねぇねぇ、その人はー?」
「裏通りに巣食う変態だよ。こうやって死んだフリして女の子が近寄ってくるのを待ってるんだ。危ないから近付かないようにね」
「はーい」
「ちげーよ!」
あ、起きた。

「あることないこと吹き込んでんじゃねーよ!俺のイメージが壊れるだろうが!」
「えー……」
壊れるもなにも、初対面の相手の胸部を鷲掴みにするなんて変態以外の何だというんだろう。
僕はコードを発動させることは何とか抑えたけれど、他の人が相手だったら牢獄送りにされていてもおかしくないのでは。

「あー?あんなのちょっとしたスキンシップだろうがよ。生娘じゃあるまいし、いちいちギャーギャー騒ぐほどでもねぇだろ。そもそもオマエ、男だし」
「………」
うわぁ。
うわぁ……。

「こんな場所じゃ出会いもねぇし、たまに見かけた女の子とスキンシップするぐれぇいいだろうがよ。オマエも男ならその気持ちくらいわかるだろ、小僧」
よりによってあなたと一緒にしないでほしい。

ちなみにこの人、改めて見るとかなりの美形だ。
目付きが悪いのが玉に瑕だけど、それをひっくるめても全体的に整った顔立ちをしている。
ディアベルが爽やか系イケメンなら、この人はワイルド系イケメンといったところだろう。
街を歩けば女性が放っておかないんじゃないだろうか。

……まあ、中身はセクハラおやじと同レベルだけど。
あと小僧言うな。

「ねぇねぇ、おにーさんはここで何してるのー?」
「セクハラの獲物を物色してたんじゃないの?」
「だからちげーよ!人をそんな目で見るんじゃねえ!武器屋だ武器屋!店を出してんだよ!」
うわ、すっごく胡散臭い。
こんな人気のない裏通りで武器屋とか、咄嗟の言い訳にしてもちょっと……。
そもそもこの人、とても接客ができるようには見えないし───って、あれ?なんだか聞き覚えがあるような?

「……、あの、ひょっとして噂の武器屋さん?」
「あ?んだよ、客だったのかよ。そうならそうって最初から言えよな。いきなりぶっ放してくるからアイテム目当ての強盗か何かかと思ったぜ」
別にいきなりスキル連発したわけじゃないとか、そもそも原因はあんたのセクハラだろとか、色々と突っ込み所が満載だけど今は我慢。
どうやら、この男が件の露店商で間違いないらしい。
ラムダの裏通りに店を構えていて、男性プレイヤーで、態度が無愛想(というより、おっさん)。
確かに、噂の内容と一致する。

となると、アルゴの言っていた『好きになれない店番』というのは、ほぼ間違いなくこの人だということになるけれど……

「……ねぇ、アルゴって情報屋に心当たりは?」
「アルゴ……?あー、あのちんちくりんか。オマエの知り合いか?」
「ちんちくりんって……」
「あいつはちっとばかし痩せすぎっつーか、もう少し肉付けたほうがいいな。特にこのあたりに」
「………」
彼はそう言って、僕の胸のあたりを指差した。
こういうのもセクハラのうちに入るんだろうけど、生憎と身体に触れない限りハラスメントコードは発動しない。
というか今ので確信した。この男、噂を確かめる為に接触してきたアルゴにも同じことをしたに違いない。
あの『鼠』をもってして『あの店番は好きになれなイ』と言わしめたのは、つまりこういうことなんだろう。
なんというか、顔はいいのに残念な人って本当にいるんだなぁ。
そしてアルゴ、よくハラスメントコードを発動させずに耐えたね。君は偉いよ……。

「あ、ほんとだ!みてみて、武器がいっぱいあるよー!」
「……うん。本当に武器屋だったんだね」
今度彼女に何か奢ってあげよう、なんてことを僕が考えていると、シェイリが目を輝かせながら嬉々とした声をあげた。
どうやら彼の言い分は本当だったようで、足元に広げられたシートの上には様々な種類の武器が所狭しと並べられている。
その中の短剣を手にとって、鑑定スキルを発動。

固有名《シャドウピアス》
武器カテゴリ《短剣》
製作者名《Lilia》
特殊効果《隠蔽スキル補正》

製作者名は『Lilia』。噂の鍛冶師で間違いない。
単純な武器性能も高い上に、隠蔽スキルが補正されるエクストラ効果付き。最前線でも十分に使っていけるレベルの品だ。
他の武器にも鑑定スキルを使ってみると、そちらも負けず劣らずの高性能品だった。噂通り、かなり質のいい武器を取り扱っているらしい。
というかこの短剣、欲しいなあ。
装備してるだけで隠蔽スキルが補正されるなら、接近戦が下手な僕でもサブ武器として持っておきたいところだ。
うーん、思い切って買っちゃおうかな。ああでも、それでナイフ代がなくなったら本末転倒だなぁ……。

「だからそう言ってるじゃねぇか。俺を何だと思ってたんだよ」
と、僕が一人葛藤していると、彼は心外だといった様子でジト目を向けてきた。
どの口がそれを言いますか。

「何って……変態」
「おい」
「痴漢」
「おい……」
「セクハラおやじ」
「………」
「おにーさんヘンタイなの?」
「……そろそろ泣くぞ?」
シェイリの一言が止めになったらしく(彼女の無垢な瞳がダメージを倍増させた模様)、男は目に見えて落ち込んだ様子をみせた。
指で地面に“の”の字を書きながら、『なにもそこまで言わなくても……』『セクハラおやじって……おやじって……』などと呟いている。
いや、完全に自業自得なんだけど、僕は別に間違ったことは一つも言っていないんだけど、そこまで落ち込まれると何だか悪いことをしたような気になってくるじゃないか……。
というかこの人、自分は人に散々言う割に、相手に言われるのはかなり落ち込むらしい。
意外とナイーブな人なんだろうか。見かけによらず。

「おにーさん、元気だして。泣いちゃだめだよー?」
「う、うるせーよ!別に泣いてねぇし!撫でんな!オマエみたいなガキに慰められてもぜんぜん嬉しくねーよ!」
……ああ、そうか。そういうことか。
シェイリに頭を撫でられ、顔を真っ赤にしながら怒鳴る彼の姿を見て、僕は確信した。

この人、ヘタレだ。


────────────


「はーん、なるほどね。あの小娘の頼みで来たってわけか」
数分後。
なんとか落ち着きを取り戻したらしい彼は、再び元の不遜な態度に戻っていた。
といっても、中身がヘタレなのを知ってしまったため、いまいち格好がつかない気がしてならない。

「んで?オマエさん方は武器の製作を頼みたいと」
「そういうこと」
「だよー」
「はっ、わざわざご苦労なこって」
そう言って、鼻で笑う彼。
なるほど、確かに店番に向いているとはいえない人物だ。
いくら取り扱っている武器の質がいいとはいえ、こんな態度を取られればカチンとくる人もいるだろう。
しかも治安の悪い裏通りの、おまけにこんなに目立たない路地でひっそりと露店を出しているだけとなれば、売り上げは期待できなさそうな気がする。
そもそもこの人、リリア本人とどういう関係なんだろうか。

「それで、これを作ったリリアさんは……」
「ああっ!?リリアだぁ!?」
「!?」
うわ、びっくりした。
リリアの名前を出した瞬間、彼の態度が180度変わり、わかっていたけど驚いてしまった。
こうなることは事前情報で聞かされてはいたけれど、いざ目の前で豹変されるとドキッとするなぁ……。

「この子に合った武器が欲しいんだ。だから直接、本人に製作を依頼したいんだけど」
「チッ……」
苛立ったように舌打ちされてしまった。何がそんなに気に食わないんだろうか。
アルゴの話によれば、今までにリリア目当てで店を訪れたプレイヤーは、彼のこの様子に驚いて何も聞けずに逃げ帰ってきたのだそうだ。
確かに、急に怒声を上げた彼の顔は、もともとの目付きの悪さも相まってかなり怖い。
実際、本性がヘタレだと知っていた僕ですら一瞬驚いてしまったほどだ。

とはいえ、僕だってこのまま引き下がるつもりはない。
シェイリの武器を作らなきゃいけないし、彼女の人となりを調査するのはアルゴに頼まれたことでもある。
そして何より、散々セクハラされた挙句に小僧呼ばわりまでされて、何も聞かずに引き下がったら割に合わない。

「そういうわけだから、リリアさんを呼んでもらえないかな?店番を頼まれてるなら連絡は取れるよね?」
ちょっと強引かなとも思ったけれど、リリア本人と連絡を取れるとしたら彼しかいないため、ここはあえて踏み込んでみる。
情報収集にはこのくらいの図々しさも必要だろう、と心の中で自分に言い訳しながら。
アルゴの助手を務めるからには、この程度で遠慮していられない。

「………」
「……?」
と、また怒鳴られるのを覚悟していた僕は、彼の様子がおかしいことに気が付いた。
あれほど怒り心頭といった様相だった彼が、急に静かになってしまったからだ。

「……リリア、リリア、リリアねぇ……」
「……、あのー……?」
「そうだよな……リリアだよな……リリアなんだよなぁ……」
あれ、なんだかまた落ち込みモードに入っちゃったみたいなんだけど……。
再び暗いオーラを纏ってしまった彼は、僕が声をかけても心ここにあらずといったように、一人で何かをボソボソと呟いていた。
噂では彼はリリアの彼氏か何かで、彼女目当てで来た客を追い払ってるのではないかという話だったけれど……この様子だと、そうでもなさそうだ。
というか、彼女の名前を出されて落ち込む意味がよくわからない。何なんだろう?

と、次の瞬間、

「ねぇねぇおにーさん、リリアちゃんって───」
「あぁ!?誰がリリアちゃんだコラァ!」
シェイリが何気なく口にした一言に、落ち込んでいたはずの彼が過剰に反応した。

「……え?」
「やべっ……」
僕がその態度に違和感を覚えたのと同時、彼は『しまった』という表情を浮かべ、再び黙り込んだ……けど、もう遅い。
彼が咄嗟に言い放った言葉を、僕は確かに耳にしてしまったのだから。
『誰がリリアちゃんだ』と言った彼の言葉は、まるで他人ではなく自分のことを言われているかのような言い方だった。
……というより、まさしく自分自身のことなんだろう。“彼女”にとっては。

「……なるほど。そういうことなんだ」
「げっ……!?」
表面上をどう取り繕おうと、やはり彼の本質はヘタレらしい。
その証拠に、僕がカマをかけるように言うと、彼はギクリとしたように表情を強張らせた。
なんともわかりやすい反応。自分から答えを教えているようなものだ。
ポーカーフェイスが要求される駆け引きには向いていないだろう。

そんな彼の様子を見て、僕は自分の推測が間違っていないことを確信する。
つまり、噂の鍛冶師の正体は───


「もう隠さなくてもいいよ、“リリアさん”」
「だああああ!キャラネームで呼ぶんじゃねえええ!」
彼のことで間違いないだろう。


────────────


「……その、なんだ。俺ってこんな名前だろ?表立ってパーティになんて入れやしねぇし、かといってソロで攻略するのもいい加減限界だったんだよ」
「それで鍛冶師に転向を?」
「そういうこと。自分の作った武器には名前が表示されちまうけど、俺が売ってたところで本人だとは思わねえだろ?こんな顔だし」
「まあね。正直、僕もそれは予想してなかったよ。まさか君がリリアだったなんて」
「そっからは必死に武器造りまくって、目立たねえ場所で売り捌いての繰り返しだ。で、ラムダが開放されてからはここに移った。この裏通りに巣食ってる連中の柄は悪いが、ひっそり商売するにはもってこいの場所だったんでな。あとリリアって呼ぶんじゃねえ」
「あ、ごめん」
「頑張った甲斐もあって結構いい武器も作れるようになったんだが、いつの間にか噂になっちまったらしくてなぁ。勘違いした野郎連中が『リリアさんに会わせてください!』とか下心見え見えな態度で近寄ってくるもんだから、気色悪りぃったらなくてよぉ」
「りっちゃんも大変だったんだねー」
「誰がりっちゃんだテメェ!揉むぞクソガキ!」
「コード発動させるよ?」
「ごめんなさい」
僕が開きっ放しだった警告ウィンドウをちらつかせると、リリアは即刻掌を返し、身体を前に倒して頭を床に擦り付けた。
日本に古来より伝わる最強の謝罪体勢。つまり土下座。
地面に頭を押し付けながら『勘弁してください!牢獄送りだけは!』と懇願する彼の姿には、もはや最初に感じたイケメンの面影はどこにもなかった。
いやまあ、古来から土下座の文化があるかどうかは知らないけどね。
というか、謝るくらいならセクハラしなければいいのに……。

まあ、それはともかく。
アルゴに聞かされていた情報と、彼から聞いた話を合わせて、大体の事情はわかった。

曰く、このアバター名は彼が自分で名付けたものではなく、βテスターだった妹さんが使っていたものらしい。
彼は今年で24歳、妹さん───リリアのアバターの本来の持ち主は、僕と同い年の16歳。結構な年齢差のある兄妹だ。
両親は既に他界済みで、彼は歳の離れた妹を養いながら暮らしていたらしい。

そんなある日、妹さんがナーヴギアが欲しいと言い出した。
テレビCMで宣伝していたSAOの存在を知り、興味を持った妹さんがβテストに応募してみたところ、見事当選したのだそうだ。
普段色々と我慢させている分、たまには我侭を聞いてやろうと、半年遅れの入学祝いという名目で急遽ナーヴギアを購入。
妹さんは特にゲーマーというわけではなかったものの、VRMMOというまったく新しいジャンルのゲームはライトユーザーにとっても楽しいものだ。
のんびりながらも充実したβテスト期間を体験した妹さんは、正式サービス開始後もSAOを続けるつもりだった……と、そこまではよかった。

「俺が言うのもなんだが、アイツなかなか可愛い奴だからよ。ゲーム内で変な野郎が近寄ってくるんじゃねえかと思ってな……」

どうやら彼は、どこの馬の骨とも分からない男が可愛い妹に近寄ってくるのが許せなかったらしい(シスコン?)。
でも、まあ。確かに、彼が心配する気持ちもわからなくはない。
ネットゲームにはリアルが女性だと分かった途端、態度が急変するプレイヤーが多いからだ。

例えば、ゲームを始めたばかりで、右も左もわからない状態で街を歩いていたとする。
この時、男性アバターを使っていた場合、ほとんどのプレイヤーは見向きもしないで通り過ぎていく。
仮に自分から『すみません、レベル上げを手伝って頂けないでしょうか』と頼み込もうものなら、『は?そのくらい自分でやれよ』といった反応をされるのがオチだ。

ところが、これが女性アバターだった場合は話が変わってくる。
こちらから頼まなくても、『ねぇ君、初心者?よかったらレベル上げ手伝おうか?』と声をかけてくる男性プレイヤーが多く、更にパーティやギルドに勧誘されることすらある。
更に酷い場合は『彼氏いるの?』『リアル女?』などといったことを初対面の相手に聞いてくるプレイヤーまでいる始末だ。
流石にそこまで酷いのはそうそういないとはいえ、ネットゲームはオンラインというその特性上、そういった出会い目的のプレイヤーは決して少なくない。
MMORPGにおいて女性アバターに積極的に話しかけてくる男性プレイヤーは、少なからず下心があると思っていいだろう。

「そんで、妹に無理言ってプレイさせてもらったんだが、まさかこんなことになるとは思わなくてよ……」
「な、なるほどね……」
そういった出会い目的の男性プレイヤーが妹さんに近付いてこないかどうか、アバターを借りて彼自ら確かめようとした、まさにその時に。
運悪くこのデスゲームが開始されてしまい、彼は妹さんのアバター───リリアとして、この世界で生きていく羽目になってしまったのだそうだ。現実の自分の顔で。

以降、『姫プレイ(可愛い女性アバターを使い、男性プレイヤーにアイテムや経験値を貢がせること)目的で女性アバターを使ってたネカマ』というレッテルを張られるのを恐れ、誰ともパーティを組むことなくソロで攻略に挑んできた。
ところが、第10層が突破されたあたりからソロに限界を感じ、職人クラスに転向しようと鍛冶スキルを鍛え始める。
材料は自力で調達し、死に物狂いで鍛冶スキルの熟練度を上げ続け、現段階では最高クラスの性能を誇る武器を作れるまでに至った。
とはいえ、大っぴらに店を構えれば、いつ自分の正体がバレるかわかったものではない。
そのため、目立たない場所を選んで露店販売を続けていた……が、噂が噂を呼んでしまい、『数少ない女性鍛冶師』として一部のプレイヤー間で有名になってしまった。
それ以来、リリアに会うことを目的とした客が増え続け、半ば嫌気が差していたところに僕たちが現れたということらしい。

なんというか……お気の毒に。

「っつってもまあ、大抵の連中は少し睨んでやったらビビって逃げ帰ったんだけどよ。オマエくらいだぜ、ここまでしつこかったのは」
「まあ、睨まれるのは慣れてるからね」
事実半分、嘘半分。
第1層攻略の時に向けられた敵意の眼差しに比べれば、彼一人に睨まれたところでどうということはない。
……というのは建前で、実際のところ、直前までのヘタレ具合が彼の本質だとわかっていたから怖くなかっただけだったりする。
口に出したらまた落ち込んじゃうだろうから、心の内に留めておくことにするけれど。

「だぁー、畜生。そんなに噂が広まってたんじゃ、そろそろ武器屋も潮時かもしれねえな」
「えー?りっちゃん、わたしの武器つくってくれないの?」
「りっちゃんって呼ぶんじゃねえ! ……ま、オマエの武器を作ってやるくらい別に構わねえけど。っつっても勘違いするんじゃねえぞ、ちょうど最後に何か作りたかったってだけなんだからな!」
そう言って、照れ隠しのようにそっぽを向くリリア。
これは……あれか。巷で有名なツンデレというやつなんだろうか。
ただし、相手は目付きの悪いヘタレ系イケメン。
男のツンデレ……一部の人には需要がありそうだなぁ。

「ふん。そうと決まれば、鉱石採集に付き合って貰おうか」
「え、これじゃだめなの?」
なんて、僕がどうでもいいことに思考能力を割いていると、リリアはテキパキと商品を片付けながら言った。
僕が素材として用意していた鉱石《インゴッド》を見せると、彼はそれを一蹴し、

「はっ、そんな素材じゃ俺様の腕前を発揮できやしねえぜ」
ドヤァ!と擬音がつくのではないかというほどのしたり顔で、不敵に笑う。
元々の顔立ちの良さも相まって、年頃の女の子ならイチコロにされてしまいそうなイケメンスマイルだった。
ただし、中身はヘタレ。おまけにセクハラ魔。
総合評価、マイナス5点。

「っつーわけで、どうせなら今用意できる最高のモンで作ろうじゃねえか。ちょうどこの層にある洞窟に、レアな鉱石を持ったモンスターがいるんだよ」
「へえ、流石に詳しいね」
それは知らなかった。
さすが本職の鍛冶師だけあって、素材関連の情報は頭に入っているらしい。
女の子にセクハラしてるだけのおっさん(しかもシスコン)だと思っていたけど、少し見直したなぁ。

「……って、あのちんちくりんの情報屋が言ってた」
「台無しだよ!」
思わず声に出して突っ込んだ。自前の情報じゃないのかよ!

「細けえこたぁいいんだよ。おら、さっさと準備しやがれ」
「……、まあいいか。シェイリもそれでいい?」
「いいよー。りっちゃん、よろしくねー」
「てめ、りっちゃんって呼ぶんじゃ───」
「よし、行こうか。追い剥ぎに気を付けないとね」
「はーい」
「おいこら小僧!待ちやがれ!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐリリアを無視し、僕とシェイリは表通りへと向かって歩き出した。
なんとなくだけど、この人の扱い方がわかってきた気がする。
あと小僧言うな。 

 

とあるβテスター、洞窟を行く

上質なインゴッドを持つというモンスターを捜しに、僕たち三人はその洞窟へと足を踏み入れた。
『荒くれ者の墓所』。2023年3月4日現在、最前線にあたる第17層の隅に、ひっそりと存在しているダンジョンだ。
本来であれば、最前線のダンジョンともなれば、狩場に赴くプレイヤーの数も自然と多くなる。
だけど、頭に“ひっそりと”と付くことからわかるように、この洞窟で狩りをするプレイヤーはほとんどいない。

理由その一。経験値・金銭効率が著しく悪い。

普通、RPGでは敵の強さと経験値効率は比例している。
敵が強くなればなるほど取得経験値も多くなり、ドロップするアイテムも高値で売れるものがほとんどだ。
必然的に、MMORPGでは強い敵が出るダンジョンは効率のいい狩場として人気が出る傾向がある。

ところが、この『荒くれ者の墓所』に出てくるモンスターは、強さと経験値が割に合っていない。
迷宮区に出現するモンスターが『強さ10』に対して『経験値6』とするなら、ここのモンスターは『強さ9』に対して『経験値2』といったところだ。
下手なモンスターよりも強いくせに、獲得経験値はそれより低いという、なんとも納得いかない設定になっている。

おまけに、ここの敵はこれといったレアアイテムをドロップすることもない。
たまに武器をドロップすることはあるけれど、そのほとんどが第1層のNPC商店で購入可能なレベルの武器……要するに、ほとんど価値のないものだったりする。
プレイヤーたちの間では、ドロップアイテムテーブルの設定ミスなのではないかと噂されているほどだ。
あの茅場晶彦がそんなミスをするかなぁとも思ったけれど、それ以外に説明の付けようがないのではないかというくらいに、このダンジョンの設定は理不尽の一言に尽きる。

理由そのニ。トラップの数がやたらと多い。

荒くれ者と名が付くだけあって、この洞窟には他のダンジョンよりもトラップの数が多い。
壁に空いた穴から毒矢が飛び出してくる、設置された松明の火が突然消えるなどといった、大小様々な罠が用意されている。

毒はアイテムで治療できるし、松明は消えても一定時間で元に戻るため、一見すると大した罠ではないように思える。
だけど、それは余裕がある時だからこそ言えることだ。
仮にモンスターとの戦闘でHPが減っていた時に毒を受ければ、回復が間に合わずにそのまま死に至ることだってある。
松明が消えるトラップにしても、戦闘中に突然視界が真っ暗になれば……その後どうなるか、想像するのは難しくないだろう。
ほんの少しのイレギュラーが死に直結するSAOにおいて、こういったトラップの存在は決して無視できるものではない。

今回はリリアが《罠解除》スキルを鍛えていたため、僕たちがトラップのお世話になることはなかった。
妙に熟練度が高いことを不思議に思って尋ねると、彼は『映画とかでよくあるだろ、ヒャッハー!お宝だぜぇ!ってはしゃいでる奴が真っ先にトラップで死ぬシーンがよ……!俺はあんな風にはならねえからな……!』と震え声で語った。
どうやらソロでやることを前提としてスキル構成を考えていたわけではなく、単にトラップに脅えながら生活しているうちに自然と身に付いてしまった技術らしい。
『伊達に一人で場数を踏んできたわけじゃないんだなぁ』と思ってしまった僕の感心を返してほしい。

そして、最後。理由その三。
僕がこの洞窟に近寄らない、至ってシンプルな理由。

「ゲ……ガアアアアア……!」
単純に、敵のビジュアルがグロい。

『荒くれ者の墓所』というダンジョン名から想像がつくように、ここに登場するモンスターは全てアンデッド。つまりゾンビだ。
NPCの話によれば、ここはラムダの裏通りで殺された者の死体を放棄するために使われていた場所で、積もりに積もった怨念が死者をアンデッドとして蘇らせている……ということらしい。
墓所というのは名ばかりで、要は死体処理場だ。

「アア…ウグァ……」
「ゲギ……ガァァァッ!」
腐りかけの身体にぼろぼろの布きれや壊れかけの鎧を纏い、這いつくばるように迫ってくるゾンビたち。
生前に使用していたのか、五体満足なゾンビには長剣や手斧で武装しているものもいる。
ナーヴギアの映像技術をフルに駆使した腐乱死体の描写は、当分肉やネギトロを食べる気が失せてしまうくらいにリアルだった。
正直もう帰りたい。僕、ホラーは苦手なんだってば。

「……とか言ってられないよね。シェイリの武器のためだもん、我慢我慢……」
「なーにー?」
「ん、なんでもない。それより、右から来るよ!」
「はいはーい!」
これから先、迷宮区にゾンビがわんさか湧いて出てくるような層もあるかもしれない。
今のうちから恐怖心を克服しておかなければ、いざという時に命取りになってしまう。ここは耐え忍ぶ時だ。
……と、自分で自分を誤魔化しつつ、シェイリに指示を飛ばして戦闘を続行。
同時にナイフを四本投擲し、彼女に向けて突進技を発動させようとしていたゾンビの長剣を弾く。

ここに出現するゾンビたちは如何せん数が多く、油断するとすぐに囲まれてしまう。
そのため、リリアとシェイリとで複数湧いたゾンビを一体ずつ相手取り、僕は投剣で他を足止めしつつ後方支援というスタイルを取っていた。
幸いなことに、ゾンビたちは身体が腐り始めているため、投剣スキルを一発でも当てれば部位欠損を狙うことができる。足止めをするには十分だ。
その分、吹き飛んでいく腕や足などのパーツ(腐りかけ)を見る度に、僕の精神がガリガリと削られていく気もするけれど。

「くらいやがれ、くそったれー!」
「こらシェイリ!真似しちゃ駄目!」
すかさず距離を詰めたシェイリの攻撃によって、荒くれ者のゾンビは頭と胴体を切り離され、ポリゴン片となって消滅した。
彼女はホラーが苦手な僕とは違うようで、いつもと変わらない笑顔でゾンビを切り刻んでいく。
『ここを狙うのが一番倒しやすいんだもん』と、相変わらずの斬首で敵を葬るシェイリ。
そんな彼女の戦い方に慣れている僕ですら、腐りかけの生首が宙を舞う絵図には戦慄せずにはいられない。

『SAOは他のMMOと違って戦うのが怖い』と言っていたあの日のシェイリさん、あなたはどこへ行かれてしまったのですか?
それと、リリアの真似はやめようね。女の子がそんな言葉遣いをするものじゃありません。

「だあああ!しっっっつけえ野郎だな畜生ッ!」
一方、シェイリに悪い言葉を覚えさせた張本人である鍛冶師はというと、手斧を持った腐乱死体と死闘を繰り広げていた。
ちょうど、彼が戦っているゾンビが最後の一体のようだ。

「オラァ!さっさとくたばりやがれ!」
ずっとソロでやってきたというだけあって、リリアの戦闘能力は攻略組プレイヤーと比べても何ら遜色はなかった。
武器の性質上、両手斧を扱うシェイリと比べていくらか火力は劣るものの、敵の攻撃を避ける動作は彼の方が手馴れている。

「うおっ!?ちょっ、洒落にならな───だあああっ!?あっぶねええええ!ふざけんなクソがっ!」
……というよりも、回避だけ異様に上手い。

敵が動くのを見てから避けるというより、敵が動いた時には既に回避の動作に入っている。
といっても、彼の避け方は相手の攻撃パターンを完全に見極めているなんて綺麗なものではなく、攻撃の予兆を本能的に察知して避けているといった感じで、なんというか非常に惜しい。それとうるさい。

「クソッ!いい加減にしろよこの腐れ脳味噌野郎が!」
攻撃と回避の応酬を数回繰り返した後、リリアは悪態を吐きながらも敵のソードスキルを回避し、お返しとばかりに槍斧にライトエフェクトを纏わせる。

両手槍 広範囲攻撃技《ブランディッシュ》

その場で身体を一回転させ、勢いを乗せた横薙ぎの一撃を放った。
槍斧の刃が術後硬直で動けないゾンビの脇腹に食い込み、腐肉がぐちゅりと音を立てる。

「~~~~!!」
それを聞いたリリアはものすごく嫌そうな顔で敵から刃を引き抜き、崩れ落ちたゾンビの頭部目掛けて槍斧を振り下ろす。
ぐしゃあ!という何とも不快な効果音と共に、顔の中ほどまで刃を食い込ませ、同時にHPゲージが空になって屍人は消滅した。

……うん。
僕、暫く肉は食べたくないかも。
なんというか、生肉を見たらこの光景が浮かんできそうで……おぇ。

「……、ハッ……!俺に楯突こうなんざ百年早えぇんだよ、クソッタレが……っ!」
どうでもいいけど、あまり汚い言葉を使うのはシェイリの教育によろしくないからやめてほしい。
それと、そんなに荒い息でその台詞を言っても説得力ないからね?


────────────


その後も、シェイリがゾンビをちぎっては投げちぎっては投げといった具合に乱獲していき、リリアもトラップ解除やスイッチ要員として善戦。
一人だけこれといった働きをしていないことを申し訳なく思いつつも、僕たち三人は危なげなく洞窟内を進んでいった。

そうして進むこと、およそ二時間ほど───

「……、帰りてぇ」
「却下」
「オマエは鬼か……」
「自分で言い出したことでしょ?ちゃんと責任持ってよね」
言いだしっぺの癖に真っ先に根を上げたリリアを、僕は容赦なく一蹴した。
僕だって、何も好き好んでこんなグロテスクな敵ばかりのダンジョンに来たかったわけじゃない。
そもそも必要最低限の素材は事前に用意していたわけで、どうしてもここに来なければいけなかったということもない。
どこかの誰かさんが『そんな素材じゃ俺様の腕前を発揮できやしねえぜ』とか言い出さなければ、ね?

「りっちゃんがんばって。もう少しだよー?」
「そうそう。ここまできたら最後まで頑張ろうよ」
「うぐ……、わかったっつーの……!あとりっちゃんって呼ぶんじゃねえ」
シェイリが平気な顔をしている手前、自分だけギブアップするのは流石に情けないと思ったのか、リリアは渋々ながらも頷いた。
今ギブアップすれば、僕たちは無駄な精神的ダメージを貰うためだけにここに来たことになってしまう。
どうせなら、最後まで行ってやろうじゃないか。

……と、言うだけなら簡単だけど。
実のところ、僕もリリアの気持ちがわからないわけでもない。

「……なあ、やっぱりやめにしねえか?」
「もー!りっちゃん、こわがっちゃだめー!」
「そうは言うけどよ……これ、無理ゲーだろ……」
力なく視線を前へと向けるリリアに続いて、僕もそちらを見れば。

「アゥ……ガァ……」
「ゲゲ…ギギ……」
「ゲヒャヒャヒャヒャ………」
「アア……グゲ……」

洞窟の最奥、今までの通路とは打って変わった、ちょっとした広間のような開けた空間に。
今までの湧きが生易しく思えてしまう数のゾンビさんたちが、所狭しと犇めき合っていた。
僕たち全員のレベルは安全マージンを十分に取っているとはいえ、これだけの数を倒しきるのは難しいだろう。

薄暗い広間で、呻き声を上げながら蠢く無数のゾンビたち。
ただでさえ生理的に受け付けられない姿をしている上に、中には共食いのようなことをしているものまでいる。
ホラーが苦手な人であれば、見ただけで卒倒してしまいそうなほどの光景だ。
というか僕も我慢しているだけで、実を言うとかなりキていたりする。

更に都合の悪いことに、鉱石を持っているというモンスターは、この広間に固定湧きすることが決まっているという。
要するに、僕たちが目当ての鉱石を入手するには、このゾンビたちの中から一体だけを捜し出して倒さなければならないということだ。
なんというか、言葉にしただけでも気が滅入ってくるよ……。

「……、それで、鉱石を持っているのはどの敵なの?この中にいるんでしょ?」
「知らん」
「へ?」
即答するリリアに、思わず間の抜けた声で聞き返してしまった。
僕としては件のモンスターだけを狙って撃破次第、転移結晶で脱出───という手順でいこうかと思っていたんだけど……。

「……ねぇ、君はアルゴからモンスターの情報を買ったんだよね?」
「いや、話の途中で怒らせちまったから最後まで聞いてねえ」
このセクハラ魔!
そんな大事な話の最中に……いや、話の最中じゃなくても触るなよ!そんなに黒鉄宮に行きたいのか!

「仕方ねぇだろ、目の前に胸があったんだからよ。触ってくださいって言ってるようなもんだろ?」
この人、ひょっとしてリアルオレンジネームな方なんだろうか。痴漢とかそのあたりの罪状で。
収容所からSAOにログインしてるとかじゃないよね?

「ったく。あの情報屋といいオマエといい、ちょっと胸触ったぐらいで目くじら立てやがって。大騒ぎするほどのモンも持ってねえ癖によー。あ、オマエは男だからなくて当たり前か」
「………」
思わず顔面に投剣スキルをお見舞いして差し上げたい衝動に駆られたけれど、ダンジョンでふざけるのは命取りになるので後回しにしておこう。
というか、ヘタレの癖に変なところだけ堂々としているのが腹立たしい。セクハラおやじめ。

「っつっても、ここに湧くって情報は確かみたいだぜ。片っ端からぶっ潰してやりゃあ、そのうち落とすんじゃねえの?」
「……、はぁぁ……。気が遠くなるね……」
「だから帰りてえって言ったのによ。ま、仕方ねえから付き合ってやるさ。数が多いっつっても所詮雑魚だろ、こいつら。楽勝楽勝」
「……じゃ、リリア先頭でいってみようか」
「は!?なんで!?」
意味がわからない、といった顔でこちらを見てくるリリア。
この人はもう少し、自分の発言に責任を持つということを覚えたほうがいいかもしれない。

「楽勝なんでしょ?先陣は任せるよ。僕とシェイリは援護ね」
「え、いや、ここはそっちのクソガキから───」
「りっちゃんがんばってー!」
「………」
とりあえず、ここは彼に頑張ってもらうことにしよう。
何だか恨みがましい視線を感じるけれど、自業自得な人に拒否権はないということで。

「まずは戦いながら様子を見て、それらしいモンスターがいたら優先的に倒す。目標を仕留めるか、HPが危なくなったらすぐに転移結晶で脱出。これでいい?」
「はーい!」
「俺が先頭なのは決定済みかよ畜生!」
文句を言いつつも、律儀に槍斧を構えるリリア。
将来は女房の尻に敷かれるタイプなんだろうなぁなんてことを思いつつ、彼に続いてシェイリは斧、僕は投擲用ナイフを手に持ち、臨戦態勢に入る。

僕がリリアに先陣を任せたのは、ただの嫌がらせ……というわけではない。
この数を相手にするなら、先陣は相手の間合いに深く入り込む必要のあるシェイリより、リーチと攻撃範囲に優れた槍斧を扱う彼の方が適任だからだ。
実際、両手槍スキル《ブランディッシュ》の攻撃範囲は、両手斧の範囲攻撃技《ワールウィンド》よりもかなり広範囲に設定されている。
リリアが相手に気付かれる前に飛び込み、広範囲攻撃技による先制攻撃で敵陣を撹乱。体勢を崩した敵にシェイリが止めを刺し、僕は彼らの死角を守る。
こういった戦法で戦っていけば、いずれ目当てのモンスターに当たるだろうという寸法だ。

……まあ、意趣返しも少し含まれているのは否定しないけれど。
そもそも彼がアルゴを怒らせなければ、わざわざ全員を相手にする必要もなかったわけだし。

「さ、いつでもいいよ。頑張って」
「がんばってー!」
「ク、クソッタレが……!ええい、やりゃあいいんだろ、やりゃあ!」
悪態を吐きつつ、リリアは槍斧を振り回しながら敵陣へと突っ込んでいった。
それと同時、一匹のゾンビがちょうどこちらを振り向き、武器を構えながら猛進してくるリリアの姿を視界に収めた。突然の襲撃者に応戦するべく、手に持った武器を振り上げようとする。

「おらああああ!鍛冶師なめんじゃねえ!!」
だけど、もう遅い。
敵陣のど真ん中へと飛び込んだリリアは、走りながら既にモーションに入っていた《ブランディッシュ》を発動。
白銀のハルバードが大きな円を描くように振るわれ、彼を中心としたほぼ360度に位置する敵が、刃によって薙ぎ払われた。

「よし、シェイリ!」
「うんっ!いっくよー!」
範囲攻撃によって薙ぎ払われたゾンビのうち、一番多くHPが残った敵へと向かってシェイリが肉薄する。
攻撃の間合いに入ったと同時に大きく跳躍し、深緑のライトエフェクトを纏った斧で上段から叩き斬った。

両手斧 重単発技《オーラアクス》

ただでさえ重量のある両手斧に、降下の勢いも加えた垂直斬り。
いくらアンデッドであるゾンビといえど、身体の構造そのものは人間と変わらない。
ましてや筋力値特化のシェイリから繰り出される重攻撃に、そこらの敵が耐え切れるはずもなく。
弱点である頭部を力任せに叩き割られ、そのまま胴体までを一直線に斬られたゾンビは成す術もなく消滅した。

「………」
「ね、次はー?」
「……ああ、うん。次はあっちのをお願い……」
「りょうかーい!」
花の咲いたような笑顔で戦い続けるシェイリを眺めながら、僕はこの洞窟が不人気ダンジョンだったことに感謝した。
あんな姿を誰かに見られようものなら、精神的ショックのあまり気絶されかねない。
そう思ってしまうほどに、彼女に倒された敵の姿は無残だった。
簡単に言えば、非常にグロかった。

「あは~!」
「うおおおおっ!?おおお驚かせんじゃねぇよクソガキ!殺す気か!」
そんな僕の心情も露知らず、彼女は次々と敵を葬り、ホラー映画顔負けのスプラッタな光景を作り上げていく。
自分の目の前にいるゾンビを横合いから真っ二つにされ、突然の出来事にリリアが涙目になりながら叫んでいるのが印象的だった。

……僕、接近戦が苦手でよかったかも。
笑顔でゾンビを屠っていくシェイリと、心臓が止まりそうな顔で驚いているリリアの姿を見ながら、僕はつくづくそう思うのだった……。 

 

とあるβテスター、苦戦する

第17層屈指の不人気ダンジョン『荒くれ者の墓所』へと足を踏み入れ、大多数のゾンビが犇めく最深部へと突入した僕とシェイリ、そしてリリア。
元から数では相手が有利だったことに加え、倒してた後から一定時間を置いて定期的に湧いて出るゾンビたち。
それに対し、こちらはたったの三人。おまけに補給もなし。
普通に考えればこの場で戦うこと自体が無謀極まりないところだけれど、撹乱に長けたスキル構成のリリア、火力特化型のシェイリ、そして相手が(一応)人型モンスターだったため、僕の投剣による支援効果も上々。
更に僕たち三人の相性は悪くないのか、初めてパーティを組んだ相手であるにも関わらず、リリアを含めた三人での連携も滞りなく行えた。
正直な話、もって精々5分が限度だろうと思っていた僕にとって、この結果は驚きの一言に尽きる。

……と。
これだけを見れば、僕たちはこの圧倒的に不利な状況においていかに上手く立ち回ったか、というある種の自慢話にも見えるだろう。
事実、僕たちは想定していた以上の善戦をしたと言っていい。
この「多勢に無勢」という言葉がこれ以上しっくりくる場面はそうそうないのではないかという状況において、たったの三人でよく頑張ったと自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。
あわよくば、このまま目的の鉱石を入手できるかもしれない───と、思わなかったといえば嘘になる。

ところが。
どうも世の中というものは、そう都合よく物事が進むようにはできていないらしかった。


────────────


「ね、どうしよっか?」
僕の着ている外套の端をクイクイと引っ張りながら、一見さほど困っているように見えないような顔で尋ねてくるシェイリ。

「クソ……洒落になってねぇぞ、この状況……!」
僕たち二人を背に庇うように立ち、向かってくるゾンビを牽制しているリリア。
まさに顔面蒼白といった様相でさっきから何度も弱音を吐いているけれど、それもこの状況では無理もないかもしれない。

「……参ったなぁ」
そして、投擲用ナイフのストックが尽き、もはやただの役立たずと化している僕。
一応短剣を装備してはいるけれど、悲しいかな、僕がナイフ片手に格闘戦を挑んだところで結果は見えているだろう。
僕に近接戦闘のセンスが皆無なのは、第一層の時点で十分すぎるほどに自覚している。

「だから言ったじゃねーか!どうすんだよこれぇ!」
「まあ、僕たち頑張ったと思うよ。……最初だけは」
そう、最初だけは、だ。
洞窟の最奥───広間のように開けた空間で戦っていた僕たちは、ゆっくりと、それでいて確実に追い詰めれらていた。

わかっていたことではあるけれど、敵の数が多すぎる。
僕たち三人が予想以上に善戦したとはいえ、それでも尚、相手と僕たちの間には埋まることのない差(数の暴力ともいう)があった。

そして───

「まさか結晶無効化エリアだなんてね……」
「困ったねー」
「オマエはちったぁ緊張感を持てよ!!」
こんな時でも気の抜けるような声を出すシェイリ。
こんな時でも律儀に突っ込みを入れるリリア。
打開策を考えてはいるものの何も浮かんでこない僕。

SAOに存在するHPの回復手段は、大きく分けてポーション類と結晶アイテムの二種類に分類される。
ポーション類は総合的な回復量は多いけれど、時間をかけて徐々に回復していくという性質上、緊急時のHP回復には向いていない。
逆に、結晶アイテムはポーション類に比べて回復量は多少劣るものの、回復効果に即効性があるという点では予想外の事態に対応しやすい。

これだけを見れば、戦闘での回復には結晶アイテムだけを使えばいいように思えるだろう。
ところが、結晶アイテムは店売りのポーションよりも高価で、尚且つその入手方法の多くはモンスターからのドロップのみというレアアイテムだったりする。
常に最前線で戦い続けてきた僕とシェイリですら、よほどのことがない限り結晶アイテムのお世話になることはないくらいだ。
よって、SAOでの回復には基本的にポーション類を使い、予想外の苦戦を強いられた時などの緊急時にのみ結晶アイテムを使うというのがセオリーとなっている。

結晶無効化エリアはその名の通り、結晶アイテムの使用が一切禁じられてしまうという、ダンジョン攻略において最も注意すべき空間の名称だ。
当然ながら、緊急脱出に必要な転移結晶の使用も禁止されてしまうため、結晶無効化エリアにおけるプレイヤーの死亡率は劇的に跳ね上がる。
僕たちが事前の打ち合わせ通り、戦闘が不利になったら転移結晶で脱出する───といった予定を未だ行動に移していないのは、この広間が『結晶無効化エリア』に設定されているからに他ならなかった。

更に悪いことに、僕たちがこの空間を結晶無効化エリアだということを認識するよりも早く、侵入不可オブジェクトによって出口が閉ざされ───
結果として、僕たちは多くの敵に囲まれながらも戦うしかなくなってしまったというわけだ。


「だああああ!何匹いんだよクソッ!」
「ぜんぜん終わらないねー?」
この広間に突入してから、どのくらいの時間が経っただろうか。
既に僕の投擲用ナイフは底を尽き、投剣スキルで二人を支援することはできない。
当然、休憩を挟む余裕もなく戦い続けているため、二人の武器の耐久度も心配だ。
予備の武器は用意してあるとはいえ、敵に囲まれがちなこの状況で、今以上に火力が落ちればどうなるか……想像するのは難しくない。

───そろそろ、何とかしないと……!

そうなる前に、この空間からの脱出条件───恐らくは敵の全滅───を達成しなければ、僕たちは───!


「おい、アンタら大丈夫か!?」
「!?」
不意に。
閉ざされた出口の外側───不可視のオブジェクトに阻まれた先の通路から、男性のものであろう声が投げかけられた。

一瞬、幻聴を疑った。
SAO内で幻聴が起こるのかどうかは疑わしいけれど、そう思わずにはいられなかった。
だって、今の声が本物なら。
こんな不人気ダンジョンに、僕たち以外にわざわざ足を踏み入れる物好きがいたということだ。
普段ほとんど見向きもされないような場所に、それも絶体絶命のこのタイミングで、そう都合よく他のプレイヤーが通りかかる筈がない。
僕は知っている。この世の中は、そんなに都合のいいようにはできていない。
アニメやゲームじゃあるまいし、現実において天の助けなんてものはそうそう起こるわけがないんだ。

……いや。むしろ、それどころか。
今の声すらも、茅場晶彦によって仕組まれた心理的トラップである可能性も考慮するべきなんじゃないだろうか。
なにせ、相手はデスゲームなんていう漫画や小説でしかありえないような状況を作り出し、更にはこんな悪趣味なダンジョンを考えるような人間だ。
おまけに、プレイヤーが大量の敵がいる中に飛び込んだ瞬間、間髪入れずに出口封鎖、しかも結晶無効化エリアなんていう外道トラップを仕掛けるような人間だ。
そんな茅場晶彦なら、こうして窮地に陥っているプレイヤーに助けが来たと見せかけ、安心したところをホラー映画よろしく背後からグサッ!とかやられても何らおかしくはないはずだ───!

「オ、オイ、今の───」
「騙されるなリリア!今のは敵の精神攻撃だ!油断したところをやられるぞ!」
「は!?オマエ何言ってんの!?」
「いいから戦うんだ!僕たちは誰の手も借りない!自分の身は自分で守る!」
「いやオマエも戦えよ!!」
そうだ、きっとそうに違いない。
こんな不人気ダンジョンで、都合よく助けなんてくるものか。
僕は騙されないぞ、茅場晶彦ッ!!

「アンタら、苦戦してるようなら加勢するぞ!どうする!?」
「お願いします!!」
───と、そこまで言っておきながら。
「加勢する」という一言を聞いた瞬間、僕は我ながら見事なまでに掌を返した。

「……世の中、たまには都合のいい出来事があってもいいよね、うん」
「何がしたかったんだオマエは……」
絶望的な状況の中で手を差し伸べてくれた通りすがりの誰かさんに、僕は一も二もなく即答した。
なんだかリリアの呆れたような声が聞こえた気がするけれど、それこそ幻聴に違いない。 

 

とあるβテスター、手を握る

世の中には予想外の不幸もあれば、予想外の幸運もある。
そんなごく当たり前のことをこれほどありがたいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない。
これが普通のゲームだったなら、たかがゲームで大袈裟だと自分でも思っただろう。
だけど、そのゲームに自分の自分の命が懸かっているとなれば話は別だ。

僕は日本人にありがちな無神論者で、神様やら仏様といった存在は基本的に信じていない。
だけど、今日ばかりは。
今日この時、このタイミングで彼らのパーティが通りかかったことに対してだけは、いるのかどうかもわからない神様に感謝したい気分だ。

「俺、生きてるよな?生きてるよな、なぁ!?」
「うんうん、りっちゃんは生きてるよー」
広間から無事に生還し、もはや涙目なのを隠そうともしないリリアと、相槌を打ちながら頭を撫でるシェイリ。
そんな二人の様子を眺めながら、窮地を凌いだことに安堵の胸を撫で下ろした。

実際のところ、結構危ない橋を渡ったと思う。
あのタイミングで彼らが通りかからなければ、シェイリかリリア、どちらかの武器耐久度は限界を迎えていたことだろう。
僕は事実上戦力外だったし、予備の武器だけであの大群を相手にすることができるとは思えなかった。
平時はほぼ無人のこのダンジョンで増援に恵まれたこと自体、かなりの幸運だったと言える。

「危ないところをありがとう。えっと……クラインさん、で合ってた?」
「おうよ。でもって後ろの連中は全員、オレのギルド『風林火山』のメンバーだ」
「それじゃ、改めてありがとう、クラインさん。お陰で助かりました」
「気にすんなって。間に合ってよかったぜ」
加勢してくれたことにお礼を言うと、パーティリーダーの男性プレイヤーは何でもない事のように笑った。

風林火山。確か、最近になってフロアボス攻略に加わったギルドだ。
ギルドマスターのクライン───ツンツンと逆立った赤毛に悪趣味なバンダナを装備した曲刀使いの姿は、僕もボス攻略の際に何度か見かけていた。
金壺眼に長い鷲鼻、むさ苦しい無精髭。加えて日本の戦国時代に使用されていた武士鎧のような装備を身に纏った姿は、その顔立ちも相まって野武士か山賊のような印象を受ける。
パーティメンバーは彼も含めて全員が20代前半から半ばといったところで、恐らくは社会人のみで構成されているギルドなのだろうと思う。

「おめぇさんはアレだろ?ボス攻略の時にいたよな?」
「……えっと、はい」
「やっぱそうかあ!いやぁ、そのフードで顔隠した姿、どっかで見たことあると思ったんだよな。オレの記憶に間違いはなかったってわけだ!」

───どうしたものかな……。

気さくに話しかけてくるクラインに、僕は迷ってしまう。
ここで彼と親しくして、いいのかどうか。

ボス攻略の作戦会議などといった場面で、どうやら知り合い同士だったのか、彼がキリトと話しているのを見たことはある。
だけど、そういった時。僕は決まって、遠くから眺めているに留めた。

途中参加の彼らは、きっと知らない。
第一層攻略の時、僕が何をしたのかを。

「ボス戦で投げナイフ使う奴なんて他にいねぇからよ、珍しくて記憶に残ってたんだよ」
「そう、ですか……」

───やっぱり、関わるべきじゃない。

この様子だとクラインは僕の名前はおろか、《投刃》の噂すら知らないのかもしれない。
だったら尚更、僕のような人間が親しくなるわけにはいかない。

キリトと話している時の様子や、こうして本人と直接対面してみて、クラインが人との間に壁を作るような人間じゃないということはわかった。
キリトやアスナ。エギルにディアベル、リーランド。
あの攻略戦に参加し、僕の行動を目の当たりにしても尚、友好的に接してくれる人たち。
攻略組全員を敵に回す覚悟だった僕は、そんな彼らに感謝してもしきれない。

きっと、クラインのような人は。
例え僕の素性を知ったとしても、こうして気さくに笑いかけてくれることだろう。
……でも、だからこそ。
彼らには、知らないままでいてほしい。

彼らの中には、僕のような元オレンジがいるわけでもない。
リリアのように、訳ありプレイヤー相手に商売していたわけでもない。
本当の本当に、僕のような人種とは縁のない人たちなんだ。

だから。
何も知らない彼らにまで、『殺人鬼と仲良くしている連中』というレッテルを張られるようなことになるのだけは、何としても避けなければならない。

「ところでおめぇさん、名前は何ていうんだ?」
「………」
どう、するべきか。
幸いなことに、彼らの加勢のお陰もあって、本来の目的だった鉱石は既に入手済みだ。
わざわざこの不人気ダンジョンに訪れた目的を達成した以上、もう僕たちがここに留まる理由はない。
命の恩人である彼らに不躾な態度をとらず、尚且つ必要以上に親しくならないように、この場を切り抜けるには───

「……ユノくん、名前聞かれてるよー?」
「──っ!?」
「また考えごとー?だめだよ、人と話してるときはちゃんと聞かなきゃ」

───シェイリ……?

