妾の子


 

第一章


第一章

                   妾の子
 脇田セツに不幸が襲い掛かったのは突然のことだった。それは彼女にとってはまさに青天の霹靂であった。それで済まなかったかも知れない。
「主人がですか」
「そうです」
 夫である源太郎の職場である内務省の同僚達が家にやって来て彼女に伝えたのだった。源太郎は内務省の官僚であり極めて優秀な者で知られていた。果ては大臣かまでと謳われた男であり人格も円満でセツにとっては申し分のないよき夫であったのだ。
「女性の御宅で」
「そこが火事になりまして。それで」
「亡くなってしまったと」
 夫が死んだことだけがショックなのではなかった。彼が女性の家で亡くなったこともまた衝撃であったのだ。つまりこれは。彼に愛人がいたということだからだ。
「そうです。御言葉ですが」
「御主人からは何も」
「いえ」
 彼等の言葉に対してすぐに首を横に振った。そのうえで述べた。
「全くの初耳です。それは」
「御聞きになっていませんか」
「主人は清廉潔白でした」
 このことには絶対の自信があった。源太郎はとかく人格円満であるだけでなく士族出身に相応しい潔さと清潔さを持っていたのだ。賄賂の類を受け取ることなぞ考えられることではなくただ己の仕事に没頭していた。息子が一人いるが彼が東北の大学に進学しそこに入ってからというもの夫婦二人で静かに暮らしやがては隠居してしまおうかとも考えていた程だ。それ程まで静かで清潔だったのだ。
「その様な主人がどうして」
「御言葉ですが奥様」
 ここで夫の同僚の一人が彼女に告げる。
「確かに御主人は清廉潔白でした」
「はい」
 彼の言葉に頷く。
「その通りでございます」
「賄賂も取らず深酒もせず」
「博打もせず遊郭にも入りませんでした」
「その通りです。その様な主人がどうして」
「それがです」
「我々もはじめて知ったのです」
 あらためて彼女にこう述べてきたのであった。居間でセツは彼等から夫の知らない顔を見ることになってしまっていたのであった。
「彼が。妾を囲っているなどと」
「どうやら。少しの付き合いで料亭に入った時のことです」 
 この当時は料亭に入って仕事の打ち合わせや細かい調整をしていくこともまたよくあることであった。二十一世紀のはじめになってから急激に廃れていくのであるが。
「御主人はそこで知り合った若い女中と知り合い」
「やがて深い仲になり」
「それで身請けをしたというのですか?」
 この流れについてはセツもわかっていた。この時代の資産家や金持ち、地位のある人物ではよくあった話だからだ。首相であり陸軍の領袖の一人でもあった桂太郎もまた芸者を愛人にしていたし伊藤博文に至ってはとかく女が絶えない人物であった。妾を持つのは普通の時代であり彼女もそれは知っていた。だが自分の夫がそうだったとは流石に夢にも思わなかったのである。
「その女中を」
「どうやらその様で」
「もう十五年近く前に」
「十五年・・・・・・」
 その年数を聞いてあらためて絶句するセツであった。
「それだけ前から」
「そうです、本当に私達は知りませんでした」
「ですが本当のことです」
 ここでまた彼等はセツに対して言うのであった。自分達が知らなかったということを。つまり意地悪い見方をすれば自分達は無罪であると彼等は言っているのだ。夫が妾を持っていることに。
「それでですね」
「御主人とその方の間には」
「まさか」
 今の言葉からさらに不吉なものを感じていた。
「あの人はまさかその女の人との間に」
「はい、そうです」
「その通りです」
 セツが最も聞きたくない返答であった。だがそれが出されたのであった。内心でこれまでにない驚きを隠すので必死であった。
「女の子です」
「もう十歳です」 
 年齢もまた告げられたのであった。
「十歳ですか」
「ええ、そうなります」
「私達も驚きました。まさかその様な娘さんまでおられるとは」
「今も信じられませんが」
 セツはその娘の歳を言われてもまだ信じられないといった顔であった。不可思議な話を聞いて戸惑っているような、そんな顔でいるのであった。
「あの人に。そんな」8
「ですが真実ですので」
「それでです」
 夫の同僚達はここで話を変えてきた。
「その娘ですが」
「母親も亡くなりまして」
「火事でですね」
「ええ、そうです」
「不憫なことに」
 セツも話を聞いて不憫だとは思った。しかしそれは自分が関わりないならばであった。今はどうも複雑な気持ちであった。何故なら彼女も知らないところで夫がもうけた娘だったからだ。
「保護する人がいませんので」
「どうするべきか」
「どうするべきかといいますと」
「娘さんの名前はカヨといいます」
「カヨですか」
「はい、そういうのです」
 名前もまたわかったのだった。カヨというその名前もまたわかったのだった。
「そのカヨちゃんは」
「最早身寄りもなく」
「このままでは」  
 彼等は話を続ける。まるで答えをセツに求めているかのようだった。セツも彼等が何を言いたいのかおおよそ察しがついていた。しかし答えることはできなかったのだ。
「私に言われましても」
「ですが奥様」
「その娘は。もう身寄りが」
「その女中さんでしたね」
 夫の愛人だったというその女について言及した。
「その方がおられるのではないのですか。誰か親族が」
 そちらに引き取ってもらいたいというのだ。しかしであった。夫の同僚達はそれについては完全に否定してしまったのだ。
「それがですね」
「その人にも身寄りがなくて」
「天涯孤独なのです」 
 このことを言うのであった。
「探してみたのですが」
「これが」
「誰も。いないのですか」
「そうです」
 そうなのだった。これまたセツにとっては思わぬ言葉であった。
「誰も。身寄りはいなくて」
「それでですね。奥様さえ宜しければ」
「また随分なことを仰りますね」
 表情は変えないが声は不機嫌なものであった。
「私に。妾の子を引き取れとは」
「少しだけでいいのです」
「そう、一時だけでも」
 彼等はここで必死な様子を見せてきた。
「預かって頂ければ」
「その間に私達が何とかしますので」
「一時ですか」
 この言葉に心を動かされなかったというのは嘘だった。
 

