ニュルンベルグのマイスタージンガー


 

第一幕その一


第一幕その一

                 ニュルンベルグのマイスタージンガー
                    第一幕  聖堂にて
 十六世紀中頃のニュルンベルグ。この街は商人と職人の街でありその自治により繁栄していた。その街にある教会の一つカタリナ教会。今そこで神を讃える歌が歌われていた。
「主は汝の下に来たりて」
「喜びて汝の洗礼を行いし時に」
 歌っているのは街の娘達だ。その中に奇麗な金髪をおさげにした小柄でふくよかな少女がいた。まだ幼さの残る明るい顔立ちをしており空の色の瞳が実に美しい。くすんだ緑のスカートに茶と緑が合わさったような色の上着を着ている。ドイツの服を着たドイツの少女であった。
 その少女は時折教会の後ろを見ていた。見ればそこには一人の背の高い若者が立っている。凛々しい顔立ちをしており見事な金髪に湖の色をした目を持っている。顔立ちは整い精悍でありそこにも凛々しさがある。白いマントを羽織り黒いズボンに上着といういでたちだ。その手には同じく黒の羽帽子を持っている。黒の中に羽根の白が見事なまでに映えている。
 歌は続く。少女が彼を見ている間にも。
「身を生贄の死に捧げ」
「我等に救済の戒めを垂れて言われる」
 歌が歌われていく。その間少女はちらちらと彼を見続けている。そうして歌が終わり教会を去ろうとしたその時に。彼が声をかけてきたのだった。
「お待ち下さい」
「あっ、いけないわ」
 少女はここでふと何かに気付いたように声をあげた。そして隣にいる背の高いすらりとした同じか少しだけ年長と見られる女に顔を向けた。女は茶色の髪に緑の目をしており細い顔をしている。鼻が高く目も細いものであり何処か知的な、修道女にも似た印象を与える顔をしている。服は青いスカートに白のシャツでエプロンを着けている。
「マグダレーネさん」
「はい」
 女は少女に名前を呼ばれてすぐに応えてきた。
「申し訳ないけれど」
「何かありますか?」
「ええ、ネッカチーフを忘れてしまったみたい」
 実はスカートのポケットの中からその端が見えていた。マグダレーネもちらりとそれを見たがわざと見ていないふりをするのだった。
「だから。ちょっと見て来て欲しいの」
「わかりました。それでは」
 マグダレーネは一礼してから教会の席の方に戻った。こうして少女と若者を二人きりにするのだった。若者は少女と二人きりになるとすぐに言ってきた。
「フロイライン」
「はい」
「礼儀作法に背きますがお許し下さい」
 若者はまず頭を垂れてこう述べてきた。
「ですが是非知りたいことがありまして」
「御知りになられたいことですか」
「そうです。生か死か」
 彼は思い詰めた顔で言葉を出しはじめた。
「恵みか呪いか。人ことだけ仰って頂けば」
「お嬢様」
 ところがここでマグダレーネが帰って来るのだった。
「ネッカチーフを見つけてきました」
「あら、嫌だわ」
 しかし少女はここでまたわざとらしく言う。
「留金が」
「落とされたのですね」
「御免なさい」
 髪からそっと取り出して懐の中に入れながら応える少女だった。
「だから」
「わかりましたわ。それでは」
 マグダレーネはこの時も見ていたがやはり何も見ないことにして席の方に言った。こうして二人はまた見詰め合うことになるのだった。
「光や喜びか」
 若者はまた思い詰めた顔で語る。
「それとも闇や墓場か。それを知りたいのです」
「留金は・・・・・・あら、いけないわ」
 マグダレーネは今度は自分から引き返す。
「今度は私が聖書を忘れてしまったわ。それでは」
「その一言をです」
 わざと姿を消すマグダレーネをそのままに彼は言うのだった。
「私の運命を決める一言をです」
「貴方のですか」
「そうです。はいかいいえか」
 言葉はさらに思い詰めたものになっていく。
 

 

第一幕その二


第一幕その二

「それだけを。是非」
「それではです」
「はい」
 少女の言葉を待って若者の喉がごくり、と鳴った。
「それでは」
「お待ち下さい」
 またしてもであった。マグダレーネが戻って来た。しかも今度は若者に対して声をかけてきたのだった。
「騎士殿とお見受けしますが」
「その通りです」
 若者はここでマグダレーネに対しても一礼してから答えた。
「ヴァルター=フォン=シュトルツィングです」
「フォン=シュトルツィング様ですね」
「そうです」
 マグダレーネの言葉に対して頷いてもみせる。
「それが私の名です」
「ではフォン=シュトルツィング様」
 彼女の言葉はここでは真面目なものであった。
「まずはここでは」
「話すべきではないというのですね」
「あまり長くはよくないと思いますので」
 畏まったうえでまたヴァルターに対して述べた。
「場所を変えられては如何かと」
「まって、レーネ」
 しかしここで少女が言うのだった。
「そんな話ではないのです」
「そうなのですか?エヴァ」
 マグダレーネもここで彼女の名を呼んだ。
「そうよ。私は何とお答えしていいかわからないの」
 その背の高いヴァルターの顔をうっとりと見上げての言葉だった。
「夢の中にいるような気持ちだから」
「それはまた」
「今は。どうするべきか」
「だからこそなのですよ」
 ここでまたマグダレーネはエヴァに対して告げた。
「ですから。場所をお変えになられて」
「いえ、まずはです」
 しかしここでまたヴァルターが言うのだった。
「御返事を」
「その御返事を」
 エヴァもまた言おうとする。しかしここでマグダレーネは聖堂の中に一人の若者が入ってくるのを認めた。茶色のズボンに青と白のストライブのシャツを着ている。茶色の髪を粋に撫でつけ目は黒い。そしてその表情はとても明るく愛想のよいものだった。よく見れば背も高い。マグダレーネは彼の姿を認めて言うのだった。
「ダーヴィットじゃない」
「言えないわ」
 そのマグダレーネの横で困った顔になって俯いているエヴァだった。
「レーネ、御願いだから」
「わかっていますよ。騎士様」
「はい」
 マグダレーネがエヴァに代わって言うのだった。
「エヴァ=ポーグナーは婚約しています」
「それでは」
 それを聞いたヴァルターの顔が一気に曇り絶望のものになる。しかしここでエヴァがすぐに言ってきた。
「けれど相手は決まっていません」
「!?」
 ヴァルターは今のエヴァの言葉に思わずその整った目を顰めさせた。そしてすぐに問わずにはいられなくなった。
「それは一体どういう意味ですか?」
「それは明日決まるのです」
「明日と」
「はい。この街に来られて間もないようですが」
「ええ、それは」
 マグダレーネの今の言葉に対して素直に頷いた。
「その通りです」
「では明日のことも御存知ないですね」
「お祭があるとは聞いています」
「それです。そのお祭の場で素晴らしい歌を歌い」
「その方がですか」
「そうです。その審判でそのマイスタージンガーがお嬢様の花婿となるのです」
 こう彼に教えるマグダレーネだった。
「そういう意味なのです」
「そしてです」
 エヴァもヴァルターに対して告げる。
 

 

第一幕その三


第一幕その三

「花嫁がその手で花婿に勝利の枝を手渡すのです」
「成程」
 ヴァルターはとりあえずエヴァのことはわかった。しかしであった。
「ですが」
「ですが?」
「マイスタージンガーとは何ですか?」
 いぶかしむ顔でエヴァとマグダレーネに対して問うのだった。
「それは一体」
「では」
 エヴァは今のヴァルターの言葉を聞いて不安な顔になった。
「貴方はマイスタージンガーではないのですか?」
「そして求婚の歌を歌うのですよね」
「はい、審判の前で」
 今度はマグダレーネが彼に答えた。
「その通りです」
「その審判は誰ですか?」
「マイスター達です」
「そして花嫁が選ぶのは?」
 何もかもがわかっていないヴァルターであった。彼にとっては全く別世界の話であった。
「もう何が何なのか」
「貴方を選びます」
 エヴァは我を忘れて言った。
「さもなければ。他の人を」
「あの、お嬢様」
 マグダレーネはわかっていたが本人の口から聞いてより驚いてしまった。
「その御言葉は」
「ねえレーネ」 
 エヴァは怪訝な顔でマグダレーネに言ってきた。彼女が言う前に。
「このこと。何とかして欲しいの」
「はじめて御会いしたのにですか?」
「ずっと前から見ていたから」
 ここで聖堂の壁にかけてある絵を見た。それは見事な青年だった。腰に剣を下げ石をその手に持っている。ヴァルターに非常によく似たこの青年はニュルンベルグの守護者とされるダビデだった。
「だから。もう」
「一目惚れですか」
「自分でもまさかと思うけれど」
 思い詰めた顔でマグダレーネに答える。
「けれど。もう」
「あのダビデのようにですか」
「そうよ。このデューラーが描いたような」
 エヴァはまたそのヴァルターによく似た若々しいダビデを見て述べる。
「この方を」
「困りましたわ。ここは」
 マグダレーネは他者の力を借りることにした。そうして彼を呼ぶのだった。
「ねえダーヴィット」
「何だい?」
 仲間達と共に聖堂の中で何か席や舞台を作っていた彼はすぐにマグダレーネの言葉に顔を向けてきた。
「何かあったのかい?」
「何をしているの?」
 まず尋ねたのはこのことだった。
「ああ、マイスターの人達の言いつけでね。席の準備をしているんだ」
「席?ああ、今日はここで歌うのね」
「そうさ、だからその為にね」
 こうマグダレーネに答えるのだった。
「準備をしているんだ」
「そうなの」
「今日は試験だけだけれどね」
 このこともマグダレーネに答えた。
「歌の規則に少しも違反せずに歌えると」
「合格なのね」
「そうさ、無事卒業してマイスターさ」
 このうえなく明るい声で言うのだった。
「どうだい、いいだろう?」
「それじゃあ」
 マグダレーネはダーヴィットの言葉を聞いて明るい顔に戻った。そうしてまた言うのだった。
「騎士様は丁度よいところに来られたのね」
「そうね。じゃあレーネ」
 エヴァもまた希望を取り返した顔になってマグダレーネに言う。
「後は」
「ええ。ダーヴィット」
 またダーヴィットに声をかけるマグダレーネだった。
「この騎士様のことを御願いしたいのだけれど」
「こちらの方の?」
「いいかしら」
 ダーヴィットに目を向けて問う。
 

 

第一幕その四


第一幕その四

「それで」
「それで何のことを?」
「今日の試験のことよ」
 そのマイスターになる試験のことであった。
「それをね。この方に教えて欲しいのよ」
「この方にかい」
 ここでようやくヴァルターを見るダーヴィットだった。
「また立派な方みたいだね」
「そうよ。とても立派な方だからね」
「ダーヴィットさん、御願い」
 エヴァも彼に対して言う。
「この方をマイスターにしてあげて」
「後で美味しいものをあげるから」
「おっ、そりゃいいね」
 マグダレーネの今の言葉に目を喜ばせるダーヴィットだった。
「じゃあ。それでね」
「若しこの方がマイスターになれたらもっといいことがあるわよ」
 マグダレーネはにこりと笑ってさらに人参をちらつかせた。
「だからね。御願いね」
「わかったよ。じゃあね」
「ええ、くれぐれも御願いね」
「では騎士様」
 エヴァはうっとりとした顔でヴァルターを見つつ声をかけた。
「また」
「きっとです」
 ヴァルターもまた強い言葉で彼女に応える。
「剣でなく歌で」
「はい、歌で」
「マイスターになります」
 彼はここで誓うのだった。
「そして貴女を」
「お待ちしていますわ」
「貴女の為に詩人の聖なる心を」
「ではお嬢様」
「はい。それではまた」
 マグダレーネに誘われ聖堂を後にするエヴァだった。ヴァルターとダーヴィットは二人になった。しかしここでダーヴィットの仲間達が彼に対して言うのだった。
「おいダーヴィット」
「何さぼってるんだよ」
 こう彼に対して言うのだ。
「審判席造るの手伝ってくれよ」
「早くな」
「僕さっきからずっとやってるじゃないか」
 彼はまず顔を顰めさせてから仲間達に対して言い返した。
「少し休ませてくれよ。それに」
「それに?」
「今はちょっと用事があるんだ」
 こう彼等に告げた。
「だからそれが終わるまではね」
「まあそれならいいけれどな」
「早く終わらせろよ」
「うん、わかってる」
 こうしたやり取りの後でまたヴァルターに顔を戻す。そうしてまずこう叫ぶのだった。
「はじめよ!」
「はじめよ!?」
 ヴァルターはこれまで物思いに耽っていた。考えているのはやはりエヴァのことだった。しかしここでこの言葉を聞いて不意にはっとしたのだった。
「何をはじめよと!?」
「まずは記録係がこう叫ぶのです。それから歌います」
「記録係?」
「御存知ありませんか」
「はい」
 呆気に取られた顔で答えるヴァルターだった。
「それは一体」
「あの、歌の審判に出られたことは」
「いいえ」
 ダーヴィットの問いに首を横に振って答える。
 

 

第一幕その五


第一幕その五

「何も」
「ではマイスターのことは」
「とりあえず職人の歌手達ですよね」
「そうです。貴方は詩人ですか?」
「いいえ」
 また首を横に振った。
「では歌人ですか?」
「それでもありません」
「職人であったことや弟子であったことは」
「全く聞いたことがありません」
 そしてそれが何故かも言うのだった。
「今までずっと領地にいましたので」
「それですぐにマイスターになられるおつもりですか」
「そんなに難しいことなのですか?」
 ヴァルターはきょとんとして彼に問い返した。
「それ程までに」
「あのですね」
 ダーヴィットは彼が何も知らないことがわかってまずは内心溜息をついた。そうしてそのうえで彼に対してあらためて語るのだった。呆れた表情を何とか隠して。
「マイスタージンガーには一日じゃとてもなれませんよ」
「そうなのですか」
「はい。私は靴屋の職人でして」
 自分のことも語るのだった。
「そしてハンス=ザックス師匠について一年ですが」
「一年」
「そう、一年です。それでやっと職人、まあ徒弟です」
 己のことをこう語るのだった。
「靴を造るのも詩を作るのも私は一緒に習うのです」
「その二つは一緒なのですか」
「そうです、一緒です」
 彼はまた語った。
「靴を平らに打ちなめしたら母音や子音の使い方を習って糸や蝋を固くしながら韻の押し方を会得します」
「それもですか」
「そうです、どれが男性韻か女性韻か」
 さらに語る。
「寸法はどうか、数は幾つか、靴型を前掛けの上において」
 話は続く。
「そして何が長いか短いか、固いか柔らかいか明るいか暗いか」
 これだけではなかった。
「孤児とはだにとは、糊の綴音とは、休止とは、穀物とは」
「まだあるのですか」
「花とは茨とは」
 本当にまだあった。
「私はこういったものを全部学び取ったのですよ」
「それで上等の靴もですか」
「はい、ここまで辿り着くだけでも大変です」
 また述べるダーヴィットだった。
「一つの詩の大節は多くの中節等から成っていて正しい糸で上手に縫うものは正しい規則をよく知っていて」
「ふむ」
「よく出来た小節やそういったもので底を固めます」
 さらに言う。
「その後でようやく終わりの節が来るのですがそれは長過ぎても短過ぎてもいけません」
「どちらでもですか」
「そうです、どちらでもです」
 彼はさらに語る。
「そして韻の踏み方も同じでないといけません。そしてこういったものを全部覚えてもまた真っ当な靴屋の親方にはなれないのですよ」
「これは驚いた」
 ヴァルターはここまで聞いて唖然としてしまった。
「私は靴屋になるのではなく歌の芸術が」
「それもなのですよ」
 何とそこにもあるのだった。
「多くのものがありまして」
「歌にもですか」
「私もまた歌手ではないのですが」
 マイスタージンガーのジンガーのことだ。
「どんなに骨が折れるものかといいますと」
「はい」
「マイスタージンガーの用いる音や節の種類はその名前だけでも大変な数です」
「それもですか」
「強いものもあれば弱いものもあり」
 まずはこの二つからだった。
「短いものも長いものもとても長いものも」
「他には?」
「青い字の用紙」
 今度はこんな単語だった。
 

 

第一幕その六


第一幕その六

「黒インキの節。赤、青、緑の音」
 また続くのだった。
「きんざしにわがぐき、ういきょうの節。柔らかい、甘い、または薔薇の音」
「音ももそれだけ」
「はい、それに短い愛に忘れられた音。万年ろうや匂いあらせいとう、虹、鶯、白蟻、肉桂皮、新鮮な橙、緑の菩提樹のそれぞれの節」
「今ので節はどれだけ」
 しかも節はこれだけではなかった。
「蛙、子牛、まひは、死んでしまった獣、めりさ花、まよらな、黄色いライオンの皮、忠実なペリカン、てかてか光るてり糸の節」
「それで終わりですか」
「後はひばり、かたつむり、犬吠えの音です」
「それだけあるのですか」
 もうヴァルターは唖然とするばかりであった。
「これはですね」
「はい」
「名前だけなんですよ」
 また言うダーヴィットだった、
「ここからその歌い方を学んで」
「歌射方もですか」
「そうです。正しく、師匠が定めたように」
 こういう具合だった。
「声をあげる所でも下げる所でも」
「今度は声の上げ下げか」
「はい、それもあるんです」
 何とそれもなのだった。
「全ての言葉や音ははっきりと響かせないといけません」
「それはわかるけれど」
 歌の基本だった。
「声域が充分届くように」
「それもだね」
「そうです。そして歌いだしは」
「待ってくれ、はじまりにも決まりがあるのかい!?」
「はい、高過ぎないよう低過ぎないよう」
 今度はこれだった。
「息が乏しくならないよう、ことに終わりで声が出なくならないよう」
 終わりもなのだった。
「呼吸は節約して」
「その仕方もない」
「雑音は出さずに。言葉の終わりにならないように」
「他には?」
「装飾音やコロトゥーラの場所では師匠の教えた通りに」
 細かい技巧も注釈があるのだった。
「若しそれを間違えたり取り違えますと」
「どうなるんだい?」
「始末がつかなくなって歌い損ないとなります」
 こうヴァルターに教えた。
「私もかなり勉強しましたがまだまだです」
「そこまで覚えてか」
「親方が歌う革紐打ちの節を何回歌っても私は駄目です」
「何回歌ってもか」
「そうなんです。それでいつも親方に怒られて」
 ここまで言ってしょげかえった顔になるダーヴィットだった。
「その時はいつもレーネに口添えしてもらってパンと水だけの節を歌わなくて済むようになるのです。
「そんなに大変だったのか」
「おわかりになられましたか?」
「無茶苦茶な規則ばかりじゃないか」
 ヴァルターはこれまでのダーヴィットの話を思い出せるだけ思い出したうえで呟いて難しい顔になった。
「何でまたそんなに」
 こうして考え込んでしまう顔になった。するとここでまたダーヴィットの仲間達が彼を呼んできた。今度は先程より声が大きいものであった。
「おおい、ダーヴィット」
「まだかい?」
「もう終わったか?」
「あっ、もう少しだ」
 ダーヴィットは彼等に顔を向けて答えた。
「だから待っていてくれよ」
「いい加減終わらせてくれよ」
「こっちも忙しいんだからな」
「わかってるさ。ちょっと待っていてくれって」
 こう彼等に言ってまたヴァルターに顔を戻す。そうしてそのうえでまた説明するのだった。
「そして詩人はです」
「うん」
「まず貴方が歌手になられ」
 まずはそれだった。
 

 

第一幕その七


第一幕その七

「師匠の歌を正しく歌えてそのうえ韻や言葉を揃え」
「それは本当に重要なんだね」
「そうです。正しい場所にきちんと配置し師匠の調べにそれ等が合えば詩人の誉れが得られるのです」
「それもかなり長そうだな」
「だから早く来い」
「もう待てないぞ」
 また仲間達の声がダーヴィットを呼ぶ。
「早く来いって」
「手伝ってくれよ」
「わかったよ、じゃあ今行くさ」
 ダーヴィットは舌打ちしながら彼等に応えた。
「それじゃあ今からな」
「それでマイスタージンガーは」
 ヴァルターは考え込んだままの顔で問うてきた。
「最後に教えてくれないか?それは一体」
「騎士様、それはですね」
 ダーヴィットは行きかけたところで彼の方を振り向いて答えを返してきた。
「自分でよく考え、言葉や韻を自分で作り」
「うん」
「新しい旋律を編み出した人がマイスタージンガーなのです」
「それがか。それでは」
 ヴァルターはここで意を決した顔になった。そうして誓うように言うのだった。
「私はそれになてみせよう。必ず」
「それで君達」
 ダーヴィットは仲間達の方に向かって駆けながら言っていた。
「何してるんだよ」
「そんなの見たらわかるだろ?」
「見てわからないか?」
「わかるさ。だから言っているんだよ」
 彼等のところに来てまた言う。
「椅子や記録板の位置だって」
「これでいいんじゃないのか?」
「違うのか?」
「違うよ。今日はただの試験なんだよ」
 こう言いながら早速記録板を外して聖堂の端に行って小さな記録板を出してきた。
「こんな大きなのじゃなくていいし」
「そうなのか」
「机と椅子だって」
 今度言うのはこの二つだった。
「もっと簡単なのでいいし椅子は」
「十二個だよな」
「そうそう」
 今度は納得した顔で頷いてみせる。
「十二個だよ。マイスターの席にはね」
「それで試験を受ける人の為に一つ」
「これでいいよな」
「それでいいよ。あっ、椅子の数は合ってるね」
 それは合っているのだった。
「だったら後は黒板に」
「あいよ」
「これでいいな」
「うん、そこでいいよ」
 壁にそれが掛けられていく。
「それでチョークもね、用意して試験官が隠れるカーテンも用意して」
「これでいいな」
「万全だよ。さて、これで万端整ったよ」
「やっぱりダーヴィットがいると違うな」
「そうそう」
「こりゃ歌手になる日も近いかな」
 半分やっかみではあったがそれでもダーヴィットを褒めてはいる。
「打たれるの韻はすらすら飲み込んでるし貧乏と空腹もいけるしな」
「特に踏み蹴りはそうだよな」
「ザックスさんからいつもやられてるからな」
「そうそう」
 ここで皆わざとダーヴィットの前でその踏み蹴りの動作をしてみせる。
「こんな感じでな」
「仕込が違うからな」
「親方そんなことしないよ」
 ここでダーヴィットは口を尖らせて彼等に反論した。
 

 

第一幕その八


第一幕その八

「とても優しい人なんだからな。滅多に殴られたりしないよ」
「おや、そうなのか」
「結構怒られてないか?」
「あれは教えてもらってるんだよ」
 こう彼等に反論する。
「それに言葉遣いだってきつくないじゃないか」
「まあザックスさんはそんな人じゃないけれどな」
「それはな」
 実際のところ彼等もわかっていた。あえて言っているのである。
「まあとにかく。今日試験を受けるんだろう?」
「本当に歌手になれるぞ」
「いや、僕は今日は止めておくよ」
 ここで彼は右手を前に出して制止する動作でそれを否定した。
「それはね」
「じゃあ誰なんだ?」
「御前じゃないっていったら」
「今日はこちらの騎士殿が受けられるんだ」
 こう言ってヴァルターを手で指し示す。ヴァルターもそれを受けて徒弟達に対してさっと礼をする。
「こちらのね」
「へえ、そうなのか」
「そちらの騎士殿が」
「生徒でもなく歌手でもなくて」
 ダーヴィットは仲間達にすぐにヴァルターのことを説明しだした。
「詩人でもない。けれどすぐに親方になろうとね」
「マイスタージンガーに?」
「すぐに?」
 これには徒弟達も驚きを隠せなかった。
「おいおい、本当か?」
「それはまた凄いな」
「だから皆注意してくれよ。記録席はそこでいいよ」
 今カーテンに囲まれて設けられた席を見て言う。
「うんそうそう。それでですね」
 今度はヴァルターに顔を戻して述べた。
「あのカーテンに包まれた席に記録係が座るんです」
「それで歌を採点すると」
「その通りです。間違いをチョークで記録しまして」
「うん」
「間違いは七つまで許されます」
 ここで右の人差し指を立てて説明してきた。
「七つ以上は」
「どうなるんだい?」
「歌い損ねで落第です」
 静かにヴァルターに告げた。真面目な顔で。
「ですから気をつけて下さい。マイスターの方々の採点は厳しいですから」
「そんあになのかい」
「はい、ですが合格したら」
 今度はあえて薔薇色の未来を語ってみせる。
「絹で作られた花の冠が贈られます」
「そう、絹の冠なんですよ」
「栄光の冠ですよ」
 徒弟達もまたヴァルターに対して話すのだった。あれこれしている間に舞台は整いそれぞれの椅子にクッションも置かれる。このようにして準備が整った時に二人部屋に入って来た。
 一人はやけに大柄で謹厳な顔は聖職者を思わせる。白髪を丁寧に後ろに撫で付け青い目は強い光を放っている。丈の長い焦茶色の上着に白いシャツ、それに黒いズボンといった格好だ。
 もう一人は彼に比べるとやや小柄だがやはり背はある。四角く人懐っこい顔で高慢ぶってはいるようで何故か愛嬌も備わっている。目が少し斜め上に吊り上がっている。茶色の髪をこれまた後ろに撫でつけていて少し上で巻かせてもいる。黒い服は何処か知的であり学者を思わせる。仕草は何処か気取っていて勿体ぶったものを見せている。黒い目がかなりせわしく動いている。
「それでです」
「はい」
 大柄な男がその気取った男に話をしていた。
「ベックメッサーさん、私の誠意を無駄にしないでその取り決めをお役に立てて下さい」
「それはわかっています」
 ベックメッサーと呼ばれたその男はやはり何処か気取った動作で彼の言葉に頷いた。
「ポーグナーさん、それはもう」
「貴方は勝たなければなりません」
 その大柄な男ポーグナーはまたベックメッサーに対して告げた。
「それは是非共」
「しかしです」
 ところがベックメッサーは何かを心配する顔になってポーグナーに対して言うのだった。
「私は恐れています」
「何をですか?」
「エヴァさんが望まれれば求婚者を拒むことができるのですね」
「はい、そうです」
 ポーグナーもそれを認めて頷く。
 

 

第一幕その九


第一幕その九

「その通りです」
「では私のマイスタージンガーの名誉も何もならないのではないでしょうか」
「それは貴方が娘をその気にさせるかどうかです」
 しかしポーグナーはこう彼に反論するのだった。
「違いますか?それは」
「それはそうですが」
 ベックメッサーもこう言われては渋々ながら認めるしかなかった。その彼に対してポーグナーはさらに言うのだった、まるで攻めるように。
「それにそれができなければ」
「できなければ」
「そもそも娘を妻になぞできないのではないですか?」
「それは真にその通りです」
 まさに正論なのでベックメッサーも反論できない。
「だから今ここで御願いしているのです」
「何をでしょうか」
「お嬢さんには貴方からよしなに」 
 つまり口添えであった。
「御願いします」
「はい、それでしたら」
 生返事だった。ベックメッサーはそれを聞いて心の中で呟いた。
(困ったな、これでは難しいぞ)
 そんなことを考えているとヴァルターがポーグナーの姿を認めて。それで彼に対して言うのだった。
「貴方は確か」
「あっ、ヴァルター殿ですか」
「はい、そうです」
 ヴァルターもまたポーグナーに対して答える。
「貴方は確か」
「この街の金細工師です」
 にこりと笑ってヴァルターに答えてきた。
「そして明日の花嫁の父であります」
「そうですね」
 ポーグナーという名前からそれは察しているのだった。
「はい、そうです」
「女達がわしの歌を理解していればいいのだが」
 二人の後ろではベックメッサーが腕を組んでうろうろと歩いていた。
「だが彼女達は本当の詩よりも下手なほら話の方が好きだからな」
「私が国を出てこのニュルンベルグへ来たのはです」
 ヴァルターは明るい顔でポーグナーに対して語っていた。
「ひたすら芸術を愛しているが為です」
「そうなのですか。芸術をですか」
「はい、ですから申し上げます」
 そして高らかに言った。
「マイスタージンガーになりたいのです」
「それでは今日の試験を」
「はい、受けさせて下さい」
「まあ手段は講じるか」
 ベックメッサーは相変わらずうろうろとして考える顔で俯いて呟いていた。
「それでも成功しなかったら歌だな」
 そしてこんなことを言うのだった。
「静かな夜にそっと彼女にだけ聴かせて」
 意外とロマンを重視するようである。
「やってみるか、それでな」
 ここでふとヴァルターに気付いたのだった。
「むっ!?」
 そして彼に顔を向けて呟いた。
「この男は誰だ?騎士のようだが」
「私は嬉しいのです」
 ポーグナーはベックメッサーの呟きに気付かずヴァルターに対して目を細めさせて述べていた。
「まるで古い時代が戻って来たようで」
「どうもいけ好かないな」
 ベックメッサーは今度はヴァルターを見て呟いていた。
「貴族なぞ。所詮はただの家柄だからな」
「それでです」
「何をしようというのだ?」
 ポーグナーとベックメッサーがそれぞれ言う。
「適えて差し上げましょう、是非」
「明るい目をしているな」
 ベックメッサーはポーグナーとヴァルターの目を見て呟いた。
「またしてもな」
「御領地の売却も済んでいましたね」
「はい」
 また頷くヴァルターだった。
 