正直に名前を名乗るべきかどうか考えていた僕の思考は、突然割り込んできたシェイリによって強制的に中断させられた。
思ってもみなかった彼女の行動に、僕は困惑してしまう。

「ごめんねー。ユノくん、たまにこういうことよくあるんだ」
「おいおい嬢ちゃん、それじゃ頻繁にあるのか時々なのかわかんねぇよ」
「あ、そっかー!」
「ははっ、面白れぇ嬢ちゃんだな!オレはクラインってんだ、よろしくな」
「よろしくね、クラインくん!」
「く、クラインくん!?おいおい、勘弁してくれよぉ!」
年上でも構わずにくん付けで呼んでしまうシェイリに、風林火山のメンバーたちの間で笑いが沸き起こる。
相変わらず初対面の人間相手でも自分のペースを崩さないところは、もはや彼女の長所ともいえるかもしれない。

……だけど。

「わたし、シェイリ。こっちはりっちゃん。リリアっていうんだよー」
「ばっ……!?」
「リリア……?そりゃ、こっちのイケてる兄ちゃんの名前か……?」
「そうだよー?」
一見、いつものマイペースっぷりを発揮しているだけだ。
でも、何だろう。何か違和感がある……。

「ク、クソガキィィィ!いきなりばらしてんじゃねーよ!」
「えー?りっちゃんはりっちゃんだよー?」
「……、あー……えっと。なんだ、その……、変わった名前…だな?」
「気ぃ使ってくれなくて結構だよ畜生ッ!どうせ俺は哀れなネカマ野郎だよぉぉぉ!!」
気まずそうに目を逸らすクライン。
真っ赤な顔で絶叫するリリア。
いつも通りのシェイリ。

そう。いつも通りだ。
僕にとってはもはや見慣れた光景。別段、違和感を感じるようなことは何もないはずだ。

……それなのに。僕は一体、何が引っかかってる?
今までだって、こういうことはあったじゃないか。

シェイリと知り合ってから今日に至るまで、こういったことはそれこそ何度もあった。
一番記憶に残っているのは、第一層のボス攻略会議が初めて開かれた時だ。
パーティ編成も具体的な役割の分担も決め終わって、あとは解散するだけといったタイミングになって、シェイリが初めて口を挟んだ。
一瞬で場の空気を凍らせたシェイリに、僕も肝を冷やしたっけ。

だけど、あの時のシェイリの発言は結果的に間違ってはいなくて。
空気が読めていないように見えて、たまに的確なことも言うんだなぁなんて、僕は密かに感心して───

───あれ……?


「そうすっと、ユノってのがおめぇさんの名前なんだな?」
「──えっ?あ、えっと、はい……?」
と、何かに気付いたような気がした瞬間。
クラインが突然話題の矛先を戻してきたため、僕は咄嗟に反応ができなかった。

「おいおいどうした?おめぇさんの名前だよ、名前。ユノで間違いないんだろ?」
「そう、ですけど……」
「シェイリにリリアにユノだな。おっし、覚えたぜ!」

───ああ、まずい。

適当に話を濁して、この場を去るのが最善だったはずなのに。
そうすれば、彼らは余計なことを───《仲間殺し》なんていう人間が攻略組に紛れ込んでいることを、知らずに済むというのに。
顔と名前を、覚えられてしまった。

「いやー、最近になってようやくボス攻略に参加できるようになったのはいいんだが、オレの知ってる顔がキリの字ぐれぇしかいなくてよぅ。正直不安だったんだよなぁ」
こうなってしまった以上、彼らは遅かれ早かれ、《投刃のユノ》の噂に辿り着く。
……辿り、着いてしまう。

「しっかし、攻略組ってのもすげぇもんだな。嬢ちゃんみてぇな小さい子までいるなんてよ。ボスと戦うのが怖かねぇのか?」
それを知った上でも、クラインは僕を避けることはしないだろう。
他のプレイヤーから後ろ指をさされようと、キリトたちのように分け隔てなく接してくれることだろう。

でも、だから。
だからこそ、僕は関わっちゃいけなかったのに。
なんだって、シェイリは。よりにもよってこのタイミングで、僕の名前を出してしまったんだ。
彼女は一見空気が読めてないように見える、けど───?

───けど?

けど、何だ?
一見空気が読めてない、けど?
実は本当に読めてない?

───いや、違う……。

彼女は一見空気が読めてないように見えて、本当に空気が読めてないなんてことは一度もなかった。
本当に空気が読めていないなら、アスナやキリトとの関係が良好になっているはずがない。
あの攻略会議の時だって、場の空気を凍らせたのは事実だ。
だけど、あの場の誰もが考えてもいなかった『ボスのデータが変更されている可能性』に、いち早く気付いていたようにも思える。

……そうだ、気が付いた。
ついさっき感じた、違和感の正体。
彼女は空気が読めていないように見えるけど、本当に無神経なことは決して言わない。
だからこそ、僕はシェイリのマイペースさに振り回されつつも、それを不快に感じたことは一度たりともなかったんだ。

だったら、さっきのは。
空気が読めていないなんてことはないはずのシェイリが、わざわざこのタイミングで割り込んできた理由は。
それは、もしかすると。

───シェイリ、君は……。


────────────


「まー、なんにせよアレだな。こんな所で会ったのも何かの縁だろ」
そう言って。
僕に向かって、右手を差し出してくるクライン。
何を求められているのかくらい、流石に僕だってわかる。

「オレ達はこれからもボス攻略に参加するつもりだからよ。同じ攻略組同士、仲良くしようぜ、ユノ」
握手。
簡単に、それでいて効果的に、相手に対する好意を示すための動作。

「………」
その──手《好意》を。
僕は、受け取っていいのだろうか。
受け取る資格が、《投刃のユノ》には、あるのだろうか。

あれだけ啖呵を切っておいて。
あれだけ悪意を振りまいておいて。
何も知らない相手からの好意を、のうのうと受け取っていいのだろうか。

「ユノくん」
「……うん、わかってるよ」

僕は、その手を、

「よろしく、クラインさん」
「おうよ!」
クラインの手を、握り返した。
好意を、受け取った。
彼を巻き込むことを、承知の上で。

「───うっし、フレンド登録も問題ナシだ」
「ありがとうございます」
「あー、それとな。敬語とかそういうお堅いのはなしにしようぜ。オレのことも呼び捨てでいいからよ」
「……、わかったよ、クライン」
「おう!よろしくな、ユの字!」
こうなってしまえば、完全に相手のペースだ。
僕が何としてでも近寄らせるまいとしていた距離を、クラインはあっという間に縮めてしまった。

まったく、もう……。
誰かと関わることなんて、極力避けようと決めていたはずなのに。

「──そんじゃ、オレたちはここに残るぜ。こないだ新しいスキルが出てよ、武器を新調するために鉱石が必要なんだ」
そう言って、クラインは通路の奥───既にリポップしたゾンビで一杯になった広間を見据えた。
どうやら、彼らの目的も僕たちと同じだったらしい。
偶然にも同じ物を同じタイミングで取りに来て、そのお陰で僕たちは命拾いしたというわけだ。
……本当に、感謝しないとね。

「前にアルゴが言ってた。カタナだっけ?」
「おう、ずっと曲刀使ってたらいつの間にかな。でもってカタナの入手方法は今んとこ、ここの奴が落とす鉱石から作るしかないんだと」
カタナスキル。
第十層迷宮区のモンスター『オロチ・エリートガード』が使用するスキルで、βテストの最終層が第十層までとなった原因ともいえるスキル。
そして、第一層のコボルド王が使ってたあれ。
そのせいでディアベルが死にかけたり、元βテスターが疑われたりと……僕にとっては少しばかり嫌な思い出のあるスキルだ。

……と、個人的な感情はさておいて。
アルゴの話によると、曲刀を使い続けることによってカタナスキルが出現することが最近になってわかったらしい。
所謂エクストラスキルと呼ばれるもので、それまで敵専用だと思われていたカタナスキルを、晴れてプレイヤー側も使用できるようになったというわけだ。
ちなみに、エクストラスキルの中でも全プレイヤーから一人しか習得できないスキル───ユニークスキルもあるのではないかという噂もあるものの、今現在においてそれを習得したというプレイヤーの情報はない。

とはいえ。現段階での入手方法がこれしかないというのは、なんとも難儀な話だ。
僕たち三人が死にかけたあのゾンビの大群を、彼らだけでもう一度相手にしなければならないということなのだから。

「……大丈夫なの?」
「ま、6人もいりゃ何とかなるだろ。そもそも、ここに三人で挑むのなんておめぇさん達くらいだぜ。普通なら入る前に怖気付くだろうし、いくらなんでも無謀ってもんだろうよ」
「う……」
耳が痛い。
図星なだけに言い返せないのが余計に悲しくなってくる。

「そんなわけで、おめぇさん達は早く戻ったほうがいいと思うぜ。ここもいつ敵が湧いてくるかわかんねぇしよ」
「……、そうするよ」
本当なら、今度は僕たちが彼らの手伝いをするべきなのだけれど。
生憎なことに、こっちはもう三人とも限界近くまで消耗してしまっている。
そんな状態の僕たちが残ったところで、むしろ足手まといになってしまうだろう。
ここはクラインの言う通り、大人しく街に戻るのが最善の選択だ。

「じゃあ、僕たちはこれで。手伝えなくてごめん」
「いいっていいって。次からはあんま無茶するんじゃねぇぞ!」
「……うん。ありがとう、クライン!」
「クラインくん、またねー!」
「ま、生きて戻ってきたら特別に俺様が武器を作ってやってもいいぜ。そんじゃな!」
最後にもう一度。今度は余計なことは考えずに、心からの感謝を伝えて。
僕たち三人は、街へと戻るために転移結晶を掲げた。


────────────


こうして。
僕たち三人は、無事にラムダの裏通り───リリアが露店を構えていた路地裏へと戻ってくることができた。
大変な思いをしたせいか、まだ数時間しか経っていないというのにこの治安の悪い裏通りを妙に懐かしく感じてしまう。

「いつもの場所だ……俺の知ってるラムダだ……!リオ、兄ちゃん生きて帰ってこれたぞ……!」
定位置に到着するなり、リリアは誰かの(恐らくは妹さんだろう)名前を呼びながら涙ぐんでいる。

「りっちゃん、よかったね~」
「……ほんと、一時はどうなるかと思ったよ。クラインたちには感謝しないとね」
そんなリリアの姿を眺めながら、思い思いに一息つく僕たち。
何だかんだで、最近の中では一番のピンチだったかもしれない。
おまけに相手はゾンビだらけで……うっ、だめだ、思い出すのはよそう。肉料理が食べられなくなる……!

「……と、ところでリリア、武器のことなんだけど───」
「俺、頑張った…頑張ったよ……!」
「………」
あの光景を心の奥底へと無理矢理封じ込め、何とか本題に入ろうとしたものの。
どうも、リリアの様子がおかしい。

「なぁ、俺頑張ったよな、なぁ……?オマエもそう思うだろ?」
ひょっとして、スイッチ入っちゃった感じですかね……?

「りっちゃーん?呼んでるよー?」
「この調子で、きっと……いや、絶対生きてオマエのところに帰るからな……!待ってろよ、リオ……!」
あ、これはだめだ。
完全に自分の世界に入っちゃってる感じだ。
きっと僕たちの言葉は耳に入っていないに違いない。

「……。仕方ない、一度出直そうか。当分戻りそうもないし」
「そうだねー」
「リオ……!リオぉぉぉ……!お兄ちゃんこれからも頑張るからな……!」
「………」
正直に言おう。ドン引きだった。
というか……ひょっとしてこの人、死線を潜る度にこうして自分の世界に浸ってるんだろうか。
それは流石に、ちょっと……。

「……ほ、ほら、行こうかシェイリ。落ち着いた頃にまた来よう、ね?」
「はーい」
……ま、まあ、安心した途端に感極まっちゃうことって誰にでもあるよね、うん。
24歳の男が妹の名前を呼びながら泣きじゃくる姿はちょっと……いや結構気持ち悪いけれど、それだけ彼は妹想いってことだよね!
なんだか言葉の端々に危険な匂いを感じるけれど、それも彼が妹想いだからこそと思えば目を瞑れ───

「だからリオ、帰ったら結婚してくれ……!」
「それはやめろ!」
───なかった。
訂正しよう。この男は危険だ!


────────────


「……はぁ。リリアってシスコンっぽいなとは思ったけど、まさかあそこまでとは……」
自分の世界に引き籠もってしまったリリアを路地裏に放置(一応待ち合わせ時間の指定はしたけれど、どうせ聞いていないだろう)し、僕とシェイリはひとまず宿屋への道を歩き始めた。

ラムダの裏通りは相変わらず閑散としていて、いつまたあのゴロツキたちが現れてもおかしくはなさそうだ。
もっとも、わざわざ僕が一人になるのを待っていたことから鑑みるに、二人以上のプレイヤーを積極的に襲うつもりはないみたいだったけれど。
そんなことを考えながら、二人並んで裏通りを歩いていく。

「りっちゃんはりーちゃんのことがだいすきなんだねー」
「……りーちゃんって、リリアの妹さんのこと?」
「そうだよー?りおだから、りーちゃん!」
静まり返った裏通りに、シェイリのソプラノトーンの声がよく響く。
いつの間にやら、彼女の中ではリリアの妹さんにまで渾名がついていたらしい。
リリアがりっちゃん、妹さんがりーちゃん。ややこしくない?

「りっちゃんはあんなに頑張ってるんだもん、きっとりーちゃんに会えるよね?」
なんだか見てはいけないものを見てしまった気がしてゲンナリしている僕に対して、シェイリはやっぱりマイペースというか、楽しそうというか。
そんなところが羨ましくもあるんだけどね。

「ん、そだね。このゲームがクリアされれば、リリアは───いや。僕とシェイリだって、向こうで待ってる人に会えるはずだよ」
「……、そうだよね~」
ん?
何か今、シェイリの様子がおかしかったような───

「ねぇねぇユノくん。クラインくん、いい人だったね」
「……え、あ、ああ。そうだね、いい人だった」
……いつものシェイリ、だよね?
気のせい───だったんだろうか。

「命の恩人だってこともあるけど……それよりも、ああやって誰とでも仲良くなれる人は羨ましいかな。僕、こんな性格だからさ」
「ユノくん、友達すくないもんねー?」
「っ!?そんなことはないッ! ……はず……」
いや違うんだ僕は友達が少ないんじゃなくてあえて作らないってだけであってそもそも僕みたいな奴が友達なんて作っていいのかどうかわからないっていうか大体僕なんて仲間殺しで元オレンジで投刃で───

「あ」

───っと、そういえば。
一番肝心なことを、まだ聞いていなかった。

「……ねぇ、シェイリ」
「なーにー?」
「君はさ、あの時どうして───」

───どうして、僕が逃げられないようにしたの?


────────────


思えばおかしかった。
最初は、いつものマイペースが発揮されただけかと思っていた。
だけど、シェイリの性格からしてそれはない。
この子は空気が読めていないように見えて、実は細かい気配りもできる子なんだ。

そんなシェイリが。
あの第一層のボス攻略戦以来、“人前では僕のことを名前で呼ばない”はずの彼女が。
あえてクラインの前で、僕の名前を呼んだ理由。

「んー?」
「大丈夫、怒ってないから。でも、理由だけ教えてほしいな」
「……、そっか」
それはきっと。
僕が人との関わりを避けようとすることを察して、その上で尚、彼との繋がりを持たせようとしていたんだろう。
だから、あのタイミングでわざと僕の名前を呼んだ。
クラインと必要以上に関わるまいとしていた僕に、交友関係を持たざるを得ない状況を作り出した。
顔と名前を憶えられてしまった以上、彼の性格からして否が応でも友好的に接してくることは想像に難しくない。
あの時シェイリが割り込んできたことで、僕が考えていた逃げ道は全て塞がれてしまっていたというわけだ。

───だけど、どうして。

どうしてシェイリは、そうまでして僕とクラインに関わり合いを持たせようとしたんだろうか。
それが、僕にはわからない───

「ユノくんはね、怖がりだと思うなー」
「……怖がり、というと?」
「わたしの時もそうだったけど、自分はこうだからーとか、巻き込んじゃうからーとか。いろいろ、考えすぎだと思うな」
「………」
そう──なんだろうか。
僕は、考えすぎなんだろうか。

でも、そうでもしないと。
僕は僕が思っている以上に、周りの誰かを不幸にしてしまうかもしれない。
僕と関わってしまったことで、僕の知らない時間、僕の知らないところで、誰かが傷ついてしまうかもしれない。
だって、僕は。

「だって、僕は───」
「《仲間殺し》、だから?」
「──っ!!」
「あのね。前にも言ったと思うけど、それはベータの───体力がゼロになっても、人が死ななかった頃のお話だよね。今とは違うよ」
そうだけど。
そう、なんだけど……!

「あの時は、たまたまそれが槍玉に挙げられちゃっただけ。だってユノくん、今は誰も傷つけてないもん」
「で、でも……」
「ユノくんが思ってるほど、周りはユノくんのことを人殺しだなんて思ってないよ。みんな、薄々わかってきてると思う」
確かに僕は正式サービスが始まってから、プレイヤーを攻撃したことは───人を殺したことは、一度もない。
あの件に関して、キバオウや一部のプレイヤーたちからは敵意を向けられるものの、他のプレイヤーたちからあれこれ咎められるようなこともない。
だけど……それで許されるだなんて、思っていいのだろうか。

あの時、僕がやったことは、間違いなく全プレイヤーに対する敵対行為だ。
アバターが消滅すれば現実世界でも死ぬというこの世界で、仮初いえども他者に殺意を向けた。
その瞬間、僕はこの世界を、現実世界の僕としてではなく《投刃のユノ》として生きていくことを決めた。
かつてのSAOの世界で、レアアイテムに目が眩み、パーティメンバーを皆殺しにして逃げ出した───そんな、仲間殺しのオレンジとして。
殺人鬼と呼ばれることも、見ず知らずの相手から敵意を向けられることも構わない。
それら全てを受け入れた上で、この子を守ると決めたんだ───

「あの時ユノくんがしたこと、やり方はちょっと乱暴だったかもしれないけど、間違ってるとは思わない。守ってくれるって言ってくれたのもうれしいし、わたしもユノくんのことを信じてるよ。でもね───」
僕の目を真っ直ぐに見ながら、シェイリは言う。
いつかのように、硬く、真面目な雰囲気を纏いながら。
僕は……目を、逸らしてしまう。
僕を真っ直ぐに見つめる女の子と───シェイリと、目を合わせられない。
いつもなら、簡単にできることなのに。

「これから関わろうとする人まで遠ざけるのは、ちょっと違うと思うな。《投刃》だから、元オレンジだから誰とも仲良くしちゃいけないだなんて、そんなのおかしいよ」
「だ、だけど!僕と関わったら──」
「ユノくん」
無駄だとわかっていながら。
彼女の言っていることが間違っていないとわかっていながらも、無駄な抵抗をしようとした僕の言葉を。
他でもないシェイリの声が、遮った。

「……僕に関わったら、みんなまで敵意を向けられる。みんなまで、辛い思いをする」
それでも僕は、無駄な抵抗を続ける。
目を逸らしたまま、僕は言う。
……だけど、違う。
キリトが、アスナが、エギルが。僕のしたことをあの場で見ていて、それでも尚、友好的な関係を築こうとしてくれている彼らが。
『おまえと一緒にいると、こっちまで辛い思いをする』だなんて、いつ、一言でもそんなことを言った?

「クラインだって、本当のことを知ればきっと後悔する。僕みたいな奴と関わらなければよかったって───」
これも、違う。わかってる。こんなものは、僕の勝手な思い込みだ。
彼と少し話してみれば、誰にだってわかる。クラインは、そんなことで人を嫌ったりするような人間じゃない。
自分の友人に殺人の容疑がかけられたら、周りが何と言おうと、最後までその友人を信じるような───そんな、超のつくようなお人よしタイプだ。

「クラインくんは、そんなこと言わないよ。キリトくんもあっちゃんも、ディアベルくんもエギルくんも、りっちゃんだって。そんなこと言わないでしょ?」
「……うん」
そんなことは、僕だってわかってる。
クラインだけじゃない。キリトもアスナもエギルも、立場上の都合があるであろうディアベルですらも、何だかんだと僕の身を案じてくれている。
超がつくほどの、笑ってしまいたくなるくらいのお人よし。

そんなみんなだから───だから?

そんなみんなだから、どうなんだろうか。
そんなみんなだから、僕は彼らを遠ざけているのか。
そんなみんなに、みんなの存在に、感謝しているのに?
一緒にいてくれて、こんな僕にも分け隔てなく接してくれて、それが嬉しいのに?
それは……矛盾、してないか?

「僕、は……」
僕は、一体何がしたいんだろう?
嬉しいはずなのに、人と関わり合いを持ちたいと思っているのに、関わらないようにしている。
そんな、矛盾した行動を取ってしまう理由は。
それは───

「ねぇ、ユノくん。怖がっちゃだめだよ」
「……こわ、がってる?」
「うん。あの時からユノくん、人と関わるのを怖がってるもん」
「あ……」

───そう、か。

みんなのことが嫌いなわけじゃない。だけど、遠ざける。
みんなと関わり合いを持ちたい。だけど、持ちたくない。
そんな、矛盾した行動を取っていた理由。
自分でも気付かなかった───否、考えないようにしていた。

僕は───怖かったのか。

僕と関わってしまったことで、彼らまで周りから後ろ指をさされてしまうことが。
僕の知らない時間、知らないところで、彼らが辛い思いをして。
僕と関わらなければよかったと、彼らに思われてしまうことが。
それが、怖かったんだ───


「怖がっちゃだめ。このままだと、ずっとわたし以外の人と関われなくなっちゃうよ?」
僕は──それでも構わないと、思っていた。
他の誰を敵に回そうと、何があろうと、この子だけは守ると決めたから。
そう思って、あの日から今日まで生きてきた。

「もし、わたしがいなくなったら。ユノくん、ひとりになっちゃうよ?」
それなのに、なんで。
どうしてそんなことを、言うんだろう?
僕が、このまま誰とも関わりを持たないようにしていたとして。
もしも──万が一にでも、シェイリが何らかの理由でいなくなってしまったとしたら。
その時、僕は一人だ。
彼女以外の誰とも関わりを持っていないのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。

───だけど。

だけど、それがどうしたというのだろう。
現に今、こうして僕の前にはシェイリがいる。
夢でも幻でもなく、シェイリという一人の人間が、僕の目の前にいる。
それだけで、僕は戦える。他の誰を敵に回そうと、何を切り捨てようと。《投刃のユノ》として、この世界を生きていくことができる。

───なのに、どうして。

どうして君は、そんな───


「ひとりは……さみしいよ」
「っ!!」

その言葉に、ハッとなって。
僕は逸らしていた目を、シェイリへと向けた。
彼女がどういう顔をしながら、そんなことを言ったのか。
それを……確かめたかった。

「──と、いうわけで!ユノくんはもっとお友達を作るべきだとおもうんだよー!」
……だけど、僕が目を向けた時にはもう遅くて。
いつものふにゃりとした笑顔を浮かべたシェイリと、目が合った。
さっきまでの、重くて硬い雰囲気は。彼女の顔のどこを探しても、見当たらなかった。

「ね、ユノくん。いっしょにがんばろー?」
「………」
そう言って、シェイリは笑う。
いつも通りの、彼女の笑顔。
いつ通りの───はずだ。

「……、努力、する……」
「うんうん、えらいえらいー」
だけど、そんな彼女の笑顔が。
いつか突然、僕の前から消えてしまいそうな───そんな気がしたのは。

「……ね。手、繋ごうか」
「いいよー?珍しいね、ユノくんから言ってくるなんて」
「たまには、ね……」
僕の思い過ごしで───あってほしい。 

 

とあるβテスター、祈る

宿泊中の部屋に戻るなり、備え付けのベッドへと思いっ切りダイブした。
こんな風にダイブするといつも邪魔になる腰のナイフは、今日に限っては在庫切れだ。
よって、僕は部屋着に着替えることもせず、硬くもなく柔らかくもなくといった、微妙な柔らかさ加減の枕に顔を埋めた。

「───はああぁぁ……」
マントの下に装備している胸当てが邪魔だけど、ボタン操作一つで済むというのに、部屋着に着替える気力は湧いてこない。
暫くそうした後、うつ伏せの体勢のまま頭だけを起こし、部屋に僕一人しかいないことを確認。
再び枕に顔を押し付け、ここ数ヵ月で一番大きな溜息をついた。

「……、わっかんない、なぁ……」
枕の感触を頬に感じながら、シェイリの言っていた言葉を反芻する。

あれから。
彼女が一瞬だけ見せたと思われる表情を僕が見ることは、終ぞ叶わなかった。

───結局、僕は何もわからないままだ。

彼女がどういう心境で、クラインが僕に関わるように仕向けたのか。
彼女がどういう心境で、僕に怖がるなと言ったのか。
彼女がどういう心境で───ひとりは寂しいと、言ったのか。

僕には、わからない。
わからない、けれど───

───いなくなったりは、しない、よね?

手を繋いで。
僕は少し照れくさくて。
彼女が笑って。
そんな、いつも通りの───当たり前のような日常、当たり前のような姿が。
いつの日か、僕の前から忽然と消えてしまいそうな。
そんな───気がした。

そんなものは、僕の気のせいであってほしい。
そんなものは、僕の気のせいでなければならないはずだ。

だって。
もし、そんなものが、僕の気のせいではなかったとしたら。
その時、僕は文字通り───ひとりだ。
近付いてくる全ての人間と距離を置いて。
彼女以外の全ての人間を遠ざけて。
その彼女がいなくなった時、僕の元に残るものは───何も、ない。
何も、残らない。
本当の意味での───孤独。

考えられない。
考えたくない。

もし、そんなことが現実になってしまったら。
その時、僕は───


「……くっそ。最近ますますネガティブになってないか、僕。ここまで酷いネガティブキャラじゃないっつーの」
負の連鎖に陥りそうになった思考を、半ば強制的にシャットダウン。
リリアを真似て軽口を叩いてみたけれど、気分はそこまですっきりしなかった。
まあ、あれはリリアがやるから意味があるんであって、軽口で気を紛らわせるなんてそれこそ僕のキャラじゃないだろう。

「………、うーーーあーーーー!」
もやもやとした気分をエネルギーに変えるように、がばっと顔を起こし、勢いに任せて寝返りひとつ。
手頃な大きさだった枕を抱きかかえ、ベッドの上を左右にごろごろ転がってみる。
なんだかキャラが崩壊している気がするけれど、リリアはまだ裏通りで自分の世界に浸っているだろうし、シェイリは例の如く買い出し中だ。
いつもならそろそろ戻ってくる頃合だけど、今日の狩りでの消耗具合を考えれば、あともう少しくらいは時間的猶予があるだろう。
誰も見ていないんだから、誰の目を気にする必要もない。
存分にキャラ崩壊してやろうじゃないか。

「もーーー!もおおおおーーー!」
ごろごろごろごろ。
ごろごろごろごろ。
難しいことを考える余裕をわざとなくすように、奇声を発しながらベッドをごろごろ。

「わっかんねぇーーー!うあーーーーー!」
そうしているうちに。
ベッドをごろごろしているうちに。
頭の中のもやもやは相変わらず存在しているけれど、大声を出したことで、少しだけ気分がすっきりしたような気が───

「……何してるんダ、ユー助?」
「は?」
───してきたと思った、その時。
部屋には僕一人しかいないはずなのに、何故か入口のほうから声をかけられた。

「………」
動作停止。
思考も停止。
瞬間冷凍よろしく硬直する僕。

「イヤ……、ユー助も色々大変だもんナ、ウン」
「………」
……おかしい。
SAOの宿屋は基本的に施錠可能で、パーティメンバー以外の人間が誰かの部屋に入るには、その部屋に宿泊しているプレイヤーの許可が必要なはずだ。
だというのに、どこぞの情報屋特有の、コケティッシュな鼻音混じりの声が聞こえてきたのは何故なんだろうか。
キャラ崩壊上等で枕と一緒にローリングしていた僕としては、こんな姿を進んで誰かに見せたいと思うわけがない。
つまり、僕は許可を出していない。
イコール、今この部屋には誰も入ってこれない……はずだ。

僕以外は誰もいないはずの部屋。
何故か聞こえてきた声。
僕は誰にも入室許可を出した覚えはない。
よって、結論。これは幻聴だ。

「……一日に二回も幻聴を聞くなんて、疲れてるのかなあ」
「ユー助の境遇には同情するガ、現実逃避はお勧めできないナ」
幻聴に哀れまれてしまった。

「まア、オレっちも仕事を手伝わせた身だからナ。今のは見なかったことにしておいてあげるヨ」
「……、それはどうも……」
幻聴───もとい。
何故か僕の部屋にいたアルゴは、恩着せがましく言う。
その可哀想なものを見るような目をやめてほしいところだけど、口止め料をサービスしてくれるのはありがたい。
どうしてアルゴが僕の部屋にいるのかはわからないけれど、こんな姿を見られた以上、何としてでも口止めする必要があると思っていたからだ。
着替えもせずに奇声を発しながらベッドでごろごろしている姿なんて、シェイリに見せるわけにはいかない。
守ると言った手前、情けない姿なんて見せたくないからね。
僕にだって、譲れないものくらいある。

「それじゃ、お邪魔するヨ?」
「はーい」
「………」
一緒にいたのかよ。
一緒にいたのかよ!


────────────


「いやア。なかなか連絡がこないかラ、様子を見に行くところだったんだヨ。そしたらシーちゃんが買い物してるのを見かけてナー」
「るーちゃんがお買いもの手伝ってくれたんだよー」
「……そうですか」
楽しそうに笑うシェイリとは対照的に、僕の気分はどんよりとしていた。
どうやら買い物途中にアルゴと遭遇し、二人で買い出しを済ませてきたらしい。
僕とシェイリは同室に泊まっているため、一緒に戻ってきた彼女が入室許可を出してしまったんだろう。
思ったより早く戻ってきたことといい、アルゴが部屋に入ってきたことといい、運が悪かったとしか言いようがない。

「にしてもユー助、いつもこうやって年端もいかない女の子をパシってるのカ?オネーサン、ヒモはどうかと思うヨ」
「突っ込みどころが多すぎてあれなんだけど、とりあえずヒモじゃないから。あとその子僕と同い年だから」
自称だけど。
僕ですら未だに年齢詐称を疑っているけど。

ちなみに誤解されないよう弁明しておくと、毎回シェイリが買い出しに行くのは決して僕がパシってるからというわけではない。
SAOのストレージ容量は筋力値の影響を受けるため、彼女のほうがアイテムを多く持てるということで、いつの間にか買い出しはシェイリの役目になっていた。
……というか、交代制を申し出たら断られた。ユノくん力仕事は頼りないからだーめっ☆とか可愛く言われた。
そりゃあ敏捷値ばかり強化している僕と筋力値特化のシェイリとでは、持てるアイテムの量にもかなりの差が出てしまうけれど。
容量オーバーで二回に分けて買い出しするくらいなら、いちいち店と宿屋を往復する必要がないシェイリが行ったほうが効率的なんだけれど。
実は気にしていることをストレートに言われ、僕が密かにショックを受けたのは言うまでもない。

「にゃハハ、冗談冗談。大体想像ついてるヨ。ユー助が貧弱なのは今に始まったことじゃないからナ」
「そうなんだー?」
「ンー、ユー助にまつわるとっておきのエピソードがあるんだガ、1000コルでどうダ?」
「おい」
それβの頃の話だよね。βの情報は売らないとか言ってたよね、君。

「だから冗談だっテ。ユーモアのない男は嫌われるヨ」
「君の場合は本当に売り兼ねないから怖いんだよ」
「だいじょうぶだよ、ユノくん。るーちゃんは嘘つかないよ」
「ウンウン。るーちゃん嘘つかないヨ」
「……お二人さん、随分と仲良くなっていませんか?何かあったの?」
それにしても。
少し目を離した隙に、二人が妙に意気投合している気がする。
気が付いたら二人とも渾名で呼び合ってるし。
なんか妙な連帯感みたいなものを醸し出してるし。
買い物しながら雑談でもしていたんだろうか。

どうでもいいけど、アルゴなのに『るーちゃん』というのはこれ如何に。
アスナと被るからなのかとも思ったけど、それを言ったらリリアと妹さんも被ってるしなあ。
結構な時間を一緒にいるけれど、シェイリのネーミングの法則は未だによくわからない。
男の人を渾名で呼ぶところは見たことがないし、女性限定なんだろうか。
いやでも、そうなるとリリアをちゃん付けで呼ぶのは───あ、単に面白がってるだけか。

「えへ、ユノくんには内緒ー」
……そういえば僕、初めて会った時からずっとこう呼ばれてるなあ。
まあ、最初にそう呼んでくれって頼んだのは僕だし、そのほうが何かと都合がいいんだけど。

「まア、同じ乙女同士ってことで色々とナー」
「いろいろお話したもんねー」
「ネー」
「………」
なんだろう、何か無性に怖い。
僕のいない間に、あることないこと言われてたらどうしよう。
そのうち二人だけでこれ見よがしに内緒話とか始めちゃって、僕のほうをチラ見しながらクスクス笑ったりするようになるんだろうか。
もしそんなことになったら───あ、やばい、想像したら泣きそうになってきた。
あとアルゴ、乙女は人の弱みに漬け込んで金銭を巻き上げたりはしないと思う。

「とまア、そろそろ本題に入ろうカ。例の鍛冶師の件だヨ」
「あー……」
そういえば。
色々なことがあって忘れていたけれど、そもそもの目的はアルゴの助手(という名のパシリ)として、裏通りの鍛冶師の正体を探ることだった。
うーん、どう説明したものかなあ。

「……、結果だけ言うと、アルゴが嫌ってた男がリリアだった」
「ハ?」
少し迷った末、単刀直入に言ってみた。
やはりというかなんというか、アルゴは呆けた声を発しながら僕のことを二度見してくる。

「だから、アルゴにセクハラした店番の男がリリア本人だったんだよ。裏通りの鍛冶師リリア」
「……ユー助はあの男が女に見えるのカ?SAOに眼科ってあったっけナ……?」
「君の心中は察するけど、現実逃避はお勧めできないよ」
「………」
絶句、といった様子で硬直するアルゴ。
そりゃあ、まあ、当たり前の反応だろう。
名前だけ聞けば、誰もが女性プレイヤーだと思ってしまうに違いない。
まさか自分にセクハラしてきた目付きの悪い男が、巷で噂の女性鍛冶師の正体だとは思ってもみなかっただろうし。


「──そんなわけで、ソロから鍛冶師に転向したらしいよ───って、アルゴ?」
「………」
「……あの、アルゴさん?」
と、忠実に職務を全うした僕は。
目の前の小柄な情報屋が、プルプルと小刻みに震えていることに気が付いた。
SAOではありえないことのはずなのに、心なしか、アルゴの周りにどす黒いオーラが見えるような気が───

「……じゃあなんダ?オイラはそんな奴に胸を揉まれた挙句、『あー、論外』とか鼻で笑われたってのカ……?あの野郎、自分はネカマの癖しやがっテ……!」
あ、やばい。
これはやばい流れだ。

「……ねぇ、シェイリ。止めるべきだと思う?」
「んー、これはりっちゃんが悪いんじゃないかなー?」
シェイリに相談してみたものの、さすがの彼女もセクハラは看過できないらしい。
そうこうしている間にも、アルゴは何やらぶつぶつと呟きながら歯軋りしている。
まあ、僕も被害に遭ったし。
挙句に小僧だの何だのと色々言われたし。
こればっかりは仕方ないかな、うん。

「あのネカマ野郎ッ!一発殴ってくル!」
「いってらっしゃーい」
「……一応、死なない程度にお願いね?」
怒り心頭といった様子で部屋を後にするアルゴに、さらりとリリアを見捨てるシェイリ。
そんな二人に軽く恐怖を覚えながら、僕は心の中でシスコン鍛冶師の無事を祈った。 

 

とあるβテスター、転がる

バタァン!と勢いよく扉を開けて出て行ったアルゴを見送り、僕は再びベッドに寝転んだ。
流石に今度は枕を抱えてローリングするということはなく、仰向けになって天井を眺める。
うつ伏せに寝転がっていた時とは違い、胸が圧迫されて苦しくなるようなことはなかった───けれど。

「るーちゃん、すっごく怒ってたねー?」
「……、そうだね」
ちょっと……気まずい。
僕の気にしすぎだということは、わかっているのだけれど。

「あ、そうだ。ユノくん、買ってきたものわたすねー」
「………」
いつものように、ふにゃりと笑うシェイリ。
いつも通りの、気の抜けるような、間延びした口調。

だけど、それは本当に───シェイリなんだろうか。
僕が知っているシェイリは、本物のシェイリなんだろうか。
もしかしたら。
僕が見てきた彼女は、僕がシェイリだと思っていた彼女は、まったくの偽りの顔で。
あの時一瞬だけ見せたであろう、あの表情こそが。
硬くて重くて暗い、そんな雰囲気を纏った姿こそが、彼女の本当の姿なのかもしれないだなんて。
そんな───どうしようもないことを、考えてしまう。
見慣れているはずの彼女の笑顔を、見つめることができずにいる。

「……?ユノくーん?トレードだよー?」
「………」
さっきはアルゴがいたから、余計なことは何も考えずに済んでいた。
だけど、こうして二人きりになってしまうと───否が応でも、あの言葉を思い出してしまう。
ひとりは寂しいと言った時の、彼女を思い出してしまう。
彼女が突然いなくなってしまうかもしれないと、思ってしまう───

「……ああもう、だめだだめだ!」
「ユノくん?」
と、そこまで考えたところで。
またもや考え込みそうになるのを中断し、ネガティブな思考を叩きだすように頭を振り払う。

「ほんっと、どうして僕ってこうなんだろうね……?」
また、いつものパターンだ。
考えれば考えるほど、思考がより悪い方向へと向かっていく。
僕の、悪い癖だ。
悪い性質と───いってもいい。

「……なんかもう無理。考えるの疲れた。うあー」
そんな性質の僕だから───いくら考えたところで、結果は同じだろう。
よって、思考を放棄。
ついでにプライドも放棄。

「もう無理だーうあー」
「ユ、ユノくん……?」
なんとも投げやりな声を出しながら、再び枕を抱えてローリングを開始する。
どうせ一度見られているんだ、プライドも何もあったもんじゃない。
むしろ存分に見せつけてやろうじゃないか。
さあシェイリ、存分に見るがいい。その目に焼き付けるがいい。
刮目せよ、刮目せよ、刮目せよ!
これが、考えることから逃げ出した者の姿だ───!

「うあーうあー」
「ユ……、ユノくん、とれーど……」
「うーーあーー」
「え、えーっと……?」
転がる僕。
困惑するシェイリ。
いつもとは逆の立場ということで、僕のテンションもヒートアップ。
いつもより多く回っております。かっこ当社比。

「うあーうあー」
「………」
「うーあー」
「……、うあ~」
暫くごろごろ転がっていると。
唖然としながら僕の様子を見ていたシェイリは───なぜか自分も枕を抱きかかえ、隣のベッドで同じように転がり始めた。

「うあー?」
「う~あ~」
「うあー」
「うあ~うあ~」
半ばやけっぱちだった僕は、彼女の予想外の行動に驚いて。
驚きつつも、転がり続けた。
シェイリと一緒に、転がり続けた。


────────────


「んー、なんかすっきりしたねー」
数分後。
そこには、にこやかな笑顔を浮かべるシェイリと、

「……何やってるんだ、僕」
少し冷静になって、虚無感に苛まれる僕の姿があった。
……いや、ほんと何やってるんだろう、僕。
割と本気で死にたくなってきたよ?

「……でも、まあ。すっきりした、かな?」
「でしょ~?」
そう言って、何故か得意気に胸を張るシェイリ。
最初に転がり始めたのは僕だから、シェイリが得意気になるのはおかしいんだけど……まあ、そんな細かいことを突っ込むつもりはない。
というか、こんなしょうもないことに対する権利を主張するつもりもない。

まあ、それは置いといて。
僕にとってはそんなことよりも、体を動かしたことと思いっきり声を出したことで、いくらか気分がすっきりしたことのほうが重要だった。
傍から見れば気が狂ったかとも思われかねない行為だったけれど、暗い思考を振り払うにはうってつけだったらしい。

「……まあ、考えるだけ野暮だったかな、うん」
「?」
「ん、なんでもない」
吹っ切れた気分でそう呟くと、不思議そうな顔をしたシェイリと目が合った。
今度は気まずい思いをすることもなく、真っ直ぐ彼女の顔を見ることができた。

人の本心なんてものは、その人自身にしかわからない。
当然ながら、彼女の本心は彼女にしかわからない。
僕があれこれ推測しようと、いくら色々考えようと、彼女の心を読むことはできない。
故に、答えが出るはずもない。
最初から解答の用意されていない問題を、延々と考え続けているようなものだ。

だったら。
もう、何も考えなくていいじゃないか。

いつもの彼女が本物で、あの時僕が感じたものが、単なる気のせいだったとしても。
一瞬だけ見せたあの姿が本物で、いつもの彼女が偽りだったとしても。
それが、そのどちらもが、今日まで一緒に生きてきた彼女なんだから。
あの時───僕が勝手に取り乱して、本当に死んでしまうかもしれなかった時。
こんな僕なんかのために、ぼろぼろになるまで泣いてくれた───僕の、大切なパートナーなんだから。

「シェイリ」
「なーに?」
彼女は今、こうして僕の隣にいる。
僕と一緒に、僕の傍に───いてくれる。
それだけで、僕は十分だ。
それだけで、僕はこの世界を生きていける。

今は、それだけでいい。
それだけで、いいから。
だから───

「大好き」
「ふぇ?」
だから───シェイリ。
僕は、一人になったりしないから。
僕は、一人で死んだりしないから。
これから何があっても、君を一人にしたりしないから。

「大好きだよ」
「?わたしもユノくん大好きだよー?」
だから、どうか。
どうか、お願いだから。
君だけは、いなくならないで。 

 

とあるβテスター、お願いする

リリアのことを忘れていた。
そのことに僕が気付いたのは、辺りがすっかり夜の闇に包まれた後だった。
ベッドでごろごろした状態のまま、うっかり二人して爆睡してしまっていたらしい。

「ふあ……」
まだぼんやりとする意識の中、何とか右腕だけを持ち上げ、指を振ってメニューウィンドウを開く。
視界の端に表示される時計を見てみると、現在時刻は午後9時を少し過ぎたところだった。

「……っ!?やばっ!?」
現在の時刻を確認した瞬間、僕の眠気は一気に吹き飛んだ。
リリアとの待ち合わせに指定したのは、午後7時。
僕たちがダンジョンから戻ったのが午後4時頃で、部屋にアルゴが訪ねてきたのは5時かそこらだったはずなので、かれこれ4時間ほど寝ていたことになる。
SAOには強制起床アラームという、指定した時刻に任意の音楽を流し、強制的に意識を覚醒させてくれる、なんとも便利な機能が備わっている。
この機能によって、SAO内での生活において寝坊という概念は存在せず、現実世界のように寝坊が原因で待ち合わせに遅刻するといったこともない。
……ところが。
僕はこんな時間に寝てしまうとは思ってもいなかったため、当然ながらアラームをセットしているはずもなかった。
隣のベッドで寝ているシェイリはというと、そもそも強制起床アラームをセットする習慣自体がないらしい。
したがって、遅めの昼寝───と呼んでいいのかどうか微妙なラインのこの睡眠によって、僕たち二人は見事に約束の時間をブッチしてしまったというわけだ。

実を言うと、僕とシェイリが(といっても、僕が一方的にだけど)気まずくなっている最中、リリアからのインスタント・メッセージが何件か届いていた───のだけれど、その内容は『たすけろ』『ころされる』『はんにんはあるご』などという、自業自得としか言いようのない内容だった。
よって、当然のことながら、考え事(主に悪い方向の)の最中だった僕が、そんなメッセージを相手にするはずもなく。
リリアから送られてくるメッセージをことごとく放置しているうちに、いつの間にかベッドでごろごろするのに夢中になっていた。
……正直なところ、途中から内容を確認すらしていなかった。

「あー……怒ってるかな」
一番最後に送られてきたメッセージを開いてみると、そこにはたった一言だけ『うらぎりもの』と書かれていた。
どうやら恨まれてしまっているらしい。

いや、まあ。
そもそも待ち合わせすること自体、本来であれば必要のないことであって、どこかのシスコン鍛冶師が周りそっちのけで自分の世界に浸りさえしなければ、その場で武器を作ってもらえば済んでいた話だったんだけど。
更に言えば、アルゴに関しては彼が自分で撒いた種なわけであって、僕たちを恨むなんてお門違いも甚だしい。
……と、切り捨てたいのは山々なところではあるものの。
今回に限っては、寝過ごしたこっちにも非があるしなあ。

「一応、謝っておこうかな……。シェイリは───」
「……ふにゅ……」
「……。まあ、いっか、一人で」
シェイリを起そうかと思ったけれど、直前で思い直した。
隣のベッドですやすやと眠る彼女は、あまりにも気持ちよさそうに熟睡中だったため、無理に起こすのも憚られたからだ。
インスタント・メッセージでリリアに今から向かう旨を伝え、軽く身支度を整える。
この機能はメッセージが相手に届いたかどうかを確認できず、更に相手が同じ層にいなければ無効になってしまうという欠点はあるものの、あれだけ大変な思いをした後で狩りに行くような気力は、彼にも残っていないだろう。
それ以前に、リリアがアルゴから逃げ切れるとも思えないし。
僕の予想が正しければ、彼は裏通りの定位置で不貞腐れていることだろう。

「……って、早っ」
案の定。
僕がメッセージを送って一分と経たないうちに、リリアからの返信が返ってきた。
内容は、『さっさと来い』───早かっただけあって、なんとも簡潔極まるメッセージだ。
こちらも一言で返信し、ウィンドウを閉じる。

「ふぁ……?」
と、僕がウィンドウを操作する音に反応したのか、シェイリが小さく息を漏らした。

「ん、なんでもないよ。おやすみ」
「ふぁい……」
寝ぼけ眼で起きようとする彼女を寝かし付けるように、そっと頭を一撫でする。
どうやらほとんど無意識だったらしく、僕が小声で囁くと、安心したように再び寝息を立て始めた。

───いつも通りの、なんとも無防備な寝顔。
手を伸ばせば届くところにいる、僕の大切なパートナー。

彼女の寝顔を眺めているうちに、本物だとか偽物だとか、さっきまで散々考えていたことは───もう、どうでもよくなっていた。
あの時確かに感じた、嫌な予感。
彼女がいつか、僕の前からいなくなってしまうような───そんな気がした、けれど。

「……よし」
だったら、尚更。
僕は、もっと強くなる。
強くなって、この手で彼女を守り抜く。
今は、ただ、それだけを。
そのことだけを、考えればいい。

───だって、僕は。

手を繋いで。
僕は少し照れくさくて。
彼女が笑って。
そんな、いつも通りの───当たり前のような日常、当たり前のような姿を。
守りたいと───思ったんだから。

「いってきます」
だから、そのためにも。
僕も、怖がってばかりじゃいられない。
まずは、今の自分にできることから───ひとつずつ、始めてみようじゃないか。


────────────


「遅せーよ」
裏通りの定位置へと到着するなり、僕は仏頂面をしたリリアのお出迎えを受けることとなった。
自分で指定した約束の時間を二時間も過ぎてしまっている上、彼から送られてきたメッセージをも全て放置していたのだから、当然といえば当然だ。

「遅れてごめん。ちょっと色々あって」
「……フン、まあいいさ。俺もちっとばかし疲れたからな、今日だけは大目に見てやるよ」
「え……」
二人して爆睡してました───なんて流石に言えるはずもなく、あれから色々あったということにして(僕的には事実だけれど)まずは謝ると、リリアは意外にもすんなりと許してくれた。
本当に───意外だ。
彼の性格からして、ここぞとばかりに罵られるだろうと思っていたのだけれど。

「……何かあったの?」
「あ?どうしてそう思うんだよ?」
「いや、何か妙に大人しいからさ。……もしかして、アルゴに怒られて落ち込んでる?」
「ちげーよ」
うーん、やっぱりおかしい。
妙に大人しいというか、リリアにしては口数が少ないというか。
それだけ本気で怒っているのかとも思ったけれど、そういうわけでもなさそうだし。
彼は違うと言うけれど、僕たちが爆睡している間に何かあったとしか思えない。

「別に、大したことじゃねぇよ。ただ───」
「ただ?」
「少しはオマエらに感謝しねぇとなって、思っただけだ」
「へ?」
予想外の展開についていけず、間の抜けた声を出してしまった。
感謝。ありがたいと思う気持ちを表すこと。また、その気持ち。

「えーっと……感謝って?」
「あ?そのままの意味だが?」
「そう言われても……」
いや、本格的にわからないんだけど。
そのままの意味と言われても、感謝されるようなことをした覚えはないし。
むしろ投剣でボコボコにしたり、ゾンビの大群相手に先陣を切らせたりと───正直な話、碌な扱いをしていなかったような気がするのだけれど。
……まさかとは思うけど、そんな扱いをされたことが嬉しかったと言ってるんだろうか。
ノックバックで地面に叩き付けられているうちに、それが快感になってしまったとか、そういったオチなんだろうか。
普通の人が相手なら、それはありえないと思うけど……リリアの場合、実の妹に対して結婚願望とか持っちゃってるような人だからなあ。
……となると、僕が暴走して投剣スキルを連発していた時は───まさか、途中から喜んでた……?