 

第二章


第二章

「一時だけでもなのですね」
「そう、それだけでもいいですから」
「どうか。御願いします」
「それでしたら」 
 今の言葉でやっと頷くセツだった。
「少しだけでもこの家に置きましょう。いいですね」
「はい、どうかその様に」
「御願いします。それでは」
 こうしてそのカヨという娘はセツの家に来ることになった。来たその娘は小柄で黒目がちの可愛らしい女の子だった。髪は烏の濡れ羽の如くであり実に美しい。着ている服は赤い着物であった。それを見ているとセツは店によくある日本人形を思い出したのであった。
「この娘です」
 夫の同僚達が一緒に来ていた。そのカヨという娘の横にいた。しかも二人で。
「坂本カヨといいます」
「さっ、カヨちゃん」
 同僚の一人が優しく彼に声をかける。
「奥様に挨拶をして」
「さっ、怖がることはないから」
「は、はい」
 ここでカヨとおどおどと彼等に応えた。かなり内気で大人しい感じだ。それにその物腰が女の子らしくやけに優しいものだった。それを見てセツは今まで警戒していた気持ちが少しだけ和らいだのだった。だがその少しだけが実に大きなものになるのだった。
「怖がることはないのよ」
 自分でも驚いた。言葉が自然に出たからだ。
「カヨちゃんね」
「は、はい」
 やはりおどおどとしながらセツに答える。
「カヨです。私は」
「この家に暫くいるのよね」
 穏やかな顔でカヨに問うのであった。
「カヨちゃんは。そうよね」
「そう言われていますけれど」
「そうよ。もう部屋は用意しておいたから」
 これまた自然に出た言葉であった。また顔も優しげに微笑んでいる。この表情もまた彼女自身が予想だにしないものであった。自然となったものだったのだ。
「すぐに入ればいいわ。それで暫くは二人で」
「二人で」
「この家で暮らしましょう。いいわね」
「御願いします」
 ここでカヨは深々と頭を下げるのだった。
「どうか」
「他人行儀はいいから」 
 こうも言った。
「それもね。気にすることはないのよ」
「何か違うな」
「そうだな」
 夫の上司達は二人の、とりわけセツの言葉を聞いて囁き合うのだった。最初にセツに話をした時とは彼女の態度が全く違うからだ。だから戸惑うのも当然だった。
「何か。あの時と」
「いや、今急に変わったぞ」
 何故それが変わったのかまではわからない。だがその変わった様子を見て言うのだった。セツはその間にもその急に変わった様子でカヨに言うのであった。
「そういうことだから。二人でね」
「はい」
 こうして彼等の戸惑いをよそにカヨはセツに迎えられた。カヨは人見知りし気の弱い女の子だったがその心根は奇麗で優しく気のつく娘だった。家事もそつなく進んで行いセツも驚く程だった。何時の間にか二人は食事も向かい合って摂り一緒の部屋で並んで眠るようになった。まるで親娘の様に。
 この日もそうであった。夏の暑い日だったので素麺を食べている。窓の方の風鈴の音と蝉の鳴き声を聞きつつガラスの器に入れたその素麺を向かい合って食べている。これはカヨが作ったものである。
 

