女夜叉


 

第一章

              女夜叉
 ベトナムの古都ユエであらぬ噂が広まっていた。
 朝になると街の中で全身から血を吸われて死んでいる者が一人で横たわっているという事件が続いていた、この奇怪な死体のことが噂ではない。
 問題はその犯人だ、それは何者かというと。
「人間じゃない!?」
「吸血鬼か?」
「吸血鬼がこのユエにいるのか」
「そして夜な夜な人を襲っているのか」
「まさかと思うが」
 ベトナムは共産主義国家で唯物史観だ、その為宗教だけでなくこうした妖怪話も否定するのが筋だ、しかし今更世界で共産主義を信じている人間なぞいない。日本にはつい最近まで金融漫画を描いていた漫画家がそうだったが既に鬼籍に入っている。
 このことはベトナムでも同じだ、むしろベトナムの場合は国父ホー=チ=ミンが本質的に民族主義者でありベトナム独立の援助を受ける為に共産主義を掲げただけに余計にだ。共産主義に対しては共産主義政権でも信じている者は少ない。
 だあkらだ、吸血鬼と言ってもなのだ。
「有り得るか」
「身体から血を抜かれてるなんてないからな」
「ああ、そんなの滅多にないぞ」
「有り得ない話だ」
 だからだった、普通の連続無差別殺人事件ではないからこそ。
 ユエの市民達は集まれば口々に話していた、その犯人が人間ではないと。
「ベトナムに吸血鬼がいるのか」
「怖いな、また」
「そんなのがいたら夜歩けないぞ」
「全くだ、洒落にならないぞ」
「もう夜は歩かない様にしようか」
「それがいいな」
 こうしたことを話してだ、実際にだった。 
 夜のユエはすっかり静かになった、人がいなくなり閑散とさえなった。その夜のユエをパトロールする警官達もだ。
 その誰もいない夜の街を見回ってだ、こう話すのだった。
「出るかね」
「さあな、死体が幾つも出てるのは確かだからな」 
 若い巡査であるゴー=バン=ヒューが同期でもある同僚のユン=グアン=トムに答えた。二人共背が高くしっかりとした身体つきだ。警官の制服がよく似合っている。
 顔立ちはゴーは四角くユンは細長い。そして肌の色はユエの方がやや黒い。その二人が夜のユエを並んで歩きながらパトロールをしているのだ。
 とにかく今の夜のユエは誰もいない、灯りはあるが人はいない。それどころかいつもより虫も少なく感じである。
 その街中を歩きつつだ、ゴーはユンにいた。
「それは誰も出ないさ」
「それもそうか。しかしな」
「しかし?」
「吸血鬼か」
 ユンは事件の犯人がそれであるのではという巷の噂について首を傾げさせて言うのだった。
「ベトナムにか」
「我が国に吸血鬼はいないか」
「いたか?ベトナムに」
 ゴーにこのことを問うのだった。
「そんなの」
「さあな。あちこちにいるけれどな」
「中国にはいるよな」
 ベトナムの北にあるあの国のことである。
「あそこには」
「いるぜ、キョンシーとかな」
「それでマレーシアにもいるよな」
「ペナンガナンな」
 マレーシアにいる吸血鬼は奇怪な姿をしている、人の身体から首が内蔵ごと出てそれで空を飛んで人を襲うのだ。
「あれな、いるぜ」
「けれどベトナムにいるか?」
 彼が言うのはこのことだった。
「吸血鬼なんて」
「マレーシアから来たか中国から来たか」
「近いからか
「人だって行き来するんだ、妖怪だってな」
 ゴーはこうユンに話す。 

 

