銀河英雄伝説~生まれ変わりのアレス~


 

プロローグ

「……であり。ここに自由惑星同盟の未来を背負う若き英雄達を迎えられたことは、誠に喜ばしい限りである。自由惑星同盟軍は、諸君らを歓迎する。だが、一つだけはっきりと言わせていただくならば、諸君らが今後英雄と呼ばれるかどうか。それを決めるのは諸君ら自身であるということだ。願わくは、諸君らに明るき未来が待っているよう祈願し、訓辞とさせていただく」

 シドニー・シトレ学校長の長い訓辞が終わり、緊張に体を強張らせていた生徒達は止めていた息を吐き出した。第一戦級の指揮官の感情こもった言葉は、これからの未来に期待を寄せる生徒たちの心を打ったのだろう。壇上から彼の姿が消えてもなお、生徒たちは頬を紅潮させながら壇上に視線を注いでいた。

 たった、一人を除いて。
 明るい未来か。
 表情に苦味を残して、アレス・マクワイルドは小さく俯いた。
 自由惑星同盟が今後どのような結末を迎えるのか。その全てを知っている彼からすれば、現在のシトレ学校長の訓辞は実に滑稽であり、どこか悲しさすら感じさせた。

 自らの栄達と勝利を信じる周囲の人間で、果たして二十年後にどれだけの人間が生きていられることか。
 宇宙暦786年、帝国暦486年、そしてアレス・マクワイルドが転生して十五年。
 アレスは伏せた視線の中で、ここに至るまでを振り返った。


 彼はこの世に生を受ける前の記憶がある。
 中村透――それは平凡かつ凡庸な名前だったが、呼ばれなくなれば寂しさを感じるのが人間というものだ。金髪に茶色がかった瞳には今の容姿には似合わない名前だろうが、いまだに忘れることはない。

 生まれ変わりというものを信じたこともなかったし、ましてや自らが体験する事になるとは思っていなかった。おまけに、それが有名な小説の世界ともなれば当然のことだ。
 そう。
 アレスは知っている。

 自由惑星同盟が十三年後には崩壊する事を。
 その渦中に自らの意思で飛び込もうと思ったのであるから、他人から見れば彼の行動は奇特であろう。

 自分でもなぜ進路に士官学校を選んだのか答えることができない。
 自らが世界を変えると言った強い意思があるわけでもないし、並び立つ英雄と会話を交わしたいというミーハーな思いがあるわけでもない。

 ならば、なぜ――。


「どうしたんだい。体調でも悪いのか?」
 考えに沈んでいた彼の背後から声がかかり、アレスは振り返った。
 珍しいと思う。昔から考え事が多かったためか、眉間についた皺は十五年の歳月を経て、彼の表情を険しいものへと変えていた。

 普通にしていても睨んでいると思われるのだ。
 そのため、学生時代も声をかけられる事のほうが少なかった。
 振り返った先には金髪の青年が立っていた。

 人のよさそうな顔立ちをした、若い青年だ。
「いや。これから先を考えると、ね」
「ああ。確かに、士官学校は厳しいと有名だからね。けれど、やりがいはある」

 そうではないと思ったが、希望あふれる青年の意思を壊す趣味はアレスにはなく、曖昧な笑みを浮かべて見せた。
「僕はスーン……スーン・スールズカリッター」

 驚きに目を開いたアレスに、スーンは照れたように頭をかいて見せた。
「ヘンな名前だろう」
「あ。いや、個性的だと思っただけだ。俺はアレス、アレス・マクワイルドだ」
「よろしく、アレス」

 期せずして原作の人物と初めて会う事になり、アレスはスーンの手を取った。

 

 

罰則

「馬鹿」
 その理由を聞かれて、口にした言葉に理解できないというように教室の呼吸が止まった。
 視線を一身に受けて、睨むような視線を教官に向けながら、対面する青年は断言した。

 そこでようやく頭が動き出したのだろう。あけていた口を開いたままに、じゃがいも仕官ことドーソン教官は顔を赤くして、こめかみに血管を浮かび立たせた。
「フェーガン候補生――貴様、誰に何を言ったかわかって」
「授業時間は80分。テストの返却だけならば、十分もかかりません。それがわざわざ低い点数を公表する意味がわからない。だから」

 流れるようにフェーガンは口にして、再びはっきりと口にした。
「馬鹿だと」
「ふざけるな! そんなだから、こんな点数を取るんだ」
「俺の点と、この無駄な時間は関係ないだろ?」
 もはや反論を聞かず、ドーソンは教壇に腕をたたきつけた。

 口角から泡を飛ばしながら、血走った瞳で睨みつける。
「今すぐ教官室にこい、いいな。フォーク――貴様はこれを配っておけ」
「は、は、はい」

 慌てたように、席の前から神経質そうな男がテスト用紙を受け取る。それすらも見ずに、ドーソンは叩きつけるように扉を開ける。誰しも怒りが収まるのを待った。だから、その声は小さいながらも、静まり返った室内に余計に響いた。

「きっと栄養が足りていないんだな。じゃがいもでも食べてりゃいいのに」
 それは隣の席との小さな会話だったのかもしれない。
 けれど、はっきりと響いた声はドーソン教官の耳にも届いたようだ。

 怒りの視線を声の主――アレス・マクワイルドに送り、
「マクワイルド候補生。貴様もだ!」
「俺もかよ」
 教官の地獄耳にアレス・マクワイルドは小さく天を仰ぎ、隣で友人のスールがご愁傷様と苦笑した。

 + + +

 教官室での説教という名の拷問は、二時間あまりも続いた。
 正座の状態で日頃の成績から姿勢、態度に渡り細かく語りつくすドーソンの言葉は、ある意味生徒の様子を誰よりも見ているのではないかと考えさせられる。

 もっとも、そんなことを悠長に考えているわけもなく、しびれる足を気づかれぬように組み替えるだけで精一杯だ。早く終わってくれと願うアレスとは裏腹に、ところどころでフェーガンが火に油を注ぐものだから、ドーソンがというよりはむしろ隣人の息の根を止めたほうがいいのではないかとアレスは本気で思い始めた。

 最終的には肉体と精神の限界を迎える前に、シトレ学校長が見かねて声をかけた。
「もうその辺りでいいだろう。後ろも詰まっているんだ、その辺りにしておくといい」
「し、しかし学校長――こいつらには反省の色が」
「反省か……フェーガン候補生」

 それまで穏やかだった学校長の言葉が、問い詰める色を持った。
 名前を呼ばれ、それまで反抗的に睨むような視線を送っていたフェーガンの表情が強張る。
「はっ」
「馬鹿と言ったのは本当かな」

「え、ええ。言いました――無駄な時間であったからと思ったからです」
「無駄か」
 小さくシトレは、その言葉を繰り返し。
「では、その有益な授業と言うものをまとめて書いて提出したまえ。明日の朝までだ」

 驚いたようなフェーガンに、シトレは言葉を続けた。
「無駄かどうかは私が――そしてドーソン教官が判断する。もし、本当に無駄だと思うのならば、その根拠と改善策を提出して批判すべきだろう。それすらもせず、ただ上官に向けて馬鹿というのは批判ではなく、愚痴だ。そして、その判断に不服だと言うのならば判断できる立場になるのだな」

 厳しい言葉に、しかしフェーガンは言葉を失った。
 反論できる言葉もなく、ただ小さく口を開き、諦めたように口を閉ざした。
 厳しい視線は隣で、終わったと小さく息を吐くアレスにも向けられた。
「で――彼はなぜいるのだね?」

「私にもわかりません」
 即答で返された言葉に、理由を求めるようにシトレがドーソンへと向いた。
「その男は、小官を馬鹿にしたのであります」
「馬鹿にした?」

「ええ。帰り際の小官に向かい」
「怒りっぽいのでカルシウムが足りてないのではないかと。私は心配した次第であります」
「き、貴様――」
「ふむ。確かにいちいち候補生の言動に目くじらを立てる必要もないだろう。とはいえ、ドーソン教官の体調について君が心配することでもない。同じく罰として明日の朝までに、授業計画を策定して持ってくるように。レポート用紙50枚以上だ」

「何で、私まで」
「100枚だ」
「……わかりました」
 深々とため息を吐きながら、アレスは立ち上がった。
 シトレの言葉から立ち直れないフェーガンを引きずり、扉から出ていく。

 白い自動扉が閉まるのを見届ければ、いまだ怒りさめないドーソンが不愉快そうにシトレに声をかけた。
「学校長。よいのですか、あのようなやからは軍に不利益をもたらします」
「ふむ。とはいえ、成績は優秀なのだろう」
「う、それは……」

 ドーソンが口ごもったように、確かに二人の成績は優秀であった。
 フェーガンは実技に関しては並外れた技能を有しており、逆にアレスは学科が得意だ。
 それぞれ得意分野では学年主席のアンドリュー・フォークすらも凌駕しており、反抗的だという理由だけで退学させるには説得力に欠けていた。

「ま、かの有名なリン・パオやブルース・アッシュビーも清廉潔白であったわけではない。ましてや、いま学生にそれを求めても仕方なかろう」
「失礼ですが、英雄と呼ばれている方々と比べるにはあまりにも……」

「駄目かな。私は毎年、英雄と呼ばれる人間を育てたいと思ってきている。もちろんそれは彼らの才覚や努力によるところだろうが、同時に我ら教官も努力していかなければならないのだ。さて、仕事は終わりではないぞ。残念ながら問題児はまだいるのだからな」

 + + +

 教官室を出れば、上級生と出会った。
 灰色髪のそばかすを頬に残す、どこか若々しい顔立ちをした青年だ。
 上級生だとわかったのは、胸に巻くマフラーとバッチの色からで、それがなければそばかすの残る若い風貌は後輩だと思っても仕方なかっただろう。足を引きずるように出てきたアレスに気づいて、一学年上であろうその上級生は笑いながら声をかけてきた。

「よう、ずいぶんと長い旅路だったな。見たところ負け戦のようだが」
「この後に敗戦処理が待っているという点で言えば、負け戦でしょうね」
「あら、ま。罰則付きか」

 ご愁傷様と言いたげに、青年は手を広げた。
「ま、若いうちはどんどん負けるといいさ。負けることが己を強くする」
「先輩のように上手く撤退したいものですね、アッテンボロー先輩」
 アレスがその名前を呼ぶと、アッテンボローはひどく嫌そうな顔をした。

「誰から名前を聞いたんだ、後輩」
「わざわざ噂の出所を探さなくても、すぐに見つかると思いますよ」
「口は達者なようだが、それで怒られるようじゃ、まだまだだな」
「というと、怒られない方法もあるのですか?」

「もちろんだ。策を考えずに語るのは三流の証拠だね」
「後学のために、その策とやらを教えていただけると嬉しいのですけれどね」
「――それは秘密だ。ま、そのうち楽しみにしておいてくれ」
 ひらりと小さく手を振りながら、堂々とアッテンボローは教官室に姿を消した。
 これが『お呼び出し』でなければ、実に様になっている。

 もっともそれを本人に言えば、教官室への潜入調査とでも答えるのだろうが。
「すまなかった」
「ん?」
 と、閉まった扉を見ていた頭上から声が聞こえた。
 この当事者であるキース・フェーガンが無愛想に見下ろしている。

 長身で武骨――明らかに軍人と思われる容貌。
 それが表情も変えずにじっと見ている。
 初対面であれば、思わず謝ってしまいそうになるが――本人はこれで申し訳ないと思っているらしい。
 そのはずだ。

 フェーガンと聞けば、思い出すのはグランドカナルの一件だ。
 民間人を見捨てる僚艦に、ただ一人民間人を見捨てずに撃沈された悲劇の少佐。
 その軍人としての魂に、当時は感動したものだが、本人に出会ってよく理解できた。
 こいつは馬鹿なのだ。
 言えばどうなるかとか、どんな影響があるとか理解していない。

 ただ任務を完遂することしか考えていない、どが付くほどに真面目な馬鹿。
 返せ、俺の感動を。
 黙ったままじっと見つめる姿は、ともすれば怒っているように見える。
 だが短いながらの付き合いで、大体彼が何を考えているかはわかった。

 そもそもが単純だしな。
「別に謝ることじゃない。俺が余計なことをいった」
「それでも遅くまでつきあわせてしまった。おまけに罰則まで」
「ああ。忘れてたな」

 アレスは心底嫌そうな顔をして見せた。
「授業計画だっけか」
「ああ、何だったら俺がお前の分も」
「書いてくれるのか。で、どんな計画を考えているんだ?」
「軍人は戦うことが仕事だ。だから、座学よりもむしろ実技に力を入れるべきだ。具体的には毎日のランニングを校庭五周から十周に」
「お前は仲間まで敵に回す気か」

「む。では、二十周……」
「軍人ってのはなぜ否定されたらより酷くなるんだ。Mか、全員がどMなのか」
「駄目か?」
「そんな単純な回答を聞きたいわけじゃないだろう。第一、仮に二十周するとして、他の授業はどうするんだ。一周一キロとして、単純計算で二十キロだろ。朝一の授業に何人が間に合う。さらに、その出席した人間の何パーセントが真面目に授業を受けられる?」

 男同士の立ち話は、他から見れば碌な噂にならない。
 そう思って、アレスがフェーガンの計画の欠点を挙げながら歩き始めた。
 どうやら彼が思っていたのは冗談ではなかったようだ。

 不服そうな声をあげたフェーガンに、アレスは前を向いたままで答えた。
「君の言いたいこともわかる。それくらいできるのが軍人っていいたいわけだろう。それも間違えてはない、でも、ここは士官学校なわけだ。ただ走って終わりってのは、一般兵までで終わりだろう」
「我々には体力より学力が必要だと。マクワイルドはそう思うのか?」

「違うね。別に体力だの、学力だの――そんなのは大したことはない。重要なのは」
 そこでアレスは言葉を区切って、振り返った。
 その視線に、フェーガンも足を止める。
「学校の授業に不満があるのならば、どうすればそれを改善できるか。さらに言えば、それを学校に納得させる事が大切なのだと思うよ」

「……む」
 困ったようにするフェーガンに、アレスはため息を吐いた。
「君の意見は――毎日二十キロ走ることで帝国に勝つことができると言うのなら、その具体的な効果を証明しろということさ。さらに言えば、反対意見を持つ人間を完膚なきまでに叩きのめすほどの説明でね」

「そんな事が……」
「できるわけがないか。ならば、何のために君は士官学校に入った。卒業したら少尉になって、君にだって部下ができるのだぞ。君の立てた作戦を君は自信を持って証明ができないのか。さらに言えば、上層部が反対したら、その作戦を諦めるのか?」
「む……アレスは」
「何だい?」
「アレスはそんな事をずっと考えているのか」

 そこで、アレスは唇を小さく上げた。
 厳しさを崩して、笑いを浮かべれば――そうだな、まだ十五になったばかりかと思う。
 過去の自分も、高校になったころはただ遊んでいた。
 そんな考えが形成できたのは、社会人になってからだろう。

 ただ、平和ならばそれでもいい。
「そりゃ、君が死ぬところは見たくないからね」
 ましてや、彼は既に死ぬ運命が義務付けられている。
 そして、艦長という立場上死ぬのは彼だけではないだろう。

 だからこそ、ただの馬鹿では困る。
 そう思ったことを、フェーガンはどう思ったのだろう。
 しばらく彼を見つめ、それでも言葉には出さず、一度頭をかいた。
「もう少し考えてみる」
「嬉しいね。いまの五周でも、俺には十分きつい。それに……今回の罰則に失敗しても、所詮はじゃがいもに怒られるだけですむ」

「また聞かれたらドーソンに怒られるぞ。ところで、何でドーソンがじゃがいもなんだ?」
「ん。じゃがいも士官って有名じゃないのか?」
「そんな話は聞いたこともない」
 アレスの疑問に、フェーガンはゆっくりと首を振った。

 んと、アレスは小さく指を曲げて唇にあてた。
「なあ、ドーソンは後方主任参謀ってやったことあるか」
「教官の過去までは俺には」
「何も聞いていないか」
 原作で、ドーソンが士官学校の教官になっていたことは有名だ。

 さらに言えば、第一艦隊の後方主任参謀になってから、じゃがいもと呼ばれ始めた。
 だが、その前後を正確に覚えているかといえば、そうではない。
 一つ一つまで完全に記憶しているわけではない。

 こういうところが、転生者の困るところだな。神様も気を聞かせて、全ての事件について頭に入れてくれればいいのに。
「いや。なら、そのうち楽しみにしておいてくれ」
「さっきの先輩のようなことをいうのだな」
「そうとしか言えないから……お、敗残兵を見かねて、援軍が来たらしいぞ」

 ちょうど話題をそらせると、廊下の端で手を振るス―ンがいた。
 小さく手を振り返すと、息を切らせながら近づいてきた。
「よかった。遅いから心配してたよ、首になるんじゃないかって」
「こんなことで首になってたら、卒業生が誰もいなくなるさ」
「それはそうだけど、あまりに遅いからさ。と、一緒のクラスだけど、初めまして。僕はス―ン・スールズカリッター。長いからス―ンでいいよ」

「フェーガンだ。キース・フェーガン――キースでいい」
「よろしく。災難だったね、アレスに巻き込まれて」
「逆じゃね?」
「一言多いのはいつものことじゃないか。むしろキースは、無駄な授業を長引かせてくれた英雄だよ」

「確かにほとんど自慢話しかしないからなぁ。あのじゃがいも――軍隊組織論ってのは無駄なの授業なのかと思えてくる」
「無駄ではないと思う。軍隊が組織だって行動するのは大切なことだ」
「でも、実際しゃべられても意味がわかんないよね」

「確かにそれは……む」
 小さく笑うアレスの言葉に、またっとスーンが呆れたように苦笑する。
 そこでフェーガンが何かに気づいたように、小さく目を開いた。
「すまない。少し失礼する」
 慌てたように走り去る。
 さすが実技成績で常にトップクラスだけあって、かなり早い。

 少なくともアレスでは追いつけないだろう。
 突然の行動に驚いていたスーンが、説明を求める視線をアレスに送った。
「どういうこと?」
「ああ。さっきまで宿題の話をしていたからな。何か思いついたんだろう」
「罰則まで貰ったんだね」

「ああ。授業の改善意見についてレポート用紙100枚だそうだ」
「それは御愁傷様。急ぎたくもなるね――で、アレスはいいの?」
「俺か。そうだな、何か適当に書いて怒られるさ」
「それをキースが聞いたら、激怒しそうだよね」
「そもそも改善意見を要求したのは俺じゃないからな」

 苦笑して見せたアレスは、いまだ理解できていなかった。
 その夜に起こる出来事――真面目な馬鹿の恐ろしさを。


 深夜二時。
「すまない、アレス。修正した課題ができたのだが、また見てもらえないだろうか」
「何回目だよ、俺まで寝かせないつもりか」
「うるさいよ。アレス、宿直の教官に見つかるよ」
「それなら他の部屋からここに来る、キースに言えよ」
「すまない。だが、これくらい窓を伝えば簡単だ。誰にも見つかっていない」
「おまえ、ここ十三階だぞ」
「問題ない」
「俺が問題あるわっ!」
「だからうるさいって……寝かせてよ」


 

 

学校長の思惑

 「どうしました、シトレ学校長?」
 一人分厚いレポート用紙に目を通していたシトレが肩を震わせる様子を、教頭であるマイケル・スレイヤー少将が不思議そうに見ている。何がシトレの琴線に触れたのだろうかと。

 シトレが視線に気づいて、手元ではなく机上に置かれたレポートをスレイヤーに示した。
 何度も消したのだろう。白いレポート用紙が、真っ黒にぼろぼろになっている。だが、シトレはそれを大切そうに、そっとスレイヤーの方へと送った。
「授業改善計画?」

 そう書かれたタイトルと、名前に目を通せば、なるほど――最近有名となっている新入生の名前であった。
 キース・フェーガンと、だが彼は実技は優秀であったが学科は駄目だったはずである。
 送られた事を見ろと判断して、スレイヤーはそれに目を通した。

 シトレが面白そうにこちらを見ているのが理解できた。
 いささか汚い字に苦労しながら、読み進めていけば、
「これをフェーガン候補生が?」
「うむ」
「違いますな。おそらく別の誰かに書かせたのではないでしょうか」
「そう思うかね?」

「ええ。彼であれば、授業に対する問題点はかけたとしても、それに対する対処まで書けないでしょう」
 手からレポート用紙を落としながら、スレイヤーは答えた。
「というよりも、同じ学年で書けるものがいるかどうか。主席のフォークでも難しいでしょうね」

「そうかね」
「問題を挙げる程度なら誰でも書けるでしょう。問題の対処も難しいかもしれませんが、優秀な生徒なら書ける人間もいます。しかし、このように問題解決に対する多角的な視点――つまり、予算の問題、人員の問題、さらに言えば委員会の対策を誰が想像するのです」

「だが有用ではないかね」
「それは認めます」
 呟いたスレイヤーは落ちたレポートに目を向けた。

 そこに書かれていたのは、端的に言えば学生の訓練への参加という項目だ。
 実際の軍の訓練に学生も参加させて欲しいと、そう書いてあった。
「確かに学科は覚えさせられる単語だけで、終わりでしょう。そんな単語を幾ら知っていても、前線では何の役にも立たない。だから、学科だけではなく、そこに実際の実情を取り入れる」

「かといって、学生を戦場に送るわけにもいかない。だから、細かな単語を覚える前に実際の訓練への参加を希望する――そのレポートをまとめるとそんなところかな」
「ええ。その後に経験を生かして知識を入れる――確かに、私も恥ずかしながら戦場に出て慌てて教科書を開いた記憶もありますよ。さらに言えば、戦場に出てからもう一度学校に入りたいと思ったこともあります。むろん、それは今では無理なことでしょう。猫の手も借りたい現実で、学校に入れている余裕はないでしょうから」

「それが無理ならば、今の時点で少しでも実際の実情を見たいと……」
「文章自体に粗雑なところはありますが、十五歳の子供が書ける意見ではありませんね。学生では無理でしょう――となれば、親類縁者に頼んだのか。課題とは言え、それを第三者に書かせたとなると問題となりますな」

「だが、私がこれを言い渡したのは昨日の夕方だが。その上、フェーガンには軍人の親類はおらん、もっと言えば親類自体がほぼいない。いるとすれば、中等学校から付き合っている恋人がいるぐらいだが」
「その恋人の父親が軍人では?」
「いや、ただの機械工だ。さらに言えば、昨日の夜の通信記録を調べさせたが、フェーガンが外部に連絡をとった形跡はない」

「本人が携帯を隠し持っているかもしれません」
「――この学校から外部に接続された電波全てを調べたと言っているのだが」
 強いシトレの口調に、スレイヤーは目を大きく開いた。
「失礼しました。では、本当にこれは本当にフェーガンが書いたのですか」

「ないな。今までのレポートを見る限り、フェーガンはここまで全てを考えられん。というよりも、スレイヤー少将はこれが可能と思うかね?」
「正直無理ですな。有用性はわかります。ただ、学生に訓練を見せるわけにもいかないでしょう。見せた学生が全て卒業するわけではありますまい。そうなれば当然機密保持の面から、公開できるのはせいぜい初歩的な訓練くらいです」
「うむ、だが、それを正直に否定もできん。あるとすれば、訓練を実施する現場の負担となるとか、時間の問題とか表向きの問題になるわけだが」
「表向きの意見に対する反論は丁寧に書かれてますな。録画装置をつけて別室で行うとか……政治家が訓練を見る際にそっと忍びこむとか。御丁寧に政治問題まで絡めて、確かに政治家が見に来た時に学生がいたって現場は苦にしないでしょう」

「まことに厄介なことだな」
 そう言いながら笑うシトレに、スレイヤーは訝しげな目を向けた。
「何がおかしいのです?」
「フェーガンがこれを書いたとは考えられん。だが、朝受け取りに行った時に担当がいうには、フェーガンは目が真っ赤だった。おそらく寝てないのだろうな――さらに言えば、同じ罰を与えたアレスも目が真っ赤だったそうだ」

「徹夜ですか」
「アレスは恨めしそうにフェーガンを見ていたそうだよ――十中八九、これはフェーガンの意見にアレスがつけたしたものだな」
「アレスの通信記録も見たのですね?」
「少将が問題視しているように、アレスも外部に連絡など入れていない。さらに言えば、父親と母親は平凡な一市民だ。まあ、その両親は幼いころに離婚して、父親だけと暮らしていたが。それでも、どちらも軍とは何の接点もないな」

 スレイヤーはため息を吐いた。
 頭痛を隠せず頭を押さえながら、息を吐く。
「では、これを本人が書いたと」
「信じられないだろうが、それが事実だ。不本意そうだな」
「正直」
 頷いて、スレイヤーは生やした口髭を苦々しそうに撫でた。

 白髪は混じるものの、それまで軍人らしく若々しく見えた表情が若干老けて見える。
 疲れているのだ。
「この学校に赴任して、さすが士官学校――優秀というものだけであれば、幾らでもいます。どの学年の主席でも、兵卒あがりの私ではとても勝てないでしょう。しかし……」
 言葉を止めたスレイヤーはゆっくりと頭を振った。
「それでも彼らは子供なのです。まだ二十歳にも満たぬ学生。大人気ないことかもしれませんが、彼らが論戦を挑んできたところで一蹴できるでしょう。それは経験もあるでしょうし、大人のずるさかもしれない。だが」

 差したのは机上に置かれたレポート用紙だ。
「こいつは違う。そこに経験も大人のずるさも兼ね備えている――下手をすれば一撃で、喉元を噛み千切られる」
「一兵卒からその地位まであがった君が学生ごときを恐れるのかね?」
「学生だからこそですな。大人であれば称賛はあれど、恐れはしなかったと」

 シトレとスレイヤーは見つめあった。
 時間にすればほんの数秒であっただろう。
 だが、そのわずかな時間で視線を外したのはシトレだ。
 話題を変えるように手に持ったレポート用紙を振って見せた。
「ちなみにもう一つアレスが書いたレポートがあるのだが、見てみるかね」
「ええ。これを見る限り、見るのが恐ろしいですがね」

 掴むように受け取って、スレイヤーは片眉をあげる。
 フェーガンとは違い、印字されたそれに目を通す。
 睨むようにそれを見て、次にシトレに視線を向けた。
「こいつは我々を馬鹿にしているのです?」
「そう思うかね?」
「戦術シミュレーターの多人数化を書いていますが」

 そこに書かれていたのは、戦術シミュレーターを使った授業に対する改善意見だ。
 現在戦術シミュレーターは一対一が基本である。
 だが、それを参謀や分艦隊司令など複数の役職で分けてシミュレーションをしてみればどうだという意見であった。
 戦術シミュレーターは有効だという意見がある一方で、所詮遊びだと言う意見も根強い。

 何より一つの戦闘が一時間程度で終わるわけもなく、実際の時間に即した戦闘にすれば早くて半日――遅ければ丸一日を経ても終わらないからである。とても授業の一環としてできるわけもなく、できるとすれば時間を早めるしかない。
 そうすると一時間が十分程度――実に六分の一に縮まるわけだが……。

「多人数化すれば、時間の短縮は出来なくなるでしょう。それでいて、戦術シミュレーションはゲームだという意見がある状況では、授業を潰してまで行うのは難しいでしょうな」
「だが、その利点は面白いと思わないかね?」
「利点ではなく、馬鹿にしているのではないでしょうか?」

 苦い表情で、スレイヤーは答えた。
「100ページ書くために、長々と書いておりますが、端的に言えば――シミュレーションはともかく、馬鹿な上官や使えない部下の苦労を今の段階で味わっておくのは有意義だと――これが面白いと?」
 いささか眉間にしわを寄せたスレイヤーに、シトレは思い出した様に小さく肩を震わせた。
「そこまではっきりと書いてはなかったと思うが」

「まとめれば一ページもあれば事足りる文章ですが。笑い事ではなく、どうなさるおつもりですか?」
「フェーガンの意見は残念ながら採用はできんだろう。これは正式な要請というわけではなく、あくまでも罰の一環だからな」
「それで納得するでしょうか」

「おそらくはアレス候補生は、それも理解して書いているのではないかな」
「と、言いますと」
「彼のレポートを見れば、最初から要望が通るとは思っていないようだ。それでも問題点について書いたのは、フェーガン候補生のためを思ってか――本人が聞けば、見る羽目になったとでも頭を抱えるかもしれんがね」

「ならば、これらは無視という事で良いですな」
「別にそれでも構わんと思うが。ここで馬鹿にされただけで終わるのは面白くない。少しアレス君にも驚いてもらおう」
 シトレは机に置かれたレポート用紙を見て、意地悪気な笑みを浮かべる。
 同時、スレイヤーは疲れを隠す事もせずにゆっくりとため息を吐くのだった。

 + + +

 どうしてこうなった。
 二学年に無事進級をして、半年余りが経過した。
 過去の過ちというのは、忘れた頃にやってくると昔聞いた覚えがある。
 確かに、すっかり忘れていた。

 課題だ。
 罰則の名の元に提出された授業改善計画など、すっかり忘れていた。
 あのフェーガンですら、提出して数カ月ほどはそわそわしていたが進級する段階になって結局は無視されたのだと気づいて、一時期は落ち込んでいた。
 その落ち込みすらも終わった九月――戦術シミュレート大会の告示がされた。

 馬鹿か。
「君の意見が採用されたようだ」
 フェーガンが自分ことのように喜んでいる。
 自分の意見が採用されないだけ、喜びは大きかったようだ。
 どうしてこうなった。
 それが正直な感想だ。

 普通であれば、戦術シミュレーションを実時間に合わせて行う事など不可能だろう。
 そもそも実際の戦闘が二時間で終わることなどあり得ない。
 移動するだけで数時間。下手をすれば数週間かかるのだ。
 戦場だけで切り取って見れば違うかもしれないが、それだけであれば何の意味もない。
 戦闘が開始された時点で、戦争の勝敗は決まっていると言ったのは誰だったか。

 譲歩して、戦場の戦術だけを見るにしても、戦闘がスムーズに進む事などあり得ない。
 だからこそ、人間の不確実さを入れるために多人数による戦術シミュレートを提案したのだが。
それをイベントとして開催するって、馬鹿か。
 いや、間抜けなのは自分の方なのだろう。

 彼はあのヤンが在学中に戦史研究科を廃止するにあたり、反対運動の懲罰に資料の整理をさせた機転がある。こちらが無理だろうと提案しても、それを可能にすると考えなかったこちらの負けか。
「そう言えば去年から戦術シミュレーターの更新があったよね。きっと多人数で対応できるようにしたんだろうなぁ」
「そんな予算があれば、前線の装備を整えてもらいたいね」
「またそんなことを言ってさ。戦術シミュレーターが新しくなるのは良いことじゃない? 反応も早くなったし、実際の戦闘に近づいたって話だよ」

「近くなったとしても、実際とは違うだろう。結局は戦闘は人が行うものだ。自分の優位に戦闘が推移するわけでもないだろう。間違えだってあるだろうし、人の個性だってある。自分の思い通りに動かせるのなら、三次元チェスと何ら変わりない」
「だから多人数性を提案したんでしょう?」

 何を言っているのだという視線で見てくるスーンを殴りたくなった。
「確かに言ったが――不可能だと思ったからな。と、いうよりも」
 戦術シュミレート大会の告示を見せながら、アレスはため息を吐いた。
「五年生が司令官、四年生が総参謀長――三年から一年までが分艦隊司令官」

 そこには戦術シュミレート大会の要旨が書いてある。
 最上級生が総司令官となり、全ての命令を統率するとともに五千隻の艦隊が与えられる。
その次の四年生が総参謀長として、作戦指揮の参謀として意見具申を行うと共に四千隻の艦隊を指揮する――残る三学年が分艦隊司令と幕僚を兼務して、二千隻ずつの実際の艦隊運動を指揮する。
 実際の分艦隊司令は二千五百隻から二千隻であるから、全てが実際にそぐしていないと言えばそうだろう。だが、今までの戦術シミュレーターでは総司令官が同時に一万五千隻を動かしていたのだから、総司令官は他の艦隊に対して、どのような考えがあったとしても実際には動かせずに、指示だけしかする事が出来ないと言えば大きく改善されたのかもしれない。

「たったそれだけで実際の戦闘に繋がると思うのか?」
 自分の考えが実際の艦隊運動に繋がらないのだ。
 だが、それを言えば――艦隊司令が指示を出すのは、それぞれ艦隊の艦長であって、さらに言えば操作するのは艦隊の操舵士であり、砲術士だ。
 もし砲術士が居眠りをしていれば、効果的な砲撃などできるはずもない。
 その場合にはどうするのか――総司令官にはそれが求められると思うのだが。

 中途半端に意見が採用された事に、アレスは面倒が増えたとしか思えない。
「三次元チェスも戦術シミュレーターも負けなしなのに、アレスは随分嫌うよね」
「ああ。君にはあのフォークでも勝てない。それは喜んで良いと思うが?」
「所詮はゲームだろう。それで勝ったところで、何の喜びもないんだが」
「そう? 僕は模擬でも勝てれば嬉しいけど」
「なら、全国民に戦術シミュレーターをさせて、一番優れている人間を司令官にすればいいだろう。あるいは三次元チェスの同盟大会優勝者を登用すればいい。それで、戦争に勝てるならな」

 それはという表情をするスーンとフェーガンに、アレスは小さく首を振った。
「それが無駄だと思っているのであれば、正常だ。ただ、問題はそれをわかってないない人間が多すぎる――学生ならばともかく、お偉方にもな」
「それなら、そんな意見出さなきゃよかったのに」
「採用されないと思ったからな」
「嬉しくはないのか?」

「……下手なことをして、歴史が変わると困る」
「どういうことだ?」
「別に……大したことじゃないさ」
 憮然と口に出せば、スールとフェーガンは互いに顔を見合わせて苦笑した。
「また始まった。アレスの歴史講義――それなら、戦略研究科何て選ばなければ良かったのに」
「戦史研究科は廃止されたからな」
「それでも他に艦隊運用科とかあったでしょう」

「君達は俺が運転する車に乗りたいか?」
「ちょっと勘弁だなぁ」
「だろう?」
「でも、得意なら得意で喜んだ方がいいと思うよ。ほら、賭け三次元チェスで随分儲けてるみたいだし?」
「人聞きが悪いな。別に賭けているわけじゃない。あまりにも挑戦者が多いから、参加料として相手が負けたら、金を貰っているだけだ」

「でも、アレスが負けたら倍の参加料を渡すんでしょう?」
「まだ負けたことがないからこちらからは払った事はない」
「その時点で賭けは成立はしていると思うんだけど……で。アレスは誰だったのさ?」
 その言葉に、アレスは顔をしかめた。
 戦術シミュレーター大会に伴い、それぞれ自動的に組みわけが割り振られる。

 総司令官の部下となる人間が決まるわけだ。
 つまり、アレスが書いたところの馬鹿な上司が上に来るわけだが。
「マルコム・ワイドボーン」
 それは、学生時代は十年来の天才と呼ばれ、そして原作では馬鹿な上司の典型として語られた人物であった。


 

 

士官学校の天才

 午後の授業が終了すれば、平常であれば食事までの僅かながらの休息がある。
 しかし、今日はそれもとれないらしい。
 来月に控えた戦術シュミレート大会の顔合わせのため、普段は入らない上級学生の校舎へと足を延ばすことになった。
 5-23小会議室か。全生徒のために部屋を用意するのは不可能であろう。

 それでも小会議室が指定されたことは、さすが最上級生の学年主席だからか。
 平等なわけがない。そもそも士官学校は、中学校や小学校と違い金を貰っている。
 優秀な成績であれば、それに応じた便宜が図られるというのは当たり前なのだろう。
 ノックを一度して室内に入れば、二人の姿が見えた。
 
 最上級生のマフラーをつけたのがマルコム・ワイドボーンで、最下級性のマフラーをつけたものが緊張しながら、後ろで立っていた。
 座ればいいのに。
「二学年、アレス・マクワイルド候補生まいりました」
「ん。おお、君があのマクワイルド候補生か」
「あの?」
「話は窺っている。戦術シミュレーターでも三次元チェスでも負けはないらしい。私の友人が君に挑んで、参加料を巻き上げられたと嘆いていたよ。今回は君には大きく期待している」

 随分と好意的な印象があるようだ。
「私はマルコム・ワイドボーン候補生。今回君の司令官となった」
「よろしくお願いします」
 軽い会釈をして、ワイドボーンを見た。
 学年主席とあって、さすがに頭だけでなく身体も鍛えているようだ。

 細身の体つきにはしっかりとした筋肉が付いている、意志の強そうな顔立ちは太い眉によるものか。温和というより我の強さが見て取れた。
 マルコム・ワイドボーン。
 ヤン・ウェンリーの同期として優秀ながら、理に頭をおいて戦術思考の硬直と補給の軽視により ヤンに敗れた。

 それでも破れたのは、その一回だけだ。
 実際に過去のデータを見れば、彼は原作で語られるほどに無能ではない。
 補給線を大事にしないという点は、彼がそれが問題だと気づく前に全て勝利を収めるからだ。だからこそ、それの重要性に気づかない。
 いや、気づけと言う方が難しいのだろう。

 現状では自分のやり方でそれなりには上手くいってしまうのだから。
 だからこそ、ヤンに負けた一戦は自分では認められることが出来ず、それが原作では死ぬまで続いてしまっていた。
「ぼ、僕は――私は一学年のリシャール・テイスティアと言います」
 少し考えこんだアレスに対して、小さく首を曲げたワイドボーンの言葉が、後方からの大声にかき消された。

 そこまで緊張しなくてもとは思うが、絞りだした言葉は震えている。
 緊張をあからさまに表に出した少年は、会議室の後方で小刻みに震えている。
 大きく開いた目が瞬きすらも忘れて、こちらの言葉を待っている。
 その様子に、小さな舌打ちが聞こえた。
「うるさい男だ。気にするな、奴の成績は下から数えた方が早い――来年には退学じゃないのか。戦術シミュレーターの成績も見るところがない」

 笑顔でリシャールに答えながら、そう小さくワイドボーンは呟いた。
 なるほど、こちらに敵対的ではなかったのは成績を見られていたからか。
 確かに実技分野を無視すれば、そこそこ自分は優秀なのだろう。
 アレスがそう苦笑すれば、扉が開いて残る三年生と四年生が入室した。
「四学年、ケイン・ローバイク」
「同じく、三学年。ミシェル・コーネリアです。これからよろしくお願いします」

 そこにいたのは大柄でとても未成年には見えない老けた四年生と、学生にしては少し長めで、栗色のウェーブがかった理知的な女性がいた。

 + + +

「やあ。よく来てくれた、二人とも。私がマルコム・ワイドボーン。これからよろしく」
 嬉しそうに立ち上がるワイドボーンの様子から、おそらくは二人とも優秀であろうと予測が出来る。いや、赤点という名の退学があることを考えれば、四年や三年になったという意味では十分優秀なのだろうが。

 単なる高校と違い士官学校は、学校によって選択される。
 点数が足りないからと甘くしてもらえるわけではなく、単純に成績が低ければあっさりと退学処分となるのだ。むろん、戦場の兵士からすれば点数を甘くしてもらえた上官が来ると言う事の方が地獄なのだろうが。
「さ。皆、椅子に座ってくれ」

 進められるように円卓の椅子に腰を下ろした。
 ワイドボーンを筆頭として、四学年のローバイクと三学年のコーネリアがその左右に座る。こちらはテイスティアと名乗る下級生と並び正面のワイドボーンに向かい合う格好となった。

 全員が座ったのを見届けて、机の上で組んだ手をおいて、ワイドボーンが口を開いた。
「さて、まずはルールの説明をしよう。先日配られたルールだ、皆読んでくれ」
 投げるように渡された紙には、戦術シミュレーター大会の要旨が記載されていた。
 大会では、まず五つのグループに分けられる。

 AからEまでのグループで、ワイドボーンのグループは最終週のEグループだった。
 元より大会といわれても、五千人近い士官学校のチームが参加する一大大会だ。
 全てをトーナメントするには、あまりにも時間がかかり過ぎる。
 そこで一つのグループに対して一週間のトーナメントを行い、それぞれの優勝チームが戦術シミュレーター大会の決勝大会に出場するという想定であった。

 アレスは手元の書類を素早くめくる。
 同じグループにヤンの名前がない事に、ほっとしたようにため息を吐いた。
「見ての通り、私達のグループは非常に厳しいと言えるだろう」
 語られた言葉に、テイスティアが震えるように小さく悲鳴をあげる。

 訝しげなアレスの顔に、ワイドボーンは
「マクワイルド候補生は理解していないのかな」
「教えていただけると幸いですね」
「少しは自分で考えろと、言いたいが仕方がない。シュレイ・ハーメイド、ジョン・ミード、アンドリュー・フォーク、セラン・サミュールと……こんなところか」

 ワイドボーンによってあげられた名前に、周囲が顔をしかめていた。
 同じようにアレスも顔をしかめている。
 もっとも、それは他の人間とは違う理由によるものだったが。
「他にも戦略研究科に名を連ねるものが多数だ。ランダムというのは恐いね。死のグループという奴だ」

 そこでワイドボーンが告げた理由がわかった。
 優勝するには厳しいという理由なのだろう。
 けれど。
 ヤン・ウェンリーはAグループだし、ジャン・ロベール・ラップはCグループだ。

 アッテンボローは……ラップと同じチーム。
 これらのグループに比べれば、遥かに楽だと思うのはアレスが原作を知っているからなのだろうか。
「ま、今更、艦隊運用や陸戦指揮科の雑魚を袋にしても面白くない。弱い者いじめをして喜ぶのが楽しい年でもないしな。そういう意味では面白いグループかもしれないが」
「恐れながら、私は艦隊運用科ですが」

「それは失礼。もちろん全てが馬鹿というわけじゃない、総じて馬鹿が多いというだけさ」
 コーネリアが眉をひそめたことに気づきもせずに、ワイドボーンは小さく手を広げた。
「そして、これも失礼ながら皆の成績を見させていただいたが、優秀だな。まあ、一部優秀ではないものもいるが、それが一学年であれば、まだ成績がでそろっていないのだろうから仕方がない。犬にでも噛まれたと思っておいてくれ。回りも同じ状況だ」

 黙って俯いたテイスティアを気にもせずに、ワイドボーンは言葉を続ける。
「非常に厳しいと言ったのはそこだ。このチームは各学年のトップクラスと戦うことになるだろう。主席の私はもちろん、皆にも最低限それぞれの学年の主席に勝ってもらわなければならない」
 そう考えて、自らの学年主席に目を通した。

 考えて、誰もが苦い顔を浮かべた。
 テイスティアに至ってはもはや青い顔を隠すこともなく、震えていた。
 フォークか。
 原作で学年主席が役に立たない事を位置づけた二大巨頭――そのうち一人が味方で、もう一人が敵だ。せめて、フレデリカ・グリーンヒルが次席ではなく、主席では多少意見も変わっただろうに。

「自信ないかね。君はフォーク候補生にも勝利したと聞いていたが」
「あれを戦いと呼ぶのなら、そうでしょう」
 相手の壮大な自爆でしたがとは言葉にせずに、心の中で呟いた。
 彼もまたワイドボーンと似たような性格だった。ただ戦術だけを見ていると、彼についてはその分野の才能は皆無だ。むしろ、驚くかもしれないが人を引き付ける分野の才能があり、軍人というよりは政治家に転向した方が良いかもしれない。

 前回のシュミレート訓練も、同じように随分と大きく話して結局風呂敷を畳めず、こちらが防御戦を展開しただけで終わった。
 そもそも攻撃側なのに、こちらを簡単に引きずりだせると考えている時点で終わっているのだが、戦いが終わるまで誰もフォークの負けを予想できなかったというから驚きだ。
 この戦いではスーンとフェーガンは随分と稼いだらしい。

「ま。自信がなくても構わない。最初に厳しいと話したのは、それくらいの気持ちでいてほしいからだ。君たちは私の戦術を、ただ機械のようにこなしてくれればよい。それで戦いは終わっている」
「では、私達はいらないのではないですか?」
「うむ、端的に言えば必要ない。下はただ黙って上の意見に従えばいい」

 当然とばかりに言い放ったワイドボーンに、ただ一人コーネリアが不快気に眉をひそめた。テイスティアは相変わらず顔を青くしているし、ローバイクはいまだに何を考えているかわからないように沈黙をしている。

 しばらくコーネリアとワイドボーンが睨みあい、それは簡単に互いに譲らないようだ。
 援護を求めるように彼女が周囲を見渡せば、そこには石顔面のようなローバイクがいて、テイスティアは視線をそらすように下を向いた。
 視線が合う。
 しばらく迷い――。

「では、上が間違えた時には誰が責任を取るのです」
「間違えるわけがないだろう」
「そう言えるなら、帝都は同盟のものになっているはずですね」
「それは、今までこの私がいなかったからだ。間違えない上がね」
 ワイドボーンは自信を持って、間違いなくそう言った。

 自信に胸を張る彼に対して、アレスは苦笑する。
「そう言い切れるのは、せめてヤン・ウェンリーに負ける前ですね」
 ダンと机がなった。
 叩きつけた拳をそのままに、ワイドボーンはこちらを睨んだ。
その迫力に、今までワイドボーンを睨んでいたコーネリアも何も言えなくなっていた。
今まで彼と彼女が言いあっていたのはあくまでも遊びであり、本当の怒りというものに緊張が大きくなっていた。

「何か言ったか、マクワイルド候補生」
「優秀でも負ける時は負けるといったのです。機械のように従わせて、こちらを犠牲にするというのであれば、勝てる理由を聞くのは不自然でも何でもないでしょう」
「私は負けていない」

「そういって艦とともに破裂した将軍など、星の数ほどいるでしょう」
「貴様っ」
 立ち上がったワイドボーンが動く前に、隣にいたローバイクが制止する。
 彼よりも一回り大きい姿に、ワイドボーンも抵抗を試みるが、やがて舌打ちをした。

「つまり貴様は私に従いたくないと、そういうのだな」
「違います。従えというのであれば、納得させて欲しいと、そう言っているのです」
「面白い。では、今から少し付き合え。周りは審判だ――無敗というのが所詮、井の中の蛙だったことを教えてやろう」

 ローバイクの手を振り払って、ワイドボーンが歩きだす。
 血走った瞳に、テイスティアと、コーネリアでさえ小さく震えていた。
 人の怒るところってのは、傍目には面白いんだがな。

 自分に振りかかるのはあまり面白くない。
 苦笑しながら、立ち上がればローバイクが困った人を見るようにこちらを見ていた。
 あまり挑発するなということなのだろうか。
 こちらもしたくてしたわけではない。それでも今ならばそれで駄目でしたですむが、実戦ではすまない。実際に人が死ぬわけだ。

 その時に、駄目でしたですまそうとさせたくはない。
「その、ごめんなさい」
 まだ座るコーネリアの隣を通れば、小さな謝罪の声が聞こえる。
 不安げに見上げる姿に、気にするなとアレスは首を振った。
 ――いずれ潰すのが、少し早まっただけなのだから。

 + + +

 学校内の戦術シミュレーターをおいた区画。
 放課後になれば解放され、予約があれば誰でも使えるようになっていた。
 そこに当然とばかりに割り込み、さらに最上級生の主席が血走った目をしていれば誰でも気になるのだろう。

 既に着席したワイドボーンの周囲には、放課後であるにも関わらず多くの人が並んでいた。
「何かやると思ってたけど、初日にやるとは」
「アレスはもう少し自重という言葉を覚えた方がいい」
 当然のように集まっていたクラスメートのからかいに、アレスはため息を吐いた。
「残念だ。君達がそういう目で俺を見ていたなんて」

「それ以外の目で見られたかったの。じゃあ……尻出して?」
「同室だと、凄い洒落にならないから!」
 スーンとフェーガンが笑いだした。
 ワイドボーンの示した対面にある筺体に向けて歩きながら、アレスが尋ねる。
「で。倍率はどうなんだ」

「まだ時間も経ってないけど、今のところ1.2と4.7でワイドボーン優勢かな」
「なんだ。低いな、最低でも10倍くらいいくかと思ったけど」
「同級生だと君に賭ける割合の方が多いんだよ。フォークと戦う前ならよかったんだけどね。あと、三次元チェスで君に負けた先輩たちも君に賭けているみたい」
「見た顔がいるわけだ。俺に30ディナール賭けといてくれ」

「了解。頑張って」
 小さく笑って離れるスーンを見送って、筺体に腰をかければ正面でワイドボーンが睨んでいる。
『聞こえるか、蛙』
「聞こえてますよ。先輩」
 ヘッドホンを耳にしたとたん漏れる言葉に、アレスは小さく肩をすくめた。

 あちらにはこちらのように近づく人間はいない。
 全てを拒絶するような空気を醸し出しながら、さらに口調が強さを増した。
『全員に貴様の無能さを教えてやる。この戦いは録画して公開するが構わないな』
「嫌だと言っても、するのでしょう」

『いま謝れば、そこまではしないでやる。これでも同じチームなのだからね』
「謝るって何にですか?」
『よかろう、存分に辱めを受けるがいい』
 打ち切るように呟けば、向こうの筺体の大型ライナーがゆっくりと降りた。

 同時に、こちらも操作してライナーを下ろす。
 完全に降りれば、周囲のざわめきはなかったように静かになる。
 ワイドボーンとの通信も途絶え、まるで一人だけの世界のようだ。
 正面のモニターに、今回戦う戦場が選ぶようになっている。
 それらが向こうの操作でランダムで確定し、自戦力と相手の戦力が決定した。

 数はどちらも同数の一万五千隻。
 こちらは青で攻撃――相手が、赤で防御側であるらしい。
 補給線に難を抱える相手にとっては嬉しい事であろうが、今までの戦い方を見てもワイドボーンが防御戦に徹した事はない。おそらくは敵の防御施設に到達する前に、どこかで戦闘を起こすであろうことは明白だ。それでも補給が近いのは彼には朗報だろう。

 通常であれば、引きずりだして別働隊で防御陣地を制圧――もしくは、補給線を狩り取るってのが常道か。
 そう考えながら、アレスは手元のコンソールで隊列の準備を整えていく。
 モニターに映し出す文字がカウントダウンを告げて、残すところは一分を切った。
 ヤンと戦って、負けたとしてもワイドボーンが補給線を重視する事はなかった。

 それは彼にとっては補給線とは預かり知らぬことで、それで負けたとしても彼が負けたと理解していなかったのだろう。
だからこそ、いまだに負けていないと考えている。
 それでは意味がない。
 いまだに負けがないと考えて、思考が硬直している人間に対して同じように補給線を叩いたところで、結局思考の硬直は解けないだろう。

 ならば。
「これが戦術シミュレーターでよかった。本番なら犬死もいいとこだ」
 そう呟くと、アレスはゆっくりと艦隊の編成を行っていった。


 ざわめきが大きくなって静まり――やがて声も出なくなる。
 戦闘終了のブザーが鳴り響いて、筺体全部のライナーがゆっくりとあがった。
 誰も言葉にできない中で、スーンが最初に確認したのは、アレスだった。
 疲れたような様子を隠さない姿。

 何と言うか、酷く無駄だと思っているんだろうなとスーンは思った。
 らしくない戦いといえば、らしくない戦いだったのだろう。
 開始の数分――正確には倍速された時間であるから数時間だが――で、不思議に思った。
 ワイドボーン相手に真正面からぶつかるなど、通常のアレスであったら行わないことだから。

 フェーガンも不思議に思っていたようだったが、すぐに何かしらの理由があるのだろうという結論に落ち着いた。アレスは基本的に無駄なことを嫌う。むしろ、無駄なことをするくらいならばしない方がいいと思っているタイプだ。
 おそらくはそれを知っているのは、スーンとフェーガンの二人だけであろうけれど。

 不本意そうに筺体から先に出るアレス――しかし、対するワイドボーンは結果を凝視したままにいまだに固まっている。
 誰も二人に近寄ろうとしない。
 かたや敗者に対するかける言葉がなく、かたや勝者にも殲滅戦となった今回の戦いのあまりの苛烈さに声をかけられないからだ。

 審判役のアレスと同じチームの三人ですら、誰も勝利を告げられないでいる。
 ただただ言葉にできるのは、機械的に定められた言葉。
『……星系の戦闘結果。青軍、アレス・マクワイルド候補生。赤軍、マルコム・ワイドボーン候補生。損耗率、青軍58.7%、赤軍94.3%。よって、青軍の勝利です』

 無情にも機械音が、勝敗を告げている。
 誰も彼らに近寄れない。
 だから、スーンがまずしたことは賭け金を持ち逃げされないように、フェーガンとともに胴元を捕まえることだった。
 

 

 

犠牲よりも大きいもの

 公開試合の形式をとったアレスとワイドボーンの戦いはほぼ全学年の知るところとなった。
 学校最優秀の学生が、負けた事実は教官たちも知ることとなり、多くの人間が非常に素晴らしい戦いであると褒めた。もっとも、一部ではあったがあるものは双方ともに無様な戦いであったと論評したが。

「二学年でこれだけの戦いが出来るとはね」
「凄いですね」
「どっちも負けだろ」
 小会議室の一角で、そばかすを残した男が呟いた。

 室内には四人ばかりの――様々なマフラーを持った少年たちが意見を交わしていた。手元のコンソールに映し出されるのは、何回目であろう彼がどっちも負けと評価した戦術シュミレートの戦いが広げられている。
 青軍、アレス艦隊が押し寄せるのを、赤軍のワイドボーン艦隊が正面から受け止める。ほぼ同数の戦いは戦闘開始十分――シュミレート上では五十分で、ワイドボーン艦隊が有利に進めた。撃ち込んだ陣のうち中央の陣系で隙が出来たと見るや、左右の艦隊と呼吸を合わせて一気に畳みこむ。中央の艦隊が崩れると同時に艦隊を鋒矢へと変えた。弓のような態勢となった陣形は中央を突破するに最適な陣形である。わずか数分で陣を変えた動きは、さすがと言っても良いだろう。仮にコンソールを見る男――ダスティ・アッテンボローであっても、ここまで上手くは陣形を変える事ができない。陣形と陣形を動かす隙で打ち砕かれるだろう。

 アレス艦隊は中央に押し寄せるワイドボーン艦隊に防ぐことが出来ずに、次々と破壊を許していく。
 コンソール上の情報画面では、アレス艦隊の被害数だけが伸びあがり、中央――五千のうち、二千隻が破壊され、ワイドボーンの勝利で決まったかのように見えた。
 と、開始三十分――二時間と三十分の時点で、情報画面に赤軍の損害が増えた。
 そこで初めて、全員が疑問に感じた。
 包囲されている。

 誰もが押し寄せるワイドボーン艦隊に中央が崩れていると考えていた。だが、崩れているのではなく、鶴翼――U字型の包囲網の中に引きずりこまれているということを、情報画面での被害によって気づかされたのだ。
 被害艦隊が青よりも赤が多くなって初めて、ワイドボーン艦隊は身じろぎを始めた。包まれようとしている艦隊で、ワイドボーン艦隊は反転迎撃を選択しなかった。
 最初のままに中央を突破して、敵左翼を食い破ろうと方針を転換し、中央突破にさらに力を入れた。

 だが。
 アレス艦隊の中央が今まで以上に、さらに攻勢をかけた。
 それまでの戦いで節約していたであろう火力を一気に使い、戦線を押し上げた。
 ほぼ真正面からの撃ちあいは容易に中央突破を許すことなく、アレス艦隊の包囲は完成していた。
 結果――アレス艦隊の中央艦隊とワイドボーン艦隊はほぼ全滅する事となった。
「負けも何も、これは二学年の勝ちだろう」
「中央艦隊を犠牲にしてか。こんなこと現実にやれば、後ろから撃たれるね」

 アレスの行動は冷酷なほどに中央艦隊を犠牲にしている。
 ワイドボーンの艦隊運動、さらにその攻撃すらも気づかされずに包囲陣形の中に包み込んだアレスの艦隊運動は誰が見ても優れている――しかし、それは中央艦隊五千隻の犠牲があってのことだった。
 それも犠牲が出て考えついたことではない。
 最初から中央艦隊の犠牲の上で成り立った作戦行動であった。
 アッテンボローが、そして一部の人間が無様と評した理由である。
 戦術的には有効であるかもしれないが、戦略的には無意味である。

 もし、最初から犠牲になると言われれば犠牲になる人間は機械のように動けないだろう。これはあくまでシミュレーターであったから、成り立った作戦である。
 だが、そこまで気づくものは少ないのだろう。
 多くがワイドボーン艦隊の初撃から中央突破への連携を褒め、アレスの包囲陣形を褒めている。
 ――第一、包囲が完了した時点で降伏勧告するのが普通だろう。
 損傷率が五十を超えるとは、例え相手に勝っていても負けているも同じだ。

 数にして七千五百以上、人間にすれば何十万もの人間が死ぬのだから。
「それだけとは思えないけどね」
 小さく置かれたコーヒーカップに、アッテンボローが顔をあげた。
 そこに最上級生のマフラーを確認して、慌てたように立ち上がって敬礼する。
 手で納めながら、最初にコーヒーを運んだ上級生が席に座り、周囲も席に座った。
 勧められたコーヒーを手にして、アッテンボローは口を開いた。

「それだけとはってどういうことですか。ラップ先輩?」
「アッテンボロー候補生。あと他の人達もこの戦いの戦略的勝利とは何だろう」
「青軍ならば、星系の主要基地の破壊。赤軍ならその阻止でしょう」
「それは戦術シミュレーターでの戦略目標だね」
「いや、これは戦術シミュレーターでしょう」

「ただ一人――いや、二人かな。そう思わなかった人間もいたってことさ」
 怪訝そうな視線が集中する中で、ラップはゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
「ワイドボーンは公開して打ち砕くことで、後輩達の手綱を握り閉めようと考え――そして、その後輩はワイドボーンの考え方にNoを叩きつけたと、僕は思う」
 怪訝そうな表情が集中する中で、人の良さそうな笑みを浮かべるジャン・ロベール・ラップはコーヒーをすすって、苦い顔をした。

 ちょっと苦いなと呟いて、コーヒーを追加した。
 そこでようやくラップの言葉が頭に入ったアッテンボローが驚いたように声を出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。じゃ、この後輩の戦い方はわざとだっていうんですか?」
「僕はそう思うよ。ワイドボーンのことだから、俺に従えとでも言ったのだろう。そんな相手に補給線を潰して勝ったところで何の意味もない。あえて、彼が望む正面決戦を受けて、完全に殲滅戦を演出したってことだろう」

 言葉を失った三人の中で、手元のコーヒーを回す。
「簡単に見えるが、ワイドボーンを相手にして殲滅戦を君たちはできるかい?」
 リピート再生によって、コンソールではワイドボーンの横並びの艦隊がまるで機械のように縦並びへと変化する様子が映し出されていた。それも待機中ではなく、戦場でだ。本来ならば向かうべき艦隊が破壊されれば、即座にそれの代替えを用意してなるべくように動きを変える姿は、天才との名前に遜色ない。

 その天才と小細工なしに正面から立ち向かえる自信は――。
「少なくとも僕では無理だよ。もし、これが出来るとすれば、ヤンくらいだろうね。もっとも、彼にとっては正面から戦うという行為に何ら意味がないと思うだろうけど」
 そんな完璧に見えた鋒矢の陣に対して、中央を犠牲にしながらも包囲殲滅を完成させる。
 誰もが言葉もなく、コンソールを覗き込む様子に、ラップはコーヒーを飲んで、微笑を浮かべた。

「何を驚いているんだい。君たちは、まあ、僕もだが――そのワイドボーンとマクワイルド二人を相手にして戦うことになるかもしれないんだよ?」
 顔をあげた四人が心底嫌そうな顔をした姿に、ラップは声をあげて笑った。
「何が面白いんですか、ラップ先輩」
「心強いことじゃないかい。優秀な人間が同僚や後輩がいると言う事は――そして、敵が強いほど、きっと僕たちも強くなれる。間違えてはいけないよ、戦術シミュレーターは評価のためにあるわけでもないし、ただ戦術だけを学ぶだけではない。ま、それは学業全てに言えることかもしれないけれどね」

 + + +

 顔合わせから一週間。
最上級生不在のままに、会議という名目の時間が過ぎていく。
殲滅戦の印象は思いのほかに強かったらしく、元々友人といってもスーンとフェーガンを含めて数名しかいなかったが、輪をかけて話しかけられる事は少なくなった。それは、チームメイトも同じようで、ローバイクもテイスティアも離れた位置でずっと黙っていた。三学年のコーネリアもまた一度謝ってからは、こちらを遠目に窺うだけにとどめている。既にチームとは名だけで、崩壊していると言ってもいいのかもしれない。

 広くないとはいえ、四人には余りにも広い空間。
 後方にアレスが位置し、他が窺うように先頭で座っていた。
 話す言葉もなく、ただ黙り――そして、食事の時間に解散する。
 それを一週間ばかりもすれば、いい加減飽きてくる。

 とはいえ。
 ――ここでチームをワイドボーン抜きでまとめたとすれば、戦った意味がない。
 正確に言えば、鬼とまで呼ばれて殲滅戦を演出した意味がなくなる。
 しかし、時間は有限であり、戦術シミュレーターの大会までは一カ月を切っている。
 後方で本を片手にしながら、アレスは小さくため息を吐いた。
 ま、このままワイドボーンがショックで辞めれば無能な指揮で死ぬ人間が少なくなると喜べばいいのか。ただ……彼の才能は正直もったいない。

 ただでさえ、原作の都合上か有能な指揮官が次々と死ぬ中で無能といわれたままに終わったワイドボーンの実力は、今後必要であろう。
 そもそも原作ではあの様であったが、学生時代はヤンやラップを抜いて学年主席におさまったのだ。十年来の天才とまで呼ばれた彼の戦術指揮はずば抜けていると言っても良い。ただ、そこで挫折を経験しなかっただけ――。
 この挫折が良い方向に転がるか。

 それとも逃げだすのか。はたまた……少し考えてアレスが本を畳んだ時、叩きつけられるような勢いで扉が開いた。
 開いた先に、集中する視線。
高い身長と太い眉が、集中した視線を無視してただ一人、アレスを睨んでいた。
小さく緊張が広がる中で、ローバイクが腰を僅かに浮かせた。
一週間前といい。随分とローバイクは苦労症のようだ。

「…………」
「…………」
 誰も言葉もなく佇む中で、ワイドボーンはじっとアレスに視線を向ける。
 小さくアレスが首を曲げた。
 その様子にワイドボーンが唇を僅かに曲げ、指で席を差した。
「何をそんなところで休んでいる。さぁ、会議を始めるぞ。後輩」
「誰も始めようとしなかったので。随分と待ちましたよ、先輩」
「人生で初めて負けたのだ。心を癒す時間に、一週間は短い方だろう?」

「そうですね……」
 言葉に、アレスはゆっくりと笑った。

 + + +

「何をしているのです?」
 小会議室を覗き込むシトレの姿に、冷静な相貌が突き刺さった。
「な、な。何でもない……ぞ?」
「どう見ても盗撮か覗きをしているようにしかみれませんが?」
「酷いな。こうして学生を見守るのも学校長としての……」

「学生を覗いている暇があったら、事務を片づけるのですね」
「相変わらず厳しいな、スレイヤー教頭。だが、君だってなぜこの場にいるのかね?」
「私は落ち込んでいる生徒に対して、年長からのアドバイスをあげようと思ったのですが……どうやら、その必要はないようですね」
 小さく開いた扉。何事もなかったかのようにワイドボーンがモニターを表示して、先の戦いの評価を語っている。それに対し、アレスも口を出し、少しずつであるが周囲も戦いについて話し始めていた。アレスの補給面での発言にも、もはやワイドボーンは無用との一言で話を終わらせる事はなくなった。有用性を考え、周囲の意見も少しずつであるが考えるようになっている。

「君だって気にしていたのに、盗撮とは酷くないかね?」
「ならば、何でもないなどといわずに、最初からそう言えばいいのです」
 冷淡にそう返されれば、シトレは苦笑する他なく、音を立てずに扉を閉めた。
 ゆっくりと離れれば、スレイヤーもシトレの後に続く。
「強くなるな」

「ええ。彼の欠点は戦術思考にこだわるという点もありましたが、何よりもその欠点に対して正面から向かわないという点にありました。一度の負けが――それも得意としていた戦術的敗北が、彼を大きくしたようですが」
「どこか浮かない顔をしているな」
「何でもありません」
「おいおい。学校長――上官に対して嘘は良くないぞ。顔を見ればわかる」

「それを理解させたというのが、上官でも同期でもなく、後輩だと言うのがね」
「アレス・マクワイルド候補生か。天才という奴なのかね」
 感心したように顎を撫でたシトレに、スレイヤーは首を振った。
「士官学校以来の天才、百年に一度の天才。そんな天才は自称他称を問わず、どこにでもいます。大体において天才ではなく、天災になりかねないのですが」
「相変わらず酷い事をいうな、君は」

「そもそも戦術や戦略などは閃きが左右しますから。天才と呼ばれるのも良いでしょう。若くして才能がなかったものがいなかったわけでもない。しかし、学校長は十六の時には何をされてましたか?」
「唐突だな。そうだな、士官学校だから、真面目に勉学をし――そして、たまには抜け出して夜の街を楽しんだものだ、はっは」
「私は戦っておりました」

 スレイヤーの言葉に、シトレは口を開けたままで固まった。
 ゆっくりと顎を戻しながら、困ったように頭をかき、
「そいつは、そのすまん」
「謝られることではありません。確か十六ですとまだまだ見習い新兵で、上の言葉に従いながら、敵艦に照準を合わせてましたな。戦闘ではよく漏らしてました、大きい方ではなかったのが幸いでしたが」

 笑うところなのかとシトレがスレイヤーを見れば、白髪の男は変わらぬ冷淡な瞳をシトレに向けている。
「凄いことに聞こえるかもしれませんが、私の場合は――まあ、一兵卒の場合は、それが当然だったのです。やれと言われた事をやり、たまには悪い事ですが酒を飲んで発散させる。それが、十六歳でしょう。そんな十六歳の天才が、ワイドボーンを倒す。それくらいなら不思議なことでもありません。ただ、私が十六歳の頃には自分が何をやるべきかなど、考えたことはありませんでしたね」

「早熟過ぎるといいたいのかな」
「冷酷なほどにね。おそらく、彼はワイドボーンが戻らないことも考えたと思います」
「戻らないとは?」
「あのままワイドボーンが戦場に出れば、それなりに出世はしたでしょう。凡人ではとても勝てない――しかし、凡人ばかりが戦場に出るわけでもありません。いつか、彼以上の天才にあたることもあった。その時に被害は彼が出世をすれば出世しただけ大きくなる。だからこそ、ワイドボーンの心をへし折るほどに苛烈に攻め込んだ」

「……」
「成功すればよし。失敗して逃げるようであれば、それでもよし。逆に――もしそのままであれば、ワイドボーンはさらに苛烈に攻められたのだと思います」
「考え過ぎではないかね?」
「そう私も思いたいのですが。正直、私は彼が恐ろしくて仕方がありませんな。それらは十六歳の子供が考えることではない」

 シトレは笑おうとした。
 しかし、スレイヤーの表情に、小さく首を振って、歩きだした。
 数々の戦場をくぐり抜けた人間。
 その二人がたった一人の生徒に汗をかかせられていたのだ。


 

 

チームの弱点



 返された小テストに、リシャール・テイスティアはため息を吐いた。
 戦略概論と書かれたテストには、赤い×印が踊っている。
 書かれた点数には二十三点の文字だ。三十点満点でも、五十点満点でもない。

 百点満点でそれなのだ。
 五十五点の赤点で落第となるのであるから、小テストとはいえ非常に危険だろう。
 去年戦略概論を担当していたドーソンがいたら、嬉々として狙われていたであろう成績だ。
 それが幸か不幸か、当初こそ怒られていたものの今では教官からも見放されて怒られる事はなくなった。自分の倍ほどの点数を取った同級生が、叱られている。

 見放された――それは生徒同士でも同じようだ。
当初こそ仲良くしていた人間は少しずつ離れて、今では声をかけられることもなくなった。何点だったと比べられる余地もない。
 それが戦略概論の授業だけではなく、ほぼ全てにおいてそうだった。
 近くの席で、小さな笑い声が聞こえた。

 慌てて、隠すように小テストを畳んだ。
 それでも笑い声はやまないようだ。
 自分が笑われているのか、気になったが、後ろを振り向く勇気はテイスティアにはない。ただ笑いが早くやむことを祈りながら、前を向いていた。
 自分が勉強できないというのは、理解していたつもりだった。

 でもと、テイスティアは思う。
 戦術シュミレート大会によって、上級生と交流を深めれば、そのあまりのレベルの差にテイスティアは驚く事となった。自分よりも遥かに高次元な会話、そして作戦に、自分が口を挟める余地はない。
 ワイドボーンが言うには、もっともレベルの高い集まりとのことであった。
 それを聞いて、なぜ自分がそこにいるのだろう。

 足を引っ張るとしか思えない。現に一学年での戦術シミュレーター大会の優勝予想は、人望の高いラップ先輩を筆頭に、ワイドボーンを破ったヤン先輩、四学年と二学年の主席がいるシュレイ先輩とフォーク先輩、一学年主席がいるセランのチームの名前はあったが、ワイドボーンのチームは少ない。
 理由はテイスティアがいるからだ。

 テイスティア自身としては、例え自分がいたとしてもワイドボーン先輩を初めとした先輩方が負けるところは予想できない。
 それは非公開だが、毎日の訓練での戦いは、過去で手本とされるどの戦いにもひけを取らないと思っている。

 冷静沈着に与えられた任務をこなすローバイク先輩。
 芸術のように艦隊を綺麗に動かすコーネリア先輩。
 まさに天才的とも言える用兵を行うワイドボーン先輩。
 そして、そのワイドボーン先輩にすら勝って見せたアレス先輩。

 特にアレス先輩とはわずか一年の差のはずが、あまりの才能の差に落ち込みすら感じる。
 学年があがればそれが普通となるのだろうか。
 それならば、自分がその場所に立つのは酷く非現実的なことのように思える。
「それでは、本日の授業を終了する」
 言葉とともに、教官が立ち去った。

 授業が終わり、以後は自分の時間となるが、最近は戦術シミュレーターのために訓練の時間となっている。
 早くいかなけれなと、テイスティアは鞄に小テストをしまった。
 机の中の教科書と筆記具を次々としまうと、声がかかった。

「テイスティア」
「な、何?」
 慌てたように振り返ると、そこにはにやにや同級生が三人いた。
 普段はテイスティアに声もかけない人物だ。
 授業態度は真面目と言い難く、成績も普通だ。

 先頭の男はランデルといったろうか。
「掃除代わってくれよ?」
「え……」
 驚いたように問い返した。

 授業後は、順番に室内を掃除するようになっていた。
 それを変われと言う事なのだろう。
 時代錯誤の箒を手にして、ランデルがそれを差しだした。
「えじゃねえよ。掃除を代われっていってんだ」
「き、昨日代わったよね?」

「俺はな。次はこいつが担当だって」
 馬鹿にしたように笑いながら、ランデルは隣を差した。
 そこには申し訳なさそうな様子が一切ない男が笑っている。
「だ、だめだよ。昨日だって遅れたから、今日も遅れるわけにはいかないよ。先輩を待たせちゃうし」

「こいつの先輩は待たせてもいいのかよ?」
「そうじゃないけど。それなら一緒にやろう、早くなるし」
「お前何言ってんの? 頼んでやってんだから、はいって言えよ。第一、お前がいてもいなくてもかわんねーだろ」

「そ、それは」
 奥歯を噛んだテイスティアを、ランデルは馬鹿にしたように笑った。
 ショックを受けたような様子が面白かったのだろう。
 指を差して馬鹿にする様子に、教室内に残った何人かが顔をしかめたが、誰も止めようとはしなかった。

 またかと、そんな印象に教室内を出ていく。
「笑えるわ。それより、さっさとしろよ」
 ほらと、差し出した箒に、テイスティアは唇を噛みながら、受け取った。
「馬鹿がちんたらするなよ……行こうぜ」

 ランデルを含め三人の男達は、礼すら言わずに歩きだした。
 もはやテイスティアすら見ていない。
「おい、女。端的に言うぞ、邪魔だ」
 と、教室の扉から聞き覚えのある声がした。

 同時に、それは本来は一学年の教室に存在しない声で、
「テイスティア。何している、迎えにきたぞ」
「ワイドボーン先輩!」
 驚いたようなテイスティアの声に、周囲が慌てて敬礼を行う。
 突然現れた最上級生の姿に、目を丸くしてれば、ワイドボーンはその様子に構うこともなく、ずかずかと室内に入ってきた。

「何をしている?」
「え。えっと」
「また掃除とか寝言をいうんじゃないだろうな、その箒は何だ?」
 三人の男達も、足を止めた。

 ランデルの隣をワイドボーンが苛立ったように通り、テイスティアの前に立つ。
 箒を盾にするように握りしめた、テイスティアがワイドボーンを見上げた。
 その箒に、ワイドボーンが気づいた。
「お前のクラスは一カ月間ずっと掃除とか面白い仕組みでもあるのか?」

「ち、違います。これは」
「これはなんだ、テイスティア。どうなんだ――貴様らにも聞いているのだぞ?」
 それまで他人事の様子であった三人の男達に問いかけられ、彼らは面白いほどに狼狽した。
「え。いや」

 男達が、正直に答えられるはずもない。
 戸惑ったような声に、ワイドボーンは苛立ったように髪をかいた。
「貴様のクラスはどもりが流行ってるのか。どうなんだ、答えろ――後輩」
 テイスティアと三人の男達からはまともな答えが返ってこないと思ったのだろう。ワイドボーンは自分が押しのけた入口の女性に声をかけた。

「ち、違います」
 慌てたような言葉に、ワイドボーンは満足したように頷いた。
「違うらしいぞ、テイスティア。ならば、貴様はなぜ二日連続で掃除などをしている。計算まで出来ないのか?」

「それは」
 答えられず、視線がランデルを向いた。
 ランデルはその視線に、ちっと小さく舌打ちをする。
「テイスティアが優しくて、自主的に代わってくれたんです。ワイドボーン先輩」
「ふざけるな、後輩。貴様らに名前を呼ぶ許可を出した覚えはない。第一、こいつは掃除など代わっている余裕はない」

「わかりました、すみません」
 言葉ではそう言いながらも、不満な様子を隠すこともなく、ランデルはテイスティアの箒を奪い取った。
 覚えてろと、小さく呟く。

「テイスティア、お前の担当はいつだ」
「それは来週の水曜日です」
「そうか。聞いたか、後輩――テイスティアが代わった昨日の掃除は、水曜日と交換だ。水曜日もお前がやれ」
「な!」

「な? おい、屑ども。間違えるな――私は交換だと言ったんだ。はい以外口にするなと、教官から習わなかったか?」
「ちょ、横暴だろが」
「横暴? 横暴というのは、抵抗できない人間に無理矢理自分の仕事を押しつけるお前らのことをいうのだ。屑」

 ワイドボーンは断言し、そして周囲を見渡した。
「さらに言えば、それを見て見ぬふりをする貴様ら全員も同罪だ」
 そう吐き捨てられれば、周囲も慌てたように視線をそらした。
「ふん。言い返す根性もないか――玉無しばかりだな」
「ふざけんな、てめっ!」

 辛辣な言葉に、ランデルが手を伸ばした。
 もはや上級生であることも忘れているようだ。
 あと小さくテイスティアが反応すれば、ランデルの身体は宙を舞っていた。
 本人はなぜ投げられたかわからないようで、地面に叩きつけられて悶えている。
 テイスティアの目には、ワイドボーンが手を小さく捻ったようにしか見えなかった。

「屑が。私は学年主席だぞ? 陸戦に技能がないとでも思っているのか」
 そうワイドボーンは胸を張ってつげ、残った二人の男に視線を向ける。
「で、貴様らはどうする?」
「あ、いや」
「やはり玉無しではないか。行くぞ、テイスティア」

「は、はい」
 慌てたようにテイスティアが頷けば、ワイドボーンはテイスティアの様子を確認せずに、歩きだした。
 駆けだすようにテイスティアが続けば、ワイドボーンがちらりと肩越しに見る。
「勘違いするなよ。あんな能無しどもに抵抗できない貴様は、あの能無しよりも遥かに無能だ」


 + + +

 赤軍と青軍が並びあって砲撃を開始している。
 情報画面に映し出されるのは双方ともに同様の損害だ。
 いや、若干青軍の方が被害が大きい。
 先に動いたのは青軍であった。
 並んでいた状態から左翼が緩やかに左斜めに動きだした。

 攻撃線が集中する。
 撃ちこまれた中で、敵左翼だけが一瞬身じろぎのように動き出した。
 しかし、それもすぐにおさまり再び連携を取って青軍左翼に攻撃が集中した。
 と、それまで青軍の色が増加した中で、損傷艦艇に赤軍の色が増えた。
 敵の中央と右翼が斜めに駆けあがり、赤軍の右翼に攻撃を集中し始めたからだ。

 咄嗟に隊列を変換させようとするも、敵左翼によって右翼はおろか左翼も攻撃のために隊列を前に出している。
 一万の砲撃にさらされた赤軍左翼は混乱したように慌てて反転しようとした。
 そこに斉射が加われば、もはや崩壊するしかない。
 混乱の状況にある中で、中央も右翼もまともな攻勢もできるはずがない。

 態勢を立て直そうとしたところで、青軍左翼はすでに初撃から態勢を立て直しており、赤軍右翼に攻勢を加えた。
 情報画面では赤軍だけの損傷が広がる中で、降伏の文字が見えた。


 ほぼ同時に五つのカプセルから空気を排出する音が聞こえて、筺体全部のライナーがあがった。
 局地戦に限定していたとはいえ、実時間で二時間もの戦闘を狭い筺体で過ごしたのだ。硬直した肩を回して、筺体から姿を見せたのはワイドボーンチームの五名である。

 申し訳なさそうなテイスティアをローバイクが自然と慰め、コーネリアは結んでいた髪留めを外して、髪をゆっくりとといた。
 眉をひそめていたワイドボーンが姿を見せて、同時にアレスもヘッドホンを外した。
 非公開試合のため、勝利を告げるアナウンスはない。

 それでもどこか楽しそうにワイドボーンがアレスに近づいた。
「また負けたか」
「ぎりぎりでしたけどね」
 苦笑するアレスだが、決して嘘を言っているわけではない。

 こちらが動くまで、アレスとコーネリアの艦隊――青軍は劣勢であった。
 時間の関係上、局地戦であるから、今回は補給線を気にする必要はない。
 ほぼ同数の艦艇での真正面からの戦闘だ。
 それでいて、ワイドボーンは優位に戦闘を進めていた。

 最後に戦場を動かして、敵を左翼に引きつけて足を止め、同時に斜めに敵左翼に対して攻勢をかけられたが。
 次第に強くなっているというのが、アレスの印象だった。
 ワイドボーンだけではない。
 ローバイクは攻勢にも守勢にも秀でており、さらに後方で補給線を支えることも出来る。顔通りに実直で、自分に与えられた任務を完璧にこなしている。

 コーネリアの艦隊運用は、芸術的だった。
 原作の艦隊運用の達人であるフィッシャーにはいまだ会えないし、彼の艦隊運用を見た事はないが、それに劣らないのではないかと感じる。
 今回は彼女と組む事になったが、劣勢からの艦隊行動はほぼ彼女が行ったものだ。

 ワイドボーンやローバイクは苦手ではないものの、自分も含めて彼らであったならば失敗していた可能性もあった。こちらの左翼に敵の意識を引きつけさせて、敵の左翼に中央と右翼をぶつけるという単純な作戦を成功に導いたのは、彼女といっても良かった。
 これで原作で名前が出ないのだから……。

 原作ではローバイクやコーネリアが加減をしていたなどという事はないだろう。
 自分と出会ったから才能が開花したなどと自惚れるつもりもない。
 おそらくは。
 ――才能が理解される前に死んだのだろうな。

 ため息混じりに、アレスは呟いた。
 この世界は死者が多すぎる。
 元々の人口も多いのであろうが、一回の会戦での死者が数十万人単位で増加する。
 アムリッツァに至っては、二千万人だ。
 アレスの――彼の前世での人口の実に六分の一が死に絶える。

 そして、それは優秀である、ないに限らず平等に。
 アレスも、彼もまた戦場に出た瞬間に死ぬのだろうか。
「どうした、後輩」
「何でもありませんよ……先輩。どんどん皆強くなっているなと思ってました」
「そうか、それは楽しそうで何よりだ。だが」

 小さな舌打ちとともに、ワイドボーンが見たのはテイスティアだった。
 自分の欠点を見つめる事が出来ても、元より劣る人間に対して冷たいところまでは矯正できないらしい。
 もっとも、そこまでは面倒が見切れないというのが正直なところだが。

 ワイドボーンのテイスティアに対する態度は、非常に厳しい。
 それは周囲が優秀であるから、よりテイスティアが凡人に見れるのだろう。
 艦隊運動、戦術思考、戦略思考――その他、確かに優れているところはなかった。
 ワイドボーンいわく、赤点をとって来年にはいないというのは真実なのだろう。

 同じチームであるから、頑張ってもらいたいとは思うが、それでも戦場に出ない方が彼にとっては幸せなのかもしれない。
 ローバイクに慰められて、心底申し訳なさそうにする姿は小動物のようだ。
 見る分には良くても、そこに配属された部下が可哀そうだろう。

「奴は何度やっても成長しないな。今回も勝手に左翼を動かそうとした」
「ああ。それです、一瞬左翼がこちらの動きに気づいたように見えたのですが?」
 敵がこちらの陽動に引っかかる中で、左翼だけが前に出ずにこちらの右翼へと攻撃を加えていた。その瞬間、見破られたと思い戦術の修正を考えたが、すぐに元に戻ったため、結局は当初通りの行動となったのだが。

「まさか。今回の左翼は奴だ。なぜ動かしたと聞けば、なんとなくと――ふざけた回答だった」
「何となく。作戦を見破ったわけじゃないのですか?」
「そう言われれば、こっちだって艦隊を動かしたさ。結果としては奴が正しかったわけだが」
「そういうことって、前もありませんでしたか?」

「……前も。いや確かに、変な動きをする事は前もあったが、あり過ぎてわからん」
「確かに」
 テイスティアが怖いという理由で艦隊を動かすことは何度もあった。
 無意味ということも数多くあった。

 だが。
「テイスティア」
「は、はい!」
 呼ばれて、驚いたようにテイスティアが背筋を伸ばした。
 急いで走ってこようとして、間の筺体に足をぶつけて、それでも涙目で走ってきた。
「ご、ごめんなさい」

 とは、誰に対してなのか。
 今回の戦いなのか、それとも高価な筺体を蹴った事に対してなのか。
「謝ることはないけど。今回の動きを教えてくれるか?」
「ご、ごめんなさい!」
 また謝られた。

 その姿は確かに軍人らしくなく、とても部下に対して命令している姿は想像できない。むしろ、新兵の二等兵ですらここまで腰は低くないだろう。
 常に謝られるため、あまりに謝罪の言葉が軽いため、すでにワイドボーンはいらいらと足を鳴らしていた。その姿が、よりテイスティアのごめんなさいの回数を増やすらしい。
「テイスティア。謝れとは言っていない、今回の動きを教えてくれと言っている」

「ごめんなさい。あ、その、あの……ごめんなさい」
「き、きさ、あああっ!」
 隣で怒声を上げようとしたワイドボーンが、足を押さえて蹲った。
 目を白黒させるテイスティアに気にするなと、地面に叩きつけた足を後ろに隠しながら、アレスは笑顔でテイスティアの肩をたたく。

 足が、足が……と喚くワイドボーンを体で視界から隠しながら、優しくアレスが問いかけた。
「うん。で、何故ワイドボーン先輩の命令を無視して、こちらの左翼に攻撃しなかったんだい。ううん――なぜ、こちらの作戦を看破した?」
「そ、そんな見破って何かいません。僕がアレス先輩の作戦を見破れるわけが」
「でも。君の動きは正しかった。もし、そちらの左翼が動かなければ、こちらは君の艦隊に対して攻勢をかけれなかっただろう。さらに言えば、もし君の言葉がワイドボーン先輩に理解されていれば、作戦自体が完遂できなかった」

「み、見破って何か。ただ、何となく……」
「何となく?」
「何となくなんです。本当に、何か、嫌だなって思って。それで」
「嫌だなと思ったから、こちらの右翼を攻撃したと……じゃ、何で嫌だと思った?」
「そ、それは何となくで」

「何となく何となくと、きさ……あああああっ、鼻が、鼻が」
 蹲ったままに叫びかけたワイドボーンを踵で打ち抜きながら、アレスはにこやかに答えた。
 ますます目を白黒させるテイスティア。ローバイクとコーネリアは、その様子に小さく苦笑している。

 周囲の失笑に、少しずつ緊張も取れたのか、テイスティアは少し考えた。
「その。今までのアレス先輩だと艦隊を動かしたら、他も少し動いた気がしたんです。でも、今回はまったく動きがなかったので」
 アレスは目を開いた。
 その様子に怒られるとテイスティアは頭を抱えた。

 確かに、一つの艦隊を動かす時にアレスは他の艦隊の連携も考えてわずかに艦隊を動かしている。
 それは敵の動きに合わせてもっとも効率的な射線を作りだすことであった。しかし、それは誰にも気づかれないほどに微妙だ。小さくて艦隊一個分程度の動きでしかない。
 現にローバイクとコーネリアが顔を見合わせている。
 その事にますます申し訳なさそうにするテイスティアに、アレスは黙っていた。

 おそらくはこちらの癖を読まれた。
 そう結論付けてよいのだろうが、彼が癖を読んだのはわずか艦隊一つ分の動きだ。
 彼が嫌だといったことを考える。
 ただ怖いからと思っていたが、本当にそれだけだろうか。
 頭を抱えるテイスティアに、アレスはしばらく迷う。


「君は、士官学校をやめた方がいいな」

 
 

 

才能と覚悟


 テイスティアは泣きそうになった。
 いや、実際にアレスの冷淡な言葉に瞳がうるみ、アレスを睨むことで何とか誤魔化した。
 アレスの出した唐突な言葉には、ローバイクとコーネリアが驚いた表情をしている。ただ、ワイドボーンだけが自分の鼻を押さえて、見上げていた。

 こちらを見るアレスの視線は、決して嘘や冗談のようではなかった。
 苦笑いにも似た笑みを浮かべる姿は、テイスティアにとっては初めてのものだ。
 今までも辞めろという言葉はクラスメイトから何度も聞いた。

 あまりの出来の悪さに教官からも言われることはあった。
 嘲笑や失笑――そのどれとも違う笑みを持って、アレスは口を開いた。
「君は凄いな」
「凄く何か、ありません」

 むっとしたテイスティアに対して、アレスは違うと首を振った。
「嘘じゃない。戦略や戦術何て教科書通りで平均点くらいはできる。技術や技能も一緒だ。もちろん人より飛びぬけようと思えば、才能も必要だけれどね。そういう意味では、君の才能も天性のものだ。人を見ると言う点において」

「そんなこと、ありません」
 自分に才能があるという。そう言われても、この状況では質の悪い冗談を聞いているようだ。否定の言葉に、アレスが言葉を重ねた。
「君はそういうだろう。でも、今回の戦いでもそれをワイドボーンが理解していれば、結果は変わったかもしれない」

「言わなかったから悪かったんですか。でも、それは結果論で……!」
「間違えることが怖くて、ワイドボーンには何となくといったのかい。確かに、間違いで負けたら怖いな。でも、そう思うのなら、なおさらやめた方がいいと思う。テイスティア」
「それで負けたら、あなたが責任を取ってくれるんですか?」

「とるわけがないな、テイスティア。君は自分の責任から逃げるのか。言って負けでもしたら自分の責任になる。だから、言わないでおこうと……たとえごっこ遊びだとしても、君はいま参謀なんだぞ」
 アレスの言葉に、誰も口を出そうとしない。
 そして、テイスティア自身も否定の言葉を見つけられなかった。

 逃げるという言葉に、違うと口に出そうとした。
 逃げるのなら軍人になっていない。
 怖いけど、僕はここにいると――そう呟いた言葉は、アレスの真っ直ぐな視線によってかき消された。
 震える唇を小さく開き、アレスは首を振る。

「今は負けて怒るのは、そこに転がっているワイドボーン先輩だけだ。でも、卒業したら君の肩には、多くの命の責任を背負う事になる。君が卒業して、一生昇進しないとしても、少尉といえば、小隊クラスの人数がね。負けたとすれば、怒られるのはその人数だけじゃない、その家族を含めた数百人の命がね」

「そんな……」
「それを怖いと、君はずっと逃げるのか。なら、何故士官学校に入った?」
「僕は憎き帝国を……」
「憎いという理由で、君だけならともかく周りまで巻き込むなよ」

 吐き捨てるような言葉に、テイスティアは小さく言葉を震わせた。
 それまでどれほど怒られたとしても、嘲笑されたとしても、泣くまいと誓った思いがあっさり崩れ去った。自らの意志に反して流れる涙は、いくら拭おうと止まる気配はない。鼻の奥が痛んだが、やがてテイスティアは涙を拭うことを諦めて、アレスを睨んだ。

 自分が選んだ道を否定されたままにいるのが嫌だったからだ。
 睨むテイスティアを、アレスは真っ直ぐに見ていた。
 先ほどまでの笑みすらも消して、テイスティア自身に向きあうように。
「変なことをきいた……別に理由なんてどうでもいいんだ。君が帝国を憎もうが、同盟を愛そうが――あるいは、その逆だろうが。そんな主義主張はどうでもいい」

「僕の、僕の父は……帝国に殺されました。それがどうでもいいことなのですかっ?」
「それで巻き込まれる方はたまったものじゃないな」
「それはっ!」
「上司が高潔だろうが、馬鹿だろうが、等しく彼らは部下に対して責任がある。それでも必ず人は死ぬだろう。味方を死に追いやる覚悟、敵に恨まれる覚悟が君にあるのかい。たかがワイドボーンごときを恐れる君に」

「……」
 もはや再びテイスティアの口からは、言葉は出なかった。
 否定の言葉も何も思いつかず、アレスを見る事も出来ずに項垂れた。
 地面に落ちる涙をぬぐおうともせず、嗚咽する。

 そんな酷くみっともないテイスティアの肩を、アレスは叩いた。
 随分と軽く、優しい。
今までの攻める口調から一転して、優しげな口調が頭上から振る。
「別に君が嫌いなわけじゃない。ただ復讐という言葉だけで、実際に戦う事が怖いのであれば、やめて平和に暮らした方がいい」

「死ぬのが」
「ん?」
「死ぬのが怖くないんですか。自分の間違えが、味方を殺すかもしれないんですよ? それでもあなたは!」
「人並みには怖いさ。けど、それで自分が何もしないままで終わるのはもっと嫌だな。それなら、俺だって軍人にならずに平和に暮らすさ」

 何とか反論しようと視線を周囲に回せば、コーネリアもローバイクも助けてはくれそうにない。アレスの言葉に若干の呆れこそあれど、彼に賛同する様子だ。
 それでもテイスティアは視線を回して、ワイドボーンを見る。
 最上級生は、赤い鼻を鳴らして見せた。

「何だ、貴様は。言いたい言葉があるのならば、他人に頼らず自分の言葉でいえ。だから、貴様は無能で、俺は貴様が嫌いなんだ」
 取り付く島もなかった。
 瞳をこすって、奥歯を噛む。

 誰も味方もいない状況で、テイスティアが出来る事は――逃げることだけだった。
 走りだした彼を誰も追ってこない。
 それはそうだろう。自分など追う価値もない。
 きっと彼らは笑っているだろう。

 笑われる事にはなれていた。
 でも、その笑いはそれまで無能と彼のことを笑っていた同僚の笑いとは違う。
 自分の才能や技術に対しての笑いではない、それまで自分が唯一自信を持っていた根幹たる覚悟を笑われているのだ。

 父の敵を取ると、心の中で誓った覚悟を。
 それに対して、それまでのように同調するように笑って誤魔化すことはできない。
 けれど――それなら、何故自分は……逃げている。
 もっと反論すれば良かった。

 馬鹿にするなと、上級生が相手でも言えば良かったのだ。
 でも、出来なかった。
 その理由をテイスティアは知っている。
 反論をしなかったわけではない、反論が出来なかったのだ。

 心の中では父の敵を取ると思い、周囲に笑われることも出来ない事も、それを免罪符にして逃げてきただけだった。
 それを真正面から、テイスティアは見せつけられることになった。
 そして、現に自分は逃げた。

 走りながら、情けなくなり――自嘲めいた笑いが口から洩れる。
 結局、自分は逃げるだけしかないじゃないかと。
 まるで氷のように心を抉ったアレスの言葉が、今は酷く甘い蜜のように感じられた。
 ――君は辞めた方がいい。

 + + +

「随分と優しいことだ」
 鼻を押さえながら、ワイドボーンが立ち上がり、言葉にコーネリアとローバイクは顔を見合わせた。
 アレスの言葉のどこに優しさがあったというのだろうか。

 確かにテイスティアの覚悟の足りなさには、彼らも思うところがある。
 まだ子供とはいえ、士官学校は遊びで入れる場所ではない。
 戦いを学び、働く場所なのだ。
 それでも辞めろとは、面と向かってなかなか言えることではない。

「何も言わなくても奴は無能で進学できないと、何度も言っているだろう。何もしなくても辞めさせられる人間に、なぜわざわざ情けをかけてやる」
「自分の何が足りないかを考えることは大事だと、ワイドボーン先輩も良く知っているでしょう」
「ふん。俺はあんな無様に人前では泣いたりしなかった」

「左様で……。ま、それに気づいてもらえれば今の時期でしたら成績くらい取り返しがつきますし、逆に耐えきれないと辞めるなら辞めるのが早まっただけです。同じ辞めるのでも、早い方がいいでしょう」

「お優しいことだ。俺にはできんな」
「先輩も少しは優しくなってますよ、迎えにいく程度には」
「お前がいけといったんだろ。俺は言われるまで来てない事に気づきもしなかった」
「そうでしたか?」

 小さく呟いて、アレスは肩をすくめた。
 見下ろすワイドボーンに、苦笑を浮かべる。
「でも、やっぱり優しくはないと思いますよ。そのまま平和に生きられるなら生きた方がいい……死ななくても良い人間を、役に立つという理由だけで死地に連れ戻そうとしているのですから」

「ふん。戦場だろうが社会だろうが、逃げる奴は結局逃げるさ。戦場だけが死地であるわけでもないだろう」
「確かに……年の甲という奴ですか」
「お前に言われると馬鹿にされているような気がするな。ところで、アレス後輩」

「何です、ワイドボーン先輩」
「……ワイドボーンごときの『ごとき』の部分について、ちょっと教えてくれ」
「ワイドボーン先輩っていったんですよ、先輩」

 ワイドボーンは誤魔化されなかった。


 

 

それぞれの理由



 士官学校の夜は早い。
 時間に完全に縛られており、消灯時間も決められている。
 それでも抜け出す人間や夜に起きている人間はいるが、見つかれば厳罰であるため騒ごうとする人間はいない。
 広大な敷地を確保するために、周囲に民家や商業施設も少ない。

 必然的に明りは少なくなり、十二時にもなると澄んだ星空と静けさが士官学校を支配する。
 ましてや校舎に夜中まで残る人間はいない。
 だから。

「やっぱりここね」
 唐突に聞こえた言葉に、驚いたようにテイスティアは背後を凝視した。
 校舎の屋上――そこへ繋がるはしごから女性の頭がはみ出ていた。
 息が止まりそうになりながらも、泣きはらした赤い瞳でまじまじとみれば、見知った人物だと気づいた。

 ミシェル・コーネリアだ。
「ど、どうして」
「しっ。気づかれるとまずいわよ」
 小さく唇に指をやる姿に、慌てたようにテイスティアは口を閉ざした。

 それでも疑問の入り混じった表情に、コーネリアは小さく笑った。
 柔らかな魅力を持つ、大人の笑みだった。
「一人で泣ける場所なんて、そう多くないでしょう。特に一年生が一人になれるところなんてね」
 第一校舎の屋上。

 そこは階段こそ鍵がかかっているものの、外壁の点検口へと繋がるはしごが屋上に設置されており、そのはしごは最上階の一室――壊れて鍵のかからない窓からぎりぎり届くところにある。
 人気のないところは隠れたデートや一人になりたい人間にとって欠かせないところであるが、それでもこの屋上は下手をすればはしごに手が届かず落ちる危険性もあり、何より当直員の寝室が第一校舎にあるということもあって、不人気な隠れスポットになっていた。
コーネリアが屋上にあがり切ると、テイスティアはこちらに向いていた。

 微かに恥ずかしそうにしている。
 まだ髪が濡れているのは、風呂に入って、そう時間が経っていないのだろう。
 一番風呂は最上級生であり、次が四年――一学年の風呂の時間は就寝時間間際だったはずだ。
「あの……その、ごめんなさい」

「それは何に対してなの?」
「僕が逃げだしたから」
「そりゃ、いきなり上級生から辞めろと言われたら逃げたくなると思うけど?」
「違うんです。その……僕が逃げたのは。その、あの」

 コーネリアの言葉に、否定の言葉を告げて、テイスティアは首を振った。
 何度もつっかえるテイスティアの言葉を、コーネリアは黙って聞いている。
「そのですね……やめろと言われたのはショックだったですけど、そんなにショックではなかったというか」

「ん?」
「やめろとはいつも言われてたから……確かにアレス先輩には初めて言われて、少しはショックでしたけど。でも、違うんです。僕が逃げだしたのは、逃げだしたのは……」

 言葉に迷っているというよりは、考えを言葉にするのが怖いように、コーネリアは見えた。
 それでもテイスティアは――今度は逃げださずに、真っ直ぐに答えた。
「自分の覚悟がないことに気づかされたから」
 その表情は無力さに気づいた、よわよわしい少年のものだ。
 儚くひどくもろい。
 それでも恐々としながら、呟かれた言葉。

 まだ十五歳だものね。
 あの一つ下の後輩を見ていれば忘れてしまいそうになるが、テイスティアはまだ十五歳なのだ。
 それを自分と同じ年齢――いや、彼に至っては実年齢より遥かに成熟しているようだが――と同じように求めても無理があるだろう。
 その点で言えば、アレスの言葉は正論であり、間違えているとも言えた。

 他人の死への責任を感じるには早過ぎると思う。
 けど、今ではないと遅過ぎなのよね。
 テイスティアに覚悟を求めるには早過ぎる――けれど、覚悟を求めなければ、現在の成績では、彼は落第することになる。

 それならばと、アレスは今それを伝えることを考えたのだろうが。
 下手をすれば自分の評価を下げることになったかもしれない。
ワイドボーンのように何も言わなければ良かったのに。
 優しいことだと言った、ワイドボーンの気持ちがコーネリアは今になってわかった。

 実際に、アレスの事がなければコーネリアもこうして動こうとは思わなかっただろう。助けを求められれば助けるかもしれない――だが、テイスティア自身は助けを求めることすらしていなかったのだから。
「あの……」
 何も言わないコーネリアに、テイスティアが言葉をかける。

 不安げに揺れる瞳には、怒られることへの恐怖があるようだった。
 別に怒るつもりはないと、小さく首を振った。
 すぐに言葉が出てこないのは、回答が思いつかなかったからだ。
 コーネリアは考えながら、テイスティアに近づいた。

 小さく胸を押さえる小動物のようだった。
 彼が果たして戦場に行くことが出来るだろうか。
 戦場で最善の判断を行い、敵を殺すことを決断できるだろうか。

 覚悟がないと言った彼では、とても無理なことのように見えた。
 そんな彼を戦場に狩り立たせるのか。
 その必要があるのだろうか。

 ――結局は、この子次第なのよね
 小さく息を吐きながら、フェンス越しに下を見れば――明りのない闇が広がっている。遠くに街灯りが見えた。おそらくは金曜日の今日であるから、あの街に向かって何人もの脱走兵がいるのだろう。同時に帰ってくる彼らを待ち構える巡回兵も増える。
 今日の見回りはアレスらしい。

 脱走兵にとっては酷く可哀そうなことだが。
「私にも全ての覚悟があるわけじゃないわ」
「そんなこと」
「ないと思う? でも、ない方が自然でしょう。平然と敵や味方を殺せるわけがないわ。ああ言っているけど、アレスもそうじゃないかしら」

 怪訝そうに見上げるテイスティアに、小さく首を振る。
「別に覚悟がない事が悪いわけじゃない。怯える事が悪いわけでもない。誰もがそう。ようはそこで逃げるか、逃げないかじゃないかな」
「……どうして、先輩は逃げずに戦えるのですか」

「参考にはならないわよ」
「教えてくれませんか」
 少し迷ったようにコーネリアは口を止めた。
 テイスティアが見上げている。

 真剣に聞き逃さないとする様子に、コーネリアは苦笑する。
「私は士官学校に入った理由なんて、あなたみたいに大きな理由があったわけじゃないわ。ただ中等科の時に好きだった人が、士官学校を受験したから。ま、その人は落ちたわけだけど。アレスも言っていたでしょう。別に士官学校に入った理由――戦う理由なんてどうでもいいのよ。どんな理由だって、恐いものは恐いのだから。でも」

 と、コーネリアは小さく呟いてフェンスにもたれかかった。
「入ったら入ったで、きついし、辞めたいと何度も思ったわ。その上、過去の戦いを見たら見たで、酷い戦いがいっぱいあるわけよ。あまりに酷い艦隊運用とか見てると、私ならもっと救えたのにってね。そう思ったら、もう逃げられなくなった。私は誰よりも艦隊運用には自信があるし、その自信が私を支えてくれる」
 いまだに固まるテイスティアに、コーネリアは笑いかけた。
 言葉はでないものの、それだけかという表情が隠れている。
 きっと逃げない理由に、凄い理由があると思っていたのだろう。
 あるいは、全て解決する完全無欠の回答か。

 そんなもの存在するわけがないのに。
「その……ありがとうございます」
「でも、勘違いしないでね。私が言った理由は私だけの理由よ――あなたにはあなただけの理由があるわ。それを私が教えることはできない、自分で考えなさい」
「ごめんなさい」
 慌てたように謝ったテイスティアに、コーネリアは微笑む。

「謝らなくていいわ。別にいますぐに見つけろってわけじゃないし」
「え?」
「そんなに簡単に人を殺す理由を見つけられても驚くわ。むしろ、一学年なんて何も考えてないんじゃないの。それは、あと五年間で、ゆっくりと見つければいいの。それが普通だし、アレスが早熟し過ぎているのよ」

 呆れたような言葉に、テイスティアは目を白黒させている。
「いま答えが見つからない事が悪いわけではないのよ。この五年間に探せばいいだけのこと。それにこれは私のことだけれど、誰にも負けないものがあれば結構楽よ。自信にもつながるわ」
「でも、僕は……」
「あなたにしかできないことだってあるはず。そのヒントは、もう貰っているでしょう」

 くすっと笑ったコーネリアに、テイスティアは大きく目を開いた。
 士官学校に入って、初めて褒められた言葉。
 自分にそんな能力があるなど思ってもいなかった。
 だからこそ。

「自信がない?」
「はい」
「私だって最初から艦隊運動に自信があったわけじゃないのよ。何度も失敗して、挑戦して、戦術シミュレーターにこもって――ようやく自信がついたのだから」
「僕にも……出来るでしょうか」
「やればいいじゃない。失敗しても、あなたが困るだけで終わる。何百人の命を背負うより、遥かに楽なことでしょう」

 あっさりとコーネリアは言った。
 確かに、今まで自分が悩んでいたことに比べれば、自分だけで終わると言うのは遥かに簡単に聞こえた。
 もちろん、恐い。
 失敗したらどうしようと思う。

 誰だって失敗をしたくない。
 でも、辞めたら失敗すら出来なくなる。
「コーネリア先輩。僕――もう少し頑張ってもいいでしょうか」
「それになぜ、私の許可が必要なの」
「そうですね。……僕、もう少し頑張りたいと思います」
 言いなおした言葉に、コーネリアは満足そうに頷いた。

 + + +

「すみません。ご迷惑をおかけしました」
 小会議室の扉が開くや、声とともに頭を下げる少年がいた。

 小さく片眉をローバイクがあげ、コーネリアが出迎える。
 いらっしゃいとの言葉に、テイスティアも嬉しそうに微笑んだ。
 しかし、それは一瞬。すぐに真面目な顔になれば、アレスの方に歩きだした。

 アレスも何も言わずに向かい合う。
 視線に対して、テイスティアは怯むことなく頭を下げた。
「アレスさんの言っていた覚悟は、僕にはまだわかりません」
「そうか」
「でも、僕はやめません。覚悟もない駄目な僕だけれど、その理由を見つけたいから――僕はやめません」

「卒業まで見つからないかもしれないよ」
「かもしれません。でも、僕は今まで何もしなかったから。もう遅いかもしれませんけど、頑張りたいんです」
 テイスティアの答えに対して、アレスはしばらく彼を見つめた。

 怯えのない目が、アレスを捉えている。
 アレスが何を言ったところで、迷わない。
 そんな瞳に、アレスは小さく髪を撫でた。
「なら、好きにしろ。元より辞める辞めないは君が決めることだ」

「ええ。でも、先輩には――アレス先輩には言っておきたくて」
「普通は、最初は私に言うものだと思うがね」
 少し不愉快気な声に、アレスとテイスティアがワイドボーンを見た。
 口をへの字に曲げている様子で、どこか拗ねたようだ。

 そんなワイドボーンらしからぬ姿に、アレスは笑い――テイスティアは頭を下げた。ごめんなさいとまた謝る姿に、周囲の表情が綻ぶ。

 あがる笑い声に、テイスティアも照れたように笑っていた。
「まあいい。嫌われるのは慣れている。それより訓練の後は、テイスティア――お前は残れ」
「え、は、はい」
 戸惑いながら頷いたテイスティアに、ワイドボーンは意地悪げな笑みを浮かべた。
「貴様一人が頑張ったところで、どうせ無駄だ。だから」

 笑みを浮かべたままで、周囲を見渡す。
「だから、君らが責任を持って、彼に教えろ。ローバイクは兵站と一般常識について、コーネリアは艦隊運用、機関工学について。そして、アレス、貴様は戦略概論と戦史、戦術分析だ」
 小さく目を開いたアレスに、ワイドボーンは眉根をしかめた。

「何だ、不満なのか」
「いえ。戦史はともかく戦略概論や戦術分析はワイドボーン先輩が教えると思ってましたから」
「ふん。こんなところで意地を張っても仕方がないだろう。戦略や戦術については君が適任だと思ったから、そう言っているのだ」
「で、ワイドボーン先輩は何を教えるのですか?」

「俺は陸戦実技と射撃実技を教えてやる。君らでは出来ない事だろう?」
「ええ、あまり得意ではありませんね」
 そうだろうと、ワイドボーンは笑い、いいなとテイスティアに確認する。
 話の流れに唯一ついていけなかった彼は、言葉の意味にようやく気付いた。

「そ、そんな。皆さんに迷惑をかけるわけには」
「貴様が無能な方が迷惑だ」
「す、すみません」
「だから、迷惑にならないように教えてやるといっているんだ。それにな……」

 顔を覗かれて、驚いたようにワイドボーンを見つめる。
 睨むような姿にも、戸惑いはすれ目をそらす事はなかった。
「良い顔をするようになった。少なくとも自分の無能すら理解できない馬鹿から、無能を理解する馬鹿になったようだ。厳しく教えてやるから、覚悟をしておけ」

「は、はい。お願いします」
 テイスティアは大きく頭を下げ……顔を覗いていた、ワイドボーンに力強く頭突きをした。


 

 

戦いの前に



「ローバイク先輩。作戦は中止だ、テイスティアが見破った。右翼は固められる」
『了解』
 短い言葉に、コンソールを激しく叩く。
 右翼の奇襲を狙っていた部隊を下げる。

 さすがに右翼の奇襲に相手は備えていたため、本隊への攻撃は薄い。
 それでも奇襲に対処する左翼が本隊に戻るのと、奇襲部隊がこちらに合流するのでは、圧倒的にあちらが早いだろう。
 さらに言えば、向こうはミシェル・コーネリアがいる。
 自分の腕のように艦隊を引き寄せる姿に、アレスは敵の攻撃までの時間を五分から三分へと短く修正した。

 三分後までに出来るこちらの艦隊行動を予測し、最適となる行動を予測する。
 三分間で出来る行動は二十種類、しかし迷い二分になれば五種類程度しか出来なくなるだろう。
「奇襲部隊は速力八十パーセントで後退しつつ、二分三十秒後に再度前進できるか」
『了解』
 短い言葉が帰ってきて、その間にこちらの部隊を固める。

 コンソールへの入力だけで、艦隊が中央へと集まる様子を見つめて、アレスは眉をしかめた。
 間に合うか。
 時間との勝負であるが、こういう勝負になればやはり戦術シミュレーターは機能しないと思う。
 こちらは入力すれば終わるが、実際の艦隊運動では命令伝達までのロス時間があるだろう。ローバイクのように、説明も求めず素直に従ってくれるならば良いが、下手をすれば説明に時間をとられ、最悪間に合わない可能性もある。

 そう考えると、こちらとしては最適な作戦よりも時間に余裕のある策をとった方がいいだろう。
 時間が経つにつれて手ごわくなっているのは確かだが、テイスティアはワイドボーンの頭突きによって、当たり所が良かったようだ。あれ以来、随分と手ごわくなっている。最初のころは、何もなくても慌てたように逃げていたが、少しずつこちらの狙いを正確に読み取るようになってきている。

 見せすぎたか。
 それなら、ちょっと趣向を変えよう。
「ローバイク先輩。作戦を変更します、敵左翼に攻勢をかけます」
『勝てないかもしれないが』

 短い言葉に、アレスはゆっくりと首肯した。
 コンソールを叩く指は、それまでの作戦から大きくかえたものだった。
 敵本隊の殲滅ではなく……。
「時には戦闘では勝つよりも、必要なことがあると思います。第二次ティアマト会戦のように」

『……。了解』
 短く呟かれた言葉に、それだけでローバイクは理解してくれたようだ。
 例え、大勝したとしても一個人の死が戦況全体に及ぼす可能性がある。
 もし、第二次ティアマト会戦で、ブルース・アッシュビーが生きていたらその後の同盟軍の戦況は大きく変わっていたかもしれない。一戦では勝ったが、それが戦争に勝つわけではない。

 もしテイスティアが敵であり、一戦ごとに成長するのならば、この戦いは負ける覚悟をしても、彼を始末しなければならない。
 そう思い、アレスはコンソールのボタンを叩いた。

 + + + 

 全体的な戦況が優位に進む中で、ワイドボーンは被害艦艇の情報に目を走らせた。
 あの悪辣な後輩が、何かを狙わないわけがない。
 だが、それが掴めない。

 敵の奇襲を看破し、浮いた奇襲部隊はこちらの背後を突くわけでもなく、遠巻きから攻撃をするに留まっていた。だからこそ、こちらが数で優位に立ち、敵本隊を攻撃しているのだが。
「おい、テイスティア。相手は他に奇襲部隊を残していないのだろうな」

『たぶん。大丈夫だとおもい……ます』
『大丈夫なの、テイスティア』
『ええ。ちょっと攻撃が厳しくて、すみません』
『そう。こちらから少しだけだけど応援を向かわせるわ、耐えられる?』
『すみません、コーネリア先輩』

 通信される言葉を聞いて、ワイドボーンは唇を噛んだ。
 目を走らせる戦場の様子から、間違いないことを確信して、叫ぶ。
「あの野郎――鬼か」
 気づいた事実は、数値から間違いない。

『どうしました、ワイドボーン先輩』
「どうしましたかじゃない。コーネリア、貴様は全力を持ってテイスティアを守れ」
『え、あ。はい』
「狙いは、テイスティアだ。奴はテイスティアを狙ってきている」

『え、えええっ! な、何で!』
「なんでじゃない。貴様が敵だった場合を、奴は考えたんだろう。これからの戦いでさらに成長されたくないから、貴様を先に始末することを考えたんだ」
『お、鬼ですか!』

「だから、そう言っているだろう。コーネリア、さっさとしろっ!」
『しかし、ここを開けると、敵奇襲部隊によって攻め込まれますが』
「そちらはこちらで何とかする。テイスティアを死なすな!」
『りょ、了解しました』

『ああっ、アレス先輩がよく攻勢に使う陣形を取ってます!』
「知ってる。援軍が駆け付けるまで耐えて見せろ!」
 本隊が損害を恐れずに左翼に攻勢をかけ始めた。
 防戦を行おうとしても、数的優位な上にアレスの繰り返される攻勢に、テイスティアがどれだけ奮闘しても耐えられるはずもない。

 次第に削られる部隊に、コーネリアの援軍が到着した。
 同時に、コーネリアのあいた場所に奇襲部隊が突入――ワイドボーンが少ない部隊ながらも陣形を広げて、大きな出血を防いだ。
 それでも。

『な、何て攻勢なのよっ。あいつ、本当にあんたを殺しに来てるわね!』
『ぼ、僕が何をしたっていうんですかっ!』
 テイスティアが絶望の叫びをあげた。

 + + + 

「この戦いは何なのよ」
 疲れたようにヘッドフォンを外したコーネリアが愚痴交じりに呟いた。
 結局、アレスの攻勢の前にテイスティアの旗艦は敗北した。
 それでもワイドボーンがローバイクの艦隊をほぼ全滅まで追いこんでいる。

 結果としては4対6でアレスの勝ちであった。
 相変わらず、彼の無敗記録を更新したわけであるが、一歩間違えればそれも途絶えていただろう。コーネリアが、あるいはテイスティアがもう少しアレスに打撃を加えていれば、逆転していたかもしれない。

 しかし、まったく嬉しくもなんともない戦いであった。
「……うぷっ」
 テイスティアが筺体の中で吐きそうになっている。
 それも理解できる。

 あのアレスの攻勢は鬼といってもいい。間隙なく続けられる攻撃に、休まる時間はない。コーネリア自身もコンソールを三十分以上の長きに渡って叩き続ける羽目になった。
 これほどの攻勢は、ワイドボーンが敗北した一戦以来だろうか。

 その当の本人は、先に筺体から抜け出してアイスコーヒーを飲んでいるのだから。
 にがっと小さく嬉しそうに飲んでいる様子に、思わず恨み事をぶつけたくなる。
 戦術シミュレーターで、敵将を狙うなど初めて聞いた。

「アレス! この戦いは俺の勝ちだ」
「何いってんですか、先輩。結果では俺の勝ちだったでしょう」
「だが、こちらはテイスティア、そっちはローバイクを失った。今後はともかく、現時点ではそちらの方がダメージは大きいだろう」

「現時点ではですけど、次はそちらはコーネリア先輩とワイドボーン先輩しかいませんよ?」
「くっ」
 ワイドボーンは歯ぎしりをした。

 再び同数で、アレスと戦う。
 それを想像したのだろう。コーネリア自身もごめんであった。
 今回もテイスティアがいなければ、ローバイクの奇襲艦隊に右翼が蹂躙されていただろう。それを敵の数と動きにいち早く気づいたテイスティアはお手柄と言ってもいいかもしれない。
 けれど。

「うぷ」
 テイスティアは吐き気を誤魔化すので精一杯の様である。
 戦術シミュレーターとはいえ、正面から命を狙われたのだ。
 ご愁傷様と言いたくなるが、可哀そうなのはローバイクもだろう。

 もっとも、当の本人は四時間もの戦いを終えたというのに、元気であるのだが。
「結局、貴様には一回も勝てないままか」
「いや、今回はぎりぎりでした。テイスティアを狙わなくても、勝てるかどうかは五分でしたからね。次はどうなるか……まあ、その次はテイスティアはいませんけど」
「大丈夫だ。奴ならヴァルハラだろうが、天国だろうが、呼べば来る!」

「無理でしょ、それは」
 アレスが即答して、周囲に笑いが起きた。
 テイスティアも、そして普段はあまり笑わないローバイクも笑っている。
 狭い筺体から抜け出して、再び小会議室に戻る。

 それぞれコーヒーやアイスティを手にして、扉を開けば、いつもの部屋があった。
 たった一カ月ほどの時間であったが、まるでそこは懐かしい家のようだった。
 ここで多くの事を語った。
 多くの事を教えた。

 多くの事を学んで、何より多くの笑いがあった。
 懐かしい思いとともに、明日で終わるのかと思えば寂しさがコーネリアに到来した。
 明日――戦術シュミレート大会が開催される。
 一週間ばかりの時間は、あっという間に終わるだろう。

 そして、それが終われば……。
 誰もが静かに座り、熱いコーヒーをワイドボーンは一口飲んだ。
「さて、Eグループの戦いは明日になるが。皆は各グループの優勝は知っているか?」
 言葉に、誰もが頷いた。

 戦術シミュレーターの予選大会はグループごとに開始されており、残すグループはEグループだけとなっていた。
 Aグループは予想通りヤン・ウェンリーが勝利した。
 Bグループは各学年の次席が三人も揃ったグループであり、Cグループはラップとアッテンボローのグループだ。

 Dグループも優勝がでそろった。聞いたことがない名前であったが。
 残念ながらフェーガンはBグループの二回戦で敗退している。
「データでしか見ていないが、みんな良い用兵をする。なかなか手ごわいな」
 しみじみと呟いたワイドボーンの言葉に、周囲が驚いたように顔をあげた。

 それまで学年主席以外は歯牙にもかけなかったのを知っているからだ。
 その表情に、ワイドボーンは何だと不満げではあったが。
「さて、諸君はこの大会の前予想は知ってるか?」
「それなりには」

「うむ。端的に言えば、二学年を除いて、私達のチームは、トップグループの中でも下の方だ」
 少しの怒りもなく、ワイドボーンは告げた。
 確かにコーネリアの学年でも、学年主席とは言えワイドボーンは勝てないだろうという意見で占められている。

 それは本人の人望によるところなのか。
「二学年だけは、貴様がなぜか勝てるという予想なのだが。どう思う、アレス候補生」
「フォークに勝ったからじゃないですか」
「それだけではないと思うが、まあいい。そんな予想なのだが……」
 ワイドボーンが机の上に、紙をおいた。

 それは手書きで書かれた汚い文字――文字にあるのは、戦術シュミカルチョという文字とともに、100ディナールの文字だった。
「私は自分のチームに賭けた。勝ったら7倍の700ディナールだ」
 思わぬ大金に、周囲が大きな目を開いた。

「そして、私はこの700ディナールで、街で祝勝会を開く私達の姿が見える。随分と豪華になる」
 周囲の視線が集中する中で、笑っていたワイドボーンが表情を消した。
 真剣に、周囲をゆっくりと見ながら呟く。

「冗談はさておき。私はこの大会には何の意味もないと思っていた。しかし、何だ……随分とこの一カ月は楽しい大会だ。これを企画した人間に感謝してもいい。明日も決勝大会も、非常に厳しい物かもしれないな」
 言葉は、本音のようであり、誰もが納得したように頷いていた。

 わずか一カ月で多くのことがあった。
 先ほど寂しさを感じたのは、きっとコーネリアだけではないのだろう。
 テイスティアも何度も頷いている。
 普通の士官学校では上級生と交流することはあまりない。

 それが上級生の話を聞け、学び、そして共に闘う。
 ワイドボーンの言葉通り、これを企画した人には感謝してもし足りない思いがある。
 アレス・マクワイルドだけが小さく苦笑していたが。
「私は今まで天才だと言われてきた。そうだろう、私は天才なのだから」

 自信を持った断定で、ワイドボーンは小さく笑う。
「その天才が断言する。君たちが負けることはない――負けるところなど考えられないと。異論はあるか?」
「ありませんよ、先輩」

 アレスの言葉を筆頭に、誰もが異論がないと告げる。
 ワイドボーンは目の前でにっと笑みを浮かべた。
「そうか。では、諸君――明日は大会の本番だ。何、気にする事はない。私達はただ、勝つだけだ」
「はっ」

 呟いた言葉に、周囲が一斉に敬礼を行った。
 ワイドボーンが答礼で返し、ゆっくりと腕を下げ、小さく呟いた。
「ありがとう……」
 その言葉は、誰も聞こえなかったであろう。
 しかし、誰もがゆっくりと頷いて、同じ言葉を呟いたのだった。

 

 

アンドリュー・フォーク


 Eグループ第一試合。
 戦術シミュレーター大会を全員で行う事はできない。
 一学年で5000人近い人数がいる士官学校である。
 ただでさえ、時間限界まで短縮させないようにしているため、一試合行うのに半日は時間がかかるだろう。それを全校生が同時に行えるほどに、戦術シミュレーターの筺体はないし、何より審判となる教官の数も足りない。

 結局、折衷案的に行われたのが五グループにわけて、最終週に各グループの優勝者による決勝戦を行うというものであった。
ランダムという名目ではあるが、それぞれのグループの人間を見れば、どのような集まりであるのかは一目瞭然である。
結果として最終週の、このグループは死のグループと呼ばれるほどに激戦が予想されていた。

 月曜から開始された大会は、トーナメントで半分ずつが消えていき、最終日には決勝戦が開始されることになっている。
 幸か不幸か、ワイドボーンはシードとなっているため、二日目の二回戦から開始となる。それでも見学にと、千人近い人数が戦術シミュレーターの筺体に集まっているため、周囲は騒然としていた。

 まだ他のグループは通常通りに授業があるため、少ない方なのだろう。
 これが最後の決勝大会は授業すらも休みとなるらしいから、どうなるのか頭が痛くなる。
「いや、壮観だね。屋台でも出たら、凄い売上になるだろうね」

「部屋の中で屋台かよ」
 呆れたようにアレスが呟きながら、仮設に設置されたモニターを覗きながら答えた。現在、第一試合が開始されたばかりで、大きな動きはない。

 戦っているのは原作でも名前が出てこなかった人間であり、二学年の同級生もクラスが違うため誰かはわからない。
「でも、それくらいこのグループは注目が高いよ。各学年のトップクラスが集まっているわけだからね。そのグループに入れられた小市民のことも考えてもらいたいよ」

「お互いがあがれば、準決勝で当たりそうだな」
「その前に一学年主席が、僕の前にいるわけなんだけどね」
「こちらは三学年の主席だな」

「そっちは五学年の主席がいるじゃないか」
「主席だらけだな」
「……そうだね」
 スーンが深いため息を吐いた。

 その様子に、アレスが怪訝そうな顔をする。
「何だ。その顔は?」
「自分で気づいてないの、てか、ないんだろうね?」
「だから、何だと言っている」
「あのね。アレス――君は元々目つきが悪いんだよ」

「知ってるよ」
「それはおいておいてさ。でも、たまにそんな悪魔のような笑顔を見せるんだよ。ワイドボーン先輩と戦った時とかね。そうなったら僕は今まで敵が可哀そうだなって思ってたんだけど……その敵が今回は僕だった」
 がくっと項垂れたスーンに、酷いなとアレスは呟いて顔を撫でた。

 別段、表情を変えたつもりはない。
 ただ、もし彼らに出会う前であればここまで本気になることはなかっただろう。
 良い出会いがあったからこそ、負けられないと思う。
 そう考えれば、口の端がゆっくりと持ちあがる感触があった。

 負けないさ。
 そう考えたところで、背後から声が聞こえた。
 最初は周囲の雑音に紛れ込み、気づかなかった。
 しかし、何度もマクワイルドの名を呟かれれば気づかざるを得ない。

 振り返れば、そこにスーンほどの身長をした茶色髪の男がいた。
 狡猾な印象を持つ、蛇のような顔つきをした男だ。
 酷い表現であるが、こちらを睨むように見上げる表情はそう表現するのが適切に思える。

 アンドリュー・フォーク。

 アムリッツァの最大の責任者にして、子供の精神力を持ったと噂される人物。
 そして、困ったことに自分の同期となる人間であった。

 + + + 

「随分と余裕だな、マクワイルド候補生」
 取り巻きを数人連れながら、フォークは大げさな動作であざ笑った。
 同じ学年主席で、しかも原作では散々な言われようのワイドボーンとフォークであったが、決定的な違いがこれであった。

 ワイドボーンは孤高であり、自分のレベルに合わなければ徹底的に他者を切り捨てる。だからこそ、他者を見下すところがあり、人望がないとされている。
 逆にフォークは、他者を利用するのが非常に上手だ。

 周囲から自分を持ちあげてもらう事によって、現在の地位を確立しているのだ。
 同じ学年主席で、馬鹿の代表でもあるが、方向性は逆のベクトルで動いている。
「君などが勝てるわけがないだろう。そうは思わないか?」

「全くだ」
「マクワイルドは身の程を知った方がいいな」
 周囲の取り巻きが同調すれば、スーンは呆れたように息を吐いた。

 面倒との表現をあからさまに顔に出すが、こちらも同じ気分だった。
「思い込むのは勝手だろう?」
「はん。君の司令官だったか。名前を何といったかな……それよりも、彼が周囲から何と言われているか知っているか、マクワイルド候補生。他者の失敗を喜ぶ、自称天才だよ。何でも過去には千位以内にも入っていない奴にも負けたそうじゃないか」

「よく知ってるな。だが、その千位以内に入っていない先輩は、今回もしっかりと決勝大会に残っているが」
 苦笑気味にアレスは答える。
 彼が全くの無能と言えないところは、この情報収集力だ。

 周囲に持ちあげてもらうため、様々な噂を収集し、あるいはその情報を自分に有利に書き換える。だからこそ、アムリッツァでも政治家の軍事作戦に上手く相乗りをする事ができたのだろうが。
 全くの無能であれば、そこに至ることすらできなかっただろう。

 もっともこの妙に才能のあるところが、二千万人を犠牲にする羽目になるのだが。
「それで勝てるつもりか。僕のチームは、二学年主席である僕を含めて、四学年主席のシュレイ・ハーメイド先輩だ。人望も厚く、戦略眼もあり、戦術技能も十分過ぎるほどある。そちらの四学年は誰だったか、無口な男だろう?」

「おしゃべりよりはマシだな。雄弁は銀でしかない」
 けなそうとして、一息で返される様子に、フォークは奥歯を噛んだ。
 それでもただ叫ばないのは、他に考えていることがあるからだろう。

 その考えが手に取るようにわかる。
「他は暇があれば艦隊戦のDVDを見るオタク女に、使えない弱虫男か。なかなか素晴らしいチームのようだな、マクワイルド候補生」

 そうフォークが馬鹿にしたような笑いを浮かべれば、取り巻きが笑い声をあげる。
 しかし、その笑い声は長くは続かなかった。
すっと細くなったアレスの瞳に、フォークの笑いが止まった。
 表情をそのままにして、アレスは唇をゆっくりと持ちあげる。

「それは随分と古い情報だな。フォーク候補生――」
「な、何だと」
「時代遅れの情報がそんなに嬉しいのか? まして、相手の欠点を見て安心してどうなる。君は自分の実力に自信がないのか?」

「ふざけるなっ。そんなわけがないだろう!」
「なら、弁舌ではなく行動で見せろ」
 アレスが足を踏み出せば、同時にフォークが一歩後ろに下がった。

 取り巻きの男にぶつかり、助けを求める視線を送れば、アレスの気配の前に誰も口を挟めないでいた。
 動こうとしない様子に、フォークは唇を噛み、睨むようにスーンを見る。
「き、貴様も取り入る人間を考えた方がいいぞ」
「アレスの目がまともに見れないからって、僕に振らないでよ。それより、早く逃げた方がいいと思うよ。いまアレスが恐い顔しているから……」

「貴様ら後悔することになるぞ!」
 吐き捨てるようにいって、フォークは踵を返して歩きだした。
 走らなかったのは、僅かながらの矜持であるのか。

 それでも早足の様子に、取り巻きたちもついていくのが精一杯の様であった。
 その姿に、アレスは深くため息を吐いた。
「喧嘩を売るなら、最後まで売れよ」

「本人にとっては、売るつもりはなかったんじゃないかな」
「ああ。自分の思い通りの行動を、相手もとってくれると思っているんだろうな」
 なまじ、周囲に持ちあげてもらった反動であるのか。
 彼自身は、それが当たり前に思っているようだ。

 子供と評価されたのは、あながち間違っていないように思えた。
 いや、それが積み重なってアムリッツァに繋がるのか。
「どちらにしても、始末に悪い」
「人気者は困るね」

 そう笑いかけたスーンに、アレスは苦笑で答えた。

 + + +

「くそっ」
 取り巻きの集団と別れて、アンドリュー・フォークは短く毒づいた。
 トイレの洗面台。
 鏡に映る自分の姿を見ながら、フォークは苛立つ心を沈めるように、深呼吸をする。それでも心に残った苛立ちは簡単には抜けることはなかった。

 腹だたしい奴だ。
 そう呟いた心の中で浮かぶのは、先ほどまで会話をしたアレス・マクワイルドのことだった。
 二学年にして、成績は十四位。
 戦略や戦術論に優れているが、不得意科目の艦隊操縦と射撃実技に足を引っ張られている。むしろ、二教科も苦手科目がありながら、二桁の前半に順位が位置することは凄い事なのだろう。

 少なくとも、戦術という一点ではフォーク自身も勝てる気がしない。
 悔しいことであるが、ワイドボーンとの一戦を見て痛感させられた。
 勝てないと。それは認めよう、だが。
「十四位だ、十四位」

 所詮は成績が十四位であり、学年主席のフォークに比べれば遥かに下だ。
 本来なら並ぶことすら許されないのに、戦術シミュレーターでの戦いが全てを変えた。話題に上がるのはマクワイルドだけであり、フォークが注目されることは少なくなった。
それどころか。

 考えて、フォークは唇を噛み締めた。
 マクワイルドと同等の、いやそれ以下の成績の人間から当たり前のように話しかけられる。
 ただクラスメイトというだけでだ。
 今はそうかもしれないが、俺はもっと上に行く人間だ。

 同じと思われるのは、酷く苛立った。
 後悔させてやる。
 フォークは思った。
 今はせいぜい楽しんでおくがいい。

 だが、いずれ上にあがった時、貴様ら全員を後悔させてやる。
 その時が楽しみだと、鏡に映った自分の姿がゆっくりと笑った。

 

 

大会~予選~



『しょ、勝者――ワイドボーンチーム』
 戸惑った声で、教官が勝ち名乗りをあげた。
 周囲ではざわめきすらもおさまり、全員がモニター画面を凝視している。
『青軍損傷率23% 赤軍損傷率74%』

 開始わずか1時間54分――正確には部隊同士がぶつかって、わずか1時間足らずで戦闘が終了したことを告げていた。
 ス―ン・スールズカリッターは、その状況におめでとうという言葉さえ忘れて、モニターを見続けていた。

 小さなため息が漏れる。
振り返ると、同様に先輩たちがひきつった顔を浮かべている。
 ぎりぎりの戦いであった時に戦術性や目標達成率を数値化する審判たちも、もはや呆れたように採点を止めている。
 圧勝だった。

 Eグループの決勝戦――それも四学年の主席と二学年の主席を含めたフォークのチームは総合優勝の候補にすら名前をあげられていた。
 それを反撃すら許さない殲滅戦を仕掛ける。
 誰も語る声もなく、ゆっくりと筺体の前面が開いた。

 最初に姿を見せたのは、チームリーダーであるワイドボーンだった。
 長身の彼は勝利した事が当然と言った面持ちで、ヘッドフォンを外す。
 投げるように筺体におけば、足を踏み出した。

 それと同時に、ワイドボーンチームの面々が姿を見せていく。
 ケイン・ローバイク、ミシェル・コーネリア、リシャール・テイスティア。
 ワイドボーンだけではなく、今までの戦いと、そして、今日の戦いで彼らの名前は有名となったことだろう。

 そして。
「烈火のアレス」
 最後に姿を見せた友人の姿に、スーンはため息を吐いた。
 ワイドボーンの一戦以来、激しい戦い方は烈火とまで呼ばれている。
 その情け容赦のない戦い方は、今日もしっかりと発揮されている。

 別働隊として、赤軍の後背を捉えるや艦隊同士の隙間に対して苛烈なまでの攻勢。
 艦隊同士の連携を失わされた赤軍は、陣形を再編する暇もなく討ちとられていた。
 友人としては鼻が高く、そして味方としては何よりも頼もしい。
 だが。

「昨日はまだ頑張った方だった」
 呆然とした声は、スーンのチームの総司令官――フィリップ・アメーデオ。
 五学年で、それなりに上位の成績を取っていた男であったが、小さく出した声がかすれている。視線の先はワイドボーンではない。その先で、いまだに筺体から出てこれず蒼白となった敵チームだ。

 昨日の自分たちの姿を想像したのか。
 情けない言葉に、誰も反論の言葉をいえなかった。
 こちらも一学年の主席を破ってはいるが、それだけで喜ぶわけにもいかない。
 昨日の準決勝で喜びは一瞬にして、かき消えた。

 違いというものをはっきりと見せつけられた。
 スーンのチームの前にあたった三学年のチームは、いまだに立ち直っていない人間もいると聞く。そう思えば、まだ全員がこうして決勝戦を見ている彼らのチームはマシと言えるのかもしれないが。

 決勝戦前は嬉々としていたフォークですら、いまだにモニターを見つめながら動こうとしない。指を噛みながら、違うと小さく呟く様子に取り巻きさえ近づけないでいる。
 ぎりぎりの戦いであったならば、否定のしようもあったのかもしれない。
 だが、完膚無きまでに徹底的に叩き潰された。
『Eグループ、優勝。ワイドボーンチーム。諸君らはEグループの戦いにおいて……』

 いまだため息しか出てこない中で、始まったのは簡素な表彰状の授与だ。
 シトレ学校長が語る言葉を、当然とばかりにワイドボーンが胸を張っている。
 さらされる視線にどこか居心地悪そうなのが、一学年のテイスティアだ。
 彼の友人であるアレスは、後方の方でどこか難しい表情で聞いていた。
 彼の頭の中では、既に次の戦いを考えているのかもしれない。

 決勝大会でのことを。
「スールジュ……失礼。スールズカリッター候補生はマクワイルド候補生と友人だったか」
「ええ。でも、友達にも全然容赦がなくて困っています」
「猫がトカゲを弄ぶように加減されるのは、御免こうむるな」
「僕もそう思います」
「辛気臭い顔だな、おたくら」

 金属音とともに、笑いを含んだ声。
 背後で知恵の輪をいじりながら、四学年の男がからからと軽薄な笑みを浮かべていた。
 ライアン・プレストン候補生。
 実力こそは高いものの軽い言動と行動から上からの評価は高くない。

 しかし、その明るい性格はムードメイカー的な役割を持っていた。
 彼らのチームが立ち直ったのも、彼のおかげかもしれない。
 三学年を圧倒した試合を見て、次にあたるチームが落ち込んだ時に『奴らの運が最後まで続くわけがない。俺に任せとけ』といいながら、任せる機会もなくワイドボーンチームに敗北。
平然と『落ち込んだ状態で戦うよりマシだろ』と言い放った。

 悪びれもない姿に、誰も攻めることも出来ず、アメーデオですら苦笑混じりに、弱かった自分たちが悪いと結論付けた。
 そういう意味では、このチームで良かったのだろう。
 多くの事を学び、彼らと交友と深められたのは。

 願わくばもう少し戦いたかった。
 そう思うのは多くのチームが考えることではないか。
 表彰状の授与が終われば、短くも長い一週間の戦いが幕を閉じる。
 来週になれば、決勝大会が始まることだろう。

 五つの組みがトーナメントで戦い、長ければ三戦――短ければ二戦で、総合優勝となる。この期間だけは全学年が見学することを許されていた。
 モニターを置いた特設の大講義室が解放される事になっている。
 と、スーンは背中を押された。

 見れば、アメーデオが小さく笑っている。
「戦いは終わりだ。言ってくるといい」
「すみません……」
 小さく頭を下げると、スーンは走りだした。
 友人におめでとうと、告げるために。

 + + +
 
 ワイドボーンが表彰状を受け取り、下がる。
 シトレ学校長が下がれば、そこで一連の流れは終了した。
 テイスティアが嬉しそうに拳を握り、コーネリアがそれを見て楽しそうに微笑む。

 ローバイクは変わらずの仏頂面で、ワイドボーンが振り返り、五人に見せるように表彰状を広げた。
 同時に、全員が頷いた。
 瞬間――それまで、押さえつけられていた声が会場に広がった。
 大きな歓声に、テイスティアがびくりと身体を震わせて、笑いを誘う。

 準備を含めれば、長く――そして、短い戦いが終わりを告げた。
 残すところは、あと二戦。
 ラップ……そして、ヤン・ウェンリーか。
 名将と戦うことは嬉しくもあるが、これまでのように簡単ではいかないだろう。
 いや、このグループも決して簡単と呼べるものではなかったが。

 ようやく立ち直った敵チームの人間が、こちらに向かって言葉をかけてくる。
 おめでとうと告げる四学年の主席――シュレイ・ハーメイドの差し出す手を、ローバイクが困惑したように手を握り返していた。
 テイスティアの方も、彼の変化は良いように見られているようだ。

 クラスメイトなのか、敵となった一学年を含めて複数の人間に囲まれ、髪をぐしゃぐしゃにされている。
 テイスティアは困ったように、それでも嬉しそうに微笑んでいた。
 さすがにこちらは、フォークは近づいてこないか。
 見れば、クラスメイトの彼はいまだに筺体に座ったままだった。

 呟くことをやめて、モニターをじっと見つめている。
 事実を理解するまでにもう少し時間がかかるかもしれないな。
 小さくため息を吐きながら、大きな歓声に、アレスは耳を塞いだ。
 誰もが楽しそうに、そんな中で、ただ一人、ワイドボーンだけには誰も近づかなかった。
 元より人づきあいが良くない性格である。

 それでも機嫌は良いらしい。手にした表彰状を撫でて、微妙に微笑んでいる。
 誰も近づきたくないだろうと、アレスは理解した。
「あれ……」
「アレス!」
 大きな声がして、振り返ると笑いながら駆け寄ってくる友人の姿がある。

「おめでとう、アレス!」
「そんな大きな声を出さなくても聞こえているよ、スーン」
「そうかな。凄い歓声だよ」
 周囲を見るように手を広げれば、こちらに近づかない面々が声をかけている。
 おめでとうという言葉から、凄いという褒め言葉まで。
 中には『金返せ』という物騒な言葉もあったが。

「注目されたのは、わかった」
「全然嬉しそうじゃないよね」
「そりゃ、次の相手が……」
 悪すぎると言う言葉を口の中で飲み込んだ。

 相手をするのは不敗の名将だ。
 原作で自由惑星同盟が以下に劣勢になりながらも、一度も負けたことがない。
 そもそも原作での初戦であるアスターテで、詰んでいる。
 一個艦隊に三個艦隊が破られて、普通ならばまずいと思うだろう。
 三次元チェスで言えば、ポーンと優秀な女王だけで戦っていたようなものだ。

 それでいて不敗と呼ばれる人間に、注意などしてもし足りない。
 それでもいまだエルファシルが起こっていないことから、ヤンの評価は高くない。
 この時点でヤンは、ワイドボーンに勝利した事があるという程度の評価だ。

 シトレ元帥からはそれなりに評価されているかもしれないが、生徒だけで言えば彼の友人であるラップと後輩のアッテンボローの評価が高いだけ。
 その優秀な二人は、今回同じチームでうちと初戦で当たることが決定しているのだが。
「確かに決勝大会は一筋縄ではいかないと思うけど、でも、僕は君たちが優勝すると思うよ」

「それは随分な褒め言葉だな」
「そうじゃなきゃ、負けた僕たちも――そしてEグループの誰も納得しないと思うよ。君たちにはEグループの期待がかかっているし。それに」
「それに?」

「ほら……僕の期待もね?」
 差し出されたのは、汚い手書きの文字のトトカルチョの券だ。
 あまつさえ、そこにはどうしてかワイドボーンチームとの文字がある。
「五十ディナールとは大きく賭けたね」

「フェーガンは七十ディナール賭けたらしいよ。それで結婚式をするんだってさ」
「結婚式?」
「うん、卒業したらすぐに結婚するって約束してるみたいだね」
「もっと楽しめばいいのに。なぜ卒業して墓場に行きたがる?」
「いまだに誰とも噂のないアレスに言われたくはないと思うけどね」

「それは君もだろう」
 そう呟いて、二人で小さく笑う。
「アレスは恐い顔をしていなければ、顔はいいんだから。ほら、事務長の娘さんとかどう?」
「ないな」
 断言した言葉に、スーンは目を丸くした。
「なんで。凄い可愛いと思うけど」

「相手がいるのを知って、手を出すのは面倒くさい」
「なんでそんなこと知っているのさ」
「俺の知っている、歴史ではね」
「はいはい。またそうやって誤魔化すんだから。じゃ、コーネリア先輩とかどうなのさ?」
 唐突に出てきた名前に、アレスはスーンの頭に拳骨を落とした。

 思わぬほどに大きな音がして、スーンが涙目でアレスを見上げる。
「そうやって人のことをあれこれ聞く前に、まず自分の心配しろよ。それに俺はフェーガンと違って、まだ墓場にいくつもりはないぞ」
「それにしては遊んでいるわけでもないんだよね。ま、いいけど――アレスだって賭けたんでしょう?」

「ああ」
 ポケットからくしゃくしゃとなった紙を取り出した。
 スーンが受け取って、それを広げ――眉をひそめる。
「アレス。何でヤン先輩に賭けているのさ」
「倍率が良かったし、お前だって自分じゃなくて俺に賭けていただろう?」


 

 

大会~準決勝 前編~



 モニターに広がったのは、遭遇戦という文字だ。
 想定としては、どこかの星域で偶然に互いが遭遇したというものだ。
 敵対することが決定していて偶然も何もないと思うが、想定の中でも戦略性は乏しいと言えるだろう。
 守るべき基地があるわけでも、攻撃する基地があるわけでもない。
 
 攻略戦や防衛戦に比べれば、遥かに戦略性は低い。
 それが一般的な意見だった。
 実際、基本的な戦術は索敵艦を早く出し、敵より早く敵本隊を見つける。
 奇襲が出来ればよし、それが出来なくても自分に有利な戦場に相手を引き込みやすくなる。
 もっとも、それはあくまで想定であって、基本は基本だ。

 続いて表示される文字に、アレスは小さく息を吐いた。
 クラウディス星域。
 三つの恒星からなる無人の惑星系だ。
 酷い地場嵐が吹き荒れて、レーダーなどの観測機器は使えない。
 宇宙港から出発した宇宙船が、やってきた宇宙船にぶつかるほどだ。

 とても有人惑星として開発ができる状況ではない。
 当然、戦闘には酷く不向きであるが、そもそもクラウディス星域自体が同盟領でも辺境に位置する。隠し基地には最適な環境であるが、ヴァンフリート星域と違って見向きもされない理由がそこにあった。

 そもそもこんなところで艦隊戦が起こるようになれば、同盟はおしまいだろう。
 そんな状況では満足に索敵も出来ない。
 当然、索敵艦が多く必要だろうが。
 表示された艦隊数に、アレスは小さく笑った。

 この戦術シミュレーターでは、総司令官が艦隊の総数を決定する。
 限りある資源から、索敵艦や宇宙母艦の種別と数を戦場にそって選択する。
 もちろん全てというわけではないが、ある程度までの艦隊種別を選ぶことができる。その後、総司令官は定められた数に応じて、艦隊を配分する。

 当然、索敵艦を多くしてくれているかと思いきや、こちらに与えられたのは想像もつかなかった艦隊配分だ。
 まず宇宙母艦を複数配備している。
 そもそも宇宙母艦の数自体少なく、実際にも一つの分艦隊に一隻もあれば十分であり、下手をすれば存在しない場合の方が多い。
 それを、アレスの分艦隊だけに三つ。
 他にもミサイル艦など攻撃に長けた艦編成となっている。
 頭痛を押さえながら、アレスは艦隊編成を行った。
 どう考えても機動力や防御力には欠けて、さらに正面から撃ちあいにも弱い素敵な仕様。しかしながら、宇宙母艦を上手く活用すれば異様なまでの攻撃力を発揮する。
普通はそれが、発揮される前に潰れるために選択しないだろうが。
 少なくともアレスなら、そんな編成をしない。

 部隊を編成させていると、コンソールに通信が入った。
 それもプライベート通信である。
『よう、アレス候補生』
「何です。ワイドボーン先輩、こちらは先輩と違って艦隊編成で忙しいんですけどね」
『だから、プライベート通信にしたのだろう。他の邪魔はしていない』
「俺の邪魔もしないで欲しいですが。で、何ですかこの編成は」
『ふふ、喜べ。我が艦隊の宇宙母艦を全て君の隊に送っておいた』

「それなら二つばかり返しますから、代わりに索敵艦を二ダースと変えてください」
『それは無理だな。なぜなら、索敵艦も通常通りしか取得していない。君に回せば、他が困るということだ』
「俺が困ると言う事は考えなかったのですか」
『ふん。馬鹿にするな、アレス候補生』

「何です。ワイドボーン先輩」
『貴様のシミュレーターを今までずっと見てきた。あの負けた戦いからずっとだ』
 断言した言葉は強い。
 冷静に聞けばストーカーであるが、アレスはただ小さく苦笑した。
「一カ月以上前の話ですね。ご苦労なことです」

『ああ。これほど他人のシミュレーターを見たのは初めてだ。あのリン・パオの動き以上に見たぞ。喜ぶと良い』
「アッシュビー提督は見なかったのですか」
『あれは何というか、見ていても出来試合のようでな。艦隊運用や戦術の参考にはならん……ま、それはともかくだ』
 話を切るワイドボーンに、アレスは唇を小さくあげる。

 ブルース・アッシュビーの話は、いまだ知るケーフェンヒラー大佐は塀の中だ。
 ただの戦歴で、全てを理解しているわけではない。
だが感じるものがあるのは、やはり天才なのだろう。
『貴様は艦隊動作や戦術眼なども優れているが、何より人の欠点を見抜くのが上手い』
「褒めてんですか」

『褒め言葉だ。艦隊を隊とするには、連結点が必要だ。むろん、それが一つの艦というわけではないが、楔となる点はある。貴様はそこを実に嫌らしく攻撃する』
「まったく褒められている気がしないですけどね」
『貴様にとっては、三次元チェスと戦闘は同じなのだろう。相手が出来ることを理解し、出来ないところを実にうまく攻める。だから、貴様は三次元チェスも上手いのだ。ヤン・ウェンリーなどは三次元チェスが好きな癖に、随分下手だぞ』

「やったことがあるのですか」
『その事に気づいて、あいつを誘ってみたが、瞬殺だった。もちろん、私が勝った――こう見えても、私も強いのだぞ?』
「それなら俺と一回やりますか?」

『やめておこう。負ける戦いはしない主義でね。だから私は無敗なのだ』
 にっと笑ったような気配が、漏れた。
『それはともかく、ヤンは確かに強い。だが、あいつの場合は戦術というよりも、戦略家としての戦い方だ。剣と弓の原始人の戦いに、いきなり重火器を持ちこむようなものだ。強いが、剣同士の戦いとなると戦略の効果が出てくる機会は限られる。さらにもっと厳密にルールが定められた三次元チェスなどは苦手だろう』

「全ての戦場が同じルールで動くわけじゃないんだから、戦略家としては問題ないでしょう」
『少なくとも同じ環境で、同じ兵力となれば貴様が勝つと私は思っている』
「理想論ですね。それに、同じ環境が戦場で作れるわけがないでしょう」
『どうかね。私は君に賭けるがね』
「先輩に褒められるのは嬉しいですが、それと今回の件はどう関係があるのです?」
『宇宙母艦を貴様はどう思う?』

「どう思うって。正直、この艦隊編成を見ても嬉しくはないですね」
 それが正直な感想だった。
 通常戦艦にはスパルタニアンを九隻ほど、巡航艦では三隻ほどしか乗せられない。
 それが宇宙母艦になれば百隻ほどの戦闘艇を収容できるのであるが、そのメリットは正直感じられなかった。
 索敵に使おうにも、航続距離の関係で索敵ならば索敵艦の方が優れている。

 数光年先を飛ぶ燃料もなければ、それを旗艦に送る巨大な通信設備も乗せられないからだ。
 ならば、接近戦での火力に期待できるかとは言え、連携が取れている状態であれば駆逐艦一隻にも劣る火力でしかない。
 宇宙母艦の活躍の場は、相手が密集して防御態勢を取った場合だ。
 部隊が密集した間を小型の戦闘艇が駆け巡り、相手に出血を与える。

 いわばとどめとしての役割であって、相手が陣形を固める前に不用意に出せば、アムリッツァのビッテンフェルトの出来上がりである。
 相手に近づく前に戦闘艇を潰され、近づくことも出来ずに破壊される。
 そんな役割であるならば、部隊に一隻もあれば十分であろう。
 最悪はなくても支障がない。時間がかかるかもしれないが、相手が防御態勢を取るなら包囲して殲滅すればいいだけだからだ。

 そもそも絶対に必要なら、もっと宇宙母艦が量産されているだろう。
索敵艦や高速艦を増やしてもらった方が良かったと口にするアレスに、ワイドボーンが楽しそうに笑った。
『わかってないな、アレス候補生』
「その理由を先ほどから聞いているのですけれど」
『確かに高速機動艦や索敵艦を増やせば、貴様は楽に戦いが出来るだろうし、楽に勝てるだろう。だが、貴様が求められる戦いはそんな低いところにないのだよ』

「は?」
『一撃を持って敵艦隊をしとめる強さ。まさに、烈火のアレスとして敵に恐れられる力を必要とするのだ』
「何ですか、それは。客寄せパンダでもあるまいし」
『その客寄せパンダが必要なのだ、軍には特に。自称だろうが、他称だろうが英雄がたくさんいるだろう?』

 嬉しくはないと、アレスは小さく呟いた。
 魔術師と呼ばれたヤン・ウェンリーもそう思っていたのだろうか。
 あるいはそれを言われてうんざりしたために、あの名言が生まれたのかもしれない。
 軍には英雄がいても、歯医者には一人もいないと。
 もっとも自分が同盟の真の英雄の考え方を想像するのは、あまりにもおこがましいことかもしれなかったが。

 + + +

「まだ艦影は映りませんね。もう少し離れます」
『くれぐれも気をつけろよ、アッテンボロー候補生』
「大丈夫ですよ。上手く釣ってそっちに連れていきますから、準備しておいてください、ラップ先輩」
『そう簡単にいかないかもしれない』

「私は上手くいくと思いますけどね。相手に見つかって、おびき寄せ――あとは、いただきです」
 平地の半分も視界のない状況で、アッテンボローの考えた作戦は古典的な策だった。俗に釣り野伏せと呼ばれる方法で、索敵に見せかけたアッテンボローが敵と接触するや後退して、左右に広がっていた別働隊で包囲するというものだ。

 レーダーによる索敵が出来ない現状では、無駄に部隊を分割して索敵するよりも待ち伏せをした方が効果的だろうと考えたからだ。
 しかし、この作戦に、当初ラップは難色を示した。
 通常であればともかく、ワイドボーンとマクワイルドが相手では、下手をすると最初の一撃でアッテンボロー艦隊が噛み砕かれる可能性があったからだ。敗走のふりをするのと、敗走では大きく違う。

 しかし、アッテンボローはそれならそれで良いと思った。
 仮に勢いを抑えきれずに、アッテンボロー艦隊が敗走したとしても奇襲地点までは誘導する自信がアッテンボローにはあった。
 そうなれば三方向からは無理であっても、二方向からの奇襲はかけられる。

 何よりも。
予選を全て圧勝で勝ち進んだ試合を見る事になったチームのメンバーが共通して思うのは、正面からは決して戦いたくはない相手ということだった。
 アッテンボローも認めたくはないが、認めるしかないだろう。
 ヤン先輩に負けるまでは無敗であり、天才と呼ばれるマルコム・ワイドボーン。

 そのワイドボーンを破り、いまだ戦術シミュレーターで無敗を誇るアレス・マクワイルド。
 その二人の実力を。
『ガガ…アッテンボロー候補。そろそろ……通信も使えなくなる。ガガガッ……最後に言っておくが…ガ……ぐれも注意しろ。無理だと思ったら……ガガッ…ったん退却するん……だ。いいね?』
「わかってます。そのために高速艦がこちらに配備してくれたんでしょう。逃げるのは任せておいてください」

『自信をもっていう……ガ…れ……』
 通信が途切れて、静けさが筺体の中に広がった。
 索敵艦が周囲を映し出す明りの中で、アッテンボローは静かに息を吐いた。
 最初は生意気な後輩だと思っていたがね。
 艦隊をさらに進めながら、アッテンボローは最初の出会いを思い出す。

 教官室から嫌そうに出てきた小生意気な後輩の姿だ。
くすんだ金色の髪と目つきの悪い顔立ちからは、現在のように烈火と呼ばれる姿は想像できなかった。まだ整えれば見栄えもするかもしれないが、そもそもアッテンボローには男色の趣味はないためどうでも良いことだ。
 ただ先輩である自分に対しても、堂々と意見を言う後輩だと思った。

 そんなイメージの相手に対し――おまけに後輩に対して勝てないということを認めるのは嫌なことだ。しかし、それを認めずに負けると言うのはもっと嫌だ。
 そんな合理的な考えこそが、彼の強みであって、剛柔がとれたと評される点であるかもしれない。
 物事に対してこだわらない。

 よく言えば、欲がなく――悪くいえば、向上心に欠ける。
 艦隊は静かにクラウディス星域の半ばまで来ている。
 すでに反対側にいる敵といつ遭遇してもおかしくないだろう場所だ。
 昔を考えるには、あまりにも危険な場所だろう。
 あの生意気な後輩が相手であれば特に――と、コンソールを叩く指が、ふと止まった。
「もしかしたら、マクワイルド候補生は気づいているかもしれないな」
 中断した回想の中で、マクワイルドは何と言ったか。

 そう――先輩のように上手く撤退したいと――そう言った。
 だからこそ、生意気だとアッテンボローは思った。
 その時は単純に罰則を戦場に例えたアッテンボローに対して、上手く切り抜けたいと言ったものだと思っていた。
 だが、それが実は彼が退却戦を得意としていることを、知っていての発言だとしたら。

 退却戦で相手の戦力を殺ぐことは、ヤンからも褒められるほどだ。
 その時は褒め言葉ではないと言ったが、自信が得意であるという思いはある。
 だからこそ、ワイドボーンとマクワイルドが相手であっても、逃げ切れる自信がアッテンボローにはあった。
 だが、それを奴が知っていたとすれば。
 そう考えて、アッテンボローの口元にわずかに笑みが浮かんだ。

「それがどうした……だ」
 例え知っていたとしても、もうこの場では作戦の変更はできない。
 今から戻ったところで、混乱をもたらすだけであるし、何よりこの作戦のために他の艦隊から高速艦を引き抜いて、アッテンボローの艦隊には高速艦が多く配備されている。
 その状況で、通常の戦闘を行うのは不利になる。
 ましてや、相手はワイドボーンとマクワイルドだ。
 結論として、アッテンボローはこのまま作戦を継続するしかなくなる。
 それに。

 例え、知っていたとしても実際に経験しなければわからないこともある。
 マクワイルドが引き込まれないようにしたとしても、他が引き込まれれば結局のところマクワイルドも引き込まれる事になる。
 警告音とともに、コンソールに敵艦隊が映った。
 索敵艦が発見したらしい。

 即座に艦隊情報を送り、索敵艦は相手の戦闘艇によって破壊された。
 それでもその一瞬で映った数値をみれば、情報としては十分だ。
 敵は時間にして、十分ほどで合流する地点に、固まって動いている。
 中央にワイドボーンを配し、左翼をローバイクとコーネリアが、右翼をテイスティアとマクワイルドで固めている。

 陣形は横陣と呼ばれる最も基本的な陣形だ。
 防御にも攻撃にも様々な陣形に、即座に対応することができる。
 相手はどう出てくるだろうか。
 筺体の中で、一人アッテンボローは楽しそうに笑った。

 + + +

 相手が索敵艦を発見した事で、こちらが近くにいる事は気づかれた。
 相手はこちらの位置こそわからないが、いずれは索敵艦によって発見される。
 コンソールを打つ手に力がこもった。
 相手に気づかれないように、逃げなければならない。

 全艦隊に反転の命令を入力し、ゆっくりと、しかし急いでるように見せかけながら後退する。
 すぐに敵の索敵艦によって、発見された。
 こちらの巡航艦がレーザー砲によって撃退する。
 逃げる――しかし、完全に逃げきることはしない。
 その絶妙な距離を取ることが重要だ。
「―――ッ」

 声にならない叫びが、アッテンボローから聞こえた。
 即座に映る艦影は、約五百隻ほどの少数の艦艇だ。
 だが、その全てが高速艦で揃えられており、数が少数であるため周囲の歩調をそろえやすいため、周りの速度に合わせることもない。
 いや、最初は千隻ほどだったのだろうが、周囲と速度を合わせなかったため一部が突出してこちらに突っ込んできている。

 その後方からは遅れて、ばらばらと残る高速艦が追尾していた。
 正面から戦えば、二千隻ものアッテンボローの艦隊だ。
 五百隻程度の敵はシミュレーター時間で五分ほどで壊滅させることも出来る。
 だが、それをすれば、こちらは残る敵に囲まれて、殲滅される。
「逃がさないってわけか」

 乾いた唇を舐めて、アッテンボローはやはり読まれていたと考える。
 突出したこちらを撃破すれば、数的優位は向こうに生まれる。
 しかし、このダスティ・アッテンボローを舐めてもらっては困る。
 即座にコンソールに命令を伝達すると、一部艦艇が反転を行い敵に接触する。
 画面に撃破と損害の情報が流れるのをみながら、時間を稼ぎ、残る艦隊を反転させた。

 敵の高速艦に対して、後退しながら攻撃を繰り返す。
 無理に突進しようとした敵高速艦は、冷静に撃ちとっていく。
 だが。
「そうくるよな」
 迎撃に向かった一部艦隊が、次々と撃破されていく。

 その高速艦隊の後方からは、一万五千隻もの艦隊がゆっくりと姿を現していた。
 画面だけで、自分の数倍にも及ぶ艦隊が前方からやってくる。
 実際では敵艦隊の光が視界に広がったことだろう。
 それでも自分の艦隊を示す小さな点を、簡単に飲み込めそうな敵のマークに、アッテンボローは手の汗を小さく拭った。

 下手をすれば、一瞬で壊滅するだろう戦い。
 だからこそ、面白い――生意気な後輩に、退却戦のやり方を教えてやろう。
 そう考えて……あまり自慢にならないけどなと、アッテンボローは思った。

 + + +

「――!」
 幾度か目の、声にならない声をアッテンボローは吐いた。
 これほどの圧力は、今まで経験しなかった。
 ともすれば、敵に接近を許してしまい、一瞬でアッテンボローの艦隊は飲み込まれるだろう。

 それでもいまだにアッテンボローの艦隊を飲み込めないのには理由があった。
 一万五千隻の艦隊が同時に動けば、他の艦隊との連携が難しく、運動が遅れる。
 そのため、先の高速艦のように一部の艦隊でアッテンボローの艦隊運動を送らせて、その隙に周囲を取り囲む必要がある。

 しかし、アッテンボローはそれを許さない。
 突進を狙う艦隊に向けて、一斉射撃を行い、近づくことを許さなかった。
 もっとも、後先を考えない弾薬の大放出であることには関わらず、例え合流地点にアッテンボロー艦隊が撃破されずにたどり着いたとしても、その後の戦闘行動は難しいだろうが。
 しかし、アッテンボローにはそこまで考える余裕はない。

 出し惜しみをすれば、それこそ後などないだろう。
 大艦隊でもあるにも関わらず、一糸乱れない艦隊運動。
 苛烈に、次々と高速艦を打ち出してくる技能。
 そして、地味にこちらの体力を奪う砲撃。

 すでにアッテンボローの指揮する二千隻のうち、五百隻が撃ちとられている。
 それでも、アッテンボローは後退を続けていた。
 敵の高速艦を予見し、動き始めた瞬間に砲撃を集中させる。
 わずか一度でも失敗すれば、殲滅されるであろう動きを、アッテンボローは一度も失敗することなく、後退を続けている。

 戦闘が始まって、わずか五分ほどしか経っていない。
 それでも体感的には三十分ほど経過したような気がする。
 敵はなかなかアッテンボローを捉えられないことに、苛々してきたらしい。
 突入する攻撃艦を増やして、こちらを捉えようとする。

 だが、アッテンボローはそれをさせない。
 艦隊を操作して、逃げる、逃げる、逃げる。
 アッテンボローは退却戦の名手にふさわしい動きを、続けていた。
 次々と繰り出される攻撃に、瞬きもせずにコンソールを叩き続ける。
 ワイドボーン艦隊から五百隻の小艦隊が三艦隊。

 その鼻面に攻撃を叩きつければ、視界の端でローバイク艦隊が二艦隊を動かしている。
 見えている。
 相手に対して効果的に出血を与えながら、アッテンボローは唇を舐めた。
 ゆっくりと笑みを広げながら。
『ザ……大丈…夫……ザザッ…アッテンボロー候補生?』

 その笑みが終わる間もなく、通信が回復した。
 懐かしい総司令官の声に、アッテンボローは小さく息を吐く。
 コンソールを叩く手を止めずに、視界に映る艦隊地図を一瞥した。
 あと一分ほどで、奇襲のポイントへと到達するだろう。

 確かに、今までで一番苦労した戦いだ。
 相手もこちらが本当に逃げているように見えているだろう。
 いや、実際途中からは敵を誘う動きなどできず、本当に逃げることになったが。
 それでも結果は変わらない。

 こちらは敵を誘いだし、相手はこちらを仕留めきれずに罠へと舞い込んだ。
 あとは美味しく料理するだけ。
 これこそ、アッテンボローの退却戦だ。
 アレス・マクワイルド――見たかと呟いて、アッテンボローは奥歯を噛んだ。

「見てねえじゃねぇか、ちくしょう!」


 

 

大会~準決勝 後編~


「くそっ! 罠です。ラップ先輩――マクワイルドとテイスティアがいません!」
『どうした、アッテンボロー!』
「そのままの意味です。相手の右翼だったマクワイルドとテイスティア二艦隊が、視界から消えています」
『……なに』
「おそらく回り込まれました。すみません」

 奥歯を噛んだままで、アッテンボローは小さく舌を打った。
 いつからだ。
 目の前の攻勢を回避することで、視界が狭くなっていた。
 敵の本隊がどこにいるか冷静に観察することができず、送られる敵の小艦隊を迎撃することに集中し過ぎた。

 これが参謀や砲撃手など多数いる状況であれば、別であったろうが、その動作を全てこなすにはあまりにも手が足りない。
 いやと、アッテンボローは思う。 
それらがいても、おそらくはマクワイルド達の離脱はわからなかっただろう。
 このクラウディス星域はレーダーなどの光学機器が満足に使えない。

 それほど巧妙に、マクワイルド達は離脱していた。
『四千か。わかった、合流地点を前倒しにしよう。……その』
「俺が死ぬ……それしかないでしょう」
 そんな総司令官の言葉に、アッテンボローは理解したように頷いた。

 おそらく右翼から回り込んだマクワイルドは、こちらの待機している四学年と二学年の連合部隊に奇襲をかけたはずだ。
 それでも六千隻の部隊で、マクワイルド達の四千隻よりは多い。
 勝てるとは思わないが、その前にこちらが本隊を撃滅すればいい。
 アッテンボローが死兵となって攻撃する間に、ラップ率いる七千隻が相手の横から奇襲をかける。

 わずか数秒で、ラップはそれを考えたのだろう。
 アッテンボローも、それしか手がないように思えた。
 思えば、敵の苛烈なまでの攻勢はマクワイルドを隠すための布石であった。
 だが、今回はそれが仇となっている。
 無理な戦いによって、敵の損害は大きくなっている。

 アッテンボローが敷いた出血は二千を数え、敵の艦隊総数は一万を割り込んでいるはず。
 ほぼ同数と言っていい。
 アッテンボローが決死隊となれば、勝てる見込みも増える。
 ラップは優しさのために、それを命令することはできなかったが、勝てるのならば、自分が死ぬくらいどうでもいい。

「全艦隊前進。敵正面を崩す」
 小さく呟いて、アッテンボローはコンソールに命令を入力する。
 そして、頭をかいた。
 死ぬくらいか――実際であれば、どれほどの将兵を巻き込むことになるのだろうか。それでも勝つ価値があるのだろうか。

 ワイドボーンの一戦で批判したマクワイルドを否定できなくなった。
 自分が行おうとしていることは、まさに同様の事であったからだ。
 それでも。
「無敗って重みは、割りときついだろ。先輩がその重みから解放してやるよ」
 勝たなければいけない戦いがある。

 ましてや――これは戦術シミュレーターであるのだから。

 + + + 

 小さなどよめきが、大講義室内に走った。
 筺体内にいる人間とは違い、この会場にはクラウディス星域全域の全てが見れるようになっている。
 即ち、アレスとテイスティアの艦隊が離脱したその瞬間も見ている。
 一瞬にして飲み込むワイドボーンの攻勢。
 それをいなして、奇襲地点まで誘い込むアッテンボローの妙技。

 それらは決勝大会にしても、あまりにも高レベルの戦いだった。
 誰もが固唾を飲む中で、スーンも小さく拳を握る。
 大切な友人には是が非でも買ってもらいたい。
 自分の財布的にもだが。
「大丈夫だ。アレスが負けることは想像できない」

 相変わらずの仏頂面で、隣の友人が声をかける。
 興味のなさそうな顔であったが、アレスと自分とは違うグループであったため、彼に似合わない事に、少し落ち込んでいたらしい。
 今回は全員が見学できるということで、嬉しそうに見に来ている。
 そのフェーガンは大講義室のプロジェクターに移される様子を、腕を組んで見ていた。
 落ち着いた口調であるが、腕を握る手にはよほど力が入っているらしい。

 太い腕に、指がめり込んでいた。
 その姿にスーンは小さく笑って、再び画面に目をやった。
 最初の一撃を入れた後で、アレス艦隊は少しずつ右へとそれた。
 同時にテイスティアがそれに続いて、ワイドボーン艦隊の左翼にいたコーネリアがワイドボーンと位置を入れ替わる。

 艦隊の位置を入れ換えるというのは相当に難しい。
 だが、それを苦もなく行うコーネリアの技量は相当のものだろう。
 同時に気づかせないように、ワイドボーン艦隊とローバイク艦隊が攻勢をかける。
 五百隻とはいえど、それが五つともなればアッテンボロー艦隊の艦艇数を超える。
 それを凌いだアッテンボローは褒めることはあれど、ワイドボーンとコーネリアの位置が入れ替わったことに気づかなくても不思議ではない。

 ましてや、アレス艦隊がその隙に離脱していることなど、気づくわけがない。
 こうして全体を見ていても、スーンでは気づかなかったほどだ。
 誰かが、マクワイルドが離脱するといわなければ、誰も気づかなかっただろう。
 と、スーンはその言葉を口にした上級生を目にした。

 黒髪の童顔の先輩だ。
 興味なさげにモニターを見る様子は、どこかの学者にも見えた。
 多少は整っているが、ワイドボーンのように印象的でもない。
 しかし――そのワイドボーンを破り、すでに決勝に駒を進めた有名な人物。

 ヤン・ウェンリー。
 この大会の勝者とあたる人物は、おさまりの悪い髪に手をやる。
「ラップは間違えてはいない。ただ、相手が悪い」
 誰にも聞こえないように呟かれた声を、スーンははっきりと聞いた。

 視線に気づいて、ヤンが顔を動かす。
 見ていたことを気づかれぬように、スーンは慌てて顔を正面へと向けた。
 正面では、艦隊が最後の戦いへと向かっていた。
 おそらくはラップも――アッテンボローも戦いを急ぐ選択をした。

 わずか数秒が、実際の時間では数時間に相当する。
 その中では、わずかな時間が遅れとなる。
 最悪は別働隊が、アレス艦隊に敗れることも想定したのではないだろうか。

 その前に決戦するために、別働隊への状況確認を遅らせた。
 普通であれば、それは正しいだろう。
 だが、その確認不足が――今回の戦いの勝敗を決した。
 一気に攻勢を行ったアッテンボロー艦隊に、ワイドボーン艦隊は戸惑った。
 死兵となったアッテンボロー艦隊は、攻撃を仕掛けたとしても向かってくる。

 当然。全てを撃破することも出来ずに、艦隊陣形は崩れてしまう。
 艦隊に隙が生まれたところを、右からラップ率いる七千隻が奇襲を仕掛けた。
 ワイドボーン艦隊の左翼を担うローバイク艦隊は、冷静に受け止める。

 だが、元々正面への攻撃を想定していた陣形だ。
 ラップの攻勢に、ローバイク艦隊は次々と撃ちとられた。
 ワイドボーン艦隊への道が開ける。

 届く。
 既に五百隻を割り込んだ艦隊で、アッテンボローは勝利を確信した。
 と。そこに映ったのは青い――青い――敵艦隊を知らせる表示。

「くそっ」
 小さく呟いた声をそのままにして、アッテンボロー艦隊は溶解した。
 
 + + + 

 なんと……。
 ラップは映される表示に、感嘆の声をあげた。
 奇襲とはいえ、わずか四千隻で六千隻もの艦隊を殲滅する。
 それは想定されていたことだが、想定外だったのはその時間だ。

 アッテンボローが帰還して、ラップが攻勢を仕掛ける。
 迂回して、いつ戦闘が始まったかはわからないが、それこそ鎧袖一触――移動と同時に六千隻を殲滅したのだろう。

 その勢いをそのままに、正面への攻勢を仕掛けていたアッテンボロー艦隊を打ち破り、こちらの前衛に食い込んできている。
 あと少しで手が届くであろうワイドボーン艦隊に、執着をする場合ではない。

 自分とともにいた一学年に指示を飛ばすが、満足な防御陣をとれるわけもない。
 勢いをそのままにして、突撃したアレス艦隊によって一気に半数近くの艦隊が持って行かれた。
 そのあまりの攻勢に、彼の異名を深く理解する。
 烈火のアレス。

 元々はワイドボーンに対して、あまりに苛烈な様子から名づけられた。
 だが、この燃え広がる勢いを止められるものはいない。
 それを理解して、ラップは小さく笑った。
 ワイドボーンが認めるわけだね。

 あの誰とも関わりを持たないたった一人の天才であり、偏屈な人物。
 それが認めた唯一の人物。
 すでに前衛を破られたラップの艦隊は、大きく艦隊陣形を乱している。 

 それをワイドボーンが見逃すはずもない。
 一撃によって大きく疲弊したローバイク艦隊を上手く後ろに下げて、ゆっくりと見えるのは必殺の鋒矢の陣形だ。
 見事。

 小さく呟いたラップは、もはやコンソールを叩くこともやめていた。
 
 + + +

『本大会。Cグループ代表ラップ、Eグループ代表ワイドボーン……総司令官ラップ候補生の戦死を確認。損傷率64.3%と38.2%により、ワイドボーン艦隊の勝利です』
 機械的な音声がワイドボーン艦隊の勝利を告げた。
 観客席がない静かな空間では、筺体をあげる駆動音だけが鳴り響いている。

 空気の抜ける圧搾音とともに、開かれた筺体でそれぞれのチーム員が外の明りに目を細めていた。
 決勝大会では一試合につき、一日が使われる。
 数時間もの長時間を拘束されるために、筺体内では簡易のトイレが置かれているが。
 筺体が開かないうちに、ミシェルが慌てたように飛び出した、

 走り出す姿に、誰も止める様子はない。
 テイスティアはぐったりと筺体の中のコンソールに顔をうずめている。
 ワイドボーンが開いたのを確認して、小さく笑みを浮かべながら立ち上がる。
 視線を向けるのは敵ではない。
 アレスだ。

 この戦いを決定づけたアレス・マクワイルドは――少しの嬉しさを見せることもなく、ワイドボーンに小さく手をあげて、自動販売機を目指す。
 アイスコーヒーを取り出して、小さく音を立てて蓋を開けた。

 そんないつもの様子に、ワイドボーンは苦笑する。
「見事だったよ。負けたね」
 かかる言葉に、ワイドボーンが振り返れば、そこに敵の総司令官であるラップの姿がある。
「ふん。負けたというのに随分気楽なものだ」