 

第三章


第三章

 そのカヨが作った素麺を食べながら。セツはふと彼女に声をかけてきたのだ。
「カヨちゃん」
「はい」
 カヨはすぐにセツに応えてきた。大人しく静かな声で。
「何ですか?」
「このお素麺美味しいね」
 にこりと笑ってカヨに言った。
「カヨちゃんのお素麺どんどん美味しくなっているよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。けれどお湯を沸かしてそれから作って」
 当然竈で作ったのである。カヨはそうしたことも得意だったのだ。
「暑かったろうね。大丈夫かい?」
「それは別に」
 カヨはこう答えた。この答え方は実はいつものことだった。
「何ともないです」
「大丈夫なんだね」
「はい」
 そしていつも頼りなく何処かおどおどしているように答えるのであった。もう一緒に暮らして結構経つというのに。暫くと言われたがもう暫くといってもいい時間は経っていた。
「ずっとやってきましたから」
「ずっとっていうと」
「お母さんと一緒の時からです」
 こう答えたのだった。
「お母さん身体が弱くなって。それで私が作って」
「お母さん身体が弱かったんだね」
「ええ」
 またセツの言葉に頷いてきた。これはセツにとっては初耳であった。それで内心戸惑いを覚えつつもさらにカヨに対して尋ねるのであった。素麺を啜りつつ。素麺は冷たい井戸の水によって冷やされとても美味かった。それを箸ですくってつゆにつけて食べているのである。
「急に心臓が悪くなって。それで」
「そうだったのかい」
「お父さんは心配してくれたけれど。結局」
「何時から悪くなったんだい?」
「私が小さい時にです」
 俯いてセツに答えてきた。まるで表情を悟られまいかとしているかのように。
「前から身体が弱かったそうだけれど」
「身体が弱かったねえ」
「お父さんは言いました」
 正直カヨからお父さんという言葉を聞くのには抵抗があった。他ならぬ彼女の夫だからだ。だがそれでも話を聞いた。カヨの言葉から耳を離すことができなくなっていたのだ。
「お母さんは身体が弱くて一人身だから。それで」
「それでなんだね」
 どうして彼女を妾にしたのかこれでわかったのだった。
「そう言っていました。お母さんは私が産まれてから余計に身体が弱くなってそれで」
「成程ねえ」
 そこまで聞いた。聞き終えたセツはどうにも自分がこのカヨという娘に対してさらに同情という感情を抱いていることに気付いたのであった。
「そういうことだったんだね」
「私が生まれたせいで」
 カヨの顔がさらに俯く。だが今度は悲しみ故であるのがわかる。
「そのせいで。お母さんは」
「ああ、それは違うよ」
 セツはすぐにそれは否定してみせた。
「カヨちゃん、それは違うよ」
「違うんですか」
「そうだよ。人間っていうのはね」
 まずは自分が持っているお椀の中の素麺を全部すすった。そのうえで奇麗にしてからまたカヨに対して話すのであった。
「生まれて駄目っていうのはないんだよ」
「それはないんですか」
「そうだよ。だってそうじゃないか」
 真面目にカヨに話す。姿勢は元々正座で礼儀正しいものであったがそこで両手を膝に置いた為にそれは余計に引き締まるのであった。
「世の中生まれたくても生まれられなかったりするもんだよ」
「生まれたくても」
「生きたくても生きられない子もいるんだよ」
 当時まだ子供の死亡率は高かった。シャボン玉の歌は生まれてすぐに死んでしまう子供のことを歌ったのである。まだそんな時代だったのだ。
「それでもカヨちゃんは生まれてきたね」
「はい」 
 セツの言葉に弱々しく頷く。
「それで生きてきてるね。今もね」
「そうですけれど」
「誰だって生きていいんだよ。それは間違えちゃ駄目だよ」
「そうなんですか」
「あんたのことはね。知ってるよ」
 言葉が少し穏やかになった。語る顔も微笑んでいる。
「うちの人の子供で。お母さんも」
「ええ」
「けれどね。そんなことはどうでもいいんだよ」
 自分でも出て来たのが不思議な言葉であった。
「そんなことはね。いいかい」
「はい」
 またセツの言葉に頷いてきた。今は彼女の顔をじっと見てきている。
「あんた、生きなくちゃ駄目だよ。胸を張ってね」
「胸を張ってですか」
「あんたに何か言う奴がいたらあたしが許さないから」
 これは啖呵だった。
「これはよく覚えておいで。妾の子なんてのも言わせないから」
「けれど私は」
「世の中一杯いるさ」
 またしても啖呵であった。
「妾の子なんてね。それがどうしたんだい」
「どうしたんだいって」
「あんたはうちの亭主の子さ」
 もうそれでいいと思った。だからこそ出た言葉であった。
「それだけさ。いいね」
「はい・・・・・・」
「わかったら胸張って食べるんだよ」
 こう言い聞かせてまた食べるように勧めた。
「折角あんたが作ってくれた美味しい素麺なんだ。あんたが食べなくてどうするんだい」
「わかりました。それじゃあ」
「何だったらずっといていいんだよ」
 これまた自分でも内心驚いた言葉であった。
「この家にね。ここにいる限り下手なことはさせないし言わせないしね」
「ここにいればですか」
「私だってね。覚悟はあるんだよ」
 もう素麺を取っていた。それを自分のお椀のつゆにつけながらカヨに語る。
 

