【ヒカ碁】神様にお願いしたら叶っちゃった件


 

①プロローグ

 佐為が消えた。
 考えつく限り、佐為のいそうなところ全て探した。

 どこにもいなかった。

 最後に辿りついたところは今まで存在すら知らなかった、棋院のとある一室。
 そこには昔の棋譜がたくさん保管されていて、秀策――佐為の棋譜もあった。

 オレは今の佐為を知ってるんだから、昔の佐為なんてどうってことない……そう思いながら手に取った棋譜の、その予想をはるかに超えた素晴らしさに思わず見入ってしまった。

「アイツ……天才だ。 ……もっとアイツに打たせてやれば良かった……」

 胸を占めるのは後悔、後悔、後悔――

「バカだオレ――バカだっ!」

 視界が涙でぐにゃりと歪み、慌てて拭うが、次々に涙があふれて止まらない。

「佐為に打たせてやればよかったんだ。 はじめっから……! 誰だってそう言う。 オレなんかが打つより佐為に打たせた方がよかった! 全部! 全部! 全部!!」

 塔矢だって、行洋先生だって、院生時代からの仲間だって、オレなんかより佐為と打ちたかったはずだ、佐為の碁をもっと見たかったはずだ……!

「オレなんかいらねェ! もう打ちたいって言わねェよ! だから――」

 どうか、どうか――!

「神様! お願いだ! ――初めに戻して!」

 次は間違えない、間違えないから――

「アイツと会った一番はじめに、時間をもどして!!」




 ……一瞬、室内を静寂が支配する。

「――っ」

 そうだ、どんなに望んだって、叶わない――そんな都合の良い奇跡、あるわけ無い。
 オレがどれ程絶望しようと、血を吐くような思いで神様に祈ろうと、世界は何も変わらずただあり続けるだけ。

 ――……オレは、佐為を失ったんだ。

「う、わああぁあああああぁああああああああああああああああああああっ、あぁあ……?」

 恥も外聞も無く泣き叫ぶヒカルの視界が、涙で歪む以上にぐにゃぐにゃと歪んでいく。
 困惑して目をこすり涙をぬぐうが、視界が治らない。

 とうとう視界がブラックアウトし、オレ、佐為を失ったショックで死ぬのかな、なんて思った時、どこか遠い所から声が聞こえた。

《 O K ! 》


 ハッと気が付いたらじーちゃんの蔵にいた。








 ――私の声が、聞こえるのですか? 

 

 
前書き
佐為の「♡」は原作の表現をそのまま使ってます。 

 
「さ、佐為……?」

 ――え? わ、私を知っているのですか!?

「ほ、本当に……?」
「ヒカル? どうしたの?」

 呆然と立ち尽くしたオレを不審に思ったのか、あかりが心配そうに近寄ってきた。
 しかし、それに構う余裕はない。
 慌てて自分の身体を見下ろせば、やっと成長期が到来して伸びた身体が明らかに縮んでいる。

 じーちゃんの蔵、縮んだ身体、でかくなったあかり、目の前には染みのついた碁盤そして――佐為の声。

「や、やった……よっしゃあぁあああっ!!」
「ヒ、ヒカル!?」

 ――え? え!?

 戻れた、戻れたんだ! 本当に、オレ……!

 どこからか白い紙吹雪がひらひらと舞い始め、佐為の姿がふわりと現れた。
 その表情は困惑を表しているが、探して探して求めて止まなかった姿に情けなく涙ぐんでしまった。

「ああ、神様、神様、神様……ありがとう、本当にありがとう」

 あの『OK!』という声は神様の声に違いない。
 思っていたよりずいぶん軽いが、こんな奇跡を起こせるのは神様しかいない。
 いや、悪魔だって構わない。 また佐為に出会えたのだから。

 オレは両手を広げてふらふらと佐為へ近づき抱きしめた。 勿論、佐為に触れることはできず、その身体はするりとオレに吸い込まれる。
 その途端、オレの身体から力が抜けて床に倒れこんでしまうが、何も問題は無い。
 憑依完了の証だ。

「きゃー!? ヒカルー!?」

(あなたは、私のことを知っているのですか?)

 頭の中に佐為の声が響く。 ずっと聞きたかった、静かで、やさしい声だ。

(知ってる、知ってるよ、オマエのことなら何だって――! 後で全部説明する。 とりあえず、今俺がオマエに言えるのは……いっぱい打たせてやるからなってことだけだ!)
(え♡)

 心の中で高らかに宣言すれば、佐為の喜びの感情が伝わってきて、憑依の影響で力の抜けていた身体が少し楽になった。

(いっぱい打たせてくれるのですか!?♡♡♡)
(ああ、全部、全部、全部、オマエに打たせてやる!)

「おじーちゃーん! ヒカルが大変だよーー!」
「ま、待て……あかり」
「ヒカル!?」

 憑依されるのも初めてじゃないし、佐為と一緒にいる感覚は慣れ親しんだものだ。
 せっかく佐為と再会できたのに気を失ってる場合じゃない!

 オレは気力でよろよろと立ち上がった。

「はぁ、はぁ、俺は、大丈夫だ……!」
「でも、ヒカル、顔が真っ青だよ!?」
「大丈夫だって、言ってんだろっ! むしろ気分サイコーだ!」

 オレはふらつく身体を叱咤し、力を溜めてよいしょっと佐為の碁盤を持ち上げた。
 時間の経過と共に身体はどんどん楽になっていってる。 佐為が喜んでる影響もあると思うけど。

「ヒカル、それ持ってどうするの!?」
「じーちゃんにくれって言いに行く!」
「ええっ! でも染みがついてて売り物にならないんじゃ――」
「はぁ!? 売るわけねぇだろ!?」
「えええ!?」

 この碁盤があれば、染みの濃さで佐為に異変が会った時はすぐに気付ける。
 うっかり見逃すことが無いように、何としてでも貰わないと!

 何やら混乱してるあかりを置き去りにして蔵から出ると、慌てた様子のじーちゃんがいた。

「ヒカル!? 今あかりちゃんの声が聞こえたが――」
「じーちゃん!! この碁盤ちょーだい!!」
「は、はぁ? 何でまた……ヒカル、碁なんか打たないだろ?」
「オレ、囲碁始めたんだ! これから本気で取り組んで、プロを目指す! だから、お願いっ!」
「ヒ、ヒカル、お前いつの間に碁の面白さに目覚めて……! ……っというか、本気か? プロはそう簡単になれるもんじゃないんだぞ」
「本気さ! じーちゃん、俺の目を見て! これが本気じゃない目に見える……!?」
「うぐっ」

 真剣な眼差しでじーちゃんの目を見つめればあからさまにじーちゃんはたじろいだ。 いける!
 じーちゃんは少しの間目を伏せ何事かを考えている様子だった。
 その間にあかりが蔵から出てきてオレの隣に立ち、何事かとじーちゃんとオレの顔を見比べている。
 しばらくして、じーちゃんがゆっくりと口を開いた。

「分かった……そこまで言うのならその碁盤をやろう……」
「ほ、ほんと!?」
「ただし!!」

 カッ!と目を見開いてじーちゃんはオレのことをビシッと指差した。

「ワシが対局でお前の覚悟を試してやる! 情けない勝負になるようであればプロ等夢のまた夢! 碁盤はやらん!!」
「分かった……! 望むところだっ!」

(佐為、早速初対局だぞ!)
(やったぁ!)

●○●

「ありません……」
「ありがとうございました」

 頭を下げたじーちゃんに、オレはぺこりと頭を下げた。

「ヒカルが、囲碁……? ……しかも、良く分からないけど、おじーちゃんに勝っちゃった……?」

 あかりが呆然と呟いている。

「お前、一体いつの間にこれ程の実力を……」

 おじーちゃんも驚愕し、震えている。

(あー……指導碁にしてって言うの忘れてた……)
(……済みません、つい嬉しくて……不味かったでしょうか?)
(いや、佐為は何も悪くない。 オレが言い忘れただけだから)

「実は、碁会所に少し前から通ってて、じーちゃんを驚かせようと秘密にしてたんだ」
「ヒカル……」

 じーちゃんが俯き、震えが強くなった。

(う、言い訳苦しかったか……?)

「お前は、天才だっ!」
「へ!?」
「お前なら頑張れば必ずプロになれるっ!! ワシもプロのことは良く知らんから何とも言えんが、ヒカル程強い打ち手と未だかつて対局したことが無い!! ワシは全面的にお前を応援することにする!」

 どうやら震えていたのは喜びからのようだ。 顔を喜色に輝かせているじーちゃんにほっと息をついた。

「じーちゃん……! それじゃあ……」
「うむ、碁盤もお前にやろう!」
「ありがとーー! じーちゃん大好きっ!」

 碁盤を避けて横からじーちゃんに抱き付き感謝を伝える。

「なに、ヒカルが自分の力で勝ち取ったものだ。 持ってけ持ってけ」

 じーちゃんは、そう言いながらも満更ではなさそうに笑った。

(正確にはオレの力じゃ無いんだけどね)

「じゃあオレ、そろそろ帰るな!」
「なんだ、もう帰るのか?」
「うん、家で色々やりたいこともあるし……あ、碁石も貰っていい?」
「そりゃもちろん……そんなら紙袋に纏めてやろう」

 じーちゃんに碁盤と碁石を紙袋に纏めて貰ったが、取っ手を持つと紙袋が破けそうになったため、抱きかかえるようにして持ち上げた。

「一人で持っていけるか?」
「ら、楽勝楽勝……! じゃあ、またね」
「おう、また打ちに来いよ~」
「え、えと……お邪魔しました……」

 あかりと一緒にじーちゃんちから出て、そこでようやくあかりに向き直る。

「あかり」
「ヒカル……」
「オレ、うちでやることあるからここで解散な」
「え!」
「じゃ、また明日、学校で!」
「ちょ、ヒカル!?」

 オレは碁盤の重さでよろよろしながらも小走りでわが家へと向かった。

(大丈夫ですか?)
(楽勝だって。 うちに帰ったら、オレとも打とうな……)
(ハイッ!♡)

 碁盤は重いが、佐為の魂が宿っている碁盤だと思うとその重みすらも愛おしい。

(本当、夢みたいだ……こんな奇跡があって良いのかな……)
(? ……ええと、ヒカル? であってますか?)
(そう、オレは進藤ヒカル。 帰ったら、全部話すよ。 佐為とオレの関係と、オレが知ってること全部、さ――) 

 

「ただいまー」
「あら、おかえりなさい。 早かったのね……って、それどうしたの?」

 よろよろと家に入り、荷物を玄関に仮置きすると、少しして居間から出てきたお母さんがオレの大荷物に目を丸くした。
 さて、何と言うか……って、そのまま言うしか無いよな。

「碁盤と碁石。 じーちゃんに貰った」
「も、貰った? そんなの貰ってどうするの?」
「実はちょっと前から囲碁始めてたんだけど、本気でやろうと思ってさ」
「囲碁ぉ!? アンタが!? そんなの一度も言わなかったじゃないの」
「別に言う必要無いだろ? もう部屋行くからそこ通して」
「ちょ、ちょっと待って、碁盤なんて貰っちゃって、それ高いんじゃないの?」
「蔵にあった古い奴だからダイジョーブ!」
「大丈夫って――」

 まだ何か言い募ろうとするお母さんを置いてとっとと二階に退散した。
 どうせ後でじーちゃんに電話するんだから、オレが説明するよりじーちゃんに説明してもらった方が手っ取り早いんだ。 その方がお母さんも納得するし、オレの手間も省けて一石二鳥!