「………」
「おい、なんだその目は」
シスコンな上に、ドM。
ちょっと危ない人だとは思っていたけれど、まさかここまで───

「言っとくが、変な意味じゃねぇからな」
「……え?あ、あー、うん」
「……オマエ、俺がマゾヒストだとでも思ってたんじゃねぇだろうな」
「っ!?い、いや、そんなことはっ!」
「………」
こちらの心を読んだかのような突っ込みをされてしまった。
いつの間に他人の心を読む術を身に付けたんだろうか。
リリアのくせになまいきだ。

「オマエ……俺を何だと思ってんだよ。こっちは至ってマジメな話をしてるつもりなんだがな」
「……と、いうと?」
……と、それはさて置いて。
彼がドMというわけでもないとするなら、僕は一体何に対して感謝されたんだろう。
こういうのもなんだけど、まるで心当たりがないわけで。
身に覚えのないことに感謝されても、逆に気になってもやもやしてしまうというか、なんというか。

「……なんつうかよ。俺が人目を避けてきたって話はしただろ」
「あー、うん」
「でもって、今までソロでやってきたわけだが……それも最近、限界を感じたわけだ」
「言ってたね。それで鍛冶師になったんでしょ?」
「ああ。結構大変だったんだぜ、実用できるまで鍛冶スキル上げんのはよ」
そんな僕の心情を察したかのように、リリアはぽつりぽりつと語りだした。
ソロに限界を感じ、鍛冶師に転向。それは、出発する前に聞いていた話だ。
リリアがこの裏通りに露店を構えるのは、午後12時から15時までの間だけ。
それ以外の時間は全て、鍛冶スキルの向上とレベル上げに費やしていたらしい。
鍛冶職人と、ソロ攻略の両立。
口で言うだけなら簡単だけど、攻略組クラスのレベル維持に加え、前線で実用可能な武器を作れる程の鍛冶スキルともなれば───それは、並大抵の努力で出来ることではないだろう。

「つっても、まぁ……なんだ。せっかく鍛冶スキルを上げていい武器を作れるようになっても、結局、俺にはこの名前で人前に出られるような度胸はなかった」
「いや、でも、それは」
「別にいいっつの。自分が臆病なことぐらいわかってる」
何か言おうとして言葉に詰まる僕を、他でもないリリア本人が遮った。

───臆病。
確かに彼の性格は、決して勇敢とは言えない───というか、ぶっちゃけてしまえばヘタレだ。
安全マージンを十分に取っているにも関わらず、敵と戦う時は必要以上に怯えているような、およそ攻略に向いているとは思えない性格。
彼が鍛冶師に転向したのは、そんな自分の性格を自覚しているからなのだろう。
そんな性格の彼が、不運だったとはいえ、女性名を背負ったまま生きていかなければならなくなったとなれば───アバターネームは名乗らなければわからないとはいえ、万が一にでも他人にばれてしまう可能性を考慮して、自然と人目を避けるようになってしまったのも頷ける。
もし、これが逆の立場だったら。
きっと僕も、彼と同じ行動を取っていたはずだ。

「だからって、俺は諦めたわけじゃねぇ。絶対このゲームを終わらせて、妹にもう一度会うって決めてんだ。流石に今は、親戚の爺さん婆さんが面倒見てくれてるだろうが……俺がいつまでもここにいたら、アイツはずっと一人になっちまう」
そんな彼が───臆病なことを自覚している彼が、多くのプレイヤーのように『はじまりの街』に留まるということをせず、ソロを貫き通してまで攻略を続けてきたのは。
それは一重に、現実世界で待っている妹さんのためだと言う。
一刻も早く、大切な人のところへ戻るために。
一人で立ち止まることよりも、一人でも前に進むことを選んだ。

「……だけどな。俺の腕じゃソロは限界が見えてたし、だからといって、鍛冶師として大っぴらに人前に出る勇気もねぇ。パーティを組もうにも、名前がバレちまう。それで馬鹿にされんのも、気持ち悪い奴って指差されんのも嫌だった。……他人が、怖かったんだよ」
「………」
「だから、なんつーか……初めてだったんだよ、誰かとパーティ組んだの。名前も、まぁ、りっちゃんとか呼ばれんのはイラッとするけど……オマエらは、笑わなかったしな。あのクラインとかいう奴にも、別に馬鹿にされたりはしなかったしよ。俺が思ってたほど、誰も気にしちゃいなかったみたいだ」
「リリア……」
「……まぁ、そんなわけだからよ。感謝してんだぜ、これでも。こんな俺でも、ちったぁ誰かと関わってみようって気になれたしな」
そう言って、リリアは照れ隠しをするように、がしがしと頭を掻いた。
きっと、彼も僕と同じだったんだろう。
人から敵意や悪意を向けられることが、人に嫌われることが───怖かった。
だからこそ、一人であり続けた。
ソロに限界を感じながらも、パーティを組むこともせず、大っぴらに店を構えることもしなかった。
誰もが自分を嫌うと決め付けて、最初から関わりを絶つことを選んだ。
嫌われることを恐れ、他人を遠ざけていた───僕と、同じだ。

だけど、それじゃあだめなんだ。
確かに僕たちに向けられる眼差しは、好意的なものだけとは限らない。
気持ち悪い、関わりたくない、いなくなってしまえ───そうした敵意や悪意の籠った視線を向けられることも、少なからずあるはずだ。
───だけど、だからといって。
最初から他人と関わることを避けていたら、誰とも関わることができなくなってしまう。
本当の意味で───孤独に、なってしまう。
それを、僕は彼女から───シェイリから、教えられた。

「……ね、リリア。僕、君に黙ってたことがあるんだけど」
「あ?」
もしかしたら、嫌われてしまうかもしれない。
おまえなんかと関わらなければよかったと、言われてしまうかもしれない。
僕は、そうなってしまうことが───自分が傷付くことが、怖かったんだ。

「実は僕、みんなから《投刃》って呼ばれてるんだ」
「……は?いや、何言ってんのオマエ」
けれど。
それを恐れているばかりでは、僕は前に進むことはできなくなってしまうのだろう。
考えてみれば当たり前のことだ。人は誰しも、自分一人で生きていくことはできない。
僕みたいな弱い人間が、このゲームでここまでやってこれたのだって。
強くなろうと、思えたことだって。
それは、彼女が───シェイリがいてくれたからこそ、できたことなんだ。

「んなもん、最初から知ってたっつの。四本同時の投げナイフ使いなんて他にいるかよ。っつーか、パーティ組んだ時点で名前もわかるだろうが」
「じゃあさ、なんで僕を避けなかったの?僕、《仲間殺し》だよ?」
「はぁ?そりゃ……アレだろ。オマエ、実際にここで人を殺したってわけじゃねぇんだろ。だったら、避ける理由もねぇだろうがよ」
結局のところ。
嫌われてしまうだの何だのというのは、僕たちの勝手な思い込みだったんだろう。
現に、こうして。
最初から全てを知っていても、それでも尚、変わらずに接してくれる人だっているんだから。

「ん……そっか。まあ、そうだよね。ありがと」
「はぁ?何なんだよ、気色悪りぃ。……つーかよ、それを言ったらオマエのほうこそ、ネカマ野郎とパーティ組んでて気持ちわりぃって思わなかったのかよ」
「ん、別に。こっちも同じだから、ね」
「……そうかよ」
───僕は、臆病だ。
一人は寂しい。一人は辛い。
そんな風に思っているのに、自分が傷付くのを恐れるあまり、他人を遠ざけてしまう。
自分の弱さから目を逸らして、見て見ぬ振りをしてしまう。

「あとさ、君にお願いがあるんだけど」
だから、まあ、そんな臆病な僕に───否、僕たちに必要なことは。
みんなが自分を嫌ってしまうと、最初から決め付けずに───傷付くことを恐れずに、人にぶつかってみることだろう。

「僕と……フレンド登録、してくれないかな?」
そんなわけで。
まずは、自分にできることから───誰かと友達になってみることから、始めてみよう。 

 

とあるβテスター、そっと部屋を後にする

翌日、2023年3月4日。
僕とシェイリが泊まっている宿屋の一室は、ちょっとした喧噪に見舞われていた。

「何でおまえがここにいるんダ?懲りずに殴られにきたのカ?だったらそう言えヨ、遠慮なく殴ってやるかラ」
朝から僕の部屋を訪れたアルゴは、いかにも不機嫌といった顔を隠そうともせず、ジト目で先客を睨み付けた。
彼女は情報屋という立場上、人間関係においてもあまり私情を挟むことはない……のだけれど、彼の所業に対しては、そんな彼女ですら怒りを抑えきれないらしい。

「そりゃこっちの台詞だっつの!なんでオマエがここにいんだよ暴力女!俺の(ダチの)ユノとどういう関係なんだよ!」
対するは、裏通りのセクハラ魔こと鍛冶師リリア。
初対面の女性の胸に触り、あまつさえ『あー、論外』などと鼻で笑うという、女性の敵そのものといっても過言ではない男。
正直な話、よくもまあ今まで黒鉄宮送りにならなかったのかと不思議に思うくらいだ。
というか、よくよく考えたら僕も被害に遭っているわけで。
思い出したら腹が立ってきたので、ここはアルゴに味方するべきか。
あと、その台詞は色々と誤解を招きそうなのでやめてほしい。

「もー!ふたりとも、喧嘩しちゃだめー!」
人の部屋で不穏な空気をまき散らす二人の間に割って入ったのは、僕のパートナーであるシェイリ。自称高校生。
知り合い二人が険悪な雰囲気なのを見ていられないのか、彼女にしては珍しく、強い口調で仲裁に入っている。
……とはいえ、如何せん本人の見た目が幼すぎるため、いまいち迫力に欠けると言わざるを得ない。

「ま、まあ、二人とも落ち着いて。ソファーにでも座ったらどう───」
「却下!」
「断ル!」
「……はい」
そして、僕はというと。
一旦落ち着くことを提案したものの、言い終わる前に却下されてしまった。
一応の部屋主だというのに、なんともぞんざいな扱いだ。
泣いても……いいかな?

「『鼠』がこんなところに何しに来やがったんだよ!ここはオマエのくるような所じゃねぇんだよ!」
「オイラは仕事の報酬の話をしに来たんダ!そっちこそ、どうしてこんな朝っぱらからユー助の部屋にいるんダヨ!」
「俺はこいつらの武器を作るって約束してたんだよ!勿論、ダチとしてなぁ!だからオマエはお呼びじゃねぇんだよ!」
「冗談言うナ!ユー助との付き合いなら、オイラのほうがおまえなんかよりもずっとずっと長いんダヨ!新参者は引っ込んでロ!」
「んだと、暴力女!」
「やんのカ、ネカマ野郎!」
尚も言い争う二人。
実を言うと、この二人の言い分はどちらも正しかったりする。
アルゴとは元々今日この時間に報酬の話をする約束をしていたし、リリアはリリアで、出来上がった武器を届けに依頼主であるシェイリの───要するに、僕たち二人の部屋を訪れたというわけだ。

と、ここまでは特に問題はなかった。
リリアが部屋に来たのはアルゴよりもだいぶ前だったし、肝心の武器制作も、苦労して鉱石を入手しただけあって、かなり高性能なものが出来上がったらしかった。
ランダム要素も含まれるSAOの鍛冶システムにおいて、一度で期待通り───否、それ以上の武器が出来るというのは、なかなかに運がよかったといえるのではないだろうか。

……ところが。
なんとも間の悪いことに、前の仕事が予定よりも早く終わったというアルゴが、予定よりも早い時間に僕たちの部屋まで来てしまった。
期待以上の成果にテンションが上がり気味だった僕たちは、アルゴの声を聞いて反射的に入室許可を出してしまい───そして、今に至るというわけだ。

「オイラはユー助のことなら何でも知ってル!それこそ、人に言えないことまでナ!」
「はっ!俺だって昨日の夜───おっと、こいつは言えねぇな。俺とアイツだけの秘密ってやつだ」
「!?おいおまえ、ユー助に何したんダ!昨日の夜ってなんダヨ!?」
「はぁ?オマエに教える義理はねぇだろ!」
「ユー助!この男とどういう関係なんダ!オイラよりもこいつを選ぶのカ!?」
「教えなくていいぜユノ!精々嫉妬させてやれ!」
どうでもいいけど、二人とも少し声を抑えてくれないだろうか。
SAOの宿屋は基本的に防音機能を備えているけれど、叫び声《シャウト》に至ってはその限りではなかったりするわけで。
要するに、この言い争いは全部、他の部屋に泊まっているプレイヤーにも筒抜けなわけで。
おまけに最前線であるラムダの宿屋には、攻略組を含めた多くのプレイヤーたちが泊まっているわけで……。

「僕、やっぱり人前に出れないかも……」
「………」
「……ん、シェイリ?」
この会話を聞いた人たちから、僕はどう思われてしまうんだろうか。
そんなことを考えながら軽くブルーになっていた僕は、何やらシェイリの様子がおかしいことに気が付いた。
気が付いて───しまった。

「………」
「あの、シェイリさん?その新しい武器をどうするおつもりで?」
シェイリが無言のままストレージから取り出したのは、刀身の鋼に朱色の絵具を混ぜたような禍々しい色合いの両手斧。
ついさっきリリアから受け取った、シェイリの新しい武器だった。
固有名、《ブラッド・リッパー》。エクストラ効果、人型・不死系モンスターに対して5%の追加ダメージ。
このタイミングでそんな武器を取り出して、彼女がこれからやろうとしていることは、ひょっとして───いや、大体想像はつくけれど。

「大体おまえは初めて会った時から気にいらなかったんダ!さっさと黒鉄宮送りにすればよかっタ!」
「それはこっちの台詞だっつの!オマエみたいな暴力女なんざ願い下げだね!チェンジだチェンジ!」
血染めの斧を握った両手をだらりと下げ、幽鬼のようにゆらりと二人へと近付いていくシェイリ。
その表情は前髪に隠れていて伺えないけれど、これがやばいってことくらいは僕にでもわかる。

「………」
えっと………。
僕、知ーらないっと。
君子危うきに近寄らず。触らぬ神に祟りなし。
これから起こるであろう惨劇に巻き込まれないうちに、僕はそっと部屋を後にした。

「……ふたりとも───」
「こうなったら白黒つけようじゃねぇか!ユノがどっちを選ぶのかをなぁ!」
「上等ダ!ユー助はオイラを選ぶに決まってル!」
「いいかげんに───」
「じゃあ本人に聞いてみようじゃねぇか!ユノ、オマエはどっちを───って、ユノ?」
「ア、アレ、シーちゃん?何で武器なんか構えテ───」
「してぇぇぇ───っ!!」

「ちょ、クソガキ、何を───ぎゃあああああ!?」
「シ、シーちゃん、話せばわかル───うわアアアア!?」




───こうして。
滅多に聞けないであろうシェイリの叫び声と、案外似た者同士かもしれない二人の悲鳴をBGMに。
今日も今日とて、僕の一日が始まる。
ただ、昨日までとは少しだけ違っていることは───友達が、増えたことだろうか。 

 

とあるβテスター、恩人になる

「本当に、助かりました。あたし、もうダメかと思いました」
まだ震えの残る声で言いながら、彼女は僕に向かって大きく頭を下げた。
元々の色素が薄いのか、やや赤みがかった茶髪のポニーテールが、彼女の動きに合わせてぴょこんと揺れる。

「ユノさんがいなかったら、今頃あたし、死んじゃってたかもしれないです。本当に、本当に、ありがとうございました!」
「そんな、気にしなくていいよ。僕はたまたま通りかかっただけだし」
「そんなわけにはいきませんよ!ユノさんはあたしの命の恩人ですから!」
気を遣わないように言ったつもりが、逆に『命の恩人』だなんて大仰に言われてしまった。
こうも繰り返し頭を下げられると、逆にこっちが気を遣っちゃうんだけどなあ……。

「……本当は、一人で来たくなかったんです。モンスターは怖いし、一人で戦うのも嫌。だけど、ギルドの人に頼んだら、村を周るだけのクエストだから大丈夫だって……。だからあたし、怖かったけど、一人で頑張ろうって思ったんです。……そしたら、そしたら……っ!」
話しているうちに恐怖が蘇ったのか、全てを言い終えるよりも早く、彼女は青褪めた顔で、自分で自分の身体を抱きしめるようにしながら蹲ってしまった。
……無理もないとは思う。寸前で間に合ったとはいえ、これ以上ないほどに『死』を間近に感じてしまったばかりなのだから。

「……大丈夫。もう大丈夫だから、安心して。……ね?」
「っ……!ユノさぁん……!」
嗚咽を漏らす彼女を安心させるように、努めて優しく声をかける。
泣き止んでほしかったのだけれど、安心したことによって、かえって涙腺が緩くなってしまったらしい。
彼女が落ち着くには、もう少し時間がかかりそうだ。


────────────


実際のところ。
命の恩人だなんて大層な呼び方をされる資格は、僕にはないのだろうと思う。
彼女───ルシェを僕が助けたのは、本当にただの偶然だったのだから。

そもそも、僕がここ第2層を訪れたのは、円月輪《チャクラム》を装備するのに必要な条件となる《体術》スキルを習得するためだった。

というのも、十日ほど前───リリアと行ったあの洞窟での戦いにおいて、自分の非力さを痛感したのが切っ掛けだった。
こちらを圧倒する数の敵に対し、僕は真っ先に武器のストックが尽き、後半はほとんど戦うことができなかった。
あの時は、偶然にも同じ場所に用があったクラインたち《風林火山》のパーティが助太刀してくれたけれど、毎回そう都合よく援軍が現れるとは限らない。
……というより、あんな奇跡は二度とないと思うべきだ。

これから先、このゲームがクリアに近付けば近付くほど、敵はより強く、より強固になっていくだろう。
一体一体を倒すのに必要となる手数も、必然的に増えていくこととなる。
そうなった場合───あの時のような持久戦を強いられれば、僕はパーティのお荷物になる可能性が非常に高い。

投剣はSAOで唯一遠距離攻撃が可能というメリットがある一方で、スキルの威力そのものは他の近接武器に一歩劣り、また、武器のストックが尽きればスキルを発動させることすらできなくなってしまう。
そのため、SAOでは投剣は補助武装程度にしか使われていない。投剣スキル一撃で仕留められる敵は少ないし、長期戦になるなら尚更、残弾数を気にする必要のない武器を使ったほうがいいからだ。

……だけど、困ったことに。
βテストに当選し、初めてSAOにログインした僕は、自分がこのゲームをプレイすることにおいて、致命的ともいえる欠点があることに気が付いてしまった。
そう───僕には、致命的なまでに近接戦闘の才能がなかった。

SAOのβテスト開始日、僕は初めての戦闘であっけなく死んだ。
死因は単純明快。至近距離で動き回ってくる敵に対して、どう対処すればいいのかわからなかったからだ。

普通、新規サービスのMMORPGは、死んでコツを覚えていくのが常識となっている。
新規のゲームである以上、参加しているプレイヤーの全員が右も左もわからない初心者《ニュービー》だ。当然、攻略法なんてものが存在するはずもない。
したがって、誰もが最低限のマニュアル以外の情報を持たないまま手探りで情報を集め、死んで覚えてを繰り返しながら、自分なりのコツを見つけていくことになる。
そうして、それらの情報を不特定多数のユーザーが共有化することによって、徐々に攻略の基盤が出来上がっていくというわけだ。

例えば、真正面から武器を垂直に振り下ろされた時。
プレイヤーが取るべき選択肢は、『武器で受け止める、もしくは受け流す』『反射的に回避する』『防御に専念する』といったところだろう。
いずれかの方法で攻撃に対処した後、隙を見てソードスキルで反撃に出る───というのが、SAOにおける戦闘のセオリーだ。
βテスト開始直後は、誰もがどう戦えばいいのかわからず、最弱クラスのモンスター相手に次々と倒されていった。
当初はソードスキルを発動させることすらままならないプレイヤーだらけで、戦い方を知っている人間が誰一人としていなかったからだ。
だけど、彼らは死んでは復活し、また戦いを挑むといったことを繰り返していくうちに、次第に『どう戦えばより効率的か』ということに気が付いていく。
時に武器で受け止め、時に防御し、反撃の機会を伺って一気に倒す。そうしたセオリーを、誰もが戦いながら自分の身体に刻み込んでいった。

他のプレイヤーたちが瞬く間にコツを掴み、それぞれ思い思いの場所へと拠点を移していく……そんな中。
僕だけは、いつまで経っても『はじまりの街』周辺の敵を倒すことすらできずにいた。
どうしても、至近距離での敵の動きに対応することができなかった。

思えば、前提条件から間違っていたのかもしれない。
魔法が存在せず、剣で戦うことが主軸である以上、近接戦闘が主体となるのは当たり前だ。
僕のような至近距離での攻防に対応できないような人間には、このゲームは向いていないといっていいだろう。
実際、僕も一人で試行錯誤を繰り返したものの、どうしても上手くいかず───1度は、プレイを断念しかけた。

……だけど、そんなある日。
半ば諦めながらも、どうせ辞めるなら最後に色々な武器を試してみようと、『はじまりの街』の武器屋を巡っていた僕は───そこで、投剣の存在を知った。
投擲用の武器を消費するというデメリットはあるものの、SAOで唯一の遠距離攻撃スキルを使える武器。
近接戦闘がダメな僕でも、遠距離からの攻撃なら。そんなことを思い、僕は駄目元で投剣使いに転向した。

それが、僕こと《投刃のユノ》のルーツだ。
もっとも。まさか自分がそんな呼び方をされる(それも悪い意味で)ことになるなんて、当時は夢にも思っていなかったけれど。

閑話休題。

僕は投剣スキルの威力をブーストするために、一度の投擲に最大四本のナイフを使う。
四本のナイフを“ひとつの武器”としてシステムに認識させることで、投剣スキルの威力を底上げする───言ってしまえば、システムの裏をかいた戦い方だ。
それぞれの軌道を一箇所に当たるよう制御するのはなかなかに骨が折れるけれど、そのお陰で、僕は通常の四倍───とまではいかずとも、最前線で戦っていける程度には十分な威力を持たせることができるようになった。

……と、そこまではいいのだけれど。
この方法によって威力が上がった代わりに、武器の残弾数との兼ね合いが非常にシビアなものとなってしまった。

投剣スキルはその性質上、手数が増えれば増えるほど、残弾数の消耗は早くなる。
そしてなんとも相性の悪いことに、SAOのソードスキルは基本的に、上位スキルになればなるほど手数が増えていくものがほとんどだったりする。

例えば、現在僕が使える中で最も威力の高いソードスキル《フォース・テンペスト》は、投剣による四連撃スキルだ。
当然のことながら、残弾を消費するという仕様はソードスキルにおいても適応される。
したがって、通常、このスキルを発動させるには最低でも四本のナイフが必要となる。

ちなみに、『四連撃の場合、次のナイフはどこから持ってくるのか』ということをよく聞かれるのだけれど、投剣の連撃スキルの場合、武器が手を離れたと判定され次第、次弾をストレージから自動でオブジェクト化させてくれる仕組みになっている。
僕の四本のナイフも“ひとつの武器”としてシステムに認識されているため、連撃スキルを発動させれば、毎回四本ずつのナイフが自動装填されるというわけだ。
よって、その点については心配ない。

ところが。
僕が一度の投擲で使うナイフの本数は四本。単純計算でも、他の人の四倍の量を消費するということだ。
四連撃スキル《フォース・テンペスト》を発動させたとして、通常は四本の消費で済むのに対し、僕の場合は十六本ものストックを放出することとなる。
ストレージ容量のほとんどを投擲武器のストックに回しているとはいえ、高威力のソードスキルを使用すればするほど、僕が戦える時間は短くなっていく。
そうして、ひとたび武器のストックが尽きてしまえば───あの時のように、何もできずにお荷物になってしまう。
一応、第1層の頃に短剣スキルも上げてはいたけれど……到底、実用的とは思えない。

まあ、そんなわけで。
目下の悩みとなっているこの件を、リリアの件に対する報酬代わりという名目でアルゴに相談してみたところ、『だったらチャクラムを使えばいいじゃないカ』との一言で返されてしまった。

円月輪《チャクラム》。
投剣からの派生に位置する武器カテゴリで、リング状に形成された刃を投擲することによって敵にダメージを与える武器。
この武器の最大の特徴は、『投げても手許に戻ってくる』ということだ。攻撃に使えるブーメランのようなものだと思ってくれればいい。
おまけに、装備している間は専用のソードスキルを発動させることもできたりと、消耗を気にせず遠距離攻撃を行いたいプレイヤーにはうってつけの武器だといえる。
僕も普段はチャクラムを使い、有事の際だけナイフを使うよう調整すれば───ある程度は、戦闘可能な時間を延長させることができるようになるだろう。

……と、言うだけなら簡単なのだけれど。
実際にチャクラムを使って戦えるようになるまでは、いくらかクリアしなければならない問題がある。

一つは、武器の流通量が極端に少ないこと。
SAOではチャクラムそのものがレアアイテム扱いであるため、基本的にNPC武具店での店売りはされていない。
そのくせ、ドロップするモンスターの数は非常に少なく、鍛冶スキルを上げているプレイヤーに頼んで作ってもらおうにも、チャクラムをメイン武器として使っているプレイヤーがほとんどいないため、作成スキルを持っている鍛冶師自体がほとんどいない。
したがって、攻略序盤の頃よりは多少ましになったとはいえ、前線で実用できる性能の武器を手に入れること自体、他の武器カテゴリに比べて難しくなっている。

そして、二つ目───実を言うと、僕が今までチャクラムを使っていなかったのは、こちらの理由によるものだった。
それは、チャクラムを装備するのに《体術》スキルが必要になるという点だ。

チャクラムは通常の投擲武器とは違い、グリップ部分を握ったままナックル武器のように使用することもできるという利点がある。
そのため、チャクラムを装備するには投剣スキルの他に、クエストによって習得できるエクストラスキル《体術》が必要となる。
ところが、この習得クエストというのが曲者で、あの『鼠のアルゴ』を以ってしても、『一生恨まれる可能性があるから教えられない』とまで言わせる程の代物だったりする。
金さえ積めば自分のステータスすら売るとまで噂されている、あのアルゴがだ。

事実、これを機に今まで敬遠していたこのクエストに挑んだ僕は、完遂までに一週間もの日数を要したのだった。
その詳細は───いや、まあ、敢えて語らないでおこう。うん。
強いて言うならば、このクエストの完遂を中途で諦めれば、その後のSAO人生に関わってくる───とだけ、言っておこう。

……ちなみに。
シェイリも一緒にこのクエストを受けたのだけれど、彼女は僅か二日で与えられた課題をこなしてしまった。
この差は一体何なんだろうと軽く自信喪失しつつ、ずっと待っていてもらうのも申し訳ないということで、彼女だけ先に街へと戻ってもらうことにした。
したがって、現在、僕とシェイリは一時的に別行動を取っている。

そうして。
死に物狂いでクエストを完遂し、何とか体術スキルを習得することに成功した僕は、精神的にボロボロになりながらも帰路についた。
その道すがら、少しでも熟練度を上げておこうと、習得したばかりの体術スキルで敵を倒しながら進んでいた───その時だ。
HPゲージを危険域《レッドゾーン》の手前にまで落ち込ませた一人のプレイヤーが、僕の視界に飛び込んできたのは。
それが、彼女───ルシェとの出会いだった。

ルシェは僕の姿を見つけるなり、悲痛な声で助けを求めてきた。
その背後から迫っていたのは、二体の《トレンブリング・オックス》。第2層のフィールドに生息する巨大牛型モンスターで、肩までの高さが二メートル半にも及ぶ程の大型モンスターだ。
ターゲットの持続時間、及び追跡距離が異様に長いというのが特徴で、一度ターゲットされると振り切ることはまず不可能という厄介さを持っている。
彼女はクエストで第2層の村を巡っている最中、運悪くこのモンスターに二体同時にタゲられてしまい、減少したHPを回復することもできずに逃げてきたのだという。
窮地に立たされているプレイヤーと出会ってしまった以上、見捨てるわけにはいかない。
体術スキルを鍛えるのはひとまず後回しにして、僕は目の前の牛に向けて投剣スキルを放ったのだった。

───そして、今に至る。


────────────


「ごめんなさい、恥ずかしいところを見せちゃいましたね。もう大丈夫です!」
それから、暫く経って。
泣き止んだ彼女は、憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で、ようやく笑顔を見せてくれた。
さっきまでのような震えもない、溌剌とした声。恐らくは、これが彼女本来の性格なんだろう。

「落ち着いたのならよかった。とにかく、君が無事で何よりだよ」
「……はい。えっと、ユノさん……」
「ん?」
「っ……!あの、えっとですね……その…あの……」
と、思っていた矢先に。
僕が話しかけると、彼女は途端に口ごもってしまった。
泣き腫らしたためか、目元どころか頬まで赤らんだ顔で、何やらもごもごと言葉を濁している。
……ひょっとして僕、何か嫌われるようなことを言ってしまったんだろうか。

いや、まあ。
確かに、僕はどちらかといえば口下手なほうだし、お世辞にも人に好かれる性格とは言い難いけれど。
だからといって、初対面の相手にまでこういった反応をされると……結構、きついものがあるなあ。

「……その、僕はそろそろ───」
「あのっ!ユノさん!」
「ひゃいっ!?ど、どうしたのかな!?」
何となく気まずくなってしまい、そそくさとこの場を立ち去ろうと思った、その時。
突然大声で名前を呼んできたルシェに驚いてしまい、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。

「よかったら、今度『はじまりの街』に来てくれませんか!?今日のお礼とか、ちゃんとしたいので!」
「え……」
次に彼女の口から出たのは、僕が予想だにしていなかった言葉だった。

「お礼……」
「そうです!」
えーっと……。
彼女の様子から見るに、お礼参りとかいうわけではなく、そのままの意味なんだろうということはわかったけれど。
でも、僕は偶然通りかかっただけだし……改めてお礼なんて言われると、少し気恥ずかしいというか、なんというか。

「えっと……お礼目的で助けたわけじゃないから、そういうのは大丈夫だよ?」
「だめですよ、そんなの!ユノさんは命の恩人なんですから!」
「だから、そういうのは───」
「あたし、狩りに行ってない時は、大体『はじまりの街』にいますからっ!ユノさんが会いにきてくれるの、待ってます!」
「あ、ちょっと───」
「それじゃあ、あたしはこれで!本当にありがとうございました!」
「待って、って………」
言うだけ言って。
ルシェは僕の返事も待たずに猛ダッシュで転移門まで近付くと、そのまま別のフロアへと移動してしまった。
彼女の入っているギルドは未だに『はじまりの街』で寝泊りしていると言っていたので、恐らくは第1層に戻ったのだろう。
……結局、断る暇もなかった。

「……まあ、一度くらいなら」
いいかな、と一人呟き、自分も転移門の前に立つ。
シェイリの待つ第18層主街区の名前を告げると、身体が青い光に包まれ、次第に視界が青一色で覆われていく。

───そういえば、そろそろボス部屋が見つかりそうだって言ってたっけ……。

転移特有のふわりとした感覚に身を任せながら、ふと思い出す。
僕が前線から離れていた一週間の間に、ディアベルら攻略組が随分と奮闘していたらしい。
そのお陰で、最前線が第18層に移って間もないにも関わらず、僅か一週間で迷宮区突破の目処が立ったのだそうだ。
二ヵ月の月日と二千人もの死者を出し、ようやく突破できた第1層に比べれば、これは破格といえる短さだろう。

これから先も、このペースを維持し続けることができれば。
SAOがクリアされる日も、そう遠い未来の話ではないかもしれない───

そんなことを考えているうちに、視界を覆っていた光が徐々に霧散していく。
それが完全に消える頃には、地面も建物も、それら全てが白い材質で造られた街───第18層主街区『ロクトール』の風景が、僕の目の前に広がった。

───さてと。まずは、遅くなったことを謝らないとね……。

なんとも無機質な白一色の街を眺めながら、シェイリの待つ宿屋へと足を進める。
近いうちに、この風景ともお別れになるだろう───そんなことを思いながら。 

 

とあるβテスター、雑談する

視界を覆っていた転送光が晴れると、見慣れた広場の風景が目に入ってきた。
第1層主街区『はじまりの街』。
アインクラッド最大の都市であり、新規プレイヤーがSAOにログインした際、最初に降り立つ街でもあり───同時に、このデスゲームが始まった場所でもある。

巨大な中央広場に降り立った僕は、行動可能になるや否や、すぐさま隠蔽《ハイディング》スキルを発動した。
周囲に他のプレイヤーがいないことを確認し、派手に動いてスキルが解除されないように細心の注意を払いながら、そそくさと移動を開始する。

あの《はじまりの日》から、もうすぐ半年。
最も広い面積を誇るこの街は、流石に正式サービス開始直後ほどとまではいかないものの、やはり他の街と比べて活気に満ちているように思える。
道端で談笑するプレイヤーたちを極力避けながら、大通りを抜け、店舗と屋台が立ち並ぶ市場エリアへと足を進めていく。
高レベルの索敵スキルを持つプレイヤーがいないかと不安になりながらも、何とか見つからずに目的地へと辿り着いた。

市場エリアから裏道に入り、少し進んだ所にぽつりと存在する、小さな喫茶店。
店の入口脇に設置されたベンチに、彼女の姿はあった。

「お待たせ」
「うひゃぁ!?ユ、ユノさん!?なんでいっつも突然現れるんですかっ!」
「あ……、ごめん」
隠蔽スキルを解除して、何やらそわそわしていたルシェに声をかけると、珍獣にでも遭遇したかのような驚き方をされてしまった。
毎度のことながら、目の前に突然人が現れるとびっくりするらしい。

「もう。街中では隠れる必要なんてないじゃないですか」
驚かせてしまったことを素直に謝ると、ルシェは拗ねたように頬を膨らませた。

彼女の言うように、普通、街中で隠蔽スキルを発動させる必要性はほとんどない。
というのも、隠蔽スキルというのは、アクティブモンスターから身を隠すために用いられる場合がほとんどだからだ。
尾行や奇襲など、プレイヤー相手に使われる場合もあるのだけれど……この間のゴロツキたちのような例は、至って特殊だといっていいだろう。

「僕もそうしたいところなんだけど……《ユニオン》の人たちとは、昔色々あってさ」
「えー?ユノさん、何したんですか?」
「ちょっと、色々とね……」
《アインクラッド解放同盟》。通称、《ユニオン》。この街を拠点とする、SAOで最大規模を誇るギルドの名称だ。
……そして。ディアベルやキバオウら、第1層におけるボス攻略に参加していたプレイヤーが主要メンバーのギルドでもある。

《ユニオン》の主軸となっているのは、第1層攻略後にディアベルが立ち上げた攻略ギルド《アインクラッド騎士同盟》だ。
そこに、日本屈指のネットゲーム総合情報サイト《MMOトゥデイ》の管理者が立ち上げた《ギルドMTD》が合併し、《アインクラッド解放同盟》へと名称を改めた。
『情報や食料、金銭といった資源をプレイヤー間で平等に分かち合うこと』をコンセプトに、危険と思われるモンスターの退治、オレンジプレイヤーに対する警戒など、いわば街の自警団のような役割を担っている。
彼らの活躍によって、戦いを避け、『はじまりの街』に留まることを選んだプレイヤーたちが飢えるということはなくなった。
危険を冒して狩りに行かずとも、最低限の資源を《ユニオン》が配給という形で分け与えているからだ。
この街が未だに活気を失っていないのも、彼らの活躍によるところが大きい。

今や、戦えないプレイヤーにとっての《ユニオン》は、このデスゲームにおける救世主とも呼べる存在となっている。
『民を守る騎士』を自称するディアベルにとって、《ユニオン》の指導者という立場は、まさに適任であるといえるだろう。

と、これらの活動については、立派なことだと僕も思う。
彼らの行動は、多くの戦えないプレイヤーたちにとっての支えとなっている。
自分の身を守ることで精一杯な僕なんかとは、比較することもおこがましいくらいだろう。

……だけど、問題は。
《ユニオン》の母体となった《アインクラッド騎士同盟》、その構成員のほとんどが、第1層ボス攻略において、僕に対して敵意を向けていたプレイヤーだったという点だ。

彼らの仕事には街の治安維持も含まれているため、数人体制で日夜パトロールを行っている。
ブラフとはいえ殺意を仄めかした僕が、哨戒中のプレイヤーに見つかってしまえば。
カーソルがグリーンだということなどお構いなしに、何かと理由をつけて《黒鉄宮》までしょっ引かれてしまう───といった可能性も、十分にあり得る。

こういった事情から、僕は下層の街を歩く際は常に隠蔽スキルを発動し、他人の目から逃れるように移動するのが習慣となっている。
幸いなことに、リリアから譲り受けた《シャドウピアス》、更に最近新調したマントの隠蔽スキルボーナスによって、僕の隠蔽スキルはそうそう見破られることはなくなっていた。
索敵スキルを重点的に鍛えている相手でなければ、攻略組クラスが相手でも隠れおおせることができるだろう。
……もっとも、それでも見つかる可能性が全くないとはいえず、いつもビクビクしながら歩いているのだけれど。


────────────


「──それで、あたし思うんです。カラフルな髪の色が似合う人って、結局は元々の作りがいいんだろうなって」
「あー……わかるかも。僕も染めてみようかと思ったけど、似合わない気がして断念したよ。どうせフードで隠れるしね」
「それですよ、それ!ユノさん、なんで街中でもフード被ったままなんですか!?せっかく可愛い顔してるのに勿体ないですよ!」
「か、かわいい……?」
「いっそ、髪型変えてみたらどうですか?ちょっと長めして、赤とかピンクみたいな目立つ色にしてみるとか!」
「そ、それはちょっと、勘弁してほしいかな……」
「えー?絶対似合うと思うのにー!」
他愛のないことを話しながら、NPC店員が運んできた紅茶を一口啜る。
こうして彼女の相手をしながら紅茶を飲むことは、ここ一ヶ月の間でもはや恒例となっていた。

現実世界のアールグレイに似た、それでいてどこか違う不思議な芳香の液体を、ゆっくりと嚥下していく。
口の中にほどよい甘さが広がり、思わず頬が緩んでしまう。
ルシェ曰く『隠れた名店』というだけあって、ここの紅茶は絶品だ。
彼女の話相手になるという名目で何度も訪れているうちに、僕はこの喫茶店がすっかり気に入ってしまっていた。

───今度、シェイリも連れてこようかなあ。

紅茶をもう一口啜りながら、ぼんやりと考える。
《投刃》という通り名がある僕とは違い、彼女自身はそこまで悪目立ちしているというわけでもなかった。
強いて言うなら、攻略組の一部から《人型ネームドモンスター》《歩くデュラハン製造機》《首狩りバーサーカー》などと密かに呼ばれているくらいだろうか。
人のパートナーに対して、なんとも失礼なことを言う……と、憤りたいところではあるけれど、日頃から彼女の戦い方を間近で見ている僕としては、頭ごなしに否定することができないというのが悲しい現実だ。

……まあ、それはさておき。
そんなシェイリではあるけれど、彼女は僕のように《ユニオン》の人間から厳重にマークされているわけではない。
仮にキバオウたちに見つかったとしても、有無を言わさず連行されるようなことにはならないだろう。
僕さえ見つからなければ、彼女と一緒にここを訪れることもできるはずだ。

「というわけで───って、ユノさん?」
「……あっ、ごめん。ちょっと別のこと考えてた」
「またですかー?ユノさん、そういうところありますよね。ま、まあ、あたしは別に嫌いじゃないですけど!」
「?」
そう言って、ルシェは何故か頬を赤くしながら、何かを誤魔化すように紅茶を一気飲みし始めた。
また悪い癖が出てしまって、僕としては怒られるところだと思ったんだけれど……まあ、彼女は別段怒った様子ではなさそうだし、いいということにしておこうかな?

「んぐっ───ぷはぁ。……そろそろ、お開きの時間ですかね?」
自分の紅茶を一気に飲み干し、彼女はちらりと時計に目をやった。
僕も背後を振り返り、喫茶店に設置されている壁時計を見ると、時計の針は午後2時を回ったところだった。
この店に入ってから、時間にしておよそ一時間ほど。
一週間に一度、短い時間の間だけ、こうして話相手になる───それが、ルシェが僕に望んできたことだった。

「ん、そうだね。今日はこれから攻略だから、そろそろ行かないと」
今日はこの後、シェイリと二人で迷宮区に足を運ぶ予定だ。
昨日までに半分ほどマッピングを済ませてあるので、そろそろボス部屋を発見することができるかもしれない。

「……ユノさん。あたし、迷惑じゃないですか?」
「え?」
僕が帰りの身支度を整えていると、ふと、ルシェがそんなことを言った。

「ユノさんは攻略で忙しいのに、あたしのせいで時間を使わせてしまって、迷惑だったりしませんか?」
「うん……?」
さっきまでとは打って変わって、恐る恐るといった様子で聞いてくるルシェに、僕は少し困惑してしまう。
時間を使わせてしまってると言っても、一週間に一度、それも一時間くらいなら……特に、気にすることはないと思うのだけれど。

「えっと……そんなに長い時間ってわけでもないし、僕は大丈夫だよ。シェイリにもちゃんと言ってあるし」
「……ほんと、ですか?」
「うん。それに、僕も何だかんだで楽しいからね。迷惑なんて思ったことはないよ」
本当に迷惑だと思っているなら、そもそもこうして待ち合せたりはしない。
それに、何だかんだで───誰かとこうして他愛もない話ができることが、嬉しかったりもする。
少し前まではできなかったことだから、尚更だ。

「っ!ほ、ほんとですか!?嘘なんかじゃないですよね!?」
「え?う、うん……」
「よかった!あたしユノさんに迷惑だと思われてたらどうしようかと……あ、ごめんなさい、いきなり変なこと聞いちゃって。でもよかったです、ユノさんがそう言ってくれて!」
「え、えーっと……?」
思っていたことを正直に言うと、ルシェは一転、いつも以上のハイテンションとなって満面の笑みを見せた。
正直な話、僕が言ったことの何がそんなに嬉しかったのか、言った本人である僕にもよくわからないのだけれど……まあ、彼女が元気になったというのであれば、それ以上追及するのは野暮というものかもしれない。

「あ、そうだ!今度、あたしの友達も連れてきていいですか?」
と、そんなことを考えていると。
彼女はいいことを思いついたというように、笑顔のまま僕に問うた。

「僕は構わないよ」
「やった!ユノさんのこと、あの子にも紹介したかったんです!」
特に断る理由もなかったため、僕はその提案を受け入れることにした。

彼女の話によれば、SAOで知り合った、長らく親しくしている友人がいるという。
彼女と同じくらい怖がりらしく、このデスゲームが始まってから暫くの間は、お互いこの街に籠っていたのだそうだ。

そんな彼女の友人は、最近になって、同じギルドの仲間と狩りに出るようになったらしい。
確か、名前は───

「それじゃあ、今度会う時に連れてきますね!」
「ん、わかった。楽しみにしてるよ」
「はいっ!きっと、サチも喜びます!」


───サチ。

それが、僕が───否、僕“たち”が助けられなかった、女の子の名前だった。 

 

とあるβテスター、待ち合わせる

ルシェとのお茶会から暫く経った、ある日のこと。
僕こと投刃のユノは、宿の部屋で一人、机に向かっていた。
目の前の机には、赤青黄色の三原色に始まり、金銀灰色、果てはオレンジやピンクといった奇抜な色まで、多種多様、様々な色合いの染料アイテムが並べられている。

「……はぁ」
机上に並べられた、おびただしい数の染料アイテムを視界に入れながら、本日何度目かになるかもわからない溜息をついた。
これで商売でも始めるつもりなのかと疑われても仕方ない程の量があるこのアイテムたちは、昨夜、いつものように買い出しに行こうとしたシェイリを引き留め、無理を言って担当を代わってもらい、街で買い集めてきたものだ。

第1層の頃とは違い、今では染料アイテムも十分な数が市場に出回っており、染料一つ一つの単価は決して高いわけではない。
一部の色を除いてレアリティはそこまで高くない上に、下層の敵からもドロップするとあって、攻略組以外のプレイヤーも狩りをするようになってきた今では、需要に対して供給が完全に上回っている。
非戦闘系プレイヤーならともかく、僕達のように最前線で戦っているプレイヤーにとっては、むしろ安い買い物であるといってもいいだろう。

そう、決して高いわけではない。
高いわけではない……が、しかし。
塵も積もれば何とやら。いくら何でも買いすぎた。

正直、最初はここまでやるつもりはなかった。
適当な色の染料と、元に戻す為の黒い染料、この二つだけを買って帰るつもりだった……の、だけれど。
露店で売られている染料を一たび眺めてみては、「もしかして、こっちの色のほうがいいんじゃないか」という迷いが生じ、なかなか踏ん切りがつかない。
そうこうしているうちに、どうせやるなら全色揃えてしまえ!という、半ばヤケクソにも等しい衝動が生まれてしまい、両親から「行動力を活かす方向を間違っている」とよく言われていた僕の、変な所で凝り性という性格が災いし、現状出回っている全ての色の染料を買い揃えてしまった。

一部の色を除いてレアリティはそこまで高くないとは言ったものの、その"一部の色"までも含めた全色を揃えてしまったことにより、僕の全財産のうちの何割かが消失したことは言うまでもないだろう。
その総額は……、いや、思い出すと憂鬱な気分が更に悪化するのでやめておこう。
とにもかくにも、迂闊にも起こしてしまった一時の気の迷いによって、一晩眠って頭が冷えた現在、購入したアイテムたちを前に、こうして頭を抱えているのだった。

うぅ……本当に何やってるんだろう、僕。
この前チャクラムを買ったせいで金欠だし、こんな買い物をしている余裕はなかったはずなんだけどなぁ……。


「……っと、いけないいけない」
いつまでもプチ鬱モードに入ってる場合じゃなかった。そろそろ宿を出て、迷宮区に向かう準備をしないと。
メニューを開いてアラームを見ると、準備ついでの散歩に向かったシェイリと落ち合う予定の時刻まで、あと20分といったところだった。
準備といっても、部屋着から戦闘用の装備に着替えるのはショートカットコマンドをいくつか押すだけで済んでしまうので、表の道具屋でポーション類を補充するくらいしかやることはなかったりするのだけれど。
とはいえ、今のSAOでは回復アイテムをきちんと用意しているか否かが生死の分かれ目となるので、念の為、回復アイテムのチェックには少し多めに時間を割くようにしている。
いざという時、結晶アイテムの補充を忘れていたなんてことにならないように、最低でも転移結晶だけは所持していることを確認してからでないと狩りには行かない。というより、怖くて行けない。

モンスターとの戦闘によって犠牲になったプレイヤーの中には、転移結晶を使い切っていることを忘れて事故死してしまった人もいるという話だ。
最近は攻略が順調に進んでいるからか、そういった気の緩みともとれるミスが原因で死亡するプレイヤーが目立つようになってきている……らしい。
アルゴが提供している情報紙『ウィークリーアルゴ』の紙面に、わざわざ注意書きが掲載されるほどだ。

そういった事例もあるので、僕は迷宮区に行く前に必ず転移結晶の数をチェックし、余裕があれば一つか二つ余分に持ち歩くようにしている。
自分で使う分の他に、万が一パーティの誰かが結晶を持っていなかった時に渡せる分は確保しておきたいという理由からだ。
少し神経質に見えるかもしれないけれど、迷宮区の攻略には文字通り命を懸けているのだから、用心するに越したことはないだろう。

……それに。
ルシェと初めて出会った時のようなことも、これから先、ないとは限らない。

あの時は第2層のモンスターが相手だったから、僕一人でも助けることができた。
だけど、あれが僕のレベルと同等か、あるいは格上のモンスターだったら。彼女を助けようとすれば、僕も無事では済まなかっただろう。最悪の場合、共倒れになっていた可能性だってある。
もちろん、転移結晶を使えば自分は助かっただろう。だけど、目の前でやられそうになっている人を見捨てられるほど、僕は非情になりきれそうもない。

あんなことはそうそうあって欲しくはないけれど、もしもまた、ああいう場面に遭遇した時のために、少しでも保険をかけておきたいという気持ちがあった。
偽善……なのかもしれないけれど。


「……よし」
ちゃんと転移結晶を所持していることを確認し、アイテムウィンドウを閉じた。
ポーション類も思っていたほど減っていなかったので、今日の探索はこのまま行っても問題ないだろう。

続いてショートカットコマンドを操作し、装備を整えていく。
今まで着ていた部屋着が光に包まれ、代わりに半袖の黒いインナーが装着された。両肩に掛けられたショルダーホルスターのストラップが胸の前で交差し、上から装着された胸当てによって隠される。
両脇の下に固定されたホルスターには、投擲用のナイフをそれぞれ5本までセットできるようになっている。
更に腰のベルトの左右に4本ずつナイフを吊り下げ、背面部のポーチには実体化させた転移結晶などの緊急時に使うアイテム類。
左の太もも巻き付けた革のベルトには、リリアから譲り受けた《シャドウピアス》の鞘を装着(戦闘で使うことはほとんどないと思うけれど)。
先日購入したチャクラムは、右腕に嵌めた金属製のガントレットに重ねてベルトで固定。このガントレットは肘から手首までの前腕部だけを覆うタイプのものなので、投擲の邪魔になることはない。
最後にフード付きのマントを着込めば、戦闘用装備の完成だ。

「ん。準備おっけー」
武器の類がマントで隠れていることを確かめ、ホルスターからナイフを抜いて投げるまでの一連の動作を素振りで数回行ってから、フードを浅く被った。
深く被れば顔を覆い隠すこともできるのだけれど、この前のお茶会で、ルシェから「顔隠してると逆に怪しいですよ!あたしなら真っ先に警戒します!」という手痛い一言を頂戴したため、最近はあまり深くは被らないようにしている。
その発言の直後、「あ!で、でも、ユノさんは最初に会った時から怪しかったですよ!あたしはユノさんが見た目怪しい人でも気にしてませんから!!」という、フォローなのかそうじゃないのか判断できない慰め方をされたけれど、地味にショックだったのは言うまでもない。僕、そんなに怪しい奴に見えていたのか……。

後に、友人知人にも聞いてみたところ。
シェイリには「ユノくん、今更だよー?」と笑顔で言われ。
リリアには「オマエ、気付いてなかったのかよ……」と真顔で言われ。
クラインからは「あー、その、なんだ……おめぇさんも色々あって大変だったんだろうから、仕方ねぇよ、うん。あんま気にすんなよ、ユの字」と気を遣われてしまうという、何とも散々な評判だった。正直泣きそうだった。

ちなみにアルゴは爆笑だった。
話を聞くなり「にゃ、にゃハハハハ!ユー助、冗談きついヨ!冗談ダロ、今まで気付いてなかったトカ!オネーサンを笑い死にさせるつもりカ、にゃハハハハハハッ!!」と、目尻に涙まで浮かべての大爆笑だった。
ぶっ飛ばしてやろうかと思ったけれど、僕の格闘センスじゃ返り討ちに遭うのが目に見えているのでやめておいた。
あの女、情報だけが取り柄かと思いきや、ああ見えて意外と実力派だったりする。
敏捷値に特化したステータスと、小型のクローを用いた格闘戦を得意としているので、近接戦闘では勝ち目がないだろう。
ましてや彼女は情報収集と称して日々迷宮区を駆け回っているため、戦闘での立ち回りに関しては攻略組にも引けを取らない。
そんなアルゴ相手に格闘戦を挑むのは、いくらなんでも無謀というものだった。ちっ。



───閑話休題《それはともかく》。



準備を整えて外に出ると、予定の時間の7~8分前といったところだった。
装備の変更とストレージのチェックを合わせても、およそ10分程度しか掛かっていないことになる。
改めて、SAOでの着替えは簡単便利だということを実感したのだった。
現実世界でこれだけの装備を1人で整えるとなると、どれほどの時間が掛かるのやら。僕1人じゃホルスターの装着すらままならないんじゃないだろうか。
まあ、それ以前に、こんな武装してる時点で警察行きになるだろうけれど。

「おう、待たせたか?」
と、予定の時刻より少し早く、3人目のパーティメンバーが転移門から姿を現した。

街を歩けば、すれ違った女性が振り返るであろう端正な顔立ち。
ロックバンドのミュージシャンにいそうな、流行りの髪型(僕は基本的に流行には疎いのだけれど、なんとなくそれっぽい)。
男にしては華奢な骨格ではあるけれど、長身の体躯がそれを補っており、貧弱な印象は受けない。
むしろ鋭い目付きと相まって、ワイルド系が好きな女性に大いにモテそうな外見をした成人男性だ。

鈍い光を放つ金属鎧を着込み、白銀のハルバードを肩に担いだ様は、まるでファンタジー世界に登場する騎士といった風貌だ。
パーティメンバーである僕から見てもかなり様になっている。

ただし、中身はヘタレ。それも類を見ない程のヘタレだ。

SAOには妹のアカウントでログインし、そのままデスゲーム開始となってしまったため、キャラクター名と外見が致命的なまでに一致していない。
両親が既に他界済みであるため、唯一の肉親である妹のもとへと一刻も早く帰還するべく、僕達とパーティを組んで攻略に挑むこととなった───

───と、これだけなら、いい話なのだけれど。

そもそも妹さんに無理を言ってナーヴギアを借りたのが、SAO内で妹にちょっかいをかける男がいるんじゃないかという、なんともまあ……な理由であるため、いまいち恰好がつかない。
他にも、実の妹相手に結婚願望を持っているんじゃないかという疑惑もあるため、いつの日か現実世界に戻れたとして、それはそれで妹さんが心配だったりする。色々な意味で。

「ううん、今来たところだよ」
「それ、待ち合わせの相手が可愛い女の子だったらよかったんだけどなァ……オマエじゃなぁ……。はぁ~……」
「………」
ちょっとイラッっとしてしまった。後で誤射と見せかけて、後ろからナイフでも投げつけてやろうか……。

そんなイラつかせ系男子の彼はというと、どうも中身がヘタレなのを他者に悟られないよう、口を開けば誰彼構わず悪態をついてしまうという癖があるらしい。
まあ、彼の中身がヘタレだと分かった今となっては、悪態をつかれても多少イラッとするだけで済んでいる。
アルゴと初対面の時も色々とあったみたいだけど、シェイリの行った喧嘩両成敗の甲斐もあって、最近ではそんなにギスギスはしていないようだ。
もっともあの件に関しては、完全に彼の自業自得なわけなのだけれど。

更に彼のヘタレ具合は、武具のチョイスや戦闘時の立ち回りにも顕著に表れている。
武器にハルバードを選んだのは、敵との間合いを長く保てるため。
防具にプレートメイルを着込んでいるのは、敵の攻撃による致命傷を少しでも避けるため。
ついでに言うと、プレートメイルを着込んでいるからといって壁役《タンク》として立ち回るわけではなく、むしろ異様に鋭い直感(というより、ヘタレ故の生存本能のようなものだろう)により、敵の攻撃を回避することに重点を置いている。
それがどれほどのものかというと、金属鎧を着込んでいるにも関わらず、時として敏捷値特化型のビルドをしている僕をも凌駕するほどだ。
攻略組に属する一プレイヤーとして、その回避能力は尊敬に値するところではある……のだけれど、如何せん回避する度に叫びまくってうるさいので、あまり羨ましいとは思わない。

そんな裏通りの鍛冶師こと、ネカマ───じゃなかった、ハルバード使いのリリアだった。


「んで、今日行く迷宮区ってのはどんな所なんだ?」
「あれ、行ったことなかったの?」
少し意外だった。今までずっと1人で鍛冶師と攻略を両立させてきた彼のことだから、僕達とパーティを組んでいない時でも、ソロで様子見くらいには行ってるものだと思ってたのだけれど。

「ここんとこは素材集めばっかやってた。鍛冶師も廃業したわけじゃねぇからな」
「なるほどね。じゃあ今度、何か作ってよ。具体的にはチャクラムとか」
「アホか。チャクラムなんか作れねェよ」
「だよねぇ……」
駄目元で言ってみたとはいえ、こうもはっきり否定されると落ち込むなぁ……。

SAOで鍛冶師と呼ばれるプレイヤー達が習得する主なスキルは、《斬撃武器作成》《刺突武器作成》《打撃武器作成》の3つが主流となっている。
それぞれ作成できる武器の種類は文字通り、《斬撃武器作成》では剣や曲刀を、《刺突武器作成》ではレイピアやエストックといった細剣、《打撃武器作成》ではナックルやメイスといった打撃系の武器を作ることができる。
クラインの使うカタナのような、隠し《エクストラ》扱いのスキルが必要となる武器種についても、《斬撃武器作成》スキルの熟練度が上がるにつれて解禁されていくという仕組みだ。

ちなみに僕が投剣スキルで使っているナイフは刺突武器扱いになっているらしく、《刺突武器作成》スキルで作ることができる。
僕は重量と威力のバランスが取れているという理由でスローイングダガーを愛用しているけれど、当たり判定が小さくなるかわりに貫通力の高いピックや、漫画などで忍者が使っているような苦無《クナイ》も作成することができるので、一口に投剣スキルと言っても、どれを使うかはプレイヤーの好みによるところが大きい。
個人的にクナイは格好いいと思うのだけれど、ナイフやピックに比べて重量があり、大量に持ち歩こうとするとストレージが圧迫されてしまうという理由から、実戦に取り入れることを泣く泣く断念したのだった。
それに、噂によるとSAOで忍者をロール(MMORPGにおいて、プレイヤーがその役割になりきって演じること)しているギルドがあるらしく、クナイや体術を用いた“忍者のような戦い方”をするプレイヤーを見かけると、やたら対抗意識を燃やしてくるのだとか。ちょっとめんどくさい。

そして、肝心のチャクラムはというと。
厄介なことに、この武器カテゴリだけは別枠扱いとなっていて、《投擲武器作成》というスキルが必要になってしまう。
てっきり斬撃か打撃に属する武器だと僕は思っていたのだけれど、投擲に加えて打撃、もしくは斬撃といった複数の要素を持つ武器の特性からか、チャクラムの作成には専用の鍛冶スキルが設けられているようだった。

この専用スキルというのが曲者で、鍛えているプレイヤーがなかなか見つからない。
SAOでの主流は近接戦闘なのだから、わざわざ使い手の少ない武器の制作スキルを上げようとする人が少数派なのは仕方がない……のだけれど。
僕のようにメインウェポンとしてチャクラムを使うプレイヤーにとっては、プレイヤーメイドの武器の流通がないというのは結構な痛手だ。
チャクラム系統の武器はNPCの武器屋で店売りはしておらず、鍛冶師プレイヤーによる作成ができないとなると、後は敵のレアドロップを狙って手に入れるしかない。
そういった入手の難しさのせいで、チャクラム使い自体の数は少ないものの、市場に出回っているドロップ品は軒並み高額という悪循環が出来てしまっているのだった。

僕が今使っているチャクラムだって、数日がかりでプレイヤーの露店を探し歩き、ようやく見つけた(しかも価格は相当ぼったくられた)ものだ。
リリアに頼んでスキルを取ってもらおうかとも思ったけれど、彼のスキルスロットのほとんどは生存能力を高めるスキル(罠解除、隠蔽、バトルヒーリングetcetc...)で埋まっているため、ただでさえ臆病な彼に、それらを削除してまで強要するということはしたくない(というより、頼んだら本人がマジ泣きしそうなのでやめておく)。
もともと彼は攻略組志望なので、僕達とパーティを組むようになったこれからは、戦闘系スキルを鍛えるのに重点を置くとのことだった。鍛冶師はあくまで副業という位置に落ち着いたようだ。

「でも少しだけ勿体無いよね。リリアちゃんお手製のチャクラムなんて、コレクターに高く売れそうなのに」
「やめろ、ゾッとするようなこと言うんじゃねぇ!!」
出会い頭にイラッとさせられたお返しとして、彼のトラウマを少しだけ抉ってみた。こうかはばつぐんだ!
実は一部の武器コレクターからアルゴへ、「鍛冶師リリアの行方を追って欲しい」との依頼が来ているそうなのだけれど、このことは本人には伏せておくことにしよう。
アルゴとしても流石に気が引けるらしく、今のところ適当に言葉を濁して誤魔化しているそうなので、当分の間、彼のプライバシーは守られることだろう。

「大体、チャクラムなんざ不人気武器もいいとこだろ。売れもしないモン作る馬鹿がいるかってぇの」
「くぅ……」
悔しいけど、何も言い返せない。
専用スキルの熟練度を1から上げる手間に、武器作成にかかるコスト。そこまで苦労して作ったところで、ほとんど買い手がつかないという需要の低さ。
例え鍛冶師を専業としているプレイヤーでも、よほどの物好きでもない限り、斬撃や刺突といった主流武器の作成スキルを鍛えるだろう。
これから職人クラスを目指すプレイヤー達は言わずもがな。チャクラム使いはどこまでも不遇なのであった。

「チャ、チャクラムだっていい武器だよ!投げれるし殴れるし!」
「ハッ、オマエが殴るとか。是非とも見てみたいモンだ」
「くっ……!」
語尾に(笑)とでも付きそうな嘲笑い方をされた。く、悔しい……ッ!

