【改訂版】林檎の恋愛物語。~毒林檎の場合。


 

~暗く湿った森の奥、林檎たちの楽園がありました。そこにはまるで日の当たる所のない。暗く、陰湿な林檎の群れでした~


 人の住まぬ深い森の奥。そこで密やかに蠢くのは、妖しい闇色の虫や漆黒の獣。その目は紅く、鈍く光る。とても常人ではこの世のものと思えないであろう光景が広がる。
 木々が密集するその中で、光というものは皆無。湿った空気のなかで、植物の(つた)が木々に絡みつく。この場所ではそれさえも不気味に映る――ここに足を踏み入れたものは、決して生きては帰れない。ここは毒林檎たちの陰湿な楽園。

 クスクス、クスクス――毒林檎らは囁き合う。
『人間が来たわ』
『とってもおいしそうね』
『たくましい体をしているわ』
醜い紅色の彼女らは、卑猥に舌なめずりをしながら男たちを狙っている。
 やってきたのは狩人か山賊か。それとも名のある開拓者か。彼女らにとってそんな事はどうでもいい。男たちが五、六人だろうか。

 彼女たちは男を誘惑するため、醜い色をその時だけ鮮やかな赤へ変える。そしてその体から香りを放つ。林檎の香は脳を麻痺させ、体の感覚をも奪うのだという。

 ここに足を踏み入れたものは、決して生きては帰れない――誰かからそう、言われてきたこの楽園。これは警告だったのだろうか。それともただの作り話だったのだろうか。それを知るものは、この世に一人として存在しない。

 醜い紅色の彼女たち。一つの実は、一人の男に。その手によって摘み取られる。

 彼女らは気に入った男を見つけて誘惑し、誘惑にのせられた男は、血眼でその実を貪るのだった。まるで砂漠の中で見つけた、一滴の雫のような味。枯渇した喉が潤うのに似たそれは、実に甘美な最期であったに違いない。けれどもそれは偽りの楽。体の力はそれに気づかず奪われる。

 男の中でただ一人、一際真っ直ぐな目をした男がいた。ただ、真面目な男。偽りの香りに誘われず、惑わされもしなかった。
 その心の強さを目の当たりにし、真に男に惚れた毒の実が唯一あった。いくらこの身が醜かろうと、彼女は男の真っ直ぐな目に惹かれていた。甘い香りに惑わされない、真っ直ぐな瞳に。

 彼女は彼を誘惑するのを躊躇した。その毒の果実は男に真に惹かれたため、その身を案じたのだった。


――


 わが身はその名も毒林檎。食べればひとたび命を落とす。どうか、あなただけでも生きていて。
 だけど、見て欲しいと思っている。誰よりもこの私の姿を。
 ならば。甘い香りも偽りの色もない、醜いこの身を見て欲しい。そしてあなたのその手で摘まれるのなら、この身はきっと浮かばれる。毒林檎という、哀れな生を受けたこの体。
 このままでは、この身は誰の手にも取られない。そう、この。醜い色のままでは。
 あなたを一目見るまでは、それでもいいと思っていた。なのに私は本能から、あなたに食べて欲しがってる。他の誰でもなくただあなたの手で、その口で。そうして精霊として羽ばたいてゆきたい――他の果実がそうしたように。
 たとえこの身が醜かろうと、腐った紅色をしていようと、心が赤く燃えている。それは初めてで、偽りのない澄んだ心。こんなのは初めてで、私はおどろき戸惑っている。

 どこからだか声がした。どこからか光が差し込んでいた。これは神のお慈悲なのだろうか。ここは日の当たるはずのない場所。その眩しい声は私だけに囁いた。
「それは恋というものだよ」
 あまりの眩さに眩暈がしそう。続いて囁き声がした。
「今の機会を逃したら、もう二度と彼は現れないよ。彼は他の人のものになってしまう」
 幻覚を見せられてるかのようなその光景は、私の中で黒く渦巻く。それは胸を締め付け、心が苦しくて悲鳴を上げる――彼が他の人のものに? そう思ったら、憎しみの感情しか生まれてこなかった。


――


 気づけば男は目の前に。真っ直ぐな目で、本当の彼女の姿を見つめる。男はその実に手を差し伸べようとする。彼女を見つめる瞳は、物珍しげな、子供ように透き通った目。
 それに対する彼女は――





                           つづく。
 

 