 よたよたと階段を登って何とか自分の部屋に到着。
 楽勝とか言ったけど、やっぱ重たい物は重たい。 最後の方はもう腕が震えて大変だったから、やっと降ろせてほっとした。

「あー……疲れた~」
(お疲れ様です)
「おー……。 今対局の準備するからな」
(ハイ! ――でもその前に、ヒカルが何故私のことを知っているのか尋ねても良いですか?)
「ああ、そうだよな。 でも先に碁盤出しちゃうから待ってて」
(分かりました)

 紙袋から碁盤と碁石を出して部屋の中央に置く。
 うん、やっぱオレの部屋はこうじゃないと。 碁盤が無いと妙にしっくりこなくてさぁ。 何だかんだ言って、オレもかなりの碁好きだよな。 佐為には負けるけど。

「おっし。 それじゃあ、何から話そうかな……」

 ぼすんと音を立ててベッドに座り込んだ。
 佐為も床に座ってオレの話を待ってる。

 本当、何から話そう。 オレ自身何が何だかわけわかんなくて、もしかしたら夢でも見てるんじゃないかってくらいなんだから。 さっきの碁盤運びの苦行が無かったら、ここが現実だなんてとても信じられない。 こういうのタイムスリップって言うんだっけ? 佐為といい、なんつーかオレ、そういう星の下に生まれてきたって奴なのかな。 全然良いっていうか、嬉しいんだけどさ。

 どう説明すれば良いのか分からなくて言葉を探しながらだけど、でもこの溢れんばかりの嬉しさを伝えたくて、オレはゆっくりと口を開いた。

「オレは……そう――佐為に会いに来たんだ。神様にお願いして、佐為にもう一度会うために、やり直すために、未来から来たんだよ――」

● ○ ●

(なるほど……つまり、ヒカルにとってここは過去の世界で、あの蔵で私と出会うのは二度目。 そして、元いた未来では私は消えてしまい、私にほとんど打たせなかったことを悔いて未来から過去にやってきた――ということですか?)
「うん。 ま、大体そんな感じかな」

 元々口が上手いほうじゃない。 オレと佐為の関係を全部説明するのは難しくて、話したいことはいっぱいあるのに、佐為への説明は五分くらいで終わってしまった。
 上手く説明できた自信は無いけど、でも重要な所は分かってくれたみたいだから良いかな? オレと佐為の関係なんてのは、またこれから築いていけば良いんだし。

(ふむ……ヒカルは、私が消えた理由に心当たりはありますか?)
「……わかんねぇ。 オレが自分ばっか楽しんで佐為に全然打たせなかったから、愛想尽かされちゃったのかとも思ったけど、オマエそういう奴じゃないし……大体、成仏したのか、碁盤に戻っただけなのかすらもわかんないし……」
(そうですか……。 ――では、私はまた消えるかもしれませんね)
「なっ! ば、バカッ! んなこと冗談でも言うなっ!!」

『ヒカル~? 一人で何騒いでいるの?』

 佐為のあんまりな言葉につい大きな声で言い返すと、下の階からお母さんの声と、トントントンと階段を登ってくる音が音が聞こえてきた。

(やばっ!)

 慌てて立ち上がりドアを開けると階段を登ったところにもうお母さんが立っていた。

「ヒカル。 誰かいるの?」
「な、何でもない! ちょっと学校で嫌な事があってさ、むしゃくしゃして……」
「……本当に?」
「本当だって! 嘘だと思うんなら中見てもいいよ!」

 お母さんがオレの部屋を覗き込み、「あら、本当。 誰も居ないわね」と呟く。

「でも、ご近所迷惑になるから独り言も大概にしないさいよね」
「はぁい、気を付けるよ。 それじゃ、もう良いだろっ」
「はいはい、もう戻りますよ」

 思えば佐為はお母さんに見えないんだし、そんな慌てなくても良かったな。

(済みません、私のせいですね……)
(まったくだぜ……ほんと、勘弁してくれ……オレがどんな思いで過去に戻って来たと思ってんだ。 ああいうこと、もう言うなよな……)

 お母さんが下に降りていくのを確認してドアを閉め、再びベッドに戻り、今度はボフンと倒れこんだ。
 ……オレなんかもう要らない、佐為さえ居れば良い――そう思ったんだ。 本気で。 だからきっと神様も願いを聞いてくれたんだ。 なのに、肝心の佐為がそんな弱気じゃ困るよ。 また過去に戻るとかもう嫌だからな、オレ。 もう一度こんな奇跡があるかだってわかんねぇのに。

(ヒカル……そこまであなたに思って頂いて、未来の私は幸せだったでしょうね)
「え?」
(先ほどあなたの事情を聞いていた時も思いました。 あなたの言葉からは私を思う暖かな気持ちがとても伝わってきた。 そんなにも思われて幸せでなかったはずはありません。 ――でも、だからこそ、私は悲しい)
「悲し、い?」

 身体を起こすと、佐為が真剣な表情でオレを見ていた。 

 

 佐為の、まるで対局時のような真剣さにゴクリと生唾を飲み込む。

(ヒカルは、私が消えたことを自分のせいだと責めているでしょう)
「っ」
(私が何故消えてしまったか、それは分かりません。 ですが、私が消えたせいでヒカルが己を責め、未来を捨てて過去に戻ってきてしまった。 私はそれが悲しくてなりません)
「……じゃあ、オレが間違ってた、っていうのかよ……」
(ヒカル。 私はただ――)

 嫌だ、聞きたくない、聞きたくないっ!

「オレは、間違って無い! だって、こうしてまた佐為に会えたんだ。 それ以上に望むことなんて無い……! それに、佐為が幸せだったかなんてのも、分かんねぇよ……! オレ、自分のことばっかで佐為の話も全然聞かなくて、もうすぐ消えるって佐為は言ってたのに、あり得ないって無視して……あんなに神の一手を極めたがってたのに、極める前に消えちゃったんだぜ……? 幸せだったはず、無いよ……」
(ヒカル……)

 オレは、佐為にまた会えて嬉しかったのに、こんなに、こんなに嬉しかったのに。 佐為は嬉しく無い? 悲しい? そんなの、ねぇよ……。 神様が願いを聞いてくれたってこと自体が正しかったことの証明みたいなもんじゃん。 なのになんで――

 ……あ、そうか。 この佐為はオレと一緒に過ごしてきた佐為と違うもんな。 同じだけど、違う。 オレが佐為にどんな態度とってきたかだって知らないんだ。 だから、そんなことが言えるんだ。

 ――でも、オレに思われて幸せだって言ってくれた。 そう、今のオレは佐為を消しちまったバカな俺とは違う。 佐為を幸せにしてやれるんだ。 そうだ、もう失敗した未来の話はやめよう。 これからの楽しい話をしよう。 佐為に打たせてやりたい奴、佐為と打たせてやりたい奴。 たくさんいるんだ。 佐為。 だから――

「……過ぎた話は、やめようぜ。 もうオレ戻ってきちゃったんだし、未来に帰る方法なんて分かんねぇんだから、さ? これからの話しようぜ?」
(……分かりました。 ただ一つ、私のことで自分を責めることだけはもうやめて下さいね。 過ぎたことと言うのならば――)
「分かった分かった! せっかくやり直せるんだ、今度こそ佐為は消させない。 だからオレが自分を責める必要も無い。 それでいーだろ」
(――……ええ。 しかし、ヒカルは私が消えた理由が分からないのですよね?)
「うん……でも、成功例が一つあるじゃん」
(成功例? ……虎次郎のことですか?)
「そ! 虎次郎の時は、虎次郎が死ぬまで佐為は消えなかったんだろ? 消えても碁盤の中で寝てただけで、本当に消えたわけじゃなかった……それが佐為にとってもオレにとっても理想だと思うんだ。 オレの寿命が来るまで佐為が隣にいて、もしまだ神の一手を極められてなくてもまた碁盤か何かに憑いて次の奴を待てる。 うん、完璧! だからさ、虎次郎のマネをすれば良いんじゃないかって思うんだ!」
(虎次郎のマネ、というと……他の者との対局は全て私が行うということですね。 しかし、ヒカルはそれで良いのですか? ライバルだっていたのでしょう?)
「オレはいーの。 佐為とだけ打てれば満足なんだから。 ライバル……も、いたけど、そいつも俺より佐為と打てた方が絶対喜ぶし。 最初の頃に佐為と打たせてやったんだけど、すっかり佐為に夢中になっちゃってさ。 オレが『打たない』って言ったら佐為と打つ為だけに囲碁部に入って部活の大会に出てきたんだぜ? でも結局、オレがダメにしちゃって……。 だから、そいつには特に佐為と打たせてやりてぇんだ」
(でも、ライバルだったのでしょう?)
「……ま、オレはそう思ってたけど。 そいつがどう思ってたかは知らねぇし……佐為と居続けられるんならそいつと二度と打てなくたって良いんだ。 佐為がいるだけでオレ、幸せなんだから」

 佐為を諭すように、満面の笑みを浮かべるが、佐為の表情は複雑そうだ。

 どうも佐為は自分のせいでオレが過去に戻ってきてしまったって引け目を感じてるっぽい。
 んなこと気にしなくて良いのに……塔矢にだって、未練は無い。 ――最後まで勝てなかったのは、ちょっと悔しいっちゃ悔しいけど……でも佐為と居られることと比べれば全然大したことじゃないんだ。 心で会話できるんなら、そういう思いも一緒に伝わってくれれば良いのになぁ。

 ふと、佐為が妙案を思いついた! というように顔を明るくさせた。

(では、その者に私のことを打ち明けてはどうでしょうか!)
「へっ!? 塔矢に?」
(トーヤ、と言うのですね。 そのトーヤに、私の存在を打ち明け、私とヒカル、両方と打って貰えば良いのですよ!)
「……はは、ばっかだなぁもぉ。 オレ、碁の滅茶苦茶強い幽霊に取りつかれてるんです~なんて信じる奴いねぇよ。 オレの碁を、ふざけてわざと弱く打ってるなんて思われたくないし……」
(ならば、ヒカルもトーヤを圧倒できるくらい強くなれば良いのです! そうすればふざけて打ってるなどとは言われないでしょう?)
「それはっ! ……そうかも、だけど……」
(でしょう!? そうと決まれば早速修行あるのみ、ですよ! 私とヒカルは師弟関係だったのでしょう? 安心して下さい、これからもみっちり鍛えてあげますから!)

 佐為が勢いよく立ち上がり、何かを決意したような輝く眼差しで天井を見上げている。
 ……って、塔矢に打ち明けんのはもう決定なのか!?

「ちょ、ちょっと待てよ、オレ塔矢に打ち明けるって言ってないぞ!?」
(ええい、弱気は情けないですよ! 信じざるを得ない程にヒカルが強くなれば良いだけです! そもそも今のトーヤはヒカルのいたころよりもずっと幼いトーヤなのでしょう!? 過去のライバルにすら勝てないなど、師匠として許しませんよ!)
「か、勝てねぇなんて言ってねーよ! ただオレは――」
(では、勝てるのですね!?)
「か、勝てるさ! ……あ」

 佐為がフフン、と勝ち誇ったように笑い、言った。

(では、決定ですね)
「……はぁぁ、分かったよ。 もう……どうにでもなれだ」

 何か佐為に妙なスイッチ入っちゃったな……ま、オレのことでうじうじしてる佐為を見てるよりは今の佐為の方がずっと良い。

 別にオレは、昔の塔矢に負ける気なんか無い。 というか、絶対に勝って見せる……! 本当ならもうすぐ塔矢と対局するはずだったし、それだってオレは負けるつもりなんか全然無かった。

 でも、佐為と比べられるんだろ? 俺だって棋士だ。 手加減してるだけだなんて、オレの碁をそんな風には絶対に思われたくない。 でも、幽霊なんて普通だったらあり得ないようなものを信じさせるほどの実力ってどんな実力だよ……そこまでの実力をオレは持てるだろうか……。

(さ、ヒカル! 早く打ちますよっ!)
「はいはい。 それじゃあオマエ反対側に座れよな。 その方が気分出るから……あと、打つ所は口じゃなくて扇子で指して」
(わかりました!)

 嬉しそうに碁盤の前に座る佐為を見て、オレもふと頬が緩む。

 まあ、折角オレのこと鍛えるって燃えてるんだし、わざわざ水差すような真似しなくていいよな。 別に、すぐに暴露するってわけじゃないんだから。 佐為が楽しければそれでいい。

(石は何子置きますか?)
「互先だっての! で、オレが黒。 それじゃあ早速……」

「(お願いしますっ!)」

『ヒカル~! ご飯よ~!』

 ズコー!

(ちょ、母さん空気読んでよ!)
(まったく、これから打とうという時に……!)

