センゴク恋姫記


 

第1幕 仙石権兵衛

 
前書き
前々から書きたかったものの一つです。
やっとプロットが最終話まで出来あがりました。
それでは馬鹿の権兵衛の恋姫文絵巻、開帳でございます。 

 

 時代はまさに戦国の世――

 後年に戦国時代、もしくは安土桃山時代と呼ばれる1560年(永禄3年)からの40年間は、その100年ほど前に起こった応仁の乱より続く、戦乱の時代だった。
 時の権力者である足利義輝は、管領であった細川晴元の家臣を裏切り、幾内に大勢力となった三好長慶の傀儡と成り下がっていた。
 その三好長慶が1564年(永禄7年)に死去すると、その将軍である義輝も翌年に松永久秀と三好三人衆の襲撃に遭い、死亡。
 その跡を継ぐように担ぎ上げられた義輝の従兄弟である義栄が、次の将軍となるはずであった。

 だが、そこに一人の時代の革命児が現れる。
 彼の者の名前は、織田信長。
 彼は、義輝の次弟である足利義昭を擁立して、京へ上洛。

 三好三人衆は抵抗するも敗れて阿波へと逃れ、松永久秀は信長に臣従。
 義栄は、そのすぐ後に病死し、足利義昭が15代征夷大将軍となった。

 だが、世の乱れはそれで終わらない。
 その義昭を傀儡としようとした信長と、義昭の間で争いがおき、義昭は陰謀を廻らせ周辺諸侯への信長討伐包囲網を完成。
 それを各個撃破しつつ、信長は主犯たる義昭を西国・毛利へと追放した。

 時代は織田政権へと移り、幾内の陸運・海運という莫大な資金力を背景に、日ノ本全土を掌中に治めんとしていた。

 そして、刻は1582年3月。
 その数ヵ月後に、日ノ本を震撼させる出来事が起こることなど誰が知りえただろうか?


 さて、そんな渦中の時代に1人の男がいる。
 疎の者、(つら)の勇壮さのみにて、黄金の一錠を与えられ、召抱えられた男。
 信長が、美濃を岐阜と改め掌握した頃に、敗退した斎藤家から織田へ鞍替えし、木下籐吉郎の寄騎となった古株の男。

 その両腕の才覚のみで千石を賜り、木下籐吉郎が『羽柴筑前守秀吉』と名を変え、中国の総大将となったことで1万石という寄騎中、最大の出世を果たした男がいた。

 彼の者の名は――


「ぶえっくしょんっ!」

 ぶっ!

「……ゴン(にぃ)、またですか?」

 鼻を手で抓み、顔を背ける男。
 彼の者の名は、萩原孫太郎国秀。
 通称、孫。

「……まさか、また漏らしたんじゃねぇだろうな」

 その横で、こちらも鼻を抓む右頬にソバカス顔の男がいた。
 名を津田杉ノ坊妙算。
 通称ソバカス。

「こらぁ、ソバカス! じゃから武田との戦以来、漏らしとらんゆうたじゃろうがっ!」

 その横で唯一馬に乗り、怒りを顕わにして叫ぶ男。
 羽柴家寄騎中、突出した出世を果たした男。

 仙石権兵衛秀久。
 通称ゴンベエである。

「にしては回数が多いですからね。疑いたくもなります」
「いやに臭いしな」

 孫とソバカスが、顔を見合わせながら神妙に言う。

「馬鹿者! わしの屁はそんなに臭くないわい! ほれ、こうして……オエッ!」

 騎乗の人であるゴンベエは、その尻からの匂いを手で手繰り寄せるように嗅ぎ……その匂いに咽る。

「馬鹿ですか、ゴン兄」
「馬鹿だな」

 呆れる従者である二人。

 漫才のような三人は、湯山街道を西へ歩を進めている。
 仙石ゴンベエは、ここ中国方面軍の湯山奉行としての任に就いている。
 湯山奉行とは、いわゆる温泉で裸の要人を警護する任であり、またその周囲一帯の警備を統括する者だった。

 そして彼は今、その上司である羽柴筑前守秀吉に(いとま)返上で警護の命を受け、美濃の自領地より有馬温泉へと向かっている最中なのである。

「やれやれ……本来は半兵衛様の為に買って出たはずが、なんでこんなことに……」

 ぶちぶちと文句を垂れるゴンベエ。
 その様子に、孫は苦笑する。

「それ、籐吉郎様に言わないでくださいね」
「言うだろうな、絶対」

 孫の言葉を即座に否定するソバカス。
 彼の言葉は、いつも的を射ていた。

「お前ら、わしをなんだと思ってるんじゃ! 一万石の大領主じゃぞ!?」

 叫ぶゴンベエに、素知らぬ振りを決め込む二人。
 他者が見ても、三人が主従関係とは思えない姿だった。

「なら、もうちょっと威厳というものをですね……」
「無理だな、無理」
「お前ら、減俸にしちゃろうか……」

 すでに石山の町を過ぎ、湯山街道を有岡城へと向かう街道の上。
 織田領となったこの場所は、盗賊への苛烈な取締りと商人保護の為に、安全を最優先で考慮されている。

 その為、こんな馬鹿な話を無警戒できるほどに、街道は安全だった。

 そのはずだったのだが……

「!?」

 ソバカスが前方から歩いてくる一人の男、その異様な雰囲気に眼を細める。

「どうしたんだ?」

 横にいた孫は、同僚の急変した顔色に訝しげな表情をする。
 そして騎乗の人、ゴンベエはそれすらも気がつかず、鼻をほじっていた。

「おい……気をつけろ。なんか嫌な空気を感じる」

 その言葉に、孫はようやく顔色を変え、左手で刀の柄を握る。
 三人は武将であり、それは織田領の道中でも甲冑を着込んでいた。

 そして孫は片手に槍を持ち、ソバカスは鉄砲を担いでいる。

「む……? あの商人がどうかしたのか?」

 ゴンベエが無頓着な顔で、様子が変わった二人を見る。
 この期に及んで鼻をほじる姿は、一万石の領主とは思えぬ姿だった。

「気がつかねぇのか、あいつ……透波(すっぱ)かもしれねぇ」
「ゴン兄! お気をつけを!」

 二人は警戒心全開で、前から近づく優男を睨む。
 だが、ゴンベエは、そんな二人とは対照的に平然としていた。

「お前らな……そんなさも警戒してますじゃ、相手がどう動くかわからんじゃろが。ああいう相手はむしろ平然として対応するもんじゃぞ。まあ、もう遅いがの……」

 かつては間者働きで、長島城への潜入すら行ったゴンベエである。
 不審者や怪しい者への対応、その思考を誰よりも読みきっていた。

 伊達にその身一つで一万石まで登りつめた訳ではないのである。

「じゃが、あやつも警戒されとるのに平然とまあ……肝がすわっとるのう。どれ……声を掛けてみるか」
「ゴン兄ぃ!?」

 そう言って馬を進めるゴンベエに、慌てる孫。
 その後ろでは、すばやい手つきで火種を作り、国友銃へ弾丸を詰めるソバカスがいた。
 その手腕は、実に神業とも呼べる素早さだった。

「おぅい。そこの怪しい兄ちゃん。わしになんか用かのう?」

 相手がいる数十mという距離で、馬を止めたゴンベエが不敵に笑う。
 その表情は、三十路を過ぎてますます精悍だった。

 容(つら)の勇壮さで召抱えられたという逸話は、伊達ではないのである。

「ゴン兄ぃ! お下がりを!」

 その馬の前に、身を挺するように槍を構える孫こと、萩原孫太郎国秀。
 普段はどんなにゴンベエを馬鹿にしていても、彼ほどゴンベエの忠臣はいないといえる。

「まあ、そういうこっちゃ。お前さん、あからさまに怪しいんでの。ちくと止まってくれるかのう」

 ゴンベエの言葉に、無言のまま足を止める優男。
 その姿は旅をする商人のようだったが、どこか不自然な違和感があった。

「ふむ……盗賊の類ではなさそうだが、なにやら面妖じゃの。もしかして、噂に聞く伊賀忍びかの?」
「………………」
「…………黙っとっちゃ、わからんぞ?」

 そういうゴンベエも、顔は笑いながら腰の刀の鞘を押さえる。
 いつでも抜刀できるように用心している。

 そしてゴンベエの後方から伝わる殺気……それはソバカスが優男に狙いをつけたものだった。
 ちらりと横目で確認すると、再度優男へと向き直る。

「誰の手の者か……白状するなら命は助けんこともない。まあ、ここでわしを狙うぐらいじゃから毛利か……それとも、宇喜多から毛利に寝返ったばかりの伊賀氏か……」

 その言葉に、ニヤリと笑う優男。
 瞬間――

「ソバカス!」

 ドパァーンッ!

 ゴンベエの叫びと、ソバカスの銃撃は、ほぼ同時だった。

 そして、優男が爆発したのも同じだったのである。




「………………む?」

 ゴンベエは、気がつくと白いもやの中で倒れていた。
 周囲はまるで白い霧が視界を覆うように漂っている。

「どこじゃ、ここは……孫ーっ! ソバカスーっ! おるかーっ!」

 ゴンベエは起き上がりながら、仲間の二人の名を呼ぶ。
 だが、白い霧の中、その周囲の視界はまったくといっていいほど見えない。

「なんじゃここは……わしはどうなったんじゃ……?」

 ゴンベエは、自身手や足、顔などをぺたぺたと触る。

「……足はあるの。死んどらんのか。ちゅうこたあ……あ、夢か」

 そんな馬鹿な。
 と、誰かのツッコミも聞こえはしない。

「まいったのう……急いで有馬に向かわんと、籐吉郎様に何を言われるか……」

 ぼりぼりと頭を掻きつつ、とりあえず歩こうとしたその時。

「フンフンフ~ン♪」

 調子の外れたような声と共に、白いもやの向こうから誰かが近づいてくるのが見えた。

「お! 誰かおるのか……おおぅい! ちくと道を尋ねたいのじゃ、が……ぁ……」

 ゴンベエが手を振り叫ぶも、その声が次第に小さくなる。
 その理由は……こちらに向かってくる相手の異様な姿にあった。

「だ、誰じゃ、お前!?」

 薄黒く筋肉質な肌。
 衣服は着ておらず、桃色の下帯(パンツ)のみの湯上りのような姿。
 (まげ)は降ろして二つに分けて編んであるという、あるまじき髪型(ヘアーセンス)

 なにより、その巨漢な姿にまったく似合わない身体のくねらせ方。

(ほ、堀才介よりでかいっ!?)