 差し出された手を握ろうともせずに、答える様子にラップは小さく苦笑した。
 それでもその手を戻そうとせず、ラップは笑みを消す。
「正直、僕は今回優勝するつもりだった」
「当たり前のことだろう。最初から負けることを考える屑がいるものか」
「ああ。君が一人ならばね……だけど、良い仲間に巡り合えたようだ」

 その言葉に対して、ワイドボーンは嫌そうな顔を浮かべた。
 いまだに突っ伏すテイスティアを、そして、ゆっくりと筺体から姿を見せるローバイクを――最後に、アイスコーヒーを飲むアレスを見て、ゆっくりと唇を持ちあげる。
「ふん。勝ったというのに、総司令官に何の言葉もない。薄情な奴らだ」

「君の部隊らしくて、良いと思うけれど?」
「俺の部隊か……」
 嬉しそうに微笑み、ワイドボーンは笑う。
「俺にはもったいないかもしれないがな」

「え?」
 ワイドボーンの一言に、戸惑ったラップの手を握り、ワイドボーンは微笑んだ。
「何でもない。良い戦いだった」
「うん、次も頑張って」

「ふん、言われるまでもないさ」
 そう呟きながら、ワイドボーンはすぐに手を離した。

 

 

決戦前



 室内の電灯は消えて、卓上の光だけが薄く光っている。
 外に光が漏れないように、毛布がかぶせられたそれは、卓上だけが見える程度だ。
 広げられたノートの文字を読みながら、リシャール・テイスティアは文字に目を走らせながら、教科書に小さくかき込んでいった。

「相変わらず、頑張るな」
「ん。ごめん、起こした?」
 気にすんなと、二段ベッドの上段から顔を覗かせた青年が首を振った。
 セラン・サミュール。

 子供の様な童顔な顔立ちは、十五歳にはとても見えないだろう。
 幼い顔立ちと小さな身長――しかし、一学年において現在主席の成績を取る。
 そんなサミュールは、リシャール・テイスティアと同室であった。
 落ちこぼれのテイスティアに対しても平等に接し、一学年の期待を予選敗退という結果で裏切ったが、相手が強かったから仕方ないと無邪気に笑う。

 小学生の悪ガキをそのまま成長させたような人物であった。
「よっ……と」
 サミュールが上段から音もなく、飛び降りて着地した。
 はしごを使えばいいのにと、テイスティアは苦笑する。
 そんな視線を気にした様子もなく、サミュールが近づいてテイスティアに近づいた。

「明日は決勝だろ? 早く寝た方がいいぞ」
「うん。でも試験だって近いしね」
 イベントがあるからといって、日々の授業がないわけではない。
 ましてや、今まであまりにも酷い成績を取ってきたテイスティアだ。
 盛り返すには、ぎりぎりのところだろう。

「なんだよ。俺に聞けば教えてやるのにさ。俺だって、そんなに悪い成績じゃないんだぞ?」
「セランが悪い成績なら、他の人全員が落第になっちゃうね」
「そんなことねーよ。賢いだけなら他にもいっぱいいるぜ? いまなにやってんのさ。見せてくれね?」
「ん。いいよ」

 テイスティアがかいていたノートを差し出せば、セランは受け取った。
 ノートに目を走らせながら、セランが眉をひそめる。
 ぱらぱらとめくっていた手を止めて、真剣な眼差しでそれに目を通した。
 ゆっくりと文字を目が追っていく。

「何これ。すげぇ、すげぇ!」
 子供のようにはしゃぎだしたため、慌ててテイスティアがとめる。
 声を落とすように言っても、サミュールは興奮した様子をやめようとしなかった。
「学校の授業よりわかりやすいし。俺でもわからないこと一杯あるぞ。これ、どうしたんだ、リシャール?」

 若干声を落としながらも、尋ねるサミュールにテイスティアは少し嬉しそうに微笑んだ。
「先輩が教えてくれたんだ。こっちがコーネリア先輩のノートで、こっちがローバイク先輩。これがワイドボーン先輩で、こっちがアレス先輩」
「烈火のアレス! うわ、見てぇ。見せて!」

「ちょっと。声が大きいって!」
 再び興奮するサミュールに、テイスティアはノートを差し出した。
 嬉しそうにそれを読み始めるサミュールを見て、テイスティアは目を細めた。
 それぞれが一学年の時代に使っていたノート。

 しかも、一部においては学年主席ですら凌駕する知識を持っている人物達である。
 そのノートを書き写すだけでも勉強になる。
 さらに、訓練終了後はその事について、個別に教えてくれる。
 きっと自分は幸せなのだろう。

 さっぱりわからなかった授業の内容も、最近では理解できるようになっている。
 しかし、それも明日で終わるのだろう。
 そう考えると――少し悲しい気がした。
 でも、頑張らないとね。

 小さくテイスティアは思う。
 ここまで先輩が動いてくれたのだ。
 やはり落第しましたなど、言えるわけがない。
 そう決意を固めるテイスティアの前で、サミュールがノートを閉じた。

「いいなぁ」
「うん。いいでしょ?」
「嬉しそうにいうなぁ。このノートだけで、金出す奴はいっぱいいると思うぞ」
「見てもいいけど、あげないよ?」

「さすがにとらないよ。先輩が恐いし」
 くすりと笑って、サミュールがノートを返す。
 受け取って、テイスティアがノートを卓上に置く。
 その様子をサミュールはどこか嬉しそうに見ていた。

「どうしたの?」
「いや。かわったと思ってさ」
「そうかな?」
「気づけよ。俺は半年お前をみてたんだぞ。昔は、何か俺に遠慮してただろ?」
「え……うん。まあ」

 そう言われて、テイスティアは頷いた。
 学年主席のセラン・サミュールと学年の落ちこぼれであるテイスティア。
 声をかけるのも戸惑い、自分の意見を言うこともなかった。
「寂しかったぞ。同じ年なのにさ」

「ご、ごめんね?」
「大体、学年主席とかどうでもいいだろ。それなのに、皆遠慮ばっかりして。勝手に期待して、負けたら勝手に失望して――」
 呟かれた言葉に、テイスティアは目を開いた。
 少し寂しげな声。

 一学年で予想が高かったのは、主席であるセラン・サミュールのチームだ。
 しかし、彼らは予選の早い時期に――アレスの友人であるスーンのチームによって、ぎりぎりながらも敗北する事になった。
 もっとも、そのスーンのチームもアレスのチームによって、敗北したのだが。

 本人が期待してくれといったわけではない。
 だが、それを裏切ったという事は普段は見せないが、本人の心に傷を残した。
「セラン……あの」
「そこは慰めるところだろ」
 言葉に詰まったテイスティアに、サミュールの小さな笑い声が聞こえる。

 近づいて見える顔は、さっきまでの深刻な様子はない。
「別にいい。こっちは来年頑張ればいい話だしな。それより、リシャール」
「ん?」
「勝てよ」
「うん、勝つよ」

 ただ真剣な声に対して、テイスティアは頷いた。
 サミュールは満足そうに笑う。
「じゃ。今日は早く寝ろ――これは没収だ!」
「ちょ、ちょっと!」
 テイスティアの卓上からノートをかっさらい、サミュールは身軽にベッドによじのぼる。

 困ったように、テイスティアも笑い――ゆっくりと電気を落とした。
 星灯りがカーテン越しにゆっくりと差していた。

 + + +

 一人っきりの寝室で、キーボードの音だけが鳴り響いていた。
 五学年からは、共同部屋の半分ほどのスペースでしかないが、個室が与えられる。
 マルコム・ワイドボーンは制服のままの姿で、キーボードを叩いていた。
 画面に映るのは、以前――ヤンの手によって、ワイドボーンが負けた試合だ。

 それは今まで一切見る事がなかった試合。
 天才だと思っていた自分に――それも正面からの戦いではなく、土をつけられた。
 何かの間違いだと見るのをやめていた、それをワイドボーンは見続けている。

 天才の自分でも勝てない人間がいる。
 それに気づいたからこそ、見る覚悟が出来た。
 そして、理解ができた。
「俺の負けだな。これは」

 艦隊決戦では負けなかった。
 だが、補給路が崩されている。
 制限時間があったために、途中で終わってしまったが、それでもこれを続ければ、予測されるのはエネルギー不足による艦隊の崩壊だ。

 結果としては、あと一時間もすれば有意であった艦隊決戦もひっくり返されてしまっただろう。
 その前に相手を叩く事ができただろうか。
 その思考に対して、すぐに無理だとの回答が頭の中で帰ってきた。
 艦隊決戦ではあるが、ヤンはおそらくは本気ではない。

 こちらの補給を速く崩すために、あえて受けている節がある。
 補給路を寸断されたいま、彼が加減をする必要はないだろう。
「嫌らしい奴だ」

 こちらの心を見据えるかのような動きに、ワイドボーンが苦い顔を浮かべる。
 アレス・マクワイルドが過剰に反応する理由も、理解できる。
 強い。

 おそらくは自分一人であれば、勝てないかもしれない。
 だが、そんな考えを唇の端で笑って、キーボードを操作した。
 画面が切り替わり、映るのは再び自分が負けた試合だ。
 今まで何十回と何百回と見続けてきた試合でもある。

 自分が加減をしたわけでもない。
 それでも完膚無きまでに叩き潰された。
 艦隊運動や戦術が決して劣っているわけではない。
 だが、まるで詰将棋のように敗北するべく敗北した。

 自分は天才だ。
 それはいまも変わらない思いがある。
 だが、その天才よりも遥かな高みにいる二人が戦う。
 それは一人の軍人として、心が躍った。

 結果がどうあれ、明日は素晴らしい試合になるだろう。
 そして、きっと自分もまた強くなれる。
 そう思えば、自然とワイドボーンの表情に笑みが広がった。

「早く明日がこないものか。もう俺は待ちきれんぞ」

 + + +

 ゴミを足で払いのけながら、ヤン・ウェンリーは小さく欠伸をした。
 試合終了後に部屋で仮眠をとった結果、朝の四時という非常に中途半端な時間に覚醒したためだ。
 部屋を片付けてくれる同室のものはおらず、五学年で新しい部屋が与えられてわずか数カ月でこのありさまである。

 きっと卒業する頃には大掃除だろう。
 今からも気がめいる。
 もそもそと冷蔵庫をあけて、朝食代わりにパンを齧りながら、モニターをつけた。
 映し出されるのは、先ほどの準決勝戦だ。

 ラップもアッテンボローにも大きなミスはなかった。
 ワイドボーンとアレスを相手に真正面から当たることはせず、上手く敵を誘い出した。
 普通であれば、勝っていたのは逆であっただろう。
「こんな後輩がいるなんてね」

 モニターに映るシーンは、勝利を決定づけたアレスの奇襲部隊への奇襲だ。
 六千隻の奇襲部隊を、四千隻で打ち破った。
 それも大きな時間もかけずに。
 ラップも予想外であったのだろう。
 全体図を把握できていたからこそ、自分は気づく事が出来た。

 だが、実際にいれば自分もまさかと思ったことだろう。
 奇襲を受けた部隊は矢のような鋒矢陣形によって、中央を分断された。
 ここまでは考えつく。
 だが、アレスは――中央突破と同時にスパルタニアンを射出していた。

 普通はできない。
 いや、出来ると思ってもやろうとは考えない。
 戦闘艇を射出するには、それ相応に速度を落とす必要がある。

 もし艦隊の速度が早過ぎれば勢いによって態勢を取れずに、自沈する。
 かといって遅すぎれば、敵陣を突破出来ず包囲されることになるだろう。
 だが。
「機械のような正確性だな」

 可能だと、自信があったのだろう。
 アレス・マクワイルドは戦闘艇を射出出来るぎりぎりの速度を考え、中央突破中に一瞬だけだが速度を調整している。
 それが長引けば逆に包囲されていたのは、アレス艦隊だっただろう。

 その包囲をされない速度と射出出来る速度を理解しなければ、出来ない。
 ゆっくりと冷や汗が伝う。
 偶然だろうか。
 いや、偶然と決めつけるには余りに危険だろう。

 宇宙母艦三隻を含む、敵陣中央に射出されたスパルタニアンが中央突破によって混乱する敵陣を縦横無尽に飛び回る。わずか数分――たったそれだけの時間で六千隻もあった軍は壊滅近い打撃を受けていた。
 烈火か。
 今までも大層な名前を付けられてきた先輩、後輩は見てきた。

 だが、これを見ればその名前に疑いを持つ者はいないだろう。
 そこに強いものと戦うという恐怖も、あるいは楽しさもなく、ヤンはパンを飲み込んで、ため息とともに言葉を吐きだした。
 面倒だなぁと――。

「これは昨日負けていた方が楽が出来たかもしれないな」


 + + +

 午前九時ちょうど。
 戦術シミュレーターのおかれた室内には、今日の対戦を控える十名以外は誰もいない。
 教官たちや見学者は別室で待機している。
 静けさを含んだ緊張が流れる中で、ただ一人ヤン・ウェンリーだけが一人小さく欠伸をしていた。

 その緊張感のなさにワイドボーンが不快気に鼻を鳴らした。
「気にしないでください」
 その腰をゆっくりと叩いたのは、アレス・マクワイルドだ。
 そんな彼もまた、初めて真正面から見る同盟の英雄に緊張を隠せないでいる。
 だからといって、緊張感のないヤンに対してアレスが思うところはなかった。

 元々ヤンは軍人として栄達を望んでいるわけではない。
 無事に十年を務めあげて、年金をもらいつつ第二の人生に期待しているのだ。
 原作では戦わざるを得ない状況へとなったが、いまだに帝国とほぼ互角の戦いをする現状では、彼がやる気がなかったとしても不思議ではない。

 むしろ目立つことの方が嫌なのかもしれなかった。
 けれど。
 彼の魔術師ヤンと戦う機会など、ここを逃せばない。
 小さく拳を握るアレスに、ワイドボーンが笑みを作った。

「ふん。余裕があるのは今のうちだと教えてやろう」
 あげられた拳に、アレスが拳を重ねた。


 小さく鳴った音に視線が集中する中で、ゆっくりと筺体に向かう。
 その姿をヤンの隣にいた男が、ちらりと横目で自らのチームリーダーを見る。
「あちらはやる気は十分の様ですね」
「ああ。ま、無様な戦いだけは避けよう。立場が逆の様な気がするけどね」
 いまだおさまりつかない髪を撫でて、ヤンは小さく呟いた。

 + + +

 観客席に備え付けられた一際豪華な長机。
 審査委員長と書かれたプラカードがおかれ、その隣には審査副委員長の文字があった。
 シドニー・シトレ学校長とマイケル・スレイヤー教頭が席を並べて座っている。
 その前に座るのは教官たちだ。

 誰もがこの戦いを前に興奮している。
 学生ではないのだから、一言言った方がいいだろうかと、スレイヤーが隣を見れば、当の学校長ですらどこかそわそわとしている。
 渋い顔をして、スレイヤーがため息を吐いた。

「あなたが焦れてどうするのです」
「あ、いや」
 指摘をされて、どこか恥ずかしそうにシトレは咳払いをした。
 おかれたコーヒーを口にして、小さく頭をかく。
「ヤン・ウェンリーですか。シトレ学校長の一押しですな」

 手元にあるのは、それぞれチームメンバーの紹介が書かれた書類だ。
 授業の成績から家庭環境まで、細かな情報が載っている。
 ヤン・ウェンリー。
 戦史研究課程の廃止に伴い、通常であれば成績の上位の一握りしか進めないはずの戦略研究課程に転属した。

 戦略研究課程は上級士官を育てる士官学校でも、さらに上級の幹部候補を育てる部署だ。
卒業後は少しの現場をこなした後に、作戦参謀などの重要な地位を与えられる。
いわば、同盟軍でもエリートの集団であって、通常であれば、それに劣る戦史研究課程から進む事はありえない。

 しかし、シトレ学校長の一声によって、転属が決定した。
 スレイヤーからすれば、優秀であろうがやる気のない人間がそのような地位に来る事はあまり好ましいことではなかった。
 当然ヤンに対しても、あまり好意的な印象は持っていない。
 だからこそ、冷たい言葉であったが、シトレは小さく唇を尖らせた。

「そういう対戦相手は、スレイヤー教頭の一押しだったかな」
「別に私は押したつもりはありません。彼は総合成績が十四位ですから、押さずとも彼が望めば戦略研究科に配属になったでしょう」
「誰もアレス・マクワイルドとは言っていないが?」
「……う」

 にやにやと視線を送るシトレに、スレイヤーは言葉に詰まった。
 相変わらず油断ならないお人だと、ため息を吐く。
「わかりましたから、その顔はやめてください。認めましょう」
「おや。教頭の地位にあるものが一人の学生を贔屓したと認めるのかな」

「その唇をもぎ取りますよ?」
「容赦がないな!」
「贔屓の必要がないことは、この手元の書類を見れば十分わかるでしょう。何よりもあなたが一番御存知でしょう」

 目を通したのは、アレスの成績が書かれた書類だ。
 現在こそ、彼は学業だけではなく実技も優秀であるが、入学当初は実技面はさっぱりできなかった。
 特に陸戦は不得意であり、その大人びた態度によって同期からは格好の標的とされている。

 即ち、訓練という名のいじめだ。
 連続して試合を挑まれ、好き勝手に殴られて、普通であれば心が折れるだろう。
 だが、その状況でも彼は折れなかった。

 次第に実力をつけて、今では同期は元より先輩との共同試合でも頭角を現している。もっとも、そのせいで、陸戦だけであれば士官学校歴代一位との呼び声も高いフェーガンによって、格好の練習相手にされている。それでも教官ですら十秒は持たないフェーガン相手に、まだまともに戦えるのだからかなりの成長と見ていいだろう。

 後は苦手としている戦闘艇と射撃の実技をまともな成績にするだけで、学年主席も夢ではない。
 その視線を送れば、シトレが相変わらずにやにや顔をこちらに向けていた。
 自然と、スレイヤーの手も伸びる。

「ほ、本気でもぎ取ろうとするな」
「失礼。大きなたらこが付いていたので」
「それは私の唇だ。だが、スレイヤー教頭――君が彼に対して何かを与えたつもりはなくても、その表情だけで十分贔屓に見られるということも理解してくれよ」

「学校長」
 真面目な表情をするシトレに、スレイヤーが怪訝そうな顔を向けた。
「例え、君がそう思っていなくてもだ。君が彼のことを思う態度だけで、周りは間違えた判断をしてしまうかもしれない。特に彼が今後昇進していけばなおさらな」
「相変わらず私には理解できない世界ですな。しかし、心にしておきましょう」

「ああ。この地位になると厄介なことだらけだ……君も今のうちに覚悟しておいた方がいい。上に行くのならな」
「――正直興味はないですな。一兵卒から少将と呼ばれただけで、十分です」
「だが。君の様な人物が上にならないと、同盟軍は良くならん。もはや少将になった君は、君だけの都合では動けないということだ。それを覚えておいてくれ」

「そこまでの給料は貰っていないと思いますがね。しかし、心しておきましょう」
 頷いたスレイヤーに、シトレは満足そうに笑むと再び視線をモニターに向けた。
 既に準備は整い、試合の開始時間がゆっくりと近づいてきていた。


 + + +

 迎撃戦、防衛。
 そう名付けられた想定の次に、戦場の情報が流れていく。
 迎撃戦とは、その名の通りに敵から施設を迎撃することを目標とする。

 迎撃側は四つの防御施設と一つの本拠地を有している。
 画面の下部中央に本拠地が存在し、それを中心にして対称に距離を開け、横には二つの防御施設が存在する。
 残る二つは本拠地の前方だ。

 防御施設同士を線で結べば、本拠地を中央にして半円形ができあがるだろう。
 それぞれの施設からは補給と若干の防御装置による支援が受けられる。
 そう聞けば迎撃側が有利になるだろうが、この防御施設を破壊された場合にはそれに応じたペナルティを与えられる。

 攻撃側はいかにこちらに見つからずに、施設を攻略するかがポイントである。
 そのため若干の戦術的思考を必要とする。
どちらかと言えば、遭遇戦の方がありがたいわけだが。

 小さくため息を吐きながら、与えられた艦隊に応じて編成を開始する。
 相変わらず、こちらには宇宙母艦を三隻も配備している。
 編成に苦労をしながら、それでも終わらせる。

 完了すれば、ゆっくりと視界があらわになった。
 本拠地の前に出る。
 アレスは左翼に位置し、左からテイスティア、ワイドボーン、コーネリア、そして最右翼がローバイクという並びである。

 決勝戦の幕があがった。


 

 

決勝戦~前編~



『前方、防御施設Bに反応あり』
 前方、左側の防御施設の前に、敵艦隊の反応がある。
 数はおよそ二千――ワイドボーンがすぐにテイスティアを向かわせた。
『くれぐれも引きずり込まれるなよ。貴様の任務は、防御施設の防衛だ』
『はい!』

 大きな返事とともに、テイスティアの艦隊二千が防衛に向かう。
 数こそ同数ではあるが、そこに防御施設の加われば、よほど間違えなければ負ける事はないだろう。
 小さくワイドボーンの舌打ちが聞こえた。
『どう思う、マクワイルド候補生』

「嫌らしいけど、効果的な手でしょうね」
『まったく嫌な相手だ』
 そう呟いた、ワイドボーンの言葉は数分後に予想通りの展開を迎える。
 二千隻が防御施設に取りつき、攻勢を開始した。

 いまだテイスティアの支援がない防御施設は、耐久度を失っていく。
 と、テイスティアが近づけば、二千隻は戦う事なく後ろに下がった。
 代わりに。

『前方、防御施設Cに反応あり』
 左側と反対にある防御施設に、反応が生まれた。
 やはり数は二千隻。
 既にテイスティア艦隊との距離は離れ、通信を行うにラグが生じ始めている。
 こちらが通信をおくった三分後に回答があるという状況である。

『テイスティアは防御施設Bの守備を行え。コーネリア――同様に防御施設Cに迎え』
『了解しました』
 呟いて、コーネリア艦隊が防御施設Cに向かう。
 テイスティア艦隊はしばらく迷っていたようであったが、通信が届いたのだろう。防御施設Bの周囲を守り始めた。

 防御施設Cに向かった敵艦隊は、Bの時と同じように耐久性を下げてから、コーネリア艦隊の到着に合わせて、やはり戦うことなく後ろに下がっていった。
『敵は消耗を狙っていると思うか、マクワイルド』
「一番楽な手ですからね」

 苦い思いを吐きだした二人の予想通りに、展開はゆっくりと進んでいく。

 + + +

『テイスティア、防御施設Aの防御に迎え。コーネリアは防御施設Dだ』
 テイスティアとコーネリアが防御施設BとCの守備に向かってより、数十分が経って、敵艦隊二千が防御施設AとDの前方に現れる。
 本拠地の横に設置された防御施設だ。

 すぐに左の防御施設Aにテイスティアを、右の防御施設Dにコーネリア艦隊を向かわせれば、防御施設を攻めていた艦隊は一戦もせずに退却を開始する。
 そして時間をおいて、防御施設BとCに攻撃が開始されるのだ。
 再びテイスティア、コーネリア艦隊が向かうのを見ながら、ジリ貧という言葉がアレスの頭によぎった。

 ワイドボーンも手を変えて、相手の戦力を引きづりだすように策を打っている。
 しかし、それらはどれも不発に終わり、相手は機械のように冷静に一撃離脱を徹底している。
 観客席では不満が起こっているだろう。
 決勝戦にしてみれば、随分と花がない戦い。

 しかし、実際のところ相手からすれば、こちらと戦う必要はない。
 防御施設を一つでも攻略すれば、一戦しなくても相手の勝ちとなる。
 相手がいない防御施設をコツコツと叩いていく。

 嫌らしいが確実な方法である。
 このまま他の施設に攻撃をしかけられれば、一戦することなく敗北が決定しかねない。
 かといって、各施設を守るために戦力を分散させるのは愚策。

 いまだに相手は二千隻の艦隊でしか、こちらの防御施設を攻めていない。
 つまりどこかで、ヤンは本隊とともにその状況を冷静に見ている。
 分散させれば、各個撃破――かといって、どこかに戦力を集中させれば、別の施設が狙われる。
 現れた敵艦隊に対処するだけの無駄な時間が流れる中で、ワイドボーンから通信が入った。
『どう思う?』

「各防御施設の中央に本隊をおいて、向かってくる相手を迎撃するのが無難なところですね」
『無難か。だが、そうすると本拠地ががら空きになる』
「相手がそれを狙っていないと言いきれないのがつらいですが」
 相手はヤン・ウェンリーだ。

 既に本拠地方向に本隊を回していたとしても不思議でもなんでもない。
 アレスはそう考えながらも、それでも守勢に回る方が無難であろうと考えた。
 どの手も相手が狙っているように思えてくる。
 ならば、最善の手を決定してしまえばいい。

 その上で本拠地を狙われるデメリットがあるのならば、そのデメリットの対策を考えておけばいいからだ。
 そう考えて、アレスは口に手をやった。
「少なくとも本拠地側に高速艦を並べておくだけで、時間稼ぎはできるでしょう」

『悪くはない。だが、ずっと守っているだけというのは良くないな』
「ん?」
『相手からすれば、最初で防御施設に攻撃を加えたことで、あとは一戦もしなくても勝ちが決定する。このまま逃げ続けられたらどうする?』

「そんな手もありますね」
『普通ならあり得ない話だが、奴は本気でしかねない。なぜなら、それがもっとも楽な戦い方だからだ』
 ワイドボーンの断言に、アレスは否定の言葉が浮かばなかった。

 ヤンにとっては華々しい勝利も、逃げ回ったみっともない勝ちも同レベルであろう。それならば、勝てるために様々な手を打つ。
 わざわざ敵に姿を見せることなく、このまま逃げ回るというのも一つの手だとアレスは納得したからだ。

『ならば、こちらから動くしかあるまい。俺とローバイクが中央に進む。敵に動きがあれば、テイスティア、コーネリアの部隊と連携して敵を叩く事ができるだろう。仮に本隊が見つからなかったとしても、次に防御施設にちょっかいを与えられた時はテイスティアを先行させて、こちらから半包囲を仕掛ける事ができる』

「それを相手は狙っているかもしれません」
 焦れたこちらの艦隊を吊りだして、本隊による奇襲をかける。
 前回アッテンボローが行った釣り野伏せと同じ手法であるが、より高度に――悪く言えば、実にずる賢い。

『そこでお前だ。マクワイルド候補生の艦隊は、防御施設Aを抜けて、左から大きく迂回し、敵本隊が参戦した場合にその側面をついてもらう』
「危険ですね。私が迂回している間は、少ない兵力で戦うことになりますよ」
『ふん。俺とローバイクで最低九千はある。危険ならテイスティアやコーネリア艦隊も回せばいい。防御戦に徹すれば、貴様が来るまで十分持たせられる』

「来ないという事は考えないのですね」
『敵本隊を抜いた二千に貴様が負けるというのは、想定外だ』
 憮然とした言葉に、アレスは小さく苦笑を浮かべた。

 その上で、素早く思案する。
 すでに開始から二時間が経過している。
 時間が経過すれば、それだけ相手が有利になるのは十分理解している。
 ならば、手を打つのが理想なのだろう。

 ワイドボーンの作戦は問題がないように思える。
 あくまで、相手が釣り野伏せを狙っているという想定であればだが。
 アレスならばどうするか。
 眉間にしわがよった。
「……ワイドボーン先輩」

『何だ?』
「本拠地に全面攻勢をかけられた場合は、何分で陥落すると思いますか」
『もって三十分だろうが、その前に防御施設を通るからその四十五分前にはわかる』

 本拠地から各防御施設までの距離は、およそ十五分で統一されている。
 防御施設の前方で戦う事になれば、戻るまでにさらに余分な時間がかかるだろう。
 おそらくは――間に合わない。
『そうか』

 理解したように、ワイドボーンが口にした。
『実に嫌な手を考える。それだけは認めてやってもいい』
 呟いた言葉に、アレスも同じように頷いた。
 相手が焦れて前方に出撃した瞬間――高速戦艦を主体にした本隊が防御施設を無視して、本拠地に攻勢を開始する。

 こちらを倒すのではなく、いかに戦わないかに徹底した作戦だった。
 確証はない。
 だが、無視するにはあまりにも危険すぎる。
『ならば、こちらにも考えがある。左から敵本隊が来た場合には、貴様が。右から敵本隊が来た場合には、コーネリアが敵を誘い出し、こちらが奇襲をかける』
「釣り野伏せですね」
『ああ。敵接敵までに時間がかかる上に、危険な任務だ。敵には左から来てもらいたいものだ』

「少しは俺も心配してもらいたいものですね」
『心配してほしいのならば、少しはピンチになるのだな、マクワイルド候補生』
 通信回線が切られて、アレスは息を吐く。
 方針が決まって、しかし胸に残るのは小さなトゲだ。

 それでいいのだろうかと。
 おそらくはそれはヤンを相手にする限り常にそう思い続けるのだろう。
 まったく、胃が痛くなる相手だ。
 帝国の将もおそらくは同じ気持ちだったのだろう。

 + + + 

 試合開始から二時間が経過して、艦隊に動きがあった。
 テイスティア、コーネリア艦隊をそのままにローバイクとワイドボーン艦隊がゆっくりと前方に進みだす。
 同時にアレス艦隊が防御施設Aを目指して、進みだした。
 敵艦隊に動きはない。

 防御施設Aまでは十五分。
何事もなく到着し、それから外周を回るように防御施設Bへと向かう。
 直線ではないため、防御施設Bにいるテイスティアと合流するのは二十分後であろう。
 何事もなければであるが。
 もし敵が本拠地に奇襲をかけるのであれば、遭遇する危険が非常に高い。
 索敵艦を多く出して、警戒を張り巡らせれば、必然的に速度が低下する。

 慎重に進ませて、ちょうど中間地点に来た時にワイドボーンの声が聞こえた。
『アレス、テイスティア。防御施設D地点のレーダーに敵の反応があった。数は一万五千――繰り返す、一万五千隻が防御施設Dから、本拠地に向かっている。コーネリアは敵艦隊を補足し、合流地点に吊り出せ』
 合流地点。それは動きだす前に決めた奇襲のポイントだ。

 本拠地と防御施設のちょうど中間地点。
 アレスからすれば最短でも四十分はかかる距離だ。
 時間との勝負だなと、コンソールを叩き始める。

 タイムラグによって、ワイドボーン艦隊からテイスティア艦隊まで、そしてテイスティア艦隊からアレスのところに聞こえるまで、それぞれ三分近いタイムラグがある。
 既にワイドボーンもテイスティアも合流地点に向かっているだろう。
 戦場に着くまでに勝負が終わっていることになりかねない。

 それではあまりにも面白くなかった。

 + + + 

 ワイドボーンの通信が入り、コーネリアは忙しくコンソールを叩きながら防御施設Dへと向かう。
 敵との距離に一番近いのはコーネリアである。
 真っ直ぐに本拠地へと向かう敵を合流地点で止めなければならない。

 一万五千隻と二千隻では勝ち目はないが、少しくらい止めるくらいできる。
 それは先日の戦いで、彼女の同期であるアッテンボローが行ったことだ。
 あれほどに上手く耐えるきる自信はないが、それでもやらなければ負ける。

 勝つ必要はない。
 既にワイドボーンとローバイクも合流地点に動き始めているし、テイスティアも向かっている。
 ならば、自分の仕事は相手を止め置くこと。

 少しでも速度をあげながら、敵艦隊を目指していく。
 レーダーでとらえた艦影の数は、自分のおよそ八倍近く。
 ちっぽけな自軍を飲み込むように、敵は速度をあげて向かっている。

 接敵まで残り五分。
 相手との距離から時間を判断しながら、コーネリアは手に滲んだ汗を拭った。
 残り時間を見れば、この戦いが最後の戦いになるだろう。
 自陣が殲滅されるか、敵を殲滅するか。

 あるいは時間切れとなるか。
 どうなるかはわからないが、焦らされるよりは遥かにマシだ。
 コーネリアは自分が穏健だと思っていたが、どうもそうではないらしいと考えを改めることになった。

 今から死地に飛び込むというのに、恐ろしさよりも先に楽しさが勝っている。
 一万五千を相手する事に興奮している。
 自分がどこまで戦えるのかを知りたくて。

「鬼ごっこは終わりよ。ヤン・ウェンリー」
 小さく呟いた言葉。
 だが、ミシェル・コーネリアは理解していなかった。

 後に『魔術師ヤン』と呼ばれる男の恐ろしさを。

 + + +

 防御施設Dへ反応があって、すぐに指示を出しながら、ワイドボーンとローバイクは合流地点に向かっていた。
 急いだとしても、コーネリアが接敵してから二十分後に合流することになる。
 それから十分後にテイスティアが、さらに遅れる事十分でアレスが来る。

 防御の関係上、戦力の逐次投入という愚を犯すことになるが、それでも第二陣となるワイドボーン達は九千隻で、コーネリアと合わせれば一万を超える。
 最悪の事態は避けられたと見るべきか。
「どう思う、ローバイク候補生」
『四十分耐えられるかどうかだと思います』

「ああ。俺も同じ考えだ、ローバイク候補生」
 ワイドボーンも頷いた。
 四十分後にはアレスが烈火のように敵陣を切り裂くだろう。
 それまでにこちらが耐えられれば勝ち。
 耐えられなければ、負ける。

 単純な戦い。
 ちまちまと防衛しているよりはよほど楽だ。
 そろそろコーネリアが接敵したころだろうか。

 通信のタイムラグが憎らしい。
 接敵したとしても、それがわかるのが三分後。
 もっと近づけば、タイムラグもなくなるのだろうが。

「魚鱗の陣形を」
『了解』
 短い言葉とともに、移動しながらゆっくりと艦列が変化していく。
 魚の鱗のように三角形に形作られる。

 そこに、悲鳴のようなコーネリアの声が聞こえた。
『敵と接触。敵は二千隻――残りはデコイ。偽装艦です。本命は!』

 + + +
 
 広がった一万三千隻の艦影に、アレス・マクワイルドは息を吐いた。
 後悔してもどうしようもなく、ゆっくりと髪をかく。
 念には念を入れる。

 まだまだアレスはヤン・ウェンリーという人間を甘く見ていたらしい。
 おそらく、防御施設Dが発見したのは偽装艦による囮。
 動力反応や艦隊反応を偽装することができるが、艦隊戦にはほぼ使えない。

 それでいて費用は通常の戦艦なみであるため、実戦も含めてほとんど使われることはない。
 相手と接敵した場合には、一掃されるのであれば、戦艦を買った方がよい。
 既に知っていることであろうが、一応とばかりにワイドボーンに対して通信を送りながら、アレスはかきあげた手をゆっくりと唇においた。

 ワイドボーンもテイスティアも、騙された合流地点に向かっている。
 通常であれば、十分ほどでテイスティアが、その十分後にワイドボーン艦隊が到着する予定であった。
 だが、ワイドボーンとテイスティアがコーネリアの方向に向かった事で予定は大きくずれる。

 テイスティアが来るまで、二十分……ワイドボーンは三十分後であろうか。
 それだけの時間があれば、わずか二千隻を殲滅するには十分な時間だろう。
 あのアッテンボローでさえ、こちらの攻勢に対抗できた時間は十分ほどであったのだから。
耐えなければいけない。

 小さく息を吐きだすと、アレスはゆっくりと正面を見た。
 一万三千隻の艦隊が近づく。

 もはや、逃げる意思もなく、一人コンソールのボタンに手をかけた。
 即ち、開戦。


 

 

決勝戦~中編~



 敵艦隊の両翼からレーザー光線の一撃が伸びる。
 さすがのヤン・ウェンリーも左右の艦隊までは御し得なかったのか。
 あるいは、自分の無駄に派手なあだ名のためか。

 明らかに遠い間合いからの一撃は、こちらの防御バリアによってかき消される。
 ゆっくりと艦隊を後退させながら、命令を送る。
『ファイヤー!』
 返す一撃が、相手へと迫る。

 一部は防御を貫いて、敵に損害を与える。
 だが、続くのはそれに倍する攻勢だ。
 最初はレーザーが、続いてレール砲――最後に襲いかかるミサイルを迎撃しながら、防御の強い艦を前に出すことで耐える。

『左翼に向けて、レール砲を射出』
 送られた命令は、相手の左翼だ。
 ゆっくりと開き高速戦艦が前に出た瞬間、着弾した。

 花火のように花開く閃光を最後まで見る事もなく、アレスはコンソールを叩いた。
 相手の一撃を押さえ、いなし、あるいはかわす。
 次々と入力される情報に、画面に情報が流れていく。

 それを黙って見ている余裕は、アレスにはなかった。
 全面的な劣勢だ。
 相手が数で侵攻しようとする一撃を、わずか二千の艦隊が押しとどめる。

 こちらを包囲しようと動いた艦隊を、あるいは突撃を狙う艦隊に対抗するのは、アレス艦隊だけだ。
 めまぐるしく動く状況に、ただアレスのキーボードを叩く音が鳴り響く。

 だが、健闘もむなしく、アレス艦隊はゆっくりと後ろに後退していった。

 + + +

 粘るな。
 決して、舐めていたわけではなかった。
 戦端が開いて五分。
 敵は次第に下がり始めるが、壊滅とまではまだまだ呼べそうにはなかった。

 先日のアッテンボローのように、逃げるわけでもない。
 その場に留まっての五分である。
 モニターで見れば、敵は小さなもので、すぐにでも潰せそうなものである。
 だが、予想以上の粘りによってそれが出来ない。
 後輩ながらに称賛したい気分だ。

 自分であればどうしただろう、すぐに白旗をあげただろうか。
 それに比べ――。
「アルドワン。右翼の一年生を止めてくれ、少し前に出過ぎだ」
『わかりました。ただ、左翼の坊主も少し突出してますね』

「既に伝達済みだよ」
『了解、さすがです』
 さすがでも何でもないだろう、こんな子供に対する母親のような仕事は。
 熟練されたアレスの動きとは違い、いまだにこちらの一年生と二年生の動きは甘い。いや、それが普通なのかもしれないが、相手を攻めるために前に出ようとする。

 有効射程距離であれば、前だろうが後ろだろうが相手に対する威力は変わらないのだが、それが知識で知っていても、体ではいまだ覚えてはいないようだ。
 そこをアレス・マクワイルドはしっかりと狙い、攻撃を加えてくる。
 そのフォローのために、ヤンも四学年のドナルド・アルドワンも苦労することになる。

 いまだに相手を一蹴できない理由の一つであった。
 まさに未熟な人間のフォローという、通常のシミュレート訓練では体験できない事をしているわけだが、あえて体験をしたいわけでもない。
 それでも兵力差は絶望的であり、このまま攻撃を加えるだけで限界点を迎えた敵は殲滅出来るだろう。

 だが、時間がない。
 あまり時間をかけ過ぎれば、敵の援軍が到着する。
 その前にもう一艦隊ほどは削りたいからね。
 ヤン・ウェンリーの頭の中には、最初から敵の本拠地を攻略する目的はなかった。
 防御施設への分散攻撃により、敵を分散させ――合流する前に各個撃破する。
 ワイドボーンやローバイクなどの本隊を狙う必要もない。

 二千隻の艦隊を二つばかりでも撃破すれば、あとは時間切れで勝ちが確定する。
 例え汚いと思われようが、それが最善で、何より一番楽な方法だ。
 次が来る前までに相手を撃破する必要がある。
 そのためにわざわざ偽装艦まで使って、相手を分散させた。

「アルドワン。プランBを」
『了解しました』

 + + +

 アレスの眼前で、敵の動きが変わった。
 ワイドボーンやコーネリアのように目を開くような、動きではない。
 だが、ゆっくりであるが、確実な艦隊の動き。
 そこに付け込もうにも、こちらには余剰兵力は存在しない。
 ただこちらを切り裂くことを目的にした、動きだった。

 それを見る事だけしかできないとはね。
 小さく呟きながら、アレスはわずかに入った休憩に指を止めた。
 手を休めながら、見守る画面で映るのは英語のVの形。
 即ち。

「鶴翼か」
 呟いた言葉の先で、相手の陣系が鶴のように大きく広がっていく。
 相手を包囲殲滅するに適している形だ。
 もっとも中央が薄いため、中央突破にも横からの攻撃にも弱い。
 だが、相手がアレスしかいない今では十分な形であろう。
 正面だけではなく、左右からも攻撃を加えるようだ。

 そこに驚くような戦術は存在しない。
 実に手堅く、アレスを食い破る。
 調子に乗ってくれればいいものをと、アレスは思う。
 奇策を得意としながらも、根本では確実に必勝の態勢を取る。

 厄介で、実に嫌な相手だ。
 相手が確実な手を使うのならば、こちらも確実な手を使わざるを得ない。
 そして、計算の先には援軍が来るまでに壊滅するだろうとの結果だ。
 時間を見れば、開戦からまだ五分ほどしか経過していない。
 まだまだ援軍が来るまでに、時間はかかるだろう。

 何もしなければ負ける。
 だが、見逃しの三振より空振りの三振の方がマシだろう。
 呟き、アレスはゆっくりと手をコンソールに戻した。
 眼前では、完全な鶴翼――V字型の陣形が完成していた。

 + + + 

 一瞬途絶えた戦火は、それに倍する勢いを持って再開された。
 ヤン艦隊のそれぞれの両端がアレス艦隊を包囲するように広がっていく。
 その先頭に向けて、攻撃を加えるのはアレス艦隊だ。
 しかし、それでもわずかばかり速度を衰えさせただけである。

 前後左右からの攻撃に、アレス艦隊は物理的に対応できず、次第に損害を拡大させていく。
 後退する速度を速くして、包囲から逃れようと動く。
 だが、それすらも想定のように相手からの攻撃は強くなっていく。
 艦隊数が千二百を切る。

 時間にしてわずか七分ほどであるが、縮小された時間であれば驚くほどの粘りだ。
 観客席の生徒は唾を飲み、教官の中でも小さな称賛が聞こえる。
 だが、それはあくまでも頑張ったとの過去形である。
 既にアレス艦隊の半分ほどが包囲されており、結末は誰の目にも明らかであった。

「彼は頑張った。もう十分だろう――主砲、斉射三連」
 アレスにとどめを刺そうと、ヤンの命令が小さく――しかし、はっきりと響いた。
 しかし、それが実行に移されるわずかな時間。
 その瞬間――ヤン艦隊の左翼が崩れた。

 + + +

 何が起こったのか、理解できたのは観客席の教官でもわずか数名程度。
 生徒だけであれば、ラップとアッテンボローなど数名だけであっただろう。
 崩れた左翼を担当していた二学年の生徒は、何が起こったのか理解も出来ずに、大きく陣形を乱した。

 それは防御施設Aからの、防衛射撃。
 次第に後退していたアレス艦隊を包囲するように、大きく展開したヤン艦隊は、その左翼の一部を防御施設Aの攻撃範囲にまで引き込まれていたのだった。
 その一瞬を見逃すことなく、アレスは陣形を変える。

 それは敵艦隊を貫く鋒矢の陣形だ。
 左翼の混乱に乗じて、食い破れば、鶴翼に広がった敵の中央は薄い。
 ヤン艦隊を目指して、一つの矢が走りだした。

 + + + 

 正面に向かう矢に、ヤンは小さく称賛を言葉にする。
 わずかな隙を見逃さない。
 いや、それは彼にとっては最後の希望であったのだろう。

 困難な状態からも諦めずに、一瞬のチャンスを作る。
 まさに名将と言って良い器だ。
 彼が進む未来に、歴史家としての心がわずかに動かされる。

 おそらくこれからは彼も英雄としての道を進むだろう。
 同じ時代に生まれて、その活躍を見て、分析が出来るのは実に幸運なことだろう。
 崩れた左翼を一蹴しながら進み来る。
 包囲のために離れた右翼では対応できない。

 だからこそ、残念だ。
 そんな名将に土をつけることになるとは。
 後世の歴史家からは自分は何と批判されるだろうか。
 そう思えば、小さく息を吐き、ヤン・ウェンリーは笑った。

 + + + 

「油断しない事も才能だな。あるいは、それすらも予想していたのか」
 もはや呆れすらも言葉に乗せて、アレスは呟いた。
 当初はV字型であった鶴翼が、現在では中央を厚くしてYの形に変わっている。

 いつからそうであったのかは、この際考える事は無駄なことだ。
 ただ偶然か必然かはおいて、このまま突っ込めば敵旗艦を破壊する前に勢いを潰されて、包囲されるという現実である。
 かといって、急遽進軍を止める事はできない。

 中央突破に優れた鋒矢の陣は、防戦にはそぐわなすぎる。
 一度後退して陣形を整えるにしては、深く入り過ぎている。
 かといって、前に進めば包囲される。

 まさに八方ふさがりの現状で、アレスはコンソールにおいた手を止めた。
 脳裏によぎる情報全てが、どうしようもないという現実を突きつける。
 時間を見れば、十分が経過していた。

 一万三千を食い止めたにすれば、まだ持ちこたえた方であろうか。
 そうなれば、残すは。
「全軍。斉射三連! 敵中央を突破する」

 呟いた言葉、そのままにコンソールに命令を叩きつけた。

 + + +

 敵の勢いが増した。
 おそらくは幾末を悟り、全艦隊による一斉の砲撃が始まったのだろう。

 これまでにない攻勢は、まさに烈火としての名前に偽りはない。
 それでもヤン艦隊は冷静に対処した。
 厚みを増した中央がアレス艦隊の勢いを受け止め、混乱から回復した左翼と右翼が包囲を強めていく。

 前後左右からの攻撃にさらされたアレス艦隊は、数は千を切っていた。
 それでも諦めを見せない。
 大したものだと驚きを見せながら、ヤンは攻撃を命令しようとして、動きを止めた。

「まずい」
 小さく呟いた言葉の直後――ヤン艦隊の右翼が、背後からの攻撃に大きく崩れた。

 + + + 

 リシャール・テイスティアは、ワイドボーンからの命令を受けて、コンソールにおいた手を止めていた。
 動きだそうとした手が、動いてくれない。
 頭ではなく、身体が駄目だと告げる、その状況をテイスティアは知っていた。

 何かがおかしい。

 それを正しく言葉では説明できないが、その事が手を止めている。
 コーネリア艦隊が敵一万五千に接触した。
 その事は不思議ではない。
 敵は全軍を持って、D地点から攻勢を仕掛けたのだろう。
 だが……。

「なんで一万五千も」
 敵はおそらくは二つに分けていた。
 AとBの防御地点を攻めた二千隻とCとDの防御地点を攻めた二千隻だ。
 そして、AとDをそれぞれ攻めていた二千隻はテイスティアとコーネリアの艦隊が向かうと、逃げだして再びBとC地点に攻め始めた。

 だからこそ、テイスティアは防御施設Bの周回にいるのだが。
 そこからB地点に攻めていた艦隊も合流して攻勢を仕掛けたのだろうか。
 時間的には可能。
 だが、それはあくまでもぎりぎりの時間。

 わずかな連携の乱れで間に合わないかもしれない。
 ましてや決定された時間ではなく、敵の動きで変化する戦況で、だ。
 それならば、テイスティアであれば残る二千で、さらにワイドボーン率いる本隊を引き込んだだろう。

 自然と、テイスティアの手が動き、艦隊の進行方向を変えていた。
 何かおかしい。
 その想いだけで実行した行動――だが、それが、アレス艦隊を救う事になった。

 + + +

 後方から一斉に攻勢を受けた右翼は、大きく陣形を乱した。
 その崩れを見逃すことなく、アレス艦隊は右翼に方向を転身。
 右翼に一撃を加えて、包囲網から脱出する事に成功した。

『だ、大丈夫ですか。アレス先輩』
「ああ。助かった。でも、何故こんなに早く?」
『その、何となく……です。何となく、変だと思って』
「随分と頼もしい何となくだ。ワイドボーン先輩にはそれを言ったのか?」

『あ。あ、いや、その……忘れてました。伝えるの』
「……」
『えっと、その間違えていたらどうしようと思って』

「テイスティア。間違えた情報を伝えるのはいいとしても、せめて自分の艦隊の動きくらいは、総司令官に伝える必要があると思うぞ」
『その、ごめんなさい』
「まあ、いいさ。おかげで助かった。終わったら、俺も一緒に叱られてやる」
『ありがとうございます』

「そこはごめんなさいだろう」
 小さく笑いながら、アレスは通信を打ちきる。
 アレス艦隊に合流したテイスティア率いる二千隻。
 対するヤン艦隊も、一斉に攻勢を仕掛けることはない。

 一度艦隊を引いて、こちらの様子を見ている。
 助かった。
 しかしながら、いまだ戦力は四倍近い差がある。

 両軍が陣形を整え――再び激突を開始した。

 

 

決勝戦~中編2~



 両陣営が陣形を整えていた時間は、わずか数分の事であった。
 ヤン・ウェンリーは時間の経過を嫌い、陣形を整えて、即座に攻撃を開始する。
 その速さには、アレスも小さく感嘆の声をあげた。
「休む時間もくれないわけか」

 そう呟きながらも、テイスティアに指示を出す。
 一万を超える敵からの砲撃に、テイスティアが面白い声をあげていた。
 思わず笑いそうになる。
 それでも表情を引き締めながら、敵の攻撃を迎撃した。

 変わらず、敵からはレーザーやレール砲など攻撃が雨のように降り続く。
 それを防いでいれば、隣でテイスティアも同様に防いでいた。
 気合のためか、時折通信に混じる声がなければ。

「テイスティア。敵左翼と右翼が慣れていない。攻勢をかける時はそちらに」
『あぁぁぁわわわっ。とて、も。攻勢なんてかける余裕はない、ですよっ!』
「わかった。だから、落ち着いて前の事に集中しろ。全体的なことはこちらで見る」
『りょ、了解しました』

 これほどの攻勢は初めてだろう。
 アレス自身も初めてではあるのだが、先ほどからの戦闘で少しは慣れている。
 襲いかかる攻撃に対処しながら、アレスは敵艦隊を見る。
 おそらくは。

「相手も焦れているはず」
 そう呟くのは、もはや時間の経過が相手よりもこちらに有利に働くからだ。
 残すところ十分。

 そうすれば、こちらも本隊が到着して互角の戦いができる。
 相手はそれまでに勝負をつけたい。
 その焦りを突けば、有利に働く。

「そのためには、そうくるだろう」
 小さな呟きは、アレスにとって予想通りの結果だ。
 ヤン艦隊が攻勢をかけながら、陣形を変化させている。
 それは鋒矢の陣形。

 敵を打ち破るには、もっとも効率の良い中央突破の陣形だ。
 それでも一万を超える艦隊からなる鋒矢は壮観であった。
 矢の返しの半分が、こちらの艦隊全部の数を超える。
 中央どころか艦隊全てをもぎ取りかねない。

 容赦がないなと、アレスは苦笑する。
 それは最初からわかっていたことだ。
 だからこそ。

「敵は中央突破を狙うらしい。テイスティアは三十秒後に艦隊を左に縦列で、こちらは右側に縦列で対応しよう」
『ワイドボーン先輩の時のようにですか』
「ああ」

 考えたのは、敵の中央突破に対して左右に分かれて包囲を仕掛ける方法だ。
 もちろん兵力数が少ないために、敵を包囲する事は不可能だろう。
 だが、左右に別れた部隊が縦列から攻撃をすれば敵に損害を与える事は可能だ。
 そのことを読みとったであろうテイスティアからは、了解と声が聞こえた。
 もっとも――ぎりぎりまで敵を引きつけるのは相当な難易度だ。

 早く分散すれば、各個撃破されるであろう。
 逆に遅ければ、戦力の差から一気に勝負を決めかねられない。
 敵が行動を変更できず、さらにはこちらに食い込まれない。
 その僅か数コンマの時間を、アレスは冷静に見極める。
「いまだ!」

 呟いた言葉は、敵の艦隊が先頭に重なった一瞬。
 花が開く様に中央から別れた二つの艦隊は、静かに矢となった艦隊の側面を撫でる。
左右からの攻撃が、結果としては形作られればヤン艦隊に少なからずの損害をもたらしただろう。しかし、それが形を作る前に敵の攻撃が、別れて敵の左を進むテイスティア艦隊の先頭に集中する。

 幾筋のレーザーによる一点集中攻撃。
 集まった力が相乗的に高まって、テイスティアの先頭がもぎ取られた。

 + + +

「ここでそれが来るのかよっ!」
 アレスが苦い叫びをあげた。

 レーザーを集中させると、単純に聞こえる事であるが、その難易度は非常に高い。
 方法を知っていたとしても、いまだにアレスはできないでいる。
 文字通りレーザーを集中させなければ、単発な結果に終わってしまうためだ。
 そのために原作でもヤン艦隊以外は誰も出来なかった――彼の十八番。

 それがここにきて、最悪の形で炸裂した。
 一瞬にしてテイスティア艦隊の先頭が壊滅して、残った艦隊も大きく態勢を崩している。組織だっての攻撃はもはや期待できないだろう。

 だが、テイスティアを心配している場合でもない。
 片面からの攻撃がなくなったヤン艦隊は、右側面に回ったこちらを包囲するように集中して攻撃を加えている。

 さすがに、いまだ一点集中攻撃は完璧ではないらしい。
 こちらを狙う攻撃は、場所や時間の微妙なずれによって先ほどまでの威力はない。
 と、いうよりもそんなものを連発されれば、たまったものではない。

 アレスもこちらを包囲しようとする敵前方と、後方に向けて、それぞれ牽制の攻撃を行うが、圧倒的に数が少ない。
 次第に狭まる包囲に、アレスは小さく唇を噛む。

 と、前方の艦隊がゆっくりと広がる様子が見えた。

 艦隊の奥――姿を見せるのは。

 + + +

「まずい、アルドワン。一学年を止めろ!」
 先頭で包囲を狭めた一学年の様子に、ヤンは舌打ちした。
 アレス艦隊が包囲によって、防御陣形を取ろうとした。

 そのために宇宙母艦によって、完全にとどめをさそうとしたのだろう。
 だが、早過ぎる。
 まだアレス艦隊は攻撃の意志を失っていない。

 一学年同士の戦いであれば、あるいはそれが凡人であれば見逃すこともなかっただろう。
 だが直後、開いた艦隊に向けて、アレス艦隊からの一斉掃射が行われた。
 戦闘艇をだすために艦隊同士に隙間を生じさせたため、防御を集中させることもできず、一学年の艦隊が薙ぎ払われる。

 アルドワンが慌ててフォローに向かう。
 だが、そこに続くのは後方――陣形を立てなおした、テイスティア艦隊からの掃射だ。
 崩れる陣形を見るヤンの前で、アレス艦隊は見事に脱出に成功させてみせた。

 ミスをしたのは一学年だが、それをあまり攻めるわけにもいかない。
 包囲網の中にあって、アレス艦隊は断続的に効果的に攻撃を加えていた。
 一気に勝負を決めたいと思っても、不思議ではない。

 時間だな。
「アルドワン。全艦隊を一時的に後退させ、部隊を再編させよう」
『まだ敵は崩れていますが』

「それはこちらも同じだね。それに、時間切れだよ」
 呟いた言葉とともに、アレス艦隊の遥か後方――敵艦隊の群れがゆっくりと近づいてきていた。

 + + +

『ピンチがないからといって、ピンチをわざわざ作ることもあるまい?』
「それが今まで耐えた後輩に対する言葉ですか、ワイドボーン先輩」
 口を尖らせたアレスの言葉に、通信の先で小さな笑いが聞こえた。
『ふん。冗談だ、良く耐えた――褒めてやろう。さて、ローバイク』

『はっ』
『俺の可愛い後輩を、あいつらは随分といじめてくれたらしいな?』
『そのようですね』
『端的に言おう。俺は怒っている、奴らは潰すぞ?』

『言われなくても――私も同じ気持ちですから』
 笑いあう言葉に、アレスは小さく息を吐きだした。
 こちらの味方が近づいてきたと判明するや、ヤン艦隊は即座に後退して部隊を再編させている。

 こちらも本隊が到着しているが、既にアレス艦隊とテイスティア艦隊は半数以上が損傷している。
 数の上では同数といえないが、それでも先ほどまでに比べれば随分と気が楽だ。

 緩やかに陣形を整えながら、アレスは時間に目をやった。
 どちらが殲滅されるか、あるいは時間切れか。

 これが最後の戦いになるだろう。

 + + + 

『逃げますか』
「どうだろうね」
 狭い筺体の中で、髪を撫でながらヤン・ウェンリーはモニターに目をやった。

 残す時間は少ない。
 損傷数からみれば、ここで正面から戦わずに逃げ回ったとしてもぎりぎり勝てるだろう。
 ましてや、相手はワイドボーンだ。
策もなしに戦うのは少し骨が折れる。

 その上、半数が殲滅したとしてもアレス艦隊はいまだ健在。
 大人しく逃げた方がいいだろうかと、考えて、ヤンは首を振った。
 相手は一万三千の敵に、今まで耐えてきた尊敬すべき相手だ。

 その意思を――そして、彼の仲間の思いを一蹴できるほど、ヤンは恥知らずではないつもりだ。
 仕事熱心とは言えないだろうが、それでも人として最低限の矜持はある。
「艦隊を横に、左から一学年、私、アルドワン、二学年の順だ」

 その言葉で、アルドワンも理解できたのだろう。
『了解』

 短い返答共に、ゆっくりとヤン艦隊が広がっていった。

 

 

決勝戦~後編~



 始まった戦いは、決して派手なものではない。
 艦隊攻撃兵器の打ち合いだ。
 レーザーが、レール砲が、ミサイルが。

 敵を打ち砕くために放たれ、防がれる。
 一見すれば、地味な戦いも――観客席でラップが小さく声をあげた。
 周囲を見渡せば、先ほどまでの一進一退の攻防に比べれば遥かに花のない様子に、雑談も始まっている。

 これこそが息を飲むべき戦いだろうに。
 そう呟いて見回す周囲で、何名が自分と同じ感想を持ったのか。
 気になったラップが周りを見れば、ほんの数名ほどが息をすることも忘れて、モニターに目を奪われていた。

 あそこでクラスメイトが話しかける言葉を無視しているのは、一学年の主席――セラン・サミュールと言っただろうか。
 一学年の中にも優秀な人はいるようだと、ラップは再びモニターに目を向けた。
 艦隊を僅かばかり動かすだけの、打ち合いは――先ほどから相互に出血を敷いている。

 だが、そこに含まれるのは何十という高度な技術の集まりだ。
 しかし、相手もまた高度であるため完璧に崩す事ができない。
 もしこれが慣れていない人間であれば、崩された瞬間に勝負を決められる。

 おそらくはラップですら、いや、現役の教官の中にもこれほどの高度な戦いに耐えられる人間はいない。敵を崩す策、守る策、惑わせる策――それらが一つではなく、全て艦隊を駆使して、重なり実行されている。

 左翼が敵を崩そうとすれば、右翼が敵の策を防ぎ、しかもそれが次の策へ繋がっているなど、誰が理解できるだろうか。
そうした結果が、この実に地味な出血戦である。
 互いの損傷艦艇は一進一退。ほぼ互角――このまま戦えば、おそらくはヤンが勝つ。

 だが、そのことをワイドボーンは理解していないわけがないだろう。
 そうなれば。

「そろそろ動くか」

 + + +
 
 化け物だな。
 コンソールを叩く様に打ちながら、アレスは舌打ちをした。
 先ほどまでは圧倒的劣勢であったために、理解するまで至らなかった。

 だが、こうして正面から艦隊決戦をすれば、なおのこと相手の異常さが理解できる。こちらはワイドボーンを始め、ローバイク、テイスティア、そして自分と、おそらくは士官学校でも最高の戦力で責め立てている。

 客観的に分析すれば、相手の四学年はローバイクにおとり、一学年はまだまだ甘い。二学年もまた、もしもアレスが同数で戦えば五分と持たずに壊滅できるだろう。
 技術的には圧倒的にこちらが有利。

 だが――勝てない。
 こちらがそれぞれ考えて実行する策が、全て受け止めれ――お返しとばかりの動きに対応するだけで、精一杯だ。
 下手に動けば、そこから一気に勝負を持って行かれる。

 それが理解できるからこそ、こちらも勝負をかけることもできない。
 結果は相互に出血が増えて、膠着状態に陥っている。
 時間が過ぎれば、不利になるのはこちらの方だ。
 時間切れになれば、相互の損傷艦艇数でこちらの敗北が決定する。

 まったく化け物だと、首を振ったアレスの耳に、緊張のこもった声が聞こえた。
『マクワイルド候補生』
「何でしょう」

『動くぞ』
 たった一言。
 ワイドボーンの言葉に、アレスは理解したように頷く。
 皮肉気にゆっくりと唇を曲げながら。
「向こうは承知の上でしょうね」

『当然だな』
「それでも動きますか」
『他に手があるのならば、聞いてやる』
「そうですね――」

 小さく呟いたアレスの言葉に、ワイドボーンの楽しげな声が筺体に響いた。
 馬鹿にしたような気配のない、純粋な笑いだ。
『相変わらず楽しませてくれる。それが可能だと思うか?』

「普通ならやろうとも思いません。ただし、この状態ならば、ワイドボーン先輩の日頃の行いが良ければ成功するかもしれませんね」
『面白い。なら成功は決まったようなものだ――貴様の好きにするといい』
「ええ。少しくらい驚いてもらいましょう」

 アレスの唇が、緩やかに笑みを作った。

 + + +

「動きましたな」
 観客席の一角で、スレイヤーが小さく呟いた。
 それまで一言も話さずにいた周囲は、スレイヤーの言葉によって時間が動きだしたようだった。
 渇いた喉を潤すコーヒーを嚥下する音が大きく響いた。

 小さくすする音とともに、隣席のシトレが渋い顔を作る。
「少し遅い気がするがね」
「そうでしょうか」
「ああ。どの道動かねばならんことは決まっていただろう。それなら動くのは早い方がいい。ワイドボーンは遅すぎるな」

「攻撃を加えて、相手が崩れる事を狙っていたのかもしれません」
「それが容易ではないことは、最初の二分で理解すべきだ。まだまだ甘い、どちらも……何だね」
 隣席からの視線に気づき、シトレが眉をひそめる。
 彼の視線の先で、笑いを誤魔化そうとして失敗したスレイヤーがいた。

 それを理解して、スレイヤーは咳払いをして、笑いを抑える。
「しかし、学生に対する評価にしては少し厳しくはありませんか」
「学生。あ、うん、学生……学生だったな」
「忘れておられましたか」

「ん、ああ」
 シトレはモニターを一度見て、困ったような表情を浮かべた。
 何といっていいか、しかし、誤魔化すこともなく小さく呟いた。
「いかんな。自分が総司令官の立場でいた気になっておったようだ」
「気持ちはわかります。確かに甘く、未熟なでしょう。けれど――心踊らされる」

 スレイヤーの言葉を認めるように、シトレは頷いた。
「ああ。この戦いを後方で見ていれば、きっとうるさい爺とよばれただろうな」
「今でも十分、うるさい爺ですが」
「酷いな、君は!」

「ほら、うるさい。さぁ、始まりますよ」

 + + + 

 敵が攻勢の中で、ゆっくりと陣形を変えるのをみた。
 この戦いの中で唯一とれるであろうたったひとつの選択。
 彼が得意とし――この停滞した戦場を打破するであろう唯一の陣形。
「鋒矢の陣形」

 呟いたヤンの前で、変化しつつある陣形は彼が呟いたものと同じだ。
 中央突破を狙う鋒矢の陣形。
 一撃の威力は大きいが、しかし――突破できなければ大きな損害を受ける。

 この時点においては、おそらく最善の方法。
「でも相手に気づかれれば意味がない」
 あるいは高速の変化は目の前の戦いに集中していればチャンスはあったかもしれない。だが、ヤンは彼らが得意とする陣形を知っている。

 彼らは見せすぎたのだ。
 静かに呟いた言葉に、ゆっくりとコンソールを操作する。
 この状態であれば、こちらの手も決まっている。
 敵の進撃をいなして、包囲する。

 それだけだ。
 そう指示を出せば、緩やかにヤン艦隊の横陣が敵を囲うように広がっていく。
 もちろん、あまり広がり過ぎては駄目だ。
 あくまで敵の中央突破を受け止め、包囲する。

「今回は、残念ながら審判に苦情を言うことはできないだろう」
 もっとも今のワイドボーンであったならば、悔しいとの思いはあれ、苦情をいうことはないだろうが。

 + + + 

 放たれた矢のように、ヤン艦隊の中央にワイドボーン艦隊の鋒矢が突き刺さった。
 その勢いは並大抵の防御であれば、やすやすと破り、突破したであろう。
 後の事すら考えない弾幕の大安売りだ。
 だが、後先を考えないのはヤン艦隊も同様であった。

 ここが天王山とばかりに、情けも容赦もない弾幕の嵐は、厚みを持たせ中央からワイドボーン艦隊に降り注いだ。
 その左右から攻撃に。さらされたワイドボーン艦隊は速度を低下させる。
 しかし、諦めない。
 なおも、ヤン艦隊に食らいつこうと走る。

 全艦隊が一丸となって駆け抜ける姿は、心を凍らせる。
 既に中央の一部が、矢に食い込まれ始めていた。
「っ――全員玉砕のつもりか。相手の先頭を狙え!」
 言葉とともにヤン艦隊の砲撃が、艦隊の先頭へと集中する。

 一条の光が偶然を含んで、重なった。
 それはテイスティア艦隊を崩壊へと導いた一撃。
 一点に集中された破壊の力は、ワイドボーン艦隊を飲み込んだ。
 一瞬で先頭をかき消されたワイドボーン艦隊に向けて、周囲から攻撃が続く。

 打ち砕かれた艦隊は、もはや最初の力を残していない。
 ゆっくりと包囲される中で、それでも最後のあがきとばかりに動きだす。
 狭い小さな筺体の中で、ワイドボーンは笑う。

「残念だったな、ヤン。俺は――囮だ」
 その隣を――風が駆け抜けた。

 + + +

 敵の攻撃が弱まり、ヤンはゆっくりと息を吐いた。
 敵の勢いに飲まれ、自然と息も止めていたようだ。
 攻撃は予想通りだったが、敵の勢いまでは予想できなかった。
 最後の一撃がなければ、あるいは中腹まで食い込まれていたかもしれない。
 そうすれば――と、その視界の先で、たった一つ速度を落とさない光があった。

 それはワイドボーン艦隊の中央を、無人の野を進むがごとくに疾走している。
 なぜという疑問は、すぐに溶けた。
 先頭の艦隊がヤンの一撃によって崩壊したために、艦隊の中央にスペースが出来たからだ。そして、艦隊の中央にいるためにこちらからの攻撃は届かない。

 その艦隊の名前を、ヤンは良く知っていた。
「アレス・マクワイルド」
 ワイドボーン艦隊が全てが一つとなって、鋒矢の陣形を作る。
 その中でただ一人後方に位置していたアレス艦隊だけがもう一つの鋒矢の陣形を作り上げていた。他とは出発をわずかに遅らせる事で、他の艦隊からの攻撃を防ぎ――さらには先頭が消失したために空白となった味方艦隊の走る。

 もし、アレス艦隊が十分な兵を持っていれば。
 もし、ヤン艦隊が敵の一部を消滅させるほどの一撃を見舞わなければ。
 もし――ワイドボーンの勢いが僅かでも弱ければ。

 成功する確率は低いだろう。
 艦隊の中を走るという曲芸がそう簡単に成功するわけがない。
 だが、歴史にもしという言葉がないことを、ヤンは誰よりも知っている。
「二撃目だっ!」

 もはやそう叫ぶことしかできず、アレス艦隊の第二の矢が突き刺さった。
 勢いを一切殺さなかったアレス艦隊は、少数ながらにヤン艦隊の中央に食い込んだ。ヤン艦隊はワイドボーン艦隊の勢いを殺すために、艦隊を中央に寄せていたことも災いした。距離があればともかく、文字通り艦隊の中を進むアレス艦隊を止める事ができない。

 それでも突入でわずかに速度を落とす。
 そう意図的に――その様子を、ヤンは苦い顔で見る事しかできなかった。

 + + + 

「スパルタニアンを射出!」
 戦闘艇が射出出来るぎりぎりの速度で、アレスは宇宙母艦三艦を含めて、一斉にスパルタニアンを放った。今までの戦いから、一切温存していた戦闘艇は容赦なく、ヤン艦隊を蹂躙していく。
 敵艦隊を示す赤い点が次々に消えていく。
 その様子に勢いを取り戻したワイドボーン艦隊が第三の矢となる。

 もはやヤン艦隊に立て直す余力はない。
 ヤン艦隊半ばまで食い込んだ矢は、次々と敵を殲滅した。

 後一歩――完全に戦線が崩壊するその直前、試合終了を告げるブザーが鳴った。


 

 

決着



 敵旗艦を目前にして、ブラックアウトした視界に、アレスは眉をひそめた。
 停電かと一瞬思い、すぐに鳴り響くブザーで現状を把握する。
 試合時間が過ぎたのだろう。
 今までは一度たりとも時間切れにならなかったため、経験していなかった。

 しかし、戦いの最後にしては随分と緊張感のない終わり方だ。
 そこまで凝るお金がなかったのかもしれないが。
 固まっていた手をコンソールから離して、ゆっくりと背もたれに身体を預ける。
 疲れたと、小さく呟きながら考えるのは試合のことだ。

 勝てただろうかと。
 最初の時点では、こちらが不利であった。
 その後の艦隊戦はほぼ互角だろう。
 そして、最後か。

『マクワイルド候補生。どう思うね?』
 呟かれた通信は、ワイドボーンの言葉だった。
 どことなく調子の低い様子は、おそらくは彼も同じ結論を得たのだろう。
「負けですね」
 小さく呟いたアレスの言葉は、やはり勢いのない言葉だ。
 あと一分。

 一分ほど早ければ、結果は違ったものになっていただろう。
 そう思いかけて、首を振ったアレスの耳に届くのは、苦笑混じりの言葉だ。
『そうか。私のミスだな』
「負けて気が触れましたか?」

『下手な慰めよりはマシだが、もう少し優しい言葉をかけてほしいものだ』
「そう……ですね。別にワイドボーン先輩だけのせいではありませんよ」
『今更遅い。だが、私の決断が遅すぎた。前回はあまりに遠すぎて、違いがわからなかった。だが、今回は後一歩だった』
 吐き出された言葉を、アレスは黙って聞いていた。
 沈黙に――ワイドボーンの言葉を待った。

『なぜだろう――あの時よりも今の方が遥かに悔しいな』
「俺もです」
 短く呟いた言葉とともに、筺体がゆっくりと開いた。
 選手だけが存在する試合会場に、騒々しさはない。
 ただ筺体が空気を吐きだす小さな音と。

『……星系の戦闘結果。青軍、マルコム・ワイドボーン総司令官。赤軍、ヤン・ウェンリー総司令官。損耗率、青軍58.7%、赤軍59.0%。よって、ワイドボーンチームの勝利です』

 + + + 

 静けさの中からざわめきが生まれた始めた。
 筺体から身体を持ちあげて、視線が集中するのは大型モニターだ。
 最初は聞き間違いかと思った。
 周囲でかわされる視線――そして、繰り返される機械的な音声が、ワイドボーンチームの勝利を告げている。

 見守るような視線の先で、ゆっくりとモニターに文字が映った。
 

 損傷率 青軍58.7%  赤軍59.0%
 損傷艦艇 青軍8,805隻 赤軍8,850隻
  ワイドボーン艦隊2,882隻、ウェンリー艦隊2,721隻
  ローバイク艦隊 2,132隻、アルドワン艦隊1,951隻
 そして。
  コーネリア艦隊   470隻、ジェイガン艦隊2,000隻(全滅)
 

「あ――」
 テイスティアが呟いた、その肩をぎゅっと握られた。
 振り返った先で、形だけ笑顔を作るコーネリアがいる。
「まさか、私を忘れていたってわけじゃないわよね?」

 忘れていた。
 と、誰も言えずに、慌てて視線をそらして、モニターに目を向ければ、間違いない。
 本隊同士の戦いでは、ヤン艦隊が優勢であった。
 およそは1,500隻ほどであろうか――ぎりぎり負けたと表現した結果がそこにある。
 だが――。

「すみません」
 謝罪の言葉が、遠くから聞こえた。
 ヤンを中心にするチームの中で、一人大きく頭を下げている。
 その様子に、ヤンはゆっくりと首を振っていた。
「いや、もともと偽装艦を主体としていたんだ。この結果は仕方がない。原因を探すとすれば、最初に攻めきれなかった私のせいだ」

 それでも謝り続ける三学年の生徒。
 彼が全滅をしたことで、戦いの結果は逆転していた。
 そこまでを理解して、ようやくワイドボーンは拳を握った。
「う、うおおおおおっ!」
 獣の様な咆哮をあがる。

 声をあげようとしていたワイドボーンが驚いて隣を見た。
 ローバイクだ。
 柄にもなく拳を握って、喜びを表現していた。
 肩を掴まれたコーネリアをテイスティアが抱きしめる。
「ちょ、ちょっと」

 困った声をあげながら、しかし、コーネリアも嬉しそうに微笑んだ。
 そして。
 ガシャンと自動販売機から、アイスコーヒーを取り出しながら、アレスは一人輪から外れる。
 まるで葬式会場の敵チームと、結婚式会場の様な味方チーム。
 その対照的な姿に、小さく笑い――一口。

「にがっ」
 呟いて、疲れたと壁に肩を預ける。
 戦い前の高揚感はどこへやら、今すぐにでも布団にもぐりたい気分だ。
 一方のヤンチームが、泣きだした三学年の生徒を慰めながら、ゆっくりと戦場を後にする。
 と。

 ヤン・ウェンリーの視線が、アレスに向いた。
 視線があう中で、言葉はない。
 無造作な黒髪の、冴えた姿を見せない顔立ち。
 それがゆっくりと笑み、頭を下げて――退場していった。
 悔しいのだろうか。

 そんな表情を一切見せないで、すぐに視線を戻すと視界の端から消えていく。
 英雄か。
 結果として勝つ事はできた。
 しかし、艦隊同士の戦いではとても勝てたと言えない。

 ワイドボーンが、ローバイクが、テイスティアが――そして、コーネリアがいたからこその勝利だ。
 五人そろってようやくぎりぎり勝てるなど、化け物もいいところだ。
 まだまだだと小さく呟けば、コーヒーを握っていた手が握られた。
「ほら、何してるのよ。今日のMVPがそんなところにいちゃだめでしょう」

「貴様は相変わらず終わったら、すぐにコーヒーブレイクだな。もっと協調性というものを考えろ、マクワイルド候補生」
「まさか、ワイドボーン先輩から協調性という言葉を聞く事になるとは思いませんでしたね」
「いいから、ほら。きなさいよ――テイスティア、アレスのコーヒーを取って」
「はい」

「おい、何を考えている」
 コーヒーを奪われて、戸惑いながらアレスが進む。
 その先には、ワイドボーンとローバイクの体格のいい二人だ。
 その動作に、嫌な予感を感じながらアレスはコーネリアに押される。
「ちょっとまて、何かを考えているかは理解できた。だが、やめ――」

「大丈夫だ。俺一人でも人を投げるなど簡単なことだ」
「……問題ない」
「俺が問題あ――ああっ!」

 言葉を最後まで言うことなく、アレスは宙を舞った。

 + + + 

『優勝 ワイドボーンチーム。君らは第一回戦術シミュレート大会において……』
 シトレが直々に表彰状を読み上げる。
 背後には士官学校の学生たちが並び、視線が集中する中での授与式だ。

 居心地悪そうにアレスは身体を動かした。
 ワイドボーンがシトレ学校長から賞状を受け取り、続いてローバイクがスレイヤー教頭から記念品を受け取った。
 並んでいる一人一人に、シトレから声がかかる。

 最初にワイドボーンが、そして、ローバイクが。
 最後の戦いに対して、自分の意見を交えて、柔らかな雰囲気で話しかけていた。
 そして、コーネリアに。
少しずつ動きながら、やがてはアレスの前に立った。

 差し出された手を握る。
 軍人らしい武骨な感触とともに、力強く手が握り締められる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」

「――君は私が最初に送った言葉を覚えているかね」
「は……は、はぁ?」
「君が入学した時だ。私はこういったな、英雄と呼ばれるのは君ら一人一人の頑張りだと」
「え、ええ。そう伺いました」

「士官学校までであれば、それで良い。だが、戦場にあがれば一人が頑張ってもどうしようもない現実が待っている」
 握りしめられた手と、真剣な表情にアレスは一瞬戸惑いを見せた。

 だが、すぐにシトレの言葉を待つ。
「自分一人の頑張りなど、無意味だと――そんな事を皆に伝えるわけにもいくまい。だが、君にだけは伝えておこうと思う。一人で頑張り過ぎるな、死に急ぐな、マクワイルド候補生」
「はい」
 頷いたアレスの肩を小さく叩けば、手を離してテイスティアに向かった。
 それを視線で追えば、先ほどまでの強い視線はなくなり、朗らかな様子でテイスティアの判断力を褒めていた。

 いまだ感触の残る手を見れば、目の前に立つ影がある。
 スレイヤー教頭だ。
「困ったお人だ」
「えっと……」

 答えに窮したアレスに、スレイヤーは苦笑で答えた。
「めでたい席くらいは、めでたいままで終わればいいだろうに。そういうのを老婆心というと思うのだがね」
「はぁ」

「ま、それだけ期待しているのだろう。シトレ学校長は二分遅いと言っていた、だが、結果は一分ほどあの人の予想を上回っていたということだ。この一分を、君は大したことがないと思うかね?」
 そう尋ねられれば、頷くことが出来るはずもない。

 静かに首を振ったアレスに、小さく笑いを見せて、スレイヤーは手を差し出した。
 握り締めた手は、やはり固く――。
「おめでとう。もはや難しいことも言う必要もないだろう。君は勝った」
「ありがとうございます」

「頑張れ」
 一言。アレスの肩を叩くと、スレイヤーは立ち去った。

 隣を見れば、ワイドボーンと目があった。
 嬉しそうに笑う姿に、アレスは苦笑する。
 酷く疲れた一日ではあったけれど――だが、楽しかった。
 掌の感触を握りしめて、アレスは唇を持ちあげた。

 

 

閑話 アレスとの出会い1



 自分で言うのも、嫌なものだけれど、僕は賢かったと思う。
 中等科ではトップクラスの成績であったし、難関とされていた士官学校に合格した。
 近所では神童と言われていたし、そんな環境であったから子供ながらに自分は優秀だと思って天狗になっていた。

 正直に言って、嫌な子供だった。
 もっとも、その天狗の鼻はわずか一カ月でへし折られることになったけど。
 聞けば当たり前の話だったが、士官学校には全国から優秀な人材が集まってくる。
 少しくらい頭が良いからといって、それが通じるほどに甘い世界なわけではない。

 そのことに入ってからようやく気づけたのは、つまるところ僕が馬鹿だったのだろう。
 自分よりも遥かに優秀な人間がいるという現実に、夢破れた多くの人が一カ月で学校を去った。
 全ての成績で優秀なアンドリュー・フォーク。
 実技においては教官ですら右に出るものがいないキース・フェーガン。

 そして、アレス・マクワイルド。
 
 入校式当日に隣にいた目つきの悪いこの少年は、異常とも言える士官学校の中でも一番おかしな奴だった。
 何と表現すればいいのだろうかと、スーンは迷う。
 ただ賢いだけではない。
 そう。一言にいって、子供らしくない。
 子供がそう考えることではないのかもしれないが、まさに適した表現だろうと思う。

 そのことが良くわかったのは寮に入って二カ月ほどが経過した頃だった。
 そのころになれば、自分の様な似非の天才達は自分の実力に気づかされて、三つの選択を取ることになる。
 一つは最初に言ったように、自分の限界を気づかされて辞めていくもの。
 もっとも、それは最初の一カ月であり、残ったのは残る選択をした者たちだ。

 つまり本当に優秀な者に従うものか、ただ何とはなしに一日を終えるもの。
 スーンは後者で、多くのものが前者を選んだ。
 なぜ彼が前者を選ばなかったのかといえば、おそらくは未練だろう。
 まだ自分でも英雄になれるのではないかという、本当に馬鹿な未練だ。

 その日も、厳しい訓練が終わり皆が一時の休息を取っていた。
 消灯時間があるほんの三十分ほどだけれど、与えられたよりも少し広い休息室に集まって、多くの人間が談笑している。
 その中心になっているのが、学年主席候補であるアンドリュー・フォークだ。

 話題は銀河帝国の帝政がいかに悪いか。共和制がどれほどに優れているかだった。
 まだ十五の子供の話題ではなかったかもしれないが、そこは士官学校。
 議論は白熱し、僕を含めて周囲で休んでいた者たちの耳にまで言葉は入ってきていた。

「いずれ帝国主義は潰れる。民衆を人とも思わない政治があってたまるか」
「民衆もきっとそれに気づくさ!」
「そのとおり。そして、それを実現するのは我々だ!」
 フォークが一際大きく声をあげれば、それに従う男達が拍手をした。
 おそらくは興奮してきたのだろう。

 同意を求めるように、関わりのもたない周囲にも声をかけている。
 そして、それは――アレスの背にもかかった。
 彼もまた優秀と言って良い成績を取っている。しかし、彼の場合は取り巻きを従えることはなく、一人でいる事が多かった。

 僕も入校式で席が隣だったとはいえ、知っていたのはその程度だ。
 黙って過去の戦術シミュレータの試合を見ていたアレスは、振り返り、怪訝な顔をした。
 きっと聞こえていなかったのだろう。

「なんだ?」
「何だじゃない。マクワイルドもそう思うだろう?」
「いや。聞いていなかったわけだが、何がそう思うんだ?」
「だから」

 馬鹿だなとばかりに、フォークの隣に座っていた男がため息を吐いた。
 その大げさな様子に周囲から笑いが漏れる。

 ますます怪訝さを深めるアレスに、助け船を出すように近くにいた別の男が当然とばかりに手を広げた。
「帝国主義はいずれ共和制の前に膝をつくってことさ」
 同意を求めるような視線に、アレスは一瞬眉をひそめる。
 そして、情け容赦なく一言。

「君らの頭にはお花畑が咲いているのか?」

 + + +

 気色ばむ者たちに、アレスは眉をひそめていた。
 本当にわかっていない様子だった。
 今にも殴りかからんばかりの様子に、帰ろうかなとスーンは思った。
 もしここで暴力沙汰になったのならば、きっとスーンも同罪となるだろう。
 それでも、男達を止めたのはフォークだった。

 その時は感謝したものだったが、後になって思えば、この時のフォークはアレスを論破してみせようとしたのだろう。同じクラスで――さらに成績でもトップレベルを争う二人であったから、早いうちに芽を摘もうとしたのだ。

 だが、さらに今になって思う。
 それはかの有名なローゼンリッターに対して、丸腰で挑むようなものだと。
 即ち、無謀。

「お花畑とは酷い言い方じゃないか、マクワイルド候補生」
「いや。そうとしか思えないが。なぜ、帝国が何もしないのに負けてくれる」
「それは帝国主義では、優秀な人材が育たないからさ」
 いいかとフォークが指を立てて語ったのは、帝国主義の欠点だ。

 皇帝の意見が絶対である帝国主義では、例え優秀であっても庶民が貴族よりも上に行くことがない。

 その貴族によって抑圧された民衆は、いくら頑張っても貴族に税として取られてしまうため、生産性が乏しくなる。

 さらに言えば、そんな民衆は共和制を歓迎し、ひとたび攻勢に出れば、我々を歓迎してくれるだろうと。

 要点だけを言えば、そんなところだろうか。
 確かに自分で論戦を挑むだけあって、その口調はもっともらしく聞こえた。
 実際に最初は周囲で黙っていた無関係な人間達も、フォークの言葉に引き込まれている。
 いや、他人事ではなくスーン自身も――その時はさすがだと関心をしたものだ。

 視線がアレスに集まり、彼はただ面倒くさそうに眉をひそめた。

「皇帝の意見が絶対だというのならば、優秀な皇帝に率いられた軍は誰よりも強くなるだろう。実際に共和制が帝国主義に敗れた歴史など幾らでもある」
「そんな太古の話をして何になるマクワイルド候補生」
「共和制を壊した銀河帝国が出来て、ほんの数百年しか経っていないがね。ま、それはともかく、生産性か――確かに現状では一人当たりの生産性ではこちらが有利だろう。だが、人口比では圧倒的に帝国が上だ。例え、優秀でなくとも消耗戦を強いられれば、インフラが崩壊して敗北するのは先に同盟の方だろうね」

 アンドリュー・フォークが劇場のように大きく身振りを振る役者であるならば、アレス・マクワイルドは大学で講義をする学者のようであった。
 淡々とした問題点の列挙に、最初は余裕を持って答えていたフォークも次第に顔を赤らめていく。

「何より共和制と君たちは言うが、帝国の民に共和制を理解しているものがどれだけいる? そんな人間にとっては共和制よりも、その日の食料の方が大事だろうさ」
「そんなことがあるか。君は馬鹿にしているのか。共和制を、そして、貧しくても共和制に命をかけたアーレ・ハイネセンを!」

「もしハイネセンが貴族だったら、ハイネセンも命をかけたりはしなかったと思うが」
「貴様っ!」
 気色ばんだフォークが、立ち上がった。
 既に何人かはアレスの方へと動いている。

 やばい。
 スーンはこの後に起こるであろう事態を想像して、青くなる。
 しかし、その様子に怒りを与えた当の本人は目つきをより悪くした。
 睨んでいる――そうも見える視線で、彼らをゆっくりと見回した。

 心配をよそに、アレスはゆっくりと口元に笑みを浮かべて、呟いた。
「で。いつからその共和制ってのは、他者の意見を許さないようになったんだ? それでよく帝国主義について批判ができる」

「――っ!」
 ――ああ、もう駄目だ。
 スーンは無駄かもしれないが、逃げだそうとして――しかし、それは驚くべき事にフォークの声によって、全ては動きを止めた。

「やめろ」
 と。
 意外な顔は無関係な人間は元より、フォークの取り巻き達の表情にも浮かんでいる。
 その集中する視線の先で、浮かぶ表情は笑みだ。
 おそらくは――蛇が笑えばあんな顔をするのだろう。

 スーンはその爬虫類に似た笑みを見て、背筋を震わせた。
「アレス・マクワイルドだったか」
「なんだ?」
「その言葉に二言はないな」
「ああ」

「そうか……ならば、明日を楽しみにしておくがいい」
「ん?」
「その言葉を、学生教官がどう判断してくれるか、楽しみだ」
 言葉を聞いて、スーンはフォークが見せた笑みの理由を理解した。

 学生教官とは、彼ら学生が最初に接する先輩である。
 一学年の四月からわずか半年の間であるが、現役の士官が先輩として士官学校の生活を公私ともに面倒を見てくれる。
 もちろん、それは決して生易しいものではない。

 逆らえば鉄拳が飛び、スーンが怒鳴られた事は数えきれない。
 まさしく鬼軍曹として――階級こそは大尉であるが――何も知らない一般市民をそれなりの軍人に変える上司でもあり、先輩でもある。

「そ、それは……!」
 幾らなんでも酷いのではないかと口を開けたスーンの言葉を、アレスの声が遮った。
「何だ。何かと思えば、ママに言いつけるのか?」
 スーンは初めて人を進んで、殴りたくなった。

「覚悟しておけ!」
 上から見下ろすような表情をしていたフォークに、怒りが走った。
 しかし、殴りかかることもなく、取り巻き達を引き連れて、部屋を出ていく。
 激しく閉じられた扉が、けたたましい音を鳴らした。

 これは大変なことになった。
 スーンはアレスに近づき、声をかける。
「今のうちに謝っておいた方がいいよ?」
「謝る?」

 そこでアレスがゆっくりと唇を持ちあげる。
 それまでの睨んでいる目つきとは別の――悪魔の様な優しげな笑みだ。
 なぜ笑っているのか。

 その笑みの意味に、気づいたのは随分後のことだったけれど。

 + + +

 授業が終わり、片づけを進める中で、後方、授業を見守るという名の監視をしていた学生教官がゆっくりと近づいてきた。寝たり、態度の悪い学生がいれば、鉄拳を与えるためだ。
 数年前に士官学校を卒業したという大尉は、すでに戦場を経験しており、頬に小さな傷を残している。

 鍛えられた体つきは、服の上からでも筋肉が盛り上がっており、短く髪を刈りあげていた。
 一見すれば恐ろしく、近くにいてもお近づきにはなりたくないだろう。
 そんな学生教官――ニコライ・サハロフが机の押しのけるように近づいて、やがてアレスの席の前で止まる。

「マクワイルド候補生」
「何でしょう、サハロフ学生教官」
 なぜそんなに平然としていられるのか。
 むしろ隣の席に座るスーンの方が寿命が縮まる思いであった。

 そして、口を開いたのはスーンの予想通りの言葉だ。
「君は共和制を卑下して、帝国主義を称賛したらしいな」
「違いますね」
 アレスの即答にも、強面の学生教官は表情を変える事がなかった。
 ただ一言。

 すぐに視線をスーンへと向けた。
 僕は何も言ってません。
 喉の奥まで出かかった言葉の前に、サハロフが口を開く。
「ほう、そうか。スールズカリッター候補生」

「は、はい!」
「今の言葉は……事実か?」
「え。あ、ええと……ええ。アレスは帝国主義を称賛していません」
 共和制を卑下をしたことは確かであるが。
 心の中で、そう思えば、アレスがスーンを助けるように口を開いた。

「どちらも糞といっただけですよ」
 ちょっと黙って欲しい。
 思わず叫びたくなったのは、スーンだけではないだろう。
 何も知らずに戸惑っていた周囲の人間も、そして遠くからこちらを楽しげに笑っていたフォーク達も、顔を蒼白にしている。

 言い過ぎだと。
 下手をすればクラスごとが巻き込まれかねない。
 誰もを威圧する剣呑な瞳にも、アレスは一切怯む事はない。
 先に言葉を出したのは、サハロフの方だった。
「その理由を聞いても?」

「帝国主義が悪いからといって、共和制が良いという事になぜなるのかわかりません。政治体制を選ぶにあたって、少しでもマシな糞を選んだのであって、糞が糞であると言う事には変わりがない」
 と、言ってのけた後で、アレスは集中する視線に気づいた。
 学生教官への真っ向からの反抗に、目をそらす者までいる。

 その視線にようやく当人も気づいたようだ。
 すまなそうに小さく頭を下げた。
「ああ、汚くて失礼。訂正する。糞ではなく、排泄――」
「訂正しなくてもいい。何度も聞きたい言葉でもない。それよりも君はわかっているのか。君のその言葉は政治体制を真っ向から反抗しているのだ、その立場の危険性が」

「誰がいつ反抗したというのです」
「いや、今でしょ! たった今」
 サハロフの言葉にアレスがまるで心外だと言わんばかりに、目を大きく開いたため、隣で聞いていたスーンは思わず声に出した。

「あのな」
 そこでアレスは深々とため息を吐いた。
 まるで出来の悪い生徒に、頭を抱える教師のようだった。
 頭を数度ほど叩いて、スーンを、そして、サハロフを見る。

「俺はどちらも駄目だとは言ったが、共和主義に反抗したつもりはない。どちらを選ばなきゃだめだというのなら、まだ共和主義の方がマシだとは言ったけどな。そもそも、君らは政治に何を期待している。誰もが幸せになる政治なんてあるとでも思っているのか。もしそうなら、それこそ病院で一度みて貰った方がいい」

 アレスは肩をすくませ、小さく笑う。
 嘲笑。
 その笑いに対して、誰かが言葉を告げる前に――机が叩かれた。
 一撃。集中する視線の中で、アレスの声はよく響いた。

「たった二人の人間が集まるだけで離婚やら絶縁やらと、何かしらの問題が発生する中で、共和制という名前だけで、なぜ何十億という人間がまとまると思う。共和制になれば、誰もが幸せになるのか、違うだろう」
 いつしかアレスの言葉からは笑いが消えている。
 元々の目つきの悪さも加わって、サハロフを睨むような格好であるが、誰も何も言えなかった。告げられるサハロフですら、黙ってアレスの言葉を聞いている。

「人が集まれば軋轢が生まれるのは当然のことだ。当然、共和制にだって欠点がある。それを無視して、都合のいいように解釈して、他者を批判し、自己を肯定することは主義主張の問題ではない。ただの立派な自己弁護で――何より君らの嫌う帝国主義とどう違う」

 アレスの言葉に対して、誰も言葉を出せないでいた。
 批判も、肯定も。
 声すらあげるという動作すら出来ずに、黙ってしまう。
 それは共和制というものを絶対視する彼らに対しては、手ひどい言葉だ。
 絶対不可侵の銀河帝国皇帝――それが、絶対不可侵の共和制に置き換わっただけではないか。

 その問いかけに対して、まだ十五歳のスーン達では反論する言葉を持たない。
 ようやく絞り出すように、声を出せたのはサハロフだ。
 腕を組んだままで、口を開く。

「それでは帝国主義と比較して、共和制の欠点とは何だ。君が糞と表現するほどに酷い欠点があるのだろう」
 言葉に、アレスは肩をすくめた。

「いろいろあるけれど。一番の理由は責任の所在が不明確であること」
「責任とは何だ?」
「そのままの通りさ。もし、間違った行動を――例えば、軍が敗北した時に市民は誰のせいにする?」

「それは……軍と政治が」
「おかしいだろう。むろん、負けた理由は軍なり政治家にあるのだろうが――それを選んだのは誰だ、市民じゃないのか。だが、その失敗の原因が自分たちであると誰も思わない。普通失敗をしたら、失敗しないでおこうと思うものだ。それに気づかない――失敗が起こったとしても、政治家や軍に責任を転嫁してしまう。まさに衆愚政治という現状は古代ギリシアが帝国主義に変化した原因であるし、近年ではルドルフが誕生した原因であるのだろう。けれど」

 叩きつけた音が、再び教室に反響した。
 全ての指を追って、そのままの勢いでアレスは机に叩きつけていた。
「何より、その事にすら気づかない現状が一番問題だ。少しは歴史を見ろ。それを言葉で理解するだけではなく、理解しろ。なぜルドルフが誕生したのか――ただ否定するだけで、それが起こった原因を解決どころか、誰も直視すらしていないじゃないか。これを糞と言わずに、何と言う」

 アレスの言葉に、教室中が静まり返った。
 もはやサハロフですら、声をあげる事はできない。
 ただ驚いたように、アレスを見るだけだった。
 もはやそれは論戦ではなく、先にスーンが思ったように教師が出来の悪い学生に講義をしているかのようだ。

 いや、現状だけを見れば、説教か。
 それ以上の話は終わったというように、アレスはゆっくりと鞄を手にした。
 誰も止められない。

 そして、立ち上がった視線に向けて、困ったように――小さく笑った。
「さっきも言ったが。それでも俺はそんな共和制が好きさ。帝国主義が上手く機能すれば、共和制よりも遥かに強大になるだろう。けれど、皇帝になる人間が間違えれば、遥かに酷いことになる。でも」

 一言。呼吸をして、周囲を見回した。
「そんな言葉と理想を掲げたところで、帝国市民は同盟を歓迎してくれると思うかい。彼らが欲しがっているのは、主義や主張何かじゃない、今日のパンと明日の労働だ。それを与えてくれるならば、共和制だろうが帝国主義だろうが、大歓迎をしてくれる――それを忘れてはいけないと思う」

 呟いた言葉とともに、アレスは教室を後にした。

 

 

閑話 アレスとの出会い2



 その一件は、アレス・マクワイルドの名前を学校に知らしめた出来事でもあっただろう。
それでも上にはあがらずに、大きな問題にならなかった事はサハロフ学生教官のおかげだろう。
 アレスが退室した後で、この一件は私が預かると周囲に口止めを行った。
 元より鬼軍曹の言葉が絶対であるため、さしものフォークもそれ以上問題を大きくすることはなかった。

 いや、正確に言えば問題にしたところで勝てる見込みがないと理解したのかもしれない。
 それほどまでにアレスの言葉は衝撃的であって、戦場を経験しているはずのサハロフ学生教官が圧倒されるほどだったのだ。
 だから変わりに。
 アレスへの攻撃は、口撃から、文字どおりに攻撃へと変わった。
 もちろん士官学校での事。

 表だって喧嘩をしたりはできない。
 しかし、陸戦実技という名の白兵戦を訓練する授業でアレスは標的になった。
 防具をつけての防具試合に次々に試合を挑まれ、殴られ、投げられる。
 もともと強くなかった彼は、酷く痛めつけられていたし、それをサハロフ学生教官が止めることもなかった。
 その日も、大柄な同級生に刃引きのトマホークで殴りつけられ、脳震盪を起こした。
 慌てて周囲の――スーンがアレスを引きずって、室内の角に運ぶ。

 防具のフェイスガードを外せば、アレスが気づいたのはすぐだった。
 激しい攻撃を受けた彼の顔は、防具の上からでも痣が出来ており、唇からは小さく血が流れている。
 身体を起こして、小さく頭を振る。
「いつやられた?」

「さっきだよ」
「……ああ。そうか」
 そう言って、アレスは時計を確認した。
 授業の終わりまで、三十分ほど残っている。

 アレスは頭を押さえながら、小さく首を振る。
「そうか。あと、二戦はできそうだな」
「今日はもうやめときなよ!」
 慌てていった言葉に、アレスは小さく苦笑した。
「ああ。ありがとう――でも、まだやれるさ」

「何を言ってるの。休んでたらいいよね」
「休んでいたら、強くなれるのかい?」
 フェイスガードを抱えて立ち上がったアレスは、スーンを見下ろした。
 それでも一度倒されて、立ち上がるのはあまりにも無茶苦茶であろう。
 本来なら加減をしてくれるかもしれない。

 だが、試合場で手ぐすねを引いて待っているのは、フォークの取り巻きの一人だ。
 フェーガンという化け物を覗けば、クラスでも一番強い人間である。
 そのフェーガンは、クラスの人間では相手がいないため教官と試合している。
 きっと怪我をしたからといって、加減をしてくれる相手でもないだろう。

 むしろもっと傷めつけろと言われているのかもしれない。
 いや、きっと言われている。
 フェイスガードを開き始めたアレスに、スーンは言葉を考えた。
 やめておけと。

 こんなことをして何になると。
 そもそも、君は戦略課程を目指していて、陸戦など必要ないだろうと。
 きっとどの言葉も否定されるだろう。
 結局彼は再び戦う事になる。
 それであるのならば。

「なんでさ。何で、アレスは妥協しないのさ」
 聞きたかった言葉が口をついて出ていた。
 そう彼は妥協しない。
 本来ならば、フォークの言葉に従っていたら良かった。

 黙ってはいはいと聞いていたら、それで終わったはずだ。
 サハロフが来た時もそう――そして、今日も。
 彼は妥協をしない。
 士官学校の優秀さに、そして何よりも自分の変な名字に――そういうものなのだと、妥協をし続けてきた自分とは大きく違う。

 どうせ戦う事になるならば、それを聞いておきたかった。
 その言葉に、アレスは動きを止めた。
「妥協か。そうだな、今まで妥協をし続けてきて、いつも思うわけだ」
 スーンに浮かんだ疑問が言葉に出る前に、アレスは小さく笑う。

「小学校もそうだったし、中学校もそうだった。高校だって、大学だって――社会人になっても何で勉強してこなかったのだろうと思うわけだ。それでいて、社会人でもあの時ももっと粘っていたらとか、後悔だけが残る。いつも思っていた、もう一度最初から人生をやり直せたらなって」
 何を言っているのか理解できない。

 ただ、アレスは嘘を言っているように思えなかった。
 だから、スーンは黙って彼の言葉を聞き続けた。
「どういうわけか、そんなチャンスがあった。先に言っておくが、妥協をしてもいいこと何て何も起こらないぞ。結局死ぬまで後悔している、俺が一番よく知っている」
「ちょ――」

 話は終わりとばかりに、フェイスガードをかぶりなおして――アレスは再び試合場に戻った。
 再び殴られる姿を見て、スーンは思う。
 ほとんど意味がわからなかった。
 でも、妥協をしていて――スーンは後悔してこなかっただろうか。
 それならば、何故、問いかけたのか。

 殴られる中で、アレスの繰り出した一撃が対戦相手の胴体に叩きつけられていた。
 ああ、なりたいと思う。
 妥協をしなければ、なれるだろうか。
 
 + + +

 結局、アレスは六カ月の間で大きく成長した。
 クラスでもトップクラスの実力を身につけ、学校で行われた学年別の白兵戦大会でもベスト8に入賞するほどだ。ベスト8でぶつかったのが、フェーガンであったため、もしかすると更に上を目指せたかもしれない。

 ちなみに優勝はフェーガンで、ぶっちぎりだった。
 フォーク達は満足に痛めつけることも出来ず、逆に戦いを挑めば痛い思いをする。
 遠巻きないじめを見事に解消してみせたわけだが、その結果がフェーガンの対戦相手になるのは可哀そうなことだった。

 嬉しそうにフェーガンが近づいてくるのを、アレスが首を振って、何とか断ろうとしている。
「アレス」
「嫌だ」

「まだ何も言ってないが」
「フェイスガードとトマホークを二つ持ってきて、それ以上の言葉はいらないだろう?」
「……試合をしよう」
「人の話を聞けよ、おい!」

「いいんじゃない。ほら、妥協はしないんでしょう?」
「ばか。妥協はしないが、出来る事と出来ない事ってのは人間決まっているんだ」
「ほらほら」
 スーンはくすくす笑いながら、アレスを押しだした。
 首根っこを掴まれたアレスが抵抗するが、フェーガンは一向に解さない。
 そのまま悲鳴とともに離れていくアレスに、スーンは手を振って見送った。

 笑いながら、スーンも六カ月で変わることが出来たと思う。
 ただ諦めることではなく、自分の出来ることを精一杯やろうと思う事が出来た。
 アレスのように大きな結果が出る事は少ないが、それでも精一杯やったと思う事が出来る。
 そう思えれば、それまで悩んでいたことが詰まらない事であったと思うことができた。
 自分の変な名字も好きになった。

 例え、まともに呼ばれる事がなくても、自分はスールズカリッターなのだと胸を張ることができたのだ。
 アレスのおかげかなと、小さく笑いながら試合場を見る。
 人が飛ぶところ初めて見たなぁ。
 アレスがフェーガンの蹴りをまともに受けて、試合場を水平に飛んでいった。
 おそらくめちゃくちゃ痛い。

 そのまま試合場の端にぶつかって、止まった。
「御愁傷さま」
「いいかな」
 小さく呟いたスーンの後ろから、声がかかった。
 振り向いて、それがサハロフであることに気づき、慌てて敬礼をする。

 そのままでと、サハロフが小さく手で押さえながら、スーンの隣に並んだ。
「マクワイルド候補生も随分と強くなったようだな」
「ええ。まぁ、多少は可哀そうになりましたが」
「フェーガン候補生は別格だからな。学生どころか、ローゼンリッターでも手を焼くだろう。それでいて、本人は艦隊運用科を志望しているのだから。陸戦指揮科の教官が嘆いていたよ」

「本人は卒業後すぐに結婚したいみたいですから」
「確かに陸戦指揮科は卒業後は各地の陸上警備だからな。少なくともハイネセンは離れる事になるだろう。それでももったいない話だ」
「本人の希望ですからね。学生教官はこの後どちらにいかれるのですか?」
 小さく首を振るサハロフに、スーンが話を振った。

 学生教官がいるのは、四月から九月までの六カ月間だけだ。
 その時には 同盟軍陸戦隊として再び戦場に戻される事が決まっている。
 九月も末日に近づいた現在、サハロフと会えるのは次は戦場になるだろう。
「第七艦隊――元の隊に戻ることが決まっている」

「そうですか」
 第七艦隊と思い浮かべるが、それ以上スーンが第七艦隊を知るわけもない。
 ただ平和な場所であればいいなと思った。
 戦争中で平和も何もないが。

「……なぜ、私がマクワイルド候補生が攻撃されるのを黙って見ていたと思う」
 しばらくの沈黙の後に、開かれた言葉にスーンは驚いた。
 見上げれば、サハロフが強面の顔に小さく笑みを浮かべている。
「普通であれば、あそこまで酷ければ私は止めなくてはならない。大きな怪我をしなかった事が奇跡的だったからな。そうなる前に、私は止める――それも私の仕事だ。だが、私はそれをしなかった」

「理由があったのですか」
 サハロフは、問いかけに頷いた。
 視線は真っ直ぐ、フェーガンに振り回されるアレスの姿を捉えている。
「彼の意見は非常に危険なものだ。もちろん同盟は思想の自由は保障されている。だが、彼の意見は危険すぎる。理解できるな」

「……ええ」
 帝国と違い、同盟では思想は自由である。
 しかし、共和制を批判した彼の姿勢が危険であると捉えられるのも無理はないだろう。
 下手をすれば、帝国のスパイと疑われてしまいかねない。

 もっとも、ああも公言するスパイなどいるわけもないのであるが。
「最初に聞いた時――ただ何も考えていない馬鹿な発言なら、鉄拳を加えて終わりだ。もし、それが彼の本音であるならば、上に報告をしなければならないだろうと考えていた。だが、彼はどちらも違っていた」
「……」

「彼は決して共和制が嫌いなわけではない。ただ、その問題点を指摘したに過ぎないのだ。多少口は悪かったかもしれないが。……我々は口だけで擁護していて、その本質を理解していなかったのかもしれない」
 サハロフが深い息を吐いた。
 それは、おそらく自分に向けての発言であったのだろう。

「それをまさか学生に教えられるとは思わなかったがね。だから、私は彼を見る事にした」
「……見る、ですか」
「彼は間違えたことを言っているわけでもない。だが、共和制という名前の蜜に酔っている人間にとって、彼の存在は不快なものだろう。実際に陸戦実技の授業で結果になって表れているように」
 アレスの考え方は、おそらくは正しいものなのだろう。

 だが、人間は正しい意見を素直に受けいられるほど優しくはない。
 ましてや、まだ十五ほどの学生である。
 自分の反対の意見に対して、さらに口で勝つことも出来なければ、出来る事は暴力でしかない。
自分より弱いくせに何を言っているのだと。

「彼は――彼の意見は正しいが故に、彼には説得する力を求められる。間違えていないと――周囲に理解させるほどの力を。だから、私は見ていた――彼がそれを実戦できるのかどうかを」
「だから、ずっと見逃していたと」
「ああ。そこで逃げるのであれば、彼はそこまでの人間だっただけだ。口では理想を語ったとしても、それを実行する力がなければ意味がない。ましてや、今は彼に襲いかかるのは単純な実力行使だけだが、これからはもっと淀んで汚い攻撃が待っているだろう」

 思い出したのか、サハロフは顔をしかめた。
 おそらくはサハロフ自身も、その汚い攻撃を経験した事があるのだろう。
 それが実感となって、スーンはアレスの背中を見送った。
「彼は強くなった。周囲の攻撃に負けることなく、見事に打ち果たしてみた。見事だよ――願わくば、いずれ彼の下で働きたいものだな」

「え?」
 驚いたようにスーンが見上げる姿に、サハロフはゆっくりと笑った。
「学生教官がそう思うのは不思議か?」
「いえ。私も――。アレスの下で働きたいとそう思いますから」
「そうか。それはライバルが増えた。ああ、この話はマクワイルド候補生には秘密にしておいてくれ」

「ええ。ありがとうございました、教官」
 サハロフは小さく手を振ると、試合場に向かった。
「さて、最後だ。たまにはフェーガン候補生も鍛えてやろう」
 そう言って、フェイスガードをかぶる。

 実技を初めて見せた陸戦隊の学生教官の実力は――フェーガンに初めての黒星をつけたのだった。

 + + +

 一学年最後の三月に、同盟軍と帝国軍の遭遇戦が起こった。
 僅か一日ばかりの攻防は、帝国軍の撤退により小さな記事となる。
 歴史書に一行ばかり書き加えられる、小さな戦闘。
 しかし――その日は士官学校においては大きな一日となった。

「この戦いで、残念ながらサハロフ大尉は名誉ある戦死を遂げられた。いや、いまはサハロフ中佐だったな」
 教官の事務的な連絡は、あまりにも慣れを感じさせる。
 ざわめきが波のように収まる中で、スーンは鉛筆を手にしたままで聞いていた。

 ニコライ・サハロフの戦死。
 軍人であるから、死は等しく訪れる。
 自分のみならず身内や同僚もだ。
 それでも、つい先日まで学生教官として働いていた姿は今でもはっきりと思い出せる。

 厳しくも優しい学生教官の死に、誰しもがショックを隠せなかった。
 フェーガンも再戦の機会を永久に奪われたのだろう。
 不快さを隠さずに、この驚くべき事実を伝えた教官を見ている。
 その視線にすら慣れているのだろう、教官は静かに手にしていた紙を折り畳むと、フォークへと渡した。

「遭遇戦の戦闘結果だ。要旨だけだが、君らも見ておいた方がいいだろう。終わったら回収する、以上だ」
 終わりを告げて、今日の授業が終了した事を告げる。
 だが、誰もその場から動く事はできないでいた。
 一人。アレスが席を立ち、フォークに近づいた。

 見守る中で、手を差し出すと、さすがのフォークも紙を渡していた。
 スーンとフェーガンが同時に席を立つ。
 互いに小さく苦笑を送りながら、アレスに近づいていた。
 後ろから紙を覗く。

 そこには新聞の記事を少し細かくした内容が残っていた。
 それでも紙が一枚ほどだ。
 たった一枚――それだけで、サハロフを含む数百人の命を奪った結果となっている。
 そんな現状に、スーンは唇をかみしめた。

『第七艦隊本隊を哨戒ため出発した巡航艦が、敵偵察隊を発見――戦闘を行ったものの、巡航艦は撃破された。偵察隊はそのまま撤退、被害は巡航艦一隻に留まった』
 要約すれば、二行ほどですむ結果であろう。
 そこに巡航艦が配属されていた隊や指揮官の名前――敵艦隊の数や時系列などが細かく載って、一ページに増えている。

「アレ……」
 声をかけようとして、スーンは声をかけられなかった。
 紙を見ていた、アレスが笑っていたからだ。
 その笑みは、この一年間で何度か目にする事になった。

 相手を敵と認めた時に、笑う――悪魔の笑みだ。
 しかし、それも一瞬で、アレスが紙を返せば、フォークが戸惑いながら受け取った。
 静かに席に戻る。
 何事もなかったような動作は、周囲の人間は誰も気づいていないだろう。
 おそらく気づいたのは、スーンとフェーガンだけだ。

 席に戻るアレスを追いかければ、アレスは鞄を手にしていた。
 スーンも追いかけるのを途中でやめ、自分の席に戻る。
 鞄を手にする。
 すでにアレスは扉を開けていた。

 不思議に思う中で、スーンは紙を手にする。
 そこには戦闘の詳細とともに――巡航艦を送った、分艦隊の名前が書かれていた。

 即ち――分艦隊司令、サンドル・アラルコン大佐と。
 

 

約束



 桜が満開で入校し、桜が芽吹くころに卒業する。
 二十歳を超えた青年たちは、候補生から少尉へと任官されて、各地に転戦する。
 それぞれの課程に応じた勤務先に向かう事になる。

 卒業証書とともに辞令を手にした卒業生は、転地の迎えが来るまでの間に静かに待つ事になる。 これからしばらく会わなくなる同期と言葉を交わし、あるいは名残惜しむ後輩たちと戯れる。
 この日ばかりは鬼の教官たちも目に涙を浮かべ、今後の彼らの幸せを祈るのだった。

 定年まで生きられるようにと。
 さらに、この年はシトレ学校長の栄転も決定していた。
 中将から大将に昇任し、第8艦隊の司令長官が命じられている。

 厳しくも暖かくもあった学校長の転任に、教官たちの寂しさも大きい。
「清々しますな」
「何か、君が口にすると嫌味に聞こえるのだが」
「そんなことありませんよ。期待に燃える若者たちの姿は何度見てもいいですな」

「否定はしないが、最後くらいは暖かい言葉をかけてもらいたいもんだ」
「私に何を期待するのです。学校長こそよろしいのですか――ヤン・ウェンリーは卒業しますよ」
「先ほど声をかけてきたところだ」

 シトレは小さく笑う。
 一陣の春風に、制帽が飛びそうになって、頭を押さえた。
 良い陽気だ。
 卒業するにしても、入校するにしても。

 その学生を、来年からは見れない事は少し残念なことであった。
「第8艦隊――イゼルローンですか」
 と、唐突にスレイヤーが言葉を口にした。
 その意味を理解して、シトレは細めていた目を開くと、頷いた。

 難攻不落の代名詞となっている、帝国軍の要塞。
 あの要塞が完成してより、同盟軍は帝国領に侵攻することも出来なくなり、現在は帝国から侵攻する艦隊を撃退するか、こちらが要塞を攻めるかの二択になっている。
 今まで何十年もそうであり、それはイゼルローン要塞が攻略されるまで変わらない。

「最初は訓練からだと思うがね。いずれはそうなるだろう」
「案はあるのですか」
「二つ三つは考えているがね。どれもすぐに実行できるわけでもない。こればっかりは私の一存で決められる話でもないしな」
「イゼルローンについて、面白い話をしていた人間がいます」

 んとシトレは瞬きをした。
 覗き込むような視線に、相変わらず表情を変えることなく、片物の教頭は前を見ている。
 聞いた言葉を思い出すように、スレイヤーは続けた。
「難攻不落のイゼルローンが出来てから、我が軍はそれを攻略する事に専念しています。だが、損害に見合う価値はあるのだろうかと」

「何とも耳に痛い言葉だ。だが、攻略すれば少なくとも帝国軍は侵攻出来なくなるだろう」
「ええ。ですが、距離の防壁は今度は同盟に襲いかかることになるだろうと。学校長は同盟が帝国に攻め入ることが可能だと御思いですか」
「無理だな」

 シトレは即答した。
「既に長年にわたる戦争で、同盟全体が社会的機能に支障が出るまでに落ち込んでいる。この上さらに遠征したところで勝てる見込みはない。イゼルローンが攻略できれば、しばらくは内政に専念せねばなるまいよ」
「私に話をした者は、そうなることはないと考えていました。いや、出来ないと」

「……主戦論か」
 スレイヤーは黙って頷いた。
 戦略を考えたところで、それを選択するのは、政治家だ。
 すでに軍の中に主戦論が主流となる中で、反戦を唱えるものの数は少ない。
 長きにわたる戦争が、市民を変えてしまっている。

「それならばイゼルローンは攻略しない方がいいと」
「ええ。帝国も同盟と同様、長きにわたる戦争により疲弊しています。いや、帝国市民の疲弊は同盟よりも大きいものでしょう。今はまだ崩壊には至っていませんが、いずれは大きな政変が起きる。その時にこそイゼルローンは攻略すべきであり、今は伏する時代であると」
「まるで聞けば、簡単に攻略できそうな言葉だな」

 シトレは声だけで、小さく笑って見せた。
 しかし、ふと気付いたようにシトレは、スレイヤーに向き直った。
「参考だが、それを君に伝えたのは学生ではないかね?」
「いえ。残念ながら、その人間は生きてはいません。優秀な学生教官でした」

「サハロフ中佐か」
 スレイヤーは言葉に、ゆっくりと頷いた。
「学生教官を終える前の懇親会でした。ローゼンリッターを超える陸戦部隊を作ると言うのが、彼の夢で……まさかその数ヵ月後に亡くなるとは思いませんでしたな」
「まったくだ。死んではいけない若者が先に死んで、老兵だけが生き残る。それでもまだ戦えと言われるのだからな。嫌な時代になったものだ」

「その彼が最後に私に尋ねたのです。それに私は答えられませんでした」
「……私でも答える自信はないよ」
 シトレはゆっくりと首を振る。
 戦争を終わらせるために戦っているはずだった。

 だが、それを文民統制という言葉が許してくれない。
 軍が間違えることを、市民が阻止するのは間違えていない。
 だが、市民が間違えれば、果たして誰が止めるというのだろうか。
 あるいは、それこそが市民の責任だと滅べばよいのか。
 答えの出ない疑問は、シトレの心を落ち込ませる。

 まったく、上官を落ち込ませることにかけては、右に出る人間はいないな。
 思わぬ浮かんだ毒を、飲み込んだ。
 と、振り向けば遠くを見ていたスレイヤーが笑っている。
 何がおかしいというのか。

 同盟の事を考えていた若者が死んだというのに。
 そう考えて、シトレは気づいたようにスレイヤーに近づいた。
「そういえば、サハロフ中佐の受け持ちは」
「ええ。おそらくはサハロフ中佐もその答えを理解していなかったのでしょう。だから、私に聞きに来たのだと、そう思います」

「そうか。スレイヤー少将」
 サハロフ中佐は残念だ。
 だが、まだ、まだ残っている。
 同盟の事を考える若者が――だから。
 スレイヤーの名前を呼んで、シトレは声に力を込めた。

「何でしょう、シトレ大将」
「彼を死なせるな」
「ボケましたか、学校長。元より教え子は誰であろうと死なせるつもりはありませんな」
「そうだな。良い日だ、今日は本当にいい日だ」

 シトレはゆっくりと笑えば、明るい日差しに小さく目を細めるのだった。

 + + +

 校舎前の広場に卒業生が集まる中で、裏庭で一人長身の男が待っていた。
 腕時計を確認して、いらいらとする姿に呆れ顔でアレスが姿を現す。
 その姿を発見して、その男――マルコム・ワイドボーンは少し唇を尖らせた。
「遅いぞ、後輩」
「こちらは先輩と違って、まだ残るのですよ。卒業式の後片付けを誰がすると思っているんです」

「そんなもの他の奴に任せてしまえ」
「そうできないから、遅れたんでしょう。何です、卒業式後にすぐに裏庭て――そういうのは、もっと可愛い子を捕まえていってください」
「ふん。誰が腕立て伏せを200回鼻歌混じりでやるゴリラに告白するんだ」
「それが求められるのが、軍でしょう」

 呆れを深くさせながら、アレスは小さく首を振った。
「で。何です。テイスティアなら無事進級できたそうですよ」
「ふん、当然だな。俺達が大会以降も教え続けて、進級できなかった方が問題だろう」
「相変わらずですね」
 アレスが小さい、ワイドボーンの言葉を待った。

 ワイドボーンはしばらく不機嫌そうであったが、すぐに表情を変えた。
 真剣な眼差しだ。
 遠くからは卒業生たちの歓声が、小さく聞こえてくる。
 そのざわめきを背後にして、ワイドボーンが重く口を開いた。

「……貴様、俺の部下になれ」
 はっきりとした言葉に、アレスが目を開いた。
 嘘や冗談ではない、真剣な口調に――浮かびかけた、からかいを息とともに飲み込んだ。
「無理ですね。部下になるといって、簡単になれる世界でもないでしょう」
「ふん。そう思うのは凡人の発想だ――人事など優秀な者にはある程度優遇される世界だ。実際に艦隊司令官の周辺人事など、艦隊司令官にほぼ一任されているだろう」

「どこまで上を例にとるのですか」
「そこまでいかずとも、不可能ではない。だから」
 と、ワイドボーンは再びアレスに問うた。
「俺の部下になれ。俺は貴様の卒業するあと三年で地位を築いてみせる」
 真剣な言葉だった。
 だから、ゆっくりとアレスは頭をかく。

「無理ですね」
 断りの言葉に、ワイドボーンが激高することはない。
 小さな笑みを唇に残して、尋ねた。
「その理由を聞いてもいいか」
「ワイドボーン先輩に、もう俺は必要ないと思います。生意気な後輩はね」

「なぜそう思う。確かに貴様は先輩を先輩とも思わない最悪の後輩だ。だが、俺は貴様を必要と――」
「だから、次は先輩の番です」
 ワイドボーンの言葉を遮って告げられた言葉に、ワイドボーンは鼻を鳴らした。
 アレスの言葉の意味を問うことなく、太い眉に力を入れる。

「楽に逃げないでください。俺もワイドボーン先輩の下につけば、楽が出来るでしょう。でも、ワイドボーン先輩。あなたはまたそんな低いレベルの成功を求められる存在ではありません」
 はっきりとした拒否の言葉に、ワイドボーンは不愉快そうな顔をした。
 その言葉は、アッテンボローとの戦いの前に告げた、ワイドボーンの言葉そのままであったからだ。

「意趣返しのつもりか」
「そんなつもりはありません」
 アレスは首を振った。

「まだまだ同盟に優秀な人がいるでしょう。けれど、この時代は死が多すぎる。おそらく、これから同盟軍はもっと厳しくつらい時代が来るでしょう」
「例によって、貴様の妙な予言か」
「ええ。そう思ってもらっても結構です。その時に少しでも戦える人間が欲しいのです」

「だから、貴様を部下にするのではなく、その空いた席に優秀な人間をそろえておけと。そう言いたいのか」
「ええ。今のワイドボーン先輩になら任せられますから」
「相変わらず、先輩を扱き使う奴だ」
 ゆっくりとワイドボーンの表情に、笑みが戻っていった。

 小さく楽しそうに笑い、
「よかろう。貴様を超える人間を用意しておいてやる。貴様が選ぶ時に使えない人間ばかりでも文句を言うなよ」
「それならそれで、こちらで何とかしますよ」

「貴様なら出来そうだ」
 二人から楽しげな笑いが漏れた。
「俺の願いを断って、貴様の要望を聞くのだ。こちらからも要望を出して構わんだろうな」
「出来る事なら」

「何。簡単なことだ」
 ワイドボーンは両のポケットに手を突っ込んで、悪戯気な笑みを浮かべた。
 嫌な予感を感じて、アレスが小さく眉をひそめる。
 その前で、ワイドボーンは気軽な口調で、口にした。

「貴様はこの戦争を終わらせろ」

 + + +

「頭は大丈夫ですか」
「ずいぶん失礼な言葉だな。これでも主席で卒業するくらい、頭は大丈夫だ」
「それならばわかるはずでしょう。そういう事はヤン先輩に頼むのですね」
 絶望的な状況であって、不敗の名前を貫いたヤン・ウェンリー。

 その実力は戦術シミュレータ大会で、遺憾なく発揮されていた。
 しかし、そのヤンですら同盟の命運を引き伸ばしたに過ぎない。
 アレスの苦笑混じりの呟きに、ワイドボーンはポケットに手を入れたままで首を振った。

「ヤンでは無理だな」
「この間の戦いを見ても、そう思いますか」
「いや、奴の実力は群を抜いている。だが、それだけでは駄目なのだ」
 再び首を振る姿に、アレスはワイドボーンを見る。
 真っ直ぐな視線が、アレスを捉えていた。

「いや……おそらくは、リン・パオも、ブルース・アッシュビーも。あるいはまだ見ぬ優秀な奴がいたところで、おそらく戦争を終わらせる事はできない」
「それでなぜ俺ならば出来ると」
「お前は帝国を憎んでいないだろう?」

 それははっきりとした断言であった。
「確かにヤンは優秀だ。それは認めよう――だが、奴も、俺も、そして多くの同盟市民は帝国を憎んでいる。出てくる言葉は勝つか負けるかだけだ」
 断定の口調に、アレスは笑おうとして笑えなかった。
 真っ直ぐなワイドボーンの言葉が、笑って冗談にすることを拒否している。

 確かにと、アレスは思う。
 元より生まれ変わったアレスは、同盟に生まれ、教育を受けてきた。
 だが、元々の記憶が――帝国を憎むことを拒んでいる。
 それは物語への憧れであるのか。

 そう思えば、ワイドボーンの言葉に否定することも出来ず、ただ黙って頭をかいた。
 思いついた否定の言葉は、声にする前に消えている。
 だから。
「無理ですね」

 静かにアレスは口にした。
 口にすれば、残るのは沈黙だ。
 ワイドボーンの口からは、否定も肯定も聞こえない。
 ただ、アレスの言葉を待っている。
 これならば、よほど激高してくれた方が楽だったと苦笑する。

 形だけの約束ならば、簡単にできただろう。
 だが、ワイドボーンはそれを望んでいない。
 そう思ったからこその、真っ直ぐな答えだった。
 アレスは知っている。

 同盟のヤンと同様に、帝国にもラインハルトという天才が存在することを。
 天才の元に多くの才能を持った将兵が集まり、同盟が衰退していくことを。
 だから、答えた。
「約束などできるわけがありません。むろん、終わらせるようにしますが」
 それ以上の回答は無理だと、首を振ったアレスを、ワイドボーンは笑う事はなかった。

 激高することもなく、弱虫だとなじることもない。
 ただその唇を、ゆっくりと持ちあげる。
「それだけで十分だ、後輩」
「珍しく優しい言葉ですね、先輩」

 ふんとワイドボーンは鼻を鳴らした。
「むろん貴様だけに努力しろとはいわん。その道は俺が用意してやる。だから……」
 それ以上の言葉を、ワイドボーンは口にしない。
 黙って右手をあげる。
 作り上げた拳に、アレスはゆっくりと手を伸ばした。

「このふざけた戦争を終わらせてみせろ、後輩」

 勝とうと口にしないワイドボーンの手に――アレスは返事の変わりに拳をぶつけた。

 
 

 
後書き
こちらで、第一章は終了となります。

以前には感想でも記載しましたが、書きためのため少々次の更新は遅くなります。
現在のところは第二章の半ばですので、およそ一週間ほどかなと考えております。
読んでいただいて、まことにありがとうございます。
 

 

~五学年~

 
前書き
二章をかく予定でしたが、
まだ簡潔には終わらず。何とか、二章が終わるまでに三章をかきたいなと思いつつ、
先を考えずにアップします。 

 


 青い光線とともに炭酸の抜けるような圧縮音が聞こえる。
 高電圧から生まれるオゾン臭が鼻につき、輝く光が断続的に暗闇に走った。
 それが幾度か続いて、天井に備え付けられた赤色灯が回り、ブザーが鳴る。

 鳴り響く音とともに、横一列に並んでいた学生はゆっくりと構えていたレーザー銃を下ろして、銃弾代わりのエネルギーパックを抜きだした。
 しばらくして機械の駆動音とともに、標的がアレスへと近づいてきた。
 黒丸が書かれただけのシンプルな的だ。

 それが眼前まできて、アレスはしばらく的を睨みつけ、次に指を折った。
「……1、2、3、4、5、6。6だ」
 続いて、アレスは的を確認する。
「1、2、3、4……5」
 そして、冷静に一つ頷いた。

「うん、一発足りない」
 わずか三十メートルばかりの距離で、的に開いた穴は見事に中央をずれている。
 いや、それどころか放った一発に至っては、どこにいったのかすらわからない。
 昔の銃弾ならいざ知らず、空気抵抗すら考慮しないレーザー銃でここまで外れるとは、自分の腕ながら関心をする。

 おそらくは銃技では、ヤンにも劣るのではないだろうか。
 唸っていても的の穴が変わるわけがない。
 小さく息を吐いて、アレスは隣に目をやった。
 アレスと同じように的と睨めっこをしているスーンがいた。
 珍しいものだと思う。

 スーンはアレスとは違い、銃技は苦手としていない。
 むしろ得意な方だろう。
 そう考えて、スーンの的を見れば、見事に左端に一発の穴が開いていた。
 大外れだ。
「残念だったな」

「あ。勝手に見ないで欲しいなぁ」
 スーンは苦笑すると、恥ずかしそうに手を振った。
「恥ずかしがることないさ。他の五発が当たっているだけでも十分だろう、俺を見ろよ」
「何というか、見事にバラけてるね」

 アレスの的を見て、スーンが苦笑する。
「外れるにしても同じところならまだ救いようがあるけど」
「近くだったらトマホークがあるからいいさ」
「遠くだったらどうするのさ?」
「その時はトマホークを投げるさ」

 しれっとアレスは肩をすくめて見せた。
 呆れたように、スーンが笑う。
 と、二人の間から腕が伸びた。
 引き締まった筋肉質の腕だ。

 その先に視線を向ければ、フェーガンがいる。
「たぶん」
 二人が疑問を挟もうとして、腕を見ればスーンの的を指さしていた。
 正確には、その中央だ。
 よくよく見れば、中央に開いた穴――それが小さく広がっているのが見えた。

 ちょうど二つの丸が重なったような穴だ。
「そこに二発あたっている」
「え。いや、でもじゃあこれは……」
 驚いたようにスーンが問いかけようとして、そこで見たのはアレスの的だ。
 一発足りない。

「…………」
「…………」
 アレスとスーンが交互に的に目を向けた。
「アレス?」

「ああ……言いたい事はわかる」
 ゆっくりとアレスは真剣な表情で頷いた。
 スーンへと目を向けて、そして、フェーガンへと。
「フェーガン……お前、よくそんな離れた所から、こんな小さい穴が見えたな」
「そうじゃないよ!」

 スーンはレーザー銃で、アレスを殴打した。

 + + +

 幸いにというべきか、当然と言うべきか――アレス達は無事に五学年に進級することができた。最上級生ともなれば、下級生に比べて扱いは天と地ほども違う。
 しかし。
「こうも注目されると、動物園の猿になった気分だな」

 受ける視線に、アレスは苦笑を浮かべた。
 学生全員が入ることができない学食スペース。
 しかし、最上級生だけは優先的に座ることができる。
 昼食のパスタをフォークでつつきながら、周囲に視線を向けた。

 途端、見ていた視線が慌てて顔をそむける。
 座っている人間だけならばまだしも、立ちながら食べている一年生までこちらを見てどうする。制服に染みがつけば、怒られることは重々承知しているだろうに。
 目前でパンをちぎって口に入れながら、スーンが小さく笑った。

「仕方ないよ。何せアレスは戦術シミュレータ大会で三連覇して、もうすぐ四連覇がかかってる注目の選手だからね。有名税って思って諦めな?」
「有名税というが、俺はほとんど儲かってないぞ」
 アレスは渋い顔で答えた。

 二学年の時は、ヤンチームに賭けていた。
 三学年の時は、どういう因果かローバイクとコーネリアが再び同一のチームとなったため、アレスは二人に賭けた。もっとも、その二人は準々決勝でアッテンボローのチームに敗退し、決勝戦でアレスがアッテンボローのチームとあたることになったわけだが。

 そして、昨年だ。
 アレスとアッテンボローが組む事になった大会は、対戦相手を全て全滅させる完勝で優勝している。
 さすがにアレスも、前回ばかりは自分のチームに賭けた。
 倍率は1.1倍だったが。
 つまり。

「収支を計算すると、明らかに負けているわけだ」
「俺は勝った」
 昼食からステーキランチを食べていたフェーガンが、満足そうに微笑んだ。
 卒業後の結婚資金が一気に貯まったと聞いたので、間違いなく満足しているのだろう。
 少しは分けろと、アレスは口を尖らせ、フェーガンの肉を奪う。

「むっ」
 サラダを食べていたフェーガンが気づいた時には、既に厚手の肉はアレスの口の中だ。
 咀嚼する音に、スーンが酷いなぁと笑う。
「これくらい貰っても罰はあたらん」
 学食にしては随分と柔らかい肉を咀嚼しながら、アレスはワイドボーンが卒業してからの二年間を思い返した。

 + + +

 戦術シミュレータ大会はおまけのようなものだ。
 実際に原作の中にはなかった。
 やはりこの二年で一番大きな出来事は、エルファシルの事件であろう。
 民間人を見捨てた将官を囮にして、無事に民間人を帰還させたのが宇宙暦788年……つまりは、昨年のことだ。

 卒業後わずか一年余りでの快挙であり、ヤンは現在は少佐である。
 エルファシルの英雄ともてはやされて、雑誌の結婚したい男性1位にもなっていた。
 その時の士官学校の手のひら返しは実に面白いものだった。それまでヤンを批判していた教官がテレビに出て、『彼はいつかやる人間だと思っていました』と話した瞬間、隣にいた別の教官が『こいつまじか』とばかりに隣を見たのには笑った。

 それでも事件自体は原作通りに進み、ヤンは昇進し、そしてアーサー・リンチ少将は捕まった。前線も後方も出来る有能な士官であったらしいが、彼一人救うつもりはアレスにはなかった。もっとも士官学校からエルファシルの事件に介入など不可能であったのだが、例え可能であったとしても介入しなかっただろう。
 アレスは思う。
 原作を知っていることはあまり強いことではないと。
 確かにそれぞれの性格や人間関係は知っている。

 だが、それは表面上の理解であって、ワイドボーンのように出会いが人間を変えることもある。 それが百パーセント間違いないと思っていたら、大きく怪我をするだろう。
 そして、もう一つ。
 アレスは知っている。

 これから起こる事件や大戦を。
 だが、それはたった一回だけの未来を変える権利のようなものだ。
 ここでエルファシルを止めてしまったら、その後も同じように物語が流れると思わない。
 いや、流れるわけがない。
 単純な人事でもアーサー・リンチ少将は同盟の中心に来るであろうし、逆にヤンは同盟軍の閑職に回されて、本当に10年で退役しかねない。
 同様に他の事件もそうだ。
 だから、それまではそれこそ戦術シミュレータ大会のように微妙な介入をするしかない。

 もっともどこからは大丈夫で、どこまでが駄目の線引きがないから困るわけであるが。
 まだ大丈夫なのか。
 それとももう変わってしまったのか。
「どうしたの、黙ってさ」

「ああ、カオス理論って奴を考えてね」
「何それ」
 知ってるとスーンはフェーガンを見て、後悔した。
 彼が知っているわけがない。

「某有名な数学者の言葉だよ。蝶の羽ばたきが別の場所の天候を変えることもある――バタフライ効果って奴さ」
「とりあえず一ついい?」
「ああ」

「なんでそんな難しいことを事を考えてんのさ。いつも言ってる、歴史が変わると困るって奴?」
「間違えてはいない。それより君らは何でいまの課程を選んだんだ」
 苦笑して、アレスは残っていたパスタをすすった。
 そう変わったことといえば、おそらくは二人の進路だ。

 スーンは後方支援課程を、フェーガンは陸戦指揮課程を選択していた。
 原作では二人の卒業課程などでてこないが、おそらくは原作とは違うだろう。
 スーンは成績でいえば、戦略研究課程に入れる実力を持っていた。
 フェーガンはグランドカナルの艦長であったわけだから、まず艦隊運用課程を卒業したはずだ。

 それが二人とも違う課程に進む。
 少なくともグランドカナルの事件は発生しない。
 個人的には友人が死なずに済むのは嬉しい事であるが、それがどんな未来となるかは予想ができない。

「なんでっていってもね。そっちの方がいいと思ってさ、アレスは補給とか興味なさそうだし」
「別に興味がないわけではないし、出来ないわけでもないけどな」
「うん。知ってる――でも、後方支援は重要だけどあくまでも戦いの勝敗を左右するだけでしょう」

「戦いの勝敗を左右すること以上に、軍に必要なことがあるのか」
「あるさ。僕はそう思うよ」
そう微笑めば、ゆっくりとパンを齧った。
 しばらくアレスはスーンを見つめていたが、それ以上の回答はないようだ。

 だから、代わりにもう一人に視線を向けると、もう一人は大きな肉を口に頬張ったばかりだった。
 もぐもぐと何度も噛み締めて、何だと視線を向ける。

「もともと俺は陸戦志望だった」
「いや、お前艦隊志望だったじゃねえか」
 課程を選択するまでに、何度となくフェーガンの志望は聞いていた。
 言葉に対して、フェーガンはむっと一口。
 フォークをステーキに差した。

「艦隊運用を希望していたのは、父だ。悪くはないと思っていたが、スパルタニアンの操縦席は俺には小さすぎる」
 いやまあ、そうだろうなとアレスはフェーガンの巨体を見ながら、そう思った。
「俺には学生時代から付き合っている女性がいる。卒業後には結婚する予定だ」
「ああ。だから、卒業後すぐに遠隔に飛んでいく陸戦指揮課程は嫌だと」

「うむ。彼女まで一緒に来る金はなかったし、艦隊運用だと地上ではない分、手当がつく。だが」
 そこでフェーガンは笑った。
「結婚式を挙げて、彼女も一緒に来るだけの金が稼げた」
「……な、なるほど」

 身を乗り出したアレスは、静かなフェーガンの言葉にそれだけしか言えなかった。
 確かにお金は大切だ。
 だが、結婚資金になるくらい稼いだってどんなだと思う。
 こちらは大赤字だというのに。

「……次は新婚のハネムーンがかかっている」
「なに、その直接的な要望は!」
「相変わらず低俗な話題をしているな、アレス・マクワイルド」
 と、背後から嘲笑とともに声が聞こえた。


 

 

自己紹介



 振り返れば、アンドリュー・フォークが立っていた。
 ただ、その背後にいるのはいつもの取り巻きではない。
 それぞれが初めて見る顔だった。
 いや……。

「テイスティア?」
 尋ねると、フォークの背後で恥ずかしそうにたっている後輩がいる。
 勉強会こそ二学年で終了したものの、それからは自力で成績を伸ばして、いまでは戦略研究課程に進級している。
 元々の頭ではなく、やる気の問題だったのだろう。

 いまでこそ会う機会は少なくなったが、それでもたまには食事を共にしている。
 前回はコーネリアの卒業祝いであり、こうして話すのは数カ月ぶりのことだ。
 そんなテイスティアに小さく笑いかければ、
「いつの間にフォーク派になったんだ?」

「違いますよ」
 テイスティアの即答に、フォークが嫌な顔をした。
 知ってはいたが、どうやら新しい取り巻きではないようだ。
 それでも本人を前に否定する辺り、少しは成長したようだなと思う。
 微笑するアレスを、苛立たしげに睨んで、フォークはテイスティアの言葉を遮った。

「君は黙っていろ。いいか、マクワイルド――彼らは」
「次の戦術シミュレータ大会での君のチームだろ?」
 言葉を先に言われて、フォークがさらに不愉快気に眉をひそめた。
 もっともテイスティアが取り巻きに入っていないとすれば、考えられることはそれくらいしかない。

 さらにいえば、その周囲に立つ少年と少女達はどれも若い。
 若い少年達――フォークの背後にいるアレスの知らない顔の三名だ。
 そのうちの二人が男で、もう一人が女だ。
 一人は整った顔をした黒髪の男だ。綺麗に眉が揃えられており、短く刈り込んだ髪とシャープな体つきが特徴的である。しっかりとした体型はワイドボーンやフェーガンに通じるところがあるが、こちらの方が遥かに見栄えは良い。
 逆に言えば、実戦的な筋肉のつき方ではないともいえた。

 もう一人の男は、それとは逆のタイプの人間だ。
 身体付きなどの見栄えを気にすることのない学者タイプの姿は、どこかヤンを思わせる。
 もっともヤンに比べれば、遥かに真面目に見える。
 どちらも顔はいいが、総じて軍人らしくはない。
 フライングボールのプロ選手とマネージャーの組み合わせの様であった。

 そして、もう一人。
 その少女はおそらくは最年少であり――そして、もっとも印象に残る。
 長い銀色の髪を肩まで下ろし、白磁のような肌には、ほぼ感情は浮かんでいない。
 お人形という表現が一番正しいのだろう。

 芸術家によって作られたと表現してもよい美貌に、完成された均一なプロポーション。
 おそらくは彼女からすれば、先ほどの二人を表現した顔の良さなどかすんで見える。
 普段はアレス以上にうるさいスーンでさえ、言葉にできずに黙ってしまっている。
 俺的にはもう少し肉がついた方が好みだけどな。

 そんな下世話なことを思いながら、アレスは少女に浮かんだ微かな感情を読みとる。
 それは値踏み。
 フォークやテイスティアに一切構うことなく、こちらを遠慮なく見ている。
 それはバーゲンで値打ち品を探す女性のようであって、少なくとも人間に――それも異性に向けるような視線ではなかった。

 顔は良いが、随分と挑戦的な後輩だ。
 それがアレスの第一印象である。
 そんな視線に興味を持ったと思ったのか、フォークが口角をあげた。
「ただのチームではない」

「幾らで買ったんだ?」
 ぎぎっとフォークの奥歯が音を立てた。
 だが、それでもフォークは怒鳴ることに耐えた。
 それだけでも少しは成長したのかもしれない。

「彼らはただのチームメイトではない。それぞれが、学年の最優秀の者たちだ!」
 手を大きく広げたフォークの言葉に、アレスは唖然と口を開いた。
「何だって?」
「ふふ。驚いているようだな、マクワイルド。さっきも言ったが、私を含めてチームメイト全員が、学年の主席だと言っているんだ。もう奇跡はないぞ、マクワイルド」

「あ……そういうことな。ああ、うん」
 自慢げに哄笑するフォークを見ながら、アレスは頭を抱えた。
 何という才能の無駄遣い。

 + + +

 普通は学年主席が同じチームを組む事は滅多にない。
 最近では――というよりも、アレスが二学年の時にフォークと当時の四学年の主席が一緒のチームになったのが最初で最後だろうか。

 それが全員が同じチームになるなど、確実に意図的なものを感じる。
 というよりも、むしろフォークの力であろう。
 どんな説得をしたのか、アレスには想像もつかなかった。
 いま思えば二学年の時点では、四学年の主席と同じチームにしかなれなかったと見るべきだろう。そう考えれば、この二年間もフォークは主席に至らなくても順位が一桁の優秀な人間と組んでいることが多かった気がする。

 それでも勝てない為に、なりふりすら構わなくなったか。
 そして、テイスティアはいつの間に学年主席までのぼりつめているのかと、アレスはいろいろな意味で驚きを隠せない。
 その表情にフォークは満足したようだった。
 鼻を小さく膨らませると、頼んでもいないのに紹介を始めた。

「四学年の主席であるテイスティア候補生は説明は不要のようだね。続いて、三学年のケビン・ウィリアム候補生」
 黒髪の体格の良い男が、こちらも挑戦的な笑みを浮かべた。
「こちらが二学年のヘンリー・ハワード候補生」
 その隣で学者タイプの男が小さく頭を下げた。

「そして、最後に我がチームの紅一点。女性にして学年主席に輝いた――」
 と、最後に女性――ライナ・フェアラートを紹介しかけて、フォークの言葉が止まった。
 ライナが一歩前に出たからだ。
 細身の体ながら、長身の少女は椅子に座るアレスを見下ろす。

「アレス・マクワイルド先輩ですね。噂はかねがね伺っております。その噂が事実であればまことに良いのですけれど」
 高音の綺麗な声音から聞こえる言葉は、やはり挑戦的な言葉だった。
「得てして噂の一人歩きってのは多いものだからね」

「ええ。それは十分すぎるほど存じてます。期待に裏切られる事は慣れてますから」
 言葉づかいは非常に丁寧なものであったが、その内容は驚くほどに攻撃的だ。
 少なくとも後輩が、先輩に語りかける言葉ではない。
 だが、彼女が言えば、それが当然であるように聞こえた。

 むしろ女性らしい丁寧な口調や優しい口調は、彼女が言えば酷く不自然に思えるだろう。
 そんな挑発に対して、アレスはゆっくりと唇を持ちあげた。
 笑う。
 その表情に対する反応は二種類だ。

 スーンをはじめとした五学年の面々とテイスティア。
 そして、それ以外の――。
「何を笑っているのですか、先輩」

「そ、そこまででいい」
 ライナの言葉は、フォークによって遮られた。
 肩におかれた手に、振り返ってライナは首を傾げた。
 すぐに身体をずらして、フォークの手が振りほどかれる。
 だが、その事を気にする余裕は、フォークにはないようだった。
 小さく咳払いをし、取り繕うようにアレスを睨む。

「ともかく。笑えるのも今のうちだと覚悟しておくことだ」
 悲鳴に近い叫びをあげれば、フォークはアレスを見る事なく踵を返す。
 その様子を怪訝な様子で見つめながら、ライナは再びアレスを振り返った。
 冷笑。

 美しいほどに冷たい笑みを広げて、ライナは優雅に一礼をした。
「それでは噂に期待しております、マクワイルド先輩。どうか、それまで……御機嫌よう」

 + + +

 フォークを先頭にして、歩きながら――テイスティアはアレスから離れられた事に感謝した。
 先輩のあの笑いを見たのは、どれくらいぶりのことであろう。
 会う機会も少なくなり、最近は全く見なくなったが、アレス本人は変わっていないと思い知らされた。

 それにしてもと、小さく横目で見れば、何の感情も浮かばぬ表情で歩くライナ・フェアラートがいる。
 最初に会った時は、凄い美人だと思った。
 だが、話しかけて、理解した。
 これは駄目な人だと。

 彼女を見て、思い出すのは、ワイドボーン先輩だろう。
 自分と関係のないものに対しては、冷徹なまでに切り捨てる。
 その点においては似ているといれば似ている。
 けれど、ワイドボーンとは大きく違うのは、その圧倒的なまでの感情の起伏のなさ。

 他者に対して全く興味がないのか。
 当初――顔合わせの時に、その顔の良さからフォークを初めとして、後輩たちも積極的に声をかけていた。
 だが、その全てがあっさりとかわされた。

 小振りな美しい口から出るのは、丁寧ながらに絶対的な否定の言葉だ。
 それでも諦めずに声をかける後輩たちが可哀そうで仕方がない。
 困ったものだと、テイスティアは苦笑する。
 落第生だった自分が後輩の心配をしているのだから。

 でもと、テイスティアは思う。
 そんな僕を先輩たちは見捨てないでくれた。
「フェアラートさん」
「何ですか?」

 声をかければ、無視をされるわけではない。
 だが、そこに好意的な感情は一切なかった。
 多くがその時点で心を折られる。
「先輩としていうけどね。先輩に対する言葉づかいは気をつけた方がいい」
「丁寧にお話をさせていただいたつもりですが」

「丁寧だからいいってものじゃないよ。特に怒らせてはいけない人ってのが、この世にはいるんだからね」
 挑発をしていただろうと、暗に言葉を込めて強くライナを見た。
 するとライナは小さく眉をあげた。

「先輩方は挑発をしにいったわけではないのですか?」
「え。わざとなの」
 驚いたテイスティアの言葉に、ライナは小さく頷いた。
「ええ、わざわざ挨拶にいくわけですから。マクワイルド先輩を挑発して、平常心を奪うのが目的だったのかと思っておりました」

「いや、平常心が奪えるかなぁ」
 テイスティアが唸る。
 アレスを挑発すれば、平常心が奪えるだろうか。
 むしろ、逆効果で、沈着冷静に完全完膚なきまでに叩き潰される気がする。
「では、なぜ挨拶にいったのでしょう。まだ正式には発表されていないわけですから、早く顔を見せれば、それだけ相手に準備させる時間ができるのでは?」

 それは正論だった。
 まさか彼女はフォークが手に入れたおもちゃを他に自慢したかっただけという、子供じみた思いなど想像もしていないのだろう。
 そう彼女は間違えていない。
 だからこそ――恐いなぁ。

 正論だけが正しいわけではない。
 特に人間関係であればこそだ。
「それはフォーク先輩には先輩の考え方があったのだと思うよ」
「どのような考えか教えていただけると嬉しいのですが」

 小首を傾げて、ライナはテイスティアを――そして、先頭を歩くフォークを見た。
 そんな言葉に対して、フォークがまともに答えられるわけがない。
「君らが考えることではない。しゃべってないで、さっさと授業の準備でもしたらどうだ。そうそうチームの発表は明日になるだろう、それまでは個人で訓練しておけ」

 不快気に眉をしかめれば、踵を返してフォークは校舎へと歩いていく。
 突然の怒りに、ウィリアムとハワードの二人が慌ててフォークを追いかけた。
 その様子にライナが眉をひそめる。
「理解ができません」
「うん。出来ない方が幸せかも」

 そんなフォークの背を苦笑混じりに視線で追いながら、テイスティアは息を吐いた。
 この正論だらけの後輩を、アレス先輩ならどうしただろうか。
 そう思って、思い出されるのはワイドボーンとの一戦だ。
 柄ではないと思いながら、首を振って、テイスティアはライナを見る。
「フェアラートさん。今日の放課後あいているかい」
「ええ、何でしょうか」

「じゃ、ちょっと付き合ってよ。戦術シミュレートの訓練にさ」
「よろしいのですか?」
「別に個人で訓練するわけだから、問題はないと思うけど」
「いえ。訓練前に先輩が負けるのはあまり良い事ではないと思慮いたしたします」
「随分な自信家だね」

 テイスティアは苦笑して、頬をかく。
「そう思うのなら、勝負してみよう」
 ゆっくり手を広げながら答え、そして、テイスティアは敗北した。

 

 

初めての挑戦



「いいか、ここ重要だから、もう一度言うぞ」
 そんな教官の言葉に、ライナ・フェアラートは小さくため息を吐いた。
 小等科で初めて聞いた時は、耳を疑ったものだ。

 一度聞けば、話などすぐに覚えるのに、もう一度言う必要があるのだろうかと。
 それは異質であって、他の人間がそうではないというのに気づくことに三年かかった。
 どうも自分は他の人間とは違うらしい。
 聞いたこと見たことは全て一度で覚えたし、出来なかったことはない。

 優秀な人間が集まる軍にいけば、少しは違うかと思ったが、何のことはない。
 ライナはここでも異質であった。
 確かに優秀な人間はいた。
 だが、それだけだ。

 まだ入学して、わずか半年余りであるが、既にライナは失望を始めていた。
 そう思ったのは、戦術シミュレート大会のせいでもあるのだろう。
 学年の主席が一堂に集まって、始まった訓練は――実につまらないものだった。
 一言で言えば、相手にならない。

 考える策は全てよめ、こちらの策には見事にはまる。
 それで全員が学年主席というのだから、実にばかばかしい。
 いやと、ライナは細いシャーペンを唇にあてて、思った。
 リシャール・テイスティア――四学年の主席。

 彼だけはまだ他の主席の中でも一番ましだった。
 こちらの考える策のいくつかが読まれ、初めて苦戦というものをした。
 全て思い通りにいかなかったのは初めてといってもいいだろう。

 多少は褒めてもいい。
 最後の言葉は余計であったが。
 ライナ・フェアラートにはその時の台詞が全て思い出せる。


『強いね、やっぱりアレス先輩のように上手くはいかないか。でも』
『何でしょう』
『負けたのに何を言っていると思うかもしれないけど、君は強いけれど恐くはなかった。君は今のままだと戦場だと勝てないよ。きっと次は負けない』
『何をおっしゃているのか、理解できません』

『戦場では全てが君のように機械的に出来るわけじゃないということさ。君には恐さがない、だから同じく敵も恐いと思わない』
『相手に恐いと思わせることがそれほど重要なのですか。非効率的ですね』
『戦いが全て効率的なわけではないよ。そうだね、君もアレス先輩と戦えばわかると思う』
『どういうことでしょう』

『君は今まで恐いと思ったことがないでしょう』
『……』
『君が本当の恐さを知れば、きっとわかる。恐くない相手がどれほどもろいかをね』


 恐さとはマイナスの感情だ。
 それを知ったところで、満足な戦闘が出来ることはない。
 他の誰かがそれを言っていれば、一笑して記憶にのぼることもなかっただろう。
 ただ一人、苦戦した相手がそうまでいう人間。
 烈火のアレス。

 彼の話は、わずか半年余りで非常によく聞いた。
 戦術シミュレート大会が開催以来三連覇を達成した天才。
 彼が見回り当番のなれば、その日の街への脱走は中止になり、時には忙しい時期になど教官から学生とは別に学校の事務の仕事を与えられ、こなしている。
 おそらくは学校で誰よりも有名な人物。

 その事に同学年であるアンドリュー・フォークは良い顔をしないが、ライナ・フェアラートにとってはどうでも良い事であった。
 ライナにとっては、フォークも一学年の落第生も同レベルでしか数えられないのだから。
 小さく息を吐けば、授業の終わりを告げる鐘が鳴り、ライナは静かにノートを閉じた。

 + + +

 戦術シミュレータ大会の一カ月は、放課後に特別な任務もなく、訓練に専念が出来る。
 本日の掃除担当でないものは、急いでそれぞれの訓練場所に向かっている。
 最年少の一学年では、単純な訓練の他に茶の準備など、いろいろ用事があるからだ。

 くだらないことね。
 心の中でそう呟きながら、ライナもノートを鞄に閉まった。
「ライナちゃんはいる?」
 室内の入口に顔を覗かせたのは、上級学年の先輩だ。

 ケビン・ウィリアム候補生。三学年の先輩が一学年の部屋に姿を見せれば、慌てたように学生達が敬礼を行った。
 三学年の主席――それも、士官学校の隠れ人気ランキングで上位の人物だ。
 数少ない女性が目を輝かせていた。
 そんな状況を自らも理解しているのか、ウィリアム候補生は答えるように小さく手を挙げる。

 ざわめきが大きくなった。
 と、視線の先にライナ・フェアラートの姿を発見すればゆっくりと笑みを広げた。
「ああ、いたね。迎えに来たよ」
「そう、ですか」
 静かに答え、ライナは出入り口を目指す。
 羨望が入り混じる視線がライナに突き刺さるが、当の彼女はどこ吹く風の様子だ。

 眉ひとつ動かすことなく、鞄を手にして、出入口へと歩く。
 ウィリアムが大げさな動作で出迎えた。
「さ、行こうか。荷物を持つよ」
「結構です」
「そう言わずに……」

「荷物をもてないほど、か弱いわけではありません。はっきり申し上げて、迷惑です」
 はっきりと否定の言葉に、ウィリアムは語尾を濁した。
 それでもあいた手がライナの鞄の辺りを彷徨うが、有無も言わさずに歩きだしたライナを止める事はできない。
「授業で何かわからない事はない?」

「いいえ、まったく」
「あ、そう。じゃ、生活で困った事とか。抜けだすいい場所とか知ってる?」
「興味がありません」
 取り付く島がないという言葉は、この事なのだろう。

 それでもウィリアムは他の人間に比べれば、頑張っているほうだ。
 彼女の容貌を見て声をかけた多くの人間は、初日で撃沈しているのだから。
 会話というよりもほぼ一方的にウィリアムが話しかける。
 それは過去の戦術シミュレータ大会で本大会に出場した時のことであったり、陸戦技能の大会で学年優勝を果たした時のこと。

 それらの言葉に、しかし、ライナの表情は動かない。
 ウィリアムが小さく眉をしかめる。
 打っても全く響かず、やがて話題も尽きて来たようだった。

 一瞬の間が空けば、ライナの顔がウィリアムへと向いた。
 身長差からライナが見上げる形となった。
「一つお聞きしてよろしいですか?」
「もちろん。何でも聞いてよ」

「先輩は戦いで恐いと思ったことがありますか」
「恐い?」
「ええ」
 頷いたライナに対して、ウィリアムは少し考えた。
 そして、柔らかく笑う。

「ないね。怯えていては、将来的に将官なんて務まらないさ」
「そうですか、私と同じですね」
 そんな言葉に対しても、ライナの感情は動かない様だった。
 笑いかけたままで、ウィリアムの笑顔が固まる。

 ウィリアムの方からすぐに顔を戻せば、指を唇にあてた。
「恐れというのは必要なことなのでしょうか」
「何を考えているかわからないけど、恐いなんていうのは臆病者のいう台詞だよ。あのブルース・アッシュビーが敵前逃亡をしたことがあるかい?」

 ライナは考える。
 果たして、リシャール・テイスティアは臆病者であるのだろうかと。
 少なくとも現状までの訓練を考える限り、あり得ないように見えた。
 むしろ、訓練中は誰よりも激戦の中にいて、戦っているように見える。

 彼が臆病者であるのならば、士官学校の人間はほとんどが臆病者になってしまう。
 心情的にはウィリアムが正しいのだと思う。
 個人の気迫が左右した古い戦いならばいざ知らず、今はむしろ感情の方が余計だ。
 恐いと思う暇があれば、一瞬でも早く指揮をした方がいい。

 そう理解しながらも、テイスティアの言葉は、ライナの頭の中に残り続けていた。

 + + +

 圧搾音が鳴り響き、筺体の扉がゆるりと開いた。
 共有スペースのモニターでは、チームの勝利を告げる映像が流れていた。
 対戦相手はコンピュータ――しかし、同時に訓練を行っていた別のチームからは感嘆の声が漏れていた。

 コンピュータとはいえ、設定された高難度の対戦は、時には教官ですら時には負ける場合があるほどの強さだ。
 そんな相手に対して、ほぼ圧勝の結果にフォークは満足そうに頷いた。
 訓練で、チームのメンバーが互いに戦うことはなかった。
 フォークの立てた作戦を、それぞれが完璧にこなせば、誰にも負ける事はないというのが、総司令官であるフォークの方針だ。

 実際にそれぞれが仕事を完璧にこなし、高難度のコンピュータを相手にして勝利を収めている。
 一人一人のレベルが非常に高いからこそできる訓練だろう。
 もっとも、それが面白いかどうかといえば、決してライナは面白いとは思わない。
 ただ淡々と仕事をこなす作業など、ただ時間が無駄なだけだ。

「さて、今日もお疲れ様。明日は別の想定で訓練をしてみよう」
「いいですか?」
「何だい、テイスティア候補生」
「互いの連携についても確認しておいた方がいいのではないですか?」

 テイスティアの言葉に、フォークが片眉をあげた。
「君は私が最初にたてた方針を聞いていなかったのか?」
「聞いてはいました。ただ、今は上手くいっていますが、敵対することで見えることもあると思います」
「時間の無駄だと、最初に言ったはずだが。このチームでは一人一人が完璧に仕事をこなせば、誰にも負けるはずがない」

「こちらが完璧にこなしても、相手がそれ以上完璧なら負けることに」
「我々以上に完璧な人間などいない!」
 怒声と言って良い言葉に、テイスティアは言葉を止めた。

 テイスティアを睨みつけながら、ふとフォークは気づいたように顎に手をあてた。
「なるほど。そういえば、君はマクワイルドと昔同じチームだったな」
「ええ。でも、今は敵同士です――だからこそ、油断できないと言っています」
「油断などしていない。それとも、君はこちらの情報をマクワイルドに売るつもりか……なるほど、それなら戦いたがるわけもわかるというものだ。対戦相手は良く見えるだろう?」

「それは本気でおっしゃっているのですか?」
「いいぞ、何だったらマクワイルドのチームに行けばいい。君一人いなくても、このチームは何ら問題がない。どうする、テイスティア参謀長」
「……」

「どうすると聞いているんだ、答えたまえ!」
 フォークの畳みかける言葉に、テイスティアはゆっくりと首を振った。
「いえ、このチームで戦いたいと思います」
「懸命な判断だ」

 勝ち誇った笑みを浮かべて、フォークは満足そうに頷いた。
「時間をとらせたね。明日も同じ時間で、今度はもう少し難しい訓練をしてみよう――テイスティア候補生は、明日はこなくてもいい。ゆっくりと反省する時間が必要だろう」
 そう告げると、フォークが立ち去った。

「何か、悪かったね」
 それを見届ければ、小さな謝罪の言葉とともにテイスティアも歩き去る。
 残されたのはライナを含めた三人だ。
「どうもテイスティア先輩はどうも烈火のアレスを過大評価しているらしいね」

「油断はしない事にこした方がいい」
「君もか、ハワード候補生」
 ハワードの言葉に、ウィリアムは大げさにため息を吐いた。
 その様子にまあと短く答えれば、悪くなった空気から逃げるようにハワードも姿を消した。

「臆病者というのは、困るものだ」
「そうでしょうか」
「ああ、慎重と臆病は似て非なるものだよ。どうだい、この後食事でも?」
「御遠慮します」

「は、え。いや、ちょっと!」
 慌てたように声をかけるウィリアムに踵を返し、ライナは長い髪を揺らして歩きだした。
 遠ざかる背に、ウィリアムがかける言葉は届かない。

 廊下を曲がれば、あっという間に姿は消えた。
 ウィリアムは呆然と背中を追い、眉間にしわを寄せる。
 そして、壁に拳を叩きつける。

「んだよ。くそ――ちょっと顔が良いからって、ふざけてんのか」
 ウィリアムの表情からは笑顔が消えて、見えなくなった廊下を睨み続けていた。

 + + +

 アレス・マクワイルドのチームは三号館の戦術シミュレータ装置で訓練していた。
 さすがに有名な人物だけあって、訓練を終えた人がまばらに共有スペースのモニターを見ている。

 聞こえる烈火との言葉に、歩いていたライナも足を止めた。
 共有スペースに映るのは、マクワイルドチームの訓練内容だ。
 どうやらこちらは対人戦を行っているようだ。

 見れば、アレスを相手に他の四人が共同で勝負を挑む形であった。
 一対四という状況にも関わらず、むしろアレスの方が有利に進めている。
 相手の行動に対して的確に阻害し、数分前の行動が布石となる。

 機械の様な正確な行動に、まるで決まり事のように四人は遊ばれているようだった。
 実力差があるのだろう。
 アレス・マクワイルドはチームに恵まれなかったらしい。

 そう思ったライナの考えは、見学して数分後には訂正する事になった。
 相手は決して弱くない。
 艦隊運動や状況判断を見れば、むしろ、そのうちの一人はテイスティアと同等か、それ以上の実力がある。

 特にその思い切りの良さは、周囲の動きをスムーズに変えている。
 自らだけではなく、他の艦隊を引っ張ることができる人間は珍しい。
 それにつられるように動く周囲も、決して下手ではない。
 まだぎこちなさは残るものの、出来ることを確実にこなしている。

 強い――だが、アレスが的確に相手を崩しているだけ、弱く見えるだけだ。
「あーあ。良いようにやられて、こりゃ、今年はマクワイルド先輩は駄目かな」
「フォーク先輩のチームは全員が主席らしいからな」
「烈火のアレスもさすがに四連覇は難しいか」

 何もわかっていない観客が口にする言葉に、ライナは小さく苛立った。
 そう思うなら、四人を相手に戦ってみればいい。
 おそらくは――ライナでも難しいかもしれない。
 そんな考えに、ライナの顔に自然と笑みが浮かんだ。

 自分ですら無理だと思う戦いが、いま目の前にある。
 そう思えば、ライナは楽しいと感じる。
 今までは出来る事が当たり前だった。
 少なくとも人ができていて、自分が出来なかったことは存在しない。

 初めて浮かび上がる感情だ。
 言葉でこそ知っているが、今まで使う事がなかった言葉。

 そう――それは、挑戦。

 
 

 

VSマクワイルド


 
 戦術シミュレータの試合はアレスの勝利で終わった。
 空気圧が排出される音とともに筺体全部のカバーが開いていく。
 先ほどまでの言葉を聞かれたくはなかったのか。

 聞かれるはずもないのに、周囲にいた観客達があっという間に去っていった。
 一人、ライナは共有スペースに残る。
 考えれば、アレスと会うのは、これが二度目である。
 しかも、一度目は知らなかったとは言え、挑発までしている。

 挑戦したいと言う思いはあるが、ここで戦って欲しいといったところで、素直に戦ってもらえるだろうか。
 難しい気がした。
 そもそも三連覇の名声を破ろうと、あるいは記念にとアレスに対して戦術シミュレータの戦いを挑む者は非常に多いと聞いている。そこにまだ一学年の自分が――それも戦術シミュレート大会前の貴重な時間を潰してまで、訓練に付き合ってもらうのは難しいだろう。

 おまけにライナは明確な敵だ。
 手の内を見せることを、普通は嫌う。
 考えれば考えるほどの絶望的な状況だ。
 だが、ライナの胸に浮かんだ感情を無視することは出来そうもない。

 戦ってみたい。
 その想いが迷いながらも、ライナの足に力を込めた。
 一歩前に出ようとして――。
「フェアラートさん?」
 唐突にかかった声に、ライナは足を再び止めた。

 声の方を見れば、金褐色の髪に淡い茶色の瞳をした少女がいた。
 柔らかな物腰と優しげな顔立ちは、どこか幼く、同姓から見ても可愛らしい。
 戦術シミュレータを終えたばかりであるのか、髪の一房が頬に汗でついていた。
 クラスこそ違うものの、彼女の名前はすぐに浮かんだ。

 一学年の次席であり、同盟軍の重鎮を父に持つ同級生。
「グリーンヒル候補生?」

 フレデリカ・グリーンヒル……その名前を、ライナは呼んだ。

 + + +

 どうやらアレスとフレデリカは同じチームであるようだった。
 他のチームに興味がなかったため、チーム編成を見ていなかった。
 驚くライナに、同じようにフレデリカも驚いたようであった。

 本来は訓練中である同級生が、この場にいれば無理もないだろう。
「えっと……もう訓練は終わり?」
 慎重な問いかけに対して、ライナは小さく頷いた。
「そう、お疲れ様」

「別に疲れてはいないから」
 そうフレデリカと言葉をかわしながら、視線は戦術シミュレータの筺体を探す。
 いない。
 フレデリカに目を奪われた一瞬で、既に筺体内にアレスの姿はなかった。
 辺りを見渡すライナの様子に、フレデリカが小さく首を傾げた。

「マクワイルド先輩に、御用?」
 と、少し考えて、ゆっくりと背後を指さした。
 がたんとの落下音に、背後を振り向けば、自動販売機に手を突っ込むアレスがいる。
 こちらに背を向けて、いまだ気づいてはいないようだ。

 同級生の挨拶もそこそこに、ライナはアレスに近づく。
 三メートルも近づけば、アレスは気配に気づいて振り返った。
 目つき悪く睨まれた。
 おそらくは好かれてはいないのだろう。

 当然と思いながらも、少し寂しい。
 それでも表情には見せず、ライナは声を出した。
「お久しぶりですね、マクワイルド先輩」

「あーと。フォークと同じチームだった」
「ライナです。ライナ・フェアラート」
 ライナは自分の胸に手をおいて名前を名乗った。
「ああ、俺はアレス・マクワイルド。と、名乗らなくても知っていたね」

「ええ。烈火のアレスの名前は有名ですから」
「名前負けしてなければいいけどね」
 悪戯気に笑い、そう肩をすくめたアレスに、ライナは静かに頭を下げた。
「先日は失礼しました」

「なぜ?」
「わざととはいえ、失礼なことを言ってしまいましたので」
「正直だな、おい」
 アレスが呟けば、周囲から小さく笑いが起こった。
 いつの間にかアレスを囲むように、チームのメンバーが集まってきている。

 随分と仲が良い。
 少なくとも訓練終了後に、すぐに別れる自らのチームからは考えられないことだった。
「ま、気にしてないさ。で、何か用でも?」
「……」

 と、強い視線がライナを捉える。
 思わず黙ったライナに、アレスが怪訝そうに眉をひそめた。
 どういえばいいのか、迷うライナの背後から笑い声が聞こえた。
「マクワイルド先輩は目つきが悪いんですから、恐がっちゃいますよ」

「目つきは生まれつきだけどな」
 憮然とアレスが答えれば、再び笑いが起こった。
「まったく士官学校には碌な後輩がいないな。俺はもっと素直だった」
「アレス先輩の先輩方が聞いてたら、怒鳴りこんできそうな言葉ですね」
「サミュール。お前は何か、俺を誤解していないか?」

「リシャールから聞いたことを言っているだけですよ」
 くすりと笑う言葉に、ライナは背後から声をかけた人物の名前を知る。
 セラン・サミュール。

 三学年まで学年主席をキープしており、今年こそテイスティアに抜かれてしまったが、その差は極僅か。この大会の結果次第では、再び学年主席に戻ることになるだろう。
 強いはずだと理解して、同時に彼すらも簡単にあしらっていたことにライナは驚いた。
 驚きは自然と言葉となり、声が出た。

「マクワイルド先輩。今から私と戦っていただけませんか」
 と。
 ライナの唐突な挑戦状に、周囲が笑みをやめて、驚いたようにライナを見ている。
 集中する視線を無視して、ライナの銀色の瞳はただアレスを捉えていた。

 笑われるだろうか。
 感じた不安は、しかし、アレスはライナの無茶な要望に笑う事はなかった。
 ただ静かな瞳がライナを捉え、

「理由を聞いても?」
「戦いたいと思ったからです。それでは駄目でしょうか」
「駄目ではないが、理由ではないな」
 苦笑するアレスに、ライナは言葉を重ねた。

「あなたに勝ちたいと思ったから」
 ライナにとっては初めての挑戦だった。
 おそらくはこれを逃せば、一生をつまらないと思い続けて生きることになるだろう。
 そう思えば、簡単に諦めることなどできるはずもなかった。

 アレスの目をそらすことなく、正面から見つめる。
 アレスは小さく苦笑した。
 ゆっくりと頭をかけば、手にしていたコーヒーを投げた。
「サミュール」

「はい?」
「やる」
「いいんですか?」
 コーヒーを受け取り、サミュールは問いかける。
「今から戦いたいのだろう?」

「ええ。……それじゃ!」
「温くなったコーヒーはまずいからな」
「ありがとうございます!」
 アレスの言葉に、ライナは勢いよく頭を下げた。

「いいさ。後輩が先輩に戦いを挑むってのは、良くあることだ」
「それは先輩だけだと思いますけどね」
 サミュールが笑えば、アレスが小さく口を尖らせて歩きだした。
 先ほど出たばかりの筺体へと再び近づいていく。

 筺体に入ろうとしたところで、対面の筺体からライナが声を出した。
「マクワイルド先輩」
「ん?」
「全力でお願いします」
「ちょっと、フェアラートさん!」

 筺体に足をかけたまま、アレスは目を丸くした。
 ライナの発言に、思わずフレデリカは大きく声を出した。
 さすがに失礼であろうと、周囲の人間も眉をしかめている。
 ただ一人――ライナだけが真剣な表情でアレスを見ている。

 しばらく彼女を見て、アレスは唇をゆっくりとあげる。
「サミュール」
「は、はい!」
「先ほどの件は取り消しだ」
「え……と」

「コーヒーを飲まずに、持っていろ。温くなんてならない」

 + + +

 二つの艦隊が同じ星域で睨みあっている。
 数は同数――共に一万五千の艦隊だ。
 戦略を考慮に入れず、ただ互いの戦術能力だけを競う。
 戦術シミュレータが導入された当初は、この想定しかなかったと聞く。
 いまでこそ様々な想定が作られているが、単純に実力を競うという意味では、この戦いは人気があった。

 その想定に、ライナは心でありがたいと思う。
 自分は決して良い後輩ではないだろうと思う。
 失礼なのは重々承知であり、断られてもおかしくはない。
 それを黙って受け入れてくれたアレス・マクワイルドには感謝をしてもし足りない。

 結果がどうあれ、謝ることになるだろう。
 自分の我儘は聞いてもらった。
 自分は礼をするためにはどうすればよいのだろう。
 これが自分のチームの先輩であれば、食事に付き合う程度でいいのだろうが。

 アレス・マクワイルドがそれを求めるとは思わない。
 ならば。
「全力で行きます」
 自分の力を見せつける事が一番の礼となるのだろう。

 即ち、その想定――決戦の幕が開けた。

 + + +

 過去の戦いとは違い、現代の艦隊決戦は実に地味な戦いだ。
 特に同数で真正面に戦うことになれば、双方とも横一列の横列陣を作らざるを得ない。
 もしこれが狭い星域であったり、決戦に至るまでで動きがあるのならば、話は別になるのだろうが、少なくとも艦隊同士が真正面で戦えば、同じ陣形になる。

 下手に艦隊の一部を突出させれば、そこに攻撃が集中して、あっという間に崩壊するだろう。
 結果として艦隊の陣形は敵に攻撃し、なおかつ防御しやすい横一列の陣形となる。
 青のアレスと赤のライナの軍――双方が同じ速度を保ったまま、接敵。

 ほぼ同時に、ライナが攻撃を開始すると同時に、相手の攻撃も始まった。
 ライナと同様最も効率の良い射程距離を、相手も把握している。
 そう、効率。
 と、ライナは戦況に目を走らせながら、小さく呟いた。
 戦いに力が求められていた時代とは違い、いま重要視されるのは効率だと思う。

 効率良く敵を崩し、効率良く敵を攻め立てる。
 それを完璧に行えば、負ける事はない。
 こちらの損害と敵の損害。
 流れていく情報に目を走らせながら、ライナはその時を待つ。

 ――いま。
 相手の左翼が崩れた――そう見るや、砲撃を左翼へと集中させる。
 崩れた左翼を中央が補完するのは見事。
 しかし、そうなれば一つ突出するのは相手の右翼だ。
 狙いを即座に右翼へと変えて、攻撃を集中する。