 

第四章


第四章

「それだけの覚悟はね。まあこの話はこれまでだよ」
「これまでですか」
「そうだよ。少なくともあんたには変な心配はさせないからね」
「有り難うございます」
「他人行儀だねえ。御礼なんていいんだよ」
 どうしても言葉が自然に出てしまうのであった。
「ほら、さっさと食べな」
「お素麺ですか」
「他に何があるんだい」
 確かに他には何もない。それ以外に何の食べ物はない。これで他に何を食べろというのかというと言われてみれば確かに他にはないのだった。
「折角あんたが作ったお素麺だ。食べてしまいな」
「はい」
「まあついでだから言うけれど」
 さらにその素麺を食べながらカヨに話す。
「あんたさえよければね」
「私さえよければ」
「このお素麺ずっと食べていいんだよ」
 今は素麺はお椀の中になかった。丁度全部食べてしまっていたのだ。
「ずっとね。何だったら冬には鍋でもいいしね」
「お鍋も」
「あんたお鍋も作れるよね」
「ええ、それも」
 作れるのだった。まだ小さいのに料理上手なカヨであった。
「できますけれど」
「だったらあんたが思うのならいていいよ。こっちも一人で御飯食べるのは寂しいからね」
「いいんですか?セツさん」
 戸惑った様子でセツに問うのだった。
「そんなこと。本当に」
「いいよ、本当にね」
 気風のよい声で答えてみせた。
「だから。二人で食べていいんだよ」
「それじゃあ」
「あくまであんた次第だけれどね」
「わかりました」
 この日から数日後夫の同僚達が来たがセツはカヨを引き取ると告げた。カヨもまた彼女の言葉に頷くのだった。こうして話は決まった。カヨはずっとセツと一緒に暮らすことになった。二人の生活は慎ましやかであるが清潔で物静かであり二人はそのまま数年を過ごした。カヨは尋常学校から女学院に進み無事卒業式を迎えた。卒業してから数日経って家で家事をしていると。家に若い軍服の男がやって来たのであった。
「お邪魔します」
「はて」 
 居間にいたセツがその声を聞いて顔をあげた。彼女は丁度裁縫をしていた。カヨは廊下を水拭きしていた。掃除も奇麗にしているのであった。
「あの軍服は」
「はい、あれは」
「陸軍さんのだね」
 言わずと知れた大日本帝国陸軍である。当時の国民から見れば彼等はまさに英雄であった。仲の悪かった海軍もそうだが誰もが憧れる対象だったのだ。
「はて。陸軍さんに知り合いはいないんだけれど」
「またどうしてでしょうか」
「それがわかれば苦労はしないよ」
 裁縫道具をなおしながらカヨに応えた。カヨもカヨで雑巾をしまっていた。
「うちの人は内務省だったしね」
「そうですよね。それでまた」
「誰かおられませんか」
 またその軍人が言ってきた。
「小野田少尉ですが」
「少尉さんかい」
 セツは彼の階級を聞いてこう声をあげた。
「若い人だし。だとすると」
「士官学校を出られた方でしょうか」
「だろうね。市ヶ谷の人かい」
 当時陸軍士官学校は市ヶ谷にあった。その為士官学校卒業者はこう呼ばれたのである。なお当時陸軍士官学校に入ることは東京帝国大学に入ることより困難であった。まさにエリート中のエリートだったのだ。そして陸軍自体も規律厳正であり尚且つ公平な組織ではあった。確かに年功序列や官僚主義等問題があったにしろだ。そうした清潔極まる組織であったのは確かである。人を見る目に関しては甚だ疑問であったが。
「これまた随分な人だねえ」
「憲兵さんですか?」
「憲兵さんが来るような悪いことはしていないよ」
 その自覚はあるセツだった。憲兵は悪い奴をやっつけるものだとおぼろげに思われていた時代である。多分に融通は効かないのは確かだが。
「お金はないけれどね」
「兵隊さんはお金欲しがりませんしね」
「そうだね。じゃあ何で来てるんだろうね」
「おられませんか」
 またその少尉が言ってきた。
「どなたか」
「います」
 カヨがその軍人の声に応えた。
「どなたですか?」
「おられるのですね」
「はい」
 また随分と律儀な言葉のやり取りであった、
「今そちらに伺います」
「あっ、待ちな」
 ここでセツも応えた。
「私も行くから」
「セツさんもですか」
「陸軍さんでもね。男の前に若い娘が一人で出るのは危ないよ」
 そういう用心が為されていた時代である。
「だから。私も行くよ」
「すいません」
「だから。謝らなくていいって言ってるだろ」
 カヨのこうした性格は今もそのままだった。やはり内向きで引っ込み思案な娘のままだった。
「こんな時はね」
「そうでしたね。それは」
「だから一緒に行くよ」
「はい」
 こうして二人で玄関に出た。玄関には長身ですらりとした身体を陸軍の軍服に身を包んだ精悍な青年がいた。引き締まった顔立ちに短く刈った髪がよく似合っている。そんな若者だった。
 