 佐為と二人してひっくり返り、顔を見合わせて、つい吹き出してしまった。
 ……でも、こんな時間がずっと続けば良い。

 ――これがオレの幸せだ。 

 

「じゃ! また明日、学校で!」

 そう言ってフラフラと走りだしたヒカルを、藤崎あかりこと私は唖然と見送ることしかできなかった。
 ヒカルの様子は普通じゃなかった。 でも、どうしてそうなったのか分からない。

 分からないから――怖い。

 真冬の寒さからだけでは無い寒気に、私は二の腕を擦り、とりあえずヒカルがおかしくなった状況を振り返ってみることにした。

 ヒカルに誘われ、共にヒカルのおじいちゃんのお蔵に入り込んだのが始まり。
 ヒカルのいたずらに付き合わされることは良くあって、あまりにも度が過ぎるなら私が止めなくちゃと思ってついて行ったのだ。

 そして、ヒカルがおかしくなったのは古い碁盤を見つけてから。
 突然、ありもしない碁盤の汚れとやらを必死に擦りはじめ、居もしない誰かの声を聞いたとあたりをキョロキョロし始めたのだ。

 最初は怖がる自分をからかっているのだと憤慨して帰ろうとした。 もちろん、本当に帰るつもりは無かったけれど、背を向けて帰る素振りをすればすぐに笑って冗談だと言ってくれると思ったのだ。

 けれど、期待した言葉は掛けられず、代わりにヒカルが発した言葉は多分誰かの名前。
愕然としたような震える声で囁かれた『さい』という人は一体誰なのだろう。

 その声があまりにも普通では無かったから、本当に誰かいるのかもしれないと思って思わず振り返ってしまった。 やっぱり私には誰も見えなかった。
 でも、ヒカルはまるでそこに誰かがいるかのように身体を震わせながら一点を凝視して尚も言葉を発し続けるのだ。

 その時のヒカルの雰囲気をどう表現すれば良いのか分からない。 ただ、凄く変で、怖かった。 そう、怖かった。 ヒカルがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、だから一生懸命話しかけたけど、まるで私の存在なんて忘れてしまったかのように全然反応してくれなくて――恐怖で私まで頭がおかしくなりそうだった。

 唯一分かったのが、ヒカルは凄く喜んでいたっていうことだけ。 あんなに喜んでいるヒカルを見るのは初めてだった。 ううん、ヒカル以外でもあんな風に喜んでいる人を私は見たことが無い。
 歓声を上げたかと思うとぶつぶつと神様に感謝しはじめて不気味だった。
 その後、誰かを抱きしめるかのような仕草をしたかと思うと急に倒れ、一瞬死んじゃったのかと思った。 だって、何か悪いものに取り憑かれて死んじゃったのだと言われれば納得してしまうくらい、あの時のお蔵の空気とヒカルは異常だったのだ。

 慌てて助けを呼びに行こうとしたけど、ヒカルはすぐに立ち上がって、小遣い稼ぎのために売ろうとしていた碁盤を大切そうに抱えてお蔵から出て行ってしまった。

 どうすれば良いのか分からなくて追いかけるのを躊躇ったけど、やっぱり放っておけなくてついていくことにした。 だって、ヒカルは私の大切な幼馴染だから。
 もうヒカルが私をからかっているとは思わなかった。 ヒカルはきっと『さい』とか言う私には見えない人を本当に見ていて、それで喜んでいたのだ。 見えない存在なんて幽霊か幻覚のどちらか。 何れにしても良い物では無い。 ヒカルがそんなものを見るような変なことに巻き込まれているのなら助けてあげたい。

 そう思って急いで外に出ると、ヒカルのおじいちゃんとヒカルが碁盤を賭けて囲碁の勝負をすることになっていた。
 ヒカルが囲碁なんてできるはずが無い。 今までやってるところ何て見たことが無いし、ヒカルだってお年寄りのやる遊びだと馬鹿にしていたのだから。
 でも、ヒカルは囲碁でおじいちゃんに勝ってしまった。 良く分からないけどヒカルは囲碁が強いらしい。 あり得ない。
『ゴカイジョ』っていうところに通って囲碁を覚えたって言っていたけど、絶対嘘だ。 だって目線が泳いでた。 ヒカルが嘘をつくときの癖だ。

 何となく、理由なんか無いけどヒカルが囲碁をできるようになったのはついさっき、あの古い碁盤を見つけた時からなんじゃないかとそんな気がした。 そんなのあり得ないって分かっているのだけれど……でもきっと『さい』とか言う人は関係しているのだと思う。

「くしゅんっ」

 ヒカルのおじいちゃんのお家の前でそんなことを考えながら佇んでいたらいつの間にか身体が冷え込んでしまっていた。

 ――今日あったことを振り返ってみたけど、依然としてヒカルがおかしくなった理由は分からない。
 やっぱり本人に聞いてみるのが一番なのだろう。 幽霊とか、怖い話とか、そういうの苦手だから聞きづらいけど、私が逃げたら完全にヒカルは手の届かないどこかへ行ってしまう気がする。 ……連れていかれてしまう気がするのだ。
 ヒカルは『また明日、学校で』と言っていた。 明日学校に行けば必ず会える。 普通では無い何かに関わっていくのは怖いけど、頑張って今日のことを聞いてみることにしよう。

 そう心に誓って、私は重い足を引きずるように歩き始めたのだった。

● ○ ●

 翌日、学校であったヒカルは異様に上機嫌だった。 下駄箱の場所を間違えたりとか、たまに変だったけど、私の話も笑顔で良く聞いてくれるし、先生に頼まれてクラスの皆のノートを運んでいた時なんか、代わりに持ってくれた。 まるで別人みたいに優しい。

 でも、昨日の話をしようとするとさらりと受け流されて詳しい話を聞くことが出来ない。 無理に聞こうとすると、何か踏み込むのを戸惑わせる壁のようなものを作られてしまってつい躊躇してしまう。 ヒカル、いつの間にこんな雰囲気を身に着けたの?

「では、これで帰りの会を終わりにします」
「起立、礼~!」
「「さようならー!」」

 とうとう一日が終わってしまった。
 ヒカルは早くもランドセルを背負い小走りで教室から出ようとしている。 いつも私と帰っていたのにっ!
 私はランドセルを背負いながら急いで後を追いかけヒカルを呼び止めた。

「ヒカルっ、待って!」
「ん、あかり。 どうした?」

急いでいる様子だからまた無視されちゃうかもと思ったけれど、予想に反してヒカルはすぐに立ち止まり笑顔で振り向いた。


「ええと、その……今日は一人で帰るの?」
「ん? ああ、そう言えばいつも一緒に帰ってたっけ。 今日はちょっと行くところあってさ、急いでるから……ごめんな」
「えっ。 う、ううん、用事があるなら――」

 申し訳なさそうに眉を下げて謝られ、胸がドキッと音を立てた。 こんな素直に謝るヒカルを初めて見たかもしれない。
 やんちゃで、意地っ張りで、いつまでも子どもなんだからと何度も呆れたことのあるヒカルなのに、ずっと年上のお兄さんと話しているみたい。 ヒカルが『もっとこうだったら良いのに』と思うことが殆ど叶って、何だか今日のヒカルは格好よく見える。

でも、一日で人はこんなにも変わるものなのかな?
――思い当る原因といえば、やっぱり昨日の事しかない。

「じゃ、オレもう行くな」
「待って!」
「な、何だよ?」

下駄箱へ向かおうとするヒカルの腕を慌てて引っ張り再度引き止めると、今度は怪訝そうな顔をされてしまった。 でも、明日は学校がお休みだから、今日聞けなかったらもうずっと聞けないかもしれない。 頑張らないとっ!

「ヒカル、昨日の、お蔵でのことだけど――」
「あー、その話か。 あかりには言ってなかったけど、オレ最近囲碁始めたんだよ」
「っ、囲碁なんてお年寄りの遊びだって散々言ってたじゃない。 どうして急に――って、そうじゃなくて――」

 ヒカルの疑わしい言葉につい反応しちゃったけれど、聞きたいのは囲碁を始めたかどうかじゃなくて昨日のお蔵でのこと。
 今度こそは話を逸らされないように急いで言葉を続けたけれど、ヒカルが話の途中で割り込むように言葉を重ねてきて失敗。

「まぁ、色々あってさ。 やってみると案外面白いもんだぜ? そうだ、あかりもやってみないか? 囲碁」
「えっ!」

それって、ヒカルが教えてくれるということだろうか。
唐突に、碁盤を前に二人で寄り添うようにし座り優しく囲碁を教えてくれるヒカルが脳内に浮かんだ。 

『ほら、こういう時はこうなって……』
『う~ん……じゃあこういう時は……あ』

不意に盤上で手が触れ合う二人。 指先にヒカルの体温を感じて高鳴る鼓動。 ふとヒカルに視線を向けるとヒカルも柔らかく微笑みながら私を見ていて……。

と、そこまで考えてハッと我に返る。
や、やだぁ。 私ったらこんな時に何考えてるの。 もう、ヒカルが急に大人びるから変な事考えちゃったよぉ。

「ど、どうしようかなぁ……。 私囲碁のこと全然分からないし、覚えられるかなぁ」
「興味があるなら、保健センターでプロの先生が初心者向けの囲碁教室やってるから、行ってみれば? あそこ、教え方が丁寧で分かりやすいって結構評判良いぜ。 先生も優しいらしいからあかり相手でも根気よく教えてくれるんじゃねぇかな」
「え」
「それじゃオレ、悪いけど急いでるから……またな!」
「え、う、あ……ちょ、ヒカルっ!?」

 今度は呼び止めても止まってくれなかった。
 結局話を逸らされて、聞きたかったこと全然聞けなかった……。
 囲碁も、誘ってくれるのならヒカルが教えてくれれば良いのに、囲碁教室って何よ、もう!
 悔しくて、ダッシュで遠ざかるヒカルの背中を軽く睨む。

「ヒカルの、ばかぁ!」

 いつか絶対『さい』の事とか、碁盤のこととか、問い詰めてやるんだから!
 ……でも、囲碁教室かぁ。 ヒカルもそこで囲碁の勉強したのかなぁ。 それならそこにいけば何か分かるかも。

 ヒカルが囲碁続けるなら、私もやってみようかな? 

 

 下駄箱の手前であかりが追いかけてこないことを確認し足を止めた。
 あかりは朝からずっと昨日のことを気にしている様子で、話を逸らすのが大変だったが、とりあえず今日は逃げ切れたことに安堵し、ホッと息を吐いた。

(あーもー。 面倒なことになったな)
(いっそ、ばらしてしまってはどうですか? 昨日一緒にいた少女――あかりと言うのですね。 あかりはヒカルの言い訳を明らかに疑っていましたし、とても誤魔化せるとは思えません)
(ばらすって……だから、佐為のことを言ったところで信じる奴なんか居ないんだって。 頭がおかしくなったと思われておしまい)
(昨日のヒカルを見ていたのですから、もう頭がおかしくなったのでは無いかと思われているかもしれませんよ?)
(……オレ、そんなに変だった?)
(そりゃあ、もう)
(……)

 散々あかりに不審そうな眼差しを向けられ、佐為にまでしみじみ『変だった』と肯定されてしまい思わず閉口した。
 ちぇ、原因は佐為だってのに、他人事みたいな顔しちゃってさ。
 仕方ないじゃん。 オレだってわけ分かんなくて混乱してたし、それ以上に佐為に会えたのが嬉しくて自分を抑えられなかったんだ。
 確かに、何も知らないあかりからしたらおかしくなったと思っても仕方ないかもしれないけど……。

(ま、いいや)
(良いのですか?)
(これからやることたくさんあるし、あかりに構ってる暇なんか無い。 別に悪いことしてるわけじゃないんだから、適当にごまかしとけば良いだろ)

どうせ、あかりだし。

(そんなことより――)

オレの口元が自然とにんまり弧を描く。

(今日は良い所に連れて行ってやるから、楽しみにしてろよ~!)
(良い所? 碁が打てる所ですかっ?)
(当然! 碁会所って言って、碁が好きな人たちが集まって対局する所さ)
(碁会所……! 碁が好きな者の集う所ならばたくさんの打ち手がいるのでしょうね!)

 対局できると知った途端、期待に頬を上気させ瞳を輝かせる佐為。 オレもこれだけ喜んで貰えるのならなけなしのお小遣いを費やす甲斐があるってものだ。

 佐為が神の一手を極めるためにオレができることなら何だってする。 今日これから行われるであろう対局は佐為が神の一手に至るための大事な第一歩だ。
 未来での経験から言って、佐為の実力があればオレの計画は絶対に成功するはずだ。 上手くいったら佐為はどれほど喜ぶだろうか。
 ……『アイツ』も、あれだけ佐為と打ちたがっていたんだから最初は驚くだろうけど最終的には喜ぶだろう。

 ああ、楽しみだ!

 オレは緩んだ頬をそのままに、目的の碁会所『囲碁サロン』へ駆け出したのだった。

○ ● ○

(ああっ、ヒカル、大きな板に碁盤の絵が!)
(さすが、囲碁に関することには目ざといよな。 ここが碁会所だよ)
(ここが……囲碁サロン、と言うのですね)

 駅前の碁会所、囲碁サロンはビルの5階にある。
 ビルの中には当然エレベーターもあるんだけど、待ちきれなくて階段で行くことにした。
 この階段、緒方先生に無理やり登らされたっけ。 その後塔矢先生に対局を申し込まれて……今考えると結構すごい体験だったよな。 あの塔矢名人に対局を申し込まれるって。 いくら息子を二度も倒したからって――塔矢先生、何気に子煩悩? その方が都合良いっちゃ良いんだけど。

(ここの碁会所はただの碁会所じゃないんだぜ。 なんと、あの塔矢名人が経営してる碁会所なんだ!)
(なんですとー! って、トーヤ……? それはもしやヒカルのライバルの?)
(それは塔矢名人の息子。 塔矢先生はオレにとっては雲の上の人でライバルなんてとても言えないよ)
(雲の上……ヒカルがそこまで言うとはかなりの実力者なのですね)
(当たり前だろ! なんたって、神の一手に最も近い男って言われてるんだから!)
(神の一手に……!?)