「……つーかオマエ、なんでそんなに近接戦闘が下手なんだ?わざとやってんのか?」
「わざとじゃないよ!精一杯やってるよ!」
「………」
や、やめろ、そんな目で僕を見るな!
そんな、「それはひょっとしてギャグで言ってるのか?」とでも言いたさそうな目で僕を見るんじゃない!!

「……まぁ、誰にでも得手不得手はあるとはいっても、なぁ? 極端すぎんだろ、オマエ」
「い、いや、だって、間合いとかタイミングとかさぁ……ちょっと難しいというか……」
極端なのは嫌というほど自覚しているし、できることなら僕だって前に出て戦ってみたい。
だけど、例え前に出たところで、敵の攻撃を避けきる自信がない。
別に運動が苦手とか反射神経が人一倍悪いとか、そういうわけでもないんだけどなぁ……。

「つってもオマエ、敵の動きも見切れねぇのに何でナイフはあんなに当たるんだ?俺にはそっちのほうが意味わかんねェよ」
「それは、こう……なんとなく?」
「……は?」
投剣スキルを発動させてから敵に当たるまでには、少しラグ(遅延)がある。
当然ながら、相手との距離が長ければ長いほどラグは大きく、反対に、ナイフの投擲速度が速ければ速いほど着弾までの時間は短くなるというわけだ。
いくら僕のステータスが敏捷値に特化しているといっても、投げた瞬間に敵に当たるわけではない。なので投剣で敵を攻撃する時は、そこのところを微調整しながら投げている。

「次はここに関節がくるかなーとか、このスキルが発動する時の足の位置はここかなーとか、そういう場所を狙って投げてるんだけど……え、ダメなの?」
「………」
僕が言うと、リリアは思案顔で黙り込んでしまった。
……何だろう。僕の戦い方、何かまずかったんだろうか。

ちなみに僕は、武器を持った人型のモンスター───コボルトやゴブリン、オークといった敵を狙うのが一番得意というか、弱点部位に当てやすいので戦いやすく感じる。
顔面や各所の関節といった弱点部位が人間と同じだし、使ってくるソードスキルもプレイヤーと共通のものが多いので、モーションの出始めに投剣を打ち込んで技のキャンセルを狙うことができるからだ。
逆にクリティカル部位がよくわからないモンスターだと、比例して投剣の威力も下がってしまうので苦手だったりする。
あと、盾を構えて防御に徹してくる敵はどうしようもない。その場合はシェイリとスイッチして体勢を崩してもらうか、もしくはそのまま倒してもらう(恐ろしいことに、筋力特化の彼女はバックラー程度ならお構いなしに叩き斬ってしまう)ことにしている。

どちらにせよ得手不得手がはっきりしているというか、苦手な敵相手には完全なお荷物になってしまうのが悩みどころだ。確かにリリアの言う通り、極端すぎると言われても否定はできない。
せっかく体術スキルも取ってあることだし、そろそろ近接戦闘の練習をしてみてもいいかもしれないなぁ……。

「……でもなぁ。近接戦闘、苦手だしなぁ」
「おい」
───と、僕がそんなことを考えていた時。
今まで黙っていたリリアが、突然ソードスキルを発動させた。
両手槍スキル《ソニックスラスト》。初級スキルであるため威力は低いものの、予備動作や硬直が短く、相手を牽制する際によく使われるソードスキルだ。

「っ!?」
さっきまで普通に話していたはずなのに、突然、それも僕の真正面から、真っ直ぐに心臓部を目掛けて斧槍が突き出される。
驚く暇もなく反射的に身体が動き、ガントレットを嵌めた右腕でハルバードの石突きを跳ね上げ、急所を抉られることを回避した。
そのまま上半身を捻り、空いた左手で右脇のホルスターに入っているナイフを掴む。体を正面に向け直す勢いを利用し、返す手でナイフを投擲───しようとして、そこで気が付いた。

───ここ、圏内じゃん……。

咄嗟に迎撃態勢に入ってしまったけれど、よく考えたらさっきの攻撃が直撃しても何の問題もないのだった。
拍子抜けした気分でナイフをホルスターに戻し、リリアの方を見る───と、攻撃を跳ね上げられた体勢のまま、引き攣った顔で硬直していた。

「ちょっと、いきなり何するの。びっくりしたじゃん」
「……び」
「?」
「びびびビビらせんじゃねぇよ馬鹿野郎!反撃しろなんて言ってねぇだろうが!!」
「………」
どうやら反撃されることまでは想定していなかったようで、槍を持つ手が小刻みに震えていた。本気で驚いたらしく、少し涙目になっている。
そんなこと言われても、いきなり攻撃してきたのはそっちなんだけど……。

「で、今のは何だったの?僕だって結構驚いたんだけど」
「……いや、オマエ、今ので気付かないのかよ」
「え?」
斧槍を下ろしたリリアは、まだ少し引き攣った顔で僕を見た。「何とぼけてんだこいつ」といった目を向けてくる。
いや、気付かないも何も、今の流れに一体何の意味があったというのだろう。
近接戦闘のことを考えていたら突然攻撃されて、咄嗟に躱して反撃に移ろうとしただけで───って、

「あれ?」
「やっと気付いたか……」
「僕、反撃してた?」
「思いっ切りな。ぶっちゃけ死ぬかと思った」
そう、僕は“至近距離から”繰り出されたリリアの攻撃を躱し、それどころか反撃までしようとしていた。
斧槍のリーチは剣に比べて長いとはいえ、完全に、僕が苦手とする接近戦闘の間合いだ。
ましてや《ソニックスラスト》の攻撃速度を考えれば、僕が躱しきれるはずがなかった……の、だけれど。

「あれ……なんでだろ。急にリリアが攻撃してきて、何も考える余裕なんてなくて……」
「……オマエさぁ、もしかして」
と、リリアが何かを言いかけたところで。

「ユノくん、おまたせー!」
商店通りの方向から、見慣れた少女が歩いてくるのが見えた。
肩にぎりぎりかからない長さの黒髪。小柄な体型と幼い目鼻立ちからは想像できないけれど、これでも高校生だという(実を言うと、今でも信じられない)。
本人曰く「可愛くないから」という理由で重装備を嫌い、スカートタイプのハーフアーマーを愛用している。
そこだけ見れば可愛い女の子なのだけれど、その背に担がれている血色の大斧が全てを台無しにしていた。

このゲームが始まった頃からの僕の相棒であり、一部のプレイヤーから《首狩り》という不名誉な渾名を頂いている少女、シェイリだった。


「りっちゃんも、おはよ~。ふたりとも早いねぇ」
「……おう」
ふにゃりと笑うシェイリに、リリアは気恥ずかしそうに目を逸らした。
人目を避けるようにして治安の悪い裏通りに身を置いてきた彼は、シェイリのようにストレートな感情表現をする相手には弱いらしい。

───素直じゃないなぁ。

口を開けば悪態ばかりついているリリアだけど、にこにこしながら話しかけてくるシェイリを拒みはしないあたり、満更でもないのだろう。
もともと彼はヘタレに加えて寂しがり屋な面があるらしく、一ヶ月前に僕達と知り合ってからは、迷宮区の攻略にもちょくちょく同行するようになっていた。
あの洞窟での戦いにおいて、即席パーティであるにも関わらず安定した連携を取ることができていたので、迷宮区の攻略に彼が加わるのは、僕としても心強いところだった。

───それに、シェイリも。

一ヶ月前にリリアと知り合うまで、彼女は僕以外のプレイヤーとパーティを組んだことがなかった。
第1層でのボス攻略戦の時、僕が攻略組の面々に向けて啖呵を切ってしまったためだ。
彼女は僕を信じてついてきてくれた。けれど、そのせいで、他の攻略組のメンバーからパーティの誘いがくることはなくなってしまった。

それについては、負い目がないわけじゃない。
MMORPG初心者の彼女は、正式サービス開始日に僕と知り合って以来、ずっと行動を共にしてくれている。
だけど、本当にそれでよかったのか。初心者だからこそ、彼女はもっと多くの人と関わっていくべきじゃないのか。それを邪魔しているのは、他でもない、僕なんじゃないのか。
……そんな風に疑問を抱くことは、これまでに何度もあった。
彼女は気にしていないと言うけれど、それでも、やっぱり。

───ひとりは……さみしいよ。

あの時、シェイリが漏らしたあの言葉。結局、真意はわからなかったけれど。
もしもあれが、僕も見たことのない、彼女の本心なのだとしたら。
彼女は、寂しかったのだろうか。
いつも笑っているけれど、本当は寂しかったのだろうか。
そればかりは、僕にはわからない。
わからない───けれど。

あの日からずっと、僕を支えてくれた彼女には。
こんな僕を信じると言ってくれた、彼女には。
寂しい思いは、してほしくなかった。

「……って、おい待てコラ。何だそのクマは」
「えへ、可愛いでしょ~。さっき買ってきたんだよ~」
「クマのストラップ……か? へぇ、裁縫スキルがありゃそんなのも作れるんだな……っておい!やめろ馬鹿!俺の作った斧にそんなモン付けんじゃねぇ!!」
「え~?可愛いよ?」
「んなモン可愛くしてどうすんだ!おいやめろ、柄にストラップ巻いてんじゃねぇ! やめろォォォォ!!」
だから今、こんな風に談笑している2人を見ると。
僕以外の人と、楽しそうに話しているシェイリを見ると。
何だか僕まで、嬉しくなってくるのだった。 

 

とあるβテスター、嗚咽する

「オラァッ!死にやがれクソがッ!!」

相変わらず騒々しい掛け声(というより、もはや罵声だ)と共に、リリアが敵の脳天目掛けて斧槍を振り下ろす。
対象は、鋭い鉤爪の付いた両手と、ボディビルダーのように筋肉質な体躯を持つ人型モンスター。
その太く逞しい首の上、人間であれば頭部に当たる部位にアナログ式の巨大な目覚まし時計を乗せた異形の怪人《ファイティング・クロックマン》だ。

時計盤の「10」と「2」の数字にあたる位置が空洞になっており、その奥からは人間のものと思われる、黄色く濁った双眸が覗いていた。
盤上では針の動きによって喜怒哀楽を顔を表現しているのか、僕たちから攻撃を受ける度、時計の短針と長針がぐるぐるとせわしない動きを見せている。

……正直に言って、第17層で戦ったゾンビたちとは別の意味で気持ち悪い。怪人というより時計の被り物をした変態と呼んだほうがしっくりくる。
だってさぁ……これだけムキムキの身体で、履いてるのがビキニパンツ一枚なんだぜ……?どうみても変態だろ……?


そんな変態───もとい異形の怪人は、白銀のハルバードによる兜割りの直撃を受けると、まるで手負いの獣が咆哮するかの如く、目覚まし時計のベルからけたたましい音を放った。
その喧しさたるや、慣れている僕でさえうるさく感じるリリアの罵声、それすらも掻き消すほどの大音量で───って、まずい!

「二人とも、一旦離れて警戒だ!増援がくるよ!」
「了解、だよっ!」
「クッソ、めんどくせぇな畜生!」
異形の怪人との近接戦闘を繰り広げていた二人へ呼びかけ、僕自身もバックステップで後退。そのまま壁際まで下がり、硬質な壁を背にする形で部屋の端に立った。
リリアとシェイリが敵と距離を取ったのを確認してから、右手を振ってメニューウィンドウを開き、ショートカットから索敵スキルを発動する。
一瞬の間を置いた後、身体中の全神経が研ぎ澄まされる感覚。次いで視界に暗緑色のフィルターがかかり、鋼鉄の扉に阻まれた向こう側、即ち部屋の外に位置する敵の存在を感知できるようになる。

僕たちの戦っていた第21層迷宮区のモンスター《ファイティング・クロックマン》は、プレイヤーとの戦闘によって窮地に立たされた際、稀にこうしてけたたましいアラーム音を放つことがある。
その際、自身は一切の攻撃を中断し、そのままプレイヤーによって倒されるまで蹲り続け、まったくの無防備な状態となる。
だけど、プレイヤーにとって本当に厄介なのは、このベルの音だ。

このアラーム音は狼の遠吠え《ハウリング》の如く、近場にいる同種族モンスターを呼び寄せるという性質を持つ。
したがって、このモンスターとの戦闘中にベルを鳴らされた場合、こうして一旦距離を取って周囲を警戒しなければ、すぐさま増援の《ファイティング・クロックマン》に囲まれてしまうこととなる。
そうなってしまったが最後、この筋肉質の怪人に嬲られてパーティ全滅という事態を避けるためには、急いで敵のいない通路に逃げ込むか、転移結晶で離脱しなければならない。
各個撃破で突破しようにも、《ファイティング・クロックマン》のHPはやたらと高く設定されており、数体に囲まれた状態から態勢を立て直すのは至難の業だ。

この増援を止めるには、床に蹲ったままベルを鳴らし続ける《ファイティング・クロックマン》を倒せばいい。
この個体は先の戦闘によってHPが減っている上に、攻撃してきたプレイヤーに反撃することもない。
攻撃を受けようが瀕死になろうが一心不乱にベルを鳴らし続けるだけなので、プレイヤー側に火力さえあれば押し切ることも難しくはない。
ただし、音の発生ポイントに真っ直ぐに向かってくる増援モンスターが、自慢の脚力でこちらへと到着するよりも速く、という条件が付いてしまうのがネックとなっている。

パーティの枠が六人全員分埋まっているならともかく、この時計怪人たちとの乱戦を戦い抜くには、僕たち三人だけでは少々力不足といったところだ。
したがって僕たちは、戦闘中にアラームを鳴らされたら即刻相手と距離を取り、索敵スキルで周囲を警戒。駆け付けた増援が一体だけなら戦闘を続行し、それ以上の時には撤退するという戦法を取るようにしていた。
このアラーム音は周囲からプレイヤーの姿がなくなった時点で止まり、駆け付けた増援たちも思い思いの方向へと散っていく。
なので、例え僕たちが戦闘を放棄して逃げ出したとしても、それまで戦っていた部屋がMH《モンスターハウス》になって他のプレイヤーに迷惑がかかる……といった心配もない。

───どっちから来る……?

通路からこの部屋へと繋がる入口は三箇所。つまり僕が背にしている壁以外の全ての位置に、敵の侵入経路があるということになる。
うち一箇所───正面に位置する扉は、僕たちが入って来た入口だ。途中の通路で遭遇した時計怪人は全て倒してきたため、ここから増援が侵入してくるという可能性は除外していいだろう。

つまり敵が入ってくるとすれば、壁を背にして立った僕から見て右側と左側に位置する扉───もしくは、その両方から。

左手に持ったチャクラムの持ち手を握り締め、左右の扉へ交互に目を走らせる。
アラーム音が鳴り始めてから十数秒といったところだった。このどちらかの扉から増援が現れるまで、もう間もなくだろう。

「っ!」
と、その時。暗緑色に染まる視界の中に、ぼやけたシルエットが映ったのを確認した。
この暗緑色の視界の中では、壁や扉といった障害物で阻まれた位置にいる敵の姿は、ぼんやりとしたシルエットとして表示されるようになっている。
一般的な成人男性のそれと比べて縦にも横にも幅の広い大型のシルエットは、そこまで広くもない通路を一直線に、脇目もふらずにこちらの部屋へと向かってくる。間違いなく、目の前の時計怪人が呼び寄せた増援の姿だ。

そして、それが姿を現したのは───

「──右から一体だッ!!」
索敵スキルを解除し、それぞれの扉の脇に立って戦闘に備えてしていた二人へ向けて叫んだ。
同時に左肩を大きく振りかぶり、明るい赤紫色のライトエフェクトを纏わせたチャクラムを右の扉に向けて投擲する。
システムのモーション・アシストによる理想的なフォームで投擲されたチャクラムは、上半身の捻り戻しによるパワーが加わり、本来であれば人の手による投擲ではまず有り得ないであろう推力を以って宙を突き進む。
空間を水平に切り裂くかのように舞う円月輪が向かった先には、今まさに鋼鉄の扉を押し上げ、戦闘に乱入せんとしていた時計頭の怪人の姿───

「よしっ!」
「さっすがユノくん!タイミングばっちりー!」
円月輪が狙いを違わず相手の時計盤へと吸い込まれていったのを確認し、僕は快哉を叫んだ。
そんな僕と入れ違いに、嬉々としたソプラノボイスを響かせながら跳躍したシェイリの斧が、体勢を崩した怪人の筋肉質な肩口へと振り下ろされる。
部屋に入るなり出鼻を挫かれた時計怪人は、自慢の筋肉を傷付けたシェイリに憎々しげな視線を向け、絶対に許さないとばかりに時計盤の針を目まぐるしく回転させた。

どうもこのモンスターの筋肉に対する思い入れには、並々ならぬものがあるらしい。
弱点部位である時計盤に攻撃を当てた時よりも、筋肉を傷付けた時のほうがヘイト蓄積値が高かったりする。
……このモンスターをデザインしたクリエイターは、一体何を思ってこんな設定にしたんだろう。
筋肉に対する謎の拘りを持ったAIといい、どこからどう見ても変態にしか見えないデザインといい……徹夜明けのノリで生み出されたモンスターか何かなんだろうか。
流石にこれをデザインしたのは茅場晶彦ではないと信じたい。普通ならモンスターグラフィックを担当したクリエイターが生みの親になるんだろうけど、もしもそれが茅場晶彦だったとしたら、なんというか……色々と台無しだよ!


「今だよ、リリア!」
「わーってる!」
まあ、この怪人を生み出したクリエイターのセンス云々は置いといて。
シェイリが新手を引き付けているうちに、僕とリリアは最初に戦っていた個体───今も床に蹲り、ベルを鳴らし続ける怪人を倒しにかかった。

「さっきからジリジリうるっせーんだよ!この腐れ時計がァッ!!」
君も十分うるさいよと突っ込みたくなるのを何とか堪え、僕も攻撃を開始する。
これ以上の増援を呼ばれる前に倒してしまいたいので、投擲してから手元に戻るまで時間の掛かるチャクラムは使わず、両脇のホルスターから抜いたスローイングダガーにライトエフェクトを纏わせた。
左右それぞれの手指の間に4本ずつ、計8本のナイフを挟み、アンダースローによる連続投擲を行う。

相手は顔を伏せて蹲っているため、このモンスターを投剣で攻撃する際に一番ダメージ効率のいい弱点部位───時計盤から覗く両目を狙うことはできない。
よって僕が狙うのは、両目の次にダメージを多く与えることのできる部位。即ち、頭頂部で振動を続ける二つのベルだ。
一撃を当てた際のダメージ効率こそ劣っているものの、両目に比べて体積が大きいため、投剣スキルの威力を発揮するには申し分ないターゲットだ。

青い光に包まれたナイフによる二連撃《ダブルニードル》が全弾命中し、塗装が剥がれるかのようにポリゴンの欠片が周囲に舞い散った。

「くたばれ!!」
間髪入れずに白銀のハルバードが丸太のような両脚を薙ぎ払い、技後硬直による攻撃の隙間を埋めていく。
リリアの連撃が終わる寸前に硬直から回復した僕は、次の攻撃に向けてナイフを構えつつ、一人で時計怪人と戦っているシェイリに横目を向けた。

「………」
いくらシェイリが戦闘センスに恵まれているとはいえ、一人で時計怪人の相手をするのは荷が重いだろうと思っていた……の、だけれど。
少し心配しながら視線を向けた僕が見たものは、シェイリの両手斧スキル《ワールウインド》によって自慢の筋肉を滅多打ちにされている時計怪人の姿だった。
どうやら僕の心配は、完全に杞憂だったようだ。

「避けちゃダメだよ~!」
自身の筋肉に並々ならぬ思い入れを持つこの怪人は、その肉体美を傷付けられることを何よりも嫌う。
それを知ってか知らずか、シェイリの攻撃はそのことごとくが腕や脚の筋肉へと吸い込まれていく。

無邪気に繰り出される無慈悲な攻撃。
それによって削られた部位から、ポリゴン片がはらはらと落ちていく。
シェイリの猛攻から筋肉を庇いながら必死に応戦する時計怪人の姿は、どことなく哀愁が漂っていた。

……まあ、敵に情けをかけている余裕はないんだけどね。
それに相手は変態だし、容赦する必要はないだろう。シェイリ、その調子で頼むよ。

自慢の筋肉をボロ雑巾のようにされていく怪人に少し同情しながらも、目の前の敵に集中するべく余計な思考をカットする。
視線を戻すと、ちょうどソードスキルによる連撃を終えたリリアが、技後硬直に入ったところだった。
僕はすかさず四連続投擲技《フォース・テンペスト》を発動させ、瀕死の怪人に追撃を仕掛けた。
両腕を交互に使って四度、投擲された16本のナイフが無抵抗の怪人へと迫り、瞬く間に敵のHPを削っていく。

───あと、一撃!

「リリア!」
「任せろ!」
僕の声に応えるように、リリアの構えた白銀のハルバードがライトエフェクトを纏った。
腰だめに構えた斧槍へと力が集約され、その強大さを示すかのように深緑の光が膨れ上がっていき───

「うらあああああっ!!」
気合一閃、溜めに溜めた力を解放し、回転を加えた斧槍をがら空きの胴目掛けて突き出した。

両手槍 重単発刺突技《ヘリカル・ドライバー》

使い手が溜めた力に加え、螺旋回転による貫通力が加わった強力な突き攻撃だ。
二人がかりの攻撃を受けながらもアラームを鳴らし続けていた時計怪人は、この攻撃によって既に危険域まで落ち込んでいたHPの残りを全て奪われ、ポリゴン片を撒き散らしながら消滅していった。

「……ったくクソ野郎が、余計な手間かけさせやがって」
「まだだよ、リリア。次は向こうだ!」
「だああああ、めんどくせぇ!とっとと片付けるぞ!」
増援を呼ばれる脅威はなくなったとはいえ、まだシェイリが一人で戦っている。一息つくのは敵を全滅させてからだ。

休む間もない連戦によって滅入った気分を奮い立たせ、両手にナイフを構えた。
そうして、残った時計怪人と戦うシェイリに加勢するべく、そちらへと視線を移し───

「あ」
「あ? ……ばっ!?」
「ん~? あっ」
た、その時。
シェイリの攻撃によってHPをイエローゾーンまで減らした時計怪人が、床に蹲る姿が見えた。
一拍の後、部屋にアラーム音が鳴り響く。


ジリリリリリリリーン。
ジリリリリリリリーン。


「………」
「………」
「また鳴っちゃったね~……?」
どすんどすんという足音がどこからか聞こえてきた。それもさっきとは違い、今度は複数の足音だ。
僕たちが呆けている間にも、足音はどんどん大きくなっていく。
窮地に陥った仲間を救うため、ビキニパンツ姿の変態たちがこの部屋へ殺到しようとしている音だった。

「……まじですか」
「俺、もう帰りてぇ……」
「ユノくん、どうしよっか?」
丸太のような腕で顔を覆い隠し、駄々っ子のように地面に蹲る筋肉の塊。
その姿を眺めたまま呆然と立ち尽くす僕。
涙目で弱音を吐くリリア。
困ったように笑うシェイリ。

───よし、逃げよう。

どすんどすんという足音が部屋の近くまできていることを感じながら、僕たち三人は元来た方向へと全速力で駆け出した。
やってられるかっ!!


────────────


迫りくる変態の群れから逃れるべく、それまで戦っていた部屋を飛び出した僕たちは、通路の突き当たりに位置する安全エリアへと駆け込んだ。
白い壁で囲まれた小部屋に無事到着したことを確認し、安堵の溜息をつく。
時計怪人がアラームを鳴らす確率はそう高くないはずなのに、連続でハズレを引いてしまうなんて。我ながら運がいいのか、悪いのか。
こんな低確率を連続で引き当てるくらいなら、同じ確率の武器強化を連続で成功させてほしいものだよ、まったく……。

「あー……だりぃ。あの時計野郎、すっげぇめんどくせぇのな」
げんなりとした様子で床に腰を下ろすリリア。僕とシェイリもそれに倣い、白い壁を背にして並んで座った。

「まさか連続で呼ばれるとはね……。さすがに、あれを捌き切るのは無理かな……」
いくら見た目がアレだとはいえ、その戦闘能力自体は立派な最前線のモンスターだ。
不運にも二度目の増援は一体ではなかったし、あと少し逃げ遅れていたら危なかっただろう。
正直なところ、全員揃って安全エリアに逃げ込むまでの間、生きた心地がしなかった。

「ユノくん、大丈夫ー?」
僕の様子をいたたまれなく思ってか、隣に座るシェイリが顔を覗き込んでくる。
僕がよっぽど酷い顔をしていたのか、彼女のくりっとした瞳には、心配そうな色が浮かんでいた。

「ん、大丈夫だよ。ありがとね」
そう言って頭を撫でてやると、シェイリは嬉しそうに目を細めた。
そんな相方の顔を見ているうち、僕の心もいくらか落ち着きを取り戻してくる。
普通に考えれば、一人で新手の相手をしていたシェイリのほうが、精神的には消耗しているはずなんだけど……日頃から超マイペースであるが故か、特別堪えた様子はないようだった。
想定外の事態になると慌ててしまう僕としては、彼女のそんなところが少し羨ましかったりする。

「しっかしクソみたいな迷宮区だな、畜生。さっさと次の層に移りてぇ」
「まあ、あと少しの辛抱だよ。 ……多分」
愚痴るリリアを宥めつつ、現在の攻略状況を頭に思い浮かべた。
アルゴの情報によれば、この第21層迷宮区の攻略は、既に2/3ほどが完了しているという。
これは攻略組最大手ギルド《アインクラッド解放同盟》───通称《ユニオン》を取り仕切るディアベルから齎された情報であるため、まず間違いないと見ていいそうだ。

いくら面倒なフロアであれ、残すところ1/3ともなれば、ボス部屋が見つかるのも時間の問題だろう。
最近の攻略ペースを鑑みれば、あと数日もあれば見つかるはずだ。そう思えるほどに、ここ数ヶ月の攻略のペースは早い。
一時は絶望視されていた攻略がここまで順調になったのは、一重に《ユニオン》の存在によるところが大きいだろう。
SAO最大規模を誇るギルドが率先してボス攻略に赴くことで、攻略組全体の士気が上がってきており、多くのプレイヤーが攻略に対し、「なんとかなる」ひいては「いつかクリアできる」と思えるようになっていた。

また、《ユニオン》を率いるディアベルの人柄に惹かれてか、彼らの本拠地である『はじまりの街』に身を置く者達を中心に、新規加入希望のプレイヤーが後を絶たないらしい。
総員は既に数百名に上り、このまま規模を拡大し続ければ、いずれは1000人を超える超巨大ギルドになるのではないかと言われている。

そんな《ユニオン》攻略部隊の活躍もあって、ここのところの攻略は、1層につき一週間前後のペースで突破できている。
この第21層が解放されてから、今日で5日目。これまで通りのペースでいけるとするならば、あと数日もしないうちにボス攻略戦が待っているはずだ。
恐らく僕たちも参加することになるであろう、ボス攻略戦が。

「攻略といえばよ……あの黒ずくめのガキ、ここんとこ見ねぇな」
「うん……そうだね」
何気なく持ち出された“彼”の話題に対して、僕は曖昧な返事を返した。
リリアの言う“彼”に関しては、僕が今、一番気になっていたことでもある。

黒ずくめのガキ───キリトを狩場やボス攻略で見かけることは、近頃すっかりなくなっていた。


「なんつーか、あのガキ見てるとよ、ラムダで腐ってた頃の自分を見てる気分になんだよなぁ。全身から根暗オーラ出てるっつーか、なんつーか」
「……リリア、根暗だったんだ?」
「!? ねねね根暗じゃねーし!根暗でもコミュ障でもねーし!」
僕はそこまで言ってないし、リリアの場合は根暗というより臆病といったところだけど……というのは置いといて。
彼の言いたいことは、何となくわかる。

───……よう、ユノ。

今から少し前、何層か前の迷宮区で偶然出会った時の───最後に会った時の、キリトの顔を思い出す。
まるで後ろめたいことでもあるかのように、僕から目を逸らした、彼の顔を。

数ヶ月前に会った時は、第1層でのボス攻略戦において臨時のパーティメンバーとして共に戦った、レイピア使いの少女───アスナと行動を共にしていたのに、僕の知らないうちにパーティを解消したのか、傍らに彼女の姿はなかった。
彼がいつからソロになったのかはわからかないけれど、たった一人、最前線の狩場で戦っていたキリトの顔は、傍目に見ても随分と疲れているように思えた。

───いや……やめておくよ。

僕が次のフロアまで一緒に行こうと誘っても、気まずそうな顔で断られただけだった。
そんな彼の態度に、僕は、自分が第1層で彼にしたことを───キバオウ達の見ている前で、彼を散々罵ったことを、まだ許してもらえていないものだとばかり思っていた。
今更かもしれないけれど、謝ろうか、どうしようか……そんなことを考えているうちに、キリトは一人で歩き去ってしまい、薄暗い通路の奥へと姿を消した。

それ以来、彼の姿は見ていない。


「やっぱり……怒ってるのかな」
「あぁ?まーだそんなこと言ってんのか、オマエ」
あの時のキリトのことを思い出し、自己嫌悪に陥りそうになった僕を、リリアがばっさりと切り捨てた。

「必要悪だったんだろ、オマエがやったことは。あのガキだってそんくらいわかってんだろが」
「いや、でもさ……」
「だああああ!うぜぇぞオマエ!半年以上も前の事でウジウジ悩んでんじゃねぇ!」
「うー……」
そう言われてしまうと、返す言葉もないのだけれど……。

───必要悪。

リリアの言う通り、あの時僕がやったことは、つまりはそういうことなのだろう。
あの時の僕には、ああいう方法しか思い付かなかった。
あれは仕方がないことだった、と。その後のボス戦で再会した時、キリトもそう言ってくれていた───けれど。

───でも、ね……。

キリトがあんなに疲れた顔をしながら、自ら一人になる道を選んでいるというのに。
あの時、全てのプレイヤーを敵に回すつもりで啖呵を切ったはずの僕は。
誰かと一緒にいることを、許されるはずのなかった僕は。今、こうしてみんなの好意に甘んじている。

───俺は……ソロでいい。

あの時、僕から目を逸らしながら、キリトはそう言った。

でも、本当なら。
本当なら、彼の立場にいるべきである人間は。
誰ともパーティを組むことなく、一人で生きていくべきである人間は。
キリトではなくて、僕でなければならないはずだったのに───


「───なんてこと考えてないよね、ユノくん?」


───不意に。

まるで僕の思えを全て見透かしているかのように、隣に座るシェイリが口を開いた。
彼女の口から語られたのは、今まさに、僕が考えていた通りの内容で。
完全に虚をつかれた僕は、何かを言おうとして口を開いたまま、何も言葉を発することが出来ずにいた。

「なんつーか、オマエ……本気でめんどくせぇヤツだな」
「うっ……」
そんな僕の様子から、シェイリが言ったことは図星だと確信したらしく、リリアが呆れ顔でこちらを見た。
言葉の端々から、内心うんざりしているといった様子が感じ取れる。

「ユノくん。そういうこと考えるの禁止って、わたし言ったよね?」
「……、うん……」
「今度そういうこと言ったら怒るからね」
「はい……」
次は怒るから、というよりも。
シェイリがこういう言い方をする時は、大体にして、既に怒っている時なのであった。

まあ、確かに……今のは僕が悪かっただろう。
まるで、あの日の───リリアと初めて出会った日の、繰り返しだ。

人の本心なんてものは、その人自身にしかわからない。人の心の中を覗くことなんて、誰にも出来はしない。
キリトが何を思って一人でいるのか、そのことをいくら僕が考えたって、答えなんて出るはずもなかったんだ。
ましてやキリトの代わりに、僕が一人になるべきだったなんて───そんなことを考えるのは、こうして一緒にいてくれる二人に対して、あまりにも失礼というものだろう。

それに、キリトだって。
そんな風にエゴを押し付けられることは、望んではいないはずだ───

「キリトくんがどうしてひとりでいるのか、わたしはわからないけど……だからって、ユノくんがそういうこと考えるのはちがうよ」
「……そう、だよね」
「わたしもりっちゃんもいるのに、今更ひとりになるなんて言い出したら、わたし怒るからね」
「ごめん……」
「大体、そんなに気になるなら自分で聞きゃあいいだろが。あのガキの居場所なんざ、暴力女に頼めば一発だろ。いつまでもグダグダ言ってたらぶっ殺すぞ」
滅多に怒らないシェイリを怒らせてしまったという事実に、みるみる罪悪感が湧いてくる。
そんな僕に苛立っているリリアからは、なんともまあ、散々な言われようだった。

「もーっ、どうしてユノくんはすぐそういうこと考えるのかなぁ。よくないよ?」
「つーか最近気付いたんだけどよ、オマエってすっげぇネガティブなのな。落ち込んでる時のオマエ見てるとイライラするわ」
いや、確かに今のは僕が悪ったけれど。

「なぁ、こいつって前からこんなんなのか?オマエ、ずっと一緒にいたんだろ?」
「んー……そうかも? ユノくんはいつもこんなかんじだよ~」
「うっわ、うぜぇ……女々しいなんてモンじゃねぇな……」
悪かった……けれど。

「ねぇユノくん。もう、そんなこと考えちゃダメだからね?」
「俺からも言っとくぜ、根暗野郎。何かあるとすぐ一人でウジウジしやがって、見てるこっちの身にもなれっての。次またこういうこと言い出したらブチ転がすからな」
なんていうか……言い過ぎじゃないか?
さすがに泣きそうなんですけど。

「………」
「ちょ、おまっ……泣いてんじゃねぇよ!俺が悪いみたいじゃねぇか!」
「りっちゃん、ユノくんを泣かせちゃダメだよー」
「!? て、てめ、このクソガキ!何いきなり裏切ってんだコラ!」
「ユノくん、ごめんね?泣かないで、ね?」
泣きそう───というか実際に涙ぐんでしまい、潤んだ視界の向こうに慌てふためくリリアの顔が見えた。
僕の被っていたフードをシェイリが脱がし、よしよしと頭を撫でてくる。

……いや、もう、なんというか。
またしても悪癖を露呈してしまい、情けないやら気恥ずかしいやらで、暫く顔を上げられそうにない。
そうこうしているうちに嗚咽が止まらなくなってしまい、僕はおでこを膝に押し付けながら、うううと唸った。

「い、いや、俺も少し言い過ぎたかもしれねぇから、よ……そろそろ泣き止めよ、なぁ?」
「も~、ユノくんは泣き虫なんだから」
困ったように笑いながら頭を撫でてくれるシェイリの手は、やんわりと温かかった。
最前線の安全エリアで体育座りしながら顔を伏せ、隣に座る小さな女の子(本人に言ったら怒られるだろうけれど)に頭を撫でられながら嗚咽を漏らす僕の姿は、傍から見ればとてつもなく格好悪いことだろう。

でも、僕が泣いてしまった理由は。
自分が情けなくて仕方がなかったからとか、二人の言い方がきつかったからとか、そういうのとは、本当は少し違っていて。
こんな風に怒ってくれる人がいるということが、嬉しかったからなのかもしれなかった。



────────────



この時の僕は、何も知らなかった。

キリトが何を思い、ソロプレイヤーという道を選んだのか。
キリトが僕に対して、どんな想いを抱いていたのか。
あの時の僕の行動を、キリトがどんな思いで見ていたのか。

僕は本当に、何も───何も知らなかったんだ。


そして、そのことが。
そのことが、回りに回って、あの事件に。

サチを───彼女の親友を奪ったあの事件に、繋がってしまうのだということを。

この時の僕は、知る由もなかった。 

 

とあるβテスター、二人を見守る

押しに弱いタイプだろうな、というのが、僕が彼女に抱いた第一印象だった。

「ユノさんっ!この子が前にお話しした、親友のサチです!」
「ちょ、ちょっとルシェ、声が大きいよ……」
ばばーん!という擬音がどこからか聞こえてきそうな程の勢いで、隣に座る少女を僕に紹介するルシェ。
この前別れた際に言っていた親友を、早く紹介したくてたまらなかったらしい。
念願叶った今、彼女の表情はとても生き生きとしており、見事なまでのドヤ顔だった。

そんなルシェを小声で窘めているのは、たった今紹介されたばかりの彼女の親友───サチ。
肩まで垂らした黒髪と、右目の下の泣きぼくろが特徴的な女の子だった。
ルシェから年齢までは聞いていないけれど、やや短めに切り揃えられた前髪や、幼さの残る顔立ちから見て、恐らく僕たちと同じくらいの年頃だろう。
周囲の注目を集めることが恥ずかしいのだろう、その白い頬にはうっすらと朱が差していた。

もっとも、この隠れた名店(と、僕は思っている)を訪れるプレイヤーの数はたかが知れている。
こうしている今も、僕たちの周りにいるのはNPCの店員ばかりで、彼女が気にするほど周りから注目されるということはなかったりするのだけれど。

「ユノさん」
両頬に少し羞恥の色を残しつつも、サチは改めて僕へと向き直る。

「ルシェからいつも聞いてます。危ないところを助けてもらったって。 ……ルシェを助けてくれて、ありがとう」
「あ、えっと……」
彼女はそう言うと、向かいの席に座る僕にぺこりと頭を下げた。
そんなに改まって言われると、どうにも気恥ずかしくなってしまう。

ルシェからどういう聞かされ方をしていたのかはわからないけれど、サチは親友を助けてくれた相手として、僕に恩義を感じているようだった。
僕としては初対面の、それも同い年くらいの相手にこうして改まった態度をされるというのは、どうにもむず痒いものがある。
そもそも僕がルシェを助けたのは偶然だったのだから、ここまでされると逆に気を遣ってしまうというか、なんというか。
感謝されて悪い気はしないけれど、彼女たちとは歳も近いことだし、対等な関係でいたいところだった。

「とりあえず、敬語はなしにしようよ。多分、歳も近いと思うし。名前も呼び捨てでいいよ」
「……あ、うん。じゃあ、ユノ。ルシェを助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
もう一度だけお礼を言って、サチは、はにかんだ笑みを浮かべた。
元気を絵に描いたような性格をしているルシェと、どちらかというと大人しめのサチ。
正反対なタイプの二人だけれど、相手のことでわざわざこうしてお礼を言うくらいなのだから、よっぽど仲がいいのだろう。
まあ、ルシェはこれでいて臆病なところがあるし、彼女曰く、サチも相当な怖がりだというから、そういったところで気が合うのかもしれない。

「ユノさん、あたしは? あたし、ずっと敬語で話してるんですけど!」
「ん?」
そんな僕とサチの遣り取りに、彼女の隣で聞いていたルシェが割り込む。何故か切羽詰まったような顔をしていた。

「今日初めて会ったサチが呼び捨てでいいなら、あたしもいいですよね!?あたしのほうが一応、付き合い長いですし!」
「いや、別に、ルシェがいいなら僕は構わないけど」
「えっ? えっ、えっと……」
僕は敬語を強要した覚えはない……というか、もともと人から敬語を使われるのは苦手だったりする。
最初に出会った時の彼女は、死にそうになった恐怖から泣きじゃくっていて、そんな話をする雰囲気でもなかったし……。
かといって、今更言うのもなんだろうと思って、特に何も言わずにいたのだけれど。

「じゃあ、ユ、ユ………うう、やっぱ無理! あたしは今まで通りでいいです!」
「?」
別に呼び捨てでも構わないと言うと、ルシェは僕の顔を見ながら名前を呼び───かけて、途中でやめた。
今までずっと敬語で話していたのだし、今から変えようとしても違和感があるのかもしれない。
まあ、彼女が呼び捨ては無理だと思うなら、それはそれでいいだろう。
ルシェはずっとああいう話し方だったので、敬語を使われているとはいっても、僕も気を遣わずに済んでいるわけだし。

「わかりやすいなぁ……」
「サチ、うるさい!あたしはこれでいいの!」
「えー。だってルシェ、私と話してる時はいつも───」
「あああああ!変なこと言わないでよ!ユノさんの前でその話は禁止!」
「そういうところがわかりやすいんだよ……」
親友というだけあって、向かいの席に座る二人の会話は、傍で聞いていても楽しそうに思える。
サチという気の置けない相手が一緒だからか、顔を赤くしながらきゃーきゃーと騒いでいるルシェは、いつも以上に溌剌として見えた。


────────────


僕は迷宮区の攻略。サチはギルドメンバーとの狩り。
お互いに空き時間が合わないことも多く、直接会った回数こそ少なかったものの。
その後もサチとは、それなりに友好的な関係を築くことが出来ていた。
もちろん、紹介者であるルシェも含めて、だ。


「だからさぁ、そんなの向こうの勝手な言い分でしょ!なんでそんな危ない役目をサチに押し付けるわけ!?サチも断ればいいのに!」
「でも……」
「でもじゃない!サチみたいな女の子に前衛やらせて、自分達は横から安全に戦おうなんて、そんなの───」
そんな日々が続いた、ある日。
サチが思いつめた表情で相談事を持ち掛けてきたことがあった。

パーティに前衛が不足しているため、ギルドのメンバーから盾持ちの片手剣士に転向するように言われていること。
敵の前に出るのはとても怖いのに、パーティ内では自分のスキル熟練度が一番低いため、拒否権がなかったこと。
ギルドメンバーのことは好きだけど、本当は狩りに行くのは嫌だということ───

今にも泣き出しそうな顔をしている親友の姿を見て、ルシェは何事かと問い詰めた。
そうして、サチの口から理由を聞かされ───激昂した。

「ルシェ、落ち着いて」
「ユノさん……」
ルシェにしてみれば、親友を危険な目に遭わせようとしているギルドメンバーが許せなかったのだろう。
放っておけば直談判に行きそうな勢いだったので、今にも席から立ち上がろうとしていた彼女を何とか宥めた。

「気持ちはわかるけど、サチを責めたって仕方ないよ」
「でも、ユノさん!前衛なんて危ないこと、サチには───」
再び怒気を孕んだ声で抗議しようとするルシェを、僕は手で制した。

「それに、彼らの言うことも一理ある」
「……え?」
そう言うと、ルシェの顔に失望の色が浮かんだ。
サチの転向には僕も反対するものだと思っていたようで、僕がギルドメンバーの肩を持つ発言をしたことで、裏切られたように感じたのだろう。
短絡的と言えなくもないけれど、それを責めるつもりは僕にはなかった。
ここまで真剣に怒るということは、それだけサチのことを大切に想っているということだ。

「前衛と聞くと危ないイメージがあるかもしれないけど、実は盾持ちで壁役《タンク》として戦うプレイヤーのほうが、戦闘でやられる可能性が少なくて済むんだよ」
「……どうしてですか?」
色素の薄いライトブラウンの瞳が、訝しげに僕を見つめる。
彼女の疑いを解消するべく、僕は自身の経験からくる持論を話し始めた。

「えっと……、例えば動きの速い敵と戦ってるとして、敏捷値寄りのステータスでも避けきれなかった場合、敵の攻撃を受けることになるよね」
「……はい」
「こっちのHPが100で、相手が一撃で60とか70くらい持ってくような敵だったとしたら、攻撃を2回受けた時点でアウト。クリティカルをもらった時は、下手したら一撃でやられることだってあるかもしれない」
「………」
サチが───もしくは自分が、敵にやられるところを想像したのか。
ルシェが形のいい眉を顰めたことに、あえて気付かない振りをして、僕は続ける。

「避けにくい攻撃をリスクを冒して回避するより、最初から盾の陰に隠れていたほうがいい場合が多いんだ。いくら相手の攻撃力が高くても、盾で受け切ることができれば無傷で済むんだからね」
「そうなの……?」
「うん。実際のボス戦でも、僕みたいに離れて戦うタイプのほうが、広範囲攻撃に巻き込まれて危なかったりするしね。そういう時に、最初から防御してた壁役《タンク》は無傷だったり」
半信半疑といった様子のサチに、僕は頷いた。
正確には「ほぼ無傷」といったところだけれど、それでも大盾《タワーシールド》を携えた壁役の防御力は目を見張るものがある。

装備やステータスに大きな差がなかった第1層の頃とは違い、壁役やDD《ダメージディーラー》といったパーティ内での役割が確立している現在では、プレイスタイルによって生存率が著しく変わってくる。
事実、最前線での戦いはリリアやシェイリのようなDD《ダメージディーラー》よりも、防御に特化した壁役のほうが生存率が高い。
敵の前に出るということで危険なイメージを持たれがちだけれど、実際は重装備を着込んだ壁役のほうが、遥かに安全に戦えるというわけだ。

ただ、問題は───

「じゃあ、サチも片手剣士に転向したほうがいいってことですか?」
「……いや、それはやめておいたほうがいいかな」
「え……」
問題は。
いくら壁役の生存率が高いといっても、最終的な生存率はプレイヤー自身の、プレイスタイルへの適正や性格に左右されるということだ。

どんなに強い武器を持とうと、使い手の力量が見合っていなければ全く無意味なのと同じで。
壁役の生存率が高くても、片手武器の扱いに慣れなかったり、そもそも性格的に前衛に向いていないプレイヤーだっているだろう。

そして僕が見たところでは、サチは後者だ。
盾に隠れれば安全だとわかってはいても、敵に近寄ること自体が怖くてたまらないといったタイプだろう。
壁役は安全に戦えるといっても、敵を前にして身体が竦んでしまえば本末転倒だ。
どんなに堅い盾を持とうと、使い手が防御できなければ意味がないからだ。