 

第五章


第五章

「小野田哲郎といいます」
 彼はまず深々と頭を下げて一礼してきた。
「大日本帝国陸軍少尉です」
「陸軍の方ですね」
「そうです」
 セツの問いにはっきりと答えてきた。どうやら陸軍軍人であることに強い誇りを持っているようである。
「この度こちらの家に用件があり参りました」
「御用件ですか」
「その通りです」
 軍人らしい堅苦しさの強い返事だった。
「お話させて宜しいでしょうか」
「それはいいのですが」
 セツはまずはそれはいいとした。
「ただ」
「ただ?」
「ここでは何です」
 こう小野田に切り出した。
「居間にでもあがって頂けますか」
「宜しいのですか?」
「何、構うことはありませんよ」
 にこりと笑って彼にまた告げる。
「お客様ですから。どうぞ」
「すいません、それでは」
「はい、是非」
 こうして小野田を居間に案内した。セツとカヨは二人並んで正座して座り小野田は二人と向かい合う形で正座している。お茶菓子の羊羹がそれぞれの前にあり小野田の前にカヨが淹れた茶がそっと出されるのであった。
「粗茶ですが」
「抹茶ですね」
「はい」
 物静かに彼に答える。彼女が今淹れた抹茶である。
「いつも淹れています」
「そうですか、いつもですか」
「どうぞお飲み下さい」
 カヨはいそいそと小野田に述べたのだった。
「このお茶を。どうぞ」
「はい、それでは」
 小野田は笑顔で彼女のお茶を受けてそれを飲みだした。その振る舞いは男らしいが礼儀をわきまえたものであり陸軍軍人に相応しいものであった。セツは彼のそんな茶の飲み方を見ながら彼に対して声をかけるのだった。
「それでですね」
「ええ」
「うちに来た御用件は何でしょうか」
 単刀直入に彼に尋ねるのであった。
「何かおありで参られたと思うのですが」
「その通りです」
 ここで彼は一旦茶を己の前に置くのであった。やはり礼儀はわきまえた男らしくも丁寧な動きである。やはり陸軍軍人らしい動きだ。
「実はですね」
「はい、実は」
「娘さんのことです」
「娘といいますと」
 今の言葉でカヨのその目が大きく見開かれたのだった。
「若しかしてそれは」
「はい、貴女です」
 彼はカヨの方をじっと見て言うのであった。
「貴女のことでお話があり参りました」
「この娘のことですね」 
 驚くカヨに対してセツは至って冷静に彼に応えた。顔はじっと彼に向けている。
「来られたのは」
「その通りです。実はですね」
 彼はさらに言ってきた。
「お嬢さんを私に下さい」
 頭を下げてセツに言うのだった。
「お嬢さんを。私に」
「私を・・・・・・」
「この娘をですか」
「そうです」
 必死の決意が顔と目に浮かんでいる。しかしそれを何とか必死に隠して応えるのだった。それだけの勇気があって来ているのであろう。
「それで。こちらに」
「この娘を貴方の奥方にというわけですか」
「駄目でしょうか」
「あの」
 ここで。そのカヨが戸惑い顔を青くさせながら口を開いてきた。そして話すのであった。
「私はセツさんの娘ではないのですが」
「むっ!?」
 今のカヨの言葉に小野田はまず目を瞠ってきた。
「カヨさん、といいますと」
「私の名前は御存知なのですね」
「ええ、勿論です」
 毅然としてカヨに答えるのだった。
「女学校に通っておられた時から」
「その時からでしたか」
「お噂はかねがね聞いていました」
 微笑んで彼女に告げる。
「その御気性も。今のお茶の淹れ方一つを取っても」
「お茶は」
「いえ、御見事です」
 カヨに対して述べるのであった。
「こうしたことまで御聞きしていましたが。噂ではありませんでした」
「この娘はいい娘です」
 セツが言い出せないでいるカヨに代わって答えた。
「お茶だけでなくお花も家事も全てできます」
「そうですね。本当に素晴らしい」
「それでこの娘のことですね」
「はい」
 また答える小野田であった。
「ですからカヨさんを。娘さんを」
「私はできません」
 またカヨが言ってきた。真っ青な顔で。
「どうしてですか」
「何故なら。私は」
「私は?」
「セツさんの娘ではなく。妾の子なのですから」
 このことを小野田に言うのだった。結婚を言われたがそれでもこのことを隠せなかったのだ。どうしても隠すことのできない生真面目な性分だったのだ。
 