 佐為はピシャーン! と、雷に打たれたかのような衝撃を受けている。 良いリアクションだ。

(佐為のライバルとして塔矢名人以上の適任は居ないよ。 オレが居た未来じゃ佐為と半目差になる激戦もしたんだぜ)
(半目差……それは私が勝ったのですか? それとも、その者が……!?)
(正確には半目差になるのを最後まで読み切っての投了。 でも一つ違えば勝敗がひっくり返る大接戦! オレも一番近いところで見られて――本当に、凄い対局だった。 どっちが勝ったかは……な~いしょ!)
(ええっ! そんな! ケチー!)
(ケチって……。 塔矢先生の実力は実際に打てばわかるだろ?)
(うぐ……それも、そうですね。 その者の力は対局で確かめるとしましょう!)

佐為がメラメラと闘志を燃やしながらグッと顔を近づけてきた。

(それで、その者とはいつ打てるのですか!?)
(まぁそんな焦るなって。 ちゃんと塔矢先生と打つ為の完璧な計画を立ててるからさ! その計画が成功すれば、たぶんすぐにでも打てるようになると思うぜ)
(ヒカル……! 何から何まで、本当にありがとうございますっ……!)
(そのためには今日打つ奴を完膚なきまでに叩きのめす必要があるんだけど――)
(今日、打つ奴?)

「ふぅ……。 やっとついたぁ」

長い階段をようやく登り切り、ようやく碁会所のある五階についた。 囲碁サロンの入り口である引き戸の前で少しばかり乱れた息を整える。 ここ、もっと下の階にあれば良いのに。

オレは焦らすようにゆっくりと二回深呼吸をし、完全に息が整ってからくるりと佐為を振り返ってにやりと口角を吊り上げた。

(今日佐為が打つ相手は、塔矢アキラ。 塔矢先生の息子で、オレのライバルだった奴さ) 

 

(え……ヒカルのライバルのトーヤと打つのですか?)
(そう。 塔矢に勝てたら塔矢先生と打たせて欲しいって条件で対局してもらうんだ。 断られたら、オレのことを伝えてもらうだけでも良い。 塔矢先生も結構子煩悩でさ、塔矢を倒せばきっとオレの力を試そうとしてくる。 そこで佐為と塔矢先生の対局が叶うってわけだ。 うん、我ながら完璧な作戦! 今日先生と打つのは無理だと思うけど……でも塔矢も結構強いし楽しめると思うぜ)
(ふむ……)
(佐為?)

 何故か佐為の表情が浮かない。 どうしたんだ? 喜ぶと思ったのに……あ、もしかして――

(トーヤがオレのライバルだったってこと、まだ気にしてるのか?)
(ヒカル……やはりライバルとの初対局ならヒカルが打った方が良いのでは? あなただって十分強いのですから――)
(……あのさぁ、そのことはオレがもっと強くなってからってことになってただろ? だいたい、前の時だって塔矢との初対局は佐為だったんだから今更だよ)
(しかし、私がトーヤと対局してしまったことで、あなたは苦労したのでは無いですか?)

 む。 それはまぁ……確かに、最初に佐為と打ったせいで塔矢は全然オレの事見てくれなくて、苦労したと言えばしたな。 オレが初めて塔矢と打った時なんか佐為とのギャップで『ふざけるなっ!』なんて怒鳴られたし。
 でも佐為の存在信じて貰えるほど強くなってから打つんなら少なくとも怒鳴られるようなことな無いだろうし、むしろオレとしては別に打たなくても良いんだから問題ない。

(今回の対局はオマエが塔矢先生と打てるかどうかが掛かってる大事な対局なんだぜ? オレが打ってもしダメだったらどうするんだよ)
(トーヤは今のヒカルが勝てないほどの強者なのですか?)
(勝ち負けじゃなくて、圧倒的に倒さないと塔矢先生が出てきてくれないかもしれないだろ? 一度決まったことを蒸し返すなよなぁ。 佐為は塔矢先生と打ちたいのか? 打ちたくないのか?)
(……打ちたい、です)
(だったら四の五の言わない! ほら、もう行くぞ)

まだ何か言いたげな佐為を振り切ってガラガラっと囲碁サロンの引き戸を開いた。

「あら。 いらっしゃい」
「こんにちは」

 受付のお姉さんがにこやかに迎えてくれた。
 さり気無く店内をざっと見回すと奥の方に塔矢を見つけた。 良かったぁ。 もしいなかったらどうしようかと、それだけが気がかりだったんだ。 毎日いるとは限らないもんなぁ。 塔矢と一緒に打ってるのは……どっかで見たことが……あ、塔矢門下の葦原さんかな。

「名前書いて下さいね。」
「はい。 ……このランドセル、塔矢の?」
「え? ああ、そうよ。 ――アキラ君のお友達?」
「いや、初対面」

 受付にはピカピカで新品同様なランドセルが置かれていた。 六年使ってこの綺麗さ……オレとは大違いだな。

(物を大切に扱う子なのですね)
(塔矢らしいと言えば塔矢らしいかな。 アイツがランドセルそこらへんに放る所なんて想像つかないから)

 名簿に名前を書いていると、受付のお姉さんがガッカリしたように肩を落とした。

「なぁんだ。 でも、ずいぶん親しげに呼ぶのね?」
「そう? あ、呼び捨てだから? 同い年だからと思ったけど、不味い?」

 つい癖で呼び捨てにしちゃったけど、会う前から呼び捨てはダメだったかな。 塔矢だって一度会っただけの俺を呼び捨てにしてたしそういうの気にするタイプじゃないと思ったけど。
 っていうか、今更『塔矢君』なんて気持ち悪くて呼べねぇ。

「呼び捨てっていうのもあるけど、何だかアキラ君のこと良く知ってるような呼び方だったから……褒められたことじゃないと思うけど、アキラ君が良いって言えば良いんじゃないかしら。 ……アキラ君と打ちに来たの?」
「うん。 オレもランドセル預けて良い?」
「ランドセルは良いけど、アキラ君はまだ対局中で――」
「大丈夫大丈夫。 邪魔しないように終わるの待ってるからさ。 お金いくら?」
「子どもは500円よ」
「はい。 それじゃあちょっと待たせてもらうね」
「あ、ちょっと……」

 お金を渡して塔矢と葦原さんの所に近づく。 端の席で打っていたからすぐそばの壁に寄りかかりながら二人の対局を観戦することにした。 どちらもリラックスして気楽に打っているようで、親しい間柄であることが伺える。 それでも対局には集中しているらしくオレに気付く様子は無い。

 やっぱ近くで見ると塔矢若いなぁ。 こう小さいと何かかわいいかも。
 これが真剣勝負になると顔つきがガラリと変わるんだもんなぁ。 今日はオレが打つわけじゃないから関係ないけど、あの目つきで睨まれるのは結構怖い。

(この少年がトーヤなのですね。 どれどれ――)

 佐為が興味深々に碁盤を覗き込む。 ちょ、そこに立たれるととオレが見えない!

 しばらくパチ、パチと碁石を置く音だけが響いていたが、ふと塔矢が声を発した。

「その手はケイマにツメる手もあったんじゃない?」
「なんでさ。 ツメてコスまれたら中央の黒模様が厚くなるよ」
「でも、黒からカドに打たれると隅の白石が不安定になるよ」
「そっかなぁ~~、中央に一間にトブのも立派な一手だと思うけどなー」

 葦原さんが軽く頭を掻きながら首を傾げている。 葦原さんが白石で、塔矢が黒石のようだ。
 オレも葦原さんの手は悪い手では無いと思うけど……。 ただ、塔矢は攻撃的だから隙を残すような打ち方が気になったのだろう。 普段は猫被ってるけど、本来の性格が全部碁に出てるんだよなぁ。

(ヒカルならここ、どう打ちますか?)
(オレ? んー、オレだったら……)

 盤面をよく見ると、塔矢が『不安定になる』と言った隅がやはり気になる。

(オレだったら、葦原さんの中央に一間にトブ手をとるかな。)
(ふむ。 それで?)
(それで、塔矢はカドに打つだろ。 そうしたら隅の黒の連結を切る。 塔矢は当然あたりにしてくるだろうから伸びて、塔矢がそれを追う意味は無いから当然カドに戻る。 そこでさっきの中央にトんだ 石を補強して――)

 オレの考えを佐為は面白そうに聞きながら何度も頷いている。

(――そうするとほら、手順は難しいし接戦になるけど隅の黒石は完全に殺せる!)
(なるほど。 昨日打った時も思いましたが、やはりヒカルの打ち方は面白い。 一見悪手に見えるのに、思わぬところで最良の一手へと化ける。 読みが深く、接戦を好むヒカルらしい手です)
(だろっ! 上手く嵌ると爽快なんだよなぁ)

「お二人さん。 お茶どーぞ。 キミもほら、お茶持ってきたから座ったら」

 受付のお姉さんがお茶を持ってきてくれた。
 そこでようやく塔矢と葦原さんもオレの存在に気付いたようだ。

「あれ、いつの間に。 声かけてくれれば良かったのに。 アキラに用かな?」
「邪魔しちゃ悪いかと思って。 オレも塔矢と打ちたくて来たんだけど、終わってからで良いから気にしなくていいよ」
「ボクと?」
「ふぅん、キミ、棋力は? アキラのこと知ってるみたいだけど、君が思ってる数倍は強いと思って間違い無いよ? なんたって、もうプロでも十分やっていける力はあるんだから」
「あ、葦原さん!」
「オレも結構強いぜ? 棋力は打てば分かるさ」
「おお、言うねぇ~! そういうことなら――」

 葦原さんがジャラジャラと石を片付け始めた。

「あ、終わってからで良かったのに」
「いーの、いーの。 俺はいつでもアキラと打てるんだから。 君がもし口だけじゃなくてアキラのライバルになってくれるって言うなら邪魔するわけにいかないからね」

 葦原さんはニコニコしながらガタリと席を立った。

「アキラに足りないのはやっぱり同年代のライバルだと思うんだよなぁ。 やっぱライバルが居ないとつまんないだろ?」
「え」
「中々プロにならないのも、そこが引っかかってるんじゃないか?」
「そんな……ボクはただ、もう少し力をつけてからでもと……」

塔矢が複雑そうな表情で少し俯く。
同い年くらいのライバルね。 確かに、周りが年上ばっかじゃ盛り上がらないもんなぁ。
あ、最初の頃塔矢がオレに執着してたのってライバルが欲しかったからなのかな。
オレを見限った後も何だかんだオレのこと気にしてたのはそういうことだったのか。

でも――

「悪いけど、オレは塔矢のライバルになるつもりは無いぜ?」
「へ?」
「オレのライバルは塔矢名人だから。 今日は、塔矢に名人との対局を取り持って貰うために来たんだ」
「はぁあ?」
「お父さんとの、対局を?」
「そう。 もしオレが塔矢に勝ったら、塔矢名人と打つ場を設けることに協力して欲しい」

 驚いたような表情を浮かべる塔矢の目を真剣な表情で見つめる。 ここで頷いて貰わないと打つ意味が無いのだ。
 不意に受付のお姉さんが呆れたような声を上げた。

「キミねぇ、あなたみたいな子どもが塔矢先生に勝てるわけ無いでしょう? キミがどれ程強いか知らないけど、アキラ君にだって勝てないわよ」
「それに塔矢先生はお忙しい方だから、仮に君が勝てたとしてもそう簡単に対局なんて出来ないんじゃないかなぁ」
「そうかな?」

 苦笑する葦原さんにオレはにっこり笑いかけた。

「さすがの塔矢先生も、最愛のわが子で秘蔵っ子の塔矢がコテンパンにやられたって聞いたらオレの実力を試そうって気にもなるんじゃないかな?」
「なっ」
「ちょっと!」
「葦原さん、市川さん」

 塔矢が固い声を上げ、名前を呼ばれた二人は口を噤んだ。 目線を塔矢に戻すと表情がガラリと変わっている。 そこに表されているのは怒りの感情では無い。
 ――その瞳は、爛々と期待に輝いていた。

「葦原さんが言う通り、お父さんは忙しい人だから確約はできないけど……でも、もし本当にボクに勝てたならお父さんと対局するための協力は惜しまないと約束するよ」
「うん、それでいい。 オレは進藤ヒカル。 六年生だ」

 ニッと笑顔を向けると、塔矢もふっと笑った。

「ボクは、塔矢アキラ。 同じく六年生だよ」
「それじゃ、早速打とうぜ!」

 そう言って、葦原さんが立った席に座ろうと手をかけた時だった。

「っ、うぶっ……!?」

 猛烈な吐き気に襲われその場に膝を付き、口元を抑えて蹲った。

「進藤君!?」
「ちょ、大丈夫か!?」

 塔矢が慌てたように席を立ちオレの傍に駆け寄る。 しかし、それに答える余裕は無かった。
ザァっと血の毛が引き、貧血で頭がクラクラする……口開けたら、吐きそうで、喋れない。
 ――この、感覚は……!