 ここに足を踏み入れたものは、決して生きては帰れない。

 暗く、湿った森の奥深く。そこにはまるで日の当たる所のない。暗く、陰湿な毒林檎の楽園。

 ある日毒の果実は男と出会う。果実は男に恋をした。まやかしの香りには誘惑されない。その美しい姿も偽りだと気付き、騙されはしなかった。清き瞳と正しき心。その男に、毒林檎は恋をした。

 そこへ眩い光がそそのかす。ここに現れるはずのない幻のような奇跡の光。囁くのは、毒林檎への甘い不実。
『殺してしまえばいいんだよ。そうすれば彼はお前のものさ。他の女に取られるのなら、いっそ殺してしまえばいい』


――


 青年は私をもぎ取ったあと、目の前でゆっくりと音もなく膝から崩れ落ちる。そうして私は、毒林檎の姿から妖精の姿に。羽と人の体を得た私はそこから羽ばたき、横たわる青年の肩にとまる。
『これで彼は私のもの』――そのバランスのよく取れた容姿も、真っ直ぐな瞳も。決して派手な外見ではない。言ってしまえばとても地味。でもなんだかそれが潔くて、醜い私にはとても美しく映った。
 けれども――気が付いてしまった。虚ろな彼のその瞳は、開くことも閉じることもない。言葉を発しなければ、こちらを見つめてくれるということもない。彼はどんな話を聞かせてくれたんだろう。その瞳にこの世界はどう映ったんだろう。彼はきっと、真実を語ってくれたに違いない。
 それでも――気付いた時はもう遅い。私は彼を殺してしまった。

 ここに足を踏み入れたものは、決して生きては帰れない。そう。私たちの存在が、そうさせてしまった。私たち毒林檎に定められた運命だった。どうして生まれてしまったんだろう。どうして私はこんな命に。ごめんなさい、ごめんなさい……。

 いくら涙を流そうと、死んでしまった者は二度と生きては帰らない。自らの感情で、自らの可愛さ故に相手の死を選んでしまった。あの人への気持ちはなんだったというの? そしてこの気持ちはなに!? 相手の幸せを願えなかった――それは愛という綺麗な物ではなかった。ただの妄想。偽りで飾られた、ただのわがままだった。

 ――毒林檎は涙を流す。流した涙は自らを真の姿へと変える。鱗が剥がれ落ちるように、その視界も真実を映し始めた。清らかな涙がまやかしを打ち消す。それはまるで奇跡のよう。先程までの、虚無に満たされた景色は消えた。

 光の正体は、赤い目をした白い蛇。
『消えなさい、幻覚を見せる蛇よ。こんなものには私は騙されない――彼への心が愛だというのなら、私は彼を殺さない!』
 その揺るぎない心は、卑しい蛇を真っ直ぐ射抜く。その迷いのない瞳に睨まれた蛇はすぐさま逃げた。
『青年よ。よく聞きなさい――我が身はその名も毒林檎。食べればひとたび命を落とす』――だからお逃げ。早く、速く私の前から。そう、思えば思うほど切ない。
『私は本能から、あなたに食べて欲しかった。他の誰でもなくただあなたの手で、その口で。それが幸せなんだとずっと思ってきた』――でもそれは間違いだった。愛する者を殺して、幸せになりたいとは思わない。だから早く逃げて……それが一番正しいのだから。
『だけど、そこに横たわる仲間たちを見なさい。彼らは既に息がない』
 男を森から逃がしたいと、はやる気持ちを抑え――毒林檎は静かに真実を語る。そして己の願いを告げる。

『どうか、あなただけでも生きていて。これは私のわがままです。早くここから――』
 しかし、その言葉は青年の耳には届いていないのだろうか。その瞳からは(まこと)の涙が――青年の頬を伝う。毒林檎は突然のことに戸惑いを隠せない。
「そうか。とても幸せそうな表情をしていたから気が付かなかった」――それが初めて聞いた、彼の言葉。純な瞳から真の涙を流した青年は、傍らの仲間に手を合わせた。そうしてそのあと林檎の方を見る。
「僕だけは貴女のおかげで助かったようだ。真実を話してくれてありがとう。その涙にも感謝する」