第二章

「このユエにも観光客が増えたしな」
「それでか」
「妖怪も混ざってきたか」
「若しそうだと迷惑な話だな」
「タチの悪い観光客以上にな」
 そうだとだ、ゴーもユンに言葉を返す。
「迷惑な話だよ」
「そうだな。しかしこうまで誰もいないとな」
「怖い位だな」
 昼の賑やかさとあまりにも対象的なこともあってだ、二人は夜の寂しさにそれを余計に感じて話すのだった。
 そしてその中でだ、不意に。
 二人は叫び声を聞いた、その声はベトナム語ではなかった。
 その声を聞いてだ、まずユンが言った。
「英語か?」
「みたいだな、この訛りはアメリカじゃないな」
「イギリスか?」
「オーストラリアでもないな」
 言葉の訛りから話した、そのうえで。
 二人は顔を見合わせて頷き合ってから声がした方に向かった、すると。
 そこにはもう誰もいなかった、生きている者は。一人の干からびた骸が転がっていた。その骸を見てだった。
 ゴーは眉を顰めさせそのうえでユンにこう言った。
「観光客はまだあまり知らなかったみたいだな」
「そうみたいだな」
 ユンも苦い顔で応える。
「どうやら」
「ああ、そうだな」
「やられたか」
「しかもな」
 ここでだ、ゴーは犠牲者の骸最早骨と皮ばかりになり断末魔の恐ろしい顔のまま死んでいる者の身体に触れてみた、そのうでこうユンに言った。
「まだ温かい」
「ということはな」
「ああ、殺されてまだ時間が経っていない」
 その暖かさからの言葉だ。
「血は全部抜かれてるけれどな」
「じゃあ犯人は」
「近いな」
 まだだ、この場の近くにいるというのだ。
「この辺りにいるな」
「よし、じゃあな」
 ユンはゴーの言葉を受けてだった、そのうえで。
 すぐに腰の拳銃を抜いた、周りを見回しつつゴーに言った。
「犯人が何時来てもな」
「ああ、対抗出来る様にしないとな」
「これは本当に何者だ?」
 ユンは夜の闇の中を見回しながら言った。
「どんな奴がこんなことをしたんだ」
「さてな。とりあえず人は呼んだからな」
 ゴーは携帯を出した、それで助っ人である同僚達を呼んだのだ。
「後は死んだ人の亡骸を回収して」
「周りを探すか」
「犯人は絶対に近くにいる」
 まだだ、だからだというのだ。
「だからな」
「そうだな、警戒しながらな」
「手掛かりがあるかも知れない」
 若しくは犯人自身がまだ近くにいるかも知れないというのだ。
「人は多い方がいい」
「そうだな、じゃあな」
「人は多いに限る」
 こう話してだった、そのうえで。
 援軍も呼んだ、遺体は回収されてだった。
 周辺は徹底的に捜査され遺体も検死された、その結果わかったことは。
 署長からだ、ゴーとユンはこう話された。
「犠牲者の名前はヘンリー=ロスウェルズ。イギリス人で仕事は弁護士だ」
「観光に来ていてですね」
「襲われたんですね」
「そうだ、死体からは一滴の血も見付からなかった」
 署長は二人にこのことも話した、二人は署長の席の前で並んで立ってそのうえで話を聞かされているのだ。 

 

第三章

「身体のあちこちに非常に小さな穴があった」
「穴!?」
「穴ですか」
「そうだ、穴があった」
 署長はこのことも話した。
「あちこちにな」
「じゃあその穴からですか」
「血を吸われたんですか」
「そうらしいな」
「何か奇妙な話ですね」
「実に」
「私もそう思う」
 署長もいぶかしむ顔で二人に答えた。
「吸血鬼かと思っているがな、実は」
「吸血鬼ってあれですよね」
 ここでゴーが署長に言った、映画等で得た吸血鬼の知識を。
「牙から吸うとか首をねじ切ってそこから吸うとかですよね」
「あと舌に刺があってそこから吸ったりもするな」
「それなのに小さな穴ですか」
「針に刺されたみたいなな、それも何千とだ」
「何千も穴があったんですか」
「そしてそこから血を吸われていた」
「それはまた物凄いですね」
 今度はユンが言った。
「何千も穴があったなんて」
「正直検死の医者も首を捻っている」
「あまりにも不可思議だからですか」
「犯人の見当がつかないらしい。ただ捜査をしていて奇妙なワユ警部がちらりとだが」
 署長は第一発見者である二人にこのことも話した。
「現場の近くに赤いアオザイの黒く長い髪の女の後ろ姿を見たそうだ」
「赤いアオザイですか」
「黒くて長い髪の」
「写真もある。咄嗟に携帯で撮ったそうだ」
 この辺りは警官という仕事故の職業的条件反射であろうか、その警部はそうした務めを果たしたというのだ。
 署長は二人にその写真を見せた、見れば暗い街の中に小さくではあるが確かに赤いアオザイの女が写っている。
 髪は確かに黒く長い、だが。
 背中しか見えていない、顔はわからない。それでゴーもユンもいぶかしむ顔で署長に対して述べた・
「これじゃあちょっと」
「わかりかねますね」
「この女が事件と関係があるのか」
「さっぱり」
「今この街に夜出歩く現地の人間はいない」
 その噂故にだ、このことはもう言うまでもない。
「それにこの女は見たところベトナム人だな」
「ええ、アオザイ着てるだけじゃなくて黒髪ですし」
「そうした感じですね」
「噂を知らない観光客以外で今夜に出歩く人間がいなくなっているからな」
 何しろ出店の屋台でさえ夜は出ていなくなっているのだ、東南アジア名物といっていいそうした店達までもが。
「それで出歩いていること自体がおかしいだろ」
「まあそうですね」
「そのことは」
「だからだ、とりあえずこの女をな」
「探し出してですか」
「重要参考人として事情を聴取しますか
「まさかと思うがこの女が犯人の可能性もある」
 そしてだ、この場合の犯人とは。
「人間でない可能性もある」
「吸血鬼ですか」
「それですか」
「君達も捜査に加わってもらう」
 このこともだ、署長は二人に述べた。
「いいな、必ずこの事件を終わらせてくれ」
「はい、わかりました」
「そうさせてもらいます」
 二人は敬礼と共に署長に応えた、署長も自ら陣頭指揮を執ることにした。そのうえで毎夜その女を探すことにした。
 ユエといっても広い、捜査にあたる警官達は二人か三人のグループを組みその広い夜のユエを探し回った、だが数日探してもだった。
 あの女は見付からなかった、当然ゴーとユンも女に出会うことは出来なかった。それでなのだった。
 ゴーはユンにだ、こう提案した。 