(さ、佐為……!?)
(ヒカル……)

 何とか目線を上げると、佐為が未練たらたらの表情でアキラを見ながら言った。

(この対局、やはりヒカルが打ちなさい) 

 

(佐為……とりあえず、落ち着け。 は、吐きそ……)
(あ……す、済みません!)

 猛烈な吐き気が少しばかり治まる。
 うーん……まだ体調最悪だけど会話できるくらいまでは回復したかな。

(わざとでは無いのですが……)
(分かってるって……。 オマエの感情がオレに影響するのは知ってる)

「大丈夫!? どうしたの?」
「はぁ……はぁ……もう、大丈夫」

 心配そうにオレの顔を覗き込み背中をさすってくれる塔矢を軽く押してふらつきながらも何とか立ち上がる。

「本当に大丈夫なの? 顔真っ青よ。 ちょっと横になった方が良いんじゃないかしら、別室にソファがあるから……お家に連絡する?」
「あ、水飲む? 持ってこようか?」
「葦原さん、吐き気がある時に水分はダメよ!」

 家に連絡!? 冗談じゃない!
 散々塔矢のこと煽って、市川さん?なんか結構ムッとしてたのに凄く心配してくれてありがたいけど、塔矢とは早い段階で打っておきたいんだ。 塔矢が絶対ここにいるとも限らないし、ここで帰らされるわけにはいかない。

「ほ、本当に大丈夫だって! ほら、もうこんなに元、気……?」
「わっ、進藤君!?」

 笑顔で腕を広げ、無理に元気な振りをしたら身体がふらつき塔矢に支えられてしまった。
 あーもう、佐為いぃい!

(ごめんなさいぃ)

 佐為の気が完全に塔矢から逸れたためか、本当に体調が回復してきた。
 これはちょっと佐為と話し合わないとな……。

「全然大丈夫じゃ無いじゃない! ほら、休める部屋があるからいったんそっちに移って――」
「えっと、もう本当にへーき! 原因は分かってるから大丈夫。 滅多に無いんだけど……あはは。 あ、念のためちょっとトイレ借りてもいい? 」
「それはいいけど……まだ吐き気があるならちゃんと休んだほうが――」
「トイレならそこだよ。 肩貸そうか?」
「すぐそこだろ? へーきだって」

 塔矢から離れて一人でトイレに向かうが、すぐに塔矢がついてきた。

「塔矢?」
「さっきも大丈夫だって言って倒れそうになったし、ボクもついてくよ」

 何が何でもついて行くと言わんばかりの目で見つめられ、断るのを諦める。
 コイツ人の言うこと聞かないしな……強引なのは昔から変わらないな。
 まぁ、さっき倒れそうになった手前何言っても説得力無いだろうし、どうせすぐ着くんだから良いか。

「別に良いけど……トイレの中まで入ってくんなよ?」
「……」
「おい!?」
「冗談だよ。 中まで入るわけないじゃないか。 まだ少し顔色悪いし、心配だから入り口までついてくだけ」

 オマエの冗談分かりづらいんだよ!
 とか話してるうちにもうトイレについた。

「じゃ、ありがとな」
「うん……進藤君。 ボク、待ってるからね」
「……おう。 なるべく早く戻る」

 掃除の行き届いたトイレの個室に入り、洋式トイレの蓋を閉めて、その上にドンッと座る。

(佐為)
(はい)
(どうやらオレたち、話し合う必要があるみたいだな?)
(はい……)

 オレの前に正座で座り込む佐為をギンッと睨むと、佐為は申し訳なさそうに身体を小さくさせた。
 トイレの床に座ると汚いぞ。 
 

 
後書き
これ書いてる間「ごめんな、ごめんな、ごめんな佐為です~♪」と佐為が踊りながら歌ってる姿が脳内から離れませんでした。
遠い昔お母さんといっしょで見た『ごめんな・サイです』って曲です。 

 

大人から叱責を受ける直前の子どものようになっている佐為に、オレは小さく溜め息をついた。

(ったく……で? まずは佐為の言い分を聞こうじゃないか。 何であんな未練たらたらの癖に、オレに塔矢と打たせようとするわけ?)

 『未練たらたらの癖に』というところを強く強調すると、佐為の眉が申し訳なさそうに垂れた。
 佐為が悲しみの感情を抱いたのはあの時の佐為の様子を見るに塔矢と打ちたいのを我慢しようとしたからだろう。
 現世に蘇って二日。 オレとじーちゃんとしか打ってないんだからまだ全然打ち足り無いはず。 そんな状態の佐為が魅力的な打ち手との対局を自ら諦めるんだ。 伝わってきた感情だけであれほど気持ち悪くなったんだから、佐為の辛さはきっとそれ以上だ。
 まったく……そんなに打ちたいなら打てば良いのにさ。 佐為がそんな辛い思いする必要は無いんだし、俺だって無駄に苦しい思いすることになった。 本気で吐くかと思ったぜ。

(確かに、トーヤは非常に先が楽しみな魅力的な打ち手でした。 つい無意識にヒカルへ負荷をかけてしまう程に……そのせいでヒカルには苦しい思いをさせてしまいましたね)
(それはもう良いって。 それより本題本題。 塔矢が待ってるから早く戻んないと)

 オレの門限までにはまだ時間は十分にあるが、塔矢も同様であるとは限らない。 できるだけ早く戻らないと。
 そう佐為を急かすと、佐為はゆっくり頷き、先ほどとは打って変わった強い眼差しをオレに向けた。

(……わかりました。 本題に入りましょう――私がヒカルに打ちなさいと言ったわけは、あなたとあのトーヤがまごうこと無き理想的な好敵手であると分かったからです)
(は? ……オレと、塔矢が?)
(はい。 先ほどの対局を見ていて、あの子はどちらかというと搦め手よりも正面から敵を打ち砕く攻撃的な手を好むことが分かりました。 それに対してヒカルは用意周到に罠を張り巡らす搦め手を好みますね)
(んー、まぁ、そうかな……)

 自分の碁をそんな風に考えたことが無かったから何となく気恥ずかしさを感じる。
 オレが曖昧に頷くと佐為は軽く目を伏せ、続けた。

(トーヤとヒカルの棋風はほぼ真逆と言っても差支えないでしょう。 だからこそ、相性が良い)
(そうかな)
(そうですとも。 ヒカルの罠は攻撃を受けてこそ初めて生きます。 トーヤはヒカルの碁から攻めるだけでは通用しないことを学び新たなる手を考えざるを得なくなるでしょう。 また、ヒカルの罠ももろ刃の剣、看破されてしまえば逆に窮地に立つのはヒカルです。 傾いた形勢を立て直すのは塔矢のような攻撃力のある打ち手相手には難しい。 トーヤと打つことで、ヒカルは悪手に見せかけた物以外の多様な罠を生み出しざるを得なくなり、また看破されたとしても持ち直せるだけの粘り強さを学ぶでしょう)
(なるほど)
(まったく棋風の違う相手だからこそ学ぶことは多い。 棋力に関しては、まだあの子の本気の対局を見ていませんがおそらくヒカルの方が上でしょう。 しかし、その差は決して大差という程ではありません。 同じ時代、それも同世代にこれ程相性が良く実力の拮抗した好敵手がいる。 それがどれほど幸運なことか。 その運命的なライバルとなるであろう二人の初対局を私が打つなど――)
(あー、もう良い。 分かった)
(っ! では――)

 佐為が期待を込めた視線でオレの顔を見上げ、次の瞬間固まる。
 ……そんな酷い顔してるかな、オレ。 かなり冷めた視線送ってる自覚はあるけど。

(佐為がオレのことを思ってトーヤと打てって言ってくれてることは分かった。 でも――結論から言って、お・こ・と・わ・りだ!) 

 

(な……何故ですか!?)
(何故も何も……)

 オレの視線と言葉に固まっていた佐為は、主張をざっくり切り捨てられてなお、納得できないというように涙目で食い下がってきた。

 佐為は何もわかってない。 碁が上達することこそが誰にとっても至上の幸せと自分の思いを押し付けてるだけだ。 
 オレが打つってことがどういうことなのかも考えてないし、自分が消える可能性があるという危機感すら無い。

 ……でも、それでも、佐為を泣かせたいわけじゃないんだ。
 オレは息を大きく吸って、吐き出し、心に湧きあがった苛立ちを消し去った。

 オレはこの問題で折れるつもりは断固無い。 場所をトイレの個室にしたのだって、佐為のせいで体調最悪になった時のために備えてだからな。 ここでなら何度吐き散らかしたって大丈夫だ。 そうならないに越したことは無いけど。

(佐為。 オマエの目的って、何なわけ?)
(それは……神の一手を極めることです)
(だよな。 じゃあ、オレの目的は何だと思う?)
(……ヒカルの目的――やはり神の一手を極めることなのでは)
(残念。 不正解)

 あー、佐為の奴オレの目的をそう解釈してたのか……こんだけ佐為のことばっか言ってんのにどうしてそうなっちゃうかなー?
 ま、神の一手ってすべての碁打ちの夢みたいなもんだもんな。 人一倍強い夢抱えてる佐為がそういう幻想抱いててもしかたないか。

(オレの目的はさ、佐為に神の一手を極めさせることなんだよ)
(私に?)
(そう! 今まで誰も極めることのできなかった神の一手だけど、オマエならきっと極められる。 ……オレは佐為が神の一手を極める所が見たいんだ!)

 オレだって碁打ちだ。 神の一手に対する憧れのような物は当然ある。 自分が極めるのは現実味ないけど、でも、佐為なら――脳裏に今までの佐為の棋譜と棋院で見た秀策の棋譜を思い浮かべる――うん、佐為なら絶対に極められる!

(オレ、佐為の碁が好きだよ)
(――っ)
(ファン心理っていうのかな? 自分が打つのと同じくらい――いや、それ以上に佐為が打ってるところを見るのが楽しいんだ。 オレとは全然次元の違う、佐為の綺麗で力強い碁に完全に魅了されちゃってるんだよ。 そんな佐為の碁を、オレが、オレだけが現世に蘇らせることができる。 ――この気持ち、オマエには分からないだろうなぁ)
(ヒカル……)

 そう、佐為には分からない。 自分の遥か高みに存在するような碁を見たとしても、戦いたいっていう欲求しか湧かないだろう佐為には。
 その証拠に、まだ佐為は困惑気味に眉を八の地に垂らしている。

 そう悪いもんじゃないんだけどな。 佐為の凄い碁を現世に蘇らせられるのがはオレだけ――そう思うだけで胸が熱くなる。 しかも常に一緒にいるから打ち放題だろ? それがどんなに贅沢なことか、今のオレには良く分かる。

(……オレは、オレの大好きな佐為の碁が神の一手を極める瞬間を一番近い所で見たいんだ。 これがオレの夢で、目的)

 オレの気持ちが少しでも伝わるように佐為の目を真っ直ぐ見据える。

(佐為は何か勘違いしてるみたいだけど、オレはもうオマエに引け目とか、罪悪感とかは持ってないぜ。 佐為が消えちゃって、オマエの過去の棋譜とかも見て、初めて佐為がどんなに凄いやつだったか分かってさ――失って初めて価値が分かるっていうのは良く聞くけど、そこからやり直せるなんてのはなかなか無いラッキーだよな。 オレはもう、心の底から佐為の碁のファンなんだよ。 オマエの碁を代わりに打つことができるってのに凄くやりがいを感じてるんだ。 だから、オマエもオレに妙な引け目を感じるのはもうやめろよな)
(――分かり、ました)

 佐為の言葉に安堵し、いつの間にか詰まっていたらしい息をハァーと吐き出した。 まだ一局も打ってないのに疲れた……こういうのはこれっきりにして欲しいよな。
 やっと肩の力が抜けて、やれやれと肩を回して身体を解そうとしたオレは、続けて発せられた佐為の言葉にズルッと便座から落ちそうになった。