 一万五千の砲撃を受けた敵右翼は大きく数を減らして、後退した。
 それは作業であり、機械的でもあった。
 どのタイミングで、どこを狙い、どうなるのか。
 それらを冷静なまでに正確に把握する。

 言葉にすれば簡単であるが、並はずれた状況判断力と精密性を必要とするだろう。
 通常であれば不可能。しかし、ライナはそれを可能としている。
 だから、負ける事はない。
 と、左右に打撃を食らって、今度は中央が突出する。
 どのように動こうとも、艦隊戦になれば奇跡など起こるはずがない。

 ライナは正確にコンソールを叩き続けた。

 + + +

「なるほど、確かにこれは……」
 後輩思いの後輩から聞かされたとおりの形に、アレスは狭い筺体の中で苦く笑った。
 相手の動きは、確かに完璧。
 どこにもミスはなく、まさに機械的にこちらを追い詰めてくる。

 おそらくは彼女の中では勝利までの道筋が見えているのだろう。
 アレスのチームであるフレデリカが機械のまたいとこなどと酷い評価をされていたが、彼女に比べれば随分と人間味がある。フレデリカの場合はあくまで記憶力や事務能力が優れているというだけで、考え方や動作はごく一般的な女性だ。
 ここまで機械的に効率よく攻め立てることなどはできない。

 ま、それも善し悪しがあるけどな。
 テイスティアが心配するのも理解ができた。
 強い――けれど、弱い。
 これがコンピュータ同士の戦いであれば、おそらくは無敗。

 それなりに強い人間でも戦術シミュレーターであれば、負けはしない。
 だが、戦場に出れば戦術的技能に劣る人間にすら敗北する。
 コンソールの端に流れる損害は、青軍の各部隊の損傷を示している。
 相手の赤軍よりも多いそれを一瞥すれば、アレスは苦笑した。

「確かに少ない、でも誰も死んでないわけじゃないんだよ、後輩」
 諭すように呟かれる言葉が、狭い筺体に響いた。
 コンピュータであるならばともかく、戦場であれば恐怖でミスもあるだろう。
 誰もが彼女のように冷静に行動ができるわけがない。

 彼女は、それを知らない。
 例え狂ったとしても、彼女はおそらくは正確に立て直しはするだろう。
 凡人をおき去りにしていきながら。
 実戦ではおそらく司令官と参謀――さらにいえば、下士官との間で軋轢を生む。

 優秀であれば、それらを無視して結果を出せば良いかもしれないが、現実はそれほど優しくはない。ちょうどあのラインハルトと同じ状況になるかもしれないが、彼は天才であると同時に他者を従える覇気があった。
 そして、それこそがアレスが考える一番厄介な点だった。

 戦術的才能や戦略家としての才能など、それに比べれば大したことがない。
 そんなものは優秀な将が代わりにやってくれる。
 彼に従えば大丈夫だと言う力――同じ天才でも、それが彼女にはない。
 おそらくは彼女は正しい。

 彼女の周囲が全て彼女ほどの能力を持っているならば。
 あるいは全てがコンピュータであれば。
 だが。

「正しい事が正解なわけじゃない」
 アレスがそれを知ったのは、前世で就職してからであっただろうか。
 正論は上からの命令に潰される。
 自分が正論を言うためには、上に行くしかない。 

 だが、上に行けば、アレスの正論は正論ではなくなっていた。
 いや、正確にはアレスも正論であることは知っている。
 同時に、正論を貫いた結果に起こりうる結果までを理解してしまう。
 だから、二度目の人生では後悔はしたくなかった。

 元より死んだ身――ならば、今更という思いが、アレスの心にある。
 しかし……それを例え天才と言われようが、十五の少女に求めるのはあまりにも酷。
 知らなければ幸せであろうか。

「……君はそれを望んではいない。そう思う。だから」
 呟く言葉は、口には出さない。
 ただ小さく心で思う。
 まだ小さな少女に対して。

 全力で相手をしよう。

 

 

烈火の意味



 艦列の崩れた相手に対して、さらに周囲から攻撃を加える事で、出血を強いる。
 詰将棋と同じようなものだ。
 相手の動きは既に限られており、こちらが間違えなければ敗北はない。
 そして、ライナ・フェアラートが間違えることはない。

「お望みならば、その時間まで正確にお教えします。端的に、コーヒーが温くなる前に終わりそうですね、先輩」
 筺体の中で呟き、ライナはコンソールを操作した。
 細い指はピアノを弾く様に、コンソールの上を駆け巡る。
 最適の動きで、最善を弾く。

 動きを一切止めずに、ライナは考えた。
 簡単すぎると。
 確かに相手の射程距離や艦隊の動きを見れば、決して弱いわけではない。
 けれど、これくらいであれば先日のリシャール・テイスティアと同様……おそらくはセラン・サミュールも同様の動きが出来る。では、アレス・マクワイルドは彼らと同様の力しかないのだろうか。

 答えは否。
 動きとは別に、回る思考が答えを導き出す。
「なるほど」
 そして、映る画面を見れば、ライナが考えた結果が映っていた。
 戦場を大きく迂回した複数の小規模の艦艇が、ライナの背後に回り込んでいる。

 決戦が始まる前に、部隊の一部を迂回させていたのだろう。
 アレスは、ライナよりも少ない艦数で戦っていた。
 おそらくは数千か。それでいて、テイスティアやサミュールと同等までの力を見せつけていたのだから、恐れ入る。もし単純に決戦に集中して入れば、小規模とはいえ艦隊の攻撃を受けたこちらは少なからず艦列を崩す事になる。あるいは小規模艦隊の対応に気を取られて、本隊との戦闘が少なからずおろそかになるかもしれない。

 そして、その少ない隙をアレスは見逃さない。
「お見事です。けれど、相手が悪かったと思慮いたします」
 呟かれた言葉が、小規模艦隊と敵本隊を同時に対応すべくコンソールを叩いていく。
 敵本隊を崩したままで、飛来する小規模艦隊にも対応する。
 通常であれば相手の艦隊情報に目を走らせるため、本隊と小規模艦隊のそれぞれを判断するために時間を取られた事だろう。

 だが、ライナはそのような時間を必要としない。
 一瞥した情報を元に最適の選択を取る。
 およそ五つ――背後から飛来する小規模の艦隊に対して、一部に迎撃命令を出しながら、本隊に対しては冷静に戦力を削る。

 すでに敵本隊の両翼は数を減らされて、先頭が突出している。
 多少の手間はかかったが、結論としては大きく変わりがない。
 コンソールを打つ速度を速め、ライナは微笑する。
「これで終わりです、先輩。主砲斉射……三連」

 突出した艦隊に対して、一万五千の砲口が一斉に開いた。
「え……」

 そして、一瞬――画面がぶれる。

 + + +

 一瞬動きが固まった相手に対して、小規模艦隊が敵本隊に殺到し、こちらの主砲が敵を貫いた。遅れて始まった敵の攻撃は、既に連携をとれておらず、単発的に起こる攻撃は、こちらの前方に配備していた重巡航艦によって、容易に攻撃を阻まれる。

 相手の攻撃が最適であるからこそ、わかりやすい。
 いつ攻撃をするのか、どういう攻撃をするのか。
そして、どういう対応をするのか。
 だからこそ、対策が取りやすいし、何より。

 おそらくはいまだ理解ができていない彼女に対して、語りかけるようにアレスはその答えを口にした。
「この機械、たまにバグるから」
 もっとも、その条件は非常に厳しい。

 まず発生条件が決戦であり、特定の星域――対戦相手が二名であること。
 次に複数の標的に対して、個別かつ複雑な命令を与えること。
 そして、全艦隊が同時に主砲を斉射を命令すること。
 他にもいくつかの細かくも複雑な条件が絡み合い、一瞬だけ攻撃が遅滞する――即ち処理落ちが発生する。もっとも発生の条件があまりに厳しく――特に標的を幾つも分けて、複雑な命令を行うことができる人間など限られている。単純に考えれば過負荷が原因であろうと予想ができるが、別の星域や違う条件であれば、もっと強い負荷がかかったとしても発生しないため、単純にそれだけが原因でもないようだ。

 ましてや技師でもないアレスにはそれ以上のことなど理解できるはずもない。
 ただ、理解しているのは、一瞬だけ敵の攻撃に遅滞が生じる事。
 そして、それが敵にとって致命となるように艦隊の動きを変更していけばよい。
 相手が効率的な動きをしてくれるから、こちらとしては楽なものだった。

 相手が詰将棋のように動くなら、一瞬の遅滞が致命になるように動くだけのこと。
「これを卑怯だと思うか。まあ、卑怯なことには変わりはないが」
 こちらの攻撃に対して、相手は距離を取って艦隊を再編させようとしている。
 時間を稼ぐことが出来れば、現在の損傷艦艇数からは相手の方が有利。

 それを理解しての行動だろうが、少し早過ぎた。
 戦場であれば、現状においては最適はあっても、その一秒後には最適である保証はない。
 逃がすつもりはない。

 アレスはコンソールを叩いて、命令を入れた。
 
 + + +

「しまった」
 命令を入力してから、ライナは失敗に気づいた。
 一瞬の遅滞からこちらの艦列が乱れた。
 原因を理解する前に、即座に艦隊を立てなおそうと後退する。
 その動作まではわずか一秒ほど、まさに機械的な行動だ。

 だが、入力し終えて敵艦隊を見れば、失敗に即座に気づく。
 こちらは敵の両翼を撃破し、後退させた。
 突出しているのは先頭――そして、その図式は三角形の鋒矢の陣形。

 通常ならば艦列を整える時間で、ライナの後退は終了しただろう。
 だが、既に艦列が整っている状態であれば、攻勢までの時間はかからない。
 咄嗟に先ほどの命令を中断して、迎撃の構えを取ろうとする。
 絶え間なく動いていた細い指が、コンソールの上で止まった。
 間に合わない。

 今の状態から艦列を編成しても、突撃するアレスの攻勢は止められないだろう。
 ならば今の現状から出来る事はと、最善の結果を探し、それはすぐに見つかった。
 でも、その手は、防げたところで全滅が半壊になるだけだ。
 そして半壊となった艦隊で、アレスの艦隊を止める事ができるか。
 答えは否と思い、そう思えばあれほど滑らかに動いていた指が動かなくなっている。

 時間をかければかけるほどに、こちらの手はなくなるというのに。
 視線が指先を見つける。
 コンソールの上で所在なさげに震える手に、ライナは少し考えて、理解した。
 ああ、これが恐いという事なのかと。
 負けるのが。

 蹂躙されるのが。
 全滅するのが。
 決して勝ち戦だけでは知り得なかった感情。
 未来が見え、わかりきった結末では恐いなど感じるわけがない。

 どうなるのかわからない。
 だからこそ、人は迷う。
 人は戸惑う。
 そして、人は恐れる。

 『君には恐さがない、だから同じく敵も恐いと思わない』

 今ならばテイスティアの言葉が、ライナにも理解ができた。
 ライナだけがいくら効率的にしたところで、それに誰もが付いてこれるわけがない。
 そんな相手に対して敵が恐いと感じるだろうか。
 震える手に答えを見つけて、ライナは微笑した。

 恐いと思える――それが嬉しかった。
 今まで感じたことのない感情をもって、自分もまた人間なのだと思える。
 そう思えば、子供のようにただ見ているだけではあまりにも恥ずかしい。
 何も出来なかったと、アレス・マクワイルドの記憶の片隅から消えるのは嫌だ。
 だから、ライナは震える手を握りしめて、コンソールを叩き始めた。

 少しでも、少しでも、彼の記憶に爪跡を残すために。
 それが、この厚かましい願いに対して全力を持って相手をしてくれた敵に対する礼儀だと――ライナ・フェアラートは思った。

+ + +

「良い動きをするようになった」
 一瞬の硬直の後に、動き始めた敵の様子にアレスは小さく笑んだ。
 後退させながら、一部がこちらの正面に対して猛烈な攻撃を仕掛けている。
 小を犠牲にしつつ、再び再編し、逆転を狙う策。

 それは確率にすれば、わずか数パーセントほどの可能性しかないだろう。
 だが、それのために全力をかけてきている。
 それを恐くないと、誰が言えるだろう。
 こちらがミスをすれば、あるいは味方の誰かがミスをすれば、逆転の目が残る。
 そのわずかな可能性に、全力を持ってかける。

 それは今まではなかった――おそらくは効率とはかけ離れた、無駄な努力と言える艦隊運動かもしれない。
 その無駄な努力が敵を恐がらせる。
 敵は他に何か考えているのではないかと。

 成長する後輩に笑みすれば、すぐにアレスは口元から笑いを消した。
 笑っている場合ではない。
 彼女は全力で戦うことが望みだったと、コンソールを叩く。
 既に完成された鋒矢が敵を目指して進み、同時に敵の一部隊がこちらの動きを阻害する動きを見せた。

 それに対して、敵の艦列を崩した小規模艦隊は再編を終えている。
 五百の艦隊が五つ――二千五百にまで増えた分艦隊が、敵の正面に火力を集中させる。こちらを阻害しようとした敵艦隊は、横からの攻撃に再び艦列を乱す。

 そこへ――アレスの本隊が矢となって、敵を貫いた。

 + + +

 第11分艦隊旗艦 損傷。
 第23分隊 壊滅。
 第105分隊 壊滅。
 第……。

 続く文字の羅列に、ライナはもはやコンソールを叩くことをやめた。
 突入直後の航空母艦による戦闘艇の射出。
 それを得意とするという情報があっても、それが始まってしまった今ではもはや考えられる対策はない。少しでも逃げようとするが、もはや艦隊半ばまで食い込んだ敵の矢は、こちらの艦隊を容赦なく蹂躙していく。

 第24分隊 壊滅。
 第53分艦隊旗艦 旗艦損傷。
 第31大隊 壊滅。 
 第……。
 流れていくこちらの損傷状況を見て、ライナは納得した。

 烈火のアレス。

 誰が名付けたのか、それはアレスの攻勢への強さを象徴するあだ名だ。
 食い込まれたが最後、燃料がなくなるまで燃え広がる。
 それはまさしく彼の苛烈さの象徴であって、彼にふさわしい名前だろう。
 だがと、ライナは流れる画面の情報を目にして、小さく思った。
 おそらく最初に名前をつけた人間も、この状況を目にしたのではないだろうかと。

 第13分隊 損傷。
 第23分隊 損傷。
 損傷。
 損傷。
 損傷。
 損傷。
 損傷。

 もはや情報画面には、こちらを意味する赤しか見えなくなっている。
 画面いっぱいに広がる赤文字に、ライナは彼のあだ名の意味を理解する。
「これが烈火……」

 呟いたライナの目に、一条の光が走り抜けた。

 + + +

『……星系の戦闘結果。青軍、アレス・マクワイルド。赤軍、ライナ・フェアラート。損耗率、青軍18.7%、赤軍78.3%。フェアラート旗艦の撃沈により、アレス・マクワイルドの勝利です』
 機械的な音声が鳴り響く中で、アレスは筺体の扉から手を伸ばした。
 そこに目的のものがなく、少し不満げに外を眺める。

 シミュレータ筺体の外で、呆れたような視線が突き刺さる。
「酷い目だな」
 呟いた言葉に、呆れた表情のままでサミュールが手にしたコーヒーを渡してきた。
 購入して、三十分たっていないそれはいまだ冷たく、アレスは嬉しげにふたを開ける。

「にがっ。て、なんだ?」
 目当ての飲み物を飲んで、いまだに刺さる視線に眉をひそめる。
「なにって。鬼ですね」
「失礼なやつだな。全力であたっただけだろう?」
「その全力が鬼だから、皆引いているんですけれど」
「ああ……」

 誰も近づいてこない理由に納得した。
 まだ大会から日が近いこともあって、周囲との連携を調整することしか訓練ではしていない。少なくとも、いまだにアレスは全力をチームのメンバーにも見せていない。
「ちょっと早いけど、明日からは訓練で俺も全力でやるか?」

「なにさらっととんでもないことを言ってるんですか」
「なに、少し早まったくらいだろう。連携もとれてきたし」
「そうしてつけた後輩の自信を、速攻でへし折るから鬼だというのです」

「伸びすぎた鼻は折らないとな?」
「植物の剪定でもするように、さらっと言わないでください」
 アレスとサミュールの言葉に、フレデリカを初めとした後輩たちはひきつった。
 そんなに嫌なのだろうか。

 確かに大人気ないと言えば、大人気ないかもしれなかったが。
 ……いや、バグを使った時点で、相当大人気ないだろう。
 刺されても文句は言えないかもしれない。
 そう考えれば、背後から近づく気配に、アレスは肩を震わせた。

 後ろを振り返れば、そこにいるのは頬を紅潮させた少女だ。
「ありがとうございました、マクワイルド先輩」
 言葉とともに頭を下げる動作に、アレスは後ろに下がった。
 その様子に、顔をあげたライナは眉をひそめる。

「どうかしましたか?」
「いや。何と言うか……」
 彼女のためにしたこととはいえ、実行した事は後輩からも鬼と批判されて良いことだ。
 ましてや、実行の対象となった相手からのお礼の言葉にアレスは苦笑する。

「見事な戦いでした。私も勉強をさせていただきました」
「あのずるが?」
 茶化すように、サミュールが小さく笑えば、ライナは振り返った。
 変わらない表情のままで、緩やかに首を振る。

「私が全力でとお願いしたからなのでしょう。仮にそれを使わなかったとしても、結果は変わらなかったと思慮します。そうですね、追加でコーヒーの代金が発生したくらいで」
 どうでしょうと問いかける視線に、アレスは頬をかく。
 出来が良すぎる後輩も困るものだなと。
「今ならば最初からコーヒーを諦めるさ」

「あの戦いが出来るのは一回きりでしょうね」
 ライナが微笑み、アレスが苦く笑んだ。
 確かにあの戦法は一回しか使えない。
 だが。

「別にそれだけが戦いではないさ」
「ええ、そうでしょう。出来ればすぐにでも見たいですが、それは後日の楽しみにしておきます、本日はありがとうございました」
 頭を下げて、ライナは足を進める。
 と、そこで足をとめて、振り返った。

「マクワイルド先輩――一つお聞きしてもよろしいですか?」
「ん?」
「先輩は戦いで恐いと思ったことがありますか?」
「君は怖いと思ったことがない人間の下で戦いたいと思うかい?」

「愚問でしたね。忘れてください」
 アレスの答えに対して、ライナは微笑をすればゆっくりと歩いていく。
 ちょうど、いまだ戦術シミュレーターの機械の外にあるアレスの後輩たちの元へ。
 何も言えない。
 その同期に横にして、ライナは足を止めた。

「グリーンヒル候補生」
「え。なに?」
 名前を呼ばれて、驚くフレデリカにライナは声を続けた。
「今まで私はあなたに対して何も思ったことはありませんでした」

 その、あまりにも冷酷な言葉にフレデリカは眉をひそめる。
 それに対して、ライナは表情を変えることなく、言葉を続けた。
「しかし、いまは少し恨みます。なぜ、あなたがもっと優秀ではなかったのかと」
「そ、それは……」

「そうすれば、私がこのチームにいたかもしれないのにと」
 驚くフレデリカが声を続ける前に、ライナはゆっくりと首を振った。
「冗談です、忘れてください。このチームは良いチームですね――決して、無駄にはなさらないでください。本当に恨みますよ?」
「え、ええ!」

「では、御機嫌よう」
 

 

 

昔話



 その日の訓練も五時を過ぎるころには終わっていた。
 平均のチームで七時――チームによっては八時まで訓練をしているので、明らかに速い。
 フォークチームは今日もコンピュータを相手にほぼ完勝とも呼べる成績を取っていた。

 完勝だからこそ反省会などあるはずもない。
 フォークが満足げに帰れば、他の者たちは黙々と片付けを開始する。
 筺体を清掃していたテイスティアに、ライナはゆっくりと近づいた。

「テイスティア先輩、よろしいですか?」
「ん。なに、どうしたの?」
「……我々も対人戦の経験を積んだ方がいいかと思慮いたします」
 唐突な提案に、テイスティアが驚いたように振り返った。

 勢いつけすぎて、開いた筺体カバーに頭をぶつける。
 良い音がした。
「っつ……いたぁ」
「失礼しました。端的に申し上げて、痛そうです」
「凄くね」

 涙目になりながら、頭を押さえて、テイスティアは筺体から這い出た。
 見上げれば申し訳なさの一切ないライナが立っている。
 まだ痛む頭を押さえながら、手くらい貸してくれればいいのにと思いながら、立ち上がった。
一瞬痛みのために忘れていた言葉を思い出し、反芻する。
「突然どうしたの?」

「それは私の言葉のような気がいたします」
「いや、ぶつけたのはいきなり声がかかったからだよ!」
「冗談です」
 そう無表情で告げられれば、どこまで冗談であるのか理解が出来ない。
 表情で確認することが出来ず、テイスティアは小さく息を吐いた。

「実際のところ今のままでは、マクワイルド先輩に勝つのは不可能かと思慮いたします」
「それこそ唐突だね」
「先輩もそう思われたのではないですか?」
「そうだね」

 痛み頭を押さえながら、テイスティアは考える。
 訓練自体はスムーズになっている。
 学生殺しとまで呼ばれた高難易度の戦いですら、あっさりと切り抜ける。
 大会前の予想はフォークチームが他を抜いて優勝候補になっていた。
 けれど。

「フェアラートさんは知らないだろうけど、昔はいろいろ凄い先輩がいてね?」
「それはテイスティア先輩よりもですか?」
「僕なんて全然さ。ワイドボーン先輩、コーネリア先輩、ローバイク先輩に、アッテンボロー先輩――それにヤン先輩」
「あのエルファシルの英雄ですか?」

「うん。ヤン先輩は少し有名になったから、フェアラートさんも知っているよね」
「少しではないと思慮いたしますが」
「確かに。ま、僕はそんな凄い先輩を見てきたし、実際に戦ってきた。コンピュータの難易度がどうとか、そんなレベルの方たちではなかったと思う」
「そのような方々が?」
「うん、例えば今日のシミュレータ訓練。もし、ワイドボーン先輩なら相手に一撃も与えずに完勝できたかもしれないし、コーネリア先輩ならコンピュータの機動すら上回って艦隊を動かしたと思う。アッテンボロー先輩だったら、いつの間にか勝っていた気もするし、ヤン先輩はどうだろうな。僕にはその勝ち方すら想像できないや」

「随分と褒めるのですね」
「ずっと見てきたからね……そうずっと」
 静かに目を伏せたテイスティアが何を思ったのか。
 ゆっくりと黙る先輩に、かける言葉もなく、ライナは言葉を待った。
「追いつきたくて、でも追い越せなくて。今まで僕はずっと見てきた」

 思いを言葉にして、テイスティアはゆっくりと首を振った。
「そして、そんな先輩方にアレス先輩は一度も負けたことがない」
「目標なのですか」
「目標とはちょっと違うな。そう――これは僕の宿題……」

「宿題……?」
「今から批判的な話をしていると、またフォーク先輩の怒りを買いますよ。テイスティア先輩」
 テイスティアの頭の上からの言葉に、二人が声の方を向いた。
 長身の男性――ケビン・ウィリアムが覗き込むようにして、片目をつぶる。
 頭を押さえていたテイスティアを押しのけて、ケビンがライナとの間に割り込んだ。

 ライナが眉をひそめたことも気づいていない様子。
「確かにコンピュータが相手だというのはつまらないのはわかるよ。どうかな、一戦お付き合いいただけませんか、お嬢さん?」
 仰々しい様子で頭を下げる様子に、ライナはテイスティアを見る。

 タイミングを失ったテイスティアは苦笑を浮かべており、再び話をするつもりはないようだ。
 ライナは小さくため息。
「それではよろしくお願いいたします、先輩」

 苛立った心を沈めるために、ライナはウィリアムの言葉に髪をかきあげて答えた。

 + + +

『……星系の戦闘結果。青軍、ケビン・ウィリアム。赤軍、ライナ・フェアラート。損耗率、青軍58.1%、赤軍21.0%。ウィリアム旗艦の撃沈により、ライナ・フェアラートの勝利です』
 三十分とかからずに終わった戦いに、ライナは筺体から姿を現した。
 そこにアレスとの一戦で見せたような高揚や悔しさは微塵もない。
 機械と戦った後の様な表情に、外で見ていたテイスティアは表情に呆れを見せる。

 それでも一応とばかりに、近づいてライナに声をかけた。
「御苦労さま」
「上手くいかないものですね」
 そんな労いの言葉に、ライナは浮かない返事をした。
 テイスティアが疑問を浮かべる前に、ライナは一人首を振った。

「先日にマクワイルド先輩と戦った時よりも、私の方が時間もかかっていますし、損傷艦艇も多い。あの方と私の実力差は、マクワイルド先輩と私よりも離れていないということなのでしょうか」

 そんな独り言に、テイスティアは頭をかいた。
 それはアレスがやり過ぎだと考えたのか、あるいは後輩の自信の大きさにか。
 かける言葉も思いつかず、テイスティアはもう一人の方に視線をやった。
 後輩から――それも女性からの大敗にさぞ落ち込んでいることだろうと思えば、本人は小さく肩をすくめて、笑う。

「いや、さすがに違うね。ここまで完敗したのは、今までで初めてだよ」
「それはお相手に恵まれたと思慮いたします」
 笑いながらかける言葉に、ライナは冷静な言葉で切り裂いた。
 あまりに正直な後輩に、ウィリアムは一瞬呻いた。

 だが、すぐに笑みを浮かべれば、落ち着いて答えた。
「いや、そうだね。まさにそうだ――井の中の蛙が、いま大海を知ったわけだね。だから、どうだろう。一緒に食事をしながら、その大海の広さを教えてもらえるかい?」
「お断りします。食事くらいは一人で食べれますので」
 一言で切って捨て、ライナは踵を返した。

「あのね」
 誘いに乗れというわけではないが、あまりの態度に思わずテイスティアは声をかけた。
「なぜ笑えるのでしょう」
「ん……?」
「私は初めて負けた時、笑う事ができませんでした。悔しいと思いました」

 小さいが、初めての感情の発露に、テイスティアはそれ以上言葉をかけられない。
 ただ黙って見れば、ライナは息を吐いた。
「なぜあの方は笑えるのか。そんな時間があれば、訓練をすべきでは?」
「……まあね」

「無駄なことを言いました。失礼させていただきます、では」
 そういって、ライナは振り返る。
 無表情な――それこそ人形を思わせる中で、微笑を浮かべる。

 それは、この現状を良く知っているテイスティアでも思わず、惚れそうになる笑顔で――手にしたいと考える――だが、それは叶わない事が理解できる、綺麗で、冷徹な笑みだ。

「御機嫌よう」

 + + +  

 元より歴史を変えるつもりは、アレスには毛頭ない。
 フレデリカがヤンに惚れているというのは、原作でも良く知っていたし、何よりも奪いたいとも思ったことはなかった。
 しかし、男としての感情は、それとは別のベクトルを向いているらしい。
 フレデリカに夕食を誘われ――士官学校のフレデリカ何て原作に出てなかったから仲良くなっても問題ないと言い訳まで考えた数時間前の自分を、今なら殺せるだろう。

「それで?」
 目の前で、淡い茶色の瞳を興奮させながら、身を乗り出す少女がいる。
 まだ十五になる少女は幼く、非常に可愛らしい。
 表情がころころと変わり、それでいて知的な印象を持っていた。

 あの朴念仁が惚れるわけだと、ある意味納得しながら、アレスは夕食のローストビーフをフォークに刺した。
 ソースをからめて口に含む、二度ほど咀嚼して、アレスは少し考えた。
 フレデリカの興味は、今考えれば当然のことながら、ヤン・ウェンリーの学生時代だ。

 エルファシルでの出来事を懐かしそうに話していた。
 こちらも一学年の時に対戦しているため、彼女はヤンの学生時代のことが聞きたいようだ。
 そんな話題について、別にアレスは嫉妬で話さないわけではない。
 話せない。
 そもそもヤン・ウェンリーは学生時代に特に目立っていたわけではない。

 有名なのはワイドボーンとの一戦ではあるが、他は寮から出ていく時に三トントラックが寮とゴミ捨て場を三往復したらしいとか、興味のない教科が悪すぎて、優等生がそろう戦略研究課程で初めて退校候補に名前を連ねたとか――良い話題は少ない。
 さすがにそれを話すのはどうだろう。

 正直に話してもいいが、それでヤンを陥れようとしたとか勘違いされたら、悲しすぎる。
 食事という時間稼ぎをしているわけであるが、フレデリカは食事の手まで止めてアレスを凝視している。
 薄いローストビーフはすぐに口でなくなり、アイスティーを口に含んだ。

「そうだな。他には紅茶が大好きだった――好きすぎて、戦術シミュレーター前の自動販売機の一列を全部紅茶に変えてたな」
「ヤン少佐は紅茶が好きですもの。私も文句を言われましたことがありますわ。でも、そんな事が出来るのですか?」

「うまく納入業者が言いくるめられたみたいだね。すぐに業者に元に戻させたけれど」
 渋い顔をするアレスに、フレデリカは笑い声を立てた。
 そんな笑顔を見ながら、アレスも柔らかく息を吐く。

 あとは。
「今まで対戦した相手で一番強かった――無敗の英雄は、やはり無敗の英雄だった」
 それは独り言のように、そっと呟かれた。
 
 + + +  

 手にしたトマトパスタを持って、ライナは席を探した。
 対戦によって訓練時間が延びた今では、混雑時間から外れたようで席に座るものはまばらだ。
 これなら静かに食べられそうだ。
 これからはこの時間に食事にしようかと考えた。

 入浴時間が決まっていなければ、それでも良かったかもしれない。
 だが、定められた入浴時間は、一学年はもっとも遅い。
 あまく遅く食べれば、今度はそれだけ入浴の時間が減ることになる。
 悩ましいところだと手頃な席を探して、ライナの視線が止まった。

 窓際の席――そこに先客が二名いる。
 一人はライナの同級生であり、もう一人は。
 呼吸を整え、ライナはその席を目指す。

「お隣よろしいですか?」
「え?」
 対面の席に座ったアレスに対して、質問をかけようとして、フレデリカはライナを見る。
 その様子に驚いた様子であったが、すぐに頷いた。

「もちろん、どうぞ」
「ありがとうございます。先輩も……よろしいですか」
「どうぞ」
 差し出されたアレスの手に、静かに礼をいって、フレデリカの隣に腰を下ろす。
 ライナは緊張とともに小さく息を吐きだした。
 そんな様子に、アレスはアイスティーを飲み干す。

 そして。
「友達も来たところだし、俺は先に失礼するよ。ごゆっくり」
「あ……」
 小さく出した声に、フレデリカがライナを見る。
 視線の先は正面……席を立とうとした、アレスの方だ。
 慌てて、フレデリカが咳払いをした。

「まだもう少し話しませんか?」
「いや。でも、邪魔だろ?」
「大丈夫です、ね?」
「ええ!」

「ああ。そう……?」
 頷いたライナに、アレスは浮かせかけていた腰を下ろす。
「さ、先ほどはどんな話をされていたのですか?」
「どんなと言われても、大した話でもないけど」
「そうですか。でも、お二人は楽しそうでした」

「そんな事ないよ」
 慌てて否定してから、フレデリカがしまったと表情を変えた。
 申し訳なさそうにアレスに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、先輩」
「いや、いい」

 謝罪をすれば、アレスは小さく苦笑している。
 本人は本命がいるのに、妙な噂が流されて困るのだろう。
 少なくともアレスと噂になって、良い事など何もないような気がする。
 そんな事を考えれば、飲み干したアイスティーの氷をストローで混ぜた。

 様子に、ライナが気づく。
「今日は紅茶なのですね」
「ん?」
「この前はコーヒーを飲んでらしたので」
「そう言えば、そうですね。というよりも、先輩は食事中は紅茶ですよね」

「ああ。別にコーヒーが好きなわけじゃないからな」
「では、どうしてです?」
「ゲン担ぎのようなものだ。勝った後に苦いものを口にすると生きてるって気がするから」
「よくわかりませんね」

「別にわかって欲しくてやっているわけではないさ」
「しかし、理解しました。マクワイルド先輩には、次の戦いではコーヒーを諦めていただきます」
「ほう、勝つ気なのか?」
「いえ。自動販売機からコーヒーを撤去しようかと」

「それ、ヤン先輩より酷いな!」
「冗談です」
 くすりと笑えば、ライナは湯気の立つトマトパスタにフォークを入れた。
 ゆっくりとして、しかし綺麗にフォークをパスタに巻き込めば、小さく口にした。

 もぐもぐと口を動かせば、集中する視線にライナが気づく。
 すでに食事を取り終えている二人だ。
 必然的に集中した視線に、ライナはトマトパスタを選択したことを後悔した。
 なぜ、シンプルなパスタではなかったのかと。
 口にトマトソースはついていないだろうか。

 心配すれば、顔を隠すように俯き、何とかトマトパスタを嚥下した。
 そこから顔をあげられない。
「そういえば、先輩は士官学校のころはどうだったのですか?」
「俺は随分と模範的な学生だったぞ。ヤン先輩たちとは違ってな」
「はいはい。自称自称――」

 こんっと頭におかれるアイスティーに、アレスが後ろを振り返った。
 優しい表情をした青年が立っている。
 アレスは頭におかれたアイスティーを手にして、苦笑した。
「ひどいな、スーン」

「酷いも何も、本当のことでしょう?」
 くすくすと笑えば、スーンと呼ばれた学生はアレスの隣に腰を下ろした。
「初めまして。そっちの子は二度目かな、僕はスーン。スーン・スールズカリッター。変な名前だけど、よろしくね」

「よろしくお願いします。私はフレデリカ・グリーンヒル」
「ライナ・フェアラートです」
 助かったと紙ナプキンで唇を押さえながら、ライナはそう言えばと対面に座るスーンに問いかけた。
「マクワイルド先輩の学生時代はどうだったのですか」
「だから、模範的な――」

「そうだね。まずとんでもない負けず嫌いかな――アレスの陸戦技能の成績表って知ってる?」
「お、おい!」
「お聞かせください」
「一年の成績は本当にジェットコースターみたいだよ」

「と、いいますと?」
 身を乗り出すように問いかけたライナに、止めようとしたアレスを押さえて、スーンは話した。
 元々は陸戦技能は一切なかったこと。
 それでいて成績は良いため、他の学生からいじめに近い攻撃を受けたこと。

 休む間もなく、一時間近くも陸戦試合を挑まれたことなど、ライナとフレデリカですらも眉をひそめて、酷いと言った。
 そうなればアレスが止めようとしても、無駄だ。
 スーンが持ってきたアイスティをすする。
「でも。アレスはそこで止まらなかった。少しずつ実力をつけていって――最後には二度目の学年大会で、何と準優勝をしたんだよ」

 おおと驚きと尊敬の眼差しで見られても、アレスは憮然とした表情だった。
 疑問の表情に、息を吐く。
「ジェットコースターっていっただろ。決勝で上腕骨の複雑骨折でしばらく陸戦は見学になった」
 その言葉にフレデリカは顔をひきつらせた。
 驚くライナの視線に、スーンは苦笑した。

「決勝であたったのがあの、フェーガンでね。普通は適当にあしらって逃げるんだ。それがまともに戦いを挑んで――」
 ため息。
「なまじアレスも強いものだから、フェーガンも本気になってね。最後は全力の殴り合い。よく腕だけですんだね?」

「いや、足首も軽く靱帯が損傷してたが。それよりも腕がとんでもないことになってたから、誰も気づかなかった」
「……御愁傷さま」
 スーンの言葉に、同意するように二人も頷いた。
「でも、先輩もお強いんですね」
「うん。強くなってからは、フェーガンにくらいしか負けたことがないんじゃない?」

「いや、ワイドボーン先輩にも勝てなかったな」
「あの人は天才だからね」
「ワイドボーン先輩ですか」
「興味あるの?」
「ええ……」

 ライナは静かに頷いた。
 ライナが入学して、比較されるのはワイドボーンが同学年であった時の成績である。
 一部においてはライナが、そして他はワイドボーンが優れており、顔こそ知らないものの名前は良く聞かされていた。
 果たして二人が同じ時代であれば、どちらが主席であったかなどと直接言われたこともある。

 だから気にならないわけがない。
 そう答えて、ふとアレスを向いた。
「その興味があるというだけです」
「ワイドボーン先輩は有名だからね」

 苦笑をしながら、アレスはアイスティを飲みほした。
 ずずっとすする音とともに、お盆を手にする。
「そろそろ消灯も近いだろう。そろそろ失礼するよ」
 言葉にライナの顔に、一瞬叱られた子犬の様な表情が映る。

 止めようとした言葉は、しかし、消灯一時間前を告げる鐘に遮られた。
「明日も訓練だからな――ゆっくり休むと良い。フェアラートさんもな」
「ええ。先輩、ありがとうございました」
「随分と余裕なのですね」

 呟いた言葉に、アレスは笑みを浮かべ。
「御機嫌よう」
「――御機嫌よう」
 そんなアレスの言葉に小さく笑いながら、ライナが言葉を返した。

 軽くスーンを小突きながら、去っていく姿に、ライナが小さく息を吐く。
 再び食べたトマトパスタは、既に冷めていた。
 そんな様子を、隣でフレデリカが笑っている。
「何が面白いのですか?」

「ごめんなさい。でも、わかりやすいなぁって」
「何がです」
 驚いたライナに、フレデリカはただ楽しそうに微笑んでいた。


 少し離れたその席で、女性に囲まれながらウィリアムは笑っていた。
 一人に誘いを断れたところで、彼の誘いを断る人間は少ない。
 媚びるような言葉に、ウィリアムは楽しそうに微笑みながら、横目で見る。
 くそっ。
 それは言葉にも表情にも出ず、ただ彼の心の中で響いていった。


 

 

準決勝



『本大会。Aグループ代表フォーク、Eグループ代表スールズカリッタ…タアー……総司令官スーン候補生の戦死を確認。損傷率41.2%と65.1%により、フォーク艦隊の勝利です』
 機械にすら名前を噛まれるのはどうなのか。
 誰もが疑問に思いながらも響いた機械音声に、見ていた画面から目を離す。

 結果とは違い、それぞれの戦術シミュレーター筺体から姿を現す姿は別だ。
 苦々しげな姿は、フォーク達のチームであり、スーンのチームは逆に顔は晴れやかだ。
 やり尽くしたという印象がある彼らのチームに比べて、反対のチームは逆だ。
 思った以上に損害が大きかった事に、フォークは苛立っているようだ。

「テイスティア候補生。情けないぞ――貴様が止めなくて、誰が止めると言うのだ?」
 早くも始まったフォークの説教に、周囲の人間は楽しげに、あるいは興味なさげにみている。
 無理もあるとライナは思った。
 敵の奇襲隊を防いだテイスティアの艦隊数は四千。
 敵は三学年と二学年の四千の艦隊である。

 数こそは同数であるが、敵は二人いる。
 たった一人で防ぎ、敵本陣が壊滅するまでの時間を稼いだ。
 それは褒められこそすれ、このように批判される余地などあろうことはない。
 同数とはいえ、敵が二人いるということは一人で、二つのパターンに対して効果的に判断し、対処しなければならないからだ。

 これがアレス・マクワイルドであれば、完璧に凌げたのだろうが、テイスティアであれば、凌いだだけでも十分凄いことだろう。
 それも相手は決勝大会まで足を進めた猛者であるのだから。
 少なくとも。
 他の三方に出来る事ではないと思いますが。

 傍で聞けば理不尽とも言える説教にテイスティアは黙って聞いていた。
 ご苦労な事です。
 ライナであれば、徹底的に反論をしたことだろう。
 予定では一時間で敵本隊を攻めるのが、二時間かかったのはどういうことだと。
 そう考えれば、やはり対人戦の少なさがネックとなっているのだろう。

 確かにそれぞれの個々では他を凌駕する。
 だが、今回は敵の総司令官によって上手く凌がれた。
 そんな印象を受けたが、他の人間にとってはそうは思わなかったのだろうか。
 見回せば、ウィリアムはテイスティアが説教されている様子を楽しそうに見ており、もう一人――二学年の主席であるヘンリー・ハワードは気にも留めていない様子であった。

 協調性という言葉が頭に浮かんだが、それはもっとも自分に必要なことだろうと思う。
 苦笑すれば、次の試合に挑むグループが姿を見せた。
 Bグループの代表とDグループの代表――Bグループは既にCグループを倒して、準決勝大会に足を進めている。決して弱いわけではなく、五学年の次席――カルロス・フェルナンドを初めとして、全員が戦略研究課程の生徒だ。

 それでも……。
 慣れたように姿を見せる目つきの悪い青年。
「烈火……」
 誰かが声を出せば、フォークですら説教を止める。
 前評判をあざ笑うかのように、全て圧勝で予選を終了させた。

 ざわめきが波のように広がる。
 アレス・マクワイルドを先頭にして、並ぶのは彼のチームのメンバーだ。
 四学年のセラン・サミュールはともかくとして、他のメンバーは緊張を浮かべている。
 それもそうだろう。
 準決勝というだけでも緊張するのに、彼のチームメイトとして期待を込められれば。

 そんな視線に、フォークは鼻で笑う。
「のんきなものだ」
 と。
 振り返ったライナに、フォークは爬虫類を思わせる笑みを浮かべた。

「いいか。覚えておけ――戦いは始まる前には、既に終わっていることもある。奴は決勝には進めない」
 
 + + +

 戦いは、誰もが想像していない方向へと進んでいた。
 最初に奇襲によって三学年が――次に、奇襲のため待機していた二学年の後方を、狙い澄ました様に襲撃されて、飛散した。
 わずか三十分の間に二艦隊が大きく打撃を受け、対する相手はほぼ無傷の状況である。

 開始三十分が経過して、アレス艦隊は大きく劣勢に立っていた。
 戦いは遭遇戦――そして、場所はクラウディス星域。
以前のアッテンボローとアレスが対戦した場所であったが、今回は様子が違う。開始直後に動き始めた相手のフェルナンドは、実に見事な艦隊運用を行っている。
 まるで場所を知っているかのように、相手の行動を読み、戦略を立てて、攻撃する。
 アレス艦隊も、上手く対応はしているものの、最初の出遅れが響いていた。

「フェルナンドは賭けに出た――そして、見事に賭けに勝ったみたいだ」
 観客の一人が、感心したような声をあげた。
 策敵を最小限に行っての行動は、失敗すれば大きな被害を受けることになる。
 その可能性を理解しても、アレスと戦うためにはリスクが必要と思ったのであろうか。
 それにしては……。

 戦場の様子を見ながら、ライナは眉をひそめた。
 賭けだというのであれば、動きに多少のぎこちなさが生まれるはずだ。
 しかし、フェルナンドの艦隊に、そのぎこちなさはない。
 まるで決められたように動き、決められた作戦行動をとっている。
 そんな感じを受けた。

「しかし、これでアレスも四連覇は無理だな」
 笑いを含んだ声に、ライナは観客の男を睨む。
 その視線に気づかずに、観客の男は更に言葉を続けようとしていた。
「……な、わけがあるか。馬鹿ども」
 思わず強く否定しようとした言葉。
 それは背後から聞こえた野太い言葉によって、遮られた。
 背後を振り向けば、そこにいるのは学生服ではない――同盟軍の制服を着た人間がいる。
 二人だ。

 眉の太い体格の良い男と――軍人には見えない優しい顔立ちをした男。
 それは教官とも違うようで、階級章を見れば、それぞれ大尉と少佐とあった。
 どちらもまだ若く、年の割には随分と出世をしている。
「どう思う、ヤン少佐?」
「どう思うと言われてもね。もう少し対戦相手には隠すということも覚えてほしい」

「まったくだ。まるで最初から知ってましたと言わんばかりの動きだな」
 野太い声の男が笑い、ライナは呼ばれた名前に驚いた。
 ヤン・ウェンリー。
 彼のエルファシルの英雄であり、普通であれば目にかかることもない人物だ。

 そうすれば反対にいるのは、誰か。
 そんなライナの視線に気づいたのか、眉の太い男はライナを一瞥した。
「心配するな、嬢ちゃん。アレスは負けんよ」
 アレスのことを知っている。
 お嬢ちゃん扱いした事には不愉快だったが、それよりも言葉が気になった。

「なぜです」
「なぜ。なぜか――それは、相手が悪い」
 ほらと、男――マルコム・ワイドボーンはモニターを指さした。
 その向こうで、アレス艦隊が動き始めようとしていた。

 + + +

『先輩。これ間違いなく、相手は知ってますね』
「気づいているよ」
 アレスはゆっくりと頭をかいた。
 通常よりも遥かに劣る視界で、こちらの艦隊を狙い澄まして攻撃する。
 賭けに勝ったというよりも、むしろ最初からどの星域で、どんな戦いが起こるか知っていたと考える方が正しい。

「事前に星図を見ながら、戦略を考えたんだろう。ご苦労なことだ」
『笑い話ではないですよ。片方が事前に情報を得ていたら、戦いにならないです』
「そうか。実戦ってのは、得てしてそういうものだろう? 先に情報を手に入れた方が、勝つもんだ」
『実戦ではそうかもしれませんが。これは大会です――いったい、誰が』
「ま、誰から手に入れたかはわかるよ。ただ、俺にもどうやってそれを手に入れたかがわからない」

 本当に、ある意味天才だなと、アレスは思った。
 そこに戦略や戦術性は皆無。
 だが、策謀の下準備になると、下手をすれば彼のオーベルシュタインすら凌駕する。
 オーベルシュタインは自らの地位と命の安全のために、ラインハルトを頼った。
 しかし、フォークならば誰かに頼るということなく、ことが起こった時点で確実に自分の安全は確保していそうな気がする。

「あいつは嫌がらせにかけては、右に出るものはいないな」
『笑い事ではないですよ。どうします?』
「どうするも――相手はもう戦う気はないだろう。こちらの艦隊を二つばかり潰して、あとは逃げる。時間切れ狙いだな」
『では、大人しく負けますか?』

「まさかね。相手が戦う気がないというのならば、こちらにとっても随分と楽な戦いだ――そうだな、作戦名は陥穽漁法とでもしようか」
『作戦も何も、漁法って、もろにいっているじゃないですか』
 サミュールが呆れたように答えた。

 + + +

『東から敵艦隊五百を確認』
「了解。では、すぐに全艦隊を動かしてくれ」
 索敵艦からの言葉に、フェルナンドはコンソールを叩いた。
 簡単なものだった。

 事前に情報さえあれば、敵の進行を把握する事など容易い。
 まだ慣れない三学年と二学年に対して攻撃をして、後は逃げるだけ。
 そう、作業のようなものだ。
 相手に見つかり、そして次の場所へと逃げる。
 元より星域は大きく、逃げる場所には困らない。
 ましてや、最初から星図を知っていれば、どこに行けばいいかわかっている。

 索敵艦を出して艦数を減らすこともなく、静かに、確実に逃げだしていく。
 それは全く持ってつまらない作業のようなものだった。
 そう――まさしく作業。
 それは逃げる魚を上流から下流の罠へと追い込む漁のように。

 カルロス・フェルナンドは、気づかぬままに、罠に吸い込まれていった。

 + + +

 アレスの索敵艦によって、逃げだすことが数回続いた。
 当初はフェルナンドの堅実な逃亡の様子を、見ていた者たちも、ようやく気付き始めた。
「今更か」
 ワイドボーンの呟きを聞けば、彼は最初から気づいていたのだろう。
 つまらなそうに、隣ではヤン・ウェンリーが頷いていた。

 ライナ自身も二度目の逃亡で気づいた。
 フェルナンドは戦う気がない。
 それは索敵艦に捕まれば、本隊が後ろから現れると思っているからだ。
 だから、一切戦う事なく逃げだす。
 それはある意味では正しいのだろう。

 少なくとも――アレスが相手でなければ。
 アレスの送る索敵艦は、実に巧妙に行動の方向や速度によって、見事に誘導されている。
 フェルナンドの逃げる先。
 そこにいるのは、アレス以下一万からなる艦隊。

「忙しい時間を割いてきたのはいいが、つまらない戦いだ」
「そうか」
「ん?」
「昔から男子三日会わざれば刮目して見よという言葉がある。ましてや、あの戦いから三年が経っているんだ。彼がどう成長したか楽しみだよ」

「ヤン」
「なんだい?」
「おまえ、そんな後輩の成長を見て喜ぶような人間だったか?」
「酷い言い草だな」

 ヤンは頭をかいて、苦笑した。
「確かに仕事熱心ではないと思うけど。そうしなければいけない理由があってね」
「どんな理由だ」
「少し有名になり過ぎた。だから、良い後輩に早く仕事を渡さないと、私が楽が出来ない」
「貴様は、一度死んでしまえ」

 ワイドボーンの言葉に、ヤンは苦笑して、肩をすくめた。
 と――フェルナンドの艦隊が、アレス艦隊の射程へと入る。
 それに気づいたのだろう。

 すぐにヤンとワイドボーンは真剣な表情に戻り、モニターを見た。
 その姿は戦術シミュレーター大会を楽しむ観客の瞳ではない。
 実戦を知った軍人の気配に、ライナは小さく息を飲んだ。

 + + + 

「主砲斉射三連――撃て」
 アレスの言葉とともに、伸びた射撃が三方からフェルナンド艦隊に殺到した。
 安心しきって索敵艦をあまり出していたことも災いしたのだろう。
 囲むように撃たれた一撃に、多くの艦隊が融解した。
 混乱する艦隊を上手く立て直すことも出来ず、続く射撃によって次々と撃ちとられていく。身じろぎする艦隊の一部が、抵抗を試みるが、左右からの圧力によって上手く制御されている。

 フェルナンド艦隊は五艦隊一万五千――アレス艦隊は三艦隊一万一千であり、艦数こそフェルナンド艦隊の方が多いが、それを上手く使えない。
 最初の一撃から上手く誘導されて、圧迫されていく。
 そのため後方に逃げた一部の艦隊は、敵の間に味方がいるために、遊兵となった。

「敵はこちらよりも少ない!」
 フェルナンドの叫びは、誰の耳にも伝わらない。
 いや、伝わっているのだろうが、少ないと言われるだけでは、どう判断していいのかもわからない。
 少ないから攻めれば良いのか。
 それとも少ないから離脱を目指すのか。

 錯綜する情報に、撃ちとられる数だけが肥大していく。
 逃げだそうとした一部隊は、周囲の援護もなく前に出たため、サミュールの苛烈な攻撃を加えられて撃沈した。
 左右からの圧迫は強くなり、自然と球状にフェルナンド艦隊は集まっていく。
「サミュール、グリーンヒル――左右から斉射三連」

 対するアレス艦隊は、冷静な声が命令となって二人に届く。
 何をすればいいのか。何を任せるのか。
 それが短い言葉となって理解されるため、左右に別れた二つの艦隊は着実に命令をこなす。
 撃ち込まれた一撃に、さらに中央に押し込まれた――そこにアレス艦隊が動きを変えて、鋒矢の陣形へと変化する。

「いけ」
 短い言葉とともに、敵の中央に激突。
 フェルナンド艦隊は一瞬の抵抗も出来ずに、壊滅した。

 + + +

 フェルナンド艦隊とアレス艦隊の接触から、わずか二十分。
 その間に繰り広げられた殲滅戦に、誰もが息を飲んだ。
 先制攻撃をしてから、相手を囲み、とどめを刺す。
 一連の動作に相手は満足な反撃も出来ずに、叩き潰された。

 ライナもまた息をすることを忘れて、それを見ている。
 そこで動く気配がした。
 ヤンとワイドボーンだ。
 戦いは終わったとばかりに、立ち去ろうとする姿にライナは声をかけた。
「お会いはしないのですか?」

「これでも忙しい身でな。今日の夕方にはハイネセンをたたなければならん」
「会っても特に話す事もないからね」
「そりゃ、あって仕事を任せられても困るだけだ」
 ワイドボーンの言葉に、ヤンは全くだねと小さく笑う。
「それに目的のものは十分見た」

「十分すぎるほどにね。私が相手じゃなくて、良かった」
「珍しいな」
「個人的に、アレス・マクワイルドが指揮官で同数では戦いたくはないね。あの戦いの指揮官がアレス出なくて良かったと思う」
「それは――暗に俺を否定してないか?」

「今ならその次くらいで君と戦うのは面倒だと思う」
 冗談を交わしながら去っていく二人を見て、ライナは再びモニターに目を戻した。
 モニターの向こう。

 アレスの勝利を告げるアナウンスが開始されていた。


 

 

決勝戦 五学年~前編~


「戦いはシンプルにして、最大の効果を得る。即ち」
 続いた言葉に、ライナはテイスティアと顔を見合わせた。
 まだ負けたとは言え、フェルナンドの戦いの方が戦略を考えていただけマシかもしれない。
「もう一度教えてくれませんか」

「君は聞いていなかったのか。いい……」
「なるほど、『敵の艦隊一に対してこちらの艦隊一をあてる。そのうち三勝をすればこちらの勝利は揺るがない』でしたか」
 一言でフォークの言葉を繰り返して、ライナは更に言葉を続けた。
「言葉はわかりました。その意味です――これは作戦会議ですよね?」

「当然だろう?」
「では、その意味を教えてくれますか」
「そのままの通りだ。五艦隊のうち、三艦隊を倒せば必然的にこちらが勝つ。そして、それができない人間はこのチームにはいないと思っている」
「つまり策や戦略はないと」

「この面子であれば、細かい作戦や戦略など無駄になるだけだ。一人一人が高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に戦えば、負ける事などあり得ない」
「……」
 ライナが目を丸くして、テイスティアを見る。
 もはや彼は苦笑をしているだけであった。
 冷静に考えれば、相手の五学年は五千、四学年は四千であり、他は二千でしかない。

 例え一学年から三学年までの三艦隊に勝利したところで、他の二艦隊に負ければ、戦力差から負けが確定するのだが、それを言っていいかどうか、考えあぐねている。
 視線に気づいたのか、フォークは小さく咳払いをした。
「むろん。三勝したところで相手のトップに負けては損傷艦艇数で敗北が決まるだろう。だから、アレス・マクワイルドはこちらの二将で押さえる。ウィリアム、ハーバー」

「は。任せてください。勝てというわけではなく、時間をかけろと言われれば、幾らでもかけて見せましょう――ただ、あまり時間をかけ過ぎると、間違えて勝ってしまうかもしれませんが」
「嬉しい言葉だ。その間に私が敵の二学年と三学年を押さえる――その間に諸君ら二人が、それぞれの敵を撃破し、連携し――敵を叩く」
 どんという言葉とともに机におかれたのは、フォークの拳だ。

 笑みを広げる様子に、テイスティアが一応とばかりに口を開いた。
「その戦術では、相手の戦術に対応ができないと思いますが」
「無用な心配だ、テイスティア候補生。明日はシンプルな決戦になるだろう、これはあくまでも予想であるがね」

 + + +

「……ふむ」
 その戦いは互角であった。
 決勝大会にしては、初めての決戦の想定。

 開始直後に、一万五千の艦隊は準備をする暇もなく、即座に激突する事になる。
 正面からの戦いは、戦略や戦術性などはなく、単純な自力での力になる。
 そのため、テイスティアとサミュールでは、若干サミュールが押しており、フォークが受け持った他の二つの艦隊とは、艦数差からか若干フォークが押している。

 フレデリカとライナでは、ライナが圧勝だ。
 決して弱くはないが、フレデリカは事務能率は秀でていても、艦隊での戦闘能力となるとライナには劣るようであった。むしろ相手を褒めるべきか、冷静な攻撃の前にほっておけば全滅しかねない。そんなフレデリカに対して、アレスは自らの艦隊から二千ほど援軍を向けているが、それでも相手の優勢となった戦場を互角にするだけだった。

 そのためアレスに殺到する二艦隊に艦数で劣るアレスは、ともすれば焦りが見られる敵に対して、攻撃をさばく事に専念していた。
 結果として被害艦数はほぼ互角であり、先ほどから一進一退の攻防が続いている。
 傍目に見れば、主席と烈火の激しい攻防に見れるだろう。それでもヤンとの一戦を経験しているアレスにしてみれば、相手の攻勢は取るに足りないものだったが。
 原作で、ヤンが不調に陥ったことが書かれていた。

 決してミスをするわけではないが、うまく歯車がかみ合わない。
 アレスの現状は、まさにそんな状況であり、そのことをアレスは理解してる。
 それが冒頭の呟きであって、彼は眉をひそめる原因であった。
 敵の攻撃は主席とだけあって、決して馬鹿にしたものではない。

 自分やサミュールならばともかく、フレデリカには負担は大きいし、フォークを相手取る二人も、気を抜けばいつ一気に攻め込まれるかわからない。
 動かなければならないが、アレスは眉をひそめている。
 わからないのだ。
 敵の思惑が。

 相手が主席を集めたのは理解が出来る。
 決戦を想定に選んだのもまだ理解が出来る。
 だが、この戦闘は何だと思う。
 万歳アタックと言わんばかりの、攻勢に対して、アレスは動けないでいた。

 以前――マルコム・ワイドボーンがアレスを三次元チェスと戦闘は同じだと評価した。
 敵の動きを見れば、敵が動ける範囲や出来る事をアレスは誰よりもわかっていた。
 そこに弱点をつく事で敵のできない範囲を狭めていく。
 アレスにとっては三次元チェスも戦場も同じであり、それはライナ・フェアラートに似ている。もっとも、機械的に行動するライナが理論的に判断しているとすれば、アレスはそれを直感で補っている。

 だからこそ、このような戦いはアレスを悩ませる。
 即ち。
 ――弱点ばかりだが、油断を狙っているのだろうかと。
 様々な考えが頭を浮かぶが、その答えは全て今が攻めどきということだ。

 アレスに勝つために主席を集め、戦場まで指定して、それだけということはあり得ない。
 そう思えば、積極的に攻めることを無意識的にアレスは避けている。
 敵の攻撃に対して、ほぼ機械的にさばく――むろん敵の攻撃は学年主席の攻撃であり、士官学校でもトップレベルの攻勢だ。

 それを見た周囲が、激しい攻防と理解しても無理はないのかもしれなかった。
 アレスにとっては不本意なことであったが。

 + + +
 
「テイスティア先輩」
『どうしたの?』
「端的に申し上げます。チャンスかと」

『チャンス?』
「マクワイルド先輩の攻勢がいつもよりも緩い気がします」
『……そうだね』
 プライベート通信の向こうで、歯切れの悪い声が聞こえた。

 相手はどういうわけか、これまでの苛烈さがない。
 手を出せば一気に燃やされると感じる恐怖が感じなかった。
 ここで二人が一気に戦線を押し上げれば、アレスはその対応に追われるだろう。
 勝つことも考えられる。

 そんな考えを否定するかの言葉に、ライナは眉をひそめた。
「何か間違えているでしょうか?」
『ううん、フェアラートさんは間違えていないよ』

「ならば、テイスティア先輩の考えを教えていただけませんか。それとも烈火のアレスがこのような負け方をするのは不本意なのでしょうか?」
『相変わらずストレートだね』
「今は時間が重要になるかと思いますので」

『そうだね。もう少しまとめてから言いたかったけど』
「端的に申し上げて。時間の無駄です」
 ライナの断言に、通信の向こうで小さな笑い声が聞こえた。
『アレス先輩は烈火なんて呼ばれているけど、本当は守勢の人なんだ』

「そうは思えませんが……」
 言葉に、ライナは以前の戦いを思いだす。
 一度火が付けばとても手が付けられない。
 だからこそ、火が付く前に動くべきだと、ライナは思った。

『後の先といえばわかるかな。敵の行動に対して発生する欠点や弱点を、実に的確に付いてくる。それで相手を崩して、後は――』
「なるほど、それならば理解できます」
 ライナはモニターの前で、小さく頷いた。
 烈火の呼び名と宇宙母艦を使った突撃戦術。

 それらからアレスは攻勢に強いと思われがちだ。
 実際にライナもそう思っていた。
 しかし、その話を聞けば納得が出来た。前回のライナの戦いも、そして過去に見たアレスのシミュレーター記録も、それらの多くはアレスが積極的に攻めるというよりも、相手の攻撃を利用することが多かった。実際にライナもバグという不本意な形であるが、こちらの生じたミスから一気に攻め込まれている。

「お詳しいのですね」
『見るのは得意だし。アレス先輩はずっと見てきたから」
「こちらが下手に仕掛ければ、そこから逆撃を食らう可能性が高いと思われますか?」
『それもある。何よりも、このまま消耗戦になれば、こちらの方が最終的に有利になるだろうしね。でもそれは長くは続かないと思うから、出来るだけ長く……ね』

「少しでも消耗させるべきと」
『うん。そうすれば……何とかなるような気がする。駄目かな?』
「端的に申し上げて。理由になっておりません。ですが……今は先輩を信じて見たいと思います」
 礼の言葉を聞けば、ライナは再び戦場に意識を集中させる。

 アレスがこの状態からどう動くのか。
 それに対して、テイスティアがどんな行動をとるのか。
 さすがのライナにも想像が付かない。
「でも、だからこそ楽しくなってきたと、そう思案いたします」

 静かにライナは微笑んだ。

 + + +

 敵の攻撃を捌きながら、アレスは呻いた。
 セラン・サミュールに対して通信を送れば、すぐに返事がある。
『何でしょう。アレス先輩』
「ふと思ったんだが……」
『ようやくですか。このまま戦いが終わるまで何も思いつかないのではと心配してました。それで、この事態を打開する案なのですか?』

「打開というか――あいつらは馬鹿なのか」
『あいては学年主席ですよ?』
「だよな」
『ですが。ダゴンでも敵のあほうに助けられたと、リン・パオ元帥は言っておりましたけどね』

「いや……そうは言うが、この阿呆どもは一応は、味方なわけなんだが」
『絶望だ! アレス先輩、私は初めて絶望を体験しました!』
「初体験だな。おめでとう」

 言葉を返しながら、アレスも頭を押さえていた。
 頭痛だ。
 学年主席が五人集まって、考えるような作戦ではない。
 いや、正確に考えたのはフォークであろうが――それに対して誰も止めなかったのか。

 いまだ起こらぬアムリッツァを想像して、アレスは息を吐いた。
 総司令官の命令だから止められなかった。
 そんなのは言いわけにならない。
 止めるように説得をしなかった周囲も、十分悪い。

 少なくとも――。
 そう考えて、アレスはため息を吐いた。
「フォークならば、総司令官をおだてつつ、自分の意に沿う形に作戦を変えただろうな」
 説得すら諦めて、意に沿うような行動をとれば、結局は周囲の――。

「テイスティア。これは半分はお前の責任でもあるぞ?」
 後輩に対しては厳しい言葉であるかもしれない。
 だが、今は戦術シミュレーターで負けるしかないが、次は何百万の命が失われる。
『テイスティアがどうかしましたか?』
「いや。阿呆とわかれば、待つ必要はない」

 呟いて、アレスは全艦隊にメッセージを送信した。
「サミュールは、ポイント23に。グリーンヒルは、33を……」

 + + +

「動きましたね」
 静かに呟いたライナの言葉通り、相手の攻撃が変化した。
 砲撃が代わる。
 それは、それまでのような散発的なものとは違い、意思を持った攻撃だ。

 こちらを崩すという目的。
 艦隊戦でいきなり艦列が崩壊することは少ない。
 同じ攻撃、同じ距離で撃ちあえば、差が出ないのは当然のことだ。そこで少しでも敵を崩し、崩れた部分を広げることが重要となる。
 そんな最初の攻撃を、少なくともテイスティア以外は理解していないだろう。

 他の艦隊は何の対策を取ることもなく、相手に対して攻撃を加えている。
 だが、敵の攻撃は的確にこちらの連携線を狙っている。
 一つの艦隊といえど、艦隊は艦同士が集まる集団である。
 一つ一つの戦艦や巡航艦が集まり、一つの艦隊として動いているのだ。

 そのため、ある艦が潰れた場合は別の艦で補完を行い、艦隊として機能させている。
 だが、補完する艦が潰されればどうなるか。
 さらに別の艦が補完をする事になるが、本来は行う予定ではない任務だ。
 そこにタイムラグが生じる。

 敵の艦隊は、その僅かなタイムラグを利用して、こちらに攻撃を加えてくる。
 そこに相手の意志は関係がない。
 三から一を引けば、二になる。
 どんな名将であっても、三引く一を三にはできない。

 それは例え理解できていたとしても、ライナにすらできない。
 なぜなら、その点を理解しようとしても、理解できた頃には戦場は推移している。
 それができるのは瞬時に弱点を見極め攻撃するアレス・マクワイルドの才能があってこそのこと。
 その能力が故に、おそらくは一対一で、真正面から向かい合えば誰も勝てない。

 無様ですね。
 敵の攻撃の意図に気づかない他のものではなく、それに気づいていながら何も出来ない自分こそが。
 そう小さく呟きながら、ライナも出来るだけ連携を切らさずに行動を加える。
 もはや左右の艦隊から援護が期待できない現状であれば、それは時間稼ぎにしかならないかもしれない。

 それでも負けると言うのは面白くありません。
 相手がこちらの弱点を狙うと言うのであれば、こちらもそれに対抗すればいい。
 あれから全く成長していないと、そう思われるのはライナ・フェアラートのプライドが許さない。

「主砲斉射三連――撃ちなさい!」

 

 

決勝戦 五学年~中編~



 きっと……。
 フレデリカ・グリーンヒルは映る画面を見ながら、思った。
 同学年ながら、ライナとフレデリカの差は大きい。
 一対一では、瞬きする間に戦いは終わってしまうだろう。
 実際、戦いが始まってからライナの正確な攻撃の前に同数の艦隊は一気に減らされた。

 すぐにアレス・マクワイルドから援軍があったが、それでも互角。
 勝てないと、そう思わされた。
 父からは甘い世界があるわけではないと告げられていた。
 むしろ厳しいだけの世界であると。

 それでも、そんな厳しい世界で何かの役に立ちたくて、フレデリカは士官学校に入学した。
 それは甘い考えであったのだろうか。
 自分には無理だったのか。
 そう思いかけた考えを、フレデリカは振り払った。

 自分が出来ないと思うのであれば、出来るようにすればいい。
 今が役に立たないのであれば、役に立てるようになればいい。
 もはや守られているだけの弱い人間ではないのだと。
 それは、あのエルファシルだけで充分だ。

「考えなさい」
 言い聞かせるような呟きが、筺体に漏れた。
 戦術的才能も、戦略的な閃きもないフレデリカが、学年でも優秀に慣れたのは、記憶力と分析力のため。
 ならば、それをいま使わず、いつ使うのか。
 なぜ、ライナの攻撃が急に弱くなったのか。

 アレスの援護をもらい、こちらが戦力を回復させたためではないと思う。
 そうであれば、圧力が弱くなったのはもっと前であっただろう。
 原因はわかっている。
 アレスの指示によって、攻撃を開始してからだ。

 こちらの攻撃がアレスの指示であると気づかれたからだろうか。
 それでは、自分の攻撃とアレスの攻撃の何が違う。
「考えなさい……何が違うかを」
 拳を握りしめて、フレデリカは思い返す。

 今までのアレスとの戦いを。
 そして、今と過去の戦いの差を。
 照らし合わしたのは、ライナの艦隊の動きだ。
 フレデリカの記憶は、はっきりと過去のライナの動きを想像が出来た。

 そして、思う。
 守っていると。
 それまでは攻撃に対して、ライナは艦列を大きく崩すことはなかった。
 それが反撃となって、処理をする事でフレデリカは手一杯になっている。
 しかし、アレスの攻撃が始まってからは反撃よりもむしろ、艦列をあえて崩してまで防御に専念している。

 何故という答えはすぐには浮かばない。
 通常で考えれば、艦列を崩して反撃をやめる意味はない。
 現実に、そのためにフレデリカは楽になり、逆にライナは劣勢になっている。
 なぜかと思い、フレデリカはそこで周囲に視線を向ける余裕が出来た。

 そして。

 + + +

 僅かばかりの隙間は他の艦がすぐに埋める事が出来る。
 しかし、そこにできた隙間を他の艦はすぐに埋める事はできない。
 それはライナ・フェアラートが危惧していた結果であり、まさにフレデリカが気づいた瞬間であった。

「全艦隊。主砲斉射三連――いけっ!」
 アレスの号令とともに、それまで形ばかりは保っていたフォークとウィリアムの連携点が見事に破壊された。
気づき、急いで修正するも、攻撃が散発なものに変化する。
 艦隊での攻撃は一斉に攻撃するからこそ、攻撃としての意味がある。

 単発的な攻撃など、相手の防御フィールドにかき消されてしまう。
 それでは相手の集中砲火を止める事などできない。
 防御を考える事なく、撃ち込まれる砲撃に艦列は一気に乱れていった。
「下がるな、敵に隙を与えるな!」
 フォークの号令が下るが、現実として隙は隙として生まれてしまっている。

 艦隊がいきなり増えないように。
 開いた隙間を急に埋めることなどできない。
 それが可能であるのは、隙間を隙間としないようにしてきたテイスティアとライナだけである。
 そんな二人も、周囲の援護がなくては射的の的となる。

 一斉に始まったアレス艦隊の苛烈な攻撃の前に、艦数を急速に減らしながら、出来る事は中央に集まり、少しでも集中して防御することだけであった。
「何をしている。目の前の艦隊に集中しろ、下がるな、下がるな!」
 悲鳴に似たフォークの号令は、もはや指示として機能していなかった。
 下がらない為にどうすればよいのか。
 どこを狙えばいいのか。

 それは号令というよりも、むしろただの愚痴だ。
 それでも命令を受けた艦隊が、目の前の艦隊に対して、攻撃を加える。
 だが、すぐに横からの攻撃を受けて、モニター上から消失した。
 フォークの艦隊とは対照的に、アレス艦隊は相互に連携をして、攻撃をしている。

 敵の艦隊に対して、一つの艦隊が防御に集中すれば、他の艦隊が援護する。
 それは当り前のことであったが、当たり前のこととしてこなすには、相当な時間が必要であっただろう。アレスを相手にして、連携訓練を繰り返してきたアレス艦隊だからこそ、出来たことであった。

 次第に中央に集中する艦隊に向けて、アレス艦隊がゆっくりと手を広げていく。
 左翼を三学年が――右翼をサミュールが、同じタイミングで少しずつ包囲を広げていく。
 正面からではなく左右の攻撃の前に、フォーク艦隊はなすすべもなく崩されていった。
「気をつけろ、相手は包囲を狙っている」

『そんな事は知っています』
 フォークの言葉に、どこまでも冷静なライナの言葉が、響いた。

 + + +

『で。どうなさるおつもりですか、テイスティア参謀長』
 全艦隊に向けて一斉に送信された言葉に、筺体の中でテイスティアは小さく苦笑した。
 しかし、すぐに顔を引き締める。
「包囲される事は、予想が出来たよ」

 敵の攻撃の前に、予想される攻撃パターンは二つ。
 正面から鋒矢の陣形による中央突破。
 そして、包囲による殲滅戦。
 戦いとしてのパターンは、その二つしかない。

 鋒矢の陣形による突撃であれば、おそらくは負けていただろうと思う。
 アレスを初めとする突進に対して、連携すらとれていない現状では対抗すべき策はない。
 だが、テイスティアは戦いの中で、それはないと思っていた。
 理由を聞かれれば、テイスティアにも何となくとしか答えられない。

 無理に理由をつけるとすれば、最初の戦いでアレス艦隊も予想外に損害を与えられたため、損害が大きくなる中央突破よりも包囲殲滅をするのではないかと思ったからだ。
 だが、あくまでそれはテイスティアの想像であって、どこにも確証はない。
 もしそんな事を言えば、ワイドボーン先輩であれば、激怒していただろうとテイスティアは思った。
 それでも。

 テイスティアは自分の直感を信じた。
 いや、正確には自分の直感を信じてくれたアレス・マクワイルドを信じたのだ。
 だから。
「僕が先頭になって、中央のアレス艦隊を突破する」
 呟いた言葉に、しばらくの沈黙があった。

『死ぬ気ですか』
「死ぬつもりはないけれど、そうかもしれないね。でも、それで突破が出来れば、相手の後背を狙う事ができる。まだ戦いは終わっていないよ」
『それで突破する場所がアレス・マクワイルド先輩ですか。端的に無謀とお答えします。もし中央突破をされるのでしたら、別の場所を狙うのが良いのではないかと思慮いたします』

「ううん。アレス先輩だからいいと思う」
 テイスティアはライナの言葉を否定した。
「アレス先輩の艦隊は二千を一学年生の援護に回している。実質的な数だと僕の艦隊の数の方が多い」
 そのためにわざと同期であるサミュールに対して、積極的な攻勢を行わず、防戦を主体にして艦数を維持していたのだ。
 さすがにそのことはフォークを前にして言えなかったが。

「連携はセランと相手の三学年はさすがだ。でも、アレス先輩の隣にいる一学年と二学年はそれに比べるとまだまだ甘い。でも、甘いからとそこを狙えば、アレス先輩とセラン達に援護されて、こちらが潰されると――そう思う」
 だからこそ、例え無謀と言われようが、アレス・マクワイルドに向けて中央突破を仕掛ける方が良いと、テイスティアは呟いた。

『可能だと思うのですか』
「少なくとも不可能ではないと思う」
『しかし……』
 呟かれた言葉は一瞬。

『いいえ。ならば、私は反対いたしません』
「ありがとう。フェアラートさん」
『貴様ら。こちらを無視して、勝手に話を進めるとはどういうことだ?』
『ならば、総司令官の案があるのであれば、おっしゃってください』

『……っ!』
 舌打ちが聞こえた。
 音声でしか届かないが、おそらく本人は怒りをあらわにしているだろう。
 舌打ちばかりではなく、歯ぎしりまで聞こえそうだった。

 だが、テイスティアは言葉を待った。
『いいだろう。だが、失敗した時の責任はリシャール・テイスティア。全て君にあるぞ! 全てだ!』
「はい」

 テイスティアはゆっくりと頷いた。

 + + +

 包囲の中央で身じろぎをしていた艦の動きが代わった。
 それは相手の四学年――リシャール・テイスティアを先頭にした鋒矢の陣形だ。
 上手くなったなと思う。
 砲火にさらされながら、艦列を整えて、矢を形作る。

 それはコーネリアの艦隊運用を見ているようであった。
 もちろん本家には劣るであろうが、学生であれば十分だ。
 ましてや、過去のテイスティアを見ていればなおさらに。
 形作る矢を見れば、アレス・マクワイルドはどこを狙っているかわかった。

 こちらの左にいるフレデリカでも、右にいる二学年でもない。
 自分だ。
 アレスに対するよりも、アレスが援護する方が厄介だと思ったのか。
 矢の狙いは確実にこちらに向けられている。

 おそらく、それはこの状態になってフォーク艦隊が勝てる唯一の策。
 この展開を、どの段階から考えていたのか。
 迷いのない行動に、アレスは苦笑する。
 馬鹿ばかりだなと。

「死ぬ気か。阿呆」
 勝てる可能性があったとしても、先頭になるテイスティアの生存率は低い。
 むしろ生き残る可能性の方が少ないだろう。
 それでも、アレスに勝ちたいと思ったのか。

 成長と考えるべきか、あるいはこの世界に引きづり込んだことを謝るべきか。
 思案したのは一瞬。
 全力を持って挑む相手に対して、余計なことを考える時間は多くはない。
 コンソールを叩いて、アレスはテイスティアに相対する。

 数はほぼ互角。
 むろん左右からの援護が期待できるだけ、こちらが有利であろうが、敵は決死の覚悟で突撃を加えてくる。例え本当の戦いでないとは言え、フレデリカや二学年にとっては初めての出来事であろう。
 良い経験にはなるであろうが。

『先輩。テイスティアがやる気ですね』
「そのようだね」
『どうします?』
「どうするとは?」

『……全体を下げて、テイスティアだけを縦深陣に引きづり込みますか』
 親友の覚悟に水を差す言葉であるとは理解しているのだろう。
 酷く言いずらそうに、しかし、サミュールは的確に作戦を告げた。
 確かに、それはアレスも考えた作戦だ。

 包囲を全体的に下げる事で、突出したテイスティアだけを各個撃破する。
「やめておこう。全体を下げれば、あちらの一学年の主席が隙を逃さない気がするしね。それに……」
『それに?』

 思いだしたのは、三年前の一戦だった。
 初めての戦術シミュレーションの決勝戦。
 全力を出したアレスに対して、ヤン・ウェンリーは全力で答えてくれた。
 ただ勝つというだけであるのなら、他にも方法はあっただろう。

 だが、それ以上に成果をアレスは得る事が出来た。
 たかが戦術シミュレーション。
「後輩の本気に、先輩が答えなくて、軍人が名乗れるか?」

 アレスの言葉に対し、サミュールが笑った。
 
  

 

決勝戦 五学年~後編~



 テイスティアの突撃が開始された。
 アレスが周囲に対して警戒するように告げていても、全力で疾走するテイスティアに対して、フレデリカも二学年も効果的な援護が出来ない。
 それはほんの一瞬の差であった。
 死ぬことを覚悟しているか、していないか。

 無謀とも言える突撃に、援護の攻撃には一瞬の遅れが生じる。
 そのために、敵全面を捉える予定であった攻撃は軌道をずらされて、後方へとそれてしまう。結果として、テイスティア艦隊は大きな打撃を食らうことなく、アレス艦隊を目指していた。
「これは、まずいかも?」
 筺体内で、サミュールが冗談交じりに呟いた。

 しかし、顔は真剣な様子でモニターを注視している。
 艦隊の動き、行動。数値として映る状況に、サミュールはそれまでの経験から、テイスティアの突撃が決して簡単にいなせるものではないと思う。
 サミュールであっても損害は大きいだろう。
 例え、アレスでも耐えきれるかどうか。

 アレスの指示は、包囲を続けて敵の数を減らすという事であった。
 けれどと、ちらりと相手の本隊を見て、サミュールは奥歯を噛んだ。
 親友の決死の行動に対して、相手の馬鹿さに苛立ちを覚える。
 相手は今だ中央で固まり、こちらの包囲攻撃に耐えているだけだ。

 確かに固まって防御陣形を作れば、損害を減らすことはできる。
 上手くすれば、時間切れまで粘れるかもしれない。
 しかし、それは。
「死ぬのが伸びるだけだろ?」

 実際の戦場では、いずれ防御も崩壊して、ましてや時間切れのない戦いであれば、確実に待っているのは死だ。それならばまだ降伏をした方がましである。
 テイスティアの突撃に続くわけでもなく、あるいは援護するわけでもない。
 緩慢な死を待つ姿に、サミュールは舌打ちをする。
 アレスからの命令は理解している。

 だが、アレスの援護をフレデリカと一学年だけに任せるのは不安だ。
 そう考えて、サミュールは部隊をテイスティアの後方へと動かした。
 距離こそ離れているが、テイスティアが一瞬でも止まれば、後ろを撹乱することはできる。そして、その一瞬をアレスが作れない事はない。

 そう判断しての行動は、しかし、行動直後にテイスティアとの間に滑り込むように入り込んだ艦隊に邪魔をされた。
 わずか二千ばかりの艦隊。
『端的に申し上げて、邪魔かと思慮いたします』

 冷静な声が、サミュールの耳に届く。
 珍しくも敵に対して通信を行う生意気な一学年。
 名前を――。
「ライナ・フェアラート候補生。どっちが邪魔をしているんだか」
 苦笑混じりの言葉に、それでもテイスティアを援護する者が彼のチームにいたことが嬉しくて、喜びが混じっている。

『先輩かと思慮いたします』
「意見の相違だね。さっさとそこをどかないと、どでかいミサイルを、可愛い尻に突っ込むぞ?」
『端的に、実に端的に申し上げます――即ち、下種と』
「褒め言葉をありがとう」

『耳を掃除された方がよろしいかと、存じ上げます。なんでしたら、私が耳を切り取って綺麗に差し上げましょうか』
 言葉の応酬は、直後に弾幕の応酬へと変化する。
 四千対二千とほぼ倍近い兵力差にも関わらず、ライナは耐えた。
 それはライナが守戦に徹した事もあるだろう。

 攻撃に対して、的確に防御するライナを、サミュールは攻めきれない。
「お堅い女性だな」
『それは褒め言葉と受け取らせていただきます』
「褒めてねえよ。石顔面。たまにはにっこりと笑ってみろよ」
『先輩には笑顔を見せる必要を感じませんので』

 互いが相手をけなしている。
 それもただの悪口ではなく、相手の精神を揺さぶるような言葉だ。
 単純な罵声ではない。
 少しでも怒りによって、相手の冷静さを失わせるための、一種の策略。
 もっともそれを頭では理解していても、腹が立たないわけではないが。

「噂になってるぞ、一学年。誰にも笑顔を見せないってな、それじゃ嫁の貰い手もないんじゃないか?」
『……先輩は嫁の貰い手が多そうで良かったですね』
「あ?」
『先輩の女性方がおっしゃっておりました。即ち、サミュール君は可愛いね、食べちゃいたいと――知ってますか。何も禁止されている本を回し読むのは殿方だけではないことを』

「ちょ、ちょっと待て、それは禁止の意味が違う気がするぞ」
『いらぬことを申し上げました。端的に、忘れてください』
「一生忘れられねぇ!」
 叫んだサミュールの艦隊が乱れ、攻撃を受けた。

 咄嗟に艦隊を立てなおすのはさすがであったが、攻防が続けば、アレスを援護する時間が少なくなる。
 しかし、実に効率的にこちらの攻撃を止める相手に、時間を見る。
あまり長く時間をかけるわけにはいかないと、サミュールは言葉を続けた。
「いい加減諦めろよ、テイスティアもお前も。そんなにそちらの総司令官は優秀か。それともフォーク総司令官に頑張れば、成績を挙げてくれるとでも言われたか?」

『これ以上あげる成績がございませんね』
「ああ。そうだったな、失敗」
 悪びれもせずに言葉にするサミュールに、小さな笑い声が聞こえた。
 そして、続く言葉は小さな――呟きだ。

『テイスティア先輩がおっしゃっておりました。これは宿題だと』
「ん?」
『その意味を私は理解いたしません。しかし、ただその想いは理解したいと思います。だから、端的に申し上げます。あなたにも邪魔はさせませんと』

 はっきりとした強い言葉であった。
 その言葉に、サミュールは一瞬コンソールから手を離した。
「……お前、案外良い奴だな」
『案外は余計です。と、言いたいですが、良い人間と評価されることは実に珍しい事です』

「テイスティアが……そんな事をね。あいつめ生意気に」
 小さな笑い声とともに、サミュールは静かに頭を下げた。
「ありがとうな」
『演技が崩れておりますが』

「元々演技は苦手だし。そうか――そういうことなら、俺は邪魔だ」
『そう、何度も申しておりますが』
 サミュールの頭の中に浮かぶのは、消灯後もずっと机に向かったテイスティアの姿だ。元より生真面目だった彼は落第の危険がなくなっても、ずっと勉強を続けた。

 それは全て。
 ――別に成績はどうでもいいんだ。ただ、僕はアレス先輩と同じ景色が見たくて。
 はにかんだように笑う笑顔を思い出す。
 上にあがりたいわけでもない。

 ただただ、ひたすらに偉大な先輩の背を目指した。
 確かに四学年で学年主席を奪われたのは少しショックであったが、仕方がないと自然に思う事ができた。
 そんな親友が背中を追い続けてきた先輩に、挑もうとしている。
 負けるかもしれない。

 自分は参謀としては失格なのだろう。
 そんな自分をアレスは怒るだろうか。
 怒るくらいなら、受け止める何て言わないですよね。
 アレス・マクワイルドも、おそらくはテイスティアの覚悟を理解していた。

 だからこそ、真正面で彼を受け止めると言った。
 それが答えのような気がして、サミュールは静かに首を振った。
「邪魔はもうしないよ。もしかしたら勝てないかもしれないけれど。でも」
 小さく呟いた言葉とともに、サミュールの目が真っ直ぐにモニターを見る。
 そこに映るのはこちらを二千で防ごうとする小さな艦隊だ。

「ただ負けるだけはつまらない。悪いけど、相手になってもらうよ、後輩」
『望むところです。相手に不足はありません――ですが』
「ん?」
『テイスティア先輩の発言ですが、実は嘘です。上手くのってくださり、感謝いたします』

「えっ! おい、ちょ、それは反則だろ!」
『と、いうのは、冗談です』
 小さな笑い声が聞こえて、サミュールは目を開いた。
 唖然。
 動きが止まった瞬間、モニターが明るく光る。

『主砲斉射三連――御機嫌よう、先輩』

 + + +

 あの馬鹿はなぜ動きを止めた。
 モニターの端で撃墜されるサミュール艦隊を見て、アレスは苦い顔をする。
 どうせ碌な理由ではないのだろうが。
 視線を動かしたのは一瞬――アレスは向かってくる艦隊を見つめた。
 射程内に入るや補給を考えない高速の攻撃。

 味方の連携は、弱く、効果的な打撃を与えているとは言えない。
 これは二人を攻めるわけにはいかない。
 通常の連携だけであれば、彼らでも十分に出来ていた。
 敵の攻撃が一枚上手なだけ。

「ヤン・ウェンリーもそう思ったのか」
 ヤンに向かうアレスを、後ろからテイスティアは見ていた。
 その成長した彼をさらに後輩たちが見て、成長する。
 そう考えて、アレスは小さく首を振った。
 ヤンはそんな人間ではないなと。

 撃ち込まれるレーザー。
 攻撃が押し寄せるたびに、テイスティアの言葉が聞こえる気がする。

 僕は強くなりましたか。
 少しは成長しましたか。

 そして。

 僕の覚悟を見てくださいと。

 そこにいるのはワイドボーンに怒られて逃げる子供ではない。
 戦いの意味を――戦う理由を持った兵士だ。

 一撃一撃が意味のある行動であり、攻撃となる。
『先輩、逃げてください!』
 悲鳴のようなフレデリカの言葉が耳に入った。
 彼女の目には迫りくるテイスティアが、恐ろしく映っているのだろう。

 矢となって近づくテイスティアの艦隊を見ながら、アレスは唇を持ちあげた。
 後輩の成長を喜びながら。
 そして、全力で叩き潰す敵を目にして。

「でも、まだ甘いぞ。テイスティア、そんなところで満足してもらっては困る」
 
 + + +

 背筋を寒いものが駆け抜けた。
 近づくなと、テイスティアの直感が警告する。
 近づいてはまずい、逃げろと。
 しかし、矢の形を作ったテイスティアの艦隊は容易に艦列を変形させる事はできない。いや、例え出来たとしても逃げる事はできないだろう。

 もはや攻撃は始まっている。
 テイスティアに出来る事は、アレスの艦隊にぶつかるまでに、攻撃を仕掛け、消耗させる事だけだ。
「っ――!」
 アレス艦隊からレーザーが伸びて、先頭がもぎ取られた。

 一瞬、四年前のヤン艦隊の攻撃を思い出す。
 だが、損害自体はそれに比べれば軽微。
 おいそれと、ヤン・ウェンリーのような一点集中攻撃が出来るわけがない。
 少なくともアレス先輩が、今までそれをしたことはなかったはずだ。

 それでも絶妙なタイミングでの攻撃により、矢の先頭が平面となったが、戦闘には支障がない。
 後方にいた隊を再び前に出して、矢を形作る。
 左右の艦隊の速度を落とし、中央の速度をあげる。
 突進をしながらの艦隊移動は、コーネリア先輩に教えられた。

 大丈夫、いけると浮かんだ不安を消すように、奥歯を噛み締める。
 と、テイスティア睨むモニターの視界で、アレス艦隊の花が開いた。

 + + +

「先輩!」
 再び呟いて、フレデリカの目にはモニターの画面がはっきりと見えた。
 アレス艦隊の攻撃が、テイスティア艦隊の先頭にピンポイントで命中する。
 それにテイスティアは完璧な反応を見せた。

 左右の速度を下げて、中央をさらに速める事で、瞬く間に再び矢を形作る。
 驚いたのも一瞬――直後、アレス艦隊の先頭がゆっくりと開いた。
 それは高速再生の朝顔のよう。
 花開いた奥から出撃するのは、五百ほどの分艦隊と、三隻の宇宙母艦だ。
 直後、開いた花弁から放たれて突撃を開始する。

 見事な艦隊移動を見せたテイスティアは、アレス艦隊の急な攻勢に対応することができない。自らの速度と相まって、実に絶妙なタイミングで放たれた逆撃の刃。
 数では圧倒していたテイスティア艦隊に、アレスの分艦隊はカウンターのように食い込んだ。
 被害が数値となって、流れていく。

 先頭同士がひしゃげる中で、食い込んだアレス艦隊は戦闘艇を射出する。
 突進のために艦隊を集めていたのが、テイスティアに取っては仇になった。
 艦隊の隙間を戦闘艇が自由に飛び回り、テイスティア艦隊から損害の数値が大きくなる。
 凄いと、フレデリカは思う。
 敵の突進に対して、突進で打撃を与えるアレス。

 アレスの突進に対して損害を抑えることを諦めて、突進を再開するテイスティア。
 フレデリカの見る前で、戦場は移り変わる。

 + + + 

 敵に対して、打撃を与える事はできた。
 だが、航空母艦の突進が致命傷ではないと見て、テイスティアは艦隊を進めさせる。もし少しでも戸惑えば、アレスの戦闘艇はさらに被害を与えていただろう。

 それでも、遅い。
 相手が態勢を整える時間で、アレスもまた陣形を完成させている。
 それはアレスを先頭にした三角形の鋒矢の陣形だ。

 一瞬の制止を受けた艦隊と走り出した艦隊。
 互いがぶつかりあえば、一瞬の後に、砕けたのはテイスティア艦隊であった。
『先輩っ!』
 衝突の瞬間、声にならぬテイスティアの声が聞こえた。

 見事だよ。小さく呟いて、もはや抵抗のできない艦隊をアレスは矢となって貫いた。

 + + +

 テイスティア艦隊を蹴散らして、一本の矢は止まらない。
 近づく赤い点に、フォークはコンソールに手を叩きつけた。
「何をしている。これだから無能は――何をしている」
 その声は全艦隊に一斉して配信された。

「何をしている、ウィリアム、ハワード! 敵は少数だ、前方に艦隊を配備して、勢いを押さえろ。マクワイルドを殺せ!」
 絶叫が命令となって、しかし、誰一人として動く事はできなかった。
 一瞬で――一撃で、テイスティアの艦隊が壊滅した光景を、誰もが見てしまった。

 その後で再びアレスの前を塞ごうと考える人間はいない。
 いや、一人だ――いたかもしれない。
 だが。

『端的に邪魔かと思慮いたします』
「そう。それが俺の仕事だから」
 ライナの動きを、サミュールが牽制する。

 もはや無人となった空域をアレスは走る。
「マクワイルドが来るぞ、何とかしろ、無能ども」

 叫んだままに、フォークの旗艦は消滅した。


 

 

表彰式



『戦術シミュレート大会――勝者アレス・マクワイルド』
 名乗りがあがり、喜びに沸くアレスチームのメンバー。
 そんな中で一人、歩きだすアレスの前に立ちふさがった。
 銀髪をなびかせて、氷のように表情を変えないライナだ。

 敵チームであり、その無表情さから周囲が一瞬ざわめいた。
 アレスが怪訝に眉をひそめる。
 と。
「おめでとうございます――マクワイルド先輩」
 祝いの言葉とともに差し出されたのは、缶コーヒーだ。

 アレスは苦笑し、それを受け取った。
 ひやりと冷たいコーヒーに、アレスが笑う。
「ありがとう。フェアラート候補生――だが、こんなところにいていいのか?」
「あそこに混ざりたいとは思いませんね」

 ライナが一瞥した先は、悲鳴のようにテイスティアを攻め立てているフォークだ。
 テイスティアの策、行動、艦隊運動。
 それら全てがやり玉にあげられ、なぜいうことを聞かなかったのかと怒鳴る。
 それに対して二学年は知らぬふりをして、三学年は一緒になってフォークの言葉に同意し、一緒にテイスティアを口撃していた。

 敗者にしてはあまりにも見苦しい姿だ。
 いかに筺体付近は教官も観客も見ていないとはいえ、勝者であるアレスチームの人間はそれを見ている。
 説教をするならば二人だけの時にすればいい。
 だが、フォークにとっては見せつける事こそが目的なのだろう。

 なるほどとアレスが呟くが、助けようとはせずに、コーヒーを口にする。
 理不尽な説教など世の常だ。
 いちいち誰かに助けてもらう軍人など、必要がない。
 それにと、テイスティアが視線に気づいて、こちらに視線を向けた。
 その顔はフォークの言葉など聞いていないように、満足げで、小さく舌を出す。

 成長した――それは先ほどの戦いで、アレスはよく分かった。
 今更敵の慰めなど無用のものでしかないだろう。
 コーヒーを前に出せば、慰めの変わりに小さく動かして、口に含んだ。
 相変わらず、コーヒーは苦く。
「混ざりたいものではないだろうが、先輩をフォローするのは後輩の役目だぞ?」

「ええ。では、私も言ってまいります――アレス先輩と違い、説教は苦手なのですが」
 言葉に目を丸くしたアレスに、ライナは柔らかく微笑んだ。
「冗談です。御機嫌よう」
 そう呟いて、敗戦者の輪の中に向かうライナの背に、アレスは苦く笑う。

 全然冗談に聞こえないなと。

 + + +  

「そもそも最初の時点で、何故貴様は動かなかった。私やフェアラート候補生は敵を打破する目前であった」
「それは難しいと思慮いたします」
「な……に?」
 テイスティアに向いていた怒りの形相そのままにして、振り向いた先にはライナ・フェアラートの姿があった。

 厳しい視線を向けられても、ライナは微動だにしない。
「単に戦術的な戦いであれば、相手のセラン・サミュールは四学年でもトップレベル。それも同数であれば、容易に相手を崩すことは難しいかと」
「ふざけるな。私や貴様も相手を崩すことはできていた。こいつだけが」
「私が崩すことができたのは、グリーンヒル候補生がまだ戦術に慣れていなかったからです。フォーク総司令官が相手を崩せたのは、敵の艦数差かと思慮いたします」

「そんなものは考慮に値しない。現実に出来るものがいて、こいつはできなかった。戦闘とは結果が全てなのだ」
「では、負けた原因は総司令官であるあなたにあると言うことですね」
「貴様っ!」
 叫んで拳を振り下ろしたフォークを一瞥して、ライナは隣でにやにやと笑いを浮かべていた、三学年のケビン・ウィリアムを見る。

「笑っていますが。原因の一端はあなたにもあるのですよ。最後にテイスティア先輩が突撃をされた際に、あなたは何をされていたのです」
「……なっ」
「何をされていたのです?」
 突然の言葉に驚いたウィリアムに、ライナは言葉を続けた。
 青い相貌が集中して、戸惑ったように、口を開く。

「それは艦隊を集めて、敵の包囲から艦隊を守っていた」
「それで勝てると御思いですか?」
「勝つことはできない。そもそも最初の時点で本来なら包囲される予定はなかった」
「端的に申し上げて、低脳の集まりですか」
 一拍の呼吸をおいて、ライナは言葉を繰り返した。
「全て予定通りにことが進むと御思いですか。むしろ、戦略や戦術というものは予定通りに進まなかった場合にどうするか必要になると思慮いたします。思った通りにことが進むのであれば、そもそも考える必要などありません」

「私を誰だと思っている!」
 叫んだ言葉は、ライナの隣から。
 その厳しい言葉と視線にさらされていたウィリアムは、ほっとしたようにフォークを見た。
「総司令官です。即ち、全責任を取る立場ということです」
「ふざけるな。敗北した時の責任はテイスティアにあると、私は言った」

「お耳が遠いのですか。総司令官はあなたです、例え口でどういったところで、責任はあなたにあるのです。お忘れなきよう」
「くっ――」
 怒鳴りかけて、フォークが顔を押さえた。
 片目を押さえながら、奥歯を噛み締める。
 その突然の変化にも、ライナの表情は変化しない。

 押さえた方とは逆の目で、睨みつけ、しばらく何かを考えていた。
しかし、言葉には出さず、フォークは踵を返した。
 同時にウィリアムもライナに対して、憎しみをこめて、睨む。
 そこに今までの爽やかさなどはない。

「覚えておけ」
「ええ。とても、忘れられそうにはありませんね」
 ライナの言葉に黒々とした怒りの表情を浮かべれば、ウィリアムもフォークの後ろに続いた。
 そんな背に、実に冷ややかに、冷やかに。

「御機嫌よう、先輩方」

 + + +

 フォークと三学年の主席が怒りを浮かべながら、出ていくのが見えた。
 遠く離れた場所からでは声は聞こえなかったが、とても穏やかに終わったとは思えない。
 相手を宥めるのではなく、徹底的に論破する。
 優秀ではあるが、おそらくは表には出てこれないだろう。

 原作で名前すらも聞かなかった理由が、アレスには理解が出来た。
 もう少し落ち着いてくれるといいのだけれど。
 そう思っていれば、テイスティアが実に困ったような顔をしてこちらを見ている。
 何とかしてくれと、頼る。

 そこは変わらないテイスティアの姿にアレスは笑い、無視をした。
 自らのチームの方を見れば、相手の強さやこれまでの戦いの話に花を咲かせている。
 一様に嬉しそうな姿に、微笑めば、こちらの視線に気づいたフレデリカが振り返った。
「おめでとうございます。マクワイルド先輩」
「ああ、ありがとう。君たちの力だ」

「でも、良かったです」
 小さく笑う姿に、どこかほっとした様子が混じっている。
「何が?」
「アレス先輩に初めて敗北をつける事にならなくて」

「今回は四連覇もかかってましたしね」
 同意するようにサミュールが頷けば、周囲も口々にほっとして息を漏らした。
「別に気にする事はないけどな」
「こっちが気にするんですよ」
 どことなく恨みがましく見られれば、アレスは苦笑する。

 しかし、別段無敗や四連覇にこだわったことはない。
 戦術シミュレートで強くても、実戦で勝てるわけでもない。
 それに――実際は三年前に敗北しているしな。
 困ったように髪をかけば、アレスは目を見開いた。

「しまった」
 呟かれた言葉に、何かあったのかとざわめいた。
 何かあったのだろうかと、慎重にサミュールが問いかける。
「どうかしましたか、先輩?」
「かけてない」

「は……?」
「今回、自分のチームに賭けるの忘れていた。負けを取り返すチャンスが!」
 言葉に周囲が顔を見合わせた。
 そして、盛大に笑い声をあげる。
「笑い事じゃねぇぞ」

 肩を落としながら、アレス・マクワイルドは大きく息を吐いた。
 せめて、フェーガンにおごってもらわなければ、割に合わないと。
 アレス・マクワイルド――士官学校戦術シミュレート大会無敗。

 しかし、戦術シミュカルチョの成績は負け越しであった。

 + + + 

 表彰式の準備が終わり、アレス達が表彰会場に姿を見せたのは、決勝戦終了から一時間後のことであった。
 仰々しい様子にアレスのチームメイトは緊張した面持ちだ。
 椅子が並びつけられ、他の学生たちは既に揃っていた。
 案内された最前列。

 そこに通されながら、アレスは怪訝とした面持ちで周囲を見た。
 やけに大げさだなと。
「どうかしましたか、先輩」
「ああ。何かやけに大層な式典だなと思ってね」
「大層――そうですか?」

「少なくとも、今までの表彰式はこんなに飾ってはなかった」
 渋い顔をしながら、アレスは過去の表彰会場を思い出す。
「それに教官たちもあんなに緊張はしてなかったな」
「といいますと」
「普通とは違う――なんだ、統合作戦本部長でも呼んだか」

「やめてくださいよ。ただでも緊張するのに」
 その疑問はすぐに解けることになった。
 アレス達が席に通されて、すぐに学校長を初めとして偉い方が姿を見せたのだ。
 一人一人、式の進行役が名前を呼び、そして。

『本日の来賓――ヨブ・トリューニヒト国防委員です』
 最後に呼ばれた名前に、アレスは渋い顔を通り越して、頭を押さえた。

 + + +  

 名前を呼ばれて案内される人間は、壮年の舞台俳優のような男であった。
 周囲に笑顔を振りまけば、一つ一つの動作が演じられた役者のようだ。
 いや、ヤン曰く実際に演じているのだろう。
 国防委員として。

 そうするのは構わないが、点数稼ぎに使われるのは面白くはない。
「なんで、今年から国防委員まで出席するのですか」
「学校長が代わったからな」
 アレスの囁きに、隣でサミュールが不思議そうにアレスを見た。

 確かに今年の頭から更に学校長は代わっている。
 しかし、それと今回の国防委員にどのような関係があるのだろうかと。
「トリューニヒト議員と学校長がお知り合いなのですか」
「そんな話は聞いたことはないな」

 想像を膨らませたフレデリカの言葉に、アレスは否定をする。
 大方、上の点数稼ぎで使われたのだろうな。
 声にはださず、アレスは小さく息を吐いた。
 それまで戦術シミュレート大会は、あくまで学校の行事の一環であった。

 そのため存在こそは知っていても、公にされる事は少ない。
 ましてや、議員の来訪などあり得ない。
 だが、学校長が点数稼ぎの一つとして上に報告すれば別だ。
 人材育成のための効果的な施策と報告し、そこに国防委員のマスコミ向けの良い広告材料であると飛び付いた。

 既にシトレ学校長も、スレイヤー教頭もいない現状であれば、過去の経緯など知っている人物がいるはずもない。かくして、戦術シミュレート大会は宣伝材料となって、ヨブ・トリューニヒトのような甘い蜜を求める人間に狙われることになる。
 そう考えれば、フォークがあまりにも有利であった原因も理解できた。

 学校としても単なる一士官よりも、学年主席が――それもライナやウィリアムのような顔の良い人間が賞状を受け取った方が宣伝になると考えたとしても、不思議ではない。
 いわば出来試合のようなものだ。
「先輩――」
 少し長く考えていたようだ。

 既にヨブ・トリューニヒトの姿は壇上にあって、優勝者の名前が呼ばれている。
 代表として立ち上がれば、静かに壇上のトリューニヒトの前に立つ。
 背の高い男であった。
 アレスよりも一回り大きく、上から見下ろされる結果となった。
 形ばかりの読み上げが終わり、賞状を受け取れば、手が差し出される。

 片手に賞状を持ったままに、手を握れば、逆の手が肩に回された。
「素晴らしい戦いを見せてもらった。まさに諸君らがいれば、自由惑星同盟は銀河帝国に負けることはないと、私はそう確信する」
 熱のこもった声で語りかけられれば、肩を二度叩かれた。
 誇らしげに語る様子に、アレスは礼を言いながら、なるほどと理解した。

 初めてあったが、ヤンが不満に思う理由がわかったように思う。
 熱意ある言葉をかけながら、そこに彼自身の言葉はない。
 ただカメラ受けを――正確に言えば、同盟の市民受けをする言葉を伝えているだけだ。おそらくは市民の意見が逆を向けば、彼は平気で同じ口で逆の意見を語るだろう。ちょうど、銀河帝国に従った原作のように。

 彼自身の目的は権力を手中にすると、単純明快な理由だ。
 そのために同盟の市民に従う言葉を口にする。
 逆に言えば――これが今の同盟市民の言葉ということなのだろうな。
 吐き出し掛けたため息を飲み込んで、トリューニヒトに肩を叩かれながら、笑顔で礼を言った。

 ヤンが嫌っていたのは、単純にトリューニヒト個人だけではなかったのだろう。
 もちろん自我を表に出さず、飾り付けられた言葉だけを口にする異質さに恐怖した点もあったのであろうが、何より彼の姿勢が全て同盟市民に向けられているということを理解することが嫌だったのだ。

 彼が語る言葉。
 彼の偽善。
 そして、主戦論。
 それら全ては、即ち同盟市民の望みを現している。
 もし反戦派が主流となれば、彼はこの口で平然と戦争の無残さを口にしただろう。
 同盟市民がそこまで愚かであると理解したくない。

 その想いが、単に彼だけを嫌う理由となったのではないかと思う。
 ……人間がそこまで賢いわけではないと思うけどな。
 形だけの表彰が終わって、握手を終えれば、アレスはゆっくりと壇上から降りていった。
 別段トリューニヒトに恨みはない。

 ヤンのように嫌悪を感じたわけでもない。
 ただ、壇上の下で一度振り返って、アレスはトリューニヒトをもう一度見る。
 思いだすのは、彼の言葉だ。
 銀河帝国に負けることはないか……戦争を命じるお前ら議員が、なぜ他人事なんだよ。

 アレスの仕事は戦争を行うことだ。
 決して、戦争を始める事ではない。
 単純な話、共和主義であれば戦争を命令するのは政治家であって、さらに言えば同盟市民である。戦争をするなと言われれば、軍人は戦争をすることなどできない。しかし、彼は――そして、おそらくは多くの同盟市民は戦争を始めているのは軍人であり、終わらせるのも軍人の仕事であると考えている。

 彼の言葉を、主戦論を、アレスはヤンのように否定はしない。
 だが――他人事であると考えるのであれば、いずれ自分のことであると、戦場に引きずってでも理解させてやる。

 ゆっくりと唇をあげれば、アレスは席へと戻っていった。

 
 

 
後書き
なぜ今日か。
すみません、明日は更新できそうにないのです 

 

デートの誘い



 靴箱を開ければ、靴の前にゴミを処理する。
 それがライナの日課だった。
 靴の上に山と積まれた紙を無表情に手にする。

 今日は十二通。まだ少ない方だろうと判断し、封筒を見る。
 人類が宇宙に出て既に数百年。
 それでも古風に紙を送るのは、メッセージの送信ログに残ることを気にしているのか。開けて、名前が書いていないものは即座に破り捨てた。
 名前が書いていたとしても同様であるが。
 そもそも名前が書いていたとしても、知らない名前が多い。

 そんな彼らはライナの何を知っているというのだろう。
 もっともたまにライナの知る名前があったが、これは少し面倒くさい。
 付箋にお断りしますと記載して、当人の靴箱の中に入れることになるのだから。
 そんなより分け作業は、既に日課の光景となっている。

 最初は騒いでいた同級生たちも、時間が経つにつれて、大変だとは思えど、声をかける事はなくなっていた。
 それは実に事務的により分ける作業の様子からだ。
 少なくとも学年が開始されて、この時期に至るまでライナが誘いに乗ったことは一度もない。中には士官学校でも有名な人間もあったが、全て同様に拒否されている。

 本日も同様により分けられる手紙の最後の一通。
 真白な紙を取り上げて、ライナは作業を止めた。
 浮かぶ名前を見て、思案。
「どうしたの?」

「何でもございません」
 背後からかかったフレデリカの声に、ライナは手紙をしまう。
 残った破り捨てた紙をゴミ箱に入れて、そのまま立ち去った。
 少し焦っている。

 そんな珍しい友人の姿に、フレデリカは首を傾げた。

 + + +  

 学校の周回を回るランニングコース。
 木々が生い茂るそこから一歩先にはいれば、学校と外部の境界を隔てるフェンスがある。
 夜も八時を回れば、走る人の姿は少なく、ましてや木々の中に入れば、誰もいない静けさがある。
 木々がぽっかりと開いた、小さな空間で、ライナ・フェアラートは手紙を握りしめて、静かに立っていた。

 ランニングコースの街路灯の明りもここまでは届かない。
 僅かな遠くの光と月明かりだけが、ライナを照らしていた。
 戦術シュミレート大会も終了し、冬が近くになれば、この時間は少し寒くなる。
 微かに聞こえる虫の音を聞きながら、ライナは肩をさすった。
 腕時計を確認する。

 まだ、八時を三分ほどしか過ぎていなかった。
 先ほど見たのが八時ちょうどであったから、まだ三分しか経っていない。
 自分らしくもない。
 そう考えながらも、どこかそわそわとライナは周囲を見渡した。

「お待たせ」
 そんな声とともに、背後から草をかき分ける音がした。
 ライナは手にした手紙を握り潰す。
「あなたを待っているつもりはございません。ケビン・ウィリアム候補生」

 冷ややかなライナの声が、静かな木々の隙間に漏れた。

 + + +

 冷たい言葉に対して、ケビン・ウィリアムは仰々しく肩をすくめて見せた。
「酷いな、手紙を見て来てくれたんだろう?」
「そうですね。嘘の手紙で騙されたという事です」
「その割には驚いていないみたいだけれど?」

「マクワイルド先輩が私に恋文を送るなど、考えられませんでしたから」
 手紙に記載された差出者の名前。
 そこに書かれたアレス・マクワイルドの名前。
 冷静に考えなくても、あり得るわけがない。

 手紙の主が本人である可能性など、十パーセントもないだろう。
 そう理解していても、ライナは浮かぶ不愉快な気持ちに、胸を掴まれた。
 わかっていたことだから、落ち込む必要などない。
 冷静な頭がライナを落ち着かせるが、落ち込んだ心は晴れそうもない。

 だから、単純な怒りの視線をウィリアムに向けながら、足を進めた。
「おいおい。帰るつもりかよ。せっかく来てくれたんだから、話をしてくれてもいいんじゃないか」
「あなたと話す言葉を持ちません」
「アレス・マクワイルドと付き合うよりは楽しいと思うけれど?」

「お断りします。あなたとお付き合いをしても、私には何の利点もないでしょう」
「それが先輩に対する言葉か、フェアラート候補生」
「先輩と思われたいのでしたら、偽の恋文など使わぬことです」
 冷静な言葉に対して、ウィリアムは唾を吐き捨てた。

 その表情に浮かぶのは、爽やかな青年ではない。
 眉間にしわを寄せて、ライナを見つめる。
「――後悔するぞ」
「随分な三下な言葉ですね、先輩」
 冷ややかな言葉に、ウィリアムは笑った。

「騙されるのがわかっていて、一人で来たのか。自信過剰だな……なぜこの場所を指定したと思う」
「先輩が振られる無様な格好を、見られたくないためでしょう」
「出てきていいぞ」
 ライナの言葉に対して、声を立てれば、草が揺れる音がした。

 月明かりの中に次々に浮かぶのは、制服姿ではない――年齢層も違う男達だった。
 ピアスをつけている者。
 ドクロのロゴが入ったジャケットを着ている者。
 少なくともそれらの姿をするものに、学生はいない。
「君は知らなかったみたいだね。ここの後ろのフェンスに付いている警報装置は随分と前から壊れていてね。脱走の穴場になっているんだよ――だから」

 そこでウィリアムは下卑た笑いを浮かべた。
「俺の友達も自由に入ってこれるのさ」
 男達の周囲をライナが取り囲めば、ライナは表情を変えずに、なるほどと頷いた。

「端的に申し上げましょう。下種どもと」

 + + +

 ライナの言葉に、怒りを向けた男が手を伸ばした。
 それに対して、ライナの行動は速い。
 肩に伸ばされた手を掴めば、一気に引っ張り、足をかけた。
 態勢を崩した男の後頭部に向けて、肘を入れる。

「ぐぎゃっ」
 男はカエルのような悲鳴をあげて、地面に倒れ込んだ。
「人数をそろえれば、勝てるとでも思いましたか。端的に――甘いと思慮いたします」
 士官学校で習う陸戦技術。

 ライナもまた高いレベルで収めている。
 例え何人が襲ってきても、それが一般人であれば幾らでも対処ができる。
 一瞬で制圧された仲間に、周囲の男達も戸惑っているようだ。
 構えを解かずに、周囲を睥睨するライナの姿に、笑っていた男達も戸惑いを浮かべる。

「姿勢だけは立派だな、フェアラート。その顔が崩れるところをみたいものだ」
「馬鹿なことを」
「馬鹿は君だ」
 呟かれた台詞とともに、一条の光が駆け巡る。

「っ――」
 受けた衝撃に小さく悲鳴をあげて、ライナは吹き飛ばされる。
 強い痛みと痺れが全身を襲い、上手く顔をあげることもできない。
 地面を転がって、ようやく止まった視界で、ライナは光の方へと目を向けた。

「随分と用意周到なことですね」
 途切れがちになりながら、ウィリアムが銃を向ける姿に、ライナは息を吐いた。

 + + + 

 ウィリアムが手にしているのは、訓練でも使われる銃だ。
 出力をあげれば人を容易に貫通するし、逆に出力を押さえれば、このように人を殺さずに鎮圧することも可能である。
 それがなぜ彼の手にと疑問は思うが、どうにかしたのだろう。
 あるいは別に調達しておいたのかもしれないが。
 無抵抗となったライナの様子に、男達が再び勢いを取り戻す。
 先ほどの衝撃で服が破け、地肌を見せたライナの姿も原因かもしれない。
 今にも襲いかかろうとしながら、それができないのは、ウィリアムが止めているからだろう。逆に言えば、ウィリアムがやれと言えば、男達は何のためらいもなくライナに襲いかかるに違いなかった。

「もう一度聞こう。ライナ・フェアラート、よく考えて発言をした方がいいぞ」
「下種の言葉は私には届きません」
 再び一条の光が走った。
 受ける衝撃に、ライナが短く息を吐く。
 それでも意識を手放さなかったのは、本人の意地でもあるだろう。

 この場合は意識を手放した方が良かったのかもしれなかったが。
「アレス・マクワイルドは今日は巡回責任者だそうじゃないか。助けを呼んでみたらどうだ」
 ウィリアムの唇が楽しげにあがった。
 睨むフェアラートに、男達が殺到する。
 男の一人が、ライナの制服を力任せに引っ張った。

 声などあげるものか。
 ライナが唇を噛み締め、身をよじった。
 瞬間。ライナを掴んだ男が、弾け飛んだ。

 + + +  

 いきなり吹き飛んだ男に、何が起こったか振り返る。
 直後に顎に一撃を受けて、沈み込む。
 別の男は足を払われ、腕をとられて、引き込まれる。
 関節を逆に押さえられれば、骨の軋む音がした。

「あっ――あああっ!」
 腕を押さえて悲鳴をあげる男。
 その腕をさらに踏みつけて、男の悲鳴を増加させる。
 その大きな悲鳴に、思わず周囲の男達は手を止めて、突然の乱入者を見た。

 ライナが小さく目を開く。
 変わらず目つきの悪い――金髪の男が、つまらなそうに立っている。
「アレス……アレス・マクワイルド!」
 呼ばれた名前に、アレス・マクワイルドは周囲を見渡しながら、息を吐いた。

「俺が巡回責任者の時間に何やってんだ、おたくらは?」

 + + +

 アレスは苛立ちを隠せない。
 少しでも苛立ちを解消しようと腕を踏みつけている足にさらに力を込めた。男の悲鳴がさらに高まっていく。
 周囲にいる男達は、少なくとも多くは学生ではない。
 学生は隣に座るライナ・フェアラートとケビン・ウィリアムという男だ。

 その手には御丁寧に銃が握られており、何をしようとしていたか明白だ。
「あ、足を離しやがれ」
「なら、お前がかわってやれよ」
 一人の男が拳を握りしめて殴りかかる。
 男の手を払い、即座に腕を極める。
 関節を曲げられた男が小さな悲鳴をあげる間もなく、アレスと視線があった。

「お、おい。おまっ」
 言葉が終わる前に、アレスが稼働領域を更に更新させた。
 肩がはずれ、腕を一周させた男が悲鳴をあげた。
 その情け容赦のない攻撃に、男達が後ろに下がる。
 そんな男達に向けて、アレスは唇をあげた。

「おいおい。軍の施設に攻撃を仕掛けてきて、何もされないと思ったのか。お前らの相手をするのは軍人だぞ? 誰か代わりたい奴はいるか?」
 脱臼させた腕を更にひねりながら、問いかければ、答えるものはいない。
 静かな言葉であったが、それは男達にとっては死の宣告といってもいい。

 それは殴る蹴るといった、男達の知っている暴力ではない。
 向けられる視線が告げている。
 お前らは命をかけるつもりはあるのかと。
 助けを求める視線が、一斉にウィリアムに向いた。

 視線の先で、ウィリアムが小さく舌を打つ。
「何をしにきたんですか、先輩」
「それはこちらの台詞だ。ウィリアム候補生――学外の人間を連れて、何をしている?」
「デートですよ。先輩――お邪魔です」

「一人の少女を取り囲むのは、デートとは言わんな」
「それは人それぞれですね。それよりも良いんですか、一般人に怪我をさせて。問題ですよ?」
「別に問題はないな。こちらは抵抗しただけだ。そちらの方が人数が多いし、武器までもっている。どんな言いわけをするつもりだ」
「それを……何と説明するのです。学年主席のライナ・フェアラートが男達に襲われたのを助けたと。美談ですけど、素敵な噂が流れそうですね」

 噂というのは実に勝手に、楽しく作られるものだ。
 例えそういう事実がなくても、ライナが男達に襲われたということは、尾ひれがついて流れるだろう。
 言外に口にするなという言葉に、ライナはウィリアムを睨んだ。

「別にどんな噂が流れようが、私には関係のないことです」
「そう言っていますが、先輩はどう思います? 軍人としてそんな噂が流れた人間がどうなるか」
 問いかける言葉に対して、アレスは息を吐いた。

「そもそも噂とか誰を殴ったとか、そんな事はどうでもいいことだ」
 捻る腕にさらに力を込めながら、アレスは口にする。
 前に進めば、痛いと叫びながら、男が一緒についてくる。
「ただ問題なのは、抵抗も出来ない人間に、襲いかかる屑が士官学校にいるという事実だ。いや、正確にはいたということか」

「何をおっしゃってるかわかりませんが」
「お前が理解する必要はない」
 歩き始めるアレスに、ウィリアムは苦い表情を浮かべる。
 想像とは違う展開を苦々しげに思い、銃を向けた。

「それ以上近寄らないでください」
「近寄らなけりゃ、殴れないだろう?」
「くっ!」
 一条の閃光は、しかし、アレスが盾にした男によって遮られた。
 潰れたような悲鳴で泡を吐く男を盾にしながら、アレスは一気に走りだす。

 乱発する光によって、男の身体が何度も震えるが、アレスには届かない。
 既に男は意識を失っているが、それでもなおアレスは男を持ちあげて走る。
「おいおい。あんまり打ち過ぎると幾ら非殺傷でも、この名前の知らない仲間思いの男が死んじまうぞ?」

 盾にしながら平然と口にして、アレスは男を投げた。
 男の身体をまともに受けて、ウィリアムが後ろに下がる。
 慌てて銃を構えなおそうとした、その手がアレスの手に握られた。

「一般人じゃなけりゃ、加減しなくてもいいな。大丈夫だ、俺はフェーガンの半分くらいは優しい」

 呟かれた言葉共に、繰り出された拳はウィリアムの奥歯と鼻骨をへし折った。

 

 

真っ白な紙



 一撃で腰が砕けるように倒れたウィリアムを、足で払って地面に投げ出しながら、とどめとばかりに胸を踏みつけて、アレスは振り返った。
 その一連の容赦のない攻撃に、男達はもはや反撃する気力もなく、見ている。
 拳を小さく振って、アレスは男達を見る。

「さて。どうする?」
 問いかけた言葉であるが、答えは決まっているようなものであった。
 小さく息を吐いて下がる男達に、倒れていた男を投げつける。
「そんなゴミをおいていかれても困る。男達を連れて、さっさと出ていけ」
「こ、こんなこと……」

「ん?」
「こんなことして良いと思っているのか」
 その言葉に、アレスはゆっくりと唇を持ちあげた。
「なに。全ての責任はこいつがとってくれる」

 足で意識を失ったウィリアムを蹴りながら、アレスは小さく笑う。
「それとも戦うと言うのであれば、幾らでも相手になる。暴力だろうが法だろうが、好きな方法をとると良い。ただし」
 と付け加えられた言葉とともに、アレスの視線を受けて、男達が小さく悲鳴をあげた。
「次に戦うと言うのであれば、そちらも命をかけてもらうぞ。腕を折られて、ごめんなさいですむと思うな、一般人」

 覗きこまれた視線に、怯えたように男達が腰を抜かした。
 それでもアレスから遠ざかろうとして、一人が逃げれば、後はあっという間だ。
 倒れた男達を引きずるように、男達は逃げ去っていった。

 + + +  

「インフラが悪くなって、治安も悪化していると聞くが――あんな馬鹿が幅を利かせているとは、世も末だな」
 逃げ去るのを見届けながら、ため息を吐き、アレスは振り返った。
 一連の流れを呆然と見ていたライナは、そこで気づいたように身体を腕で隠す。

 その肩にアレスの制服が投げられた。
「で。君の意見も聞いておこうか」
「……感謝いたします」
「礼を聞きたいわけではないな。なぜこんな事になっている」
 尋ねかけて、アレスはライナの隣に落ちている紙を目にする。

「あ、だめです――」
 ライナの制止が終わる前に、アレスはそれを手にした。
 表面を見て、眉をしかめる。
「なんだ、この歯が総入れ歯になりそうな美辞麗句は」
 少なくともアレスが思いつく文章ではなく、そこにアレスの名前が書かれているだけで、背筋がむず痒くなる。
 手にした紙を折り畳みながら、それでも理由はわかったと呟いた。

「君が呼び出された理由はわかった。だが、これが嘘の手紙だと思わなかったのか」
「九十パーセントは嘘かと思慮しておりました」
「そう理解していて、何故ここに?」
「いずれ決着は付けないことです。それに……」
 呟かれた言葉の後に、見上げられて、アレスは言葉を待つ。

「それに?」
「何でもありません。先輩には関係のないことです」
 ライナは視線をそらす。
 どこか頬を赤らめて、口を噤む様子からは答えは聞けそうにない。

 そこに――。
「い、いたっ」
 アレスの振り下ろされた拳が、ライナの頭を直撃した。
 鈍い、石を叩くような音に、ライナは頭を押さえて、短く悲鳴をあげる。
 見上げれば、眉間にしわを寄せるアレスの姿があった。

「自分一人で何でも解決できると思うな」
「……しかし」
「確かに君は一人で多くの事が出来るだろう。だが、出来るからといって、頼るなというわけではない。今回も君が一人で来ずに、誰かに相談していれば、危険な目に合わなくてもすんだはずだ。結果オーライで良かったわけじゃないぞ、ライナ・フェアラート」

 厳しい視線にライナは口を開こうとして、口を閉じた。
 その通りだと理解して、頭を下げる。
 自分が馬鹿だと言われれば、否定する言葉など浮かばない。
 何とかなると思っていたのは自分であって、そこに予想外に銃が出てきたからと言いわけになるわけもない。

 巡回責任者にアレスがなっていなければ。
 どうなっていたか、想像を仕掛けて、ライナはアレスにかけてもらった制服の上から身体を抱きしめる。
 小さく震えるライナの頭に、再びアレスの手が伸びた。
 柔らかく、優しい掌が頭にあてられる。

 見上げれば、髪をすくように、頭を撫でられた。
「君に比べれば頼りないかもしれないが、人を頼ることを覚えろ。君が助けた分だけ、みんな君を助けてくれる。少しは甘えろよ」
 優しげな言葉に、ライナはアレスを見上げたままに固まった。

 厳しいまなざしから心配そうな顔を見れば、ライナの視界はゆっくりと崩れた。
 嗚咽。
 止めようとして止められず、撫でられたままに、ライナは両手で目を覆った。
 子供のように泣く事が恥ずかしくて、でも止まらなくて。

 静かに泣く間、アレスの手をライナの頭を撫で続けていた。

 + + +

「そろそろ巡回に戻る。その制服はやるから、着替えて、今日はゆっくり休め」
 最後に頭を軽く叩いて、アレスが踵を返した。
 そのズボンが引っ張られ、疑問を浮かべて振り返れば、ライナの小さな手がズボンを掴んでいる。

「……ん?」
「腰が抜けてまだ立てそうにございません。だから……」
 早速の言葉にアレスは微笑し、ライナの手を取った。
 一瞬で引っ張り上げれば、肩をライナの身体に入れて、荷物を持つように軽々とライナを背中に担ぐ。

 短く驚いた声が終わるころには、ライナはアレスの背中にいた。
 一瞬だけ戸惑って、ライナはアレスの首に回した手に力を込めた。
 草木を踏む音がする。
 夜も遅いとはいえ、まだ消灯前の時間帯だ。
 誰かに見られる可能性があるにも関わらず、アレスは誰にも会わない道を歩いていた。
 おそらくはどの時間帯にどこに、どれくらいの人がいるか把握しているのだろう。

 アレスが巡回員になっている日は、抜けだすなという学校での不文律の理由がわかった気がする。
 そう考えれば、ウィリアムはアレスを軽視するあまり、失敗したのだろう。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「ん?」
「おそらく、ウィリアム先輩は騒ぎたてると思います」

 それで自分が被害を受けるだけであれば、問題はない。
 どんな風評被害も甘んじて受けるつもりであるし、関係のないことだ。
 けれど。
「申し訳ございません」

「気にするな、後輩。別段問題はない」
 あっさりと口にした言葉が、頼もしくて、ライナはアレスの背中に顔をうずめた。
「ライナです」
「ん?」
「後輩じゃなく、ライナと呼んでください」

「ははっ」
 アレスは笑い。
「わかった、ライナ。俺のことはアレスと呼んでくれていい。こちらの事は気にするな、明日になれば全て終わっているさ」
「はい、アレス先輩」

 ライナは答えて、ゆられる暖かさに身を任せた。
 恐かった――でも、それ以上に。
 これを言えば、アレスには怒られるだろう。

 だから、ライナは心の中で、今日は最高の日だったと呟いた。
 そうして瞼を閉じたライナの耳に、しばらくして微かにアレスの呟きが聞こえる。
 誰も聞いていないと思ったのだろう、独り言のように口を開き、
「もう少し肉付きがあれば、最高だったのに」
「……」

 目を開けたライナは静かに、アレスの首に回していた腕に力を込めた。

 + + +

「で。一般人を含めて、アレス・マクワイルドに暴行を受けたと、そういうわけだな?」
 誰も使っていない小会議室。
 その一席で、アンドリュー・フォークが手にしていた教科書をつまらなそうに眺めている。
「はい。これは明らかに暴行であり、士官学校の学生としてあるまじき行為ではないかと思います」

 そう胸を張って呟く、ケビン・ウィリアムの鼻には痛々しく包帯が巻かれている。
 その姿で身振り手振りを広げて、いかにアレスが酷い行動をしていたか、自分が被害者であったかを伝えている。
「それで、君は私に何を期待するんだ?」
「何を。アレス・マクワイルドを退学させるチャンスではないでしょうか!」

「チャンス……ね?」
 言葉とともに、フォークは教科書を閉じた。
「それが起こったのは何時頃だ?」
 今まで興味のなさそうであったフォークが、初めて問いかけた言葉に、ウィリアムはほっとしたように胸をなでおろした。

「昨日の八時頃です。なんでしたら被害者をそろえることも……」
「八時か――それで、今が何時だ?」
「午前八時ですが」
 壁掛けの時計を見て、ウィリアムは眉をひそめた。
 当たり前の事に対して、フォークは爬虫類のような目をウィリアムに向ける。

 つまらなそうに髪をいじりながら、息を吐く。
「十二時間だな、ウィリアム候補生。この十二時間に君は何をしていた?」
「何をとは……報告が遅くなったことでしたら、謝ります。私も殴られて怪我の治療を」
「もしだ」
 ウィリアムの言葉を遮って、フォークは言葉を続けた。

「もし君がすぐに私に報告していれば、話は変わったかもしれない」
「ど、どういうことです」
「遅いということだ。君は授業で何を習ってきた、報告はすぐにという言葉を知らんのか。君がのんびりと、その無駄な鼻を治療している間に、こちらは全て終わっているのだよ。今更十二時間も経って何を期待している?」

「どういう事なのですか、フォーク先輩!」
「学外で喧嘩をして、あまつさえ怪我までさせるとは士官学校の学生としてはあるまじき行為。理由はそんなところだな、退学だ――貴様は」
 フォークの冷静な言葉に、ウィリアムの顔が蒼白となった。
「ま、まさか。俺が――俺は学年主席ですよ」

「学年主席一人と、学年主席と戦術シミュレート大会四連覇の二人を天秤にかければ、どちらが重くなるかは自明の理だろう。君は何を言っている?」
 蒼白となって、次に真っ赤になったウィリアムが拳を握りしめる。
 震える体と怒りを込めた視線を、フォークはつまらなそうに一瞥した。

「俺を、俺を売るつもりなのですか」
「売るとは随分な言葉だな。君と組んだ覚えがない、利用した覚えはあるが」
「それで使えなくなったら捨てるつもりですか」
 怒りにまかせて、ウィリアムが机を叩いた。

 響く衝撃音に、フォークが肩をすくめる。
「こんなこと許されていいわけがない。それならば俺も出るところを」
「ケビン・ウィリアム候補生」
 呼ばれた名前に、ウィリアムはフォークを見る。
 爬虫類のような舐めるような目が、ウィリアムを見て、背筋を震わせた。

 嫌らしく上がる笑みは、獲物を前にした蛇のようでもある。
「そんなことを、私が許すと思っているのかね」
「許さなければどうするのです」
「君の罪が増えるだけだ。銃の持ち出しに、それを使った殺人未遂もあるか、他にも叩けば幾らでも埃が出てきそうだな。調べてみるか? 言っておくが」

 そう言って笑い、フォークは目を細めた。
「潔白な人間に罪を着せる事は難しい。無理ではないがね。だが、心にやましい記憶がある者に対しては、無実の罪を着せることなど、実に簡単なことだよ。まだ軍法会議にかけられず、退学だけですんで良かったと、私は思うのだが」
 からみつく言葉に、ウィリアムは力なく席に腰を下ろした。
 蒼白になり、震える様子に、フォークはしばらく見ていたが、興味を失ったようだ。

「それでよく戦えると言えたものだ。ほら」
 白い紙とペンが投げられる。
 真白な紙が目の前におかれて、ウィリアムは何も出来ない。
 違うと小さく呟いた声に、フォークはとんとんと机を叩いた。
「それとも親御さんに全てを話してみるか、ウィリアム。憂国騎士団の息子が軍法会議にかけられたなどと知れば、さぞかし肩身の狭い思いをされるだろうな」
「なぜ、それを」

「敵の弱点を把握するなど、基本だ。相変わらず時間を無駄にする男だな、ウィリアム。お前に出来る事はその紙に除隊届をかいて、さっさと一般人戻るか、軍法会議の場で争うかのどちらかだ。紙を見ていても、答えなどでない。選べ?」

 覗き込むような言葉に、ウィリアムは震え、やがて、ペンを手にした。

 + + +

「入ってくれ」
 フォークが呼べば、小会議室の扉が開いた。
 入ってきたのは教頭であるサザール少将だ。
 たった一人で入ってきて、ウィリアムの書いた除隊届を確認する。

 満足げにフォークを見れば、フォークはつまらなそうに顎を動かした。
 教頭に促されるように席を立たせられれば、ウィリアムは抵抗もせずに従った。
 扉へと歩き出す、と、そこにアレスの姿を見つけて、一瞬憎悪の視線を向けるが、何か言う前に引きずられて、出ていった。
 問題が大きくなる前に、片づけられた。

 それは事前のフォークの根回しが大きいところであろう。
 まさに人を陥れる事に関しては、右に出る者はいないと、アレスは思う。
 そんなフォークは、それまでの表情から不愉快なものへと変えている。
「つまらぬことに巻き込まないで欲しいものだな、アレス・マクワイルド」

「問題を起こしたのは、君のチームメンバーだろう」
「不愉快ながらにな」
 フォークは鼻を鳴らした。
 ライナを送り届けた後で、アレスはすぐに行動を起こした。

 まず既に就寝中であったフォークを叩き起こした。同じチームのメンバーが起こした行動は、他人事には出来ず、さらに言えばどんな指導をしていたと、フォークの責任にもなりかねない。
 彼が深夜に抜けだして無駄な交友関係を深めていた時は、戦術シミュレート大会の期間中も含まれるからだ。

 そこからフォークの行動は速かった。
 教官や学校への根回しに、学外での人間の把握。
 ウィリアムに全ての罪を押しつけるように、証拠や証言の手配。
 わずか数時間後には、昨日の件は学生による暴行事件から、ただの学生と一般人の喧嘩へと問題を変えてしまっていた。

 学校としても、学生が学外の人間とつるんで少女を暴行しようとしたという事実よりも、ただの喧嘩に終わる方が遥かに良い。ましてや現在の学校長が真実を追求するよりも、自己の保身を優先する人間だったこともあって、真実は闇に葬られた。
 この後でウィリアムが違うと主張したところで、フォークの言葉通り、既に時は遅い。真実よりも、皆が信じる事実こそが伝えられ、そこにライナ・フェアラートの名前は一切出てこない。

「ま、君の考えはともかく助かった。ありがとう」
「疑ってごめんなさいの間違いではないのか」
 フォークの言葉に、アレスは目を開き、そして微笑する。
 否定のない様子に、フォークはつまらなそうに息を吐く。

「ま、銃など普通は手に入らんが、私でなくても手に入れられるものだな。もっともそれをしても確実にばれるし、見つかるだろうがね。くだらない、私であれば」
「もっと完璧にしてみせるか」
「あの小娘程度を陥れるのであればな。だが……」

 そこでフォークは首を振って、アレスを見る。
「陥れるとしても、小娘に暴行を働いて、私に何の利点があるというのだ。ただ陥れるというだけであれば、そんな面倒なことをせずに」
 呟きかけた言葉を、フォークは止めた。

 視線の先には、アレス・マクワイルドがいる。
「恐い顔をするな、マクワイルド。あの小生意気な小娘程度ならばどうにでもなるが、それで君と敵対するつもりはいまはない」
「随分な言葉だな」

「貴様の除去が簡単な話なら、さっさと士官学校からお引き取りを願っている」
 吐き捨てるように言えば、フォークはゆっくりと席を立つ。
 そして、聞こえぬように唇を曲げた。

 いまはな。

 

 

アレスの卒業



『続いて、在校生送辞。在校生代表、リシャール・テイスティア候補生』
「はっ」
 言葉とともに立ち上がり、堂々とした様子でテイスティアが壇上へと歩く。

 士官学校卒業生、そして在校生や教官といった数千もの視線にあてられても、怯む様子もなく、テイスティアは前向いて歩いた。
 壇上に一礼、そして、卒業するアレスらを前にして、一礼。
 手にした紙がゆっくりと広げられて、テイスティアは言葉にする。

「厳しい寒さが過ぎゆき、穏やかとなる季節で卒業生の皆様方が晴れて、全過程を終了し、この士官学校を卒業することを、在校生一同心よりお祝い申し上げます」
 呟いて、テイスティアはゆっくりと周囲を見渡した。
「我がことながら、入校当初の私は幼く、弱い、一人の人間でした。私の同学年の人がいれば、そうだろうと頷くでしょう。しかし、先輩方はこんな私に多くのことを教えてくれ、多くのことを……問いかけてくれました」

 テイスティアは静かに言葉をおいた。
「先輩――私達はそれに答える事ができましたか」
 尋ねた問いに、誰もが小さく微笑する。
 そんな様子にテイスティアはゆっくりと首を振った。
「卒業生の先輩方からすれば、我々はいまだ幼く、弱い、存在かもしれません。不安を感じられておられる方もおられる事でしょう。しかし」

 強く呟いた言葉。
「我々はこれからも成長していきたいと思います。皆様の配属先で、卒業した私達を見て、任せて良かったといっていただけるように。再び皆様に会える日まで、我々は努力していきたいと、ここに誓います」
 そして、深く頭を下げる。

「――在校生代表、リシャール・テイスティア」
 叫ぶように呟かれた言葉。
 それに対して、一拍置いて拍手が始まった。

 小さな拍手は、やがて、会場中に広がって、テイスティアの嗚咽をかき消した。

 + + +

「良い式だったね」
 スーンが外に出れば、眩しい日差しに目を細めた。
 笑いかけるように背後の二人を見れば、同じように目を細めている二人がいる。
「感動した?」
「そうだな、テイスティアが卒業するのが楽しみだ」

「またいじめるんだから。たまには褒めてあげなよ?」
「たまにはな」
 小さく笑ったアレスに、スーンが肩をすくめた。
「で。アレスはどこに配属になったのさ?」
 尋ねたのは配属先だ。

 スーンは後方勤務基地での配属が、フェーガンは七十二陸戦連隊への配属が決まっている。このまま一年ほどは実務を学び、中尉への任官とともに、それぞれ戦場へと向かう事になる。すでに決まっていたことであったが、アレスはいまだに二人に配属先を明かしていなかった。
「カプチェランカ基地だそうだ」
「……え」

 言葉にスーンとフェーガンが顔を見合わせた。
 その言葉の意味を正しく理解して、スーンが目を開いた。
「カプチェランカって――それ、最前線じゃないか!」
 言葉に、アレスは苦笑する。
 通常、新規に配属される者は見習いとして先輩について仕事を学ぶ。

 そこでようやく一人前といわれるようになるのだ。
 前線ともなれば、仕事を学ぶことなどできない。
 そんなところに、普通は新兵を配属などさせない。
 ましてや、戦略研究科を卒業したエリートを送る事などない。
「なんで」

「嫌がらせの上手い人間がいるらしくてね」
「嫌がらせとか、そういうレベルじゃないでしょ!」
 我がことのように怒りだすスーンに、アレスは肩をすくめた。
「いずれは行かなければいけない場所だ。早めでも問題はない」

「死にたいの、アレス?」
「死にたいわけじゃないよ。でも、結局のところどこでも同じだろう?」
 苦笑したアレスに、諦めたようにスーンが息を吐いた。
「死ぬ可能性があるってこと理解している?」

「ああ。だが、それは誰だって同じことだろう。それとも死ぬのが嫌だからといって、別の人間にカプチェランカ行きを任せるか?」
「俺なら問題ない」
「――お前なら一人で相手の基地を全滅させそうだな」
「む。任せろ」

「本当に任せたくなるな。ま、でもいい経験と思うさ」
 赴任が決まった本人にそこまで言われれば、スーンも返す言葉がない。
「わかったけど。でも、生きて帰ってきてよね」
「ああ。約束するよ」

 頷いた言葉に微笑んで、ふとスーンが顔をあげた。
 まだ言いたげであったフェーガンの脇を突いて、にっと笑う。
「さて。僕はこの後挨拶したい教官がいるから、フェーガンもくるでしょ?」
「ん、俺はこの後は特によて……」

「いいから!」
 腕を引っ張れば、フェーガンは不本意そうにそれに突き従った。
「じゃ、元気でね。アレス」
 しばらくの別れにしては実にあっさりとした様子に、アレスは苦笑する。

「何だ、あいつらは」
 と、呟いた背後に、気配がした。
 振り返る。

 そこには無表情に、アレスを見ている少女がいた。

 + + +

「ご卒業おめでとうございます、アレス先輩」
「ああ。ありがとう、ライナ」
 唐突の言葉に対して、礼をいうアレスに、ライナは頭を下げた。
 銀色の髪がゆっくりと揺れて、戻る。

 気を利かせてくれた先輩方に感謝の視線を送れば、遠くでこちらを見ているのがわかった。まるで動物園の猿のようとライナは思ったが、誰かに遠くで見られるよりも、アレスに正面から見られる方が緊張する。
 らしくないですね。
 アレスに視線を合わせながら、ライナは小さく息を吸った。

「後ろで伺いました。カプチェランカに行かれるそうですね」
「ああ。ま、生きて帰ってくるさ」
「当然のことです」
 ライナの眉が不愉快そうにひそめられる。
 普段表情を顔に出さないライナが、珍しく表情を変える。

 ただし、怒ることもなく、まるで拗ねた子供のようだった。
「何か、すまない」
「先輩が謝る事ではありません」
 唇を尖らせる表情に、アレスは困ったように頭をかいた。
 小さく笑えば、ますますライナの機嫌は悪くなる。

 ごめんとアレスが小さく謝ると、仕方がないとばかりにライナは息を吐いた。
 表情を緩める。
「カプチェランカの地は冷えると聞きます。お身体にはお気を付けください」
「ありがとう。そちらもな」
「学校生活で気をつけることもないと思慮いたしますが」

 言いきってから少し考えて、ライナは唇をあげた。
 悪戯気な笑みだ。
「これからは一人で無理だと思ったのならば、少しは助けてもらおうと思います」
「それでいい」
 アレスの手がライナの頭に伸びた。

 唐突に感じた暖かい手に、ライナは小さく目を細める。
「子供ではありません」
 再び口を尖らせれば、ますます子供のようだとアレスは思った。
 それを口にすれば、おそらくは本当に怒りそうだったのでやめておく。
 細く甘い匂いのする髪の感触を感じながら、二度ほど撫でれば、手を止めた。
 名残惜しげに髪を整える。

 そして、ライナは表情をそのままにしてアレスの顔を覗きこんだ。
「先輩は……?」
「ん」
「先輩はどのような副官が理想だと考えられますか」
 一瞬の迷い。しかし、その後に続く言葉はしっかりとした質問だ。
 真剣な表情で問われる問いに、アレスが目を開く。

「いきなりだな。今から副官について考えても仕方がないだろう?」
「端的に、私が学生の間でお聞きするのは今しかないかと思慮いたします」
 まあ、そうだがとアレスは苦笑した。
 おそらくは卒業前に話す事はこれが最後だろう。
 カプチェランカにいけば容易にハイネセンと連絡も出来ない。

 そう思えば、彼女の真剣な問いにアレスは考えた。
 もっとも理想的な副官は、理想的な指揮官と同様に曖昧な答えしかないのだが。
「指揮官のタイプによって、理想とするところは違うと思う。リン・パオ提督に、ぼやきのユースフがついていたようにな。もし、あそこにアッシュビー提督がいたとしても、上手くはいかなかっただろうね」
 同じようにヤン提督にフレデリカ・グリーンヒルがついた原作のように。

 彼女が副官として優秀であったのは、決して参謀としての実力があったわけではない。単純にヤンの生活を含めた壮絶な事務能力の欠如を補った形だ。
 これがライナであれば、難しいかもしれない。
 事務の遂行能力自体は負ける事はないが、フレデリカのように他者への配慮という、対人関係においてヤンの持ち合わせていない面を全て補えはしないだろう。

 だから。
「指揮官を見るのではなく、指揮官の見つめる先を見ると良い」
「見つめる先ですか」
「その指揮官が何を思っているのか、何を成したがっているのか。それを理解することができれば、その指揮官に必要とされる能力も理解できると思う」
「何を成したがっているか、ですか。それは難しい事ですね、自分の能力では解決できないかもしれません」

「必要があると思うのならば、頑張ればいい。それでも無理だと思うのならば、諦めて別の指揮官に仕えればいい。ま、副官なんて所詮は自分が指揮官になった時にどうするか勉強する通過点でもあるし、堅苦しくなく考えなくてもいい。ライナ候補生なら誰でも副官になってもらいたいと思うさ」

「では、アレス――先輩はっ」
「え?」
「アレス先輩はどう思いますか。私はっ!」

「卒業日和だな、アレス・マクワイルド!」

 + + +

 ライナの呟きかけた言葉を奪ったのは、アンドリュー・フォークの笑いだった。
 遠くからアレスを見つければ、上機嫌な様子で声をかけた。
 そんな声にライナの目が、フォークを向いた。
 一緒の取り巻きが思わず歩みを止めるほどの強い視線。
 人でも殺せそうな視線だった。

 しかし当のフォークは気付いた様子もなく、笑顔のままで二人に近づいた。
「優秀なものは羨ましいな。士官学校からいきなり前線とは十年ぶりのことだそうだ」
「随分とお詳しい。説得のためにわざわざ前例を探すのは大変だったろう?」
「なに。そんな大した労力ではない。資料を見るのは得意だからね。ん、なんだ、フェアラート候補生。いたのか?」

「端的に、検査の必要があると存じます。頭の」
「相変わらずだな」
 ライナの視線にようやく気付いて、フォークは頬を歪めた。
 しかし、それだけですんだのは本人が上機嫌だから、であろう。
「ま、今日はめでたい卒業式だ――多少のことは大目に見てやろう」

 呟いて、フォークは唇をゆっくりとあげた。
 アレスを舐めるように、顔をあげて見下すように見る。
 ゆっくりと手を広げれば、言葉を出す。
 確実に伝わるように、ゆっくりと、正確に。

「私は統合作戦本部の人事課に配属されることになった。裏方の仕事で残念だが、いたしかたないことだ」
「なるほど」
 全て納得したようなアレスの言葉に、フォークが笑みを広げた。
 フォークは単に士官学校だけに手を広げていたわけではない。フォークからすれば、学校だからと何もしていない人間の方が愚かに違いがない。

 そこまでは想像すらしていなかったが。
 呆れと共に吐きだしたアレスのため息に、フォークは笑みを止めた。
 代わりに真っ直ぐに向いた視線が、アレスを見る。
 真剣な目だった。

「これが貴様と私の差だ、アレス・マクワイルド。そして、これからも」
 はっきりとした断言とともに、アレスに指を突きつけた。
 それは見下すような言葉。
 ライナも、スーン達も、誰もが聞けば不愉快に感じたであろう言葉。

 しかし、アレスだけにはそうは聞こえなかった。
 子供のような、必死の叫び。
 痩せ我慢をして、他ならぬ自分に言い聞かせている。
 原作で子供のようだと評された彼を思い出せば、決して笑うことも怒ることもできない。彼の真剣な言葉に、対してアレスは笑いを消して、向きあった。

 彼の真剣な言葉に対して。
「ああ。そうだな、次は負けない」
「皮肉だな、アレス・マクワイルド。だが、聞いておこう――君に勝ち目はないだろうが」
 アレスとフォークの視線の交わりは一瞬。

 すぐにフォークが踵を返せば、歩みを始める。
 歩きだす背をみれば、やがてライナが口を開いた。
「端的に申し上げます。私はあの方は好きません」
「俺も好きではないな」

 正直なライナの言葉に、アレスは微笑で答えた。

 + + +

 結局、答えは聞けなかった。
 チャンスを逃せば、もう一度話しを振ることも出来ずに、しばらく世間話をして、ライナはアレスと別れる事になった。

 残念だと、小さく息を吐けば静かに振り返る。
 そこに見つけたクラスメイトの姿に、ライナは眉をひそめる。
「なぜ楽しそうなのです、グリーンヒル候補生?」
「ふふ。フェアラートさんの珍しいところをみれたなって」
「それはよう御座いました」
 歩くライナを追いかけるように、フレデリカは隣に並んで歩く。

「いい式だったね。私も頑張らなくちゃ。フェアラートさんに負けないくらい」
「それは無理でしょう」
「どうして?」
「今まで私は頑張ると言う必要を感じませんでした」

 ライナは呟いて、隣に立つフレデリカを見下ろした。
 冷たい視線が、追いかけるようにいなくなった場所へと向かう。
「しかし、私は隣に立って恥じないように、頑張りたいと、そう思っています」
「それは、私も同じだよ」
 ゆっくりと首を振りながら、フレデリカも視線を遠くへと向ける。

 エルファシルの英雄といわれ、いまだに戦場に立つ人を思い。
「今回の――戦術シミュレート大会で私は自分の実力に気づかされた。だから、頑張りたいとそう思えたから。負けないわ」
「お互いに道は険しそうですね」

「ええ。でも、だからこそやり甲斐があると思うの」
「前向きですね。ですが……嫌いではありません。グリーンヒル候補生。私の事は、これからライナと呼んでください」
 そんな言葉に、フレデリカは目を丸くした。

 そしてゆっくりと微笑む。

「ええ。私のこともフレデリカと呼んでくれると嬉しいな」

 
 

 
後書き
お待たせしました。
エピローグについては書き直しをしたため、一日ほど遅くなってとなります。
第二章の終了となります。

引き続き第三章となりますが、
ストックをためる関係で、再び1~2週間ほどお待たせすることになるかと思います。
ご迷惑をおかけしますが、これからもよろしくお願いいたします。
 

 

~出発~



「まったく、上は何を考えている。戦略研究課程を卒業した者を最前線に、しかも辺境の陸上勤務だと? そんな人事を考える奴も馬鹿なら、それを許可した人間も馬鹿だ。同盟は無能の集まりか?」
 狭い室内に響く野太い声とともに、テレビ電話ではワイドボーンが怒りの形相を浮かべたままに、愚痴をまくしたてている。

 士官学校卒業の立場から個室を与えてくれたのは、良かったのか悪かったのか。
 一緒にカプチェランカに向かう一般兵のように一部屋に押し込まれ窮屈な思いをする事はなかったが、一日中ワイドボーンの説教を聞くのは精神衛生上よろしくはない。
 二日目でアレスは自分の顔を録画して、それをテレビ電話に流すことにした。

 電話の向こうでは、録画されたアレスが神妙な顔でワイドボーンの説教を聞いていることだろう。
 アレスの人事から、部下の無能と上官の使えなさに愚痴が映ったところで、アレスはベッドの上に寝転びながら、本のページをめくった。

「まったく、上を見ても下を見ても無能ばかり。聞いているのか、マクワイルド?」
「ちゃんと聞いてますが。それは俺に怒っても仕方がないことでしょう」
「貴様も貴様だ!」
 どうやら藪蛇であったようだ。

 おさまっていた怒りがぶり返したように、ワイドボーンの声が大きくなった。
「主席でなかったとは言え、貴様の成績ならば、ある程度の希望は聞いてもらえたはずだ。それを配属先の希望なしでだすなど、聞いたこともない。だから、はめられるというのだ」
「そうはいいますが、それならどこなら良かったのです」
「貴様なら艦隊の作戦参謀の見習いや統合作戦本部の道もあったはずだ」

「結局、ワイドボーン先輩やヤン先輩の部下じゃないですか」
「贅沢を言っている場合かっ!」
 叫んだワイドボーンに、アレスは耳を押さえながら苦笑する。
「でも、カプチェランカは出来過ぎですけど、役職自体は悪いものですもないですよ。何せ見習いではないですからね」

「特務小隊で何を見習うつもりだ、馬鹿者」
 呆れた口調で、ワイドボーンは呟いた。
 特務とは名前こそ良いが、特別任務がなければ、何もやることがない。
 決まった仕事もなく、突然振り分けられる仕事は雑用であったり、厄介な任務であったりと様々だ。

 小隊の中に士官学校出の人間はいないし、さらに言えば他の小隊の小隊長も全員が兵卒あがりであった。カプチェランカのような辺境の最前線で、士官学校出の人間を探す方が難しいだろう。
 そんな場所で何を見習うというワイドボーンに、アレスは小さく笑った。
「そちらに行ったところで、最初はコピー取りに、定例の文書作成、あとは事務と雑用といったところでしょう?」
 それが無駄というわけではない。

 最初から誰もが仕事の進め方を知っているわけではない。
 慣れない場所で、コピーを取る事により先輩の仕事の内容を知る。
 定例的な文書を作成することによって、仕事の流れと文書の作成方法を学び、雑務や事務をする事により、人間関係を築く。
 そうして一年も経って中尉となれば、一人前として仕事ができるようになる。

 そんなシステムは、しかし、アレスにとっては無駄でしかない。
 基本的な仕事の進め方など前世で理解している。
 いま必要としているのはそんな基本的な事項ではなく、軍人という特殊な仕事の内容についてだった。それならばデスクで座って事務を進めるよりも、前線にいた方が遥かに学ぶことができる。

 残念なことに時間は有限であって、一年という期間はあまりにも貴重だ。
「なぜ見てきたようにいえる」
「間違えてはいないでしょう?」
「概ね正解だ。腹立たしい事にな」

 吐き捨てるようにワイドボーンは呟いた。
「ふん。まあ、いい。貴様に今更見習いが必要だとは思ってはいない。それよりもカプチェランカ基地の件だが、基地司令のクラナフ大佐はスレイヤー少将の部下だった方だ。公正ではあるが、少々士官学校出の人間には偏見を持っていると聞く」

「偏見ですか」
「現場第一主義というらしい」
「考え方自体は間違えてはいませんよ」
「無尽蔵に金が湧いてくるのならばな。現場は自分の命を考えればいいが、こちらはその費用対効果まで考えなければならないわけだ」

「費用対効果でいうならば、戦争などしなければいいのでしょう」
「それをいうな。話が終わってしまう」
 アレスの言葉に、ワイドボーンが苦笑する。
「ま、あちらの考えがどうあれど士官学校出の若造が好かれることはない。安心しろ――ところで、一つ聞きたいが」

「何です?」
「全く意味のないところで、その通りですというのは何とかならんのか。貴様が変わらぬ毒舌を言った後で、真顔でその通りですと言われれば、何か気持ち悪いものがある」
「そりゃ、録画ですから。相手の反応に応じてパターンを変化できるわけがないでしょう?」

「ああ。それはそうだな。納得したところで、もう一つ質問を良いか?」
「ええ」
 そう言いながら、アレスはそっと両耳に指を入れた。

「お前は人を馬鹿にしているだろう?」

 + + +

 ワイドボーンの説教が終わって、息を吐けば、アレスは手にしていた本に目を落とした。
 惑星カプチェランカ。
 イゼルローン回廊付近に存在する惑星であり、公転周期が六百六十八日。
 そのうち六百日以上に渡ってブリザードが吹き荒れる極寒の大地。

 そのため航空機からの陸上支援はほぼ不可能であり、陸上戦闘がメインとなる。
 こんな最低な環境に自由惑星同盟軍と帝国軍が双方集まって、戦闘を繰り広げているのは、良質な鉱物資源が存在するためだ。
 互いが互いに鉱物プラントの周囲に基地を置き、資源の採集と相手のプラントの破壊を続けている。

「まったく無駄な基地だ」
 と、アレスは呟く。
 資源問題は過去から続いているとはいえ、今更一惑星程度の鉱物が必要なわけでもない。
 ここでしか取れない鉱物資源が存在するわけでもない。
 先のワイドボーンの言葉でいう費用対効果ということを考えれば、一つの惑星に固執して犠牲を払うのであれば、早々に撤退して別の惑星の開発にその金を使った方が遥かに利益は大きい。

 しかし、撤退案がでないのは同盟の国内問題によるところだろう。
 イゼンローン回廊とフェザーン回廊を国境と考えれば、惑星カプチェランカは同盟側の領地であり、自領に存在する資源地であるという思いがある。そこを帝国に奪われたと聞けば、単純に腹立たしくも思うであろうし、次は別の領土を帝国に奪われるのではないかという危機感を感じてしまうのだろう。

 かといって、艦隊を繰り出してしまえば、大規模な大戦を誘発することになり、それは同盟も帝国も望んではない。一惑星の奪取だけを考えるならば、艦隊戦はあまりにも費用がかかり過ぎる。こうして、政治家の議題にカプチェランカ撤退案がのぼることもなく、ただただ小規模な陸上戦を続けることになる。

 現場とすれば無駄な戦いを強いられているようなものだ。ワイドボーンは偏見と言ったが、現場サイドとしては愚痴りたくなる気持ちもわかる。
もっとも、それが向けられるのは今回はアレスということになるのだが。

『まもなく惑星カプチェランカ外周部に到着します。総員はシャトルに向かい、離艦の準備を整えてください』
 機械的な音声が鳴り響き、到着を知らせる合図となる。
 惑星カプチェランカ基地に宇宙港などという有用な施設は存在していない。
 そんなものを出せば、基地の場所が一目瞭然であるし、何より外部からの攻撃によりすぐに破壊されてしまうだろう。カプチェランカ周辺に付けば、そこから小型のシャトルに分乗して、基地へと向かうことになる。

 荷物といっても、旅行鞄で二つほどを手にすれば、アレスは窓から外を眺めた。
 遥かかなたで小さく光る青い惑星がある。
 前世では宇宙旅行など夢物語であり、それこそ物語の中の世界でしか、見る事ができなかった。
 それが現実となって、存在している。

 考えていたような感動がないことが不思議であった。
 アレスにとっては宇宙旅行というものは初めてであるはずなのに、それが当然という思いがあるのは、テレビで宇宙の様子を当たり前に映す現実のためか。
 あるいは物見遊山ではなく、戦場に向かうのだと言う意識のためか。
 どちらにしても、遥か外に映る惑星は儚く、そして小さい。
 一瞥して視線を変えれば、アレスは扉に手をかけた。

「おっと、忘れるところだった」
 壁にのフックに吊るしていたベレー帽。
 自由惑星同盟軍の制帽であるそれを慣れないように頭にのせる。
 前世のイメージからかベレー帽にはいまだに慣れる事はない。
 そもそも帽子をかぶると言う習慣がないのだ。
 制服ばかりは帝国の方がいい。

 そう苦笑して、アレスは頭にのせたベレー帽を深くかぶりなおした。

 + + +

「長い上に遠いな。俺の第一歩がこんなところとは、ついていない」
「冷えますからどうぞコートを羽織ってください、ラインハルト様」
「これくらいどうってことはない。身体よりも心の問題だ、キルヒアイス」

 艦上から外に出て、硬質な音を床に響かせて歩く影があった。
 金髪と赤髪――まだ幼年学校を卒業したばかりの十五歳の若者だ。
 絹のような細い金色の髪と彫像のように整った顔立ち。
 顔立ちが若いために一見すれば女性とも見間違えそうな金髪の若者――ラインハルト・フォン・ミューゼルと同じく幼いながらも優しげな顔立ちをした少年、ジークフリート・キルヒアイスの二人だ。

 苦々しげな表情を隠さないラインハルトに対して、キルヒアイスは彼を落ち着かせようと言葉をかける。そんな姿が母親に心配される子供に思い、ラインハルトは一度は断ったコートを受け取って、身体に羽織った。

「先ほども申しましたが、単に悪いというだけの話ではないでしょう」
「君の悪いことに良いところを見つけるのは美点だと思うが、そこに良いところを探している時点で、それが悪いことであるというのはかえようがない事実だぞ」
「それはそうですけれど」

「まあ、愚痴が過ぎた、許せ。しかし……」
 時折現れる窓から、外を吹き荒れるブリザードの嵐に、ラインハルトは眉をひそめた。
 先ほどから轟々と鳴り響く風の音は、強化金属で囲われた基地施設ですらも吹き飛ばされそうな錯覚に陥る。空調が入っているはずの施設内ですらコートが必要となれば、外はどれほどの気温になるのか。

 我慢できないわけではないが、進んで我慢したくなるほどの性癖はラインハルトにはなかった。ましてや任地が、戦略的に無駄であると思っているラインハルトにとっては、なおさらだ。
「敵地にまで進出して資源採集をやらねばならないほどに、帝国の財政は逼迫してるのか」
「ラインハルト様。お声が大きいです」
「心配するな、キルヒアイス。誰も聞いてはいない。他のものは俺達をおいて、さっさと出ていったじゃないか」

 周囲の関わりたくないという態度は、あからさまなものであった。
 皇帝の寵妃の弟という立場を実感すれば、ますます苦いものがある。
 誰が進んでそんな立場になりたいと思うのか。

「では、ラインハルト様であればどうなさるのですか?」
「俺か。そうだな」
 一瞬不快気に眉をひそめたラインハルトは、キルヒアイスの言葉に少し考えた。
 そして、悪戯をするような子供の表情で、キルヒアイスを見上げた。
「惑星ごと吹き飛ばしてしまうのはどうだ。それならば勝った負けたと無駄な論争を繰り広げる必要もなければ、余計な出費をすることもあるまい。むしろ同盟の有人惑星と資源地を一つ失わせることにもなる」

「なかなかに独創的な案でございますが、それを行うには相当の地位が必要でしょう」
「わかっている。だからこうして、文句も言わずに辺境の惑星に来ている」
「その一歩となると思えば、苦労もむくわれるのではないかと」
「本当に優しいな、キルヒアイスは」

 なだめる言葉に、そこでようやくラインハルトは小さく笑みを浮かべた。

 
 

 
後書き
お待たせいたしました。
感想の返信はもう少しお待ちください 

 

歓迎



 同盟基地司令クラナフ大佐の値踏みする視線と、副官メルトラン中佐の出迎えで、アレスの新生活は始まった。
 任務について尋ねても満足な答えは返ってこない。
 とりあえず、最初は小隊に慣れるように命令が下される。

 司令たちも戸惑っている。
 最前線に卒業したての人間が配属される事などあり得ない。
 小隊長と同じような任務を与えて、満足な結果なぞ望むべくもなく、かといって遊んでいていいと言えるわけもない。

 こうして、時間を稼ぐつもりで与えられたのだろう。
 命令に対して敬礼を行い、部屋を後にしようすれば、髭を蓄えた初老の男性がアレスに声をかけた。
「ここでは学校とは違い、常に死が隣にある。気をつける事だ」
「それは、既に経験済みです、大佐」

「本当に理解していればいいがな」
 アレスの言葉に対して、クラナフは鼻で笑った。
「上とは分かっているといいながらも、なかなか現場を理解しないものだ。私も随分と苦労した」
 現場第一主義と評したワイドボーンの言葉を思い出す。
 なるほど、確かに司令官は士官学校出のアレスには良い印象を持っていない。

 机の上で腕を組みながら、クラナフは静かに言葉を口にした。
「上は現場に死ねと命令する。敵基地を攻略して、死者が数十ならば御の字だと。だが、実際に上が死ぬ一人の事を一度でも理解した事があるのか……葬儀に出る残された者たちに頭を下げたことなどない。ただ戦果だけが結果となってな」
「……」

「これから君は上に行くだろう。だが、数字だけで全てを判断する人間にはなって欲しくない」
「覚えておきます。では、失礼」
 敬礼で答えて、アレスが退出する。
 しばらくして、髭面の男性が脇に控えていた副官に顔を向けた。
 四十ほどの壮年の男性だ。

 強面のクラナフとは違い、どこか控えめな事務官風の男だ。
 さてと呟き、腕を組めば、背もたれに身体を預ける。
 体重が集中して、椅子が軋んだ音を立てた。
「小生意気に。どう思う、メルトラン中佐」
「まだ出会ったばかり。ましてや士官学校を卒業したばかりでは、判断も出来ないでしょう。噂だけは聞きますが、それが事実かどうかは分かりかねます」

「まったく、上の考えることは、分からない事ばかりだ。こちらに迷惑ばかりを押しつけだけで、こちらの苦労を考えようとはしない」
 呟いた言葉で、気付いたようにメルトランを見て、クラナフは謝罪を言葉にする。
「すまない、非難しているつもりはない。君は良くやってくれている」

「気になさらないでください、大佐。私は上からすれば現場に染まったはみ出し者。実際に同期に比べれば昇進も遅いし、このまま前線か後方基地の転勤生活でしょうな」
「あまり自分を卑下するなといいたいが、私も似たようなものか」
 クラナフの自嘲めいた笑い声が響いた。
 鳴り響く風の音に窓へと目を向ければ、叩きつけるような雪が強化ガラスの窓を揺らしていた。硬質的な金属と土壁で出来た壁や吹きつける雪景色ではなく、外の景色を見たのはいつ振りだろうか。

 立ち上がって窓に近づき、手をかけた。
 ひんやりと冷たい強化ガラスははめ殺しであって、開く事などできない。
 開けば、その瞬間マイナス十数度もの冷気が身体を襲い、肺まで凍りつかせる。
 極寒の環境にも関わらず、兵士達は十分にむくわれているとは言い難い。
 大佐までの地位に来れば、それが容易ではない事は理解できている。

 ハイネセンですらインフラによる事故が多発している中で、軍にだけ予算をかけることはできない。しかし、そんな予算は現代戦のために主に艦隊の整備にとられて、兵士の生活環境にかけられるお金は極僅か。
 そんな僅かなお金ですらも主戦論が幅を利かせる本部に吸い取られている。
 ――そんなに戦争がしたいのであれば、最前線で戦い続けて見ろ。

 そう呟いた言葉は、音にはならない。
 クラナフが、大佐の地位を持つ人間が言うにはあまりにも不適切な発言だからだ。
 窓から目を離して、出ていった新任の特務小隊長を思った。
 アレス・マクワイルド少尉。
 士官学校での最終成績は八位と一桁に入る優秀な成績。

 射撃技術と艦艇操縦の成績が足を引っ張らなければ、主席にも匹敵しただろう。
 昨年の士官学校のシミュレーション大会では国防委員直々に表彰されており、テレビでも放映されている。
 何よりも、クラナフ自身が尊敬するマイケル・スレイヤー少将が気にしている。
 クラナフの思いだせる限りで、スレイヤー少将が褒める事などほとんどない。

 ただの見習いであれば雑用をさせて、さっさと追い出せば良い話。
 だが、ただの見習いだと無視できない理由がそこにあった。
 ここは惑星カプチェランカ。
 最前線の戦場であり、その場には猫の手すら必要としているのだから。

 + + + 

 指令室を出て、歩けば狭い廊下の外にブリザードの吹き荒れる景色が見えた。
 断熱の関係から最小限に備え付けられた窓に、雪と氷が張りついている。

 厚い雲に覆われた世界は常に薄暗い。
 そんな環境下において、目を細めれば、外で歩哨に立つ兵士の姿があった。
 フルフェイスの完全装備で身を固めた兵士は、ともすれば中世の騎士のようだ。
 この後の予定を、アレスは思い返す。
 カプチェランカについたのが午後。

 クラナフ大佐への挨拶が済み、正式な任務自体は明日以降だ。
 予定としては小隊員との顔合わせがあるはずであるが、顔合わせの場所が伝えられただけで、出迎えは一切ない。
 外を見ても時間が判断できないために、時計を見る。
 時刻は午後五時を差していた。

 まだ少し時間がある。
 ならばと防寒着をさらに厚く着込んで、被り慣れないベレー帽を外す。
 向かうは基地と外部を隔てる分厚い隔壁だ。
 二段階もの厚い扉をくぐれば、寒波と暴風がアレスを襲った。
 わずかに開ける瞼に容赦なく叩きつける雪を払いのけ、周囲を見渡す。

 自由惑星同盟が作られた基地は山岳を掘り抜いた坑道だ。
 戦闘機やヘリの類が使えない状況であれば、ここに向かうには一本の山道を使うしかない。
 山道と基地前を繋ぐ場所は装甲車と除雪車に阻まれ、容易には攻め立てる事はできない。
 先ほど見かけたフェイスガードの兵士が、装甲車から頭だけを出して、山道を監視している。
緊急時には装甲車による面に対する砲撃が、敵を迎え撃つ。

 ハイネセンからの長い旅路で、頭に叩き入れた防御態勢が思い浮かんだ。
 正確に言えば、それ以外の防御態勢はとれないのだろうと思う。
 環境の厳しさが攻撃や守備を画一的なものに変えてしまっているのだ。
 しかし、カプチェランカか。
 その名前に聞き覚えがあっても、どんな基地であったかなど頭に入っていない。

 行きの船の中で必死になって思い返してみたが、ラインハルトが殺されかけたという基本情報以外に思い浮かぶことはなかった。
 同盟基地は攻められるのだったろうか。
 ならば、あの天才はどう攻めてくる。
 雪深い地面を歩き、アレスは周囲を見渡す。
 敵の目的は、そして、それはこちらの目的にも言えることであるが、基地施設の破壊が主となるだろう。正確に言えば、資源の採集プラントの破壊だ。

 プラントが破壊されれば、再びプラントを建設するのに時間も費用もかかる。
 逆に言えば、費用と時間さえあれば、一つの施設を失っても、また別の場所に建設することが可能であるのだが。
 しばらく歩きまわって、アレスは周囲の観察を続けた。
 入口近くの兵士が、そんなアレスの様子に気づいた様子であったが、声はかけてこない。

 おそらくは士官学校のお坊ちゃんが、物珍しく観光をしているだけとでも思っているのであろう。すぐに興味を失って、再び山道の監視に意識を戻していた。
 まあ、間違いではないんだけどな。
 雪の中に伸びた道が、左右に続いている。
 山道を使わず、左右の山を見れば、決して歩くことは不可能ではないようだ。
 もっとも装甲車を使わない現状であれば、十分ほど外にいるだけで既に冷え始めた気温を考えて、長い間歩くことはできないだろう。

 基地の周辺を一回りすれば、アレスは入口の方へと足を進めた。
 装甲車やミサイル車両に混じって、基地建設用の工作機器が置かれている。
 外周部が雪で覆われているそれを、アレスは手で払った。
 惑星を中央において、赤色の文字が周囲を囲む、企業のロゴが眼に映る。
 それはフェザーンを資本とする巨大企業の名前だった。

 アース。
 原作では名前すら存在しない――だが、確実に同盟はもちろん帝国にすら名前の知られ、食い込んできている。
 そのロゴをゆっくりと手でなぞり、アレスは苦笑した。

 気をつければいいのは、決して原作の敵だけではなさそうだ。

 + + +

 惑星カプチェランカBⅢ基地。
 人払いを行った司令官室で、白髪の男は静かに息を吐いていた。
 ツェーザル・ヘルダー。
 この基地の司令官であり、全ての権限を手にしている男だった。

 年は五十を半ば過ぎており、退役までは幾ばくも無い。
 この年齢と階級であれば、帝都で勤務して、残る軍隊の生活を全うしているであろう。しかし、貴族ではないということから、いまだに最前線の地で司令官の職についている。
 帝都に残してきた家族と最後に会ったのは、どれほど前であろうか。
 戻りたいと考えていても、それはこの地では敵わない。

 どれほど敵を倒そうと、基地を破壊しようと、帝国からすれば最前線とはいえど、一つの惑星の一つの基地でしかない。
 単純な計算の話。
 同盟基地を完全に破壊したところで、自由惑星同盟の兵は千にも満たない。
 宇宙艦隊で巡航艦一隻を破壊する戦火にすら及ばないのが現実である。
 おそらくは退役までの年を数えながら過ごすしかないと諦めかけていた時、新任の幼年学校の生徒の赴任とともに与えられたのが、一通の手紙だった。

 それは決して表立っては見せられない。
 ベーネミュンデ侯爵夫人から届けられた命令だ。
 手紙に再び目を通して、ヘルダーは内容を確認した。
 そこには先日赴任した金髪の小僧を殺す事ができれば、帝都への帰還とヘルダーの出世を約束するというものであった。

 内容を確認すれば、手紙を閉じて、周囲に目を光らせる。
 大丈夫だ。
 誰もいないことは、何度も確認している。
 この部屋にはヘルダー一人しかおらず、この事を知っているのは、この基地では自分だけである。
 もっとも、あの侯爵夫人であればヘルダーが裏切らないか監視する人間が紛れ込んでいてもおかしくはないが。
 いや、紛れ込んでいるだろうと、ヘルダーは思う。

 もしこれが表沙汰になれば、ベーネミュンデ侯爵夫人は少なからず被害を受ける。
 ヘルダーが裏切ればどうなるか。
 事故死に見せかけられて、手紙は回収される。
 おそらくは二度と家族には会えない。
 ヘルダーは机の脇に置いた写真をなぞった。

 そこには笑顔で映るヘルダーの妻と子供の姿がある。
 あえなくなって久しく、もはや写真だけの顔がヘルダーにとっては妻の顔だ。
 子供は大きくなっただろうか。
 妻は元気にしているだろうか。

 もう二度と抱く事はできないのか。
 なぜ。
 手にした手紙に皺が寄り、思わず破りかけた手を止めた。
「私は何か悪い事をしたか」
 呟いた言葉は、自嘲めいている。 

 帝国のために敵を殺し、何度も死線を駆け抜けた。
 怪我をした事は何度もあるし、親友だった男が目の前で頭を吹っ飛ばされたのも見た。
 それでもヘルダーは帝国のため、同盟と戦い続けてきた。
 その結果が、このカプチェランカの司令官であり、貴族からの脅しである。

 訴えたところで、解決するはずもない。
 ヘルダーは奥歯を噛んだ。
 憎かった。
 地位の前には自分など何ら意味がない現実が。
 のうのうと寵妃の弟という事で軍に入っている金髪の小僧が。
 命令に従う事を当たり前と思っているベーネミュンデが。

 怒りにまかせて叫びたくなる現実を、ヘルダーは大きく息を吸って我慢する。
 いいだろう。
 貴族様が俺にそうしろというのであれば、してやろう。
 貴族の小僧を一人殺すことなど、ヘルダーにとっては罪悪感すら生まない。
 今まで同じように、貴族の命令で何百人もの同盟軍の兵士を殺してきたのだから。

 それと何ら変わらない事。
 ただ、今回は味方にも知られてはいけないというだけであるが。
「そうなると自分一人では少し手に余るな。誰か適任を探さなくては」
 この任務は単に優秀な者に任せるわけにはいかない。
 副官のマーテルの名前が浮かび、すぐにヘルダーは頭から消した。

 奴は駄目だ。
 生真面目すぎるし、何よりも度胸がない。
 知らされれば、すぐに公にして自分の立場を守ろうと考えるだろう。
 だとすると、ゲルツかフーゲンベルヒか。