ちなみに。そのあたりを自覚しているリリアは、重装備こそしているものの、立ち回りは防御よりも回避に重点を置いている。
盾を持たないことを疑問に思った僕が聞いてみると、「馬鹿ぬかせ。んなモン盾ごと割られたら終わりだろうが!」という、実にヘタレな彼らしいコメントを頂いたのだった。
その分、回避だけは異様に上手いので、彼にとってはこれが理想のプレイスタイルだったのだろう。

閑話休題。

とにもかくにも、そういった理由で、使い慣れていない武器やプレイスタイルへの転向は、個人的には賛同しかねるところだった。
戦闘中に行動を躊躇してしまうようでは、むしろ敵との距離が縮まった分、ちょっとした判断ミスから事故を引き起こす可能性だってある。

前衛の不足しているパーティは、確かにバランスが悪い。
だからといって、性格的に向いていないサチに前衛を無理強いするべきではないだろう。
サチの意思を尊重した上で、自分に一番合ったプレイスタイルを選ばせるべきだ───というのが、この件について僕が出した結論だ。

……更に言うなら、彼女のようなタイプは戦いには向いていない。

リリアのような例外(彼は恐怖心を他者への攻撃性に転化するタイプだ)もあるとはいえ、戦いというものは基本的に、自身の恐怖心を抑えなくてはならない。
もちろん油断や慢心は論外ではあるけれど、最低限の恐怖を克服できなければ、あっという間に敵に付け込まれることとなる。
初心者を考慮した作りの最下層フィールドとは違って、10層以降に出現する敵は、そのほとんどが攻撃的《アクティブ》モンスターとなっている。
そんな相手と戦う時に怯えていたのでは、飢えた肉食獣の前に小動物が出て行くようなものだ。

「とりあえず……、慣れない武器でフィールドに出るのは、僕は反対かな。半年以上も今の武器でやってきたのに、いきなり上手く戦えるとは思えないよ。 ……どうしても転向しなくちゃいけないっていうなら、もっと時間をかけるべきだと思う」
本音を言うなら、前衛の出来るギルドメンバーを募集するなり、戦い慣れている男性陣が転向するなりして、彼女には戦わせるべきではない───そう言いたいところだけれど。
流石にこれ以上は、部外者の僕が口を挟める問題ではないだろう。最終的にどうするのかは、サチ本人とギルドメンバーたちで決めることだ。

「……サチ。嫌なら嫌って、ちゃんと言うんだからね? どうしてもギルドが嫌になったら、抜けちゃえばいいんだし。そしたら前みたいに、サチもこの街に住もうよ。あたしもそのほうが嬉しいしさ」
僕の説明でいくらか納得してくれたようで、彼女を労わるルシェからは、先程までの怒気は霧散していた。
今はそのかわりに、親友への労わりと慈しみで満ちている。

「うん……、ありがとう。でも、私は大丈夫だよ。片手剣士に転向するのも、たぶん、慣れれば大丈夫だと思うから」
「………」
だけど。
そんな親友の言葉に頷いたサチの表情は、御世辞にも大丈夫には見えなかった。
触れれば壊れてしまいそうな、危うい雰囲気。
傍から見ても、彼女が無理をしているのは一目瞭然だった。


今になって思えば。
僕はこの時、サチを止めるべきだったのかもしれない。
多少無理を言ってでも、戦いから遠ざけるべきだったのかもしれない。

あるいは。
ルシェが直談判しようとするのをやめさせなければ、少しは違った結末が待っていただろうか。

戦いから離れたサチと、彼女の親友であるルシェ。
二人が笑い合っている光景を、もう一度見ることができていたのだろうか。

僕には───わからない。


────────────


【西暦2023年 6月5日】


「最近、明るくなったと思いませんか?」
「へ?」
ルシェの問いに対する僕の答えは、なんとも間抜けなものとなってしまった。
彼女の話を聞きながらも、頭の中では別の───数日前に遭遇した、風変わりな人形遣い《パペットマスター》───のことが気掛かりになっていて、会話に集中できていなかったのは確かだ。
結果、突然話題を振られたことで、不意を打たれる形となってしまう。

「……ユノさん、まさか聞いてなかったんですか?」
「い、いや、そんなことは。 ……まあ、日は延びてきたよね、うん。もう6月だし」
「違いますよ!やっぱり聞いてなかったんじゃないですか!」
「う、ごめんなさい……」
何とか誤魔化そうとしたものの、あっけなくバレてしまったため、素直に謝罪する。
「明るくなった」という彼女の言葉から、最近は日の落ちるのが遅くなったという話かと思ったのだけれど、まったくの的外れだったらしい。

「いやその、なんというか、ごめん。僕が悪かったよ」
「別に、いいですけど~」
拗ねたように頬を膨らませるルシェを見て、少し反省。
今度から人と話している時は、考え事をするのはやめておこう。

「えーっと……、それで、何の話だったの?」
「もう。サチのことですよ、サチの。あの子、最近明るくなったというか、ちょっと元気になったと思いませんか?」
「ん、そうなの?」
「そうですよ!親友のあたしが言うんだから間違いないです!」
ドヤ!といった具合で胸を張るルシェ。
どうやらサチの親友というポジションは、彼女にとって何よりの自慢であるらしい。

「……やっぱり、あれかな。あの人が入ったお陰なのかな」
「あの人?」
あの人、とは。一体誰のことを指しているのか、僕には見当がつかなかった。
ルシェの言い方からして、サチと同じギルドのメンバーだということは、なんとなく察しが付いたけれど。

「えっとですね……、ユノさんは知ってましたっけ、サチのギルドに入った男の人の話」
「そういえば、言ってたね。すごく強い人が入ったって」
少し前に聞いた話によれば、サチの所属するギルド《月夜の黒猫団》に、新たなメンバーが加わったらしい。
相手は待望の片手剣使いで、それも黒猫団のメンバーと同じくらいのレベル帯であるにも関わらず、前衛としての実力はかなりのものであるという。
彼らとレベルがそう変わらないということは、単純にプレイヤースキルが高いのかもしれない。
何にせよ、前衛が不足していた黒猫団にとって、彼の加入はまさに渡りに船といったところだろう。

「……サチ、結局今でも前衛やらされてるみたいで。あたし、結構心配してたんです。あの子、あたしと同じくらい怖がりだから」
サチの所属するギルド《月夜の黒猫団》は、いずれは攻略組の仲間入りすることを目標としているらしい。
今はまだ中小ギルドの域を出ないものの、例の剣士の加入を切っ掛けに、以前より本格的な狩りに乗り出すようになったのだそうだ。

「無理して明るく振る舞ってるけど、本当はすごく落ち込んでるの、あたしはわかってて。なんとかしてあげたいなって思ってたんですけど……。でも最近、ちょっとずつ元気になってきて。あたしが何かあったのかって聞いたら、あの子、どうしたと思います? 顔を赤くして黙り込んじゃったんですよ!」
……えっと。
顔を赤くして黙り込んじゃったってことは、それって、つまり。

「何があったのか聞いても全然教えてくれないし!最近じゃその人の話になっただけで、顔が真っ赤になるんですよ!どう思いますか、ユノさん!」
「え、えーっと……」
どう思いますかと聞かれても……どう答えればいいんだろうか。
僕、その手の話には疎いというか、自分に縁がないからなぁ。

「……サチは、その人のことが好きなのかな。だから、元気になったのかな」
「う、うーん……、どうだろう……?」
「その人がギルドに入ってからは、サチ、本当に明るくなったんですよ。 前はギルドで狩りに行くの、あんなに怖がってたのに。……ちょっと、悔しいです」
「………」
「サチがギルドのことで落ち込んでた時、あたしはただ怒ることしかできなくて。でも、それじゃダメだったんですね。あたしはサチのこと、元気づけてあげられなかった。 ……親友、失格ですね」
しゅんとした声でそう言って、ルシェはテーブルに置かれた紅茶のカップへと視線を落とした。

本当に、この子ときたら……どこまでも、親友思いだ。
そんなだから───僕は、何とかしてあげたくなるんだ。

「そんなことないよ。ルシェがああやって怒ってくれたこと、サチはきっと感謝してる」
「そう、でしょうか……」
「少なくとも、僕はダメだったとは思わない。誰かが自分のために怒ってくれるって、すごく……嬉しいことだよ」
「ユノさん……」

───僕が、そうだったから。

リリアやシェイリが、僕のために怒ってくれた時。
自分が情けなくて、みんなに申し訳なくて。自己嫌悪や罪悪感が、胸の内でごちゃ混ぜになって。
それでも、二人がそんな風に言ってくれたことが、自分のために怒ってくれる人がいるということが。
僕は、とても嬉しかった。
泣いてしまうほど───嬉しかったんだ。

「大丈夫。君はサチの一番の親友だよ」
「う、ぐすっ、ユノさぁぁん……!」

とうとう泣きだしてしまったルシェに、苦笑いしながら。
僕は、この二人が、これから先も───いつかこのゲームがクリアされて、現実世界に戻れたとしても、それからも。

あんな風に、他愛もないことで笑い合えるような。
こんな風に、相手のことで真剣に悩むことができるような。

そんな、親友同士であって欲しいと。
ずっと変わらずに、親友同士であって欲しいと。
そう───願っていた。






月夜の黒猫団が迷宮区で壊滅し、サチが死んだと聞かされたのは、それから一週間後のことだった。 

 

とあるβテスター、少女を抱きしめる

アインクラッド第1層主街区『はじまりの街』。
先細りの構造となっている浮遊城アインクラッドの最下層に位置する町で、その総面積はアインクラッドの基部フロア、その凡そ2割にも及ぶ。
このゲームにログインしたプレイヤーが最初に訪れる街であり、同時にアインクラッドの中でも最大の規模を誇る街でもあるため、ゲーム開始から半年以上経った2023年6月現在でも、依然としてこの街を訪れるプレイヤーは多い。
商店通りに立ち並ぶ多種多様な店舗をはじめ、モンスターの特殊攻撃による呪い《カース》の解除を行う教会や、『蘇生者の間』と呼ばれる、戦闘不能となったプレイヤーの復活地点───現在、そのの機能は停止しているが───を擁する巨大な宮殿『黒鉄宮』など、SAOというゲームにおいて重要な役割を持った施設が集中した街である。

また、この街はSAO一の大所帯ギルド《アインクラッド解放同盟》の本拠地となっており、低レベルプレイヤーへの物資配給や悪質プレイヤーの取り締まりなどを行い、街の治安維持に努めている。
ギルドへの加入希望者は日を追って増加傾向にあり、彼らの指導者的立場にある騎士ディアベルは、現在、街の中央に位置する黒鉄宮を軍用施設として利用できないか検討している最中だ。

近頃は日が延びてきているとはいえ、まだ夏には程遠い。午後18時ともなれば既に日没は過ぎ去っており、広大な街を夕闇が包み込んでいた。
日中、燦然と輝いていた太陽は影を潜め、仲間達と談笑の花を咲かせていた者や、日課の狩りから帰還したパーティのメンバー達が、思い思いの帰路に就くために目抜き通りを通過していく。

───嘘だ。

そんな周囲の光景には目もくれず、少女は夕刻の街を一人、一直線に駆けていく。

───嘘だ。嘘だ。

壊れたレコードの針が飛ぶように、ただその言葉だけを、幾度も幾度も繰り返しながら。
人波を掻き分け、慣れ親しんだ街の慣れ親しんだ道を、ただひたすらに走った。
通りを横並びに歩く女性プレイヤーの一団をもどかしく思いながら、彼女達と建物との間をすり抜けるように追い越し、目的地へと疾走する。

───嘘だ、嘘だ、嘘だっ!!

この街で知り合った、自分と同い年の彼女。
自分と同じくらい怖がりで、臆病で。自分の意見を他者に伝えることすら覚束ない、か弱い彼女。
戦うことに並々ならぬ恐怖心を抱きながらも、寝食を共にする仲であり、現実世界の友人でもある仲間達のために、必死に堪えていた彼女。

歯を食いしばり、血を吐くように喘ぎながら疾駆する少女の脳裏には、出会った日から今日この時まで、共に過ごしてきた彼女との数々の思い出が、幾重にも駆け巡っていた。
まるで走馬灯のようにも思えるそれが、彼女がもういないことの証であるかのように思えて、少女は頭で、心で、懸命に否定する。

───あの子が、死ぬわけない!

少女は、彼女を親友だと思っていた。
少女は、彼女を守りたいと思っていた。
少女は、彼女のことが大好きだった。

そうして、これからも、ずっと。いつか現実世界に帰る、その時が来るまで。
彼女と一緒に過ごす日々が、続いていくことを。庇護欲を掻き立てられ、女の自分ですら思わず守ってあげたくなるような、そんな親友と過ごす日々が続いていくことを。
少女は、何一つ疑っていなかった。

つい先刻、何気なく開いたフレンドリストから、彼女の位置情報が消失していることに気が付くまでは───


「──サチッ!!」
親友の名を叫び、重厚な扉を突き破らんばかりに、少女は黒鉄宮へと───かつての蘇生者の間へと雪崩れ込んだ。
クローズド・ベータの頃、戦闘不能となったプレイヤーの復活地点として用意された部屋の中心部には、《生命の碑》と呼ばれる巨大な金属碑が設置されていた。
重々しい黒鉄の碑には、SAOの正式サービス開始に伴い、ゲーム世界に囚われた10000人ものプレイヤー───その一人一人の名が、漏れなく刻み込まれている。

正式サービス開始以降、敵の攻撃によって戦闘不能となったプレイヤーは、以前のようにこの場所で復活することはない。
その代わりとでもいうかのように、戦闘中にHPを全損させたプレイヤーの名前には横線が引かれ、隣には死因と死亡時刻が刻まれる。
彼の者が、既にこの世にはいないということを示すように。

「サチ……ッ!」
ナーヴギアの開発者にして、たった一人で現在のVR技術を確立させた稀代の天才───茅場晶彦の手によってデスゲームと化した今のSAOにおいて、位置情報が消失《ロスト》するということは、それ即ち、死を意味する。
理屈では理解していた。フレンドリストから位置情報が消失した時点で、彼女の親友は───サチは、この世からいなくなってしまったのだと。
しかし───心が。親友の無事を信じたいと思う心が、それを否定する。

少女───ルシェは息を切らせながら、親友の名を捜すべく、碑に刻まれた名前へと目を走らせた。
あの子が死ぬはずがない。親友の位置情報が消失した理由は、彼女がHPを全損させたわけではなくて、何らかのバグによるものだったんだ。
散々送ったメッセージが無効となって戻ってくるのも、きっとサーバーの調子が悪かったというだけで。
明日になれば、何事もなかったかのように位置情報も戻っていて。しょうもないバグだったねって、二人で笑い合って。
そんな、いつもと変わらない日常が始まるはずだ。サチと一緒に過ごす、いつもの日常が。

そんな───微かな希望に縋り付きながら、少女は。
親友の名を、探し当てた。


「……うそ、だ」
そして、現実を、知らされる。


────────────


『サチが死にました』

迷宮区での探索を終え、宿屋の部屋で休んでいた僕に送られてきた、たった一言のメッセ―ジ。
まるでタチの悪い悪戯のようにも思えるそれの送信者は、他でもないルシェだった。

黒鉄宮の重厚な扉を押し開け、蘇生者の間へと辿り着いた僕の目に映ったのは、自分の身長の倍はあるであろう、金属製の碑───生命の碑の前に頽れる、ルシェの姿。
生命力を根こそぎ奪われたように虚ろな表情をした彼女は、僕が入ってきたことに気が付かない。───あるいは、気が付いていても反応を返すことが出来ずにいるのか。
光を失ったライトブラウンの瞳は、生命の碑に刻まれた膨大な文字列の、ただ一点だけを見つめていた。

【Sachi 6月12日 16時54分 貫通属性攻撃】

サチ。6月12日。16時54分。貫通属性攻撃。
何の感情も籠らない無機質な文字列が、たった一行にも満たない文字列が、彼女の親友を、サチという少女を、その存在を───否定していた。
つい先日まで同じ世界に生きていたはずの彼女は、今はもう、どこにもいない。
こんな横線たったひとつで、サチという一人の少女の存在は、この世界から弾き出されてしまった。

「……、どう、して……」
本当なら、こういう時こそ僕がしっかりするべきなのかもしれない。
精気を感じさせない顔で座り込むルシェに、気の利いた言葉の一つでもかけるべきなのかもしれない。
だけど、それはできなかった。自分のものとは思えない程の、掠れた声で呟くことが精一杯だった。

自分の周りで誰かが死んだのは、これが初めてというわけではなかった。
戦いの中に、それも最前線で戦う攻略組に身を置いている以上、目の前で人が死ぬところを見る機会は少なくない。
一ヶ月ほど前、第25層のフロアボス攻略戦に参加した時も。迷宮の守護者である双頭の巨人によって、何人ものプレイヤーが死んだ。
……だけど。その時の僕は、彼らの死を悼みながらも、心のどこかで他人事のように感じていたのかもしれない。
感覚が───麻痺していたのかもしれない。
それが自分の友人知人ではなかったことを、亡くなった人に申し訳ないと思いつつも───安堵してしまうほどに。

そんなツケが、今頃になって回ってきたのか。
僕を嘲笑うかのように。見せつけるかのように。思い知らせるかのように。
初めて身近な人を───サチを失ってしまったという現実が、重く圧し掛かる。

「ルシェ……」
「……、ユノ、さ……」
実際には5分にも満たないはずの時間が、数十分にも数時間にも思えた。
何とか声を出せるようになった僕は、床に頽れたままでいるルシェの小さな背中へと呼びかける。
ここに至って、ようやく彼女はこちらを向いた。その色を失った表情に、普段の彼女との落差を感じずにはいられなかった。

「あ、たし……、あたし、フレンドリスト…、開いて……っ。そしたら、サチが、サチがっ……!ログアウトって、なってて……!」
───ログアウト。ネットワークとの接続を切ったということを示す用語。
だけど、このゲームでのプレイヤーによる意図的なログアウトは、開発者───茅場晶彦によって封じられている。
つまり、今のSAOで、プレイヤーがログアウト状態になるということは。
ナーヴギアが発するマイクロウェーブによって脳を焼かれ、現実世界での死を迎えたということに他ならない。

「あ……、あたし絶対に、う、うそだって、思って……。でも、サチの名前に、横線っ、引いてあってっっ! な……、なんで、どうしてっ……、こんな、ぁああぁああぁあ……っ!!」
「ルシェ……ッ!」
悲しいのは僕も同じだ。サチの死をどうしても認めたくなくて、頭の中には様々な想いが駆け巡っている。
……だけど。大切な友達を失って錯乱するルシェの前で、僕まで取り乱しているわけにはいかなかった。

騒ぐ思考の一切をかなぐり捨てて、嗚咽するルシェを抱き締めた。
彼女の悲痛な慟哭を聴きながら、回した手に力を込める。小さな肩の震えを抑えるように、強く、強く。
普段は明るく振る舞っているけれど、本当はとても臆病な彼女にとって、親友の死という現実は、あまりにも残酷で───あまりにも、重すぎた。
だから今は。せめて今だけは、思う存分泣けばいい。君の気が済むまで、僕はこうしていよう。
人が死ぬところを見慣れてしまった僕なんかよりも、サチの親友だったこの子のほうが、ずっとずっと、辛いはずなのだから───


────────────


どれくらいそうしていただろうか。
泣きじゃくるルシェを宥めているうちに、少しずつではあるものの、僕は冷静さを取り戻していた。
そんな自分の薄情さに嫌気が差しつつも、しゃくり続けるルシェの背中を叩きながら、僕は彼女の頭越しに、部屋の中央に鎮座する黒鉄の碑へと───そこに刻まれたサチの名前へと目を向ける。

【Sachi 6月12日 16時54分 貫通属性攻撃】

サチ。6月12日16時54分。貫通属性攻撃。あまりにも簡潔すぎるそれは、僕がここを訪れてからそれなりに時間の経った今でも、何一つ変わることはなく刻まれている。
サチの名前を改めて見ることで、彼女が本当に死んでしまったということを否が応でも実感させられて、ずきりとした胸の痛みと───同時に、僅かな違和感を覚えた。

───なん、だ……?

黒鉄製の碑にずらりと並ぶ他のプレイヤーの名前と見比べてみても、サチの記述に特別おかしなところは見られない。
斬属性攻撃、打撃属性攻撃、貫通属性攻撃、広範囲特殊攻撃、転落死───
モンスターとの戦闘でHPを全損させたプレイヤーから、自身の境遇を嘆いて浮遊城から身投げした者まで。ありとあらゆる死因と、その起こった時刻が記載されているだけだ。
……だというのに、この違和感は何だ?何が……引っかかっている?

「………」
おかしい。
何がどうおかしいかと問われれば、具体的な答えを返すことはできない……けれど。
僕は、碑に刻まれたサチの名前に───その隣に刻まれた“貫通属性攻撃”という死因を見た時に、確かに違和感を感じた。
同時に胸に湧いてきたのは、僕にも得体の知れない……嫌な予感。
まるでサチの死について、何か重要なことを見落としているような───

「……ルシェ。サチのギルドメンバーの名前、憶えてる?」
「っユノ、さん……?」
僕の身体から顔を離し、ルシェは泣き腫らした目でこちらを見上げた。
親友を失ったばかりの彼女にこんなことを聞くのは、些か心苦しいものがある。だけど僕は、この違和感の正体を突き止めずにはいられなかった。
サチと親しかった彼女なら、6人しかいないという《月夜の黒猫団》メンバーの名前も、話に聞いているに違いない。

「……、サチ、と……ササマルさん、と……、テツオさん」
僕の読みは当たっていたらしく、ルシェの口から黒猫団メンバーの名が読み上げられていく。
今は亡き親友の名前を口にしたことで、再び涙ぐむ彼女に罪悪感を覚えながらも。たった今告げられたばかりの名前を探し、プレイヤー名の羅列に目を走らせた。

【Sasamaru 6月12日 16時50分 打撃属性攻撃】
【Tetsuo 6月12日 16時49分 貫通属性攻撃】

それらしきプレイヤーの名前を探すのに、さほど苦労はしなかった。顔も知らない二人の死亡時刻は、サチと数分程度しか違わない。
迷宮区での彼らの狩りには、以前ルシェから聞かされた、凄腕であるという例の剣士もついていたはずだ。
にも関わらずサチが死んだということは、その剣士ありきでも対処し切れない事態が起こったということ───大量のリポップに巻き込まれたか、あるいは他の理由か。
何にせよ、サチのパーティメンバーである彼らも例外ではなかっただろう───そんな僕の嫌な予感は、見事に的中してしまったのだった。
本当に───こんな時だけ。
嫌な“当たり”を、引いてしまう───

「…、あと……、ダッカ―さん……と…、ギルド、マスターの……、ケイタさん……」
掠れた声で、途切れ途切れに質問に答えてくれるルシェの姿に、胸に内で罪悪感がみるみる膨れ上がっていくのを感じた。
無理をさせてしまったことを心の中で謝りながら、再度、視線を生命の碑へと向ける。

【Ducker 6月12日 16時45分 貫通属性攻撃】
【Keita 6月12日 16時46分 斬属性攻撃】

次の二人も、サチと同じく死亡時刻は16時50分前後。つまり、その時間帯に、パーティを壊滅に追いやった“何か”が起こったということだ。
彼らの死因と死亡時刻を頭の中で整理しながら、今日一日の黒猫団の足取りをシミュレートしていく。
パーティが壊滅した時間帯───17時頃といえば、ダンジョンでの狩りを終えて街に戻る途中だったと考えるのが妥当だろう。
個人やギルドの方針によって異なるものの、このゲームに囚われているプレイヤーたちの大半は、現実世界と同じように、昼間に狩りをして夜は休むといったサイクルで日々を過ごしている。
したがって、朝の9時から夕方17時までを目安として狩りを行うパーティが多く、効率を求めるプレイヤーはあえて深夜帯でのレベリングを選ぶといった傾向がある。
サチの所属するギルド《月夜の黒猫団》もそんな例に漏れず、午前中に狩りに出かけ、夕方には拠点としている街《タフト》に戻り、宿屋の食堂で夕食をとるのが日課だと聞かされたことがある。

午前中にサチとルシェとの間で行われていたメッセージのやり取りでは、サチを含めた黒猫団の一行は今日、第27層の迷宮区で狩りをしていたそうだ。
その迷宮区は最前線から3層下に位置するダンジョンで、フィールドに比べて稼ぎはいいものの、毒ガスや通路封鎖、アラームといったトラップが多数設置されている危険地帯でもあり、リリアの罠解除スキルがなければ僕たちも苦戦していただろう。

中でも宝箱に仕掛けられたアラームトラップの危険度は群を抜いていて、21層の時計塔を模した迷宮区で僕たちが戦ったモンスター、《ファイティング・クロックマン》───あの時計怪人が稀に行う特殊アクションと同じ効果を持っており、更に厄介なのが、自身と同族のモンスターだけを集める《ファイティング・クロックマン》とは異なり、宝箱に仕掛けられたアラームトラップの場合、周辺にいる全てのモンスターが種族を問わずに集まってきてしまう。
それを阻止するためには、宝箱自体を破壊してアラームを止ればいい……と、言うだけなら簡単なのだけれど、実際に発動してしまうと、トラップを引いてしまったことに動揺してしまうプレイヤーが多く、追い討ちをかけるように押し寄せるモンスターからのプレッシャーもあり、なかなか実行に移すことができないというのが、このトラップの厭らしいところだ。
こうしたトラップが多数仕掛けられているということもあって、第27層迷宮区で狩りをするプレイヤーは、宝箱を開くといった簡単な動作にも常に細心の注意を求められる。
第17層のダンジョン《荒くれ者の墓所》の最奥に位置する広間のように、《結晶無効化エリア》に設定されているゾーンも多数存在し、転移結晶による咄嗟の離脱すらままならないといった状況に陥ることもある。そんな状況下でアラームトラップを引き当ててしまった場合、そのパーティの生還は絶望的となってしまうからだ。

───シーフがトラップを引いたのか……?

僕が最後に会った時。あの段階でのサチのレベルは、確か28か29だったと記憶している。そこから今日までの間、毎日狩りを続けていたのだとしたら、多少上がって30台前半といったところだろう。
彼女はパーティ内で一番レベルが低いという話だったから、他のメンバーはサチよりもいくらか高いレベル───恐らく35前後はあったはずだ。狩りをする階層の数字に10を足したレベルが、ソロでの安全マージンの目安だと言われている。なので、6人パーティの《月夜の黒猫団》にとって、第27層は十分に安全圏内だっただろう。
そんな彼らが全滅するからには、シーフ(罠解除や開錠といった探索スキルを重点的に鍛えているプレイヤーの総称)クラスのプレイヤー───このパーティでいうなら、ダッカ―という名前の彼だったはずだ───が、誤ってアラームトラップを作動させてしまい、転移結晶で離脱する前にやられてしまったと考えるのが一般的だろう。
実際にあのダンジョンで戦ったことがある僕から見ても、その可能性が一番高いと思った。第27層の迷宮区が発見されたばかりの頃、トラップに引っ掛かって半壊するパーティが後を絶たなかったからだ。
思ったの……だけれど。
どうして、僕は───


「──ッ!!」
そこまで考えて、再びサチの名前に目を向けた───その瞬間。僕の頭の中で、不意に何かが繋がった。
バラバラになっていたパズルの、最後のピースを嵌め込んだ時のように。
手繰り寄せていた糸が、的確に目的地へと───違和感の正体へと、繋がった感覚。

───まさ、か。

黒鉄の碑に刻まれた彼女の名前を目にした時に、僕が抱いた違和感。
サチ。6月12日16時54分。貫通属性攻撃。簡潔な───あまりにも簡潔な、その死因。
その死因が───違和感の、正体。あまりにも簡潔すぎて見逃してしまった、僕が感じた違和感の根源。

ルシェから聞いた情報が、全て正しかったのだとしたら。
《月夜の黒猫団》が、本当に、第27層の迷宮区で狩りをしていたのであれば。少し前の僕たちが第27層で戦っていたモンスターが相手だったのだとしたら。
“貫通属性攻撃による死因は、有り得ない”。
“何故なら第27層に、貫通属性の攻撃をしてくるモンスターは配置されていないのだから”。

採掘用のピッケルを携えた人型モンスター《ゴブリンワーカー》。主に斬属性の攻撃を行う。
石造りの巨体を持ち、打撃以外の物理攻撃に耐性を持つモンスター《ストーンガーディアン》。このモンスターからの攻撃は、全て打撃属性を持っている。
他にも数種類ほどのモンスターが配置されているものの、それらもこのモンスターたちと同じく、貫通属性攻撃を行うものはいない。───“だったら”。

《月夜の黒猫団》は、シーフがトラップを作動させたことで全滅したのではなく。
“有り得ないはずの”貫通属性攻撃で、サチのHPを全損に追いやったのは、モンスターなどではなく。

つまり。
つまり、彼らを壊滅に追いやったものの正体は。
その、正体は───ッ!!


「……、プレイヤー、キル……?」
自分の口から思わず零れてしまった呟き───その言葉の意味するところを、僕は。
嫌というほど───知っていた。

プレイヤーキル。通称PK。
フィールドに存在するモンスターを相手にするのではなく、プレイヤーがプレイヤーを攻撃し、戦闘不能に追い込むことを指す用語。
MMORPGの世界ではこのPKを行う者を、《Player Killer》から取って『PKer』、あるいは《Player killing》の文字を取って『PKing』といった呼び方をしている。

一見すると卑劣にも思える行為ではあるものの、フィールドでのPKが可能な仕様のMMOでは立派なプレイスタイルの一つであり、運営会社がPKを推奨しているゲームすらある。
対人戦闘の好きなゲーマーにとって、PKは切っても切り離せない存在だと言っても過言ではなく、あえてPKerとして演じることを楽しむプレイヤーも少なくない。
フィールドに出れば、いつ襲われるかわからない───そんなスリルを味わうための、一種のスパイスとも呼べる仕様だろう。

ただし。PKを至高のものとするプレイヤーがいるのと同じように、PKの存在そのものを快く思わないプレイヤーもいる。
仕様として認められていることはわかってはいても、フィールドで突然襲われた側としては、そういった感情を抱いてしまうのも無理はないだろう。
画面越しにしか他者とコミュニケーションを取れなかった従来のMMORPGならともかく、自分を攻撃してきた相手と直接顔を合わせることになるSAOでは、その傾向は尚さら顕著であると言っていい。

βテストの頃にパーティメンバーをPKし、オレンジ《犯罪者》プレイヤーとなった僕は、投剣を主体に扱うことから《投刃》と呼ばれ、他プレイヤーから追い回される羽目になった。
ここ蘇生者の間で復活が可能だったあの頃ですら、オレンジに対する扱いはそんなものだった。
ましてや現在のSAOでは、他PCを攻撃してHPを全損に追い込むということは、そのアバターを繰るプレイヤーを殺害したことを意味する。
ネームカーソルがグリーンであったにも関わらず、ディアベルやキバオウといった攻略組プレイヤーたちが僕を警戒していた理由は、例え復活可能なβの頃だったとはいえ、一度でも他PCを殺害した前科があるということからだった。
もちろん僕は誰かをPKするつもりなんてなかったし、また、他の誰かがそうした行為を行うといったことも、今のSAOではまずないだろうと思っていた。

そう───思っていたのに。

サチを含めた《月夜の黒猫団》メンバーたちの死因は、打撃属性が一人、斬属性が一人。そして───貫通属性が、三人。
ケイタとササマルの死因は打撃と斬撃によるものであるため、単に迷宮区のモンスターにやられただけという可能性もある。
だけど、他の三人───ダッカー、テツオ、……そして、サチの死因は。迷宮区のモンスターからでは有り得ない、貫通属性攻撃によるものだった。

それが意味するところは、つまり。スピアやレイピアなどの刺突武器───あるいは、僕と同じ投剣使いか。
そのいずれかを得物とするプレイヤーによる、PK行為を受けたということに他ならない───

「なに……それ」
あまりにも信じがたい───信じたくない結論に、到達してしまった、僕の目の前で。
ルシェの瞳が、光を失ったライトブラウンが、大きく見開かれる。

信じられないものでも見るかのような。
この世の全てに絶望したような。
そんな、表情で。

「プレイヤーキル、って……、人が人を、殺すこと……ですよね」
「ル、シェ……」
なんて───迂闊。
例え無意識によるものだったとしても、よりにもよって彼女の前では、決して口に出すべきではなかった。
サチの死因がPKによるものだったということばかりに気を取られて、目の前にいるルシェへの……サチの親友である彼女への配慮が、あまりにも疎かになっていた───!!

「どういう……こと、なんですか? ねぇ、ユノさん……、教えて、くださいよ。あの子は……、サチは、誰かに殺されたっていうんですか……!?」
「それ、は……」
親友を失ったというだけでも、こんなに悲しんでいるというのに。
その親友が、悪意を持った誰かの手によって、意図して殺害されたのだとしたら。
それを知った時、この子は───ルシェは。
サチを奪ったこの世界に、サチを奪った人間に、彼女を守れなかった自分に絶望して。
絶望して、絶望して、絶望して───最後には、壊れてしまうかもしれない。
サチの命を奪ったのが、同じ人間だったという現実は。この親友想いの少女には、あまりにも───残酷すぎる。

「ねぇ、ユノさんっ!答えてっっ!!」
なのに、僕は。
こうして何も言い出せずにいること、それ自体が、彼女の疑惑を肯定することになっていると、わかっていながら。
わかっていながら───何も、答えられなかった。
あまりにも残酷で、あまりにも重い、そんな現実を……否定することが出来ずにいた。

「月夜の黒猫団は……、サチのギルドは、いつか攻略組に追い付いて、他の人を守れるようになりたいって。それを目指して、みんな頑張ってるんだって……、サチはそう言ってたのに! なのにみんなは、サチはっ!守ろうとしてた人たちに、殺されたっていうんですかっ!?」
喉が裂けるのではないかというほどの悲痛な声で、ルシェが僕を問いただす。
最悪だ。彼女の悲しみに追い討ちをかけるような真似を、彼女を慰める側の立場であるはずの僕がしてしまうなんて───

「なんで……、なんでよぉ……!サチぃぃぃ……!」
「………」
あるいは、違和感なんて放っておけばよかったのか。
サチや黒猫団のメンバーたちは、不運にもアラームトラップを引いたせいで壊滅してしまった……そう、思い込んでいたほうが。真相なんて、知らなかったほうが。
僕の腕の中でボロボロになって泣き叫んでいる、彼女にとっても。
そんな彼女を抱きしめながら、迂闊に真相を暴いてしまったことを後悔している、僕にとっても。
少しは───慰めになっていただろうか。

───ちくしょう……。

普段リリアがついているような悪態を、胸の内で呟いた。
畜生、畜生、畜生と。何度も、何度も何度も、繰り返す。

全てが始まったあの日に、赤く染まった空を見上げながら感じた、“嫌な予感”が。
初めてのボス攻略戦に挑む時に感じていた、“嫌な予感”が。
最近ではあまり感じることのなくなっていた、“嫌な予感”が。
今頃になって、こんな形で、的中してしまうなんて。
本当に……最悪だ。


────────────


この時、僕はまだ知らなかった。
例えどんなに凶事が重なって、自分がどん底にいるように思えても。
それを「最悪だ」と思えるうちは───そんなことを考えている余裕があるうちは、まだいいほうなのだということを。

日本人にありがちな無神論者である僕は、世の中で言われている神様なんていうものは、そのほとんどが眉唾に過ぎないものだと思っていた。
だけど、もし本当に、この世に神様なんてものがいるのだとしたら。
「運命」なんていう安っぽい言葉で、これから僕たちに降りかかる出来事を、人の手の届かない領域から高みに見物しているのだとしたら。
そんな神様に、一言だけ言ってやりたいことがある。
例えそれが、以前あれだけ感謝しておいて、今更掌を返すことになるのだとしても。
逆恨みだろうが何だろうが、誰に何と言われようとも、これだけは言っておきたかった。



───あんたなんて、くそくらえだ。


 

 

とあるβテスター、慟哭する

サチの死。
あまりにも突然に、あまりにも残酷な形で訪れたその事件は、僕たちの心に消えることのない傷を刻み付けた。

気が付いたら、僕はいつも泊まっている宿屋のベッドで横になっていた。
あの後、ルシェとどうやって別れたのか。どうやって宿まで戻ったのか。部屋に戻った僕の顔を見て驚愕の表情を浮かべたシェイリに、何をどう説明したのか―――それら全ての記憶が、曖昧なものとなっていた。
ただ一つだけ、確かなことは。あの《生命の碑》に並んでいたサチの名前と、それを掻き消すように刻まれた横線は、夢でも幻覚でもなく、紛れもない現実なのだということ、それだけだった。

翌日。僕はこのゲームが始まって以来毎日行っていた攻略を、初めて休むこととなった。
昨晩、結局一睡もできなかった僕の顔は、よほど見るに堪えないものだったのだろう。ベッドに蹲る僕の顔をシェイリが心配そうに覗きこみ、今日の攻略は中止することを提案してきたのだった。
個人的な都合で攻略を休むのは、パーティを組んでくれている二人に申し訳ないと思うけれど、正直に言って、このまま攻略に向かったところでまともに戦える気がしない。それで足を引っ張ってしまっては本末転倒なので、ここはお言葉に甘えさせてもらうことにした。

「こんなにゆっくりするの、久しぶりだよね」
「……ん、そうかも」
ベッドに座る僕の隣に腰掛け、えへへと笑うシェイリに、僕も何とか笑顔を返す。
笑顔といっても形だけで、それも傍から見ればぎこちないものだったに違いない。だけどシェイリは、そんなことはまるで気にしていないというように、いつものふにゃりとした笑顔で応えてくれた。
恐らく彼女は、こちらの心境を察してくれているのだろう。この子は空気が読めていないように見えて、物事の本質や人の感情といったことに関しては人一倍聡いところがある。
僕も下手に気を遣った態度を取られるよりは、こうして普段通りに接してくれるほうが、少しは気分が紛れる。シェイリの心遣いが、今はただ有難かった。

「迷宮区で戦うのも楽しいけど、たまにはこういうのもいいよね~」
「うん……、そうだね」
考えてみれば、こんな風に二人でゆっくりと過ごすのは随分と久しぶりだ。
元々僕は友達が少なかったし、シェイリはβテスターではなかったので、第1層が攻略されるまでの一ヶ月の間、僕たちはほとんどの時間を二人だけで過ごした。その間にしても、僕は攻略のことばかり考えていて、迷宮区に足を運ばない日はなかった。
こうやって二人で、本当の意味での休息を取ったのは、それこそゲームが始まったばかりの―――こんなことになるとは露知らず、“ゲームとして”SAOを楽しんでいた、あの頃以来じゃないだろうか。
最初は、それが当たり前だったのに。いつの間にか、僕には―――

「……、なんか、さぁ。いつの間にか、僕たち……というか僕なんだけど、結構、友達できてたんだなぁ……」
シェイリの小さな肩に寄りかかりながら、僕は自分が今まで辿って来た道のりを思い出していた。
このゲームに閉じ込められたばかりの頃の僕は、友達だの仲間だのといったことを考えている余裕もなかった。兎にも角にも強くなって、シェイリが独り立ちできるまで、彼女を守り切らなければ―――なんて、そんなことばかり考えていたっけ。
だけど、結局は僕一人で空回りしていて。彼女を守るなんて言いながら、いつかは置き去りにすることを考えていた自分に気付かされて……挙句に、勝手に一人で死にかけて。ぼろ泣きした彼女にマウントポジションを取られながら、何度も何度も殴られて。
そんなことがあって、僕は、僕のために泣いてくれた彼女を―――キバオウたちと快を分かった時、何も言わずについてきてくれた彼女を、これからずっと、何があっても守ろうと決めたんだ。

「アルゴの頼みでラムダに行って……、僕だけガラの悪いのに囲まれたりしてさ」
「ユノくん、わたしと別れてすぐに絡まれたっていってたね~。さすがにびっくりしたよ」
「あはは。 でも、それがあったからリリアを見つけられたんだよね」
それから少し経った、春の日。アルゴから頼まれた(押し付けられた)仕事で、ラムダの裏通りにいるという女鍛冶師の正体を探ることになった僕は、シェイリと別行動になって1分も経たないうちに、そこを根城としている悪質プレイヤーの一団に絡まれた。
何とか彼らから逃げ出すことに成功し、たまたま飛び込んだ細い通路の奥で、ぶっきらぼうな態度で露店商をしていたリリアと出会ったんだ。

「その後、鉱石を取りにあの洞窟に行って、クラインに助けられて……。シェイリがいきなり僕のことバラすから、どうしようかと思ったよ」
「だって~。ああでもしないとユノくん、ずーっとひとりでうじうじしてそうだったんだもん」
「う……、ひ、否定はできないけど……」
自分の考え方がネガティブだという自覚はある。だけど、こうもはっきりと言われるのは、それはそれでショックだったりするのだけれど。
というかシェイリ、リリアと知り合いになってから、ちょっと言い方がきつくなってないか……?
少し前に二人がかりで怒られた時、僕は不覚にも泣きそうになった―――というか、実際に泣いてしまったわけで。あの男の粗暴な物言いがシェイリに悪影響を与えているのは、火を見るよりも明らかだ。
リリア……君とは少し、話し合いが必要かもしれないな……。

「ま、まあ、そのお陰でリリアやクラインと友達になれたから、僕は感謝してるよ」
「えへへ。どういたしまして~」
あの時の僕は、相手の好意を自分から拒もうとしていた。
《元オレンジ》、《投刃》、《仲間殺し》―――周囲からそう呼ばれている僕と関わったら、相手まで嫌な思いをする。関わった相手にまで、辛い思いをさせてしまう。……そんな風に、自分を誤魔化していたんだ。
だけど、結局のところ、僕は自分が傷付くのが怖かっただけで。人と関わりたいと思いながらも、相手に拒絶されることを恐れて、自分から遠ざけていただけだった。
自分が抱えた矛盾に気が付かないほどに、あの頃の僕は、誰かと関わり合いを持つことを怖がっていた。シェイリのやや強引とも取れた行動は、そんな僕を見兼ねてのことだったのだろう。
そんな彼女の後押しのお陰で、僕は自分から、リリアと友達になりたいと思うことができた。―――なってもいいのだと、思うことができた。

―――それに。

ルシェと週に一度だけ、会うようになったのも。その中で、サチと知り合えたのも。
あの時、シェイリが僕の背中を押してくれなければ、僕はこの二人と関わりを持つことはなかっただろう。ルシェからお礼をしたいと言われても、何かと理由を付けて断っていたはずだ。

正直に言えば、誰かと関わりを持つことは―――相手に拒絶される可能性があるということは、あれから数ヶ月の時が経った今でも、未だに怖いと思ってしまう。
だけど、それを言い訳にして自分から遠ざけていたのでは、今までと何も変わらない。
自分が周りからどう思われていようと、それでも構わないと言ってくれた相手の好意まで、わざわざ自分で否定することはない―――あれから僕は、ほんの少しずつではあるけれど、そう思えるようになっていた。

「はじまりの街の裏道に、さ。中はすっごく狭いんだけど、紅茶のおいしい喫茶店があって。僕、そこでルシェと……、サチも一緒に三人で、よくお喋りとか、してたんだ。たった一時間くらいの間だけだったけど、二人がお喋りしながら笑い合ってるのを見ると、何だか僕まで楽しくなってきちゃってさ。こういう時間も悪くないなぁって、思って……」
「……うん」
もう二度と戻ってこない日々を、二度と見ることのできない彼女の顔を思い出し、涙が溢れそうになる。
気を抜くとすぐにでも零れ落ちてしまいそうになる嗚咽を抑え込みながら、震える手で両膝を押さえつけた。
この涙は、この手の震えは、悲しみからくるものなのか、それとも───

「シェイリも一緒に行こうって、そのうち誘うつもりだったんだよ。サチを紹介してくれた時のルシェは、すごく自慢げで、すごく……嬉しそうだったから。今度は僕が二人に、シェイリのことを紹介してあげたかった。この子が僕のパートナーだよって、二人に自慢したかった。 ……会わせて、あげたかった」
二人がずっと親友同士でいて欲しいと、僕は願った。
そんな僕の願いを嘲笑うかのように、それからたった一週間後に、サチの命は奪われてしまった。
それも、他のプレイヤーに殺されるという最悪の形で。

「サチのいたギルド……月夜の黒猫団っていうんだけどさ。いつか攻略組になって、みんなを守れるようになりたかったんだって。ほんと……、僕とは大違いだよね」
誰かを守れるようになりたいと願い、そのために戦い続けてきた彼らは、最期の瞬間、何を思っただろうか。
守ろうとしてきた者に裏切られ、突然仲間を殺されて、今まさに自分も殺されようとしている時に、彼女は―――サチは、何を思ったのだろう。

自分の境遇を嘆いただろうか。
自分を殺した相手への恨みを募らせただろうか。
自分をこんな目に遭わせた運命を呪っただろうか。

いくら考えたところで、答えなんて出るわけがない。当たり前だ、僕はサチではないのだから。
日本には「死人に口なし」なんていう諺があるけれど、この場合、まさにその通りなのだろう。
そして、それは―――黒猫団の面々をPKしたプレイヤーたちも、そう思っているに違いない。

《ユニオン》が悪質プレイヤーへの取り締まりを強化している今、目を付けられるとわかっていて堂々と人を襲うプレイヤーなんていない。
一つのパーティを全滅に追いやったからには、例えPKを行っても、周りにバレることはないという自信があったのだろう。
PKが行われた第29層迷宮区は、トラップ多発地帯だということで知られているダンジョンだ。ポータルトラップを利用して分断したか、結晶無効化エリアに誘い込んだか……。いずれにせよ、目撃者が付かず、かつ自分たちが圧倒的に有利となる方法を取ったのだろう。

目撃者がいなければ、自分たちがオレンジだということを、誰かから《ユニオン》に告げ口されることもない。数日かけて悪行値《カルマ》回復クエストさえこなせば、カーソルをグリーンに戻すことすら可能だ。
自分たちが襲った相手さえ逃がさなければ、何の証拠も残らない。クエストをこなし、カーソルをグリーンに戻した後は、何食わぬ顔でどこかの街に潜伏していることだろう。
実に合理的で―――実に、悪質だ。

「……《投刃》なんて呼ばれてるけど、僕はもう二度と、PKなんてするつもりはなかった。誰かを傷付けるのも、誰かに悪意をぶつけられるのも……、もう嫌だったんだ。……でも」
でも。
それでも、僕は―――

「それでも―――許せないよ。サチを殺した奴らを、許せないよ……! っ、殺して…、やりたいよ……ッ!!」
隣に座るシェイリが、悲しそうな目で僕を見る。
だけど僕は、一たび口をついて溢れ出した感情を、自分でも制御することができなかった。

「悔しいよ……、くやしい、よぉッ……!」
血が出るほどに歯を食いしばり、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。

―――悔しかった。
サチを失ってしまったことが。それが誰かの悪意によるものだということが。そいつらを―――この手で殺せないことが。

βテストの頃。第9層でのボス攻略戦を終え、当時のパーティメンバーとの話し合いになった時、僕は全てを諦めていた。
全てを諦めて、全てを断ち切るつもりで、仲間だったはずの彼らを殺した。
その後、どこまでも追いかけてくるプレイヤーたちに嫌気が差しながらも、どこか憂さ晴らしをするように、挑んできたもの全員を───殺し続けた。

あの頃の僕は、例え仮想世界の事といえど、人を殺すことに何の躊躇いもなかった。
攻撃を払いのけ、ナイフを抜き放ち、急所を狙い―――襲ってきたプレイヤーがポリゴン片へと変わるのを、何の感動もなく見つめていた。
そんな日々が続くうち、僕は自分でも歯止めが利かなくなっていた。返り討ちにされ、悔しそうに歯噛みしながら消えていく襲撃者の姿を見て、時には高揚感すら覚えた。

そんな―――過去の僕。
ソードアート・オンライン・クローズド・ベータテストにおける唯一のオレンジプレイヤー。
βテスター、《投刃のユノ》。

シェイリやみんなのお陰で、《投刃》という名の呪縛から抜け出すことができたと思っていた。
このゲームが始まってから、半年以上の時が経って。ようやく僕は、自分がオレンジだったという過去と決別できたような気がしていた。

していた―――けれど。

「殺してやりたいよ……!サチを奪った奴らを、ルシェを悲しませた連中を、全部、全部ぶっ壊してやりたいよ……ッ!!」
サチが誰かに殺されたと気が付いた時、僕の頭の中を真っ先に占めたのは、「復讐」の二文字だった。
黒猫団を襲ったプレイヤーを今すぐにでも捜し出して、ありったけの殺意をぶつけてやりたかった。
彼女の命を奪った連中に、あの穏やかな日々を奪った連中に、その命を以って償わせてやりたかった。

『僕の邪魔をするなら───僕の前に立ち塞がるなら、相手が何人であろうと、誰であろうと……殺す』

第1層でディアベルたちと決別した時に、僕が彼らに向けて言い放った言葉。
あの時、僕は自分で口にした言葉に震えが止まらなかった。自分で口にしておいて、本当に人を殺した時のことを思い浮かべて、身体が勝手に震えてしまった。

……だけど。こうして本当の悪意を前にした時、僕は真っ先に「復讐」のことを考えた。
人を殺すということに、恐れおののいていたはずだったのに。
サチに悪意を向けた連中をこの手で殺せないことが、今は何よりも悔しかった。

「……眠れない間、ずっとそればっかり考えてた。黒猫団を襲った奴らを、同じ目に遭わせてやりたいって。僕のこの手で、殺してやりたいって……!」
「ユノくん……」
「おかしいよね。そんなことしたら、僕も同じ人殺しになっちゃうのに。二度とPKはしないなんて言っておきながら、結局僕は、人殺しのオレンジのままなんだ……」
口で何と言おうと、いくら悪役《ヒール》を演じた道化のつもりでいようと、結局は───こんなものか。
何の感慨もなく、無感動に。ただただ人を殺す、仲間殺しの犯罪者。
邪魔だから殺す。気に食わないから殺す。目には目を、歯には歯を。殺人鬼には死の償いを。
アバターの死が現実の死とリンクした今となっても、僕の本質は、あの頃と何も変わっていないのかもしれない。
サチを殺した連中と、同類なのかもしれない───

「……ごめん、変なこと言って。ちょっと、予想以上に参ってたみたい」
「………」
「大丈夫、本当に殺したりなんてしないよ。……そんなことよりも、今はゆっくり休んで、明日からの攻略に備えないとね」
シェイリは、何も言わなかった。
何も言わずに、僕の髪をそっと撫でる。

「……ちょっと、やめてよ。そんな風にされると、僕、自分が子供になったみたいで泣けてくるからさ」
僕の抗議も無視して、シェイリは頭を撫で続ける。
そんな彼女の手を払いのけようと思う心とは裏腹に、僕の手はぴくりとも動かなかった。

「だから、やめてってば。僕は大丈夫だから」
そうだ、僕は大丈夫。こんな風に慰めてもらう必要なんてどこにもない。
だって、僕は《投刃》だから。人殺しのオレンジだから、人が死んだって悲しむことはない。

顔も知らない誰かが、黒猫団のみんなを───サチを殺したように。僕はあの頃、自分を追ってくるプレイヤーたちを殺し続けてきた。
無感動に、無感情に。殺し、殺して、殺し尽くしてきた。
そんな僕だから、サチが死んでしまったことを悲しむよりも先に、復讐のことばかり考えてしまうんだ。
サチのためなんかじゃなくて、僕自身が、復讐にかこつけて殺してやりたかっただけなんだ。

「やめてって……言ってんじゃん、ばかシェイリ……」
シェイリは何も言わない。その小さくやわらかな手が、僕の髪を撫で続ける。

もういいじゃないか。
もうやめてよ。
僕は、サチが死んでしまったことを悲しむよりも、相手への復讐のことしか考えられない、そんな薄情な奴なんだよ。
ただ、自分が殺してやりたかっただけなんだよ。
全部全部───自分のためなんだよ。

だから、そんな目で見ないでよ。そんな風に頭を撫でないでよ。
僕は悲しんでなんかない。
悲しんでなんか、ないのに───

「う、あ……、ああぁぁあ……っ!」
───限界だった。
どんなに忘れようとしても。所詮は僕も同類の人殺しなのだと、自分で自分を貶めてみても。
この胸の疼きは、殺戮への渇望は、少しも消えることはなかった。

「ああぁぁあぁああああっ!!」
恥も外聞もなく、優しく髪を撫で続けてくれるシェイリの身体にしがみつき、声を上げて泣き叫んだ。
叫び声《シャウト》は部屋の外にまで聞こえてしまうけれど、そんなことを気にしている余裕もないほどに、僕はただただ慟哭した。

いっそ涙と一緒に、この胸の疼きも、身を焦がすような殺意も、全部全部、流れ出てしまえばいい。
そうすれば、すぐにいつも通りの自分に戻れるのに。
そうすれば───僕は楽になれるのに。


────────────


「だいじょうぶ、ユノくん?」
散々泣いて、叫び続けて───声も出せなくなった頃。錯乱する僕を黙って受け止めてくれていたシェイリが、おずおずといった様子で声をかけてきた。
僕はシェイリの肩にうずめていた顔を上げ、彼女に頷いてみせる。
まだ上手く頭が回らないものの、胸中に渦巻いていたものを全て吐き出したお陰で、気分はほんの少しだけ楽になっていた。

「……ん、今度は本当に大丈夫。……その、ごめん、なんていうか」
そのまま少し待ってから、ようやく僕は彼女に密着させていた身体を離した。
さっきまで僕を支配していた感情は徐々に収まり、少しずつ冷静になってくるにつれて、かわりに今度は、醜態を晒してしまったことへの羞恥心が沸々と湧いてくる。
年下にしか見えないシェイリに頭を撫でながら慰められてしまった気恥ずかしさもあって、彼女とまともに目を合わせることができなかった。

なんというか、最近の僕は、こんな風に慰めてもらってばかりな気がする。
それが嫌というわけではないし、むしろ心遣いがありがたくて涙が出てきそうになるくらいなのだけれど、他の何を切り捨ててでも守ると言った手前、その守るべき相手から何度も慰められて(しかも頭まで撫でられて)しまうというのは、どうにも格好が付かないところだ。
別に普段の自分が格好いいと思うほど自惚れているわけではないけれど、こうも毎回泣いてばかりいるのは、いくらなんでも格好悪すぎるというか、なんというか……。

「ユノくんは~、かっこいいようでかっこ悪いよね。よく泣いちゃうし」
「んなっ……!?」
なんてことを考えていたら、当のシェイリからばっさりと一刀両断されてしまった。
まるで僕の心を見透かしてるかのようなタイミングでのこの一言に、違う意味で涙が出てきそうだった。

「あとユノくん、さっきわたしのことばかっていった。わたしばかじゃないもん」
「……え」
いかにも「わたし怒ってます!」といったオーラを放ちながら、ぷくーっと頬を膨らませるシェイリ。
ただでさえ年齢詐称疑惑が浮かぶほどの幼い顔をしているというのに、そうやって子供じみた仕草をされると、本当に小学生なんじゃないだろうかと思ってしまう……って、そうじゃなくて。
確かに僕はそんなことを言ったかもしれないけれど、あれは色々な感情がごちゃ混ぜになって錯乱していたからであって、もちろん本気で言ったわけではない。
というか、わざわざ蒸し返してまで怒るようなことじゃないだろ……!?