 

第六章


第六章

「ですから。小野田様の様な方とは」
「それは」
「ですからすいません」
 震える声で言うのだった。
「私は。とても」
「小野田様」
 セツがここでまた口を開いてきた。
「はい?」
「言わないでおこうと思いましたがその通りです」
 まずはカヨの今の言葉を事実と告げるのだった。
「この娘は私の娘ではありません」
「左様ですか」
「腹を痛めて産んだ子ではありません」
 こうも言う。
「ですが。私の娘です」
「えっ!?」
「セツさん、それは」
「カヨさん」
 厳かな声をカヨにかけた。目もまた厳かなものになっている。
「貴女は静かにしておきなさい」
「ですけれど」
「母親の言葉です」
 今度は自分が母だとさえ言った。言い切ってみせた。
「いいですね」
「母親の、ですか」
「その通りです」
 今度はカヨだけでなく小野田にも言った言葉であった。
「ですから御聞きなさい。いいですね」
「わかりました」
「それでは」
 カヨも小野田も彼女の気迫を前に頷くのだった。そうして頷くとまた。セツが言うのであった。
「それでです」
「はい」
「娘は確かに妾の子と言われています」
 このことをあえてまた言ってみせるのだった。しかしそこには蔑みも哀れみもない。毅然としてカヨを見据えた上での言葉だったのである。
「ですが。だからといって娘を蔑んだり哀れんだりしませんね」
「それはないです」
 小野田ははっきりと言い切ったのだった。
「私も百姓のしがない息子。碌に米も食べられない家で育ちました」
「左様ですか」
「はい、貧しいものでした」
 陸軍士官学校にはそうした出の者も多かったのだ。この傾向は海軍よりも強く陸軍将校には華族出身者も皇族の方々までおられたがそれと共に貧しい農村の出身者も多かったのである。その中には朝鮮半島出身者もいた。陸軍中将にまで昇進した半島出身者さえいる。
「米よりも麦や雑穀を食べていました」
「それ程ですか」
「東北の貧しい村でして」
 当時東北はそうした村も多かったのである。
「市ヶ谷に入るまでは。白米なぞ滅多に食べられませんでした」
「苦労をされたのですね」
「生まれは決してよいものではありませんでした」 
 だからといってそれを蔑んでいる様子はなかった。
「育ちも。ですから」
「娘を蔑みも哀れみもしないのですね」
「士官学校の同期にもいました」
 このことさえ言うのだった。
「妾の子なぞ。何が」
「陸軍は。そういうことにはあまりこだわらないと聞いていましたが」
「陸軍です」
 小野田の言葉は絶対の自信をもとにした断言だったがこれには裏付けがあった。陸軍という組織はとかく平等思想が強かったのだ。同時に正義感もかなり強くこれが帝国陸軍軍人の性質の大きな特徴となっていたのである。
「能力があればその様なことは」
「では娘は」
「はい、構いません」
 今度も断言であった。
「お嬢さんを是非。私に下さい」
「セツさん・・・・・・」
「母と呼びなさい」
 まだおどおどとした様子のカヨに対して告げた言葉はこうであった。
「よいですね」
「お母様・・・・・・」
「そうです」
 反論は許さない。そんな言葉であった。その言葉をカヨに告げたのである。
「それでカヨさん」
「はい」
 話が最初から仕切りなおされカヨはセツの言葉に頷くのだった。
「貴女はどう考えていますか」
「私ですか」
「この方は貴女を妻に欲しいと言っています」
 このことをはっきりとカヨにも言うのであった。
「それに対して貴女は。どう思っているのですか」
「私はです」
「貴女は?」
 答えるように少し急かす感じになっていた。
「私を見て頂いて。そうして言って下さっている言葉でしたら」
「左様ですか」
「ええ」
 セツの言葉にこくりと頷いてみせた。静かに。
「そして。妾の子でも構わないと心から仰っているのなら」
「それは御安心なさい」
 またしても言葉が毅然としたものになっていたのだった。
「この方は嘘を申してはいません」
「そうなのですか」
「目です」
 セツが言うのはそこであった。
「あの方の目を。御覧になればわかります」
「小野田様の目を」
「いい目をしておられますね」
 セツの言葉の通りだった。確かに小野田の目は清く凛とした強い光を放っている。そこには何の淀みも曇りもない。セツはその目を見て彼を確かめたのである。
 