 

第一幕その十


第一幕その十

「確かそれは」
「私の家の者が細かいことをしてくれたそうで」
「その通りです。ここに来てわかったことですが」
「やはり注意するべきか」
 ベックメッサーはまたヴァルターを見て呟いた。
「この男には」
「あの時は有り難うございました」
 ヴァルターはまたポーグナーに対して礼を述べた。
「さて、私がマイスタージンガーを名乗り得る名誉を得られることですが」
「それですか」
「それは今日のうちにも出来るでしょうか」
「何ということを言うのだ」
 今のヴァルターの言葉にはベックメッサーも絶句だった。
「そんなこと出来る筈がないだろうに」
「騎士殿」
 しかしポーグナーはそのヴァルターに対して穏やかに告げるのだった。
「このことには規則がありまして」
「はい」
「今日は丁度試験の日です」
 ダーヴィットと全く同じことを言っていた。
「貴方にマイスタージンガー達を紹介させてもらいましょう」
「マイスタージンガー達をですか」
「そうです。丁度集まってきております」 
 見ればもうであった。それぞれの弟子達を席の後ろに従えて座っていた。もう席はその殆どが埋まってしまっていたのだった。
「いい具合に」
「さて、皆さん」
 その中の茶色の髪を短く刈り見事な髭を口にたくわえた鋭い目の男が声をあげた。目は黒く知的な光をたたえている。青と白の縦縞のシャツに茶色のズボンをはいている。職人というよりは学者に見える、そうした雰囲気を醸し出している初老の男であった。
「おられますか?」
「おや、ハンス=ザックス」
 ベックメッサーは彼に目をやって悪戯っぽく笑う。
「今日も来られましたな」
「おかげさまで。書記殿もですね」
「私は何時でもおりますよ」
 愛想笑いを浮かべてザックスに答えるのだった。
「いつも通りね」
「左様ですか」
「それではです」
「はい、ナハティガルさん」
 皆今声をあげた禿頭の男に応える。
「宜しいでしょうか」
「はい、集まっておりますよ」
「ここに」
「それではです」
 それを受けていかつい顔の男が口を開いてきた。随分と背が高く身体つきも立派だ。
「まずはこの末席を汚すフリッツ=コートナーが」
「はい、コートナーさん」
「点呼を取りましょう」
「是非」
 皆で言い合う。そうしてこのポーグナーが点呼を取りはじめた。
「クンツ=フォーゲルザングさん」
「はい」
 先程の禿げた男が頷いた。
「こちらに」
「そしてヘルマン=オルテルさん」
「どうも」
 小柄な男が応える。
「いつも出席です」
「バルタザール=ツォルンさん」
「ここですよ」
 肥満した男が笑顔で名乗り出る。
「欠席したことはありません」
「コンラット=ナハティガルさん」
「ええ、ここに」
 茶色の髪の男だった。
「いつも通りさえずります」
「アウグスティン=モーザーさん」
「欠席はしない男」
 勿体ぶった男であった。
 

 

第一幕その十一


第一幕その十一

「ここに参上」
「ニコラウス=フォーゲルさん」
「おや?」
「あれ?」
 しかしここでマイスター達が周りを見回すのだった。
「おられない?」
「今日は?」
「風をひいておられまして」
 ここで徒弟の一人が述べてきた。
「それで今日は」
「それは残念」
「御大事に」
「そして」
 コートナーはフォーゲルの欠席を確認してからまた述べた。
「ハンス=ザックスさん」
「はい」
 ところがここでダーヴィットがにやにやとして名乗るのだった。
「こちらに」
「こらっ」
 ザックスはそれを聞いて自分の後ろに立っているダーヴィットを咎める目で振り向いたのだった。
「私が名乗る。変なことはするな」
「あっ、すいません」
「全く。とにかくいますので」
「わかりました。そして」
 また話を進めるコートナーだった。
「シクストゥス=ベックメッサーさん」
「いつものザックスさんのお隣で」
 そのザックスの隣で笑っていた。
「青春の韻を学んでおります」
「おやおや、お若い」
 コートナーも彼の今の言葉を聞いて笑う。
「それではウルリッヒ=アイスリンガーさん」
「ええ」
 青い目の老人であった。
「ここに」
「ハンス=フォルツさん」
「どうも」
 中年の男である。
「おりますよ」
「ハンス=シュワルツさん」
「こんにちは」
 無愛想な雰囲気の男だった。
「殿を」
「これで皆さん揃っておられますね」
 コートナーは点呼を終えて述べた。
「それでは記録係の選挙に移りましょう」
「いえ、それは」
 ここでフォーゲルゲザングが言うのだった。
「明日のヨハネ祭の後でいいのでは?」
「やけに急いでおられませんか?」
 ベックメッサーも首を傾げさせてコートナーに問う。
「何でしたら私の役ですからすぐにでも」
「それはいいとしまして」
 ここでポーグナーが口を開いてきた。
「皆さん、宜しいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 コートナーが彼の言葉に頷いた。
「お話下さい」
「御存知の通り明日はヨハネ祭です」
 彼もまたこのことを言うのだった。
「緑の野にも花咲く茂みにも」
 そうしてさらに語るのだった。
「人々は集い歌い踊り」
「実にいい日ですな」
「日頃の気懸かりを忘れ胸に喜びを讃え誰もが楽しむ日です」
 こう言うのである。
「マイスター達もこの時は教会の生真面目な稽古を中断しそのうえで街中に繰り出し」
「そうです。実にいい日です」
「それが明日です」
「広々とした牧場で即興に歌い人々に聴いてもらいます。そして」
 言葉は続く。
 

 

第一幕その十二


第一幕その十二

「求婚の歌合戦では勝利の賞がかけられます」
「それだな」
 ベックメッサーはここでまた言った。
「その賞だ」
「その賞もその歌も後の世の語り草になります」
 このことを強調するポーグナーだった。
「私は神の恩寵を得て富裕の身となりましたが与えることのできる者は分に応じて与えるべきとすれば」
「その場合は」
「どうされるので」
「私自身の恥にならぬように何を与えたらいいかと考えました」
 他のマイスター達に対して述べていく。
「それで私が思いついたことですが」
「はい」
「私がこのドイツを旅してしばしば見て残念に思ったことは」
 また言うポーグナーだった。
「市民達の評判がよくないのです」
「それは残念なことです」
「全くです」
 マイスター達はそれを聞いて顔を曇らせた。
「我等の評判がよくないとは」
「また心外な」
「諸国の宮廷や庶民の間でも」
 ポーグナーはさらに言う。
「私が嫌になる程聞いたのは市民は商売や金銭以外には何の興味もない」
「誹謗中傷ですな」
「全く」
 マイスター達を顔を顰めさせずにはいられなかった。
「我等は芸術を愛しているというのに」
「そうです。このドイツの中で」
 ポーグナーはマイスターの一人の言葉にここぞとばかりに応えた。
「我々だけがまだ芸術を守っているというのに。それを名誉にしているというのに」
 ここで悲しそうな顔になるのだった。
「誇らかな勇気を以って美と善を尊重し」
 彼はまた話す。
「芸術の尊さと意義とを高めていることを世間に示したいと思っているのです。そして」
「そして?」
「私はこの祭の歌合戦で優勝した者には」
 ここで高らかに言うのだった。
「私の財産全てと一人娘のエヴァを差し上げましょう」
「何と素晴らしい」
「流石はポーグナーさんです」
 マイスター達はポーグナーの言葉を聞いて高らかに彼を讃えるのだった。
「これ程素晴らしい贈り物はない」
「ニュルンベルグの誇りだ」
「全くだ。しかしな」
「そうそう、僕達皆彼女がいるし」
 徒弟達は残念そうに述べた。
「それはね。親方達もね」
「殆ど結婚してるしね」
 皆ここで何気にザックスを見たりもしていた。
「じゃあ誰が一体」
「いるんだろうな」
「私の贈り物は娘です」
 またポーグナーが言う。徒弟達のザックスへの視線はあえて無視してだ。
「審判はマイスターの組合が決めますがその賞は結婚です」
「だよなあ」
「考えてみれば凄いよな」
「全くだ」
 皆口々に言うのだった。
「師匠達の決定を花嫁が承諾するかどうかは如何でしょうか」
「それはどうでしょうか」
 ベックメッサーがここで口を入れてきた。
「マイスターを貶めるものでは?」
「そうですな。それはどうも」
 コートナーがベックメッサーのその言葉に応えて言ってきた。
「私達を娘さんの配下に置くようなものでして」
「やはりこれは危険ですな」
 また言うベックメッサーであった。
「このような事態は」
「娘さんが賛成されなければです」
 コートナーはまた言った。
 

 

第一幕その十三


第一幕その十三

「マイスター達の判断は何にもならないことになります」
「いっそのことです」
 ベックメッサーは少し投げやりになってまた言った。
「娘さんに選んでもらっては?試験なしに」
「まあそういうことを仰らずに」
 ポーグナーはここでまた周りの騒ぎを止めて述べた。
「マイスター達が賞を与えようとするその者を娘は拒むことができます」
「それが問題なのです」
 ベックメッサーは口を尖らせて指摘する。
「それはマイスターをです」
「しかしその者はマイスターでなくてはなりません」
 ポーグナーはこうも注釈を入れるのだった。
「決して。いいですね」
「マイスターでないといけない」
「マイスタージンガーと」
「そう、それ故貴方達が勝利者と定めた者とだけ結婚できるのです」
 ポーグナーはここまで語った。それを聞いたザックスはここで周りに対して言うのだった。
「お待ち下さい」
「ザックスさん」
「何か」
「皆さんの御意見ですが」
 ここでまずはベックメッサー達を制止する。
「行き過ぎです」
「行き過ぎ!?」
「我々が」
「そうです。行き過ぎです」
 こう彼等に告げるのだった。
「乙女の心とマイスターの芸術とは同じ情熱に燃えているとは限りません」
「同じではないと」
「そう仰るのですか」
「そうです」
 ザックスはまた言うのだった。
「教えを受けていない女性の感覚は民衆の感覚と同じと思われます」
「やはりそれが問題なのでは?」
「ですなあ」
 マイスター達は今のザックスの言葉を受けてまた言い合う。
「やはりそれこそが」
「問題です」
「貴方達が芸術を高く尊重されることを民衆の前に示そうとなさり」
 ザックスはさらに語る。
「娘さんに洗濯の権利を与えるにしても皆さんの決定に背くことを欲しないというのなら」
「そうならば?」
「どうされると」
「民衆を審判にされてはどうでしょうか」
 ザックスの提案はこれであった。
「彼等はきっと娘さんと同じ審判を下されるでしょう」
「またそれは」
「ちょっと」
 マイスター達は今のザックスの提案にかなり困った顔になった。とりわけコートナーはこう言うのだった。
「それは意味がないです。民衆に規則を委ねても」
「よく聞いて下さい」
 しかしザックスは粘り強く語りだした。
「貴方達は御存知の筈です。私がマイスターの歌の規則を心得ており、またこの組合のことを心から考えていることを」
「それはそうですが」
「その通りですが」
「しかしです。その規則は年に一度は吟味されるべきです」
 今度の提案はこうであった。
「習慣の惰性によって力と生命が失われていないか。自然の道を歩んでいるか」
「それですか」
「そう。それを告げるのはただ作歌規則を知らない人達だけです」
「幾ら何でも無茶では?」
 ベックメッサーは首を捻ってザックスに反論した。髭のない彼が髭の濃いザックスの横で動くとさらに目立った。
「それは」
「ですな。確かに」
「それは」
 マイスター達はザックスの今の提案にはしゃごうとする弟子達をそれぞれ目で見回して制止させながら言い合った。
「だからです」
 ザックスはまた語る。
「毎年ヨハネ祭の時にはマイスター達が民衆に来いと呼び掛けるのではなく」
「そうではなく」
「自ら雲の上から降り」
 マイスター達をこう表現するのだった。、
 

 

第一幕その十四


第一幕その十四

「そのうえで民衆に向かって行く。これなら決して悔いることはないでしょう」
「ううむ」
「そういうものでしょうか」
 マイスター達の中には今の彼の言葉に頷きかけようとしている者も出て来ていた。
「そうです。皆さんも民衆を満足させようと為さるのですから」
「それがいいと」
「民衆が楽しめたかどうか言ってもらうことがようのではないのでしょうか?」
 さながら使徒達に囲まれた主のようになっていた。
「人民と芸術が共に栄えることを貴方達も望まれている、私はそう思います」
「もっともなのはその通りですが」
 フォーゲルザングは全面的に賛成しなかった。
「賛成できませんな」
「それなら私は黙ります」
 コートナーとナハティガルは明確に反対だった。
「芸術が民衆の好みに従うと衰退と屈辱に脅かされます」
「その通りです」
「ザックスさんも最近」
 ベックメッサーはとりわけ難しい顔をして腕を組んで述べてきた。
「民衆に迎合されていませんか?それはどうかと思うのですが」
「ザックスさん」
 ポーグナーも彼に言うのだった。
「私の言うことが既に新しいことです」
「はい」
「一度にあまり進んだことを言ってもよくはないと思いますが」
 こう彼に告げたうえで他のマイスター達に対しても言ってきた、
「贈り物と規則はそれでいいでしょうか」
「はい、それで」
「いいと思います」
「私もです」
 ベックメッサーもここでは賛成するのだった。満場一致であった。
「花嫁が最後の決定をするというのなら」
 ザックスも言う。
「私はそれで」
「仕方がないな」
 ベックメッサーはそれでも本心は別だった。
「ここは」
「それでです」
 またコートナーが口を開いてきた、
「誰が求婚者に?独身でなければなりませんが」
「だったら」
「やっぱり」
 ここで徒弟達はまたザックスを見るのだった。
「だよな、この人しか」
「そうだよな」
「如何ですか」
 ベックメッサーは少しシニカルな声でザックスに問うてきた。
「貴方は。もう長い間御一人ではないですか」
「いえ、私は」
 しかしザックスは右手を前に出して制止する動作でそれを拒むのだった。
「エヴァさんが求婚者に賞を与えるというのなら」
「それならば?」
「その人は私や貴方より若くはないと」
「私より若いと」
 ベックメッサーは今のザックスの言葉に顔を顰めさせた。実は彼も結構長い間一人でいるのだ。妻は今は亡くなってしまっているのだ。
「それはどうかと思いますがね」
「まあまあ」
「それはいいとしまして」
 他のマイスター達がベックメッサーを宥める。それが整ってからポーグナーがまた口を開くのだった。
「今日の試験ですが」
「はい」
「それですね」
 一息置いてから話しはじめた。
「この試験に若い騎士殿を推薦したいのです」
「騎士殿ですか」
「そうです。今日マイスタージンガーに選ばれたいと仰っています」
 こう一同に説明する。
「ヴァルター=フォン=シュトルツィング殿です」
「やっぱりな」
 ベックメッサーは彼の今の言葉を聞いてまたしても苦い顔になった。
 

 

第一幕その十五


第一幕その十五

「そんなことだと思ったよ、全く」
「騎士殿が!?」
「マイスターに!?」
 他のマイスター達もこれには驚きの顔になってそれぞれ見合う。
「それはまた」
「喜ぶべきことかはたまた警戒するものか」
「どうなるのか」
「それだとしてもです」
 コートナーは真面目な顔でポーグナーに対して顔を向けてきた。
「騎士殿を迎える為には色々と御聞きしたいことがあります」
「はい」
 ポーグナーも正面から彼の今の言葉を受けた。
「私は騎士殿の成功を望みますが規則を無視することはありません」
「では騎士殿」
「はい」
 ここでヴァルターはマイスター達の前に出て来た。それまで聖堂の隅で控えていたが遂に彼等の前に出て来たのである。
「御聞きしたいのですが」
「まず何をでしょうか」
「お生まれは。自由で正統なものでしょうか」
「フランケンのシュトルツィング家の者です」
 ヴァルターは静かにその問いに答えた。
「城を後にしてこのニュルンベルグに参り市民になりたいと考えています」
「成程」
「御身分は確かですな」
 マイスター達にもそれは伝わった。
「貴族なんてな」
 その中でベックメッサーは一人愚痴っていた。
「貴族や農民というのは問題ではありません」
 ここでまたザックスが言った。
「それは前から我々の中で決め手いたのでは?」
「それはそうですがね」
 ベックメッサーもそれは認める。
「マイスタージンガーになろうとする者は」
「芸術によって決まる」
 ベックメッサーも続く。
「その通りですな」
「そうです」
 彼等の今の話はこれで終わった。コートナーはその間にさらにヴァルターに対して尋ねてきていた。
「それで御師匠はどなたですか?」
「冬の日の静かなろばたで家も屋根も雪に埋もれる時」
 ヴァルターはコートナーの問いに対してまずはこう述べた。
「春が優しく微笑んだことを、その春がまた間も無く目覚めることを知りました」
「その御師匠にですか」
「はい。祖先から伝わる古い書物で幾度も読みました」
「古い書物!?」
「どういうことですかな?」
「ヴァルター=フォン=フォーゲルヴァイデ」
 かつてのミンネジンガーの一人であった。
「彼が私の師匠でした」
「あの伝説のミンネジンガー」
 ザックスは彼の言葉を聞いて感嘆を込めて呟いた。
「いい師匠を持たれていたのですね」
「しかしですぞ」
 ベックメッサーはその横で口を尖らせていた。
「もう遥か前の人ではないですか。どの様にして規則を学ばれたのか」
「そしてです」
 コートナーはさらに彼に問うた。
「どのようなところで学ばれたのですか?」
「野や畑に露が消え」
 またこうしたところから話すのだった。
「再び夏が訪れる時」
「はい」
「かつて長い冬の夜に古い書物から学んだものです」
 またそこからなのだった。
「美しい森に響き渡り高らかな歌声を聞きフォーゲルヴァイデ、そう小鳥の棲む原で私は歌ったのです」
「そうだったのですか」
「そうです」
 穏やかな声で述べるのだった。
「そこで私は学んだのです」
「つまり鳥から学んだ!?」
 ベックメッサーはまた口を尖らせた。
「何ですか、それは」
「いけませんか」
「人から学んではいないではないですか」
 ベックメッサーはヴァルターに対してそこを言うのだった。
 

 

第一幕その十六


第一幕その十六

「それではどうにも」
「しかしです」
 ところがここでフォーゲルゲザングは言う。
「今この方は二つのよく出来たシュトルレンをよくまとめておられますよ」
「ちょっと待って下さい」
 ベックメッサーはその彼の賞賛にも目を顰めさせてきた。
「それではです」
「何か?」
「フォーゲルゲザングさんの御名前を褒められるのですか?」
 フォーゲルゲザングが鳥の歌という意味なのとかけていた。
「それは少し贔屓ですぞ」
「それはちょっと苦しいのでは?ベックメッサーさん」
「いつもの駄洒落にしても」
 他のマイスター達がすぐに苦笑いで彼に突っ込みを入れた。
「そうです、それはちょっと」
「無理がありますよ」
「ううむ。そうですかな」
 彼はかなり本気だったがここでは冗談として引っ込めることにしたのだった。場が悪いと見てだ。
「それではそういうことで」
「皆さん」
 コートナーがまた一同に問うてきた。
「質問はこれで終わりで」
「そうですね」
 ザックスが最初に彼に賛同した。
「やがて証明されることですし」
「やがてですか」
「そうです。騎士殿が正しい芸術の持ち主であって」
 彼を信じているかのような言葉であった。
「そしてそれが実際に証明されるならば」
「それならば?」
「誰に習ったかは問題ではないでしょう」
「それではです」
 コートナーはその謹厳な顔でヴァルターに対して問うた。
「貴方は御自身の詩と旋律でマイスターゲザングの新曲を今ここで即興に示すことができますか」
「冬の夜や美しい森や本や野か私に教えたもの」
 彼はそれを受けて早速歌いはじめた。
「詩の不思議な力が密かに啓示しようとしたもの。騎馬の蹄の音や楽しい祭のロンド」
「!?」
「これは」
 今の彼の歌を聞いて殆どのマイスター達は目を顰めさせだした。早速だった。
「これが私の耳を傾けさせたのです。そして今」
「今、何と」
「歌によtって人生の最高のものを得なければならないとすれば私自身の言葉も調べも私の口から流れ出て」
 まさに自然と流れ出る感じだった。
「マイスターザングとなって師匠方の御耳に入るでしょう」
「何だこれは」
 ベックメッサーは聴き終えるとすぐに言葉を出した。
「どうしたものか」
「大胆だし」
「これは珍しいというか」
 マイスター達もその殆どが顔を顰めさせる。
「何というかな」
「では皆さん」
 その中でコートナーはまた言った。彼も顔を顰めさせてはいたがそれでも公を優先させたようである。
「記録審判の用意を。そして騎士殿」
「はい」
 またヴァルターに声をかけた、
「神聖な素材の歌は」
「私にとり神聖なるは」
 それを受けて早速また歌いはじめた。
「愛の旗、この旗を振り懸命に歌います」
「それがこの試験の誓いになります」
 コートナーはそのヴァルターに告げてからそのうえでベックメッサーに顔を向けて告げた。
「ではベックメッサーさん」
「ええ」
「御願いします」
「全く。困ったことだ」
 ベックメッサーはここでは公として考えていた。
「マイスターとして。こうした歌を採点せねばならんとはな」
 こう言ってから立ち上がりヴァルターに顔を向けて言うのだった。
 

 

第一幕その十七


第一幕その十七

「では騎士殿」
「はい」
「このシクトゥス=ベックメッサー、今ここに誓います」
 これは彼に対してだけでなくあらゆるものに、とりわけ芸術に対して誓った言葉だった。少なくとも彼自身はそう信じていたものだ。
「記録係となって物言わず厳格な審判を致します」
「わかりました」
 ヴァルターもまたそれに頷く。
「間違いは七つまで」
 そしてこのことも彼に告げた。
「七つまでは許されますがそれ以上は許されません」
「それもわかりました」
「それでははじめさせてもらいます」
 こう言って記録席に向かう。
「それでは」
 またコートナーが言う。今度は立ち上がって。
「騎士殿」
「はい」
「宜しいですね」
 言葉はさらに謹厳なものになっていた。
「それで」
「わかりました」
「それではです」
 コートナーは立ち上がったまま言葉をはじめた。
「まずマイスタージンガーの大節は中節からなり一定の規則を持っています」
 歌のことを言うのだった。マイスタージンガーの。
「そして」
「そして」
「一つの中接は同じ旋律を持つ二つの小節となり」
 次はそれであった、
「一つの小節は若干の詩句を連結するものとします」
「いつも聞いてもなあ」
「だよな」
 徒弟達はコートナーの言葉を聞きながら顔を見合わせ言い合うのだった。
「難しいよな」
「一回聞いたら絶対に覚えられないよな」
「全くだよ」
「詩句はその終わりに韻を持ちます」
 しかもまだあるのだった。
「その後に終わりの節が来ますがこれは数詩句の長さでしかも小節とは断ります」
「よく覚えてるよ」
「本当に」
 また徒弟達は顔を見合わせて言い合う。
「そこまでな」
「覚えていられるものだよ」
「固定の旋律を持ってはならずマイスターの歌曲はこれを全てかかる規則によるバールを持ちます」
「全てですね」
「そうです」
 ヴァルターの問いにも答える。
「新しい歌を作る時は綴りは四個以上」
 この決まりもあるのだった。
「他人の旋律を犯さないならばその歌は師匠の誉れを得ます」
「さあ、騎士殿それでは」
「こちらに」
 ここで徒弟達が席をマイスター達の前の中心に置くのだった。
「お座り下さい、ここに」
「そしてここでお歌い下さい」
「そこでですか」
「そうです」
 また彼等に対して述べるのだった。
「どうぞここで」
「歌曲の会の習慣です」
「それでは」
 そしてヴァルターもそれを受けるのだった。
「座らせて頂きます」
「はい、そういうことで」
「御願いします」
 これで話は決まった。ヴァルターは席に座った。するとすぐにコートナーが記録席に向かって言うのだった。
「歌い手が着席しました」
「わかりました」
 ベックメッサーもそれに応えて言う。
 

 

第一幕その十八


第一幕その十八

「はじめて下さい」
「はじめと春が森に我等を誘い寄せる音が響く」
「むっ!?」
「これは」
 マイスターの殆どが顔を顰めさせるとチョークの音がした。しかしその中でどういうわけかザックスだけは彼の歌を感心する顔で聞いていた。
「これは。まさか」
「彼方より来る波のように速やかにその声はやって来て」
 またチョークの音がした。
「遠くから膨れ上がり」
「またこれは」
「ここでそれは」
 チョークの音は二つした。しかしその中でもザックスは真剣な顔で聴いている。
「森中に木霊する。力強く近寄って来て膨れ上がり響きあがり」
「いい。そうだ」
 ザックスは頷くがここでまたチョークの音がする。
「このままいけばだ。いいな」
「優しい声と混ざり合い明るく大きく響きは近付き」
 またチョークの音だった。
「何と膨れ上がること。鈴の音のように喜びは迫る」
 チョークがまた。
「森はその呼声に応え新しい命を与える」
 チョークがここでも。
「甘い春の歌に声を合わせて歌え」
「やっぱりおかしいな」
「マイスターの歌じゃない」
「そうだ」
 またマイスター達は言い合う。
「これではな」
「全く違うぞ」
 彼等に同調するかのようにチョークの音が次々と響くのだった。ヴァルターはその音を聞いて不機嫌な顔になる。しかしそれでもまだ歌い続ける。
「茨の垣根の中で妬みと怨みに蝕まれ」
 またチョークだった。
「冬は怒りに燃えてこの身を隠さなければならない」
「何か感情が露わになってきたぞ」
「やはりマイスターではない」
 これは彼等の常識の中での言葉であった。
「どうしてもな」
「何だというのだ?全く」
「枯れた葉のざわめきに囲まれ冬は狙っている」 
 チョークが続く。
「あの楽しげな歌をどのようにしてかき乱してしまおうかと」 
 そしてここで椅子から立ち上がるのだった。
「何っ、立ち上がった!?」
「歌の途中で」
「そうだ」
 ザックスだけはこの動きに頷くのだった。
「そこで立ち上がってこそだ。心を見せる時だ」
「しかしはじめよと我が胸に呼ぶ声がした時私はまだ愛が何かを知らなかった」
「何と奔放な歌だ」
「こんな歌ははじめてだ」
「全くです」
 また言う彼等だった。
「しかも立ち上がって」
「こうして歌うとは」
「作法ではない」
「ただ夢から目覚めさせられたかのように胸深く蠢くものを感じ私の心は震えときめき」
 歌をさらに続ける。
「胸の空間を満たす。血は力強く沸きあがり未知の感情によってふくれあがる」
 またチョークの音がした。
「暖かい夜の中から溜息が群れをなして強く湧きい出て」
 ここでもであった。
「海となり快い気持ちの荒々しい波を起こす」
「そう、波だ」
 また頷くザックスだった。しかしここでもチョークだった。
 

 