「わたしばかじゃないもん」
「………」
大事なことでもないのに二回言われてしまった。
結構根に持っていたらしい。

「もうっ、ユノくんだって泣き虫のくせに。わたしのこといえないでしょー」
「うっ……!?」
ざっくり。拗ねたように言い放ったシェイリの一言が、僕の心に突き刺さった。
いや、確かにここのところの僕は、みんなの前で泣いてばかりいるような気がするけれど。
そういう時、決まってシェイリが慰めてくれて、余計に涙が止まらなくなってしまったりするのだけれど。
実は気にしてるんだぞ、これでも……!

「それにいっつもひとりでかっこつけて、いっつもひとりでうじうじして、いっつも損してばっかりで。いっつも無理して、結局さいごは泣いちゃって。そういうのをへたれっていうんだよー?」
「あぐ……」
「りっちゃんも言ってたよ、あいつはほんとばかだな~って。なんでもかんでも自分が悪いって思いこんで、被害者意識のかたまりじゃねえかって」
「も、もういいよ!やめようよそういうの!いくら僕でも傷付くよ!」
「あ、あと、この前ユノくんがキリトくんのことで悩んでたとき───」
「やめて!聞きたくない!」
ざくざくざく。自慢の両手斧で僕の心を一刀両断するかのごとく、シェイリの言葉による暴力が次々と僕を襲う。
お、おかしい。僕の知っているシェイリは、ここまで容赦なく心を抉ってくるような女の子ではないはずなのに。
というか僕、そんな風に思われてたのかよ。リリアのことを散々言っておきながら、よりにもよって自分もヘタレだったなんて、格好悪い以前の問題じゃないか……。

あ、やばい、なんか憂鬱になりそう───と思った、そんな時。

「──でもね、ユノくん。わたしはそんなユノくんが好きだよ」
───不意打ち。
あんまりな言われように本気で凹みかけていた僕に、彼女からかけられた言葉は、まったくもって唐突極まりない───完璧な不意打ちだった。

「しぇ、しぇいりさん……?」
完全に虚を突いたシェイリの言葉に、僕の頬がカッと熱を帯びる。
せっかく少しはまともになってきた頭の回転が、今の一言で再び鈍くなるのを感じた。
そんな僕の様子を見てクスリと笑い、シェイリは続ける。

「いっつもかっこつけてばっかりで、だけどすぐに泣いちゃうユノくんが好き。へたれだけど、すごく優しいユノくんが好き。誰かのために真剣に怒ることのできるユノくんが、大好き」
うぐあ。
あまりにもストレートな物言いに、顔面の筋肉が変な痙攣を起こしそうになった。
な……、なんだこれ。新手の精神攻撃か何かなんだろうか。
だとしたら、悔しいけれど効果は抜群だと言わざるを得ないだろう。
突然の展開についていけずにあたふたするだけの僕に向けて、好き、大好きと連呼するシェイリの顔は、その幼い顔立ちや、ほんのりと赤く染まった頬も相まって、今までに見た中で一番可愛らしくて───ち、違う、誤解するんじゃない!僕はロリコンなんかじゃないぞ!

「あ、あのさ、シェイリ───」
自分自身に対して湧き出たロリコン疑惑を払拭するべく、何とか話題を逸らそうと口を開いた僕は、

「だからね、ユノくん。オレンジとか、人殺しとか、そうやって自分を悪くいうのは……やめてよ」
「っ!!」
言われて、はっと息を呑んだ。
さっきまで好きと連呼していたシェイリが、今度は打って変わって、寂しそうな目で僕を見据えていた。

「ユノくんは自分が人殺しだからっていうけど、こんなの誰だって怒るよ。復讐したくなるよ。そんなの……当たり前だよ」
「………」
そう、なんだろうか。
サチを傷付けた奴らを、僕が殺してやりたいと思うのは。壊してやりたいと思うのは。それは、当たり前───なのか?
そう思ってしまうのは、あのもう一つのSAOの世界で、僕がオレンジだったから───人殺しだったからじゃ、ないのか。
あの時の感覚が───人を殺した時の高揚感が忘れられなくて、サチの復讐にかこつけて、自分が人を殺したいだけなんじゃないのか。
殺し合いに───飢えていただけなんじゃないのか。

「───だってユノくんは、さっちゃんのことが好きだったんでしょ?」
そんな僕の、浅はかな考えを打ち砕くように、シェイリは言う。

「わたし、わかるよ。ユノくんが本気で怒るのは、いっつも他の誰かのためだもん。ボスのことでディアベルくんたちと相談してたときも、ボスをやっつけた後、キバオウくんたちと喧嘩したときも。いつだって、ユノくんが怒るのは他の人のためだった」
「……そんな、ことは」
「そんなユノくんだから、さっちゃんを傷付けられたことがゆるせないんだよ。さっちゃんのことが、るしぇちゃんのことが、大事だったから」
「──!!」

───大事だったから。

その言葉を聞いた瞬間、僕の中で複雑に絡み合っていた感情の糸が、するりとほどけた気がした。
心の奥底で燻っていた何かが、みるみる霧散していくような気がした。

「……ああ、そうか」
なんだ───簡単な、ことだったんだ。

サチが死んでしまって。ルシェがぼろぼろになって悲しんでいて。
それで、僕が悲しくないわけがない。
だって。僕が守りたいと思うものの中には、とっくにあの二人も含まれていたのだから。

ルシェが冗談交じりにサチをからかい、白い頬を真っ赤にした彼女が否定する。
たまに怒ったような表情を見せることもあるけれど、本気で怒っているわけではなくて。結局、最後は二人して笑い合って。
二人を見ていると、僕もなんだか楽しくなってきて。こんな風に笑い合える仲が、すごく……羨ましくて。
そんな親友同士の二人だから、僕は───力になってあげたいと、思ったんだ。
そんな二人のことが、僕は───

「……僕は、サチのことが好きだった」
「うん」
「サチと、ルシェと一緒に、三人で過ごしたあの時間が───好きだったんだ」

最初は、シェイリと二人きりなのが当たり前だった。
かつて仲間を裏切った僕が、《投刃》と呼ばれた僕が、誰かと親しくなるなんて、そんなのはおこがましいことだと思っていた。

だけど。いつの間にか、僕の周りには大切な人たちが増えていた。
他の全てを切り捨ててでもシェイリだけを守ると、そう決めていたはずなのに。
あの小さな喫茶店で、ルシェやサチと一緒に過ごした時間が―――彼女たちの笑顔が、僕にとってもかけがえのないものとなっていた。
“切り捨てる”という選択肢が、僕の中から消えてしまうほどに。
湧き上がる殺意に身を委ねてでも、二人を引き裂いた者に復讐してやりたいと思ってしまうほどに。

この胸の疼きは、殺戮への渇望でも、復讐への憤怒でもなくて。
サチを失ってしまったことへの、あの温かい時間が永久に失われてしまったことへの、どうしようもない悲しみだったんだ───


「ユノくんは自分勝手な理由で人を傷付けたりしないって、わたしは信じてるよ。だってユノくん、こんなに優しいもん」
だから、とシェイリは続ける。

「ユノくんは、もう《投刃》なんかじゃないよ」
慈しむような、温かな声で───シェイリは言う。

「人殺しなんかじゃ───ないよ」

彼女の小さな唇から紡がれたのは、僕が欲してやまなかった言葉だった。
 

 

とある鍛冶師、盗み聞く

『ユノくんは、もう《投刃》なんかじゃないよ。人殺しなんかじゃ―――ないよ』

「……チッ」
部屋の中で行われている会話に静かに耳を傾けていたリリアは、パーティメンバーである少女の慈しむような声と、それを聞いた相手のすすり泣く気配を感じ、一人舌打ちした。
わざわざ二人の間に入って行く気にもなれず、扉に押し当てていた耳を離すと、そのまま脇へと移動し、壁を背にもたれかかった。

「あの馬鹿……、下らねぇこと気にしやがって」
煉瓦造りの壁に体重を預け、眉間に皺を寄せながら一人呟く。
“あの馬鹿”というのは他でもない、彼の所属するパーティのリーダーである小柄な投剣使いのことだった。


────────────


今朝方、彼はパーティメンバーの少女から、今日一日の攻略を中止するとの連絡を受けた。
知り合って以来、一日たりとも攻略を欠かすことのなかった彼女達が、こうして丸一日休むというのは初めてのことだった。

これが現実世界の話であったのなら、風邪でも引いたのかと納得していたことだろう。
しかし、彼らが身を置くのは現実世界ではなく、『ソードアート・オンライン』というゲームの世界だ。仮想体《アバター》である彼らの身体は、現実の身体のように病原菌に侵されるということはない。
ましてやこの世界では、その気になれば食事や睡眠すら取らなくても―――その分、強烈な空腹感・眠気に苛まれることにはなるが―――死ぬことはないのだ。

単に今日は気分が乗らないだけなのかとも考えたが、彼女達に限ってそれはないと思い直した。
彼女達―――周囲から《投刃》などと呼ばれている小柄な投剣使いと、一たび戦闘になると嬉々として両手斧を振り回す小学生(本人曰く高校生との事らしいが、非常に疑わしいところである)の少女、という奇妙な組み合わせの二人組は、このゲームからの脱出を目指すべく、最前線で戦う攻略組として、日々ダンジョンの探索に精を出していた。
例え他の攻略組プレイヤー達から忌避の目を向けられようと、一日も欠かすことなく―――だ。
そんな二人が急遽、珍しく攻略を中止した―――それもこうして土壇場になって取り止めたからには、そうせざるを得ないほどの、よほどのことがあったに違いない。
元来、心配性すぎるきらいのある彼は、一人で考えれば考えるほど、二人の身に何かあったのではないかという懸念が大きくなり、しまいには居ても立ってもいられなくなってしまったのだった。

矢も盾も堪らずに部屋を飛び出した彼は、二人が宿泊している最前線―――第30層主街区『エルニード』の宿屋へと足を運んだ。
常に移り動く最前線での戦いに身を置いている彼女らは、リリアのように決まった街で寝泊りしているわけではない。
攻略が進んで上の層へと前線が移動する毎に、その都度、最前線の主街区へと拠点を移しているのだ。

現在二人が宿泊している部屋は、二階の廊下を進んだ突き当りに位置する一室。つまり角部屋だ。
探索に行く際は転移門の前で待ち合わせるのが習慣となっているため、こうして彼女達の部屋を訪れる機会はあまりないのだが、パーティメンバーとして一応、部屋の場所は教えられていた。

―――別にアイツらを心配してるわけじゃねぇが、パーティメンバーとして様子見くらいはしておかねぇとな。……別にアイツらを心配してるわけじゃねぇが。

本当に心配していないのであれば、こうしてわざわざ足を運ぶ必要もないのだが、それを素直に認めてしまいたくなかった彼は、胸中で嘯きながら階段を登った。
そうして、二階に足を踏み入れた―――その瞬間。

『ああぁぁあぁああああっ!!』

聞き慣れた声による慟哭が、彼の耳を劈いた。
少年とも少女とも取れる中性的なその声は、今まさに彼が訪ねようとしていた二人組の片割れ―――ユノのものに間違いなかった。

『ああぁッ!ああああぁああぁぁぁッ!!』

廊下中に―――下手をすれば宿屋全体に響き渡るほどの、悲痛な叫び。
二人とパーティを組むようになってからそれなりに経つが、ユノのこんな声を聞くのは初めてのことだった。

「おいおい、マジかよ!」
その尋常ではない様子に、リリアの中の緊張感が一気に高まった。
咄嗟に走り出し、叫び声の発生源である角部屋へと急行する。
気が気でない状態のまま廊下を一気に駆け抜け、突き当りに位置する角部屋、木製の扉の前へと立った。
そのままノックもせずにドアノブを回―――そうとして、ふと思い留まる。

―――ここはそっとしておくべきか……?

当然といえば当然ではあるが、このSAOにおいて、プレイヤーが寝泊りできる部屋は施錠可能となっている。
SAOの宿屋は基本的に、部屋の借主(複数人で使用する部屋の場合、カウンターで宿泊手続きを行ったプレイヤーがこれに当たる)が施錠設定を変更しない限り、他のプレイヤーは自由に出入りすることはできない。
したがって、他人の宿泊している部屋を訪れる際は、ノックをするなどして入室許可を貰わなければならないのだが、部屋を利用しているプレイヤーのパーティメンバーについてはその限りではない。
初期設定ではパーティメンバーは入室可能となっており、彼女達は特に設定を変更していないため、二人とパーティを組んでいるリリアは、このまま扉を開いて部屋に雪崩れ込むこともできるのだ。
できるのだが―――しかし。

―――俺が行っても……、なぁ?

自分で言うのもなんだが、彼は口が悪い。
他人に対して素直になれず、ついついキツい言い方をしてしまうという自身の悪癖には、一応の自覚があった。
口を開けば悪態をつくことしかできない自分が行ったところで、ユノの感情を余計に掻き乱すだけだろう。
現に、自分は忠告のつもりで言ったにも関わらず、言い方がキツかったせいでユノを泣かせてしまうという失敗を犯したこともある。
まして自分は、ユノがここまで取り乱している理由も知らないのだ。
慰めるつもりが逆効果になり、かえってユノを精神的に追い詰めてしまうようなことにでもなったら、今後の関係に支障をきたしかねないだろう。
うっかり背負うこととなってしまったこのアバター名のせいで、ゲーム開始からこのかた仲間に恵まれなかった彼としては、せっかく築き上げた関係を壊すような真似はしたくなかった。

―――まあ、あのガキに任せるか……。

事情も知らない自分が乱入し、下手に慰めようとするよりも、誰よりも付き合いが長く、誰よりも多くユノのことを知っている彼女―――シェイリに任せておいたほうが、お互いにとってもいいだろう。

幼い顔立ちにふにゃっとした笑顔が印象的な少女は、このゲームが始まった日―――あの“はじまりの日”にユノと出会って以来、ずっと行動を共にしてきたという。
出会ってまだ三ヶ月ほどしか経っていない自分よりも、よっぽどユノのことに詳しいはずだ。
こうしている間にも泣き喚き続けているユノを宥めるには、彼女以上の適任者はいないだろう。
……と、頭ではわかっていたのだが。

「………」
少しの間、扉の前で佇んでいたリリアだったが、やがて無言のまま扉へと一歩近付き、そっと耳を澄ました。
先の叫び声のような大音量を除き、原則的に室内の音が外へ漏れることはない。
したがって、中で行われている会話を外にいるプレイヤーが聞き取ることは不可能……なのだが、聞き耳《ストレイニング》スキルを鍛えている者に限り、例外的に室内の音声を拾うことが可能となる。
要するに、盗聴だ。

盗み聞き以外の用途では滅多に使われることがなく、習得しているプレイヤー自体が少ない《聞き耳》スキルではあるが、彼はこのスキルを重点的に鍛えている。
ゲーム開始から二人と出会うまでの期間をソロで過ごしてきた彼にとって、最前線のダンジョンでアクティブモンスターに囲まれてしまうということは、死ぬことと同義だった。
なので彼は、死角から迫りくるモンスターの足音や、得物が鳴らす金属音などから敵の存在を察知し、囲まれる危険を少しでも減らすといった立ち回りを心がけていた。
通常、敵の位置を把握するには《索敵》スキルだけで十分なのだが、僅かでも生存率を上げる可能性があるのなら、例え《聞き耳》だろうと鍛えておいて損はない―――と、本人は思っている。

もちろん、彼がこのスキルを鍛えている主な理由は、敵に囲まれる危険を回避するためであって、このような使い方をするのは初めてのことなのだが。

―――別にやましいことはしてねぇ、ちっとばかし様子を探るだけだ。アイツがこんだけ泣き喚いてるっつーことは、よっぽどの事があったに違いねぇ。ダチを心配するのは人として当たり前の事であって、俺は盗聴が趣味の変態野郎ってワケじゃねぇからな。

年頃の少女達が寝泊りする部屋を盗み聞きするという、現実世界で行えば近隣の住人から通報されること請け合いの行為だが、パーティメンバーの身を案じてのことなので、罪には問われないだろう。……と、自分に対して言い聞かせる。
もっとも、傍から見ればどう考えても不審人物そのものであり、更には《ユニオン》という自警団さながらの活動をするギルドも存在しているため、こうして部屋の扉に貼り付いている現場を他のプレイヤーに目撃され、《ユニオン》の団員に通報でもされようものなら、彼のSAO内での地位は地の底まで堕ちることとなるのだが。

―――べ、別に盗聴が趣味の変態野郎ってワケじゃねぇからな!

心の中でもう一度繰り返し、中にいる二人に気付かれないよう息を潜めつつ、そっと扉に耳を押し当てた。
他のプレイヤーが廊下を通り掛からないことを祈りながら、リリアは盗み聞きを敢行したのだった。


────────────


「………」
壁にもたれかかって腕を組んだまま、リリアは眉を顰めた。
視線を足元に落とし、たった今聞いたばかりの会話に思いを巡らせる。

───《投刃》、ねぇ……。

二人の会話の中に登場した、彼にとっても馴染み深い名称。
攻略組プレイヤー達の間で「人殺し」という意味で浸透しているそれを、最初に耳にしたのはいつだったか。
一ヶ月もの月日を費やし、ようやく第2層の主街区が開放された頃、一部の攻略組プレイヤー達が憎々しげに話していたのを聞いたことがあったと記憶している。
その穏やかではない呼び名が指している人物こそがユノであり、現在リリアが所属しているパーティのリーダーであり、彼にとってSAOでの初めての友達でもあるのだから、何とも不思議な巡り合わせだ。

───つっても、まぁ、今頃騒がれるこたぁねぇと思うが……。

ボス攻略戦に参加したプレイヤーの中に元オレンジが混ざっていて、攻略組全員に対して攻撃の意思を見せた───彼らが語った話の内容は、『はじまりの街』に籠っていた非戦闘系プレイヤー達の間にも瞬く間に広まり、当時はその話題で持ち切りだった。
もっとも、肝心の《投刃》本人が派手な行動───この場合は、やはりPKだろう───を起こしていないということもあって、噂は徐々に下火になり、最近ではすっかり風化気味になってきている。
当時の攻略戦に居合わせた面子や、最前線で戦っている攻略組ならまだしも、彼らより下の層を拠点としているプレイヤー達は、ユノの名前を出されてもピンとこないだろう。

それでいい、とリリアは思う。
そもそも、この件については前提からして間違っていたのだから。

───つーか、あの馬鹿にそこまでさせた攻略組の連中こそ、俺からすりゃクソッタレの馬鹿野郎どもなんだがな。

かつてのベータテスト時代において仲間を殺し、当時のボス攻略戦で得たラストアタックボーナスを持ち逃げした。
その後、方々のプレイヤーから追われる身となり、追撃してきたプレイヤーを投剣スキルによって殺害し続けた───というのが、ユノが《投刃》と呼ばれるようになった切っ掛けらしい。

街でユノのことを吹れ回っていたプレイヤー───確かリンドといったか。彼の話によれば、《投刃》はボス攻略戦後の隙を狙ってPKを行う為、わざわざ得物を偽ってまで攻略部隊に紛れ込んでいたのだという。
戦闘中においても、ボスの使用スキルがβ時代から変更されていることに気付いていながら、ディアベルにLAボーナスを奪われそうになった為、わざと見殺しにしようとしたのだ───とも。

その事を糾弾された際に本性を現し、最終的には殺意を仄めかして去って行ったのだとリンドは言うが、少し冷静になって考えてみれば、そうさせたのは自分達であるという事に気が付いたはずだ。
ただでさえ当時の攻略組は、元βテスターのことを有益な情報を独り占めにする人でなしと見る傾向があった。
そうした中で、ボスの使用スキルが変更されていることを指摘すれば、自分が元βテスターだということを自白するようなものだ。肩身の狭い思いをすることが分かっていて、自分から名乗りを上げる者はいない。

その事に気が付かずに勇み足を踏んだディアベルが窮地に陥ったのだとすれば、それは他の誰の所為でもなく、まさしく「自己責任」という言葉が当て嵌まるだろう。
そもそも、仕様変更に関しては開発者の領分であり、例えβテストの経験者といえど、一般のプレイヤーに過ぎない彼らがどうこうできる問題ではない。
敵の使用する武器が変わっていたとて、それで元βテスターを責めること自体、お門違いもいいところだ。
にも関わらずにβテスターを糾弾し、あまつさえユノが元オレンジだったという事実と強引に結び付け、人殺しの為に潜入していた殺人鬼として仕立て上げたのは、他でもない、当時の攻略組プレイヤー達なのであった。

「チッ……」
最前線の街を我が物顔で闊歩していた《ユニオン》の一団を思い出し、舌打ち一つ。
図らずしも日陰者として生きてきたリリアにとって、ああいった正義の味方然とした集団は、どうにも反骨精神を煽られる存在だった。

「あんなガキに全責任押し付けて、テメエらの手は何一つ汚れてませんってか。胸糞悪りィ」
手段としては決して褒められたものではないが、元βテスターへ向けられた矛先を逸らしたという点に限っては、リリアはユノの行いを評価している。
あの場でユノが《投刃》として名乗りを上げ、彼らの敵意を自分へと向けさせなければ、他の元βテスターに対して危害が加えられていた可能性すらあったのだから。

むしろ過去と現在のSAOを混同し、“ゲームとして”人を殺したことがあるというだけのユノを、“本物の殺人鬼”として見做した彼らにこそ非があるのではないか。
あの場には大人だっていただろうに、自分達よりも年下であるはずのユノに責任を押し付け、寄って集って人殺し呼ばわりをした彼らの行動こそ非難されるべきなのではないか───

ユノとフレンド登録を交わし、定期的にパーティを組むようになった今、あの投剣使いの人となりは多少なりとも理解しているつもりだ。
過去がどうであれ、今のユノは望んで人殺しをするような人間ではない。
むしろ、あの裏通りでユノと話した段階で、攻略組の語っていた話こそが眉唾なのだとさえ疑っていた。

でなければ、「ユノ」という名前を聞いた瞬間、脱兎の如く逃げ出していたことだろう。
人を殺せるようなタイプではないと判断したからこそ、素材集めに同行しろなどと言うことができたのだ。
「鴨が葱を背負ってくる」という諺があるが、自分から鴨になるつもりなど毛頭ない。わざわざ殺人鬼と分かっている者を伴って圏外に出る程、彼は無謀でも愚かでもなかった。

後にユノ本人から《投刃》であることを聞かされたが、ダンジョンに行く為にパーティを組んだ時点でとっくに名前は割れており、何を今更、というのが率直な感想だった。
《投刃》が噂通りの殺人鬼であったなら、彼を殺す機会はいくらでもあったはずだ。そうしなかったということは、要するに、そういうことだったのだろう。
その時点で、リリアはこの投剣使いが人殺しのPKなどではないことを確信していた。

ユノが一世一代の告白でもするかのような雰囲気でフレンド登録を申し出てきた時は、思わず噴き出しそうになってしまったほどだった。
名前と外見との不一致から人目を避け続けてきた自分と、自身の過去を引け目に感じ、人から避けられるのが当たり前だと思っていたユノ。
自分とこいつは似た者同士なのだと、親近感すら抱いていた。

だからこそ、何も気にせず堂々と振る舞っていればいい、とリリアは思う。
攻略組の連中から何を思われようと、少なくとも彼と、あの幼い少女だけは、そんな理由でユノを見限るなんてことはないのだから。
そう思う───のだが。

「……それで自分が追い詰められてりゃ世話ねぇんだよ、アホが」
少女に頭を撫でられながら嗚咽を漏らしていたユノの姿を思い出し、吐き捨てるように呟く。

あの第1層の事件は徐々に風化し、人々から《投刃》の記憶は薄れてきている。
今のSAOで実際にPKを行ったならともかく、人を殺す“かもしれない”というだけでは、自分が被害にでも遭わない限り、他人事のように思ってしまうのが人の常だ。
あれから半年もの月日が流れた今となっては、直接顔を合わせる機会が多い攻略組プレイヤーの中にすら、ユノが人殺しだということに疑問を抱いている者がいそうなものだった。

だというのに。
他でもないユノ自身が、未だに周囲に引け目を感じている。

自ら悪役《ヒール》を演じたつもりでいて、その実、自分で自分を縛り付けているのだということに気が付いていないのだろう。
ベータテスト当時、ユノが幾人ものプレイヤーを殺害したのは事実だが、リリアに言わせれば、そんなものは「所詮はゲームだ」の一言で片付けられる問題に過ぎない。
そのことを引っ張り出して騒ぎ立てた周りも周りだが、かといって、何でもかんでも背負い込もうとするユノに対しても、彼の苛立ちは募る一方だった。

よく言えば繊細、悪く言えば自意識過剰───といったところか。
自分が悪いのだと一度でも思い込むと、周りの意見に聞く耳を持たないという頑固な所がある。
そのくせ、自分は悪人だと開き直れるほどの図太い神経は持ち合わせていないのだから、傍から見ているこちらとしては、延々と続く自虐行為を見せつけられているようなものだ。

最近では多少マシになってきたとはいえ、一時は街を歩くにもフードで顔を隠し、時には《隠蔽》スキルを発動させてまで人目を避けるという徹底ぶりを見せていた。
いくら《ユニオン》の連中に目を付けられているとはいえ、そこまでする必要があるのかと、疑問に思わないことはなかったほどだ。
自分は日陰者であるとの自覚を持っているリリアですら、そんなユノの振る舞いには、共感を通り越して呆れが湧いてくるというものだった。

「っとに、めんどくせぇヤツ……」
共に時を重ねれば重ねるほど、呆れは苛立ちへと変わり、リリアを歯噛みさせた。
別に不快というわけではない。不快というわけではないのだが───

「……つーか、実はマゾなんじゃねぇのか、アイツ」
もちろんそんなことはないのだろうが、こうも自罰的になってばかりなユノを見ると、ついついそう思いたくなってしまう。
何でもかんでも自分が悪いと思い込み、勝手に一人で追い詰められていく。
見ているこっちの身にもなってみろ、というのが彼の本音だった。

───つっても、今回ばかりは事情が違うみてぇだが……。

盗み聞いた会話の内容から、いつもの悪癖が出たらしいということはわかったのだが、それにしても、あの取り乱しようは只事ではないだろう。
先のユノの様子といい、会話の端々に出てきた“復讐”“人殺し”という言葉といい、どうにも穏やかではない。

「………」
二人が攻略を中止せざるを得ない程の“何か”。
尋常ではないユノの様子。
《投刃》に、人殺し。そして───復讐。
それらの言葉から連想される答えは、即ち───

「……まさか、誰か殺られたってのか?」
自分で口にしておきながら、その意味するところが信じられずに、リリアは驚愕の思いで部屋を振り返った。
閉じた扉の向こうからは、相変わらず、ユノの押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。

ベータテストの頃ならいざ知らず、今のSAOでは殺人は御法度だ。
ただでさえ《ユニオン》が睨みを利かせている中で、自ら殺人に手を染めるプレイヤーがいるとは考え難い。
だが───

───だが、そう考えると辻褄が合う。もし本当にPKだったとして、殺られたのが身内だったりしようもんなら、あの馬鹿は真っ先に復讐しようとするに違いねぇ。

第1層での件を考えれば明白なのだが、ユノは過剰なまでに他者を優先する傾向がある。
流石に当時ほどではないのだろうが、今でも自分を軽んじる癖は抜けておらず、その度に相方の少女から諌められているほどだ。

そんなユノが、PKによって、誰か親しい者を殺されたのだとしたら。
周りから何と思われようと───例え自分がオレンジに逆戻りすることになるのだとしても、相手への報復を選ぶだろう。
何かと自己犠牲に走りがちなあの投剣使いには、そうさせてしまいかねない危うさがあった。

であれば、とリリアは思い、右手の指を振ってメニューウインドウを開いた。
フレンドリストの項目を選択し、そこに登録されている、数少ないプレイヤー達の位置情報へと目を走らせる。

裏通りに身を潜めていた自分と同じく、最近まで人目を避け続けてきたユノも、他のプレイヤーとの交流はお世辞にも多いとはいえないはずだ。
であれば、その数少ない友人の中の誰かが被害に遭ったと考えるのが順当だろう。
フレンドリストを開いたのは、彼も知る共通の友人───クラインやエギルに被害が及んだのかと考えたためだった。

「………」
だが───違う。
部屋にいるシェイリは当然ながら除くとして、クライン、エギル、アルゴ(彼女とは犬猿の仲だが、不本意ながら情報屋として頼ることも少なくない)、リーランドなど、攻略でよく顔を合わせるプレイヤーの位置情報を一通り調べてみたものの、誰一人としてログアウト状態になってる者はいなかった。

共通の友人ではないとするなら、被害を受けたのは自分も知らないユノの友人か、あるいは狩場で遭遇しただけの赤の他人か。
しかしながら、昨日は既に迷宮区の探索を終えており、あれから二人だけで再び狩りに向かったとは考えにくい。
仮にPK現場に居合わせてしまったのだとしても、たまたま狩場で出会っただけの相手にここまで心を乱されるとは思えない。
相手を救えなかったと落ち込むことはあるかもしれないが、あれほど慟哭するまでには至らないだろう。
そう思えてしまうほどに、彼を含めた攻略組の“死”への感覚は、ゆっくりと……しかし確実に麻痺しつつあった。

となると、ユノの友人で自分の知らない人物───あの裏通りで出会うより以前からの友人か、もしくは最近親しくなった者ということになるのだが、先の通り、ユノの交友関係はさして広くはない。
その少ない友人についても、ほとんどがリリアのフレンドリストにも登録済みであり、今や共通の友人となっている。それ以外の者がいるといえば、あの黒ずくめの少年と、第1層のボス攻略戦で臨時パーティを組んだという少女くらいのものだろう。
しかし、前者は依然として行方が知れず、後者は最近結成された精鋭ギルドの副団長だ。
少年はともかく、攻略組に所属するギルドの副団長がPKされたとなれば、もっと騒がれていてもおかしくはない。
このことから考えて、以前からの友人という線は薄いとみていいだろう。

つまり被害に遭ったと思われるのは、ユノとそれなりに親しく、かつ、リリアよりも後に知り合った人物。
心当たりがあるとすれば───

───さっき、サチとか言ってたな。やっぱ、あのお茶会とやらか……?

まだ知り合って間もない頃、ユノはチャクラムを扱うのに必須となる《体術》スキルを習得する為、シェイリともども第2層の修行クエストを受けに行っていたことがあった。
その帰り際、アクティブモンスターに襲われていた少女を助けたのだが、その少女に妙に懐かれてしまい、それからは週に一度、お茶会と称して『はじまりの街』で会うことが恒例となっていた。
最近では少女の友人も加わり、一時間という短い時間ながらも、日々攻略に追われる生活を送っていたユノにとって、攻略組と無縁な彼女達との交流は、一服の清涼剤のような役割を果たしているようだった。
近頃のユノが人付き合いに対していくらか前向きになったように感じるのも、自分やシェイリ以外に、他愛のない話のできる友人が増えたお陰なのだろうと思っていたのだが───

「……オイオイ、まさか本当にPKされたってのか? 冗談じゃねぇぞ……」
自分の予想が外れていて欲しいという思いとは裏腹に、きっとそうに違いないという、確信めいたものが浮かんでくるのを感じた。

直接面識があるわけではないが、ユノとの会話で何度か名前が挙がったこともあり、サチという名には聞き覚えがあった。
二人いるうちのどちらかまではわからないが、ユノを慕っていた少女のどちらかが襲われたのだとすれば、いくら人の死を見慣れているユノといえど───否、むしろユノの性格だからこそ、ここまで思い詰めても不思議ではない。

少女の所属するパーティに生き残りがいたのか、あるいは《生命の碑》に刻まれた死因が不自然なものだったのか。
どちらにせよ、ただモンスターにやられてしまっただけというわけではあるまい。
今更《投刃》などという言葉が出てきた時点で、ユノは少女の死因がPKによるものだという確信を持っていた。持ってしまっていた。

であれば、平静でいられないのも至極当然だろう。
ただでさえPKに関してのあれこれは、ユノにとって大変デリケートな問題となっているのだ。
フラッシュバックというには少し大袈裟だが、おおかた、少女を襲った連中と過去の自分を重ね合わせていたのだろう。
親しい人物を失った悲しみに、自分も同類なのかもしれないという自己嫌悪、更には復讐心といった様々な感情に苛まれ、感情が決壊してしまった───そう考えれば、かつてないどに錯乱したユノの様子や、先のシェイリの言葉にも納得がいく。
納得が、いってしまう。

「………。なんだってんだよ、畜生が……!」
自分の中に浮かんだ最悪のイメージを振り払うように、壁に拳を叩き付けた。

もし、全てが自分の想像通りなのだとしたら。
プレイヤー同士の争いを阻止するために自らPKの汚名を被ったユノが、間接的にとはいえPKによる被害を受けたということになる。
周囲から人殺しとして扱われてきたユノにとって、これ以上の皮肉はないだろう。
被害者と面識のないリリアですら、そんなことをするプレイヤーが実在したのだということを考えただけで、嫌悪感で気分がささくれ立ってしまうほどだ。
ましてや当事者ともなれば、その胸中は察するに余りある。
ユノが復讐を望んでしまうのを、誰に止めることができようか───

───まあ……あのガキのお陰で踏み止まってはいるみてぇだが、一人だったらどうなってたかわかったもんじゃねぇな……。

シェイリのフォローのお陰で、ユノが何もかもを捨てて報復に走るといった心配はないだろう。
復讐心と自己嫌悪の間で揺れ動いていたのは事実のようだが、そんなユノの相方である少女は不思議と、そういった相手の感情を宥める術を知っているように思えた。
予想外の事態に陥ると感情を制御できなくなるユノのパートナーとしては、これ以上の相手はいないのではないだろうか。

「……オマエも運がよかったっつーか、いい巡り合わせに恵まれたっつーか。まあ……よかったな」
室内のユノに言うともなしに呟いて、一人思う。
いい巡り合わせ───なのだろう、きっと。

もしも今のユノに、こうして感情を吐き出させてくれる相手がいなかったら。
自分の大切な者を傷付けられたユノは、間違いなく暴走していただろう。
絶望に身を落とし、憎しみでその身を焦がし───例えそれが《投刃》に立ち戻ることなのだとしても、何の躊躇いもなく相手を殺していたことだろう。

そんな風になってしまわなかったのは、やはりあの少女の存在があったからだろう、と彼は考えている。
ユノは少女を守ろうと気張っているようだが、こうして精神的に追い詰められている時のユノをいつも助けてきたのは、あの小さな少女に他ならない。傍から見ればお互い様だった。
余人の立ち入る隙などないと言え切れるまでの、互いが互いを守り、守られる関係。
あの“はじまりの日”にユノが出会ったのがこの少女でよかったと、リリアは心から思った。



心から思った彼は、しかし知らない。

ユノと似通った性質を持ちながらも、自ら一人でいる事を選んだ少年がいたのだということを。
その少年が今まさに、彼が懸念していた通りに───感情の捌け口もないまま、やりようのない憎しみに心を蝕まれ続けているのだということを。

深い悲しみは絶望となり、絶望は憎しみへと姿を変える。
憎悪の炎は少年の身を、心を焦がし、彼を駆り立てた。

《月夜の黒猫団》を襲った、赤髪の槍使い率いる犯罪者プレイヤーの一団。

少年の全てを奪った者達への───復讐へと。 

 

とある剣士、――する

2023年、某日深夜。

「……ふぁ~あ。退屈で仕方ねぇや」
安普請なベッドの軋む音を聞きながら仰向けに寝転がった男は、欠伸と共に現状に対しての不満を漏らした。
浮遊城アインクラッド第17層。主街区《ラムダ》からほどよく離れた圏外村《ラト》に存在する宿屋の一室に身を潜めてから、今日でちょうど一週間が経とうとしていた。
その間、宿の一室に籠りっきりなのである。元々狩りに精を出すようなタイプではないのだが、こうも何もしない日々が続くと退屈のひとつも覚えるというものだ。

「……ま、仕方ねぇか、オレンジのままじゃな」
誰ともなしに男は呟いた。
その言葉通り、彼の頭上に表示されているカーソルの色は───オレンジ。
デスゲームと化した現在のSAOにおいて、殺人行為に手を染めた者の証だった。
こうして退屈に苛まれながらも圏外村の宿に留まり続けているのも、犯罪者プレイヤーであるが為に主街区に出入りできないという理由からだった。


今から数ヶ月前。
当時はまだ堂々と主街区に滞在していた彼は、しかし何をするでもなく、変わり映えのしない日々に飽き飽きしていた。

今更説明するまでもないことなのだが、このゲームに囚われているプレイヤーのほとんどは、「ゲームの中に入ってみたい」という願望を少なからず持ち合わせていたゲーマー達である。
男もそんなゲーマーの例に漏れず、苦労して購入したSAOの世界に初めて降り立った時は、人並みに感動を覚えたものだった。
まさかその憧れの世界が、その日のうちにこんなデスゲームと化してしまうとは思ってもいなかったが、元より望んでやまなかったゲームの世界に閉じ込められるのなら本望だとすら思っていた。
むしろ周りで狼狽えているプレイヤー達の姿こそ、男にとっては滑稽以外のなにものでもなかった。

───何ギャーギャー騒いでんだよ、ウゼェな。本物のゲームの世界だぜ? 何が不満なんだよ。あんなクソみたいな現実世界よりよっぽどイイじゃねぇか。

毎日毎日重たい身体を引きずりながら出社し、朝早くから夜遅くまで、やりたくもない仕事に明け暮れる日々。
上司には嫌味を言われ、要領のいい同僚からは見下した目を向けられ、やっとの思いで家に帰っては、数時間後にはまた望んでもいない朝が来る。
そんな現実世界での生活になど、男は何の未練はなかった。
自殺する勇気も気力も湧かないというだけで、明日人類が滅ぶと言われても、自分は何も感じないだろう。むしろこんな世界は滅べばいいとすら思っていた。
男にとっての至福の時間は、唯一つ。ゲームの世界に没頭している間だけだった。

だからこそ。
ここから出せと騒ぐプレイヤー達を胸中で嘲りながら、男は密かに考える。
ここはゲームの世界だ。あれほど行きたいと願ってやまなかった理想の世界だ。
男は死んでもそうは思わないが、どうせ現実世界に戻ることは叶わないだろう。
“死んで覚える”ことが可能だったベータテストの頃ですら、碌に登れずにテスト終了となったのだ。
全100層からなる浮遊城アインクラッドを攻略することなど不可能に決まっている。───だったら。

ここにいる連中の中でトップに立てば、それは即ち、自分がこのゲームのナンバーワンだということだ。
ゲームのナンバーワン。つまりはこの世界の頂点。
自分がこの世界の頂点に立つことができれば、ここで何をしようと許される。
例えそれが狩場の独占だろうと、他プレイヤーへの嫌がらせだろうと。あるいは───人を殺そうと。
世界の頂点に立つ自分に逆らおうとする者など、この腑抜けどもの中にはいないだろう。

SAOのクローズドベータテストに参加していたのは、この10000人の中でもたったの1000人だ。
たったの1000人。それもアバターのレベル・所持品は正式サービス開始と共にリセットされ、スペック的には自分と大差はない。
こうして騒いでいる馬鹿どもの中には、そのベータテスターだって含まれていることだろう。
連中が無様に喚き散らしているうちに、スタートダッシュを決めることができれば───

───ひ、ひひ。なんだそりゃ、最高にイイじゃねぇかよ……!

自分の頭に浮かんだ名案に、男は内心笑いが止まらなかった。
こんな状況で一人だけ笑っていたら精神に異常をきたしたと疑われかねないので、もちろん顔には出さない。
もっとも、ある意味では既に異常をきたしていると言えるのだが、当の本人がそれに気付く筈もなかった。

広場の出入り口が通行可能になるのを見計らい、パニックを起こしたプレイヤー達に紛れて街を出た。
門を出て、眼前に広がる広大なフィールドを見渡せば、元βテスターと思わしきプレイヤーが数人、真っ直ぐに同じ方向へ走り去っていくのが見えた。
その動きの迷いのなさから見て、彼らの向かった先に効率のいい狩場があるに違いない。

「馬鹿テスターどもが、そうはさせるかよ。頂点に立つのはこの俺だ!」
遠ざかっていく彼らの背中へ吐き捨てるように言いながら、男はテスター達の後を追って走り出した。
内に決定的な歪みを秘めながら。


だが───しかし。
オンラインゲームの常とも言えるのだが、サーバーでトップに立つようなプレイヤーと一般プレイヤー達との間には、決定的な壁が存在する。
もちろん、金と時間を費やせばある程度は差を縮めることもできるのだが、だがしかし、それでも男の目指した“頂点”に立つプレイヤーと肩を並べるまでには至らないだろう。
学問・スポーツ・芸術etc...ありとあらゆる分野の世界には、必ずその道の頂点に立つ者がいるように。
オンラインゲームという分野にも“その道の天才”が存在し、それはここ、SAOにおいても例外ではない。

そして───男は天才ではなかった。

スタート当初こそ他のプレイヤーを出し抜くことに成功したものの、一週間も経つ頃には男の勢いは完全に失速し、ゲーム開始から一ヶ月後のボス攻略会議にすら参加できるレベルではなかった。
何の予備知識もないのだから当然といえば当然なのだが、自分が見下していたプレイヤーに次々と抜かれていくことを許容できるほど、男のプライドは低くはなかった。

そうした悔しさや攻略組への嫉妬心から、意固地になってがむしゃらにレベルを上げ続けた頃もあったが、攻略組と自分との一向に縮まらない差を実感させらるうちに、いつしか上を目指すという気力すら萎え切ってしまっていた。
かわりに男の胸に湧いてきたのは、攻略組として最前線に立つトッププレイヤー達への劣等感と、自身の力を誇示したいという願望。

───何が攻略組だ、何が《ユニオン》だ。ふざけやがって……、ふざけやがってぇ……ッ!

こんなはずではなかった。
俺はこいつらとは違う。
俺はこいつらよりも優れた人間だったはずだ───
頂点を目指すことを諦め、腐った日々を過ごせば過ごすほど、男の抑圧された感情は増すばかりだった。

そんな日々にうんざりしてきた頃の、ある日のことだ。
男の前に、“あのプレイヤー”が現れたのは。

───人を、殺してみたくはないか?

どくん、と。
仮想体《アバター》たるこの身体には存在しないはずの心臓が、ひときわ大きく鼓動を打った気がした。

人を殺してみたくはないか───そのプレイヤーは、もう一度繰り返した。

いくら目抜き通りからは離れているとはいえ、ここは紛れもなく主街区の真っ只中だ。
冗談で言ってるにしろ本気にしろ、こんな会話を誰かに聞かれようものなら大問題になることは想像に難しくない。
最悪の場合、《ユニオン》の連中にしょっ引かれてもおかしくはないだろう。───だというのに。

───どうした、人を殺したくはないのか?

周囲の人間などまるで意に介していないとでもいうように、そのプレイヤーはただ、男に向かって同じ問いを繰り返す。
ポンチョのフードを目深に被っており、その表情は伺えない。
唯一見えている唇の両端は吊り上がり、この世の全てを引き裂くような残忍な笑みを形作っていた。

───殺したいというのなら、俺が手伝ってやろう。

どくん。
男の中で燻っていた何かが、このプレイヤーによって解き放たれようとしているのを感じた。

当然ながら、このプレイヤーとはまったくの初対面だ。しかも相手は未だに素顔すら見せていない。
どう考えても怪しい。常識的に考えれば、こんなものは罠だ。
タチの悪い悪戯で、男が誘いに乗る素振りを見せた瞬間、《ユニオン》に通報されるのか。
あるいはこの状況そのものが《ユニオン》による囮捜査で、こうして油断させ、男のような潜在犯を炙り出そうとしているのか。

あまりにも怪しい。
受諾するにはあまりにもリスクが高すぎる。
だというのに。

───こいつ……本気だ……!

どくん。どくん。どくん。
心臓の鼓動が早まるような───得も知れぬ感覚。
それが高揚感なのだと気付くまでに、さして時間はかからなかった。

───さあ、どうした? 殺したいのか、殺したくないのか。選ぶのはお前だぜ、boy?

フードの奥でニヤリと笑ったそのプレイヤーが、今一度、流暢な英語混じりに問いかける。
その言葉を聞き終えた次の瞬間には、男は一も二もなく頷いていた。


あの衝撃的な───ある種の運命すら感じさせる出会いを経て、男の生活は一変した。
そのプレイヤーからの助言を基に最初の殺人を行ったのは、夏が近付いたある日の事だった。
同じように殺人願望を抱いたプレイヤー同士で集まり、来る日も来る日も人を殺す計画を練り続けた。
生憎、その集団のリーダー格となったのは男ではなく、別のプレイヤー───それもSAOには珍しい女性プレイヤーだったが、そんなことは男にとって、もはやどうでもいいことだった。

兎にも角にも。
一刻も早く。
狂おしくなるほどに待ち焦がれながら。
男はその時を───人を殺せる時が来るのを、ただただ待ち続けた。

そしてようやく訪れた、その日。
トラップ多発地帯として知られている第27層の迷宮区を舞台に、かねてからの計画は実行に移された。

手順は至ってシンプルだった。
リーダー格の女が単独でターゲットに近付き、所属するパーティが壊滅寸前なのだという旨を伝え、相手に助けを求める。
ポータルトラップによってパーティメンバーと分断され、命からがら逃げだしてきた哀れな女を装うのだ。
話に信憑性を持たせるために、事前に自分のHPをある程度削っておくのも忘れない。

そうすることでターゲットをトラップが設置されたエリアまで誘導し、ポータルの向こうに飛ばされた仲間を助けてくれと懇願し、相手の同情と油断を誘う。
そのままポータルに飛び込んだが最後、転送先の密室には既に仲間が潜伏しており、ターゲットが姿を現した瞬間に襲い掛かるという手筈になっていた。
出待ちPK。既存のMMORPGではよく使われている手法だ。

また、相手が何らかの異変を感じ取ってポータルに飛び込むのを躊躇した時の為に、仲間内で一組のパーティを用意し、通りすがりの一団を装っておく。
ターゲットにPKを悟られた場合は女が合図を出し、その場で奇襲を仕掛けて始末してしまおうという算段だ。
場合によってはノックバックスキルで強制的にポータルへ乗せ、相手パーティを分断させることも視野に入れてある。
綿密に練られた殺害計画に死角はなく、男を含めた集団の面々は、計画が成功することを何一つ疑ってはいなかった。

だが、しかし。
実際にターゲットとして選んだパーティの中に、一人だけ攻略組クラスのプレイヤーが混ざっていたのは計算外だったといえよう。

ターゲットを選定する段階で、あのパーティの大よその戦力は把握していたつもりだったのだが、その中の一人───前衛を務めていた盾なしの片手剣士だけは、男達の手に負える相手ではなかった。
その強さ故に勘まで鋭いのか、リーダー格の女がトラップの前に誘導する所までは順調だったにも関わらず、我先にとポータルに飛び込もうとするパーティメンバーを片手で制し、あろうことか女に疑いの目を向けてきたのだった。

流石にそこまで見破られては、計画を多少変更せざるを得なかった。
女はひとまず予定通りに合図を出し、それを聞いた仲間達がターゲットのパーティを取り囲む。
そうして、そのまま四方八方から襲い掛かる───と見せかけて、思わず注意を逸らした片手剣士の隙をつき、槍使いの女が不意打ちでソードスキルを発動させた。

強烈なノックバック効果を持つ槍スキル《ファストスタッブ》。
威力こそ大したことはないものの、攻撃の出が速く、上手く決まった時のノックバック距離は約2メートルにも及ぶ。
一般的にはモンスターとの間合いを確保したい場面───スイッチを行う際などに使用されるスキルだが、これが対人において有効なスキルになるのだということを、女は“あのプレイヤー”から聞かされていた。

完全に不意を衝いた、槍の柄による強烈な打撃が相手の胴を狙う。
さしもの剣士もこれを躱しきることはできず、至近距離からの強打を受けて吹き飛ばされた彼は、そのまま背後に設置されたトラップ───強制転移ポータルの中へと姿を消した。
相手は相当腕が立つようだが、多勢に無勢だ。
転送先の密室に潜んだ大勢の仲間が一斉に襲いかかれば、こちらが事を終えるまでの時間くらいは稼げるだろう。

この時、男は通りすがりを装ったパーティの一員だった。
密室で出待ちをする奇襲部隊ではなく、こちらの班に配置された時は随分と口惜しい思いをしたものだが、ターゲットに予定外の手練れが混ざっていたお陰で、不運にも計画は軌道修正を余儀なくされ、幸運にも男は獲物にありつくことができたのだった。

こちらの意図を見破って“くれた”剣士に内心で感謝しながら、男は舌なめずりをするようにゆっくりと、残されたターゲットとの距離を詰めていく。
相手は男が4人に、女が1人。見たところ全員が高校生といったところで、案外、現実世界での仲良しグループだったりするのかもしれなかった。

───まあ、そんなことはどうでもいいか。どうせ、

どうせ───全員殺すのだ。
相手がどんな間柄の連中であろうと、男にとっては全く関係のないことだった。

未だ混乱の最中にあるターゲットへと向けて、また一歩を踏み出す。
彼らの顔に浮かぶのは一律にして、恐怖。

自分達の身に何が起こっているのか。
何故こんなことになったのか。
これから何をされるのか。
何もかもを理解できずに───ただただ男達の存在に恐怖するのみだった。

リーダーらしき棍使いの顔を見る。恐怖。
槍使いの男の顔を見る。恐怖。
もう一人の前衛であるメイス使いの顔を見る。恐怖。
シーフらしき短剣使いの顔を見る。恐怖。

そうして、最後に。ターゲットの紅一点、黒髪の少女の顔を見る。
もちろん───恐怖。

───ふ、は。はは、はははっ。く、くひ、ひひひひひははッ!!