 

第七章


第七章

「それは貴女にもわかりますね」
「はい、それは」
「では。貴女の思うようにするのです」
 母親としての言葉をまたカヨに告げた。
「堂々と。胸を張って」
「お母様、それでは」
「娘によき夫を薦めるのは母の務め」
 また母という言葉が出された。
「だからです」
「有り難うございます」
「それでは小野田様」
 また小野田に対して声をかけてきた。相変わらず顔は正面の彼を見たままであった。
「娘を。宜しく御願いします」
「はい、こちらこそ」
 頭を垂れてきたセツに応えて彼もまた頭を垂れるのだった。
「必ず。娘さんを」
 こうしてカヨは小野田の妻となることになった。昭和の初期、今となってはもう昔の話である。小野田とカヨが結婚したその時の写真を見て小さい女の子が母親に尋ねていた。
「この写真って誰と誰なの?」
「佳代子のひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんよ」
 母親は優しい声で娘に答えた。写真は壁に飾られている。
「これはね」
「そうだったの」
「お母さんのお爺ちゃんとお婆ちゃんになるわね」
「お母さんのお爺ちゃんとお婆ちゃんになるのね」
「そうなのよ。佳代子は会ったことはないわよね」
「うん」
 お母さんの言葉にそのまま答えるのであった。
「だって。私が生まれる前に二人共死んだのよね」
「そうよ。お爺ちゃんは戦争で片腕を失くしてね」
 このことも娘に対して言うお母さんであった。
「それからもずっと頑張っていたけれどお母さんが中学校に入る時に」
「死んだの」
「そうよ。お婆ちゃんはお母さんがお父さんと結婚したすぐ後に」
 死んだというのだった。つまり佳代子が二人を知っている筈はないのだ。
「だからね。佳代子が知らなくても不思議じゃないのよ」
「そうだったの」
「いい人達だったわ」
 懐かしむ顔で述べた言葉だった。
「とてもね。優しくて心が奇麗で」
「心が奇麗だったの」
「そうよ。本当にいい人達だったわ」
 このことをまた佳代子に語ったのだった。
「佳代子の名前はね。そのお婆ちゃんから取ったのよ」
「私の名前もなの」
「お婆ちゃん、佳代子のひいお婆ちゃんの名前はカヨっていったの」
「カヨ・・・・・・」
「そう、小野田カヨ」
 名字まで佳代子に教えた。
「そういったのよ。これがひいお婆ちゃんの名前よ」
「小野田カヨなのね」
「そうよ。ひいお爺ちゃんは軍人さんだったのよ」
「軍人さんだったの」
「自衛隊の人いるわね」
「うん」
 自衛隊についてはテレビ等で少しずつ観て聞いていた。しかし彼女にとってはこうした存在でしかなかったのである。
「お祭りとか開いたり地震が起こった時に私達を助けてくれる人達のこと?」
「ふふふ、間違いじゃないわ」
 娘の今の言葉を否定はしないお母さんだった。
「確かにね。それが仕事だからね」
「そうなの」
「けれど。人を守るのも仕事だから」
 戦うことをこう言い替えて娘に教えた。
「ひいお爺ちゃんは人を守る為に戦ってきたのよ」
「偉い人だったんだ」
「偉いのは。心だったの」
 それこそが偉かったのだとまた娘に教えた。
「そのひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんがねお母さんが小さい頃に教えてくれたことがあるのよ」
「何なの?」
「人の心を見なさいってことよ」
 このことを今佳代子に教えたのだ。
「人の心をね。顔や生まれや立場じゃなくてね」
「心を見るのね」
「そうよ。ひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんもそれを教えてもらったのよ」
「誰に?」
「ひいお婆ちゃんのお母さんよ」
 優しい声で娘に語った。
 