 ゴンベエが化け物を見るように見上げつつ、武将としての条件反射で腰の刀に手をかけた。
 だが、あまりの気持ち悪い姿に、がたがたと震えだす。

「あ~ら、なかなか格好いい男じゃないの~。アタシ、惚れちゃいそう♪」
「ひ、ひぃ!?」

 生理的嫌悪……などという言葉もない時代である。
 ブツブツと泡立つ腕を、抱えるように後退りながら刀を抜く。

「な、ななななななななななな、なんじゃ、お主は!? 伴天連の者か!?」
「んふふふ……反応もなかなか可愛いじゃないの。アタシがツバ付けちゃおうかしらぁん?」
「な、なんじゃと!?」

 見るもおぞましいといった様子で、刀を構えるゴンベエ。
 だが、彼の鍛え上げられた生存本能は、すぐにもこの場から逃げろと脳裏で警鐘を鳴らしていた。

「ま、まずい……こんな化け物など相手にできん……」
「だ~れが、織田信長すら逃げ出す第六天魔王の申し子だってぇ~?」
「お、大殿を知っておるじゃと……?」

 ゴンベエの眼の色が変わる。

「あら、いけない。アタシとしたことが……つい口走っちゃった」
「……貴様、何者じゃ?」

 ゴンベエの眼差しが、幾千の修羅場を潜り抜けた武人の目へと変わる。
 だが、その鋭い眼光を受けながらも、目の前の変人は涼しい顔で頬を掻いていた。

「しょうがないわねぇ……そろそろ助けてくれないかしら、ハンベーちゃん」
「!?」

 その大男が、自身の背後を振り向いて呟いた言葉。
 ハンベー……そう呼ばれた人物が、白いもやからゆっくりと現れたのである。

「あ……あ……」
「……お久しぶりですね、ゴンベエ」
「は、半兵衛様!?」

 ゴンベエが眼を見開いて驚く。
 それは、三年前……天正7年(1579年)に亡くなった筈の人物。
 稀代の天才軍師として謳われ、権兵衛とも浅からぬ(えにし)のある人物。

 竹中半兵衛重治、その人だった。

「は、半兵衛様……生きて、生きておいでだったのですか!?」

 ゴンベエが、刀を取り落として涙ぐむ。
 彼にとって半兵衛は、上司である羽柴秀吉と同じくらい尊敬する人物だった。
 その死には、上司と共に涙したほどである。

 その人物が目の前にいる――

「よか、よかった……生きて、生きておられたのですね……」
「ゴンベエ……残念ですが、私は生きておりませんよ」
「……………………はっ?」

 半兵衛の言葉に、泣きながら固まるゴンベエ。

「私は確かに死にました。ここにいるのは実体じゃありません」
「……え? あ…………え?」
「ハンベーちゃ~ん。言っても理解できないと思うわよん?」

 苦笑した大男が、半兵衛に諭すように言う。
 その言葉に苦笑した半兵衛は、コホンと咳払いをした。

「ここにいる私は、ただの夢の欠片……貴方の思い出です」
「おも……いで」
「ええ。そう思ってください」

 そう言って微笑む半兵衛に、がくっと膝を崩すゴンベエ。

「……夢、夢じゃったか……そうじゃ、半兵衛様が、生きておられるわけが、ない……」
「……すみませんね、ゴンベエ。ですが、会えて嬉しかったですよ」
「!! も、もちろんです! わ、わしだって、半兵衛様には、いくら返しても返せぬ恩があります……!」

 ゴシゴシと自らの目を擦るゴンベエ。
 その姿に、半兵衛はフッ、と笑う。

「しかし……夢にしては……こんな大男、見たこともないんじゃが」

 そう言って大男を見やるゴンベエ。
 その視線に気付いた大男は、バチーンッとウインクする。
 思わず卒倒しかけるゴンベエ。

「……はっ!? なんじゃ今のは! 気が遠くなったんじゃが……」
貂蝉(ちょうせん)さん……」
「ホホホ、ごめんしてねぇん。この子、結構可愛くて、気に入っちゃったのよん」
「……(ゾクゾク)」

 悪寒が全身に伝わり、震え上がるゴンベエ。
 その様子に苦笑しつつ、半兵衛は再度咳払いした。

「さて……そろそろ本題に入りましょう。ゴンベエ……実は貴方にお願いがあるのです」
「お願い、ですと?」
「ええ……聞いてもらえますか?」
「もちろんです! 任せてください!」

 そう言って、ドン、と自分の胸を叩くゴンベエ。
 その姿に大男――貂蝉は、呆れるように呟いた。

「まだ内容も言ってないのに、せっかちな子ねぇん」
「ふふふ……そういう人物なのですよ、ゴンベエは」

 半兵衛は、そう言って笑う。
 二人の様子に、先走った事に気付き、顔を赤らめるゴンベエ。

「あー……それで、どんな頼みごとで?」
「実は……貴方には少し遠い場所に行ってもらいまして。そこで一人の人物の未来を変えてほしいのです」
「未来を……変える?」
「ええ。まあ、簡潔に言えばそちらで一人の人物が、信長様のように世を変えようとして頑張っています。ですが……このままだとその者は、夢を果たせずして死にます」
「なっ!?」

 ゴンベエは愕然とした。
 天下に名高き、信長様のような人物が他にもいた事。
 そして、その人物が死にそうだという。

「ああ、あくまでも『このままでは』ですよ。あなたが行った先では、まだ尾張の一勢力に過ぎなかった信長様と同じような状況です」
「尾張の頃の……ですか」
「ええ。ちょうど籘吉郎様がおね様と婚姻なされた頃……そういえばわかりますか?」
「……以前、籘吉郎様から聞いたことはありますが……」

 半兵衛の言葉に首を傾げるゴンベエ。
 彼が羽柴籘吉郎秀吉に仕え始めたのは、斎藤家が滅ぼされた後なのだ。
 その籘吉郎秀吉が、未だ木下の姓で織田信長にとして仕えるようになったのは、実に二十八年前。
 小者として仕え、その才覚を見出されて普請奉行、台所奉行などで功を成し、愛妻であるねねと婚姻したのが、1561年(永禄4年)であった。

「まあ、あなたはその頃、乳飲み子でしたからね……つまり、私があなたにお願いしたいのは、信長様に籘吉郎様がおられたように、その人物に貴方がいてあげて欲しいのです」
「うええっ!? わ、わしが籘吉郎様のように、ですか!?」

 ゴンベエは、今頃になって自分が安請け合いした内容に驚く。

「あ、あの……わ、わし、馬鹿なんですが……」
「ははは。なにも籘吉郎様と同じに振る舞えなどとは言いませんよ。籘吉郎様は籘吉郎様。貴方は貴方です」
「は、はあ……」

 汗をだらだらとかきつつ、曖昧に頷くゴンベエ。
 その様子に、貂蝉が半兵衛に耳打ちする。

「(ぼそぼそ)ちょ、ちょっとハンベーちゃん! 本当に大丈夫なのん? どう見ても貴方の代わりになんて、なれそうにないわよ?」
「(ぼそぼそ)大丈夫ですよ。彼は勘で道理がわかる男です。きっとドタバタしつつ成し遂げてくれますよ」
「(ぼそぼそ)でもねぇ……やっぱ貴方が行ってくれない? アタシは貴方に行って欲しいんだけど……」
「(ぼそぼそ)それはできません。貴方が籘吉郎様をダメと言った以上、彼しか状況を変えることはできないのですから、あきらめてください」
「あのう……わし、やっぱり……」

 ゴンベエの目の前でぼそぼそと話す二人を前に、俯きつつ声を上げるゴンベエ。
 ちなみに半兵衛はともかく、貂蝉の声はダダ漏れだった。

「こほん……さっき言ったとおり、籘吉郎様のようにしろとは言いません。貴方のやり方でその人物を助けてあげてください」
「わし……自慢にもなりませんが、失敗ばかりしますが」
「そうかもしれませんね……ですが、貴方はいつもそれを挽回する功で成し得てきた。試し合戦、姉川の戦い、小谷城虎口、そして丹羽山城……上津城のことや、湯山奉行にしても私の死後、必ず事を成すであろうことはわかっていました」
「は、半兵衛様……」

 その言葉に、じんわりと涙を浮かべて感動するゴンベエ。
 彼にとって、半兵衛は籘吉郎と並ぶ良き理解者でもあった。

「今も昔も、貴方は私の策が間違ったとしても挽回してくれる『担保』なのですよ……やってくれますか?」
「はいっ! やります! 絶対にやってみせます!」
「あらあら……」

 貂蝉が、ゴンベエの眼の色に感嘆の声を上げる。
 そこにいたのは、先程まで自信なさげに見えた猪武者ではなかった。
 今は、自信に溢れ、『其の容貌見事也』と謳われた剛の武人、仙石権兵衛秀久の姿だった。

「たとえ我が身と代えてでも、其の方の命を守ってみせます! 信長様を守れるならば、武門の誉ッス!」
「ははは。信長様ご自身ではありませんよ。まあ、保護欲は出る容姿かもしれませんがね」
「はいっ……………………は?」

 半兵衛の言葉の意味がわからずに、間の抜けた顔を見せる。
 ただ、半兵衛は目を閉じ、微笑むように笑った。

「あの…………………………いまさらなんですけど、どんな方で?」
「それは…………まあ、行けばわかりますよ。ええと、貂蝉さん?」
「え? ああ……えーと、そうねん。目が覚めたら目の前にいる相手がその人よん。しっかり守ってね?」
「は?」

 守るべき相手の姿も、名すらもはぐらかされ、さすがに困惑する。

「あと、そうねぇ……ちょっとしたサービスもしといたげるわ。そのままだと、相手の印象もあんまり良くないだろうし……じゃあ、もういいかしら?」
「ええ。がんばるのですよ、ゴンベエ」
「え? あの、半兵衛様!?」

 焦るゴンベエに、笑いかけながら手を振る半兵衛。
 その姿が霞のように白い霧に覆われていく。

「貴方の活躍、楽しみにしています。すべてが終わったら、また会いましょう……」
「半兵衛様!? 竹中半兵衛様!」

 消えていく半兵衛へと手を伸ばすゴンベエ。
 だが、そのゴンベエ自身の視界すら覆われ――

 全てが白い闇へと消え去った。
 
 

 
後書き
なおこの作品は、不定期更新となります。
本編の合間に書きますのでご了承ください。 

 

第2幕 曹孟徳

 
前書き
1幕と2幕に分けていますが、実はここまでが1話だったり。
例によって長すぎるので分けました。 

 
「半兵衛様っ!」

 自身の叫ぶ声で、目を開く。
 だが、その眼差しの先にあるのは青空。

(空……空じゃと?)