第一幕その十九


第一幕その十九

「胸は快楽に満たされその呼ぶ声に応える。新しい命は生まれ出て新しい愛の歌に合わせて歌え」
「もう終わりですか!?」
 チョークをここでは四回入れたところでベックメッサーが幕から出て来た。
「これで」
「何故聞かれるのですか?」
「もう黒板は埋まってしまいましたよ」
「これからです、まだ」
「ではもう他の場所で御一人で歌って下さい」
 たまりかねた声で記録席から出て言うベックメッサーだった。
「こんな歌ははじめてだ。マイスターの歌ではありません」
「マイスターの歌ではないと」
「そうです」
 ヴァルターを見据えての言葉だった。
「こんなもの。何から何までマイスターのものではありません」
「そう、確かに」
「はじまりか終わりかもわかりませんでしたな」
「数や結び方は?」
 それもなのだった。
「短過ぎたり長過ぎたり」
「再現もないし節もなかった」
「何なんだこの歌は」
「だからです」
 ベックメッサーの言葉は憤慨したものだった。
「段切れもないですしコロトゥーラもありません」
「そうだ。マイスタージンガーの歌ではない」
「聞いている方が不安でしたぞ」
 ベックメッサー以外のマイスタージンガー達もやはり彼と同じ意見であった。あえて中立になっているポーグナーと考える顔になっているザックス以外は。
「内容もない」
「椅子からも立ったし」
 コートナーも言う。
「全くの滅茶苦茶というか」
「何だったのでしょうか」
「そういうことです」
 ベックメッサーもまだ言う。
「これではとても」
「いえ」
 しかしここでザックスが言うのだった。
「皆様方急がずに」
「急がずにですと」
「そうです」
 彼は言うのだった。
「誰もが貴方達と同じ意見ではありません」
「といいますと」
「貴方はどうお考えで」
「騎士殿の詩と節ですが」
 こう同僚達に述べるのだった。
「新しいものとは思いますが混乱しておりません」
「乱れてはいないと」
「そうです。我々のやり方ではありませんが」
 マイスターのやり方だけではないというのだった。
「歩みはしっかりとしていて迷いはありません」
「迷いはですか」
「はい、ありません」 
 また言うのだった。
「それを規則に従っていないものを規則に照らそうという場合には」
「その場合には?」
「自分達の規則は忘れてしまって新しい規則を求めなければなりません」
「そうではないでしょう) 
 しかしベックメッサーは強硬に彼に反論してきた。
「そうではありません」
「違うというのですか」
「これは歌ではありません」
 こうまで言うのは相変わらずだった。
「最早」
「マイスターの歌ではないからですか」
「そうです。もうそれではありませんから」
 だから歌ではないと言い切るベックメッサーであった。
「最早。もうこれは」
「最後まで聴かれればおわかり頂けると思いますが」
「もう試験の結果は出ました」
 ベックメッサーは突っぱねるようにして言い返した。
 

 

第一幕その二十


第一幕その二十

「一度出た判定を覆すのはどうかと思いますが?」
「私の希望するところが規則に逆うのは申し訳ありませんが」
 ザックスは自分でもそれは言った。
「しかしです。規則には書いてあります」
「何と?」
「記録係は愛憎に捉われることなく判断すべきと」
 ザックスが今度出したのはこのことだった。
「彼が求婚者の席に座った時にその歌が好ましくなかったからと」
「私の歌をそれで」
 ヴァルターもそれを聞いて顔を顰めさせた。
「まさか」
「そうした個人的な主観で判定を下されたのではないのですか?」
「お待ち下さい、ザックスさん」
「今の御言葉は」 
 マイスター達は今のザックスの言葉に目を顰めさせた。
「言い過ぎでは?」
「それはベックメッサーさんへの中傷ですぞ」
「そうです」
 ベックメッサーもまた不機嫌な顔でザックスに言ってきた。
「私は少なくともマイスターの信義に乗っ取っていますよ」
「そうです。ベックメッサーさんはそんな方ではありませんよ」
「その通りです」
「まあお待ち下さい」
 ここでポーグナーが一同を制止する。
「言い争いは何も生みません」
「私はそれよりもです」
 ベックメッサーはザックスに対して勿体ぶった様子を見せつつ言ってきた。
「靴のことで」
「靴ですか」
「そうです。私の行きつけの靴屋さんは」
 言うまでもなくザックスのことである。
「どうも履き心地が悪くて困ります」
「おや、それは失礼」
「詩句や韻、芝居だとか茶番だとかそういうものはいいのです。ですが靴はです」
「靴はですか」
「そうです。明日までにちゃんとしておいて下さいよ」
「それは御心配なく」
 ザックスもこれは自分の本職なのではっきりと答える。
「ですが馬子の靴の底には格言を書き入れますが博識の書記さんには」
「何か?」
「靴の底に何か書かないでおくというのも礼儀に適うことではないでしょう」
 こう言うのだった。
「私のったない歌心からは貴方様に相応しい格言も今のところ浮かんできませんが」
「ふむ」
「それで」
「騎士殿の歌を聴いた後なら何かよいものが思いつけそうです」
 こう言うのである。
「ですから騎士殿には妨げなく歌ってもらいましょう」
「それでは」
 ヴァルターはザックスの言葉を聞いて興奮して思わず立った。
「是非。私も」
「ですから結果は出たではないですか」
「そうです」
「その通りです」
 言うのはベックメッサーだけではなかった。
「終わりにしましょう」
「もう」
「さあ騎士殿」
 それでもザックスはヴァルターに歌わせようとする。
「お歌い下さい」
「あのですね」
 ベックメッサーがたまりかねた口調でザックスに反論する。
「黒板にどれだけ間違いがあります?連結のはじまりに語り得ぬ言葉に粘着綴音に悪い韻」
 次々と並べ立てていく。
「あいまい語に間違った場所の韻、それにつぎはぎに意味の取り違え、あと不明瞭な言葉に韻の不揃い、他には不用意の誤り。まだありますぞ」
「そうです、あまりにも酷い」
「何処がマイスターの歌ですか?」
 ポーグナー以外のマイスター達もベックメッサーに続く。
 

 

第一幕その二十一


第一幕その二十一

「この試験ではもう結果が出ています」
「仲間に入りたいからいいというわけではありません」
 こんな意見も出て来た。
「だからです。ここはです」
「もう騎士殿には」
「困ったな」
 ポーグナーは立場上何も言えず困った顔になっていた。
「騎士殿の顔色は悪い。皆反対している」
 こう呟きながらヴァルターを見るのだった。
「婿殿には大変結構な方で喜んで迎えたいがこの周りの声では」
「暗い茨のまがきから梟が一羽ざわめきい出て」
 ここでヴァルターはまた立ったまま歌うのだった。
「その騒がしい鳴き声で烏の群れを呼び覚まし烏達は胴馬声の合唱をする」
 こう歌うのだ。
「すると夜の闇の中を群れを為し様々な鳥達が鳴く。そこで一羽」
「一羽、そうか」
 ザックスだけが真面目な顔で聴いて頷いている。
「そこで一羽か」
「黄金の翼を広げて舞い上がり空高くその羽根を煌かせ楽しげに宙に舞う」
 歌いながらさらに上記していく。
「飛べと私に合図する。心は甘き苦しみに忽ち膨れ上がり翼も生え出ずにはいられなかった」
「よし、大胆でいい」
 ザックスはまた頷く。
「感動させるものがある、いい感じだ」
「そこで羽ばたきも軽く大胆に舞い上がり町の穴倉から懐かしい丘に飛ぼう」
「皆さん」
 ザックスは感動して他のマイスター達に告げる。
「是非この歌を聴きましょう。これは素晴らしい歌です」
「この師匠ヴァルターに教えを受けた緑のフォーゲルヴァイデに行こう。そこで私は声高らかにいとしの方を讃えて歌う」
「ベックメッサーさんも落ち着かれて。これを聴かなければ詩人でも歌手でもありません」
「そうは言うが」
「もう試験は終わったのですぞ」
「その通りです」
 周りの面々はまだ反論する。
「ですからもう」
「何を申し上げても」
「烏の師匠達は忌み嫌うにしてもそこに清らかな愛の歌が生まれる」
 ザックスはさらに興奮を感じていた。
「この歌は勇気があります。歌い続ける勇気が」
 ヴァルターの歌を聴きながら述べる。
「本当の詩人の勇士です。ハンス=ザックスは詩と靴を作りますが」
 今度は自分自身のことを述べた。
「彼は騎士にして詩人です」
「そうだよな、いい歌だよな」
「あれっ、御前もそう思うか?」
「御前も?」
 ダーヴィットも他の徒弟達もここでヴァルターの歌について言い合うのだった。
「だよな。何か今までにない歌だしな」
「ちゃんと歌えてるよな」
「確かにマイスターの歌じゃないかも知れないけれどな」
「マイスターの歌ではないから駄目だ」
 ベックメッサーは一喝するようにして彼等の意見を切り捨てた。
「どちらにしろもう結果は出ました。終わりです」
「そうだ、終わりだ」
「失敗です」
「不合格です」
 口々にこう言うマイスター達だった。皆一斉に席を立ちそれぞれの弟子達を引き摺るようにしてその場を後にする。ポーグナーも止むを得なく席を立ちヴァルターも歯噛みしながら憤然と姿を消した。
 しかしザックスだけは残り一人座り込んでいた。そうしてここで呟くのだった。
「さて、どうしたものかな」
 何か考えているようだったがやがてその思考を止め彼も席を立った。そうして彼も自分の家に戻るのだった。
 

 

第二幕その一


第二幕その一

               第二幕  夜の街の喧騒
 ニュルンベルグの街は表通り等主な道以外は全て湾曲したり狭くなったりして入り組んでおりさながら迷路である。ザックスの家もそんな場所にあり前にはポーグナーの立派な家がある。二人の家の間はかなり大きな広場になっており菩提樹が大きく茂っている。ザックスは今その家の前に一人椅子とテーブルを出し座り月明かりを頼りに靴を作っている。俯いて何かを考える顔になっている。
「親方」
 その彼に家の扉から出て来たダーヴィットが声をかけてきた。
「ちょっと散歩に行って来ます」
「ああ、すぐに帰るようにな」
「はい」
 こう言って彼は家を出て少し離れたところに向かう。そこにはマグダレーネが待っていた。
「誰にも気付かれなかったわよね」
「うん」 
 しかしこう答えた矢先であった。
「ヨハネ祭、ヨハネ祭」
「明日が楽しみだよ」
 ダーヴィットの仲間達の声であった。
「花もリボンも欲しいだけ」
「欲しいだけあの娘にあげよう」
「げっ、まずいな」
「そうね」
 二人は彼等の声を聞いて思わず背を縮めさせた。
「まさかここに来るなんて」
「どうしようかしら」
「とりあえずよ」
「うん」
 二人は小声で話を続ける。
「あの騎士さんどうなったの?」
「エヴァお嬢ちゃんが見ているあの騎士殿だよね」
「ええ、あの人だけれど」
「ちょっとね」
 しかしここで彼は首を横に振るのだった。
「まあ何ていうかね。あれはね」
「どうだったの?」
「駄目だったよ」
 難しい顔で答えるダーヴィットだった。
「失敗だったよ」
「歌い損ね?それとも全く駄目だったの?」
 マグダレーネは失敗と聞いてさらに彼に問うた。
「どうだったの?そこは」
「それが君に関係あるのかい?」
 言いながら今彼女が持っているその籠を見るのだった。
「そこにあるのはその絹の冠かい?」
「駄目よ、見たら」
 ダーヴィットが見ているのを見てすぐに引っ込めるマグダレーネだった。自分の後ろに隠す。
「これはあの人の為に作ったから」
「お昼のことだな」
「そうだね」
 徒弟達は二人に気付いていた。そうしてその二人をこっそりと見ながら言うのだった。
「けれどダーヴィットはどうかな」
「マグダレーネもまんざらじゃないのわかってるのにな」
「もうちょっと押せばいいのにな」
「全くだ」
「っておい」
 ここでダーヴィットもその彼等に気付いた。怒った声で言ってきた。
「何を見てるんだよ、一体」
「いやいや、たまたまだよ」
「通り掛かりでな」
「そうそう」
「一体何時まで遊んでいるんだよ」
 彼等の足取りを見ればわかることだった。結構以上に酔っている。ダーヴィットはそれを見て言うのだった。
「全く。今日もそんなに」
「今日は特別だよ」
「なあ」
 また彼等は口々に言うのだった。そのふらふらした足取りで。
「明日はお祭だからな」
「年寄りが若い娘さんに求婚し」
 ふざけた言葉は続く。
「若い男が年増に言い寄る」
「私が年増ですって!?」
 マグダレーネは今の彼等の言葉にむっとした顔になる。
「幾ら何でもその言葉は許せないわよ」
「ははは、例え」
「そう、例えだよ」
 マグダレーネのむっとした言葉にもこんな調子であった。
「気にしない気にしない」
「気にしたら駄目だよ」
「そうそう」
「全く。何て調子のいい奴等だ」
「本当に」
「おい、こら」
 ここで騒ぎを聞いてかやって来たザックスが後ろから自分の弟子に対して言ってきた。
 

 

第二幕その二


第二幕その二

「何を騒いでいるんだ?」
「これは親方」
「また喧嘩でもしているのか?」
「いいえ、酔っ払い連中からからかいを受けているんで」
 その酔っ払い達を指差しての言葉だ。見れば彼等は今度はその千鳥足でダンスを踊っている。賑やかに歌いながらそうしているのだ。
「この通りの有様で」
「酔っ払いは相手にするな」
 ザックスは今はこう言うだけだった。
「それよりももう遅い」
「はい」
「寝るんだ、早く」
 こう弟子に対して言うのだった。
「いいな」
「あっ、もうそんな時間ですか」
「とっくにだ」
「歌の稽古は?」
「今日はない」
 右手で制止する動作で告げた言葉だった。
「昼のでしゃばりの罰だ」
「あっ、それですか」
「反省するのだ」
 目を少し怒らせて弟子に告げてきた。
「いいな。新しい靴を型にはめて置いてくれたらそれで終わりだ」
「わかりました。それじゃあ」
 こうしてダーヴィットは家に戻りマグダレーネも分かれた。ザックスも家の中に入るがそれと入れ替わりにポーグナーとエヴァが家に戻ってきた。どうやら散歩をしていたらしい。
「ザックスさんはおられるかな」
 ポーグナーはザックスの家を見て述べた。
「まだ」
「ザックスさんがどうかしたの?」
「うん、ちょっとな」
 娘に顔を向けて答える。
「お話したいことがあってな」
「おられるみたいだわ」
 エヴァはそのザックスの家を見て父に述べた。
「どうやらね」
「そうなのか」
「窓から灯りが見えるわ」
「確かに」
 見れば確かにその通りだった。
「ではやっぱりいるのか」
「では入ろうか。いや」
「いや?」
「やっぱり止めておくか」
 口元に手を当てて俯いた顔になって述べるのだった。
「ここは」
「どうかしたの、お父さん」
「わしはやり過ぎたか」
 不意にこんなことも言うポーグナーだった。
「幾ら旧習を破ったとしてもそれはあの人のやり方ではなかったか」
「!?」
 エヴァは父の言葉の意味がわからず首を傾げた。
「本当にどうしたのかしら」
「意味のないことか」
 また言うポーグナーだった。
「やはりこれは」
「どうしたのかしら」
「エヴァ」
 ここでようやく娘に顔を向けて問うた。
「御前は何故黙っているのだ?」
「従順な娘は聞かれた時にだけ話すものよ」
 エヴァはくすりと笑って父に告げた。
「だから」
「ううむ、確かにな」
 ポーグナーは一旦エヴァの言葉に頷いた。
「それはその通りだ」
「それで何なの?」
「まずは聞いてくれ」
 言いながら菩提樹の側の石のベンチに座った。そうしてエヴァは父のその隣に座る。そうしてそこから話をはじめるのだった。
 

 

第二幕その三


第二幕その三

「涼しい夜ね」
「そうだな」
 まずはそこから話すのだった。
「それで何なの?お話しは」
「明日どういった幸福が御前に訪れるか」
 月を見上げながら語るのだった。
「そのことを考えてな」
「私のことなのね」
「そうだ」
 また娘に語った。
「御前の心のときめきが御前に語ってくれる」
「そうなの。私の」
「そうだ。ニュルンベルグの町の皆が市民と岩誰といわず御前の前に集まり」
 彼はまた言う。
「そして栄誉の若枝を夫となるその人に与えるのだ」
「租してその人は」
「御前の選んだマイスターのその人を」
 ここでマイスターという言葉が出て来た。
「御前の心は告げないのだろうか」
「その人はマイスターでなければならないのね」
「そうだ」
 また娘に対して答える。
「それは御前の選んだマイスターだ」
「そう。私の選んだマイスターなの」
 エヴァもまたその言葉を聞いて俯いてしまった。
「その人と私が」
「そうだ。それは聞いているね」
「ええ。けれど」
 エヴァは父の言葉に応えてまた述べた。
「それは。もう一人しか」
「そうだな。それもわかっているが」
「それでお父さん」
 父に対して尋ねてきた。
「あの騎士さんは?」
「あの方か」
「ええ。あの方はどうだったの?」
「どうもな」
 首を傾げて言うポーグナーだった。
「何と言うのか」
「何とって?」
「悪くはなかった」
 ポーグナーもザックスと同じものは感じているのだった。
「しかしだ」
「しかし?」
「駄目だ。答えられん」
 首を横に傾げて言うのだった。
「どうもな。何が何なのか」
「わからあないの?」
「頭の中がこんがらがっている」
 こう言うしかないポーグナーだった。
「これでな。どうにもならない」
「そうなの。それで」
「今日はもう休もう」
 遂に諦めたかのように立ち上がるポーグナーだった。
「これでな」
「ええ。それじゃあ」
 ポーグナーは家に入って休んでしまった。しかし彼と入れ替わりのように家の裏口からマグダレーネが出て来た。そうしてまだ座っているエヴァの横に来て言うのだった。
「お嬢様」
「レーネ」
 エヴァは彼女姿を認めてすぐに問うてきた。
「何か知ってるの?」
「いいえ」
 残念そうに首を横に振るだけであった。
「失敗されたとしか」
「そうなの」
 それを聞いてまた俯くエヴァだった。父の言葉の感じからそれは薄々わかっていたのだ。
「あの人は」
「はい。そうみたいです」
「どうしようかしら」
「そうですね。ここはです」
 ここでマグダレーネは何かに気付いたかのように言うのだった。
 

 

第二幕その四


第二幕その四

「ザックスさんに御願いしてみては」
「ザックスさんに?」
「そうです。あの人にです」
 また言うマグダレーネだった。
「御願いして。如何でしょうか」
「そうね。あの人なら」
 エヴァは彼女の言葉を受けて気持ちを取り直したように顔をあげた。
「私を子供の頃から可愛がってくれたし」
「はい」
「きっと力になってくれるわ」
「けれどです」
 だがここでマグダレーネは言葉を入れてきた。
「気付かれないように」
「お父さんに?」
「はい。家にいないとなるとです。不安に思われます」
 このことを注意するのだった。
「それは宜しいですね」
「わかったわ。それはね」
「じゃあ。後は」
「ええ。お話ししてみるわ」
「その間は私が」
 そっと家に戻りながらエヴァに告げる。
「変装してきますので」
「御願いね。それじゃあ」
「はい。そういうことで」
 マグダレーネは家の中に戻りエヴァも一旦それに続く。それとまた入れ替わりにザックスとダーヴィットがまた家から出て来て外で仕事をしだした。そのうえでザックスはダーヴィットに対して言うのだった。
「御苦労だったな」
「まあこの程度は」
 何とでもないといった感じのダーヴィットだった。
「朝飯前ですよ」
「少なくとも夕食の後の運動にはなったな」
「そうですね」
「ではもう寝るのだ」
 またこのことを告げるザックスだった。
「明日も早いからな」
「そうですね。明日も」
「よく寝て疲れを取って」
 弟子を気遣う言葉であった。
「そして明日はしゃんとしてな」
「はい。ところで」
「何だ?」
「親方はまだお仕事をされるんですか」
「そうだ」
 椅子に座り机の上に靴を置くザックスに対して問うたのだ。
「少しな。やることがある」
「そうなんですか」
「そうだが。どうした?」
「いえ」
 ここでダーヴィットは周りを見回すのだった。夜の町を。
「いないな、あいつ」
「あいつ?」
「あっ、何でもありません」
 ザックスに問われ即座に言葉を返すのだった。
「何でも。気にしないで下さい」
「そうか」
「まあこれで」
「うん、それじゃあな」
 こうしてダーヴィットは渋々家の中に戻る。そうして一人になったザックスは仕事をはじめた。しかしここで呟きだしたのだった。
「にわとこが何と柔らかく強く香っているのか」
 まずはこう呟く。今の机と椅子のことだ。
「その香りで私の手足は柔らかくなりそのうえで歌いたくなる」
 一旦機嫌はよくなる。
「だが」
 しかしここで機嫌が変わるのだった。
「それが何になるのか。私の歌には何の価値があるのか」
 自問するのだった。
「感じるが上手くはいかない」
 そしてこうも言うのだった。
「何だ。あの感覚は。あの若者の歌は」
 ヴァルターのことが脳裏に浮かぶ。
 

 

第二幕その五


第二幕その五

「皮を打ち伸ばすだけの私には測ることができないのか。あの歌はそう」
 さらに言葉を続ける。
「どんな規則も合わないのに謝りはない。まるで五月の鳥の歌のように」
 彼は言った。
「古くそれでいて新しく響いていた」
 さらに呟き続ける。
「鳥の歌を聴いてそれ意味せられ真似て歌う者が嘲りと恥を受ける」
 やはりヴァルターのことである。
「春のたえがたき魅惑、甘きやるせなさ、それが私の胸に溢れ」
 さらに言葉を続けていく。
「歌わずにはいられないように歌った。だから彼は歌えた」
 ヴァルターのそのことを思う。
「それはわかった。マイスター達は不安を覚えたようだが私は気に入った」
 そんなことを呟いた後で仕事に戻ろうとする。するとそこにエヴァがやって来て言うのだった。
「親方」
「おお、エヴァちゃんか」
 そのエヴァに応えて言う。
「何の用かな」
「まずはこんばんは」
 ここで挨拶を思い出してするエヴァだった。
「こんばんは」
 ザックスもそれに応える。
「靴のことかい?」
「それじゃないの」
 そうではないと答えるエヴァであった。
「それよりもね」
「うん」
 ザックスは頷いてから自分からエヴァに問うてきた。
「何かあるみたいだね」
「花婿のことだけれど」
 ちらりとザックスを見ながら言った言葉だった。
「誰なのかしら」
「わしは知らないよ」
 ザックスはその言葉におどけた感じになって述べた。
「そんなことはね」
「じゃあどうして私が花嫁になることを知っているの?」
「そんなことは町中が知っているよ」
 こう言い返すザックスだった。
「そんなことはね」
「そうね。それはね」
 言った本人もそれは認めた。
「その通りよ。ザックスさんがそれを保証される位にね」
「その通りだよ」
「けれどよ」
 ここでまたザックスをちらりと見ながら言うエヴァだった。
「私ザックスさんがもっとよく御存知だと思っていたのよ」
「わしが?」
「ええ、そうよ」
 思わせぶりにザックスを見ながら言う。
「ザックスさんが。私の方から言わないと駄目なのかしら」
「わしがか」
「賢く私に言わせるの?」
「そんなこともないよ」
 このことには首を横に振るザックスだった。
「別にね」
「ザックスさんには判らないの?それとも仰らないの?」
 ザックスを見て問うエヴァだった。
「ザックスさん、私にもよくわかったわ」
「何をだい?」
「樹脂が密蝋ではないということを」
 つまり期待しても無駄なことを期待していたということだ。あえて皮肉として言ったのである。当然ザックスに対しての言葉なのは言うまでもない。
「もっと細かい思いやりのある方だと思っていたけれど」
「おやおや、エヴァちゃん」
 ザックスはハンマーを手にしたまま呆れたような声で言うのだった。
「密蝋も樹脂もわしには馴染みのものなんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。密蝋を絹糸に塗りそれであんたの可愛い靴を縫ったし」
 話すのはここでも靴のことである。流石は靴屋だ。
「今日はこの靴を太い糸で縫うけれど樹脂はこうした糸に相応しいしね」
「それは誰のことかしら」
 あえてとぼけるエヴァだった。
 

 

第二幕その六


第二幕その六

「私にはわからないけれど」
「そうなのかい?」
「けれどそうするのが本当なのね」
「わしもそう思うよ」
 ザックスもエヴァと駆け引きをするように述べた。
「マイスターは明日勝利を得ようと大得意で求婚者になるんだ」
「マイスターってどなたが?」
「この靴の依頼主さ」
 こうエヴァに話す。
「ベックメッサーさんさ」
「それならよ」
 ベックメッサーと聞いて顔を一気に曇らせて言うエヴァだった。
「樹脂を沢山つけて」
「どうしてだい?」
「あの人の足がその中に貼り付いてしまって私に構わないようにして」
「あの人は歌に勝利を得てあんたを勝ち得ようとしているんだよ」
「それでもどうしてあの人が?」
「今独身だからね」
 彼が長い間男やもめなのも誰もが知っていた。
「だからだよ。それに」
「それに?」
「あそこで歌おうという独身の人は少ないからね」
「それはそうだけれど」
 エヴァもよく知っていることだった。この町にいるからだ。
「男やもめならもう一人」
「その男はあんたには歳を取り過ぎてないかい?」 
 エヴァの目線をさっとかわしての言葉だった。
「少しばかりね」
「重要なのは芸術でしょ」
 マイスター達の石頭ぶりは彼女も知っているので皮肉を言ったのだ。
「歌の芸術を知っている人が私に求婚したらいいじゃない」
「エヴァちゃん、あんた」
 むっとした顔をしてみせての言葉であった。
「わしをからかっているのかい?まさか」
「いいえ」
 エヴァは首を横に振ってそれは否定した。
「からかっているのは私じゃないわ」
「じゃあ誰なんだい?」
「貴方よ」
 じっとザックスを見て言うのだった。
「誤魔化してしまうの?貴方だって心変わりすることを」
「何が何なのか」
「はっきり言ったらいいのに」 
 頬を膨らませてまたザックスに告げる。
「今貴方の意中の人が誰か神様にしかわからないけれど」
「いないけれどな」
「何年かの間私がいたのだと思ったけれど」
「ああ、そうだったね」
 おどけた調子で応えるザックスだった。
「あんたをよく抱いてあげたからね」
「それはザックスさんにお子さんがいなくなったからでしょう?」
 ザックスは妻も子もなくしてしまっている。それを考えれば確かに孤独な男やもめなのだ。
「それは」
「まあそうだね」
「それに私は大きくなったし」
「大きくなったし奇麗になったね」
 ザックスはエヴァの目を見て言った。
「本当にね。大きくなったら」
「大きくなったから考えたのよ」
 また言うエヴァだった。
「貴方は私を子供として」
「うん」
「そして妻として入れて下さるのではなかったの?」
「おお、それだったら」
 ザックスは今のエヴァの言葉を相変わらずおどけた調子のまま受けて言葉を返した。
「わしは子供と妻を同時に手に入れるわけか」
「そうよ」
「それは結構いいな。確かに」
「どう思うの?それについて」
「中々いいことを考えたものだ」
 感心したように頷きながらの言葉であった。
 

 