 

第八章


第八章

「その人に教えてもらったのよ」
「その人になのね」
「ええ」
 また娘に対して頷いて答えた。
「それでひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんが結婚できて今お母さんと佳代子もここにいるのよ」
「そうだったんだ」
「だから。佳代子も覚えておいて」
「人の心を見ること?」
「そうよ。大人になったらわかるけれど」
 お母さんの言葉が真面目なものになる。
「人はね、心以外にも一杯色々なものが付くから」
「御顔とか?」
「それだけじゃないわ」
 先程も出たことだがそれでもあえて佳代子に教えるのであった。
「他のことも。その」
「生まれや立場とか?」
「他にも一杯あるわ。確かにそういうのはあるわ」
 これは認めるのだった。
「けれど。見なくちゃいけないのはまず」
「心なのね」
「だからひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんは結婚できてお母さんと佳代子がいるから」
「だからなのね」
「そう、大切なのは心」
 くどいまでに娘に告げる。
「それだけh。覚えておいてね」
「うん」
「わかってくれたらじゃあ」
 穏やかな微笑みになってまた娘に告げたのであった。
「おやつにしましょう」
「今日のおやつは何?」
「お饅頭よ」
 娘に笑って教えた。
「お母さんがお婆ちゃんに教えてもらったお饅頭よ」
「ひいお婆ちゃんが教えてくれたのね」
「ええ、そうよ」
 そうなのだった。お菓子にしろ伝えられるものであった。今お母さんはそのことも佳代子に対して教えていたのである。お菓子一つ取っても。
「これもそうなのよ」
「そうなの。ところで」
「何?」
「ひいお婆ちゃんのお母さんがひいお婆ちゃんに教えてくれたのね」
「そうよ」
 このこともまた佳代子に答えたのだった。
「お母さんにとってのひいお婆ちゃんがね。お母さんが生まれる前に死んでしまったけれど」
「もういないんだ」
「いないけれど言葉は生きてるわ」
 こう娘に答えるのであった。
「だから同じなのよ」
「同じなの」
「人は死んでもその心や言葉は生きるのよ」
 教えることがまたあったのだった。
「それも覚えておいてね」
「うん。それでね」 
 それも聞いたうえでまたお母さんに尋ねる佳代子であった。
「そのひいお婆ちゃんのお母さんの名前は何ていうの?」
「確かセツっていったわ」
「セツさんなのね」
「そう、脇田セツ」
 また名字まで娘に教えたのであった。
「写真は。ええと」
「あの人?」
 佳代子が壁のある一点を指差した。そこには和服を着た如何にも生真面目そうな女の人が毅然とした顔でそこにいたのであった。
「あの人かしら」
「そう、あの人よ」
 お母さんは佳代子の今の言葉に頷いた。
「あの人。あの人がひいお婆ちゃんのお母さんよ」
「あの人がなの」
「そう、あの人が脇田セツ」 
 名前がまた言われる。
「あの人が最初に佳代子のひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんに教えてね」
「それでその言葉でひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんが結婚して」
「ええ」
 言葉が繰り返された。
「お母さんも佳代子も生まれたのね」
「そうよ。だからね」
 また優しい声で娘に言う。
「ひいひいお婆ちゃんの言ったこと。よく覚えておくのよ」
「うん」
 佳代子はお母さんの言葉に頷いた。そうして写真の中にいるセツを見上げた。写真の中のセツは相変わらず真面目な顔をしている。しかしその顔が何処か微笑んでいるように見えたのだった。お母さんとそして佳代子を見ながら。優しい微笑みで。


妾の子   完


                  2008・8・24