(それでも今日の対局、私は打てません)
「何でだよっ!」
「進藤君?」
「うぇ!?」

 思わず大きい声が出してしまい、慌てて口を押えようとしたら個室の外から塔矢の声がして文字通り飛び上がった 

 

「と、塔矢!? まだそこにいたのか!?」
「う、ううん。 棋譜並べして待ってたんだけど……僕と打ちたいって子が今来ていて、もしかしたら時間が掛かる対局になるかもしれないから――先約は君だし、どうしようかなと」
「……な、なんだぁ。 そういうことか」

 カチャリとドアのカギを開けてトイレの個室から出た。
 いつまでもドア越しにしゃべってんのも落ち着かないからな。

「進藤君。 大丈夫? まだ顔色あまり良くないけど――」
「大丈夫大丈夫。 ……で、その対局希望の奴、強そうなのか?」
「多分……子ども名人戦優勝だって」
「子ども名人戦、ねぇ。 ……オレはもう少し時間かかりそうだから、先に打っててもいいぜ」
「そう? それじゃあ――」
「どうせすぐ終わるだろうし」

 何気なく言葉を続けると、塔矢は驚いたように目を見開き、次いで少しムッとしたような表情を浮かべた。

「……子ども名人戦優勝者だよ? 全国の小学生で一番ってことだ。 大会参加者の中でだけど……すぐ終わるとは思わないな」
「オマエ……自分の実力が分からないのか? 小学生で全国一位って言ったって――」

 ふと、葦原さんの言葉を思い出した。
 そういえばコイツ、同年代のライバルを求めてるんだっけ。
 ――期待しちゃってるってわけか。 プロで十分通用する実力を持ってる奴が、アマチュアの小学生の中で一位の奴と対等なわけ無いのに、そんなことも分からなくなるくらいにライバルが欲しいと。

 傲慢、だとは思わなかった。 ただ、一抹の憐憫を感じ、オレは口を閉ざす。
 嘗て、佐為と初めて打った時、塔矢はどんな気持ちだったんだろう。 オレがヘボな碁を打った後もずっとオレに拘り続けて……プロ試験の時なんかは越智を使ってまでオレの実力測ろうとしてたっけ。
 今なら、オレが本当の意味でライバルになれる。 佐為のお墨付きの、理想的なライバルに。 でもオレは、塔矢のライバルにはもうならない。
 佐為は塔矢の父親のライバルであって塔矢のライバルでは無いし――。
 求めて止まない本当の意味での同年代のライバルというものを塔矢は一生手に入れられないわけだ。 オレのせいで。
 
 ――ちょっとだけ、可哀そうかもしれない。

「進藤君?」
「……やっぱり何でもない。 そうだな。 まあそいつの実力は打ってみれば分かるさ」
「……うん。 それで、もし遅い時間になっちゃったら、君との対局はまた後日都合の良い日に改めて、ということで良いかな?」
「わかった。 そうして貰えるとオレも助かる」
「うん――じゃあ、僕戻るね」

 トイレから出て行った塔矢を見送った後、再び便器の蓋に座り、佐為と向かい合う。

(ヒカル……子ども名人というのは何ですか……!?)
(早く話が終われば見られるよ。 塔矢VS子ども名人)
(ふぐっ……! もう! ヒカルが打ってくれればすぐ解決するのに!)
(それはこっちのセリフ! 佐為が打つって言えば今すぐにでも向こうに戻れるんだぞ!)

 腕を振り回して子どものようにポカポカ叩く真似をしてくる佐為の拳からわが身を守りながらも(で? 今度は何が不満なんだよ!)と本題に戻す。

(むぅう……良いですか? 碁という物は一人では打てない。 それは分かりますね? 人の数だけ棋風があり、無意味な対局というものは存在しません。 神の一手とは他に人がいて初めて成立する物なのです。 ですから、ヒカルという一人の魅力的な打ち手を犠牲にして生み出されるとは思えません!)
(だから、犠牲じゃないって言ってるだろ!)
(私にとっては犠牲も同然です!)
(じゃあ虎次郎はどうなんだよ! 全部佐為に打たせたんだろ!)
(――虎次郎には、ヒカルにとっての塔矢のような理想的なライバルは居ませんでした。 彼にとっての理想的な打ち手は私だったのです)

 ぐ……虎次郎がどんな奴だったか知らないから言い返しようが無い。 思わず口ごもると、佐為がキッとオレを睨み、その迫力に身体がビクリと震える。

(先ほどヒカルは私に、ヒカルに対する引け目を捨てろと言いましたね。 確かに私はあなたに対して引け目を持っていました。 今もあなたが未来に生きているようには思えません。 そのことに私は責任を感じています。 しかし、その罪悪感を、今ここで捨てることにします)
(――だったら!)
(だから! 今私がヒカルに打てと言っているのはヒカルのためではありません。 私が神の一手を極めるためです!)
(は、はぁ?)

 佐為の言っている意味がわからず間抜けな声を出してしまった。 佐為は人差し指を立て、したり顔で言葉を続ける。

(ヒカルの言うトーヤ名人なる者。 ヒカルが私のライバルと言う程ですから、おそらく素晴らしい打ち手なのでしょう。 しかし、私は永遠の命を持っているに等しい状態で、少なくともトーヤの父親だというその者は、順当にいけばヒカルやトーヤより先に別れざるを得なくなることでしょう。 その者が私のように霊魂と化する保証はどこにも無いのですから)
(う……)

 何となく佐為の言いたいことを察し、オレは自分の敗北を悟った。

(ヒカルもトーヤも素晴らしい打ち手です。 何より素晴らしいのはその将来性です。 私の極めんとしている神の一手はあなたやトーヤとの対局から生まれる物である可能性もあるのですよ!)
(でも……オレが打ったら――!)
(ヒカルが打つことで私が消えるとは思えません。 現に、未来で私が消えるのは約三年後なのでしょう? それまで散々打っていて消えていなかったのですから、おそらくは他の要因が絡んでいるのだと思いますよ)
(……っ)

 何も言うことができないオレに、佐為が悲しげに目を細めた。

(ヒカルが神の一手を極める夢を私に託すというのならば――私はあなたの夢を引き受けましょう。 強くなったヒカルと打てなくなるのは残念ですが……。 そのかわり、トーヤとだけはヒカルにも打って欲しいのです。 未来で、私のライバルとなるかもしれないトーヤを育てるために――お願いします)

 トイレの床に膝を付き、頭を下げた佐為に、何とも言えない思いがこみ上げる。

(分かったよ――佐為がそこまで言うなら、打つ。 だけどな、オマエ、やっぱり何もわかってない――)
(ヒカル?)

 オレは便器の蓋から立ち上がり、バンッと乱暴にトイレのドアを押し開いた。

(オレは今後佐為の碁をオレの碁だと語って生きていく。 そんな中、オレが本来の実力で対局したら、その碁は人からどういう目で見られることになる? 塔矢はオレの碁をどう思うと思う? ――オレは、自分の碁を周囲の人へどういう風に言い訳しなくちゃならなくなると思う?)
(――あ)

 ああ、今日はオレが打つさ。 トイレの床で土下座してまで打って欲しいと頼まれたんだ。 佐為の言う通り一度や二度塔矢と打ったくらいで佐為が消えるとはオレも思わないし。 
 だけど――いくら佐為の碁が大好きだと言ったって、オレだって自分の碁にプライドが無いってわけじゃないんだぜ、佐為――。

 トイレから出ると塔矢と見知らぬ子どもがまだ対局中だった。 こいつが子ども名人ね。 流石に瞬殺されない程度の実力はあったか。 いや、それとも塔矢が無駄に警戒でもしたのかな。

 オレの後ろで今更ながらにオロオロし始めた佐為を無視して、対局を覗き込んだ。 

 

 塔矢と子ども名人の対局を見て少しばかり目を見開く。

(へぇ……意外とやるんだ)
(ヒカル、あの……先ほどの話ですが――)
(うっさい、今対局見てるんだからちょっと黙ってて)
(うっ――わかりました……)

 子ども名人はやたら目つきの悪い奴だった。 歳は塔矢や今のオレと同じくらいかな。
 頭が凄い天パでわかめみたいだ。 三白眼って言うんだっけ、ぎょろりとした目が爬虫類を連想させる。

 で、肝心な棋力だけど――思っていたよりもずっと強い。 子ども名人とは言え所詮アマの小学生……と思っていたけれど、小学生でこれだけ打てるなら師匠次第で将来的には十分プロ入りを狙えるんじゃないか? 院生試験なら余裕で受かるだろう。
 少なくとも、オレが院生試験受けた頃と比べれば全然この子ども名人の方が強い。

(――ふむ。 まだまだ未熟ですが、この子も中々素直で良い手を打ちますね。 残念ながらトーヤの敵では無いようですが――)
(素直な手ってそれ褒め言葉?)
(もちろんです! 勝ちたいという真っ直ぐな気持ちが伝わってくる気持ちの良い打ち筋です。 この子が『子ども名人』なのですね)
(塔矢と打ってるってことはそうなんだろうな。 ……思ってたよりかは強いけど、何と言うか……惜しいんだよなぁ)

 なんというか、打ち方が慎重すぎるのだ。 堅実に地を作っていきたいのは分かるし、混戦を避けたくなる気持ちだって分からなくもない。
 だからって、塔矢相手にこんなチマチマした打ち方したらあっという間に盤面を支配されてしまう。
 というか、もう盤上の大半が塔矢の白地だ。 これ以上続けるとなるともう白地に打ち込むしか無いわけだけど、ここまで実力差を突き付けられた後じゃあシノギ勝負なんてとても無理だろう。

 子ども名人の表情を伺うと、焦りと悔しさ、そしてやはりと言うべきか諦めの感情が色濃く浮かび上がってっていた。

(投了か――。 まあ、塔矢が相手じゃなぁ)


 塔矢に挑戦するくらいだ、きっと自信はあったのだろう。 実際、決して弱くは無い。
 ――でも、塔矢の実力は現段階でも下手なプロなんかよりずっと上だ。
 勉強のつもりで塔矢と打つんなら問題ないけど、同じ小学生だと思って勝負を挑んだんなら結構ショックだろうな……。

 塔矢の反応を伺えば、もう半ば子ども名人に対する興味を失っている様だった。
 その碁盤を見つめる気の抜けた視線が露骨に『期待外れ』と物語っている。

 ――何か腹立つ目だ。

 勝手に期待して、失望して。 オレの時は佐為のことあったから仕方ないけど、この子は違うだろ。
 この小さな名人の碁は佐為の言葉を借りれば『未熟ながらも勝ちたいという真っ直ぐな思いが伝わってくる気持ちの良い碁』だ。 ただの遊び感覚で碁をやっていたのではここまで打てるようにはならない。
 その目は真剣に頑張ってる子に向けて良い目じゃない――と、思う。
 自分で打つことを放棄しようとしてる俺が言えたことじゃないかもしれないけど、さ。

 ……分かってる。
 塔矢もまだ子どもなんだ。 同年代のライバルが欲しくて、『子ども名人』なんていう肩書を背負った小学生の挑戦者相手に舞い上がってしまったのだろう。 父親も名人だしな。
 それが全くの期待外れじゃ、がっかりくるのも分からなくはない。

(でも、そういうの隠せないからコイツ和谷に毛嫌いされてんだろーなぁ)
(ワヤ? 誰ですか?)
(んーと院生の時からの友達……だった奴。 ……今度も仲良くなれると良いんだけど)

「あ、えーと……進藤君、だっけ? もう体調は良いののかい?」
「葦原さん」

 塔矢の様子を見に来たらしい葦原さんがオレに気付き小声で話しかけてきた。 オレもへらりと愛想笑いを浮かべ、対局を邪魔しないように小さく返事を返した。

「おかげさまで。 ご心配おかけしました」
「無理はしない方が良いよ? 元気になったなら何よりだけど。 君がどんな碁を打つのか気になるし……アキラは大抵ここにいるけど、僕はたまにしか来られないからね」
「あはは……まぁ今の塔矢に負ける気はしないから楽しみにしててよ」
「おお、相変わらずの凄い自信。 口だけじゃないのを祈ってるよ。 で、こっちの対局は――」

 葦原さんが更に声を低くしてオレの耳元にこっそりと囁く。

「――もうすぐ終わりそうだね」
「うん……」
「思ってたよりは打てる子みたいだけど、院生じゃあ無いよね?」
「子ども名人だってさ」
「ははあ、なるほど」

 そんなことを話していると、不意に子ども名人が頭を下げ投了を宣言した。

「………………負けました」

 その表情は陰になっていて見えないが、見るからに意気消沈しているのが分かる。
 そんな子ども名人に葦原さんが嬉々として話しかける。

「キミの、あくまで地にこだわるような発想はアキラには通用しないよ」

 葦原さん……悪気は無いんだろうけど、負けて落ち込んでる子相手にそれは――思わず子ども名人に同情的な視線を送ってしまう。

「葦原さん。 それに……進藤君」

 葦原さんが声をかけたことで初めてオレ達の存在に気付いたらしい塔矢が目を丸くした。
 そこに先ほどまでのオレに対して送っていたような熱は無い。
 子ども名人と戦ってちょっと頭が冷えて現実を見たってところか。
 ――完全に冷め切っては居ないから、まだ諦めきれない期待が燻ってはいるのだろうけれど。

「どのみち、白模様にドカンと打ち込んでシノギ勝負にもっていくしかなかったようだね。 ――いやあ、それでも君十分強いよ、うん。 ただ相手が悪かったね」
「進藤君、もう大丈夫なの? ごめん、待たせちゃったかな。 すぐに片付けるね!」

 塔矢が慌ててガシャガシャと碁石を片付け始めた。 
 そこで塔矢と葦原さんに打ちのめされた子ども名人が弱々しく視線を上げてオレの方を見た。
 途端、カッと頬を染める。 そりゃ、ボロ負けした所を同年代の奴に見られたら恥ずかしいよなぁ……。
 気まずい……何か気の利いた事――

「えーと、な、ナイスファイト!」

 咄嗟に無駄に良い笑顔で親指を立てて励ますと、子ども名人がガタリと椅子から立ち上がり憤慨したように声を荒げた。

「っ! 何だよそれっ、嫌味のつもり? 余計なお世話だよっ!」
「あ、いやっ……そんなつもりじゃ」

 こちらをきつく睨みつけてくる子ども名人に、手と頭を横に振って慌てて否定する。
 ……何やってんだオレ……数秒前の自分を殴りたい。 負けて落ち込んでる相手に『ナイスファイト』は無いだろ!