第二幕その七


第二幕その七

「うむ、確かに」
「私のことを笑っていらっしゃるのね」
 エヴァはザックスは本気ではないのを見て取ってまた言い返した。
「だから明日ベックメッサーさんが皆の前で私を平気で奪い取るようなことがあっても黙って見ているのね」
「あの人が歌で成功したら」
 ザックスはまたベックメッサーの話をした。
「誰も彼の邪魔をできないよ」
「そうよ、誰もね」
「それについてはあんたのお父さんが考えているんじゃないのかい?」
「マイスターの方々はどう考えておられるの?」
 エヴァは自分の父親よりも彼等の方が問題だと思っていた
「家で助言が得られるならここには来ないわ」
「まあそれもそうか」
 今のエヴァの言葉には何かに気付いたようであった。
「今日は色々とあって頭の中に何かがこびりついているようだ」
「今日の歌の試験のことよね」
「その通りだよ。困ったことがあったからね」
「それをすぐに話して下さったらよかったのに」
 今度は口を尖らせたエヴァであった。
「そうすれば話が早かったのに」
「そうだったな。確かにね」
「それでザックスさん」 
 身を乗り出してザックスに尋ねてきた。それでエヴァが座っている椅子が少し揺れた。
「誰が名乗りをあげられたの?」
「騎士殿だ」
「騎士殿!?それでどうなったのですか?」
 さらに身を乗り出し問うエヴァだった。
「その方は」
「駄目だったよ」
 しかしザックスはここで首を横に振るばかりだった。
「大変な騒ぎになったよ」
「大変なって?」
 エヴァは身を乗り出したまま顔を青くさせてしまった。
「どうなったの?それで」
「救い難い程だったよ」
 あえて本心を隠し眉を顰めさせるザックスだった。
「それで落第だったよ」
「そうだったの」
「お嬢様」
 ここでポーグナーの家の二階の窓が開いてそこからマグダレーネが出て来て声をかけてきた。
「ちょっと」
「救い難い程って」
 しかしエヴァはそれどころではなかった。今のザックスの言葉に狼狽していた。
「何とかできなかったの?マイスターに合格させる手立てがなかった程酷かったの!?」
「もうあの騎士殿を救う手立てはないよ」
 ザックスは眉を顰めさせたまままた言った。
「どの国へ行ってもマイスターにはなれないよ」
「そんな・・・・・・」
「例えマイスターに生まれていたとしても」
「ええ」
「マイスターの中で一番下だね」
「そんな・・・・・・」
 そこまで言われて余計に青い顔になるエヴァだった。しかしここでまたマグダレーネが彼女を呼ぶがやはりそれは耳に入っていなかった。
「それでお嬢様」
「もう一つだけれど」
 しかしやはり今の彼女の耳には入っていないのだった。
「あの人の味方になってくれたマイスターの方はおられなかったの?」
「それは悪いことではない筈なんだが」
 項垂れた顔になって言うザックスだった。
「彼の前では誰もが小さく感じる程だった」
「それじゃあ」
 才能がある、そうとしか聞こえない言葉だった。
「やっぱり」
「あの誇り高き騎士殿は行くままにさせるべきだ」
 こうエヴァに告げるのだった。
「世界の何処でも戦っていくことのできる方だ」
「何処でもなの?」
「そうさ。我々が苦心して学んだもので息を入れている間に行ってしまう」
 やはりヴァルターの才能は認めていた。
「だからあの方は何処かで花を咲かされるべきだ。ここでは積み上げられたものを蹴散らさなければいいのだからね」
「じゃあつまりよ」
 いい加減頭にきて言い返すエヴァだった。
 

 

第二幕その八


第二幕その八

「貴方達のような人の妬む人達のところにいるより」
 ザックスに向けた怒りの言葉であった。
「何処か他所でってことよね」
「そうさ」
「陰険で下らない親方達のいる所より人の心が暖かく燃えるところがいいのね」
「お嬢様」
 いいタイミングでまたマグダレーネが声をかけてきた。
「宜しいでしょうか」
「あっ、そうね」
 ここでやっと彼女に気付いたエヴァだった。
「レーネ」
「はい」
「今いくわ」
 こうマグダレーネに顔を向けて告げてからまたザックスに顔を戻して言う。
「ここでは何も慰めはなかったわ」
「済まないね」
「ここはたまらない樹脂の匂いがするわ」
 ドイツの言葉で辛い運命に落ちたという意味である。
「むしろ火が点いて燃える位なら」
 そしてさらに言うのだった。
「幾らか暖かくなるでしょうにね」
 もっと酷いことになれば同情する人も出るという意味であった。エヴァはここまで言うと怒った顔のまま立ち上がりそのうえで自分の家に戻ろうとする。マグダレーネはもう家の前に立っていてそのうえでエヴァに対して声をかけるのだった。
「こんな遅くまで」
「御免なさい」
「旦那様が御呼びですよ」
「お父さんに言って」
 ここでマグダレーネに対して頼むエヴァだった。
「私は部屋で休んでるって」
「それは駄目よ」
「けれど」
「それに困ったことになっていまして」
 マグダレーネはここで困った顔をエヴァに見せて告げるのだった。
「ベックメッサーさんがですね」
「あの人が!?」
 ベックメッサーの名前をここで聞いてさらに不機嫌になるエヴァであった。
「また何て?」
「私に言ったのです。お嬢様がですね」
「ええ、私が」
「夜お部屋の窓のところに立っていて欲しいって」
「どうしてなの?」
「歌です」
 マグダレーネが述べたのはこれであった。
「何か素晴らしい歌を歌ったり演奏したりしてお嬢様の関心を得たいそうで」
「そんなことなの」
 話を聞いて溜息のエヴァだった。
「嫌よ、そんなの」
「そうですか」
「そんなことをしても私の気持はね」
「わかりました。ところで」
 ここで周りを見回しだしたマグダレーネだった。そのうえで怪訝な顔で言うのであった。
「ダーヴィットは何処に」
「ダーヴィットさん!?」
「はい。何処に」
 心配する顔になってまた言うのだった。
「いるのかしら」
「私に言われても」
 わかる筈がないと返すエヴァだった。
「ちょっと」
「さっききつ過ぎたから」
 籠のことを反省しているのだった。
「ですから」
「それであの人を探しているのね」
「はい」
 エヴァの言葉にこくりと頷くのだった。
「だからです」
「それでも見えないのね」
「何処に行ったのかしら」
「もう寝たのではなくて?」
 自分もそうだからこう述べたエヴァだった。
「そうじゃないかしら」
「そうでしょうか」
「ええ。それにしても」
 ここで顔を曇らせるエヴァだった。
 

 

第二幕その九


第二幕その九

「ベックメッサーさんね」
「はい、あの人ですけれど」
「どうしたものかしら」
「そうですね。どうしたものでしょう」
 二人はここでお互い腕を組んで首を捻り合う。そうしているうちにエヴァはふとこんなことを思いつきそのうえでマグダレーネに対して言うのだった。
「そうだ」
「何か思い付かれましたか?」
「ええ。レーネ、貴女がね」
「私がですか」
「そうよ。私のかわりに窓に出て」
 こうマグダレーネに提案するのだった。
「そうしてね」
「そうしたらダーヴィットが見たら焼き餅を焼きますけれど」
「大丈夫よ、ベックメッサーさんに貴女が興味がないのは誰でもわかってるし」
「はい」
 これもまた省周知のことであるのだ。
「その貴女にあの人が歌を贈ってもよ」
「ダーヴィットは私に怒らずに」
「そうよ、あの人に対して怒るわ」
 ここまで見ているのだった。
「これでどうかしら」
「そうですわね。それでしたら」
「レーネ、何処だい?」
 ここで家の中からポーグナーの声がしてきた。
「レーネ、何処にいるんだい?」
「あら、いけないわ」
 マグダレーネはポーグナーのその声を聞いて言った。
「旦那様が御呼びです」
「じゃあもうこれで」
「はい、それじゃあ」
 これで二人は家の中に入ろうとする。ところがここで町の中央の方から一人やって来たのだった。それが誰かと見れば何と。
「あの方だわ」
「あの方?」
「ヴァルター様よ」
 こうマグダレーネに話すのだった。
「あの方が来られたわ」
「騎士殿がですか」
「ええ、そうよ」
 こうマグダレーネに対して答えるのだった。
「あの方が」
「ではどうされますか?」
「少し御話がしたいわ」
 エヴァは真剣な顔でマグダレーネに答えた。
「ここはね」
「それではです」
 マグダレーネはここではエヴァの言葉に頷くのだった。
「ここは私にお任せ下さい」
「協力してくれるの?」
「何言ってるのですか。私はお嬢様にとって何ですか?」
「お友達よ」
 にこりと笑って問うてきたマグダレーネに対して答えるのだった。
「それ以上のものかも知れないわ」
「そうですわね。それではです」
「いつも有り難う」
「御礼はいいんですよ。それでは」
「ええ、頼んだわよ」
「はい、これで」
 マグダレーネはエヴァに対して右目でウィンクしてからそのうえで家に戻った。エヴァはそのこちらにやって来たヴァルターを待つ。こうして二人はここでまた出会うのだった。
「フロイライン」
「騎士様」
 互いにそれぞれ言い合うのだった。
「お話は聞きました」
「そうですか」
 ヴァルターはエヴァの今の言葉を聞きまずはその顔を強張らせた。
「それをですか」
「はい。ですが」
 しかしここでエヴァは言うのだった。
「貴方は優勝の勇士です」
「馬鹿な、私は」
「いえ、私にとってはです」
 ヴァルターを見上げそのうえで見詰めての言葉だった。
 

 

第二幕その十


第二幕その十

「貴方がそうであり」
「はい」
「そして私の友人でもあります」
「友人ですか」
「そしてその両方なのです」
 彼にこうも告げるのだった。
「貴方こそが」
「私こそがですか」
「その通りです」
「いえ」
 しかしヴァルターはエヴァの今の言葉に首を横に振って項垂れるのだった。
「私はです」
「私は?」
「貴方の友人ですが優勝の資格はありません」
 こう言うのである。
「マイスターにはなれませんでした」
「ですが」
「私の心の感激は嘲りを受けるだけでした」
 忌々しげに呟くのだった。
「私の心の人の手を望んではいけないことは私にも判っています」
「そのようなことを」
「ですが事実です」
 彼にとっては認めるしかないことであるのだった。
「それは」
「いえ、違います」 
エヴァは項垂れるその彼に対してまた告げた。
「この私の手が賞を渡します」
「私にですか」
「そうです。私の心は貴方のいさおしを褒め称え」
 ヴァルターに対して告げていく。
「貴方にだけ小枝を捧げようとしているのです」
「貴方の手はまだ誰と決まってはいません」
 しかしヴァルターはエヴァのその言葉を否定した。
「お父上の意志に結ばれています。私には失われたも同じです」
「失われたのと」
「その通りです」
 こうエヴァに言うのだった。
「婿はマイスタージンガーに限ります」
「それは私も聞いています」
「それが何よりの証拠です」
 あくまでこう言いエヴァの言葉を退ける。
「御父上が仰ったこの言葉。あの方が今これを引っ込めたいと思われましてもそれはできません」
「できないと?」
「私はその言葉に励まされ全て馴染みのないことでしたが愛と情熱に溢れて歌い」
「はい」
「マイスターの位を得ようとしました」
 このことも語った。
「ですが」
「ですが?」
「あのマイスター達が」
 言葉が忌々しげなものになった、
「あのマイスター達が言う色々なものが」
「それがですか」
「その落とし穴に誘い込まれたかと思うともうそれだけで」
「虫唾が走ると言われるのですね」
「そうです。心臓が止まってしまいそうです」
 偽らざる彼の本音であった。
「自由の天地へ」
「自由の?」
「そう。私がマイスターでいられるその場所こそ私の天地です」
 この町ではないというのである。
「貴女の求婚が今日でならぬというのなら」
「それなら?」
「御願いします」
 エヴァの目を見詰めての言葉だ。
「逃げて下さい」
「この町からですか」
「そうです。望みはなく」
 さらに言うヴァルターだった。
「選択の余地もありません。どちらを見ても」
 その言葉は続く。
 

 

第二幕その十一


第二幕その十一

「悪霊の如く私を嘲ろうと群がっているマイスター達がいます」
「あの方々がですか」
「彼等は高慢に頷きながら貴女を取り囲んで見下ろしつつ」
 ベックメッサーが全体に見えてしまっているのだった。
「鼻声や金切声で貴女に求婚し」
「そして」」
「そして歌手席に立って色男ぶりながら貴女を賛美するのです」
 もう耐えられないといった感じであった。
「貴女を取り囲んでです」
「だからですか」
「そうです。私は耐えられない」
 今にも腰の剣を抜きそうな顔になっていた。
「そう。ですから」
「一緒にですか」
「そうです。むっ!?」
 ここで自分が先に歩いたその道に誰かがいるのに気付いたのだった。
「あれは」
「安心して下さい」
 エヴァはそっと警戒するヴァルターに対して告げた。
「あれはです」
「はい、あれは」
「夜の見回りの人です」
「巡検のですか」
「はい、そうです」
 こう彼に説明するのだった。
「ですから安心して下さい」
「そうですか。それじゃあ」
「あまり怒ってはいけません」
 エヴァは落ち着きを取り戻したヴァルターに対してそっと告げた。
「それよりも今は」
「今は?」
「こちらに」
 道の菩提樹へと導くのだった。
「こちらへ隠れて下さい」
「はい、それでは」
 ヴァルターは彼女の言葉に従い身を隠す。そうしてそこからエヴァに対して尋ねるのだった。
「ところで貴女は」
「はい」
「逃げられないのですか?」
「では逃げなくていいのですか?」
 逆にエヴァの方が微笑んで問い返してきた。
「私は逃げなくても」
「では身をそらされるのですか」
「はい、マイスタージンガーの歌審判には」
「お嬢様」
 ここで窓からそっとマグダレーネが言ってきた。
「もう帰る時間です」
「ええ、わかったわ」
 エヴァはその言葉に頷き家に戻る。ヴァルターがその菩提樹の中に身を隠しているとやがてその夜の巡検が来て言うのだった。黒い服にランタンを持っている。
「皆さん十時の鐘が鳴りました」
 こう町の人々に告げるのだった。
「何処にも災難のないように。火の用心を御願いします」
 火が注意されるのは何処でも同じだった。
「神を賛美致しましょう」
 こう言うとその場を後にした。ザックスはその間家の扉の向こうから二人の話を聞いていた。そうしてそのうえで一人呟くのだった。
「駆け落ちか。それはよくないな」
 二人の言葉が何を意味していたのかわからないザックスではなかった。
「それだけはよくない。ここは注意しておくか」
「さて」
 そしてここでヴァルターの菩提樹の後ろから言うのだった。
「不安だが。むっ」
「騎士様」
 そのエヴァが家の裏から来てヴァルターのところにやって来たのだった。
「それでは。参りましょう」
「私は今マイスタージンガーになった」
 ヴァルターはほっとしたように言うのだった。
「貴女がここに来られたのだから」
「けれど今は」
「わかっている」
 自分の前に来たエヴァに対して頷いてみせた。
 

 

第二幕その十二


第二幕その十二

「ここから」
「はい、ここから」
「この横町を通っていけば」
 ヴァルターはエヴァを抱き締めつつ己の横にあるその横町を見るのだった。
「城門の前で人夫も馬も見つかる。それで」
「はい、町を出て」
 二人はそのまま駆け落ちしようとする。しかしここでザックスが扉を開けてランタンを出しそのうえで二人を照らすのだった。二人はその光を浴びて驚きの顔になった。
「ザックスさんが」
「ザックス!?あの靴屋のマイスターか」
「そうです。あの人が見つけたら」
「それでは逃げる道は何処に」
「あの通りを行けば」
 ここでエヴァはヴァルターが見ていた横道とは逆の道を指し示すのだった。
「あの通りを行けば」
「あの通りを」
「ええ。けれど」 
 だがここでエヴァは暗い顔になるのだった。
「あの道はややこしいから。それにあそこから巡検の人の角笛が聞こえるし」
「見つかるのか」
「はい。ですからあそこは」
「それじゃあ横道を」
「けれどザックスさんが」
「どくように言おう」 
 ヴァルターは強硬手段を考えた。
「これなら」
「いえ、それもいけませんわ」
 その強硬手段に出ようとする彼を必死に止めるエヴァだった。その身体を抱き締めて。
「あの人に姿を見られては」
「そうか。私の姿を知っているから」
「はい。あの人は貴方をよく知っています」
 ヴァルターを見上げるその顔は彼を心から心配するものだった。
「ですから」
「あの人は私の味方だと思ったのだが」
 そんなことを言っているとそのうちにリュートの音が聴こえてきた。二人がそのリュートの音が聴こえる方に顔を向けると彼がいるのだた。
「あれは」
「ベックメッサーさんね」
 エヴァは顔を顰めさせて言った。
「まずいわね、こんな時に」
「どうする?靴屋は光を引っ込めたけれど」
「やっぱり来たな」
 ザックスは扉の向こうからベックメッサーの姿を認めてまた呟いた。
「案の定だ」
「ベックメッサーというと町の書記の」
「はい」
 エヴァはヴァルターの言葉に対して頷いた。
「そうです。あの人です」
「あいつだけは許せない」
 怒りに満ちた声で腰の剣に手をかけるのだった。
「今ここにいるのなら。それなら」
「どうするのですか?」
「成敗してやる」
 彼の言葉は騎士のものだった。
「今ここで」
「お止め下さい」
 エヴァはここでもヴァルターを必死に止めるのだった。
「そんなことをしたら父が目覚めてしまいます」
「御父上が」
「ベックメッサーさんは一曲歌ったらそれで帰ってしまいます」
 こうした時の常である。
「ですからこの木の陰に隠れていましょう」
「またここに」
「はい。そうして」
「わかった。それでは」
「御願いします。それでも」
 ここでエヴァは呟かずにはいられなかった。
「どうして男の人達はこんなに面倒をかけるのかしら」
 溜息を出しながらもそれでもヴァルターと共に菩提樹の陰に隠れる。そうしてそのうえでベックメッサーの様子を見守る。ベックメッサーはしきりに窓の方を見上げながらそのすぐ下に来る。焦ってリューロを引っ掻いてしまうが何とか歌おうとした時に。また家の外に自分の机と椅子を出してきてそこで仕事をはじめたザックスが叫ぶのだった。
「イエールムイエールムハラホロヘーーーー!」
 奇妙な叫び声であった。
 

 

第二幕その十三


第二幕その十三

「オ、ホ、トラライ、オ、へ!」
「何ですかな、それは」
 ベックメッサーはその叫び声を聞いてすぐにザックスに顔を向けた。言うまでもなくその顔は思いきりしかめられザックスを睨んでさえいた。
「その御言葉は」
「トラライ!」
「ですから何ですか、それは」
「神に楽園から追放されたエヴァがです」
「はい、エヴァが」
 何時の間にかザックスのペースに入ってしまっているベックメッサーだった。
「裸足で歩く時に彼女の足は激しく痛み」
「それで神はそれを哀れに思い」
「その通りです」
 ベックメッサーの言葉に頷きながら言い続けるザックスだった。
「彼女の足をいたわて天使を呼んだのですよ」
「あの歌は?」
「聴いたことがあります」
 こうヴァルターに告げるザックスだった。
「ただの靴屋の歌ですけれど何か他に意味があるような」
「哀れな罪の女に靴を」
 さらに歌うザックスだった。
「またアダムも足を怪我しているがまだ遠く歩かなければならない。だから」
「靴を」
「そうです」
 歌いながらベックメッサーの言葉に対して頷く。
「それがこの歌です」
「まずいな」
 ヴァルターはザックスとベックメッサーのやり取りを見ながら顔を曇らせていた。
「このまま時間だけが過ぎていくぞ」
「しかしザックスさん」
「何でしょうか」
「また随分と遅くまで仕事されていますな」
 ザックスの方に歩み寄りつつ言うのだった。
「あまり根を詰められても」
「それは貴方もですぞ」
「まあ私は」
 誤魔化そうとするがここでザックスはそれより先に言うのだった。
「それにこの靴はです」
「靴ですか」
「これは貴方のものです」
 こう言うのだった。
「注文されていた」
「そうですか。私のです」
「そうです」
 にこりと笑ってベックメッサーに述べるザックスだった。
「ですから今こうやって」
 言いながら早速ハンマーを持ってまた歌うのだった。
「イエールムイエールムハラハロヘ!」
「またその歌か」
「オ、ホ!トララライ!オ、ヘ!」
 ベックメッサーのうんざりとした声をよそにまた歌うザックスだった。
「エヴァよエヴァよ悪い女よ」
「確かにエヴァは悪い女だが」
 原罪のはじまりだからだ。キリスト教世界の常識である。
「それでもこの歌は」
「人間の足が痛む度に天使が靴を作らないとならない」
「あれは私達のことだろうか」
 ヴァルターは彼の歌を聴きながら首を傾げさせていた。
「それともあの書記か。どちらに当てこすっているのか」
「私達三人全てに対してですわ」
 こうそのヴァルターに言うエヴァだった。
「困りました、これでは」
「御前が楽園に留まったならば砂利で足を痛めることもなかった」
 ザックスの歌は続く。
「御前の若気のいたりで私は針と糸を操らないとならない」
「その割には楽しく歌っていますな」
「アダムの気弱のおかげで靴底を打ち樹脂を塗る」
 ベックメッサーの嫌味をよそに歌うザックスだった。二人はそんな彼を見ながらまた言うのだった。
「よくないことが起こりそうだわ」
「私の可愛い天使よ」
 不安になるエヴァをそっと抱き締めるヴァルターだった。
「どうかここは」
「不安になってしまいます」
「私は貴女が側にいてくれるだけで」
 いいというヴァルターだった。しかしザックスの歌はそうした彼の浪漫をよそにさらに続くのだった。
「これでもわしが天使にならなきゃ悪魔が靴屋になる」
「それはいいのですが」
 ベックメッサーはたまりかねたようにまたザックスに声をかけてきた。
 

 

第二幕その十四


第二幕その十四

「あのですね」
「はい、何か」
「その歌は御見事です」
 とりあえずザックスを褒めはする。
「ですが真夜中にその歌はないでしょう?」
「私がここで歌ったとしても書記さんに関係があるのですか?」
 しかしザックスはしれっとしてベックメッサーに対して言い返すのだった。
「何か。そもそもこの靴はですね」
「私の靴ですよね」
「そうです。それができないと困るのは」
「ならお家の中でお仕事をされては?」
 正論で攻めることにしたベックメッサーだった。
「せめて」
「夜なべは辛いものでして」
 しかしそれにはいそうですかと聞くつもりは最初からないザックスだった。
「せめて元気に仕事をする為にです」
「その為に?」
「こうして新鮮な空気と楽しい歌」
 こう言うのである。
「それが必要なんですよ」
「だからだというのですか?」
「はい、ですから」
 ここでも自分のペースで言うザックスだった。
「聴いて下さい、是非」
「お断りしたいのですが」
「まあまあ。第三節もできましたから」
 言いながらこれ見よがしに糸に蝋を塗ってそれから歌うのだった。
「イエールムイエールム!」
「だからその歌はですな」
「ハラハロヘ!」
 ベックメッサーを無視して歌いはじめる。
「オ、ホ、トララライ!オ!へ!」
「ワルキューレになったつもりか」
 ベックメッサーはいい加減うんざりとしていた。
「そんなに叫んで。こんな歌は私の歌ではない」
「はい、わしの歌です」
「それはわかっております」
 すぐにむっとして言い返すベックメッサーだった。
「こんな歌は」
「さて」
 その間にもザックスは歌い続ける。
「楽園を追放された」
「また私ね」
 エヴァはまた言った。その楽園を追放された最初の女と自分の名前が同じだからだ。だからわかることであった。彼女にとっては癪なことに。
「私の嘆きを聞くのだ。この苦しみと悩みを」
「嘆き?苦しみと悩みを」
「靴屋の作った芸術品を人々は足で踏む」
「それは当然では?」
 歌の意味がわからないベックメッサーは話を聞いても首を捻るだけだった。
「靴なら」
「同じ仕事を課せられた天使が私を慰めてたまには楽園に呼んで下さらないと」
 ベックメッサーの今の言葉には構わずまた歌うのだった。
「靴屋の仕事を辞めてしまいたくなる」
「それはそれで困るのだが。あんたの靴はまあそれなりに」
「だが天国に置いて下されば世界はわしの足元にある」
 ここでもベックメッサーに構わない。
「ハンス=ザックスは安心して靴屋で詩人でいるだろう」
「おや、窓が」
 ザックスが自分に構わないので周囲を見ているとここでポーグナーの家の二階の窓が開いた。ベックメッサーもそれを見るのだった。
「開いたな」
「もう聴いていられないわ」
 エヴァは自分に向けられている歌だとわかっていたので苦しい顔で言った。
「これ以上はもう」
「こうなっては」
 ヴァルターはその彼女を見てまた剣に手をあてるのだった。
「最早」
「それはお止め下さい」
 それはまた止めるエヴァだった。
「それだけは」
「あの靴屋にではない」
 見ればヴァルターは彼は見ていなかった。
 

 

第二幕その十五


第二幕その十五

「あの書記だ」
「ベックメッサーさんですか?」
「そうだ。貴女に求愛しようとしている」
 リュートを手にまた窓のすぐ下に来た彼を見て言うのだった。
「あれだけは」
「いえ、それも」
「止めるべきだと言われるのか」
「そうです」
 剣を持つ手を必死に掴みながらの言葉であった。
「それだけは。どうか」
「言われてみればそうか」
 ヴァルターはここでエヴァの言葉を聞き入れて述べるのだった。
「あの様な男は斬る価値もないか」
「せめてそれだけはです」
「わかった。それではだ」
 エヴァの言葉を聞き入れ遂に剣を収めるヴァルターだった。
「これでな」
「有り難うございます」
「何はともあれだ」
 ベックメッサーはその間にもリュートを持って歌おうとしていた。
「早く歌うとしよう」
「ところでフロイライン」
「はい」
 ヴァルターはエヴァに対して問うのだった。
「レーネです」
「マグダレーネさん?貴女の家の」
「はい、そうです」
 こうヴァルターに対して答えるのだった。
「彼女がです」
「そうか。それなら今は」
「はい。様子を見ましょう」
「そうするとするか」
 こうしてヴァルターは今は様子を見ることにしたのだった。その間にもベックメッサーは歌う準備をしている。それを進めながらザックスに対して言ってきた。
「それでザックスさん」
「はい、何でしょうか」
「何はともあれ私は貴方を尊敬してはいます」
 これは彼の偽らざる本音である・
「人としても靴屋さんとしても」
「それはどうも」
「そして芸術家としても」
「早く逃げ出したいのだけれど」
「あの二人がいる限りは」
 二人のやり取りを顔を曇らせて聞いているエヴァとヴァルターだった。しかし二人のやり取りはそのまま彼等にとっては延々と続くのだった。
「ですから貴方の批評は大いに歓迎します」
「ほう、そうなのですか」
「ですから御願いです」
 自信に満ちた声でザックスに告げる。
「どうかこの歌をですね」
「はい、今から歌われる歌を」
「聴いて下さい」
 恭しく一礼してからまた述べるのだった。
「是非。明日はこれで勝利を得るつもりですから」
「だからなのですね」
「そうです」
 そしてまた答えるのだった。
「御気に入るかどうか知りたいですから」
「ほう、それはまた」
 ザックスは彼の言葉を聞いておどけたふうを装って応えるのだった。
「貴方は私のうぬぼれ心を掴まれるというのですか」
「まあそう考えて頂いても結構です」
 はっきりと言うベックメッサーだった。
「それならそれで」
「靴屋が詩人と自負するから靴の方がさっぱりになる」
 ザックスはここでこんなことを言ってきた。
「貴方によくこう言われて叱られているではありませんが」
「ですからそれは」
 確かにいつも言っているから分が悪いベックメッサーだった。
 

 