 そのことに気づいたゴンベエが、体を起こす。
 そして周囲を見て呟く。

「どこじゃ、ここは……」

 見たこともない森の畔。
 目の前には小さな小川。

 遠くに見える山々は、見たこともないような禿山で、地平線の先まで見える大地は乾燥した不毛な地。

 木と水に溢れた日ノ本の大地とはまるで違うことに、ゴンベエは急に孤独感に襲われる。

「あら……やっと目が覚めたのね」

 不意に声がした。
 慌てて振り向くと――

「随分高いびきで寝ていたけど……私が盗賊だったら、貴方死んでいるわよ?」

 見たこともない美少女が、草むらに座り込んで、こちらを覗きこんでいる。
 ゴンベエは、その少女の容姿に、思わず見惚れてしまった。

(髪が金色……南蛮人か? 幼子のようじゃが……おかずよりええ器量じゃの)

 自分の娘――養女だが――より見目麗しい少女に、一瞬我を忘れる。
 だが、瞬時に自分の妻の恨みがましい眼を思い出し、ぶんぶんと首を振るった。

「? 大丈夫?」

 その様子に、少女が訝しげに尋ねてくる。

「だ、大丈夫じゃ……童子(わらし)、ここはどこかの?」
「わらし? よくわからないけど、ここは兗州(えんしゅう)……陳留の近くよ。場所も知らないなんて、どこから迷い込んだのかしら?」
「えんしゅう……? そんな地名、播磨にあったかのう……」
「はり、ま?」

 互いにはてなマークを出しあう、少女とゴンベエ。
 ゴンベエは、少女に向き直ると、その姿を凝視する。

(見たこともない服……どこかの透波かとも思うたが違うようじゃ……かといって農民でもなさそうじゃの。奇天烈な格好じゃ)

 ゴンベエにしてみれば、少女の着ているスカートなどは見たこともない服装である。
 ましてや金色の髪を、左右で結って巻いてある少女など、見たことも聞いたこともない。

「童子よ。おんし、この辺りの者かの?」
「だから、わらしってどういう意味かしら? 私はわらしなんて名前じゃないのだけど」
「は? 童子は童子じゃろ? 幼子という意味じゃ」
「おさ……貴方ねぇ、失礼にも程があるのじゃなくて? 似たような年格好の癖に」
「は?」

 少女の言葉にきょとんとするゴンベエ。
 似たような年格好?

「あのな……わし、三十路越えとるぞ?」
「嘘おっしゃい! 川原の水で自分の顔を見てから冗談を言いなさいよ」
「……へ?」

 少女に言われて、水面に顔を写すゴンベエ。
 その顔は――

「なっ!?」

 ゴンベエは自分の顔姿に愕然とする。
 普段見慣れたダンゴ鼻はそのままだが、顔全体が……いや、体全体が縮んでいる。
 否――若返っていた。

「わ、わし……どうなっとるんじゃ!?」

 自分の手足を見るが、甲冑はそのままだが、肉体年齢は十五・六ほどまで若返っていた。

(これではまるで……稲葉山の頃の姿になっとる)

 若くして数多くの失敗をした苦い思い出……お蝶を失い、堀久太郎に殺されかけた思い出が蘇る。
 そして、信長様に初めて会ったあの頃を……

「貴方……本当に大丈夫? 見たこともない姿をしているけど、細作にしては間抜けだし……」

 少女が呆れた声で溜息をつく。
 その声に、ゴンベエは振り返った。

「……どうなっとるんじゃ?」
「は?」
「わしは夢でも見とるんかの?」
「知らないわよ」
「わし、若返っておるんじゃが?」
「だから知らない……ってちょっと待ちなさい。若返った?」
「夢じゃ……そうじゃ、夢の続きじゃ……そもそも半兵衛様が生きておられるわけがない……」
「ハンベエって誰よ」
「そうじゃ、もう一度寝よう……そうすれば、もとに戻るはずじゃ……」
「あ、貴方ねえ……人の話を……」
「そうじゃ、そうじゃ……目覚めれば、元に……」
「いい加減になさい!」

 ゴスッ!

「ぬあっ! くぁぁ……ッ! 何するんじゃっ!」

 ゴンッ!

 再び、鈍器のようなもので殴られる。
 否、それは巨大な鎌だった。

「さっきから理由(わけ)のわからないこと言ってるんじゃないわよ! 貴方がどう思おうと、ここにいる貴方は現実よ! 貴方は私のお気に入りの場所で、ぐーすか寝息を立てていたの! まったく……久しぶりに政務が早く終わったから涼みに来てみれば……」
「おおおおお……」

 突きつけられる巨大な鎌に、引き攣りながら頭を押さえるゴンベエ。
 少女は、その鎌の切っ先をゴンベエの首へと当てた。

「どこの馬鹿か、細作かと思って近づけば、鼻提灯だして眠りっぱなし。とは言え、放置もできずにどうしようかと思っていたら、眼を覚まして訳の分からないことを言い出した挙句、言うに事欠いて人のことを孩子(ハイズ)扱い? 随分舐めたこと言うじゃないの」
「は、はいず? おんしゃ、なにいっとるんじゃ?」
「あ・な・た・が! 何言ってるのか、わかんないのよ!」

 少女は、その勢いのまま、ぶんっと鎌を振るう。
 たまらず、ゴンベエは首を縮めてその鎌を躱す。

「あ、危なっ!? なんつーぶっそうな女子(おなご)じゃ! 南蛮人の女子は、こんなんか!?」
「誰が南蛮人よ! あんな変な奴らと一緒にしないで頂戴! 私は、生まれも育ちも曹一族よ!」
「そう? そうなんて豪族、知らんぞ!?」
「まだ言うか、このっ!」

 少女の振るう鎌を、右往左往しながら避ける若返ったゴンベエ。 
 本人たちは大真面目なのだが、傍目から見ると痴話喧嘩にしか見えなかった。

「ハァ……ハァ……い、意外にすばしっこいわね」
「そりゃ、おなごの太刀筋じゃ、いくらわしだって避けられるわい。これでも槍一本で一万石になったわけじゃしのう」
「? 一万石? なんのことよ」
「わしのことを知らんのか……というか、ほんとにここは日ノ本なのか?」
「日ノ本……ちょっと待ちなさい。貴方……本当にどこからきたの?」

 少女は鎌を構えたまま、訝しむ。

「……その前に、お互い名すら知らぬ。ここはひとつ、互いに名乗るとせんか?」
「……いいでしょう。けど、まずは貴方が名乗りなさい。それが礼儀よ」

 少女の言葉に、頷くゴンベエが胸を張る。

「わしは織田家、羽柴籘吉郎様寄騎、仙石権兵衛じゃ」
「……おだけ? 聞いたことないわね」
「な、なにい!? お主、天下一統を目前としておる織田家のことを知らんと言うのか!?」
「………………」

 ゴンベエの言葉に、訝しむ少女。
 その言葉の真意を考えるも、少女には皆目見当がつかなかった。

「……まあ、ええ。お主の名はなんじゃ?」
「え? ええ……私はね、姓は曹、名は操、字は孟徳……陳留刺史よ」
「なんじゃ、そのけったいな名前は……おそうとでも言うのか?」
「……やっぱり。貴方、大陸の人間じゃないのね」

 そう言う少女――曹操は、ゴンベエに向けていた鎌を下ろす。

「見慣れない鎧に、知らない名前。そして私の絶を躱す力……ふむ」
「何を納得しとるんじゃ? わしは皆目見当がつかんのじゃが」
「……ふん。ただし、頭はあんまり良くなさそうね。まあいいわ」

 曹操は、鎌――絶を肩に担いで、ニヤリと笑った。

「貴方、面白いわね。話を聞いてあげるわ。私の屋敷にいらっしゃい」
「は……?」

 突然、態度が変わった曹操に、ゴンベエが訝しむ。

「いつまでもここにいてもしょうがないでしょ? それとも当てがあるのかしら?」
「いや……まあ、ここがどこかもわからんしのう。孫もソバカスもおらんし……というか、本当にここはどこじゃい」
「それが知りたければついてくることね」

 そう言って、曹操は森の中へと歩き出す。
 しばらく逡巡したゴンベエだったが……

(……とりあえず行ってみるしかないわい)

 覚悟を決め、歩き出した。




  * * * * *




 森を抜け、禿げた大地をしばし歩くと、目の前に大きな壁に覆われた城が見えてくる。
 ゴンベエは、その城壁を見てたまらず声を上げた。

「なんじゃ、この城は……えらくでかい石垣じゃのう」
「これは城牆(じょうしょう)……城郭の外壁よ。街はこの中にあるわ」
「街!? 城の中に街があるじゃと!?」
「そうよ……いいからいらっしゃい」

 曹操は、ゴンベエに先立ち、城門前に立つ歩哨に声をかける。

「これは孟徳様。おかえりなさいませ」
「ええ。変わりはない?」
「はっ。商人が数名参りましたが、いずれも許可証を持つものでした」
「そう。何かあればすぐに知らせるように」
「はっ!」

 歩哨は、姿勢を正して報告する。
 そして、曹操の後に続くゴンベエに気づき、槍を構えた。

「孟徳様、この者は……」
「ふふ……まあ、不審者ではあるわね」
「なっ!?」
 
 歩哨は、その言葉に、ぎらりと眼を光らせる。

「曲者!」

 その矛先をゴンベエに向けようとして――

「なっとらんの~……」

 その槍が、すでに歩哨の手の中から消えていた。

「なっ!?」

 自分の手から消えた槍は、すでにゴンベエの手の中にあった。
 歩哨は、自分の手と、ゴンベエを交互に見て呆然としている。

「うちのやつらでも、もうちょっとマシじゃぞ? 雇われたばかりの百姓でもなかろうに。もうちょっと気を入れることじゃな」

 そう言って、ひょいと槍を放るゴンベエ。
 歩哨は呆然として、その槍を受け取った。

「へえ……やるじゃない」
「これでも湯山奉行じゃぞ? あんな隙だらけの相手ならば当然じゃ」
「……興味深いわね。早く話が聞きたいわ」

 そう言う曹操に、ゴンベエは肩を竦める。
 と――

「華琳さまぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 ドドドド……という、砂煙を上げつつ向かってくるものが一人。
 そして、曹操の目の前で急停止する。

「華琳様!」
「あら、春蘭。どうしたのかしら?」
「どうしたのか、じゃありません! どこに賊がいるかもわからないのに、お一人で外に出られるなど……」
「あら。私が賊ごときに遅れを取ると思って?」
「いいえ! そんなことはまったく思ってもおりませんが……」

 春蘭と呼ばれた女性が、必死で否定する。
 その姿に、ゴンベエは……

(また、けったいな”おなご”が現れたのお)

 ぽりぽりと頭を掻いた。

「まあ、黙って出たのは悪かったわね。ちょっとした気分転換のつもりだったのだけど」
「ご無事でしたらよろしいのです! 私はいつでも、華琳様のことだけを考えていますので……」
「ありがとう。嬉しいわ」
「ああ、華琳さまぁ……」

 目の前にいる曹操を神のように慕う様子に、居心地の悪さを感じるゴンベエ。
 見れば、隣にいた歩哨も苦笑している。
 どうやら、これは日常のことらしい。
 勘の良いゴンベエは、そう察した。

「では、屋敷までお供します。華琳様!」
「ええ……ではいくわよ。ええと……」

 そう言ってゴンベエを見る、曹操。
 釣られて春蘭と呼ばれた女性もゴンベエを見る。

「名前、なんだったかしら?」
「ん? ああ、わしか。権兵衛じゃ、仙石権兵衛」
「ゴンベエ、ね。おかしな名前だから言い難いわね……まあいいわ、いくわよ、ゴンベエ」
「華琳様……誰ですか、こいつ」
「面白いから拾ってきたのよ……男にしてはなかなか使えそうよ」
「男が……ですか? とてもそうは見えませんが」

 そう言って上から見下ろすように見る女性に、むっとするゴンベエ。

「なんじゃい」
「…………」
「そう……といい、お主といい……けったいな格好したおなごは、無礼じゃのう。本来ならば斬られても文句言えんぞ?」
「なっ……なんだとぉ!?」

 ゴンベエの言葉にブチ切れる春蘭。

「誰の姿がけったいだと!? 私から見ればお前こそ見たこともない鎧で怪しい事この上ない! 貴様、何者だ!」
「……うっさいのう。声のでかい女じゃ。そう、よ。こやつ誰じゃ?」
「ふふ……春蘭のこと? 自分で聞いてみなさいな」

 この時、曹操はひとつの過ちをした。
 相手が自分の知らぬ土地から来たことを気づいているにも(かかわ)らず、ゴンベエを試すためにわざと、こう言ったのである。
 そのことで、後に頭を痛めることになるのだが……後の祭りだった。
 その理由(わけ)は……

「しゅんらん、というのか。こやつもおかしな名前じゃのう……」

 その言葉に、春蘭の眼が鋭利に光った。

 瞬時に抜き放たれた大刀が、ゴンベエの頭蓋を割るために叩きつけられる。
 だが、それを瞬時に避けたゴンベエ。
 その刀の先には、隣にいた歩哨がいた。

「へっ?」

 ゴシャッ!