 誰もいない室内で、一人ヘルダーは考え続けた。

 + + + 

 雪を払って自室でシャワーを浴びてから、顔合わせのところに行けば、既に飲み会が始まっていた。
 何だこれは。
 想像していた場所とは違う
「あ、小隊長。時間が過ぎちゃったんで、もう始まってますっ」

 ウィスキーの瓶を片手に、若い男が笑っていた。
 時計を見れば約束の六時を確かに一分ほど過ぎている。
 しかし、それは一分で酔える量じゃないだろう。
 ウィスキー一本を一分で空にするのか。
 説明を求めるために周囲を見れば、およそ二十名ほど。

 自由惑星同盟の正規小隊の部隊数からすれば、半分程度の数が、こちらを見もせずにわいわいと酒を飲んでいた。
 騒がしい室内に目を走らせれば、退役寸前と思しき老人が一人ちびちびと日本酒を口にしている。白髪の髭を日本酒で濡らし、顔を赤らめて、実に幸せそうだ。
 周囲の様子から、格が一番上であるらしい。
 階級章には軍曹とある。

 別段酒が入る事が悪いとは思わないが、酒が入る前に聞きたい事もある。
 ワイドボーンであればどうするだろうか。
 全員を怒鳴りつけて、殴っているような気がする。
 優しいアレスには、それは出来そうもない。

「ほら、隊長もぐいっと行きましょう?」
 アレスが頭を押さえれば、気軽に肩に手をおいて、男が首を傾げた。
 一緒に酒瓶も斜めになる。
「飲む前に、少し話したいんだけど。酔いはさめそうか?」
「あはは。話は幾らでも大丈夫ですよー。ただ、酔ってますけど」

「そうか。じゃあ、酔いを醒ましてもらわないとね」
「どうするんですか、小隊長?」
「酔いを醒ますことは簡単だ。俺は優しいから」
「はは。そうです、明日になれば全員酔いもさめてます、自己紹介何て形だけのものは明日にすれば大丈夫。さー今日は諦めて飲みましょう!」

 アレスの手を引いた若者の手を握りしめて、アレスは微笑んだ。
「全員、裸で外に出ろ。パンツ一つも付けるなよ?」
「へあっ?」

 小鳥が首を絞められたような声に全員がアレスを見た。
 そんな面々に対して、ゆっくりと笑顔で見渡しながら、もう一度アレスは言葉を口にする。
「聞こえたか。酔い覚ましのため、全員素っ裸で外だ。もちろん爺さまもな?」
「ほあっ?」

 猿が首を絞められたような声を、年長の軍曹は口にした。


 

 

前途多難



 全員素っ裸で表に叩きだし、凍死寸前で回収する。
 一度シャワーを浴びさせて再び集合させれば、いまだ青い顔をした小隊の面々が静かに自己紹介をする。
 酔いは程よく醒めたらしい。

 全員の名前と顔を聞いてから、アレスも自己紹介をすませた。
 用意された席に座れば、テーブルに用意された酒を注いだ。
「じゃ。さっきの宴会を続けてくれ。待たせたな」
 言葉に全員が一瞬の戸惑いを持って、アレスを見る。

 集中する視線。小隊の男達は誰一人として、グラスを持とうともしていない。
 窺うような視線に、アレスが首をひねる。
「どうした?」
 問う言葉に、視線の集中がずれた。

 アレスから爺さん――ルーカス・カッセル軍曹へと。
 視線が集中して、カッセルが朗らかにアレスに話しかけた。
「よろしいのですか。皆はあれで終わりかと思っていたのですが」
「酔いが醒めて自己紹介もすめば、別にやめさせる理由はない」

「と、のことだ。全員グラスを持て」
 それまでの柔らかい言葉から一転しての野太い声に、全員がグラスを持った。
「さ、小隊長」

 カッセルから促されれば、アレスは眉をひそめた。
 しかし、すぐに気付き、自分もグラスを手にする。
「乾杯」
 声が響き、一斉にグラスが打ち鳴らされた。

 冷えた身体に酒が入れば、たちまち騒がしくなった。
 置かれていたウィスキーのボトルが次々に空になる様子に、アレスは苦笑しながら、ウィスキーに口をつける。
 懐かしい苦さが腹に落ちて、アレスは眉をしかめた。

 酒を飲むのは前世以来だろうか。
 飲み過ぎるとまずいな。
 酒は一口ほどにして、テーブルにおけば、ツマミというには余りにも質素なチーズを口にする。テーブルに並ぶのは全てが乾物や加工食品であり、生鮮食品は並んでいない。

 それでも嬉しそうに隊員達は頬張っている。
 そんな様子に小さく微笑すれば、
「飲んでますかな?」
「ああ。いただいている、ただあまり飲み過ぎるとよくないんでね。過去の経験から……」

「おや。まだ若いですが、経験がおありそうですな。しかし、一杯くらい大丈夫でしょう?」
「それくらいならば」
 自分の手元のウィスキーを空にして、カッセルからウィスキーを注がれる。
 返杯をしようとウィスキーを手にすれば、カッセルは日本酒のようだ。

 年季の入ったお猪口に、日本酒を注げば、うまそうに飲みほした。
「見事なものですな」
 眉根を下げながら、しみじみと呟く姿に、アレスはクラッカーを口にしながら、疑問を浮かべる。

「普通の上官でしたら怒りに任せて怒鳴りつけるか、こちらに迎合したところでしょう。それをいきなり……」
 思いだしたのかカッセルは小さく笑った。
「まさかこの年で素っ裸にされるとは思いませんでした」

「昔の経験上、騒ぐ奴らは一人一人を相手にするよりも、頭に命令した方が上手くいきますからね。それにどうせあなたがやらせたんでしょう」
「若いのに随分と人生経験が豊富なようですな」
「人の倍ほどはね」

 渋い顔をしたアレスに、一瞬目を開いて、カッセルはお猪口を口にした。
 上手いと朗らかに笑う様子に、アレスは苦笑する。
「それよりも、そちらこそ良いんですか」
「何がです」

「試していたなど、口にされて」
「よいでしょう。もう試す必要もない。少なくとも私はそう思いますな」
「理由を聞いても?」
 アレスの問いに、日本酒を自分で注ぎながら、カッセルは再び口にする。

 酒臭い息を吐けば、満足そうに微笑んだ。
「この席がその理由ではないですかな」
 答えに対し、アレスは眉をしかめた。
 周囲を見渡せば、誰もが嬉しそうに酒を頬張り、芸なども始まっているようだ。

 思い思いに楽しむ様子を、カッセルは嬉しそうに見ていた。
「怒鳴りつけるか、迎合するか。それ以外の展開があったにしても私はこの宴会は、その時点で終わりだと思っていました。少なくとも楽しんでは飲めないだろうと……しかし、小隊長はこの辺境の惑星で宴会の席がどれほど貴重なものか理解してくださっていた」

「貴重な宴会なら、試そうと思わないで欲しいですけどね」
「自分の命を預ける上官なのです。貴重な宴会より重要なことですな」
「よく言いますね。命など預けるつもりもないくせに」

 呟いた言葉に、カッセルは朗らかな顔を一変して、小さく目を開いた。

 + + +

「怒声をあげたら、新任にしては勇気がある。迎合すれば度量が大きい――理由をいろいろつけて、最後にはこういうのでしょう。小隊長になら命を預けられると」
 グラスの中でウィスキーを回しながら、アレスは苦笑した。
「誰だって他とは違うと言われれば嬉しい。持ち上げてくれる部下を、死地に送りたいとは考えない。結局――あなた達は誰にも命など預けないでしょう」

 カッセルを見もせずに呟く言葉に、カッセルが小さく唾を飲み込んだ。
 手にした日本酒を見もせずに、じっとカッセルはアレスを見ている。
 カッセルの言いたい言葉は良く分かった。

 しかし、それを口に出せない。
 だから、アレスはグラスで周囲を差した。
 そこには思い思いに酒を飲んでいる隊員達がいる。
 だが、各々の席では飲んでいても、誰一人アレスとカッセルに近づいてこようとはしない。

 誰も移動をしようとしない。
 何も知らない人間であれば、そういう席だと思うだろう。 
 だが、アレスは知っている。
 通常の宴席というのがどういうものか。

「本来なら自分の命を預ける人間。例え軍曹が認めたからといって、自分の目でも少しは見たいと思うでしょう。でも、誰も近づいてこようとしない。あなたが持ちあげるまで近づくなとでも言ったのではないですか?」
 違いますかとの問いかける視線を受けて、カッセルが目を開いた。

 その表情はまさしく図星を指された様子で、否定の言葉も浮かばない。
「あっはっはっ!」
 カッセルは笑った。
 声に出して笑う言葉に、周囲の喧騒があっという間に引いた。

 静かになった宴会の席で、響くのはカッセルの笑い声だけだ。
 その笑い声に周囲が戸惑いとともに、ざわめき始めた。
「いや、はは。失礼――」
 何でもないと周囲にカッセルが伝えれば、隊員たちも戸惑いがちではあるが、再び酒を飲み始めた。

 それでも周囲の意識がアレス達の方に向いているのがわかる。
 何を話しているのか。
 先ほどまでのバカ騒ぎよりも、少し小さくなったざわめきの元で、カッセルは手ぬぐいで涙を拭いながら、日本酒をお猪口に注いだ。

 飲み干す。
「その通りですな。確かに我々は死ぬ気などない」
 続いた言葉に、アレスは黙って話を聞いていた。
 周囲に聞かれぬように小さく呟いた言葉。

 それは微かにアレスの耳に入ってくる。
「あなたならもうお分かりでしょう。この特務小隊は小隊長の赴任に伴って急遽作られた臨時の部隊。各部隊から選りすぐられた不適格者の集まる場所」
 正直な言葉にアレスは特に驚かず、ウィスキーを口にする。

 任務すら与えられていない部隊に、優秀なものが配属されるわけがない。
 使えそうもないものを押しこんだ。
 それが正解なのであろう。
「少尉。私はもう五十九になります。残すところ一年を切りました――もう死ぬよりも退役して孫を抱いてやりたい。そう思います、駄目ですかな」

「死にたくないというのは別に間違えてはいないでしょうね」
「ええ。他のものも同様です。私などよりも遥かに若いが、死ぬのが恐いもの。毎日繰り返される殺し合いにうんざりしたもの――上への不信感を持ったもの。理由は様々ですが、戦場では役には立たない。そう判断されたものが集められた」

 しみじみと呟いて、カッセルは再び日本酒をあおる。
「そんな者たちに、小隊長は死ねと命令いたしますか?」

 + + + 

 タヌキ爺。
 アレスはカッセルの言葉に答える言葉はなかった。
 カッセルの言葉は事実。
 だが、それを伝える事でこちらの士気を折りに来た。

 アレスがいくら騒いだところで、すでに彼らの評価は地面すれすれで代わる事などない。
暖簾に腕押しであれば、さっさと別のところに転属したいと思うだろう。
 そして、彼らもそれを望んでいる。
 人生経験だけは無駄に豊富な様子に、カッセルを一目見れば、悪戯がばれた子供のような顔を浮かべた。

「小隊長。お注ぎします」
 どうするかと考えたところ、前に立つ人間がいた。
 短く刈りあげた頑健そうな青年。
 年のころはアレスと同じか少し下であろう。

 頬についた傷が青年が戦場に出ていた事を示している。
 引き締まった筋肉がシャツの上から盛り上がって見えた。
 それがウィスキーを持って、前に立っている。

 カッセルを見れば、アレスの視線の意味がわかったように、頷いた。
「グレン・バセット伍長です」
「ああ。伍長、ありがとう――少しでいいよ」
 そういって差し出した器には、なみなみとウィスキーが注がれる。

 バセットを見れば、黙ってアレスを見ていた。
 苦笑し、飲み干す。
 熱い液体が身体に流れた。

 そして、再び差し出されるウィスキーの瓶。
「いや。もういい……飲み過ぎると悪いからね」
「お注ぎします」
「いいといったはずだが?」

「卒業したての新任小隊長は、酒はあまりお得意ではありませんか?」
「苦手ではないが」
「なら……」
 再び注がれる液体に、アレスは思案する。

 一度ため息を吐いて、再びそれを飲みほした。
「少しは飲めるみたいですね、小隊長」
「ああ、少しはね。だからこれ以上は勘弁してもらいたいな」
 代わりに返杯をしようとして、バセットは微笑を浮かべただけだった。

「結構です。私は仲間の酒しか注いでもらわない」
「伍長」
 カッセルが厳しい視線を向ければ、アレスは頭をかいて苦笑する。
「酷い言葉だな。じゃ、注げるようにこれから頑張るさ」
「期待しておりますよ、小隊長」

 呟いて戻る背中を見て、アレスはため息を吐いた。
 平和な退職を望むタヌキ親父に、最初から喧嘩腰の伍長。
 これが二つしかない分隊の、それぞれの分隊長であるというのだから。

「前途は多難だな」
 ため息を吐いて、アレスは酒を口に含んだ。
 

 

雪原の戦闘



 ブリザードが吹き荒れる中で、男達が叫び、雪の壁に潜ませる。
 分隊長バセット伍長が指で合図を送り、左右から男達が飛び出した。
 左から飛び出した男は、敵の集中砲火をくらい、雪に埋まる。
 だが右から飛び出した男は、左に集中した男に一撃を入れるや、前方の壁まで走ってたどり着いた。
 荒い息を吐きだして、集中する攻撃に耐える。

 僅かばかりの雪壁は、攻撃によって次々と削られていった。
「援護しろ」
 吹雪の中で、バセットの声ははっきりと聞こえた。
 繰り返されるバセットからの攻撃に、男へと向けられていた攻撃がやんだ。
 即座に男は両腕に武器を握りしめて、走り出す。

 狙いは陣地の中で、こちらを攻撃していた敵兵だ。
 敵陣地に飛び込むや両の手から放たれた攻撃は、狙いたがわず敵の頭部を捉えた。
 雪に埋もれる兵士には構わず、すぐに男も雪の中へと身体を差しこんだ。
 直後、頭の上を攻撃が駆け抜ける。

 やばいやばい。
 小さく呟きながら、ごろごろと身体を回転させて攻撃を避けた。
 そこへ再び味方からの援護があった。
 敵の攻撃が弱くなる。

 ならばと再び男は身体を跳ねるように起き上がらせて、走った。
 敵の陣地に靡く旗。
 そこまでは雪の壁一つ隔てだけでおり、味方の援護によって、攻撃は少ない。
「全体、突撃!」

 バセットの号令とともに、歓声をあげて、後方から兵士が続いた。
 攻めどきだと。
 そう判断しての行動であろう。
 敵陣に一人先行した男も、同様の意見であった。

 突撃最中は無防備であり、敵から攻撃があれば、一たまりもない。
 だから、男は走った。
 既に限界を告げる肺に力を込めて、相手の攻撃を少しでも減らすために。
 直後。
 自分の身体が沈んで、一瞬にして、男は下半身を雪に埋めた。

 何がと思う間もなく、男の高笑いが聞こえる。
「はっはっは。馬鹿が罠にかかりよったわ。それ、全員攻撃じゃ!」
 笑った言葉とともに、カッセルの雪玉が男の顔面を直撃した。
 死亡。

 続く陣地からの攻撃に、突撃の最中であったバセットを初め、第二分隊の兵士達は誰も止められない。
 次々と繰り出される雪玉に、男達は撃破されていった。
「そこまで。第二分隊全滅のため、第一分隊の勝利とする」
 防寒着を着こみながら、白い息を吐いて、アレスが脇から現れた。

 いまだに高笑いするカッセル軍曹に近づいて、小さく苦笑する。
「相変わらず悪辣な爺さんだ」
「まだまだ若い者には負けてられんわい」
「バセット伍長にも爺さんの半分くらいの悪辣さがあればな」

「それは勘弁じゃな。第一分隊の連勝記録は、相手が馬鹿だから成り立っているものだからの」
「その第二分隊に背中を預けるって事を忘れるなよ、爺さん」
「そりゃますます勘弁じゃな。わかった、今度少し話をしておこう」
 大きく笑う様子に、アレスは小さく苦笑した。

 特務小隊に与えられた任務は、主として訓練活動であった。
 攻撃を任せるにも、守備を任せるにも不安がある。
 そのため時間を稼ぐためにも訓練を主体として、雑用の任務が与えられた。
 こうして午前中は雪合戦を、午後は車両の整備が彼らの日課だ。

 雪合戦をしながらも、アレスはそれぞれの特徴を頭に入れていた。
 カッセル本人は不適格者の集団と言葉にしていたが、訓練が始まって一カ月ばかりの様子を見れば、決してそれだけではない。
 第二分隊を預かるバセット伍長は確かに頭が少し足りないところはあるが、戦闘能力自体は優れている。突撃のタイミングや動きなど、一流と呼んでも差し支え使えない。

 相手がカッセルでなければ、おそらくは今回の突撃も上手くいっていたはず。
 他にも何人か。
 やる気がないなどの性格的欠点がなければ、兵士としては十分過ぎる。
 いや。

 眉を細めてカッセルを見れば、首を傾げて、こちらを見る。
「ほっほっ、何かな」
 この爺さんに至っては、単に兵士だけにおいておくのはもったいない。
 相手の行動を上手く読み、冷静に目的のものを見極める。
 口も達者だ。

 参謀としても十分活躍できただろう。
 そう考えれば、もっとやる気になれよと思わなくもないが、もはや退役寸前の老兵にそれを求めるのは今更の話であった。
「しっかり後輩に教えておいてくれ。じゃ、全員風呂に入って、午後から車両の整備だ。風邪をひかないようにな」

 手を振って、アレスは感覚のなくなり始めた手をポケットに入れて、歩く。
 そんな背中をカッセルは小さく笑い、振り返った。
「よし。全員三分で撤収だ。遅れるなよ、凍死しても放って戻るぞ?」

 + + +

 基地内に設けられたシャワールーム。
「エリートさんだから厳しいかと思ったが、案外そんなことはないな」
「毎日が雪合戦だけどな」
「同じ雪に埋まるなら見張りでじっとしているよりはましさ」

「そら、そうだ」
 一斉に起こる笑い声。
 一時の休息の和やかな雰囲気をかき消したのは、バセットの怒声であった。
「何分浴びてるつもりだ」

 苛立たしげな声に、雑談していた兵士達が慌てたように素っ裸で外に飛び出した。タオルで体を十分に拭かず、軍制服に身を包む。濡れた髪から水滴を垂らしたままで、男達は慌てたように敬礼をした。
「失礼しました。伍長!」
「ああ。風邪をひかないように、乾かしておけ」

 それだけを兵士達に告げれば、バセットも服を脱いだ。
 引き締まった筋肉を露わにして、首元には認識票が二つ下がる。
 それを小さく手でもて遊べば、不愉快そうにシャワー室の扉を開いた。
 目隠しもなく、固定式のシャワーが横に並んでいる簡素な部屋だ。

 湯気のところ室内に入り、無造作に蛇口をひねれば、熱い湯がシャワーから飛び出した。
「随分と荒れているようだな。伍長」
「あ……? 軍曹」
 眉間にしわを寄せて見れば、それが遥か年上の上官であった事に気づく。
 慌てたように敬礼を行えば、カッセルは苦笑を浮かべた。

「手を頭に持っていくよりも、先に隠すものがあるだろ」
「し、失礼しました」
「よいさ」
 小さく笑い、バセットの隣に立って、カッセルも蛇口をひねった。

 湯が噴き出す音と水が排水溝へと流れる音がする。
 しばらく二人は無言で髪を洗えば、カッセルが口を開いた。
「荒れている原因はマクワイルド少尉かな」
「言わなくてもわかるでしょう」

「ふむ。それは期待のし過ぎだな。誰もが自分と同じように思っていると思いこむのは危険だぞ?」
 壁面に備え付けられた鏡で、自らの顔を映してカッセルは呟いた。
 取り出したのは、T字型のカミソリだ。
 カッセルが髭を整える様子を、鏡越しに見ながら、バセットは息を吐いた。

「あの訓練に何の意味があるのです。ただ遊んでいるだけにしか見えません。馬鹿な兵士はその方が嬉しそうですがね――人気取りのつもりですか」
「そうかな」
 カッセルの否定の言葉に、バセットは眉をひそめる。
 しかし、そんな様子を気にした様子もなく、カッセルは丁寧に髭を整えていく。

「人気取りなら訓練自体させないだろう。伍長からすれば遊びかも知れんが、部下達は雪原での行動に少しずつは慣れてきている気がするがね」
「あれだけ外で走りまわれば、馬鹿でもなれるでしょう」
「それだけでも訓練の成果はあったと思うがね。それとも伍長は一日目のように雪に足を取られて、突撃中にこける部下を持ちたいか?」

「雪原での行動など基本中の基本です」
「それが出来ないから特務小隊なのだろう」
 カッセルはかかと笑い、バセットは憮然と口を尖らせた。
 分が悪いと思う。

「では、午後の整備はどうです」
「整備がどうかしたかな」
「少尉は装甲車の脳波システムについて、随分と御執心の様子。今更、緊急時には手動に切り替えられないかといわれて、整備兵が随分と困ってました」
「ああ。脳波による認証だったかな」

「それを手動に切り替えられるようなら、何のための認証なのです。上にまで改善要望を出したそうです、あっさりと断られたそうですが。まったくそれに何の意味があるのですか」
「さてな。上の考えることは私らにはわからんよ」
「そこです」

 シャワーの蛇口を閉めて、バセットが苛立ったように呟いた。
「上の考えとやらは、こちらの事を何も考えない。それで間違えて死ぬのは私らだ。だから上は信用できないというのです」
「ふむ。お前の気持ちもわからない事はない。だが、いまの現状にお前は何が不満なのだ」

「全てです。遊びのような訓練に、勝手に変えようとするシステム――ここは戦場だ。三次元チェスに興じる文官など必要ない」
 怒りを込めて呟いた言葉に、しかし、返ってきたのは冷ややかな視線だった。
 老兵の青い瞳が、鏡越しにバセットを捉える。

 その視線でバセットは冷水を浴びせられたように、言葉に戸惑った。
「訓練と整備だけで一日を過ごす。敵の攻撃されたら真っ先に死ぬ見張りや偵察をする必要もない。もう一度聞くが、それの何が不満なのだ」

「それは……」
「私はもう退官まで死ぬ気はない。君が向上心を持って、不満や不平を述べるのはかまわん。好きにしたまえ。だが、部下やわしらまで巻き込むまれるのは困るね」
「私も上を信頼しているわけではありません」

「そうは見えんがね。もっとこうしてくれれば良いと、そう望んでいるように聞こえるが」
「……失礼しますっ」
 老兵に対する答えはなかった。
 身体を洗っていた手ぬぐいを手にすれば、カッセルの隣を通って、勢いよく扉を閉めた。
 元より立てつけの悪い古い施設。

 衝撃によって、大地が振動して、カッセルの手元がぶれた。
 その背を見送れば、カッセルは冷ややかな視線をやめて、どこか郷愁を思わせる表情を見せた。
 目を細めて、息を吐く。
「やれやれ、怒るくらいに私も若くはありたいものだな」

 無理だろうがと呟けば、視線を鏡へと戻した。
 そして、悲しげな表情を見せる。
 あの当時の年齢で、同じように思っていた自分は、随分と老けた。
 そして。

「まあ、それよりも――私のこの髭……どうするの」
 カッセルは振動によって半ばまで剃り込まれた髭を、悲しそうに撫でた。

 + + +

「ここにいたのですか、ラインハルト様」
 呟いた声に、装甲車の下部にもぐり込んでいたラインハルトは顔だけを声へと向けた。
 豪華な金髪も、そして美しい顔も、オイルで汚れている。
 下部から這い出して、切れ端で手を拭う。

「訓練はもう終わったのか」
「ええ」
 微笑する表情に若干の硬さを感じて、ラインハルトは息を吐いた。
「また何か言われたのか?」
「いえ、何も」

「何もなかったようには見えないな。何があった?」
 厳しく尋ねるラインハルトに、キルヒアイスは首を振った。
「本当に何もありませんよ。軍のしごきという奴もたいしたことありません」
「あいつら。次からは私も訓練に出ることにする」

「おやめください。ラインハルト様」
「なぜだ?」
「ラインハルト様はそのような事よりも、やるべき事があります。ここで何をされていたのですか?」

 ラインハルトは不満げな顔を浮かべたが、穏やかに尋ねるキルヒアイスを無視することも出来ず、装甲車を見上げた。
 それは帝国軍の型とは違う、同盟軍から鹵獲したものだ。
 だが、認証システムのために動かす事が出来ないでいる。

 これを動かす事が出来れば、兵を偽装することだってできる。
 そう思い立ってきたのは良いが、いまだ帝国の整備兵が誰も解析できない現状であれば、簡単には動かせそうもなかった。
 そう伝えれば、さすがですといって、キルヒアイスは残念そうな顔を浮かべた。

「残存するデータは以前の基地のもの。せめて、動くと良かったのですが」
「帝国の整備兵がそこまで無能とは思いたくないな。それに収穫がなかったわけではない」
「何です?」
「装甲車の基本構想こそ違いはあるが、一部システムに一致が見られた。それには認証システムも含まれている。どちらもフェザーンのアース社製だ」

「大企業ですね。工事用の車両や惑星開発用機材を主に手掛けていると聞きます」
「表向きはな。裏から軍からも受注を受けて、作っている聞く――そこに装甲車のシステムで偶然の一致があったわけだ。帝国の装甲車を調べれば、同盟の装甲車も無効にできるかもしれない」
「さすがですね」

「褒めるのは、成功してからだな」
「ええ」
 頷いたキルヒアイスに、ラインハルトは再び装甲車を見上げた。
 鋼鉄の塊が狭い整備室に鎮座している。

 何も任務を与えられず、ただ時間だけが過ぎていく姿に、ラインハルトは自分のようだと思った。
「行こうか、キルヒアイス。ここは少し冷える」
「はい、ラインハルト様」
 従うキルヒアイスを伴って、ラインハルトは歩きだした。

 ラインハルトは待たない。

 鹵獲された装甲車のように、用がなくなったとただ朽ち果てることなど彼には許されてはいない。

 

 

雪原の死闘



「隊長。何か変です」
「そうだな。……は分隊を伴って、下がってくれ。旗艦の防護といえば、分艦隊司令官殿も否定はしないだろう」
「隊長はどうされるのです」

「命令無視は重罪だからな。命令のとおりに索敵艦に同乗するさ」
「その命令が変だと言っているのです」
「そう思っても従わなきゃならんのが、中間管理職の辛いところだな」
 そう笑われながら、叩かれた肩は力強かった。
 訓練中は誰よりも厳しく、そして誰よりも優しい。

 その手が離れれば、見上げた表情に何も言えなくなる。
 これ以上我儘を言っても困らせるだけだろう。
そんな子供のような姿を隊長に見せたくはなかった。
「気を付けてください」

「大丈夫さ。それに俺も長生きをしてみたくなった」
「何ですか、それは」
「ああ。先日、士官学校で面白い奴に会った」
「誰ですか、それは」

「今はただの学生さ。だが、きっとすぐに出世するだろうな。その時には俺も力になりたいものだ」
 不満げな様子に、隊長は笑った。
「結局、俺も士官学校出などといわれたが、本当の意味で、上に立つ人間ではないのだろう」

「何を。隊長は、隊長以外に考えられませんよ」
「そう。俺の限界はきっとそこまでだ。戦場での指揮はできても、戦場を選択することなど、俺には荷が重すぎる。暴れているだけでは、上にはいけないし、いってはだめなのだろう」
「だから、まだ学生の力になりたいと思うのですか。そんな現場を知らない上など必要ありません。戦場は……」

「バセット。よく上は戦場を知らないと言うが、俺達はどれほどに上を知っている?」
 再び不満げに唇を尖らせた様子に、隊長は子供のようだと笑った。
 慌てて表情をかえる様子に笑い声をあげながら、隊長はゆっくりとフェイスガードを被る。
「もしかえたいと望むならば、お前がかえればいい。お前は若い――決して遅くはないはずだ」

「俺は馬鹿ですから」
「才能など理由にならない。その学生は俺に気づかせてくれたぞ」
 小さな笑い声を残して、隊長は装備を付けていく。
 足に、腕に装甲をまとい、そして胸当てをつけようとした。

 そこで、手を止める。
 両手を首に持ち、金属が外れる小さな音がした。
「バセット。これを預けておく」
「認識票ですか」

「ああ……それは、もし俺が――」
 そう呟きかけて、隊長はゆっくりと頭を振る。
「何でもない。終わった後に返してくれ」
 呟けば胸当てを付けて、隊長は索敵艦へと向かった。

 それに仲間が続いていく。
 訓練を、戦場を共にした、仲間たちだ。
 それが楽しげに冗談を交わしながら、索敵艦に乗り込む風景はいつものもので。
 そして、最後の姿となった。

 + + +

「サハロフ隊長……」
 呟いて聞こえた言葉に、バセットは目を覚ました。
 上半身はじっとりと汗をかいている。
 気だるさの残る身体を起こして、バセットは胸を撫でた。

 自分のものと、そしてもう一つ――首元にかかる認識票に、バセットは息を吐く。
 五年の時を経ても、いまだに悪夢に襲われる。
 それは後悔なのだろう。
 あの時に止めておけば良かった。

 上の命令など無視すれば良かったのだ。
 隊長以下索敵艦に撃墜されたバセットの隊は結局解散となり、仲間たちは散り散りに散っていった。バセットも最前線を転々とし、今では惑星カプチェランカの特務小隊にいる。
 なぜ、いまだに自分が軍に残っているのか。

 もはや同盟のために戦う気持ちなど失せている。
 こちらの命を数としか考えていない者に対する忠誠心など皆無だ。
 バセットが忠誠を誓った者は――そして、バセットと苦楽を共にした仲間達は全員死んでいる。
 もはや仲間も、新しい隊長も不要だと思い続けてきた。

 だが、カッセルに指摘されて思いだしてしまったのだろう。
 あの時の仲間達を……そして、結末を。
 だからこそ、悪夢を見た。
 不愉快だと呟いて、バセットは身体を起こして、シャツを着る。

「俺には必要ないことだ」
 仲間も。
 隊長も。

 呟いた声は、狭い部屋に小さく響いた。

+ + +

 防寒用のコートに身を包みながら、アレスは繰り返される雪合戦を見ていた。
 所詮は第一分隊――カッセル軍曹率いる隊が圧勝であった。
 単純な攻略戦を仕掛けるバセット伍長の第二分隊と違い、カッセルはそこらかしこに罠を仕掛けている。それは落とし穴であったり、あるいはロープを切れば雪玉が降ってくるような古典的なものだ。

 だが、その古典的な技術を上手く活用して、第二分隊は大きな打撃を受ける。
 しかし、一カ月も同じ訓練を続ければ、人間だれしも進歩はするものだ。
 第二分隊は罠に対する対処を覚えてくる。
 もっとも、落とし穴を迂回したら、そこに別の罠が仕掛けられているのだが。

 相変わらず悪辣な爺さんだ。
 それに比べてと、アレスは第二分隊で指揮を執るグレン・バセットに視線をやる。
 経歴を見れば、幼年のころから戦い始めて、最前線を次々に転任している。
 戦果もあるし、優秀といえば優秀なのであろう。

 だが、部隊指揮官としての資質には欠けている。
 おそらくは仲間を信用していない。
 だからこそ、多くの事を自分でなそうとするし、それが伝わるために周囲との連携がぎこちなくなっている。

 そこを悪辣な爺さんが見逃すはずもない。
 結果として第二分隊の連敗記録は、今日も更新しそうであった。
 どうしたものか。
 素直にカッセルに教えを請う事ができれば、バセットは成長する。

 それが出来ないのならば。
 第二分隊の旗が落ちるのを見て、アレスは立ち上がった。
 勝利に沸く第一分隊とは違い、第二分隊は落ち込んだ様子だった。
 連敗が続けば、士気も落ちる。
 雪を払って近づいたアレスに気づいて、敬礼で出迎えられる。

「また第一分隊の勝ちだな」
「ええ。でも遊びで負けたからといって何なんです」
「戦場ならそんな言葉も言えないだろう。第二分隊は全員棺に入って帰る事になる」
「戦場と遊びは違いますが」
「雪玉が弾丸にな。バセット伍長、本日をもって君を第二分隊長の任務から解任する」

「な。何を……」
「第一分隊の隊長は私が兼任。カッセル軍曹――君に第二分隊を預ける」
 アレスの言葉に、カッセルは目を開いて、小さく笑った。
「了解いたしました」

「勝手な事をいうなっ!」
 叫んだのはバセットだ。
 暴言に対して、アレスに見られれば、さすがに声を落とす。
 しかし、その瞳はアレスの言葉に納得していない。

 挑戦的な視線に、アレスは身体から雪を落としながら、周囲にもそれを伝えた。
 第二分隊員のメンバーは驚いたようだったが、総じて納得したようだった。
 遠くから見てわかったように、多少なりとも確執はあったのだろう。

「一人で勝手に決めないでください。あんたに指揮が取れるのですか」
「初めてだが、それでも君よりは上手く出来ると思うよ」
「ふざけるなっ!」

 叫んだ言葉に、アレスは振り返った。
「どちらがふざけている。遊びだろうと、訓練中だぞ。負けたから何だという人間に分隊を任せられると思うか。君は指揮官失格だよ」
「っ――上がどれだけ偉いっていうんだよ!」

 バセットがしまったと思った時には、手が出ていた。
 握り締めた拳をそのままにアレスに振るえば、誰もが驚きの表情を浮かべる。
 上官への暴行で、軍法会議か。
 あまりにもしまらない話だが、自分の最後と思えば、それで良いような気もした。

 そんな拳を、アレスは紙一重で避けて、拳がバセットに向かった。

 + + +  

 風をきる拳に、バセットは咄嗟に身体を後ろに倒して、避ける。
 それは士官学校出のお坊ちゃんの攻撃ではない。
 敵の倒し方を知っている人間の拳だ。
 その鋭さにバセットは驚きを見せるが、もはや謝罪するタイミングはない。

 どうせ首なら、最後に殴って首になる方がいい。
 そう思い、バセットは拳を握りしめた。
 その動作に止めようとする隊員達。
 それをアレスが止めた。

「身体も冷え切っているところだ。俺も少し運動をしよう」
 言葉とともに防寒着を脱いだ。
「後悔するぞ」
「させて見せてくれ」
「はっ!」

 小さく息を吐いて、バセットは踏み込んだ。
 拳は握られていない。
 手を軽く開いた動きだ。
 相手に打撃を与える事を目的にしていない。
 目的は――目か。

 人間の目は弱い。
 強い打撃すらいらず、相手の指がかする程度でも視力を奪われる。
 容赦のない攻撃に対して、アレスは苦笑した。
 それでも、フェーガンよりは遅い。
 そう思い身体を沈ませて、相手の攻撃をかわした。

 即座に腕をとりに行こうとして、バセットの手が横振るわれた。
 耳を衝撃が駆け抜ける。
 寒い中で露出していた耳を、弾かれる事で思わぬ痛みを感じた。
 ちぎり取られたのではとまで一瞬誤解する痛みに、アレスが眉をしかめる。

 その隙をバセットは逃さない。
「本当に容赦がないっ」
 振り上げられたのはバセットの左足だ。
 狙いは急所――金的。

 両腕をクロスさせて、何とか防いだ。
 攻撃は終わらない。
 防いだと同時に首筋に伸びるバセットの手。

「舐めるな」
 それに対して、アレスは防いだ両手で相手の左足を掴んで、力任せに持ちあげた。
 バセットの態勢が崩れる。
 倒れると同時に、繰り出されるの右足。
 顔面に伸びる蹴りに、アレスは左肩を持ちあげる事で対処する。

 アレスの左肩によって、若干の衝撃を緩和されながらも、側頭部に右足が叩きつけられた。
 脳が揺れて意識が一瞬消える。
 それでもアレスは掴んでいた両腕を離さない。

 足首へと両腕を巻きつけると、力を込めてひねる。
 バセットが苦痛に呻いた。
 それも一瞬。バセットによって投げられたのは、雪だ。
 狙い違わず顔にぶつけられて、視界を奪われる。
 緩んだ手からするりと抜け出して、バセットは立ち上がって、距離をとった。

「少しはやるようだな、少尉殿」
「雪玉もたまには役に立つだろう」
「はっ、違いない。どこでそんな技を学んだ?」
「五年も学校で訓練をすれば、何とかなるもんだ」

「勉強か、ご苦労なことだ」
「ああ。随分と苦労したよ。ところで、君はこの五年で何をしてきた?」
「貴様に俺の何がわかるっ!」

 叫び、雪原を走る。
 疾走。
 雪を巻き散らせながら走りだしたバセットに対して、アレスは小さく笑う。
「わかるわけがない。俺は君ではないから――けれど」

 呟いて、拳を握りしめた。
「結果を見ればわかるぞ――君は分隊長にすら、ふさわしくない」
 アレスは避けない。
 バセットの拳がアレスに届くと同時、アレスの拳もまたバセットに叩きつけられた。

 激突音。
 一瞬の硬直の後に、吹き飛ぶのも同時。
 カウンターのように直撃したバセットは後方に吹き飛べば、アレスはかろうじて倒れる事を免れた。
「何をしている!」

 雪にまみれたバセットが立ち上がると同時に、厳しい叱責が飛んだ。

 + + +

 言葉の方に顔を向ければ、そこにはクラナフがいる。
 厳しい視線を向けられれば、バセットは握ってた拳をほどいた。
 終わりかと。
「訓練です。大佐」
 そう息を吐いたバセットの耳に入る言葉は、アレスの声だった。

 切った唇を手の甲で拭いながら、アレスは何事もなかったように告げる。
 クラナフの眼光がますます厳しくなった。
「誰がそんな許可を出した、マクワイルド少尉」
「雪原での戦闘訓練については、大佐の許可をもらいましたが」
「そこに殴り合いなどの記載はあったかね」

「雪原での戦闘訓練で、なぜ徒手による格闘戦がないと思ったのです」
「小隊長が、分隊長相手に徒手格闘訓練を行ったと?」
「それ以外に何をしているように見えたのですか」
 クラナフは元々は現場の一兵卒から、この地位まであがった男だった。

 その殺気すらも見せる眼光に対して、しかし、アレスは飄々と答える。
 むしろ、バセットの方が息を飲まれてしまっていた。
 そんな自分の姿に気づき、バセットは雪原から身体を起こした。

 こんな事で借りを作るわけにもいかない。
「これ……」
「いやいや、すみませんな。まだ小隊長も伍長も若く、熱が入り過ぎたようで」
 呟きかけた言葉を制止したのは、カッセルであった。
 相変わらず飄々とした表情で、穏やかに語る姿に、クラナフは鼻を鳴らした。

「随分と元気が余っているようだな、少尉。だが、怪我をされては困るな」
「これから気をつけます」
「マクワイルド少尉は後で司令官室に来るように」
 そう言ってクラナフ大佐は踵を返して、歩きだした。

 アレスは空を仰ぐ。
 またお説教部屋だと――それは、学生時代で慣れたものではあるが。
 血が混じった唾を吐いて、周囲に視線を向ける。
「大佐の言う通り、今日は解散だ。明日からは予定通り、俺が第一分隊の指揮を行う。カッセル軍曹は――」

「マクワイルド少尉」
「ん?」
「貸しのつもりか。だとすれば……」
「バセット伍長!」

 カッセルの怒声が、バセットの言葉をかき消した。
 振り返って、初めて見る鬼軍曹の表情に、バセットが不愉快気に唇を曲げる。
 呟きかけた言葉を飲み込んで、恨めしげにアレスを見れば、自らの装備を手にする。
 周囲に視線を向ければ、バセットに対する視線は冷たい。

「勝手にしろ」
 言葉とともに立ち去る様子を、面々は黙って見ていた。
 その様子に誰も言葉を口にできないでいる。

 ただ見送ったアレスが疲れたとばかりに雪の防護壁に腰をおろせば、解散とばかりに手を振る。
 しばらく迷っていたようであったが、一人、また一人と歩き去る。
 ただ一人、カッセル軍曹だけが近づいてきた。
 先ほどまでの鬼の形相は成りを潜め、困ったような表情を浮かべる好々爺のようであった。

「お優しいですな、少尉殿は」
「新しい分隊長を別に貰えるなら、厳しくもなりますよ」
 唇を手で拭いながら言葉にすれば、カッセルは穏やかにアレスを見下ろした。
 そうですかな。

 呟かれた言葉に、アレスは答える事はなかった。
 静かに見るアレスの視線に、カッセルはバセットの去った後を見る。
「彼は第七艦隊で上官と仲間を失った。もう五年も前の事です」
「サハロフ中佐の隊ですか」

「御存知なのですか」
「少し縁がありましてね」
 息を吐いたアレスを待つように、カッセルは言葉を続けた。
「上からの命令で犠牲になるのは現場の人間。どこにでもあることです。けれど、彼は若い。我々ならば酒を飲んで、忘れられる妥協が彼には出来ない」

「妥協が良い事ではないと思いますがね」
 向けられた厳しい視線に、カッセルは肩をすくめて、朗らかに笑った。
「少尉殿は私には厳しいですな」
「ええ。退役までしっかり働いてもらわなければなりませんからね」
 手を伸ばして、助けを貰いながら立ち上がる。
 朗らかな表情が、一瞬変わった。
「なら、この件は私に任せてもらえますかな」

「最初からそのつもりです。彼を分隊長からおろしたのは、あなたに教えてもらうようにすることが目的でしたからね」
「はは。ならば、退役前に給料分は働きますかな」
 アレスの言葉に、カッセルはからからと笑った。
「ところで軍曹」

「ん?」
「髭を剃ったのは何か、事情があってのことですか?」

 アレスの問いに、カッセルは渋い顔を浮かべた。

 
 

 

変化の意味

 
前書き
すみません。
二日で更新と思っていましたが、
先が渋滞中ですm(__)m

気長にお待ちいただければと思います 

 


 同盟軍基地の簡易食堂。
 数少ない酒を、酒券で購入でき、飲酒ができる。
 およそ一カ月でワイン一本分。

 数が決まっているため、時には酒券はワイン五本以上の値を付けることもある。
 それでもバセットは貯まっている酒券を使い、既にワインを二本空にしていた。
 幾ら飲んでも気が緩む事はない。

 断続的に痛む頬が、まともにつまみすら口にできない。
 苛立ちが考えとして浮かぶ前に、バセットはグラスからワインを煽った。
 酷くまずい。
けれど、飲んだ時だけは余計な事を考えなくてもすむ。

 結局、自分が悪い。
 先ほどからアレスの悪態を百以上も口にするが、考えれば間違いなく結論としてはそこに行きつく。

 上官への暴行など営巣行きの行為だ。
 それを庇ってもらいながらも、口から出たのは悪態。
 客観的に、いや、主観的に見たとしてもバセットが悪い。
 それはわかっている。

 だが、全てが冷静に考えられるわけではない。
「あんな新任のガキに部隊の何がわかる」
 言葉とともにグラスを叩きつけた。
 鈍い音に、周囲の視線が厳しい。

 それでも誰も声をかけてこないのは、一連の流れを知っているからだろう。
 新任のガキに、第二分隊長の職を下ろされたという事実は。
 それが苛立たしい。

「おい。空だぞ、もう一杯持ってこい」
 空となったワインボトルを振るが、誰も持ってはこない。
「ったく。酒券はまだあるんだ――」
「やれやれ。子供と同じだな」

「何だと……と」
 声を荒げかけたところで、呆れたように息を吐いたのはカッセル軍曹だ。
 目を開くバセットのグラスに、自分のボトルからワインを注ぎ、バセットの正面に腰を下ろした。

「笑いに来たのか」
「何をじゃ」
「第二分隊長を解任された俺は、さぞかし面白いでしょうね」
「ああ。それはおめでとう、乾杯といくかな」

 持ち上げられたグラスに、バセットは目を開いた。
 一瞬の後に浮かぶ怒気。
 それが言葉に出る前に、カッセルは笑って見せた。

「お主は私らと同じように働く気はないと言ってはおらなんだか」
「あ。ああ、上の命令で殺される何てまっぴらごめんだ。なら、働かない方が……」
「それなら第二分隊長何て面倒な職を解任されたんだ。めでたい話じゃろう?」
 乾杯とグラスを合わせられれば、バセットは戸惑ったように言葉にならない。

 カッセルがグラスのワインを飲み干せば、バセットは慌てたようにグラスのワインを口に入れた。
 再びグラスに酒が注がれて、バセットはただ戸惑ったようにカッセルを見る。
「結局」

 呟かれた言葉に、バセットはカッセルの様子をじっと見た。
 グラスのワインを飲み干し、再び手酌で注ぐ。
 酒臭い息を吐けば、バセットを見る目は厳しいものだ。
「お主は中途半端なのだよ。私らのように戦う覚悟がないわけではない。かといって、上の命令に従うのをよしとしない。戦う気がないように見せて、それでも愚痴だけは一人前。悪いのは上で、そして戦わない部下だ。そんな人間に誰がついていくと思うのかね」

「マクワイルド少尉なら上手くできるといいたいのですか」
「そうさな。彼は――いやはや、陸上戦の指揮などやったことはない。知識も机上だけのお粗末なものだ」
「でしょうな」
 鼻で笑い、バセットはグラスのワインを口にした。

「だが。それでも成長はしている。知っているか、彼は五月に着任してより、一日も欠かさずに勤務終了後は私の部屋に来て、陸戦について話を聞いている。こんな老兵の昔話をな」
「ただ点数稼ぎですよ」
「私に教えを請うたところで何の点数になるというのかな」
 カッセルの問いかけに、バセットは答えられない。

 ただ苦そうにワインを空にして、置かれたワインボトルからワインを注いだ。
「彼の言葉を覚えているかな」
 カッセルを見れば、決して冗談めかした表情はない。
 真剣な二つの瞳が、バセットを覗きこんでいる。

 グラスに口を付けかけて、やめる。
 静かに机の上におけば、バセットは目を細くして思いだす。
 忘れられるわけがない。
「私からも問おう。お主はこの五年間何をしてきたのだ」
「…………」

 バセットは答える言葉をもたなかった。
 上司と仲間を失い、ただ逃げてきた。
 上を信じられないと言いながら、それを変えようと努力したわけでもない。
 五年間を振り返って、思いだせるのはがむしゃらに走った戦場と酒。

 その当時の上官も、仲間の顔すらも思いだせなかった。
 だから、バセットはグラスをおいて立ち上がった。
 その行動にカッセルも深くは問わなかった。
 ただ自らのグラスに口をつけながら、バセットの行動を見守る。

「少し飲みすぎました。また明日」
「ああ。訓練で待ってるよ」
 言葉に小さく笑い、バセットは食堂を後にする。
 この五年間何をしてきたのか。

 その言葉が心に重くのしかかった。

 + + +

「ああ。何て指揮をしてやがる、右側ががら空きじゃないか」
 こうして、後ろから全体をみれば、戦場の様子が良く分かる。
 攻め立てるカッセル率いる第二分隊の攻撃に、アレス率いる第一分隊は防戦一方の様子であった。

 艦隊戦と陸上戦では同じ指揮でも、大きく違う。
 艦隊戦が全てデータ化されて情報となるのであれば、陸上戦のそれらは全て勘によるところが大きい。
 敵の攻勢が少ない事を肌で感じ、攻めるべき場所を予測する。
 カッセルの右側ががら空きであることは、遠くから見れば分かるが、近ければ人や攻撃が壁になって把握しづらいのだろう。

 それでもバセットは例え戦場にいても、それを理解できただろう。
 敵の右側に少数の部隊を派遣して撹乱。
 一部が正面から特攻して、圧力を強める。
 敵が正面の圧力に兵を固めれば、右側の兵でさらに攻め立てる。

「正面にそんな兵を集中させりゃ――」
 案の定、第二分隊の一部が兵を回り込ませていた。
 正面に集中しているアレス達は気付かない。
 あまりのあっけなさにため息を吐きかけた、その時――。

 回り込んでいた兵が滑った。
 一部の雪原を水で濡らして、氷にしていたのだろう。
 見事に転んだ兵士はごろごろと雪だるまのようになりながら、敵の正面へと戻っていく。
「おいおい」

 その隙にと、アレス達が走りだした。
 敵の攻撃が苛烈になるが、それらは全て雪だるまとなった兵士に降り注ぐ。
「ばかか。こんな戦いが現実にあってたまるか」
 兵士を巻き込んだ雪だるまを押しながら壁にするという、異様な光景にバセットは笑いを漏らした。

 戦場であればあり得ない。
 何か楽しそうだなぁ。
 やめてくれと叫ぶ雪だるまには容赦なく攻撃が降り注ぐ。
 アレスの部隊だけではなく、第二分隊――カッセルまで大笑いしている。
 そんな光景が今まであっただろうか。

 訓練中に笑う事など。
 いや、昔はあったかもしれない。
 サハロフ隊長の訓練は厳しい。
 だが、時にはこのように全員が笑うこともあった。
 あの時は射撃訓練で最下位が看護師の女装をして、全員にチョコレートを渡すとか罰ゲームがあった時だろうか。最下位争いで醜い戦いを繰り広げる様子を、仲間たちは誰もが楽しそうに笑っていた。

「ははっ」
 笑えば頬にしびれるような痛みを感じた。
 ああ、そうだ。
 訓練中に笑うことも久し振りであったならば、殴られる痛みも久しいことだ。
 昔を懐かしいと思うあまり、結局――グレン・バセットは何もしてこなかった。

 仲間達と笑うこともない。
 上官と喧嘩をすることもない。
 ただ愚痴をいって、辞めることもせずに、漫然と。

「馬鹿か、俺は」
 小さく漏れた言葉は、声にはならない。
 あのガキは――アレス・マクワイルドは常にかえようと努力している。
 陸戦を知らないと思えば、陸戦を知る者に教えをこうた。
 部隊については、ブリザードが吹きつける環境で、ただじっと兵を把握するために見守った。

 防寒着を着ていても、寒くないわけではない。
 それを一カ月も何も言わずに、ずっと見ていたのだ。
 情けない。
 俺はこんなところで何をしている。


『もしかえたいと望むならば、お前がかえればいい。お前は若い――決して遅くはないはずだ』


 拳を握りしめれば、懐かしい隊長の言葉が頭によぎる。
 まだ遅くはないのだろうか。
 いや……。
 いまだ続く訓練の様子を見ながら、バセットは立ち上がった。

 悩んでいる時間など、もはやない。

 + + +

 形ばかりの執務室。
 およそ数畳程度におかれた机に、乱雑に並ぶ書類。
 訓練報告をコンピュータにまとめながら、アレスはノックの音に顔をあげた。
「どうぞ」

 扉を確認もせず言葉を発せば、ぎこちなく扉が開いた。
 グレン・バセットだ。
 初めて入る室内に、戸惑ったように周囲を見渡している。
 キーボードを叩く音が断続的に響く中で、アレスから言葉は振られない。
 ただ鳴り響く音に、バセットは頭をかいた。

「小隊長殿。お話があります」
「そうだろうね。ここにきて、遊びに来たと言われたら困る」
「でしょうね」
 アレスの冗談に小さく頬を緩めて、すぐに真剣な表情を作った。

「俺を第二分隊長に戻してください」
「昨日の今日だぞ」
「ええ。今日一日小隊長の分隊指揮を見させていただきました」
「無様だと笑いに?」

「いや。雪だるまには笑わせてもらいましたが」
 首を振り、バセットはアレスに近づいた。
「小隊長には小隊の指揮をとっていただきたい。第二分隊の指揮は私に任せていただきたいのです」

「それを任せられないから解任したのだけれど」
 キーボードから手を離して、アレスが顔をあげる。
 穏やかな様子はない。

 しっかりとした視線に、バセットは怯むことなく、背筋を伸ばした。
「カッセル軍曹からあいている時間に陸戦について、教えてもらえるように伝えました。私も一からやり直すつもりで、部隊をまとめたいと思います」
「やる気が出たのは嬉しい。が、おいそれと任せるわけにはいかないだろう」

「これを」
 机の上におかれたのは、一辺の紙だった。
 退役願。
 そう書かれた紙には、バセットのサインも入っている。

 このままアレスがサインを入れて、上にあげれば、バセットは退役する事になる。
 ヤンのように上から懇願されるわけでなければ、結果は一カ月と待たずに決まるだろう。
「もし私が無様であるならば、それを提出してください。代わりの分隊長がすぐに送られるでしょう」

「いいのか。覚悟にしては、随分な代償だぞ。俺の気持ち次第で君は辞めることになる。俺を信頼していいのか」
 アレスは手にしていた退役願から手を離した。
 ひらひらと落ちる紙に、バセットは力強く頷いた。

「正直なところ、信頼はしておりません。ですが、私をタダで信頼しろといったところで、無理な話でしょう。もし信頼が裏切られるというのでれば、私はそれまでの人間だった。全ては小隊長にお任せ致します」
「正直だな。でも、嫌いではない。これは預かっておこう」

 アレスの視線に怯むことなく頷いた様子に、アレスは再び退役願を手にする。
 机の中にしまい、机の上で指を叩く。
「明日から第二分隊の指揮をしてくれ。カッセルには第一分隊の指揮を行うように伝えてくれ」
「はっ。ありがとうございます」

「お礼が言えるかどうかはわからんぞ。再び面倒な仕事につくのだからね」
「覚悟の上です」
「そうか」
 呟いて、アレスはキーボードを叩いた。

 プリンターの稼働音がして、一枚の紙が排出される。
 アレスが示せば、バセットが排出された紙を手にした。
「上は暇そうなのが許せないらしい。策敵の仕事も舞い込んできた――まだいつかは決まっていないが、カッセルと話して、いつ出動しても大丈夫なように準備だけはしておいてくれ」

「かしこまりました」
 敬礼をして出ていく姿に、アレスは再び机を鳴らした。
 タイミングをとるように、音を鳴らしながら、背後の窓を振り返る。

 吹き荒れるブリザードはやむ事がなかった。

 

 

初戦



 宇宙暦791年7月。
 アレス達特務小隊の最初の任務は、索敵であった。
 アレスが配属して二カ月余り。
 バセットが分隊長に戻って、一カ月余りの事で、決して遅いわけではない。

 訓練という名の雪合戦に、他の小隊からは不満が出始めた。
 そのガス抜きという意味が強いものであり、特に明確な目標はない。
 三日ほど周囲を索敵して、基地に帰還する。
 それがアレス達の任務であり、誰もが意味のないものだと考えていた。
 二台の装甲車が基地を出発し、先頭を第二分隊が、後方を第一分隊が担当する。
 装甲車の上部から顔を覗かせた兵士が、周囲を警戒している。

 ブリザードの吹き荒れる中では、装甲車に仕掛けられたレーダーもほぼ役には立たず、目での確認が重要となる。しかしながら、目であっても真白な視界に閉ざされた世界では、数メートル先もまともに見えない状況だ。
 必然的に、運転手は装甲車に入力された地図情報を頼りに進む。
 自然の落とし穴であるクレバスを避けながら、進むこと百キロ。

 二日目にして、アレスは装甲車を止めた。
 随分進んでも、視界が代わる事はない。
 最初は見えていた基地の山も、今では真白い雪によって遮られてしまっている。
 日も既に落ち始めている。

 深い闇が訪れたとしても、元々視界が悪いため行動には支障がない。
 しかし、深い闇で動く車両は目立ち過ぎる。
「今日はこの辺りで止めよう」
 アレスの言葉に、夕闇が迫り始めて、装甲車から荷物を下ろした。

 まさか装甲車の中で火を焚くわけにもいかない。
 ブリザードの中で手際よく、風避けのテントを装甲車同士に結び付ける。
 一瞬風が弱まった場所で、焚かれるのは携行用の固形燃料だ。

 その間にも装甲車の上では兵士が目を光らせており、数名の兵士が周辺の索敵と監視用のレーダー設置のために姿を消した。野営準備などの決まった準備で、小隊長であるアレスがすることは少ない。
 細かい準備については、それぞれの分隊長が指揮を執る。
 一般的に小隊長は箸を持つ必要もないと言われる所以だ。

 アレスも野営地を決めれば、特に決まった任務はない。
 周囲を見渡しても、目に入るのは視界を遮る吹雪だけだ。
 装甲車の中の地図データを見て、現在地を確認する。
 基地からは南へ一日、そして平原に沿って東へ一日走ってきている。
 策敵の任務こそ明確ではないが、基本的な任務は敵情報の取得だと思う。

 基地から三日の距離に、敵の前線基地が出来ていたらたまらないというわけだ。
 そうではなくても、敵の痕跡があれば、帝国軍は近くにいる。
 戦闘艇の使えないカプチェランカでは、つまるところ先に敵を発見し、総兵力で敵を潰すことが目的となる。そうしておけば、次の基地が出来るまでの間は自由に資源を採掘ができ、敵の攻撃の心配がないために、大型輸送艇を送る事ができる。
 敵に新しい基地が出来れば振り出しに戻る。

 それの繰り返し。
 地図データを見ながら、アレスは不毛だなと呟いた。
 戦略的には何の価値も見出せない。
 この地を守り続けるのは、ただの意地の張り合い。
「戦争そのものが意地の張り合いなのかもしれないけどな」

 誰にも聞かせられない愚痴だと思い、アレスは再び地図データに目を通した。
 既にアレスのいる場所は安全圏内ではない。
 何度か敵兵が確認された危険地帯だ。
 過去に発見された場所と戦闘があった場所を点で表示させれば、さらに東に行くほどに点の数は増えていた。

 その先に基地があると、クラナフ大佐は考えているようで、アレスもその点に関しては間違いないだろうと思う。
 問題は。
「更に奥まで進むかどうか」
 さらに東へ進めば、敵基地を発見する可能性は高い。

 だが、敵基地へ二台の装甲車で突入するほどにアレスは奇特ではない。
「当初の予定通りに上手くいけばいいが」
 それが上手くいかなければ、大人しく帰った方が良い。
 冒険する時ではないと判断し、アレスは地図データの画面を消した。
 装甲車から顔を覗かせれば、冷たい風が顔を襲う。

 思わず顔を苦くすれば、光のない雪原で装甲車の二つの光源だけが見える。
 それを頼りに、戻ってきた分隊員に食事をとらせる。
 外ではせっかくのスープも冷める。
 順番に装甲車の中で食事をさせながら、アレスは装甲車にもたれかかった。

「お先に食事をいただきました」
 んと小さく頷くアレスに、近づいてきたカッセルは朗らかに笑う。
「どうですかね。上手くいきそうです、初めての策敵は」
「さて。無事に戻れれば万々歳だ」
「気があいそうですな。新任の隊員は士官学校出も兵卒も同じで、結果を求めるもんです。そういう奴はだいたい棺に入って帰ることになりますが」

「別にやる気がないわけではないけどね」
「やる気なんてどうでもいい。求められるのは結果ですよ、小隊長」
「軍曹が求めているものと、こちらの間にはずいぶん大きな隔たりがありそうだ」
「そりゃそうだ。こちらは無事生きて帰って孫を抱くのが目標ですからな」

「それは、こっちは抱きしめる恋人すらいない」
「お可哀そうに。ご紹介しましょうか?」
「そうだな。三十になってもいなかったら、紹介してもらおう」

「それなら互いに長生きしないといけませんなぁ。どうです、一つ。暖かくなりますよ?」
 そう持ちあげたのは、ウィスキーが入ったスキットルだ。
「一口くらいなら部下に飲ませてやれ。あまり飲み過ぎないようにね、長生きをしたいのなら」
「了解です」
 答えたカッセルに、笑いかければ、アレスは装甲車へと足を向けた。

「交代だ。食事が終了したら、装甲車のヘッドライトを消すように。闇夜じゃずいぶんと目立つようだからね」
 言葉ににやりと笑い、カッセルは答えた。
「ええ。任せてください」

 + + +

 月や星は分厚い雲に隠されている。
 代わりとなる光源がない雪原では、十センチ先も見えない深い闇が広がる。
 街灯もなければ、ただ聞こえるのは雪の音だけだ。
「ずいぶんと間抜けな奴ですね」
 闇の奥から嘲笑うような声が聞こえた。

 すぐに視線を感じて、男は言葉を止める。
 だが笑いはすぐには止まらないようで、押し殺したような笑いだけが聞こえた。
 敵の間抜けさに、我慢ができないようだ。
 ため息を吐きながら、しかし、策敵部隊の隊長であるゲルツも口元の緩みを隠せなかった。

 敵は陸戦に――いや、カプチェランカの戦闘に慣れていない。
 この星で野営をするには、夕闇で装甲車を止めるのは遅すぎる。
 ゲルツならば昼過ぎには装甲車を止めて、安全な野営地を探す。
 暗くなった時の装甲車の明りは、あまりにも目立ち過ぎる。
 その上、闇が深まれば満足に監視設備も設置ができない為、設置位置を深く考えることもなく、急いで設置しなければならない。

 だから。
「気をつけろ。ここからは敵のレーダーがあるぞ」
 設置した場所など遠くから見ていれば、位置がはっきりとわかる。
 位置の分かった監視設備はもはや監視設備ではない。
 罠かとも疑ったが、野営の準備をする者たちを観察すれば、どれくらいのレベルであるかは一目でわかる。小隊長と思しき若い人物の姿に、帝国軍の偵察部隊の面々は相手がただの新人であると判断した。

 装甲車の明りではっきりと見えたよ。
 思わず、ゲルツは教えたくなった。
 ゲルツの部隊は慣れたようにレーダーを潜り、音も立てずに歩いていく。
 降り積もった新雪が足音を消してくれる。
 吹雪の音と視界に、襲撃はしやすく、防衛はしづらい。

 その事を彼は身をもって体験することになるだろう。
 生きていればであるが。
 数メートルを歩きながら、ゲルツはレーザー銃を構えて、小さく笑った。
「カプチェランカへようこそ、新人さん」

 悲鳴の夜の幕が明けた。

 + + +

「ああああああああ!」
 悲鳴があがったのはゲルツの後方からだった。
 最初に笑っていた男だ。
 悲鳴のあがる方に目を向ければ、必死になって男が足を押さえている。

 正確には、その足に食い込んだトラバサミをだ。
 男が必死になっても、足に食い込んだ鉄の刃を引きはがす事ができない。
 何とかしてくれとの叫びに、慌てて周囲の人間が男を助けようと、集まった。
 その光景にゲルツが奥歯を噛む。
「馬鹿野郎。散開しろっ」

 叫んだとほぼ同時に、レーザーの光が駆け抜ける。
 悲鳴をあげた男は蜂の巣にされて、助けに行った人間も幾人かが胸を打ち抜かれた。
 走りだして、ゲルツは新雪に身体を投げる。
 そんなゲルツの目に映ったのは、同じように悲鳴をあげる部下と――そして、新雪の間に並べられた幾つものトラバサミだった。

 いつの間にと考えて、おそらくは装甲車の光源を落としてからだろうと思う。
 監視用のレーダー外からでは、どうしても視覚が生じる。
 深い闇になれば、細かな動作まで監視することは不可能だ。
 その視覚を最大限に利用して、設置された。
「罠か」

 苦いものを吐きだすように、ゲルツは言葉を口にした。
 随分と古典的で、しかし、効果のあるものだ。
 一撃で仕留めるわけではなく、悲鳴をあげさせて、集まってきた仲間も狙う。
 視界の悪い環境下では、有効な攻撃だろう。
 敵は悲鳴があがる方向へ攻撃を仕掛ければいいのだから。

 敵の攻撃が止んだ。
 散開の際にトラバサミにひっかかり、悲鳴をあげた者は既に全員が仕留められている。
 認識を変える必要があると、ゲルツは思った。
 敵の頭は新人だろうが、ゲリラ戦に精通した厄介な部下を持っている。

「プラズマ砲を!」
 舌打ちをして、ゲルツは方針を転換する。
 敵の小隊長を捕まえて、基地の居場所を聞き出すという当初の方針は捨てる。
 最大限の攻撃を加えて、離脱する。

 その際に幾人かの敵兵を捕え、あわよくば装甲車も破壊する。
 そのためには敵に対して最大限の打撃を与える事が優先。
 近づいた部下からプラズマ砲を手にした。
「くら……」

 呟きかけたゲルツを止めたのは、敵から投げられた物体が異音を発生したからだ。
 この音は、プラズマ手榴弾ではない。
 ゲルツは良く知っている。
「ゼッフル粒子」

 ゲルツは苦い顔を隠さない。
 この吹雪であれば、粒子が発生してもすぐに散らされる事だろう。
 このような少数では、せいぜい一瞬でも持てばいい。
 だが。
 ゼッフル粒子の叫びに誰もが手を止めていた。
 頭では無駄だと理解していても、誰もがゼッフル粒子の恐怖を身体が覚えている。

 撃てと叫ぼうとしたゲルツの視界に、真っ黒い闇が差し込む。
 何だ。
 それはゲルツの脳裏に浮かんだ疑問とともに、彼の頭部を叩き潰した。
「突撃しろ!」
 アレスの声で、騎士の鎧に似た装甲服に身を包んだ特務小隊の面々が突撃を開始した。銃弾すらも弾く装甲服は設置されたトラバサミすらも意に返さず、敵への突撃を開始していく。

 元より白兵戦を想定していない帝国軍だ。
 突然現れた完全装備の部隊に、出来る事などない。
 ゼッフル粒子すらまき散らされた状態では、満足な抵抗も出来るわけがない。
 逃げ惑う者たちの一部には、設置されたトラバサミが食い込んだ。
 その背に容赦なく、トマホークは突き刺さり、真白い雪原を深紅に染めていった。

 元より奇襲を行う事を前提にしていた部隊だ。
 白兵戦の行うための装甲服など、誰も身につけていない。
 その上にゼッフル粒子まで使われれば、帝国兵は逃げることしかできない。
 容赦なく繰り出される攻撃に、悲鳴が雪原に響き渡った。
 逃げ出す兵士を追いかけるのは血に染まった同盟軍。

 息も絶え絶えに逃げれば、やがて先頭で血に染まった腕をアレスはあげた。
 全員が呼吸荒く、アレスを見る。
 集中した視線に、アレスはフェイスガードの奥で唇をあげた。
「そこまでで良い。生存者の確認を。この戦いは我々の勝ちだ」

 小さく握った拳に、歓声があがった。

 + + +

 敵の死者十三名、負傷者五名。
 およそ一個小隊をほぼ壊滅させたであろう戦果であった。
 その戦果をカッセルから伝えられても、アレスは頷いただけであった。
「見事なものですな。こうなると予想していたのですか」

「まさか。こちらは奇襲があった時に勝てるように作戦を立てていただけだ」
「敵の奇襲がなければ」
「無事生還できるだけだ」
 アレスの言葉に、カッセルは笑った。

 カッセルは褒めるがアレスは特に大きな事をしたわけではない。
 カプチェランカにおける戦闘は敵基地の前で野営をしていたという特異な事例を覗けば、大きくは二つに分けられる。
 突発的な遭遇によるか、どちらかの夜襲だ。

 特に吹雪で光源も策敵も満足にいかない状況であれば、夜襲は非常に効果が高い。
 むしろ策敵の任務は敵をいち早く発見し、そして敵兵を捕えることだ。
 敵兵を捕える事が出来れば、敵の基地を聞きだすことは容易い。
 そう教えられれば、敵もそれを考えていることは容易に想像がつく。

 ならば。
「あえて隙を見せて、敵に奇襲をかけさせる……ですか」
「こちらが若く見えるって武器は今のうちに使っておかないとね」
「しかし、失敗した時を考えられなかったのですかな」

「相手がこちらを巻き添えにしようと、レーザーを撃ってきた場合か?」
「ええ。すぐに散るとはいえ、ゼッフル粒子が蔓延している中でレーザーを撃たれれば、こちらも全滅したでしょうな。実際、操作を間違えて自爆した敵や味方は五万といます」
「それを防ぐために、最初に敵の頭を潰したし、こちらも深追いはしなかったのだけれどね」

「それでも完璧ではないでしょう」
「どこにも完璧な策などないさ。ゼッフル粒子を使わずに、プラズマ弾を撃たれれば、装甲服であっても何の役にもたたないだろう。それどころかこちらに被害がでれば、たぶん何人かは逃げるぞ」

「ですが。それで相手の巻き添えでこちらも死ぬのはゴメンですな」
「その時は……」
 アレスは短く笑った。
「運が悪かったと諦めろ」

「馬鹿な上官についたことをですか」

「違う、軍に入った事をさ」


 

 

会戦の幕開け



「どうしたのですか?」
 穏やかな声をかけられて、ラインハルトは息を吐いた。
「ヘルダー大佐殿から命令を預かった」
 その言葉に、キルヒアイスは表情を変える。

 問う表情に、ラインハルトは自嘲気味に答えた。
「索敵だ。君と私の二人でな」
「二人で。何かの間違いでは?」
「俺が君に間違いを話した事があったか?」

「失礼しました」
 謝罪するキルヒアイスに、良いと首を振りながら苦笑した。
 通常であれば、少尉に任官した者が部下も連れずに策敵に出る事などあり得ない。
 それはラインハルトの直属の部下がいないこともあるのだろう。
 だが、キルヒアイスと一緒とは――厄介払いなのだろうと、ラインハルトは思う。

 元よりラインハルトが好かれているとは思っていない。
 多くが腫れものに触るようにラインハルトに対応し、その分の不平や不満がキルヒアイスに向かう。
 先日の事件など、その最たるものだ。

 キルヒアイスは襲われかけた女性を助けただけであるのに、なぜかキルヒアイスが悪いように伝わっている。それをラインハルトが押さえれば、結局行きつくのは寵妃の弟の我儘という評価だった。

 当の襲おうとした小隊が、罰則がわりの索敵任務で、反乱軍によって損害を受けたと聞いて、ラインハルトは思わず敵に花束を贈ろうとも思ったが。
「その代わりが、二人での策敵になったわけだが」

「代わりですか」
「ああ。先日、散歩すらも満足にこなせなかった小隊があっただろう」
 その言葉で、キルヒアイスは理解したようだった。
「敵が近づいてきているというわけなのですね」
「近づいてきているというよりも、既に知っている」

「知っている?」
「ああ。こちらに捕虜が出た以上は、この基地の事が敵に知られていると思っていても間違いではないし、おそらくは知っている。敵がこちら以上の無能でなければな」
「それは……大佐には」
「伝えたさ。余計な心配はするなと、ありがたいお言葉をもらった」

 不満げな口調に、キルヒアイスは小さく息を吐いた。
「ラインハルト様」
「わかっている。短慮は起こさないし、任務もこなして見せる。だが、次はゲルツのように呑気に散歩というわけにはいかないだろう」

「ええ。もし敵がこちらを知っているというのであれば、敵の哨戒部隊が接近していることになります」
「敵を先に発見すればいい。それだけの話だ」

 ラインハルトは小さく笑い、歩き続けた。

 + + +  

「納得いきません」
「何がだ、小隊長は立派に任務を果たしだろう」
「そこです」
 枯れ枝を組みあわせて、簡易の縄を作りながら、カッセルは苦笑する。

 同じようにバセットも唇をとがらせながら、縄を作っていた。
 最初こそは手際の悪かった技術も、今では話しながら作業をしている。
「今回、捕虜を手に入れたのも、そして敵の基地を発見したのも全ては我々の成果です」
「ああ。そうだろう、それはクラナフ大佐も認めているさ」

「では、なぜ我々が敵基地の攻撃を任されないのですか」
「マクワイルド少尉から説明は受けただろう。我々は基地の防衛が任務だと」
「敵の基地を攻撃中に? これ以上戦果をあげさせないようにしているとしか考えられませんよ」
「お前は本当に単純な男だなぁ」

 かかと笑いながら、カッセルは作り上げた縄を丁寧に編み込んでいく。
 確かにクラナフ大佐の行動は速かった。
 任務が終了し、敵の捕虜から基地の場所を聞けば、先行に哨戒部隊を繰り出し、続いて敵基地を三個中隊で奇襲する。

 攻略隊はメルトラン中佐が指揮を行い、アレス達特務小隊は留守役だった。
 それがバセットには不満であるようだ。
 口を尖らせる様子をなだめて、カッセルは籠を作り上げた。
「出来たぞ」

「ただの籠ですね」
「ああ。ただの籠さ、だがこいつも上手く使えば立派な武器になる」
「石でも入れるますか?」
「惜しいな。入れるのはプラズマ手榴弾さ。敵の通り道にこいつを吊るしておいて、敵が足もとのロープを切れば」

 籠が傾いて、プラズマ手榴弾が落下する。手榴弾の安全栓は籠の隙間に固定しておけば、転がるのは起動したプラズマ手榴弾。
 ひゅっとカッセルが手を広げた。

「そりゃ便利でしょうが、この星でどうやって使うのです」
 例えば、密林などがあれば話は別だろう。
 だが、このカプチェランカの特徴は見渡す限りの平原だ。
ブリザードの吹き荒れる星では吊るす木もなければ、ロープを張る場所もない。

「お前は本当に単純な男だな」
「何度も単純といわないでください。馬鹿といわれている気がします」
「いいか。こんなところに上からの罠があるわけがない、そう思っているからこそ罠が成功するんだ。最初から頭上に注意なんて書いてくれている罠があるわけないだろう? いいか、使う時は、だ」

 そう言って、ゲリラ戦について説明しながら、カッセルは苦笑した。
 カッセルがバセットに陸上戦術を教えるようになって、一カ月が経った。
 単純な男ではあるが、飲み込みは早い。
 元々が真面目な性格であるし、手先も器用だ。

 覚えも決して悪いわけではない。
 これで馬鹿じゃなければなぁ。
 カッセルは小さく笑い、スキットルを取り出した。
 一口飲めばウイスキーの熱さが胃に染みわたる。

「て、何飲んでいるのですか」
「ウィスキーじゃよ。いつ死ぬか分らぬのなら、後悔はして死にたくはないだろう」
「居残り組が何をいってんですか。ほら、さっさと相手をひっかける罠の設置を教えてください」
「やる気になったのはいいが、何か私が損している気がするぞ」

「退役まで一年なんですからね。これからは夜まで教えてもらいますよ」
「夜は酒でも飲んで寝ていたいがね」
「酒なら今飲んでいるでしょう?」

「ああ、そうだな」
 苦くカッセルは笑い、籠を持ち上げた。

 + + + 

 相変わらず、狭い執務室だ。
 それでも個人にあてられた部屋と考えれば、十分だろう。
 響くブリザードの音と叩くキーボードの音を背景にして、アレスはキーボードを叩き続けた。

 返ってきて任務が終了する兵士とは違い、アレスにとっては帰ってきてからが仕事だ。戦闘報告書、結果報告、捕虜に対する事柄など数多くの報告が必要となり、それを作るのは他ならぬアレスの仕事である。
 前世の記憶と学生時代に手伝わされていた士官学校での経験がなければ、どうすればよいか迷ったことだろう。全てを真面目に打てば、おそらくは一週間あってもしあげる事はできない。

 全てに全力投球など、学生だけで十分。
 戦闘結果は即座に必要ではあるが、概要さえ分かればよい。逆に捕虜に対する報告は下手をすれば公開される必要があるため、時間をかけてでも一言一句を気にして書かなければならない。策敵の報告などは基地の司令官どまりの報告書のため、余った時間で適当に打てばいい。

 それら報告の必要性を分類わけをすれば、あとは打ち込むだけだ。
 キーボードを叩く音が室内に響く。

 と、扉の外に人の気配を感じて、アレスは指を止めた。
 今日は小隊の人間には、自主訓練を命じている。
 何か問題でも起きたのだろうか。
 顔をあげれば、ノックの音とともに返事を待たずに扉が開いた。

「クラナフ大佐?」
 驚きの声をあげたのは、アレスだった。
 扉から姿を見せたのは、基地司令官であるクラナフ大佐だ。
 立ち上がり礼をする様子に、クラナフは小さく手をあげて、止める。

「仕事の邪魔をしたかな」
「いえ。何か問題がありましたか」
 わざわざ司令官が小隊長の執務室に来るなど、それ以外は考えられない。

 案の定、クラナフは首を縦に振りながら入ってきた。
「先ほど提出した戦闘報告ですか?」
 言葉にクラナフは首を振った。
「いや。簡潔で客観的に分かりやすい。報告として良くできていると上も褒めていた」

 予想していたものと違い、アレスは怪訝な表情を見せた。
 アレスの方に問題があるとすれば、先日の索敵の結果でしか考えられない。
 だが、そんな小さな事にクラナフがわざわざここに来るだろうか。

 本来ならば、指揮官室で敵基地の攻撃について指揮を執る必要がある。
 そう考えて、アレスは眉をよせた。
「攻撃隊で何か問題が」

「正解だ、正確には斥候隊だがね」
 クラナフは苦い表情を見せると、懐から地図を取り出した。
 アレスが閉じたノートパソコンの上に、地図が広げられる。
 それはこの周辺の簡単な地図だ。

 同盟軍の基地と、捕虜から聞き取った帝国軍の基地。
 そこのちょうど中央――帝国軍基地に近い場所に赤い印が付けられている。
「知っていると思うが、斥候隊の任務は二つ。敵基地までの進路の安全確保と敵基地周辺の調査だ。そのうち敵基地周辺の調査を任務とする一隊が、ここで敵と遭遇したとの無線を最後に連絡が途絶えている」

「本隊は?」
「本隊はここだ。既に遭遇地点を超えて、敵基地を目指している」
 クラナフが指で示せば、既に敵基地に近い場所に本隊はいた。
 遭遇した斥候隊が単に本隊の誘導部隊ではなく、敵基地周辺の隠し基地や避難所を捜索する部隊であった事が運が悪かった。敵との遭遇について、本隊から援軍を送る事になれば、一度進軍を止める事になる。

 敵が準備を行う前に攻撃をするという当初の計画は大きく狂うだろう。
 本隊は回せない。
「他の斥候隊を回すことは?」
「どれも遠い。一番近いのは」

 そこで、アレスは理解した。
 その意味も。
 息を吐けば、答えを口にする。
「この基地から派遣する方が近いのですね」

「話が早くて助かる。すぐに出動できるか。相手の数はわからないし、戦闘が始まったことから間に合わない可能性の方が高い。だが、助けられるのならば少しでも助けたい」
 立ち上がったアレスは手を止めた。
 クラナフを見る。

 どこか非難めいた視線に対して、クラナフは言葉を口にしない。
 無理ならば他にするということも、悪いという謝罪の言葉もなく、ただただ向けられる視線は一言、行けとアレスに告げている。
 それを理解すれば、アレスも

「承りました」
 アレスは敬礼で答えた。

 + + +

 司令官室でヘルダーは、机上の写真を見ていた。
 コップにウィスキーを注ぎ、一人せわしなく指を机に叩きつける。
 上手く金髪の小僧を騙して装甲車索敵の任務を与える事ができた。
 もっとも索敵が成功するかなどどうでも良いことだ。いや、誰にも言う事はできないが、失敗することをヘルダーは望んでいる。そのためにフーゲンベルヒ大尉にも事情を説明して、出発した装甲車の水素電池に細工も行った。

 フーゲンベルヒ曰く、二日も持たずにエンジンは停止、。金髪の小僧も、それに続く赤毛の小僧も地図データも動かず、徒歩ともなれば帰ってくることは不可能だろう。
 白銀の大地に死体が二つ増えるだけだ。
 だが。

「遅い」
 死体の確認に向かわせたフーゲンベルヒがいまだに帰ってこない。
 ある程度の時間がかかることは理解していた。
 だが、早く結果が知りたい。

 苛立ったように机を指が叩き、ウィスキーを煽るが、満足に酔う事はできない。
 ウィスキーの苦みと酒の強さが、今では不快に感じる。
 さっさと上手い酒を飲みたいものだ。

 写真を裏返しにして、ヘルダーは大きく息を吐く。
 と、司令官室の扉が激しく叩かれた。
「なんだ」

 こちらの声と同時に、兵士の一人が姿を見せる。
 走ってきたのであろう、随分と息を切らせている。
 その焦った様子に、ヘルダーは浮かびかかった笑みを必死で消した。

「何があった?」
「は、それが」
「どうした、はっきりといえ」
 出来るだけ声を平たんにして、ヘルダーは答える。

 さっさと金髪の小僧が死んだと報告しろ。
 そう思いながら、睨みつけるように兵を見れば、兵士は息を整えた。
「はっ。敵の襲撃です!」
「な、何だと!」

 ヘルダーは眉をあげて、呆然と兵士の声に答えた。
「何と言った」
「は。反乱軍の兵士が、こちらに奇襲をかけてきました。現在迎撃部隊が対応中ですが、敵の数も多く……」
「ぬう。わかった、指揮を執る。すぐにマーテル中佐を呼べ」

「はっ!」
 兵士が再び走りだして、ヘルダーは苛立ったように机を叩いた。
 まったく反乱軍も邪魔をしてくれる。
 どうせならば金髪の小僧がいるタイミングで攻めてくれればいいものを。

 そうすれば流れ弾にあたったとして、上手く殺すこともできたのに。
 舌打ちを隠さず、ヘルダーは司令官室に備え付けられているモニターを付けた。

 そこには群がる反乱軍の装甲車両を必死で迎撃する帝国軍の姿があった。


 

 

記憶の彼方


 装甲車二台が雪原を走る。
 今回は目的地が決まっているため、一日ほど休むことなく走り続けた。
 一台が先頭を走り、もう一台が後方を走る。

 交代で休みを取らせれば、アレスはモニターに映るデータを睨みつけている。
 敵基地に対して奇襲が開始されたと聞いたのは、昼ごろ。
 無線が途絶えた地点までは夕方ごろにはつくだろう。
「小隊長もお休みください。到着まではまだ時間があります、一眠りできますよ」

 狭い車内で体を入れ替えながら、バセットが顔を見せた。
 どこか気遣うような言葉だ。
 昨日の昼に出発してから、一度も仮眠をとっている事を知っているからだろう。
 その言葉にアレスがもう少しと答え、再びモニターに目を向けた。

 敵から攻撃を受けた地点は敵基地とのほぼ中間地点。
 敵が増援を呼んでいたとすれば、一個小隊に過ぎないこちらは大きな打撃を受ける。だが、増援を呼んだとしても、敵基地が攻撃されている現状であれば、すぐに引き返すだろう。
 大きな戦闘とはならないというのは、クライフ大佐とアレスの共通した意見だ。

 生存兵がいれば、回収し、状況を確認するだけの簡単なもの。
 だが、浮かぶ疑問がアレスに不安を与える。
 モニターを睨みながら、確認するようにアレスは口を開いた。

「バセット」
「何でしょう」
「一個分隊、三機の機動装甲車有する8名を相手にするにはどれくらいの兵が必要だ」
「そうですね、一個小隊、完全を期すなら二個小隊ほど必要になると思います」

「二個小隊の敵に囲まれたらどうする?」
「援軍を呼ぶか、すぐに逃げます。小隊長はどうされますか?」
「俺も同じだ」

 肩をすくめるバセットに、アレスは頷いた。
 敵と遭遇した無線を最後に、斥候の小隊は連絡を途絶えた。
 そう遭遇した無線を最後に。
 そこがアレスが気になるところだ。
 もし二個小隊の敵に囲まれたとすれば、遭遇したと報告するより援軍を呼ぶ。

 そうなると、少なくとも報告した時点では敵を把握していなかったのか。
 あるいは、把握していたが援軍を呼ばなくても戦えると思ったのか。
 敵は少数。
 だが、少数の兵がなぜ中間地点まで偵察に向かうのか。

 帝国にとって重要な施設がここにあるというのだろうか。
 そうなれば、楽観的に考えていれば、大きな損害を受ける事になるが。
 そう思いながらずっと地図を見ていたが、そこに重要性が発見できない。
 結局は行くしかないか。

「わからん」
「寝不足では満足に考えられませんよ。見張りは変わりますから、一休みしてください」
「ああ」
 頷けば狭い車内で、バセットと身体を入れ換える。
 後方まで這うように進めば、一席だけ開いているベンチに腰を下ろした。
 硬い壁面に身体を預ければ、静かにアレスは瞳を閉じた。

 アレスは原作を知っている。
 しかし、原作を全て理解しているわけではない。
 カプチェランカでの戦闘があったと記憶していても、どのような戦闘であったか、ましてや一戦闘など長い記憶で残ってはいない。
 ラインハルトとキルヒアイスが味方の罠にかかっているなど、予想する事さえできなかった。もし、アレスが原作を理解していたのであれば、全速力で進行し、ラインハルトの命を狙ったことであろう。

 それが間に合わなかったかもしれないが。
 幸か不幸か、そうはならなかった。

 + + +
 
「間もなくつきます」
 短い言葉に、アレスは瞳を開けた。
 思いの他熟睡していたことに、唇を拭った。
 幸いなことに涎は垂らしておらず、バセットが脇に控えている。

「もっと早く起こしてくれて構わなかったよ」
「気持ちよさそうだったので。敵の反応は一切ありません」
「味方は?」
「それも」
 静かに首を振る姿に、予想されていたことであったが、アレスは小さく息を吐いた。動けばバセットが脇に避けて、頭上の扉までの場所を開ける。

 一人が顔出して見張りをしている。
 モイラという名前だった。
 その隣から顔を出せば、温まっていた顔が一瞬に冷える。
 唇まで服の中に入れながら、少し変わるとモイラに伝えた。
「いえ。任務なので」

「ああ……じゃあ、頼んだ」
 生真面目なバセットの影響か、アレスのいる第二分隊は良いように影響されているようだ。これがカッセル率いる第一分隊であれば、嬉々として装甲車の中に入ったことだろう。
 まあ、あちらはあちらで馬鹿が多いから楽しい事は楽しいのだがな。

 雪だるまになった男や常にチョコレートバーを手にしている男など、話題性には事欠かない。不真面目なカッセルと生真面目なバセットの両輪が、上手くかみ合ってきたと思う。まだ訓練も不十分だが、今後時間がたてば他の小隊にも負けないと思う。そう思った事に、五月に赴任してから二カ月余りで自分の隊に愛着を持った事に、アレスは唇をあげた。
 小隊長というのも悪くはない。

「ま、そう思う事までがカッセルの爺さんの罠の可能性もあるが」
「第一分隊長がどうかされましたか?」
「いや。こちらのことだ」
 呟いて、アレスは外に目を走らせた。
 白銀の平原は過ぎて、ごつごつとした岩が多くなってきている。
 装甲車に入力されていたデータがなければ、ここまで早く走ることはできないだろう。装甲車はほぼ自動で操縦され、細かい操作を運転手が担当している。

 切り裂くような風に、アレスは周囲を見渡す。
 盲点が多い。それは奇襲を受けやすい光景だ。
 バセットは敵の反応がないから起こさなかったと伝えた。
 だが、装甲車ではなく人間であれば反応はない。

 こんな外を呑気に歩く人間などいない。
 じっとしていれば、それこそ一時間も経てば指の感覚もなくなる。
 それを理解しているからこそ、反応がなければ敵がいないと思いこんでいる。
 それがカプチェランカの常識。

 だが、まだ二カ月のアレスはそれになじめないでいる。
 むしろ、そう考えるのであれば積極的に前線基地を作り、一時間ほどでも徒歩の部隊で敵を待ち受ける対応を取った方がいいのではないか。ここの基地司令官はともかくとして、同盟軍の本部でそれを理解できる人間は多くいるはず。
「たかが辺境にそこまで意識を持たないか」

 そうであれば何のために彼らは戦っていると言うのか。
 長く続いた戦いが、問題が起きなければそのままにしておくと言う異常な状態を常態化させているようにアレスは感じた。
「小隊長。前方に何か存在します!」

 驚いたような声でモイラが伝えた。
 障害物があれば、基本的には運転手の隣でモニターに目を走らせていた監視手が発見を知らせる。その声がなかった事に驚いている。
 驚くほどの事ではないと思いながら、アレスは車内に顔を突っ込んだ。

「前方に人影を発見。砲手は狙いを二時の方向にして、速度を落としてくれ」

 + + +

 ほぼ七割を雪に埋もれた、それは死体であった。
 アレスが隊員二人を伴って身に行けば、基地で見た顔の男だ。
 怪我を負いながら歩いてきて、ここで力尽きた。
 その表情は苦悶に満ちて、とても幸せな最後であったと言えなかっただろう。

 すでに歩いてきた道は白銀の雪で覆われている。
 それでも倒れている方向と、微かに凍った血の氷から場所はわかる。
「バセット、装甲車を先頭にして他の歩兵は装甲車を盾に進軍しろ。敵はいないかもしれないが、伏兵がいるかもしれない。敵からの攻撃があれば、すぐに散開して敵をその場にとどめるように、深追いはするな。とどめは第一分隊が行え」

「はっ」
 短い言葉とともにバセットが隊員を引き連れて、遅々として進軍を開始した。
 その間にアレスは兵士の様子を観察する。
 認識票を見れば、斥候隊の所属する第三小隊の若い男だった。
 階級章は一等兵。まだ配属して間もなく、カプチェランカに来る時に一緒の船に乗った記憶がある。初めての戦場で緊張して、ベテランの人間にからかわれていた。

 裏返せば、腹部に貫通痕。
 レーザー銃による傷跡であり、これが唯一の傷だ。
 それ以外に傷はなく、傷自体も凍りついていて綺麗なものだった。
 死因は凍死かもしれない。
 アレスは静かに手を合わせれば、後方から遅れてきた第一分隊に死体袋を用意するように伝えた。狭い車内に入るわけはなく、まだしばらく装甲車の外部に括りつけられて寒い思いをする事になるだろうが。

 岩肌に囲まれた場所に、敵の姿は見えなく、前進した第二分隊に対しても攻撃はないようだ。そこでしばらく待ってから、アレスは第一分隊の装甲車とともに歩き始めた。
「小隊長。バセットが斥候隊を発見したそうです」
「敵の姿は?」
「現在、周辺を策敵中ですが発見はせず、生存者もいません」

「わかった。索敵終了後に合流しよう」
「了解」
 短いカッセルの言葉に、理解していたとしてもアレスは首を振った。
 厳寒の大地では、わずか数十分でも体力を奪われる。
 準備もなく一昼夜も過ごせるわけがない。

 理解していたとしても、生存者なしの報告にはため息を吐いてしまう。
 容赦なく雪は叩きつけて、降り積もる。
 吐いた息から漏れる水蒸気で、アレスの服の襟が凍り始めていた。

 + + + 

 最初の連絡から数分で、斥候を務めた第三小隊第二分隊の面々は発見した。
 生存者はない。
 それはわかっていた事であったが、現場を見ればなおさら理解が出来る。
「一台はナパームで完全に蒸し焼きに、残りは……」

 バセットは小さく首を振った。
 死体はそこらに散らばっており、一台が奇襲によって破壊され、散開した事を窺わせていた。主な死因は頭部をレーザーで貫通されたものだ。
 おそらくは痛いと思う暇もなかっただろう。
 ほぼ即死であったことが、まだ救いだろうとカッセルが苦々しげに呟いた。

「運がなかったの。敵の待ち伏せにあって――二個小隊といったところか」
 カッセルの言葉に答えず、アレスは周囲を見渡した。
 ある者は岩場から、ある者は雪原から、またある者は装甲車の影から。
 転々と散らばる死体を集める部下の姿に、アレスはゆっくりと首を振った。

「いや。少数だ。囲まれたのならばここまで死体は散らばっていないはず。それに、全員がほとんどが頭を一撃で狙撃されている。そんな優秀な人間が複数も同じ隊にはいないだろう」
「まさか。そんなことが出来るのは、うちじゃローゼンリッターくらいでしょう?」
 そんな精鋭がこんな場所にいるわけがないと続きかけたカッセルの言葉を、アレスが奪った。
「いたのだろう。まさに軍曹のいう運がなかったことにね」

 倒れる死体を確認しながら、アレスは息を吐いた。
 忘れていたと後悔は少し。おそらくこの場には、ラインハルトとキルヒアイスが二人でいた。
アレスもラインハルトとキルヒアイスの初陣がカプチェランカであるという事は知っていた。そこで、罠にかけられたということも知っている。

 だが、アレスは原作は知っていても、原作を持っているわけではない。
 事細かに覚えているわけでもなく、大きな事件を理解できているだけで、その外周となる部分までは完全には把握していない。
 ましてや、その通りになるという百パーセントの保証があるわけもなく、概略的な部分を除いては深くは考えてこなかった。
 今回はそれが仇となったのか。

 もっともそれを知っていたとしても、ラインハルトがここで立ち往生するとまでは書いていないのだから、想像していたとしても意味がなかったかもしれないが。
「小隊長!」
 息を吐いたアレスを、残っていた装甲車を調べていた兵士が呼んだ。
 カッセルと顔を見合わせて、一緒に向かう。

 近づけば装甲車の後部をライトで照らして、促した。
 そこには空となった燃料電池を入れるボックスがある。
 その現状に男が戸惑ったような声で、事実を述べた。
「一台は水素電池が奪われてます」
「水素電池だと。何でそんなものを帝国が奪う?」
「ガス欠が起きたのだろう、途中でね」

「それは、随分と抜けていますね。こんな場所で立ち往生をすればどうなるかはわかるでしょうに」
「ああ。死んで欲しかったのだろう」
「死んで欲しかった?」
「小隊長」

 言葉を遮るように、再び声があがった。
 会話を止められて、珍しく不快気にカッセルが声の方を睨む。
「何だ?」
「その――帝国兵です。帝国軍の士官の死体があります」
 戸惑った言葉に、カッセルとアレスが顔を見合わせた。
 そして表情に疑問を浮かべて、カッセルが声を出す。

「なんだそれは。奴らは味方の死体を回収しなかったのか」
「ええ。そのようで――」
「あえてしなかったのだろう」
「わざとですか?」

「ああ、仲間割れと考えれば、水素電池がなくなったことも説明がつく」
「何とまあ、しかし、それは随分と」
「話が飛躍しすぎか。ま、そうだろうな」
 邪魔となったラインハルトを殺すために、水素電池に細工をする。

 さらに念入りに死体を確認するために兵士を送り込むなど、アレスも知っていなければ考えもしなかっただろう。
 もっとも今はその予想が正しいことなど、どうでもいいこと。
 今はやるべき事がある。

「軍曹。すぐにクラフト大佐に連絡を。生存者はなし。敵は水素電池の他、装甲車のデータを奪取した可能性が高い。すぐに敵基地への攻撃を停止し、撤退するように伝えてくれ」

 

 

帝国基地攻略作戦



「第四中隊、敵正面を撃破」
「よし、では第五中隊と連携し、さらに押し込め」
「中佐!」
「なんだ?」

 振り返って、メルトランは無線兵を振り返った。
「基地から連絡が入っています」
「何と?」
「特務小隊が斥候部隊を発見。全員の死亡が確認されたと」
「そうか」

 メルトランは一言だけ呟いた。
 基地周辺の探索に向かっていた一部隊から連絡が途絶えたのが数日前。
 基地からの命令は、攻撃をそのまま行えというものであった。
 おそらくメルトランが向かっても助からなかったのであろうことはわかる。

 だが、知っていても全員の死亡との言葉には喜べない。
 せめて、亡骸だけでもハイネセンに戻すことができるのが救いであろうか。
「基地より伝達です。その際にこちらの装甲車のデータが奪われた可能性がある、気をつけられたいと」
「何にだ」

「いえ、それは」
 戸惑う無線兵に厳しい言葉をなげて、メルトランは息を吐く。
 無線兵は基地からの連絡を正しく伝えたに過ぎない。
 怒るのは過ぎ違いだったと後悔し、首を振った。

「例え、我々の基地データを奪われたとしても、ここを潰せば問題ない。第三大隊にも伝えろ、囲いを狭めて敵を圧迫せよと」
「はっ!」
 走り出す無線兵を見送って、メルトランは再び戦場に目をやった。
 その視界に、一台の装甲車が映る。

 こちらの部隊ではない、帝国軍のものだ。
 それは同盟軍の包囲の隙間をぬって、基地に戻っていく。
 どうするかと思案。
「装甲車一台が戻ったところで態勢に影響はない」

 一台を潰すために包囲を崩す方が厄介だ。
 そう判断して、メルトランの意識は装甲車から消えた。

 + + +

「少尉。御無事で――ただいまヘルダー大佐が指揮をとっております。すぐに司令官室へ」
「後で良い。いまはそのような事をしている時間はない」
「しかし!」
「聞こえなかったのか。今は時間がない、私は無線室へ向かうと言った」

「はっ!」
 基地が敵の攻撃にさらされていても、ラインハルトは冷静であった。
 キルヒアイスを連れて、破壊音が鳴り響く通路を歩く。
 誰もが顔をひきつらせて走る中で、ただ一人落ち着いた様子であった。
 轟音が響いた。

 敵のミサイルが近くに着弾したのだろう。
 響く振動と震える通路に、先頭を歩く兵士が短く悲鳴をあげた。
「ラインハルト様」
 降り注ぐ天井のかけらをキルヒアイスが手をかざして、避ける。
 怯えたように足を止めた兵士を抜き去って、ラインハルトは無線室と書かれた部屋に足を入れた。

「少尉!」
 戸惑う声がラインハルトを出迎える。
 喉を枯らさんばかりに、命令を伝達していた兵士達が驚いたようにラインハルトを見ていた。
なぜここにいるのか。
 疑問を浮かべる兵士に構うなと手を振ってこたえて、ラインハルトは脇に座った。

「全てに一斉に送信したいデータがある。それはここの機械で可能か」
「は、はっ。しかし」
「尋ねているのは私だ、軍曹」
「はい。そこから全隊に一斉に送信できます」

「それは、敵もか?」
「反乱軍……にもですか」
「君も私に何度も同じことを言わせるつもりか?」
「し、失礼しました。すぐに一斉送信へと切り替えます」
「一分で行うように。その間にこちらもデータの準備を行う」

 手にしていたデータ端末を入れて、ラインハルトはコンソールを叩き始めた。
 それはヘルダー大佐とフーゲンベルヒ大尉の罠によって動かなくなった燃料電池を同盟軍から奪ったとともに手に入れていた反乱軍の装甲車のデータだ。
 敵の地図データの他に、装甲車を動かすための脳波認証のデータが入っている。
 脳波認証について書き換えることまでは必要はない。

 ただ、相手が認証出来ないように妨害すればいいだけだ。
 敵が使用する周波数は、既に把握済み。
 ならば、その周波数に向けて一斉に偽データを流す。
 それだけで敵は装甲車が使えなくなる。
 周囲の視線が集まる中で、ラインハルトはコンソールを叩く。

 白い指がピアノの鍵盤を叩く様に、滑らかに動く姿に、兵士達は手を止めて、思わず見入った。
「手が止まっているぞ、軍曹。こちらの準備はできた」
「は。こちらも完了です。いつでも一斉送信は可能です」
「よし。では、送信するデータを送る」
 呟いて、ラインハルトは背後に控えるキルヒアイスを振り返った。

 赤毛の少年は穏やかな顔で頷く。
 ラインハルトがすることに間違いなどないのだと言わんばかりに。
 だから、ラインハルトも小さく頷きを返した。
「これで反乱軍は木偶の坊だ」

 白く細い指が、キーボードを叩いた。

 + + +

「敵が崩れたぞ、全装甲車でたたみかけろ」
 高台の上で、敵基地を見下ろしながらメルトランは声に出した。
 敵からの攻撃は散発的なものへと代わり、ここが攻める時期だと判断する。

 その判断は決して間違っていない。
 抵抗を続けていた敵兵士達には疲れが見えており、装甲車を突撃させれば瓦解するであろう。だが、それは最悪のタイミングでの命令であった。
 装甲車が敵の正面――平原に差し掛かった瞬間、全てが一斉に沈黙した。
 装甲車からの砲撃も、移動もなければ、それは大きな的でしかない。

 それは敵である帝国軍ですら戸惑いを見せた。
 だが、もっとも戸惑っているのは同盟軍の方だ。
「なぜ、止まる!」
 叫んだメルトランの前で、敵基地からナパーム砲が放たれた。
 敵正面で立ち尽くす装甲車に突撃、次々に装甲車が炎上する。

 極寒の大地にすら炎上する熱が伝わる。
 視界に映る赤が、白い大地を染め上げていた。
 ある者は炎上する装甲車から逃げ惑い、ある者は装甲車とともに炎上する。
 瞬く間に悲鳴が重なった。
「な、何が起こっている」

 その光景を呆然と見下ろしながら、メルトランは命令を口にできない。
 本来であれば何が起こっているかを考えるよりも先に、現状を認識して逃げろと伝えるべきであったのだろう。突然の事態に思考がついていかない。メルトランが判断に迷う間にも、次々と敵基地の前で同盟軍の兵士は倒れていた。
「中佐!」

「なんだ」
「全ての装甲車が一斉に機能を停止。脳波認証システムが敵からの妨害を受けた模様です」
「なんだと……そんな事ありえるわけがない」
 メルトランが呟いたのも無理はなかったのかもしれない。
 彼がこの大地で戦って――あるいは今までの戦場で脳波認証システムが妨害された事など聞いたことがなかった。

 もしそんな事が可能であるなら、過去に問題となっていただろう。
 なぜ、このタイミングで。
『第四中隊、壊滅!』
『第五中隊長の戦死に伴い、エルノア中尉が指揮を代理します』
『第三小隊、撤退します』

 無線兵が持ってきた無線からは、次々に悲鳴に近い言葉が漏れ聞こえた。
 統率など取れていない。
 ただ闇雲に叫ぶ様子に、メルトランは怒りを覚える。
「落ち着け。あと少し、あと少しなのだ!」
「はっ」
 呟いた言葉に、無線兵が気を利かせて、メルトランの言葉を無線に入れる。

 しかし、響いてきたのは絶叫に近い言葉だ。
『どうすればよいのですか!』
 響いた言葉に、無線兵はメルトランを見る。
 答えられない。

 再び振り返った大地では、敵の正面から装甲車が姿を見せていた。

 + + + 

「もはや敵に身を守る者はない。攻撃を仕掛けろ!」
 敵の装甲車が止まって、戸惑っていたのは帝国も同様であった。
 いきなり全部隊が停止したのだ。
 それまで押し込まれていた状況であれば、罠かと疑ってしまう。

 呆然としていた兵士の心を動かしたのは、声だ。
 吹雪や敵の悲鳴をぬって響き渡った声に、誰もが振り返る。
 視界の端で金色の髪を揺らす少年がいる。
 まだ自分よりも遥かに若い――だが、その声には力があり、心を掴まれる。

 その場にはまだ少尉であるラインハルトよりも上官の姿はあった。
 しかし、誰もが言葉を失い、彼の言葉を信じた。
「突撃だ」
「勝てる」

「装甲車を前へ!」
 一瞬の硬直の後に弾けるように兵士達が動き始める。
 いまだ鉄屑となった装甲車の周囲で戸惑う同盟軍よりも先に攻撃が開始された。
 撃ちこまれる攻撃に、同盟軍も必死で攻撃を返す。
 しかし、同じ攻撃であっても同盟軍は連携もなければ、動くことも出来ない。

 文字通り的となった同盟軍の兵士達は、次々に雪に死体を重ねていった。
「ナパームを」
 ラインハルトが言葉とともに、装甲車を盾に奮戦していた一部隊を指さした。
 理解したように兵士がナパームを装甲車へと向ける。
「逃げろ!」

 同盟軍の悲鳴は、基地にいるラインハルトの元にまで聞こえた。
 だが、遅い。
 直後に着弾するナパームが、装甲車とともに周囲にいた兵士を蹂躙していく。
 着火剤が使われた炎は、雪に転がったとしても容易には消すことができない。
 慌てて消火しようとした兵士の腕まで焼き尽くして、悲鳴を倍増させた。

「気持ちのいいものではないな。やはり、俺は地上は苦手だ」
「ラインハルト様」
「わかっている、キルヒアイス。例え地上だろうが宇宙だろうが、死ねばヴァルハラ――同じ事だ。今ここで殺した千人と空で殺した千人に何の違いもない。だが、気分の問題だ」
 いまだに聞こえる悲鳴にラインハルトが眉をひそめれば、キルヒアイスはそれ以上は何も言葉にしなかった。もはや戦況は帝国軍に傾いている。装甲車が動かなくなったいまでは、敵の攻撃はこちらに被害を与えられず、逆にこちらからこの攻撃を敵が防ぐことはできない。

 もはや戦いではなく、虐殺であろう。
 もっとも敵の装甲車を無効化できなければ、逆に同盟軍は嬉々としてこちらを攻撃したのだろうが。
 戦況を見ながら、ラインハルトはこつこつと音を鳴らした。
 近くにあった装甲車を無造作に指で叩いている。

 それがラインハルトが不機嫌になった時の癖だと理解して、キルヒアイスは穏やかに声をかけた。
「どうしました。戦いを止めますか」
「そんな事をして何になる。動ける者は、いまのうちに叩いておくのは当然のことだ。見逃したものが、俺達も見逃してくれるというのか?」
「では」

「腹が立つのは同盟の無能だ。攻撃のチャンスがなくなったのならば、さっさと尻尾を巻いて逃げるのが当然だ。それが目前の餌の前に、冷静な判断が出来ないでいる。まったく無駄な犠牲だ」
 吐き捨てるように呟いて、ラインハルトはさらに指を動かした。
 響く音が強くなる。
「帝国が無能ばかりで良く勝てたものだと思っていたが、なるほど――無能が無能と戦えば、戦争は長引くのは当然だ」

「声が大きくございます」
「なに。誰も聞いていない――心配するな」
 首を振って、ラインハルトは足を進めた。
「どうしたのですか」
「そんなに戦いたいのなら、敵の無能にも戦ってもらおうじゃないか。キルヒアイス」

「はい」

 + + +
 
「報告、第三中隊壊滅――レイノルズ大尉以下全滅です」
「報告……」
 次々と上がる報告にメルトランは耳を塞ぎたくなった。
 もはや良い報告はあがってこず、負けという言葉が脳裏をよぎる。

 震えそうになった足を、メルトランは両の手で押さえた。
 震えている場合ではない。
「思えば……」
 小さく呟いた言葉に、無線兵が無線を手にして言葉を待つ。
 マクワイルド少尉の進言を無視した事が間違っていたのかもしれないな。

 言葉に出さず、メルトランは自嘲を浮かべた。
 思いだすのは着任当初にアレス・マクワイルドが進言してきた意見だ。
 装甲車が非常時に手動切り替え装置。

 意見だけではなく、実際に小隊に配置された装甲車を使って、可能であると方法まで示してきたが、クラナフ大佐とメルトランは、即座に進言を却下した。
 今まで問題があったわけでもなく、逆に手動に切り替えられるようであれば、容易に敵に奪われる可能性があるというのが理由だった。それに対して、マクワイルドは何と言っただろうか。

 『奪われる事態になるのでしたら、もはや脳波認証など無意味ではないですか。今まで問題が起こっているから大丈夫なのではありません。問題が起こる可能性があるから、危険なのです』

 生意気な小僧だと一笑したが、今では笑うことも出来ない。
 事態はアレス・マクワイルドが危惧した通りになっている。
 手動に切り替えられれば、このような事態にも対処することができただろうか。
 せめて、その方法をメルトランが理解していれば違っただろう。

 今からそれを聞くには、あまりにも遅すぎる。
「中佐」
 側近――レティル少佐が静かに言葉を促した。
「すまない。全軍に撤退命令を出せ――装甲車は捨ておけとな」
「し、しかし」

「動かないものにこだわっても仕方ない。それよりも先に敵基地を占拠出来れば良かったのだろうが」
 敵からの攻撃は強くなり、こちらはもはや組織だって防衛できていない。
 今から敵基地を奪うという選択肢は不可能だ。

 それがレティルにも理解できたのだろう、レティルも頷けば無線兵が言葉を口にする。
「全軍に命令を送る。全部隊は退却せよ――繰り返す、全部隊は退却せよ!」
 メルトランの言葉で、騒々しくなるのはメルトランのいる場所も同様であった。
 撤退のために必要なものを抜き出し、同盟軍基地へと伝達を開始する。

 装甲車が動かなくなった原因を求める基地に、無線兵が今はそんな場合かと怒鳴りつけていた。それと並行して撤退のための作戦を練り、現場へと伝達する。
 動き始めた指令部を見ながら、メルトランは息を吐いた。
 こちらの退却を見るや敵からの攻撃は一層に厳しくなった。
 よほど期を見るに敏感なものが敵にいるらしいと、メルトランは苦笑する。

 ついていない時にはついていない事が重なるものだと。
「中佐。スノーモービルが数台動くようです、これを使えば中佐だけでも」
「それは少佐が使いたまえ。多くには犠牲を強いる事になるな、それでも少しは生き延びてもらいたいものだが」
「何をおっしゃいますか!」

「誰かは責任を取らねばならぬ」
「ならば、その責任は私にもあるはずでしょう。このようなこと誰が想像をできたと」
「アレス・マクワイルド少尉」
 呟いた名前に、レティルは眉をひそめた。
 それは新任の特務小隊長の名前だ。

 まだ配属されてまだ二カ月余り。士官学校出の優秀な人間であったという情報だけで、彼がどのような人物であるか、レティルは知らない。
 ただ伝え聞くのは二通りの解釈だ。
 一つは毎日雪合戦をして遊んでいるという批判的なものであり、もう一つが訓練をサボることなど当たり前、真面目とはかけ離れたいわば屑が集められた特務小隊で、遊びとは言えまとめ上げて、規律を作っているという点で肯定的なものがある。

 どちらが正しいか、いずれ会ってみたいとは思っていた。
 そんな人間の名前に、驚きを浮かべてメルトランを見る。
 視線にメルトランは自嘲を込めた笑みを浮かべた。

「少なくとも彼はこの結果を想像していた。実際に進言もあがっていた――だが、それを無視したのは私なのだ」
「進言?」
「脳波認証に異常があった場合に、手動に切り替えられるようにとな。切り替えられれば、脳波認証の意味などないと思っていたが、どうやら間違いだったらしい」
 呟くメルトランに、レティルは答えを窮した。

 そのような進言があったなど、聞いてもいない。
 いや、確かに特務小隊が遅くまで残って装甲車を整備していた記憶はあるが。
「つまらぬことと思っていたが、どうやらつまらぬのは私だったようだ」
「そのようなこと」
「レティル少佐。命令だ――君はスノーモービルで、この現状を伝えてくれ。私は残ったものを出来るだけ撤退させる。この吹雪で徒歩では難しいかもしれないが」

「中佐!」
「命令だ、わかるな? そしてマクワイルドに伝えてくれ、すまなかったと」
 有無を言わさぬ断言に、レティルは迷う。
 しかし、その迷いをかき消すように敵正面に向かった部隊が砲火にさらされた。
 燃え広がる炎と悲鳴に、レティルは迷うを振り払うように首を振った。

「わかりました。御無事で」
「君もな」
 メルトランの言葉に、レティルは踵を返した。
 スノーモービルへと向かう姿を見送れば、メルトランは戦場を振り返る。
 上は現場の意見を聞かないと愚痴をいいながら、自分も同じであったという事実には苦笑いしか浮かばない。ならば、最期くらいは理想のままに終わりたいものだと思う。

「全部隊。敵正面への攻撃を行う――補給など心配するな。ありったけの弾を撃ち込んでやれ!」

 

 

効率と非効率



「間もなく基地に到着します」
「予定より八時間遅れたな」
 既に闇が広がり、狭隘な山道は装甲車のヘッドライトで照らされる。
 吹雪で視界が遮られる中で、慎重にのぼっていった。

 時計を見るアレスに、バセットが苦笑する。
「急に装甲車が動かなくなったのですから、八時間遅れでも十分でしょう」
「むしろ、なぜ装甲車で戻ってこられたか聞かれると思いますよ」
 その言葉に、アレスは苦い笑みを浮かべるのだった。

 脳波認証システムの異常により、装甲車両が突然の停止。
 この吹雪の中で装甲車が使えなければ、基地への帰還は難しい。
 絶望を浮かべる隊員の中で、アレスと整備を担当しているミラン・ルードは顔を見合わせてため息を吐いた。しかし、その直後、ルードがコンソールを叩きだして、四時間余りで一台の装甲車は手動へと切り替えられた。

 動きだす装甲車に歓声と驚きがルードに向けられる。
「小隊長に言われて、手動に切り替える方法を勉強しましたから」
 照れたように呟く若い男をもみくちゃにしながら、アレスを向けば、当の小隊長は誇るわけでもなく、浮かない表情を浮かべていた。
 手動への切り替え方法は何とか分かった。

 ただ、それの危機感を伝えられなかった。
 なぜか。
 当人たちはそんな事が起こりうるわけがないと考えており、実際アレスにしても脳波認証システムを妨害させる方法など、いまだに分からずじまいだ。

 前もって勉強しようにも装甲車のシステムなど、ただの学生が調べられるわけがない。
 そもそも例え調べられたとしても分からなかっただろう。
分野が違う。
 一つ一つのシステムを理解して、穴を抜け出すことなど本職の仕事だ。

 そして、その本職が言うわけだ。
 そんな事が起こりうるわけがないと。
 そうなれば、下手をすれば相手に奪われるという危険が伴う手動への切り替えなど、見向きもされるわけがない。

 せめて、フォークの半分ほどでも内部にコネを持てれば、違ったのだろうが。
 あるいは未知の分野ですらもあっさりと解決して見せるラインハルトの有能さを恨むべきか。
 その想いは基地が近づいた今でも晴れず、手動への切り替え方法を上へと伝えた現状で、なぜ帰ってこられたのかを聞かれれば、アレスとしては苦笑いをするしかない。

 ヘッドライトの明かりが、鉄条網で塞がれた門を映し出す。
 もはや動かなくなった装甲車をバリケートにして、立つ兵士の顔に驚きが浮かんだ。
 その表情にアレスは、さらに苦さを強くした。

 + + +

 案の定、装甲車の動かし方を聞かれて、アレスはルードを派遣した。
 整備を担当する者に、手動への切り替え方法を教えるように伝えれば、忙しく止まっている装甲車へと駆け付ける。
 そんなアレスはクラナフ司令官に呼ばれて、司令官室に向かう。

 司令官室は、着任当初と何も変わっていない。
 前回はいたメルトラン中佐がおらず、室内にはクラナフ大佐の姿しかなく、より寂しさを浮き立たせていた。
 入室前に身体についた雪を払えば、そのままでとの声がかかった。

 室内に入れば、暖気が身体を包み込む。
 考えていたよりも身体は冷え切っていたようだ。
 寒さを思い出して震えだす身体を押さえながら、アレスは司令官の机の前に立った。

「特務小隊。任務を終了し、ただいま帰還いたしました」
「御苦労。すぐにでも休んでもらいたいところだが、そうもいかなくなった。君が、危惧していたことが現実になった」
 苦々しげに、クラナフが手元に紙を落とす。
 配属されてすぐに上に提出した手動への切り替え――そのマニュアルと伝達の必要性だ。

 それは必要性がないと目の前のクラナフに却下されたが。
「基地内の装甲車を手動に切り替えられるか?」
「既にルードに、他の整備兵に手順を教えるようにしました。ただ慣れたルードでも一台四時間近くの時間がかかります。とても一日で全てをとはいかないでしょう」
「構わない。出来るだけ急いでくれ」

「そのように伝えます。それで、敵基地への攻撃部隊はどうなったのでしょうか」
 問われて、クラナフは眉をひそめた。
 表情に迷いが浮かび、だが、真剣なアレスの視線に口が開かない。
 やがて、諦めたようにため息を吐いて、首を振った。

「攻撃中に、この基地と同様に装甲車が動かなくなった。メルトラン中佐は死亡し――一部を除いて、徒歩でこの基地に撤退しているそうだ」
「装甲車が動く時点で、撤退をと伝えたはずですが。間に合わなかったのですか?」
「あの時に撤退の命令が出せるわけがないだろう。こんな事が起こるなど、誰にも……」
 力強く机を叩こうとした拳は、前に立つアレスの視線によって力を失った。

 続く言葉は、アレスには届かない。
 ただ一人、目の前にいる人間がそれに気づいていたことは手元の資料から明白だった。
「可能性があると申し上げたはずですが」
「そう、可能性だ。だが、可能性で全ての装甲車を変更する権限など私にはない。ことはこの基地だけではなく、同盟軍全体に及ぶのだからな」

「ええ、知っています」
 呟いたアレスの言葉には、批判的な感情は一切なかった。
 ただ見つめる視線に、クラナフは視線とともに話題をそらした。
「おそらく敵はこの基地を攻めてくるだろう」
「装甲車が動かなくなったと敵は思っているでしょうね」

「それは防がなければならない」
 言葉に、アレスが片眉をあげた。
「ここは一時的に撤退するべきかと思いますが」
「なぜだ」
「装甲車が動いたとしても、敵が攻めるまでに全てを動かすことはできないでしょう。何より攻撃隊により過半数が壊滅した現状では、基地に残っている人数ではとても対応できません。これ以上の被害を出すよりも、すぐに撤退すべきだと思います」

「むざむざと基地を明け渡すというのか」
「現在の戦力では、敵の攻撃に対して満足な基地機能を保つのは難しいでしょう。むろんただでとはいいません。基地に爆薬を仕掛けて、敵の攻撃部隊も巻き込みます」
 淡々とした言葉に、クラナフは瞳を開ける。
 冗談で言っているわけではない。

 ただ、それこそが効率的だと、そのために感情すらも切り捨てる。
 自分のためならばと、他者を切り捨てる人間をクラナフは見てきた。
 しかし、そこにはあくまでも感情があった。
 だが、目の前の人間は。
 遥かに下の階級の人間に、クラナフは背筋を寒くする。

 この部屋は酷く寒い。
「……徒歩でこの基地に向かっている兵を見捨てるというのか」
「見捨てはしません。一時的に別の場所に姿を隠してもらい、動く装甲車で食料を運びます。そこで避難しつつ、戦闘が落ち着けば回収部隊を送ります。装甲車を基地の防衛に使えば、それも出来ません」

「その方が効率的だと、そういうのか」
「こちらに被害はなく、敵に損害を与えられ……」
「君らはいつもそうだな」
 アレスの言葉は強い言葉に遮られた。
「効率だ、非効率だと現場の人間の事を分かってはいない。現に寒さに凍え、基地へと向かう兵士の気持ちなど想像もしていない。無線で別の場所に避難をすればよいと、ならば無線を持っていない兵士はどうなる。見殺しか!」

「……」
「多くを救うためには見捨てる事が正しいのだろう。だが、見捨てられた兵士の気持ちも理解してほしい」
 一息に呟いて、クラナフは深い息を吐いた。
「避難はしない。この基地を救いと信じる兵士達を見捨てる事はできない――俺にはな。特務小隊にも防衛の任務についてもらう。各小隊長と話を詰めて、防衛計画を提出するように」

「……」
「命令だ。マクワイルド少尉」
「了解いたしました」
 言葉に、アレスは小さく頷いて、踵を返す。
 扉の前で振り返れば、厳しい表情でこちらを見るクラナフの姿があった。
 ゆっくりと唇をあげる笑みの動作。

 その表情に、クラナフは言葉を失った。

 + + + 

「敵は撤退したか」
 敵からの砲撃がなくなり、呟いたラインハルトの声に歓声があがった。
 ラインハルトをたたえる声が大きくなり、彼の名前が呼ばれた。
 それに対しても、ラインハルトは浮かない表情を見せる。

 形ばかりに声援に答えながら、ラインハルトは脇を歩く、キルヒアイスに口を近づけた。
「窮鼠猫を噛むとは良く言ったものだな。最後の抵抗は見事だった」
「立派な最期でしたが。生きていれば挽回の機会もあったでしょうに」
「どうかな。敵の情報を得るために拷問されていたかもしれない。死ねて良かったかもしれないな」
「まさか。捕虜の虐待は――」

「そんなもの戦死したとすればどうにでもなる」
 答えたラインハルトに、キルヒアイスは眉をひそめた。
 だが、否定の言葉は浮かばず、隣の金髪の少年に目を向ける。
 ラインハルトは心配するなと言わんげに、笑った。
「俺はそのようなことはしない。だが、残念なことに、ここの司令官は俺ではない」
 どんな人物かわかるだろうとの視線に、キルヒアイスは真剣な表情で小さく頷いた。

 無駄な斥候に、細工された水素電池。
 おまけに死体確認で部下まで送り込む周到ぶりだ。
 とても清廉とは言えない渦巻く欲望を肌で感じている。
 しかし、言外に油断をするなとの意味であろうが、仮にも命をかける軍がそこまで腐っていて欲しくないと思うのは、自分が甘いのだろうかとキルヒアイスは息を吐く。

 称賛の言葉を送られながら、歩く道は――来た時とは対照的だ。
 ラインハルトに向けられる視線の多くが、尊敬に満ちている。
 人間など現金なものだ。本人にとっては理解していないかもしれないが、当初の嫌悪をラインハルトは忘れていない。
 歓声の中をラインハルトは横目にして、歩き続けた。
 浮かぶのは嫌悪でもなく、喜びでもない。
 観察だ。
 凡人とはそのようなものだと思いながら、その凡人を使いこなさなければならないと思う。まだ自分は弱く、ならば、例え凡人であろうと関心をかっておいて損はない。

 後はどう使うかだが。
 視界に入った司令官室の文字に、ラインハルトは考えを切り替えた。

 + + +

 ラインハルトのみに入室が許された司令官室。
 キルヒアイスを入口において、足を踏み入れれば、暑いほどの暖気がラインハルトを包んだ。他の部屋で口うるさく言われる節電という言葉は、この部屋には関係がないようだ。
 一人小さく笑いながらラインハルトが足を進めれば、苦虫を噛み潰したヘルダーの姿が見える。防衛に際してのラインハルトの活躍は既に聞いているようだ。

 それを真っ向から否定も出来ず、ただ苦虫を噛み締めた表情ながら、
「ご苦労だった」
 と、ラインハルトの苦労をねぎらった。
「ありがとうございます」

 それに対してラインハルトも形ばかりの礼を口にする。
 だが、司令官室に入ったのは褒められるためではない。
 すぐに顔をあげればヘルダーを真正面から見た。
「大佐。偵察時に反乱軍の基地のデータを手に入れました」
「ああ。それも聞いている。その件についてもご苦労だった。さすがだな」

 さすがとの言葉に、ラインハルトは小さく目を開く。
 それが形になる前に、再び礼の言葉を口にして頭を下げた。
「私は役を果たしただけに過ぎません」
「それが出来ない奴が多いから困っている」
 呟いて、ヘルダーは息を吐いた。

 それは誰に対してであるのか。
 ラインハルトは頭を下げながら、苦笑する。
 しかし、すぐに笑いを消して顔をあげれば、ヘルダーを真っ直ぐに見た。

「おそれながら、申し上げます。反乱軍の基地データが手に入った現状では、敵が混乱から回復する前に攻撃するべきです」
「敵の攻撃によって、こちらも大きな被害を出したが」
「ですが」
 拳を握って、ラインハルトは身を乗り出す。

「敵が被った被害はこちら以上です。敵の装甲車が動かぬ今攻撃せずに、いつ攻撃できるのでしょうか」
 白い頬が紅潮し、興奮を浮かべる様子にも、ヘルダーは心が動かされた様子はなかった。
 表情に考えを巡らせて、しばし逡巡。
 言葉を待つラインハルトに視線を向ければ、ゆっくりと首を振った。
「ふむ。少尉の進言は的を得ている――わかった、すぐに攻撃隊を編成しよう。ミューゼル少尉、疲れているだろうが、君も隊に加わるように」

「はっ!」
 頷いて、ラインハルトは敬礼を行う。
 ヘルダーが答礼を返せば、一礼をして、踵を返した。
 その背に、ヘルダーが声をかける。
「ミューゼル少尉。帰りに誰かと会わなかったか」
「いいえ。我々の他に誰か偵察隊を出したのですか」

 ヘルダーの問いに即答したラインハルトに、ヘルダーは首を振った。
「いや。会わなかったらよい。出発は三時間後だ――急がせろ」

 + + +

「死んだか、フーゲンベルヒ」
 彼の問いに対して、ラインハルトは偵察隊を出したかと問うた。
 ヘルダーは誰かとは聞いたが、味方とは言っていない。
 たったいま攻撃があったばかりであるのだから、そう聞かれれば通常であれば反乱軍を想像するだろう。

 だが、何の疑いもなくラインハルトは偵察隊と断言した。
 確証はない。しかし、ラインハルトはどこかでフーゲンベルヒと出会っている。
 おそらくは生きてはいまい。
 そこにわずかな感傷すらも存在しなかった。
 小僧を二人殺す程度の仕事が出来ない人間など、生きていても価値がない。

 少なくとも今後いても役には立たないだろう。
 やはり、俺がやらなければならないか。
 と、ヘルダーは机からブラスターを取り出した。
 敵に相対しての戦いはどれほどぶりであろうか。
 最盛期に比べれば腹周りも大きくなった今では腕も落ちているだろう。

 だが、負けない。
 何度も死地をくぐり抜けた。
 ブラスターの弾がなくなって、反乱軍の首をナイフでかき切ったこともある。
 多少若く、腕に自信があったところで負けない自信がヘルダーにはあった。
 ブラスターの脇に置かれた紙を、ヘルダーは手にする。

 ラインハルトの暗殺。
 失敗は許されない。
 小さく息を吐いて、ヘルダーは手紙を胸に入れた。

「血気盛んなのは良いことだ。だが、高すぎる自信は自らを滅ぼすことになるぞ、小僧」


 

 

決戦~前夜~



 装甲車の振動に揺られて、走る。
 それでも攻勢にうってでることに、周囲の士気は高い。
 身動きすらも難しい狭い車内はラインハルトの好むところではない。
 揺れる振動に、室内を包むすえた匂い。

 それら通常であれば誰もが忌避するような事ですら、ラインハルトを楽しませた。
 白磁のような白い肌を、僅かに朱に染める。
 それは間違いなく高揚であった。
「ラインハルト様。まだまだ時間はかかりますので、お休みください」
「ん。ああ、そうだな」
 生返事を返す様子に、狭い車内で身体を折っていたキルヒアイスが小さく笑った。

 ラインハルトの眉がひそめられる。
「何がおかしい」
「まるで遠足を期待する小学生のようです。ラインハルト様」
「酷い言い草だな」
 言葉に、ラインハルトは拗ねたように口を尖らせる。

 ますますキルヒアイスの笑みが深まった。
 表情にラインハルトも小さく表情をほころばせる。
「興奮か。確かに否定はできないな。机の上で書類を整理しているよりは余程いい、駄目か?」
「ラインハルト様らしいと思います」

「俺らしいか。それは褒めているのか、キルヒアイス」
「もちろんです」
 非難を浮かべたラインハルトに、キルヒアイスは慌てて肯定を言葉にする。

 そんな様子に冗談だと小さく呟いて、しかし、ラインハルトは笑いを消した。
「だが、遠足とは行きそうにないな」
「ヘルダー大佐ですね」

「ああ」
 頷いて、ラインハルトは声の調子を落とした。
 静かに。キルヒアイスだけに聞こえる言葉で、口を開く。
「ヘルダーが、あの女の命令で動いているのは間違いない。そして、彼にとっては今回が最後のチャンスだ」

 小さく目を開いたキルヒアイスに、ラインハルトは首を振った。
「今回の手柄で、昇進は確実だ。奴にとっては時間が足りないというわけだ。わかりやすい事にな」
「諦める事はないのですか」
「ないな」

 ラインハルトは断言した。
 細い金髪を手で触り、つまらなそうに呟いて見せる。
「単なる嫉妬ということならば、それもあっただろう。もっとも単なる嫉妬で人を殺せる人間など少ないが。奴には明確な殺意がある。出来ませんでしたですまない事は、奴自身も理解しているはずだ」

「それならば我々と協力をすれば」
「キルヒアイス」
 言葉を遮るように放たれたのは、ほんの少し――わずかばかり否定を含んだ声だった。
 咎めるような視線に、キルヒアイスが悲しげに眉をひそめる。
 それがあまりにも甘い考えであることは、キルヒアイス自身も理解している。

 だが、それでもという思いに、ラインハルトは首を振った。
「協力して何とかなるのなら、俺達は既にここにはいない」
 真剣な表情にキルヒアイスは頷いた。
 僅かな不満の残る彼の肩に手をおいて、引き寄せてラインハルトは耳に口を近づける。
「だからこそ、俺達が変えるのだ。この腐汁に塗れた帝国を」

 + + +

 会議室で、アレス・マクワイルドは苦笑した。
 防衛計画の提出を求めた司令官に対して、他の小隊長は元々あった防衛計画を焼き直そうとする。司会を務める第一中隊長のスルプト大尉も概ねそれを認めており、防衛計画を作成すると言う名目で行われた会議は、開始五分で別の話題になっていた。

 即ち、敵は本当に奇襲をかけてくるのかと。
 先のこちらの攻撃が失敗したとはいえ、敵にも大きな損害を与えただろう。
 ならば、中途半端に攻撃するよりも部隊の再編を優先するのではないかと。
 その言葉が小隊長から出るや多くがそれに同意した。

 戻ってきた部隊の再編についての話題が出始めて、アレスは机を指で叩く。
 硬質的な音に咎める視線がアレスに向き、しかし、誰もが言葉を止める。
 笑みだ。
 唇だけをあげる――士官学校では誰もがその笑みに恐怖した――それが、会議室に居並ぶ中隊長を初めとする男達の言葉を止めていた。

「何かな。マクワイルド少尉」
「恐れながら中隊長。敵はきます」
「何を根拠に」
 吐かれた言葉に対して、アレスは再び机を叩いて、言葉を制止した。

 茶番だと、アレスは思う。
 アレスは敵が奇襲を仕掛ける事を知っており、そして、その理由が同盟軍の壊滅ではなく、ラインハルトの殺害のためであることも知っている。
 だが、そのような真実を告げたところで、彼らは信じる事をしないだろう。
 そのためには、真実を隠して、嘘偽りで男達を信用させなければならない。
 それを茶番と言わずに、何というかアレスは知らない。

 もっとも――それが出来なければ、油断したままで敵の部隊を待ちうける事になり、結果は基地の壊滅だ。
 彼らだけが死ぬのであれば、自業自得と思えども、それに自分や部下が巻き込まれるのは御免だった。

 そもそも彼らも真に敵が来ないと思っているわけではない。
 敵が来なければいいと希望が、敵が来ない理由を探しているだけに過ぎない。
 立ち上がって、アレスは周囲を見渡した。
「敵に打撃を与えたといいますが、どれほどの打撃を与えたか御存知でしょうか」
 誰も答えられない。
 まだ正確な戦闘結果も届いていない。

 負けたという事は知っていても、誰も戦闘結果を理解していない。
 そんな言い訳が言葉に上がる前に、アレスは言葉を続けた。
「敵は大打撃を受けたかもしれない、あるいは全く打撃を受けなかったかもしれない」
「そんなはずはない。最初の報告では敵の正面を突破するまであと少しとの報告は受けている。敵の罠がなければ勝てていたと」

「勝てる状況であっても、敵の罠によって敗北した。そして、その罠はいまだに続いている事をお忘れですか?」
 アレスの口にした現実の前に、口が閉ざされた。
 あえて彼らがみようとしていなかった現実だ。
 こちらの装甲車はいまだに多くが動かぬ状況になり、基地の防衛に避ける人員は一個中隊ほどの人数しかない。

 目を背けていた現実をアレスが告げていけば、スルプトが苦虫を噛み潰した顔で止めた。
「わかった、わかった。マクワイルド少尉――こちらが不利だということがな。だからこそ、そのために防衛計画をここで立てているのだろう」
「これがですか」
 アレスは目の前の書類を手にした。

「敵軍到着までの稼働予想の装甲車が十五台――これを盾にして、本国からの支援部隊を待つと」
「何が不満なのかね」
「本当に十五台の装甲車が動くと思いますか」
「脳波認証システムの妨害解除までには一台につきおよそ四時間。敵が真っ直ぐにこちらに向かったとしても、十分に対応できる数値だと思うがね」

「妨害を解除した場合は手動で動かさなければならないとお伝えしたはずですが」
「それは聞いている」
「ならば。一体、この十五台もの装甲車を誰が動かすのです?」
「それは各部隊に配置された人員が」
「防衛計画では、装甲車の乗車人員は四名。このたった四名が装甲車を動かして、索敵し、砲弾を込めて、敵と交戦しながら、無線で報告して、他の装甲車を援護するのですか?」

 アレスの指摘した事項に、小隊長は口をつぐんだ。
 僅か二行足らず。装甲車の運用について書かれている。
 ほとんどコンピュータ制御されている現状でも装甲車の最低人員は四名だ。
 それとほぼ同数で運用しようとしている現状に、誰も異を唱えない。

 本来は気づいていたのかもしれない。
 だが、希望的観測をするあまりに誰もそれを満足に見ようとしていない。
 手元の書類を目にしてスルプトは静かに首を振った。
「確かに大変かもしれないが、他に割ける場所がない」
「ないのであれば、十五台を運用しなくても構わないでしょう。十台の運用とし、他を予備とすればいい」

「馬鹿な。装甲車一台で兵士何人分の戦力だと思っている」
「満足に動かせれば。しかし、この状態ではせいぜい半分以下の戦力でしかない」
 書類を机において、アレスは周囲を見渡した。
 静かに、それぞれの顔を窺うように一巡して、スルプトへと目を向ける。
「戦力が乏しい。ならばこそ、形ばかりの防衛計画で取り付くのではなく、いまできる最大限を一から見直す必要があるのではないですか」

 告げられた言葉は、至極まっとうな言葉であった。
 だが、誰も賛意を示す事ができない。
 肯定すれば、それまでの自分たちの意見を無にする事になる。
 それも任官三か月足らずの若造にだ。
 認める事も出来ず、代わりに言い訳を口にしようとした小隊長は、強いアレスの視線に言葉を奪われた。

 どうすると問いかける視線が、互いを向いて、やがて懇願する視線がスルプトを向いた。
 結論を求められている。
 そう感じて、スルプトは手元の書類に視線を落とした。
 手元の書類は過去の防衛計画に基づいてしっかりと書かれている。
 これが失敗したところで、上は咎めないだろう。

 そもそも装甲車が満足に動かぬ状況で戦えと言う方が無茶な話だ。
 だが。
「失敗すれば、我々は死ぬか」
「俺達などどうでもいい。死ぬのは部下だと言う事をお忘れなきよう」
「そうだな」
 スルプトは首を振り、やがて視線をあげた。

「私もこの防衛計画を再び立て直す必要があると思うが、皆はどうかね?」
「それは……」
「私もそれが正解だと思う」
 スルプトの言葉にいまだ不満を浮かべていた者たちも、続いた言葉に振り返った。

 閉じられた扉が開き、冷気が流れ込む。
 そこにいたのは一人の兵士だ。
 防寒服が破れ、乾いた血を顔に張り付けて、戦場から帰還したという姿に誰もが息を飲んだ。
「レティル少佐!」

 誰かが呼んだ名前が引き金となって、慌ててレティルを室内に引き入れる。
 椅子を差し出す姿に、レティルは小さく礼を言いながら、腰を下ろした。
「報告に行けば、ここで会議をしていると聞いてね。このような形で失礼する」
 小さく息を切らせて、レティルは痛みをこらえるように身体をよじった。
「少佐。お身体に障ります。すぐに衛生兵を」

「構わない。この程度は致命傷ではない――それよりも防衛計画をまとめるのだろう」
「それは我々が……」
「現場を見てきた私がいた方がいいと思うがね。そうだろう、マクワイルド少尉」
「ええ。ですが、ここで無理をなされるより、少佐には早く回復していただいた方がいいかと。すぐに地獄が待っています」
「人使いの荒い男だ。構わない、ここで一時間座っていたところで、傷の治りは同じだ」

 アレスの言葉にもレティルは楽しげに笑い、机で組んだ手に身体を預けた。
 小さく息を吐いて、アレスを見る。
「メルトラン中佐からだ。すまなかったと……」
 アレスは眉をあげた。
 突然の言葉に、アレスを初めとして誰もが首をかしげている。
 なぜ、戦場に散ったメルトラン中佐がアレスに謝罪するのかと。

 それをいち早く理解したのは、アレスだった。
 小さく首を振れば、レティルと同じように息を吐いた。
「すんだことです」
「ああ。だが、まだ終わっていない――そうだな」
「これからが本番です」
「そうか。ならば少しでも良い結果となるよう、君の意見を聞かせて欲しい。これから始まる地獄を少しでもマシにするようにな」

「私がですか」
「君がだ。それが見当違いであれば、私やスルプトが訂正するだろう。だから、安心して話してほしい――期待している」
「期待されるのは好きではないのですが。今から資料をお配りします。帰りの装甲車でまとめたものなので、手書きですが……」
 
 + + +  

 アレスの基本構想に、レティルとスルプトが手を加えて、防衛計画がまとめられた。
 当初の防衛計画からは大きく外れたものに、クラナフは驚いていたがレティル少佐を初めとして、全員の総意に認める事となった。
 計画に基づいて、各隊の隊員達は準備を行う。
 塹壕を掘り、雪を固め、罠を仕掛ける。
 計画さえ決めれば、それに向かって一丸となるのは良くも悪くも軍のいいところだ。

 誰もが死なぬために、睡眠時間さえ削って準備している。
 それでも間に合うかどうか。
 発電機からおくられる白光色のライトが夜を照らしながら、アース社製の削岩機が塹壕を掘り進める。担当の第二小隊長が設計図を見ながら、激を飛ばしている。
 それを雪の堤上から見下ろしながら、アレス・マクワイルドは白い息を吐いた。

「寝ないのですかな」
「軍曹?」
 声に振り向けば、堤上をのぼる老兵士の姿がある。
 身体を持ちあげれば、吹きすさぶ寒風に身体を震わせて、コートの前を押さえた。
 その手にあるワインボトルとグラスに、アレスは表情を綻ばせる。
「明日も早いでしょう。休憩時間にきちんと休憩をとるのも兵士の勤めですぞ」

「そういう軍曹は?」
「私は雪見酒を楽しもうかと――いかがです?」
 手にした二つのグラスに、アレスは苦笑を浮かべる。
 準備が周到だと、一つを手にすればワインが注がれる。
 器用に自分のグラスにも注いで、ワインを雪に埋める。
「寒いのは嫌ですが、冷蔵庫がいらないのはいいですな」

「この寒さならホットワインの方が嬉しいけどね」
「違いない」
 グラスが打ち鳴らされて、二人は同時に口に含んだ。
 冷たいワインといえど、少しの熱さが喉に残る。
 熱さの残る息を吐けば、白い息は闇に消えた。
 耳に残るのは唸る吹雪と作業する兵士達の声。
 それを肴にして、カッセルが再びワインを注いだ。

「初戦で緊張しているというわけではなさそうですな」
「緊張しているように見えるかい?」
 アレスの声に、カッセルは首を振った。
「少尉は不思議ですな」
 言葉を残して、カッセルはワインを口に含んだ。
「まだ二十歳であるはずなのに、年に似合わない落ち着きがある。まるで歴戦の将のように部下を安心させる。そうかと思えば、時にはまだ若く助けなければいけない気にもさせる。果たしてどちらが本当の少尉なのです?」

「どちらも俺ですよ」
 問うたカッセルの言葉に、ワインを片手にしてアレスは苦笑した。
 グラスを空にして、新たに注がれるワインに視線を向ける。
 ワインを注ぐカッセルはグラスを見ていなかった。
 ただじっとアレスを見ている。

「軍曹はなぜいまも軍にいるのです」
 問われた言葉に、カッセルは小さく目を開いた。
 グラスを戻して、誤魔化すように笑えば、アレスの視線がカッセルを見ている。
 給料が良いから、それしかできないから言おうとした事が言葉に出てこない。
 誤魔化しの笑いが消えた。
「なぜでしょうな。昔はこれでもやる気はあったのですよ。悪しき帝国から同盟市民を守ると強く思っていた。そうこんな私でも英雄になれるのだと」

 ワインを飲み干して、苦そうに笑う。
 そうカッセル自身がまだアレスぐらいの年齢であったとき。
 戦場の最前線で、彼のビュコックやスレイヤーと共に戦っていたときの話だ。
 死など恐れず、自らの放つ銃弾が同盟を救うと信じていた。
「欲でしょうかな。十年が経ち、二十年が経てば、同盟などよりも大事なものが出来る。可愛くはなくても上手い飯を作る嫁ができ、生意気だが可愛い娘がいる。今では孫までできた。英雄になどならず、ただ平凡に生きていたいと」

 愛おしそうに片手を広げて、苦く笑う。
「そんな自分を過去の自分が見れば何というか」
 開いていた手を握りしめて、カッセルは息を吐く。
「あえて言うならば、そんな平凡な私でも妻や子供を守りたい。守れるのだと思いたいがために、いまだ軍にいるのかもしれませんな。馬鹿な考えでしょうが」
「馬鹿とは言いませんよ。同盟のためなどという抽象的な理由よりも、家族のためにと言った方が遥かにマシな理由です」
 ワインを手にしながら、覗き込むようにカッセルはアレスを見る。

 アレスがワインを一飲みすれば、ワインを注ぎ足した。
「少尉はなぜ軍に?」
「なぜでしょうね」
 返された言葉にカッセルは小さく眉をあげた。
 アレスが苦笑いを浮かべる。
「私は軍曹のように英雄になりたいわけでもない。そんな立派な理由などありません。なぜ入ったのか……入校式でも疑問だった、そして今もわからない」

 首を振って、アレスは息を吐く。
 吐いた息はすぐに水蒸気となって、白く消えていった。
「なぜ負ける戦いに挑もうとするのか」
 呟いた言葉に、カッセルが息を飲んだ。
 言葉を押さえるようにワインを一口飲み、唇を湿らす。
 手に持つグラスが小さく震えた。

「負けますか。それは……」
「軍曹に聞かせることではなかったですね」
 呟いて、アレスは首を振った。
 今話すべき話題ではない。
 ましてや、自分の部下に対して言うべき台詞でもない。
 しかし、思い続けてきた疑問が言葉となった。
 
 帝国には勝てない。

 彼がまだ中村透であったころ。
 帝国に負けないためには単にアムリッツァを防げばいいと考えていた。
 だが、アレス・マクワイルドになり、おそらくアムリッツァは防げないと知る。
 アムリッツァの引き金を引いたのはフォークだ。

 だが、銃を用意したのは同盟市民であり、それに弾を込めたのは同盟の政治家。
 用意された銃の誰が引き金を引くかだけであり、仮にフォークが引かなくても引きたい人間は山のようにいるだろう。
 むろんそれだけが理由ではないが、結局のところ……おそらくは負ける。
 そう理解してもアレスは軍に入って、今も戦っている。
 自分では英雄願望などないと思っていたが、実際にはあるのだろうか。
 それが答えならば納得できるのだが、どうも上手く納得ができない。

 軍を辞めればいいとも思うのだが、軍を辞める事は全く考えていない。
 アレスはここにいたいと思っている。
 だが、その理由を理解できないでいる。
 中村透であった年月と現在の年月を足しても、なお年長の軍曹に対して、思わず愚痴が出た。
 良いことではないと思い、振り返れば、カッセルが朗らかな笑みを浮かべていた。
「なに、謝ることはありません。私になど本音を語っていただいて、ありがたいと思います」
「負けると言われてもですか?」

「驚きはしましたが――何の根拠もなく勝てると思われるよりかは、遥かにマシな理由ですな」
 先ほどアレスの言葉を真似て口にする軍曹に、アレスが首をかしげる。
 カッセルが立ち上がり、腰についた雪を払う。
 作業の進む陣地を見下ろせば残ったワインを飲み干して、アレスに手を差し出した。
「勝ち戦ばかりが戦争でもありません。負け戦も楽しいものです――生き残って、あの時こうすれば勝てたのにと愚痴を言いながらね。そうでしょう?」

「……ええ」
 差し出された手をとって、アレスも小さく笑った。


 

 

決戦1



 山道を歩く完全装甲の帝国兵士が、手を横に差し出した。
「止まれ!」
 叫ぶ指示の声に兵士が止まれば、銃を構えた兵士が山道の先を見る。
 機動装甲車一台分程度の小さな雪深い山道。

 雪で隠されるようにして、細い木でよられたロープが一本張られていた。
「前方にトラップあり」
 そのロープは兵士達の頭上に伸びて、幾つもの籠に繋がっている。
「ロープを切れば頭上の籠が落ちるか。くだらん小細工だ、撤去しろ」
「はっ」

 兵士が答えて、走りだす。
 釣り糸だ。
 ロープの遥か前方に、細い釣り糸が隠されるように張られていた。
 それを無造作に踏み切ってから、感じる違和感に兵士は足を止める。

 ぴんっと小さな音が鳴る。
「しまっ――」
 籠の中から複数のプラズマ手榴弾が落下し、開戦の幕を開けた。

 + + +  

 雨のように弾丸が降り注ぎ、爆発が巻き起こる。
 幾つもの装甲車から撃ちだされた砲弾が、視界を赤く染めた。
 細い山道に設置された同盟軍基地の入口は五分とかからずに落ちた。
 落としたわけではない。
 最初から落ちる事を前提に、兵士すら配置されていない無人であった。

 当初は逃げだしたかと思われたが、入ってすぐに違う事がわかった。
 基地内の広場中央に設置された陣地。
 そこから機動装甲車による猛攻が、基地内に踏み入った帝国軍を襲った。
 相手の装甲車が使えないと思っていた兵士達が戸惑う。
 そこに苛烈なまでに打ち寄せる砲弾の嵐に、三台の装甲車と数十人もの帝国兵士の命が奪われた。

「敵の装甲車は生きています!」
「浮足立つな。こちらは敵よりも人数が多い。焦らずに落ち着いて反撃しろ」
「はっ」
 ラインハルトの言葉で、兵士達に落ち着きが戻る。
 苛烈な砲撃に晒されていた兵士達は、上回る砲撃を敵陣地に与えた。
 雪が舞い上がり、炎をまき散らす。

 だが、ラインハルトの表情は晴れない。
 苦さを残す表情に、キルヒアイスが隣に立った。
「驚きましたね、敵が装甲車を動かしているとは」
「形だけの間に合わせだな。一時間も攻撃を続ければ、いずれ動かなくなる」

「では、何をお悩みですか」
「分からないか?」
 ラインハルトが見上げれば、キルヒアイスが首を振った。
 小さく苦笑して、ラインハルトは顔を振って指し示す。
後方から見る前線の様子だ。

 細い山道に帝国兵が連なり、落とした入口から敵中央の陣地へと攻撃を仕掛けている。
 ラインハルトの見立てが正しければ、一時間もすれば陣地は落ちる。
 一見すれば何も問題がないように見える。
「防備を固めていた入口を捨てて、広場中央に陣地を築かれた。こちらは狭い山道の入口で固まるしかない」

「敵の司令官は優秀なようですね」
「元ある防御施設をあっさりと捨てて、新たに陣地を構築するなどなかなかできる事ではない。敵も馬鹿ばかりだけではないというわけだ」
「どうしますか?」
「敵に合わせて無理に攻めれば被害は拡大する。断続的に攻撃を仕掛ければ、いずれ敵の攻撃も途絶えるだろう。そう伝えてくれ」

「わかりました」

 + + +  

 断続的な砲撃は、しかし、分厚い雪に守られた陣地内部までは入ってこない。
 切り返す攻撃が相手の戦線を崩す。
 狭い入口からでは、敵も満足に攻撃ができない。
 前方に配置された装甲車と歩兵の攻撃だけでは、雪の壁を撃ち抜けないでいる。
「三番車両の砲身が限界です。交換します」

 雪の壁越しに撃ち込んでいた装甲車から、兵士が悲鳴に近い声をあげる。
 何十発と砲弾を吐きだした砲口は赤く焼けており、雪をかぶせて冷やしている。
 それでも限界が着たようで、一部に亀裂が入り始めていた。
 もし最初から全ての車両を投入していれば、ものの十分で反撃は限界になっただろう。
 砲口があるいは、敵の攻撃によってダメージを受けた装甲車は後方に下がって、手動切り替えが間に合わなかった装甲車から外した部品を交換して、再度出撃の準備をする。
 それによって隙がなく反撃を続け、戦端開始から一時間を経ても敵はいまだに入口から入ってこない。

 それでも、着弾と同時に舞い上がる雪が上から降り注ぐ。
 歯を噛み締めながら、悲鳴を我慢して銃の引き金を引き続ける。
 休みなく続く戦闘を行うのは、アレス率いる特務小隊に各小隊から人数を割いたほんの数十人だけだ。誰もが休息すらとらずに、反撃をし続けている。
「――敵後方に高射砲を発見。迫撃砲を」

「敵歩兵が、再度こちらに向かっています」
「歩兵は気にするな。敵後方の高射砲を狙え。いいな」
「しかし!」
「いいから、少尉の言うとおりにしろ。迫撃砲準備はできたか?」

「はい。敵歩兵ではなく、敵後方でよろしいのですね」
「準備出来次第、撃て」
「撃て」
 迫撃砲が打ちあがる。

 それは敵の前線を飛び越えて、後方に展開していた高射砲部隊を直撃した。
 まさか最前線ではなく後方が狙われると思っていなかったのは、高射砲部隊だ。
 突然降り注いだ迫撃弾に、高射砲三機が破壊され、周囲に肉片をまき散らした。
「敵歩兵が接近!」

 その隙に帝国歩兵部隊も陣地へと接近する。
 手榴弾を抜き放ち、特攻を覚悟して、その表情が見えるほど近づいて――帝国兵は左右からの機銃によって薙ぎ払われた。
 悲鳴すらあげる間もなく、舞い散った血が雪の塹壕へと張り付く。
「次。左一掃する――砲兵は今のうちに迫撃弾を補充しておいてくれ」
 塹壕の隙間から顔を覗かせて、アレス・マクワイルドが指示を出す。

 叫ぶわけでも、怒鳴るわけでもない。
 ただ淡々と出される指示に、兵士達は動作で答えていく。
 動作を終了すれば別の指示。
 一時間という長い時間にも関わらず、それは機械的に、的確に。

 索敵時の偶発的な戦闘を除けば、初めてというのに落ち着いている。
 だからこそ、周囲の兵士達も落ち着いて行動ができるのだろうが。

 なぜ負ける戦いに挑もうとするのか。

 熱くなった銃身を雪で冷ましながら、カッセルは指揮官の言葉を思い出す。
 おそらくは誰にも言わず――初めてカッセルに呟いた愚痴だ。
 士官学校出のエリートが果たしてどこまで現状を分析できているか。

 上が聞けば敗戦主義者だと決めつけそうな危険な一言。
 それでもなお彼は戦おうとしている。
 理由すらも分からずに。
つい長く指揮官を見つめていれば、視線に気付いてアレスが顔を向けた。
そこに諦めの様子は一切ない。

「どうしました、軍曹」
「いえ。上手くいきそうですな、少尉」
 唇を引き上げて笑みを作る動作に、アレスは戦場に視線を走らせて首を振った。
「どうでしょう。まだ始まったばかりです。油断はできない」
「だが、敵はこちらばかりを攻撃しています。嬉しくはないですがねっ」

 雪を踏みしめる音に、カッセルが塹壕から顔を出して引き金を引く。
 狙いさえ定めることもなく、放たれた弾丸が近づく歩兵を薙ぎ払う。
 おそらくは敵も攻略を考え始めたのだろう。
 少しずつであるが、近づいている。

 だが、それこそが。
「敵はこちらに釘付けのようですね。予定通り」
 呟いて、カッセルは笑みを浮かべた。

 + + +

「中央に塹壕を掘り、前線基地を作ります。おとりですが」
 アレスの言葉に、レティルを初めとして誰もが大きく目を開いた。
 当初考えられていた入口の施設を完全に放棄し、広場のスペースに防御基地を作る。
 驚きはしたが、理解できたことだった。
 だが、それをおとりと言い切る言葉に、その意図を尋ねる視線がアレスに向かう。

「こちらの目的は基地の防御であり、敵を撃退する事ではありません」
「同じことではないのかね」
「違います。こちらは味方からの援護が到着するまで待てばいい――いわば、時間を稼げばいいのであって、敵を撃退する必要はない」
「それとおとりとすることとどのようなつながりがある?」

「敵は入口前方に基地があれば、まずその攻略を目指すでしょう。だから」
 呟いて、アレスは机上に置かれた地図を示した。
 広場中央の塹壕。
「前線基地は特務小隊と他の小隊の隊員の一部だけ配置し、大多数の隊員は左右の塹壕から中央に押し寄せる部隊に対して攻撃を行います」
「しかし、それでは中央の部隊が危険ではないか。もう少し人数を置いた方が」

「多くの人数を置くために前線基地を広げて防備をおろそかにするよりは、人数が少なくても敵の攻撃を確実に防げる塹壕を掘った方がいいでしょう。それに少ない方が敵もすぐに攻略できると思ってくれるでしょうしね」
 アレス言葉に、唸り声をあげて誰もが黙った。
 危険である。

 だが、それを理解しても代わりの案など浮かんでこない。
「――それで援護まで耐えられるか」
「敵が上手くこちらの策に乗れば五時間は。そうでなくても二時間は稼げるでしょう」
「二時間か。ぎりぎりだな」
 既にカプチェランカ基地が敵の攻撃を受けることは連絡されており、支援のための機体もカプチェランカの外周まで来ている。

 だが、カプチェランカの劣悪な環境が簡単な支援を許さない。
 暴風がおさまるほんの一瞬――それが二時間のうちにくるかどうか。
 呻くような言葉が、先の会議で流れていた安堵を消し去っていた。
 耐えられなければ負ける。
 それを今決めなければならない。

「これは味方からの支援を前提としているが、もし支援がこなければどうなる?」
「十五台の装甲車と百数十名の人員で、一個大隊以上の敵と戦う事になります」
 アレスの即答に、誰も言葉はなかった。
 沈んだ空気を収めるように、レティルが小さく笑い声を出す。

「敵がこちらの作戦にのってくれることを祈るばかりだな」

 + + +

 一時間半が経過しても、敵の前線基地は落ちなかった。
 幾度となく攻略隊が攻撃を仕掛け、あと少しというところまでは来ている。
 だが、最後のところで敵の攻撃によって攻略を中断させられている。
「あと少しだ。ここが正念場だ!」
 前線の指揮官が励ましを口にし、再度攻撃隊を編成し始めた。

 先ほどは数が少なかった。
 ならば、倍の戦力を投入すると口にしている。
 士気を高め、装備を確認している背後で――キルヒアイスが疲れたように息を吐いた。
「随分と長いあと少しですね。もう三十分は同じことを聞いています」
「そうだな……いや。そうか」
 後方で、戦場を見続けていたラインハルトが小さく目を開いた。

 言葉の変化にキルヒアイスが真っ先に気づく。
 問われる視線に、ラインハルトは唇を噛んで前に出た。
「危険です」
「かまわない」
 迫撃砲の甲高い音が響き、誰もが頭を下げる。

 そのさなかで、ラインハルトは身を乗り出して前を見た。
 そして、確信を得たように頷いて身体を下げる。
 至近距離で爆発した迫撃弾が、雪を散らす。
「危険です、ラインハルト様!」
「やられたな。キルヒアイス」

 身体を雪に埋もれながら、視線だけを戦場に向けてラインハルトは息を吐いた。
「何がです?」
「前線基地はおとりだ。攻略できそうに見せて、その実は主戦力で左右に固めている。こちらが前線基地をいくら攻撃したところで、敵の攻撃は止まない」
「まさか」
 驚いたようにキルヒアイスが戦場を目にする。
 幾度とない突撃を跳ね返してきた前線基地。

 分厚い雪の塹壕が、帝国兵に立ちはだかっている。
 雨のような砲撃により塹壕の一部を変えられても、なお立ちふさがる。
 キルヒアイスの目には、あと少しで攻略できそうな塹壕が、まるで難攻不落の砦のように映った。

 乾いた唇を舐める。
 褒めるべきは、おとりの役目を十分過ぎるほどに果たしている敵。
 だが、キルヒアイスは敵としてここにいる。
「ならば。攻略をやめて、こちらも持久戦に持ち込みますか」
 寒風が吹きすさぶ中では、補給よりも先に人の消耗の方が激しい。
 無理に攻めずとも時間をかければ、いずれは敵の方に限界がくる。

 呟いたキルヒアイスの案に、ラインハルトは首を振った。
「いや。おとりまで使って敵が時間を稼いでいるということは、味方からの援軍を期待してのことだろう。時間をかけるのはまずいな」
「援軍ですか」
 どうやってと尋ねかけたキルヒアイスに、ラインハルトは唇をあげる。

「この環境を当たり前と思わない事だ、キルヒアイス。悪天候で空からの支援が難しい――それは通常環境下でのことだ。こちらの部隊が集まっているいまならば、爆弾を積んだ無人偵察機をここに落とすだけで、敵にとっても十分元は取れる」
 身を低くしながら、ラインハルトは後退する。
「どこに」

「動くのならば小隊単位で動いても無駄だ。前線基地への攻撃よりも先に、左右の部隊を狙うべきとヘルダー大佐にお伝えする」
「私も――」
「キルヒアイスはここにいろ。左右の圧力がなくなれば、前線基地を落とす必要がある。なに、大丈夫だ。心配するな、いくら奴でも司令部で暗殺などしないだろう。そもそも」

 ラインハルトは皮肉気に笑んだ。
「それでは、暗殺ではなく、明殺だろう?」

 

 

決戦2



「退路?」
 怪訝そうなラインハルトの視線が、ヘルダーを捕えた。
「ああ。予想よりも敵の反撃は酷かった。だが、少尉の進言を受けるとすれば、敵の基地が陥落するのも時間の問題なのだろう。ならば、次を考えるというわけだ」
「まだ陥落していない今で、次を望むのは二兎追うものというものでは」

「君は負けるというのか?」
「負けるというわけではありません。しかし、特に敵の中央は二時間に渡るこちらの攻撃を防ぎ、いまだ健在。決して侮ってよい相手ではないと思います」
「確かに」
 ヘルダーは頬を曲げた。

「いまだ敵の中央をおとせない。しかし、それは君が左右の連携によるものだと、今そう言ったのではないか」
「ええ。左右を狙えば中央の防御は弱まるでしょう。しかし、それはあくまでもこちらの理想論でしかない。敵の中央がそれ以上の策を考えていたのならば、戦場は水面に揺れる木の葉のように動きを変えることでしょう」

「ここには少尉だけしかいないと思っているのか?」
 強い視線にラインハルトは言葉を奪われる。
 ラインハルトをあざ笑うように、ヘルダーが口を開いた。
「起死回生の策があったとしても、我々が何とかしよう。だから、少尉は安心して敵の退路を確認してくれ」

「……わかりました。では、部隊を連れて、敵の退路確保に向かいます」
「それには及ばない」
 振り返ったラインハルトの目に、ヘルダーは笑っているように見えた。
「少数部隊を送ったところで、窮鼠猫を噛むと言うこともある。あくまで退路の確認だけにして、戦わないことだ」

「一人で?」
「最初はな。こちらの手があけば、すぐに援軍を送る。それともママの付き添いがいなければ、夜中にトイレにもいけないか?」
「けっこう。では先に言っております」
 握り締めた拳で金色の髪を払い、ラインハルトは歩きだす。

 わずかな冷笑を唇に残して。

 + + +

「まずい」
 敵の攻勢が止み、少しの休憩の時間ができた。
 誰もが息を吐いて、銃を下ろす。
 銃を構えて固まった手を揉みほぐしながら、アレスは塹壕から顔を出しながら顔をしかめていた。吐き捨てるような口調に、カッセルが随分と深刻な顔をしてますなと軽口を叩いた。
「ちょうどいい休暇だと思いますがね。一体何が……とっ」

 直後に巻き起こった爆音に、カッセルの言葉が遮られた。
 遠くからあがる雪煙と細かな振動が雪を震わせる。
 顔をしかめながら、カッセルが耳を塞ぐ。
「何が心配なんです!」
 声高に叫んだ言葉に、顔を戻しながらアレスが首を振った。
「こちらの意図に気付かれたようですね。さすがというべきか、あるいは今まで良く持ったというべきか」

「なぜ、わかるのです」
「攻撃が左翼に集中し始めています。左翼の戦線が崩壊後は、すぐにこちらにも来るでしょう。その時に助けは期待できそうにありませんね」
「そりゃあ」
 攻撃の集中する左翼防御陣を他人事のように見ながら、カッセルが息を吐く。
「面白くない話ですね。今まででも十分辛い。いっそのこと逃げますか?」

「どこにです?」
「さて。塹壕を走って、山の獣道を歩けば、運が良ければ生き残れるでしょうな」
「運に任せるのならば、助けが来る方を信じたいですね」
 苦笑しながら、アレスは塹壕に腰を下ろす。
 空を見上げる。

 曇天の空は吹雪こそ止み始めているが、いまだに太陽は顔をのぞかせない。
 発進すれば数分で来るであろう航空戦力は、いまだに来る気配すらなかった。
 少しの休息に、今まで忘れていた疲労と乾きが思い出される。
 脇から雪を手にして口に含んだ。
 乾いていた唇が、ほんのわずかに潤った。

 視線を感じれば、カッセルがこちらを見ていた。
 油断するなと激を飛ばしているバセットにも疲労の色が強い。
 アレスとカッセルが話している様子に、幾人かが気がつく。
 誰もが疲労を浮かべる様子に、アレスは冗談めかして肩をすくめた。
「敵が休めというならこちらもゆっくり休みましょう。元より時間稼ぎが任務――このまま援軍が来るまで休みましょう」

 突然塹壕に響くようなアレスの言葉に、気付いたようにカッセルが眉をあげた。
「その援軍はワインも運んでくれますかな」
「きっとね」
 アレスの意図に気付いたように声を張り上げたカッセルに微笑を浮かべれば、アレスは空を見上げた。

 援軍はまだ来ない。

 + + +

 惑星カプチェランカから遥か数十万キロメートルも上空。
 成層圏よりも更に上空に一隻の巡航艦が待機していた。
 自由惑星同盟軍巡航艦――ラフロフ。
 銀河帝国軍のそれとは違い、画一化して他の艦船とも違わぬ、特徴のない形状。

 武骨な深緑色のそれは静かにカプチェランカ上空を漂っていた。
 救援要請を受けたラフロフは、戦闘開始後二時間で上空へとたどり着いていた。
 しかし、命令はない。
「まだなの」
「苛立っても仕方がない、らしくないな。天気図を見れば、今行くのは自殺行為だと明白だろう?」
「この雲の厚さならば、いけるわ」
「雲を抜けて、敵の高射砲と対空砲の集中砲火はごめんだ。言っても平気だっていう、確信が必要でね」

 惑星飛行用の爆撃機の副操縦席で、男が肩をすくめた。
 操縦席のモニターには惑星カプチェランカの天気図が表示され、雲の様子が逐一変わっている。天気自体は比較的落ち着いている。
 もっともカプチェランカにおいての落ち着いているという事であり、吹雪はないものの厚い雲が惑星の――戦闘地帯の様子を隠している。

 彼女の腕であれば、飛べない事はない。
 だが、副操縦席の同僚の言葉通り、文字通り飛べると言うだけの状況。
 敵も高射砲や対空砲など、空に対する備えは万全だろう。
 その状況で突入したとしても、集中放火を受ければ一矢報いる前に撃墜されてしまう。
 ほんのわずかでも状況が確認できれば。

 そのわずかな状況確認の隙間すらも、厚い雲は許さなかった。
 唇を噛む力が強くなる。
 いまも続いているであろう戦闘に、自分は何の助けも出来ない。
 感情的になろうとする心を落ちつけて、彼女はレーダーを確認する。
 まだ大丈夫だ。

 だが。
「このままでは敵の援軍が来るかもしれない」
「違うね。おそらく、来ている」
 否定された冷静な言葉に、彼女は隣の席を睨んだ。
 鋭い視線を受け止めながらも、副操縦席で男は首を振った。

「こちらの援軍要請を敵さんが知らないわけがない。今頃カプチェランカ外周にきて、こちらに回り込んでいる頃だろうさ」
「ますます時間がないわ」
「ああ。いま出発できなければ、おそらく撤退命令が出るだろう」
「それなのに随分と落ち着いているのね」
「仕方がないことだ。いま撃墜されれば、次に誰が敵を攻撃する?」

「その次、その次と、年金をもらうまであなたはそう言い続けるつもりなの」
「挑戦的な言葉だな」
「本音よ」
 手元のモニターに目を向けて、彼女は息を吐いた。
 厳しい言葉をぶつけたが、男の言っている言葉も間違えてはいない。
 無駄死にをするくらいなら、次のチャンスを待つべきだ。

 それが理解できているからこそ、彼女も待つ事を選択せざるを得ない。
 でも。
 頭で理解できていても、感情は別だ。
 この状態を彼女の――先輩が、そして、後輩が見れば何というだろうか。
 仕方がないと諦めるか。
 いや。

 コンソールに伸ばそうとした手を、寸前で彼女は飛ばした。
 彼女だけが死ぬのであれば、おそらく彼女は押したであろう。
 だが、彼女の手には憎らしいことだが、隣の副操縦士と、そして兵士の命が握られている。
おいそれと、簡単に行動が出来る立場でもない。
 そんな状況を、彼らは笑うか。

 自らが自嘲の笑いを浮かべかけ、外部のモニターに通信が入った事が告げる。
 それは全体への一斉メッセージだ。
 一拍の呼吸を経て、おそらくは戦場であろう精悍な顔をした男が映った。

『カプチェランカから、ラフロフ――カプチェランカから、ラフロフ……こちらカプチェランカ基地司令官クラナフ大佐だ』

 + + +

『敵の襲撃から三時間。現在まで、敵を基地広場内でとどめているが、敵がこちらの策に気づいたようだ。既に左翼部隊の攻撃機能が八割を奪われ、前線基地が孤立している。おそらくはあと三十分も持たない』
 クラナフ大佐の艦船全体へ向けた通信に、誰もが小さく息を飲んだ。
『この通信は一方的に送信している。私もすぐに……』

 爆音。
『すぐに現場に戻る事になる。前線基地のマクワイルド少尉が持ちこたえてくれているが、時間はない。できれば――すぐにでも救援をお願いしたい』
 それは真っ直ぐな願い。
『この通信は、おそらくは最後となる。貴殿らの武運を――そして、我らの武運を祈ってくれ』
 一方的に送られたメッセージは、やはり一方的に切断された。

 息を飲んだ兵士の視線が集中する。
 それら出撃が可能かどうか、最終的な決断を任されているこの機の機長である彼女の背に。誰もが出撃したいと思っている。
 だが、冷静な頭がそれを許さない。
 通信が入る前と変わりがない。

「大尉――」
「ええ。わかっているわ。確信が欲しいっていったわよね、私も確信がなければ動くつもりはない。でも」
 コンソールを叩き、エンジンが動き出した。
 伝わる振動に、副操縦席の男が目を開く。
 その目の前で唇をゆっくりとあげながら、彼女――ミシェル・コーネリアは笑った。

「あのアレス・マクワイルドが、援軍を待ちながら敵の高射砲を許すわけがない。それは、確信よ」
 大丈夫だと思う。
 その想いが、身体に伝わって、次々と出撃の準備を整えていく。
『A-03爆撃機。出撃します』

 呟いた言葉に、外周部では出撃に向けて兵士達がせわしなく動き始めた。
 アラームが鳴り響き、出撃のランプが点灯する。
 コンソールのスイッチを次々にあげていけば、諦めたように副操縦席の男が補助スイッチをあげていく。
「はぁ。撃墜されたらデートでも付き合ってくださいよ。コーネリア大尉」
「幾らでもね」

 きっと、彼の名前が出てこなければコーネリアは動けなかった。
 そして、何も出来ない自分を攻め続けていたことだろう。
 だが、いまは違う。
 彼を知っている。

 だからこそ、確信できる。
 あの雲の下で、今も待っているであろう彼を。
「待ってなさい。今度は私が助けてあげる」
 小さく呟いて、コーネリアは小さな笑みを浮かべた。


 ほんの――少しの事。
 たった一人の歴史が変わる、たったそれだけのこと。
 だが、この時、確かに歴史は変わった。

 + + +

 左翼の反撃がなくなって、それまでの倍する攻撃が前線基地に集中した。
 雨のように着弾する爆撃に、反撃を許さない。
 その間隙を抜く様に、敵の歩兵たちは押し寄せる。
 こちらの砲弾は休むことなく、吐き続けていた。

「迫撃砲、照準を変えます!」
「駄目だ。敵の高射砲が再び集結し始めている。そこを」
「しかし、このままでは!」
「しかしも、かかしもねえ。いいから言われたとおりにしろ!」

 カッセルの言葉により、迫撃砲の照準は敵の後方に爆撃を始める。
 高射砲を備えつけようとしていた兵士達が慌てて避難した。
 だが。
 接近する敵兵士によって、前線基地の防御はさらに薄くなり、放たれた銃弾が幾人をも貫いた。
 悲鳴をあげて倒れる兵士。

 駆け付ける衛生兵。
 それらをあざ笑うように放たれた砲弾が、血しぶきをまき散らす。
 地獄といえども、少しの慈悲はあるだろう。
 慈悲すらない光景を前にして、兵士達はただ銃を放ち続けるだけだ。
 狙いも何もない、ただがむしゃらに。

 撃ち続けた弾丸がなくなり、身体を探る。それすらも見つからず、死体を漁った。
 倒れ伏す同僚から得た弾丸で、再び銃を構える。
 その瞬間に、構えた兵士は頭部をレーザーに焼かれて息絶えた。
 誰がも自分の事で精一杯だ。

 久々に感じる戦場の空気に、バセットは唇を舐めた。
 誰もが自分のことで精一杯だからこそ、自分はそうあってはならない。
 そう今は亡き上司に教えられた言葉を思い出して、バセットは周囲を見渡す。
 防戦をするあまり集中して、塹壕から身を乗り出す者はいないか。
 あるいは。

「狙いは敵後方っていってるだろう。勝手にかえるんじゃねぇ、ぼけがっ!」
 身近に迫る脅威に狙いを変更しようとしていた砲兵を叱咤して、バセットは周囲を見る。
 既に限界であることはわかる。
 アレスがカッセルに話していた事を聞かなかったわけじゃない。
 まずいという言葉、その通りになろうとしている。

 今までは左右からの連携で近づかせなかった敵歩兵が近づいている。
 こちらも反撃をしているが、多勢に無勢。
 よく持ったと思うべきか。
 でも。
 周囲を見渡しながら、バセットが見るのは正面に立つアレスの姿だ。

 本来であれば後方で指揮をとるべき指揮官が、最前線で敵の進撃を防いでいる。
 それだけではなく時には後方に目を光らせて、ともすれば撃ち過ぎて砲身が自爆しそうな迫撃砲を交換するように指示を出している。
 とても初戦には思えない。
 敵の集中砲火を浴びてもなお、いまだに戦線が崩れないのは彼の力量によるべきか。

 もはや認めざるを得ない。
 だからこそ。
「死なせるわけにはいかないだろう!」
 バセットも塹壕から身を乗り出せば、近づく帝国兵に砲火を加えた。
 その視界に赤毛の男が見える。
 獣を思わせる勢いで近づけば、手にしたものを投げた。
 それは放物線を描いて、塹壕の奥深くへと届く。

「まずい」
 それは見なくても、理解ができる。
 塹壕の奥で爆発したプラズマ手榴弾は、容赦なくこちらの防御を抉るだろう。
 敵の侵入を許す事になる。
 手榴弾の近くにいた兵士達は慌ててその場から離れようとしている。
 無理はない。

 だが。
 そこで、あんたが動く場合じゃないでしょうよ。
 逃げる兵士達と逆に、走り出したのは――アレスの姿だ。
 間に合えと思う。
 アレスが走り出すと同時に、バセットもまた走りだしていた。

 雪に足を取られて満足に走れない。
 それでも足に力を込めて、走り出す。
 膝が笑う。
 でも。

「死なせるわけにはいかないんですよ!」
 もう、二度と。
 アレスの背に届きそうな瞬間、横から襲った暴風にバセットは転ばされた。
 雪に埋まる視界の先で、暴風はアレスを突き飛ばし、さらに走る。
「軍曹――」

 呟いた言葉の先で、アレスを突き飛ばしたカッセルがプラズマ手榴弾を握り、投げた。
 直後――プラズマの光に、バセットの視界が包まれた。
 
 