第二幕その十六


第二幕その十六

「まああれです。励ましですよ」
「励ましですか」
「そうです、その通りです」
「句だの韻だのを家の中に引っ込めて悟りとか知恵とか知識も置いて」
「そのうえでですか」
「はい、靴を仕上げます」
 つまりベックメッサーの歌を無視するということだった。
「私のことは構わずに」
「いえ、それでは困ります」
 ザックスの態度にいよいよ弱るベックメッサーだった。
「ですから民衆から尊敬を受けあのお嬢さんとも縁のある貴方です」
「尊敬や縁が関係あるのですか」
「そうです。だからです」 
 ベックメッサーはさらに言うのだった。
「明日は私は晴れの場所で彼女の為に歌います」
「そのおつもりで?」
「そのつもりです。ですから確かめて下さい」
 こうザックスに対して願う。
「私の歌が駄目だったらどうしようもない。ですから御聞き下さい」
「また随分強引な」
「私の歌が御気に召されたかそうでないか」
 何と言われても引き下がらないベックメッサーだった。
「それを教えて頂ければ私も歌をなおします」
「いえいえ」
 しかしまだ引き受けないザックスだった。
「私が作るのは大抵あれではないですか」
「あれとは?」
「町の流行の歌ばかりです」
 これもベックメッサーが彼にいつも言うことだった。気取り屋の彼と飾らないザックスの違いがここにはっきりと出ているのだった。
「ですから私はですね」
「どうされるというのですか?」
「街に向かって歌い靴底を叩くだけです」
 こう言って早速また叫ぶようにして歌うのだった。
「ハラハロヘ!オ!ホ!トララライ!オ!ヘ!」
「くそっ、わかってやっているな」
 その通りである。それがわかっているからこそ忌々しいと感じるベックメッサーだった。
「あの樹脂と油で一杯の歌でこんがらがせてくれる。全く」
「イエーレム!イエーレム!」
「ですから近所迷惑です」
 また言うベックメッサーであった。口を尖らせて。
「その歌は」
「いえいえ、御安心を」
 しかしザックスは平然として彼に返すのだった。
「近所の方々は慣れておられますので」
「そうして近所の人達が慣れるまでこうしたことをですか」
「いけませんか?」
「いい筈がありません」
 ここでも口煩いところを発揮するのだった。
「全く。近所迷惑とはこの方は」
「ですから」
「何ですか。それで」
「他人が何かをするとそうして意地悪をされるような」
「意地悪ではありませんが」
 やはり平然としてベックメッサーに言葉を返すのだった。
「ですから毎晩こうしてです」
「余計に悪いです」
 また口を尖らせるのだった。
「そんなことではそのうち町の皆さんから嫌われますぞ」
「ですから皆さん慣れておられますので」
「私の目の黒いうちはです」
 その頭にきた顔で言うのだった。
「歌の韻が口についている限り」
「はい、その限りは」
「そして私がマイスタージンガー達の間で尊敬を受けている限り」
 その自負は確かにあるのだった。
「ニュルンベルグが花咲き栄えている間は」
「では永遠ですな」
「そう、永遠にです」
 右手の人差し指を立たせて激しく振りながら言葉を続ける。
 

 

第二幕その十七


第二幕その十七

「貴方の勝手や暴挙は許しませんぞ」
「暴挙とはまた極端な。いえ」
「いえ?」
「それが今の書記さんのお歌ですか?」
「今のが?」
「そうです。お世辞にもあまり規則には合っていません」
 こうベックメッサーに告げるのだった。
「ですが大変誇らしく聞こえます」
「残念ながら今のは歌ではありません」
 憤然とした顔でまた言い返す。
「ですがそれでもです」
「それでも?」
「私の歌を聴いて下さいますね」
「おや、まだそのことを」
「何度でも言います」
「そうですか。それではですね」
 ザックスはここで言葉の調子を変えてきた。ベックメッサーはそれを見てやっと折れてくれたのかと思ったがそれは甘い予想であった。
「御一人で歌って下さい」
「何と」
 これには呆気に取られてしまったベックメッサーであった。
「私一人で」
「そうですが」
「いや、ですから評価をですね」
「私は仕事がありますから」
 突き放すように告げるザックスだった。
「ですから」
「ですから評価をですね」
「そんなに聴いて頂きたいのですか?」
「はい、そうです」
 またザックスに顔を向けて言う。自然と首が突き出される。
「問題はその奇妙な掛け声ですが」
「ではまた出しましょうか」
「それだけは止めて下さい」
 半分切れてしまっているベックメッサーだった。
「それだけは」
「おやおや。では仕事は」
「それは続けて下さい」
 それとこれとは話が別だというのである。
「是非共」
「はい、それではです」
「ただ。評価は」
「それではです」
 ザックスは内心ベックメッサーが上手くかかってくれているとほくそ笑みながらそのうえで言うのだった。全ては彼の計算通りであるのだ。
「いい方法がありますよ」
「何ですか、それは」
「二人が一つになるのですよ」
 また奇妙なことを言い出すザックスだった。
「二人が一つにね」
「!?」
 ベックメッサーは今のザックスの言葉にまた首を捻った。
「二人が一つ?」
「人にとってはそれが最上です」
 今度はこんなことを言い出すザックスだった。
「つまりですね」
「はい」
「私は仕事をしなければなりません」
「その通りです」
 自分の靴を作ってくれているのだから彼としてもそれで異論はない。
「しかしです。貴方は是非歌を評価して頂きたいと」
「そうです。是非」
 しつこいまでにこだわりを見せるベックメッサーだった。
「それは重ね重ね」
「わかりました。それに私もです」
 そしてここで言うザックスだった。
「何時か記録係になるでしょう」
「でしょうな。ある程度順番ですから、これは」
「そうです。ですからその技術も学びたく」
 あれこれと理由をつけるがこれはまさにただの理由付けだった。
 

 

第二幕その十八


第二幕その十八

「その点で貴方は非常にいい記録係です」
「マイスタージンガーの歌は絶対なのですぞ」
 胸を張ってそのうえで気取った仕草で述べるのだった。
「何があろうとも」
「ですからです。貴方の歌を聴いて記録します」
 真意はここでも隠している。
「それで宜しいですね」
「やっとその気になって頂けましたな」
 ザックスが引き受けてくれたと見てほっとした笑顔を見せるのだった。
「全く。ごねるのもあまりよくはありませんぞ」
「ただしです」
 しかしここでまたザックスは言うのだった。
「靴ですが」
「それはどうされるおつもりですか?」
「記録はこれを作りながらということで」
「靴で!?」
「そうです。靴底を叩いてそれを記録としましょう」
「何が何だか」
 ベックメッサーはまたザックスの言っていることがわからなくなった。彼が何を考えているのかもまたわからなくなってきたのだった。
「わからないのですが」
「さあ、はじめますか」
 リュートを抱くようにして腕を組んでザックスの考えが何なのか思案しているベックメッサーを急かしてきたのだった。
「いよいよ」
「ですがです」
 ザックスの考えがわからないまま彼は言うのだった。
「ちゃんと御願いしますよ」
「ええ、靴屋の知っている規則に従い」
「そう、マイスタージンガーの名誉にかけてです」
「靴屋の勇気を以って」
「そうです。それに誓って」
 二人はここでは真面目になっていた。
「やりましょう」
「是非。それでは」
 早速ベックメッサーにまた声をかけるザックスだった。
「やりましょう。ただ」
「ただ?」
「貴方がミスを犯さないと靴ができませんが」
「そこはちゃんと機転を利かせて下さい」
 今はこう言うベックメッサーだった。何はともあれそのうえで歌いはじめる。ヴァルターは今の彼等のやり取りを見て首を捻るばかりだった。
「何をやっているんだ?」
「では」
「あれ、そちらでですか」
 ザックスは窓の下に立つベックメッサーを見てまた言ってきた。
「御側ではないのですか?私の」
「私はここでいいのです」
 ベックメッサーは少し意固地になって彼に言い返す。
「それに記録席が見えないのと同じにしたいですから。これなら見えません」
「相変わらず律儀な方だ」
「伊達に町の書記をやってはおりません」
 またむっとして言い返すのだった。
「とにかくです。はじめます」
「何なのかしら、今の流れは」
「さて」
 エヴァもヴァルターも何が何なのかさっぱりわからないのだった。
「どうなっていくのかしら」
「それは私にも」
「それではです」
 そしてザックスがまた言う。
「はじめ」
「はい」
 ベックメッサーは歌いはじめる。しかしこれまでのやり取りでいささか気を乱しておりそれがいきなりリュートの弾き間違いを出させてしまったのだった。
「私はその日の訪れを見る」
 いきなりハンマーだった。つまり間違いだというのだ。
「私に喜びをもたらすその日」
 またハンマーだった。ベックメッサーはその音に眉を顰めさせるが気を取りなおしてまた歌う。
「我が心はよき」
 ハンマー。
「爽やかなる気分を迎えたり」
 ハンマーがまた。ここで遂にベックメッサーは怒ってザックスに対して言うのだった。
 

 

第二幕その十九


第二幕その十九

「何処が悪いのですか?今ので」
「ここはこの方がいいのでは?」
「どういう風にですか?」
「我が心は爽やかなるよき気分を迎えたり」
 これは詩であった。
「こうではどうですか?」
「それでは韻に合いません」
 ベックメッサーは韻を考えていたのだった。
「それもいいですがあえてです」
「それでは節がよくないのでは?」
 ザックスも負けてはいない。
「音楽と言葉が合わなければ」
「それはそうですが」
「ではまたはじめて下さい」
 ザックスはまたベックメッサーを急かしてきた。
「さあ、どうぞ」
「はい、それでは」
「ハンマーは三回止めておきますので」
「御好意ですかな」
「そう受け止めて下さって結構です」
 こうベックメッサーに述べる。
「ですからさあ、どうぞ」
「有り難うございます。それでは」
 こうしたやり取りの後でまた歌うベックメッサーだった。咳払いをしてから歌う。まずは先の詩を歌うが確かにその間ハンマーはなかった。ところが新しい場所に入ると。
「死等はおもいも寄らず」
 ハンマー。
「それよりも若き娘の手を勝ち得んとす」
 ハンマー。
「何故おそらくこの日こそ最も美しき日なるぞ」
 ハンマー、強く。
「私は全ての人に告げる」
 ハンマー。
「美しき娘が」
 ハンマー二回。
「彼女の愛する父上により」 
 またハンマー。そのハンマーに賛成するかのようにまたハンマー。
「彼女の誓いし如く」
 小さいが多くハンマー。
「花嫁と定められたり」
 ハンマー五回。少し怒ったようであった。
「我と思わん人は」
 ハンマー。
「来たりて見よ」
 ハンマー。
「ここに美しき処女あり」
 ハンマー二回。
「私は彼女に切なる望みがあり」
 ハンマー。
「されば今日は美しく青く」
 数多く打たれる。
「私ははじめに言ったように」
 また多く打たれていく。ここでベックメッサーは遂に切れてきっとした顔でザックスを見て問うのだった。
「何処が悪いのですかな、一体」
「何も言っていませんが」
 平気な顔で言うザックスだった。
「私は何も」
「いえ、そのハンマーがです」
「ですから記録係の練習として」
「そんなに酷いですかな、私の歌は」
「採点中ですよ」
 穏やかな顔でベックメッサーに言うだけであった。
「ですからお話は後で」
「後で、ですか」
「そう、後で」
 また言うザックスだった。
「さあ、それよりも今はです」
「そうですな」
 憮然としながらもベックメッサーも従うのだった。やはりマイスタージンガーとしてここは記録係に従うしかない。彼もマイスタージンガーとしての誇りがあった。
 

 

第二幕その二十


第二幕その二十

「それもその通りです」
「その間に靴はできていきますし」
「それに」
 ここで窓の方を見るとエヴァ、実はマクダレーネが去ろうとしている。ベックメッサーはそれを見て慌てて窓の下に戻りまた歌いだすのだった。
「また歌いますぞ」
「はい、どうぞ」
 彼等はそれぞれ言い合いそのうえでまた歌いはじめるのだった。
「今日私の心は踊り」
 ハンマー。
「若き乙女を求めんとす」
 ハンマー二回。
「だが父上はそれに」
 ハンマー。
「一つの条件を出せり」
 数多くのハンマー。
「彼の後を継がんとし彼の美しき娘を手に入れる為に」
 ハンマー二回。
「父上は条件を定めたり」
 ハンマー数多く。
「この町の見事なマイスタージンガーにしてかの娘をせつに愛し」
 ハンマー数多く。
「芸術にもその才の優れたるを示し」 
 ハンマー間断なく。
「マイスターの歌の道に賞を得る者ならずば彼の婿とはなりがたしと」
 ハンマーが続く。ベックメッサーはむっとするがそれを無視して歌を続ける。
「今や芸術のいさおしを示し人々の同情を得て」
 まだハンマーが続く。
「いとうべき妄念のもやを払い」
 ハンマーがまだ続く。
「誠の情熱を以って乙女を求める者に乙女を得んとする者に」
 ザックスは首を横に振ってそのうえでもういちいち誤りを指摘することを諦め靴型の楔を抜く為にハンマーを打ちまくっていくのだった。 
 ベックメッサーはその間ずっと不快な顔をしている。しかしマグダレーネがまた消えようとするので困惑した顔になる。ここで歌が終わった。するとザックスがすぐに声をかけてきた。
「終わりですか」
「はい」
 顔を顰めさせて答えるベックメッサーだった。
「それが何か?」
「御覧下さい」
 ザックスはさも嬉しそうに彼に靴を掲げて見せるのだった。
「これこそまさに記録係の靴ですぞ。どうでしょうか」
「それがですか」
「そうです。長く短く刻み込まれ」
 こう言葉を出していく。
「靴底に書かれたこの言葉」
「それは何ですかな」
「よく読んで忘れずに御心に刻んで下さい」
 こう前置きしてからまた言うのだった。
「よき歌には拍ありてこれを砕く時は筆を持つ書記殿の為に靴屋が皮を打つ」
「どんな意味ですか、それは」
「いい靴ができたということです」
 明るく述べるザックスであった。
「靴底は拍を保って書記さんの足は痛むことなし」
「随分と嫌味ですな」
「嫌味ではありませんよ」
 今度は涼しい顔になるザックスだった。
「そのままの意味で」
「私とてマイスタージンガーです」
 何とか己を保ちつつ言葉を出すベックメッサーだった。身体をワナワナと震わせながら。
「九人のミューズを呼び出し我が詩の英知を高めんとす」
「それで何と」
「私は全ての規則を心得ています」
 胸を張ってザックスに告げる。
「長短も数も韻も護り若き乙女の手を得んとすれば」
「それよりもこの前尼僧院を出られた院長さんなんかどうですか?」
 さりげなくベックメッサーにそちらを薦めるのだった。
「そちらの方が書記さんには」
「心はやりて愛を求めれば心はまた躊躇いに迷い」
 言葉を続けていく。
 

 

第二幕その二十一


第二幕その二十一

「躊躇、転倒もあろうとも」
「ですから院長さんも丁度お相手を」
「名誉も職も品位もパンもかけて」
「全てではないですか」
「そう、全てを」
 かなり意固地になってしまっていた。
「乙女も我をこそ選び乙女も我をこそ選び御身等の喝采を得んことを」
「そうですか。まあ頑張って下さい」
「応援ということですかな」
「少なくとも反対はしません」
 またザックスは言ってきた。
「努力はいいことですから」
「全く。貴方には何かというと色々ありますな」
 不機嫌そのものなのはそのままだった。ところがそんな話をしているとここで先程よりさらに酔っている徒弟達が来たのだった。
「夜遅くに随分歌っているのがいたな」
「ああ、こっちだな」
「そうだな。こっちだ」
 へべれけになりながら来てそれぞれ言うのだった。
「確かこっちだ」
「一体誰だ?」
「近所迷惑だぞ」
「全く。騒がしいな」
 そしてダーヴィットも家から出て来て目をこすりながら言っていた。
「誰なんだ、全く・・・・・・ん!?」
 ここでポーグナーの家の窓にマグダレーネがいることに気付いた。
「あれはレーネじゃないか。それに」
 その下を見る。そうして顔を見る見るうちに紅潮させるのだった。
「誰だあいつは、レーネに言い寄っているのか!」
 そうして我を忘れて飛び出た。マグダレーネもそれに気付いてあっとなる。
「大変、本当に出て来たわ!」
「やい、こら!」
「こら!?」
「誰だ御前!」
 こう言って何も知らずおっとり刀で振り向いたベックメッサーをいきなり殴り飛ばした。見事なアッパーカットで身体をのけぞらすベックメッサーだった。
「うわっ!」
「御前か、レーネを!」
「レーネ!?何を言ってるんだ?」
「しらばっくれるなこの野郎!」
 何が何だかわからないベックメッサーをさらに殴り飛ばす。アッパーの次はストレートだ。
「よくもレーネを!」
「だから何だというのだ!」
「誤魔化すつもりか!」
「誤魔化すも何もだ!放せ!」
「ああ、放してやる」
 掴み掛かってもいたがここで手を放すダーヴィットだった。
「ただしだ」
「ただし?」
「手足をばらばらにしてからだ!死ね!」
「だから何だというんだあんたは!」
「成敗してやる!」
「何だ成敗だの何だのと」
「おい、何をしているんだ?」
 徒弟達だけでなく騒ぎを聞いたマイスター達まで出て来たのだった。皆寝巻きと普段着をごちゃ混ぜにした訳のわからない格好になっている。
「喧嘩か?」
「いや、そんなものじゃないぞ」
「おい、何だ何だ?」
「騒ぎが起こっているのか?」
 町の皆が出て来た。そうして口々に言い合うのだった。
「喧嘩か?」
「酔っているのか?」
「あそこで喧嘩があるぞ」
「何なんだ、あいつ等は」
 ここでそのダーヴィットとベックメッサーに気付いたのだった。
「やけに暴れているけれどな」
「何をしているんだ?」
「だから喧嘩だろ」
「それはいかん!」
 ここでやっと気付く者もいた。
 

 

第二幕その二十二


第二幕その二十二

「止めるぞ、早く!」
「やっと気付いたか」
「何?」
 今度はこちらで不穏な空気が漂いだした。
「やっととは何だやっととは」
「だからやっと気付いたかって言ったんだ」
「わしを馬鹿にしているのか?」
「他にどう聞こえるんだ?」
「貴様!」
 ここでも掴み合いになりだした。
「もう一回言ってみろもう一回!」
「ああ、何度でも言ってやる!この間抜け!」
「もう許さんぞ!」
「おい、止めろ!」
「止めるんだ・・・・・・うわっ!」
 止めようとした一人の腕が誤ってもう一人を殴ってしまった。するとまた。
「御前か、やったのは!」
「違う、俺じゃない!」
 闇夜の中なので相手がよく見えず別の人間に殴りかかる。
「御前だろう、他に誰がいる!」
「何っ、やるのか!」
「ああ、やってやる!」
 騒ぎが大きくなり一人がまた別の一人の足を踏んで。
「御前がやったな!」
 彼も喧嘩に入る。騒ぎはさらに激しくなっていった。
「靴屋か!」
「仕立て屋か!」
「パン屋か!」
「何処のどいつだ!」
「貴様か!」
 最早マイスターも徒弟も何もなかった。それぞれ殴り合い掴み合い蹴り合う。その中でベックメッサーは何とかダーヴィットから逃げるがその時何人かを突き飛ばしそのうえで足を踏んでしまい。これがまた騒ぎを引き起こしてしまったのだった。
「今踏んだな!」
「突き飛ばしたな!」
「御前がやったな!」
「許さないからな!」
 めいめいそれだと思った相手に喧嘩を売る。そうして騒ぎはさらにうるさくなり町の人間をさらに呼んでニュルンベルグの夜は大混乱に陥っていた。
「桶屋が!」
「肉屋が!」
「鍛冶屋が!」
「御前等、うちの親方に何をする!」
「そっちこそうちの弟子にだ!」
 親方同士で殴り合う者もいれば身分を越えて殴り合う者達もいた。
「何をするんだ!」
「放せ!」
「殺すぞ!」
「こっちにいるのは床屋か!」
「頭をちょん切ってやるぞ!」
 切るかわりに掴んでいた。
「禿頭にしてやる!」
「雑貨屋!ここにいたか!」
「御前は菓子屋の息子か!」
「不良品なんぞ売りつけやがって!」
「そちこそ糞まずい菓子売りやがって!」
「鼻血流せ!」
「耳を千切ってやる!」
 最早何が何なのかわからない。
「逃がすかこの野郎!」
「逃げるものか!」
「蝋燭屋がいたぞ!」
「錫屋か!」
 また店同士の喧嘩になる。
「御前がやったのか!」
「そこにいるのは鋳掛屋か!」
「毛織職人か!」
「貴様は麻の!」
「皆集まれ!」
「親方を救え!」
 中には棍棒まで持ってそのうえで殴り合う者達まで出て来ていた。
 

 

第二幕その二十三


第二幕その二十三

「弟子をやらせるか!」
「死ね、その手を放せ!」
「天罰だ、これは!」
「何やってるのこれ!?」
 今度は女達が出て来て騒ぎに声をあげるのだった。
「この騒ぎ」
「あれはうちの人じゃない!」
「うちの息子が。何をしているの!?」
 闇夜の騒ぎの中に家族を認めて皆あっと驚く。
「早く止めないと。大変なことになるわよ!」
「水よ水!」
 そして誰かが叫んだ。
「水をかけないと」
「水!?」
「どうしてなの?」
「それで頭を冷やさせるのよ!」
 そういうことであった。
「だからここは早く!」
「水をなのね?」
「そうよ、お鍋でも壺でも瓶でもやかんでも!」
 とにかく水が入っているのなら何でもであった。
「早くかけて。騒ぎを止めて!」
「ダーヴィット、何処なの!?」 
 マグダレーネも喧騒の中で恋人を探していた。
「何処にいるの、一体」
「まだ追ってくるのか!?」
「あいつは何処だ!」
 その中でまだ逃げ惑うベックメッサーに探し回るダーヴィットだった。
「何てしつこい奴なんだ!」
「逃がしてたまるか!」
 とはいっても相手が何処にいるのかさえわかっていなかった。
「何処にいやがるんだ、あの野郎」
「ちょっとダーヴィット」
 マグダレーネもとにかく必死にダーヴィットを探し回っていた。
「その人は違うのよ」
「あれ!?レーネの声?」
 ここでダーヴィットはふと立ち止まって周囲を見回すのだった。
「何処だ?何処にいるんだ?」
「この野郎!」
「御前か!」
 その彼にも相手を間違えて殴り掛かって来る者がいるのでそれも大変だった。
「うわっ、また来たよ!」
「さっきはよくもやってくれたな!」
「これはお返しだ!」
「何でこんな場所に!」
 喧嘩は滅茶苦茶でありダーヴィットもどうしようもなかった。それでもマグダレーネは必死に彼に対して叫ぶ。しかし彼の姿は見えてはいない。
「あの人はベックメッサーさんなのに」
「書記さん?」
「あの人までここにいるのか?」
「まずい、見つかったか」
 ベックメッサーは自分の名前が出て来てぎょっとなる。
「まずいぞ、このままじゃ」
「エヴァ、大変だぞ」
 その中でポーグナーが家の中で言っていた。
「この騒ぎは。ちゃんと戸締りをして寝なさい」
 彼女が家の中にいるとばかり思っているのだった。
「いいな、ちゃんとな」
 こう娘に告げたと思ってからそのうえで家の外に出た。彼は寝巻き姿だったがそれでも出て来ていた。この時ザックスは騒ぎがはじまってすぐに家の中に一旦身を隠していたが扉をそっと開けて様子を伺い続けていた。ヴァルターはエヴァを自分のマントに多い菩提樹の陰に身をひそめていた。
「全く。何でこんなことに」
「戦争より酷いわ」
 ヴァルターもエヴァも呆然とするばかりで動けない。その間ポーグナーもマグダレーネを探していた。
「水よ、早く水をかけて!」
「持って来たわ!」
「私も!」
 ここで皆やっと水を持って来た。そうしてそれを思いきりかけるのだった。
「うわっ、今度は何だ!?」
「これって一体!?」
 しかしこれで皆頭が冷えそのうえでやっと我に返った。そうして落ち着きそのうえでそれぞれ家に帰っていく。ザックスはそれを見てまずは呆然となっているダーヴィットを見つけ頭をがつんとやってからそのうえで家に放り込み返す刀で菩提樹の陰のダーヴィットとマグダレーネを見つけそのうえで二人も家の中に入れてしまった。
「さあ、こっちへ」
「えっ!?」
「今度は何!?」
 二人には何が何だかわからない。しかしそのまま家に入ってしまった。マグダレーネはポーグナーにエヴァと間違えられ彼の家に引き入れられた。
「さあ、寝よう」
「あれっ、私はこっち?」
「何かよくわからないが寝よう、もう」
「はい。それじゃあ」
 彼女も何が何なのかわからないまま家の中に入る。何はともあれ騒ぎは終わるのだった。
 ベックメッサーも散々に打ち据えられた姿でほうほうのていで退散する。服も帽子もリュートもぼろぼろでよれよれになって去っていく。一人寂しくであった。
 暫くして何も知らない巡検が来る。そうして言うのだった。
「皆さん、鐘が十一時を告げました」
 町の喧騒の結果は何故か目に入っていない。
「悪魔に魂をおかされぬよう幽霊や妖怪に御用心」
 いつもの言葉である。
「神を讃えましょう」
 こんな話をしてから場を去るのだった。ニュルンベルグの町の騒ぎは何事もなかったかのように終わり後には何も残ってはいなかった。
 

 

第三幕その一


第三幕その一

               第三幕  讃えられるべきもの
 狭い部屋であった。木造であり周りにはさまざまな道具や河が置かれ吊るされている。少し見ればそれが靴のものだとわかる。右手には別の部屋への戸があり左手には通りに面した窓がある。質素だが頑丈な造りの机と椅子がありザックスはそこに座っていた。彼は窓から差し込める朝の日差しを見つつ物思いに耽っていた。
「親方」
 その彼に右手から出て来たダーヴィットが声をかけてきた。
「宜しいでしょうか。ベックメッサーさんのお家にですね」
 こう声をかけるのだった。
「靴を届けに来ました」
 しかしザックスは窓の方を見ているだけである。ダーヴィットの方を見ようとさえしない。ダーヴィットはそれを見て困惑した顔になった。
「昨日のことかな、怒ってるんだな」
 師匠が怒っている時はどういう状況なのかわかっているのだった。
「まずいな。これは」
 それでここは事情を説明することにするのだった。
「よしっ、じゃあ」
 そうして意を決して言うのだった。
「親方、徒弟というものは落ち度があるものでして」
 まずはここから説明するのだった。
「親方も私のようにレーネを御存知ならきっと許して下さいます」
「・・・・・・・・・」
 やはりザックスは答えない。
「彼女は気立てがよくてそのうえ優しくて」
 マグダレーネのことも話すのだった。
「だからこそ私をよく知っています。そのレーネのように私を御存知でしたら」
 その背の高い姿をあえて二つに折るようにして屈んで話を続ける。
「きっと許して下さいます。しかしです」
 殆ど言い訳だった。
「昨日は騎士殿が失敗され」
 ヴァルターのことだった。
「彼女から籠を貰うことができず大変悲しく」
 やはり言い訳だった。
「昨日何者かが窓辺に立ち」
 彼の言い訳は続く。
「彼女に向かって金切り声で歌ったのです」
「・・・・・・・・・」
 ここでも返事はない。
「たったそれだけのことであの騒ぎとは関係がなくてレーネもさっき私に話してくれてわかってくれました」
 そしてさらに言うのだった。
「お祭の為に花やリボンを作ってくれましたし。ですから」
 いい加減何も言わないザックスに途方に暮れだした。
「一言」
 やはり返事はなかった。
「まずいな。ソーセージとお菓子まで食べたのがわかったかな。やっぱり贅沢過ぎたかな、朝から」
 そんなことを言いながら困っているとだった。ザックスは不意に口を開いたのだった。
「何だこれは」
 ここでダーヴィットをちらりと見てそのうえで彼が持っているその花とリボンを見るのだった。
「若々しい。何故家にあるんだ?」
「今日はお祭の日ですから」
 やっとザックスが口を開いてくれてそのことに内心大喜びで応えるのだった。
「それで皆着飾って奇麗にして」
「そうだったな」
 ザックスはここでまた思い出したように述べた。
「今日は婚礼の日だったな」
「ダーヴィットがレーネに求婚する」
 大喜びだったのでまた調子に乗ってきたのだった。
「そうなればいいのですが」
「というとだ」
 ザックスは静かに考える顔でまた言いはじめた。
「昨夜はそれの前夜祭ということか」
「まずいぞ、これは」 
 今のザックスの言葉を聞いてまた困惑した顔になる。
「まだ怒っておられるぞ」
 こう判断するとすぐに謝るのだった。
「許して下さい、お願いです」
 平謝りに謝りだした。
「今日はお祭ですから。どうか」
「お祭か」
 しかしザックスには怒ったものがなかった。
「そういえばそうだったか」
「あれっ!?」
 ここでダーヴィットはやっと気付いたのだった。
 

 