 春蘭の大刀が、ゴンベエの代わりになんの罪もない歩哨を二つに両断する。
 その様子に、華琳の顔が青ざめた。

「ちょっと、春ら――」
「貴様……私の真名(まな)を呼んだな」

 鋭利に光る眼光が、大刀を避けたゴンベエを追尾する。
 その眼光は、すでに猛獣のそれだった。

 ――死ね。

 それは言葉だったのか、圧倒的な殺意が言語化したのか。
 曹操にはわからなかった。

 かき消えるような素早さで大刀を振るい、再度ゴンベエに襲いかかる。
 だが、ゴンベエはその大刀の鍔に自らの刀を合わせて、それを受けきった。

(あの春蘭の刃を受けきった!?)

 曹操は、驚愕する眼でそれを見る。
 春蘭の刀を受けきる豪傑など、この大陸に何人いるかどうか。
 そう常日頃思っていた曹操である。
 だが、それを受け止めた者がいた。
 しかも、男で。

(この男……思っている以上に拾いモノかもしれない)

 そう思った曹操は、まさに権力者の思考だった。

「……貴様っ!」

 だが、武人である春蘭には恥辱である。
 この女尊男卑の世で、自負する自分の武が受け止められたのだ。
 たかが、男に。
 春蘭――名にし負う夏侯惇の自分が、である。

 夏侯惇は、自分の剣を受け止めた男を睨む。
 その男、ゴンベエは――

「……な、なんつー馬鹿力じゃ」

 びびりまくっていた。

(や、やばかった……後一瞬遅れていたら、確実に死んどった。ほとんど無我夢中で刀を合わせたはいいが……力は堀才助以上じゃ。というか、なんでこのおなご、こんなに怒っとるんじゃ?)

 正直、偶然だった。
 いきなりの殺気に、体が無意識に動いた。
 気がついたら、見えもしない太刀から避けていた。
 そして、避けても殺気が追い付いてきた。
 無我夢中で刀を抜いて、勘を頼りに振りぬいた。

 そして今の状況である。

 全てはゴンベエ自身の、十数年間の間に培った生存本能の賜物だった。
 そして、その経験を持ったまま、十代の若々しい肉体の条件反射能力のおかげでもある。

 十代の頃の経験のなさでは死んでいただろう。
 三十代の肉体では、最初の一太刀を気づいても避けられなかっただろう。

 両方を持った今のゴンベエだからこその、奇跡だった。

(殺気は右府様以上……力は堀才助以上……速さは久太郎以上じゃ。こんなん勝てるかっ!)

 すでに腰が引けている。
 後一合、夏侯惇が打ち合おうとすれば、ゴンベエが受けきる事など、まず出来なかったであろう。
 だが、そこに救いの手が差し伸べられる。

 誰であろう、曹操の手によって。

「そこまでよ、春蘭!」

 主君である曹操の、激しい叱責の声がする。
 夏侯惇は、いざ、もう一太刀、と勢い込んだ矢先の制止の声に、ビクッと身体を竦めた。

「で、ですが、華琳様! こやつは私の真名を――」
「聞こえないのか、夏侯元譲!」
「……………………っ、はっ!」

 曹操の言葉に、夏侯惇が力を抜く。
 だが、その静止の言葉は片方にしか有効ではなかった。
 つまり――

(今じゃ!)

 目の前で隙だらけとなった相手に、一瞬の勝機を見出してゴンベエは、刀を押し込んだ。
 力を抜いていた夏侯惇。
 不意をつかれれば、大陸有数の豪傑とて脆いもの。

「なっ!?」

 たまらず仰向けに倒れる。
 そして、その上にまたがったゴンベエは、長い刀を捨て、脇差しを抜いた。

「やめ――」

 曹操の制止の言葉も、ゴンベエには効果が無い。
 すかさずその脇差しで、夏侯惇の首をかっきろうとする。

(やられる!)

 夏侯惇が、蒼白な顔で己の死を覚悟した瞬間だった。

 ストッ。

 静かな音。
 それは、その場にいた誰の耳にも届いた音。

 何かが刺さる音。

「……あ?」

 ゴンベエは、顔を上げる。
 その視線の先に、弓を放った怒りに燃える瞳の女性を見つけた後。

 急激に視界が暗転した。
 
 

 
後書き
今回はここまで。
またしばらく矛盾の方を書きます。

続きは少しずつ書き溜めておきますが……反響次第ってことで。 

 

第3幕 夏侯元譲

 
前書き
どうも締め切りを決めないと、いつまでも書けない体質のようです。
とはいえ、矛盾の方の文字数が増加しまくっているのも原因なのですが。
5000か7000程度に抑えれば、もうちょっと書けそうな気もしますが…… 

 

(何処じゃ、ここは)

 目の前には木格子。

(てゆーか、ワシ……なんで牢の中なんじゃ?)

 以前にも似たようなことがあった。
 あれは確か、野々村のとっつぁんと初めて会った頃だったような……

(あ~そうそう。確かあん時は、伊勢長島の篠橋に間者として潜入して……)

 呟きながら、昔を思い出すゴンベエ。

 以前より、ゴンベエは間者としての才がある。
 伊勢長島だけでなく、大国毛利の領内への潜入も行い、一年かけて詳細な地理を把握、その上鳥取城包囲網の本陣である、帝釈山近辺の詳細な情報を得るという功績を成している。

「あ、んなの思い出しとる場合じゃなかった! ここはどこじゃっ! って、いたぁっ!?」

 思わず叫んだ拍子に、胸の健が引っ張られるような痛みを覚える。
 その時になってようやく、ゴンベエは自身が上半身裸で白い布――包帯まみれであることに気づいた。
 袴は履いているが、上着は影も形もなかった。

「な、なんじゃこれは!? わしゃ、一体どうなったというんじゃ!?」

 痛みを押さえつつ、木格子越しに外を見る。
 見ればそこは、どこかの城の牢獄であることが見て取れた。

 薄暗く、湿気のこもったカビ臭い空気。
 蜘蛛の巣とネズミが徘徊する、不衛生な環境。

 そこに居たのは、ただ一人の見張りの姿であった。

「こらあ! ワシを出さんかい! というか、なんでワシは牢におるんじゃ! 答えんかい!」
「うるさい! 静かにしていろ!」

 見張りは苛立たしい声で、手に持つ槍で木格子を叩く。
 その衝撃で、思わず木格子から手を離したゴンベエは、一歩下がりながらもなお叫んだ。

「わしゃ、怪我人じゃぞ!? というか、どうしてここにいるのか説明せんかい!」
「やかましいといったぞ! ここに幽閉したのは陳留刺史、曹孟徳様の命令だ! 貴様は罪人なのだぞ!」
「はあ!?」

 曹孟徳……その名を聞いて思い出す。
 記憶にある、おそうという女童(めわら)

 彼女が名乗った名前が確か、曹操孟徳といった。

(曹孟徳……姓が曹、名が操、字が孟徳と言っとった。字? (いみな)でなく?)

 ゴンベエの時代、戦国期の日本の武士は、姓、通称、諱で構成されている。
 名とは、その3つが重なった総称であり、中国のそれとは違うのであった。

 多少、中国の知識があれば、それもわかったかもしれない。
 だが、ゴンベエはお世辞にも知識があるとはいえなかった。

(どういうこっちゃ……名乗りすら、常識が通じん。ワシは一体どこに来たんじゃ)

 見知らぬ土地、見知らぬ常識、そして見知らぬ状況。
 全てが不明の今の状態に、歴戦の武士といえども戸惑いを隠せない。

 ――否。
 元々、ゴンベエはこうしたアクシデントの状況には、とかく弱い。
 命がかかった緊急時ならばともかく、自分の知識が及ばない状況には二の足を踏む。

 馬鹿のセンゴクは、この世界でも健在であった。

(ワシ……どうなるんじゃろ? ほんまにここはどこなんですか、ハンベー様……)

 夢で見た半兵衛の言葉。
 信長様を助けてくれ、その言葉を思い出す。

 否。
 正確には、信長の『ような』人物である。
 すっかり脳内変換で、信長のことだと誤認識していた。

(起きたら信長様がおるんじゃなかったのですか? いや、目の前に居たのはあの女童……まさか、あれが信長様? ないない……まあ、凶暴さではどっこいかもしれんが)

 信長本人が聞いていても斬られそうな事を考え、その事に身震いする。

(あの気持ち悪い男がなんぞ言うとったような……しっかり守れ? やっぱあのおなごなのか? 本当にどうなっておるんじゃ……)

 一人悶々と悩むしかない牢の中。
 その状態に変化が訪れる。

 重い扉が開く音。
 その後に響く足音に、目の前にいた見張りが身を正した。

「ご苦労……あのバカは起きているか?」
「は! 先程目を覚ましました」

 その声と共に、ゴンベエの視界に入る人物。

「あ、おそう!」

 ゴンベエの言葉に、顔を顰める少女――曹孟徳だった。

「誰が『おそう』よ! もう……せめて曹操と呼びなさいな。まったく、蜚蠊(ゴキブリ)みたいな生命力ね。まさかあの傷で、そこまで元気だなんて」

 曹操が呆れる様に嘆息する。
 ゴンベエにしてみれば、こんな矢傷など日常茶飯事である。

 とはいえ、鎧のお陰で致命傷は避けられたといったほうが良い。
 戦国期の当世具足は、鉄砲に対する防御として胴丸に鉄板を仕込ませている。
 その防御力のお陰で生き残れたのだ。

 というよりも、その当世具足すら貫通する矢を放った人物の力を褒めるべきであろう。

「曹操、か……まあええわ。で、ワシはなんでこんな場所に閉じ込められとるんじゃ?」
「あなた……自分が何をしたか、覚えてないの?」
「? 確か……変なおなごの名を呼んだら、いきなり怒って殺されかけたのう」
「それよ、それ! まさか春蘭の真名を呼ぶなんて……」
「まな? なんじゃ、それは?」
「貴方っ…………あ」