 
後書き
すみません、感想への返信は三章終了後に行いたいと思います。 

 

決戦3



 鼓膜を叩く衝撃音と、視界に広がる発光に意識が遠くなる。
 突き飛ばされて撃ちつけた雪の冷たさも痛みも感じない。
 焼けるような熱さが顔を襲っていた。
 どうなっているか。目を開けようとしても、顔の感覚がない。

 うっすらとした右目に、慌ただしく走る兵士の姿が映った。
 叫んでいる兵士がいる。
 しかし、いまだに馬鹿となった耳に音が入ってこない。
 口を開いても、自分が何を言っているかすらわからない。

 酷いものだと苦笑して、アレスは倒れる身体に力を込めた。
 状況すら理解できない。
 しかし、やるべき事は知っている。

 落ちていた銃を握りしめて、アレスは塹壕から顔を出した。
 帝国兵は、いまや間近にまで近づいてきている。
 そこにアレスは容赦なく引き金を引いた。
 レーザー光が雨となって、帝国兵を穿つ。

 狙いを付ける必要がない。
 それでもなお大量の帝国兵は、幸いとばかりに押し寄せていた。
「――!」
 小さな舌打ち。くぐもった音が聞こえて、隣に並ぶ影がある。
 バセットだ。

 髪を焦がして、顔を赤くしながら、アレスの隣に並んで撃ち続ける。
 その状況を見た兵士達が、慌てる事をやめて塹壕に並んだ。
 敵の攻撃が弱まった。
 そこでアレスは視界の先に、赤毛の少年を見つける。

 まだ年若く――しかし、はっきりとわかる強い意志。
 周囲を指揮しながら、押し寄せる姿に、アレスは弾倉を交換した。
 視線が交錯する。
 一瞬先に、引き金を引いたのはアレスだ。

 元より銃の扱いは人一倍下手である。
 狙う必要もない乱射は、一秒間で数十発と放たれる光線。それを赤毛の少年――ジークフリート・キルヒアイスは驚くべき反応で、避けた。
 照準を読んでいるかのごとく、足場の悪い雪原の大地を走り抜ける。
 気付いたバセットも狙うが、距離は瞬く間に縮まっていた。

 こちらの攻勢が弱まり、キルヒアイスは銃を構える。
 塹壕という高い位置にいたとしても、彼は狙いを違えないだろう。
 一瞬でこちらの眉間に穴をあける。
 間に合えばだが。

 キルヒアイスが銃口を向けたと同時、アレスが既に安全弁を抜いていたプラズマ手榴弾を投げる。
「今度はそちらが逃げる番だな。逃げる時間は与えないけどな」
 ようやく聞こえるようになった耳朶に自らの言葉が聞こえた。

 投げられたプラズマ手榴弾は、着地と同時に閃光をまき散らした。

 + + +

 光がおさまって、視界に抜けたのは青いレーザー光だ。
 それはアレスの頬をかすめていった。
 小さく汗を流すアレスの前で、雪煙が晴れて見えたのは赤毛の少年の姿だ。

 さすがに無事ではなかったようで、防御服の一部が焦げて、銃を握る手からは出血が見られる。それでも真っ直ぐに構えて、動かぬ様子にアレスは頬をひきつらせた。
 化け物か。
 アレスよりも遥かに年少のはずの少年は、しかし、歴戦の戦士のようだ。

「撃ち続けろ」
 バセットの号令に、兵士達が再び銃撃を開始する。
 キルヒアイスは一度こちらを睨みつけ、背後に駆けだした。
 プラズマ手榴弾と、こちらの一斉射撃の前に失敗を認識したのだろう。
 無駄に攻撃を仕掛け、出血する事なく、即座に撤退を選択する。

「判断力も一流だな」
 末恐ろしい――小さく息を吐いて、アレスはその背を追い続ける。
「追撃しますか?」
「いや。それよりも……」

 バセットの問いかけに首を振って、アレスは塹壕内に視線を向ける。
 丸く、雪がくり抜かれたそこに兵士達が集まっている。
「少尉――手当をします」
「俺は大丈夫だ」

 差し出された白い布を受け取って、痛む左顔面に当てる。
 白い布が血に染まっていくのが見えた。
 それでも見えたという事は、眼球は傷ついていないようだと思う。
 兵士に銃を預けながら近づけば、集まっていた兵士達が道を開けた。

 横たわるカッセルの傍に立つのは、衛生兵の姿だ。
 こちらの顔を見れば、ゆっくりと首を振った。
 
 + + +

 それは一目で助からないと分かる。
 至近距離からのプラズマの熱を受けて、融解した防御服が身体に張り付いている。

 顔の部品すらも一部がバターのように溶けてしまっていた。
 それでもうっすらと開いた左目が、こちらを見て、安堵の表情を浮かべた。
「御無……事でしたか」
 放たれた言葉は、随分とか細く――ともすれば戦場の騒音で消えそうなほどに小さい。

 横たわるカッセルの隣に座って、アレスは言葉に迷う。
 ありがとう。
 良くやった。
 悪かった。

 様々な言葉が浮かんでは、口に出る前に消えて、同時に残された時間は少なくなる。
 顔を覗き込んで、呟いた。
「無事に退職を迎えるのじゃなかったのか、爺さん」
 呟かれた言葉に驚きの視線が、アレスに集中した。

 何を言っていると言葉になる前に、横たわるカッセルから小さな声が聞こえた。
 笑いだ。
 苦くも――誇らしげな笑い声に、誰もが言葉を失う。
「厳しいですな。ですが……」

 僅かに言葉をきって、カッセルの双眸は穏やかにアレスを見る。
「昔の夢は――忘れたつもりで、忘れきれなかったようです」
 それは周囲にいた誰もが理解できない言葉。
 だが、理解して、アレスは眉根に力を込めた。

「死ぬのは英雄とは言わない。バカって言うんだ」
「知りませんでしたか。英雄と馬鹿は実に――実に紙一重なのですぞ?」
「本当に馬鹿野郎……だな」
 唇を噛み締めて呟いた言葉に、カッセルは誇らしげに笑んだ。
 そして、視線をアレスからそらす。

 誰もいない空を見るように、遠い過去を見るように。
 何もない曇天を見つめながら、カッセルは静かに言葉を口にした。
「少尉。なぜ、辞めないかを私に聞かれましたな」
「……ああ」

「家族を守りたい。あの言葉に偽りは…ない。ですが……今、こうして考えると何もそればかりではない気がします」
 穏やかな、実に穏やかな言葉。

 今にも消えそうな言葉に、誰もが言葉を発せない。
 近くの爆音ですら、カッセルの言葉のBGMにしかならなかった。
 薄れゆくカッセルを見つめて、彼の――最後の言葉を待つ。
「四十年近く――私は幾人もの死に立ち会ってきました。上司、同僚、部下、良い奴、悪い奴。みな等しく……死の間際に心残りを口にして」

 吸い込んだ息が、風音を立てた。
 気管が焼けて、満足に息も吸えぬ状況で、ただカッセルは唇を開く。
「理由は違う。わしのように私的な理由もあれば、国に殉じたものもいた。ですが、ですが、誰もが……」
 咳き込んだ。

 息と共に血を吐きながら、それでもカッセルはアレスを見る。
 再び宿る強い意思に、アレスはカッセルの手を握り、言葉を待った。
「誰もが己の望みを、わしに託した」

 アレスの眉があがった。
「俺の望みを叶えてくれ。だから、それまで死ぬなと――そう言うのです」
「……随分と」
 真っ直ぐな望みに、アレスは穏やかに口の端をあげた。

 悲しみを目にしながら、それでも作り笑いを浮かべて、笑う。
「随分と勝手な願いだな」
「まこと。だが、その願いが私の四十年を縛る。勝手なものです――ですが、こうして道半ばで思えば、彼らの気持ちもわかる」

 そこで、カッセルは今までにない楽しげな笑みを浮かべた。
 笑う。
「この勝手な願いを、少尉にも託してよろしいでしょうか。なに、私は同盟などと大きな事はいいません。ただ……家族が、私の家族が……安心して生きられる。そんな世界を……」

 握りしめていた手に力がなくなる。
 瞳から光が失われても、かろうじて彼の二つの目はアレスを見ていた。
「お願いします」
 爺さん。

 問いかけた言葉に、返答がない。
 もはや力なく――首が落ちた彼は反応を示さない。
 彼の名前を三度読んで、アレスは噛み締めていた唇に力を込めて、そっと瞼を閉ざした。
「返答も待たずに……この、タヌキ爺」

 ひきつった表情と共に静かに呟かれた名前の主――カッセルは二度と瞳を開けなかった。

 + + +

「敵もしつこい」
 帝国軍の司令部から眼下の状況を見つめて、副司令官マーテル中佐は唇を噛み締めた。
 何十回目にもなる突撃はぎりぎりのところで失敗した。
 前線からは続く作戦を尋ねる伝令が走る。

 突撃の継続を求める声。
 後方部隊の再編成についての声。
 声、声、声。
 戦場では一瞬一秒の判断ミスが、作戦を瓦解に導く事をマーテルは知っている。
 もっとも王手まであと少しというこの時点では、そこまでの至急はないだろうが。

 しかし。
「大佐がどこにいったのか、まだわからぬのか」
「は。所用のため席を外すとおっしゃり、まだ帰ってこられません」
「所用だと。この戦場で大佐に護衛もつけず、どこにいったかも把握をしておらんのか」
「申し訳ございません。それは機密事項であるとおっしゃられ」

「ならば、所用ではないではないか。所用を辞書で調べ直せ、馬鹿者」
 マーテルの怒声により、大佐付きの兵士達は背筋を伸ばした。
 さらなる怒声が浮かぶが、マーテルは言葉にせずに唇を噛んだ。
 兵士ばかりを攻められるものではない。

 基地司令官から機密事項であると言われれば、マーテルですらも深くは聞けない。
 独断専行はこれが初めてではないが、困った癖であることは間違いがなかった。
「第32中隊、敵が回復する前に再度の突撃を行いたいとの伝令、許可を」
「第21中隊。突撃前に再び後方に対空砲火部隊の設置許可を求めています」

 様々な声はあれど、大まかに分ければ二通りだ。
 即ち、攻撃か防御。
 予想以上の敵の反撃に、こちらの対空部隊は満足な編成を行えていない。
 その再編成を求める声が一つ。

 もう一方はこのまま敵陣に対して攻撃を仕掛けるというものだ。
 どうするかと、周囲を見渡せば指令部での最上位はマーテルしかいない。
 誰もがマーテルの返答を待っている。
 大佐が来るまで待つか。

 そう思いかけて、いやとマーテルは首を振った。
「こちらが時間をかければ、敵はさらに防備を厚くするだろう。ならば時間を与えず、全部隊で徹底的に攻め込め」
「はっ」

 走り出す兵士を背にして、マーテルは息を吐く。
 マーテルは決して敵を――いまは名も知らぬアレス・マクワイルドを侮っているわけではなかった。むしろ、敵ながらアレスを認めていた。
 だからこそ下した命令。

 それは瞬く間に最前線に伝わり、同盟軍を食い破る獣となった。

 + + +

 突撃部隊の後退から、半刻も待たずして同盟軍の前線基地に押し寄せる部隊がある。
 総力戦と言わんばかりの人数に、塹壕から身を乗り出して、アレスは息を吐いた。
 元々が分の悪い賭けだ。

 見上げる空は雪こそないものの曇天が広がり、いまだ味方の来援はない。
 敵はこの戦いで決着をつけようとしている。
 そうでなくても、アレスが率いる隊に残された銃弾は少ない。
 体力も限界だろう。

 この次はない。
 死ぬか。
 そう自問すれば、その可能性は非常に高いように思われた。
 物語の世界に生まれ変わり、そして、最初の戦場で散る。

 それは随分と。
「どうかいたしましたか」
 問いかけられた言葉に、振り返れば小銃を持ったバセットがいた。
「いや、どうも」
「そうですか。随分と楽しそうだったので、何か名案が浮かんだのかと」

「楽しそう?」
 そう言われて、アレスは自分の顔に手を置いた。
 流れた血が乾いて硬くなった包帯。
 左半分が包帯で巻きついていれば、表情などわかるはずもない。

 しかし、部下としては怯えるよりも、むしろこの状況下においても笑みを浮かべる指揮官の方が信頼できるのだろう。
 集中する視線は、何かを期待するような視線であった。
 絶望で死ぬよりは、マシか。
「雪が止んで、敵は対空部隊の編成を中止したようだ。これで救援部隊が撃たれることはないさ」

「だから、後方部隊に集中砲火を」
 答えずに、アレスは前を向いた。
 救援部隊が来るかどうかはわからない。
 だが、この状況でアレスに出来る事は終わった。
 ならば。

「あとは味方の来援を待つだけだ。それまで、死ぬなよ?」
 呟かれた最後の命令が、同盟軍の兵士達を奮い立たせた。
 押し寄せる敵の声に負けぬように、一人が声に出した叫びが伝播していく。

 兵士達の目にはもはや絶望はなく――。

 

 

決戦4



「撃て。撃ち尽くして構わん。砲身が、身体がぶっ壊れるまで撃ち続けろ」
 バセットの言葉に砲兵や射撃兵が残弾を余すことなく、ばらまいた。
 それは死と血をまき散らす雨となり、帝国兵に降り注ぐ。
 それでもなお、帝国は進軍する。

 同盟軍の抵抗が、最後の輝きである事を理解している。
 五百メートルの距離からでは、塹壕に隠れた同盟の方が有利だ。
 だが、二百メートルまで近づけば、数の多さから互角となり、百メートルになれば圧倒的数の暴力が、帝国を有利にする。
 決戦である事は前線基地以外にも、左右の陣も理解している。

 寄せ付けまいと放たれる音が、山に木霊して、嵐のような轟音を残す。
 腕が吹き飛び、身体に穴を穿たれ、倒れ伏す同僚の横を帝国兵は走る。
 先頭の赤毛の少年を筆頭にして、帝国軍はただただ雪上を駆け抜けた。
 一般的な兵士が全速力で走れば、百メートルは二十秒もかからない。

 雪上に足を取られながらの進軍であるが、二百メートルまで到達するに二分を要しなかった。
 単発的な帝国の砲火が、塹壕へと集中した。
 次に血をまき散らしたのは、塹壕で銃を放つ同盟軍の兵士だ。
 塹壕が削れ、倒れ伏す兵士をかきわけて、後方の兵士が最前線へと移動する。

 もはや相互に狙いをつける意思もない。
 ただ前方にいる敵だけを穿つ。
 その先頭――二百メートルの距離から微かに見える人影で、しかし、二人の人物は互いの表情を確認する。

「ジークフリード・キルヒアイス……」
 遠くからでもはっきりとわかる赤毛。
 それがゆっくりとこちらに銃口を向けた。
 同様にアレスも銃を構える。

 走馬灯のように記憶に呼び出されるのは、射撃術を教えた教官の声だ。
 照準を合わせて真っ直ぐ引き金を引けば、弾がそれる事はない。ましてや、昔と違って反動などほとんどない。外す方が不思議なもんだ。
 それであたれば苦労はしない。
 そう思いながらも、真面目に授業を受けるべきだったと後悔。

 後悔しないと思いながらも、最後に後悔する現状にアレスは笑う。
 唇をゆっくりあげて形づくる、微笑。
 と、その手が止まった。

 + + +

 おそらくは敵の指揮官であろう。
 金髪のまだ若い男へと銃口を向けて、キルヒアイスは引き金にかけた指を止めた。
 この距離からであれば、外すことはない。

 自らの腕を傷つけた仕返しというわけではない。
 むしろ指揮官でありながら、先ほども現在も最前線で戦う男にはある種の尊敬を持った。
 最初の赴任地ではあるものの、現在まで味方の陣営で、そのような指揮官には巡り合っていないこともあったかもしれないが。

 もし同盟ではなく、帝国にいたならば。
 わずかに浮かんだ思いをかき消して、再び指に力を込めた。
 音がした。
 足を止めて、キルヒアイスは戦場の真ん中で空を見上げる。

 立ち止まったキルヒアイスを追いぬいて、兵士達がかけていく。
 それにも関わらず、ただキルヒアイスは空を見ていた。
 音だ。
 戦場に鳴り響くは、砲弾の放たれる咆哮と着弾音。
 それらの背後に兵士の悲鳴と声が響いていた。

 それだけではない。
 耳をすませたキルヒアイスには、それにプラスして風を切る甲高い音を聴いた。
 それが何であるか。
 理解は一瞬――キルヒアイスは突撃する帝国兵とは逆走して走りだした。

「下がれ!」

 + + +

 キルヒアイスが手を止めて、アレスも塹壕から顔を隠して、空を見る。
 銃声が断続的に響く音しか聞こえない。
 帝国兵の足音は大きくなり、ついには防戦ラインの百メートルをきる。
 そこで、アレスの耳にもおそらくは赤毛の少年が聞いたであろう音が聞こえた。

 甲高く風をきる高音のエンジン音。
 遥か上空――雲を切り裂く、爆撃機の音。
「全員、頭を下げて塹壕にもぐれ」
 指示を出して、アレスは一人塹壕に背をかけて、ゆっくりと腰を下ろす。

 厚い曇天が空を隠している。
 遮るもののないアレスの右目に、曇天を切り裂く爆撃機が見えた。
「……遅い」

 静かに呟きながら、アレス・マクワイルドは小さく息を吐いた。

 + + + 

 曇天を切り裂いて、巡航艦ラフロフ編成の爆撃機が飛び出した。
 操縦席から眼下を見て、副操縦席のロイツ中尉は驚きに目を開いた。
 それは隣席の同僚――ミシェル・コーネリアの操縦技術が一つ。

 飛べると言っても惑星カプチェランカの気候は厳しい。
 ロイツも腕が悪いと思ったことはないが、この暴風では目的地まで真っ直ぐ進むことは出来ないだろう。しかし、コーネリアは最短距離で接敵している。
 そして、もう一つ。
 曇天を切り裂いて敵陣が広がっても、予想された敵の砲撃はなかった。

 単発的こそ対空砲が向かうが、部隊展開がされていなければ、避けることは容易い。
 ましてや、コーネリアの腕である。
 こちらに向かうミサイルを避けて、爆撃機は疾走した。
 敵が間抜けすぎて、対空部隊を編成しなかったのか。
 あるいは、兵数からこちらを見くびっていたのか。

 そんな考えが浮かぶが、ロイツは隣席のコーネリアを思い出し、苦笑した。
 マクワイルド少尉。
 彼の名前が出て、コーネリアは敵の対空部隊を問題ないと言いきった。
 ならば、彼がどうにかしたのだろうか。
 劣勢でありながら、とても信じられないことだ。

 もっとも、そのような真実はロイツにとってはどうでもいいことだ。
 ただ爆撃機が飛び、敵の対空砲火を気にせずに撃ちこめる。
 思えば、ロイツにとっても、そしてこの爆撃機にとっても苦渋の日々だった。
 爆撃機は敵陣に攻撃を仕掛ける事が仕事。

 だが、カプチェランカの劣悪な環境がそれを許さず、下手をすれば一回も爆撃しないで、この爆撃機はお役御免を迎えたかもしれない。
 ロイツも同様に。
 無駄死には御免だ。
 だが、そのために今まで幾人もの兵の死を見てきた。

 もっと早く来てくれればと、味方から罵声を浴びることもある。
 自分だって戦いたかった。
 そんな叫びは心にしまわれ、諦めすらもロイツは感じていた。
 このまま爆撃機と共に朽ちていくのだろうと。

 しかし。
 近づく大地を見れば、倒れ伏す同僚の姿が見える。
 そして、顔をあげて希望を浮かべる味方の姿もだ。
「みんないったよな。もっと早くきてくれって。後ろで楽してただろうって。でもな、でもな」
 呟いた言葉は次第に大きくなる。
 自らの押し籠めてた気持ちを吐露するように。

「俺だって悔しくないわけがないだろう。同期が、友達が戦場にいるのに、何も出来ず後ろでずっと指をくわえて……ふざけんな」
 投下ボタンに手をかけて、ロイツは前方――雲霞のごとく群がる帝国兵を見た。

 唇を噛んで、ボタンを押しこんだ。

 + + +

 雲を抜けて、目に入ったのは帝国兵から基地を守る同盟軍の姿だ。
 白い大地が赤く染まり、倒れる兵が幾人も見えた。
 アレスは無事だろうか。
 間に合ったと思うのも一瞬、倒れる兵士の髪を見る。

 視線が彷徨えば、すぐに首を振った。
 あのアレス・マクワイルドが死ぬわけがない。
 きっと今も、あの敵対するものを恐怖させる笑みをどこかで浮かべているはずだ。
 だから、コーネリアは視線を前に戻して、敵を睨んだ。
 予想通り対空砲の数は少ない。

 これならば。
「いける」
 呟いた瞬間、爆撃機から二筋の煙が飛び出した。
 隣席の副操縦士が投下ボタンを押したのだろう。
 それは踵を返した帝国兵に追いついて、赤が視界を染めた。

 千度を超えるナパームの炎だ。
 敵陣に広がり、全てを焼き尽くす。
 前線に殺到していた兵士達は一撃で過半数が炎に包まれた。
 逃げ惑う。

 悶える兵士の姿を目に焼き付けて、コーネリアは思う。
 逃がすものかと。
 爆撃機が敵の上空を一周して、機首を変える。
 続いて投下されたナパームが、敵の後方――わずかばかりに抵抗をしていた対空砲を焼き尽くした。

 もはや爆撃機を止めるものはいない。
 高度を下げたコーネリアの目に、見えた。
 左目に包帯を巻きつけて、小さく笑う同僚の姿を。
 はっきりと。
 遅いと愚痴っているのだろうか。
「ごめんなさいね」

 コーネリアは初めて、小さく微笑を浮かべた。
 それは安堵――だが、敵にとっては戦乙女の慈悲の笑みであったかもしれない。

 一瞬で死を告げる死の笑みに。

 + + +

 高度を下げた爆撃機が、敵陣を蹂躙していく。
 もはや敵に戦意はない。
 早くも幾台かが撤退をしようとして、爆撃機のナパームに焼かれていた。
 頼みの対空部隊すらも初撃で撃ちとられれば、敵にとっては爆撃機を防ぐ手立てはない。

 ただ逃げる。
 逃げ惑う兵士に向けて、追撃を指示しながら、アレス・マクワイルドは立ち上がった。
「少尉。休んでいてください――あとは我々が片付けます」
「いや。そうもいかない。行く場所がある」
「どこに?」

 そう問われて、アレスはどこだろうなと苦笑して、視線を後方の山道へと向けた。
 おそらくはあそこしかない。
 赤毛の少年が近くにいないいま、おそらく彼は。
 これから敵が再度進行をかけることは考えづらい。
 指令部への通信は、労いの言葉と感謝と共に任務解除の命令が与えられた。

 敵の再攻撃は考えられず、あったとしても残留部隊で何とかするつもりなのだろう。
 実際に攻撃と共に左右の塹壕から、中央を守るように命令を受けた兵が集結していた。
 後方に下がって、酒を飲んでもいいとは大奮発だろう。
 もっともそれに見合う働きを、アレス達中央部隊は行ったのだが。
「通信機は持っていく。何かあれば連絡を」

「これ以上手柄を取られたくはないな。風呂にでも入って、ゆっくりしてくれ」
 引き継ぎに来た小隊長と冗談を交わして、アレスは部隊の方へ戻る。
 そこには短時間ながらも命を預けた精鋭の姿がある。
 就任した当初のような掃溜めと呼ばれる事もない。

 おそらくはカプチェランカで――同盟軍でも有数の陸上部隊だ。
 それが静かにアレスの言葉を待っている。
 任務は終了した。
 だが。

「もう一働きを頼んで良いか」
 呟かれた言葉に、部隊が眉をあげた。
 しかし、誰も否定の言葉をあげない。
 代表するように、バセットが一歩前に出た。

「少尉」
「ああ。これは俺の我儘だ。別に戻ってくれても」
「違います。我々はマクワイルド少尉の部下なのです。頼みなどという言葉は要りません。少尉はただ命令をくれれば良いのです」
「いや。正式な任務ではないから……」

「命じてください」
 表情を輝かせて、バセットがアレスを見る。
 到着時の挑戦的な瞳から変わって、どことなく御主人に構ってもらえる事が嬉しいような犬を思い出させた。

 もっとも子犬などという可愛いものではなく、敵に対しては牙をむく恐さがあるが。
「わかった。確証はないが、敵の動きからこちらの逃走ルートに先回りした部隊がありそうだ。これから我々はその確認に向かう」
 その意味をバセットはすぐに理解した。

 教科書に出てきそうな敬礼を行うと、力強く了承を伝える。
 風が巻き起こった。
 積もった雪をまき散らして、上空を一機の爆撃機が横切った。

 敵陣に対して苛烈なまでの攻撃を仕掛けていたそれは、アレスの上空を慈しむように優しげに飛んでいく。
 まるで存在に気づいてもらいたいかかのごとく。
 痛む腕を小さくあげて、手をあげる。

 助かった。
 届く事はないが伝えた気持ちは果たして気付いたのか。
 爆撃機が器用にアレスの上空で旋回すれば、再び敵陣へと向かう。
 敵後方から火炎があがった。

 それを見届ける事なく、アレスはゆっくりと戦場を後にした。

 

 

決戦5



「罠にかかったのは貴様の方だったな」
 呟かれた言葉が、背後からヘルダーに投げかけられた。
 どこか得意げな口調に、ヘルダーは唇に浮かびかけた笑みを押さえた。
 だから、若造だと言うのだ。

 罠にかけたというのならば、わざわざそれを口にせず、背後から撃てばいい。
 勝利の言葉など、それからゆっくりと言えばいい。
「若造一人に何ができる」
「何?」
 疑問を浮かびかけたラインハルトに、ヘルダーのブラスターが火を噴いた。
 振り向きざまに放ったレーザーは、ラインハルトがブラスターの引き金を引く事を許さない。

 咄嗟に避けたラインハルトの動きとともに、ヘルダーは走る。
 岩場の影からブラスターを撃ち、ラインハルトを岩場へと釘づけにする。
 正確に放たれるレーザー光は岩を穿ち、容易に顔をのぞかせないでいる。
 いや、そうしている。

「私が何もせずに、今の地位にいると思ったのか。貴様のような貴族でもない、私が」
 幾多の戦場を巡った。
 多くの戦友を失った。
 多くの血を流し、彼は今の地位を得た。
 だが、それも。

「貴様ら貴族は暖かい艦橋でウィスキーを飲み、ファイエルと言っていればいい。だが、血を吐いて得た私はいまだに最前線の司令官だ。貴様と私で何が違うと言うのだ。血筋か――美人の姉でもいれば良かったのか?」
 怒りにまかされたレーザーは、長い時を経ても錆びる事はない。

 断続的に打ち続けられた光が、正確にラインハルトを狙っていく。
「暖かい部屋で妻と子供に囲まれるという望みが、それほどまでに我がままなのか!」
 問いかけられた言葉に、答える声はない。
 それをヘルダーも期待してはいなかった。
 ただ憎かった。

 帝国に殉じて得た今の地位も。
 そして、それをあっさりと崩そうとする貴族にも。
 全てが。
 咆哮となって放たれたレーザーは、やがて切れる。
 引き金を引く鈍い音だけが響けば、ラインハルトが待っていたとばかりに身体を出した。

 若造が。だから、甘い。
 チャージパックを取り出して、再装填するのは一瞬。
 構えたブラスターの向こうで、ラインハルトが驚いた表情を見せた。
 驚いている暇があるならば、撃てというものだ。
 こちらは命をビットするのに慣れている。

 放ったレーザーはラインハルトの腕を捕え、ブラスターが離れた。
 雪原に倒れるのは一瞬、すぐにブラスターを奪おうと動いた。
 いい判断だが。
「遅いぞ?」

 動き出したラインハルトの頭に、ブラスターが突きつけられた。

 + + +

「ここまでだな」
 呟かれた言葉に、ラインハルトが静かにこちらを見る。
 このような場で、まだ死ぬことは出来ない。
 まだ生きている。

 だからこそ、考える。
 この窮地を脱する策を。
 ヘルダーの腕はラインハルトにとって、予想外のことだった。
 相手の力を侮り過ぎた。
 その失敗は、さらに彼を大きくするだろう。

 だからこそ――生き延びなければならない。
 睨みつけるヘルダーは、ともすればすぐにでも引き金を引きそうだ。
 だが、頭に突きつけられたブラスターからすぐに引き金を引く事はないと確信できる。
 おそらくは、ラインハルトの命乞いか、伝えたい言葉の後か。
 ならば。

「俺を殺して、罪に問われないとでも」
「戦闘下において残党に殺されたとするさ。そのようなことはどうにでもなる」
「普通の兵ならな。しかし、普通ではないと貴様がそう言ったばかりではないか」
 苦々しげにヘルダーの顔が歪んだ。
「それもお偉い方がどうにかしてくれるだろうさ」

 ラインハルトの笑い声が、雪原に響いた。
 小さく鈴の音をならすような音だ。
「何がおかしい?」
「失礼。貴族をあれほど信用しないと言っていた貴様が、最後に貴族を信じるとはな」
「なに」

「貴族が信じられないと言ったのは貴様ではないか。その通り、貴様などは貴族の出世を妬んだ一兵士として捨てられる。貴様を優遇して何になるのだ。不利な証拠は消すのが一番ではないか」
「そ、そのようなこと」
「そんなことはないか。なぜ、そう言い切れる――貴様は俺を殺すと同時に、皇帝陛下の寵姫の弟を殺した罪に問われるだろう。結果は一族郎党処刑だ」

 そして、笑う。
「おめでとう。確かに貴様の望みは叶う――ヴァルハラで家族に囲まれて、楽しく過ごすと良い」
「き、貴様っ!」
 怒りを浮かべて引き金を引こうと動いた。
 撃つタイミングさえコントロール出来れば、かわすことはできる。
 ラインハルトは挑発と同時に動きだそうと、身体に力を込めた。

 もっとも、それはラインハルトにとっては悪手でしかなかったが。
 ヘルダーの腕は感情とは別に、敵の動きによって引き金を引くほどに洗練されていた。
 ラインハルトが身体を沈みこませたと同時に、ブラスターが動いている。
 だが。

 引き金は最後まで引かれることはなく、轟音と共に舞い上がった炎が身体を揺らしたのだった。
「何がっ」
 叫んだ隙をラインハルトは見逃さない。
 雪原に落ちたブラスターを無事な左手で握り、岩場へと飛び込んだ。

 放とうとすれば、さすがだろう。
 ヘルダーもその場にはおらず、先ほどラインハルトが逃げ込んだ岩場に姿を隠していた。
「何が!」
 ヘルダーの叫びに答えるように、再び戦場となっているであろう場所から炎が舞い上がる。燃え広がる炎と兵士の悲鳴がここまで届いた。

「何がもない。敵の空挺部隊が突入したのだ」
 ラインハルトだけが、それを理解している。
 そして、敗北も。
 予想外の反撃に時間を取られ過ぎた。
 もはや勝つことはない。

 自分の策で負けたわけではないが、それでも初めての敗北にラインハルトは小さく唇を噛んだ。
「もはや勝てない。部隊を再編させて逃げるしかない」
「そんなわけがない!」
 声と共にブラスターの光が走った。
 だが、それは先ほどまでの精密さとは打って変わり、子供が乱射しているようなものだ。

 ラインハルトの隠れた岩場に到達することもなく、明後日の方へと撃ち続けられている。
「爆撃機一台で何ができる。すぐに対空部隊が撃墜してくれるわ!」
「その対空部隊を満足に展開できなかったのを、忘れているのか」
「うるさい! それに……もう遅い」
「なに?」

「遅いのだ。今更戻って、何と言い訳する。貴様を殺せなかったと報告すれば助けてくれるのか」
「……何とかしてやろう。私が」
 ラインハルトの言葉に、響いたのは笑い声だ。
 どこか正気を失っている笑い。
「何とかしてやろう。はは、貴様はわかっていない」

 怪訝に眉をしかめた前で、岩場の影からヘルダーが姿を現した。
 ゆっくりとブラスターを手にして、ラインハルトを睨んでいる。
 その状態で隠すことなく、ヘルダーは笑った。
「貴様ごとき若造が何とかできるのであれば、既に何とかなっている。誰も何もできなかった」
 小さく首を振って、ヘルダーは唇の端をあげた。
「貴様はわかっていない。貴族の――権力を手に入れた者たちの悪意を」

 それは退役近くまで最前線にいた男の痛烈な言葉であったのだろう。
 感情と共にぶつけられた言葉に、岩場の影でラインハルトは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「わかっていないのは貴様の方だ。ヘルダー」
「……」
「誰も何もできなかった。違うな、何もしなかったの間違いなのだろう」
 呟かれた言葉は、カプチェランカの気温よりも冷徹で、冷たい。

「頑張ったけど何もできなかったなど、何もしなかったのと同意義だ。俺が何とかすると言ったのならば、それは絶対だ。口だけの貴様らとは違う」
「ははっ」
 ヘルダーの笑いが、小さく雪原に響いた。
 それは先ほどまでの正気を失った哄笑とは違う。
 単純な、楽しげな笑いだ。

「そうか。ならば、何とかして見せろ。ミューゼル少尉!」
 撃ちこんだブラスターの光が、ラインハルトの岩場に押し寄せた。

 + + +

 始まった戦闘を見る人影がある。
 谷の上からそれを覗き込みながら、静かに通信機を手にする。
「敵の司令官及び士官を発見した。すぐに急行を」
『え。はっ……』

 静かに通信をきって、アレス・マクワイルドはゆっくりと雪原から眼下を見る。
 背後に控えるのは、中央部隊から集まる特務小隊の面々だ。
 誰もが静かに彼の言葉を待っている。
 それに頷きを返せば、アレスは再び眼下に視線を向けた。

 なぜ同志討ちをしているのか。
 それは、おそらくアレスだけが知っているのだろう。
 だが、疑問はあれど誰も疑問を口にしない。
 だから、アレスは静かに手をあげた。

 放つ言葉は、士官学校中に幾度も口にした言葉。
「ファイヤー!」

 叫んだ言葉が、幾条ものレーザー光を生んだ。

 

 

決戦6

 

 ブラスターが交差した瞬間、言葉にラインハルトは岩場に走った。
 ヘルダーも同様だ。
 驚いた視線が交錯したのは一瞬のことで、同時に同じ岩場に飛び込んだ。
 直後に穿たれるのはブラスターの嵐。

 逃げ込んだ岩を削らんばかりの勢いに、ラインハルトは舌打ちをした。
「敵の動きが、早過ぎる」
 呟いた言葉は、敵の動きによるものだ。
 問答無用で放たれるブラスターは正確に二人の命を狙っている。

 味方部隊が炎上したのは十数分も前。
 それから即座にこちらに反転攻勢をするなど。
 強い視線が隣のヘルダーを捕えた。
 憮然とした表情が映る。

「無線も、味方にも連絡はしていない。知っているのはあの場にいた連中だけだ」
「それが裏切ったとは?」
「マーテルはないな。あいつはそんな大事に手を染められる人間ではない。だから、私も伝えなかった」
 何がという言葉は隠す様子に、ラインハルトは皮肉気にヘルダーを見た。

 他にいた者の名前を考えている様子に、ラインハルトもしばらく考えて、首を振る。
「いや裏切りではないな」
「なぜそう思える」
「もし裏切りがいるのならば、こんな場ではなく、同盟軍が基地に攻めた時に裏切ればいい」
「間に合わなかったかもしれない」

「ならば、次まで待てばいい。今更前線指揮官の貴殿と私を殺しても何もならない。同盟にとっては今の我々に、そこまでの価値はない」
「正直な男だ。確かに、帝国にとっても同盟にとっても前線指揮官や寵姫の弟など、何の価値もないだろう。むしろ、帝国では喜ぶ者の方が多いか」
「ああ。残念ながらその意見には同意しよう」

「ふん――で、それが分かったところで現状には変わりがないな」
 ラインハルトが見上げれば、遥か頭上に同盟軍の姿がある。
 数こそは多くないが、それも時間の問題だろう。
 すぐに援軍がくれば、囲まれることになる。

 そして。
「敵の自滅は期待できそうにないか」
 小さく吐いた言葉に、同じく顔をあげていたヘルダーがラインハルトを見た。
「敵がこちらに近づけば楽ができたのだが」
 そうすれば敵将を狙い、あるいは接近によって功を焦った隙をつく事が出来る。

 それを期待している表情に、ラインハルトはもう一度頭上を見上げた。
 こちらに姿を見せないように、それでいてこちらの動きを釘づけにするように放つ指揮官へと。
「相手の指揮官は、今まで敵の前線基地の指揮をしていた男のようだ。難しいな」
「知っている男か」
「突撃の際に何度か」

「……それは手強いな」
 ヘルダーの言葉に同意するように、ラインハルトは頷いた。
 功を焦ることもなく、無理もせずに出来る限りで最大の出血を強いる。
 今回も突撃をすることなく、ただ味方の援軍を待っている。
 時間を稼げば味方だけでなく、敵の増援も来る事を理解している。
 それを天秤にかけた結果、時間を稼ぐ事を選択した。

 そこには戦功も、あるいは保身もない。
 ただ出来る限りの事をする。
 当たり前のことであるが、それをされる今は笑えることでもない。
 あるいは。

 苦く表情を作った姿に、ヘルダーがブラスターを撃ちながら、怪訝に眉をしかめた。
 敵の攻勢の前には何ら意味を成さないことだが。
「敵はこちらの増援を待っているのかもしれない」
「……それは相手に不利に。いや、なるほど。狙撃兵の理論だな」
 ラインハルトは黙って頷いた。

 敵の侵攻を止める際に、狙撃兵は頭を撃ち抜くことはない。
 撃つのは足や肩など、戦力を削ぎ、なおかつ死なない場所だ。
 そうしておいて、助けに来た味方を撃つ。
 もし助けに来なければ、怪我をした味方を撃って、悲鳴を上げさせる。
 その悲鳴を上げさせる立場は。

「帝国にとってはどうでもいいが、私は利用価値はありそうだ」
「そう思うのならば、ブラスターを撃たずに身体を外に出さないことだ」
 再びブラスターを撃ちかけて、ヘルダーは苦笑した。
 小さく息を吐いて、ブラスターを手に岩に身体を預ける。
「ミューゼル少尉が私の身体を心配するとはな」

「私はまだ死ぬわけにはいかない」
 強い言葉に、ヘルダーは小さく笑う。
 身体を乗り出さずに、顔を出した。
 敵はラインハルトの考え通り、こちらに対して突撃をせずに待っている。

 おそらくは味方を。
 損害を出さずに敵を撃ちとれる人員を集められれば、突撃にするのだろう。
 あるいはこちらが先に人員を集められれば。
 ……チェックメイトだな。
 もし敵よりも先に味方が現れれば、敵は撤退するだろう。

 そうして来るのは敵の爆撃機によるナパームの炎。
 むしろ、敵はそれを望んでいるのかもしれない。
 八方ふさがりの現状に、ラインハルトは隣で親指を食んだ。
 まだ幼年学校を卒業したばかりの若造。

 命をビットした戦場など、経験したこともない。
 だからこそ、幾ら天才といえどもヘルダーは負けないと思っていた。
 知識ばかりの天才など、軍にとっては無用の長物でしかない。
 貴族にとっては、好きにできる獲物に他ならない。

 だが、奴が経験を手にすれば。
 彫像のような金髪の若者が、逃げだす策を考えている。
 まったく――。

 + + +

「ミューゼル少尉」
 隣から聞こえた言葉に、ラインハルトはヘルダーを見る。
 そこには唇をあげて、苦い表情を浮かべる姿があった。
 何も思いつかないのならば、思考の邪魔だ。
 そう呟きかけた声を押さえるのは、ヘルダーの瞳だ。

 決意。
 そうとしかとれぬ瞳が、ラインハルトを見ている。
「先ほど私は何とかしてみろと、言ったが。何とか出来る方法がある」
「……何を?」
「思いつかぬか」
 嘲笑すらも浮かべた表情に、ラインハルトはしばらく待って頷いた。

 有利な地点からの一斉射撃。
 それはラインハルトを殺すだけではない。
 集まった味方すらも一蹴する悪魔の罠だ。
 それを回避する策は、いかなるラインハルトも思いつけないでいる。
 覚悟を決めて、走るか。

 分の悪い賭けであるが、座して死を待つ趣味はラインハルトにはなかった。
「そうだろうな。ミューゼル少尉は、一族郎党が処刑といった。だが、それ以外にも助かる方法はあるのだ」
「……」
「聡明な君のことだ。その策はわかったようだ」

「本気か?」
「冗談ならば、私も嬉しいがな」
 憮然としたラインハルトに、笑い声が響いた。
 楽しげな、面白げな声だ。
「最後に君のそんな顔を見れて、嬉しい」

「本気で言っているのか」
「だから貴様は若造というのだ」
 ラインハルトの言葉を撃ち消すように、強い言葉が響いた。
 彼を睨むように、そして、嘲笑うようにヘルダーは見ている。
「お前が姉を、キルヒアイスを大切にするように、我々にも大切にすべきものがある。それは命を賭けてもだ」

 叫ぶように放たれた言葉に、ラインハルトは反論ができない。
 お前らと一緒にするな。
 そう浮かんだ言葉は、ヘルダーの瞳にかき消された。
「私が死ねば、家族が助かる。ならば、私は命なぞ幾らでも手放そう。暗殺を行う前に、無様に戦死した――そう聞けば、いかに雌狐も私の家族に手は出さぬだろう」

「……貴殿は。ヘルダー大佐はそれで良いのか」
「初めて階級を呼んだな」
 微笑。
 そして、小さな笑みを浮かべながら、ヘルダーはラインハルトを見る。
「賭けは引き分けだな」

「何を?」
「そうだろう? 結局、貴様は私を何とかすることはできなかった。だが」
 言葉と共に、ヘルダーは懐に手を入れて、放つ。
 それは一枚の紙切れ。
「雌狐の手紙だ。何の証拠にもならないがな」

 苦笑。
「もしヴァルハラに来ると言うのであれば、その時は賭けに勝ったと。そう言ってから来ると良い。何もなければ、そのまま現世に突き落とす」

 + + + 

「おおおおおおっ!」
 叫んだ声は咆哮。
 力強く呟いた声は、まるでレーザーすら避けるようだ。
 集中されたレーザーは動き出したヘルダーを狙い、しかし捉える事ができない。

 雪原を獣のように駆け抜けて、ブラスターを放った。
 突然の攻勢に、同盟軍が驚いたようにたじろいだ。
 動揺している。
 ならばと、ふらつく足に更に力を込めた。
 第一戦にいた頃ならば、この程度で疲労など覚えなかっただろう。

 後方任務と思い、身体を鍛えなかったことが悔やまれる。
 だが。
 ヘルダーは表情に笑みを浮かべて、同盟軍を見る。
 戦場を走りきることはできずとも、一矢報いことは可能。
 見れば、先頭に立つ指揮官も若い。

 ラインハルトほどではないにしろ、ヘルダーにとっては子供と同じような年齢だ。
 それを可哀そうなどとは思わない。
 戦場に立てば存在するのは味方と敵。例え撃ちとられようが、無駄にはしない。
「ぉぉ!」
 叫んだままに引き金を引いた。

 放たれた弾丸からブラスターが放たれ、敵指揮官の近くで雪をまき散らした。
 敵が銃撃を止めて、慌てたように周囲が指揮官を庇うように走る。
 だが、それを手で制止し、二つの双眸が冷静にこちらと、続いて岩陰に残したラインハルトを見ていた。
 少しは焦ればやりやすくなるがな。

 襲い来る敵に怯むことなく、周囲にも視線を走らせる姿にヘルダーは小さく舌打ちをした。しかし、それでも他の手は止まった。
 チャンスとばかりにさらに接近するヘルダーに、指揮官が小さく息を吐いた。
 一瞬の逡巡。

 すぐに下された命令は、即座の反撃だ。
 僅かでも迷えば、その首をかき切ってやったのに。
 苦虫を噛み潰したヘルダーを狙うブラスターに志向性が生じた。
 それまでただ闇雲に撃っていたブラスターが、進行方向を予測するように前方へと集中。
 必然的にヘルダーは進路を変えるが、それは今までの回避ではなく、誘導された逃亡だ。

 岩場へと追い込まれていると知りながらも、逃れる事ができない。
 追い詰められながら、ヘルダーは小さく笑む。
 こちらを狙い始めたということは。
 ブラスターの弾倉を交換しながら、ヘルダーは視線を横に向ける。

 ヘルダーにブラスターが集中すると同時、走り抜けるラインハルトの姿があった。
 良い判断力だ。
 こちらを振り返れば、敵はその瞬間を狙い撃つ。
 あるいはそれが敵の狙いであったのかもしれないが。

 あとはこちらが時間を稼ぐだけ。
 右へ左へと動きながら、小さな岩場へを走り抜ける。
 やがて足が限界を迎えた。

 自らの意思に反して折れる足。
 動きの止まったヘルダーをブラスターの閃光が捉えた。
「かっ……」
 小さく血を吐いた。

 そこに、押し寄せるは幾筋の光。
 胸を、足を、腕を――閃光によって貫かれながら、倒れていく。
 視界が若い指揮官と、そして。
 倒れながら見たのは、ヘルダーを囮として駆け抜けるラインハルトの姿だ。

 まったく。
 ヘルダーは思う。
「年は取りたくないものだ」
 優秀すぎる味方に、優秀すぎる敵。
 老骨の時代は終わったか。

 だが、望みがあるとすれば。
 ……私もともに戦いたかった。
 小さく呟いた意識は、一筋の閃光によってかき消された。

 + + +

 敵の射程外に達して、ラインハルトは汗に濡れた顔で振り返った。
 吐き出す息は荒く白い。
 息を息を吐きだしながらみれば、降りてきた敵の指揮官が見える。
 小さいながらもはっきりとわかる。

 自らと同じ金色の髪をした男だ。
「ラインハルト様」
 かかった声に、ラインハルトは振り返った。
 キルヒアイスだ。

 その後方からは息も絶え絶えに、マーテル中佐の姿もあった。
「ミューゼル少尉。大佐はいかがした」
 その問いにラインハルトは視線で、同盟軍を示す。
 小さく息を飲む声が聞こえた。

「御無事でよかった」
「ああ」
 返事をしてから、しばらくの間があった。
 あちらもこちらをじっと見ている。
「戦いますか」

「……勝てるか」
「……」
 ラインハルトの問いに、答えるのは沈黙だ。
 やがて、頷きかけたキルヒアイスをラインハルトは言葉で止めた。
「戻ろう。命をビットするには、あまりにもわりにあわない」

「しかし」
「わかっている。あの指揮官――名前を調べられるか」
「ええ。すぐに」
 いまだ呆然と立ち尽くすマーテル中佐の隣を歩き、ラインハルトは視線を落とす。

 カプチェランカでの戦いは、ラインハルトにとってはまったくの無駄で、意味のない戦闘のはずだった。
 しかし、まだまだ学ぶことは多い。

 自分達以外は阿呆ばかりと思っていたが、存外敵も味方もそうではないようだ。
 なればこそ、味方が必要だ。
 強く思い、ラインハルトは雪を踏む足に力を込めた。

 足踏みをしている時間はない。

 + + +

「良いのですか」
「これ以上、深入りをして犠牲を出す必要はないさ。無傷で敵指揮官を撃ちとれた。それで十分じゃないか?」
「にしては、戦果に満足されていないようですが」
「今回が最大のチャンスではあったからね」

 部下もいない単身の状況下で、おそらくこの先にはこれ以上のチャンスはない。
 予想外だったのはヘルダーの特攻。
 もしヘルダーに狙いを切り替えなければ、捨て身となったヘルダーによってこちらも被害がでた。だから、そうせざるを得なかった。

 あるいは、もう少し時間を置いてからの方が良かったか。
 いや、そうすればキルヒアイスが戻っていた。
 彼の腕を勘案すれば、下手をすればこちらの味方にも被害があっただろう。
 他部隊を誘うべきだったか。

 そうなれば、戦闘にすら間に合わなかっただろう。
 敵指揮官を発見したとの無線連絡をしてから、いまだに援軍が到着しない事がその証左。
 結局は敵が一枚上であったのだろう。
 あるいは何らかの力で、ラインハルトは守られているのかもしれない。

 馬鹿馬鹿しい。
 浮かんだ考えを、アレスは首を振って消した。
 彼ら生き残った事は、奇跡などという漠然としたものではなく、彼自身の判断力と、そして、ヘルダーの捨て身があってこそだ。
 ラインハルトも、そして彼も、自らの力で行動し、そして失敗すれば死ぬ。

 みれば、ようやく到着した赤髪の少年がラインハルトに言葉をかけている。
 人影がようやく認識できる距離。
 しかし、アレスはラインハルトと確かに視線を交わした。

 遠目からもはっきりとわかる英雄の気配。
 その英雄は今回を糧にしてさらに大きくなるだろう。
 やがて、巨大に成長した彼は帝国を、そして同盟を食らう。
「大変だな」

 肩を叩いたバセットが驚いて目を開き、そして微笑んだ。
「いえ。少尉と共に戦うことに大変な事などありません」

 目を輝かせる姿に、アレスは苦笑を深めて、歩き始めた。

 

 

決戦の後に



「では、ヘルダー大佐は……」
 ラインハルトからの報告を受けて、その証拠となる手紙を手にしながら、マーテルは苦悩に顔を歪めた。
 本来であれば敗戦からの帰還。

 ゆっくりと眠りたいのが本当のところである。
 それでも司令官の最後について、一番詳しいであろう部下を呼んで、すでにマーテルは呼んだ事を後悔していた。
 司令官が彼の殺害を計画していた。

 しかもそれは、上位貴族の命令だという。
 正直、一士官であるマーテルの決められる範囲を超えている。
 これがただの兵士であるならば、司令官の死について責任を問えば良いだけの話。
 だが、それを持ってきたのが皇帝陛下の寵姫の弟だ。
 下手をすればマーテルの首も危ない。

 いや、下手をしなくても既に手紙を見た時点で危険に足を突っ込んでいる。
 危険が棺桶に変わるのも時間の問題。
 むしろ、時間が経てば経つほどに危険性は高くなる。
「この事は他のものには」
「さて。少なくとも私が明かしたのはマーテル中佐が初めてですが、大佐がどこまで話しているかは私の預かり知らぬところです」

「誰にも言っていない事を願いたいものだ」
 それを聞くべき当の本人は死んでいるのだが。
 さらに苦く表情を歪めながら、マーテルは息を吐いた。
 少なくともマーテルは知らなかった。

 司令官も計画に取り込めるものにしか声をかけなかったはずだ。
 そして、最後に実行した時には司令官一人。
 ならば、知っている者はもういないと思うべきか。
 それは願望ではあったが、辺境の副司令官にそれ以上を望むのは難しいことだ。

「わかった。この件は他言無用とする――いいな」
「その方が互いにとっても良いと思慮いたします」
「互いか」
 そうだろうと思いながら、手を払うとラインハルトが一礼をして、立ち去る。
 その背が消えるまで、ため息を吐かなかったのは、マーテルの矜持だ。

 扉が閉まった事を見届けてから、大きなため息を一回。
 もう一度、手紙に視線を向けた。
 厄介だ。
 もしヘルダーが死んだと報告すれば、果たしてあの女は諦めるだろうか。

 否。
 あの女にとっては辺境の一司令官の命など、三次元チェスのポーンほども価値がない。
 欲望を満たすために、次を求めるだろう。
 その次にマーテルが選ばれない保証もない。
「権力争いを戦場に持ち込んで欲しくないものだ」

 ただでさえ、ここは地獄。
 容赦のない悪環境に、手強い敵までいる。
 さらに背中から撃たれることはごめんこうむりたい。
 ならばと、マーテルはコンピュータの画面に向き直った。
 しばらく迷い。

 ミューゼル少尉が敵の攻撃から基地を防御に功があった事を記載し、さらに敵基地の攻撃はヘルダー大佐の独断であった……ミューゼル少尉は反対するも、意見具申に腹を立てたヘルダー大佐によって敵陣後方へ単独任務を命令される。
 大まかな筋書きを打ち込んで、マーテルは手を止めた。
 多少の誇張はあるものの、上は疑いもしないだろう。

 ため息混じりに、窓の外を見た。
 先ほどまでの晴天が嘘のように――ずいぶんと荒れていた。
 
 + + +

 戦士たちが戻っていく。
 爆撃機が母艦に戻ると同時に、再びカプチェランカは雪に包まれた。
 厚い雲に覆われて、風がさらに強くなる前に、最低限の装備を持った兵士達は基地へと逃げ込む。
 後片付けを考えるだけで気が重くなる。

 勝つには勝った。
 しかし、とても喜べそうにない。
 自陣の損害が敵よりも少なかったからといって、ゼロだったわけではない。
 助かった兵士達が、毛布に包まれた遺体を運んでいる。
 それを見送れば、何回見ても慣れぬ光景だと思う。

 助けられなかったかと。
 息を吐けば、動かぬ人影を同盟軍司令官――クラナフは見送った。
 それは今まで幾度となくたどってきた光景。
 悔しくて、犠牲を減らしたいと思った。
 クラナフは選択した。

 逃げるのではなく、戦うと言う事を。
 その成果は、敵基地の攻撃地点から徒歩で帰還途中に発見された兵がいた。
 凍死寸前だったものもいた。
 そんな彼らは、当初のアレス・マクワイルドの意見を取り入れれば決して助からなかった兵士。
 だが。

 それと同時に基地に残った多くの兵が倒れ、傷ついた。
 どちらの策が多くの兵を助けられたのだろうか。
 効率か非効率か。
 そう言ってアレスを非難した言葉。
 彼にとっては逃げた方が犠牲は少ないと考えたのだろう。

 そうかもしれない。
 白く息を吐きながら、クラナフは周囲を見渡した。
 犠牲は大きい。
「だが、まだ若い」
 もし見捨てる事を選択していれば、この基地に帰還して来る兵士達は例え生き残ったところで、上への――国への反感を持ったことだろう。

 そして、この基地から逃げのびた兵士達も、逃げる事を覚えてしまう。
 彼らは戦った。
 帰還する兵士達は、上は彼らを見捨てないと信用し、そして、基地の兵士達は数を減らしたとしても、一人一人が戦争を経験し、そして。
 見渡した視線の先には、疲れているだろうに、撤収を手伝う一人の英雄を見る。

 敵の攻撃を一手に引き受けながら耐えきり、さらには返す刀で敵の司令官を補殺した英雄を。
 ――軍には英雄が必要だ。
 そう言ったのは誰であったか。
 クラナフ自身も、ここまでを求めていたわけではない。
 ただ効率か非効率か。それ以上の数字も見ていただけだ。
 犠牲すらも数字とする。

「上になればなるほど、糞食らえな仕事だ」
 アレスにそう語りながらも、結局は自分自身も効率か非効率で話を進めている。
 苦いものを吐きだすように、クラナフは顔をしかめる。
 自らの命を、部下の命だけを考えるだけならば、どれだけ楽な仕事であろう。
 そんなクラナフの視線に、アレスが気付いたようにこちらを見た。

 まだ若い。
 だが、これから先に彼が通る道は自分などよりもきっと茨の道が待っている。
 だから、そう思い、クラナフは足を一歩進めた。

 + + +

「休まないのか」
「ええ。まだ残っている仕事がありますから」
「収容か」
 クラナフの言葉に、アレスは首を縦に振った。

 人から物へと変化した者たちの扱いは酷い。
 吹雪に晒された武器は壊れるが、死体へと変化した人は壊れようがないからだ。
 順次、物資を基地へと運びいれて、最後は死体となる。
 暖かくするわけにもいかず、寒風の吹き荒れる外へ積まれ、帰還すべき船を待つ。
「……今は私達二人しかいない」
 そのまま死体の搬送へと移ろうとしたアレスに、クラナフの言葉がかかった。
 一瞬動きを止めて、しかし、小さく苦笑して動き出す。

 その動きを、クラナフは理解した。
 彼が吐きだそうとしたのは、まったく意味のない無駄な愚痴だ。
 それを言ったところで、どうすることも出来ない。
 ただただ自己満足だけの言葉。

 だが、それをクラナフは聞きたかった。
「たいしたことではありません」
「それを聞きたい」
 呟かれたクラナフの言葉に、アレスは一瞬眉をあげる。
 そして、前を見る。

「大佐は――効率、非効率で、そこにいる人を見ていないとおっしゃいました」
「ああ。そう言った」
「そのために、カッセルは死にました」
 それは小さな言葉で、そして、クラナフの心を突き刺す刃となる。
「効率か非効率か――確かにそう思いましたが、それで死ぬのは私の部下です」
「だが。それで生き延びた者もいる」

「ええ――ですが、だからと言って、カッセルが死んで良かったわけでもない」
 愚痴ですねと呟いた言葉に、クラナフは心を締め付けられる。
 本人自身も、それを理解している。
 いや、それ以上に――おそらくは、クラナフが考えたことまでも。

 そのためにカッセルが死んで良かったわけでもない。
 かといって、クラナフを攻めるわけでもない。
 ただの愚痴だと呟いた言葉に、クラナフは唇を噛んだ。
「これはスレイヤー少将から聞いた言葉だ」

 アレスが顔をあげる。
「……君ら兵士がこうだった、ああすればと考える必要はない。それに悩むのは、我々指揮官の仕事だと。ただ、君たちは――君たち兵士は過去を考えるよりも、未来を考えろと」
「未来ですか?」
「ああ。助けられたかもしれない人間を考えるよりも、君の活躍によって助けられた人間を考えろ。マクワイルド少尉――君の部隊によって、私も、そして多くの兵士達が助けられた。それは紛れもない事実だ」

 ゆっくりとあげられた最敬礼。
 腕の角度など士官学校で叩きこまれた以来の敬礼だ。
 だが、いまは、この若い戦士に向けてクラナフは用いる限りの動作を行った。
「君の活躍でカプチェランカ基地は救われた――全将兵を代表して、礼を言う」
 アレスは驚きを見せた後で、丁寧な敬礼で、それを返した。

「任務を果たしただけです」
「良くやってくれた」
 先に下ろしたのは、クラナフの方だ。
 素早く腕を下ろすと、それ以上の言葉はなく、踵を返す。
 彼に言った言葉の通りだ。

 もしかすれば、彼の部下も、そして雪原に取り残された部下たちも助かる道があったかもしれない。

 それを考えるのは、クラナフの――指揮官の悩みであるのだから。

 + + +   

 シャワーを浴びれば、凍えた身体が熱せられていく。
 同時に疲れが汗と共に溶けていくように感じた。
 考える事は、ラインハルトを守るために死んだ上官のことだ。
 彼がいなければラインハルトは死に――あるいは、虜囚となっていた事だろう。

 彼は狂っていた。
 いや、帝国に狂わされた一人だ。
 自らと同様に。
 そんな考えは、今までは不快に思っていた事だろう。

 命を救われたとはいえ、随分と安っぽい思いだと、ラインハルトは苦く思った。
 だが、それを否定する事は出来ない。

 彼と同じように家族を奪われた者がいる。
 理不尽を被った者がいる。
 全て帝国に――そして、あの皇帝にだ。
 それでも自分は生きている。
 ならばと思う。
「死は無駄にはしない」

 静かに呟いて、ラインハルトはシャワーを止めた。
 熱はすぐに冷えていく。
 備え付けられた鏡を見れば、酷い顔をしている。
 眼の下は黒々と変色し、疲れがいまだに滲み出ているようだった。
 負けたな。
 言葉には出さず、小さく舌の中で転がした。
 敵の装甲車が使えなければ、敵基地の襲撃は楽にできると考えていた。

 しかし、それは過小評価であった。
 敵は動かせる装甲車を効果的に使い、援軍までの時間を耐えた。
 もし援軍がこなかったら勝てていたなどと、楽観主義になれるわけもない。
 敵は援軍が来るまで耐えて見せ、帝国を――ラインハルトを破った。

 不思議な事に――彼にとっては、不思議な事に怒りは感じなかった。
 彼にとっては負けることなど考えられず、常勝を常としていたにも関わらずだ。
 これが初戦であったからだろうか。
 ラインハルトは自問する。

 幼年学校ではなく、本当の戦場の厳しさというものを知ることができたことに、悔しさや怒りよりも嬉しさを感じている。
 考えれば、装甲車が動かない為勝てるなど机上の空論で、あまりに稚拙な考え。
 それを是正してくれたことには、ありがたいと感じる。

 このまま勝ち続けていれば、いずれラインハルトは勝ちを当然と思っていた事だろう。
 行動すれば勝つのだと、あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだ。
 勝つためには策が必要で、最大限に準備を行う必要がある。

 そして。
 静かに扉を開き、かかっていたタオルで頭を拭いた。
 勝つ事が目的ではない。
 目的は。
 誰にも聞こえぬほどに静かに口を開き、ラインハルトは乱雑に頭を拭く。

「戦争と言うものを教えてくれた事はありがたいが……。それでも負けっぱなしというのはあまり嬉しいものではない」
 身体にタオルをかけながら、シャワールームを出れば、そこにずっと立っていたのだろう、彼の幼馴染であり、忠実な赤毛の少年がいた。
 心配げにこちらを窺うキルヒアイスに、ラインハルトはゆっくりと唇をあげた。

「次は勝つぞ」
「はい、ラインハルト様」

 不敵な笑みを浮かべるラインハルトに、キルヒアイスは同意するように頷いた。

 

 

カプチェランカからの帰還



 ハイネセン――ホテル・ユーフォニア。
 一泊するのに国民の平均給料一カ月分が吹き飛ぶと噂される高級ホテルの最上階レストラン。眼下には夜景が広がり、誰であれ幻想的な思いを心にした事だろう。
 その個室。

 VIPルームとも呼ばれるそこに存在するのは三名の人影だ。
 サラダから始まった一連のディナーに、ただフォークとスプーンを差し込む。
 微かに聞こえる硬質的な音が、やけに大きく響いていた。
 そこには男性が二名と女性が一名。

「ねえ、アンディ。ちゃんとニンジンも食べるのよ」
「わかっていますよ、母さま。子供ではないのですから――」
 それは親子なのだろう。
 だが、この一室に存在するのは親子というには、あまりにも厳しい雰囲気だ。

 母親であろう――それにしてはまだ若い三十代ほどの女性。
栗色の緩くウェーブのかかる穏やかな母親が話しかけるたびに、正面に座る男性からは拒絶が言葉となって、短く会話が終わる。
 そして、続くのは再びの硬質音と咀嚼の音だ。

 やがて、肉料理が半ばまで終了したところで、沈黙に耐えかねたように女性が再び口を開いた。
「お仕事はどう。大変じゃない?」
「……大変な仕事などありませんよ。まだ一年目では簡単な仕事だけです」
 食べかけていた肉を下ろして、小さく笑んで答えた。

 女性の傍に座っていた男が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「簡単か。その割には同期に差をつけられているみたいじゃないか」
「あなた」
 咎めるような女性の声にも、最年長であろう四十代後半の男性は言葉を止めない。

 どこか人の良さを感じさせる口髭と表情が、いまは攻め立てるように正面の男性――アンドリュー・フォークを見ていた。
 それに対するは、瞳を細くして父親を見た。
「お前が邪魔だと言うから、私が先生に働きかけて、奴をカプチェランカに送ったのだ。それで差が付いていては、笑うに笑えない冗談だ」

 再び不機嫌そうに鼻を鳴らして、男性――アルバート・フォークは肉を頬張った。
 苛立ちを込めた咀嚼音に、その息子であるアンドリュー・フォークは、手にした肉を下ろして、唇を噛んだ。
「なんだ。一人前に悔しそうに――そういう態度が許されるのは、結果を残したものだけだ」
「あなた。アンディは頑張ってますよ」

「君は黙っていろ。頑張る頑張らないなど、そんな事はどうでもいい。頑張ったところで、結果が付いてこなければ意味がない。何のために軍への入隊を認めたと思っている」
「――それは」
「結果だ。ただ士官学校を出るだけなど誰にも出来る。お前は軍に入って、活躍をして名前を残す事が大切なのだ。そうして初めて、先生と、そして、私の役に立てる」

 アンドリューの言葉を無視して、アルバートはワインを飲み干した。
 差し出された器に、母親――ジュリエット・フォークが慌てたようにワインを注ぐ。
「あなた。それ以上は……」
「まあいい、今くらいの差などこちらでどうとでもなる事だ。たかが少尉や中尉など、紙きれ一枚で何とでもなる話だ。こちらで手を打っておいてやるから、お前は自分の役割をもう一度考えることだな」

 苛立たしげにもう一杯のワインを飲み干せば、話は終わりだとばかりに食事を開始した。
 しばらくジュリエットとアンドリューは言葉を待ったが、それ以上の話はない。
「さ。冷えないうちに食べちゃいましょう。美味しいわよ」
「ええ」
 頷いて、アンドリューは手にした肉を口に入れた。

 それは随分と冷えていて、まずい。
 それを碌に噛まずに嚥下して、アンドリューはナプキンで口を拭いた。
「父様」
「何だ、アンディ」
「それでしたら、もう少し父様のお力を借りたいと思います」

「また頼みごとか?」
「ええ。しかし、今回は前回に比べて楽なことです。私はアレス・マクワイルドの力を見誤っていました――だからこそ、次は……」
 続いた言葉に、アルバートは鼻を鳴らした。
 先ほどまでの不快気な様子ではなく、どこか愉快気な雰囲気だ。

「なるほど。だが、それを説得するのは少し難しいかもしれんな」
「簡単な事です。彼は活躍した――ええ、装甲車の異常を発見するという活躍をね」
「そちらを前面に出すわけか。だが、簡単とは言ってくれる――それの根回しをするのは私だと言うのに」
「こちらも手は打っておきます。幸いにして人事課に勤務していますから」
「いや。やめておけ――新人が軍の人事に口を出せば、妙に勘ぐられる。その件については、前回同様こちらで何とかする。また先生には迷惑をかけるがな」

「申し訳ございません」
「そう思うのならば、活躍する事だ。それこそが先生の望みでもあるのだからな」
 再び鼻を鳴らして、今度こそ話は終わりだと肉を口に入れる。

 会話のない沈黙の夕食が再開された。

 + + +

 宇宙暦791年8月。
 惑星カプチェランカでは、両軍とも積極的な攻勢を行う余力はなかった。
 7月の戦闘によって、多くの将兵が死に、しかし、死んですぐに交代要員を補充する事は、距離的な問題から不可能。もっとも、防衛戦にて活躍を見せたラインハルトは原作通りに一階級をあげ、次の任務地へと向かっていたのだが、それは同盟軍の知るところではなかった。

「第三分隊、かけろ」
「突破させるな!」
 一方の同盟軍。
雪上の上では、兵士が訓練を行い、それを見守る青年がいた。
 アレス・マクワイルド。

 まだ二十を過ぎたばかりの金髪の青年は、すでに瞳の傷が癒えて両の眼を開いている。
 それでも残った痕は生々しく、一筋の傷跡が右目を微かに横切っている。
 戦闘後の部隊再編によって、特務小隊は解散している。
 正確には小隊長の死亡した部隊をまとめ、特務小隊は第一中隊第一小隊として新設されている。第一小隊に配属されるものは、軍の中でも特に優秀な者がなる慣習の中で、士官学校を卒業した者が――それも小隊長として配置されることは前例にない事であったが、クラナフ大佐を始め、中隊長や他の小隊長から異論の言葉はでなかった。

 正規の人数が集まった小隊では激しい訓練が行われている。
 解散した他の小隊にいた分隊長率いる第二分隊、第三分隊を――カッセルの死に伴って、第一分隊を率いる事となったバセットが、悪辣な落とし穴罠に引きづり込む。
 カッセルが見ていれば見事と笑ったか、あるいは面倒なことになったとため息を吐いたであろう。

 どちらかといえば、後者か。
 小さく笑みを浮かべ、第二分隊と第三分隊の壊滅と共にアレスは腰をあげた。
 近づく姿に、不敵に笑っていたバセットが敬礼を返す。

 今にも尻尾を振りそうだなと――どこか忠犬の様子に手で答えて、穴を覗き見れば、雪に埋まる兵士を見た。
 怪我はなさそうだ。
「これが本番なら水でも入れておくのですがね」
「本当に、最悪だな」

 おそらくはカッセル直伝の悪辣な罠を想像して、アレスは顔を歪めた。
 落とし穴の下に、ただの水。
 しかしながら、氷点下を下回るカプチェランカでは最悪この上ない結果をもたらす。
 外に出れば一瞬にして水が凍りつき行動を阻害。
 さらには体力を容赦なく奪う。

 穴に落ちた兵士は進むことも、自力で戻ることも出来ず、周囲の兵の助けを借りて、さらに戦力をおとす。
 あるいは戦場の興奮にあてられて、敵陣を目指し、力尽きるか。
「環境を利用すると、軍曹は言っておられました」

「頼りにしているが、性格まで真似するなよ。軍曹」
 肩に手をおかれて、バセット軍曹はそうですねと小さく笑った。
 グレン・バセットは、先般の戦いで軍曹へ階級をあげ、さらに早くも十月には曹長への階級が内定していた。

 死地へと送りだしたクラナフのせめてものお詫びだろうか。
もっとも、先の戦いで多くの下士官が死亡し、現実的に兵が足りない事が主な理由かもしれないが。
使える者は使えということか。

 その一方で、いまだにアレスの結論は決まっていない。
 決死隊の指揮に、敵司令官の殺害。
 その功績は大きい――しかし、大きすぎる事が遅れを招いている。
 前例がないのだ。

 これが彼のエルファシルの英雄のように、民間人を救うなどと大々的に報じられれば別であったのだろう。活躍したといっても所詮は一惑星だけの話であって、さらにアレスの活躍を表に出せば、必然的に敵基地攻撃の失敗や装甲車のシステムを敵に奪われた事まで公表する事になる。

 いわゆる落とし所を探しているのだろうと、アレスは考え、
「マクワイルド小隊長。クラナフ大佐がお呼びです」
 走ってきた部下が、それが間違いではない事を伝えに来た。

 + + +  

「マクワイルド少尉、入ります」
 扉をノックして入れば、そこに苦虫を五匹ばかり口に頬り込んで、シェイクしたような顔のクラナフの姿がいた。元来の軍人顔がこのように不機嫌そうにすれば、子供どころか、大の大人でも目をそらしてしまうだろう。

 表情の理由を理解して、アレスは苦笑する。
 静かに前へと進み出れば、机からクラナフは紙を手にする。
 それを一瞥すれば、クラナフはアレスへと視線を戻した。
「ハイネセンからの辞令だ」
「はい」

 頷いたアレスに、クラナフは小さく吐息。
 やがて、諦めたように紙を前にして、内容を読み上げた。
「アレス・マクワイルド少尉。十月一日より、中尉に任官し、後方作戦本部装備企画課への配属を命ずる」
 辞令だと、紙を渡されれば、アレスはもう一度、それを確認した。

 目を通しても、書かれた文字が変化することはない。
 どうやら聞き間違えではなかったようだ。
 眉根を寄せてクラナフを見れば、同様に苦笑を浮かべていた。
「予想外だったか?」

「後半の部分は」
 答えた言葉に、クラナフは面白くないとばかりに椅子へと腰を下ろした。
「私にとっては前半も十分予想外だ。すぐには無理でも段階的な二階級昇進でもおかしくない活躍だったと思っているが。何の話もないがな」

「現場は誰だってそういうものです。そこからもろもろを差っ引けば、手取りはこれくらいのものでしょう」
「階級と給料を同じにするなと言いたいが、あながち間違えていないのが悲しいところだ」
 苦さを含ませながら、クラナフは小さく笑った。

「悔しくはないのかね?」
「卒業半年で一つ階級があがれば、十分でしょう。それにある程度の理由もわかりますからね」
 その部分では、自らが立てた予想に反しているわけではない。

 民間人を救出したという華々しい話でもなく――政府からすれば、幾多もある小規模な戦闘――その一つであったということなのだろう。何光年も離れた先に映るのは、レーザー光の飛び交う戦場ではなく、文字と数字。
 敵司令官の補殺に功があるとはいえ、それも全面的には信頼していない可能性もある。

「そこまで達観されると慰めの言葉もでないな。だが、後半は予想外と言ったな?」
「ええ」
 正直にアレスは頷いた。
 カプチェランカの最前線から、後方勤務などまずあり得ない。

 艦隊司令部や作戦参謀などの要職は無理としても、少なくとも前線だろうと予想し、それはクラナフも同様であった。
 机の上におかれた紙に目を通せば、不愉快そうに言葉を口にする。
「表向きは――君がいち早く装甲車の脳波システムを見抜き、その対策を考えた。その視点で、同盟軍の装備改良をということだが……信じられるかね」

「信じられませんね」
「私もだ。そんな事は兵士の仕事ではなく、技術屋の仕事だ。君である必要がない――何か上層部の恨みでもかったか?」
 冗談めかして尋ねるクラナフに、アレスは苦笑で返答する。
「心当たりだけは山ほどあるのですが」

「優秀なものが妬まれるのは世の常だ。だが」
 そこでクラナフが居住まいをただす。
 真っ直ぐに伸ばした背と瞳がアレスを捉え、アレスもまた浮かべていた笑みを消す。
「君の味方もまた存在する事を忘れないよう。どうか腐らず――達者でな。また君と共に戦える日を楽しみにしている」

「光栄です、大佐」
 あげられた手を握り、アレスは敬礼を行った。

 + + +

「頑張れよー!」
 宇宙暦791年9月。十月の配属に間に合うように、アレス・マクワイルドは兵と物資の補充に来た補給艦に乗り込む事になった。怪我で長期療養をする兵や異動する兵を見送るため、カプチェランカ同盟軍基地に残る兵士達が見送っている。ある者は帰還に安堵を、あるいは別れる戦友に寂しさを浮かべながら、補給艦へと向かう小型船に乗り込んでいた。

 アレスもまたその列に並べば、僅か数カ月ばかりの付き合いである第一小隊の面々が総出で手を振っている。
 君らは、今日は当番だろう。
 本来であればいるはずのない人員は、しかしさも当然のように最前列にいる。

 部下が無理をいったのか、あるいは上が気を利かせたのか。
 おそらくは両方であろうと苦笑して、手を振り返した。
 最前列――その前方にはバセット軍曹の姿がある。
 手を振りながらも笑顔をみせない。

 出会った時のように、不貞腐れているわけでも、絶望をしているわけでもない。
 端的に一言で表すならば、覚悟というのだろう。
 現状に嘆いて、駄々をこねる子供ではない。
 現状を憂いて、打破を目指す戦士の表情だった。
 だからこそ、アレスは安心できた。

 これが今生の別れではない。
 いや、次に会う時はさらなる地獄が待っている。
 だからこそ――その日まで元気で。
 視線があえば、理解したようにバセットが頷いた。

「お元気で」
 静かな一言が万感の思いを込めて告げられる。
 その一言に、アレスは小さく笑い、少し考える。
 別れの挨拶を何と言うか。

 元気でというか。
 頑張れというべきか。
 定例となる言葉が頭をよぎって、小さく首を振った。
 手をあげて、口にする事は短い。

「死ぬなよ」
 ただ、それだけを呟けば、初めての部下となった者たちに別れを告げる。
 こうして、アレス・マクワイルドはカプチェランカの地における任務を終了し、再びハイネセンに飛び立った。
 
 

 
後書き
お待たせいたしました。
ようやく第三章が終了しました。
第四章のメインは戦闘ではなく、事務仕事をしつつ、
他のキャラクター達の小話になる予定です。

少しずつですが、
完結に向けていきますので、
これからもよろしくお願いいたします。 

 

閑話 賢い息子


 ロイド・マクワイルドは、後悔していた。
 それは初めての子供のことだ。
 その息子は明らかに周りの子供よりも成長が早かった。

 立つのも早ければ、言葉を話すのも早い。
 それも意味のない言葉ではなく、こちらの言葉を理解しているようだった。
 最初はロイドも、そして妻もこの聡明な子供に喜んだ。

 将来は学者か弁護士か。
 いずれにしても、幸多き人生を歩む事になるだろうと。
 だが、息子は聡明すぎた。

 公園で遊ぶよりも、本を読む事を好み。
 テレビでもアニメには目向きをせずに、ニュース番組や情報番組を好んだ。
 子供であるのに、まさに生き急ぐような生き方だった。

 人は異質な人間を排除する。
 それがましてや子供であれば、当然のことなのだろう。
 そんなアレスに友達はおらず、むしろ同年代からは格好の苛められる対象となった。

 もっとも聡明な息子にとっては、子供の浅知恵に屈するわけもなく、適当にいなしていたようだったが。
 だからこそ、私もどこかで安心したのだと思う。
 子供に友達が少ないのは問題だが、周囲が大人になれば友達も出来るだろうと。
 苛めと言う問題もあるが、本人にとっては何ら問題のないこと。

 時間が解決すると、問題を棚上げしてしまったのかもしれない。
 確かに、息子――アレス・マクワイルドは大丈夫だった。
 問題だったのは妻だった。当初は喜んでいた妻も、この異質な息子に違和感を感じ――ましてや、同年代の母親から少しずつ距離をおかれる事になって、深く傷ついた。

 日中は仕事に向かう私とは違い、四六時中顔を合わせているという事を、この時の私は気づいていなかった。
 それが決定的になったのは、妹が生まれてから。
 アレスとは年が十一も離れた子供だった。
 その妹はアレスと比べれば、遥かに出来が悪く――しかし、子供としては当然であった。

 妹はアレスに懐いていたが、その違いに耐えきれなくなって妻はある提案をした。
 アレスを祖母の家におきたいと。
 何を馬鹿なと思ったが、妻は本気らしく――そして、アレスもそれに同意する。
 答えを求められて、

『アレスは私の子供だ。子供らしくなくても、子供だ』
 と、私は答えを出した。
 ただその言葉で母親は娘を連れて出ていき、私はアレスと二人暮らしになった。
 私が妻を嫌いになったわけでもない。

 おそらくは妻も私を――そして、アレスを嫌いになったわけでもない。
 ただ一緒には暮らせなかった。
 ただ距離をおきたかっただけなのだと。
 そして、私は後悔している。
 アレスを子供だと言った言葉ではない。

 聡明な息子を産んだことでもない。
 妻の悩みを無視し、何ら家庭を顧みなかったことだ。
 もっと妻の言葉を聞いておけば。

 + + +

「士官学校?」
「ああ、士官学校に合格したよ。四月からは寮生活になる」
 確定したと言わんばかりの息子の言葉に、ロイドは耳を疑った。
 確かに士官学校を受験すると言う話は聞いていた。
 だが、成績で言うならば士官学校に行かずとも同盟有数の高等学校に進級できる。
 その後、国立自治大学などの大学に進める。

 少し考えて、ロイドはアレスを見つめた。
「私の事は気にしなくてもいいぞ」
 全寮制、それも士官学校にもなれば、こちらに帰ってくることは少ない。
 そして、卒業すれば士官として各地に飛んでいく。
 いわば、齢十五にして自立する道。

 それを相談もせずに決定した事は面白くないが、何よりも自分と母の事を考えている。
 彼がいなければ、再び妻とも近づけると。
 気付かないほどに、耄碌しているわけでもない。
 真っ直ぐと息子を見て、ロイドは言葉を飲み込んだ。
 いま反対の言葉を口にしたところで、アレスが入学を取りやめることはない。

 金を出さないと言ったところで、給料が支給される士官学校では何ら意味のないこと。
 だから、ロイドはアレスに問いかけた。
「なぜ生き急ぐ?」
 言葉に対して、アレスは少し驚いたように片眉をあげた。
 しばらく迷い、自問するように首を振れば、

「さあ、わからない」
「入学するのにか?」
「ああ」
 頷いて苦笑を一つすれば、アレスはその足で台所からオレンジジュースを取り出した。
 グラスに注ぎながら、言葉を探す。
「なぜ死地に向かうのか、ましてや負け戦にね」

「負けるか」
 注ぎ終えたグラスを手にして、何事もないような言葉にロイドは顔をしかめた。
 ロイドは軍属ではなく、ただの同盟市民だ。
 簡単に負けるという言葉は信じられず、もし息子以外が口にしたのならば鼻で笑っただろう。テレビのニュースは互角の戦況を伝えており、帝国を打倒する事が同盟市民の夢だ。 

 だが、ロイドは息子の言葉を信じられた。
 顔をしかめて、
「ならば、そんな場所になおさら息子を送りたくはないな」
「だろうね。でも、俺は行きたいと思っている」

「なぜだ」
「理由を探すなら、父さんや母さん、それにマウアを守りたいからかな」
「アレスが行くことで、負ける事がなくなるのか」
「そこまで自信過剰ではないけどね。ただ行動しているという自己満足は得られる」
「そのためだけに?」
「表向きはね」

 呟いてジュースを飲み干す様子に、ロイドは目を丸くする。
「正直なところは、その理由がなくても、きっと士官学校には行っていたと思う」
「なぜ。いや、その理由が……わからないか」
「言葉が見つからなくてね」
「理由がなくて、親を納得させようとはな」

 ロイドは息を吐き、そして小さく笑った。
「わかった。行ってくるといい――だが、アレス。死ぬな。私も、そしてきっと母さんもお前を待っている」
「自殺志願者ではないつもりだよ」

 アレスもまた小さく笑って、しっかりと頷いた。

 + + +

 片田舎の小さな喫茶店。
 時代を無視するようにシンプルな内装に、何十年のミュージック。
 片隅におかれた古ぼけた液晶モニターがニュースを映し出している。
 そんな片隅で、ロイド・マクワイルドは二人の女性を正面にしていた。

 片や間もなく十歳に満たぬ少女であり、もう一方はウェーブのかかった髪の女性。
 離婚後の定期的な娘との面会の時間。
 だが、その雰囲気はとても離婚したとは思えず、暖かな家族の空間であった。
 誰が見ても仲良い親子の団欒に見えただろう。
 娘は楽しげに学校の様子を語り、母親はロイドの近況を尋ねる。

 笑いがあり、会話が弾み、注文したアイスコーヒーの氷が溶けた。
 カランと小さな音が鳴って、気付けば時間は二時間を超えている。
 店員を呼び、追加の注文をすれば、一瞬の静かな時間が流れる。
 追加注文が来る間に、手持無沙汰となってアイスコーヒーをストローでかき始めた母親――エレン・マクワイルドは小さく視線を娘に向けた。
 
 はしゃぎ過ぎたのか、小さく寝息をたて始めている。
 そんな様子に穏やかに笑んで、視線をロイドへと向けた。
 戸惑っているような、迷っているような。
 そんな雰囲気を察して、ロイドは先に口を開いた。

「アレスは元気だよ」
 その言葉に、エレンは明らかにほっとしたようだった。
 息を吐いて、そうと小さく嬉しげに呟く。
「あの子は恨んでいるでしょうね」
「まさか。君もあいつの事は良く知っているだろう。あの時に祖母の家に行くことに賛成したのは、誰よりもあいつだった」

「ええ、そうね。あの子は賢かった――だから」
 ストローを回す手を止めて、エレンは悲しげに唇を噛んだ。
「私は、恐かった」
「すまなかった」
「謝るのは私の方よ。耐えられなかった、私が弱かったの」

「違う、それは」
「違わないわ」
 ロイドの言葉は、悲鳴に似たエレンの言葉にかき消された。
 唇を噛んで、そして気付いたように娘を見る。
 一瞬の身じろぎを見せて、すぐに娘――マウア・ローマンは再び寝息をたて始めた。
「たまにね。この子寝言でお兄ちゃんっていうのよ。覚えているわけないのにね」
「懐いていたからな」

「ええ、あなたより子供の扱いが上手かったわね。あの時は、この子まで奪われる気がした。そんな事ないのにね」
 エレンが苦笑を見せれば、追加のコーヒーが届いた。
 シロップを入れて、かき混ぜる。
「あの子はいまどこにいるの」
「カプチェランカという惑星だ」
 そう呟いて、ロイドは一瞬迷う。

 しかし、すぐに作り笑いを浮かべれば、
「田舎で何もない場所だと嘆いていたよ」
 からからと笑ったロイドを、エレンの強い視線が止めた。
 表情に怯えを見せて、言葉を出した。
「相変わらず嘘が下手ね、ロイド。前線なのね」
「ああ。最前線だ」

「そう……ごめんなさい」
 震える声で、エレンは謝罪を口にした。
「君が謝ることはない」
「あの子の事は良く知っているわ。私が出ていったから、あの子は」
「それは違うぞ、エレン」

 次にエレンの言葉を塞いだのは、ロイドの言葉だ。
 力強い言葉とともに、震える両手を握りしめてロイドはもう一度違うと言葉にした。
「あいつは例え君がいても士官学校に入っただろう。入学する前に、そう私は聞いた」
「なぜ?」
「それがわからないそうだ。あいつにも分からない事があるらしいな」

 冗談めかして笑うロイドに、エレンの震えがおさまった。
 笑うロイドに、エレンの表情も崩れて、笑った。
 泣き笑いとも言える表情だったが、確かに二人は笑いあった。
『続いてのニュースです。自由惑星同盟軍の発表では、惑星カプチェランカにおいて、銀河帝国軍の侵攻を受け、多くの死傷者が発生したようです。この戦いでの死者は――』

 二人の笑顔が凍りついた。
 

 

出迎え

 

「マクワイルド少尉とは同期だったよな」
「ええ、それが?」
 後方作戦本部――書類の提出に来たスーンを引きとめたのは、予算課の少佐であった。

 提出された書類に目を通しながら、雑談のように話しかける。
 怪訝そうなスーンに小さく笑いかければ、
「いや。来月から、前線からいきなり隣に来るらしいからね」
 言葉に若干の不安を感じて、スーンはその意味を理解できた。

 最前線と後方では仕事の質が全く違う。
 戦場が銃と砲撃の戦いであるならば、後方は文字と言葉の戦いだ。
 どちらが優れているわけでもない。
 それぞれ必要があって存在しているわけだが、時としてそれらは水と油のように混じり合わない。

 前線の人間は、後方の仕事に対して命をかけずに安全な場所で楽をしているといい、後方はそんな前線の人間に対して、言えば出てくる魔法の小槌でも持っているとでも思っているのかと毒を吐く。
 そんな状況であれば、前線からの転任者が周囲に上手くなじむ事も出来ず、すぐに転属することも多かった。

 だが、それはまだ良い方だ。
 中には所詮は後方の仕事だと見下して、仕事を崩壊させる人間もいるから性質が悪い。
 安心させるようにスーンは笑みを浮かべ、
「それなら大丈夫だと思いますよ。アレス――マクワイルド少尉は後方の仕事も優秀でしたし、ないがしろにすることはありません。それに、士官学校では事務の仕事も手伝っていましたからね」

「ほう」
「そのまま士官学校に配属してほしいって要望があったくらいですからね。彼に出来ないのは狙撃兵と運転くらいなものです」
 自信を持って答える様子に、若干の疑いの色を見せた少佐に、スーンは苦笑した。

「この事は当時士官学校にいた人間なら誰でも知っている事ですから。真偽は士官学校に問い合わせてもらえれば分かると思います」
「いや、すまない。疑ったわけではないが――君が言うなら間違いはないだろうな。それなら楽が出来そうだ」

 思わぬ、べた褒めに戸惑いはしたが、スーンもまた一年目とは思えぬほどに仕事は実直であり、間違いがない。そんな彼が大丈夫と言いきれる人物に、安堵を浮かべようとして、目の前でスーンが微妙な顔をしている事に気付いた。
 どこか引きつっている。

「どうした?」
「いや、楽になるかどうかというのは……ちょっと自信がありません」
「はぁ?」
 きょとんと目を丸くした少佐に、失礼しますと足早にスーンは退出する。

 おいていかれた格好となる少佐は頭をかいて、変だなと思いながらも、書類に目をおとした。
 そんな疑問は日々の激務ですぐに忘れることになる。
 彼がその言葉を思い出したのは、スーンの言葉が現実になってからだった。

 + + +

『で。結局、部下が時間を間違えたということですね』
「うむ。要約するとそういうことになるな」
『それなら三十分もかけずに、話せると思いますが。まあ、確かに問題ですが。それよりも問題であることを理解できていないかもしれないですよ?』
「だとしたら、そっちの方が問題だぞ、マクワイルド」
『確かに。けど、誰もが最初からわかっているわけじゃないでしょう』

 その言葉に、モニターの前でワイドボーンは楽しそうに笑った。
「テイスティアか。ああ、あいつも馬鹿だったな」
『今では主席候補です。差を付けられましたね』
「貴様だけな。俺と一緒にするな」
『そう言っていると、すぐに追いぬかれるかもしれませんよ』

「ふん。そうでなければ困る。特に貴様にやってもらうことがあるからな。だというのに、また貴様は後方作戦本部などと遠回りを……」
『はいはい。それはもう二十回くらい聞きましたよ。先輩はもう時間でしょう?』
「ん、ああ。そうだな。残念ながら貴様を出迎える事はできないようだ」
『俺は残念ではないですけどね。では』
 通信が切断されて――席上でワイドボーンは小さく鼻を鳴らした。

 艦長室の一室で、モニターの電源を落とせば静けさが訪れる。
 それもすぐにノックにかき消された。
 返答をすれば、緊張を含んだ声と共に扉が開いた。

「艦長。まもなく出港いたします」
「わかった」
 立ち上がれば、まだ年の若い兵士は一瞬びくりと身体を震わせる。
 若干の呆れを浮かべながら、ワイドボーンは眉根を寄せる。
 その様子に更に兵士は緊張を浮かべていた。

 アレス・マクワイルドが惑星カプチェランカを出発して半月後、ワイドボーンが艦長を務める巡航艦を含んだ分艦隊の一つが約半年間の哨戒任務に付く事になる。運のない後輩のように最前線というわけではないが、それでも油断をしていい任務でもない。

 歩きだして、ワイドボーンはいまだに扉に佇む兵士に気付いた。
 ドゥニ・スタインベック――士官学校を卒業したばかりの、先ほどまで話していたアレスと同期になる。
 卒業後に艦隊勤務となったからには、決して成績が悪いわけではないのだろう。

 だが。
「おい。今度は間違いはないだろうな?」
「はっ。もうお待たせすることはございません」
 自信を持って答える様子に、ワイドボーンはため息を隠すのに苦労する。
 目の前の士官がワイドボーンを呼びに艦長室に入るのは二回目だ。

 前回は二時間前――本来の出発予定時刻に呼ばれ、ワイドボーンは指揮室で三十分ほど待たされた。
 なかなか出ない出発の許可にどういう事かと問いかけて、初めてそこで出発時間が遅れることを伝えられた。巡航艦一隻に不具合が見つかり、点検のために遅れるようとのことであった。
 その事を向こうは伝えたと思い込んでいたため、こちらには連絡がなかったようだ。

 その報告を持ってきた目の前の部下をふざけるなと怒鳴りつけて、再び艦長室に戻り――そして、後輩に愚痴る。
 待たされる事は別に問題ではない。
 結局、アレスが想像しているように、それを問題と思っていない事が問題なのだが。
 不機嫌そうに息を吐いたワイドボーンから逃げるように、歩きだすスタインベック。

 使えないと切って捨てることは簡単。
 わざわざ教える必要もなく、自分で考えることだとも思う。
 だが、あの後輩ならどうするか。
「スタインベック」

「は、はっ」
 背にかかった声に、スタインベックが慌てて振り返った。
「私は別に待たされた事に怒っているわけではない」
 戸惑いを浮かべるスタインベックに、ワイドボーンは苦虫を噛み潰した表情で近づいた。
 その表情が戸惑いから怯えに変化し、スタインベックは何も答えられない。

「時間が遅れるということを把握できなかったのも、向こうの伝達ミスだ。仕方がない」
 だがと一言呟いて、ワイドボーンはスタインベックを見下ろした。
 怒鳴られると構えていたところに、穏やかな口調で話しかけられて、戸惑っている。
 同時にワイドボーンの言葉を待っている。

「遅れたのならば、俺が確認させる前に君が動くべきだ。君は俺の指示を下に伝え、下の報告を俺に持ってくるただの宅配便ではないのだぞ?」
言われた言葉に、初めてスタインベックはなぜ怒られたのかを理解したようだった。
目に驚きが浮かんだ事に気づいて、ワイドボーンはその肩に手をおいた。

「正直。私はただの宅配便でも構わん――いま問題があれば、私が解決する。だが、君はそうではないだろう。何も考えずに情報を伝達するだけならば楽だが、何の意味もない。疑問点があれば、自ら動いて解決しろ。それが今のお前の任務で、いずれ上に立った時に必要となるものだ」
「はっ!」

 力強く頷いた様子に、ワイドボーンは小さく苦笑し、再び歩きだした。

 + + + 

 カプチェランカからの補給艦がハイネセン上空に到達し、そこから小型艇に乗り換えて、宇宙港へと向かう。若干の事務手続きの後に手荷物を受け取れば、後は自由だ。
 ゲートをくぐってロビーに出れば、幾人もの人間が出てきた兵士に声をかけた。
 家族や友人が、生きて戻ってきたことに安堵と笑みを浮かべて駆け付ける。
 大きくなった子を持ちあげ、若い妻を抱きしめ、あるいは恋人と再会を果たす。

 特に今回はカプチェランカでの戦いがニュースにもなったらしい。
 敵の大々的な攻撃に一時は絶望的かとの声もあったと、アレスは父親から聞いている。
 その中での再開であるから、喜びも大きいようだ。
 多くの人間が、兵士達を出迎えた。

「アレス!」
 そんなアレスを出迎えたのは、士官学校の同級生だ。
 近づいてくる大柄の男は、やはり自由惑星同盟軍の制服であり、ベレー帽を手に持つアレスとは違い、しっかりと被っている。
 フェーガンだった。

「無事でよかった」
 実に短い挨拶に、アレスは小さく笑った。
「なかなか良い経験になった。死にそうだったけどね」
「幸せなのか不幸なのか、かける言葉が難しいな」
「何、簡単なことよ。どちらにしても酒でも一杯おごってくれたらいい」

「そうしよう。ああ、話したい事が」
 そこでフェーガンが背後を振り返った。
 背後から現れたのは優しげな雰囲気を持った若い女性だ。
 フェーガンの隣に並べば、ゆるりと丁寧に頭を下げた。

「妻のミランダと申します。マクワイルドさんの事は、キースからよくお聞きしています」
「結婚したんだ」
「おめでとう。話には聞いていたが、フェーガンにはもったいないくらいだ」
「む、それには同意する」

「そこは否定しろよ」
 苦笑すれば、ミランダは楽しそうに笑った。
「愛想も何もない亭主ですが、これからもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。お世話になります」

 差し出された腕をとれば、アレスは視線をフェーガンに戻した。
「式はもうやったのか」
「……む、それが」

 珍しく口籠るフェーガンの言葉を奪って、ミランダが小さくお腹を撫でる。
「本当はアレスさんが戻ってこられてからと思っていたのですが」
「気にしなくてもいいのに」
「そうはいかない。式費用はアレスに出してもらったのだから」
「トトカルチョね。というか、お前通算でいくら稼いだんだ」

 若干羨ましさを向けながら、息を吐けば、いまだに優しげに腹を撫でるミランダがいる。
「すまないが、しばらく延期になった」
「ああ、理由は聞かなくてもわかるよ。この野郎――初体験どころか一足飛びで抜いていきやがって」

「む、アレスはまだ」
「言わせるな。カプチェランカに口説ける女性がいるわけがないだろう」
「それは……すまない」
「謝らなくていい。俺がみじめになる。それにせっかくハイネセンに帰ったんだ。そっち方向はこれから――がっ」

 呟きかけた言葉を奪うように、放たれた一撃が後頭部を捉えた。

 + + +

「お帰りなさいませ。先輩」
 痛みと戸惑いに振り返れば、バッターのように鞄を振りかぶった姿勢で少女が立っていた。
 銀色の長い髪。
 白い肌に若干の赤みがさして、いつもの無表情な顔は――いまはどこか冷静さをとりつくろうように形作っている。その隣では友人であるフレデリカ・グリーンヒルが苦笑ににた笑みを浮かべている。

「った――ライナ候補生?」
「失礼いたしました。端的に、手が滑ったと思慮いたします」
 どんな滑り方だと思わないでもなかったが、フェーガンとの会話はまだ十六ほどの少女に聞かせて良い話でもなかったため、アレスは頭をさすりながら黙認することとした。
 ライナ・フェアラート。

 現在は士官学校の二学年となる。
 卒業式より半年ほどしか経てないが、この年頃の子供は数日で成長する。
 見覚えのある姿よりも少し背が伸びて、ほんの少し大人びた表情。
 何よりそれまで彫刻のような美しさが、いまはどこか人間的な美しさも内在していた。

 現に唇を尖らせて、アレスを非難するような様子は、どこか子供じみている。
 そんな友人の様子に、小さく微笑みながらフレデリカが口を開いた。
「先輩。お帰りなさい」
「ああ。わざわざ迎えに来てくれるとは思わなかった」

「ふふ。ライナがどうしても行きた――」
「御無事で何よりでした!」
 慌てたように言葉を重ねるライナに、アレスは目を細める。
 おそらくは彼女の成長は、同期であるフレデリカの力にもよるところだろう。
 二人の後輩の成長を嬉しく思いながら、アレスはもう一度ありがとうと礼を言った。

 フレデリカが恐縮したように頭を下げてから、しかし、あがってきた表情はどこか怒ったような顔。
「心配したんですよ?」
 その理由を告げられて、アレスは頭をかいた。
 父親から聞いた言葉によれば、当初の話では基地がほぼ全滅したとの情報も流れたらしい。それがニュースとして流れる状態にも、苦笑したが、身近なものがカプチェランカにいるものにとっては内心では心配だったのだろう。

 別に大丈夫だと答えようとして、アレスは口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
 目の前にいる二人はただの学生ではない。
 士官学校の学生であって――数年後にはアレスと同じ立場にいるかもしれないのだ。
 大丈夫と誤魔化すわけにもいかない。
かといって、戦場の恐ろしさなどと説教じみた話をする気にもならない。

 返答に戸惑っていると、覗き込むようにライナの顔が近づいた。
 逃げようとしたところで顔の両端を両手で掴まれる。
 真っ直ぐな視線と、薄い唇が間近に迫った。
 小さく目を開いたアレスとは対照的に、ライナは真剣だ。
「目をどうされたのですか」

「近くでプラズマ手榴弾が爆発してな。部下のおかげで無事だった」
 ライナの小さな指が傷を撫でる。
 くすぐったさとともに気恥かしさを感じれば、逃げるように顔をそらす。
 それでもライナの顔は近いまま。
 背伸びをして、覗き込む様子にアレスは頬をかいた。

「詳しい経緯を私は何も知りません。ですが、ですが。私は――先輩が御無事で嬉しく思います」
 視線同様の真っ直ぐな言葉に、アレスは軽口を言うことも忘れた。
 予想以上に心配をかけていたようだ。
「約束しただろう」

「……?」
「生きて帰ってくると。約束は守るさ」
 言葉に、ライナはゆっくりと優しげな笑みを浮かべた。
「ええ」

 それは実に人間らしく、魅力的な笑顔だった。
 

 

装備企画課



 十月一日。
 新たな昇進と配属命令により、後方作戦本部装備企画課にも一名を迎え、少佐待遇のウォーカー事務官にも新しい部下が出来ることになった。
 少し珍しい人事だった。

 常に戦死者が出る前線とは違って、後方勤務でこの時期に人が入れ替わる事は少ない。
 ましてやそれが事務職ではなく、現役の士官がこの時期に配属されることは稀と言ってもいいだろう。たまに前線で――何らかの理由によって――使えなくなった者が送られてくる事はある。
しかし、今回の人事はそうではないようだった。カプチェランカの戦闘により、一階級の昇進――部下の経歴を見ながら、ウォーカーは小さく息を吐いた。

 確かに優秀である事は間違いはない。
 だが、現場で優秀だった者が後方勤務でも優秀とは限らない。
 むしろ優秀ではない可能性の方が高いとウォーカーは見ている。
 ウォーカーの私的な考えではあるが、前線指揮で求められるものは何よりも柔軟性だ。敵の攻撃をあるいは守備をその場で最善を導き出し、遅滞なく行動する。それは大切なことではあるが、後方勤務においてはそこまで必要というわけではない。

 求められるのは、綿密に練り込んだ事前の準備と数字一つを間違えない繊細さだ。
 戦いが始まった時点で後方勤務の仕事は全ては終了しているといっても良い。
 だからこそ、間違えられない。
 前線指揮で優秀だった者が、後方勤務にも優秀であるわけではなく、またその逆もしかりであった。事実、ウォーカーも幾人かの軍人と仕事を共にしてきたが前線指揮に名をあげた士官が後方勤務に配置されて潰れる様を見てきたし、後方勤務で優秀だった者が前線では無能と呼ばれていることも知っている。

 そのバランスが一番取れていたのが、今は虜囚となったアーサー・リンチ少将であった。
 ウォーカーも彼の下で働いたことはあったが、仕事は確かに出来る。
 だが、その過程で責任を下になすりつけるとこもあって、エルファシルの一件では勿体ないと思いながらも、さもあらんと感じたものである。

 思考が脱線した事に気づいて、ウォーカーは手元の資料を見た。
 彼に与えられる最初の任務は、装甲車における脳波認証システムの改修。
 つまりカプチェランカで、彼が発見した不具合を何とかしろという非常に大雑把なもの。
 一見すれば難しい――しかし、その実態は時間制限がある細かい仕事ではなく、ある程度の余裕のある仕事を与えて後方勤務の仕事を学べと言うことだ。

 同盟軍に配備されている装甲車は、それこそ星の数ほどもあり、管理されているものだけでも一つの棚が埋まる。その中から問題の装甲車を選択し、改修のための予算を確保し、実際の改修案を出す。

 それはウォーカーのような後方一筋で長年勤務をしていたものであっても、一年で行うのは難しい。手動での切り替え要領が周知された今では脳波認証に妨害があった場合でも、動けなくなるのは一瞬で、緊急の課題ではないと判断されたからかもしれない。半年ほどは彼一人で改修計画を作成しつつ、後方勤務を学び、その後に、課に人員を増やして一気に全面改修となるだろう。
 そんな考えを打ち切ったのは、ノックの音と声だ。

 ベレーの制帽を片手に持って、静かに頭を下げたのはまだ若い少年。
鮮やかとは言えない金髪と鋭い眼差しが印象的な少年だ。
 本来であれば士官学校を卒業して半年余りの若造――しかし、その目に薄く刻まれた傷が穏やかな雰囲気を消している。

 若造とは違う強い雰囲気に、女性陣が小さく息を飲むのが見えた。
 やれやれ――面倒事がさらに増えそうだな。
 そうため息を吐いたウォーカーの予想はあたる事になる。

 ただし、その原因は予想だにしていないことであったが。

 + + +

「ということで、原因の特定と改善を年度末までにお願いいたします」
 柔らかな表情で語られる言葉。
 対照的に正面に座る二人の男――年配の男性はしきりに汗を拭い、若い男は顔を青くして書類を握りしめていた。

「いや。それはあまりにも――」
「そうですね。大幅な改修になるでしょうから、期間が短いのはわかります。では原因の特定のみを年度末として、改善については原因を考慮しながら期間を設けるということでいかがでしょう?」
 優しげな口調。しかし、その瞳は睨みつけるように二人を見ている。

 その視線から逃げるように、男――フェザーンを資本とするアース本社の営業課長であるトゥエインは書類に視線をおとして、再び額に浮かぶ汗を拭った。
 なぜ、こうなった。
 直接的な原因は、隣に座る若い男だ。
 若いといっても、営業部に配属されて十年が経過し、それなりの経験を積んでいる。
 会社も、そしてトゥエイン自身も、彼には期待し、いずれは幹部になるだろう器だと思っていた。

 そもそも今回の脳波認証システムの不具合についても、それを納入したアースが呼ばれる事はわかっていた。それをあくまでも予想しない不具合であると責任を突っぱねながら、原因の特定と改修は手伝い、そこから利益を得る方針が決定している。
 そんなアース社に声がかかったのが、十月の半ば。

 腰の重い政府にしてみれば、随分早い対応であり、準備が遅れていたのも事実。
 それでも営業も知らない士官学校卒業の若造であれば、上手く言いくるめられるだろうと、大仕事の経験を積ますことも考えて、隣に座る男を派遣した。
 結果は惨敗だった。
 手にした書類を眺めて、トゥエインは息を吐く。

 それは納入時の契約書だ。
 細かく数百ページにも渡って記載された契約項目の中で、たった一行の文字。
『――は、装甲車に不備等が判明した場合に直ちに正常に戻すこととする』
 この一文は、あくまでも装甲車が正常に動かなかった場合を想定している。

 初期不良でのエンジントラブルや操作異常。
 その場合には代替を納入する事になるが、目の前の男はここを付いてきた。
 即ち、脳波システムについても正常に戻すようにと。
 言葉や対応こそは柔らかいが、否定を許さぬ強さがある。

 最初の話し合いに「営業のいろはも知らない軍人など簡単ですよ」と、意気揚々と出向いた隣の男は、上と相談すると逃げかえるだけで精一杯だった。
 それでもまだ良かったかもしれない。
 その場で下手に約束をするよりも、時間は稼げたわけであるから。
 だが、それによってこちらが不利になったのは事実。

 そして、目の前の男は……。
 視線をあげれば、相変わらず穏やかな表情でこちらの返答を待っている。
 士官学校出の若造などとんでもない。
 おそらくはアース――いや、他の企業の一流の営業と比べても遜色がないだろう。

 そんな人物に対して、こちらが舐めてかかったのが失敗だ。
 もし最初にトゥエインが出ていればとも思ったが、隣の男を派遣したのは彼自身だ。
「と、とりあえず、この件については社に戻って検討を――」
「先日もそうお聞きしました。本日は決定できる方をお願いしますと伝えていたはずなのですが」

「それは、申し訳ございません。しかし、今回の件は営業だけで決められることでもありませんので」
「わかりました。良い御返事をお待ちしております」
 にこやかな微笑みは、しかし、次の言葉に逃げ道を防がれる。
「しかし、こちらとしても事が事なので急ぎ回答が欲しいところです。前回からすでに二週間が経過しているわけですし。いつまでに回答ができますか?」

「一カ月。……いや、二週間後には何とか」
「それだけで大丈夫ですか。また伸びると言われるとこちらも困ってしまいます。時間には余裕を持った方が良いのではないですか?」
「い、いえ。大丈夫です、お待たせするわけにもいきませんから」

「ありがとうございます。では、三週間後ではいかがでしょう?」
「感謝いたします」

 トゥエインは作り笑いを浮かべ、差し出された手を握り返した。
 
 + + +

 肩を落としたスーツ姿の男が会議室より退出していくのを見届けて、アレスは小さく息を吐いた。手元の書類をそろえながら、眉根を小さく揉む。
 作っていた表情を崩しながら、思案した。
 予想通り、あちら側は予測不能を盾に責任の所在をあやふやにしようとしていた。

 それに対して、こちらは契約書の一文を元に改善の要求を告げている。
 正直なところ――前世に比べれば随分と楽な仕事であった。
 彼のゴールデンバウムによって民主制度が潰されて、数百年。
 フェザーン自治領が出来たのが今からおよそ百年前。

 そこからは帝国と同盟と言った二大強国に対する歪な商売が始まっている。
 元々の営業ノウハウが帝国主義によって消された状態で、それでも中立として存続できたのはさすがであろう。だが、そこに細かな技能や技術の応酬は存在していない。
 二大強国の強い命令に対して、表向きは従いながらも、その実を取る。
 生き馬の目を抜くと言われる所以である。

 今回も表向きは改善について協力姿勢を見せながらも、しっかりと料金を請求してきた。
 まだ若く慣れていない男であった。それに対して怒りを見せて、カプチェランカの全責任はそちらにあると脅し、契約書の一文を提示する。
 それだけでその上司と名乗る営業課長が飛んできた。
 本来は海千山千のベテランであったのだろう。

 だが、前回の失態を解決することに注視しており、本来の目的については片手落ちだ。
 結局は今日も結論を出さずに、肩を落として帰る事になった。
 おそらくは次には営業部長辺りが来るのだろう。

 そうして、この契約書に書かれた『双方が予期せぬ事柄については、責任の所在について双方を持って話し合う事とする』の部分について主張して来る。
 知らぬ存ぜぬというわけだ。
 ま、そうはさせないけれどね。
 分厚いファイルを目にすれば、ゆっくりと背を伸ばした。

 前線での指揮やシミュレータでの指揮に比べていれば、遥かに慣れている戦場。
 こちらは正しいのに、企業の格によって悔し涙を流したこともある。
 その中でいかに実益をとるか――言わば敵のやり方は前世でアレスが経験した事だ。
 誰よりもよく知っている。

 唇をゆっくりとあげれば、書類を手にして立ち上がった。
 今は四時を過ぎた頃。
 報告にはまだ間に合うだろう――会議室を出れば、アレスは笑みを浮かべた表情のままにゆっくりと歩きだした。

 + + +

「ふむ。相手の意向はわかった――それに対する答えはあるのかね」
「ええ。導入前の第四回目の議事録を見てください」
「いま目が離せないんだ。読んでくれると助かる」

「では――『同盟側:この脳波認証を取り入れるにあたりの、メリットは。アース社:脳波認証によって固有認証が可能となるため、例え敵に鹵獲されたとしても使用されることはない。同盟側:では、敵に鹵獲された場合は敵が使えることはないのか?』E3がポーンでチェックメイトです」
「ん。あ、ん、いや、ちょっと待ってくれ」

「待ちません。で、その回答ですが『アース社:脳波認証はアース社の最高の技術をつぎ込んだものであり、問題が起こりうる可能性はありません』と」
 そこで初めて、正面に座る――装備企画課課長シンクレア・セレブレッゼ少将は顔をあげた。
「なるほど。同盟が危惧を唱えているにも関わらず、アース社は一蹴したというわけだな」
「次の会議では、それを前面に出したいと思います。つきましては……」

「わかっている。次の会議には私が出向き、それを持って一刀両断すればいいのだな」
「それで八割は方が付くかと」
「残り二割は?」
「相手方次第ではごねる可能性も。もっとも、その場合には裁判にかければいいかと」

「――アース社は優良な顧客ではあるのだがな」
「優良ではありますが、唯一ではありません。そこが同盟の強み」
「それを持って、帝国に付くと言えばどうする?」
「脳波認証の不備を発覚させたのは帝国です。そのようなシステムを高値で売りこめるか現実を見せればいいかと。正直なところ――フェザーンのたかだか一企業ですからね」

「それをもってフェザーン全体が敵に回る可能性は」
「ないとは言い切れません。が……全面的な敵対はないかと」
「なぜ。そういいきれる?」

「フェザーンの地位は非常に危ういものです。同盟と帝国を天秤にして、ちょうど中立となるように調整しなければならない。つまり、帝国に天秤が傾き過ぎれば、その結果は何よりもフェザーンに向くのですから」
「ふむ……。わかった」
 そう言って、セレブレッゼはしばし考え。

「よし。今の手を待ってくれたならば、その件は認めよう」
「ありがとうございます。では、次の手に私はC7クイーンでチェックメイトです」
「んん? あ……ちょ、ちょっと待ってくれ」

 三次元チェスを前にして、セレブレッゼは頭を抱えた。

 

 

置き忘れた生ごみ



 任務を与えられたものの、アレスの仕事は少ない。
 装甲車の改善についてという漠然な任務であり、それも半年後に要員が増える事になっている。その間に後方勤務について学びながら、準備をしろとの意図も理解した。

 任務についてから一週間ほどの時間をかけて、二百数ページもの契約書及びそれに倍する会議資料や議事録を読み込めば、時間がそれほどない事に気付いた。
 同盟軍の計画では、改修は自助努力を想定している。
 アース社からの技術的な支援を受けながら、予算をとって装甲車の改修を実施する。

 必要があれば問題のある装甲車を廃棄して、新型の導入も検討されていた。
 根深そうだ。
 疲れた目を揉みほぐしながら、アレスは息を吐いた。
 あまりにもアース社に有利な方針。

 前におかれた契約書を見れば、決して戦えないわけではない。
 しかし、それを念頭にすらおいていない。
 方針を決めた上が理解していなかったということもあり得る。

 事実、慣れているアレスですらも一週間もかけて何百ページもの書類を理解した。
様々な報告があがってくる上にそんな時間はないだろうし、仮にあったとしても、前線で戦っていた士官に書類全てを理解しろといっても無理な話だ。
だが、それ以外が原因だったとしたならば。
 読んでいた書類から目を離して、机を小さく叩く。

 しばらくの思案を持って、時間がないと結論付ける。
 半年の間悠長にしていれば、アース社は反論する資料をそろえる。
 いや、資料をそろえるのに必要な時間が半年なのかもしれない。
 パタンと契約書を畳めば、静寂な室内に一つの音が鳴り響く。

 周囲からの注目の視線は、どこか批判をするようなもの。
 この一週間の間はずっと書類に目を向けるだけのものであった。
 仕事をしないのなら、せめて静かにしろというものなのかもしれない。

 もっともまだ新任のアレスに仕事が来るわけでもなく、どこか様子を窺うような遠巻きな視線しかないのだが。
 さて。
 ウォーカーに一度視線を向けて、アレスは受話器をあげた。
 数秒のコール。

「お世話になっております。私は自由惑星同盟軍装備企画課のマクワイルドと申しますが、今回の装甲車の件でご担当の方を……」

 視界の端でウォーカーが驚いたように目を丸くした。

 + + +

 待合用の椅子の上で、ウォーカーはしきりに汗を拭った。
 少佐待遇であるウォーカーも滅多に入らない。
 装備企画課長の部屋の前室だ。
 その隣で書類を手にしながら、この原因となった部下は平然とした顔をしている。

 胃が痛い。
 任務を付与して、目の前の部下――アレス・マクワイルドはただ書類を見るだけだ。
 普通であれば契約書の読み方も知らない士官学校出の若造。
 一時間に一回程度は質問して、それに答える。
 本当にきちんと仕事をしているのか不安になったものだった。

 そんな時に三日目にして初めて質問に来た。
 その内容にウォーカーは驚かされた。
 それは契約と仕様の小さな齟齬の部分であり、きちんと契約書を見ていなければ分からない。いや、例え契約を知っていても見落としてしまうような細かな齟齬であった。
 今まで経験した基本的な内容のものではなく、明らかに知っている者の質問。

 それから見方を変えれば、明らかにおかしい。
 ただ書類を読むのではなく、最初に契約書を、次に議事録をと――必要な書類を実に的確に読んでいた。
 そして、つい先日だ。

 アース社の営業に連絡をとったかと思うと、相談があると別室で会話をした。
 正直、聞かなければ良かった。
 その時の会話は思い出すだけで胃が痛くなる。
 薬を飲もうかと思い、既にこの部屋に入る前に飲んだばかりだった事に気付く。

 手持無沙汰に持ったハンカチで汗を拭った。
 面倒だと思っていたが、まさか一週間でこんな面倒となるとは。
 表向きは装甲車改修に向けた計画案の報告。
 だが、その実態は。
 再び汗を拭ったところで、秘書である女性中尉が静かに扉を開けた。

「どうぞ、ウォーカー事務官、マクワイルド中尉」
 それは地獄の門の入口のようにウォーカーは感じた。

 + + +

 シンクレア・セレブレッゼ少将。
 原作では中将として、ヴァンフリートに配属された。
 その実は後方勤務のスペシャリストであり、前線指揮能力は皆無。

 口元の髭を生やした生真面目そうな男であった。
 手にしていた書類から目を離すと、こちらの姿を見て机上の前におかれた接客用の椅子をすすめた。隣に立つウォーカーの様子を見て、簡単な報告ではないと気付いたのだろう。
 自らも席を立つと、接客用の椅子に座る。

「何か問題があったのかね」
「いえ。問題といいますか……」
「装甲車の改修にあたっての方針を決めたいと」
 ウォーカーの言葉を引き継げば、セレブレッゼは小さく眉をあげた。
 黙ってさしだした書類は、契約書と議事録のコピーだ。

 必要な要点だけを抜きだした数枚の書類と、報告書にしばらく目を通して、セレブレッゼは口髭を撫でた。
「これは臭いな」
 後方勤務のスペシャリストは、たったそれだけで眉をひそめて答えた。
 書類を最初から見直して、再び臭いと呟く。

「ええ。実態は見えていませんが」
「どこかに置き忘れた生ごみのようだな」
 嫌悪するような表情を浮かべれば、正面に座るアレスは頷いた。
 契約書を見れば、決して戦えない戦いではない。

 だが、戦う事が最初からないような前提条件。
 新任の教育を名目にして、半年もの期間を塩漬けにする。
 それを見て、セレブレッゼは置き忘れた生ごみと表現した。
 汚職が確定しているわけではない。

 だが、臭いだけは確実に漂っているというわけだ。
「このままでは漬物になりそうです」
「食えたものではないがな」
「しかし、まだ確定したわけではございませんので」
 言葉を放ったウォーカーは、しかしセレブレッゼに見られて、汗を拭った。

 下手に想像で進めれば、取り返しのつかない事になる。
 慎重だが確かな意見に、セレブレッゼは頷いた。
「確かに。これだけでは何の証拠もない――実際にただの間抜けで、何の裏もないかもしれないな。だが、どちらにしろとアース社のいいなりにならないければならないというわけでもなさそうだ。勝てるか?」

 尋ねたのはアレスに対してであり、アレスはゆっくりと頷いた。
「ええ。よけいな邪魔が入らなければですが」
「臭いの元はこちらで探ろう。だが、どちらにしろすぐに行動すべき案件だな」
 言葉にアレスは頷いた。
 時間を経てば経つほどに相手に有利に進む内容。

「既にアース社の営業には声をかけています」
「よし。と、すればこちらにも近いうちに反応があるか」
「なければいいのですが」
「まったくだ」
 セレブレッゼは笑い、時計を見る。

 視線を追ってウォーカーも見れば、入ってからは数分しか経過していない。
 しかし、既に何十分もいるように覚える。
 手にしたハンカチがじっとりと湿っていた。
 それで再び額を拭うような気にもならず、懐にしまった。

 見つめる先で時計を見ながら、セレブレッゼが思案している。
 その様子はつい先日、隣の部下が思案する様子に似ていてウォーカーは腹に手をおいた。
 時間が開いていなくても胃薬は飲むべきだった。
 ウォーカーの中では十分――時間にすれば一分ほどで、セレブレッゼは書類をさし返した。

「二人とも理解していると思うが、この件は他言無用だ。誰も言わぬように」
 確認にも似た言葉に、二人が頷くのを見届けた。
「それとマクワイルド中尉……君は確か三次元チェスが得意だったな」
「は。はぁ」

 唐突な言葉に、隣でアレスが間の抜けた返事をした。
 戸惑いを含む言葉に、ウォーカーは珍しいものを見たとアレスを見た。
「私も好きでね。どうかね、一局?」
 笑みと共に呟かれた言葉に、アレスは意味を理解して頷いた。

「ええ。いつでもお付き合いさせていただきます」
「では、以上だ。この件はくれぐれも慎重にな」
 こうして、ウォーカーの不幸は決定した。

 + + +

 アース社の営業課長と営業員が青ざめた顔で会議室から出ていくのを見て、可哀そうだとウォーカーは胃を撫でた。彼自身が与えられた任務はなく、伝えられるのはアレスからの報告だけであったが、正直なところその報告も課長だけにしてもらいたいと思う。
 任務とは別のところで、彼の仕事は増えていた。

 本来は半年後に行うべき改修計画が前倒しされているのだ。
 関係する部署は山のようにあって、その説明を求める意見がウォーカーに殺到している。
 それに対してウォーカーは全てをぶちまける事も出来ず、かといって関係部署からのもっと時間をかけてほしいとの要請を受け付けるわけにもいかない。

 ただ方針が変更となったと調整し、説得する。
 その点で言えば、ウォーカーは決して無能ではなかったのだろう。
 正直に話すこともなく、急な変更に対して対応しているのだから。

 その分飲んだ胃薬の量と白髪は着実に増えていたが。
 かといって、音をあげるわけにもいかない。
 本来は一年以上をかける計画を、彼の部下は数カ月で行おうとしているのだから。

 しかも腹立たしい事に生き生きとして。
 遅れて会議室から出てくるアレスを一瞥すれば、ウォーカーは胃薬を飲み込む。

 小さく呟いた恨みの言葉は、けたたましくなった電話の音にかき消された。
 

 

歓迎会



「今日か?」
 部下から歓迎会をと言われて、ウォーカーはしばらく目を瞬いた。
 聞き返されてウォーカーの前に立つ部下も戸惑いがちだ。

 両側から押されるように中央の女性が代表するように頷いた。
「ええ。マクワイルド中尉が着任して一カ月がたちますし。本当はすぐにと思っていたのですが、お忙しそうでしたので……それで、少しは息抜きをと思いまして」
 お忙しいなんてもんじゃない。

 この一カ月の濃密な時間を思い返すだけで、ウォーカーは暖かいお茶を飲んだ。
 胃に優しい。
 落ち着いてみれば、代表の女性はこの四月に配属されたばかりの事務官の女性だ。
 配属時期ではマクワイルド中尉と同期になるのだろう。

 もっとも士官学校を出た彼とは違い、彼女は一般の職員ではあったが。
 そこまで考えて、ようやくウォーカーは納得した。
 逃げださぬように周囲を固める女性を見れば、それよりも少し年長であり、飲み会と言う名目の出会いの場のセッティングだ。

 前線とは違い、後方勤務で若い男と出会う機会は少ない。
 ましてや士官学校出のエリートとなれば、後方勤務に来るころには三十を過ぎた妻帯者が関の山だ。まず若い男は望めない。アレス本人とは思わなくても、仲良くなれば彼の同期や先輩と席のセッティングを頼めとの打算があるのだろう。
 当人の行動で今まですっかり忘れていたが、アレスが着任して危惧した面倒事が形になったわけだ。有無を言わさぬ左右の圧力に、若い事務官の女性は泣きそうになりながらウォーカーの言葉を待っていた。

 ――色恋沙汰ってのは、本当に面倒だ。
 どちらに転んだところで、ウォーカー自身も巻き込まれる事になる。
 一瞬断ろうかとも思ったが、アレスが着任してより歓迎会を開いた事がないのも事実。
 そして、何よりもアレスであれば、そこまで大きな面倒は起こさないだろうと思う。
 そう思っていれば、大量の書類を抱えたアレスがちょうど席に戻って来た。

 自らの席近くにいる複数の女性に、少し戸惑っているようだ。
 睨むような――これは本人は意図していないと、最近になってウォーカーは理解したが、そんな厳しい視線を受けて、先頭の女性が泣きそうになった。
 それは可哀そうだろう。

 わずかに浮かんだ庇護欲が、ウォーカーの口を開かせた。
「マクワイルド中尉」
「は。何でしょう?」
「今日の夜は暇かね」

「今日の夜ですか?」
「ああ。今日ではなくても構わないが」
 と、視線が女性を見れば、アレスは首をかしげる。
「特に用件は入っていませんが」
「例の件は大丈夫かね?」

「ええ。締めきりはまだ先ですから」
「そうか。では、君たちは?」
「今日で問題ありません」
 口をそろえたように三人の女性は言葉にした。

 先ほどまでの戸惑いようが嘘のように、ウォーカーは言葉にできなかった。
 左右の女性たちがアレスの左右に回り込んだ。
「マクワイルド中尉――ハイネセンの店は御存知ですか?」
「わたし。最近いい店を聞いたんですよ、穴場的な店で安くて料理もおいしいし」
「ちょっと、カリーナ。それはあたしが聞いたのに」

「早い者勝ちよ。レイラ」
 いきなり煩くなる様子に、ウォーカーは苦笑する。
 もっとも。
 たまには、この部下が戸惑う姿が見れるのも悪くはない。

 そうウォーカーは小さく笑うのだった。

 + + +

 カリーナと呼ばれた女性が調べた店は、ハイネセンポリスの裏街にある小さな店だった。
 大通りから、入り組んだ路地に入らねばならず初見で発見することは難しい。
 先頭を歩くカリーナがいなければ、全員がたどり着けなかったに違いなかった。
 急遽の歓迎会と言うこともあって、参加者はそれほど多くはない。

 ウォーカーとアレス、そして三人組の他には数名といったところだった。
 特に女性は当初誘った三人の他にはおらず、今日という急遽の予定を告げた理由がそれではないかとウォーカーは思った。
女の戦場は宇宙だけではないようだ。
 カリーナとレイラに引かれるように連れて行かれるアレスを見ながら、苦笑すれば、ふと同じように苦笑する女性がいた。

 誘いに来た代表の女性で――シノブ・ミツイシという名前だったと思いだした。
 ウォーカーと同様の苦笑をする様子から、彼女も無理矢理連れてこられた口なのだろう。
 高等学校を卒業したばかりの彼女には、カリーナやレイラほどの意欲はないのかもしれない。
「ここ……だと思うけど」

「おいおい。随分と適当だな」
「す、すみません。私も今日聞いたばかりで」
 戸惑う女性陣が立つのは、古ぼけた扉の前だ。
 扉の向こうからの話し声と扉にかかった小さな看板が、かろうじて民家でない事を告げている。
 少なくとも通っただけでは気付かない。

 カリーナから話が違うとばかりに見られたレイラが慌てたように首を振る。
「い、いい店だって聞いたから」
 今にも喧嘩が開始されそうな雰囲気に、どうするかとウォーカーがアレスに視線を向ければ、アレスは小さく笑った。
「店構えで酒の味が変わるわけでもないでしょう」

 そう言えば、扉をゆっくりと開く。
 新たな来客に視線が集中する。
 そこにいたのは大柄な店主と、同じく大柄な強面の男達だった。
 決して流行っているわけでもなく、広いスペース。
 薄暗い店内には、穏やかなBGMが流れていた。

 明らかに場違い。
 と、いうよりも。
「何か。カプチェランカを思い出すな」
 呟いた言葉と共に店内を見渡せば、そこは一般的な大衆店ではない。
 どちらかと言えば、最前線の兵士達を慰労を目的とした酒場だ。

 店主でさえも戸惑う状況に、頭をかいてどうするかと迷えば、ウォーカーがアレスの背を押すように店内に入った。
「酒の味はかわらんだろう。それにここで喧嘩が始まるのは胃に優しくないからな」

 もっともだと思い、小さく笑えば、アレスは開いている席に歩きだした。

 + + +  

 そこはハイネセンを守る第一艦隊の陸上部隊が懇意にしている店であった。
 戦傷によって退役した店主が開く小さな酒場だ。
 訓練帰りに飲んだ帰りに立ち寄る。
 店主こそ強面であるが、安く上手い料理と酒が出るとあって人気があった。

 しかし、その日はいつもと様相が呈していた。
 滅多に来ない女性客と、軍人らしくない文官風の男達。
 最初こそ店内の様子に戸惑っていたものの、酒が入り、上手い料理が出てきて、次第に喧騒へと変わっていった。

 それほどは大きくない声も高い女性の声に、カウンター席で禿頭の男が苦虫を噛み潰した。
 ただでさえ女性の少ない陸上戦隊。
 それも首都の防備を目的とする第一艦隊では戦場でストレスを発散させることもできない。
 いい気なものだ。

 どうやら話を聞けば、後方作戦本部の連中らしい。
 軍人ではなく所詮は事務官と言うわけだ。
 まだ若い青年が女性二人に囲まれている。
 自分たちが訓練で汗水をたらしているというのに、後方で呑気に文字仕事か。
 いい気なものだなと、禿頭の男はウィスキーを飲み干した。

 それは明らかな八つ当たりであったが、後方部隊と前線部隊は元来仲が良くはない。
 禿頭の男と同様の思いをした者たちは多くいて、ちらちらと後方で騒ぐ男達を見ていた。
「いい店だと聞いていたのですが、随分やかましいですね」
 苛々として三杯目のウィスキーを頼んだところで、隣から声がかかった。

 見れば不快そうに眉をひそめる男だ。
 特徴的のないどこにでもいそうな軍人容貌。
 それが後方を見る様子に、禿頭の男は苦虫を噛み潰した様に後方に視線をやった。
「ああ。いつもはそうでもないんだがな。今日は特別にうるさい」
「それは残念です。これから外に出るので、その前にと思ったのですが」

「何帰ってからまたくればいい」
 差し出された杯を受け取って、男は静かに飲んだ。
 それから男と話しながら飲んだ。
 誘われるままに男は自分の経歴を語る。

 配備された場所が如何に危険な場所であったか。
 死と隣り合わせの戦場。
 身体を張った訓練。
 幾度もついた身体の傷。

「まったくですね。彼らは私達を消耗品とでも考えているのか」
 彼らと言ったのが、誰であるかは禿頭の男はすぐに理解できた。
 後方ではいまだに楽しいおしゃべりが繰り返されている。
 それまではほんの少し気になる程度だった言葉に、随分と苛々とさせられた。
 小さく舌打ちをして、ウィスキーを再び飲み干す。

 隣の男にお代りを手渡されて、そんな男の顔が少し悲しげに歪んだ。
「楽しそうですね。私もああして飲みたいですが、次に帰ってこれるかどうか」
「どこに向かう?」
「申し訳ないが、それは言えないのです」

 首を振った男の様子に、禿頭の男はそうかと呟いて、再びグラスを飲み干す。
「少し静かにしてもらってくる」
「そんな。大丈夫ですよ」
「何……。あんな後方の連中など簡単なものだ」
 立ち上がり身体をカウンターで支えれば、禿頭の男はどうやら相当酔っているようだった。それでも男に支えられ、身体を真っ直ぐに起こせば、ちょうど楽しげに会話する男達の姿が見えた。

 いい気なものだ。
 そう口にして歩きだす禿頭の男は、背後で男が小さく笑ったことに気付かなかった。

 + + +
 
「このチーズポテト美味しいですよ。中尉はいかがですか」
「ほんと。最初はどうなるかと思ったけど、美味しいわね」
 リスのように頬を膨らませる様子に、周囲が小さく笑った。
 注目を浴びてカリーナが戸惑ったように慌てて口元を隠す。

 その様子が一段の笑いを誘った。
 楽しげな雰囲気は、しかし、近づいてくる禿頭の男に気づいて静まった。
 酔ったように頭すらも赤くしながら、しかし、足取りは確かに近づいてくる。
 最初にアレスが気付き、次にウォーカーが気付いたころには、既に禿頭の男は席の傍にいた。

「随分と楽しそうだな」
 唐突にかけられた声と強面の男の様子に、それまで楽しげであった装備企画課の面々は押し黙った。
 沈黙を恐れと捉えたのであろう。

 どこか別の場所を見つめる金髪の男――アレスに向けて、禿頭の男は語気を強くして、詰め寄る。
「お前に言ってるんだ。それとも女性相手じゃなければ話せないのか?」
 強く言われれば、誰もが怯えを見せて声を出せない。
 そんな状況下で、アレスは男を振り返った。
 その表情に怯えはなく、どこか楽しげですらあった。

「ああ。騒がしくしたならすまない。気をつけるよ」
「謝る必要はねえ。ただあまり楽しそうなんで、少し俺も混ぜてもらいにきただけだ。なあ?」
 禿頭の男が背後を振り返れば、顔見知りであろう男達が表情に笑みを作った。
 どうように暇を持て余していたであろう男達が近づいていく。
 どれも大柄な体格の良い男達であった。

 小さな悲鳴はアレスの隣から。
 男達の後ろに隠れるように逃げようとして、禿頭の男の視線に止められた。
「可愛い子を一人占めはずるいだろう。俺たちも混ぜてくれよな?」
「お断りだな。店主――会計を……」
 立ち上がったアレスの肩を、禿頭の男が握った。

 止めようとして、しかしその肩についた筋肉に気付いたようだ。
 驚きを浮かべた男は片手でアレスを止める事は叶わず、アレスは制止などなかったように店主を呼んだ。
 店主も面倒事は御免だとばかりに、急ぎ会計を手にする。
 しかし、そんな店主が他の男に遮られる様子に、ウォーカーが苛立ったように禿頭の男を睨みあげた。

「こちらも騒がしくして悪かったが。その態度はどうかと思うがね」
「態度が悪いのは元々でな。何せお前らと違って、こっちは毎日命がけで……」
 叫んだ男の声は、しかし、扉を開いた音にかき消された。
 集中する視線が、苛立ったような男の顔を捉える。

 決して大柄ではない。
 しかし、服の上からでも透けて見える筋肉が一般人ではない事を告げていた。
「そ、曹長……」

 ばつが悪そうに呟いた言葉を聞いて、入ってきた男が眉をひそめた。
「何してる、伍長。人が残って残業してるってのに随分とご機嫌だな……え」
 そこで曹長と呼ばれた男の顔が変わった。

 目を開けば、立ちすくむ禿頭の男を無視して、その脇を駆け抜けた。
 周囲の驚きなど知らぬように、男はアレスの前に来れば、勢いよく敬礼。
 直立不動のままで、アレスに頭を下げた。
「これはマクワイルド中尉。こんなところでお目にかかれるとは出来るとは思いもしませんでした!」

 唐突な礼に、驚いたのはアレスも同様であった。
 眉根が戸惑ったように動いて、少し考える。
 結局わからなかったようで、いまだに敬礼を続ける男に手を振りながら問うた。
「ああ。ええと、君は誰だ?」

「は。自分はリュナス曹長であります。カプチェランカでは第五中隊第三小隊の第一分隊長を任されておりました。先日の戦闘では中尉の部隊に危機を救われました一人です」
 カプチェランカの名前に、周囲が騒然となった。
 前線部隊の中でもカプチェランカの名前は広く伝わっている。

 特に最近に起こった戦闘は、同盟軍帝国軍双方とも大きな死者を出しており、カプチェランカ帰りというだけで尊敬の視線を集めたのだった。現に目の前の曹長も、この十月でカプチェランカから帰ってきており、周囲からの信頼は非常に厚い。
 まさかという視線と、そんな人物に絡んだ事実から騒然とした周囲が、逃げるように視線をそらした。

 そんな微妙な空気を感じたのだろう。
 リュナスは周囲を見渡して、そして先の騒動を思い出す。
「まさか。お前ら……この方達に絡んでいたというわけではないな?」
 否定の言葉はない。

 それを肯定と受け取って、リュナスの表情に血管が浮き出た。
 怒りだ。
「きっさまら」
「怒るな曹長。騒がしくしたこちらも悪いし、それにこれ以上連れを怖がらせないでくれ」

「は、失礼しました。まことにお連れの方にはご迷惑を――申し訳ございません」
 曹長が頭を下げて謝罪しながら、人を殺さんばかりの視線で背後の男達を射抜く。
 その視線に慌てて背後の男達も、全力で謝罪をした。

 申し訳ないと――すでに、禿頭の男の酔いも完全に醒めたようだ。
 繰り返される謝罪の言葉に、それまで緊張していた装備企画課の面々も脱力したように身体を椅子に預けている。

 ようやく自由になった店主が会計を席に運んだ。
 確かに安い。
 払おうとしたアレスを、慌てたようにリュナスが止めた。
「こちらの支払いが私が。迷惑料で……」

「いや。気にしなくても結構だ」
 と、会計に書かれた金額よりも多く、アレスは机に置いた。
「騒々しくして悪かったな。迷惑料だ――これで後は楽しんでくれ」
 そう言って、席を後にする。

 男達は驚きをもって、彼らが帰るのを見送っていた。
 どうすると視線をかわす中で、最後まで頭を下げていたリュナスが顔をあげた。
 その表情は能面のように白い。

「お前ら……中尉は許してくれたが、俺は許さんぞ。明日の訓練は地獄の方が良かったと――そう思わせてやる。だから、今日は中尉の行為に甘えて、自由に飲め。最後の晩餐だと思え」
 そう呟かれた言葉に、男達は喜んで良いのか嘆いて良いのか。

 微妙な表情を見せて、結局酒をたらふく飲んだ。
 

 

喜ぶべきか、悲しむべきか


 後方勤務本部。
 多数の部署があり、外部との折衝を多くする場所は多くの会議室を備えつけている。
 そのため通常は環境や設備の良い場所が選ばれ、不人気な会議室は埃をかぶっている。

 第25小会議室と名付けられたそこは地下にあって、日差しもあたらない。
 設備もモニターやコンピュータなどは存在せず、あるのは形ばかりの折り畳みの椅子と同様の机だ。
 給湯室からも遠いため、缶コーヒーが並ぶ中で、二人が向かい合っている。
 装備企画課長セレブレッゼ少将とアレス・マクワイルドだ。

 昨日の状況を聞き終わり、セレブレッゼは自慢の髭を撫でた。
 ふむと一言口にして。
「それは危険ではなかったのかね。一つ間違えれば、警官隊に捕まっていたかもしれん」
 攻めるような言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな口調。

「御丁寧に既に通報があったようですよ。私が店を出て、すぐに警官隊が来たそうですから。リュナス曹長が教えてくれました」
「それでも危険に飛びこむ価値はあったと」
「というよりも、工作を気にして何もしなければ、それはそれで相手の思うつぼになるでしょう。むしろ――私ならそれを利用します」

「油断ならんな」
 誰がとは言わずに渋い顔でセレブレッゼは呟いた。
 缶コーヒー――微糖のそれを口にして、アレスは小さく笑う。
 外部の企業の工作や接触など、セレブレッゼの立場になれば当然のこと。
 単純に逃げるならば簡単。

 それをいかにあしらい、自分に有益な情報とするかが大切になる。
 もっともそれをわずか二十と少しの若さで、何事もないようにそれを実践するとは空恐ろしい。
「君は情報部の方が向いているかもしれんな」
「私の卒業課程は戦略研究課程なのですが」

「それで前線に、営業にと仕事をこなすのだからこれからも楽はできんな。さて、私の方も収穫があった。今回の改修に先だって、他の部署から苦情や不満の声があがっているが、一つだけ妙な動きをする部署がある」
「妙な動き?」
「整備計画課だ」

 整備計画課とは同盟軍が所持する艦船、車両の整備計画を策定する課だ。
 同盟軍全体の整備計画とは言え、流れ作業のようなものだ。
仕事は整備が必要な艦船の整備計画の策定と整備中の艦船の代わりを送ることであり、複雑な事務や難しい問題はそれほど多くはない。そのため装備企画課に比べれば人数は遥かに少なく、整備計画課長は大佐が務めている。
 後方勤務本部全体を通しても、あまり優遇されておらず、口の悪い者は出来そこないの末路とまで呼ばれているほど。実際に他の部署で問題を起こした者が多い事から、完全なデマとはいえないのだが。

 大幅な計画の前倒しによって、他の部署からの批判は大きい。
 それこそ予算課などは課長自身がセレブレッゼの元に怒鳴りこんできたほどだ。
 もっとも後方勤務においてセレブレッゼに口で勝てるものなどおらず、帰る時には勢いを失い、不満顔を浮かべるのが精一杯であったのだが。

 大きく流れを変えようとしている。
 だからこそ、批判や苦情などは、当然のこと。
 だが。

「まったく、妙な事に――整備計画課だけは沈黙を貫いている」
 呟いた言葉に、アレスは目を開いた。
 そして、呟かれる言葉は実に端的で、簡単な一言。
「馬鹿ですか?」

 + + +

 オブラートに包む事も忘れた言葉に、セレブレッゼは苦笑混じりに笑った。
「権限がないからとこちらも油断していたが。アース社の方もそこまで馬鹿だと思わなかっただろうな」
「今回改修することなれば、一番関係があるでしょうに」
「これからの装甲車の整備計画を一からやり直すくらいにな」

「一貫しているといえば、一貫しているのでしょうが」
 そう無駄な仕事をしないという事においては。
 頭を抱えるアレスから話題を変えるように、セレブレッゼは髭を撫でた。
「この後にアースはどのような手を打ってくると思っていたかね」
「それは。時間稼ぎでしょうね」

 そう呟いてコーヒーを飲む様子に、セレブレッゼは満足そうに頷いた。
 例え四月まで改修計画を伸ばしたところで、普通ならば問題に気付かない。
 中断すれば四月以降に再開させればいいと思うだけで、何も理解しないだろう。
 それが卒業して一年未満の、さらに後方勤務で数カ月しか経験していない若者が理解している。

 そして、それこそがアース社の狙いであり、予算課が飛び込んできた理由だった。
「来年度予算案の決定は来月からですね」
「ああ。そして、同盟軍の予算には装甲車の改修費用も計上している。もし確定すれば、一度は獲得した金を返すことを上は渋るだろうな」
 セレブレッゼは苦笑する。

 予算課としては獲得して、余ればその分の予算を他に回せると思っていたのだろう。
 だが、一度でもアースに金を支払う前例を作ってはならないと跳ねのけた。
「上にとっては金をかけて改修するか、アースに金を出させて改修するか。どちらにしても結果は変わらないですからね。こちらとしてはそれまでにアースに責任を認めさせなければならなかった」

「こちらが急ぐ理由だな。実際にアース社の方はこちらの説得を諦めて、評議会議員に働きかけを強めている。少しでも予算を早く成立させようとしてな」
「アース社も無能ばかりではないか」
「無能ばかりならば、工作機や装甲車のシェアでトップにはならんよ。もっとも――」

「今回は同盟の無能に足をすくわれたようですが」
 苦笑ともとれる皮肉げな笑いを口元にして、アレスは首を振った。
「おそらくはアースは整備計画課に、計画に変更はないから安心して動くなといったのだろう。焦って下手に動かれれば、ぼろが出るかもしれないからな」
「そして、見事に動きませんでしたね」

 呟いたアレスの言葉に、セレブレッゼは笑って良いか迷った。
 アレスの言葉通りに、こちらは味方の無能に助けられた。
 おそらくは本気になったであろうアースは少しでも時間を稼ごうとした。
 昨日の一件も、おそらくはわずかな時間稼ぎを目的とした工作。

 成功すればよし。
 失敗しても、誘いを断ったアレスが少しでも立場を悪くすれば交渉の材料となる。
 結局幾筋も打てる手の一つ。
 本命はセレブレッゼが手に入れた評議員への働きかけだろう。

 だが、それも。
「形だけでも動けばいいものを。味方の無能を喜んでいいか、悲しんでいいのか」
 悲痛な言葉を、缶コーヒーと共に飲みこんで、セレブレッゼは首を振った。
 気持ちはわかると、アレスも同意を浮かべて、缶コーヒーを口にした。

 まさにセレブレッゼの言葉通りの心情に、二人は息を吐いた。
 やがて悩んでいても仕方ないと、アレスが首を振った。
「この件は終わりですね」
「既に整備計画課については、憲兵隊を動かした。当然、その情報をアースは察知しているだろうな」

「繋がりが判明されれば、車両の改修よりも遥かに高い代償を負うでしょうからね。昨日のような遊びではなく、アースは本気できますよ」
「その忠告は私も理解している。だが、それは装備企画課の仕事ではないな。憲兵と、そして陸上部隊の仕事だ」

 ご苦労だったとまとめるように呟いた言葉に、アレスは小さく頷いた。
 セレブレッゼの言葉通り、この件については既にアレスの手を離れている。
 次の会議で時間を稼ごうとし、それをさせないために作った資料は使われる事なく終わるだろう。

 それで終わればいいのだが。

 + + +

 シノブ・ミツイシの昼食はいつも一人だ。
 一人お手製のお弁当を持ってきており、他の者たちと違って食堂に食べに行くことはない。当初は食堂で一緒にと誘われたが、シノブの持っているお弁当を物珍しそうに見られて、いつか一人で食べるようになった。
 今日は疲れた。

 昨日の一件は装備企画課のみならず他部署でも有名になっている。
 体格の良い軍人相手に一歩も引かず、さらには頭まで下げさせる。
 元より後方勤務を馬鹿にする前線の軍人には良い印象があるわけもなく、それに対して頭を下げさせたという事実に、多くが話を聞きたがった。その当事者となったカリーナとレイラは忙しく話を続け、今日の仕事の半分以上はおしゃべりだったような気がする。

 シノブはそこまで話し好きではない事もあって、入れ替わり立ち替わりやってくる人達に辟易したものであるが。
 更には話を聞きたがった人間によって、昼食まで誘われて断るのにも苦労した。
 解放されるまでに時間がかかり、昼食休憩は後二十分しか残っておらず、窓際の席に座ってシノブはいそいそとお弁当を広げた。
 大きなおにぎりと魔法瓶に入った味噌汁だ。

 古くは地球の時代には、当然のように作られていた食事。
 今では米はあるものの、現在では味噌はあまり一般的ではない。
 この味噌も彼女の家が代々伝えてきたものであって、彼女はこの味が大好きだった。
 もっとも現代人の味覚にはあまりあわないようだ。カリーナには頼まれてあげたこともあったが、口に合わなかったらしく渋い顔をされたのは記憶に新しい。

 美味しいのになぁ。
 そう思いながら、味噌汁を器に入れていく。
 心を落ち着かせる香りと共に考えるのは昨日の一件だ。
 正直、シノブは昨日までカプチェランカをよく知らなかった。

 確かに装甲車が敵の手によって乗っ取られ、そのためにアレスが仕事をしているというのは知っている。
 だが、その戦場がどんなところであったのか。
 装甲車が乗っ取られるということがどんな事であるのか。
 想像もつかない別次元の話だ。
 だから、昨日の件の後に自宅で調べて、驚かされた。

 七月に発生したカプチェランカでの防衛戦。
 数十名以上の戦死者を数える激戦であり、おまけに同盟軍は敵の手によって装甲車が十数台ほどしか使えない状況。
 まさしく全滅してもおかしくない戦い。
 しかし、それを見事に防いだ戦いはネット上では奇跡とまでもてはやされていた。

 配属されて一年目で消耗品の管理やお茶くみなど雑用しかしていなかったシノブには理解すらもできない。
 そんな前線で英雄視されながらも、後方に送られて腐ることもなく仕事を進めている。
 凄いなと単純に思う。
 まだ一年も同盟軍にいないが、多くの軍人の中でも別格だろう。
 カリーナやレイラが熱をあげる理由もわかる。

 少なくとも一緒になれば食いっぱぐれはないから。
 もっともシノブにとっては関係のない世界で、アルミホイルから取り出した小振りのおにぎりを手にした。
 はむ。
 一口齧って顔をほころばす。
 中に入れた鮭の塩味がいい感じ。

 上手くできたと満足げにもぐもぐと咀嚼して、味噌汁に手を伸ばした。
 そこに。
「味噌汁?」
 背後から突然かかった声に、シノブは喉を詰まらせた。
「ん、ぐ、ぐ」

「ああ。ごめん」
 謝罪の声を背後にしながら、慌てて味噌汁をすする。
 熱かった。
「あつっ」
 慌てて火傷した唇に、お茶を注ぎこんだ。

 ようやく落ち着いて、背後を見れば、申し訳なさそうな金髪の青年がいる。
 アレス・マクワイルド。
 今まで仕事をしていたのか片手に資料の束を抱えている。
 あまりにみっともないところを見られて、否定の言葉も出てこない。

 顔を赤くして、これは違うと否定のために付きだした手には齧りかけたのおにぎりだ。
 アレスが目を丸くすると同時に、慌てて身体の後ろに戻した。
「その。あの、これは」

「食事中にごめん。ただ珍しかったから」
 申し訳なさそうにさしだされたのは、器に入った味噌汁だ。
「あ。これは味噌汁と言いまして――大豆を発酵させて」
「ああ、うん。味噌汁は知っているよ。ただこの辺りで見かけないから、どこで売っているか聞いていい?」

 頬をかいた様子に、シノブは納得した。 
 確かに古い日本の料理はあまり一般的ではない。
「あの外では売ってないので、これは自家製です」
「ああ、そう……自家製か」

 少し残念そうな様子で、アレスは頭をかいた。
「あ。でも味噌汁を出している店もありますよ。凄く小さいですけど」
「ほんとに?」
 身を乗り出して尋ねられて、シノブは慌てて首を縦に振った。

「ええ。もしよければ案内しましょうか?」
「ぜひ、お願いするよ」
 即答の頷きに、シノブは困惑したように頷いた。

 何でこんなに味噌汁を気にするのだろう。
 

 

解決?