第三幕その二


第三幕その二

「親方何かおかしいぞ。今日は」
「ダーヴィット」
 首を傾げる彼にまた言うザックスだった。
「それでだ」
「あっ、はい」
「言えるか?」
 今度はこんなことをダーヴィットに尋ねてきたのだった。
「御前の宣言の句を。どうだ」
「宣言の句ですか」
「そうだ」
 こう彼に言うのである。
「それだ。どうだ?」
「はい、それでしたら」
 だーヴィットは気持を切り替えてすぐに歌いはじめた。
「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネは立たれ」
「むっ!?」
 ここでダーヴィットはついついベックメッサーの昨夜の歌を思い出しその旋律で歌ってきたのだった。ザックスはそれを聞いてすぐに目を顰めさせたのだ。
「何だ今のは」
「あっ、すいません」
 歌ったダーヴィットもここで気付いた。
「混乱していました。昨夜の騒ぎがまだ頭に残っていまして」
「ではすぐにそんなものは落とすのだ」
「はい、それでは」
 姿勢を正してそのうえで最初から歌いはじめた。
「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネは立たれ世の全ての人に洗礼を行う」
「そうだ」
 ザックスも今の彼の歌に頷く。
「遠き国より一人の女がニュルンベルグより歩み寄り」
 だーヴィットはとうとうと歌を続ける。
「男の子を抱いて岸辺に至り彼の洗礼と命名を受ける」
 こう歌うのだ。
「そして彼女が子と共に故郷に戻りやがてドイツの国にありてはヨルダンの岸辺でヨハネと名付けし者をペグニッツの丘でこう呼んだ」
 そしてその名前がだった。
「ハンス?そう、ハンスです」
 歌いながら気付いたのだった。
「親方、そうなんですよ」
「何だ?」
「今日は貴方の命名の日ですよ」
 このことに気付いて彼に声をかけるのだった。
「今日なんですよ、今気付きました」
「そういえばそうだったかな」
 ザックス自身も今気付いたのだった。口に手を当てて考える顔になっていた。
「今日か」
「それじゃあです」
 早速まだ手に持っていたその花とリボンを差し出すのだった。どちらも同じ籠に入っているので手渡すのは実に楽に済むのだった。
「これを。どうぞ」
「花とリボンをか」
「それだけじゃありません。レーネから貰った」
「うん」
「お菓子とソーセージも」
 自分がかなり食べてしまったのは内緒だった。
「ありますよ」
「有り難う」
 まず弟子に対して礼を述べた。
「しかしだ」
「何ですか?」
「全部御前が取っておくことだ」
「全部ですか」
「そう、全部だ」
 こう彼に言うのである。
「そしてだ。今日のことだが」
「はい」 
 話がここで動いた。
「私と共に牧場に行くぞ」
「そのお祭が行われる牧場ですよね」
「そうだ。そこでその花やリボンで飾って」
 ダーヴィットが飾れということだった。
 

 

第三幕その三


第三幕その三

「そして私の先触れを務めるのだ。いいな」
「有り難うございます。そして」
「何だ?」
「御願いがあるのですが」
 ザックスが機嫌がよくなったと見てまた調子に乗ってきたダーヴィットだった。
「花嫁介添人ですが」
「花嫁介添人だと」
「是非私をそれにして頂けますか?」
 調子に乗っているが礼節は守っていた。
「是非共」
「どうしてだ、それは」
「親方、親方はです」
 真面目な顔になって彼に告げてきた。
「もう一度結婚されてるべきです」
「結婚か」
「そうです」
 また師匠に対して言うのである。
「如何でしょうか、それは」
「再婚をしろというのか」
 その真面目な顔のダーヴィットを見つつ言うのだった。
「私に」
「駄目ですか?」
「おかみさんが家にいた方がいいのかい?」
「その方がずっといいと思いますよ」
 さらにザックスに対して告げるのだった。
「是非共」
「そうだな」
 しかしザックスの返答ははっきりしたものではなかった。
「その時が来ればいい知恵も浮かぶだろう」
「今がその時ではないんですか?」
「だったらいい知恵が浮かぶだろう?」
 やはり返事は要領を得ないものだった。
「その時だったらな」
「あのですね。もう町の噂で」
 だーヴィットは師匠のそうしたぼやけているような返事を聞いているうちにたまりかねて言い出した。
「言われているんですけれど」
「何がだい?」
「親方ならベックメッサーさんにも勝てる」
 こう言うのである。
「そう。言われていますよ」
「書記さんにか」
「そうです」
 また答えるのだった。
「ですから。今日は」
「そうかもな」
 やはり何か要領を得ないザックスの返答だった。
「それはな」
「でしたら」
「それよりもだ」
 ザックスの方で話を変えてきた。
「騎士殿のことだが」
「騎士殿ですか」
「そうだ。呼んできてくれ」
 こう弟子に言うのだった。
「すぐにな。いいな」
「わかりました。それでは」
「そして今日の仕度をしておくことだ」
 このことも弟子に告げた。
「いいな。それでな」
「はい、それじゃあ」
 ダーヴィットは一礼してからそのうえでその場を後にした。ザックスは一人になると呟くのだった。また窓に顔を向けてそのうえで思案しながら。
「迷いだ。何処にも迷いがある」
 まずはこう言うのだった。
「町の記録や世界の年代記。そういうものに目を通し」
 博学なザックスはそうしたものも読んでいるのだった。
「それなのに何故人は訳もなく激しい怒りに襲われて」
 そのことを悲しくさえも思うのだった。
「血を流すまでに戦い、苦しむのか」
 さらに言うのだった、
「その原因を考えると結局全ては迷妄からだ」
 答えはわかっていた。
 

 

第三幕その四


第三幕その四

「何人も報われず、感謝もされず」
 悲しみと共に話す。
「逃げ回りつつ追いかけている気で我が身の肉をえぐりながら」
 言葉を続けていく。
「己が悲鳴も耳に入らない。悲しんでいるのだと思い違えさえして」
 さらに考えていく。
「この有様を何と呼ぶべきか。昔から考えているが」
 しかしなのだった。
「これがなければ何もはじまらない。ことが上手くいくかいかないかは」
 考えを及ばせていく。
「それはまた別のことだ。ことが上手く運んでいると迷いは眠り力は蓄えていく」
 迷いが消えたわけではないのだった。
「一旦目覚めると生贄を求める。愛するニュルンベルグはこのドイツの中央にあり」
 当時はそうなのだった。
「純朴の風習の中に平和にその仕事にいそしんでいる。だが」
 前を見詰めながらの言葉だった。
「ある夜遅く若きにはやる人々の不幸な事件を防ごうとし」
 ヴァルターとエヴァのことだ。
「その術を知らざる男がいる」
 今度は自分のことだった。
「一人の靴屋が店の中で迷いの糸を塗っている」
 やはり彼自身のことだった。
「じきに彼は横町や通りで怒りはじめ」
 あの夜のことだ。
「誰も彼もが気が狂ったように競い合い迷いは人々を祝福し」
 あの夜のことを話し続ける。
「拳の雨が降り注ぎ殴り打ち押して揉んで」
 騒動を具体的に思い出していく。
「そして怒りの炎を消しとめようとする。魔物が手助けをしたのか、どうしてそうなったのか」
 あの夜の騒ぎもまた思い出す。
「誰にもわからない。蛍の雄が雌を見つけ損なってそれが大損害をもたらした」
 次に言う言葉は。
「にわとこの香りのせいか。祭の前夜の。しかし」
 ここでまた言う。
「この日は来た。そこでハンス=ザックスが迷いを巧みに操って気高い仕事をするのだ」
 また己のことだったが今度は決意だった。
「この迷いはニュルンベルグに於いてさえ人の心を騒がせるものだが気高い仕事もまた」
 言葉はまだ続く。
「卑しいことから遠ざかるが幾らかの迷いを以って成功するのだ」
「どうも」
 ここでヴァルターの声がしてきた。
「おはようございます」
「これはまた」
 ザックスは彼の方を振り返って立ち挨拶を返すのだった。
「おはようございます」
「はい」
 それぞれ穏やかな笑顔で言葉を交えさせるのだった。
「よく眠られましたか?」
「はい、おかげさまで」
 ヴァルターはにこりと笑って彼に応える。
「何とか」
「それは何よりです」
 ザックスも彼の言葉を聞いて微笑む。
「では御気分は」
「ええ。それでです」
 ここでヴァルターは言うのだった。
「私は素晴らしい夢を見ました」
「おお、それはいいことです」
 ザックスは彼の今の言葉を聞いて思わず声をあげた。
「それはいい前兆です」
「いいのですね」
「そうです。ですからどうか」
 そしてまたヴァルターに話すのだった。
「その夢についてお話下さい」
「ですが」
 しかしここでヴァルターはその首を少し捻るのだった。
「それを考えて見て」
「ええ」
「それさえも躊躇います」
「何故ですか?それは」
「考え、見ることで消えてなくなることが恐ろしいのです」
「いえ、それは違います」
 しかしそれは違うと彼に話すザックスだった。
「詩人の創作というものは彼が見た夢を解釈し、記すことなのです」
「そうなのですか」
「そう。人間のもっとも真実の迷妄は夢の中に現われるのです」
 こう語るのだった。
 

 

第三幕その五


第三幕その五

「詩の芸術というものは真の夢の解釈なのです」
「真のですか」
「そうです。貴方が今日夢を得たということは」
「はい」
「マイスタージンガー、すなわち」
 言葉をさらに続けていく。
「勝利者になれということかも知れません」
「いえ、ですが」
 しかしここでヴァルターは首を捻りまた言うのだった。
「私の夢はです」
「どうだったのですか?」
「組合やマイスタージンガー達についていささかの感激も持たないものなのです」
「ですがです」 
 それでもまだ言うザックスだった。
「勝利を得るのに必要な呪文を教えてくれませんでしたか?」
「夢がですか」
「そうです」
 そこを問うのだった。
「夢がです」
「あの様な破綻の後で」
 ヴァルターは今のザックスの言葉にいぶかしみながらまた言ってきた。
「まだ希望があると?」
「希望はあります」
 しかしザックスはまた彼に告げた。
「希望を捨てる原因は何処にもありません」
「何処にもですか」
「そう、何処にもです」
 また言うのだった。
「貴方達の駆落を妨げる理由がなければ」
「ええ」
「私も共に逃げたでしょう」
「共にですか」
「ですが私はそうはしませんでした」
 だからだというのである。
「ですから御怒りを鎮めて下さい」
「この怒りをですね」
「そうです。そのうえでまたお話しましょう」
 そのうえでまた話すのだった。
「貴方のその怒りの源の方々ですが」
「あの人達のことですか」
「そうです」
 ヴァルターがその顔を顰めさせるのを見ながらの言葉だった。
「あの方々は敵ではありません」
「敵ではないというのですか」
「そうです」
 こうヴァルターに教えるのだった。
「むしろ尊敬すべき方々です」
「あの人達がですか」
「ただ」
 ここでザックスの言葉が少し変わった。
「彼等は他人も自分達と同じだと考えているのです」
「そう、それです」
 ヴァルターもまたそれを言うのだった。
「ですからそれは」
「勘違いをして意見を変えないのです」
 そしてザックスもまた言う。
「また賞を定めてそれを与えるものも」
「ええ」
「自分の気に入る者を選びたがるのです」
「それもなのですね」
「貴方の歌は彼等を不安にしました」
 それも話す。
「それも当然のことです」
「当然ですか」
「そうです、当然なのです」
 また話すのだった。
「考えてみればあのような詩や愛への情熱はです」
「それですね」
「若い娘を冒険に誘惑するのはいいのですが」
「それにはいいとしても?」
「愛に満たされた二人の為にはもっと別な言葉や旋律を選ぶものです」
「そうした言葉ですが」
「ええ」
 ここで微笑んだヴァルターに応えた。
 

 

第三幕その六


第三幕その六

「それに旋律は昨晩知りました」
「そうでしたか」
「横町では随分騒ぎになりましたから」
「ははは、確かに」
 ザックスもそれは知っていた。知っていたからこそ笑うのだった。
「それでもです」
「それでも?あの騒ぎでも何かあったのですか?」
「それに対する拍子もおわかりになられたと思います」
 言うのはこのことなのだった。
「ですがその話は止めておいて」
「はい」
「私の言葉を聞き入れてマイスターの歌曲を作って下さい」
「マイスターのですか」
「そうです」
 こうヴァルターにアドバイスするのだった。
「それをです」
「美しい歌曲とマイスターの歌曲」
 ヴァルターは彼の言葉を受けて考える顔になって述べた。
「この二つをどう区別するのですか?」
「楽しき青春の日にこよなく幸福な初恋の力強い衝動が胸を豊かに膨らませる時にです」
「その時にですか」
「そうです、美しい歌曲を歌うことは多くの人にもできることでしょう」
 このこと自体はというのだった。
「春が我々の為に歌ってくれるのですから」
「春がですか」
「そうです。そしてです」
 ザックスはさらに話してきた。
「夏が来て秋が来て冬が来て」
「季節が移ろいで」
「多くの心労や苦しみと共に結婚生活の幸福も訪れ」
 話をあえてそこにまで及ぼさせた。
「子供の洗礼、商売、喧嘩や争い」
「そういったものもですか」
「そうです。この中から美しい歌を作ることはです」
 話はさらに続く。
「マイスタージンガーにしてはじめてできるのです」
「私はです」
 ヴァルターは彼の言葉を受けまた語りだした。
「一人の女性を愛し結ばれ」
「そして?」
「よき夫となりたいと考えています」
「それではです」
 多少思い詰めた顔で語りだしたヴァルターに対して語るザックスだった。
「マイスターの規則を習って下さい」
「マイスタージンガーのですか」
「規則は貴方を導き貴方が若い時に青春や歌の優しい衝動が
 また話が続く。
「知らぬうちに心の中に植えつけたものを失わぬように守っておいてくれるのです」
「それではです」
 ヴァルターはザックスの言葉を聞いているうちにふと気になることを言葉に出すのだった。
「そのように名誉ある規則を誰が作ったのですか?」
「貧しい生活を送るマイスタージンガー達です」
「マイスタージンガー達がですか」
「そうです、人生の苦しみに疲れた精神が」
 言葉は少し深刻なものになってきた。
「その荒々しい暮らしの苦しみの中に青春の日と愛の思い出がはっきりと変わらずに残り」
「そうして」
「それがいつも春を認めるような一つの図を作り出したのです」
「それはわかりましたが」
 ヴァルターは今のザックスの言葉を聞きながらまたザックスに問うた。
「青春がずっと前に逃げ去ったような人はです」
「そうした人はですか」
「そうです、そうした人はどうしてその図を手に入れることができるのですか?」
「そのような人はです」 
 ザックスはこのことに関しても説明するのだった。
「その図を出来るだけしばしば新鮮にするのです」
「新鮮にですか」
「そうです、若し貴方が貴方の歌を説明して下されば」
 またヴァルターに対して話すのだった。
「貧しい生活を送るこの私がです」
「貴方がですか」
「そう、規則を教えさせて頂きましょう」
 ヴァルターへの話はこれであった。
「ここにペンとインクがあります」
 机の引き出しを開けて取り出してきた。
 

 

第三幕その七


第三幕その七

「貴方が仰って下さったことをここに書き取りましょう」
「それはいいのですが」 
 こう言われても難しい顔を見せるヴァルターだった。
「私にはわからないのです」
「どのようにしてはじめたらですか」
「そうです。マイスタージンガーのことは」
 その難しい顔でまた語るのだった。
「何しろ昨日も失敗していますし」
「何、難しいことを考えられることはありません」
 しかしザックスはこう彼に話す。
「貴方が御覧になられた朝の夢を物語って下されば」
「貴方達の規則の立派な御言葉を伺い」
 またヴァルターは難しい顔で言うのだった。
「私の夢は消えてしまったようです」
「そういう今こそです」
 そんなヴァルターを励ますのだった。
「詩を作るべきなのです」
「その時にですか」
「そう、その時にです」
 ザックスの言葉が強くなる。
「それによって失われた多くのものも見出されてくるでしょう」
「それは夢ではなく詩の為の作りごとになるのではないですか?」
「そうです」
 そのヴァルターの言葉に頷くのだった。
「この二つの仲のいい友達は互いに助け合うのです」
「それでは」
 話を聞いたうえでまた話すヴァルターだった。
「規則に従うとすればどうやってはじめるのですか?」
「貴方が御自身で規則を作られ」
 このことも説明するザックスだった。
「それに従うのです」
「私が作った規則にですか」
「そうです」
 語るザックスだった。
「朝に御覧になられた楽しい夢を思い出して下さい」
「その夢をですか」
「そうです、他のことはこのハンス=ザックスが心配しましょう」
「それではです」
 ヴァルターもそれを受けてはじめようとする。
「はじめさせて頂いて宜しいですか?」
「どうぞ」
「はい、それでは」
 ザックスの言葉を受けてはじめようとする。ザックスはまた椅子に座りペンを手に取りそのうえで書き止めようとする。そのうえでヴァルターは歌いはじめるのだった。
「大気は花の香りに膨れえも知らぬ快さに満たされて庭は私を誘い引き寄せる」
「それは一つのシュトルレンでした」
「これがですか」
「そうです」
 ザックスの教え方は丁寧で親切であった。
「それではその次にです」
「次には」
「これと同じ形の節が来るようにです」
「同じ形の節がですか」
「はい、そのように」
「何故ですか?」
 ヴァルターはその理由を問うのだった。
「同じでなければならないのは」
「貴方が貴方と同じ様なことをです」
「私が?」
「そうです。人々に花嫁を得ようとしていることをわかってもらう為にです」
「では」
 ザックスのその言葉を受けてまた歌うのだった。
「幸ある園に生生とそびえ黄金為す実を豊かに実らせ」
「そう、そうしてです」
「風に快き枝を生やし人を誘う大樹あり」
「同じ音で終わっていませんでした」
 ザックスの指摘は少し厳しい。
「マイスタージンガー達はそれを嫌うのです」
「そのようですね」
 これは昨日のことで少しわかってはいた。
「ですがハンス=ザックスは教えられます」
「音のことをですね」
「春にはそうあってよいのでしょう」
 こう語るのだ。
 

 

第三幕その八


第三幕その八

「さあ、次にはアップゲザングです」
「それはどういうものですか?」
「成功したかどうかは一組の夫婦が子供達に現われるのです」
「子供達とは!?」
「シュトルレンと似ていますがそれと全く同じではなく」
 こういう意味であった。
「固有の韻や旋律に豊かです」
「だから子供なのですか」
「その通りです」
 ザックスはわざと家族に例えて教えてみせたのである。
「そして自立しすくすくと育てばです」
「そうです」
「それが両親の喜びなのです」
 こうも説明するのだった。
「これで貴方のシュトルレンも結末がついて何も欠けることがないようになります」
「はい。それではそれを活かして」
「またどうぞ」
「それでは」
 ザックスの言葉を受けてまた歌いはじめる。それは。
「我が妙なる奇蹟を語ろう。見も得ざりし美しき乙女」
「美しき乙女」
 今書き留めている。
「我が傍らに立てり。彼女は花嫁の如く我が身体を抱き眼差しも語り掛け」
「そう、その調子です」
「白き腕もて示すはかの生命の大樹に実った我がひたすら望みし尊き美味の果物にてありき」
「これなのです」
 ザックスはここまで聴いて会心の言葉を出した。
「これが本当のアップゲザングです」
「これがですか」
「そうです。完全なパールが出来上がりました」
 こうまでヴァルターを褒め称えるのだった。
「旋律は少し自由に過ぎますが」
「はい」
「私はそれが誤りだとは思いません」
「誤りではないのですね」
「ただしです」
 しかし言葉を付け加えはしてきた。
「覚えるのが難しい歌ですので私達のうちの幾人かはそれを怒るのです」
「そこをですか」
「そこは御注意を」
「わかりました」
 またザックスの言葉に対して頷いて答えた。
「それではここは」
「はい。そしてです」
 ザックスはさらに彼に促してきた。
「第二のパールをです」
「第二のですね」
「そうです。そうして第一番がどうであったかを」
 このことについて話すのも忘れてはいなかった。
「皆に判るようにさせるのです」
「皆に」
「マイスタージンガーだけではなく」
 このポイントを強調するのだった。
「判るようにです」
「わかりました」
「今までの所は上手く韻がついていましたが」
「はい」
「全体に何を夢見、何を詩作したのか」 
 言う部分は細かかった。
「私にもまだわかりませんから」
「だからなのですね」
「はい、お願いします」 
 また歌うように促す。
「是非」
「では」
 こうしてまた歌いはじめるヴァルターだった。構えて歌いはじめる。
「夕となれば空は火と消え日は私を残して去りゆく」
「そうです」
「彼女の瞳より歓喜を吸わんとひたすら願い抑え難く」
 歌は続く。
 

 

第三幕その九


第三幕その九

「夜の闇に囲まれ見る事を得ず。されど二つの明るき星が遠く彼方より煌きて」
「その調子です」
「細き枝の間より遠くて近きが如く我が顔を照らす」
 さらに歌っていくヴァルターだった。
「静かなる丘に美しい泉があり優しき音が高まっていく」
「そして」
「かく高らかに美しき音聴きしことなし。輝かしく星は煌き明るく照らす」
 そして歌は最後に入る。
「木の葉にも枝の間にも黄金が集まりて踊り狂うその群れは黄金の果実には非ず。月桂樹に煌く星の群れなり」
「これでわかりました」
 ザックスは最後まで聴き終えてから深い感動を以ってヴァルターに告げた。
「貴方の夢見たものはです」
「はい」
「貴方に真実を示してくれました」
「真実をですか」
「真実を歌う歌こそが最も美しい」 
 ザックスはここでヴァルターの目を見て語った。その澄んだ青い瞳を。
「そうして歌に出るのですから」
「だからですか」
「はい。ですから」
 さらにヴァルターに言ってきた。
「今度は第三のパートを作りませんか?」
「第三のですか」
「そうです」
 こうヴァルターに勧めるのだった。
「それは夢の解釈をつなげるものです」
「ですが」
 しかしここで彼は困った顔になるのだった。
「今は」
「休まれたいですか」
「はい、いささか疲れてしまいました」
 こうザックスに告げるのであった。
「ですから今は」
「わかりました」
 ザックスもまた笑顔で彼の言葉を受け入れそのうえで言うのだった。
「それではお休み下さい」
「はい、わかりました」
「しかしです」
 だがここでまた彼に言い加えるのだった。
「節はよく覚えておいて下さい」
「節をですね」
「そうです。その節なら」
 彼はさらにヴァルターに話す。
「詩句もよくできますから」
「詩句もなのですね」
「そうです。そして民衆の前で歌う時は」
「その時は」
「夢の図をしっかりと捉えておいて下さい」
「夢の図を」
 話を聴くヴァルターの顔がさらに真剣なものになる。
「心の中にですか」
「それがそのまま歌に生きます」
 またヴァルターに話す。
「だからなのです」
「わかりました。それでは」
「では私は」
 ヴァルターにここまで告げると部屋を後にしようとする。ザックスはその彼に対して声をかけて尋ねるのだった。
「お待ち下さい。どちらへ」
「貴方の忠実な友人がです」
「友人というと」
 この言葉でそれが誰かすぐにわかった。
「彼ですね。あの」
「そうです。ダーヴィットです」
「やはり。彼でしたか」
 ザックスの今の言葉を聞いてあらためて頷くのだった。
「彼が持って来てくれたのですか」
「お宅で結婚式の時に着られるという晴れ着をです」
「あの服をですか」
「ポーグナーさんのところに持って来ておられましたね」
「はい」
 ザックスの今の言葉に素直に頷いた。
 

 

第三幕その十


第三幕その十

「その通りです故郷を引き払う時に持って来ることができるものは全て持って来ました」
「ですからそれをです」
「そうですか。それを持って来てくれたのですか」
「その通りです。ですからそれを」
「有り難うございます」
「ですから」
 ザックスはここでヴァルターも誘うのだった。
「是非こちらの部屋に」
「服の衣装合わせにですね」
「その通りです。その為にです」
 また語るザックスだった。
「ですからこちらに」
「はい。それでは」
 ヴァルターも静かに彼の言葉に頷くのだった。
「私も。そちらへ」
「私もまた着替えましょう」
 ザックスは穏やかな声で述べた。
「この晴れやかな日の為に普段着慣れているこの服を脱ぎ」
「晴れ着にですね」
「それはその時にこそあるものです」
 こう語るのだった。
「ですから。是非」
「はい、では」
 こうして彼等は隣の部屋にと向かった。そうしてそこで着替えるのだった。二人が部屋から消えるろ暫くしてもう立派な服を着て背中にリュートを背負っているベックメッサーがやって来た。確かに黒く立派な絹の服と腰までのマントで着飾っているがその足取りはふらふらとしている。そしてやたらと部屋の中をせわしなく見回していた。そうして部屋の中央の机の上に先程までザックスが書いていたヴァルターの詩を見るのだった。
 その詩を見た彼は。顔を顰めさせて言った。
「これはザックスさんの字ではないか。ではやはり」
 顔を顰めさせたところで隣の部屋の扉が開いた。彼はそれを見てギョットした顔になったがここでザックスだったのでとりあえずは落ち着きを取り戻した。
「おや、ベックメッサーさん」
「はい、私です」
「今朝もこちらにですか」
「おはようございます」
 とりあえずザックスに対して挨拶はした。
「今朝もお元気なようで」
「はい、おはようございます」
 ザックスもまたすぐに彼に返事を返した。
「それで靴のことですが」
「底が薄いですぞ」
 またここで顔を顰めさせてザックスに告げるのだった。
「砂利まで感じてしまいます。どうにかなりませんか?」
「私の審判員としての格言がそうさせたのでしょう」
 しかしザックスは平然として彼に言葉を返すのだった。
「審判の採点が靴底をそうさせたのです」
「それはもういいです」
 昨夜のことなぞ思い出したくもないのだった。
「全く。ザックスさん」
「今度は何ですか?」
「今度ばかりは貴方に対して悪い感情を抱いてしまいましたよ」
「今度ばかりはですか」
「今までは確かに対立することもありましたが尊敬していました」
 苦い顔でザックスに告げる。
「しかし昨晩のあれは」
「あの大騒ぎですか」
「あれは貴方が仕組まれたことではないのですか?」
 彼にしても事情が全くわからないので勝手にこんなふうに思っているのである。
「だとすれば少し悪質に過ぎませんか?あれだけの騒ぎを起こされて平然とされておられるのは」
「いや、それは誤解です」
 ザックスは彼の言葉に右手を制止する仕草で前に出してそれは否定した。
「何故私がそんなことをする必要があるのです?」
「では違うと仰るのですか?」
「はい」
 はっきりと述べるのだった。ここでも。
「それはありません」
「本当ですか?」
「ですから意味のないことです」
 また答えるザックスだった。
 

 

第三幕その十一


第三幕その十一

「そんなことをしても。違いますか?」
「ううむ」
「それに昨夜は今日の前夜祭ですよ」
「それも関係あるのですか?」
「あります。お祭のことが皆の頭の中にあったのでしょう」
 こう語るのだった。
「騒ぎが酷ければ酷いだけ」
「酷いだけ?」
「今日が楽しいものになります」
「だといいのですけれどね」
 口をへの字にさせて述べるベックメッサーだった。
「そうであれば」
「まだ何か思われるところが?」
「勿論あります。貴方はそもそもです」
「はい、私は」
「私に何か思うところがあるのではないですか?」
 右の人差し指を振りながら問うのだった。
「はじめから私の敵で邪魔をする為に」
「ですからそれは誤解ですよ」
「誤解ではありません」
 またそれは否定するザックスだった。
「何を根拠にして」
「貴方は今お一人だ」
 今度はこのことを言うのである。
「私と同じ」
「ははは、同志ですな」
「いい意味ではないのが残念です」
 今彼が言える精一杯の皮肉であり嫌味だった。
「男やもめ同士なのに私に嫉妬されて」
「私が書記さんをですか」
「ですからとぼけないで下さい」
 彼もいい加減頭にきていた。
「乙女を手に入れようとされていますね」
「まあ相手がいれば」
「そう、相手がいます」
 彼はここぞとばかりに指摘した。
「相手が。つまりはです」
「何を仰りたいので?」
「私のかわりに花嫁を手に入れようと」
 じろりとザックスを見据えての言葉であった。
「そう考えておられてです」
「そして?」
「昨晩のことを仕組まれたのです」
「ふむ。推理ですな」
「はい、私は推理にも自信がありますぞ」
 痛む身体だが何とか気取ってみせてきた。
「その推理によればです」
「昨夜の黒幕は私だと」
「全ては私を陥れる為に」
 ずばりといった調子でその右の人差し指でザックスを指差してみせるがその動作だけで身体が痛んだ。
「企んでおられ実行に移された。その結果私は」
「随分痛いようで」
「痛いだけではありません」
 ここで口を尖らせる。
「もう皆今の私の歩き方や姿を見て何があったのか噂し」
「災難ですな、実は」
「そう。しかし私は災難には負けません」
 ひいてはザックスにというのだった。
「今日の歌合戦に出られたら」
「私がですか」
「そう、私が勝ちます」
 あえてまだ痛んで仕方のない胸を張ってみせる。
「貴方の不正に打ち勝つ為に」
「それは誤解です」
 ザックスは穏やかな声でベックメッサーに返した。
「何度も申し上げますが」
「誤解だというのですね」
「私がそんなことをするとでも?」
「少なくとも今はそう思っています」
 疑念を隠すことは最早してはいない。
「完全に」
「私は今日の歌合戦には出ません」 
 彼は言うのだった。
 