 驚いた顔で曹操が叫ぶ。
 曹操にしてみれば、真名という存在を知らないとは思わなかったのである。
 だが、ゴンベエが大陸の者ではないと思っていたのも曹操である。

 であれば、真名と言うものの存在も知らない可能性も高い。
 それなのに、自分は夏侯惇の真名を口にして、あまつさえ名を聞いてみろと言ってしまった。

 明らかに自身の失態である。

「んっ……コホン。そ、そうね。私が気をつけるべきだったわ。貴方は何も知らなかったのよね……」
「……一人で何を納得してるんじゃ? で、その真名ってのはなんじゃい」
「真名はね……その人の全てと言ってもいい、真なる名前。その名前を預けるということは、自身の全てを預けるという意味なのよ。だから、本人の許可無く“真名”を口にすることは、問答無用で斬られても文句は言えないことなの」
「……まるで諱じゃな」
「いみ、な?」
「やはり知らんのか……ワシにもそういう名はある。本来なら口にも出さんが……まあしょうがない。ワシの諱は秀久。仙石権兵衛秀久というのがワシの本来の名じゃ」
「!? 貴方……真名を預けるというの?」
「は? じゃからワシには真名なんてない。諱とはの。本来は呼んではならんが、別に殺すほどのものでもないわい」

 諱は、本来呼ばれるべきではないが、他者が罵声で呼んだり、本人への呼びかけでないところで呼んだりすることもある。
 ゴンベエが信長を名で呼ぶのもこれで、本人に対しては上様や官名で呼ぶことが普通であった。
 だが、直接の上司であり、親しい秀吉に対しては、本人の呼びかけでなくとも『籐吉郎』と呼んでいる。
 これは、秀吉本人が諱がない、農民上がりであるが故だった。

「諱、ね……それでも貴方にとっては真名に等しいのでしょう。その名を私に言うということは、預けると受け取っていいのかしら?」
「別に構わん。じゃが、ワシを呼ぶときはゴンベエでいいわい。そういう意味じゃ、ゴンベエがその『真名』みたいなもんじゃ」
「……っ! そう……なら私も真名を預けるわ。華琳、これが私の名前よ。これからはそう呼びなさい。貴方の真名は秀久だけど、ゴンベエでいいのね?」
「うむ。まあ、そちらの方がワシとしても助かるわい。で、曹……じゃない、かりん、じゃったな。で、あのしゅ……と、居なくても呼んではならんのじゃな?」
「ええ。彼女は夏侯惇元譲。呼ぶなら夏侯惇にしておきなさい」
「はあ……めんどくさいのう。で、あのおでこの真名とやらを呼んだから怒ったというわけか?」
「プッ……」

 『おでこ』の渾名に、曹操が思わず噴出す。

「ん? なんじゃ?」
「い、いえ、コホン。そうよ。だから貴方に斬りかかった。本気で殺すつもりでね」
「……おっとろしいおなごじゃのう。もうやりおうたくわないわい」
「あら? その春蘭をあと一歩で殺すところだったのに?」

 曹操は試すように問いかける。
 だが、ゴンベエは間髪入れずに首を振った。

「無理じゃ。まともな立合いなら、百度やって百度殺されるわい。とても勝てる気がせん……が、戰場(いくさば)なら別じゃ。逃げて逃げて、いつかは勝つようにするがの」
「へえ……」

 曹操は素直に感心した。
 あの夏侯惇にまともでは勝てないと言いながらも、戦場では諦めずに勝つ方法を探るという。
 泥にまみれてでも、汚泥をすすってでも生き延び、最後には勝つ。
 目の前にいる若く粗野な男は、曹の大剣をそう語ったのである。

(自分の力量と、相手との力量差を正確に把握した上で勝てないと断じる。それだけならまだしも、戦場でならいつかは勝つとまで大言を吐く。なかなか度胸はあるようね)

 曹操にとって、好ましいのは生気溢れるものだった。
 足掻いてもがいて、それでも前進する者が好きだった。

 それこそが、『覇気』であるのだから。

「それで、ワシは確かあの『おでこ』を組み伏せてから記憶が無いんじゃが……この傷は何じゃ?」
「ああ、それね。秋蘭……夏侯淵の矢にやられたのよ」
「かこう、えん……?」
「春蘭の妹よ。姉が殺されかけて、とっさに矢を射ったわけ。胸に突き刺さったのに生きているから、びっくりしたわよ」
「胸…………てか、ワシの胴丸を矢で貫いたじゃと!? 鉄砲でも至近距離でなければ致命傷にならんというのに……」
「てっぽう?」

 曹操が首を傾げる。
 当然だ、この時代に鉄砲などは存在しない。

「……ふむ、やはり面白いわね。貴方は私の知らない様々なことを知っているわ。どう? その知識、その能力、この曹孟徳の下で生かしてみない?」
「む? どういう意味じゃ? ワシはすでにかみさんおるから、婚姻はできんぞ?」
「こ、こんいん!? な、何言ってるのよ! ばかじゃないの!? だれがあんたみたいなデコっ鼻を娶りたいというのよ!?」
「……? 違うのか? ワシはてっきり婿になって家を継げとでも言っておるのかと」
「貴方ね………………はあ。もういいわ。まずはお互いの状況を整理してからにしましょう」

 曹操は溜息を吐きつつ、見張りに合図する。
 見張りは、ゴンベエの牢の鍵を解き、木格子の扉を開けた。

「ともかく、こんなところでは落ち着いて話せないわ。城に来なさい。二人にも説明しなきゃならないしね……」




  *****




「春蘭! お座り!」
「わん!」
「…………姉者」

 曹操が城に戻ると、謁見室兼会議室でもある王座の間では、二人の部下が控えていた。
 曹の大剣、夏侯惇元譲。
 曹の名弓、夏侯淵妙才。

 二人共、曹操の一族であり、曹操を主と慕う忠臣であった。

「で、華琳様……いきなり姉者を犬のように座らせた理由(わけ)は?」
「その前に……秋蘭、春蘭を縛りなさい」
「え!?」
「な!?」
「いいから縛りなさい! 聞こえないの!?」
「か、華琳様……わ、私、なにかやらかしましたか!?」
「……華琳様、一体どういう……」

 二人は、突然のことにわけがわからないと泣きそうな目で曹操を見る。
 だが、曹操は笑顔で言った。

「そうね。まあ、折檻も確かにあるんだけど……理由があるのよ。いいから縛りなさい、秋蘭。しっかり、堅くね」
「…………わかりました」
「秋蘭!?」

 意を決した夏侯淵に対し、縛られようとする夏侯惇は、もはやガチ泣きである。
 自分はなにかとんでもないことをしたのだ、という疑心暗鬼で顔面も蒼白である。

「姉者……華琳様の言いつけだ。許せよ……」
「ぐすん……優しくしてね、しゅうらん」
「うっ………………」

 ヨヨヨと崩れ落ちる姉の姿に、シスコンの夏侯淵は思わず抱きしめたくなる衝動に駆られる。
 しかし――

「ダメよ、秋蘭。絶対に解けないぐらいに縛りなさい。理由は後で教えてあげるから」
「…………姉者。諦めろ」
「うぅ…………」

 固い荒縄をこれでもか、と体に巻き付けていく。
 何重にも巻きつけ、夏侯惇をほとんどミノムシ状態にした夏侯淵が、やり遂げた表情で汗を拭いた。

「ふう。何故でしょう、すごくやりがいがありました」
「しくしくしく…………」
「……まあ、いいでしょう。春蘭はともかく、秋蘭なら落ち着いて話が聞けるでしょうしね。誰かある!」
「はっ! なにかごよ……………………」

 外で警備をしていた兵が王座の間に入ると、そこに寝転ばされた芋虫状態の夏侯惇を見て、絶句する。

「外で待っている彼の者を連れて来なさい…………あんまり見ていると、あとでどうなっても知らないわよ?」
「は、はっ! す、すぐに!」

 慌てて飛び出していく警備兵。
 それから程なくして、一人の男が王座の間に入ってくる。

「!?」
「なぁ!? き、きさまぁ!」

 その男――ゴンベエの姿に、夏侯淵は身構え、夏侯惇はミノムシの状態で跳ねまわった。

「…………どうなっとるんじゃ、これは?」

 ゴンベエは呆れたように頭を掻く。
 牢から出されたゴンベエは、自身の羽織を受け取り、着込んでいた。

「ふふ……まあ、こうでもしないと春蘭は、また貴方を殺そうとするでしょ? 貴方も変な気は起こさないことね」
「……まあ、ワシは別に恨みもないしの。あの時は殺気がすごかった故、殺らなければ殺られると思ったのでな。すまんの、おでこ」
「お、おでこぉ!? 貴様! 真名を呼ぶだけでなく、おでこ呼ばわりだと!? 殺す! やっぱり殺す!」
「むう……華琳よ、やっぱこのおでこは物騒すぎんか?」
「「 !? 」」

 ゴンベエの発言に、二人が急激に殺気立つ。
 ゴンベエも、その殺気に身構え――

「3人共、やめなさい! 王座の間であるぞ!」
「「 !? し、しかし! 」」

 曹操の一喝。
 だが、二人の忠臣はその主に抗議する。
 特に夏侯惇は、今にも縄を食い千切ろうとしていた。

 自身の真名だけでなく、敬愛する主の真名すら呼び捨てた男。
 百度殺しても殺し足りない程の怒り。

 だが、それも曹操の一言で霧散する。

「真名なら私が許したわ。ゴンベエが私の真名を呼ぶのは当然よ」
「「 なっ!? 」」

 二人は我が目を疑うように驚愕する。
 だが、それも当然だった。

 曹操が真名を許すということは、この男を認めたということに等しいのだから。

「それとね、春蘭。この男は大陸の外から来たの。真名というモノを知らなかったのよ」
「知らなかった…………ですが!」
「ええ、そうね。知らなかったでは済まされないわね。でも、この男――ゴンベエに貴方の名を尋ねろといったのは私。ゴンベエが真名を知らないであろうこともわかっていたはずなのに、ね。だから……」

 そう言って、曹操はミノムシ状態の夏侯惇に跪き、頭を下げる。
 その姿に、夏侯惇は目を見開き、夏侯淵は絶句した。

「ごめんなさい、春蘭……私が貴方の尊厳を傷つけたも同じよ。本当に……ごめんなさい」
「か、かり、かりん、さ……」

 夏侯惇は上擦り、夏侯淵は声も出ない。
 それもそのはずだろう。

 中国において、『謝る』ということは殆ど無い。
 謝罪をすることは、自らの否定を意味する。
 日本では謝ることが美徳という文化であるが、大陸は違う。
 謝る、という行為は、自らのみでなく、家族や社会的立場、コミュニティ全てに影響するとんでもない行為なのだ。
 だからめったに謝ることはない。

 ましてや、曹操が謝る相手は自身の部下なのである。
 自ら部下に対して膝を折るということは、自らの首を差し出す行為と同義である。
 つまり、ここで夏侯惇に殺されても文句は言わない。
 そう、曹操は夏侯惇に示しているのである。

 二人が絶句し、曹操が頭を下げて100は数えた頃。
 ようやく口を開く者が居た。

 だれであろう……騒動の張本人だった。

「華琳、よ。上に立つ者がそんなに気安く頭を下げるもんでもなかろう。ワシが悪いのじゃから、ワシが謝るわい」

 そう言ってミノムシ状態の夏侯淵の傍まで進み、その場で土下座するゴンベエ。
 その姿には、曹操も含めて三人共が驚いた。

 この土下座、これも中国では【稽首】と言い、皇帝や神仏にのみ使われる最高級の敬礼であり、尊敬や絶対服従を示すためのものであって、基本的に謝罪を意味するものではないのである。
 だが、別の意味ではそれを示した相手に絶対服従するという意味ともいえる。