恐怖。
恐怖。恐怖。恐怖。
恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖!

その瞬間の男を支配していたのは、かつてない感じたことのない高揚感と───快感。
これから人を殺すことが。
これから自分の手によって彼らが殺されるのだということが。
殺人という形で、己が力を誇示できるのだということが。
自分はそこらの有象無象とは違うのだということが。
どうしようもないほどの、気が狂いそうになるほどの───快感だった。

───イッツ・ショウ・タイム……ってか? ひひッ……!

これほどの快感を享受する切っ掛けを自分に与えてくれた恩人───“あのプレイヤー”の口癖を心の中で真似ながら、男はまた一歩、ターゲットへと近付いていった。


────────────


それから男は、人を殺すという行為にすっかり魅せられていった。
あの時、初めての殺人を共有した仲間とは、あれから数ヶ月が経った今でもつるんでいる。
リーダー格の女がグリーンのまま堂々と主街区に出入りし、ターゲットになりそうなパーティを適当に見繕ってくる。
時にはパーティの新規加入者としてターゲットの中に潜入し、うまい具合に人気のない場所まで誘導したところで、男を含めたオレンジプレイヤーの集団が襲い掛かる───といった手口が彼らの定番となっていた。

もちろん、張り切りすぎて《ユニオン》に目を付けられるようなヘマは犯さない。
ターゲットを殺す時は手の空いた仲間に周囲を警戒させているし、襲ったパーティは必ず全滅させるようにしていた。
更に、殺人を行ってから最低10日間はこうして圏外村に身を潜め、万が一にも足がつかないようにしている。
ほとぼりが冷めた頃にリーダー格の女が街へと舞い戻り、パーティ募集と称して堂々と次のターゲットを探す。
こうしたやり口で、男達は《ユニオン》の警戒網にかかることもなく、定期的に殺人の快感を味わうことができるのだった。
男達に狙われたターゲットは、一人も生きて帰ることはなかった。
ただ一つの例外を除いては───であるが。

「あーあ、あと3日も待たなきゃ殺せねぇのかよ。ウゼェな……」
吐き捨てるように言ってから起き上り、格子窓にかかったカーテンの隙間から外の様子を覗う。
圏外村《ラト》にはNPCの住人もそれなりにいるが、時間が時間ということもあり、男の泊まっている宿の周辺には人っ子一人見当たらなかった。
夜間のうちはモンスターが侵入してきやすいため、日没が過ぎた後、NPC達はこぞって自宅に籠ってしまうのだ。

殺人行為によって、変わり映えのしなかった彼の生活は一転、快楽という名の潤いに満たされた。
だが、しかし。そのかわりとでも言うのか、人を殺せない間に感じるストレスの量は、以前とは比べ物にならなくなっていた。
殺人中毒───とでも呼ぶべきか。
たった10日間の待機期間すら、今の男にとっては他の何にも勝る苦痛の時間だった。

だからだろうか。
カーテンの隙間から覗いた漆黒の向こう、村の入口から一人のプレイヤーがこちらに向かって歩いてくる姿を、目ざとく見つけてしまったのは。

───あ? 何だアイツ……。

何かを探すように村を歩き回るプレイヤーの姿を、男は訝しげに観察した。
カーソルはグリーン。男のような“訳あり”というわけでもなさそうだ。

───グリーンの奴が、こんな所で何やってんだ?

男のようなオレンジプレイヤーでもない限り、自分から圏外村を訪れる者はほとんどいない。
各階層の主街区を始めとした圏内の街とは違い、ここのような圏外村では犯罪防止《アンチクリミナル》コードが働かないからだ。

毒の継続ダメージや高所からの落下ダメージなど、圏内では無効となる様々な要因によるダメージが、ここ圏外ではフィールドと同様に適応される。
更にはモンスターも侵入可能であり、村の中にいるからといって油断することはできない。
そして何より、コードによる保護のないエリアでは、プレイヤー同士の攻撃が障壁に妨げられるということはない。
つまり、例え村の中であろうと、そこが圏外であるならPKが可能だということだ。

そんな仕様だからこそ、圏外村───ましてや半年以上も前に攻略済みの第17層に存在する此処《ラト》には、普通のプレイヤーが近寄ることはほとんどない。
逆に、そんな仕様だからこそ、男達はほとぼりが冷めるまでの潜伏場所としてこの村を選んだのだ。

そんな圏外村の、それもこんな真夜中に一人で歩き回るとは、なんと不用心なプレイヤーがいたものか。
男はそう思い、しかし思っているのは上辺だけと一目でわかるような、嗜虐的な笑みを浮かべた。
何故なら男は、とても退屈していたからだ。
男にとっての退屈とは即ち、人を殺せないことであって、それは飢えた獣の渇きにも似たようなものだった。
その渇きを満たしてくれる相手がわざわざ自分から現れたのであれば、この機を逃す手はないだろう。

───なんだ、ちょうどイイじゃねぇか。

この時間なら他のプレイヤーに目撃されるという危険性もほぼ皆無───というよりも、元よりここには男の仲間達以外は出入りしていない。
例え自分が出て行って、あのプレイヤーを殺したところで。それを目撃する者も、咎める者もいないだろう。

───久々に……楽しめそうだ、なぁ……ッ!

燃えるような喜悦を感じながら、男は手早く《隠蔽》スキルを発動させると、暗闇に紛れるように宿を飛び出した。
攻略組に対抗していた頃の名残りで、男の《隠蔽》スキル熟練度は仲間内でも頭一つ飛び抜けていた。
攻略組クラスのプレイヤーならともかく、こんな低い階層の村をうろついているような者が相手であれば、見破られる可能性はほとんどないだろう。

案の定、真夜中の圏外村を一人うろついていたプレイヤー───上下共に黒ずくめという装いの少年は、こちらに気付いた様子もなく、きょろきょろと辺りを見回している。
未消化のクエストでも進めにきたのか、あるいは他の理由か。そんなことは男には知る由もないが、これといって興味もなかった。

この渇きを今すぐに満たせるのなら、相手の目的が何であろうが構わない。
顔面に薄ら笑いを湛えたまま、男は少年のすぐ背後へと忍び寄った。

───恨むなら自分の不運を恨むんだな、ガキ……!

声に出さずに宣告し、男は少年の心臓を串刺しにするべく、自身の持ちうる最大威力のソードスキルを発動させる構えを取った───


「──ッ!!」
「な、にィ……ッ!?」
───その、刹那。
肩に掛けていた鞘から一瞬で抜剣した少年が、振り向きざまに男の胴を薙ぎ払った。
完全に不意を衝けると油断しきっていた男は、胴体を横一文字に切り裂かれ、うめき声と共に数歩下がって地面に片膝をついた。

「な……、あ?」
切り口から舞い散る真紅のポリゴン片を視界に入れながら、男は信じられない思いで目を見張った。
ソードスキルによる攻撃ではなかったので、システムによるダメージ補正はかかっていなかった───はずだ。
にも関わらず、万全の状態を保っていたはずの自分のHPが、およそ3割も削られたのが確認できた。

一時は躍起になってレベル上げに勤しんでいたこともあって、男の基本ステータス自体は決して低くはない。
それこそ相手が攻略組クラスのプレイヤーでもない限りは、例え殺し合いになったところで、一対一でなら負ける気はしなかった。

だが───先の一撃は、そんな男の自信をいとも容易く打ち砕いた。

一対一でなら負ける気はなかった。それこそ、相手が攻略組クラスのプレイヤーでもない限りは。
であるならば、ソードスキルですらない一撃で男のHPを3割も奪ったこの少年は。
男がどう足掻いても辿り着けなかった境地───攻略組クラスのプレイヤーであることに他ならない。

───ざッ、けんじゃ、ねぇぞ……ッ!!

少年が攻略組クラスのプレイヤーであるという仮説が正しいのであれば、不意打ちが見破られたのも至極当然だ。
むしろ男が不意打ちを狙っていることに最初から気が付いていて、その上で泳がされていたということになる。

「ッざけんじゃねぇぞ、テメエェェッ!!」
自分が優勢だと思い込んでいた出鼻を挫かれ、ましてその相手が年端もいかない少年だったことで、男のプライドは大いに傷付けられた。
当然ながら、男の精神はそんな“馬鹿げた話”を許容できるようには出来ていない。
先の一撃は何かの間違いだと主張するように、怒号と共に大剣を振り上げ、黒衣の少年の脳天目掛けて振り下ろした。

「……!!」
だが───しかし。
男の渾身の力を込めた一撃は、少年の持つ細身の剣によって難なく受け止められてしまう。

「テ、テメエ……ッ!!」
「………」
受け止めた剣ごとへし折らんと両腕に力を込めるが、どういうわけか、男の大剣は一向に動く気配がない。
自分の全力の攻撃が、少年が右手で構えた片手剣だけで難なく受け止められている。
無言で男の攻撃を受け止め続ける少年の虚ろな双眸からは、何の感情も感じ取ることができない。
そんな少年の態度が、まるで自分など取るに足らない相手なのだと言われているように思えて、男を更に激昂させていく。

「こ、の……!畜生ォォォ……ッ!!」
「……、はぁッ!!」
「がッ───!?」
男がいくら力を込め続けようと、細身の剣が折れることも、少年が耐え切れずに膝をつくこともない。
それが少年と自分の筋力値の差によるものだと気付いた次の瞬間には、短い気合と共に突き出された少年の左拳が男の土手っ腹へとめり込み、腹部を中心にぞわりとした悪寒が全身を襲った。

体術スキル《閃打》。
片手による単打を繰り出すという至ってシンプルな技だが、両腕に意識を集中させていた男の不意を衝くにはそれだけで十分だった。
素手であるとはいえ初撃とは異なり、今度はれっきとしたシステムアシストによる一撃だ。
その分のダメージ補正もきちんと加算され、男のHPがぐんと減っていく。

「あ、あ……!」
今度こそ───男の慢心は完膚無きまでに打ち砕かれた。
たった二発の攻撃で危険域まで落ち込んだ自分のHP残量を視界に入れながら、男はひゅっと喉を鳴らして後ろへ倒れ込んだ。

「………」
「な、何なんだよ、お前……ッ! く、来るな、来るんじゃねぇッ!!」
尻餅をついて後ずさる男を見下すように、少年は男の顔へ視線を向けたまま、少しずつ近付いてくる。
その顔は───無表情。
男の不意打ちを難なく躱し、大剣による全力の斬撃を片手で受け止め、戦意喪失に追い込むまでの間にすら───少年の表情は一ミリたりとも変化することはなかった。
そんな少年の何も映していないかのような黒い瞳が、ますます男の恐怖を掻き立てる。

「ひ、あぁぁ……!」
恐怖。それは、男に快楽をもたらしてくれるものだったはずだ。
ターゲットが死の瞬間に浮かべる恐怖は何よりも男に喜悦を感じさせ、その恐怖ごと相手を蹂躙した時の快感は、他の何よりも勝っていた───はずだった。

「………」
「や、やめ……、くるなぁぁぁ……!」
しかし。
少年の無言の威圧感を受けて、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった男が感じているのも───紛れもなく恐怖だった。
恐怖を抱かせながら屠る側にいたはずの男は、いつの間にか、恐怖を抱きながら屠られる側となっていた。

「な……、何なんだよ、何なんだよッ!なん、なんだよォッ!?」
とうとう建物の壁際まで追い詰められた男は、パニックを起こしたように喚き散らした。
どう見ても中学生にしか見えないような、年端もいかない少年だというのに、そんな相手に追い詰められたことへの悔しさすら感じる余裕もないほどに、男の精神は恐慌状態にあった。

「俺が───何したって言うんだよッ!!」
堪らずに、男は叫んだ。
自分からPKを仕掛けたのだということも忘れて、恐怖で引き攣った顔を見るも無残な形に歪めながら、叫んだ。
同じことを言った相手を嘲笑いながら殺してきた自分を棚に上げ、男は黒衣の少年に向かって、叫んだ。
叫んで───しまった。

その、瞬間。

今まで何の色も映していなかった少年の瞳が、男の言葉を聞いた瞬間、大きく見開かれた。
同時に、少年の保っていた無表情が初めて崩れる。顔を歪めて歯を食いしばり、凍てつくような視線で男を射抜いた。
男の叫びを切っ掛けに、少年から堰を切ったように溢れ出した感情は───憎悪。

「ひッ───」
突如豹変した少年の姿に、男が短い悲鳴を漏らしたその刹那。
男の右耳を掠めるように突き出された少年の剣が背後の壁へと突き刺さり、硬質な金属と障壁の衝突する轟音が男の頭を揺さぶった。

「何かしたのか、だと……? ふざけるな……」
恐怖と衝撃の入り混じった顔で絶句する男へと向けて、少年が初めて口を開いた。
男の頭の真横に付けられた剣の切っ先は小刻みに揺れ動き、少年が憎悪に戦慄いているのだということを如実に物語っている。

「……このギルドエンブレムに、見覚えはないか」
「は───」
「答えろよ。このエンブレムに見覚えはないのか?」
何を言っている、と問い返そうとした男の言葉は、少年の威圧するような声に封殺された。
言われて、少年と目を合わせて彼のHPゲージを表示させると。
男との戦闘があったにも関わらず、微動だにしていない緑色のHPバー。その真上に表示されているのは、三日月と黒猫をモチーフにしたギルドエンブレム。

それと全く同じエンブレムを、男は見たことがあった。
数ヶ月前に一度見ただけのエンブレムを、男は忘れていなかった。忘れるはずもなかった。
何故ならそのエンブレムは、男が初めて殺したターゲット───あの仲良しグループと思しき高校生の一団が、揃って身に付けていたものだったのだから。

「お、お前、まさか───」
あの日の記憶が、鮮明な映像として男の脳裏にフラッシュバックした。
定期的に人を殺すようになってからも片時も忘れたことのなかった、初めて殺人行為に及んだ日の記憶。
その記憶の中に登場する、ターゲットの中に一人だけ紛れていた攻略組クラスのプレイヤーは。
あのプレイヤーは今目の前にいる少年のような、盾なしの片手剣士ではなかったか。
あのプレイヤーはこんな風に、黒ずくめの衣装に身を包んでいなかったか───!

「……やっぱり、お前達だったんだな」
「ひ、ひッ!?」
そんな男の様子を肯定と受け取ったのだろう。
黒衣の少年が全身に纏った憎悪が、ひときわ大きなものとなったのを男は感じ取った。

あの日以来すっかり殺人の味を占めた男達は、襲った相手のパーティを必ず皆殺しにすることで、《ユニオン》の警戒網を掻い潜ってきた。
男達に狙われたターゲットは、一人も生きて帰ることはなかった。───ただ一つの例外を除いては。

その例外───転送先に潜んでいた仲間達全員がかりでも取り逃がしてしまったという、攻略組クラスのプレイヤー。
そのプレイヤーこそが、今こうして男に剣を突き付けている黒衣の少年に他ならないのだとしたら。
その目的は───考えるまでもないだろう。
あの時、一人だけ取り逃がした少年が。
自分以外のギルドメンバーを殺された少年が、数ヶ月もの時を経て、こうして男の前に現れたということは。

「ずっと、お前達を捜していた。お前達とあの女に償わせるために、そのためだけに───俺は生きてきた」
つまりは、復讐。
まったくもって正当な───復讐だった。
声にならない悲鳴を上げた男の喉元に改めて剣を突き付け、黒衣の少年は憎悪を滲ませた声で問うた。

「答えろよ。あの女は……、お前達のリーダーだったあの赤髪の槍使いは、どこだ───ッ!!」
それから数分後。
男の意識は途切れた。


────────────


第17層主街区の前にオレンジがいる。
そんな中層プレイヤーからの通報が《ユニオン》の代表者たる騎士ディアベルのもとに届いたのは、トネリコの月も残すところ僅かとなった、ある日のことだった。

「た、たすけ……、たすけて……」
手の空いていた団員を伴って自ら現場に駆け付けたディアベルは、主街区《ラムダ》を出てすぐの地点に、カーソルをオレンジに染めたプレイヤーが這いつくばっている所を発見した。
見たところ20代半ばといったところの男は、自分が監獄送りの対象であるということも忘れているかのように、狼狽しながらディアベルの足に縋り付いた。
害意がないことは一目瞭然だったのだが、ここまで酷く錯乱している理由がわからない。
よくよく見れば男のHPは既に危険域であり、あと一撃でも攻撃を受ければ戦闘不能なってしまうほどだった。

「たすけて、助けてくれ……、どうか……!」
「しっかりしろ。一体何があったんだ?」
うわ言のように繰り返すオレンジプレイヤーの両肩を掴んでしゃがみ込んだディアベルは、男と目線の高さを合わせながら、しかし油断せずに問いかけた。
いくらオレンジプレイヤーといえど、こんな状態でフィールドをうろつきまわるなど正気の沙汰ではない。
加えて、この狼狽えようだ。
一体、この男に何があったというのか───

「こ、ここはダメだ、アイツが……、アイツが来る……!」
「“アイツ”……?」
「こ、ころされる……ッ!は、早くッ、早く俺を守ってくれェッ!」
「待て、とにかく落ち着くんだ!」
何とか落ち着かせようとするディアベルに、オレンジプレイヤーの男は一層恐怖に怯えた声で叫んだ。


「助けてくれ、アイツから───あの《黒の剣士》からッ!!」


───黒の剣士。
この日を境に、犯罪者プレイヤー達の間で恐怖と共に囁かれるようになった、あるプレイヤーの二つ名だった。 

 

とあるβテスター、宣言する

「なあ、知ってるか?《黒の剣士》の噂」
ずずず、と音を立てて紙パックに残ったジュースを飲み干しながら、男の所属するパーティのメンバーである少年が切り出した。
自他共に認めるゴシップ好きの少年は、ここのところ何かと噂になっている“とある剣士”の話題に興味津々らしい。

「最近噂になってるあれか。オレンジを専門に狙うPKK《プレイヤーキラーキラー》だっけ? 全身黒ずくめの」
「そうそう、そいつのことなんだけど……ここだけの話、どうもオレンジ“専門”ってのは少し違うらしいんだよなー。どうしてだと思う?」
「はぁ……」
幼い顔に得意気な笑みを浮かべながら、少年は男に問いかける。
自分が聞き集めてきた“とっておき”を披露する時、少年は必ずこうして勿体付けた言い方をする。
そんな少年の様子を見て、男は大きく溜息をついた。
これまでの長い付き合いから、この少年の趣味と、それに伴う“悪い癖”には嫌というほどに心当たりがある。

「お前なぁ……また攻略組連中の話を盗み聞きしたのか」
「へへへっ」
男は呆れ顔を隠しもせずに言うが、当の少年は男の呆れなど何処吹く風といった様子で、悪戯好きの子供のように鼻の下を指でこするばかりだった。
少年の悪い癖―――即ち、他のプレイヤー達が行っている会話の盗み聞きだ。
ゴシップ収集を趣味としているこの少年は、時折こうして信憑性の高い情報を“盗んで”くる。
《聞き耳》スキルを発動させながら街中を歩き回り、攻略組プレイヤー達の会話を盗み聞き、その内容をパーティメンバーである男に御披露目することを楽しみの一つとしているのだ。

「毎度毎度よくやるよな、お前。そんなことばっかやってると、そのうち痛い目見るぞ。いやマジで」
「あはは、大丈夫だって。別に犯罪ってわけじゃないんだし」
「ほんとに大丈夫なのかね、まったく……」
馬の耳に念仏、とはこのことを言うのだろう。
人の忠告をいとも容易く受け流す少年に、男は再び溜息ひとつ。
こういったタイプは、いつか本当に痛い目を見なければ直らないのかもしれない。
映画や推理小説などでは、少年のような人間が興味本位で厄介事に首を突っ込み、口封じのために犯人に消されるのがお決まりのパターンだ。
だからこそ、男はいつもこうして忠告しているわけなのだが。

「それに今回の話の信憑性はかなり高いんだぜ? なんたって《ユニオン》の連中が話してたことなんだからな!」
「げっ……!? お前、ばっかじゃねぇの!?」
しれっと言い放った少年に、男は血相を変えて叫んだ。
少年が攻略組から情報を盗んでくるのは毎度のことだが、今回ばかりは話が別だった。
よりにもよって《ユニオン》団員の会話を盗み聞くとは、どこまで命知らずなのだろうか。

「まあ、全部は聞けなかったんだけどね。さりげなく通りかかったつもりだったのに、すぐに勘付かれそうになっちゃってさぁ。さすが攻略組トップクラスのギルドだよなー」
「お前ってほんと怖いもの知らずというか、なんというか……。どうなっても知らねぇぞ」
「へへっ、そんなに褒めんなよー」
「褒めてねぇよバカ!」
《ユニオン》―――《アインクラッド解放同盟》といえば、SAOで最大規模を誇るギルドであり、不審な動きを見せるプレイヤーを取り締まる役割を担っている集団でもある。
いうなればアインクラッドで最高の権力を持つギルドであり、そんな《ユニオン》団員達の会話を盗み聞くというのは、現実世界で例えるなら警察の無線を盗聴しているようなものだ。
ましてや最近の《ユニオン》には、ギルドの運営方針を巡って幹部クラスのプレイヤーを中心とした派閥争いが起こっているという噂までもがある。
その噂が真実かどうかは定かではないが、団員達の間に張り詰めたような空気が漂っているのは確かだ。そんな《ユニオン》の団員達を相手に盗み聞きをしていたことが万が一にでもバレてしまえば、それこそスパイ疑惑をかけられて《黒鉄宮》の監獄エリアに投獄されてもおかしくはないだろう。
「好奇心は猫を殺す」という言葉が表している通りに、この少年が痛い目を見る日はそう遠くないのかもしれない―――彼の“悪い癖”による成果を毎回披露される側である男は、そう思わずにはいられなかった。

「まあまあ、オレのことはいいじゃん。肝心なのは《黒の剣士》がただのPKKとは違うらしいってことなんだからさ」
「ったく、お前は……。 というか、ただのPKKじゃないってどういうことだよ。PKKってのはオレンジだけを狙う奴のことを言うんじゃないのか?」
PKK《プレイヤーキラーキラー》。読んで字の如く、MMORPGにおいてPKを専門に狙うPK―――SAOでいうならば、オレンジプレイヤーを対象としたPKを行う者のことを指す用語だ。
《黒の剣士》が初めて人を襲ったとされているのは、トネリコの月―――現実世界でいうところの10月が残り僅かとなった、ある日のことだった。
それから一月と少し経った現在までの間に、彼に襲われたというプレイヤーの数は4人。そのいずれもが圏外村に隠れ潜んでいたオレンジであり、実際に人を殺した経歴を持っていたということから、一般プレイヤーの間では《黒の剣士》はオレンジを専門に狙うPKKなのだと認識されている。

「そうだよ。だけど、《黒の剣士》の場合は少し違うらしくてさ。一度でもオレンジになったことのある奴は、例えカルマ回復クエストでグリーンに戻っていようが関係なく狙われるらしいぜ。それこそ、自分がオレンジになろうがお構いなしなんだとさ」
「なんだそりゃ。それが“間違い”だろうと関係ないってことか?」
「そうみたい。実際にグリーンの奴を襲おうとしたこともあるらしいよ。たまたま近場にいた《ユニオン》のメンバーが駆け付けたから、その時は未遂で終わったみたいだけどね」
「………」
少年の話を聞いているうちに、男の表情がみるみる不快そうなものへと変化していく。
男も世間一般のプレイヤーの例に漏れず、例え《黒の剣士》と呼ばれるPKKが台頭してこようと、自分さえまっとうに生きてさえいれば関係のないことだ―――と、思っていたのだが。
もし、この話が本当だとしたら。そんな男の考えは、あまりにも牧歌的だったと言わざるを得ないだろう。
男の言う“間違い”―――誤って他のプレイヤーを攻撃してしまい、意図せずオレンジになってしまったプレイヤーまでもが、《黒の剣士》によるPKの標的にされているということなのだから。
うっかりカーソルをオレンジに染めてしまい、そこを誰かに目撃されようものなら―――その瞬間《黒の剣士》の噂は他人事ではなくなり、矛先が自分に向いてしまうことになる。
攻略組クラスのプレイヤーでも歯が立たない程の剣技を誇るという《黒の剣士》に狙われれば、男のような一般プレイヤーは手も足も出せずにやられてしまうだろう。
自分には関係のないことだと話半分に流していた《黒の剣士》の存在が、急におぞましいもののように思えてしまい、男は思わず身震いした。

「そいつは……気を付けないとな。……というかお前、これって《ユニオン》の機密情報なんじゃないのか?こんな噂が広まったら街中がパニックになるぞ」
「まっさかー!こんなんでパニックになるわけないじゃん!」
「……だよなぁ、お前にはわかんねぇよなぁ。はぁ……」
男の心配を余所目に、少年はへらへらと笑う。どうやら当の本人には、自分の持ってきた“とっておき”がいかに大変なものなのか、まったく自覚がないらしい。
そんなパーティメンバーのお気楽な様子に軽く頭痛を覚えながら、男は再三に渡って溜息をついた。

相手が本当にオレンジかどうかというのは、結局のところは大した問題ではない。
それこそ、クエストによって罪悪値さえ回復させてしまえば、隠れオレンジとして堂々と主街区に出入りすることだって可能なのだから。
むしろここで重要となるのは、これまでPKKだと思われていた《黒の剣士》が、次は“グリーンを”狙っているという事実だ。
相手に殺人歴があろうがなかろうが、システム上でグリーンを維持している相手を攻撃すれば、その時点で《黒の剣士》は犯罪者として認識されてしまう。
人間というのは単純なもので、自分には関係がないと思うものに対しては徹底的なまでに無関心を貫けるが、反面、「明日は我が身かもしれない」という意識がある場合は、その元凶となるものに対してどこまでも攻撃的になれる生き物だ。
特に日本人はその傾向が顕著であり、「疑わしきは罰せよ」ではないが、少しでも自身に危険を及ぼす可能性のあるものを徹底的に排除しようとする動きがよく見られる。

そんな日本人の、それもネットゲーマーという独特の価値観を持った集団の中においても尚、《黒の剣士》に対する周囲の反応が鈍いのは、あくまで『オレンジしか狙われない』という前提があったからだ。
その前提が崩れた時―――ましてや命がけのデスゲームを強制されている現状で、今まで無害だと思われていた《黒の剣士》がグリーンを襲ったという話が広まれば、掌を返したような騒ぎになることは想像に難しくない。
それは街の治安維持を目的としている《ユニオン》にとって一番避けたい事態であり、だからこそ、《黒の剣士》がグリーンのプレイヤーを襲おうとしたという情報は未だに伏せられたままなのだろう。団員同士での情報交換にも、細心の注意を払っていたに違いない。
……だというのに。この少年はあろうことか、趣味のゴシップ集め感覚で、そんな“機密情報”に首を突っ込んでしまったらしい。

「お前ときたら……。その情報収集にかける情熱だけは《鼠》といい勝負するよ、まったく……」
「まじで!? 俺って《鼠のアルゴ》とタメ張れるほどの情報通だったのか!? ってことは、俺って結構すごい奴なんじゃね!?」
「ある意味な。だからって喜んでんじゃねぇよバカ。この際はっきり言っておくが、お前の趣味はとても褒められたことじゃないんだからな」
「えー!?」
頬を膨らませてぶーぶーと抗議する少年を適当にあしらいながら、男は密かに思いを巡らせる。
少年には後できつくお灸を据えておくつもりなので、この話が彼の口から他のプレイヤー達の間に広まるということはないだろう。
ないだろうが―――しかし。
人の口に戸は立てられないと言うように、ここでこの少年を口止めしたとしても、いずれこの話はSAO中のプレイヤーの知るところとなるに違いない。
もちろん、《ユニオン》の各団員には厳重な緘口令が敷かれているのだろうが―――いくら代表者である騎士ディアベルがやり手の人物だといっても、組織の末端に至るまでを詳細に把握することは難しいだろう。
《ユニオン》ほど大勢の構成員を抱えた組織ともなれば、いつ誰が口を滑らせるかわからない。大規模な組織になればなるほど、緘口令が破られる可能性は高くなってしまうのだ。

そもそも、彼の剣士の目的は一体何なのだろうか。
とある情報紙では、《黒の剣士》の目的はPKそのものだが、《ユニオン》の管理体制が行き届いている現状では大っぴらに対人戦闘を行うことが出来ないため、PKKとしてオレンジを狙うことで大義名分を得たかったのだとしているが、それでは“隠れオレンジ”までもを襲う理由にはならない。
元オレンジだろうが何だろうが、カーソルがグリーンである以上は一般プレイヤーとして扱われ、むしろ彼らを攻撃して自分がオレンジになることは、PKを行う上での妨げとなってしまう。
単に人を襲う大義名分が欲しいだけなら、隠れオレンジなど放っておいて、システムから正式に犯罪者として認識されている者だけを狙えばいいのだから、この情報紙の見解は残念ながら的外れといったところだろう。

であれば。
下手をすればSAO中のプレイヤーを敵に回すことになるとわかっていても尚、PKに関わったことのあるプレイヤーを狙う理由とは。
一体何が、彼をオレンジ狩りへと掻き立てるのだろうか―――

「……まあいいか。とりあえずお前、この話は他の奴らにはするなよ。特に『はじまりの街』の連中にはな」
「えー?別にいいじゃん、どうせすぐに広まるだろうし」
「いいから言う通りにしとけバカ。《ユニオン》の連中から流出するのは仕方ないけど、お前の場合は盗み聞きしたんだってことを忘れんな。そんなもんを自主的に広めるのはNGだ」
「ちぇっ、せっかくのとっておきなのになぁ」
不服な様子を隠そうともしない少年の頭を小突いてから、男は転移門へと歩き出す。
《ユニオン》の内部分裂疑惑に、《黒の剣士》の存在。最近はSAOでの生活も何かと面倒なことが増えてきた―――そんなことを思いながら。


実のところ、少年が盗み聞いてきた情報には肝心な部分が抜けていた。
最後まで話を聞いていれば、《黒の剣士》の目的がPKそのものではなく、とある集団に所属するメンバーだけを狙っているということに気が付いただろう。
少年が途中までしか聞くことのできなかった話は、以下のように続いている。

《黒の剣士》の最終目的は、半年前に迷宮区で発生した集団PKの実行犯、そのリーダー格である赤髪の女槍使いを殺害することである―――と。


───────────


「──以上が、現在我々が掴んでいる《黒の剣士》に関する情報です。既に投獄中のオレンジプレイヤーの証言によれば、先日襲撃を受けたプレイヤーも彼らの仲間であり、カルマ回復クエストを定期的に受けることでグリーンを維持し続けている───いわゆる隠れオレンジだという話です」
「隠れオレンジということは、奴の狙いはあくまでオレンジだけで、PKそのものが目的というわけではないんだな?」
「そのようです。しかし、いくら相手が隠れオレンジだとはいっても、体面上はグリーンを保っている以上、事情を知らないプレイヤーにとって《黒の剣士》はPK以外の何者でもありません。やはり早急に手を打つべきかと」
二人の男の声が、薄暗い会議室に響く。臨時集会と称して集められたプレイヤー達の前で言葉を交わしている二人は、攻略組の中でも一二を争うギルド《アインクラッド解放同盟》及び《血盟騎士団》から派遣された幹部クラスのプレイヤーだ。
石造りの卓を囲む十数名の間に漂う空気は重苦しく、硬い面持ちで二人の会話に聞き入るプレイヤー達の姿が、事態の深刻さを物語っている。
無理もない。なにせ今回の会議は、議題が議題だ。否が応でもそういった雰囲気になってしまうのは仕方のないことだろう。
こうして集められた僕たちの前で行われているのは、迷宮区の攻略状況に関する情報公開でも、ボスモンスターを攻略するための意見交換でもない。近頃オレンジプレイヤーへの襲撃を繰り返している、一人のプレイヤー───《黒の剣士》への攻略組全体としての身の振り方を決めるための議論だ。

「手を打つと言うが、具体的にはどうするんだ? 現場に居合わせた人間の制止にも、奴はまるで聞く耳を持たなかったと聞いたが?」
「……説得できるのであれば、それに越したことはありません。ですが……お恥ずかしいことに、これは私どもの落ち度なのですが、既に我が《ユニオン》の下部構成員から外部のプレイヤーへ、《黒の剣士》にまつわる情報が流出しているとの報告を受けています。オレンジ専門のPKKだと思われていた《黒の剣士》が、本当はグリーンをも襲うPKだったなどという話が広まれば、まず真っ先にこちらに白羽の矢が立つでしょう。我々としても街の治安維持を第一に掲げている以上、住人からの声を無視することはできません」
「つまり……街の住人が騒ぎ出す前に、奴を捕縛なり討伐なりしなきゃならんわけだな。というより、そちらとしても最初からそのつもりなんだろう? 相手は形振り構わずに復讐しようとしている奴だ、説得なんぞハナから選択肢に含まれちゃいない……違うか?」
「……、そういうことになります。本来であれば、そこまでする必要はないのですが……。それこそ───」
と、そこまで口にしたところで。
この会議の進行役を務める痩せぎすの男───《ユニオン》の作戦参謀であるオリヴィエという名のプレイヤーは、狐のような糸目でちらりと僕の顔を見た。
これから彼が言おうとしていることは大体想像がつく。彼もそれを察しているから、こうして僕を気遣うような視線を向けてくるのだろう。
ここは会議の場なのだから、僕個人に遠慮することはない───口でそう言うかわりに、僕は彼の目を見ながら小さく頷いてみせた。
彼も頷き返し、ひとつ咳払いをしてから、話を続ける。

「──それこそ《投刃》という前例もあります。一頃騒がれてはいても、実際に被害に遭った方がいなければ、やがて住人からの関心は薄れて噂そのものが自然消滅します。少なくとも、《投刃》に関してはそうでした」
《投刃》という言葉が出た途端に、何人かがこちらに忌々しげな視線を送ってくるのが感じられた。中には聞こえよがしに舌打ちする者までいる。
身に覚えのある視線、見覚えのある顔。彼らは第1層のボス攻略戦に居合わせていたメンバーなのだから、僕が既視感を覚えるのも当然というものだった。

「睨むなよ。僕はあの時の約束通り、誰にも手は出しちゃいない。今議論されるべきは僕についてのことじゃないだろう」
抑揚を抑えた声で僕が言うと、彼らは露骨に顔を顰めた。
彼らからしてみれば、殺人鬼である僕が《黒の剣士》への対策を議論する場にいること自体、気に食わないのだろう。
それもそうだ。いくら誰にも手出ししないと約束しているとはいえ、彼らにとっての僕は《投刃》という犯罪者でしかないのだから。
そして、僕も───少なくとも彼らの前では、人殺しのオレンジを演じ続けると決めている。演じ続けなくてはならない。
それが、あの時自分がやったことへの、僕なりの責任の取り方だ。

「目的を見失うなよ。今は街の住人の不安を解消するために、《黒の剣士》をどうするのか考える時間だろう。そうやって僕に敵意を向けたところで、その分話が進まなくなるだけだ。不毛なことはやめておくんだね」
「あまり調子に乗るなよ、人殺しが……」
………。

「……オリヴィエさん、続きを」
「は、はいっ」
どこからかぼそりと呟く声が聞こえた───いや、むしろ聞こえるように言っているのだろう───のを最後に、それ以上彼らが突っかかってくることはなかった。
そんな悪態を無視して、気まずそうに視線を泳がせていたオリヴィエに続きを促す。
あくまで中立を保とうとしてくれているオリヴィエには申し訳ないけれど、今更彼らと和解することはできそうにもないし、向こうも望んではいないだろう。
自分で選んだこととはいえ、彼らとの溝の深さに今更ながら辟易としてしまう。けれど、今はお互いの感情をぶつけ合うことよりも、本題の議論を続けるほうが先決だ。
そうだ、今は言い争っている場合じゃない。
《黒の剣士》を───キリトをどうにか止める方法を、考えなくてはならないのだから。

あの日から───サチがいなくなってしまったあの日から、半年もの月日が流れた。
その間の僕のコンディションは御世辞にもいいものとは言えず、精神的に落ち着かないことが多く、攻略にも身が入らない日々が暫く続いた。
些細なミスでパーティを窮地に追い込んでしまったり、ふとした瞬間にサチのことを思い出し、一晩中眠れないという日も少なくはなかった。

ルシェも、そんな僕と同様に───否、僕以上に参っていた。当たり前だ。彼女はサチの親友で、他の誰よりもサチのことを想っていたのだから。
あれから半年が経った今、ルシェは表面上はすっかり立ち直ったように振る舞っている。だけど、あの黒鉄宮の蘇生の間で───サチの名前が刻まれた碑の前で泣き叫んでいた彼女の顔を、僕は一度も忘れたことがなかったし、きっとこれからも忘れられないだろう。
忘れられるわけがない。あの悲しみも、あの悔しさも、忘れられるものか。
サチも黒猫団のメンバーも、他でもない、自分たちが守ろうとしてきたプレイヤーの手によって殺されたのだから。

だけど、僕は知らなかった。
……否、知ってはいた。知ってはいたけれど、サチが人の手で殺されたということに気を取られて───失念していた。
サチの死に違和感を抱いたあの時、僕はルシェに黒猫団メンバーの名前を尋ねた。サチ、ササマル、テツオ、ダッカー、ケイタ。彼ら一人一人の死因を確かめ、違和感の正体を明らかにしようとした。
そうして最終的に、彼ら《月夜の黒猫団》のパーティは、第27層のモンスターからではありえないはずの貫通属性攻撃を行う何者か───槍や細剣を得物とするオレンジプレイヤーによって殺害されたのだという結論に至った。

あの時、僕は無意識に『全滅』という言葉を使った。彼ら《月夜の黒猫団》は、第27層の迷宮区でオレンジに襲われて『全滅』したのだと。
けれど、そんな僕の表現は正確ではなかった。何故なら《月夜の黒猫団》には、事件の二ヶ月前に加入したばかりの新規メンバー───6人目の剣士が存在していたのだから。

あの時は途中で答えに辿り着いてしまい、その剣士のことにまで頭が回らなかったし、そもそも彼女も名前までは聞かされていなかったようだ。
相当な腕前だという話を聞いてはいたものの、同じパーティの5人が全員死亡していることから、その剣士だけが生き残っている可能性は極めて低いだろう───彼の存在を失念していたことに後から気が付いた時、僕はそう思った。

そう思っていたから───気付けなかった。

僕が死んだと思っていたその剣士は一人だけ生き延びていて、事件から今日に至るまでの間、ただ一人、復讐の機会を窺い続けていたのだということも。
その剣士というのが、長らく僕たちの前から姿を消していた黒ずくめの少年───キリトだったのだということも。
そうして、あれから半年が経った今、その復讐をいよいよ実行に移したのだということも。
僕は、何も知らなかった。気付いてあげることもできなかった。
彼が孤独でいることを知っていたのに。孤独であることの苦悩を、僕は知っていたはずなのに。

自ら一人であることを選んだキリトが、レベルを偽ってまで黒猫団のみんなと一緒にいることを選んだのは、それだけ限界だったということだ。
孤独でいるのが───限界だったということだ。
その孤独に気付いてあげることが、僕にはできなかった。
いつぞやの迷宮区で最後に会った時。きっとあの時が、僕とキリトにとっての分岐点だったんだ。
僕がキリトの孤独に気付いていれば。彼の孤独に気付いて、手を差し伸べることができていれば。
キリトがレベルを偽ってまで、黒猫団に入ることはなかったかもしれない。
前衛不足に悩まされていた黒猫団は、攻略組を目指すことを諦めて、街で平和に暮らすようになっていたかもしれない。
彼らはあの日、迷宮区に足を踏み入れることもなく、PKの標的にされることもなかったかもしれない。
サチは、死なずに済んだかもしれない───

そんな『たられば』を語ればきりがないということくらい、僕だってわかっている。わかっているのに、縋りつきたくなってしまう。
あの事件を切っ掛けに、僕たちの関係は変わった。変わって───しまった。
キリトは《黒の剣士》としてオレンジプレイヤーへの復讐を開始し、僕はそれを止めるために、こうして攻略組の臨時集会に呼び出されている。

どうして、こんなことになってしまったんだろう。
どうして、こうなる前に何とかすることができなかったんだろう───


「……彼がシステム上でオレンジプレイヤーとして認識されてしまった場合、我々は実力行使に出ることも止む無しと考えています。もちろん、そうなる前に止められるよう、最大限の努力はするつもりですが……」
「しかし、《黒の剣士》の狙いが自分達だということは、残りの犯罪者達とてもう気付いているのだろう? 奴らがカーソルをグリーンに戻し、何処かの街に逃げ延びているのだとすれば、《黒の剣士》に狙われるのも時間の問題だろう。オレンジだと知らずにパーティを組んでしまう者が出てくる可能性がある以上、あまり悠長なことは言っていられないのではないか?」
「そうですね……。事実、何も知らずにパーティを組んでいた方々の目には、《黒の剣士》は無差別PKとして映っていたことでしょうし……。だからこそ、我々としても対処に困るところなのですが……」
「下手に奴を擁護するわけにもいかんしな。過去に自分達を襲ったオレンジだけを狙うPKKなのだと説明したところで、何人が納得してくれるのやら」
その後も話し合いは続いたけれど、集まったプレイヤーたちの中から建設的な意見が出ることはなかった。
それも当たり前だろう。身の振り方を決めるための会議だと口で言ってはいも、そんなものは所詮、形だけの話なのだから。

ディアベル率いる《ユニオン》は立場上、街の住人からの不安の声を無視することはできない。
26層ボス攻略会議の際に結成・御披露目され、瞬く間に最強ギルドの一角として名を馳せるまでに至った精鋭集団───《血盟騎士団》は、円滑な攻略を妨げる要素となる《黒の剣士》に対しては否定的だ。
つまり彼らの腹の内は、最初からキリトを“排除”する方向に固まっている。
この会議は出来レースと同じだ。“話し合った結果そう決まった”という大義名分を得るために、こうして各ギルドの幹部プレイヤーたちが顔を突き合わせているに過ぎない。

そんな魂胆の見え透いた会議にも、その会議に参加している自分にも───嫌気が差す。
こんな時にどうすればいいのか、僕にはわからなかった。
僕は───どうすればいい?
キリトの苦悩に気付くこともできなかった僕に、一体何ができる……?


「納得は……してくれないでしょうね。下手をすれば、攻略組がPKを容認していると思われてしまう可能性もあります。なので、やはり排除せざるを得ないといったところでしょうか……」
「そんなイメージをもたれては、攻略にも支障をきたすからな。妥当な判断だろう」
オリヴィエの口ぶりから、《ユニオン》の代表であるディアベル個人は、《黒の剣士》の排除にさほど積極的ではないことが伺える。
問題をあくまで話し合いで解決しようとする姿勢は、第1層攻略の時と何も変わっていないようだった。
そんなディアベルが代表を務めているからこそ、《ユニオン》はたった一年足らずでアインクラッド最大規模を誇るギルドに成長したのだろう。

……でも。組織というものは規模が大きくなればなるほど、一枚岩というわけにはいかなくなってくる。
ディアベルが話し合いで解決することを望んでも、ギルドを構成している大多数のメンバーが《黒の剣士》の排除を望めば、組織の方針としては後者を選ばざるを得ないだろう。
《アインクラッド騎士同盟》と《ギルドMTD》が合併して《アインクラッド解放同盟》へと名称を改めた際、彼らは一般プレイヤーたちに向けて『街の治安維持を最優先とする』との誓約を立てている。
治安維持。つまりは、街に住む住人の不安を取り除くということだ。
その義務が課せられている以上、《ユニオン》の取れる選択肢は『排除』の一択となってしまう。ここでキリトを排除しなければ、それは一般プレイヤーたちからの信頼を裏切ることとなり、ギルドの体制そのものが崩壊してしまうからだ。

それでなくとも、近頃の《ユニオン》には、色々ときな臭い噂が立っている。
幹部クラスのプレイヤーを筆頭に起こっている内部抗争。
同じく幹部同士による、ギルド内での権力争い。
組織の方針に異を唱えている幹部たちを中心に、新たなギルドを設立する流れが出来上がっている───等。
現在の《ユニオン》を取り巻く噂の数々は、御世辞にも穏やかとは言えないものばかりだった。

とはいえ、所詮噂は噂だ。人づてに聞いた話に尾鰭が付くのはよくあることだし、特にネットゲームにおけるトップギルドなんてものは、あることないこと好き勝手に言われるのが当たり前となってしまっている。
《ユニオン》の内部分裂に関する噂もそんな例に漏れず、どうせ眉唾物だろう───と、最初は誰もがそう思っていた。

けれど、こうして《ユニオン》の幹部たちと顔を合わせる機会の多い僕たちは、それが紛れもない事実なのだということを知っている。
やむを得ず排除を提案しているといった様子のオリヴィエとは異なり、他の《ユニオン》幹部───リンド、シヴァタ、ヤマタといった古参プレイヤーたちは好戦的な姿勢を隠そうともしない。
彼らの言動にキリトへ向けたものとは別の苛立ちが混ざっているのは、第三者である僕でも十分に感じ取ることができるほどだ。
ディアベルやオリヴィエが物事を穏便に解決しようとするのに対し、リンドたちは目的のためなら手段を選ばないタイプだ。彼らにとってはこんな話し合いなど何の意味もなく、それこそ時間の無駄だとでも思っているのだろう。

それに、何より───噂の《ユニオン》内部分裂の筆頭であるとされているのが、このリンドという男だ。
リンド、シヴァタ、ヤマタ。それからハフナーという名前の古参プレイヤーを入れて4人。
彼らはあのキバオウと同様、第1層のボス攻略戦でディアベルに近い立ち位置にいたプレイヤーたちだ。
中でもリンドはディアベル率いるC隊のメンバーで、ボスを倒した後、キバオウと共に元βテスターを糾弾した一人だった。
つまり───僕がディアベルら攻略組から離反するきっかけを作った男でもある。

『オレ……オレ知ってる!こいつらは元ベータテスターだ!だからボスの攻撃パターンとか、うまいクエとか狩場とか、全部知ってるんだ!知ってて隠してるんだ!!』
『オレは知ってるんだぞ!おまえ、ベータじゃ《投刃》とか呼ばれてた仲間殺しで、PKだったんだろ!!』
『どうせベータテスター同士でつるんで、自分達だけいい思いをしようと思ってたんだろ!おまえら全員、グルだったんだろ!!』

第1層で彼に言われた言葉が脳裏に蘇り、思わず顔を顰めてしまう。
正直なところ、少しも恨んでいないと言えば嘘になるけれど、あれほど彼が激昂したのは、裏を返せばそれだけディアベルを慕っていたということだろう。
少なくとも僕はそう思っていたし、実際、リンドたちはいつもディアベルと行動を共にしていて、後にディアベルが立ち上げたギルド《アインクラッド騎士同盟》の初期メンバーとして活躍してきた。
他のプレイヤーのために戦うというディアベルの騎士道精神にも似た信念に、彼らも大いに影響を受けていた───はずだったのだけれど、近頃の彼らとディアベルとの間には、決定的な価値観の違いが存在しているように思える。

代表的な例を挙げるとするなら、ボス攻略の際のラストアタックだろうか。
第1層のボス戦で勇み足を踏んだディアベルは、以降はラストアタックボーナスに拘ることはしなかった。
元々彼はユニークアイテムに執着があったわけではない。自分と同じ元βテスターであるキリトを妨害してまでラストアタックを奪おうとしたのは、集団の先頭に立つ自分がユニークアイテムを手にすることで、攻略組のプレイヤーたちを鼓舞するという目的からだった。
その後一悶着あって、彼が想定していた結果からは外れてしまったものの、何とか一人の死者も出さずに第1層を突破できたことで、形は違えど当初の目的は達成することができた。
彼自身も妨害を行っていたことを認め、さすがに他のプレイヤーたちの前でというわけにはいかなかったものの、後にキリトに謝罪している。

それからのボス攻略戦は、ラストアタックは誰が取ろうと恨みっこなしということで、ボスにとどめを刺したプレイヤーを詮索することは禁止事項となった。
ボーナスアイテムを取得したプレイヤーからの自主報告もする必要はないとされ、こうしてボスのラストアタックボーナスについては丸く収まった───と、思われたのだけれど。
いつの頃からか、一部の古参メンバーたちがレアアイテムに対する執着を見せるようになった。

最初にその傾向が表れたのは、長らく続いた雨季がようやく終わりの兆しを見せ始めた頃のボス攻略戦だった。
ボスHPの大半が削られ、戦いが終わる寸前。リンドの率いる隊がセオリーを無視して強引に前へ割り込み、露骨なラストアタック狙いのプレイをしたことがあった。
従来のMMORPGであれば、それも立派なプレイスタイルの一つだっただろう。だけど、自分の命が懸かっている状況でそんな行動に出るなんて、いくら何でも滅茶苦茶だ。
レイドの総指揮を執っていたディアベルにとっても予想外だったらしく、まるで第1層での自身の行動を焼き増したかのような光景に、終始顔を顰めていた。
彼らの身勝手な行動はディアベルから厳重注意され、以後のボス攻略では協調性を第一に考えるように諭されていた。

彼らの黒い噂を耳にするようになったのは、その頃からだっただろうか。
曰く、《ユニオン》の古参メンバーの中には、レアアイテムのためなら一時的なオレンジ化も辞さない者達がいる───と。
その噂が直接の切っ掛けとなったかは定かではない。けれど、結成当初こそ一般プレイヤーの救世主として称えられていた《ユニオン》は、雨季の終わりを境に徐々に評価を落としていった。

そんな住人たちからの評判もリンドら一部の古参プレイヤーにとっては納得のいかないものであったらしく、時をほぼ同じくして結成された《血盟騎士団》が最強ギルド候補として台頭し、何かと不穏な噂の付き纏う《ユニオン》を見限った一部のプレイヤーたちが彼らを支持するようになると、それに対抗心を燃やしたリンドたちのやり方はますます過激なものとなっていった。
そうして彼らは、今では目的のためなら手段を選ばない人間として、一般プレイヤーたちの間にも名が知れ渡るまでに至った。

今回の《黒の剣士》に関する騒動にしても、ディアベルやオリヴィエが説得による制止を試みている一方、リンドたち4人を中心とした一派は実力行使による排除───《ユニオン》の権限を用いた投獄、もしくは攻略組からの追放を強く提案した。
そこにはかねてから敵対視していた元βテスターであり、攻略においても常に自分たちの上を行くキリトを、これを機に蹴落としたいという意図も少なからず含まれていたことだろう。

その件については組織内でも意見が分かれており、元々ディアベルの思想に共感して入団した者や、上に立つことに興味を持たない者は前者の和解案を、対して、大規模ギルドの恩恵に与りたいという思惑を持って《ユニオン》に加入した者や、単純に強さを見出されて勧誘された者───他のプレイヤーのためではなく、自分の利益のためだけに《ユニオン》に加入した者は後者の排除案をそれぞれ支持し、違う意見を持った団員同士による衝突が度々繰り返されるようになった。

また、最初はディアベルを英雄視していたプレイヤーの中にも、攻略組トップクラスのギルドに身を置いているうちに『自分たちこそが最強で、特別だ』という慢心を抱くようになってしまい、後者に鞍替えする者も少なくはなかった。
そのため、現在《ユニオン》内部の団結力は非常に弱まっており、ディアベルを以ってしても組織内の意見を取りまとめることが難しい状況となっている。
リンドら古参幹部の持つ影響力は日に日に強まっており、組織の存続のためには彼らの意見に首を縦に振らざるを得ない───SAO最大規模を誇るギルドの実情は、僕たちが想像していた以上に複雑だった。いずれギルドが分化したとしても、何ら不思議ではないように思える。

けれど───どうにも腑に落ちない。
あのキバオウがそうであったように、リンド、シヴァタ、ヤマタ、ハフナーの4人もディアベルのことを相当に慕っていたはずだ。
そんな彼らがディアベルへの裏切りともいえる行為───レイドを危険に晒してまでラストアタックボーナスを強奪しようという考えに至るまでに、一体どんな経緯があったというのだろうか。
少なくとも、傍から見ている分には彼らの関係は良好であったように思うし、それまでのボス攻略でもこれといったトラブルはなかったはずだ。

であれば、何が彼らにそうさせたのだろうか。
元々ディアベルに不満を抱いていたというわけではない以上、彼らがそういう行動に出たのは何か理由があるはずだ。
だとすれば───その理由は?
誰かに唆されたのか? でも、一体誰が?
リンドたち古参幹部を唆し、《ユニオン》の内部に亀裂を入れたところで、誰が得をするというのだろうか……?