 

第四章

「ここは一つ俺が囮になってな」
「囮?」
「ああ、犠牲者は絶対に一人で見付かってるよな」
「そういえばそうだな」
 ここでだ、ユンもあの観光客のことを思い出した。
「一人の人ばかりが襲われてるな」
「犯人は夜に一人で出歩いている奴しか襲わないんだよ、どうやらな」
 二人は今昼に話をしている、昼食のインサイがかなり効いたビーフンを楽しみながら。ユンは炒飯を食べている。
「だからここはな」
「御前がか」
「ああ、夜の街に一人で歩いてな」
「俺は少し離れた場所に隠れてか」
「そいつが出て来た時にな」
 まさにだ、その時にだというのだ。
「やってくれるか」
「そいつが御前に襲い掛かってきた時にか」
「ああ、そうしてくれるか」
「かなり危険だぞ」
 ユンは炒飯をその上に乗せているインサイと一緒に食べつつゴーに言った。
「それは」
「承知のうえさ、けれどそうでもないとな」
「今回の事件はか」
「犯人が出て来ないと思うからな」
 だからだというのだ。
「ここはやってみるさ」
「命知らずだな」
「生きる時は生きるさ」
 ゴーは笑ってこうユンに返した。
「というか俺は運がいいんだよ」
「だから死なないっていうのか」
「そうさ、だからな」
「ここはその強運を信じてか」
「御前も信じてな」
 その笑顔でユンにも言った。
「そうするさ」
「俺もか」
「頼むな、相手が出て来た時は」
「わかった」
 ユンも自分を信じていると言われてだった、それで。
 確かな顔になってだ、こうゴーに返した。
「じゃあ任せろ」
「ああ、今夜早速やるからな」
「それで犯人を見事捕まえたらな」
「ボーナスを貰おうな」
「ちょっとその前にやっておくことがあるな」
 ここでだ、ユンはゴーにこんなことを言った。
「お寺に行っておくか」
「お経でも貰うのか」
「そうだよ、化けものとかならお経には弱いだろ」
 だからだというのだ。
「ここはな」
「そうだな、それがいいだろうな」
 ゴーもユンのその言葉に頷いて応えた。
「吸血鬼が相手ならな」
「そうだよ、お経とか必要だろ」
「教会の方がいいかも知れないな」
 ゴーは吸血鬼が欧州のイメージが強いからこうも言った。
「ドラキュラ伯爵とかだと」
「いや、牙の跡がないからな」
「そっちじゃないから」
「だから経典でいいだろ」
 仏教のそれでだというのだ。
「とにかく仏様の助けはあった方がいいな」
「そうだな。どうも人間が相手じゃないみたいだからな」
「そういうことでな」
 こうして二人は仏教の寺院に赴き経典を貰った、ついでに小さな仏像も貰いそれをそれぞれの懐の中に入れた。
 経典も制服のポケットの中や腹のところに潜ませた、こうして捜査に出るのだった。
「これで妖怪とかはな」
「大丈夫だな」
「まあベトナムにいる妖怪ならな」
「いけるな」
 こう話してだ、そのうえでだった。 

 