「すまんかった。真名っちゅうんが、それほど大切なもんとは知らんかった。ワシには謝ることしか出来んが、華琳には非はない。許してやってくれんか」
「……貴様」
「……ふう。春蘭、私とゴンベエの謝罪、受けてくれるのかしら?」

 曹操の言葉に、はっとする夏侯惇。
 曹操とゴンベエを交互に見て――

「も、もちろんです! 華琳様に謝罪いただくなど恐れ多い………………え、ええい! 貴様! 名前は何だ!」
「む? ワシか? ワシは仙石権兵衛じゃ…………華琳よ、この場合は諱も言うべきかの?」
「…………ふむ、そうね。どうせなら預けちゃいなさい。春蘭、ゴンベエは貴方に自分の真名にも当たる名前を預けるそうよ?」
「な、なんですと!?」
「……まあ、真名ほどの意味は無いんじゃがの。ワシは、仙石権兵衛秀久じゃ。華琳にも言ったが、諱は本来、友人や家族でも呼ばん名じゃ。じゃから諱を知ってもゴンベエで頼む」
「………………」

 ゴンベエが正座をしつつ顔を上げる。
 その真摯な目に、夏侯惇は思わず顔を赤くして目を逸らせた。

「……どうしたの、春蘭。受け取らないの?」
「か、華琳さまぁ……」

 困って泣きそうな顔。
 正直、どう受けるべきか迷っているようだった。

「ふむ……まあ、そういうことであれば姉者も強くはいえんな。ゴンベエと言ったな。その諱とやら、真名ということで預けるということだな?」
「うむ。ここに来るまでにヌシの事も聞いた。自分の姉の危機であれば、矢を受けるのもやむなしじゃろう。逆に、ヌシの姉を手に掛けようとしていたことを詫びる、この通りじゃ」

 そう言って、今度は夏侯淵に土下座するゴンベエ。
 これにはさすがに夏侯淵も真っ赤になる。

「よ、よしてくれ! どうやらそれがお前の謝罪のようだが、大陸ではそれは神仏や皇帝に対してのみ行う絶対服従の仕草なのだ。私はそんな立場にいるものではない」
「む、そうなのか……? どうやら本当にここは日ノ本ではないんじゃのう。謝る仕方も違うとは」
「そもそも謝罪というものがな…………なるほど。ここまで常識が違えば、真名を知らずに呼んでしまうことも頷けるな」

 夏侯淵は苦笑して何かをしまう。
 それは隙あらば、ゴンベエを殺そうとしていた暗器だった。

「仕方あるまい、私は許そう。その上で……その諱とやら、私も預かって良いのかな?」
「む? ああ、普段呼ぶのでなければ別に構わん。ワシのことはゴンベエと呼んでくれ。えっと……?」
「ああ、すまない。自己紹介もまだだったな。私は、姓は夏侯、名は淵、字は妙才…………真名は秋蘭だ」
「しゅ、しゅうらん!?」

 妹が自ら真名を口にしたことに驚く夏侯惇。
 実はその横で曹操も驚いていた。

「姉者よ。この男は本気で詫びている。大陸の常識すら知らないのに、真名というものが大切なモノだと理解して、だ。ならば、相手の真名を受ける以上は、真名を預けるのが礼儀であろうよ」
「む、むぅ…………」
「……えっと、華琳よ。これはどうすればいいのじゃ?」
「ふふ……真名を預けられた者は、受け取って自身の真名も預けるのが礼儀よ。これからは秋蘭と呼んであげることが、貴方の礼儀よ」
「ふむ……では秋蘭よ。ワシの秀久も受け取ってくれい。ただし、普段はゴンベエで頼む。ワシにとっては、そちらが真名というようなもんじゃ」
「わかった、ゴンベエ。さて…………華琳様も私も彼の真名を受けた。姉者はどうするのだ?」
「うううううううううううううううううっ………………」

 頭を抱えたいが、ミノムシ状態では手も出せない。
 夏侯惇が、くねくねと動く様は、まさしく茶色い芋虫と呼ぶべきものだった。

「ええい! わかった! 貴様の謝罪は受け取ってやる! だが、真名は預けんぞ! 貴様の真名は預かっても、だ!」
「ふむ。まあ、別に構わん。許してもらえるのであればの」

 そう言って破顔するゴンベエ。
 その笑顔に、真っ赤になって顔を背けた夏侯惇。

 二人の様子に、曹操と夏侯淵は互いに顔を見合わせて笑うのだった。
 
 

 
後書き
次の更新は、年末休みがあれば多少書けるかも……
 

 

第4幕 権兵衛隊長始末記

 
前書き
気がついたら1年近く間を空けてしまいました。 

 
「……つまり、貴方の国は大陸の統一を目指していた、ということかしら?」
「うむ。日ノ本は、百年以上乱世が続いておる。各国の戦国大名が互いに争い合っての。その日ノ本六十余州を一代で纏めようとしておるのが、織田上総介信長様じゃ」

 ゴンベエが曹操の元にきて、すでに十日が経とうとしていた。
 身の回りのことや、この世界の常識を教えること数日。
 ようやくゴンベエは、この世界が自分のいた世界よりはるかに昔であることを理解していた。

 もっともそれは、厠や生活習慣、そして文明がゴンベエのいた戦国時代よりはるかに劣っていたからである。
 曲がりなりにも近江の国友衆や、雑賀の根来衆の製作現場を視察したゴンベエである。
 それに比べて、この時代の鍛冶の拙さに思わず目を覆いたくなったのであった。

 それをつい、曹操に愚痴ってしまったのがそもそもの発端である。

『なら、貴方の国のことを全て教えなさい。どうすればいいのか、貴方ならば知っているのでしょう?』

 その御蔭で連日、こうして曹操による質問攻めにあっているのであった。

「おだかずさ……長いわね」
「前も言った通りじゃが、基本は姓と通称で呼ぶのじゃ。この場合は織田上総介様という。もっとも、通称は官名などで変わるからの。今の信長様は織田弾正忠様じゃな」
「……ややこしいわね。それで諱で呼ぶことが多いのかしら?」
「信長様に至ってはそうじゃのう。じゃが、親しい間では元の通称を呼ぶことが普通じゃ。わし等ではそうもいかんがの」
「ふむ……まあいいわ。それで、その織田……信長という人物は、元は一国の領主だったのね?」
「うむ。最初は、尾張の守護代の分家でしかなかったそうじゃぞ? その親戚筋をまとめて尾張一国を統一なされたのじゃ」

 ゴンベエが語る事実に間違いはない。
 しかし、大幅に端折っていることは否めないであろう。
 尾張を統一するまでの信長は、一纏めにできないほどの苦労をしているのである。

「尾張一国……その尾張って国は、どのくらいの広さなの?」
「うーむ……尾張は五十万石以上と言われておるがの。広さは国としては普通かの」
「普通じゃわからないわよ……その、五十万石ってなによ」
「む? 米の石高じゃよ。尾張は米蔵とも呼ぶべき豊かな地じゃからの。津島や熱田といった商業の盛んな町もある」
「……米の取れ高? そんなもので国の力がわかるの?」
「当然じゃ。米の量は、すなわちどれだけ兵を養えるかでもあるからのう」

 ちなみに、この時代の中国の一石とは三十一キロである。
 ゴンベエの時代では、百五十キロが一石であった。
 この時点でかなりの相違が生まれている。

「一石は、大人が一年食べる米の量のことじゃ。米俵で言えば二俵か三俵かのう」
「一年……ちょっと待ちなさい。それじゃあ、貴方の言う一石って、こちらの五石分ってこと!? それが二、三俵ですって……いえ、やはり分量も多分違うのでしょうね」

 ゴンベエはそこまで考えが及ばずとも、曹操はすぐに理解する。
 ゴンベエの価値基準や分量の知識においても、自分たちの知る知識とはかけ離れているのだと。

 そういう意味では、この作業は翻訳に近いすり合わせ作業でもあった。

「それは後で詳しく検証するとしましょう……その国の広さはわからないわね。じゃあ、その国では何人の兵が揃えられるのかしら?」
「尾張の兵力? そうじゃのう……通例で言うなら一万石で四、五百人として。えーと……五十じゃから……」
「……最大で二万五千ぐらいかしら?」
「そ、そうかのう……ハッハッハ」

 全く算用に明るくないゴンベエである。
 寝る間も惜しんで頑張ったからこそだが、検地帳が読めるのが奇跡に近い。

「一国で二万五千を養える……相当広いのかしら? いえ、それよりも収穫高がこちらと比べ物にならないほど多いのかしら? なんにせよ、興味深いわね」

 さすがは曹孟徳である。
 瞬時に問題の本質を見抜く所は、性別が変わろうとも劣ることはない。

 ちなみに一万石で四、五百人というは、織田の軍役規定である。
 ただ、織田の場合、正確には軍役の規模自体は自由酌量の面が強い。
 通例で言えば、領地五石に対し一人の軍役が通常であり、ゴンベエが千石取りだった頃の軍勢は、侍四人に雑兵十六人だった。
 五千石の大身になった時に二百人にまで増員、その後上津城周辺を任され、その家臣を傘下に四百五十以上の兵を率いている。

 戦国時代、ほぼ五公五民であったことから、一万石の収益は五千石。
 五百人近い軍勢を率いたゴンベエは、織田軍役規定の中でも兵役に重きを置いていたことになる。
 軍役が自由裁量の織田家であるがゆえ、その規模で忠誠をはかっていた面が強い。
 つまりゴンベエは、信長に対する忠誠心が高いと判断される一因がここにある。

「それで? 確か貴方も興味深いことを言っていたわね。槍一本で一万石とかなんとか。つまり、貴方は一万石ほどの領地を治めていたってこと?」
「そうじゃ。野洲五千石に上津領五千石、合わせて一万石じゃの」
「……つまり、貴方は太守どころか下手をすれば私と同じ刺史だってことかしら?」
「刺史?」

 刺史とは簡潔に言えば、その州の行政権を握る者である。
 戦国時代に照らせば大名ともいえ、そういう意味では曹操の指摘は誤りともいえよう。
 だが、太守が城代や城主とほぼ同義である以上、刺史を国主のそれと広義の意味で照らしあわせて見れば、当たらずとも遠からずになるやもしれない。

「よくわからんが……わしは確かに一万石の領主じゃが、さほど偉くないぞ? 五千石なら神子田や尾藤もそうじゃし、羽柴様の寄騎としては確かに一番ではあったがのう……」
「羽柴……それって、貴方の上司?」
「うむ。羽柴筑前守秀吉様……わしは昔から籘吉郎様の寄騎として付けられての。子飼いではないが、寄騎としては一番の古株じゃ」
「羽柴筑前守……その筑前守が官名かしら?」
「うむ。元は農民であったからの。旧名は木下籘吉郎様じゃった。改名して羽柴籘吉郎秀吉様になり、今は筑前守を名乗っておる」
「ふむ……官名を名にするからコロコロ変わるのね。そうなると他者は、姓と諱で呼ぶのも仕方がないと……そうね、確かに風習ってものは処変わればってことかしら」