「ふざけんじゃねぇ!!」

──と。
頭の中を疑問符ばかりが駆け巡り、会議の内容から意識を逸らしつつあった僕の耳に、石造りのテーブルを力一杯叩く音と、慣れ親しんだ声による怒号が飛び込んだ。
見ればテーブルに両手を突いて立ち上がったクラインが、今にも泣き出しそうな顔で攻略組の面々を睨み付けていた。

「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! 投獄だの排除だの言う前に、どうして誰もアイツの助けになってやろうとしねぇんだ!どうして誰もアイツの気持ちを考えてやれねぇんだよ!? アイツは……、キリトはなぁ!オレンジ連中にパーティメンバーを皆殺しにされたんだぞ!!」
「………」
「同じことを手前ェらがやられても、そうやって平然としていられんのか!? 復讐しようって気持ちが一片たりとも湧いてこないって、手前ェらは言い切れんのかよ!? オレは、オレは……」
悲痛な叫びは徐々に弱弱しいものとなっていき、クラインは力なく項垂れた。
その両目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「……オレはこのゲームを始めたばかりの頃、アイツに助けてもらった。茅場の野郎のふざけたアナウンスを聞かされた時だって、アイツはオレを真っ先に助けようとしてくれたんだ。 ……だから、だからアイツは悪人なんかじゃねぇ!アイツが良い奴だってのは、このオレが一番よく知ってる!そもそも向こうがPKなんてしてなけりゃ、アイツが望んでこんなことをするはずがねぇんだ!ちゃんと話せば分かってくれるはずなんだよ!」
「お前、俺達の話を聞いていなかったのか? 奴の説得は難しいと、そこのオリヴィエが言っただろうが。こうして解決策を考えているが、それでも───」
「うるせぇ!」
呆れ顔で肩を竦めたリンドの言葉を遮って、顔を上げたクラインは咆哮するように叫ぶ。

「何が説得は難しいだ、何が解決策だ!結局手前ェらが考えているのは自分の保身だけだろうが! オレは……、オレはアイツを信じる!オレだけでもアイツを信じ続けてやんなきゃなんねぇんだ!アイツを追放するのも討伐するのも、オレはお断りだからな!」
両の拳を力の限りに握り締めながら、クラインは会議に参加している全員に向けて断言した。
例えこの場にいる全員を敵に回そうと、そんなことは全く関係ないとでもいうように。
悪人と呼ばれていようが、排除するべきだと言われようが、自分だけは《黒の剣士》を───キリトを信じると。
彼と初めて出会った時に、僕が思った通りのことを。
真正面から、正々堂々と───言い切った。

「で、ですがクラインさん、具体的にはどうするおつもりなのですか?これまでのことから考えて、今の彼を説得するのは相当難しいかと思われますが……」
「そいつは……………今考えてるところだ!何か文句あるか!」
「ふふっ……!」
恐る恐る尋ねるオリヴィエに向かって堂々と開き直ったクラインに、僕は思わず笑ってしまった。
まったく、この人ときたら。超がつくほどの、笑ってしまいたくなるくらいのお人よしなんだから。
これじゃあまるで、あれこれ悩んでいた僕が馬鹿みたいじゃないか。
本当に……馬鹿みたいじゃないか。

「少し訂正させてもらうよ、クライン」
だから。
馬鹿みたいな僕は、馬鹿みたいにお人よしなクラインと並んで立って、この場にいる全員の顔を見渡した。
突然立ち上がった僕を怪訝そうな目で見ている彼ら───その全員に向かって、僕は言う。

「“オレだけ”じゃない。僕も……、僕もキリトを信じる。キリトを排除なんて、絶対にさせない!」
自分でも驚いてしまうくらいスムーズに、僕の口から言葉が飛び出した。
こんなに簡単なことを躊躇っていた自分への戒めも込めて、思い切り声を張り上げる。

「ユ、ユノ、おめぇ……」
「何驚いてるのさ、クライン。僕がキリトを信じることがそんなに意外?」
「いや……、いや!意外じゃねぇ、ちっとも意外じゃねぇぞ、ユノ! おめぇならそう言ってくれると思ってたぜ!」
驚きで目を丸くしていたクラインに笑いかけると、彼は目尻に涙を溜めながらも笑い返してくれた。

そんな僕たち二人に、周りのプレイヤーたちは理解できないものでも見るような眼差しを向けてくる。
彼らの中では《黒の剣士》の排除は既に決定事項となっていて、キリトを庇おうとしている僕たち二人の姿は、滑稽以外の何でもないだろう。

だけど───それがどうした。

例え滑稽だろうと、周りからどんなに白い目で見られようと。
それがキリトを───友達を信じちゃいけない理由になんて、なるもんか。

確かにキリトのやっていることは、とても褒められたことではないのかもしれない。
そこに事情があろうがなかろうが、彼がPKを行っているのは紛れもない事実であって、それは周りから見れば“悪”なのかもしれない。

だけど、間違いを犯さない人間なんてこの世のどこにもいない。
だから───友達が間違った道を進んでいたのなら、僕たちで止めればいい。
組織のためでも保身のためでもなく、一人の友達として、キリトを止めればいい。

こんな時はどうすればいいとか、自分に何ができるとか、そんなことを考える必要なんてなかった。
例え悪人を擁護していると罵られても、友達である僕たちだけは、信じることをやめてはいけなかったんだ。
彼を説得することを、諦めてはいけなかったんだ。

そうして、彼が間違いに気付いてくれたのなら。
間違いに気付いて、周りからの非難の目に耐えられずに、孤独と罪悪感に押し潰されそうになってしまったのなら。
その時は僕たちが、味方はここにいるんだよと笑いかけてあげればいい。
あの第1層での出来事の後、みんなが───キリトが僕にそうしてくれたように。
それが、今の僕にできること。
彼の友達として、僕にもできることはあったんだ。

ただそれだけのことだった。
ただそれだけのことを、僕は馬鹿みたいに躊躇っていた。
まったくもって自分が情けない。
散々彼らに助けてもらっておきながら、これじゃあ恩知らずもいいところだ。

だから───そんな汚名を返上するためにも。

「せっかく話し合ってたところを悪いけど、ここは僕たちに譲ってもらうよ」
この場に集まった各ギルドの代表に、僕は宣言する。

「《黒の剣士》は───キリトは、僕たちが止める」
キリトの友達として、今の自分にできることをするために。


 

 

とあるβテスター、人形遣いと出会う

6月初頭。現実世界と同じくアインクラッドにも雨季が近付きつつあった、ある日のこと。
僕とシェイリの二人は、第29層の郊外に存在する、いかにも怪しい雰囲気の漂う洋館―――プレイヤー達の間では《人形師の館》と呼ばれているダンジョンを訪れていた。
一昨日解放された第30層に拠点を移す前に、29層で受けられるクエストの攻略を済ませてしまたいという理由からだった。

クエスト名は《人形師の遺産》。
第29層主街区隅の一軒家にひっそりと暮らしているNPCから受けられる討伐クエストで、郊外の洋館に棲みつく人形型モンスターを退治して欲しいという内容だ。
数年前に亡くなったというこの人形師は、死んだ恋人を蘇らせるためにありとあらゆる種類の人形を作り続け、とある賢者から盗み出した秘術を用いて人形に恋人の魂を定着させようとしていた。
しかし、彼の願いも虚しく、肝心の秘術を実行に移す前に自身が病死してしまう。
主街区の住人も人形師のことを不気味がっていたため、彼の死を知らされた者達はようやく安心して暮らせると安堵した―――のも、束の間。
唯一の住人が病死したことで無人となったはずの洋館からは、夜な夜な人形師のものと思しき呻き声が聞こえ、更には彼の遺した人形達がひとりでに動き出し、館に足を踏み入れた者へ襲い掛かるのだという。

依頼主であるNPCは、件の人形師の幼馴染だという男だ。
幼い頃から彼のことをよく知っているのだという男は、恋人を失ってからすっかり狂ってしまった幼馴染の姿に心を痛めていた。
人形師の死を境に洋館に起こり始めた怪奇現象について、街の住人たちからは、彼の亡霊が自分の作った人形に執着し続けていることが原因なのだとまことしやかに囁かれている。
彼の遺した人形たちを討伐し、幼馴染の未練を断ち切ってやって欲しい―――男は涙ながらにそう訴え、続いて開いたクエスト受注ウィンドウに表示されたのが、この《人形師の遺産》クエストだった。
なんともまあ凝った設定だ―――と思うのと同時に、ホラー系全般が苦手な僕としては、あまり気乗りがしないクエストだったことは言うまでもない。
流石に第17層の例のダンジョンほどではないだろうけれど、話の所々に出てきた『亡霊』という単語が僕の不安を煽るのだった。


で、実際に来てみたところ。毎度のことながら、そんな僕の不安は的中してしまうこととなった。
NPCの話から想像していたおどろおどろしいイメージに違わず、洋館に足を踏み入れた僕たちを盛大出迎えたのは、ホラー映画で御馴染みの不気味な造形をした操り人形《マリオネット》だった。
糸吊り人形であるにも関わらず、彼女達を操作している者の姿はどこにも見えない。にも関わらず、宙に浮いた十字型の簡素な木片が、まるで誰かが操作しているかのように動き続けていた。
そんな操り糸の動きに合わせるように、等身大のマリオネットたちは全身各所の関節をカクカクと揺らしながら、ゆっくりぎこちない動きでこちらに迫ってくる。
そんな様子に怯える僕とは裏腹に、人形達はにっこりと満面の笑顔だ。だけど、元々の顔の造りがホラー映画に登場するクリーチャーよろしく不気味なものだったので、彼女達の笑顔はかえって僕の恐怖心を倍増させたに過ぎなかった。

「ユノくん、お人形さんかわいいね~!」
「どこがだ!!」
「見て見て、首がぽろってなってるよ~!かわいいっ」
「可愛くねぇよ!!」
嬉しそうにはしゃぐシェイリに、思わず声を荒げて突っ込んでしまう僕。
いつものことながら、彼女の感覚はどこかずれているように思えてならない。
こんな不気味なことこの上ない人形が可愛いなんて、相方である僕から見てもちょっとどうかと思う……。

「あ、ユノくん後ろっ」
「えっ―――ひぃぃぃぃっ!?」
「ダメだよー、ちゃんと後ろも注意しなきゃ―――ってユノくん!?何してるの!?」
「フィ……フィフスペンタグラムぅぅぅッ!!」
「ユノくん落ち着いて、無駄遣いはダメだよっ! あとそれ叫ぶ必要ないよね!?」
そこからのことはあまり思い出したくはないけれど、こんな流れがあったようななかったような、といった感じで。
普段マイペースなシェイリの貴重な突っ込みという一場面こそあったものの、人形達は見てくれが不気味であることを除けば強さも大したことはなく、戦力的には僕とシェイリの二人だけでもこれといって問題はなかった。……戦力的には。


「あーもう……、いくら何でも取り乱しすぎだろっていうね……。我ながら恥ずかしくて消え入りたいよ……」
それからいくらか時間が経って。
動揺のあまり最高威力のソードスキルによるオーバーキルを連発し、あまつさえ意味もなくソードスキルの技名を叫びまくり、あろうことかシェイリに突っ込まれるという醜態を晒してしまった僕は、どんよりとした気分で頭を抱えた。
そろそろ小休止しようということになり、安全エリアを目指して歩いている最中にも、僕は遅れてやってきた羞恥心に苛まれ続けていた。
穴があったら入りたいというのは、きっとこういう状態のことを指している言葉なんだろう。

「大丈夫だよ~、ユノくん。わたしはそんなユノくんも見慣れてるから、今更だよ~」
「それ、フォローのようで追い打ちだから。ちょっと傷付くから」
そんな僕に、シェイリは出来の悪い子供を温かく見守るかのような笑顔で言った。
いや、フォローしてくれるのはありがたいんだけど……僕、いつもはそんなに酷くないだろ?
その言い方だと普段から醜態晒してばかりいるみたいに聞こえるじゃないか……。

「……まあいいや。そろそろ安全エリアに着くはずだから、着いたら30分くらい休もうか」
「はーい」
昨日購入した『アルゴの攻略本・第29層完全版』に掲載されているマップデータと照らし合わせながら、薄暗い廊下を進んでいく。
廊下の突き当りを左に曲がって、3つ並んでいるうちの2番目の部屋が安全エリアに設定されているらしい。
このだだっ広い洋館には似たような通路が多く、存外ややこしい造りになっているので、こういう時は攻略本の存在がありがたい。
流石に第1層の時のように無償というわけにはいかなかったけれど、このホラーハウスを何の当てもなく歩き回ることを考えれば、多少の出費は惜しくなかった。
強いて言うなら、ここの人形が非常に不気味であることも書いててくれれば尚よかったのだけれど。

そんなこんなで安全エリアである部屋の前まで辿り着き、ドアノブを回して扉を引いた―――次の瞬間。

「げっ!?」
「あれー?」
部屋の中に佇んでいたものを見て、僕とシェイリは二人揃って素っ頓狂な声を上げてしまう。
ようやく休めると思って気を抜いていた僕たちの目に飛び込んできたのは、身の丈40cmほどの西洋人形だった。

アルゴの攻略本によれば《ボーパルパペット》という名前らしいそのモンスターは、部屋の外を徘徊しているマリオネット達に比べて生息数が少なく、ちょっとしたレアモンスター扱いとなっている。
ちょこまかと動く小さな身体に、金糸のようなツインテール。どこかの国の民族衣装のようなフリルのたっぷりついたドレスを着ていて、一見すると可愛らしい人形のように思えるけれど、《首狩り人形》という意味を表す名前の通り、小さな手に持った手鎌《シックル》による素早い斬撃を得意とするモンスターだ。
小柄なためか攻撃力自体はそこまで高くないものの、素早い動きで的確に首筋を狙ってくるため、攻撃力の数値以上のダメ―ジを与えてくる強敵―――なのだそうだ。
どうしても振りが遅くなってしまうシェイリの両手斧とは相性が悪く、投剣スキルによるダメ―ジも通りが悪いとのことで、斧槍使いのリリアがいるならまだしも、二人だけの時はなるべく遭遇したくない相手だった。

「ユノくん。ここって安全エリアだよね?」
「そのはずだけど……」
そんな西洋人形が、何故か安全エリアであるはずの部屋に陣取っていた。
部屋を間違えたのかと思ったけれど、手元の攻略本に記載されているマップデータでは、間違いなくここが安全エリアだとされている。
ほんの一瞬だけ誤植を疑ったものの、アルゴの攻略本に限ってそれはないだろう(とはいえ、『大丈夫。アルゴの攻略本だよ』という売り文句を目にした時だけは、何故か無性に不安を感じてしまうのだけれど)。

「部屋の位置は合ってるみたいだし……バグか何かかな。まあ、倒すしかないよね……!」
「りょうかーい!」
ともあれ、このまま棒立ちしているわけにもいかないので、僕とシェイリはそれぞれナイフと両手斧を構えた。
誤植かバグか。どちらにせよ相手の補足範囲に入ってしまった以上、戦わないわけにはいかない。
僕とシェイリはどちらも武器の相性は悪いけれど、レベル的には十分に安全マージンを確保しているので、クリティカルヒットさえ貰わないように気を付けていれば、強敵といえどもごり押しでなんとかなるだろう。

「じゃあ行くよ、シェイリ―――」
「ちょっと待ちたまえ、君達」
「――え?」
攻撃態勢に入ったシェイリに戦闘開始の合図を出し、投剣による先制攻撃を仕掛けようとしたところで。
シェイリのものではない女性の声が割って入り、驚いた僕は、発動しかけていたソードスキルの始動モーションを中断した。
隣のシェイリも構えていた斧を下ろし、不思議そうな顔で辺りを見回している。

「ああ、すまない。ここだよ、ここ」
声のした方向に目をやると、部屋の奥に設置された本棚の陰から、一人の女性プレイヤーがひょっこりと顔を出していた。
ぼさぼさの黒髪を鎖骨のあたりまで垂らし、黒いコートの下に中世貴族のようなゴシックジャケットを着込んでいる。
下半身には黒のレザーパンツを履き、編み上げのロングブーツにインさせていた。
身体のラインが強調される衣装に身を包んでいることもあって、全体的にスレンダーな印象を受ける妙齢の女性だった。
本棚の陰は入口からだと死角になっていて、声をかけられるまで全く気が付かなかった―――というか、すぐ近くにモンスターがいるというのに何をやっているんだろう、この人。

「えーっと……そんな所にいたら危ないですよ。バグか何かはわかりませんけど、モンスター湧いてますし」
「ああ、それなら心配には及ばないよ。その子は私の友人だからね」
「え?」
言われて、視線を西洋人形へと戻せば。
小さな頭の頭上に表示されたカーソルは、モンスターを表す赤色ではなく、目の前の女性プレイヤーと同じ緑色をしていた。
モンスターであるにも関わらずカーソルがグリーンで、こうしている間に僕たちに攻撃してくるということもない。
つまり、この小さな人形は―――

「テイミングモンスター……ですか?」
「ご名答。その子は私がテイムした人形《パペット》でね。名前はぺんぺん丸だ」
「………」
あまりにもミスマッチすぎる名前に絶句してしまった。
どう見ても西洋の女の子を模した人形なのに、ぺんぺん丸って。どういう名付け方をしたらそうなるというんだ……。

「昨夜は少しばかり寝不足でね。その子に見張りを任せて私は昼寝と洒落込んでいたんだが……どうやら君達には勘違いさせてしまったようだ。友人として謝罪しよう」
「は、はぁ……」
そう言う間も欠伸を噛み殺したような顔をしている女性に、僕は思わず気の抜けた声を漏らしてしまう。
なんというか―――変わった人だ。
確かに安全エリアはモンスターが湧く心配はないけれど、だからといって一人で昼寝するのはあまりにも無防備なんじゃないだろうか。

“安全”という言葉が含まれていることから誤解されやすいのだけれど、ダンジョン内に存在する安全エリアというのは、あくまでも“モンスターが湧かない”というだけの空間だ。
安全エリア内での戦闘行為自体は禁止されていないし、攻撃をされれば普通にダメージを受けてしまう。
今まさに僕たちが勘違いしていたように、もし何らかのバグで安全エリア内にアクティブモンスターが湧いてくるようなことがあれば、寝ている間に攻撃されてしまう可能性があり、安全なんて名前が付いていても、決して手放しに安心できるような場所ではない。
第1層の頃に臨時パーティメンバーだったレイピア使いの少女―――アスナが一時期、迷宮区でソロ狩りをしながら毎日安全エリアで寝泊まりしていたという話を聞いた時は、なんて無茶苦茶なことをするんだろうと思ったほどだ。

また、その他にも―――というかこれが一番の懸念材料なのだけれど、モンスターと同様にプレイヤー同士による戦闘行為も有効なため、万が一にでも睡眠時を狙ってPKされるということがないように、仮眠を取る場合は交代で見張りを立てておくというのが暗黙の了解となっている。
とはいえ、それも見張りを担当するプレイヤーに裏切られてしまえばそれまでなので、こちらもよっぽど信頼できる相手でない限りはやめておいたほうがいいだろう。
こういった事情があって、仕様があまり知られていなかったサービス開始初期の頃ならともかく、最近では安全エリアで睡眠を取るプレイヤーはほとんどいない。
街と狩場を行き来する手間はかかっても、命には代えられないのだから当たり前といえば当たり前だろう。

だというのに、この女性プレイヤーは一人で昼寝していたのだという。
肝が据わっているといえばいいのか、それとも無謀というべきか……。

「おねーさん、ひとりで寝るのは危ないよ?」
「そうですよ。いくら安全エリアだからって、見張りも立てずに眠るのは無謀すぎます」
「御忠告ありがとう、可愛らしいお嬢さん達。だけど、私のことなら心配いらないよ。さっきも言った通り、私にはこの子がついているからね。この部屋に私以外のプレイヤーやモンスターが近付いてきたら、その時はすぐに私を揺り起こしてくれるように言ってあるんだ」
僕とシェイリが揃って忠告すると、女性は何も心配する必要なんてないとでもいうように、膝に乗せた西洋人形の頭をぽんぽんと撫でた。

「そうなんだ!ぺんちゃん、すごいね~!」
「ははは、そうだろうそうだろう。ぺんぺん丸は私の優秀な相棒だからね。なんなら君も頭を撫でてみるかい?」
「うんっ!」
飼い主に撫でられながらうっとりとしている(ように見える)西洋人形―――プレイヤーにテイムされたモンスターというアインクラッドでも珍しい存在に、シェイリも興味津々といった様子で目を輝かせている。
実を言うと僕もビーストテイマーに会ったのは初めてなので、ネットゲーマーの端くれとして興味を惹かれないこともなかった。

この女性のようにモンスターのテイミングに成功したプレイヤーは、通称《ビーストテイマー》と呼ばれている。
戦闘中、ごく稀にモンスターがプレイヤーに対して友好的な態度を示してくることがある。
その際にモンスターの好物を与えるなどして手懐けることができれば、カーソルの色がグリーンへと変わり、以後はそのモンスターを《使い魔》として使役できるようになる。要はペットのようなものだ。
使い魔の戦闘能力自体はそこまででも高くないものの、様々な能力でプレイヤーを補助してくれるらしい。
この女性が昼寝中の見張りを任せていたというのも、西洋人形のAIに索敵行動が組まれているからこそなのだろう。

とはいえ、一口にテイムといっても言葉ほど簡単ではなかったりする。
せっかくチャンスが訪れても、そのモンスターの好物を持ち合わせていなければテイミング失敗となってしまうし、対象と同種族のモンスターを今までに一度でも倒していた場合、その時点でテイムの資格を失ってしまう。
他にも条件があるのではないかと噂されてはいるものの、肝心のビーストテイマー自体が極端に少ない―――というか、今現在確認されているビーストテイマーは一人しかいないため、テイミングシステムそのものが未知の領域といった具合で、未だに詳しい条件は判明していない。
何ヶ月か前に、SAOで初めてモンスターのテイムに成功したという少女―――確か《竜使い》と呼ばれていたプレイヤーにしても、偶然出会ったモンスターに袋入りのナッツを与えてみたところ、その一度きりでテイムに成功したのだというから、条件を絞りようがなかった。
何にせよ、相当に運が絡むイベントで、尚且つ狙って出せるようなものでもないということだけは確かだろう。

「それにしても《ボーパルパペット》をテイムするなんて、随分と運がいいんですね。……えっと」
「おっと失礼、私としたことがまだ名乗っていなかったね。ちなみにキャラクターネームとリアルネーム、お嬢さんはどちらを御所望だい?」
「いや、普通にキャラクターネームのほうですけど。というかお嬢さんって……」
ビーストテイマー―――この場合は人形遣い《パペットマスター》とでも呼ぶべきか―――の女性は、僕の顔を見てからそう言った。
アバターの姿が現実世界と同じになってから、何かと子供扱いされることは多かったけれど、こうしてお嬢さん呼ばわりされるのは初めてのことだった。
アルゴあたりが知ったら聞こえよがしに爆笑されるのは目に見えているので、奴にはここでの会話を絶対に知られないようにしなければなるまい。

「流石に現実世界での名前を聞いたりはしませんよ。マナー違反になりますし」
「それもそうだったね。いやはや、失敬失敬」
それはさて置いて。
まさか名前を尋ねた相手から、キャラクターネームかリアルネームかなんて聞かれるとは思っていなかった。
今のSAOでは現実世界のことはおろか、ステータスについてしつこく追及することさえもマナー違反とされている。
いくら僕がこの女性のことを変わった人だと思っているとはいえ、流石に初対面の相手に本名を尋ねたりはしないし、そんなナンパじみたことをする度胸もない。

「ふむ、キャラクターネームか。そういうことならば、私の名前はナナミヤだ。気軽にナナりんとでも呼んでくれたまえ」
「呼びません」
いきなり何言ってんだ、この人。
こう言うのも失礼だけど、そんなあだ名で呼ばれる歳でもなかろうに。

「ちなみに本名を七宮七瀬という。どちらにしてもナナりんで通るから安心して呼んでくれたまえ」
「だから呼ばねぇよ!しかも本名ばらしてんじゃねぇか!」
咄嗟にリリアのような突っ込み方をしてしまう僕。完全にキャラが崩壊していた。
というかこの人、現実の名字をそのままアバターネームにしてたのか……。
インターネット初心者の人がやりがちなことではあるけれど、ネット上で個人情報を出すのは一昔前では考えられなかったくらいなのだから、もう少し危機感を持ったほうがいいと思うのだけれど。
ましてや『ななみやななせ』なんて珍しい名前の組み合わせは、そうそう他人と被ったりはしないだろうし。

「この場合はアバター名と同じだから仕方ないのかもしれませんけど、あんまり他人に本名とか教えないほうがいいですよ。……もう遅いですけど」
「ああ、知人にも同じことを言われたよ。しかしお嬢さん、私は英語というものが大の苦手でね。知人にそのことを指摘されるまで、アバターネームというのは何処かの国の言葉で名字のことを指しているのかと思っていたのだよ。初めてこの世界に降り立って周りのプレイヤーの名前を聞いた時は、世の中は随分と珍しい名字で溢れかえっているのだなあと感心していたくらいだ」
「そんなわけねぇだろ!」
僕が密かに心配していることなど露知らず、自称ナナりんことナナミヤさんはとんでもないことを言い出した。
リリアとかキバオウだとかいう名字の日本人がいてたまるか!
ネット初心者とか英語が苦手とか、そういうレベルを逸脱しているぞ、この人……!

「時にお嬢さん、あまり乱暴な言葉遣いをするものではないよ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「うっ……」
柄にもなく声を荒げてばかりの僕に、そうさせている張本人であるはずのナナミヤさんは涼しい顔で言う。
お嬢さんと呼ばれたのはともかく、言葉遣いが乱暴になってきているのは否定できないのが痛いところだ。
リリアとパーティを組むようになった影響なのか、最近の僕は自分でも、我ながら言葉遣いが悪くなってきているという自覚がある。
仮に現実世界に戻ることができても、母親に怒られる所が簡単に想像できてしまって少し怖い。
元々言葉遣いについては、何かと注意されてばかりいたしなぁ……。

「私はこれでも驚いているのだよ。まさかこんな辺鄙な場所で、君達のような可愛らしい少女達に出会うとは思ってもみなかったからね。天使が舞い降りたのかと我が目を疑った思ったほどだ」
「て、天使って……」
「ああ、しかし可愛らしいね、君は。そのショートヘアといい、艶のある白い肌といい、私の好みにぴったりじゃないか。案外、君と私がここで出会ったのは運命というものだったりするのかもしれないね」
「ちょ、ちょっと、ナナミヤさん……」
「おや、照れているのかい? ふふ、真っ赤な頬がとても愛しいよ。思わず食べてしまいたくなるじゃないか、子猫ちゃんめ」
「う、うぅぅ……!」
な……、何言ってるんだこの人……!
まさか本気で言ってるわけではないんだろうけど、こんなに真剣な顔でここまでベタ褒めされると、流石に僕も気恥ずかしくなってしまう。

よくよく見るとナナミヤさんの顔はすっきりと整っていて、ピシッとした服装も相まって男装の麗人に見えなくもなかった。
女性として見れば美人、男性として見れば美男子といった良いとこ取りの顔立ちで、魔性ともいえるような不思議な魅力を放っている。
超のつくほど臭い台詞をこんなに真顔で言えるだけでも驚きだというのに、それが様になっているところがまた、ナナミヤという人物の底知れぬ恐ろしさを感じさせた。
シェイリに助けを求めようにも、彼女はというとぺんぺん丸とじゃれ合うのに夢中で、僕が色々な意味で危機に陥っているのだということに気付きもしないのだった。

「ほら、目を逸らさないで……」
「う、ううううう~……!」
突然の精神攻撃にうろたえている間にも、ナナミヤさんは僕に向かって真剣な眼差しを送ってくる。
知性を感じさせるゴールドオーカーの瞳が、静かに、それでいて情熱的に僕の目を見つめ続ける。
甘くとろけるような囁き声に、なんだか頭がくらくらしてきた。
や、やばい。この人にずっと見つめられていると、僕、なんだかおかしな気分になって―――

「ちなみに私は両刀だ。男性も女性も分け隔てなく愛することができる」
「何言ってんだあんた!」
うっかりおかしな方向へトリップしかけていた僕の意識は、続いてナナミヤさんの口から飛び出した爆弾発言によって、すんでのところで現実へと引き戻された。
よりにもよってこのタイミングでカミングアウトするようなことじゃないだろ……!
本当に何言ってるんだ、この人……!

「さて、私は名乗った。今度は君の番だよ、お嬢さん」
「あー、もう……。なんというか、すごーく疲れました……」
「そうかね?ならば私がその疲れを解きほぐしてあげようか」
「け、結構です!」
この人に任せたら何をされるかわかったものじゃなかった。
必死にかぶりを振りながら、僕は今日この洋館を訪れたことを少し後悔していた。
なんというか、アルゴとはまた違う意味で相手のペースに引き込まれてしまい、気力がみるみる削られていくのを感じる。
変な人と関わり合いになっちゃったなぁ、というのが本音だった。
よく考えたら結構失礼なことを考えている気がしなくもないけれど、この人に対しては罪悪感など湧いてこなかった。

「それは残念。して、お嬢さんの名前は何というんだい?」
「はぁ……、僕はユノといいます。できればその、お嬢さんっていうのはやめて欲しいんですけど……」
「おや、それは失礼。そういえばあちらのお嬢さんからはユノ“くん”と呼ばれていたように思ったが、その言葉遣いといい、ひょっとしてお嬢さんではなくお坊ちゃんのほうが正解だったりするのかな?」
「あ、ええと―――」
「まあ、君がどちらだったとしても私には関係のないことなのだけれどね。お嬢さんだろうとお坊ちゃんだろうと変わらずに愛することを約束しよう」
「いらねぇよそんな約束!」
なんというか、もう。
クエストとかどうでもいいから、宿屋に帰りたいなぁ。
ほんの10分ほど前までは不気味な人形達に怯えてばかりいたのに、どうしてこんなことになってしまったというのか。
というか両刀だっていう話、冗談で言ってるんだよね?本気だったりしないよね?

「お嬢さんと呼ばれるのは嫌か、了解した。ではユノりんと呼ばせてもらうことにしよう」
「やめてください」
何の罰ゲームだよ。
自分をナナりんと呼べと言っていたことといい、そのあだ名の付け方を気に入ってるんだろうか。

「おや、お気に召さないかね?」
「ええ、まあ……」
「ふむ? なかなかいい呼び名だと思ったのだが……。では、ゆのぴょんと」
「………」
悪化してんじゃねぇか。
人前でそんな呼び方をしてみろ、僕は訴訟も辞さないぞ。

「あの、できれば普通に呼んでいただけると……」
「これもだめかね、ふーむ……。しかしだね、お嬢さん。別に責めるつもりはないのだが、名前がたったの二文字だけでは、どうにも口にした時の語呂がよろしくないと思わないかね? こう言っちゃ悪いのだが、名付けのセンスを疑わざるを得ないよ」
「全国の二文字の名前の人とその親に謝れ。あとあんたには言われたくねぇよ」
「ではこうしよう。間を取ってゆのたんで妥協しようじゃないか」
「何の間を取ったんだよ!!」
駄目だ、この人と話してるとすごく疲れる。
SAOでは体調不良になることはないはずなのに、何だか頭が痛くなってきたような錯覚に陥る……。

「仕方ないね……、ならばゆのゆのと呼ばせてもらおう。いくら寛大な私でもこれ以上の譲歩は無理というものだよ、お嬢さん」
「……、もうそれでいいです……」
やれやれといった具合で肩をすくめるナナミヤさんに、僕はもう何も言い返す気力すら湧いてこなかった。
寛大な要素がどこにあるんだよとか、何をどう譲歩したんだよとか、僕が悪いのかよとか、むしろ悪化してんじゃねぇかよとか、色々と突っ込みたい所は山ほどあったけれど、突っ込み疲れた僕にはもはやどうでもよくなっていた。
なんかというか、色々と泣きたい気分だった。

「ゆのゆの、あちらのお嬢さんは何という名前なのだね?」
未だに西洋人形とキャッキャウフフといった感じでじゃれ合っているシェイリへと目線を向け、ナナミヤさんは僕に問う。
この変人と会話を続ける気力すら失いかけていた僕は、力なく答えた。

「あの子はシェイリですよ。僕のパートナーです」
「ふむ、あちらのお嬢さんはシェイリちゃんというのか。こちらも姿に負けず劣らず可愛らしい名前じゃないか、結構結構」
「おいちょっと待て」
どうして僕がゆのゆので、シェイリは普通の呼び方なんだよ。僕の名前の何が駄目だったんだよ。ちょっと傷付くだろうが。

「しかしあれだね。シェイリちゃんは見るからに幼女だからいいとして、ゆのゆのは全体的にもう少し肉を付けるべきだと私は思うがね」
「………」
僕の胸元に視線を向けながらそんなことを言うナナミヤさんは、セクハラ面ではリリアに負けていなかった。
変わらず愛することを約束するとか言っといてセクハラしてんじゃねぇよ。
ひょっとしてわざとやってるんだろうか、この人。

「それにしても、ぺんぺん丸が私以外の者にあそこまで懐くとは、シェイリちゃんにはビーストテイマーの素質があるのかもしれないな。結構結構」
そう言って、勝手に納得したようにうんうんと頷くナナミヤさん。結構結構、というのが彼女の口癖らしかった。
見ればシェイリがぺんぺん丸を両手で抱き上げ、高い高いをしているとこだった。いや、君、順応しすぎだろう……。

「見たまえよ、ゆのゆの。なんとも微笑ましい光景だとは思わないかね? 結構結構」
「はあ、まぁ……そうですね」
僕は今すぐにでもナナミヤさんから離れたくて仕方ないというのに、シェイリがあの様子ではそれすらも叶わない。
いやまあ、確かにぺんぺん丸―――《ボーパルパペット》の見た目は、外で徘徊している操り人形たちよりも随分と可愛らしくはあるけれど。
主人であるナナミヤさんが珍しいと言っているあたり、あの西洋人形が彼女以外に懐くことはあまりない―――のだろう、きっと。
まあ、元々プレイヤーの首を狙ってくる凶暴なモンスターなのだし、使い魔となった今でも気性が荒いところは変わらないのかもしれない。

「いやしかし、ああも他の者に懐いているぺんぺん丸を見ると、私としては些か嫉妬してしまうよ。なにせ普段の彼女は友人である私の寝首をも掻こうとするほどに気性が荒いのだからね」
「懐いてないじゃねぇか」
むしろ殺す気満々じゃないか。
この人、本当にあの人形の主人なのか……?

「いやいやそんなことはないよ。付き合いこそそう長くはないが、私とぺんぺん丸は固い友情で結ばれているのだから」
「……そうなんですか? とてもそんな風には思えませんけど」
「失敬な。私以外の誰がぺんぺん丸の愛情表現を受け止めてやれるというのだね?寝首を掻こうとするのは種の本能なのだから仕方がないのであって、私が嫌われているという根拠にはならないよ」
「……。まあ、そうなんでしょうね……たぶん」
確かに首狩り人形っていうくらいだしなぁ。
ひょっとしてシェイリに懐いているのは、彼女が攻略組の間で《首狩り》などと呼ばれていることを本能で察したためだったりするんだろうか。同族意識みたいな感じで。
だとしても、愛情表現で寝首を掻かれそうになるのは僕は絶対嫌だけど……。

「おっと。シェイリちゃん、すまないがぺんぺん丸の食事の時間だ。彼女をこちらに渡してくれたまえ」
「はーい」
最後にもう一度だけ頭を撫でてから、シェイリは抱きかかえていたぺんぺん丸をナナミヤさんに手渡した。
こうしてみると、人間の赤ちゃんを扱っているように見えなくもない。
まあ、血のこびりついたシックルを持った赤ちゃんなんてものがいたら怖くて仕方ないけれど。

「ほうらぺんぺん丸、食事の時間だよ」
「………」
子供をあやすように笑いかけるナナミヤさんを眺めながら、僕はふと疑問に思った。
いくら使い魔には定期的に餌を与える必要があるといっても、ぺんぺん丸の種族《ボーパルパペット》は西洋の女の子の姿を模した人形だ。
《竜使い》の少女のような動物型モンスターならともかく、人形がどうやって食事をするというのだろう。
一応、ぺんぺん丸の顔には小さな口が付いているけれど、それはあくまでも人形の口であって、とても食事を行えるようには見えない―――って、

「……あの、ナナミヤさん。それは一体」
「彼女の主食だが?」
思わず聞かずにはいられなかった僕の視線の先には、ナナミヤさんの白魚のような指先―――に摘ままれている、何かの肉塊。
おそらくモンスターのものであろうそれは、加熱加工すらされていない生肉のようで、不気味なまでに赤黒い。

「………」
「? どうしかしたのかね、ゆのゆの?」
「い、いえ……なんでもないです」
自分でもわかるほどに顔が引き攣ってしまった僕を、ナナミヤさんは心底不思議そうな顔で見つめる。
そんな彼女の腕の中では、ぺんぺん丸が作り物であるはずの口を「がばぁ」と開き、一心不乱といった様子で生肉にむしゃぶりついていた。
どうやら彼女は肉食系女子ならぬ肉食系人形であるらしかった。正直に言ってかなり怖い。

「……ちなみにお聞きしたいのですが、ナナミヤさん。ひょっとしてそれ、いつも持ち歩いてるんですか……?」
「これのことかね? もちろん持ち歩いているとも。なにせこの子の大事な食糧だからね」
「そ、そうですか……」
「ちなみにこの肉は《コウシア族》と呼ばれる人型モンスター達がドロップするもので、今私が手にしているものだと、そうだな……恐らく人間でいうところの―――」
「やめてください!聞きたくないです!」
ご丁寧にも人間のどの部位にあたる肉なのかということを解説しようとするナナミヤさんを、僕は慌てて制した。
ただでさえ、目の前では生肉にがっつく西洋人形という不気味な構図が広がっているというのに、その人形が食べているのが何の肉かなどという詳細は聞きたくもなかった。

「ゆのゆのは些か好奇心に欠けているように見受けられるね。まだ若いというのに嘆かわしい」
「いや、別に好奇心がないわけではないですけど……グロいのはちょっと」
「おや、それは失礼。言われてみれば、この子の食事風景は初めて見る者には少々刺激が強かったかもしれないね。すまない、この通りだ」
「は、はぁ……別にそこまでしなくてもいいですけど」
申し訳なさそうな顔で頭を下げるナナミヤさんに、僕は少しばかり罪悪感を抱いてしまう。
確かにホラー映画じみた光景だったけれど、ぺんぺん丸だって生きている(?)以上は食事をしなければならないし、僕がとやかく文句を言えるようなことではなかったかもしれない。

そんな主人の様子を感じ取ったのか、今まで夢中で生肉を貪っていたぺんぺん丸までもが食事を中断し、主人を倣ってぺこぺこ頭を上下に振っていた。
うう、そんな風にされると申し訳なくなってくるじゃないか……。

「あ、あの、ナナミヤさ―――」
「……ふむ、ゆのゆのはよく見ると安産型のようだね。ますます私好みだ」
「どこ見てんだてめぇ!!」
そんな僕の罪悪感は、次のナナミヤさんの発言によって跡形もなく消し飛んだ。
どうやら頭を下げながら、僕の下腹部のあたりを凝視していたらしい。
一際大きな声で叫んだ僕はマントで身体を隠し、ナナミヤさんを睨み付けた。
前言撤回。こいつ最悪だ。

「ははは、冗談だよ。そう警戒した目で見ないでくれたまえ。いくら私でも18歳未満には手を出さないさ」
「………」
そういう問題じゃねぇよ。


「――さて。この子の食事も済んだことだし、私はそろそろ行くとするよ」
僕がナナミヤさんへ軽蔑の目を送っている間に生肉を食べ終えたらしく、彼女の腕の中ではぺんぺん丸が満足そうな様子で寛いでいた。
そんな西洋人形の頭を一撫でしてから、ナナミヤさんは「どっこらせ」という掛け声と共に立ち上がる。紳士のような口調で話す割に、変なところで年寄り臭い人だった。

「……あれ、ナナミヤさんソロなんですか?」
「ん、まあそんなところだよ。パーティというのはいまいち煩わしいのでね」
「そうなんですか」
僕の質問に、ナナミヤさんは肩をすくめてみせた。
まあ、確かにこの人ようなタイプはパーティでは浮いてしまうことだろう。
こうして少し話しただけの僕ですら、今は猛烈な疲労感に襲われているくらいなのだし。
SAOにパーティメンバー募集は数あれど、ナナミヤさんのような人を受け入れてくれるところはなかなか見つからないのではないだろうか。

「それにこの子と友人になってからは、こうして人気のないダンジョンの安全エリアを渡り歩く生活さ。この子を連れて街に戻って、周りから騒がれるのは好ましくないのでね」
「ああ……なるほど」
SAOでのビーストテイマーといえば、大変に希少価値のある存在だ。
なにせ現状で確認されているのが《竜使い》ただ一人だけなのだから、こうして二人目が現れたということが周囲に知られれば、たちまち注目を浴びることになるのはまず間違いないだろう。
例の竜使いの少女などはもはやアイドル扱いであり、テイム成功から数ヶ月経った今でも、未だにパーティに引っ張りだこなのだという話を聞くほどだ。

ナナミヤさんも少女という年齢ではないにしろ、男女問わずに引き込まれてしまいそうになるような不思議な魅力を持った女性だ(変人だけど)。
加えて二人目のビーストテイマー―――《人形遣い》ともなれば、竜使いの少女に負けず劣らず、例え本人が望まずとも周囲のプレイヤーたちが放ってはおかないだろう。
彼女がそういった騒がしさを煩わしいと思うタイプだろうというのは、僕にもわかった。こうして人気のない安全エリアを渡り歩いているというのも頷ける。
頷ける―――けれど、やっぱりおすすめはできないよなぁ……。

「あの……ナナミヤさん、よかったら外まで一緒に行きませんか? いくらその子がいるとはいっても、ソロだと万が一ってこともありますし」
「ふむ?」
「なんなら圏外村まで送りますよ。圏外といっても宿屋に泊まれば安全ですし、他のプレイヤーが来ることも滅多にありませんから」
PK可能地域というのが少し不安ではあるけれど、それはダンジョンの安全エリアにしたって同じことだ。
むしろ宿屋に泊れば安全な分、ダンジョンで寝泊まりするよりはいくらかリスクも低くなる。
いくら変な人とはいえ、このまま別れて万が一死なれてしまっても寝覚めが悪いし、彼女を圏外村に送るだけなら大した手間にはならないだろう。

そんな僕の提案に思案顔を浮かべていたナナミヤさんはというと、

「なるほど……つまり人気のない場所で私としっぽりしたいわけだな。エロ同人みたいに」
「ちげぇよ馬鹿ッ!!」
なるほど……じゃねぇよ。
真面目な顔して何考えてんだ、あんた。

「ユノくんユノくん、エロどーじんってなぁに?」
「シェイリは気にしなくていいの!」
「エロ同人というのはだね―――」
「あんたも教えようとすんな!!」
シェイリにとんでもないことを吹き込もうとするナナミヤさんをPKすれすれの実力行使で退けながら、僕は改めて思った。
やっぱり今日ここに来たのは失敗だった―――と。


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この後、僕たちはなんとかナナミヤさんを圏外村の宿屋まで送り届け(その間の僕の精神的疲労は、もはや語るまでもないだろう)、当初の目的だったクエストも無事に完遂することができた。
シェイリはぺんぺん丸のことをいたく気に入ってしまったらしく、彼女の主人であるナナミヤさんともすっかり打ち解けた様子で、なんとフレンド登録まで交わしていた。
その流れで僕もナナミヤさんとフレンド登録することとなり、僕のフレンドリストに《Nanamiya》という不吉極まりない名前が追加されたのだった。

ちなみにこの数ヶ月後、僕とこの風変わりな《人形遣い》は思いもよらないタイミングで再会することとなるのだけれど、それはまた別のお話。 

 

人物紹介など

 
前書き
【注意!】
原作に登場しない人物の設定などをまとめる場所。
最新話までのネタバレを含みます。 

 
【ユノ】《Yuno》
主人公。15歳。一人称は『僕』。
元βテスター。SAOでは補助武装程度にしか使われていない投剣スキルをメインに、敵の弱点部位を狙った後方支援を主体とする戦闘スタイル。
投擲に関しては敵の関節や眼球を正確無比に狙えるほどの驚異的な腕前を持つが、近接戦闘の才能は皆無。
投擲武器のストックを切らした瞬間パーティのお荷物と化す、なんとも困ったプレイスタイルの持ち主。

β当時の第9層フロアボス攻略戦、LAボーナスを獲得した後にパーティメンバー全員をPKして逃亡。
そのプレイスタイルから《投刃》と呼ばれた、《仲間殺し》のオレンジプレイヤー。
正式サービス開始後、第1層攻略戦において自ら《投刃》であることを公言し、攻略組とは袂を分かつ。
現在、攻略組とは距離を置きつつ、相方であるシェイリと共にアインクラッド攻略に挑む。

自他ともに認めるネガティブな性格で、一人でいると思考が悪い方向へと向かいやすい。
目的のためなら他を切り捨てることも止む無しと考えており、シェイリを守ることに固執しがち。

やや小柄な体格で、身長は同年代の平均に何とか食い込むくらい。
《投刃》の名前が広まってからは街中でもフードを被って顔を隠し、怪しまれないよう振る舞っている。
……つもりなのだが、それが裏目に出ていることには気付いていない。周囲のプレイヤー曰く『怪しい人』。



【シェイリ】《Sheile》
15歳(?)。一人称は『わたし』。
肩にかかるぎりぎりのところで切り揃えられた黒髪に、幼い目鼻立ちの女の子。
自称高校生だが、ユノよりも更に小柄な体躯に加え、ぎりぎり中学生に見えるか見えないかといった超のつく童顔のため、周囲からは年齢詐称疑惑を持たれている。

VRMMO初心者。SAO正式サービス開始日、『はじまりの街』の路地で道に迷っていたところに偶然通りかかったユノに声をかけ、以降二人で行動することとなる。
戦闘スタイルは火力一辺倒の超攻撃型スタイル。攻撃に集中するあまり防御が疎かになりがちなため、ユノの投剣によるサポートがあって初めて真価を発揮する。
当初は細剣使いの予定だったが、ユノとパートナーを組むにあたって両手斧使いへと転向。
前衛プレイヤーとしての才能を開花させると同時、何やら危ない方向に目覚める。

基本的にマイペースで無邪気な性格。気の抜けるような間延びした声と、ふにゃりとした笑顔が特徴。
空気を読めないような発言をすることが多いが、本当に無神経なことは言わない。
一見空気が読めていないように見えて、実は結構的確なことを言う人。

デスゲーム開始当初から自分を守り続けてくれたユノに全面的な信頼を寄せる。
反面、ユノが自分自身を顧みないことに対して複雑な感情を抱く。

『倒しやすいから』という理由で、敵に止めを刺す時は一刀両断や斬首といった方法を好む。
そのあどけない笑顔とは真逆の残酷な戦い方から、一部プレイヤーたちの間では密かに《人型ネームドモンスター》《歩くデュラハン製造機》《首狩りバーサーカー》などと呼ばれているとかいないとか。



【リリア】《Lilia》
24歳。一人称は『俺』。
治安が悪いことで有名な第17層主街区『ラムダ』の裏通りにおいて、訳ありプレイヤー相手に武器を販売していた鍛冶師。
全体的に整った顔立ちをしており、目付きの悪さをひっくるめても美形の部類に入る。
ユノ曰く『街を歩けば女性が放っておかない顔』。
……が、成人男性とは思えないほどのヘタレな性格と、それを隠すための素行の悪さが台無しにしている。
現実世界に歳の離れた妹がいる。シスコン疑惑あり。

βテスターだった妹のナーヴギアを借り、一日だけという条件でSAO正式サービスにログイン。
引き継いだ妹のアバターを使ってSAOの世界を体験するも、運悪くこのデスゲームが開始されてしまう。
以降、現実世界の姿でリリアという女性名を背負う羽目になり、人の目を避けて生活しているうちにラムダの裏通りへと辿り着く。

ソロに限界を感じて鍛冶師に転向するが、攻略を諦めているわけではない様子。
ネカマだと思われるのを避けるためにボス攻略には参加していないものの、たった一人で当時の最前線である第17層まで辿り着いた実力者。
その臆病な性格故に、敵の動きの分析や咄嗟の判断に優れている。特に回避に関しては右に出る者がいないほど。
ただし、戦闘中は興奮しすぎて口数が多くなるのが専らの不評。

ラムダの裏通りにて12~15時までの間限定で露店を開いており、残りの時間はスキルの熟練度アップに勤しんでいる。
武器の性能の良さと『女性鍛冶師リリア』の噂が独り歩きしたことにより、一部のプレイヤーたちの間では密かに人気がある。

2023年3月3日、アルゴからの依頼によって裏通りの鍛冶師の素性を調べていたユノ、シェイリと出会う。