 戸惑っていたが、林檎はその言葉を受け取る。
『あなたは何でもお見通しなのね。ただ、この涙には感謝しなくても結構よ。自分の愚かだったことへの後悔の涙だから――おかげであなたを殺さなくて済んだのだけれど』
 毒林檎の自らを嘲笑うような言葉を青年は、涙を拭って笑った。
「それは全くおかしな話だ。毒林檎のはずが、殺さなくて済んでよかったとは」
 青年が笑ったことになぜだか林檎は苛立った。
『ええ、そうね。自分でもそう思うわ――死にたくなければ出ておいき! 今すぐ! ここから――』
 しかし、林檎の警告は遮られる。青年は木の枝からその果実をもぎ取った。
『な、何を』
 青年はてのひらの林檎をその口へ近づける。
『おやめなさい、そんな事をすればあなたは死んでしまう! 私はあなたのことが――』
 しかし、青年によって時は止まった。
 

 

『好き』
――そう言おうと思ったの。あなたを一目見て、その心の真っ直ぐな所を知って、好きになったのだと。外見に惑わされず、優しい偽りに騙されなかったあなたの事を。もっともっと、知りたいと思ったの。

 毒林檎はそれでも起こった現実に、ただただ茫然と、するばかりだったのだ。人間であったのなら、その顔は真っ赤であったのだろう。青年は林檎に口づけたのだった。真っ赤になった、毒林檎の呪いは解けた――真実の愛の口づけによって。

「腐った紅色をしていようと、澄んだ心を持った毒林檎、か。気に入ったよ」

――私のことをあなたは見てくれた。甘い香りも偽りの色もない、醜い私でも。それでも見てくれた。
 真の姿をした私は、誰の手にも取られない。醜い色の私は誰からも愛されない。確かにそう思っていた。それなのに、あなたは私にキスをくれた。毒林檎という、哀れな生を受けたこの体に。

「たとえこの身が醜かろうと、腐った紅色をしていようと、心は赤く燃えている。初めて誰かを好きになった、私の心」――真っ赤な毒林檎の告白。
「私は、あなたの事が好きみたい。一目見た時から、あなたに食べられたいと思ったの。なんてね」
 その姿は既に、毒林檎と言えるような容姿ではなかった。その、気高く清い心を反映したような、美しい女性の姿になっていた。


――


 そうして後日がたちました。水色に晴れ渡る空の下。大きな湖の畔に、青年と美しい女性が寄り添い、座っておりました。青年は彼女に、世界を旅した時の話をしてあげます。決して明るい話ばかりではありませんでしたが、その内容はどれも真実でした。今まで正しい心で世界を見てきたのでしょう。
「それから僕には両親がいてね。いつも、『正しい心を持ちなさい』と育てられたんだ。そのことにはとっても感謝してるんだ」
 青年は彼女に自分の生い立ちについて語ります。
「……僕は恵まれていると思っただろ?」
 青年の表情は一変して曇ります。
「それなのに僕は、家を飛び出したんだ。幼いときはいたずらをしたり、成長してからも間違った事をすれば酷く叱られた。そのたびに思ったんだ。僕はしたいことをしただけなのに、ってさ。だから、逃げ出したんだ」
 正しい事ばかりを求めていると、この世は生きにくい――そう青年は言いたかったのでしょうか。しかしそのことについてはこれ以上語らず、話のつづきを彼女に聞かせました。
 彼女は彼の話のすべてを、とても幸せそうに聞きました。
「でも一番不思議なのは、君と出会ったこと。それからこうして君と一緒にいられることなんだ」
 少し照れくさそうに青年は言いました。
「僕はその……このとおり地味だしさ。誰かに好きになって貰えたことなんて、今までなかったんだ。だから――」
 そうしてふたりは見つめ合い、感謝を込めたキスを交わしたのでした。

 それから少し、時は流れて。口を動かしたのは、話したがりの――やはり彼の方でした。
「……両親の事なんだけどさ。さっきも言ったけど、家を出て好きなことが出来たし、今は感謝してるんだ。実は、あの森に毒林檎があるっていう話も知ってたんだ。両親が幼い頃に教えてくれた、ある童話のおかげでね」
「どんな童話?」
「今度話すよ。それより今度、僕の両親に君を紹介させて欲しい。どんなにきつく反対されたって、『正しい心で選びました』と言えば文句はないはずさ」
 二人は微笑み合いました。そして、青年が立ち上がり、美しい女性の手を引いて。二人は仲良く手を繋いでいたのでした。どこまでも、晴れ渡る空の下を二人で歩んでいきました。

 物語の始まりはね、きっとこんな感じだったと思うんだ。

~暗く湿った森の奥、林檎たちの楽園がありました~






 
 

 
後書き
++おわり++

読んでくださり、どうもありがとうございました<(_ _)>