 ゴンベエはイマイチ理解できていないが、これは曹操の知能指数が高いことを意味する。
 曹操ほどの聡明さでなければ、これほど難解な風習の違いをすぐに理解できるわけもない。
 元々の予備知識もなく、これだけの差異を理解する事こそ、曹操の英傑たる所以でもあった。

「わかったわ。その羽柴って人についても後で――」

 このような感じで曹操は、ゴンベエの話から情報を引き出してゆく。
 こうしたやりとりは、この後数日間にも及んでゆくのであった。




  *****




「せええい!」
「どわっ!?」
「ふんっ!」
「だああああっ!?」
「~~~~~~~~っ! 貴様! やる気が無いのか!?」

 思わず叫ぶ夏侯惇。
 手に持つ大剣をぶん、と振り回しながら叫ぶ姿は、まさしく鬼女である。

「無理言うなっ! お前さんの太刀筋は殺気がありすぎじゃ! わしを殺す気かいっ!」
「当然だ! 殺すつもりでなければ訓練にならん!」
「訓練で死んだら元も子もないじゃろが!」
「ごちゃごちゃと言い訳がましいぞ、貴様! いいから我が大剣の錆になれ!」
「なってたまるかっ!」

 叫びながらも剣を止めない夏侯惇。
 その大剣の風圧に肝を冷やしながらも、何とか避けるゴンベエ。
 はたから見れば実力伯仲に見えなくもない。

 しかし、実際はこれでも手加減している夏侯惇に対し、内心本気で逃げているゴンベエであった。

「ええい! これでは訓練にならんではないか! 貴様も私を殺す一歩手前まで追い込んだのなら、正々堂々戦ってみろ!」
「冗談じゃないわい! お(とん)とまともにやったら、刀が折れるわ!」

 ゴンベエの言葉に、ピタッと動きを止める夏侯惇。

「……ちょっとまて。お惇とは、私のことか?」
「そうじゃ。夏侯惇なんて呼びづらいじゃろうが。惇が名ならお惇でよかろう?」
「誰がおとんだ! 私は父親ではないぞ!?」
「男みたいな名前のくせに何怒っとんじゃ!?」

 更に顔を赤くして大剣を振るう夏侯惇。
 その太刀筋が若干早くなり、本気で焦るゴンベエだった。

「お惇……か。では私はお(えん)か? ふふっ……おとん、おえん……ふふふ……」
「「 ……………… 」」

 と、傍でそれを見ていた夏侯淵である。
 なにかツボにはまったらしい。

 思わずそれを見て顔を見合わせる夏侯惇とゴンベエであった。




  *****




「ということで、貴方の仕事が決まったわよ」
「……仕事?」

 質問攻めから開放された翌日、ゴンベエは曹操に呼び出されていた。

「当然でしょ? 働かざるもの、喰うべからずよ。今までは貴方の情報分として衣食住をまかなっていたけど、まさかなにもしないで今後もご飯が食べられるとでも?」
「いや……まあ、当然じゃの。本来なら路銀はあったんじゃが……こっちでは使えんのじゃし」

 ゴンベエの持つ路銀は永楽銭である。
 だが、貨幣価値が違うこの世界では、単純な銅としての価値しか持たない。
 簡潔に言えば、ゴンベエは無一文に近い状態だった。

「で、なにをすればええんじゃ? 自慢ではないが、わしは馬鹿じゃから事務方は得意ではないぞ?」
「本当に自慢にもならないわね……これで領主だったっていうのが信じられないわ」
「細々としたことは、全部川坊にまかせていたからのう」

 所務においては、守役だった川爺の孫である川坊が一切を取り仕切っていた仙石家である。
 仙石家は当主であるゴンベエを戦働きに特化させ、領地の政務は親戚一同で行うという武力でのし上がった武将によくある体制をとっていたのである。

「そうねぇ……貴方個人の武力は見せてもらったけど、統率力が見たいわ。とりあえず警備兵の隊長にしておいたから、しばらくそちらで働きなさい」
「警備兵……この街のか? 足軽頭みたいなもんかのう……」
「足軽……兵をまとめるという意味ではそうかもね。ご不満?」
「いんや。こっちのこともまだよくわかっておらんし、ちょうどええかもしれんの。この歳で一兵卒というのもなんじゃが」
「……その姿で勘違いしそうだけど、本当に貴方三十路なの?」

 今のゴンベエは、十五、六の若武者の姿である。

「……なんか自分でもわからなくなるときがあるがの。わしは齢三十一じゃ」
「……まあ、いろいろ話を聞いたから一応は信じてみるけどね。けど、あんまり他人に本当の歳を言わないほうがいいわよ。気狂いと思われるでしょうから」
「そうじゃのう……ま、しゃああんめえ」

 ポリポリと頭を掻きつつ、嘆息するゴンベエ。

「とりあえず、歳は十八ぐらいとしておきなさい。警備兵の詰所については春蘭に案内させるわ。詳しくは彼女に聞きなさい」
「お惇か……ま、よかろ」
「……ブッ!」

 ゴンベエの夏侯惇のアダ名に、きょとんとしてすぐに吹き出す曹操。

「あ、貴方……今度は春蘭にそんなアダ名をつけたの?」
「うむ。オデコよりはよかろうが」
「プッ……ククク……」

 どうやら曹操のツボにもハマったようである。

「……っ、あー、うん。まあ、殺されない程度に仲良くなりなさい。今春蘭を呼ぶから……ぷっ」
「……そんなに面白いかのう?」

 こらえきれない笑いでむせながら、女官を呼ぶ曹操。
 ゴンベエは、どこが面白いのかとしきりに首をひねるのだった。 




  *****




「ちゅうわけで、わしが皆をまとめる事になった仙石ゴンベエじゃ。慣れんうちはいろいろ厄介をかけると思うが、よろしく頼む」
「「「 ハッ! 」」」

 ゴンベエは陳留の警備兵を見渡す。
 数にしても百名もいない。

(しっかし……どいつもこいつも野盗に毛が生えた程度の雑兵じゃのう。まるで初陣前の農民と変わらん)

 ゴンベエの目から見ても、任された警備兵の質は最低に見えた。
 そのことでゴンベエは、初めて兵の指揮を取ることになった徳川軍後詰での仙石隊初陣を思い出す。

(あん時の雑兵達や孫達を思い出すのう……足引っ張られるのは目に見えとる)

 兵の質については、ゴンベエの指揮能力を見るためにわざと新人ばかりを組織した曹操の思惑がある。
 しかし、ゴンベエはそんなことは思いもせず、これがこの時代の警備兵の実力だと思っていた。

「ともかくじゃ……まずは今までどうやっていたかをわしに教えてくれんか?」
「「「 ……………… 」」」

 ゴンベエの言葉に顔を見合わせる警備兵。

「ん? どうしたんじゃ?」
「いえ……正直申します。我々も警備隊として配属されましたのは、今回が初めてでして」
「なにをどうしていいのかは……正直わかりかねます」

 ゴンベエが訝しげな目で皆を見回しても、同様に頷く者や目をそらす者ばかり。
 ここに至ってようやく曹操の策略に気づくゴンベエであった。

 だが、そこはさすがに経験が豊富なゴンベエである。

(つまり――好きにやれっちゅうことか)

 自分の身一つで一万石になったのは伊達ではない。
 もし、この時点で曹操に問い詰めにでも行けば、曹操は大いに落胆しただろう。
 ここは、自分なりに動いてまとめる器量が問われている――
 誰かに聞くのではなく、本能でそれを悟ったゴンベエ。

 この場に孫やソバカスがいればこう思っただろう。

『上司に叱られ慣れているからこそ、本能でどうすればいいかわかるのだ』と。

「ほうかい……じゃあ、わしのやり方でやろうかの」

 そういったゴンベエは、ニヤリと笑っていた。




  *****




「秋蘭、あの男はどうしているかしら?」
「あの男……ゴンベエですか? ここしばらく、朝から晩まで街をうろついているようですが」
「へえ……」

 夏侯淵の言葉に、曹操が目を細める。
 曹操にしてみれば、仕事を割り振った当日に怒鳴りこんでくるのもあるかと思っていた。
 無論、それをすれば取るに足らない人材というレッテルを貼るつもりではあったが。

「新人ばかり宛てがったのに、何も言ってこなかったわね。どうやって警備をするつもりかしら」
「さて……今回の件に先立ち、ゴンベエの担当区域だったこれまでの警備兵には、調練を兼ねて山賊討伐に当てていますし……自力でどうにかするしかないでしょう」
「そうね。けど、最近治安が悪くなったという報告も聞かないわね。どうやって維持させているのか見ものだわ」
「ふふふ……華琳様もお人が悪い」

 夏侯淵の言葉に、くすっと笑う曹操。
 曹操は、人を試すのに試練を与えてそれを乗り越えたものを有用とさせる傾向がある。
 今でこそ曹操の両翼となる夏侯惇、夏侯淵ではあるが、その二人も同様だった。

「ふふ。でも、それぐらいやってもらわなければ、あの男にここで禄を食む価値はないわ。今後のことも考えて、ね」
「そうですね……やはり華琳様は、今後乱世が来るとお思いで?」
「当然よ。洛陽に腐った役人、宦官、そして皇帝に至るまで……この国はすでに末期に近いわ。必ず力で争う乱世が来る」
「……はい」

 漢の腐敗はもはや国として末期の状態である。
 誰の目にもわかるほど、不正の横行、役職が金で買える実情、能力に関わらず身分の差だけで貶められる風潮。
 すでに組織の自浄作用など失われているのだ。

「その乱世を前に、おそらくは未来の……それも百年以上続く乱世からきたというゴンベエよ。その能力、気になるでしょ?」
「確かに……あの男は愚かな部分はありますが、歴戦の強者の風貌も感じます。少なくとも何度も修羅場をくぐっているのは間違いないかと」
「そうね。だからこそ……その実力を計るのよ。使えればよし、使えなければ切って捨てればいいわ」

 そう言って目を細めて笑う曹操は、すでに人の上に立つ君主としての器量が垣間見える。
 そしてその薄く笑う表情には、すでにその心底で蠢く覇王の顔が見え隠れてしている。

 夏侯淵は、その身に言いようのない――寒気とも歓喜とも言える震えが身を疾走った。

「……御意。ただひとつ、気になることが」
「気になること?」
「はい。最近、城の備蓄庫から酒が大量に消費されているそうです。厨房から兵たちが持っていく量が増えたと報告がありました」
「……お酒が?」

 兵の士気高揚のため、酒に関してはどの街でも規律が緩い。
 それは曹操の治める陳留でも同様であった。

 だが、さすがに曹操が治める以上、酒に酔っての治安の悪化など許すはずもない。
 飲酒は認めても、酒に酔っての狼藉は固く戒めることを徹底させている。

「大酒飲みでもいるの?」
「いえ……それが、警備兵が毎日酒壺を持参してもらい来るそうです。それがゴンベエの隊のものらしく……」
「なっ――あの男、酒盛りさせているというの?」