(やばい、怒らせたか――あーもうオレの馬鹿っ!)
(ヒカル……流石に今のは無いですよ)
(うるさいっ! 分かってるよ!)

「どうしたの? 進藤君、対局の用意できたけど――えーと、子ども名人の……」
「――っ磯部秀樹! ……ハッ、もう名前忘れたんだ。 そりゃそうかボク程度の奴の名前なんて――おまえも塔矢アキラと打つのか?」

 『名前忘れたんだ』のくだりで塔矢が申し訳なさそうに苦笑してる。 よくこの状況で笑えるな……もう塔矢の頭の中はオレとの対局のことしかなくて、このイソベヒデアキ君のことは眼中に無いんだろう。 ああ、オマエはそういう奴だよな。
 とりあえず、イソベの言葉に俺は頷いた。

「……そーだけど」
「ふーん! 力試しか何か? 自分に自信あるのか知らないけど、どうせ無駄だよ。 子ども名人のボクが全然敵わなかったんだ、おまえも大して歳変わらないだろ。 同年代の奴が勝てる相手じゃない。 恥かくのが嫌ならやめといた方が良いと思うよ」

(うーん……何か精神的に追い詰められすぎて妙なスイッチはいっちゃってるな……)
(どうするのですか?)
(どうするって……どうしようもないだろ)

「ご忠告どうも。 でもオレは負けないから」
「なっ……! こ、こいつは全然レベルが違うんだ! さっきの対局、おまえ見てたなら分かるだろ!」
「見てたけど――」
「ええと、磯部君。 ボク達そろそろ打ち始めたいんだ……悪いけど、席空けて貰えるかな? ――あ、気になるなら見ていく?」
「っ――!」

 オレは塔矢の困ったような笑顔に戦慄した。 コイツもう本当に子ども名人に対して興味無いんだな。 オレも最初に佐為に打たせてなかったら、あの囲碁部の大会で完全に見限られていたのだろう。
 いや、そもそも佐為に打たせてなかったら大会で打つことも無かったか。 最初の対局でもう興味無くされてただろうな。

 今回、塔矢との初対局は佐為じゃなくてオレだ。 ここでボロ負けしようものならオレもイソベ君と同じようにあっさりと忘れられて、そして今度こそ塔矢は同年代のライバルを完全に諦めるのだろう。

 ――負けられない。

 ここで負けたら佐為に塔矢先生と打たせてやれなくなるし、小学生のコイツから露骨に無関心な目を向けられるのは腹が立つ。 初めて心の底から和谷の気持ちが分かった。
 それに……何より、昔の塔矢なんかに負けていられるか!

(ぜってー勝つ! 圧勝してへこます!)
(な、何やら燃えていますね――あの、本当に良いのですか?)
(オレに打てっていったのは佐為だろ! 心配すんな、佐為のためにも絶対に勝ってみせるから!)
(ヒカル――はい! 頑張って下さいねっ!)
(おう、任せろっ!)

「――分かった、それならボクもこの対局見させてもらうよ。 塔矢アキラに負けないってことはボクなんかより圧倒的に強いってことだろ。 それが本当かどうか確かめてやる……! 結果は分かり切ってるけどね!」

 どうやらイソベもここに留まるようだ。 席をオレに譲り、腕を組んで鋭い視線でオレを睨んでいる。
 いや何でオレを睨むんだよ――とんだとばっちりがあった物だ。

 イソベの権幕に周りで打ってた人達もわらわらと集まってきた。 思わぬギャラリーを背負うことになっちゃったけど、大勢の前で打つことにビビっていた昔のオレと今のオレは違う。
 どうせ打ち始めれば気にならなくなるのは分かってるから、もうさっさと初めてしまうことにしよう。

「なんだか人集まってきちゃったけど、進藤君平気? 集中できない様なら離れてて貰おうか?」
「葦原さんありがと。 でもへーきだよ。 慣れてるから――それじゃ、いい加減始めようか」

 そう言ってニッと笑いかけると、塔矢はパッと顔を輝かせた。

「うん! ボクはいつでも良いよ!」
「約束、忘れんなよ?」
「父さんのことだよね、もちろん! じゃあ――」

「「お願いします!」」 
 

 
後書き
久しぶりの更新となってしまいました。
ストレス発散目的で書き始めたのですが、そもそも気持ちが前向きな時でないとヒカルを病ませてしまうので中々続きが書けず……申し訳ないです。
でも病ませません。 私の中で本作のヒカルは病んでません、病みません。

言葉の端々で分かりやすく墓穴を掘りまくってるヒカルです。 それに呑気な葦原さんが気づくかどうかは謎です。 でも何も考えて無いようで意外と色々考えてる人だから気づくかもしれません。 感じた違和感を心の中でとどめておいて、ふと「そういえば――」って思い出して塔矢や緒方さんあたりにペラペラしゃべるのが目に浮かびます。

原作の完全再現はどうも私には難しいようです。 どうしても登場人物たちの性格は原作の個人的解釈に基づくものになってしまいます。
星の輝きのように書けたらなぁ……。

誤字や酷い日本語的な間違い等ありましたらつっこんで頂けると大変ありがたいです。
『返事を返す』とか……これ良いのかな……。

ではでは、読んで頂きありがとうございました! 

 

 塔矢アキラは強い。
 初めて会った時から、アイツは常にオレの遥か上を走り続けていた。

 思い返せばオレが初めて本気で囲碁をやろうと思ったきっかけも塔矢アキラだった。
 オレはアイツに認められたくて、佐為じゃなくて俺を見て欲しくて、ただただ我武者羅に追いかけ続けて――

 碁の面白さに気づいてから、夢中になるのに時間は掛からなかった。
 囲碁部、最後はちょっと気まずかったけど楽しかったな。 院生になってからは院生仲間や友達がたくさんできたし、その友達と色んな所に行ったっけ。 大変だったプロ試験だって、辛いだけじゃなかった。

 色んな出会いがあって、後ろを振り返ることを忘れるくらい毎日が充実していて、何よりも自分が強くなっていくことが楽しくて仕方なかった。

 そうして散々楽しみ倒した末――オレは佐為を失った。

 囲碁にまつわる全ての思い出はオレにとって宝物で、佐為を失って全てをやり直した今でもキラキラと輝き続けている。

 ――でも、もう十分だ。

 囲碁という物に出会えたのも、本来なら絶対に出会うはずが無かったたくさんの出会いも、全部佐為が囲碁の面白さをオレに教えてくれたおかげ。
 佐為に出会わなかったら囲碁なんて興味すら持つことなく一生を終えたことだろう。

 だから、佐為に打たせるのは恩返しでもあるんだ。

 囲碁に出会わせて貰って、より高みへ至れるよう鍛えて貰って、佐為には与えられてばかりだった。
 そう、オレはもう十分に楽しんだ。 だから、今度はオレが佐為に尽くす番。

 佐為が消えた理由が分からないことだけが不安だけれど、今度こそ絶対に消させやしない。
 佐為の言う通り、全部佐為に打たせたとしても佐為が消えないとは限らない。
 しかし、虎次郎の時に佐為が消えなかったのは紛れも無い事実だ。 少しでも可能性があるならそれに縋ろうと、そう思った。
 でも――

 『パチ』

 碁盤に白石を置き、視線を上げて塔矢の様子を伺う。
 塔矢はそんなオレの視線に気づかないようで、碁盤を射抜かんばかりの鋭い視線で局面を睨んでいる。 その表情はやや苦しそうで、オレはふと笑みを浮かべた。

 ――佐為は碁を愛している。
 碁を打っている時が佐為にとって最も幸せな時。 これは間違いない。
 でも碁を愛する『佐為の碁』は誰かの犠牲の上には成り立たないのだろう。

 佐為は碁を愛しているから、自分のせいでオレという碁打ちの未来を断つことに罪悪感がある。
 オレが打たないことで佐為を苦しませるなんて本末転倒も良い所だ。
 佐為が望んだことなのだから、オレがこうして塔矢打つことで消えることは無いだろう。

 佐為の罪悪感を消すにはオレが囲碁を楽しんで打ち、決して犠牲になどなってい無いのだと思わせる場面も必要になってくる。
 全てを佐為に打たせることは出来なくなるけれど、要するに佐為が主になるようにすれば良いだけだ。

 大切なのはバランスをとる事。
 オレが佐為曰く『宿命のライバル』である塔矢と打ち続けることは佐為の罪悪感の良い捌け口になる。
 それならオレは――塔矢(コイツ)を利用するまでだ。

『パチッ』

 ――長考の後に塔矢が放った思わぬ打ち込みにオレは目を見開いた。
 オレに大石を狙われ攻め込まれている今、本来ならここは守らなくてはならない局面。
 ここで攻め込む意味は――

(――ああ、そっか。 賭けに出たってわけだ)

 仮に塔矢がこの大石を守り切ったとしても勝敗に大した影響は無い。
 大石が死ねば大差でオレの勝ち。 生きれば一目半差でオレの勝ち。
 でも、塔矢が攻め込んだここが混戦になれば、僅かではあるものの逆転の余地がまだ残されている。
 ここでオレが二兎を追って、守りつつ大石を殺そうとすれば一手足りずに生きられてしまい、そして、2目の損をし塔矢が逆転する。
 でもオレが攻めを捨てて守りに徹すれば半目差でオレが勝つ。

(……やっぱ塔矢はつえーな)

 この絶望的な局面で勝利へ続く唯一の道を見つけ出した塔矢の勝利に対する執念に内心で舌を巻く。
 その唯一の道というのが攻め手から生み出される物だというのがいかにも塔矢らしい。

『パチ』

 オレの一手に、塔矢は再び動きを止めた。
 ギャラリーすらも息を止め、身動き一つしない。 まるで時間が止まったような静寂の中、塔矢が唇を噛み締め、やがてぽつりと呟いた。

「ありま、せん」

 ――ひたすら塔矢を追い続けて、結局望み続けた再戦は出来ず仕舞いだった。

 『どうだ、ここまで来たぞ!』と見返してやれなかった悔しさはある。 出来る事ならば追いつき追い越してやりたかった。
 もうその願いが叶うことは無い。

 オレは悔しさに俯く塔矢に、柔らかく微笑みかけた。

「ありがとうございました」

 塔矢アキラは強い。
 実際、プロになって戦った低段のプロ棋士達の誰よりも強かった。

(でも、所々に甘さがある。 守りには小さな隙があるし、踏み込みも足りない。 何より、読みが甘い)

 手を抜いたわけではないが、本気で打つまでも無かった。
 ――この世界で、オレは塔矢より強い。

 オレが追いかけた塔矢はもう存在しない。

 立場が逆転した――ただそれだけのことなのに、何故だろう。
 もうオレは塔矢を対等に見ることが出来そうにない。 

 