 
前書き
まさかまだ読んでくださる方がいたなんて 

 

「いや、マジだってまじ。ホントの話!」
「嘘つけよ」
 浮ついた口調で語る言葉。

 それはおそらくは学生だけに許された特権なのだろう。
 少なくとも戦場に出れば、彼らの口調は実力行使によって訂正されるであろう。
 ただその戦場前の――学生食堂での一時は許されてもしかるべきかもしれない。
 少なくとも生徒しかいない空間であるならば。
「だから、俺この前外に出ただろ」

「知ってるよ、姉さんの結婚式にハイネセンまでいったんだろ?」
「そこで本当に見たんだってさ!」
「だから、それが嘘だろ」
 興奮気味に身を乗り出す少年を前に、反対にいる少年は冷静そのものだ。

 呆れたようにパスタをすすれば、話を聞けと少年が机を叩いた。
「だから見たんだって。あの烈火のアレスのデートをさ!」
「あのな」
 呆れたように対面に座る少年が口に、ミートボールを入れた。

「アレス先輩が卒業して、もう半年経つぞ。そもそもお前はアレス先輩の顔見たのはシミュレーション大会の時くらいだろ?」
「間違いないと思ったんだけどなぁ。でも」
「ん?」

「目元に傷があった気がする」
「ほら、アレス先輩の顔に傷なんてなか――」
 ガシャン。
 そう言いかけた少年の言葉は、食器が叩きつけられる音で止められた。
 何事だと睨もうとして、そこに上級生であり――そして、二学年の主席であるライナ・フェアラートの姿だ。まだ一学年の――いや、例え上級生であっても言葉には出来なかったかもしれない。

 その瞳に映る鬼のような表情を見たのならば。
「ええと。ごめんね」
 と、金褐色の女性が申し訳なさそうに謝った。
 こちらも有名――二学年で次席であり、何より現役の軍人を父に持つフレデリカ・グリーンヒルだ。
 そんなフレデリカの謝罪すら気にも留めないように、ライナは怯える二人を見た。

「どうぞ。話を続けるとよろしいかと。具体的にはデートしたのを見たあたりから」
「えっと」
 本来であれば二学年の――いや、学園で一、二を争う美人に挟まれれば嬉しいはずであろうが、一学年生二人にとってはまるで地獄のようで。
「どうぞ。ご遠慮なさらなくて結構ですのよ」

 戸惑う少年達に、ライナの笑みは、地獄の獄卒を想像させた。

 + + + 

 白い教会で結婚式が行われている。
 幸せそうな女性と、照れながらも嬉しそうな男性が並んでいた。
 幾度となくフラッシュが光る光景に、アレスは満足そうに歩いていた。

「久しぶりにうまいものを食べた。本当ありがとう」
「よ、喜んでいただけて良かったです」
 微妙そうな笑みを浮かべながら、シノブは不思議そうにアレスを見た。
 日本という国が存在しなくなって、何百年もたつ。
 もちろん、その子孫は生き残っているわけであるが、食生活まで残っているわけではない。

 大多数の意見によって残されたのは、過去でいう洋食と呼ぶものだ。
 食べる機会も少ないうえに、特徴的な調味料を使う和食は、いわば特異な料理として残っているだけだ。
 本当に連れて行っていいのか。
 あるいは、何らかの間違いでシノブを口説くために日本料理店の紹介をお願いしたのではないか。そう疑っていた自分の想像は、あっという間に裏切られた。

 まさか。
 うまいと言えば、夕食で出るというにはあまりに質素な鮭の酒粕焼きにご飯、味噌汁をあっという間に平らげ、しめには納豆卵かけご飯まで頼んでいた。
 過去には日本人だったシノブがいう。
 卵は生では食べられないし、納豆はそもそも腐っていると。
 きっと同僚や友人に勧めたら激怒される。

 まして、上司に勧めることなんてありえない。
 それをアレスは迷わず頼んでいた。
 漢字で書いていたのにも関わらずだ。
 様々な疑問が浮かぶ。
 なぜ漢字を知っているのだろう。
 そして、なぜあんなに嬉しそうなのだろうと。

 けれど、横を見る顔はとても幸せそうで。
 それを自らの問いで表情を崩すにはあまりにも無粋。
「見てください。結婚式ですよ」
 だから、別の質問を投げかけた。
「ん。ああ、そうだね……」
 そこでアレスは初めて気づいたように、結婚式のほうに目をやった。

 どれだけ日本料理が好きだったのだろう。
「幸せそうだ。できるならば、ずっと幸せでいてほしいものだね」
「結婚式の日にそれを考える人はいないと思いますけれど」
「そうか。今の時代はそれを願う人のほうが多いと思うけれど」
「そんなことは」
 口を尖らせたシノブの言葉は、途中で奪われた。

 激しくなるサイレンと走る車の音でかき消されたからだ。
「ほら、せっかくのシーンが台無しだ」
 そんな光景をアレスは驚きもせずに、ゆっくりと見送っている。
「先ほどから随分と警察が動いていますね」
「軍もね」

 と、促すように見れば、走る車の多くのナンバープレートが軍であることを表す特殊な記号が使われていた。
 そう言われて、シノブは初めて気づいた。
 サイレンを鳴らす車両の他に、やけに軍の車両が多い。
 いや、それだけじゃなく。

 他も同じ方向に動いている車が多いような。
 ほとんどが同方向で、それがシノブ達の務める後方作戦本部の方向であったのだが、気づいたのはアレスだけであったようだ。
 興味深げに見送る様子に、どうかしましたかと問いを向けるシノブにアレスは静かに首を振った。

 問いには答えず、ただどこか楽しげに、走る車の列を見送るのであった。

 + + + 

「フェザーンの大手軍事企業であるアース社との癒着があったとして、警察では整備計画課のオーラン課長及びアース社トゥエイン容疑者を逮捕し、現在取調べを続けています。アース社のトゥエイン容疑者は容疑を認め、一方のオーラン容疑者は否認をしているとのことです。この件に対して、アース社では警察が捜査中であり、コメントを避けると述べていますが、いかがでしょうか。ウィンザーさん」
「同盟軍の、それも後方作戦本部の上層部が一企業と繋がっているなどと、非常に由々しき事態です。警察には真相解明に全力を持っていただきたいと思います。そればかりではなく、軍に対しても今が大切な時であると再認識していただきまして、全軍が一丸となって帝国からの民衆の開放を目指し……」

「あ、ありがとうございました、まことにそのとおりだと思います。そろそろ時間を迎えましたので、本日はこの辺でと……。ニュースハイネセンはゲストにコーネリア・ウィンザー情報交通委員を迎えまして、私ウィリアム・オーデッツがお送りしました。では、また明日」
 モニターに映った画面が突如として切り替わり、コール音が鳴り響いた。
 表示される番号には、セレブレッゼとの表記がある。
「見計らったようなタイミングですね、少将閣下」

 手を振ることで受信を選択したアレス・マクワイルドはいまだ軍服姿のシンクレア・セレブレッゼ少将に対して敬礼を行う。最もいまだ軍服姿のセレブレッゼと風呂に入ってパジャマ姿であるアレスが行うと、馬鹿にしているようにも取れるのだが。
「馬鹿にしているのかね、マクワイルド中尉」
「いえ。夜中の十二時に電話が鳴って、起きているだけでも満足していただければ幸いです」
「皮肉かね。こちらはまだまだ寝ることもできそうにはないがね。君は素敵な金曜日を過ごしたようだね」

「良いデートでしたよ。閣下は大変そうですね。予想はつきますが」
「君もニュースを見ていたのだろう。まったく憲兵隊も動くなら金曜日でなくてもいいだろうに」
「その方が彼らにとっては土日をゆっくりと休めますからね」
「こっちは休めないがね。まったく、当事者の君がなぜデートを楽しんで、シャワーを浴びて、ビールを飲んでいるのか。まさかそこにデート相手はいないだろうね」

「そこまで手は早くありませんからご安心を。それに、これ以上は私の手を遥かに超えていますので」
「まったくその通りだな!」
 ことは整備企画課だけの問題ではなくなった。
 ニュースのように同盟軍全体の問題として、現在はどこのテレビ局も報道を実施している。
後方作戦本部は大騒ぎであろう。

 最もその一部所の、中尉でしかない者にとってはできることなど何もないかもしれないが。それをセレブレッゼも理解しているのだろう。
 苦い顔をしながらも、文句は言わず、手元のコーヒーをすすった。
「君の――いや、私の進言通りか。整備計画課のオーラン課長のところから不正の証拠が山ほど見つかったよ」

「でしょうね」
 先日の話で、自白したといっても良い整備計画課。
 黙秘をしたといっても、いまさら過ぎる証拠の山だと嘆くようにセレブレッゼは語った。
「一方でアース社は営業課長の尻尾を切って終わりですか」
「そこはあちらの方が上手だったのだろうな。形成が不利になると、即座に尻尾を叩ききった。まあ、その尻尾もその後の人生は面倒を見るとでも言われたのかもしれないがな」

 先ほどの矛盾した報道内容のとおりだろう。
 アース社はトゥエインを切り捨てた。
 しかし、認めれば後々の生活は面倒をみると説得し、彼は進んで今までの癒着について語るだろう。
 それは。
「さらに上の癒着を誤魔化すためでしょうね」
「女狐がまじめな顔で語っていたな。一番関わっていたのは奴らだろうに」

「同じ尻尾を切られるにも、オーラン准将のようにはなりたくありませんね」
 アース社は使えないとなれば、即座にダメージの少ない場所を切り落とした。
 それこそ蜥蜴が尻尾を切るように。
 一方で、本来は整備計画課長であるオーランを操っていた上層部はいまだに現れない。
 政治家か軍か。
 金で黙らされた営業課長に対して、オーランは話せばさらに罪が重くなるところまで追い込まれたか、あるいは命の危険を感じたか。

 その部分で言えば、政治家も軍も黒幕が表に出ないことを徹底しており、逆にアース社は企業として資金で抑えることにしたといえる。
 どちらにしても、その黒幕の姿は見えないわけで。
 冗談が混じった口調を変えて、アレスは苦い顔を作った。
「厄介ですね」
「まことにな。いまの憲兵は反戦思想ばかりを狙って、本来の職分を忘れている。きっと今頃は厄介ごとを後方作戦本部に押し付けて、飲み会でもしているのだろう。君を推薦しておこうか」

「では。すぐに閣下のもとに向かいますね」
「やめておこう。冗談はさておき、要件だ」
 疲れた顔をしていたセレブレッゼだが、どことなく楽しげな表情を浮かべて言った。
「君の案件である、装甲車における脳波認証のシステム改修はアース社が全てを負担することになった」

「まあ、癒着とされた根本の原因ですから、そうでしょう」
「アース社はこれをもって幕引きとしたいようだな。見事なものだ」
「ありがとうございます」
「これで君が来た理由もなくなるわけだ。まったく、できれば、これからも私の下で働いてもらいたいものだが。そうもいかなそうだ」

「どういうことです?」
 そこで、セレブレッゼは初めて笑みを作った。
「なに、それは今後のお楽しみという奴だ。ともかく、君は今まで休みなく働いてくれた。来週は休みにしておくからゆっくり休みたまえ」
「ちょっと待ってください。かっ……」

 + + +

「逃げられた」
 切れた通信に、苦い顔でアレスは見送ることとなった。
 セレブレッゼ少将のいうように、確かにアレスは装甲車の脳波認証システムの改善を名目として呼ばれた。

 そして、その仕事は本日をもって終わった。
 この先がどうなるか。おそらくは脳波認証システムの改善プログラムを全ての装甲車に導入することになるのだろう。大きな費用であるが、アース社にとっては、政治家とつながりがあることを暴露されるよりかは遥かに安上がりになると目論んだ。
「また異動か」
 だが、その後の意味ありげな言葉を考えれば、おそらくはアレスは近いうちに異動があるはずだ。

 何も考えずに言葉を口にするほど、セレブレッゼは馬鹿ではない。
 しばらくアレスは考えを深めて。
 まあ、仕方がない。
 と、苦笑を浮かべる。
 元々整備企画課に配属されたことがイレギュラーであったのだ。
 まあ、思わず日本食という懐かしい食事にありつけたのは朗報ではあったが。

 考えながら、アレスは手元にあった封筒の束を目にする。
 水道や電気の料金を開き、その後にあったピンク色の封筒を目にした。
 それは他の封筒よりも目を引くものだ。
 勧誘だの公共料金の引き落としだので、ピンク色を使うことはない。

 封筒を手にして、裏書を見れば、そこにはまるでコンピュータで書いたような文字があった。
 
 ライナ・フェアラート
 

 

誘い

 
前書き
本来ならば個別の感想に皆様にありがとうというべきところですが、
思いのほか待っていただけた方がおられて、嬉しくも申し訳なくも思います。
言い訳のしようもないのですが、ただ更新することがよいかと思い。
これをもってお詫びと御礼とさせていただきます。

まことにありがとうございます。 

 

 拝啓
 晩秋の候、ご無沙汰しておりますうちに、ひときわ冷え込むようになりました。
 御多忙のことと存じますが、お風邪など召されていませんか。

 さて、私事ですが、本年も戦術シミュレーション大会が来月に実施されます。
 今年度からはなぜとは申しませんが、より一層の公平性が保たれ、チームが組まれるようになったため、私自身もサミュール先輩やテイスティア先輩と別れてのエントリーとなりました。
 できない中で、勝てるようにしていくというのは面白いものですね。
 もっともこのように考えられたのは、おそらく昨年先輩と戦えたからなのでしょう。

 もしご予定がないようでしたら、ぜひお越しいただきたく思います。
 会場でお待ちしております。
                        ごきげんよう アレス先輩


 達筆に書かれた文字は、戦術シミュレート大会への誘いだ。
 無駄が一切省かれた文章は相変わらずだが、どこか暖かいように感じる。
 まあ、せっかく、誘ってもらったからな。
 一仕事が終えて、時間もある。
 どうせならばと普通では興味ないであろう事務官――ウォルター補佐か。

「日本食のお礼に、ミツイシさんでも誘って……」
 頭をかきながら、背後に嫌な汗を感じる。
 作戦のためならば細かい人間関係や感情を熟知しているのに、それが我がことにまったく役に立たなくなる脳細胞を持っている魔術師ほどに、アレスは人の機微が読めないわけでもない。
 本来であれば送る必要のないチケットをわざわざ送るのがどういうことであるかは理解している。

 ここでシノブと二人で行くことになれば、馬に蹴られて死んでしまえという奴だ。
 もっとも。
「かといって、それに応えることもできないのだけど」
 好意は嬉しく思うが、それが恋愛沙汰となるとアレスにとってはカプチェランカで戦うよりも遥かに難しい。

 アレスは前世の記憶があって、ライナとの年の差は実年齢よりも遥かに大きい。
 若いほうがいいとの意見もあるかもしれないが、正直子供のような年齢差には喜びよりも先に、一歩も二歩もひいて考えてしまう。
 そもそも――。
 カレンダーを見れば、宇宙歴791年の文字が目に入る。
 あと八年。
 たった八年で、自由惑星同盟自体がなくなる。

 それを知っていてもなお、士官学校に入学し、そして戦い続ける自分の心ですら理解できないのに、他者まで巻き込む余裕などアレスにはない。
 残すところ八年勝つか負けるか。
 それが分かったところで、アレスはぎりぎり二十代である。
 恋愛などといったことは、それからでも遅くはないだろう。

 もっともアレスが生きているかどうかは別問題であろうが。

 + + +
 
 わずか一年ほど前には何度も通っていた士官学校であるが、ハイネセンからの旅程は随分と長いものだった。
 来客用の駐車場に車を止める。
 戦術シミュレーション大会も後半戦とだけあって、広いはずの駐車場が関係者の車両で埋まっていた。

「失礼します、所属を確認させていただけますか」
 近づいてきたのはまだ若い、士官学校の候補生だ。
 当直勤務の一つとして、駐車場の見回りがある。
 広い場所だからちょっとくらいと、一般人が止める場合がある。
 それを防止するという実に簡単な任務だった。

「ご苦労」
 助手席から姿を現した大柄な男が、姿を現し、敬礼を行う。
「第四艦隊所属のマルコム・ワイドボーン少佐だ。こちらは」
 エンジンを切って、姿を現したのは目つきの悪い男。
「烈火のアレス!」
「ああ。後方作戦本部所属のアレス・マクワイルド中尉だが、知っているようだね」

「もちろんです。アレス中尉のデータは今では貸し出しが三か月待ちですから。お会いできて光栄です」
「マクワイルドのシミュレーションなど、何の役にも立たん」
「え、あ」
「こいつの動きを普通の人間が見て理解できるわけがない。真似をしたところで、無様になるのがオチだ。どうせ見るなら、ヤン・ウェンリーのデータを参考にしておくのだな」

「ひどいですね」
「事実だろう」
 唐突な毒舌に目を白黒させる候補生を残して、アレスとワイドボーンは士官学校の中へと足を進ませた。
 戦術シミュレーション大会準決勝。

 果たして、誰が残っているのだろうかと歩いていく。

 + + + 

 ライナ・フェアラートは機嫌が悪かった。
 普段はまるで感情を表に表すことがないが、フレデリカは理解している。
 怒っていると。
 もう、アレス先輩ってば。

 思わず愚痴りたくなるのは、その原因であろう先輩の名前だ。
 先日の夕食時に聞いたアレス・マクワイルドのデート。
 それ以降、ライナは表立って感情を発露することはないが、明らかにおかしくなっている。
 それは昨日の戦いでも明らかだ。
 三学年の主席がいるヘンリー・ハワード候補生に対しての準々決勝。

 驚くことにライナはミスをした。
 それは些細なミスではあったが、精密機械の異名をとるライナが初めてミスをした瞬間だった。幸いなことに、ミスが些細であること、また五学年の先輩が動きを立て直したこともあって、勝利することができた。
 だが、今日は。

 フレデリカが反対側に視線を送れば、そこには小柄な――とても最上級生には見えない少年の姿があった。
 セラン・サミュール。
 五学年次席であり、主席であるテイスティアに次ぐ実力の持ち主。
 もし対戦相手が彼であれば、些細なミスは些細とは言えない大きなミスにかえられる。
 フレデリカ自身も万全を期して臨んだ予選で、全滅という文句のない敗北を味わっている。
 あの後輩もそうだし、アレス先輩もアレス先輩だ。

 デートするにしても、この時期でなくてもいいのにと思う。
「烈火だ……」
 そんな八つ当たりの感情を持て余していた耳に、小さな呟きが聞こえた。

 + + + 

 遠巻きにされながら、姿を見せたのは二人。
 マルコム・ワイドボーン少佐とアレス・マクワイルド中尉の姿だ。

 実績や階級自体はマルコム・ワイドボーンの方が上ではあるが、この場にいる候補生はワイドボーンが卒業してから入学したものばかりであり、名前は知っていても姿を知るものはいない。対するアレスは昨年まで在学しており、シミュレーション成績は無敗、さらには彼が当直の時には抜け出すなという不文律まで作り上げた人物だ。

 成績こそ主席ではないものの、それは射撃や艦船操作などの一部の成績が壊滅的であったためであり、それ以外の成績は陸戦技能がフェーガンに続く二位で、その他も主席クラスを収めている有名人だ。
 だからこそ、あの後輩も同じ時期に在学していなかったにも関わらずアレスの姿を知っていたのだろう。
 それが姿を見せた。
 小さくつぶやかれた言葉が、波となって広がっていく。

「アレス先輩」
 もちろん気づいたのはフレデリカだけではない。
 ライナもだ。
 だが、彼女の顔には珍しいことに迷いが残っていた。
 駆け寄りたいものの、駆け寄ってかける言葉を失っている。
 気持ちはよく分かった。

 フレデリカも憧れの先輩がデートをしていたと聞けば、どう話しかけていいかわからなくなる。
 だから、ここは私の出番。
 ぐっと拳を握って、声をかけようとして。
「アレス先輩!」
 その声は無邪気な言葉に遮られた。

 フレデリカは初めて、上級生を殴ろうかと思った。

 + + +

「アレス先輩、来てくださったんですね」
 子犬のように――まさにその言葉のとおりに、セラン・サミュールはアレスに近づいた。
 尻尾がついていればきっとちぎれんばかりに振られていたことであろう。
 そんな様子に、アレスは戸惑いながらも片手をあげて、答えた。

「準備をしているってことは、まだ残っているのか」
「ええ。準決勝前です、今年もテイスティアを倒して優勝して見せますよ」
「その前に準決勝を勝たないとだけどな」
「大丈夫ですよ。応援してくださいね」
「残念だが」

 アレスは肩をすくめた。
「応援の先約があってな」
 と、小さく目を向ける先は、ライナだ。
 目が合った。
 迷っていた表情から、驚きの表情に変わり、椅子を鳴らして、慌てて立ち上がる。
 見事なほどに完璧な敬礼をして。

「あ、ありがとうございます!」
 それに倣うように、ライナのチームメイトたちも慌てて立ち上がった。
 周囲を驚きが満たしていく。
「え、何でですか。俺は去年のチームメイトですよ?」
「それが敵になることなんて、いくらでもあることだろう。テイスティアのようにな」
 そう言って笑えば、近づいてきていた五学年主席の姿がある。
「お久しぶりです、先輩。でも、敵ってひどいですね、僕も敵になりたかったわけじゃないですよ」

「でも、学べたことは多いだろう?」
「はい。とても……」
 ゆっくりと頷く姿に、セランは不服そうに口を尖らせた。
「先輩に応援してもらえれば、百人力だったのに。先約ってずるいですよ」
「だから、代わりの応援要員を一人連れてきただろう」

 そう言って、隣を見れば大柄な男性の姿だ。
「げ。ワイドボーン先輩!」
「なんだ、不満でもあるのか。とりあえず、その『げ』の意味について、詳しく聞かせてもらいたいものだな、後輩」
「あ、あの。いや、本当に勘弁してください」

 頭を下げる様子に、周囲に笑い声が漏れた。

 + + + 

 近づいてくる。
 自分で誘っておきながらではあるが、こうして近づいてくると何を話していいかわからなくなる。ましてや、デート疑惑を聞いた直後だ。
 髪は整っているだろうか。
 どうしよう。

 迷っている間に、アレスの姿は大きくなって、声がかけられる位置まで近づいた。
「五学年のクローラー候補生です。ご無沙汰をしております」
 先に声を出したのは、ライナの隣にいた最上級生であり、このシミュレーション大会の総司令官だ。
 どこか見たことのある風貌に、アレスは気づいた。
「ああ。確か、ヤン少佐の隊にいた」
「覚えていただけて光栄です。あの時は非常に多くのものを学ばせていただきました」
 第一回目の戦術シミュレーション大会、決勝戦。

 ヤン・ウェンリーのところに配属されていた一学年生。
 あの時はまだまだ技術も甘く、戦い急ぐ悪いところがあったが、その様子は落ち着いていて、きっと彼も同様に多くのことを学ぶことができたのであろう。
 ライナの力があったとはいえ、こうして準決勝まで足を進めているのだから。
「ライナ候補生には、我が隊で非常に活躍していただいています」

「あ、いえ、そんな。昨日もミスをしてしまい。助けていただきました」
 慌てたように出した声に、ライナはしまったと顔をゆがめた。
 失敗したことなど、アレスに聞かれたくない。
 だが、アレスは珍しそうにそれを見て、微笑。
 いつもにらんでいたような表情が、崩れた。
「一人で何とかしなくても、存外に何とかなるものだろう」

「……はい」
「ならば、気を張らずにできることをやればいい。君ならできるさ」
 肩に置かれた手は暖かくて、それがライナの肩を押した。
「ありがとうございます。あ、あの」
「おっ。久しぶりに生意気な後輩の姿があるな」
 勇気を出したライナの言葉を遮って、明るい声がした。

「おーい、こっちだ、マクワ……いでぇ」
 この空気を読まぬ珍妙の客に、がんばれと心の中で応援していたフレデリカ・グリーンヒルは生まれて初めて上級生に手を挙げた。

 + + +

「ご、ごめんなさい。手をあげたらあたっちゃって……」
 言い訳をしながら、ハンカチを差し出す思いのほか強気の後輩の姿に、殴られた本人――ダスティ・アッテンボロー中尉を介抱している。
 だが、アレスの類まれな動体視力は見逃さなかった。

 振り勝った瞬間、フレデリカの見事な裏拳がアッテンボローの鼻先に叩きつけられたことを。あまりの速さに、それに気づいたのは自分と、アッテンボローの隣で目を白黒させているワイドボーンだけだろう。
 アッテンボローの鼻先を抑えながら、こちらの様子を伺う姿にやはりわざとかと、背後で自らの手をぎゅっと握るライナに視線をおろす。
 でも、いいのだろうか。

 アッテンボローの隣で戸惑っているのは、ワイドボーンだけじゃなく、彼女の思い人の姿もあるというのに。
 まあ、それはともかくとしてだ。
「何か?」
「あ、いえ。何でも」
「本当に?」
 覗き込んだ顔に迷いが見える。

 けれど、頑張れとの再びの視線に、ライナは強くうなずいた。
 本人は他を応援している場合じゃないのだろうに。
「あの、この前ハイネセンでデートしていたと聞いたのですが。お付き合いしている女性はいるのですか?」
 まっすぐな言葉だった。
 五学年の上級生や、その他の人間がいる場所で言うにはあまりにも勇気のいる言葉。

 誤魔化すのはあまりにも酷い。
 だから。
「確かにハイネセンでは部下と食事に行ったが、付き合ったとかそういうことはないよ。今はだれとも付き合うつもりはないしね」

 言い過ぎただろうか。
 けれど、それがまっすぐな理由であって。
 それにライナはどこかほっとしたように笑顔を浮かべた。
「今はとおっしゃいましたね。それは私が卒業するまで待ってくださるという……」
 いや、そういうわけではないのだが。

「ご安心ください。アレス先輩の応援を受けて、負けるつもりはございません。不敗の名前を汚すことはございませんから」

 今日一番に喜びを浮かべた少女の背後で、「ヤ、ヤン先輩!」とフレデリカの悲鳴が聞こえた。

 + + + 

 これは違うと必死の言い訳をしている場所へと近づいていけば、そこは混沌という言葉が最も似合う場所であった。
 後の魔術師ヤンに対して、頭を下げる金褐色の美しい女性。
 それに対して、頭を下げる場所が違うんじゃないかなと経験のない光景に戸惑っている不敗の英雄。

 ダスティ・アッテンボローは未だに鼻を抑えているし、隣のワイドボーンは何が起きたかさっぱりわからないようで、珍しくも目を白黒させている。
 おそらくは近年の士官学校で有名な人物に囲まれたセラン・サミュールとテイスティアは蚊帳の外でお互いに顔を見合わせていた。
 できれば、逃げたい。

 だが、そうもいかないだろう。
「どういうことです。ワイドボーン先輩」
「いや、その点については俺自身も知りたいことだが」
「ヤン少佐とアッテンボロー中尉がいる理由だけでも教えていただけると」
「ああ。それは簡単だ。俺が読んだからだ」
 胸を張ってこたえる様子に、アレスは眉をひそめた。

 そんなことは初耳だったからだ。
 向けられた視線に言い訳するように、ワイドボーンは肩をすくめた。
「誰も聞かれずに話し合えるのは、ここか飲み屋くらいしかないだろう。かといって、飲み屋はアッテンボローはともかく、ヤンやお前は来ないしな」
「私は話し合うつもりはなかったのですが」

「何、応援まで、あと二時間くらいはある。士官学校に会議室を借りている。旧友との交友を温めるのもいいだろう?」
「ワイドボーン先輩に友達っていましたっけ?」
 目の覚めるような拳を避けて、アレス・マクワイルドは苦く笑った。


 

 

戦いの前に


 士官学校の会議室の一室。
 その場所を貸切るというのは、少佐階級が二人いれば楽なことなのであろうか。
 いや、単純にワイドボーンの我儘が原因のような気もするが。

「ここに貴様を呼んだのは、ほかでもない。俺はいま第四艦隊、先ほどのアッテンボローに見事な右をくれた御息女の父親でもある、ドワイト・グリーンヒル中将に所属している」
「そして、私とアッテンボロー中尉は第八艦隊シドニー・シトレ大将の元で働いている」
「イゼルローンですね」
 呟いたアレスの言葉に、アッテンボローだけが片眉をあげた。

「それは極秘のはずだが。お前は何で知っている」
「何です。フェザーンでも攻める相談でもしていたわけですか?」
「そんなわけないだろう」
「その方がまだ効率としてはいい気がしますけれど」
「あのな」

「アッテンボロー中尉。私の後輩だから申し訳ないが、こいつはこういう奴だと思っていた方が精神的には楽だ」
「昔から変わってないな、毒舌は」
 それを毒舌のスペシャリストであるアッテンボローから言われるのは、アレスは釈然としないものを感じる。ともあれ、冗談を言っている場合ではないだろう。
「第四艦隊と第八艦隊、違う艦隊がそろっている時点で大きな戦を考えているのは間違えないでしょう。そして、自由惑星同盟に大きな戦をできる場所は一つしかない。それで満足していただけますか?」

「想像できない人物が多いから、困ったものなのだけどね。ともあれ、現状自由惑星同盟軍は来年にもイゼルローン要塞の攻略を考えている」
「それはまあ、悲劇的ですね」
「君もそう思うか」
「ええ。攻略とは名前はよいですが、過去に難攻不落の居城を正面から落とした例はまずない。落とせたとしても大きな犠牲が出ていますから。その辺りは私よりもヤン先輩が一番知っていると思いますけれど」

「この戦いの構想が生まれるよりも先に、正面突破は難しいと言った学生がいたと聞いたけれどね」
「それはよくある学生のたわごとでしょう」
 缶紅茶を一口して、アレスは苦笑する。
「たわごとでも何でもいいよ。それで、正面突破が無理ならば君はどうすればいいと思うのかな」
「難攻不落の居城に対する戦略は三つ。一つは兵糧攻め。周囲を大量兵力で囲み、一切の補給を断つ。けれど現在ではイゼルローンはある程度の自給自足を可能としている状態にあります。結果を待つだけで、数年単位は必要でしょうね」

「そうだね。イゼルローンは食料どころか、弾薬や艦船の生産も可能にしている」
「残るとすればだまし討ち。遥か昔のトロイの木馬のように」
「三つめは?」
「小惑星でも一ダースばかり突っ込ませてみてはどうですか」
 冗談めかしたアレスの言葉に、アッテンボローはおまっと口を開けたままで絶句。
 対するヤンは興味深そうに頷き、一拍をおいて口を開いた。

「並行追撃はどうかな」
「そうですね」
 アレスは少し考えたふりをした。
 それは結果的に悲劇に終わった戦術だ。
 まさかこの時点で、誰もが味方事トールハンマーの餌食にするとは理解できないだろう。
 最もイゼルローンを奪われることになれば、下手をすれば断罪される。

 ましてや宇宙艦隊と仲が良いわけでもない。
 それならば奪われるくらいなら、やってしまおうと考えてもしかるべきかもしれない。
 味方殺しというのは軍人にとっては考えつかないかもしれないが、過去には多くの事例があるのだから。
「イゼルローンの占拠ではなく、破壊を目的とすれば、可能性はあるかもしれませんね」
「馬鹿。それだとイゼルローン要塞が使えなくなるだろう?」

「少なくともイゼルローン要塞の攻略という目標は達成できていると思いますけれど」
「戦術的には大丈夫でも、戦略的にはどうなんだ、それは」
「イゼルローンがなくなれば、帝国の侵攻は難しくなりますよ。補給基地が帝国側にしかなくなるわけですから」
「それはこちらもそうだろう」
「後方勤務本部の意見を言わせていただくと、今の同盟の予算状況で、侵攻まで求められても困りものですよ。個人的にも後方勤務的にもイゼルローンはなくしてもらいたいですね」

「言わんとしていることはわかるが」
 歯に衣を着せぬアレスの言葉に、アッテンボローとヤンは顔を見合わせる。
 ワイドボーンだけが、腕を組んだままむむっと小さくうなった。
「それじゃあ、戦争は終わらないだろう」
「そもそも総戦力で負けている時点で、侵攻して終わらせるとか無理でしょう。それが可能になるのはこちらの戦力が帝国軍を大きく上回るか、もしくは少しずつ力をそぐか」

「お偉い方は我々が帝国に行けば、帝国市民はもろ手を挙げて歓迎してくれると思っているようだけれど」
「人はパンのみで生きるのではあらず――とはいえ、パンがなければ生きることもできない。ま、私は理想を述べる宗教家よりも、お金をくれる人にほいほいついていきますけれど」
「けれど、上の意見はそうではないようでね。イゼルローン要塞も並行追撃作戦を行い、占拠を目指すらしい」

「ご愁傷さまです。でも、そこまで私に話しても。明らかな機密の漏洩ですよ」
「何、他人事みたいにしている」
「それは」
 他人事だからと言おうとしたアレスの目に、にやにやとしたアッテンボローの表情に入った。
 その様子に彼らが何を伝えようとしているかは理解できた。少なくともワイドボーンはともかくとして、ヤンやアッテンボローが作戦計画をアレスに教えるほどには、彼らと親しくした記憶はない。

「他人事で同盟の機密を聞けると思っていたのか」
「できれば他人事でいたいのですけれど」
「無理だな。アレス・マクワイルド中尉。お前は来年2月で昇進ののちに、第八艦隊司令部作戦参謀としてヤン少佐とアッテンボロー中尉とともに勤務することになる」
「え、だめですよ」

 即答したアレスの言葉に、拳を机に叩きつけて力強く言ったワイドボーンが目を開いた。
「私はフェザーンの駐在武官の希望試験に合格しましたから。来年四月にはフェザーンです」
 その言葉に。
「お前は、何を言っている」
 ワイドボーンが顔を歪めた。

 + + + 

 セレブレッゼの意味深な発言の直後、アレス・マクワイルドの動きは早かった。
 フェザーン駐在武官。
 それは人事部で毎年希望をとって、割り当てられる場所だ。
 とはいえ、自由惑星同盟においてフェザーン駐在武官をあえて希望する者はほぼいない。

 安全であることは確かであるが、現代での大使館といった外交政策等の重要性はほぼ皆無な現状においては、あまりにも軽視され、冷遇されている部署だ。
 配属されたからと言ってその後に特別に面倒を見てもらえるわけでもない。
 戦闘があるわけでもないため、栄達も望めない。
 そもそも国とすら扱われていないため帝国と調整などの外交的な活躍があるわけもない。
 希望性とはしているものの、実質は軍で持て余して配属されることの方が多い。

 もっとも、希望が少ないとはいえ、アレスが希望してから決定までに時間が早いのは事実。
「優秀な人事にコネを持つと、非常に助かりますね」
 しかし、そこで人事部の――ある個人との利害が一致した。
 装備企画課で何もさせないつもりが、たった数か月で大きな成果を生みだされた。そんな人間が、どういうわけかまず活躍することなど皆無であるフェザーン駐在武官を希望してきている。
 見てはいないが、高笑いが聞こえたようだった。

「まことに残念ですが」
 まったく残念ではなさそうに、アレスは首を振った。
 だが。
「それは一旦凍結させてもらったよ、マクワイルド中尉」
 たった一人、この場にはアレスよりも上手の人間がいた。
「人事にはコネがなくても、コネを持っている人は他にも多くいるからね。その辺りを固めなければ、こうして話すわけもないだろう」

 まだまだ甘いねと微笑をするヤン・ウェンリーに、初めてアレスは顔をゆがめた。
 仮に彼らが知ったのがこのタイミングであれば、いかに上層部と言って止めることはできなかったはずだ。
 一中尉の人事など、気にする人間があろうはずもない。
 既に決まっているのであれば、それこそフォーク辺りが意気揚々と代わりにと、向かったかもしれない。
 それが動きまで察知され、人事の凍結まで持ち出してきている。
 ヤンは缶紅茶を一口飲んだ。

 アレスの苦い表情の意味を悟ったように。
「まあ。気づいたようだけど。これは私たちの意見だけではなく、もっと複雑な事情があってね。ジャン・ロベール・ラップ大尉を覚えているかい」
「ええ。先輩方の中では一番の常識人ですね」
「肯定しにくい感想をありがとう。本来はラップがそこに入る予定だったんだ。ところが体調を崩してね、代わりをということで私たちも探したわけだけれど」
「そこでシトレ大将が学生のたわごとを覚えていたというわけだ」

 残念だったな、後輩とアッテンボローが肩をすくめた。
「装備企画課に異動して、まだ半年も経っていないのですけどね」
「この件はセレブレッゼ少将も是非にと二つ返事で許可を出したそうだ」
「そこまで嫌われるようなことは……まあ、数年分の仕事を二か月くらいでセレブレッゼ少将に押し付けはしたかな」
「十分すぎだろ」

「セレブレッゼ少将も本当は出したくないとは前置きをされたようだ。ただ前線に人が足りないことも理解してくださっている。そして、君ならば活躍できると……昇進の話も、セレブレッゼ少将が強く推薦してのことだ」
「一体、何人の期待を背負わせるおつもりで」
「なに。心配いらん」
 それまで腕を組んで黙っていたワイドボーンが再び力強く言った。

「その道は作ってやると言っただろう。俺を誰だと思っている」
「そういう意味だったなら、断れば良かったですね」
 堂々とした言葉に、アレスは諦めたようにため息を吐き、手にしていた缶紅茶を飲みほした。
「わかりました。詳しい話は正式に異動の話を受けてからにしましょう。こちらもいろいろと考えておきます。さて、つまらない話はこの辺りにして、今日の目的を見に行きましょう」

 + + +

 準決勝。
 五学年次席セラン・サミュールと二学年主席ライナ・フェアラート。
 どちらも戦術シミュカルチョで順当に勝ち上がってきたチームだ。
 とはいえ、昨年のように絶対の本命がいないこともあって、分散はしているようだが。
 それぞれの筐体の正面には、大型スクリーンモニターが設置され、多数の学生が集まっている。
 すでに戦うメンバーたちは筐体の中に入っているようだ。

 今頃、勝利条件や装備の配分を行っているのだろう。
 わずか一年前のことではあるが、懐かしくも思えるし、まだ学生のような気もする。
 ま、少なくともこのタイミングでイゼルローン云々なんて話をしているとは思いもしなかったが。
 やがて、室内灯がゆっくりと消えていく。
 中央の巨大スクリーンの明かりだけが強く輝いており、今回の舞台となる戦場を映していく。

「ほう」
 と、呟いたのはワイドボーンだ。
 その隣ではヤンもどこか懐かしそうな様子だ。
 最もその懐かしさの奥にある感情までを、アレスは読み取ることはできないが。
 ま、結論的にシミュレーションの敗北などどうでもいいと思っていそうではあるのだが。

「懐かしいですね、アレス先輩」
 同調するような声が背後から聞こえた。
 こちらには目を向けず、ただ巨大スクリーンだけを見つめている。
 先ほど少しあったが、一年たてばもはや最初にあったときの幼さは影を潜め、青年といっていいほどに成長していた。むしろ今ではセランの方が遥かに幼く見えただろう。

 優し気な雰囲気はそのままにして、どこか強さも感じさせられる。
 それはそうだなとアレスは思う。
 彼は今では五学年の主席。
 アレスのように苦手科目があればその位置に立つことなどできないのだ。
 アレスの視線に気づけば、テイスティアは顔をこちらに向けた。

「作戦会議はいいのか」
「情報収集も大切なので」
「どちらが勝つと思う?」
「アレス先輩はどうですか」
「なぜ、俺に聞く」
「だって、アレス先輩の逆に賭ければ絶対にあたりますから」

「いうようになったな」
 笑顔を返す横で、スクリーンが大きな文字を映す。

『攻略戦/防衛戦』

 地図がゆっくりと広がっていく。
 本拠地と四か所の防衛施設に対して侵攻するライナ・フェアラートのチーム。

 それらを守護するのはセラン・サミュールのチームである。
 四年前――戦術シミュレーション大会の第一回戦決勝で、ヤンに敗れ、そして勝利した戦場が、目の前に広がっていった。
 

 

セランVSライナ 前編

「攻略戦……か」
 いささかの感傷をにじませながら、筐体の中でアジ・クローラーは呟いた。
 苦さを感じ、悔しさを感じ……そして、上を知った戦いだった。

 同級生は、検討を褒めてくれた。
 決勝まで残って十分すごいと。
 違う、それはヤン・ウェンリー先輩が凄いだけであって、彼は何もできなかったのだ。
 相手が悪かったと、先輩は慰めてくれた。
 違う、アレス・マクワイルドはたった一年先輩なだけで、最上級生の主席を倒している。
 自分の弱さを実感した。
 そして、上を見ることができた。

 未だに彼は同級生であるテイスティアやセランにも勝てないでいる。
 決勝まで来たのも、あれ以来初めてだ。
 才能がないと諦めることだってできた。
 だが、それはテイスティアだって同じだ。
 優秀な先輩と一緒に戦えたから。

 ならば、クローラーは、あのエルファシルの英雄と一緒に戦ったのだ。
 アレスにも、そしてヤン・ウェンリーにも下手な戦いを見せるわけにはいかない。
「全艦隊に作戦司令を送信」
 事前に入力していた作戦案と配備を送信する。
 受信のメッセージが届いて、一拍をおいた。
「総司令官、よろしいでしょうか」

「どうした、ライナ候補生。修正点か」
「ええ。細かい点は何か所かあるのですが。それよりも少し興を添えてみたいかと思慮いたします」
「珍しいな。いいところを見せたいかい」
「お答えしかねます。けれど、後悔はさせないと申し上げます」
「まずプランを送ってもらえるかい」

「そうおっしゃると思いましたので、すでに送信済みです」
「あっそ……」
 そう言って、クローラーは手元のコンソールを覗き込んだ。
 その計画を見て、クローラーはしばらく考えた。
 大筋ではクローラーの計画には一切変更はない。

 ただ、まさにライナがいうように興を添えるという一点だけだ。
 成功するか、失敗するか。
 その成否は、ライナにあるのではない。
 ほかならぬクローラー自身にある。
 ヤン先輩もこんな気持ちだったのか。

 自問自答したのは一瞬。
「面白い。できるというのであれば、賛成だ」
「では、これを実行させていただきたいと思います」
「ああ……」
 そう言って、通信を切ろうとして、クローラーは付け加える。

「私の命で、この作戦を実行しよう。他の司令官も聞いているか――私クローラー候補生が全責任をとる。だから、勝とうじゃないか!」

 + + +

「わー。四年前のテイスティアと同じか!」
 子供のように無邪気に、セラン・サミュールは言葉を口にした。
 楽しそうに鼻歌を歌いながら、しかし、手元のコンソールは的確に作戦を立てていく。

 口調も様子も子供のようだ。
 けれど、目と口調は違った。
 親友であり、ライバルであるリシャール・テイスティア。
 けれど、一学年からの同級生である彼を、意識して、そして初めて嫉妬という感情を覚えたのは、きっと最初のシミュレーション大会だ。

 アレス・マクワイルドの名前は、おそらくは上級生以上に下級生に伝わっていた。
 曰く、賭け三次元チェスで常勝不敗。シトレ校長の身包みをはがしたことがある。
 曰く、アレスが当直の時には抜け出すな。挑戦すると豪語していた五学年がいまだに行方不明らしい。
 曰く、烈火と呼ばれている。燃え上ったら誰にも手が付けられない。

 そんな人物から直々に訓練を受けられるなんて、羨ましかった。
 でも、彼は変わった。
 優しいのは相変わらずで、けれどしっかりと意見を言い、自分を見失わない。
 強くなったよな。

 それがアレスのおかげか、テイスティアの努力か、もはやどうでもいいことだ。
 思い出を断ち切るようにセランは視線を強く向けた。
 筐体の外、おそらくはこの戦いを見ている親友のもとへとだ。
 一年前。
 アレスに立ち向かった姿は、同学年のセランでも驚くものだった。
 親友の成長は嬉しい――だが、どこかで悔しさが残っていた。

 彼には負けたくないと。
 そう思う感情を、セランは知っている。
 ライバルと。
「負けるつもりはないよ」
 親友であり、ライバルでもある薄暗い筐体の中で同級生を見て、視線をコンソールに移した。
 その前に、こちらが先だと。

 二学年の主席であるライナは、前回大会でセランと対等に戦いあった強敵で、同級生であるクローラーもまた油断をしてよい相手ではない。
 数少ないヤン・ウェンリーの教え子として、堅実に、しかし時には驚かせるような戦術を使ってくる。今まで大会の決勝戦に残れなかったのはひとえに運なのだろう。

 基本的な戦術をコンソールに打ち終えて、セランは一息。
 画面にゆっくりと開始を告げる文字が現れた。

『開戦』

 + + + 

 攻略戦――対戦する相手は防衛戦にはなるが、何度か行われていれば、どうしても基本的な戦術パターンというものが生まれてくる。
 防衛施設に対して個別に攻撃する。
 分散して防衛施設を同時的に攻撃する。

 あるいは、防衛戦と言いながらも防衛ラインの範囲外で艦隊同士が戦うこともある。
 まだ学生という身分である彼らが主体となって戦術を考えることは難しく、どうしても防衛施設に対する攻略方法といった教科書に載った手順となるのは仕方のないことかもしれない。むしろ、偽装艦を使って敵戦力を引き吊りだし、本拠地を攻略するなどと考えるヤン・ウェンリーが異常であるのだった。
 開戦の合図に、スクリーンの下でアレスたちは見上げている。

 巨大スクリーンに映し出されているのは、全体の艦船の動きであり、その左右の小型スクリーンには、それぞれのチームから見た映像が映し出されていた。
 左の画面は防御陣営をとるセランの青い艦隊マークであり、そこにクローラーの艦隊である赤色は映っていない。右の画面はその逆といった様子であった。
「定石ではあるな」

 索敵範囲に映らないセランのチームは、ゆっくりと陣形を構築していく。
 本拠地の前方であり、前方に突出している二か所の防衛施設の後方――つまり陣地の中央にセランの艦隊五千が配置され、前方の防衛施設の前に四学年の四千を配置。左右には三学年と二学年の二千の艦隊が広がり、セランの艦隊の後方では一学年が本拠地を守っている。どの防衛施設が攻撃となった場合でも速やかに移動し、戦闘行動に移ることができる陣形だ。陣形を構築していく一方で、セランのそれぞれの艦隊が索敵艦を放ち、次第に左側の画面で移される範囲が広がっていく。

 一方でクローラーのチームは、ゆっくりとその陣形を整えていく。
 全艦隊がまとまっていく様子から分散しての攻略は取らないらしい。
 そして、動いた。
 速い。
 陣形を固めるや、クローラーの赤の艦隊が動いた。

 本拠地前方二か所、その右側の防衛施設に対して斜めから迷うことなく疾走する。
 いまだにセラン艦隊の陣形の構成途中だった。
「おいおい、賭けに出たな」
 少しの驚きをもって声をあげたのはアッテンボローだ。
 それには理由がある。

 現在、クローラーが駆け抜ける場所から目指す防衛施設の間には、セランの艦隊の姿はない。だが、もしセランがそこに陣形を敷いていればどうなるか。
戦闘態勢ではなく、移動をする艦隊は確実に発見され、セランの艦隊によって先生の攻撃を受けることになる。
 移動の態勢から戦闘の態勢に移すまでにも、時間がかかる。
 それがたとえ少数であっても、一方的な攻撃はクローラー艦隊に大きな被害をもたらすだろう。
 それも防衛施設の目の前で、だ。

 そうなれば、もはや戦いどころではないだろう。
 大きな被害を受けたのちに、他の艦隊に包囲殲滅をされることは間違いない。
 それほどに、クローラーの選択した行動は一か八かの要素が強いものだった。
 だからこそ、アッテンボローは賭けに出たと表現した。
 だが、そう思っていない人物も数人いた。
「定石というのは間違ってはいないが、時として首を絞めることになるね」

「ここまで速いとは予想もしてなかったのだろう。ま、赤の方が一枚上手というところだろうな」
 定石の陣形をとると読み、行動したクローラー艦隊。
 時間をかければ、索敵艦に発見される可能性があがる。
 わずかな迷いもない動きは見事といってもいいだろう。

 もっとも。
「マクワイルド中尉はどう思う」
 全艦隊が一丸となって進む様子を見ていたヤンが尋ねた。
「十分考えていると思いますよ、学生にしては」
「学生にしては、ね」
 ヤンは薄く笑った。
 アッテンボローが眉をひそめてヤンを見つめる。

 疑問の表情。
 それを受けて、ヤンは小さく肩をすくめた。
「結果論から言えば、今のままで十分だけれど。欲を言えば、発見された場合のことを考えてもらいたかった。今の状態だと、もし何らかの理由があって、敵が斜線にいた場合に大変なことになる」
「移動に全力を向けている状態で、遭遇した場合戦闘態勢に移行するのに数十分はかかりますからね」
「作戦の継続は難しいだろうね。マクワイルド中尉なら、どうする?」

 試すような視線に、アレスは頬をかいた。
 睨むような視線がスクリーンをとらえている。
「私なら固まらず、四学年を先頭に、遅れて他の艦隊を動かします。敵に発見された場合は、四学年が防ぐ間に、後方で戦闘陣形を整えるか、あるいは第二目標を目指します。四学年は少し大変ですけれど。で、ヤン少佐はいかがですか」
「そうだね。私だったら、二学年を先頭にして、一部にまた偽装艦を使うかな。一度派手にやっているから、相手が騙されてくれたら儲けものだし、仮に攻撃を受けても被害は少数ですむだろうしね」
「でも、攻撃力に劣るのでは。賭けに出た意味がなくなりますよ」

「それでも時間的にすれば、後方に本陣があるわけだから敵への打撃力はそれほどかわらないと思う。それよりむしろ被害を受けた場合に、次の作戦行動に支障を来すほうが怖いよ」
 隣で進む会話にアッテンボローがワイドボーンを見る。
 助けを求めるような視線だ。
 つまり、この二人は何を言っているのだと。

「何だ、貴様は。俺を試しているのか」
「ああ、いや、決して、恐ろしいことをしようと思ったわけだはないのですけどね」
「ふん。これに答えがあるわけではないだろう。アレスは成功した場合に短時間で最大の効果を与えることを目的に、ヤンの案は失敗した場合に被害を最小限に抑えることを目的に戦術を立てている。あとは好みの問題だ」

「何か、俺が異動したくなってきましたよ」
 まじかこの二人はと、学生を卒業して二年。
 いまだ二十二の若者は嘆くように頭を抱えた。

 + + +

 赤の艦隊が無人の荒野を行く。
 彼らの先輩にとっては厳しい言葉を受けたかもしれないが、それでも学生たちにとっては驚くべき光景であろう。
 全艦隊が一段となって、防衛施設を目指すのだ。

 少なくとも右前方の防衛施設は破壊された。
 誰もがそう思っていた。
 索敵艦を出していたセラン艦隊が慌てたように動き始める。
 前方四学年の艦隊が右に、同時に他の艦隊も追従するように動き始めた。
 しかし、間に合わない。

 現場でも、そしてシミュレーションであってもそれは同じだ。
 魔法何て存在するわけがない。
 動き始めてからの距離を考えれば、おそらく防衛施設が落とされた後の合流となる。
 根性を出せば間に合わせられると思うのは、よほどの馬鹿か戦争を知らない人間だけだ。
 だから、セランも十分理解していた。

「全艦隊防御施設Cは諦める。Cの後方にて敵艦隊を包囲殲滅する」
 移動しながら、各艦隊に動きを指示。
 セラン達の艦隊は、右前方――セランの指示した防御施設Cごと、クローラーの艦隊を包囲するように動き始めた。
 しかし。

 赤の艦隊は疾走する。
 防御施設Cの脇をかすめるようにして動き、そして駆け抜けた。
 形ばかりの防御施設の攻撃が、クローラーの艦隊を削る。
 だが、止まらない。
 速度をそのままに駆け抜けていく。

 それは。
「運頼みもいいところだろ。ここで電撃戦かよ」
 驚きを含み、苦い顔でアッテンボローが呟いた。

 + + +  

 攻略/防衛線における勝利条件。
 その一つが、敵の本拠地の攻略だ。
 クローラー艦隊は、まさにそれだけを目的に疾走している。

 防御施設を無視するという行動に、防御施設を取り囲もうとしていたセランの艦隊は大きく出遅れた。
 まず、四学年は防御施設Cを迂回して包囲しようとしていたため、結果として進むクローラー艦隊を後方から追う形となっている。三学年も同様に、包囲のために右側に進路をとりすぎた。疾走する艦隊はその前をあざ笑うようにすり抜けていった。
 逆側に配備されていた二学年は、間に合わず。
 結果として。

 残されたのは中央に配備していたセランの五千と一学年の千艦隊――合計、六千だ。
 対するは全艦隊が一丸となった結果、姿を見せる一万五千もの倍を超える艦隊。
 少し耐えれば、後方から包囲するために味方が来るであろう。
 だが。
「これ、持ちこたえられるかな」

 疾走する勢いをそのままに、青色の光点に、赤の艦隊が突っ込んだ。

 

 

セランVSライナ 後編



「二学年に指令」
 コンソールを叩けば、すでに目の前の艦隊は射程の範囲内だった。
 苦い顔をしながら、セランはそれでも笑顔を忘れない。
「ファイヤー!」

 一斉に光の花が咲く。
 待ち構えていたといっても、敵も馬鹿ではない。
 この地点まで最速で来て、その後に戦闘態勢に移行しながら、長蛇の形をとっている。
 形を作るならば、Iであろう。
 四学年生を筆頭としながら、ただ真っ直ぐに目指すのは本拠地だ。
 数で劣るセランは包囲をとることができない。

 薄い場所があれば、一気に本拠地まで抜かれる。
 セランは、後方に来る一学年を最後尾にして、密集の形を作った。
 花開いたのは両軍からの光の花だ。
 両軍から放たれる攻撃は、確実に味方を、敵を穿っていく。
 敵から撃たれる攻撃は、密集している艦隊に激しく激突していく。

 だが逆にこちらの攻撃は、敵の先頭を穿つばかりだ。
 その後ろからは、まるでイナゴの様に新しい艦隊が生まれ攻撃を繰り返す。
 だが、それでも動きは止まった。
 クローラー艦隊の侵攻がとまり、後方に待機していた艦隊がそれぞれ左右に広がっていく。右翼に四学年と一学年が、左翼に三学年と二学年が広がり出れば、袋を絞り込むようにセラン艦隊を左右から包囲していく。

 セランの耳に、指示を求める悲鳴のような一学年の声が響いた。
「このままでは持ちません。撤退を」
「撤退してどこに行くんだ、コービー」
 一学年生の言葉に、呆れたようにセランが返答した。
 口にはしなかったが、きっとアレスで先輩が受けた被害はこの比ではないぞと。
 とはいえ、撤退を考えるくらいに艦隊は大きな被害を受けているということだ。

 あと十分もすれば後方から味方が押し寄せてくるわけであるが、それすらも考えつかない状況であるのだろう。敵がこちらを包囲するために鶴翼の陣形を作り始めたことも、その理由の一つかもしれないが。
「全艦隊ゆっくりと後退……敵陣営を本拠地の防衛設備まで引きずり込め」
 敵への攻撃を続けながら、セランはコンソールを叩いていった。

 青の光点がゆっくりと下がる。
 それは一見すれば、押し寄せるクローラー艦隊の攻勢に押し込められたように見える。
「まだまだ甘いな。引きが強すぎる。演技が下手だ」
 ヤンとアレスの会話に目を白黒させていたアッテンボローが、胸をそらしながら言った。
 さすが撤退戦の名手。

 アレスは心の中で呟いた。
 事実過半数の人間は、その動きに騙されているのだろう。
 クローラー艦隊も、さらに重圧を強めていった。
 砲撃可能範囲にセラン艦隊が入り、続いてクローラー艦隊が侵入した。
 刹那。

 セラン艦隊が動いた。
 攻撃をやめて、引きずり込むように後方――本拠地の斜線からずれたのだ。
 
 + + +

「ほう」
 どこか楽しそうに呟いたのはヤン・ウェンリーの言葉だ。
 セラン艦隊が動くや、予知していたようにライナ艦隊が滑り込んだ。
 相手の動きに同期して動き出す。

 まさにライナ・フェアラートだからこそ行えた行動だろう。
 他の誰も――それが例えヤン・ウェンリーやアレス・マクワイルドですら、ここまで完璧に――一秒の狂いもなく行動することはできない。
 まさにそれは機械的に、斜線から引いたセラン艦隊に食らいついた。

 並行追撃作戦。

 ヤンが先ほど言った言葉が、スクリーンの中で生まれている。
 ライナの艦隊に合わせるように、クローラー艦隊はそれぞれセラン艦隊に肉薄する。
 振り切ろうとしても、振り切ることができない。

 両軍が入り乱れる様子に、本拠地からの攻撃もない。
「端的にどちらとも無様と申し添えておきます」
 筐体の奥で、小さな声が漏れ出た。
 それは艦隊戦からすれば無様な様子であろう。

 このような状況であれば、戦術や艦隊の動作など皆無に等しい。
 ただ撃ち、撃たれ、被害だけが拡大していく。
 だが、そうなれば有利になるのは数で多いクローラー艦隊だ。
 劣勢のセラン艦隊だけではなく、本拠地に対しても攻撃が始まった。
 本拠地の体力を示すバーが次第に下がっていく。

 たとえ後方から援軍が到着しても、現状であれば援護すらも難しいだろう。
 背後をとって撃った場合にはセランの艦隊もまたダメージを食らうのだから。
 決まったかと多くが感じる中で、テイスティアだけがじっとスクリーンを見ていた。
 その目は、どこか楽しそうで。
 そんな様子にアレスは微笑、再びスクリーンに目をやった。

 セランの艦隊は持ちこたえている。
 おそらく味方が到着するまで防戦したいのだろう。
 だが、いくらセランと一学年が頑張ったところで、数の利は明らかだ。
 次第に圧力を増す中で被弾数が多くなり、対照的にクローラー艦隊は本拠地への攻撃を継続していく。

 味方が到着するまで、本拠地を維持するのは難しい。
 ゆっくりと、圧力に押されて、セラン艦隊が後退していく。
 それは雑然というよりも、むしろ意思を持った後退だ。
 本拠地にそって動く、攻撃よりもむしろ移動を重視した――いわば、逃げだ。
 その速さにクローラー艦隊に動きにむらが生まれた。
 セランを追うべきか。

 あるいは、本拠地を攻略すべきか。
 ライナ艦隊はセランを追う選択をしようとしたのだろう。
 セラン艦隊の先頭に食らいつくように、艦隊を進めている。
 だが、その多くは本拠地の攻略へと動いた。
 本拠地の体力のゲージはすでに半分を切っている。

 仮にセランを逃したところで、本拠地を落とせば勝負は決まる。
 確かに本拠地からの攻撃は、確実にクローラー艦隊をとらえるであろう。
 だが。
 それがあっても、本拠地の攻略は確実に見えた。
 最後まで追っていたライナの艦隊が停止し、本拠地への攻撃を開始した。
 本拠地のゲージが減り、どんどんなくなり、誰もがクローラー艦隊の勝ちを想像した。

 本拠地から砲撃が吠えた。
 最後のあがきとばかり、それは一部の艦隊に大きなダメージを与え、陣形が崩された。
 だが、それで攻撃が終わるわけではない。
 本拠地への攻撃は一層に力を増すばかりだった。
「あー。それはひどい」
 のんきな声をあげて、アレスが苦い顔で呟いた。

 + + + 

 二学年がまっすぐ走れば、間に合うのは最後になっただろう。
 一番遠くから、本拠地を迂回して戻ってくる距離を考えれば間違いない。
 だが。
 惑星は引力を持っている。

 いや、惑星と名がつくものだけではない。
 巨大な球体上の物体には等しからず、引力が発生するのだ。
 それは彼らの乗る艦隊にも利用され、疑似重力という形で当たり前になっている。
 現代でも衛星や惑星探査機の加速のために使われている。
 セラン艦隊は後退した。

 そして二学年は。
 通常のコースをたどれば、最後となるだろう距離。
 だが、二学年は斜め前方から本拠地に対して、突入をした。
 それは。

 スイングバイ。

 アレスが見ていたのは、目立つ艦隊戦ではなく、その後方から近づく二学年の艦隊だ。
 誰もがクローラー艦隊、セラン艦隊を見ている。
 当事者であれば、なおさらであろう。
 誰が想像しただろうか、本拠地を迂回して正面から接近するのではなく、斜めから本拠地に突入し、加速度をもって、本拠地を周回する動きを。

 まさに三百六十度。
 おおよそ本拠地一周分の十分な加速度をもって二学年の艦隊は、クローラー艦隊の後方に突っ込んだ。

 + + + 

 残すところわずか。
 クローラー艦隊に打撃を与えたのは、そんな一瞬だった。
 後方からの突然の一撃に、後方にいた二学年、一学年の艦隊はなすすべもない。
 ついで、動き始めたのは、セラン艦隊だ。

 後方から押されて陣形が崩れた動きに、合わせるようにして前方から圧力を加えていく。
 前後から圧力を加えられて、クローラー艦隊は大きく崩れた。
 ライナ艦隊は前方で耐えている。
 だが、後方を襲われた一学年と三学年はもはや艦列をなしていない。
 数で劣る二学年が一方的に蹂躙する。

 見学者の誰もが声を殺して、それを見ていた。
 クローラー艦隊が迷ったのは一瞬。
 わずかな硬直ののちに、意思を持った動きとなった。
 それは。
「残念だな」
 ヤンが言葉にして、首を振った。

 それにワイドボーンが同意したように頷く。
 二人の様子に説明を求めるような視線をアッテンボローから向けられ、アレスは苦笑。
「あと少しという誘惑に勝てなかったのでしょうね」
 動きは生まれた。
 本拠地陥落まであとわずか。

 時間にして五分程度であろう時間に、クローラー艦隊の背後から無傷の四学年と三学年が襲い掛かる。
 本拠地に対して攻勢を仕掛けていたクローラー艦隊に逃げ場はない。
 それでもなお、本拠地を落とそうとして攻撃をするのは無念であろうか。
「愚かな選択だけれど」
 苦そうにヤンが小さく呟いた。

 たとえ本拠地を攻略したところで、ほぼ壊滅状態の艦隊が制圧できるはずもない。
 もちろん、シミュレート大会という意味では勝ちであろうが、その勝ちにはヤンは何ら喜びを見出すことはできないだろう。
 何よりも。
「二学年の後方からの攻撃がなかったら、あるいは最初にセランの艦隊を追いかけていたら別だったかもしれないけれどね」

「どちらにしろ、時間切れだ」
 スクリーンでは包囲を受けたクローラー艦隊が猛攻にさらされ、風前の灯火だ。
 本拠地の陥落まで持たないことは、誰もが予想するところだろう。
 アッテンボローの前方で三人が同じようにスクリーンを見ている。
 本拠地に攻勢をかけた時点で、この展開を呼んでいたことに驚きと呆れ、そして、わずかな恐怖を感じながら、自分ならどうしていただろうと考える。
 おそらく、アッテンボローは逃げただろう。
 最初の奇襲で敵の五学年と一学年の艦隊は損害を受けている。
 あとは後方に下がれば、有利な戦いができたはずだと。

 そのことをワイドボーンに告げれば、それも一つの考え方だなと頷きを返した。
 はっきりとしない言葉に、アッテンボローは口をとがらせる。
「なら、ワイドボーン少佐ならどうしたのです?」
「俺か。俺なら本拠地に攻撃をかけていた。だが、応援が来るまでに本拠地を落とせてみせた」
「何ですか、それは」
「ヤンであれば、敵の奇襲を察知しただろうし、こいつなら」
 口を曲げながら、ワイドボーンはアレスを見下ろした。

 顔をあげたアレスが、ワイドボーンを見る。
 睨んでいるような目つきは普通であればこいつ呼ばわりされたことに怒っているかと思うが、この後輩はこの目つきが日常なのだった。
「こいつなら最初の一撃で、終わりだ。さっきも言っただろう、要は自分と部下と相手の戦力差を見て、最善となる手は変わってくる。答えが決まっているわけではないが、一対一でシミュレートしていると気づきにくいものだ。まったく、これを考えた奴は本当に性格が悪い」
「それについては、同感ですよ。先輩」

 アッテンボローのため息に呼応するように、準決勝が終了を告げた。

 + + + 

 戦いには敗者と勝者がある。
 勝者は素直に勝利を喜び、そして、敗者は。
 筐体が相手も、誰もすぐには外には出てこなかった。
 あと少し。
 差は紙一重であって、天秤がわずかでも傾けば勝利も可能であっただろう。

 だが、その紙一重が絶望的な境となって勝者と敗者を分けていた。
 のろのろと最初に動き始めたのは、この艦隊の司令官であるクローラーだ。
 謝罪の言葉を口にして、仲間に声をかけていく。
 その足取りは非常に重い。
 いや、彼だけではない。
 筐体から立ち上がった者たちの中に、笑顔を浮かべているものは皆無であった。

 後悔を浮かべるもの。
 悔しさを滲ませるもの。
 あるいは、いまだ呆然とスクリーンを見るもの。
 浮かぶ表情は様々であるが、その動きは重いものだ。
 わずかであったため悔しさも大きい。
 この敗北をどう捉えるかだけど。

 最後に、ライナ・フェアラートが姿を見せた。
 どこか疲れているようではあるが、そこに感情の色は見えない。
 白い肌のままに動かぬ表情がそこにはあった。
 クローラーの謝罪に対して、頭を下げる。
 おそらくは謝罪の言葉。

 だが、周囲の落ち込みとは全く対照的な姿がそこにあった。
 あのヤン・ウェンリーでさえ、負けた時は若干の苦さを残していたのだが。
「声をかけないのですか、アレス先輩」
 アレスの背後から控えめな声が聞こえた。
 振り返ればヘイゼル色の瞳が、どこか遠慮がちにアレスを覗き込んでいた。

 それを一瞥すれば、アレスは再び視線を戻す。
 仲間たちを慰めるように、静かに声をかける姿があった。
 その声は至極冷静であり、的確なものだ。
 どこが悪かった。

 どうすればよかったか。
 まるでその場で感想戦をしているかのように。
 淡々と、淡々と。
 一切の感情を見せずに、口にしている。
 女性に対する嫉妬か、陰では氷の女王とまで言われているらしい。

 だから。
「やめておく。悔しがっている姿は人には見られたくないだろうから」
「え」
 短音の疑問に、アレスは首を振った。
 いつも以上に冷静に努める様子に。
 そして、拳を握り占める様子に。
 こちらに視線を向けず、ただただ強くあろうとする様子に。
 
 きっと大丈夫。
 間違いなく彼女は強くなるだろう。

 

 

新型旗艦

 戦術シミュレーション大会は、リシャール・テイスティアが、セラン・サミュールを降して、優勝となった。
 決勝戦は架空の星系を舞台にした遭遇戦。
両艦隊による艦隊決戦。
 両軍とも決勝にふさわしい戦いを見せたが、リシャール・テイスティアの堅い守りをセラン・サミュールは崩すことができず、最終的に艦隊数の差でテイスティアが勝利した。
 さらなる成長を見せるテイスティアに、アレスは喜びを浮かべ、ワイドボーンはどことなく、得意げに。

「天性の危機回避能力にプラスして、今まで貴様やヤン、それに俺の猛攻を受け続けていたのだ。これくらい当然だろう」
 と胸を張った。
 そう聞けば、テイスティアに悪いような気がするから不思議だ。
 まあ、それのおかげで優勝することになったのだから、本人もきっと喜んでいるのだろう。
 そんなテイスティアの活躍に、一番目を細めたのはヤン・ウェンリーだった。

「今後は楽ができそうだ」
 ヤンからすれば奇策に頼るよりも、単純に艦隊戦での実力があることの方が喜ばしいことなのだろう。どこかほっとしたような様子であったが、まず楽ができないことは間違いないのであるが、そのことはアレスの胸にしまっておいた。
 そうして、戦術シミュレート大会が終了し、アレスにも日常が戻ってくる。
 ワイドボーン達から聞いた異動までは、実質二か月ほど。
 とはいえ、アレスの仕事は一連の事件で終息を迎えている。

 本来であれば次の任務に備えるべきであろうが、イゼルローン攻略戦は一応ではあるが秘密の扱いだ。正式な命令が出るまで、アレスができることなどなく、必然的に同じ課の仕事を手伝うこととなった。
 もっとも。
「はい、マクワイルドですが。ええ、その件については先日お話したとおりになります。無理ばかりすみませんが、お願いします」
 彼の専門は軍人であり、だが、事務の仕事も十二分にできる。
 つまりどちらか一方の視点だけではなく、どちらともの視点になって考えることができるということだ。

 ましてや、これは前世の仕事柄であったが、アレスは良い意味で人使いがうまい。
 単に無理だけを押し付けるのではなく、相手の無理もできる範囲で聞いて、仕方がないなという雰囲気にもっていく。
 それは同僚に対しても、同じであった。
 ともすれば仕事を奪ったといった妬みが発生する可能性があるが、相手を見ながら自然とした行動は、妬みよりも恩に感じる人間の方が多かった。
 必然的に仕事の調整や意見を求められることが多くなり、それをこなせば、さらに仕事が増えている。

 端的に言えば、仕事があった時よりも仕事が増えていた。
 まあ、仕事が増えるのは前世でもそうだったなと懐かしさを感じる。
「マクワイルド中尉」
「はい――。えっと」
 受話器を置いて、振り返れば、馴染みのない姿があった。
 確か別室でアレスと同様に特別な任務を割り振られて、仕事をしていた。

 そう考えて、ウォーカーと同じ少佐待遇の技官であることを思いだす。
 まだ若く理知的な要望をした青年だった。
「何でしょう、スタイナー技術少佐」
「少し時間良いだろうか」
「ええ。ちょうど片付いたところで、どうぞ。少し汚いですが」

 簡易椅子から書類をどかし、乱雑に並べられたファイルの山を片して、椅子をすすめた。
 そんな様子に、スタイナーは苦く笑みを作りながら、椅子に座った。
「忙しそうだね」
「自分が何をしているか、たまにわからなくなりそうですけど」
「見ればわかるさ」
 置かれた資料の山は多岐にわたる。
 新装備の購入計画や、契約書、予算獲得の資料もあった。
 スタイナーにしてもめまいがしそうな光景だった。

「だが、そのおかげで他の人は早く帰れるようになったと喜んでいたよ。ここと予算課は特に忙しい部署だからね。毎年体を壊す人が多いのだよ」
 装備企画課は同盟全体の装備品を統括する部署だ。
 その仕事は新装備の企画や配備計画、調達まで多岐にわたる。
 だからこそ、他の後方勤務本部の中でもセレブレッゼのような有能な人間が配置されるし、階級も少将があてられている。
 だからといって、体調を崩すほどまでに忙しい部署もどうかと思うが、人員の増員をしようにもどこも人手不足だ。

 それは同盟全体にしても言えることであるのだが。
 しかし、この忙しい部署にアレスを配置させるなど、フォークは本当に細かいところまで気が利くようだ。
 体を壊せば儲けものとでも考えたのだろうか。
その配慮を違うところで活用してもらいたいものだが。
「忙しいところ悪いが、意見がもらいたい」
「ええ」

 と、渡された資料を受け取れば、それは新造艦の仕様書であった。
 細かなスペックや数値が記載されたそれを一読すれば、アレスの視線を受けて、スタイナーは言葉を続けた。
「私は昨年から旗艦級戦艦の更新作業を行っていてね。今の旗艦級戦艦が開発されてからもうずいぶん経っている。情報部では帝国が新型戦艦を開発しているとの情報を得たらしくてね。同盟も遅れないようにとの、政府の命令だそうだ」
 そこでスタイナーは大げさに肩をすくめた。

「できるだけお金をかけずにという厄介な注文付きでね。で、残念なことに私が各部をまたいでの意見調整を行っている。今渡したそれが、科学技術部から先日あがってきた仕様書だ」
「それはご愁傷さまです。予算がないのがよくわかる仕様ですね」
「それだけでわかるとは、たいしたものだ。言い訳させてもらうならば、各部と妥協点をすり合わせた苦肉の策ではあるのだが」
 見せられた資料は、過去の戦艦に比して巨大なものだった。

 戦艦というよりも、むしろ宇宙空母に近しい大きさであろう。
 それがスタイナーの語った苦肉の策。
 必要な出力を大きくするために新しい機関部を開発するのではなく、既存の宇宙空母のもの改良することを前提に作られたのだろう。
 大型であるため、砲門数はこれまでの艦船の中で最も多く、それが多段式となって容赦のない攻撃を可能としている。
 まさに戦闘力では折紙付き。

「とはいえ、私は軍の専門家ではないのでね。ここで本職の意見も聞かせてもらいたいと思ってね」
「そうですね。このまま上にあげても、そのまま開発までいけると思いますけどね」
 微妙なニュアンスをもって、アレスは言葉を口にした。
 だが、それにスタイナーはわずかにも喜びを浮かべず、逆に表情に苦みを浮かべる。
「遠慮はいらない。正直な意見を聞かせてもらいたい」
「上がまず見るのは、目新しさと費用でしょうからね。その点では戦闘力という利点もありますし、安く抑えていますからクリアしています。まあ、セレブレッゼ少将は苦い顔をされるでしょうけど、それでも許可は出されると思いますよ。そうなったら、あとは止まることなく、ぽんぽんとサインをもらって、開発までいけるでしょう」

 スタイナーは大きく息を吐いた。
「マクワイルド中尉。実はこの案の段階で、セレブレッゼ少将にも見ていただいている。そこでもらった言葉は、君が言ったように同じような反応だった。これでいいというならば、サインをするがと……教えていただきたい、何がだめなのだろう」
「その理由はスタイナー技術少佐もご存知だと思いますよ。まあ……」
 その戦艦のことは聞いてはいたが、実際に経験し、見ると問題点が大きく理解できる。
 もっとも理解したところで、毎年かかる予算と人員の減少により、同盟はこれで進めるしかなかったかもしれないが。

「問題というか、問題以前というか。これ軍港に係留できないでしょう?」

 + + +

 新型実験艦。
 高出力のエンジンを備え、その戦闘力は同盟と帝国の中でも有数のものになるであろう。
 実際に、自由惑星同盟が帝国に占領された際に、戦闘力を危惧されたある艦はバーラトの和約で解体される対象となった。
 トリグラフ。
 その名前をアレスは知っている。

 だが、こうして実物の仕様書を見れば問題がないわけでもない。
 いや、はっきりといえば問題だらけであった。
 幅が広いため、被弾面積が大きいこと。
 そして、何よりも既存の軍港に係留することが難しいということだ。
 出力が宇宙空母並みであれば、幅まで宇宙空母並みにあるのである。

 既存の戦艦用の軍港に無理に入れようとすれば、四つ折りにして折りたたまなければ無理だろう。かといって、宇宙空母用の軍港に入れたところで、戦艦と宇宙空母ではそもそも修繕方法や整備方法に差異があるため、そのままでは使えない。
 つまり、建造はできたところで満足な運用は難しい。
 その点を指摘されれば、スタイナーは苦い表情のままではあるが、眼鏡の位置を直し、気持ちを落ち着けるように言葉を続ける。

「それは今後に同戦艦が増え次第、軍港基地を随時改修していくよう、来年度以降に予算を計上する予定をしている」
「失礼ながら新型旗艦を建造する傍らで、軍港の改修工事も行うと。どれくらいの予算がかかるか計算はされましたか。新しい動力機関の開発の何百分の一ですか」
「それは今後の経済政策……いや、やめておこう。こんなところで机上の空論を語ったとしても誰も喜ばない。そうだな、私もわかっている。これを上にあげれば私の仕事は終わるかもしれないが、その結果は誰も喜ばない現実だ。次の担当が四苦八苦するのが目に浮かぶ……手放しに喜ぶのは、新型旗艦に新しく乗れる提督くらいだろう」

 その提督すらも喜ぶことはなかったのであるが、アレスは触れることをやめた。
 代わりに、そもそもと接続詞をつければ、
「個人的には旗艦に戦闘力は求めていません。これ単体で突っ込んで戦うわけがありませんし、配下の艦隊がいることが前提でこその旗艦ですからね。むしろ旗艦が破壊された時のリスクを考えたら、攻撃力より防御力の方があったほうがありがたいでしょうし」

 と、仕様書に添付されている完成予想イメージの写真を見ながら。
「これほど目立てば、いい的になりそうですよね」
 飾りのない言葉に、スタイナーは大きくため息を吐いた。
 返された書類を手にしながら、顔をしかめている。
「ここまで聞いたから、ついでに聞きたいが。マクワイルド中尉はどのような旗艦がよいと思うかね」

「新型の動力機関の開発は、どの道避けては通れないと思いますよ。仮に新型旗艦の動力を宇宙空母から転用したとしても、通常の戦艦に使えるわけではないですからね。まあ、全て大型にするというのなら話は別ですけど、大きさの違う戦艦が新旧入り混じっていればまともな艦隊運用もできなくなりますし、何より同盟側の利点である機動力を損ねるよりかは、電子制御や機動性をさらに向上させたほうがいいかと。個人的には防御力をもう少しあげてもらいたいですね。今のままでは一発被弾したら、大きな被害を受けますから。あとは」

 そこでアレスは笑う。
 そうしていれば、年相応の青年の印象をもたらした。
 もっとも悪戯を楽しむような、悪い笑みではあったが。
「色がほとんど地味です。旗艦ですからもう少し目立っても問題ないかと」
 冗談めかして答える様子に、スタイナーもつられて笑った。
「だが、それだと狙われやすくないか」

「もともと各艦隊に指令するため電波を飛ばすし、識別信号でばれますよ。ばれるのは同じにしても、目立ちますからね。それを見て提督がそこにいると周囲に安心と、敵に畏怖を与えられるかと。まあ、能力次第ではその逆もあるかもしれませんけどね」
「それもそうだ」
 肩をすくめたアレスの言い分に、スタイナーは声を出して笑った。

 室内のざわめきが一瞬止まり、周囲の視線がスタイナーに集中する。
 スタイナーは口を押え、至極真面目そうな表情を作った。
 だが、表情を厳しいものに変え、
「新型の動力機関開発は私も必要だと思っているし、科学技術部も当初はそう考えていた。だが、そうなると予算が、な」

「予算課には相談しましたか」
「ああ。4月頃に見積もりをだしたら、担当には渋い顔をされたよ」
「相談したのは4月ですか。なら、ちょっと待ってください」
 と、アレスはスタイナーの前で受話器を取り上げた。

 + + + 

 予算課の師走は忙しい。
 いや、師走も忙しいと言えるだろう。
 後方勤務本部の予算関係を一手に引き受け、それの取りまとめを行っているのだ。
 だてに毎年移動したくない部署ランキングの1位を装備企画課と争っているわけではない。いや、むしろ今年の方こそひどいと言えるだろう。

 来年以降に予定していた装甲車の改修計画が一気に前倒しに動いたのだ。
 まさに優秀ではあるが、楽になるとは限らないといった後輩の予言通りだ。
 最も仕事を増やされたからと言って、彼――予算課グレッグ少佐は――やはり忙しい部署の代名詞である装備企画課に新たに配属されたアレス・マクワイルドを恨んでいるわけではない。
 汚職という罪を発見したことはすごいことであったし、こちらに協力せずに利益をむさぼるフェザーンの企業に対して有無も言わさず完全勝利を得たことは総会であった。

 数年はかかるだろう仕事をわずか数か月でやり遂げた才能には頭がさがるし、何よりも自分の部署だけではなく、他の部署にも気を遣う姿は、彼がまだ士官学校を出て一年を経ていない人間だとは、とても思えなかった。
 かといって、予算課の仕事が増えたことには違いがなかった。
「おい、スーン。電話が鳴ってるぞ。さっさと出ろ!」
「はい!」

 同じように書類をもって走るスーン・スールズカリッターに対して、強い声を出しても問題ないはずだった。
 八つ当たりかもしれないが、こんなことになるなら、もう少し早く教えておいてくれと、自分でも理不尽だなと思う怒りがあることに気づきながら、グレッグは落ち着くために購入した缶コーヒーを開けた。
「はい、予算課スールズカリッターです」
 書類片手に、電話をとるスーンの姿がある。

 また名前の訂正をするのだろうなと小さく笑いながら、一口飲む。
 苦みを残す冷たさが喉に落ちた。
「え。あ、久しぶりだね。行けるわけないってば、予算課が忙しいのは知っているでしょ」
 珍しくも砕けた声音だった。
 いつも生真面目な口調が変わるのを見て、一瞬楽し気に、しかし、続く言葉にグレッグは眉根をしかめた。

「え。ああ、うん。そうだね、まだどうするかは決まってないよ」
 若干戸惑った口調、それだけでグレッグは理解できた。
 と、言うよりも似たようなことは何度もあったからだ。
 おそらく内容は、装甲車の整備計画がなくなったことによる浮いた予算の使い道だろう。
 スーンが言ったように、その使い道は未だに決まっていない。

 それをよこせと、下手に出て、あるいは上から強く言われ、今度は親しい友人を使うか。
 ふざけたもんだと、グレッグは缶コーヒーをあおった。
 確かに予算は浮いている。
 だが、それは好き勝手に使っていいというわけではない。

 使い道がないというのであれば、返すのが当然のこと。
 使うにはそれなりの理由が必要だ。
 それがわかっていない奴が多すぎる。
 スーパーの弁当が半額になったから、余ったお金でビールでも買おうなんて、気軽に使える家庭の金ではないのだ。
 上に説明して、資料を作るのは予算課だ。

 グレッグは不機嫌な様子でスーンに近づいた。
「え。あ、わかった。ちょっと待って、いま変わるから」
 と、そこでスーンが受話器を差し出した。
 怒りが少し和らいだ。
 どうやら親しい友人にお願いではなく、一応は担当を通して話をするという筋はわきまえているらしい。

 もっとも、それで手心を加えることはないのだが。
「グレッグ少佐、その――マクワイルド中尉からお話ししたいことがあると」
「少し用を思い出した。後日かけると伝えて――」
「お電話です、少佐」
 踵を返したグレッグは、肩に手を置かれて逃げ損ねた。
 どうやら後輩への八つ当たりは自分に返ってきたようだ。

 + + +

「はい。ええ、その点は理解しておりますが、予算をあげたのは装備企画課ですし、そもそも名目上とはいえ装備の更新費用で予算を計上していましたよね。ええ、確かにそのとおりです。そこに新型の動力機関開発とは直接的には書いていません。けれど、動力機関の更新というのは装備の更新費という項目に含まれることには間違えていませんよね」
 スタイナーの目の前で、アレスがすらすらと答えていく。
 予算課の少佐の名前を尋ねていたことから、おそらくは相手は予算課なのだろう。

 内容自体も、聞いているところで言えば、端的に装甲車の更新費用で浮いた予算を動力機関の方に使わせろということが想像できた。
 確かに、その手はあったかという一方で、無理だろうとも思った。
 予算課はそんなに甘いところではない。
 けれど。

「え。いえ、確か昨年、装備企画課があげた装備の更新費用の理由付けですが、『装甲車等における不具合の改善に伴うもの』と書いています。何も装甲車に限定してはいません」
 嘘は言っていない。
 相手の反論に対して素早く、理路整然と回答をしている。
 さらにその強い声音と自信ありげな口調を聞けば、ともすればスタイナーでさえも間違いないように思えてくるから不思議だ。電話をかけてから現在まで、わずか十分ほどの会話だったが、相手から漏れ聞こえる声のトーンが明らかに弱くなっていることが分かった。

 当初は聞く耳持たないといった様子であったのに、今ではアレスの話を聞いている。
 むしろ否定の理由を探して必死に口にしているのだろうが、いかんせん相手が悪いとしかスタイナーは思えなかった。無理な理由をつければつけるほど、アレスは自信満々にさらなる否定の言葉を口にするからだ。
 あまりの手馴れた様子に、詐欺師でもしていたのかと思えてきた。

「ええ。別に無駄なことをしようというわけではないのですよ。ええ、もちろん」
 そして、アレスはにっこりと受話器の前で笑顔になった。
 それは獲物を捕らえたような攻撃的な笑みだ。
「上への説明も理解しております。こちらから詳しい事情を説明に伺いたいと思うのですが、キャゼルヌ大佐のご都合はいかがでしょうか」
 スタイナーは目を開いた。

 アレスが言った名前は、予算課の課長に次ぐ地位の人間だ。
 アレックス・キャゼルヌ。
 まだ、三十頃の若い人間であるが、その実力はセレブレッゼ少将にも匹敵し、将来は後方勤務部長も狙える有望な人間であると聞いたことがあった。
「ええ。では、こちらも説明用の資料をまとめますので、来週にお伺いします。ええ、では、どうもお時間ありがとうございました」

 お礼を言って、ゆっくりと受話器を下げるのを見て、スタイナーは受話器の向こうで担当となった人間に合掌をした。
 おそらくその場では決められないと、うまく切り上げようとしたのだろう。
そこで間髪を置かずに、上への説明を行うと、その予定を入れた。
 だが、おそらくは受話器を切った後で気づいたはずだ。
 上への説明をするということは、予算課として話を真面目に聞く必要があることを。

 さらにアレスが指定したのは、課長代理――予算課で2番目に偉い人間である。
 キャゼルヌ大佐と――そして、おそらくは説明の時には装備企画課の大佐にも足を運んでもらうことになるだろうが――こちら側の課長代理が足を運ぶことになる。
 つまり。
「予定を取り付けました。来週までに新型動力機関の開発計画と予算について、まとめてください。あとは……スタイナー少佐次第ですね」

 門前払いではなく、きちんとまとめることができれば、可能性はあるということだ。
 時間は短い。だが、可能性がないわけではない。
 手にした書類を持つ手に、力が入り、紙がくしゃりと音を立てた。
 できるだろうか、いや、これはチャンスだと思う。
 力が入るスタイナーに、アレスは肩をすくめた。

「大丈夫ですよ、キャゼルヌ大佐は目前ではなく、十年後を考えられる方です。きちんと計画をまとめ、現状の問題点をまとめれば、きっと予算課も認めてくれるでしょう。あとはスタイナー技術少佐の力次第です」
「知っているのか、キャゼルヌ大佐を?」
「学校の時に事務次長でおられたことがありましたが、直接話をしたことはないですね。でも、ヤン少佐とは親しくしていたようで、いろいろお話を伺いました」

「そうか。ありがとう、マクワイルド中尉。感謝する」
 いろいろと話したいことはあったが、まずはとばかりにスタイナーは一礼すると踵を返した。今週はどうやら帰れそうもない。だが、アレスが言ったように、この一週間でまさしく十年後が変わるであろう。
 それがどうなるか、スタイナーは手にした過去の仕様書をくしゃくしゃと丸め、ごみ箱に投げ入れた。


 

 

ある憲兵隊員の憂鬱


 フィル・コリンズ少佐。

 憲兵隊第1方面部隊の中隊長を務めるフィル・コリンズ少佐は重い足をひきずっていた。
 ここ一か月の目まぐるしい忙しさは我慢できる。
 仕事の範囲だ――いや、汚職など同盟軍人として恥ずべき行為だ。
 汚れ仕事ではあるが、それがコリンズの仕事である。
 少しばかりの忙しさは覚悟のうえである。

 だが。
 重い足は、巨大なガラス張りのビルを見上げて、コリンズの足は止まった。
 後方勤務本部。
 ここに来るのは、あの日の夜のこと以来だった。
 装備企画課からの情報によって、調査に踏み込んだ夜のことだ。

 あの時はこんなにも足取りは重くなかっただろう。
 それもこれも、あの憲兵隊司令官のせいだ。
 浮かんだ怒りに、コリンズは奥歯を噛んだ。
 装備企画課からの情報は、正確であり、さらには整備計画課が馬鹿であることもあいまって、仕事自体はスムーズに進んだ。もっとも影響力の大きさからは作業量は多く、何度かの徹夜もしたが、それだけだ。

 だが、仕事が一段落してから、憲兵隊のトップである司令官が難癖をつけ始めた。
 彼曰く、これだけの材料でマクワイルドが気づけたのがおかしいと。
 確かに装備計画課は馬鹿ではあったが、アーク社は馬鹿ではない。
 装甲車の再計画と交渉の段階で、なぜ同盟軍が関与しているか気づいたのか。
 マクワイルドが関わっていたからではないかといい始めたのだ。

 おそらくコリンズがそこにいれば、口に出していたかもしれない。
 装甲車が配備された時は、マクワイルド中尉は士官学校にすら入っていなかった。
 そもそも、そんな最悪な不具合がある装甲車があるにも関わらず、カプチェランカで命を懸けて戦い抜いたのだ。
 わずか士官学校卒業して数か月の人間が。

 残念なことながら、それを司令官に正面から言う人間は、コリンズの上司にはいなかった。
 大至急調査しますと答えて、その仕事をコリンズにぶん投げた。
 そして、今日となった。
 理由を聞くだけだろうと簡単に言ってのけた、大隊長。
 確かに通常であれば、マクワイルド中尉を呼んで理由を聞いて終わりであっただろう。

 だが。
 コリンズが調べれば、頭の痛い話ばかりが持ち上がる。
 いや、痛いで終わればいいが、下手をすれば大変なことになる問題だ。
 曰く、セレブレッゼ少将の秘蔵っ子。
 曰く、艦隊司令部からの希望により二月に大尉に昇進し、極秘任務の作戦参謀に異動。
 冗談かと思えば、それが真実であるから質が悪い。

 作戦参謀に異動したのは、艦隊司令部の希望があったからであるし、さらに士官学校卒業から一年もたたずに、大尉に昇進したのも、セレブレッゼの一言があったからだ。
 いや、昇進にはそれ以上に複雑な事情がある。
 まず後方勤務本部がアレスの昇進を提案したのは、表には出なくても、莫大な予算がかかる装甲車の整備負担をアーク社に持たせることになったのはアレス・マクワイルドの功績である。それを認めないのであれば、後方の仕事を認めないのと同じであるということだ。

 そうセレブレッゼが強く主張した。
 それだけでもコリンズは逃げたくなったが、それに対して賛同したのは星間警備隊だ。
 もとよりカプチェランカの功績により、彼の所属していたカプチェランカを管轄する星間警備隊では二階級の特別昇進を希望してきていた。最も民間には関係のない――つまり支持率が上がらないという理由によって、それ自体は却下されたわけであるが、セレブレッゼがあげた声を受けて、再び盛り返してきた。つまり、二階級昇進させるように要望した星間警備隊の判断は間違ってはいなかったと。

 そこに陸上戦隊の声も入っている。
 現在の戦争は基本的には艦隊戦が主体であり、陸上戦の数は少ない。
 その中で数少ない陸上戦での勝利――カプチェランカといえば、近年で陸上戦隊が経験した大きな戦いということで話題になることは多かった。そして、カプチェランカの残存兵の多くがアレス・マクワイルドに助けられている。
 それは遠く離れたハイネセンでも同様であった。

 つまり、下手にアレス・マクワイルドを呼び出し、ましてやそれが無罪で呼び出したとなれば、憲兵隊は、後方勤務本部はもとより、艦隊司令部、星間警備隊、陸上戦隊と様々な部署からどえらいお叱りと恨みを受けるわけだ。まったく知りたくはない裏事情であるが、もし呼び出せば当事者であるコリンズがどうなるかは想像しなくてもわかるだろう。そもそも、コリンズ自身がずっと憲兵隊にいるわけではない。
 次の異動先がセレブレッゼの下でないとは誰にも言えないわけだ。

 そうなったら、物理的ではなく精神的に殺されかねない。
 真剣に上には、マクワイルド中尉は何事もありませんでしたと言って幕を引こうかと考えた。
だが、そこは憲兵隊である。
同盟軍の不正をただす憲兵隊員が、自らの不正など許せるはずもなく、こうして重い足をひきずって、後方勤務本部の前まで来たのであるが。

 後方勤務ビルを見上げて、コリンズはこの日何度目かとなる大きくため息を吐いた。
 逃げたほうがよかったのではないかという悪魔のささやきを押しとめながら。

 + + +

「ふざけるなっ!」
 激しく物がぶつかる音がした。
 ざわめきの喧騒が一瞬で止まり、全員が声の方向に目をやった。
 音源は室内ではない。
 装備企画課を出てしばらく歩いた――そう、課長室の方向からだった。

 廊下を挟んでも聞こえるその声は、激しい怒声。
 課長室から聞こえる声の主は間違いなく、セレブレッゼのものだろう。
 問題はと、装備企画課にいる面々が周囲の顔を伺う。
 室内には見知った顔が並んでおり、退室しているものの姿はなかった。
 どこかの誰かが、セレブレッゼの怒りを買ったらしい。

 しかしながら、これほどまでにセレブレッゼが怒りを露わにするのは珍しい事だ。
 最初の怒声から落ち着いてはいるが、いまだに怒り冷めやらぬ口調が装備企画課に聞こえてきている。ざわめきが再び戻り、しかし、話されることは一体何が起こったのだろうといった想像である。
 怒りの矛先が自分たちではないことが理解できれば、そこに浮かぶのは興味。
 思い思いに適当なことを言っている。

 セレブレッゼの子供に隠し子ができたとか、飛躍すぎだろう。
 だが、楽しめるのはあくまでも責任が少ない人間ばかりだ。
 これからサインをもらいに行く予定の、あるいはそれでなくても、機嫌が悪いことに胃を痛くする人間もいる。
 そんな一人であるウォーカーも、また胃を抑えながら何とかするべく動いた。

「マクワイルド中尉」
「えっと。何でしょう?」
 書類から目を離して、アレスはウォーカーに視線をやった。
「に、睨まないでくれ。い、胃がさらに痛くなる」
「いえ、この顔はもともとですから。病院に行ったほうがいいのでは?」
「病院よりも、お願いしたいことがある。君にしかできない仕事だ。頼むから様子を見てきてくれないか」

「いや、むしろ上司のあなたの方が適任でしょう」
「無理だ。せっかく治った胃潰瘍が再発してしまう」
「お、お大事に」
 ウォーカーの悲鳴交じりの即答に、アレスは慰めの言葉しか浮かばなかった。
 少なくともウォーカーは無理だ。

 と、周囲を見渡せば、上司全員がアレスの視線を避けた。
 全員逃げたな。
 中尉に全部投げるというのはどうかと思うが、かといって室内に入る声はいまだに怒りが収まらぬようだ。まくしたてる言葉の内容は不明であるが、ただ怒っていることは間違いない。
 このままでは近いうちに、他課の野次馬が押し寄せてくるだろう。
 それはそれで面倒なことになることは間違いがなく、アレスは小さくため息を吐くと、書類を置いて、立ち上がった。

「す、すまないな」
「まあ、謝るのは言ってみてからの状況次第で。厄介なことだったら、酒でも奢ってください」
「何杯でも任せておいてくれ」
 そこだけは自信ありげな声に、アレスは小さく笑いながら、室内を後にした。
「大体貴様らはなんだ。自分たちでは知らなかった癖に、あとからきて我が物顔に。ハイエナでももう少し遠慮というものを見せる」

 廊下を出れば、怒声が言葉となって扉から漏れ出ている。
 反論を許さぬ強い口調に、相手からの返答は聞こえない。
 それでもなお続ける言葉を遮るように、強めに扉を叩く。
「いまいそがっ――」
 否定の言葉を告げる前に、アレスは扉を開けた。

「失礼しました。声が聞こえなかったものですから。何かございましたか、課長」
 素知らぬ顔で姿を見せれば、そこには顔を赤くするセレブレッゼと見知らぬ制服姿の青年がいた。よほど怒られたのだろう、角度を直角にしながら頭を下げて、顔だけがこちらに向いていた。
 誠実そうな三十半ばくらいであろう人好きのさせる表情が、今は困ったように眉が下がっていた。
「マクワイルド中尉」
 不機嫌そうに唸るセレブレッゼと助けを求めるような青年。
 それを見て。

「お邪魔いたしました」
 アレスは静かに扉を閉めた。

 + + + 

「いやいやいや! そうじゃない、お邪魔じゃない」
 慌てたような言葉が、扉から聞こえてくる。
 騒がしい声が倍増した。
 そのままにしてもよかったが、このままでは終わりそうにないため、アレスは諦めたように扉を開けた。

「マクワイルド中尉、入ってきなさい」
「失礼いたします」
 敬礼をして、室内に入った。
 頭を下げていたため気づかなかったが、室内にいた青年はアレスよりも頭一つ高かった。

 最も筋肉質な体型ではなく、細身であり、手足が長く見える。
「君にも紹介しておこう。こちら、憲兵隊のコリンズ少佐」
「憲兵隊のフィル・コリンズだ。よろしく」
 整えられたようなしっかりとした口調と態度は憲兵隊らしい姿だ。
 最も先ほどの醜態がなければの話ではあるが。

「こちらの方がマクワイルド中尉とお話ししたいということだ」
「お時間をとらせるつもりはありません」
 皮肉気なセレブレッゼの言葉に、コリンズの背筋が伸びる。
 セレブレッゼを見れば、アレスは表情を変えず、コリンズを見た。

「ええ。聞きたいことがあるのでしたら、断る理由もありませんし」
「そう言っていただけると助かります。では、少し外の方に」
コリンズが言いかけて、セレブレッゼが指さしたのは課長室に付属している会議室だ。
「そこを使うといい」
「いえ、そこまでしていただくわけには」

「いいから使え」
 不機嫌な声に、コリンズは慌てて敬礼。
「ええと、では、マクワイルド中尉。お願いする」
 恐々とした声に、アレスは息を吐き、セレブレッゼを見る。
「課長。笑いがこらえきれなくなっていますから、笑うなら部屋に入った後にしてください」

「うるさい。そう思うなら、さっさといけ」
「え」
 コリンズが固まり、セレブレッゼとアレスの顔を交互に見た。
 そこで二人の顔に笑みが形作られていることに、コリンズは心底わからないといった表情で首をかしげるのだった

 + + +

 室内の電灯をつけて、部屋に入れば、そこは簡素な会議室であった。
 部屋の主の趣味なのだろう。
 余計な飾りつけや装飾は一切なく、白い机と椅子が並ぶだけの実用的な部屋だ。
「失礼する。マクワイルド中尉も座ってくれ」

 未だに怪訝さの残る表情をしながら、コリンズが腰を下ろして、反対にアレスが座るのを見届けてから口を開いた。
「時間をとらせて申し訳ないな」
「いえ。セレブレッゼ少将も納得されていたようですからね」
「そう。まずはその理由を聞いてもいいかな」

 アレスの言葉にかぶさるように、コリンズは口を出した。
 当初の目的よりも先に、疑問に思うのはこの部屋に入る前のやり取りだ。
 アレスはセレブレッゼが笑いをこらえているという。
 だが、その数秒前までは怒りの台風の渦中にいたのはコリンズ自身であった。
 何があったのかと、その理由を問いただしたくなるのは当然のことだろう。

 それにアレスは苦笑を浮かべた。
「本来であれば憲兵隊の――失礼ですが、一少佐クラスが課長に直接会いに行くことは考えられません。私を捕まえるとか特別な密命があるなら別ですけど、たかだか一中尉と話がしたいだけなら、私の上司であるウォーカー補佐に連絡をとればいいだけです。でも、コリンズ少佐は課長に直接会いに行かれた」
「それで、不作法だと怒鳴られたわけだが」

「ええ。でも、コリンズ少佐は考えられたわけです。一中尉を呼び出したとなった場合には、下手をすれば――といいますか、間違いなく噂好きの事務官が多い装備企画課で噂になります。そして、それは避けたいとコリンズ少佐は考えられたのではないですか」
「……そうだ」
「それを防ぐにはセレブレッゼ少将に直接話を持ち掛ける。当然、怒られはするでしょうが、私を内密に呼び出すことは可能ですし、噂になることも避けられる」

 コリンズの考えを予想するかのような問いかけに、もはやコリンズは言葉もない。
 ただ苦い顔をしながら、首を縦に振った。
「セレブレッゼ少将はそれを全てご存知で、お怒りになったのだと思います」
「なら、あそこまで怒らなくてもいいだろう」
「理由の半分はわざと。ああすれば、秘密裏に私を呼べると思ったのだと思います。実際にウォーカー補佐は私に様子を見に行くように言いましたからね」

「なるほど、それで、もう半分は?」
「それは単純に不作法だったからですよ。どんな理由があっても、一少佐が課長に直接会いに行って要件を告げれば、馬鹿野郎といわれて当然でしょう」
 片目をつぶって楽しげな様子に、コリンズは顔を引きつらせ、大きなため息を吐いた。

 + + +

 調査結果に、優秀だったからと一文だけいれれば終わるような気がしたが、コリンズはハンカチで額の汗を拭い、気を落ち着けた。
 仕事はまだ終わっていないのだ。
 だが、正直なところどうやって聞き出そうと考えてきたシナリオは全て白紙に戻った。
 どう聞いたところで、結局のところこちらの意図が読まれてしまいそうな、そんな印象が目の前の男にはあったからだ。

 それに、用意された時間はそれほど多いわけではない。
「正直に言おう。私が聞きたいことは、なぜアーク社と整備計画課のつながりが分かったかだ。上がそれを気にされていてね」
「憲兵隊司令官はドーソン少将でしたか」
「私自身はマクワイルド中尉を疑っているわけではない。ただ司令官は前の部署では、捨ててあるじゃがいもの量を軽量計で図ったという噂があるくらい細かい人でね。確認を思っていただけるとありがたい」

「いえ。じゃがいもがようやく真実になったようで。ご苦労をされていますね」
 アレスの言葉に若干の疑問を残しながら、コリンズは労いの言葉に感謝を述べた。
「それで気づいた点ですか。最初に言っておきますが、整備計画課が繋がっているとわかったのは後のことです。まさか改修が前倒しになると言っているのに、そんなことがあり得ないとばかりに行動するほど、味方が馬鹿だとは思っていませんでしたから」

「ああ。それは私もそう思うよ」
 コリンズも同意をしたが、報告書にはさすがに味方が馬鹿とまでは書けないなと思った。
「気づいたのは配属されて任務を言い渡された時ですね」
「ん。聞き間違いか、マクワイルド中尉」
「いえ。私は当初異動の命令を聞いたときに、アーク社に対して装甲車の改造を負担するように交渉するものと思っていました。あるいは負担の割合をアーク社に多くするといったところでしょうか。ところが」

 アレスはゆっくりと首を振った。
 鋭い視線がコリンズを見ている。
「任務は来年度からの装甲車の改修を行うことになっていました。ご丁寧にすでに来年度の追加予算まで取ってね。すでに私の異動が決まった時点で、同盟軍の負担で改修が前提になっています」
 コリンズはメモを取っていたペンを置いて、ただアレスの言葉を待った。
 浮かぶ表情は真剣なものだ。

「新型旗艦の話はご存知ですか?」
「ああ。新たに開発を開始したという話は、ニュースで見たことがある」
「その開発も当課が担当しているのですが、4月の時点で既に動力機関の開発予算すら取れなかったそうです。なのに、それ以上に予算がかかる装甲車の改修は今年に判明して、私が異動する十月の時点で既に予算措置が取られている」
「早すぎると思ったわけか」

「ええ。確実に同盟軍とアーク社、それに、おそらくはもっと上も」
「それはマクワイルド中尉の想像かな」
「そう思っていただいたほうがいいと思います。と、言いますか。調べてもすでに証拠を処分しているでしょうしね。これについては報告するかどうかはコリンズ少佐次第です。ただそれを頭に入れておかれたほうが、今後の仕事は有意義なものになると思いますよ」

 微笑すら浮かべるアレスに、コリンズはメモを書いてから、しばらく硬直する。
 特大の爆弾だ。
 同盟軍だけではなく、政治家まで関わっているとなると一大スキャンダルだ。
 だが、それを確実に否定できない部分もあった。
 仕事柄闇にはよくかかわっている。

 そして思うのが、政治家の軍への関与の多さ。
 だが、メモしたことを正しく報告書としてあげることには躊躇いがある。
 報告書を見た憲兵隊司令官であるドーソンは一笑するだけだろう。
 だが、実際に現場で関わっているとからこそわかる。
 決して、アレス・マクワイルドが虚偽を話しているわけではないと。

「最も装甲車の改修は命に係わる問題です。現場としては、それこそ一秒でも早く治してもらいたい。予算だけが出ているのであればそうも思いますが、担当が士官学校を卒業したばかりの私一人、予算だけつけてあとは時間稼ぎをしたいのだと感じました。そう疑ったら契約書や書類を見て、それが確信になった。そんなところでいいでしょうか、報告としては」
「十分だ。むしろ聞かなかった方がよかったこともあった気がするよ」
「報告書をどうするかはお任せします。しかし」

 思い出したように笑いをこらえる様子に、コリンズは嫌な予感を感じた。
 汗を何度となく拭い、そして、迷う。
 このまま聞かずに帰ったほうがいいのではないかと。
 だが、憲兵隊員としての自負かあるいは好奇心か。
「まだ何かあるのか。できれば最後まで教えてもらいたい」

「いや、たいしたことではありませんよ。ただ契約書とかを確認していて思ったのが、不正の仕方が正直すぎて、見ていて笑っちゃいました」
「そ、そうかな。アーク社は実に巧妙にやっていたと思うがね」
「この時代はそうかもしれないですね。でも、私でしたら……」
 続いて語ったアレスの不正の手口について、コリンズは記録を残すことすらやめた。
 聞かなければよかったと思うのと同時。

 どのような不正も見破ると思っていた自信は粉々に打ち砕かれ、この男は鬼の生まれ変わりだと、コリンズは確信を持った。
 

 

閑話 それぞれ1


 シドニー・シトレ大将。

 自由惑星同盟宇宙艦隊司令部。
 艦隊司令官ともなれば個室が与えられ、分厚い机が設置される。
 豪華な部屋ではあるが、この部屋に実質いる日数を考えれば、無駄だとも感じる。
 雑談を好む彼――第八艦隊司令長官シドニー・シトレ大将にとっては大部屋の方が好きだった。
 誰も好き好んで艦隊司令官の部屋を訪ねてくるものはいない。
 ましてや雑談をしに来る人間など、皆無であった。

「つまらんものだな」
 大きな唇をへの字にして、シトレは積みあがった書類に目を通す。
 とはいえ、それもまた定型的なものであって、複雑で許可が必要なものであれば、必ず誰かが説明に来るのだから、形だけといったところであろう。
 艦隊の訓練計画や人事案をつらつらと眺めれば、眠気も襲ってくるというものだ。
「偉くなるのはいいが、書類仕事が増えるのはどうにかならんものかな」
 それがだめなら、いっそのこと部屋を大部屋に変えるか。

 書類仕事をしながらでも、雑談相手がいるというのはいいものだ。
 部下にとっては、間違いなく迷惑なことを考えていれば、扉が叩かれる音がした。
 今日の予定表を見れば、二時から来客があった。
 すっかり忘れていたと、いそいそと書類をまとめて、返事をする。
 一秒後に、厳しい顔を作った老年の男性が入室する。

 白髪をオールバックにした身長の高い男性だ。
 背中に定規を入れているかのように姿勢の正しさに、シトレは変わらないなと笑った。
「久しいな、スレイヤー少将」
「ご無沙汰をしております、シトレ大将」
 おそらくはマナー講座の教師にでもなれるほどに、一度の狂いのない丁寧な礼をして、スレイヤーは室内に入っていった。

「私が学校を出てからだから、四、五年ぶりか」
「四年と十二か月振りとなります。シトレ大将もお忙しいようで」
「何、書類仕事が厄介なだけだ。本当はもっと学校にも顔を出したかったのだがな。階級があがれば、ふらっと歩くこともできない、困ったものだな」
「そう思うなら、ずっと部屋にいてください。急な説明に伺うと、必ずどこか遊びに行っていると副官が困っていました。昨日など国防委員の予定を忘れていて、大捜索されたそうじゃないですか。可哀そうに、艦隊司令部を下から上まで走りまくったそうです。今頃は全身筋肉痛でしょうな」

「い、いや何、司令官たるものいろいろな人間と話をするというのも仕事のうちだ。それに今日は忘れてないからいいじゃないか」
「国防委員を待たせるなら、私を待たせておいてください」
「はっは、相変わらずだな。スレイヤー少将」
 厳しくも静かな怒りを受けて、シトレは笑って誤魔化そうとした。
「笑っている場合ですか。ここは学校と違って、最前線なのですよ。司令官としての自覚をですね」

 だめだった。
 むしろ火に油を注いだといってもよかっただろう。
 シトレは予想する。
 このままでは三十分近くもお説教をされることになると。
「わ、わかった気を付ける。それで今日は何かね。私もこう見えて忙しい身でね」
 何とか絞りだした言葉に、スレイヤーのこめかみがひきつった。
 息を吐くことで、怒りをコントロールしながら、それでも用件を忘れない。
 ゆっくりと近づけば、シトレが立ち上がった。
「まあ、ここでは何だし、ソファに座りたまえ。お茶はいるかね?」

「時間がないといったのは、シトレ大将ではないのですか」
「仕事の話を聞く時間くらいはあるさ」
 どこか子供っぽい言い草に、スレイヤーは嘆息。
 促されるようにソファに座り、反対にシトレが腰を下ろした。
「第五艦隊と第八艦隊の合同訓練計画です。日程は二月下旬から三月中旬を予定しています、三月の上旬からは訓練から戻っていた第四艦隊も合流する予定となっています」
「と、すると、出発は四月か」

「本来であればもう少し訓練時間を多くとりたいのが正直なところだと、ビュコック提督もおっしゃっておりました」
「希望は理解できるが」
「六月には選挙がありましたね」
 難しい顔をするシトレに、スレイヤーは首を振った。
「我々は政府の広報ではないのですけどね」
 とはいえ、命令されれば拒否することなどできない。
 時間が足りないなどと愚痴を言っても仕方のないことである。

 そのことを十分すぎるほど理解している二人は、それ以上に愚痴を言うこともなく、ただ苦い顔でスレイヤーから差し出された書類をシトレが受け取り、サインが書かれた。
「個別で訓練も進めているし、作戦司令部も大枠は決まっている。それに」
 苦い雰囲気を破るように、シトレは笑みを作った。
「あのエルファシルの英雄と、アレス・マクワイルドが入るのだ。期待を持とうじゃないか」
「マクワイルド中尉を呼んだのはシトレ大将ですか?」
「まさか。いずれはと思っていたが、まだ早いと思っていたよ」
「では、ワイドボーン少佐が」

「その意見もないことはない。希望はあったがね。とはいえ、それで決められるわけでもない。特に若い人間が作戦司令部に多いと、不満もあるからね。決まりはセレブレッゼ少将だ」
「装備企画課長ですか」
「ああ。ラップ大尉が急に離れることになって、その欠員を後方勤務本部にお願いしたわけだが、セレブレッゼ少将が是非にとおっしゃったそうだ」
「珍しいことですな。正直、マクワイルド中尉を手放すのに一番反対すると思っていました」

「後方勤務本部一筋の方だからな。良くも悪くも後方勤務を知っておられるのだろう」
 後方勤務本部は専門職の要素が非常に強いものだ。
 そのため前線で活躍したものであっても、後方勤務本部にきて体調を崩すものや満足に仕事ができないものも数多くいる。逆に仕事ができる人間は、それを任される傾向が強い。
 昇進して前線に出たとしても、何らかの欠員があればすぐに呼び戻される。
 前線能力に欠けるというのであればいい。
 セレブレッゼの様に、後方勤務のプロとして役立つことができるのだろう。

 だが、アレス・マクワイルドはどうか。
「感謝しなければいけませんな、セレブレッゼ少将に」
「マクワイルド中尉にとってはどうかわからないがね」
「確かに。イゼルローン要塞の侵攻は反対していましたからね。だが、楽しみでもある」
 期待を込めたスレイヤーが形作る笑みに、シトレは珍しいこともあると口にしようとして、口を閉じた。また、怒りを買うのはごめん被るからだ。

 + + + 

 アンドリュー・フォーク中尉。

 自由惑星同盟統合作戦本部人事部。
 私語の一切ない静かな環境で、書類をめくる音と端末を叩く音だけが聞こえた。
 電話のベルがやけに大きく聞こえる。
 だが、誰も注目することなく、ただ目の前の仕事に取り掛かっていた。
 自由惑星同盟の人事を一手に部署に配属されるものの多くは、俗にエリートとも呼ばれる存在であった。彼らが同盟軍を動かしているといっても過言ではない、それだけの権力が彼らには与えられており、また自らが未来の自由惑星同盟を支えるという強い自負がある。

「フォーク中尉」
「は、何でしょうか。マッカラン少佐」
「コーネフ少将がお呼びだ」
「課長が私を?」
「その通りだ。さっさと急げよ」
「はっ。今すぐ!」
「それと先日頼んだ奴はできているのか」

「ええ。先輩の机の上に置いております」
「ありがとう。できる奴は違うな、前の奴は一か月持たなかったからな」
「すべてマッカラン少佐の指導のたまものであります」
「そうだろう。これからもよろしく頼むぞ、フォーク中尉」
 近づいてきた男が、上機嫌に席を後にする。
 書類を整えながら、フォークは表情を変えずに、小さく舌を打つ。
 愚鈍な男だ。

 自分の仕事すらできずに他の後輩を使って、仕事を押し付ける。
 それで何人の人間が病院に通うことになったのか。
 フォーク自身も卒業してから、被害を被っていたが、それももう終わりだろう。
 自らの頼んだ仕事によって、奴は自滅するのだ。
 今回ばかりは自分でやったほうがよかったですけどね、先輩。
 遠ざかる背後を一瞥して、フォークは立ち上がった。

 課長に呼ばれたというのならば、急がなければなるまい。
 足が少し早くなる。
 人事部はエリートの集まりだと聞いてきた。
 だが。歩きながら、フォークはため息を吐く。
 なんて愚鈍な奴らばかりなのだと。
 エリートの集まりと聞いて入って、フォークは一か月でがっかりした。
 そこにいたのはただのごますりと記憶力に自信がある馬鹿どもばかりだったからだ。
 ただ偉くなるだけで明確なビジョンがない。

 相手を陥れるにしても、その理由もない。
 かといって自分は大丈夫だと思っているから、隙だらけだ。
 エリートが聞いて呆れる。
 これであれば、まだあの男の方が手を焼いた。
 そう思いかけて、フォークはそれももう終わりだが、と呟いた。
 まさか自分からフェザーンに行くなど言い出すとは思わなかった。
 何もわかっていない馬鹿なのだろうか。

 フェザーンなど行ったところで戦勲が立てられるわけでもない。
 戻ってくるときにお疲れさまと昇任はあるだろうが、それで戻ってくるまで最低でも1年はかかる。
 1年あれば、優秀な人間が実績をあげれば二階級をあげることも可能だ。
 出世の道から自分から落ちてくれるとは思わなかった。
 笑みの表情を作ろうとして、危ないとフォークは表情を元に戻した。
 課長室に向かう最中に、笑みなど作っていれば目立ってしまう。
 そうなれば、おそらく出る杭を打たれることになるだろう。
 まだ早い。杭はまだ打ちやすい位置にあるのだ。

 表情を引き締めれば、課長室に無難にノックを告げる。
「入りたまえ」
「は、失礼いたします、コーネフ少将」
 敬礼を行い、入室すると、そこには五十手前の男性の姿があった。
 課長というにはまだ若い年齢であろう。
 実際に若かった。
 そして、今後もさらに出世の余地があるということでもある。

「お呼びとお聞きしました」
「ああ。その前に……。先日頼んでおいた資料は非常にわかりやすいものだった、人事部長も非常に喜ばれていたよ」
「ありがとうございます。先輩方のご指導のおかげであります」
「謙遜しなくても大丈夫だ。君の実力は高く評価している、このまま頑張ってもらいたいものだね」
 上機嫌な様子に、フォークは深々と頭を下げた。
「それで優秀な君に仕事を一つ頼みたい」

「は。喜んで」
「ああ、詳しくはこちらに書いてある。急遽だが、フェザーンの駐在武官に一人欠員が出たのでね、その代わりの人選を選んでもらいたい」
「欠員……欠員ですか」
 フォークは若干の動揺を見せて、慌てたように書類をめくった。
 そこに乗る名前と理由の記載を見て、表情を変えないようにすることに努力を要した。
 だが、その努力は報われたようだ。
 コーネフ少将は気づいていないように、言葉を続ける。


「そうだ。急遽で悪いが、来年の4月に1名を追加することになる。難しいか」
「いえ。すぐに候補者を選考します。少なくとも年明けまでには固めておきたいと思います」
「任せたよ、フォーク中尉」
「はい。では、失礼いたします」
 敬礼を再度行い、フォークは踵を返した。
 書類を持つ手に力がこもる。

 まったく、相変わらず厄介じゃないか、アレス・マクワイルド。
 表情を隠しながら、フォークは奥歯を噛み締めた。

 + + +

 ラインハルト・フォン・ミューゼル中尉。

 イゼルローン要塞。
 直径60キロメートル。人口にして数百万――2万隻の艦艇が収納可能である軍港には、常時1万3千以上もの駐留艦隊が接舷している。表面は液体金属が用いられた対レーザー兵器用の防御を施されており、その特性から常に形を変える姿は波立つようで海とも呼ばれる所以である。
 人類の発祥と呼ばれる地球は、外から見れば青一色であったといわれている。
 黒色金属質を持った液体がうねるように動く姿に、ラインハルト・フォン・ミューゼルはまるでヘルヘイムのようだと感じた。

 あるいは墓標か。
 そもそもこのイゼルローン回廊という存在が壮大な墓地のようなものである。
 自由惑星同盟あるいは銀河帝国の双方で、百年以上の長きにわたり死者を出している。
 だが、それでもなおここにこだわるというのは、仕方がない一面もある。
 現在の標準艦艇が進める距離は時速5500万キロメートル。
およそ光速の約半分の速度だ。

 だが、それでは宇宙はあまりにも広すぎた。
 艦船がただ単純に移動するだけでは、一生をかけても首都オーディンからイゼルローンまでたどり着くことはできないだろう。自由惑星同盟の首都ハイネセンなど不可能だ。
 そこで生まれたのがワープ技術。
 ある一定の距離を、まさに無視するがごとく一瞬で移動ができる。

 だが。
 それには決して問題があるわけではなかった。
 むしろ問題がなければ、おそらく自由惑星同盟は一瞬にして消滅している。
 惑星ハイネセンの上空に銀河帝国の艦隊が一瞬で移動できれば、いかにリン・パオが優秀であったところで、お手上げであっただろう。
 第一に、距離の問題だ。

 ワープを行うには、その質量と距離に応じて必要とされるエネルギーがある。
 むろん、それは通常で移動するよりも遥かに少ないが、エネルギーにも限界というものがある。
 二つ目が、環境だ。
 ワープホールを作り出す――つまり空間を歪めるためには、周辺の安定性が求められる。
 意図的に空間を歪め始めたところに、外的な要因が加われば、運が良ければ失敗――悪ければ、そのまま永久に亜空間をさまよい続けることになる。

 そして、銀河帝国と自由惑星同盟の間に広がる空間が、まさに分厚い壁となって妨げている。
 一足飛びに跳躍するには距離が大きすぎる。
 かといって、間を挟もうにも、環境が悪すぎ、再度ワープをすることができない。
 それができるのが、フェザーン回廊であり、そして百年以上もの戦闘を続けているイゼルローン回廊ということだ。
 百年以上変わらず。

 馬鹿らしいことであるが。
「ラインハルト様」
 ゆっくりと遠ざかるイゼルローン要塞を眺めていたラインハルトは、思考をやめる。
 赤毛の青年が静かな面持ちで、こちらを見ていた。
「お邪魔でしたか」

「いや、そうでもない。つまらない考え事をしていただけだ」
「いろいろとありましたね」
 何とも言えない表情で、キルヒアイスも窓から遠ざかるイゼルローン要塞を見つめた。
 先日の、ラインハルトが昇進することとなった一件のことを思い出しているのかもしれない。
「別に考えるほどのことでもなかった」
 キルヒアイスにしては十分すぎる印象であったが、ラインハルトにとってはそうでもなかったらしい。不機嫌そうに切り捨てるような言葉が子供のようで、何を考えていたのかキルヒアイスは理解ができた。

「アレス・マクワイルド中尉のことですか」
「誰だ、それは」
 不機嫌な表情そのままに、眉を寄せながらラインハルトが答えた。
 それにキルヒアイスは微笑。
「お調べになるように言われたのは、ラインハルト様では」

「何を調べ……いや、そうか、カプチェランカの奴か」
 怪訝さを増したラインハルトの表情が明るくなり、身を乗り出すように体を持ち上げた。
 そんな様子を嬉しそうに見ながら、落ち着いてくださいと言葉にする。
 ラインハルトは照れたように、座りなおした。
「随分と遅かったじゃないか」
「申し訳ありません」

「いや、いい。反乱軍の一部隊の兵士の名前を調べるのに骨が折れただろう。それで」
 答えを急ぐ様子に、キルヒアイスは珍しいと目を開けた。
 出会って十年近くにもなるが、主君であり友人でもある彼が人に対して興味を持つというのは初めてにも思えた。
 あの戦いは敗戦であったが、彼にもそしてキルヒアイスにも学ぶべき点は多かった。
 そう考えようとして、さらに急かそうとする様子に、キルヒアイスは首を振った。
 これ以上待たせれば、拗ねた彼をなだめるのに大変になるだろうから。

 それにラインハルトの驚いた顔を見るのも久しいこと。
「お伝えしましたが。敵の指揮官の名前はアレス・マクワイルド中尉。カプチェランカで中尉に昇進後、現在は後方勤務本部の装備企画課で勤務をしているようです」
「装備企画課?」
 伝えた言葉に、しかし、キルヒアイスが望む表情を引き出すことはできなかった。
 片眉をあげたままにとどまった。
「ええ。驚きませんでしたか」

「ふん、どこにでも無能な人事というものはいるものだ。まだ若かったからな、妬まれたというところだろう。なんだ、驚かないのが不満か」
「少しだけ」
「変わったな、キルヒアイス」
「そうでしょうか」
「今までは俺がどのような顔をしてようが、気にもしなかっただろ」

 子供っぽさをだして、唇を尖らせる。
 どのような顔をしても、その美しい顔立ちが崩れることはなかったが。
 変わったのだろうかと、キルヒアイスは自問自答する。
 確かにラインハルトが言ったように、今まではラインハルトの表情を気にすることはなかった。
 いつも彼の主君は、自信にあふれ、滅多なことで表情を変えることはなかった。
 それがあるのはキルヒアイスと、彼の姉であるアンネローゼの前だけだろう。

 だが、それも一瞬のこと。
 すぐにラインハルトは表情を戻し、何かを考えるように思考にふけることが多かった。
 それは彼の進む道とその困難さを理解しているからこそ、何も言えなかった。
 いや、完璧であることが当然と思いたかったのかもしれない。
 だが。
 あの戦いで、ラインハルトは様々な顔をキルヒアイスに見せた。
 その揺れ動く表情を見て、ラインハルトがただ完璧なだけではないと理解した。
 そして、その姿を多く見たいと思うようになった。
「そうかもしれませんが、私は常にあなたの傍におります」

「当然のことだ」
 いつも通りのやり取りだが、どこか照れたような口調である気もする。
 だが、すぐに表情を引き締めると、ラインハルトは背後を見た。
 すでに高速となった艦からは、イゼルローンが豆粒のように小さくなっている。
「それに、奴とはすぐに会えるさ。ここが墓標である限り、必ずな」
「次は負けません」

「それも、当然のことだな」
 ラインハルトが挑戦的に口にして、二人は小さく笑いあった。


 

 

閑話 それぞれ2


 ドワイト・グリーンヒル中将。

 分厚い雲が恒星を隠し、濁った色をしていた。
 年も終わりを迎え、冷たい風が体をさしている。
 年末ともなれば人の姿は少ない。
 ましてや都市から離れた場所になれば、なおさらであろう。
 郊外の墓地、そこに二人の姿がある。

 暑いコートを着た男性と女性。
 一人は金色の髪を持った美しい女性だ。普段であれば晴れやかな表情も今は厳しい寒さのせいか、天候の様に曇って見えた。
 そして、隣を歩くのは一回り背の高い初老の男であった。
 元々は隣の女性と同色であったのだろうが、今は色彩をなくして白いものとなっている。

 だがしわが刻まれてもなお、過去には端正な顔立ちであったのだろう面影をいまだに残している。
 シンプルながら高級な革製の手袋をはめた手に持つのは、白い花束。
 黙ったままで歩けば、枯れた芝生を踏みしめる音だけが響いていた。
 ドワイト・グリーンヒル、フレデリカ・グリーンヒルだ。
 今や同盟軍に所属する二人の親子は、ただ黙って墓地の中を歩いていく。
 やがて、目的地が近づいたのだろう。

 二人は黙って近づけば、まずドワイト・グリーンヒルが花束を置いた。
 黙祷が行われる。
 目の前に書かれた墓石の名前は、フレデリカの母であり、ドワイトの妻のものであった。
 以前はもう少し頻繁に来ることができたのだが、ドワイト自身も昇進するにつれて忙しくなり、そしてフレデリカについては昨年から同盟軍の士官学校の候補生となった。
 こうして二人してくることができるのは、今では夏か年末の長期休暇に限られていた。
 寂しい思いをさせているか。

 そう心の中で問いかけたが、彼の妻が彼を責めたことはわずかしかなかった。
 最後は娘の士官学校の入学に反対した時だっただろうか。
 覚えている限りでは彼女自身のことで、彼を責めたことは一度もなかった。
 家にいるよりも宇宙にいるほうが長く、決してできた夫でも父でもなかっただろう。

 何せ妻が倒れた時も、彼は宇宙にいたのだから。
 だが、そんな後悔を口に出せば。


「あなたは誰よりも素晴らしい夫でした。そんな夫を責めることは誰にも許しません」


 と怒られたものだ。
 後悔すらもさせてくれないというのは、ある意味で最も厳しい罰だなと思ったものだ。
 私には出来すぎた妻だった。
 そう噛み締めるように呟き、瞳を開ければ、同様にヘイゼル色の瞳が墓石を見ていた。

 美しい少女だ。
 まだ子供っぽいところは残っているが、次第に妻に似てきたなと思う。
 一度決めたら曲げないところも、妻にそっくりだ。
 最も、彼の妻からは私に似たのだと即座に返されたのだが。

 フレデリカの瞳がこちらを見た。
 一度、頷いて返せば、二人は同時に踵を返した。
 この場所は寒すぎる。
 そして、長くいれば、ずっといたくなる。

 静かな帰り道は、再び枯れた芝を踏みしめる音が鳴った。
 しばらく歩いて、やがてドワイト・グリーンヒルは重い口を開いた。
「学校はどうだ」
「うん、厳しいけれど、楽しいわ。戦術シミュレートは残念だったけど」
「ああ。あの集団シミュレート訓練か」

 過去にグリーンヒルも教頭をした経験があったが、その当時は大会などといったものはなかった。
近年になってシドニー・シトレ大将が校長時代に取り入れたものだと聞いている。
 イベント好きなお方らしいことではあったが、
「楽しむのは結構だが、シミュレート訓練の本来の目的を忘れてはだめだ。シミュレートで勝ったところで、本番で勝てなければ意味がないのだからな」

「ええ、わかっているわ、父様。でも、私も本戦の場所にいたいと思った。みんな凄かったんだから。父様も一度見に来ればわかると思うわ」
 いささか興奮したように話すフレデリカに、ドワイトは若干の戸惑いを覚える。
 子供のガス抜き程度に考えていたのは、間違っていたのだろうか。
 だが、それよりも娘が楽しそうなことの方が嬉しかった。
 仲間に恵まれたことは良いことだ。
「友人はできたのか?」

「ええ。前にも話したことあると思うけど、凄い友達よ」
「フレデリカの話は、少し大げさすぎるからな。話半分に聞いておかないと」
「そんなことないわ」
「そういう事にしておこう」

 頬を膨らませた姿に、小さく笑った。
 息が白い。
「寒くなって来たな、今夜は暖かいものでも食べに行こうか」
「あら。せっかく一緒なのだから、ご飯くらい作るわよ」

「フレデリカ。私は暖かいものが食べたいな」
 首をかしげるフレデリカに、もう一度強く言って、ドワイトは歩き出した。
 平和な光景だった。
 願わくは――それが続くように。
 そのためにドワイト・グリーンヒルは危険なイゼルローンへと立ち向かうのだ。

 軍人である以上、娘もまたいつかは危険な場所に向かうのだろう。
 だが、あと数年であるが、平和な環境にいてくれることに、ほっとしている。
 果たして、そのことを妻は許してくれるだろうか。
 隣でうつむく顔が、上がった。
「アツアツのグラタンって、パンにはさめるかしら」

 そうではない。

 + + +

 アレックス・キャゼルヌ大佐。

 間接照明が光る薄暗い店内。
 色づいた木の壁が、年を経たことを現していた。
 丸いテーブルとソファ付きの四角いテーブルが、やや広めに配置されており、重厚な木製のカウンターの向こうには、何種類もの酒瓶が並んで、自己主張をしている。
 落ち着いた雰囲気の店内から流れるのは、はるか昔に流行した音楽だ。
 柔らかな音と落ち着いた雰囲気。
 人気店なのだろう、店内はほぼ満席の状態であった。

 カウンターで一人の男が、ちびちびとグラスを傾けている。
 溶けた氷が浮かぶグラスに入る琥珀の液体は、すでに半分以上がなくなっている。
 手に持ったグラスを回す視線は、優しいものだ。
 思慮深く、落ち着いた雰囲気を伴わせている。
「おかわりは」

「もうしばらく待とう」
 かけられた声に、小さく断りを入れ、隣の席を見た。
 ほぼ満席のカウンター席に、一つだけ空いた空白の席。
 一瞥すれば、扉が開く柔らかな鈴の音が聞こえる。
 振り返り、男性――アレックス・キャゼルヌは、小さく片手をあげた。
「ヤン。こっちだ」

 周囲に視線を這わせたヤン・ウェンリーが、キャゼルヌに気づいて、近づいた。
「すまない。ブランデーを二つ」
「ダブルでお願いします」
「かしこまりました」
 注文を受けた店員が立ち去り、入れ替わるようにヤン・ウェンリーがキャゼルヌの隣に腰を下ろした。

「お待たせしました、先輩」
「いいさ。仕事が忙しかったのだろう。大変そうだな」
「なかなか人が多いと、決まりませんね。船頭多くして――昔の人は良いことを言いました」
「おいおい。作戦開始前から失敗した例を口にしてどうする」
 呆れたようにキャゼルヌは笑い、残っていたブランデーを飲み干した。

「だが、ワイドボーンがいるんだと大変だろう」
「いえ。むしろ助かっています。キャゼルヌ先輩が知っているころの彼とは違いますよ」
「何だ。補給のことを考えずに、俺がいれば何とかなると今でも言っていると思ったが」
「それは、今も言っていますけどね」

「変わってないじゃないか」
「根本というのは。けれど、それをなすために何が必要か考えて、それを実行する力が彼にはある。みんなが天才と言っている理由もわかります」
「随分と褒めるじゃないか」

「変わりましたからね。今の彼とは戦術シミュレーターでも戦いたくはないですね。キャゼルヌ先輩こそ忙しいのではないですか?」
「まあな。この年度末に返すはずだった予算を急遽使うことになってな。いま担当は大忙しさ。今夜も徹夜だろう」
「よろしいのですか。先輩は飲んでいても」
「今日くらいは飲んでもいいだろう。それに。本来ならば、もっと早くに進められた仕事だ。最初から余った予算を返す前提で考えていたツケだ。ただ仕事をするだけで、何が必要なのかを考えていない。だから、こういう事になる。一度断られても、予算の理由付けと必要性をもって上に説明に来た装備企画課の少佐を見習ってもらいたいものだ」

「先輩が褒めるのは珍しいですね」
「それくらい馬鹿が多いということだ。嘆かわしいことだが。最も一番の間抜けはそれに気づかなかった俺だがね」
 店員がブランデーを二つ、二人の前に置いた。
 同時にヤンの前には、つまみのピーナッツが置かれる。
 多いグラスをヤンが手にして、キャゼルヌが手にしたグラスを、あげた。
「乾杯」

 どちらともなく、二人は声に出して、グラスに口をつける。
 キャゼルヌはため息混じりに息を吐いた。
「そう考えると、セレブレッゼ少将はさすがだな。今回の件といい、装甲車の改修の件といい、見事なものだ。下までよく見ていられるということだろう。忙しさを理由にして、甘えていたということだろうね、私自身も」
「単に……下が優秀だったのかもしれませんよ」
「部下が馬鹿でも優秀でも、全ては上の責任だよ、ヤン少佐。これは覚えておくといい」

「覚えておきますよ」
 ヤンが小さく笑って、グラスを傾けた。
「お子さんはお元気ですか」
「ああ、元気すぎて困るくらいさ。最近ようやく歩けるようになったからな、行動範囲も倍になった」
「大変そうですね」

「何他人事みたいに話しているんだ、ヤン。お前だってすぐにそうなるぞ」
「私はいいですよ。それに、作戦司令部にはいい人もいませんし」
「待っていても、シャルロットはお前にはやらんぞ、ヤン」
「例えシャーリー・ローレンスだったとしても、先輩をお父さんと呼ぶのはごめんです」
 ヤンが最近売れている映画女優の名前をあげて、断った。

 そのことに、キャゼルヌがむっとして、ブランデーをあおる。
 とんと音を立てて、カウンターにグラスが置かれた。
「シャーリー・ローレンスに負けるというのか」
「どうして、そこから離れないのですか」
「ふん。お前も子供を持ったら、家庭の温かさがわかるさ」
「私は子供以前の問題ですね」

「自信を持っていう事じゃないな」
 キャゼルヌは苦笑して、笑った。

 + + + 

 アドリアン・ルビンスキー自治領主

「その件は了解している。君らも、そしてあちら側も問題がないのであれば、いいことだ。むしろ、早く手を引いてよかったとも言える。長引けばもっとダメージも大きかっただろう」
「申し訳ございません」
 と、テレビの前で眼鏡をかけた青年が深く頭を下げた。

 まだ若い。年齢も三十手前の青年であろう。
 眼鏡をかけた切れ長の瞳が画面の奥からルビンスキーを見ている。
「それに報告書は読ませてもらった」
 そう語るのは禿頭の男だ。
 こちらも若い。といっても、禿頭の男――アドリアン・ルビンスキーの年齢は四十を超えている。だが、わずか四十代で帝国と同盟に次ぐフェザーンで、自治領主を務めている。

 こちらをとらえる視線をまっすぐに受けたままで、ルビンスキーは言葉を続けた。
「この件については、そちらには何らの手落ちもない。むしろ同盟軍の方が馬鹿だったというわけだ。腐敗は歓迎ではあるが、腐敗に慣れて危機感がなくなるというのも考えものだな。他山の石として、アーク社の方でも腐敗に慣れてミスをすることのないように気をつけてくれれば、それでいい。だが」
 続く言葉を言って、ルビンスキーは机上に置かれたタブレットに視線を這わせた。

 今回の件についての、詳細な報告書―-そのデータだ。
 何度か読み直したとしても、ルビンスキーの結論は契約書自体には不備は見当たらないということだ。むしろ、向こうの意見はともすれば、言いがかりにも近いものだ。
 だが、実際に担当する者にとっては言いがかりであったとしても、契約書に書かれている点をつきつけられれば、戸惑うのも無理はない。その戸惑った精神状態で無理やり反論すれば、当然その場しのぎに近くなる。

 その点を実に上手く敵はついてきている。
 おそらくは装備計画課の不正がなかったとしても、何だかんだとアース社が大きな負担を負うことになっていただろう。
 結局、契約書自体に問題はない。
 だが、契約書から派生する交渉が実に上手い。
 こうして客観的に見ているからわかることもあるが、その場にいたら理解ができたか。
 最もルビンスキー自身であれば、まず考える時間を作り出すことにしただろうが。
「見事な交渉の手際だな。軍人よりも企業人に向いている」

「小僧だと油断いたしました。最初から私が出向いていれば」
「何とかなったかもしれんが、何ともならなかったかもしれないな」
「私が信じられませんか」
「信じるか。何度も口に出したことはあるが、誰かを信じたことなど一度もないな。君はあるのかね?」

「愚問でした、失礼を」
「かまわない。それに敵を過小評価するよりも、過大評価をしておいた方がいい。たかだか中尉――いや、今度は大尉になるのだったか――どちらにしろと厄介な相手だとね」
「……いかがいたしましょう」
「ん、取り込むという事か」
「ええ、役には立ってくれそうです。だめならば、消すだけです」

 男の言葉に、しばらくルビンスキーは黙った。
 瞳だけがモニターの前の男をとらえている。
 何度か指が机を打った後。
「やめておこう。拙速に動いて何とかなるような相手ではなさそうだ。それに一度失敗しているのだろう」

「あれは邪魔が入ったからです。邪魔が入らなければ、こちらの計画通りになっていたでしょう」
「そうだろうかね」
 ルビンスキーは青年の言葉を遮るようにして、反論の言葉を出す。
「その点も報告を読んだが。むしろ相手の手の内であった気がするね」
「どういうことでしょう」
「喧嘩をさせて、しばらく仕事をさせないということだったが、喧嘩にならなかったらどうにもならないだろう」

「警官隊が来る前に全員やられると」
「軍隊と付き合って君まで馬鹿になったのかね。何も暴力だけが、事態を解決する手段ではないだろう。相手次第では階級や権力を盾にして喧嘩を止めることだってできるかもしれないし、あるいは警官隊が来るまで時間をつぶすことだってできる。または、その場で謝る――まあ、土下座でもされたら、いかに喧嘩っ早い馬鹿な軍人でも困るだろう」

「女連れでそんな無様な真似ができますか」
「報告書だけでしかみていないが、見る限り、いくら無様だろうと必要であればやるだろう。頭を下げるのは無料だからな。君は染まりすぎて、フェザーンの流儀まで忘れたのかね」
 モニターの前で男は言葉を失ったようだ。
「この件でもこちらは何も手に入れられなかったが、あちらは実にいろいろな情報を手に入れている。まず、装甲車の件の裏に何かがあるという確信を持たせただろうし。それに、そちらの暗部の一人を見られている」

「まさか。それだけで」
「ここまでの報告書を見る限り、確実にこいつは暗部の顔を見て、今頃は調べてもいるだろう。しばらくハイネセンから外して、オーディンにでもやった方がいいだろうな。できるなら担当していた仕事についても取りやめや計画の変更を考えた方がいい」
「それはいささか、過大評価ではございませんか」
「過小評価で装甲車を負担させられたことを忘れては困るな。今回は問題ないといったが、次があれば間違いなく、君の責任だぞ」

 強くそう言って、ルビンスキーはモニターのスイッチを消した。
 黒くなった画面で、禿頭の男が不満そうにモニターを睨んでいた。


 

 

艦隊司令部着任

 宇宙歴792年 帝国歴483年2月。
 人事に驚きはつきものであるが、今回ばかりは驚きはなく、予定通りアレス・マクワイルドは大尉に昇進ののち、宇宙艦隊司令部作戦参謀への異動が命じられた。
 異動については極秘で進んでいたらしく、1月の半ばに異動が命じられた時には、直属のウォーカーはもちろんのこと、セレブレッゼと課長代理以外は誰も知らなかった。
 わずか半年ほどの早すぎる異動に、知らされた装備企画課の面々は大きく驚いた。

 優秀な若手を手に入れるチャンスを失ったためか、あるいは仕事面で大幅に減っていた残業時間が戻ることになったのか、事務官の女性たちがウォーカーに詰め寄って、ウォーカーが薬をあおる姿が見られる一幕はあったものの、アレスの異動は概ね好意的に受け止められた。宇宙艦隊司令部への異動は栄転といっても良かったし、彼の仕事振りに助けられたものは多い。
 一部他の部署では仕事だけを増やして、本人は逃げていったと陰口があったようであるが、それら何も知らぬ者たちの娯楽の糧であって、次の悪口が決まるまでの一過性のものであろう。むしろ、装備企画課の次にアレスの異動を残念がったのが、一番の被害者であろう予算課であったことが、わずか半年の成果を現しているかもしれない。

 二月一日午前十時、人事部において人事第三課長から辞令が渡された。
 自由惑星同盟軍の正式装備であるベレー帽も久しぶりにかぶることになった。
 ベレー帽に苦手意識があるのは、おそらくアレス・マクワイルドが日本人だからだろう。
 この時代では正式な装備品として、イメージされるのは立派な軍人なのだろうが、日本人であった時にはなじみがなく、思いつくのは漫画家とか海外の画家だ。

 廊下でベレー帽を外して、手にしながら、固まった髪をとかすように頭をかいた。
 見栄えだけなら帝国の方が優れているというのは、やはりまず気にするのが見栄えだったからなのだろうなと思う。
 人事部の建物から外に出れば、路上で地上者が止まっており、その脇で同盟軍の制服を着た若者がたっていた。
 どこかで見たことがあるなと考えれば、それが一学年上の先輩であったことを思い出す。

 成績も上位であり、少なくともアッテンボローよりかは遥かに良かったはずだ
 アレスの姿を発見し、敬礼をする。
「ご着任おめでとうございます、マクワイルド大尉。私はリスト・アドリアネード中尉と申します。これより艦隊司令部までご案内いたします」
「ありがとう」
 手にしていたベレー帽をかぶりなおして、敬礼を返し、再び脱いだ。

 そんな様子に、リストは困惑を浮かべる。
 それでも言葉には出さずに、地上車の扉を開けた。
「ようこそ、艦隊司令部へ」

 + + +

 この時代ではほぼ自動運転で動くため、自分が運転することはまれだ。
 車内では必然的に会話が生まれる。
 本来であれば先輩でもあり、部下でもあるという環境はともすれば互いに不幸だろう。
 互いに遠慮が生まれる状況になる可能性が高かったが。

「いや、あの烈火のアレスと同じところで働けるというのは幸運なことですね。準々決勝で私の友人があたったことがあったのですが、完敗だったといっていましたよ。ま、それで稼がせてももらったのですけどね」
 その点において、運転席の人物、リスト・アドリアネードは適任であったのかもしれない。
 上官への敬語は忘れずに、しかし遠慮することもなく積極的に話かける。

 どことなく嬉しそうな様子は、艦隊司令部で年の近い人間が入ってきたことよることかもしれない。あるいは、アレスが思っている以上に、階級や年の差というものは、そこまで大きな違いではないのかもしれない。
 これは実際にアレス・マクワイルドが軍に配属してから気が付いたことだったが、この世界では比較的―-というか、異常なほどに階級が上がりやすい。

 帝国でのラインハルトの例だけではなく、ミッターマイヤーやミュラーといった有名な人間も二十代で将官まで上がっている。
 それは皇帝の発言が左右される帝国だけではなく、同盟でも同様だ。
 ヤンやアッテンボローなどは同盟の崩壊間際のヤケクソ昇進があったとはいえ、二十代で将官にあがっているし、あのドーソンですら四十代で中将の階級になっている。他にも有名なホーランドは三十代で中将だ。

 通常であれば、軍のトップを担う将官職をそこまで簡単に増やさない。
 将官が増えたところで、役職の数は決まっているからだ。
 無駄に役職を増やしたところで、仕事がなければ意味がない。
 中将の数が増えたところで、艦隊の数が増えてくれるわけでもない。
 だが、この時代ではそれを可能としている。

 いや、そうならざるべきだったのかとアレスは思う。
 戦死者だ。
 役職の数が同じであったら、その役職にいた人間が死んだ場合には当然代わりを送らなければならない。現代であれば、将軍階級の人間が死ぬことはまずありえないのだが、この時代は実に、ぽこぽこともぐら叩きのように死んでいく。将官クラスですらそうなのだから、現場の数はさらに多い。

 結果として、本来であれば時間をかけて学び、力をつけたはずの人間が何も知らぬままに役割を押し付けられて階級だけがあげていく。ヤン・ウェンリーの様に優秀であれば問題ないのだが、現実的にはドーソンとまではいかなくても、経験不足な人間が多い。
 まだ帝国であったならば、無能な貴族から優秀な平民が台頭できるという利点もあったのだろうが、同盟ではそれも期待ができない。そう考えると単に帝国と同盟の違いは、ラインハルトの台頭や戦力差以上に、絶望的な壁となって立ちはだかっているといえる。

 時間をかければ、かけるほどに戦力差は広がっていくのだ。
「どうかしましたか?」
「次の作戦のことを少し」
「さすがのマクワイルド大尉も初めてでは緊張しますか。大丈夫ですよ、私も初めてでしたが、何とかなるものです」
「そうだといいのですが」
 微笑で言葉を返しながら、窓の外から近づく、艦隊司令部をアレスは眺めた。

 時間をかければ、かけるほどに戦力差は開いていく。
 だが、そのために歴史を変えたとしても問題がある。
 というよりも、それはたった一度しか使えない切り札のようなものだ。
 歴史を変えた瞬間、それはアレスの――というよりも原作の手から離れて、無重力を漂うボールの様に新たな歴史を作り出すことだろう。
 それがどこに終着するか、実行した段階でアレスはもはやわからない。

 かといって、このまま歴史を変えなければ、作戦参謀であるアレスは死なないとしても、現場では多くの人間が死ぬことになる。

 艦隊司令部を間近に見上げても、アレスは答えを出すことはできなかった。

 + + + 

 一口に作戦参謀と言っても、全員が頭を寄せ合って作戦について討議するといったことはあり得ない。全員で作戦行動を考え、補給を考え、計画を立てるなど無駄もいいところだ。
作戦参謀内でも、それぞれの部署に分けられ、配属されたものは一つの事柄のみを検討することになる。例えば、ヤンやアッテンボローは交戦時の作戦を立案、計画する部署であるし、ワイドボーンはイゼルローン要塞接近後の、要塞の攻略作戦について陸上戦隊から送られた人員と協力して作戦を立てる部署だ。

 アレスが配属されたのは、その一つである情報参謀と呼ばれる部署だ。
 イゼルローン要塞や敵軍の情報、さらには秘密を要する訓練計画の情報統制といった事柄が担当であり、主任情報参謀のリバモア少将及び主任情報参謀代理のビロライネン大佐の元、それぞれ部署で中佐が責任者となって、仕事をこなしていた。

 情報参謀の任務は作戦の成否を決めるともいえる重要な役割であるが、その中でも訓練計画や情報統制の部署にアレスが送られたのは、まだ一年目の新人であるということもあるのだろう。
 攻略戦が始まったら、やるべきことはほとんどない。
 むろんその前にもやるべきことは多いのだろうが、他の部署に比べれば比較的責任は少ないということだ。

 クエリオ・アロンソ中佐と名乗った銀色の髪をした四十代半ばの男性だった。
 生真面目そうな表情は、軍人というよりも官僚といった印象がある。
 アレスを見る視線も歓迎というよりも、ただ淡々とした表情であった。
 その顔立ちをどこかで見たような気がしたが、アレスはさしたる印象を持たなかった。
 その後の印象が強すぎたからというのが正確なところであったが。

「ようこそ、情報参謀第五室へ」
 それが訓練計画を立てる部署の名称であるのだろう。
 大きな声と演技のような大げさな動作は、まるで役者のようだ。
 フョードル・パトリチェフ。
 人数が多すぎて、いまだに誰が登場して誰が登場しなかったか迷うことのあるアレスでも知っている有名人物である。

 巨漢で、穏やかな人柄そのままに、アレスを笑顔で迎え入れた。
 大きくやわらかな手が、アレスの肩を叩いた。
 若干痛い。
 この行動はよくあることのようで、周囲の視線もまたかといったような様子だった。
 最も声が大きいのに間違いない。

 いつの間にか眉間にしわを寄せたアロンソが、パトリチェフの背後に立っていた。
「パトリチェフ少佐。そんなに騒ぎたいなら、ここじゃなく個室を用意しようか」
「ま、マクワイルド大尉。そんなわけでさっそく仕事だ、このコピーを三十部。大至急でだ」

 そうして、アレスの初日は始まった。

 + + + 

 訓練を三月に予定し、二月の頭のこの時期は一番忙しい時期であったのだろう。
 訓練場所の選定、他の艦隊との日程調整、補給物資の依頼等、細々としたものが多い。
 その中でもアレスが一任されることになったのが、要は雑用だ。
 簡単なものではコピー、他にも細々とした申請書類や定例的な報告書の作成。
 まさしく、カプチェランカの異動前にアレスがワイドボーンに対して言ったそのままのことが仕事として目の前にきている。

 最初の一週間は、アレスはそれらをこなした。
 新人の仕事など、数十年以上前に経験したことであったが、さすがに情報参謀での仕事は初めてのことだ。知らぬことを覚え、しかしながら、基本的なことはやはりどこの世界でも変わりがない。
 与えられた仕事を淡々とこなしながら、アレスは周囲を見ていた。
 今は二分ほどでできるようになった、定例の報告書をまとめ上げたアレスは、端末の前で手を止めた。

 周囲ではみんな忙しそうに自分の仕事をこなしている。
 そうして、上がってくる報告に対してパトリチェフが適切に指示を出す。
 さすがはエリートが集まるといわれる作戦参謀ということなのだろうか。
 だが、そうしていて問題となる部分がないわけではない。
 それは作戦参謀だけであるのか、あるいは前線においては全てであるのか。
 絶望的な情報伝達の少なさだ。

 これが後方勤務本部であったのなら、他の部署の仕事は自分の仕事にも関わってくるため、細かなことでも電話や書類で情報のやり取りを行う。ところが、作戦参謀では定例的な報告はあるものの、リアルタイムで動くことが後方勤務本部と比べて圧倒的に少ない。
 同じ情報参謀同士でも、朝にその日の状況報告と任務の伝達が行われるだけ。作戦参謀同士になると、週に一度の定例会議で、互いがどのようなことをしているのか理解できるくらいである。ましてや、他の艦隊の状況などアレスが一週間艦隊司令部にいても、報告書が上がってくるほかに一度も入ってくることがなかった。

 あるいは主任参謀や艦隊司令官などの、上層部では情報の共有があるのかもしれない。
 むしろ、そうであってほしいと思うのが、アレスの正直なところだ。
 だが、周囲を見ればみんなが自分の仕事に一生懸命であり、他の部署どころか隣の人間の仕事ですら理解していなさそうだ。
 端末のカレンダーを見れば、既に二月も半ば。
訓練開始まで一か月を切り、イゼルローン攻略までは三か月を切っている。
時間はない。

 報告書の送信キーを押せば、静かにアレスは立ち上がった。

 

 

先はどこに

 フョードル・パトリチェフは困惑していた。
 それはアレス・マクワイルドが果たして優秀といっていいものだろうかということだ。
 彼は自分自らが優秀だと思ったことは一度もない。
 運がよく優秀な人物に仕え、運がよく昇進し、そして運がよく作戦参謀に配属された。

 その一方で優秀と呼ばれる人間はよく見てきてもいる。
 最近では、かのエルファシルの英雄だ。
 まだ若き英雄は、エコニアで発生した騒乱を見事な手腕で抑えた手並みは未だに覚えている。自分などはさほど役には立たなかったかもしれないが、協力できたことは喜ばしいことだった。

 そういう意味では、優秀だとの前置きをもって配属されたアレス・マクワイルド大尉も間違いなく優秀と呼んでいい人物であった。
 まず仕事に慣れてもらうために任せた雑用。

 本来であれば参謀見習いである少尉や中尉がいる中で、大尉の階級である彼がやるべき仕事ではなかったかもしれないが、それでも初めての仕事に慣れてもらうという意味と彼の性格を見るという二つの意味で彼に任せることにした。エリート意識があるならば嫌な顔一つでもしただろうそれを、彼は不機嫌になることもなく、確実にこなした。
 それだけでもパトリチェフは十分であった。

 仕事を確実にするということは、仕事を任せられるということでもあるのだから。
 仕事ぶりもさすがはセレブレッゼ少将の元で鍛えられただけはあると感心するものだ。
 これで仕事に慣れれば一月もすれば他の人間と同様に仕事を割り振ることができるだろうと考えていた。単純に楽ができると喜んでいた。

「中尉。忙しいなら、手伝う。今やっている仕事を教えてくれ」
 だが、アレスはそこで終わらなかった。
 一週間ほどしたある日、突然立ち上がると周囲の人間に声をかけていった。
 誰が何をしているのか、手伝えることはあるのかと問いかける。

 最初は誰もが一週間でわかるはずがないと思っただろう。
 パトリチェフにしてもそう思っていた。
 だが、中尉が立案していた訓練艦隊の補給計画について、後方勤務本部の経験をもって見事に修正するのをはじめとして、カプチェランカでの小隊長の経験を生かした訓練の計画など自らの持つ知識で計画に磨きをかけていった。

 そうなれば、パトリチェフのところに上がってくる報告はほぼ手直しが必要のないものだ。いくつもあって長い作業で停滞を見せていた業務が、ダムが決壊したかのように次々と進むようになり始めた。
 まさにそれは中尉と自分の架け橋であり、今後アレスに期待することであったのだが、それを言わずとも見事に担ってくれたわけだ。
 だが、単純にさすがだとパトリチェフは喜べなかった。

 もし、これが長年勤めた下士官や配属して経験の深い士官であったなら単純に喜んだだろう。だが、それをこなしているのが配属一週間の新人であることを、ただ優秀だと一言で片づけてもいいものだろうかと。とはいえ、訓練を一月後に向かえる忙しい時期では、誰もが仕事を抱えて停滞していた状況であり、それを改善してくれたのは間違いない。

 ただ優秀では片づけられない怖さがあったが、それを表情に出すことはなかった。
 深くは悩まない性格というのはパトリチェフの長所であるかもしれなかったが。 
 だが、パトリチェフを悩ましたのは、その後のことだった。
 仕事が進み始めてしばらく経って、アレスがパトリチェフに意見に来た。
 睨むような目つきを向けられれば、一瞬であるがどきりとした。

「こちらの仕事も落ち着きましたので、他の部署へ訓練の調整に行きたいのですが」
「訓練の計画については、詳細な情報を各作戦参謀と艦隊司令部に送っているし、来月には会議を予定している。わざわざ行く必要はないんじゃないか?」
「それを知って共通の認識があるのは、現在のところ上層部だけでしょう。もう少し広く情報を共有する必要があると、考えます」
 それにパトリチェフは渋い顔をする。

 アレスが言わんとしていることは理解できる。
 だが。
「あまり下まで伝達するとどこかで情報が洩れる恐れがある。上もいい顔はしないだろう」
「それは理解できます。なら、他の作戦参謀とは話をしても良いのではないかと。先日、作戦計画を作戦参謀から頂きましたが、先週のものと大きく変わっていました。訓練も近づけば簡単には変更もできません。早めに知っておいた方がいいかと思います」

 そう強く言われれば、パトリチェフが否定をする理由もない。
 了解したと頷けば、敬礼をもって踵を返した。
 そして、足を止める。
「あ。作戦計画に関係のない雑談程度なら、各艦隊とも話して構いませんか」

「え。ああ、それなら問題はない」
「ありがとうございます」
 さらっといわれた言葉に、思わず許可を出した。
 本来ならばよくないことなのであろうが、雑談くらいならば誰もがしていることだと。
 そうして。

「また、マクワイルド大尉がいないのだけれども……」
「あ。大尉なら第五艦隊の分艦隊を見に行くとおっしゃっていました」
「またか。昨日は第八艦隊の旗艦に行くといっていたじゃないか」
「ええ。その後で作戦参謀の方へ書類を出しに行くとおっしゃっていました。あ、頼まれていた書類は机の上においているとのことです。それとこちらが、訓練時の補給の修正案です。マクワイルド大尉には見ていただいています」

 差し出された書類を受け取って、パトリチェフは大きなため息を吐いた。
 決してさぼっているわけではないのだろう。
 少なくとも頼んだ仕事は片づけているし、それ以外にも部下の仕事の面倒も見ている。
 仕事の進み方も今までと変わらない。むしろ、慣れてきた分だけ早くなっている気さえするが。仕事はよくできる。だが、配属してわずか三週間で席から消えるようになった新人を、果たして優秀と呼んでいいかパトリチェフは悩んでいたのだった。

 + + +
 
「パトリチェフ少佐。マクワイルド大尉と一緒に部屋に来てくれ」
 鋭い瞳で告げられて、パトリチェフはやはりと大きくため息を吐いた。
 仕事自体は進んでいるとはいえ、中佐の目にもマクワイルド大尉が消えているのが目に入ったのだろう。実際に、マクワイルド大尉は、パトリチェフの許可を取ってから頻繁に自分の席から消えている。
 その理由をパトリチェフは決して知らないわけではない。

 事前に、今日はどこに行ってくるか周囲に伝えてから消えるからだ。
 その後に持ってくる報告書で、事細かに他部署の情報が報告される。
 つまり、こちらに正式な報告が来る前に概要が把握できる。
 残念なことながら、組織は大きくなるほど情報の伝達は遅くなる。
 艦船に故障が見つかれば、それの報告をするのに一日。そこから上を経由して、パトリチェフのところに伝わるのは早くても三日かかるだろう。だが、アレスがどこからか――いや、正確には現場で聞いているのだろうが、それを伝えてくる。

 本来ならば、無駄に終わる仕事が少なくなるのだ。
 逆にこちらの情報を伝えることで、他部署の無駄な仕事を減らしているようだ。
 アレスの長い散歩は現場の人間にはおおむね好評で、そして上司には不評であった。
 忙しいことが美徳であると考える人間には、ふらふらと歩いている人間は目立つ。
 情報参謀は暇なのかと嫌味を言われたこともあった。

 おそらくは、それがアロンソ中佐にも伝わったのだろう。
 彼は情報部畑の出身であり、現在も情報部に在籍する傍らでこちらに応援で来ている。
 寡黙ながら、非常に細かく、パトリチェフも苦手とする人物だ。
 心が重くなるのを感じながら、また散歩から帰って来たアレスに声をかける。
 中佐から呼ばれたと聞いて、さほど驚いた様子はなかった。

 随分と肝が据わっているようだ。
「なら、早く行きましょう。同じ怒られるなら早い方がいいですからね」
 どこか悪戯を怒られる子供のような顔で言った。
 そんな表情を見れば、パトリチェフは思わず苦笑する。

 元より深く考えることは苦手な性格だ。
「なに、謝ればアロンソ中佐も許してくれるだろう」
「ご迷惑をおかけします」
「最初に許可を出したのは俺だからな。気にするな」
 パトリチェフはがははと大きな笑い声をあげた。
 その様子に、どこか心配そうにこちらを見ていた部下たちが安心したように笑う。

 そんな様子に、アレスは得な性格であると同時に得難い才能でもあると思った。
 ヤンが徴用したのも理解できる。
 二人連れだって、アロンソの執務室に入った。
「随分と楽しそうだな、パトリチェフ少佐。呼び出されて、楽しい話でもされると思ったのか」
 凍てつくような声に、パトリチェフの表情が固まった。

 声が大きいというのも、損な部分もあるようだ。

 + + +

「さて、呼んだのは他でもない。マクワイルド大尉――君は他の作戦参謀に顔を出しているようだね。そんなに暇なのかと、小言がビロライネン大佐の耳に入ったようでね。ビロライネン大佐もお怒りのようだ」
「机上で仕事をしているだけでは、足りない部分があると思ったからです」
「足りない部分?」

「情報の共有化です。他の部署が何をしているかは、全て他の参謀が上にあげ、それが主任情報参謀に伝わり、私たちに落ちてくる。それでは情報の新鮮さに欠けますし、何より正しい情報とは限りません。どういった意図を考えているのか、それを理解しなければ、訓練計画など机上の空論に終わります」
「私が間違えた情報を伝えていると」
「先日、作戦参謀から敵艦隊への突入については、周囲との同調よりも速度を重視するようにお伝えいただきました」

「それが間違えだと」
 アレスは首を振った。
「いえ。作戦参謀の意見はもっとひどいものです。周囲の同調を完璧にして、なおかつ速度を現状の倍を求めているようです。で、なければ並行追撃にならず引きはがされる可能性があるとの試算でした」
 淡々と語るアレスの言葉に、冷たい相貌で見ていたアロンソの眉にしわがよった。
「それは初耳だな」

「でしょうね。ただ、現状の倍ということだけが独り歩きをして、こちらには同調性よりも速度を重視しろと連絡が来たようです。どこで捻じ曲げられたかは問題ではありませんが、それで訓練計画を立てていた場合には、訓練不足となる可能性が問題です。作戦参謀にはすぐに訂正の報告書を送るように伝えましたし、こちらもその予定で訓練計画を進めていくつもりです」
「なるほど。それが足りない部分の一例というわけか。では、艦隊司令部の方に顔を出しているのはなぜかね、暇つぶしの雑談しかしていないと聞くが」

「現場のことを知らないで、なぜ参謀ができると思うのです。戦うのは各艦隊の人間ですよ」
 冷静な指摘に対して、アレスが言葉にしたのは真っ向からの反論だ。
 隣で聞いていたパトリチェフはしたたり落ちる、汗を拭った。
 だが、アロンソは一切表情を変えず、ただ鋭い眼光でアレスを見る。
 同じように見るアレスは、目つきの悪さも相まって、相互が睨みあっているようだった。

「他の情報担当が調べた限り、作戦のことは話していないようだが。情報参謀が艦隊司令部に顔を出せば、どこからか情報が漏れるという可能性は考えなかったのかね」
「漏れるのを防ぐのが情報参謀役割でしょう。何もしなければ、一切情報は漏れません。いっその事、訓練をやめますか」
 アレスは肩をすくめた。

「それに既に勘の良い艦隊司令部の人間は、まもなく大きな戦いがあることを理解していましたよ。何十年、同じことをやっていると思っているのですか。現場の人間だって馬鹿じゃない」
「つまり各艦隊の人間にもある程度知らせる必要があると、大尉は考えるのかね」
「ええ。何も馬鹿正直にイゼルローンを攻略するとか、並行追撃作戦を行うという必要はありません。けれど、何も知らされずに上だけで話を進める必要はないと思います。実際にこのままで訓練を行ったとしても、何ら能率はあがらないでしょう。及第点には持っていけるでしょうが、それだけです。どこまで知らせるかは、訓練の必要な練度と情報統制の関係次第でしょうね。仕事は増えますが、何もせずにただ部屋にこもっているよりかはいいかと」

「なるほど」
 と、アロンソは一言そういうと、黙った。
 両手を組んで、机の上に置く。
「それが君の考えか」
「ええ――」
「違います!」

 アレスの同意の言葉に、かぶせるようにパトリチェフの大声が響いた。
「アレス・マクワイルド大尉は、問題点を指摘しただけにすぎません。だが、それに対して許可を出したのは小官です」
 ハンカチを握りしめて、パトリチェフは断言した。
「実際に彼が行動して、仕事の進捗は非常にはかどっております。それについては先日送りました報告に記載のとおり。これに問題があるとすれば、全て小官の責任です」
「当然のことだろう」

 パトリチェフの断言に、アロンソは当然といったように口を出した。
「部下の行動を把握しない上官など不要。部下の責任は全て上官の責任だ」
 そう言って、アロンソは組んでいた手を外した。
 鋭い目がパトリチェフとアレスをとらえている。
 パトリチェフは再び汗を拭った。
 動揺を隠せぬパトリチェフに対して、一切の妥協を見せずこちらを見る若い青年。

 瞳に込められた力は、何を言ったところで反論して見せるという強さだ。
 強いな、だが。
 思いかけた言葉を止めて、アロンソは言葉を紡ぐ。
「マクワイルド大尉。これからも自由に動くがいい、私が許可をする。各艦隊に連絡する情報の内容については、小官の方からリバモア少将とビロライネン大佐にお伝えしておこう。それまでは現状を維持するように、以上だ」

 パトリチェフがハンカチを額に押し当てたままに、大きく目を開いている。
 なんだと、いささか不愉快そうにアロンソが口にした。
「不思議そうな顔をするな。私は必要だと思ったことを指示しただけだ。だが」
 と、そこで冷たい視線がアレスを捉える。
 それをアレスはまっすぐ受け止めた。
「若いな。これから長い軍人生活を送るだろうが、正面から正論を言って正しいというわけではない。下手に正義感を出せば、後々に苦労することになるぞ」

 アロンソの忠告の言葉に、アレスは苦い顔を浮かべた。
 どこか達観した――そう、まるで若いのに、随分と老けた老人のような顔だ。
「長い軍人生活――ならば、私も言葉を選びます。先があるというのならば」
「どういうことだ」
「いえ、何もございません。ご忠告には感謝します、では」
 アレスが話を打ち切るように敬礼をして、静かに踵を返した。

 アロンソは驚いた表情のままに、それを見送るだけしかない。
 慌ててパトリチェフが追いかける。
「――そんな余裕はないからな」

 寂しげに、悲しげに――独り言のように言った言葉が、追いかけるパトリチェフの耳に残った。

 

 

情報参謀 会議



「では、情報参謀定例会議を始める。各々の報告の前に」
 主任情報参謀リバモア少将、主任情報参謀代理ビロライネン大佐が並んで正面に座り、囲むようにアロンソをはじめとして五人の中佐が並んでいる。
 正面でビロライネンが不機嫌さを隠さぬように、アロンソを見ている。
 その隣ではリバモア少将がいささか困ったような表情をしていた。

 何度かの会議でよく見る光景であった。
 元よりリバモア少将は人事部が長く、作戦参謀の経験はまだ尉官時代に数度しか経験がない。一方でビロライネン大佐は、参謀を長く勤めている。当然、リバモア少将は仕事についてはビロライネンに一任することが多く、情報参謀の意見はビロライネンの意見が通る。
 確か、ロボス派閥だったか。

 責めるような視線を受けても、アロンソは一切表情を変えずに、ビロライネンを見ていた。
「先日、目障りだと言わなかったかね、アロンソ中佐。いまだに小官の耳に苦情が聞こえるが」
「失礼ですが、それはどなたからです。小官の耳には情報伝達が円滑になって随分助かったという声が聞こえてきておりますが」
 真っ向からの否定に、ビロライネンが言葉に詰まった。

 情報参謀が始まってから、真っ向から否定される言葉も聞いた言葉がない。
 いや、今までアロンソもあえて言わなかった。
 そもそもアロンソは情報部から派遣されてきている身分であるし、上の階級に意見を言ったところで何も変わらないことをよく知っている。人にはよるのだろうが、ビロライネンの中では既に意見は決定していて、それに対抗したところで意見が通ることなどほとんどない。

 私も大人になったものだ。
 先の長い軍人人生との忠告は――しかし、若者から真っ向から切って捨てられた。
 先があるというのならば。
 いつから先があると思っていたのだろう。
 次の一瞬で、死ぬかもしれないのに。
 それは同盟軍に入隊して、覚悟していた事実。

 だが、その覚悟は大人になるという理由とともに消えていった。
 大人か。弱くなっただけじゃないか。
「紙だけではわからない各参謀の意見が、マクワイルド大尉がわざわざ出向くことで、その意図を正確に反映でき、実際にこちらの訓練計画に生かせています。またそれ以外にも他の参謀が相互に意見を述べることで、作戦がより綿密になったとの声が、私には聞こえておりますが」
 ざわめきが大きくなる。
 他の情報参謀も互いの顔を見るが、否定の意見はなかった。

 おそらく下からも同じような意見を聞いているのだろう。
「ビロライネン大佐が聞いた苦情というのはどこからでしょう」
 机が激しく叩かれた。
 怒りに任せた行動により、室内のざわめきが止まり、一瞬音がなくなった。
「暇なのではないかと心配する意見が各所から聞こえてきているといっているのだ。我々情報参謀が馬鹿にされているのだぞ」

「我々――情報参謀が、特にこの訓練前の時期の第五室の担当する仕事量は、作戦参謀の中でも随一の仕事量でしょうが、停滞は一切しておりません。仕事量ではなく机の前の時間での評価など、捨てておけばよろしいかと」
「何を――」
「び、ビロライネン大佐。落ち着いてください――アロンソ中佐も言葉が過ぎる」

 慌てたように言葉にしたのは、情報参謀の第一室を担当するヴィオラ中佐がなだめるように声を出した。白い肌が助けを求めるように視線をさまよわせ、止まったのはリバモア少将だ。いや、睨むように向かい合うビロライネンとアロンソ以外の視線が、リバモア少将に向いていた。
 こちらを見るなという焦燥が、誰の目にも分かった。
「ふ、二人とも落ち着きたまえ。ここは作戦を会議する場であって、喧嘩をする場ではない。うん、仕事が止まっていないのであればいいじゃないか。一大尉の動きなどに目くじらを立てる必要はない」

 そして、事なかれ主義な意見を述べる。
 正直なところリバモア少将にとっては、一大尉の動向ごときで、喧嘩をされても困る。
 別に一大尉が仕事をしていないというのならば、それはアロンソ中佐の責任だ。
 そんな雰囲気を察したのだろう。ビロライネン自身は気に食わなかったのであろうが、呻くように声を出せば、机から手を外した。
「確かに言葉が過ぎました、申し訳ございません、ビロライネン大佐」

 静かに頭を下げるアロンソに対して、ビロライネンはふんという言葉で返した。
 だが、それ以上は言葉にはせず、リバモアも反論がないと見たのか、慌てて続きを話した。
「では。会議を続けよう、まずそれぞれの担当から報告を」
「は。ではまず情報参謀第一室――帝国側の追加情報です」

 慌てたようにヴィオラが手元の書類を広げて、裏返った声を出した。

 + + +

 ビロライネンは不機嫌そうに腕を組んで黙るままで、ただ各部屋の状況報告が聞こえる。
 そこには、特段大きな内容はない。いつも通り――だが、報告の一部に他の作戦参謀の意見と現状の相違からの改善が少しずつ入っていることに、アロンソは気づいた。
 残念なことに、正面のリバモア少将とビロライネン大佐は気づいていないようだったが。
 不愉快そうにさっさと会議を切り上げたい雰囲気がありありと、わかる。
 だが、今の段階で不機嫌になられても困るのだが。

「第五室の訓練計画については順調です。先日には作戦参謀の方から修正案が来ましたが、必要とされる訓練の練度が非常に大きいものとなっておりますため、訓練時間を増やす必要はありますが。早めに分かったため、修正は可能な範囲であるかと。ところで」
 順調との言葉に安堵をしたリバモアは、言葉を区切ったアロンソを見た。
 全員の視線が、アロンソに集中している。
「下の方から、ある程度の情報を艦隊司令部にも伝えた方がいいのではないかとの意見があがってきております」

「できるわけがないだろう。そんなことをすれば、あっという間に帝国にも伝わる」
「ええ。私もそう考えておりましたが、練度をあげるためには目的意識が不可欠だとの意見があります。つまり、何も知らないで漫然と目標だけを与えられるのと、何のためにやっているのか理解するということです。むろん、全てを伝えることはできませんが、どのような訓練を行うかなど伝えるべきところ及びその範囲は、検討することも必要かと」
「で、検討はすんだのかね」

「既に伝えるべき情報と訓練内容の比較は作成しました」
 アロンソが手にしていた書類を、周囲に配っていく。
 それを見て、アロンソの周囲では紙を手にしてようやく意味を理解したのか、なるほどとの声が漏れた。
 そこには伝える対象と、実戦で訓練がどの程度役立つかまとめられている。
 つまり、現場の全員に伝えれば、訓練の結果が実戦で役立てる確率は高くなる、だが確実に情報が帝国にも伝わってしまうだろう。逆に今の状態である艦隊司令官やその周囲だけの状態であれば、突発の場合に一切の動きができなくなる可能性があると。第五室の結論としては、せめて分艦隊司令までは作戦内容を伝えるべきではないかと書かれていた。

 皮肉を言おうにも、こうまでまとめられていればビロライネンは不機嫌そうに唸って黙った。
「わかった。それについては上に報告しておこう」
 そして、リバモア少将があっさりと肯定を口にした。
 決めるのは上であって、報告するリバモア少将は何ら問題とはならないと考えたのだろう。むしろ、ここで再びビロライネンとアロンソが喧嘩し始めることの方が嫌だったかもしれない。事なかれ主義がいい意味で発揮された一面だったかもしれない。

 + + + 

 イーサン・アップルトン中将。
 第五次イゼルローン攻略戦における主任作戦参謀を務め、同時に百人近くを要する参謀を取りまとめる役割を担っている。赤色の髭を蓄えたまだ三十代半ばの男であり、堅実な仕事ぶりは空きが開けば、艦隊司令官に最も近い男として名前をあげられている。
 書類を手に持てば、アップルトンは艦隊司令長官の扉をノックした。

 帰ってくる声はない。
 もう一度ノックして、しばらく返答を待ったが、一切の動きがないことに大きく息を吐く。
「また、あの方は部屋にいないのか」
「何か用か、アップルトン中将」
「は、これはシトレ大将。ご報告があってまいりました」
「ああ。すまない、少し司令部の様子を見てきてな。すぐに報告を受けよう」

 敬礼に対して、答礼を返せば、シトレはアップルトンを室内に招き入れた。
 ソファに腰を下ろし、相対する場所を示せば、アップルトンも腰を下ろす。
 まるでどこかの情報参謀のようだなと思う。
「それで。報告というのは何だね」
「は、こちらになります」
 ため息を飲み込んで、シトレに書類を渡す。

 記載されたのは、先日情報参謀から上がってきていた意見書だ。
 内容は、第五次イゼルローン攻略における情報について、どこまでの情報をどの部署まで伝達するかと言った内容であった。そんなものは従来通りでいいだろうと、当初は一笑に付したが、内容を見てみるとアップルトンだけで拒絶することはできないと思った。
 実際にアップルトンの部署が訓練に求める練度は非常に高く、練度がより高くなれば、さらに違う作戦をとることも可能となるからだ。

 現状では作戦参謀が最低限に求める訓練練度に到達することで精一杯。
 だが、ある程度の情報を艦隊司令だけでなく分艦隊等に渡すことで、自発的に各艦隊が得意不得意とすることに対して個別に応じた訓練が行われ、練度は高まるものと意見されていた。
「可能だと思うのかね」
「作戦参謀の方でも検討をいたしましたが、結論としては検討する余地があるかと。つまり現状では情報を与えないため、訓練の練度の目標しか与えていません。しかし、艦隊にも得意不得意があり、目標を簡単に達成した艦隊はそれ以上の練度はあがりませんし、練度は結局のところ最低限のレベルに即した内容で終わる可能性が高い。一方で目的を与えることで、目標を達成した部隊はまた別の訓練を行えますし、それらを把握することで艦隊編成も柔軟なものになると」

「だが、その分情報が帝国にわたる可能性はあるわけだね」
「ええ。だからこそ、その部分の切り分けをしてもらいたいとの意見でした。正直」
 そこで自らの髭を撫でながら、アップルトンは苦笑した。
「リバモア少将がこのような意見をあげてくるとは予想外でした。言い方は悪いですが、従来どおりを重視する傾向がありましたから」
「下から言われて、何も考えずに上に流しただけということもあるな」

「その可能性もあります。が、かといって無視するわけにもいかないわけでして」
「切り分けというのが難しいものだろうな。どこまで危険性を考えて、訓練の練度をあげるか。できそうかね」
「情報参謀次第といったところでしょう。仕事が一番増えるのは情報の――訓練を担当している第五室でしょうか。その実力があるかどうか」

「だが。失敗したところで問題はないのだろう」
「ええ。特段問題はございません。これがいいのかどうかわかりませんが」
 そこでアップルトンは困ったように、苦笑を浮かべた。
 苦い表情で、首を振りながら。
「よくはないのでしょうが、従来通りとの言葉は我々にも跳ね返ってくるのです。情報参謀は今まで通りに最低限の情報だけを与えて、必要最低限の目標を達成させた。我々はその必要最低限の実力をもとに作戦を立てざるを得なかった。笑い事ではありませんが」

 アップルトンが息を吐いた。
「逆に言えば、進めて失敗したとしても、最低限の実力さえあればこちらは問題がないということです」
「なら、やってみるべきだ。それに第五室か」
 シトレは、アップルトンと対象に楽しげに笑った。
「何かおかしいことでも」
「いや。私はわからん、だが変わらぬことが、変えるというのが面白くてね」

「変わらぬことが、変わることですか」
「何でもない。だが、それは今後、我々同盟に必要であることかもしれないな」

 シトレは、手元の書類にサインをかいて、アップルトンに渡した、

 

 

永遠ならざる



 宇宙歴792年 帝国歴483年3月。
 艦隊の連携訓練の名目のもとに、第五艦隊及び第八艦隊の合同訓練が行われた。作戦参謀側から求められた必要練度は非常に高いものであったが、訓練を担当する第五室から提案され、各艦隊上層部にもある程度の方針説明があったため、互いが競い合うように訓練を始めた結果、既に目標値を達成した艦隊も出始めている。特に艦隊司令長官のシトレ大将が率いる第八艦隊、現場の叩き上げであるビュコック中将率いる第五艦隊はよきライバルとして、互いを意識している。

 アレス自身は原作での訓練練度はどのようなものであったかなどは理解していないが、少なくとも作戦目標達成の訓練に留まらなかった時点で良い訓練となったと思うし、実際に訓練計画を担当した第五室では安堵の声が漏れていた。今後は警戒行動のために遠征していた第四艦隊が合流することになるが、この分では予定通りに訓練を終えられそうだ。

 いささか不機嫌そうなのはビロライネン大佐くらいであったが、訓練計画は成功に終わったため、その怒りを第五室に向けることもできず、他の情報参謀へと向かっているようだ。第一室を担当するヴィオラ中佐が、もっと帝国の情報を仕入れて来いと怒られ、大汗をかいている。
 最も正直同盟軍の情報部は他と比較しても非常にレベルが低いと、アレスは考えている。
 記憶に残っている情報部の作戦がバグダッシュ中佐の情報操作と暗殺だ。

 軍人じゃない民間営業だってもっとうまくやる。ましてや、現代で軍が介入しているような軍属企業であれば、もっと酷いものだ。失敗して、いきなり逮捕された同僚がいたなと過去を思い出して、苦笑する。
情報部について信頼ができないのは、その一件だけではなく、本来は最も帝国の情報を手に入れられるフェザーンで、情報は全てフェザーン側を経由してのものになっている。
 それについては、今考えても致し方ないことではあるのだが。
 アロンソ中佐には悪いが、アレスは情報部を一切信用していなかった。

 情報の入手がフェザーンの気持ち次第というのは、情報部としてはどうなのだろうかと
 そもそもクーデターも、止められていないしな。
 思考するアレスの前では、今も第八艦隊と第五艦隊が相互に接敵訓練を行っている。
 並行追撃作戦の情報はさすがに漏らすことができないため、互いが敵に対して再接近して、第八艦隊が敵を引き込み、第五艦隊がそれに着いていく。それが終われば逆に第五艦隊が引き込み、第八艦隊が接近するというものだ。

 表向きは、敵艦隊をトールハンマーの斜線外へと引き込み、それに対して接近してくる敵を包囲するといった名目だったはず。
「第五艦隊の動きがいい」
 目を引くのは、第五艦隊の一部の分艦隊。
 スレイヤー少将旗下の分艦隊だ。

 敵に対する反応と、それに対する行動が非常に素早く、まさしく精鋭と言ってもいい。
 原作に名を残していない小さな戦闘でも、大きく活躍している。
 実際に訓練の光景を見れば、シミュレートとはまた違う動きがそこに広がっていた。
 隣で見ていた巨漢の少佐――パトリチェフが感嘆の声を漏らした。
「素晴らしいな」
「ええ。でも、スレイヤー少将の艦隊がネックですね」

「逆じゃないか。非常に動きがいいが」
「良すぎるから、周囲と連携が取れなくなってきています。このままではスレイヤー少将の艦隊だけが引きずり込まれて、狙い撃ちされます」
 実際に食らいつかれる第八艦隊は苦しそうであるが、それでもシトレ大将の直属部隊という維持か、スレイヤー少将の分艦隊に対して囮を使い、他の艦隊を包囲殲滅する動きに出ている。それを防ごうと他の艦隊が助けに行こうとするが、どうしても練度の不足は否めない。

「他が慣れれば連携は上手くいきそうだが」
「他が慣れたら、スレイヤー少将の艦隊はもっと上手くなっていますよ。とはいえ、わざと動きを周囲に合わせてもらうのも勿体ない気がしますね」
「作戦参謀ではスレイヤー少将の艦隊を先陣として、他の艦隊を一気に動かすそうだ」
「そうなるでしょうね」
「ま、俺たちが気にしても仕方がない。訓練の進捗は予定以上に進んでいる、これ以上望むのは贅沢だ」

 よくやったと言わんばかりに、背後を叩かれ、アレスは呻き声を漏らした。
 予想以上に力が強い。
 ひどいと恨めしげにパトリチェフを見れば、がははと楽しげに笑っていた。
 不安を思っていたとしても、こうして目の前で笑われたら大丈夫なのではないかと思えてくる。ヤン・ウェンリーもきっと作戦を考えて、目の前で大丈夫と断言してもらいたかったのだろうなと、アレスは笑いながら首を振った。

 なら、大丈夫だと言われるようにしないとな。

 + + +

 自由惑星同盟史料編纂室。
 過去の戦争の記録をデータとして見られ、また敵の資料を多く備えつけた場所だ。
 これほど多くの記録が残っている場所は、ここかハイネセン大学、そしてフリープラネッツ総合図書館の三か所くらいであろう。それでも秘匿データを確認することができるという上で、対戦争に関する記録としてはここが一番だろう。
 現在でも対イゼルローン攻略の作戦参謀以外に、多くのものがデータの確認をしている。

 訓練が始まって、時間がある程度自由になって、アレスはここに足を運んでいた。
 確認するのはイゼルローン要塞のデータだ。
 最も、そこに残っているのは戦争時のデータだけであって、イゼルローン要塞に関する詳細なデータはない。
 要塞の指令室が分かるようになったのも、ヤンがイゼルローンを攻略してからだ。

 現在、自由惑星同盟軍は一歩も踏み込んだことがなく、捕虜から得られる情報も大まかなものだった。
 艦隊の待機場所から内部のモノレールで二十分ほどかかると書かれていた。
 こういった情報に対して、目を皿のように見て調査している部署もあるらしい。
 もしかするとヤンもそこに行きたかったのかもしれない。
 端末の前で、データを流し読みしながらアレスは紙コップに入れた紅茶を一口する。
 イゼルローンが建設されたのは宇宙歴767年。

 それから二十五年の時を経て、過去四回のイゼルローンを攻略しようとして、全て失敗している。最初の一回は無謀にも正面からせめて、イゼルローンが誇るトールハンマーの餌食になっている。それでは足りないと、艦船数を増やしたのが第二次イゼルローン要塞攻略戦だ。
 最も結論としては、第一回同様にトールハンマーで過半数の艦艇を失い、逃げている。
 第三回、第四回とようやく策を考えるように放っているようだが、小さな策などトールハンマーには何ら意味ももたらさなかったらしい。第四回目に至っては、艦隊運動が明らかすぎるほどに鈍い。

 おそらくは、イゼルローンという名前が同盟軍を恐怖に陥れているのだろう。
 これが戦術シミュレーションであれば、動きが遅くなるなどありえない。
 だが、これは実戦だ。
 失うのはデータ上の数字だけではなく、何万という人員であり、その倍以上の家族が不幸になる。
 それらを三度ほど繰り返し見れば、外は既に暗くなっていた。
 もっとも今日は久しぶりに休暇をもらったため、特に問題はないのだが。

 紅茶を飲み干して、アレスは苦笑する。
 経験で知っているのと、実際に目で見るのは大きく違う。
 たったの一撃で、数千もの艦隊が失われるのだ。
 それも連射こそできないものの、時間を少し開ければ再発射ができる。
 見ている限りで、最低五回は発射が可能。
 それ以上は、同盟軍が逃げ出しているため確認は不可能。

 見れば見るほど、最悪な光景。
 最も弱点がないわけでもない。
 指で頬を撫でながら、しかしと思考を変える。
 圧倒的な敗北というにも関わらず、自由惑星同盟の民間人はこれを見ていない。
 だからこそ、簡単に要塞が攻略できると今でも考えているのではないかと思った。
 敗北は知ったとしても、一瞬で数千隻が融解する光景は見ていないのだ。

 これを見れば、諦めるという考えも浮かぶのであろうが。
 無理だろうと思う。
 その数千の中には、自分の父や夫、そして子供が入っている。
 それに含まれなかったとしても、学校や会社の中には必ず一人や二人がいる。
 そんな光景をモザイクなしで放映できるほど度胸のある報道局ないし、あったとしてもまず政治家が止める。

 かくして、何ら意味のない自信が自由惑星同盟の中ではびこることになる。
 先日、父親と電話した時にも感じたことを思い出す。
 カプチェランカの時は驚いたようであったが、それでもいまだに息子が死ぬとは思っていない。そして、それは父が馬鹿なだけではない。誰もがそう感じている――いや、感じたいからこそ楽天的になり、結論として帝国には負けないと思い込む。
 フェザーンを入れてぎりぎり互角といった戦力差を見れば。いや、艦隊総数が圧倒的に少ないことを見れば、わかるようなものであるのだが、それを認めたくはないのだろう。

 父が、夫が、子供が、死地に向かうなどと。
 原作を読んでいた時は単純に馬鹿だと思った帝国領の侵攻作戦。
 単純に馬鹿というには、あまりにも難しい。
 その辺りをヤン達は読み違えたのだと思う。
 軍人的思考と市民の思考の乖離を考えていなかった。
 家族が死ぬとは誰だって思いこみたくない。

 だからこそ、市民は問題なく、勝てると思い込もうとする。
 それが愚かと切り捨てられるものではない。
 イゼルローンの戦闘記録を再度流しながら、アレスは紙コップを握りつぶした。
 当初、アレスは帝国侵攻作戦を防ぎ、クーデターを防止して、帝国の内乱に介入すれば生き残る時間は作れるのではないかと考えていた。
戦力差を広げず、帝国の内乱に乗じて数を少なくする。
だが、自由惑星同盟で生きて実感するのは、帝国侵攻作戦は、防ぐことはできない。

 ならば、どうするか。
 画面で光るトールハンマーを目にしながら、アレスは思考を続けていった。

 + + + 

 アレスは、現在まで極力歴史を変えずに来たつもりだった。
 極力というのは、絶対ではないからだ。
 カプチェランカで帝国から防衛したのも、あるいはワイドボーンの行動も。
 少しずつは変えてきているが、大きな歴史まで変えるのは防いでいるはずだ。
 最もバタフライ効果といった蝶の羽ばたきがとまで言われたら、無駄なのだろうが。

 そうなれば考えるだけ無駄なので、無視をしている。
 ともあれ、もしアレスが大きく歴史を変えれば、そこからの歴史はアレスが全く知らないものになるだろう。
 ならばと考える。
 どのタイミングで歴史を変えるのが有用であるのかと。
 当初は帝国侵攻作戦あるいはその前哨戦までは変えない方がいいのではないかと考えてきた。イゼルローンをこちらに手中に収め、ある程度の艦隊と戦力が残っていれば、互角以上の戦いができると。

 こちらには、かのヤン・ウェンリーがいるのだ。
 互角以上の戦力があるならば、簡単に負けることはない。
 いや、帝国の隙を利用することができれば、銀河帝国正統政府を要して銀河帝国とも和解が可能となるかもしれない。最も、そうなればラインハルトとは完全に敵対することになるだろうが、そもそも敵なのだからさしたる問題もない。
 帝国侵攻作戦を防ぐのは難しい。
 ならば、帝国侵攻作戦のダメージをある程度少なくする。
 あるいは、今歴史を変えるか。

 思考を深くして、アレスは眉根を寄せた。
 二杯目の紅茶を飲み干せば、既に辺りは暗くなっており、周囲にいた人間も既にほとんどが退出していた。
 閉館を告げる音楽が静かになり始めている。
 五周目へと突入していたリピート再生を閉じて、アレスは端末の電源を切った。
 紙コップをくしゃくしゃと丸めて、ごみ箱へと投げ入れる。
 考えを続けたが、いまだに考えはまとまらない。

 歴史をかえるとすれば、どのタイミングが最適か。
 自分は本当に戦略家という思考は足りていないのだなと、アレスは苦笑する。
 仮にヤン・ウェンリーがこれを知ればどう考えるだろうかと思った。
 おそらくは最適なタイミングを教えてくれるのではないだろうか。
 相談してみるかと、考える。
 あくまでも想像であり、どのタイミングが良いだろうかと。

 一番良い選択に思えた考えだが、ヤンの考えを奪う可能性が躊躇いを与える。
 ヤンが不敗でいるのは、今までも、そしてこれからも自らが考えて、行動した結果だ。
 そこで答えに近い未来を教えることで、彼の思考に多大な影響をもたらすことは必至。
 妙な先入観を抱かれて、ただの凡人になられたら、同盟の根本が変わってしまう。
 そうならない可能性の方が高いかもしれないが、わずかな行動で良くも悪くも変わるというのはワイドボーンで実感していた。実にくだらない理由であるが、稀代の英雄を変えてしまうということを恐れているのかもしれない。

 あるいは、ヤンの性格のことだ。
 レベロの失態がなければ、メルカッツに任せたとは言いつつも、一時期は悠々自適な引退生活を送ろうとした人物である。今後、多くのものが死ぬと聞けば、フェザーンの様に地方自治だけを残して平和に暮らそうというのではないか。
 いや、それはないかとアレスはすぐに否定した。
 まだ姿すら見ていない少年の未来のために戦うと言った言葉。

 そう考えれば、結局のところは、いつ動くというのは些細なことかもしれなかった。
 未来を知っていたとしても、完璧ではない自分にアレスは笑う。
 結局のところ、知っていたとしても知らなかったとしても同じことなのかもしれない。
 戦うべきは自分で、動くべきは自分で、それで勝つのも、負けるのも自分だ。
 迷ったところで解決するわけではない。

 ならば――戦うとしよう、永遠ならざる平和のために。

 

 

先への覚悟

「マクワイルド大尉。久しぶりだね」
「お会いするのは訓練前ですね、ヤン少佐」
「今日も部屋に来るのかい。ちょうど煮詰まっていたところで、いい気分転換になる」
「いえ。今日はヤン少佐に用事があってきました」
「私に? なにかな」

「少し込み入った話ですので、お茶でも飲みながら」
「ああ。そうだね、何がいい。アイスコーヒーかい?」
「いえ。紅茶を」
「了解した」
 自動販売機から紅茶を二つ取り出して、ヤンは一つをアレスに差し出した。

 お礼を言って、アレスは紅茶を口に含み、自動販売機の隣に設置されていたソファに腰を下ろした。  ヤンが隣に座る。
「訓練も始まって、少しは余裕が出たかと思ったけど、忙しそうだね。来る頻度が減って、みんなも残念がっている」

「少し史料編纂室にこもっていたので。調べたいことがありましたから」
 ヤンが片眉をあげた。
「ヤン少佐は、今回の作戦はどの程度上手くいくと考えています」
「そうだな。百パーセントといいたいところだが、不確定要素が多いからね。それでも、それを潰すためにみんな働いている。特に練度の面で心配がなくなったのは嬉しいことだ。高い確率で攻略できると考えているよ。というよりも、これで攻略ができなかったら難しいだろうね」

「私もそう思っています。ですが、少し考えてみました」
 アレスが、ヤンに差し出したのは書類の束だ。
 受け取って、目を通して、ヤンが渋い顔になった。
「これについては、私も危惧をしている」

「シトレ大将へは?」
「既に主任作戦参謀のアップルトン中将には伝えている。だが、これについては考えにくいとの結論が出た。仲間殺しは、今後戦う上で大きなデメリットになる。それに……」
 続くヤンの言葉を、アレスは待った。
「これが可能になったら、そもそも並行追撃という大前提が崩れることになるからね。おそらくはアップルトン中将も本気では考えていないだろうし、シトレ大将が知ったとしても同じことだと思う。そう思うなら、最初からこの作戦はとらなかっただろう」

「でしょうね。可能性は薄いというのが作戦参謀の答えですか」
「そう思ってくれて構わない」
「……私は非常に高い可能性があると考えています」
「理由を聞いてもいいか?」
「イゼルローンは難攻不落と称され、今まで一度も大きな打撃を被っていません。その状況下で大きな被害を受ければ――さらに言えば、要塞司令官と艦隊司令官の仲が悪いのは周知の事実。危機に陥れば要塞司令官は迷うことなく、押すことでしょう」

「帝国の大将がそこまで考えなしに行動するかい」
「おおよそ九割以上の確率で」
 大きな息が、アレスの隣から聞こえた。
 ため息だ。
 息を飲み込むように、紅茶を口にする。
「君が九割と考えるか。正直聞きたくなかった言葉だね」

 仰ぐように天を見て、そこに蛍光灯の明かりを見れば、ヤンは静かに口にした。
「今日の話は敵が味方事撃つ可能性を考えて、作戦を変更するようにという忠告かい」
「いえ。先ほども言いましたが、今更変更は無理でしょう――ヤン少佐がおっしゃったように、そもそもの作戦の前提を変えることになる。そして、それを止められる人はいない」
「そうだね。それができるなら、最初から攻略作戦は中止されている」

「だから。これをお渡しいたします」
 続いたのは封筒だ。
 受け取ったヤンが封筒の中に、堅いものを感じた。
 データメモリ。
「先ほどお渡しした報告書は、明日の定例会議でアロンソ中佐を経由して、上層部に渡されます。ですが、おそらくはそれ以上は上がることはないでしょう」

 ヤンは隣で苦い顔をして聞いている。
 否定の言葉を告げることもできず、ただ手にした封筒の中身の感触を確認していた。
「そちらのデータメモリと同じものを、スレイヤー少将にお渡ししました。スレイヤー少将が信じてくださったのなら、少なくとも被害は抑えられるでしょう。そうなった場合に、そのデータの中から最適な行動をとっていただけることを、信じています」

「一つではないのかい」
「ええ。状況に応じて二種類の策を用意しています、どちらをとるかはお任せします」
「わかった。しかし、信じるか。私を信じていいものなのかな。残念だけど約束はできないよ。でも、できる限りのことはさせてもらう」
「その言葉で十分です」

 アレスが唇をあげて、紅茶を飲み干した。
 同じように、ヤンが紅茶を飲み干した。
「でも、もしこれが正しいのであれば、君がこれをもって、当日に進言するべきじゃないか」
「作戦参謀の尉官級は各艦隊に散らばるでしょう」
 言葉に、ヤンは頷いた。
 艦隊司令部の作戦参謀は、基本的には戦闘が起こるまでの作業が多い。

 と、言うよりも戦場で何十人もの参謀がいたら、収拾がつかなくなる。
 最低限の人数――佐官以上が艦隊司令部に残り、作戦指揮について案を出す。
 その他大勢の尉官は、各艦隊の分艦隊に配備され、艦隊司令部とのつなぎ役になるのだ。
「だが、それでも緊急時には別艦隊から案を出すことだって可能だろう」
「無理でしょう。私の当日の担当はスレイヤー少将の艦ですからね。そんな余裕はないかと」
「……な」

 ヤンが驚いたように、アレスを見た。
 なぜといった顔に、アレスは肩をすくめた。
「前線を希望したら、二つ返事で許可が得られました。ビロライネン大佐は、よほど邪魔だったようですね」
「何を笑っている。普通なら連絡員だって前線は避けられる――それもスレイヤー少将の艦は最前線じゃないか。君が言ったことが本当ならば、確実に君は」

 それ以上はヤンの言葉にならなかった。
 アレスの表情に浮かぶのは――笑み。
 そう、過去にヤンが目撃したことがある。
 戦いを前にした不敵な笑み。
 ゆっくりと唇をあげた、肉食獣のような獰猛さと狂人のような微笑。

 なぜ笑えるのか、ヤンは理解に苦しむ。
 同時に、彼がヤンに手渡した覚悟に背筋が震えるのを感じた。
 手にした封筒がやけに重く感じる。
 それを大切に撫でて、懐にしまった。
 落ち着けるように呼吸を吐き出して、肩をすくめる。

「また、ワイドボーンに怒られるよ」
「ええ。だから、当日までは黙っていてくださいね」
「それについては、約束しよう。そして、終わったら二人で怒られようか」
「ありがとうございます」

 笑顔のままで、アレスはお礼を口にした。

 + + + 

「それでは定例会議を終了と……」
「お待ちください」
 ビロライネンの言葉を中断させたのは、冷静なアロンソの言葉だ。
 発言の主を見て、ビロライネンは不機嫌さを隠さなかった。
 隣で、ヴィオラがはらはらと汗を拭いながら、アロンソを見ている。