 兵の士気をあげ、統率するのに酒を使うことは古来より常用されてきた手段である。
 しかし、代わりに酒乱による治安の悪化や暴力事件なども弊害としてよく起こるのである。

「ふん……まあ、その程度だったのかしらね」
「しかし、それならば酒乱による事件が起きていないことが疑問に残ります。あの男に宛てがったのは、経験不足の新兵ばかり。問題の一つも起こって当然と思うのですが」
「……そういえば、そうね」
「そしてここ最近の街の治安も、下がるどころか以前より少しよくなってきたとも思えるのですが……」
「……………………」

 酒乱による治安の乱れ、軍規の乱れは常にある。
 しかしそれがないどころか、治安が向上している事に違和感を覚える曹操。

「……ちょっと、街に出てみようかしら」

 そう呟き、自らの目で街の様子を視察することにした曹操。
 当然ながら、供に夏侯淵を連れて自身の治める街、陳留へと歩を進めた。

 すでに外は夕暮れ。

 各々の仕事を片付け、夕餉の支度に忙しい時間である。
 この時間は日本でも逢魔が時と言われ、日が落ち闇夜が覆い始める時間。
 現代と違い、街灯などないに等しいため、夜の明かりは星明かりに頼るしかない。
 それ故に犯罪が起こりうる頻度も高く、酒乱による治安の悪化も懸念される時刻でもあった。

 そんな中――

「てめえ! 表に出やがれ!」
「なんだとう!?」

 近くの酒家(居酒屋のようなもの)で乱闘騒ぎが起こる。
 酒が入ったことによる揉め事に、古今の差はない。
 あっという間に殴り合いの喧嘩に発展し、それが治安の悪い地域ならば刃傷沙汰になる。

 今回の騒動の張本人たちは、互いに一般人ではあったが……片方が包丁を持った酒家の主人であったことに、問題があった。
 すでに騒ぎを聞きつけた周囲の家人、酒家にいた客、通りすがりの者などの野次馬であふれている。
 その様子を見ていた曹操が眉を寄せ、夏侯淵が包丁を持つ主人を取り押さえようと動き出したその時――

「暫く! しばらくしばらくしばらく! しばらぁ~くっ!」

 突如、大声にて間に入った者がいた。
 誰であろう、ゴンベエである。

「「 あっ……ご、ゴンベエの旦那! 」」

 それに対して声を上げたのが、騒動の当事者二人だったことに、思わず目を剥く曹操。

(あの男……この街にきてまだ一月も経たないのに、すでに名前が知られているですって?)

 警備隊の隊長にしてからでも半月経つかどうかである。
 それがこんな場末の酒家の主人や客にまで、その名前が知られているとは…… 

「ちっ……旦那、止めないでくだせえ! ヤロウ、俺に飲ます酒なんかねぇってほざいたんですぜ!」
「ああん!? てめえがオレッちの出す酒がまずいと言ったんだろうが!」

 そうした曹操の内心をよそに、騒動は続いていた。
 酒場の主人とその客は、ゴンベエを間に挟んで互いに罵倒しだしたのである。
 だが――

「やめえやめえ! 酒の文句は酒に言え! 酒はお天道(てんと)さんが味を決めるんじゃ! その酒がまずいっちゅうことは、お天道さんがお主に文句があるんじゃろうて!」
「なっ……」
「主人! その酒に人の血を吸わせれば、それは天の神さんに生き血を飲ませる同じものぞ。そんなもんを飲まされた神さんは、当然激怒するじゃろう。お主は天の神さんの怒りを買いたいんか?」
「い、いや、そんなつもりは……」

 互いに逡巡する二人に、ゴンベエはその場にあぐらをかいて座りこむ。
 そして腰に下げていた酒壺をどんっ、と置いた。

「ならば酒の喧嘩は、酒でつけい! どちらが多く酒を飲めるかで決着つけい! 見届けはわしがする!」

 その宣言に、周囲の野次馬たちはオオッ、と歓声を上げた。 
 戸惑う二人をよそに、ゴンベエは酒家にいた客を巻き込んで、店の酒をどんどん道端に運ばせる。

「よっしゃ! 今日はワシが全部おごっちゃる! 皆もこやつらに負けぬ程飲めや!」

 そのゴンベエ言葉で、周囲にいた酒好きの野次馬が我も我もと酒をかっ食らう。

「「 ……………… 」」

 互いにバツの悪そうにしていた騒動の当事者たち。
 それを見てゴンベエは、ニヤッと笑った。

「どうした! お主等も早く飲まんと、そもそもの勝負にならんぞ? おおい、樽持ってきて、こやつらに飲ませてやれ!」
「「 ちょっ…… 」」

 ゴンベエの言葉に悪ノリした酒場の客が、奥から酒樽を転がしてくる。
 そして盃どころか、酒壺にその酒を入れて二人に渡した。

「よっしゃ! 死ぬ気で飲めっ! わし等も飲むぞぉ!」
「「「「 おおおおおおおおお! 」」」」

 すでに大混乱というより混沌とした酒宴の中、当事者たちは互いに意を決し、酒壺を抱えて飲みだす。
 いつしかそこは大宴会場のように、大騒ぎする場になっていた。

「なんて乱暴な……」

 それを唖然と見ていたのは曹操と夏侯淵だった。
 周囲の馬鹿騒ぎから少し離れたところで状況を見ていたのである。

「……しかし、刃傷沙汰は避けられましたな」
「……そうね。なしくずしに、だけど」

 夏侯淵の言葉に、嘆息しながら頷く曹操。
 少しも鮮やかな手並みではない。
 驚くほどの鎮圧能力でもない。

 しかし、事件は避けられ、互いが笑いあい、事件の当事者たちすら肩を並べ、互いに酒を飲みくらべている。
 その民の笑い合う中心にこそ、ゴンベエはいた。

「あっ、夏侯淵様に……曹操様!? お、お疲れ様です!」

 と、二人のいるすぐ傍の裏道から、一人の兵が声をかけてくる。

「むっ……? お主はゴンベエの隊の者か」
「あ、はい。ゴンベエ隊長の命で、周辺の家々に説明に回っていました」
「説明……?」

 夏侯淵の言葉に、その兵が説明する。
 曰く、喧嘩を治めるために宴会に持ち込む故、その騒ぎを大目に見るように近隣に頼み込みにまわっていたらしい。

「あの男……最初からこうするつもりだったと?」
「はい。隊長は酒の喧嘩は酒で決着を着けるのが一番だと。他にも酒家の周囲は一番治安の悪化が懸念される場所ですので、近隣の家屋には毎日顔を見せています。ここ以外の酒家や治安が悪い場所周辺には、私と同じように外の兵も回っています」
「そんなことをしていたのか……だから酒を毎日のように持って行っていたと?」
「あ、はい。隊長の指示で、人相が悪そうな連中とは酒を飲み交わしてつなぎをとっています。そういう連中は裏での顔も効きますから、飯をおごったり、酒を飲み交わしたりすることで、こちらに協力するように頼んでいます」
「………………」
「面倒事が起きた時には、まっさきに隊長が飛んでいって話をつけています。隊長はそういう連中と打ち解けるのがすごく上手いんですよ。気前もいいから、連中も結構協力的ですしね」

 もともと間者働きが得意なゴンベエである。
 疑われずに敵地に入り込むには、人当たりがよく気前がいいことが第一だった。

 その根底には、長年の上司である羽柴秀吉の『人たらし』を、最も間近で見てきた経験の裏打ちによるものでもある。

「……やるじゃない」

 思わず呟く曹操。
 それを聞きつけ、夏侯淵と兵が振り返った時、確かに曹操は微笑んでいた――






 のであるが。
 実は、これには後日談がある。

「………………………………で?」

 陳留、王座の間。
 そこにドデンとふんぞり返って溜息をつく人物。

 顔を歪め、冷めた目で見下ろすその姿は…………なんというか、ふてくされているようにも見えた。

 そして――

「……………………この通しっ!」

 その王座の前で、平身低頭に頭を下げて土下座する男が一人。

 誰が誰であることなどもはやお分かりだろう――曹操とゴンベエであった。

「もう一度、聞くわね? それで? 私に何を出せと?」
「……それが、え~……色々と前借りで酒やら飯やら振る舞っていた手前……」
「……その不足分を、わ・た・しに、負担しろというのかしら?」
「…………誠に申し訳ないのですが…………へい、その通しでして」

 頭を下げたまま、そう答えるゴンベエ。
 それを冷たく見ていた曹操は、盛大に溜息をついた。

「あなたねぇ……新規の隊を任せるにあたって、軍資金を渡していたでしょうが。あれはどうしたっていうのよ」
「あれは……その、部下たちが街のゴロツキを取り込むための軍資金に渡しまして……わしの手元には、一銭も残っておらず……」
「……そりゃ、あれだけの金をばらまけば、街の不穏分子も収まるでしょうね」

 曹操がゴンベエに渡した軍資金は、今期分の治安を預かる警備隊の活動費として用意したものだ。
 仮にも街一つの警備の活動費である。通常、毎日宴会を開いたとて使いきれる額ではない。
 しかし、その効果が認められなければ即座に解散するつもりだったため、通常の活動費より大幅に減じてある。
 もちろん、効果が認められれば追加で渡すつもりだった為、問題はないのだが――

「(ぼそ)……これじゃあ、私が感心したのがバカみたいじゃない」
「……は?」
「なんでもないわよっ!」

 その手腕に期待し、それを果たしたことを内心喜んでいた曹操。
 しかし、実際にはバラマキ効果による一時的な治安回復と変わらない事に気づいた曹操は、喜んでいた自分が恥ずかしかった。
 もちろん、ただのバラマキ効果より大幅に効果を挙げているのはまさしくゴンベエの手腕ではあるのだが――

「……わかったわよ。追加の活動費は出してあげる」
「あ、ありがたし!」

 だからこそ予定通り、本来の活動費の不足分を出すのだが……なんとなく癪に障る。

「その代わり! 来月、貴方は減俸よ! いいわね!」
「ぐっ………………は、ははーっ!」

 致し方なし、と頭を下げるゴンベエ。
 実際、自分の懐は本当に一銭もない為、どうにもならない。

(とほほ……しばらくは飯をツケてもらうしかないわい)

 とぼとぼと王座の間を後にするゴンベエ。
 その背中は哀愁が漂っていた。

「……華琳様。さすがに減俸はかわいそうなのでは?」

 事情を察した夏侯淵が、おずおずと問いかける。
 それをフン、と鼻息で一蹴する曹操。

「減俸した分は、活動費に含めてやりなさい。あと、今月末に警備隊全員に治安向上の臨時褒賞を出してやりなさい。あのバカは、きっと泣いて喜ぶんじゃないかしらね」

 そう言った曹操の顔は、小悪魔のような笑みを浮かべていたという――


 
 

 
後書き
構想では新キャラの名前で全部のタイトルつけようかと思っていたのですが、まあそれは無理だと断念。
本来ならあの人を出すつもりが、まずはゴンベエの話だけになりました。
実際、あの人出る前に拠点フェイズがあったので、これでよかったかもしれません。

ですので、次回はあの人が出ます。