 

第三幕その十二


第三幕その十二

「絶対に」
「絶対にですか」
「そうです」
 確かな声で語ってみせていた。
「何があろうともです」
「どうでしょうか」
 こう言われてもまだ信じようとしないベックメッサーだった。
「何しろ貴方はです」
「おや、まだ気にしておられるのですか?」
「信じられませんな」
 その読みをまた言葉に出してみせる。
「何しろ。昨日のことがありますから」
「ですから誤解ですよ。ましてや求婚などと」
「では今日は歌われないのですか?」
「はい」
 はっきりと答えてみせる。実際にその気がないから当然だった。
「そうですよ。何があっても」
「本当ですか?」
「おや、まだ信じて頂けないのですか?」
「そうそう迂闊には」
 ベックメッサーの警戒の念は強いものであった。
「いきませんな」
「競争の為には歌いませんよ」
「求婚の歌もですか」
「その通りです」
 またはっきりと答える。
「全く」
「ではこれは?」
 ここでテーブルの上の歌詞を指差してみせるのだった。
「これは何ですかな」
「おや、それは」
「ザックスさんの字ですね」
 まるで証拠を突きつけるように問い詰めてきた。
「これは間違いなく」
「それはその通りです」
「まだ書いたばかりのようですな」
 今度はインクの乾き具合を見て問い詰める。
「これは」
「そうですな。今書いたばかりですからその通りです」
「これは聖書の歌ではありませんな」
「何処からどう見ても」
 また答えるザックスであった。
「そう思う人がいたらおかしいでしょう」
「それならです」
「どうしてでしょうか」
「私に聞かれても困ります」
 ザックスの目を見据えてきた。
「つまりこれこそ証拠です。貴方は嘘をついておられます」
「言っておきますが」
 ザックスもベックメッサーの目を見返して言い返してきた。
「私は今だかって」
「今だかって?」
「嘘をついてことはありません」
「今ついていませんか?」
「若しそこまで仰るならです」
 ここでふと思いついて策を仕掛けることにしたのであった。
「その歌は差し上げましょう」
「この歌をですか」
「はい、そうです」
 こう答えるのだった。
「どうぞ」
「宜しいのですか?」
「私の潔白の証として」
 こうまで述べてみせる。
「どうぞ」
「本気ですか?」
「私がこうした時には決して冗談を言うことはない」
 ザックスははっきりと言い切ってきた。
「それは御存知の筈ですが」
「それは確かに」
 ザックスのそうした性格もまた知っている。ベックメッサーも彼との付き合いはかなりの長さになっているからである。知らないわけではないのだ。
 

 

第三幕その十三


第三幕その十三

「ではこの歌を頂けるのですね」
「はい」
 わざわざその歌を書いた紙を手に取りベックメッサーに対して差し出してきた。
「どうぞ」
「この歌を私にですか」
「そうです。どうぞ」
 またこう言って差し出すのだった。
「差し上げますよ」
「ハンス=ザックスの作った歌詞をですか」
 ここでベックメッサーは歌詞を見つつ驚いたような声をあげた。
「ううむ。まさか本当に」
「何を驚かれているのですか?」
「これが驚かずにいられるでしょうか」
 彼はこうまで言うのだった。
「貴方の作られた歌詞ですぞ」
「ええ。それが何か?」
「それがどれだけ価値のあるものか」
「私の歌詞にですか」
「御存知ないのですか?」
 ザックスがわからないふりをしていることに気付かず少し引いて目を顰めさせたうえで問うのだった。
「そのことを」
「ですから何をですか?」
「貴方の歌詞はマイスタージンガー達の中で最も素晴らしいものです」
 こうザックスに対して告げるのだった。
「貴方が一番なのですよ」
「私がそうだったのですか」
「そうですよ。その貴方の歌を頂ける」
 彼はまた言った。
「そうなれば今日は勝ったようなものですが」
「ですからどうぞ」
「しかしです」
 流石に先程までのことがあり彼も用心深くなっていた。それでまた問い詰めてきた。
「貴方はです。昨日は私の敵でしたし」
「ですからそれは誤解です」
 彼はまたベックメッサーに告げた。
「貴方の」
「そんなことはありません」
 とにかくまだ疑い続けているベックメッサーだった。
「私はです。ただ好意で」
「昨日あれだけのことを私にされてもですか?」
「誤解なのですがね。その証拠に」
「今度の証拠は一体?」
「貴方の為に夜遅くまで靴を作っていたではありませんか」
「靴を」
「そうですよ。御覧になられていましたね」
 今度はこのことをベックメッサーに対して話す。
「それは御傍で」
「まあそうですけれど」
「ではおわかりの筈です」
 またここぞとばかりに話してきた。
「私の好意を」
「では貴方は私の為に」
「はい。ですからどうぞ」
 再度その歌詞を書いた紙を彼に差し出してきた。
「この歌を」
「そこまで仰るのなら」
 ここで遂に信じだしたベックメッサーだった。
「受け取らせてもらいます」
「はい、是非」
「ただ。一つ申し上げておきますが」
 ようやく歌詞を受け取っての言葉であった。
「これは貴方の歌とは誰にも言いませんので」
「ええ、そうして下さると何よりです」
「あくまで。私の歌詞ということで」
 完全に自分のものに、ということだった。
「それで宜しいですね」
「はい、そうして頂けると私も何よりです」
 自分でも微笑んでみせてベックメッサーに話す。
 

 

第三幕その十四


第三幕その十四

「こうしたことは内密にしておくに限りますから」
「ええ。ではそういうことで」
「ただしです」
 ここでザックスは咎めるような顔になって述べてきた。
「御注意を」
「注意とは?」
「この歌は難しい曲ですぞ」
「ほう、そうなのですか」
 だがベックメッサーはそれを聞いても平気な顔であった。
「この歌が」
「ですからよく稽古をされてよい旋律を身に着けて下さい」
「ああ、それなら大丈夫です」
 しかしベックメッサーはこう言われても涼しい顔をしていた。
「貴方は確かに素晴らしい歌詞を作られます」
「それは有り難うございます」
「ですが旋律にかけては」
 彼は言うのだった。
「私以上の者はいません」
「それは確かにそうですが」
「それは貴方も御存知の筈です」
 胸を張って告げるのだった。
「私はマイスタージンガー随一の旋律の作り手ですぞ。ですからこれに関してはです」
「問題ないと」
「その通り。私はマイスタージンガーの歌のあらゆる旋律を知っております」
 この辺りの知識と教養には絶対の自信があるのだった。
「これについては誰にも負けませんよ」
「つまりこれまでの旋律ならばということですね」
「その通り。あの無鉄砲な騎士殿」
 ヴァルターのことであるのは言うまでもない。
「あのような歌ではいけないのです。ですからまあ見ていて下さい」
「見事歌いきられるというのですね」
「その通り」
 また胸を張って宣言さえした。
「綴りも韻も言葉や節も」
「全て問題ないのですね」
「その通り」
 気取りは続く。
「私はです。旋律には絶対の自信がありますから」
「まあそこまで仰るのなら」
 ザックスも内心ではわかっていたがここではあえて頷くのだった。
「私から言うことは」
「はい。ではこれは有り難く受け取っておきます。そして」
「そして?」
「この御礼は忘れません」
 彼はまたザックスに言う。
「決して。今度の記録係の試験には貴方に一票入れますので」
「それはどうも」
「ではそういうことで。それではまた」
 恭しく一礼してそのうえで上機嫌でザックスの家を後にする。ザックスはそんな彼を見送ってそのうえで首を傾げつつ言うのだった。
「正直その歌は今までの旋律では歌えないのだが。まあいい」
 彼はまた言う。
「これで話はやりやすくなった。おや」
「親方、おはようございます」
 ベックメッサーと入れ替わりにエヴァが来た。そうしてザックスに対して頭を垂れてそのうえで一礼するのであった。
「いい朝ですね」
「そうだね。何といい朝なんだろうか」
 これまでの考える顔を消してにこやかに笑ってエヴァに挨拶をかえした。
「朝からそんな美人を見るとはね」
「お世辞は止めて」
 こうは言っても顔は微笑んでいた。
「私はそんな」
「いやいや、その服も靴も」
 普段のとは違っていた。輝くばかりの白衣であり金や銀の装飾や模様がその服のあちこちにある。そして靴もザックスが特別に作った白い可愛らしい靴である。
「見事なものだよ」
「そうなの。そんなに」
「うん。あらためておはよう」
 この言葉は忘れてはいなかった。
「そんなに奇麗だと若い者も年寄りも皆目を奪われてしまうよ」
「それはいいけれど」
 しかしそれを聞いてもエヴァの顔は今一つ明るくはなかった。
「けれど靴が当たって痛みを感じるのは誰もわかってはくれないわ」
「しまった、それは私の失態だ」
 エヴァの今の言葉を聞いて慌てて言うザックスだった。
「その靴は。これはすまない」
「立っていると歩きたくなるけれど歩くと立ち止まりたくなるの」
「どういうことだい、それは」
 それを聞いてもわからないふりをしながらまた言うザックスだった。
 

 

第三幕その十五


第三幕その十五

「まあこの腰掛けに座って」
「ええ」
 実際に椅子に座ってみせる。
「それで見せてくれるかな」
「ええ、どうぞ」
 エヴァはザックスの差し出した椅子に座った。そうして足を差し出す。ザックスはその前に跪いてからそのうえでまた彼女に問うのだった。
「それでどんな具合かな」
「靴が緩過ぎるでしょう?」
「いいや」
 靴だけを見るふりをしての言葉である。
「ぴったりだけれどな」
「私も最初はそう思ったわ」
 今度はこう答えるエヴァだった。
「けれどね。指のところがきついのよ」
「指がかい」
「そうなのよ。指が」
「左の方がかい?」
 靴を履いたその足を触りながら尋ねてきた。
「この辺りかい?」
「いいえ。右よ」
「甲の方じゃないんだね?」
「踵の辺りもよ」
「こっちの踵の方もかい」
「そうよ。それにこういうことは」
 エヴァは少し怒った声でまたザックスに告げる。
「私よりずっとわかっている筈だわ」
「エヴァちゃんのことなのに私がかい?」
「靴のことだからよ」
 こう怒った声で話すのだった。
「緩過ぎて、けれどきつ過ぎるなんて」
「ふむ、矛盾しているな」
「ええ、不思議だわ。こんなことって」
 そんな話をしているとここで部屋にヴァルターが入って来た。金と銀の輝かしい礼服を着ておりマントは絹のものだった。見事な黒い羽根帽子まである。普段以上にさらに立派なその姿を見てエヴァはオも割る息を飲んでしまった。
「ああ、ここだ。ここだったよ」
 ザックスはそんなエヴァに気付かないふりをしてヴァルターに背を向けたまま答えるのだった。
「この縫い目のところだな。すぐになおすよ」
「ええ・・・・・・」
「これでもう問題はないよ」
 言いながらその靴をなおそうと靴を脱がす。そうしてそのうえで仕事机に向かい靴をなおす。あくまで気付かないふりを続けるのだった。
「さて」18
 仕事をしながら言うのだった。
「靴を作ることが私の仕事だが」
「親方?」
 エヴァはここでちらりと彼を見るのだった。
「一体何を」
「昼も夜も仕事からは逃げられない。エヴァよ」
「また私に」
「あれは聖書のエヴァでは?」
 エヴァとヴァルターはエヴァの話を聞いて話すのだった。
「そうでしょうか」
「そうなのでは?」
「聞いてくれ。私は考えてみたんだが」
 仕事をしながら呟くザックスだった。やはりここでは二人に気付いていないふりをしていて仕事をしているふりもし続けていた。
「どうやったら靴屋を終わりにできるのか」
「何が言いたいのかしら」
 エヴァもいぶかしまざずにはいられなくなってきた。
「親方は一体」
「一番いいのは結婚すること」
 ザックスはまた呟いた。
「そうそれば詩人となって色々いいこともあるさ」
「私とかしら」
「さあ、エヴァよ」
 気付いていないふりの話は続く。
 

 

第三幕その十六


第三幕その十六

「聞いていたら話して欲しい。こんな考えはあんたが言ってくれたことだから」
「それは」
「まあいいか」
 エヴァが悩ましい顔になったのをわかったかのような言葉であった。
「御前は靴を作っていろというんなら。誰か歌でも歌ってくれれば」
「歌か」
 今度はヴァルターが目を動かした。
「今日は美しい歌を聴いたが第三節を作るのは誰か」
「それは」
 ヴァルターはそれが誰なのかすぐにわかった。そうしてそれを受けて歌いはじめたのだった。
「星が美しく踊る姿か。髪の毛に止まり輝く如く」
「その歌は」
「全ての乙女の中にもこよなく気高き姿」
「まさかその歌が」
 エヴァは聴いているうちにわかってきた。
「優しく光に輝く星の冠をいただきて」
「エヴァよ」
 ここでまたザックスが仕事を続けながら呟いた。
「聴くのだ、これこそがマイスタージンガーの歌」
「これが」
「奇蹟の上の奇蹟のように」
 ヴァルターの歌は続く。
「二つの昼を迎えるように二つの太陽のいときよき歓びのように」
「二つ・・・・・・目なのね」
 エヴァはこの歌が誰に向けてかもわかってきた。
「この歌は」
「美しき二つの瞳の輝きは私を喜ばせてくれる」
「私の家では」
 ここでもザックスが呟く。
「こういう歌が聴こえてくる」
「気高く優しきその姿、私は胸とどろかせ近付く」 
 ヴァルターはさらに歌う。
「二つの太陽の光の前に花の冠は光を失い」
「光を」
「またその光を受けて輝く。彼女は手もて編みし冠を夫の頭に捧げ」
「それが私」
「楽園の喜びをその詩人の胸に注ぐ。愛の胸のうちに」
「よし、できたぞ」
 このタイミングでザックスは仕事を終えた。ふりをした。
「エヴァちゃん」
「はい」
「できたぞ、履いてくれ」
 エヴァの方に歩み寄って言うのだった。
「この靴を。もう痛まないぞ」
「ええ。それじゃあ」
 エヴァはザックスの言葉に頷く早速その靴を受け取った。そうして実際に履いてみる。そしてそのうえでザックスを抱き締めようとするがザックスは無言で微笑んで退きそのうえで父親の如き優しき声で彼女に対して話すのだった。
「靴というものは本当に厄介なものだ」
「靴が?」
「そう、私は詩人でもなかったら靴なぞとっくに作っていなかった」
「とっくになの」
「そうだな」
 エヴァの言葉に応えまた言うのだった。
「一人は緩過ぎる、別の一人はきつ過ぎる」
「その二つが同じである場合も?」
「あちらからもこちらからもやって来て」
 エヴァに応えずにさらに話していく。
「ここががたがたしぱくぱくしてきついだの痛いだの」
「それは」
「靴屋は何でもできないといけない」
 こうも言うのだった。
「破れたところはつくろってそのうえ詩人だから」
「詩人だから」
「休ませてもらう暇もない。軍にいるようだ」
「軍か」
 ヴァルターはその軍という言葉に反応を見せた。
「それは例えに過ぎないな」
「そのうえ男やもめだから人は色々とからかう」
「何が言いたいのかしら」
 エヴァは次第にザックスの考えがわからなくなってきた。
「親方は何を」
「若い娘までが相手が見つからないと言って声をかけてくれる」
「私のこと?」
「娘達の気持がわかろうとわかるまいと」
 エヴァの詮索を妨害するかのように言い続ける。
 

 

第三幕その十七


第三幕その十七

「終わりには結局酷い目に遭ってののしられるのがおちだ。だが」
「だが」
「あいつは可哀想だな」
 ここでふと上を見て呟いた。
「徒弟のあいつはな」
「ダーヴィット君のことか」
「あの人のことね」
 ヴァルターにもエヴァにもすぐにわかった。
「そうだな」
「その通りね」
「皆から馬鹿にされるのだからな。レーネまでもが食べ物の残りを夜に食べさせる始末だ。それにしてもあいつはまだ帰っては来ないのか?」
「親方」
 エヴァはいたたまれなくなって遂にザックスに声をかけてきた。
「私は貴方の御心にどう報いたらいいのですか?」
「私のかい」
「そう。どのようにしたら」
 こう彼に問うのだった。
「若し貴方の愛がなく貴方がいなかったら私はどうなっていたか」
「わからないというのかい?」
「はい」
 返事が切実なものになっていた。
「子供だった私の心を目覚めさせてくれて人が褒め称えてくれることを教えてもくれたし本当の心というものも貴方のおかげで思うようになり」
「極端なことを言う」
「極端ではなく」
 そうではないとさえ答えた。
「気高く大胆に考えることも教えてくれて」
「それもなのかい?」
「そう。それだけでなく」
 エヴァの言葉は続く。
「私を花咲かせてくれて。正しい道に導いてくれて」
「選んだのはエヴァちゃんだよ」
「私だけではとても」
 こう答えて首を横に振る。
「若し私に選択の余地があれば」
「あれば?」
「貴方が」
 じっと彼を見上げる。
「私の冠は今日は」
「エヴァちゃん・・・・・・」
「私は選んでいたわ」
「こんな話を知ってるかな」
 ザックスはそのエヴァの熱い視線に対してまた言ってきた。
「トリスタンとイゾルデの話を」
「確かそれは」
「あの二人は」
 エヴァだけでなくヴァルターもその話を耳にして呟いた。二人も又知っているのだった。
「私はマルケ王じゃないんだ。ハンス=ザックスなんだ」
「ハンス=ザックス・・・・・・」
「私はトリスタンではないけれどいい騎士殿を見つけた」
 ヴァルターを見ての言葉であった。
「私はマルケ王ではないのだよ」
「では親方は」
「貴方は」
「さあ、あいつが戻ってきた」
 二人はザックスに対して何か言おうとするが彼はここでもまたそれを先んじて制するようにして声をあげた。そうして盛装したダーヴィットとマグダレーネも部屋に入って来たのだった。
「遅れました、すいません」
「私が無理を言いまして」
「いや、いいんだ」
 微笑んで二人の謝罪をよしとするのだった。
「それよりだ」
「それより?」
「皆来たところで言おう」
 彼の話が変わってきた。
「洗礼を行う」
「洗礼!?」
「ここでですか」
「そう、ここでだ」
 こう一同に告げるのだった。
 

 

第三幕その十八


第三幕その十八

「皆が集まり」
「皆が」
「そして一人の子供がここに生まれるのだから」
「子供!?」
 ダーヴィットは子供と聞いて首を捻った。
「今度は何に例えておられるんだろう」
「マイスタージンガーの歌が作られた時は」
 首を傾げるダーヴィットをよそに話を続けるザックスだった。
「こうするのが師匠の慣わしです」
「師匠の?」
「そうです」
 今はヴァルターに顔を向けて微笑んで説明していた。
「師匠として。よい名をつけてやるのです」
「名前をですか」
「その通り。その名前ですが」
「はい」
「できるだけ覚えやすい名前をです」
 こうヴァルターに説明するのだった。
「今騎士殿は詩を作り歌を作りました」
「今のこの歌ですね」
「そうだよ」
 エヴァに対しても優しく語る。
「この新曲の生みの親は私とエヴァを名付け親として招きました」
「はい」
 エヴァも頷いてこのことを認める。
「その通りです。今」
「我々は今その歌を充分に聴いた」
 ザックスはまた言った。
「ですから今洗礼の為にここでいるのです」
「洗礼というと」
 ヴァルターはここでようやくわかったのだった。誰の為の洗礼か。
「そうか。それでは」
「この儀式には証人が必要なのでレーネとダーヴィットにも来てもらいました」
「ああ、それでか」
「それで私も」
 二人もまたここでわかったのだった。
「僕達もここに」
「呼んでもらったのね」
「しかし」
 ザックスはここでまた言うのだった。
「徒弟では証人になれません」
「そうなのか?」
「はい、そうなんですよ」
 ダーヴィットはヴァルターの問いに答えるのだった。
「実はそうなんですよ。責任ある立場じゃないですから」
「そうか。それでか」
「ですから」
 ザックスの言葉は続く。
「彼は先程宣言の歌を見事に歌ったので」
「ああ、さっきの歌ですよね」
「そうだ。だからこそ御前は職人になる」
 このことを彼に告げた。
「今ここでな。職人になる」
「はい、有り難うございます」
 ザックスの前に片膝をつく。ザックスは右手で彼のその頬を叩く。これで決まりであった。
「これで御前は職人になった」
「はい」
 またザックスの言葉に頷く。
「では今は」
「そうだ。証人になってくれ」
 このことをあらためて彼に告げた。
「いいな」
「わかりました。それでは」
「私の幸福は太陽みたいに笑っているわ」
 エヴァがうっとりとして話してきた。
「喜びに満ちた朝が私の為に目覚めるのね」
「そう、今ここで」
 ザックスもそれに頷いてみせる。
「至高の恵みの夢が天上の如き朝の輝きが」
「優しく美しき乙女の前で」
 ザックスも言う。
 

 

第三幕その十九


第三幕その十九

「私も歌いたいとは思う」
「それを解き明かすことは何と幸福にして甘美なのでしょう」
「心の甘き苦しみは抑えるべきであった」
「優しく気高き歌ならば」
 二人はそれぞれ言い合う。
「我が心の甘い苦しみを解き明かすこともできるでしょう」
「あのような美しい朝の歌を私はあえて解き明かさない」
「朝の夢に過ぎなかったのか」
 エヴァは恍惚として言う。
「私には解き明かすことはできませんが微かに聴いたあの歌を」
「静かなる部屋で私が聴いた」
「どうかマイスタージンガー達の前で声高らかに明るく歌い勝利を」
「我が心の甘い苦しみをわかり歌うことができたのは」
 ヴァルターも言う。
「貴女の愛の為」
「青春の永遠の技さえも」
 ザックスはまだ言っていた。
「ただ詩人の賛美により戻すと」
「朝の夢に過ぎなかったのか。私には解き明かすことは難しいが静かな部屋で」
 ザックスの言葉はヴァルターの言葉と重なり合っていた。ヴァルターはその中で言う。
「私に生まれたこの歌はマイスタージンガー達の集いの前で明るく、高らかに響き至高をその手に」
「こんなに早いうちから僕は起きているのか寝ているのか」
 今度はダーヴィットが言う。
「それをはっきりさせるのは大変だ。朝の夢に過ぎないのか」
「そう、大変だわ」
 そしてマグダレーネも。
「僕は今見ていることが殆どわからない」
「ダーヴィットが職人なんて」
「もう職人なんて」
「若しかしてもうすぐ私も」
 マグダレーネはうっとりとしてきていた。
「花嫁に。そして教会でダーヴィットと」
「レーネと」
「一緒になって遂に」
「さて、後は」
 またザックスが言ってきた。
「皆行こう」
「皆が」
「そう、皆行くんだ」
 彼は言うのだった。
「じゃあエヴァちゃん」
「はい」
「お父さんに宜しくね」
「わかりました。それじゃあ」
「ではダーヴィット」
「はい」
 今度はダーヴィットに声をかける。ダーヴィットもすぐに応える。
「戸締りは頼むよ」
「ええ、わかってますよ」
 いつもの明るい顔で応えるダーヴィットだった。
「それじゃあいつも通り」
「レーネと一緒にな」
「有り難うございます」
 マグダレーネも笑顔でザックスに応える。そうして最後はヴァルターに声をかけるのだった。
「騎士殿、それでは」
「ええ。では」
「御一緒に」
 二人は笑顔で言い合う。こうして誰もが祭りに向かうのだった。
 ニュルンベルグの街を遠くに見る牧場。そこには河も通り青く澄んだ姿を見せている。そこにベンチが多く置かれ街の誰もが着飾って笑顔で遊んでいる。そしてそれぞれの職人の組合の旗が立ち並び職人達によっても垂れている。誰もがそこで御馳走や美酒を飲みそのうえで楽しく話をして踊っているのだった。
「さあ皆さん」
「聖クリスパンを讃えましょう」
 靴の旗を掲げた面々がまずその旗を高々と掲げて花やリボンで飾った娘達の黄色い声を受けつつ歌う。
「彼は聖者でしたが靴屋の仕事の手本でもありました」
「何故なら」
 彼等で話すのだった。
「貧しい人が凍えている時に暖かい靴を作りました」
「革をくれる人のない時にでも工夫して」
「万事にこだわらぬこの靴屋」
 旗がさらに高々と掲げられる、
 

 

第三幕その二十


第三幕その二十

「万難を排しても靴を作る。毛皮から皮を作り」
「シュトレック、シュトレック、シュトレック!」
 掛け声であった。
「それを叩いて引き伸ばしそれぞれ役に立たせるのだ」
「ニュルンベルグの町が敵に囲まれ」
 今度は仕立て屋の旗だった。
「町が餓えていた時に市民達は死に掛けていました」
「しかし仕立て屋は一人もいなくなっていました」
「何故か」
 彼等も声と旗を高々と掲げて言う。
「仕立て屋はその知恵と勇気を見せれ」
「山羊の皮を縫い合わせ」
「それを見て町の城壁を歩き回り跳び回り」
 こう歌っていく。
「それを見た敵は悪魔が来たと驚いて逃げさって」
「それで町を救ったのです」
「メック、メック!」
 その山羊の鳴き声であった。
「山羊の中に人がいるとは」
「誰も気付きませんでした!」
「お腹が空いて死にそうだ!」
 今度はパンが描かれている旗がたなびく。
「こんな苦しみは他にはない!」
「パン屋が毎日パンを作らないとどうなるか」
「この世が全て死に絶える!」
「ベック、ベック、ベック!」
 これが彼等の掛け声であった。
「毎日きちんとパンを作れ!」
「わし等のお腹を満たしておくれ!」
「パンを焼いて!」
「シュトレック、シュトレック、シュトレック!」
 ここでまた靴屋達も歌いだす。
「革を伸ばして靴を!」
「メック、メック、メック!」
 仕立て屋達もまたしても。
「山羊の中に仕立て屋がいるとは!」
「おいおい、見ろよ!」
「女の子達が!」
 やがて皆町や周りの村の娘達を見るのだった。
「おいおい、今日は何時にも増して奇麗だな」
「全くだ」
「何時にも増しては余計でしょ」
「そうそう」
 そんな彼等に農家の娘の晴れ着の服を着た娘達が言い返す。
「いつもよ」
「わかってるの?」
「おっと、これは失礼」
「そうだったそうだった」
 彼等も笑顔で応える。
「まあとにかくだよ。今日はめでたい日だし」
「明るくやろうよ」
「おっ、今度は笛吹きが来た」
「いいね」
「踊りもあるぞ」
 彼等はまた話すのだった。今度は河から舟に乗って笛吹き達が朗らかにやって来た。道化師達もいて明るく踊ってさえいる。
「じゃあ僕達もな」
「ああ、踊るか」
「おいおい、皆」
 ここでダーヴィットもやって来た。
「もう楽しんでいるのかい?」
「ああ、そうさ」
「ここでね」
 皆笑顔で彼の言葉に応える。
「ダーヴィットも楽しんだらどうだい?」
「ほらほら」
 娘達と踊りながらダーヴィットに声をかける。
「こうやってさ、楽しく」
「明るく騒ごう」
「いやいや、僕にはもう相手がいるから」
 しかしダーヴィットはここでは皆に対して言うのだった。
「そんなのはね。全然ね」
「全然っていってもね」
「ダーヴィットは浮気性だからなあ」
「そうそう」
「僕の何処が浮気性なんだ」
 これには少しむっとした顔で言い返すダーヴィットだった。
 