「アキラ君が負けた……!?」「そんな、まだ打てるだろう!」「互角に見えるが……本当に負けているのか?」

 ざわつくギャラリーに葦原さんが興奮したように割り込んだ。

「ええ、ここからアキラがどう足掻いても半目足りませんね。 かなり細かいのに……良く読み切ったと思いますよ」

 その言葉に納得したギャラリーが残念そうにしながらも少しずつ静かになっていく。

 うーん、ここって塔矢のホームグラウンドみたいな物だからなぁ。 やっぱり同じ小学生に塔矢が負けたってなると良い気しない人が多いみたいだ。 殆どじーさんばっかりだし、塔矢を孫みたいに思ってそうだ。

 ある程度ギャラリーが静かになると、葦原さんは碁盤の一点を指さした。

「ねぇ進藤君。 ここ、最初は悪手かと思ったけれど、後々絶好の一手に化けたよね。 最初から狙ってたの?」

 俯いていた塔矢がぴくりと反応し僅かに顔を上げた。
 なんかずいぶん落ち込んでるな……。 確かに圧勝してへこましてやろうとは思ったけど――
 小学生の塔矢相手にあまり勝ち誇る気にはなれないし、ギャラリーを変に刺激するのも何だから控えめに答えておこう。

「えーと……うん。 まぁ、そうかな」
「へぇえ! すごいな、こんな先の展開まで読んだのか! これは嵌め手の一つなのかな? でもこんな手は見たことが無いし――」
「嵌め手?」
「あれ、知らなかった? ウソ手とか騙し手とも呼ばれるけど――簡単に言えば相手を『罠』に嵌める手だよ。 一見スキのある手を打って、相手がそれに引っかかれば大きな損害を与えることができる。 逆に正しい対応をされれば嵌め手を打った方が大損害っていうリスキーな一手だね。 定石や手筋の勉強にもなるから僕も院生の頃は結構勉強したよ。 でも難しい戦術なのに、こんな風に使いこなす小学生がいるとは――」

 院生――そういえば和谷がそんなこと言ってたような。 多分会話にちらっと出た程度だったんだろうな。 森下先生は回りくどい手よりガチンコ勝負が好きだったし――

 葦原さんの説明を聞きながらそんなことを考えていると、ふとギャラリーの一人が大きな声を上げた。

「嵌め手! それなら俺も知ってるぞ! ――相手を騙す、卑怯な手のことだろう! そうか、アキラ君は汚い手に陥れられて負けたのか!」
「え、ちょっと待って下さ――」
「なんだって……! 通りで、アキラ君がただの小学生に負けるはずが無いと思ったんだ」
「酷いな……まだ小さいのにそんな手を使うなんて」
「何て子だ、アキラ君に謝れ!」「そ、そうだそうだ!」

 葦原さんが必死に止めようとしているが、周りを取り囲む大人たちが一斉にオレを糾弾し責め始め、初めてのことに頭が真っ白になった。

(え、何……え?)
(なっ! この者達、何て事を! こんな――! ヒカル、あなたの碁は決して汚くなんかありません! 今の対局も素晴らしい物でした!)

 佐為ががなり立てるギャラリーに負けない様な酷い権幕で何かを言っているが良く聞き取れなかった。
 ただ、考えの纏まらない頭でぽつりとつぶやく。

「オレの手――汚いの?」
「――っ、止めて、下さいっ!!」

 ガターンッ

 ――椅子の倒れた大きな音が響き、俄かに辺りが静まり返った。
 椅子を倒す勢いで立ち上がった塔矢は、怒りに顔を青ざめさせて周囲のギャラリーを射殺さんばかりに睨みつけ、声を荒げた。

「彼の放った一手は汚い手なんかじゃ無い! 皆さんの言っていることは彼に対してだけでなく、ボクに対しても――『碁』その物に対しても最低の侮辱です!! 訂正して下さい! 今すぐっ!!」
(その通り! よくぞ言いました! もっと言っておやりなさいっ!)

 ざわつき、戸惑ったように目配せし合う大人達に対し、塔矢が「さあ!」と再度謝罪を促す。
 そんな塔矢を落ち着かせるように、葦原さんが「まぁまぁ」と言いながら引きつった笑みを浮かべて割り込んだ。

「アキラ、気持ちは分かるけど……ちょっと落ち着け。 皆さんも――確かに嵌め手を好ましく思わない打ち手がいるのは確かですが、嵌め手というのはもう殆どパターン化していましてね。 この子の手はそのどれにも該当しない、新手と言っても差支えの無い手です。 僕はとても面白い手だと思いましたよ。 嵌め手自体のことだって、個人的には立派な戦術だと思っていますし」

 そう言った葦原さんの笑顔は有無を言わせないような妙な迫力があって、それがダメ押しになったのかギャラリーは見るからに気落ちし、気まずそうにしながら再びオレに向き直った。

「あー……坊や、すまなかったね」「少々頭に血が上っていたようだ……」「北島さんが汚い手なんていうから……」「おいっ俺のせいか!? ……っ、悪かった……知り合いのプロの話を鵜呑みしちまって――」

「あ、いや。 俺は別に――そんな気にしないで下さい」

 ずっと年上の大人たちに次々謝罪されて戸惑う。 正直多少のショックはあったけれど、怒りとかは感じてなかったから謝られて変な感じだ。
 っていうか、塔矢が怖い。 主に顔が。 未だに凄い顔で周囲を睥睨している。
 ……対局前のにこやかな猫かぶり塔矢に慣れてる人達はギャップにビビっただろうな。 みんなオレに謝りながらもビクビクしながら塔矢のことチラ見してるし。

「もう! 皆さん子ども相手に恥ずかしくないんですかっ! この子は体調悪くてさっき倒れたんですよ! 対局はもう終わったんでしょ、ほら、散った散った! ――まったく……進藤君大丈夫?」
「あ、ありがとう。 でも本当平気だから」

 いつの間にか近くに来ていた市川さんがギャラリーを追い散らし心配そうにオレの顔を覗き込んだ。
 それに対してオレは苦笑することしか出来ない。

(……本当に大丈夫ですか? ――先ほどの者達の言葉はただの妄言、気にする必要などありません。 ヒカルの碁、私は大好きですからねっ)
(うん、ありがと。 ……なんか佐為と塔矢がオレの分まで怒ってくれたからさ、怒るタイミング逃したっていうか……ホントに全然気にしてないよ。 だいじょーぶ)

 でも、オレの碁を『汚い』って解釈する人もいるんだ。 いや、でも今までで初めて言われたし、何より佐為が好きっていう物が汚いなんてことあるはず無い。 うん、大丈夫だ。

「進藤……君。 あの、本当にごめん。 みんな、いつもは良い人なんだけど……あんなこと言うなんて」

 そう言って塔矢が頭を深々と下げた。
 いつも自分を可愛がってくれる人達の言葉に塔矢自身もショックを受けたのだろう。 オレが「お前が謝ることじゃないだろ」と笑いかけても中々頭を上げない。

 と、思ったら、その体勢のままぼそりと呟いた。

「でも、悔しいな」
「ん?」
「悔しい――負けてこんなに悔しいの、初めてだ……」

 そう言って塔矢は頭を上げた。

「でも、変なんだ。 負けて凄く悔しいのに、嫌な気分じゃない――葦原さんの言う通り、ボクはライバルが欲しかったのかもしれない。 ――楽しい対局だった、とても」

 そう言って笑った塔矢の顔は悔しそうでありながらもどこか清々しい。
 ちらりと後ろを見遣れば佐為が満足気にうんうん頷いていた。
 塔矢に対する思いは複雑だ。
 オレは、コイツにどう対応すべきなのだろう。 ――今後のために。
 頭を働かせ、今後方針を固めながら黙って塔矢の言葉に耳を傾ける。

「進藤……君。 キミがお父さんと打ちたいのは知ってるけど、良かったらこれからもボクと打ってもらえないかな。 次は、次こそは勝ってみせるから!」
「いや、無理だろ」
「――え?」

 笑顔のまま固まった塔矢にオレは愛想良く笑いかけた。 
 

 
後書き
前話、少し加筆しました。 

 

「『進藤君』って呼び辛かったら呼び捨てで良いぜ? オレも塔矢って呼んでるし」
「え、あ、うん。 ありがとう」

 あえて関係ないことを言い、会話の主導権を握る。
 何か名前の後に妙な間が空いてて気になってたんだ。 オレも塔矢からの君付けは慣れなくて気持ち悪かったから丁度良い。
 戸惑いながらも頷いた塔矢に、オレは言葉を続けた。

「で、さ。 この対局がオレの本気だと思った?」

 碁盤を指さして苦笑しながら首を傾げる。

「っえ……?」
「オレは、塔矢名人のライバルになる男だぜ? これがオレの本気なわけ無いじゃん。 ちょっと棋風変えて新手探し――ま、遊びみたいなものだよ。 リラックスして打てたからオレも楽しかったは楽しかったけどさ」

 半分嘘で、半分本当。
 本気で無かったのは事実だが、塔矢とオレはそれほど実力差があるわけでは無い。 でも、何度打とうと今の塔矢相手なら負けることは無いだろう。 そう断言できる程には明確な実力差があった。
 ただ、ここで言っている『本気』は佐為の碁を指す。
 
(ヒカル……)

 少しばかり悲しげな声が後ろから聞こえたが今は振り向かない。
 待ってろよ、ちゃんとオマエが満足できる理由用意してあるから。
 わざとおどけた様に肩を竦めて見せたオレに、塔矢は呆然と呟いた。

「あそ、び……? これだけ打てて……本気じゃ、無い?」
「進藤君、それは――」
「『流石に信じられない』? なんなら、今から『本気』で葦原さんと打とうか? 二子、いや三子置きしても多分オレが勝つよ。 あ、でも時間がそんなに無いから早碁になっちゃうけど……」

 「それでも良い?」と困ったように眉を下げると、葦原さんは言葉を詰まらせ、信じられないというように目を見開いた。
 オレの言葉が事実かどうか判断しかねているようだ。 オレの碁を見て口だけじゃないのはもう分かっただろうから、あり得ないと切って捨てることが出来ないのだろう。

 少なくとも、そうさせるだけの碁は打ったつもりだ。 目数の差が実力差に結びつくような打ち回しはしなかった。 だからこその投了だ。

「そういうわけだから、約束のこと本当に頼むぜ? ほら、これオレんちの電話番号。 塔矢先生と打てそうな日あったら電話して」

 そう言って、ポケットからメモを取り出す。 塔矢に渡すため、予め名前と電話番号を書いておいたのだ。
 塔矢は、少しばかり皺がよりくたびれてしまったそれを震える手で受け取った。

「……ボクとは本気で打ってくれないの?」
「だって、本気で打つまでも無かっただろ? その点、葦原さんならプロだし」
「――、どうすればキミは本気で打ってくれる?」
「ん、そうだなー。 『遊び』のオレに勝てるようになれば本気で打ってやるよ」
「そうか……だったら」

 くしゃりとメモを握り潰し、塔矢は強い視線でオレを射抜いた。

「必ず、ボクはキミに追いつき本気を出させて見せる――! 君のライバルはお父さんでは無くボクだと、認めさせてみせる――!!」

(塔矢――)

 手の震えは武者震いだったようだ。 そうだ、コイツはこの程度の挑発で落ち込むような奴じゃない。
 見た目と違って、相手が強ければ強いほど燃えるタイプ。 でもって、しつこい。
 ある意味真っ直ぐ過ぎる程に真っ直ぐな――碁バカ。

 その苛烈な視線に目を逸らしそうになるが、何とか受け止め、ニッと笑い返した。

「そうか。 だったら、精々追ってこいよ」

 『遊び(オレの碁)』に勝てたら、ちゃんと『本気(佐為の碁)』で打ってやる。 そうなれば『オレ』と打つことは二度と無くなるわけだけど、でもそうすればやっと塔矢に佐為と戦わせてやることができる。 佐為もこれなら納得できるだろ?
 塔矢、佐為と滅茶苦茶打ちたがってたもんな。 折角やり直して佐為主体でやるんだから、今度は思う存分打たせてやろうと思ってたんだ。

 佐為も塔矢のこと気に入ったし、塔矢がオレを越える時が楽しみ。
 流れ的に佐為が塔矢と打つのはそれまで(塔矢がオレを越えるまで)お預けになったわけだけど、これは佐為の我儘が撒いた種なんだからそれくらい我慢しろよ?
 ただし――

(――そう簡単に負けてやるつもりは無いけど)
(……ヒカル、あなたは――)

「ハハ……井の中の蛙、か……」

 不意に自嘲交じりのそんな呟きが聞こえ、視線をそちらに向ける。

「ボク、馬鹿みたいだ――」

 やや俯き、表情を消したイソベがそこに居た。 
 

 
後書き
二話連続更新です。
文字数多くなり過ぎました……本作品は文字数少なくしたいので……。