 その視線は言葉を発しなくてもわかる。
 余計なことを言わないでくれだ。
 先週もそうであった。
 アロンソが発言したのは、当日のマクワイルド大尉の動向だ。
 マクワイルド大尉から直々に、当日は各艦隊との連携のために前線指揮艦に乗り込みたいとの申し出があったとのことである。

 ヴィオラは馬鹿だろうかと思った。
 艦隊司令部の作戦参謀に配属されるということは、前線に出ることはなくなるということだ。確かに情報参謀の下であれば、当日に意見を求められることも少ない。さらに言えば、訓練対応の参謀となればやるべきこともない。
 当日は分艦隊に乗り込んで、艦隊司令からの命令を伝達する役目になる。
 最前線に連携のために乗り込みたいなど正気の沙汰ではなかった。

 それを感じているのは、アロンソもそうだったのだろう。
 どこか疲弊しての、発言だったことを思い出す。
 おそらくはアレス・マクワイルドと何度もやり取りがあったのだろう。
 だが、それでも意見を覆すことができなかった。
 苦渋の決断だったのだろうが、各参謀の中でも、やり手であろうアロンソをここまで疲弊させるのも恐ろしければ、わざわざ死地に向かう意識もわからない。

 わからないが、それはビロライネンにとっては朗報だったのかもしれない。
 リバモア少将の言葉を待たずして、それならばと決めたのは最前線も最前線、第五艦隊のスレイヤー少将の分艦隊だ。アロンソ中佐は、せめてとばかりに第五艦隊旗艦にと否定を述べたが、もともと前線に出たいとの意見を出したのはアロンソ中佐だ。結局、ビロライネン大佐の言葉が通り、当日はスレイヤー少将の艦隊に作戦参謀補佐として配属されることになった。

 緊張に包まれる空気の中で、ヴィオラは息を吐く。
 そもそもヴィオラは、今までも、そしてこれからもおとなしく暮らしていきたいと考えている。
民主主義を守るための戦い。
結構じゃないか、だが、それで死ぬのはごめんだ。
 同盟軍に入ったのも、就職に際してそれが一番安定していたからだ。
 前線ではなく、後方士官として生活すれば、退職するころには老衰するまで暮らしていくだけの年金がもらえる。

 退職後の再就職を考えれば、十分すぎるほどだ。
 喧々囂々と互いが意見を主張する嵐のような会議など、望んだことは一度もない。
 どうかおとなしく終わるようにと考えた、ヴィオラの前にアロンソ中佐から配られた報告書を見て、ヴィオラは天を仰いだ。

 あ、だめだ、これ。

 + + +

 報告書を一度読んで、二度読んでからヴィオラは恐々とビロライネンの方を見た。
 震えている。
 その理由は分からなくもない。
『並行追撃作戦における、敵要塞からの砲撃の可能性について』
 と、銘打たれた報告書を読んで、怒らない人間などいないだろう。

 そもそも前提条件を、古いアニメさながらのちゃぶ台返しだ。
 敵に打たせないために並行追撃するのに、敵が撃ってきたら意味がないよね。
 子供でも考えつく論理に、思わずヴィオラはそう言いそうになった。
 実際に左右の各室の担当責任者は目を丸くしているか頭を抱えているかのどちらかだ。
 絞り出すようにビロライネンが口を開いた。
「これは何だ、アロンソ中佐」

「危惧された報告書です。現在のところ作戦の計画は練られているが、それが失敗した場合のことが考えられていないと。ならば、敵が並行追撃作戦を行った際に、味方事砲撃された場合にどうするか考えておいた方がいいかと」
「情報参謀の仕事か、馬鹿者!」
 叩きつけられた机がたわみ、派手な音を立てた。
 置いていた熱いお茶がこぼれ、リバモア少将が渋い顔をした。
 それに対してコメントをする余裕は、他にはない。

「考えるのは作戦参謀の仕事でしょう。だが、それは訓練がなければ何もできないと同じ。で、あれば訓練参謀としては、いかがかと要求せざるを得ません」
「そのようなことを、古くから杞憂という。君の部下は天が崩れる心配でもしているのか」
「天は崩れずとも、砲撃はボタン一つで起こりかねないことをお忘れなきよう」
「作戦参謀からそのような話は聞いていない」
「で、あればこれが最初の報告となります。判断は上にお任せいたしましょう」
「そうだな。シトレ大将が判断してくださ……」
 再び叩かれた音が、リバモア少将の言葉を奪った。

 真っ赤な表情で怒りを表す様子に、ヴィオラは他人事のように赤鬼だなと思った。
「結構。ならば、私からシトレ大将にはお伝えしておこう。いいですね」
「わかった。ビロライネン大佐に任せる、アロンソ中佐もいいな」
「報告があがるのであれば、どのような形でも構いません」
「では、これで会議を終了する」

 怒りをこらえきれぬように、配られた報告書を力強く握りしめ、ビロライネンは椅子をなぎ倒すように立ち上がった。
「アロンソ中佐。貴官は下からの意見を上に阿呆のようにあげるだけの人物のようだな。まだ録音機の方が安上がりだ」
「必要だと考えたから、あげただけにすぎません」
「戦術の何たるかをわからぬ、小僧の意見をな」

 吐き捨てるように言えば、ビロライネンは足音荒く立ち去った。
 扉が音を立てて閉まる。
 しんとした室内に、リバモアが大きなため息を吐いた。
 困ったように頭をかいた。
「アロンソ中佐。何を焦っているのだ」
 アロンソは片眉をあげる。

 あれだけ激しい言い争いをしても、眉根を動かさなかった彼にしては珍しいことに。
「部下が戦うというのであれば、それについては私も覚悟を示さなければならないと、そう思っただけです。不快と思われるのでしたら、失礼いたしました」
 珍しくも感情が込められた口調に、リバモアは困った様子を崩すことなく、首を振る。
「いや、私は良い。だが、君は面倒なことになるぞ。ビロライネンはロボス大将と親しいことを知っているはずであるが」
「ええ。存じております。ですが、だからこそ、ばかばかしい」

 断言するように言った言葉に、リバモアとヴィオラは目を丸くした。
「言葉が過ぎました。ですが」
 大きな息を吐いて、アロンソが言った。
「ある者から、小官は先があるというのならという言葉を聞きました」
「それは随分と酷い言葉だな」
「いいえ。小官はそうは思いません……先があると、今まで小官は思っておりました。そう言い聞かせて守ってまいりました。だが、先があると誰が決めたのだろうと思ったのです」

 独り言のような言葉に、ヴィオラは隣にいる年の近い軍人を見ていた。
「だが、私は家族を――守るために、軍人なろうと誓ったのです。妻を、子供を。だが、そんな子供は、今は士官学校にいて、戦うすべを学んでいる。守るために軍人になったにもかかわらず」
 アロンソは報告書を叩きつけるように、机に置いた。
 散らばった紙が、こぼれたお茶に汚れることを誰も見ることなく、アロンソを見ている。
「我々の仕事に先があってはいけないと、そう思っただけです。終わらせなければならないのです、こんなことは。それが我々の仕事のはず」

 力強く言って、アロンソは立ち上がった。
 さすがに言い過ぎたと思ったのか、冷静な顔立ちに一瞬後悔が浮かび、丁寧な敬礼をする。
「少し熱くなりました。私もこれにて失礼いたします」
 立ち去った室内に、残されたのはリバモアとヴィオラ――そして、他の者たちだ。
 アロンソが珍しくも感情を表に出して述べた言葉に、どこか興奮を浮かべる者たちとは別に、リバモアがきょとんとして、隣に座る第二室の中佐のお茶を飲んだ。

「アロンソ中佐に子供がいたって初めてきいたな」
「ええ。何と言いましたか、士官学校で、ライナ・フェアラートとか」
「あれ、名字違わないか」
「珍しいことですが、夫婦の別姓だそうです」
「ああ。なるほど」

 いつもと変わらないリバモアの様子に、ヴィオラが感じていた興奮はあっという間に冷めた。


 

 

進軍~自由惑星同盟~



 宇宙歴792年、帝国歴483年4月。
 第八艦隊は惑星ハイネセンを出港した。
 第四艦隊と第五艦隊は既に出港しており、イゼルローン要塞に近いアスターテ星域で三艦隊は合流することになっている。一部では帝国側にばれた場合には各個撃破の危険性が懸念されていたが、上層部は各個撃破よりも、帝国に準備の時間を与えることを嫌った。

 最終的には総司令官であるシドニー・シトレ大将がアスターテ星域での合流を決断し、第八艦隊はまっすぐに、第四艦隊はシヴァ星域方面から、第五艦隊は逆側であるブリューベン星域を経由して、最終的には誤差はあれども、四月の二十日前後にアスターテ星域で合流する予定となっている。準備を考えれば、五月上旬が戦場となるのが概ねの意見であり、報道に対する発表もその時期で計画が立てられている。

 秘密保持の関係から、知るものも少なく、第八艦隊の出港に対する見送りは寂しいものだ。
 兵の多くは辺境警備に向かうものと思っており、イゼルローンの攻略を全員が知ることになるのは合流間近になるだろう。
 家族との最後の別れになるものも少なくはない。
 最後の晩餐すら許されないことの方が多いのが現実であった。

 だからこそ。

 各艦隊は旗艦の命の元で、恒星から恒星へと順次ワープ航法を行っていく。
 光に包まれ一瞬で消える最後の瞬間まで、兵は窓からハイネセンを見続け、それに対して普段は厳しい下士官も、注意することはなかった。

 + + + 

 宇宙歴792年、帝国歴483年4月23日。
 予定よりも三日ほど遅れて、第四艦隊が合流し、三艦隊はアスターテ星域に集まった。
 この時点において、兵たちは全員がイゼルローン要塞攻略を聞かされ、気の早い兵の幾人かは家族にあてた手紙を書き、家族へのメッセージ通信が許されることになる。

 超光速通信であっても、アスターテ星域とハイネセンでは距離がありすぎる。アスターテからハイネセンへ向けた通信がこの時点で帝国に流れたとしても、帝国からイゼルローン要塞に伝わるよりも早く攻略戦に突入する方が早いからだった。
 多くの言葉と同時に、艦隊司令官もまたアスターテ星域からハイネセンに対して、無事に到着した旨とこれより第五次イゼルローン要塞攻略戦を実行する旨が伝達された。

 ハイネセンからの返信を受け取るのは、おそらくイゼルローン攻略戦が本格的に始まる直前であろう。基本的には回答は出撃前に決まっているはずなのであるが、過去には戦闘前に政権交代が起こり、急遽作戦変更が余儀なくされ、艦隊に大きな被害を出した例があったという。大きな戦争は政権交代前に行われるというのは、単に政権の支持率のためであるのかもしれないが、軍自身も政権交代直後に戦いが始まるというのは避けたいのが実情であったかもしれなかった。

 総旗艦ヘクトルにて、今回の作戦の主要人員が続々と入室する。
 参謀、艦隊司令官、分艦隊司令官。
 参謀では各佐官以上という条件が付いているが、それでも総勢で百人近い数だ。
 中央に置かれる全方向に映る透過型スクリーンを囲むように、全員が着席した。
 中央では主任作戦参謀のアップルトンとヤン・ウェンリーがいる。

 最後に入室したシドニー・シトレ大将が着席を見届けて、アップルトン中将が口を開いた。
「お集まりいただいた、各艦隊の皆さん。ここにおられる方は同盟軍でも有数の知能、そして武勇をもって……」
「アップルトン。世辞はいい。早く始めてくれないか。帝国はもとより今回の件は部下に対してもだまし討ちのようなものだ。さっさと聞いて、部下に伝達しなければならん」
 切り捨てるような言葉に、ビロライネンが発言の主を見て、顔をしかめた。
 アレクサンドル・ビュコック中将。

 兵卒から中将まで昇り詰めた同盟軍の宿将。
 その人気は現場の人間ではシトレすら上回り、士官学校を卒業していれば、シトレを抜いて、宇宙艦隊司令長官に抜擢されていた可能性もある。だが、本人自身は現場を標榜しており、それが若手の人気と――そして、士官学校を卒業した多くの人間から妬みをもって受け入れられていた。
 今回もそうだ。

 本来であれば、大切な作戦を決める会議室。この場で発言ができるのはシトレ大将をおいていないが、自分の意見があれば述べることに躊躇はない。
 ビロライネンと同時に、多くが嫌な顔を見せたが、本人は素知らぬ顔。
 そして、ビュコックに言葉を向ける人間はいなかった。
 当のアップルトンは仕方がないなと言わんげにビュコックを見て、苦笑する。

「失礼しました。では、さっそく作戦の概要を。ヤン少佐」
「所属と自己紹介については、省略させていただきまして。作戦案を説明したいと思います」
 片手をあげると同時に、中央の透過モニターにイゼルローン要塞が映った。
 空気中の塵に対して映像を映す様子は、何もない空間からイゼルローン要塞が映ったように見えるだろう。囲まれた全席からブラックホールに似た黒い要塞の姿が見える。
「これが。イゼルローン要塞です、過去四度の攻略に対して、同盟軍は無力でした。第一回、第二回とトールハンマーを知らず、正面から攻略をかけ」

 映る画像は、第二回イゼルローン要塞攻防戦の様子。
 第一回の失敗から、単純に艦艇数を増加した結果、同盟軍にも歴史を残す大敗を期した一戦だ。多くの死者を生み出し、結果としてイゼルローン要塞砲の威力を確かめた。
 画面の中では、イゼルローン要塞の球体から発光して、その光が同盟軍の方に集約する。
 一呼吸。
 分厚い光が放射状に広がって、命がけの突貫をかけた同盟軍の艦船を、まさに塵と変えた。

 そこまでが映ってから、映像は再びイゼルローン要塞へと変わった。
「残念ながら今までの戦いは、偏にトールハンマーに防がれたといっていいでしょう。こちらは推定となりますが――出力は九億メガワット、この一撃で同盟艦隊の数千隻が一瞬で破壊され、さらに連射とはいかなくとも数分で再発動が可能です」
 再び移ったのは第三次イゼルローン要塞攻略戦だ。
 この戦いでは、複数の方向からイゼルローン要塞へと突入をかけた。

 だが、それも。
「このように時間差を置いたとしても、連続して五回の砲撃を受けました。五回以上の砲撃ができるか。それは未だにわかりません――この第三次イゼルローン要塞攻略戦では、時間差を置いて前後左右から攻め立てましたが、要塞から五回の砲撃を受けて、一万近くの艦隊が消えました。それ以上はわかりません。性能の限界などこの時点では、試せませんでしたし、今後も試すということはないでしょう」
 中央で説明するヤンを、全員が渋い顔で見ていた。
 全員が知識として知っていたとしても、それを実際に見るのは違うのだろう。
 くるくると画面が切り替わっていく。
「第四次イゼルローン要塞攻略戦では、持久戦を試みました。けれど、イゼルローン要塞では自給自活、さらには武器の開発も可能であり、帝国からの増援を余裕で待つことが可能であるとわかったことは皆さんの記憶に新しいことかと思います」
 補給はこちらが不利、過去の様に要塞を囲んで、兵糧攻めにしたとこで、何ら意味をもたらさなかった。同意するように頷いたのは、ビュコック中将だ。

「持久戦も無理、そして、トールハンマーをまともに対応することができない。そこで我々が考えたのが、並行追撃という作戦です」
 映った映像では、青の点と赤の点がある。
 青の点がイゼルローンから出撃すれば、赤の点が青の点を抑える。
 次第に、青の点がわざとらしく、下がっていく。
「敵はトールハンマーを信じている。いや、過信しているといってもいい。おそらく――といいますか、九割以上の確率でトールハンマーの射程に我が軍を引きずり込み、そして」

 呟いた言葉とともに、青の点が一斉にイゼルローン要塞を迂回するように半分に分かれて、要塞へと下がっていく。
 残されたのは、赤の点だ。
「このようにイゼルローン要塞からトールハンマーの斜線を開けて、ぼん」
 ヤンが手のひらを開けると同時に、赤の点の前方が消えた。
「およそ集まった五万隻の我が軍に対して、トールハンマーから数秒単位で被害数で千を超える攻撃が加えられます。作戦本部の計算では、敵艦隊との攻撃とも合わせれば」

 咳払いが聞こえた。
 実にわざとらしい、だがそれ以上は言うなという意味であろう。
 アップルトンの様子に、ヤンは逆らうことはしなかった。
 最悪の事態をわざわざいう必要もないと理解したからだ。

「相当な被害を受けることでしょう。だから」
 画面が切り替わる。
 新たに映ったのは、先ほど青い点が逃げていくシーンだ。
 そこに対して、青い点がついていく。
 赤い点と青い点の距離は変わりがない。
 そこでイゼルローンから光る白い光が、逃げた左右の赤い点を映していた。

「このように」
 ヤンは画面を見ながら、光る線を指でなぞった、
「敵についていくことで、敵が砲撃した際に被害を受けるのは敵の方が多いという形を作り出します。当然のことながら、敵の砲撃は近ければ近いほうが効果は高い。すなわち、この場合に大きな被害を受けるのは、イゼルローン要塞に近い敵艦隊であり、我々は被害を受けたとしても、敵の艦隊が盾になり、ダメージとしては敵艦隊よりも少ないものとなります」
 そう言ってから、ヤンは周囲を見渡した。
 賛同の意見が多く、ヤンを批判するような視線は向けられることはない。

 ビロライネン大佐などは今にも立ち上がって拍手しそうな勢いだ。
 それに対して、ヤンは小さく息を吐き、ビュコックを見た。
 果たして、これに対して現場の意見はどうだろうと。
 ビュコックは決して、周囲と同様に全面的に賛同しているようではなさそうだった。
 ただ、考えて、迷い、そして、ヤンを見る。
 視線があったのは数秒。

 やがて、ゆっくりと頷いた。
 それを見てから、ヤンは言葉を続けた。
「もちろん、これは現段階の予想であり、仮に敵が味方を無視して……」
 防ぐような拍手の音が響いた。
 立ち上がって、拍手をするのは情報参謀の席に着くビロライネンだ。

「素晴らしい。見事な作戦だと、小官は意見します。いかがですか、リバモア少将」
「え。あ、いや。どうかな、小官も良いと思うが。グリーンヒル中将はいかがか」
 と、リバモアは艦隊司令官の中で一番無難な立場に投げた。
 言葉に、第四艦隊司令官グリーンヒルは悩むように顎を撫でる。
 とはいえ、それはあくまでもポーズだ。
 そもそもの話、この場にいて、いや違うと言葉にするのは難しい。

 この時点で、作戦を実行することは、つまるところ評議会の了承を得ていることを知っているからだ。ここで大きく変えれば、困るのはシトレ大将であることを知っている。
 だから。
「……そうですね。確かにこれが最適かと思います。だが、何か疑問が残るのなら今の時点で解消しておいた方がいいと思います。いかがです」

 そう言って、周囲を見渡して、手を伸ばそうとしたパトリチェフが、ビロライネンの視線に遮られた。情報参謀として、近くにいたのがわざわいしたのだろう。睨まれれば、渋々ながら発言を取りやめた。
 その様子を、ビュコックは気づくことはなかった。
 だからこそ、しばらく考え。

「敵が味方を無視したとしても、トールハンマーによる被害は少なくなるのだろう。厳しいかもしれんが、無傷でイゼルローンを落とすのは無理じゃないかな」
 三艦隊のうち、二艦隊の司令官が了承した。
 そして、残る一人はこの作戦の構想を練った司令官だ。

「ならば、この作戦で実行しよう。異論があるものは」
「問題ございません」
 総司令官が言葉にすれば、アップルトンが即答する。
 全会一致とばかりに拍手が広がる中で、ヤン・ウェンリーが困ったように頬をかき、ワイドボーンがただ一人拍手をしながら、難しい顔で見ていた。

 + + +

「ヤン少佐」
 一通りの作戦会議が終了し、帰路となった廊下で、ワイドボーンがヤンに声をかけた。
 半ば予想していた声に、ヤンが振り返って、ベレー帽を抑えた。
「どうかしたかい、ワイドボーン少佐」
「それはこちらのセリフだ。言いかけた言葉を、なぜ取りやめた。敵が味方事砲撃した場合、確かに被害はこちらの方が少ないかもしれないが、考えない理由にはならんだろう」
「言っても意味のないことだったからさ。こちらは事前にアップルトン中将に、マクワイルド大尉が情報参謀に進言している。だが、一切触れられなかったというのはそういう事さ」

「決まったことを覆すことはできないか、気に食わんな。だが、考えない理由にはならんぞ」
「考えても意味のないことなのさ。敵が味方事砲撃した場合は、撤退するくらいしかできないからね」
「被害を減らすことくらいできるだろう。我々は常に可能性があることに対して、検討を重ねていかねばならない。そうだろう?」
 堂々として言葉にするワイドボーンを見て、ヤンは苦笑した。

 人は変われば、変わるものだなと。
「ああ、そうだね。だから、私もその場合のことは考えているよ」
「さすがだな。で、どういう作戦なのだ」
「今聞いたところで意味がない。どのパターンになるかもわからないし――でも、基本となるところはマクワイルド大尉が作ってくれた。楽なものさ」

「マクワイルドが立案して、お前が精査したということか。なるほど、それは心強い、わざわざ上にあげなくても問題ないな。だが、その精査に俺も付き合わせてくれ。これでも少しくらいは役に立つぞ」
「ありがとう、心強いよ」
「当然のことだ。しかし」

 と、そこでワイドボーンは不機嫌になったように、唇を曲げた。
 精悍な顔立ちに、どこか子供が拗ねた表情が混じる。
「どうかしたか」
「あの馬鹿は一切連絡をよこさない」
「それは仕方ないだろう。尉官は他の分艦隊の方で仕事があるだろうから」
「いくら後方で待機するといっても、通信の一つくらいは可能なはずだ」

「君に連絡したらまた怒られるから嫌なんじゃないか」
「これでも十分すぎるほど優しくしているはずだが。仏のワイドボーンと呼んでもらいたいくらいだ」
「明王のような気がするが。ま、いいさ――彼ばかりに働かせるのもかわいそうだ。少しばかり働こう」
「貴様は貴様でもっと働け、だから無駄飯食いとかいわれるのだ」
 ワイドボーンの怒りの矛先がヤンに向けられ、ヤンは困ったように頭をかいた。

「何だい、それは」
「自分の噂くらい把握しておけ。まったく、俺の周りの奴らはどいつもこいつも」
「事実を、訂正しても仕方がない」
「この大馬鹿野郎」

 ワイドボーンの怒声が、艦内に響いた。


 

 

迎撃~イゼルローン~



 宇宙歴792年、帝国歴483年4月末日。イゼルローン要塞。
 鋼鉄の惑星の中は、広い。
 常時数万隻を収納できる宇宙港に、常時ミサイルなどの消耗品を製造開発ができる工場、穀物などの生産もでき、大規模な病院も備え付けられている。

 要塞というよりも、一種の惑星と呼んでもいいであろう。
 要塞内でほぼ完結できる性能を持っていた。
 イゼルローン要塞に向けて、同盟軍進軍の報告が上がってきたのが四月二十日。
 フェザーンを経由して上がって来た情報では、既に四月の頭には惑星ハイネセンを飛び立っているとのことだった。

「もう少し早ければ、合流前に各個撃破をしてやったのに」
 不機嫌そうに呟いたのは、イゼルローン要塞司令官クライスト大将だった。
 相変わらず情報が遅い。既にいかに首都星オーディンから離れているからといってももっと早くわからなかったのかと不愉快そうに呟いた。

「むしろ良かったのではないですか、閣下」
「ん」
「合流前に各個撃破となれば、功労は全て艦隊司令部のものになります」
「確かにな、そう考えれば情報部の馬鹿どももいい仕事をしてくれたというものだ」
 副官からの進言に、クライストは先ほどまでの不機嫌そうな様子から笑みへと表情を変えた。各個撃破をした場合には、あの馬鹿どもが喜ぶだけだ。

 そう考えれば、遅いというのも悪いことではない。
「各個撃破に向かって、あのハゲが死んでくれるのが一番だが」
「閣下、お言葉が」
「ただの冗談だ、バッハ中佐」
「失礼しました」
 つまらなそうに副官を一瞥して、クライストは歩みを続ける。

 オーディンからの情報に遅れること、十日。
 辺境の視察――何と言ったか、金髪の小僧が、およそ五万隻ともなる反乱軍を発見した。
 どれだけ数をそろえたところで、トールハンマーの露と消えるというのに。
 愚かなものだとクライストは思う。
 最も、愚かであるからこそ反乱などという神に唾を吐くという行為を行えるのだろうが。

「殺されても、殺されても湧き上がるゴキブリのような奴らだな。さっさと奴らを一掃したいものだ、汚らわしい」
 侮蔑さえ浮かべるクライストの言葉に、しかし、副官は反論しなかった。
 長い廊下を歩けば、やがて豪華な扉が目に入る。
 その左右には兵がたっており、クライストの姿を見つけると、そろって敬礼をした。
 扉を一人が開けようとして、副官が手を差し出して止めた。

「まだ早い」
「し、失礼しました」
 慌てたように敬礼をして、扉を開けかけた手が止まる。
 時間は三十分に二十秒ほど足りない時間であった。
 クライストもそれが当然とばかりに、扉の前で立ち止まって腕を組んで待つ。
 やがて、三十分になった瞬間。扉がゆっくりと左右に開かれていく。
 そこは中央に長い机が置かれた、会議室だ。

 扉が開かれると同時に、反対側に備え付けられていた豪華な扉も同時に開かれていた。
 姿を見せるのは黒色の軍服を着た長身の男だ。
 同時にクライストの姿も目に入ったのだろう、そこにはあからさまな嫌悪の顔がある。
 イゼルローン要塞艦隊司令官ヴァルテンベルク大将。
 扉が完全に開いても、二人は睨むように見たまま、やがて視線をそらした。
 同時に室内に足を踏み入れれば、クライストの側に座っていた士官が一斉に立ち上がってクライストに対して敬礼を行う。反対では同様に、クライストに背を向けて、ヴァルテンベルクに敬礼をしている姿があった。

 互いが互いに、自分の方が上位だと認識している。
 だからこそ、本来は一つで良いはずの扉が二つ備え付けられ、さらには入室のタイミングも同時だ。
 仲がいいのか悪いのか。
同格の大将である二人は、同様に敬礼を返して、同じ歩幅、時間で自らの席に向かい、同時に着席をしたのだった。

+ + + 

「では、反乱軍による侵攻に対する作戦会議を開始します」
 クライストの副官であるバッハ中佐の言葉によって、会議は始まった。
 第一声が要塞司令官側から発せられたのは決まったことではない。
 議事進行を誰が務めるかで過去にもめた結果、交互にとなっただけだ。
「声が小さくて聞き取れませんね」

「仕方がない。バッハ家の坊ちゃんだからな。今回が初めての戦いじゃないか」
「言い過ぎです。実家でネズミ退治くらいはしたことがあるでしょう」
 ささやくような声が、宇宙艦隊司令側から漏れ、笑い声が上がった。
 対する要塞司令官側からは睨みつけるような視線。
 かといって声を荒げようにも、無駄であることは理解している。
「ネズミすら退治できない人間には困った事態かもしれませんが、要塞司令部は恐ろしさを感じていません。クライスト大将、今回の作戦計画をお願いします」

 少し大きくなった皮肉の声とともに、クライストが話を振られた。
 顔色を変えた者たちが声を出すよりも先に、クライストが手を伸ばした。
 中央の卓上が光、中空に映像を映し出す。
 同盟軍でも採用された空気中の塵を利用した、投影型モニターだ。
「敵の数はおおよそ五万隻。近年では比較的多い艦隊数だ。それでも二回目に襲ってきた時には劣るが。しかし」

 映し出されるのは多くの艦隊が途切れることなく襲い掛かった、第二次イゼルローン要塞攻防戦の戦いだった。放たれたトールハンマーが敵艦隊を穿ち、おおよそ二回撃ったところで敵は総崩れとなった。
 映像が流れる中で、画面のイゼルローン要塞の反対側に座るヴァルテンベルクを見ながら、クライストは笑みを浮かべる。
「我が要塞司令部が誇るトールハンマーがある限り、些かの問題もない。今回は駐留艦隊の各員は家でソーセージでも齧りながら、我々の勝報でも待っていていただければどうかな」
「それには及ばぬ。右と左もわからぬ要塞司令部だ、トールハンマーを反対側に砲撃した時に。おいそっちは逆だ、逆と教えるものが必要だろう」

 その通りとばかりに頷く者たちに、今度は怒りを向けたのは要塞司令部側であった。
 と、言うよりも過去の会議も同様に、誰かが発言し、反対側が皮肉を言って、怒らせる。
 それを繰り返しているだけであるのだが、それを止める者は今まで皆無であった。
 だが。
 深いため息が、末席から聞こえた。
「反乱軍といえども、敵は三艦隊を揃えており、情報ではシドニー・シトレ大将を始めとした名将揃い。油断をすれば足をすくわれることになりますぞ」

 カイゼル髭が特徴的な、頑固そうな中年の男であった。
 ヘルムート・レンネンカンプ大佐。
 駐留艦隊の査閲次長を務める彼の言葉は、至極真っ当な言葉であった。
 だが、彼にとって不幸なことは、真っ当な人間が少なかったことであろう。
「艦隊司令部には随分と心配性な方がいるようだ。震えているなら、家で待っていてもいいですよ。大佐」

「レンネンカンプ、口を慎め。反乱軍などいくら数がそろったところで、問題がない」
 双方からの厳しい言葉に、レンネンカンプは口を閉ざした。
 階級か家の各か。そのどちらか、あるいは両方の上から否定の言葉を出されれば、それ以上に発言することはできない。仮に発言したところで、無意味なことになることは間違いがなかった。
「失礼いたしました」
 素直に謝罪を口にすれば、つまらなそうに要塞司令部から微かな笑いが聞こえた。
「ま。家でのんびりバカンスというわけにもいかないであろうからな」

 再びクライストが腕を振るうと、画面にイゼルローン要塞が映った。
 赤い点と青い点が映る。
 青い点はイゼルローン要塞の射程内にいて、左右から赤い点を狙っている。
「このように要塞の射程内から敵を攻撃してはいかがか。敵への嫌がらせぐらいにはなるだろう」
 言葉に要塞司令部から笑い声が聞こえた。
「安全な場所にこもって仕事をしていると、それを他にも強いてくる。いい加減、ママのおっぱいから巣立ちというものを覚えてほしいものだ、誰とは言わんがな」

「卿は今なんといったか」
「何か聞こえたか、クライスト大将」
 二人が立ち上がり、睨みあう。
 そのような状況になれば、まともな意見など聞こえてくるはずもない。
 最も会議自体が、そのためのものなのであるから仕方がない事であろう。
 片や艦隊司令部には一切の功績を立てさせないように策を考える。

 艦隊司令部も同様だ、要塞司令部には一切の功績を立てさせず、駐留艦隊が主役となるような作戦を立ててくる。
 そんな状況であれば、まともな議論などありえるわけもない。
 レンネンカンプの目の前では、互いが互いに罵声を浴びせ、貶める発言を繰り返す。
 子供のような会議とも呼べぬ学級会が繰り広げられていた。

 結局、三時間ばかりを会議に費やして、決まったことは前回同様に駐留艦隊が敵を引き込み、砲撃によって仕留めるという何ら意味のない作戦会議であった。

 + + + 

「ラインハルト様、艦艇の準備が終了しました。いつでも出撃が可能です」
「そうか。状況はどうだ」
「些か侮っていたようでしたが、少し強く説得したところ、素直に応じてくれました」
 にこやかに話す様子に、ラインハルトは苦笑した。
「やりすぎないようにな」

「もちろん、加減は十分に」
「ミューゼル少佐」
 二人が笑いあったとき、甲高い声が響きとなって聞こえた。
 声の主に、二人は振り返って敬礼をする。
 憲兵隊少佐であり、カプチェランカの話を聞きに来たとのことであった。

 最も当人のヘルダー大佐はヴァルハラに向かっており、マーテルが自分の意見をかけてまで話す必要性もない。問題のない事柄に対して、無理やり首を突っ込むというのは実にわかりやすくもあり、ラインハルトは楽しんでいた。最も前回とは違って、今回は軍であるにも関わらず貴族の矜持がとか、ミューゼル家がといってこちらを陥れる声が多い。
 軍に貴族の何が関係あるだろうか。

 立派に名乗りをあげれば、敵が優しくしてくれるというのだろうか。
 そう考えて、浮かんだのは自らと同じ金髪をした少年だ。
 絶対にありえないだろうな。
「暇そうだが、乗艦の確認は終えたのかね」
「ええ。クルムバッハ少佐。確認は先ほど終え、既に出撃可能となっております」
「君の眼は節穴か、いや。目が二つあるだけましか、どこのものとも思えぬ血筋なのだから」

 一歩前に出ようとしたキルヒアイスを視線で制して、ラインハルトは穏やかに笑った。
「それは失礼を。何か不備があったでしょうか」
「不備? 不備だらけだ、君も君のつまらぬ部下もどこをみているというのだ。艦内の汚い事、あの匂いはどうにかならないのか。清掃も満足にできないと見える」
 追及する口調に、ラインハルトは笑いをこらえるのに苦労した。

 どうやら目の前の人物は、どうやらホテル・フレイアを艦船に求めているらしい。
 高貴な貴族にとっては、ホテル・フレイヤすらも汚いと不満を述べるかもしれないが。
「それは失礼しました。クルムバッハ少佐にはいささか満足できなかったかと。キルヒアイス」
 叫んだ言葉に、赤毛の少年が一瞬丸くするが、すぐに真面目なものへと戻った。
「失礼いたしました、ラインハルト様」
「まったくだ、キルヒアイス。クルムバッハ少佐は、もっと奇麗な部屋をお求めになられている。ちゃんと熊のぬいぐるみはおいたのか。少佐はママがいないと寂しがられておられるようだ」

「ミューゼル少佐!」
「何か、クルムバッハ少佐」
「卿は馬鹿にしているのか」
「いえ。そのつもりはありません、少佐。ただ軍の艦船で望まれることを考えただけでございます」
「その言動はしかと報告させてもらうぞ、ミューゼル少佐」
「キルヒアイス。クルムバッハ少佐には、やはりママが必要なようだぞ」

「貴様!」
「何を騒いでいる」
 クルムバッハが叫んだところで、不機嫌そうな声が聞こえた。
 カイゼル髭を撫でながら、眉根をしかめた男がいる。
 レンネンカンプ大佐だ。

 怒りを浮かべていたクルムバッハも慌てたように敬礼をし、ラインハルトとキルヒアイスも同時に敬礼をした。
「私は何を騒いでいると聞いたが」
「は。この者は、私に対して侮蔑の言葉を」
「その話は聞いている。確かに部下が失礼な言葉を言った。憲兵隊少佐。だが、他の部署がわざわざと部屋の奇麗さについて語るほどのことでもないと思うがいかがか」
 不愉快そうな視線を向けられ、クルムバッハは一瞬眉を寄せ、ラインハルトを見る。

 その後、血色の良い唇をなめて、不愉快そうにレンネンカンプを見た。
「失礼しました。越権行為でございますな」
「そこまでは言っていないが。気を付けていただければ嬉しいものだ、クルムバッハ少佐」
「は、以後気を付けます」
 再び礼をすれば、ラインハルトを一度睨みつけて、踵を返した。
 足音荒く、歩く様子をラインハルトが肩をすくめ、キルヒアイスが苦笑した。

 そんな二人に対して、レンネンカンプは厳しい視線を緩めない。
「君たちもわざわざ、憲兵隊の少佐を挑発する必要もないだろう。作戦会議は終わった、内容を端末に送るから、準備をしたまえ」
「は!」
 二人が同時に敬礼をして、同じように立ち去ろうとする。
 その背に対して、レンネンカンプは不機嫌そうな声を向けた。
「ミューゼル少佐。君とキルヒアイス中尉がどれほど親しいか私にはわからないが、私事と仕事は分けたまえ」

 かけられた声に、ラインハルトが立ち止まって振り返った。
 視線がレンネンカンプへと向かい、彼は当然とばかりに髭を撫でた。
 そんな様子に、ラインハルトは一瞬驚いたように表情を向けて、敬礼をした。
「は。ご忠告感謝いたします」
 そうして、再び踵を返す。
 隣を歩くキルヒアイスに一瞬視線を向け。

「ヘルダーといい。よくよく見てみれば、なかなか帝国にも楽しい人間はいるものだな」
「そう言いながら楽しむのは、性格が悪いということですよ、ミューゼル少佐」
「どちらがだ、キルヒアイス中尉」
 二人は顔を見合わせるようにして、どちらともなく笑い始めた。

 

 

戦い前に~それぞれの理由~


 敵の索敵艦に発見されてからも、同盟軍艦隊は整然と進軍を進めていた。
 中央に第八艦隊、左右に第四艦隊と第五艦隊を配置していたが、イゼルローン回廊に入るころには広さの問題から第八艦隊が後方に下がり、第四艦隊と第五艦隊が先陣となった。
 予定された行軍ではあるが、イゼルローン回廊の狭さがそれを邪魔する。

 非常に狭い場所や歪な地形。
 それはまるで暗闇の中の洞窟の様に、まっすぐな進軍を許さない。
 遠い昔、アーレ・ハイネセンがこの道を通った時にも同様の感想を得たのだろうか。
 それから年月が経って、正確な航宙図やセンサーがあってもなお、イゼルローンは人々の前に立ちはだかっているのだった。おそらくはという予想の元、途中で帝国艦隊による攻撃はないと考えていたとしても、それを同盟軍が全面的に信頼するというのはできなかった。

 索敵艦を前に出し、あるいは通信が遮断される場所に対しては、戦闘艇を使いながらも慎重に進む。ようやくイゼルローンで最も難所である『巨狼の顎』を通過すれば、進む、艦艇の中でほっとした息が漏れた。
 第八艦隊旗艦、ヘクトル。
 百戦錬磨の名将も、わずかばかりに呼吸が緩むのを止めなかった。

 数で劣るイゼルローン要塞駐留艦隊が、迎撃姿勢をとるとは考えられなかったが、それでもイゼルローンの狭隘な地形を利用して反撃に出ないとは言い切れない。例え、過去に一度もそのような戦いがなかったというところで、油断をするほどにシトレも耄碌はしてないつもりだ。
 むろん、これ以降も狭い道は続くが、大人数の伏兵を置くには向いてはいない。
「全艦隊に指令を。交代で休むように」

 シトレの言葉を反復して、全艦隊に指令が伝わっていく。
 緊張が緩むのも問題ではあるが、緊張を張り詰めさせていても良くないことをシトレは知っている。
「私も少し休む、何かあった場合にはすぐに連絡を。諸君らも交代で休むように」
 そう伝えれば艦隊司令室から、シトレは踵を返した。

 艦隊司令官が休まなければ、誰も休もうとはしないだろう。
 このままずっと艦橋にいても構わないのだが、上が仕事を見ているのも迷惑な話だ。
 ついてくる警備の者に対しても、休むように断りを入れて、シトレは自室に向かう。
 さすがにこの場において、艦内を散策する度胸はシトレにもなかった。
 自室前までついてきた警備兵に対して、敬礼を送れば、自室の扉を開けた。

 無骨な鉄製の扉が閉まる。
 これが帝国であるならば、重厚な木製の扉があったかもしれない。
 彼らは見栄えを気にする。
 それこそが戦力で劣る同盟軍が互角の戦いを挑めている理由であるかもしれないなと思いながら、シトレは苦笑する。

 これから戦いに挑むのに戦力で劣るとは、なんと弱気なことだろう。
 スレイヤー辺りに聞かれれば、階級すらも無視して説教が始まるに違いない。
 だが、多くの者は理解できないであろうが、それこそが必要なことだとも感じている。
 自らの弱みを知り、そして、敵の強さを知る。言葉にすれば単純なことではあるが、それが考えられないものは多いし、考えたとしても発言できるものは少ない。

「難しい事なのだろうな」
 嘆かわしいと嘆くことはできない。
 おそらくは自分もこの立場に来るまでは、考えたとしても発言ができたかどうか。
 ただ生きて、生き延びて、階級をあげて、年を取って初めて感じたことだった。
 このことを理解できるのは、アレクサンドル・ビュコック中将くらいであろうか。

 執務机の椅子に腰を下ろして、シトレはベレー帽を外して、机に置いた。
 息を吐いて、考えるのは作戦のことではない。
 作戦のことは既に決まっている。
 いまから思いついて、やっぱり変えるなどと言えるのはよほどの馬鹿だろう。
 状況が変われば違うが、今更悩んだところで仕方のないことであるし、シトレの仕事ではない。

 考えるのは、この後の状況だ。
 この作戦が成功すれば――いや、よほどのミスを犯さなければ、シトレは元帥に上がり、統合作戦本部長となるだろう。現在の統合作戦本部長は、既に退職が決まっている。と、言うよりも後任が死にすぎて、残らざるを得ない状況になっていた。これ以上残すことは本人にとっても、組織にとっても不可能だろう。と、なれば必然的に次の地位にいるシトレが繰り上がることになり、人事も一新されるだろう。

 次の宇宙艦隊司令長官は、ロボス大将だろう。
 ロボスか。
 決して無能な人間ではない。
 長い軍の人生で、シトレが歩むと同時にライバルという関係をもって、ともに歩いてきた。
 しかし、年齢か、運か、あるいは政治の都合か。

 一般に出世争いというものに、シトレが勝ち、彼の前を歩くことになった。
 それをロボスがどう思っているかは思わないが、面白くはないらしい。
 統合作戦本部次長として、現在は惑星ハイネセンに残ってはいるが、仕事よりも、むしろ熱心に派閥を作っているとの噂も漏れ聞こえていた。あるいはシトレが宇宙艦隊司令長官になったことで実力よりも、政治力が重要であると誤った考えを持ったのかもしれない。

 そんな人物が、艦隊司令のトップとなるのは非常に危うい。だが、ここでシトレが統合作戦本部長になれば、彼がシトレを抜くことは不可能になるだろう。出世工作が無駄となれば、つまらぬ裏工作などよりも、同盟軍のことを考えるようになるだろう。そうすれば、彼の実績、実力からも間違いなく優れた宇宙艦隊司令長官になれる。

「だからこそ、ここは負けるわけにはいかないな。……自分が嫌になる」
 苦い口調で呟けば、シトレは引き出しを開けた。
 二段になった底蓋をあければ、そこにはウィスキーの瓶がある。
 手を伸ばし、ふたを開けて、一口。

「本当に嫌になる。将兵の死よりも、今後のことに頭を悩ませる立場というものは」
 つまらなそうに呟けば、名残惜しそうに蓋をすると、ウィスキーを引き出しに戻した。

 + + + 

「敵艦隊を発見しました。距離、十二時――数――五万!」
 叫んだレーダー士官の言葉に、ラインハルトは鼻で笑った。
 当たり前のことだ。
 敵は三艦隊、数にして五万を超えると伝達があったばかりであり、それはラインハルト自身が部下に伝えた言葉であったからだ。

 これが背後からであったり、あるいは一万であったりすれば、焦る気持ちもわかる。
 当然のことを、必死に伝える様子に何と返答していいか迷う。
「慌てるな。反乱軍など、たかが有象無象。数が集まったところで、何ら問題はない」
 金切り声が背後から聞こえる。

 慌てるなといった当の本人の口調は、間違いなくひきつっており、まるで新兵のようだ。
 いや、あるいは新兵であるのかもしれない。
 有力な貴族が最前線に立つことなど、ほとんどない。
 ところがラインハルトを陥れるために、無理やりラインハルトと同じ艦に乗せられた。

 あるいは彼も被害者なのかもしれない。無能な被害者にはなんら、同情は感じないが。
 だが、そんな声に周囲の慌ただしさは大きくなった。
 命令を出す人間が慌てていれば、その命令に従う部下が不安になるのは当然だ。
 なぜなら、命を預けているのだから。

「問題はない」
 透き通るような声が、艦橋に響き渡った。
「敵が前からきて、攻撃してくる。私が最初に伝達した言葉に何か間違いはあったか」
 問うた言葉に返答の言葉はない。
 ただ周囲の視線が、艦長席に立つ金髪の若者を見ている。

 いまだ十六の若き艦長は、しかし、全面のモニターに映る艦隊に対して臆することなく見ている。
「全て予定通りだ。問題はない――君らは任務を果たし、そして帰る。何か質問は」
 言葉に出した声に、一呼吸を置いて『No』を伝える言葉となる。
「では、予定通り行動してください。我が艦隊は前面に立つことになります。作戦通り後退をしますが、それは敵も知っているでしょう。最初は敵も様子見のはず。なら」

 ラインハルトの隣に立つ、同じく十六の赤毛の少年が同じように微笑。
「最初が肝心です。様子見の攻撃など何も問題はありません、前進して敵に痛撃を加え、下がる。それだけです」
 どうでしょうというように、キルヒアイスがラインハルトに視線を送る。
 ラインハルトはゆっくりと頷いた。

「作戦通りだ、キルヒアイス中尉。クルムバッハ少佐は何かご意見は?」
「なに」
 金髪をなびかせて振り返った、視線の先にはクルムバッハの姿がある。
 突然に意見を向けられて、クルムバッハは眉をしかめた。
「何をいう。ここの責任者は卿であろう」

「その通りです。では、これよりここは戦場となります。余計な言葉は慎んでいただけますよう」
 それが先ほどの言葉をさしていることは、クルムバッハにも理解できた。
 だが、艦長よりも先に発言した問題は、仮にも憲兵隊であるクルムバッハも理解している。
 ただ恨みを込めた視線と、噛んだ奥歯の音を響かせて返答するのが精いっぱいであった。

 そんな様子にラインハルトはまるで少女のような笑みを返し、振り返った。
「何をしている。最初が大事だとキルヒアイス中尉が言ったとおりだ。こちらを見ている暇はないはずだ。戦闘が開始と同時に敵に向けて猛攻をかけろ」
 言葉に聞こえるのは、肯定の言葉。
 急ぎモニターとコンソールに向き合い始めた将兵を見て、ラインハルトは頷いた。

「挑発が激しいのではないですか、ラインハルト様」
 そっと呟いたのはキルヒアイスだ。
 耳に寄せるように、ゆっくりとささやいた言葉に、ラインハルトは頷いた。
「そちらも問題はない。私たちの道は結局のところ敵か味方か、だ。これに反論する優秀な人間であれば、味方にすることも考えたが、直情的に行動する奴など、さっさと始末しておいた方がいいだろう」

 そっと呟いて、ほほ笑んだ言葉に、キルヒアイスは肩をすくめた。
「恐ろしくなりましたね」
「……甘いと教えてもらったからな」
 呟いた言葉に、キルヒアイスはそれ以上の言葉ない。
 ただ、静かに頷いた。

「ええ、まことに。私も準備をしておきます」
「頼んだ。キルヒアイス……まだ戦いは始まったばかりだ。死ぬわけにはいかないだろう」

「ええ」

 + + +

 第五艦隊分艦隊、ゴールドラッシュ。
 艦橋の片隅で、アレス・マクワイルドは静かにモニターに映る光点を見つめていた。
 敵艦隊との距離はゆっくりと近づき、艦隊は予備動力でゆっくりと近づいている。
 互いの速度を計算すれば、攻撃する時間もほぼ理解できるはずだ。

「艦隊接近。敵攻撃射程範囲まで、二分」
 それでも言葉が必死をもって告げられるのは、自らの死が近づいている証であるかもしれない。こればっかりは初めての体験だ。緊張した士官の声と、ささやかながらも大きくなる騒めき。それでいて張り詰めた空間には、誰もが心を動かすだろう。

 目の前のモニターを凝視するもの、そして、命令を待って司令官に視線を向けるもの。
 その多くの視線と命を預かって、分艦隊司令官であるスレイヤー少将はただ静かにモニターを見つめていた。
 今までも何度と繰り返してきたであろう光景。
 それは慣れか、本来の性格によるものか。

 あの時に見た教頭は、そして、教頭のままであった。
 微動にせず、ただモニターを見続けている。
 そこに安心を与える感情や言葉はない。
 ただ、いつものように見ている。

 それを見て、幾人かが視線を前へと戻した。
 スレイヤー少将か。
 士官学校の教頭であり、ビュコックと同様に兵卒からこの地位までたどり着いた名将。
 白髪交じりの髪を撫でつけて、姿勢正しく前を見つめる。

 まごうことなき名将であろう。実際にわずか一年ばかりの同盟軍生活でもスレイヤー少将の話を聞く機会は多い。カプチェランカでもクラナフ大佐を始めとして、褒める言葉以外は聞かなかった。数多い現場の人間の中で、少将まで階級を上げた人間は、ビュコック同様に英雄扱いをされたのだろう。実際にスレイヤーはその実力があるのだと、アレスは思う。通常であれば将官まで兵卒の人間があがることはない。
 単純にその分野で優秀な人間は多いだろう。

 だが、将官となればその分野というわけではいかなくなる。
 むろん、アレスと同じように士官学校であれば話は別だろう。
 仲の良い上を捕まえれば、それがかない、そして、それが可能である環境がそろっている。
 だが、兵卒あがりであれば、仲が良いものもいない。
 そんな場所に配属され、常にトップレベルの評価を受ける。

 決して楽なものではない。と、言うよりも途中で楽な場所ができれば、その分野で行きたいと思うであろうし、階級をあげれば、それを望めば可能となるのだ。あえて、自分のわからぬところに異動し、そこで力を認められる。
 原作まで生きていれば、間違いなく艦隊司令官に立つ人物。
 いまだに動かぬスレイヤーから視線を移せば、そこには砲術士官がいる。

 ケイン・ローバイク大尉。
 大会で四学年だった先輩は、今は同階級となって最前線の砲手を任されている。
 アレスがこの艦隊に来た時には、無表情に挨拶をしただけにもかかわらず、細かに艦隊のことを教えてくれた先輩。堅実さと実力を兼ね備え、確実である戦闘には間違いなく百パーセントの力を発揮する優秀な兵士だ。

 視線を彷徨わせると、手を振る若い女性がいた。
 ミシェル・コーネリア大尉。
 航宙士官という立場ながら、この艦隊の動きを統率する女性だ。
 二十三歳と若くもありながら、艦隊運用にかけてはいまだにアレスは彼女よりも上の存在を知らない。戦闘前で一瞬しか見ていないが、彼女はアレスのことを覚えていてくれたようだ。視線が会うたびに、手を振っている。そういえば、テイスティアが卒業する前にシミュレート大会の時の全員で集まろうという話になったときに、最後まであきらめなかったのが彼女だった。

 いや、全員極秘任務についているのに無理だろうとはアレスは言えなかったのであるが。
 そして。
 スレイヤーの近くに立つのは、四月に卒業して即座に『艦隊参謀見習い』として働き始めたセラン・サミュール。
 卒業後に配属される先としては最も期待される部署であり、そして、アレスが思うに最悪な部署であった。

 おそらくと。
 アレスは思う。
 アスターテまで、彼らの名前は一切聞こえることがなかった。
 だから。

 このイゼルローン攻略作戦で、彼らはトールハンマーによって塵と消えるのだろう。
 だからこそ、思う。
「まだ、死なせるわけにはいかないだろう」
 ゆっくりと表情が笑みを作る。
 
 かくして、それぞれの思いが交錯する中で、第五次イゼルローン要塞攻略戦が始まった。

 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦1

 宇宙歴792年、帝国歴483年5月4日。
 分艦隊旗艦に乗艦するアレス・マクワイルドも気づかぬことであったが、彼の知る原作よりも二日ほど早くに戦いは始まり、しかし、彼の知る原作と同じように推移をした。
 元より前提条件に変わりがなければ、彼が心配するような大きな変化は起きないのかもしれない。同盟軍の行動は、ちょうど合流直後に情報が伝わるように、フェザーンを経由して、イゼルローン要塞に届けられた。

 同盟軍は予定通りの出兵であり、迎え撃つ帝国軍もまた同数。
 だが、既にこの時点で原作は――歴史が少しずつ変わり始めていることを、彼自身が歴史を変えていることなど、神ならぬアレス・マクワイルドが気づくこともなかった。

 午後一時十五分。
 帝国軍から放たれたレーザーによる砲撃を皮切りに、両軍から雨のような光線が伸びる。
 放たれた光は、青く、碧く。
 さながら光の雨の様に向かい来るレーザーの光は、しかし、両艦隊の前ではじけるようにかき消された。艦隊の防御壁が作動したのだろう、ビニール傘に弾かれる雨のようだ。

 通常であれば、艦隊戦の初戦から大きな被害を受けることはほぼあり得なかった。
 可能性があるとすれば、防御態勢を整えていない状況での不意な攻撃であって、こうして正面から向き合っている状態であれば、射程圏内に入った時点で開始される砲撃は、ほとんど牽制といってもいいものだ。

 届くといっても豆粒のような敵艦隊を正確に狙えるすべは、科学がいかに発達しようとも不可能であった。偶然にも艦隊に向かったレーザー光の多くは、エネルギーが充電された防御壁にいとも簡単に弾かれて、かき消える。
 一辺すれば無意味とも見えるかもしれない攻撃であるが、このまま防御壁を展開していれば、いずれエネルギーを消耗して防御壁が薄くなることもあり、いわば牽制と同時に相手の弱体化を狙っている。

 最も、時には不運ということもある。
「巡航艦テルミット、撃沈しました」
「すぐに穴をふさげ、数はこちらの方が多い。敵右翼は第四艦隊に任せ、我々は左翼に攻撃を浴びせかけろ」
 聞こえた通信士官の言葉に対しても、スレイヤーは落ち着いた様子で言葉を出す。
 最前線にいた一部が火球に包まれて、宇宙に消えていく。

 牽制といっても、防御壁も万能ではない。
 防御壁が展開されている場所に、同時にレーザーを撃ち込まれれば、過負荷によって貫かれることがある。運が良ければ隔壁を閉じて、対応ができる。だが、運が悪ければ動力機関を破壊され、一瞬で塵となる。

 わずか数分の交戦で、数十隻の艦隊と、数百倍もの人命が失われた。
 夜空に浮かぶ花火の様に、儚く、平等に、双方に対して死の影を投げていく。
 両艦隊が次第に近づけば、必然的に被害も大きくなる。
 上がる花火の数が増え、代わりに叫ぶ声が少なくなった。

 損耗艦艇を個別に報告もできず、損耗率だけが機械的に計上されていく。
 友人も、同僚も、恋人も――聞こえる損耗率の報告には上がらず、ただ無事だけを祈りながら戦い続ける。

 午後一時五十五分。
 わずか数十分余りで、数千人の人命が失われた。
 戦いはまだ始まったばかりであった。

 + + +

『ファイエル』
「ファイエル」
 指令が流れるとほぼ同時、ラインハルトは一言呟いた。
艦橋で前部の大型モニターに、ラインハルトの乗艦する駆逐艦エルムラントⅡから真っ直ぐな光が伸びていった。

 数秒後、それに倍する光の雨が向かう。
 それが防御壁に中和されて、微かな光を放った。
 静かだ。
 元々駆逐艦ということもあって、少数しかいない空間である。
 そこでラインハルトは興奮した様子も見せず、ただ腕を組んで状況を見るのみ。

 艦長がそんな様子であれば、周囲が騒げるはずもない。
 本来ならばあるはずの、戦場の熱気は潜め、ただ静けさが広がっている。
 しかし、数回の応酬の後に、静けさは鋭い声とともに消えた。
「艦を前進し、艦列の前へ。敵艦隊右翼――主砲斉射三連!」

 腕の伸ばして告げられた言葉。
 驚いたようにちらりと見る兵士であったが、鋭い言葉に手元が自動的にコンソールを叩く。駆逐艦が動いて、艦隊の最前列へと進んだ。
「馬鹿な、何を考えている。最前列など!」
「決められた領域内における艦隊運動は、特段の命令がない限り艦長の専決事項です」

「そんなことは知っている。キルヒアイス中尉!」
 叫ぶようにクルムバッハが呟いた。
 元々がラインハルトは最前列に近い分艦隊の配置だ。
 だが、当然のことながら、この艦隊はここと座標が確定されるわけではない。

 刻一刻と動く艦隊で、同一の場所に居続けることは不可能だからだ。
 だが、もとより駆逐艦は周囲の大型艦隊に比べて小さく、その分スペースを取らない。
 大型の巡航艦や戦艦の防御壁の中で、安全に攻撃をすることも可能であった。
 わざわざ、全ての艦隊の前に出ていく必要はない。

 小さいことが災いしてか、いまでは最前列に出ている。
 そこで、主砲三連だ。
 攻撃に全力を注ぐ砲撃は、威力とともに防御壁のエネルギーまでも消費する。
 即ち、駆逐艦ならばともかく、巡航艦以上の砲撃があれば、防御壁など意味なさず、塵に消えることだろう。

「死ぬ気か、ミューゼル少佐!」
 クルムバッハは悲鳴のような声をあげて、目を血走らせてラインハルトを睨んだ。
 おろかと、冷たい視線がクルムバッハを捉える。
 最前線であろうと、戦艦の陰に隠れていれば命は助かるとでも思ったのだろう。
 相変わらず、この場所をオーディンの一等地で、三ツ星ホテルと勘違いしているようだ。
 だが、ここまで見苦しくはなくとも兵士の中でも不安な表情をするものは多い。

 視線を正面へと向け、ラインハルトは落ち着いたように声を出した。
「死ぬ気などない。開戦早々では、遠すぎて敵も牽制程度の砲撃しか向けてこない。砲撃を集中することもできなければ、広い宇宙で敵の砲撃が小さな駆逐艦を捉える可能性など、高額なビンゴにあたるようなものだ。ならば、我々が攻撃する時期は今をもってはない。気にするな、どんどん打ち込め」
 自信を持った堂々とした態度とともに、断言をするように命じられた言葉。

 腕を組んだままに命令する、若い獅子のようだ。
 その威容に、誰もがヤーとだけを応えて、攻撃へと戻った。
 時折攻撃が、防御壁をかすめて、光を瞬かせる。
 だが、それでも前へと臆することなく進み、砲撃を繰り返す。
 それを見ながら、キルヒアイスは笑い、そっとラインハルトに近づいた。

「しかし、ビンゴしたらどうしましょうか」
「ふん。その時は誰も批判する人間などいなくなる、簡単なことだ」
 返したラインハルトの言葉に、キルヒアイスは口元を手で隠して、笑う。
「何を話している。ミューゼル少佐、このような無謀な行為は断じて憲兵隊員として許しておけるものではない。今すぐ下がれ」

「結構。この場では戦場のいろはなど存じぬ憲兵隊の許可など不要です、クルムバッハ少佐。ここでの指揮官は卿ではない。静かにできぬというのであれば、キルヒアイス!」
「クルムバッハ少佐。そちらにかけてお待ちください。これ以上、指揮に口を挟まれるのでしたら、艦長の権限において強制的に部屋に戻っていただきます」

「平民風情が、誰に口をきいて――」
 クルムバッハが怒りを浮かべて、腰へと手を伸ばしかけた。
 その瞬間に、前方のモニターに赤い光を映った。
「敵、巡航艦の反応が消失。撃沈した模様!」
 砲術士官が、喜びよりも驚きを浮かべた声をあげた。

「よくやった」
 ラインハルトの短い誉め言葉に、艦橋が喜びに沸いた。
 言葉を出すタイミングを失ったクルムバッハはさすような視線をラインハルトに向けた。目に入るのは当然といった様子で前方を見る金髪の小僧と、クルムバッハに視線を向けて、その一挙手一投足を見るような赤毛の少年だ。

「この場の行為を覚えていることだ。後悔するぞ」
 吐き捨てるように呟けば、クルムバッハはすぐ近くにある椅子に音を立てて、座った。

 殺してやる。

 小さな呟きは、終わらぬ歓声にかき消されたのだった。

 + + + 

 赤い花火が遠くで上がるのを見届けて、ラインハルトは後退の指示を出した。
 戦火に沸く中で、水を差された様子に、問いの視線がラインハルトに集中する。
 だが、彼は表情を変えることはなく、同様の指示をもう一度出した。
「艦隊を後進させ、戦艦の防御壁内に配置。射撃は通常へ戻せ」
「戦いには機というものがある。敵は損害を受けてひるんでいる、この時こそ攻撃を仕掛けるべきではないかね」

「巡航艦一隻程度では敵をひるませることもできない」
 周囲に聞かせるようにラインハルトは呟いた。
 その心中では、巡航艦一隻を撃破し、これ以上は危険性の方が大きくなるとした合理的な考えによるものであったが、そこまでを教える必要もないと黙った。

 いいから下げろといったラインハルトの様子に、駆逐艦エルムラントⅡは緩やかに艦を後退させていく。元より小さな艦は移動による制限を受けることなく、開戦時と同位置にまで戻った。
 クルムバッハの言葉を無視するような行為に、怒りの色が強くなる。
 だが、この場には彼の言葉を聞くような、彼の言う高貴な人間はいなかった。
 駆逐艦の乗員の数は少なく、その多くが平民に位置する者たちである。

 搭乗するだけで、他に策を考えつかなかったのが、クルムバッハの限界ともいえたかもしれない。本当にラインハルトを亡き者にするのであれば、この艦にクルムバッハの縁者を乗り合わせたことであろう。だが、その協力者はイゼルローン要塞にいて、この場ではなんら役にも立たない。
 だからこそ、彼は今も怒りを込めた視線を向けて、悪態をつくのが精いっぱいだが。
「腰抜けが……ひっ」

 呟いた彼の目に、先ほどに倍するレーザーの雨が襲い掛かった。
 甲高くも小さな悲鳴だが、その多くは隠れた戦艦の防御壁に阻まれ、残す少数は駆逐艦の脇を抜けていった。
 敵との距離が近くなり、さらには巡航艦の仇を取ろうと敵が狙いを絞って来た。

 少し考えればわかるはずであろう行動であるが、クルムバッハは慌てたように叫んだ。
「下がれ、もっと下がれ!」
 時期はどこいったのかと、ラインハルトは苦笑する。
 ただ一人が取り乱すことで、周囲の兵士たちの中でも動揺は少なくなっているようだ。

 悲鳴を上げる前に、それ以上に大きく悲鳴を上げるのだから。
 無能かと思ったが、随分といい役割をしてくれる。
「いかがしましょう」
「この位置で構わない。これ以上後ろに下がっても、後方の陣営の邪魔になるだけだ。現在の位置を保持して、敵に対して攻撃を加えろ。狙いは気にしなくてもいい」

 本来であれば、こちらに狙いを絞ったのであれば、狙われなかった艦隊がより能動的に活動できるのであろうが、それ以上のことはラインハルトの任務外のことである。背後で下がれと喚き散らす雑音を聞きながら、ラインハルトはキルヒアイスに視線を向けた。
 ゆっくりとキルヒアイスがラインハルトに近づく。

「静かにさせますか」
「いい。あれはあれで有意義だ。俺たちが我慢をすればな、それよりもつまらないものだな」
「初めての大規模な艦隊戦です。喜んでおられるのかと思っていましたが」
「最初だけな。だが、駆逐艦一隻ではせいぜい敵を一隻沈めるだけだ。戦局には何ら意味をもたらさない。学べることも……」

 そっと背後を見て、ラインハルトは薄い唇をまげた。
「駄々っ子をなだめる母親の気持ちがわかるくらいか」
「……アンネローゼ様の気持ちが理解できるようになったのでしたら、十分ではございませんか」
「キルヒアイス」
 横目でじろりとした視線に、キルヒアイスが微笑で答えた。

「お前は嫌な奴になったな」
 怒っている様子を見せるが、表情が緩んでいれば説得力もない。
 だが、すぐに表情を元に戻して、前を向いた。
 徐々に近づく艦影が映り、攻撃差はより激しさを増している。
 同時にクルムバッハの悲鳴に近い声も大きくなっているのだが。

「キルヒアイス……中尉。どうみる」
「敵は数を頼んで押し寄せているようですが、少し変ですね」
「ああ、何か功に焦る新兵のように見える……だが、敵は精鋭のはず」
 ラインハルトはそのままに、静かに瞳を閉じた。
 長い睫毛が瞳を隠し、口元に手を当てて、考える。

 瞬間、瞳が開いた。

「そうか。総員、後退の合図とともに、全速力で後退せよ。分艦隊司令に伝達、敵はこちらとの接近戦を考えている可能性があると」

 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦2


 敵との距離が近づけば、互いに損害の数は多くなった。
 主砲であるレーザー光の威力が高くなり、ミサイルの有効射程に入るためだ。
 互いに備えるミサイルはレーザーとは違い、数が少なく、速度も遅い――途中で障害物やレーザーによって打ち砕かれる可能性もある。だが、威力は絶大。巡航艦程度の防御壁では防ぐこともできず、砲術士官が補助レーザーを使い、到達する前に撃墜するしかない。

 その多くは撃墜されるが、一部が被弾して、大きな被害となる。
 単発なレーザー砲とは違い、ミサイルの直撃を受けた艦が助かる可能性は少ない。
 前線で一撃を受けた駆逐艦が、半ばからへし折れて、大きな炎を上げた。
 だが、音はない。
 音の伝わらぬ宇宙空間では、どれだけ大きな破壊であったとしても、艦にまで届かない。

 ただ炎をあげて、塵と消えていくのを見ていくだけだ。
 それとは対象的に、艦橋では報告の声が大きくなった。
 司令部からの命令、分艦隊の被害、破壊された艦に対するフォロー。
 それらは分艦隊司令官の耳へと入り、参謀たちがそれぞれに命令を下していく。
 見習いであるセランも、いまは忙しく先輩について動き回っていた。

 対照的に、アレス・マクワイルドは静かなものだ。
 アレスがここにきているのは、総旗艦との意見調整の役割。
 大きく作戦が変更になるのであれば、違うのであろうが、現在までのところ作戦は上手くいっている。分艦隊司令官に意見を求められていないのに、勝手に発言する権利はない。
 前面の巨大モニターに映る戦況を、アレスはじっと見つめた。

 通常の戦闘であれば、主に勝敗を決めるのはここから。
 敵の動きに合わせて攻撃を集中し、艦隊を運用し、敵を包囲していく。
 あるいはさらに前進し、宇宙空母などから戦闘艇を使う。
 初めて見る艦隊戦を、アレスは目に焼き付ける。
 あの中に、ラインハルトもいるのだろうか。

 この様子を同様に見つめているのだろうか。
 静かに思った問いは、虚空の中に消えていく。
 先ほどから同盟軍の被害は拡大しているが、それ以上に被害を受けているのは帝国軍だ。
 元より同盟軍と帝国軍では数が大きく違う。
 敵も攻撃よりも防御を主体とした――間隔を広げて敵の集中砲火を避ける形をとってはいるが、それでも同盟軍よりも被害は大きい。敵をイゼルローン要塞まで引きずり込むという戦術であったのだろうが、わざとというよりも、こちらの攻勢によって下がらざるを得ない状況となっている。

「敵艦隊、要塞主砲射程内まで、残り一分」
「予定通りだな」
「はっ」
 短い言葉でスレイヤーは呟くと、前方の敵艦隊から視線を移した。
 そこに立つアレスと目が合った。
 腕をあげて、小さく指を曲げた。

 その動作の意図を理解して、アレスはスレイヤーの元へと近づいていった。
 アレスの動きに、視線が向かう。
 スレイヤーに近づいて、放たれたのは問いだ。
「ここまでは予定通りだ。総旗艦からは何か連絡は」
「いいえ。問題はございません」

「それは重畳」
 スレイヤーは満足そうに頷けば、アレスに向いた視線も元に戻った。
 スレイヤーも前を向き、アレスもそれに倣った。
 モニターでは黒と赤が混ざり、それにレーザーの光が流れている。

「ここまでは予想通りだ。だが、君の嫌な予想はあたらないことを希望したいものだ」
独り言のように、スレイヤーは小さく呟いた。
 アレスが視線を向ければ、スレイヤーは前方を睨んだまま。
「全艦隊、敵に対して圧力を強めよ」

 艦橋に力強い言葉が響いた。

 + + +

「前線より、敵の圧力が強く後退の許可を求めています」
「後退ではない。誘い込むのだ――栄えある帝国軍に後退の文字はない」
 通信士官を叱咤し、苛立たし気にヴァルテンベルクは机上を叩きつけた。
 前方のモニターでは、同盟軍に圧迫されるように帝国軍が映っていた。
 数の違いは圧倒的な力となり、帝国軍を押している。

 こちらが一発の間に三発のレーザーが返ってくる。
 既に敵の前線はミサイルの射程内に入っている。
 火力は多くなり、当初は被害を報告していた士官も、今では戦艦など重要なものを除いて、パーセント単位での報告となっていた。
 確かに兵では劣勢。

 だが、握った拳とともに、声が震える。
 白い肌が赤みを増していった。
「反乱軍風情に何を腑抜けたことを。まだ戦いは始まったばかりではないか。前線の腐向けに伝えろ、誘い込みは予定通りだ。それまで反乱軍に対して反撃を加えろ」
「情けない限りでありますな。烏合の衆相手に何を慌てているのか」
「その通りです」

 ヴァルテンベルクの周囲では、同調するような言葉があがる。
 だが、それを聞いてもヴァルテンベルクの不機嫌そうな顔は治らなかった。
 いらだちを持ったまま、前方を睨みつけるようにしている。
「平民の奴らは予定通りのこともできぬか、無能が」
 その怒りは同盟軍だけではなく、前線で戦う味方にも向いているようだ。
 前線には一部を除いて、多くが平民である。

 彼らにとって、平民は使い捨ての駒のようなものだ。
 前線で戦わせて、死ねば新たに補充する。
 それが平民たちに戦う力をつけ、今後――いや、今も台頭することになるのだが、ヴァルテンベルクを始めとして、門閥貴族の多くは知ることはない。
 被害が拡大していると聞いても、考えるのは戦死者のことではない。

 このままでは要塞司令官に手柄をもっていかれるかもしれないという、自己の保身によるところであった。睨むようにモニターを見るが、ヴァルテンベルクが睨んだところで戦況が変わることはなく、ただ被害の数だけが大きくなっている。
 不機嫌そうな顔をしたままで、ヴァルテンベルクは背後を振り返った。
 そこには立派な髭を蓄えた、中年の男が立っている。

 ヴァルテンベルクの傍には近寄らず、しかし、呼ぶほどに遠いわけではない。
 髭によって威厳を保っているが、眼光に欠けるが弱さが苛立ちを募らせる。
 このまま無視をしようかと考えて、ふとヴァルテンベルクは口にした。
「レンネンカンプ大佐」
「はっ」

 力強く返事をして、一歩前に出る。
 ヴァルテンベルクはそれを手で制しながら、顎に手をかけ、髭を撫でた。
「そう言えば、貴官のところに配属された、あの金髪の小僧はどこで震えている」
 馬鹿にしたような言葉に、周囲から笑いの声があがった。
 その様子に、ヴァルテンベルクも笑みを浮かべた。

「心配ならば、様子を見に行ってもいいのだぞ」
「かまいません。部下一人だけを贔屓するわけにもいきませんから」
 実直に答える様子に、ヴァルテンベルクは苦笑をした。
 つまらない男だと。

「ミューゼル少佐であれば、あちらにいるかと」
 そう指さしたのは、最前線の一部だ。
 砲撃を最も受けており、被害が拡大していると報告のあった一角。
「はっ?」

 ヴァルテンベルクも、そして周囲の人間たちも笑いを止めた。
 同時に振り向くのは、レンネンカンプのさした前線だ。
 その視線の先で、赤い爆発が起こった。
「れ、レンネンカンプ大佐……貴様は――あれを最前線に送ったのか」

「本人が希望するのであれば、小官に断る理由などございません」
「そういうことじゃない。奴が誰かを知っているだろう!」
「まだ若いが、立派な少佐です」
 ヴァルテンベルクは殺しかねない視線を、レンネンカンプに送った。
 まずいと、唇をかみしめる。

 馬鹿にする程度であればいい。
 だが、下手に金髪の小僧を殺したとなれば、皇帝陛下の御不興を買う可能性がある。
 少なくとも、その寵姫はヴァルテンベルクを憎むだろう。
 実直で公平と話は聞いていたが、ただ融通の利かぬだけではないかと、心中で怒声を向けるが、ヴァルテンベルクは叫んだ。

「全艦隊、後退だ」
「はっ、後退ですか?」
「何を聞いている。後退だ、今すぐ敵をイゼルローン要塞に誘い込め!」

 焦りを隠すことなく、ヴァルテンベルクは叫んだ。

 + + +

 第八艦隊旗艦 ヘクトル。
 戦況は、予定通りに推移していた。
 艦隊総司令官のシドニー・シトレを中央にして、左右に参謀たちが立ち並ぶ。
 その最前列でヤン・ウェンリーは前方を見ていた。
 シトレの周囲に立つ参謀たちは、この作戦の最大の山場を前にして、表情に緊張の色が浮かんでいる。並行追撃と簡単には聞こえる作戦であるが、過去四回の戦いで選択しなかったのには理由があった。

 失敗した場合のデメリットの大きさと、成功する可能性の問題だ。
 仮にこれが過去の平地で戦っていた時代であったならば、退却する敵を追随して砦からの攻撃の盾とすることは簡単だったろう。実際にそういった戦いは過去には枚挙にいとまがない。
 だが、それは互いが徒歩で――あるいはせいぜい騎馬であったからだ。
 撤退する艦隊との距離を一気に詰めようとすれば、同時にこちらも動く必要がある。

 遅すぎれば、要塞主砲の狙い撃ちであるし、早すぎれば敵艦隊への突貫だ。
 防御行動を解いて、突っ込んでくる艦隊は実に狙いやすい事だろう。
 どちらにしても、一つ間違えれば戦争どころの話ではない被害を受けるのだ。
 それを防ぐため、同盟軍の中でも練度の高い精鋭部隊を三個艦隊揃え、参謀の数を増やし調整し、訓練を重ねた。

 成功するために万全を期した。
 それでも周囲に伝わる緊張と不安さは隠しておくことができない。
 ただ一人。
 中央に立つシトレだけは違った。
 わずかな緊張の揺らぎすら見せず、不敵な様子で直立不動。

 腕を組んだままに、立つ姿は、まさしく総司令官たるに相応しい姿だと言えた。
 さすがだな。
 普段を知っていれば、目を疑うような――だが、そこに確かに存在する将器の器。
 一般の兵卒から、士官に至るまで人気の厚い理由を改めて実感する。
 とはいえ、そればかりに目を奪われているわけにもいかない。

 ヤンが担当するのは、この作戦の肝となる並行追撃へのタイミングだ。
 全ての艦隊には事前にデータとして行動を送信しており、合図があると同時に一斉に行動ができる手はずとなっているが、それでも微調整は必要である。端末を叩きながら、修正をかける。
 それに、ヤンが緊張を感じているのはそれだけではない。
 アッテンボローが生意気な後輩と評価し、しかし、どこか憎めない男。

 そんな彼から渡された爆弾ともいえる作戦――それがヤンの右手にあった。
 手のひらに収まるほどの、小さな二つのメモリチップ。
 それを見れば、気が重くなる。
 それが実現してほしくないという希望――そして、実現した場合に委ねられた重さ。
 端末前で足を組む、決して褒められない姿勢をとりながら、ヤンはそれを眺めた。

 アレス・マクワイルドとの接点は、過去にシミュレート大会で顔を会わせたくらいであり、彼が参謀として配属されるまでほとんど会話をしたことがなかった。そんな人物に託すにはあまりにも重く、正直なところ買いぶり過ぎだと愚痴も言いたくなるが、それを口にはできない。
ただ、わずかな緊張が吐息となって漏れた。
「なんだ、緊張しているのか、ヤン少佐」

 そこにかかったのは、随分と明るさの混じる声だった。
 周囲の参謀たちとは違い、不安さを一切感じさせない声音と表情。
 力強い瞳が、ヤンを見ていた。
「そりゃあね。これは大役だ、ワイドボーン少佐」

「いま考えたところでどうにかなるわけでもない。なるようになる。そのための作戦だ」
 そうだろと問いかける自信を持った口調に、ヤンはそうだねと同意した。
 見事なものだなと、ヤンは小さく笑う。
 シトレには劣るかもしれないが、少なくとも自分にはない貫禄というものだった。
 仕方がないと髪をかきながら、それでもエルファシルの状況に比べれば随分とましだ。
 自分は一人ではないと思えるから。

 最もそんな感情は彼の性格から、言葉にだすことはなく、表情に出すだけに終わった。
 満足そうに頷けば、ワイドボーンは離れていった。
 彼は彼で任務があるのだろう。
 むしろ並行追撃作戦が成功してからが、彼の出番だ。
「なるようになるか――彼らしい言葉だな」

 ゆっくりとベレー帽をかぶりなおして、ヤンは前方へと視線を戻した。
 モニターが敵軍の様子を映していた。
 艦の正面を映しているモニターとは別に、全体像を映すモニターがある。
 そこに、動きができた。
 視界に捉えた動きに、全員が息を飲んだ。

 小さく誰かが、きたと呟いた。
「敵艦隊、後退を開始します」
 同時、叫ぶような報告が索敵士官からあがった。
「全艦隊に伝達。これより、作戦コードA-1――『巨狼の鎖』を実行する」

 艦橋に、シドニー・シトレの声が響き渡った。

 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦3

 戦艦レオポルドβの艦橋では、受けた後退の命令を配下の艦隊に流していた。
 予定通りの行動であったといえ、予定時間よりも大幅に早い時間だ。
 敵の強い圧力に早期の後退を進言していたが、つい先ほど耐えるようにと断れたところ。しかし、その直後に予告もなく、即座の撤退命令が下った。
 準備をしていなかった艦橋は大慌てで、周囲に命令を下すことになる。

 レオポルドβの艦長トーマス・フォン・シラー大佐は怒声に近い声を張り上げていた。
 本来であったならば、定められた時間に同時に後退するはずが、突如として即座に後退しろとの命令が来た。残り少ない時間までに各艦隊に情報を伝達して、同時に後退をする。
 その間にも敵からは圧力が弱まることはない。
 レーザー光をはじく防御壁、砲術士官は艦隊の補助砲を使い、ミサイルを破壊し、機関を担当する者は予定時刻に向けて、動力機関を動かしていく。
 全員が険しく端末を操作し、わずかな余裕というのもない。
 そんな中で、ヘッドセットを抑えながら、通信士官が振り返った。

「駆逐艦エルムラントⅡより報告があがってきています」
「なんだ。この忙しい時に。誰だ、いったい!」
「ラインハルト・ミューゼル少佐です」
「あの金髪の小僧か」
 忙しい時に上がって来た通信に、シラーは不機嫌さを隠そうとはしなかった。
「それでなんと?」

「それが……」
 言いにくそうに口ごもる通信士官に、シラーは怒声をあげる。
「時間がないと知っているだろう、さっさと言え」
「はっ。敵の動きに異変を察知した。敵艦隊は後退と同時に追撃をかけ、接近戦をかける可能性がありと」
「馬鹿なことを」
 シラーは一笑する。
「敵が特攻でもかけるというのか。やはり金髪の小僧は金髪の小僧ということだな」

 馬鹿にしたようにシラーは肩をすくめる。
 だが、不安げに顔を持ち上げたのは通信士官だった。
「しかし……」
「問題はない。こちらの動きに合わせるためには、全艦隊でタイミングを揃えなければならない。思いついて、一朝一夕でできることでもない」
「相手がその作戦を立てていたら」
「問題はないと私は言っているのだ、何かあるか」
 声を出した副官を、シラーは睨みつけた。

 腰抜けばかりの平民どもがと、シラーは毒づいた。
 そもそもその作戦をあげてきたのが、まだ十六になる金髪の小僧であることを理解していない。姉のスカートの下に隠れる小僧が、手柄欲しさに適当なことを言ってきているだけなのだ。
「上には」
「何度も言わせるな。上に報告する必要を認めない、さっさと後退の準備に取り掛かれ」
「はっ」

 艦橋が慌ただしくなり、情報が飛び交う。
 副官はまだ言いたげであったが、シラーの命令を受けて、任務に戻ったようだった。
 時間を無駄にしたと、シラーは不愉快そうに自席へと腰を下ろす。
 敵の攻撃はさらに強くなっている。
 予定の時間まで粘っていたら、もしかすれば大きな被害を受けていたかもしれない。そう考えれば、急なこととはいえ後退の命令を早めたのは良かったかもしれない。

 防御壁に次々に打ち砕かれる、敵のレーザーを示す緑を見ながら呟いた。
 打ち返すこちらの青いレーザーも伸びるが、いかんせん数が少ない。
「反乱軍が、好き勝手にやるものだ」
 だが。すぐにそれは逆転するだろう。
 敵を射程に引き込み、イゼルローン要塞からの一撃を加える。
 崩壊する敵に対して、一気に攻勢をかける。

 その時には、敵兵など一隻残らず皆殺しにしてやる。
 シラーの顔に嗜虐的な笑みが広がっていく。
「命令はまだか」
「は。ただいま各艦隊と調整中とのこと」
「命令が出たら、すぐに後退する。それまで敵に好きにさせておけ――駆逐艦や巡航艦を前にだして、防げ」
 本来ならば敵を防ぐためには、盾となるべき大型艦を前にするべきだ。つまるところ平民の多くを壁とする命令であった。

 だが、副官は反発することもできず、命令を下した。
 破壊の色が大きくなる。
 前線に出され、炎をあげて、塵と消えていく。
 だが、シラーにとっては被害よりも、戦艦に向かうレーザーの数が少なくなったことを満足げに頷いた。平民がいくら死んだところで、シラーが不愉快になるわけではない。破壊される艦の様子を絶望的な視線をもって見る平民の兵たちの姿が目に入るわけがない。

「艦隊司令から入電。後退を開始する」
「よし。全速で後退しろ!」
 通信士官が命令文を読み上げると同時、シラーは立ち上がり、叫ぶ。
 即座に防御壁に使用していたエネルギーが切り替わり、動力機関へ変換される。
 必然的に防御壁は弱くなり、敵の攻撃がやすやすと防御壁を貫き、艦を破壊する。

 だが、それは最前列に置かれていた駆逐艦や巡航艦が真っ先に標的となり、戦艦レオポルドβには到達しなかった。
 機関が強く動き出し、唸りに近い振動が環境に広がった。
 微かな運動力が艦橋を揺らして、敵艦隊との距離が動き出す。
 同時、周囲の艦隊も後退を開始する。
 多少の被害はあったが、大きな被害はない。

 上手くいったと、シラーは笑みを浮かべた。
「敵艦隊との距離――広がりません」
「なに!」
 何を馬鹿なことと、報告した索敵士官へと強い視線を送る。
「敵艦隊接近――!」
 叫ぶように索敵士官が、悲鳴のような声をあげる。
「そんなことがあるわけがない。しっかりと見ろ!」
「見ています、敵艦隊との距離、接近――あ」

 絶望的な声をあげて、索敵士官は手元の端末から正面を見上げた。
 呆然と、誰もが前を見ている。
 そこには――こちらの後退と同時に加速して突っ込んでくる艦隊がある。
 第五艦隊分艦隊旗艦ゴールドラッシュ。
 同盟軍の最精鋭を従え、動き出す様子は迅雷のようだ。
 前線に押し上げていた駆逐艦や巡航艦を破壊して、戦艦へとその牙を向けている。

「ばかな、そんなこと、そんなことあるはずがない」
「艦長。命令を!」
「撃て、敵を撃ち殺せ!」
「砲撃、間に合いません」
「撃て、撃てと言っている」

 既に、敵艦隊の姿がはっきりとわかるようになった。
 帝国艦隊とは違い、ブロックを組み合わせたような無骨なデザイン。
 その中央に置かれた方向が、緑色に光り――。
「そんな馬鹿なことがあるはずがない!」
 敵戦艦の主砲は、レオポルドβの艦橋を貫いた。

 その脇で、一隻の駆逐艦が素早く離脱する様子をシラーは見ることすらなく、蒸発した。

 + + +

「食らいつけ!」
 怒号に近い言葉とともに、ドワイド・グリーンヒル中将の声が飛んだ。
 帝国軍イゼルローン駐留艦隊が一気に引き込むと、ほぼ同時。
 その動きを、いまかと待ち構えていた同盟軍は、シトレ総司令官の命令を受けて、前進行動へと移った。流れるような動作で、第五艦隊スレイヤー分艦隊が敵の前線に接近し、一撃。
 敵は予測すらしていなかったようで、敵の前線は一瞬をもって崩壊した。

 身じろぐように敵の動きが弱くなった瞬間を、グリーンヒルは見逃すことはない。
 普段の穏やかな様子を消して、叫ぶように下された命令を受けて、第四艦隊の面々も、第五艦隊に負けるかと、追撃を開始した。
 帝国軍も接近されるのを嫌い、先ほどに倍する砲撃とミサイルを撃ち込み、同盟軍の被害も大きくなる。だが、後方から次々と変わりが現れ、同盟軍を引き離せないでいる。

 既に帝国軍と同盟軍双方が、トールハンマーの射程内に入り込んでいる。
 だが、後退してイゼルローン要塞に向かえたのは帝国軍でも後方に位置していた部隊の一部だけであり、その多くは同盟軍と接敵して、実に――無様な殴り合いを繰り広げていた。
「なんと、無様な。敵を振り切れ」
 イゼルローン駐留艦隊総司令官のヴァルテンベルクは叫ぶように、命令を出すが、同盟軍は振り切ることを許さず、既に艦隊の中腹近くまで侵攻を許していた。

 それは不意を突かれたという点もあったであろうが、一番の大きな原因は数の差だろう。
 殴り合いになれば、敵を一隻倒す間に、こちらも一隻が失われる。
 そんな状態であれば、数に有利な方が上回るのが道理である。
 帝国側も前線で壁を作り、後方の艦隊をイゼルローン要塞に戻そうと試みているが、そこに同盟軍第八艦隊が来襲する。

 より一層な圧力が、駐留艦隊に対する自由を奪う。
 彼らの前には第五艦隊と第八艦隊が道をふさぎ、自由になった第四艦隊がイゼルローン要塞への攻撃を開始したのだった。

 + + +

「何をしている。ヴァルテンベルクの阿呆が――これでは撃てないではないか」
 この様子に激怒したのは、イゼルローン要塞司令官のクライスト大将であった。
 要塞モニターに映るのは、帝国軍と同盟軍が無様にも入り混じる姿であり、砲撃を加えれば、その多くはこちらに近い位置にある駐留艦隊に被害を与えることとなる。

 イゼルローン要塞の補助砲を使うしかないが、焼け石に水といってもいいだろう。
「敵――第四艦隊。スパルタニアンを射出」
 第四艦隊から、単座式戦闘艇――スパルタニアンが動き出し、要塞へと向かった。
「ワルキューレを出せ」
 イゼルローン要塞から帝国軍の単座式戦闘艇が射出され、近づくスパルタニアンに対して攻撃を加えた。要塞の補助砲のサポートもあって、多くのスパルタニアンが撃ち抜かれ、宇宙に消えていったが、数が多く、ワルキューレは撃ち落され、補助砲も炎をあげた。

「敵艦船――!」
 悲鳴に近い声が、通信士官から聞こえる。
 無人艦だ。
 単座式戦闘艇に向いた間隙を抜いて、無人艦らしき艦艇が要塞へと急降下をする。
 駐留艦隊は役には立たず、補助砲もすべてを打ち落とすことはできない。

「接触しまっ――」
 叫んだ索敵士官の声と同時、イゼルローンが大きく揺れて、モニターにノイズが走った。
 爆発音は、遠いイゼルローン要塞指令室にまで聞こえてきた。
「被害。第二隔壁まで損傷――モニター切り替えます」
 切り替えられたモニターには、無人艦によって撃ち込まれたイゼルローン要塞の様子が映し出されていた。液体金属の壁が大きく避けて、中の無骨な鉄骨をむき出しにしている。

 時折、ゴミの様に外に吸い出されるのは、そこで任務をしていた人間であろう。
「何という事だ」
 あまりにも痛々しい姿に、クライストは絶句する。
 過去四度の戦いがあって、イゼルローン要塞は無傷の様子を保ってきていた。
 それが、愚かな敵軍に。
 いやと、クライストは怒りを滲ませながら、モニターに映る艦隊を見る。

 それもこれも愚かな駐留艦隊によるところだ。
 奴らがいなければ、トールハンマーを使い、このようなことになることはなかった。
 いまだに交錯する無様な様子に、吐き捨てるようにクライストは叫んだ。
「ヴァルテンベルクの阿呆に、さっさと後退するように伝えろ」
「はっ!」
 慌ただしく、端末を操作する様子に、クライストは怒りを抑えきれずに、唇を噛んだ。

 駐留艦隊の阿呆のせいで、偉大なイゼルローン要塞に、初めて傷をつけたのが自分となることが腹立たしかった。
「なぜ、阿呆のしりぬぐいを俺がせねばならぬのだ」

 その呟きは、誰にも聞かれずに消えたが、クライストの心に残すことになった。

 + + + 

「敵要塞への攻撃――第二層目まで届いております」
 敵防衛設備の損害に対する報告があがり、上機嫌でシトレは後方を振り返った。
 アップルトン、リバモア、ビロライネンなど各司令部の主任級の人間もまたほっとしたような面持ちで立っている。

「このまま第三層目まで破壊することができれば、陸上部隊の攻略が可能となるでしょう」
「いまだに敵施設の詳細な図面は手に入っていないからな。どのような罠があるかもしれん」
 アップルトンの言葉に、シトレは頷いた。
 しかし、それでも攻勢をかけていれば、罠があったとしても打ち破れる。
 陸上部隊の突入はそれからでも遅くはないと考えて、どこか浮かない顔をしている人影を見つける。

「どうかしたかね、ヤン少佐」
 問いの言葉に、ヤンはモニターから視線を外した。
 迷うような様子に、シトレはもう一度問いかけた。
「どうかしたかね」
「は。対空設備の危険は消えたと言え、いまだに敵主砲の範囲に艦隊はおります。早急に陸上戦部隊を突入させるべきかと」

「何を言っている、ワイドボーン。敵主砲は既に並行追撃によって沈黙している」
「撃てないわけではないかと」
「何を馬鹿なことを」
 笑えば、ビロライネンがワイドボーンの上司である参謀へと視線を向けた。

 だが、言葉にするよりも先にシトレが厳しい表情を向ける。
「撃てないわけではないか」
「僭越ではございますが。突入のタイミングは今を置いてないかと」
 シトレの――いや、参謀級の上位士官の視線が一直線へとワイドボーンへと向かう。
 だが、ワイドボーンの瞳は二つしかない。

 その二つはまっすぐに、シトレを見ていた。
 視線を外したのは、シトレだ。
 ヤンへと向かい、ヤンは驚いた表情をした。
「ヤン少佐もそう考えているということかね」
「ええ。敵に時間を与えるのは不利になると考えます」

「何を馬鹿な……」
 呻くような参謀の言葉を、シトレが腕を伸ばして防いだ。
 一直線に伸ばされた分厚い腕に、他の参謀は言葉にすることはできない。
 ただ、視線だけがシトレを見ている。

「この時点で陸上部隊を突入させた場合、問題はあるか。アップルトン中将」
「敵要塞内の防御力は未知数です。無理に急ぎ、陸上部隊が壊滅した場合には作戦続行は不可能となります。敵の援軍は期待できず、攻撃を強めてからでも遅くはないかと」
「敵が要塞主砲を撃つ可能性は」
「それを考えますと、小官は何とも」

「恐れながら。そのようなこと、あるわけございません」
 アップルトンの言葉にかぶせるように、声高にビロライネンが主張し、そうか――と、シトレは一言呟いた。
 顎に手をあて、しばし考え、瞳を開けた。
「ならば……」
「閣下。私も突入に賛成です」

「黙れ。アロンソ!」
 叫んだビロライネンに視線が集中した。
 全員の視線が集中することに慣れていないのか、あるいは別の理由からか。
 叫んだことを隠すように、ビロライネンは咳払いをした。
 怪訝そうに眉を顰めるシトレに対して、その上官であるリバモアは口にした。

「そ、そもそもですが。意見は様々であります。ですが、シトレ大将の命令を受け、我々参謀は最善を選択するのが、仕事でございます――閣下、ご命令を」

 ぶん投げた。

 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦4


 それは泥の中にいるようであった。
 戦いながら、ヴァルテンベルクはそう評価した。
 敵第五艦隊の前衛が、駐留艦隊の前衛に食らいついてから随分と立つ。
 その間に、手の空いた敵によって要塞が攻撃を加えられ、ヴァルテンベルクも引き離そうと、あるいは敵に対して攻勢をかけようと手を変えて攻撃しているが、敵は老獪な用兵を見せている。

 まさにのれんに腕押し――泥の中にいるような無様な戦闘だった。
 目を見張るような攻撃があるわけではない、あるいはこちらが諦めるような強さではじき返されるわけでもない。
 ただただ、泥の中にいるような疲れる戦いだ。

「敵は未だ引き離せません」
「持久戦だな」
 そうして、時間が経過してヴァルテンベルクは苦い顔を見せた。
 敵は生かさず殺さず、こちらの体力を消耗させようとしているのだと。

 敵の攻撃が弱いのが、その証拠だ。
 本来ならば攻撃を強めれば、数で劣る前線部隊は壊滅することになるであろう。
 だが、そうなれば要塞から主砲を撃つチャンスができる。
 それを異様なまでに恐れているようだと、ヴァルテンベルクは思った。
 ならば、立てられる作戦もあるか。

 戦う気がないのであれば、前線部隊を少しずつ減らして、本体を逃がす。
 あるいは全体で攻撃を加えて、ひるませたところで下がる。
 どちらがいいかと、考えかけて。
「レンネンカンプ大佐」
「は」

 男が生真面目に答えた。
「あの金髪の小僧は、いかがした。死んではないと先ほど報告を受けたが」
「前線で敵の攻撃をしのいでおります」
「さっさと下がらせろ。要塞に戻せ」
「しかし……」
「これは命令だ」

 渋るレンネンカンプに対して、ヴァルテンベルクは命令の二文字で切り捨てた。
 すぐに動こうと考えた行動は、遠のくことになった。
 今しばらく、この泥仕合を続けなければならない。
 苛立つ心を抑えるように、髪をかく。

 待たなければならないそれは――駐留艦隊にとっては、実に不幸なことであった。

 + + +

「無様だな」
 イゼルローン要塞の宙港に引き込まれながら、外の様子にラインハルトは息をこぼした。
 敵の攻撃は苛烈を極めている。
 それまで、一撃も与えられなかったストレスからか。
 艦載機が――あるいはミサイルが、容赦なくイゼルローン要塞に降り注いでいた。
 宙港の傍でも爆発が起き、危うくドッグへの収納が失敗するところであった。

 だが、それも前線からすればラインハルトは運のよいほうであったのだろう。
 敵の意図を見抜き、命令とともに即座に後退―-いや、撤退に移ったからこそ、このタイミングで逃れることができたのだ。多くの前線指揮官は、敵の精鋭部隊によって破滅を迎えていた。イゼルローンの第一壁が閉じる寸前――見えるのは、敵艦隊と味方が入り混じる、酷く無様な様子であった。
 兵力差で、駐留艦隊は敵の第五艦隊と第八艦隊に頭を捉えられて、逃げ出すことができない。自由となった第四艦隊が、イゼルローンに対して、まさに苛烈な攻撃を加えている。

 撃ち込まれる無人艦が、ミサイルが――容赦なく、要塞に降り注ぐ。
 いかに液体金属で、敵の主砲をふさいだところで意味が無い。
 破壊の炎は容赦なく、要塞の外壁を破り、内壁で作業をしていた整備兵を虚空へと吸い出して言った。
「ラインハルト様――早急に中へ」

 その状況を理解しているのは、親友だけだ。
 他の者たちは宙港へと引き込まれた時点で、安堵の息を吐いている。
 生きて帰ってくることができたと。
 ともすれば、この時点でミサイルが外壁に着弾すれば、終わりになることなど理解できていない。それほどに分厚い外壁と、イゼルローンの名前が彼らに安堵をもたらせているのだろう。

 ラインハルトにとっては、それを非難することはできない。
 それすら理解できない、愚か者がいるのだから。
 ラインハルトは――キルヒアイスにも、いや、まして部下にも向けたことがない、冷ややかな視線を後方へと向けた。
 そこには撤退が始まってから、叫ぶように非難する声を張り上げていた人間がいる。

 いかに周囲を安心させる役割があったとはいえ、命をかけた戦場ではうるさすぎる。
 ドッグに収まってもなお、補助ベルトから手を放さない人間がいる。
 それがあったとしても、死ぬときは一瞬。それを理解していない凡愚。
 それでいて視線だけは一人前に、憎悪を向けてきている。
「……その前に片づけなければならないな」
 小さく出した言葉に、キルヒアイスは小さく緊張の色を浮かべた。

 それまでの軽さを一切含まぬ言葉。
 まっすぐな視線を向けられて、ラインハルトは瞳を伏せた。
「キルヒアイス――俺は……」
「ラインハルト様」
 ラインハルトの言葉を止めたのは、赤毛の少年。
 わずか十六という若い年齢――だが、ラインハルトを見る、そこに若さは――弱さはなかった。

「あの凍土の戦場で――私は、あなたを失うかと思いました。あの時、こちらを見ていたのは――死神でした」
「…………」
「あの時まで――私はどこか他人事だったのだと思います。ラインハルト様は完璧で――死ぬことなどないのだと。そう信じてきました」
 当然だと笑いそうになった言葉は、キルヒアイスの真剣な表情にかき消された。

「ですが……」
「それ以上はいい。私も理解している」
 いつか肩に置かれていた手を、ラインハルトは握った。
 凍土の戦場――それまで馬鹿にしていた男の犠牲がなければ、生きていなかった戦場。
 自分が生きているのが、運であったという現実。

 生きるために、全力にならなければならないと理解させられた。
 今を生きているのは当然ではない。
 だから。
 ラインハルトに止められた言葉をキルヒアイスは呟いた。
「私もまた全力でなければならないのだと」

 アレスは歴史を変えていく。

 それは――同盟軍だけに限った話ではなかったが。

 + + + 

「総司令官から入電です。陸上部隊の突入は、いましばらくかかるとのこと」
「そうか……」
 アレスの言葉に対して、スレイヤーは小さく息を吐いた。
 その後、繰り出した命令は端的だ。
「敵を抑え込め」

 スレイヤーの命令は、端的に、ただ必要なことだけが伝達された。
 それを把握し、素早く行動するのは訓練のたまものだろう。
 第八艦隊の応援があるとはいえ、駐留艦隊に対して正面から対峙するのは、最前線の第五艦隊――その最前線に立つスレイヤー率いる分艦隊であった。
 驚くような派手な動きも、攻撃もない。

 派手に敵の要塞に対して攻撃するのは、第四艦隊の攻撃部隊だと割り切り、自らの任務を――第四艦隊に対して邪魔をさせないことを目指した戦いだ。
 当初はイゼルローン要塞へと撤退しようとしていた駐留艦隊であったが、さすがに撤退は無理と悟ったのか、今では少しでも距離を取ろうと、あがき続けている。

 時には後退し、時には前進して回りこもうとする動きは、決してヴァルテンベルクが無能なだけの将ではないことを表していたが、それらを予測して、スレイヤーはただ敵を邪魔する。嫌がらせにも近い戦闘であったが、いたって真面目だ。
分艦隊旗艦ゴールドラッシュの艦橋では騒々しさと慌ただしさが広がっていた。

 喉が枯れんばかりの叫びと機械音。
 もはやこの状態であれば、参謀見習いといえどもじっとできる状況ではない。
 セラン・サミュールも一人の兵士として、報告の束を抱えながら、艦橋を走り回った。
「第十一分隊旗艦損傷――予備がありません」
「第十二分隊に統合するよう伝えろ!」

 逐一入る報告を、全てスレイヤーに任せるには無理がある。
 分艦隊だけで数千もの艦を操っている。
 いくつかは分隊にわけて、それぞれの旗艦戦艦が指揮をしているが、上がってくる細かい報告を振り分ける
目も回るような忙しさに、セラン・サミュールは息を吐く間もなかった。

「ありがとう、これをスレイヤー少将に」
 持ってきた報告を受け、ミシェル・コーネリアから疲れたような礼を受け取った。
 美しい顔立ちには疲れの色がにじみ、長い髪は汗で頬に張り付いている。
 拭った汗で、当初は薄くされていた化粧も落ちてきていた。

 渡した報告の代わりとばかりに、受け取った報告。
 また走ることになるだろうが、それを不満に思う暇などない。
 視線を走らせれば、ローバイクが撃ち込まれる敵のミサイルに、声を張り上げて撃墜の命令していた。誰もが暇すらなく、自らの任務に没頭し――その結果として最前線ながらにいまだに敵の攻撃を正面から受け止めている。もし、彼らが優秀ではなかったのならば、後方から応援としてきている第八艦隊にこの場を任せて、早々に後退して、休息をとれていたかもしれない。

 どちらが良いと判断するのは、難しいが。
 受け取った報告を手にして、初めての戦場。そこに立つ艦橋の様子に彷徨っていた視線が、次の報告先であるスレイヤーを見つけた。
 その隣に立つ、アレス・マクワイルドの姿を見る。
 走り回り、あるいは走る必要がない参謀であっても戦況に目を血走らせている。

 その中で、彼だけは異質だ。
 形ばかりにベレー帽をかぶりながら、前方のモニターを見ている。
 彼自体はこの艦隊の参謀ではなく、全体の参謀であって――この艦にきているのは、その代理。アレスの仕事は、総旗艦との連絡調整であり、この艦に対しての命令権はない。
 実質的にこの艦でやれることはないのだが、スレイヤー少将の近くで立っている。

 落ち着いた様子に凄いと思うのは、半分。
 残った半分は、手伝ってほしいという無茶な願いだ。
 立場があるために、それはセランの我儘であるのは理解しているが、彼が動けばもっと楽になるのではないだろうかと、そんなことを思ってしまう。
 そんなことを考えていて、セランはふと疑問に思う。

 連絡調整であれば、彼があの位置に立っているのはなぜだろうと。
 仕事がないのであれば、目立たない位置に下がればいい。
 すぐにスレイヤーに伝える必要はあるかもしれないが、前に出て戦況を見る必要もない。
 実際に、目立つ位置で何もせずにいるアレスを周囲の参謀が不快げに彼を見ていた。

 そんなに戦況が悪いのか。
 視線を前方に向ければ、前方に変わった様子はなく、第四艦隊の攻撃はより苛烈になって、イゼルローン要塞を襲っている。
 戦いは有利に推移している――では、なぜと。
 視線をアレスに向けて、セランは背筋を震わせた。

 笑った。

 ゆっくりと唇を上にあげていく。
 それはいつかの――楽しくも、嬉しくも、狂気すらも含むような笑い。
 その笑みに、不快を表していた周囲すらも声を飲まれている。
「サミュール少尉――セラン!」
 硬直が、背後の声から聞こえた。

 ミシェル・コーネリアが、怒りの視線を向けてきていた。
「聞いているの。ぼーっとしている時間はないわ、それを早く少将に」
「申し訳ございません」
 即座に謝罪の言葉をして、振り返った視界では既にアレスは元の表情に戻っていた。

 駆け出しながら、セランはアレスの表情を忘れることができなかった。

 + + + 

 第四艦隊の攻撃は、苛烈を極めた。
 イゼルローン要塞からも防御用の砲撃が返されるが、駐留艦隊に近くで主砲が使えない現状であれば満足に攻撃を防ぐこともできなかった。いかに対レーザー用の防御壁を持っていたとしても、スパルタニアンによる接近からの砲撃やミサイルによる攻撃を完全に防ぐことはできない。

 むき出しになった鈍色の金属壁に向けて、多重に攻撃が加わり、傷口を広げていく。
 加わる攻撃に、イゼルローン要塞の内壁で作業をしていた技術兵が虚空の中に吸い出される。破裂する弾頭によって、幾人もの人間が塵すら残さずに消えた。

 だが、生き残った人間よりは良かったのかもしれない。

 + + +

「あがっ!」
 落ちてくる鉄骨に貫かれて男は叫んだ。
 運よく致命傷を避けた鉄骨は、しかし、地面と男を貼り付けにしている。
 第三層目の外壁には亀裂が入り、数分もすれば男がいる場所は宇宙へとつながるだろう。
 だが、誰かが見ればこの場所は違和感が多かった。

 貫かれた男は――そして、周囲に倒れる人間は黒色の帝国の煌びやかな軍服を着て、そして、それを正面に見る男たちも同様であった。ドックという位置ながら、作業服に身を包むものもおらず、そもそもこの場所は数十分前には完全撤退の命令が下された場所である。
 人がいること自体がおかしい場所だ。
 そこに誘い込まれ、そして処理をされた。

 倒れた男は背後から現れた人間によって、銃を抜くことすらできなかった。
 そして、それをいまだに正面の男は理解していない。
「何をしている、さっさと助けろ」
 叫ぶにも痛みが走るのか、いくばくか声を殺して呟いた言葉。
 それを冷ややかに見ていた男たちはゆっくりと振り返った。

「こ、こんなことをしていいと思っているのか」
「この場所で死んだところで誰にもわからないと、先ほどおっしゃったでしょう」
 冷ややかな言葉を残して、男たちは内部の隔壁へと走っている。
 遠ざかる背中に、痛みと恐怖で男は涙と涎で顔をぐしゃぐしゃに歪める。

「待て、いや待ってください。助けて――」 
 叫んだ瞬間、外壁の亀裂が深くなり、外へと吸い出す力が働く。
 嫌だと、貫いた鉄骨を無視して体が動き出すのを、耐えながら、男は叫ぶ。
 傷口が広がって、激しい痛みに、首を振って、ただ嫌だと繰り替えた。

 男たちの背中が、隔壁へと消えていく。
「嫌だあああああああ」

 悲鳴に似た叫びをあげて、男――クルムバッハ少佐の体は千切れ飛んだ。

 + + +

「第三層目まで破損! 第二十一ドックは使用できません」
「何という事だ」
 力のない声が、バッハから漏れ出た。
 苛烈なまでの攻撃が、要塞指令室まで音を漏らしている。

 艦内のモニターには、逃げ惑う兵士たちが映し出され、第二層目では死体がピンボールのように飛んでいる。
 目をそむけたくなる光景に、指令室の人間は声もない。
「何ということだ」
 地獄にも近い光景に、クライストは唇を震わせた。
 いかに防御設備が優れていたとしても、大軍からなる敵の攻撃には無力だ。

 要塞は、他の部隊と連携してこそ力が生まれる。
 駐留艦隊は未だに敵の先頭と団子の状態であり、援護の期待は一切できない。
「敵無人艦突入します!」
 もはや報告に近い形で、より一層の激しい揺れがイゼルローン要塞を襲った。
 負ける。

 クライストは自問する。
 この偉大なる帝国が――力を表すイゼルローン要塞が奪われる。
 そんなことが許されるのか。
 許されないと怒りをもって、前を向いた視界に激しく損傷したイゼルローンが映っていた。

 吸い出され、あるいは悲鳴を上げて逃げ惑う兵士たち。
 それらは全てクライストの大切な部下であった。
 無能な、駐留艦隊の人間たちとは違う大切な部下だ。
「何をしているのだ、あいつは」

 駐留艦隊の無能で、クライストの部下が死に、そして、クライストの地位まで脅かされる。
 イゼルローンを失ったとなれば、陛下からの不興を買うのは当然だ。
 どうすると考えて、クライストは思い出す。
 この戦況を一撃で変える、魔法の力を。

「第三層目大破――」
 上がってくる報告に、クライストは噛んでいた唇を、ゆっくりと開いた。
「……て」
「第三ワルキューレ部隊半壊、一度収納をおこな……え」
 士官が、誰もが振り返ってクライストを見た。

 指揮官席で、前方を鬼の様に見ている。
「撃てといった。トールハンマーを撃て」
「……」
 憎しみにも満ちた言葉は誰にも聞こえた。
 だが、理解するまでに数秒の時を要した。

「し、しかし、いまだに味方が前方に」
「構わん。このままではイゼルローン要塞が奪われてしまう――この要塞が敵を手に入れれば、駐留艦隊に倍する兵が失われることだろう。構わん、撃て、撃ち殺せ」
 果たして、それは誰に向けらえた言葉であったのか。

 ただ憎しみと怒りをこもったまなざしに、言葉を失った。
 要塞が揺れた。
 おそらくは敵の攻撃、だが被害の確認すらすることもできない。
「さっさとしろ!」

 叫ばれた言葉に、反射的に顔を戻して、要塞の兵士たちは慌てたように端末を操作した。
「トールハンマー砲撃準備」
「エネルギー充填――」
 副官であるバッハも、そして周囲の参謀たちもただ茫然として前方を見続ける。
 これは仕方がないことだ。

 そもそも最初から駐留艦隊が敵を離していたら、終わっていたことだ。
 その無能さで、何人の部下が殺された。
 要塞を奪われたらさらに死ぬ人間は増えるだろう。
 だから。
「これは仕方のない事なのだ」

 自らに言い聞かせるように、クライストは震える声を出した。

 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦5




「敵要塞から高エネルギーの出力反応。解析結果――トールハンマーです」
 悲鳴のような声があがって、それまでの穏やかな空気がかき消えた。
「ば、かな……」
 そう呟いたのは誰であっただろう。

 参謀の誰かが呟いた言葉は、等しく全員が思ったことだ。
「敵艦隊が抜け出したことは聞いていないぞ!」
 ビロライネンの叫びに対しての、返答は困惑と恐怖が入り混じった声だ。
「敵艦隊中枢は未だに第五艦隊分艦隊と接敵中」

「な、ならば、こ、こけおどしだ。そうだ、そうに違いない」
「出力増大中――砲撃予想時間……五分」
「報告はいらん。脅しに決まっておる」
「脅しではなかった場合、相当な被害が予想されます。閣下……」
「ああ。そうだ」

 アップルトンの苦い声に、前方を睨みつけていたシトレの硬直が解かれた。
「今すぐ全艦隊に後退を命令しろ。イゼルローン要塞主砲の範囲から逃れるのだ」
「閣下、それでは敵の思うつぼです。我々の後退を誘っているのです」
「そうかもしれん。だが、そうではなかった場合はどうなる、ビロライネン大佐」
「それは」

「前線にいる艦艇は壊滅的な被害を受けます。しかし、それは、後退したとしても第五艦隊は……」
 シトレの問いに答えたのは、アップルトンであった。
 苦い言葉は最後まで続けられない。
 既に敵深くまで侵入している同盟軍――例え、後退をしたところで五分では最前線は間に合わない。
 そして、それは等しく誰しもが理解していることであった。
「時間がない、さっさと後退の命令をだせ」

 シトレの強い口調に、ビロライネンは不満を隠さずに唸った。
 だが、それ以上は言葉にはならず、前線の兵士たちは慌てたように命令を伝達する声が広がった。
「スレイヤー」
 小さな言葉が、シトレの口から洩れた。
 第八艦隊総旗艦からは随分と遠い――イゼルローン要塞に近い位置で戦う部下の名前だ。
 もはや、後退したところで間に合わない。

 理不尽な砲撃によって、塵すら残ることはないだろう。
 多くが死ぬ。
 そう考えているのは、シトレだけではない。
 総司令官が立つ場所から一段ほど低い場所で、佐官以下の参謀が集まっている。
 緊迫する場面であっても、さざめきのような会話が広がっている。

 馬鹿なと嘆く声。
 あるいは、ビロライネンと同じように敵の脅しだと虚勢を張るものもいた。
「あたってほしくない予想ほど、あたるものだ。いや、この場合はマクワイルドを褒めるべきか」
 憮然とした表情で、いつの間にかヤンの隣に、ワイドボーンが立っていた。
 腕を組んで睨んだような視線は、厳しく――激しい。
 感情を押し殺したようにしているのは、さすがにこの状況で叫ぶのはまずいと考えているからだろう。

 強い声の代わりに、腕を握る手に力がこもっていた。
「今すぐ、あいつを呼ぼう。この状況になれば、一番の適任は奴だろう」
「無理だ。それは――」
「なぜだ、ヤン少佐。彼のその有能さは理解しているはずだが」
「彼が有能か無能かの問題じゃないんだ。彼は、彼は……いまあそこにいる」
 遠くを見る視線が見つめるのは、最前線の戦場。

 後退命令が伝わったのであろう、慌ただしく陣形を乱し始めたさらに先だ。
 ワイドボーンが瞬いた。
 指示された場所を見て、ヤンの顔を見て、もう一度最前線をみる。
「あそことはどこだ。ヤン・ウェンリー。俺には見えないぞ」
 怒りを押し殺した言葉に、ヤンはもう一度、最前線を――腕をあげて、指示した。
「あそこだ。第五艦隊分艦隊旗艦ゴールドラッシュ。その艦上だ」

「な……何を馬鹿なことを」
「事実だ」
「ヤン。なぜ、止めなかった」
「止められるはずがない。既に上の許可を得ている、私が動いたところで」
 ヤンの言葉は最後まで語れなかった。
 ワイドボーンの太い腕が、彼の胸元をつかんで引き寄せたからだ。
 軽々とヤンの体は浮いて、背の高いワイドボーンの顔に近づいた。

「止めなかったの間違いだろう、ヤン・ウェンリー。貴様はそれほどまでに軍の命令が絶対か」
「あたり前だろう」
「ならば、なぜ止めなかった。進言して、その上から命令を取り消すことだってできただろう」
「軍人としてそんなことはできない」
「イレギュラーだとでも言いたいのか。貴様の言葉はできない、やれないばかりだな。それで後輩を見殺しにするのか」

 握りしめた拳は、しかし、ヤンにたどり着く前に止められた。
「落ち着きたまえ、ワイドボーン少佐」
 彼の手をつかむ、細い手が阻止したのだ。
 だが、それは見た目よりも遥かに力強く、見れば銀色の髪をした男がいる。
 背後にはワイドボーンに引けを取らない大柄な男がいた。

 他の戸惑う視線とは別にして、申し訳なさそうな表情にワイドボーンは熱を失ったように、手を離す。
「何もできなかったのは我々も同じだ。ヤン少佐だけを責めないでくれ」
「アロンソ中佐……」
 自由となって、ヤンが小さくせき込んだ。
 慌てたようにパトリチェフが、ヤンに駆け寄って、背中をさする。
 だが、ワイドボーンは見ていない。

 代わりにとばかりに、睨むのはアロンソだ。
「あなた方もご存じだったのですか」
「だが、どうにもできなかった。責めるなら、私を責めてくれ。階級としてはそれが正しい」
「……いや、失礼した」
 アロンソの丁寧な謝罪の言葉に、ワイドボーンは持ち上げた手をおろす。

 軍ではヤンの言うように、直属の上司の命令が絶対である。
 ヤンにはイレギュラーを求めたが、それができるかどうか冷静に考えれば、今回の状況では難しいと判断したことが間違えではないと、ワイドボーンにも理解ができたからだ。
 最も何もしなかったことには変わりがないが。
 感情を殺したよう謝罪の言葉をヤンにかければ、ヤンは苦く顔をしかめながら、大丈夫だと言葉にした。

 それ以上は言葉には出来ず、鼻息を荒くして、再び腕を組めば、ワイドボーンは怒りの表情を残したままに前方を睨んだ。
「良いでしょう。この怒りは奴が戻って来た時に取っておきます」
 だから。死ぬなよと。
 ワイドボーンの呟いた言葉に、ヤンとパトリチェフが顔を見合わせて、苦笑する。
 可哀そうにと。

 要塞主砲――砲撃まで、残り三分。

 + + +

「要塞主砲――エネルギー充填を開始しました」
 悲鳴のような声は、どこからも上がっていた。
 第五艦隊分艦隊旗艦ゴールドラッシュの艦橋でも、だ。
 走り回り、せわしなく端末を叩いていた人間たちが、動きを止める。
 絶望に染まる視界の中で、たたずむのはイゼルローンの墓標だ。
 宇宙の中で変わらぬ黒が、そこにはあった。

「総旗艦ヘクトルから暗号通信。全艦隊、即座に戦闘をやめて後退せよ!」
 呟かれたアレスの言葉と、通信士官の言葉は同時だ。
「逃げろ――というのか、だが、どこに」
 呻くような言葉は、分艦隊主任参謀のものだ。
 その嘆きは誰もが、事実を理解していた。
 敵陣深く、最前線にいるスレイヤー艦隊に逃げる場所などどこにもないのだと。

 セランの手から、報告の束が落ちた。
 それをとがめる人はいない。
 視線が集中するのは、緩やかに光りだすイゼルローンの姿だ。
 蓄えられたエネルギーが、光となって目視できるまでになっている。
 その鈍くなった動作は、戦場においては致命的な隙であったのだろう。

 だが、この事態に動揺しているのは同盟軍だけではない。
 相対する帝国軍もまた、動きに動揺を隠せていない。
 互いの攻撃は未だに続いているが、それは惰性のようなものだ。
 狙いも何もなく、ただ撃っているだけというもの。
 むしろ、帝国軍は逃げるように陣形すら考えずに動き始めている。

 背後にいる同盟軍もまた同様であったが。
 スレイヤーの艦隊が動けないのは、理解しているからだ。
 下がったところで、敵の主砲からは逃れられない。
「この上は敵を少しでも叩きますか。今なら叩き放題です」
「それもいいが。上はそこまで間抜けではないと思いたいな――マクワイルド大尉」

「はっ」
 身近な返答に、ベレー帽をした金髪の少年が前に出た。
「上はなんと」
「先ほどの報告と同様です。全艦隊、後退せよと」
 アレスの言葉に、周囲が苦い顔をした。

 わかってはいたが、当然の意見に絶望の色が深くなる。
 それでも恐慌に狂わないのは、最前線に立つ精鋭としての維持か。
「そうか。で、君はどう思う」
「良い感じで敵も混乱しております。賭けに出るには十分ではないかと」
「かけか。勝率はどうかね」
「高いと考えておりますが。どうも小官の賭けの才能は昔から悪いのです」

 スレイヤーが笑った。
「安心しろ、私は賭けには負けたことがない」
 死ぬ前にしては随分と明るい会話に、周囲の参謀たちも呆然として見ていた。
 だが、そんな様子に対して、どこか安堵を浮かべる者たちがいた。

 ローバイク。
 コーネリア。
 そして、セラン・サミュールだ。
 アレスを知っている者たちは、みな理解していた。

 死なない。少なくとも、彼は死ぬつもりはないのだと。
「あたっては欲しくないことが、あたるものだ。マクワイルド大尉、こちらへ」
「良いのですか」
「この作戦を一番理解しているのは君にほかないだろう。気にするな、成功しても失敗しても、責めるものなどおらん」
 どういうことだと、尋ねようとした参謀たちの前をアレスが通った。

 司令官の立つ席をスレイヤーが譲れば、アレスが代わりに立った。
 持て余していたベレー帽を外して、周囲を見る。
「申し訳ないが、詳しく説明している時間はない。マクワイルド大尉作戦を」
「わかりました。コーネリア大尉――手元の端末で、D-3を開いてくれ。各艦隊にも端末でD-3を開くよう指示を」

 言葉に戸惑った視線――スレイヤーが同意をするように頷けば、慌てたようにコーネリアは端末を操作する。
 前方のモニターに映し出されたのは、艦隊運用計画だ。
 青い光点の動きに、誰もが目を見張った。

「これは……こんなことが可能なのか」
「可能かどうかはやらなければわからない。だが、敵に突撃するよりは魅力的ではないかね」
「マクワイルド――大尉だったか。これは実現可能なのか」
「シミュレート上では。ですが、生き残るにはこれしかないと思います」
「そうか。小官はクリス・ファーガソン大佐だ。我々も力を貸そう」

「ありがとうございます」
 ファーガソンの言葉に、アレスは一度頭を下げて、再び正面を見た。
「見てのとおり。これは非常に賭け近い作戦だ。だから、みんな力を貸してくれ」
「はっ!」
 力強い返答とともに既に兵士たちは、アレスの指示したD-3行動に向けて、それぞれが動き出している。端末をたたき出す音に対して、アレスはベレー帽を脇に置いて、イゼルローン要塞を見た。

 真っ白な光の輝きは、既に要塞全体を包み始めていた。

 要塞主砲――砲撃まで、残り二分。

 + + +

 イゼルローン要塞を調べていて、誰もが頭に浮かべるのは要塞主砲――トールハンマーだろう。アレスもまた最初に調べたのは、トールハンマーのことだ。
 だが、その情報はいまだ同盟軍には知られていない。
 被害総数から、相当な電力が消費されていることは理解しているが、その主砲の形状や動作に至る細かいことまでは理解できていない。向かい合った艦隊は全てが塵すら残さず消えており、周囲の艦隊から見ることができるのは分厚い光の円柱が味方艦艇をかき消していく姿が確認されている。

 その有効射程範囲や威力は推察ができても、具体的な主砲の情報は一切なかった。
 それはいまだに敵の要塞指令室の場所がわからないことや同様の主砲が同盟で作られていないことからも明らかであった。
 つまり、具体的な動作は一切わからない。
 それは原作でも同様だ。

 描かれるのは、要塞から砲口をのぞかせて、敵に対して攻撃する。
 だがと、アレスは疑問を抱いた。
 トールハンマーは細かな狙いをつけることが可能であり、決して一方向だけを攻撃できるものではない。もし砲口が存在していれば、その射線からずれることで容易に回避することが可能であっただろう。
 砲口が可動式であって、必要に応じて角度を変えられるのか。

 それも難しいと思う。
 いかに角度をつけることができたとはいえ、あくまでも要塞の中に収まる範囲だ。
 巨大すぎる要塞の中で、角度の差だけで三百六十度を賄うことは不可能。
 ならば、複数に方向を設置しているのか。
 それこそ無駄であろう。要塞に必要なのは主砲だけではない。

 一万もの艦隊が収納できるように作られているのだ。主砲だけでスペースを作ることは無駄だ。
 単純に砲口を設置するだけでは、その威力と柔軟性が説明できない。
 そう考えて思い出したのは、イゼルローンの主砲の説明だ。
 何万億キロワットだか忘れたが、それは強大な電力によってまかなわれているのだろう。

 まさに雷のような破壊だ。
 ならば、わざわざ砲口を設置する必要はあるのか。
 それはあくまでもアレスの想像であったが、アレスの目に映る姿は、それを捉えていた。
 イゼルローン要塞が明るく光りだせば、その射線の先――アレスの艦隊に向けて、稲妻が集約していく様子。

 一点に力を集約して、放出する。
 それはまさしく、神の雷であって、放たれれば塵すら残さずに消していく。
 だが。
 と、アレスは思う。
 集約され、一撃のもとに放出される光の帯。

 それは絶対的な力であるが、集約という一点においては隙があるのではないだろうかと。
 即ち。
「全艦隊、全力移動へ移行」
 敵の狙いは第五艦隊分艦隊。
 そこに敵の駐留艦隊は存在するが、もはやそれは気にも留めていないのだろう。
 通常であれば、後退をしたところで光の帯から逃れることはできない。

 だが、前ならば。
 艦隊の速度は、戦闘態勢ではなければ平均時速で五千万キロを超えている。
 それは広い宇宙では決して早いものではなく、遠い場所に行くならばワープ航法を使わなければならない。だが、わずか直径六十キロ程度の人工物であるのならば、一瞬で遠ざかることも可能な速度。

 むろん、戦闘態勢から全力移動には大きな時間はかかる。
 そのためスレイヤー少将は、そして前線の艦隊は無理をしてきた。
 敵の攻撃に対して無様とも呼べる戦いであったのが、その理由だ。
 本来であれば、敵を包むように押し込むことも可能であった。
 だが、攻撃や防御に対するエネルギーを最小限に抑え、移動用にエネルギーを残している。

 アレスの無茶な願いを信じてくれた、スレイヤーには頭があがらない。
 でも、だからこそ。
 一点に力を集約するため、イゼルローン要塞の前方にはわずかな射線の空白。
 防御も攻撃も無視した加速への移行。
 そして、敵もまた混乱してこちらに対して攻勢をかけられないこと。

 それらの要因が、成功へと導かれる。
 賭けではあるのは間違いないが。
 だが。
「全艦隊、前へ――敵をぶち抜いて、進軍せよ!」

 力強いアレスの命令が、全艦隊に伝達された。

 要塞主砲――砲撃まで、残一分。

 + + +

 光の帯が、宇宙を切り裂いた。
 目が眩むような光は、すぐに遮光機能によって抑えられるが、それでも映るのは白い光。
 幾千隻もの戦艦は光の激流に飲み込まれ、消えていった。
「……て、てき。トールハンマーを発射」

 呆然とした索敵士官の声が、その事実を告げていた。
 先ほどまで脅しだと騒いでいたビロライネンは、開いた口をそのままにして、その現状を見ていた。それまで雲霞のように広がっていた戦艦の光が、貫かれた光の場所だけ真っ暗なものへと景色を変えている。
 敵も味方も、等しく存在すら許されない状況に、誰もが呼吸すら忘れて、モニターを凝視している。

「被害を報告せよ」
「は。第四艦隊――第二分艦隊の一部。第八艦隊、第三分艦隊の一部、第五艦隊第二分艦隊の一部が消失」
 あげられる船籍の数は、既に千を超えている。
 それでも一部という言葉は、逃げ延びたという事であるのだろう。

 早急な後退命令が功を奏したともいえるが、だが、それは後方で待機するのに余裕があった艦隊だけだ。
「第五艦隊第一分艦隊――スレイヤー少将は」
「は。それは、現在確認中です」
 言葉も少なげに、索敵士官の一人が苦い声を出した。

 現実を知りたくなかったため、あえて見なかったのだろう。
 だが、それもわずかな遅延にすぎない。
端末を操作して――目が開かれた。
「第五艦隊第一分艦隊――生存。生存です!」
 目を開いて、シトレが前に乗り出した。

「生存だと。スレイヤー少将は生きているのか?」
「はい。第五艦隊第一分艦隊旗艦は生存。スレイヤー少将だけではありません。第五艦隊第一分艦隊は、イゼルローン要塞付近にて、多数の艦影あり。一部が消失したものの、大部分は生存です。第五艦隊第一分艦隊は無事です!」
 索敵士官の声に、周囲が喜びの叫びをあげた。

 誰もが全滅を予測して、生還など不可能だと考えていた。
 それが結果として数千の艦隊は失われたが、今までの被害からすれば軽微な損害だ。
 本来であれば完全に消え去っていただろう分艦隊が生存している。
 絶望の中で見えた希望の光に、誰もが顔を明るくした。
「何を沈んでいる!」

 興奮した声とともに、ヤンの背中が強く叩かれた。
 痛みに顔を向ければ、ワイドボーンが笑っている。
「さすがだ。さすがは俺の後輩だ」
「ああ。君の言う通り、彼はたいしたものだ。だから、次からはもう少し優しくしてもらえると助かる」

 微かな苦みを浮かべながら、それでもヤンも嬉しそうに笑った。


 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦6



「く、クライスト」
 もはや怒声すらも枯れたような、苦い、苦い響きであった。
 イゼルローンが輝き始めて、ヴァルテンベルクは全てを理解する。
 黒色の液体金属の海からは稲光が走り、宇宙を明るく照らしだしていた。

「焦るな。これは脅しだ――まさか、本当に撃つわけがない」
 くしくも同盟軍の期待と同様の考えであったのだが、願いとしては同盟軍以上に思っていたことだろう。敵と戦って死ぬのならば、ヴァルハラでも自慢ができる。
 だが、味方に撃たれて死ぬというのは、なんと間抜けなことか。

 ヴァルテンベルクの希望を十二分に込めた言葉は、周囲の将官たちも淡い期待となって広がった。
 このまま嘘でも狙いを外して発射するだけで、一瞬でも敵艦隊は後退するはずだ。
 そうならなくとも、前線に位置する艦隊には動揺が走る。
 すぐに追いつくことなど不可能であり、駐留艦隊は、その隙をついて後退すれば多くの艦が斜線から逃れることができる。ヴァルテンベルクにとっては腹立たしい事だが、一部の艦に被害が出ることは避けられないだろう。

 それもこれも、全ては要塞司令官の無能どものせいだ。
 後退のタイミングで敵に接近を許したとしても、要塞からの援護が十分であったならば引き離すこともできた。だが、主砲を封じられたことで愚かにも右往左往して、その挙句に完全な乱戦となってしまった。
 こうなれば、もとより数で劣る駐留艦隊にできることなどないに等しい。

 戻ったら、責任は取ってもらうぞ。
 拳を震わせながら、ヴァルテンベルクは腕を広げた。
「敵の隙をついて、後退をする。全艦隊後退の準備だ」
 叫んだ言葉に対しても、前方のモニターに映る艦影は明らかに動揺を隠せなかった。

 陣形が崩れ、先走って後退しようとした巡航艦が、動かぬ戦艦に衝突して、火花をあげる。
 状況は同盟軍も同じであったため、大きな被害こそ生まれていないが、これが通常の戦闘であったならば、致命的な隙であっただろう。
 何たる様だ。
「何を慌てておる。諸君らは栄光ある銀河帝国の将兵であろう!」

 怒号に近い声によって、騒めく艦橋が静まった。
 司令官席にて仁王立ちで、ヴァルテンベルクは拳を振り下ろした。
「要塞主砲は敵に対する脅し。それに諸君らまで驚いて、情けない姿を見せるな。我々は粛々と後退し、敵の後退のタイミングに合わせて、イゼルローン帰還すればよい」
 堂々とした声音は、貴族とはいえ一艦隊の司令官としては十分な覇気がある。

 だが、それを打ち砕いたのは他でもない。
 味方だった。
「イゼルローン要塞主砲――エネルギー集約しています。狙いは……敵最前線!」
「馬鹿な。機器の故障だろう」
「故障ではありません。エネルギー集約します」
 叫ぶような索敵士官の声に、もはや計器だけではなく、視界が理解させる。

 イゼルローン要塞――その前方に高出力のエネルギーが集約して、まるで太陽を思わせる光の渦が存在する。その射線の先に狙うは、敵の最前線があり――そして、味方の最前線でもあった。
 まだ撤退は完了していない。
 いや、わずかな後退すらできていない。
 数千隻にもある駐留艦隊の最前線の部隊だ。
「下がれ。前線から下がらせろ!」

 もはやこの期に及んで、脅しだと希望を膨らませて発言することはできない。
 先ほどの威厳すらかなぐり捨てて、ヴァルテンベルクは叫ぶように命令を下した。
 それは命令ですらない悲鳴に近い声であったが、兵士たちにとっては同意見であったのだろう。光の渦が巨大になるにつれて、一刻も早く逃げるよう命令が下され、前線の艦隊は全力で後退を始めた。
 そこに統制というものは存在せず、ある駆逐艦は戦艦の逆噴射に巻き込まれて炎をあげ、ある艦は自ら敵を攻撃中の主砲の斜線に入って、はじけ飛んだ。

 混乱の極みの中で、イゼルローン要塞から視線を外した索敵士官の一人が声をあげた。
「閣下。敵艦隊――敵の最前線の一部の艦隊が……前進しています!」
「何を馬鹿な」
 ヴァルテンベルクが顔をしかめ――視界に入ったのは同盟軍の艦隊が押し寄せている姿だった。
「ぶつかる気か」

 それは驚くべき加速であった。
 動力機関にある程度エネルギーを使っていなければ、戦闘中には不可能な高加速。
 その速度に前線はおいていかれ、駐留艦隊総旗艦であるヴァルテンベルクの脇を駆け抜ける。
「艦隊――前面に主砲を斉射せよ」
 雨の様に駐留艦隊からレーザーが降り注ぐ。

 選んだのが捨て身の特効だとしても、加速状態で正面から撃たれれば、こちらにたどり着く前に壊滅できる。
 降り注ぐ主砲の嵐が、敵艦隊を大きく削っていく。
 だが、それにしては敵からは一切の攻撃がなかった。
 いや、防御すらも最小限度にして、速度のみを優先しているようだ。

 ある艦は駐留艦隊の攻撃によって沈没し、ある艦は帝国軍の艦隊に正面からぶつかってともに破壊された。
 無謀ともいえる疾走に、だが、同盟軍の艦隊は止まることはない。
 疾走。
走り出す艦隊が目指すのは駐留艦隊ではなく――イゼルローン要塞だ。
「敵――こちらに向かってきません。閣下!」

 問われた声に、迎撃命令を出そうと考えたが、既に遅い。
 敵最前線は駐留艦隊の脇を縫うようにして、イゼルローン要塞に向けて走りだしている。
 主砲で迎撃するためには、艦隊の方向を変えねばならず、間に合わない。

 艦隊が反転したころには、すでに背後に回り込まれているだろう。
 もし、気づくのが早ければもっと対処もできた。
 だが、その時点では誰もがイゼルローン要塞に視線を向け、後退のために意識を最前線からそらしていた。完全な隙をつかれた形となり、既にヴァルテンベルクは遠ざかる同盟軍を見ることしかできない。

「このために余力を残していたというのか、反徒どもは……おのれっ!」
 憎しみを込めた叫びをあげた刹那。
 巨大な光が――前線に立つ駐留艦隊ごと全てをかき消した。

 + + +

 駐留艦隊の脇を駆け抜けたスレイヤー少将率いる第五艦隊第一分艦隊は、放たれようとする光の渦の脇すらも滑るように飛び込んだ。
 モニターによる遮光があってもなお、眩むような光が走ったのは、まさに紙一重の瞬間。
 高加速によって、敵を避けられずに激突する艦があった。

 防御のエネルギーすらも最小限にしたため、敵の主砲を防ぐことができなかった艦があった。
 後方にあった艦は、間に合うこともなくトールハンマーに巻き込まれた。
 多くの犠牲が生まれ、それでも第一分艦隊はイゼルローン要塞の脇をすれすれに駆け抜けていく。
 第一分艦隊は三割を失いながらも、多くが生き残っていた。

 それが少ないとみるか、多いとみるか。
 アレスは判断に迷ったが、少なくとも生き残ったと言えるだろう。
 加速を強めていくモニターには、巨大なイゼルローンの外壁が映し出されていた。
 静まり返った艦橋で、音が生まれた。

「生きているのか」
 問い。
 それはクリス・ファーガソン大佐と名乗った参謀の言葉だ。
 いまだに信じられぬように、口に出した言葉に、スレイヤーが頷いた。
「ああ。賭けには勝ったようだ、みんなよくやった」

 語気を強めた言葉に、喜びが生まれた。
 爆発するような歓声は、途切れることがない。
 隣にいる同僚と生存を喜び、抱きしめる。
 ローバイクが無言で、セランの背中を叩き、セランが腰を落とした。

 そのままの姿勢で呆然としたまま腰が抜けましたと、呟いて、笑いを誘う。
 永遠にも続くかに思われた瞬間であったが、その時間はほんの一瞬。
スレイヤーが手を打った甲高い音が、艦橋に響いた。
「諸君。喜ぶのはわかるが、まだ早い。いまだ敵の陣地の真っただ中だ。トールハンマーが連射できるということを忘れてはいないかね」

 厳しい言葉であったが、それは事実でもあった。
 誰もが理解しているのだろう。
 最もうるさいまでの歓声は途切れることになったが、表情のほころびまでは消すことができないようである。
「だが。見事なものだ――礼をいう」

「いえ。全ては皆の実力によるところです」
 脇に置いていたベレー帽を手にして、かぶりなおしながら、アレスは口にした。
 アレスはスレイヤーに、敵主砲が味方事撃つ可能性があると伝えると同時に、頼んでいたことが二つあった。

 一つは、追加の訓練である。
 元より練度の高いスレイヤー少将の部隊である。それ以上は他の部隊と悪い意味で差がついてしまうだろう。そのため、ある一定の練度に達すると同時に、急加速による訓練を願い出たのだ。名目としては、並行追撃をよりスムーズにするためにという説明であったが。
 それをスレイヤーは、了承して戦闘状態からの離脱という離れ業をやってのけた。

 もう一つが、戦闘中におけるエネルギーの運用だ。
 通常戦闘中であれば全力で攻撃と防御にエネルギーを振り分けるのが当然だ。そのため、加速するためにはエネルギーを一度動力機関に戻すという手間が必要であったが、乱戦状態であれば全力の攻撃も防御も無駄に終わる。そのため、半分程度を動力機関で運用してもらっていた。
 アレスは知らないことであったが、結果としてぐだぐだの乱戦となって、ラインハルトが無様と評価することになったが。

 通常の部隊であれば、綱渡りというよりも不可能に近い動きをやって見せたのは、まさしく同盟軍の精鋭ともいえるスレイヤー少将の分艦隊であったからであり、何よりも、そんな一大尉程度の戯言を信用して、行動してくれたスレイヤー少将の力でもあった。
 それらが一つでも欠けていれば、成功することはなかっただろうし、逆に言えばアレスがいなくても成功できたに違いないと思う。

 それをスレイヤーに伝えれば、スレイヤーは首を振った。
「私ならば、そんな博打はやろうともしなかっただろうし。何より敵艦隊の間を高速で駆け抜けるなどということは、君以外の誰にも不可能だ。戦術シミュレーターでも得意としていたな、突撃しながらの戦闘艇の射出は」
「所詮はシミュレーターでの話です。それに――仲間がいたからできたことです」
 悪戯げに笑んだスレイヤーに対して、アレスは行動を可能とした過去の仲間たちを振り返った。既に彼らは喜びから、現実へと戻って、それぞれの任務をこなしているのだが。

「それはいいことだな。さて……この後はどうなるかね」
「ヤン少佐が動いてくだされば、おそらくはお渡しした計画で進められると思いますが」
「ああ。そうだろうな、それで。どちらの計画になると思うかね」
 問いに対して、アレスは答えを持ってはいない。

 運のみぞというよりも。
「それは総司令官の判断次第でしょう」
「できれば正しい判断を願いたいものだ」
 正しい判断の言葉に、アレスは返答の言葉を持たず、小さく笑い、スレイヤーに敬礼をすると、静かに下がった。

 + + + 

 全滅を覚悟した状況の、朗報に沸く艦橋。
 アップルトンも喜びを浮かべつつ、しかし、前面のモニターを凝視していた。
「しかし、なぜあんな位置に」
「後退すれば間に合わない。と、すれば前面に向かうしかなかった」

「しかし、前進したところで、敵に邪魔をされれば」
「ぎりぎりであったのだろうな。だが、話をしている時間はないぞ」
 モニターを見つめたままで、ただ一人――シトレの表情は冴えなかった。
 彼だけが冷静に戦況を見ていたのだ。
 トールハンマーから逃れられたとはいえ、スレイヤーの艦隊は敵のど真ん中にある。

 イゼルローン要塞近くを走る艦隊の総数はわずか、一分艦隊数千程度。
 同盟軍が後退したため自由となった駐留艦隊は、被害を受けたとはいえ一万近くの数を揃え、イゼルローン要塞からは防御用の砲撃が間断なく続く。
 何よりイゼルローン要塞主砲は、鎖から解かれた巨狼だ。
 一撃は免れたが、次こそは逃しはしない。

 このままでは壊滅するのは目に見えている。
 結局として、寿命が数分ほど伸びただけだ。
「救出の案は?」
 尋ねたシトレの言葉に、主任参謀たちは顔を見合わせた。
 あまりにもイレギュラーな今回の事態は、主任参謀たちの思い浮かぶ過去の戦術には存在しない。新たに考えるにしても、調べるにしても、そのような時間は残されていない。

 少しでも考えればわかることであったが、参謀たちは気づいたのだろう。
 絶体絶命の状況は、いまだ終わっていないという事に。
 救出のために艦隊を動かすか。だが、それでは一分艦隊を救うために、それ以上の被害が出ることは確実であった。

 誰も発言をすることなく、表情が次第に曇っていく。
 重苦しい沈黙に、シトレが振り返った。
「解決する策はないか」
「総司令官……」
 参謀たちを代表するように声に出したのは、アップルトン中将だ。

 重い空気の中で誰も発言を躊躇する状況。
 それでも真っ先に言葉にしたのは、責任か勇気か。
 だが、口は開いたとしても、最後まで結果を口にすることはできない。

 より重い沈黙が下りることになった。
「閣下」
 深い、深すぎる沈黙――破ったのは、一段下の空間からだった。
 主任参謀たちが集まる位置からは離れた場所だ。
 集中する視線の中で、居心地が悪そうに――だが、それでも隠れることなく、堂々と手をあげる。
自らに視線が集中すれば、あげた手を戻して、所在なさげにベレー帽ごしに頭を撫でた。

「一つだけ。考えられていた案があります」
「考えられていた。この事態を予測していたということか」
「はい。敵が味方に向けて主砲を撃った際、どうなるかということです」
「事実か、ヤン少佐」
 シトレの視線が、ヤンと――そして、彼の上司であるアップルトンに向けられた。

 向けられた視線に、アップルトンは驚いたように。
 しかし、向けられた眼差しにしかと頷いた。
「はい。確かに、その可能性があると――作戦参謀では一時的に話題となりました。しかし、このような事態になるとは予想はしておりませんでした。申し訳ございません」

「いや、いい。それを考えなかったのは私も同じだ。それで、ヤン少佐。君がそれを考えたということか」
「いえ」
 はっきりとヤンは否定の言葉を出した。
「これを考えたのは、あの場に――スレイヤー少将の艦隊にいる、アレス・マクワイルド大尉です」

「マクワイルド大尉が。だが、彼は情報参謀だろう」
「はい。作戦参謀が考えた懸念を、彼もまた考えて……」
「嘘をつくな!」
 ビロライネンの叫びが、ヤンを遮った。

 怪訝を浮かべるシトレ大将に対して、ビロライネンはもう一度言葉にした。
「そんなことは情報参謀では聞いておりません。もしあったとしたのならば、作戦参謀から盗み聞きをして、都合の良いことを言っていただけです」
「何をおっしゃいますか、ビロライネン大佐!」
「アロンソ――中佐」

 ビロライネンを一括したのは、ヤンの隣から――クエリオ・アロンソであった。
 視線が、娘と同様に感情を表に出さないながらに、静かにビロライネンを見ている。
 だが、その言葉は苛烈であった。
「確かに小官は会議の際に、マクワイルド大尉の懸念を伝えました。それをシトレ大将にお伝えすると言ったのは、貴官だと記憶しておりますが」

「そのような記憶はない」
「え。いや、そう言ったではなかったかな」
 ビロライネンとアロンソの睨み合いに、追加されたのは、リバモア少将だ。
 情報主任参謀が口を出せば、ビロライネンが殺さぬばかりにリバモアを睨む。
「ああ。言ってなかったかもしれないな」

 あっさりと覆った意見を横にして、ビロライネンはアロンソを睨んだ。
 だが、リバモアとは違って、アロンソは一切の妥協を許さぬ表情だ。
 静かな目が二つ、ビロライネンを捉えていた。
「何をしている!」
 その均衡を破ったのは、シトレの呆れたような、そして、強い叱責の言葉だ。
「貴官らは、いまの現状を分かっているのか。誰が言った、言わないなど、ここで話す問題ではない。今の問題は、彼らをどう救うかだ――ヤン少佐。その策を!」

「……は! 作戦コード、D-3を開いてください」
「D-3を開きます」
 言葉に対して、シトレの背後の作戦会議用の円卓テーブルに立体映像が浮かんだ。
 それは現在の状況を映し出した映像――そして、時を加速して進む動きに、シトレは――そして、参謀の面々は食い入るように、それを見ていた。


 

 

第五次イゼルローン要塞攻防戦7



「反徒どもが……」
 クライストは呟いた言葉に、続く言葉は心の中に留め置いた。
 多くの部下をなくした気持ちが、あの阿呆にも理解できただろうかと。
 最もそれについては口にはせず、危機が避けたとクライストはわずかな上機嫌さをもって、問う。

「敵はどうだ」
「は。攻撃を仕掛けていた部隊は撤退行動を見せて……」
「そうだろう。逃がす前に、もう一撃を撃て」
「しかし、敵艦隊の一部が要塞に取り付いております」
「何だと……?」
 問うた言葉にこたえるように、モニターがイゼルローン外壁を映した。

 要塞に沿って高速で移動する艦隊がある。
 その艦艇の形からは、はっきりと反徒――自由惑星同盟軍であると確認ができた。
「なぜ、こんなところに反徒どもがいる!」
 思わぬ場所に――それも直近で動く艦隊に、クライストが叫ぶ。
「は。敵は後退ではなく、前進をしたようです。即ち駐留艦隊の脇を抜け――トールハンマーを避けて、前進しております」

「あの無能どもは止めることすらできんのか」
 叩きつけた音が、金属音とともに聞こえた。
 脇机――その上に置かれていたウィスキーグラスとともに、机を叩き潰した音だ。
 砕け散ったガラスで切れた拳を気にすることもなく、クライストは艦隊を見つめていた。
 だが、見れば艦艇数は数千余りの少数だ。
 トールハンマーが直撃すれば、一瞬で消え去る。

 時間が少し遅くなっただけで、問題はないかと思いなおす。
 それよりも――。
 モニターを見つめれば、駐留艦隊はいまだ動揺から立ち直っていないようだ。
 それでも乱れた陣形を戻しつつ、一部艦隊が反転の態勢に入っている。
 狙いは簡単に気が付いた。

 イゼルローンに間近に迫った敵艦隊を追うつもりなのだろう。
 クライストは不愉快そうに眉をしかめた。
 先ほどの失敗を懲りていないのかと、心中で毒づいた。
「駐留艦隊に伝えろ。接近する敵はこちらで始末する――駐留艦隊は敵本体が近づかぬように牽制しろと」
「はっ」

 短い呼吸での返事。だが、命令を受けた通信士官はこちらを見たままで、動くことはなかった。
「何をしている」
「いえ。伝達は、それだけ……でしょうか」
「それだけだ」
 怒りを込めて短く答えて、クライストはそこで周囲の視線を感じた。
 誰もがクライストを見ていることに。
 沈んだような顔立ちで見られれば、周囲が何を求めているかクライストも理解ができた。

 だが、それらの懸念をクライストは一笑する。
「なんだ。駐留艦隊にお悔やみの言葉でも伝えろというのか。ばかばかしい」
 吐き捨てるように呟いた。
「そもそもこの事態を作り出したのは、駐留艦隊の連中だ――イゼルローン要塞を守るために、我々は心を鬼にして命令を下すことになったのだ。例えば逆の立場であっても、私は感謝することはあっても、怒ることなどない」

「ですが」
「うるさい。それ以上は言うな、さっさとヴァルテンベルクに伝えろ」
 話は終わりだと手を振られれば、帝国軍の人間もそれ以上は言葉にすることはない。
「トールハンマーは、あのこざかしい蝿を始末する」
「は、はっ。エネルギー再充電を完了しました、目標――敵分艦隊」
 端末を激しく叩く音がした。

 イゼルローン要塞に走っていた光が、集中したのは要塞脇を走る自由惑星同盟の艦隊だ。
 いかに加速しようと、それはあくまでも艦隊の動きだ。
 モニターに映るは、トールハンマーから逃れようと、イゼルローン要塞に沿って走る敵の艦影。
 間隙を突かれたのならばともかくとして、狙われれば、神の雷からは逃げる方法はない。
 クライストは、満足げに背もたれに体重を預けた。

「砲撃準備完了しました」
「よし――」
「閣下!」
 言葉の途中で邪魔をされ、クライストは苦い顔を浮かべた。
 邪魔をした索敵士官を睨めば、別モニターに敵本体が映し出された。
「反乱軍が、艦隊をこちらに向けてきます」

「愚かどもが」
 唸るようにクライストは声を出した。
 モニターには敵の艦隊から数千隻ほどの艦艇がイゼルローンに向けて、進軍する様子が映っていた。
「駐留艦隊はどうしている」

「いまだ陣形を整えている模様」
 クライストの表情に浮かんだのは、迷いだ。
 即ち、どちらを狙うべきかと。
 もう少し敵が遅ければ、駐留艦隊の準備が整い、敵本体は駐留艦隊に任せて、分艦隊を始末できただろう。だが、敵もさるものですぐに行動を開始してきている。
 最もトールハンマーを警戒してか、その数は二千隻余りであり、明らかに少ない。

 どちらを残したところで、イゼルローン要塞を攻略することは不可能だが。
「閣下。このままでは駐留艦隊に被害が出ることに」
 背後から、副官であるバッハから慎重ながらも発言があった。
「要塞の攻略は無理でも駐留艦隊に攻撃を加えられたら、損害は増えるか」
「ええ」

「ま、貸しを作るのも悪くはない」
 かかと笑う様子に、誰もが驚いたようにクライストを見た。
 だが、本人自身は上機嫌であり、若干の非難を込めた視線を向ける砲術士官に声をかける。
「目標を変更せよ。狙いはこちらに向かう艦隊だ」
「りょ、了解しました。目標変更します」

 背後を走る分艦隊へと集約していた光が消え、再度現れたのは要塞前方だ。
 強い輝きをもった光の渦は、照準の変更によって遅れは生じたものの、迎撃には十分すぎる距離がある。
「敵艦隊を迎撃せよ!」

 光の渦が、向かい来る艦隊に対して吠え――直後、同盟軍艦隊が爆発した。

 + + +

 光が伸びた――直後であった。
 同盟軍本体から向かう艦隊が、次々と爆発し――衝撃波と破片をまき散らした。
 その艦隊は、元々はイゼルローン要塞の破壊を目的にした無人艦群だ。
 敵の砲撃が早まったために、使用することがなかったため無傷で残っていたが、この段階では惜しげもなく、全てを投入した。

 持てる分全ての爆薬を積んだ無人艦は、砲撃を受ける直前――要塞に向かう途中で盛大に自爆したのだ。
 むろん、離れた場所での自爆であるため、要塞に大きな被害を与えることはできなかった。
 だが、その爆発の衝撃は陣形を立て直すことに集中していた駐留艦隊を容赦なく襲った。
 艦艇の破片は容赦なく降り注ぎ、あるいは衝撃波によって操作が狂った艦が、隣にぶつかる。大きくはないが、決して少なくはない被害を駐留艦隊は受けることとなった。

「全艦隊――撤退だ!」
 スレイヤーの号令の下に、第五艦隊第一分艦隊は疾走している。
 それはただ漫然とした、逃走ではない。
 目的を持った、逃走。

 要塞主砲がなくとも、敵の要塞からは単座式戦闘艇―-ワルキューレが追いかけ、補助砲が唸りをあげる。そぎ落とされるように、一隻また一隻と艦隊では破壊が行われ、炎をあげて、爆発していく。
 だが、艦隊は恐れることなく、ただ走り続ける。
 イゼルローン要塞の外周を回るようにして、それはいつかのセランが見せたスイングバイに似た軌道を持ちながら、走る。

 一周を回って要塞から離れれば、同盟軍本体までは一直線だ。
 トールハンマーの再充電時間を考えれば、航路は最短距離を向かうしかない。
 しかし、それは――最も危険な航路、すなわち駐留艦隊の脇を通過する。
通常であったならば駐留艦隊に邪魔をされ、あるいは一万を超える艦隊の激しい攻撃によって五分と持たず全滅する可能性もあっただろう。だが、先の無人艦による自爆のために、駐留艦隊の動揺は大きく、駐留艦隊は組織だった攻撃ができない。

 一斉射撃ではなく、個別攻撃あれば防御壁で十分に対応が可能である。
 そして、駐留艦隊の脇を通るということは。
 再充電を完了したトールハンマーが再び、前方に光の渦を作り出していた。
 しかし、撃てない。

 第一分艦隊は駐留艦隊の脇を通り、そして、駐留艦隊の斜線上を疾走している。
 要塞に被害がない状況で――さらに言えば、たかだか一分艦隊を攻撃するために、もう一度味方殺しをするまでは追い込まれてはいなかったようだ。
 要塞司令官は、再びトールハンマーを封じられたことに歯ぎしりをしていることだろう。
 背後で駐留艦隊が遠ざかるまで、光の渦を睨みつけていた、アレスは小さく息を吐いた。

 見れば、同様に息をスレイヤーが吐いていた。
 目が合えば、どちらともなく、笑う。
 そんな二人の様子に、ファーガソンが呆けたようにモニターを見ていた。
 遠ざかるのは要塞と、駐留艦隊。

 闇の中で瞬く駐留艦隊の明かりと――太陽の様に輝く光の渦を見つめた。
 もう一方で、近づくは瞬く味方の光。
 そこで初めて、実感を持ったように――情けなくとも手すりにもたれかかった。
「はは」
 口から漏れるのは、小さな、から笑いだった。

 いまだに助かったことが奇跡の様に思え、そして実感もできないでいる。
 何が起こったのか。
 ファーガソンですら理解できないのだ。
 他の者も、浮かべる表情はファーガソンと似たり寄ったりの、呆けたような間抜けな表情を浮かべている。

 この状況を正確に理解しているのは、目の前にいるスレイヤーとアレス・マクワイルドだけだろう。
 誰よりも厳しく、真剣な表情をしていた二人。
 そんな二人が穏やかに笑ったことで、ファーガソンの力も抜けていた。
 ただ助かったと――詳しくは理解していないが、それだけは理解ができた。
 スレイヤーがアレスに近づいて、ご苦労と一言声をかけた。

 それは直属の部下ではなく、他部署の、そして一大尉に真っ先にかける言葉ではなかったかもしれない。
 しかし、ファーガソンは不思議と不愉快な気持ちは持たなかった。
 むしろ、それが当然であると――自然と受け入れることができた。
 死地の中にずっといたために、そんな負の感情を持てなかったという側面もあるかもしれないが。
「どうやら、正しい選択を選んでくれたようだ」

「どうでしょうか。もしかしたら、誤りであったかもしれません」
「その判断は、後世の学者や政治家に任せるよ。ただ我々は助かり――生き延びた、それで十分ではないかね」
 スレイヤーの言葉に、アレスは静かに瞳を閉じて、ゆっくりと頷いた。
「ええ。生き延びた……それ以上は贅沢ですね」
「マクワイルド大尉。礼をいう」

 名前を呼んだ後に続いたのは、敬礼だ。
 教科書の手本そのままの姿で、伸びた背筋と指先がアレスに向けている。
 動かぬ姿に、アレスが戸惑いを浮かべれば。
 自然――ファーガソンもまた、アレスに対して敬礼をしていた。

 命を助けられた――それが実感をもって、体を動かしていたからだ。
 伝染するように、アレスを囲むように、動く腕が増えていく。
 やがて、全員が敬礼をアレスに向けていた。
「ああ。私は何も……」

 照れたように呟くが、周囲を見れば、アレスもまた敬礼をした。
 照れ笑いを消して、真剣な表情となる。
「助かったのは皆様の力によるところです。私こそ助かりました」
「そうか。そういう事にしておこう」
 スレイヤーは静かに頷いて、ゆっくりと腕をおろした。

 視線を変える。
 正面には――同盟軍の明るい光が、彼らを待ち受ける街明かりの様に輝いている。

 + + +

 傷ついた第五艦隊を迎えるように、同盟軍の残存艦隊が広がった。
 比較的無傷であった艦隊が前に出て、駐留艦隊を警戒する間に、スレイヤーの率いる艦隊を包んでいく。わずか数千にまで数を減らし、無傷といえる艦隊はほとんどない。
 偶然にも被弾を免れた数隻が奇跡ともてはやされたくらいだ。

 それは良くあるような奇跡の光景ではあったが、少なくとも生き残った者たちにとっては奇跡だろうが、偶然であろうが何だって良い事だ。
 スレイヤー艦隊を回収すれば、同盟軍艦隊は静かに下がっていく。
 撤退するか、さらなる攻略に乗り出すかは今後の判断であろうが、少なくともこのまま継戦を続けるにしては、兵は疲弊をしていた。戦闘が始まって長時間休みなく戦闘を続けていたことも大きかったが、何よりも要塞主砲を間近に見たことで、多くの兵たちは体よりもむしろ心を大きく折られている。

 それは上層部にしても、そうであったのだろう。
 このまま攻撃を続行しようという言葉は、最も過激な意見をしていたビロライネンからも出てはこなかった。
 それは帝国軍もそうだったのだろう。

 いや、帝国軍にとってはそれ以上の被害がある。
 単純な艦艇の損傷数もそうであるし、何より疲労もだ。
数倍にもなる艦隊との戦闘、味方殺しの一撃、そして無人艦による自爆攻撃。
 駐留艦隊にとってはまさに地獄の数時間だったであろう。
 下がりゆく同盟艦隊を追いかける素振りすら見せられない。

 むしろ助かったと安堵しているのは、駐留艦隊の数の方が多かったかもしれない。
 何よりも味方であったはずの、要塞から撃たれたのだ。
 それを仕方がなかったと考えるものは、誰一人としていなかった。
 傷ついた艦は、それでも睨むようにイゼルローン要塞の前でたたずんでいる。
「閣下! 要塞司令から連絡です――逃走する敵艦隊を追撃せよと」

 その言葉に、ヴァルテンベルクは目を見開いて、通信士官を見た。
 通信士官もまた、報告するか迷ったのだろう。
 そこには苦い感情をもって、通信機を抑えている。
「はは。この後で、要塞司令官殿は我々に攻撃しろというのか」
「はっ」

「糞でも食ってろと伝えろ――帝国貴族にあるまじき、下品な言葉を、失礼した」

 不愉快げにヴァルテンベルクは鼻を鳴らした。

 + + +

 イゼルローン要塞から距離を取った巨狼の顎の手前。
 一時的に陣形を整えながら、兵士たちには順番に休憩が命じられた。
 このまま戦うか、あるいは引くか。
 それを上層部が相談する時間と同時に、疲労を少しでも回復させる休息でもある。

 参謀各員も、作戦会議が始まるまでしばらくの休息が与えられた。
 ワイドボーンなどは、即座にスレイヤー艦隊に連絡を入れようとして、ヤンに止められる。
 せめて帰るまで、我慢してくれと。
 憤然たる様子であったが、さすがに激戦を潜り抜けて帰還したアレス・マクワイルドに対して即座に説教をするというのは気がとがめたのか、あるいはアロンソやパトリチェフの援護のおかげか、戻ってからにするとの言質を得ることができた。

 これで一緒に怒られてやるという約束は、果たしたよな、一応。
 何よりも前借で怒られているわけであるし、これ以上は任せたとヤンは思う。
 総旗艦で立っていただけであったとはいえ、ヤン自身も疲れなかったわけではない。
 戦闘の間は一切休憩がなかったわけであるし、何よりも後半の救出のタイミングを一手に引き受けた形だ。

 給料分は十分働いたのではないだろうかと思う。
 それ以上はもっと高給をとっている人間のやる仕事だ。
「ヤン少佐」
 あくびを噛み殺しながら、タンクベッドが配置されている部屋に向かう途中で、背後から声がかけられた。

 クエリオ・アロンソ中佐だった。
 近づいてくる人影に、ヤンは敬礼で答えた。
 初めて出会うことになった真面目な上官は、いつかのムライ中佐を思い出す。
 最も感情が、それよりも感情の希薄に欠ける様子は、ムライ以上に苦手意識を持っていた。
 敬礼を返しながら、アロンソがヤンの前に立った。

 何もしていないのに怒られるような気がするのは、自分の性格のためであろうか。
「呼び止めてすまない。言っておきたいことがある」
「何でしょうか」
「マクワイルド大尉の救出作戦についてだ」
 ヤンは小さく息を飲んだ。

 だが、アレスの上官であったことを思い出し、悪戯がばれた子供の様に、困ったように頭をかいた。
「ご存知でしたか」
 呟いた言葉に続く言葉はない。
 アレス・マクワイルドからもらったデータメモリは二つ。
 一つは、先ほどの作戦で見せた無人艦による牽制だ。

 逃げる少数の艦隊よりも、向かい来る艦隊の方を優先するであろうという作戦は、結果としてアレスたちを救うことになった。無人艦による自爆も、想定通りに敵の駐留艦隊に混乱を与え、逃走としてはほぼ満足をいくものとなったであろう。
 そして、あの時には公開しなかったが、もう一つの作戦があった。
 それは、救出とは真逆の作戦。

 無人艦の突入後に全艦隊で再び突入をかけるというものだ。
 その場合にはスレイヤー艦隊が、イゼルローン要塞の直近で敵に対して激しい攻撃を加える手はずとなっていた。そうなれば、敵は傍から攻撃を加えるスレイヤーの艦隊に主砲を向けるか、あるいはたとえ同盟軍本体に攻撃があったとしても、次の攻撃が来る前には要塞に肉薄し、陸戦部隊を送り込むことが可能である。

 接近する艦隊を邪魔する駐留艦隊は、まともに戦うことなどできない。
 そうなっていれば、被害は大きいものの要塞が攻略できる可能性は残っていただろう。
 そして、被害が大きくとも、攻略をしてしまえば、未来の損害はそれ以上に少ないものである可能性がある。

 それを見せていれば、司令部は攻撃に意見が傾いていたかもしれなかった。
 上層部にとっては、その可能性は喉から手が出るほどのものであっただろう。
 それを隠したと知れれば、責任を追及されるのは確実。
 だが、ヤンはそれが悪いことだとは思わなかった。

 責められるのであれば、それも仕方がない。
 退職が数年ほど早くなっただけだ。
 アロンソの無表情な瞳が、ヤンを捉えていた。
 それをまっすぐに見返せば。

「……私はあの場で最善と思える手を取っただけです。ですが」
「何を君が気にしているかわからないが」
 そんなアロンソは静かに、頬を緩めた。
「私はお礼を言いに来ただけだ。部下を助けてくれた、礼をいう」
 目を開いたヤンに対して、アロンソは再度敬礼を送った。

 それは美しさもある、見事な敬礼であった。

 + + +

 宇宙歴792年、帝国歴483年5月7日。
 第五次イゼルローン要塞攻略作戦は、同盟軍の撤退によって終結することになる。
被害艦艇が少なく、敵駐留艦隊と要塞に対して大きな被害を与えたことから、再度の攻略も検討されたが、頼みの並行追撃作戦が敵に知られたこと、さらには無人艦の多くを救出時に使用したことにより、シトレ大将はこれ以上の攻撃は不可能と判断し、被害が少ないうちに撤退することを選択したのだった。

 要塞の攻略こそはならなかったが、同盟軍にとっては敵要塞に肉薄し、さらには被害艦艇数も一万を下回り、近年の要塞攻略作戦では最も少ない被害数であった。敵駐留艦隊に対してもほぼ同数の被害を与えており、むしろ同盟軍の勝利といっていいとの論調が自由惑星同盟に広がっていくことになる。
 味方殺しさえなければ、勝っていたと、多くの国民が叫ぶ。

 イゼルローン回廊では――同盟軍の墓標を増やしただけにすぎなかったのであるが。

 そのことに触れることは、誰一人としていなかった。


 

 

帰還の後に



 ハイネセンホテル・ユーフォニア。
 一般人の立ち入りが規制された専用の車寄せ。
 そこに背広姿の男女たちが立ち並び、九十度の角度をもって頭を下げていた。
 立ち去る黒塗りの地上車の窓からは、老年の男性が赤ら顔をのぞかせていた。

 見れば、それが自由惑星同盟の元首である同盟軍最高評議会議長であることが理解できたであろう。彼の乗った車両が見えなくなれば、続く車両から顔をのぞかせるのは最高評議会議員であり、財務委員長であったことがわかったはずだ。
 次々と立ち並んだ男たちの前を通る車両。

 それらは全て最高評議会議員であり、各部署の最高責任者である委員長が乗っていた。
 最初に評議会議長が立ち去ってから、最後の車両が通り過ぎるまでは二十分ほどの時間をかけた。そのたびに、立ち並んだ男女は深々と頭を下げることを繰り返すことになるのだが、誰もその動作に対して不満を見せるものはいなかった。誰も入れないが――誰かが遠目から見ていたならば、あまりに機械じみた光景に失笑を浮かべたことだろう。

 だが、その重要性を知らぬものはこの場にはいない。
 赤ら顔で満足そうに見送った者たちであったが、心の中まで笑っているわけではない。
 わずかでも油断を見せれば、出世の道が一瞬でかき消えることになるという面では、果たして軍人よりも厳しい環境ではないのだろうかと――背広を直しながら、ヨブ・トリューニヒトは自嘲した。
最も頭を下げるだけで、機嫌が良くなるのであれば、いくらでも頭を下げることは何ら苦ではなかったが。

 イゼルローン要塞の攻略が失敗したとの一報が入った、当日の夜のことだ。
 損傷艦艇は一万隻を下回り、死者数百万を下回った。
 そう喜びを隠さぬように報告したのは、国防委員長であり、財務委員長と人的資源委員長が渋い顔を見せたが、多くの表情はその後の報告で喜色を浮かべた。
イゼルローン駐留艦隊に対しても同程度の損害を与え、イゼルローン要塞の第三層まで初めて打撃を与えることができたと報告があがったからだ。

 過去に四度にわたって攻略を続け、その全てが大敗を喫したことに比べれば、遥かに良い結果であって、要塞が攻略不可能ではないと証明することができたというのが、その理由であったが。
 単に負けといえば、近い選挙に問題があるからだろう。
 くだらない話だと、トリューニヒトは心中で笑う。
 行動を起こさなければ、一万隻の艦隊と百万人の人材が生き残った。

 確かに敵に対しても同数の被害は与えただろう。
 だが、人口と経済力では帝国と同盟では歴然とした戦力の差がある。
 こちらが同数まで兵力や艦艇を回復する間に、帝国はさらに強大になることだろう。
 だが。

 トリューニヒトは、幹部たちが立ち去って上機嫌に笑う同僚たちに視線を送った。
 いまだ興奮冷めやらぬように、口々に戦いを讃える声だ。
 愚か――と、彼らを否定はできない。
 夜のニュースではイゼルローンでの戦いが報道され、初めて要塞に打撃を与えたシトレ大将は英雄で、亡くなった兵士たちは名誉の戦死を遂げたことになっている。

 なぜ誰も、否定しない。
 否定すれば、選挙で負けるからだ。
 なぜ、選挙で負ける。
 それを同盟市民が望んだからだ。
「どうかなさいまして、トリューニヒト議員」
「これはウィンザー議員。少し飲み過ぎたようで、夜風にあたっていただけです」

「珍しいですわね。でも、今回は見事な戦いでしたもの――少しくらい飲んでも罰はあたらないでしょう」
「ええ。素晴らしい戦いでしたね」
 トリューニヒトが笑顔で答える様子には、一切のゆがみはない。
 声をかけたウィンザーも笑みで答えれば、丁寧に頭を下げて、立ち去った。

 少し飲んでも、か。
 笑みを顔に張り付けたままに、トリューニヒトは心中で笑う。
 死んだ百万の――そして、その家族はどう思っているのだろうかと。
 そして、それを無視して飲むのは生き残った家族か。
 愚かなものだ。

 瞳をわずかに伏せると、夜の冷たい風が、ほてった顔を撫でた。

 だが、それ以上に心に空いた穴を抜けるように吹く風は冷たく――トリューニヒトの耳にいつまでも残響を残した。

 + + +

 宇宙歴792年、帝国歴483年6月。
 イゼルローン要塞から一月にもなる長い旅程をへて、第四、第五、第八艦隊はバーラト星系に到着した。いかにハイネセンが自由惑星同盟の首都惑星であるとはいえ、軍港には既に首都を守護とする第一艦隊が係留されており、三艦隊が同時にハイネセンのドックに入ることはできない。それぞれの艦隊はバーラト星系に設置されている、軍港に分けて係留され、次の戦いへ備えるために、修理と整備が行われることになった。

 最もシトレ大将やグリーンヒル中将などの各部隊の司令官が乗る旗艦は、ハイネセンに止められ、一足先に地上の地面を踏みしめることになる。
 政治家への挨拶と報道機関への対応のためだ。
 とはいえ、今回はそれほど厳しい問いかけはないというのが、大方の予想である。

 攻略ができなかったとはいえ、イゼルローン要塞の外壁――第三層まで傷をつけたという事実は、撤退の報告を入れると同時に同盟市民を喜ばせていた。帰路のニュースではイゼルローン要塞のめくりあがった外壁が幾度となく、流れており、あと一歩という文字が美辞麗句に装飾されて飾り立てられていた。

 画面では、昼のニュースが映し出されている。
ちょうど宇宙港からシャトルで戻って来たシトレ大将を、国防委員長が出迎えている場面だ。満面の笑みで握手する様子は、満足のいくものだったらしい。
 軍人らしいシトレの体つきに対して、一般人である国防委員長は鷹揚に肩を叩いている。

 普段の様子から想像するに、いろいろと詰め物をしているらしい。
 滑稽な様子ではあったが、ニュースでは英雄たちの帰還とまじまじとテロップが流れていた。
 バーラト星域で第五艦隊を駐留するドックからハイネセンに向かう途中の小型艇で、画面を見ながら、アレス・マクワイルドは昼食のパンプキンスープをスプーンでかき回した。

 テレビではずいぶんな誉め言葉を繰り返している。
 最も、カボチャ料理を注文したら、堅かったので外側に切れ込みしかできませんでしたといって、カボチャが出てくるようなものである。冷静に考えれば、犠牲者を増やした結果だけであるが、それでも持てはやされるのは政治家と軍の意見が一致したためだろう。

 反戦派の意見もないことはないが、主戦論があまりにも強大すぎるのだ。
 それは長年続く戦いの恨みか。
フェザーンの軍需産業資本とそれから多額の資金を得ている報道機関のせいか。
 原作を考えることもなく、フェザーンからすれば戦いは続かなければならないのだ。

 帝国と和平などすれば、フェザーンの利用価値はなくなってしまう。
 だからこそ、多くの報道機関は主戦派の意見を採用している。
 帝国だけではなく、フェザーンも相手にしなければならない。
 頭の痛い話に、アレスは食欲すら失いながら、パンプキンスープを眺めていた。
「助かったのに、ずいぶんな顔だね」

 対面の席に盆が置かれ、顔をあげると、そこには黒髪の青年がいる。
 ヤン・ウェンリーだ。
 腰を下ろし始めたヤンに、アレスは小さく苦笑する。
「命からがら逃げだしたと思ったら、待機中ずっとお説教でしたからね」
「まだ通話だからよかったじゃないか。ワイドボーンが会いたがっていたよ」

「怒り足りないの間違いでは」
「そうともいうね」
 ヤンが冗談交じりに笑えば、パンをスープに浸して一口食べた。
 決してマナーの良い食事風景ではなかったが、軍人しかいない小汚い食堂ではそれを気にするものもいない。

 否定の言葉がなかったことに、アレスも嫌そうな顔をして、スープを飲んだ。
 しばらく無言の食事が続いた。
 アルミの皿を撫でる、スプーンの金属音。
 そして、ニュースから繰り返し流れる戦いのニュースだ。
 それは無人艦が爆発して、敵駐留艦隊を混乱に追い込むワンシーン。

 逃げ出すための無理やりの策ではあったが、何も知らぬ同盟市民には何よりの娯楽だ。
 憎き帝国軍が何もできず、ただ爆破によって翻弄される。
 その数十分前にあった、トールハンマーの砲撃が映し出されることはなかった。
「聞いてもよろしいですか」
「答えられることならば……」

「なぜ、あちらの作戦を選択したのです」
「不思議かい」
 問われることをヤンは予想していたのだろう。
 アレスの言葉に、驚いた様子は見せなかった。
 口に入れていたパンを飲み干した。

「作戦を二つ見せていたならば、おそらくシトレ大将は」
「今回とは違う作戦を選ぶ可能性は高かっただろうね」
 即ち――全面攻勢。
 イゼルローンの攻略と一分艦隊を選べば、例え穏健派と呼ばれるシトレ大将であってもスレイヤーやアレスを見捨てる選択をしたことであろう。

 ただ単純に人が好いだけでは、宇宙艦隊司令長官は務められない。
 それほどまでにイゼルローンの価値は大きいものだった。
 そして、ヤンはそれを理解していたからこそ、提案したのは一つ。
 アレスが見る瞳には、否定の色は映っていない。
 真っ直ぐな問いだ。

 その疑問に対して、少し思案を見せた。
 だが、浮かぶ答えは、答えとして言葉に出るものではなかった。
 無駄な死者を増やす必要はない。
 そう答えればよかったのかもしれないが、後のことを考えれば、正しい答えでもない。

「多分、答えは同じだと思う……大尉も、私も」
 首を振りながら、ヤンも手にしていたパンを置いた。
「ただ攻勢の策を取りたいならば、君が作戦を伝えるのはビロライネン大佐でも良かった。でも、あの場で君は私とアロンソ中佐だけに二つの作戦を提示した」
 なぜと――逆に答えの前に、ヤンは問いかけた。