 

第三幕その二十一


第三幕その二十一

「僕みたいな誠実な人間を捕まえてそんなことを言うなんて」
「ほらほら、そんなこと言っても」
「女の子達が来ると」
 そしてここで娘達が笑顔で来る。するとダーヴィットもまんざらではない顔になる。
「どうなんだい?」
「心が動かないか?」
「それはだね」
 言い返そうとする。しかしついつい目が娘達にいってしまう。娘達はそんな彼をからかうようにして輪になって彼の周りで踊りはじめる。そんな彼が何か言おうとすると。
「あっ、レーネ」
「いらっしゃい」
「えっ、レーネ!?」
 仲間達の言葉にギクリとした顔になるダーヴィットだった。
「ダーヴィットはここだよ」
「いらっしゃい」
「いや、レーネこれは」
 まだ彼女の姿を見ていないのにしどろもどろだった。
「あれなんだよ。僕はね」
「おいおい、いないって」
「何だよその反応」
 ここで彼等はまた笑顔で言うのだった。
「動じないんじゃないのかい?」
「誠実じゃないのかい?」
「僕をからかっているのか」
「その通り」
 返事はこれであった。
「見てわからないかい?」
「わかるだろ」
「全く。冗談が過ぎるよ」
「冗談でも引っ掛かる方が悪いのさ」
「まあ本当に誠実であり続けたのは認めるけれどね」
「最後の方は少し怪しかったけれど」
 こんなふうに彼をからかっているとであった。ここで。
「あっ、来られたぞ」
「おお、遂にか」
「あの人達がか」
「そうだ、来られた」
 一人の言葉に皆が続くのだった。
「マイスタージンガーが!」
「マイスタージンガーの方々が!」
 岸の方へ顔を向けると船着場にそのマイスタージンガー達がいた。先頭にいるのは橋を高々と掲げるコートナーであった。そのすぐ後ろにはポーグナーがいて他の面々もいる、当然その中にはザックスもいてすぐ後ろではベックメッサーが難しい顔で紙を見ている。その彼等が今到着したのである。
「来られたぞ!」
「今ここに!」
「ザックスさんもおられる」
「ハンス=ザックスさんも」
 マイスタージンガーの中で民衆に最も人気があるのは彼である。なおポーグナーの横には着飾ったエヴァがいる。マグダレーネも一緒である。
「今日もザックスさんはお元気だ」
「それが何よりだよ」
「では皆」
「ああ」
 自発的にそれぞれ顔を見合わせて言い合うのだった。
「そうだな。ザックスさんをだな」
「ここで讃えよう」
「ザックスさんを」
 皆それぞれザックスを見て言っていく。
「目覚めよ、朝は近付いた」
「鶯は楽しげに歌いその鳴き声は山や谷に木霊していく」
「夜は西に沈みいく」
 自然と歌が出て来た。ザックスの作った歌である。
「昼は東に登りいく」
「激しく燃える朝焼けが暗き雲間を破り来る」
 こう歌っているうちに今ザックスをはじめとしたマイスタージンガー達が民衆の前に出て来た。皆彼等の中でザックスを讃えるのだった。
「ザックスさん万歳!」
「ニュルンベルグの忠実なるザックスさん万歳!」
 ザックスはただその声を聞いていたがやがて。静かに口を開いて言うのだった。
 

 

第三幕その二十二


第三幕その二十二

「貴方達はです」
「はい」
「私達が?」
「そうです。ふつつかな私に対して」
 彼は言うのだった。
「多過ぎる栄誉を与え朗らかな歓声を以って」
「歓声を以って?」
「そうです。私の心を苦しくさせます」
 こう言うのである。
「皆さんの愛顧を得た上に今日は宣言句の語り手という大きな栄誉を授かりました」
「ザックスさんなら相応しいよな」
「なあ」
 民衆の意見はこうであった。
「それもな」
「ザックスさんならな」
「貴方達が芸術を尊重するうえはこの道に身を委ねる者は」
「委ねる者は?」
「全てに増してこれを讃えることを示すことが大切なのです」
 彼は言うのだった。
「家も富み心高き一人の師匠が今無二の宝というべき娘さんを」
「エヴァちゃんのことね」
「そうね」
 今度は町の娘達が言い合う。
「豊かなる財産と共に民衆の前で芸術の歌により最高の賞を得た歌手にそれを与えようというのです」
「それこそがエヴァちゃん」
「何という素晴らしい宝」
「それ故です」
 ザックスはまた民衆に対して語る。
「私の言葉をよく聴いて賛成して下さい。詩人たるものはです」
「詩人は?」
「自由に求婚していいものです。自信のある師匠達に民衆の前で声も大きく申します」
「声もですか」
「如何にも」
 彼の言葉は続く。
「この求婚の珍しい賞のことをよく考えて欲しいのです」
「よく考えてって」
「何かあるのかしら」
「さあ」
 その民衆はここではザックスの本意をわかりかねていた。
「ザックスさんの言葉はいつもはわかり易いのにな」
「今日はちょっとね」
「わからないわよね」
「ああ」
「求婚にも歌にも」
 それでもザックスの言葉は続く。
「自らの清く尊いことを知る者はこの栄冠を得ようとするでしょう」
「それはわかるけれどな」
「それはな」
 これは民衆にもわかった。
「けれど何ていうかな」
「やっぱり。今のザックスさんの言葉は」
「何が言いたいんだ?」
「それがさっぱり」
「昔も今も今だかってこの美しい乙女により捧げられた冠程素晴らしいものがあったでしょうか」 
 民衆達への問いだった。
「このことにより乙女はニュルンベルグが最高の価値を以って芸術とその師匠達を敬うことを疑いなく示すことになるのです」
 ここで一旦彼の言葉は終わった。そして今度はポーグナーがそのザックスの横に来て言うのだった。
「ザックスさん」
「はい」
「我が友人よ。深く感謝します」
 こう深々とした声でザックスに告げるのだった。
「貴方は私の心の苦しみが何かを御存知です」
「大きな冒険でした」
 彼もまた言うのだった。
「ですが今は勇気を持つ時です」
「はい、そうです」
 ポーグナーもまた頷く。そうしてその間にもベックメッサーはまだ紙を見続けている。ザックスはその彼に対して声をかけるのであった。
「ベックメッサーさん」
「あっ、はい」
 ベックメッサーは彼の言葉に応えて顔をあげた。
 

 

第三幕その二十三


第三幕その二十三

「何でしょうか」
「準備はいいですか?」
「何ですかな、この歌は」
 顔を顰めさせてザックスに対して言うのでした。
「私はそれこそ生まれてから歌を作って歌い続けていますが」
「ええ」
「こんな歌ははじめてです」
 たまりかねた顔で言うのだった。
「何といいますかこれは」
「別にそれでやらなくていいのでは?」
「いや、昨夜の歌は」
 それでもだというのだった。
「今思えば出来がよくありませんので」
「だからですか」
「はい、この歌でいかせてもらいますよ」
「御自身の歌でもどうかと思うのですが」
「いや、これでいきます」
 彼も意固地になっていた。
「ここは何があってもです」
「それではです。歌われるのですね」
「はい」
 ここでは返事は毅然としていた。
「歌って勝利を手に入れますよ」
「そうなればいいのですが」
 しかしザックスの言葉はここでは冷たいものであった。
「ですが歌われるなら」
「全く難解な歌だ」
 彼にとっては極めてであった。
「本当にはじめえですよ。ですが」
「ですが?」
「貴方の歌に期待しましょう」
 彼はとにかくこの歌で行くと決めていた。
「ここはね」
「それでは宜しいのですね」
「はい」
 ザックスの言葉に対して頷く。
「それではそのように」
「はい、では」
「皆さん」 
 ザックスはベックメッサーとの話を終え民衆に顔を戻した。そうしてそのうえでまた彼等に対して高らかに言葉を出すのであった。
「マイスタージンガーも民衆も宜しければ」
「おっ、いよいよだな」
「はじまるな」
「歌合戦をはじめると致しましょう」
「では独身のマイスタージンガー達よ」
 コートナーも進み出て告げてきた。
「御支度を。歌う順番はです」
「どういった順番ですか?」
「年齢順でどうでしょうか」
 こうザックスに述べるのだった。
「これで。如何ですか?」
「そうですな。それでは」
 ザックスもこれで納得するのだった。これで決まりであった。
「ベックメッサーさん」
「ええ」
 早速ベックメッサーが応えてきた。
「はじめて下さい」
「わかりました。それでは」
 昨日の騒ぎのせいでまだ身体のあちこちが痛くて歩くのが辛い。中央に作られた芝生の小山のところに向かう。小山は花で飾られているが今の彼には目に入っていなかった。それどころかその小山の上に登って不機嫌な顔で周りに言うのであった。
「この小山は何だ?」
「何だって?」
「何かありますか?」
「もっと固めてくれないか」
 苦い顔で周りにいる徒弟達に言うのだった。
「こんなのではゆらゆらするよ」
「大丈夫だと思いますけれどね」
「なあ」
「いや、駄目だ」
 それでもベックメッサーは言うのだった。
 

 

第三幕その二十四


第三幕その二十四

「これではだ。とても駄目だ」
「ではちょっと固めます」
「それでいいですか?」
「早くしてくれ」
 こう言って急かすのだった。
「早くだ。いいな」
「わかりました。それじゃあ」
「すぐに」
 こうして徒弟達がすぐに仕事をする。民衆達はその間ベックメッサーを見ながらあれこれと話をするのだった。
「あれ、町の書記さんじゃないか」
「そうだよな」
「ああ、何か普段と違うぞ」
 こう言い合うのだった。
「何ていうかな。姿勢が悪いし」
「それに何か神経質そうだな」
「神経質なのはいつものことだろ?」
 確かにそれもいつも通りであった。彼が神経質なことは町ではかなり有名である。融通が利かなくて口煩い書記として知られているのだ。
「それはな」
「まあそうだけれどな」
「けれど普段以上に」
 彼等の話は続いていく。
「何か今にも倒れそうだしな」
「昨日何かあったのかね?」
「さあ」
「静粛に、静粛に」
 ここで徒弟達があれこれ話をする民衆達に告げた。
「マイスタージンガーが歌われますので」
「お静かに」
 皆この言葉を受けて静かになる。そうしてそのうえでベックメッサーは土手の上に移りそこから歌いはじめる。ところがいきなり。
「私は薔薇色に輝いて」
「薔薇色!?」
「何それ」
 皆それを聴いてまず目を顰めさせた。
「大気は血と匂いに溢れえも知らぬ快さに溶け去っても庭は私をむかつかせ私は誘えり」
「何の歌なんだ、これって」
「しかも旋律もおかしいし」
「ああ、合っていない」
 また顔を見合わせることになった民衆達であった。
「この歌は」
「どうなっているんだ?」
「それにだ」
 マイスタージンガー達も奇妙に思いだした。
「あの書記さんの歌じゃないな」
「恥ある園に私はすまいし、黄金為す実と鉛の汁を」
「やっぱり妙だな」
「何か歌じゃないんじゃないのか?」
「恥さらしなる」
 ベックメッサーはさらに話していく。
「枝につるし私を首つる大樹があり」
「首吊り!?」
「ないだろ、それは」
「なあ」
 皆さらに顔色を変えていく。
「それが告白の歌か!?」
「何か歌詞間違えてるだろ」
「おまけに旋律は相変わらず滅茶苦茶だし」
「しかもこれあの人の歌か!?」
 こんな言葉も出されるのだった。
「もっとやたらと格式ばった歌だったよな」
「そうそう」
「もうあんまり堅苦しいんでどうにもならない程にな」
「そうだよな」
 また皆言い合う。
「だとしたら何であんな歌を?」
「飲み過ぎか?」
「私が恐ろしい奇蹟を語ろう。梯子の上に美しい女性が立っていたが」
 皆がいぶかしむ中でベックメッサーも次第に気付いてきた。
 

 

第三幕その二十五


第三幕その二十五

「恥ずかしがって私を見ない。キャベツの様に麻が」
「朝じゃないよな」
「ああ」
 皆このことにも気付いた。
「絶対にな」
「麻だと言ったぞ、あれは」
「私の身体を抱き眼差しをぴくぴくとさせ白い犬もて吹きつけるのは」
「犬って」
「ぴくぴくとなんて!?」
 これまた誰にとっても全く意味のわからない言葉であった。どうしてもであった。
「どういうこと!?」
「それって」
「かの肝臓の大樹に実った私の食べていた果物の如き木と馬であった」
「意味がわからない」
「歌になってないな」
「そうだな」
 皆最早何が何なのか理解不能だった。
「歌じゃないな」
「有り得ないな」
「ええ、それもこれもだ」
 ここでやっと歌い終わったベックメッサーは忌々しげに顔を歪ませて言うのだった。
「全部靴屋のせいだ」
「靴屋!?」
「ザックスさんか?」
「その通り。この歌はそもそも私の歌ではない」
 彼はここで言うのだった。
「ここで皆から崇められている靴屋が私にくれたものだ」
「嘘だろ?」
「なあ」
「ザックスさんがそんなことをな」
「だが事実です」
 彼はあくまで主張する。
「この恥知らずが私に押し付け」
「この人が」
 ベックメッサーがザックスを指差すと自然に皆彼を見た。視線が集中する。
「そうだ。おかげで酷い目に遭った、全く」
 最後にこう言うと姿を消した。憤然としてその場を去るのだった。
 だが残された民衆達は違った。怪訝な顔になりそのうえで言い合うのだった。
「ザックスさんが今の歌を作った!?」
「おかしいよな」
「ああ」
 こう口々に言い合うのだった。
「話が通じないっていうかな」
「有り得ないよな」
「どうなっているんだ?」
「ザックスさん」
 民衆達の言葉を受けてマイスタージンガー達も話を交える。
「どういうわけでしょうか」
「そうです」
「あの歌は貴方が?」
 コートナーだけでなくナハティガルやフォーゲルゲザングも話すのだった。
「だとしたら奇怪な」
「どういうことでしょうか」
 オルテルとフォルツも首を傾げる。
「これは一体」
「何事なのか」
「はい」
 ザックスはこれまで一言も話さずただ話を見ているだけであった。しかしここでようやく一同の前に出てそのうえで話をはじめるのだった。
「この歌は私のものではありません」
「ザックスさんのものではない?」
「そうです」
 こう話すのだった。
「この歌は」
「では一体誰が?」
「この歌を」
「書記さんは誤解されているのです」
 ザックスはいぶかしむ彼等に対してまた話す。
「どうしてこういうことになったかは御本人から御聞き下さい」
「歌を貰って覚え間違えたかな」
「まあそういうところじゃないのか?」
「だよな」
 おおむね合っている話であった。
 

 

第三幕その二十六


第三幕その二十六

「そしてです」
「そして?」
 そんな予測をしながらまたザックスの話を聞くのだった。
「これ程美しく作られた歌を私のものだと言うことはとてもできません」
「おいおい、冗談だろ」
「あの歌が美しいって?」
「有り得ないよな」
「なあ」
 皆また口々に言い合っていく。
「そんなことがな」
「あんな歌がな」
「絶対にない」
 また言い合う彼等であった。しかしザックスはまた言うのだった。
「皆さんに言います」
「わし等に?」
「何て?」
「この歌は美しいのです」
 またこう話すのだった。
「本来とても」
「とても?」
「一見してすぐにわかるようにです」
 このことも話すザックスだった。
「書記さんが歪めたのです。ですが」
「ですが?」
「言葉と曲とがここで皆様の前で正しく歌われれば貴方達の御気に召されることはうけ合いです」
 ザックスはまた話す。
「それが出来る方こそこの歌の作者であり」
「この歌の?」
「その通り。その方こそ」
 彼はさらに話す。
「マイスタージンガーと言われて然るべき人であることを証明することになるでしょう」
「というとだ」
「まさかエヴァちゃんの?」
「だよね」
 民衆達もおおよそ話がわかってきたのだった。
「私は訴えられた故にことを明らかにしなければなりません」
「まあそうだよな」
「そういう形なんだしな」
「その証人たる人を選ばせて下さい」
 高らかな宣言だった。
「私の言葉の正しいことを知っていて証人になれる方」
「その方は!?」
「一体」
「ヴァルター=フォン=シュトルツィング殿」
 皆この名前が出るとはっとした。ザックスの今の言葉と共にヴァルターが民衆の前から進み出てきた。そうしてザックスに挨拶したうえで民衆達にも礼儀正しく精悍な騎士らしい仕草で挨拶をするのだった。
 ザックスはその彼の挨拶を受け。そのうえで静まり返った民衆達に対して話すのだった。
「ではこの方が証明して頂けます」
「その騎士殿がですか」
「その通りです」
 ザックスは今度はマイスター達に対して答えた。
「ですから。今ここで」
「ううむ。そういうことだったか」
「成程な」
 今のザックスの行動には民衆達だけでなくマイスタージンガー達も唸るしかなかった。ベックメッサーは民衆達の中に隠れながら彼を見るだけであった。忌々しげに。
「規則もまた時としてよきことが行われる場合には例外を許します」
「杓子定規じゃないってことだよな」
「それはかえってよくないよな」
「全くだ」
「規則は規則ではないのか?」
 しかしベックメッサーはその中で呟くのだった。
「規則は守られなければならない」
「それはまさに規則の有難みを考えることになるのです」
「そうか、そういう考えもあるな」
「そうだよな」
 民衆達は今のザックスの言葉に笑顔になる。
「それにザックスさんが仰るなら」
「間違いじゃないだろうな」
「そうだな」
 彼等は彼等で納得していく。ザックスはその中でまた話す。
 

 

第三幕その二十七


第三幕その二十七

「それでです。騎士殿」
「はい」
 ヴァルターは穏やかな笑みと共にザックスの言葉に応えた。
「それでは今から」
「御願いします」
「さあ、どうなる?」
「どうなるんだ?」
 皆ヴァルターを見て話をしていく。どうなるか彼等にもわからなかった。
 ヴァルターはその中で遂に歌いはじめた。その歌は。
「朝は薔薇色に輝きて大気は花の香りにふくれ」
「んっ!?」
「これは」
 皆ヴァルターの歌がはじまるとすぐに顔色を変えた。
「どうだ?」
「今までにない歌だぞ」
「えも知らぬ快さに満たされて庭は私を誘う」
「いいな」
「ああ」
 皆その歌を聴きはじめた。ヴァルターはその中でさらに歌っていく。
「実の豊かに下がれるかの不思議なる樹の下に幸なる愛の夢の中にこよなき喜びを満たすことも」
「いいですな」
「そうですな」
 マイスタージンガー達も頷き合うようになっていた。何時しかベックメッサーも黙って聴いていた。
「喜びもて約束したまえるはいと麗しき乙女」
「その名は?」
「楽園のエヴァ」
 彼は歌った。
「やっぱりいいな」
「そうだ、別物だ」
 民衆達はまた口々にヴァルターの歌を評する。
「こんないい歌だったのか」
「まさかと思ったが」
「では証人よ」
 ザックスはさらに彼に告げる。
「歌を続けて下さい」
「はい」
 ザックスの言葉に頷きまた歌うのだった。
「夕べとわかれば夜が我を囲み私は険しき道を辿り」
「どうするんだ?」
「次には」
「清き泉に近付けり。泉は私に微笑んで誘い」
「誘い」
 誰もがヴァルターの次の歌を待つ。
「そこに月桂樹があり星は明るく枝達を通し」
「枝達を」
「そうして」
「目覚めたる詩人の夢の中に私が見たものは優しき身振りを以って泉が水をもて私を潤す」
「泉がか」
「この騎士殿を」
「いと気高き乙女パルナスのミューズ」
「ううむ」
 ベックメッサーは彼の歌を聞いてまた述べた。
「そうだな。聴くべきものはあるか」
「変わった歌ではあるが」
「韻がいいな」
 マイスタージンガー達もこの歌を認めるのだった。
「歌いやすいし」
「難しいようでな」
「遠くに浮かぶように優しく馴染み深く」
 民衆達も言う。ヴァルターの歌を聴いて。
「しかも共に体験するようだ」
「不思議な歌だ」
「さあ、騎士殿」
 またザックスが彼に告げる。
「終わりまで」
「いと恵み深い日々よ」
 ザックスの言葉に応え最後の歌に入った。
「私は詩人の夢より覚めてその恵み深い日を迎える」
「それが何時かは」
「そうだな」
「私が夢に見た楽園は新しい栄光を以って我が前に現われた」
 さらに歌を続けていく。
 

 

第三幕その二十八


第三幕その二十八

「泉は微笑みつつその楽園への道を示せり」
「その楽園はまた」
「この世にあるものか」
「そこから生まれた我が心の選びたるこの地上で最も美しい姿」
 歌はいよいよ最後に向かっていた。
「その姿ミューズとなって現われ優しくかつ気高くありしが」
「詩句も見事だ」
「確かに」
「私は大胆にも妻に求め明るい光の輝くひるに歌の勝利にて勝ち得る」
 そして最後に。
「パルナスのミューズと楽園を」
「美しき夢の中に引き込まれるようだ」
 最後まで聴いた民衆の言葉だ。
「捉え難い歌だが響くものは快い」
「全くだ」
「こんな歌ははじめてだ」
 口々に言いながらエヴァに顔を向けて。彼女に口々に言うのだった。
「エヴァさん、決まりだ」
「そう、決まりだ」
「その通りだ」
 ベックメッサーも憮然としながらも頷いていた。
「これだけの歌ならばな」
「あの方に冠を」
「あの方以外にはいない」
 こうエヴァに口々に語っていく。
「ですから今その冠を」
「あの方に」
「これで全ては決まった」
 マイスター達も認めていた。
「騎士殿、貴方が」
「その冠を」
 こうヴァルターに告げるのだった。
「貴方の歌は勝利を得ました」
「マイスタージンガーに相応しい勝利を」
「ザックスさん」
 そしてポーグナーがザックスにまた声をかけてきた。
「私の幸福と名誉は貴方の賜物だ」
「いえ、私は」
「謙遜されずに」
 それはいいとまで言うのだった。
「私の悩みと苦しみは全て過ぎ去ったのですから」
 こう言いながら自分の娘とヴァルターを見る。今ヴァルターはエヴァの前に跪きその手から冠を授けられていた。その月桂樹ともう一つ、その絹の冠だった。その二つの冠を被せられそのうえで立ち上がり二人でポーグナーの前に行きそこで二人並んで跪く。ポーグナーは微笑み彼等の頭上にその祝福の手を差し伸べるのだった。
 二人はそれを受けたうえであらためて立ち上がった。エヴァは恍惚とした顔でヴァルターに対して言うのだった。その至福に満ちた声で。
「貴方こそは私の永遠の伴侶です」」
「立派な証人が答えてくれました」
 ヴァルターはまた民衆の前に来て民衆達に述べた。
「私のやり方は如何だったでしょうか」
「素晴らしい」
「やっぱりザックスさんだ」
 皆彼の言葉にこう言うのだった。
「いつも通りお見事です」
「流石です」
「ではポーグナーさん」
「はい」
 マイスタージンガー達はポーグナーに声をかけるのだった。
「この騎士殿をマイスタージンガーに」
「そうですな。すぐに」
 彼は仲間達の言葉を受け三個の大きな記念貨を付けた全てが黄金の鎖を持ってヴァルターに歩み寄る。そうして彼に対して告げるのだった。
「これをお受け取り下さい」
「それは」
「ダヴィデ王の首飾りです」
 こう彼に説明した。
「マイスタージンガーである証の」
「いえ、それは」 
 しかしヴァルターは左手を前に出してそれを拒む姿勢を見せたのだった。
 

 

第三幕その二十九


第三幕その二十九

「受け取りたくはありません」
「えっ!?」
「それは何故」
 マイスタージンガー達だけでなく民衆も彼の今の言葉には大いに驚いた。
「どうしてですか?」
「マイスタージンガーになられないなどと」
「私は愛だけで充分です」
 じっと自分の側にいるエヴァを見詰めて言うのだった。
「愛だけで」
「いえ」
 しかしその彼に対してザックスは優しい声で告げるのだった。
「それはなりません」
「ならないとは」
「マイスタージンガーの芸術は讃えられるべきものなのです」
 このことをヴァルターに話すのだった。
「高く讃えられる彼等のいさおしは貴方にも豊かに恵みとなるのです」
「私の」
「そうです」
 こう彼に語るのだった。
「貴方の御先祖がどの様な方であっても」
「はい」
「貴方の紋章や剣や槍が詩人にしたのではありません」
 そういったものではないと話す。
「一人のマイスタージンガーが貴方を高めそれにより今日最高の栄誉を得られたのです」
「それによりですか」
「そう、感謝の心もてそれを考えて下さい」
 ザックスは穏やかな言葉でヴァルターに教えていた。
「これ程の勝利をもたらす芸術がどうして価値なきものであるのか」
「価値ですか」
「そうです。私達の師匠はこの芸術を彼等の特性に従って育て感性によって保護し純正に保ってきたものです」
 そうだというのである。
「宮廷や諸侯にもてはやされた昔の様に貴族的ではないですが」
「民衆のものだというのだな」
 ベックメッサーにはわかった。
「マイスタージンガーの芸術は。そう言いたいのか」
「この芸術は幾多の年月の苦しみにも耐えドイツ的にまた真実に生き続けた」
「それをしてきたのがわし等か」
 またベックメッサーは呟いた。
「それを護ってきたのが」
「全てが現代に於いては逼迫してこれ以上上手くはありませんでしたが」
 こうは言ってもだった。
「御覧の通り高き誉れを維持したのです。何をこれ以上マイスタージンガー達に望むのか」
「これ以上をですか」
「そうです。見るのです」
 今度は見よと言う。
「様々な禍が私達を脅かしています。ドイツ国民も国が瓦解し外国の力に屈する時」
「その時は」
「諸侯は何れも民意を解せず外国の詰まらぬがらくたをドイツの国土に植え付けます」
「そんなことは駄目だ」
「そうだ」
 皆それを聞いて口々に言う。
「そんなことになったら我々は終りだ」
「何にもならない」
「まことにドイツ的なものがドイツのマイスタージンガー達の名誉の中に生きなければ誰もそれを知らなくなってしまうのです」
「だからなのですね」
「そうです」
 またヴァルターに対して答える。
「ですから私は申し上げます」
「それは一体?」
「何ですか?」
「貴方達のドイツのマイスタージンガーを讃えるべきなのです」
 これがザックスの主張であった。それは当然ながらベックメッサーも聞いている。
「そうすれば気高い精神を維持できます。貴方達がマイスタージンガー達の働きに敬意を捧げて下さればこの神聖ローマ帝国が靄の如く消え去っても」
「そうなろうとも」
「聖なるドイツの芸術が我々の手に残るでしょう」
「では私は」
「御願いします」
 ヴァルターのその両手に自分の両手を置いてのザックスの言葉であった。
「どうか。ここは」
「わかりました。それでは」
「ザックスさん」
 エヴァはここでまた冠を出してきていた。ポーグナーから手渡されたその冠はヴァルターと同じ絹で作られた花の冠であった。それを出して来たのだ。
「どうかこれを」
「有り難う。それでは」
「では騎士殿」
「はい」
 ヴァルターもまたポーグナーに応える。そうしてその首に黄金の首飾りをかけるのだった。そのうえで二人はザックスに確かめられた。
「貴方達のドイツのマイスタージンガー達を敬愛し。そうして気高い精神を保つべき」
「そう。マイスタージンガーの働きに敬意を捧げてくれれば」
 民衆達も言うのだった。マイスタージンガー達も。何時しかマイスタージンガー達はザックスを自分達の中心に置いていた。
「神聖ローマ帝国が消え去っても聖なるドイツの芸術が我等の手に残る」
「書記さん」
 彼等の声の中でポーグナーに案内されて彼等のところに戻ってきたベックメッサーがザックスの前に来た。
「貴方もまた」
「ええ。そうですね」
 ベックメッサーも今は穏やかな笑顔だった。そうしてお互い同時に手を差し出し合い。
 そのうえで手を握り合うのだった。彼もまたマイスタージンガーであった。
「万歳!ハンス=ザックス万歳!」
「ニュルンベルグのマイスタージンガー万歳!」
 皆がそのザックスを讃える。祭は歓喜の声の中で栄光に包まれるのだった。


ニュルンベルグのマイスタージンガー   完


               2009・4・27