第五章

 二人は夜の捜査に出た、ゴーは囮となり夜の街に出て。
 ユンは少し離れたところで隠れて彼についていった、すると。
 暫くしてだった、ゴーの前から。
 黒く長い髪の女が来た、女の髪は膝までありそうなさらりとした長いものだった。その髪は夜の中にも絹の様に見えた。
 アオザイだ、しかもそのアオザイの色は。
 赤だった、黒髪の間に血の様に赤いアオザイが見えた。
 顔は美しい、細面で髪の様に白い、切れ長の目は黒く睫毛は長い。口は横に広く唇は紅だ。ぞっとする様な美貌だ。
 その女を見てだ、二人はそれぞれの場で確信した。
 この女だ、表情が思わず強張った。
 だがゴーもユンもだった、今は。
 足を止めず隠れている場所から出なかった、そうしてだった。
 ゴーは女の前に進みユンは隠れながら進んだ、二人共何時でも銃を撃てる様にしている。
 そのうえでだった、ゴーは。
 女に接近していく、何時でも攻撃出来る様に警戒しながら。
 女が何時何をしてくるかわからない、その緊張の中で。
 彼は女とお互いに手が届く距離まで来た、しかしまだだった。
 女は何もしてこなかった、その距離でも。さらに近付くがそれでもだった。
 遂に擦れ違った、時間的にはゴーにとってもユンにとっても一瞬だった。しかし二人はその一瞬を気が遠くなる程長く感じた。
 擦れ違っても何もなかった、ここで。 
 ゴーは女の方を無意識的に、背中を見せた瞬間こそが最も危ういが故に女の方を振り向いた。左手はホルスターの銃をもう持っている。
 その彼にだ、何と。
 女が振り向いてきていた、美貌の顔に鬼の様なぞっとする笑みを浮かべてきていて。
 その髪の毛がゴーに迫ってきていた、ユンも銃を手に慌てて飛び出た。ゴーも銃を構えて撃とうとする。だが。
 女の髪が急に弾き返された、ゴーの身体に触れる直前で。まるで壁にぶつかった様に。
 女の顔が驚愕に歪んだ、その女にだった。
 二人は即座に銃撃を加えた、両手に持っている拳銃を何度も放つ。銃弾は女の胸や額を幾度も貫いた。
 女はぞっとする顔で地獄の底から聴こえる様な呻き声を出してその場に倒れた、その女の断末魔の顔を見ながら。
 ゴーは自分の傍に駆けつけてきたユンにこう言った。ユンも女を見ている。
「こいつは何だろうな」
「人間じゃないことは確かだな」
「ああ、そうだな」
 ゴーもこのことは察していた、そのうえでユンに言った。
「それにな」
「髪の毛がな」
「弾き返されたよな」
「まさかと思うが」 
 ゴーは自分の考えを述べた。
「経典と仏像のお陰か」
「お寺で貰ったな」
「それのお陰か」
「じゃあこいつのことはお寺で聞くべきだろうな」
「ああ、見ろよ」
 ここでだ、ゴーはユンに女の骸こと切れたそれを指差して言った。見れば女の額と髪の毛の間にだった。 

 

第六章

 二本の小さな牛のそれに似た角が生えていた。彼はそれを見ながら同じものを見ているユンに言ったのだった。
「角だよ、だからな」
「やっぱりこいつ人間じゃないな」
「鬼だな、どうにも」
「じゃあやっぱりお坊さんに聞くか」
「そうしような」
 とりあえずこの日二人は携帯で犯人と思われるこの女を射殺したことを報告した、骸はすぐに回収され署長から労いの言葉とボーナス、昇進を約束してもらった。そしてその次の日に。
 経典と仏像を貰った寺院に行った、そうしてだった。
 僧侶に女のことを細かく話した、髪の毛のことと倒した顛末と角のことも。すると僧侶は二人にこう話した。
「それは女夜叉ですな」
「夜叉ですか」
「あれがですか」
「はい、間違いありません」 
 その女こそまさに女夜叉だったというのだ。
「お話を聞きますと」
「あれがですか」
「女夜叉だったのですか」
「女夜叉は顔は美しいです」
 それはあの女もだった、ぞっとするまでの美貌だった。
「ですが」
「ああしてですか」
「人を襲いその血を吸うのですね」
「人と擦れ違い振り向いた時に」
 まさにだ、ゴーがそうした時の様にというのだ。
「その長い黒髪で絡め取りその髪の先を身体に刺して血を吸うのです」
「だからですか」
「犠牲者の身体にですか」
「無数の小さな穴があったのですね」
「そうだったのですね」
「そうです」
 その通りだと答えた僧侶だった。
「女夜叉です」
「ではです」
 ゴーがここまで聞いて僧侶に問うた。
「俺が助かったのは」
「はい、仏像と経典を持っておられましたから」
「それで、ですね」
「夜叉は鬼です」
 その一種だ、羅刹等と同じく。
「鬼ですから」
「仏像や経典には弱いのですね」
「そうなのです、昨日はよくこちらに来られました」
「有り難うございます、お陰で助かりました」
 ゴーは僧侶に深々と頭を下げて一礼した。今は屋内で帽子を被っていないので彼はそうしたのである。
「本当に」
「礼には及びません、しかし」
「しかし?」
「何時になっても鬼はいるものですね」
 僧侶はここで瞑目して言った。
「今も」
「そうですね、この世にいるのは人だけではない」
「このことがよくわかりました」
 二人も応える、事件は解決したが二人にとっては非常に大きな事件だった。多くのことがわかったという意味で。


女夜叉   完


                               2014・2・18