「それは死にたくないですからね」
「ならば、今回の作戦だけを伝えるだけで良かった。わざわざ死ぬ可能性の高い作戦を伝えなくても」
 当然でしょうと言った様子のアレスに、ヤンは即座に切り返した。
 わずかな沈黙。
 ヤンが紙コップから、お茶を口にした。
 視線が交錯して、最初に視線をそらしたのはアレスだ。

「それは、正直なぜでしょうね」
 でもと、残った言葉にアレスが見るのは、いまだに続く歓迎の式典だ。
 それは、笑顔。
 百万近くの仲間が死んだ、その帰還を彩る笑顔なのだ。
「でも、死なせたくもないのです。自分の命がかかっている状態で客観的な判断を降せる自信はなかったので」

「迷いか」
「すみません。ヤン少佐に任せることになって」
「正直、それはもっと上が判断する話だと思っているけれど」
 頭を下げたアレスに、ヤンはいいさと肩をすくめた。

「信じられないことに、君は大尉で、卒業一年。私が階級でも、年齢でも先輩だからね。それも給料のうちだろうさ」
 給料分は働くとの言葉に、真面目だったアレスの表情が緩んだ。
 どこか嬉しそうに笑う姿に、ヤンもつられるように笑みを浮かべた。
「それに正しいかどうかなんて、私にだってわからないさ。けどね、あの件を知っているのは、私とアロンソ中佐――それに、スレイヤー少将だけだろうが。誰も今回の判断を疑っているものはいない。結果が正しいかどうかはわからないけれど……それは」

「歴史が決める――ですか」
 ヤンの言葉を奪い、アレスが口にすれば、ヤンは小さく目を丸くした。

 どこかつまらなそうにパンをほお張れば、そうだねと口をとがらせていった。

 + + + 

 絢爛豪華な、それは部屋というよりも宮殿の一室といった様相だった。
 重厚な扉と、金色に装飾されて彫り込まれた彫刻。
 白を基調とした壁紙には、高価な絵画を思わせる風景が描かれていた。
 部屋の隙間を埋めるように置かれた壺に、室内中央のソファ。

 一つ一つの家具は、それだけで平民たちの年間給与が飛ぶことだろう。
 その室内の中央に、二人の老人が向かい合うように座っていた。
 一人はモノクル――単眼鏡を右目につけた老人。
 対するのは、立派な顎髭を蓄えた老人であった。
 どちらも深い年月を顔に残し、渋い顔を表情に張り付かせている。

 帝国軍三長官――銀河帝国の軍事を司るシュタインホフ統帥本部総長とエーレンベルク軍務尚書の二人だ。
 シュタインホフが苛立ったように、指先でわき机をノックする。
 その音さえ不愉快そうに、エーレンベルクは眉を顰めた。
 やがて、重厚な扉の開く音がして、待ちかねたように二人の老人が顔を向けた。

 現れたのはもう一人の老人だ。
 いや、正確には少なくとも二人の老人よりは若干の若さがある。
 そう感じられるのは、一切曲がらぬ背筋と大柄な体格によるものだろうか。
 宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥。

 その役職に恥じぬ堂々たる態度をもって、二人の待つ室内に入って来た。
「遅いではないか」
「先ほどまで宇宙艦隊司令部にいたのです。報告のとりまとめにも時間がかかりました」
「報告か――新しい報告はあったのか。例えば、味方殺しが嘘であったとかな」

「残念ながら」
 言い切ったミュッケンベルガーの言葉に、シュタインホフは鼻を鳴らした。
 口元は皮肉気に歪んではいたが、ミュッケンベルガーが近づく間、それを我慢したようだ。
 わき机に置かれたウィスキーで口を湿らせ、ミュッケンベルガーが席に着くのを待った。

「なにか飲むか」
「それを待つ時間もおしいでしょうから。用件からすませましょう」
「それもそうだな。全く頭の痛い話だ……味方殺しなど。リヒテンラーデ候が聞けば、これ幸いにと、軍の失態として予算をさげそうだ。また余計な説教を聞かねばならん」
「そればかりではない。少数とは言え、前線には有力な貴族の子弟もいたからな」

 ため息混じりのシュタインホフの言葉に、答えたのはエーレンベルクだった。
 そこにはイゼルローンでなくなった平民の命など、一切考えられていない。
 仮に、平民だけが全滅しただけであったら、ここまで彼らを悩ませていなかっただろう。
考えるのは、今回の戦いによって与える損害と回避―-即ち、宮廷闘争だ。
 最もそれらを蔑ろにする人間であったならば、この地位まで彼らが来ることもなかっただろう。

 優秀なだけの将官であれば、いくらでもいる。
 その中でも帝国三長官に立つことができるのは、たったの三名だけであるのだ。
「それだけではありますまい。この件を陛下が耳に入れれば、たいそう嘆かれることだろう」
 深いため息を共に、言葉にしたのはミュッケンベルガーだ。
 大柄な体が、やや沈むように肩を落としている。

 それを見て、二人の老人は顔を見合わせて、わずかに口元を歪めて、そうだなと頷いた。
「その件については、リヒテンラーデ候から耳に入れていただく他はあるまい」
「味方殺しの加えて、難攻不落のはずのイゼルローン外壁が破られたこともな」
 頭の痛い話だとシュタインホフは口にする。
「それで――上がって来た報告を詳しく聞かせてくれ。少しは良い話があるといいが」

「は……まず、敵軍は並行追撃作戦により」
 ミュッケンベルガーは、宇宙艦隊司令部に上がって来た報告を口にする。
 並行追撃作戦が始まり、それによって味方事トールハンマーの餌食となったこと。
 その件については、大きな驚きはなかった。
 味方殺しというからには、乱戦が作り出されたことは容易に予想されたからだ。

 だが、敵の最前線が前進によって射線から離脱したことを知れば、シュタインホフは目を開いて、問い返した。
「何だと――敵は前進して回避したのか」
「ええ。驚くことに」
 頷いたミュッケンベルガーにも、驚きと――僅かながらの称賛の表情がある。

 そんな二人の様子に、エーレンベルクだけが疑問を浮かべた。
「前進して回避したことが、そんなに驚くことなのか」
 二人の視線が、エーレンベルクに集まった。
 戸惑うようなミュッケンベルガーに対して、わずかに早くシュタインホフが理解したというように頷いた。
 エーレンベルクもシュタインホフも、それぞれが門閥貴族とも呼べる有力貴族である。

 だが、格の高さで言えばエーレンベルクの方が上であり、彼が宇宙艦隊に配属された期間は少ない。
 そのことを理解したように、シュタインホフは小さく咳を払った。
「ただ前進したことで回避が可能であるなら、イゼルローン要塞は既に攻略されているでしょう」
 シュタインホフから視線を向けられて、言葉を続けたのは、ミュッケンベルガーだ。
「艦隊というのは、自動車のようにアクセルを踏めばすぐに動き、ブレーキを踏めばすぐに止まるというものではありません。加速には時間がかかり、事前に察知していなければ不可能です」

「ならば、ただ敵が読んでいただけではないのか。並行追撃を考えたのであれば、その対策―-つまり我々が味方殺しもすることも考慮に入れると思うがね」
「それでも……です。わかっていてもできないことがある。エーレンベルク元帥はフルスピードで走る車で、混雑する道路を駆け抜けられますか。ブレーキもなしに」
 エーレンベルクは、顔を引きつらせて、頷いた。

「なるほど、な。並行追撃をかける戦略を持ち、要塞砲を回避するだけの命知らずの度胸と技術があることは理解できた。だが、気になるのは、今後の対策だ」
「正直なところ、今回の敵の作戦は予想をしていなかったことです。今後は密集だけではなく、要点で分散させる必要もあるでしょう」
「よく検討してくれ。一度ならば知らなかったで、済むだろうが、二度目はない」

「は」
 短い返答の言葉に、エーレンベルクは小さく首を振った。
 これ以上厄介な話は聞きたくもなかったし、さらに言えば相談すべき案件はまだ多くあったからだ。
「今後はイゼルローン要塞の人事をどうするかだ」
「クライストとヴァルテンベルクの後釜ですな」

 シュタインホフが納得したように頷いた。
 イゼルローン要塞の破壊を許し、あまつさえ味方殺しまでする者たちを残しておくわけにもいかない。特にクライストは、子弟をなくした有力貴族の矛先になってもらわなければならなかった。
 二人とも良くて降格の上、退役――あるいは、死罪であろう。
 その辺りはリヒテンラーデ候と――それを伝える陛下次第であるが。
「手ごろな中将はいますかね」

 シュタインホフとエーレンベルクは、艦隊司令官の名前を考えていく。
 イゼルローン要塞司令官と駐留艦隊司令官は、それぞれが大将の階級だ。
 だが、イゼルローンは辺境の先といっても良い場所であり、現役の大将を向かわせるにしてはあまりにも辺境――つまり、首都で一部隊の長となっている者たちにとっては、辺境のしかも、最前線の戦場は左遷といってもいい不人気な職場だ。

 大将の階級には有力貴族も多くいるため、おいそれと異動させることもできない。
 必然的に、有力な艦隊司令官が階級をあげて、転属させることが多かった。
「それですが。ヴァルテンベルク大将を残すことはできないでしょうか」
「何を言っている。敗戦の責はとるべきであろう」
「で、あればクライスト大将に――要塞司令部に取ってもらえばよいかと。今回の報告を見ましたが、並行追撃によって一時的には食い込まれましたが、敵の数に対して奮戦は認められるべきであると」

 エーレンベルクの瞳が、ミュッケンベルガーの表情を伺うように、細くなった。
「卿は何を考えている?」
「仮に――要塞司令部に責任を押し付けて、逃げるようであれば、私も彼を排斥することに異議はありませんでした。ですが、大敗後に敗北は自らの責任であり、部下に何ら比がないことを報告しております。何と言いますか――駐留艦隊と、要塞司令部の責任を問うてきたクライスト大将とは真逆でありまして」

「甘いな」
「だが、それも必要かもしれない。今回の戦いは帝国にとっては何ら良いところはないといってもいいだろう。ならば、クライストを生贄の羊にして、士気をあげてもいいかもしれん」
「駐留艦隊の功を前面にだしてか。そんなものあるのか」
「四倍以上の敵に対して、要塞援護がないにも関わらず、互角に戦ったという点では」
 エーレンベルクがしばらく考えるように、視線を外した。

 わずかな沈黙ののちに、言葉を吐き出す。
「考えておこう。だが、陛下の御意思次第だ、確約はできない」
「結構です」
「そうなると、要塞司令官の後任は年長を選ばなければなりませんな」
「ああ。ヴァルテンベルクが残るとすれば、駐留艦隊が先任になりかねない。それでは駐留艦隊の独断専行を許すことになる。穏健であり、なおかつ年齢が上な人物。となると、ゼークトやシュトックハウゼンは難しいな」

「両者ともまだ若い――ヴァルテンベルク大将が残れば、遠慮というものもあるだろう」
「あるいは、イゼルローンに土をつけたと侮るかもしれん」
「それはそれで困った話だ――そうだ、彼がいたな」
 とんっと思いついたように、エーレンベルクが指先でソファを叩いた。

「カイザーリンク中将だ。彼ならば退役も近いし、ヴァルテンベルクを侮ることもなかろう」
「退役近くの身で、イゼルローンはいささか厳しくはございませんか」
「そのまま中将で退役するよりは階級が上がるだけ良いだろう。それに彼は独身だ――身軽でいいじゃないか。司令長官はいかがかな」
 振られたのはミュッケンベルガーだった。

 元より、全帝国の宇宙艦隊はミュッケンベルガーの配下となる。
 一艦隊の司令官の人事を聞かれて、考えた。
 それは憲兵隊から聞かされた不穏な噂だ。
 それが正しいかどうかは今後の調査次第ということになってはいるが、そんな人物を、首都オーディンから遠く離れたイゼルローン要塞を統括する司令官に配属させていいものかと。

 だが、反対を口にするにはあまりにも証拠が少なく。
 何よりも、先のヴァルテンベルクについての意見を、エーレンベルクは受け入れた。
 そんな状態で、あえて否定する言葉も浮かばない。
 ただ静かに、ミュッケンベルガーは頷いた。

「何も問題はございません」
「ならば、決まりだな」
 シュタインホフとエーレンベルクが、頷いた。


 

 

閑話:帰りを待つもの



 マウア・マクワイルドは、いわゆる平凡な天才であった。
 子供のころから物覚えも良く、運動も勉強も等しく優秀な成績をとっていた。
 超一流とは言わなくても、どこにも一人はいるような当たり前の神童といったものだった。とはいえ、同学年に――あるいは少し上級生であっても、負けたことがないという環境はともすれば性格に歪みが生じる可能性が多分にあっただろう。あるいは、いつか本当の天才と出会い挫折を知ることで、普通の人間となっていったか。

 だが、彼女は一切の歪みもなく――良くも悪くも、真っ直ぐに育つことになった。
 原因は簡単だ。
 彼女の兄――アレス・マクワイルドが原因によるところだ。
 彼女の身近には、より優秀な人間がいたのである。

 それが本来の意味で優秀かどうかは、わからない。
 そもそも幼少時から前世の記憶を持っているということは反則であったのかもしれないが、当のマウアがそれを知るわけもない。
 ただ常に彼女の前には優秀と呼ばれる兄が立ちはだかっていたのだ。
 もっとも、彼女が記憶している兄との生活は、わずか一年ばかりでしかなかった。

 両親の離婚により別れたことで、暮らしていたのは生まれてからの数年。
 記憶に残っているのは一年だけであっただろう。
 だが、その後もたびたび会う兄は優しくもあり、マウアは大好きだった。
 だからこそ、周囲から褒められたとしても、彼女はそこで妥協することなく、まだまだだと頑張れたし、自分より優秀な人間に出会っても、諦めなかった。

 それは、兄譲りの負けず嫌いだったのかもしれない。
 そう父親から兄に似ていると言われた時は、とても嬉しかった。
 だから、兄と離れるのは非常に悲しかった。
 なぜ両親が離婚したのかは、幼いマウアは知らない。

 幼いながらに聞いてはいけないことだと、感じていたのだ。
 しかし幼いながらに、月に一度マウアとともに一緒に会う両親は決して仲が悪いということはないと思う。
 一緒にいて、二人がいまだ楽しそうにする様子は、友人たちの両親に比べても遥かに仲が良いように見えた。

 未だに母が元の性ではなく、マクワイルドの性を名乗ることが証明だと思う。
 ならば、なぜ別れることを選択したのか。
 誰にも聞くこともできず、でも子供というのは理由をつけたがるものだ。
 幼いながらも、マウアは一人ずっと考えて、そして結論をだした。
 きっと自分が馬鹿だからなのだろうと。

 自分が一緒にいては兄の足を引っ張ることになるため、あえて二人は別れるという選択をしたのだと。
 だからこそ。
 マウアは思っていた。
 自分が賢くなれば、きっと兄は帰ってくるのだと。

 そうすれば、また家族四人で暮らすことができる。
 それはとても、とても幸せで。
 両親も嬉しいし、何よりもマウアも嬉しい。
 そのために、マウアは満足しない。

 兄が戻ってくる――その日まで。

 + + +

「今回の試験は少し難しかったですか。けれど、勉強をさぼっちゃだめですよ。皆さんはこれから立派な人間になって、憎き帝国を打ち破らなくてはならないのですから」
 教壇の上で、きつい瞳をした三十代の女性が問いかけるように話をしている。
 勉強しないと、帝国の悪い奴らに殺されると――口癖のように呟く教師のセリフは、まだ初等科の生徒に教えるにはいささか厳しい言葉だった。

 性格もきつく、時にはヒステリックに声を荒げることから、生徒たちには悲しいことに鬼婆と呼ばれている。
 最も教師たる彼女がそれほどまでに帝国を憎む理由は、婚約者を帝国軍によって失うことになったという噂もあったが、まだ十歳ほどの子供たちが、真実かどうかなど分かるはずもない。
 ただそれでも子供ながらに理解できるのは、戦争で婚約者が亡くしたという噂は、決して珍しいものではないということ。

 そして、件の教師が四十に近づいても、いまだ独身であるという真実だけだった。
「では、テストを取りに来てもらいます。アイラ・オーウェン――」
 五月も半ばの、最初の試験。
 まだ小学生では試験という事にも、それほどまでの絶望はないかもしれないが、彼女の受け持つ教室では意見は大きく変わるだろう。

 立ち上がって受け取りに来たポニーテールの少女が来れば、
「41点――初等科一年の教科書をもう一度読んできなさい」
 冷たい言葉とともに発表される点数とお説教。
 もしここにアレスがいたら、まさかのじゃがいもと口にしたであろうし、アッテンボローであったならば、彼女を間違いなくヒステリックにさせる余計な言葉を呟いたことであろう。

 もっとも、呼び出される初等科の生徒ができる抵抗といえば、謝ることか落ち込むだけでしかない。
 返却された答案を受け取って、厳しい言葉を受けた少女は素直に反省したように、自席に戻った。
「次、アリス……」
 呼ばれる名前は、Aから始まる数字だ。
 次々に呼ばれる名前に、教師の評価は一切ぶれない。

 八十点以上の好成績であれば、褒め、下回れば容赦ない指導が口にされる。
 それはいつものことで、彼女が受け持つクラスの伝統ともいえた。
 自分の名前が呼び出される順番を待ちながら、教壇の前で一喜一憂する同級生の姿を見送る。
「次、マウア・マクワイルド」
「はい」

 声を出し、マウアは立ち上がった。
 毛先を首元で整えたショートボブの髪型は、アレス同様に金色だ。
 気が強そうな力強い瞳が印象的な容姿であるが、兄が与えるような目つきの悪い印象は、女性ともなると意思の強さとなるらしい。

 はっきりと整った顔立ちに、初等科の学生服をきっちりと着こなし、歩く様子をみれば、教壇上で教師がにこやかにほほ笑んだ。
「九十五点。さすがね――綴り間違いの小さなミスがなければ、百点も狙えたわよ」
「ありがとうございます」
 と、頭を下げて答案を受け取れば、振り返った視線が隣席の友人を捉えた。

 アイラ・オーウェンだ。
 先ほどまでの落ち込んでいた様子はどこかへと消えており、自分だけに見えるように、やったねと手を振っている。
 そんな彼女はつい先ほど41点の最下位をたたき出し、いまだ継続更新中であるのだが。
 席に着くと、身を少し乗り出して、隣席の友人は感心したように話しかけた。

「凄いね、マウアちゃん」
 自らの成績はどこかへとおいやりながら、友人が素直に感心を言葉にできるのは彼女の良いところだ。
 照れたようにマウアは小さく苦笑を浮かべた。
「ちょっと間違えちゃった」
「ちょっとならいいじゃない。私なんて綴り以前の間違いだよ?」

 そう言って見せられたテストは、バツ印が並んでいた。
 その中央で、一際大きい罰がある――建国の国父に似た名前だ。
 アーレイ・ハイネセンと。
 それは、誰なのか。

「ええ……」
 さすがのミスに、答案を二度ほど見てから、友人の顔を見る。
 あっけらとした二つの瞳が、マウアを見ていた。
「さすがにまずいと、思うよ?」
 むしろ、あの教師があの説教だけで良く終わったなと思う。

 だが、勉強よりも、運動が大好き、それ以上に遊びはもっと大好きな彼女のことだ。
 今まで怒られ過ぎて、さしもの教師のお説教レパートリーも品切れだったのかもしれないと、マウアは思った。
「いいんだもん。ここは自由の国だから。帝国と違って、間違えたくらいで殺されることなんてないもん」
「殺されることはなくても、お説教はあるかもです」

 そっと背後からかかった声は、後方にいた友人のものだ。
 忠告するようなささやき声に、二人は視線を前に向ける。
 鬼がいた。
 彼女たちの声は、少しばかり大きかったらしい。

 答案の返却の途中で、教師が睨むようにアイラとマウアを見ていて、慌てて、姿勢をもとへと戻した。
 おそらくは怒声が飛ばなかったのは、優等生であるマウアが一緒にいたからだろう。
「62点……ね。授業中は真面目に聞いておくこと。次」
 そのお説教は誰に向けられたものなのか。
 怒りを押し殺した声をだせば、しわが付いた答案を渡して、教師は次の名前を呼んだ。

「ユリアン・ミンツ」
「はい」
 と――立ち上がったのは亜麻色の髪をした少年だ。
 まだ幼い顔立ちは、ともすれば女性にも見える穏やかな表情。
 ブラウンの瞳が一度瞬きをすると、立ち上がって教壇の前に行く。

「七十八点です。集中力に欠いているようですね、試験以前の問題です」
 一瞬、教室の中が騒めいた。
 平均点を考えれば、優秀ともいえる点数であったが、彼にしては悪いともいえたからだ。
 二年前に急遽転校してきたこの少年は――学年でもマウアとトップを争うほどに優秀で、少なくとも今までに教師のお説教の餌食になったことはない。

 今までに周囲を圧倒していたマウアにとっては、初めてのライバルともいえる少年だ。
「珍しいこともあるもんだね。でも、良かったねマウア。トップになれて」
「うーん。本調子じゃなかったみたいだから、それで勝っても嬉しくはないかなぁ」
「おお、上からの意見。一度でいいから行ってみたい」
「アイラちゃん。また怒られるよ?」

「はーい」
 冗談めかして返事をしてアイラは、姿勢を元に戻した。
 今度は教師に見られずに、すんだようだ。
 でもと、マウアは教壇の方を見ながら、アイラの言葉の言った珍しいとの言葉を思い返した。

 確かにユリアンが、このような成績をとるのは珍しいことだった。
 転校してきてから二年、成績も運動も常に上位で――さらには中性的な顔立ちを持つ少年は、女子の中でも大人気で、好きだという子も少なくはない。
 見れば、周囲の女生徒には心配するような視線が送られている。

 教師から返された答案を、少年が謝罪の言葉とともに手にする様子に、相変わらず人気だなと、他人事の様にマウアは思った。
 
 + + +

 授業は午後に入って一時間ほどで終了した。
 まだ明るい街を、友人たちと一緒に帰っていく。
 大きな鞄を背負いながら、試験について語る姿はいつの時代もかわらないのだろう。
 だが、内容自体はいささか時代によって変わるのかもしれない。

「それでね、ママが、パパにいったの。戦争でいない間、ちゃんと掃除してた? って。だから、今度の休みはパパと大掃除なんだよ」
 手を広げながら大げさに話すのは、アイラ・オーウェンだ。
 いつも話題を振るのは、彼女が最初だった。
 明るく、元気な様子には、マウアも助けられている。

 そんな彼女の母親の仕事は、同盟軍の軍人であり――アイラが語るには、つい最近まで遠い場所で戦っていたらしい。
 そんな彼女の母から、しばらくぶりに電話が入り、もうすぐ帰るということが伝えられたということを、週末の大掃除を大げさに嘆きながらも、どことなく弾んだような声で話している。
 いつもより一段と高いテンションに、マウアは、もう一人の友人であるワン・ファリンと顔を向かい合わせて、小さく笑った。

「アイラちゃんのお母さんはいつ帰ってくるの?」
「それが聞いてよ、マウアちゃん。まだ二週間以上はかかるって」
「それは……アイラちゃんが今週掃除しても、帰ってくるころにはまた汚れちゃいそうだよね」
「そんなに遠くです?」
「うん。凄く遠いみたい。イゼルローン回廊? って、ところ」

 やや疑問を浮かべながら、アイラは言葉を口にした。
 知っているかと問いかけられて、マウアは頷いた。
「うん、ニュースで見たよ。イゼルローン要塞で、大きな戦いがあったって」
「さすがマウアちゃん。勝ったのかな」
「私も見ました。勝ったっていってたですよ。きっとアイラちゃんとママが活躍したのですよ」

「でも、ママはあんまり嬉しそうじゃなかったなぁ。疲れてるのかな?」
「んー」
 マウアはニュースを思い出すように、唇に指をあてて、考えた。
「外壁は破壊したっていってたけど、占領したわけじゃないらしいから。悔しかったのかな」
「あるかも。ママ、完璧主義だから。いつもパパに手加減無用っていってるし」

「アイラちゃんは、間違いなくお母さん似なのですね」
 ファリンが納得したように頷けば、三人は楽しそうに笑い合った。
 どこにでもあるような普通の光景――だが、そこで語られるのは戦争の話題だ。
 アイラの母親が戦場に行くように。彼女たちにとって戦場はまさに身近にあり、幼いながらに口にすることは決して不思議なことではなかった。

 誰だって、自分の身近な人の話題が大切なのだ。
「でも、マウアちゃんのお兄ちゃんも軍にいるんだよね。いまどこにいるの?」
「うーん。それがさ」
 アイラの言葉に、マウアは眉をさげた。
「お母さんもお父さんもお兄ちゃんが何しているか教えてくれないんだ」

 悲しそうに、そして若干の拗ねをマウアは見せた。
 心配するからというのが、その理由であったが、マウアにとっては不満が大きい。
 兄の活躍を常に知りたいし、危ないというのであれば、なおさら知りたいと思う。
 もっとも、それはカプチェランカでアレスの生死が一時分からなくなった時に、マウアがひどく取り乱したからであり、彼女が原因によるところなのだが。

「お兄ちゃんからも最近連絡がないし、どうしてるんだろう」
「ほ、ほら。便りがないのは、良い便りなのですよ」
「そうそう。お兄さんは大丈夫だよ。マウアちゃんが言うくらい賢いんでしょ……あ!」
 と、アイラが話題を変えるように、明後日の方向を指さした。
「ど、どうしたのです?」

 ファリンが合わせるように視線を向ければ、そこには学校の友人の姿があった。
 ユリアン・ミンツだ。
 道路の反対側を見知らぬ中年の男性と一緒に歩いている。
 スーツ姿に真面目そうな姿は、一見すれば父親にも見えなくはない。

 だが、彼の父親は二年前に亡くなっているはずであり、それ以降は彼の祖母と二人で暮らしていたはずだ。
「おじさんとかかな」
 アイラが言葉に出すが、それにしては髪の色も瞳の色も似てはいない。
 どこかよそよそしい印象もあった。

 そんな三人の視線に、ユリアンもこちらに気づいたようだ。
 ぺこりと頭を下げた姿は、一瞬で道路を走る地上車の波に消えていった。
 姿を消した同級生の姿に、三人が首を傾げた。
「何か変なのです、事件なのです」
「まさか、話をしていたみたいだし――それに、ファリンちゃんならともかく、ミンツ君なら大丈夫じゃないかな」

「なぜ、そこでファリンの名前がでるのです」
「だって、アイラちゃんだったら加害者になるだろうから」
「それはどういうことなのか、な」
 頬を膨らませたアイラの姿に、マウアとファリンは笑いあった。


 その一週間後――ユリアン・ミンツが転校することを、三人は知るのであった。

 
 

 
後書き
第五次イゼルローン要塞攻防戦の章はこれで終わりとなります。
なお、次話までの間一週間ほど休みとさせていただきます。
帰ってきますので、しばしお待ちいただければと思います。 

 

戦闘評価

 統合作戦本部。
 自由惑星同盟軍の中でも、主要な部署に数えられ――即ち、宇宙艦隊司令部、後方作戦本部と並ぶ巨大な建物である。

 その中でも、近年になって建て替えられた統合作戦本部は、三つの中で非常に大きく、そして奇麗であった。
 デザインこそ、宇宙艦隊司令部には負けているかもしれない。
 それは近年になってより一層厳しくなった予算的なの問題があったのかもしれない。
 デザイン料という無駄な費用を――当然のことながら、しかし、自由惑星同盟では近年になって問題となっていたのだが――考えずに、実用性のみを考えた結果になっただけであった。

 しかしながら、実用性と――そして、軍事的成功を政権の糧にする政治家の意見が一致した結果、生まれた建物は見栄えこそ悪いものの、非常に出来の良いつくりともいえる。
 地上五十五階の最上階は、市民に開放された展望台となっており、九時から二十三時までは誰もが来ることができる。五十四階には統合作戦本部で勤務する同盟軍に向けて、格安の食事施設があり、酒場も備えつけられていた。

 また、滅多に来ることはないが国防委員長やそれぞれの委員の個室があるフロア。
 それは必要性を求めた結果、生まれた建物とも言えるかもしれない。
 予算がまだ余っていた時代に建てられた宇宙艦隊司令部は酷いものだ。
 採光を考えて作られた中央は吹き抜けとなっており、全ての部屋に風と光を提供している。だが、その分のスペースは減ることとなり、数少ない部屋数と狭い室内に何人もの人間が押し込められるように働くことになっているのだから。

 見栄えか実用性か。
 いつの時代も悩む問題を抱えながら、統合作戦本部は遠くにハイネセンを見るように、その存在を誇示していた。

 + + +

 さて、その統合作戦本部には複数の会議室が備えられたフロアがある。
 一つのフロアが丸々、複数の会議室で区切られた一見すれば無駄なフロアだ。

 会議など、毎日あるわけでもない。
 そんなに必要ないだろう。
 知らぬ人からすれば、そう思う事かもしれない。
 実際にそう考えられた宇宙艦隊司令部は、いまだに後悔をしている。

 重要な会議とはいえずとも、部署ごとの小さな話し合い――あるいは、他の機関や会社との調整など、会議室は常に使われるものというのは、当時デザインを考えた者は気が付かなかったらしい。
あるいは、気が付いていたが、ただでも狭いのに会議室まで作れば、人があふれることになると思い、無視したのかもしれなかった。
 そんな会議室用のフロア――その、小さな部屋の一室には、次々と人が入り始めていた。
 わずか二十畳ほどの小会議室と呼ばれた部屋。

 通常であれば、統合作戦本部の各部署が小さな会議に使われているが、その出入口に立つのは、人事第一課の課長だ。
 通常ならば、人事という組織の中でも重要な役割――その筆頭である課長が、来る人間を頭を下げながら出迎えている。
 それも当然であろう、室内に入る人間は、全て彼――人事部人事第一課長よりも階級が上の人間である。

 人事部という誰もが高いプライドを持っている人間たちは、今日ばかりはエレベーターを往復しながら、下働きを続けている。
 案内する人間――それは最低でも艦隊司令官の階級――即ち、中将だ。
 会議の時間――十分前に、中将の階級である人間が到着し、残りはまさに分刻みの予定。

 会議室の脇に視線を向ければ、そこには大きく張り紙がある。

『第五次イゼルローン要塞攻防戦 戦闘評価会議』

 + + +

 第五次イゼルローン要塞攻防戦。
 俗にそう呼ばれる戦いから、一か月以上の時を経た。
 そもそも戦いが始まったのが五月の上旬。
 それが終わって、ハイネセンに全艦隊が帰還したのが、六月のこと。

 帰還後には政治家や市民への戦いの報告があった。
 艦隊総司令官であるシトレなどは、しばらくマスコミの取材に時間がとられていたほどだ。
 それら表向きの結果の報告は終了している。
 あくまでも表向きの話であるが。

 即ち、イゼルローン要塞にどれだけの打撃を与えられたのか。
 結果として、どのような成果があったのか。
 それを政治家や市民に伝えることは重要なことではあったが、面倒というわけではない。
 シトレに――あるいは一部の人間には不満の残る戦いとはなったが、政治的な意見から今回の戦いは、攻略こそできなかったものの、初めてイゼルローン要塞に打撃を与え、また同数の敵艦隊に被害を与えたということで、勝ったという意見が大勢を占めている。

 いや、帰還した際には既にそう決定されていた。
 ならば、求められる話をすればいいだけのことだ。
 それらの説明が落ち着いてから、今回の戦闘評価会議が開かれることになる。
 自由惑星同盟にとっては、実質的な功労と反省の会議である。

 むろん、それらの報告はそれぞれの部署が個別に人事部にあげてきているわけではあるが、その意見を取りまとめて最終的に決定する場が、この場である。
 そこに姿を見せるのは、数は少ないものの今回の戦いに関係した人間だ。
 第四艦隊司令官ドワイド・グリーンヒル中将。

 第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将。
 主任作戦参謀にして、参謀のトップにあったイーサン・アップルトン中将。
 最初に室内に入った三名は各部署の筆頭であり、責任者でもある。
 事前に知らされていた末席に座りながら、静かに座っている。

 考えるところは、それぞれあるのだろう。
 私語をすることもなく、案内をされた席に静か座っていた。
 次に登場したのは、統合作戦本部の人事部長だった。
 戦報という、功労や反省―-即ち、同盟軍の人事を司る部署の長である。
 その部下である人事部の課長が慌てふためきながらも、雑用のような仕事をしている理由である。
 続いて、後方勤務本部長が入室し、残る席は三つとなった。

 会議の開催は、十時三十分。
 二十七分に、統合作戦本部次長であるラザール・ロボス大将が。
 二十八分に、宇宙艦隊司令長官であるシドニー・シトレ大将が。

 そして、三十分に統合作戦本部長――ジェフ・コートニー元帥が入室し、第五次イゼルローン要塞攻防戦の戦報会議は静かに始まったのだった。

 + + + 

「それではご起立をお願いいたします」
 ジェフ・コートニーが席の前に着けば、人事第一課長――コーネフ少将の号令で全員が立ち上がった。
「これより、第五次イゼルローン要塞攻防戦戦時報告会議を開催いたします」

 今回の会議の進行役でもあるコーネフ少将の言葉に、全員が頭を下げ、着席をする。
 椅子を動かす音だけが聞こえ、コーネフは額の汗を拭った。
「それでは、手元に配りました資料を確認願います」
 全員の手が目の前に置かれた資料を確認する。

 丁寧に分けられた資料。
 それは会議を司る人事部の人間の丁寧さと、几帳面さを発揮していると言えるだろう。
 全員が資料を確認するのを見届けると、コーネフは声をあげた。
「まずは。イゼルローン要塞攻防戦の概略については、まとめた結果」

 視線がコーネフに集中する。
 上位の階級者からみられることに、コーネフは目の前の資料を読むことに集中することで、声が震えるのを耐えた。
「イゼルローン要塞は落とすことはできませんでしたが、敵の反撃は予想外の行動であって、問題がないと考えております」
「予想外か」
 呟かれた言葉に、コーネフは言葉を止めた。

 発言の主を視線で探せば、そこには気難しそうに顔を歪めた老将の表情があった。
 一瞬だけ浮かんだ苦い表情を笑顔で隠して、コーネフは頷いた。
「ええ。部隊として把握することは誰も予想できなかったと――」
「誰にもか?」

 呟かれた言葉に、今度はコーネフ苛立ちを隠すことができなかった。
「その点については、後の資料で記載しますが。部隊として把握はされていなかったと。ビュコック提督も作戦前には考えもつかなかったのではないですか」
「その点は認めよう。把握していた人間のことを忘れてはいないか気になったものでな」
「ビュコック中将。それについては、コーネフ少将が後程といっているのです。今話したところで、無駄な時間が伸びるだけないですか」

「その通りだ。時間は有限だ――いちいち突っ込んでいたら、まとまるものもまとまらんよ」
 グリーンヒルのなだめるような言葉と、対照的に吐き捨てるように言ったのはロボスだ。
 睨むような視線にも、ビュコックは動じた様子もなく、小さく頷いた。
「なるほど。では、後ほどの意見を聞いてから、発言するとしよう」

「感謝いたします。資料に記載のとおり」
 そう言って、コーネフは目の前の資料をめくった。
 どこまで読んだか忘れた。
 急ぎ資料をめくる音だけが響いた。

「コーネフ少将。落ち着きたまえ、資料は逃げはせんよ」
 呟いたのはコートニー元帥であった。
 長く白い顎ひげを蓄えた軍人というよりも賢者といった風貌の男性だ。
 皺が寄った瞳は細く、ともすれば寝ているようにも見える。

 そんな老人の冗談めかした言葉に、静かだった室内に一瞬の笑いが広がった。
「し、失礼いたしました。資料をもう一度説明させていただきますと、イゼルローン要塞の攻略は結果としてなりませんでしたが、戦術的有効性は十分に証明され、敵要塞に打撃を与えたという点においては、イゼルローン要塞があの地にできてから初めてのことです。我々どもとしては、敵に対して畏怖を与えるとともに、今後の戦闘において有効な戦いであったと判断しております」

 ご意見はと問うた視線であったが、否定する人間はいない。
 そもそも表向きの説明である。
 表向きとはいえ、同盟軍としての判断ということだ。
 ビュコックといえども、この場で違うとちゃぶ台をひっくり返すほどに馬鹿ではない。
 コーネフにとっては気の毒なことに、ただ意地悪いだけである。

「問題はないようだ。続けてくれ」
「は。続きまして、各戦闘の詳細となります。まず、準備においては、各艦隊及び司令部の連携によって予定以上の練度を維持しております。計画が若干前倒しになりましたが、後方支援も十分に行われていると思われます」
 顔をあげたコーネフの前に、多数の頷きを見て、言葉を続ける。

「戦闘ですが、三段階に分かれております。即ち、接敵からの並行追撃及び要塞への攻撃――最後に敵が味方ごと砲撃を行った後の行動」
 先ほどと同じように資料に書かれていた内容を読むだけであったが、結論から言えば問題がないとの評価である。

 元より、最初―-表向きの時点で問題がないとの評価が出ている。
 あるいは出来レースのようなものだったかもしれない。
 語り終えた後にコーネフが顔をあげれば、概ね満足したような頷きが見える。
 ほっと小さく息を吐き出せば、不機嫌そうな声が上座から聞こえる。

 ロボスだ。
「並行追撃と要塞への攻撃については問題がない。だが、最後はどうなのだ」
「は。敵の攻撃に多数の被害が予想されましたが。しかしながら、最前線でトールハンマーの照射を受けた第五艦隊の第一分艦隊は、見事な艦隊運動により回避してみせたと言ってよいかと」

「それは理想論じゃないか。このような曲芸など、二度などできない。失敗すれば、全滅してもおかしくなかったのではないかね」
「それは……」
「ならば、私の部下に何もせずに死ねということですかな」

 不機嫌そうな声が、もう一方から漏れた。
 上官であっても、不愉快な表情を隠すそぶりもない。。
 アレクサンドル・ビュコックだ。
「言葉を悪くとってもらっては困る。これは今後の同盟軍の方針を決定するのだよ。これを評価するということは、今後もこの曲芸を認めるということだということを、貴官はわかっているのか。今回は良いが、評価のために曲芸をまねて、多数が死ぬことがあったら困るといっているのだ」

「そもそもの前提が間違えていると思うが」
 睨み合った二人を止めるように、言葉はロボスの隣から聞こえた。
 今まで黙っていたシドニー・シトレだ。
「まねるも何も、今回はこうしなければ確実に大きな被害を受けていた。下がったところで、間に合うわけがなかったのだ。艦隊司令長官としては、第五艦隊第一分艦隊の行動には、一切非がなかったと発言させてもらおう」

「理想論ではないですかな。実際に下がったわけでもない――それに、敵は味方殺しをしているのです。通常の砲撃と同じというわけではありますまい」
「それについては、私から否定をさせていただきます。トールハンマーの準備完了から砲撃までは、通常戦闘と何ら変わらぬ速度でありました」
 イーサン・アップルトンの言葉に、ロボスは不満さを隠す様子はない。

「聞いたところそうでもなかったという意見もありましたがね。最も現地での戦いの過酷さまで私は否定するつもりはないが、それだけを見て広い視野を失ってはないですかな」
 同意を求めるように、統合作戦本部長であるコートニーを見る。
 視線を受けて、そこに座る老年の男性が頷いた。

「評価となれば今後の手本になるとロボスが不安としていることもわかる。だが、他に手がないという意味で、スレイヤー少将の機転を認めぬことはできぬ。そもそも他に正解の選択肢など、私には答えられぬよ。貴官はどうだね?」
 反対にコートニーから疑問を投げかけられ、ロボスはただ唸るだけであった。
 周囲の視線を見れば、いずれも厳しい視線ばかりだ。

 自らの味方を発見できず、ふんと鼻息を荒くすれば、了解したと呟いた。
「では、今回の戦闘の評価については、以上とします」
 逆にほっとしたようにコーネフが小さく息を吐いた。
 だが、まだ終わったわけではない。

「次に作戦の評価といたしますが、五分ほど休憩を入れさせていただきます」

 続く言葉を口にして、コーネフは額の汗を拭った。


 

 

戦闘評価2



 ラザール・ロボスは不満をそのままに、会議室を見渡した。
 士官学校を卒業して、彼は真面目に働いてきた。
 その戦績は自他ともに認められているだろう。

 実際に彼は同盟軍においては、統合作戦本部次長というナンバー3の地位を得た。
 だが。
 視線に入るのは、常に目に入って来た人間だった。
 その巨漢と風貌は若い時と一切変わってはいない。

 そういつでも。
 彼はロボスの前にいた。
 若い時は気にならなかった。
 ロボスの前には多数の人間がいて、自分よりも優秀な奴も馬鹿な奴も、ただ戦っていた。

 だが、年を取ってロボスは気づく。
 いつでも彼がロボスの前にいることを。
 実際のところ過去の戦いや戦績など大きな差はなかった。
 だが。

 吐息とともに、見る先でシトレが黙って資料を見ている。
 彼は軍のナンバー2である宇宙艦隊司令長官となり、自らはナンバー3となった。
 彼と何が違うのだろうか。
 ロボスは考えてきた。

 何も負けていない。ならば――味方だ。
 同じ軍内での政治など、ロボスは今まで一切考えてこなかった。
 軍であれば、実力こそが評価の対象。
 それ以外など、不要だと考えていた。

 その結果が、これか。
 視線を手元に戻して、資料に通す目は厳しい。
 人望があるなどともてはやされているのが、その証拠ではないか。
 おそらくは軍においては、ロボスがシトレを追い抜くことは不可能であろう。
 今回の戦いで、統合作戦本部長の退任に伴って、シトレが統合作戦本部長になるのはほぼ確定だ。

 だが、終わりではない。
 軍では統合作戦本部長が最高位であるが、退職をすれば政治家や民間企業への就職など、まだまだ上はある――勝負は終わっていないのだ。
 そう考えれば幸いにして、現在の状態で気が付けたのは良かった。
 優秀なものを味方にして、恩を売れば、いずれはシトレを超えることも可能となる。
 そのためには、味方がいる。

 手元の資料を見れば、つまらぬ内容が目に入った。
 並行追撃作戦の際に、敵が味方殺しをすることが事前にわかっていたのではないかということだ。
 それをあげているのは、作戦参謀の若い士官。
 そして、情報参謀の同じく若い士官であった。
 作戦参謀については、議論の段階でイーサン・アップルトンが不許可としている。

 議論の余地はないと――そもそもそれが可能であるのなら、作戦自体が中止を考えなくてはならないと。
 ちらりと見れば、休憩にも関わらず至極真面目に座っている髭面の男が見えた。
 実際に起こったことを考えるとアップルトンはこの会議では針の筵であろう。
 苦々しく思っているはず――彼も参謀の主席として、次には司令官の要職に立つ人間だ。
 ロボスは小さく笑み、次をめくった。

 情報参謀については、議論すら行われてはいなかった。
 情報参謀の部内会議――会議と呼んでも良いものか、ミーティングで意見具申があった。
 それをビロライネン大佐が無視をした内容が書かれていた。
 こちらについては、先ほどの作戦参謀よりも遥かに罪は重い。
 検討したうえで却下としたのか、あるいは検討すらされなかった違いである。

 だが。
 対象となっている人間の名前を見れば、成績優秀な者たちばかりだ。
 今後はさらに同盟軍の中枢――数年後には司令官や所属の上に立つ人間であろう。
 いずれロボスが一番上に立った時、それぞれの部署の長として働いてもらう可能性が高い。
 今回、意見具申した人間の姿のプロフィールを見れば、どれも若く階級も低い人間。

 数年後では、どれほど成績が良くても艦長や分艦隊司令がせいぜいであろう。
 どちらを味方にするかなど、考えなくてもわかる。
 それに、忌々しい話だがあいつが学校長時代の学生ばかりだ。
 視線をあげれば、手洗いのために退席していたジェフ・コートニー統合作戦本部長が着席するところであった。

 わずかな休息の終わりを、コーネフが伝えた。

 + + +

「では、次に敵の攻撃に伴う状況評価です」
 コーネフが緊張とともに声を出した。
 休憩と言ったのは、実際には彼自身が落ち着くことを目的としていたのかもしれない。
 彼のいた人事課でも最ももめると思われたのが、この場面であったからだ。

 事前に味方殺しが察知されてなかったなら問題はない。
 先の戦闘報告の様に、味方殺しはそもそもわからなかったから問題がない。
 それだけで済むからだ。
 だが、それが事前に考えられ――おまけに対抗の策まで考えられていたとするならば。
 その評価はどうすればいいのか。

 本来ならば評価されるべきだ。
 敵の予測を読み、その対抗まで考える。
 だが、そうすれば――別の問題が発生する。
 それが、事前になぜわからなかったのかと。

 評価すると同時に、罰が発生する。
 通常であれば人事課が、統合作戦本部長に方針を報告すれば、それが決定として、この戦闘評価会議は追認されるだけで終わる。
 だが。
 ジェフ・コートニーは今回については、事前の決定を下さなかった。

 戦闘評価会議で決めるべきだと。
 本来であれば、それが正しい。
 だが、それらは前例がほとんどないことであって、コーネフの胃を痛めた。
「今回の作戦参謀の評価ですが」
 呟いた言葉に、続いてコーネフは唾を飲み込んだ。

 同時に緊張が生まれる。
「人事といたしまして……」
 その後に続く言葉は、コーネフは一瞬の躊躇を見せた。
 事前に決定していたならば、先ほどと同様に声に出すことにためらいはない。
 だが。
 コートニーを見れば、皺が入った眼はまるで寝ているように見えた。
「……事前に気づいた、彼ら士官を褒めるべきだと思います」

「褒める。それだけかね」
 最初に反応したのはビュコック中将だ。
 腕を組んで言葉を待っていた彼は、鋭い視線そのままにコーネフを捉えた。
「参謀については、全員を一階級昇任といたしております。その上で、統合作戦本部長からヤン・ウェンリー少佐とアレス・マクワイルド大尉には個別に表彰を……」
「たかだか紙切れだけで済ませるつもりなのか?」

「それは言い過ぎだ、統合作戦本部長から直々に表彰されるなど近年では珍しいほど」
「グリーンヒル中将。表彰など所詮紙切れにすぎぬ。そんなものもらったところで、腹が痛くなってトイレに駆け込んだ時の、トイレットペーパーにもならん。尻が痛くなるわ」
「はっは」
 皮肉気に呟いたビュコックの言葉に、笑い声をあげたのはコートニーだ。

 だが、和ませようとする反応は周囲には受け入れられなかったようだ。
 睨むような厳しい視線に、それ以上の言葉はなかった。
 ゆっくりとロボスが口を挟んだ。
「そもそも。今回の作戦は敵の攻撃がないとの前提で進めていたはずだ。そのための陸上戦隊や無人艦の投入による――その前提を覆すというのならば」
 見たのはシトレの方向だ。

「作戦自体が間違えていたという他がない。その責を求めるとすれば、最終的には許可をしたコートニー本部長以下の責任になるのではないかね」
「この作戦を考えたのは私だ」
「知っておりますよ、シトレ大将」
「だが、それを許可したのは私だということだな。そうなると、ロボスの言葉は決して間違えてはいないな」

 コートニーの言葉に、シトレは黙らざるを得なかった。
「そんな話はあとでやってもらいたい。私が口を挟める範囲を超えているのでな。だが――彼らを褒めるというのであれば、進言を無視した作戦参謀や情報参謀の上層部の責任はどうなるかははっきりさせてもらいたい」
「それについては……人事としては、先ほど述べましたが、全員一階級の昇任としたいと考えております」

「つまり、誰も責任を取らないということかね」
「ビュコック中将は責任論が強すぎないかね」
「信賞必罰は軍において当然のことだろう」
「だが、下から上がって来たとしても、情報を取捨選択するのが上官の役目ではないかね。今回はそれが間違えていたわけだが――それについては、そもそも想定すらされていない状況であれば、間違えたとしても責任を求めるのは酷なことではないか」

 ロボスから視線を向けられて、アップルトンは居心地の悪そうに姿勢を直した。
「いえ。それでは誰も納得できないでしょう。責任者として罰は受けなければならない」
「アップルトン中将。責任を感じるのは立派だが作戦自体は間違っていなかったと、先ほど結論が出たのではなかったか。それとも会議を最初に戻して、作戦の評価を変えるか」
「それは詭弁だろう」
「詭弁でも良いではないか。多くの部下をなくし、責任の所在を求めるビュコック中将の言も理解できる。だが、そもそもの政治判断が今回の作戦を成功と認めている以上、軍内部で無駄に悪者を作る必要はないのではないかと言っている」

「無駄な悪者というのでしたら私も何も言いません。だが、部下からの進言を無視する参謀がいれば、今後は参謀自体を信じられなくなるといっている。そう思うのは私だけですかな」
 問いかけられたように視線を向けられたのはグリーンヒル中将だ。
 穏健派とも言っていい彼は、ビュコックやロボスの強い発言に口にしていなかった。

「正直なところ。今回の件については、私も予測はしておりませんでした。いや、実際に参謀としての立場にいるときにこの進言を受けた場合、どうしていたか、今断言はできません。なにせ、トイレの排水の調子が悪いとかまで細かいことが参謀には上がってきますから」
 少し笑いを含めて、周囲を見渡した。
「主任参謀の経験もありますので、アップルトン中将の立場もわかります。それを全てあげていれば、主任参謀などいらないことになってしまいますし、それこそ重要な情報が目立たないことになってしまうでしょう。ですから、私は誰が責任といったことよりも、むしろ気づいた士官をもっと厚遇してもいいのではないかと考えます」

 ロボスが鼻を鳴らした。
「兵卒上がりのビュコック中将は表彰よりも実を求めているように思われるが、表彰ともなれば国の祝賀にも呼ばれ、そこで上層部と知り合いになる可能性も高くなる。まだ士官学校卒業して数年の若い士官にとっては非常に有意義なものになると思うがね」
 それはロボスにとっては、喉から手が出るほどに欲しかったもの。
 もっと先に上層部とのコネクションを作っていれば。

「苦労をして、その上にご機嫌取りをしろと。ばかばかしい」
「ばかばかしいとはなんだ」
 だから、次に続いたビュコックの言葉は許せなかった。
 立ち上がったロボスの言葉を制するように。
「少しいいかね」

 緊迫した空気の中でのんびりとした声が漏れた。
 コートニーの穏やかな言葉に、向かい合っていた者たちも言葉を抑えて黙った。
 ロボスが居心地悪げに座る。

「皆の意見は聞かせてもらった。そこで……私の意見を言わせてもらおう」

 + + +

 短いながらも、誰もが喉をからした会議が終了した。
 結局のところ、決定するのは統合作戦本部長であるコートニー元帥の意見によるところだ。たとえ不満が残ることになったであろうと、その意見には無視できない。
 それが嫌ならば、統合作戦本部長になるしかないのである。
 自由惑星同盟首都を眼下に見下ろす窓から、街を望み、コートニーは静かに立っていた。

 後ろ手に手を組んで、窓の方をまっすぐに見ながら。
「不満かね」
 言葉にしたのは、背後に向けて。
 会議の後で本部長室呼び出した、シトレ大将に向けてであった。
 静かな言葉に、シトレは大きく首を振った。
「いえ。そのようなことは」

「少なくともビュコック中将は不満であっただろうな」
「……あの老人はいささか言葉がきついですから」
「羨ましいものだな」
 呟いた言葉に、シトレが小さく目を開いた。
「君もビュコック中将の半分も意見をいいたかったのではないかね」
「それは」

 言葉の続きは出てこなかった。
 そこが兵卒上がりであるビュコックとおそらくは士官学校を卒業した者たちとの違いだろう。
 ビュコックの言葉は正論として、そして突き刺さる暴論だ。
 表彰など無意味だという言葉は、その表れなのであろう。
 だが、上に立つものの責としては、それだけでは終わらない。
 階級があがるたびに、そして立場が上になるたびに自らの意見を言えなくなる。

「だが。どうしても責任を求めることは無理なのだ」
 それがコートニーの意見。
 人事部が当初予定していた意見であり、そしてビュコックにとっては不満の残る結果だ。
「今回参謀に責を求めれば、下手をすればその責は我々にも向く」
「……それが必要というのであれば、私はその覚悟です」

「何も責任が怖いというわけではない。私は辞めればいいだけの話だ。地元に戻って、のんびりと酒でも飲んで引退する」
 少し驚いたように、シトレは目を開いた。
 統合作戦本部長ともなれば、次の就職は一流企業の顧問や政府の重鎮に就任する。
 自由惑星同盟軍最高位であっても、通過地点にすぎないというものも多い。
「だが。君は違う。声が大きくなれば、下手をすれば君の立場はそのままに、ロボスが統合作戦本部長に就く可能性だってある。まだロボスはわかっていなかったようだが、それを耳打ちしないものがいないともいえない」

 シトレの眉根が寄せられた。
 作戦自体は成功としている。
 だが、その後の軍のごたごたをマスコミに取り上げられればどうなるか。
 報道次第では面倒なことに確実になるだろう。
 そして、コートニーはそれを事前に握りつぶした。
「それに――アップルトン中将は優秀な司令官になれる人物だ。彼が次に司令官に上がらないとすれば、代わりになるのはまだ頼りない人物しかいない。君はムーアやパストーレのどちらがいいと思うね?」

「……スレイヤー少将は」
「彼がいくら優秀でもいきなりは無理だな。ただでも、ビュコック中将が司令官職にいるのだ。士官からの抵抗は大きいだろう。艦隊の要職で周囲からも、認められなければ難しい」
 シトレの前に立つのは、老年に達して細くも小さな老人だった。
 だが、断言する様子に、実際にも大きく見えた。
 あの会議の席で、彼だけが同盟軍の全体像を考えていたのだ。

 責任を求めれば、どこに歪みが生じるのか。
 そして、それを考えれば自分の意見など半分も言えない。
「な。辞めたくもなるだろう」
 振り返りながら呟かれた言葉に、シトレは何も言えなかった。

 ただ黙って、ゆっくりと頭を下げるのだった。

 

 

フェアラートの名



 首都中心部から車で三十分ほど走った郊外。
 郊外とはいえど、中心部からわずか三十分ほどである。
 木々に囲まれた一帯はハイネセンでも一等の高級住宅街とされていた。

 わずか一坪ほど買うだけでも、一般人では生涯収入が消えるであろう。
 住民たちも大企業の社長や有名な映画俳優、また一部の大物政治家がほとんどだ。
 そんな一等地の巨大な門が開き、一台の車両が中へと入っていった。
 そこから車で走ること数分、着いたのは一つの屋敷の前だ。

 古いながらも外壁は白く塗られており、大きな扉が目立っている。
 車から降りたのは、銀髪の男性――クエリオ・アロンソだ。
 すぐに扉から二人の男女が姿を現し、男性は黙って車を走らせた。
 残った女性が、アロンソから上着と鞄を預かる。

「お疲れ様でございました、旦那様。奥様がお待ちしております」
「ありがとう」
 呟けば、扉の中には一人の美しい女性だ。
 アロンソと同色の銀色の髪はまるで糸の様に細く、整った顔立ち。

 アロンソと同じ四十代ながらも、老いを感じさせない若さがあった。

 リアナ・フェアラート。

 彼の妻にして――おそらくは自由惑星同盟、そしてフェザーンにしても知らぬ人はいない大企業フェアリー――その代表であった。
「おかえりなさい」
「ああ。ただいま、リアナ」

「お疲れでしょう。お食事はおすみですか?」
「いや、艦内で食べてきた」
「そうですか。では、すぐにお茶を持ってこさせます」

「いや。今日は疲れた、少しブランデーを入れてもらいたい」
 リアナの表情が珍しいとばかりに、小さく崩れた。
 だが、すぐに表情が笑みを作る。
「わかりました。用意させますので、先にお風呂に入ってきてください」

「ありがとう」
 短く呟くと、アロンソは大きな扉をくぐるのだった。

 + + + 

 風呂上りのバスローブを羽織って、入って来たのは大きなリビングだ。
 貴重な芸術品が飾られ、中央にはアンティークの机。
 柔らかなソファの一つに座れば、アロンソの妻が待っていたとブランデーを持って歩いてきた。
 ガラス彫刻が入ったグラスが一つ、スモークされた肉の入った銀皿が置かれた。

 そのままリアナも、アロンソの隣に座った。
「ご無事で何よりでした」
「参謀など気楽なものだよ。安全な場所で意見をいっていればいい」
「それでもご無事なのは嬉しい事です」
 真面目な言葉に、アロンソはグラスを持ったまま妻を見返す。

 不安げに揺れる瞳に、感謝の言葉。
「心配かけて、すまなかったな」
「いえ。ですが……」
 謝罪の言葉に、リアナは首を振った。
「もうおやめになってもよろしいではないですか」

 問うたのは、言葉だ。
 彼女が代表を務めるフェアリーは、同盟でも有数の企業だ。
 彼女が一声だすだけで、多くの人間の人生が変化するだろう。
 その中でアロンソを企業の役員にすることなどたわいもない。

 最も結婚した当初は、不可能であった。
 彼女はまだ後継者の一人であって、当時のトップは建国から自由惑星同盟に尽くしたという血だけを重視する無能ばかりだったからだ。
 アロンソとの結婚もひどい言葉で、否定されたものだ。
 だが。

 彼女はそれを無視して結婚し、そして――。
 リアナの唇がゆっくりと笑みを作った。
「もはや無能な老人は何の力も持たない――いや、持たせません。もうあなたは危険なことをしなくてもよろしいのです」
 時間にすれば、わずか十数年。

 それだけの期間で、彼女は代表の地位に就いた。
 当時彼女を――そして、彼を否定していた老人たちは、今では彼女の忠実な部下か、あるいはプライドを捨てられなかったものは見かけることはない。
 先ほどまでの貞淑な妻といった表情は、企業の長としての顔になっている。

 覗き込まれるように見られて、アロンソは苦笑する。
 通常であれば恐れ、一歩引いてしまうような表情。
 だが、それを知り、そんな彼女が好きで結婚したのだから。

 ゆっくりと彼女を抱きとめて、アロンソはしかし否定を言葉にした。
「心配をかけて申し訳ない。だが、私にはこの生き方しかできない」
「どうしても、だめなのですか?」
 誰にも見せないであろう、懇願するような声。

 アロンソは言葉にはせずに、ただ黙ってうなずいた。
 リアナが離れ、小さく息を吐いた。
「相変わらず頑固ですね。わかっていたことですけれど――ですが、気持ちがかわったら、すぐに教えてください」

 つまらなそうに、しかし、少し嬉しそうにリアナは口にした。
 彼女もまたアロンソと同様に、夫のことを理解していた。
 そんな愚直な男は――今まで彼女の傍にはおらず、だからこそ好きだったから。
 それ以上は深く口にせず。

「ですが、珍しいですわね。お酒を召し上がりますのは」
「そうか」
「ええ。とても……。聞けば、危険だったようですわね」
 口にした言葉は、おそらくは一般人も知らぬことを知っているかのよう。

 当然であろう。
 大企業の代表ともなれば、政治家や高官との付き合いも多い。
 おそらくは彼女の耳にも詳細な状況は入っているのであろうが。

 アロンソはそれを口にすることはないし、リアナも深く聞くことはない。
「まあな。だが、そこに面白い若者を見た」
「あなたがお褒めになるのは珍しいことですわね」
「かもしれないな。久しぶりに、私も熱くさせられた」

 ゆっくりと手を広げ、見たのは自分の手だ。
 すでに皺が入り始めた手のひらであるが、そこに熱をもって握ったのはいつ以来だろう。
 彼女の結婚相手に相応しく、頑張ろうとした若いころまでさかのぼらなければならないかもしれない。

 そんなアロンソの様子に、リアナはほほ笑んだ。
 が、すぐに表情が真面目なものになった。
「あの子の候補が見つかりまして」
「な、いや。そういうわけではない――違うぞ」

 驚いたようにアロンソは否定を言葉にする。

 + + +

 リアナ・フェアラートの家系図を遡れば、過去にはアーレ・ハイネセンとともに脱出して、グエン・キム・ホアとともに、この惑星に最初にたどり着いた人間にさかのぼる。
最も血が家系を豊かにするわけではない。
ハイネセンにたどり着いてからから、フェアラート家が企業として成長したのは、偏に努力によるものだろう。

 一介の農家から始まり、資源開発や輸送にまで手を伸ばす。
 時代を経て、フェザーンから多くの企業が入ってもなお、フェアラートが培った地盤は自由惑星同盟ではいまだに大きな力を保持していた。
 通常であれば、女性の経営者など珍しいものであっただろうが、最初の当主はハイネセンにたどり着く前に亡くなり、残されたのが一人の女性であった。

 女性が代表であることが、むしろ当然という環境であったのだ。
 わずか十数年ほどで頭角を現して、現在の地位まで上り詰めたリアナ。
 その次にと考えているのは、彼女以上の才能を持った――娘だ。
 真っ直ぐな視線が、アロンソを見る。

 厳しい目をする夫の眼光の奥に光るのは、戸惑い。
 それは誰よりも知っているからこそ、わかる。
 明確な拒絶ではなく、戸惑いだと。
 娘が士官学校に行くと行った時には、アロンソもリアナも否定をした。

 娘にあえて危険な道を進ませる理由もなかったからだ。
 だが、アロンソもリアナも娘の性格をよく知っていた。
 良くも悪くも、誰がいても自らが決めた道は曲げられない性格なのだ。
 そう考えれば、考えるのは早めに結婚させるということだ。

 帝国軍に比べれば、女性にも開かれているとはいえ、同盟軍であっても多くは結婚とともに退職することが多い。
 リアナは民間から優秀な人材を娘の結婚相手に紹介した。
 結果。

 お通夜だった。
 民間で優秀だという、企業の御曹司を紹介した。
 その結果、娘との見合いに最後まで残った者はいない。

 お見合いという形のお通夜は、他人事ならば見事といってもいいものであろう。
 どんな会話上手も知識人も、娘を攻略することはできなかった。
 その取り付く島もない様子から、紹介した提携先をいくらか失って、リアナは確信した。
 娘はフェアラートなどどうなっても良いのだと。

 彼女は自らの意思を曲げるつもりはないと――それはそれで、見事といってもいいほどのフェアラートの血筋を継いでいる――だが、リアナにとっては困った話であった。
 別段娘とライバル企業の提携が目的ではない。
 目的は、娘を軍から離すことなのだ。

 それであれば、例えどんな形であっても構わない。
 だからこそ、夫に紹介を依頼していたのだ。
 ……いくら問題ないからといって、これ以上に提携企業は失いたくないから。

 ところが、夫もまた生真面目な性格が災いして、紹介という言葉に、真剣になり過ぎてはいるようだ。
 例えいたとしても、何かしら問題を見つけて言葉にすることはない。
 それが。
「何もない」

 と、戸惑う様子は実に珍しい様子。
 少なくともそれをネタにして、からかえばどれほど面白いか。
 だが、それ以上に、否定しない夫の姿に珍しさを覚える。
「では、今度の休みにはアース社の社長をお呼びしてよろしいでしょうか」
「いいが。ライナがどう思うかわからんぞ」

「でしょう。だからこそ、お尋ねします。次の休みにお連れします方はおりませんか?」
「……」
 ぐぅと言葉にならない息をアロンソは漏らした。
 今まで見なかった様子に、リアナは小さく目を開いて、微苦笑する。
 わかりやすいと。

「聞いてみるが、来るかどうかはわからんぞ」
「あら、フェアラートの名前でもだめですか」
「それは出さない方がいいだろう。彼は……」
 小さく、咳払いをして――真剣な表情でリアナに視線を向けた。
「正直なところ、名誉など一切考えていない。ただ生き急いでいる。私はそう思う」

 そんな表情に、リアナは小さく笑った。
「そうであれば、娘にとっては良い相手かもしれませんね」
「だから、嫌なのだ」

 渋い顔で、アロンソは口にした。
 

 

食事への誘い



 宇宙歴792年、帝国歴483年7月。
 第五次イゼルローン要塞攻略戦が集結して、集合していた各参謀の多くは解散となった。
 元々が各艦隊の艦隊司令部作戦参謀の人員に加え、他部署から応援という形で集まっていた。作戦が終了すれば、応援に来ていた人員はそれぞれが元の部署に戻ることは当然のことだ。

 残務処理は、残された艦隊司令部の人間が行うことになる。
 とはいえ、作戦自体は終了しているため、締め切りのない後片付けのようなものだ。
 参謀長であるアップルトン中将の元で、第八艦隊の艦隊司令部に配属されているアレス・マクワイルドは、同僚であるヤンやアッテンボローとともに進めていく。それまではヤンとアッテンボローは作戦参謀であり、アレスは情報参謀であったから、同じ部署でも初めて仕事をすることになったかもしれない。

 ともすれば、給料分しか働こうとしないヤンの自堕落さを初めて目撃することになったが、作戦が終了した今では微笑ましくも思える。
 一番階級が下であるアッテンボローは大変であったかもしれないが。
 アレスがキーボードを操作して、入力するのは戦闘時の艦隊運動だ。
 実際の記録映像を見ながら、個別の艦隊運動を点として、入力していく。

 それによって、今後の艦隊運動の予測資料になり、また問題点を洗い出す材料になる。
 細かい作業であったが、誰かがやらなければいけない仕事だ。
 本ではボタンを押せば、艦隊の運動予測が簡単に映し出されていたと思ったが、まさか細かい裏方の苦労までは気づかなかった。
 記録映像を読み込めば、全てが自動で行えるほどに発展はしていないということだ。

 担当であった部分の入力を終え、アレスは小さく首を回した。
 七月に入ってから、ずっとこのような作業ばかり行っている。
 決して事務仕事が嫌いなわけではないが、目と腰の負担は正直なものだった。
 とはいえ。

「マクワイルド大尉」
「はい。何です?」
 振り返れば、アッテンボローがアレスの背後に立っていた。
「第八艦隊Bの記録映像なら今入力を終了したので、すぐに読み込めますよ」

「早いな。なら、Cの記録映像も……」
「ヤン先輩みたいなことを言わないでください」
「失礼だな。私は自分の仕事を人に押し付けたりはしないよ」
「それは担当を割り振る前に聞きたい言葉でしたね」

 各艦隊の入力のうち、第八艦隊の第一分艦隊はアレスに割り振られた。
 最初から最後まで、最も激しく動き回っていた艦隊であり、その分入力も多い。
「適材適所だよ。身近にいたから、君が一番理解しているだろう」
「ものはいいようですね」

 跳ね返るような言葉の返しに、アレスは苦笑を浮かべた。
「で。何か用ですか、アッテンボロー中尉」
「ああ。マクワイルド大尉にお客さんだよ」
「……客?」

 アッテンボローが背後を指さす様子に、アレスは疑問を浮かべ、首をかしげる。
 一瞬ワイドボーンかと思ったが、入り口付近で直立不動の人物にアレスは眉をあげた。
 クエリオ・アロンソ中佐。
 現在では元の情報部に戻っている、数か月前までの上官の姿がそこにあったからだ。

 軽い疑問を浮かべながら、アレスはアロンソの元に駆け寄った。
「すみません、お待たせいたしました」
「仕事中に失礼した。お邪魔だったかな」
「いえ。ちょうど休憩をするところでしたので、ご一緒にいかがですか」
「すまないな」

 丁寧に謝罪する様子に、気にしないでくださいと首を振った。
 ただでも朝から画面とにらめっこをしているのだ。
 少しくらい休んでも罰はあたらない。
「少し出てきます」

 元の席に戻り、ヤンとアッテンボローに声をかけた。
 二人も同意見だったようで、どうぞゆっくりと声を出した。

 許可を得て戻ろうとして、アレスは忘れていたとばかりに、脇に置いていたベレー帽を頭にひっかけた。

 + + +

 艦隊司令部に備え付けられている喫茶店。
 その片隅で、注文した紅茶が来るのを待つ間にひとしきり挨拶を交わす。
 アロンソが元の情報部に戻ったのはわずか数週間前。

 それまでは毎日のようにあっていたわけではあるため、久しぶりという印象はない。
 しかしながら、数週間前とは大きく変わったこともある。
「大佐へのご昇進おめでとうございます」
 つい先日に戦闘評価会議が終了し、参謀の人間は全員が七月末日付けの昇進が決定していた。その件については、アップルトンから直接聞いていた。

 昇進の言葉にも、アロンソはさほど嬉しそうな表情は見せない。
 いや、むしろ相変わらず表情が変わらないのだ。
 そんな様子に、アレスは一瞬、士官学校の後輩を思い出した。
 アロンソが女装すれば似るのだろうかと思ったが、生真面目なアロンソの女装姿を思い出しかけて、アレスは表情を硬くする。

 危うく目の前で噴き出すところであった。
「ありがとう。だが、君も少佐に昇進――それに統合作戦本部長から直々に表彰もあるそうじゃないか。表彰式は来月だったか」
「ええ。そう伺っています」

 頷いたアレスの前に、紅茶が置かれた。
 注文を持ってきた店員が伝票を置いて、立ち去る様子を見送った。
 一口。
「私は二階級でもおかしくはないと思っていたが」

「それは過分ですね。惑星一つを守れば、それも可能だったかもしれませんが」
「エルファシルか。同じくらい難しいことをやってのけたと思ったがね」
「かもしれませんが。今回の場合は助けてくださった方が多かったですからね。私一人では無理だったでしょう」

 総司令部で奮闘したヤンやワイドボーン。
 何よりも自らの策を信じて実行したスレイヤー。
 わずかでも欠ければ、今頃はトールハンマーの餌食だったであろう。
 我がことながら無茶をしたものだと思い、しかし、歴史を変えて助けられた事は誇らしくも思う。

 そのことを理解しているのは、アレスしかいないのであろうが。
 互いが紅茶をすする。
 良くもなく悪くもない普通の味で、口を湿らせれば、アロンソが紅茶を置いた。
「だが、表彰も考えれば悪くはない。君にとっては面倒かもしれないがね」

 静かな言葉に、アレスは否定の言葉を言わず、苦笑で返した。
「上層部と知り合えるという機会もあるが――君ならば上層部の見ることができるだろう」
「見る、ですか」
「ああ。誰がどんな意見を持っているのか――どんな意見が大半を占めているのか。それを見るということは決して悪い事ではない――特に君の生き方ならば」

 どのような生き方かは今更にアロンソは語ろうとも思わない。
 自らが心を動かされた。
 だが、それによって確実に敵も増えたはずだ。
 特に、今回ではビロライネンはアロンソとアレスを恨んでいるだろう。

 それが声として聞こえないのは、責任を取らされることなく昇進が決定したからだろう。
 わずかな沈黙は――しかし、目の前の優秀な青年には理解できたようだ。
「戦いが終わっても、戦いですね」
「仕方あるまい」

 大変だろうがと付け加えれば、アロンソは紅茶を口に含んだ。
「と。そんなことを言いに来たわけではなかったな」
「ええ。何かありましたか?」
 アレスが疑問を浮かべている。

 情報参謀時代のことであったならば、電話で済む話である。
 わざわざ艦隊司令部から離れた情報部から訪ねてくることはないだろう。
 首をかしげるアレスに、アロンソはしばらく紅茶をすすった。

 何かあったかと疑念を深めるアレスの視線に、紅茶を八割ほど飲み干してから、アロンソは口を開いた。
「マクワイルド大尉。来週は暇かね」
「え」

 間が抜けたような短音が漏れた。
 だが、しばらく考えて、頷いた。
「ええ。土日は休みですが」
「そうか、それは良かった……実は、だ」
 そこから残った紅茶をアロンソは一息に飲み込んだ。

 珍しくも緊張する様子に、アレスも逆に緊張する。
「君のことを妻に話したところ――来週に食事に招待してはどうかと」
「……食事ですか」
「ああ。予定があるならば、無理にとは言わないが」

 思わぬ言葉に、アレスは小さく笑った。
 緊張する理由はわからないが、実は恐妻家なのかもしれない。
 いつもと違うアロンソの姿に、笑みを浮かべたまま、頷いた。

「予定は入っていませんので、ぜひお邪魔させていただきます」
「そ、そうか。それは楽しみだな」

 さしても楽しそうではない表情で、アロンソが真面目に頷いて見せた。

 + + +

「ライナ、入りますよ」
「はい。どうかいたしましたか?」
 扉に区切られた私室。
 淡いブルーのシーツと几帳面に並べられた本棚には一切の飾りはない。
 窓から入った光が、レースカーテン越しに室内を照らしていた。

 立ち上がって母親を迎えるのは、これもシンプルなモノトーンのワンピース。
 銀色の髪は背後で束ねられており、士官学校では見ることもない格好であろう。
 室内のためか化粧など一切していないが、整った顔立ちが今は疑問を浮かべていた。
 手元の分厚い本を畳み、細められる目が見るのは、リアナの手にあるドレスだ。

 何度かパーティーに出席した際に見かけたものに似ているが、濃紺のそれは初めて見るもの。もう一方の手に持たれたネックレスに目をやってから、ライナは眉間にしわをよせた。
「お母さま。いい加減諦めてほしいと思慮いたします」
「話も聞かずに無粋ですよ」

「聞かずともわかります。私にはまだ早いと考えております」
「何を言っているの、ライナ。私がクエリオと出会ったのは」
「十六の夏なのは知っています。その話は何十回と聞きましたから」

「そう、ならわかるでしょう。決して早くはないわ。愛に年齢は関係ないもの」
 力強く言った言葉に、ライナは小さく息を吐いた。
「端的に、お母さまの恋愛観は私に関係ないと申します。申し訳ございませんが、体調が悪くなりましたので、お断りしておいてください」

 明確な拒絶の言葉に、リアナは諦めない。
「だめよ。今日来られる方は、クエリオの部下の方なのよ。つまり、あなたの未来の上司でもあるかもしれないのですからね」
 リアナの言葉に、ライナは嫌そうな顔を強めた。
 仮に今までのように母親の紹介であったならば、体調不良――あるいは、窓から逃亡といったこともできた。

 だが、父親の部下であるならば、そうはいかない。
 リアナの言ったように上官になる人間である可能性もあったが、何よりもリアナに強制させられた父親の顔まで潰すことになるからだ。
「相変わらず、いろいろ考えるのですね」
「ふふ。大人の知恵ね」
「端的に性格の問題と思慮いたしますが」

 眉をひそめた姿に、音が鳴った。
 来客を告げるベルの音だ。
 階下ではメイドの声が微かに聞こえる。
「あら。早いわね――さ、早く着替えて」
「結構です。応対はしますが、それ以上をする必要性を感じませんので」

 父親の顔を潰すのは避けたい。
 だが、それで自分の意思を変えられるのはまっぴらであった。
 第一と。
 胸に抱いた分厚い本を微かに開く。
 しおり代わりのそれに、視線を向けて、再び畳んだ。

 静かに読書机の上に置けば、リアナの脇を通って階下へと降りていく。
 父親に似て、相変わらず感情に乏しい可愛い子だった。
 ワンピースの裾を揺らして歩いていく姿を見ながら、それでもリアナは思い出す。
 士官学校に入校するといった娘の言葉を。

 当初は――士官学校に入っても、いずれは娘の才能を持て余して――あるいは、彼女自身がその愚さに気づいて、すぐに卒業前に辞めることになると楽観していた。
 だが、リアナの予想に反して、どうやらライナは卒業後も務める気でいるようだ。
 士官学校でどんな経験をしたかは知らない。
 でも、リアナも知っていることがある。

 おそらくは――今後戦争は厳しいものになる。
 それを軍人や政治家よりも、リアナはよく理解していた。
 多くの人が死に、リアナの会社でも人材不足という形でそれが発現している。
 このままではじり貧―-商売でいうなれば、自転車操業と呼ぶのだろう。

 いずれは破綻する。
 そんな危険な場所に娘を置いておくわけにはいかない。
 そのためなら、娘の意思を無視して見合いをさせるし、それに。
 ――気づいたら、嫌われるかしらね。
 わずかな本音がリアナの顔によぎった。

 リアナがアロンソに軍人の相手を紹介させるように言ったのは、何もリアナの商売に影響があるだけが原因の話ではなかった。
 先ほどリアナがライナに話をした理由が半分。
 即ち父親の顔を立てるとともに、未来の上官に対しては、いくらライナでも厳しい態度はとれないであろうということ。

 そしてもう一つ。
 ライナほどの顔立ちであれば、誰もが喜んで彼女を誘うであろう。
 何よりも父親は大佐になることが決まっている優良株であり、母親は大企業のトップだ。
 いくらライナが嫌がったとしても、誘いは止まらぬであろうし、そうなれば、ライナは軍に嫌気がさすのではないか。

 ある意味、ライナもアロンソも両者を利用するような計画ではあったが、例え何と言われようとも辞めようとは思わなかった。
 大切な娘を守るためであるならば、悪い評価など今更のことだから。
 でも。

「例え嫌ったとしても――一緒にはいてほしいな」
 小さく漏れた本音は、か細く小さく。
 嫌われたっていい。
 でも、一人になるのは怖い。

 そう呟きかけた言葉に、小さく頭を振って、前を見た。
 考えている暇はない。
 既に客人をアロンソが連れてきているのだ。
 ならば、妻としてもてなさなければならないだろう。

 それに――万が一の可能性だが、娘が気に入るということもあるのだから。

 そう希望を思いかけて、ないなとリアナは即座に思った。

 

 

思わぬ出会い



 自動運転車に乗って、大きな門を超えた辺りからアレスは戸惑っていた。
 少なくとも見渡す限りの木々からは、家に簡単に到着しそうにもない。
 ハイネセンの地価くらいは、アレスでもわかる。
 その中でも確実に高額な土地を進む様子に、アレスは助手席から横を見た。

 表情を変えることなく、まっすぐに前を見る姿からは間違ったという様子はない。
 もっとも、彼が冗談を言う姿を今まで一度も見たこともなかったが。
 だが、1パーセントくらいならばあるのではないか。

「ええと。この道であっていますよね」
「間違いない」
 あっさりとした言葉が返って来た。
 まずいぞと思う。

 家に招待というからには、軍用の宿舎を考えていた。
 そのため、アレスも何も考えずに誘いに応じたのだ。
 上着はジャケットこそ着ているものの、決してフォーマルな姿とは言えないだろう。
 そもそも、そんな高価な上着はもっていないのだが。

「ふっ」
 と、小さな息が隣から漏れた。
 視線を向ければ、珍しくもアロンソが笑っている。
 視線に気づいて、アロンソが表情を整えながら、謝罪を言葉にした。

「失礼した。敵艦隊に囲まれながらも、動揺しなかった君が緊張するとは思わなくてな」
「このような立派な場所より、戦場にいる方が多いですから」
「なるほど。私もここを最初見たときは緊張したものだ」
「アロンソ中佐もですか?」

「当たり前だろう、私の給料で払えるわけがない。元々は妻の実家なのだよ――フェアリーという会社を聞いたことはないかね」
「それは良く知っています。有名な企業ですからね」
「妻はそこの代表を務めていてね」

「それは何と言いますか……」
 言葉を濁した様子に、アロンソが首を傾げた。
「すみません。私の語彙では褒め言葉が全て嫌味に聞こえてしまいそうですね」
 そんな冗談に、アロンソは声を出して笑った。
「毒を吐きすぎて、褒め言葉を忘れたの間違いじゃないかな」

「誰がそんなひどいことを」
 おそらくはアッテンボロー辺りであろうが。
 苦い顔の前には、巨大な屋敷が視界に入っていった。
 前庭というには広く、そして整備された道を自動運転車が速度を落とし始める。
「広い家だが、いまは妻と二人暮らしている」

「お子さんは士官学校でしたか」
 情報参謀時代にちらりと話した話題を思い出し、アレスは口に出した。
 最も自分のことを多く語ろうとしないアロンソからは、士官学校に子供が入っていることしか聞いていない。

「ああ。だが。ちょうど休みで娘も帰ってきている――同席することになるが、良いかね」
「楽しみですね」
 車寄せに吸い込まれるように入っていきながら、アレスの言葉にアロンソは何とも言えない表情を浮かべた。
 答えを間違えただろうか。

 疑問を感じれば車が止まり、執事らしき男性が見事な手並みで、助手席と運転席の扉を開けた。
 屋敷の巨大な扉の前では、これも雇われているメイドらしき女性が頭を下げている。
 前世を含めても、人から頭を下げられて家に入ることなどなかっただろう。
 むしろ前世では嫌がられながらも、頭を下げて何とか入り込んだものだ。

 そんなことに懐かしさを感じながら、先頭を歩くアロンソに続けば、扉の前でアロンソが立ち止まった。
 何だろうと疑問を浮かべれば、アロンソが背後を振り返ってこたえた。
「少し待ってくれ。いま娘が出迎えに来る」
「わざわざ申し訳ございません」

「気にするな。士官学校でも軍でも後輩なのだから。無駄に緊張しないでくれ。ただ」
「――?」
「少し気難しいところがあるからな、悪くは思わないでくれ」
 アロンソの娘らしいと小さく笑えば、扉が開くのと同時に、聞き覚えのある――だが、非常に硬質な声が聞こえた。

「いらっしゃいませ――歓迎いたしますわ」
 静かだが、まるで冷気すら感じられる冷たい言葉。
 だが、間違いなく聞き覚えのある声に。
「ライナ候補生?」
 アロンソの脇から顔を見せて、屋敷の中を見れば――いつもの完璧な様子とは違い――どこか気を抜いたような恰好をしているが――見知った後輩の姿があった。

 名前を呼ばれて、冷静な表情に疑問が浮かんだのは一瞬。
 アレスと顔を合わせれば、表情を崩して、目と口が大きく開いた。
「え……」
 と、もれた声は、開けた口とは反対に小さく。
 怪訝に顔をひそめるアロンソの隣で、一瞬早く硬直から立ち直ったアレスが小さく笑いかけた。

「珍しいところであうな。今日はよろし――」
 見知った顔にどこかほっとしたアレスの言葉に、ライナの硬直も解かれた。
 刹那。
 巨大な扉が風切り音を残して、閉まり――アロンソの鼻をしたたかに打ち据えた。

 + + +

「だ、旦那様!」
 慌てたように中から扉が開けば、メイドらしき女性がアロンソに駆け寄った。
 だが、扉を閉めた当事者は既に足音を残して、階段を駆け上がっている。
「ライナ――!」

 戸惑ったような声は階段の途中で、振り返る女性によるものだ。
 しかし、彼女の声は届かず、女性の手から濃紺の布をひったくるように手にしたまま、階段の上に消えると、ばたんと扉が閉じられた音がした。
 自らの手元と消えた背に視線を往復させる女性。
 そこから視線を外して、隣を見れば――幸いなことに、顔を抑えるアロンソの鼻は無事であったようだ。

 痛みというよりも、むしろ戸惑いさえうかべて、アロンソは顔をあげる。
 鼻が少し赤くなっている。
「み、見苦しいところをお見せした」
「いえ」

 頬をかいて、アレスは言葉を否定する。
 ライナの行動を考えて。
「アロンソ中佐のお嬢さま――ライナ候補生は私の士官学校時代の後輩だったのです。油断していたところで、知り合いにあったので驚いたのでしょう」

「見苦しいことをお見せしました。ライナが慌てるなんて、珍しいことで。でも、本当に申し訳ないわ――いつもはあんなはしたないことはしませんのよ」
 軽やかな鈴のような声は、階段から降りた女性によるものだ。
 まだ若くも見える奇麗な顔立ちは、よく見れば目鼻立ちはライナに似ている。
 しかしながら、あまり感情を見せないところはアロンソに似たようだ。

 整った表情が楽しげにほほ笑む様子は、非常に魅力的であり、人間味を帯びていた。
「気の抜けたところを見られたくないというのは、彼女らしいところですね」
 そもそも彼女が化粧していないところは、初めて目にした。
 士官学校ではきつい化粧は禁止されているものの、社会人のたしなみとして自然なメイクは許可されている。

 一切隙のない彼女が、油断した様子は初めてのことで。
「少し驚かせ過ぎたようですね」
 そんなアレスの様子に、目の前に現れたライナの母親も笑みを深くした。
 目の前まで近づいて、丁寧に――スカートの裾を手にして、美しく礼をする。
 どうやら彼女の礼儀正しさは母親によるところのよう。

「ライナのことをよくご存じなのね。申し遅れました――ライナの母親のリアナ・フェアラートと申します。この度の主人ともども、娘もお世話になったようで、感謝いたしますわ」
「お世話になったのは、むしろこちらの方です。アレス・マクワイルドと申します」
 よろしくと差し出された細い手を取って、挨拶を返す。

 アレスの手を握りながら、リアナは少し思案を浮かべ、だが瞳はアレスを見返した。
「アレス。アレス・マクワイルド――名前はお聞きしていますわ。カプチェランカの若き英雄とお会いできて、嬉しく思います」
「あの地の英雄は山の様にいますよ。私はただ生き残っただけにすぎません」

「生き残ることこそが、英雄の前提条件だと思いますわ。ようこそ――歓迎いたします、マクワイルド様」

 + + +

 アロンソが連れてきたマクワイルドという人物は、リアナ・フェアラートにとっては驚きと喜びがあった。
 少し怖い目つきを除けば、端正と言っても良い顔立ち。
 若干くすんだ金髪は、目立つことなく――だが、はっきりと顔立ちを強調していた。
 鼻先にわずかに残るやけどに似た傷が印象的な、若い戦士と言った顔立ちだ。

 だが――不思議なことに、その身や動作はどこか軍人よりも自らに近い雰囲気を持っている。
 即ち、民間企業としての、それも優秀な企業人だ。
 そんなアンバランスな第一印象は、リアナに興味を抱かせるに十分であったが。
 それ以上に――その名前はいつか出会いたいと思っていた。

 話題にあげたカプチェランカの英雄――そんなことは、軍にいれば山の様に作られる一瞬であったかもしれないが――彼の装備企画課でのわずか半年の功績は、リアナだけではなく、多くの企業では一時期に話題に上った。
 即ち、アース社を手玉に取ったと。

 年々強くなるフェザーンの攻勢に、収益を落としていた自由惑星同盟の企業の多くは、アース社の踏んだドジばかりに目を向けて、彼の名前自体は大きくはなっていない。
 だが、リアナと――そして、一部の企業では彼の名は、ある意味――軍での英雄以上の価値を持っていた。
 優秀だと。

 実際に既に一部では引き抜きを行う動きもあったらしい。
 もっとも、彼にとってはわずかな心すら動かないものであったのかもしれないが。
 そんな人物と話せる機会は――娘のことを抜きにしても――夫に感謝すべきだろう。
 リアナから服とネックレスを奪い取って、部屋に戻った娘。
 士官学校でよほどのことがあったのか。

 気にはなったが、それ以上に目の前の人物が気になる。
 ある意味、彼女も娘と同様に自らの意思が優先される企業家であるのだろう。
「お忙しかったのではないですか」
「いえ。むしろアロンソ中佐の方がお忙しいのでは」
「この人は仕事が大好きな方ですから」

「……ひどいな。それは君も同じだろう」
 並べられた食事前のお茶。
 湯気の立つ紅茶を口にしながら、アロンソが渋い顔を見せた。
 そんな様子に、リアナは同意をする。

「同じ趣味を持つというのは、仲の良い秘訣ですか」
「かもしれませんね」
 アレスの言葉に、リアナは小さく笑いながら、すっと視線をあげた。
「ところで。お聞きしたのですが、アース社の件は見事なものだったそうで」
 片眉をあげたのはアロンソだった。

 アロンソにとっては、装備企画課での詳細など聞いてはいない。
 むしろ、軍でも知るものは少なく――どちらかといえば、民間の方が話題に上るのかもしれない。
 アレスは表情を変えずに、紅茶を口にした。
「よくご存じですね」

「それは――軍はお得意様ですから。情報は取るようにしておりますの、特に優秀な方の情報は」
「セレブレッゼ少将とかですかね」
 笑いとともに口にした言葉に、リアナは眉をさげた。
「あの方にもずいぶんと泣かされたものですわ」
「でしょうね」

「ですが、今回のアース社はマクワイルド様に泣かされたようですね」
「尻尾を切って終わりでしょう。それに」
 アレスは小さく言葉にした。
 リアナが言葉を待つ。

「まだまだ手加減をした方ですよ。いま、アース社がいなくなると同盟としても困りますからね」
「それは」
 どういうことかと問いかけたリアナの耳に、ノックの音が聞こえた。
 優し気な――そして、見本のようなノックの後に。
「失礼いたします」

 言葉とともに、扉が開けば――そこには濃紺のドレスに身を包んだ娘の姿があった。
 化粧をして、髪もアップにしている。
 今まで見たことのない娘が、白磁のような顔に朱をさして静かに入る。
 そんな光景。
 三人の視線がライナに集中しても、ライナはリアナの対面に座る客人に目を向けたまま。

 アレスの言葉を待っていた。
「先ほどは、失礼しました。アレス先輩」
「ああ――気にしないで。突然訪ねてきたこちらも悪かった」
 それでも申し訳なさそうな顔を残し、見上げるように、アレスを見る。

 いつもの凛とした表情はなく、まるで泣きそうにも見えた。
「その、なんだ」
「……」
 アレスの言葉を待つ。

 見つめ合ったアレスが、ゆっくりと口を開こうとして――。
「ライナ。士官学校はそんなに厳しいのか」

 アレスよりも先に、思わず心配を口にしたアロンソの脛を、リアナは強く蹴った。
 

 

賑やかな夕食

 食事と呼ばれた席は、広い屋敷に反して随分と小さいものであった。
 最も小さいとは聞いたとはいえ、六人ほどが並ぶダイニングテーブルを中央に置き、その左右に数人のメイドが並んでも十分のスペースはあるのである。聞けば、パーティー用の広い部屋は別にあり、ここでは日常的に夕食を食べるときに使っているのだとライナが答えた。

 そちらが良ければ、変更するとのことであったが、アレスは丁重に断った。
 食事が喉を通りそうにもないからだ。
 ダイニングテーブルの中央には燭台が置かれ、食卓を蝋燭の淡い光が照らしている。
 アレスとライナが向かい合い、その左右にアロンソとリアナが座る。

 アレスとアロンソの前に、グラスに注がれた食前酒が置かれた。
 未成年であるライナと、リアナは葡萄酒だ。
 一流企業の代表というのは忙しいようで、この後で商談の話があるとのことであった。
「では」

 と、言葉を促すようにリアナがアロンソを見た。
 その表情に浮かぶのに若干の棘があるのは、見間違いではないだろう。
 珍しい姿に思わず口にしてしまった失態が、妻と娘から厳しい視線という罰を受けている。
 咳払いをして空気を誤魔化し――それが成功したかどうかはさておき、グラスをあげた。

「乾杯」
 静かな声とともに、グラスがあげられる。
 手元のグラスを一口すれば、最初にライナが再度謝罪を言葉にした。
「申し訳ございません。アレス先輩が来ることを聞いていなかったので。見苦しいところを」

 理不尽ながらにもライナの責める視線を受けて、リアナは悪戯な笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、マクワイルド様。早めに伝えると、この子は逃げてしまうから」
「お母さま」
「怒らないで、ライナ。ちょっとした冗談じゃない、ね。堅物なのは血なのかしら。ごめんなさいね――改めまして」

 笑みをおさめ、リアナがアレスに向き直った。
「マクワイルド様はお二人のことをご存知のようですが。私はリアナ・フェアラートと申します」
「ご丁寧に失礼いたします。私はアレス・マクワイルド。アロンソ中佐と……ライナ候補生。フェアラートさんには非常にお世話になっております」

 アレスが頭を下げるのと同時、ライナもともに頭を下げた。
「さて。堅苦しいのも何ですから、食事にしましょう」
「ありがとうございます、いただきます」
 食卓には、メイドが運んできた湯気の立つ皿が並んでいる。
 オードブルから始まる、見事な料理だ。
 新鮮な野菜に包まれた料理は、些か崩れやすいもの。

 それでも何とかナイフとフォークを使って、アレスは口に運んだ。
 うまい。
 歯ごたえとほんのりと感じる塩気が、味覚を刺激する。
 咀嚼音が聞こえぬように、静かに噛み締めれば、アレスは視線に気づいた。
 見れば、誰もがナイフとフォークを止めて、アレスを見ている。

 何か失敗しただろうか。
 そもそもコース料理など食べるのは、前世以来のことだ。
 父親と住んでいた幼少の時にはコース料理など早かったし、士官学校に入ってからはコース料理など食べる機会はない。

「なにか」
「いえ。見事な作法と思いまして。どこかでお習いになったのかしら」
 どうやら、あっていたようだ。
 かといって、褒められるほどにナイフの扱いにたけているわけではないが。

「お世辞じゃないさ。君くらいの若さで、それだけ使えれば十分だ」
 リアナの言葉に同意するアロンソに、アレスはしばらく考えて、納得する。
 確かに士官学校でコース料理の作法など習うはずもない。
 アレスもある程度前世でのマナーを知っていたからこそ、ナイフは外側から使う、フィンガーボールは手を洗うものといった常識を自然とできていた。

 習っていなければ、あるいは戸惑っていたかもしれない。
「この人なんて、フィンガーボールをスープと勘違いしていましたのよ」
「飲んではいないぞ」
 恨みがまし気な目で、アロンソはリアナを見て、小さく笑いが起きた。
「お父様の失敗は、初めて聞きました」
「あら。あなただって……」

「お、お母さま」
「ライナ候補生の失敗談か。それはぜひ聞きたいな」
「端的にだめとお願いいたします」
 アレスの言葉に、ライナは首をぶんぶんと振った。
 そんな様子に、リアナは少し残念そう。

 運ばれてくる豪華な食事に舌鼓を打ちながら、和やかな空気が流れた。
 話題は多岐にわたり、特にライナはアレスの戦場での話を聞きたがった。
 最も食事中に話す話題ではなかったため、簡単なさわりだけであり、ライナは少し残念そうだ。
 ライナの士官学校での話になり、そしてリアナの働く企業の話になった。
 アレスも前世の記憶を思い出しながら、会話を続けるが、アレスの前世時代の話はリアナにとっては非常に興味深いものであるらしい。

 多くの質問が会話となって、アレスは答えていく。
やがて、最後のデザートが食卓に並んだ。
「マクワイルド様は博識でありますのね」
「本での聞きかじりにすぎません。実際に働いてはいませんからね」

「それでも十分ですわ。どうです、転職しませんこと。マクワイルド様でしたら、そんな選択肢もあるのではないですか」
「リアナ」
 冗談めかして、しかし真面目なリアナの言葉に、アロンソが眉をしかめた。
 ライナも非難するように、リアナを見ている。

 半分以上は、本気の言葉。
 それに、アレスは苦笑――すぐに表情を整えると、リアナを見る。
「戦争が終われば、考えます」
「それは長い……ですわね」
「どうでしょう。存外にすぐかもしれません」

 真っ直ぐな言葉に、リアナが驚いたように目が開く。
「それは……」
 問おうとして、ベルの音が鳴った。
 ノックの音とともに、扉が開き――執事らしき男性が来客を告げる。
 最初に話していた商談の相手だろう。
「リアナ様――お客様がいらしております」

「ええ。わかりました、すぐに向かいますので。談話室にお通しして」
 問いかけた言葉を飲み込んで、リアナはナプキンで口を拭った。
「マクワイルド様、申し訳ございません。私たちは少し席を外させていただきます――ごゆっくりなさってください」
「え」

 リアナの言葉に、アロンソは疑問。
 商談はリアナだけであるはず。
 そんなアロンソの袖を引いて立たせると、リアナは美しい一礼をする。
「あとはお若い方だけで――という奴ですわ」
「お母さまはドラマの見過ぎです」

 ふふっとリアナは微笑をすれば、二人にすることに若干の不満を浮かべているアロンソをひきずるように、席を外した。
 アレスとライナが目を丸くしている、その前で硬く扉が閉まった。

 + + +

「も、もう――申し訳ありません。アレス先輩、母が余計なことを」
「いや、謝ることじゃないよ」
 企業のトップともなれば、時にはユーモアも必要になるのだろう。
 和やかな雰囲気に隠れていたが、時折アレスに向けられる質問は鋭いものだ。
 ライナに似て、非常に優秀――それでいて、相手を油断させる演技という経験もある。

 ライナにとっては不本意であろうが、リアナの方が一枚も二枚も上手のようだ。
 ため息を吐くライナをなだめれば、諦めたように肩を落とした。
「失礼いたします、お茶をお持ちいたしました」
 ノックとともに、カートを押したメイドが足を運んでくる。

 そんな姿にライナは気づいたように顔をあげた。
「アレス先輩。少しだけお待ちいただけますか」
「ああ」
 アレスの頷いた姿を見ることなく、ライナはメイドの脇を通り、開いた扉から外に出る。
 そんな様子に、メイドの女性は小さく微笑みを浮かべた。

 だが、そんな笑みはアレスの視線に気づき、慌てたようにひっこめる。
「これは失礼しました」
「いえ。嬉しそうですね」
「はい」
 素直にメイドは頷いた。

「ライナお嬢様が、あれほどの感情を見せるのは久しいことで」
「そうですね。でも」
 同意するように呟いて、しかし、アレスは否定の言葉を浮かべる。
 口の悪い人間は、彼女を無感情だと言いがちだ。
 だが、アレスの知る限りライナは決して感情がないわけではなかった。

 そもそも、最初の出会いこそ、ライナがアレスに負けたくないという強い感情の発露であったからだ。
 それが表情にあまり出ないだけなのだろう。
 そんなことをメイドに話せば、紅茶を注ぎながら、嬉しそうに顔をほころばせた。
「メイドの私がこのようなことをいうのはおこがましいことなのですが」
 緩やかに湯気の立つコップが、アレスの前に置かれる。

「お嬢様が士官学校に入られたことは非常に良い事だったと思います。どうかマクワイルド様、末永くお嬢様をよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
 丁寧に頭を下げれば、同意するようにアレスは頷いた。
「しかし。ライナお嬢様が料理を習いたいといったりゆ……」

「マーガレット」
 言葉を続けようとしたメイドを、背後から咳払いが邪魔をする。
「これはお嬢様――秘密でございましたね」
「もう」
 戻って来たライナに、メイドが口元を抑えると、静かに一礼をして立ち去る。

 扉が再度閉まれば、ライナが頬を赤らめて、アレスに向き直った。
「本当にここは余計な言葉が多い方たちばかりで」
「いやいや。楽しい家じゃないか」
「そう言っていただけると、幸いかと思慮いたします」
 少しだけ肩をすくめれば、ライナは再び席へと戻った。

 とんっと机の上に、皿が置かれる。
 おそらくはそれを取りに言っていたのであろう。
 何かと皿の上を見て、アレスは目を開いた。
「これは――羊羹」
 それは――何十年ぶりの和菓子だ。
 食べることはもちろんであるが、現代では見ることすらない。

 驚くアレスに、ライナはどこか嬉しそうで、照れたように笑う。
「あ。アレス様が……その日本食というものを好きとお聞きしまして。私も食べてみようかと購入したものです」
「いや。好きだけど……どうしてそれを」
「それは。アレス先輩が……食事に行ったと…。い、いいじゃありませんか。それよりもどうぞ召し上がってください」

 アレスの問いに、答えるライナの声は非常に小さい。
 確かに日本食を食べには言ったが、それをなぜ知っているのか。
 疑問は残されたが、それでもアレスは久しぶりの和菓子を優先した。
 さすがに爪楊枝はなかったため、ケーキ用のフォークで一口する。
 懐かしい甘さが口に残り、続いて紅茶を飲めば、わずかな渋みが引き立った。

「ありがとう」
「いえ。買っておいて、本当に良かったと思います」

 そんなアレスをライナは、幸せそうに見ていた。

 + + +

 ライナにとっては、短くも長い夜は終わりを告げた。
 客人を招いた夕食――それは、今までのお見合いと同様に豪華な食事であったが、今までの何よりもおいしく感じられた。
 アレスと食事をとった事など、ほとんどない。
 ましてや一緒の食事を、ともにするのは初めてのことだ。

 アレスの話は非常に博学で、特に地球時代の企業の話など初めて聞くことが多かった。
 それに母であるリアナが非常に関心を示して、ライナをおいて語り合ったのは、少し嫌だったが。経済に関しては母親に一日の長があるから、仕方がないと言えるだろう。
 彼の話は非常に多様で、父や母――そして、ライナの心を奪う、
 そんな時間もすぐに過ぎた。

 時間だ。
 明日は日曜日――休みだから泊ってほしいと思うのは、ライナの欲望かもしれない。
 そろそろと時計を見るアレスに、少し残念な表情を見せながら。
「はい。すぐに車を用意します」
 メイドへと声をかけて、残されたわずかな時間を待つ。

 手元にある紅茶は少なく、さらに残された時間はもっと少なかった。
「アレス先輩は……」
 問いかけようとして、質問がない事に気づく。
 かといって、既に言葉は放たれており、アレスが何かとライナを見ていた。
 言葉を探し。

「アレス先輩は、戦争はすぐに終わるとお思いですか」
 浮かんだのは、最後にアレスが言いかけた言葉だった。
 存外に長くはないとの言葉。
「ああ。というより、戦争を続けるためだけに軍人がいるというのはおかしな話だろう」
 軍というより、国として。

 当然の意見ではあったが、不満を見せたライナに、アレスは表情を戻す。
 きつく、睨んでいるような表情だ。
「長すぎて当然と思っているかもしれないが、長すぎた戦いはいろんなところに歪みを生んでいる。それが決壊すれば、決着するのは一瞬だろうね」
 さも当然とばかりに言われた言葉は、しかし、感情を含んでいる。

 どこか嫌さを含む感情に、聞こうとしていたどちらが勝つかという質問は辞めた。
 代わりに。
「私はアレス先輩の元で戦いたいと思います」
 そんな言葉に、アレスの表情が緩んだ。

「奇特なことだ。おすすめはしないが」
「それはアレス先輩も同じです」
「否定できないな」

 アレスが小さく笑った。

 + + +

「本日はありがとうございました」
 立ち上がった姿に、ライナは口に出して、大きく頭を下げた。
 銀色の髪が揺れる。
 メイドに手伝ってもらって、初めてアップにしたが、どう思われただろうか。

 そんなことを考えて、上目遣いにアレスを見れば、アレスの視線はしっかりとライナを見ていた。
 たったそれだけのことで嬉しくなって、心がはねた。
「こちらこそ。長居して申し訳ない――楽しい時間をありがとう」
 迎えの車を用意したと聞いて、扉を開ければ、アロンソが立っていた。
 いつもは無感情な表情が。

 苦虫を噛みつぶしたように苦く、しかし、喜色を含む複雑な表情だ。
「今日はありがとう。妻も――娘も喜んでいる」
「こちらこそ楽しい席をありがとうございました」
「こちらこそありがとう」

「また是非来てください。ご一緒したく思います」
 背後から声をかけたアロンソが、咳払いをした。
「ライナは士官学校があるだろう。休みでずっと帰れるわけではない」
「それは」
 不満げにライナが唸った。

 と、入り口に近い扉が開き、リアナ・フェアラートが姿を現した。
 男性が一人、室内で書類を読んでいる様子が見える。
 いまだ商談中だったのだろう。
「お帰りとお聞きしまして――すみません、途中で退席をしてしまい」
 向かい合っているアロンソとライナを無視して、リアナはアレスに声をかける。

 そんなアレスは開いた扉をずっと見ている。
 眉根を寄せた、睨んでいるような表情だ。
「アレス様?」
 二度目の問いに、アレスは表情をリアナに戻した。
 アロンソとライナも同時――アレスを見ている。

「ああ。少し考え事を……本日はありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、ぜひまたいらしてくださいね」
「リアナ。さっきもいったがライナは学校が」
「あら。別にライナがいなくてもいいじゃありませんか」
「お母さま!」

 拗ねた言葉に、リアナは楽しげに笑った。
 やはりライナよりも上手らしい。
「また士官学校にも顔を出すさ」
「本当ですか!」
「ああ。シミュレート大会も見たいしな」

「当然です。今年こそは負けません。アレス先輩も――」
「ああ、応援しているよ」
「それは……二度とご期待を裏切りません」
 はっきりと呟いた言葉に、満足そうにうなずいた。

「じゃ」
 もう一度礼を言って、執事に促されるように外に向かう。
 と、振り返り――悪戯を浮かんだ表情を見せた。

「それじゃ。ごきげんよう、ライナ」
「はい! ごきげんよう、アレス先輩!」

 

 

動き



「これは、ルビンスキー閣下」
 丁寧な言葉の中に、わずかな棘をもって、アース社社長であるラリー・ウェインは頭を下げた。画面の前では、禿頭の男がのんびりとした口調で立っている。
 脇に立つ秘書らしき男はボルテックと言ったか。

 黙っている中でもこちらを値踏みするような視線は、ウェインを苛立たせた。
「いかがしましたでしょうか」
「取引を再開すると聞いてな」
「さすがお耳が早い。少し面倒な事態になり、遅れてはいましたが、ようやく再開する手はずが整いました」

「それは知っている。聞きたいのは、問題がないのかということだ」
「閣下はご心配な性分ですな。その地位では当然かもしれませんが」
 ウェインが苦いながらも、小さな笑いを浮かべた。
 かけた眼鏡をゆるりとあげて、その真面目な容貌をした青年は唇を曲げる。
「既に輸送を担当するフェアリーの上層部には根回しを行っております。いささか面倒ながらあちらのトップの許可が必要とのことですが。それもアポイントメントはとっておりますし、面談した結果は上々の反応であったと。まず間違いがないかと」

「間違いないという言葉は、上手く行ってから使わないと失敗したとき間抜けに見える」
「失礼しました」
「まあ、それはいい。私は結果さえ聞ければ満足なのだから」
「ご期待には応えられるかと」
「……」
 画面の奥で、ルビンスキーの瞳がウェインを見ているのを感じた。

 だが、それはいつものことだと、ウェインは静かにルビンスキーを見返す。
 無言の時間が過ぎて、ルビンスキーはいつものように表情を変えずに頷いた。
「なら、いい。結果を待つとしよう」
「必ずご期待に沿えると思います」
 ルビンスキーがわずかに笑う。

 小さく手をあげれば、画面がブラックアウト。
 自らの表情が鏡の様に暗い画面に映る。
 その顔が、曲がる。
「まったく。心配性の男だ――領主になった経緯を考えれば、そうかもしれないがな」
 そうして笑い、こちらも手をあげれば、画面が消える。

 手元の書類に再び目を向ければ、リモコンを手にした女性が近づいた。
「お疲れ様でした」
「なに。これくらいどうってことはない――閣下の心配性はいつものことだ。だが、商談が失敗すれば、閣下の心配が現実になる。間違いはないのだな」
「はい。先日の商談の結果では――輸送の件については前向きに考えていただけると」
 ウェインが顔をしかめた。

「決定ではなかったのか」
「決定は幹部会議ですると。しかしながら、上層部の一部はこちらに取り込んでおり、フェアリーの代表は許可をしております。形だけのことで、ほぼ確定ではあるかと考えます」
「君も閣下と同じく遠回しな言い方をするな。それならば、確実と言っておけばいい」
「ですが。まだ確定ではありませんので。それに……」

 ウェインの目を、女性――眼鏡をかけ、タイトスカートをはいた美女が切れ長の目で見返した。まとめた髪が、静かに揺れる。
「自治領主閣下は暗部を外すようにと指示をされました」
「は」
 と、ウェインはから笑い。

 馬鹿と言わんばかりに、近づいた女性に手を振った。
「手持ちの駒を変えるだけで、どれだけの時間がかかるか知っているのか。準備だけで数か月はかかる――ましてや、今回の件については数年単位で準備をしていたのだ」
 ばかばかしいと言わんばかりの表情だった。
「さらに今回は自由惑星同盟の企業に深く食い込む作業だ。数年以上の時間をかけている――それを辞めるというのは言葉だけならば簡単だろう」
「しかし、それは指示に逆らうのでは」

「自治領主閣下の言葉をお聞きしなかったのか。閣下は結果だけを聞きたいのだ。それに、あの男を誰が覚えるというのだ。一度すれ違っただけの人間を君は覚えているのか」
「私はともかく。一流の営業人であれば可能かと」
「あの場にいたのは軍人だけだ。頭の固いな」
 吐き捨てるような言葉とともに、話は終わりとばかりに腕を振るった。
「決定はいつになる」

「……来月の頭となっております」
「あと数週間か。今更気づいたところで、何になる――自由惑星同盟など来月の戦勝パーティーの準備で大忙しだろう。ああ、そうだな、パーティーには十分な援助をしておけ。以上だ」
「は――わかりました」
 静かに頭を下げれば、ウェインに手を振られ、女性はゆっくりと下がった。
 そんな姿に、ウェインは書類を乱暴に机上に投げる。

 心配性ばかりだなと。
 石橋を叩くことも大切であろう――だが、企業ではいち早く橋を渡った者が勝つのだ。
 二番目に渡ったところで、既に渡った先の富は独占されている。
 それがわからない馬鹿ばかりだなと、ウェインは苦く笑った。

 + + +

「アロンソ中佐」
 廊下を歩いていた時に、声をかけられて、アロンソは振り返った。
 そこには見慣れた、過去の部下がいる。
 優秀であり、軍人としても尊敬すべき――しかしながら、複雑な感情を感じる男だ。
 それでも一切の表情を見せずに、返答をしたのはアロンソの性格によるところであろう。

「何かな」
「先日はありがとうございました。非常に楽しい時間を過ごさせていただきました」
「ああ。それは良かった」
 と、言いながらも、感情を全て押し殺せずに、苦い表情を見せた。
 もしかしたら娘を奪われるかもしれないと。

 しかしながら、アレスの真剣な表情に、アロンソは表情を消した。
 彼のそんな表情はわずかしかないが、戦闘前によく見たからだ。
 眉根をよせて、睨むような表情。
 それが睨んでいるのではなく、真剣であるという意味ということに気づいたのはいつのことか。最も、彼の情報を集めれば、さらに真剣になればそこから笑いだすという。
まるでホラーだなと思ったものだが。

「また、来てくれるとリアナも。ライナも喜ぶと思うよ。それで」
 促した言葉に、アレスは頷いた。
「先日の話ですが。少し耳に入れたいことが」
「……」
 アロンソはしばらく考えた。
 目の前の人物が真剣になるということが、恐ろしく感じる。

 アロンソにとっては先日の席は、良くも悪くも私的な会合だったはずだ。
 で、あるのに。
 聞かないという選択肢もあるだろう。
 だが、それはアロンソの経験が全力で否定をする。
「わかった。そこに休憩スペースがある」

「お時間は大丈夫なのですか」
「仕事はあるが。そんな目をされたら、この後は仕事にならんよ。大丈夫だ」
 アロンソが先導して、休憩スペースへと向かう。
 そこは自動販売機と椅子が並べられたわずかな空間だ。
 先客が数名いたが、アロンソが小さく咳払い。

「申し訳ないが。少しだけ出てくれるか?」
 真剣な表情のアロンソに言われ、先客は慌てたように敬礼をする。
「すみません!」
 なぜか謝罪を口にして、先客は慌てたようにコーヒーを飲んでむせた。
 アロンソが入って、数秒のことだ。

 手にしていたコーヒーを空きカップをゴミ箱に入れて、逃げるように出ていった。
 アレスも謝りたい気分であったが。
 先客がいなくなり、広くなった空間でアロンソは自動販売機に近づいて、コーヒーを二つ。
 一つをアレスへと差し出した。
「ありがとうございます」
 礼を言って、逃げるようにいなくなった先客に背を向けた。

「大丈夫ですか」
「なに。本来、ここはこういう目的に作られているのだ。秘密の話をするようなね」
 違うかなと視線を向けられて、アレスは頷いてコーヒーを飲んだ。
 にがっと小さく呟く。
「コーヒーは苦手だったか」

「飲むのは戦いの後くらいですかね」
「嫌な戦いの後に、なぜ嫌いなものを」
「昔からの癖なんです。一仕事終わった後はコーヒーだっていう先輩がいましてね」
「ワイドボーンか?」
「いいえ。アロンソ中佐は知らない人ですね」

 首を振って、アレスは答えた。
 どこか寂しさを見せる感情に。
「そうか」
 と、アロンソは質問を終わらせた。
「それで。何か話が」

「ええ。先日お邪魔した時の話です――奥様と商談されていた方は」
「知らないな。信じられなくても仕方がないが、お互いの仕事については聞かないようにしている。彼女がどんな取引をしているか私は知らないのだよ」
「そうですか。では――お伝えします。名前は知りませんが、彼はアース社に近しい人間だと思われます」

 伝えた言葉に、アロンソは目を開いた。
「……」
 沈黙を返して、アロンソは手にしたコーヒーのカップを見る。
 静かに広がった沈黙は少し。
「確かにあの時の君は少しおかしかった。だが、あのわずかな時間だけで?」

「先の先輩に、出会った人間は忘れるなと教えられましたから。あの時いた人は、私が装備企画課にいた時に、酒場で軍をけしかけた人間で間違いはないかと。タイミング的にもアース社とつながりのある人物かと」
「けしかけた?」
「ええ。アース社と交渉しているときに、少し時間稼ぎをされそうになりましてね」

 苦笑。
 だが、すぐにアレスの強い視線にアロンソは気づいた。
「偶然だろう」
「……かもしれませんね」
 コーヒーを一口にして、アレスは言葉を探す。
「人は本来見たいものを見るものです」

 吐いた息とともに。
「そして、自由惑星同盟は――といいますか、この時代はそれがまかり通っている」
 呟いた言葉は真剣だ。
 そもそも原作でも情報部にいたとされるバクダッシュ中佐があっさりと正体を見破られることや、情報部部長が噛んでいたとはいえ、クーデターを事前に察知できない状況。さらにはフェザーンや地球教、憂国騎士団など自由惑星同盟の根幹を揺るがす組織に対して一切の対応ができていない。

 敵は帝国だけという事しか見てこなかったせいか。
 本来であれば、帝国と同程度に注意を払わなければいけないフェザーンに対して、弁務官は原作の様に活動しているようには見えない。
期待すらしていなかったが、実際に軍で情報部と関わることになって、確信した。
 ざるだと。

 アレスは前世で防諜技術など習ったことはないが、それでも企業として海外のライバル企業と対等に戦うために、様々な営業を行った。
 そんなただの営業にすら劣るのが、自由惑星同盟の現状。
「自由惑星同盟は。いや、この時代の防諜能力は最悪と言っていいかと。敵を帝国だけに固執していませんか。金になるというのなら――いや、資金という意味だけならば、企業の方が必要経費として、何でもやりますよ。フェザーンは」

 呟いた言葉に、アロンソは不愉快な気分を半分――しかし、苦さを半分持った。
 長年情報部で勤務しているアロンソも理解している。
 情報部で集める情報はほぼ帝国に対することがほとんどであるからだ。
 むろん、フェザーン経由で入る帝国に関する情報も集めている。

 だが、そこはあくまでも敵を銀河帝国に限定していてのことだったからだ。
 向けられた事実に今までの経験から反論を言いたい気分もある。
 だが、それを――過去の経験に固執していたアロンソを打ち崩したのは目の前の人物だ。
「突然すぎるな」

「ええ。ですが、中佐が考えるよりも時間は少ないと思います――というよりも、敵の経済に対して攻撃をすることの方が楽ですからね。艦艇を戦争で破壊するよりも、経済的損失を与えて、軍の艦艇を作れなくする方が楽ですから」
「それを帝国がやっていると」
「いえ、やっているのはフェザーンでしょう」

「どちらも同じだ。だが」
 と、アロンソは言葉を止めた。
「そんな話は誰も信じないだろう。君が甘いといった理由も理解できる」
 苦い言葉だった。
「信じていただかなくても構いません。ですが、アースは何かを企んでいると考えておいた方が良いかと」

「了解した。調べてみよう。だが、君は先日アース社を残しておいた方がいいと言っていなかったかね」
「ええ。でも……」
 アレスはどこか自嘲気味に笑った。
「娘さんを悲しませるわけにはいかないでしょう?」

 聞かなければ良かったと思いながらも、アロンソはゆっくりと頷いた。

 + + +

 真っ黒い自由惑星同盟軍の墓標。
 激しく修理をする金属音の中で、艦隊がゆっくりと近づいていた。
 先に失った駐留艦隊の追加とともに、新造の旗艦がゆっくりと第一港へと接岸される。
 出迎えるのはイゼルローン要塞の警備に着く兵士たちだ。

 艦艇を迎える港は広いとは言え、現在では仕事がある人間を除き、要塞司令部の人間が集まっている。
 接岸された旗艦の眼下
 新たな要塞司令官を迎える式典だ。
 通常であれば、それだけであったが、今回は少し違った。
 要塞司令部の人間とは別に、駐留艦隊司令部の人間が並んでいる。

 その先頭にいるのは、イゼルローン要塞駐留艦隊司令官ヴァルテンベルク大将であった。
 駐留艦隊司令官が要塞司令官を出迎えるのは異例のことであった。
 本来ならば、式典を終えて、顔合わせの月に一度の合同会議まで出会うことはない。
 係留された旗艦のハッチへと長い階段が伸ばされ、やがて開いた。

 降りてきたのは、白髪の髪をオールバックにした貴族然とした男だ。
 六十に近づきながらも真っ直ぐな姿勢で、堂々としながら階段を下る。
 この退役寸前の老兵をどう扱ってよいか。
 要塞司令部の人間は拍手をしながらも、決めかねているようだ。
 ただ階段を降りる硬質な足跡だけを鳴らしながら、港へと降り立てば、近づく影がある。

 要塞副司令官であるマリネフ中将だ。
「歓迎いたします、カイザーリンク大将閣下」
「ありがとう。このような老兵に重要な任務が務まるか不安であろうが、ぜひ私を助けてもらいたい」
「は。イゼルローン要塞は難攻不落。我々も力の限りお仕えいたします」

「それは心強い」
 そう言葉をかけて、視線がヴァルテンベルクを捉えた。
 前方で、駐留艦隊司令部の人間に囲まれているのだ。
 目立つであろう。

 マリネフが言葉を探している間に、カイザーリンクがヴァルテンベルクへと近づいた。
 彼らを囲む兵士の輪に少しの動揺が空気となって、漏れ出た。
 要塞司令官と駐留艦隊司令官。
 それが出会ったときは、非常に面倒くさいと実感しているからだ。

 つまらぬことながら、どちらが先に声をかけるかということだ。
 前回は三十分ほど睨み合った後に、それぞれの副官が互いに挨拶をしたと笑えない現実がある。
 長くなると覚悟を決めた、兵士たちの前で。
「これはカイザーリンク大将。イゼルローン要塞へようこそいらっしゃいました」

 ヴァルテンベルクが一歩を踏み出して、敬礼をする。
 驚きがさざめきとなって、広がっていった。
 駐留艦隊司令部の兵士たちも、明らかな動揺を見せている。
 まさか自分の上官が真っ先に要塞司令官に挨拶をしたと。

 だが、驚いたのは要塞司令部の人間も同じであった。
「ご丁寧な挨拶ありがとうございます。ヴァルテンベルク大将――この度は先任とはいえ、要塞司令部が、大変に失礼なことをいたしました。要塞司令部全将兵に変わり、お詫びいたします」
 近づいたカイザーリンクが、深々と頭を下げたのだ。
 要塞司令部の上官が、駐留艦隊司令官に謝罪をする姿を全将兵の前で見せた。

 このことに対して、先の倍ほどの驚きが衝撃となって、広い宙港に広がっていく。
 ヴァルテンベルクですらも、目を開いている。
 だが、すぐに首を振った。
「既に済んだことです。責任者は既に処断されており――また、私たち駐留艦隊司令部にも責任の一端がないわけではありますまい。謝罪は不要です、カイザーリンク大将」

 ヴァルテンベルクの言葉にも、カイザーリンクはすぐに顔をあげなかった。
 しばらく頭を下げて、顔をあげる。
「このようなことが二度と起こらぬよういたしますゆえ」
「ああ。まことに……」

 ヴァルテンベルクが同意をして、二人は力強く手を握り合った。
 

 

見たいもの


 宇宙歴792年 帝国歴483年8月。
 自由惑星同盟軍情報部情報第三課課長室。
「アロンソ大佐、失礼いたします」

 新たに配置された室内には、いまだに引っ越しの跡が残っている。
 必要最小限度の荷物だけが机の引き出しに入れられ、多くの荷物は段ボールの中だ。
 引継ぎ用の資料を読み返していたアロンソは、書類から目を離して、扉を振り返った。

「どうぞ」
「調査の件を持ってまいりました」
 入って来たのは黒髪の狐のような顔をした男だった。
 申し訳程度の口髭が鼻の下で整えられている。

 入室前に敬礼をすれば、男は近づいて書類を差し出した。
 それは配属される前から、アロンソによって調査するように申し向けられたもの。
 顔写真付きの履歴書のような書類には、どこか没個性的な中年男性が映っている。
 軍人にも、一般人にも、そして官僚にも見える。

 あえて言うならば、真面目そう。
 そんな印象をもたらすのだろうか。
「悪いな。急な仕事を頼んで、バグダッシュ少佐」
「いえ。情報第三課の任務はいわば、スパイ対策ですから。得意分野にすぎません」

 書類を受け取って、アロンソが視線を向ける。
 対面に立ったバグダッシュは、小さく肩をすくめていた。
 バグダッシュの言葉を聞きながら、アロンソは書類に目を通した。
 簡単な経歴が書かれている。

 ロイ・オースティン、四十三歳。
 生まれはエリューセラ星域出身。
 自由惑星同盟内の星間貿易を行っている一商人だ。
 決して稼いでいるわけではないが、主に食料品の貿易で手堅い商売をしている。

 そんな情報を一通り見て、アロンソは顔をあげた。
「君はどう思う」
「まとめた士官たちの反応は白です。帝国にもフェザーンにも経歴からは一切のパイプはありません。何と言いますか――私も大佐の気にし過ぎではないかと思います」

 わずかに言いよどむが、バグダッシュはまっすぐな意見を述べた。
 最近フェアリーと取引をする予定があることは、既に調べられている。
 公私混同だとの遠回しな批判を、黙らずに発言するのは見事とも言える。
「なぜこのような調査を」
「ある筋からの情報があって、な」

「情報ですか……」
「ああ。だが、これを見て確信したよ」
 静かに置かれた書類に、バグダッシュはほっとしたように息を吐いた。
 公私混同の調査など褒められたものではないが、それでいて上司と揉めたい理由もない。
 これで終わればとの表情であったが、アロンソはそうではなかったようだ。

「確かに、情報部は――いや、我々は見たいものだけを見ている」
「それは」
 どういうことかと問いかけたバグダッシュの顔に、アロンソの厳しい表情が視線を向けた。
「誰か。この人物に接触したものは」
「……いえ」

「だろうな。この者はエリューセラ星域の出身だったな、そこで大学卒業まで暮らしていた」
「ええ。学位の情報も上がっております。星間経済学を学び、学士を得ています。その後」
「地元の貿易商で働き、三十を目前にして現在の会社を設立」
 その通りだとバグダッシュは頷いた。
「エリューセラ星域は――出身者が聞けば否定するかもしれんが、訛りがある」

「存じています。ハイネセンからの通信を、エリューセラ星域出身の通信士官が受けて、タッシリ星域出身の暗号士官が解読した。数日後、艦隊司令官から慌てて連絡がきた。『本当にフェザーンに攻撃を仕掛けてもよいのか』と。有名な笑い話ですな」
 肩をすくめて笑う様子にも、アロンソの表情は変わらなかった。

「私は少し話しただけであったが――彼にエリューセラ星域の訛りはなかった。むしろ、フェザーンの訛りはあったが」
「それは人によっては、長年暮らせば訛りも消えるでしょう。フェザーンとの取引で培われたものでは」

「この経歴のどこにフェザーンとのつながりがある。先ほどフェザーンや帝国とのパイプは一切ないといったのは君ではないかね」
 差し出された書類を目にして、バグダッシュが初めて笑みを消した。
 受け取った書類に再び視線を這わせる。
 そこには先ほど報告した通り――星間の貿易だけで、一切フェザーン企業との取引がない旨が書かれていた。

 当然だ。それをまとめたのは自分であるから。
 だが、星間取引の際にフェザーン側の人間と取引をしたということは。
 そう考えて、バグダッシュはあり得ないと考える。
 恒星間の小規模な食料品の取引までフェザーンが噛んでくる可能性はあるのかと。

 現在のところ、その現状はないというのが結論だった。
 一つは儲けのためならどんな所でも行くフェザーン人だが、逆に言えば儲けがなければ行動することもないという事。
 小規模な食料品の取引など、確かに需要はあるが、大きな儲けにはつながらない。
 さらに、食料の輸送ということも問題だ。

 食糧輸送を抑えられるということは、自由惑星同盟の食糧事情を抑えられるということ。
 帝国側の情報を集める第一課、フェザーン側の情報を集める第二課。
 そして、それ以外に発生しうる危険の可能性を調査するのが第三課の仕事だ。
 そんな第三課でフェザーン人が星間の食料品取引などしていれば、すぐにわかる。
「バグダッシュ少佐。情報を集めることは大事だ――だが、情報から見えない情報を見ることが最も大切なことだ」

 感情の乏しい声を向けられて、バグダッシュは手にした書類をわずかに震わせた。
「経歴を見るに、今まで星間の小規模な取引しかしていなかっただろう。そこになぜ大企業のトップに話を食い込ませることができたのか。その理由は」
 もはやバグダッシュは言い訳の言葉もなかった。
 静かに書類を下げる。
「もう一度、調査をいたします。人数を何名か送りますがよろしいでしょうか」

「君の言う杞憂であれば、問題はない。だが、見たところ杞憂ではなさそうだな」
 アロンソが苦い表情を見せた。

 + + +

 食卓に並ぶのは、簡素な料理だ。
 元より年をとれば、油物は受け付けなくなる。
 野菜をメインにして、わずかばかりの子牛のローストが並ぶ。
 黙々と口に運ぶ姿に、リアナはワイングラスを手にして、小さく笑った。

「マクワイルド様は……優秀な方のようですね」
 かちんと音を立てて、フォークが止まった。
 ゆっくりとアロンソが、顔を動かす。
 悪戯な笑みが目の前に浮かぶ様子に、だが、アロンソの反応はリアナの予想していたものとは違った。

 戸惑うでもなく、ただ難しく頷いた。
「彼も昇進したのですわね。いまはどちらに」
「まだ第八艦隊の司令部だよ。近く異動するだろうが、若いからな――上層部もどこか決めかねているようだ」
「彼に後を継いでいただけると、フェアリーも安泰ですわね」

 そんなリアナの言葉にも、ああと一言だけ口にして、ワイングラスをあおった。
「だが。難しいだろう」
「あら、ライナは魅力的ではないかしら」
「そうではない。いや、ライナもフェアリーも……彼にとっては目的の外なのだろう」
 そんな言葉に、さすがのリアナも小さく顔をしかめた。

 自分の娘や大切な会社が、つまらぬものだと言われた気がしたからだ。
「勘違いするな。彼の目は、人や一企業には向いていないと思う」
「ならば、どこに」
「わからんよ。ただの一軍人である私にはな」
 アロンソは首を振って、口にしたローストを飲み込んだ。

「そう。では、今度ご本人にお聞きしますわ」
「教えてくれるとは限らないが」
「あら。人の本音を見抜くのは得意ですのよ」
「本音か……。リアナ、最近商売は」

 小さく目を開いたリアナの表情に、アロンソは失礼したと謝罪。
 ナプキンで口を拭った。
「いや。何でもない――目を通したい資料がある。先に失礼させてもらうよ」
「あまり根を詰めないでくださいね。最近、夜遅くなっておりますから」
「若いころに比べれば、大したことではないさ」

「もう若くはないのですから」
「そうだな。気を付けよう」
 アロンソが笑い、静かに食卓を後にする。
 メイドが残された食器を下げていく。

 そんな様子に、リアナは追加のワインを頼む。
 ゆっくりと白い液体がワイングラスに注がれる様子に、リアナは表情を消した。
 細い指先が机を撫でる。
 昇進して、新しい仕事で悩んでいるのかと思った。

 だが、それは違ったようだ。
 なぜか。
 そして、今までは決して聞くことのなかった仕事を口にしようとした。
 なぜか。

 リアナの頭の中では、最近起こった出来事がゆっくりと思い出されていく。
 アレスとライナが知り合いだったことにショックを受けたのか。
 そうであったならば、最初の言葉に反応があったはずだ。
 むしろ、それを期待して話題を口にしたのだから。

 ワインを口に含み、しばらくして、リアナは指先をはじいた。
「TEL。秘書官につないで」
 その言葉で、食卓の脇――棚に置かれたテレビがついた。
 しばらくのコール音の後、出たのは信頼する部下の一人だ。

 夜遅くであるのにスーツ姿は崩れてはおらず、はっきりとした口調で応対する。
『フェアラート様。いかがいたしましたか』
「夜遅くにすまないわね。先日我が家に招いての商談を覚えているかしら」
『はい。既に今秋を予定している会議の資料は整っております』
「それは一旦保留にして。会議はしばらく延期とするわ――その前に彼を紹介した人間を洗って」

 そんな言葉に、秘書官は若干驚いた様子だった。
 だが、否定の言葉は見せない。
『かしこまりました』
「お願い」
 端的な言葉を口にして、手を動かすと、モニターを消えた。

 気のせいならば良い。
 だが、石橋は気のすむまで叩くのがリアナの性格だ。
 橋はいつか渡ればいい。
 その前に崩落してしまえば、築いたものは一瞬にしてなくなってしまう。

 それこそがリアナの身上。
「あの子もあの人も、本当にわかりやすいわ」

 どこか楽しそうな表情を見せて、リアナはワインを喉へ流し込んだ。

 + + +

 惑星シャンプール。
 首都ハイネセンとイゼルローンの間に位置する惑星は、気候は穏やかであり、農業惑星としても有名な一方で、イゼルローン回廊へと向けた大規模な前線基地が設置されている。
 最も食料品などの糧食の多くは惑星で生産が可能であるため、倉庫に置かれているのは武器や弾薬の数々。

 イゼルローン回廊へ向かう艦艇の中継基地であり、最終的な補給基地でもあった。
 なぜなら、ここより先は帝国軍に遭遇する可能性が非常に高い星域になるためだ。
 アスターテ、アムリッツア、ヴァンフリートなど多くの星域につながるが、それらの多くでは帝国軍との遭遇戦が繰り返されており、今もなお一進一退の攻防が続いている。

 そのため惑星シャンプールを含む、シャンプール星域は辺境警備隊が常駐しており、また各宇宙艦隊が係留できる宇宙港も備え付けられている。
 大規模な敵が来た場合には、すぐに迎撃が可能な体制が作られているともいえた。
 そんな倉庫の一つ。

 現在では第五次イゼルローン要塞攻略戦が終了し、その時に入れていた物資が空になったはずの倉庫で、一人の男が電話を片手に立っていた。
 どこか陰湿な印象を与える、暗い同盟軍の士官だ。
 それは猫背によるところか、あるいはにやけた表情によるところか。

 周囲には誰もいない。
 だが、男は自分の存在すらも隠すかのように、ぼそぼそと電話口でしゃべった。
「本当に大丈夫なんだろうな」
 疑いを込めた声に、穏やかな声が電話口で回答する。
『問題ありません。全ては計画のとおりになっております』

「前回もそう言っていたじゃないか。だが、結果的に半年近く延期をしている。私だっていつまでこの基地にいられるかわからない」
『延期については申し訳ありません。何分、相手もあることですので』
「誤魔化すな。知っているぞ――延期したのはアース社が」

『ベイ中佐』
 厳しい言葉が、男――ベイの声を止めた。
『僭越ながら――言葉は慎まれたほうがよろしいかと。今までも十分な報酬は払ってきているはずです』

「それは……そうだが」
『そして、今回はさらに倍をお約束します。それだけあれば、あなたのさらなる栄達も可能では』
 ベイが小さく唸った。
「だが。私ができるのはこちら側で荷物を回収するだけだ。本当に帝国は来るのか」
『ご安心を。既にオーディンを出立して、イゼルローン要塞に向かっているとの一報がありました。そちらに到着するのは、九月ごろを予定しております』

 不安げに落ち着かないベイとは対照的に、電話口の声はひどく優しく、温かい。
 子供に言い聞かせるようにゆっくりとした口調。
「わかった。近くになったら教えてくれ」
『はい。では、今後ともよろしくお願いいたします』
 電話の電源が切れれば、真っ暗な倉庫に明かりはない。

 ただ外の街灯の光だけが、空虚な倉庫を照らしていた。


 

 

表彰式



 狭い空間に端末を叩く音が響いていた、映像の記録化は既に八割が終了している。
「そろそろ、その辺にな」
 背後からかかる声に、アレスは振り返る。
 そこにはわずかなそばかすを残す少年の要望をした青年が立っていた。

 ダスティ・アッテンボロー。
 先日に第五次イゼルローン要塞攻略戦の功績により、大尉となった青年だ。
 差し出された紅茶を受け取って、礼を言った。
「今日は表彰式だろう。主役が遅刻っていうのは、バツが悪いぞ」

「その本音は」
「カメラをずっともって主役を待っている、悲しき報道陣への配慮さ」
 堂々たる持論に、アレスは笑う。
「ただの式典に注目するのはわかりかねます」

 そういうのは、アレスの記憶によるところかもしれない。
 軍が活躍したなど、報道で大きく取り上げられることはない。
 少なくとも同時期に、俳優の不倫騒動があれば、ワイドショーはそれで持ち切りだ。

 一瞬移るキャスターが、表彰式店の事実を告げて、それで終わり。
 だが、この時代は呆れるくらいに取り上げられる。
 エルファシルの英雄しかり――有名な酒場に行けばいくらでもいるが、歯医者の治療台には一人もいない――その程度のことである。

 アレス自身も一瞬であるが、カプチェランカの英雄として取り上げられそうになった。
 もっともそれは、結果的には敵には何の被害も与えておらず、意味もない事であったから、軍によって差し止められることになったのであるが。
 特に第五次イゼルローン要塞攻略戦は、いまだに取り上げられており、その表彰式となれば、多くの報道が集まるのが当然のことであろう。ゲストにはライトネン国防委員長の参加が予定されており、同盟軍の幹部が一挙に集まる予定である。

 受け取った紅茶を飲んで、肩をすくめる。
「ホテルの裏口の扉を開けておくように、頼んでおいてください」
「おいおい。今からプロの手口を使ってどうする。大人しく注目されて、有名税を払うことだな。いわば、公共のサービスだ」
「ずいぶん楽しそうですね」

 隣を見れば、同じく主役の一人であるヤン・ウェンリーは黙々と端末を叩いている。
 既に考えることを諦めているようでもあり、エルファシルの英雄として、既に注目されることにも慣れているようであった。
 ちょうどヤンもこちらを見たところで、目が合う。

「マクワイルド少佐――これはどうかな」
「仕事のようです」
 苦笑しながら、アレスは紅茶を手にしたまま、ヤンの席へと移動した。
 八割方を終えた映像の記録化は、残す仕事はアレスとアッテンボローの仕事になっている。

 その上司であるヤンは、今後の戦略や戦術の検討をしているところだ。
 つまりは――戦闘を終えれば、次の戦闘を考えるのが仕事である。
 ヤンの背後から、端末を覗き込み。
 アレスは息を止めた。
 ヤンが入力した映像に映るのは、宇宙でも艦隊でもない。

 イゼルローンの内部への侵入手口だ。
 そこに至るまでの経緯が、完璧なまでに――そして、アレスの記憶通りに進行している。
 沈黙を誤魔化すために、紅茶を飲み込む。
「イゼルローンの攻略を別視点から考えてみた」
「……トロイの木馬ですか」

 慎重に言葉を出した、アレスに対しても、ヤンは調子を崩さなかった。
 どことなく、嬉しそうな口調だ。
「イゼルローンは難攻不略だ。でも、中からはそうでもないかもしれない」
「ですが。これは敵と味方の能力によるところが大きいですね」
「ああ」
 頷いて、ヤンが振り返った。

「成功するのは一パーセントかもしれない。でも、これが完璧に失敗した場合でも、今回の死者の一パーセントよりも少ないだろう」
「でしょうね」
 この作戦が失敗した場合は、死ぬのはイゼルローン要塞に侵入した者だけ。
 戦艦一つ分の被害にも満たない。

 正論に否定する言葉はなく、アレスは紅茶を飲み干した。
「ですが、やるのでしたら、まず司令官の情報を得る必要があると思いますし――そもそも犠牲前提の作戦はよほど切羽詰まらない限り認められないでしょう」
「私もそう思う。第一、要塞に侵入してくれる人がいないと話にならない」
 少し残念そうに笑うヤンの表情は、真面目なのかどうか。

 未来を知っているアレスでも迷う表情だった。

 + + +

 ホテル・カプリコーン。
 六十階にもなる巨大な建造物。
 その三階部分をぶち抜いた巨大な広間で、同盟軍の表彰式は行われる。
 ヤンに先立って、自動運転車で入ったアレスにはフラッシュの光がたかれる。

 車にひかれることもいとわない報道魂には敬意を払うが、もう少し命を大事にしてほしいと思う。関係者以外立ち入り禁止の車寄せにつけて、アレスは自動運転車から降り立った。
 さすがにこの場所には、報道陣は入ってこられない。
 待っていたのは行事を仕切っていた人事部の広報課の女性だった。
士官学校出立ての若い女性だ。

 つまりテイスティアの同期。
 必死に道を案内しようとしている姿が、あまりにも一生懸命な様子だ。
 昨年までは一学年下で一緒であり、よく見れば学校のどこかで見た気もする。
 女性士官の先導を受けて、案内された部屋は式典会場ではない。

 そこから少し離れた控室だった。
「こちらで少しお待ちください。ヤン中佐が来てから、ご説明があります」
「ありがとう。君は……」
「失礼しました。私はエマ・ローレンス少尉と申します。マクワイルド少佐」
 緊張を含んだ敬礼に、アレスも敬礼で返した。

 新人の――若さが残る様子は清々しくも見える。
 ベレー帽を外して、机に置くと、アレスはおかれていた紅茶を飲む。
 遅れること五分。
 ローレンス少尉に案内されて、ヤン中佐が到着した。
 慣れているのかいないのか、どこか居心地悪そうな雰囲気。

 アレスが紅茶を進めると、辞退をした。
「すぐに会場に連れていかれるからね。あまり飲み過ぎると途中でトイレに行きたくなって、大変だよ」
 そんなありがたい忠告であるが、既に二杯飲んだアレスにとっては、死刑宣告のようなものだ。途中退席はと言いかけて、そんなものがあり得るわけがないなと思った。
 すぐに広報課の中佐が現れて、式典の説明が行われた。

 統合作戦本部長ジェフ・コートニー元帥から賞状を受け取り、その後は国防委員から祝辞を受ける。式典が終わったら、祝賀会だ。
 名誉なことだと、中佐は三回言った。
 面倒なことの間違いじゃないかなと、隣でこちらに聞かせるように呟くヤンの言葉に、アレスは笑いをこらえるのに苦労をした。

 長い説明を終えて、式典会場へと案内される。
 多くの幹部が並ぶ中で、予定されていた椅子に座る。
「ここからが長いんだ」
 椅子に座った後で、こっそりと教えてくれた。
 その通りに、長かった。

 統合作戦本部次長、宇宙艦隊司令長官。
 それぞれの大幹部が入室するたびに、報道陣のカメラからフラッシュがたかれる。
 写真撮影に十分な時間が確保されているため、一人一人の時間が長い。
 なるほどと、アレスは苦い顔をする。
 これであるならば、一時間ほど遅れてきたとしても十分間に合っただろうなと。

 そこからさらに時間をかけて、ジェフ・コートニー元帥が入場した。
 全員が立って、拍手をする。
 主役という呼び名はなんだろうと、おそらくはヤンもエルファシルの際に思ったはずだ。
 だが、それで終わりではない。

 そこから数分の長い待ち時間があり――国防委員であるヨブ・トリューニヒト議員が姿を現したのだった。

 + + +  

 報道陣のフラッシュを受けて、主賓席に座る姿は相変わらず俳優の様に見える。
 悪く言えば、作った表情が透けて見えるというところであるが。
 横目を見れば、ヤン・ウェンリーはつまらなそうに前を見ていた。
 それはトリューニヒトがというよりも、式典自体がつまらないと見ているようだ。

 好かないと感じてはいても、まだ彼が国防委員のこの時期では嫌悪をという感情までには向いていないようだと、アレスは思った。
 式典では、先ほど中佐が説明したように動いていく。
 壇上に、統合作戦本部長が挨拶に立った。

 ジェフ・コートニー元帥。
 前世では記憶にはなく、特段の主要な人物でもなかった。
 実際に、本来であれば彼が統合作戦本部長に立つのは偶然であり、必然ともいえた。
 同盟軍と帝国軍の戦いは、ここ数十年の間は、イゼルローン要塞をめぐる攻防がそのほとんどだ。彼に目立つ戦いの戦績はなく、よってイゼルローンで大敗をすることもなかった。

 偶然だと決めることもできたであろうが、過去の経験から見ると実に上手く軍の波を進んでいるようにも見える。
 原作でも良く言われていたが、平時ならば優秀な指揮官。
 そんな言葉が思いつくが、平時ならば平時で有事に向けての準備が大事であろう。
 ましてや、戦略というものは原作通りにほぼ準備で勝敗が決定されているのだから。

 そういう意味では、目の前の人物はどうであろうか。
 無作為にイゼルローンに挑み続けた凡人。
 あるいは――現在まで同盟軍の寿命を延命した人物なのか。
「表彰に先立ち、ご来賓のトリューニヒト国防委員に感謝を述べます」

 壇上の上で、コートニーは決して大きくはないゆっくりとした口調で語りだした。
 口の悪い者の、冗談として――コートニー元帥が宇宙艦隊司令長官時代には、命令を伝達している間に戦争が終わったらしい――そんな話が伝わっている。
誰が伝えたかは、言わなくてもわかるだろうが。

「このような多くの方々の前で、かように厳粛な式典を挙行できることに深く感謝を申し上げるとともに――」
 静かにコートニーが顔を動かした。
 その視線は細く、わからないが、こちらを見たのだろう。
「ここに優秀なる同盟軍士官二人に対して、表彰ができるということは、嬉しく――そして、頼もしく思います。さて」

 報道陣からのフラッシュが瞬いた。
 光を浴びてもわずかに身じろぎもせずに語る様子は、落ち着いているようでもあり、慣れているようでもあった。
 全員が立ち上がって直立不動。

 真っ直ぐにコートニー元帥を見ている。
「願わくば、諸君らが自由惑星同盟の明るい未来を築くことを祈願いたしまして、挨拶とさせていただきます」
 コートニーの礼に合わせて、再び一斉にフラッシュがたかれた。
 思い出すのは士官学校に入学した日のことだ。

 あの時は、当時学校長であったシトレによって、「明るい未来が待っている」ことを祈願された。そして、今回は「明るい未来を築く」ことを祈願された。
 言葉はわずかな違い。
 だが、意味は大きく違う。

 待つのではなく、作り出せ。
 違う人物から言われた言葉に、アレスは小さく唇をあげた。
 立場の違いも、そして相手の違いもあったのだろうが――その方が分かりやすいなと。
 待つのではなく、作り出す。

 そう思えば、自然とアレスはゆっくりと笑みを浮かべた。

 + + +

 挨拶が終わり、表彰が終われば、最後にあるのは来賓の挨拶だった。
 来賓の紹介とともに、ヨブ・トリューニヒト国防委員が壇上へと立つ。
 手を振ってカメラに目を向ける姿は、やはり政治家というよりも役者が向いている。
 作った表情が彼の本音を隠しているようだ。
 通常の人であれば、その姿に気づくことはない。

 だが、相手の真意を測ろうとする戦略家にとっては、隠しているようにも見える姿は気持ち悪くも感じるのだろう。
 隣を見れば、ヤンが少し眉を寄せているのが見えた。
「さて。本日はこのような素晴らしい式典に列席させていただき、コートニー統合作戦本部長をはじめ、感謝させていただきます。また若いながらも、表彰された活躍についてはよくよく拝見させていただきました。即ち、第五次イゼルローン要塞攻略戦です」

 コートニーが静かな口調であったのに対して、トリューニヒトは非常にはきはきと、そして抑揚をつけて話した。
 聞きやすく、また言葉のたびに動作をつける姿はわかりやすいだろう。
 どこかたかれるフラッシュも先ほどよりも多く見えた。
「第五次イゼルローン要塞攻略戦。この戦いでは多くの将兵が犠牲となりました。だが、ヤン中佐、そしてマクワイルド少佐の力により、多くの助かった命があったと」

 そして、力強く壇上に手を置いた。
「まことに素晴らしいことであります」
 動きが止まる。
 その様子を見て、再びフラッシュが激しくたかれた。
 まるで映画のワンシーンでも見ているかのような大げさな所作に、興奮が伝播したように周囲が騒めいた。

「茶番か」
 それとは対象的に、静かな声は隣からだ。
 どこか呆れたような声は、周囲の騒めきにかき消されていく。
 だが、その周囲の騒めきもトリューニヒトの動作で静かになった。
 手を振り上げたのだ。

「だが、憎き帝国はいまだ健在――貴官らには今回の表彰をもって、イゼルローンの攻略、そして帝国の打破という重要な任務を遂行していただきたいと考えております。それは過去誰も成し遂げたことのない困難な道のりかもしれませんが――貴官ら二人だけではなく、自由惑星同盟軍が――そして、自由惑星同盟市民が一丸となって、この困難に立ち向かえば、必ずやかなえられるものであると」
 隣で小さく硬質な音がした。

 どうやらヤンのトリューニヒト嫌いは現実のものとなるようだ。
 彼が目の前で語るのは理想。
 それだけならば一人の理想で終わるが、彼は同盟市民を代表する政治家だ。
 彼の振るう拳は、言葉は、彼一人の理想ではなく、同盟市民の理想。
 ヤン自身はそこまで考えていないのかもしれない。

 そこまで同盟市民は馬鹿ではないと。
 だからこそ、トリューニヒトの言葉を嫌うのかもしれない。
 余計な先導をするなと。
 だが、アレスの目には――以前士官学校であった時よりも、派手に言葉を、表情を作り出す姿が――どこか滑稽に見えた。自らもばかばかしいと思いながらも、周囲に夢を届けるピエロだ。

 だが、それは誰にも止められることもなく――誰にも知られることもなく――同盟市民に選ばれて評議会議長にまでなるのだ。
 そう思えば、アレスは笑うこともできず、そんな現状に小さく息を吐いた。

 果たして、馬鹿なのは彼なのか、同盟市民なのだろうかと。
 

 

逡巡



 情報部情報第三課の扉を叩く音が聞こえた。
 急かすような音に、アロンソは手元の書類を一瞥すると机に伏せた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 そこから現れたのは、バクダッシュ少佐だ。

 敬礼も早く、バグダッシュは手元にファイルを抱えて、アロンソの前に立つ。
「急ぎのようだね」
 皮肉気なアロンソの言葉に、バグダッシュは少し笑みを浮かべた。
「課長にとっては、その方が良いかと思いまして」
「良い報告だと嬉しいのだけどね」

「なかなか難しいかと」
 バグダッシュが首を振れば、ファイルではなく、書類を差し出した。
「課長の危惧していたところが、どうやら正解だったようです」
 呟かれた言葉とともに、アロンソは書類へと目を通した。

 そこに書かれているのは、ロイ・オースティンの経歴書だ。
 いや、正確に言うならば、本来のロイ・オースティンのものと言えるだろう。
 エリューセラ星域の国立大学を卒業し、星域間貿易の企業に勤めた。

 最も、その顔写真はアロンソの記憶にある人物ではなく、そして、先の報告で渡された写真とも違っていた。
 年を取ったとしても、アロンソやバグダッシュは諜報のプロである。
 彼らが知るロイ・オースティンとは別人であると判断するには十分すぎる証明だった。
「して、本物の彼はどこに」

「わかりませんが。そもそも彼自身もあまり活発な方ではなかったようです。大学や勤め先を辞めて後の彼を知るものは誰もいませんでした」
「入れ替わるにはうってつけの人物というわけか」
「……ええ。しかし、生体認証をどうやって誤魔化したのか」

「蛇の道は蛇という奴だろう。アース社ほどの技術力があれば、不思議でもない」
「アース……ですか。あの」
「君が想像しているアースで間違いないだろうな」
 バグダッシュが驚いたように目を開いた。

 初めて聞く大企業の名前に動揺と、そして、なぜそれを知っているのかという疑問。
「それをどこで」
「ある筋からの情報でな」
「課長は随分と情報通のようですね。企業の情報については特に」
「何を言わんとしているかはわかるが。情報筋は妻ではない――軍人だ」

「情報第一課ですか。それとも……特務」
 軍人との言葉に、バグダッシュは眉根を顰めた。
 言葉にしたのは、情報部の筆頭課の名前と情報部畑の長いバグダッシュですら、名前しか聞いたことのない秘密の部署の名前だ。
 だが、それらにアロンソは首を振った。

「この前も言ったが、見たいものを見ようとするな。誇りを持つのは良い、だが、それで視野を狭めれば本末転倒だ、バグダッシュ少佐」
 呟かれた言葉に、バグダッシュはまさかという言葉を飲み込んだ。
 情報部以上に部外の情報に詳しい人間がいるはずがないと思いたい。
 だが、アロンソが疲れたような姿に、それ以上は言葉にならなかった。

 まるで自分にも言い聞かせているようにも見えたからだ。
「まあ、いい。だが――その自称オースティンは何をしているかだが」
 首を振って見上げる姿に、バグダッシュも小さく首を振った。
「先の報告のとおり星域間貿易の会社を立ち上げています。評判は上々――良くもありませんが、堅実に仕事をしているようです。貿易の規模を拡充するため、フェアリー社の輸送船を借り受ける契約を予定しているようです」

「表向きはな――それで、その実態は」
 問われ、バグダッシュが首を振る。
「不明です」
 そもそも簡単に実態が分かるようであれば、最初の時点で引っかかっていたはずである。
 白であったからこそ、当初はそう報告し――バグダッシュ自身もそう思っていた。

 だが、目的はわからないが、入れ替わった理由があるはず。
「輸送船か……何かを大量に輸送する必要があるか」
「密輸ですか」
 アロンソが頷いた。
 だが、そうであるならばわざわざフェアリーを使う必要はないはずだ。

 今まで自社で対応していたとすれば、そこに他人を介在させる理由はない。
 むしろ発覚する確率の方が上がる。
「フェアリー社に依頼している輸送船の航路は」
「シャンプール星域からエリューセラ星域への輸送になります」
 苦々し気にバグダッシュが呟いた。
 おそらくアロンソが抱いた疑念と同様のことを思ったのだろう。

 シャンプールにあると言えば農作物くらいだ。
 密輸をするのであれば、フェザーン側航路を使う。
 シャンプール星域にあるのは、シャンプール星域でとれる農作物かイゼルローン回廊に向かう前線基地くらいだ。
「前線基地か……」

 そう思い、アロンソは顔をあげた。
 だが、その反応にバグダッシュが首を振った。
「先のイゼルローン攻略戦によっては、現在シャンプール星域に保管されている弾薬は非常に少なくなっています。仮に横流しがあったとしても、自社で賄える量しかありません」
「攻略戦前にどこかに持ち去ったということは」
「シャンプール基地の補給課を調査しましたが、間違いはありませんでした」

 そう言ってバグダッシュは脇に抱えたファイルを差し出した。
 そこには現在までに運び込まれた数と現在の数が記載された帳簿。
 その資料を見れば、横流しがあることは想像ができない。最も司令官以下全員が横流しに関与していれば別であろうが。
 だが、そうなれば深まるのは謎だ。

 シャンプール星域から何らかのものを輸送していることは理解できる。
 だが、それがわからない。
「捕まえますか」
 既にロイ・オースティンに変わっているという時点で十以上の法律や星間条例に違反している。逮捕しても十二分に有罪の証拠はそろっている。

 だが。
「捕まえたところで、トカゲの尻尾が切られるだけだろう」
「理由はわかるかもしれません」
「……いや」
 しばらく考えて、アロンソは否定を口にした。
 その様子に、バグダッシュは理由を求めるようにアロンソを見つめた。

「手口を見れば――おそらくは、プロだ。行動を起こせば、こいつは死を選ぶ」
「そして、真実は闇の中ですか。ですが、行動させるよりは良いのでは」
「今回を止めたところで、何も終わらんよ。おそらく次の手を打ってくるだろう――そして、その次の手を我々は理解できるか?」
 尋ねた言葉に、バグダッシュはもちろんと答えることはできなかった。

 一度見逃している前科がある。
 そして、それはこれだけではないかもしれない。
 ロイ・オースティンと同様に、偽物に入れ替わっている人物がいるかもしれないのだ。
「彼が何をしているか――知る必要がある」
「ですが。それはフェアリーを危険にさらすのではないですか」

「危険か」
 呟いて、アロンソは小さく天を見た。
 考えるような仕草に、バグダッシュは黙って、アロンソを見る。
 感情のともらぬ表情に、わずかに動くのは戸惑いか。
「構わない。それよりも――大切なものがある。だが、できるなら」
 言いかけた言葉をやめて、アロンソの瞳は、バグダッシュへ。

「頼めるか」
 その強い言葉に、バグダッシュは敬礼で答えた。
「任されました」
 
 + + + 

 報告書に、ラリー・ウェインは小さく目を開いた。
 それを運んだ女性秘書は、ただ黙ってウェインの様子を見ている。
 わずか一枚程度の報告書。
 それに十分ほどの時間をかけて、ウェインは静かに机の上に置いた。
「なるほど。少し面倒なことになっているようだね」

「少しではないと思います」
「少しだ」
 秘書の言葉を言いなおすように、ウェインは告げた。
 わずかに怒りを含んだ言葉。
 だが、女性秘書は冷静に書類に書かれた事実を告げる。

「本来ならば会議で決定しているはずの、輸送契約が保留になりました。さらには暗部の事務所周辺で軍人の姿が目撃されています。計画を延期することも考慮に……」
「続行だ」
 言葉の途中で、ウェインの強い言葉が遮った。
 手のひらを合わせて、ウェインが言葉を続ける。

「輸送契約が保留になった。それは――フェアリーとしての話だ。何のために金を渡していると思っている。大型輸送船三隻程度、黙って動かすことはわけがない。違うか」
「……それは可能かと思われます。ですが、その後」
「その後があると思っているのか。実際にフェアリー社が輸送をしたという事実が大切なのだ。そして、その事実があれば我々はフェアリーにさらに食い込める」

 違うかと言葉に、秘書はしばらく沈黙。
 やがて、頷いた。
「そうであれば、その後など問題にならない。相手にもそう伝えておけ――我々が全力でバックアップをすると」
「……かしこまりました。ですが、暗部の周辺は」

「放っておけ。今回は動くのは帝国と同盟だ。我々はその道筋を作るに過ぎない。今更暗部の周辺を嗅ぎまわったとしても、意味が無い。奴らにはしかる後、撤退するように」
「その前に逮捕された場合は」
「そんな間抜けには用はない。躊躇した場合に、確実に殺せるように手配をしておけば、問題はない」
 そう告げて、ウェインは唇をわずかに曲げた。

「……」
 そんな様子に、秘書が沈黙で答える。
 そんな様子に、ウェインは笑い声をあげた。
「不満そうだな」
「いえ」

「顔に出ているぞ。確かに本来の計画とは違う。だが、結局のところ結果はかわらない。少し……面倒な程度だ」
 肩をすくめ、ウェインが合わせていた手を離して、机に置いた。
 小さく指を叩く。
「それに。今更計画の中止はできない」
 机に置いた指が、リズムを刻む。

 こつこつと小さく音を立てていた。
「既に荷物はイゼルローンに到着し、同盟も荷物の受け取りを待っている状態だ。そんな中で中止にすれば、次に協力してくれなくなる可能性もある」
 だから。
「続行だ」

「ですが。今回から帝国は新しい人物――それも随分と厳しいとお聞きしますが」
「続行だ」
「かしこまりました。『アメリカ』にはそう伝えておきます」
「ああ。取引が終わったらすぐに逃げていいと伝えておけ――長い間準備したが、さすがにロイ・オースティンはもう使えないだろうからな」

「はい。確かにお伝えします」
 頷いて、秘書が歩き去る。
 扉を閉める音がして、しばらく。
 だんと――力強く机を叩く音がした。

 ウェインだ。
 握りしめた拳を机上に置いたままで、ウェインは歯を噛み締めていた。

 + + + 

 イゼルローン要塞。
 そこにゆっくりと近づく艦隊があった。
 わずか数か月前までにはカイザーリンク艦隊と呼ばれていた一艦隊だ。
 それは予定通り、イゼルローン回廊同盟側の星域への調査へと向かっている。
 第五次イゼルローン防衛戦後の同盟軍の様子を見るための、威力偵察任務だ。

 最も、カイザーリンク大将がイゼルローン駐留司令官へと変わったことにより、既にカイザーリンク艦隊という名称はなくなっている。
「司令官。艦隊が接舷許可を求めております」
「……」
 ゆっくりと近づいてくる艦隊をモニターに映し出していた通信士官が、返答を求める。

 だが、司令官席に座る老将は黙っている。
 それはつい先日まで自らが操っていた艦隊への懐かしみ――そして、わずかな嫌悪がある。
「カイザーリンク大将?」
 再び問うた通信士官の言葉に、カイザーリンクは動いた。
「接舷許可を。私は出迎えに向かう」

「……は! 接舷許可……宇宙港第三番ゲートを開く、順次接舷をせよ」
 通信士官が、艦隊へと接舷の案内を伝える。
 そんな様子を横目に、カイザーリンクは伝えられたイゼルローン第三港へと向かった。
 指令室から外壁部へは数キロ以上の距離だ。

 単純に歩けば二時間以上はかかるだろう。
 迷路のような――防衛を考えて作られた――通路を通り、カイザーリンクは要塞内のモノレールに乗って、第三港へと向かった。
 足取りはひどく思い。

 だが、周囲の副官たちは重い足取りを老いによりものだと勘違いしてくれているようだ。
 カイザーリンクの足取りに合わせるように、ゆっくりと進んだ。
 だが、どれだけゆるりと歩いていたとしても、いずれは到着する。
 艦隊の第三港への接舷とほぼ同時。

 カイザーリンクは第三港へと到着した。
 自動扉が開けば、数千隻の艦艇が並んでいた。
 一艦隊の総数はおおよそ一万隻。
 残る艦艇は別の港へと向かったのだろう――見慣れた艦艇の中で、カイザーリンクが初めて見る漆黒の旗艦があった。

 ネルトリンゲン。
 通常の戦艦よりも艦艇も砲門も巨大な――まるで巨人のようだ。
 ゆっくりと巨人へと近づけば、ちょうどネルトリンゲンの搭乗口が開くところであった。
 姿を現すのは、白髪の老人。
 カイザーリンクとは違い老いてなお無骨な様子は、軍人に相応しい。

 搭乗口から歩けば、途中でカイザーリンクに気づいたようだ。
 立ち止まり見事な敬礼をされれば、カイザーリンクも黙って答礼をする。
 ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ。

 カイザーリンクの後に、艦隊指揮艦へと収まった老将に、カイザーリンクは苦悩を含んだ表情で彼に視線を送った。

 
 

 
後書き
ギリギリ間に合いました。
少し書き溜めが少なくなってきましたので、
できる限り4日更新を頑張りますが、今後は少し遅れるかもしれません。
遅れても書かないことはありませんので、お待ちいただければと思います。 

 

不安


 イゼルローン要塞内部。
 駐留艦隊司令部と要塞司令部のちょうど中間にあたる一室だ。
 先日のイゼルローン要塞攻防戦で、回らぬ会議が繰り広げられた一室でもある。
 これから同盟軍領地に向かうメルカッツ中将の慰労を兼ね備えている。

 大々的な酒席はこの後に予定されており、司令官との実質の顔合わせだ。
 室内にはまず、階級が最も低いメルカッツが案内された。
 とはいえ、横長のテーブルを二つに挟む構造。

 その一角にメルカッツが座れば、彼の副官であるメッサー中佐が背後に控えた。
 元々あったカイザーリンク艦隊の外から彼が連れてきた直々の兵だ。
 まだ若いながらも、辺境警備に功績を持ち、今回の異動でメルカッツが引き抜いた形となる。待つこと少し、長い時間を待ったであろうが、カイザーリンク大将が姿を見せた。

 まだ予定されていた時刻の十分前だ。
 微動にせずに座るメルカッツを見て、カイザーリンクが静かに敬礼をした。
 同じように副官を背後に立たせ、メルカッツの脇に着席する。
 少しの緊張を見せて、言葉を選んだカイザーリンクは隣に座るメルカッツに声をかけた。

「どうだろう、イゼルローン要塞は」
「基地というには、些か街のようですな。兵たちが羽目を外さないか心配です」
「なに、兵たちの扱いにはこの要塞の住人の方が慣れているよ」
「だとよいのですが」
 メルカッツが小さく息を吐いた。

 彼が持つ街という印象は決して間違っていない。
 長期滞在を予定されているイゼルローン要塞は、街としての機能も併せ持つ。
 兵士たちの家族、そして、商売をするために来る一般人。
 軍人の数こそ多いものの、民間人が決していないわけではない。

「しかし……」
 メルカッツが声を出して、迷いを見せた。
 カイザーリンクを見る視線は、どこかはかるかの様子。
 そんな視線に、カイザーリンクは微笑で答えた。

「なにかありましたかな」
「バーゼル少将とは、どのような人物でしたかな」
 言葉に、カイザーリンクが微笑を解いた。
 わずかに片眉をあげて、しかし、言葉はすぐには見つからない。

 迷ったように。
「彼とは士官学校の同級でしてね。私とは違い明るい性格で、友人も多かった。それに」
「それに?」
「いえ、何も。確かにメルカッツ中将に比べれば華々しい戦歴には薄いかもしれませんが、実直に任務をこなす男ですな。彼が何か?」
「いえ。ならば、良いのですが。彼とは初めての勤務でしてな、副司令官の人となりを知らぬと良い仕事はできぬので」

「で、あれば、中将のご期待には十分応えられ」
 途中で言葉をやめたカイザーリンクに、メルカッツが怪訝な表情を向ける。
 咳払いをすれば、扉が開く音がした。
 これも予定された時刻よりも遥かに早い――五分前だ。
「ヴァルテンベルク大将がご到着されました」

 士官の声とともに、室内に入ってカイザーリンクの姿に、ヴァルテンベルクは驚いた表情を浮かべた。
「これはカイザーリンク大将――お待たせしたようで」
「いえ。メルカッツ中将と話しておりましたので、お気になさらず」
「で、あればよいのですが。これはメルカッツ中将――戦巧者と名高い閣下をイゼルローンに迎えられて、嬉しいものです。歓迎いたします」
 笑顔を浮かべて近づいた様子に、カイザーリンクとの会話は打ち切られた格好だ。

 それにどこかほっとした様子を見せるカイザーリンクを、メルカッツはわずかに見て、苦い顔をした。

 + + +

 イゼルローン要塞の通路を、メルカッツとメッサーは進んでいた。
 わずかばかりの会議が終わり、宇宙港へと続く通路だ。
 散歩後ろから静かにメルカッツの背後を歩きながら。
「いかがいたしましたか」

 メッサーが静かに声をかけた。
 わずか数十分ばかりの会議で、しかし、メルカッツが求めていたものは得られなかったようだ。
メルカッツはどこか足早に、難しい顔をして進んでいる。
「君は艦隊の様子をどう見るかね」
 短い言葉に、メッサーは即答しなかった。

 沈黙と、足音だけが鳴り響き。
「僭越ながら――閣下にとってはあまり気分のよろしいものではないようです」
「言葉を飾るのはあまり好かないな。報告はわかりやすくあるべきだ」
 そう答えながらも、メルカッツにとっても意図は伝わったのだろう。

 メルカッツが艦隊司令に就任して、数か月。
 感じていた違和感を、メッサーも同じく感じていたようだ。
 元々司令部にいた人間はどこかよそよそしい。
 決してメルカッツに敬意を払っていないというわけではない。

 だが、言葉や態度に、最上位の人間を前にする違和感がそこにあった。
 彼と一緒に来た人間はそうではない。
 例えるなら、背後にいるメッサー中佐だ。
 先ほどの迷いの様に、わずかでもメルカッツの機嫌を損ねたらどうなるかという損得を考える頭がある。そこで黙っているか、ありきたりな発言で濁すか、あるいはメッサーのように言葉を飾りながらも本音を言うか、それは人それぞれであろうが、そこに考えがあってしかるべき。

 決してメルカッツは、誰もが自分の下でへりくだれといいたいわけではない。
 だが、上官を気にしない態度に、長く軍にいたメルカッツは違和感を抱いていたのだ。
「私は新任の司令官であるからと思っていた」
 それは実力不足か、あるいは外様であるのか。
 そうであるならば、答えは簡単だ。

 上は誰かということを、わからせればよいだけの話。
 穏健派とは言われても、それを許すほどメルカッツは甘くはない。
 だが。
「根は深そうだな」
 先ほどのカイザーリンクの様子から、ことはそう簡単ではないと理解させられた。

 先任の司令官が、どこか副司令官に甘いところがある。
 それが増長へとつながったのだろう。
「厄介なことだ。君ならばどうする」
「増長は――おそらくは、副司令官への信頼にあるのかと」
「だろうな。かといって、罪もないのに首にするわけにもいかぬ」
「罪ですか。閣下――バーゼル少将については、黒い噂を聞いた覚えがあります」

「悪い噂?」
 メルカッツが立ち止まって、振り返った。
「ええ。それで憲兵が動いているというものです、真偽はわかりませんが。閣下は聞いておりませんか?」
「知らないな。だが、あと一年は司令官の目はないと思っていたが、納得がいった」

 いつもならば我先にと手をあげる門閥貴族が、静かなわけである。
 黒い噂とやらがある場所に、わざわざ手をあげて立候補する人間もいないはずだ。
 メルカッツは苦さを、さらに強くした。
「かといって表立って動くわけにもいかないか」
「噂の段階で調査をすれば、兵たちの信頼はより損なわれましょう」

「だが、それを見過ごしておくわけにもいかない。メッサー中佐――今回異動になった人間を選抜して、対応できるか」
「何名か心当たりがあります」
 頷いた様子に、メルカッツは小さく謝罪を言葉にする。
「すまないな。嫌われ役にして」
「元々、この艦隊では外様は嫌われ者です。で、あれば――せいぜい嫌われる行為を楽しむことにします」

 唇を曲げて、笑う様子に、メルカッツは笑みを浮かべようとして失敗した。
 表情を隠すように頭を下げ、呟いたのはお礼の一言だ。
「感謝する」

 + + +

「少し歩きたい」
 黙っていれば、部屋までついてくる副官に声をかけ、カイザーリンクは自室へと向かう通路から外れた。
 先ほどメルカッツに言った言葉は、間違いではない。
 長年に渡って前線基地としてある施設は、ともすれば一つの街のようだ。
 要塞司令官であるカイザーリンクですら、街の大半を理解しているとは言えない。

 遠征軍を歓迎する式典までは、数時間ある。
 それならば部屋で無駄に時間を過ごすよりも、街を理解したい。
 そう思う気持ちは、半分。
 残すはメルカッツに問われた言葉だ。

 人前で見せる朗らかな顔で、カイザーリンクは街を歩いた。
 果たして、黙っていてよいのだろうかと。
 おそらくは――いや、カイザーリンクに聞くくらいなのだ。
 彼は何も知らないのだろう。

 だが、とカイザーリンクは要塞に備えられた公園の一角で立ち止まった。
 学校帰りの子供たちが――まるで普通の時の様に平穏に過ごしている。
 全ては軍属の少年たちだ。
 だが、親が軍であるからと言って彼らに違いがあるわけではない。

 彼らは育ち――やがては。
 そこでカイザーリンクの顔が歪んだ。
 泣きそうな――ともすれば、馬鹿のような表情だ。
 強い自己嫌悪が、彼の心を蝕む。

 胸を押さえ、力を込めた。
「すげー」
 そんなカイザーリンクの耳に入ったのは、子供の純粋な尊敬の言葉だ。
 何か。
 疑問を感じて、近づけば木々の隙間。

 広場に、赤毛の青年がボールを蹴っていた。
 それはともすれば、プロの様に自由にボールを操っている。
 少年たちが幾人も集まって、そのボールを取ろうと試みるが――誰一人としてボールにたどり着くことはできない。足を手のように操りながら、笑みを見せる青年は――まるで子供のようだ。
 そこまで来て、カイザーリンクは青年の名前を思い出した。

 ジークフリード・キルヒアイス。
 イゼルローン要塞での有名人だった。
 しばらくの間――それを見ていれば、やがてキルヒアイスは視線に気づいたようだった。
 一瞬だけ怪訝に、しかし、すぐに敬礼を返せば――ボールはあっさりと奪われた。
 喜ぶ少年たちに、小さく苦笑を浮かべれば、すぐに取り返し、ボールを蹴った。

 我先に少年たちがボールへと集中する。
 それを嬉しそうに見送れば、再びキルヒアイスが振り返った。
「失礼いたしました」
「いや。子供たちが楽しそうで何よりだ。謝ることはない」

 謝罪をするキルヒアイスを止めて、カイザーリンクはボールの行方を追った。
 既にボールを手にした子供たちへ、少年たちが殺到している。
 楽し気な声を前にして、カイザーリンクの頬も緩んだ。
「見事なものだね」

「お恥ずかしいものです」
「謙遜することはない。君ならばプロにも慣れたのではないかな」
「どうでしょうか。考えたこともなかったです」
 丁寧に、キルヒアイスは答えた。
 童顔の赤毛の青年が、カイザーリンクを見ている。
 そんな視線に、カイザーリンクは彼の噂を思い返した。

 金髪の小僧――皇帝の寵姫の弟の腹心。
 悪い噂の主役にすらならない。
 そんな人物であったが、違うなとカイザーリンクはすぐに否定をした。
 その身のこなしは常人を超え、そして見どころのある好青年。

 金髪の小僧という人物に会ったことはないが、決して「おまけ」などで収まる人物ではない。
 だが。
「ミューゼル殿は元気かな」
 カイザーリンクが言葉にしたのは、彼の主人とされる人物のことだ。
 言葉に、キルヒアイスは驚いたようだった。

 しかし、わずかに微笑。
「ええ。今も任務を待ち望んでおります」
「まるでマグロのような男だな」
 泳がなければ死ぬ魚を思い浮かべ、カイザーリンクは苦笑を浮かべた。
「似たようなものかと――ミューゼル中佐は常に帝国のことを考えておりますから」

 微笑で答えた言葉に、わずかな間があったことをカイザーリンクは感じた。
 だが、そのことについて深くは問わない。
 むしろ。
「では、君はどう思うのかね」
「私も同じです」

「それは。ミューゼル中佐がそう思うからかね」
 意地悪な質問であっただろうか。
 しかし、問うたのは今まで行ってきた駆け引きとは離れた――本心だ。
 それが言葉にできたのは、少年のようなキルヒアイスの性格か。

 あるいは。
 ――自分の似た境遇を感じたからか。
 自らの心を殺しても――愛したい人がいたから。
 問うた言葉に、即答はなかった。
 カイザーリンクが見つめる先に、キルヒアイスが驚いたような顔をしている。
 答えを探している様子。

 先ほど同じだと即答した言葉ではなく――見つめる先で、キルヒアイスが頷いた。
「はい。ミューゼル中佐も私と同じ思いを思っているからです」
「では。それが違えた時に、君はどちらを選ぶのかね」
 それまで浮かんでいた微笑が消えた。
 そんな様子に、初めてカイザーリンクはキルヒアイスの表情を見た気がする。

 だが、沈黙は悪手。
 そう考えたのだろう。
「私もミューゼル中佐も、きっと同じ道を目指すと思います」
 言葉は、カイザーリンクの心を何ら動かさなかった。
 そうかとカイザーリンクは呟き。

「それが帝国にとって良い道であることを期待しよう」
 そんな在り来りな言葉を告げて、カイザーリンクは踵を返したのだった。
 
 

 
後書き
遅くなりまして、申し訳ありません。
純粋にまた時間が取れなくなっているためです。

お待たせるするかもしれませんが。
気長に待っていただければと思います。